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昨日の『朝日新聞』さんの読書面に、先月刊行された中村稔氏著 『高村光太郎の戦後』の書評が大きく出ました。

『高村光太郎の戦後』 中村稔〈著〉  ■自らの「愚」究明する表現人の責任

 19世紀ドイツの法学者ギールケは、普仏戦争開戦直前の首都ベルリンで、「共同体の精神が、原始の力で、ほとんど官能的な形象を伴ってわれわれの前に発現し、……我々の個としての存在を感じさせなくなる」経験をしたという。同種の体験が日本では、共同体精神の特権的な表現人であった天皇を、表象として用いて語られる。
 たとえば、真珠湾攻撃の一報をきいた体験を、詩人・高村光太郎は次のように回想している。「この容易ならぬ瞬間に/……昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となつた。/天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/……私の耳は祖先の声でみたされ、/陛下が、陛下がと/あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。」(「暗愚小伝」から)
 以降の高村は、共同体精神の卓越した表現人として、戦争を鼓舞する詩を書いた。少なからぬ若者がそれに励まされて死地に赴いた。そうした「世代」の文芸的精神の中に、いいだもも、村松剛の如(ごと)き左右両極の批評家、最高裁判事を務めた大野正男、そして本書の著者・中村稔もいたのである。
 戦後派としての彼らがそれぞれに格闘した「日本」という問題は、しかし、時局への加担者として「二律背反」に苦しんだ高村によっても、真摯(しんし)な反省の対象となっていた。自らを「愚劣の

典型
」とみて、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたか」を究明した、高村の「致命点摘発」の作業は、「暗愚小伝」を含む詩集『典型』に結実した。
 中村稔は、詩人としても法律家としても、そうした高村に一貫して拘(こだわ)ってきた。その文学人生の最終盤に、高村の「戦後」といま一度腰を据えて取り組んだのが本書である。この重みを踏まえなければ、岩手・花巻郊外の言葉も通じない山中で、高村が独居生活した戦後の7年間を、何故「冗漫に耐えて」執拗(しつよう)に追体験しようとしているのかは、理解できない。
 しかも感動的なのは、そうした地道な作業の結果、齢(よわい)92歳の著者が、近著『高村光太郎論』でも披瀝(ひれき)された若き日からの持論を「あさはかな批評」と断じて、自ら改めるに至ったという事実である。
 かねて評価した歌人
斎藤茂吉の中に、中村は、「社会的存在としての人間の生」の視点の欠落を発見し、そうした他者を想定せずには成立しない「責任」の観念の蒸発が、戦争を賛美した過去に向き合う「知識人の責務」の欠如をもたらしていることに失望する。そして、これとの対比から、表現人としての戦争責任から逃げず、「民衆」に分け入ることで「自主自立」の精神を再建した実例を、かつて弁明のみ目についた『典型』に、慥(たし)かに見出(みいだ)すに至ったのである。
 評・石川健治(東京大学教授・憲法学)

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評を書かれた東大の石川健治教授の光太郎観がかなり反映された評にも読めますが、「自らの「愚」究明する表現人の責任」というタイトルが、我が意を得たりという感じです。途中にいろいろ名が挙げられている人々の中に、吉本隆明が入っていれば、さらによかったのですが。

多くの前途有為な若者を死地に追い立てた戦時中の詩文に対し、光太郎は「乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり、」(連作詩「暗愚小伝」中の「おそろしい空虚」より)としましたが、「誤解を与えたとすれば撤回します」的な発言はしていません。そしてしっかりその責任を取るため、自らを流刑に処する「自己流謫(るたく)」の7年間を、花巻郊外旧太田村のあばら屋に送りました(この「自己流謫」に就いての中村氏の解釈はかなり手厳しいのですが)。

『高村光太郎の戦後』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

明治十六年三月、東京下谷に生る。東京美術学校彫刻科卒業。与謝野寛先生の新詩社に入りて短歌を学ぶ。一九〇六年より一九〇九年夏まで、紐育、倫敦、巴里等に滞在す。真に詩を書く心を得しは一九一〇年(明治四十三年)以後の事なり。一九一四年詩集「道程」出版。以後詩集無し。以上。

雑纂「高村光太郎自伝」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳

この年新潮社から刊行された『現代詩人全集第九巻 高村光太郎 室生犀星 萩原朔太郎集』に寄せたものです。『智恵子抄』刊行前ですので、『道程』以後、詩集無しということになっています。

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簡にして要、というか、ある意味そっけないというか……。同じ巻に収められた犀星、朔太郎のそれの約半分です。

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新刊書籍です。

高村光太郎の戦後

2019年6月3日 中村稔著 青土社 定価2,800円+税

戦争を賛美した二人の巨人、詩人・彫刻家高村光太郎と歌人斎藤茂吉。
戦後、光太郎が岩手県花巻郊外に独居して書いた『典型』と茂吉が山形県大石田に寓居して書いた『白き山』の定説を覆し、緻密な論証により正当な評価を与え、光太郎の十和田裸婦像の凡庸な所以を新たな観点から解明した卓抜で野心的評論

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【目次】
第一章 高村光太郎独居七年
 (一)  空襲によるアトリエ焼失、花巻疎開、花巻空襲、太田村山口へ
 (二)  山小屋生活の始まり
 (三)  山小屋の生活における高村光太郎の思想と現実
 (四)  高村光太郎の生活を援助した人々
 (五)  一九四五年の生活と「雪白く積めり」
 (六)  一九四六年の生活と「余の詩を読みて人死に就けり」
 (七)  一九四七年の生活
 (八)  「暗愚小伝」その他の詩について
 (九)  一九四八年の生活
 (一〇) 一九四九年の生活
 (一一) 一九五〇年の生活
 (一二) 一九五一年の生活
 (一三) 一九五二年の生活
第二章 高村光太郎『典型』と斎藤茂吉『白き山』
 (一)  はしがき
 (二)  戦争末期の斎藤茂吉(その一)
 (三)  戦争末期の高村光太郎
 (四)  戦争末期の斎藤茂吉(その二)
 (五)  余談・高村光太郎と三輪吉次郎
 (六)  戦争末期から終戦直後の斎藤茂吉
 (七)  『小園』を読む(その一)
 (八)  高村光太郎「おそろしい空虚」と「暗愚」
 (九)  『小園』を読む(その二)
 (一〇) 敗戦直後の斎藤茂吉
 (一一) 大石田移居、『白き山』(その一)
 (一二) 肋膜炎病臥前後
 (一三) 『白き山』(その二)
 (一四) 『白き山』(その三)
 (一五) 『白き山』(その四)
 (一六) 『白き山』と『典型』

第三章 上京後の高村光太郎 十和田裸婦像を中心に

 (一)  帰京
 (二)  十和田裸婦像第一次試作
 (三)  十和田裸婦像第二次試作
 (四)  十和田裸婦像の制作
 (五)  十和田裸婦像の評価とその所以
 (六)  十和田裸婦像以後
あとがき


昨年、同じく青土社さんから刊行された『高村光太郎論』に続く労作です。前著が明治末、光太郎の西欧留学期から晩年までを概観する内容だったのに対し、本著はタイトル通り、戦後の光太郎に焦点を当てる試みです。ただ、第二章はどちらかというと斎藤茂吉論が中心で、当方、そちらはまだ読破しておりません。

第一章、第三章について書きますと、『高村光太郎全集』中の光太郎日記や書簡からの引用が実に多いのが特徴です。やはり当人の証言をしっかり読み込んだ上で論ずるのはいいことですので、この点には感心しました。おそらくそうした作業を行っていないと思われるエラいセンセイ方の論文もどきもよく眼にしますが。

そして概ね戦後の光太郎に対して好意的な筆です。世上から過小評価され、注目されることも少ない戦後の詩に対し、高評価を与えてくださっています。

この詩は決して貧しい作品ではない。詩人の晩年の代表作にふさわしい感動的な詩であるというのが今の私の評価である。弁解が多いとしても、これほど真摯に半生を回顧して、しみじみ私は愚昧の典型だと自省した文学者は他に私は知らない。

この一節は戦後唯一の詩集の表題作ともなった詩「典型」(昭和25年=1950)に対してのものです。

   典型
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 今日も愚直な雪がふり
 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
 小屋にゐるのは一つの典型、
 一つの愚劣の典型だ。
 三代を貫く特殊国の
 特殊の倫理に鍛へられて、
 内に反逆の鷲の翼を抱きながら
 いたましい強引の爪をといで
 みづから風切の自力をへし折り、
 六十年の鉄の網に蓋はれて、
 端坐粛服、
 まことをつくして唯一つの倫理に生きた
 降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
 今放たれて翼を伸ばし、
 かなしいおのれの真実を見て、
 三列の羽さへ失ひ、
 眼に暗緑の盲点をちらつかせ、
 四方の壁の崩れた廃嘘に
 それでも静かに息をして
 ただ前方の広漠に向ふといふ
 さういふ一つの愚劣の典型。
 典型を容れる山の小屋、
 小屋を埋める愚直な雪、
 雪は降らねばならぬやうに降り、
 一切をかぶせて降りにふる。


それから感心させられたのは、「わからないことはわからないとする」こと。詩句の意味や、光太郎のとった不可解とも思える行動の理由など、苦しい解釈やこじつけで切り抜けず、正直にわからないとしている点に好意がもてます。

ただ、「それはこういうことですよ」と教えてあげたくなった点があるのも事実でした。残念ながら、参考資料の数が多くないのがありありとわかります。本書には「参考文献」の項がありませんが、第一章、第三章に於いては、十指に満たないのではないかと思われました。光太郎本人の日記や書簡をかなり読み込まれているのはいいのですが、周辺人物の証言や回想などで、かなりの部分氷解するはずの疑問が疑問のままに残されたりもしています。

また、光太郎の戦後七年間の花巻郊外旧太田村に於ける山居生活の意味づけ。光太郎本人は「自己流謫」という言葉で表現しました。「流謫」は「流罪」の意です。戦時中、大言壮語的な勇ましい翼賛詩文を大量に書き殴り、それを読んだ前途有為な多くの若者を死地に追いやったという反省、その点を中村氏、前著からのつながりで、認めていません。結局、若い頃から夢想していた自然に包まれての生活を無邪気に実現したに過ぎなかったとしています。

中村氏、前著にも本著にもその記述がないので、おそらく厳冬期の旧太田村、光太郎が暮らした山小屋に足を運ばれたことがないように思われます。メートル単位で雪が積もり、マイナス20℃にもなろうかという中、外界と内部を隔てるのは土壁と障子紙と杉皮葺きの屋根のみ、囲炉裏一つの厳冬期のあの山小屋の過酷すぎる環境は、無邪気な夢想の一言で片付けられるものではありません。

また、山居生活中に彫刻らしい彫刻を一点も残さなかった件についても、誤解があるように思われます。それを小屋の環境の問題や、作っても売れる当てがないといった問題に還元するのはあまりに皮相的な見方でしょう。「私は何を措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。」(「自分と詩との関係」昭和15年=1940)とまで自負していた光太郎が、「自己流謫」の中で、自らに与えた最大の罰として、彫刻を封印したと見るべきなのではないでしょうか。

ちなみに光太郎、きちんとした「作品」ではありませんが、山居中に手すさびや腕をなまらせないための修練的に、小品は制作しています。その点も中村氏はご存じないようでした。

さらに、第三章で中心に述べられている「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。こちらも「凡庸」「貧しい作」としています。確かに傑作とは言い難く、光太郎自身も「十和田の裸像、あれも名前(注・サイン)が入っていません。はじめ入れたんだけど、よくないんで消してしまった。」(「高村光太郎聞き書」昭和30年=1955)としています。しかし、近年、『全集』未収録の光太郎の談話や、像に関わったさざざまな人々の証言が明らかになるに従い、あの像に込められた光太郎の思いが見えてきました。そういったところに目配りが為されて居らず、「凡庸」の一言で片付けられているのが残念です。

ただ、前述の通り、根柢に光太郎に対するリスペクトが通奏低音のように常に流れ、日記や書簡が読み込まれ、無理な解釈やこじつけが見られないといった意味で、好著といえるでしょう。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

芸術界のことにしても既成の一切が気にくはなかつた。芸術界に瀰漫する卑屈な事大主義や、けち臭い派閥主義にうんざりした。芸術界の関心事はただ栄誉と金権のことばかりで、芸術そのものを馬鹿正直に考えてゐる者はむしろ下積みの者の中にたまに居るに過ぎないやうに見えた。

散文「父との関係3 ――アトリエにて4――」より
昭和29年(1954) 光太郎72歳

ここで述べられているのは明治末のことですが、その最晩年まで、こうした見方は続いたようです。

中村稔氏もこうした光太郎の反骨精神は高く評価されています。

今日、4月2日は光太郎忌日・連翹忌です。午後5時30分からは、光太郎ゆかりの日比谷松本楼さんで、第63回連翹忌の集いを開催いたします。

63年前の今日、昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分。中野桃園町の貸しアトリエで、巨星・高村光太郎は息を引き取りました。生涯、「冬」を愛した光太郎の最期を飾るかのように、前日から東京は季節外れの大雪だったそうです。その際に、アトリエの庭に咲いていた連翹、生前の光太郎がアトリエの持ち主の中西夫人に「何という花ですか」と尋ねたとのこと。そして「あれは「連翹」という花ですよ」との答えに「かわいらしい花ですね」。

4月4日、青山斎場で武者小路実篤を葬儀委員長として開かれた葬儀では、光太郎の棺の上に、その連翹の一枝が、愛用のコップに生けられて、置かれました。

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当会の祖・草野心平をはじめ、遺された人々の胸にはその連翹の印象が強く残り、光太郎忌日は「連翹忌」と名付けられました。直接の発案は若い頃から光太郎に親炙していた佐藤春夫だったようです。

心平を助け、途中から連翹忌の運営を引き継いだのが、現・当会顧問の北川太一先生です。北川先生は晩年の光太郎に薫陶を受け、その歿後は『高村光太郎全集』をはじめ、光太郎の業績を後世に伝えるためのさまざまな書籍等を編著なさいました。今日の第63回連翹忌にもご参会下さる予定です。

その北川先生の最新刊、昨日、届きました。

光太郎ルーツそして吉本隆明ほか

2019年3月28日 北川太一著 文治堂書店 定価1,300円

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目次
 光雲抄 ――木彫孤塁000
 光太郎詩の源泉
 鷗外と光太郎 ―巨匠と生の狩人―
 八一と光太郎 ―ひびきあう詩の心―
 心平・規と光太郎
 吉本隆明の『高村光太郎』 ―光太郎凝視―
 究極の願望 吉本隆明(『高村光太郎選集』内容見本より)
 造形世界への探針 北川太一 ( 〃 )
 春秋社版・光太郎選集全六巻別巻一・概要
 対談 高村光太郎と現代『選集』全六巻の刊行にあたって 
         吉本隆明 北川太一
 隆明さんへの感謝
 死なない吉本
 しかも科学はいまだに暗く ――賢治・隆明・光太郎――
 三つの「あとがき」抄
 あとがきのごときもの
 初出誌メモ


帯には北川先生と旧知の中村稔氏の推薦文。

高村光太郎の資料、情報の探索、蒐集、考証に心血を注いできた北川太一さんの文章はつねに含蓄と矜持に富んでいる。思想的立場は違っても、旧く親しい友人吉本隆明を語った文章も感興ふかい。推奨に値する書と言うべきであろう。


各種雑誌や、展覧会図録などに載った文章の再編ですが、初出誌が今では入手困難なものが多く、一冊にまとまっていることにありがたさが感じられます。当方、一部はパソコンで打ち込みをし、また、校閲をやらせていただいたので、今年初めには読みました。「そして吉本隆明」とあるとおり、戦前・戦時中の東京府立化学工業学校、戦後の新制東京工業大学で同窓だった故・吉本隆明氏について書かれた文章も含まれますが、吉本は吉本で日本で初めて光太郎論を一冊の本として上梓した人物。おのずとその筆は光太郎に無関係ではいられません。

いずれamazonさん等にアップされると存じます。また、今日の連翹忌会場で販売しますので、参会の方(おかげさまで75名のみなさんのお申し込みを賜りました)は、ぜひサインを書いていただき、家宝にしてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

私はこの世で智恵子にめぐりあつたため、彼女の純愛によつて清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事が出来た経歴を持つて居り、私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつたので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さへ其の目標を失つたやうな空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。

散文「智恵子の半生」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

昨日も同じ「智恵子の半生」から引用しましたが、数ある光太郎エッセイの中でも、圧巻の一つゆえ、あしからずご了承ください。

男女の相違はあれど、光太郎を敬愛していた人々――上記にも名前を出した草野心平、佐藤春夫、そして北川先生などなど、みなさん、63年前の今日には、光太郎に対して同じような感懐を抱いたのではないかと存じます。

昨日、来春封切りの映画「この道」と、そのノベライズ『この道』をご紹介しましたが、関連書籍をもう一冊。 

ここ過ぎて 白秋と三人の妻

2018/11/11 瀬戸内寂聴著 小学館(小学館文庫) 定価980円+税

北原白秋をめぐる三人の妻を描いた長編小説
国民的詩人・北原白秋が没して四年後の一九四六年暮れ、大分県香々地の座敷牢で一人の女性がひっそりと息を引き取った。歌人であり詩人であったその才女の名は江口章子。白秋の二番目の妻でもあった。詩集『邪宗門』をはじめ、数多くの詩歌を残し、膨大な数の童謡や校歌などの作詞も手掛ける一方で、姦通罪による逮捕など様々なスキャンダルにまみれた稀代の天才の陰には、俊子、章子、菊子という三人の妻の存在があった。丹念な取材を元に瀬戸内寂聴が一九八四年に発表した渾身の長編小説に著者の書き下ろし「あとがき」を収録。白秋の生涯を描いた2019年1月11日公開の映画『この道』の原点。

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元版は昭和59年(1984)に、新潮社さんからハードカバーで刊行されました。その後、昭和62年(1987)、上下二分冊で新潮文庫のラインナップにも入りましたが、絶版。それが小学館さんから復刊されたわけです。

最初に、一般書店の店頭で平積みになっているのを見たとき、「便乗商法か? 小学館さんもあざといな」と思いましたが、さにあらず。昨日ご紹介した書籍「この道」を読むと、映画「この道」はこの小説が原作というわけではないものの、ここからのインスパイアであるとの、映画のプロデューサー氏の発言がありました。そこで、書籍『この道』特別付録の座談会や鼎談に寂聴さんがご出席されているわけです。

ただ、「ここ過ぎて」は、副題の「白秋と三人の妻」の通り、白秋と妻たちとの関わり、それぞれの妻の生い立ちやその後を描くことに力点が置かれており、童謡の件や山田耕筰との関わりなどは割愛されています。光太郎は白秋との関わりで、ところどころにその名が出て来ます。

白秋やその妻たちについては、当方、概略は頭に入っていましたが、ここまで細かく書いた書籍を読んだことがなかったので、「なるほど、そういうことだったのか」という点が非常に多く、興味深く拝読。そして、勝手な感想ですが、白秋二番目の妻の章子と、智恵子がオーバーラップするように感じました。ともに『青鞜』に関わったのは偶然としても、地方の素封家の娘としての生い立ち、ある種の破天荒・天衣無縫さ、結婚当初は夫と良好な関係で、実に平穏な、しかし貧しい生活を送ったこと、そこそこ才能(章子は文学、智恵子は美術)がありながら「偉大な」夫の前ではそれが霞んでしまったこと、そのことが精神のバランスを失う一つのきっかけとなったこと、などなど。ただ、智恵子はまがりなりにも光太郎に看取られて逝きましたが、章子の晩年はみじめなものでした。その点は、智恵子というより、ロダンの愛人だったカミーユ・クローデルを彷彿とさせられました。

この手の寂聴さんの「小説」は、『青鞜』や『田村俊子』などもそうですが、「小説」というより評伝と取材のルポルタージュが混ざった形式のような感じで、読み慣れない人には読みづらいかも知れません。ただし、なかなかの読み応えです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自ら信ずる者は出版するに何の躊躇をか要し候べき。自ら不可とする者が「オツキアヒ」の為め出版する必要も亦無かる可く候。

散文「紐育より 二」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

『明星』誌上に、光太郎の歌集出版の計画が、本人のあずかり知らぬところで書かれていたことに対する苦言です。それまでに『明星』に掲載された光太郎の短歌は、与謝野寛の添削が激しく入っており、自分のものとは言えないという感覚でした。

新刊情報です。

2018年4月1日 中村稔著 青土社 定価2,800円+税

日本近代芸術の扉を開いた巨人の生涯に迫る

西欧留学体験、『智恵子抄』には描かれなかった智恵子との壮絶な愛、太平洋戦争とその後の独居生活…。その魂の軌跡をとおして生涯と作品に迫る、画期的にして、決定的な高村光太郎論。

目次

第一章 西欧体験
第二章 疾風怒濤期――「寂寥」まで
第三章 『智恵子抄』の時代(その前期)
第四章 「猛獣篇」(第一期)の時代
第五章 『智恵子抄』(その後期)と「猛獣篇」(第二期)
第六章 アジア太平洋戦争の時代
第七章 「自己流謫」七年
あとがき


詩人として、昭和42年(1967)、詩集『鵜原抄』で高村光太郎賞を受賞され、弁護士としては、不幸にして起こった光太郎作品をめぐる著作権裁判で原告側代理人を務められた中村稔氏の書き下ろし最新刊です。
明治末、光太郎20代の海外留学期から、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活までを追った評伝で、全534ページの大作です。根底には光太郎への限りないリスペクトを持ちつつも、批判すべき点は批判し、その上一貫してブレない光太郎観が展開されていて、534ページですが、当方、ほぼ一気に読み通しました。そのすべてに首肯できるわけではありません(戦後、花巻郊外太田村の粗末な山小屋で送った7年間の蟄居生活を「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとしている点など)が、「なるほど」と思わせる部分が多い好著です。

特徴として、氏自身も本書中で言及されていますが、光太郎詩文の引用部分が多いことが挙げられます。引用の切り貼りだけではどうにもなりませんが、どういった作品を引用するかの適切な判断と、引用部分に対する的確な評において、本書は成功しています。

評伝というもの、やはり、本人の言にあたるのが一番です。しかし、それをそのまま文字通りに鵜呑みにするのでなく、行間を読み、裏側を読むことも必要です。また、本人の言だけでなく、周辺人物のそれにも目を向ける必要もあります。中村氏は、光太郎実弟・豊周や、太田村に光太郎を呼び寄せた佐藤勝治らの回想も効果的に引きつつ、論を展開されています。

驚くべきは、中村氏、失礼ながら昭和2年(1927)のお生まれで、御年91歳。それでいて、同じ青土社さんから、一昨年には『萩原朔太郎論』(548ページ)、『西鶴を読む』(313ページ)、昨年には『石川啄木論』(528ページ)、『故旧哀傷: 私が出会った人々』(286ページ)と、次々に新刊を刊行されています。おそらくこれらも書き下ろしでしょう。

一昨年、信州安曇野の碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として、記念講演をさせていただいたのですが、その日に中村氏が同館にいらっしゃいまして、お話をさせていただきました。

その際にも今回の光太郎論を含む新著をご執筆中で、一気に刊行なさるというお話でした。失礼ながら、「無理でしょう」と心の中で呟いていたのですが、本当に実現されてしまいました。脱帽です。

さらに驚くべきは、「あとがき」によれば、第7章の部分はもっと長かったのを、他の章との均衡を図るため圧縮、さらに本書に収録されなかった、光太郎最晩年の再上京後についても既に書き上げられていて、本書とは別に刊行するおつもりだということ。

そちらにも期待したいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

書は一種の抽象芸術でありながら、その背後にある肉体性がつよく、文字の持つ意味と、純粋造型の芸術性とが、複雑にからみ合つて、不可分のやうにも見え、又全然相関関係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。
散文「書の深淵」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

昭和20年(1945)から7年間の、花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、光太郎は彫刻らしい彫刻は作りませんでした。その代わりに(ただし、「代償行動」という意味に非ず)書を多く書きました。もともと能筆だった光太郎の書が、太田村での7年間でさらに進化を遂げ、書家の石川九楊氏に「「精神」や「意思」だけが直裁に化成しているような姿は、他に類例なく孤絶している。」「高村光太郎の書は、単なる文士が毛筆で書いた水準をはるかに超えた、もはや見事な彫刻である。」と言わしめました。

思うに光太郎にとっての書とは、詩歌によって追い求めてきた言語の美としての部分と、彫刻によって成し遂げんとした造形美の部分とを併せ持つ、究極の芸術だったのかもしれません。

少し前に刊行されたものですが、最近戴いた書籍をご紹介します。 

夢二と久允 二人の渡米とその明暗

2016年4月30日 逸見久美著 風間書房 定価2000円+税

著者の父・作家翁久允は竹久夢二の再起をかけて同伴渡米を決行する。久允の奔走、邦字新聞「日米」争議、夢二との訣別―。日記や自伝をふまえ、二人の運命の軌跡を辿る。

目次
 一 ふとした機縁から001
 二 落ちぶれた夢二の再起をはかる久允
 三 翁久允とは
 四 夢二との初対面の印象
 五 夢二画への憧れ
 六 榛名山の夢二の小屋からアメリカ行き
 七 夢二と久允の世界漫遊の旅と夢二フアン
 八 久允の『移植樹』と『宇宙人は語る』
           ・『道なき道』の出版
 九 久允の朝日時代
一〇 いよいよアメリカへ向かう前後の二人
一一 「世界漫遊」に於ける報道のさまざま
一二 夢二にとって初の世界漫遊の船旅
一三 ハワイへ向かう船中の二人とハワイの人々
一四 ホノルルに於ける夢二と久允の記事の数々
一五 いよいよアメリカ本土へ
一六 「沿岸太平記」―「世界漫遊」の顛末
一七 年譜にみる夢二の一生
一八 渡米を巡っての夢二日記
 あとがき

著者の逸見久美先生は、与謝野鉄幹晶子研究の泰斗。連翹忌にもご参加いただいております。光太郎が『明星』出身ということもありますが、お父様の翁久允(おきなきゅういん)と光太郎に交流があったあったためでもあります。

翁は明治40年(1907)から大正13年(1924)まで、シアトルとその周辺に移民として滞在、現地の邦字紙などの編集や小説などの創作にあたっていました。帰国後、東京朝日新聞に入社、『アサヒグラフ』や『週刊朝日』の編集者として活躍します。そして、『週刊朝日』に掲載するため、それまでの文部省美術展覧会(文展)から改称された帝国美術院展覧会(002帝展)の評を光太郎に依頼しています。『夢二と久允』巻末に、光太郎からの返答が紹介されています。

御てがみ拝見、
ホヰツトマンの引合はせと思ふと、
大ていの事は御承諾したいのですが、昔から毎年荷厄介にしてゐる帝展の批評感想だけは、おまけに十六日開会で十七日に書いてお届けするといふやうな早業ときたら、とても私には出来ない仕事ですよ。
私ののろくさと来たらあなたがびツくりしますよ。
此だけは誰かに振りかへて下さい、
   翁久允様 六日夜 高村光太郎

封筒が欠落しており、便箋のみ翁遺品のスクラップ帳に貼り付けてあったとのことで、消印が確認できないため、年が特定できません。

3年ほど前、逸見先生から「うちにこんなものが有りますよ」と、情報をご提供いただいた際、「帝展」「十六日開会」というキーワードで調べれば、何年のものか特定できるだろう、とたかをくくっていましたが、いざ調べてみると、翁が『週刊朝日』編集長を務めていた時期の帝展は、昭和2年(1927)の第8回展から同6年(1931)の12回展までがすべて10月16日開会で、この間としか特定できませんでした。

同書には他に三木露風、今井邦子、宇野千代、堀口大学、吉屋信子、吉井勇、横光利一、鈴木三重吉、中原綾子、吉川英治らからの書簡の画像も掲載されています。翁の顔の広さが偲ばれますが、本文を読むと、さらに田村松魚・俊子夫妻、田山花袋、菊池寛、北原白秋、西條八十、堺利彦、直木三十五、相馬御風、岸田劉生、川端康成、有島生馬ら、綺羅星の如き名が並んでいます。

そして竹久夢二とは、大正15年(1936)が初対面でした。当方、夢二には(特にその晩年)、あまり詳しくないので意外といえば意外でしたが、この頃になると夢二式美人画のブームが過ぎ、落魄の身だったそうです。翁はそんな夢二をもう一度世に押し出そうと、世話を焼いたそうです。

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こちらは同書に掲載されている、たびたび翁家を訪れていた夢二がが描いたスケッチ。描かれているのは逸見先生とお姉様です。逸見先生、「少しこわい小父さん」というイメージで夢二を記憶されているとのこと。しかし、生前の夢二をご存じというと、「歴史の生き証人」的な感覚になってしまいますが、失礼でしょうか(笑)。

お父様はかなり豪快な方だったようで、もう一度夢二を陽の当たる場所に、という思いから、朝日新聞社を退職、その退職金をつぎ込んで、夢二を世界漫遊の旅に連れ出しました。昭和6年(1931)のことです。行く先々で夢二が絵を描き、展覧会を開いてそれを売り歩くという、興行的な目論見もあったとのこと。

しかし、ある意味性格破綻者であった夢二との同行二人はうまくいくはずもなく、旅の途中で二人は決裂してしまいました。夢二は昭和8年(1933)に帰国しましたが、翌年、結核のため淋しく歿しています。


ちなみに、遠く明治末の頃、ごく短期間、太平洋画会に出入りしたという夢二は、そこで智恵子と面識があったようです。明治43年(1910)の夢二の日記に智恵子の名(旧姓の長沼で)が現れます。8月21日の日付です。

家庭の巻頭画の長沼さんの画いたスケツチが出てゐる、実に乱暴な筆で影の日向をつけてある、まるで油のした絵のよふなものだ、女の人がこうした荒い描き方をする気がしれない、ラツフ、印象的な、この頃 外国で試みられてゐるあの筆法に自信をはげまされたのであろうけれど、外国の人々のやる荒い乱暴に見える描き方と この女作家のとは出発点と態度が違ふよふにおもはれる、やはり謙遜な純な心で自然を見てその時のデリケートな或はサブライムな感じをそのまゝ出せばあゝした印象風なフレツシユなものが出来るのだとおもふ、はじめつから、一つ描いてやろうといふ考へでやつたつてもだめではないかしら。

「家庭」は智恵子の母校、日本女子大学校の同窓会である桜楓会の機関誌。署名等がないので巻号が特定できませんが、智恵子がたびたび挿画やカットを寄せました。

さらに前月14日には、神田淡路町に光太郎が開き、この頃には大槻弍雄に譲られていた画廊・琅玕洞の名も。

隈川氏来る。共に琅玕洞へゆく。柳氏の作品を見る。下らないものばかり。更に感心せず。

「柳氏」は光太郎の親友・柳敬助。妻の八重は智恵子の女子大学校での先輩で、光太郎と智恵子を結びつけました。

智恵子や柳の作風と、夢二のそれとでは相容れないものがあるのはわかりますが、けちょんけちょんですね(笑)。こうした部分にも夢二という人物が表れているような気がするのは、智恵子・柳に対する身びいきでしょうか。


閑話休題。『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』。実に読み応えがあります。また、その名が忘れ去られかけている翁久允の伝記としても、興味深いものです。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

彫刻を見て、主題の状態を第一に考へる人は極めて幼稚な鑑賞者です。又さういふ処をねらつて製作する彫刻家は幼稚な作家です。

散文「彫刻鑑賞の第一歩」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

彫刻作品を見る際、「主題の状態」つまり「5W1H」に気を取られてはならない、ということです。同じ文章の中で、ミケランジェロのダビデ像を例に、「ダビデがゴライヤスを撃たんとして石を手にしてねらつてゐる所」というのは、「此の彫刻の一時的価値の中には這入りません」としています。また、両腕の欠損してしまっているミロのヴィーナスのように「何をしている所といふ事が殆ど問題にならない程人の心を動かすものが善いのです」とも。

光太郎自身、留学前は「5W1H」に囚われた愚劣な彫刻を作っていた、と反省しています。「滑稽な主題と構想」「俄芝居じみた姿態」というふうに。

新刊情報です。 
2015/10/1  成田健著  無明舎出版  定価 1200円+税

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版元サイトより

智恵子の生涯を丹念に自らの足で訪ね、光太郎の『智恵子抄』の作品世界に奥深く分け入りながら、一人の女性の軌跡をたどる文学紀行。

家系  戸籍名はチヱ/今も残る生家
小学生 成績が優秀/思いやりの深い人/女学校への進学
師の勧め 万能の成績/孤独な性格/総代として答辞
交友 師の勧めで進学/平塚らいてう回想/絵画への志向
表紙絵  絵画研究所へ/「青鞜」の表紙描く/新しい女性の一人
出会い  荒れる光太郎/智恵子に会う/光太郎の目覚め
あふれる思い 犬吠岬に遊ぶ/山上で婚約/結婚へ
冬日のあたたかさ 至福の時/初冬の景を鮮明に/智恵子の杜公園
簡素な美 清貧の日日/衣裳が簡素に/衣裳の美を語る
故郷の空 たびたびの帰郷/あどけない話/やはり明るい詩/夫婦石に二つの詩
さだめ 智恵子発病/東北の温泉巡り/川上温泉へ
千鳥が友 転地療養へ/募る病勢/九十九里浜の詩碑
昇天 入院、紙絵制作/智恵子逝去/ゼームス坂詩碑
みちのく 光太郎、花巻へ/智恵子を案内
ひとすじの人 父と智恵子の法要/智恵子を偲ぶ/「松庵寺」詩碑
若き日 失意の光太郎/智恵子の信愛/あの頃/回想
観音像 智恵子を像に/記念像制作へ/記念像完成
あとがき


本書は昨年から今年にかけ、地000方紙『北鹿新聞』さんに連載されたものだそうです。

お書きになった成田氏は秋田大曲にお住まいで、同じ無明舎出版さんから『文人たちの十和田湖』(平成13年=2001)なども上梓されています。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に触れて下さっていて、当方、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん刊行の『十和田湖乙女の像のものがたり』執筆に際し、参考にさせていただきました。

無明舎さんも秋田。秋田をはじめ東北に関わるまじめな出版物が多く、こういう出版社さんにはエールを送りたくなります。


『「智恵子抄」をたどる』は、もとが新聞連載ということもあり、わかりやすく端的に、ケレン味なくまとめられています。「智恵子抄」関連の紀行の入門編としては格好の一冊です。

先日の第21回レモン忌の前々日くらいに手元に届き、二本松に持参して宣伝してきました。智恵子生家近くの戸田屋商店さんがレモン忌主催の智恵子の里レモン会さんのメンバーでして、ぜひ置いてあげて下さい、とお願いしたところ、一昨日、戸田屋さんにお伺いしたら、「取り寄せておくよ」とのことでした。

版元のサイトから注文可能ですので、ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月14日

昭和13年(1938)の今日、智恵子の母校・日本女子大学校桜楓会の機関誌『家庭週報』に、智恵子の訃報が掲載されました。

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新刊情報です。  
2015年3月20日 公益財団法人日本近代文学館発行 江種満子編 定価1,020円

エッセイ
   三浦雅士 世界遺産と文学館
  松浦寿輝   音楽を聴く作家たち
  荻野アンナ ケチの話
  藤沢周     基次郎という兄貴
  間宮幹彦   吉本さんが「あなた」と言うとき
  西川祐子   日本近代文学館で出会う偶然と必然
     
論考
 小林幸夫  <軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎
 有元伸子  岡田(永代)美知代研究の現況と可能性 ―〈家事労働〉表象を例に―
 山口徹     作家太宰治の揺籃期  ―中学・高校時代のノートに見る映画との関わり
 吉川豊子  文学館所蔵 佐佐木信綱宛大塚楠緒子書簡(補遺)―洋楽鑑賞と新体詩集『青葉集』をめぐって―
 江種満子 高群逸枝・村上信彦の戦後16年間の往復書簡をめぐって

資料紹介  
 加藤桂子・田村瑞穂・土井雅也・宮西郁実     村上信彦・高群逸枝往復書簡


上智大学教授の小林幸夫氏の論考「<軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎 」が17ページにわたって掲載されています。

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先月、発行元の日本近代文学館さんのサイトに情報が出、入手しなければ、と思っているうちに、小林氏からコピーが届きました。有り難いやら申し訳ないやらです。

氏の論考は、一昨年、同館で開催された講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」中の「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」を元にしたもので、鷗外と光太郎、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子をたどるものです。詳細は上記リンクをご参照下さい。

終末部分を引用させていただきます。

 川路柳虹との対談のなかで(光太郎は)次のように言っている。

 どうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありましたなあ。けれども先生の「即興詩人」など暗記したくらゐですし、先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました。何としても忘れることの出来ない大先輩ですよ。

 談話や書き物によっては同一の事柄に対しても、鷗外をいいと言ったり悪いと言ったり偏差はあるが、総体としての鷗外に対する光太郎の思いは、この言説が代表しているものに思われる。鷗外と光太郎との関係は、「「先生」といふ変な結ばり」を意識してしまふ光太郎に、まさにその「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避に胚胎した、というべきである。


「即興詩人」は、童話で有名なアンデルセンの小説で、鷗外の邦訳が明治35年(1902)に刊行されています。この中で、イタリアカプリ島の観光名所「青の洞窟」を「琅玕洞」と訳していますが、光太郎は欧米留学から帰朝後の明治43年(1910)、神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」の店名を、ここから採りました。こうした点からも「先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました」という光太郎の言が裏付けられます。

しかし、軍医総監、東京美術学校講師といった鷗外のオーソリティーへの反発も確かにあり、「「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避」というお説はその通りだと思います。

お申し込みは日本近代文学館さんへ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月20日

昭和17年(1942)の今日、詩集『大いなる日に』を刊行しました。

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オリジナルの詩集としては、前年刊行の『智恵子抄』に続く第3詩集ですが、内容は一転、ほぼ全篇が戦争協力詩です。収録詩篇は以下の通り。

秋風辞 夢に神農となる 老耼、道を行く 天日の下に黄をさらさう 若葉 地理の書 その時朝は来る 群長訓練 正直一途なお正月 初夏到来 事変二周年 君等に与ふ 銅像ミキイヰツツに寄す 紀元二千六百年にあたりて へんな貧 源始にあり ほくち文化 最低にして最高の道 無血開城 式典の日に 太子筆を執りたまふ われら持てり 強力の磊塊たれ 事変はもう四年を越す 百合がにほふ 新穀感謝の歌 必死の時 危急の日に 十二月八日 鮮明な冬 彼等を撃つ 新しき日に 沈思せよ蒋先生 ことほぎの詞 シンガポール陥落 夜を寝ざりし暁に書く 昭南島に題す

先月の第58回連翹忌にご参加下さった、詩人の宮尾壽里子様から、詩誌『青い花』第75号~77号の3冊を戴きました。
 
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当方、寡聞にしてその存在を存じませんで000したが、埼玉で刊行されている同人誌、年三回の発行のようです。同人には見知ったお名前があり、「ほう」と思いました。
 
昭和48年(1973)、東宣出版から『智恵子と光太郎 高村光太郎試論』を上梓された平田好輝氏、それから以前にこのブログでご紹介した、東日本大震災復興支援の合唱曲「ほんとの空」(高山佳子氏作曲)の作詞をされた後藤基宗子氏。後藤氏のショートエッセイでは合唱曲「ほんとの空」に触れられていました。
 
宮尾氏は昨年7月に刊行された第75号から、「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」というエッセイを連載なさっています。
 
先月、最新刊の第77号(2014/3)のみ送っていただいたのですが、そちらが連載の3回目だったので、第75号、76号も欲しいとお伝えしたところ、送って下さいました。ありがたいかぎりです。
 
題名の通り、昭和16年(1941)の初版『智恵子抄』刊行の経緯から、その後の諸々の版、智恵子の人となり、さらには紙絵や十和田湖畔の裸婦像にも触れられ、非常に読み応えがありました。
 
第77号にも「完」の文字が入っていないので、まだ連載が続くだろうと期待しています。
 
よく調べているな、と失礼ながら感心しましたが、それもそのはず、最近、大学院で修士論文を書かれている由。これまた失礼ながら、還暦を過ぎてからの取り組みだそうで、頭が下がります。ご健筆を祈念いたします。
 
やはり今年の連翹忌にご参加いただいた間島康子様から、評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」の載った文学同人誌「群系」を戴きましたが、こうした刊行物にはなかなか目が行き届きません。こういうものもあるよ、という情報があればお寄せいただけると幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月7日004
 
昭和15年(1940)の今日、詩人・宮崎丈二を通じて中国の篆刻家・斉白石に「光」一字の石印の製作を依頼しました。
 
出来上がった印がこちら。光太郎は晩年まで自著奥付の検印などに愛用し続けました。

ニセモノ専門の悪質業者などは、この印まで偽造しようとしているようですが、なかなかうまくいかないようで(笑)。

注文していた雑誌が届きました。『新潮45』3月号。
 
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一昨日のブログでふれたノンフィクション作家の大野芳氏の「《歴史発掘》ヨーロッパを席巻した幻の女優「マダム花子」」が掲載されています。
 
全14ページで、ロダンや光太郎と縁のあった日本人女優・花子の伝記です。短いながら、最近の調査でわかったことなども盛り込まれています。
 
3月号ですので、もう店頭には並んでいませんが、新潮社さんのサイト、Amazon、雑誌のオンライン書店・Fujisan.comなどで入手可能です。
 
『東京新聞』さんの連載と併せ、単行本化を希望します。
 
単行本といえば、昨秋、講談社さんのコミック誌『月刊アフタヌーン』で連載が始まった清家雪子さんの漫画「月に吠えらんねえ」の単行本第1巻が発売され、こちらも入手しました。
 
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講談社さんサイトより。
 
実在した詩人の自伝ではなく、萩原朔太郎や北原白秋らの作品から受けた印象から作者像をイメージした、全く新しい、いわば真の二次創作ともいえる手法で創作された、詩人と近代日本の物語。
⟨(シカク:詩歌句)街。そこは近代日本ぽくも幻想の、詩人たちが住まう架空の街。
そこには萩原朔太郎、北原白秋、三好達治、室生犀星、与謝野晶子、斎藤茂吉、若山牧水、高浜虚子、石川啄木、立原道造、中原中也、高村光太郎、正岡子規らの作品からイメージされたキャラクターたちが、創作者としての欲望と人間としての幸せに人生を引き裂かれながら、絶望と歓喜に身を震わせ、賞賛され、阻害され、罪を犯し、詩作にまい進する。

『秒速5センチメートル』『まじめな時間』で高い評価を得た清家雪子の、これまでのイメージを一新し、一線を踏み越えた、狂気と知性と業の物語!
 
シュールです。萩原朔太郎をモデルとした主人公・「朔くん」を中心に話が進みますが、朔太郎の詩そのままに(それ以上に)幻想的な世界です。光太郎と智恵子をモデルにした「コタローくん」「チエコさん」も登場します。
 
こちらは新刊書店に並んでいます。ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月29日

平成10年(1998)の今日、ジャパンイメージコミュニケーションズからVHSビデオ「日本詩人アルバム 詩季彩人⑩ 高村光太郎・竹久夢二」が発売されました。
 
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いわゆるヒーリング系のもので、非常に健康的です(笑)。
 
ジャケット解説文から。
 
 日本が生んだ言葉の精鋭達、詩人。その世界の一端に静かに触れてみる。
 美しい日本の風景にのせておくる一編の詩は、あなたに忘れていた何かを思い出させてくれるでしょう。人間故の苦しみ、喜び、悲しみ、憤り、歓喜、悲哀、そして慈しみと癒し。「詩季彩人」は、喧噪を離れ、静かに詩人達の言葉のリズムに心をゆだねる時間を提供します。
 
やはりAmazonさんなどで入手可能です。もっとも、みなさんそろそろVHSビデオのプレーヤーもほとんど使わなくなっているのではないかとは思いますが……。

光太郎関連の書籍をよく出版されている杉並の文治堂書店さんから、4/1付けで書籍『二本松と智恵子』が刊行されます。
 
著者の勝畑耕一氏から戴きました。
 
「ふるさと文学散歩シリーズ」と銘打たれていますので、今後、シリーズ化して行かれるのでしょうか。さらに副題は「曖昧をゆるさず妥協を卑しんだ智恵子五十二年の生涯」となっています。
 
 
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20ページ程の薄い書籍ですが、平明な文章で簡潔に、しかし要点はしっかり押さえて智恵子の生涯を追っています。のぞゑのぶひさ氏の挿絵もいい感じです。定価300円です。
 
文治堂さんのHPにはまだ掲載されていませんが、今後載るのではないでしょうか。是非お買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】3月30日

昭和23年(1948)の今日、鎌倉書房から草野心平編『高村光太郎詩集』が、鎌倉選書2として再刊されました。

2/6に放映されたNHK総合のテレビ番組「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で扱われた、大正2年(1913)の1月28日に智恵子に宛てて書かれた手紙。
 
これを大きく取り上げている書籍とCDがありますので、今日はそれを紹介します

キッス キッス キッス

 渡辺淳一著  平成14年10月10日 小学館発行 定価1500円+税
 
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「失楽園」などで有名な作家、渡辺淳一氏の著書です。もともとは雑誌連載だったものに加筆修正を加えて単行本化されました。366頁ある大著です。表題は島村抱月から松井須磨子への手紙の一節です。
 
光太郎から智恵子への例の手紙の他、主に近代の文学者の「恋文」19通を取り上げています。改めて目次を見てみましたら、光太郎を含め、柳原白蓮、芥川龍之介、谷崎潤一郎と、「探検バクモン」で取り上げられる「恋文」と4通がかぶっています。「探検バクモン」のスタッフさんは、もしかしたらこの本から想を得たのかも知れません。
 
他に光太郎、智恵子と縁の深かった平塚らいてう、与謝野晶子、佐藤春夫、変わったところでは山本五十六、お滝(シーボルトの妻)、そして渡辺淳一さん自らの手紙も紹介されています

【芸術…夢紀行】シリーズ① 高村光太郎 智恵子抄アルバム

 北川太一先生監修  平成7年3月16日 芳賀書店発行 定価3,260円
 
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問題の手紙が画像入りで紹介されています。この書籍、画像の豊富さでは他の追随を許しません。ビジュアル的に光太郎・智恵子の生涯をたどりたい方にはお薦めです

作家が綴る心の手紙 愛を想う 死を想う

 平成21年10月15日 アスク発行 定価28,980円(税込)
 
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朗読CD12枚組と解説書から成るセットです。近現代の文学者66名、210通余の手紙が収められています。光太郎に関しては第7巻「詩人たちの筆に込めた想い」で、例の手紙をはじめ、九十九里で療養中の智恵子に送った手紙、智恵子死後に難波田龍起、水野葉舟、更科源蔵に宛てた智恵子に関する手紙が収められています。第7巻の朗読者は元男闘呼組の高橋和也さん。他の巻では杉本哲太さん、平岳大さん、余貴美子さんが朗読を務めていらっしゃいます。
 
他の収録作家のうち、森鷗外、与謝野夫妻、北原白秋、宮澤賢治、八木重吉、田村俊子、村山槐多、中原中也といったところが光太郎智恵子と縁の深かった人々です。
 
【今日は何の日・光太郎】2月8日

昭和23年(1948)の今日、太田村山口の山小屋で、配給の砂糖を受け取り、久しぶりに砂糖入りの紅茶を飲みました。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にて、大阪在住の研究者、西浦基氏から、写真その他の貴重な資料をいただきましたので御紹介します。
 
氏は精力的に海外にも出かけられている方で、以前の『高村光太郎研究』に、フランスのロダン美術館などのレポートを寄稿なさったりしています。今年はスイス、イタリア、フランスを廻ってこられたとのことで、そのうち特に、光太郎が海外留学の末期に旅行で訪れたスイスのルセルンでは、光太郎が泊まったホテル(ホテルクローネ)なども訪れられたそうです。詳細は恐らく『高村光太郎研究』に載ると思いますので、以下、氏からいただいた写真のみ紹介します。

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光太郎、スイスでも船に乗っています。
 
 今日は滊船(サルウン ボオト)に乗つて十人余りの旅客と共に「キヤトルス キヤントン」の湖を縦断して、フリユウレンの村に上陸した。
(「伊太利亜遍歴」 明治45年=1912)

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「「キヤトルス キヤントン」の湖」は、ルツェルン湖。ドイツ語名はVierwaldstätterseeで、「4つの森の州(カントン)の湖」の意味だそうです。
 
光太郎のこの旅は、スイス経由でイタリア各地を約1ヶ月で回っています。昭和29年に書かれた「父との関係」によれば「帰国する前にイタリヤを見たいと思つて、クツク会社のクーポンを買つた。そしてクーポン通りにイタリヤを見物して歩いた。」とのこと。「クツク会社」はイギリスの旅行代理店、トーマス・クック・グループ。この旅行についても詳細を調べるようにと、北川太一先生から宿題を出されています。
 
当方、日本国内では光太郎の足跡を辿る旅をさんざんやりましたが、まだ海外では故地を巡るということをしていません。こちらもいずれ、とは思っています。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にて、当方が発表を行いました。題は「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。その内容について何回かに分けてレポートいたします。
 
今年に入り、光太郎が書いた「海の思出」という随筆を新たに発見しました。そこには今まで知られていた光太郎作品や、『高村光太郎全集』所収の年譜に記述がない事実(と思われること)がいろいろと書かれており、広く知ってもらおうと思った次第です。ちなみに先月当方が発行した冊子『光太郎資料』38には既に掲載しましたし、来年4月に刊行予定の『高村光太郎研究』34中の「光太郎遺珠⑧」にも掲載予定です。
 
「海の思出」、掲載誌は昭和17年(1942)10月15日発行『海運報国』第二巻第十号です。この雑誌は日本海運報国団という団体の発行で、翌昭和18年(1943)と、さらに同19年(1944)にも光太郎の文章が掲載されています(それらは『高村光太郎全集』「光太郎遺珠」に所収済み)。日本海運報国団は、その規約によれば「本団は国体の本義にのっとり海運産業の国家的使命を体し全海運産業人和衷協同よくその本分をつくしもって海運報国の実をあげ国防国家体制の確立をはかるを目的とす」というわけで、大政翼賛会の指導の下に作られた海運業者の統制団体です。
 
そういうわけで、昭和18年、同19年に掲載された光太郎作品はかなり戦時色の強いものでしたが、なぜか今回の「海の思出」は、それほど戦時に関わる記述がありません。まだ敗色濃厚という段階ではなかったためかもしれません。
 
では、どのような内容かというと、光太郎の幼少年期から明治末の海外留学時の海や船に関する思い出が記されています。
 
まず幼少年期。
 
 東京に生まれて東京に育つた私は小さい頃大きな海といふものを見なかつた。小学生の頃蒲田の梅園へ遠足に行つた時、品川の海を眺めたのが海を見た最初だつた。その時どう感じたかを今おぼえてゐないが、遠くに房州の山が青く見えたのだけは記憶してゐる。その後十四歳頃に一人で鎌倉江の島へ行つた事がある。この時は砂浜づたひに由比ヶ浜から七里ヶ浜を歩いて江の島に渡つたが押し寄せる波の烈しさにひどく驚いた。波打際にゐると海の廣さよりも波の高さの方に多く気を取られる。不思議にその時江の島の讃岐屋といふ宿屋に泊つて鬼がら焼を食べた事を今でもあざやかにおぼえてゐる。よほど珍しかつたものと見える。十六歳の八月一日富士山に登つたが、頂上から眺めると、世界が盃のやうに見え、自分の居る処が却て一番低いやうな錯覚を起し、東海の水平線が高く見上げるやうなあたりにあつて空と連り、実に気味わろく感じた。高いところへ登ると四方がそれにつれて盛り上るやうに高くなる。
 
 この中で、「小学生の頃蒲田の梅園へ遠足に行つた」「十四歳頃に一人で鎌倉江の島へ行つた」というのは既知の光太郎作品や年譜に記述がありません。はっきり明治何年何月とはわかりませんが、記録にとどめて置いてよいと思われます。江ノ島に関しては「十四歳頃」と書かれていても、単純に数え14歳の明治29年(1896)とは断定できません。意外と光太郎の書いたものには時期に関する記憶違いが目立ちますので。ただ、場所まで記憶違いということはまずありえないでしょう。実際、明治三十年五月刊行の観光案内『鎌倉と江之島手引草』の江ノ島の項には「金亀山と号し役の小角の開闢する所にして全島周囲三十余町 人戸二百土地高潔にして四時の眺望に富み真夏の頃も蚊虻の憂いなく実に仙境に遊ぶ思いあらしむ 今全島の名勝を案内せん(略)旅館は恵比寿屋、岩本楼、金亀楼、讃岐屋を最上とす 江戸屋、堺屋、北村屋之に次ぐ」という記述があり、光太郎が泊まったという讃岐屋という旅館が実在したことがわかります。ちなみに「鬼がら焼」は今も江ノ島名物で、伊勢エビを殻のまま背開きにし、焼いたものです。なぜか14歳くらいの少年が一人旅をし、豪華な料理に舌鼓を打っています。

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つづく「十六歳の八月一日富士山に登つた」は、昭和29年(1954)に書かれた「わたしの青銅時代」(『全集』第10巻)にも「わたしは、十六のとき祖父につれられて富士山に登つた」とあるので、数え16歳の明治31年(1898)で確定かな、と思うとそうではなく、どうやら記憶違いのようです。祖父・兼松の日記(『光太郎資料』18)によれば、富士登山は翌32年(1899)です。こちらの方がリアルタイムの記録なので優先されます。こういうところが年譜研究の怖ろしいところですね。
 
いずれにしても既に東京美術学校に入学してからで、彫刻科の卵だった時期です。「頂上から眺めると、世界が盃のやうに見え、自分の居る処が却て一番低いやうな錯覚を起し、東海の水平線が高く見上げるやうなあたりにあつて空と連り、実に気味わろく感じた。高いところへ登ると四方がそれにつれて盛り上るやうに高くなる。」こういった空間認識は、やはり彫刻家としてのそれではないでしょうか。
 
「海の思出」、このあと、留学時代の内容になります。以下、明日以降に。

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