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2月も後半となりまして、当方自宅兼事務所のある千葉県は、まだ寒さが残るものの、そちこちで春の気配が漂っています。愛犬の散歩中、今年初めて冬眠から覚めたカエルに遭遇しましたし、裏山では梅が満開です。

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しかし、東北や北陸などの雪国では、まだまだ雪深い状態のようですね。青森に住む友人からのLINEでは、「雪で庭がない」とありました(笑)。

雪国からの新聞記事等を3件。

まずは『福島民報』さん。同社の主催で一昨年に始まった、光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」の語を冠したイベント「ふくしま ほんとの空プログラム」関連です。  

多彩な雪遊び満喫「ほんとの空プログラム」 郡山湖南

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 豊かな自然環境で子どもの好奇心や探究心を育む
活動「ふくしま ほんとの空プログラム~雪まみれになって遊ぼう!!」は十日、郡山市湖南町のホールアース自然学校福島校などで開かれた。
 県内外から集まった小学生とプログラムサポーターのタレント長沢裕さん(伊達市出身)が参加した。旧福良小の校庭でソリ滑りや雪だるま作り、雪に寝そべり人の形を作るなど雪遊びを満喫した。雪合戦では雪玉を投げ合い、白熱した戦いを繰り広げた。参加者全員で力を合わせて、かまくらを作り、白銀の世界を楽しんだ。
 餅つき体験も催され、子どもが餅をついた。出来上がった餅は雑煮に入れたり、あんこ、きな粉などにあえたりして味わった。
 長沢さんは「最初は寒くて動けるかなと思ったが、みんなと大自然の中でいっぱい走って叫んで遊ぶことができて楽しかった」と笑顔を見せた。
 プログラムは福島民報社の主催、オーデン、花王、城南信用金庫、常磐興産、大王製紙、テーブルマーク、日本シビックコンサルタント、日本ファイナンシャル・プランナーズ協会の協賛。


続いて、青森。『東奥日報』さん。開催中の「十和田湖冬物語2019」について。 

昼は雪遊び、夜はイルミネーションの幻想世界 「十和田湖冬物語」24日まで

 十和田湖畔休屋地区で連日多彩なイベントが繰り広げられる「十和田湖冬物語」。光に彩られた白銀の世界で、カップルや家族連れがキャッチフレーズ通り、冬と遊んでいる。会期は24日まで。


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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップ、幻想的ですね。昨年お邪魔した際は、像の周辺は地吹雪で、遭難するかと思いましたが(笑)。


最後に『新潟日報』さん。同紙は一面の題字(会津八一揮毫)の脇に、新潟ゆかりの詩人・堀口大学の短句を載せる「堀口大学 文化の記憶」というコーナーがあり、2/14掲載分が、詩「光太郎詩人の写真に題す」 の一節でした。

堀口大学 文化の記憶

深雪(みゆき)の中のこの老詩人 ひとり暮しはおさびしからう 深雪の中のこの老詩生

末行「妻子かかへて凍えてゐるに」に続く詩「光太郎詩人の写真に題す」。老詩人は高村光太郎、老詩生は大学。光太郎は岩手山中で独り暮らしていた。


この詩は全4行の短い詩です。堀口自身の回想が残っています。雑誌『短歌研究』第十三巻第五号(短歌研究社 昭和三十一年五月)に載った「白い手の記憶――高村光太郎の思い出――」より。

 終戦後、疎開先の岩手の山奥での憔悴の見える高村さんの雪中の写真を見て、その頃妙高山麓の雪にうもれて難儀していた私は『光太郎詩人の写真に題す』という詩を書き、雑誌にのせたり、自分の詩集に収録したりした。
   深雪の中のこの老詩人
   一人暮しはお淋しからう
   深雪の中のこの老詩生
   妻子かかへて凍(こご)えている
 この詩には、戦後の高村さんの自虐とも言いたいほどな修道僧のような生活ぶりに対する、私なりのクリティックを托したつもりであったが高村さんの目には触れずにしまったようだ。

詩は昭和22年(1947)、柏書院刊の『雪国にて』という詩集に収録されています。

堀口大学(明25=1892~昭56=1981)は詩人、フランス文学研究者。はじめ、与謝野鉄幹・晶子の新詩社に拠って短歌に親炙、慶應義塾大学文学部予科に入学後、『三田文学』に寄稿するなどしました。同い年で同門の佐藤春夫とは、終生、交友を持ち、光太郎とも新詩社で知り合いました。

明治44年(1911)から大正6年(1917)にかけ、元長岡藩士で外交官だった父に従い、中南米、欧州十カ国ほどを転々とし、滞仏中には、画家のマリー・ローランサンとのラブロマンスもあったといいます。また、「白い手の記憶――高村光太郎の思い出――」によれば、海外から光太郎に、ロダン関係の新聞記事や文献などを送ったそうです。帰国後は詩作、仏文学の翻訳で活躍。戦時中から戦後しばらくは新潟県妙高山麓の実家に疎開。昭和25年(1950)に疎開から引き揚げて以降は、神奈川県湘南の葉山町に終生在住しました。

時期的に見て、堀口が見たという光太郎の写真は、『週刊朝日』の昭和21年(1946)の2月24日号あたりに載ったものかな、という気がします。

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左が光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋。今もこの季節、こんな感じなのでしょう。


しかし、雪国もそろそろ春の気配が見えてくる頃だと思います。雪国の皆さん、雪に負けずにがんばって下さい。


【折々のことば・光太郎】

毛皮を身に纏ふ事は元来人間のからだと調和しない。極寒の地に於ける実用のみがその美をゆるす。エスキモオの毛皮はいつでも美しい。暖帯地方の都会風俗にあらはれる毛皮は必ず一種のグロテスクさとさもしさとを示し、ダイヤモンドを五本の指に光らすのと似たいやささへ伴ふ。

散文「毛皮」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

十数年後、自らもエスキモーのようにカモシカの毛皮を身に纏うことになるとは、さしもの光太郎も本気では考えていなかったことでしょう。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

当方の住む関東南部は秋たけなわ。紅葉もこれから見頃です。
 
しかし、北東北はもう冬支度が始まっていることと思います。
 
そういうわけで、岩手花巻の高村光太郎記念館・高村山荘と、青森十和田湖の観光交流センター(愛称「ぷらっと」)が、今月いっぱいで冬期閉鎖に入ります。
 
この冬、花巻や十和田にお越しの皆様、ご注意願います。
 
花巻の記念館の方は、冬期というより、グランドオープンのための改修工事という事情ですが、やはり秋の観光シーズンを終え、冬期をねらったという側面もあるのでしょう。
 
以下、同館サイトからのコピペです。

高村光太郎記念館 リニューアル工事に伴う閉館について

高村光太郎記念館は、光太郎生誕130 年に当たる平成25 年の5 月15 日に旧花巻歴史民俗資料館を活用して暫定的に開館しました。
 
また、平成25 年度に行われた展示設計に基づき、同館では本年度、旧資料庫を含めた建物全体を改修し、より魅力的な展示とするためリニューアルすることとしています。
 
平成26 年12 月1 日より平成27 年4 月中旬まで、記念館は閉館します。      
 
本年12 月より工事を行う予定です。資料等の入れ替えのための期間を含め、本年12月1 日より来年4 月中旬(予定)までの間、高村光太郎記念館は臨時閉館いたします。

大変ご不便をお掛けしますが、ご理解のほどよろしくお願いします。なお、隣接する高村山荘も同期間、冬季閉鎖いたします。
 
閉館中は、まなび学園(生涯学園都市会館)において資料の展示を行います。  
 
高村光太郎記念館の閉館中、まなび学園において同館収蔵資料の一部を展示します。
 
会期は本年12 月上旬からを予定しておりますが、内容や期間など、詳しいことは決まり次第お知らせします。
 
 
来春にはグランドオープンということで、改修計画が進んでいます。より一層充実した施設となることを願ってやみません。
 
 
また、先月、十和田湖畔にオープンした十和田市観光交流センター「ぷらっと」も、11月30日をもって、冬期閉鎖に入ります。
 
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再オープンはやはり来春4月と聞いていますが、こちらはネット上に日時の情報が見つかりません。上記は『広報とわだ』の今月号、オープンの記事です。
 
それぞれ情報が入りましたら、またお知らせします。
 
ちなみに十和田湖といえば、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで、十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)の建立60周年にあたり、記念誌的な書籍の刊行を進めています(当方も一部執筆させていただきました)。同会のサイトで、昨日、その話題がアップされています。ご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月5日
 
昭和27年(1952)の今日、龍星閣『智恵子抄』特装版の製本が完了しました。
 
『智恵子抄』特装版。十和田湖畔の裸婦像制作のため光太郎が帰京した記念、ということで刊行されました。
 
外函のラベルによれば、「最上羊皮丸革朱赤染表装・紺染布函入」、「限定貳百冊」、「但限定貳百冊印刷之内百七十冊製本、参十冊廃棄」、「昭和二十七年十一月五日製本出来」だそうです。
 
こちらが外函。
 
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ぱかっと開けると中函が出てきます。
 
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さらにそれを開けると本体。マトリョーシカ状態です(笑)。
 
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表紙に羊の皮を使っているそうです。昔、この手の皮装本が流行った時期がありました。
 
ところが、奥付を見ると「九月三十日発行」となっています。
 
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一般に、奥付の発行日と、実際に刊行された日が一致しないことは往々にしてありますが、1ヶ月以上もずれているとは、少し不思議です。
 
通常、図書館等のデータは、奥付の日付を公式な発行日とします。しかし、この場合、外函には「十一月五日製本」と明記されています。何だかなー、という感じですね。
 
ちなみに龍星閣さんでは、昭和34年(1959)4月10日には、「皇太子殿下(現・今上天皇)ご成婚記念」で、『智恵子抄』の「紅白版」なるものも出しています。表紙に紅白の布を使っている、というだけですが(笑)。

昨日の朝日新聞「天声人語」欄に、光太郎の名が。ありがたいことです。
 
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元日の「西日本新聞」でもそうでしたが、やはりこの季節、「旬」の詩人というイメージが定着しているのでしょう。
 
同じことを以前にも書いた記憶がありますが、「高村光太郎? 誰、それ?」ということにならないようにしていきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】1月6日

昭和56年(1981)の今日、千葉県立美術館で企画展「高村光太郎、その芸術」が開幕しました。
 
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この項目、時には光太郎没後の事項も採用します。何せ365件のエピソードを見つけなければいけないもので……。

「満目蕭條」という語で、冬の厳しい美と、自分の生き方を重ねた光太郎。
 
一昨日(元日)の西日本新聞さんにはこんなコラムが載りました。
 
冬に題を求めた詩を高村光太郎はいくつも書いた。〈きつぱりと冬011が来た〉で始まる「冬が来た」はよく知られている。そのなかで〈冬よ/僕に来い、僕に来い〉とも書いている
▼「冬が来る」と題した詩もある。〈冬が来る/寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る〉で始まる。「冬の奴(やつ)」という詩にはこんな一節も。〈ああ、冬の奴がおれを打つ、おれを打つ。/おれの面皮をはぐ。〉
▼木々を裸にし、万物に生地をさらさせる冬が、光太郎は好きだった。人の心の風景からも飾りものをはいでいく決然とした寒さを愛した。精神を研がせ、鍛えてくれる厳しさを友とした
▼今冬の日本列島は12月から震えた。冬が来るのも、寒気が厳しさを増すのも、早かった。冬将軍に抱かれて迎える新年は気分がいっそう締まる。暖房の効いた家から抜け出し、澄んだ冷気に洗われながら光太郎の詩を口ずさみたくなる
▼空の下で身一点に感じることができれば万事において文句はない、と書いた詩人もいる。寒空の下で身一点に感じるものがあれば、正月と向き合う心の背筋が張る。モノがあふれる現代では、そぎ落としたい精神のぜい肉を誰しも少なからずまとっている
▼光太郎は「冬の言葉」と題した詩で〈冬が又(また)来て天と地とを清楚(せいそ)にする。〉ともつづった。詩人に倣って構えていえば、新年がまた来て天と地とを清楚にする。そして、人には皆、正月はきっぱりとやってくる。
=2013/01/01付 西日本新聞朝刊=
 
「人には皆、正月はきっぱりとやってくる。」その通りですね。皆さんはどのようなお正月をお過ごしでしょうか。テレビでは被災地の正月の風景がよく流れています。
 
あらためて、今年一年が良き年であることを祈ります。
 
【今日は何の日・光太郎】1月3日

明治34年(1901)の今日、鎌倉で与謝野鉄幹率いる新詩社の集いに参加。由比ヶ浜で焚火をして20世紀の迎え火としました。

【今日は何の日・光太郎】1月2日010

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外の山小屋で書き初め。「清浄光明」「平等施一切」「満目蕭條」などの言葉を書きました。
 
光太郎は明治16年(1883)の生まれ。当然のように、現代の我々よりも筆と硯に親しんだ世代です。
 
特に戦後、花巻郊外大田村山口の山小屋に籠もってからは彫刻を封印し、書の世界にその造型美の表現者としてのエネルギーを傾けました。
 
日記によれば1月2日の書き初めは恒例の習慣となったようです。その他、折に触れて書いた書は、今も花巻近辺にたくさん残っています。
 
「満目蕭條」。「見渡す限り、物さびしいさま」という意味の四字熟語ですが、光太郎はマイナスのイメージで捉えません。
 
昭和7年に書かれた「冬二題」という散文(『高村光太郎全集』第9巻)には、「満目蕭條の美」という一節があります。
 
 冬の季節ほど私に底知れぬ力と、光をつつんだ美しさを感じさせるものはない。満目蕭條といふ形容詞が昔からよく冬の風景を前にして使はれるが、私はその満目蕭條たる風景にこそ実にいきいきした生活力を感じ、心がうたれ、はげまされ、限りない自然の美を見る。私はまだ零下四〇度などといふ極寒の地を踏んだ経験がなく、パミイル高原のやうな塩白み果てた展望を見た経験がないから、冬の季節の究極感を語る資格を持たないやうにも思ふが、又考へると、さういふ強力な冬の姿に当面したら、なほさら平常の感懐を倍加するのではあるまいかといふやうな気がする。木枯の吹きすさぶ山麓の曠野を行く時、たちまち私の心を満たして来るのは、その静まりかへつた大地のあたたかい厚みの感じと、洗ひつくしたやうな風物の限りないきれいさと、空間に充満するものの濃厚な密度の美とである。風雪の為すがままにまかせて、しかも必然の理法にたがはず、内から営々と仕事してゐる大地の底知れぬ力にあふと、私の心はどんな時にもふるひ立つ。百の説法を聴くよりも私の心は勇気をとりかへす。自然のやうに、と思はずにゐられなくなる。葉を落とした灌木や喬木、立ち枯れた雑草やその果実。実に巧妙に微妙に縦横に配置せられた自然の風物。落ちるのは落ち、用意せられるものは用意せられて、何等のまぎれ無しにはつきりと目前に露出してゐる潔い美しさは、およそ美の中での美であらう。彼らは香水を持たない。ウヰンクしない。見かけの最低を示して当然の事としてゐる。私はいつも最も突き進んだ芸術の究極境は此の冬の美にある事を心ひそかに感じてゐる。満目蕭條たる芸術を生み得るやうになるまで人間が進み得るかどうか、それはわからない。此は所詮人間自身の審美の鍛錬に待つ外はないにきまつてゐる。ただ物寂びた芸術、ただ渋い芸術、ただ厳しい芸術、さういふ程度の階段に位するものなら求めるに難くない。古来、真に冬たり得た芸術が一体何処にあるだらう。
 
冬の厳しさに、自己の進むべき芸術精進の道の厳しさを重ね合わせています。こういうところも光太郎の魅力の一つだと思います。

当方の住む千葉県は、比較的温暖な地です。そんなわけで、北国の人には怒られてしまうかもしれませんが、今朝の寒さは尋常ではありませんでした。清冽な空気はすがすがしいのですが……。
 
光太郎は生涯、冬を愛した詩人でした。題名だけとっても、それと判る詩がたくさんあります。
 
「冬の詩」(一昨年でしたか、黒木メイサさん、松田龍平さん出演のユニクロのCMに使われていましたね)、「冬が来る」、「冬の朝のめざめ」、「冬が来た」、「冬の子供」、「冬の送別」、「鮮明な冬」、「冬の言葉」、「冬」、「雪の午後」、「深夜の雪」、「師走十日」、「吹雪の夜の独白」、「雪白く積めり」、「氷上戯技」、「堅冰いたる」……。
 
光太郎はあちこちで「夏の暑さには弱く、冬になると生き返る」的な発言をしていますし、年譜を概観すると、実際に夏場には文筆作品の発表が少なく、秋から冬に多いという傾向があります。ちゃんと統計を取ったわけではなく、ざっと見てのことですが(研究テーマに困っている方、こんなのはいかがですか?)。
 
さて、「冬」の詩を一つ。昭和2年(1927)、光太郎数え45歳の作品です。
 
  冬の奴
 
 冬の奴がかあんと響く嚏をすると、
 思はず誰でもはつとして、
 海の潮まで一度に透きとほる。
 なるほど冬の奴はにべもない顔をして、
 がらん洞な空のまん中へぎりぎりと、002
 狐色のゼムマイをまき上げる。
 冬の奴はしろじろとした算術の究理で、
 魂の弱さを追求し、追及し、
 どうにもかうにもならなくさせる。
 何気なく朝の新聞を読んでゐても、
 凍る爪さきに感ずるものは
 冬の奴の決心だ。
 ゆうべまでの心の風景なんか、
 てんで、皺くちやな蜃気楼。
 ああ、冬の奴がおれを打つ、おれを打つ。
 おれの面皮をはぐ。
 おれの身を棄てさせる。
 おれを粉粉にして雪でうづめる。
 冬の奴は、それから立てといふ。
 
 おれは、ようしと思ふ。
 
さて、寒さにめげず、「ようし」と思って活動しましょうか!
 

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