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昨日、智恵子の故郷、福島・二本松の景観について書きました。そこで、景観つながりで、『朝日新聞』さんの大阪版に載った記事を紹介します。  

(葦)御堂筋の彫刻の奥ゆかしさ 神田誠司

 御堂筋で見かける彫刻のことが以前から気になっていた。歩道にひとつ、少し歩くとまたひとつ。立ち止まってよく見ると、「考える人」で知られるオーギュスト・ロダンや、高村光太郎の作品があったりするのだ。
 調べてみると、南北に走る御堂筋の淀屋橋から南約2キロ区間の両側に計29点の彫刻がすえつけられている。大阪のシンボルロードにふさわしい魅力ある空間にしようと、市が沿道企業などに作品の寄贈を呼びかけ、1992年から設置をはじめたものだった。
 光太郎やロダンに限らず、国内外の著名作家の作品ばかりだが、「ひっそりと置いてあるので気づかない人も多い」(市都市景観担当課長)。4年前、一夜のうちに何者かが19点に赤い服のような布を着せかけた「赤い服事件」で存在を知った方も多いかも知れない。
 台座などに寄贈した企業名の表示はない。そこが奥ゆかしくていい。足を止めて見入っていると、街の喧騒(けんそう)が消えていく心地がする。片道ならゆっくり歩いても30分ほど。あなたも気に入る作品に出会えるかも知れない。
(神田誠司編集委員)


何度かこのブログもご紹介してきた、大阪市のメインストリート・御堂筋に立ち並ぶ彫刻群についてです。

光太郎作の通称「乙女の像」の中型試作も「みちのく」の題で設置されています。

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この像、正式な名称としては「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦群像中型試作」というべきですが、これでは長すぎますし、「乙女の像」としてしまうと、十和田湖畔に立つオリジナルとは違うものですので(ほぼ2分の1スケールです)、それもまずい、というわけで「みちのく」です。

現在、十和田では「乙女の像」という愛称が一般的ですが、「みちのく」という別称もかなり古くから使われていました。

例えばこちら。昭和31年(1956)4月15日発行の雑誌『サンデー毎日』。光太郎の追悼記事に載った写真です。

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記事本文にも「十和田湖畔に建てるブロンズの裸婦像「みちのく」を制作」とあります。

他にも、同じ頃出た雑誌『家の光』でも同様に「みちのく」の語を使っています。

今年4月に十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで刊行された『十和田湖乙女の像ものがたり』執筆中にこのあたりも調べたのですが、「みちのく」の別称の最も早い使用例と思われるのは、像の完成前、昭和28年(1953)7月1日発行の『毎日グラフ』に載った光太郎のアトリエ訪問記の題名で、「”みちのく”の女神」となっているものです。また、歿後の昭和35年(1960)に国立近代美術館で開かれた「四人の作家」展で、これらの像が「みちのく」の題で出品されたりもしました。

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その由来ははっきりしませんが、「みちのく」十和田に建てられ、「みちのく」福島出身の智恵子の顔を持つと言われ、「みちのく」岩手に7年あまりを過ごした光太郎の作であり、大町桂月ら「みちのく」十和田湖の開発・宣伝に功績のあった人々の功労記念碑であること、この像の建立に関わった「みちのく」の人々の「みちのく」への思いが込められた像としての愛称、といえるでしょう。

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ちなみに十和田湖の像の台座に使われている石も、「みちのく」岩手産の石です。従来、この像を含む周辺一帯の設計をした建築家・谷口吉郎が「福島産の折壁石」とあちこちに書き記してしまったため、福島産と思われてきましたが、折壁石というブランド名は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来します。ところがネット上ではいまだに「福島産」となっているページが多く、閉口しています。
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話がそれましたが、「みちのく」を含む大阪御堂筋の彫刻群、ぜひ一度、ご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月1日

昭和47年(1972)の今日、雑誌『ユリイカ』が、「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」を組みました。

「大特集」とうたうだけあって、180ページ超を費やしています。

高田博厚、岡本潤、真壁仁、北杜夫、中村草田男、金子光晴、難波田龍興ら、光太郎と直接関わりのあった、今は亡き人々の論考やエッセイが満載です。

『朝日新聞』のデジタル版に、以下の記事が出ました。御堂筋彫刻ストリートに関してです。よくわからないのですが、関西地区では紙面にも載ったのでしょうか。

(勝手に関西遺産)ほんまもん 29体どうぞぅ

彫刻ストリート
 オーギュスト・ロダンといえば、世界で最も有名な彫刻家ではないか。日本一は高村光太郎か。印象派の画家ルノワールが、病気で手が不自由になった後、彫刻に力を入れたなんて話、知ってました? そんな貴重な作者らの彫刻作品がそろって、御堂筋沿いにあるのです。
 どうせコピーでしょって? それが本物なのです。
 1991年、大阪市が音頭をとって寄付を募り、沿道の企業などがこぞって設置した。他にもヘンリー・ムーア、舟越保武(やすたけ)などなど。最近、個人から寄付されたものもあり、現在は29体が並ぶ。
 グレードを統一するため、専門家による設置検討委員会が、一流の候補作家リストを作った。テーマは「人間讃歌(さんか)」、モチーフは人体、素材はブロンズに絞った。
 委員長を務めた木村重信・大阪大名誉教授(88)は語る。「御堂筋は日本のシャンゼリゼ。人体という以上、等身大でなくては。小さかったら見栄えがしないですよ」。彫刻ストリートは、大阪の誇りなのだ。
 ただし。作品には、女性のヌードが多い。約半数がまったくの裸。シャツを脱ごうとしているようなポーズも。誰もの目に入る屋外に生(なま)っぽい裸があるので、正直言って、ちょっと引いてしまった。実際、これまでにそんな批判もあったようだ。
 市の都市計画局に尋ねると「人間讃歌がテーマなので人体が中心になり、優れた作品を選ぶと裸体が多くなる」との回答。「公共空間にあることには様々な意見があるかもしれないが、ご理解いただきたい」
 御堂筋の彫刻をめぐっては、3年前の夏、有名なある「事件」があった。一夜にして19体が赤い服を着せられていたのだ。犯人はいまだ不明。もちろん意図もわからないが、痛快な気持ちになる。
 余談だが、服といえば、着衣までブロンズでできた超リアルな彫刻が、御堂筋から西に300メートルほど離れた靱(うつぼ)公園にある。米国の彫刻家の作品で、布の質感まで再現し、着色までされているのは驚きだ。
 裸か着衣か。初めはそればかり気にして見ていたが、実は結局、一番気に入ったのは素っ裸の作品だった。ふくよかでおおらかな、ボテロの「踊り子」。頭でっかちで見ると、損をする。当たり前のことに気づかせてくれた彫刻群を、「関西遺産」に推したい。(安部美香子)
 
■大阪市のガイドツアー講師 伊藤義麿さん(76)
 20年ほど前、仕事で御堂筋の日本生命を訪れ、ブールデルの彫刻を見ました。ロダンの弟子だが日本では知名度が低い。コピーかと思ったら本物。極めて高い見識で選ばれたものだ、と驚きました。私の父は1920年代、パリに学んだ美術評論家の柳亮(やなぎりょう)です。父の親友で、ブールデルの弟子にあたる清水多嘉示(たかし)の作品もある。貴重さが意外に知られていないので、もっと大事にしてほしいですね。
 
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先月行われたまちあるき「御堂筋は名彫刻の宝庫だ(東側コース)~グレコも高村光太郎も~」を受けての記事らしく、その際にガイドを務められた伊藤義麿氏の談話も載っています。
 



 
新聞といえば、『伊豆新聞』なる地方紙に以下の記事が出ました。明日のイベントなのですが、掲載されたのが昨日で、もう間がありませんが、とりあえずご紹介します。

講演と朗読会15日に開催 熱海・起雲閣で、ピアノ、合唱も

 NPO法人地球環境フォーラムと文学と朗読の会・天海地が共催する「講演と朗読会」(エフエム熱海湯河原協賛)が15日午後1〜午後5時、熱海市昭和町の起雲閣で開かれる。入場無料。
 第1部(講演の部)は、独立行政法人・海洋研究開発機構の岩瀬良一さんが「地震について」を演題に講演する。
 第2部(朗読の部)は天海地の会員が「高村光太郎・智恵子・2人の愛のかたみ」 「源氏物語・桐壺・序編」などを朗読する。
 特別出演として朗読家飯島晶子さんが「恋する伊勢物語・初冠・筒井筒・東下りの段」を読み上げる。
 ピアノ演奏や合唱なども予定している。終了後は近隣の店で、懇親夕食会(有料)も開催予定。
 問い合わせは天海地の空麦秋代表〈携帯070(5543)6295〉へ。
 
 いろいろと光太郎智恵子を取り上げて下さり、ありがとうございます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月14日
 
昭和21年(1946)の今日、詩「雲」を執筆しました。
 
    雲
 
あの雲を見たまへ。
地面からたつ水蒸気の冷えてできた
小さな、小さな水玉の集団があの雲だ。
大空のあそこからあそこまで、006

なんといふ大きなかたまりだらう。
なんというりつぱさだらう。
見てゐるうちに形をかへて
ぐんぐんと進んでゆく。
太陽に色どられた空中のパレット。
光とかげとの運動会。
雲には雲の規律があり、
山にかかる形や位置まで
ちゃんと天気の予報をする。
小さな、小さな水玉が
あんな大きな力を出す。
あの雲を見たまへ。
雲はいいなあ。
おもしろいなあ。
 
画像は昭和6年(1931)、『時事新報』に連載した紀行文「三陸廻り」の挿画で「雲のグロテスク」。光太郎自筆のペン画です。

5月29日、大阪府堺市の覚応寺にて執り行われた第32回白桜忌。当日は報道関係者がいらしていたので、ニュース等になっていないかと検索したところ、翌日朝のNHKさんのローカルニュースで報道されたらしいことがわかりました。  

与謝野晶子 命日に法要

明治から昭和にかけて活躍した歌人・与謝野晶子の命日のきのう、出身地の堺市にある寺で法要が営まれました。
与謝野晶子は明治11年に現在の堺市堺区の菓子店を営む家に生まれ、当時の代表的な歌人として歌集「みだれ髪」など数々の作品を残しました。
ことしは没後72年にあたり、命日のきのう、晶子ゆかりの寺として知られる堺区の覚応寺で法要が営まれました。
晶子のファンなどおよそ80人が参列し、晶子に思いを寄せて詠んだ短歌や俳句を披露しました。
ことしは晶子が日露戦争に従軍する弟を思って作ったとされる詩「君死にたまふことなかれ」が詠まれて110年の節目で、地元のコーラス隊がこの詩を合唱しました。
このあと晶子の研究を続けている元大学教授の女性が講演し、「この寺には晶子が書いた手紙が残されており、晶子が若いころから情熱的な恋愛をしていたことがうかがえる」などと人物像について語りました。
法要の実行委員会の代表の阿部恵子さんは「晶子は堺が生んだ財産です。2度と現れないようなスケールの大きな自立した女性でした。
晶子のすばらしさを伝えていきたいです」と話していました。
 
 
暗いニュース、腹立たしい報道が多い中、花巻の高村祭などもそうですが、こうした文化活動、地域の地道な取り組みなどにももっともっと光を当てていただきたいものですね。
 
ちなみに本日発行の花巻市の広報紙『広報はなまき』に、高村祭の模様が報じられています。  

光太郎への思い いつまでも

本市ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する「第57回高村祭」が5月15日、太田の高村山荘詩碑前で開かれました。
光太郎の遺影に献花と献茶が行われた後、参加者全員で詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を朗読。続いて地元小中学生や高校生などが楽器演奏や合唱、詩の朗読を披露し、訪れた市民など約700人とともに光太郎の生涯に思いをはせました。
特別講演では、光太郎を名付け親に持つ編集者の末盛千枝子さんが、光太郎との縁、命名のエピソードなどを語りました。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月1日
 
明治45年(1912)の今日、雑誌『青鞜』に、智恵子の散文、「マグダに就て」が掲載されました。
 
『青鞜』において、智恵子が描いた2種類の表紙絵が繰り返し使われましたが、意外なことに文章はこの1篇のみです。
 
「マグダ」とは、ズーダーマン作・島村抱月訳の戯曲「故郷」の主人公。文芸協会の第三回公演として、松井須磨子により演じられました。

5月29日、午後1時半。与謝野晶子ゆかりの堺市覚応寺にて、晶子命日の集い・第32回白桜忌が開催されました。
 
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昨年も書きましたが、やはり寺院での開催と言うことで、本格的な読経があったりと、仏教色の強い催しですが、地元の方々による献歌などやコーラスなどもあり、堺の人々が晶子顕彰に力を入れている様子に感心させられました。われらが光太郎に関しては、東京出身とはいえ、東京都民に「おらが光太郎」という意識はほとんどないと思います。
 
後半は与謝野夫妻の研究者・逸見久美先生のご講演、「想い出すままに……与謝野晶子・寛の研究より」でした。失礼ながら、先生は大正時代のお生まれですが、まだまだエネルギッシュにご活躍なさっています。勉誠出版さんで編刊されている『鉄幹晶子全集』は、本文篇は完結したものの、まだ続くそうです。
 
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しかし、その先生がお若い頃には、与謝野晶子を研究対象にするなど、いかがなものかという空気があったそうです。まるで安藤緑山の牙彫などの明治工芸のようだな、と感じました。さらにそれより昔、それこそ『みだれ髪』のころには破廉恥極まりないといった評もされていたわけで、そう考えると、時代と共に評価が変わって行くのだなと実感させられました。光太郎智恵子の世界は、この後、どのように評価されて行くのでしょうか。
 
やはり周辺人物との関わりの中での光太郎像といった点にも、もっと目を向けなければ、と思うので、与謝野夫妻にももう少し目を向けようと思いました。
 
終了後、楽屋(?)で逸見先生にご挨拶、先月の連翹忌にご参加下さった御礼を申し上げ、来年もご参加下さるお約束を取り付けました。その後、高村光太郎研究会の西浦基氏にまた車を出していただき、南海線の堺東駅まで送っていただいて、帰路につきました。非常に有意義な大阪行きでした。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月31日
 
昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋の畑にキュウリの種を蒔きました。

昨日、大阪は堺市で行われました与謝野晶子命日の集い、第32回白桜忌に行って参りました。今日明日と2回に分けてレポートします。
 
一昨日、当方の住む千葉県香取市から夜行高速バスに乗って大阪を目指しました。千葉交通さんのバスで、銚子発大阪なんば高速バスターミナル行きです。この便は京都まで利用したことが3回ほどありますが、終点の大阪まで乗ったのは初めてでした。時間はかかるのですが、経費節減のためです。
 
事前に調べたところ、終点のなんば高速バスターミナルは御堂筋に近いことがわかりました。御堂筋といえば、つい先だってのブログでもご紹介しましたが、「御堂筋彫刻ストリート」ということで、内外の彫刻作品が多数設置されています。光太郎作「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」も、通称の「みちのく」という名で並んでいます。約20年ぶりに見に行ってみました。
 
場所は地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅近く。高速バスターミナルからは、歩いていけない距離ではありませんが、時間の都合もあり、地下鉄を使いました。
 
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続いて鉄道を乗り継いで、JR阪和線堺市駅へ。次なる目的地は駅前にある堺市立文化館。こちらは「与謝野晶子文芸館」と「アルフォンス・ミュシャ館」が併設されています。こちらで高村光太郎研究会会員で、大阪在住の西浦基氏と合流、展示を拝見しました。
 
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晶子文芸館は3階。晶子の自筆資料、著書、遺品などが並び、パネルで年譜や解説がなされていました。
 
昨秋、山梨県立文学館さんの企画展「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を拝見して参りましたが、そちらと同一の出品物もあり、懐かしく感じました。
 
また、「コーナー展示」ということで、現在は「与謝野晶子と石川啄木」という一角もありました。啄木も光太郎同様、新詩社で与謝野夫妻に世話になっていますし、光太郎とも面識がありました。
 
啄木が早逝してだいぶ経ってから、昭和6年(1931)に啄木ゆかりの函館に旅行した晶子の歌「なつかしき函館に来て手に撫づる亡き啄木の草稿の塵」が展示されており、感動しました。
 
4階はミュシャ館。アルフォンス・ミュシャは、チェコ出身のアール・ヌーボーの画家で、日本でも根強い人気があります。当方、自宅兼事務所の執務室に複製を飾っています。
 
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調べてみたところ、『高村光太郎全集』で、一ヶ所だけミュシャの名が出て来ました。明治44年(1911)の『白樺』に載った「消息――『白樺に』――」と題する散文です。
 
 ――「白樺」毎号ありがたく存じます。世間の例にならつて「六号」を拝読しました。中にMuchaの事がありましたね。此はフランスの画かきで、重に装飾画をかく奴です。此奴の画いたサラ、ベルナアルのLorenzaccioやLa Samaritaineの「アフイシユ」は有名なものです。写生画や模様や図案を集めた本があります。かなり高価です。京都の田中喜作君が持つて居ませう。心づいたまま一寸。
 
光太郎、「此奴」呼ばわりしています(笑)。
 
続いて、晶子文芸館にほど近い堺女子短期大学さんに行きました。こちらには晶子の詩碑が建っています。
 
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智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)に寄せた有名な詩「そぞろごと」の一節が刻まれています。『青鞜』主幹の平塚らいてうは、届いたこの原稿を読み、いたく感動したとのこと。もしかすると智恵子あたりも心揺さぶられたのではないかと想像されます。
 
さらに西浦氏に車を出していただき、晶子生家跡に行きました。
 
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晶子の生家、鳳家は紀州街道沿い、大道筋という昔のメインストリートにあった「駿河屋」という菓子店でした。建物は現存しませんが、跡地に碑が建っています。これも有名な「海こひし潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家」の歌が刻まれています。
 
さらに近くに大道筋の説明板もあり、何気なく見てみると、光太郎が在学中、東京美術学校の校長だった正木直彦の名が記されていました。正木もこの界隈の出身とのことで、それは知らなかったので、驚きました。
 
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白桜忌は午後1時半からということで、まだ時間があったため、光太郎とは直接関係ありませんが、堺市内の名所巡りを少し。
 
千利休の屋敷跡、面積的には世界最大の墳墓、大仙古墳(伝・仁徳天皇陵古墳)など。

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しかし、大仙古墳は上空からは見えないので、その規模がよくわかりませんでした。
 
函館五稜郭は近くに五稜郭タワーがあり、足下に五稜郭の全貌が見えるようになっていて、特徴的な星形がよくわかります。
 
そういう展望塔のようなものがあればいいのに、とも思いましたが、さすがに天皇陵を足元に見るというのは不敬、という考えなのかも知れません。
 
その後、昼食に「美々卯」さんという店でうどんすき、「かん袋」さんという甘味処で氷くるみ餅を御馳走になりました。どちらも凄いボリュームで、味もよし、大満足でした。
 
いよいよ白桜忌会場の覚応寺さんに向かいました。続きは明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月30日006

昭和25年(1950)の今日、朝日新聞社から木村艸太著『魔の宴』が刊行されました。
 
木村艸太(荘太)は武者小路実篤の「新しき村」などに参加した作家。光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄です。明治末に吉原の娼妓・若太夫をめぐって光太郎と恋のさや当てから決闘未遂騒ぎまで発展しました。
 
『魔の宴』は木村の自伝的小説で、光太郎と三角関係となった「パンの会」当時の話など、当時を知る上で、一級の回想です。

今日は大阪に行っておりました。与謝野晶子の忌日、第32回白桜忌の集いが堺市の覚応寺というところで行われ、そちらに参加、また、その前に堺市を中心にいろいろと廻って参りました。
 
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詳細は明日以降レポートいたします。000
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】
 5月29日

平成10年(1998)の今日、郡山市民文化センター展示室において、企画展「智恵子 その愛と光彩 高村光太郎の彫刻と智恵子の紙絵展」が開幕しました。
 
この郡山展を皮切りに、翌年にかけ、岩手、広島、東京、北海道、島根を巡回し、好評を博しました。
 
当方、東京展(大丸ミュージアム)を観て参りました。

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