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光太郎第二の故郷ともいうべき・岩手の地方紙『岩手日報』さん。生前の光太郎もたびたび寄稿しました。

その一面コラム「風土計」。たびたび光太郎の名を出して下さいますが、一昨日も。 

風土計

ビールを愛した詩人は多いけれど、代表は高村光太郎だろうか。〈何もかもうつくしい/このビイルの泡の奮激も/又其(それ)を飮(の)むおれのこころの悲しさも〉
▼好きが高じて、飲み方にもこだわりがある。「ビールをのむ時つまみ物は本當(ほんとう)はいらない」。つまみは口寂しいから用意するだけで、なるべく味のない物がいい。のしイカなどよりも、「生胡瓜(きゅうり)ぐらゐがいい」と
▼詩人が好むビールやキュウリが今、ニュースで報じられている。記録的な日照不足で、ビール類の売れ行きが振るわない。キュウリをはじめとする夏野菜は病害や生育の遅れで、価格が5割も上がっているという
▼きょうの「大暑」も、はっきりしない天気になりそうだ。盛岡はそうでもないが、沿岸や関東地方は梅雨寒が続く。選挙の熱量がいまひとつだったのは、そのせいか
▼コーラやウーロン茶を日本で初めて詩にしたのは、光太郎と言われる。〈ウウロン茶、風、細い夕月〉。〈柳の枝さへ夜霧の中で/白つぽげな腕を組んで/しんみに己(おれ)に意見をする気だ/コカコオラもう一杯〉。飲み物に心の内を投影させる人だった
▼そのコーラなどの飲料も、今夏は販売の落ち込みが伝えられる。週間予報は曇りがちだが、土日には日照が戻りそうだ。冷えたビイルやコオラを文字に味わうだけで、ぎらつく夏の太陽が恋しくなる。



ビールをのむ時つまみ物は」云々は、随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)。雑誌『ホーム・ライフ』に掲載された比較的長いもので、『高村光太郎全集』第20巻に収録されています。

下戸の当方、あまり実感がわきませんが「ビール党あるある」がけっこうちりばめられているようです。

曰く、

小さなコツプへちびちびついで時間をとつて飲んでゐるのは見てゐてもまづさうだ。(略)ビールは飲み干すところに味があるのだから飲みかけにすぐ後からまたつがれてしまつては形無しである。(略)ビールの新鮮なものになるとまつたくうまい。麦の芳香がひどく洗練された微妙な仕方で匂つて来る。どこか野生でありながらまたひどくイキだ。さらさらしてゐてその癖人なつこい。一杯ぐつとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨツトの白い帆を見た時のやうな、いつでも初めて気のついたやうな、ちよつと驚きに似た快味をおぼえる。麦の芳香がその時嗅覚の後ろからぱあつと来てすぐ消える。すぐ消えるところが不可言の妙味だ。(略)二杯目からはビールの軽やかな肌の触感、アクロバチツクな挨拶のやうなもの、人のいい小さなつむじ風のやうなおきやんなものを感じる。十二杯目ぐらゐになるとまたずつと大味になつてコントラバスのスタツカートがはひつて来る。からだがきれいに洗はれる。

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写真は昭和27年(1952)、戦前から行きつけだった三河島のトンカツ屋・東方亭で。たしかに目の前にピール瓶が並んでいますね(笑)。


「風土計」、コーラやウーロン茶にも言及されています。コーラは大正元年12月の雑誌『白樺』に載った詩「狂者の詩」、ウーロン茶は同じ年の雑誌『朱欒』に載った詩「或る宵」に登場します。

ところで、「風土計」冒頭の「何もかもうつくしい/このビイルの泡の奮激も/又其(それ)を飮(の)むおれのこころの悲しさも」という一節、出典が分かりません。ご存じの方はご教示いただければ幸いです。

追記 当該の詩は「カフエライオンにて」(大正2年=1913)、『高村光太郎全集』では補遺巻の第19巻に収められていました。

【折々のことば・光太郎】

何しろ非常に頭のいい人ですから、うつかりした質問でもしようものなら、その質問の下らなさ加減で、お前はもう駄目だ、試験なんか受けなくてもいいと言はれさうな気がして、質問したい事があつても却々(なかなか)切り出せなかつたものです。

談話筆記「頭の良い厳格な人――鷗外追悼――」より
 大正11年(1922) 光太郎40歳

光太郎、東京美術学校時代に鷗外が担当していた美学の講義を受けています。その頃から尊敬はするけれども、親しくつきあいたい人ではないと思っていたようで……。のちにはうっかり「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、鷗外に自宅に呼びつけられて説教されたこともありました(笑)。

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写真は明治44年(1911)、鉄幹与謝野寛の渡欧送別会での集合写真。後列左から5人目が光太郎、前列左から4人目が鷗外です。二人、前後に並んでいます(笑)。

TBSさん系のローカルテレビ局・IBC岩手放送さん。毎週金曜日の夜に「ぶっくまーく岩手」というミニ番組を放映なさっているそうです。

「ブックマーク」は栞(しおり)ですね。「しおりをはさんで、また見たくなる。そんな岩手の映像を、毎週お届けします。いにしえから受け継がれてきた伝統の匠の技、北国ならではの美味しい食べ物、 懐かしくも美しいみちのくの風景、岩手ファンを増やす魅力的な観光地、など、など。2分30秒に凝縮した珠玉の映像と音声で、つづって行きます。」だそうで。

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ネット上でも配信されており、先週、花巻高村光太郎記念館さんの回がアップされました。

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いつ放映されたものかよくわかりませんが、雪の季節のロケだったようで……。

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彫刻作品が展示され、詩の朗読を聞けるコーナーもある、第一展示室。

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光太郎の遺品や書などを展示する第二展示室。

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隣接する、光太郎が昭和20年(1945)の秋から丸7年間を暮らした山小屋(高村山荘)の紹介も。

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全国ネットでも放映していただきたいものです。

また、学校さんも夏休みに入り、そろそろ梅雨明けでしょうし、夏の観光シーズンとなります。ぜひ現地にも足をお運びいただきたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

宮沢賢治の清書原稿は甚だきれいであるが、その手記初稿の難読さは想像以上で、殆と古代エジプト的イエログリフに近い。編者はその解読に一方ならぬ努力をしてゐるが、筆写の際、万一にも魯魚の誤なきを期しがたい。

雑纂「宮沢賢治文庫おぼえ書」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

『宮沢賢治文庫』は、昭和21年(1946)から同24年(1949)にかけ、日本読書購買利用組合から、光太郎と賢治の実弟・清六の編集で6冊が刊行されました(予定では全11巻)。装幀・題字は光太郎。各巻に光太郎と清六による「おぼえ書」が収められています。

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当方手持ちのものは、花巻高村光太郎記念館さんに無期限貸与中(笑)。第二展示室にて展示されています。上記は平成28年(2016)にTVIテレビ岩手さんで放映された「5きげんテレビ」から。キャプションが間違っていますが。

それにしても、賢治の筆跡を「イエログリフ(ヒエログリフ)」とは、すごい例えですね(笑)。もっとも、こういう状態ですからむべなるかな、という気もしますが。

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定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第14号。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

今号は「カフェドシトロンとサヤエンドウサラダ」。

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欧米留学から帰国してすぐの随筆「珈琲店より」(明治43年=1910)、心を病んだ智恵子が入院中の昭和11年(1936)に書かれた随筆「某月某日」が典拠です。

花巻といえば、この『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん、花巻市さんで発行している季刊情報誌『花日和』の2019年夏号に大きく取り上げられました

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『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの版元であるオフィス風屋さん、そして編集に当たられている北山公路氏と高橋菜摘さんの紹介です。当方、昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に昭和20年代の花巻とその周辺を再現するジオラマを作成していただいた石井彰英氏の工房を、北山氏と共に訪れたことがあります。熱い方でした(笑)。

冒頭部分、抜粋します。

 ひと味違う切り口  「 Machicoco (マチココ)」は、花巻 の「まち」と「ひと」にスポットを当て、魅力を伝えることで街歩きにつなげる“花巻まち散歩マガジン”。2017年に創刊し、じわじわとファンを増やしている。今年4月発行の13 号では、特集「春が来たっ。」と題し、市内の春の風景とともに、ピカピカのランドセルを背負った小学生、袖の長い学生服を着た中学生の姿を掲載。他にも「花巻ウラ昔話」、「花巻まにあ」、高村光太郎の食した料理を紹介する「光太郎レシピ」など、観光情報誌とはひと味違った切り口で、地元ならではの話題が盛り込まれている。

そして終末部分。

 北山さんはマチココが街に根付いた理由について、次のように語る。「紙媒体にとって大切だと感じるのは、ブレないこと。クオリティを落とさないこと。創刊当時の初心を貫いたことで、その想いが徐々に浸透したのだと思います」
 ページをめくり、興味を持った人が一人また一人と街に出かけていく。紙媒体には心を動かし、波及させる力がある。北山さんと高橋さんの挑戦は続く。

おっしゃるとおり、紙媒体の良さというものはやはり厳然として存在するわけで、今後もそれにこだわった紙面作りに邁進していただきたいものです。


『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんは、花巻高村光太郎記念館さんをはじめ、花巻市内各所で販売しています。また、オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回配本、送料込みで3,840円。

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『花日和』は無料。市役所や観光案内所等に置いてある他、都内でも岩手県のアンテナショップである東銀座の「いわて銀河プラザ」さんなどで入手可能です。


【折々のことば・光太郎】

返事が出来ないのでせずにゐました。感動をまるで受けないものについての所感をきかれるのは困るものです。

アンケート「帝展の佳作に就いて」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

「帝展」は、文展(文部省美術展覧会)の後身としてこの年から始まった「帝国美術院展覧会」。光太郎、こうした審査を伴うアカデミックな公設展覧会はとにかく毛嫌いしていました。

昭和25年(1950)1月、花巻郊外旧太田村の山小屋で逼塞していた光太郎、ひさびさに県都盛岡に出て、あちこちで講演などを行いました。県立美術工芸学校(現・岩手大学)、婦人之友生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)、警察署、県立図書館など。その中に、盛岡少年刑務所さんも含まれていたとのこと。

少年刑務所では、五百数十名の青少年受刑者を前に講演を行いました。その際には、「心はいつでもあたらしく」と揮毫した書をこちらに残し、昭和52年(1977)、岩手県教誨師会の発意で、その書を刻んだ石碑が敷地内に建立。さらに翌年から、高村光太郎祭が開催されています。当方も一度、講演をおおせつかりました


以前は法務省主催の「社会を明るくする運動」月間である7月の開催でしたが、今年はすでに開催されたということで、『朝日新聞』さんの岩手版が報じています。

岩手)反省し更生誓う 少年刑務所で高村光太郎の詩朗読

 盛岡少年刑務所(盛岡市上田)で7日、ゆかりのあ000彫刻家で詩人の高村光太郎の詩を受刑者が朗読する催しがあった。反省を促し、出所後の生き方について考えてもらおうと毎年この時期に開いている。
 窃盗や詐欺などの罪で収容された10~30代の受刑者が参加。10~20人の4グループに分かれ、光太郎の詩の一節から「うす汚いたくらみをやるのは止さう」「みんなと一緒に大きく生きよう」など、声をそろえて読み上げた。
 4人の受刑者は詩集を読んだ感想やこれからの決意を盛り込んだ作文を発表した。20代の男性受刑者は見捨てずに支えてくれた家族に感謝の気持ちを述べ、「未来は変えることができる」と力を込めた。
 「出所したらまず家族に謝りたい」。取材に応じたこの受刑者は、刑務所生活を通してはじめて自分を支えてくれる家族のありがたさに気がついたという。罪を犯した理由を、欲求に流されてしまったからと自己分析。出所後は「自分の熱中できるものを見つけたい」と語った。
 1945年に花巻市に疎開した光太郎は5年後に盛岡少年刑務所を訪れ、500人以上の受刑者を前に「青空たたえて」の題で講演した。少年らの更生を願って「心はいつでもあたらしく」と記した書を残している。(藤谷和広)


あまり報道されることが多くなく、されたとしても地元紙でベタ記事(一段組)になる程度で、ネットにこの行事の報道が出ることはまれです。一般の方々に、更生保護などの部分で関心を持っていただくためにも、もっと大きく取り上げていただきたいものですね。


【折々のことば・光太郎】

夏は山菜を食はず、多く畑の野菜をくひますが、これに慣れると八百屋のものなどくへません。秋には栗とキノコです。

散文断片「山の食ひもの」より 昭和24年(1949)頃 光太郎67歳頃

光太郎歿後に見つかった原稿用紙3枚(以降欠)の文章から。おそらく『婦人之友』に不定期に連載された「山~」シリーズの下書き的なものかと思われます。

「畑の野菜」は自作のもの。取りたてですからさもあらん、ですね。

野菜ではありませんが、毎年女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町の女川光太郎の会・須田勘太郎会長から、鮭の切り身が届きました。ありがたし。

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須田さんや、女川光太郎の会事務局長だった故・貝(佐々木)廣さんの奥様からは、年に数回、さまざまな海産物が届きます。鮭以外にサンマ、ホヤ、アワビ、牡蠣など。やはりこちらのスーパーなどで購入するものとはひと味も二味も違います。もっとも、ホヤ、アワビなどの高級食材はそもそもスーパーでも購入しませんが(笑)。

5月15日(水)、第62回高村祭に出席のため、光太郎第二の故郷ともいうべき花巻郊外旧太田村に行って参りまして、ついでというと何ですが、高村光太郎記念館さんの別館的な森のギャラリーで開催中の「美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―」を拝見して参りました。

まずは5月14日(火)、記念館さんの職員の方にご案内いただき拝見、さらに翌日、高村祭に出演なさったシャンソン系歌手・モンデンモモさんと舞踊家の増田真也さんをご案内。

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森のギャラリーは、昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館です。現・高村光太郎記念館さんの方で展示しきれない収蔵品や、地元の方々の作品等の展示、時にはワークショップ的な活動、市民講座等でも活用されています。

で、現在は地元ご在住、多田民雄氏のポスター作品、安部勝衛氏の陶芸・書作品の展示がメインです。看板的な書も安部氏が揮毫。

「美しきものみつ」というのは、光太郎が好んで揮毫した短句。「この世界には美しいものが満ちている」的なニュアンスです。「み」を変体仮名的にカタカナの「ミ」とした揮毫もあり、それを漢字の「三」と誤読、「美しきもの三つ」と勘違いし、「三つのうちの一つは○○、次は××……」と、むちゃくちゃな解釈がされる場合があり困っているのですが……。

多田氏のポスター作品。最近の作品なのですがレトロ感が溢れています。

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展示作品を元にしたポストカードも作成されていました。記念館さんで販売中です。

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モチーフは、戦後の7年間を光太郎が過ごした山小屋(高村山荘)です。正確に言うと、その套屋(カバーの建物)で、農家の納屋風のこの建物の中に、光太郎の山小屋が保存されています。イメージとしては中尊寺金色堂のような保存法です。

安部氏の書。光太郎の詩句等から言葉を選んで書いて下さっています。下の方には陶芸作品も。

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過日、その存在が報道された、光太郎遺品のホームスパン毛布。世界的に有名なイギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)の作と確認された逸品。ただし現物ではなく、画像をロール紙にプリントアウトしたものです。目に入った瞬間は本物かと見まがいましたが。

以前にも書きましたが、大正末か昭和初め、メレの作品展が日本で開催された際、智恵子にせがまれで購入したと、この地でホームスパン制作に従事していた女性が光太郎から聴いたとのことです。

昭和20年(1945)、東京(4月13日)と花巻(8月10日)で2回の空襲に遭った光太郎ですが、この毛布、奇跡的にその難を回避しました。

ちなみに下の方は、記念館スタッフの方のご自宅にあったという糸車と糸。直接光太郎に関わるものではありませんが、このあたりでこうしたものが使われていたということでの展示です。

来年度あたり、記念館さんの方で、こちらにまつわる企画展示を行うという計画が進行しているようです。ぜひ実現してほしいものです。

記念館さんの企画展といえば、昨年開催された「光太郎と花巻電鉄」の際に、品川在住のジオラマ作家・石井彰英氏に制作していただいた、昭和20年代花巻町とその周辺のジオラマ。現在も記念館さんで展示中です。

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モンデンモモさんと増田真也さんをご案内して登った智恵子展望台。山荘裏手です。ここから光太郎が夜な夜な「チエコー」と叫んでいたという伝説が残っています。

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いちめんの新緑と、赤いのはツツジ。「山青くして花然(も)えんと欲す」ですね。この日はあいにくの雨模様でしたが、晴れた日には抜群の展望でしょう。


森のギャラリーでの「美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―」は、5月26日(日)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

あれは智恵子といふ純真な女性に接したいろいろな時期にまつたく唯夢中で書いたもので、それを愛の精神とおよみ下すつた事をありがたく思ひます。ほんとに高い愛といふものこそ此の厳しい人生に真に人間を人間たらしめるものでございませう。

ラジオ放送「たのしい手紙」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

文京区在住だった松林忠という人物(詳細が不明です)からの書簡に対しての返信が、おそらくそのままラジオで放送されまして、その一節です。

「あれ」は『智恵子抄』。光太郎自身、智恵子に対する愛情がそうだったとは書いていませんし、光太郎が実践できていたかもあやしいのですが、「ほんとに高い愛」……言い換えれば「無私の愛」とでもいうことになるのでしょうか。

5月15日(水)、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻郊外旧太田村で開催されました第62回高村祭。今日は高村祭自体ではなく高村光太郎記念館さんなどの状況をレポートしようと思っておりましたが、ありがたいことに地元メディア各社さんで高村祭の模様を取り上げて下さっていますので、そちらをご紹介します。

まず、地元紙『岩手日日』さん。

芸術家の生涯思いはせ 「雪白く積めり」朗読 花巻、高村祭 光太郎遺徳しのぶ

詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ高村祭は15日、花巻市太田のスポーツキャンプむら屋内運動場で開かれた。光太郎の詩の朗読や合唱、講演などが行われ、来場した市民らが花巻に大きな足跡を残した芸術家の生涯に思いをはせた。

花巻高村光太郎記念会(大島俊克会長)と高村記念会山口支部(照井康徳支部長)が主催。戦禍を逃れて光太郎が花巻に疎開してきた1945(昭和20)年5月15日を記念して58年から開かれており、今年で62回目。雨天のため高村山荘碑詩前広場から屋内に変更して開催され、市内外から約500人が参加した。

光太郎の写真が飾られた祭壇に、太田小学校年の照井彩笑さん、照井莉心さんが花を手向け、花巻東高茶道部による献茶で開会。西南中学校の1年生が先導し、高村山荘の碑詩に刻まれた「雪白く積めり」の詩を参加者全員で朗読した。

大島会長と藤原忠雅副市長のあいさつに続き、太田小2年生17人が「かっこう」の器楽演奏、詩「案内」を朗読。児童たちは光太郎が詩人草野心平と共に作詞を指導した「旧山口小学校校歌」も歌って会場を和ませた。

西南中の1年生48人は、光太郎の「心はいつも あたらしく 日々何かしら 見いだそう」の言葉が盛り込まれた同校精神歌を合唱。花巻南高3年の三浦莉奈さんが「岩手山の肩」 、同じく横田遥奈さんが「激動するもの」の朗読に続き、花巻高等看護専門学校の1年生40人が「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」を会場に響かせた。

45年8月10日の花巻空襲で、身をていして負傷者を救護した医師や看護師に光太郎が贈った詩「非常の時」を朗読した同専門学校1年の佐々木優花さんは「花巻空襲時に働いていた人たちへの尊敬の思いを込めて朗読した。私も患者に寄り添うことができる看護師になりたい」と話していた。

発表後は、総合花巻病院の後藤勝也院長が「高村光太郎と花巻病院」と題して講演した。

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続いて、NHKさんのローカルニュース。

光太郎しのぶ「高村祭」

詩人で彫刻家の高村光太郎が、戦中から戦後にかけて7年間を過ごした花巻市で、15日光太郎をしのぶ催しが開かれました。

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高村光太郎は、昭和20年4月、62歳の時に空襲で東京のアトリエが焼け、宮沢賢治の弟、清六を頼って花巻に疎開して、69歳までの7年間を過ごしました。
花巻市では、光太郎が疎開してきた5月15日に合わせて毎年「高村祭」が開かれていて、ことしで62回目になります。
光太郎が暮らした山荘近くの施設には地元の人や光太郎のファンなどおよそ500人が集まり、花を供えたあと、光太郎が疎開したときに作った詩、「雪白く積めり」などを朗読したり歌を歌ったりしました。

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昭和20年の花巻空襲を詠んだ「非常の時」の詩を朗読した、花巻高等看護専門学校1年の佐々木優花さんは、「戦争を知らない世代なのでこの詩を読んで戦争の恐さを感じた。人は強い時も弱い時もあるが、もしもの時には強い心で向かっていきたい」と話していました。
また昭和25年、中学3年生の時に山荘で光太郎と話したという83歳の女性は、「友達と連絡もしないで山荘に行くと光太郎先生に声をかけられ、父親の光雲さんや妻・智恵子さんの話を聞きました。次元が高くすごい人だなと感じました」と話していました。

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さらに、岩手めんこいテレビさん。

高村光太郎しのび「高村祭」 ゆかりの花巻市で

花巻ゆかりの芸術家に思いをはせました。
詩集「智恵子抄」などで知られる、詩人で彫刻家の高村光太郎をしのぶ「高村祭」が、15日、花巻市で開かれました。
高村光太郎は、1945年の15日、花巻市に疎開し、太田地区で7年を過ごしました。
「高村祭」は今年で62回目を迎え、県内外からおよそ500人が集まりました。
式では、地元の児童や生徒たちが、光太郎ゆかりの歌や詩の朗読などを披露しました。


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岩手山の肩
「岩手山があるかぎり、南部人種は腐れない。新年はチャンスだ、あの山のやうに君らはも一度天地に立て」
花巻南高校 3年・三浦莉奈さんは、「地域の人たちにも、高村光太郎先生の詩はすてきなものだと、自分の口で伝えていきたい」と話しました。


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また、サンタクロースの光太郎と記念撮影をした、当時の小学生にも話を聞きました。
高村光太郎と記念撮影した高橋征一さん(76)は、「毎日、正直で、みんなといっしょに仲良く暮らしてください(と言われ)、『正直親切』という言葉が、一番記憶に残っている」と話しました。
参加した人たちは、花巻を愛した芸術家・高村光太郎に思いをはせていました。


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高村祭、毎年5月15日です。まだ行かれたことのない方、来年以降、ぜひよろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

山口部落で畑をいぢつてばかりゐた八年間のブランクがブランクになつてゐなかつた事を知つた。マイナスであるべきものがむしろプラスになつてゐるのを知つた。恐らく人間の潜在意識といふものが内で造型意識を眠らせずにゐたものと思へるし、頭の中にたまつてゐたものが今堰を切つて流れはじめたやうな感じである。

散文「制作現況」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した直後の文章です。高村祭が開催される旧太田村での生活(正確には丸7年ですが、それ以前に旧花巻町の宮沢家、佐藤家などで過ごした半年間を含めれば、足かけ8年です)が、彫刻制作の上でも決してマイナスに作用していないとの発言。多分に強がり的な要素や、発表された文章を目にするであろう花巻や太田村の人々に対する配慮などもあるのでしょうが、作りたい彫刻を作りたいように作れる喜びは、実際、ブランクを埋めて余りあるものだったと思われます。

一昨日から1泊で花巻に行っておりました。

昨日は、郊外旧太田村で、第62回高村祭。昭和20年(1945)、本郷区駒込林町のアトリエ兼住居をを空襲で失った光太郎が、宮沢賢治の実家や賢治の主治医・佐藤隆房らの勧めで、花巻に疎開。そのために東京を発った5月15日に、毎年、高村祭が開催されています。

例年は光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)敷地内の「雪白く積めり」詩碑(光太郎の遺骨ならぬ遺髯が埋まっています)の前で行っていましたが、昨日は朝まで本格的な雨だったため、数百メートル離れた旧山口小学校跡地の、スポーツキャンプ村屋内運動場(通称・高村ドーム)での実施となりました。こちらが会場となるのは平成24年(2012)以来のことでした。

前日から、光太郎もよく泊まっていた大沢温泉さんに宿泊していましたが、朝5時過ぎに宿を出、レンタカーで旧太田村、高村山荘に。

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5時半から会場設営と言うことで、そのお手伝いです。その時点でかなりの雨だったので、高村ドームでの開催が決定。早速、作業にかかりました。当方、高村祭で講演などを仰せつかったりもしますが、こういう力仕事の方が性に合っています(笑)。

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ほぼ終わったところで、宿に戻りました。5時過ぎではチェックアウトも出来なかったので。ついでに雨に濡れた体を露天風呂で温めました。

そして再び旧太田村。シャンソン系歌手のモンデンモモさん、舞踊家の増田真也さんと落ち合い、開会前に周辺をご案内しました。そのあたりは明日書きますので省略。

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午前10時、開会。

光太郎遺影に献花・献茶の後、市立西南中学校の生徒さんの先導で、光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)を全員で朗読。その後、主催者ということで、花巻高村光太郎記念会の新会長・大島俊克氏のご挨拶など。

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山口小学校が統合された太田小学校さん2年生児童の合奏、光太郎詩「案内」の群読。それから旧山口小学校の校歌斉唱。光太郎作詞ではありませんが、光太郎や当会の祖・草野心平のアドバイスは入っているとのこと。それにしても数十年前に廃校になった学校の校歌が歌い継がれているというのは驚きです。

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西南中学校さん1年生諸君は、光太郎を詠み込んだ歌詞の「西南中学校精神歌」。さらに語りも今年は今までより充実していました。

詩の朗読で、花巻南高校さんと花巻高等看護専門学校の生徒さん。

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花巻高等看護専門学校の皆さんは、さらに合唱も。

第1部の最後は、総合花巻病院さんの後藤勝也院長による記念講演「高村光太郎と花巻病院」。

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花巻病院、そして先述の佐藤隆房元院長と光太郎とのエピソードなどをご紹介下さいました。後藤院長ご自身、幼い頃に花巻電鉄の車内で光太郎が向かいの席に座ったというご経験がおありだそうでした。

昼食後、第2部。地元の方々のお祭り的な要素が色濃く残っています。光太郎がこの地にいた頃は、旧山口小学校でこの時期に運動会(光太郎もビンつり競走に出場しました)が実施され、それが地区全体のイベントのような感じでしたが、それが高村祭に引き継がれているように思われます。

トップバッターは、昨年から参加して下さっている花巻農業高校鹿(しし)踊り部の皆さん。昨夏、長野県で行われた第42回全国高校総合文化祭郷土芸能部門で、見事、最優秀賞を受賞されました。

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勇壮な演舞でした。激しい動きで、しかもかなり長時間。こりゃ大変だ、と思っていましたところ、踊り終わってかぶりものを取ったら、何と、女子生徒も2名混ざっていまして、驚きました。

ちなみにこの鹿踊りに触発されて現れたのでしょうか、この後、会場を後に新花巻駅を目指してレンタカーを発車したところ、会場すぐ近くの山口集落の中心あたりで、野生の鹿(牝鹿でした)に遭遇しました。このあたり、年に3、4回は訪れているのですが、鹿に遭遇したのは初めてで、これにも驚きました。残念ながら急いでいたので、車を駐めて写真を撮る余裕がありませんでしたが。

閑話休題、高村祭に戻ります。

続いては地元の婦人会の皆さんの踊り。婦人会といいつつ、歌と太鼓は男性の方(笑)。しかもお一人は、昭和24年(1949)、サンタクロース姿の光太郎と一緒に写真に収まった高橋征一さんでした。

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改めてこの山口小学校があった場所で高村祭が行われているんだなと、感慨深いものがありました。

そして、モンデンモモさん。

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光太郎詩にオリジナルの曲を付けた「道程~冬が来た」「案内」「もしも智恵子が」の3曲を熱唱。

ここまで拝見拝聴したところで、家庭の事情もあり、早く帰らねばならず中座させていただきました。

帰ってからネットを開くと、早速、IBC岩手放送さんのローカルニュースがアップされていました。

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詩人で彫刻家の光太郎を偲ぶ「高村祭」/岩手・花巻市

 岩手ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎を偲ぶ「高村祭」が15日、花巻市で開かれました。
 高村光太郎は、詩集「道程」や「智恵子抄」などの作者として知られています。62回目を数える今年の高村祭は、朝方の雨の影響で光太郎が過ごした高村山荘に近い、屋内運動場に場所を移して開かれました。
(朗読)
「雪白く積めり…」
 高村祭は、74年前の5月15日に光太郎が戦火を逃れて東京を発ち花巻に疎開したことから、毎年この日に開催されています。地元の中学生や高校生が光太郎の詩の一節を引用した歌や、作品の朗読を披露しました。
(合唱)
「心はいつもあたらしく…」
(朗読)
「岩手山があるかぎり南部人種は腐れない新年はチャンスだあの山のように君らはも一度天地に立て」
(花巻南高校3年・三浦莉奈さん)
「(光太郎の詩は)聞いている人にダイレクトに届く人に伝わりやすい」
 会場には県の内外から多くのファンが足を運び、朗読やコーラスに耳を傾けて光太郎に思いを馳せていました。


手作り感溢れる、しかし盛大に行われた高村祭。泉下の光太郎、面はゆい思いをしつつも喜んでいるのではないでしょうか。

明日も関連する内容で。


【折々のことば・光太郎】

以前にはパリの「空気」ベルリンの「空気」と並んで、東京の「空気」があつた。それが今は「東京」といつても何もないではないか。ただもの珍しい文化のかけらが、尖つたガラスの破片が散らばつているようにそこらにあるだけで、私はそうしたものにはぶつかるが「空気」を感ずることができない。

談話筆記「おろかなる都」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した直後のインタビューから。7年ぶりに見た生まれ故郷・東京は、光太郎の目にはこう映っていたのです。

今日は光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻郊外旧太田村の山口小学校跡地で、第62 回高村祭が行われています。途中で抜けて帰路につき、只今東北新幹線やまびこ号車中でこの記事を書いております。

毎年、光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内で開催する高村祭ですが、今朝がたまでかなりの雨だったため、山口小学校跡地に建てられた屋内運動場(通称・高村ドーム)での実施となりました。

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詳しくは帰りましてからレポートいたします。

昭和20年(1945)、宮沢賢治の実家の誘いで、光太郎が岩手花巻に疎開するため東京を発った5月15日、光太郎を偲ぶ高村祭が、毎年、手作りのイベントとして、光太郎が7年間の独居自炊生活を送った旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で行われています。

第62回 高村祭

期 日 : 2019年5月15日(水)
会 場 : 高村山荘 「雪白く積めり」詩碑前広場 岩手県花巻市太田3-85-1
         雨天時はスポーツキャンプむら屋内運動場 岩手県花巻市太田11-363-1
時 間 : 10:00~14:30頃
料 金 : 無料
内 容 :
 式典
  児童生徒による詩の朗読、器楽演奏、コーラス等
  特別講演 「高村光太郎と花巻病院」 講師 後藤勝也氏(総合花巻病院院長)
  花巻と光太郎の縁を取り持った総合花巻病院創設者・佐藤隆房と高村光太郎の関係

無料臨時バス運行 
 往路  花巻駅西口発 午前9時30分   高村山荘着  午前9時50分
 復路  高村山荘発   午後2時30分   花巻駅西口着  午後2時50分

光太郎が花巻に疎開してきた5月15日に毎年開かれる「高村祭」。光太郎が暮らした高村山荘にある「雪白く積めり」の詩碑の前では、地元の小・中学生や高校生、花巻高等看護専門学校生による合唱や楽器の演奏、詩の朗読などが行われます。また、この日は無料で高村光太郎記念館・高村山荘に入館できます。

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山荘周辺、新緑の美しい季節ですし、この日は山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館さんも入場無料。ぜひ足をお運びください。

ついでというと何ですが、先週の『秋田魁新報』さんに載った記事をご紹介しておきます。

「気ままな旅」花巻・高村記念館へ行く

 3月下旬、新青森駅7時43分発はやぶさ10号で盛岡へ向かう。目的地は花巻市太田にある高村光太郎記念館・高村山荘。列車は1時間で盛岡駅に到着した。
 駅内のカフェで朝食をとり、トヨタレンタカー盛岡駅南口店で小型乗用車・ヴィッツを借りる。カーナビに行く先をセットし、盛岡南インターから東北自動車道へ入る。約30分車を走らせ、花巻南インターでおりる。記念館まで11キロ。
 県道12号(花巻大曲線)を右折して、道なりに10分程行くと県道37号(花巻平泉線)と交差する。前方に「花巻南温泉峡」のアーチ看板を確認し、交差点を左折してすぐ高村橋(豊沢川)にかかる。ここから5分くらいで記念館に着く。
 高村光太郎記念館・高村山荘は2015年4月28日にリニューアルオープンしている。森の中にある、白く瀟洒(しょうしゃ)な記念館はこぢんまりとして温もりに満ちていた。切妻(きりづま)屋根(漆黒(しっこく)と銀色)の建物が左右に2棟(母屋(おもや)と離れ、あるいは夫婦のように)並び渡り廊下で繋(つな)がっている。母屋は入り口(受付)・展示室1・詩朗読コーナー・休憩コーナー・土産品(色紙、書籍、絵葉書)コーナー等で、離れは展示室2・企画展示室で構成されている。
 特に展示室1では代表作の彫刻や詩が紹介されていた。たとえば十和田湖畔に建つ裸婦像「乙女の像」の中型試作(妻・智恵子がモチーフ)父・高村光雲の還暦記念として制作された胸像試作「光雲の首」(欧米留学後初の彫刻作品)近代的感覚を表現した、天を真っ直ぐ貫くような人差し指「手」のレプリカ(実際に触れて体感できる)をはじめ「道程」「レモン哀歌」などの詩作品も鑑賞できる。また展示室2は、「東京からみちのく花巻へ」「地上のメトロポオルを求めて」「書について」「賢治を生みき、我をまねきき」のテーマで、高村光太郎の人物像が多面的に理解できるように演出されていた。 そもそも彫刻家、詩人として知られた高村光太郎の記念館が花巻市太田(旧太田村山口)にあるのは、戦火で東京のアトリエを失い、花巻へ疎開してきたことによる。7年間、太田村山口で山居生活を送りながら多くの詩や書を残した。特に書には一家言をもち「正直親切」「大地麗(うるわし)」といった名作を学校などに寄贈する一方、トレードマークの彫刻については封印していた。それは戦時中の己の翼賛活動を恥じ入る、自分への罰であった。
 光太郎は村人との交流により、この地に文化の花を咲かせ、国際的な連携拠点となるようなメトロポオル(中心地)の建設を夢見た。すべては花巻へくる奇縁になった宮沢賢治との出会いにある。光太郎は賢治を認め、世に知らしめた。「宮沢賢治全集」の題字を手がけたり「雨ニモ負ケズ」の詩碑を揮毫(きごう)したり。彼の短歌が物語る。「みちのくの花巻町に人ありて賢治をうみき われをまねきき」
(東北女子大学家政学部教授 船水周)




【折々のことば・光太郎】

わたしはいつも新年には国旗を立てるが、四角な紙にポスターカラーで赤いまんまるをかいて、それを棒のさきにのりではり、窓の前の雪の小山にその棒をさす。まつ白な雪の小山の上の赤い日の丸は実にきれいで、さわやかだ。空が青く晴れているとなおさらうつくしい。

散文「山の雪」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

同じ件を、同じ年に書いた詩「この年」でも取り上げています。

  この年000
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。
 
その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で「神の国」とたたえねばならず、その結果、多くの若者を死に追いやった日本。そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はことさらに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや単に世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで紙に描いた日の丸を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。

世間的には明日から10連休だそうで。ゴールデンウィーク中に始まるイベントを一つ。 

美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―

期 日 : 2019年5月3日(金・祝)~5月26日(日) 期間中無休
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 森のギャラリー  岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 10:00~15:00 
料 金 : 大人200円(150円)学生・生徒・児童150円(100円)
         高村光太郎記念館は別途料金

光太郎はこの地を文化の発信地にしようとしていました。自分を取り巻く自然すべてのものが美に満ちていると語っています。
新緑の季節、光太郎さんぽ道で草花を愛でながら、光太郎と智恵子の息吹を感じてみませんか?
≪展示内容≫ 多田民雄 ポスター作品、安部勝衛 陶芸・書作品

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光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)の傍らに建つ花巻郊外旧太田村の「森のギャラリー」は、昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館の建物です。こちらは平成25年(2013)に、近くの歴史民俗資料館だった建物が新たな高村光太郎記念館として仮オープングランドオープンは平成27年=2015)するまで、展示に使用されていました。

その後しばらく倉庫として使われていましたが、一昨年から記念館の別館のような扱いで、記念館に展示しきれないものの展示や、地元の皆さんの作品展、市民講座やワークショップなど、幅広く活用されています。

今回は、地元の画家・多田民雄氏と、陶芸家の安部勝衛氏の作品が展示されます。

多田氏は昨年、旧太田村にほど近い花巻市円万寺地区のギャラリーBunさんでポスター展を開かれています。その際は高村光太郎記念館をモチーフにした作品も出品されたとのこと。今回も、高村山荘が描かれている作品などが出るようです。

また近くなりましたら改めてご紹介しますが、5月15日(水)には、高村山荘敷地内で、毎年恒例の「高村祭」が開催されます。当方、その際にお邪魔するつもりで居ります。

皆様も、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

子供の頃たべつけた物はいつまでもなつかしく、今日でも飲屋などで畳み鰯を焼いてくれると心がしんみりする。

散文「子供の頃の食事など」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この項、しばらく前から花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれた戦後の作品を紹介してきましたが、今日のみ戦前の作品に戻ります。

この項、筑摩書房版『高村光太郎全集』を底本に、その掲載順に言葉を拾っています。同全集は、詩、評論、随筆、日記、書簡、翻訳などにわけ、ほぼ年代順に並べるスタイルですが、昭和30年代の初版刊行時に執筆時期が不明だった作品もあり、あるべき場所でないところに置かれている作品もあり、これもその一つです。

先月、盛岡市で岩手県立大学さんの短期大学部・菊池直子教授による公開講座「高村光太郎のホームスパン」拝聴して参りましたが、その発表の元となった内容が、同大の『研究論集第21号』に掲載され、菊池氏がその抜き刷りを送って下さいました。

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先月のご発表にても紹介されたとおり、光太郎とホームスパン(羊毛による手織りの織物)との関わり、主に2点についての調査結果がまとめられています。

まず1点。花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されている、光太郎の遺品である大判の毛布が、世界的に有名な染織家であるエセル・メレ(あるいはその工房)の作だとほぼ断定できるということ。光太郎の日記に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、また、実際にそれを見せられた岩手のホームスパン作家・福田ハレの回想にもその旨の記述があります。福田は及川全三という名人の弟子でした。

先月の発表ではその画像がなかったように記憶しておりますが、日本国内に残る他のメレ作品との比較が為されており、なるほど、よく似ています。左が光太郎遺品、右がアサヒビール大山崎山荘美術館さんに収められているものです。

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単にデザイン的な部分だけでなく、折り方の特徴などからも、メレ(あるいはその工房)の作とみて間違いないそうです。

過日も書きましたが、大正末から昭和初めに日本で開催されたメレの作品展の際、智恵子にせがまれて光太郎が購入したと語っていたと、福田の回想にあります。昭和20年(1945)の空襲の際には、事前に防空壕に入れておいて無事だったようです。

ちなみに光太郎がこの毛布(と思われるもの)を掛けている写真を見つけました。

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おそらく昭和28年(1953)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、借りていた中野のアトリエで撮られた1枚。昭和31年(1956)に筑摩書房さんから刊行された『日本文学アルバム 高村光太郎』に掲載されています。モノクロなので色がわかりませんが、柄からみて間違いないでしょう。


もう1点。昭和25年(1950)にオーダーメイドされた、光太郎愛用の猟服(光太郎の記述では「猟人服」)について。こちらは花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。やはりホ-ムスパン地で、織りは福田、仕立ては光太郎と交流の深かった画家の深沢紅子の父・四戸慈文。四戸は盛岡で仕立屋を営んでいました。

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光太郎がこれを着て写っている写真はけっこうあります。

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左は宮沢賢治の親友だった藤原嘉藤治(中央)も写っています。右は昭和27年(1952)に再上京した上野駅で。当方、国民服的なものだと思いこんでいましたが。

この服についても詳細な考察が為されています。以前にも書きましたが、背中一面に巨大なポケットが付いていて、スケッチブックも入れられるという優れものです。

それから、現存が確認できていないのですが、光太郎は外套も注文しています。下の画像は昭和26年(1951)、当会の祖・草野心平と撮った写真。時期的に見て、これがそうなのかな、という気がします。

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岩手では現在も、及川や福田の系譜に連なる方々がホームスパン制作に取り組んでいます。いずれ花巻高村光太郎記念館さんあたりで、光太郎とホームスパンに関わる企画展示など、開催してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。
散文「智恵子の半生」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

この年の『婦人公論』に発表(原題「彼女の半生――亡き妻の思ひ出――」)され、翌年の詩集『智恵子抄』にも収められました。そもそも詩集『智恵子抄』の成立は、この文章を読んで心を打たれた出版社龍星閣主・沢田伊四郎が、智恵子に関する詩文を集めて一冊の本にしたい、と提案したことに始まります。

まだ太平洋戦争開戦前ですが、それにしても、「大君の愛」と「一人の女性の底ぬけの純愛」を同列に扱うとは、大胆です。不敬罪でしょっぴかれたり、発禁になったりしても不思議ではありません。そうならなかった裏には、光太郎と交流があり、敬愛していた詩人の佐伯郁郎が内務省警保局の検閲官だったことがあるような気がしています。


明日、4月2日は、光太郎63回目の命日・連翹忌です。光太郎第二の故郷・花巻では午前中に光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で詩碑前祭、午後から市街の松庵寺さんで連翹忌法要。そして東京日比谷公園松本朗様では、午後5:30から当会主催の連翹忌の集いが開催されます。光太郎智恵子、そして二人に関わった全ての人々に思いをはせる日としたいものです。

先ほど、盛岡から帰って参りました。

岩手県立大学さんの公開講座「高村光太郎のホームスパン」を拝聴しましたので、レポートいたします。

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会場は盛岡駅前の複合施設・いわて県民情報交流センター アイーナ内の同大アイーナキャンパス。

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いい天気でしたが、盛岡市民の皆さんのソウルマウンテン・岩手山は少し雲がかかっていました。

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講師は同大教授の菊池直子先生。何と、日本女子大学家政学部のご出身だそうで、もろに智恵子の後輩に当たられます。

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同大の研究紀要に論文としてご発表なさる(近日中に刊行)そうですが、昨日はその骨子となる2点について、ご発表されました。

ホームスパンとは、現在も岩手で継承されている羊毛を使った織物で、光太郎とホームスパンの関わりが2点あり、服飾の専門家としてのお立場から、それぞれを丁寧にご説明下さいました。

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まず1点。「ホームスパンの毛布」。

戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までの丸7年間、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に逼塞していた光太郎、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京しました。翌28年(1953)、像の完成序幕後、一時的に村に帰ったものの、宿痾の肺結核でもはや身体はボロボロ、東京で療養せざるを得なくなり、結局、同31年(1956)に中野の貸しアトリエで亡くなりました。

光太郎歿後、中野にあった遺品の大半が花巻高村光太郎記念会さんに寄贈され、その中に、ホームスパンらしき毛布というか、膝掛けというか、大きな布が1枚、含まれていました。永らく箱に入ったまま収蔵庫にしまわれていて、その存在に気づいたのが平成28年(2016)。これはホームスパンではないか、ということで、当時の光太郎日記などを当たってみると、「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回ありました。

「メーレー夫人」というのは、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)。ファーストネームの「エセル」は統一されていますが、ファミリーネームの方は文献によって「メレー」「メーレ」「メイレ」「メーレー」「メレ」「メアリー」など、さまざまです。外国語を無理矢理カタカナにする際、よくある話です。

メレは世界的に有名な染織家だったそうで、伝統的な手工芸が滅びつつあることに危機感を抱き、いわゆるアーツ・アンド・クラフツ運動にも関わったとのこと。そして、陶芸の分野でアーツ・アンド・クラフツを進めていたバーナード・リーチ、さらにリーチ経由で日本の民芸運動の濱田庄司とも交流があったそうです。リーチといえば、明治40年(1907)に、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、それがきっかけで来日した人物です。濱田も光太郎とつながっています。

そしてメレは、リーチとのつながりから、来日はしなかったものの、大正15年(1926)と昭和3年(1928)の2回、日本で作品展を開きました(1回目はリーチとの2人展)。そのいずれかの折に、会場の鳩居堂画廊を訪れた光太郎が、メレの作品を購入したと、岩手でホームスパン制作に携わっていた福田ハレという女性が光太郎本人から聞いたと回想文に書いています。しかも、それは一緒に見に行った智恵子が欲しがったため、とのこと。

こちらがその毛布(というか膝掛けというか)。

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当方も以前に実物を見せていただいたのですが、モダンなデザインの中にも温かみが感じられ、しっかりした作りでしかも大きく、いろいろ使いでがありそうだと思いました。

菊池先生、そしてメレに関するご著書もある染色工芸家の寺村祐子氏が鑑定した結果、メレ作品の特徴が随所に表れており、メレ本人、或いは弟子がたくさんいたとのことで、メレ工房の作と断定していいだろう、ということだそうです。

昭和20年(1945)、空襲で亡き智恵子と過ごした光太郎アトリエ兼住居は灰燼に帰しましたが、その前に布団類などは防空壕に入れていたと、光太郎の随筆に記述があり、おそらくこれもその中に入っていたのだろうと思われます。ものがいいものであるということと、智恵子が欲しがって買ったという話が事実なら、智恵子との思い出の品、という部分もあるわけですね。

現在、日本国内には確認できているメレの作品というのは数点しかないそうで、そういう意味でも実に貴重なものです。


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もう1点は、現在も花巻高村光太郎記念館さんに常設展示されている光太郎愛用の服。こちらは来歴もはっきりしており、やはり花巻郊外旧東和町でホームスパン制作に携わっていた、及川全三の弟子だった福田ハレが織ったホームスパンで、仕立ては盛岡の名テーラー・四戸慈文です。ちなみに四戸は、光太郎と交流の深かった画家・深沢紅子の父だそうです。光太郎が「猟人服」を作ってくれ、と頼んだそうで、その際、とにかくポケットをたくさんつけてくれという注文だったとのこと。それは昭和37年(1962)に筑摩書房から刊行された佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』という、花巻周辺の人物の証言集的な書籍に記述があります。

光太郎曰く「この服を着ればカバンも要らず風呂敷も要らず、大きなスケッチブックも入れば文具箱も入り、手さげ鞄に入れる位はみなおさまる服にしてもらいたい」。さすがにスケッチブックは無理だろう、と思っていたのですが、菊池先生がこの服を調べてみると、何とまあ、後ろ身頃が巨大なポケットになっていて、本当にスケッチブックが入るというのです。これには驚きました。

光太郎は山小屋のあった太田村の村おこし的なことも常々考えており、その一環として、ホームスパン制作を村に根付かせようと、あれこれ画策したそうです。その甲斐あって、一時はホームスパン制作が行われましたが、残念ながら技術を学んだ娘さんが北海道に転居してしまったりで、太田地区のホームスパンは途絶えてしまいました。

しかし、及川の系譜の人々が盛岡や旧東和町などに健在で、岩手県としては今でもホームスパン制作が続いています。

話は戻りますが、そういう土地で、世界的に有名なメレ夫人の作が新たに発見されたということの意義も大きいですね。

いずれ、花巻高村光太郎記念館さんの方で現物の公開が期待されるところです。

そういうわけで、実に興味深い講座でした。

今日も今日とて公開講座に行って参ります(笑)。いわき市立草野心平記念文学館さんの「冬の企画展 草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」の関連行事で、「居酒屋「火の車」一日開店」。料理研究家の中野由貴さんが講師です。「衣・食・住」のうち、昨日は「衣」、今日は「食」です(笑)。


【折々のことば・光太郎】

千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない。

散文「智恵子の切抜絵」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

心を病んだ智恵子が、入院先のゼームス坂病院で作った紙絵(「紙絵」と光太郎が命名するのは戦後)は、メレ夫人の毛布のように防空壕に入れて置いたのではなく、茨城、山形、そして花巻の3ヶ所に疎開させ、それで無事に残りました。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

昨日、千葉の自宅兼事務所を発ち、光太郎第二の故郷というべき岩手花巻に来ております。毎年三回ぐらいは来花しておりますが、今年はこれが初めてです。
現在、宿泊させていただきました大沢温泉♨さんでこのブログを書いております。戦後、光太郎がよく泊まった宿です。

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まだオフレコなので詳細は控えますが、来年の初夏、中部地方のある美術館さんで、光太郎とさらに二人の美術家三人にスポットを当てる展覧会が企画されており、こちらに協力要請がありました。その出品物をお借りする交渉のため、花巻に来た次第です。

まず、郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さん。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)に隣接しています。

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今年はこの時期としては雪が少ない状況です。ただし、昨日は晴れていましたが、奥羽山脈を越えて来る季節風に乗って、風花がしきりに舞っていました。

その後、市街地に戻り、光太郎と交流のあった宮沢賢治の関係の林風舎さんへも足を運びました。

今日は別件で、盛岡まで北上し、過日ご紹介しました岩手県立大学さんの公開講座「高村光太郎のホームスパン」を拝聴して参ります。

詳しくは帰りましてからレポートいたします。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

岩手盛岡から、市民講座の情報です。
会 場 : 岩手県立大学アイーナキャンパス学習室4
      いわて県民情報交流センター(アイーナ)7階 
盛岡市盛岡駅西通1丁目7-1
時 間 : 11:00~15:30
料 金 : 無料

内 容 : 
①11:00~12:00 文化の講座民藝運動と昭和恐慌期の東北農村社会:ある知的交差の素描
  講師 :三須田 善暢(国際文化学科)
②13:00~14:00 生活の講座Ⅰ「高村光太郎のホームスパン」
  講師 :菊池 直子(生活科学科 生活デザイン専攻)
③14:30~15:30 生活の講座Ⅱ「嚥下が困難な人の食事 とろみ材とゼリー材の利用も含めて」
  講師 :加藤 哲子(生活科学科 食物栄養学専攻)

定  員 : 各30名 事前申し込みが必要です。
        申込期間は平成31年2月8日(金)~3月8日(金)(定員に達し次第終了)

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「ホームスパン」とは、明治時代に日本に入ってきた羊毛を使った織物。イギリスが発祥の地です。コートやジャケットなどの生地として、主に東北や北海道などの寒冷地で作られるようになりました。柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤、濱田庄司などの白樺派の面々がこよなく愛したそうです。

岩手では、花巻郊外旧東和町(現・花巻市東和町)に居を構えた及川全三という人物が、ホームスパンの普及に努め、現在も盛岡などで及川の流れをくむ人々がその灯を守っています。及川は上京していた昭和の初めに、やはり光太郎と交流のあった柳宗悦の影響で、民芸運動、そしてホームスパンの魅力にとりつかれ、教職を辞してこの道へ進んだそうです。

光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村にも、及川の指導でホームスパンを作っていた村民がいて、村の振興にも関心を寄せていた光太郎が興味を示し、その技術を広める手助けをしようとしたり、実際に服を作ってもらったり、及川の工房を訪ねたりしました。

下の画像は、花巻高村光太郎記念館で展示されている、ホームスパンによる光太郎の服。オーダーメイドです。
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このあたりのお話は出るでしょう。

それから、光太郎とホームスパンのつながりは、もう1点。その件についてもいろいろ情報を得ているのですが、今回の講座でどの程度その話が出るかというところでして、あまり詳しく書くとフライングだと怒られそうですので、また講座終了後にレポートします。

というわけで、他の用件もあり、久々に(といっても半年ぶりくらいですが)盛岡、そして花巻に行って参ります。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

丁度イタチを彫刻に木彫にしようかと思つて居たので、よく注意して観察したが、彫刻にはテンの方がいいと思つた。イタチではまだ丸すぎる。カハウソのやうな短い圓い口もとは愛嬌があるが、どうも少し中途はんぱで、ずばぬけた霊気に乏しい。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

駒込林町のアトリエ件住居の庭に現れたつがいのイタチを見ての感想です。光太郎によれば、桃は彫刻になるがリンゴはだめで、蝉も彫刻になるけれどカマキリはならない、とのことです。同様に、テンはよくてもイタチは不可。どういう基準なのか、実際に実作に当たっている造形作家の方の意見を訊いてみたいものです。

ちなみに当方自宅兼事務所の近所でも時々イタチを見かけます。たいがい愛犬との散歩中で、U字溝のコンクリート製のふたとふたの間、台形の隙間から現れて、当方と犬に気づくとまた戻っていきます。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第11号が届きました。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

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今号は「ラムチョップ(骨付きラム)とゴボウチップス」だそうで、昭和26年(1951)のクリスマスの時期の日記から考案されています。

12月25日(火) 昨夜雪少しふる、くもり、弘さん買い物してくる、山羊肉のため千円提供。(略)田頭さん夫人立よる、クリスマスのラジオをきく、校長さんくる(略)

12月26日(水) 終日雨、ひる頃阿部博さん来訪、リンゴ、山芋、岩手川一升もらふ。弘さんにゴボウ及び山羊骨付き肉をもらふ。昨日屠殺、隣人等と饗宴せし由、昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。

光太郎が食したのは骨付きラムといっても、山羊だったようです。「弘さん」は光太郎の暮らした山小屋の付近の開拓地に入っていた青年、「田頭さん夫人」は先般亡くなった高橋愛子さんのお母様、「校長さん」は、高橋愛子さん同様、この地で光太郎の語り部を務められている浅沼隆さんのお父様で、近くの山口小学校校長にして光太郎歿後は花巻高村光太郎記念会事務局長も務められた故・浅沼政規氏。

「阿部博さん」は花巻石神町のリンゴ農家。宮沢賢治の教え子でもありました。平成27年(2015)、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた「甘酸是人生」の書を贈られた人物です。

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岩手川」は現在も生産されている盛岡の地酒です。ケーキを野生動物に食べられてしまったというエピソード、笑えますね。

クリスマスといえば、12月16日(日)、花巻高村光太郎記念館さんでは、「クリスマススペシャルコンサート」が開催されました。当方、欠礼いたしましたが、館のブログサイトにレポートがアップされています。ご覧下さい。

また、「平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~ 光太郎の食卓」が開催中。展示風景の画像が追加で送られてきました。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

春になると絵画の展覧会が始まる。始まる前になると辻々にビラが張り出され、人々は美しい衣裳をきて、先を争つてそれに出掛ける。

散文「仏蘭西の春」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

留学していたパリの思い出を綴ったエッセイの一節。

パリの春の展覧会は「ル・サロン展」です。光太郎ら新進の芸術家はあまり好まなかったアカデミックな展覧会ですが、一般市民がこぞってそれを観に行く風習が根付いている点には、芸術後進国の日本人として、敬意を表しています。

光太郎第二の故郷・岩田花巻郊外旧太田村にお住まいだった、生前の光太郎を知る高橋愛子さんが亡くなられました。

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今年の5月で86歳ということでしたので、その後誕生日を迎えられていれば87歳、そうでなければ86歳ということになります。

愛子さんのお宅は「田頭(たがしら)」という屋号の旧家。お爺さまの故・与左衛門氏は、隣家の故・駿河重次郎氏と共に、村のまとめ役的な存在で、光太郎の山小屋造りに協力を惜しまなかった一人でした。

お父様の故・雅郎氏は、光太郎が太田村に入った昭和20年(1945)にはシンガポールに出征中。翌年に復員し、その後、太田村長になりました。お母様の故・アサヨさんともども、何くれとなく光太郎の面倒を見てくださいました。

そして愛子さん。光太郎の山小屋に配給の物資を届けたり、光太郎を訪ねてくる客人を案内したり、やはり光太郎サポーターでした。

昭和24年(1949)、山小屋近くの山口小学校の学芸会に、サプライズで光太郎がサンタクロースに扮して登場、子供たちにお菓子を配ったり、一緒にステージで踊ったりしましたが、そのサンタの衣裳を作ってあげたのが、愛子さんとお母様。赤い襦袢をベースに、長い白ひげは、当時村で飼われていた羊の毛を使ったそうです。

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昭和24年(1949)に書かれた光太郎詩「山の少女」は、愛子さんがモデルとも言われている作品です。

    山の少女

  山の少女はりすのやうに
  夜明けといつしよにとび出して
  籠にいつばい栗をとる。
  どこか知らない林の奥で
  あけびをもぎつて甘露をすする。
  やまなしの実をがりがりかじる。
  山の少女は霧にかくれて
  金茸銀茸むらさきしめぢ、
  どうかすると馬喰茸(ばくらうだけ)まで見つけてくる。
  さういふ少女も秋十月は野良に出て
  紺のサルペに白手拭、
  手に研ぎたての鎌を持つて
  母(がが)ちやや兄(あんこ)にどなられながら
  稗を刈つたり粟を刈る。
   山の少女は山を恋ふ。
  きらりと光る鎌を引いて
  遠くにあをい早池峯山(はやちねさん)が
  ときどきそつと見たくなる。

光太郎歿後、昭和38年(1963)の第7回連翹忌にご出席くださり、昭和41年(1966)に山小屋近くに開館した旧高村記念館(現・森のギャラリー)の受付を永らく務められました。当方が初めてお会いしたのも、平成の初め頃、旧高村記念館ででした。

さらに、最近まで、光太郎の語り部としてご活躍。

地元テレビ岩手さんの「5きげんテレビ」、NHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」、ATV青森テレビさんの「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」 などにご出演、光太郎の思い出を語られた他、仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さんにはインタビュー記事が載り、地元の太田地区振興会さん編刊の『高村光太郎入村70年記念 思い出記録集 大地麗』に寄稿されたりもしています。

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花巻光太郎記念館さんでは、愛子さんのお話をまとめた「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」というリーフレットも発行。

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たびたび同地を訪れられている渡辺えりさん002とも親しくなさっていて、渡辺さんがお父様の渡辺正治氏が光太郎から贈られた詩集『道程再訂版』や書簡を記念館に寄贈された際のセレモニーにもご出席されています。写真中央に愛子さんが写っています。実を言いますと、当方、愛子さんのご逝去は、渡辺さんからの電話で知りました。

そして、今年の5月15日。毎年この日に、光太郎の暮らした山小屋敷地内で開催されている花巻高村祭で、当方がインタビュアーを務め、愛子さん他4名の生前の光太郎をご存じの皆さんにお話を伺う、トークセッションが開催されました。

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その際には、まだまだお元気だったのですが……。

もっとも、今頃、雲の上で光太郎と再会し、喜ばれているかも知れません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

相変わらずの自炊生活は、単調だけれども興味は深い。些細な食物でも自分の頭の働いてゐるものと思ふと満足が出来る。

散文「三月七日(火曜日)」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

「自炊生活」といっても、戦後の太田村でのそれではなく、ごく短期間、ひとり暮らしをしていた明治末の話です。

戦後の太田村でも、愛子さんたち村人に支えられながら送った「自炊生活」の中で、同じようなことを考えていたのかもしれません。

光太郎第二の故郷とも言うべき、岩手花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)脇に立つ、高村光太郎記念館さんからイベント情報です。  

高村光太郎記念館 クリスマススペシャルコンサート

期   日 : 2018年12月16日(日)
会   場 : 高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時   間 : 14:00~
料   金 : 記念館入館料 大人350円 高等学校生徒および学生250円 小中学生150円

今回は光太郎ストリングスに加え、スペシャルメンバーとして花巻の金星少年少女オーケストラのメンバーと地元の方による朗読でコンサートを盛り上げます。

 演  奏 光太郎ストリングス
 朗  読 高村光太郎「ブランデンブルグ」他  
 演奏曲 ヴィヴァルディ「二つのバイオリンの為のコンチェルト」
     コルレリ「クリスマスコンチェルト」 他

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「光太郎ストリングス」は、今年7月にやはり高村光太郎記念館さんで開催された「弦楽四重奏スペシャルコンサート」が初舞台でした。岩手大学管弦楽団の卒業生の皆さんだそうです。

金星少年少女オーケストラのメンバーも客演されるとのこと。同オケは宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシユ」に登場する「金星音楽団」から名付けられています。さらに地元の方による朗読も入るそうです。

ちなみに同館では、先週末から「平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~ 光太郎の食卓」が始まりました。展示風景の画像等、送られてきましたのでご紹介します。

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光太郎の001遺品である、山荘内部に遺されていた買い物かご、フライパン、おろし金、まな板の調理用具、小岩井牧場バター、日東紅茶缶、加糖インスタントコーヒー缶。

それから常設展示ゾーンから、肥後守(折りたたみナイフ)を移動。これは昭和25年(1950)1月1日発行の『アサヒカメラ』第35巻第1号に載った、濱谷浩が撮影した光太郎の手の写真に写っているものです。削っているのは鰹節です。

想像でしかありませんが、濱谷は彫刻刀を持って木を削る写真を撮りたかったところ、光太郎は戦時中の戦争協力を恥じて、「自己流謫」(自分で自分を流罪に処すること)と称した蟄居中。天職と考えていた彫刻も、自らへの最大の罰として封印していました。そこで、彫刻刀ならぬ肥後守、木材ならぬ鰹節を削っている写真を撮らせたのではないかと思われます。そう考えると、ある意味、壮絶な写真です。

こちらの写真もパネル展示されているようです。その他、パネル展示で光太郎の食生活の様子や、数々の「食」をモチーフにした詩を紹介しているとのこと。

また、前回企画展示「光太郎と花巻電鉄」のために、品川在住の石井彰英氏が制作された昭和20年代花巻町とその郊外のジオラマも、引き続き展示中です。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

自然の大きな、ゆつたりとした姿を眺めると、何事も皆面白くなる。全く所謂煩悩といふものが清められる。頭の中を綺麗なもので洗ふ様な心持ちがする。
散文「雲と波」より 明治40年(1907) 光太郎25歳

今朝は自宅兼事務所のある千葉県北東部で、おそらく初霜が下りました。愛犬と散歩しつつ、いよいよ光太郎が愛した本格的な冬だな、と思いました。ぴいんと張り詰めた冷気の中、当方も多少は煩悩が浄められるような気がしました。

光太郎第二の故郷・花巻から企画展情報です。 

平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~  「光太郎の食卓」

期    日 : 平成30年12月8日(土)~平成31年1月27日(日)
会    場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時    間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料    金 : 小中学生 150円(100円)  高等学校生徒及び学生 250円(200円)
        一般 350円(300円)
   ( )は20名以上の団体
休 館 日 : 12月28日~1月3日

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市総合文化財センター、花巻市博物館、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

高村光太郎記念館 「光太郎の食卓」 太田村山口での山居生活で、農耕自炊の生活を目指していた高村光太郎の「食」にまつわるエピソードや資料を紹介します。

関連行事

ぐるっと歩こう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた人に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館全てと協賛館1館のスタンプを集めた人に、追加で記念品を差し上げますので、この機会に足を運んでみませんか。

ぐるっと花巻再発見ツアー
 企画展開催館を一度にまわれるバスツアーを開催します。無料で参加できますので、ぜひお申し込みください。
 1回目:平成30年12月13日(木曜日)午前9時から午後3時10分
 2回目:平成31年1月10日(木曜日)午前9時から午後3時10分

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昨年から高村光太郎記念館さんがこの試みに参加、今年は「光太郎の食卓」だそうです。

まだどのような展示が為されるか、具体的には聞いておりませんが、これまでに女性スタッフを中心に取り組んできた「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」、「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part2」といった市民講座や、隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんでの連載「光太郎のレシピ」などでの蓄積を生かすのだと思われます。


ところで、『広報はなまき』の11/15号に、こんな記事も出ています。

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光太郎愛用の巨大ゴム長靴の紹介です。こちらは常設展示のコーナーで展示中です。

当方、年明けにでも行ってこようかと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

岩手に来て思ふに、岩手は日本の脊梁の最強部たる地勢を持ち、人間を持つ。岩手の文化はやがて日本を支へる強力な柱とならう。

散文「「小田島孤舟歌碑」序」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

岩手県和賀郡小山田村(現花巻市)出身で、光太郎同様、雑誌『明星』に依った歌人であり、明治41年(1908)、岩手新詩社を興した小田島孤舟の著書に寄せた序文の一節です。

新刊書籍です。 

一九四〇年代の〈東北〉表象 文学・文化運動・地方雑誌

2018/10/10 高橋秀太郎 森岡卓司編 東北大学出版会 定価5,000円+税

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一九四〇年代、東北に疎開した文学者、新聞・雑誌などのローカルメディア、そして各地に展開された文化運動が、それぞれに照射した「地方」の姿を追う。
 
《目 次》
序  地方文学研究と近代日本における〈東北〉表象 森岡卓司
1章 島木健作の「地方」表象 山﨑義光
2章 戦時下のモダニズムと〈郷土〉ー雑誌『意匠』・沢渡恒における「東北」 仁平政人 
3章 『文学報国』『月刊東北』における地方/東北表象の消長 高橋秀太郎
  [コラム1] 金木文化会と太宰治 仁平政人
4章 提喩としての東北ー吉本隆明の宮沢賢治体験 森岡卓司
5章 〈脱卻〉の帰趨ー高村光太郎に於ける引き延ばされた疎開 佐藤伸宏
6章 更科源蔵と『至上律』における地方文化 野口哲也
  [コラム2] 石井桃子と「やま」の生活ー宮城県鶯沢での開墾の日々 河内聡子
7章 皇族の東北訪問とその表象ー宮城県公文書館所蔵史料にみるイメージの生成 茂木謙之介
8章 「北日本」という文化圏ー雑誌『北日本文化』をめぐって 大原祐治
あとがき 高橋秀太郎


主に東北地方の大学で教鞭を執られている研究者の方々による共著です。

光太郎に関しては、東北大学文学研究科教授の佐藤伸宏氏による「5章 〈脱卻〉の帰趨ー高村光太郎に於ける引き延ばされた疎開」で、戦後の花巻郊外旧太田村に逼塞した時期が論じられています。意外とこの時期の詩作品に関する論考等は少なく、しかし、人間光太郎の完成型を見るためには外せない時期と思われ、貴重な論考です。

5章でのさらに詳細な目次は以下の通り。

一 高村光太郎の疎開/二 詩「「ブランデンブルグ」」の成立/三 戦争詩と大地性/
四 光太郎に於ける詩の「転轍」――「脱卻」の帰趨

さらに「6章 更科源蔵と『至上律』における地方文化」(都留文科大学文学部教授・野口哲也氏)でも、更科と交流の深かった光太郎についてかなり詳しく言及されています。

是非お買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

もつと野暮な、もつと骨のあるもの、文学はほんとはその骨髄にそれがなけりやならぬ。さういふことをこれからも誰かやらなきやならないけれど、もう果してさういふ人が出てくるかどうか……。

談話筆記「「夜明け前」雑感」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

谷崎潤一郎の「細雪」と対比し、藤村の「夜明け前」には、そうしたエッセンスがあった、と光太郎は言っています。

昨日、花巻の大沢温泉さんから郵便が届きました。角形2号(240㍉×332㍉・A4サイズ対応)の大きな封筒です。

当方、花巻に泊まる際にはよく利用させていただいていて、年に3回ぐらいはお世話になっています。そこで、忘れ物でも送って下さったのか、いや、それにしては、最後に泊まったのは7月だし……、イベントか何かの案内だろうか?……などと思いつつ、開封してみると……

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「菊水館」さんが、今月末で休業とのこと。驚きました。同時に、年三回程度の利用客にまでこの文書を送って下さる姿勢に感激しました。

大沢温泉さんは、通常の温泉旅館的な「山水閣」、長期の湯治客など用の「湯治屋(旧・自炊部)」、そして別館的な茅葺きの「菊水館」の三つに分かれています。

戦後の7年間、花巻郊外太田村に蟄居生活を送っていた光太郎も、ここの湯をこよなく愛し、たびたび訪れています。長い時には2週間も逗留しました。日記によれば、だいたい「山水閣」に宿泊したようですが(そこで「山水閣」には光太郎が泊まった部屋を再現した「ぼたんの間」がスイートルーム的に使われています)、「菊水館」に泊まったという記述もあります。公式サイトで光太郎を紹介して下さっていますし、「山水閣」内には光太郎にかかわる展示も為されています。

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そのうちの「菊水館」に通じる高明橋脇の法面(のりめん)が、8月9日に崩れ、通行ができなくなったそうです。

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8月9日といえば、女川光太郎祭の日。台風13号が日本列島を直撃していました。その影響でしょう。当方、今月初めに花巻に行きましたが、その際は鉛温泉さんに宿泊したので、存じませんでした。

「湯治屋」につながる曲がり橋は健在なため、そちらを使って営業を続けてこられたそうですが、冬になると積雪が半端ではないところなので、宿泊客の食材等の搬入が困難になるため、「菊水館」のみ休館だそうです。再開のめどは立っていないとのことですが、早期再開を目指すそうで、そうあってほしいものです。

当方、大沢温泉さんでは主に「菊水館」に宿泊しています(何度泊まったかもはや思い出せません)。光太郎も泊まった築160年の趣、食事も美味しく、事前に「苦手な食材は?」的な質問もして下さるなど、細やかな対応がなされています。それでいてリーズナブルな料金。曲がり橋を渡って露天風呂に行くというのも風情があります。

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「山水閣」、「湯治屋」は健在ではありますが、当方にとっては、やはり「菊水館」。そういう方も多いのではないでしょうか。一日も早い再開を願ってやみません。

追記 2019年6月末より、宿泊はできないものの、「ギャラリー茅」として再オープンしました。


【折々のことば・光太郎】

現代のむつかしくなやましい社会生活の中にあつて、否応なしに気むつかしくなつているわれわれも、たまには「雅歌」のような古い、幼稚な、人間初発の、謀略のない声をきくと楽しい。馬鹿らしいほど単純だと思いながら、やつぱり読む。
散文「雅歌」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

「雅歌」は聖書の一節で、神に対する信仰の告白的な内容ですが、光太郎は男女の恋愛詩としても読めるとしています。特に好んだのが「北風よ起れ、南風よ来れ、我園を吹きてその香りを掲げよ。ねがはくはわが愛する者のおのが園に入りきたりてその佳き果を食はんことを」の句で、書として揮毫したりもしています。

古い、幼稚な、人間初発の、謀略のない声」も、光太郎の目指した一つの境地でしょう。ただ、光太郎詩は「馬鹿らしいほど単純だ」とは思いませんが。

昨日は、北鎌倉に行っておりました。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」。以前にもご紹介しましたが、ジオラマを造られた品川ご在住の石井彰英氏が、ご自身でジオラマの細部を撮影され、お仲間の皆さんと音楽やナレーションを入れた「高村光太郎ジオラマDVD」が完成し、その上映が行われるということで、行って参りました。

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その前に、同じ北鎌倉にある、笛ギャラリーさんに立ち寄り、昼食を頂きました。光太郎の妹の令孫に当たる山端夫妻が営むギャラリー兼カフェです。

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ご近所には、光太郎と交流の深かった
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詩人・尾崎喜八の令孫がお住まいで、笛さんと共同で、毎年10月には「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」という展示をなさっています。

今年も10月5日頃から開催の由、チラシが出来たら送って下さるとのことで、また近くなりましたらご紹介いたします。

その後、北鎌倉・台地区の川上さんというお宅へ。いくつかある棟のうちの一棟を、地域の公民館的な形で開放されているそうで、そちらが上映会の会場です。二間続きの座敷、襖を外してぶち抜き、大型テレビを設置してありました。

逗子にお住まいの、テルミン奏者・大西ようこさんが、ご主人ともどもお見えでした。筋金入りの智恵子ファン(笑)で、「智恵子抄」をテーマにしたコンサート等を何度もなさっている、筋金入りの智恵子ファン(笑)です(しつこい(笑))。



参会の方々は、会場をご提供下さった川上さんはじめ、北鎌倉のナショナルトラスト運動に取り組まれている「北鎌倉湧水ネットワーク」「台峯緑地保全会」の皆さんが中心で(そちらのサイトにも上映会のレポートが)、ジオラマ作者の石井氏が以前に北鎌倉のジオラマも制作されたご縁で、おつきあいが続いているそうです。今回のDVDで、挿入音楽を演奏なさった屋良朝信氏もご参加なさいました。

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光太郎のDVD、北鎌倉のそれと、二本上映されました。開け放した窓から野鳥の鳴き声が聞こえ、DVDに入っている効果音かと聞きまごう状態で、いい感じでした。

光太郎DVDの方は、ナレーション原稿を執筆させていただいたので、以前から何度も拝見していますが、制作者の石井氏の解説入りで観ると、また違ったものでした。

北鎌倉の方は、同地を舞台とした小津安二郎監督・原節子主演作品「麦秋」へのオマージュ的な。原さんといえば、昭和32年(1957)、東宝映画「智恵子抄」で智恵子を演じられていて、不思議なご縁を感じました。

ところで花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻電鉄」。一昨日、岩手めんこいテレビさんでご紹介下さいました。石井氏のジオラマもばっちり映りました。 

「光太郎と花巻電鉄」 高村 光太郎 企画展

詩人で彫刻家の高村 光太郎と花巻電鉄の関わりなどを紹介する企画展が、岩手・花巻市で開かれています。
これは、高村 光太郎が、花巻で暮らした7年間の日常を紹介しようと企画されました。会場には、光太郎が疎開していたころの花巻の風景を再現した、ジオラマが展示されています。中でも、東北初の電車として知られる「花巻電鉄」は、光太郎が、買い物や療養先の花巻温泉へ出かける際に、生活の足として利用していたものです。このほか、直筆の書や着用した衣服、主治医に宛てた手紙など、光太郎ゆかりの品々が展示されていて、訪れた人たちは、光太郎の足跡に思いをはせていました。この企画展は、11月19日まで開かれています。

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記念館さんで、「高村光太郎ジオラマDVD」が販売されてもいます。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩の内容といふのは言葉で言ひあらはされた意味の事ではなくて、詩人がさう書かねばならなかつた気魄なり、感覚なり、詩心の事である。詩を読んで其の意味ばかりにとらはれて此の真の内容に気がつかなければ詩を読んだかひが無い。詩の持つ意味は詩人の心の向けられている方位の如何を示し、肝要なのはそれがどういふ内容に於いて満ちてゐるか、欠落してゐるかといふ事である。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

この前の部分では、絵画も然りと光太郎は書いています。結局、どんな芸術でもそうなのでしょう。

8月31日(金)~9月2日(日)の花巻行で入手した書籍を2冊。 

まんがでイッキ読み! 浅見光彦 怪奇トラベルミステリー

2018年9月10日 内田康夫 原作 あさみさとる/夏木美香 画 ぶんか社 定価600円+税

あさみさとる「風葬の城」
旅雑誌の取材で会津にやってきた光彦。漆器作りの現場を見学していると、職人である平野浩司が急に苦しみだし、そのまま亡くなってしまう。第一発見者となってしまった光彦は、その様子から平野氏の死が毒物による他殺だと推理する。徐々に明らかになっていくある業界の不正や金の動き。そこに隠されていた、大きな陰謀とは――?


あさみさとる「『首の女』殺人事件」

光彦と幼馴染の野沢光子は、姉・伸子の紹介で知り合った宮田治夫と「高村光太郎・智恵子展」へ出かける。そこで光太郎の彫刻「蝉」を熱心に見ていた男が記憶に残った。ところがその男が福島県安達太良山の麓で殺され、宮田も島根県江の川で水死体で発見される。事件後、脅迫めいた「怪電話」に伸子は悩まされることになり、光彦に相談を持ちかける。
 
夏木美香「教室の亡霊」
群馬県の公立中学校の教室で、かつてその学校で教鞭を執っていた男の死体が発見された。毒殺されたと見られる被害者のポケットには、新人教師・梅原彩とのツーショット写真が。さらに渦中の彩が顧問を務める陸上部員の父親が殺され…? 次々と事件に巻き込まれる彩を助けて欲しいと依頼を受けた光彦が、現代の教育問題に迫る。

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というわけで、今年3月に亡くなった推理作家・内田康夫氏原作の「浅見光彦シリーズ」から3本のコミック化です。別に「怪奇」ではないと思いましたが(笑)。

紹介文の通り、光太郎智恵子をモチーフとした「『首の女』殺人事件」が入っています。裏表紙のイラスト(画像右)がそちら。小説は昭和61年(1986)に刊行されています。

小説の浅見光彦シリーズは100本を超え、コミック化も'90年代後半には始まり、これまでにかなりの作品が取り上げられてきました。しかし、当方の知る限り「『首の女』殺人事件」はこれまでコミック化されておらず、残念に思っていました。コンビニのコミックコーナーで「浅見光彦」の文字を見つけるたびに「『首の女』殺人事件」の文字を探しては、「やはり、ないか」を繰り返すこと10数年(笑)。

しかし、ついに、8月31日(金)、花巻高村光太郎記念館さんをあとにして、宿泊先の鉛温泉さんに向かう途中、花巻南温泉郷入口のファミリーマートさんに立ち寄って、これを発見し、思わず心の中で快哉を叫びました。また、不思議な縁も感じました。

調べてみると、同じぶんか社さんで刊行している『まんが このミステリーが面白い!』 8月号(6月発売)が初出でしたが、そちらには気づきませんでした。

さっそく鉛温泉さんで読みました。「『首の女』殺人事件」で約150ページ。細かなところが割愛されたり、原作が昭和末期を舞台としているのを平成末期の現代に置き換えたりしている以外、ほぼ原作どおりで、なかなか読み応えがありました。

ぜひお買い求め下さい。

ちなみにフジテレビさん(平成18年=2006)とTBSさん(平成21年=2009)でドラマ化され、それぞれBS放送やCS放送で年に数回、再放送されています。明後日にもBSフジさんで再放送があります。併せてご覧下さい。。 

<BSフジサスペンス劇場>『浅見光彦シリーズ22 首の女殺人事件』

BSフジ 2018年9月7日(金)  12時00分~13時58分

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる !! 

原作 内田康夫
出演 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか


もう一冊。 

出会いの人びと

昭和58年2月20日 鈴木實著 熊谷000印刷出版部
定価1,500円+税
 

9月1日(土)、花巻高村光太郎記念館さんでの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓 part2」の講師を務め終え、花巻市街から東北新幹線の新花巻駅などをぶらついているなかで立ち寄った、ショッピングセンター・銀河モールさんの中のTSUTAYA 花巻店さんで発見しました。

こういう書籍がないかな、と思って立ち寄って、まさにこういう書籍が手に入ったので、こちらでも思わず心の中で快哉を叫び、不思議な縁も感じました(笑)。昭和58年(1983)の書籍が新刊書店に並んでいたというのも驚きです。

著者の鈴木實氏は、元花巻北高校さんの校長先生。大正5年(1916)のお生まれだそうですので、まだご存命かどうか……。父君は宮沢賢治が技師として働いていた東北砕石工場を興した鈴木東蔵。そうした縁もあって、昭和23年(1948)に谷川徹三の揮毫で建立された賢治の「農民芸術概論綱要」碑の建立に奔走されました。

最初は宮沢家に話を通さずにその計画を進め、光太郎に揮毫を依頼したそうです。ところがそれでは筋が通らないと光太郎に強く諭されたというエピソード、さらに、やはり昭和23年に同志社大学教授だった浜田与助を光太郎の山小屋に案内したエピソードなどが語られています。また、鈴木氏は光太郎を敬愛していた高田博厚とも交流があり、高田の項でも光太郎の話題が出て来ます。

調べてみると、昭和23年8月25日の光太郎日記に記述がありました。

学校にゆかんとせし頃(十時半頃)土沢より鈴木氏といふ青年、同志舎(「社」の誤り)大学の浜田先生といふ人を案内して来る。一緒に学校にゆく。郵便物を出すため学校にゆく旨のべる。(略)浜田先生と談話。同氏は哲学専攻の由。長坂町に滞在との事。土沢では長嶌氏といふクリスチヤン農家を訪ねられたらし。長嶌氏より林檎5個もらふ。尚浜田氏よりドラ焼20数個もらふ。 十一時半頃浜田氏等帰らる。

この時の様子がかなり詳しく語られていて、興味深く拝読しました。浜田の子息が智恵子と同じ統合失調症の末、亡くなった話が出たこと、ミケランジェロや当時流行の某彫刻家を引き合いに出しての芸術論に花が咲いたこと、そして鈴木氏と浜田の帰りしな、光太郎が「まだいいですよ」と引き留めたこと(鈴木氏が光太郎の周辺人物に聞いた話では、こういうことはめったになかったそうで)などなど。

「農民芸術概論綱要」碑云々のエピソードも光太郎日記に記述があるのではないかと思われます。ただ、鈴木氏の名が記されていないようで、索引から調べることも出来ません。宿題としておきます。

この手の光太郎日記などを補完する回想等、非常に貴重なものです。今後も発見に努めようと思います。


【折々のことば・光太郎】

詩は決して紙の上だけでは出来ないし、又決して態度や心構だけでも出来ない。詩はその人の存在全部から立ち登る必然のものであつて、しかもその精神を神経組織に変調しながら表現する技術は、時代と共に何処までも進展する。とにかく停滞は自然の理法に反する。われわれは日々に新しくならなければならぬ。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

戦後、光太郎は「心はいつでもあたらしく」という語を地元の太田中学校や盛岡少年刑務所に贈りましたが、その背景にはこうした考えがあったのですね。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」。以前にもご紹介しましたが、ジオラマを造られた品川ご在住の石井彰英氏が、ご自身でジオラマの細部を撮影され、お仲間の皆さんと音楽やナレーションを入れた「高村光太郎ジオラマDVD」が完成しました。

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花巻高村光太郎記念館さんで、定価1,000円での販売中。

ナレーションとテロップの原稿を当方が執筆いたしまして、そうした関係でスタッフに名を連ねさせていただき、現物を50枚下さいまして、愛車に積んで持って帰りました。

オープニング。

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バックに横笛の達人、花巻高村光太郎記念会・髙橋事務局長の演奏。

光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋(高村山荘)の映像、最初は当時の古写真だったものが、ジオラマの映像に切り替わり、いつのまにか光太郎も登場。

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その後、ここにたどり着くまでの光太郎、そして智恵子の紹介を兼ね、花巻以外の各地の紹介。

南品川・ゼームス坂病院。智恵子終焉の地です。石井氏が以前に作られたもので、これがご縁で花巻高村光太郎記念館さんに氏をご紹介しました。

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福島二本松、智恵子の生家。

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東京千駄木の光太郎アトリエ。

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安達太良山。バックに「あどけない話」(昭和3年=1928)の朗読。

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そして、花巻。

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光太郎の足跡が残っている場所を主にしていただきました。

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もちろん、花巻電鉄の車両も走り回っています。

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それから、光太郎が疲れを癒した郊外の温泉地の数々。

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そして、旧太田村。光太郎の山小屋や、近くの山口小学校など。

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石井氏曰く「牧歌的」だそうですが、人々の息づかいまで聞こえてきそうです。

本編のあとには、エンドロールを兼ねて、「制作日誌」。

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ロケハンの際の画像もふんだんに使われ、現在も残る建造物がどうジオラマになったかという対比がされ、面白い工夫です。

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花巻高村光太郎記念館さんで、定価1,000円での販売中。ご入用の方は、お問い合わせ下さい。

それから、9月9日(日)、神奈川県鎌倉市で、上映会が催されるそうです。石井氏が以前に作られた、北鎌倉のジオラマを撮影されたものも同時上映とのこと。当方もお邪魔して参ります。ご興味のある方、リンクからお問い合わせ下さい。


【折々のことば・光太郎】

われわれはもう一度新しい意味の素朴を発見して更に詩の樹液を更新したい。ことに日本語といふ素朴の性質を十分に新しい面から究明して、未知のしかも身近な美を此の世に生かしたい。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「未知のしかも身近な美」というのがいいですね。美は到るところにあると考えていた光太郎ならではの言です。

二泊三日の行程を終え、花巻か000ら千葉に戻りました。

昨日、花巻高村光太郎記念館さんでの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を終えたあと、愛車を駆って花巻市街に向かいました。光太郎の立ち寄った場所などを見るためです。

その前に、記念館さんに隣接する光太郎が7年間を暮らした旧太田村の山小屋脇にあった、光太郎お手植えの栗の木。

昭和21年(1946)、光太郎が父・光雲の13回忌を記念して実を植えて芽を出し育った巨木でしたが、とうとう枯死してしまい、倒壊の危険があるということで伐採されました。右手の石柱は、光太郎が書いた木柱のコピーです。「亡父光雲十三回忌記念播種 昭和廿一年十月十日」と刻まれています。

7月に訪れた時にそういう話を聞いてはいたのですが、やはり残念でした。

続いて、旧太田村山口地区のほぼ中心にある古い石碑。詩「かくしねんぶつ」(昭和23年=1948)や、散文「山の人々」(昭和26年=1951)などで触れています。

右から二番目の最も背の高い碑には「見真大師」の文字。浄土真宗開祖の親鸞上人の別名です。

この辺りでもかつて行われていたという、「隠し念仏」にも関わるものです。

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このあと、花巻市街へ。以前にも訪れた場所は割愛し、その後、こんな所にも立ち寄っていたのか、という場所を中心にまわりました。

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小田島薬局さん。箸で食べるのが作法の十段巻きソフトクリームで有名なマルカンさんのすぐ隣。光太郎、ここで薬を買ったり、商売抜きで店主と個人的につきあいがあったりしました。店主宛の書簡も残っています。

マルカンさんには何度か足を運びましたが、気づかずに通り過ぎていました。

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市役所近くの新ばしさん。うなぎや寿司を饗するお店です。こちらも気づかずに何度も前を通り過ぎていましたが、光太郎日記に3回ほど、ここで食事をしたことが記されていました。

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市街の東、御田屋町の宗青寺さん。曹洞宗の寺院です。昭和20年(1945)、疎開直後で宮沢賢治の実家に厄介になっていた頃の光太郎が、何度か足を運んでいます。宮沢家とそう遠くない距離です。

このあと、東北新幹線の新花巻駅に向かいました。先月、1階奥の観光案内所的なスペースの展示コーナーがリニューアルされたという情報を得ておりまして、確認に。

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まずは米大リーグ・エンジェルスの大谷翔平選手がドーンとお出迎え。

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大谷選手、隣接する奥州市のご出身ですが、花巻東高校卒ということで。

さらに同校の先輩・西武ライオンズの菊池雄星投手や、富士大学さん卒などで花巻に関わるプロ野球選手たちの紹介も。

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さらに来年のラグビーワールドカップ開催で盛り上がる釜石関連で、釜石シーウェイブスさんのコーナー。

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ちなみに当方、試合のための移動と思われるシーウェイブスの選手の皆さんと、新花巻駅から同じ新幹線に乗り合わせたことがあります。

さて、かつてあった光太郎コーナーもリニューアルされたということで探してみると、隅っこにありました(笑)。

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高村光太郎記念館さんで販売されているグッズ等が並べられていました。ただ、ほとんど何の説明もなく、「何だかなあ」という感じでした。今後の整備を期待します。

このあと、宿泊先の鉛温泉さんに向かう途中、書店に立ち寄り、なかなか面白い書籍をゲットしました。さらに前日にはコンビニでも。そのあたりは明後日頃、ご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一番肝腎なのは詩の成立以前の問題、つまり詩を生む心的状態であつて、それが備はつてゐなければ、いかに巧妙な技術的操作や、いかに精巧斬新な手法的按排があつても、それだけでは、機具を造るやうに機械的に出来るものではありません。その詩以前の心的状態といふのは心の満ちあふれて已み難い状態で、これの無い詩作は人を捉へません。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「已み難い」というのは、会話の際の光太郎の口癖でもあったそうです。

昨日、花巻にやって参りまして、本日、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を務めさせていただきました。
今回は、花巻まで愛車を駆って行き、昨日の早朝に千葉県の自宅兼事務所を出発、午後には着きました。ちょうど秋田小坂町の皆さんがバスで来られていました。

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下の画像は、小坂町出身の出版社・龍星閣主人の澤田伊四郎が印税がわりに建ててやった別棟。皆さん、興味深そうにご覧になっていました。

その後、記念館さんで今日の講座の打ち合わせ。

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打ち合わせを終えて宿へ。今回、鉛温泉♨さんにお世話になっております。


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かつて光太郎が堪能した宿名物の深さ1.3 メートルの立って入る「白猿の湯」や、美味しい料理を満喫しました。

今朝、再び記念館さんに参りまして、講座の受講者の皆さんを待ちました。会場は昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館。

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当会の祖、草野心平が建立に尽力し、看板の文字も揮毫しています。現在は「森のギャラリー」として、こうしたイベントや市民の方々の作品展などに活用されています。

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現在は地元太田地区ご出身の方の版画などが展示されており、光太郎をモチーフとした作品も。

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やがて受講者の皆さんご到着。付近の自然観察というのもメニューに入っていて、そのひとコマです。

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このあと、当方は光太郎が書き残した詩文をもとに、幼少期から最晩年の光太郎の食生活を紹介しました。細かな内容はまた帰ってからブログに書きます。

さらに藤原記念館館長、高橋花巻光太郎記念会事務局長からもお話。

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その後、光太郎が児童を孫のようにかわいがった旧山口小学校(現在はスポーツキャンプむら屋内運動場)で、山口小学校卒業生の方のお話を拝聴。

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さらに地区の公民館的な施設で昼食。光太郎が残した日記などを元にメニューを組んだ「光太郎弁当」(笑)。

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ヘルシーなメニューで美味でした。いずれ商品化も考えているとのこと。

記念館さんに戻り、展示の見学。現在は企画展「光太郎と花巻電鉄」開催中です。

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ここで皆さんとはお別れし、このあと当方は花巻市街でぶらりと光太郎の足跡をたどりました。いずれレポートいたします。

今夜も鉛温泉♨さんに泊まり、明日、ゆっくり帰ります。

光太郎第二の故郷・岩手花巻から市民講座の情報です。 

光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ

期   日 : 2018年9月1日(土)
時   間 : 午前9時から午後3時20分まで
会   場 : 花巻高村光太郎記念館他 (集合:まなび学園ロビー バスで移動)
料   金 : 400円
対   象 : 花巻市内に在住または勤務する方 小学生は保護者同伴 定員20名

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高村光太郎記念館に併設の「森のギャラリー」での講話は、高村光太郎記念館長・藤原睦氏、花巻高村光太郎記念会事務局長・高橋邦広氏、それから当方もお話をさせていただきます。当方からは、光太郎の生涯を通じ、どのような食生活を送っていたか、光太郎本人や周辺人物の証言などから追いかけます。

その他、マイクロバスを使い、市街の桜地人館さん、光太郎が碑文を揮毫した賢治詩碑などをめぐる予定で、対象は花巻市在住または勤務の方限定となっています。

終了後、このような話をしたよ、というのはこちらのブログでレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

詩がいつまでも幼稚であつていいといふのではない。成長すればする程、複雑微妙になればなる程、技術の高度化が加はれば加はる程、尚更思はくを絶した絶対境につきすすまねばならない。それが詩のよろこびである。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

一般読者の投稿詩に対するアドバイスですが、かつての光太郎自身もこのようにして成長してきたんだよ、ということなのでしょう。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市。そちらの広報紙『広報はなまき』さんの今月15日号の、「花巻歴史探訪 〔郷土ゆかりの文化財編〕」という連載で、光太郎の遺品が紹介されています。

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題して「光太郎の鉄兜(てつかぶと)と鳶口(とびぐち) 昭和20年花巻空襲被災当時の所持品」。その通りで、昭和20年(1945)8月10日、東京を焼け出されて疎開していた花巻の宮沢賢治の実家で再び空襲に遭った際に身に着けていたものです。鳶口の柄には、「高村光太郎」と記名してあります。

お茶の水女子大で教鞭を執っていた椛澤ふみ子(佳乃子)に宛てた、8月24日付の長い書簡の中に、「警報と同時に小生は例の通り、鉄兜をかぶり、飯盒、鉈を腰にぶらさげ、バケツと鳶口とを手に持つてゐたので……」という一節があります。

おそらく花巻高村光太郎記念館さんの所蔵なのでしょうが、以前に頂いた所蔵品のリストには入っていなかったように記憶しております。当方の記憶違いかも知れませんが。或いは、最近、新たに遺品類が出てきたやに聞いておりますので、その中のものかも知れません。月末にはまた行って参りますので、確かめてみます。


それから、やはり花巻高村光太郎記念館さんの協力で為されている『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん第9号(8/10発行)の連載、「光太郎レシピ」。

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今号は、「ボストンビーンズとアンチョビサンド」。それぞれ花巻郊外太田村の山小屋での日記に記述があるものです。

ボストンビーンズは、インゲンマメなどをメープロシロップを使った甘辛いソースで調理した料理。なんと、明治39年(1906)から翌年にかけて留学で滞在していたニューヨークでこれを食べていたという記録もあります。

食事はスヰトン鍋の自炊ときめてゐたが、外へ出るとデリカテツセンに安い出来合ひの食料が何でもあるので其を五仙(セント)十仙と買つて来て使つた。昼食は工場の近くの店で十仙均一のボストンビーンズや、フオースや、ホツトケークなどを一皿食ふ事にしてゐた。
「ヘルプの生活」昭和4年(1929)

「工場」は、おそらく「こうじょう」ではなく「こうば」と読み、光太郎が助手を務めていた彫刻家、ガットソン・ボーグラムのアトリエです。

ちなみに、来月1日に、花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座「光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ」があり、講師を仰せつかっております。とりあえずじょうきのように、光太郎の「食」に注目して生涯を概観しようと思っております。詳細はまた後ほど。


【折々のことば・光太郎】

小生は好んで古今の俳句をよみ、且ついろいろに噛み味つて居ります。此の世界に稀な短詩型の持つ一種特別な詩的表現は、小生自身の詩作に多くの要素を与へてくれます。

散文「中村草田男雅丈」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

俳人・中村草田男の主宰する雑誌『万緑』創刊号に載った、おそらく中村宛の書簡そのままから。のち、中村の句集の序文としても使われました。

光太郎自身、少年期から俳句の実作に親しみ、それは戦後まで断続的に続きました。また、確かに詩の中にも俳句的発想が見られるような気もします。

7月14日(土)、企画展「光太郎と花巻電鉄」開幕を迎えた花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんを後に、レンタカーを北に向けました。当初予定では、東の花巻市街に向けて、光太郎が戦中戦後に歩いた界隈を歩く予定でした。そこで、昨年発刊された隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』の第6号「特集 賢治の足跡 光太郎の足跡」を持っていったのですが、予定を変更しました。高村光太郎記念館さんで、下記の企画展情報を得たためです。 

ハナをめぐる人の環 ~野村ハナ生誕130年・没後50年記念企画展~

期 日 : 2018年6月10日(日)~10月21日(日)
会 場 : 野村胡堂・あらえびす記念館  岩手県紫波郡紫波町彦部字暮坪193-1
時 間 : 9時~16時30分
料 金 : 一般/300円 (250円) 小中高校生/150円 (100円) 
      ( )内は20名以上団体割引料金
休館日 : 月曜日 ただし7/16、9/17、10/8は開館、翌日が休館

野村胡堂の妻ハナが通った日本女子大学。上代タノ、長沼智恵子、井上秀、平塚らいてうなどそこで出会った人々とは、生涯を通して親交を深める。母校へ、友人へ、そして家族に向けたあたたかな眼差しと想いにふれる。

 今年は、『銭形平次捕物控』の執筆者である野村胡堂の妻ハナの生誕130年・没後50年です。ハナは紫波町彦部村の出身で、大恋愛の末に胡堂の妻となり、80歳で生涯の幕を閉じました。その長い人生には、苦しい時代や度重なる不幸がありましたが、それでもキリスト教の信仰を生きる支えとし、家族や友人など多くの人々に愛情を注ぎます。
  明治38年、岩手県立高等女学校から東京の日本女子大学附属高等女学校へと転校したハナは、その後、日本女子大学で学び、母校の同附属高等女学校で教師として勤めました。その間に多くの人々との交流が生まれ、時には支え協力し合いながら人生を歩みました。日本女子大学成瀬記念館の所蔵資料をもとに、ハナの豊かな人の環と遺徳を紹介します。

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調べてみると、先月の『岩手日報』さんに記事が出ていました。智恵子の名が無かったので、気づきませんでした。 

胡堂の妻ハナ、深い愛情 紫波、記念館で企画展

 紫波町出身で「銭形平次捕物控」著者の野村胡堂(1882~1963年)の妻ハナ(1888~1968年)の生誕130年、没後50年を記念する企画展「ハナをめぐる人の環(わ)」は、同町彦部の野村胡堂・あらえびす記念館(杉本勉館長)で開かれている。初公開の3点を含め、友人や家族との手紙や写真から、愛情にあふれるハナの人物像が感じ取れる。
 展示しているのは同館や、ハナが通った日本女子大が所蔵する書簡など36点。ソニーの創業者井深大(1908~97年)、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)らとの交流を紹介する写真や手紙もある。
 このうち初公開は▽日本女子大の卒業証書▽同大第6代学長の上代(じょうだい)タノ(1886~1982年)へ宛てた書簡▽同大図書館設立のためにハナが胡堂の代筆で書いた寄付の覚書。
 10月21日まで。午前9時~午後4時半。毎週月曜日休館。入館料は一般300円、小中学生150円。24日、7月29日、8月26日、9月23日の午後1時半から学芸員が解説する。9月30日午後1時半からは盛岡二高箏曲部によるコンサートもある。問い合わせは同館(019・676・6896)へ。
2018.06.18


こちらのチラシが高村光太郎記念館さんに置いてあり、これは行かねば、と思った次第です。花巻街歩きはまたの機会にすることにしました。

紫波町は花巻市のすぐ北で、意外と早く着きました。平成26年(2014)に行った際には、山形市、仙台、盛岡と廻る途中で立ち寄ったため、在来線東北本線の日詰駅から歩き、結構難儀しましたが、レンタカーですと楽でした。

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申し訳ないのですが、常設展示は後に回し、まず企画展会場へ。

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智恵子より2歳年下の野村ハナ(旧姓・橋本)は、智恵子と同じ日本女子大学校の出身。智恵子のすぐ下の妹・セキと同じ教育学部の2回生で、智恵子とも親しくなり、テニス仲間の一人だったそうですし、帰省する際には福島の智恵子の実家に立ち寄ったこともあるそうです。明治43年(1910)には、野村胡堂と結婚。いろいろと事情があって、蕎麦屋の二階座敷でのささやかなものだったそうですが、その際には金田一京助が胡堂の、智恵子がハナの介添えとして出席したとのこと。ハナとセキに関してはこちら

今回の展示では、直接智恵子に関わる展示物はありませんでしたが、同級だったセキと一緒に写っている写真が数種類ありました。セキの写真はあまり見たことがなく、興味深く拝見しました。

その他、智恵子を『青鞜』に引きこんだ平塚らいてう、光太郎による日本女子大学校創設者・成瀬仁蔵胸像制作に関わったり、智恵子葬儀に女子大学校代表として参列したり、戦後は光太郎に講演を依頼したりした同校第四代校長・井上秀(朝ドラ「あさが来た」では吉岡里帆さんが「田村宜」名で演じていました)らからの書簡など。

そんな中で、展示の終わり近くでパネルに大きく印刷されていた、胡堂の「良い籤を引いた」という一文が目を引きました。昭和27年(1952)の雑誌『キング』に載ったものだとのこと。

結婚してから四十三年になるが、夫婦喧嘩というものをやった経験は無い。ご質問に応じかねて、誠に相すまぬようであるが、こればかりは致しかたもない。四十三年もの長い間を掴み合いも口喧嘩もしなかったのは、多分私は人間が甘く出来ており、老妻がズルく立ち廻った為だろうと思う。尤も、仕事のことで、時には気むずかしいこともあり、年のせいで、些か小言幸兵衛になりかけているが、老妻は巧みにあしらって、決してこれを喧嘩にはさせない。
(略)
四十三年前、もり蕎麦で結婚した私達は、もう、日本流に算えて七十一才に六十五才だ、喧嘩をせずに来たのは、運がよかったのかも知れない。これから先も無事に平凡に余生を送るだろう。つまりは良い籤を引いたのだ。

幸せな結婚生活を続けることが出来た感懐がほほえましく記されています。

この中で、こんな一節もありました。

自分の芸術のために幾人もの女に関係する男や、夫の芸術のために自分を犠牲にする女を私はお気の毒だと思っている。そんな芸術はこの世の中に無い方が宜しい。

幾人もの女に」云々はともかく、「夫の芸術のために自分を犠牲にする女」は、もしかすると、光太郎智恵子を念頭に置いているのでは、などと思いました。証拠はありませんが、昭和27年(1952)といえば、『智恵子抄』が龍星閣から復刊され、ベストセラーとなっていた時期ですので。

直接、智恵子に関する展示がなかったので少し残念に思っておりましたが、帰りがけ、ミュージアムショップ的なコーナーで、胡堂の弟子筋に当たる藤倉四郎氏の著書『バッハから銭形平次』(青蛙房・平成17年=2005)に目がとまりました。同じ藤倉氏が同じ青蛙房から出された『カタクリの群れ咲く頃の』(平成11年=1999)は所蔵しておりますが、こちらは存じませんでした。パラパラめくると、智恵子に関する記述がありました。明治44年(1911)、当時、雑司ヶ谷にセキと共に住んでいた智恵子の元を、ハナが生まれたばかりの長男を連れて訪れたことがハナの日記に記されているというのです。これは存じませんでした。購入してこようかとも思いましたが、他の部分には智恵子に関する記述がなさそうなので、図書館等で探してコピーしようと思い、やめました。セコいようですが、少しこういうところで節約しないと、なかなか厳しいものがありますので……。

さて、野村胡堂・あらえびす記念館さん、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一体、人間が斯うやッて此世に生れて来たに就いては何か目的が無ければならない。何か神様から言ひつかッて来た事が無ければならない。唯併し乍ら、我々は其を草が草であり、木が木であるが如くには容易に知る事が出来ない。
戯曲「青年画家」より 明治38年(1905) 光太郎23歳

「青年画家」は、翻訳を除き、確認できている光太郎唯一の戯曲です。他に「佐佐野旅夫」クレジットの戯曲「地獄へ落つる人々」(明治45年=1912、『スバル』)も、実は光太郎作品ではないかと推定されますが、確証はありません。

「青年画家」は、現在では否定されているハンセン病に関する偏見があったり、筋立てにも無理があったりしますが、若き日の光太郎の、自らや芸術に対する真摯な思いが見て取れる作品です。この年、「第一回新詩社演劇会」で上演され、石井柏亭、生田葵山、伊上凡骨らが出演しました。引用部分は、与謝野寛演じる「上野」(主人公・「佐山」の親友)のセリフです。

昨夜、1泊2日の行程を終えて、岩手花巻より帰って参りました。

花巻高村光太郎記念館さんで昨日開幕した企画展「光太郎と花巻電鉄」、早速報道されています。

地元紙『岩手日日』さん。

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『読売新聞』さん。13日(金)が報道陣向け内覧でしたが、『読売』さんは事前に取材されていました。

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昨日は、内覧にもいらした『岩手日報』さんがさらに初日の様子も取材されていました。そのうちにネット上でも記事が出ると思われます。下は初日のお客さん。興味深そうにご覧になっていました。

ネット上と言えば、メインのジオラマを製作された石井彰英氏の「制作日誌」がネット上に出ています。ご覧下さい。

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合間に隣接する高村山荘周辺を散策。東北北部はまだ梅雨明けして居らず、13日(金)は雨模様でした。関東ではとっくに枯れて朽ちているアジサイが、こちらではちょうど見頃でした(右上)。背景は、昭和20年(1945)から27年(1952)にかけ、光太郎が蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)です。

残念なニュースも。

山荘のすぐわきに、昭和21年(1946)、光太郎が父・光雲の13回忌を記念して実を植えて芽を出し育った栗の巨木があるのですが、残念ながら枯死してしまいました。右下は光太郎が書いた木標を石に写したコピーです。


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倒壊の危険があるというので、近々伐採されるそうです。色即是空、諸行無常とは申しますが、やはり残念です。

逆に明るい話題では、こんなニュースも。

高村光太郎記念館「弦楽四重奏スペシャルコンサート」

期 日 : 2018年7月29日(日)
会 場 : 高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時 間 : 14:00~15:00
料 金 : 記念館入館料 大人350円 高等学校生徒および学生250円 小中学生150円

光太郎ストリングスは、岩手大学管弦楽団の卒業生によって今回のイベントコンサートをきっかけに結成されました。
クラシック、ポップス、唱歌、演歌まで皆様に楽しんでいただける曲を用意してお待ちしています。

記念館の入館料でどなたでもお聞きいただけます♪
小・中学生の方は「まなびキャンパスカード」か「ふるさとパスポート」持参で入館無料!

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演奏されるのは、花巻や盛岡にご在住の皆さんだそうです。篠笛の達人、花巻高村光太郎記念会の髙橋事務局長も参加なさるとのこと。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

今年もやはりその時刻、裏山に登つて、ホトトギスの声をききながら、南方の空に美しいイメツヂを追いませう。

散文「再び村にて」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

舞踊家・藤間節子(黛節子)による「智恵子抄 第二集」プログラムに寄せた一文から。招待を受けたものの、蟄居中の身としては、東京まで見に行けないので、山小屋の裏山の見晴らしのいい高台から東京方面の南の空に向かって藤間や智恵子を偲ぶ、というのです。前年、それから翌年のプログラムにも同じ趣旨の記述があります。

その高台がこちら。ここで夜な夜な「チエコー」と叫んでいたという故事に因み、「智恵子展望台」と名付けられています。昨春、改修されました。

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そこに至る山道。ちょっとしたハイキングコースです。ふり返ると足下に山小屋。熊が出ます。

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デッキの柱には、生々しい爪痕。いかに過酷な環境かというのがわかりますね。

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昨日から、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻に来ております。
郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんで、今日から企画展「光太郎と花巻電鉄」が始まりますが、昨日は報道陣向け内覧でした。

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展示の目玉は、品川ご在住のジオラマ作家・石井彰英氏による昔の花巻のジオラマ。このブログで何度かご紹介して参りましたが、約1年かけて作成された労作です。

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何度か石井氏の工房にお邪魔し、その都度の進捗状況は見せていただきましたが、4分割されたパネルが合体した完成形、そしてNゲージのレール上を実際に電車が走るさまは初めて拝見。企画段階から関わった身としては、感無量でした。

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その他、昔の鳥瞰図や時刻表、絵葉書など、当方がコツコツ集めた資料も展示していただいています。

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昔の花巻を知る方々には懐かしんでいただき、そうでない皆さんにも古きよき花巻を知ってほしいと存じます。

また、開幕には間に合いませんでしたが、石井氏制作のDVD (ジオラマを接写したもの)が、今月末くらいには販売開始だそうです。また後ほどご紹介いたします。

是非、足をお運びください。

光太郎第二の故郷・岩手花巻の高村光太郎記念館さんでの企画展です。 

光太郎と花巻電鉄

期 日 : 2018年7月14日(土)~11月19日(月)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時 間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料 金 : 小中学生 150円(100円) 高等学校生徒及び学生 250円(200円)
      一般 350円(300円)
 ( )は20名以上の団体
休館日 : 会期中無休

光太郎が市街地へ日用品の買い出しや、静養先だった温泉への移動手段としていたのは、東北各地の都市に先駆けて大正初期から電車を運行していた『花巻電鉄』でした。都会育ちの光太郎にとって、山での暮らしは東京とは比べようが無いほど不便でしたが、山をおりれば路面電車で市街へ移動できる、『田舎』と『都会』が絶妙に隣り合う環境であったと言えるでしょう。
この企画展では、光太郎にゆかりある市内各所を資料やエピソードを交えて紹介しながら、それらを花巻電鉄が結ぶ情景を温かみあるジオラマで展示します。

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メインは、品川区大井町ご在住の石井彰英氏による、光太郎が暮らしていた頃の戦後の花巻とその周辺を表現したジオラマ。上記チラシにも使われています。すばらしい作品です。

かつて智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院を含む昔の大井町のジオラマを作成された石井氏に、花巻とその周辺のジオラマ作成をお願いしようと、高村光太郎記念館さんのスタッフ氏と一緒に工房を訪れたのが一年前の今頃。快諾を頂き、9月には、当方の運転するレンタカーで現地花巻をロケハン。その後、いろいろな方にご協力いただき、完成しました。

学術的なそれではないので、デフォルメがなされていますが、その場所ごとの感じは非常に良く再現されていると思われます。

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地元の方や、花巻に詳しい方なら、上記画像でそれぞれの場所がどこかとおわかりになるのではないでしょうか。

その他、花巻電鉄に関わる資料なども展示されます。何点か、当方手持ちの資料もお貸ししました。チラシにも使われている古絵葉書、光太郎が居住していた頃の時刻表など。

それから、ジオラマを元にした石井氏製作のDVDも販売される予定です。石井氏曰く「観に来られた方が、ジオラマを自宅に持って帰ることはできないので、映像として持って帰っていただきたい」とのことです。以前に伺った話では、そう高価な価格には設定しないとのこと。

ぜひ足をお運びください。当方は初日とその前日に1泊2日で行って参ります。


【折々のことば・光太郎】

日本に遺つてゐる造型芸術の中で、埴輪ほど今日のわれらにとつて親しさを感じさせるものはない。埴輪ほど表現に民族の直接性を持つてゐるものはない。それはまるで昨日作られたもののやうである。

散文「野間清六編「埴輪美」序」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

日中戦争開戦直前ということで、若干のきな臭さを感じる一節ですが、時代は違えど古代エジプトの彫刻などのプリミティブな美にうたれていた光太郎らしく、埴輪の持つ素朴な美を讃えています。「それはまるで昨日作られたもののやうである。」、いいですね。

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