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今朝、パソコンの電源を入れたところ、立ち上がらなくなりました。数年前に購入したデスクトップで、OSはウィンドウズ7。昨夜、電源を切る際に、更新プログラムがダウンロードされ、で、今朝、立ち上げようとしたら、更新プログラムの展開的な作業が入り、その後パスワード認証画面までは進んだものの、それから先に進みません。

ダメ元で家電量販店にリカバリーを依頼、さらに本体のみでニッキュッパの店頭展示品を購入しました。数年前でしたら、その場から持って帰って接続し、それほど面倒な作業もいらずにすぐ使用できたのですが、今は初期設定がどうの、アカウントがどうの、1週間かかるそうで、超参りました。

このブログはスマホから投稿できますが(それでも入力に普段の30倍くらいの時間がかかっています)、情報の収集など、スマホだと使い勝手がよくありません。何よりメールが困ります。急ぎのメールを送信される方は、フリーメールのアドレスにお願いします。

閑話休題。来る4月2日、東京日比谷公園松本楼さんで、光太郎忌日の集い、第61回連翹忌を開催いたします。

同じく4月2日、光太郎が昭和20年(1945)から002足かけ8年を過ごした岩手花巻でも、花巻としての連翹忌、さらに詩碑前祭が開催されます。

花巻市さんの『広報はなまき』3月15日号から。

高村光太郎の連翹忌
彫刻家で詩人の高村光太郎を偲んで、命日である4月2日に連翹忌法要を行います。「連翹忌」という名称は、光太郎が生前好んだ花、レンギョウに由来しています。
【日時】 4月2日(日曜日) 午後1時
【会場】 松庵寺(双葉町)
当日午前9時から高村山荘敷地内で「詩碑前祭」が開催されます。
【問い合わせ】花巻高村光太郎記念会(総合花巻病院内 電話0198 29 4681)

お近くにお住まいで、都内まで出て行くのはちょっと、という方、ぜひどうぞ。

パソコンが復活するまで、【折々の言葉・光太郎】はお休みさせていただきます。

テレビ放映情報です。

ぜんぶ、温泉。 岩手・花巻を浴びる

NHKBSプレミアム 2017年3月4日(土) 20時30分~21時00分

温泉を目で、耳で、心で楽しむ!ヘッドホンをつければ臨場感倍増!? 岩手県、湯治の一軒宿が点在する温泉郷・花巻。温泉マニア(伊武雅刀)目線のカメラが見たものは…

露天の雪景色やお湯しぶき、湯船の底から上がってくる足元湧出のあぶく。昭和の香りいっぱいのレトロな湯治棟。南部藩の殿様ゆかりのわらぶき屋根。地元のみなさんから問わず語りに飛び出すふだん着のお国言葉。刺さるような寒さや初めて作る自炊せんべい汁、高い吹き抜け天井のもと、立ったまま入る深~い風呂。温泉分析書を熟読し、裸になって大地の恵みをただただ、堪能。みんなまとめてホット・スプリング・ハズ・カム!

温泉旅行の真の楽しみは「温泉そのもの」を味わいつくすことにある!慌ただしく周辺を観光、夕方投宿、温泉には1回か2回浸かって翌日慌ただしく帰る…という温泉旅行の定番ではつまらない…とお考えのあなたに捧げる、2度目に行く人でも絶対に楽しい『温泉郷まるかじり疑似体験ツアー』。温泉をこよなく愛する旅人目線の一人称カメラが、その土地ならではの温泉文化、温泉の愛し方などを次々と体験。駘蕩(たいとう)とした「気持ちよさ」を徹底的に味わい尽し、ひたすら温泉快楽の根源に迫る。今回の舞台は岩手県の花巻温泉郷。最近流行の「プチ湯治」の聖地として、アラフォー女子の人気を集める温泉街。ここで温泉三昧の漂泊が始まる…

【語り】伊武雅刀

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「ぜんぶ、温泉。」は、NHK BSプレミアムさんで、不定期に放映されている番組です。

今回は、ともに光太郎や宮沢賢治が愛した花巻南温泉峡の大沢温泉さんと、鉛温泉さんが紹介されるようです。番組サイトに賢治の名はありますが、光太郎も愛した温泉だと、紹介していただきたいものです。

事前に情報を得られず、ご紹介できませんでしたが、昨日、テレビ東京さんで放映された「土曜スペシャル どうしても入りたい!にっぽん“雪見の名湯”BEST10」でも大沢温泉さんが第6位にランクインし、紹介されていました。たまたま観ていたら大沢温泉さんが出て来て驚きました。考えてみれば、ランクインするにふさわしい名湯です。

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詳細が決まりましたらまたご紹介しますが、花巻市の高村光太郎記念館さんで、予定では4月から6月にかけ、光太郎と花巻の温泉を巡る企画展示が為されます。

今年も何度か花巻には足を運ぶことになりそうで、楽しみです。


【折々のことば・光太郎】

それでは足をのびのびと投げ出して、 このがらんと晴れ渡つた北国(きたぐに)の木の香に満ちた空気を吸はう。 あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、 すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。

詩「樹下の二人」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

「あれが阿多多羅山、 あの光るのが阿武隈川。」のリフレインで有名な詩です。大正3年(1914)の結婚披露後、初めて智恵子が詩の中に現れました。謳われているのは、同9年(1920)、智恵子の父・今朝吉の三回忌法要で訪れた智恵子の故郷・油井村(現・二本松市)のパノラマです。

このフレーズでは、澄んだ冬の空気を視覚、嗅覚、そして触覚でとらえ、見事に表現しています。

昨日に引き続き、光太郎周辺人物に関するテレビ番組放映の情報です。

プレミアムカフェ選 宮沢賢治への旅 第1部・第2部

NHKBSプレミアム 2017年2月3日(金)  9時00分~10時34分 
再放送 26時25分~28時00分(4日(土) 午前2時25分~4時)

宮沢賢治への旅 第1部 イーハトーブの光と風&第2部 ほんとうの幸せを求めて(初回放送:1996年)賢治生誕120年の節目に、賢治の世界観がどのように形成されたのかを探る文学紀行(前後編)を紹介

出演者 スタジオキャスター石井かおる


初回放送が賢治生誕100年の平成8年(1996)で、これまでもたびたび再放送されています。昨年10月にも放映がありました。

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前後編併せて1時間30分ほど。尺が長いので、賢治の生涯をほぼ余すところなく紹介しています(ただ、コテコテの賢治ファンにはまだ不十分なのでしょうが)。

後編(第二部)「ほんとうの幸せを求めて」では、光太郎が碑文の文字を揮毫した、花巻に建つ「雨ニモマケズ」碑が紹介され、光太郎の名も出ます。

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光太郎が揮毫したことにも触れて下さっています。

また、賢治の教え子ということで、宮沢賢治記念館の初代館長も務められた故・照井謹二郎氏がご出演。

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氏は永らく幼児教育に取り組まれ、その中で、「花巻賢治子供の会」を立ち上げ、賢治作品を児童劇にして公演されていました。

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その第一回公演は昭和22年(1947)。花巻郊外太田村の、光太郎が暮らす山小屋の前でした。もともとは僻地生活を送る光太郎の無聊を慰問する目的もありました。その後、光太郎のアドバイスで本格的に公演をするようになりましたが、年に一度は山小屋近くの山口分教場(のち小学校に昇格)でも公演を行い、光太郎に見てもらっていました。

その辺りのエピソードは番組では紹介されませんでしたが、光太郎と親しかった人物の映像ということで、貴重な記録です。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

あたり前の事でも僕は言ふ あたり前の事でも僕はする あたり前でない事でも僕は言ふ あたり前でない事でも僕はする

詩「あたり前」 大正2年(1913) 光太郎31歳

これで全文、たった四行の短い詩です。あたり前のことはあたり前にこなし、それプラス、いい意味であたり前でないことまで手を広げ、自らを高めようというところでしょうか。或いは良くない意味であたり前でないことをやってしまうこともあるだろうけれど、そこはいい意味でのあたり前でないことと相殺、ということでしょうか。

あたり前のことをあたり前に、というのもなかなかどうして難しいものです。

先月、盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんに以下の記事が載りました。花巻高村光太郎記念会さんから画像を戴きました。

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写真で見る花巻での生活 賢治との関わりにも 花巻高村光太郎記念会 新しい図録集を刊行

 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)は、花巻市で晩年を過ごした詩人・彫刻家高村光太郎の暮らしや生涯で残した彫刻、詩、書などを掲載した図録写真集「高村光太郎 Kotarou Takamura 1883-1956」を刊行した。
 これまでの図録を一新。本図録では光太郎と花巻出身の宮沢賢治との出会いや宮沢家との交流にスポットを当て、光太郎の愛用品からその人柄をしのばせるなど、光太郎入門としてもわかりやすく、手に取りやすい内容になっている。
 直接の出会いは一度きりだった賢治の作品を高く評価し、賢治亡き後、その全集刊行に携わった光太郎。1945年4月の東京大空襲でアトリエが全焼し、花巻にやってきた光太郎を温かく迎え入れた宮沢家とのエピソード、その後の太田村(現、花巻市)の山荘でのつつましい暮らしぶりなど写真をふんだんに使って紹介。
 「光太郎の食卓」のページでは、自給自足の生活に入っても東京育ちで留学経験のある光太郎らしく、牛の尻尾で作る「テールスープ」やそば粉の焼きパンなど、しゃれた料理を好んだエピソードも紹介。三度の食事作りに使ったナイフ、ほぼ毎日食べていたバターを保存する館などの愛用品も写真で紹介している。
 3.11絵本プロジェクトいわて代表の末盛千枝子さん(八幡平市在住)、方言指導・朗読教室主宰者の谷口秀子さん(花巻市出身、花巻イーハトーヴ大使・希望王国いわて文化大使)が「高村光太郎との思い出」として寄稿している。
 同図録の編集に関わった高村光太郎記念館の井形幸江さんは「花巻ゆかりの光太郎と賢治は同時代を生きた人で、光太郎は賢治を見いだして世に出した人でもある。図録を通して2人の関わりに改めて関心を寄せ、親しみを持ってもらえればうれしい」と話す。
 高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんが監修した。25×25㌢の変形版、55㌻オールカラー。税込み2000円。
 花巻市太田3の85の1の同記念館(電話0198-28-3012)で販売している他、希望者には郵送も受け付けている(送料は別途)。12月28日から1月3日は休館。


昨年7月の刊行なので、半年遅れですが、大きく取り上げて下さり、ありがたく存じます。当方の名も出していただきました。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

余を目して孤独を守る者となす事なかれ 余に転化は来るべし 恐ろしき改造は来るべし 何時(いつ)なるを知らず ただ明らかに余は清められむ

詩「廃頽者より――バアナアド・リイチ君に呈す――」より
 明治44年(1911) 光太郎29歳

「パンの会」で酒に酔って大騒ぎをしたり、無計画に北海道に渡ったりといった馬鹿をやるのにはもう飽きた、というところでしょうか。「パンの会」には参加せず、異国にやってきて奮闘している親友、バーナード・リーチにあてて、決意表明をしています。

光太郎が戦中戦後を過ごした岩手県花巻市。

まずは市の広報紙『広報はなまき』。花巻はいわば光太郎第二の故郷ということで、時折、光太郎の名が載っており、このブログのネタを見つけるのに活用させていただいています。

12月15日号には、「花巻市民芸術祭第10回文芸大会」の入選作品が掲載されていました。これは、先月22日、同市生涯学園都市会館(まなび学園)で開催されたイベントです。

短歌、俳句、川柳、詩、随筆の五部門で、このうち短歌と俳句は事前に応募があった作品と、会場で作られた「当日詠・句」とのそれぞれで選考されるそうです。

さて、俳句の部の「当日句」で「特選」、さらに「最高点句賞」に選ばれた作品が、光太郎がらみです。

光太郎の手縫ひ雑巾小鳥くる


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いい句ですね。花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の山小屋(高村山荘)での光太郎を詠んだものと推定されます。作者の中村さんという方、もしかすると、その当時(昭和20年=1945~同27年=1952)の光太郎をご存じなのかもしれません(違っていたらごめんなさい)。

「小鳥くる」は秋の季語。ツグミやヒヨドリなどの渡り鳥に対して使うそうです。


同じ『広報はなまき』の12月15日号には、光太郎もたびたび逗留した大沢温泉さんの記事も載っていました。ただ、光太郎ではなく宮沢賢治が愛した温泉、という紹介で、残念ながら光太郎の名はありませんでしたが。

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また、今月発行された市のPR誌『花日和』の平成28年冬号では、やはり光太郎がたびたび逗留した花巻温泉さんが紹介されています。

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こちらも光太郎にふれられていないのが残念ですが……。


また近くなりましたら詳細をお伝えいたしますが、来春から花巻高村光太郎記念館さんで、企画展として大沢温泉さんや花巻温泉さんなどと光太郎のつながりを紹介する「光太郎と花巻の湯」展が開催されます(当方、監修ということになっております)。

余裕があれば、この冬もいずれかの温泉に行き、雪見風呂としゃれこみたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

天然の湯をしおもはばしばらくは魂とびて夢のこゝちする
大正9年(1920) 光太郎38歳

まったくそのとおりですね(笑)。

注文しておいた雑誌が届きました   

美術屋・百兵衛 2016年秋号 vol.39 岩手県特集

2016年10月15日 麗人社 定価500円(税込)

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『美術屋・百兵衛』。季刊誌で、一号ごとに一つの都道府県を特集し(ただし次号は台湾だそうです)、美術を中心とした文化を紹介するというコンセプトです。これまでに38都道府県が取り上げられ、今号が岩手県です。

主に岩手出身の美術家が取り上げられる中、出身ではないものの、足かけ8年を過ごした光太郎も、10ページにわたって紹介されています。

特集 岩手文化考
百兵衛インタビュー:彫刻家・舟越 桂 舟越 保武/舟越 直木
岩手県立美術館
生誕120年 宮沢 賢治 宮沢賢治記念館/宮沢賢治童話村
近代日本洋画界の先駆者 萬 鉄五郎/萬鉄五郎記念美術館
いわてアートプロジェクト 1800 人の岩手の心、そしてアーティストたちが紡いだ「記憶」
世界文化遺産 平泉 毛越寺/中尊寺
彫刻家・高村 光太郎/高村光太郎記念館・高村山荘 ほか


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前半は光太郎の人となり、後半は花巻郊外の光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館の紹介です。それぞれよくまとまっています。

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光太郎記念館に関しては「芸術家としての息吹だけでなく、人間性までもがわかる空間」という見出しを付けていただいています。館内説明板の執筆を担当した身としては、「そのとおり!」と言いたくなりました。

その他、大きく取り上げられている光太郎ゆかりの人物は、宮沢賢治、舟越保武、萬鉄五郎。

後半には全国の美術館やギャラリー、注目の若手作家の情報なども掲載。264ページほとんどがフルカラーで、観ているだけでアーティスティックな気分にさせられます。これで500円は格安です。

大きな書店では店頭に並んでいるようですし、ネット通販もあります。ぜひお買い求めを。また、これを片手に花巻の光太郎記念館および高村山荘、ぜひ訪れていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

いささかは鑿にえにしを持てる身の三月(みつき)を奈良にただあこがるる

明治35年(1902) 光太郎20歳

その生涯にわたり、仏像らしい仏像は作らなかった光太郎ですが、いったいにその彫刻は、精神性の部分で、仏像の系譜を汲んでいるような気がします。ブロンズの塑像や、まったく仏とはかけはなれた蝉などにも。光雲から受け継いだ血、さらにはたびたび訪れて観た奈良の仏像からの影響でしょう。

一昨日、岩手花巻市街ぶらぶら散歩の後、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」に出席して参りました。

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午後3時過ぎ、花巻駅前から路線バスに乗り込み、会場の賢治詩碑前へ。

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ここは賢治が創設した羅須地人協会跡地で、有名な「下ノ畑ニ居リマス」の舞台です。地人協会の建物自体は移築されてしまいましたが、「下ノ畑」は健在。ただ、来月から区画整理が行われ、景観が変わるだろうとのことでした。

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この地に昭和11年(1936)、賢治三回忌を期して、「雨ニモマケズ」後半部分が刻まれた、初の賢治詩碑が建てられました。全集編集などで賢治紹介の労を執り、賢治自身も崇敬していた光太郎に碑文揮毫の依頼があり、光太郎が筆を振るいました。

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台座の地下には賢治の遺骨も分骨されているとのこと。そこで、9月21日の賢治命日に合わせ、毎年、この碑の前で賢治祭が開催されているというわけです。当方、初参加でした。

午後4時から献花。参加者一人一人に花が渡され、それぞれが碑前に手向けるという方式でした。

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同時に伊豆大島からお見えの椿弦楽四重奏団さんの追悼演奏。その間にも三々五々、参加者が増え続け、最終的には300名くらいだったそうです。

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その後、黙祷、賢治作詞の「精神歌」。雰囲気が盛り上がってきたところで、開会。

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例年5月15日の花巻高村祭、それから昨年は日比谷松本楼さんでの連翹忌にもご参加下さった、上田東一花巻市長。御父君は光太郎と親交がありました。
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南城小学校4年生の皆さんによるかわいらしい歌。

その後、スピーチ。当方も光太郎と賢治の関わりについて述べさせていただきました。要旨はまたのちほどご紹介します。

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そして後半。この頃になるとすっかり日が落ち、昼間は暑かったのが、涼しい、というより寒いくらいになってきました。篝火が焚かれたのが有り難いところでした。

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後半はアトラクション中心でしたが、若い皆さんが大活躍。賢治の精神が次世代へと受け継がれて行くであろうと、感心しました。

最後は会場全体で、「星めぐりの歌」と「精神歌」を歌いました。「星めぐりの歌」は賢治の作詞作曲。花巻と同じ岩手を舞台にし、当会の会友・渡辺えりさんもご出演なさっていたNHKさんの「あまちゃん」でも使われていた曲です。

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ここでいったん閉会。第二部的に、「座談会」に移行しました。同じ会場ですが、今度は車座になって、一般の参加者の皆さんが、それぞれの賢治への熱い思いなどを語られる、というコンセプトでした。

ギターご持参で、「雨ニモマケズ」にオリジナルの曲を付けた歌を披露なさった方もいらっしゃいました。
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午後8時半、すべて終了しました。

翌日の地方紙2紙に載った記事です。

『岩手日日』さん。

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『岩手日報』さん。

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それぞれクリックで拡大します。

同じようなことを色々な場面でお話ししたり書いたりしていますし、当会顧問北川太一先生の受け売りなのですが、どんなに素晴らしい芸術家であっても、後の世代の人間がその価値を正しく理解し、さらに次の世代へとその人の功績を受け継ぐ努力をしなければ、やがて歴史の波に埋もれてしまいます。そうならないためのこうした取り組み、いつまでも続いて欲しいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

すとすとと蕎麦うつ音や枕もと     明治34年(1901) 光太郎19歳

秋といえば新蕎麦。当方、父方は信州の出ですので、蕎麦やら林檎やらの信州名産には目がありません。同じ信州名産でもイナゴや蜂の子はちょっと食べられませんが(笑)。

一昨日の賢治祭終了後、主催の方に車で送っていただき、花巻駅前まで戻りました。座談会の際におにぎり(宮沢家からの差し入れ)や南部煎餅などをいただきましたが、夕食とするには足りず、かつて光太郎も蕎麦を食べた駅前の伊藤屋さんで天ぷら蕎麦をいただきました。

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昨日から今日にかけ008「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」出席のため、岩手花巻に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

賢治祭が夕方4時からということなので、少しゆっくりめに千葉の自宅兼事務所を出ました。10時36分東京発の東北新幹線やまびこ号に乗って、午後2時過ぎに花巻に着く予定でした。ところが、東京駅までの高速バスが予定よりだいぶ早く着き、9時40分発の同じくやまびこ号に間に合ってしまいました。自由席ですので手続きも必要なく、そのまま乗車。最近は急ぐ場合を除いて、全席指定のはやぶさ号などは利用しません。こういう場合にいちいち窓口に行かなくて済むので楽ですね。

そういうわけで、やはり1時間早く午後1時過ぎには花巻に着きました。そこで、天気もいいし、ぶらぶら散歩。市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社を目指しました。何度か足を運んだことはありますが、ここ数年、行っていないので、ひさしぶりに、と思いました。


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市役所近くの花城小学校跡。賢治の母校だそうです。普段、花巻に行っても賢治関連は撮影したりしませんでしたが、今回は賢治祭に参加ということで、やはり気になりました。

この一角は元の花巻城跡地にも当たります。当時の城門も健在。


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鳥谷崎神社は、城跡のはずれに鎮座ましましています。戦国時代にはすでにここにあったという古社です。

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秋らしく、萩の花が咲いていました。

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そうかと思えば、日陰にはまだ紫陽花も。驚きました。

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社殿がこちら。

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こうした場合の常ですが、この地の鎮護と道中安全を祈願して参りました。

この神社は、光太郎、賢治双方に関わります。

まず、光太郎。

昭和20年(1945)4月、空襲で東京駒込林町のアトリエが全焼。一時は近所にあった実妹の婚家に身を寄せますが、そこも被災者で手狭となり、宮沢家の招きで、5月には光太郎が来花(そのために東京を発った5月15日を記念して、毎年、花巻高村祭が開催されています)、宮沢家に厄介になります。

その宮沢家も8月10日の花巻空襲で全焼。光太郎は元旧制花巻中学校長、佐藤昌(さかり)宅に一時的に避難しました。佐藤宅は鳥谷崎神社近くで、終戦の玉音放送は、ここ、鳥谷崎神社の社務所で聴きました。その際に作られた詩が、「一億の号泣」で、17日に『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されました。

   一億の号泣

綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず010
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん


画像は鳥谷崎神社の古絵葉書です。

戦時中、大量の翼賛詩を書き殴っていた光太郎、この時点でもまだ「鋼鉄の武器を失へる時/精神の武器おのずから強からんとす」と、その延長線上の詩を書いています。そのため、後にはこの詩は光太郎の内部では戦時中の翼賛詩同様、封印した詩でした。

光太郎没後の昭和35年(1960)、当時の花巻観光協会がこの詩の光太郎自筆揮毫を石に刻み、ここ、鳥谷崎神社に建立しました。いろいろ行き違いがあったようで、存命だった光太郎の実弟・豊周、当会の祖・草野心平、当会顧問・北川太一先生ら、当時の高村記念会が抗議、いったんはこの碑は撤去されました。

ところがいつのまにか再度建立され、現在に至っています。そのため、説明板も付されていません。

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いわば光太郎の負の遺産です。こうした作品は隠蔽してはいけないと思いますが、たしかに碑に刻んでまで残すものではないような気もします。しかし、負の遺産は負の遺産として、継承すべきでしょう。

続いて賢治。

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こちらは平成4年(1992)に建立された歌碑。賢治の絶筆といわれる短歌で、鳥谷崎神社例大祭(花巻祭り)を謳っています。

高台にあるこの鳥谷崎神社からの眺めを、賢治が愛したという話も聞いたことがあります。

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光太郎賢治に思いを馳せつつ、ふたたび歩いて花巻駅方面へ戻りました。

続いて訪れたのは、駅近くの林風舎さん。賢治の実弟、清六の令孫・和樹氏がオーナーの、賢治グッズのお店です。こちらも数年ぶりにお邪魔しました。

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1階から2階への階段に、昭和11年(1936)、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の拓本が掲げられています。

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すでに誤字脱字の追刻がされているので、戦後の採拓です。

さらに駅前の観光案内所さんに寄りました。こちらでは、花巻市さんで発行している無料のタウン誌『花日和』の秋号をゲット。表紙が郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋・高村山荘です。

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それから光太郎がたびたび泊まった鉛温泉藤三旅館さんの紹介記事も。

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今回の宿は、駅前のかほる旅館さんという商人宿でした。そちらに荷物を預け、いざ、賢治祭。そちらはまた明日、ご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

光太郎山にすまひてはるかなるフオンテンブロオの森しのびゐる

昭和24年(1949) 光太郎67歳

「フオンテンブロオ」はパリ郊外。現代では「フォンテーヌブロー」と表記します。かつての仏王朝の狩猟地で、広大な森林が保全されており、花巻郊外太田村の自然から、若き日に訪れた彼の地を連想したということですね。

岩手県花巻市の広報紙、『広報はなまき』の今月号から。

まずは、郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」について、大きく取り上げています。

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さらに、昨日ご紹介した、「賢治祭」についても。

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それぞれ、ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

木に彫るとすればかはゆきはだか身の守宮の子等はわが床に寝る

大正13年(1924) 光太郎42歳

「守宮」は「やもり」と読みます。昨日に引き続き、ヤモリを詠んだ短歌です。

これによれば、ヤモリの木彫も構想していたようですが、残念ながらその作は確認できていません。

岩手花巻からイベント情報です。今年、生誕120年を迎えた宮沢賢治。その命日である9月21日(水)に行われるイベントです。 
期  日 : 2016年9月21日(水)
時  間 : 16時30 分~21時
会  場 : 「雨ニモマケズ」詩碑広場 岩手県花巻市桜町4  
         雨天時 花巻市立南城小学校 岩手県花巻市南城110番地1
内  容 : 
オープニングアクト
 献 花 (追悼演奏 椿弦楽四重奏団)    午後4時
 黙 祷
 「精神歌」斉唱  指揮/大畠 恵司 伴奏/佐藤司美子

 開 会             午後4時30分
1. 朗 読「雨ニモマケズ」        古川欣也
2. ご挨拶
   主催者の挨拶 (一財)宮沢賢治記念会 理事長 宮澤啓祐
   歓迎の挨拶        花巻市長   上田東一
 3. 賢治先生に捧げる歌 
   「ポラーノの広場の歌」     南城小学校4年生
 4. スピーチ
   ①「賢治生誕120年の意義」 宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事 栗原敦
   ②「新装の賢治記念館」  宮沢賢治学会イーハトーブセンター前代表理事 杉浦静
   ③「宮沢賢治と高村光太郎」  高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
   ④「祖母が語った賢治さんの親友嘉藤治先生」   佐藤司美子
   ⑤「宮沢賢治さんと伊豆大島」  日原行隆
 5. 朗読と合唱
   ①朗読「春と修羅より」南城中学校3年生 髙橋詩織 袴田新七 大橋海月 小原凛花
   ②「花農校歌」「花農応援歌」   花巻農業高校
   ③「雨ニモマケズ」「牧歌」 桜町ママさんコーラス
 6. 神楽「八幡舞」         幸田神楽保存会
 7. 朗読
   ①童話「よだかの星」  花巻市民の会 長田豊
   ②詩「早池峰山巓」   花巻市民の会 髙橋則子
 8. 演 劇「双子の星」     花巻南高校演劇部
 9. みんなで歌いましょう
   「星めぐりの歌」「精神歌」 歌唱指導・指揮/大畠恵司 伴奏/佐藤司美子
 閉 会            午後7時30分

                 <座談会会場づくり>

  《賢治さんを偲ぶ座談会》  司会 参会者から
        テーマ≪私にとっての賢治さん≫ 20:30終了
    (プログラムは変更になる場合があります ご了承下さい)

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当方もお話をさせていただきます。内容が盛りだくさんなので、持ち時間は8分間と指定されていますが、光太郎と賢治、そして賢治没後の宮沢家との関わりなどを語ろうと思っています。かつて光太郎本人も参加し、賢治について語っているイベントでお話しさせていただけるので、感無量です。

お話の要旨は終了後に改めてこのブログに書かせていただきます。

ちなみに「パート2」ということですが、 「パート1」は9月16日(金)、花巻市文化会館大ホールにて、《音楽と演劇の夕べ》と題して開催されます。

さらに「パート3」として、宇宙飛行士・毛利衛氏による講演「宮沢賢治とともに見た宇宙」が、12月16日(金)、やはり花巻市文化会館大ホールで行われます。


それぞれぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

はだか身のやもりのからだ透きとほり窓のがらすに月かたぶきぬ

大正13年(1924) 光太郎42
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謳われているヤモリ。都道府県によっては絶滅危惧種に指定されているようですが、当方自宅兼事務所のある千葉県北東部では、存外よく見かけます。自宅兼事務所敷地にも生息しています。

一見、のろまのように見えますが、意外と動きが速く、庭で見つけてカメラを取りに行って戻ったら、もういなかったということもありました。

右の画像は、はめ殺しの窓越しに撮りました。

岩手県の地方紙『岩手日日』刊行元の岩手日日新聞社さんでは、観光PR誌『岩手大陸』を発行しています。その第3号で、光太郎の特集が組まれています。

『岩手日日』さんの記事から。 

観光情報が盛りだくさん 「岩手大陸」第3弾発行―岩手日日新聞社

 岩手日日新聞社(一関市南新町、山岸学代表取締役社長)は1日、平泉世界遺産登録5周年を記念した特集や宮沢賢治生誕120周年で注目される花巻エリアなど県内の観光・物産情報を盛り込んだ特別編集「岩手大陸」の第3弾を発行した。
 特集「仏都平泉の奇跡」は、盛岡市出身の作家松田十刻氏が執筆。清衡、基衡、秀衡それぞれの視点から、浄土思想に基づく世界でも類を見ない独自の黄金文化を築いた奥州藤原氏の軌跡をたどる。平泉町周辺の観光地や新たに「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産登録された釜石市の「橋野鉄鉱山」なども紹介している。
 また、宮沢賢治との出会いや交流を中心に約7年間を花巻市で過ごした高村光太郎を取り上げた「高村光太郎と花巻の日々」や、10月から開催される「2016希望郷いわて国体・大会」を盛り上げるためのPR特集、三陸鉄道の魅力や県の物産品、スイーツなど岩手の情報が盛りだくさん。
 B4判、48ページのフルカラーで11万部印刷。岩手日日新聞の購読全世帯に配布したほか、県内の主要観光施設や東京都中央区の県アンテナショップ「いわて銀河プラザ」、大阪市の北東北三県大阪合同事務所などで10月まで無料配布する。


というわけで、過日、上京した妻に頼んで東銀座のいわて銀河プラザさんに寄ってもらい、入手しました。

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「特集2」が「賢治という星を照らした「光」 高村光太郎と花巻の日々」。4ページにわたって組まれています。

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最初の2ページで、光太郎と賢治の魂の交流、昭和20年(1945)に戦災で東京を焼け出された光太郎が宮沢家の招きで花巻に疎開した経緯、戦後の花巻郊外太田村での生活などが要領よくまとめられています。

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後半2ページは、花巻高村光太郎記念館さんなど、花巻にある光太郎賢治ゆかりの観光スポットなどの紹介。2人が共に愛した大沢温泉さんなども取り上げられています。

その他、世界遺産の平泉やいわて国体などのPRも。大型のB4判、48頁オールカラー、これが無料配布ですから気前のいい話です。

『岩手日日』さんの記事にあるとおり、東京や大阪でも入手可能。ぜひゲットして下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ぐつすりとよくねてさめし暁の八月の窓を開け放ちたり
大正13年(1924) 光太郎42歳

気がつけば、8月ももうすぐ終わりですね。

宮沢賢治の生誕120周年記念事業の一環として、日本郵便株式会社東北支社さんから、オリジナルフレーム切手「宮沢賢治生誕120 年」が発売されました。

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82 円切手×10 枚で、うち1枚、光太郎がその碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑をあしらったものが含まれています。

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定価1,500円。一部の簡易郵便局を除く、岩手県奥州市、北上市、花巻市、西和賀町、金ヶ崎町の全郵便局(計70 局)で販売する他、明日からは日本郵便さんのサイトで通販が開始されます。

ぜひお買い求めを。


それから、岩手花巻宮沢賢治記念館さんで開催中の特別展「「雨ニモマケズ」展」、21日(日)に、光太郎と親しかった賢治の実弟・清六氏の令孫・宮沢和樹氏によるギャラリートークが開催されました。『毎日新聞』さんで、光太郎にからめて取り上げて下さいました。 

宮沢賢治記念館で40人が聴き入る 弟の孫・和樹さん /岩手

 宮沢賢治記念館では21日、賢治の弟清六さん(1904〜2001年)の孫、宮沢和樹さん(52)が講演会を開いた。生前に清六さんが宮沢さんに語った「雨ニモマケズ」の魅力について、参加した約40人が聴き入った。
 手帳の51〜60ページにある「雨ニモマケズ」の詩。祖父の清六さんは「東ニ病気ノコドモ アレバ 行ッテ看病シテ ヤリ」から続く54〜57ページが最も大切な部分だと、強調していたという。困っている人がいれば、東西南北どこにでも駆け付けて助けたいと思う、賢治の心が表現されている。
 宮沢さんは「この『行ッテ』が重要なんです」と説明。「賢治は、知識や知恵をもてあそぶのではなく、実際に行動して物事を変えていく姿勢が大事だと考えていた」と解説した。
 清六さんは、花巻に私塾を開設して農民に技術を講義するなどした賢治の人柄を慕っていた。賢治の死後、彫刻家の高村光太郎らと作品の編集に奔走したという。宮沢さんは「周りの支えがあってこそ、今の賢治があることも忘れないでほしい」と話した。【二村祐士朗】


和樹氏、こうした機会には、必ずと言っていいほど光太郎に言及して下さるので、ありがたい限りです。


【折々の歌と句・光太郎】

かの雲を我は好むと書き終へしボオドレエルが酔ひざめの顔
明治42年(1909) 光太郎27歳

「ボオドレエル」は、フランスの詩人、シャルル・ボードレール。光太郎は留学中に詩の心を彼の作品から学んだといいます。

台風9号が通過した関東地方、昨日も激しい夕立がありました。やんだ後に日が差してきたので、虹でも見えるかなと思って自宅兼事務所の一番高い部屋(なんちゃって三階)から東の空を見ると、虹ならぬ彩雲(環水平アーク)が見えました。デジカメで写真も撮ったのですが、色がうまく写りませんでした。残念。

岩手花巻宮沢賢治記念館さんで開催中の特別展「「雨ニモマケズ」展」地元紙2紙の報道をご紹介しましたが、その後、『朝日新聞』さんでも光太郎にからめて報道して下さっていますので、ご紹介します。 

岩手)「雨ニモマケズ」実物の手帳、展示始まる

005 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が書かれた実物の手帳の展示が20日、花巻市の宮沢賢治記念館で始まった。生誕120年を記念した特別展。賢治が亡くなる2年前に書いたと推察され、同館は「賢治本人の理想や希望といったもの」と説明している。
 同市内での展示は、2007年に萬(よろず)鉄五郎記念美術館であった賢治展以来9年ぶり。手帳は1933年の死後に発見された遺品の一つで、「雨ニモマケズ」は51~60ページに記されている。賢治の弟の孫で同館の宮沢明裕学芸員によると、賢治は詩や童話などの作品は原稿用紙に記しており、雨ニモマケズは手帳に書かれていることから、作品を創作する意識とは一線を画し、「サウイフモノニワタシハナリタイ」で終わっており、「祈りや願いと捉えることができる」という。
 同館ではこのほか、高村光太郎が揮毫(きごう)し、同市桜町にある「雨ニモマケズ」詩碑の原文も初めて展示する。また、俳優の渡辺謙さんと詩人の故草野心平氏による「雨ニモマケズ」の朗読を映像とともに聞くことができる。
 特別展は28日まで。21日午後1時半からは手帳などを所有する林風舎代表で賢治の弟の孫の宮沢和樹氏によるギャラリートークもある。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。(石井力)


また、岩手めんこいテレビさんのニュースも、ネット上で見つけました。 

岩手)「雨ニモマケズ」実物の手帳、展示始まる

岩手・花巻市の宮沢賢治記念館で特別展が開かれていて、賢治が生前愛用していた実物の手帳などが公開されている。
宮沢賢治生誕120年の2016年、花巻市では、さまざまな記念イベントが行われている。
特別展では、賢治の代表作「雨ニモマケズ」を記した実物の手帳が、宮沢賢治記念館としては初公開されている。
記念館の学芸員は「強くなりたいと願い続けた賢治が手帳に記した『行つて』の文字には、強い意志を持って実践する賢治の行動力がみられる。こうした点にも注目してほしい」と話していた。
このほか、賢治の詩をつづった高村光太郎の書の原文も、公開されている。
この特別展示は、8月28日まで、花巻市の宮沢賢治記念館で開かれている。(8/21 18:26)

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8月19日には、NHK BSプレミアムさんで「プレミアムカフェ 宮沢賢治への旅」のオンエアがありました。平成8年(1996)に放映されたものの再放送でしたが、今回展示されている光太郎の揮毫を刻んだ花巻市豊沢町に立つ「雨ニモマケズ」碑もちらっと紹介されました。

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生誕120年の賢治ですが、8月27日が誕生日、9月21日が命日ということで、これから顕彰イベント等がもっと増えていきます。

明日もその辺りで情報をご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

ああ我は火取り蟲かやふるさとの明るき町に夜ごと飛びゆく
明治42年(1909) 光太郎27歳

生誕120年を迎えた宮沢賢治。記念事業が色々と行われていますが、その一環として開催される、岩手花巻の宮沢賢治記念館さんでの特別展示です。 

「雨ニモマケズ」展

期  日 : 前期2016年8月20日(土)~28日(日)
       後期2016年8月30日(火)~9月13日(火)
会  場 : 宮沢賢治記念館 岩手県花巻市矢沢1地割1番地36
時  間 : 8:30~19:30
料  金 : 一般350円(300円)、高校生・学生250円(200円)
       小・中学生150円(100円)
        ※( )内は20人以上の団体割引料金

国内はもちろん、世界でも多様な広がりをみせている「雨ニモマケズ」。
当館では賢治生誕120年を機に「雨ニモマケズ」が書かれた賢治自筆の手帳と、高村光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の原文を展示いたします。いずれの資料も宮沢賢治記念館では初公開となります。どうぞこの機会をお見逃しなく!!
(後期は「雨ニモマケズ手帳」は複製、詩碑原文は拓本に展示替え)

関連行事 

ギャラリートーク
日  時 : 2016年8月21日(日)  13:30~
講  師 : 宮澤和樹氏(賢治実弟・故宮澤清六氏令孫)

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賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿で開かれた賢治追悼の会の席上、実弟の清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帳に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのは光太郎、宮沢清六、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

昭和11年(1936)になって、光太郎は宮澤家の依頼でこの詩の後半部分を揮毫、花巻の羅須地人協会跡にその書を刻んだ碑が建てられました。

その後、「雨ニモマケズ」は賢治代表作の一つとして広く人口に膾炙しています。

今回の展示では、光太郎も手に取った手帳の現物、そして光太郎が書いた碑文書の現物が展示されます。

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それぞれ宮沢賢治記念館さんでは初の展示だそうで、意外といえば意外です。

21日(日)のギャラリートークは宮澤和樹氏。御祖父・清六氏が光太郎と親しかったため、必ずといっていいほど、賢治や宮澤家と、光太郎の密接な交流についてお話下さいます。


今後、これ以外にも、賢治顕彰の様々な企画が目白押し。近くなりましたらご紹介しますが、また当方もお話をさせていただく機会があります。

とりあえず「「雨ニモマケズ」展」。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

夏の日は三里塚にて馬見るか昼寝しせすか山脇彦尊
大正13年(1924) 光太郎42歳

「三里塚」は、現在、新東京国際空港のある成田市です。かつては印旛郡遠山村でした。

「山脇彦尊」は、日本画家・山脇謙次郎。光太郎は山脇のため、前年12月、三里塚に開墾小屋を作り、その移住を助けています。のちに光太郎の親友・水野葉舟がその小屋を引き継ぎました。

かつて近くには宮内省の御料牧場があり、「馬」はそれに関わります。

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跡地は成田三里塚記念公園となり、光太郎に触れる展示も為されている御料牧場記念館、光太郎詩「春駒」碑などがあります。

信州安曇野から三陸女川への4泊5日の出張を終えて帰宅したところ、花巻高村光太郎記念館さんから宅配便が届いておりました。

同館にて刊行の展示品図録的な書籍『光太郎 Kotaro Takamura 1883-1956』。

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縦横25㌢の正方形という特殊な判型で、オールカラー48頁。充実した内容です。当方、一部を執筆し、「監修」ということにしていただいています。

抜粋で画像を提示します。ただ、校正途中に送られてきたPDFファイルから採りましたので、若干、完成品とは異なりますが、大筋はこの通りです。

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四季折々のイメージ画像をバックにした光太郎詩。4篇、8頁。

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ブロンズ彫刻、書作品、遺品などの同館展示物の画像。

展示品以外にも、光太郎芸術の紹介ということで、木彫の写真も。

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『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘』を刊行された末盛千枝子さんをはじめ、生前の光太郎を知る方々の談話。

さらには、光太郎、父・光雲、妻・智恵子の紹介、賢治や宮沢家との交流、花巻郊外太田村での生活、盛岡や花巻町などのゆかりの地の紹介などなど充実の内容。これで税込定価2,000円はお買い得です。

案内と、FAX注文書を載せておきます。プリントアウトしてご使用下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

とほどほしわれ必ずのせめてもの夏山夏野ただみどり濃き
明治34年(1901) 光太郎19歳

昨日は、日帰りで花巻に行っておりました。

光太郎が戦後の七年間を過ごした旧太田村に建つ花巻高村光太郎記念館で、現在、企画展「智恵子の紙絵」が開催されています。その関連行事、というわけではないのですが、話がとんとん拍子に進み、テルミン奏者の大西ようこさんと朗読家の荒井真澄さんのコラボによるコンサートが実現しました。

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テルミン奏者の大西さん。一昨年に「もう一つの智恵子抄」「otoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』」というコンサートを開かれ、それがご縁で昨年の連翹忌でも演奏をしていただきました。

朗読家の荒井さんも「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」、「シューマンと智恵子抄」などで、光太郎作品を手がけられています。今年の連翹忌で、大西さんと意気投合されたとのこと。

同館にはそうした催しを行うためのホール的なスペースはなく、スタッフの皆さんも、アドバイザーを務める当方も、これまでこうした催しは考えても居ませんでしたが、大西さんが同館を訪れることになる → どうせなら演奏 → それなら荒井さんも巻き込む → 場所はないが、何とかする、という流れで、手前の展示室1(光太郎の彫刻作品が並んでいます)が比較的広いので、そこでやってしまえ、ということになりました。

というわけで、本番は光太郎彫刻に囲まれての演奏・朗読となりました。

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これまで様々な機会に光太郎智恵子がらみのコンサート等に足を運んで参りましたが、光太郎彫刻に囲まれてのそれは記憶にありません。

リハーサル風景。

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さて、本番。お客様の入りはどうだろうと心配でしたが、何やかやで50名くらいの皆さんが集まって下さいまして、一安心。

仕掛人の一人、花巻高村光太郎記念会理事にして、生前の光太郎をよくご存じの浅沼隆氏が司会。

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当方も、一言、ご挨拶申し上げました。

最初は大西さんのソロ。カッチーニの「アヴェ・マリア」など。

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テルミンを見るのも聴くのも初めて、という方がほとんどで、興味深く聴かれていたようです。

途中から荒井さんが合流、大西さんの演奏をバックに『智恵子抄その後』の中から、当地に関わる詩篇と散文を朗読されました。

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急に決まった企画でしたので、お二人での合わせは当日まで行われず、ある意味、ぶっつけ本番だったそうですが、どうしてどうして、ぴったり息のあったコラボレーションでした。

最後は荒井さんのリードで、会場の皆さんと共に2代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」を歌いました。智恵子の故郷・二本松の皆さんはどなたもご存じの歌ですが、花巻ではどうかと思っていました。しかし、意外とご存じの方が多かったようでした。

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盛会のうちに終わりました。

終演後は、皆さんと光太郎が実際に暮らした山小屋(高村山荘)付近を散策したり、記念館の展示を拝見したりしました。

役得で、普段非公開の山荘内部にも入れていただきました。

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というわけで、充実の1日でした。


光太郎記念館も、こうしたコンサートなどの新たな活用法の方向性が見え、大きな収穫でした。ただ、どなたにでも会場を開放し、場を提供するというわけにも行かないかとは存じます。今日のこのブログ、題名が「ロビーコンサート」ですが、結局はロビーではなく「展示室コンサート」ですので、そうそういつもいつもこうした場合に対応できません。また、ぜんぜんご存じない方に場を提供し、いざ公演となったらとんでもない内容だった、などということも無きにしもあらずですし……。

今後、こうした活用法も含めて、館のスタッフの方々と詰めて行きたいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

生きの身のきたなきところどこにもなく乾きてかろきこの油蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日は東北でも梅雨明けが宣言されました。高村山荘周辺では、まだ今一つ蝉の声は聴けませんでしたが、地面には幼虫が羽化のため出て来たのであろう穴が目立ちました。

岩手レポートの3回目です。他にもいろいろ書くことが山積みですので、一気に行きます。

7/13(水)、盛岡少年刑務所さんで開催された第39回高村光太郎祭のあと、花巻高村光太郎記念館スタッフの方お二人と合流、盛岡市内の加藤千晴氏のお宅にお邪魔いたしました。

加藤氏は今年5月15日、第59回花巻高村祭の記念講演で講師を務められました。氏のお母様の加藤照さんが光太郎の従妹(いとこ)、おばあさまの故・中山ふゆさんが光太郎の叔母という方です。ただ、ふゆさんは叔母といっても光太郎と年令が近く(光太郎の6歳上)、光太郎と「ふーちゃん」「みっちゃん」と呼び合う仲だったそうです(光太郎の本名は「みつたろう」です)。戦前にご夫婦で樺太に渡り、豪商として鳴らしたものの、敗戦で状況が一変、戦後になって内地に引きあげ、お嬢さんの照さんの嫁ぎ先の盛岡に住まわれることになったとのこと。

ふゆさんは昭和35年(1960)に亡くなったそうですが、その息女で光太郎の従妹(いとこ)にあたる照さんは、今年ちょうど100歳。少々お耳が遠くなられているものの、お元気で、貴重なお話をうかがうことができました。

また、加藤家に遺る光太郎関連の品々を拝見しました。光太郎やその家族が写っている古写真、光太郎から照さんへの書簡、光太郎の姉で、16歳で夭折した咲が絵を描いた扇子などなど。咲は日本画を狩野派に学び、将来を嘱望されていました。

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千晴氏は、そうした加藤家と高村家の歴史についての手記を執筆され、花巻高村光太郎記念会として出版する予定とのことです。それ以外にも花巻ではいろいろと出版物を刊行する計画があって、当方も関わらせていただくことになり、今回の加藤家訪問につながりました。


その後、千晴氏のご案内で、ご自宅からほど近い、岩山という山へ。こちらは盛岡市街を一望できるスポットでした。

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岩手山や姫神山もよく見えました。

また、こちらにも啄木の歌碑、さらに啄木の銅像も立っていました。
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で加藤氏とは分かれ、花巻高村光太郎記念館スタッフの方に送られて、北ホテルさんに戻りました。

翌日(7/14)、盛岡をあとに、再び花巻へ。この日はそれまでの2日間とは一転、雨でした。

在来線の花巻駅から岩手県交通さんの路線バスに乗り、花巻高村光太郎記念館さんへ。出版関係の打ち合わせは、前日に済んでいましたが、翌日(7/15)から開催の企画展、「智恵子の紙絵」の関連で、寄らせていただきました。

当初は午後2時半からの報道陣向け内覧に出る予定でしたが、早く帰宅せねばならない事情が出来、内覧はパスしました。しかし、職権濫用(笑)で、企画展示室を一足早く拝見させていただきました。


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紙絵の現物は、高村家から20点ほどお借りし、1~2点ずつ展示。元々、記念館で持っている2点の現物と合わせて、3点前後が常に展示されるそうです。上記画像で、中央のガラスケースに入っているのがそれです(周囲の壁に掛けてあるのは複製です)。一日展示すれば、それだけ褪色するという本当にあえかな作品なので、1点の展示期間は短くし、どんどん入れ替えるとのこと。昨日から始まりましたが、最初はチラシにも使われた、こちらの作品が出ています。

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金と銀の部分は、チョコレート系の包み紙ですね。おそらくゼームス坂病院に光太郎が届けた見舞いの品でしょう。

複製の方は、企画展示室に20点ほど、それから普段、常設展示を行っている第二展示室にもパーテーションパネルを出し、さらに20点ほどを展示しています。

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昨日の報道から。 

「智恵子の紙絵」展示/花巻・高村光太郎記念館 原画含む30点 一堂に

 花巻市太田の高村光太郎記念館で、15日から企画展「智恵子の紙絵」が開かれる。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の妻智恵子は晩年、作業療法として身の周りにあった色紙や包装紙を切り抜き、台紙に貼り付ける「切り抜き絵」を制作した。光太郎が「紙絵」と名付けた作品が紹介される。
 智恵子は結婚後、自身の油絵に対する芸術的苦悩や実家の一家離散により心の病に侵され、睡眠薬で自殺を図った。一命を取り留めたものの、長い療養生活を送り、1938年に入院先の病院で53歳の生涯を終えた。智恵子は療養中に光太郎に見せるために「切り抜き絵」の制作に取り組んだ。光太郎は岩手と山形、茨城へ紙絵を疎開させて戦争の難から守った。
 智恵子は、花や魚、野菜など身近にモチーフを求め、さまざまな紙をマニュキアばさみで切り抜いて紙絵を制作。独特の色彩感覚による表現方法で、紙の質感を生かした繊細な作品が多い。
 智恵子の紙絵を所有し、今回の企画展に協力している、光太郎の弟の孫高村達さん(48)=東京都=は「デザインを意識したシンメトリーな作品も多い。オリジナルが展示されるのは3年ぶり。これだけの作品が一堂に見られるのは貴重な機会」と話している。
 光太郎没後60年、智恵子生誕130年にちなんだ企画展。展示作品はオリジナルと複製を合わせて約30点。オリジナルは計23点で、期間中に随時入れ替えて紹介される。
 同展は11月23日まで。入場料は、一般550円、高校生・学生400円、小・中学生300円。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。
(『岩手日日』) 

智恵子の紙絵 色とりどりに

花巻市太田の高村光太郎記念館で15日から「智恵子の紙絵」展が始まる。光太郎の妻智恵子が療養中に身近にあった色紙や包装紙などを切り抜いて台紙に貼り付けた作品のオリジナルと複製品を展示。同館は「繊細な表現と色彩感覚を見てほしい」としている。
 今年、智恵子の生誕130年、光太郎の没後60年となるのをログイン前の続き記念して開催する。智恵子が1938年10月に亡くなるまで1千点以上を制作した。光太郎は「紙絵」と名付け、戦時中も花巻など地方に疎開させて大切に保管した。光太郎は作品について「智恵子の詩であり、抒情(じょじょう)であり、機知であり、生活記録であり、此(こ)の世への愛の表明である」と記している。
 14日に内覧会があり、光太郎の弟の孫にあたる写真家高村達さん(48)は「オリジナルを展示する機会はあまりない。身近に感じてほしい」と話した。
 11月23日まで。同館と高村山荘の入場料は一般550円など。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。(石井力)
(『朝日新聞』)


ところで、関連行事、というわけではないのですが、ロビーコンサート的な催しが開かれます

期  日 : 2016年7月29日(金)
会  場 : 花巻高村光太郎記念館 第一展示室
時  間 : 13:00~ 40分間ほど
料  金 : 無料
出  演 : 大西ようこ(テルミン)  荒井真澄(朗読)


仕掛人の一人が当方のような部分がありまして……。

まずテルミン奏者の大西さん。一昨年に「もう一つの智恵子抄」「otoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』」というコンサートを開かれ、それがご縁で昨年の連翹忌でも演奏をしていただきました。

その大西さん、7/31(日)に、岩手の大槌町でコンサートをなさるそうで、その前に花巻に泊まって高村光太郎記念館・高村山荘に寄りたい、とおっしゃるので、鉛温泉さんをご紹介しました。すると、どうせなら演奏したい、というお話になり、大西さんと、毎年連翹忌や、智恵子の故郷・二本松でのレモン忌にご参加いただいている花巻高村光太郎記念会の浅沼隆氏とで話がまとまったそうです。

また、仙台ご在住のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんが巻き込まれました(笑)。荒井さんも「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」、「シューマンと智恵子抄」などで、光太郎作品を手がけられています。今年の連翹忌で、大西さんと意気投合されたとのこと。

こうした試みは記念館がリニューアルされてから初めてで、どうなることやらというところですが、ぜひ足をお運びください。


話がそれましたが、以上、2泊3日の岩手レポートを終わります。


【折々の歌と句・光太郎】

大海(おほうみ)の圓(まろ)きがなかに船ありて夜を見昼を見こころ怖れぬ

明治39年(1906) 光太郎24歳

もうすぐ「海の日」ですので、今日から海がらみの作品をいくつかご紹介します。

この年、3年半に及ぶ欧米留学のため、横浜港からバンクーバーに向けて出港したカナダ太平洋汽船のアセニアン号の船中で詠んだ歌です。

岩手レポートの2回目です。

7/12(火)、花巻宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催中の「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を拝観した後、盛岡へ。2泊お世話になる内丸の北ホテルさんに入りました。

こちらはかつて菊屋旅館さんといい、光太郎が盛岡で定宿としていたところです。昭和25年(1950)1月18日には、こちらで「豚の頭を食う会」なる催しがありました。「豚の頭」は大げさな表現で、光太郎を囲んでの中華料理をメインにした食事会でした。

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窓からは、同27年(1952)5月3日に光太郎が講演を行った岩手県公会堂がすぐ近くに見えました。こちらではフランス楽団のコンサートを聴いたりもしています。

この日は外で夕食、早めに休みました。というか、いつもですが旅先ではすぐに寝てしまいます。

翌朝、早めに起きて周囲を散歩。

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先述の岩手県公会堂をはじめ、盛岡には当方の大好きなレトロ建築がたくさん遺っており、嬉しくなりました。

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また、そうと知らずにちょっと歩いただけで、光太郎と縁のある人々ゆかりのものがいろいろあって、驚きました。
上は岩手県公会堂前の原敬像。作者は光太郎の父・光雲の高弟である本山白雲です。土佐桂浜にたつ有名な坂本龍馬像の作者でもあります。

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新渡戸稲造像。こちらは光太郎と交流の深かった高田博厚の作。中津川沿いの与の字橋近くにありました。

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何度か訪れた深沢紅子野の花美術館。まだ開館前でしたので入れませんでしたが、昨年、子息の竜一氏の元を渡辺えりさんと共に訪れ、お話を伺ったこともあり、感慨ひとしおでした。

不来方城址では、地元の柔道家の瀬川正三郎像と、裸婦像。深沢を含め、それぞれ岩手県立美術工芸学校で教鞭を執り、同校のアドバイザー的な立場だった光太郎と交流のあった、舟越保武、堀江赳の作品です。

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南部利祥騎馬像の台座。像そのものは戦時の金属供出で無くなりました。南部の身体部分は光雲・光太郎親子と縁のあった新海竹太郎の作、馬は光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠正成像の馬、同じく上野の西郷隆盛像の犬を作った後藤貞行の作だったとのこと。

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あまりに有名な石川啄木歌碑。啄木も与謝野鉄幹の新詩社や、その後の『スバル』を通じ、光太郎と面識がありました。

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宿に戻って朝食後、盛岡少年刑務所さんからお迎え。そもそも今回の岩手行きは、同所での第39回高村光太郎祭への参加です。

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こちらでは、昭和25年(1950)1月14日(「豚の頭を食う会」の4日前です)、光太郎が五百数十名の青少年受刑者を前に講演を行いました。その際には、「心はいつでもあたらしく」と揮毫した書をこちらに残し、昭和52年(1977)、岩手県教誨師会の発意で、その書を刻んだ石碑が敷地内に建立。さらに翌年から、法務省主催の「社会を明るくする運動」月間である7月に、高村光太郎祭が開催されています。ただ、少年刑務所自体が光太郎が訪れた頃とは違う場所に移転しているということで、その点は少し残念でした。

入所者による光太郎詩の群読、更生にかける思いを綴った作文の発表などにまじって、講演がプログラムに入っており、今回、当方が講演をさせていただきました。

この講師は、毎年5月15日に行われている花巻高村祭の記念講演で講師を務めると、翌年の盛岡少年刑務所さんでの講師を依頼されるというシステム?になっているようで、一昨年には渡辺えりさん、昨年は先述の舟越保武の息女・末盛千枝子さんが務められました。そんなわけで、末盛さんの近著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘― 』に、昨年の様子が触れられています。

さて、今年の第39回高村光太郎祭。会場は講堂という建物です。向かって右半分に200名ほどの入所者、左半分は主に地元の招待者(花巻高村光太郎記念館の方々もいらしていました)、総勢数百人と、かなりの人数です。

開会のあと、愛唱歌斉唱。光太郎がこちらに遺した「心はいつでもあたらしく」という句をそのまま題名にした歌で、これが毎日朝夕、館内放送で流されているということです。

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その後、光太郎遺影への献花、所長さんの式辞、来賓の皆さんの祝辞に続き、入所者の皆さんによる詩の朗読。ちなみに少年刑務所といいつつ、入所者のほとんどは成人、全員男子です。彼等が普段働いている所内の工場単位で数十名ずつの群読でした。「新緑の頃」「生けるもの」「あどけない話」「十和田湖畔の裸像に与ふ」「孤独で何が珍らしい」。気合いの入ったいい群読でした。光太郎詩の精神が、少しでも彼等の心の琴線に触れているとすれば、泉下の光太郎も満足でしょう。

続いて、作品発表ということで、更生にかける思いを綴った作文を、2名の入所者が朗読しました。こちらも立派な発表でした。

そして、当方の講演。45分ほどで、パワーポイントを使いながら、光太郎の生涯をざっと語りました。やはり刑務所ということで、順風満帆な生涯ではなく、何度もつまづいて転びながらも、そのたびにそれまでを反省して立ち上がり、「心はいつでもあたらしく」と、道を追い続けた点を強調しました。入所者の皆さんには直接感想を聞けませんでしたが、来賓の方々や、花巻高村光太郎記念館皆さんからは好評でした(お世辞半分でしょうが(笑))。

昨日の『岩手日報』さんに記事が出ましたので、載せておきます。

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閉会後、所内の見学。15年ほど前に、「心はいつでもあたらしく」の石碑は見せていただいたことがあったのですが、それ以外の場所は初めてでした。岩手らしく、南部鉄器の加工を行う工場などなど。どの作業場にも「心はいつでもあたらしく」の語が掲げてあり、光太郎の精神を生かそうと考えられている点、感動しました。

その後、昼食を頂いて、少年刑務所さんでの用件は終わりました。長くなりましたので、午後からについてはまた明日、レポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

風鈴やここ料亭の四畳半    大正中期(1920頃) 光太郎40歳頃 

「料亭」は浅草駒形橋付近のようです。

盛岡北ホテルさん、光太郎が泊まった頃とは異なり、近代的なビジネスホテルになってしまっていましたが、四畳半くらいの部屋のベッドで寝ころびつつ、この句を思い起こしました。

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2泊3日の行程を終え、岩手から千葉に帰って参りましたので、レポートです。まずは一昨日、花巻の宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催中の「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」。午後2時過ぎ、東北新幹線新花巻駅に着き、コインロッカーに荷物を放り込み、歩くこと20分ほど。同じエリアの宮沢賢治記念館さん、花巻市立博物館さんともども、何度か訪れた場所でした。

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これには驚きました。

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さて、館内へ。展示スペースはあまり広くなく、こぢんまりした展示でしたが、内容の濃いものでした。

黄瀛は中国人の父と日本人の母を持ち、日本で青少年期を過ごした詩人です。光太郎の知遇を得、草野心平を光太郎に紹介する橋渡しを務めたり、ここ花巻で晩年の宮沢賢治に会ったりしたこともあります。戦中戦後は日中戦争や国共内戦、さらに文化大革命の嵐に翻弄され、長い獄中生活を送ったりもしましたが、晩年は名誉回復、日中の文学的交流の架け橋となりました。

黄瀛をメインにした企画展というのは、おそらくこれが初めてなのではないかと思われます。黄瀛の人となり、文学的功績などに関わる様々な展示がなされ、光太郎が序文を書いた黄瀛詩集『瑞枝』や、光太郎作の黄瀛像を表紙に使った雑誌『歴程』など、興味深く拝見しました。

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また、賢治と黄瀛の作品が、同じ雑誌に並んで掲載されているというケースが何度かあり、お互い影響しあっていたような点も見られ、ほう、と思いました。

何より、解説パネルが充実しており、感心いたしました。また、拝観後に購入した図録に、そのパネルの文章がそのまま使われていて、これは貴重な資料になります。モノクロ印刷と云うこともあって、たった300円。これは非常に得をした気分です。

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これを機に、もっともっと黄瀛について、世に知られるようになって行ってほしいものです。

上記画像の通り、10月15日(金)までと、長い開催期間になっています。ぜひ足をお運びください。


その後、また歩いて新花巻駅へ。ちょうど釜石線の快速はまゆり号盛岡行きがあり、新幹線を使うより安く済みました。盛岡についてはまた明日。


【折々の歌と句・光太郎】

おのづから雲こごりきて夏の夜(よ)の明神嶽の尾根をはなれず

                                                                                  
制作年不詳

やはり草枕の覊旅歌。「明神嶽」は信州上高地付近に聳える山ですので、智恵子と共に上高地を訪れた大正2年(1913)頃の作かも知れません。

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昨日から岩手県の県都盛岡に来ています。

宿泊は北ホテルさんというところで、戦後に光太郎が来盛した際に常宿にしていた菊屋旅館さんの後身です。

メインの目的は、今日、盛岡少年刑務所さんで開催された第39回高村光太郎祭。当方が講演を仰せつかり、先程、つつがなく終えました。

明日は帰りますが、花巻で途中下車、高村光太郎記念館さんに立ち寄ります。明後日から開催される企画展「智恵子の紙絵」の報道向け内覧会がありますので、そちらに顔を出して参ります。

その他色々と用事を済ませて参りました。詳細は帰ってからレポート致します。


【折々の歌と句・光太郎】

はかなかる旅の行方は明日もあり思ふは今よ風草に吹け

                                                       明治34年(1904) 光太郎19歳


草枕の歌。盛岡はさすが東北、晴れていますが風が爽やかです。

昨日の続きになります。光太郎が晩年の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村に建つ、高村光太郎記念館を運営されている花巻高村光太郎記念会さんからのいただきものをご紹介します。

旧太田村の高村光太郎記念館とは別に、花巻市街桜町、光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑近くに桜地人館があります。光太郎没後すぐ、現在の花巻高村光太郎記念会を立ち上げた総合花巻病院長だった故・佐藤隆房氏のコレクションなどが展示されています。今年5月に行われた花巻市主催の市民講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」の行程にも入っており、久々に訪問いたしました。その際のレポートがこちら

そちらのパンフレットも新しいものが作られ、送られてきました。A4判横長三つ折り、両面カラー印刷です。


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佐藤隆房と直接親交があった光太郎・賢治の関連の品々、それ以外にも岩手を代表する芸術家ということで、萬鉄五郎や舟越保武の作品などが展示されています。また、パンフレットには紹介されていませんが、光太郎・賢治と繋がっていた草野心平の書、館の前庭には高田博厚作の佐藤隆房像なども。


それからもう一点、今年2月に放映されたテレビ岩手さんの情報番組、「5きげんテレビ」を録画したDVDもいただきました。前述の市民講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」の際に拝見し、「下さい」とお願いしておいたものです。

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この番組は、平成25年(2013)にNHKさんで放映された連続テレビ小説「あまちゃん」に登場した架空のテレビ局・「岩手こっちゃこいテレビ」制作という設定の架空の番組「5時だべ わんこチャンネル」のモデルとも云われています。

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岩手県ご出身の福田萌さんが、司会者の福田萌さん役で(笑)ご登場なさっていました。


さて、本家「5きげんテレビ」。賢治生誕120年にちなむシリーズの一環で、「賢治と光太郎」という切り口での放送でした。レポーターは六串しずかさんという方。

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まずは旧太田村の高村光太郎記念館の紹介。

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「賢治と光太郎」ということで、展示品の中のこんなものも。

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賢治の実弟・清六と光太郎が編集し、装幀・題字も光太郎が手がけた日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』です。テロップが誤っており、発行は昭和21年(1946)~24年(1949)です。こちらは元々当方の蔵書で、記念会さんにお貸ししています。

昨年のNHKさんの「歴史秘話ヒストリア ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」の回では、やはり当方がお貸しした『智恵子抄』が写りましたが、妙な気分です。

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閑話休題。続いて記念会さんで取り組んだ、光太郎日記を元にした、光太郎の食事の再現。

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これで朝昼晩の三食分ですが、そば粉パンやら馬肉入りの汁物やら、なかなか豪勢です。

さらに記念館に隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)からのレポート。当時を知る地元の方々もご出演なさり、光太郎との思い出を語って下さっていました。

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こんなコーナーもありました。

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視聴者の皆さんは、リモコンの赤青黄のボタンを押す、ではなく、電話で参加。スタジオにオペレーターさんたちがいらっしゃる、という点で笑えました。

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さて、問題は……。

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これだけだと、①、②、③、全て正解ですが、光太郎が好きで、なおかつ旧山口小学校の校章デザインに使われた、という条件がつきます。おわかりでしょうか。

正解はこちら。

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上記の幔幕は、詩集『典型』(昭和25年=1950)が第2回読売文学賞に選ばれた際の賞金が化けたものです。デザインの原案も光太郎です。

締めは高村光太郎記念館、高村山荘の案内。

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ぜひとも全国ネットでも放映してほしいような内容でした。


上記の桜地人館ともども、ぜひ足をお運び下さい。



【折々の歌と句・光太郎】

少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし
明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学からの帰国直後、昨日も同趣旨の短歌をご紹介しましたが、日本人女性をこきおろす短歌が数多く作られました。

女性の皆さん、気を悪くなさらないで下さい。あくまで光太郎独自の感想ですので、当方の見解とは異なります(笑)。

光太郎が晩年の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村に建つ、高村光太郎記念館を運営されている花巻高村光太郎記念会さんから、いろいろといただきものがありましたので、ご紹介します。

まず、記念館および隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)の新しいパンフレット。

A4判を横に2枚繋げた大きさで、両面カラー印刷、折りたたみ式。

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おおむね見開き2ページずつで一つの面になっています。

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なかなかの情報量ですし、よくまとまっています。また、QRコードが印刷されており、スマホで読み込むと、記念館内の360度ビューが見られるとのこと。ハイテクです。


過日ご紹介しましたが、花巻高村光太郎記念館さんでは、来週末から企画展「智恵子の紙絵」が開催されます。
下記は今月号の「広報はなまき」に載った案内です。

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ぜひ足をお運びのうえ、新しいパンフレットもご入手下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり

明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学から帰国直後の作。日本女性に対しても、光太郎は絶望していました。

一昨日の『岩手日日』さんの記事から。 

花巻の魅力 知って 観光協会 地元塾教本を発行

 花巻観光協会(佐々木博会長)は、冊子「はなまイメージ 1き地元塾教本」を発行した。花巻市内外の人たちに花巻の魅力を知ってもらおうと、市内の歴史や文化を分かりやすくまとめたもので、多くの活用に期待を込めている。
 市内の歴史や文化、先人、イベント、特産物などの知識を深めてもらうことを狙いに、同協会を構成する企業や団体、個人合わせて390会員向けに製作。会員には旅館など、観光客と関わる企業などもあることから、花巻について再認識するとともに、もてなしの一つの手段として役立ててもらうことを想定している。
 同協会が主催している「はなまき通検定」のテキストを基に編成。冊子は▽あなたは知ってるね?花巻市の概要▽歴史を感じる文化財▽技と味な特産品▽キラリと輝く先人達▽にぎわいイベント▽知ってソン(損)のない?雑学―の6項目で構成している。
 このうちキラリと輝く先人達では、宮沢賢治や高村光太郎、多田等観など10人余りについて、年表や写真などを用いて人柄や経歴を説明。史実などは、関係機関やボランティアガイドなどの協力を得て盛り込んだ。
 このほか、市内の民俗芸能や名産、方言などの雑学も分かりやすく掲載。主なイベントを月ごとに紹介するなど、分かりやすさを意識して作製した。
 同協会の髙橋誠吾さんは「花巻の魅力を再認識し、新たな発見にもつながればいい。市外の人にとっては、冊子が花巻を知る足掛かりになってほしい」と願っている。
 冊子はA4判で82ページ。一般販売用に300冊を用意。価格は税込みで一冊500円。同市葛の市交流会館内の同協会事務所やJR花巻駅内の花巻観光案内所、JR新花巻駅内の花巻観光センターで扱っているほか、遠方からの注文には郵送などの相談に応じる。
 問い合わせ先は同協会=0198(29)4522=。


旧太田村を含め、光太郎が足かけ8年を過ごし、第二の故郷ともいうべき花巻。宮沢家との深い交流もあり、花巻では花巻生まれではないものの、光太郎を地元の偉人の一人として扱って下さっています。

記事にもう一人名の上がっている多田等観も、光太郎と縁がありました。

等観は光太郎より7つ年下の明治23年(1890)生まれの僧侶。明治末から大正にかけて、チベットで修行し、チベット大蔵経全巻などの貴重な資料を携えて帰国しました。光太郎同様、花巻(旧湯口村)の円万寺に疎開、隣村にいた光太郎との行き来がありました。

ちなみに花巻市博物館さんでは、現在、テーマ展示「多田等観展~等観が辿った道」を開催中です(7/3まで)。

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こちらは光太郎が等観に贈ったうちわ。「悠々無一物満喫荒涼美 高村光太郎 太田村山口 光」の揮毫が入っています。左の方は、昭和20年(1945)の花巻空襲で宮沢家を焼け出された光太郎を、一時期自宅に住まわせてくれた、旧制花巻中学校元校長・佐藤昌の揮毫です。

花巻に残された等観の遺品等は花巻市博物館さんに収められているはずですので、このうちわも含まれているのではないでしょうか。

それはさておき、『はなまき地元塾教本』、記事にあるとおり、花巻市各所で取り扱っている他、花巻観光協会さんに申し込みも出来るようです。来月にはまた花巻に行って参りますので、入手してこようと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

ちちはははわが顔を見てはらはらと落つるなみだをかくし玉はず

明治42年(1909) 光太郎27歳

3年半に及ぶ欧米留学からの帰国直後に詠まれ001たものと推定されます。画像はこの頃の両親です。後ろに写っているのは、光太郎作の「光雲還暦記念胸像」。

こうした部分での親心には感謝しつつも、西洋で世界最先端の本物を見てきた光太郎、江戸仏師の流れを汲む光雲とは、芸術上の異なる道を歩み始めざるを得なくなります。

明治43年(1910)、『スバル』に発表された「出さずにしまつた手紙の一束」から。

親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。(略)僕を外国に寄来したのは親爺の一生の誤りだった。(略)僕は今に鈴虫の様なことをやるにきまつてゐる。

最晩年の昭和29年(1954)、『新潮』に載った「父との関係」から。

 「父と子」の問題はギリシヤこのかた、この世に於ける最もむつかしい、解決に苦しむ関係の一つである。それは時代のもつれにかかはり、遺伝の入り交じりつながり、個と個との相反親和、処世と信念との衝突妥協の微妙な有機的因縁に左右せられ、その上、親子の愛といふ本能的原始感情が加はつて、大局は一つの運命といふやうな形となつてこの問題に被ひかぶさつてくる。
 小さくはあるが、私たちも亦私たちなりに苦しんだ。

今日は「父の日」だそうで。

昨日、光太郎や宮沢賢治と交流のあった詩人・黄瀛の評伝『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』をご紹介しました。

その関係で、黄瀛についてネットで調べていたところ、現在、黄瀛をメインに据えた企画展が開催されて居ることに気付きました。4月から始まっていましたが、気付きませんでした。

『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』著者の佐藤竜一氏が理事を務める「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」さんの主催です。 

宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展

会  期 : 2016/04/15~10/13
会  場 : 宮沢賢治イーハトーブ館 岩手県花巻市高松1-1-1
時  間 : 8:30から17:00
料  金 : 無料

中国人を父に、日本人を母に重慶に生まれた。
日本語で詩を書き、大正時代に詩壇の寵児として活躍、宮沢賢治とは草野心平が始めた雑誌『銅鑼』を介して知り合う。
中国での宮沢賢治研究のいしずえを築いた。

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関連行事

ギャラリートーク「黄瀛と宮沢賢治」

7月2日(土)13001630

 13:00~13:30 「黄瀛の生涯」佐藤竜一(宮沢賢治学会理事)
 13:30~14:00 「黄瀛研究の現状」守屋貴嗣(法政大学非常勤講師)
 14:00〜14:30 「黄瀛と宮沢賢治」岡村民夫(宮沢賢治学会副代表理事)
 14:30〜14:40  質疑応答
 14:50〜16:20 
 ビデオ鑑賞
         「詩人・黄瀛さんを知っていますか」(1991.11.16全国放映)
         「詩人・黄瀛からの伝言」(1994.7.2、全国放映)

黄瀛、なかなかスポットライトの当たることのない詩人ですが、これを機に、彼の数奇な人生と、その特異な詩的世界についての認識が広まってほしいものです。

展示や関連行事のトークでも、光太郎に触れられると思います。

来月、盛岡に行く予定がありますので、時間を見つけて寄ってみようと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

毒うつぎ花は美くし旅のひといづみくむ手に物を欲(ほ)りすな

明治38年(1905) 光太郎23歳

「毒うつぎ」は、その名の通り強烈な毒草です。

その花をモチーフとし、『伊勢物語』を下地にした架空の恋物語を連作短歌にしたうちの一首です。

一昨日のこのブログでご紹介した、渡辺えりさんから花巻の高村光太郎記念館への資料ご寄贈の件、昨日の『岩手日日』さんに報道されました。 

光太郎ありき 父の人生 女優・渡辺えりさん ゆかりの資料を記念会へ

 演出家、劇作家としても活001躍する女優の渡辺えりさんが、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)ゆかりの資料2点を、花巻市の花巻高村光太郎記念会に寄贈した。資料は光太郎に心酔していた渡辺さんの父・正治さんに宛てられたはがきと署名入りの詩集「道程」。はがきは、かつて光太郎が稗貫郡太田村(現在の同市太田)で暮らしていた頃のもので、当時がしのばれる貴重な資料となっている。
 贈呈式は盛岡市渋民の姫神ホールで4日、生誕130年を迎えた同市出身の歌人・石川啄木をしのぶ「啄木祭」の閉会後に行われた。記念会の高橋邦弘業務執行理事が、講演や対談のためホールを訪れていた渡辺さんから資料を受け取った。
 渡辺さんらによると、詩集は終戦間近の1945(昭和20)年4月10日に、光太郎が東京のアトリエで正治さんにプレゼントした。安否確認で来訪した正治さんに、「記念に」とサインし手渡したという。米軍の空襲でアトリエが焼失する数日前のことだった。
 当時10代後半だった正治さんは、軍需工場で航空機の製造に携わっていた。空襲により生きた心地がしなかった時、戦争賛美の詩「必死の時」をそらんじたことで不思議と恐怖心が和らぎ、作者の光太郎に心酔するようになったという。
 はがきは戦後、古里の山形県で精進していた正治さんからの便りを受けたとみられる47年11月30日付の返信で、住所地は太田村。「宮沢賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでいくやうに見えます」など後進を激励する内容で、当時の心境や思いがしのばれる貴重な資料と言える。
 記念会への寄贈は2000年に正治さん、13年に渡辺さんが、それぞれ花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた「高村祭」で講演した縁もあって実現した。
 ゆかりの資料について渡辺さんは「父は、自分は光太郎のおかげで生きていると常々話していた。はがきとサイン入りの本は父の人生そのもの」と話した。
 記念会では準備が整い次第、花巻市太田の高村光太郎記念館で資料を公開する方針。高橋理事は「貴重な本とはがきの寄贈で本当にありがたい。正治さんの意向に沿うよう取り扱いたい」とし、光太郎の人柄をより深く知る資料として丁重に扱う考えを示している。
 贈呈式には、市生涯学習課の市川清志課長や高村光太郎記念館職員の新渕和子さん、生前の光太郎と交流のあった高橋愛子さんらも出席。盛岡市渋民の石川啄木記念館の森義真館長も立ち会った。


記事にある戦時中の正治氏の光太郎訪問体験は、株式会社文伸さん刊行の『戦時下の武蔵野 Ⅰ 中島飛行機武蔵製作所への空襲を探る』という書籍に詳しく書かれています。

その頃、渡辺正治氏がそらんじていたという光太郎詩「必死の時」は、以下の通り。昭和16年(1941)の作です。戦時中には旧制中学校の教科書にも採用されていました。

  必死の時002

必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
 
人は死をいそがねど
死は前方から迫る。

死を滅すの道ただ必死あるのみ。
必死は絶体絶命にして
そこに生死を絶つ。
必死は狡知の醜をふみにじつて
素朴にして当然なる大道をひらく。003
天体は必死の理によって分秒をたがえず、
窓前の茶の花は葉かげに白く、
卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
安きを偸むものにまどひあり、
死を免れんとするものに虚勢あり。
一切を必死に委(ゐ)するもの、
一切を現有に於て見ざるもの、
一歩は一歩をすてて
つひに無窮にいたるもの、
かくの如きもの大なり。

生れて必死の世にあふはよきかな、
人その鍛錬によつて死に勝ち、
人その極限の日常によつてまことに生く。
未練を捨てよ、
おもはくを恥ぢよ、
皮肉と駄々をやめよ。
そはすべて閑日月なり。
われら現実の歴史に呼吸するもの、
今必死のときにあひて、
生死の区区たる我慾に生きんや。
心空しきもの満ち、
思い専らなるもの精緻なり。
必死の境に美はあまねく、
烈々として芳しきもの、
しずもりて光をたたふるもの
その境にただよふ。
 004
ああ必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋々としてゆたかなのは
われら民族のならひである。


戦後、岩手花巻郊外太田村の山小屋に蟄居し、自らの戦争責任を反省する中で、この詩を書いたことも思い起こされます。

  わが詩をよみて人死に就けり 
 
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
 

光太郎にとっては、「必死の時」はまったくの「負の遺産」だったわけですね。

昭和16年(1941)に「必死の時」を書いた時点では「爆弾は私の内の前後左右に落ちた。/電線に女の大腿がぶらさがつた。/死はいつでもそこにあつた。」という状況ではなかったはずですが、戦時中、求められてこの詩を揮毫して人に贈ったことがあったようです。

そのあたり、えりさんもおわかりのようで、啄木祭のご講演での、「今は啄木も想像しないような世の中になってきたのではないか」と言い、「文化人を残すためにも平和教育を受けた私たちが戦争を食い止めなければいけない」(『朝日新聞』)というご発言につながるのでしょう。えりさんの書かれた、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」も、光太郎の戦争責任にスポットを当てた内容でした。

光太郎を考える上で、避けて通れない問題でしょう。


【折々の歌と句・光太郎】

ああ我はDAHLIA(ダリア)の花を賞づるにも人を離れて思ひがたかり
明治42年(1909) 光太郎27歳

最近、ダリアの花というのもあまり見かけなくなったような気がします。昔はセレブの庭には必ずあり、光太郎も智恵子の実家、福島の長沼家に球根を贈り、それが咲いた際には近隣の住民が見物に来たというエピソードもあります。

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こちら、愛犬の散歩中に見かけました。庭ではなく、畑の一角に咲いていました(笑)。

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先週土曜日、岩手盛岡で、「啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~」が開催され、連翹忌ご常連でもある女優の渡辺えりさんが、「わたしの啄木・賢治・光太郎」と題するご講演、対談をなさいました。
 

啄木の世界観ひもとく 盛岡、渡辺えりさんが講演

 盛岡出身の詩人石川啄木をしのぶ啄木祭(同実行委主催)は4日、盛岡市渋民の姫神ホールで開かれた。地元小中学生やコーラスグループの発表のほか、舞台で啄木の母カツを演じた劇作家で女優の渡辺えりさんが講演し、啄木の世界観をひもといた。
 渋民小児童のドラムマーチで開演し、同校鼓笛隊が啄木作詞の「ふるさとの山に向ひて」など3曲を披露。渋民中の生徒たちは啄木の詩を題材にした群読劇で「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る」とかみしめるよう朗読。啄木の心象を表現した。
 渡辺さんは「わたしの啄木・賢治・光太郎」と題し講演。啄木と賢治の共通点として友人たちが作品を広めたことを挙げ、「応援してくれる人たちがいなければ、私たちは詩を読むこともなかったのかも」と交友関係の広さを語った。
 渡辺さんと石川啄木記念館(同市渋民)の森義真(よしまさ)館長との対談では、自身が演じた母カツの人柄について「役作りをしながら、カツは本当に啄木のことを手放しで愛していたのだと感じた」と役者の目線で啄木像に触れた。
(『岩手日報』)
 

渡辺えりさん 啄木祭で講演

 生誕130周年を迎えた歌人石川啄木の業績をたたえる啄木001祭が4日、盛岡市の渋民文化会館であった。
 劇作家、演出家、女優として活躍する山形市出身の渡辺えりさんが「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演。以前、井上ひさしの戯曲「泣き虫なまいき石川啄木」の上演で啄木の母カツを演じた際、背負われた時のことや啄木の歌などを引き合いに出し、観客の笑いを誘っていた。
 渡辺さんは「今は啄木も想像しないような世の中になってきたのではないか」と言い、「文化人を残すためにも平和教育を受けた私たちが戦争を食い止めなければいけない」と力を込めた。
 市立渋民小学校の鼓笛隊による演奏や、渋民中学校の生徒が演じる啄木の詩を題材にした群読劇なども披露された。(金本有加)
(『朝日新聞』)

 

啄木憎めない人柄…生誕130年で渡辺えりさん

 生誕130年を迎えた盛岡市出身002の歌人・石川啄木をしのぶ「啄木祭~母を背負ひて~」が4日、同市の姫神ホールで開かれた。女優の渡辺えりさん=写真=が「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演し、約520人が耳を傾けた。
 渡辺さんは生前はほぼ無名だった啄木について「金田一京助など死後、作品を世に出してくれる友人に恵まれた」と、同じ県出身の宮沢賢治との共通点を指摘。啄木が多くの友人から借金をするなど奔放な生活を送っていたことについては「悪人なら友人がいないはず。憎めない人柄だったに違いない」と推し量った。
 また、井上ひさしの戯曲「泣き虫なまいき石川啄木」で母カツを演じたことに触れ、「啄木を目に入れても痛くないというほど大事にしていた。心から啄木を応援していたと思う」と役作りを振り返った。
(『読売新聞』)


記事にはありませんが、えりさんのお父様、渡辺正治氏無題2が光太郎と戦中戦後に面識がおありで、さらに宮沢賢治ファンだったということもあり、劇作家でもあるえりさんは、光太郎を主人公とした月にぬれた手、賢治が主人公の「天使猫」という舞台をそれぞれ公演なさいました。

そして今回のご講演、最近、お父様のお加減がよろしくないとのことで、涙ぐまれながら、お父様に関するお話をご披露なさったとのことを、参会された方からメールで教えていただきました。

えりさんからも翌日、「無事に好評のうちに終わりました」とメールを頂きました。


その後、えりさんから花巻の高村光太郎記念館へ、資料の贈呈が行われました。

お父様が戦時中に光太郎から贈られた、サイン入りの『道程 再訂版』(昭和20年=1945)、戦後に光太郎から届いたハガキをご寄贈下さいました。

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先月でしたか、お電話を頂いた際、これらの寄贈先を探しているというお話で、都内の文学館などもご紹介しましたが、ハガキの方は賢治にも触れている内容ですし、発送元が花巻郊外旧太田村ですので、結局、花巻にご寄贈下さいました。えりさんは、平成25年(2013)、お父様も平成12年(2000)に、花巻高村祭でご講演なさっているというご縁もあります。いずれ花巻の記念館で展示されると思います。

同館では、この夏、企画展「智恵子の紙絵」を開催しますし、現在、館としてのあらたな出版物2種類、当方が校正中です。

それぞれまた詳細は後ほどお知らせいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

山形によき酒ありてわれをよぶのまざらめやも酔はざらめやも

昭和24年(1949) 光太郎67歳

以前も同一題の短歌をご紹介しましたが、山形出身の渡辺えりさん父子にちなんで。

先週末、花巻でチラシを入手して参りました。

啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~

日 時 : 平成28年6月4日(土) 13:30開演 (13:00開場)
場 所 : 姫神ホール(盛岡市渋民公民館)  盛岡市渋民字鶴塚55番地
講 演 : 「わたしと啄木・賢治・光太郎」渡辺えり氏(劇作家・演出家・女優)
対 談 : 「啄木の母」 渡辺えり氏×森義真氏(石川啄木記念館長)
料 金 : 前売1,000円 当日1,300円
定 員 : 550人
主 催 : 啄木祭実行委員会
共 催 : 盛岡市,盛岡市教育委員会,(公財)盛岡観光コンベンション協会,
      盛岡商工会議所,盛岡芸術協会,(公財)盛岡市文化振興事業団

本年は啄木生誕130年,盛岡市玉山村合併10周年の節目の年であり,郷土の歌人石川啄木を偲び,「2016啄木祭~母を背負ひて~」が開催されます。
今年は,女優でNHK連続テレビ小説「あまちゃん」にも出演していた渡辺えり氏を講師にお迎えして,「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演していただきます。
また,渋民小学校鼓笛隊や渋民中学校群読劇,女性コーラスグループのコールすずらんなど,啄木にちなんだ歌や劇が披露されます。
皆さまどうぞご来場ください。

問合せ先 : 石川啄木記念館 019-683-2315

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宮澤賢治と並び、岩手を代表する文学者である石川啄木。明治19年(1886)生まれの光太郎より3歳年少でしたので、智恵子と同じく今年が生誕130年になります。ただし、啄木は前年の出生であるという説もあるようです。明治45年(1912)、数え27歳で歿したその短い生涯の中に、光太郎との接点がありました。

明治35年(1902)、旧制盛岡中学を退学し、上京した啄木は、その2年前には東京美術学校在学中の光太郎も加わっていた、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となりました。この年11月に東京牛込で開催された新詩社小集(同人の会合)で、二人は初めて出会ったと思われます。当時の啄木の作は、短歌より詩や小説が中心でした。

同38年(1905)4月には、新詩社演劇会が開催され、ドイツの劇作家コッツェブー作の喜劇「放心家(うつかりもの)」、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演されました。「放心家」では、主役の軍人を光太郎が演じ、啄木も出演しています。

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啄木は光太郎のアトリエをしばしば訪れていましたが、光太郎は当時の啄木を高く評価していませんでした。「彼の詩は美辞麗句ばかりで青年客気の野心勃々というあくどさがあってどうも私は感心しなかった。」と、昭和23年(1948)の対談で語った他、同様の発言は多くあります。詩でも「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」(「彫刻一途」昭和22年=1947)と記しています。

その後、啄木は盛岡に移り、光太郎は足かけ4年にわたる欧米留学に出、一旦、二人の交流は途絶えます。両者が再会したのは、光太郎帰国後の明治42年(1909)。その前年には、啄木も再上京しています。新詩社の機関誌『明星』は廃刊となり、後継誌『スバル』が啄木を編集人として創刊されていました。留学先のパリからも寄稿をしていた光太郎は、帰国後、詩や評論をどしどし発表します。その関係で、二人はたびたび顔を合わせていたと推定されます。

この頃の啄木は、明治43年(1910)刊行の『一握の砂』に収められた短歌を量産していた時期で、のちに光太郎は「前は才気走つたオツチヨコチヨイみたいな人だった」としながらも、この時期の啄木は「病気になつてから、あの人はうんとあの人の本領になつた」(対談「わが生涯」昭和30年=1955)と語っています。

しかし、病魔に蝕まれた啄木は、明治45年(1912)に還らぬ人となってしまいました。その生がさらに長く続いたとしたら、光太郎との間係がどう発展していったのか、興味深いところです。


さて、講演と対談に、渡辺えりさんがご登場。

えりさんのお父様、渡辺正治氏が光太郎と面識があり、さらに宮沢賢治の精神に共鳴していたというご縁から、えりさんは光太郎を主人公とした「月に濡れた手」、賢治が主人公の「天使猫」という舞台をそれぞれ公演なさいました。そして、今回初めて知ったのですが、啄木に関しても「泣き虫なまいき石川啄木」という舞台では、啄木の母・カツの役をなさったこともあるそうです。

えりさんの講演は、平成25年(2013)の花巻高村祭その翌日の花巻市文化会館で拝聴しましたが、さすが大女優、時の経つのも忘れる素晴らしいお話でした。

ぜひ足をお運びください。

えりさんに関しては、もう一つネタがありますが、またのちほど。


【折々の歌と句・光太郎】

山形によき友ありてわれをよぶみちのはたてに火あるがごとし
昭和24年(1949) 光太郎67歳
山形ご出身の渡辺えりさんにちなんで。

この年11月、詩人の真壁仁らが中心となり、山形市美術ホールで「高村智恵子遺作切抜絵展覧会」が開催され、光太郎は翌年には県綜合美術展のため、山形を訪れています(えりさんのお父様はこの際の講演をお聴きになっています)。この歌はおそらくそれらに関わると推定されます。

先週末から昨日にかけ、岩手花巻に行っておりました。土曜日に行われた高村光太郎記念館講座 「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」のバスツアー、翌日曜日の第59回高村祭といったオフィシャルな部分は昨日のこのブログでご紹介しました。

それ以外のプライベートな時間も活用し、花巻市内、あちこち回りましたので、本日はそちらをレポートします。

まず、夜行高速バスで花巻に着いた土曜の朝、ツアーの集合時刻まで時間がありましたので、市街北部の花巻北高校さんまで歩きました。

こちらには、彫刻家の高田博厚作の光太郎胸像があります。当方、20年ほど前にも見に来ました。

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同じ型から作ったものは、信州安曇野の豊科近代美術館さん、同じく信州塩尻の古田晃記念館さん、福井市美術館さんにも収蔵されています。そして埼玉県東松山市の「彫刻通り」では野外展示。こちらは光太郎の薫陶を受けた、同市元教育長の田口弘氏のお骨折りで設置されました。

花巻北高さんのものは、台座に光太郎詩「岩手の人」の一節が刻まれたプレートが嵌め込まれています。

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光太郎、今も若い世代へのエールを送り続けています。

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同校は光太郎との直接的な縁はないそうですが、昭和52年(1977)、光太郎精神に共鳴した卒業生保護者の皆さんにより、設置されました。

ちなみに昨日のこのブログでやはり高田博厚作の佐藤隆房像(右上)もご紹介しました。


続いて、バスツアー終了後、花巻高村光太郎記念会事務局の方のご案内で、「山の駅 昭和の学校」さんへ。こちらは廃校となった旧前田小学校さんの校舎を利用し、昭和のレトログッズを展示しているミュージアムです。花巻南温泉峡、大澤温泉さんと鉛温泉さんの中間ぐらいのところに、一昨年オープンしました。

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校舎内を昔の商店街に見立て、約5万点という膨大なレトログッズがところせましと並んでいます。

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左上はダイハツミゼット。一度、運転してみたいものです。その文房具店、右はカメラ屋さんの設定です。

当方、子どもの頃に普通に周囲にあったものばかりで、懐かしさに打たれました。

古本屋さんの設定のコーナーに、光太郎著書がありまして、光太郎関連はそんなものだろうと思っていましたが、さにあらず。帰りがけ、出入り口の壁にこんなものを見つけました。

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銅板を組み合わせて作った大きなプレートで「道程」が刻まれています。こちらは旧前田小学校さんのもので、ある年の卒業記念制作。おそらく児童ひとりひとりが作ったプレートをパッチワークのように繋げてあるのでしょう。

前田小学校さんと光太郎との関連もないようですが、やはり花巻北高さんと同じように、ある意味郷土の偉人の顕彰も兼ねる、というわけですね。


さらに日曜日、高村山荘敷地内での高村祭終了後、花巻温泉に行きました。入浴はせず、あくまで調査です(笑)。

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当方の泊まっていた大澤温泉さんを含む花巻南温泉峡とは山一つ隔てたところにあります。ここは温泉宿を中心とした一大レジャーランドとして、大正12年(1923)に開業した、比較的新しい温泉地です。湯は湯量がやけに多く、無駄にしていた近くの台温泉から引き、花巻電鉄花巻線(鉄道線)が町中心部から延引されました。下は廃線となった花巻電鉄の駅の跡です。

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十万坪の敷地全体を花巻温泉株式会社として経営、スキー場、遊戯場、プール、ゴルフコース、テニスコート、動物園、植物園、貸別荘、傷病軍人療養所など、さまざまな施設が作られました。経営には賢治の一族も関係し、賢治が設計した花壇も作られました。入場無料のバラ園があり、その中に花壇跡の碑、賢治詩碑、復元された花壇がありました。桜並木も賢治の土壌改良技術によって可能となったそうです。ちなみに今年は賢治生誕120年です。

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大澤温泉さんと並び、光太郎はこの花巻温泉にも繁く宿泊しています。光太郎の記録に残っている旅館は、松雲閣、およびその別館、紅葉館(まだ健在。しかし、建物は近代的になっています)という旅館です。格としては松雲閣別館が最も高かったようで、光太郎の談話筆記には以下の記述が見られます。「一番奥にある松雲閣というのが一番大きく、ちょっと高いところにある別館が一番の高級で、皇族だの、大尽様などがお泊まりになる。私なども、そこへ入れられてしまうが、さすがに建築は立派である」。

昭和27年(1952)には、NHKラジオ「朝の訪問」のための、詩人の真壁仁との対談をここ松雲閣別館で録音した他、日記が失われているため詳細は不明ですが、前年の『朝日新聞』岩手版に載った岩手県知事国分謙吉との対談も、ここで行われたと推定できます。

こちらが往時の松雲閣別館。古絵葉書です。

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松雲閣自体は老朽化のため営業を終えましたが、この建物はまだ残っているらしいと知り、探しに行きました。はたして、残っていました。

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ただし、公開はされて居らず、バラ園、そして道路から外観が見えるにとどまります。柵があって近づけません。

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総欅造り、釘を一本も使っていないそうです。


また、昭和25年(1950)には、花巻温泉株式会社の創業者、金田一国士を頌える碑が建立され、光太郎はその碑文である詩「金田一国士頌」を作り(揮毫は書家の太田孝太郎)、その除幕式にも参加しています。光太郎生前の数少ない詩碑の一つです。

この詩碑も20年ぶりに拝見。松雲閣別館のすぐ近くです。

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こちらは除幕式の写真。中央やや左に光太郎。ガタイがやけにいいのですぐわかります(笑)。

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左上に写っているのが除幕された碑です。

以前にも書きましたが、この碑は、花巻農学校跡(現在のぎんどろ公園)に建てられた賢治の「早春」詩碑と、どうやら同じ石材から切り出されたものらしいとのことです。こちらも同じ昭和25年(1950)の建立で、光太郎は詩の選択に関わり、除幕式にも参加しています。

詳しくはこちら


最後に、泊めていただいた大澤温泉さん。

山水閣さん、菊水館さんは、ここ数年で何度か利用しましたが、今回は湯治屋さん(自炊部)に泊まりました。こちらは学生時代以来、30年ぶりです。

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豪華ホテルに慣れている方には絶対にお勧めできません(笑)。「普通の旅館と同じだろう?」という方も、甘いですね(笑)。なにしろ、部屋のカギは存在しません。浴衣もコタツも有料です。隣の声は筒抜け、廊下や階上(当方の部屋は一階でした)を他の人が歩く音が響き渡ります。食事は館内の食堂で摂るか、自炊(共同調理場があります)、もしくは売店でパンやカップ麺など。しかし、風情は大ありです。料金も激安です。

当方、2泊の間、夕食は食堂で、朝食は売店で買ったパンでした。音対策(それが必要だとわかっていたので)は携帯音楽プレーヤー。ヘッドホンでヒーリング系の音楽を聴きながら眠りました。たまにはこういう経験もいいものです(笑)。何より温泉はすばらしいので、2泊の間に8回入ってきました。

以上、花巻レポートを終わります。


【折々の歌と句・光太郎】

白花のリラのさし花さきたわみ石のはだかの肩に触りたり
大正15年(1926) 光太郎44歳

大澤温泉さん、リラ(ライラック)ならぬ遅咲きの桜がまだ咲いていました。澄んだ空には飛行機雲。

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先ほど、2泊4日の行程を終え(夜行高速バスで行きましたので、1泊少ないのです)、岩手花巻より帰って参りました。

本日は、オフィシャルな部分での花巻レポートです。

5/14(土)、花巻市主催の市民講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」が開催され、それに帯同しました。

地元紙2紙の報道から 

光太郎の足跡たどる 花巻で没後60周年ツアー

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の没後60周年を記念したツアー「高村光太郎の足跡を訪ねる-花巻のくらし」は14日、花巻市内で開かれた。戦禍を逃れて花巻に疎開した際に身を寄せた同市桜町の「二岳荘(にがくそう)」が特別公開され、市民ら約20人が光太郎ゆかりの地を巡った。
 高村光太郎記念館講座として企画。光太郎は、花巻共立病院(現総合花巻病院)元院長の故・佐藤隆房さんの招きで佐藤家の二岳荘に滞在。離れの2階にある4畳半ずつの2部屋で過ごしたといわれ、当時使っていた火鉢や妻智恵子が創作した紙絵などが残されている。
 参加者は「タイムスリップしたみたい」「光太郎さんがここで過ごしたんですね」と大喜び。ボランティアガイドの説明を聞きながら広大な庭園を散策し、当時の生活に思いをはせた。
 ツアーでは光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑や同記念館なども見学。同市葛の葛巻秀子さん(65)は「こんなに立派なお屋敷があるとは知らなかった。1928(昭和3)年に建てられたのにモダンな印象。また訪れたい」と雰囲気を楽しんだ。
(2016/05/15 『岩手日報』) 

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細かい話ですが、キャプションに2箇所、誤りがあります。上の写真、こちらに飾られている智恵子の紙絵は複製で、本物は花巻高村光太郎記念館に展示中です。それから下の写真、「光太郎が過ごしたとされる」というあいまいなものではなく、はっきり「光太郎が過ごした」です。 

目と食で〝先生〟思う 高村光太郎没後60周年 足跡巡る記念館講座

 花巻市の高村光太郎没後60周年事業として、高村光太郎記念館講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし」が14日、市内で催された。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)ゆかりの深い地を巡り、東京から花巻に疎開して以来7年に及ぶ思索と農耕自炊の日々を送った偉人に思いをはせた。
 定員いっぱいの市民20人が参加。まなび学園を発着点にバスで移動し、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑前で光太郎や賢治らに関する資料や作品を展示している桜地人館を見学後、佐藤家の二岳荘と庭園へ。上太田山関振興会館で昼食を取り、高村山荘と記念館を訪れた。
 このうち、光太郎が東京から花巻に疎開した際、花巻共立病院長で交流のあった佐藤隆房(1890~1981年)の招きで身を寄せた部屋が残されている二岳荘は、今回特別に公開された。
 部屋には光太郎が滞在した当時の様子を紹介する写真パネルが展示され、庭園では植栽や茶室「潺湲亭(せんかんてい)」などが散策でき、抹茶の振る舞いも行われた。
 昼食では、光太郎が記した食事のメモを基に太田山口地区の食生活改善推進員協議会が調理した「そば粉パン」、光太郎が「シュークルート」と呼んだ野菜の酢漬けなどが並んだ。同協議会員で記念館職員の新渕和子さん(64)が「そば粉と重曹、みそ、水を混ぜてフライパンで焼くだけで簡単にできる。光太郎先生はバターをつけ、黒蜜を塗って食べたらしい」と紹介。参加者は自分でも作ってみようと手帳に書き留めたり、食べ方をまねたりして味わった。
 締めくくりは、光太郎が暮らした山荘と、2015年4月にリニューアルオープンした記念館の見学。参加者は「冬の山荘は相当寒かったろうに」「地域の人には、かなり慕われていたんだろう」などと当時の暮らしぶりに思いを巡らせていた。
 同市若葉町から夫婦で訪れた男性(72)は「こういう時じゃないと自分たちだけでは見られない場所があったので参加した。佐藤家は敷地の広さ、古い住宅の良さ、設備に驚いた。そば粉パンは思っていたよりおいしかった」と話していた。
(2016/05/15 『岩手日日』)

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上の写真には、当方が写っています(笑)。

記事をお読みいただければ、概要はつかめますね。

下記は帯同しながら撮った写真です。

賢治詩碑。昭和11年(1936)、光太郎が揮毫。さらに当初あった誤字脱字を昭和21年(1946)に訂正しています。

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新緑がきれいでした。

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詩碑近くの桜地人館。光太郎や賢治関連の貴重な資料が展示されています。大半は佐藤隆房が贈られたものです。昔は「佐藤郷志館」という名前でした。
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その庭に立つ佐藤隆房像。光太郎と親しかった高田博厚の作です。

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佐藤隆房邸。詩碑や桜地人館さんからそう遠くありません。ここの離れに光太郎が昭和20年(1945)、1ヶ月滞在しました。その後も太田村から花巻町に出て来た時の拠点にしていました。

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広大な庭。

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咲き誇る牡丹。

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右上は、賢治が取り寄せたという薔薇。ただし、こちらはまだ咲いていませんでした。


この後、旧太田村に移動。昼食をいただきました。

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記事にあるそば粉パンとシュークルートです。

光太郎が暮らした山小屋・高村山荘および高村光太郎記念館。

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この後、一般参加者の皆さんは、バスで市街へ戻り、解散。当方はこちらに残り、事務的打ち合わせ等々。


翌日は、第59回高村祭。明日以降もブログに書くべきネタがてんこ盛りですので、一気にこちらもご紹介してしまいます。

やはり地元紙の報道から。

没後60年、光太郎の情熱しのぶ 花巻で高村祭

 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第59回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれ、市民ら約300人が青空の下、合唱や朗読で没後60年を迎えた先人をしのんだ。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催。佐藤会長は「先生は情熱の詩人で戦時中は士気を鼓舞する作品も発表したが、山荘暮らしの7年間は戦争への反省を重ねた。皆さんも当時をしのんでほしい」とあいさつした。
 太田小、西南中、花巻高等看護専門学校の児童生徒が合唱し、詩の朗読では及川波月(はづき)さん(花巻農高3年)が「レモン哀歌」、藤原詳さん(同2年)が「当然事」、花巻高等看護専門学校1年の石川泰(たい)さんが「非常の時」を読み上げた。
 及川さんと藤原さんは「純粋な思いが伝わるように朗読を心がけた」「自然豊かな高村山荘で朗読する貴重な機会をもらった」と語り光太郎に思いをはせた。
(2016/05/16 『岩手日報』)

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”先生”の教え次代が引き継ぐ 高村祭

 花巻高村光太郎記念会と高村記念会山口支部が主催する「第59回高村祭」は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた。彫刻家で詩人の高村光太郎が、1945年に東京から花巻に疎開してきた日に合わせて毎年実施。詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を会場全体で朗読し、古里ゆかりの偉人をしのんだ。
 地元小中学生らが合唱などを披露。いずれも光太郎作の「レモン哀歌」を及川波月さん(花巻農高3年)、「当然事」を藤原詳君(同2年)、「非常の時」を石川泰君(花巻高等看護専門学校1年)が朗読し、光太郎の偉業に思いをはせた。
 2016年は光太郎没後60年、光太郎の妻・智恵子生誕130年の節目の年。特別講演では、祖母の金谷ふゆさんが光太郎のいとこだった盛岡市の加藤千晴さんが「高村光太郎と金谷一族について」と題し、エピソードを披露した。
 同日は約600人が参加。鎌田志栞さん(西南中1年)は「光太郎先生の詩からは自然の豊かさを感じる。太田の風景とも重なるところがあり落ち着く」と話していた。

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以下、やはり当方が撮りました。

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今朝のNHKさんのローカルニュース。

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永続的に続けていっていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や南へいそぐ旅烏       明治42年(1909) 光太郎27歳 

旅ガラスの当方、このブログを書くために急いで帰って参りました(笑)。

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昨日、岩手花巻に参りまして、今日は光太郎が昭和20年(1945)秋から7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内での第59回高村祭にお邪魔しました。

からりと晴れ渡った空の下、爽やかな風が吹き渡り、暑くもなく寒くもなく、素晴らしい陽気でした。

例年通り、地元小中高生、高等看護専門学校生による音楽演奏や朗読。記念講演は光太郎の血縁で、盛岡在住の加藤千晴氏。貴重なお話が聴けました。

地元の皆さんをはじめ、福島いわきの草野心平記念文学館の方、青森の十和田湖・奥入瀬観光ボランティアガイドの会の方、このブログをご愛読いただいている方などに久しぶりにお会いできたのも、嬉しい点でした。

詳しくは、帰りましてからレポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

うなづけば万語(ばんご)若(し)く無き意は足りぬ山の湯に聴く昼ほととぎす
明治37年(1904) 光太郎22歳

今晩も当方、光太郎が愛した大澤温泉さんです。

「ほととぎす」ならぬカジカガエルの声がよく聞こえます。

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岩手花巻・大澤温泉さんにて、携帯からの投稿です。
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昨夜、池袋西口発の夜行高速バスに乗って、今朝6時半、花巻に着きました。

明日が郊外旧太田村の、昭和20年(1945)から7年間を光太郎が過ごした山小屋(高村山荘)敷地内での第59回高村祭。今日はそれに合わせ、市主催の市民講座で、太田村に移る直前の1ヶ月間、光太郎が厄介になっていた花巻市街地にある花巻病院長・佐藤隆房邸、高村山荘、高村光太郎記念館などの見学ツアーがあって、それに帯同していました。

先ほど、二泊させていただく大澤温泉さんに到着。この後は露天風呂を満喫、早めに夕食をとって寝ます。
詳しいレポートはのちほど。

【折々の歌と句・光太郎】

みちのくの花巻町に人ありき賢治を生みきわれを招きき
                                                                    昭和21年(1946)光太郎64歳

「人」は前年の空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎を受け入れてくれた宮沢賢治の父・政二郎、賢治の主治医でもあった佐藤隆房らを指します。

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