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4月にご紹介した、千葉県による「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」の選定が終わり、結果が発表されました。 

「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」を選定しました!

オリンピック・パラリンピック競技大会は001スポーツの祭典であると同時に文化の祭典でもあります。東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催は、本県の文化的魅力を発信する絶好の機会です。この機会を活かし、多くの県民の皆様に本県の文化資産を再認識していただくとともに、次世代に継承していくことが重要です。
そこで、県民参加により「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」を選定することとし、昨年、「ちば文化資産」候補を広く募集の上、211件を候補としました。この度、県民の皆様による投票の結果等を踏まえ、111件を「ちば文化資産」として選定しました。
今後は、「ちば文化資産」を活用したイベントを実施する等、本県の文化的魅力を発信するとともに、地域の活性化につなげていきます。

「ちば文化資産」は、県内の文化資産のうち、県民参加により選定した、多様で豊かなちば文化の魅力を特徴づけるモノやコトとします。伝統的なものに限定せず、現代建築や景観等、千葉県の文化的魅力を発信するモノやコトを含みます。


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候補に入っていた、「九十九里浜の景観」も選定されました。説明文がこちら。

九十九里浜沿岸は古来から多くの文化の跡が残されています。江戸時代以降はいわし漁等の漁業が盛んとなり、神輿を担いで浜に降りる「浜降り」や「潮踏み」等と呼ばれる習俗が現代まで続いており、海との深いつながりを感じられます。また、高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台となっています。

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まぁ、九十九里浜は千葉県を代表する景観の一つですので、これが外されてしまうことはありえないだろうとは思っていましたが、無事に選ばれて胸をなで下ろしました。

その他、解説では触れられていませんが、光太郎智恵子の足跡などの残っている場所も複数選ばれています。

大正元年(1912)、光太郎がまず訪れ、智恵子が後を追ってやってきた銚子犬吠埼。経営や建物は変わりましたが、二人が泊まった宿・暁鶏館も健在(ひらがなで「ぎょうけい館」と名前は変更されていますが)。ここで光太郎は詩「犬吠の太郎」を構想しました。

また、市川市の中山法華経寺さん。光太郎の父・高村光雲原型の日蓮像が建っています。鎌倉の長勝寺さんに建つものと同型です。

さらに、「白樺派と文人の郷」ということで、我孫子市の手賀沼周辺。光太郎が訪れたことは確認できていませんが、光太郎と縁の深かった白樺派の面々、志賀直哉、バーナード・リーチ、柳宗悦らが暮らした場所です。

しかし残念ながら、光太郎の親友の作家・水野葉舟が暮らし、光太郎もたびたび訪れて、彼の地に詩碑が建てられた詩「春駒」(大正13年=1924)の舞台となった旧三里塚御料牧場は、「マロニエ並木」として候補には入っていたものの、選定には至りませんでした。

他にも光太郎智恵子の足跡は千葉県内の各所に残っています。当方、今秋、成田市と佐倉市のカルチャースクールで、「高村光太郎と房総」という講座を持たせていただけることになりまして、そのあたりをご紹介する予定です。また詳細が決まりましたらお知らせいたします。

というわけで、房総の地、ぜひお越しください。


【折々のことば・光太郎】

私は何を 措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。私の彫刻がたとひ善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。

散文「自分と詩との関係」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ文章の他の部分からも抜き出しますと、光太郎にとっての詩は「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって彫刻が「文学的になり、何かを物語」るのを避けるため、また「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」に書かれた「安全弁」だというのです。謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る文学的な彫刻(青年期には光太郎もそういう彫刻を作っていましたが)ではなく、純粋に造型美を表現する彫刻を作るため、自分の内面の鬱屈などは詩として吐き出すというわけです。

過日、「角川文庫 創刊70周年 みんなで選ぶ、復刊総選挙 第一期 日本の名作」の件をご紹介しましたが、ある意味、似たような件です。 

県民の皆様の投票により「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」を選定します!

オリンピック・パラリンピック競技大会はスポーツの祭典であると同時に文化の祭典でもあります。
東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催は、本県の文化的魅力を発信する絶好の機会であり、この機会を活かすためには、多くの県民の皆様に本県の文化資産を再認識していただくとともに、次世代に継承していくことが重要です。
そこで、県民の皆様の参加により「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」(以下、『ちば文化資産』という)を選定することとしました。
先日皆様から応募いただいた内容を基に決定した候補の中から、次世代に残したいと思うものに投票してください!

投票の結果等を踏まえて100件程度、『ちば文化資産』を選定します。
選定したちば文化資産については、県民参加型の文化プログラム等を実施し、千葉県の魅力発信を行っていきます。

 
1 『ちば文化資産』とは?
『ちば文化資産』は、県内の文化資産のうち、県民参加により選定した、多様で豊かなちば文化の魅力を特徴づけるモノやコトとします。
伝統的なものに限定せず景観やイベント、祭りなど、千葉県の文化的魅力を発信するモノやコトを含みます。


2 『ちば文化資産候補』
ちば文化資産の投票候補を、県内11地域に区分して整理しています。
※一部の候補については、複数の地域にまたがって存在しているため、広域候補としています。地域や所在市町村により候補をお探しになる際は、広域候補についても御確認ください。


3 投票資格、投票の方法
 (1)投票資格
  千葉県に在住又は千葉県に通勤・通学している方
  ※お一人様1回までの投票でお願いします
   候補となっている211件の中から1つだけ選んでください。
 (2)投票の方法
  インターネットの場合
   専用入力フォームから、千葉県に送信してください。
   パソコンの方用入力フォーム
   スマートフォンの方用入力フォーム
   携帯電話の方用入力フォーム
  郵送の場合
   1または2で投票してください。
   1 .「投票チラシ」をダウンロードし、必要事項を記載の上、御郵送ください。
   2 .投票したい「ちば文化資産」の番号、名称、氏名、住所、通勤又は通学先の市町村
     (千葉県内在住の
は不要)、電話番号(日中連絡がとれるもの)
     又はメールアドレスを記載の上、御郵送ください。この
     場合、様式は問いません。
   【郵送先】
   〒260-8667 千葉市中央区市場町1-1 千葉県環境生活部県民生活・文化課文化企画班
 (3)投票期間
  平成30年4月6日(金曜日)から6月18日(月曜日)(必着)


4 プレゼントの内容、当選者数など
  投票いただいた方の中から抽選で、今秋デビュー予定の新品種を含む県産落花生商品詰め合わせや
  チーバくんオリジナルグッズ等をプレゼントします!

 ※平成30年7月上旬に、御提出いただいた電話番号又はメールアドレスへ当選の御連絡をしますの
  で、パソ
コンのメール(@pref.chiba.lg.jpのドメイン)を受信できるよう設定をお願いします。
 ※当選の御連絡が取れない場合は当選無効とします。
 ※発送は国内に限ります。

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候補の中に、「205 九十九里浜の景観」が入っており、説明文がこちら。

九十九里浜沿岸は古来から多くの文化の跡が残されています。江戸時代以降はいわし漁等の漁業が盛んとなり、神輿を担いで浜に降りる「浜降り」や「潮踏み」等と呼ばれる習俗が現代まで続いており、海との深いつながりを感じられます。また、高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台となっています。

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「智恵子抄」で言えば、詩「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(同12年=1937)も九十九里浜を舞台としています。

それに先立つ昭和8年(1933)、心を病んだ智恵子が現在の九十九里町片貝にいた智恵子の妹の婚家(田村別荘)で療養したことに由来します。この頃は光太郎、ほぼ毎週のように見舞いに訪れていました。

智恵子が療養していた田村別荘は取り壊されてしまいましたが、その跡地には木標が立ち、東金九十九里有料道路の今泉駐車場には光太郎智恵子像、海岸にほど近いサンライズ九十九里さん脇には「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑が建っています。

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候補の中から「100件程度」が「ちば文化遺産」に認定され、「県民参加型の文化プログラム等」を実施し、千葉県の魅力発信に役立てられるとのことですので、ぜひ「九十九里浜の景観」も選定され、さらにその後の「県民参加型の文化プログラム等」の中で、光太郎智恵子に触れる機会が持たれてほしいものです。

当方はすでに投票しましたが、千葉県ご在住、あるいは通勤されている方、ぜひとも投票にご協力を。


【折々のことば・光太郎】

私の一番底の考へでは、美術家が散らばつてしまふのはむしろ喜ぶ所であつて、善い美術家が市井や山間僻地に散在して真の善き作品を名声に関係なく作てゐてくれる様な時代を想像すると愉快であるが、現前の世の中ではそんな事は夢に近い。

散文「大調和美術展に就て」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「大調和美術展」は、武者小路実篤らの雑誌『大調和』が母胎となって開催されたもので、光太郎は第一回展に塑像「中野秀人の首」、「某婦人の像(智恵子)」、「東北の人」、木彫「魴鮄」、「桃」、「うそ鳥」を、第二回展では、塑像「住友君の首」、木彫「柘榴」を出品しました。

昨日、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里町の片貝海岸に、今年も初日の出を見に行って参りました。

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予定通り、6時過ぎに到着。6時45分過ぎが日の出時刻です。昨年よりも水平線上の雲が低く、いい感じです。

家から持って行った紙屑を焚き付けに、流木を拾い集めて焚き火。他の方々にありがたがられました。

昨年もそうでしたが、お供は愛犬。14歳になった柴犬系雑種です。自宅兼事務所から片道1時間ほどのドライブ。後部座席でおとなしくしていました。

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社交的なわんこが寄ってきます(笑)。うちのはビビリです(笑)。

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サーファーの皆さんが、初波乗り。

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さて、雲の上に、太陽。

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84年前(ちなみに戌年)、光太郎智恵子も逍遙した同じ浜で見る初日の出は、やはり格別です。今年も光太郎智恵子の世界が盛り上がりますように、と、願をかけました。

しばらく見ていたかったのですが、しばらく見ていると、周辺の道路で大渋滞が起こりますので、すぐに撤収。ここに初日の出を見に来たのは3回目で、ルートなども学習しました。すんなりと抜け出せました。

自宅兼事務所に帰り着き、すぐに近所の公園へ(愛犬、自宅兼事務所敷地内では排泄をしませんので)。そのまま裏山の神社へ初詣。神職もいない小さな神社ですが、裏山一帯が戦国時代の山城跡で、その頃からこの社もあったようです。一度、境内で永楽銭を見つけました。ここでも今年も光太郎智恵子の世界が盛り上がりますように、と、願をかけました。

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自宅兼事務所では、愛猫が鏡餅にいたずらしていました(笑)。

その後はおせちを食べ、届いた年賀状やメール等をチェック。

その中で、今年は光太郎の先輩・与謝野晶子の生誕140年ということを知りました。その流れで、晶子と光太郎的な部分で、どさくさにまぎれて(笑)光太郎にもスポットが当たって欲しいものだと思いました。

ついでに云うなら、今年は九十九里で療養した5年後(昭和13年=1938)に歿した智恵子の歿後80年でもあります。その辺りでの盛り上がりも期待したいところです。



折々のことば・光太郎】

一切の偶然の効果を棄てよ。タツチに惑はさるる勿れ。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

彫刻に於いては、思いがけず現出した効果に頼ってはいけない、徹頭徹尾計算ずくでやるべし、ということでしょうか。

JR成田駅前の成田市芸術文化センタースカイタウンギャラリーで、以下の企画展が催されています。

下総御料牧場の記憶 ~第9代下総御料牧場長・田中二郎の残したアルバムを中心に~

期 日 : 2017年6月3日(土)~6月25日(日)
会 場 : 成田市芸術文化センタースカイタウンギャラリー5F 
       千葉県成田市花崎町828-11
時 間 : 午前10時から午後5時
休館日 : 月曜日
料 金 : 無料
主 催 : 成田市 成田市教育委員会

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昨日の『朝日新聞』さんの千葉版に載った記事です。

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宮内庁下総御料牧場は、明治8年(1875)に開場した下総牧羊場を前身とし、同18年(1885)、宮内省(当時)直轄化。成田空港の建設工事に伴い、昭和44年(1969)に那須に移転するまで存続していました。

一帯は、成田空港や宅地となっていますが、航空写真を見ると、牧場だった頃の名残があちこちに見られます。この楕円形になっている道路などもその一つ(NHKさんの「ブラタモリ」のようですね(笑))。

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光太郎の親友だった作家の水野葉舟が大正13年(1924)にこの地に移り住み、昭和22年(1947)に亡くなるまで、牧場近くに住み続けました。葉舟は、元々、前年に光太郎が日本画家の山脇謙次郎のために建ててやった小屋に入り、その後、近くに自分で家を建てました。そうした縁もあり、光太郎も何度か御料牧場を訪れています。ただし、細かな年月日、何度訪れたかなどは現時点では不明です。

以前にもご紹介しましたが、光太郎は御料牧場を舞台に、詩「春駒」を作りました。

  春駒
 
三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場(ごれうまきば)にうつすり003
もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、
雨ならけむるし露ならひかるし、
明方かけて一面に立てこめる杉の匂に、
しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ
春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ。
すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、
ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、
ただ一心に草を喰ふ。
かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい。
三里塚の春は大きいよ。


昭和52年(1977)には、この詩を刻んだ碑が、かつての御料牧場跡地に建てられた三里塚御料牧場記念館を含む三里塚記念公園内に除幕されました。

実は最近、大正時代に御料牧場の獣医師だった人物の御子孫(東京ご在住)から連絡がありました。光太郎と葉舟がかつて牧場内のその獣医師の官舎を何度か訪れ、別のご子孫のお宅に、光太郎関連の資料が遺っているとのこと。この秋に拝見するお約束をいたしました。もしかすると、前述の御料牧場を訪れた、細かな年月日、何度訪れたかなどの手がかりがつかめるかも知れません。

そうした関係もあり、もう一度、御料牧場について調べ始めた矢先に、この企画展。隣町ですので、早速、拝見して参りました。

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昭和17年(1942)から同39年(1964)にかけ、代9代の牧場長を務めた、故・田中二郎氏のアルバムから採った写真が中心で、光太郎が訪れた時期より下るものでしたが、興味深く拝見しました。

御料牧場ということで、皇室の方々もよくいらしていたようで、颯爽と馬にまたがる今上天皇の皇太子時代のお写真、美空ひばりさんやエンタツ・アチャコさんらが写っている同牧場での映画のロケでのスナップ(上記チラシ等に使われているもの・おそらく昭和25年=1950封切りの「青空天使」)などなど。

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前列左から4人目の少女が美空さん、その右隣が母親役の入江たか子さんです。後ろには牧場のサイロが写っています。

写真以外にも、動物彫刻家・池田勇八から田中が贈られた騎馬像なども展示されていました。池田は東京美術学校での光太郎の後輩に当たり、光太郎は文展や帝展の評では、池田の作品を比較的好意的に紹介しています。

牧場跡地の三里塚記念公園ともども、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此世の表層(うはかは)をむき取るとこんなに世界は美しい

詩「“Die Welt ist schoen”」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

題名の「“Die Welt ist schoen”」は001、「世界は美しい」の意の独語です。ドイツの写真家、アルベルト・レンゲル・パッチュがこの2年前に刊行した写真集の題名を転用しており、詩の中にもレンゲルに語りかける部分があります。

のちに光太郎自身も「世界は美し」という詩(昭和16年=1941)を書きましたし、表記を変えて揮毫したりもしています。右は今年2月に亡くなった、埼玉東松山市教育長、日本ウオーキング協会副会長だった田口弘氏に贈られた書です。

「美し」といえる世界であって欲しいものです。ところが、「美しい国、日本」はどこへやら、提唱者自身がこの国を踏みにじっているのが現状ですね(笑)。

昨日、初日の出を見に九十九里浜に行って参りました。

南北に長い九十九里浜のほぼ中央、九十九里町の片貝海岸、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた地。当方自宅兼事務所のある香取市から1時間ちょっとのところですが、生活圏ではありません。

一昨年も行きましたが、天気が悪くて見えませんでした。昨年は、今年もダメだったら嫌だな、と思い、自宅近くで済ませてしまいました。

今年は天気予報で大丈夫、と言っていたので、それを信用しました。しかし、移動中のまだ暗いうち、2~3回、雷がピカッと光っていて、「えー、大丈夫かよ?」という感じでした。

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さらに今年は、愛犬を連れて行きました。正確な誕生日が不明で、とりあえず1月1日を誕生日に設定しており、昨日で13歳になった老犬ですが、まだまだ元気ですし、食欲も旺盛です。なぜかこいつは車に乗るのが大好き。乗ったら乗ったで、後部座席でおとなしく座っていて、暴れたりはしません。

さて、片貝海岸。心配していた雷雲は、かなり沖の方だったようでした。しかし、この季節は西高東低の冬型の気圧配置なので、水平線上に雲がかかっていないということはほぼありません。それでもそれほど高い位置まではかかっておらず、まずまずの観測条件でした。

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そして7時頃、雲の上から太陽が顔を覗かせました。

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見にいらした方がかなり集まっていて、歓声や拍手があちこちで沸き上がりました。

それを尻目に、愛犬と共にダッシュ。海岸から少し戻って、昭和36年(1961)に建立された「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑へ。

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慌てて撮って、撮ったあとに確認しなかったので、ピンボケになってしまいました(涙)。

さらに車に乗り、東金九十九里道路の今泉PAへ。こちらには平成10年(1998)に建立された光太郎・智恵子の像があります。

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こちらでは、わりといい写真が撮れたように思えます。

今日は一転して曇りで、今日だったら日の出は見えなかったでしょう。何だか今年一年も、いいことがありそうな、そんな気がいたしました。本当にそうであってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

『君は世に何を欲りして、かく遠き海のあなたにおはするや』

詩「秒刻」より 明治40年(1907) 光太郎25歳

「欲り」は「ほり」と読み、「欲りす」で「欲(ほっ)する」とほぼ同義です。「海のあなた」は留学で滞在していたニューヨークです。光太郎、ほぼその生涯を通してこのような自問自答を繰り返し、より良き「道」を求める「求道者」でした。

日曜日の『産経新聞』さん、千葉版に載った記事です。 

【Faceちば人物記】九十九里の松林守りたい 千葉市緑区の樹木医・石谷栄次さん(67)

 「植物の観察が好き。子供のころは学校の帰り道に雑草を見ながら確認して歩いた。自然の多様性にひかれる」。マツ枯れの発生している九十九里海岸の松林の再生などに取り組むボランティア団体「九十九里海岸の松林を守る会」代表として、同海岸にある松林の景観維持に奔走。病害虫「マツノマダラカミキリ」の駆除や、マツの大苗の植栽の管理などに取り組んでいる。
 関東に広がる大地、武蔵野の自然の中で育った。植物の観察が好きで、林の中で遊んでは草などの名前を覚えた。中高時代は生物部に所属し、植物を使った実験などに熱中。鳥取大農学部林学科に進学すると、ミミズやムカデといった多くの虫を研究し、自然の奥深さに一層ひかれていった。
 昭和49年に県に就職し、県の埋め立て地の緑化を推進する「環境緑化研究室」などで働いた。そうした仕事のなかで、樹木医と接する機会があった。木の治療をできることに魅力を感じ、平成14年に53歳で樹木医の資格を取得。埋め立て地の緑化に携わった経験から、緑化しにくいはずの海岸沿いに松林がある九十九里海岸に興味を持った。
 戦後に植えられた同海岸の松林は、地域住民により維持されてきた。農作が盛んな本県では、松林が風や砂から畑を守ってきたという。防災林でもあり、津波などから町を守る効果もある。
 だが、戦後に植えられてから40~50年がたち、マツは手薄な保護や病害虫などにより枯れてしまう。一宮町東浪見の真っ赤に枯れているマツを見て危機感を募らせ、「松林を守りたい」と奮起。17年に「九十九里海岸の松林を守る会」を結成し、松林の再生に賛同した者らと植林などに取り組み始めた。
 会結成の当初は、知名度不足のためか、病害虫の駆除イベントを行ってもなかなか人が集まらなかった。そこで、詩人で彫刻家の高村光太郎の妻で明治の洋画家としても有名な高村智恵子の親が昔住んでいた場所で植林のイベントを行うなど、注目を集めるよう工夫。活動の輪を徐々に広げ、これまで会で植えたマツは約千本に上っている。
 病害虫の駆除は容易ではない作業だ。だが、「やりたいことをやってこれた。現場で起きている問題を解決することが楽しい」と充実した表情で話す。白子町でマツの植林イベントを行った際には、参加した親子から「地域に貢献できた」と笑顔で話しかけられるといううれしい出来事もあった。
 「今後は、マツ枯れの予防技術と開発に取り組みたい」と抱負を語る。その一つが現在作成中の病害虫の検索システムで、インターネットを使い全国の樹木医に情報を発信してもらって被害分布図を作ることを目標にしている。「技術を提供し、診断と対策を提案したい。自分たちに何かできることを取り組みたい」と力を込めた。(牧山紘子)
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【プロフィル】石谷栄次
 いしたに・えいじ 昭和24年、東京都小平市出身。千葉市緑区在住。樹木医で「九十九里海岸の松林を守る会」代表。趣味は花の写真撮影。好きな植物は紫色の花を咲かせる「ブーゲンビリア」といった熱帯植物。鳥取大卒。

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昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が約半年間療養した九十九里浜。その長大な海岸線に植えられた松林を守って下さっている樹木医さん。頭が下がります。


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こういうイベントがあったとは、気付きませんでした。

九十九里で智恵子が療養していた家は、「田村別荘」という名で、県道を挟んで国民宿舎サンライズ九十九里さんの斜め向かいにありました。その後、真亀川を渡った隣の大網白里市に移築され、保存されていました。一時は敷地内に光太郎短歌を刻んだ歌碑が新たに建てられたり、建物と一緒に移植されたというサボテンの木にも説明板が付けられたりと、きれいに整備されました。

しかし、平成11年(1999)3月、いろいろな感情的な行き違いなどがあり、突如取り壊されてしまいました。

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その後は荒れ放題となり、歌碑のみは残っているはずですが、雑草が繁るにまかせて近づけない状態になっていました。サボテンの木も現存しません。

上記チラシの地図を見ると、どうもここで植林イベントが行われたようです。気付きませんでした。


さて、東日本大震災後、東北の海岸では松林ならぬ巨大防潮堤の建設が進んでいるところもあります。それで本当に住民の皆さんの命が守れるならいいのですが、どうもゼネコンが群がる利権の匂いがぷんぷんしています。当方、毎年訪れている光太郎ゆかりの宮城県女川町では、防潮堤建設という選択はせず、あくまで海と共に生きる街作りを選びました。そのかわり、有事の際には徹底して逃げる、ということを統一方針としています。

なかなか難しい問題だとは思いますが、松林の整備などにももっともっと力が注がれて然るべきだと思われます。

女川、といえば、今夜、以前にこのブログでご紹介したドキュメンタリー映画『サンマとカタール 女川つながる人々』を拝見して参ります。明日はそのレポートを。


【折々の歌と句・光太郎】

中之條雲を出で来て人ごゝろ     昭和4年(1929) 光太郎47歳

「中之條」は通常「中之条」と表記される、群馬の中之条温泉です。この年、詩人の尾崎喜八と共に泊まった鍋屋旅館の宿帳に残した一句。まさに雲の中を歩くような雨天時の山歩きだったのではないでしょうか。

鍋屋旅館は江戸時代初めの創業。『東海道中膝栗毛』の十返舎一九や、安政の大獄の高野長英なども泊まったそうです。

昨日は、銚子の犬吠埼に行って参りました(生活圏内なので、時折行くのですが)。

第一目的地は、「スパ&リゾート犬吠埼太陽の里」。宿泊施設もありますが、泊まりではなく「日帰りスパ一望の湯」に浸かってきました。

単に寒いから温泉、というのもあるのですが、一昨夜、真夜中に犬の散歩をするはめになり、結果、風呂に入るタイミングを失してコタツで寝てしまい、さっぱりしたかったというわけです。割引券もありましたし。

犬吠埼太陽の里さんは、大正元年(1912)、光太郎と智恵子が愛を誓った暁鶏館(現・ぎょうけい館)にほど近いところにあります。元は、伏見宮貞愛親王別邸だったところに建てられたもので、平成22年(2010)に開業しました。

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ペッパーくんがお出迎え。従業員だそうです。

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ゆっくり温泉を堪能し、その後、灯台方面に向かいました。

大正元年(1912)、まず数え30歳の光太郎が油絵を描くために犬吠埼にやってきます。宿泊したのは暁鶏館。すると、それを追って数え27歳の智恵子も犬吠埼に現れます。最初は日本女子大学校時代からの友人・藤井勇(ゆう)、妹のセキと3人で、御風館という宿に泊まっていました。その後、藤井とセキは先に帰り、智恵子は光太郎の泊まっていた暁鶏館に移ります。

二人が結婚の約束をしたのは、翌年の上高地旅行の際だと光太郎は書き残していますが、この時点で、二人は共に生きていくことを決意したと考えられます。

犬吠埼行きに先立って、光太郎は次の詩を書きました。

N――女史に
003
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな
種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 002
私の芸術を見て下すつた方
芸術の悩みを味つた方
それ故、芸術の価値を知りぬいて居る方

それ故、人間の奥底の見える方
そのあなたが、そのあなたが
――ああ、土用にも雪が降りますね――
お嫁にもうぢき行く相な
 
型のやうな旦那さまと001
まるい字を書くそのあなたと
かう考へてさへ
なぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな

あなたがお嫁にゆくなんて
 

いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
004
なぜさう容易(たやす)く
さあ何と言ひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
さうです、さうです
あなたは其の身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして、男に負けて子を孕んで
あの醜(みにく)い猿の児を生んで

乳をのませて
おしめを干して
ああ、何という醜悪事でせう
あなたがお嫁にゆくなんて
まるで さう
チシアンの画いた画が
鶴巻町へ買喰ひに出るのです
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
私は淋しい、かなしい
何といふ気はないけれど
恰度あなたの下すつた
あのグロキシニアの
大きな花の腐つてゆくのを見るやうな
私を棄てて腐つて行くのを見るやうな
空を旅してゆく鳥の
ゆくゑをじつと見てゐる様な
005
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない、淋しい、焼けつく様な
それでも恋とはちがひます
――そんな怖(こは)いものぢやない――
サンタマリア!
あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい
ちがひます、ちがひます
何がどうとは素より知らねど
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
006
おまけに
お嫁にゆくなんて
人の男の心のままになるなんて
 
外にはしんしんと雨がふる
男には女の肌を欲しがらせ
女には男こひしくならせるやうな
あの雨が――あをく、くらく、
私を困らせる雨が――


おそらく智恵子は、光太郎を追って犬吠に来る前、この詩を読んだのだと推測されます。


ところで、最初に智恵子が泊まった御風館という宿。こちらは既に残っていません。少し前に、それがあった場所が判明しましたので、行ってみました。灯台の南西、数百㍍の、犬吠埼に行った際には必ず通る道沿いでしたが、そこに御風館があったというのは、少し前まで存じませんでした。

ちなみにこちらは昔の絵葉書です。

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現在は更地と藪になっています。

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一角には廃屋もあり、もしかすると廃業直前の御風館の建物かも知れません。なんとなくそれっぽい作りでした。

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104年前の光太郎智恵子に思いを馳せながら、帰途に就きました。


それにしても銚子は温暖でした。沿道では農家の方々が春キャベツの収穫真っ最中。

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銚子、そして隣の東庄町、さらに隣接する当方の住む香取市では、この時期、イチゴ狩りの最盛期です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

夢はみなはかなきものとさもあらむ恋の組絲われ解くと見し
明治34年(1901) 光太郎19歳

智恵子と出会う10年前の作です。与謝野夫妻の新詩社で歌作に励んでいましたが、この時期の恋の歌はどうも架空の恋を謳ったものと思われます。

10年後には智恵子と出会い、こうした気持ちが実感できたのではないでしょうか。

昨日は、千葉市中央区、千葉港近くの千葉県立美術館に行って参りました。
 
一昨年、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展が開催されたのは、市立美術館。こちらは県立美術館です。 
 
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同館は耐震改修工事のため、一昨年1月か004ら休館していましたが、工事も終わり、一昨日がさらに開館40周年記念も兼ねての再オープンでした。
 
再オープンを祝って、千葉県のゆるキャラ・チーバくんも来館(笑)。真横から見ると千葉県の形をしているというすぐれものです。よく間違われるのですが、決してメタボ犬ではありません。第一、「犬」でもありません。「不思議ないきもの」です。

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 ちなみに当方自宅兼事務所はチーバくんの耳の付け根あたりです。
 
さて、千葉県立美術館。再オープン記念のメインの企画展は、「開館40周年記念特別企画展 平山郁夫展 -仏教伝来の軌跡、そして平和の祈り-」(1月24日~3月22日)です。平山氏は生前、千葉県にご在住でした。
 
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 もともとそちらが第一の目的ではなく、同時開催の同館所蔵品による「アート・コレクション」(1月24日~3月29日)を見に行くつもりで出かけました。
 
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事前に詳細が不明でしたので、このブログでご紹介しませんでしたが、光太郎彫刻も展示されるはず、と思って行きました。なぜそう思ったかというと、新しい鋳造ですが、同館では光太郎彫刻を7点ほど持っていることを知っていたためです。
 
「アートコレクション」は「千葉県立美術館名品展」と「彫刻」に分かれており、光太郎作品が並ぶなら「彫刻」だろうと思っていましたが、あにはからんや、「千葉県立美術館名品展」の方に出品されていました。光太郎代表作の一つ、「手」です。有名な作品だけあって、人だかりがしていました。
 
他には光太郎作品は出ておらず、ちょっと残念でしたが、「名品展」と謳うだけあって、日本画、洋画、彫刻、工芸、書、版画の五分野で、たしかにいいものがたくさん出ていました。
 
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工芸のコーナーでは、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝・高村豊周の作品も展示されていました。また、石井柏亭、梅原龍三郎、岸田劉生、中西利雄、柳敬助、佐藤忠良、舟越保武など、光太郎と交流のあった作家の作品も数多く並んでいたので、興味深く拝見しました。

さらに同時開催で、パネル展「千葉県立美術館40年の歩み」(1月24日~4月4日)もありました。40年間に開催された企画展のポスターや図録などが展示され、昭和56年(1981)に開催された企画展「高村光太郎、その芸術」の、「手」を使ったポスターも貼られていました。他にも移動美術館のポスター類も展示されていて、やはり「手」をあしらったものもあり、嬉しくなりました。
 
最後に「平山郁夫展」を見ました。「仏教005伝来の軌跡」ということで、有名なシルクロード系の連作が中心でした。柔らかなタッチと、奇をてらうことのない画風には、やはり好感が持てました。
 
青森十和田の奥入瀬渓流を描いた「流水間断無」も展示されていました。なぜ? と思いましたが、大陸の乾いた沙漠を長く旅した後は、日本の水と緑の風景が恋しくなったそうで、ある意味、対になる作品ということになるわけです。そういえば、昨年、テレビ東京系「美の巨人たち」で紹介された時も、そういう話になっていました。
 
さて、千葉県立美術館。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月26日

大正14年(1925)の今日、『読売新聞』に、散文「自刻木版の魅力」が掲載されました。
 
光太郎が唯一、版画をメインに語った散文です。自身、葉書や自著等の題字(『典型』など)、さらには関東大震災直後に智恵子の実家・長沼酒造の銘酒「花霞」を東京に取り寄せて販売した時の引札などで、木版を手がけました。
 
この文章は、同じ年の雑誌『詩と版画』、昭和6年(1931)の同じく『線』に転載されました。

「芸術の秋」ということで、いろいろなイベントが目白押しです。幸い、光太郎智恵子に関するイベントもかなりあって、ありがたいかぎりです。
 
それらのご案内、行ってみてのレポート、さらには新刊書籍でも光太郎智恵子に関するものが続々出ています。そんなこんなで、このブログ、今のところの構想では、半月先まで書く内容が決まっています。一気に紹介するのも大変ですし、逆にネタ切れになってしまうのも怖いので……。
 
そう思って情報を小出しにしていたら、チョンボをやってしまいました。下記イベント、開催はまだ先なのですが、申し込み〆切が過ぎてしまいました。ただ、まだ定員に達していない可能性もありますので、ご紹介します。 

郷土文学講座 高村光太郎・智恵子と千葉県

 
 
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日 時 : 2014年11月8日(土) 10:00~12:00
会 場 : 千葉市立稲毛図書館 千葉市稲毛区小仲台5-1-1
講 師 : 中谷順子さん(日本ペンクラブ会員・詩人)
定 員 : 30人
対 象 : 千葉市民(在勤・在学者含む)
 
講師の中谷さんは、地方紙『千葉日報』に「房総の作家」を連載されています。平成21年(2009)から22年(2010)にかけては、光太郎も取り上げて下さいました。また、その後すぐ書かれた水野葉舟の項でも光太郎にふれています。
 
申し込み〆切が昨日でした。定員30名と少ないのですが、対象が在勤・在住を含む千葉市民限定です。まだ空きがあるかも知れません。希望される対象の方、問い合わせてみて下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月23日
 
昭和28年(1953)の今日、青森市野脇中学校で催された文芸講演会で講演をしました。
 
この2日前が十和田湖畔の裸婦像(通称「乙女の像」)の除幕式で、その流れです。
 
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像の建立に協力した佐藤春夫、菊池一雄、草野心平、像を含む一帯の設計を行った建築家の谷口吉郎も演壇に立ち、豪華な講演会でした。
 
青森在住の彫刻家で、光太郎の肖像を作られた田村進氏はこの講演を聴かれたそうです。
 
講演の内容は翌月の『東奥日報』に掲載され、筑摩書房刊行『高村光太郎全集』第19巻に収められました。
 
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注目すべきは、この中で「乙女の像」という語が既に使われていること。
 
地元十和田の十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで、像の建立60周年や十和田湖国立公園指定80周年ということで、『乙女の像ものがたり』(仮題)という書籍を編集中です(当方も一部執筆させていただきました)。その流れで、ボランティアの皆さんの中で、「乙女の像」という愛称がいつから使われているのか? といった疑問が出、故・髙村規氏や北川太一先生に質問されたりもしていました。
 
はっきりしたことは分かりませんが、除幕された昭和28年(1953)の段階で、すでに「乙女の像」の語が使われていたことは、上記光太郎の講演で分かります。ただ、定着するのはもっと後のようですが。
 
また、この像、「みちのく」という愛称もあります。こちらは昭和28年(1953)7月1日発行の『毎日グラフ』に載った、中野のアトリエ訪問記の題名が「“みちのく”の女神」となっており、もっとも古い使用例と思われます。
 
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また、昭和31年(1956)、『サンデー毎日』や『家の光』に載った光太郎の追悼記事では、像の写真に「みちのく」というキャプションが付けられています。
 
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先週行って参りました我孫子市白樺文学館さんにて、いろいろ手に入れて参りましたのでご紹介します。

雑誌『民藝』 第740号 特集 我孫子と柳宗悦

2014/8/1 日本民芸協会発行 定価787円+税
 
 
現在同館にて開催中の「柳宗悦展-出会いと絆の地、我孫子-」とリンクした特集です。
 
図版も豊富です。
 
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左上は大正期の『白樺』。すべて光太郎が寄000稿している号です。右上はやはり光太郎も手にとった、ロダンから白樺派に贈られたブロンズ3点のうちの一つ、「ある小さき影」。下は光太郎の朋友バーナード・リーチや柳宗悦関連の古写真です。
 
 
ロダン「鼻のつぶれた男」ポストカード
 
昨日もこの画像を載せましたが、ポストカードになっています。
 
上記の「ある小さき影」とは違い、白樺派に贈られたものではありませんが、ロダンのブロンズ彫刻の中では有名なものの一つです。光太郎も評論などの中で、繰り返しこの彫刻に触れています。
 
 
 
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公式サイトより)
 
■白樺派のカレーとは?
大正デモクラシーの頃、白樺派の文人達が手賀沼沿いに居を構え、活発な創作活動をしていたころの話です。当時としては先進的な食文化の象徴であったカレーが我孫子で作られました。
誰もがご存知の白樺派の文人達がこのカレーを食べていたのです。

■  柳兼子さんが白樺派の文人たちに振舞ったカレーを再現!
白樺派の中心人物の一人である柳宗悦氏、その夫人の兼子さんが、陶芸家バーナードリーチの助言をうけて、おいしいカレーを作りました。
隠し味に味噌を使ったのでした。
食の研究家が当時の文献を丹念に調べ、長い歳月をかけて白樺派のカレーを再現しました。兼子さんはアルト歌手としても国内外で有名な方でした。
 
ちなみに柳兼子は、戦時中に光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」をラジオ放送で歌ったりもしています。
 
チキン、ポーク、ビーフの3種類のレトルトが販売されています。当方、ポークを買って参りました。もったいなくてまだ食べていません。
 
 
それから、こちらは今回入手したものではなく、以前に買ったものですが、やはり白樺文学館で販売していたのでご紹介しておきます。

『白樺派の文人たちと手賀沼 その発端から終焉まで』 

 2011/10/11 崙書房出版 山本鉱太郎著 定価1,300円+税
 
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版元サイトから)
 
東京から30キロ、自然豊かな手賀沼。大正時代初め、沼を一望する高台に若き日の柳宗悦、武者小路実篤、志賀直哉、バーナード・リーチら白樺派の文人たちが集った。そしてここから彼らはそれぞれの活動へと旅立つ。白樺派の我孫子時代からその終焉までを見届ける。「ふるさと文庫」200号作品。
 
それだけでなく、第一章が「リーチと高村光太郎の出会い」、第二章に「日本の頭脳上野の森に」、第三章で「「白樺」創刊のころ」となっており、ここまでで光太郎がたくさん登場します。この後の四章以降が我孫子の話になっていきます。
 
著者山本鉱太郎氏は、作曲家・仙道作三氏と組んで、平成3年(1991)に「オペラ智恵子抄」を作られました。そのあたりの話や、十和田湖畔の裸婦群像にも触れています。
 
以上もろもろ、ぜひお買い求め下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月13日
 
明治36年(1903)の今日、歌舞伎俳優九代目市川團十郎が歿しました。
 
光太郎は団十郎のファンで、残念ながらどちらも現存が確認できませんが、2度、団十郎像を彫刻で作りました。くわしくはこちら

千葉県は我孫子市にある我孫子市白樺文学館。先週、行って参りました。4年ぶり、4回目ぐらいの訪問でした。
 
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現在、下記の企画展が開催中です。 

柳宗悦展-出会いと絆の地、我孫子-

7月3日(木曜日)から9月28日(日曜日)まで
午前9時30分から午後4時30分 休館日は月曜日。月曜日が祝祭日の場合は開館し、次の平日が休館日。
一般 300円、高校生・大学生 200円
〒270-1153 千葉県我孫子市緑2-11-8
 
 宗教哲学者、思想家、美学者、そして民藝運動の父、柳宗悦。宗悦は、1914(大正)3年9月初旬25歳の時に我孫子へ移住し、1921(大正10)年3月までを過ごしました。我孫子での活動は、宗悦にとってかけがえのないものであったといえます。
 『白樺』同人として西洋美術の積極的な紹介に努め、特にロダンとの交流により手に入れた彫刻は、朝鮮半島で教員をしていた浅川伯教を我孫子に導き、民藝運動の基礎となる朝鮮陶磁器「秋草文面取壺」との出会いをもたらします。
 陶芸家バーナード・リーチとの絆を深め、浜田庄司との出会いもここ我孫子の地でした。そして『白樺』同人である志賀直哉、武者小路実篤を我孫子に導き、生涯にわたる絆をここで結んだといっても過言ではありません。また我孫子の地は、宗悦にとって妻兼子との新婚時代を過ごした地であるとともに、初めて自らの家庭を築いた地、つまり家族の絆を築いた場所です。
  柳宗悦にとって我孫子は「出会い」と「絆」の地であったといえます。
 本企画展では、我孫子来訪100年を記念し、「出会い」と「絆」をコンセプトに、日本民藝館所蔵品を中心に宗悦の我孫子時代の活動を紹介します。
 
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光太郎は『白樺』の準同人のような立ち位置でした。大000正期にロダンを紹介する上で、光太郎と白樺派との接点が大きかったので、白樺派の面々と親しく交わっていました。右はロダンの「鼻のつぶれた男」。今回の企画展でも展示されています。
 
特にバーナード・リーチはロンドンでの光太郎との出会いが大きな機縁となって来日、以後も交流を続けましたし、武者小路実篤などとも晩年までつきあいが続きました。他にも有島兄弟、長与善郎、木下利玄、岸田劉生、そして柳宗悦。今回の展示では、これらの人々の集合写真で、光太郎が写っているものも並んでいました。
 
ただし、白樺派の面々が移り住んだ、この我孫子には光太郎の足跡は残っていないようです。
 
文学館のすぐはす向かいが、志賀直哉の旧宅跡。書斎として使用していた棟のみ残り、市の文化財に指定されています。母屋があった場所には、基礎部分をかたどった敷石が敷き詰められています。
 
 
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また、やはりすぐ近くの手賀沼には、昭和49年(1974)に建立されたリーチの碑も。
 
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リーチの描いた巡礼者の絵と、英文の詩が刻まれています。傍らには解説の碑。
 
我孫子には他にもジャーナリスト・杉村楚人冠記念館、柳の旧宅跡、柳の叔父の嘉納治五郎別荘跡など、文学散歩にはもってこいです。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月12日
 
昭和20年(1945)の今日、親友の作家・水野葉舟にあてて、花巻郊外太田村の山小屋の図面入りの長い手紙を書きました。
 
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現在、「高村山荘」として保存されているものですが、もともと鉱山の飯場小屋だったものを買い取り、村人の協力で解体移築、翌月から7年間、この小屋み住むことになります。
 
上記画像に見える当初の構想では、「月見台」などと洒落たものを作る予定でしたが、これは実現されませんでした。また、「総板敷(彫刻製作のため)」とあります。やはり当初はここで彫刻にいそしむ予定だったのですが、戦争協力に対する深い反省から、彫刻は封印されます。簡単なものは作ったようですが、彫刻らしい彫刻は一点も作りませんでした。
 
その封印を解いたのは、7年後。青森県から委嘱された十和田湖畔の裸婦像、通称乙女の像の制作でした。

千葉は柏からイベント情報です。 

公開講座 「光太郎と智恵子の愛」

日 時 : 2014年6月14日(土) 13:00~16:00
場 所 : 柏市民活動センター2階会議室
      (柏駅東口・イトーヨーカドー筋向い 柏市柏1-5-18) 
参 加 : どなたでも。無料。申込不要です。
講 師 : 末永亮子さん
主 催 : NPO法人エアロームかしわ
                
『智恵子抄』に象徴される「高村光太郎と智恵子の愛」を取りあげてみました。
―あなたは私の半身です―
 というほどに智恵子を求めた光太郎と
―唯ひたむきに、芸術と光太郎とへの愛によって生きていた―
 という智恵子の「愛の生活」を考えてみましょう。
 もちろん、フェミニズムの視点も見逃せません。

当日直接会場へご参加ください。出入り自由です。
和気あいあいとした雰囲気の中で話し合い、情報交換もします。
 
同じ千葉県内ですので、行ってみようかなと思っています。ただ、その日はその足で福島は二本松に一泊、翌日、智恵子のまち夢くらぶさんの研修旅行で女川に行くことになっており、少々強行軍になりそうです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月10日007

平成6年(1994)の今日、明石書店から藤原牧子著『『智恵子抄』を訪ねる旅』が刊行されました。
 
藤原さんは兵庫で女性牧師を務めていらっしゃり、連翹忌にもご参加いただいていた方です。平成11年(1999)に亡くなられました。
 
題名の通り、『智恵子抄』及び『智恵子抄その後』の故地、二本松、九十九里、駒込染井霊園、岩手花巻などを歩かれたレポートです。

先週、大阪は堺で与謝野晶子の命日の集い、第32回白桜忌に行って参りまして、今週末には東京・日暮里にて「ひとりオペラ「与謝野晶子みだれ髪」」を聴きに行って参ります。このところ与謝野晶子がマイブームです(笑)。
 
そこで、一昨日、居住地の千葉県北東部で与謝野晶子巡りをしてきました。
 
まずは成田市の成田山書道美術館さん。今月15日(日)まで、以下の企画展を開催しています。

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「収蔵優品展 ―書における文学とは何か―」展

期 間 : 平成26年5月3日(土)~6月15日(日)まで
時 間 : 9:00~16:00(最終入館は15:30)
主 催 : 成田山書道美術館/千葉県書道協会
後 援 : 千葉県・千葉県教育委員会・千葉市教育委員会・千葉日報社・全日本書道連盟
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人500円(350円) 高・大学生300円(200円) 中学生以下無料 
         ※( )内は20名以上の団体料金
開催要項
 古来書の名品と仰がれる遺墨には、名家の書状や各種の銘文などとともに、文学作品の写本を挙げることができます。書と詩歌は、古来、不離の関係を保ってきました。尾上柴舟や松井如流のように詩歌の世界に足跡を遺した書の名家も少なくないとともに、夏目漱石や川端康成のように文学者であると同時に熱心に書に取り組んだ人物もいます。
 今回の特集展示では、文学者の書に注目するだけではなく、文学作品と書の関係についても俯瞰できる作品を出品します。両者の関係を改めて検証する機会となれば幸いです。
 また、 今回61回展を迎える千葉県書道協会展を同時開催致します。魅力あふれる千葉の書を存分にお楽しみください。
 
出品一覧的なものはサイトにも載っ006ていませんし、会場でも印刷物になっていないということでしたが、晶子をはじめ、尾崎紅葉、 島崎藤村、会津八一、夏目 漱石、 高浜虚子、河東碧梧桐、正岡子規、尾上柴舟、若山牧水、川端康成らの書が並んでいます。もしかしたら光太郎も、と思っていましたが、残念ながらありませんでした。
 
晶子の作品は、色紙に揮毫した短歌でした。

 しらじらと河原の見ゆる木のまよりかなしきはなし春の夕に
 
大正5年(1916)刊行の『朱葉集』に、初句が異なる
 
ほの白き河原の見ゆる木の間よりかなしきはなし春の夕に
 
という歌が載っています。
 
漱石あたりのキャプションに、近代の文人たちが、近代化、西洋化して行く世相の中で、自らの立ち位置を再確認するためにも進んで書に取り組んだのであろう、といった説明がなされていて、なるほど、と思いました。
 
続いて、当方居住地の香取市に戻り、利根川河畔に。同市津宮(つのみや)地区に晶子の歌碑があります。 
 
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明治44年(1911)初夏、晶子は銚子から船で利根川を007遡上、このあたりで宿泊したようで、その際に詠まれた歌が刻まれています。
 
かきつばた香取の神の津の宮の宿屋に上る板の仮橋
 
この歌は、翌年に刊行された晶子歌集『青海波』に収録されています。この『青海波』、扉のデザインは光太郎です。
 
香取市の名称は市内にある「香取神宮」に由来します。全国に点在する香取神社の総本社で、歴史は古く、平安時代の「延喜式」には「神宮」の名がついた神社は、伊勢神宮、香取神宮、そして同一地域の鹿島神宮の三社しかありません。
 
津宮地区は、香取神宮に参拝するため水路で来た場合、上陸する地点でした。現在も晶子碑周辺には鳥居がありますし、市指定文化財の常夜灯が残っています。ただ、宿屋は現存しません。
 
 
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近くには昭和20年代に建てられた古い郵便局の建物。現在はその隣が普通の郵便局です。いい感じにレトロです。
 
歌に「かきつばた」とありますが、香取市は隣接する茨城県潮来市ともども、あやめ(かきつばた、花菖蒲)の名所です。先週末から市内の水生植物園を中心に「あやめ祭り」が開催中。
 
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晶子も歌に詠んだ佐原のあやめ、ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月2日

昭和48年(1973)の今日、文治堂書店から光太郎の実弟・高村豊周の歌集『清虚集』が刊行されました。
 
 
豊周は鋳金の分野で人間国宝でしたが、短歌にも大きな足跡を残し、昭和39年(1964)、歌会始の儀で召人を務めた他、生前に『露光集』(昭35=1960)、『歌ぶくろ』(同41=1966)、『おきなぐさ』(同44=1969)、の三冊の歌集を上梓しました。
 
『清虚集』は、豊周の一周忌を記念して編まれた遺稿歌集。光太郎・豊周兄弟と親交の深かった草野心平が跋文を書いています。

GWということで、近場ではありますが、女房孝行に軽く出かけて参りました。行き先は銚子。当方は生活圏ですが、妻はめったに銚子まで足を伸ばしません。
 
まず市内中心部にある妙福寺さんというお寺に行きました。鎌倉時代開山の古刹。樹齢750年という藤の古木が有名で、ちょうど花の盛りです。龍が地に臥している姿に似ているという事で「臥龍の藤」と名付けられています。
 
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昨日と今日、「藤まつり」なるイベントも開催中でした。東日本大震災被災者慰霊も兼ねており、境内でコンサートがあったり、神輿が出たりというイベントです。コンサートはパスしましたが、神輿にはちょうど行き会いました。
 
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東日本大震災では、銚子でも津波に遭い、幸い、死者は出ませんでしたが、マリーナなどは甚大な被害を受けました。その後、観光客が激減、老舗のホテルが廃業に追い込まれたりしました。現在も家屋の修復等、まだまだです。
 
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妙福寺さん、本堂では僧侶の方々や一般の皆さんも混じって、読経祈願がなされていました。本当に少しでも早い復興を望みます。
 
続いて近くにある浄国寺さんというお寺に。こちらには光太郎と交流のあった銚子出身の詩人、宮崎丈二の墓があります。以前から一度お参りしたいと思っていましたが、なかなか果たせず、初めての墓参でした。光太郎の代参のつもりで手を合わせてきました。
 
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墓石に書かれているのは宮崎の自筆。「心月孤円」と読みます。道元禅師の言葉だそうです。
 
宮崎は明治30年(1897)、銚子の生まれ001。生家は材木商や茶の輸出も手がけていたそうです。「丈二」という名は、父・清兵衛が、尊敬する合衆国初代大統領、ジョージ・ワシントンからとったとのこと。大正時代に中央大学、専修大学などに通いましたがともに中退。岸田劉生らの草土社に参加し、まず画家として名をなしました。
 
大正9年(1920)、千家元麿らと詩誌「詩」を創刊し、さらに同じく詩誌「太陽花」「河」を創刊。このころから光太郎との交流が始まります。「太陽花」「河」ともに光太郎も寄稿者の一人でした。
 
晩年、昭和40年(1965)に銚子に帰り、同45年(1970)に歿するまで銚子に住み、絵を描き、詩を書いていました。
 
銚子でも宮崎の名は忘れられつつあるようです。少し前までは市内の青少年文化会館というホールのロビーに、郷土の偉人ということで、宮崎のコーナーもあって、光太郎からの書簡なども展示されていたのですが、先月、同館に行ったところ、別の展示に変わってしまっていました。残念です。
 
さて、浄国寺さんを後にして、ぶらぶら歩きました。ヤマサ醤油の工場裏手の銚子電鉄仲ノ町駅付近では、ちょうど銚子電鉄に行き会いました。
 
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かつて京王線で走っていた2000系という緑色の車両。当方、子供の頃に東京多摩地域に住んでいた時期があり、よくこのタイプの緑の車両に乗りました。
 
意外と乗客も多く、妙福寺さんの藤まつりもだいぶにぎわっていましたし、行き帰りの国道356号もけっこう混雑していました。観光客の皆さんの客足も戻りつつあるようで、何よりです。
 
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「藤まつり」は終わりましたが、まだまだ妙福寺さんの藤は花盛りです。しばらくは夜間のライトアップもあるそうです。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月4日

昭和12年(1937)の今日、詩人の中原綾子に宛てて手紙を書きました。
 
かつて中原に対しては、ゼームス坂病院入院前の智恵子の病状を細かく記した書簡を送っています。77年前の今日の手紙は、中原が小野俊一(かのオノ・ヨーコの伯父)と再婚したことに対するお祝いのメッセージでした。

先日、また音楽関連の用事で銚子に行って参りました。目的地は小畑町の銚子市民センター。公民館的な施設です。ここは、大正元年(1912)に、光太郎と智恵子が愛を確かめ合った犬吠埼にほど近く、せっかくですので用件が終わった後、犬吠埼まで足を伸ばしました。ま、このブログのためのネタ稼ぎです(笑)。
 
光太郎智恵子がしばらく滞在した宿は「暁鶏館」。経営は変わりましたが、今も残っています。
 
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ただ、ひらがなで「ぎょうけい館」と改称しています。しかし正面玄関には昔ながらの漢字のロゴ。
 
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公式サイトの他、「ゆこゆこネット」「近畿日本ツーリスト」など、あちこちの観光サイトで、やはり光太郎智恵子ゆかりの宿として紹介されています。
 
戦前の絵葉書がこちら。
 
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宿の目の前には太平洋の荒波が押し寄せています。
 
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中央がぎょうけい館。右手の大きな建物は別のホテルでしたが、廃業してしまいました。東日本大震災以降、観光客が減少した影響です。
 
ぎょうけい館前の波打ち際には、こんな遺構が残っています。
 
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この石組みは、生け簀の跡です。昔はここに魚を泳がせておき、宿泊客に供したとのこと。現在は使用されていません。
 
振り返れば犬吠埼灯台。
 
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ぎょうけい館からは、徒歩5分ぐらいでしょうか。
 
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灯台入り口手前の丘の上には、光太郎と親しかった佐藤春夫の詩碑があります。
 
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光太郎智恵子がここを訪れた前年、佐藤は与謝野鉄幹らと犬吠を訪れ、「犬吠埼旅情のうた」という詩を作りました。その一節が刻まれています。
 
佐藤と光太郎が親しくなるのはもう少し後なので、光太郎は鉄幹あたりから犬吠の魅力を教えてもらったのではないでしょうか。
 
ぎょうけい館は灯台の南。灯台を挟んで反対の北側は君ヶ浜。光太郎智恵子はこの浜も歩いています。
 
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逆にぎょうけい館から南下していくと、光太郎の詩「犬吠の太郎」に登場する太郎こと阿部清助の墓もあります。
 
銚子も震災の影響を受け、低迷しています。春の観光シーズンです。ぜひお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月11日

明治40年(1907)の今日、智恵子が日本女子大学校家政学部を卒業しました。
 
4月のこの時期に卒業式というのはちょっと変わっているな、と思いました。下記は平成23年(2011)、群馬県立土屋文明記念文学館での企画展「『智恵子抄』という詩集」の図録から拝借しました。智恵子卒業写真です。
 
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この後も智恵子は郷里に帰らず、東京にとどまって油絵を続けます。知人を頼って色々な先輩芸術家を紹介してもらったりし、そうした中で明治44年(1911)に、光太郎と知り合うことになるのです。犬吠行きはその翌年でした。
 
2016/3/13追記 上記写真、中央に広岡浅子が写っていました。

一昨日になりますが、千葉県東端の銚子に行って参りました。といって、生活圏なので、時々行くのですが……。昨日のブログにもちらっと書いたとおり、当方、合唱をやっており、その関係です。
 
目的地は市内中心部、新生町にある公正市民館というところ。公民館的な施設です。銚子を代表する企業・ヤマサ醤油の10代目濱口儀兵衛が大正末に建て、戦後になってから市に寄贈されました。大正末の建築ということで、レトロな感じがたまりませんね。
 

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道路を挟んで目の前がヤマサ醤油の本社工場、そしてその東隣に、かつては国鉄貨物線の駅がありました。現在は「中央みどり公園」となっています。
 
こちらには、光太郎と縁の深い詩人・黄瀛(こうえい)の詩碑があります。
 
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黄瀛は明治明治39年(1906)、清朝末期の中国重慶で中国人の父と日本人の母の間に生まれました。幼くして父と死別、その後、母の実家のあった、銚子にほど近い八日市場(現・匝瑳市)に移り、尋常小学校を終えました。しかし日本国籍でなかったため、公立の上級学校には進学できず、東京の正則中学校、さらに中国青島の日本中学校に移ります。そして彼の地で、嶺南大学に留学中の草野心平と知り合い、心平が創刊した雑誌『銅鑼』に参加、さらに日本の詩誌への投稿などを盛んに行うようになりました。
 
大正14年(1925)には再び来日、やはり詩人の中野秀人を通じて光太郎と知り合います。光太郎は黄瀛を気に入り、彫刻のモデルに起用しました。右の画像です。ただし、この彫刻は現存しません。また、後に昭和9年(1934)に刊行された黄瀛の詩集『瑞枝』の序文を書いてやったりしています。さらに、与謝野夫妻も関係していた文化学院に黄瀛が入学する際、光太郎が保証人になっています。
 
遅れて帰国した心平を光太郎に引き合わせたのが黄瀛。さらに宮澤賢治を含めて交流が続きます。黄瀛は昭和4年(1929)、晩年の賢治を花巻に訪ねています。
 
その後、昭和12年(1937)には日中戦争が勃発、黄瀛は帰国します。南京に成立した汪兆銘の中華民国国民政府の宣伝部顧問として中国にいた草野心平と、終戦の年に再会。この時点で黄瀛は国民党の将校として、日本人の接収業務に当たっていました。李香蘭(山口淑子)の帰国も黄瀛の骨折りだったそうです。心平は、光太郎から貰った智恵子の紙絵などを没収されることを懼れ、黄瀛に託しました。
 
その後、昭和24年(1949)に中華人民共和国が成立すると、国民党将校だった黄瀛は投獄され、昭和37年(1962)まで監禁。この際に心平から託されたもろもろのものは行方不明になりました。さらに出獄後すぐ、文化大革命が起こり、再び入獄。解放されたのは実に昭和53年(1978)のことでした。昭和59年(1984)にはほぼ半世紀ぶりに来日、晩年の心平と再会を果たしました。
 
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銚子に詩碑が建てられたのは平成12年(2000)。碑文は「銚子ニテ」という詩の一節です。
 
  風ノ大キナウナリト
  利根川ノ川波
  潮クサイ君ト僕ノ目
  前ニ荒涼タル
  阪東太郎横タハル
       黄瀛
 
昭和4年(1929)の作で、銚子在住だった詩人の関谷祐規を訪ねて銚子を訪れた際に書かれた詩だそうです。
 
「阪東太郎」は正しくは「板東太郎」で、利根川の別名です。
 
下記は詩碑建立の際の新聞記事。
 
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記事にもあるとおり、除幕式の際には黄瀛本人がまた来日しました。
 
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ぜひお会いしたかったのですが、都合がつかず、果たせませんでした。残念です。
 
この後、平成17年(2005)に、中国重慶で白血病のため死去。享年98歳の大往生でした。
 
銚子には、大正元年(1912)に光太郎智恵子が逗留し、愛を確かめた宿「暁鶏館」(現・ぎょうけい館)もあり、黄瀛以外にも光太郎と縁の深い文人が訪れたり、出身だったりということもあります。また、折を見てそのあたりをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月25日
 
昭和30年(1955)の今日、岩波書店から岩波文庫の一冊として『高村光太郎詩集』が刊行されました。
 
光太郎自らが校訂した最後の選詩集です。編集は美術史家の奥平英雄でした。

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気がつけば12月も中旬。年の瀬の雰囲気が漂ってきましたね。
 
1月に行われるイベント等をいくつか把握していますが、来年の話だからまだいいか、と思っていましたが、考えてみればあと半月で来年なのですね。
 
まずは元旦に行われるイベントです。  

片貝中央海岸 初日の出 九十九里町元旦祭

昭和9年(1934)、智恵子が半年余り療養のため滞在し、詩集『智恵子抄』中の「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」などの歌枕となった九十九里浜でのイベントです。
 
観光スポット・イベント情報サイト「じゃらん」から。
 
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片貝中央海岸では、太平洋の地平線から昇る初日の出を見ることができます。九十九里町は見渡す限り果てしなく続く九十九里浜の中央部に位置し、太平洋の海原が一望できます。午前5時30分頃から、甘酒やいわしの丸干しが集まった人々に無料で配られます。
 
開催場所:千葉県九十九里町 片貝中央海岸
所在地:〒283-0104 千葉県九十九里町片貝
交通アクセス:JR東金線「東金駅」から片貝線のバス約25分「西の下」~徒歩10分、または東金九十九里有料道路「九十九里IC」から車約5分
開催期間:2014年1月1日 5:30~
主催:九十九里町観光協会
 
「人気の周辺観光スポット」ということで、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑も紹介されています。ただ、イベントの行われる地点から3㎞ほど離れているようですが。
 
 
主催の九十九里町観光協会さんのサイトから。

九十九里町のビックリ鏡餅イベント開催!!

「もういくつ寝ると、お正月~♪」こんな歌がそろそろ聞こえてくる時期となりました。
 九十九里町では、これからの正月の時期に様々なイベントを開催いたします。今年で9回目を数える「もちつき大会」。前回以上の出来栄えを目指し、もちつきに参加してみませんか。また、その他イベントを掲載いたしますので、ご確認ください。
 
元旦祭
  ・日 時  平成26年1月1日(水・祝) 午前5時30分
  ・場 所  片貝中央海岸
  ・問合せ  九十九里町観光協会 TEL 0475-76-9449
 
その前後に行われる「大もちつき大会」「006大鏡開き」とあわせて紹介されています。
 
大もちつき大会
日時 平成25年12月23日(月・祝) 午前9時
会場 JA山武郡市片貝支所
大鏡開き
日時 平成26年1月13日(月・祝) 午前10時
会場  九十九里町商工会前駐車場


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九十九里周辺は、緯度・経度の関係で、離島を除く日本本土でもっとも早く初日の出が見えるスポットです。しかも東は広大な太平洋。水平線から昇る初日の出を見ながら、光太郎智恵子に思いをはせるのもいいのではないかと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月14日

明治19年(1886)の今日、光太郎一家が下谷区仲御徒町に転居の登記をしました。
 
それ以前は、同じ下谷区の西町(現・東上野)に住んでいました。この後、やはり下谷区の谷中町を経て、本郷区駒込千駄木林町に移ることになります。

過日、昭和9年(1934)に智恵子が療養した九十九里を訪れ、帰ってからネットでその近辺についてもう一度調べました。
 
すると、智恵子に関しいろいろと情報を載せている「阿多多羅山」というサイトがあり、それにより意外な事実がわかりました。以下、抜粋させていただきます。

海岸通りの県道に面して「智恵子療養の跡地」と墨で書かれた白い標柱が立っています。ここに智恵子が療養していた「田村別荘」があったといわれています。精神分裂症が悪化した智恵子は、昭和九年一九三四)五月から十二月まで、転地療法のため母や妹家族と一緒にこの家に住んでいました。智恵子一家が去った後の「田村別荘」は、地元の人が買い取り、対岸の大網白里町へ移された後「智恵子抄ゆかりの家」として再築して保存されました。
 
しかし、年月が経ち、訪れる観光客も少なくなった一九九七年頃、前夜の強風雨で家屋が被害を受けたのを機に、取り壊わされて跡形もなくなりました。
 
「智恵子抄ゆかりの家」は取り壊わされましたが、「田村別荘」が本来あった真亀納屋の住居跡に、田村別荘跡を示す白木の標柱を建て、史跡を守ろうとする人がいました。
九十九里町役場に隣接する「九十九里いわし博物館」に勤める町臨時職員で学芸員の永田征子(元高校教諭)です。当時、智恵子が療養していた田村別荘跡は、現在プチホテル「グリーンハウス」とテニスロッジ「あぶらや」が経営するテニスコート場内にありました。テニスコート場の中間に残された低い土塁あたりが、当時智恵子の療養していた田村別荘のあった場所だそうです。当時、ここは黒松の防風林で、田村別荘から漁師の藁葺屋根の先に、九十九里の波打ち際が見えたと言われています。
 
永田征子は地主の了解を貰い、九十九里町教育委員会の協力を得て、記念の標柱を製作し建てることにしました。二〇〇四年七月二十九日夕方、地主に立ち会ってもらい、永田は「ここに建てさせていただきたいのですが」と、テニスコートの入口で県道に面した場所を決めました。その場で、教育委員会の係員の手で、「智恵子療養の跡地」と筆文字で書かれた木製の白い標柱が建てられたのです。
 
 その翌日の七月三十日朝、「九十九里いわし博物館」内で、ガス爆発事故がありました。博物館の一部が大破し、書庫で仕事をしていた永田征子はその事故で即死したのです。千葉県警の調べでは、爆発現場とされる文書収蔵庫の床下の数カ所からガスの成分が噴き出していて、爆発原因は地面から噴き出た天然ガスの可能性が高いとみられています。
 
  光太郎の詩碑「千鳥と遊ぶ智恵子」や、「智恵子療養の跡地」の標柱などは、千鳥の遊ぶ浜辺と共に、今も九十九里町に人々に大切にされています。

 
驚きました。九十九里いわし博物館での爆発事故は、同じ千葉県内ということもあり、記憶に残っていましたが、その時亡くなった方が智恵子顕彰の活動をされていたとは存じませんでした。さらに、過日見てきた標柱ができた翌日に事故に遭われていたとは……。
 
ちなみに爆発事故を報じた当時の報道の抜粋です。 

千葉・九十九里のいわし博物館で爆発 1人死亡1人重体 

 30日午前8時57分ごろ、千葉県九十九里町片貝、町立の「九十九里いわし博物館」で爆発が起きた、と隣接する町役場から119番通報があった。山武郡市消防本部によると、鉄筋コンクリート平屋建て約800平方メートルの屋根の一部が吹き飛び、壁が崩れた。同館の臨時職員で、同町西野の川島秀臣さん(63)が全身に大やけどを負って旭中央病院に運ばれたが重体。同じく同館臨時職員で、同県東金市求名の永田征子さん(66)とみられる女性1人ががれきの下から発見されたが、全身を強く打っており死亡した。
  同町役場によると、開館は午前9時で、爆発が起きた時、館内には8時半に出勤した職員2人がいたという。
 現場は町の中心部。隣にある九十九里町役場では、「ドーン」という大きな音がして、席に座っていた職員たちもビリビリという震動を感じた。職員が驚いて見に行くと、博物館から白い煙が上がり、20センチほどのコンクリート片が駐車場などに散乱していた。
 
 
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最初は爆発の原因がわからなかったのですが、続報によれば……
 
爆発を引き起こしたのは、横浜・川崎の湾岸地域から千葉県にかけての関東平野南部地域に広がる「南関東ガス田」の天然ガス。千葉県警は、地表にわき出た天然ガスが文書収蔵庫のコンクリート床の亀裂から室内に入り充満、引火して爆発したとみている。
 
とのことです。
 
9年前の事故ですが、改めてご冥福をお祈りいたします。

ちなみに在りし日の田村別荘、こんな感じでした。最後の画像は取り壊された直後。この時点ではサボテンの木が残っていましたが、もうありません。


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【今日は何の日・光太郎】 6月22日

昭和27年(1952)の今日、裸婦像建造のための十和田湖視察を終え、花巻郊外太田村山口の小屋に帰りました。

【今日は何の日・光太郎】 6月21日

昭和9年(1934)の今日、九十九里浜で療養していた智恵子のもとに、光雲から貰ったメロンを送りました。
 
『高村光太郎全集』第21巻に、以下の書簡(はがき)が掲載されています。
 
昭和9年6月21日 千葉県山武郡豊海村真亀 田村別荘内 斎藤様方 長沼せん子様 駒込林町二五より
 
 今日父の家からメロンを一個もらひましたので小包でお送りしました。包は大きいけれど中は一個だけです。二十三日頃が喰べ頃です。東京は又晴天となり真夏のやうです。それでも此頃はおかげで彫刻が出来るので助かります。
 
宛名の「千葉県山武郡豊海村真亀」は、現在の山武郡九十九里町。「斎藤様」は智恵子の妹・セツ夫妻。「長沼せん子」は智恵子の母です。
 
統合失調症が悪化した智恵子は、この年5月から12月まで、セツ夫妻が住んでいた九十九里で、斎藤一家、母・センと療養生活を送りました。光太郎はほぼ毎週、東京から九十九里に見舞いに訪れていたそうです。
 
そして79年前の今日、九十九里にメロンを送ったとのこと。
 
だから、というわけではありませんが、一昨日、九十九里町に行って参りました。隣接する東金(とうがね)というところに光太郎とは無関係の用事があり、それを済ませてからついでに行った次第です。
 
同じ千葉県内でも、九十九里町は生活圏ではありません。九十九里浜の北端あたりは時折行くのですが、九十九里町はかなり南の方なので、めったに行きません。考えてみると、数年前に二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」さんの研修旅行でガイド役をやって以来の訪問でした。
 
東金の台方ICから東金九十九里道路に乗り、東へ。まずは九十九里ICで下りる直前にある今泉PAに寄りました。ここには平成10年(1998)に建立された光太郎・智恵子の像があります。
 
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制作は日展作家の久保田俶通氏。光太郎・智恵子それぞれの単体の像は日本各地に結構ありますが、二人を群像にしたものはこれが唯一です。
 
今泉PAを後に、九十九里ICで下りると、目の前は国民宿舎・サンライズ九十九里です。その裏手に、昭和36年(1961)建立の「千鳥と遊ぶ智恵子」碑があります。
 
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光太郎の肉筆を拡大して石に刻んだもので、地元の文学愛好者や草野心平の骨折りで建てられました。建立当初はこの碑から九十九里浜が望める位置関係だったのですが、その後、碑と海岸線の間に九十九里波乗り道路が出来てしまい、残念な状況です。現在は碑の近くからトンネルをくぐらないと浜にたどり着けません。
 
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一昨日は風が強く、海もだいぶしけていました。
 
さらにサンライズ九十九里前の県道を南下し、真亀川にかかる橋を渡った大網白里町に、智恵子が療養していた「田村別荘」がかつて移築・保存されていました。しかし、地元でのさまざまな行き違いから、平成11年(1999)に突如解体されてしまいました。これも残念です。
 
さて、今回の九十九里行きは、この「田村別荘」が移築される前、もともと立っていた場所を探訪しようと思い立ってのことでした。恥ずかしながら、その元の場所をこれまで確認していませんでした。
 
少し前に、他の方のサイトで県道沿いのテニスコート付近、という情報を得ていましたので、碑の近くの適当なところに車を駐めて歩き、探してみました。民家の軒先では魚の干物制作中。さすが九十九里浜です。
 
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すると、サンライズ九十九里のはす向かい辺りにテニスコートがあり、そこに標柱が立っていました。
 
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以前は碑の近く、県道の東側を一生懸命探して見つからなかったのですが、逆に県道の西側でした。
 
ここだったのか……と、感慨深いものがありました。

平成30年(2018)追記 この標柱も無くなってしまいました。
 
その後、ちょうど昼時だったので、近くの海鮮料理店に行き、昼食。焼肉店のように各テーブルにコンロがあり、自分で頼んだものを焼くシステムになっている店でした。当方が頼んだのは本蛤(はまぐり)何とかセット(笑)。
蛤×4、イワシ2尾、ホタテとサザエが一つずつ。さらに別メニューで焼きおにぎりも注文しました。
 
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これで2,000円ちょっと。安くはありませんが、十分元は取れる内容です。とにかく美味。満足して帰って参りました。
 
帰ってから、さらにネットで調べたところ、他の方のサイトで意外な-ある意味感動的な-記述を見つけました。明日はそのあたりを書こうと思っています。

成田市に「三里塚記念公園」という000場所があります。「三里塚」という地名で、一定以上の年代の人はピンと来るかと思いますが、空港の近くです。先日、隣町・成田市に買い物に行った際、市街地から少し足を伸ばして立ち寄ってきました。
 
このあたり一帯は江戸時代には幕府が直轄していた馬の放牧場でした。明治に入り、文明開化の流れの中で牧羊が始められ、光太郎が生まれた明治16年(1883)には宮内省直轄化、同21年(1888)には宮内省御料牧場となりました。
 
その後、空港建設のため昭和44年(1969)に閉鎖されるまで存続しました。
 
閉場後は敷地の一部が記念公園として整備され、皇室の方々がお泊まりになった貴賓館(写真上)、明治期に植えられた日本では珍しいマロニエ(栃)の並木(写真下)などが遺されています。当方が訪れたとき、ちょうどマロニエの白い花が咲いていました。秋には子供のこぶし大の実がなります。
 
大正13年(1924)、光太郎の親友・水野葉舟がこの付近に移り住み、光太郎も何度かこの辺りを訪れており、同じく大正13年には御料牧場の馬を謳った「春駒」という詩も作っています(またのちほど紹介します)。
 
公園内にはその春駒の自筆原稿をブロンズに拡大鋳造した詩碑、葉舟の短歌を刻んだ歌碑も立っています。葉舟の歌碑は、もともと最晩年の光太郎が揮毫を依頼され、一度は引き受けたのですが、健康状態がそれを許さず、代わりに久保田空穂が筆を執りました。
 
また、公園として整備された際に建てられた小さな記念館には、葉舟や光太郎にかかわるミニ展示もなされています。
 
もう一人、光太郎と縁の深い人物として、明治末に吉原河内楼の娼妓・若太夫を奪い合った恋敵・木村荘太(作家。画家・荘八の兄)も大正期にこの付近に移り住んでいました。記念館には荘太に関わる展示もあります。
 
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生活圏内なので、何度もここには行きましたが、今回、新たに一昨年から一般公開が始まった貴賓館裏手にある戦時中の防空壕を見せていただきました。以前はこんなものが遺っていたことすら知りませんでした。
 
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御料牧場ということで、やんごとなき方々のために作られたものです。したがって、一般の防空壕とは比較にならないほどのとんでもなく堅牢な造作になっており、コンクリートは厚さ70㌢、直撃弾を喰らった際の爆風逃がしなども整備されています。防空壕というより、シェルターです。ちなみに施工は今も続く大手建設会社・間組です。
 
しかし、戦時中にやんごとなき方々が御料牧場にいらしたというはっきりした記録もないそうですし、実際には成田には空襲はありませんでしたので、この壕は使用されずじまいでした。
 
防空壕といえば、光太郎のすぐ下の弟・道利は戦時中に誤って防空壕に転落した怪我が元で亡くなりましたし、光太郎自身も東京のアトリエを焼け出されて疎開した花巻の宮澤賢治生家でも空襲に遭い、宮澤家の皆さんの機転で、光雲の遺品や身の回りの品々、賢治の遺品なども防空壕に入れたおかげで無事だったという逸話があります。壕の中を歩きながらそんなことを思い出し、改めて光太郎の生きた激動の時代に思いをはせました。
 
というわけで三里塚記念公園。ぜひ一度、足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月9日

昭和42年(1967)の今日、丸の内ピカデリーで開かれていた松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻主演)の完成記念特別披露公開が最終日を迎えました。

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