昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」。
 
冒頭の幼少年期の思い出に続き、明治39年(1906)から同42年(1909)にかけての海外留学に関する話が続きます。まずは渡米。
 
これに関しては、既知の光太郎作品や年譜に書かれている以上のことはほとんどありませんでした。すなわち、
 
・明治39年2月に横浜を出航したこと。目的地はカナダのバンクーバー。
・カナダ太平洋汽船保有の「アセニアン」という小さな船に乗ったこと。
・荒天の連続でアリューシャン方面まで迂回し、長い船旅になったこと。
・波に揉まれ、船員まで船酔いになるほどだったこと。
 
などです。これらはくり返し色々な文章で述べられていることです。ただ、2点だけ、既知の作品や年譜に見当たらなかったことがありました。
 
一点目は「陸地近くなつた頃、流木が船に衝突して食堂のボオトホオルの厚ガラスを破り、海水が一度に踊り込んで来て大騒ぎした事がある」というエピソードです。
 
もう一点は、船がバンクーバー直行ではなく、ヴィクトリア経由であったことです。「程なくヴクトリヤを経て目的地へ無事についた。」という記述がありました。
 
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この点について調べてみたところ、明治34年(1901)9月13日の「官報」に以下のように書いてありました。「当港」はバンクーバーを指します。
 
新旧船共孰モ当加拿陀ヴ井クトリヤヘ寄港セル加拿陀太平洋鉄道会社ニテモ今船香港ヴァンクーヴァル線ニ向ヒテ従前ノ三「エムプレス」ノ外汽船「ターター」(総噸数四千四百二十五)及「アセニアン」(総噸数三千八百八十二)ノ二艘ヲ増航セシムルコトニ決定シ「ターター」は八月十四日香港ヲ、九月二十日当港ヲ発シ、「アセニアン」ハ同四日香港ヲ、十月十三日当港ヲ解纜スル予定ナリ
 
実際、カナダ太平洋汽船の航路はヴィクトリア経由でした。ただ、寄港したヴィクトリアで光太郎が下船したかどうかは不明です。したがって、これから論文、評伝等を書かれる方は、「光太郎はバンクーバーで初めて北米の土を踏んだ」といった断定的な書き方をすると誤りかも知れませんので気をつけて下さい。
 
それから、「アセニアン」、当方は勝手に横浜~バンクーバー間を航行する船だと思いこんでいましたが、実は香港~バンクーバーの航路で、横浜は寄港地の一つです。そこで、これもこれから論文、評伝等を書かれる方は気をつけてほしいものです。「横浜を出港したアセニアン」なら問題ありませんが、「横浜から出航したアセニアン」と書くと誤りです。細かい話ですが。
 
ちなみに「アセニアン」。スペルは「ATHENIAN」。光太郎の書いたものでは「アゼニヤン」となっていますが、現在では「アセニアン」と表記するのが一般的なようです。「イタリア」を昔は「イタリヤ」と書くこともあったのと同じ伝でしょう。
 
その他、特に新しい事実、というわけではありませんが、「アセニアン」についていろいろ調べてみて、「ほう」と思うことがいろいろわかりました。明日はその辺を。