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昨日は都内に出ておりました。メインの目的は永田町の国立国会図書館さんで調べ物でしたが、その終了後、三鷹市に廻りました。同市の三鷹図書館さんで開催中の「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展拝見のためです。

ともに小説家の故・吉村昭氏と、奥様の津村節子氏。夫婦同業、もっとも身近にライバルがいるというある意味過酷な状況で、互いに切磋琢磨してそれぞれベストセラーをものにしました。津村氏は、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)に、その自らの体験を仮託されています。

昨年から今年の初めにかけ、吉村氏の故郷・荒川区の吉村昭記念文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展 津村節子展 生きること、書くこと」、及び、「第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」が、同館と「おしどり文学館協定」を結ぶ、津村さんの故郷の福井県ふるさと文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されましたが、今回は、ご夫妻で長く住まわれ、津村氏が現在もお住まいの三鷹市での開催です。

会場の三鷹図書館さんは、JR三鷹駅から路線バスに乗り、約10分。

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こちらの2階の一角が会場でした。

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先週まで、同市の井の頭コミュニティセンターさんで前期展示が行われ、そちらは参りませんでしたが、「巡回」と謳われているのでほぼ同一の内容だと思われます。

こういった展示向けに作成されたのでしょう、『智恵子飛ぶ』の原稿レプリカが展示されていました。講談社さんの雑誌『本』に初出時の第一回「輝く車輪」、第二回「みちのくの新風」、そして最終回「荒涼たる帰宅」の、それぞれ冒頭の部分。このうち第一回「輝く車輪」は、明治末、日本女子大学校の校庭で、智恵子が同校名物の自転車を颯爽と操っているシーンです。

 陽が長くなってきていた。
 運動場を囲む樹々は、夕陽を透して葉先から緑の色素がしたたり落ちるばかりに鮮やかであった。
 午後の授業が終り、学生たちはそれぞれ家や寮舎に帰ってしまったらしく、人影はない。
 智恵子は、磨き上げた婦人乗りの自転車に乗り、勢いよくペダルを踏んでいた。前髪をふくらませた庇髪(ひさしがみ)の鬢(びん)がほつれて、上気した頬に幾筋かかかっている。智恵子はそれを小指でかき上げながら、少し首をかしげたポーズで風を切って走る。練習し始めて数日しか経っていないのに、もう片手が離せるのが得意な気分であった。
 智恵子の乗った自転車は、銀色の車輪を輝かせて幾廻りも運動場を廻る。何という気持ちのよさだろう。どうして誰も乗ろうとしないのか、智恵子は不思議だ。

昭和3年(1928)生まれの津村氏の女学校時代は、太平洋戦争真っ最中。青春を謳歌するという時代ではありませんでした。そうした体験から来る一種の羨望も感じられる書き出しです。

他に、故吉村氏、津村氏それぞれ、それからご夫妻で共通の、様々な資料が展示されています。会期は今月24日(日)まで。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

スケツチしながら思ふのは、自然の持つ調和力だ。人工と人工とは衝突する。自然と人工とは衝突といへない程一方が大きい。僅少の叡智(アンテリジヤンス)を以てすれば人工はさう容易に自然を犯すものでない。

散文「三陸廻り 九 釜石港」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

自然破壊とか環境問題などといった意識が世の中にほとんど無かったこの時代にこういう発言をしている光太郎の先見性には舌を巻かされます。

また、「自然と人工とは衝突といへない程一方が大きい。」には、80年後に彼の地を巨大津波が呑み込んだことが予言されているようにも思われます。

そういえば、吉村昭氏には、釜石からそう遠くない田野畑村を舞台とした『三陸海岸大津波』(昭和45年=1970)という小説があり、津村氏は東日本大震災後も田野畑村によく行かれていたそうでした。

東京都三鷹市より、企画展示の情報です。智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)で芸術選奨文部大臣賞を受賞され、2016年には文化功労者にも選ばれた津村節子さんに関わるものです。 

「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展

期 日 : 前期 2019年1月12日(土)〜2月2日(土)   後期 2月5日(火)~2月24日(日)
会 場 : 前期 井の頭コミュニティ・センター図書室  三鷹市井の頭二丁目32番30号
          後期 三鷹図書館(本館)  三鷹市上連雀八丁目3番3号
時 間 : 前期 正午~20時(土曜は10時から 日曜日は10時~16時30分 最終日は15時まで)
          後期 9時30分~20時(土曜、日曜・祝日は17時まで)
料 金 : 無料
休 館 : 前期 月曜日・祝日  後期 月曜日・第3水曜日(2月20日)

三鷹市ゆかりの文学者顕彰事業の一環として、ともに作家であり、夫婦でもある吉村昭と津村節子を取り上げ、市内2ヵ所で巡回展示を開催します。
両者が作家として築き上げてきた文学の世界を多彩な著作から紹介しつつ、二人が夫婦として長年暮らした三鷹とのゆかりを紹介します。
本展では、初版本や、自筆原稿、色紙など数々の資料をご覧いただけます。展示内容に違いもありますので、お時間のある方は両施設にぜひ足をお運びください。

展示予定資料
 吉村昭・津村節子 自筆色紙
 吉村昭 自筆原稿「わがふるさと三鷹 文学散歩」
 津村節子 自筆原稿「私の青春・二十歳で洋裁店のマダムだったが」ほか

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『朝日新聞』さんの東京版に紹介記事が出ました。  

東京)吉村昭さん津村節子さんに迫る 三鷹で巡回展

 東京都三鷹市で1~2月、巡回展「吉村昭と津村節子――井の頭に暮らして――」がある。ともに作家で夫婦の吉村さん(1927~2006)と津村さん(1928~)は長年、市内で暮らした。資料の展示などを通じ、2人の文学や市とのゆかりを紹介する。
 現在の東京都荒川区で生まれた吉村さんは、学習院大学を中退後、1953年に同人仲間だった津村さんと結婚。66年に「星への旅」で太宰治賞を受賞し、同年の「戦艦武蔵」で記録文学に新境地をひらいた。「ふぉん・しいほるとの娘」「冷い夏、熱い夏」「破獄」「天狗(てんぐ)争乱」などを発表。数多くの文学賞を受けた。
 福井市出身の津村さんは学習院短大卒。65年に「玩具」で芥川賞を受賞した。自伝的小説や歴史小説、エッセーなどで幅広く活躍。代表作には「智恵子飛ぶ」「流星雨」「異郷」などがある。
 三鷹市スポーツと文化財団などによると、2人は69年、「都心に近く、自然も残り、創作に理想的だ」などとして市内に転居。都立井の頭公園近くに居を構えた。吉村さんは最晩年、膵臓(すいぞう)がんの手術を受けて、自宅で療養。没後の2006年夏、津村さんはお別れの会で、「ヒグラシが鳴いて井の頭公園の風が吹いてくるのを喜んでいた」と吉村さんについて振り返っている。
 巡回展では「戦艦武蔵」や「玩具」の初版本、2人の色紙や写真などを展示。財団学芸員の三浦穂高さんは「2人にとって、作家としても夫婦生活を送るうえでも、三鷹は大事な場所だったのだろう」と話す。
 巡回展は1月12日~2月2日が井の頭コミュニティ・センター図書室(井の頭2丁目)、2月5~24日が市立三鷹図書館(上連雀8丁目)。2カ所で内容が一部異なる。ともに無料。開館時間や休館日の問い合わせは山本有三記念館(0422・42・6233)へ。(河井健)


津村さんに関しては、昨秋、吉村氏の故郷・荒川区の吉村昭記念文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展 津村節子展 生きること、書くこと」、及び、「第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」が、同館と「おしどり文学館協定」を結ぶ、津村さんの故郷の福井県ふるさと文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されましたが、今回は、ご夫妻で長く住まわれ、津村氏が現在もお住まいの三鷹市での開催です。

『智恵子飛ぶ』に関する展示もあるかと存じますので、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】000

すばらしい大きな雷が一つ、角の牛肉屋の旗竿にお下(くだ)りになつた後、やうやく雨の降りやむ迄の一二時間、裸でみんなの前に坐つてゐるおぢいさんの、確信のあるそのちよん髷頭が、どんなに私の力となつたらう。雷が鳴るといつでも、あの時のおぢいさんが眼に見える。

散文「雷の思出」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

子供の頃から、そしていい大人になった後も、光太郎は雷が大嫌いでした。子供の頃は、同居していた祖父の兼松が、雷が鳴ると直撃を避けるおまじない的なことをしてくれ、それが心強かったというのです。

上記のエピソードは明治16年(1883)生まれの光太郎の幼少時ですから、明治10年代終わりか、20年代初めでしょう。断髪令が出たのが明治4年(1871)、そんなことはお構いなしにまだ髷を結っていた兼松。この頑固さは、光太郎にも遺伝しているようです。

昨日は護国寺で「第63回高村光太郎研究会」、今日は日比谷で「第12回明星研究会 シンポジウム与謝野晶子の天皇観~明治・大正・昭和を貫いたもの」ということで、2日連続で都内に出ねばならず、それぞれ午後からなので、この際、ついでにいろいろ片付けてしまおう、と、都内あちこち歩き回っております。

昨日は、まず、駒場の日本近代文学館さん。来年1月に埼玉県東松山市で、光太郎と、同市に縁の深い彫刻家・高田博厚、さらに同市元教育長で、昨年逝去された田口弘氏の三人の交流について市民講座を持つことになり、そのための調べ物でした。


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「津村節子展」の方は、平成11年(1999)、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を書かれた津村節子さんのご主人、故・吉村昭氏の文学館ということで、津村さんの故郷・福井県ふるさと文学館さんとの共同開催となっています。

津村さんのこれまでを回顧するコンセプトで、幼少期の通信簿や日記、長じて文学活動を始めてからの作品掲載誌、原稿、御著書、取材メモ、その他身の回りの品々など、様々な展示品が並んでいました。『智恵子飛ぶ』関連も。

図録が発行されており、購入して参りました。B5判63ページ、カラー画像も多く、津村さんご本人や、吉村氏、さらに加賀乙彦氏の文章が掲載されており、それがなんとたったの350円。超お買い得でした。


トピック展示の方は、9月に「前期」を拝見して参りましたが、先週から「後期」ということになっており、若干の展示替えがありました。

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特に興味を引いたのが『智恵子飛ぶ』のための取材メモ。曰く、

 昭和十六年私が女学校に入学した年の十二月八日太平洋戦争 智恵子抄を読んだのはその二年ほどあと 私は昭和三年に生れ 満州事変、日中戦争、太平洋戦争
 個人の自由はない 目的は一億一身勝利のみ 人間らしい感情を持つことは罪悪だった。
 世俗に背を向け尊敬と信頼と愛を抱き合いお互いの芸術の道に精進し共に伸びて行こうとする共棲生活に憧れ強い印象を受ける。
(略)
 しかし、なぜこのような理想的な二人の生活が破局に至ったのか。

その問いに、津村さんなりの答を出したのが、『智恵子飛ぶ』だったわけですね。

これからも、ご健筆を祈念いたします。

ところで、昨日は関連行事として、竹下景子さんによる『智恵子飛ぶ』の朗読会があったのですが、先述の通り、第63回高村光太郎研究会とかぶっていましたので、申し込みもしませんでした。その点は非常に残念でした。

「津村節子展」は12月19日(水)まで、トピック展示は来年1月16日(水)までです。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

自然は極微の細胞にすら宇宙の大と威厳とを示顕してゐることを思へば、心を空しくして詩に斯の如く精進するものの必ず到るべき天地はおのづから開かれるであらう。

散文「菊池正詩集「北方詩集」序」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

『北方詩集』、元版は樺太在住の著者による非売私家版の詩集です。のちに内地でも刊行されましたが、そちらも稀覯書籍です。

昨日ご紹介した、東京都荒川区の吉村昭記念文学館さん。平成18年(2006)に亡くなった、荒川区ご出身の作家・吉村昭氏の顕彰施設ですが、氏の奥様、津村節子氏の郷里・福井の福井県ふるさと文学館さんと昨年、「おしどり文学館協定」を締結、このたび、合同企画展が開催されています。小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)で芸術選奨文部大臣賞を受賞され、一昨年には文化功労者にも選ばれた津村さんにスポットをあてたものです。  

おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」

期   日  : 平成30年10月26日(金)~31年1月23日(水)
場   所  : 福井県ふるさと文学館 福井県福井市下馬町51-11 福井県立図書館内
時   間  : [火~金]9:00~19:00  [土・日・祝]9:00~18:00
料   金  : 無料 
休 館 日 : 月曜日(祝日の場合は翌日) 11/22 12/20 12/29~1/3 

 県ふるさと文学館では、文壇のおしどり夫婦といわれた吉村昭氏と本県出身の津村節子氏のそれぞれの出身地に建つご縁に基づき、昨年11月に荒川区立ゆいの森あらかわ吉村昭記念文学館と全国初の「おしどり文学館協定」を締結しました。
 1周年を記念し、福井県と荒川区において、合同企画展と記念講演会をそれぞれ行います。
 

関連イベント

記念講演会「津村・吉村文学の魅力」
 日 時:平成30年10月28日(日)14:00~15:30
 会 場:福井県立図書館多目的ホール
 講 師:出久根達郎氏(直木賞作家)
 定 員:150名(申込順、参加無料)
 申 込:電話、FAX、メールにて、または直接ふるさと文学館窓口
      TEL:0776-33-8866 FAX:0776-33-8861
      E-mail:
bungakukan@pref.fukui.lg.jp
 その他:手話通訳、音声の文字表示を行います。

津村節子氏撮り下ろしインタビュー特別上映会
 表 題:「津村節子氏人生を語る~これまでの歩み そして明日への思い~」
 日 時:平成30年10月26日(金)~10月28日(日) 
     各日10:00~、13:00~、15:30~(約20分)
 会 場:福井県ふるさと文学館 映像ルーム
 定 員:各回40名(当日受付、参加無料)

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ところで、「おしどり文学館」ということであれば、花巻高村光太郎記念館さんと、二本松市智恵子記念館さんも、そのような協定を結べば、それで一つの宣伝にもなりますし、展示の共同開催、資料の相互貸借などなど、いろいろ便利だと思うのですが、どうも行政がからむと、そうした部分、腰が重いのが現状です。

閑話休題、福井展、お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩とは決して別の世界があつて、その世界に我々を誘ひ出すものでなく、事実の中の事実が正しい言葉に具体された時、それが即ち詩なのだといふ確信を終に失ひ得ない自分は、此等の諸篇の中に立派な詩を見出して喜ぶ。

散文「更科源蔵詩集「種薯」感想」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

北海道弟子屈で開拓にあたりながら詩を書いた更科源蔵の詩集への讃辞です。

他者への評でありながら、光太郎詩論が端的に語られています。

第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」が開催中の荒川区ゆいの森あらかわ内の吉村昭記念文学館さんで、それとは別個の展示が始まっています。  

おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子展 生きること、書くこと」

期   日  : 平成30年10月20日(土曜)~12月19日(水曜)
場   所  : 吉村昭記念文学館 東京都荒川区荒川二丁目50番1号 ゆいの森あらかわ内
時   間  : 午前9時30分から午後8時30分まで
料   金  : 無料 
休 館 日 : 11月15日(木) 12月7日(金)

平成29年11月5日に、吉村昭記念文学館と福井県ふるさと文学館はおしどり文学館協定を締結しました。荒川区出身の作家、吉村昭氏と、妻で福井県出身の作家、津村節子氏の「おしどり夫婦」になぞらえ、両館が協力して相互に魅力を高めていくため、締結したものです。協定の締結1周年を記念して、福井県と合同で企画展を開催します。

昭和40年に「玩具」で芥川賞を受賞して以来、力強く生きる女性の姿を書き続けてきた作家、津村節子。今年で90歳を迎え、現在も精力的に執筆活動を行う津村氏の約60年に及ぶ創作活動を、自筆原稿や取材メモ、愛用品などを通して紹介します。

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関連イベント

◆記念講演会「果てなき往復書簡―一編集者から見た吉村昭・津村節子」
 日程:11月4日(日曜)14時~16時(開場は13時30分)
 講師:山口昭男氏(岩波書店前代表取締役社長)
 参加費:無料   定員:100名※申込順   会場:ゆいの森あらかわ1階ゆいの森ホール

◆朗読会「智恵子飛ぶ」
 日程:11月23日(金曜・祝)14時~15時30分(開場は13時30分)
 出演:竹下景子氏(俳優)
 参加費:無料   会場:ゆいの森あらかわ1階ゆいの森ホール
 定員:100名(応募多数の場合は抽選。11月4日(日曜)までにお申込下さい。当選者のみ、11月17日(土曜)までに葉書でお知らせします。)

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◆文学館学芸員による展示解説
 日 時  :11月3日(土曜)15時~ 15時30分  12月5日(水曜)15時~15時30分
参加費:無料  定 員  : 15名※申込順   会 場  :ゆいの森あらかわ3階企画展示室

イベント申込方法
ゆいの森あらかわホームページ(イベント予約)、ゆいの森あらかわ1階総合カウンター、FAX(03-3802-4350)でお申込み下さい。
イベント名(展示解説の場合は、参加希望日)・参加者の氏名(2人まで)・代表者の住所と電話番号を、ゆいの森あらかわへ。

なんとまあ、竹下景子さんが、津村さんの代表作の一つである『智恵子飛ぶ』から朗読をなさるそうです。



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上記会場は、荒川区の吉村昭記念文学館さん。平成18年(2006)に亡くなった、荒川区ご出身の作家・吉村昭氏の顕彰施設です。亡くなる直前、吉村氏は、区の財政負担を考慮し、単独の文学館ではなく図書館等の施設と併設することを条件に文学館の設置を承諾なさったということで、ゆいの森あらかわさんの中にオープンしました。

そして奥様の津村節子さんの出身地・福井の福井県ふるさと文学館さん。おしどり夫婦それぞれゆかりの文学館ということで、昨年、「おしどり文学館協定」を締結、展示の共同開催、資料の相互貸借を行うそうで、今回もその一環です。

荒川区・福井県合同企画展ということで、もう一方の福井県ふるさと文学館さんでも「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されます。明日はそちらをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

此の北地に闘つてゐる人のまぎれのない声は、どんなジヤスチフイケイシヨンがあらうとも結局まだ中途に立つてゐる私などの腹わたに強くこたへる。私は其をまともに受ける。かういふ強さは、ひねくれた強さでないから、痛打を受ける事が既に身になる。

散文「猪狩満直詩集「移住民」に就て」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

猪狩満直は、福島いわき出身の詩人。同郷の草野心平の詩誌『銅鑼』同人でした。『移住民』は、前年に北海道阿寒に移っての開墾生活を題材としています。

明治末に、やはり北海道移住を志した光太郎。あまりの無計画で、ひと月ですごすご逃げ帰りました。そうした負い目が読み取れますね。

新刊情報です。 
2018/09/13  髙橋秀紀著 歴史春秋社 定価1,800円+税

智恵子の母親「セン」は、私生児として貧しい母子家庭に生まれ、子守や女中をしながら成長して結婚し、やがて母と養父が始めた造り酒屋を相続し二代目となった。酒屋は繁盛して豪商となり、「セン」は八人もの子宝に恵まれ、子供達には高等教育をして、なに不自由ない極楽のような生活ができた。だが、養父や夫が亡くなり息子の代になると、世間の不景気もあって酒屋が倒産した。(あとがきより)
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目次 
 第1章 父なし子 
 第2章 結婚 
 第3章 成長する酒造店 
 第4章 人生の天国 
 第5章 繁栄の中で 
 第6章 忍び寄る暗い影 
 第7章 酒造店の倒産 
 第8章 流浪の身 
 第9章 人生の地獄 
 第10章 六道の世を生きて 

智恵子の母・長沼セン(明治元年=1868~昭和24年=1949)を主人公とした小説です。

これまでに智恵子を主人公とした小説は複数刊行されていますが、センを主人公としたものはおそらく初めてではないでしょうか。

過日、小平市平櫛田中彫刻美術館さんでの企画展「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」の拝観、吉村昭記念文学館さんでの「第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」の拝観のため上京した折、行き帰り、それから移動中の車内で一気に読み終えました。

おおむね史実に基づき(あえて史実と反する内容にした箇所も見られますが)、センとセンを取り巻く人々が実に生き生きと描かれています。ある意味、智恵子実家の長沼酒造興亡史とも言えます。

評伝の形式で智恵子の生涯にスポットを当てた、松島光秋氏著『高村智恵子―その若き日―』(永田書房 昭和52年=1977)、佐々木隆嘉氏著『ふるさとの智恵子』(桜楓社 昭和53年=1978)、伊藤昭氏著『愛に生きて 智恵子と光太郎』(歴史春秋社 平成7年=1995)などが先行しますが、小説の形式で描くことで、その時々の人々の思いがより鮮明に浮き彫りにされ、なるほど、これが小説の強みだなと思わせられる箇所が多くありました。

特に最終章で、追われるように後にした油井村(現・二本松市)を久しぶりに訪れ、長沼酒造の破産や智恵子をはじめとする子供たちの不遇な死を嘆くセンを、菩提寺である満福寺の住職が諭し、それによって救われた気持ちになれるシーンなど。

先週、『福島民報』さんに紹介記事が出ています。

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ちなみに、昭和3年(1928)、箱根で撮られた光太郎智恵子夫妻とセンの写真。
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版元サイトから注文可能です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

同君が人をやつつける時は、人をマイナスにするのでなくて、プラスにしようとあせつてゐるのがよく見えた。私の祖父は生粋の江戸人であつたが、自分の可愛がる人間を殊に口ぎたなく罵つたものである。「てめえのやうな役に立たずが……」などと人によく言つてゐた。

散文「大藤君」 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「大藤君」は大藤治郎。大正15年(1926)に歿した詩人です。

可愛がる相手だからこそ、奮起を促すためにあえて厳しい叱責を与える、そういうことはよくあります。それも度を過ぎると昨今あちこちで問題になっているパワハラということになってしまうのでしょうが。

9/27(木)、小平市平櫛田中彫刻美術館さんで企画展「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」を拝観したあと、西武線、JR、東京メトロ、さらに都電荒川線と乗り継ぎ、ゆいの森あらかわ内の吉村昭記念文学館さんへ。

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平成9年(1997)、講談社さんから出版され、翌年、芸術選奨文部科学大臣賞に選ばれた、吉村昭夫人で芥川賞作家・津村節子さんの代表作の一つ、智恵子を主人公とした『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)に関する展示が為されています。

特に撮影禁止という表記がなかったので、画像に収めて参りました。

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『智恵子飛ぶ』生原稿。

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主人公、智恵子についての解説。

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智恵子に関する取材風景等のスナップなど。

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他に、龍星閣『智恵子抄』初版(昭和16年=1941)や、智恵子に関する書籍、津村さんのスクラップブックなどが展示されていました。パネル展示では『智恵子抄』に寄せる津村さんの思いや、智恵子紙絵の解説等々。

昭和3年(1928)生まれの津村さん、高等女学校生であらせられた戦時中、勤労動員に駆り出されつつ『智恵子抄』を読まれ、世俗に背を向け芸術の道に精進しようとする光太郎智恵子夫婦の生き様に感動されたとのこと。

戦後、昭和28年(1953)に吉村昭氏とご結婚。光太郎智恵子のように「夫婦同業」となり、その意味では色々大変だったようです。

『智恵子飛ぶ』の「あとがき」には、こんな一節があります。

 二人の力が拮抗していれば、最も身近にライヴァルを置くことになる。不均衡であれば、力ある者は無意識のうちに力弱き者を圧してしまう。
 才薄き者は、相手の才能に敬意を抱けば抱くほど、自分の能力に対する絶望や屈辱感が深まり、充し得ない創作の意欲は、重く心に貯めこまれてゆく。

まさしく光太郎智恵子は不均衡だったのでしょう。その他にも、相次ぐ家族の死、実家である長沼酒造の破産、家族の離散、自身に子供がいなかったこと、元々内向的で友人も少なかったこと、早くから結核性の病に冒されていた自身の健康状態への不安、そして光太郎からの一種のモラハラ(「武士は食わねど高楊枝」的な生活の強制的な)などが重なり、智恵子は壊れてしまいました。

幸い、不均衡ではなかった吉村・津村夫妻はどちらも壊れることはありませんでしたが、「二人の力が拮抗していれば、最も身近にライヴァルを置くことになる」という意味での葛藤はあったことと思われます。先に売れっ子になったのは津村さんの方でしたし。

そういう似たような境遇から智恵子を捉えた『智恵子飛ぶ』が、傑作と称されるのはある意味、当然の帰結かもしれません。

展示は前後期に分かれ、前期が11月14日(水)まで、後期が来年1月16日(水)まで。一部、展示替えがあるそうです。後期に関しては、まだ具体的に展示内容を決めていないとのことではありました。

『智恵子飛ぶ』は、平成12年(2000)には新橋演舞場、翌年には京都南座で舞台化されました。智恵子役は共に片岡京子さん、光太郎役は、東京公演が故・平幹二朗さん、京都公演で近藤正臣さんでした。

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こういうチラシ等を並べると一般受けするのですが、どうなりますやら。

何はともあれ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

啄木といひ、賢治といひ、皆誠実な、うその無い、つきつめた性格の人でした。
散文「啄木と賢治」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「借金大魔王の啄木が誠実であったわけがない」、「賢治を神格化するのは馬鹿げている」などといった異論があろうかとも思いますが、光太郎の認識はこうでした。

そして光太郎自身も「誠実な、うその無い、つきつめた性格」だったように感じます。戦時中、翼賛詩を乱発したことも、それはその時代に於けるある種の「誠実さ」だったのではないでしょうか。

結局、「誠実な、うその無い、つきつめた性格」の者は、啄木や賢治のように早世するか、智恵子のように壊れるか、戦後すぐの光太郎のようにひどいバッシングを受けるか、少なくとも幸福に長寿を全うすることは出来なかったようにも思われます。

当方はちゃらんぽらんに長寿を全うしたいものです(笑)。

東京都荒川区から企画展示の情報です。  

第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」

期 日 : 平成30年9月21日(金)~平成31年1月16日(水)
場 所 : 吉村昭記念文学館 東京都荒川区荒川二丁目50番1号 ゆいの森あらかわ内

時 間 : 午前9時30分から午後8時30分まで
料 金 : 無料 
休館日 : 第3木曜、10月15日(月曜)~19日(金曜)、12月7日(金曜)、
       12月29日(土曜)~1月4日(金曜)

「吉村昭記念文学館学芸員一押し」として、当館所蔵資料を中心にトピック展示を開催します。
今回は、吉村昭夫人でゆいの森あらかわ名誉館長でもある津村氏の「智恵子飛ぶ」に関する展示を行います。
「智恵子飛ぶ」は、芸術選奨文部大臣賞を受賞した津村節子氏の代表作の一つです。芸術家夫婦である高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩(おうのう)を描いた作品です。「智恵子飛ぶ」の紹介とあわせて、吉村氏との夫婦作家としての日々を綴ったエッセイなども紹介します。

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一昨年、文化功労者に選ばれた芥川賞作家の津村節子さん。ご主人の故・吉村昭氏を顕彰する吉村昭文学館(津村さんが名誉館長です)にて、津村さんの代表作の一つで、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)に関する展示が為されるとのこと。津村さんは三鷹にお住まいですが、吉村氏が日暮里のお生まれだそうで、その縁で同館が昨年オープンしました。

今週、早速行って参ります。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

内面から湧き出してくる言葉以外に何の附加物もない。不足もないし、過剰もない。どんな巧妙な表現も此処では極めてあたりまへでしかない。少しも巧妙な顔をしてゐない。此の事は詩の極致に属する。

散文「宮沢賢治の詩」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

最愛の妹・トシへの挽歌である、賢治の「永訣の朝」、「松の針」(ともに大正11年=1922)への評です。

昭和13年(1938)3月の『婦人公論』に掲載されました。翌年には智恵子への挽歌である「レモン哀歌」(「永訣の朝」の影響が見て取れます)を書くことになるとは、さしもの光太郎も思っていなかったでしょう。

新刊小説です。 

蝶のゆくへ

2018年8月3日  葉室麟著  集英社  定価1,700円+税

星りょう、クララ・ホイットニー、若松賤子、樋口一葉、瀬沼夏葉……。明治という新しい時代に、新しい生き方を希求した女性たち。その希望と挫折、喜びと葛藤が胸に迫る、感動の歴史長編。

「蝶として飛び立つあなた方を見守るのがわたしの役目」と語る校長巌本善治のもと、北村透谷や島崎藤村、勝海舟の義理の娘クララ・ホイットニーらが教師を務め、女子教育の向上を掲げた明治女学校。念願叶って学び舎の一員となった星りょう(後の相馬黒光)は、校長の妻で翻訳家・作家として活躍する若松賎子、従妹の佐々城信子、作家の樋口一葉、翻訳家の瀬沼夏葉をはじめ、自分らしく生きたいと願い、葛藤する新時代の女性たちと心を通わせていく―。

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一昨年から昨年にかけ、集英社さんの雑誌『小説すばる』に連載されていたものの単行本化です。作者の直木賞作家・葉室麟氏は、昨年暮れに逝去され、これが絶作なのかもしれません。ちなみに来月公開される岡田准一さん主演の時代劇映画「散り椿」は葉室氏の原作です。

物語は、新宿中村屋創業者・相馬愛藏の妻となる星りょうを主人公とし、りょうの学んだ明治女学校を主な舞台とします。全七章のうち、第六章「恋に朽ちなむ」、最終章「愛のごとく」で、りょうと荻原守衛の悲恋が描かれ、守衛の親友であった光太郎も登場します。

ちなみに守衛の絶作にして、光太郎がそれを残すことを進言した「女」は、りょうをモデルとしています。

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ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

私はいはゆる「詩」を追はない。日本に於けるいはゆる「詩的」といふ、あの一種の通念をふみにじる。さういふものを洗ひ去る。私は自己の必然にのみ頼る。私にとつて此世は造型である。私の詩も亦造型の対位として存する。私の詩の理法は造型理法にその根を持つてゐる。

散文「私の詩の理法」全文 昭和24年(1949) 光太郎67歳

題名の通り、光太郎詩の理法が端的に表されています。

今年度の文化勲章、文化功労者の発表があり、小説家の津村節子さんが文化功労者に選ばれました。ちなみに昨年は、光太郎ファンだという染織家の志村ふくみさんが文化勲章を受章されました。

津村さんは平成9年(1997)に、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を刊行、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受賞されています。平成12年(2000)には、先頃亡くなった平幹二朗さんが光太郎役で、舞台化もされました。

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そうしたご縁で、津村さんには平成10年(1998)の第42回連翹忌にご参加いただいています。平成17年(2005)には、花巻高村祭でもご講演なさいました。

かなり以前から、津村さんは智恵子に言及されていました。

昭和50年(1975)の雑誌『太陽』(平凡社)の光太郎特集号。津村さんの「無垢の美の世界 智恵子の紙絵」が10ページで組まれています。

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昭和54年(1979)には、講談社文庫から『智恵子から光太郎へ』を上梓。前半50ページほどが智恵子紙絵のカラー写真(光太郎令甥の故・高村規氏撮影)と光太郎詩、後半40ページ強が津村さんによる光太郎智恵子評伝です。

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平成7年(1995)には、故・高村規氏、光太郎と親交の深かった詩人の故・藤島宇内氏、当会顧問・北川太一先生との共著で、『光太郎と智恵子』。新潮社さんの「とんぼの本」のラインナップです。津村さんは「光太郎に捧げられた紙絵」というエッセイを寄せられています。

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平成15年(2003)のエッセイ集『似ない者夫婦』(河出書房新社)では、『智恵子飛ぶ』の制作秘話的な「筆を執るまで」、舞台「智恵子飛ぶ」の初演パンフレットに載った「二人が描いた夢」、公演後に書かれた「二人の智恵子」が掲載されています。

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この頃はご主人でやはり作家の吉村昭氏もご存命で、光太郎智恵子と同じ、夫婦同業という葛藤についても述べられています。

舞台「智恵子飛ぶ」は、平成13年(2001)に京都南座で再演。この際の光太郎役は近藤正臣さんでした。こちらのパンフレットには「いま再び」というエッセイが載っています。

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昨年放映されたNHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」。当方、制作のお手伝いをさせていただきましたが、プロデューサー氏から、光太郎智恵子に詳しい女性のコメンテーターが欲しい、と言われ、迷わず津村さんを推薦しました。

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津村さん、ご出演をご快諾下さり、的確なコメントをなさいました。当時の一般の方々によるSNS等の反応では、津村さんの当を得たコメントを讃える声が目につき、ご紹介して本当によかったと思いました。

ご主人の吉村昭氏を亡くされてからは、加賀乙彦さんとの対談『愛する伴侶を失って』を上梓。逆「智恵子抄」のようでした。また、吉村氏が自作の舞台にされた岩手県田野畑村で、東日本大震災からの復興支援にも取り組まれるなど、エネルギッシュに活躍されています。そのあたりは『三陸の海』というエッセイ集に詳述されています。こちらに両書の紹介を書きました。

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今月に入ってからも、当会刊行の『光太郎資料』第46集をお送りしたところ、ご丁寧なお礼状を賜り、お元気な様子に接し、失礼ながらお歳がお歳だけに案じていたところを安心させられたばかりでした。

これからもお元気で、ますますのご活躍をお祈りいたします。


ついでのような形になって失礼とは存じますが、同時に文化功労者に選ばれました歌人の岡井隆氏。当方、面識はありませんが、ご著書は一冊、拝読いたしました。

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岩波書店さんから平成11年(1999)に刊行された『詩歌の近代』。題名の通り、近代詩歌の概説で、光太郎、特に戦争詩について取り上げて下さっています。

併せて受賞をお慶び申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

町ふるきパドアに入れば林檎市     明治42年(1909) 光太郎27歳

秋も深まり、梨の旬はそろそろ終わって、林檎が美味しい季節になりました。

当方、父親が信州の出で、幼い頃から信州の親戚が作った林檎を食べて育ち、現在も一年365日のうち360日くらいは林檎を口にしています。旅先でも可能な限り買い求め、林檎そのものが手に入らないときも、コンビニで林檎入りヨーグルト、それもダメなら100%林檎ジュースを購入します。

今も信州の親戚、さらに時折、東北の知己の方々から林檎が送られてくることがあり、有り難い限りです。別に送れ、と催促しているわけではありませんが(笑)。

「パドア」はイタリア北部の街。現在は「パドヴァ」と表記するのが一般的なようです。この年、留学先のパリからスイス経由でイタリア旅行に行った際の作です。

先週の土曜日、横浜神奈川近代文学館に行って参りました。

閲覧室での調べ物が主目的でしたが、開催中の特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、招待券を戴いていたので拝見してきました。 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」

「吾輩は猫である」「坊っちやん」「三四郎」「それから」「心」そして「明暗」…人間の心の孤独とあやうさを描いた夏目漱石の作品は、私たちの生き方へ多くの問題を投げかけ、その一方で、夢や謎、笑いに彩られたイメージの宝庫としても読者を魅了して来ました。
作家としての一歩を踏み出した1906年(明治39)、漱石は「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり」と述べています。そしてこの言葉の通り、漱石が世を去ってから100年という長い歳月の中で、多くの人びとが作品を繰り返し読み、その魅力は、今日に至ってもなお語り尽くされることはありません。漱石文学は読者にとってまさに「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」(奥泉光)なのです。
没後100年を記念して開催する本展は、こうした作品世界と、英文学者から作家に転身しわずか10数年の創作活動のなかで、数々の名作を書き上げた苦闘の生涯を紹介します。漱石と深いゆかりを持つ岩波書店、東北大学附属図書館の所蔵資料、そして、夏目家寄贈資料を中心とした当館所蔵の漱石コレクションをはじめ、数々の貴重資料により展覧。作品・人間へのアプローチを通し、漱石と現代の読者の新たな出会いの場の実現を目指します。
会 期  2016年(平成28年)3月26日(土)~5月22日(日)
休館日
  月曜日(5月2日は開館)
 間  午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
会 場  神奈川近代文学館第1・2・3展示室
観覧料  一般700円(500円) 65歳以上/20歳未満,学生300円(200円) 
     
( )内は20名以上の団体  高校生100円 中学生以下無料     
     東日本大震災の罹災証明書、被災証明書等の提示で無料
 催  県立神奈川近代文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、朝日新聞社
特別協力 岩波書店
協力   東北大学附属図書館
後援   NHK横浜放送局、FMヨコハマ、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)
協賛   集英社 京浜急行電鉄 相模鉄道 東京急行電鉄
     神奈川近代文学館を支援(サポート)する会
広報協力 KAAT 神奈川芸術劇場
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漱石と光太郎には美術を通して接点がありました。大正元年(1912)、漱石の書いた美術評論を光太郎が批判したというものです。当時光太郎は数え30歳。留学から帰って、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と縁を切り、ヒユウザン会に加盟、油絵の制作に力点を置いていた時期でした。

漱石はそうした美術界の新機軸に一定の理解を示していました。一つには漱石山房に出入りしていた画家の津田青楓の影響があったと思われます。津田は後に漱石の著書の装幀を多く手がけます。

光太郎の方は、漱石や森鷗外といった権威的な存在には噛みつかずにはいられない、という感じでした。津田とは欧米留学中に親しくつきあっていましたが、お互いの帰朝後は、漱石にかわいがられた津田と、権威的なものに反抗する光太郎とで、自然と疎遠になったようです。

ちなみに光太郎がまだ東京美術学校に在学中で、本郷Ⅸ駒込林町155番地の実家に住んでいた頃、漱石は明治36年(1903)から約3年間、本郷Ⅸ千駄木町57番地(いわゆる「猫の家」)に住んでおり、近所といえば近所でした。

さて、「100年目に出会う 夏目漱石」。当然ですが文学関連が中心の展示で、漱石の自筆資料等もふんだんに出品されており、息遣いが聞こえてくるようでした。

美術関連では、ヒユウザン会がらみの展示はありませんでしたが、漱石自身の絵画がまとめて展示されていました。ただ、津田青楓などは自身で絵の手ほどきをしながら、その方面での漱石の才能がないことを、敬愛を込めながらも揶揄しています。

 津田が自分の仕事の段落のついた或000る日行つてみると、先生は独りでかかれた二、三枚の油絵を出し、抛げるやうな口吻で「駄目だよ、油絵なんて七面倒臭いもの、俺は日本画の方が面白いよ。」さう云つて、半紙ぐらいの厚ぼつたい紙に塗りたくつた妙な画を出して見せられた。
 南画とも水彩画ともつかない画だ。柳の並木の下に白い鬚を生やした爺さんが、柳の幹にもたれて休息してゐる。そのまへに一匹の馬がある。先づ馬と仮説するだけなんだが、四ツ足動物で豚でもなければ山羊でもなく、先づ馬に近い――その馬が前脚を一つ折つて、これから草の上で休まうとするやうにも、又これから立ち上がらうとするやうにも見える。馬といひ、人といひ、まるで小学校の生徒の画のやうだ。柳は無風状態で重々しくたれ下つてゐる。全体が濁つた緑でぬりつぶされてゐる。柳の下にはフンドシを干したやうに、一条の川が流れてゐる。その川と柳の幹だけが白くひかつて、あとは濁つた緑。下手な子供くさい画と云つても片付けられる。又鈍重な中に、不可思議な空気が発散する詩人の夢の表現と、云つてもみられる。先生はリヤルよりもアイデアルを表現したのだ。「盾のまぼろし」「夢十夜」あんな作を絵筆で出さうとしてゐられる。
 漱石先生が「どうだ、見てくれ」と云つて出された二、三の日本画は、まことにへんちくりんなもので、津田は挨拶の代りに大きな口をあいて、
「ワハヽヽヽヽヽ」
 先づ笑つた。
(『漱石と十弟子』)


漱石といえば、文豪中の文豪ですが、こういう人間くさいエピソードには、親しみを感じます。並んでいた絵を見て、クスリとしてしまいました。

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、今月22日までです。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

人あり薫風に似て来り坐す      昭和20年(1945) 光太郎63歳

「薫風のよう」といわれる人間になりたいものです(笑)。

新刊情報です。 

妖怪と小説家

2015年12月15日 野梨原花南著 KADOKAWA(富士見L文庫) 定価560円+税

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帯文より
 ここは東京・吉祥寺。小説家の太宰先生と、その担当編集である水羊の行く手には、なぜか怪異がつきまとう。
 原稿から逃げたり、中原先生や谷崎先生と揉めたり、自分の命を削って原稿を書いたり。
 そんな日々の中で、当たり前のように怪異が起きて、当たり前のように太宰先生と水羊は巻き込まれるけれど―やっぱり良い小説を書くために、懸命で。
「僕、太宰先生といるときだけですしこういうの!」
 東京の町で繰り広げられる、文豪たちの不思議な日々の物語。


昨今、実在の文学者を主人公にしたり、モデルにしたりという小説、漫画が静かなブームです。このブログでも、光太郎智恵子が登場する清家雪子さんの漫画『月に吠えらんねえ』を何度かご紹介しました。

こちらの『妖怪と小説家』、いわゆるライトノベルです。

舞台は現代の東京。小説家の「太宰先生」と担当編集者の「水羊」が、時に異界から現れた物の怪(もののけ)と遭遇したり、異界や幻想の世界に迷い込んだりしながら、不思議な体験をする、といったストーリーです。

けんかっ早いイラストレーターの「中原先生」、食道楽の「谷崎先生」、皆から尊敬を集める「宮澤先生」などにまじって、カフェギャラリーの女主人にして、自らも絵を描く「長沼さん」が主要登場人物となっています。「長沼さん」は、天才だけれど経済観念のない彫刻家の「高村さん」と離婚して店を開いた、という設定です。

「高村さん」は本編には登場せず、「太宰先生」と「水羊」の迷い込んだ幻想の世界に登場、また、「長沼さん」と「宮澤先生」の会話に語られるのみです。

「長沼さん」に向けて「宮澤先生」曰く、

「反省頻(しき)りの様子ですが、絆(ほだ)されてはいけませんよ。彼はわたしたちにとってはいい男ですが、あなたにとってはいけないひとだ。」

笑えます。

ところで、この小説では、智恵子を含め、太宰、中也、賢治など、比較的早逝した人々を登場人物のモデルとしながら、誰一人死にません。そのあたりに作者・野梨原氏の強い意図が感じられます。

「長沼さん」と「宮澤先生」の間に、こんな会話もありました。

「先生、それでトシ子さんはお元気です?」
「はい。すっかりよくなりまして」
「それはようございました。ほっとしましたわ。」
「……そのことについて、名前は伏せますが酷いことを言われて傷つきました」
(略)
「あの、何を言われたのですか……。おいやなら答えなくても」
「トシが死ねばさぞ美しい詩ができたでしょうね、と」

念のため解説しますが、現実の賢治には、詩「無声慟哭」に謳われた、妹のトシ(大正11年=1922、数え25歳で病没)がいました。

続く「宮澤先生」と「中原先生」の会話。

「作家をなんだと思っているのでしょう。人間だと、全く思っていないのか、それともその人にとっては他の人間はそのようなものなのでしょうか。愛するものが死ねば傑作がかけるのならば、世の中にはもっと傑作が満ちあふれているでしょう」
(略)
「作家が死ねば話題になって本が売れるから死ねばいいと、世の中に思われているのは知っています」
「それについてはどう思われますか」
「お前が死ねと思って聞いてます」
「おや、過激だ」

結局最後はハッピーエンド。この小説自体、早世していった智恵子達に対するオマージュなのだと言って良いでしょう。


こうした入り口からでも、光太郎智恵子の世界に興味を持って下さる若い世代が増えれば、と思いました。


【折々の歌と句・光太郎】

冬の夜はきりこがらすにきらきらと白きしじまのひかるなりけり
大正15年(1926) 光太郎44歳

このブログを書いている今、南関東には珍しく粉雪が舞っています。夜ではありませんが。

劇作家・平田オリザさん率いる劇団「青年団」さんの公演です。

青年団第73回公演 『暗愚小傳』

東京公演 2014年10月17日(金)- 10月27日(月) 14ステージ
会場 吉祥寺シアター 武蔵野市吉祥寺本町1-33-22 

伊丹公演 2015年1月16日(金)- 1月19日(月) 5ステージ
AI・HALL(伊丹市立演劇ホール) 兵庫県伊丹市伊丹2-4-1 

善通寺公演 2015年1月22日(木)- 1日24日(土) 3ステージ
四国学院大学ノトススタジオ 香川県善通寺市文京町3-2-1
 
作・演出:平田オリザ
高村光太郎と智恵子の生活を素材に、変わりえぬ日常を縦軸に、文学者の戦争協力の問題を横軸に、詩人の守ろうとしたものを独特の作劇で淡々と描く・・・。平田オリザ90年代初期の名作、10年ぶり、三回目の再演。

出演
山内健司 松田弘子 永井秀樹 川隅奈保子 能島瑞穂 堀夏子 森内美由紀 木引優子
伊藤毅 井上みなみ 折原アキラ 佐藤滋
 
青年団さんのHPによれば、初演は昭和59年(1984)。その後、何度か再演され、今回は10年ぶりの上演だそうです。
 
当方、実際の上演は見たことがありませんが、DVDとシナリオが手元にあります。
 
10年前の公演から採ったDVDで、紀伊國屋書店さんから発行されたもの。紀伊國屋さんにはもう在庫がないようですが、amazonやネットオークションで時折見かけます。
 
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シナリオは平成8年(1996)に晩聲社から刊行されました。題名は『平田オリザ戯曲集③ 火宅か修羅か 暗愚小傳』。
 
今回の公演では、今月の東京を皮切りに、兵庫、香川でも行われるそうです。各会場の詳細な時間、料金等は青年団さんサイトをご参照下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月2日
 
昭和63年(1988)の今日、豊島区民センターで高村光太郎研究会主催のシンポジウム「高村光太郎 欧米の影響について」が開催されました。
 
発表者は故・長谷川泉氏、渡邊澄子氏、そして当会顧問・北川太一先生でした。

作家の渡辺淳一さんの訃報が出ました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

作家の渡辺淳一さん死去=ベストセラー「失楽園」―80歳

 ベストセラー「失楽園」や「愛の流刑地」など恋愛小説の名手として知られた作家の渡辺淳一(わたなべ・じゅんいち)さんが4月30日午後11時42分、前立腺がんのため東京都内の自宅で亡くなったことが5日、分かった。80歳だった。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻敏子(としこ)さん。後日お別れの会を開く。
 北海道上砂川町出身。札幌医科大学卒業後、同大で整形外科の講師などを務める傍ら小説を執筆。1968年に同大で行われた心臓移植事件を題材にした「小説・心臓移植」(後に「白い宴(うたげ)」に改題)を書いたことをきっかけに同大を退職し、執筆活動に専念した。
 デビュー直後は主に医療をテーマにした作品を発表していたが、恋愛物や歴史物のジャンルにも進出。70年には、西南戦争で負傷した2人の軍人のその後を描いた「光と影」で直木賞を受賞した。97年に出版された「失楽園」は大胆な性愛描写が話題となり、250万部を超える大ベストセラーに。映画化やテレビドラマ化もされ、タイトルが流行語となるなど、社会現象を巻き起こした。このほかの代表作に「阿寒に果つ」「遠き落日」「女優」など。「鈍感力」のような軽妙なエッセーでも腕を振るった。
 2003年には紫綬褒章を受章。直木賞や吉川英治文学賞などの選考委員も務めた。
 出版社の担当編集者によると、渡辺さんは数年前から前立腺がんを患い、治療を続けていた。昨年末に体調を崩し、自宅で静養中だったという。
 
以前にも書きましたが、渡辺さんには光太郎智恵子にも触れたご著書があります。平成14年(2002)、小学館さん刊行の『キッスキッスキッス』。
 
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同社サイトから。
 
明治から大正・昭和へ、かつての文豪・才人たちが綴った十九通のラヴレター
太宰治、谷崎純一郎、平塚らいてう、高村光太郎等が綴った熱情あふれる十九通のラヴレターを素材に、恋愛小説の名手・渡辺淳一氏が読み解く。谷崎などの高名な文人以外にも、山本五十六のような軍人がきわめて素直に、ありのままの恋心を綴った手紙を、その時代背景とともに渡辺氏が考察を加えるもので、不倫関係であったり、戦時下での極限の恋であったりと赤裸々に思いの丈をぶつけたラヴレターは実に感動的である。明治・大正から昭和にかけての時代史としても貴重な資料であり、また、昨今見直されている日本語の魅力も再発見できよう。著者自らの若き日のラヴレターも収録!
 
光太郎のラヴレターというのは、大正2年(1913)の1月28日、結婚前に智恵子に宛てて書かれたものです。こちらに全文を載せてあります。
 
その手紙を巡って、渡辺さんは『キッスキッスキッス』中で、このように述べられています。
 
 まさしく智恵子の一生は、光太郎という偉大な芸術家に憧れ、愛され、自らも深く愛しながら、自分本来の才能を開花させることができず、むしろ萎れていく。その愛の喜びと自分の才能への絶望と、二つのジレンマの中で傷つき、精神まで傷め、狂い死にしたともいえる。
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 いま二人のあいだに残された唯一通のラヴレターを見るとき、そこにすでに、光太郎の詩人としての才能と、そんな詩人と接して、先に埋もれていく智恵子の運命を予言しているかのようでもある。
 
「化身」「失楽園」「愛の流刑地」などで、男女の愛の形を追い求め続けた渡辺さんならではの恋愛観のつまった一冊です。
 
新刊書店で追悼フェアなどが催されると思います。もしこの『キッスキッスキッス』が並んでいたら、お買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月6日

明治38年(1905)の今日、彫刻調査のため奈良興福寺に向けて東京を発ちました。
 
中旬まで百花園に滞在しながら、興福寺の諸堂に通い、調査にあたりました。

今日の新聞に、推理作家の佐野洋さんの訃報が載っていました。

佐野洋氏死去 推理小説界の重鎮

2013.4.28 00:58  
 名物批評コラム「推理日記」の連載などで知られた、作家で推理小説界の重鎮、佐野洋(さの・よう、本名・丸山一郎=まるやま・いちろう)氏が27日午後9時25分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。84歳。葬儀・告別式は故人の遺志で行わない。後日、お別れの会を開く。
 「短編の名手」といわれ、読売新聞記者時代の昭和33年、推理作家デビュー。39年、「華麗なる醜聞」で日本推理作家協会賞。48年から月刊誌「小説推理」に名物批評コラム「推理日記」を39年間連載し、日本推理作家協会理事長も務めた。
 平成9年、日本ミステリー文学大賞。21年に菊池寛賞受賞。代表作に「事件の年輪」など。
 
当方、佐野氏の著書を一冊持っています。光文社文庫の「歩け、歩け」(2007/1/20)。
 
裏表紙の紹介文から。007
 
娘が着メロに入れてくれた昔の唱歌「歩くうた」が、老父との思い出を甦らせた。
ふとしたことで知った、子供時代の父の身に起きた事件とは?(表題作)
読後、深く心に残る人生の機微。単行本未収録作9編を収録。
 
モチーフに使われている「歩くうた」が、昭和15年(1940)に作られた光太郎作詞の国民歌謡です。
 
ご冥福をお祈りいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月29日

昭和23年(1948)の今日、新たに作られた盛岡美術工芸学校の開校式への祝辞を書きました。

今日はモンデンモモさんプロデュースのミュージカルを観に、杉並公会堂に行って参りました。演目はドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデの「モモ」。「時間」に追われる忙しい日々の中で、心の余裕を失ってしまった近代人を批判する内容です。
 
今年から光太郎顕彰活動に専念するようになり、「時間」に追い回されることはあまりなくなりましたが、かつて、毎日4時半に起床し、日の出前に出勤していた当時を思うと、あの頃はああだったんだなあ、とつくづく思いました。
 
杉並は午後からで、午前中は千駄木に寄り道しました。お目当ては、先月、リニューアルオープンした文京区立森鷗外記念館です。
 
東京メトロ千代田線の千駄木駅で降りると団子坂です。
 
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この坂を登り切って、右に曲がると光太郎のアトリエがありました。曲がらずに直進すると道の左側に森鷗外記念館です。ここはかつて鷗外の住んでいた「観潮楼」のあった場所。光太郎のアトリエとは彼我の距離です。光太郎アトリエ同様、昭和20年に空襲で焼失してしまいました。
 
戦後、焼け跡は児童公園となりましたが、昭和37年(1962)には区立本郷図書館、平成18年(2006)からは鷗外記念室となりました。そして今年、鷗外生誕150年を記念して建物を建て替え、先月、森鷗外記念館としてリニューアルオープンしたというわけです。
 
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地上二階、地下一階で、地下が展示スペースとなっており、鷗外の一生をコンパクトに紹介するようになっていました。タッチパネルを使ったモニターなど、「ほう」と思わせるものがあります。館内撮影禁止なので、画像をお見せできないのが残念です。
 
光太郎と鷗外、単にご近所というだけでなく、浅からぬ縁があります。光太郎在学中の東京美術学校(現・東京芸術大学)で鷗外が教鞭を執っていた時期もありますし、鷗外が顧問格だった雑誌『スバル』に光太郎はたびたび寄稿していました。その他にもいろいろと。
 
しかし、どうも光太郎の方で鷗外を敬遠していたらしいのです。忌み嫌っていたわけではないのですが、文字通り「敬して遠ざける」という感じでした。そのあたり、いずれまた書きます。
 
そのためか、期待していたほど光太郎に関わる資料の展示がありませんでした。だいたい、確認されている光太郎から鷗外宛の書簡も5通だけですし(うち4通は同館所蔵)、内容的にも観潮楼での歌会への誘いを断るものなどです(歌会に積極的だった石川啄木などは展示で大きく取り上げられていました)。
 
しかし、光太郎と鷗外、いろいろと面白いエピソードがありますので、先述の通り、いずれ書きますのでよろしく。

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