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昨日から1泊2日で、山形、宮城、岩手と東北3県を歩いてきました。
 
今回は博物館、文学館、美術館を5ヶ所廻って参りました。我ながらすごいと思いました(笑)。
 
昨日は山形市最上義光歴史館さん、仙台市立博物館さん。今日は岩手紫波町の野村胡堂あらえびす記念館さん、盛岡市の盛岡てがみ館さん、同じく盛岡市の深沢紅子野の花美術館さん
 
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いろいろと新発見等があり、有意義な2日間でした。
 
例によって明日以降詳しくレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月9日

文久3年(1863)の今日(旧暦ですが)、光雲が仏師高村東雲に弟子入りする話がまとまりました。

初め、大工に弟子入りするはずが、髪を整えに行った町内の床屋さんの紹介で、急遽そういうことになりました。歴史に「たられば」は禁物ですが、もしそれか無かったら、と考えると、ある意味ぞっとします。

今日から岩手の盛岡てがみ館さんで「第43回企画展 高村光太郎と岩手の人」が始まります。
 
過日、チラシ、ポスター等を頂きました。
 
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一番上の写真は、昭和昭和26年(1951)秋に花巻郊外太田村の光太郎の山小屋を訪れた詩人・宮静枝とその子供たち、宮が写した光太郎ポートレート、さらに宮澤賢治の主治医で、一時、光太郎を自宅に住まわせた佐藤隆房らとともに写っている写真もあります。
 
中央は光太郎詩「岩手山の肩」の直筆。同館ではこの原稿を所蔵しており、常設で展示されています。
 
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書簡に書かれたものもそうなのですが、味のある文字ですね。
 
チラシ裏面はこちら。
 
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右上の写真は花巻の財団法人高村記念会さんのご提供。その下に展示される書簡の写真が二葉。左が新岩手日報社に勤務していた松本政治宛、右が石川啄木研究家の吉田孤羊にあてたもので、どちらも同館所蔵のものです。10年程前に、これらを含む、『高村光太郎全集』未収録の書簡の情報をご提供いただき、補遺作品集「光太郎遺珠」に掲載させていただきました。
 
他にどんなものが並ぶのか、非常に楽しみです。
 
会期は6月16日までと、かなり長めです。また、関連行事が以下の通り行われます。
 
3/9(日)14:00~15:00 てがみシアター~手紙の朗読を聴くvol6~
  講師・大塚富夫氏(IBC岩手放送アナウンサー)
4/23(水)14:00~15:00 「ふみの日」ギャラリートーク 同館学芸員
5/31(土)14:00~15:00 館長によるギャラリートーク
 
当方、3/9に参上します。皆様もぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月25日

昭和23年(1948)の今日、雑誌『至上律』に詩「蒋先生に慙謝す」が掲載されました。
 
蒋先生は、蒋介石。かつて昭和17年(1942)には、その抗日思想を烈しく批判した詩「沈思せよ蒋先生」という詩を雑誌『中央公論』に発表した光太郎ですが、戦後になって、軍部の走狗となっていた自らを恥じ、この詩を作りました。

本日も盛岡関連情報です。
 
盛岡市にある盛岡てがみ館さんで、以下の企画展が行われます。
開催期間:2014年2月25日(火)~6月16日(月)
 
彫刻家で詩人の高村光太郎は昭和20年(1945)、宮沢賢治の実家を頼って疎開し、以後約7年間を花巻で過ごしました。岩手の人と風土をこよなく愛した光太郎は盛岡へも足を運んで講演会を行ったほか、昭和23年(1948)に創設された県立美術工芸学校の運営を援助するなど、岩手の文化発展にも貢献しています。光太郎の岩手における人々との交流と足跡を手紙や原稿を通して紹介します。
 
【開館時間】 9時から18時まで(最終入場17時30分まで)
【休 館 日】  毎月第2火曜日 展示入替のため臨時休館有
【入 館 料】 個人 一般200円 高校生100円  団体 一般160円 高校生80円 (20人以上)
▼中学生以下、及び65歳以上で盛岡市に住所を有する方、また障がい者手帳をお持ちの方と付き添いの介護者は無料。
【住  所】 盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階(地図・アクセス方法)
【電話・FAX】019-604-3302
 
 
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関連行事として、こちら。 
 開催日・期間:2014年3月9日(日)
 時間:14:00~15:00
 場所:盛岡てがみ館 展示室
 講師:大塚富夫(IBC岩手放送アナウンサー)
 料金:入館料が必要です。
 お申込み・受付方法:当日、直接当館にお越しください。
 
一通一通の手紙が織り成すストーリー。朗読を通して伝わる人間の心の機微にふれてみませんか?
☆テレビ、ラジオで活躍中のアナウンサー・大塚富夫氏を講師に迎え、著名人の手紙や第43回企画展に関連した高村光太郎の詩などを朗読していただきます。

 
盛岡てがみ館さんは、公益財団法人盛岡市文化振興事業団さんの運営で、公式サイトによれば、
 
盛岡市の中心部を流れる中津川河畔にある当館は、先人の書簡(てがみ)を中心に原稿・日記等を収蔵・調査研究・展示する、全国でもユニークな施設です。
郷土の発展には、先人の生きた知恵を学ぶことが大切だとよく言われています。 盛岡市には盛岡にゆかりのある著名人やその関係者の書簡(てがみ)、原稿、日記、ノート、筆墨など貴重な資料が数多く残されています。
個人のてがみは、執筆者の知られざる素顔をのぞかせながら、その時代の息吹きを鮮やかに伝える第一級の遺産です。これらの文化遺産を守りながら、多くの人たちに公開していくことが、私たちが未来に先人の知恵を手渡していくことになるのではないかと考えます。
  
とのこと。
 
当方、10年近く前に一度お邪魔したことがあります。こちらには『高村光太郎全集』等に収録されなかった光太郎の書簡がけっこうたくさんあり、その情報を提供していただいた関係です。宛先は石川啄木研究者の吉田孤羊、新岩手日報社関連などでした。
 
今回の企画展でも、『高村光太郎全集』等に収録されていない書簡が並ぶことを期待しています。
 
公式サイトから引用させていただいた011上記画像に写っているのは、詩人の故・宮靜枝。岩手県南部・江刺の出身で、昭和26年(1951)秋に、花巻郊外太田村の光太郎の山小屋を訪れています。宮はその時の体験を元に、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』を上梓、第33回晩翠賞に輝いています。
 
上記の写真はその折のもの。これを含め、光太郎が写った写真20葉ほどを収めたアルバムが盛岡市立図書館に寄贈されており、そちらも見たことがあります。
 
光太郎の元にもこれらの写真が送られましたが、光太郎は宮宛の葉書に「写真はやはり小生の苦手で、気味が悪いと思ひました。」としたためています。
 
光太郎から宮宛の書簡は、『高村光太郎全集』に2通収録されており、今回も並ぶのではないかと思われます。
 
ちなみに宮が訪れた時、裁縫は得意でなかった光太郎、宮に遠慮がちにお願いしてカーテンを縫ってもらっています。ほほえましい交流ですね。
 
この企画展が開催されると知り、こちらから、岩手の公共施設等に収蔵されている光太郎書簡の情報を提供しました。先日、返答を戴き、それらの一部を展示する方向で考えているとのこと。少しはお役に立てたかなと想っております。
 
 当方、3月9日の関連行事に合わせて行ってみようと思っています。皆様もぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月31日

平成9年(1997)の今日、二元社から『智恵子その愛と美』が刊行されました。
 
智恵子の紙絵と文章、光太郎の詩文、自筆詩稿から採った文字で構成された美しい本です。
 
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東北レポート最終回です。
 
1/19(日)、花巻を後にして、東北本線でさらに北に向かいました。次なる目的地は岩手郡岩手町。盛岡よりさらに北、青森との県境に近い地域です。
 
昨秋、その岩手町の川口公民館に、光太郎自筆の看板が2枚あるという情報を得まして、見に行ったわけです。
 
昭和27年3月20日の光太郎日記に、以下の記述があります。
 
午前九時半川口村の公民館帷子敏雄といふ人来訪、公民館図書館の看板の字をかいてくれとの事、鈴木彦次郎氏のテガミ持参、承諾。二枚の板を置いてゆく。
 
また、同じく4月29日には
 
川口村立図書館、川口村公民館を板に揮毫、
 
の記述があり、同じく5月10日の日記は以下の通りです。
 
川口村の帷子氏看板2枚受け取りに来る、川魚クキ20尾程ヒエ一升もらふ。
 
ちなみに川口村は昭和30年(1955)には合併で岩手町となっています。
 
盛岡で第3セクターのIGRいわて銀河鉄道に乗り換え、岩手川口駅を目指しました。途中、「渋民」という駅がありましたが、こちらは石川啄木の故郷です。
 
午前10時30頃、岩手川口駅に到着、そこから川口公民館まで歩きました。空は晴れていましたが、雪がちらついていました。
 
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あらかじめお伺いすることを伝えてありましたので、職員の方が待っていて下さいました。早速、木箱に収められた2枚の看板を出していただきました。
 
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上の2枚が「川口村公民館」、下006の2枚が「川口村立図書館」。墨で書かれたものですが、残念ながら、どちらも文字はほとんど読めなくなっていました。
 
裏面の碑陰記的なものは裏面なので墨痕鮮やかに残っていました。ただし、こちらは光太郎の筆跡ではありません。
 
実際に看板として屋外に掲げられ、風雨や雪に晒され続けたため、文字が薄くなってしまったのでしょう。最初の段階で墨ではなく油性の塗料で書くとか、透明なニスなどでのコーティングでもされていればこうはならなかったのだと思いますが、昭和27年当時ではそれも望むべくもなかったのでしょう。
 
しかし、実用されたた結果、文字が薄れたことについては、泉下の光太郎もかえって喜んでいるのではないかと思います。
 
逆に、文字が薄くなったからといって、誰かが上からなぞって濃くするというような乱暴な処置がされていないのは幸いでした。
 
ところで現在、同公民館の玄関には、下の画像の看板が掲げられています。こちらも結構年期が入っています。どうも書体の特徴から、もともとの光太郎の筆跡から「村」を除いて写し取ったもののように思われます。

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「関連する資料があればコピーをいただきたい」と、事前にお伝えしておいたため、2枚の看板を紹介する『岩手日報』さんの記事、公民館移転の際の行事に盛り込まれた故・帷子敏雄氏の談話筆録、昭和30年代に当時の公民館長が書き残した覚え書きなどをいただきました。有り難いかぎりです。
 
さらに、これが最も驚いたのですが、光太郎から帷子氏宛の自筆葉書のコピーもいただきました。4月29日付けで、揮毫が終わった旨の報告でした。『高村光太郎全集』等に未掲載のもので、いずれ当方編集の「光太郎遺珠」(今春発行のものには間に合いません)、当方刊行の『光太郎資料』にてご紹介します。
 
そしてこれも驚きましたが、たまたま公民館に帷子氏のご子息がいらしていましたので、お話を聴くことも出来ました。いただいた資料と合わせ、当時の経緯がよく分かりました。それによると、村の若者が集まっての炉端談義の中で、公民館、図書館の看板を立派なものにしようという提案が出、一流の文化人に書いてもらおうということになったそうです。そして同じ岩手県内に住んでいた光太郎に白羽の矢が立ち、花巻出身の村内教育委員の親類筋のつてで依頼したとのこと。こちらの経緯なども「光太郎遺珠」、『光太郎資料』にて詳述します。
 
かくて予定していた目的は全て終了。岩手川口駅の隣、いわて沼宮内から東北新幹線で帰りました。
 
1泊2日の東北紀行でしたが、いつにもまして実り多い調査行でした。今回も行く先々でいろいろな方々のお世話になり、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月24日

昭和16年(1941)の今日、有楽町産業組合中央会間で開催された「講演と朗読-愛国詩の夕」で「詩人の魂」と題して講演を行いました。

東北レポート4回目になります。もうしばらくおつきあい下さい。
 
1/19(日)、花巻南温泉峡鉛温泉藤三旅館をあとにし、タクシーで太田地区に向かいました。目指すは光太郎が7年間暮らした山小屋「高村山荘」、そしてすぐ近くに建つ「高村光太郎記念館」です。この区間はタクシーを利用せざるを得ません。
 
以前は冬期間閉鎖でしたので、当方、この時期に行ったことはありませんでした。それが、記念館の方は昨年5月のリニューアルオープンを機に花巻市営となり、他の市営施設同様、通年開館となったので、雪に埋もれる様子を実際に観て、光太郎のいた冬を実感してみようと考えた次第です。
 
鉛温泉からタクシーで約20分、現地に着きました。やはり一面の銀世界です。
 
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記念館が開くのは午前8時30分。まだ少し間があるので、先に高村山荘を目指しました。駐車場から歩くこと数百㍍、途中までは道らしき形になっていましたが、あと百㍍くらいのところで、道は山荘の方から外れた山の上に向かっていました。後で聞いたところでは、道的なものはロスカントリースキーの練習コースだそうです。しかたなく、道から外れ、ほとんど道なき道を山荘に向かいました。地面の積雪は1㍍くらいでしょうか。晴れていたのが幸いで、吹雪いている時などはまず歩けないところです。
 
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奥の白い建物が山荘。ただし中尊寺金色堂のように、套屋(とうおく)というカバーの建物が二重にかぶせてあり、その外側の第二套屋です。通常は第二套屋の中に入って、第一套屋のガラス越しに山荘を見る形になります。しかし、この時期は錠をあけていないとのこと。ここに至るまでの雪かきが事実上不可能だからだそうです。ただ、記念館の方で頼めば開けてくれないでもないそうです。また、記念館で長靴を貸して下さるとのこと。
 
手前の小さな建物は、便所として光太郎が使用していたもの。草野心平の命名で「月光殿」というしゃれた名が付いています。こちらにもトタン板の簡素な套屋がついています。
 
さらに近づいてみるとこんな感じです。
 
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 月光殿の方は、ガラス越しに光太郎が彫った明かり取りのための「光」一字が見えます。
 
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「ミニかまくら」というか「雪見だいふく」というか、この丸いのは灌木です。
 
山荘の前を通り過ぎ、南西方向から撮ったショットがこちら。
 
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この套屋のないむき出しの山小屋で、光太郎は7回も冬を越したわけです。当時(今も)、一番近い民家まで数百㍍。日記を読むと、冬場には誰一人訪ねてこない日も珍しくありませんでした。どんな思いでここに住み続けたのか、その思いに少しでも近づけたら、と考えています。
 
ここからさらに奥に、光太郎の「雪白く積めり」石碑、佐藤隆房博士顕彰碑、智恵子抄泉、智恵子展望台などがあるのですが、さすがにそちらまで行くのは断念しました。遭難しかねません。
 
そろそろ記念館の開館時間なので、そちらに向かうと、女性職員の方が駐車場からの道の雪かきをなさっていました。さらに記念館のすぐ近くでは、小型除雪車が雪を吹き飛ばしています。と、運転していた方が当方に気づいて「や、どうも」と言いつつ降りてきました。何と、㈶高村記念会の高橋卓也氏でした。当方がうかがうことは事前に連絡してあったので、待っていてくださったわけです。
 
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二人で中に入り、現状をうかがいました。とりあえず来館者は毎日いるとのこと。「ワンコインタクシー」なるものが運行されていて、それを利用する方がけっこういらっしゃるそうです。
 
「ワンコインタクシー」。半日で一人500円とのこと。東北新幹線の新花巻駅を午後1:05に出発し、宮澤賢治記念館→花巻新渡戸記念館→高村光太郎記念館→花巻温泉郷→花巻空港→新花巻駅というコースで、最後は在来東北本線花巻駅に18:00着だそうです。
 
これで500円は確かに安すぎですね(各施設の入館料は別ですが)。しかも宿までいけてしまうというのも便利だと思います。「花巻温泉郷」というのは、鉛温泉や大沢温泉などを含む「南花巻温泉峡」とはまた別の、高級ホテルが並ぶ区域(そちらにも光太郎賢治ゆかりの宿等があります)ですが、南花巻温泉峡もまわるようです。
 
ただし、要予約、さらに基本コースは上記のとおり既定ということです。また、他のコースも設定されています。
 
さて、高村記念館を後にし、待っていていただいたタクシーに再び乗り込んで、在来の花巻駅に向かいました。結局、料金は6,000円ちょっとでした。当方のたどった南花巻温泉峡→高村光太郎記念館→花巻駅というコースを普通にタクシーを利用すると、このくらいはかかってしまいます。逆のコースでも同じでしょう。以前は「高村山荘行」という路線バスがあったのですが、今は廃線になっています。これから行かれる方、ご参考までに。
 
さて、在来の花巻駅から東北本線でさらに北を目指しました。次なる目的地は岩手郡岩手町。そちらはまた明日。
 

 
別件です。俳優の高橋昌也さんの訃報が出ました。
 
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高橋さんは、昭和51年9月、新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の「智恵子抄」(北条秀司作)で、光太郎役をなさいました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月23日

明治45年(1912)の今日、光太郎が扉の図案を描いた与謝野晶子の歌集『青海波』が刊行されました。
 
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東北レポートの3回目です。
 
1月18日(土)、午前中は福島市での調査、午后には新花巻駅近くの花巻市博物館の企画展「佐藤隆房展―医は心に存する―」を拝見しました。その後新花巻駅に戻り、そこから宿へと向かいました。
 
宿は花巻南温泉峡の鉛温泉藤三(ふじさん)旅館さん。当方、花巻での定宿は、同じ花巻南温泉峡の、光太郎、そして宮澤賢治ゆかりの宿大沢温泉さんですが、今回はそちらが取れませんでした。そこで、大沢温泉さんより少し奥地にある鉛温泉さんに宿を定めました。こちらも光太郎・賢治ゆかりの宿なので一度泊まろうと思っており、ちょうどよかったと言えます。
 
花巻南温泉峡に行く手段としては、タクシー、岩手交通さんの路線バス、そして温泉組合的なところで運行している無料のシャトルバスがあります。昔は花巻電鉄というローカル線が走っていましたが、廃線となってしまいました。
 
鉄道の駅は、新幹線の新花巻駅が温泉峡と市街地をはさんで反対側の東部なので若干遠く、アクセスしやすいのは在来の花巻駅からの方です。ただ、無料のシャトルバスは新花巻駅から出て在来の花巻駅を経由するので、当方、今回はこれを利用しました。下記が時刻表です。
 
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光太郎は、昭和31年(1956)2月、亡くなる2ヶ月前の談話筆記「花巻温泉」で、鉛温泉について以下のように述べています。
 
 花巻の駅から一時間かかって、やっとたどりつく四つ目の駅、鉛温泉は、かなり上った山奥の湯で、今はラッセルがあるから心配はないが、私がいた頃は雪が降ると電車が止って厄介だった。
 鉛温泉の湯は昔から名湯とされている。非常に大きな湯舟が一軒別棟でできていて、一杯の人が入っている。その様を小高い所から見下せるが、まるで大根が干してあるように人間の像がズラリと並んで、それは壮観である。
 たいていの温泉は引湯だが、鉛はじかに湯が湧いている。湯の起りの底の砂利を足でかき廻すとプクプクあぶくが出てきて身体中にくつついてピチンとはねるのも面白いが、大変薬効のある湯といわれている。
 昔は男女混浴で、お百姓さんや、土地の娘さんや、都会の客などがみんな一緒に湯を愉しんでいたが、だんだんに警察がうるさくなって、「男女区別しなけりやいかん」ということで、形式的に羽目を立てた。が、これがまた一層湯を愉しくした。
 はじめのうちは男女両方に分れて入っているが、土地の女というのが男以上に逞しくて、湯に入りながら盛んにいいノドをきかせる。と、男の方はこれに合せて音頭をとりだし、しまいに掛け合いで歌をはじめ、片方が歌うと片方が音頭をとるというわけで、羽目をドンドンと叩くからたまらない、羽目がはずれて大騒ぎになる。なんとも云えない愉しさだ。
 
他にも賢治の童話「なめとこ山と熊」にも鉛温泉が登場しますし、昭和25年(1950)には作家の田宮虎彦が滞在、ここを舞台にした小説「銀心中」を執筆したそうです。
 
新花巻駅の観光案内スペースに置いてあった花巻市発行の情報誌『花日和』の2013年冬号を1冊頂きました。旧太田村の光太郎が暮らした山小屋付近の風景や、鉛温泉さんが大きく扱われていたためです。
 
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そちらによれば、藤三旅館は鉛温泉の一軒宿で、天明6年(1786)の開業。開湯はさらに古く、室町時代にさかのぼるとのこと。オーナーの先祖が、この地で白猿が傷を癒していた温泉を見つけたのが始まりだそうです。
 
名物は深さ約130㌢という、立ったまま入る岩風呂「白猿の湯」。上の2枚目の画像にうつっています。光太郎の談話筆記で「その様を小高い所から見下せる」とあるのが、ここのことだと思われます。現在は光太郎の時代とは異なり、また混浴に戻っています(女性専用の時間帯あり)。しかし、当方が入った時には残念ながら男性しかいませんでした(笑)。他にも男女別の露天風呂や内風呂がいくつかあり、24時間入浴可です。当方、1泊2日で3回入浴しました。
 
昭和16年(1941)竣工という本館は非常に趣がありましたし、何より料理が美味しく、手が込んでいました。また、夜は窓を開けると豊沢川の流れにライトアップが施され、幻想的な雰囲気でした。
 
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というわけで、温泉と料理を堪能し、翌朝、宿を出ました。手配して置いたタクシーに乗り、高村山荘・高村光太郎記念館へ。そちらについてはまた明日レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月22日

昭和26年(1951)の今日、花巻の靴屋で12文(約30㌢㍍)の長靴を買いました。
 
光太郎、身長もそうですが、手足が異様に大きかったことも有名です。
 
ちなみにこの時、昨日ご紹介した佐藤隆房宅に1週間ほど逗留していました。その後は大沢温泉に行き、10日ほど宿泊しています。

前回からの続きです。
 
福島市を後に、再び東北新幹線に乗って、次なる目的地、花巻を目指しました。途中、仙台を過ぎても平地には雪がほとんどありませんでしたが、やがて岩手県内に入ると徐々に雪が積もっている様子が目につくようになりました。新花巻駅に着いた頃は、すっかり白銀の世界でした。
 
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新花巻駅の観光案内的なコーナーでは、光太郎が出迎えてくれました。
 
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普段、花巻に行く時は、北上で東北新幹線から在来の東北本線に乗り換えることが多く、新花巻駅に降り立ったのは久しぶりでした。そのため、こういうコーナーがあることを存じませんでした。
 
新花巻駅から雪道を歩くこと約15分、花巻市博物館に到着しました。
 
 
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こちらでは、企画展「佐藤隆房展―医は心に存する―」が開催中です(2/11まで)。
 
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佐藤隆房は明治23年(1890)、栃木那須の生まれ。千葉医専(現・千葉大学医学部)卒業後、医療施設の少なかった東北での医療活動に従事することを志願、縁あって大正12年(1923)、花巻に花巻共立病院(現・総合花巻病院)を開業しました。
 
地元の有力者だった宮澤家も開院に協力、その関係で賢治晩年の主治医を務め、その最期を看取りました。賢治の詩「S博士に」は佐藤のことを描いたものだそうです。
 
さらに宮澤家の関連で、光太郎とも知遇を得、交流を深めました。宮澤家の意向を受けて既に戦時中に東京で光太郎に会い、花巻疎開を勧めたといいます。
 
光太郎が花巻に来てからは、旧太田村の山小屋に移る前、一時、自宅の離れに光太郎を住まわせたり、その後も折に触れ、行き来をしていたりしました。
 
光太郎歿後は財団法人高村記念会を創設、花巻での顕彰活動を牽引し、昭和54年(1979)歿。現在は子息・進氏が理事長を務めています。
 
企画展では佐藤の生涯と業績をたどる品々の他、賢治の草稿や光太郎の揮毫、彫刻なども展示されていました。一見の価値はあります。ぜひ足をお運びください。
 
その後、新花巻駅に戻り、そこから無料送迎バスでその日に泊まる鉛温泉藤三旅館に向かいました。そちらについてはまた明日。
 

 
BS-TBS 2014年1月25日(土)  21時00分~21時54分
 
「阿多多羅山(あだたらやま)の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。」
安達太良山は、高村光太郎の『智恵子抄』に歌われたことで広く知られるようになりました。
 
南北9キロに渡って連なる安達太良連峰のひとつで、標高は1700メートル。なだらかに美しい稜線を引き、山頂には突き出た岩峰があるため遠目には女性の乳房のようにも見え、別名「乳首山(ちちくびやま)」とも言われています。
 
智恵子のふるさとの山であり、また、そのたおやかな山容から女性的なイメージを持たれる山ですが、実際に登って見るとまた別の姿を見せます。北西からの季節風が遮られることなく吹き付けるため、この時期の稜線は突風が吹き荒れます。また、連峰の山頂部には大きな火口跡があり、荒々しい景観が広がっています。安達太良山は火山活動によって生まれた山で、最近では明治時代に爆発を起こしています。
 
厳冬期の安達太良山を雪山初挑戦の女優の春馬ゆかりさんが目指します。雪の状態を見極め、アイゼンとスノーシューを履き替えながらの山行となりました。
 
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さすがに標高1700㍍の山ですね。ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月21日

昭和3年(1928)の今日、丸の内中央亭で開かれた第一回詩人協会総会に出席しました。
 
この席上、光太郎は年鑑編纂委員、評議委員を引き受けたそうです。同年6月には実際に『詩人年鑑1928』がアルスから刊行されました。
 
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いわゆる詩壇の大御所とは深いつきあいをしなかった光太郎ですが、この「詩人協会」はどちらかというと若い詩人を中心に結成されたもので、この時期の光太郎は若い詩人達にカリスマ的存在と見られていました。
 
しかし、その活動は長くは続かず、昭和6年には解散してしまいます。年鑑も1回限りの刊行でした。

昨日から1泊2日で、福島、岩手を巡って参りまして、先ほど帰宅いたしました。覚悟はしていたものの、積雪がすごく、さらには強行日程でしたが、いつにもまして実りある2日間でした。
 
今回廻ったのは、005
 
① 福島市・福島県立図書館さん
② 福島市・明治病院さん
③ 花巻市・花巻市博物館さん
④ 花巻市・鉛温泉さん
⑤ 花巻市・高村山荘/高村光太郎記念館さん
⑥ 岩手郡岩手町・川口公民館さん
 
です。
 
詳細は明日以降、レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月19日
 
昭和28年(1953)の今日、丸善で開かれた彫刻家・土方久功(ひさかつ)の展覧会を観ました。
 
土方は、戦前から戦中にかけ、当時日本領だった南洋パラオで暮らした彫刻家です。

暮れに岩手花巻の浅沼隆様から地元紙『岩手日日』さんが送られてきました。
 
浅沼さんは花巻郊外旧太田村にお住まいで、太田村時代の光太郎をご存じの方です。昨秋、NHKさんで放映された「日曜美術館」で、その頃の思い出を語られました。現在は農業のかたわら、花巻の財団法人高村記念会理事として、現地での光太郎顕彰活動に取り組まれています。
 
送っていただいた『岩手日日』さんの記事のうち、先月6日の記事がこちらです。
 
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光太郎の業績伝えて 高村記念会 市へ美術品5点寄付

 財団法人高村記念会(佐藤進会長)は5日、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が制作した美術品5点(評価額6400万円相当)と記念館整備資金として500万円を花巻市に寄付し、同市太田の高村光太郎記念館で後世に伝えていくよう願った。
 
 寄贈された美術品は▽十和田湖畔裸婦像原型▽光雲還暦記念像(光雲の首)▽少年の首(薄命児頭部)▽裸婦坐像▽手。
 同記念会の佐藤会長、宮澤啓祐理事ら関係者が市役所を訪問、父親の故隆房さんが光太郎と親交のあった佐藤会長は「高村先生のことを忘れてもらいたくない。市から支援を頂いて後世に残したい」と語り、美術品と寄付金の目録を受け取った大石満雄市長は「本物の作品が花巻にあるのはすごいこと。後世に残すため十二分に対応していきたい」と応じた。
 東京出身の光太郎は、宮澤賢治との縁で花巻に疎開し7年間暮らした。
 市は、同市太田の旧花巻歴史民俗資料館を活用し、同記念会が設置・運営して老朽化していた高村記念館の収蔵資料を全て移す計画で「高村記念館」を整備している。光太郎の生誕130年に当たる2013年度は、5月15日の高村祭に合わせてプレオープンした。
 新しい記念館では、今回寄贈された美術品5点を含む光太郎の彫刻、書画、文芸、愛用品などを展示している。光太郎の顕彰施設としては国内唯一で、市賢治まちづくり課によると入館者数は着実に伸びているという。
 14年度も施設や周辺環境の全体整備を継続し、光太郎の疎開70年目に当たる15年度の本格オープンを目指している。

というわけで、昨春仮オープンした高村光太郎記念館で展示されている光太郎ブロンズ彫刻のうち、5点が財団法人高村記念会から花巻市に寄贈され、所有権が移ったという記事です。
 
彫刻の名前が、多少誤解を招きそうなので補足しますが、「十和田湖畔裸婦像原型」とあるのは「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」が正しい名称で、七尺の十和田の裸婦群像の2分の1スケールで作られた試作です。
 
「光雲還暦記念像(光雲の首)」とあるのは、「光雲の首」を正しい名称としています。明治44年に作られた「光雲還暦記念像」そのものは空襲で焼け、現存しませんが、こちらはそのための試作として作られたと推定されているものです。石膏のまま高村家の蔵から見つかり、昨秋亡くなった人間国宝の鋳金家・斎藤明氏がブロンズに鋳造しました。
 
ところで記事にもあるとおり、今後も花巻の記念館の整備が続きます。当方、そちらにも関わっております。
 
それからやはり記事にあった高村記念会の創設者・佐藤隆房に関する企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」が、現在、花巻市博物館で開催中です。当方、来週、観行く予定です。
 
花巻の今後にご注目下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月5日

大正4年(1915)の今日、北原白秋に宛てて年賀状を書きました。
 
麻布区坂下町十三 北原白秋様
 
賀正 大正四年一月五日 駒込林町二十五 高村光太郎 <いつも貴重な雑誌を頂いて居りましてありがたく存じます。>
 
当方、今年もたくさんの年賀状を頂いております。ありがとうございます。

今月26日、岩手の地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

入館者1万2000人超 高村光太郎記念館

 花巻市は、同市太田に今春仮オープンした高村光太郎記念館の入館状況を11月末現在でまとめた。総入館者数は1万2000人を超え、財団法人高村記念会(佐藤進会長)が運営していた旧記念館の2012年度実績を上回る状況。通年開館となり、この冬の入り込みが注目される。

 高村祭に合わせた5月15日の仮オープンより前の旧記念館分を一部含む4月以降の総入館者数は1万2558人。旧記念館の前年度実績(4月1日~12月15日)は1万1143人で、12月分を残して既に前年度の総数を上回っている。

 入館者の内訳は、一般が1万1112人、高校・学生が217人、小・中学生1229人。個人が9695人で全体の77・2%、団体が2863人(63団体)で同じく22・8%。一般は個人観光客、小・中学生は修学旅行などの団体客が8割強を占め、高校・学生は6対4で個人が多い。

 市賢治まちづくり課の高橋久雄課長は「個人客が目立つが、団体客も少しずつ入るようになった。まだ周知不足の面もあり、徐々に広がれば」と期待。さらに「通年開館で、これからの時期は光太郎が過ごした冬の厳しさの一端も感じ取ることができるはず」と話している。

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)は、宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、晩年を過ごした。同記念館は光太郎が独居自炊した小屋(高村山荘)奥の旧高村記念館が手狭で老朽化したため、山荘の手前にあった市の花巻歴史民俗資料館を活用した。

 彫刻作品や文芸、愛用品など約150点を展示し、光太郎の生誕130年に合わせて展示室のみで暫定オープン。疎開70年に当たる15年度の本格オープンに向け、併設の収蔵庫や周辺環境を含めた全体整備を14年度中に進める計画。
 
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記事にあるとおり、今春仮オープンした花巻の高村光太郎記念館ですが、入館者数の昨年実績を上回っているそうです。ただ、実は、対前年比がもう少し伸びていてもいいのかな、というのが正直な感想です。その分、こうして宣伝していただくことが人寄せになるかと思いますので、ありがたいことです。
 
以前は冬期閉鎖でしたが、今年から通年開館。これも記事にあるとおり、これから雪に覆われる時期で、隣接する高村山荘での光太郎の暮らしを偲ぶにはもってこいですね。当方も、来月、また訪れる予定です。みなさんもどうぞ。
 
『岩手日日』さん、前日には当方に関する記事も載せて下さいました。
 
年2回、4月2日の連翹忌と、10月5日のレモンの日に合わせ、当方が刊行している冊子『光太郎資料』。今年10月に出した第40集を紹介していただきました。
 
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当会名簿に載っている方と、光太郎智恵子に関連のありそうな機関に勝手に送りつけているものですが、『岩手日日』さんにも送っており、紹介して下さった次第です。過分なお褒めのお言葉をいただき、恐縮しております。
 
早速問い合わせも何件かあり、ネットとはまた違う「新聞」の力を実感しました。
 
当方が刊行した第37~40集、まだ若干の残部があります。また、来春刊行予定の第41集、現在、鋭意作成中です(そのために一昨日、国会図書館に調査に行って参りました)。必要な方、このブログのコメント欄等からご連絡下さい。送料のみでお頒けしております。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月28日

昭和28年(1953)の今日、十和田湖畔の裸婦像建設委員会がその役目を終え、解散しました。
 
除幕がこの年10月でした。以前にも書きましたが、ちょうど60年です。

ブログ記事のカテゴリは東北岩手としていますが、東京日野でのイベント情報です。  ネット検索で見つけました。

賢治の教え子シリーズその7「クラムボン」 上映会

日 時 : 2013年12月13日(金) 10時~
会 場 : conomiya-cafe 東京都日野市 日野本町 4-22-7-2
問い合わせ:東京賢治シュタイナー学校(担当:竹内様)電話042-523-7112
 
立川にある、幼稚園から高校までの東京賢治シュタイナー学校さんの主催だと思われます。
 
同校にて1990年代に作成されたDVD「宮沢賢治の教え子インタビュー映画」(全8巻+別巻2+総集編1)というものがあります。
 
そのうちの第7巻「クラムボン」(90分)の上映が、上記、日野のカフェで行われる、ということでしょう。
 
さて、その内容なのですが、同校のサイトから抜粋します。

その7「クラムボン」

1999年 90 分
北上川に浮かぶ小舟に乗った宮沢先生と教え子の照井謹二郎さん。その川面にリンゴを落として遊ぶ先生。水面に広がる輪が光を受けて輝く。「きれいだー」と感動し何度もくり返す先生。照井さんは、よく先生に連れられて、山や川に行き、そんな姿を見ていました。その後、幼稚園の園長となった照井さんは、約50年間賢治の童話劇を子どもたちと共に取り組んでいくことになりました。また、浅沼政規さんは詩人高村光太郎や宮沢先生との出会いを語り、「雨ニモマケズ」の詩中の「ヒドリ」をめぐって語ってくれます。
 
故・照井謹二郎氏、故・浅沼政規氏、ともに花巻の方ですが、光太郎とも交流のあった方々です。
 
照井氏は、登久子夫人と共に昭和21年(1946)に子供達による劇団「花巻賢治子供の会」を結成、賢治童話を上演し続けました。そもそもの始まりは、花巻郊外太田村山口の山小屋(高村山荘)に独居していた光太郎を慰安する目的だったようですが、光太郎に激賞され、本格的に公演を行うようになったそうです。
 
浅沼氏は山荘近くの太田小学校山口分教場(のち山口小学校に昇格・下記参照)の校長先生でした。その分教場を光太郎は「風の又三郎の舞台のよう」と言っていました。氏には『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995 ひまわり社)などの貴重な光太郎回想があります。
 
ご子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、花巻の財団法人高村記念会理事として、毎年5月15日の高村祭開催に尽力されています。今年10月に放映されたNHKの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」中の花巻ロケにご出演、生前の光太郎について語って下さいました。
 
そのお二人の出演されたDVDということで、興味深いものがあります。ただ、当方、日程が合わず行けません。残念です。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月3日

昭和23年(1958)の今日、花巻郊外太田村の山小屋近くの山口分教場が山口小学校に昇格、開校式が行われ、詩「お祝いのことば」を朗読しました。
 
  お祝いのことば
 
あのかはいらしい分教場が急に育つて
たうとう山口にも小学校ができました。007
教室二つの分教場が大講堂にかはり、
別に新しい教室が三つもでき上りました。
部落の人々と開拓の人々が力を合せて
こんなに早く学校を建てました。
みんなが時間と資材と労力と、
もつと大きい熱情といふものを持ち寄つて
この夢の実現を果しました。
陽春四月の雪解ごろから
夏のあつい日盛りや秋のとり入れの忙がしい中を
汗水流して材木運びや地均しをした人達の群がりが
今ブルーゲルの画のやうに眼に浮びます。
損得を超越して成就を期した棟梁の人、
骨身を惜しまず仕事にいそしんだ大工さん左官屋さん、
みんな物を作り上げるといふ第一等の喜びを知つてゐる人のやうです。
あの製板の器械のうなり、
あの夜おそくまで私の小屋に聞えてきた槌の音、
まるできのふのやうになつかしく耳に残つてゐます。
山口小学校は名実ともに立派にでき上がりました。
西山の太田村山関といふ小さな人間集団が
これで世間並の教育機関を持つのです。
小学校の教育は大学の教育よりも大切です。
本当の人間の根源をつくるからです。
部落の人も開拓の人もそれをよく知つてゐると思ひます。
異常な熱意がこの西山の一寒村にたぎつてゐます。
狐やまむしの跳梁する山関部落が
世界の山関部落とならないとはいへません。
私は大きな夢をたのしみます。
かはいい山口小学校の生徒さん達の上に
私の夢は大きくのびて遊びます。
あめでたうございます。
一歩前進、
いよいよ山口小学校ができました。
 
上の画像はありし日の旧山口小学校校舎です。残念ながら昭和45年に廃校となり、さらに歴史民俗資料館として活用されていた校舎も老朽化のために取り壊されてしまいました。
 
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この写真は、昭和24年(1949)の今日、開校から1008周年の学芸会の日の一コマです。サンタクロースに扮する光太郎。この写真を見ると涙が出そうになります。どういう思いでこの寒村に7年も一人で暮らしていたのか……。
 
ちなみに後ろに写っている「山口小学校」の看板は光太郎の揮毫、その右の窓から顔を出している少年が、浅沼政規氏ご子息・隆氏だそうです。

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花巻郊外の高村光太郎記念館で購入したグッズの数々です。クリアフォルダ、ポストカードなどは以前からありましたが、一筆箋、レターセット的なものがごっそり増えており、思わずたくさん買ってしまいました。それ以外にも、タオル、日本手ぬぐい、コースターなどなどいろいろ増えています。
 
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花巻市役所近くにある「やぶ屋」さん。稗貫農学校に勤務していた頃の宮澤賢治が通い、光太郎も行ったことがある店です。賢治は天ぷらそばとサイダーを注文することが多かったとか。ショーウィンドウには、賢治をあしらった三ツ矢サイダーの看板が出ていました。
 
なぜか店内レジのそばに光太郎の「初夢まりつきうた」の詩稿(コピー)が額に入って飾られていました。「初夢まりつきうた」は昭和26年、『花巻新報』に発表された詩で、花巻商人をモチーフにしています。のちに作曲され、SPレコードにもなり、数年前にそのレコードが花巻市内で見つかったことがニュースになりました。
 
なぜその詩稿のコピーがここにあるのか、お店の方に伺おうと思ったのですが、当方が行ったのはちょうど昼の混雑時でお店の方も忙しそう。迷惑かなと思い、出直すことにしました。まだすいているであろう時間帯に夕食を早目に食べに来て、お尋ねするつもりでした。しかし、夕方来てみると、「本日都合により午後3時まで」の貼り紙。また一つ宿題が増えました(笑)。
 
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「花巻市博物館だより」です。先日のブログでご紹介した企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」の記事が2ページ載っています。㈶高村記念会さんでいただいてきました。2ページ目のスナップは佐藤隆房夫妻と光太郎です。
 
高村記念会さんといえば、テレビ朝日さんから協力要請があったそうで、その情報をゲットしました。明後日11/15、テレビ朝日系の夕方の情報番組「スーパーJチャンネル」の中で、「誰も知らない紅葉巡り、都電で見つけた小さな秋」という15分のコーナーが放映されるそうです。ただ、その部分は全国放映ではなく、首都圏ローカル枠のように思われます。
 
都電荒川線沿線の「誰も知らない紅葉スポット」ということで、椿山荘近くの水神社、雑司ヶ谷鬼子母神、王子飛鳥山、そして光太郎はじめ高村家の人々も眠る駒込染井霊園が紹介されるそうです。染井霊園の部分で、高村家の墓所、そして高村記念会さんの提供により光太郎の肖像写真が写るとのこと。首都圏の方、ご覧下さい。
 
そして昨日は岩手町での光太郎直筆の看板探訪。現物は見られませんでしたが、所在は確認できました。「佐藤隆房展」とあわせ、また近々行くしかないな、と思っています。 

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おまけ。昨日、盛岡駅で買った駅弁です。ウニが食べたくてこの弁当にしたのですが、偶然にも箸袋の文字と絵は、『白樺』で光太郎と交流のあった武者小路実篤。驚きました。他の方のブログによると、系列のホテルに武者が泊まった時に残した書画を使っているとのことです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月13日

昭和50年(1975)の今日、東大地震研究所が創立50周年記念に光太郎木彫「鯰」のレプリカをあしらったペーパーウェイトを作成、関係者に配布しました。
 
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地震といえば鯰ですが、東大さんもなかなか洒落っ気が利いていますね。意外と重宝しています。

昨日は夕方まで花巻市役所がらみの仕事だったもので、花巻駅前の商人宿に一泊、今日は盛岡のさらに北、岩手郡岩手町というところに行って参りました。
 
昭和27年3月20日の光太郎日記に、以下の記述があります。
 
午前九時半川口村の公民館帷子敏雄といふ人来訪、公民館図書館の看板の字をかいてくれとの事、鈴木彦次郎氏のテガミ持参、承諾。二枚の板を置いてゆく。
 
この年の日記は筑摩書房『高村光太郎全集』第13巻に載っており、北川太一先生が書かれた巻末の解題の部分では「川口村は現在の岩手郡岩手町。この看板は現存するという。」とあります。ただ、それ以上具体的なことは不明で、当方、未だこの看板の現物を見ていません。おそらく北川先も伝聞で書かれたのでしょう。
 
少し前に、ネットでこの看板に関しての記述も見つけました。数年前に書かれたもので、岩手町のいわて沼宮内駅の駅ビル内に郷土資料館があり、そこに展示されているとのこと。
 
そこで、花巻に行ったついでに見てこようと思い、行ってきたわけです。
 
さて、いわて沼宮内駅に着き、駅ビル内のネットに書かれていた場所に行ってみました。しかし、郷土資料館なる施設はありません。該当の場所は「会議室」になっていました。ただ、数年前の書き込みだったので、そういうこともあるだろう、と予想はしていました。その場合には聞き込み捜査をするつもりでいましたので、途中で目を付けていた観光案内所に行きました。すると、「町役場で訊けば分かるかも知れません」との答え。役場の場所を教えていただき、行ってみました。
 
役場では受付の女性職員の方があちこちに内線やら外線やらをかけて下さり、最終的に岩手町の川口公民館につないで下さいました。電話を替わって、これこれこういう物を探している旨を伝えると、の方からは「それならここにある」という答。なんのことはない、元の場所に戻っていたのです。
 
下手すると行方不明になっていたり、廃棄されていたりということもあり得るかな、と思っていたので(実際、他でそういう例があり、憤慨したことがあります)、安心しました。
 
ただ、今日は既に帰りの新幹線の切符を取っていて、川口公民館に廻る時間はありませんでした。また近々行って見てこようと思っています。
 
それにしても、岩手県内陸部は今日も小雪がち008らつき、岩手町では日陰にはかすかに積雪もありました。改めて東北の自然の厳しさを知った道中でした。
 
明日も岩手レポートを書かせていただきます。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月12日

昭和63年(1988)の今日、光太郎を敬愛し続けた詩人・草野心平が歿しました。
 
昭和32年(1957)、第一回連翹忌の発起人の一人として案内文を書いた心平。その後も自身が亡くなるまで光太郎顕彰に取り組み続けました。いわば当会の祖、当方の大先輩です。

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岩手花巻に来ています。

7月以来、久しぶりに郊外太田地区にある、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで暮らした高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館に行って参りました。

予想通りに紅葉がいい感じに色づいていました。

記念館で驚いたのは、グッズがかなり増えていたこと。帰ってから画像入りで紹介します。

市街地に戻って、昼食を宮沢賢治がよく行った「やぶ屋」という蕎麦屋で食べました。ここは光太郎も行ったことがある店です。賢治がよく注文したというてんぷらそばを食べました。なかなか美味でした。こちらについても帰ってからレポートします。

そのうち空模様が怪しくなって来たと思ったら、雨が降り出し、さらに夕方には雪に変わりました。積もるような勢いではありませんが、11月中旬にもう雪とは……。

明日は盛岡方面です。

【今日は何の日・光太郎】 11月11日

昭和31年(1956)の今日、TBS系テレビでドラマ「智恵子抄」が放映されました。
 
映画も含め「智恵子抄」初めての映像化でした。キャストは光太郎役が宮口精二さん、智恵子役で新珠三千代さんでした。

花巻市の東方、宮沢賢治記念館近くにある花巻市博物館で、来月から以下の企画展が開催されます。

共同企画展 ぐるっと花巻再発見! 佐藤隆房展―醫は心に存する― 

期 日 : 平成25年12月1日(日)~平成26年2月11日(火・祝)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松第26地割8-1
時 間 : 8:30~16:30
休館日 : 12月28日から1月1日まで
料 金 : 小、中学生 150(100)円 高、学生 250(200)円 一般 350(300)円
 
 花巻における近代病院の礎となった花巻共立病院。(現【公財】総合花巻病院)を創立し、花巻の先進医療化に寄与するとともに、町政・市政へ多大な貢献をされた佐藤隆房博士。
また、宮沢賢治、高村光太郎など花巻ゆかりの文人と広く親交を持ち、芸術・文化の世界にも深い理解と造詣を有した一面もありました。
今回の展覧会では、御子息の佐藤進氏、(公財)総合花巻病院の全面的な御協力のもと、医師としての活動、市政功労者としての活動、文化・芸術の理解者、庇護者としての活動、さらに乗馬や狩猟、俳句・絵画など趣味人としての活動等、佐藤隆房博士を多角的に顕彰・紹介していきます。(同館サイトより)
 
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佐藤隆房医師は、宮澤賢治の主治医。その関係で、昭和20年(1945)に空襲で東京のアトリエを失った光太郎を花巻に招くのに一役買いました。
 
花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したり、終戦直後の短期間、光太郎を自宅に住まわせたりもしています。その後も足かけ8年花巻及び郊外太田村で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後は、花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。
 
この企画展では、おそらく光太郎関連の品々もいろいろ展示されると思われます。これから雪深い時期となりますが、雪の花巻も乙なもの。また、今年5月にリニューアルとなった花巻郊外の高村光太郎記念館も、かつては冬期間閉鎖でしたが、今年から通年開館となります。併せて足をお運び下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 11月8日

平成9年(1997)の今日、洋画家・難波田龍起が歿しました。
 
難波田は北海道旭川の生まれ。幼少時に父の仕事の都合で東京に移り、数え9歳の時に駒込林町の光太郎アトリエのすぐ裏に転居。十代の頃から詩を携えて光太郎アトリエに出入りしていました。その後、光太郎の勧めもあって洋画の道に進んでいます。往年は連翹忌にも参加していました。

一昨日の千葉市美術館での講演会においで下さった宮城在住の朗読家・荒井真澄様から花巻のお土産をいただきました。先日、花巻に行かれたそうで、現地で手に入れられたものをお持ち下さいました。ありがたいことです。
 
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『花日和』夏号(2013/6)。花巻で発行されているタウン誌のようなものです。
 
この中に「シリーズ先人紀行 高村光太郎」3ページ掲載されています。
 
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5月に仮リニューアルオープンした高村光太郎記念館の紹介も。新聞を除き、きちんとした印刷物で紹介された先駆けではないかと思われます。
 
調べてみましたところ、花巻市役所のサイト内で紹介がありました。PDFで全文が読めます。ぜひご覧下さい。
 
光太郎以外にも宮澤賢治についても記述があります。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月9日

明治40年(1907)の今日、留学先のロンドンで、カーライル博物館を訪れました。
 
スコットランド出身の歴史家・評論家トーマス・カーライルの旧宅を一般公開していたもので、かの夏目漱石もイギリス留学中にここを訪れ、帰国後の明治38年(1905)に「カーライル博物館」という紀行文を発表しています。

先ほど、2泊3日の行程を終え、花巻から帰って参りました。
 
昨日は、旧太田村の高村山荘近くにある旧高村記念館にこもり、まる1日、寄贈された図書等の分類整理を行いました。
 
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旧記念館の看板 草野心平筆です。
 
山荘近くにお住まいの方の蔵書だったもので、その方が脳溢血で倒れ、蔵書が花巻の記念会に寄贈されたのですが、かなり膨大な量で、リストもなく、入手経路等もほとんど不明のものです。
 
先月、新たな記念館のオープンの際に行ったときにも少しその作業をやったのですが、今回は完全に分類整理し、リストを作成するつもりで行きました。
 
調べてみると、かなり貴重なものも含まれていました。
 
まず光太郎から島崎藤村の三男、蓊助(おうすけ)にあてた葉書が4通。既に『高村光太郎全集』に収録されているものですが、貴重なものです。
 
さらに光太郎の識語署名入りの著書が2冊。これも珍しいもの。このあたりは新しい記念館に展示されてもおかしくないものです。
 
その他、光太郎の蔵書だったもの。光太郎宛の献呈署名が入っている書籍がけっこうありました。中には『念ずれば花ひらく』で有名な仏教詩人・坂村真民からのものもありました。
 
また、昭和20年から27年にかけての雑誌が山のようにあり、どうも光太郎の元に送られてきたものだと思われます。光太郎の山小屋にはこういう若い詩人の著書や雑誌類がたくさん送られていて、光太郎は、特に手元に残す必要がないと思ったものは村の人々にあげてしまったりしていました。
 
そういったもののの分類は終わり、リストまで作成し終わるつもりでいましたが、時間が足りませんでした。最後の頃は頭もクラクラしてきましたし。あと半日あれば終わっていたのですが、結局途中で断念、また近いうちに行って最後の仕上げをします。この書籍類、いずれは新しい記念館で何らかの形で活用されるとのことです。
 
ちなみに頭のクラクラ、かなりひどかったのですが、花巻の記念会の方に車で宿(大沢温泉)に送っていただき、ゆっくり温泉につかったら治りました。大沢温泉、すばらしい(笑)。
 
新しい記念館、といえば、先月の仮オープン以来、閑古鳥が鳴いていないかなどと心配していましたが、あにはからんや、けっこう団体のお客さんがお見えだそうです。実際、昨日もこちらの昼食休憩の時に大型バスが一台。なんと智恵子のふるさと・福島安達の農業関係の団体様でした。ありがたいことです。
 
さらに新しい記念館、といえば、ホームページがリニューアルされました。ご覧下さい
 
ご覧下さい、といえば、いよいよ明日から千葉市美術館において企画展「彫刻家高村光太郎展」が始まります。こちらもぜひご覧下さい。当方、明日は午後から観に行き、夕方から館主催のオープニングレセプションに出席いたします。
 
花巻から帰ってきましたところ、図録が届いていました。担当学芸員さん曰く「自分の葬儀の時には今回のポスターと図録を棺に入れてほしいほどの出来」。たしかに実に立派なものです。こちらもぜひお買い求め下さい。
 

【今日は何の日・光太郎】 6月28日000

昭和20年(1945)の今日、花巻市桜町に建っていた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑を初めて訪れました。
 
碑文はかつて昭和11年(1936)に、花巻の関係者からの依頼で光太郎が「雨ニモマケズ」の後半を書いたもの。後に昭和21年(1946)には、碑文に誤りがあるのを知った光太郎が碑面に訂正を書き込み、石屋さんがその場で刻むというちょっと変わった訂正がされました。
 
ところで「雨ニモマケズ」の一節で、一般に「ヒリノトキハナミダヲナガシ」とされている部分、元々賢治が手帳に書いた段階では「ヒリノトキハ」でした。
 
それが現在、一般には「ヒリ」と改変されています。そのことに是非についてはここでは論じませんが、時折、「光太郎がその改変をした」という記述を見かけます。
 
光太郎の名誉のためにこれだけは書いておきますが、それは誤りです。確かにこの碑でも「ヒリ」となっていますが、それは花巻の関係者から送られた原稿の通りに光太郎が書いただけで、光太郎はこの改変には一切関わっていませんのでよろしくおねがいします。

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昨日から花巻に来ています。

昨日はまず花巻病院内にある財団法人高村記念会さんにお邪魔しました。

花巻病院と言えば、宮澤賢治の主治医だった佐藤隆房医師が院長でした。佐藤医師は宮澤家ともども戦災で焼け出された光太郎の花巻疎開に関わり、さらに宮澤家が空襲に遭った後は、自宅の一室を光太郎に提供したりもしました。

光太郎が郊外の太田村に移ってからも何くれとなく世話をしたり、光太郎没後には財団法人高村記念会を立ち上げ、花巻での顕彰活動を推進したりしました。

そうした経緯で病院内に高村記念会の事務局があるのです。ちなみに事務局の外にある花壇は宮澤賢治の設計によるものです。

さて、事務局で最近花巻で新たに出てきた光太郎書簡を見せていただき、その後寄贈してくださったお宅のご婦人のもとに行き、お話を伺いました。

昭和21年(1946)のもので、原稿用紙二枚。封筒も残っていました。宛先は宮澤賢治の妹の婚家です。『高村光太郎全集』第12巻に収録されている光太郎日記と内容が一致し、貴重なものです。

来春刊行予定の『高村光太郎研究』内の当方の連載、「光太郎遺珠」にて詳細を公表します。

その後、駅近くの 西公園へ。光太郎が講演を行ったこともある旧花巻町役場が移築されていたり、光太郎も利用した花巻電鉄の車両「デハ3」が静態保存されたりしており、興味深く拝見しました。
今日はこれから高村山荘方面に行き、寄贈された資料の整理、リスト作成です。

【今日は何の日・光太郎】 6月27日

昭和22年(1947)の今日、確定申告の書類を記入しました。

昨日、光太郎が足かけ8年暮らした花巻にある大沢温泉さんについて書きました。今日も関連するネタで行きます。

まず、大沢温泉さんの公式ブログから引用させていただきます。

高村光太郎ゆかりの温泉!

先日、5月15日高村祭がありました。今年は生誕130年ということで、新たに「高村光太郎記念館」が開館しました。
特別講演には女優の「渡辺えり」さんを迎えてのイベントもありました。

大沢温泉は高村光太郎ゆかりの温泉として知られており、山水閣の「牡丹の間」は高村光太郎が宿泊の際には必ずご指定されていたというお部屋です!現在は建て直しましたので復元した形となってますが・・・

そして今年の高村祭の特別講演渡辺えりさんに直筆の書を頂戴いたしました!
お忙しい中ありがとうございます!
館内に展示したいと思います!
 
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先月の高村祭の折、記念講演をなさった渡辺えりさん。牡丹の間にご宿泊でした。以前、お父様が高村祭記念講演をなさった際にも牡丹の間にお泊まりになったとのこと。現在、牡丹の間の床の間にはお父様の書かれた色紙が飾られています。
 
そのあたり、渡辺さんのブログに書かれています。さらに高村祭翌日の花巻市文化会館での講演会についても。
 
光太郎が暮らした小屋・高村山荘に隣接する高村記念館さん。リニューアルされて1ヶ月たちました。その後、現地の状況がどうなのか-閑古鳥が鳴いていないかなど-気にかかるところです。来週、また行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月20日

昭和16年(1941)の今日、16日から開かれ、委員として出席していた大政翼賛会第一回中央協力会議が最終日を迎えました。
 
光太郎は18日の教育文化に関する第六分科会で第185号議案として「芸術による国威宣揚について」と題し、提案しています。

来週、また花巻に出向くつもりで居ります。
 
そこで、定宿にしている大沢温泉さんで宿を取ろうと思い、ネットでアクセスしました。すると、以下のページが。

宿泊プラン大沢温泉 山水閣 【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!

部屋タイプ 和室 高村光太郎が愛用した 「牡丹の間」 トイレ付 ※バスなし
高村光太郎が愛用したお部屋を復元したものです。
10畳+6畳+3畳でさらに広縁があり非常にゆったりとしています。
光太郎の書画などあり、当時のままを復元しておりますのでクラシックな感じのお部屋です。
お部屋からは渓流「豊沢川」と四季折々の山々の景色を楽しむことができます。
洗浄器付きトイレ/冷・暖房/金庫/冷蔵庫(持ち込み可能)
 
[ プラン内容 ]
いつもと違った雰囲気を楽しみたい方おすすめ!10畳+6畳+3畳の3間つづきでゆったりくつろげる山水閣に1部屋しかないお部屋。高村光太郎が来館の際にはいつもご指名でご利用いただいていたお部屋を移転復元した記念のお部屋です。新館1階の一番奥にあり離れの様な佇まいの特別室となっております。

今回期間限定につき通常価格から1,575円(税込)引きで販売させていただきます。

豊沢川や四季折々の対岸の景色を堪能でき、高村光太郎お気に入りだったお部屋であなたも芸術家の気分となって過ごしてみませんか?

ご夕食はゆっくり過ごすお部屋食!
お食事は花巻産プラチナポーク(白金豚)を含め月替わりの会席膳 全11品
(4名様までお部屋にお持ちします。5名様以上はお客様だけの個室宴会場でのお食事となります。他のお客様とは一緒になりません)
朝は 朝食会場「松風」にて7:00~9:00までの和洋のバイキングとなります。

由来となった「牡丹」(絵画)は高村光太郎の作品でお部屋の入口にレプリカですが飾ってあります。
また、新築の際復元するにあたり当時の木材や格子などそのまま使用しておりますのでクラシックな感じのお部屋となっております。


大沢温泉さんは、通常の温泉旅館的な「山水閣」、主に長期滞在の湯治客用の「自炊部」、築160年の離れ「菊水館」の三つに分かれています(当方、菊水館を定宿としております)。経営は一緒のようで、サイトのトップページは同じです。
で、山水閣のいわばスイートルームに当たるのが「牡丹の間」。建物自体は近代的にリニューアルされていますが、この部屋は昔、光太郎がよく泊まっていた部屋の部材や調度を随所に使い、当時の面影を残しています。当方、泊まったことはありませんが、中には入ったことがあります。
その部屋が、期間限定プラントいうことで、安くなっているそうです。
とはいってもやはりそこそこの値段ですので、今回も当方は料金の安い菊水館に泊まります。こちらも光太郎が泊まったことがあり、さらに当時の建物のままです。ただ、どの部屋に泊まったのかは定かではありません。
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菊水館
 
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左奥が山水閣・右手が自炊部
 
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混浴露天風呂・大沢の湯(3館共通)
 
さて、山水閣のプラン「【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!」。これから花巻にご宿泊予定の方、ぜひご検討ください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月19日

明治40年(1907)の今日、ニューヨークからイギリスに向け、ホワイトスターラインの豪華客船「オーシヤニック」に乗って、大西洋に出港しました。

今朝の『朝日新聞』さんの記事です。

三陸復興国立公園を指定 八戸から気仙沼の海岸線

環境省は24日、東日本大震災で被災した三陸地方の自然公園を再編成し、青森県八戸市から宮城県気仙沼市までの海岸線を「三陸復興国立公園」に指定した。リアス式海岸などの自然を生かした復興を進める。
 
 岩手、宮城両県に広がる陸中海岸国立公園に、青森県の八戸市と階上町にまたがり、ウミネコの繁殖地などがある種差海岸階上岳県立自然公園を編入した。面積は陸域1万4635ヘクタール、海域4万1300ヘクタール。景観や海鳥の繁殖地、野生植物を保全しながら観光や体験学習の場として利用し、農林水産業を活用したエコツーリズムの支援もする考えだ。八戸市にはビジターセンターを建設する。また、沿岸部の歩道を「みちのく潮風トレイル」として再整備する。これは八戸市から福島県相馬市までの沿岸部約700キロを結ぶ予定だ。
 
 今後、宮城県の南三陸金華山国定公園の同国立公園への編入も2014年中に目指す。将来的には宮城県にある松島など三つの県立自然公園の編入も視野に入れている。
 
 石原伸晃環境相は24日の閣議後会見で、「美しい自然、景観、豊かな文化を感じていただき、地域が活性化していくことを希望している。震災復興に貢献する国立公園を実現する第一歩と考えている」と述べた。
 
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このブログで何度か紹介してきましたが、三陸海岸は、昭和6年に光太郎が約1ヶ月、旅して歩いたゆかりの地です。
 
8月9日には宮城の女川で、「女川光太郎祭」が開催されます。当方、今年は講演の講師として招かれました。それもあって、今秋刊行予定の冊子『光太郎資料40』では、「昔の絵葉書で巡る光太郎紀行」という項で三陸を扱おうと思い、執筆中です。
 
久慈市はNHKの朝ドラ「あまちゃん」の舞台ともなり、ドラマさながらに観光客が増えているという報道も目にしました。過日、花巻で渡辺えりさんにきいたのですが、今後、「あまちゃん」では宮沢賢治をからめたエピソードも入るとのこと。ついでに(笑)光太郎もからめてほしいところです。ただし光太郎、久慈までは足を伸ばしていませんが。
 
さて、「三陸復興国立公園」。何にせよ、復興支援になるのであれば歓迎したいことですね。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月25日

大正2年(1913)の今日、意見の食い違いから、光太郎も参加していた美術団体「フユウザン会」が解散してしまいました。
 
後に光太郎は同人だった岸田劉生、木村荘八らと生活社を結成します。

花巻へ3泊4日の旅を終え、帰って参りました。
 
一昨日の高村記念館仮オープン、第56回の高村祭と、あちこちで報道されています。
 
まず、昨日の地元紙2紙、大きく取り上げていただいていたのでコンビニで購入してきました。
 
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こちらは『岩手日報』さん。花巻支局の美人記者さん、がんばりました。見開き2ページで特集記事を組んでくださいました。
 
渡辺えりさんの講演の模様も。
 
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ちなみに一番下には当方のコメントも写真入りで掲載されています。
 
それから『岩手日日』さん。こちらは県内社会面で大きく取り上げてくださいました。
 
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こちらの2紙、渡辺さんにも差し上げました。今日あたり、山形で入院されているお父様のお見舞いに行かれるそうで、「いい土産ができた」と喜んでらっしゃいました。

ネット上では『河北新報』さんと『読売新聞』さんの記事が無料で読めました 

光太郎の足跡、後世に 新記念館がきょうオープン 花巻

岩手県花巻市で晩年の一時期を過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の作品を後世に残そうと、同市がことしの生誕130周年に合わせて整備した新しい記念館が15日、開館する。

新記念館は、同市太田の市歴史民俗資料館を衣替えする形で整備。旧記念館の約3倍の216平方メートルに「彫刻」「文芸」「書画」「花巻」「智恵子」の5テーマ別に、作品や愛用品など約300点を展示。代表作の彫刻「手」や詩集「智恵子抄」の初版のほか、眼鏡や彫刻刀などが光太郎の息遣いを伝える。花巻では初公開になる生前の映像も見られるという。
高橋久雄館長は「初展示の作品が15点あり、解説も充実させた。光太郎の生活、作品に親しんでほしい」と話す。
旧記念館は1966年開館。高村記念会が管理していたが、手狭で空調設備がないため、同会と市が整備を検討していた。新記念館は当面市が運営し、年間1万5000人の来館者を見込む。収蔵庫などの整備が残っており、2015年度の完成を目指す。
15日は午前9時から開館式を行い、高村山荘詩碑前で「高村祭」を開く。開館は午前8時半~午後4時半。入館料は一般350円、高校生・大学生250円、小中学生150円。15日は無料。連絡先は0198(28)3012。
(河北新報) 

光太郎記念館プレオープン きょう花巻市直営で

花巻市に新しい高村光太郎記念館(花巻市太田)が15日、市直営施設としてプレオープンする。花巻歴史民俗資料館を改装した新記念館は、高村光太郎の花巻移住70周年となる2015年に本格オープンする。
高村光太郎(1883~1956)は1945年、親交があった宮沢賢治の弟・清六氏を頼って花巻市に疎開、7年間を過ごした。地元の財団法人高村記念会が運営していた旧記念館は、農耕自炊の生活を送りながら創作活動を行ったあばら家「高村山荘」そばにあったが、手狭な上に資料の保存管理体制が十分でなく、財団法人が市に近くの資料館の活用を要望していた。
新記念館はプレオープン時で、旧記念館と比べ、展示スペースが3倍近くの216平方メートル、展示品も20点ほど多い約150点になる。彫刻、文芸、書画、花巻での暮らしなど五つのテーマごとに展示する。十和田湖「乙女の像」の試作ブロンズ像など従来の展示品に加え、花巻空襲後に詠んだ詩など、これまで展示できなかった書画や詩など15点も並ぶ。
花巻での暮らしぶりがわかる映像の上映も予定しており、館長の高橋久雄・市賢治まちづくり課長は「光太郎の新たな魅力を再発見してもらえれば」と話している。
入館料は一般350円など150~200円値下げし、2013年度の入館者は前年度より約4000人多い約1万5000人を見込んでいる。15日は入館無料。
2013年5月15日 読売新聞)
 
ちょうど新緑の美しい季節です。ぜひ、足をお運びください!
 
【今日は何の日・光太郎】5月17日

昭和20年(1945)の今日、疎開した花巻で高熱を発し、肺炎と診断されました。

このあと1ヶ月、宮澤家で床に臥します。

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【今日は何の日・光太郎】5月15日

昭和20年(1945)の今日、疎開のため花巻に向け、東京を発ちました。


というわけで、毎年今日は花巻で高村祭が開催されており、昨年に続いて今年も参加いたしました。

今年はこの日に合わせ、仮オープンとなる高村記念館開館式がまずありました。花巻市長を始めとする皆さんにより、テープカットが行われ、めでたく一般公開スタートです。関係者の皆様(自分もですが)、お疲れ様でした。

その後、例年の通り、高村祭。昨年は雨のため、屋内での開催でしたが、今年は山荘近くの「雪白く積めり」詩碑前広場で実施できました。

地元小中高生、看護学校生の皆さんによる音楽演奏や朗読の後、渡辺えりさんの講演でした。人気女優、しかも岩手県を舞台にしている朝ドラ「あまちゃん」のレギュラーということで、立ち見もたくさん出る盛況でした。

午後は宮城からいらした朗読の荒井真澄さん、大阪から駆けつけた光太郎研究会の西浦氏とともに山荘付近や新しい記念館、花巻駅近くの林風舎さん(宮澤賢治関連ショップ&カフェ)などを巡りました。

宿で撮ったローカルニュース画像を載せます。

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今日から三泊四日の日程で花巻です。

花巻郊外、旧太田村に今も残る光太郎が7年暮らした小屋「高村山荘」周辺で、明日は光太郎祭があり、それにあわせて近くに高村記念館が仮オープンします。

今日は報道関係向けの内覧会があるということで、1日早く現地入りし、解説をしました。館内の説明ボードの文面を当方が執筆しましたので、そういった関係です。

明日の高村祭では、特別講演として渡辺えりさんが来花、光太郎と交流のあったえりさんのお父様のお話などが聴けると思います。

詳細はまた後ほど。

【今日は何の日・光太郎】5月14日

明治43年(1910)の今日、神田淡路町で光太郎が経営していた画廊「ろうかん洞」(携帯で漢字が出ません。「ろう」は王へんに良、「かん」は同じく王へんに干です)で、画家の正宗得三郎の個展を開きました。

一昨日でしたか、花巻の財団法人高村記念会様から、5/15の高村祭のご案内をいただきました。
 
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水曜日なのでいろいろ大変でしょうが、ご都合のつく方はいらしてください。画像の通り、渡辺えりさんの講演『光太郎と父』があります。
 
同じ日にリニューアルされた高村記念館の仮オープンです。財団法人高村記念会様から、メールでいろいろな図面などが送られてきました。今までは、はっきりいうとごちゃごちゃした展示でしたが、今度は広い建物を利用できるということで、すっきりした展示のようです。当方、館内に展示する説明版の執筆を頼まれまして、昨日、メールにて送付しました。
 
さて、別件ですが、このブログ、昨年の5月3日に開設しまして、今日の投稿が365件目です。とりあえず1年間、1日も休まずに更新しました。今後も地道にやっていきますのでよろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】5月2日

昭和23年(1948)の今日、太田村の開拓事務所で、保健婦さんにビタミンB1の注射をしてもらっています。

岩手県花巻市のHPから、『広報はなまき』がPDFで閲覧できます。
 
その4月15日号、光太郎関連情報が満載です。
 
まず「高村光太郎130周年」と題し、見開き2ページで光太郎と花巻、賢治のつながりなどの紹介。それから以前のブログでご紹介した太田地区にある光太郎記念館新装に関して詳しく書かれています。

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続いて、次のページに各種イベントの案内

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日付順に、市内矢沢地区にある宮沢賢治記念館での特別企画展「高村光太郎と宮沢賢治」。4月27日(土)から8月7日(水)だそうです。
 
それから5月15日(水)は、光太郎が過ごした山小屋周辺での「高村祭」。昨年初めて参加させていただきましたが、地元の人々による朗読や、講師を招いての記念講演などがあります。今年の講師は渡辺えりさんです。昨年は雨だったため、近くの屋内運動場での開催となりましたが、本来、新緑の森の中、光太郎詩碑の前で行われるイベントです。
 
そして翌16日にも渡辺さんの講演会。こちらは午後6:30~7:30、花巻駅近くの文化会館大ホールでの開催です。
 
以前のブログにも書きましたが、渡辺さんのお父上が光太郎と交友があり、渡辺さんは子供の頃、家に飾ってあった光太郎の写真を見てご自分のおじいさんだと思いこんでいらしたとのこと。一昨年、昨年と、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」の公演をなさいましたので、そのあたりのお話が聞けることと期待しています。
 
是非、足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】4月16日

昭和3年(1928)の今日、東京会館で光雲喜寿の祝賀会が催され、智恵子ともども壇上に並びました。

この際の模様を、後に詩「のつぽの奴は黙つてゐる」(昭和5年=1930)で自嘲的に描いています。

【今日は何の日・光太郎】3月14日

昭和25年(1950)の今日、講演旅行を終え、地元の青年二人の引く橇(そり)に乗って花巻郊外太田村山口の山小屋に帰りました。
 
『高村光太郎全集』別巻収録の年譜によれば、「三月十日、秋田県横手町で講演、二、三日滞在し、黒沢尻をまわって十四日に帰る。」の記述があります。『全集』には漏れていましたが、13日には黒沢尻町(現・北上市)でも講演を行いました。その際の筆録が残っており、「高村光太郎講演会」という題で「光太郎遺珠④」(平成21年=2009『高村光太郎研究(30)』所収)に収めてあります。
 
この筆録は岩手県北上市教育委員会発行の『きたかみ文学散歩』(平成16年=2004)から転載させていただきました。筆録の最後には、筆録をした黒沢尻町の小学校教諭斎藤充司による「●おしまいに」という短文が附されています。
 
講演の日、高村先生は、森口氏宅でにわとりの丸焼きを食べ、十四日の朝、郡司忠治氏と菊池啓治郎氏がつきそって山口の小屋に帰っていきました。雪道をそりにのせて、二人は汗だくだったようです。十三日の食事には、森口氏、郡司直衛氏、郡司忠治氏、小田島専司氏が加わっていました。
 
また、一緒に食事をした郡司直衛氏の回想も載っています。
 
 黒沢尻の駅に降り立った高村光太郎は、大きな防空頭巾にどんぶくはんど(綿入レ半纏)を着てリュックサックに防寒靴。全くの村夫子然。日本で初めてベレー帽をかぶって銀座を歩いたモダンボーイと誰が思うものか。
 横手の雪をみての帰途、「もう私には残された時間がないから」と云うのをお願いして講演会を開く。その講演に先立ち、お昼を茅葺の民家の二階で差し上げた。そこには空襲で家を焼かれた森口多里が疎開していた。
 その日は昭和二十五年の「三月十三日」。光太郎の誕生日であった。昼食のメニューは鶏の丸焼きにコリフラワとオニオン添え、これは森口夫人の力作で、それに母が手造りの五目ずしという簡素なものであった。具が美味しいとほめられる。母は「高村さんに褒められた」と一生の自慢であった。卓上には発酵し始めた山ぶどうの赤い液が、切子の徳利に入れて添えられていた。当時これが精一杯のもてなしであった。
 食卓は淋しかったが、美の奉仕者である二人の会話は途切れることなく続いた。ロダンの誕生日の話、ハムレットを見ながら気が付くと眼鏡を握りつぶしていた話などなど。森口はパリの街のどこの通りの、何番目のマロニエのどの枝が、一番早く花を咲かせるか知っていると自慢気に話した。二人のパリの思い出は盡きなかった。
 木マンサクもキブシも花にはまだ早く、ネコ柳を一本根元から切って、有田焼の染付の大花瓶に投げ入れ、講演会の壇上を飾った。会場は身動きできぬ程の聴衆で溢れていた。
 講演を終えて、「誕生日には智恵子と食事をするのです」というのを無理に引き止めてお泊まり頂く。翌朝、長ぐつを履こうとする足の大きなこと、靴に添えられた手の大きなこと。私は高村光太郎が〝美の世界の巨人〟であることを、そのときこころではなく、目で理解したのであった。
 
森口多里は美術評論家。岩手県立盛岡美術工芸学校の校長を務めていました。この直後、15日に光太郎から森口に宛てた書簡(『全集』第15巻)が残っています。
 
このたびは思ひもかけず黒澤尻で誕生日を迎へることとなり、貴下はじめ御家族一同のまことにお心こもつた饗宴にあづかり、忘れがたい記念の一日となりました事を深く感謝いたします。あの豪華なチキンをこの日いただいた事をたのしく思ひ出します、又帰途御恵贈の栄養物は山にては中々入手困難のものとてありがたく存じました、 帰路青年達二人に小屋まで送られ、小生足を痛め居りました事とて雪中の行進に大いに助かりました。(略)奥様御令嬢はじめ御一同様にくれぐれもよろしく小生の感謝をお伝へ下さい、
 
この満67歳の誕生日については、昭和51年(1976)読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 201人の証言』にも記載されています。
 
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まだ戦争の爪痕が残り食糧事情も良くなかった時代に、このような歓待を受け、さらに青年二人の引く橇に乗って帰った光太郎。岩手の人々に敬愛されていた証でしょう。

再三お伝えしています花巻の高村記念館リニューアルに関する続報です。
 
まず花巻市HPから市長さんの施政方針。3/1の議会で発表されたようです。 

市長施政方針演述 平成25年第1回(平成25年3月議会) 抄

 平成25年度の目標と力点001
  よって、平成25年度はこれまで築き上げてきた賑わいと活気を逸することなく、観光、スポーツそして文化で、更に熱く強く逞しく、賑わいと活気ある一年を創出してまいりたいと思います。
 まず、観光面では、昨年「いわてデスティネーションキャンペーン」が展開されましたが、アフターデスティネーションキャンペーンとして、好評を博した花巻BB(べつばら)フェアを開催するとともに、新たに宿泊型観光を推進するための花巻オリジナルツアー「銀河鉄道の夜」を巡るツアーの運行や「SL銀河鉄道」の活用など、広域観光の拡大にも取り組んでまいります。
 また、スポーツのイベントとしては、プロバスケットボールbjリーグや日本ハンドボールリーグなど昨年開催した大会をはじめ、新たに全日本マスターズハンドボール大会、全国選抜フットサル大会、全日本クレー射撃選手権大会、バドミントン日本リーグ、全国女子選抜フットサル大会など、スポーツコンベンションビューローのサポートのもと、年間を通して全国レベルの大会を積極的に開催してまいります。
 そして、今年からは特に文化によるまちづくりにも力を入れてまいります。
 「賢治さんの香りあふれるまちづくり」がスタートして2年目の今年は、賢治さんが亡くなってちょうど80年目の年にあたります。この節目のイベントとして冨田勲氏が手掛け日本フィルハーモニー交響楽団が演奏する「イーハトーヴ交響曲」の公演を行うとともに、NHKのど自慢が当市で開催されます。また、市博物館では、賢治作品などを題材にした「藤城清治 光と影展」を開催するほか、特別展「北斎漫画展」の開催など市民をはじめ県内外の皆さんに、普段目にすることができない芸術作品を紹介する機会を設けてまいります。
 さらには、賢治生誕120年となる2016年(平成28年)を目標に、今年から宮沢賢治記念館や宮沢賢治童話村一帯を「賢治胡四王の森」として、ハード・ソフト両面の整備に着手してまいります。また、新幹線新花巻駅から「賢治胡四王の森」までの区間につきまして、賢治にちなんだモニュメントや案内板を整備してまいります。
 加えて、今年は高村光太郎生誕130年の記念の年となっていることから、花巻歴史民俗資料館を新たに高村光太郎記念館として改修整備し、国内唯一の記念館としての価値を高めてまいります。


続いて『毎日新聞』岩手版の報道。 

花巻市:13年度当初予算案 スポーツ施策重点 一般会計は前年度2.1%減 /岩手

毎日新聞 2013年03月01日 地方版
 花巻市は前年度比2・1%減の総額426億1030万円の13年度一般会計当初予算案を発表した。16年度の岩手国体を念頭にスポーツ施策や、文化施設整備に重点配分した。

 歳出のうち、スポーツ施設整備に約3億3900万円、スポーツ大会・合宿誘致に約950万円を計上。文化関連では、宮沢賢治生誕120年を迎える16年をめどに全面改修を予定している宮沢賢治記念館の設計費などを含む「賢治のまちづくり推進事業」に約1億2300万円、高村光太郎記念館整備にも約1400万円を計上した。  


さらに地元紙『岩手日報』の報道です。 

光太郎作品、ゆったり鑑賞 花巻の記念館が移転

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する花巻市太田の高村記念館が5月、3倍以上の広さとなって生まれ変わる。生誕130年の節目に合わせ、約300メートル先の市花巻歴史民俗資料館に移転し、手狭で作品が〝すし詰め〟だった状態を解消。ゆったりとした空間で、光太郎の作品と偉業をさらに輝かせる。
 移転後の床面積は約330平方メートルとなり、十分な空間の中で作品を展示することが可能。作品や光太郎に関する解説も充実させていく。今の記念館にはない空調設備の設置で、後世に作品を残す環境も整う。冬季休館(12月16日~3月末)はやめ、通年開館にする。
 移転日は、光太郎が東京で戦災に遭い、花巻市に疎開した45(昭和20)年の日付にちなんで5月15日。資料館の花巻人形やこけし、農具などは同市高松の市博物館に移す。
【写真=高村光太郎の顕彰施設として生まれ変わる市花巻歴史民俗資料館。展示スペースは現在の高村記念館の3倍超の広さとなる】


4/2の連翹忌では、花巻高村記念会の皆様に詳しいお話を聴けるのではないかと期待しております。

 
【今日は何の日・光太郎】3月3日

昭和28年(1953)の今日、草野心平が経営していた伝説の居酒屋「火の車」を訪れました。

昨日のブログで御紹介した岩手花巻の高村記念館リニューアルの件、『読売新聞』さんの岩手版で昨日報道されました。

花巻歴史民俗資料館、光太郎記念館に衣替え

 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)が戦中戦後に暮らした花巻市に5月、新たに高村光太郎記念館がオープンする。生誕130年を迎えるのを機に市が同市太田の花巻歴史民俗資料館を記念館に刷新する。
 
 高村光太郎は、太平洋戦争末期、親交のあった宮沢賢治(1896~1933)の弟・清六氏(1904~2001)の家があった旧花巻町(現在の花巻市)に疎開。戦後は旧太田村(同)のあばら家に移り、7年間、農耕自炊の生活を送りながら創作活動を行った。
 
 太田地区には、そのあばら家が「高村山荘」として保存されており、近くには光太郎を顕彰する国内唯一の記念館が財団法人高村記念会(花巻市)によって運営されている。しかし、展示スペースは78平方メートルと狭く、所蔵する資料を展示しきれていない。空調設備もなく、資料の傷みも懸念されていた。
 
 そのため、財団が昨年、資料館の活用を市に要望し、展示品の「十和田湖裸婦像原型」など美術品5点(評価額6000万円相当)や、記念館整備資金として500万円の寄付を申し入れていた。
 
 市によると、現在の記念館は冬は営業していないが、新しい記念館は通年営業とし、光太郎の花巻での暮らしをメーンテーマに、彫刻や絵画、詩などを展示する。現在の歴史民俗資料館の展示品は市博物館に移す。
 
 光太郎が花巻に疎開した5月15日に行われる「高村祭」に合わせてプレオープンし、15年に全体の整備を終える計画という。事業費は未定。
 
 5月時点の展示スペースは現記念館の3倍弱にとどまるが、最終的には、資料館の収蔵庫も展示室に改装し、現在の6倍ほどの広さになる計画。市は「公の施設として記念館を設置し、国内唯一の記念館として存在価値を高めていきたい」としている。
 
2013年2月24日 読売新聞)
 
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公式発表がありましたら、詳細を御紹介します。

 
【今日は何の日・光太郎】2月25日

大正8年(1919)の今日、智恵子の母校、日本女子大学校から創立者・成瀬仁蔵の胸像制作を依頼されました。

完成、除幕されたのは昭和8年(1933)。実に14年かかりました。

このブログで時々触れていますが、花巻市郊外太田地区に、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで、光太郎が暮らした山小屋が「高村山荘」として保存されています。
 
その山荘からほど近いところに、光太郎の遺品や彫刻、書画を展示する「高村記念館」があります。開館は昭和41年(1966)。花巻の財団法人・高村記念会が管理運営しています。
 
当方も、なんやかやで10回ほど行ったと思います。非常に素朴で味わい深い館です。夏場は開け放した入口からオニヤンマが迷い込み、館内を飛び回っていました。
 
しかし、建物自体が老朽化し、また、展示も充分とは云えないということで、今年、これも近くにある現在の花巻市歴史民俗資料館を新たな高村記念館とし、全面的にリニューアルされることになりました。
 
当方、昨秋には花巻の高村記念会から聞いていましたし、協力要請もあったのですが、正式発表がまだ、ということでこのブログでも触れずにいました。
 
しかし、正式発表はまだなのですが、2月19日の花巻市議会での議員説明会の議題にのぼり、それを受けて地元紙に報道されてしまいました(「されてしまった」というのも変ですが……)。また、花巻市議会議員さんや大沢温泉さんのブログなどにも掲載されています。
 
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詳しくはやはり正式発表があってからご紹介しますが、差し支えない範囲を今日書きましょう。
 
まず、今年はプレオープンということで(5月15日の花巻高村祭の日に合わせるそうです)、来年には周辺環境等の整備、本格オープンは再来年です。展示スペースはかなり広くなり、企画展等も開催できるスペースを設けるとのこと。そして、現在は冬期間閉鎖ですが、やがては通年開館を考えているとのことです。
 
これを機に、多くの皆様にご来館いただきたいと考えています。
 
先程書いた通り、詳細は正式発表があってからまた書きます。
 
【今日は何の日・光太郎】2月24日

昭和55年(1980)の今日、晩年の光太郎と交流があり、光太郎没後10年間開催された彫刻と詩二部門の「高村光太郎賞」選考委員も務めた彫刻家・本郷新の葬儀が、光太郎と同じ青山斎場で行われました。

昨日は花巻の高村祭に参加、先程帰宅いたしました。三回に分けてご報告いたします。
 
まず今回は高村祭そのものに関して。
 
そもそも高村祭とは何ぞや? なぜ5月15日なのか? ということになりますが、事の起こりは昭和20年(1945)。4月13日の空襲で、東京千駄木にあった光太郎のアトリエは焼け落ちてしまいました。光太郎はしばらくは近所の姻戚に身を寄せていましたが、花巻の宮澤家からの誘いで、花巻に疎開することにしました。そのために東京を発った日が5月15日。その日から約七年半、光太郎は生活の拠点を花巻に置いたのです。
 
はじめは花巻市街の宮澤家に身を寄せた光太郎ですが、その宮澤家も終戦間際の8月10日にあった空襲で焼け、その後は元花巻中学校長・佐藤昌氏のお宅や、花巻病院長・佐藤隆房氏のお宅にそれぞれ1ヶ月ほど滞在、10月になって花巻西方の太田村山口(現・花巻市太田)に移り住みます。その後七年間、山口地区での生活を続けるのです。このあたりの経緯は佐藤隆房著『高村光太郎山居七年』(財団法人高村記念会・初版昭和37年=1962、増補版同47年=1972)などに詳しく描かれています。
 
光太郎と山口地区の人々とは心温まる交流を続け、地区の人々や元花巻病院長・故佐藤隆房氏を中心に作られた財団法人高村記念会が中心となり、光太郎没後、昭和33年から光太郎の遺徳を偲ぶ日として、5月15日を高村祭と定め、花巻市や観光協会などの共催を得て続けられ、今年で55回目の高村祭ということになりました。
 
例年は光太郎が起居していた小屋に近い屋外で行われるのですが、今年はあいにくの雨。廃校となった旧山口小学校が建っていた場所に作られたスポーツキャンプむら屋内運動場での開催となりました。
 
プログラムに拠れば、光太郎遺影への献花・献茶、主催者挨拶 、地元の太田小学校・西南中学校・花巻農業高校・花巻高等看護専門学校の児童生徒による楽器演奏・合唱、光太郎詩の朗読などがありました(実は当方、朗読の途中で会場にたどり着きました)。

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その後は特別講演。講師は盛岡大学・同短期大学部学長、国際啄木学会会長の望月善次氏。演題は「光太郎と啄木・賢治」ということで、同じ時代を生きた岩手ゆかりの三人のつながりを分かりやすく語られました。
 
昼食をはさんでアトラクション。トップバッターは連翹忌常連のオペラ歌手・本宮寛子さんでした。今年の連翹忌で岩手高村記念会の皆さんから是非にというお誘いを受けてらしたそうです。「赤とんぼ」はじめ4曲、それからオペラ「智恵子抄」の一節などもご披露されました。続く地元の方が、光太郎作詞の国民歌謡「歩くうた」を歌われたのには驚きました。

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会場内には何気に貴重な資料が展示されていました。光太郎がデザインの案を出した校章を染め抜いた旧山口小学校の幔幕、やはり光太郎がデザインの案を出したという山関青年会の旗など。ちなみにこの幕と旗、光太郎の詩集『典型』が読売文学賞に選ばれた際の賞金を光太郎が寄贈し、出来たものだそうです。(このあたりの経緯は浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』平成7年=1995 ひまわり社 などに詳しく語られています)

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こうした地域に密着した活動がなされているのは、本当に有り難いことです。今回の世話役的な方々も、お名前を聞けば光太郎日記に出て来る誰々さんのご子息とか、子供の頃に実際に光太郎にかわいがってもらった方とか、そういう方々がこうして光太郎顕彰の活動に粉骨砕身されている姿には感動を覚えます。
 
二本松での智恵子顕彰活動もそうですし、穂高での碌山忌もそうですが、やはりそれぞれの地元の方々の力というのは大きいと思います。我が連翹忌、東京で行っていますが、東京だと光太郎の地元という意識が薄く、本当に光太郎と密接なつながりがあった人々や、当方のような光太郎ファンでなければ顕彰活動に積極的に取り組むという気風がありません。言い方は悪いのですが、東京はたくさんの偉人を輩出しているのに対し、二本松といえば智恵子、穂高といえば荻原守衛、そして花巻といえば宮澤賢治と光太郎、そういう限定が好い意味で作用していると思います。東京といえば光太郎とはとてもいえませんし、もっと限定して文京区といっても森鷗外やら夏目漱石やらいろいろ出て来てしまいますし……。
 
とにもかくにも花巻の高村祭、今後とも盛況のうちに続いていくことを願ってやみません!

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