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さきの天皇陛下御退位に伴い、今日から令和元年の始まりです。そこで、それっぽい内容で。

このブログ、新聞雑誌各紙誌の場合、基本的に紙誌面に掲載されたものをご紹介していますが、今日のみは例外的に、ネット上の「週刊女性PRIME」さんというサイトに載った記事をご紹介します。紙媒体の『週刊女性』さん本誌には、この記事は出ていませんでした。

新天皇陛下小学校卒業文集で、夢は日本史教師、白虎隊を「あわれ」12歳の思い全文

 いよいよ間近に迫った新しい天皇陛下のご即位と、新時代令和。
 新しい時代の象徴となる新天皇陛下はどんな方なのだろうか。
 名は徳仁さま。称号は浩宮。昭和35年(1960年)2月23日生まれ。学歴は学習院幼稚園入園後、学習院初等科、中等科、高等科、学習院大学(文学部史学科)と歩まれてきた。
 ’83年から’85年にかけ、オックスフォード大学マートン・カレッジにご留学。’88年には学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程をご修了。専攻は歴史学。
 ご趣味は登山、ヴィオラ演奏、ジョギングなど。またお酒も嗜(たしな)まれ、たいそう“お強い”との評判も。
 言うまでもなく、皇太子として公務と国際親善に努められてきた。また、'03年よりご病気の療養に入っている妻の雅子さまを支え、聡明と評判の長女・愛子さまの教育にも力を入れられてきた。
 仕事と家庭両面にベストを尽くす誠実さはまさしくご両親譲りのもの。ここでは、そんな新天皇陛下のさらなる内面や成長過程がうかがえる文章をご紹介したい。
 学習院初等科の卒業文集。徳仁さまの徳を取った『徳桜集』という文集で卒業生らが2つのテーマで文章を寄せている。1つは『思い出』、もう1つは『二十一世紀からこんにちは-二〇〇一年〇月〇日の手紙-』。
 つまり、学校生活の思い出と、将来の自分についての作文ということ。殿下の“12歳の地図”まずはご一読を。

<テーマ:思い出>
  思い出の修学旅行   徳仁親王
 長い長いと思われた初等科時代も、あとわずかになった。ここで、今までの六年間をふり返ってみる時、ぱっとぼくの心の中に浮かび上がるのは、なんといっても、六年生の春に行った福島への修学旅行だ。
 福島駅で列車を降りると、出発した上野駅とは変わった東北地方特有のひんやりした風が吹いていた。ぼくたちをむかえてくれる風のような気がした。長い間の列車の中の退屈した気分を吹き飛ばしてくれたのだ。スモッグがひどく、空気のよごれた東京よりも、すがすがしい空気の中で暮らせる福島の人たちはしあわせだと思った。
 車窓から見えた安達太良山・磐梯山などは、古い古い過去を物語ってくれるようだ。そう、安達太良山といえば、高村光太郎作の(あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川)という詩を思い出す。しかし、実際にはそのとき、ぼくは、この詩を部分的にしか知っていなかった。この詩の全容に出会ったのは、その夏である。磐梯山についていえば、(会津磐梯山は宝の山よ)という、あの有名な歌……。
 翌日行った中で、いちばん印象深かったのは飯盛山だった。ここは白虎隊十九士の墓のある所だ。墓の前に立つと、ぷうんと線香のにおいが鼻を突く。昔の人はここを通るとき、きっと墓石に涙を注いだことだろう。ぼくもここに、自分の家の花をささげたいような気がした。戸の口原で戦って負け、飯盛山に逃げて、鶴が城が焼けているのを見、自殺した。ほんとうは、城は焼けていなかった。あわれな最期であった。死にさいして、彼らの心の中にあった思いは、どんなものであっただろうか、ぼくはその後も折々考える。
 修学旅行は、ぼくたちにすばらしい思い出を与えてくれた。風景の美しさ、集団生活の楽しさ。さらにこの思い出は、後の歴史の勉強などにも大いに役立つことだろう。福島県下の旅行と初等科時代の思い出は、ぼくの心の中で、切っても切りはなせない思い出となり、いつまでも残ることだろう。

<テーマ:「二十一世紀からこんにちは-二〇〇一年〇月〇日の手紙-」>
                        徳仁親王
 みなさん、お元気ですか。わたくしは、今、大学で、日本史を教えています。
 この間、学生たちに美しい平城京の姿を知ってもらいたいと思い、奈良に行ってきました。初めに東大寺などの寺院を見ました。ふり返ってみれば、わたくしがこの東大寺を訪れたのは、今から三十数年前、たぶん初等科四年生のころだったと思います。幸いに、大仏も四天王も当時と変わらず大切に保存されています。ふくうけんじゃくの美しい姿も変わっていません。ほっとして外へ出れば、若草山・春日山・三笠山などがなつかしい姿を見せています。それを望んでいると、どこからともなく、(天の原、ふりさけ見ればかすがなる、三笠の山に出でし月かも)という歌がわたくしの耳をかすめ、再び永遠の彼方に消え去っていくような気がしました。空を見上げれば、雲一つありません。この晴れ渡った空を、昔の人はどう思ったでしょうか。わたくしは、あれやこれやのことを、「奈良見物記」という題で本にまとめました。 
 これは余談になりますが、旅先の旅館におりますと、山鳥の声が微妙に悲しげに響いてきます。夜は、マッチぼうを散りばめたように星が光っておりました。自然はいいなあと、何度思ったか知れません。
 そうしている間に、ついに帰京する日が来ました。古い歴史を語る奈良に、わたしは、いつまでもいつまでも自然や遺跡が保存されることを願ってやみません。
 ではみなさま、くれぐれもおからだを大切に、さようなら。 

 いかがだろうか。まず美しい自然と文学を愛(め)で、歴史と文化を学ぼうとする素直な心が伝わってくる。
「趣味が登山ということからもわかりますが、殿下は自然と美しい景色を愛するロマンチストですね。そこは少年時代から今も変わっていないといえるでしょう」(全国紙宮内庁担当記者)
 また、白虎隊の悲劇に思いを寄せたのは、高祖父(ひいひいおじいさん)の明治天皇を押し立てた官軍と会津藩の戦いの歴史の因縁を感じてのことなのかもしれない。
 また、「二十一世紀から」のほうは皇太子、天皇となる定められた将来を知りながら、愛する歴史に携わる未来にも思いを馳せる健気な文章だ。
 皇室取材歴60年のジャーナリスト、文化女子大学客員教授の渡邉みどりさんは、「二十一世紀から」の作文について、
「殿下の歴史愛は美智子さまのご教育の賜物(たまもの)だと思っています。初等科低学年のころ殿下は赤坂御用地内にかつて奥州街道が通っていたことを知り、歴史と道に興味を持たれました。美智子さまはその関心に応え、殿下と一緒に松尾芭蕉の『奥の細道』を読破されたのです」
 やがて関心は道から海上交通につながり、大学の卒業論文は瀬戸内海の海上交通史、オックスフォード大学での論文はテムズ川の交通史について。
「海上交通から関心は水全般に移り、かつて国連の『水と衛生に関する諮問委員会』の名誉総裁を務められるなど、水は殿下のライフワークになっています。少年時代の歴史愛がライフワークにつながっていったということですね」(渡邉さん)
 殿下は間もなく天皇としての“道”が始まるわけだが、その誠実なお心で国民とともに歩んでいかれることは間違いない。


さきの両陛下も、福島の被災者の方々への思い入れを表出なさっていましたが、新陛下も小学生の頃から「智恵子抄」に親しまれていたとは驚きました。

ちなみに新陛下、中等科時代の昭和49年(1974)には、やはり修学旅行で、花巻郊外旧太田村の光太郎が戦後の7年間逼塞していた山小屋(高村山荘)と、当時の高村記念館も訪れられています。学習院さんには校外学習の場として使われていた八幡平松尾校舎という施設があったそうで、宿泊はそちらだったようです。

二本松の智恵子生家・智恵子記念館ともども、いずれまたお越し願いたいものですね。

そして「週刊女性PRIME」さんの末尾にあるように、「その誠実なお心で国民とともに歩んでいかれること」を望みます。

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【折々のことば・光太郎】

見渡したところ智恵子の作は造型的に立派であり、芸術的に健康であつた。知性のこまかい思慮がよくゆきわたり、感覚の真新しい初発性のよろこびが溢れてゐた。そして心のかくれた襞からしのび出る抒情のあたたかさと微笑と、造型のきびしい構成上の必然の裁断とが一音に流れて融和してゐた。

散文「みちのく便り 三」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

この年4月、盛岡市の川徳画廊で開催された智恵子の紙絵(当時は切抜絵と称していました)展を見ての感想です。これ以前に山形でも開催されていますが、光太郎はそちらは見て居らず、展覧会の形で見たのはこれが初めてでした。

「令和」の時代となりましたが、光太郎智恵子、この一組の男女の鮮烈な生の軌跡を語り継ぐ仕事、これからも続けて参りますのでよろしくお願いいたします。

先週、日比谷公園松本楼様で、光太郎を偲ぶ第63回連翹忌を開催いたしました。その際に参会者の皆さんにお配りした資料等をご紹介します。

013まず、手前味噌ですが、当会発行の『光太郎資料51』。B5判ホチキス留め、手作りの小冊子ですが、内容は濃いと自負しております。元々、当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺を旨として不定期に発行されていたもので、その名跡を譲り受けました。4月の連翹忌にかぶせて1回、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて1回と、年2回刊行しております。当方編集になって15冊目です。

今号は、以下の内容です。

・ 「光太郎遺珠」から 第十五回 智恵子(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、智恵子歿後の智恵子に関する光太郎作品をまとめました。

・ 光太郎回想・訪問記  「高村光太郎の思い出」 富士正晴/「高村光太郎 温かく大きな手」    遠山 孝
これまであまり知られていない(と思われる)、戦前、戦中の光太郎回想文。短めのものを2篇載せました。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の見世物(その二)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第二巻第十号(昭和3年=1928)。光太郎の父・光雲を含む各界の著名人による座談会筆録から。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十五回  法師温泉
見つけるとついつい購入してしまう、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書を用い、それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は、大正末から昭和初めにかけて、光太郎が4回ほど足を運んだ群馬県の法師温泉。明治28年(1895)に建築された、フランス風の飾り窓を持つ建築です。昭和56年(1981)には、当時の国鉄が発売した「フルムーンパス」のポスターやCMで、上原謙さんと高峰三枝子さんが熟年夫婦を演じられ、話題となりました。

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・ 音楽・レコードに見る光太郎 「真珠港特別攻撃隊」(その一)
昭和17年(1942)、箏曲家の今井慶松の依頼で書かれ、翌年、今井の作曲で演奏された「真珠港特別攻撃隊」についてです。

・ 高村光太郎初出索引(十五)
『高村光太郎全集』等収録の、生前に公表されなかったと思われる光太郎詩文をリストアップしました。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
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015続いて、『尾崎喜八資料 特別号(第17号)』。光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八(上記法師温泉にも同道しています)の令孫・石黒敦彦氏主宰の尾崎喜八研究会さん刊行の冊子です。連翹忌会場でもスピーチでご紹介いただきましたが、いったん休刊されたものを今回、特別に再刊。

当会顧問の北川太一先生の未発表だった玉稿2篇が掲載されています。「「愛と創作」その詩と真実」、「ロランと光太郎をめぐる人々」の2篇です。休刊前に寄稿されていながらお蔵入りだったものとのこと。喜八やその周辺人物と光太郎との交流につき、当方も存じ上げなかった事柄がこれでもかとてんこ盛りです。

過日ご紹介した北川先生の新刊『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』にしてもそうですが、先生の幅広い視点からの御考察には脱帽です。

残部は当会名簿にある連翹忌ご欠席の方々等に発送いたしましたが、ご入用の方は仲介いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。

016配付されたわけではありませんで、ギャラ代わりの執筆者割り当てでいただいたものですが、『高村光太郎研究50』。高村光太郎研究会からの刊行です。

こちらにも北川先生の玉稿が巻頭に。平成20年(2008)、宮城県女川町で開催された第17回女川光太郎祭での講演筆録「再びもう一度考えてみたいこと――平成二十年八月九日、女川高村祭談話――」。

それから昨秋、都内で開催された高村光太郎研究会でのご発表を元にされた佛教大学総合研究所特別研究員の田所弘基氏の、「高村光太郎「夏の夜の食慾」の解釈」。昨年『高村光太郎小考集』を刊行された西浦基氏の「虎落笛―長沼智恵子の母親おセンの生涯―高橋秀紀著を読む」。

さらに、またまた手前味噌ですが、当方編の「光太郎遺珠⑭」と「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」。

「光太郎遺珠⑭」は、この1年間で新たに見つけた、『高村光太郎全集』未収録の光太郎作品集です。

短めの散文が3篇。昭和17年(1942)の『美術文化新聞』第59号に載った「工場の美化運動」、同18年『読売新聞』掲載の「預言者的詩人 野口米次郎氏」、そして『新岩手日報』に同22年(1947)掲載の「人間的な詩人」(「きよう”賢治 十五回忌” 盛岡・花巻で盛んな記念集会」と題する記事に付された談話)。

それから、しばらく前から少しずつ掲載させていただいている「高村光太郎先生説話」。浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995、ひまわり社)よりの転載で、戦後、花巻郊外太田村で蟄居中の光太郎が、山小屋近くの山口小学校などで語った談話の筆録です。今回は昭和26年(1951)のもの。

さらに翻訳で「ロダンといふ人」。原著者はロダンの秘書だったジュディト・クラデル。明治43年(1910)、雑誌『秀才文壇』に3回にわたって連載され、3回目のみが『高村光太郎全集』に収められていましたが、1、2回目が中々見つからずにいたものを、昨秋、智恵子がかつて絵を学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会研究所さんからご提供を受けました。

そして、書簡。平成29年(2017)、『智恵子抄』版元の龍星閣現社主・澤田大太郎氏から、創業者で父の故・伊四郎の遺した厖大な資料のうち、光太郎、棟方志功他の関連が、伊四郎の故郷・秋田県小坂町に寄贈されました。そのうち、澤田に宛てた光太郎書簡で『高村光太郎全集』未収録の32通を載せさせていただきました。

「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」は、このブログの昨年暮れの記事を元にしています。

こちらもご入用の方は仲介いたします。当ブログプロフィール欄のメールアドレスまでご連絡下さい。


最後に、第63回連翹忌にて「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他の音楽演奏をなさってくださった、ジオラマ作家兼ミュージシャンの石井彰英氏から、当日の演奏をyoutubeにアップしたというご連絡がありましたので、載せておきます。最後に演奏された「ずっとこのまま」のみですが。




【折々のことば・光太郎】

私はこれからもなほ若い人々を激励し、若い人々の進歩するのと一緒になつて真剣に日本の彫刻を育て、今まで世界に存在しなかつた新鮮な日本の美を作り出してゆきたいと願つてゐる。自分はすでに老境に近づき年齢からいへば過去に属する人間であるかもしれない。しかし自分にあたへられた本当の仕事はこれからであると信じてゐる。

談話筆記「子供の頃」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎にとって「本当の仕事」は、彫刻をはじめとする芸術の発展。当方にとっては「光太郎の生の軌跡を語り継ぐこと」。やはり「これから」です。

4月2日(火)、東京日比谷公園松本楼様では、当会主催の第63回連翹忌の集いを催しましたが、光太郎第二の故郷・岩手花巻でも独自に花巻としての連翹忌他が開催されています。ちなみに花巻では「回忌」のカウント法なので、「64回忌」と、こちらよりプラス1になります。

今年は同地でかなり報道されていますので、ご紹介します。

まず、午前中、光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で、詩碑前祭。例年は、その名の通り、昭和20年(1945)の詩「雪白く積めり」を刻んだ光太郎詩碑の前で地元の方々が詩の朗読などをなさり、詩碑に献花などがなされるのですが、何と今年は大雪だったそうで、山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館さんでの開催となったそうです。

まず『岩手日報』さん。

高村光太郎先生に思いはせ 花巻で詩碑前祭

 詩人で彫刻家高村光太郎(1883~1956年)の第六十四回忌詩碑前祭は命日の2日、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれた。1945(昭和20)年から7年間、旧太田村山口で山居生活を送った光太郎の遺徳をしのんだ。
 地元の顕彰団体、高村記念会山口支部(照井康徳支部長)主催で住民ら約60人が参加した。
 地域の小中学生9人が詩「山からの贈り物」「案内」などを朗読。支部会員も「雪白く積めり」「大地麗し」「道程」などを趣深く読み上げ、光太郎と住民との交流の拠点となった旧山口小校歌を参加者全員で歌い、焼香した。
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続いてIBC岩手放送さんのローカルニュース。

ゆかりの地・花巻で64回忌…高村光太郎の遺徳を偲ぶ/岩手・花巻市

4月2日は詩人で彫刻家の高村光太郎が73歳で亡くなった命日です。ゆかりの地・花巻では六十四回忌が開かれ、地域の人たちがその遺徳を偲びました。
「道程」や「智恵子抄」などの詩集で知られ、彫刻家としても活躍した高村光太郎は、1945年5月、戦火を逃れて東京から花巻に移住しました。7年間を過ごした地、花巻市太田では、毎年、命日の4月2日に詩碑前祭が開かれています。六十四回忌のきょうは生憎の雪で、会場を初めて高村光太郎記念館の中に移して行われました。参加者が朗読した詩の中には、光太郎が花巻の雪景色を初めて目にした際の作品もありました。
「雪白くつめり。雪林間の路をうづめて平らかなり。ふめば膝を没して更にふかくその雪うすら日をあびて燐光を発す」
「わたしらも今70歳ですから、あと3つで先生が亡くなった歳に近くなるんですよね、それで今度新しい『令和』を迎えて、感無量なところがございます。詩の朗読会を通じて先生のことを理解していただければなと思います」(高村光太郎記念会・照井康徳さん)
参加者たちは合わせて10の詩に親しみ、当時に思いを馳せて故人を偲んでいました。

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午後からは、花巻市街の松庵寺さんに会場を移し、連翹忌法要。

岩手朝日テレビさんのニュース。

高村光太郎の命日 花巻の寺で法要

4月2日は詩人や彫刻家として活躍した高村光太郎の命日です。
これに合わせてゆかりのある花巻市の寺では法要が行われました。
詩集「道程」などで知られる高村光太郎は1945年に宮沢賢治の弟・清六の家に疎開し、戦後7年間を花巻市で過ごしました。
法要は光太郎が妻・智恵子の命日に訪れていたという松庵寺で毎年行われていて、今年は地元の関係者やファンなどおよそ20人が出席しました。
厳かな雰囲気の中、参列した人たちは光太郎の遺影を前に焼香して手を合わせました。
最後に小川隆英住職が光太郎が松庵寺で詠んだ詩を紹介し参列者全員で先人をしのびました。


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とおっしゃるのは、生前の光太郎をご存じの、花巻市太田地区振興会長・佐藤定氏。

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同じく松庵寺さんの小川住職


NHKさんでは、詩碑前祭・法要ともに報じて下さいました。法要を先に、詩碑前祭を後にと、時間的な順序は逆でしたが。

高村光太郎の命日に花巻市で法要

詩人で彫刻家の高村光太郎の命日だった2日、戦時中に疎開していた花巻市で法要が営まれました。
高村光太郎は、昭和20年4月の空襲で東京のアトリエを失ったあと、宮沢賢治の弟の清六を頼って花巻に疎開し7年間を過ごしました。
73歳で生涯を閉じたのは東京ですが、花巻市双葉町の松庵寺では毎年、命日に、光太郎が好きだった花の名前から「連翹忌」と呼ばれる法要を営んでいます。
2日も長年のファンなどおよそ20人が集まり、住職から昭和20年に光太郎が作った「松庵寺」という詩について、「妻の智恵子や母をしのんでこの寺でおつとめし、優しい心がうかがわれる」と説明を受けるとその人柄に思いをはせていました。
毎年、レンギョウの花を手向けている倉金和子さんは、「50回忌から続けています。光太郎先生は山の中で1人で苦労したと思うので生きている限りは続けたい」と話していました。
また、光太郎が疎開暮らしをした山荘近くにある「高村光太郎記念館」には、市民や子どもなどおよそ50人が集まりました。
そして、雪深い花巻での暮らしをつづった詩、「雪白く積めり」などを朗読して光太郎をしのびました。

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盛岡放送局の上原アナ。直接は存じませんが、年に数回花巻や盛岡に泊まるたび、テレビを通じ流れてくるそのシブ~いお声に魅了させられています(笑)。

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詩碑前祭・連翹忌法要、ともに末永く続けて行っていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

此の狩野派流の課程には中々意味の深いところがある。いきなり自由画式に放任しないで、古画の伝統に十分親炙させるといふのは、つまり絵画の持つ絵画性といふものを何時の間にかのみ込ませようとする方法と見るべきである。広く言つて其の造型性、造型性の中の絵画性、何故絵画が絵画であり得るかといふ要因を言説に拠らず、古画への直接の見参によつて了会させようといふのである。
散文「姉のことなど」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

明治25年(1892)、光太郎10歳の時に早世した6つ上の長姉・さく(咲子)の思い出を語る文章の一節です。さくは狩野派に絵を学び、15歳にして「素月」の号を許されていました。

昨日は、平成最後の光太郎忌日・第63回連翹忌でした。光太郎ゆかりの日比谷松本楼様で、午後5時30分よりその集いを開催いたし、盛会のうちに終えることができました。関係各位に改めて御礼申し上げます。

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順を追ってレポートいたします。

千葉の自宅兼事務所から、愛車に光太郎遺影、配布物、展示資料(この1年間に発行された光太郎智恵子光雲関連の書籍・雑誌等々)、連翹の花(光太郎終焉の地・中野アトリエに咲いていたも木から株分けしたしたもの)などを積み込み、都内へ。

まずは品川区大井町に向かいました。今回の連翹忌で音楽演奏をお願いした、ミュージシャンにしてジオラマ作家の石井彰英氏のご自宅兼スタジオ兼ジオラマ工房、サロン・ルーフトップで、楽器や譜面台等を積み込むためです。

予想より早く高速を抜けられたので、途中、同じ大井町のゼームス坂に立ち寄りました。智恵子の終焉の地・ゼームス坂病院跡地に立つ光太郎詩「レモン哀歌」の碑を久しぶりに見ておこうと思いまして。

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建立されたのは昭和63年(1988)。当方、実は最後に訪れたのが20年前くらいで、その意味では懐かしさでいっぱいでした。地元の皆さんでしょうか、レモンが供えられ、清掃も行き届いており、ありがたく感じました。

その後、石井氏の元で機材を積み込み、連翹忌会場の日比谷公園へ。地下駐車場に車を駐め、都営地下鉄三田線で巣鴨へ。この後参会される皆様を代表し、染井霊園にある光太郎ら高村家の人々の眠る奥津城に墓参。
ソメイヨシノ発祥の地だけあって、満開のそれは見事でした。

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巣鴨駅前で遅めの昼食をかき込み、再び日比谷へ。地下から車を松本楼さんの玄関脇へ。

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すでに配布物の袋詰め等をお手伝い下さる皆さんがいらしていて、ありがたく存じました。その方々は受付もやって下さり、本当に助かっております。

そのうちに続々参加の方がお見えになり、最終的には当方を含め、77名。70名を超えれば、「よし、今年はけっこう集まった」と思えるラインです。毎年そうなのですが、ぎりぎりになってのお申し込みが多く、1週間前くらいの時点では「今年は人が集まるんだろうか」と気をもまされていましたが、杞憂に終わりました。

さて、5時30分、開会。まずは光太郎本人、そして花巻の高橋愛子さんなど、残念ながらこの1年に亡くなった関係の方々への黙祷。

続いて、当会顧問・北川太一先生のご挨拶。光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった故・髙村豊周令孫の髙村達氏(写真家)の音頭で、献杯。

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しばしビュッフェ形式で料理を味わっていただき、アトラクションへ。先述の石井彰英氏と、お仲間の堀晃枝さん、松元邦子さんによる演奏。ゼームス坂近くにお住まいの石井氏の作詞作曲による「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他、全3曲を演奏して下さいました。

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その後、恒例のスピーチ。まずは、2年ぶりにご参会の、渡辺えりさん。このブログで何度もご紹介していますが、お父様が光太郎と交流がおありで、その影響で光太郎を主人公とした脚本なども書かれています。今回、意外とそのお話をご存じない方が多く、お父様と光太郎のご縁など、語ってくださいました。また、「あまちゃん」で共演されたのんさん(能年玲奈さん)もご出演される8月からの新作舞台「私の恋人」の宣伝もしていただきました。

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次に、書家の菊地雪渓氏。昨年、「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」で、最優秀にあたる「会長賞」を受賞なさった「智恵子抄」などの光太郎詩6篇を書かれた作品をお持ちいただき、紹介されました。

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菊地氏、この他にもやはり昨年、「第40回東京書作展」でも光太郎詩「東北の秋」(昭和25年=1950)で臨まれ、「特選」を受賞されました。

詩人の佐相憲一氏。出版社・コールサック社さん関係の方で、昨年、同社から刊行の、光太郎と交流のあった野澤一の詩集『木葉童子詩經』復刻版を編集されました。

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同じく、光太郎と交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏。喜八の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の娘ですので、石黒氏、葉舟の曾孫にもあたられます。

さらに当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館・小野浩氏。光太郎が認めた彫刻家・高田博厚の顕彰を進める埼玉県東松山市の教育長・中村幸一氏、光太郎詩に自作の曲をつけて歌われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。

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最後に、明星研究会の松平盟子氏(歌人)にもお願いしました。光太郎と与謝野晶子のつながり、明星研究会の活動のご様子、光太郎にも触れて下さった昨年刊行の『真珠時間 短歌とエッセイのマリアージュ』などについてなど。

本当はもう少し多くの方々に語っていただきたかったのですが、皆さん、なかなか弁の立つ方々で(渡辺えりさんは20分くらいしゃべってました(笑))、時間の都合もあり、締めに移行。

昨年、智恵子の故郷・二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝いた宮尾壽里子さんと、お仲間の上田あゆみさん、吉浦康さんに、朗読をお願いしました。

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単なる朗読ではなく、何度か宮尾さんが公演された形式からの再編で、光太郎詩「レモン哀歌」の朗読に始まり、その後は光太郎評論「緑色の太陽」、確認されている智恵子唯一の詩「無題録」などの朗読を織り交ぜつつ、光太郎智恵子の生の軌跡を語る物語となっていました。BGMにはテルミン奏者・大西ようこさんのCDを使わせていただきました。


そして、名残を惜しみつつ、来年、令和2年となる第64回連翹忌での再会を期して、閉会。

来年も広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子をモチーフに美術・文学などの実作者の方、同じく音楽・芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。私は結局一箇の私として終はるだらうが、この木つ葉童子の天来の息吹に触れたことはきつと何かみのり多いものとなつて私の心の滋味を培ふだらう。

散文「某月某日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「木つ葉童子」とは、上記でもご紹介しましたが、光太郎を敬愛していた詩人・野澤一です。「愛の書簡」はラブレターという意味ではなく、野澤が光太郎に送った300通余りの書簡。光太郎より21歳年下にもかかわらず、野澤は時に光太郎を叱咤激励するような内容もしたためました。最愛の智恵子を失って落ち込んでいた光太郎にとって、それはありがたい部分もあったようです。

昨日の第63回連翹忌、光太郎と交流のあった人々ゆかりの皆さんが多数参加され、改めてその人脈の広さ、そしてその人々に支えられ、また光太郎自身も支え、そうして広がっていった人の輪というものを感じました。そうした精神が脈々と受け継がれている連翹忌。今更ながら、さらに手前味噌ながら、すばらしいと感じています。その運営を引き受けて8年になりますが、今後もその灯をともし続けていかねばならない、と、責任の重大さを再確認いたしております。

今後とも、ご協力よろしくお願いいたします。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第63回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、当ブログプロフィール欄の連絡先までご連絡下さい。郵送いたします。
 

第63回連翹忌御案内


                                       
 日 時  平成31年4月2日(火
) 午後5時30分~午後8時
 
 会 費  10,000円 (ビュッフェ形式での食事代を含みます)

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
       tel 03-3503-1451(代)

 内 容  高村光太郎およびこの1年に亡くなった関係各位への黙祷
      アトラクション(音楽演奏・朗読)/スピーチ
      この1年間に発行された高村光太郎/光雲/智恵子関係資料等展示
      他      

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  ごあいさつ

 今年も第六十三回、平成最後の連翹忌が間もなくやって参ります。

 あしたどんなことが起こるかわからない一年がまたたく間に過ぎようとしていますが、いつものように、日比谷公園松本楼の階上で、運営委員の皆さんのご努力により、たくさんのご報告や催しが予定されております由、お忙しい日々でしょうが、お目にかかれればうれしく存じます。

 わたくしは、この三月で満九十四才になります。

平成三十一年 二月
連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて

会費を下記の方法にて3月22日(木)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、できるだけ事前にお支払い下さい。


今年の連翹忌は火曜日です。新年度となって間もない平日ということで、なかなかお忙しい折とは存じますが、万障お繰り合わせの上、ご参加お待ち申し上げております。

過去6年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

今日は成人の日。しかし、今日よりは、この土日に成人式を開催した自治体さんが多いようです。各地の成人式について、新聞各紙から。

まず、『岩手日日』さん。 

花巻市成人式 大人の自覚新た

 花巻市の2018年度成人式は12日、同市若葉町の市文化会館で行われた。男性409人、女性426人の合わせて835人が出席。華やかな振り袖や真新しいスーツに身を包んだ若者たちが、旧友との再会を喜ぶとともに式典や記念行事を通じて大人としての自覚を新たにした。
  市主催の式典では国歌斉唱、新成人代表4人による市民憲章の朗読に続き、上田東一市長が花巻で過ごした高村光太郎の詩「道程」を引用しながら「皆さんは小学校の卒業を目前に控えた時に東日本大震災を経験し、主体的な行動と自分で考えることの大切さを学んできたと思う。新しい時代を築いていく皆さんには柔軟なアイデアと大胆な行動力を持ち、光太郎のような道を進んでいくことを期待している」と式辞。小原雅道市議会議長が祝辞を寄せた。
  新成人2人の決意表明では、記念行事実行委員会委員長の佐々木小梅さん(大迫中学校出身)が専門学校卒業後に看護師になる目標を述べながら「これまで学んだ知識を生かし患者に寄り添いながら信頼される看護師になりたい。両親や成長を温かく見守ってきた地域の方々、友人に感謝の気持ちを忘れずに人生を歩みたい」、副委員長の町中大悟さん(西南中出身)は「大学卒業後にメディアの記者として働き、岩手の良さを伝えられる記者になりたい。大人の自覚を持ち社会に貢献できる人になりたい」と力強く語った。
  式後は実行委が企画した記念行事、出身中学校ごとの記念撮影が行われた。
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他にも全国の首長さんで、「道程」などを引用された方がいらっしゃるのではないかと存じますが、光太郎第二の故郷ともいうべき花巻市の上田市長が引用されるのは、重みが違うように思われます。上田市長のお父様は生前の光太郎と交流がありましたし、上田市長ご自身、毎年5月15日の花巻高村祭にはほぼ欠かさずいらして下さっています。


続いて、『朝日新聞』さんの宮城版。先週の記事です。 

宮城)女川・21基目「いのちの石碑」 刻む句を募集

016 東日本大震災の津波の記憶を後世に残そうと、女川町内21の浜に「いのちの石碑」の建立を目指す女川中学校の卒業生らが、最後となる21基目の石碑に刻む句を13日の成人式で募集することを決めた。
 取り組むのは2011年春に中学校に入学した生徒たちで、今年成人式を迎える世代だ。中学校の社会科の授業をきっかけに、「千年後の命を守ろう」と町内すべての浜で、津波到達点より高い場所に石碑を建てることを計画。13年11月に第1基を女川中学校前に建立して以来、現在までに17基が完成した。
 21基目は、20年に完成予定の町立女川小・中学校内に同年秋ごろの設置を目指す。これまでの石碑には、震災直後に生徒が詠んだ句の中から一句ずつを選び刻んできた。
集大成となる石碑には、新成人として一堂に会する同級生から募ることで意見がまとまった。石碑の設置場所を示した地図も作り、成人式会場で配布する。
 大崎市の専門学校生勝又愛梨さん(19)は、「募金など多くの人の支えでここまでやってこられた。石碑が一人でも多くの人の命につながるよう、これからも活動を続けたい」と話した。(山本逸生)

このブログでもたびたびご紹介してきた、女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト「いのちの石碑」関連です。

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その女川町の成人式の模様、仙台に本社を置く『河北新報』さん。 

<成人式>夢見る思い未来紡ぐ 県内各地で成人式

017◎いのちの石碑建立の元生徒/教訓の伝承心に刻む・女川

 宮城県内の多くの自治体で13日、成人式が行われた。東日本大震災の被災地では、多くの新成人が、復興が進む古里への貢献を誓った。県によると、今年の対象者は県内で2万4018人。前年と比べ294人増えた。
 女川町の成人式が町生涯学習センターであり、東日本大震災の教訓を記した「いのちの石碑」を町内21の浜に建てる活動に取り組む女川中の卒業生約60人が出席した。今も続くプロジェクトの合言葉は「1000年後の命を守る」。会場で最後となる21基目の石碑に刻む俳句を募り、新成人が自分と古里の未来に思いをはせた。
 今はまだ あの日の夢の 道なかば
 作歌した大学2年の山田太介さん(20)は今、地球物理学を学ぶ。2013年11月に建立された1基目に刻まれた作品「夢だけは 壊せなかった 大震災」は、山田さんが作った。
 鉱物学者を夢見る思いは津波に遭っても揺るがない、との思いを込めた。山田さんは「震災後も夢に向かって勉強を続けてきたことをみんなに会って思い出した。自分は夢の途中にいる」と改めて気付いた。
 学業などが多忙でプロジェクトの集まりにはあまり参加できないが「津波の教訓を伝承していくという思いは変わらない」と話す。
 進んでく あの日のことを 忘れずに
 山下脩(しゅう)さん(20)は今、海上保安官として働く。震災から約8年がたち、古里の風景は様変わりした。
 「昔の街に戻ってほしい思いもあるが、未来に進むためには仕方がない」と語り「震災を心に刻み、これからの人生を歩んでいきたい」と力を込めた。
 プロジェクトは、本年度成人した11年度の入学生が中学の社会科の授業をきっかけに始めた。津波対策を話し合い、石碑の建立を進めてきた。
 後世の町民が津波で命を落とさぬよう、津波到達地点より高い場所に石碑を建立。費用は寄付金などで賄う。完成した石碑には、震災直後に生徒たちが詠んだ句が刻まれている。
 中学卒業後も有志が集まり、活動を続けた。プロジェクトの一環として作った震災の教訓集「女川いのちの教科書」は、この日の式典会場で配布された。
 教科書作りに携わった勝又愛梨さん(19)は「震災で一番つらい時期に支えてくれたメンバーと一緒に成人式を迎えられてうれしい。たくさんの大人に支えてもらったので、私もそんな大人になりたい」と話す。
 震災後、避難所で気丈に振る舞う看護師に憧れ、大崎市の看護学校に通う。「これからも自分のできることで貢献していきたい」と思いを語った。
 石碑はこれまでに17基が建立された。21基目は20年秋に完成する予定。

『毎日新聞』さん。 

「津波の碑に刻む、最後の句を君たちから」女川町、成人式で募る

018 宮城県女川町で、東日本大震災の津波の到達点に「いのちの石碑」を設置する活動を続ける町立女川中の卒業生が13日、同町の成人式に臨み、碑に刻む俳句を会場の同級生に向けて募った。句は、来夏に建立する最後の21基目の碑に刻む予定で、「1000年後の命を守るため、震災を経験し新成人となった今の思いを込めてほしい」と呼び掛けた。
  「いのちの石碑」の活動は、震災時小学6年で、2011年4月に女川一中(現女川中)に入学した生徒たちが、中1の社会の授業をきっかけに「古里のためにできることをしよう」とスタート。20歳になるまでに、町内21地区の津波最高到達点に石碑を建てることを目標とした。
 メンバー67人は自ら募金活動をするなどして約1000万円を集め、現在までに17基の設置が完了した。各碑には、地震発生時には碑より高台へ避難するよう呼び掛ける定型のメッセージと、メンバーが震災を通じて感じたことを表現した俳句を刻んできた。最後の21基目は、来夏に町中心部に完成予定の女川小中一貫校の新校舎の敷地内に設置されることが決まっている。
  メンバー以外から募集するのは初めてで、メンバーが詠んだものも含めて集まった句から選ぶ。この日の式では、出席した新成人一人一人に用紙が配られ、さっそく真剣な表情で句を書き込む新成人もいた。
  活動に取り組む看護学校生の勝又愛梨さん(19)は、「碑を見る人に『生きていることは幸せなんだ』と思ってもらえるような俳句を書きたい」と話す。震災で曽祖父母と2人のいとこが犠牲になったといい「震災で命の大切さを知った。看護師になり、誰かのために行動できる成人になりたい」と決意を新たにしていた。【本橋敦子、百武信幸】


かつて光太郎文学碑の建立に奔走し、あの津波に呑み込まれて亡くなった、女川光太郎の会事務局長であらせられた故・貝(佐々木)廣氏も、喜ばれていることでしょう。

新成人の皆さんの、輝かしい未来に幸多かれ、と存じます。


【折々のことば・光太郎】

青春の爆発といふものは見さかひの無いものだ。若さといふものの一致だけでどんな違つた人達をも融合せしめる。パンの会当時の思出はなつかしい。いつでも微笑を以て思ひ出す。本質のまるで別な人間達が集まつて、よくも語りよくも飲んだものだ。自己の青春で何もかも自分のものにしてしまつてゐたのだ。銘々が自己の内から迸る ( ) 強烈な光で互に照らし合つてゐたのだ。いつ思ひ出しても滑稽なほど無邪気な、燃えさかる性善物語ばかりだ。

散文「パンの会の頃」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

パンの会」は、木下杢太郎、北原白秋、吉井勇などが興した芸術至上主義運動の会。欧米留学から帰った光太郎もすぐに合流し、その若さを爆発させました。

しかし、同じ文章にはこんな一節もあります。

爆発は爆発だ。爆発してしまふと、あとはもつと真摯な問題が目をさます。人生のもつと奥の大事なものが幾層倍の強さで活動し始める。

新成人の皆さんも、爆発だけでなく、「いのちの石碑」に関わってこられた女川の若者たちのように、「真摯な問題」、「人生のもつと奥の大事なもの」に目を向けていっていただきたいものです。

例年同じようなことを書いていますが、早いもので今年も今日一日を残すところとなりました。

このブログ、5月には7年目に突入し(ちなみに今日で2,434日目、1日も休んでおりません)、今月初めには「訪問者数」が20万件を超えました。開設当初は1日の訪問者が20人くらいだったのが、このところ、コンスタントに百数十人くらいの方が閲覧して下さり、ありがたく存じます。訪問者数が多いと、YAHOOさんからTポイントがいただけ、知らぬ間にけっこう貯まります。毎年そうしていますが、今年も寄付に廻させていただきました。

記録の残っている5月以降で、以下に寄付いたしました。


雀の涙ほどではありますが。


寄付といえば、これも例年通り、皆様からいただいた郵便物に貼られていた切手を、公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに寄付いたしました。同会サイト、12月分の寄付団体一覧が大晦日に間に合わないことがあるので、先月、お送りしましたところ、名前を載せていただいております

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来年もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

顔は誰でもごまかせない。顔ほど正直な看板はない。顔を丸出しにして往来を歩いてゐる事であるから、人は一切のごまかしを観念してしまふより外ない。いくら化けたつもりでも化ければ化けるほど、うまく化けたといふ事が見えるだけである。

散文「顔」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

痛烈ですが、そのとおりですね。

同じ文章で、「仙人じみた風貌をしてゐて内心俗つぽい者は、やはり仙人じみてゐて内心俗つぽい顔をしてゐる。がりがりな慾張でゐながら案外人情の厚い者は、やはりがりがりでゐて人情の厚い顔をしてゐる。まじめな熱誠なやうでゐて感情に無理のあるものは、やはり無理のある顔をしてゐる。お山の大将はお山の大将、卑屈は卑屈。争はれない。だから孔子や釈迦や基督の顔がどんなに美しいものであつたかといふ事だけは想像が出来る。」という一節もあります。

孔子や釈迦やキリストのような顔、とは言いませんが、無理があったり卑屈だったりという顔にならぬようにしていきたいものです。

昨4月2日は光太郎忌日ということで、第62回連翹002忌の集いを、例年通り、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで開催いたしました。

それに先立ち、これも例年通りに、参会者を代表して、染井霊園の高村家墓所に参拝。

毎年、当方が行く前に香華を手向けて下さっている方々がいらっしゃり、どなただろうと思っておりましたが、今年はその方々とばったり行き会いました。智恵子の故郷、福島の方が中心になってお声がけ下さって、10名ほどの方々が墓参にいらしていました。ありがたや。

その後、松本楼さんのある日比谷公園へ。例年ですと桜が満開なのですが、今年はもう盛りを過ぎてしまっていました。



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配付資料や受付の準備などをし(太平洋美術会研究所の坂本富江様はじめ、いろいろな方にお手伝いいただきました。ありがとうございました)、午後5時半、開会。

まずは、62年前に亡くなった光太郎本人に、そして、この一年間に亡くなった関係の方々をご紹介し、黙祷。

続いて当会顧問、北川太一先生にご挨拶を賜りました。生前の光太郎をご存じの北川先生、今年に入って白内障の手術をされたそうですし、少しおみ足が弱られていますが、93歳になられてもまだまだお元気です。100歳までは頑張るぞ、と宣言して下さいました。

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その後、献杯。このところ、音頭は光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった故・髙村豊周氏令孫の髙村達氏にお願いしていたのですが、達氏、日本写真家協会の集まりで遅れるとのことで、お姉様の朋美様にお願いしました。

しばしの間、ビュッフェ形式での会食。

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例年行っておりますアトラクション003、今年は、朗読家の山田典子様にお願いいたしました。題して 「智恵子から光太郎さんへ」。昨年の2月に、千葉県柏で山田様がご出演なさった朗読系の演劇公演「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」を拝見・拝聴し、ぜひ連翹忌でも、とお願いしたところ、快く引き受けて下さいました。

柏での公演では、山田様が智恵子に扮して朗読、オペラ歌手・大久保光哉さんが青木省三氏作曲の歌で光太郎役をなさるという構成でしたが、今回の光太郎役は……。

当方、たまたま昨年の連翹忌に和装で臨みましたところ、山田様、それを見てひらめいたそうで……。まぁ、光太郎役といっても、ほぼ座っているだけでしたので、よかったのですが(笑)。

その後、食事を頂きながら恒例のスピーチをお願いしました。

高村光太郎研究会員・西浦基氏。参会の皆様に無料で配布して下さったご著書を紹介していただきました。埼玉県東松山市教育委員会の柳沢知孝氏には、1月にオープンした同市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」のご紹介を。

智恵子の故郷、福島二本松の熊谷健一氏(智恵子のまち夢くらぶ会長)には、11月に開催予定の全国智恵子抄朗読大会の件など。さらに遠く青森十和田からご参加下さった佐藤やえ様、久しぶりにご参加の、碌山美術館理事・仁科惇様にもスピーチをお願いしました。そして、遅れてご到着の髙村達氏。

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さらに『明星』関連で、明星研究会の小清水裕子さん、いわき市立草野心平記念文学館の渡辺芳一氏、山梨県立文学館の伊藤夏穂様、愛知碧南市藤井達吉現代美術館・木元文平館長、碌山美術館・武井敏学芸員。今後、それぞれの会や館で、光太郎にも関わる企画があります。近くなりましたらこのブログにてご紹介いたします。

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トリは、光太郎第二の故郷・岩手花巻高村光太郎記念会事務局長の高橋邦広氏。氏は横笛の達人でもあり、光太郎が暮らした花巻太田地区に伝わる神楽の曲などの演奏を披露して下さいました。

名残は尽きねど、時間となりまして、午後8時、来年以降の再会を約し、お開きとさせていただきました。

今年は新年度最初の月曜日ということで、昨年、一昨年より参会者が減少しましたが、今回初めてご参加下さり、来年以降も必ず来ます、とおっしゃって下さった方もいらっしゃいました。

参加資格はただ一つ、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです。とにかくこの輪を広げてゆきたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。

    高村光太郎死す002

                   草野心平

 アトリエの屋根に雪が。
 ししししししししふりつもり。
 七尺五寸の智恵子さんの裸像がビニールをか
  ぶつて淡い灯をうけ夜は更けます
 フラスコのなかであわだつ酸素。
                   
  《僕もそろそろ死に近づいているね》

    《アダリンを飲もう》
                   

 ガラス窓の曇りをこすると。
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 紺がすりの雪。
 そしてもう。
 それからあとは言葉はなかつた。
 
   「智恵子の裸形をこの世にのこして。
   わたくしはやがて天然の素中に帰ろう。」
 
 裸像のわきのベッドから。
 青い炎の棒になつて高村さんは。
 天然の素中に帰つてゆかれた。
 四月の雪の夜に。
 しんしん冷たい April fool の雪の夜に。





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今日、4月2日は、光太郎忌日「連翹忌」です。

前日から季節外れの大雪に包まれていた62年前の昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分、東京中野のアトリエで、不世出の巨人・高村光太郎は、宿痾の肺結核のため世を去りました。

上記は当会の祖・草野心平が、翌日の『朝日新聞』さんに寄せた詩です。揮毫は当会顧問・北川太一先生の所蔵で、5日に書かれたものです。冒頭の活字の部分は、昭和41年(1966)刊行の心平詩集『マンモスの牙』から採りました。したがって、揮毫と一致していない箇所があります。


さて、繰り返しご案内申し上げていますとおり、本日午后5時30分から、光太郎智恵子ゆかりの老舗西洋料理店・日比谷松本楼さんで、関係の方々にお集まりいただいての「第62回連翹忌」の集いを執り行います。

また、光太郎第二の故郷とも言うべき花巻でも、花巻としての連翹忌等が開催されます。そちらにご参会くださる方々にも、この場を借りて御礼申し上げます。


それぞれ盛会となる事を祈念いたします。

昨日は終戦記念日でした。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手の地方紙『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」で、それにからめて光太郎を紹介して下さいました。

風土計 2017.8.15

 岩手にとって1934(昭和9)年は歴史に刻まれる年だろう。その夏は異常に寒かった。大凶作となって人々は食うに困り、娘は身売りに出された。前年の大津波に続いて、農漁村はみるみる疲弊していく
▼釈迢空(ちょうくう)こと折口信夫が詩「水牢(みずろう)」を世に問うたのは、この年だった。<水牢さ這入つて 観念の目を閉ぢた><娘を売つて-から 水牢だ>。以前に東北の旅を通じて、農民の窮状を目の当たりにしていた
▼飢えは人々の怒りを呼び起こす。青年将校の暴走を生み、政治は軍部を抑えられない。そして戦いへと、ひた走っていく。水責めの牢獄・水牢に社会全体が入り込み、抜け出せなくなる。そんな時代だった
▼戦火の中で折口の養子・春洋(はるみ)も戦死した。<戦ひにはてし我が子のかなしみに、国亡ぶるを おほよそに見つ>。悲憤の歌がいくつも残る。今年で生誕130年の民俗学者はこの時、心の水牢に入り込んだのだろう
▼もう一人、あえて水牢を望んだ人がいる。高村光太郎は終戦後間もなく、花巻の粗末な小屋に入った。戦争賛美の詩を書き続けた自らを罰するために。そして語った。「ぼくは自分から水牢に入るつもりだった」と
▼72年前のきょう8月15日。終戦により人々は水牢から放たれたが、引きずり込まれる者もいた。戦争というものの、それが宿命なのかもしれない。


花巻郊外旧太田村。譲り受けた鉱山の飯場小屋を移築してもらっての「水牢」生活は7年に及びました。それでも許されたとは思っていなかったようですが、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の依頼に応えるために再上京。仕事が終わればまた「水牢」に戻るつもりでした。しかし、健康状態がそれを許しませんでした。10日余り太田村に帰ったものの、結局は東京で療養せざるを得なかったのです。というより、これこそがある意味、天の配剤だったのかも知れません。「もう十分だ」という……。

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村人達との心温まる交流、若い頃から憧れていた自然に包まれての生活など、プラスの面もありましたが、それをさっ引いてもマイナスの要因の多い暮らしでした。小屋は村の一番はずれで、夏は周りを熊がうろつき(現在もです)、冬は零下二十度、寝ている布団にさえ隙間から入り込んだ雪がうっすらと積もったといいます。最初の数年間は電気さえ引いていませんでした。その自虐ともいえる過酷な生活は、戦時中に大量の翼賛詩文を書き殴り、それを読んだ前途有為な多くの若者を死に追いやった反省からくるものでした。公的には戦犯として訴追されなかった光太郎ですが、己を罰するために、あえて不自由な生活、さらに天職と考えていた彫刻の封印を、自らに科したのです。

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まったくもって、こうした世の中が再び訪れないよう、一人一人が考えていかなければならないと、痛切に思いました。


【折々のことば・光太郎】

夜が明けたり日がくれたりして そこら中がにぎやかになり、 家の中は花にうづまり、 何処かの葬式のやうになり、 いつの間にか智恵子が居なくなる。 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。 外は名月といふ月夜らしい。

詩「荒涼たる帰宅」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この年8月に刊行された詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されている詩の末尾です。3年前の智恵子葬儀の日をモチーフにしました。

亡き智恵子を偲ぶ時、「狂瀾怒涛の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。」(「梅酒」 昭和15年=1940)と謳っていた光太郎でしたが、この詩をもって、公表された詩で智恵子を謳うことは、戦後まで途絶えます。

智恵子に思いを馳せる時のみ、強引な言い方ですが人間性を回復できていた光太郎、愛する者の死を謳うことで、愛する者に別れを告げ、同時に詩人としての「魂」も自ら死に追いやったといえます。ここから約4年、上記のような翼賛詩の書き殴りの時期が続きます。

昨日、東京日比谷松本楼様におきまして、61回目となる光太郎の忌日・連翹忌の集いをつつがなく執り行いました。

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会の始まる前、参会の皆様を代表し、駒込染井霊園にある光太郎の(というか高村家の)墓所に参拝。

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どなたがお供えくださったのか、光太郎が大好きだったビール、智恵子の好物だったレモン、色とりどりのお花が。手前のレンギョウは、当方自宅兼事務所に咲く、かつて光太郎が愛した中野アトリエの庭に咲いていたレンギョウから株分けしたものです。

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いつも書いていますが、ソメイヨシノ発祥の地で、見事に咲いていました。

そして日比谷公園に。こちらも見事な桜。

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午後3時頃から準備を始めました。配付資料等の袋詰め、受付などなど、いろいろな方にお手伝いいただき、助かりました。

午後5時30分を回ったところで、開会。最初に光太郎、そしてこの一年に亡くなった関係者の皆様に、黙祷。その後、当会顧問にして生前の光太郎をご存じの、北川太一先生のご挨拶。

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光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった、故・髙村豊周の令孫・達氏にご発声をお願いし、献杯。

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達氏は、お爺さまの豊周の弟子筋に当たり、光太郎作品の鋳造を多く手がけ、やはり人間国宝だった故・斎藤明氏の元から、光太郎ブロンズの代表作「手」の型を受け取ったとのことで、ご持参くださいました。興味深く拝見しました。

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アトラクションは、ともに光太郎智恵子を敬愛する、テルミン奏者・大西ようこ様、朗読家・荒井真澄様による「智恵子抄より」。花を添えてくださいました。

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その後、ビュッフェ形式で料理を堪能しつつ、恒例のスピーチ。

トップバッターは、お父様が光太郎と交流があった、女優の渡辺えりさん。昨年は6月に盛岡の啄木祭、7月に山梨県立文学館さんの「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」の関連行事でそれぞれ光太郎に触れるご講演をなさったり、お父様が光太郎から贈られたサイン入りの『道程 再訂版』(昭和20年=1945)や書簡を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈なさったりということがありました。

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続いて、青森テレビアナウンサーだった川口浩一氏。昨年末に当方も出演させていただいた特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」を作られ、それを最後にご退職なさったそうです。

盛岡からいらした加藤千晴氏。光太郎のいとこ・加藤照さんのご子息です。お母様には昨年お会いさせていただきましたが、満100歳でご健在です。未発表の光太郎書簡情報をご提供くださいました。

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花巻郊外旧太田村で、隠棲中の光太郎をご存じの佐藤定様。当時の思い出と、最近の高村山荘周辺の整備状況などをお話くださいました。

詩人の曽我貢誠氏。曽我氏もご参加くださった、女川光太郎祭、それについて当方が書いた雑文を掲載していただいた文治堂書店さん発行の文芸同人誌『トンボ』などのお話を賜りました。

さらには、福島川内村で、当会の祖・草野心平を偲ぶ「かえる忌」を主催されている井出茂様、いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩様、参加者全員に館報をご寄贈くださった信州安曇野碌山美術館五十嵐久雄館長、太田村の山小屋に隠棲中の光太郎に突撃取材をされた遠藤道子様、高村光太郎研究会の大島裕子様。

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今回初めて連翹忌にご参加いただいた方々にも、スピーチをお願いいたしました。今年2月に、千葉県柏で、朗読と歌曲による公演「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」をなさった山田典子さん。

このブログを通じてお申し込みいただいた方にもスピーチをお願いしました。お友達の方と3名でいらっしゃり、光太郎智恵子、そして北川先生ファンということで、北川先生にお会いでき、感激されていました。

他にもスピーチはいただきませんでしたが、全国から70余名の皆さんにお集まりいただき、盛会となりました。

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名残を惜しみつつ、8時過ぎに閉会。

当日までの準備やら、司会進行やらで、決して楽な仕事ではありませんが、志を同じくする皆様と、いちどきにお会いできる貴重な機会、当方も楽しませていただきました。盛会となったことを、泉下の光太郎も喜んでいることでしょう。

健全な精神で光太郎智恵子を敬愛されている方には、どなたにも門戸を開いており、どんどんネットワークを広げていきたいと考えておりますので、来年以降もよろしくお願いいたします。

今日、4月2日は、光太郎の命日・連翹忌です。今年で61回目となります。

宿痾の肺結核により、光太郎が歿したのが、昭和31年(1956)の今日、午前3時45分。結局、終の棲家となった中野のアトリエでのことでした。昨日も書きましたが、前日から東京は季節外れの雪でした。

葬儀は4月4日、青山斎場で執り行われました。彫刻家光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む一帯の設計を担当した建築家・谷口吉郎の意匠になる祭壇に棺が置かれ、その上にはコップに挿した連翹の一枝。これは中野のアトリエの庭に咲いていた生前の光太郎が好きだった花で、アトリエの家主だった故・中西富江さんの回想に記されています。遺影は光太郎の令甥・故髙村規氏の撮影したものです。焼き増しした同じ写真を、現在も使わせていただいています。

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葬儀委員長は武者小路実篤。武者の他に梅原龍三郎、石井鶴三、尾崎喜八、そして草野心平が弔辞を読みました。


そして、一年後の昭和32年(1957)には第一回連翹忌。会場は光太郎が亡くなった中野のアトリエで、リンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席会場だったそうですが、50人ほどが集まり、光太郎を偲んだそうです。「連翹忌」の名付け親は、発起人だった佐藤春夫や草野心平でした。

以後、途切れることなく連翹忌は連綿と続き、平成11年(1999)から日比谷松本楼さんに会場が落ち着いて、今日に至っています。日比谷松本楼さんは、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、名物の氷菓(アイスクリーム)を食べたり、光太郎も参加した「パンの会」が開かれたりしたゆかりの西洋料理店です。

今年の参加者は、予定では73名。61回目となっても、未だに生前の光太郎をご存じの方がいらっしゃってくださり、ありがたい限りです。当会顧問の北川太一先生、戦後の7年間を隠棲していた花巻郊外旧太田村の方々、その太田村の山小屋に光太郎を突撃訪問したという、その頃女学生だった方、赤ん坊の頃、光太郎の膝の上に乗ったという血縁の方などなど。

それから、光太郎と交流のあった人物ゆかりの方々も多くご参加くださいます。お父様が光太郎と交流があった、女優の渡辺えりさんも、2年ぶりのご参加。スピーチをお願いしておきました。

さらに、今年はこのブログでしつこく宣伝した甲斐があったようで、ネットを通じて初のお申し込みをいただいた方が、5名ばかりいらっしゃいます。健全な精神で光太郎智恵子を敬愛されている方には、どなたにも門戸を開いており、どんどんネットワークを広げていきたいと考えておりますので、ありがたいところです。


また、光太郎第二の故郷とも言うべき花巻でも、花巻としての連翹忌等が開催されます。そちらにご参会くださる方々にも、この場を借りて御礼申し上げます。


それぞれ盛会となる事を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】019

ソクラテスが死ぬ時、何といつた。 鶏一羽が彼の生涯の急回転。 又人生批評のくさび。 偉大なるものが何処にあるかときかれたら、 あの見すぼらしい電信柱を指ささう。

詩「偉大なるもの」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

哲学者ソクラテスの有名な遺言、「クリトン、アスクレピオスに鶏を一羽おそなえしなければならなかった。その責を果たしてくれ。きっと忘れないように。」を下敷きにしています。

61年前の今日、亡くなった光太郎。その最後の言葉は不詳ですが、亡くなる3日前、草野心平が持参した心平編集になる、写真をふんだんに使った光太郎の伝記的書籍『日本文学アルバム 高村光太郎』(筑摩書房)のゲラを確認し、「That's the endか。人の一生なんか妙なもんだな」と言ったそうです。迫り来る死を冷静に受け止めたその一言、見事といえば見事ですね。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第61回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。
 

第61回連翹忌御案内


                                       
日 時  平成29年4月2日(日
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)

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第61回連翹忌へのお誘い                       
                                        
 もう新しい連翹忌の季節がまいりました。このところ世界中で生まれて初めてのような出来事が毎日のように続きますので、余計そんな気がするのでしょうか。考えて見ますと、高村さんと一緒に生きてきた昭和の初めから三十年代まで、いつも同じような時代が続いていたような気がします。
 
 そんな歴史が急に逆転の速度を速めてきたように見える時こそ、改めて高村さんの生涯を考え、世界の今日と明日、御近況のあれこれなどをお話し合いいただければ、どんなに力強く、意味深いことかと存じます。
 
 運営委員会からのさまざまな御報告や、たのしい催しものも用意してあります。
 
 今年の連翹忌は日曜日にあたりますが、いつものように日比谷公園松本楼の階上でお待ちしております。

連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて002

会費を下記の方法にて3月22日(水)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、事前にお申し込み下さい。
〒287-0041 千葉県香取市玉造3-5-13 高村光太郎連翹忌運営委員会


今年の連翹忌は日曜日です。来年以降、しばらく平日となります。「年度はじめの平日では無理」という方、この機会をお見逃しなく。

過去4年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

忘れかけてゐた日の光が、窓かけを明けると、まばゆい強さに、 斜めに幅びろに機嫌よく流れ込んで、 白いシイツにつきあたる。 手にうけて握りたいほど、 活発に飛びはねるまるで生きものだ。

詩「かがやく朝」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

「光の春」と称される2月も気がつけば後半です。「一陽来復」と言うには少し遅くなりました。朝の日の光も日に日に力強さを増しています。それを「手にうけて握りたい」と、触覚でとらえようとするあたり、彫刻家としての鋭敏な感覚が表されています。

そして春たけなわの頃には連翹忌。ご参加をお待ち申し上げております。

昨日の『朝日新聞』さんに載った一面コラム「天声人語」。  

天声人語

戦前の昭和恐慌のころを描いたのだろう。詩人の吉田嘉七(かしち)が「銀行は倒産し……」と書き出している作品がある。「月給が下がったと言う 物が売れないのだと言う……大人達(たち)の暗い表情が 暗い街に溢(あふ)れた」。局面を変えたのが、大陸での戦火だった▼1931年の満州事変である。「物がぼつぼつ上(あが)り出し 景気が良くなって来たらしい」。軍事費が増えたおかげだろうか。「戦争が始(はじま)って良かったね」という大人たちのつぶやきが、中学生である自分たちの耳にも入った。「やがて戦争で殺されるぼくらの」耳に▼古山高麗雄(こまお)の「日本好戦詩集」から孫引きさせてもらった。戦争は望まれずに始まったわけではないと、改めて気付く。倒産や失業にあえぐ世には、朗報でもあったと▼満州の戦火から日中戦争へ。さらに米英との戦争が始まると、別の熱狂があった。41年の真珠湾攻撃の日のことを、彫刻家で詩人の高村光太郎が感激して書いている。「世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである」(「十二月八日の記」)▼同じアジアの中国に刃を向けることの後ろめたさが、知識人にはあったとも言われる。世界を牛耳る米英に挑戦するという大義名分は彼らの心に響いたのか▼先の戦争がいかに悲惨だったかを語り継ぐ。それだけでなく戦争がうれしいものと受け止められたことも記憶したい。戦争は上から降ってくるのではなく、ときに私たちの足もとからわき出てくるものだから。


昭和13年(1938)、最愛の妻・智恵子は粟粒性肺結核により、千数百点の紙絵を遺し、この世を去りました。最後の7年間は心の病が顕在化してもいました。

智恵子の心の病を引き起こした大きな要因の一つが、世間との交わりを極力絶ち、芸術に精進しようとする自分たちの生活態度にあったのではないかと、光太郎は考えます。また、智恵子亡き後もそういう生活を続けることで、自分もおかしくなってしまうかもしれない、という危惧を抱いたかも知れません。結果、光太郎は智恵子が亡くなる少し前くらいから、積極的に世の中と関わろうという姿勢を明確にします。

奇しくもその世の中の流れもまた、大きな転換点を迎えていました。智恵子の心の病が顕在化した昭和6年(1931)満州事変勃発、智恵子が自殺未遂を図った同7年(1932)五・一五事件及び傀儡国家の満州国建国、同8年(1933)日本の国際連盟脱退及びドイツではヒトラー政権樹立、同11年(1936)二・二六事件、同12年(1937)日中戦争勃発、智恵子が亡くなった同13年(1938)国家総動員法施行、光太郎が智恵子の最期を謳った絶唱「レモン哀歌」が書かれた同14年(1939)第二次世界大戦開戦、同15年(1940)日独伊三国同盟締結、大政翼賛会結成、そして詩集『智恵子抄』が刊行された同16年(1941)太平洋戦争開戦……。

71年前の今日、終戦を迎えるまでに、光太郎は、『大いなる日に』(同17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)と、立て続けに三冊の翼賛詩集を上梓。そこに収められなかった詩篇を含め、実に200篇弱の翼賛詩を光太郎は執筆しました。それらは新聞、雑誌、各種のアンソロジー、そしてラジオの電波に乗って、国民の元に届けられました。

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終戦後、それらの翼賛詩に鼓舞された、多くの前途有為の若者が散っていったことを悔い、東京を焼け出され、岩手花巻に疎開していた光太郎は、さらに花巻の郊外・太田村の山小屋(高村山荘)に入り、7年間の蟄居生活を送ります。

当初は若い頃から抱いていた、自然に囲まれての生活の実現、さらに彼の地に日本最高の文化村を作る、といった無邪気な夢想とも云える考えがありましたが、厳しい自然、そして自らの戦争責任への省察が、山小屋生活の意味を変容させます。すなわち「自己流謫」。「流謫」=「流罪」です。

外界と隔てるものは粗壁と障子一枚、冬は万年筆のインクも凍り付き、寝ている布団にすき間か舞い込んだ雪がうっすらと積もる生活。前半の3年あまりは電気も通っていませんでした。

しかし、いくら山間僻地の村はずれとはいえ、まがりなりにも人が住んでいる村です。そこに住まっているだけでは「流罪」とはいえません。そこで、光太郎は考え得る限りの罰を自らに科します。すなわち、「私は何を措いても彫刻家である」と認識していた、その彫刻の封印です。

その封印を解いたのは、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作にともなってのこと。おそらく智恵子と同根の結核に冒されていた光太郎は、もはや自らの死期が近いこともわかっていたのでしょう。

亡き智恵子への、世の中への、そして自らへの、それまでの様々な思いが全て結晶し、「乙女の像」は光太郎最後の大作として、十和田湖に立てられ、その2年半後に、光太郎もその生の歩みを終えるのです。

時代に翻弄された一人の芸術家の生の軌跡。この節目の日にもう一度、かみしめたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

くにをおもひきはむる心おのづから世界国家といふにつながる

昭和24年(1949) 光太郎67歳

戦後の花巻郊外太田村での作です。罪深き自らの来し方と、そして未来まで、やはり罪深きこの国そのものと重ね合わせ、これぞまさしくグローバルな視点を得ていたことが見て取れます。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第60回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。 

第60回連翹忌御案内

                                        
日 時  平成28年4月2日(土
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)


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第60回連翹忌へのお誘い

 高村光太郎さんを偲ぶ連翹忌も、新しい運営委員会の方々におまかせしてから、瞬く間に10年目が来ようとしています。有能で機動力に富むその絶え間ない努力によって、未知の資料の発掘や回想の集積は、全集に増補の巻を加えなければならないほど充実して来ています。

 戦後高村さんが辿った歴史の歯車が逆転しそうなこんな時期こそ、親しくお目にかかり、お話をお聞きし、今やこれからの沢山の報告もお聞きいただきたく存じます。例年のように楽しい催しもいろいろ用意されるでしょう。

 是非、いつもの日比谷松本楼の一夜にお出かけ下さいますよう、お誘いいたします。

連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(火)002までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。

口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明


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今年は光太郎没後60年の節目の年です。また、閏年の関係で、4/2は土曜日となっています。例年「年度はじめの平日では無理」という方も、ぜひご参加下さい。

過去3年間の様子はこちら。



【折々の歌と句・光太郎】

もちくさをくさもちにして箱につめたのしきものか友のくる日は
大正14年(1925) 光太郎43歳

4月2日の連翹忌にて、志を同じうする全国の皆様とお会いできることを楽しみにしております。

昨日は終戦記念日でした。戦後70年ということもあり、各メディアでは例年より多く、戦争について特集を組んだりしています。こうした動きが一時のことで終わらず、継続されてほしいものです。この国が二度と戦争に荷担することの無いようにするためにも。

さて、それに伴い、光太郎の名も新聞各紙に引用されています。少し前には仙台に本社を置く地方紙、『河北新報』さんで「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」という記事を載せて下さいました。

また、『毎日新聞』さんには、8月13日に以下の記事が載りました。

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「銃後のくらし:戦後70年/4 婦人標準服 「興亜の精神」美しさ消え」という記事です。長いので全文は引用しませんが、戦時中の物資欠乏を受け考案された「婦人標準服」について書かれています。

和服は非常時に動きにくいし、贅沢。洋服も「米英の模倣」と敵視され、そこで考え出されたのが和服でもなく洋服でもない「婦人標準服」。布地の節約のため、着物を仕立て直した洋服タイプの「甲型」、和服タイプの「乙型」、もんぺ・スラックスの「活動衣」の3種類が推奨されたそうですが、このうちの「甲型」の評判はさんざんだったそうです。曰く「「洋服と和服のちゃんぽんで、格好悪かった。両方の美しさを消す服だった」。着物専門学校「清水学園」(東京都渋谷区)理事長の清水ときさん(91)は眉をひそめた。」。

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記事ではここで光太郎に言及されます。

彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)は「家庭週報」(43年6月)への寄稿で、「新しい美を此(こ)の服式から創出し得る」とし、標準服を持ち上げている。

調べてみると、「服飾について」という散文でした。問題の箇所は以下の通り。

 一切の美の根源は「必要」にある。いかなるものが美かと考へる前に、いかなるものが必要かと考へる方が早いし確実である。今日の戦時生活にはモンペ短袖は必要である。それ故モンペ短袖は必ず美であり得る。昨日の美を標準とする眼を新にすれば、目がさめたやうに新しい美を創り出すことができる。又平常服としての女子標準服も資材の節約上必要である。それ故此の標準服も美であり得る。強い魅力を持つ新しい美を此の服式の範疇から創出し得る。

こういう部分でもプロパガンダとして光太郎が期待された役割、果たした役割は大きかったと思います。しかし「創出し得る」ということは「まだ創出されていない」ということではありますが、それにしても上記の画像を見て、ここから「美」が創出できるとは思えませんが……。


もう1件、『毎日新聞』さんでは今日の読書面に光太郎がらみの記事が載りました。文芸評論家の加藤典洋氏による「今週の本棚・この3冊:終戦」の中に、吉本隆明の『高村光太郎』が紹介されています。  

今週の本棚・この3冊:終戦 加藤典洋・選

<1>太宰治全集8(太宰治著/ちくま文庫/1188円)
<2>高村光太郎(吉本隆明著/講談社文芸文庫/品切れ)
<3>戦時期日本の精神史 1931〜1945年(鶴見俊輔著/岩波現代文庫/1274円)
 終戦、またの名を敗戦。それは戦争の終わりであり、同時に、戦後のはじまりでもある。

 終戦前後を描く白眉(はくび)の短編は、<1>所収の「薄明」だ。空襲で甲府まで逃げる途中、幼い娘が眼病で目が見えなくなる。そして数日。猛烈な空襲の後、ようやく、娘の目があく。小説家の父親が家の焼け跡を見せに連れていく。「ね、お家が焼けちゃったろう?」「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している、と小説家は書いている。私には、これが八月一五日をはさんで、一時的に失明した女の子が、戦後のはじまりに回復し、ほほえむ小説として読めた。『敗戦後論』に引いたが、もっとも美しい「戦争の終わり」と「戦後のはじまり」を描く短編だと今も考えている。<1>全体は太宰治の敗戦直後の作品を集めた一冊。収録の短編はどれもこれもすばらしい。

 戦後、誰もが戦時中に間違わないで正しい振る舞いをした人について書いたとき、例外的に間違いに間違った人を取りあげ、なぜこの人を自分は信じるに足る人として読み続けたのかと、自分の誤りをみつめて書いたのが<2>。そのなかの章「敗戦期」で、著者吉本隆明は敗戦直後、尊敬する高村光太郎が、早くも、精神の武器を手に立ち上がろう、と希望のコトバを口にするのを見て、その立ち直りの早さに、はじめて違和感をおぼえた、と書いている。それが彼のただひとりで歩む戦後の起点となる。吉本は、自分は皇国少年で、間違った、と述べ、戦後そのことを足場に考えた絶対的少数派だった。

 <3>は戦時期の日本について、戦後のことを何一つ知らない外国の学生に英語で講義したものを、著者がその後、日本語で口述してなった。戦争と日本人についてもっともコンパクトな見取り図がえられる。その一章「戦争の終り」では、終戦の日の天皇の玉音放送を聞く日本人に対する当時軽井沢に軟禁されていたフランス人ジャーナリスト、ロベール・ギランの観察が取りあげられている。放送が終わると、人びとは感情を押し殺すように押し黙り、姿を隠した。ギランを驚かせたのは、これまで降伏よりは死を選ぶ覚悟をもっていた日本人が、「いまや天皇とともに回れ右をし」、「翌日から」、自分やほかの白人たちに「明るい笑みを見せて挨拶(あいさつ)したこと」だった。

 私は、この鶴見俊輔の講義をカナダで贋(にせ)学生として聞いた。戦後七〇年もたてば無理もないが、みんな退場する。そしてコトバが残る


講談社現代文庫版の単行書『高村光太郎』として取り上げられていますが、昨年刊行された『吉本隆明全集5[1957‐1959]』に件の論考が収められています。

高村光太郎が、早くも、精神の武器を手に立ち上がろう、と希望のコトバを口にする」は、昭和20年(1945)、終戦の2日後に発表された詩「一億の号泣」に典拠します。詩の終末部分の「鋼鉄の武器を失へる時/ 精神の武器おのずから強からんとす/真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ/必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん」です。

戦時の光太郎の詩文を注意深く読むと、「鋼鉄の武器」で鬼畜米英を殲滅せよ、というようなジェノサイド的発言はほとんどなく、「精神の武器」で闘おう、といった内容が多く見られます。そういう意味では吉本の指摘のように、敗戦直後に突如としてそういう方向に行ったわけではありません。しかし、当時、全ての光太郎詩文をチェックしていたわけでもない吉本にとってこの発言は違和感を覚えるものだったのでしょう。

リアルタイムを生きた吉本の論考、この際に改めて読み解くべきかと思います。

「一億の号泣」については、70年前にそれが掲載された『岩手日報』さんでも、昨日の一面コラムにて取り上げて下さいました。

風土計 2015.8.15

「綸言(りんげん)一たび出でて一億号泣す。/昭和二十年八月十五日正午、」という書き出しの詩が1945年8月17日付の本紙に載った▼作者は、花巻に疎開していた高村光太郎。玉音放送を聞くために神社に出掛け、天皇の声に接した。国防色の粗末な服を身にまとい、両手を畳の上について聞き終わった後は、無言で静かに立ったという。失意の姿が目に浮かぶ▼太平洋戦争開戦を詠んだ作品もある。「記憶せよ、十二月八日。/この日世界の歴史あらたまる。/アングロ・サクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる。」と始まる。戦争の大義を信じて高揚した思いが伝わる▼光太郎には他にも戦争をうたった詩が数々ある。鼓舞するような内容だ。そんな姿勢に対して戦後、批判が相次いだ。本人は山小屋で独居自炊の生活を送りながら、戦争に協力したことと向き合ったという▼自己責任を問うことを避けた文学者は多くいる。そんな中、戦時中の言動を批判されても「自己を弁護するようなことはせず、正面からそれを受け止めた」(岡田年正著「大東亜戦争と高村光太郎」)姿勢は、評価されていいのではないか▼8月15日の敗戦の日は言論界に深く刻印された。もちろんジャーナリズムにおいても。反省を踏まえて新たに出発した日の決意を忘れてはなるまい。


やはりリアルタイムを生きた光太郎の詩文も、この際に改めて読み解くべきかと思います。

最初にも書きましたが、各メディアでは例年より多く、戦争について特集を組んだりしています。こうした動きが一時のことで終わらず、継続されてほしいものです。ただ、散見されるのですが、それを美化につなげようとしたり、一種の「戦後70年ブーム」に乗り遅れまいと、とんちんかんな引用をしたお粗末な作りだったりでは困るのですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月16日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、詩「蒋先生に慙謝す」の執筆に取り組みました。

当日の日記の一節です。

午后詩「蒋先生に慙謝す」書きかける。

「蒋先生」は蒋介石。その激しい抗日思想に対し、戦時中の昭和17年(1942)には「沈思せよ蒋先生」という詩を書いた光太郎。戦後になって、それと対を為す詩篇として作りました。しかし、なかなか書き上がらず、結局、完成したのは9月30日でした。

    蒋先生に慙謝す
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わたくしは曾て先生に一詩を献じた。
真珠湾の日から程ないころ、
平和をはやく取りもどす為には
先生のねばり強い抗日思想が
厳のやうに道をふさいでゐたからだ。
愚かなわたくしは気づかなかつた。
先生の抗日思想の源が
日本の侵略そのものにあるといふことに。
気づかなかつたとも言へないが、
国内に満ちる驕慢の気に
わたくしまでが眼を掩はれ、
満州国の傀儡をいつしらず
心に狎れて是認してゐた。
人口上の自然現象と見るやうな
勝手な見方に麻痺してゐた。

天皇の名に於いて
強引に軍が始めた東亜経営の夢は
つひに多くの自他国民の血を犠牲にし、
あらゆる文化をふみにじり、
さうしてまことに当然ながら
国力つきて破れ果てた。
侵略軍はみじめに引揚げ、
国内は人心すさんで倫理を失ひ、
民族の野蛮性を世界の前にさらけ出した。
先生の国の内ではたらいた
わが同胞の暴虐むざんな行動を
仔細に知つて驚きあきれ、
わたくしは言葉も無いほど慙ぢおそれた。
日本降伏のあした、
天下に暴を戒められた先生に
面の向けやうもないのである。

わたくしの暗愚は測り知られず、
せまい国内の伝統の力に
盲目の信をかけるのみか、
ただ小児のやうに一を守つて、
心理を索める人類の深い悩みを顧みず、
世界に渦まく思想の轟音にも耳を蒙(つつ)んだ。
事理の究極を押へてゆるがぬ
先生の根づよい自信を洞察せず、
言をほしいままにして詩を献じた。
今わたくしはさういふ自分に自分で愕く。
けちな善意は大局に及ばず、
せまい直言は喜劇に類した。
わたくしは唯心を傾けて先生に慙謝し、
自分の醜を天日の下に曝すほかない。


先頃発表された、主語のない「談話」などよりも、ぐっと来るものがありますね。

昨日、宮城県石巻圏の地方紙『石巻かほく』さんで、先日の第24回女川光太郎祭について報じて下さいました。

女川でしのぶ会 光太郎と戦争協力詩、文芸評論家・北川氏語る

 三陸紀行で女川町を訪れた詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第24回光太郎祭(女川・光太郎の会主催)が9日、同町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」であった。

 文芸評論家で高村光太郎記念会の北川太一事務局長が、光太郎の作品や妻智恵子へ抱いた思いについて講演。

 戦争協力の詩文を作った過ちを敗戦後に探ろうと記した、連作詩「暗愚小伝」に関しては、「光太郎は何と愚かなことをしたのかと顧みている。遺書のような詩である」と述べた。

 参加者は、光太郎が女川を訪れた際に残した紀行文や、女川を題材にした「よしきり鮫(ざめ)」などの詩を朗読し、当時の情景に思いをはせた。

 祭りは光太郎が1931年8月9日、三陸への旅に出発した日付にちなみ、92年に初めて開催された。

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記事にある「暗愚小伝」は、昭和22年(1947)、花巻郊外太田村の山小屋で一人蟄居生活を送りながら、それまでの自らの来し方を20篇の詩に綴った連作詩です。それを書いた最大の目的は、やはり自らの戦争帰任の省察です。

帝室技芸員に任ぜられ、御前彫刻を拝命した光雲の皇国史観の支配する家庭で育った幼少時、この国の卑小さに絶望した青年期、それと交流を絶って、芸術三昧の日々を送った智恵子との生活。そして智恵子を亡くし、どうしようもない虚脱感に捕らわれた自己。

私は精根をつかひ果し、
がらんどうな月日の流の中に、000
死んだ智恵子をうつつに求めた。
(略)
私はひとりアトリエにゐて、
裏打の無い唐紙のやうに
いつ破れるか知れない気がした。
いつでもからだのどこかにほら穴があり、
精神のバランスに無理があつた。
私は斗酒なほ辞せずであるが、
空虚をうづめる酒はない。
妙にふらふら巷をあるき、
乞はれるままに本を編んだり、
変な方角の詩を書いたり、
アメリカ屋のトンカツを発見したり、
十銭の甘らつきようをかじつたり、
隠亡(おんぼ)と遊んだりした
(「おそろしい空虚」より)

そして智恵子を狂わせ、死に至らしめたのは、社会との交流を絶った生活だったとし、その反省から、一転して積極的に世の中に関わろうとします。その世の中がどんどん戦時へと突き進んでいく時期だったのが、大きな悲劇でした。

智恵子と私とただ二人で001
人に知られぬ生活を戦ひつつ
都会のまんなかに蟄居した。
二人で築いた夢のかずかずは
みんな内の世界のものばかり。
検討するのも内部生命
蓄積するのも内部財宝。
(「蟄居」より)

協力会議といふものができて
民意を上通するといふ。
かねて尊敬してゐた人が来て
或夜国情の非をつぶさに語り、
私に委員になれといふ、
だしぬけを驚いてゐる世代でない。
民意が上通できるなら、
上通したいことは山ほどある。
結局私は委員になつた。
(「協力会議」より)

軍部や大政翼賛会は、光太郎の文才や社会的影響力をいいように利用します。光太郎自身も、人心を荒廃から救うため、積極的にプロパガンダに没入していきます。

宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキに かけられ、
咋日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。003
ただこの一語が
私の一切を決定した。
(略)
陛下をまもらう。
詩をすてて詩を書かう。
記録を書かう。
同胞の荒廃を出来れば防がう。
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただしんけんにさう思ひつめた。
(「真珠湾の日」より)


しかし、そうして書いた大量の空虚な翼賛詩篇を読んで、多くの前途有為な若者が散華していきました。



構想段階では、「暗愚小伝には」次の断片が入っていました。


  わが詩をよみて人死に就けり007

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。


そして「終戦」。


   終戦009

すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、

人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わづかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の眼からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も014
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。


「暗愚小伝」最後を飾るのはは「山林」という詩です。文字通り、花巻郊外太田村の山林における現在の自分の心境です。こんな一節があります。

おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の非難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。

光太郎は公的には戦犯として断罪されることはありませんでした。しかし、自らの罪は自ら罰する、というわけで、7年間にわたる不自由な山小屋暮らし、さらに彫刻封印という厳罰を科したのです。


「何と愚かなことをしたのかと顧みている。遺書のような詩である」という、当会顧問・北川太一先生のお言葉がうなずけます。
015
今日は70回目の終戦記念日。直接、戦争を知る方々は次第に減り、その負の記憶はどんどん薄れています。あまっさえ、それを美化し、もう一度この国をおかしな方向へ持って行こうとする動きも顕著です。こうした時代にこそ、光太郎の精神に学ぶべきではないかと、切に思います。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月15日

昭和46年(1971)の今日、現代書館から詩人の村田正夫による評論集『戦争●詩●批評』が刊行されました。

上記の翼賛詩篇や「暗愚小伝」にからめ、光太郎についても考察が為されています。

当方の住む関東地方も、今週初めに梅雨入りいたしました。当方自宅兼事務所の紫陽花です。

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もともと梅の実が熟する頃、というわけで「梅雨」の時が当てられたものです。「梅」といえば「智恵子抄」に収められた「梅酒」。「智恵子抄」の中で、この詩が一番好き、という方も多いようです。

  梅酒
 
死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、007
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。

画像は以前にいただいた、イラストレーター・河合美穂さんの作品です。


「梅酒」を今日の『山陽新聞』さんの一面コラムで取り上げて下さいました。

滴一滴

店頭に青梅が出回っている。梅酒づくりの季節である。梅干しは難しくて…という人でも手軽にできることからファンは多い。工夫次第でわが家だけの味が楽しめるのも魅力だ▼氷砂糖の代わりに蜂蜜や黒糖を使ってもいい。無色透明の焼酎ではなく、香りのいいブランデーやウイスキーを入れるという人もいる。青梅の時季は短いが、黄色く熟した梅を使っても独特の風味に仕上がるという▼高村光太郎の詩「梅酒」を思い出す。<死んだ智恵子が造っておいた瓶の梅酒は十年の重みにどんより澱(よど)んで光を葆(つつ)み、いま琥(こ)珀(はく)の杯に凝って玉のようだ>(「智恵子抄」から)▼精神を病む前の最愛の妻が、この世に遺(のこ)していった。早春の夜更けの寒い時に召し上がってくださいと。その梅酒を光太郎は台所の片隅に見つけ、ひとり、しずかにしずかに飲む。その味わいは<狂瀾(きょうらん)怒(ど)濤(とう)の世界の叫もこの一瞬を犯しがたい>▼生涯のほぼ半分を結核と闘った俳人・石田波郷には、こんな作品がある。<わが死後へわが飲む梅酒遺したし>。呼吸をするのも苦しかった没年の作という▼きょうは「入梅」。立春から数えて135日目に当たり、青梅の収穫もピークを迎える。梅酒は法律に基づいて自宅でつくり、自ら楽しむことができる身近なお酒だ。甘酸っぱいその味は、時に人生の深い一滴も含んでいる。


「梅酒」が書かれたのは昭和15年(1940)。前年にはドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。日中戦争は既に泥沼化し、日独伊三国同盟が締結され、翌年には太平洋戦争が始まる、そんな時期です。

そういう世相が「狂瀾怒涛の世界の叫」と表されています。しかし、それも智恵子の遺した梅酒を静かに味わう感懐には無縁、と謳っています。

かなり前の作品ですが、昭和7年(1932)の詩「もう一つの自転するもの」でも、同じような内容を謳っています。

  もう一つの自転するもの008

春の雨に半分ぬれた朝の新聞が
すこし重たく手にのつて
この世の字劃をずたずたにしてゐる

世界の鉄と火薬とそのうしろの巨大なものとが
もう一度やみ難い方向に向いてゆくのを
すこし油のにじんだ活字が教へる
とどめ得ない大地の運行
べつたり新聞について来た桜の花びらを私ははじく
もう一つの大地が私の内側に自転する


画像は岩手県奥州市の人首文庫さんからいただいた、掲載誌『文学表現』に送られた草稿のコピーです。

しかし、「もう一つの大地が私の内側に自転する 」「狂瀾怒濤の世界の叫も/ この一瞬を犯しがたい。」という状態は長く続きませんでした。

その結果、どうなって行くのか、以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月11日

昭和36年(1961)の今日、山形県酒田市の本間美術館で開催されていた「高村光太郎の芸術」展が閉幕しました。

光太郎展としてはかなり早い段階のものです。

今日、12月10日は「世界人権デー」だそうです。悲惨な第二次世界大戦が終わった後、昭和23年(1948)に開催された第3回国連総会で、「世界人権宣言」が採択された日にちなむとのこと。さらに日本ではそれに先立つ12月4日から10日までを「人権週間」と位置づけています。
 
このブログで何度かご紹介した、兵庫県人権啓発協会さん作成の「ほんとの空」というドラマがあります。光太郎の詩「あどけない話」にからめ、福島の原発事故による風評差別などを扱ったもので、昨年度、人権啓発資料法務大臣表彰映像作品部門優秀賞を受賞した作品です。
 
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各地の自治体や学校さんで上映会が開かれたり、地方のテレビ局さんで放映されたりしています。最近、単発の場合はこのブログでもご紹介していませんでしたが、この前の日曜日、12月7日には制作もとの兵庫県の地方局、サンテレビさんが放映して下さいました。それを御覧になった兵庫の方のブログに、感想が綴られています。この方は、最初からこのドラマを御覧になるつもりではなく、勘違いしてチャンネルを合わせたのだそうですが、ひきこまれてしまったそうです。
 
「自分でも気がつかないうちに、なんとなく人の話に流されたり、先入観や偏見から本当のことを調べもしないで人を傷つけてしまったり…といった内容でした。(略)なんか、すごくいいドラマを 何が始まるのかわからないまま見てしまって、もう涙がポロポロ出てきて、涙が出たら当然 鼻水も出るので鼻もかみながらで、突然の号泣ドラマ鑑賞となってしまいました。」
 
また、同じ兵庫県では、12月1日に開催された「阪神淡路20年―1.17 は忘れない―平成26年度人権のつどい」の中でも上映して下さいました。
 
ちなみに、ドラマ「ほんとの空」の制作地がなぜ兵庫県?と思っていましたが、上記人権のつどいの「趣旨」を見て、何となく納得できました。阪神淡路大震災の経験から、同じく震災に見舞われた東北、特にいわれのない風評差別に苦しむ福島県へのエールという意味なのだと思います。
 
東日本大震災からの復旧復興の過程で、人と人のつながりの大切さが改めて認識されています。来年1月17 日で阪神・淡路大震災から20年を迎えるこの時期に、その大切さと共に「人権週間」の意義を顧み、一人ひとりが互いに尊重され、共に生きる「共生社会」の実現に向けた人権意識の普及高揚を図る「人権のつどい」を、阪神淡路20年事業として開催します。
 
以前も書きましたが、ドラマ「ほんとの空」、全国ネットでの放映を期待します(当方はまだ観たことがありません)。広く人権問題を考えるきっかけにしてほしいものです。
 
 
しかし、逆に人権無視のヘイトスピーカーが跳梁跋扈するのもこの時期だというのが、情けないところです。12月8日が太平洋戦争開戦の日(『開戦記念日』という表記を見かけますが、記念してどうするのでしょうか?)だということで、「大東亜戦争は聖戦だった」とするヘイトスピーカーたちが世迷い言を垂れ流します。
 
そして、この時期と、8月の終戦記念日前後には、ヘイトスピーカーの中ににわか光太郎ファンが続出し、光太郎の戦争詩「十二月八日」(昭和16年=1941)や「鮮明な冬」(同17年=1942)などを持ち出して、「これぞ大和魂」と持ち上げるのです。
 
光太郎は全詩作のおよそ4分の1、約200篇の戦争詩を書きました。散文でも時局に協力するものがたくさんあります。しかし、戦後になって、そうした作品を読んで散っていった前途有為な若者の多かったことに心を痛め、自らを断罪する意味で足かけ8年にわたる蟄居生活を、岩手花巻郊外の寒村に送りました。
 
そうした経緯も知らず、または知りながら無視し、戦争詩のみをもてはやすのはやめて欲しいと思います。
 
下記は今年1月に発表された、ジャーナリスト・江川紹子氏の文章「国内問題として首相の靖国参拝を考える」からの抜粋です。
 
靖国神社の価値観は、この遊就館で上映されている映画を見ると分かりやすい。次のようなことが語られている。
日本は満州に「五族協和の王道楽土」を築こうとし、軍事行動を慎んでいたのに、中国の「過激な排日運動」や「テロ」「不当な攻撃」のために、やむなく「支那事変」に至った。そして、「日本民族の息の根を止めようとするアメリカ」に対する「自存自衛の戦い」としての「大東亜戦争」があった。この日本の戦いは、白人たちの植民地支配を受けていた「アジアの国々に勇気と希望を与えた」…。
昭和の初めから戦時中にかけての政府・軍部の宣伝そのものだ。靖国神社では、先の大戦は今なお聖戦扱い。まるで時間が止まったように、戦前の価値観が支配している。
太平洋戦争においては、日本兵の多くが餓死・病死した。その数は死者の6割に上る、との指摘もある。だが、そうした武勇にそぐわない事実や戦争指導者の責任は、ここでは一切無視されている。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓のために、捕虜になって生還することができず、民間人まで「自決」せざるを得なかった理不尽さも記されない。戦争指導者に対して批判的な考えを記した学徒兵の手記なども、示されない。
映画では、「黒船以来の総決算の時が来た」との書き出しで始まる、高村光太郎の詩「鮮明な冬」が紹介されている。そこには日米開戦の時の高揚した気持ちと当時の一国民としての使命感が高らかにうたわれている。高村は、その後も勇ましい戦争賛美、戦意高揚の詩をいくつも書いた。しかし、遊就館の映画は、その後の高村については一切触れない。
彼は終戦後、己の責任と真摯に向かい合いながら、岩手の山小屋で独居生活を送った。そして、戦前戦中の「おのれの暗愚」を見つめた「暗愚小伝」を書いた。それには全く目を向けずに、「暗愚」の時代の作品だけが高らかに取り上げられ、今なお戦争賛美に使われていることは、泉下の高村の本意ではあるまい。
 
こと光太郎に関しては、全くその通りです。
 
 
さて、折しも衆議院選挙が近づいています。どうも原発の問題、人権の問題など、今ひとつ争点になっていないような気がします。真にこの国を愛するのであれば、外せない問題だと思うのですが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月10日
 
昭和41年(1966)の今日、春秋社から『高村光太郎選集』全6巻・別巻1の刊行が開始されました。
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編年体によるもので、第一回配本は「一八九七 ― 一九一二年 明治三〇 ― 四五年」。筑摩書房の『高村光太郎全集』が編年体ではなく、第一巻から第三巻が「詩」、第四巻から第八巻が「評論」、第九・十巻が「随筆」といった形ですので、また違った読み取り方が出来るものです。「別巻」は「造型」の巻で、これがものすごく重宝しています。
 
編者は故・吉本隆明氏、北川太一先生。野球で言えば王・長嶋、プロレスで言えば馬場・猪木(笑)。最強黄金タッグです。
 
各巻に吉本氏の「解題」が掲載されています。一昨日昨日とご紹介した晶文社さんから現在刊行中の『吉本隆明全集』全38巻・別巻1にも、やがて収録されるのではないかと思われます。
 
右の画像は昭和56年(1981)の増訂版です。

繰り返し書いていますが、今年、平成26年(2014)年は、「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年です。
 
100年前というと大正3年(1914)。
 
「道程」に関しては、2月9日に今知られている詩型の原型となる長大な詩を執筆、それが3月5日に雑誌『美の廃墟』に発表され、10月25日には詩集『道程』が出版されています。この時点でオリジナルの102行あった「道程」はわずか9行に圧縮されました。
 
光太郎智恵子の結婚披露は12月22日。上野精養軒で行われました。ただし、事実婚の状態はその前からだったようですし、披露後も入籍はせず、事実婚の状態が続きました。入籍は実に昭和8年(1933)8月23日。これは、統合失調症が昂進した智恵子の身分保障―光太郎にもしものことがあった時の財産分与―のためと言われています。
 
というわけで、今年は光太郎智恵子にとって重要な節目の出来事が2件、100周年です。そんなわけで、当方、「100周年」という語には敏感な今日この頃です。
 
それでは、それ以外に今年「100周年」を迎える(迎えた)出来事というと……。
 
夏目漱石「こころ」発表
昨日から『朝日新聞』さんで、漱石の「こころ」が復刻連載されています。昨日は大きく特集記事も組まれました。
 
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ちょうど100年前の昨日から、『朝日新聞』紙上に「こころ」の連載が始まったとのことです。
 
ちなみに光太郎は漱石にかみついたこともあります。
 
宝塚歌劇初演
やはり大正3年、阪急電鉄の小林一三の発案により、宝塚新温泉の余興として、少女たちによる歌劇の初演が行われたそうです。今月初めにはいろいろと記念イベントもあり、報道されていました。
 
昨年、福島二本松の大山忠作美術館で、日本画家、故・大山忠作の「智恵子に扮する有馬稲子像」に関し、トークショーをなさった有馬稲子さん。今年の連翹忌のご案内を差し上げたのですが、宝塚100周年のイベントご出席のため、連翹忌は無理、と、直接お電話を頂きました。有馬さんも元タカラジェンヌです。
 
ちなみに小林一三は、光太郎と縁の深い与謝野夫妻の援助者としても有名です。数年前、小林のコレクションの中から、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を記した屏風絵2枚が出てきて、驚きました。
 
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東京駅開業
こちらも大正3年の竣工で、いろいろと記念事業が進行中です。話題性としては手強い相手です(笑)。
 
 
第一次世界大戦勃発
負の記憶として、これも外せない「100周年」です。
 
 
そう考えると、ほんとうにいろいろあった大正3年、1914年ですが、もっともっと、「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年が話題になってほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月21日

平成12年(2000)の今日、「20世紀デザイン切手」シリーズ第9集が発行されました。
 
「20世紀デザイン切手」シリーズ、20世紀末の平成11年(1999)から翌年にかけ、全17集が発行されました。やはり20世紀のクロニクル的な記念切手です。
 
第9集は「「杉原千畝副領事がビザ発給」から」の副題で、昭和15年(1940)~同20年(1945)までの出来事を扱っています。
 
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光太郎も80円切手になりました。<高村光太郎が詩集「道程」で第1回芸術院賞>という題です。
 
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大正3年(1914)の初版刊行でなく、この時期の出来事として扱うか? と首をかしげましたが、まあよしとしましょう。光太郎肖像が使われている唯一の切手ですので。
 
切手になっていない台紙というか余白というか、シート右下には智恵子の紙絵があしらわれています。詩集『智恵子抄』の刊行が昭和16年(1941)だったためです。
 
ちなみに大正3年(1914)前後を扱った第3集はやはり東京駅開業や第一次世界大戦をモチーフにしています。

4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、戦中から戦後にかけ、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも詩碑前祭、そして連翹忌の集いがもたれました。
 
その当日、『日本農業新聞』さんに以下のコラムが載りました。
 
【四季】 (2014/4/2)
 
 公園や街角の植え込みで、レンギョウの花が満開だ。2週間ほど前、雨露から身を守るかのように、少しうつむき加減にぽつりぽつりと咲き出したが、あっという間に爆発したように黄一色になった▼彫刻家で詩人の高村光太郎が58年前の今日亡くなった。今が盛りのレンギョウの花の時期であり、生前好んだ花であったことから、命日を連翹(れんぎょう)忌と呼んでいる。そのレンギョウも、光太郎との思い出深いみちのくで咲くのももうすぐだ▼光太郎の詩集『道程』はあまりにも有名だ。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。その発表から今年で100年。ふるさとの福島をこよなく愛した智恵子と結婚したのもこの年。「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」。ふと今が重なる▼光太郎は宮沢賢治の天性をつとに見いだし、賢治の死後、全集発刊などに尽力した。その縁もあって戦中から戦後の7年間、岩手県花巻市に疎開し、山小屋で独り暮らした。岩手県は第二のふるさとのようなもの▼四季折々、自然と共に生きた。『山の春』は、村人との温かい交流、豊かな山の恵みに生かされることへの感謝を描いた。大震災から4回目の東北の春。「道」はどのくらいできたか、光太郎は気にしているだろう。
 
連翹忌、そして「道程」100周年、光太郎智恵子結婚100周年にもふれてくださり、ありがたいかぎりです。
 
それにしても、東北ではこれから連翹の花盛りなのですね。自宅兼事務所のある千葉では満開です。
 
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自宅兼事務所の庭の連翹は、連翹忌持参のために剪ったので淋しくなってしまいましたが……。
 
「大震災から4回目の東北の春。「道」はどのくらいできたか、光太郎は気にしているだろう。」……まさにその通りだと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月5日000

昭和29年(1954)の今日、編者に光太郎の名を冠した『毎日ライブラリー 日本の詩歌』が刊行されました。
 
この年1月の『毎日新聞』に連載された光太郎の評論「日本詩歌の特質」を巻頭に置き、その他、「日本の詩歌の系譜」(吉田精一)、「現代詩概観」(三好達治)、「近代短歌」(木俣修)、「近代俳句」(加藤楸邨)から成ります。
 
光太郎が編者となっていますが、実務は毎日新聞社図書編集部でした。

昨日は光太郎の58回目の命日。東京日比谷松本楼様に於きまして、第58回連翹忌を開催いたしました。
 
と、その前に、当方は駒込染井霊園の高村家のお墓にお参りをしました。染井はソメイヨシノの名前の由来となった地だけに、霊園内の桜も見事でした。
 
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さて、5時30分、第58回連翹忌を開会しました。今年も昨年を上回る76名ものご参加を頂きました。
 
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はじめに、光太郎、そして今日までの一年間に亡くなられた関係者の皆様に対して黙祷を捧げました。続いて、永らく連翹忌の運営をされてきた、高村光太郎記念会事務局長にして、当会顧問の北川太一先生のご挨拶。さらに、光太郎の令甥にあたられる高村光太郎記念会理事長・高村規様のご発声により、献杯。
 
その後はビュッフェ形式で料理を堪能していただき、並行してスピーチやアトラクション演奏。
 
まず、日本画家の故・大山忠作氏ご息女にして女優の大山采子さん(芸名・一色采子さん)にスピーチをお願いしました。大山さん、他にご用がおありのところ、駆けつけてくださり、途中までのご参加でした。
 
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昨年、二本松の大山忠作美術館で開催された「五星山」展についてお話下さいました。
 
連翹忌ということで、鮮やかな黄色のお召し物。さすがです。なぜかシャンソン歌手・モンデンモモさんとのツーショット。
 
続いて、吉川久子様によるフルート演奏。吉川様は昨年、横浜で「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」という演奏会を開かれました。今回はそのダイジェスト版をお願いしました。
 
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伴奏は海老原真二さん、三浦肇さん。
 
演奏だけでなく、朗読、さらに光太郎智恵子に対する思いのトークも入り、皆さん、聴き入っていました。
 
その後、時間の許す限り、いろいろな方にスピーチをいただきました。
 
昨年の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」関係で、愛知碧南市藤井達吉現代美術館長・木本文平様。
 
昨秋、同館で記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」をなさった、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏。
 
美術館つながりで、信州安曇野碌山美術館・五十嵐久雄理事。
 
昨秋、光太郎も関わる「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催された山梨県立文学館長・三枝昻之氏。
 
光太郎と交流のあった詩人、野澤一関連の書籍『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』を編集なされた坂脇秀治様。
 
与謝野晶子研究の第一人者、逸見久美先生。逸見先生は、昨年の連翹忌にご参加の予定でしたが、その当日に急遽御入院。その後、恢復なされ、一年越しのご参加でした。
 
さらに花巻高村記念会の高橋卓也氏、光太郎の血縁・山端通和様加寿子様御夫妻、詩人の間島康子様、福島二本松智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さん、同じく福島川内村草野心平記念館長・晒名昇氏……。
 
スピーチの中に、いろいろ新しい情報もあり、追ってご紹介します。
 
本当はもっとたくさんの方にスピーチを頂きたかったのですが、そうもいかず、残念でした。
 
また、荷物運び、資料の袋詰め、受付、物品販売等で、たくさんの方々にお手伝いいただき、非常に助かりました。
 
泉下の光太郎も、きっと喜んでくれたことと思います。
 
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また、昨日は花巻松庵寺でも花巻としての連翹忌が開催されています。そちらも情報が入り次第、ご紹介します。
 
とにもかくにも、皆様、ありがとうございました。003
 
来年以降も連翹忌の集いは続けられるだけ続けます。新たな方々のご参加もお待ちしております。よろしくお願い申し上げます。
 
また、当会名簿に記載されている方で、昨日ご欠席の方には、配付資料を後ほど郵送します。お待ち下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月3日

昭和59年(1984)の今日、近藤富枝著『愛 一通の手紙 炎の作家15人の愛の書簡集』が刊行されました。
 
版元は主婦の友社。「高村光太郎と妻・智恵子――芸術家の妻の幸と不幸」で光太郎智恵子にふれています。

昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】では、昭和31年(1956)に光太郎が歿したことを書きました。というわけで、今日は光太郎の命日です。光太郎の故郷、東京では日比谷松本楼様で「第58回連翹忌」、戦中戦後の足かけ8年を過ごした岩手・花巻の松庵寺様でも、花巻としての連翹忌の集いが開催されます。
 
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全国の光太郎ファンの皆様、特に今日は、光太郎に思いを馳せていただきたく存じます。
 
日比谷松本楼様での第58回連翹忌については、明日以降、詳しくレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月2日
昭和32年(1957)の今日、光太郎終焉の地、中野の貸しアトリエで第1回連翹忌が開催されました。
 
「連翹忌」の名付け親は、光太郎と親しかった000佐藤春夫、草野心平といった顔ぶれと思われます。昭和31年7月に脱稿した佐藤春夫の『小説高村光太郎像』は、次の一節で終わります。
 
 智恵子のものをもしレモン忌と呼ぶならば光太郎のそれは連翹忌といふべきでもあらうか。二つとも共通にあざやかにすがすがしい黄色なのも一奇である。
 思ふにかの仙女とこの詩人とは、今ころ素中にあつて固く相抱いてゐるであらう。わたくしはこの間、彼等がしばらく同類としてそこに住んでゐた工房の墟を訪れてみたが、そこには壮年の頃の面顔を持つて晩年の口調で語る光太郎を見ただけで智恵子は終に見られなかつた。
 おそらく九十九里の朝あけか、安達原二本松の梢、阿多多羅山や阿武隈川のほとり、往年、光太郎が智恵子の生家を智恵子と並んで見たあたり遠い世の松風の薄みどりに「吹かれ漂ふ夕雲の色がレモンにも連翹にも似たものを見出したならばそれが相抱く素中の光太郎智恵子なのであらう。それとも上高地徳本峠の山ふところの桂の木の霜葉の荘厳なもののそよぎのなかにかくれてゐるのでもあらうか。
 
その佐藤も列席して、光太郎が息を引き取った中野のアトリエで、第1回の連翹忌が開催されました。
 
出席者は以下の通り。
 
高村豊周 高村喜美枝 高村規 高村珊子 高村武次 高村美津枝 宮崎春子 宮崎丈二 竹間吾勝 奥平英雄 岡本圭三 小坂圭二 細田藤明 桑原住雄 伊東信吉 佐藤春夫 草野心平 今泉篤男 関覚二郎 大気寿郎 土井一正 井上達三 海老沢利彦 庫田叕 本郷新 尾崎喜八 尾崎実子 難波田龍起 吉田千代 松下英麿 谷口吉郎 長谷川亮輔 椛澤佳乃子 菊池一雄 黛節子 松方三郎 伊東忠雄 中原綾子 土方定一 知念栄喜  小林梅 北川太一 藤島宇内 中西富江 川口師孝 大柴正彦 沼本効子
 
この中で、58回連翹忌に参加されるのは、光太郎の令甥・高村規氏と、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生のお二人だけです。おそらく他の方々はほとんど鬼籍に入られていると思われます。ただ、その方々の縁者の皆さんのご参加もあり、そういう意味では第1回の連翹忌の魂は連綿と受け継がれています。
 
さて、第58回連翹忌、つつがなく、そして盛会の中に執り行えることを念じつつ……。

昨日は二十四節季の一つ、「小寒」でした。冬の寒さが一番厳しい時期となる節目ですが、生涯、冬を愛した光太郎にとっては、本領発揮の時候です。
 
さて、その小寒の日の『神奈川新聞』さんのコラムです。朝日新聞における「天声人語」のような位置づけでしょうか。

照明灯 

 冬型の気圧配置が平年よりも強まり、気象庁の予想では1月から3月は東日本の気温は平年より低くなるそうだ。太平洋側ではからりと晴れの日が多くなる見込みだという
 
 ▼「秩父、箱根、それよりもでかい富士の山を張り飛ばして来た冬/そして、関八州の野や山にひゆうひゆうと笛をならして騒ぎ廻る冬」。高村光太郎の詩の一節。冷厳なこの季節を愛した高村は冬の詩人とも呼ばれる。力強く人を鼓舞する詩句が好きで、青春時代、よく親しんだ
 
 ▼冬の詩人が「ひとちぢみにちぢみあがらして」と難じる中年者となった今だが、澄んだ外気に身をさらせば、正月の酒席でほてった酔顔もいやおうなく寒風にはたかれ、がつんといさめられたような気分となる。何やら凜(りん)として、心地がいい
 
 ▼昨年、世界の平均気温は平年を0・2度上回り1891年の統計開始以来2番目の高温。史上最高だった1998年はエルニーニョ現象の影響が顕著だったが昨年は特殊事情がなく、「地球温暖化の傾向が明瞭に示された」と専門家は言う
 
 ▼「サッちゃん」の作詞で知られる阪田寛夫の詩。「こんなに さむい/おてんき つくって/かみさまって/やなひとね」。こわばる頬も緩む。温暖化の今、冬らしい冬がいい。小寒。寒の入りだ。

 
引用されている光太郎の詩は、大正2年(1913)に書かれた「冬の詩」。「冬だ、冬だ、何処もかも冬だ」で始まり、150行を超える長大な作品です。数年前に黒木メイサさん、松田龍平さんがご出演されたユニクロさんのCMで使われていたので、耳に残っている方も多いのではないでしょうか。


 
からっ風にさらされる関東平野の冬もきついのですが、北国はもっとすごいことになっているでしょう。皆様、どうぞご自愛のほどお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月6日
昭和2年(1927)の今日、詩集『智恵子抄』に収録された「あなたはだんだんきれいになる」を執筆しました。
 
  あなたはだんだんきれいになる005
 
をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。  
 
智恵子歿後の昭和15年(1940)に光太郎が書いた散文「智恵子の半生」で、この詩について次のように語られています。
 
私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、
 
 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属
 
と私が書いたのも其の頃である。
 
木々は葉を落とし、澄み切った空気に包まれる「冬」。木々と同じように、余計な装飾を落とし、凛とした雰囲気を身にまとう智恵子に、「冬」のイメージを重ねていたのかもしれません。

【今日は何の日・光太郎】 8月15日

昭和20年(1945)の今日、花巻の鳥谷ヶ崎神社で終戦の玉音放送を聴きました。
 
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鳥谷ヶ崎神社 戦前絵葉書
 
8月10日の花巻空襲で、逗留していた宮澤家も焼け出された光太郎は、元花巻中学校長の佐藤昌宅に厄介になっていました。その佐藤宅からほど近い鳥谷ヶ崎神社で、敗戦の放送を聴いたのが68年前の今日でした。
 
そしてその時の感興を謳った詩が翌日作られ、翌々日の『朝日新聞』『岩手日報』に掲載されました。
 
  一億の号泣001
 
綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来る
玉音の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し
苛も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす
真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
 
画像は鳥谷ヶ崎神社に、戦後立てられた「一億の号泣」詩碑です。

戦時中には誠意高揚のための詩を大量に書き殴っていた光太郎ですが、この「一億の号泣」も、まだその延長上にあります。
 
その後しばらく経ってから、「日を重ねるに従つて、/私の眼からは梁(うつばり)が取れ」(「終戦」・昭和22年=1947)、戦時中の自己を「乞はれるままに本を編んだり、/変な方角の詩を書いたり」(「おそろしい空虚」・同)と分析できるようになりました。
 
左に偏った人々はこれを「言い訳」と評します。逆に右に偏った人々は「変節」と捉えます。「不思議なほどの脱卻のあとに/ただ人たるの愛がある。」(「終戦」・「卻」は「却」の正字)という光太郎の言を、もう少し素直に受け止められないものでしょうか。
 
いずれにせよ、今日は終戦記念日。今日行われた全国戦没者追悼式での天皇陛下のお言葉「ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」を心に刻みつけたいものです。

今日もいただきもののご紹介ですが、ともに新聞関連です。
 
まず、花巻の財団法人高村記念会様より、『岩手日日』さんの4月3日号。
 
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花巻での連翹忌などの様子が報じられています。
 
記事の内容自体は4/6のブログでご紹介しました。
 
当方、ネットで内容を見たのですが、やはり新聞そのもので見ると、また感じが違いますね。
 
続いて福島県川内村のかわうち草野心平記念館からいただきました、4月6日の福島民報さんの記事です。
 
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先日のブログで東京の連翹忌の様子がなかなか報道されない、と書きましたが、福島の地方紙で報道されていました。これは全く存じませんでした。
 
ただ、記者の方がお見えになったわけではなく、参加者どなたかからの伝聞で書かれたようで、若干、事実と異なる部分があったります。まぁ、何はともあれありがたいことです。
 
お送りいただいた皆様、ありがとうございました。
 
まだまだいろいろなものが届いており、順次、ご紹介します。順不同となりますことご了承ください。
 
【今日は何の日・光太郎】4月14日

昭和28年(1953)の今日、前後3日間にわたりNHKラジオで『ロダンの言葉』が放送され、光太郎も録音で出演しました。

第57回連翹忌、会の様子は昨日のブログにてアップしました。ご高覧下さい。
 
いろいろな方々にいろいろと語っていただいたりしていただくのと別に、会場内に展示スペースを設けました。展示したものは主に二種類。
 
まずは光太郎直筆のもの。2月のブログで御紹介した短冊、それから新たに見つけた草稿や書簡の類を並べました。新発見の方は、この日刊行になった『高村光太郎研究(34)』中の「光太郎遺珠⑧」で詳細に紹介しております。

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また、現物は手に入らなかったものの、画像を入手できたものはコピーを展示しました。
 
それからもう一種類、この一年で世に出た光太郎智恵子関連の書籍や楽譜(先週高山佳子様から届けていただいた合唱曲「ほんとの空」など)、CD、DVD、新聞記事、それからさまざまな講演や公演、イベントや展覧会のチラシ、パンフレットの類も展示しました。主にこのブログでその都度御紹介してきたものです。
 
一年間に発行されたものだけで、結構な量になりました。それだけ光太郎智恵子への関心が高いということがわかります。この状態を維持、いや、発展させていきたいと思っています。光太郎智恵子を誰も取り上げないという事態にはならないようにしていきたいものです。
 
ちょっと変わり種として、青森在住の彫刻家、田村進様の制作されたレリーフの巨大画像も展示しました。田村様から送られてきたプリントアウトしたものを両面テープで貼り合わせ、パネルに入れました。
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原画は昭和25年(1950)の1月に雑誌『アサヒカメラ』に載った濱谷浩撮影の光太郎肖像写真です。田村氏はこれをもとにブロンズのレリーフを作成なさったとのこと。

 
繰り返しになりますが、いろいろな分野の方が光太郎智恵子を取り上げて下さっている現状、これをもっともっと発展させていきたいと思っております。ご協力、よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月5日

明治25年(1892)の今日、智恵子の妹、ミツが誕生しました。

智恵子の最期を看取った姪・春子の母にあたります。

4/2は光太郎の命日、連翹忌でした。東京日比谷松本楼様では、午後5時半開会で、第57回連翹忌の集いを開催しました。
 
開会宣言のあと、黙祷を捧げました。もちろん光太郎に。そして東日本大震災で亡くなられた方に、という意味も込めました。連翹忌の関係者で、震災によって亡くなった方もいらっしゃいますので。それから当方の勝手な判断ですが、この一年に震災とは関係なく亡くなった連翹忌関係者の方もいらっしゃったので、そういう方への追悼の意味も込めさせていただきました。
 
続いて、高村光太郎記念会事務局長、北川太一先生のご挨拶。
 
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続いて高村光太郎の令甥で、現在の高村家当主にして高村光太郎記念会理事長の高村規氏による乾杯のご発声。その後、しばしの歓談の時間を取りました。
 
続いて、東北を中心に活動なさっている水墨画家の一関恵美様、ピアニストの齋藤卓子様による、光太郎智恵子をイメージしてのアクションペインティングをご披露していただきました。
 
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斎藤様の奏でるベートーヴェン「月光」、ドビュッシー「月の光」に乗せ、一関様がその場で描かれました。会場からは大きな拍手が。
 
お二人とは昨年知り合ったのですが、早速、今回の連翹忌で大きなお仕事をお願いしてしまいました。快くお引き受け下さり、ありがたい限りでした。
 
その後は恒例のスピーチを何人かの方にお願いしました。主にこの一年間で光太郎智恵子がらみのイベントや出版をなさった方、これからなさる方にお願いしました。
 
名古屋の作曲家で、連作歌曲「智恵子抄」を発表なさった野村朗様。
 

今年、全国3つの美術館巡回で行われる「彫刻家・高村光太郎展」に関し、碧南市藤井達吉現代美術館の木本館長。
 
4/21~22、光太郎の親友だった荻原守衛の碌山忌関連で、信州安曇野碌山美術館長の所賛太氏。
後ほどまた御紹介しますが、4/21には高村規氏のご講演があります。
 
花巻の高村記念館リニューアルに関して、花巻高村記念会の高橋卓也氏。
 
光太郎の詩に自作の曲をつけて歌われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。

 
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福島県川内村で、原発事故にもめげず草野心平関連の顕彰活動を続けられているかわうち草野心平記念館長・晒名昇氏。
 
宮城県女川町で、津波の被害にもめげず女川光太郎祭を続けられている佐々木英子様。

 群馬県立土屋文明記念文学館から、県立高校に異動になったという高村光太郎研究会の佐藤浩美さん。
 
そして、今回、新たに連翹忌にご参加いただいた方を代表し、岩手紫波町からお越しの畠山宏樹氏。お母様が「町の小さな文化館」というコンセプトで、「権三ほーる」という施設を運営なさっているそうです。畠山氏には、晩年の光太郎と縁のあった藤原嘉藤治について語っていただきました。
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ご参会の方全員に光太郎智恵子に対する思いを語っていただきたいのですが、そうもいかず、午後8時、閉会となりました。
 
来年以降も同じく松本楼様で連翹忌のつどいを執り行います。もっともっと、光太郎智恵子を敬愛する皆さんの輪を広げていきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月4日

昭和31年(1956)の今日、東京青山斎場にて光太郎の葬儀が執り行われました。

棺の上には生前の光太郎が愛した連翹の花が一枝。これが「連翹忌」命名の由来となりました。

昨日は光太郎の命日、連翹忌でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第57回連翹忌の集いを開催しました。ご参会の皆様に助けられ、つつがなく終える事が出来ました。ありがとうございました。
 
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詳しくは明日以降、レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月3日

昭和40年(1965)の今日、銀座資生堂ギャラリーで開かれていた高村光太郎賞受賞者と選考委員による展覧会、「第三回連翹会展」が閉幕しました。

【今日は何の日・光太郎】4月2日

昭和31年(1956)の今日、高村光太郎が数え74歳の生涯を閉じました。
 
というわけで、今日、4月2日は第57回連翹忌です。
 
光太郎の故郷、東京では日比谷の松本楼様で、第二の故郷とも言える岩手・花巻では松庵寺様で、それぞれ光太郎を偲ぶ集いが開かれます。
 
東京では昨年を上回る70名程のご参加申し込みがありました。詳しい様子は明日以降レポートいたします。
 
別件の用事やお体の都合によりご参加できない方も含め、光太郎を敬愛する皆さん、それぞれの場所で光太郎に思いを馳せて下さい。よろしくお願いいたします。
 
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今朝の朝日新聞さんの「天声人語」。新装成った歌舞伎座のこけら落としにからめ、連翹忌の話題を枕に使っています。朝、新聞を開いて驚きました。この記念すべき日に、ありがたいかぎりです。
 
 春を彩る黄色い花、レンギョウの名をもらった「連翹忌(れんぎょうき)」はきょう、高村光太郎の命日をいう。彫刻家で詩人の光太郎は九代目市川団十郎にほれ込んでいた。「明治の劇聖」と呼ばれた人で、東京の歌舞伎座をゆるがぬ存在にした立役者である▼「団十郎は決して力まない。力まないで大きい」と光太郎は称賛した。若い頃、団十郎の舞台に入りびたったというから、初代の歌舞伎座に通ったのかもしれない。時は流れて、五代目となる歌舞伎座がきょう、こけら落としの幕を開ける。光太郎も喜んでいよう▼ 

今日は節分です。ということは明日から暦の上では春、ということになりますね。実際、当方の住む千葉県北東部ではだいぶ暖かくなり、昨日は18℃にもなりました。日なたではオオイヌノフグリやホトケノザが咲いています。今朝は犬の散歩中、近くの道ばたに水仙が咲いているのも見つけました。
 
【今日は何の日・光太郎】2月3日

明治39年(1906)の今日、横浜からカナダ太平洋汽船のバンクーバー行き貨客船アセニアンに乗り、出港。4年にわたる海外留学に出発しました。
 
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この海外留学で、世界最先端の芸術に触れ、光太郎芸術のバックボーンが形成されてゆきます。彫刻はもちろん、帰国後、かなり熱を入れた絵画もそうです。そういった造形芸術だけでなく、ヴェルレーヌやマラルメ、ボードレールといったあたりから、詩の上でも大きく影響を受けました。
 
留学前の詩はまだまだ習作のようなもので、文学活動の中心は与謝野鉄幹、晶子の新詩社での短歌でした。
 
光太郎がアセニアンの船上で作ったという節分にまつわる短歌も伝わっています。
 
 あしきもの追儺(やら)ふとするや我船を父母います地より吹く風
 
もともと節分会は「追儺(ついな)」という宮中の儀式が元になっているということで、この字をあてています。「やらふ」と訓読みにしているのは節分会の別称「鬼やらひ」から。「鬼は外」とばかりに日本から追われるようだ、というところでしょうか。
 
他にもアセニアン船上での短歌はいくつかあり、翌明治40年(1097)の『明星』に掲載されました。
 
明日はそのあたりから。

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