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花巻郊外旧太田村、昭和20年(1945)秋から戦後の7年間を光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内に、光太郎の遺品などを展示するために「高村記念館」が竣工したのが、昭和41年(1966)のことでした。

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看板の揮毫は、草野心平。

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こちらは平成25年(2013)に、近くの歴史民俗資料館だった建物が新たな高村光太郎記念館として仮オープングランドオープンは平成27年=2015)するまで、使用されていました。

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古い建物なため、空調も無く、夏場は開け放った入り口からオニヤンマが舞い込み、光太郎彫刻に止まったりしていました。それはそれで趣があってよかったと思います。

その後、倉庫として使っていましたが、このほど、内部をきれいに一新し、「森のギャラリー」としての活用が開始されました。

先月末、市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」で、お邪魔した際に、内部を見せていただきました。

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新しい記念館に並べきれない収蔵品の一部――高田博厚作の光太郎胸像、智恵子紙絵の複製など――が展示されているほか、長テーブルなども配され、ちょっとしたイベントに使えるようにしてあります。

オープンを報じた8月25日の『岩手日日』さん。

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早速、紙絵制作の体験講座が開かれたそうです。

同じ『岩手日日』さんの8月27日付。

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こんなチラシを作り、呼び掛けたそうです。

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講座の様子の画像も送っていただきました。

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記事に有るとおり、光太郎が望んでいたという、この地の芸術・文化活動の拠点という意味合いでのリニューアルです。狭い建物ですのでキャパは限られますが、こうした講座や、ギャラリーとしての作品展示、それからコンサート等にも使えそうですし、いろいろ活用の方法がありそうです。

光太郎ゆかりの地で、ちょっとしたイベントを行いたい、という方、窓口は一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんです。もちろん何でもありというわけではないでしょうが、問い合わせてみて下さい。


【折々のことば・光太郎】

願くは精神の鼓舞これを凌いで われら面目一新の大道に立ち、 武装せざる平和の妙致を随処に捉へ 精神の美と深とに匹儔を絶たん。

詩「武装せざる平和」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

我が国は敗戦により、否応なしに武装解除させられたわけですが、それを逆に好機として、「武装せざる平和」の実現に向くべきだとの論。戦時中の翼賛詩からの変わり身の早さは置くとして、のちの憲法第9条の精神を先取りしている点は、やはりさすが光太郎です。

「核戦力を中心とする自衛的国防力を100倍、1000倍に強化していかなければならない」とするどこかの国の指導者に贈りたい言葉です。

昨日の『岩手日日』さんの記事です。

雨ニモマケズ一歩一歩 ツーデーマーチ 県内外1107人が交流【花巻】

 花巻の豊かな自然を歩いて体感する第20回いわて花巻イーハトーブの里ツーデーマーチ(イーハトーブフォーラム実行委主催)は19、20の両日、花巻市内を巡る距離別8コースで行われた。県内外から2日間で延べ1107人が参加し、花巻の観光スポットやウオーカー同士の交流を楽しみながらゴールを目指した。

 イーハトーブフォーラムのイベントとして毎年実施され、今回は5キロから40キロまでの8コース(1日4コース)に北は北海道、南は鹿児島県から19日606人、20日は501人が参加した。

 最終日の朝は霧雨が降る悪条件となったが、参加者は傘を差したり雨具を身に着けたりして同市大通りのなはんプラザに集結。「雨にも負けず完歩しよう」「いつまでも平和で歩けるといいですね」などのメッセージ入りのゼッケンを着けて「元気よく歩くぞ エイエイオー」と気勢を上げ、力強い足取りでスタートを切った。

 出発式であいさつした県ウオーキング協会の佐藤良介会長は「宮沢賢治、高村光太郎のゆかりの地を訪ねて歩くコースなどがある。足元に気を付け、楽しみながら完歩をめざしていただきたい」と激励。前回に続く2度目の参加で、初日は賢治文学散歩のコース、最終日は花巻温泉郷コース(ともに20キロ)に挑戦した福井県福井市の会社役員澤村玲子さん(73)は「市民の方々の親切なおもてなしに感激し、今年も参加した。60年以上の賢治ファンなので、とても満足できるイベント」と笑顔を見せた。

 発着点のなはんプラザには、これまでのツーデーマーチのパンフレットや県内外のウオーキングイベントを撮影した写真を展示。参加者には20回の記念タオルやバッジなどが贈られた。

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花巻でこの手のイベントが行われているのは存じておりましたが、「宮沢賢治、高村光太郎のゆかりの地を訪ねて歩くコース」というのは存じませんでした。

調べてみましたところ、なるほど、郊外旧太田村の光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)方面へのコースが、「光太郎と賢治出会いのコース」となっていました。

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光太郎がその碑文の文字を揮毫した、賢治の「雨ニモマケズ」詩碑もコースに入っており、そんなことから「光太郎と賢治出会いのコース」なのでしょう。距離は30キロだそうで、楽勝、という距離ではありませんが、無理、というわけでもなく、歩き甲斐はありそうですね。この手のイベントででもなければ歩こうとは思わない距離でもありましょう。

もう20回を数えるイベントだとのことですが、今後とも継続していってほしいものです。


ところで、ウオーキングの大会として、日本最大の規模を誇るのが、埼玉県東松山市で行われている「日本スリーデーマーチ」。その発展に尽くされた同市元教育長の故・田口弘氏は、戦時中から光太郎と交流がおありでした。今年2月に逝去され、今秋行われる「日本スリーデーマーチ」は、氏の歿後初めての開催となります。

光太郎も歩くことが好きでした。奇縁を感じます。


【折々のことば・光太郎】

鋼鉄の武器を失へる時 精神の武器おのづから強からんとす 真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ 必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
詩「一億の号泣」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

亡き智恵子と共に暮らした思い出深い駒込林町のアトリエを焼け出され、賢治実家の厚意で身を寄せていた花巻の鳥谷ヶ崎神社で聴いた終戦の玉音放送に題を採った詩です。

それまでに大量に書き殴っていた翼賛詩のなごりがまだ見えますが、その翼賛詩にしろ、決して敵国人の鏖殺を目的としたものではなく、「真と美と到らざるなき我等が未来の文化」建設のため、という意図がありました。

始まってしまった戦争であれば負けるわけにはいかない、塗炭の苦しみにあえぐ国民を勇気づけたい、そういう意図があったことは非難できません。

しかし、戦後の光太郎は、花巻郊外太田村の山小屋に蟄居し、自らの戦争責任を厳しく断罪するのです。

花巻での刊行物2点、ご紹介します。

まず、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』第3号。創刊号第2号同様、裏表紙に花巻高村光太郎記念館さんの協力により「光太郎のレシピ」が連載されています。

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今回はカレーを中心に、付け合わせの漬物系。昭和21年(1946)の光太郎に日記には、カボチャの花や間引きした白菜(茎でしょうか)などを酢であえてみた的な記述があり、それを再現したようです。なかなか面白いアイディアですね。

オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊、年6回配本。送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


続いて、盛岡ご在住、光太郎の従妹・加藤照さんの子息・加藤千晴氏による冊子『光太郎と女神たち』。

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加藤氏、昨年5月の花巻高村祭でご講演をされ、その後、当方、ご自宅にお伺いし、照さんにもお目にかかりました。その際に、加藤家に伝わる光太郎書簡や古写真、光太郎の姉・さくが描いたという扇子(表紙に使われています)などを拝見しました。

それらの資料の紹介と共に、加藤家と光雲、光太郎らのつながりについてまとめられたものです。

こちらは非売品の扱いですが、お問い合わせは花巻高村光太郎記念館さんまで。


【折々のことば・光太郎】

少女立つて天を仰ぐは まことに聖なるものの凜たる像だ。

詩「少女立像」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

雑誌『少女の友』に掲載されました。もともと光太郎には婦人誌や少女誌からの原稿依頼が多く、他にも老境に入り、次代を担う若者達へのメッセージが目立つようになります。

7/29(土)・30日(日)、1泊2日の岩手花巻・盛岡紀行、最終回です。

盛岡市郊外の岩手県立美術館さんで、企画展巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」を拝観した後、返却場所が盛岡駅前ということもあり、盛岡の市街にレンタカーを向けました。

まだ時間もあったので、返却前に少しだけ光太郎に関わる常設展示が為されているところもついでに観ておこうと思い、まずはもりおか啄木・賢治青春館さんに。

こちらは明治43年(1910)竣工の旧第九十銀行本店本館の建物を使っています。

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こちらではその名の通り、旧制盛岡中学に通っていた青春時代をこの町で過ごした石川啄木と宮沢賢治に関する展示が為されています。当方、前を通ったことは何度もありましたが、いずれも開館時間外の早朝や夜だったため、中に入るのは初めてでした。入館は無料。ありがたや。

啄木、賢治の生涯が、パネルやガラスケースでわかりやすく構成されていました。

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レトロな建物の内装とマッチし、いい感じでした。

光太郎に関わるパネルも。

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賢治が亡くなった直後、昭和8年(1933)10月6日の『岩手日報』。賢治の追悼特集です。

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光太郎が賢治実弟の清六に寄せた弔意を表す書簡が抜粋されています。

 拝啓 先日訃報をいただいた時は実に驚きました、生前宮沢賢治さんとゆつくりお話をし合ふ機会もなく過ぎてしまいゐましたが此の天才といふに値する人を今失ふ事は小生等にとつて云ひやうもなく残念な事でした、折あしく当方にて手放せない病人などありまして手紙さへ差し上げられませんでしたが草野君が参上する事となつて幾分安心いたしました(略)
 昨夜は草野君が帰京直ちに来宅せられていろいろそちらのお話や賢治さんの事やら遺稿の事やらうかがふ事が出来て少々慰められました(略)
 遺稿の事などいづれ又こちらの友人達からも申出ることがあるかと存じます(略)
  八年九月二十九日
            高村光太郎
  宮沢清六様 
                                              
手放せない病人」は心の病が昂進していた智恵子、「草野君が参上」は、光太郎の命で草野心平が宮沢家に弔問に訪れ、さらに賢治遺稿の散逸を防ぐ対策を講じるよう動いたことを表します。

翌年には、清六が賢治遺稿の入ったトランクを持って上京、やはり光太郎や心平、永瀬清子らのいた中で、有名な「雨ニモマケズ」の書かれた手帳の発見へとつながりました。

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左は光太郎に私淑した彫刻家、高田博厚作の賢治像、右は舟越保武作の啄木像です。

啄木も、明治末年、与謝野夫妻の新詩社や、雑誌『スバル』の関係で、光太郎と交流がありましたが、こちらではそのあたりはあまりふれられていなかったようでした。


続いて、すぐ近くの盛岡てがみ館さんへ。

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こちらでは、企画展「舟越保武の手紙~手紙から見る制作の裏側~」が開催中でした。

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遺された舟越から諸家への書簡のうち、特に彫刻制作に関わるものをピックアップし、その背景を浮き彫りにしようというコンセプトでした。

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光太郎にも通じる、彫刻家としてのさまざまな苦労や、逆に喜びなどが綴られ、興味深く拝見しました。

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こちらは田沢湖の辰子像制作中の写真です。

常設展示では、光太郎の詩稿「岩手山の肩」(昭和22年=1947)が展示されています。


   岩手山の肩

 雪をかぶつた岩手山の肩が見える。003
 少し斜めに分厚くかしいで
 これはまるで南部人種の胴體(トルソオ)だ。
 君らの魂君らの肉体君らの性根が、
 男でもあり女でもあり、
 雪をかぶつてあそこに居る。
 あれこそ君らの實体だ。
 あの天空をまともにうけた肩のうねりに
 まつたくきれいな朝日があたる。
 下界はまだ暗くてみじめでうす汚いが、
 おれははつきりこの眼でみる。
 岩手県といふものの大きな図態が
 のろいやうだが変に確かに
 下の方から立ち直つて来てゐるのを。
 岩手山があるかぎり、
 南部人種は腐れない。
 新年はチヤンスだ。
 あの山のやうに君らはも一度天地に立て。


さらには啄木や賢治の書簡も常設展示されています。

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いったいに、盛岡ではこうした遺産をしっかり継承し、先人の顕彰をきちんと行っていこうという気概が見え、好ましく思っております。

ところで賢治といえば、前日、新花巻駅近くの銀河プラザ山猫軒さんで、こちらを購入しました。

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帯にあるとおり、WOWOWさんで放映された「WOWOWプライム 連続ドラマW 宮沢賢治の食卓」原作のコミックです。

ドラマでもそうでしたが、賢治以外にも、清六や、父の政次郎、賢治妹のクニやシゲ、藤原嘉藤治など、光太郎と関わった人々が多数登場。そして、やはりドラマ同様、光太郎と賢治が出会う大正15年(1926)の前で、終わっています。光太郎と出会う続編を期待しております。

かくて1泊2日でしたが、ぎゅぎゅっと濃密な岩手紀行でした。行く先々でお世話になった皆さん、ありがとうございました。


【折々のことば・光太郎】

冬日さす南の窓に坐して蝉を彫る。 乾いて枯れて手に軽いみんみん蝉は およそ生きの身のいやしさを絶ち、 物をくふ口すらその所在を知らない。

詩「蝉を彫る」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

詩では翼賛的なものを大量に書き殴った光太郎ですが、造形美術の方面では、戦争協力はほとんどしませんでした。特に彫刻では、軍部や大政翼賛会の命で、戦意高揚に資する作品の制作が広く行われましたが、光太郎はその手の作品は作りませんでした。非常時でも一匹の蝉を彫る勇気を持つというのが光太郎の矜恃だったのです。この点はもう少し評価されてもいいような気がします。大量に書き殴られた翼賛詩はまったくといっていいほど見るべきものがありませんが……。

岩手レポートの4回目となります。

7/30(日)、盛岡市の岩手県立美術館さんで開催中の、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」を拝観いたしました。

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同名の企画展は、かなり以前から全国各地を巡回していますが、今年初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、のち全国的にニュースとなった、新発見の川端康成旧蔵の書画などが、今回初めて展示されています。


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光太郎の書も1点。詩「樹下の二人」(大正12年=1923)中のリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」を扇面に揮毫したものです。現物を見てもいつ頃の揮毫なのか、何とも言えないところですが、筆跡的には間違いのない物でした。ネット上で小さな画像は事前に見ていましたが、現物を見ると、それまで意識しなかった余白の使い方などの絶妙さに改めて気づかされました。

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公式図録は過去の全国巡回の際のものと同003一のようで、新発見のものは掲載されていませんでした。残念に思っていたところ、目玉となるようなものについては、ブロマイド的に写真用紙にプリントした物が販売されており、そちらを購入いたしました。A4判で、800円だったと思います。

その他、光太郎と関わりのあった人物の作品などが数多く展示されており、興味深く拝見いたしました。彫刻のロダンや高田博厚、絵画では梅原龍三郎、岸田劉生、木村荘八、安井曾太郎。書で夏目漱石、与謝野晶子、室生犀星、北原白秋など。右はロダンのブロンズ「女の手」。ポストカードが売られていたので購入しました。

光太郎に関わらないものも逸品ぞろいで(国宝も含まれていました)、川端・東山の審美眼に感心させられました。また、下世話な話ですが、その財力にも(笑)。

下記は出品目録です。クリックで拡大します。ここにはブラウザの「戻る」ボタンで戻って下さい。

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こちらは8月20日までの開催です。ぜひ足をお運びください。


それから、常設展示も拝見。岩手県立ということで、岩手出身の美術家の作が中心でした。特に興味を引かれたのが、それぞれ多数の作品が展示されている萬鉄五郎、松本竣介、そして舟越保武。やはりそれぞれ光太郎と関わりがありました。萬は大正元年(1912)から翌年にかけてのヒユウザン会(のちフユウザン会)で光太郎と一緒でしたし、松本は昭和10年代に主宰していた雑誌『雑記帳』に光太郎の寄稿を仰いでいます。そして舟越はこのブログでも何度かご紹介しましたが、光太郎がさまざまな援助を行った岩手県立美術工芸学校で教鞭を執り、それ以前には、お嬢様の千枝子さんの名付け親になってもらっています。

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こちらは舟越の代表作にして、第5回高村光太郎賞受賞作の「長崎26殉教者記念像」のうちの4体。

舟越の彫刻は、館の入り口に野外展示されてもいました。


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というわけで、なかなか充実の展示でした。

当初予定ではここだけ観て帰るつもりでしたが、せっかく盛岡まで来たし、しばらく盛岡に来る予定もないので、市街に車を向けました(県立美術館さんは若干郊外です)。少しだけ光太郎に関わる常設展示が為されているところもついでに観ておこうと思った次第です。

明日は岩手レポートの最終回で、そのあたりをお伝えします。


【折々のことば・光太郎】

私は青年が好きだ。 私の好きな青年は真正面から人を見て まともにこの世の真理をまもる。 私の好きな青年はみづみづしい愛情で ひとりでに人生をたのしくさせる。

詩「私は青年が好きだ」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

しかし、数年後にはその大好きな青年たちを死地に追い込む詩文を乱発します。それだけに、戦後になっての悔恨は深いものがあったのでしょう。7年間に及ぶ、花巻郊外太田村での蟄居生活に結びつくのです。

7/29(土)、花巻郊外の台温泉に宿を取りました。

これまで花巻に宿泊する場合は、ともに光太郎が泊まったことがある花巻南温泉峡の大沢温泉さんか鉛温泉さん、あるいは駅前の商人宿が多く、台温泉は初めてでした。

台温泉は、花巻温泉の奥に位置し、室町時代に発見された古い温泉です。豊富な湯量を誇り、かつては川に流していた余剰の湯を、花巻温泉に回しています。こちらにも光太郎が宿泊しています。

光太郎日記によれば、昭和26年(1951)に2回、1泊ずつ泊まっています。2回目は、草野心平も一緒でした。宿泊は、今も残る松田屋旅館さんでした。

以下、日記から。

10月19日 金
晴、くもり、 花巻行、 十二時十三分のでゆく。花巻局より中央公論社へ選集三回分の原稿を速達書留小包で送る、ニツポンタイムスへ一年分の金を送る、 夜六時半公民館の賢治子供の会の劇を見る、 九時、タキシで台温泉松田屋旅館にゆき泊る、(略)

10月20日 土
台温泉の湯よろしけれど、遊客多く、さわがし。 雨となる、 九時半のバスにてかへる、(略)

12月7日 金
(略) そのうち草野心平氏来訪、 (略) ヰロリで暫時談話、 後洋服をあらためて一緒に出かけ、花巻伊藤屋にてにて四人でビール等、 草野氏と共にタキシで台温泉松田家(原)にゆき一泊、ビール等 <(あんま)>

12月8日 土
朝雨後晴、 昨夜妓のうたをきき二時にねる、 花巻温泉まで歩き、花巻より盛岡までタキシ(2000円)、よきドライブ。

というわけで、日記に依れば、この2回の宿泊が確認できます。ただ、昭和24・25年(1949・1950)の日記の大部分が失われているため、その間にも宿泊しているかもしれません。傍証は談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」(昭和31年=1956)。台温泉に関し、「湯がいいので私もたまに行く」という記述があります。2回では「たまに行く」とは言わないような気がします。

さて、松田屋旅館さん。

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宿の方にお訊きしたところ、戦後すぐくらいの建築だそうで、となると、光太郎が泊まったのもこの建物のようです。それを存じ上げなかったので、いっそう感慨深いものがありました。ただし、かなり改修、改装は入っているようですが。

いったいに台温泉自体が、レトロな街並みのひなびた温泉街、という感じで、非常に気に入りました。

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松田屋さんから少し上には、これもかなり古い中嶋旅館さんという旅館がありました。こちらも実にいい風情です。温泉街に付きものの温泉神社も鎮座ましましていました。

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下は松田屋さんの露天風呂。源泉掛け流しで、湯が出てくるところではほとんど熱湯です。熱めの温泉大好きの当方には嬉しいかぎりでした。

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ロビーには昔の絵図。これもお約束ですね。

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光太郎は先述の談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」で、このように書いています。心平も登場しますので、おそらく、昭和26年(1951)12月7日から8日未明にかけてのことでしょう。

 台温泉は花巻線の終点から一里ばかり奥になる。電車の発着ごとにバスが出ている。
 狭い所なのだが温泉宿が十軒以上も建並び、芸妓屋もうんとある。湯がいいので私もたまに行くが、夜っぴいて三味線を、ジャンジャンとやられるのには閉口する。その代り、えらく念入りのサービスだから、東京の人でもまず満足するだろう。熱海でこんなことが流行っているというと、逸早く真似をするという所である。山の懐ろだが、そういう点ではバカに先走っている。
 以前に草野心平と一緒に台を訪れたことがあるが、隣でさわぐ、階下じゃ唄う、向うで踊るという次第で、一晩中寝られない。そこでこっちも二人で飲み出した。二人の強いのを知って、帖場からお客なんか呑み倒しちまう、という屈強な女中が送り込まれたのに張合った。たちまち何十本と立ちならんだ。まったくいい気になって呑もうものなら、大変なことになるところだ。
  しかし、よくしたもので、それだけに宴会などをやらせれば、それは面白くやれる。一口に云えば、花巻で浮かれて、お泊まりは台さ、としけこむところである。

まさに「心の洗濯」をしていた姿が、ありありと浮かびます。

当方は、一泊して温泉を堪能、7/30(日)朝、こちらを後にしました。

麓の花巻温泉、昨年も行きましたが、通り道ということもあり、レンタカーを駐めて少し歩きました。

昭和25年(1950)に建立され、光太郎はその碑文である詩「金田一国士頌」を作り(揮毫は書家の太田孝太郎)、その除幕式にも参加している、花巻温泉株式会社の創業者、金田一国士を頌える碑。

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やはり光太郎が何度か泊まった、旧松雲閣別館。現在は使用されていません。

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松田屋さんも含め、こうした遺産、末永く保存していってもらいたいものです。


その後は一路、盛岡へと北上。続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

この男の貧はへんな貧だ。 有る時は第一等の料理をくらひ、 無い時は菜つ葉に芋粥。 取れる腕はありながらさつぱり取れず、 勉強すればするほど仕事はのび、 人はあきれて構ひつけない。 物を欲しいとも思はないが 物の方でも来るのをいやがる。

詩「へんな貧」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

それを「清貧」と人は呼ぶのですが、光太郎にはそういう自覚はなかったようです。むしろ、こうした生活が前年になくなった智恵子を追い詰めた、という悔恨の方が先に立っているような気がします。

1泊2日の行程を終え、昨日、岩手から千葉の自宅兼事務所に帰って参りました。5回ほどにわけてレポートいたします。

7/29(土)、最初に向かったのは、花巻市博物館さん。企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」拝見のためでした。

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左はチラシ、右は図録の表紙です。

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、その間に、隣村の旧太田村に疎開していた光太郎と知り合い、交流を深めています。

ところで、以前、このブログで等観について、「花巻(湯口村)に疎開していた」的なことを書きましたが、誤りでした。従来刊行されていた文献にそう書かれているものが多く、それを鵜呑みにしていました。正確には妻子を千葉に残しての単身赴任、といった感じだったようです。その期間が長かったのと、チベット将来の品々を疎開させたことから、地元でも「等観さんは花巻(湯口村)に疎開していた」と思いこんでいた人が多かったのこと。

さて、展示。ほとんどが、そのチベット将来の品々でした。最後に「等観と花巻」というコーナーが設けられ、光太郎から贈られたものが展示されていました。

まずは、昭和22年(1947)9月5日、光太郎が円万寺の等観の住まいを初めて訪れた際に揮毫した団扇。

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以前から写真では見ていましたが、実物は初めて拝見しました。それから、単なる渋団扇だろうと勝手に思い込んでいたところ、さにあらず。貼ってあるのはやはりチベットから持ち帰った紙だということでした。光太郎に続いて、元旧制花巻中学校長の佐藤昌も揮毫しています。佐藤は昭和20年(1945)8月10日、花巻空襲でそれまで滞在していた宮沢賢治の実家を焼け出された光太郎を、無事だった自宅に一時住まわせてくれていました。

それから、画像はありませんが、同じ時に光太郎が等観に贈った、草野心平編、鎌倉書房版の『高村光太郎詩集』。残念ながらその部分は見えませんでしたが、等観当ての識語署名が入っているとのことでした。

そしてもう一点、昭和24年(1949)1月5日に等観に宛てて書いた葉書。

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曰く、

拝啓、先日はお使ひにて八日にお招き下され、忝く、当日参上するのをたのしみに致し居りましたが、昨夜以来降雪となり、その降雪量次第で出かけにくくなるやも知れず、事によると不参になるとも考へられますので念の為め右一寸申上げます。なるべくなら出かけたいとは存じますが。

この前後の光太郎日記から。

十時頃観音山より例の老翁使に来り、八日に来訪され一泊されたしと多田等観さんの伝言を伝へらる。多分ゆけるならんと返事す。茶を入れる。(1月3日)

昨夜来雪。終日ふりつづき、一尺ほどつもる。(略)多田等観氏にハガキをかき、降雪量多ければ八日に不参するかもしれぬ旨述べる(1月5日)

観音山行を中止する。雪中歩行が一寸あぶなく感ぜられる。(1月8日)

午前多田等観氏来訪。近く東京にゆくにつき来訪の由。ゆけなかつた事を述べる。観音山の話、法隆寺の話、西蔵の話などいろいろ、(略)ひる餅をやき、磯焼にして御馳走する。午后一時半辞去。清酒一升もらふ。昨日一緒にのむつもりなりし由。(1月9日)

今回、葉書が展示されているという情報は事前に得ておりましたが、細かな日付などは不明でした。日記と照らし合わせると、おそらくこの時のものだろうと思っていましたところ、その通りでした。パズルのピースがかちっと嵌る感じで、こういうところが面白いところです。


その後、等観が単身赴任していた郊外旧湯口村の円万寺さんに。以前もここを訪れたことはありましたが、このブログではそのあたり、省略していました。

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以前に訪れた時は路線バスを使い、麓から徒歩で登りました。かなりの坂で、きつかったのを記憶しています。光太郎も「山の坂登り相当なり。汗になる。」と日記に書いていました。今回はレンタカーを借りていたため、すいすいと。光太郎先生、すみません(笑)。

それだけに、ここからの眺望はすばらしいものがあります。「イグネ」または「エグネ」と呼ばれる屋敷森がいい感じです。

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等観が起居していた草庵「一燈庵」。

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光太郎の山小屋(高村山荘)に勝るとも劣らない粗末さです(笑)。扁額はレプリカのようで、本物は企画展に展示されていました。

その材となった「姥杉」。「尚観音堂傍に祖母杉と(ウバスギ)と称する杉の巨木の焼けのこりの横枝ばかりの木あり。この枝のミにても驚くばかりの大きさなり。枯れたる幹の方の太さ想像さる。直径三間余ならん。」と、光太郎日記にも記されています。

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こんな看板もありました。さすがに自然が豊かです。

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これだけはいただけませんが(笑)。

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遠き日、二人の巨魁の築いた友情に思いを馳せつつ、下山しました。

続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

最も低きに居て高きを見よう。 最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。

詩「冬」より 昭和14年(1939) 光太郎57

同様の表現が、このあと頻出します。しかし、この境地に本当に達するのは、やはり戦後、花巻郊外旧太田村に隠遁してからのことになります。

昨夜は花巻の台温泉、昭和26年(1951)に光太郎が泊まった松田屋旅館さんに泊めていただき、今日は盛岡に移動。岩手県立美術館さんで開催中の「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション」展を拝見しました。

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光太郎が「智恵子抄」中の詩句を記毫した扇が出品されていて、興味深く拝見しました。

その後、多少、光太郎に関わる常設展示がなされている盛岡てがみ館さん、啄木・賢治青春館さんを見まして、帰途に就いております。

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詳しくは帰りましてからレポート致します。

今朝、千葉の自宅兼事務所を出まして、光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。
まず、花巻市博物館さんで開催中の企画展「没後50年 多田等観 ーチベットに捧げた人生」を拝見。昭和20年代、光太郎が隠遁生活を送った旧太田村の隣村、湯口村の円万寺の堂守りだったチベット仏教学者にして僧侶の多田等観に関する企画展です。

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等観と光太郎とは、お互いの草庵を行き来しており、今回、等観遺品の中の光太郎から贈られた品も展示されていて、興味深く拝見しました。

ついでに等観が堂守りを務めていた円万寺さんも参拝。

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今夜泊めていただく台温泉♨松田屋旅館さんに荷物を置き、花巻高村光太郎記念館さんに向かう途中です。

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夕方から市民講座「新しくなった智恵子展望台から星を見よう」があり、講師を仰せつかっております。ただ、現在、どんより曇っていて、星は無理そうです。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

来週末、花巻高村光太郎記念会さん主催の市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」のために花巻へ参ります。その際に同じ花巻の市立博物館さんで開催されている企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」も、光太郎がらみの資料(書作品や書簡)が展示されているため拝見する予定です。

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そういう話を花巻高村光太郎記念会さんにお伝えしたところ、回り回って、以前に市立博物館さんに勤務されていた方から、多田等観に触れた同館の刊行物をごっそり頂いてしまいました。恐縮です。

僧侶にして仏教学者、チベットに足を踏み入れ、光太郎同様、現花巻市の山あい(旧湯口村の円万寺観音堂)に疎開していた多田等観については、平成16年に同館が開館して以来、館の重要なテーマの一つとして、研究に取り組まれているとのこと。最初に担当されていた学芸員の方が平成23年(2011)に亡くなったあとは、専任を決めず館を上げて持ち回りで担当されてもいるそうです。

頂いた資料は、館の研究紀要、『花巻市博物館だより』、それから以前の企画展等の際に作成されたと思われる略年譜などのリーフレット。

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当方、光太郎と交流のあった頃の等観関係資料は以前にも読んでいましたが、等観という人物の全体像については寡聞の状態です。来週までにありがたく精読しようと思っております。

光太郎が初めて円万寺観音堂を訪れた際の日記から(それ以前に等観とは何度か会っています)。

翁に案内されて観音山の多田等観氏を訪問。山の坂登り相当なり。汗になる。山上は涼し。 等観氏新宅ヰロリ辺にて談話、中食、酒、御馳走になる。 観音堂にてチベツト将来の塑像千手観音を見る。彩色也。他に花巻人形の観音、馬頭観音、地蔵等あり。尚観音堂傍に祖母杉と(ウバスギ)と称する杉の巨木の焼けのこりの横枝ばかりの木あり。この枝のミにても驚くばかりの大きさなり。枯れたる幹の方の太さ想像さる。直径三間余ならん。 染瀧と称する霊泉にゆきてのむ。清冽。硅石の岩層中より流出す。 等観氏に「光太郎詩集」一部贈呈。 等観氏酒のむと程なく酔ふ。 午后三時半過辞去。 雨ふりくる。下まで等観氏送りくる。

これが昭和22年(1947)9月5日です。

同じ日の等観日記。

九時ころ六左エ門と高村光太郎氏 六左エ門孫男同行来訪。続いて佐藤元花中校長来る。堂宇から瀧へと順次案内する 馬頭観音の花巻人形かたを作ること、姥杉材を彫刻してくれること、姥杉を天然記念として保管名処たらしむるなど話ある 稗貫平野の展望には鑑賞の多くをめで庵に入りて台処 炉をことに気に入り終日そこに落付かれた。 六左 米三枡ツケモノ一重清酒四合ビン持参。鉄鉢米をたいて中食をとゞのふる。ドブ壱枡 ナス汁三ナベ作り勘のタクアン、と十年味噌がお煮となる。五時帰る 悠々無一物 満喫荒涼美を団扇に残こす。新刊高村光太郎詩集寄贈ある。

悠々無一物 満喫荒涼美を団扇に残こす」は、今回、博物館さんで展示されている団扇に、光太郎が「悠々無一物 満喫荒涼美」と揮毫したことを表します。光太郎の日記には記述がありません。この年発表された連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」という詩に、「今悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の一節があり、それを漢詩風にアレンジしたと推定されます。他にも東京神田で汁粉屋を営んでいた有賀剛という人物にも同じ短句の色紙揮毫を進呈したりもしています。

また、この際に光太郎が贈った、おそらく同年鎌倉書房刊、草野心平編の『高村光太郎詩集』と思われる書籍も展示されているそうです。謹呈の識語署名などが書かれていることが推理され、興味を引かれています。

企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」は、8月20日(日)までの開催。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

すべて若くめづらしく 冒険の可能を約束し 知られざるものへの牽引 新しき経験への初一歩 既にあるものを超えて 未だあらざるものへの進展

詩「若葉」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

昨日ご紹介した『新女苑』が若い女性向け雑誌でしたが、この詩はずばり『青年』という雑誌に寄稿されました。上記の部分だけ読むと、未来ある若者達へのエールと読めます。

しかし、この部分の直前には「たちまち爆音をたてて森すれすれに/練習の偵察機が飛ぶ」という一節があり、2年後にいわゆる「予科練」に組み込まれる海軍の「偵察練習生」に向けたものであると知れます。

やがてこの若者達は続々と戦火に斃れ、光太郎はこの詩のようにそれを煽った自分を恥じ、戦後は花巻郊外旧太田村の山小屋で、蟄居生活を自ら選択するのです。

光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村在住時に、隣村でやはり疎開生活を送っていた僧侶にしてチベット仏教学者・多田等観。お互いの住まいを行き来するなど、光太郎とも浅からぬ交流がありました。

その多田等観に関する企画展が、花巻市博物館さんで開催中。光太郎がらみの出品物も展示されているとのことです。 

没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~

期 日 : 2017年7月1日(土)~8月20日(日)
場 所 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松26-8-1
時 間 : 午前8時30分から午後4時30分まで 期間中無休
料 金 : 小・中学生150円(100円) 高校・学生250円(200円) 一般350円(300円)
         ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 無休

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展示構成 :
1.西域文化ー大谷探検隊と等観
 仏教伝播のルートの解明を目指して派遣された、学術調査隊「大谷探検隊」。中央アジアから文化財を蒐集し、日本に持ち帰った探検隊の功績を、実物資料やパネルで紹介します。
2.数奇な運命ーチベットへのみちのり
 大谷光瑞の命を受け、チベットへ入蔵するに至った等観。その経緯や、一緒に同行した人物も併せて紹介します。
3.等観が見たチベット
 チベット請来の仏教関係資料や、チベットでの僧侶の服装、日常道具、ダライ・ラマ13世との交流を紹介します。
4.釈迦牟尼世尊絵伝とチベット仏教美術
 ダライ・ラマ13世の遺言によって、多田等観のもとに送られてきた世界的にも類例の少ない貴重な資料や仏像、タンカ等を紹介し、日本仏教とチベット仏教との違いを紹介ます。
5.世界的なチベット学者
 チベット大蔵経の研究を行い、世界的なチベット学者として活躍し、日本学士院賞受賞、勲三等旭日中綬章の叙勲を受けた等観。経典や目録等を紹介します。
6.等観の交流
 多田等観が花巻の人々と交流するようになった経緯や、円万寺観音堂とのつながり等について紹介します。
 
おそらく「6.等観の交流」のコーナーに、光太郎が等観に贈ったうちわ、詩集、葉書の3点が展示されているとのことでした。

うちわは画像では見たことがありますが、現物は未見。「悠々無一物満喫荒涼美」と揮毫されています。

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詩集はおそらく昭和22年(1947)、鎌倉書房刊・草野心平編の『高村光太郎詩集』と思われますが、詳細は不明です。等観に宛てた葉書は『高村光太郎全集』等に収録されておらず、非常に興味を引かれております。

月末に昨日ご紹介した高村光太郎記念館夏休み親子体験講座「新しくなった智恵子展望台で星を見よう」のため、花巻に行きますので、その際に見てこようと思っております。

関連行事がいろいろとあります。

関連行事

・特別展示 宮沢賢治直筆原稿「雁の童子」展示
  平成29年8月1日(火曜日)から8月8日(火曜日)まで 
  上記期間以外の展示会期間中は複製品を展示しています。

・記念講演会
  日時:7月22日(土曜日)午後1時30分から午後3時まで
  演題:「大陸から花巻へ」多田等観をめぐる人々
  講師:高本康子氏(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター協同研究員)
  参加料:無料

・郷土芸能特別演舞
  日時:8月20日(日曜日)午後1時30分から午後3時まで
  出演:岩手県指定無形民俗文化財:円万寺神楽(湯口地区)
  演目:狂言「狐とり」、権現舞
  鑑賞料:無料

・館長講話
  日時:8月5日(土曜日)午後1時30分から午後3時まで
  演題:「西域・多田等観と宮沢賢治」
  講師:花巻市博物館長:高橋信雄
  参加料:無料

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

身うちあたらしく力満つる時 かの大空をみれば 限りなく深きもの我を待つ
詩「わが大空」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

永らく発表誌不明でしたが、この年に帝国書院から発行された、師範学校・高等女学校・実業女学校用の音楽教科書『音楽 五』に合唱曲楽譜として掲載されているのを確認しました。作曲は松本民之助。坂本龍一氏の師に当たります。

光太郎の手元に残された詩稿には「音楽学校へ 唱歌歌詞として」のメモ書きがあります。最初から歌曲の歌詞として作曲を前提に作られた、初の作品です。

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光太郎が戦後の七年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座です。

まだ先の話ですが、申し込みの〆切がありますのでご紹介してしまいます。

高村光太郎記念館 夏休み親子体験講座「新しくなった智恵子展望台で星を見よう」

期  日 : 2017年7月29日(土)
時  間 : 午後7時から8時30分まで
場  所 : 高村山荘周辺 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
対  象 : 花巻市内に在住または市内に在学する小・中学生とその保護者
定  員 : 10組20人  定員を超えて申し込みがあった場合には抽選となります。
申し込み : 花巻市生涯学習課 0198-24-2111(内線418) 7月18日(火)〆切
料  金 : 1組400円(教材費、保険料)

高村光太郎は、山や海などの眺めやさまざまな動植物を詩に詠み、大自然を愛した詩人でした。大自然の一部である月や星の美しさ、魅力についても若いころから書き残しています。
旧太田村山口に移り住んでからの光太郎の世界を自然豊かな里山で月や星の観察をしながら感じます。

講   師 : 天文サークル星の喫茶室 伊藤修氏・根本善照氏
         高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 

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というわけで、講師を仰せつかりました。メインの天文の話は天文サークル星の喫茶室のお二方に任せ、当方は光太郎と天体について、簡単にお話しさせていただきます。

旧太田村に移り住んだ昭和20年(1945)からしばらく、光太郎は詳細に日記をつけていました。その中で、月に関する話――イラスト入りでどんな形だったとか、何時頃月の出だったとか――や、オリオン座、サソリ座、北斗七星などの目立つ星座、火星や金星などに関しての記述がたくさん見られます。今でもおそらくそうですが、旧太田村は夜間の明るい灯火がほとんどなく、夜空の観察にはもってこいだったのでしょう。

昭和22年(1947)には、姻戚の詩人・宮崎稔に村上忠敬著『全天星図』と『星座早見表』を購入して送ってくれるよう頼んでいます。日記以外にも、若い頃からの詩文に、月や星に関する内容がけっこうあったり、飼っていたの名前を星の名前にしていたりもしています。光太郎は天体についてきちんと体系的に学んだというわけではなさそうですが、山川草木禽獣虫魚を愛した光太郎ですので、そうした自然志向の一環でしょう。そのあたりの話を、と考えています。

講座当日、星の観察は、今春、新たにウッドデッキを新設した智恵子展望台(高村山荘裏手の高台)から、当方の講話は、展望台下の旧高村記念館で行います。晴れるといいのですが、どうなりますことやら……究極の雨男・光太郎もこの日は遠慮して欲しいと思います(笑)。

対象は花巻市内の小・中学生とその保護者ということですが、集まっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

あの天のやうに行動する。 これがそもそも第一課だ。 えらい人や名高い人にならうとは決してするな。 持つて生まれたものを深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。 それが自然と此の世の役に立つ。

詩「少年に与ふ」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

星を包摂する「天」の語も、光太郎は好んで使いました。こせこせしない人間的なスケールの大きさにもつながりますね。

岩手盛岡から企画展情報です。

巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展

期 日 : 2017年7月1日(土)~8月20日(日)
会 場 : 岩手県立美術館 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
時 間 : 9:30〜18:00(入館は17:30まで)
料 金 : [一般] 前売り1,000円(当日1,200円)、[高校生・学生]前売600円(当日700円)、
      [小学生・中学生]前売400円(当日500円) 20名以上の団体は、前売料金と同額
休館日 : 月曜日(7月17日、8月14日は開館)、7月18日

日本初のノーベル文学賞受賞者、川端康成は、池大雅「十便図」、与謝蕪村「十宜図」(いずれも国宝)から若いころの草間彌生作品など、独自の審美眼で幅広い時代の美術品を収集しました。
本展では、その中でも特に深い交流があった日本画家東山魁夷の収集品と合わせ約200点を紹介。昨年末に発見された新資料も全国初公開します。
また、川端文学の最高傑作のひとつ「伊豆の踊子」についてコーナーを特設。作品が生み出されるきっかけとなった、本県ゆかりの初恋相手との交流も紹介し、創作の源泉に迫ります。
 

関連行事

◾ 開催記念講演会「川端康成を語る」
  講師:川端香男里氏(公益財団法人川端康成記念会理事長)
  日時:2017年7月1日(土) 14:00-15:30
  場所:ホール
  *参加ご希望の方は当日直接ホールへお越し下さい。観覧券又は半券の提示が必要です。
◾ スペシャル・ギャラリートーク
  講師:水原園博氏(公益財団法人川端康成記念会東京事務所代表)
  日時:2017年7月29日(土) 14:00-15:00
  場所:企画展示室
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。
◾ アートシネマ・上映 『恋の花咲く 伊豆の踊子』 弁士伴奏付き無声映画上映
  日時:2017年7月16日(日) 14:00-15:50(開場13:30)
  弁士:澤登翠氏 ピアノ伴奏:柳下美恵氏
  場所:ホール
  *鑑賞ご希望の方は当日直接ホールへお越しください。
   観覧券又は半券の提示が必要です。
   なお参加多数の場合は入場を制限させていただく場合がございます。
◾ 学芸員講座「川端康成と浦上玉堂」
  講師:吉田尊子(当館学芸普及課長)
  日時:2017年8月5日(土) 14:00-15:00
  場所:ホール
  *参加ご希望の方は当日直接ホールへお越し下さい。参加無料です。
◾ 川端と東山のコレクション鑑賞ツアー
  日時:2017年8月14日(月) 11:00-12:00/15:00-16:00(各60分)
  場所:企画展示室
  定員:各回25名(先着順。各回30分前より受付開始)
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。
◾ ギャラリートーク
  日時: 7月7日(金)、8月4日(金)、8月18日(金)いずれも14:00-(30分程度)
  場所:企画展示室
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。


今年初め、今年初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、のち全国的にニュースとなった新発見の川端康成旧蔵の書画が展示されます。

光太郎の書も1点。『智恵子抄』所収の「樹下の二人」(大正12年=1923)中の有名なリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」を扇面に揮毫したものが展示されます。

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画像で見る限りでは、間違いないもののようです。

当方、月末に花巻に行く予定があり、その際に足を伸ばそうと思っております。皆様もぜひどうぞ。

また、川端邸で発見の書画類、「全国に先駆けて」公開とありますので、今後、各地での巡回がありそうです。情報が入りましたら、またご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

もう人間であることをやめた智恵子に 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場 智恵子飛ぶ

詩「風にのる智恵子」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

前年、千葉九十九里浜に移っていた智恵子の母と妹一家のもとに、半年ほど智恵子を預けていた際の思い出を元に書かれた詩の一節です。この頃は、光太郎、両国から2時間ちょっとかけて、毎週のように智恵子を見舞っていました。

実際に足を運べばわかりますが、九十九里浜は果てしなく続くかと思われるような長い砂浜です。尾長や千鳥と一体化した智恵子にとって、絶好の遊歩場だったのですね。

ちなみにNHKさんに、戦後の光太郎の朗読音声が残っており、「遊歩場」は「ゆうほば」と読んでいます。「ゆうほじょう」と読んでも間違いではないのでしょうが。

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定期購読しており、それぞれ光太郎に少しずつ触れて下さっている『月刊絵手紙』と、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』が相次いで届きました。

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『月刊絵手紙』は、日本絵手紙協会さんの発行。前号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。今号は詩「案内」(昭和24年=1949)を取り上げて下さっています。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する花巻高村光太郎記念館を管理運営する一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんの協力で作られており、太田村時代の光太郎スナップが背景にあしらわれています。


隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』は、裏表紙に連載「光太郎のレシピ」。こちらも花巻高村光太郎記念会さん、特に女性スタッフさんたちの協力で作られています。太田村での光太郎日記から、光太郎がどんな料理を作り、食べていたのかを紹介するもの。こちらも連載二回目です。初回は「そば粉の焼きパン」でした。

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今号は、「ホッケのトマトソース煮とヨモギご飯」。付け合わせに卵やジャガイモが添えられています。健康的で美味しそうです。

ただし、光太郎日記には細かなレシピまでは記載されていないので、あくまでこんな感じだっただろう、というものです。光太郎が食したトマトソースもおそらくは缶詰だったのではないかと思われますし、ホッケとヨモギご飯(日記では雑炊)は、それぞれ別の日に作っています。そのあたりは、日記の該当部分をきちんと掲載していますので、問題はないでしょう。

当方、週に一、二回(今夜もですが)、家族の夕食を作っており、参考にさせていただきます(笑)。


『月刊絵手紙』、『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』、それぞれ定期購読で自宅に届けてもらうことが可能です。上記の各リンクから、ぜひどうぞ。

ところで、先述の通り、どちらも一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんの協力で作られており、記念館の宣伝にもつながるかと存じます。良い工夫ですね。全国の文学館さん、タウン誌的なものの編集発行に当たられている皆さん、ご参考になさってはいかがでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

バ ンブ ツイツセイニタテ」アヲキトウメイタイヲイチメンニクバ レ」イソゲ イソゲ ニンゲ ンカイニカマフナ

詩「五月のウナ電」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「ウナ電」は、緊急を要する電報、の意。電話が一般的でなかった明治大正昭和戦前を舞台としたドラマなどで「チチキトクスグ カヘレ(父、危篤。すぐ帰れ)」などと使われるあれです。

昔の電報はカタカナのみ。しかも濁点は一字とカウントされていました。そこで濁点のあとは一文字分のスペースが必ず入りました。

下は戦後の昭和27年(1952)、当時の盛岡短期大学美術工芸科の卒業式のために送られた光太郎からの電報です。「ウナ電」ではありませんが。

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「五月のウナ電」は、宇宙のヘラクレス座から、地球の動植物にあてた電報、というシチュエーションで書かれています。上記を漢字仮名交じりの書き下し文にすれば、以下の通りでしょうか。

万物一斉に立て。青き透明体を一面に配れ。急げ。急げ。人間界に構ふな。

何となくですが、宮沢賢治の詩や童話からのインスパイアのような気もします。

新刊情報です。

宮沢賢治と森荘已池の絆

2017年4月23日 森三紗著 コールサック社 定価1800円+税

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父は賢治との十年にわたる交友の証である書簡二十一通はことにも大切にしていた。幸いなことに、戦火に会うことも免れて貴重な文化的遺産として、父が生命の次に大切だという賢治からの書簡を目にする機会にも恵まれたのだ。(あとがきより)

目次

春谷暁臥        宮沢 賢治 
Ⅰ 宮沢賢治と森荘已池の絆
 1 タミと佐一と賢治 ―梶原多見枝詩集『草いちご』復刻版解説文  
 2 森荘已池展・賢治研究の先駆者たち②・企画展資料集より 
  《森荘已池(佐一)の幼年時代》 
  《文学の夢ふくらむ》― 佐一の盛岡中学時代― 
  《あなたが北小路幻なら尊敬します》― 佐一『春と修羅』に感動 ― 
  《佐一と賢治の交流》― 店頭での出会い ― 
  《『貌』をめぐって》― 佐一と賢治の交友開始 ―  
  《「春谷暁臥」の書かれた日》― 佐一と賢治交友深まる ― 
  《宮沢賢治から森佐一(惣一)に宛てた書簡》 
  《石川善助をめぐって》― 佐一と賢治 ― 
  《賢治の推薦で「銅鑼」同人となる》 
  《賢治没後の評価》― 岩手日報「宮沢賢治」追悼号 ― 
  ― 岩手日報の佐一と賢治の関連記事 ―  
  《十字屋版『宮澤賢治全集』の編集》 
  《宮沢家での聞書き》― 「宮沢賢治氏聴書きノート」― 
  《宮沢賢治の伝記について》 
  《宮沢賢治の短歌について》― 『宮澤賢治歌集』刊行 ― 
  《芥川賞候補、直木賞受賞について》 
  《森荘已池(惣一)の宮沢賢治研究の足跡(1)》 
  《森荘已池の宮沢賢治研究の足跡(2)》 
  《森荘已池の文芸活動(著作)》 
  《賢治から荘已池(佐一)への遺品》 
  《森荘已池と随筆》― 宮澤賢治をめぐる「ふれあいの人々」―
  《光をあてた人々》 
 3 森佐一が森荘已池になるまで ―森荘已池詩集『山村食料記録』解説・解題 
 4 宮沢賢治の短歌が世に出るまで ―『宮澤賢治歌集 森荘已池校註』新版解説文
 5 森荘已池と「風大哥」考 
 6 石川啄木と宮沢賢治と森荘已池 ―『一握の砂』発刊百年に思う
 7 『ふれあいの人々 宮澤賢治』新装再刊 ―「森荘已池ノート」解説文

Ⅱ 賢治文学の深層
 1 宮澤賢治の宗教と民間伝承の融合 ―世界観の再検討 童話〔祭の晩〕考 
 2 文語詩「選挙」考 ―『宮沢賢治 文語詩の森 第三集より』 
 3 宮澤賢治がロシア文学から影響された共存共栄の概念 ―作品の見直し 
 4 高村光太郎と宮沢賢治と森荘已池 ―二〇〇八年七月十九日 宮沢賢治の会講演改稿
 5 宮沢賢治と同人雑誌(第一回)―「アザリア」「反情」「女性岩手」 
 6 宮沢賢治と同人雑誌(第二回)「貌」① ― 森佐一(荘已池)と生出桃星と宮沢賢治
 7 クーボー博士とブドリ 「凶作に関する研究」と実践(一)  

Ⅲ 賢治研究の歴史とその後の詩人たち
 1 昭和二十年までの賢治評価―「岩手日報」を中心として
 2 宮沢賢治の会(盛岡)七十年の歩み ―機関誌「イーハトーヴォ」を中心として 
 3 第三回宮沢賢治国際研究大会成功裡に終る―「賢治さんの想像力ときたら、大したもんだ!」
 4 イーハトーブの詩の系譜

初出一覧 
宮沢賢治と森荘已池(佐一)交流略年譜
あとがき 
著者略歴 


森荘已池(そういち)は、明治40年(1907)、盛岡出身の直木賞作家です。詩も書いており、在学期間はかぶりませんが、旧制盛岡中学校の先輩であった宮沢賢治と深い交流を持っていました。光太郎とも賢治つながりで縁があり、戦後の光太郎の日記や書簡にその名が頻出します。著者、三紗氏は荘已池の息女です。

『高村光太郎全集』には、光太郎から森宛の書簡が2通掲載されていますが、いずれも佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』からの転載でした。すると、平成21年(2009)、森の遺品の中からその2通を含む8通の光太郎書簡が発見され、岩手ではニュースになりました。その後、三紗氏ともお会いする機会があり、その話もしたのですが、これまでその内容が不分明でした。

今回出版された『宮沢賢治と森荘已池の絆』中に、「高村光太郎と宮沢賢治と森荘已池 ―二〇〇八年七月十九日 宮沢賢治の会講演改稿」という項があり、そこに当該書簡も全文が掲載されていました。同項は平成21年(2009)の雑誌『コールサック』が初出だったとのことでしたが、それは存じませんでした。全集既掲載のもの以外は、昭和26年(1951)から翌27年(1952)にかけ、花巻郊外太田村の山小屋から送られたものが5通、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後のものが1通。

とりわけ最後のものは、面白い内容でした。森から届いたリンゴ一箱の礼状で、「東京へ来てみると岩手のリンゴのうまさがよく分かります。東京の果物屋の店頭にさらされてゐるリンゴはまつたくダメです。近所の人にもわけて喜ばれました。」とあります。また、現在、花巻高村光太郎記念館の企画展「光太郎と花巻の湯」で展示中の、光太郎が使っていた浴槽にも触れています「てつぽう風呂の事は笑止でした。」ただ、どうして笑止なのかなど、詳しいことはわかりません。

その他、当方、森の詳しい人となり等、存じませんでしたので、興味深く拝読しました。光太郎もからむ各種『宮沢賢治全集』出版に森も大きく関わっており、読んでいてパズルのピースが埋まってゆくような感覚でした。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

――私は口をむすんで粘土をいぢる。 ――智恵子はトンカラ機(はた)を織る。
詩「同棲同類」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

今日は智恵子131回目の誕生日です。

20代の頃、雑誌『青鞜』の表紙絵などでならした智恵子ですが、昭和に入って40代ともなるとると、もはや油絵制作には行き詰まり、光太郎の手ほどきで彫刻をはじめたり、草木染めに挑戦したり、そしてこの詩にあるように機織りにも取り組んだりしました。機織り機は郷里から取り寄せたとのこと。光太郎が亡くなるまで愛用していたちゃんちゃんこは智恵子の織った布で作られたものです。

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しかし、この年には実家は破産寸前、智恵子の心にぽっかり空いた空洞は、彫刻でも草木染めでも、機織りでも埋められることはありませんでした。

その1。

昨日レポートいたしました、5/15(月)の第60回花巻高村祭。『毎日新聞』さんが一日遅れで報じて下さいました。

高村祭 児童らが元気に、詩の朗読や合唱 60回目 /岩手

 詩人で彫刻家の高村光太001郎(1883~1956年)が花巻市で7年間を過ごしたことを記念する「高村祭」が15日、同市太田の高村山荘詩碑前広場であった。毎年、光太郎が疎開してきた5月15日に開かれ、今年で60回目を迎えた。 
 雨が降るなか行われた式典には約400人が参加。地元の太田小や西南中、花巻東高校の児童生徒らが光太郎の詩の朗読や合唱などを元気な声で披露し、会場中に響かせた。
 学生を代表して「非常の時」を朗読した花巻高等看護専門学校1年の主浜京香さん(19)は「すばらしい作品だと思い、気持ちを込めて読んだ。これから光太郎のいろいろな詩を読んでいきたい」と話した。
 高村山荘に隣接する高村光太郎記念館では現在、企画展「光太郎と花巻の湯」が開催され、ゆかりのある温泉を当時の絵はがきなどで紹介。実際に使用していた「鉄砲風呂」も展示している。6月26日まで。【鹿糠亜裕美】


その2。

同日発行の花巻市さんの広報誌『広報はなまき』では、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻の湯」、同じ敷地内にある光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の智恵子展望台リニューアルについて報じられています。

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その3。

その智恵子展望台からの眺めや遊歩道の散策を楽しむという、「高村光太郎記念館講座」の参加者募集が始まっています。

高村光太郎記念館講座「初夏の里山さんぽ~山口の暮らし~」の受講生を募集します

新しくなった智恵子展望台からの眺めや遊歩道の散策を楽しみます。

対     象 : 市内に在住または勤務する方を優先します。
日     時 : 平成29年6月9日(金曜日)、午前9時から午後3時まで
集合場所 : まなび学園ロビー 岩手県花巻市花城町1−47
定  員 : 20人 定員を超えて申し込みがあった場合には抽選となります。
参  加  料   : 400円(入館料、保険料)
申込期限 : 平成29年5月26日(金曜日)

問い合わせ・申し込み 花巻市生涯学習課 電話:0198-24-2111(内線418)


その4。

その高村光太郎記念館さん発行の『高村光太郎記念館通信 メトロポール』の第4号が、花巻市さんのホームページ上にアップロードされました。内容的には、先月2日の光太郎忌日に開催された「詩碑前祭」、松庵寺さんでの「連翹忌法要」、それからやはり智恵子展望台のリニューアル、そして、ひそかに記念館・山荘の入場券売り場がカフェを併設することとなり、その紹介です。

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その5。

また、まだ詳細は未定ですが、7月の終わり頃、やはり記念館さんの講座的に、記念館・山荘周辺で星座観察会を催す計画があります。「光太郎が見た星空の紹介」も盛り込まれています。館のスタッフさんから届いたメールの添付ファイルから。

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詳細が決まりましたら、またお知らせします。


こうした地道ともいえる取り組みの積み重ねも大切なことだな、と思います。


【折々のことば・光太郎】

生きよ、生きよ、生き抜いて死ね。 そのさきは無い。無いからいい。

詩「夏書十題 無いからいい」全文 昭和3年(1928) 光太郎46歳

昨日ご紹介した「死ねば」とワンセットの詩です。

「死ねば」は「死ねば死にきり」と、ある意味、突き放すようなというか、身もフタもないというか、破滅的というか、そういう感じですが、この「無いからいい」が後に続くことによって、今ある命を精一杯燃焼させよ、というエールになっています。

思わず「わかりました」と応えたくなります(笑)。

5/15(月)、岩手花巻郊外の旧太田村山口地区、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内で、第60回高村祭が開催されました。

そぼ降る雨の中、レンタカーを駆って、前日から泊まっていた大沢温泉菊水館さんを出発、高村山荘を目指しました。雨天時は、旧山口小学校跡地のスポーツキャンプ村屋内運動場(通称・高村ドーム)での開催のはずでしたが、そちらにはどなたもいらっしゃいません。開始時刻の10時くらいには雨も上がるだろう、という予測の元、通常通り、山荘敷地内の「雪白く積めり」詩碑前で強行する、とのこと。雨の中、テント設営や椅子並べ、光太郎遺影の設置などをお手伝いしました。

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結局、雨の中で開会。

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詩碑に献花、献茶。詩碑の下には光太郎の遺骨ならぬ遺髯が埋葬されています。

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地元西南中学校の生徒さんの先導で、全員による碑詩「雪白く積めり」朗読。

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主催者挨拶ということで、花巻高村光太郎記念会・佐藤進会長(故・佐藤隆房ご子息)、上田東一花巻市長のご挨拶。

その後、地元小中高、高等看護学校の児童生徒さんたちによる楽器演奏、合唱、朗読。

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特別講演は、藤原冨男氏。元花巻市文化団体協議会会長で、光太郎がこの地にいた時に、旧山口小学校に勤務されていた方です。演題は「思い出の光太郎先生」。

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学校の職員室の火鉢を囲み、光太郎から話を聞いたこと――山小屋の壁の隙間から、中を覗いていたキツネやタヌキと目があったとか(笑)――、よかれと思って、児童たちを引き連れ、山小屋周辺の草抜きをしたら、逆に光太郎に怒られたとか――その時光太郎は児童たちに、たとえ雑草でも親がある、命がある、的な話をしたそうです――藤原氏、このエピソードを引いて、「光太郎は彫刻家、詩人、書家、いろいろな側面のあった人だが、そこに「教育者」という面も色濃くあったことを付け加えたい」とおっしゃいました。なるほどな、と感じました。

結局、最後まで雨はやまず、テントに吹き込む雨でジャケットの裾がびしょ濡れになりましたが、昨日もご紹介した詩「松庵寺」の「雨がうしろの障子から吹きこみ 和尚さまの衣のすそさへ濡れました」を思い出し、これもある意味乙なものだと思いました。ただ、気温が低く、温暖な房総住まいで寒さに弱い当方、最後はガタガタふるえていましたが(笑)。

午前の部終了後、午後からは地元の皆さんの演芸会的な催しでしたが、そちらはパスしました。同じ敷地内の高村光太郎記念館さんでお弁当を頂いた後、館の展示や高村山荘、そしてリニューアルされた智恵子展望台などのガイド役をやっておりました。

まずご案内したのが上田市長のご同窓で、前消費者庁長官の板東久美子氏。光太郎ファンだそうで、こちらに一度来てみたかったとのこと。ありがたいかぎりです。

高村祭の後などには、こうした役得で、普段は入れない山小屋の内部にも入れていただけます。

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光太郎が使っていた井戸。

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今回はさらに、「月光殿」と名付けられた、便所棟にも入れていただきました。

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光太郎が壁に明かり取りのため彫った「光」一字。花巻高村光太郎記念会さんで、ロゴマーク的に使っています。

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こちらは高村祭参加者全員に配られたコースター。

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こちらはなんと言えばいいのでしょう、杉の板を使った木札のような。これも役得で、いただいてしまいました。定価4,000円ですが、欲しいという方がいらっしゃり、売れているそうです。

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その後、連翹忌ご常連であるいわき市立草野心平記念文学館の小野浩学芸員、小野氏のご友人で、料理研究家 中野由貴さん。中野さんは現在、同館で開催中の企画展「草野心平の詩 料理編」の関連行事として行われる「心平さんの胃袋探訪 〜創作料理の試食と解説〜」の講師を務められる方です。それだけでなく、先月、このブログで、新しく創刊された花巻のタウン誌『まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』をご紹介した折、「花巻ファンです。こんな花巻の本を待っていました! 早速年間購読に申し込みました。 光太郎レシピのページも大変楽しみです。」とコメントして下さった方で、お互いに驚きました。こうやってネットワークが広がっていくんだな、と実感しました。

さらに、敷地内で行き違いになってあまりお話もできませんでしたが、このブログをお読み下さって、今年の連翹忌に初めてご参加下さった方や、昨年、当方が講演させていただいた盛岡少年刑務所の方もいらしていて、ありがたく存じました。

そして、近くの公民館的なところで開かれた、地元の皆さんによる反省会、懇親会的な催しに顔を出し、宿に帰りました。

夕方のローカルニュースを拝見。

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翌朝、大沢温泉さんの売店で購入した地元紙。まずは『岩手日報』さん。

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高村光太郎に思いはせて 花巻、合唱や講演に400人

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第60回高村祭(花巻高村光太郎記念会など主催)は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前広場で開かれた。参加者は光太郎が地元で暮らした当時を知る関係者の講演や児童生徒の合唱などを通じ、住民らを大切にした足跡に思いを寄せた。
 地元住民やファンら約400人が参加。同記念会の佐藤進会長は「光太郎先生が花巻で暮らした7年間は地域にとって貴重なものだった。昨年、記念館が新しくなったので立ち寄ってほしい」とあいさつした。
 旧山口小教諭で、光太郎と交流のあった同市中北万丁目の藤原冨男さん(84)が講演。光太郎が生き物を通じて子どもたちに命の大切さや思いやりを説いたこと、芸術家らしい風変わりな一面があったことなどを紹介した。「光太郎先生は芸術家だけでなく、偉大な教育者だった。夢でいいからもう一度お会いしたい」と締めくくった。 【写真=高村光太郎の遺志を受け継ぎ、精神歌を披露する西南中の生徒たち】


『岩手日日』さん。

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偉人の足跡へ思いはせ 高村祭 詩碑前で朗読・合唱

 花巻市にゆかりが深い彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ高村祭(花巻高村光太郎記念会など主催)は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で行われ、参加者が詩の朗読や合唱などを通じて偉人の足跡に思いを巡らせた。
 同日は、市内外から約400人が参加。光太郎の遺影が飾られた詩碑に、太田小学校2年の中島絢星君と伊藤真桜さんが花を手向け、花巻東高校茶道部による献茶で開会。詩碑に刻まれた「雪白く積めり」の詩を参列者全員で朗読した。
 花巻高村光太郎記念会の佐藤進会長と上田東一市長のあいさつに続き、太田小学校2年生16人が鍵盤ハーモニカで「かっこう」を演奏、旧山口小学校校歌を合唱し、詩「案内」を朗読した。
 西南中学校1年生45人が「西南中学校精神歌」などを合唱したほか、花巻東高校3年の横手隼平君が「元素智恵子」、同じく佐藤凪子さんが「人類の泉」、花巻高等看護専門学校1年の主濱京香さんが「非常の歌」をそれぞれ朗読した。
 花巻高等看護専門学校1年生44人による「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」の合唱が披露されたほか、元市文化団体協議会長の藤原冨男氏による「思い出の光太郎先生」と題した講演が行われた。参加者は、かつて同山荘に暮らし地元に親しまれた光太郎の人柄をしのんだ。
 同祭は、戦火で東京のアトリエを失った光太郎が1945年に花巻に疎開した日に合わせて毎年開催され、今回で60回目を迎えた。


それから、購入はしませんでしたが、『朝日新聞』さんでも岩手版で報道して下さいました。 

新緑の中、光太郎しのび朗読

 戦火を逃れて花002巻に疎開した彫刻家で詩人の高村光太郎を記念する「高村祭」が15日、花巻市太田の高村山荘周辺であった。詩碑の前で、参加者約500人が声を合わせて光太郎の詩「雪白く積めり」を朗読したり、地元の小学生らが楽器を演奏したりして光太郎の芸術と人柄をしのんだ。

 一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」の主催。光太郎が花巻に疎開した5月15日を記念し、詩碑が除幕された1958年から続いており、今年で60回目。疎開した光太郎と交流があった藤原冨男・元花巻市文化団体連絡協議会会長の「思い出の光太郎先生」と題した講演もあった。あいにくの雨だったが、参加者は「この新緑を見たら光太郎先生はどんな詩を詠んだだろう」などと話していた。(溝口太郎)


来年以降も5月15日、花巻高村祭が開催されます。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

死ねば死にきり。 自然は水際立つてゐる。

詩「夏書十題 死ねば」全文 昭和3年(1928) 光太郎46歳

当会顧問北川太一先生の盟友で、戦後いち早く光太郎を論じた故・吉本隆明の言葉から。

僕は、身体とそれに伴う精神の死について、いちばん好きな言葉があります。高村光太郎の詩の中の「死ねば死にきり、自然は水際立っている」という言葉です。死ねば死にきりで、やっぱり自然というものは見事なものだと高村光太郎はいっているわけでしょう。僕は、人間の身心の死はこれでいいのではないかと思います。
(略)
人間は永遠だというのも、人間は輪廻転生するものだというのも、それはそれでとてもいい感じですが、何となく嘘くさい。僕は「死ねば死にきり」でいいという気がします。

まさしく光太郎も輪廻転生などといったことは信じていなかったわけで、うなずけます。

しかし、亡くなった人は、残された者の中に、かけがえのない思い出として残るわけで、光太郎もそこまでは否定していません。藤原氏のご講演にも、山小屋での独居生活が長くなり、淋しくはないかと問うたところ、「智恵子がいるから」と答えた光太郎のお話がありました。

旧太田村の皆さんも、光太郎とのかけがえのない思い出を大切に、60回もの高村祭を続けてこられたわけですね。

2泊3日の行程を終え、先ほど、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻から帰って参りました。順にレポートいたします。

5/14(日)、午前中に花巻に着きました。当初予定していた訪問先が先方の都合でポシャり、予定を変更して、花巻市街に立ち寄りました。レンタカーを借りておりましたので、比較的自由に動けます。

まず、昼食を兼ねて、市役所近くのやぶ屋総本店さんへ。ちなみに朝が早かったので、かなり空腹。そばではなくカツ丼を頂きました。

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宮澤賢治が稗貫農学校に勤務していた頃よく訪れ、天ぷらそばとサイダーを頼んでいたことで有名です。光太郎も戦後、何度かここで食事をとっています。

以前に行ったときに気づいていたのですが、その時はお店の方々があまりに忙しそうだったので、訊くのを遠慮していた件があり、この機会に、と思って寄らせていただきました。

レジの脇に、賢治関連のもろもろに混じって、光太郎の詩稿のコピーがスナップ写真と共に飾られているのです。

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書かれている詩は「初夢まりつきうた」(昭和26年=1951)。花巻商人をモチーフにしています。

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なぜここにコピーが掲げられているのか、コピーでない原本はこちらにあるのか、また、それに付随して光太郎からの書簡、これ以外に書いてもらった書などもあれば、と思っていたわけです。ちょうど年配の店員さんがレジを打って下さったので、訊いてみましたが、残念ながら、ここにコピーが飾られている理由等、わからないそうでした。また、原本や、他の光太郎が書いたものなどはないだろうとのこと。残念でしたが、仕方がありません。


続いて、やぶ屋さんからそう遠くない、松庵寺さんに。当方、こちらに伺うのは5回目ぐらいでしょうか。直近では、このブログを始めた頃、5年前くらいだったと記憶しています。ただ、このブログではその際のことは書いていませんでした。

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こちらは、終戦の年の秋から、毎年のように光太郎が出向き、父・光雲や妻・智恵子、そして母・わかの法要を営んでもらっていた寺院です。そういう縁もあり、毎年4月2日の光太郎の命日に、東京日比谷で当会が主催して開いている連翹忌の他に、花巻としての連翹忌法要を開催して下さっています。

まずは本堂左手の光太郎碑へ。3基の光太郎碑が固まって建てられています。

建立順に、まずは昭和48年(1973)、光太郎短歌「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」(昭和22年=1947)を刻んだ歌碑。先述の、母・わかの法要に関わる短歌です。

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続いて、詩「松庵寺」碑。昭和62年(1987)に、詩「松庵寺」(同20年=1945)全文を、光太郎と親交の深かった総合花巻病院長、故・佐藤隆房の揮毫によって碑にして下さいました。

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その「松庵寺」を、花巻市上町の元英語教諭平賀六郎さんが英訳したものの碑。平成20年(2008)の建立です。

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その後、庫裡へ。アポイントは取001っていませんでしたし、第一、当方、ご住職と面識がありませんでしたが、毎年、連翹忌の法要を営んで下さっているお寺ですので、無碍に扱われることもあるまいと、図々しくもお邪魔いたしました。やぶ屋さん同様、光太郎の書き残したものの現物などが残っていないかと、その調査です。

対応して下さった小川隆英ご住職、無碍にどころか、歓待して下さいました。ありがたいかぎりでした。

こちらはビンゴでして、先代の故・小川金英ご住職が、光太郎に書いてもらったという書幅(「真実」と揮毫)、それから、お布施の包み紙(原稿用紙を折りたたんで熨斗袋の代わりにしたものだそうで、これは光太郎終焉の地・中野のアトリエを所有されていた中西家ご子息へのお年玉-右の画像-と同じです)が現存しているそうでした。しかし、最近、こちらに工事が入ったため、その際に置き場所が変わり、現在行方不明ということで、現物は見られませんでした。

その代わり、いろいろなお話を伺うことができました。ご住職、最近、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市にいらしたそうで、その話でひとしきり盛り上がりました。ご同輩の方のお寺に行かれたそうで、場所を訊くと、ああ、あのお寺か、というところでした。10時間かけて車でいらしたとのこと、そのバイタリティーには恐れ入りました。当方、千葉から花巻まではさすがに車で行こうとは思いません。

バイタリティーといえば、それもそのはず、このブログでもご紹介しましたが、ご住職、齢74だった一昨年、東日本大震災の犠牲者追悼行脚ということで、花巻・盛岡間往復80㎞を歩かれています。そのあたりのお話もたっぷり伺いました。

その関係の記念碑も建てられたそうで、帰りがけに撮りました。

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また、こちらも一昨年、NHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」についても。ナビゲーター役の書家・石川九楊氏と、女優の羽田美智子さんが、松庵寺さんの庫裡で、実技編のロケをなさったとのことでした。


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この番組、当方も少しだけ制作のお手伝いをさせていただいたのですが、あの部分のロケが松庵寺さんだったというのは存じませんでした。ご住職、光太郎の書法を再現する石川氏の筆の動きを間近でご覧になり、いたく感心されたそうです。

ロケの後、石川氏が記念に、光太郎詩「松庵寺」に出てくる「二畳敷」の語を揮毫されたという書。

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「二畳敷」の後の四角の中に縦棒一本は畳二枚を表し、最後は落款的な石川氏のサインだそうです。

その他、さまざまなお話を賜り、気がつけば2時間近く。旅先でのこういう出会いでご縁を結ばせていただけるというのは、実にいいものです。

おみやげに、ご住職のご著書を頂戴してしまいました。1,000ページを超える大著です。題して「あ そうか」。全体の3分の2ほどは、見開き2ページずつ、「法話」というか「講話」というか「説教」というか、教典や先達のお言葉を一つずつ、さらにその解説のような文章で構成されています。これが面白い。肩のこらない表現でわかりやすく、しかし仏の教え的なところの核心をつくような……。光太郎の『ロダンの言葉』を思い起こしました。

俗臭ぷんぷん・煩悩の固まり的な当方としては、これをありがたく拝読して精神修養をはかりたいと存じます(笑)。

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後書き的な「おわりに」より。

 この本の原稿がほぼ出来、表題を何にしようかなと考えていたときだった。六歳の孫娘サラナちゃんがジジチャン何してるの。と、そばに来た。ウン! ジジチャン いま 本の名前考えているんだよ。 この本読んで「あ そうか」と思ってくれるといいんだけどな。と何の気なしにつぶやいたら、孫はそばにあった筆ペンをとり、無邪気に「あ そうか」と紙の切れっ端に書いた。

その「あ そうか」を題名とし、お孫さんの書いた字を題字になさったそうで、我々凡俗とはやはり違うな、と感じました(笑)。

また、詩「松庵寺」についての記述もあり、資料としても貴重です。


その後、郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんへ。周辺ではリンゴの花盛りでした。

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開催中の企画展示「光太郎と花巻の湯」を拝見。当方が他で書いた文章をそのまま説明パネルにしてくださっていました。

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当方がお貸しした資料類。さらにそれを基に作成のパネル。

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光太郎の山小屋(高村山荘)に据えられた風呂桶。

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なかなか楽しい展示です。ぜひ足をお運びください。


そして、2泊お世話になる、大沢温泉さんへ。今回は、築160年以上という、別館「菊水館」さんに泊まりました。

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明けて5/15(月)、第60回高村祭。こちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

水色の、青磁色の、雨後霽天の、 あくまで透明の、あくまで一途の、 又うつさうと暗いほど青々した あの土用波ののつぴきならない 積極無道の夏がぷんぷん匂つて来た。

詩「夏書十題 (夜明けのかなかなに)」より
 昭和3年(1928) 光太郎46歳

生涯「冬」を愛した光太郎。対極に位置する「夏」を「無道」とまで表現しています。そんなに目の敵にしなくても……と思うのですが(笑)。

昨日から二泊三日の行程で、岩手花巻に来ております。
今日は、光太郎が昭和20年(1945)から七年間を暮らした山小屋(高村山荘)敷地で行われた第60回高村祭。雨🌁☔😭🌁でした。

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詳しくは帰ってからレポート致します。

今日から2泊3日の行程で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に行って参ります。

今日は、午後から郊外の高村光太郎記念館さんに。現在、企画展「光太郎と花巻の湯」が開催中です。11日の木曜日に、『朝日新聞』さんの岩手版に記事が出ました。 

岩手)高村光太郎の風呂おけを初公開 花巻市の記念館

 花巻市太田の高村光太郎記念館で、企画展「光太郎と花巻の湯」が開かれている。太田の山荘で7年間暮らした彫刻家の光太郎が山荘の風呂小屋で使った「鉄砲風呂」という風呂おけが初めて公開されている。
 1945年、旧知の宮沢賢治の弟清六を頼って戦火の東京から花巻に疎開した光太郎。風呂おけは、山荘に風呂がなくて困っている光太郎を助けようと集落の人々が木材を持ち寄って風呂小屋を建てた際、清六が贈ったものという。
 腕利きの花巻の職人に頼んで作らせたという直径90センチほどの楕円(だえん)形のヒノキのおけには鋳鉄製の筒が組み込んであり、筒でまきを燃やして湯を沸かす仕組み。だが、大量のまきが必要なため、光太郎は「自分だけでたいてはすまない。今都会では不自由をしているので、そのことを考えると気がすすみません」と、あまり入浴しなかったという。
 企画展では、持病の神経痛を癒やすため光太郎が花巻各地の温泉を巡ったエピソードを当時の温泉の絵はがきなどとあわせて紹介している。6月26日まで。(溝口太郎)

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宿は花巻南温泉峡・大沢温泉菊水館さんをとってあります。築160年以上という茅葺きの建物で、非常に風情があります。当方、何度か泊めていただきました。大沢温泉さんは、通常の温泉ホテル的な山水閣、主として湯治客対象の自炊部、そして別館的な菊水館と、三館に分かれています。ここ2、3年、山水閣と自炊部に泊まることが多く、菊水館は久しぶりです。

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かつて光太郎も大沢温泉さんをよく利用しました。山水閣の利用が多かったようですが、菊水館にも泊まっています。はっきり菊水館だとわかるのは、昭和26年(1951)12月23日。当日の日記から。

駅より大沢温泉行、菊水館に泊る。 マッサージをたのむ、風呂よろし。

暮れの時期ですので、この頃は大沢温泉さんも真っ白でしょう。雪見風呂だったと思われます。

翌朝の記述は、こうなっています。

朝東京より太田和子さんといふ女性たづねてくる、朝飯を一緒にとり、九時過の電車、太田さんは小屋を見にゆき、余は花巻行、

太田和子は、光太郎も寄稿した雑誌「いづみ」の記者です。翌年の光太郎帰京後は、足繁く中野のアトリエを訪ねています。

はっきり菊水館に宿泊したとわかるのは、この時だけですが、日記に「大沢温泉」とだけ書かれていて、三館のどこだったかが不明な日もあれば、昭和24年(1929)から翌年にかけての日記の大部分が失われているので、もっと機会があったように思われます。

菊水館のどの部屋を利用したのかは不明です。帳場に近い方に「松の間」「竹の間」という二間続きの広い部屋があります。幕末に南部の殿様も泊まったというのは、このどちらかでしょう。当方も松の間に一回だけ泊めていただきました。光太郎も大沢温泉さんでお得意様の部類に入っており、このどちらかのような気はします。あとは6畳または8畳一間の梅の間。当方、今回も含め、普段はこちらです。


15日の月曜日には、第60回高村祭が開催されます。会場は光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内。高村光太郎記念館さんも同じ敷地にあります。

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地元児童生徒による詩の朗読、器楽演奏、コーラスの他、特別講演として、当時の光太郎をご存じの藤原冨男氏(元花巻市文化団体協議会会長)による『思い出の光太郎先生』があります。

せっかくですのでもう1泊。今回もそうですが、最近は、現地でレンタカーを借りることが多いので、結構気ままに動けます。余裕があれば周辺のゆかりの地なども回ろうと考えております。

帰ってからレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

一生かかつて 自己をジヤスチフアイしようとする。 そいつは何だかいやしい。 そいつは何だかうつたうしい。

詩「夏書十題 (一生かかつて)」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

ジヤスチフアイ」は「justify」。「正当化すること」の意です。

「正当たらん」と考えて行動することはいやしいことではないでしょう。しかし、「正当たらんとして行動する」のと「正当化する」のは別ですね。「正当化」は「正当」でないことを、さも「正当」であるかのごとく見せかけることですから。それはたしかに「いやしい」根性のなせるわざですし、はたから見れば「うつたうしい」ことですね。

テレビのニュースなどで国会審議の模様を見ると、まさにそう感じます。

光太郎が戦後の7年間を過ごした、花巻郊外旧太田村の敷地で、光太郎を偲ぶ第60回高村祭が開催されます。

第60回高村祭

期   日 : 2017年5月15日(月)
場   所 : 高村山荘敷地 岩手県花巻市太田3-85-1
        雨天時はスポーツキャンプむら屋内運動場
時   間 : 10:00~14:30頃
問い合わせ : 花巻高村光太郎記念会 0198-29‐4681  
        花巻高村光太郎記念館 0198-28-3012
プログラム : 式典 地元児童生徒による詩の朗読、器楽演奏、コーラス他
        特別講演 藤原冨男氏(元花巻市文化団体協議会会長)
         演題『思い出の光太郎先生』

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昭和20年(1945)4月10日の空襲で、東京駒込林町のアトリエが全焼し、しばらくは近くにあった妹の婚家に身を寄せていた光太郎。宮澤賢治の父・政次郎、後に花巻高村光太郎記念会を立ち上げる賢治の主治医・佐藤隆房らのすすめで、花巻町の宮澤家に疎開しました。その宮澤家も8月10日の空襲で焼け出され、佐藤家の離れなどを転々とした後、10月には郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に入りました。

花巻に向けて東京を発ったのが5月15日(到着は翌日)ということで、毎年、この日を記念して高村祭が催されています。

毎年行われる特別講演。今年は、この地での生前の光太郎をご存じの、藤原冨男氏。山小屋近くにあった旧山口小学校に勤務されていた方で、光太郎の日記にもその名が残されています。貴重なお話が聞けるものと期待されます。


当日は、在来東北本線の花巻駅西口(改札のある東口から地下道でつながっています)からシャトルバスが出ます。

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隣接する花巻高村光太郎記念館さんは、当日は入場無料。企画展「光太郎と花巻の湯」を開催中です。

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また、山小屋裏手の高台「智恵子展望台」がきれいに整備されました。


新緑の美しい季節です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

ふつとさう思ふことがある。 おれはいつたい何をしてゐる。 宇宙塵とかいふもののやうに 前後左右が無限大に遠いと。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

常に自らの進むべき道を模索していた「求道」の人、光太郎。まだまだ目指す境地は無限大の彼方、というところでしょうか。

状況をわかりやすくするために、まず地方紙『岩手日報』さんの記事から。

花巻歩きのお供に一冊 女性目線の情報マガジンを発刊

 花巻市南万丁目のオフィス風屋(かぜや)(北山公路代表)は20日、花巻まち散歩マガジン「Machicoco(マチココ)」を発刊する。「車を降り、街を歩こう」をコンセプトに、懐かしい花巻の風景にこだわった冊子を隔月で展開する。市内の40、50代女性5人が執筆し、デザインも女性が担当。メンバーは花巻ファンを掘り起こそうと意気込んでいる。
  巻頭特集は「街を撮る」。商店街、バスの時刻表、宮沢賢治をイメージしたベンチなど日常の景色が並ぶ。冊子はA5判オールカラー16ページで1500部発行を想定し1部500円(税込み)。市内企業などに協賛金1口3万円(税別)を募り、発行時に1口15冊、年6回で計90冊を配布。書店での販売予定はない。
  人物紹介の連載「顔と手」やリレーエッセー「花巻まにあ」、高村光太郎の日記から料理を再現する「光太郎レシピ」のほか、市内イベントの情報欄や街マップも掲載する。
  問い合わせは電子メール(
machicoco.hanamaki@gmail.com)へ。

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で、早速、年間購読の手続きをいたしまして、届いた創刊号がこちら。

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A5判16ページ、オールカラー。目次は以下の通りです。

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最終ページ(裏表紙)に、連載「光太郎のレシピ」。

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上の画像は、光太郎が7年間の独居自炊生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)の囲炉裏端ですね。

花巻高村光太郎記念館さんの主に女性職員の皆さんの協力で、独居自炊生活をしていた頃の光太郎日記から、光太郎がどんな料理を作り、食べていたのかを紹介するものです。

館では昨年あたりからこの方面の活動をなさっていて、現在、館の受付脇にそういった展示もなされていますし、昨年2月にはテレビ岩手さんの情報番組、「5きげんテレビ」で紹介されました。5月には今回紹介されている「そば粉パン」、当方もいただきました

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なかなかに美味でした。

それにしても、戦後間もない昭和21年(1946)の時点で、こうしたものを作って食べていた光太郎。「食」へのこだわりが強かったことが見て取れます。いわゆるグルメ、美食家というわけではありませんでしたが、頑健な肉体の創出には「食」の充実が欠かせないという考え方で、そうした意味では宮澤賢治の「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」では駄目だ、と公言していました。

今後、そうした光太郎がこだわって作った料理の数々が紹介されるはずですので、楽しみです。


『まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』、その他にも花巻とその周辺の街の風景や、そこに生きる人々(隠れた名物・マルカン大食堂の10段巻きソフトクリーム職人さんなど)が紹介され、「新しい花巻の魅力を発見」というコンセプトがよくわかる作りになっています。後ほどご紹介しますが、来月、高村山荘敷地で行われる高村祭の案内も。

オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊だそうで、年6回配本。送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

急にしんとして 山の匂のしてくる人がある。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

光太郎、若い頃から自然志向的な部分は色濃くあり、周辺には郊外で隠遁生活を送っていた友人知己も少なからずいましたが、自身はなかなか思うに任せず、東京市本郷区駒込林町、都会の真ん中に暮らしていました。18年後に、自身が実際に「山の匂のしてくる人」となると、具体的には想定していなかったと思われます。

昨日のこのブログでは、岩手の地方紙『岩手日日』さんから、光太郎に触れた最近の記事をご紹介しましたが、もう1件ありました。

レトロ車両でのんびり ジャンボタクシーコース、名称変更 雨ニモマケズ詩碑を追加

 【花巻】懐かしの車両でのん001びりどうぞ―。レトロジャンボタクシーで花巻市内を巡る花巻観光協会(佐々木博会長)の観光ツアーが、名称やコースを変更し、2017年度から「どんぐりとやまねこ号」として再出発した。これまでコースになかった雨ニモマケズ詩碑を新たに加えるなど、古里の偉人・宮沢賢治ゆかりの地を拡充。午前か午後の半日運行と午前、午後を合わせた1日運行の3コースで、花巻の見どころを楽しんでもらう。
 半日運行のうち、午前はJR花巻駅東口を8時15分、花巻温泉郷を8時30分~9時15分に出発し高村光太郎記念館、雨ニモマケズ詩碑、宮沢賢治記念館を経て、正午ごろにJR新花巻駅に到着。午後はJR新花巻駅を1時に出て花巻新渡戸記念館、宮沢賢治記念館、ワインシャトー大迫、早池峰と賢治の展示館を経由して4時30分ごろにJR新花巻駅、4時40分ごろにJR花巻駅東口、4時50分~5時35分ごろに花巻温泉郷に到着する。
 午前と午後を合わせた1日運行のコースでは、午後に設定されている宮沢賢治記念館を宮沢賢治童話村に変更する。昼食は各自自由。半日、1日運行いずれのコースも、観光地や観光施設では20~40分の滞在時間を設ける。料金は施設利用料や入館料を含め3歳以上1人に付き、半日運行のコースで各2000円、1日運行のコースで3500円。利用には予約が必要で、各コース2人以上の乗車で運行する。
 車両は文化タクシー所有で、1920年代に活躍した英国アスキス社製「ザ・マスコット」の復刻版。突き出たボンネットや木製の窓枠など懐かしさ漂う外観が特徴だ。友人と3人で乗車した京都市の会社員樋口かえでさん(23)は「こうしたレトロな車に乗るのは初めて。料金が安く、運転手さんとの会話も楽しい。有意義な時間を過ごすことができた」と話す。
 今年度は、昨年度までの「あったかいなはん花巻号」から名称変更したほか、午前か午後だった賢治記念館を双方に盛り込むなどニーズを踏まえてコースを見直した。同協会では「賢治のイメージを色濃くしたコース設定。特に新しく盛り込んだ雨ニモマケズ詩碑は車でないとなかなか行きにくい。ぜひ利用してほしい」としている。
 予約の申し込みなど、問い合わせは花巻観光協会=0198(29)4522=へ。


一般社団法人花巻観光協会さんで運営されているジャンボタクシー。以前から運行されていましたが、けっこうシステムやコース、利用料金の変更があります。郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんが、コースに入ったり入らなかったりでした。

今月からは、名称自体も以前の「あったかいなはん花巻号」から「どんぐりとやまねこ号」に変更。午前中運行の「どんぐり号」と午後出発の「やまねこ号」に別れ、「どんぐり号」の方に花巻高村光太郎記念館さんが入っています。また、光太郎が揮毫した市内桜町の「雨ニモマケズ」碑が新たにコースに組み込まれたそうです。午前午後、通しで利用すれば「どんぐりとやまねこ号」ということになるとのこと。

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高村光太郎記念館へは、試験的に運行を復活させていた岩手県交通さんの路線バスが3月でやはり廃線となってしまいましたので、こちらの利用が便利かと思われます。ただ、滞在40分というのが少し短いような気はしますが……。


花巻観光協会さんといえば、先日、花巻にお邪魔した折、新花巻駅の観光案内所で、同会から昨年11月に発行された無料の観光ガイドブック『花巻へ行こう ようこそ、イーハトーブの世界へ』をゲットしました。

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高村光太郎記念館さんが紹介されいる他、「湯っくり、湯ったり。温泉満喫の旅へ。」という記事で、光太郎も愛した花巻の温泉各所を紹介。

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これらの温泉と、光太郎との関わりをまとめた企画展「光太郎と花巻の湯」、花巻高村光太郎記念館さんで開催中です。

やはり岩手の地方紙『岩手日報』さんも取り上げてくださいました。同社のweb版にはアップされていないようですが、LINEアカウントとしてヒットしました。

光太郎と温泉のつながり紹介 花巻で企画展

 花巻市太田の高村光太郎記念館で14日、春季企画展「光太郎と花巻の湯」が始まった。彫刻家で詩人の光太郎(1883~1956年)は戦禍を逃れ東京から疎開し晩年の7年を花巻で過ごした。持病の神経痛を癒やした花巻の温泉地を描いたエッセーや戦前の絵はがきなどを紹介している。
 展示の目玉は光太郎の住居に併設された風呂小屋で実際に使われた「鉄砲風呂」。48年に宮沢賢治の弟清六さんが贈ったものだが、地元の子どもたちが井戸から水を運ぼうと申し出ても拒否。効率が悪く迷惑をかけるのも心苦しいと、風呂おけは結局ほとんど使わず、温泉に出掛けたとされる。
 同展は6月26日まで(休館なし)の午前8時半~午後4時半。一般550円、高校・学生400円、小中学生300円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

時間湯のラツパが午前六時を吹くよ。 朝霧ははれても湯けむりははれない。 湯ばたけの硫気がさつとなびけば 草津の町はただ一心に脱衣する。

詩「草津」 昭和2年(1927) 光太郎45歳

昨日ご紹介した「大涌谷」と2篇で「名所」の総題がつけられて発表されました。光太郎、たびたび草津温泉にも足を運んでいました。

ご当地ソングならぬご当地詩、ということで、草津では囲山公園にこの詩を刻んだ碑が建っています。平成2年(1990)の建立で、光太郎自筆の原稿から写した金属パネルを自然石にはめ込んでいます。推敲の跡がそのまま残っており、言葉に鋭敏だった光太郎の詩作態度がよくわかります。パネル制作は光太郎の実弟・豊周の弟子だった故・西大由氏でした。

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また、湯畑の周囲を囲む石柵には、「草津に歩みし百人」ということで、錚々たるメンバーの名が。もちろん光太郎も入っています。

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岩手の地方紙『岩手日日』さんの最近の記事から、ご紹介します。

まずは4月2日の花巻での連翹忌

62度目の命日しのぶ 松庵寺で連翹忌法要

 高村光太郎の「連翹忌(れんぎょうき)法要」が2日、花巻市双葉町の松庵寺(小川隆英住職)で営まれた。同日は光太郎の62回忌で、市民ら約20人が、晩年の一時期を同市太田の山荘で過ごした花巻ゆかりの偉人をしのんだ。
 連翹忌は、光太郎が生前好んだ花にちなんで命名された。花巻での法要は毎年、花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)が光太郎の命日に合わせ、かつて光太郎の妻の智恵子や父の光雲、母のわかの法要が営まれた縁のある同寺で行われている。
 参列者は1人ずつ焼香し静かに合掌。同市南万丁目の高橋輝夫さん(78)は、光太郎が花巻出身の童話作家・宮沢賢治を世に知らしめることに尽力した事に触れ「光太郎は検事や花巻の恩人。滞在当時を知る人もいるが、みな高齢。これからも大事に語り継いでいきたい」と話していた。
 同日は同寺で営まれた智恵子の法要を題材とした光太郎の詩「松庵寺」を小川住職が披露した。法要後は参列者による座談会も開かれ、1945年5月以降の7年を花巻で過ごした光太郎の思い出や功績を語り合った。
(2017/04/03)

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花巻では毎年、午前中に旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地で詩碑前祭、午後に松庵寺で連翹忌法要が持たれています。

『岩手日日』さんのweb版では、詩碑前祭の記事はアップされていましたが、紙面に同時に掲載されていた連翹忌法要の記事は、web版にアップされていませんでした。そこで、花巻高村光太郎記念会さんから、記事のコピーを送っていただいた次第です。


続いて、4月10日、高村山荘裏手の智恵子展望台リニューアルお披露目の記事。

詩「案内」の風景一望 智恵子展望台にデッキ 高村記念館整備事業

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年の一時期を過ごした花巻市太田にある「智恵子展望台」に、改修に伴ってデッキが新設された。10日は地元住民や市の担当者、光太郎顕彰団体の関係者が訪れ、眼下に広がる風景を基に光太郎が物した詩そのままの景観を楽しんだ。
 高村山荘近くの丘の上に設けられたデッキは9メートル四方。以前からあったあずまやも、高村光太郎記念館から高村山荘まで約120メートルの遊歩道新設などを含めた2016年度の同記念館整備事業で、デッキとともに市が改修整備した。総事業費は2000万円。
 同日は、高村記念会山口支部の照井康徳支部長や花巻高村光太郎記念会の高橋邦広事務局長、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表、市の市川清志生涯学習部長ら約20人が来訪。共に光太郎の詩を朗読するなどし、偉人を縁とした交流と景観を楽しんだ。
 丘の上は、かつて光太郎が亡き妻への思いを募らせたとされることから、「智恵子展望台」として親しまれてきた。これまでは樹木で視界が遮られていたが、デッキが斜面に設けられたことにより、詩「案内」で「展望二十里南にひらけて」とされた風景が一望できるようになった。
 小山代表は、実際に光太郎を知る地元住民が高齢なことを踏まえ「光太郎の詩は地元の宝。孫やひ孫にも素晴らしい詩があることを伝えていってほしい」と呼び掛けた。照井支部長は「緑が生い茂る5月の高村祭が今から楽しみ。ぜひ多くの人に足を運んでほしい」と期待を込めた。
 1945年の東京大空襲で東京のアトリエを失った光太郎は、知己の間柄だった宮沢賢治の生家を頼り花巻に疎開。同年10月に当時の太田村山口に移り、52年まで独居自炊の山荘暮らしを続けた。 (2017/04/13)

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こちらはweb上でもアップされていますが、上記コピーともども紙面本体を花巻高村光太郎記念会さんが送ってくださいました。また、同会太田支部の浅沼隆さんからも同じものが届きました。

この日取材にいらしていたのが、たまたま当方の顔見知りの記者さんで、そのため写真をでかでかと載せられてしまった次第です(笑)。


最後に、先週から花巻高村光太郎記念館さんで始まった企画展、「光太郎と花巻の湯」の報道。

光太郎癒した湯 きょうから記念館で企画展 使用浴槽など紹介

 花巻ゆかりの詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の関係資料を展示する花巻市太田の高村光太郎記念館(中村光一館長)の春期企画展「光太郎と花巻の湯」は、14日から同記念館で開かれる。エッセーや当時の絵はがきなどの資料とともに、光太郎と花巻の温泉のつながりを伝える。光太郎の人となりも感じられるとして多くの来館を呼び掛けている。
 光太郎は太平洋戦争で花巻に疎開し、終戦直後から約7年間、旧太田村山口で生活を送りながら作品制作に取り組んだが、この間、持病の神経痛を癒したのが温泉。今企画展は温泉、湯にスポットを当て光太郎と湯の関わりを資料でたどる。
 展示資料は、光太郎がポケットサイズの旅行雑誌「作家画家の温泉だより」に寄せた回想録の作品パネルのほか、戦前と見られる温泉施設や路面電車「花巻電鉄」の写真が掲載された絵はがきなど約40点。旅行雑誌で光太郎は、花巻温泉峡、花巻南温泉峡の旅館や温泉街の様子、料理、周辺の自然などに触れながら、「花巻を訪れる時季はやっぱり花の頃がいい。人間に温泉場らしいこすいところがないのが私は好きだ。まったく花巻はいい温泉である」と結んでいる。
 展示品で目を引くのが、光太郎が使用していたヒノキ造りの「鉄砲風呂」。一般公開は初めてで、深さと横幅が各90㌢ほど、奥行き70㌢ほどの楕円(だえん)形。浴槽の半分に鋳物製の筒が設置され、筒内でまきなどを燃やして浴槽内の水を温める仕組み。1948年に宮沢賢治の弟清六さんが贈り、村人らの協力で小屋も建てられた。燃料を多く用いることから「自分だけで(燃料を)たいてはすまないです」と話し、ほとんど利用しなかったことが添えられたエピソードに記されている。
 企画展を担当した花巻高村光太郎記念館事務局企画担当の高橋卓也さんは「多くの方に湯を通して光太郎と花巻のつながりを感じてもらいたいし、花巻の温泉を高く評価していたことも知ってほしい」と話している。
 企画展は6月26日までで、開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入場料は一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同記念館=0198(28)3012=へ。

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こちらもネット上には掲載されず、コピーを送っていただきました。

「鉄砲風呂」に関しては、正しくは「同館での一般公開は初めて」で、前身の花巻市歴史民俗資料館時代に展示されていました。

同展のチラシがこちら。

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同館からメールで届いた展示設営状況。

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来月15日には、同館敷地内で第60回高村祭も開催されます。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

岩がとろけてわいてゐるのを ひとりでのぞくのは止すがいい。 千八百度の破壊力が たいへんやさしく微笑するから。

詩「大涌谷」 昭和2年(1927) 光太郎45歳

花巻ならぬ、箱根を謳った詩です。光太郎の温泉好きは戦前からで、箱根にはこの年と翌年に訪れています。このブログの左上、プロフィール欄のサムネイルとして使わせていただいている有名な写真もこの年に大涌谷で撮られたものです。

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右は翌年。この年は智恵子の母・センも同道しての箱根滞在でした。

4/10、花巻高村光太郎記念館さんを後に、レンタカー005を北に走らせました。一路、元々の目的地、盛岡へ。翌日に行われる盛岡地区更生保護女性の会さんの総会の中で、講演をさせていただくことになっておりました。昨年7月、盛岡少年刑務所さんで開催された「第39回高村光太郎祭」の中で行った当方の講演を聴かれた同会会長の及川様がいたく感銘して下さり、ぜひ同会の総会でも、ということになって実現しました。恐縮至極です。

レンタカーを盛岡の営業所に返し、宿へ。昨年と同じ、内丸の北ホテルさんを取りました。建物や経営は代わりましたが、かつて菊屋旅館といっていたところで、光太郎が盛岡に行った際に何度か宿泊していました。

確認できている限り、光太郎は7回、盛岡に足を運んでいます。岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教鞭を執っていた森口多里や舟越保武、深沢省三・紅子夫妻らの要請によることが多かったのですが、その都度、少年刑務所などいろいろなところで講演などを行いました。そうした際の多くは菊屋旅館に宿泊したようです。

チェックイン後、2階のレストラン「窯」さんへ。こちらで夕食を兼ね、更生保護女性の会さんの役員の方々と打ち合わせでした。その後は例によって早めに就寝。

翌朝、少し時間がありましたので、付近を歩きました。

ホテルにほど近い、地方裁判所前の、有名な石割桜。

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本当に岩の裂け目から伸びています。

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花はさすがにまだ咲いていませんでした。満開になるとこうなるようです。近くにあった説明版から。

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ちなみに、千葉の自宅兼事務所から徒歩20秒の公園(隠れた桜の名所)は、こうなっています。

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続いて中津川の方へ。

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去年歩いた時には気づきませんでしたが(というか、そこを歩きませんでした)、岩手テレビさんの庭園に建つ、光太郎を敬愛していた舟越保武の彫刻。舟越の作品は、遠目でもそれと判ります。それが「個性」というものなのでしょう。

川辺では、カモさんたちがお食事中。

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その他、光太郎ゆかりの人物が経営してい003た(おそらく代替わりしているはず)お店があるのですが、さすがに開店前でした。開いていたらお話を伺おうと思っていましたが、次の機会にします。

ホテルへ戻り、荷物を抱えて路線バスに乗って、盛岡駅へ。会場のいわて県民情報交流センターアイーナさんは、駅の反対側でした。

8階に上がり、会場のセッティングをお手伝いし(女性の方ばかりでしたので、皆さん高いところに手が届きません)、こちらもプロジェクタの位置調整などなど。それが終わると暇になりましたので、階下の岩手県立図書館さんへ。この建物の中に県立図書館さんが入っているというのは存じませんでした。知っていれば事前に細かな蔵書検索等で目星をつけていたのですが……。こちらも次の機会にします。

それでも開架の郷土資料コーナーに、岩手出身の光太郎の周辺人物の関連で、興味深い書籍がたくさんありました。宮沢賢治をはじめ、石川啄木、舟越保武、宮静枝、深沢夫妻、野村胡堂などなど。

そうこうしているうちに時間が経ち、さらに階下へ降りて昼食を摂り、8階の会場に戻りました。

午後2時から、更生保護女性の会さんの総会です。来賓の方々を含め、150名近くがご参集。当方の出番は最後ですが、それまで会場の一番後ろで拝聴しました。

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年に一度の総会ですので、前年度の活動報告などがありました。実に様々な活動に取り組まれていて、感心させられました。少年鑑別所、少年院、少年刑務所、保護観察所などでのボランティア活動、その他、地元の祭礼や幼稚園、児童養護施設などでも活動されています。頭の下がる思いでした。

休憩を挟んで、当方の講演。順風満帆とはほど遠く、つまづきの連続だった光太郎の一生をダイジェストでご紹介しました。つまづいて転んでも、道を踏み誤っても、八方ふさがりになっても、そのたびにまた立ち上がり、新たな道を模索し続けた光太郎の生涯が、更生保護に携わる皆さんの、というより、皆さんが関わる保護対象者へのエールとなるように、と考えてお話をさせていただきました。

ついでと言っては何ですが、前日に花巻高村光太郎記念館さんでパンフレットと新しいチラシを150部ずついただき、参会の皆さんに配布。講演の最後に宣伝させてもらいました。お義理かもしれませんが(笑)、ぜひ行ってみたいという声が多く、少しは役だったかなと思いました。

また、今回は盛岡市、滝沢市、雫石町で活動されている方々が対象でしたが、花巻から嫁に来たという方もいらっしゃり、さらに驚いたことに、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くの旧山口小学校の卒業生だという方までいらっしゃいました。

さらに、これもお義理かも知れませんが(笑)、宿泊を伴う研修旅行では、九十九里や二本松など、光太郎智恵子ゆかりの地にも行ってみたいという声もあり、嬉しい限りでした。


というわけで、1泊2日の予定を終え、盛岡駅から東北新幹線で帰路につきました。有意義な2日間でした。

以上、岩手レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

いくら目隠をされても己は向く方へ向く。 いくら廻されても針は天極をさす。
詩「詩人」 昭和2年(1927) 光太郎45歳

たった2行の短い詩です。短い詩ですが、ある意味、すべての光太郎詩の中でも、最もその目指すところが顕現されていると言っても過言ではありますまい。

後半の「いくら廻されても……」、またはその類似の語句は、光太郎自身、好んで揮毫したり、木に彫ったりもしました。

4/10、正午過ぎに、当方がアドバイザー的なことをさせていただいている花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんに到着しました。

さすがに雪は消えていましたが、日陰にはまだこのように残っていました。このあたり、花巻市街より標高も高く、気温も低いのです。
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正面入口には大きな新しいタペストリー。写真家の故・内村皓一氏撮影の光太郎スナップで、先頃、花巻市立萬鉄五郎記念美術館さんで開催された「光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~」の際に作成されたものを譲ってもらったそうです。いい感じです。

受付脇には、山小屋(高村山荘)で暮らしていた頃の光太郎の食事に関する展示。

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館の女性職員の方々が中心となり、昨年あたりからこうした方面もいろいろやられているようで、地元テレビでも紹介されたり、当方も実際にいただいたりしました。また、今月創刊のタウン誌『Machicoco/マチココ』に、「光太郎のレシピ」として連載されるそうです。詳細は後ほど。

さて、関係各所から最近見つかったという、光太郎の遺品などを拝見。昭和20年(1945)の空襲で全焼した東京駒込林町のアトリエから持ち出した、光太郎の日記にもその存在が記されている舶来もののようでした。当方のあまり詳しくない分野のものですが、それが本当に日記に記されているとおりのものであれば(恐らく間違いないと思われます)、その筋の専門家によると、とんでもない逸品だとのこと。いずれ詳細が発表できる段階になりましたらご報告します。

さらに、館の運営を担っている花巻高村光太郎記念会の会長・佐藤進氏が院長をされていた総合花巻病院に保管されていた、光太郎から氏の父君である故・佐藤隆房氏に宛てた書簡類、そして光太郎以外の周辺人物から隆房氏宛の書簡類など。光太郎からのものは、すべて『高村光太郎全集』に収録されているはずですが、もしかすると漏れがあるかもしれません。まだ精査をしていないということで、当方も協力して進めて行きます。また、周辺人物からの書簡類も、ざっと見せていただいただけでも興味深い記述が多く、こちらもいずれ発表できる段階になりましたらご報告します。

そうこうしているうちに、同じ敷地内の高村山荘裏手にある智恵子展望台リニューアルお披露目の時間となりましたので移動。

敷地全体で、かつて無計画に植えられ、手入れもされていなかった杉などの伐採が進み、道も舗装などが進んでいました。
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さりとて、自然を壊すではなく、全体にすっきりしたという感じでした。周辺にはミズバショウやカタクリ、光太郎も好んで食べたバッケ(ふきのうとう)。ようやく春が巡ってきたという感じです。

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池にはなんと、サンショウウオの卵だそうで、これには驚きました。

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急な坂を上り、リニューアルされた智恵子展望台へ。光太郎が夜な夜なここから「チエコー」と叫んでいたという伝説が残っています。

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9㍍四方のデッキが新設され、雑木を伐採したり刈り払ったりで、だいぶ展望がよくなりました。

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足下には昭和41年(1966)に建てられた旧記念館。

地元の皆さんが集まってこられました。光太郎がここに住んでいた頃をご存じの方も多くいらっしゃいます。

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皆さんで、ソロ、或いは群読の形で、この地を舞台にしたさまざまな光太郎詩を朗読。「雪白く積めり」「案内」「メトロポオル」「岩手の人」などなど。
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さらに、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長の横笛を伴奏に、旧山口小学校校歌斉唱。光太郎の作詞ではありませんが、光太郎や草野心平による指導の元に作られたとのこと。

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泉下の光太郎も喜んだことでしょう。


20分ほどで終わり、再び記念館へ。

明日から始まる企画展「光太郎と花巻の湯」の展示パネルが業者さんから届いたところで、拝見しました。

上部の画像は、当方手持ちの古絵葉書からスキャンしたもの。光太郎が足繁く通った大沢温泉さん、鉛温泉さん、花巻温泉さん、志戸平温泉さんなどについて、光太郎や周辺人物が書き残した文章、当方執筆の解説などが書かれています。

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それから、温泉ではありませんが、山小屋で光太郎が使っていた風呂桶も展示されます。

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012「鉄砲風呂」という形式で、下から温める「五右衛門風呂」とは違い、桶の中に直接入れられた金属製の筒の中で薪を燃やして湯を沸かす方式です。村人や宮沢家の厚意で、光太郎に贈られました。

桶を作ってくれた大工さんに贈った「木竹諧和」と書かれた書が残っています。「諧和」は「調和」の類義語で、大工さんに贈るにはもってこいの言葉ですね。

しかし、この風呂を沸かすには大量の薪が必要で、ほとんど光太郎は使わないまま、近くの開拓地に入植した青年にあげてしまったそうです。光太郎の没後、おそらくその青年の元から再び戻され、かつては高村光太郎記念館の前身だった歴史民俗資料館に展示されていました。最後の画像にある貼り紙的な説明は、その当時のものです。

一見すると、身長180センチ以上あった大男の光太郎には小さいかな、という感じでした。そのわりに薪が大量に必要となると、たしかに不経済ですね。

その代わりに、光太郎は足繁く温泉に通ったようです。


最後に、受付兼売店で、CDを購入しました。花巻町で結成された児童劇団「花巻賢治子供の会」主宰の照井謹二郎・登久子夫妻のお嬢さんで、ご自身も「花巻賢治子供の会」で演じられていた谷口秀子さんの朗読CD「思い出の高村光太郎先生」。

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2枚組で、光太郎の詩、随筆、日記が収められています。帰ってきて拝聴しましたが、温かみのある朗読でした。

「花巻賢治子供の会」は昭和22年(1947)に結成され、第一回公演が光太郎の山小屋前の野外。以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続けました。会の命名も光太郎だそうです。やがて谷口さんは東京の大学に進学、時を同じくして光太郎も「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京し、交流がつづいたとのこと。

そのあたりの思い出が、昨年、当方が監修、一部執筆し、記念館さんで刊行した『光太郎 Kotaro Takamura』に掲載されています。

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また、CDに付いている小冊子にも同様の小文、さらにお母様の登久子さんの回想、光太郎からの書簡、贈られた書、写真などがてんこ盛りで、貴重な資料です。

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013CD自体は平成25年(2013)の発売で、当時の『岩手日報』さんで紹介されており、入手したいと思いつつ果たせなかったものでした。おそらく『光太郎 Kotaro Takamura』刊行の関係で、記念館さんに入荷されたのだと思われます。ラッキーでした。

ちなみにCDを入れていただいた袋がこちら。

光太郎智恵子とおぼしきかわいらしいイラストが入っています。記念館さんも様々なところでご努力されています。

花巻高村光太郎記念館、企画展「光太郎と花巻の湯」。明日からです。常設展示も充実しています。ぜひ足をお運び下さい。

明日は岩手レポート盛岡編をお届けします。


【折々のことば・光太郎】

法をおきかせください、 自分を辱めずに餓死せぬ法を、 あさましい律(おきて)に服せずに生きられる法を。

詩「花下仙人に遇ふ」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

この頃の光太郎、彫刻や詩が徐々に世の中に認められて来てはいましたが、相変わらずの生活不如意。時には生きて行くために、意に沿わない仕事も引き受けざるを得ませんでした。そういうことをせずに生きていける方法を、夢幻の中で出会った仙人に問うているというシチュエーションです。結局は、そんなことが出来ようはずもなかったのですが……。

一昨日から昨日にかけ、1泊2日で行って参りました岩手をレポートいたします。

午前4時30分、千葉の自宅兼事務所を出まして、午前9時59分、東北新幹線新花巻駅に着きました。もう少し遅い到着でもよかったのですが、最初の目的地である花巻高村光太郎記念館さんに行く前に、光太郎ゆかりの地を久しぶりに見て回ろうと思い、早めに行きました。花巻に行った際にはたびたびそうしております。今回はレンタカーを借りており、比較的遠くまで行けましたので、花巻に隣接する北上市の北部を回りました。

まず向かったのが、二子町にある飛勢城趾。こちらには光太郎の詩碑があります。

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008竹下内閣の際のふるさと創成事業で全国各市町村に配られた1億円を使い、北上市では平成3年(1991)、市内6ヶ所に文学碑を建立しました。若山牧水、子日庵一草、寺山修司、浜夢助、豊田玉萩、そして光太郎です。

碑が建って少し後に拝見に行ったときのものが右の画像。お城の高台で、背後に北上川の展望が開け、いい感じでした。

刻まれているのは詩「ブランデンブルグ」昭和22年(1947)の一節。

 高くちかく清く親しく、
 無量のあふれ流れるもの、
 あたたかく時にをかしく、
 山口山の林間に鳴り、
 北上平野の展望にとどろき、
 現世の次元を突変させる。

この年、花巻町で行われた稗貫郡農会でのレコードコンサートでこの曲を聴いた印象が元になっています。太田村の山小屋(高村山荘)の近くを歩きながら、この曲が幻聴のように聞こえていた、というエピソードも伝わっています。

 やはり山の中で、まだ手許にラジオのないときに、バツハの「ブランデンブルグ協奏曲」を幻聴で聴いたことがある。ちようど谷の底の方から聞えてくるもんだから、私はとりわけバツハが好きでもあるし、あとで谷底の家へ行つて、そのレコードをもう一度聴かせて貰いたいと頼みに行つたら、そんなものはないというので驚いた。考えてみれば、月に一度花巻の町に出かけて行つて聴かせて貰つていたのが再生されて聞えたものだと気がついた。そんなとき、音楽は人間に非常に必要なものだということをしみじみ感じた。
「ラジオと私」(昭和28年=1953)

昭和25年(1950)に、光太郎が黒沢尻町(現・北上市)の文化ホールで講演を行い、その際にこの詩を引き合いに出したことがもとで、この詩が選ばれました。

詩碑の手前には展望台があり、まずそちらに上りました。遠くの山々はまだ雪に覆われていました。

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そして展望台の下にある碑へ。ちょっとショックでした。碑自体はほとんど損傷もありませんでしたが、碑の周囲の灌木や雑草が茂り放題で、昔見えた眼下の展望は、何一つ見えません。

最近まで雪が積もっていたため、そんな感じなのかな、とも思いましたが、どうも灌木は何年も刈った気配が無いようにも見えます。

言いにくいのですが、この手の文学碑の中には建てて建てっぱなし、しばらくたつと地元でもその存在すら忘れられてしまうというものが少なくありません。この碑もそうなりつつあるような気がして、残念でした。碑自体が草木に埋もれていないのが、まだ幸いなのかもしれません。


続いて同じ北上市北部の和賀町後藤地区にある、平和観音堂に向かいました。こちらを訪れるのも20年ぶりくらいです。
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こちらにも光太郎詩碑が建っています。昭和27年(1952)の建立です。刻まれているのは、無題の詩、というより七五調四句の「今様」という形式のもので、以下の通りです。

観自在こそ たふとけれ 
まなこひらきて けふみれば
此世のつねの すがたして
わがみはなれず そひたまふ
 
「観自在」は観音菩薩のことです。

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確認できている限り、光太郎生前に建てられた詩碑は3基しかなく、そのうちの一つです。ちなみに他の二つは、花巻温泉に建つ「金田一国士頌」碑(昭和25年=1950)、福島県南相馬市小高地区にある「開拓碑」(昭和30年=1955)です。その二つの碑文は光太郎の手になるものではありませんが、この碑は光太郎の筆跡をそのまま石に写し取っています。

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碑陰記的なものが、碑の下部に。

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曰く「碑文を高村光太郎先生 太田村山口にて揮毫 平和観音堂に奉納 昭和廿七年九月 高橋峯次郎

高橋峯次郎は光太郎と同年の明治16年(1883)生まれの元小学校教師。自らも日露戦争への従軍経験を持ち、その後は永らく教師を務めましたが、その間の教え子約500人が出征、約130人が遺骨で帰ってきたそうです。その霊を弔うため、寄付も集めず自費で観音堂の建設を発願、光太郎に本尊の彫刻を依頼しに来ました。しかし光太郎は彫刻制作を封印している最中で、代わりにこの書を高橋に贈ったというわけです。

高橋の元には、教え子たちからの7,000通を超える軍事郵便が届き、平成13年(2001年)には、それを紹介する岩手めんこいテレビさん制作の「土に生きる ~故郷 ・家族、そして愛~」が放映され、反響を呼びました。500人もの教え子を戦地に送り、その3分の1が骨になって帰ってきたという過酷な体験から生まれた観音堂。「わが詩をよみて人死に就けり」と書いた光太郎にも、高橋の思いが我がことのように身に染みたのでしょう。高橋と光太郎、一個人によるものではありますが、どこぞの何とか神社などとは違う、これこそ戦没者追悼の顕現ですね。

境内には高橋の胸像も。

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さらに高橋の発願になる梵鐘も。

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謹んで打鐘させていただきました。

こちらは地元の方々の手入れが行き届いているようで、狭い境内でしたが、清々しい感じでした。

ここから花巻高村光太郎記念館さんはそう遠くなく、レンタカーをそちらに向けました。車窓からの風景がこんな感じ。もちろん停車して撮りました(笑)。

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長くなりましたので、以下、また明日。


【折々のことば・光太郎】

彼は憤然として紙をとる。 怒りの底から出て来たのは、 震へる手で書いてゐるのは、 おゝ、何のテエマ。 怒れる彼に落ちて来たのは、 歓喜のテエマ。

詩「二つに裂かれたベエトオフエン」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「ブランデンブルグ」のバッハ同様、ベートーヴェンも光太郎は好んで聴いていました。フランス革命の理念を守る英雄であったはずのナポレオンが一転して皇帝に就任したことを非常に怒ったベートーヴェン。光太郎はそのあたりに親近感を抱いていたようです。

また、晩年には怒りの中から第9交響曲「歓喜の歌」が生み出され、「怒」と「笑」をテーマにしていた光太郎の琴線に触れたようです。

昨日から岩手に行っておりました。現在、帰りの東北新幹線🚄の車中です。
昨日は、岩手に着いてからレンタカーで動き、北上市内、その後、旧太田村の高村光太郎記念館さんにお邪魔し、盛岡に宿泊しました。

高村光太郎記念館さんでは、14日の金曜日から始まる企画展「光太郎と花巻の湯」の準備状況や、最近、関係各所から見つかったさまざまな資料を拝見。

さらに、隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の智恵子展望台が新たに整備されたため、地元の皆様への、お披露目。

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今日は盛岡で、盛岡地区更正保護女性の会さんの総会にお招きいただき、講演を行って参りました。

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詳しくは、明日以降、レポート致します。

去る2日、東京日比谷松本楼さんでの当会主催連翹忌以外でも、光太郎第二の故郷と言うべき岩手花巻で、花巻としての連翹忌の催しが行われました。午前中は光太郎の暮らした郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内での詩碑前祭、午後は市街双葉町の松庵寺さんでの法要。このうち、詩碑前祭の方が地元で報道されています。

IBC岩手放送さんのニュース。

記念碑前で詩を朗読 高村光太郎の遺徳偲ぶ/岩手・花巻市

 2日は岩手ゆかりの詩人で彫刻家、高村光太郎の六十二回忌です。ゆかりの地、花巻では地域の人たちが記念碑を前に、詩を朗読して遺徳を偲びました。
 東京都出身の高村光太郎は、1945年に戦火を逃れて花巻に疎開し、7年間を過ごしました。光太郎の顕彰活動を行っている、花巻市の高村記念会は毎年、命日に記念碑の前で遺徳を偲んでいます。2日は地域住民の代表や子どもたちが詩を朗読。岩手の自然に向けられた温かな眼差しや先立った妻、智恵子への深い愛情など、作品の魅力を改めて味わっていました。

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テレビ岩手さん。

高村光太郎に思いはせ… 命日に詩碑前祭

空襲で東京のアトリエを失った1945年から7年間、現在の花巻市太田地区に疎開していた高村光太郎。命日の4月2日は、生前に愛した早春の花・レンギョウにちなみ「連翹忌」と呼ばれています。62回忌にあたる2日は地域住民約50人が光太郎の詩碑の前に集まり「山のひろば」「雪白く積めり」など7編の詩を朗読しました。朗読のあと参加者は詩碑に向かって静かに手を合わせ光太郎の遺徳を偲んでいました。

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どちらもネット上に動画が公開されていました。拝見してうるっときてしまいました。テレビ岩手さんの動画はPCに保存できました。


続いて地方紙『岩手日日』さん。

語り継ぐ 記憶、功績 光太郎詩碑前祭 朗読に感謝込める

 花巻ゆかりの詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘敷地内広場で「詩碑前祭」が行われた。太平洋戦争で花巻に疎開した光太郎が居を構えた太田山口地区の住民が、詩碑に花を捧げ詩を朗読して光太郎の遺徳をしのび、感謝の気持ちをささげた。
 山関、上太田両行政区住民でつくる高村記念会山口支部(照井康徳支部長)が命日に合わせ、詩「雪白く積めり」が刻まれた石碑の前で毎年実施。同支部の関係者や地区住民ら約50人が参加した。
 照井支部長のあいさつに続き、太田小学校1年の高橋文耶君と照井和奏さんが遺影が飾られた詩碑に献花。同支部の平賀仁理事が「厳しい自然の中に先生は7年間住み、自然をたたえ、詩に歌い、私たちに数々の教えを注いでくださった。大切な教えは毎日の生活の中で、明日への大きな希望となって心を豊かにしてくださっている」と祭文を読み上げた。
 太田小、西南中に通う上太田子供会の児童生徒9人が「山の広場」と「山口部落」「山からの贈り物」の光太郎の詩3作品を声高らかに朗読。地区の住民代表が「雪白く積めり」と「大地麗し」「案内」「岩手の人」の4作品をそれぞれ披露し、太田小との統合で約50年前に閉校した旧山口小学校の校歌も斉唱し締めくくった。
 光太郎は1945年の空襲で東京のアトリエを失い、親交のあった詩人で童話作家の宮沢賢治の実家に疎開した。終戦後は旧大田村山口の小屋で7年間暮らし、多くの作品を発表。住民とも交流を深めた。
 今詩碑前祭は62回忌。照井支部長は「高村先生が東京に戻られた時、私は3歳でずいぶん大きい人だなという印象しかない。先生を知る人間が本当に少なくなっているが、みんなで勉強し、先生の功績を後世に残していきたい」と気を引き締めた。


連翹忌、東京でも永続的に開催するつもりです。花巻でもできる限り続けていっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

詩を書くと腹が立つ、 腹が立つから詩を書くのだ。 詩を書くと笑ひ出す、 笑ひがこみ上げるから詩を書くのだ。

詩「懐ふ」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「腹が立つから詩を書く」、「笑ひがこみ上げるから詩を書く」、対極に位置します。「いったいどっちなんだよ」と突っ込みたくなりますが、どっちもなのでしょう。

客観描写に徹するべき彫刻に、主観的な文学的感傷、己の内面の喜怒哀楽が入り込まないよう、そういった部分は詩として(初期には短歌として)吐き出していた光太郎。まさに詩は喜怒哀楽の表出だったわけです。

題名の「懐ふ」は「おもう」と読みます。

昨日、花巻高村光太郎記念会さん事務局の方が当方自宅兼事務所にいらっしゃいました。直接の用件としては、花巻高村光太郎記念館さんで来月から開催される企画展の資料をお貸しするためでしたが。併せて現状での課題、来年度の展望等、いろいろお話を伺いました。

まず現状。入館者数等伸び悩んでいるそうです。平成27年(2015)5月に、リニューアルオープンした同館ですが、その年は入館者数等順調に伸びたそうですが、昨年から今年にかけてはジリ貧的に落ち込んでいるとのこと。

立地条件的に花巻市街からかなり離れていること、すぐ近くに他の観光施設等がないこと、他にもいろいろ要因はあるとは思いますが、残念です。昨年行われた国体も入館者数には結びつかなかったそうです。追い打ちをかけるように、一度復活した在来の花巻駅から高村山荘行きの路線バスも今年度で廃止(途中の県立清風支援学校までの通常便は維持)。ますます厳しくなりそうです。

ただ、追い風もありそうです。記念館のある太田地区に、「(仮称)西南道の駅」の計画が進んでいます。これから用地買収だそうで、オープンはまだ先ですが、道の駅内に光太郎に関するコーナーを設けたりといったタイアップが考えられているとのことで、実現すれば記念館への新たな導線となることが期待されます。

智恵子の生家・記念館がある福島二本松には道の駅が二つあり、道の駅「安達」智恵子の里さんでは、智恵子情報コーナーの設置など、道の駅ふくしま東和さんでは、光太郎智恵子にちなむ「あだたら恋カレー」の販売などを行っているほか、いろいろと生家・記念館との連携を図っているようです。いずれ花巻もそういう方向に行ってほしいものです。


それから、まだ公式発表がないので詳細が書けませんが、記念館としての来年度の計画。

まず、こちらは現在進行中ですが、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の高台、通称「智恵子展望台」の整備。ここに住んでいた頃の光太郎が、ここから夜空に向かって「智恵子ーーー」と叫んでいたという証言が残っています。元々、簡素な東屋的なものはあったのですが、そちらが老朽化とのことで建て直し、さらに雑木を伐採したり刈ったりして、ビューポイントとしての整備を進めているそうです。当方、来月10日、盛岡に行く都合があり、その途中に立ち寄って、現状を見てきます。

それから企画展。日程はあくまで予定ですが、以下の通り。

4/14(金)~6/26(月)で、光太郎と花巻の温泉郷に関わる展示。大沢温泉さん、花巻温泉さんなど、花巻に点在する温泉をこよなく愛した光太郎。書き残された文章や、古写真類、それから温泉ではありませんが、山小屋で光太郎が使っていた浴槽が保存されており、その実物も展示されます。

9/15(金)~11/27(月)に、昨年も行った智恵子の紙絵の実物展示。関連行事的に映画「智恵子抄」などの上映も考えているそうですが、そのあたりは未定です。

12/8(金)~2018年2/26(月)には、市内の他の文化施設、花巻市博物館さんや新渡戸稲造記念館さんなどと共同で、統一テーマによる同一時期企画展開催。光太郎記念館さんでは、通常展示していない書の展示を考えているとのことです。

それぞれまた近くなって詳細が出ましたら、またお伝えいたします。


それにしても、入館者数等伸び悩み、非常に残念です。リニューアルに伴い、非常に充実した施設ですし、併設の光太郎が暮らした山小屋・高村山荘、そして整備中の智恵子展望台など、見どころの多い場所です。ぜひ足をお運びください。

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【折々のことば・光太郎】

ありがたう、フランス  わけのわかるこころといふものが  どんなに人類を明るくするか  朝のカフエ オオ レエをついでくれた  一人のマダムのものごしにさへ  ああ、君はそれを見せてくれた
詩「感謝」 大正15年(1926) 光太郎44歳

これで全文の短い詩です。社会矛盾にみちた日本での暮らしの中で、20年近く前の、芸術に関する考え方や人間としての生き方に目を開かせてくれたフランスでの日々に思いを馳せています。

ところで大正時代にカフェ・オ・レについて記した文学作品、というのも少ないような気がしますが、どうでしょうか。

一昨日、昨日と、このブログでは、最近入手した古資料の光太郎編、光雲編をご紹介して参りました。智恵子編もありますが、またネタ切れになってきたら(笑)ご紹介いたします。

今日は岩手花巻からの情報を。

まず、市で発行しているPR誌『花日和』の今月発行の2017春号。光太郎の名が2カ所に現れます。

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最初は光太郎も愛した大沢温泉さんの紹介の中で。

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「多くの文化人が愛した温泉」という項で、以下の通り。

 大沢温泉は、多くの文化人に愛された温泉としても知られている。
 宮沢賢治もその一人。幼い頃から父に連れられ、花巻仏教会の講習会場であった大沢温泉に足を運んでいた。花巻農学校の教師時代には、教え子たちを引き連れよく湯浴みに訪れていたという。
 詩人で彫刻家の高村光太郎は、疎開先として花巻に滞在していた際、大沢温泉を気に入り幾度か宿泊。「ここは本当の温泉の味がする」と、とても気に入ったそうだ。近年何度か利用していたのは、書家の相田みつを。大沢温泉の入口にある看板の“ゆ”の文字は相田みつをに書いてもらったものを複写したものだ。オリジナルは山水閣内に飾っている。

大沢温泉さん、当方も数え切れないほど泊めていただきまして、今年も5月の高村祭の折りに予約を入れてあります。

その頃、花巻高村光太郎記念館さんで、光太郎と花巻の温泉をテーマとした企画展が開催されます。そのための打ち合わせで、明日は記念館のスタッフ氏が当方自宅兼事務所にいらっしゃいます。詳細は後ほど。

花巻高村光太郎記念館さんといえば、昨年から手作り感あふれる記念館通信『メトロポール』を発行されています。今年に入って、花巻市さんのサイトで閲覧できるようになりました。今月発行の第3号がこちら

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記念館に隣接する、光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)。春とはいえ、まだまだ雪深い様子が見て取れます。


再び『花日和』。5月の高村祭の案内も載っていました。

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こちらもまた近くなりましたら詳細をご紹介します。

ところで『花日和』。花巻市内の観光案内所などで無料配布されていますが、首都圏でも入手可能。東銀座にある岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」さんなどに置いてあるはずです。

お近くにご用のある方、ぜお立ち寄りのほど。


【折々のことば・光太郎】

私達の最後が餓死であらうといふ予言は、 しとしとと雪の上に降る霙(みぞれ)まじりの夜の雨の言つた事です。

詩「夜の二人」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

と言っているわりには、高級な茶葉を常用したり、西洋風の朝食を摂っていたりと、矛盾していた光太郎智恵子。「武士は食わねど高楊枝」でしょうか。

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