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東京から書道関連の学会情報です。 

国際シンポジウム「書の資料学 ~故宮から」

日 時 : 2015年9月12日(土)10:30~17:00
会 場 : 筑波大学東京キャンパス文京校舎134講義室(文京区大塚3-29-1)
主 催 : 「書の資料学」実行委員会
共 催 : 筑波大学
参加費 : 無料 どなたでもご参加いただけます。参加をご希望の方は、事前に住所・氏名・電話番号(またはEメールアドレス)をFAX 029-853-2715へご連絡ください。

プログラム
受付 10:00~ 
開会挨拶 10:30~10:35

第1部 研究発表 10:35~12:05
明末における書体論の諸相 尾川明穂(安田女子大学助教)
松花堂昭乗筆『詠歌大概』(国文学研究資料館蔵)所収秀歌撰について 山口恭子(都留文科大学非常勤講師)
清代書法指南書の受容と展開  髙橋佑太(相模女子大学非常勤講師)

第2部 基調講演 13:00~15:00
『石渠宝笈三編』に見る碑帖と碑学の関係についての初探 何炎泉(国立故宮博物院書画処副研究員兼科長)
書は人を以て伝う―趙孟頫書「絶交書」の考察 陳建志(国立故宮博物院書画処助理研究員)

第3部 討議 15:15~17:00
司会 菅野智明(筑波大学教授)
登壇者 何炎泉 陳建志 家入博徳 矢野千載
登壇者提言
日本書論にみる中国書論の受容 家入博徳(國學院大学兼任講師)
高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について 矢野千載(盛岡大学教授)
           
お問い合わせ:〒305-8574つくば市天王台1-1-1 筑波大学芸術系 菅野研究室 TEL/FAX:029-853-2715


日中両国の研究者による書に関する研究発表、討議です。上記のとおり、盛岡大学の矢野千載(やのせんざい)教授による討議の提言「「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」があります。

宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑は、岩手花巻の羅須知人協会跡地に昭和11年(1936)に建てられました。光太郎が遺族の依頼で、「雨ニモマケズ」の後半部分を揮毫したものが刻まれている碑です。

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この碑、それから作品としての「雨ニモマケズ」にはいろいろな問題があります。まず、賢治が手帳に記した段階で、「ヒドリノトキハ」と書いた部分が、現在では(というか、かなり早い時期から)「ヒデリノトキハ」となって流布している点、花巻の詩碑も、賢治の手帳通りではなく、後に光太郎が誤りに気付き、追刻がなされている点などです(それでもまだ手帳通りになっていません)。

「ヒドリ/ヒデリ」については、光太郎を改変の戦犯扱いする説がありますが、誤りです。

詩碑の追刻の件については、以前にこのブログで、昭和31年(1956)、光太郎歿後すぐ刊行された佐藤勝治著『山荘の高村光太郎』の記述を引用し、紹介しました。

また、昭和18年(1943)には、啄木研究家の川並秀雄に、次の書簡を送っています。

 拝復、おてがみありがたく拝読いたしました、これまで其について質問をうけた事がないので、宮澤賢治詩碑碑面の不審がそのままになつてゐました、貴下によつて事情が明瞭になる事をよろこびます、
 宮澤賢治さんのあの手帖は以前に草野心平君から示されて、その時「雨にもまけず」の鉛筆がきをよみ、感動いたしましたが、手帖はやがて国元へかへり、字句は忘れてゐました、
 その後国元の令弟宮澤清六さんから碑詩揮毫の事をたのまれ、同時に清六さんが写し取つた詩句の原稿をうけとりました、小生はその写しの詩句を躊躇なく、字配りもそのまま揮毫いたした次第であります、
 さて後に拓本を見ると、あの詩の印刷されたものにある、「松の」がぬけてゐたり、其他の相違を発見いたし、もう一度写しの原稿をみると、その原稿には小生のバウがボウであり、小生のサウがソウであつた事を又発見しました、
 つまり清六さんが書写の際書き違つた上に、小生が又自分の平常の書きくせで、知らずにかな遣いを書き違へてゐた事になります、甚だ疎漏であつた事を知りましたが、既に彫刻の出来てしまつたあとの事でありましたため、そのままにいたしました、
 碑面の不審は右のやうな当時の事情で起つた次第、よろしく御解明なし置き下さらば、由来がはつきりして今後の研究者の無駄な考慮や疑問がはぶかれる事となりませう、その点をよろこびます、
 貴下の細心な研究精神をまことにありがたき事と存じ、早速右御返事まで申上げました、
                                                                  艸々
  昭和十八年七月十四                    高村光太郎
 川並秀雄様 侍史

これを読むと、『山荘の高村光太郎』の記述ともまた異なり(『山荘の……』では、戦後になって初めて碑文が誤っていることに気付いたように書かれています)、さらに他の人物の回想ではまた違ったニュアンスのエピソードも紹介されていたりします。

今回の矢野氏の「提言」では、こういった話に触れられるのではないかと思われます。

興味のある方、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月21日

昭和20年(1945)の今日、花巻郊外太田村に初めて足を踏み入れました。

当日の日記から。

晴、暑  太田村山口行、 朝飯盒にて弁当炊き、八時四十分校長先生同道花巻駅より。信一郎、清一郎君落合ふ。二ツ関下車徒歩五十分。午後勝治君の案内にて地所検分、選定。部落会長宅に挨拶にゆく。小屋を勝治氏に一任。五時十二分二ツ関よりかへる。

8月10日の花巻空襲で、疎開していた宮澤家を焼け出された光太郎、旧制花巻中学校長・佐藤昌の家に厄介になっていました。終戦の2日前、山口分教場の教師だった佐藤勝治に勧められ、太田村移住を計画、この日の下見になったわけです。太田村に住み始めたのは10月17日のことでした。

東京は渋谷の骨董品店兼ギャラリー(ということでいいのでしょうか、分類がよくわからないのですが)、しぶや黒田陶苑さんで、昨日から以下の展示が始まっています。  
期 間 : 2014年12月12日(金)~12月16日(火)
時 間 : 11:00~19:00
会 場 : しぶや黒田陶苑 東京都渋谷区渋谷1-16-14 メトロプラザ1F
 
陶器、というより茶器を主に扱うお店のようで、ギャラリーも併設、週替わりで名品を展示しています。
 
で、今回の出品作家が以下の通り。
 
北大路魯山人  富本憲吉  石黒宗麿  川喜田半泥子  三輪休和  加藤唐九郎  岡部嶺男 
加藤土師萌 
黒田辰秋  加守田章二  山田光  香月泰男  山口長男 高村光太郎
 
魯山人や富本憲吉は陶芸家ですので、不思議はありませんが、光太郎がどうして? と思いました。すると、光太郎の作は書でした。晩年の光太郎が好んでよく書いた「うつくしきもの満つ」という短句で、軸装されたものだそうです。茶室には軸がつきものですから、そういう関係でした。
 
いったいに光太郎の書は非常に恬淡としており、まさしくわびさびを顕現していると言えます。茶室の雰囲気にはぴったりでしょう。しかし、光太郎の軸のかかった茶室でお茶をいただくと考えると、何とも贅沢ですね。
 
茶室というと、簡素を旨とします。しかしそこに生まれる一切の無駄を省いたことによる「美」。ある意味、何もない空間に「美」があふれているというパラドックスですね。「うつくしきもの満つ」という光太郎の短句は、それを象徴しています。
 
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こちらは類例ということで、光太郎と交流のあった美術史家・奥平英雄旧蔵の色紙です。今回の出品物とよく似たものです。
 
ちなみに以前にも紹介しましたが、光太郎は「美ならざるなし」という短句も好んで揮毫しています。この句に表されているのも、「うつくしきもの満つ」と同じ精神ですね。
 
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さて、しぶや黒田陶苑さんの展示。16日の火曜までと、短期間です。ぜひ足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月13日
 
昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を訪ねてきた角川源義のために、宮澤家への紹介状を書きました。
 
角川源義は昭和20年(1945)創業の角川書店の創業者。後発の出版社のため、岩波書店や新潮社などに追いつき追い越せ、と、随分努力をしました。源義自ら太田村の光太郎の小屋を訪れること、少なくとも3度。光太郎帰京後も、中野のアトリエに通っていました。その意気やよし、ということで、光太郎は角川文庫や『昭和文学全集』に作品を提供します。
 
また、賢治の詩集を出版したいという源義のため、賢治の父・政次郎あての紹介状を書きました。
 
東京の角川書店の御主人角川源義さんが小生編纂の宮澤賢治詩集を一冊出版させていただきたいといふ事ですが、角川さんは至極良心的な出版者であり、信用出来るので、貴家でお許しがあらば小生も承諾してもいいやうに申し上げました。よつて角川さんを御紹介いたします。一応同氏からお聞きとりの程願上げます。 十二月十三日 高村光太郎 宮澤政次郎翁台下
 
ただし、この出版は実現しませんでした。

書道関連のイベント情報です。 
 
   平成26年10/31(金)~11/3(月)  10時~18時 (初日は20時・最終日は16時まで)
   東京芸術劇場 5F展示ギャラリー1  東京都豊島区西池袋1-8-1
   玉燕書道会
   毎日新聞社 日本詩文書作家協会 毎日書道会 他
 
 
書家の金子大蔵氏の個展のようです。
 
光太郎、そして智恵子の世界は、本当にいろいろな分野の表現者の方の創作意欲を刺激しているようです。やがて誰も取り上げなくなり、「高村光太郎? 智恵子? 誰、それ?」ということにならないようにと願っています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月25日000
 
昭和25年(1950)の今日、詩集『典型』を刊行しました。
 
昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】では、大正3年(1914)、詩集『道程』が刊行されたことを書きました。
 
したがって、今日は詩集『道程』刊行100周年です。
 
詩集『道程』は光太郎の第一詩集です。それに対し、『典型』は自ら編んだ生前最後の詩集です。
 
第一詩集と最後の詩集が、年は違えど同じ刊行日。これは偶然でしょうか? それとも、光太郎自身が狙ってこの日にしたのでしょうか? 今となっては不明です。
 
光太郎は『典型』の装幀や扉のデザインを自らの手で行いましたが、かなりこだわっていました。自筆の装幀原画や、ボツにした扉の案も残されています。そうしたこだわりを考えると、刊行日もたまたま『道程』と同じ日、というわけではなく、自らの最後の詩集と考えてのことだったように思えます。 
 
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左が『道程』、左が『典型』、それぞれの奥付です。
 
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『典型』自筆装幀原案です。細かな指示無題がたくさん書き込んであります。
 
こちらはボツにした扉の案2種類と、実際に採用した扉です。 
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気づくのが遅れまして、紹介も遅れました。申し訳ありません。  

文藝春秋 第92巻第12号 2014/10月号 

2014/9/10発売 定価880円

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作家、伊集院静氏の連載「文字に美はありや」の第10回が掲載されています。さまざまな書道作品を紹介するもので、今月号は本文3ページ、折り込みのカラーグラビアがついています。
 
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「猛女と詩人の恋」という題で、光太郎の書が取り上げられています。
 
上記グラビアは、木彫「白文鳥」と、その袱紗(ふくさ)です。袱紗には光太郎自作の短歌が記されています。
 
小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん
 
光太郎はこのように、木彫を作ると、それに関する短歌も作り、それを包む絹の袱紗や袋(智恵子が縫ったものです)に認(したた)めることが多くありました。そうした場合には古式に則(のっと)り、仮名に濁点をつけなかったり、変体仮名を使ったりもしています。
 
ちなみに、昨年、全国三つの美術館で、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」が開催されました。この木彫「白文鳥」は三館共に展示され、袱紗も岡山井原展と愛知碧南展で並びました。現在は東京の某画廊が所有しています。
 
もう一点、
 
小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは
 
という短歌を記した袱紗もセットです。木彫「白文鳥」が二体ですので。「小鳥らは」の方は、眼を細めている雌の文鳥を、「白のジヤケツ」の方は、一回り体の大きい雄の文鳥を包むための袱紗に記されました。
 
先月、花巻の高村光太郎記念会を通し、この袱紗の所有者を教えてほしいと依頼があってお答えしたのですが、今号の記事になることをすっかり失念していました。
 
それはともかく、実にいい字ですね。伊集院氏もほめています。
 
他には、今年100周年を迎えた詩「道程」の詩稿もモノクロで画像入りで紹介され、さらに光太郎の書論「書について」(昭和14年)などが取り上げられています。ただ、光太郎に関しては3ページのうち半分で、残り半分は正倉院に納められている光明皇后筆の古文書についてです。
 
しかし、最後に「智恵子への恋慕と彼の書についてはいずれ詳しく紹介したい。」とあるので、期待しましょう。
 
『文藝春秋』10月号、まだ店頭に並んでいると思います。または雑誌専門の通販サイトfujisan.co.jpから購入できます。ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月22日
 
昭和31年(1956)の今日、鎌倉の神奈川県立近代美術館で、この年亡くなった光太郎の最初の遺作回顧展「高村光太郎・智恵子展」が開幕しました。

男性雑誌『BRUTUS』の、最新号ではなく、一つ前の号です。 
2014/08/16 特別定価680円
 
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メインは雑誌『暮らしの手帖』編集長で、エッセイストとしても活躍されている松浦弥太郎さんによる、「男の一流品」の紹介です。
 
ちなみに「一流品」の定義は以下の通り。
 
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なるほど、ですね。
 
で、実に雑多なものがいろいろと紹介されています、衣服、雑貨、クラシックカー、書籍、家具、スポーツ用品、食品、アナログレコード……。
 
その中の一つがこちら。光太郎揮毫の色紙です。
 
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「詩とは不可避なり」と読みます。戦後、花巻郊外太田村の山小屋時代に書かれたものと推定されます。
 
実にのびのびと書かれていますが、余白の使い方など、真似の出来るものではありませんね。「不可避」という熟語の途中で改行してしまうあたりも味噌です。これを「詩とは/不可避なり」と二行にしてしまったり、「詩とは/不可避/なり」と改行したりしては、この絶妙なバランスは生まれないように思います。
 
この色紙、松浦さんの所有ではなく、東京本郷の古書店・森井書店さんで扱っている商品です。
 
9月に入ってから、森井書展さんのサイトを見てみたところ、トップページにこの色紙が『BRUTUS』で紹介された旨の記述があり、あわててバックナンバーを版元から取り寄せた次第です。店頭に並んでいるうちにご紹介できればよかったのですが、申し訳ありません。
 
さて、もう一つ、「一流品」として、4ページにわたって、盛岡の「ホームスパン」が取り上げられています。
 
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「ホームスパン」とは、明治時代に日本に入ってきた、羊毛を使った織物。コートやジャケットなどの生地として、主に東北や北海道などの寒冷地で作られるようになりました。志賀直哉、武者小路実篤、濱田庄司などの白樺派の面々がこよなく愛したそうです。また、松浦さんはかつて文京区にあった立原道造記念館でホームスパンを見て、ずっと憧れていたとのこと。
 
松浦さんが訪ねたのは、盛岡の蟻川工房さん。この記事では紹介されていませんが、光太郎と深い関わりがあります。
 
こちらは岩手のホームスパン普及に貢献した及川全三の流れをくむ工房です。現在、工房を切り盛りされている蟻川喜久子さんの亡くなった御主人は、及川の愛弟子・福田ハレ子の子息。光太郎は、花巻郊外太田村で暮らしていた頃、及川や福田にホームスパンの服をよく作ってもらっていました。及川の弟子の一人に、太田村出身の戸来幸子という人もいて、この人を介することが多かったようです。また、昭和27年(1952)に、十和田湖畔の裸婦群像制作のため、岩手を後にしてからも、ホームスパンの服を愛用し続けていました。
 
今年2月から6月にかけて、盛岡てがみ館さんで開催された第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」では、福田と戸来にあてた新発見の書簡も展示されました。やはりホームスパンや及川に関する記述がありました。
 
さて、『BRUTUS』 №784 。もう店頭には並んでいませんが、版元のマガジンハウスさんのサイトから注文できます。ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月5日
 
明治10年(1877)の今日、光太郎の姉・さく が誕生しました。
 
光雲・わか夫妻の初めての子供です。長じて狩野派の日本画を学び、将来を嘱望される腕前を身につけつつありましたが、明治25年(1892)、数え16歳で早世してしまいました。
 
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右上は、さくの描いた光太郎八歳の姿です。
 
光太郎はこの6歳上の姉を、非常に誇りに思っていたそうです。

九州は福岡からの情報です。

吉村春香書作品展

会 期 : 2014年7月22日(火)~7月27日(日)

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時 間 : 11時~19時

会 場 : ギャラリーおいし 福岡市中央区天神2-9-212

 

刻字を中心とした書作品。文字が持つ意味や力強さ、造形の面白さを表現することを目標としている、吉村春香氏の作品約10点。

 

(右) 高村光太郎の詩  【激動するもの】

 

 

いわゆる書家の方々が、光太郎の文筆作品を作品にされるケースがけっこうあります。

 

光太郎自身も実作としての書もよくしましたし、「書について」(昭和14年=1939)など、当時としては画期的な書道芸術論も展開しています。

 

当方、稀代の悪筆なもので、しっかりと書のできる方はうらやましいかぎりです。

 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月25日

 

平成7年(1995)の今日、新潮社から『光太郎と智恵子』が刊行されました。

 
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アート系の叢書、「とんぼの本」の一冊です。

 

北川太一先生による光太郎評伝、光太郎の甥にあたられる写真家・高村規氏のフォトエッセイ「伯父・光太郎の足跡を追って」、作家・津村節子氏のエッセイ「光太郎に捧げられた紙絵」、詩人の故・藤島宇内氏による「
十和田湖畔の裸婦像」から成ります。

 

高村規氏によるパリの写真など、図版が非常に豊富です。

日本経済新聞社さんの関連会社・日経BPさん刊行の月刊誌『日経おとなのOFF』。今月発売の11月号に、光太郎智恵子関連の記事がありますのでご紹介します。
 
まず書家・木下真理子さんによる連載「木下真理子の大人の書道塾」。
 
光太郎が戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋に暮らしていた頃の書「吾山のうた」を紹介して下さっています。
 
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書かれている文言は短歌です。
 
吾山になかれ無題1
てやまぬ山ミ
つのやミかた
くして道は
ゆくなり
 
わかりやすく表記すると、
 
吾山に 流れてやまぬ 山水の
やみがたくして 道はゆくなり
 
となります。
 
中国の古碑の拓本を愛した光太郎の書は、木下さん曰く「単に文人の書といって片づけられるものではありません。」「彫るような感覚で書作していた」「光と影によって浮き彫りになった「文字という彫刻」を見ていたはずです。」。
 
いちいちごもっともです。
 
戦後の光太郎は十和田湖畔の裸婦像を手がける昭和27年(1952)まで彫刻を封印、その代わり、というわけではありませんが、多くの書作品を残しました。
 
それら戦後の書作品、今回紹介された短歌の揮毫もそうですが、今年5月にリニューアルされた花巻の高村光太郎記念館にたくさん収められています。昨年いただいたリストに依れば毛筆の書作品が40点ほど、ペン書きの草稿等も同じくらい、その他書簡類もあります。一部は記念館で展示されていますが、数が多いため、全ては並んでいません。
 
美術館・文学館等での企画展、今回のようなメディアでの利用など、出来る限り協力して下さるとのこと。「死蔵」にしないためにも、皆さんにどんどん活用していただきたいものです。
 
さて、『日経おとなのOFF』。明日開幕する福島二本松の大山忠作美術館での「五星山展」の紹介記事も載っていました。
 
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ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月11日

明治23年(1890)の今日、光雲が帝室技芸員に任命されました。
 
元々町の仏師だった光雲は、明治維新からしばらくの間は、廃仏毀釈のあおりで注文が激減、その日暮らしを続けていました。光太郎が生まれた明治16年(1883)ころは、最も苦しい時期。それが明治20年(1887)の皇居造営で装飾彫刻を担当した頃から境遇が激変、同22年(1889)には東京美術学校に奉職、そして123年前の今日、帝室技芸員に任ぜられ、「巨匠」への道を歩んでいくこととなります。

先日、本郷の森井書店様から届いた同店の在庫目録。
 
光太郎がらみとして、昨日は識語署名入りの『智恵子抄』をご紹介しましたが、もう一点、光太郎がらみが載っていました。
 
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昭和37年(1962)の第6回連翹忌で、光太郎の七回忌記念に配布されたものです。ちなみに、「回忌」の正しい数え方は数え年と同じで、亡くなって何年目、と数えます。亡くなった年の翌年のみ満一年ということで「一周忌」、その次が「三回忌」となり、以後、一つずつ数字が増えていきます。従って、連翹忌の回数とは一つずれます。
 
制作はこの手の美術工芸品の複製で有名な大塚巧藝社。当然、非売品です。もともとは大正13年(1924)、光太郎の弟、豊周の子供が夭折した際、光太郎が豊周に「これ、霊前に」といって持ってきたものです。この光太郎の心遣いに、豊周はいたく感激したとのこと。
 
さて、当方、同じものを持っています。
 
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ちなみに、第6回連翹忌でこれが配布された経緯を記した『東京新聞』のちいさな記事もついていました。
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数年前、どこかの古書店で売りに出ていたものをネットで買ったのですが、どこの古書店だったか覚えていません。値段も覚えていません。ただ、それほど高かった記憶はありません。高くても数千円だったような気がします。
 
ところが今回、森井書店様では150,000円で売りに出しています。考えてみればこのくらいの値段がついてもおかしくないものです。それが数千円でしたので、何だか得した気分ですね。まぁ、手放すつもりは毛頭ありませんが、安い買い物ができたという意味で、得した気分です。
 
ところでこの「般若心経」、一カ所、光太郎が書き間違いました。

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「菩提薩埵」と書くべきところを勢い余って「菩薩」と書いてしまい、その後、「薩」の次に漢文のようにレ点を付けています。こういう点、かえって温かみを感じます。
 
ところで、古書目録といえば、昨日届いた杉並の中野書店様の目録には、大正3年の詩集『道程』初版が載っていました。

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詩集『道程』初版。国会図書館にすらないものです。同館にあるのは売れ残りを改装し、奥付を変えた「再版」です(それはそれで珍しいのですが)。1~2年に一度くらい市場に出てきます。昨年は明治古典会七夕古書大入札会にカバー付きのものが出ましたが、今回のものはカバーなし、状態もあまり良くないようです。それでも94,500円。まぁ、これも妥当な価格です。当方、同じような状態のものを同じような価格で手に入れました。
 
昨日ご紹介した識語署名入りの『智恵子抄』といい、心ある人や機関の手元に行ってほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】5月1日

明治38年(1905)の今日、上野公園竹の台五号館で第一回彫塑同窓会展が開幕しました。光太郎は塑像「薄命児」「解剖台上の紅葉山人」を出品しました。

昨日に続き、光太郎に関わる各種の講座のご案内です。

朝日カルチャーセンター/朝日JTB・交流文化塾講座 総合書道Ⅳ-漢字かな交じり文の研究

書道の添削講座です。
 
楷・行・草書、かなの基礎から始め、古典の臨書、創作、漢字かな交じり文まで学ぶ総合書道講座です。毎月1回2作品を、ベテラン講師陣が丁寧に添削指導します。
ご経験にあわせて、各レベルの1期目からご受講いただけます。
 総合書道Ⅳ:第1~4期(全2年) 楷・行・草書、かなの基礎を学んだ方、原則として総合書道Ⅲを修了した方が対象。和漢の代表的な古典作品を臨書し、運筆と自在性、和文を美しく書く力を身につけます。

【第1期】 王羲之の草書「淳化閣帖」001
【第2期】 古典かな「藍紙本万葉集」
【第3期】 俳句(芭蕉) 短歌(万葉集)
【第4期】 文章と詩(吉田兼好 高村光太郎)

Ⅳ:第1~4期とも 各6ヵ月(6回添削) 18,600円
 
<監修講師>
東京学芸大学名誉教授 吉田 鷹村(よしだ ようそん)

<添削講師>
都留文科大学講師 栗原 天路(くりはら てんろ)
琇苑書道会主宰 藤井 琇苑(ふじい しゅうえん)
 
臨書の手本に、吉田鷹村氏の書いた光太郎の詩句が使われるということです。添削は添削講師のお二方が行うとのこと。
 
ちなみに当方の手元に昭和60年(1985)、埼玉東松山で開催された「高村光太郎 「智恵子抄」詩句書展図録」という冊子があります。当時の東松山市教育長で光太郎と交流のあった田口弘氏のお骨折りで実現した展覧会の図録ですが、田口氏所蔵の光太郎の書、埼玉出身の書家・成田歴景氏の書いた光太郎詩句の書、そして賛助出品と言うことで吉田氏の書も展示されたらしく、収録されています。
 
吉田氏、この時点では既に光太郎詩句の書に取り組んでらしたわけですね。
 
書に興味のある方、いかがでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】3月17日

昭和2年(1925)の今日、読売新聞社講堂で開かれた、雑誌『大調和』創刊記念文芸講演会で「五分間」と題して講演をしました。
 
佐藤春夫、岸田劉生、武者小路実篤も演壇に立ったそうです。
 
4月2日(火) 第57回連翹忌、参加申し込み締め切りが近づいて参りました。光太郎・智恵子を敬愛する方のご参加をお待ちしております。

今年も年賀状をたくさんいただきました。ありがとうございます。特に昨年から肩書きが変わったもので、昨年までいただいていなかった方々から新たにいただくようになり、感謝しております。
 
当方からの年賀状は、ここ数年、干支と光太郎がらみの画像を使用しています。初めてそうしたのは3年前。寅年だったので、光太郎の塑像「虎の首」(明治38年=1905)の画像を使いました。一昨年の卯年は同じく光太郎の木彫「兎」(明治32年=1899)、昨年の辰年は光雲作の「沙竭羅(さがら)竜王像」(明治36年=1903)。こちらは現在でも浅草寺で見ることが出来ます。
 
そして今年は巳年ということで、蛇に関わるものを探したのですがなかなか見つからず、結局、明治43年(1910)の『スバル』2年2号に掲載された与謝野晶子を描いた戯画「SALAMANDRA」を使いました。古代エジプトの女神風の晶子が口から蛇を吹き出しています。画像は1/1のブログに載せました。
 
「年賀状」。一般に広く行われるようになったのは、やはり郵便制度の普及による明治以降のようですが、古くは平安時代にすでに貴族階級の間に行われていたとのこと。大手町の逓信総合博物館さんのページです。
 
ちなみに同館には光太郎の葉書も所蔵されており、以前に調査させていただきました。
 
さて、光太郎が書いた年賀状。『高村光太郎全集』や「光太郎遺珠」に何通か掲載されていますし、当方、実物も何度か拝見しました。
 
下の画像は『高村光太郎全集』第21巻に掲載されている、大正4年に鋳金家の川崎安に宛てたものです。
 
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はじめは木版かと思っていましたが、『スバル』の仲間だった木下杢太郎に宛てた同じデザインの物を神奈川近代文学館で拝見したところ、版画ではなく墨書でした。文字の周りを墨で黒く塗りつぶす「籠書き」と言われる筆法です。短歌を書いた短冊などでもこの手法を用いた物が残っています。光太郎の並々ならぬ造形感覚が見て取れますね。
 
その後、同じデザインの年賀状が続々見つかりました。宛先は森鷗外、前田晃(編集者)、佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の内容を語った人物)。木下宛も含め、それらはすべて明治44年(1911)のものです。そこで、『全集』所収の川崎安宛も消印の見誤りで、やはり明治44年のものなのではないかと思っております。
 
それにしても、100年以上前の年賀状がしっかり残っている、というのも考えてみればすごい話です。よくぞ保存しておいてくれた、と思います。
 
さて、当方からの年賀状。来年以降も干支と光太郎がらみで行きたいと思っています。お楽しみに。
 
【今日は何の日・光太郎】1月4日

昭和28年(1953)の今日、中野のアトリエに詩人の宮崎稔親子が年始の挨拶に来ました。

宮崎の妻・春子は智恵子の姪。看護婦の資格を持ち、品川のゼームス坂病院で智恵子の身の回りの世話をし、その最期を看取りました。その後、光太郎が間に入って宮崎と結婚しました。

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