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雑誌系を2件。


まず、NHKサービスセンターさんで発行している『NHKウィークリーステラ』。NHKさんのテレビ・ラジオ番組ガイド的な雑誌です。

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明後日放映の「偉人たちの健康診断 東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」が、意外と大きく取り上げられています。

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高村光太郎と妻・智恵子の愛の記録 『智恵子抄』を現代医学の視点で読み解く

 太平洋戦争前夜の1941年8月、ある一冊の詩集がこの世に出た。彫刻家の高村光太郎が、妻・智恵子との日々をつづった『智恵子抄』だ。
 明治末期、まだ女性が画家になるなど考えられなかった時代に画家を目指した智恵子。世間の冷たい目にさらされる中、「芸術は自由であるべき」と主張する光太郎に出会い、2人は結ばれる。
 しかし生活は困窮、結婚の翌年、智恵子は肺結核を患う。病状が悪化するたびに福島県の実家へと赴いた智恵子は、東京よりも濃い安達太良山の青空を“ほんとの空”と呼んで愛した。現代医学の視点から見ると、自然に親しむことは副交感神経を活性化し、リラックス効果を得ることができるという。
 智恵子が40代半ばになったころ、商売をしていた実家が倒産。直後から智恵子には、幻覚の症状が表れ、それを絵に描き写すようになる。医師の診断は現代で言う「統合失調症」。入院した智恵子は、差し入れの千代紙などを使って切り絵に没頭していった。近年の研究によると、統合失調症の人は好きなことに熱中すると、症状が安定するという。
 智恵子は何に苦しみ、何を救いとして生きたのか? 美しくも悲しい2人の愛の記録『智恵子抄』を現代医学の目でひもとく。


NHK BSプレミアムさんで、初回放映は明後日、7月25日(木)です。再放送は来週8月1日(木)の朝。ぜひご覧下さい。


続いて、毎月ご紹介しています『月刊絵手紙』さん。「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載があり、今号は昭和14年(1939)の随筆、「書について」から。

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平成29年(2017)の12月号でも、まったく同じ文章が使われましたが、今号が光太郎も絶賛した良寛の書を特集しているということで、あえて同じものを再録したとのことです。

この連載もさらに長く続いて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

僕の芸術のよい所とわるい所とをたしかにありありと、感知し得るものは世に二人しかない。君は其の貴い一人だ。君にこのあはれな集をおくる僕のまづしい喜びを信じて下さい。

雑纂「水野葉舟宛「道程」献辞」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

親友の作家・水野葉舟に贈った第一詩集『道程』の見返しにしたためた文言です。

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二人しかない」という「僕の芸術のよい所とわるい所とをたしかにありありと、感知し得るもの」の一人が葉舟。もう一人は、おそらく智恵子でしょう。

明治末に急逝した碌山荻原守衛が存命であれば、ここに加わったかも知れませんが。

まず『朝日新聞』さん。5月に亡くなった彫刻家・豊福知徳氏の追悼記事です。

(惜別)豊福知徳さん 彫刻家 楕円の穴に見いだした抽象世界 5月18日死去(老衰) 94歳

 楕円(だえん)形の穴がいくつも開いた独特な造形000――。シンプルだが一見しただけで豊福さんの作品とわかるほど強烈な個性があった。剣道や居合道を愛した好男子は、西洋の近代彫刻に東洋の精神性を融合させた深遠な表現をひたむきに探求し続けた。
 国学院大学在学中の1944年、飛行兵に志願。終戦後、故郷の和尚の紹介で、福岡・太宰府にいた木彫家の冨永朝堂(ちょうどう)に弟子入りし、木彫の腕を磨いた。
 59年に「漂流’58」で高村光太郎賞を受けたのが転機になった。翌年のベネチア・ビエンナーレに選ばれ、展覧会を見に行くつもりがそのまま滞在し、イタリアのミラノに居を構えて約45年にわたり創作を続けた。
 新たな抽象表現のアンフォルメル(不定形)運動などに刺激され、それまでの具象を卒業して自分の抽象世界を作りたいともがく日々。苦悩の末につかんだのが終生のテーマとなる、木板に穴をうがつ表現だった。
 回顧録には「板の表裏からくぼみをつけたら偶然穴が開いた」とあったが、滞欧時代を知る美術評論家で多摩美術大学長の建畠晢(たてはたあきら)さん(71)は「木塊に穴という空間をうがつ表現がむしろ作品の存在感を際立たせ、強靱(きょうじん)な造形に昇華させることに気づいたからだろう」と話す。
 無数の穴が織りなすリズムに魅了され、平面から立体まで素材を変えて創作を重ねた。作品に哀感や叙情性が感じられるのは「死を覚悟した戦争体験が創作の原点にあったからではないか」と、元福岡アジア美術館長の安永幸一さん(80)は語る。
 福岡市の博多港にある引き揚げ記念碑「那(な)の津(つ)往還」(96年)は、船上に人が立つ姿をイメージした集大成の大作だ。凜(りん)としたモニュメントは、特攻隊の一員として死の影を踏んだ自分と、命からがら引き揚げてきた人々が敗戦の辛苦を乗り越え、再び大海へこぎ出す希望の象徴に見える。(安斎耕一)

10年間限定で実施された高村光太郎賞、大きな意義があったことが再確認されます。


続いて『産経新聞』さん神奈川版。

【書と歩んで】(3)中国大使館文化部賞・梅山翠球さん 無心に生きる思い込め

「ここまで続けてきてよかった」。梅山翠球さん(71)は受001賞の喜びを、こう笑顔で語った。「にはち」と呼ばれる書道紙(約60センチ×240センチ)に書き上げたのは、近現代の日本を代表する詩人、高村光太郎(1883~1956年)の「冬の言葉」。厳しい冬の情景に人生の苦難や苦悩を重ね合わせ、それらを乗り越えていくことの意義深さをつづった。
 出身の新潟県五泉市は、冬の寒さが厳しい土地だったという。「冬の言葉」には、「冬は凩(こがらし)のラッパを吹いて宣言する 人間手製の価値をすてよと」との一節がある。
 日本海側の冬は、いつ晴れるとも知れぬ鉛色の雲が空を覆い、身を切るような風が吹きすさぶ。書き上げた「冬の言葉」には、そうした自分自身の冬のイメージも投影されているという。「人によって色々な解釈ができる詩だが、自分は『人生は厳しいけれども、自然のように無心に生きなければ』という思いを込めた」と振り返る。
                 × × × 
 筆とすずりで脳裏をよぎるのは、幼少のときの記憶だ。昔ながらの茶の間で、母が小筆を使って手紙などをしたためていた姿が、今でも印象に残っている。
 本格的に書道を始めたのは、長女が小学校に入学したころ。学校の保護者会で、書家の永島南翠氏(全日本新芸書道会常任理事、21世紀国際書会専管理事)と知り合ったことが、きっかけだった。永島氏が書く字の美しさに魅せられ、「ぜひ自分にも書道を教えてほしい」と頼み込み、長女と一緒に教室に通った。
 ときにはまだ小さい次女の育児や家事などに追われ、書道を続けるか悩んだこともあった。だが、永島氏のアドバイスもあり、子供が昼寝をしているときなどの僅かな時間を利用して、根気よく勉強を続けたという。「1枚でも2枚でもいいから、書くことができればと思って頑張りました。その経験があったからこそ、書道を長く続けることができたと思います」
                 × × × 
 30年以上続けてきた書道で、自身が「本当に衝撃的だった」という体験は、食器洗いなどに使われるスポンジで字を書いたときだったという。生き生きとした躍動感を出すため、線によってスポンジの角や面などを使い分け、墨の濃淡も工夫。バケツいっぱいの墨にスポンジを浸し、大きな紙にしたためたのは「動」の一字だった。筆とはまたひと味違った、迫力のある仕上がりとなった。
 「自分が表現したいと思えば、どんなことでも表現できると分かり、書いているときが楽しかった。表現の転換点にもなったと思う」と、目を輝かせながら当時の感動を語った。
 現在は小中学生を中心と002して、十数人の生徒に書道を教えている。良い字を書く上で欠かせない要素は、書き手がもっている「個性」。「きれいでなくてもいいから、人に何かを伝えることができるような字を書きなさい」と、生徒たちにも指導している。「書いているときに自分自身が楽しいと感じられることが、一番大切なことだと思います」。ほほ笑みながら、書の魅力を語った。  (太田泰)
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【プロフィル】うめやま・すいきゅう
 昭和22年8月、新潟県五泉市生まれ。全日本新芸書道会教務理事、21世紀国際書会審査会員。趣味は染紙作りなど。

受賞云々は、同社主催の公募展「第34回21世紀国際書展」。光太郎詩「冬の言葉」(昭和3年=1928)から詩句を選んで、中国大使館文化部賞を獲得されたそうです。

期日は7月10~14日、横浜市民ギャラリー(横浜市西区宮崎町26の1)で開催。入場無料で午前10時から午後6時(最終日は4時)までとのこと。

昨年ですと、第38回日本教育書道藝術院同人書作展第40回東京書作展などで、やはり光太郎の詩句を書かれて上位入選された方々がいらっしゃいます(調べればもっとあるのでしょうが、ネットでの検索に引っかかるのは一部だと思われます)。書家の方々、今後も光太郎作品を取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

一、山は重に低山を所々歩きましたが、大正二年夏期二箇月間上高地に滞在して山嶽写生に暮した日夜の詳細な記憶がいまだに昨日の如くあざやかです。其処ではじめて妻の智恵子と婚約をしました。
二、自然と人間との交錯に小生は最大の喜を感じます。自然のみの自然は無慈悲で物凄い絶対力です。

アンケート「印象の山々」全文 昭和10年(1935) 光太郎53歳

設問一は「山の名」、二は「その印象」。このアンケートで初めて智恵子との婚約が上高地だったことが公にされました。その智恵子はこの年2月から、終焉の地となった南品川ゼームス坂病院に入院しています。

このブログでご紹介すべき事項が多く、東北発の地方紙掲載ニュースをまとめて2件、ご紹介します。ネタに困っている時期ですと分割するのですが(笑)。

まずは光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖から。

二紙での報道が確認できておりまして、最初に『東奥日報』さん。

手作りパンフで十和田市紹介/三本木小児童/十和田湖畔で配布、歌や踊り披露も

 青森県十和田市の三本木小学校(坂本稔校長)の4年生97人が21日、同市奥瀬十和田湖畔休屋で地元のPR活動を行った。児童たちは、市の観光名所や特産物などを紹介するオリジナルパンフレットの配布、地域の踊りなどの披露で古里の良さをアピールした。
 児童は3班に分かれ、乙女の像や商店周辺、遊覧船発着場所の桟橋前広場でパンフレットを配布。受け取った県外客は「うれしい」「感動しちゃった」と笑顔で、手作りパンフレットをじっくりと眺めていた。
 桟橋前広場では、郷土を題材にした同校オリジナルソング「たからもの」を全員で合唱した。観光客たちは、カメラで撮影したり、手拍子をしたりして児童の元気な歌を満喫。流し踊り「三本木小唄」の披露では、見物客を誘い込んで一緒に踊りを楽しんだ。児童代表の大西花奈さん(10)が「また十和田に来て、良いところやおいしい食べ物を楽しんでください」とあいさつすると、盛んに拍手が送られた。
 PR活動について、丸井沙弥子さん(9)は「パンフレットを渡して十和田の魅力を紹介できた」、起田武君(9)は「恥ずかしがらずに伝えられた」と胸を張った。合唱や踊りについては、瀬川湧生(ゆうせい)君(9)が「踊りの輪に入れるよう誘い一緒に踊ってくれてうれしかった」といい、高渕鈴華(すずは)さん(9)は「(合唱では)盛り上がってくれてみんなも笑顔になれた」と満足そうに話した。

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同じ件で、『デーリー東北』さん。

観光客に十和田湖の名所や名産品PR/十和田・三本木小

 十和田市立三本木小(坂本稔校長)の4年生97人が21日、十和田湖畔で観光客らにふるさとの魅力を伝える活動を展開した。児童たちは三本木小唄を一緒に踊ったり、観光パンフレットを配ったりして、地元が誇る観光地の魅力をPRした。
 同校は「ふるさと力日本一」を教育目標に掲げ、郷土学習に力を入れている。2016年には、児童が考えた地域の宝物が登場する歌「たからもの」を制作し、翌年から4年生が湖畔で披露するなど、地元のPR活動を展開している。
 この日は、乙女の像と商店前、桟橋前に分かれ、道行く人に観光パンフレットを配布し、観光名所や名産品などを紹介。その後、十和田湖遊覧船の帰着に合わせ、外国人観光客らと一緒に三本木小唄を輪になって踊ったほか、高らかに歌を披露し、もてなした。
 江渡美莉亜さん(9)は「静岡県から来た人に十和田の自然の美しさを伝えた。踊りや歌は少し恥ずかしかったけど、喜んでもらえてうれしい」と声を弾ませた。
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微笑ましいニュースです。


続いては、仙台発で『河北新報』さん。

古里・女川の支援続ける洋画家佐藤幸子さん 来月3日から仙台で個展 ◎キャンバスに広がる希望 三陸の海、日の出力強く

 河北美術展顧問で日展会友の洋画家佐藤幸子さん(78)=仙台市青葉区=の油絵展「希望と共に」が7月3日、青葉区の仙台三越本館7階アートギャラリーで始まる。宮城県女川町で育ち、東日本大震災の津波で実家を失った佐藤さんが、被災地に希望を届けたいと4年ぶりの個展に願いを込める。9日まで。
 佐藤さんは現在、自宅アトリエでキャンバスに向かい、花をモチーフに最後の作品作りに絵筆を握る。これまで描いた三陸の海の風景も合わせ約35点を展示する予定で、うち「照耀(しょうよう)松島」は100号の大作。松島湾の日の出を力強く描き、2018年の日展で22回目の入選を果たした。
 「明るく希望あふれる作品を目指した。震災から8年が過ぎたが、立ち直れずにいる人にも見てもらえたらうれしい」と語る。
 他に中学生の時に女川の入り江を描いた水彩画「海」を展示し、21歳で山道に咲くヤマブキを情熱的な色使いで描いた油絵「萌(も)える」もパネルで紹介。思い出の作品で60年を越える画業を振り返る。
 佐藤さんは女川の子どもたちに毎年クリスマスカードを送るなど、古里の支援を続けている。震災後は絵
の収益を図書購入費として贈ったり、3校を再編した女川小を慰問して児童と交流したりした。「大変な思いをした子どもたちに逆に励まされた。再び絵が描けるのか悩んだ時期もあったが、創作の意欲をもらっている」と感謝する。
 個展の収益の一部は、女川の中学生が始めた津波の教訓を後世に伝える「いのちの石碑プロジェクト」に寄付される。

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昭和6年(1931)に紀行文執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して光太郎文学碑を建立、さらに毎年女川光太郎祭を開催して下さっている女川町がらみです。

佐藤さんは女川ご出身ということで、記事の最後にあるとおり、収益の一部は「いのちの石碑」プロジェクトに寄付されるとのこと。光太郎文学碑の精神を受け継ぐ活動ですので、ありがたいかぎりです。

殺伐としたニュースが多い中、このようなニュースで日本中が埋め尽くされれば、と思います。


【折々のことば・光太郎】

御質問の第二十一世紀を迎へる迄に世界平和の日が来り得ると思ふかどうか、といふ事については、遺憾ながら、来ないであらふと思ふ方に私は傾いてゐます。世界平和の日を懇望するにつけても、人類進化の遅々たるを痛感します。人種同志の偏見に勝ち得る人類総体のもう一段の進化にはどの位の年月を要するでせう。一寸想像もつきません。

アンケート「世界平和の日」全文 大正15年(1926) 光太郎44歳

残念ながら、光太郎の予想は当たってしまいました。22世紀を迎えるまでに、世界平和の日は来るのでしょうか。大阪で開催されていたG20が閉幕しましたが、その報道に接するにつけ、それも望み薄だろうと思われます。

現在、定期購読している雑誌は、隔月刊誌が1誌、月刊誌は2誌です。隔月の方は『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。偶数月発行ですので今月はお休みでした。月刊の方は、『月刊絵手紙』さんと『日本古書通信』さんです。

『月刊絵手紙』さんは、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされていますので、その連載がお休みの月を除いて毎号光太郎の名が。

今月は初夏の高村山荘(光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋)の写真に添えて、詩「クロツグミ」。

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クロツグミは夏に日本にやってくる渡り鳥。その声を光太郎は「こつちおいで、こつちおいでこつちおいで。/こひしいよう、こひしいよう、」と表しました。何だか、光太郎自身の心の声のようでもあります。


『日本古書通信』さんは、古書全般に関する情報誌的な雑誌で、ある意味、古書店さんたちの業界誌のような側面もあります。以前は当会顧問・北川太一先生や、光太郎令甥・故髙村規氏の連載などもあり、光太郎の名が頻出していました。今月号はたまたまでしょうが、複数回その名が出ていました。

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まず秀明大学学長にして、筋金入りの初版本コレクター・川島幸希氏を囲む座談会的な連載「初版本蒐集の思い出」。詩集『道程』特製版署名入り(大正3年=1914)についてのご発言があります。

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続いて「美術雑誌総目次大正編」という連載。明治末から大正にかけ、青年画家達の活動を裏方から支えて洋画界の発展に寄与し、ゴッホらを支援したペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれてた北山清太郎が刊行した雑誌『現代の洋画』、『現代の美術』について述べられています。光太郎もしばしば寄稿した雑誌で、やはり光太郎の名を出して下さいました。

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さらに「受贈書目」の項。当会顧問北川太一先生の最新刊『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』と、当会刊行の冊子『光太郎資料51』を並べてご紹介下さいました。ありがたいかぎりです。

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各種メディア等で「高村光太郎」の名を見かけなくなる、という事態にならないよう、今後も努力していきたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

芸術上の新機運は無限に発展してとどまることころもなく進むであらうし、造型上の革命も幾度か起るべきであるが、しかしその根元をなす人間の問題は千古不磨である。誠実ならざるもの、第二思念あるもの、手先だけによるもの、気概だけに終始するもの、一切のかういふものは、いつか存在の権利を失ふであらう。

散文「荻原守衛 ――アトリエにて5――」より
 昭和29年(1954) 光太郎72歳

彫刻家としては、唯一無二の親友だった碌山荻原守衛を回想した文章、末尾近くの一節です。守衛の遺した芸術は、このようなものではないというわけで。

守衛といえば、新宿中村屋さん。明治末、同郷の先輩・相馬愛蔵が興し、守衛ら若い芸術家たちの援助を惜しまなかった店です。守衛もパン作りを手伝ったりもしましたし、光太郎も守衛を訪ねて来店しています。

現在、NHKさんで放映中の「連続テレビ小説 なつぞら」。広瀬すずさん演じるヒロイン・奥原なつがアニメーターめざして奮闘する物語です。北海道編が終わり東京編になって、中村屋さんをモデルにしている「川村屋」が舞台の一つとなっています。戦後の話なので、守衛や光太郎は登場しませんが、守衛が思いを寄せ、その絶作「女」(明治43年=1910)のモチーフとなった相馬黒光をモデルとした「前島光子」を、比嘉愛未さんが演じています。

『朝日新聞』さんの記事等から。

まず、今月9日の一面コラム「天声人語」。当会の祖・草野心平を取り上げて下さいました。

天声人語 危機の100万種

草野心平は「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれた。その小さな生き物になりきるようにして、いくつもの詩をつくった。たとえば「秋の夜の会話」。〈痩せたね/君もずゐぶん痩せたね/どこがこんなに切ないんだらうね……〉▼切ないのは空腹のためだろうか。2匹の会話は続く。〈腹だらうかね/腹とつたら死ぬだらうね/死にたくはないね/さむいね/ああ虫がないてるね〉。やせこけた蛙たちの姿が浮かんでくる▼冬眠の前を描いた詩ではあるが、いまや別の読み方もできるかもしれない。国際的な科学者組織が先日、地球上に800万種いるとされる動植物のうち、100万種が絶滅の危機にあるとの報告書を公表した。なかでも両生類は40%以上が危機に直面している▼主犯は人間である。報告書によると湿地の85%はすでに消滅させられ、陸地も海も大きく影響を受けた。海洋哺乳類の33%以上、昆虫の10%も絶滅の可能性があるという▼農業や工業を通じ、地球をつくり変えながら生きてきたのが人間だが、その地球に頼るのもまた人間である。ハチがいるから農作物が育ち、森林があるから洪水が抑えられる。当たり前のことが改めて浮き彫りになっている。報告書は「今ならまだ間に合う」と各国政府に対策を求める▼草野心平にとっての蛙は、生きとし生けるものの象徴にも見える。〈みんなぼくたち。いっしょだもん。ぼくたち。まるまるそだってゆく〉。おたまじゃくしの詩である。全ての命のことだと読み替えてみたい。

「秋の夜の会話」、さらに言うなら、核戦争後の人類が滅亡した地球を描いているようにも読めます。この詩は昭和3年(1928)の詩集『第百階級』に収められたもので、いまだ核兵器は開発される前のことですが……。

心平といえば、現在、心平の故郷・福島いわき市の市立草野心平記念文学館さんで、企画展「草野心平 蛙の詩」が開催中です。ぜひ足をお運びください。


ついでというとなんですが、同じ『朝日新聞』さんから、光太郎にも言及されている中川越氏著『すごい言い訳!  二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石』の書評。5月11日(土)の掲載でした。

文豪たちの機知に味わい 中川越さん「すごい言い訳!」

 言い訳には「姑息(こそく)」「卑怯(ひきょう)」というイメージがある。だが、この本で取り上げられた文豪たちの言い訳は機知に富んでいて、一味違う。
 例えば中原中也。酒に酔って友人に迷惑をかけた際、詫(わ)び状の文末に署名代わりに「一人でカーニバルをやってた男」と記した。中川さんは「カーニバルの中にいる人は、無礼講に決まっています。その人にとやかく言うのは無粋です。こんなふうにトリッキーに書かれてしまっては、もう許すしかありません」と解説している。
 ほかにも「禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した北原白秋」「二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター林芙美子」「不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない徳冨蘆花」など、思わず読みたくなる項目が並ぶ。森鴎外、芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫、太宰治らも次々と登場する。
 文豪たちの言い訳の魅力は何か。
 「辛気くさいものではなく、おしゃれに整えられていて、ユーモアのおまけまで付いている。一方で、いたわりの気持ちが深い味わいになっている」と話す。
 最高峰は夏目漱石だとみている。「返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者」を読むと、いかにも漱石という感じでニヤリとさせられる。「文章の神髄は『そこに詩があるか』だと思うが、漱石がまさにそう。ある言葉が大きな意味合いを放って、心に触れてくる。漱石のすごみです」
 10年前から漱石の手紙2500通を分析し始め、4年前から漱石以外の文豪たちの書簡や資料にも手を広げた。「砂金探しみたいで楽しかった」と振り返る。
 土壇場に追い詰められたとき、気の利いた言い訳をしてみたい人にとって、最適の指南書だ。(文・西秀治、写真・篠塚ようこ)=朝日新聞2019年5月11日掲載

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評には名前が出ていませんが、光太郎も「序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎」という項で取り上げられています。

こちら、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

本号にその文章が掲載されるといふ草野天平さんは若いのに昨年叡山で病死された優秀な詩人である。草野心平さんの実弟だが、詩風も行蔵もまるで違つてゐて、その美は世阿弥あたりの理念から出てゐるやうで、極度の圧搾が目立つ。きちんと坐つたまま一日でもじつとしてゐるやうな人で、此人のものをよむとシテ柱の前に立つたシテの風姿が連想される。

散文「余録」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

心平ならぬ実弟の天平を評した文章の一節です。兄の心平は1分たりとも「じつとしてゐ」られない人でしたので(笑)、たしかに「まるで違つてゐ」たのでしょう。

ちなみに天平、過日亡くなった彫刻家の豊福知徳氏と共に、昭和34年(1959)、第2回高村光太郎賞を受賞しています。故人への授賞だったわけです。

溜まってしまう前に……。

まずは3日(金)の『日本経済新聞』さん……というより共同通信さんの配信記事です。信州善光寺さんでのもろもろをご紹介して下さいました。

善光寺、あうんの呼吸1世紀 仁王像の節目祝う企画

長野市の善光寺で国宝の本堂に向かう参拝客らを仁王門の両脇から出迎える2体の仁王像・阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)が今年9月に開眼100年を迎えるのを記念し、ライトアップや写真コンテストなどの企画が相次いでいる。善光寺の事務局は節目の年に「より多くの方に善光寺を訪れてほしい」と期待を寄せる。
1752年に建立された当初の仁王門と仁王像は1847年の地震に伴う火災で焼失。いったん再建された後も火災に見舞われ、仮の門を代用した時代を経て1918年3月に現在の高さ約14メートルの仁王門が建立された。
高さ約5メートルの仁王像2体が復活したのは翌19年9月。彫刻家の高村光雲と弟子の米原雲海が木曽ヒノキを使い、完成までに4年の歳月を要したという。
昨年は仁王門再建から、今年は仁王像開眼からそれぞれ100年に当たるのを記念し、善光寺は昨年9月から仁王門に貼られた約1200枚の千社札を剥がしたり、仁王像のすす払いを造立後初めて実施したりして、装いも新たにした。
また、仁王像の姿や造形美を際立たせるために午前6時から午後8時までオレンジ色にライトアップし、門の脇を5色の吹き流しで彩る。仁王門や仁王像の写真コンテストとして6月14日まで作品を受け付けているほか、保存や管理を目的に明治、大正期や昭和20年代までの古い写真も募っている。節目となる9月ごろには大規模な記念法要も予定されている。
4月下旬、善光寺を初めて訪れたという甲府市の無職、山下広明さん(71)は「災害など苦難を乗り越えた力強い仁王門、仁王像だと感じた。100年という記念の年に来られて、パワーをもらえた」と話していた。〔共同〕

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続いて、4日(土)、『読売新聞』さんの一面コラム。

編集手帳

陽光に輝く綠の濃淡が心を弾ませる。咲き競うツツジやシャクナゲも生命力にあふれる。 〈植物はもう一度少年となり少女となり/五月六月の日本列島は隅から隅まで/濡れて出たやうな緑のお祭〉。高村光太郎は詩『新緑の頃』で青葉若葉の季節を讃美する◆誰もが幸福そうに見える。山が人を幸福にするのはなぜだろう-----。奥秩父の山小屋が舞台の笹本稜平さんの小説『春を背負って』で、主人公の小屋主が登山客の姿に思う。山小屋を訪れる人々は自然の中で癒やされていく◆大型連休中に山歩きやキャンプを楽しむ方も多かろう。今日は「みどりの日」、新緑のエネルギーを吸収し、英気を養うにふさわしい◆この春、社会に出た若者は、緊張続きのひと月を経て、ほっと一息というところか。抑え込まれていた疲れが噴き出して、虚脱感に覆われがちな時期でもある◆〈悲しめるもののために/みどりかがやく/くるしみ生きむとするもののためにめiに/ああ みどりは輝く〉。室生犀星の『五月』と題された四行詩は悩める心を優しく励ます。薫る風に憂いを払い、心機一転、次なる一歩を踏み出したい。

まさに青葉若葉の季節です。それだけに自宅兼事務所の庭の雑草取りも大変ですが(笑)。


そして今朝の『毎日新聞』さん。俳壇・歌壇面に載ったコラムです。

出会いの季語 北上へ花を追い=高田正子009

 今年は思いのほか長く花時を楽しむことができた。関東圏では卒業式のころには咲き始めていたが、その後の冷え込みによって、めでたく入学式までもちこたえたのだ。そのうえ、花を追って北上するという贅沢(ぜいたく)をしてしまった。標高の高い所へ赴き、はからずも花の時を遡(さかのぼ)ることは日常的にもあり得るが、桜前線を追って自ら動くのは、日々の飯炊きを担う者にとっては目くるめく体験である。
 最終目的地は岩手・北上(きたかみ)の雑草園。俳人山口青邨(せいそん)(1892~1988年)の旧居である。元は東京・杉並にあったが、北上市の詩歌の森公園内に移築されているのだ。
 身ほとりの花が大方散り、遅咲きの桜はまだ固い蕾(つぼみ)であった四月後半、いつもの吟行メンバーが東京駅に集合した。朝からコートが要らないほどの陽気である。<もうひとり待つて始まる花の旅 正子>。とはいえアラ還以上の世代に遅刻は無い。
 みちのく(道の奥)へも今や新幹線でぴゅーっと一走りである。永久(とわ)の別れになることをも覚悟して芭蕉と曽良が旅立ったのは、たった三百年前のことだというのに。 車窓の景色は川を越えるたびに季節を巻き戻してゆく。あら辛夷(こぶし)が、と思うころには仙台に着いていた。芭蕉が「心もとなき日数(ひかず)重なるままに」差し掛かった白河の関も、気づかぬままに通過した模様。<居眠りて過ぐ白河の花の関 正子>。両岸が緑に潤む川を渡ると北上駅である。コートのライナーを外してきたことをコートのライナーを外してきたことを心から悔やみつつ、初日は花巻へ。宮澤賢治の里から、翌日高村光太郎山荘を経て北上へ戻り、雑草園へ。
 わが書屋落花一片づつ降れり 山口青邨
青邨は旅の一行の先生の先生である。桜は一片だに散らさぬ完璧な佇(たたず)まいで、ちょうど花弁を散らしていたのは門の白梅であった。以前訪れたときには庭に居た石の蛙の姿が見えず。冬眠中? そんなわけはないと思うが、また夏に来てみようか。(たかだ・まさこ=俳人)

桜前線をトレースする行程、「東北新幹線あるある」です(笑)。

ぜひ高村山荘のレポートも書いていただきたいところですが……。


【折々のことば・光太郎】

人間の生活は網の目のように引つぱり合つてできているので、文化ということもあまりせつかちに一部分だけにつぎこむと、かえつて悪いこともある。こういう古いけれどもいいならわしのあるところは、ゆつくり進む方がよいような気がする。
散文「山の人々」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

高村山荘のある花巻郊外旧太田村山口地区を評しての一言です。たしかに「地方創成」といいながら、プチ東京をあちこちに作っても仕方がありませんね。

定期購読しております雑誌2誌、届きました。

まず隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第13号。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。今号は「そば粉ガレットとウニペイスト 夏みかん添え」だそうで。

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読者の方からの投稿的なページには、以前の号の「光太郎レシピ」を参考に料理を作った旨の記述。

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「花巻ウラ昔話」というコーナーは、かつて花巻市にあった雪印乳業花巻工場について。ここには昭和43年(1968)、光太郎詩「牛」(大正3年=1914)の一節を刻んだ碑が建てられました。平成14年(2002)に工場は閉鎖、現在は雪印さん系の岩手雪運さんという会社の営業所になっています。光太郎碑はまだ健在なのではないかと思われますが、不明です。

石碑といえば、『マチココ』さんに掲載されている石碑の写真。「あれ? こんなところに光太郎が」でした。

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おわかりでしょうか。石碑上部に写真が4枚並べられていますが、左から2枚目が光太郎です。郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で撮影されたもの。000

この石碑は、平成21年(2009)に建てられたもので、かつてここに雪印乳業花巻工場があったことを示す碑のようです。この存在は存じませんでした。

今秋、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座で、花巻市と、さらに隣接する北上市にある光太郎関係の石碑等をめぐるバスツアー的なものが計画されており、当方、講師を仰せつかっています。その際にこちらも見て来ようと思っております。

ちなみに先述の「光太郎レシピ」中の「そば粉ガレット」、光太郎の日記の記述に従い、雪印さんのバターが使われています。写真にも写っています。


その他、特集が「春がきたっ。」ということで、花巻市内各所の春の風景などなど。

オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回配本、送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


もう1点、『月刊絵手紙』さん。

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「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされています。今号は詩「母をおもふ」(昭和2年=1927)の全文。2年前に亡くなった母・わかを偲ぶ詩です。5月は母の日があるということからの引用だそうです。

その他、特集は「夏目漱石の愉快な手紙、いい手紙」。先月のこのブログでご紹介した書籍『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』を書かれた中川越氏の御執筆です。

同誌は一般書店での販売は行っておらず、同会サイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。バックナンバーとして1冊単位の注文も可能なようです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

小生は言はば一個の風来で、何処にゐても、其処で出来るだけの仕事をし、出来るだけの務めを果たして、そして天命来らば一人で死ねばそれで万事決着といふ孤独生活者です。

散文「ある夫人への返事」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれた文章の一節です。もはやこういう割り切りだったわけですね。

最近の新聞各紙から、光太郎智恵子がらみの記事を紹介いたします。

まず、4月12日(金)の『東奥日報』さん。

十和田湖遊覧船が今シーズンの運航開始

 昨年11月から冬期間の運航を休止していた十和田観光電鉄(青森県十和田市)の十和田湖遊覧船が12日、湖畔休屋で運航を再開した。初日は台湾人観光客や招待客らが双胴船「第3八甲田」に乗り込み、雪残る山々のパノラマ、青みを増す初春の湖水に見入った。
 再開したのは休屋を発着し、御倉半島と中山半島を巡る約50分のコース。招待客が乗った午前11時45分発の53便ではセレモニーを行い、観光シーズン開幕を祝った。船は湖畔の「乙女の像」や、湖上に浮かぶ「恵比寿大黒島」といった名所近くを周遊した。
 別便で遊覧した台湾人の施正忠さん(50)は「雪のある景色がとても美しい。満足している」と笑顔をみせた。十鉄によると、2018年度の乗船客は、欠航が多かった影響で前年比約9千人減の11万人。うち外国人観光客は1万1千人と1割を占める。
 同社の白石鉄右エ門社長は「今年の目標は12万人。船の魅力を国内、外国のお客さまに合わせて伝えていきたい」と意欲を語った。
 19日からは休屋~子ノ口航路も再開し、11月まで1日最大18便を運航する。料金は大人1400円、子ども700円(団体割引あり)。

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カルデラの外輪山にあたる湖周囲の山々には、まだ雪。これから桜の季節なのでしょう。ぜひ足をお運びください。


お次は『福島民友』さん。翌4月13日(土)の記事です。

「桜生かし」まちづくり 二本松で全国シンポ、意見交わす

 全国の桜の保存団体や樹木医らが集う「全国さくらシンポジウム」は11、12の両日、二本松市で開かれた。県内外から約700人が参加し、「ほんとの空に さくら舞う」をテーマに桜を生かしたまちづくりや地域の振興について考えた。
 シンポジウムは、桜の名所づくりや花を核に自然豊かな地域づくりに取り組む日本花の会(萩原敏孝会長)と、同市の行政、観光団体などでつくる実行委員会の主催。本県では1988(昭和63)年の三春町に次いで2度目。
 芥川賞作家の玄侑宗久さんが「桜~『無常』と『あはれ』の花」と題して記念講演した。玄侑さんは、日本人が桜を好む理由について「物事の両極端を受け入れるのが日本人の心情。すぐに散りゆく無常さと花開いた際の『あはれさ』を1本の木で体験できる」と語った。
 パネル討論も行われた。日本花の会の和田博幸さんを進行役に、にほんまつ観光協会長の安斎文彦さん、県樹木医会の鈴木俊行さんらが桜を核にした二本松の魅力発信、桜の保存活動などについて意見交換した。
 最終日の12日は、参加者が二本松の桜の名所などを巡った。
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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)から採った復興の合い言葉「ほんとの空」を冠した「全国さくらシンポジウム」関連です。


同じく4月13日(土)の『日刊ゲンダイ』さん。ネットで見た記事ですが、紙面に掲載されたのかどうか。とりあえず引用させていただきます。

雄星に大谷に佐々木 なぜ岩手が“怪物”を3人も輩出できたのか

 単なる偶然なのか、それとも必然なのか。
 先日、岩手・大船渡高校の佐々木朗希(3年)がU18高校代表合宿で高校生史上最速の163キロをマーク。新たな怪物誕生にメディアは大騒ぎした。佐々木が誕生した岩手は大谷翔平(エンゼルス)と菊池雄星(マリナーズ)の出身地。わずか10年で3人の“怪物”を輩出したことになる。
「岩手の人沈深牛の如し 両角の間に天球をいだいて立つ かの古代エジプトの石牛に似たり 地を往きて走らず企てて草卒ならず ついにその成すべきを成す」
 詩人の高村光太郎は著書「岩手の人」で、岩手県民をこう表現した。牛のように慌てず一歩一歩前に進み、事を成し遂げる気質をつづったのだ。
■県民性、食文化、部活動
 県民性研究の第一人者で、㈱ナンバーワン戦略研究所所長の矢野新一氏は「普段は物静かながら、何かの瞬間に大きな力を発揮する傾向がみられる」と、こう続ける。
「岩手の県民性を実証する企画をテレビでやったことがある。リンゴをたくさん入れた紙袋を持ち、信号待ちしているときに、わざと転んでリンゴをこぼす。すると、のんびり信号待ちしていた人たちが一斉に走って来て、散らばったリンゴを拾い始めたのが印象的でした。岩手では外国人観光客のために作ったおもてなし対策の『10手』が盛り上がっている。何かの目標に向かって一生懸命になり、力を発揮する。長い冬は家にこもるという生活から時代が変化し、県全体に活気が出てきている点も見逃せない」
 食生活にもヒントがありそうだ。
 2016年度の総務省家計調査によると、岩手はわかめ、こんぶの消費量が全国1位。魚介類もよく食べる。ほうれんそう、大根が1位で、にんじん、ごぼうも上位。果物消費もトップだ。さらに、東北に限れば豆腐の消費量も1位。かつては多くの家庭で豆腐作りをやっていた名残という。
 横浜創英短期大学名誉教授の則岡孝子氏(管理栄養士)がこう言う。
「岩手の人たちはオールマイティーの栄養素を食事から取り入れているのでしょう。海のもの山のもの、寒い地域のものなど、栄養バランスが優れていると思います。スポーツ選手の筋肉の発達において、魚介類、豆腐などに含まれるタンパク質と、魚介類などに含まれるビタミンB6、B12を合わせて取ることで、よりタンパク質の代謝が良くなる。ビタミンB6、B12は体に保存できないだけに、タンパク質と一緒に摂取できるのはプラスです。野菜や果物はビタミンや食物繊維、海藻類は食物繊維やヨウ素が多く含まれるため、新陳代謝が高まり、より多くのエネルギーを発揮する効果がある。さらにカルシウム、鉄分が骨や体の成長を促します」
 スポーツへの関心も高い。
 岩手は全国高体連加盟登録状況によると、体育系の部に登録する生徒の加入率(平成30年8月)が60.8%で全国1位。男子中学生100人あたりの軟式野球部員は全国2位。男子高校生100人あたりの硬式野球部員数は全国5位だ(17年度)。
 岩手県教育委員会事務局・保健体育課統括課長の清川義彦氏は「中高の部活動はもちろん、スポーツに取り組む子供、指導者が一生懸命取り組むという土壌ができつつあるのではないか」と分析。岩手県内の高校野球の監督は、「昔から根気強く、純朴で真面目な生徒が多い。寒い時季にも熱心に運動に取り組み、競技力を高め、体をつくっていく取り組みが積み重なった結果だと思う」と話す。
 さまざまな要素が重なった結果、ダイヤモンドの原石が誕生したようなのだ。

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こちらは光太郎詩「岩手の人」(昭和24年=1949)が引用されています。この詩、岩手のスポーツ界が語られる際によく使われます。今年、釜石市などで開催されるラグビーW杯関係で『岩手日報』さん、平成28年(2016)の岩手国体にからめて『盛岡タイムス』さん、同年、競歩でリオ五輪に出場した花巻出身の高橋英輝選手を紹介する『岩手日日新聞』さん、やはり大谷選手がらみの『岩手日報』さん一面コラム「風土計」

なぜ岩手に”怪物”が現れるのか、ということで、いろいろ考察されていますが、当方は、歴史的に見て、やはり「蝦夷(えみし)」のDNAが色濃く残っているからではないかと考えます。平安時代の阿弖流為(アテルイ)はもちろん、源義経をかくまって鎌倉と対立した奥州藤原氏にも蝦夷の血が流れていましたし、下って室町時代のコシャマインや江戸時代の沙牟奢允(シャクシャイン)などのアイヌの首長ら、まつろわぬ人々のエネルギーというか、血に刻まれた反骨心というか、そういったものが21世紀になっても形を変えて現れているように思われますが、どうでしょうか。そうした岩手人の魂を光太郎は詩「岩手の人」に表したようにも思えます。


最後に昨日の『東京新聞』さん。一面コラム「筆洗」で、ノートルダム大聖堂の火災を取り上げ、光太郎に触れて下さいました。

筆洗 4/17

 「宿命」。古い塔内の暗い片隅の壁にそう深く刻まれていたそうだ。どうやら中世の人間が書いたものらしい▼その文字を見つけたのは作家のビクトル・ユゴーである。「宿命」の言葉に刻んだ人間の悲痛さを感じ取ったという。どういう人間が書いたのか。そこから着想を得て執筆したのが宿命に翻弄(ほんろう)される人々を描いた小説『ノートル=ダム・ド・パリ』(一八三一年)。塔とはパリのノートルダム寺院である▼ユゴーが見た言葉も消えうせたか。世界遺産ノートルダム寺院の大聖堂の大火である。尖塔(せんとう)や屋根が崩落するなど、甚大な被害が出た。市民の悲痛な顔。「宿命」と呼ぶには受け入れがたい現実である▼<あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、あなたにさはりたいばかりに、あなたの石のはだに人しれず接吻(せっぷん)したいばかりに>。パリ時代、大聖堂に毎日通ったという高村光太郎の「雨にうたるるカテドラル」。荘厳なる美と歴史。十二世紀着工の大聖堂はパリ市民のみならず、人類全体の宝であった。それが失われた▼修復工事中の失火が原因とみられている。フランス革命にも二度の世界大戦にも難を逃れた大聖堂が失火で炎上したとはなんという皮肉な宿命なのか▼喪失感の中にも再建の声が出ている。人類の宝であるなら人類全体で手を貸したい。再建と復活。それが大聖堂のこれからの宿命と信じる。


人類の宝であるなら人類全体で手を貸したい。」そのとおりですね。


【折々のことば・光太郎】

雪中生活の鮮新さ、小屋を取り巻く潮騒のやうな風声の物凄さ、皆生れて初めての体験です。この王摩詰が詩中の天地に、今日の場合、安全に生きてゐられるありがたさと済まなさとを痛感してゐます。勉強あるのみ。

散文「消息 一」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳


太平洋戦争が終結し、この年の秋、光太郎は鉱山の飯場小屋を譲り受けて、花巻郊外太田村に住み着きました。当初は、青年時代から絶えず希望していた、人里離れた自然に囲まれての生活の実現という、ある意味無邪気な夢想という面があり、そこで、王摩詰が語られています。王摩詰(王維)は唐代の詩人。西安郊外の輞川(もうせん)に隠遁し、芸術三昧の生活を送りました。

そして迎えた初めての厳冬。万年筆のインクも凍るマイナス20℃の寒さ、胸の高さまで積もる豪雪、吹雪の夜にはあばら屋の隙間から舞い込んで寝ている布団にうっすらと積もる雪……。それがやがて、戦時の翼賛活動で多くの若者を死に追いやったという反省に、光太郎を誘って行くのです。

まずは『産経新聞』さん、東日本大震災がらみで、3月11 日(月)の記事。昨年刊行された和合亮一さんの詩集『QQQ』を紹介しています。

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詩集『QQQ』、表題作が光太郎詩「牛」(大正2年=1913)からのインスパイアで、その件にも触れて下さっています。その部分のみ引かせていただきます。

■やせた牛
 〈やせた牛はのろのろ歩く?/やせた牛は土を踏みしめて歩く?〉…。そう書き出される詩集『QQQ』の表題作は、すべての文章の末尾が疑問形。原発事故後の福島を生きる人々の心を覆う、答えの出ない問いの連続と響きあわせるように、「Q」をタイトルに連ねている。
 実際に目にした光景が基になっている。震災の1年後、和合さんはヘリコプターに乗り、事故を起こした福島第1原発から20キロ圏内の上空を飛んだ。車や船が手つかずのまま散乱するなか、主を失った牛たちも見えた。心に刻まれた超現実的な光景に、〈牛はのろのろと歩く〉と始まる高村光太郎(1883~1956年)の詩「牛」を重ねた。
 「高村光太郎の『牛』は豊かさの象徴でもあった。じゃあ今は?という疑問ですよね」。そんな不条理感覚が、収録された16の詩を貫く。除染作業で〈土の中に土を埋められ〉た庭が描写され、児童の多くが避難し廃校となった学校も出てくる。「時がたち、いつしか当たり前でないことを当たり前に感じている。でも悲しみや痛みが軽くなったわけじゃない。みんな心の奥に眠らせている状況だと思うんです」
 原発が立地する大熊町に一時帰宅した住民から聞いた話をつづる詩「家族」にも痛みはにじむ。思い出が詰まった自宅は荒れ果て、子供のぬいぐるみもぼろぼろに…。和合さんは、家の惨状を目にした住民が漏らした〈情けなくて〉というひと言を推敲(すいこう)段階で何度も削ったが、最終的には残した。
 「『情けない』や『悔しい』という言葉は、詩の解釈の方向性を限定しかねない。でもその言葉を入れることで、この詩は重力を持つ。思ったんですよ、自分がやりたいのは表現の斬新さではなく『感情の記録』なんだと。『復興』の掛け声に乗れない人々の、奥深くにある複雑な感情です」


続いて、『読売新聞』さんで、3月7日(木)の記事。同社も主催に入っている「東京国立博物館特別展 御即位30年記念 両陛下と文化交流―日本美を伝える―」の紹介で、目玉の出品物として、光太郎の父・光雲作の「養蚕天女」を大きく取り上げて下さいました。

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光太郎智恵子、それから光太郎実弟の豊周にも触れられています。


さらに『朝日新聞』さんの一昨日の夕刊。同じ「東京国立博物館特別展 御即位30年記念 両陛下と文化交流―日本美を伝える―」と、六本木の泉屋博古館さん分館および学習院大学史料館さんで明後日から開催される「明治150年記念 華ひらく皇室文化 ―明治宮廷を彩る技と美―」展(こちらも光雲作品「魚籃観音」が出るはずです)についても記述があります。

追記 問い合わせてみましたところ、泉屋博古館さん分館で、「山霊訶護」という木彫が出品とのことでした。

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どんどん取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

雲の切れた、明るい透明な西の夕空に、今宵は三日月と星のトルコの旗が美くしい。天体と天空との光度の諧調が目もさめるやうで、何か見知らぬ気体が其処に光を屈折してゐるとしか見えぬ。かういふ瞬間に所謂エエテル気層中の秘密がうかがへないものかしら。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

「エエテル」(エーテル)とは、アインシュタインにより否定されるまで主流だった、光を波動として伝えるために必要な質物質で、宇宙空間に充ち満ちていると考えられていました。もともとは古代ギリシャで提唱されていた空気の上層を指す語でした。

光太郎は大正15年(1926)に書かれた詩「火星が出てゐる」でも、「エエテル」を登場させています。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

3件ほど。

まずは昨日の『岩手日日』さん。

先人ちょっと身近に 浅沼さん 光太郎との思い出語る

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 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)
に理解を深める「高村光太郎先生に学ぶ会」が27日、花巻市太田の太田小学校(藤本実校長、児童113人)で開かれた。6年生24人が当時の太田村山口に暮らしていた光太郎について地域住民から思い出話を聞き、先人とのつながりを心に刻んだ。

 同市太田の浅沼隆さん(77)が講師を務め、光太郎が山口小学校の入学式で来賓としてあいさつしたり、運動会を楽しく盛り上げたりしたエピソードを披露。山口の住民も、ごちそうを作った際は光太郎に持っていくなど親しく交流したと振り返り、「動物や自然に囲まれた田舎暮らしを満喫していた」と明かした。

  同校では、サンタクロース姿や、野菜の栽培に精を出す光太郎の写真を飾っており、浅沼さんはそれぞれ「高村先生は学芸会の時にサンタクロースの格好で長靴を履いていた。駄菓子をくれた」「キャベツにたかったアオムシを取る手伝いをした。取ったアオムシを踏みつぶしたら『駄目だ』と言われた」と回想。
  光太郎は山口に暮らしている間、彫刻制作を封印していたとされるが、「木彫りの小さいセミを作っていて、餅を持っていった時に見せてくれた。子供たちを大切にしていた」と心柄も伝えた。
  児童は光太郎の作品の数や宮沢賢治との関わりについて質問し、「地域に溶け込んで暮らしていたことが分かった」「作品を一つ一つ見てみたい」などと感想。児童らは「生き物や自然、子供が好きだったことを感じた。いろいろな作品を残したすごい人だけど、少し身近に感じられた」と話していた。

浅沼さんのお父様は、光太郎の暮らした山小屋に近い旧山口小学校の初代校長先生でした。光太郎が移り住んだ当初は分教場だったのが、昭和23年(1948)に小学校に昇格し、赴任してこられました。浅沼さんは、小学校までしか配達してくれなかった光太郎あての郵便物を小屋に届けたりもしていました。

ちなみに、当方原作の「乙女の像のものがたり」に、「隆君」という光太郎がかわいがっていた少年が登場しますが、浅沼さんがモデルです。

浅沼さん、この他にも地元で光太郎の語り部的な活動をいろいろなさっています。ありがたいですね。


続いて、『日本農業新聞』さん。2月26日(火)の記事です。 

原発事故―傷痕 今も 失われた日常忘れないで… 福島の“思い”描く

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 来月11日に東日本大震災から8年を迎える。愛犬との平穏な自給自足の生活、先祖伝来の土地での有機農業……。地震に伴う東京電力福島第1原子力発電所事故によって多くの人が人生を狂わされた。「原発事故の災禍を決して忘れてはいけない」。絵本で映画で、原発事故の風化に危機感を抱いた表現者たちは訴える。

老夫と愛犬 淡々と 絵本ロングセラー
 
 原発事故が奪った、老夫とその愛犬の日常を描いた絵本『ほんとうの空の下で』がロングセラーとなっている。著者は福島県郡山市に住む、イラストレーターのノグチクミコさん(55)。来月11日で東日本大震災から8年。ノグチさんは「原発事故があった時、こういう人が生きていたんだということをたくさんの人に知ってほしい」と呼び掛ける。
  絵本のモデルとなった川本年邦さん(享年87)は生前、福島県浪江町で自給自足の生活を営んでいた。物語は、川本さんが小学校や幼稚園で行っていた幻灯機の上映会の様子や愛犬シマとの笑顔あふれる日常から始まる。川本さんは、東日本大震災による原発事故の影響で避難を余儀なくされる。仮設住宅での生活の後、シマを里親に出し、高齢者住宅へ転居した。
  ノグチさんはこうした姿を絵本であえて文章を付けず、変わりゆく生活を幻灯の映像を見ているように、一コマ一コマ淡々と描いた。ノグチさんは、「誰かを責めるわけではない。人によって、いろんな見方をしてほしい」と文章を付けなかった理由を明かす。また、「何回も読み返してほしいので、重たい、悲惨な震災のイメージは避けたかった」と鉛筆だけで柔らかな印象になるように色付けした。
  本の題名は最後まで悩んだが、高村光太郎の詩集『智恵子抄』の「ほんとの空」にちなんで「ほんとうの空の下で」と命名した。川本さんが最期を過ごしたシニアホームの窓から見える空がとても狭かった。「せめて、本の中は本当の広い空で飾りたい」というノグチさんの思いから、物語の最後は川本さんが過ごした福島の空が描かれている。
  絵本は2017年10月にノグチさんが自費出版し、600冊以上を販売した。雑誌の書評に紹介されるなど各地から反響が相次ぎ、1月から農文協でも取り扱いが始まった。農文協は「川本さんの生き方を全国の人にぜひ見てほしい」とPRしている。
  問い合わせは農文協・農業書センター、(電)03(6261)4760。

一昨年に刊行された絵本『ほんとうの空の下で』。昨年には原画展も開催されました。じわじわと売れ続けているとのことで、モデルとなった泉下の川本さんと愛犬のシマも喜んでいることでしょう。


最後に、『毎日新聞』さん。やはり2月26日(火)に掲載された、当会会友・渡辺えりさんによる人生相談のコーナー。

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本題とはあまり関係ありませんが、光太郎の名が。お父様が光太郎と交流があったえりさん、やはり各所で光太郎について触れて下さるのでありがたい限りです。

ところで、同じ日にえりさんの事務所(おふぃす3○○(さんじゅうまる)さん)から葉書が届きました。

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3月21日(木)のえりさんのコンサート、そして8月からの新作舞台「私の恋人」の案内でした。なんと、「あまちゃん」でえりさんと共演されたのんさんがご出演とのことで、驚きました。のんさんに関しては、ご存じの通り業界内でいろいろありますので……。以前にもえりさんから、当て書きでのんさんを起用する脚本に手を着けたものの、結局は断念せざるを得なかったというお話をうかがっていましたし……。

今回の「私の恋人」は、第160回芥川賞を受賞して注目を集める上田岳弘さんが平成27年(2015)に発表した同名原作をベースに、えりさん流の切り口で贈る音楽劇だそうで、えりさんご自身の念願だったという「“たくさんの役柄を少人数で演じきる”という手法に挑み、時を超え、性を超え、物理も超えて30の役をたった3人で演じる」実験的な手法だそうです。もしかすると、光太郎智恵子も登場するのかな、などと思っているのですが、どうなることやら……。

また情報が入りましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

新議事堂のばかばかしさよ。迷惑至極さよ。何処に根から生えた美があるのだ。猿まねの標本みたいでわれわれは赤面する。新議事堂の屋根の上へ天から巨大な星でも墜ちて来い。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

この年建設された国会議事堂に関する感想です。その建築としてのデザイン性には、光太郎のみならず当時の心ある造形作家の多くが批判をあびせました。のちに光太郎は「霊廟のやう」とも評しています。

そのデザインもさることながら、現今ではここに巣くう魑魅魍魎の方が問題ですね(笑)。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

まずは『福島民友』さん。当会の祖・草野心平を祀る同市立草野心平記念文学館さんで開催中の、冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」について。 

【いわき】草野心平、居酒屋の逸話いわき・記念文学館企画展007 (2)

 いわき市草野心平記念文学館は3月24日まで、同市小川町の同館で企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」を開いている。
 草野心平は家族を養うために、詩を書く以外にさまざまな仕事をしていた。居酒屋もその一つで、1952(昭和27)年3月に東京都文京区で開店、約5年間継続し、文学仲間との議論が繰り広げられていた。
 企画展では、居酒屋の開店から閉店までの逸話がうかがえる原稿や草野心平が高村光太郎に宛てた手紙など24点を展示した。3月10日には「火の車」ゆかりのメニューを試食できるイベントも行う。居酒屋の店舗を再現した常設展示も行っている。
 開館時間は午前9時~午後5時。月曜日は休館。問い合わせは同館(電話0246・83・0005)へ。


続いて『読売新聞』さん。信州善光寺さんで開催中の「第十六回長野灯明まつり」に関して。

山門に浮かぶ平和への願い…善光寺ライトアップ

 長野市の善光寺をライトアップする「長野灯明まつり」007が6日、始まった。本堂や山門などが赤、黄、緑、青、紫の5色に染め上げられ、多くの来場者が見入っていた。
  平和への願いを込めて、2004年から毎年開催。今年は、オーストリア、ハンガリー両国が日本と外交関係を結んで150周年の節目となるため、山門には「平和」の文字やバレエやワルツを踊る様子がレーザー光線で映し出された。
  演出を担当した照明デザイナー石井幹子さん(80)は「ゆっくり光を眺めて、平和のありがたさを感じてほしい」と話した。11日まで。


同じ件で、共同通信さん

長野・善光寺が5色に輝く 平和願いライトアップ

 長野市の善光寺を赤、黄など5色にライトアッ008プする光のイベント「長野灯明まつり」が6日から始まった。1998年の長野冬季五輪の「平和を願う精神」を後世に継承するのが目的で、今年で16回目。11日までの夜間に開催する。
  国宝の本堂や、鐘楼が、五輪をイメージした赤、黄、緑、青、紫の5色に照らされると、観客から「きれい」と歓声が上がった。クラシック音楽が流れる中、本堂手前の山門に平和を意味する文字が日本語や英語、ドイツ語など4カ国語で映し出される演出も会場を沸かせた。
  川崎市の大学生佐藤絵莉香さん(22)は「写真をたくさん撮れて良かった」と笑顔を見せた。


こちらでは、光太郎の父・高村光雲と、高弟の米原雲海による仁王像のライトアップも為されています。


それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私はまだ零下四〇度などといふ極寒の地を踏んだ経験がなく、パミイル高原のやうな塩白み果てた展望を見た体験がないから、冬の季節の究極感を語る資格を持たないやうにも思ふが、又考へると、さういふ強力な冬の姿に当面したら、なほさら平常の感懐を倍加するのではあるまいかといふやうな気がする。
散文「満目蕭條の美」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

この項、一つの作品から一節ずつというのを基本としていますが、例外的に昨日と同じ「満目蕭條の美」から。此の文章、あまりにも光太郎という人物を端的に物語っていますので……。

最近入手した雑誌から。 

月刊絵手紙 2019年2月号

2019/02/01 日本絵手紙協会 定価762円+税

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一昨年から花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されている『月刊絵手紙』さん。



今号は、詩「雪白く積めり」(1945=1945)。背景はこの詩の作られた花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)付近の雪景色です。表紙にも同じ写真の一部分が使われています。

   雪白く積めり000
 
 雪白く積めり。
 雪林間の路をうづめて平らかなり。
 ふめば膝を没して更にふかく
 その雪うすら日をあびて燐光を発す。
 燐光あをくひかりて不知火に似たり。
 路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき
 松林の奥ほのかにけぶる。
 十歩にして息をやすめ
 二十歩にして雪中に坐す。
 風なきに雪蕭々と鳴つて梢を渡り
 万境人をして詩を吐かしむ。
 早池峯(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども
 わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。
 わづかに杉の枯葉をひろひて
 今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖めんとす。
 敗れたるもの卻て心平らかにして
 燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
 美しくしてつひにとらへ難きなり。
 
メートル単位で雪が積もるこの風景を見ずして、光太郎の山小屋暮らしを語るなかれ、ですね。


続いてもう1冊。

月刊石垣 2019年1月号

2019/01/10 日本商工会議所 定価477円+税

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『月刊石垣』といっても、城郭マニアの皆さん向けの雑誌ではなく、純然たるビジネス誌です(笑)。

「全国の魅力的なまちを取り上げる「まちの解体新書」」というコーナーが、「◆福島県二本松市◆ほんとの空のある 信義を重んじたまち」ということで、智恵子の故郷・二本松を紹介して下さっています。全5ページで、ちょっとした分量です。

ただし、「ほんとの空」の語がタイトルにあるのですが、本文には光太郎智恵子に関する記述はありませんでした。最近は「ほんとの空」の語が一人歩きしている感がありますね。


それぞれ、上記リンクから注文可能です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自己の生活する社会の根柢に大きな眼を見開いた認識を持たない作家の作は、結局するところ月並芸術に終る。巧妙は巧妙なりに、平凡は平凡なりに、所謂芸術派的芸術の末社の陥るところは皆これである。

散文「ネオ月並式」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

自己の制作に対しても常に厳しい眼を持っていた、光太郎ならではの言ですね。

昨日に引き続き、最近の新聞各紙から。

まず、1月21日(月)の『東京新聞』さん群馬版。群馬県立土屋文明記念文学館さんの第103回企画展「文学者の書―筆に込められた思い」に関して。 

文学者 書に込めた思い 3月17日まで企画展 晩年の子規の書簡、特別公開も

 近代の文学者が筆で書いた俳句や書簡などを展示する企画展「文学者の書 筆に込められた思い」が高崎市保渡田町の県立土屋文明記念文学館で開かれている。俳人の正岡子規(一八六七~一九〇二年)が晩年に友人に宛てた書簡は、所蔵する子規庵(東京都台東区)以外では初公開となる。三月十七日まで。 (市川勘太郎)
 書簡は、正岡子規が脊椎カリエスや結核で亡くなる四カ月前に、新聞「日本」の編集主任で親しい間柄だった古島一雄に送ったもので、昨年発見された。新聞での連載を知らせる手紙に対して礼を述べた上で「覚えず活気が出た」と喜びの心境をつづっている。
 弟子の歌人岡麓(ふもと)は晩年の子規の手紙について「大病人のような弱々しさのない筆勢と生き生きした濃い墨色とが遺されている」と書いていて、書簡からも病床でありながら力強い筆跡で手紙を書いていたことがわかる。
 他にもノーベル文学賞を受賞した小説家川端康成や芥川龍之介の書簡、群馬県ゆかりの詩人萩原朔太郎が書いた封筒など、明治から大正時代の詩人や歌人四十五人の書約百点が展示されている。
 会場には書に造詣が深かった高村光太郎が書いた「書をみるたのしさ」をパネルで紹介。書について「直接書いた人にあうような気がしていつでも新しい」と評している。
 同館学芸係の佐藤直樹主幹(43)は「文学者によって受け継がれてきた書の歴史の一部分を展示している。難しく考えずに見て楽しんでもらえたら」と話している。
 開館時間は午前九時半から午後五時まで。観覧料は一般四百十円、大学・高校生二百円で中学生以下は無料。火曜日休館。
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光太郎、書の作品自体も出品されているはずですが、パネル展示も為されているのですね。当方、明日、現地で拝見して参ります。



次に、『読売新聞』さん。1月19日(月)の夕刊。光太郎の朋友・北原白秋を主人公とした映画「この道」に関し、作曲家の池辺晋一郎氏が寄稿されています。不定期連載の「耳の渚」というコーナーです。

童謡100年 「この道」を想う

 今年は、日本で初めて童謡が作曲されてちょうど100年というアニヴァーサリーである。少し詳しく話そう。
 もちろん、子どもの歌は昔からあったにちがいない。世界中のどんな地域でも、どんな時代でも、子どもは歌う。日本でも「わらべ唄」は自然発生的に流布していた。
 意図的に子どもの歌が作られるようになったのは、明治以降だ。最初の教材は1881~84年刊で、大半が欧米の民謡、一部にわらべ唄などを転用したものだったが、1911年から14年にかけて、文部省による「尋常小学唱歌」が作られる。作詞と作曲者名は伏せられ、本人も口外を禁じられたという。個人の創作ではなく、詞も曲も合議のうえで編纂(へんさん)され、国が作った歌という形をとったのである。その中で「故郷(ふるさと)」「朧(おぼろ)月夜」「春の小川」などについて、高野辰之(1876~1947年)の作詞、岡野貞一(1878~1941年)の作曲であることが公表されたのは、1970年前後になってからであった。

 今も親しまれる前記のような例外はあったにせよ、多くは歌詞が硬く教訓的で、子どもの自然な感情にそぐわないと考えた鈴木三重吉(1882~1936年)が童話童謡誌「赤い鳥」を創刊したのは1918年。芥川龍之介、有島武郎、小山内薫、久保田万太郎らそうそうたる文学者がこの雑誌に寄稿した。創刊の年の11月号に発表された西條八十(やそ)の詩に、翌19年5月号で成田為三作曲による歌が付いて掲載されたのが「かなりや」。これはさらに翌年レコード化されて広く歌われた。「唄を忘れた金糸雀(かなりや)は~」という童謡である。これが、日本の童謡の嚆矢(こうし)とされる。すなわち今年で100年というわけだ。
 「子ども向けだからそれなりに」から「子ども向けだからこそ質の高いものを」という理念に添った詩人は西條八十のほか野口雨情、北原白秋ら。それらに成田為三、本居長世、弘田龍太郎、山田耕筰(こうさく)らが作曲して、すばらしい童謡が次々に生まれた。

 それら名コンビの中の白眉――北原白秋(1885~1942年)と山田耕筰(1886~1965年)の創作の葛藤と軌跡を描く映画「この道」(監督・佐々部清、主演・大森南朋、AKIRA)が公開されている。鈴木三重吉はもちろんのこと与謝野鉄幹・晶子、萩原朔太郎、室生犀星、石川啄木、高村光太郎らも登場することが興味深い。日本人なら誰でも知っているであろう「この道」という歌は、映画のタイトルのみならずキイワードだ。白秋の詩に描かれた風景にとどまることなく、どんな人の心の中にもある、それぞれの「この道」について想(おも)いを馳(は)せることになるだろう。
 「北原白秋 言葉の魔術師」(今野真二著、岩波新書)という本が2年前に出た。僕はかねて「邪宗門」「思ひ出」など白秋の詩集が大好きで、そのふるさと、福岡県柳川を何度も訪れている。この書も当然読み、この映画にも駆けつけた。いっぽう山田耕筰は、日本のオーケストラあるいはオペラの黎明(れいめい)期の立役者として、たびたび触れる機会がある。しかし白秋も耕筰も、もっぱら童謡という視座で語られることは、そう多いとはいえないだろう。そもそも童謡という言葉が、もはや死語かもしれないのだ。

 僕の子ども時代には「童謡歌手」がいた。童謡はすべての子どもに共通の歌で、子ども雑誌の表紙はたいてい彼女らだった。だが童謡は消え、数十人もの集団アイドルが歌う「どれも似たような歌」が、かつての童謡にとって代わっている。
 これはこれでいいのかもしれない。ポップソングの専門家でない僕に、そのあたりの判断はできないが、もし現代に鈴木三重吉がいたら、何を、どう主張するかな、と考えてしまうのである。
(いけべ・しんいちろう 作曲家)

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「この道はいつか来た道」……現在のきな臭い世の中の動きに対しても、そう思わざるを得ません。おそらく、映画「この道」の佐々部清監督も、白秋やその姉貴分の与謝野晶子すら巻き込まれていった泥沼の戦時を描くことで、こうしたメッセージを込められたのだと思います。

昭和6年(1931)満州事変勃発、同7年(1932)五・一五事件及び傀儡国家の満州国建国、同8年(1933)日本の国際連盟脱退及びドイツではヒトラー政権樹立、同11年(1936)二・二六事件、同12年(1937)日中戦争勃発、同13年(1938)国家総動員法施行、同14年(1939)第二次世界大戦開戦、同15年(1940)日独伊三国同盟締結、大政翼賛会結成、そして同16年(1941)太平洋戦争開戦……。

こんな「この道」を繰り返してはなりませんね。


【折々のことば・光太郎】

特別の場合を除く外、児童の未熟な演奏を放送するのを止めたい。人情から言へば子供等の声楽はあどけないから調子外れも無内容も大して気にならない。気にならないから尚更いけないのだ。大衆の耳の調整が攪乱される。一番悪い事には聴いてゐる子供等の耳が害される。おまけに放送してゐる子供等自身にもそんな事でよいやうな錯覚を起させる。

散文「ラヂオの児童音楽」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

童謡を子供の演奏で流していた当時のラジオ放送に対しての苦言です。たとえ童謡であっても、ちゃんとしたプロの歌手に演奏させ、きちんとした音楽で人々の耳を慣らさなければならない、というわけで、正論ですね。

3件、ご紹介します。

まず、1月11日(金)の『読売』新聞さん夕刊一面コラム。 

よみうり寸評

背筋が伸びて、表情もきりりと締まる。そんな佇(たたず)まいを表現するのに凛(りん)という字をよく使う。辞書を引いていて、この語に「寒気の厳しいさまの意味もあることを知った◆りりしさと凍りつくような冷たさと。今の季節に両方を感じていたのだろう。高村光太郎である。〈新年が冬来るのはいい〉。その名も「冬」と題する詩は冒頭からそう言い切る◆〈雪と霙と氷と霜と、/かかる極寒の一族に滅菌され、/ねがはくは新しい世代といふに値する/清潔な風を天から吸はう〉。詩の趣旨に沿う年初となったといえようか。暖冬といわれながらも、この一両日あたりは各地で冷え込み、東京都心では2日続けて氷点下の気温が観測された◆例年、正月のあとにはインフルエンザの流行のピークが控える。今週の厚生労働省の発表によれば、患者数はすでに注意報のレベルを超えた◆〈極寒の一族〉による〈滅菌〉に、比喩以外の意味は無論ない。こまめな手洗いなどでウイルスの感染を防ぎ、凛として寒い時期を乗り切りたい。

ちなみに『読売』さんでは、文中の「霙」に「あられ」とルビを振っていますが、この字は「みぞれ」です。「あられ」は雨かんむりに「散」で「霰」。念のため、『高村光太郎全集』を確認してみましたが、ここにルビはありませんでした。『読売』さんで、読者のためを思ってルビを振ったのでしょうが、残念ながら間違っています。このコラムを読み、光太郎が間違ったのかと思った方がもしいらしたら、そうではありませんのでよろしく。

続いて1月17日(木)の『朝日新聞』さん岩手版。花巻高村光太郎記念館さんで開催中の平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~「光太郎の食卓」を紹介して下さいました。 

岩手)高村光太郎の食卓たどる企画展 花巻

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883―1956)の食生活に焦点をあてた企画展「光太郎の食卓」が、岩手県花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれている。2月25日まで。
 留学で欧米に渡った光太郎は、新しい食文化に触れ、オートミールやコーヒーを好んだ。妻の智恵子に先立たれた後、1945年、戦禍を逃れて花巻市の山荘に移住した後も、自家菜園で野菜を育て、知人が差し入れた肉や乳製品を食べていた。菜園のキャベツを酢漬けにした「シュークルート」などもたびたび食卓に上っていたという。
 企画展では、光太郎の山荘に残されていたまな板やフライパン、バター入れなどの調理道具とともに、光太郎が書いた回想や随筆などをパネル展示し、生涯にわたる食生活と創作の関わりを探っている。宮沢賢治の農民に寄り添う姿を敬いつつ「雨ニモマケズ」に記した一日玄米4合の食が「彼の命数を縮めた」として、牛乳飲用などを勧める随筆「玄米四合の問題」なども紹介している。(溝口太郎)
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同じ『朝日新聞』さんの福島版では、1月19日(土)に以下の記事も。 

福島)詩人・草野天平の生涯、寄り添った妻通して 地域誌編集人が著書

 いわき市出身でカエルの詩人として著名な草野心平。その7歳下の弟、天平も詩人として詩作に励んだ。世俗を離れ、身を削るようにして詩を書き、42歳で亡くなった詩人とその家族の歩みとは――。いわき市で地域誌「日々の新聞」を発行する編集人、安竜昌弘さん(65)が「いつくしみ深き 草野天平 梅乃 杏平の歳月」を出版した。
 多彩で数多くの詩を残し、宮沢賢治を世に知らせるなど文学史に残る活躍をみせた心平(1903~88)。一方、天平(1910~52)は、東京・銀座で喫茶店を営んだり、出版社に勤めたりした後、31歳ごろから詩作を始め、37歳の時の「ひとつの道」が生前唯一の詩集となった。
 晩年は比叡山の寺にこもり、詩作に励んだ。貧しい生活の中で肺を病み、42歳で世を去った。
 天平は、詩を完成させるのに短くて半年、長くて1,2年かけたという。残された詩は静謐(せいひつ)で言葉がゆっくりと染みこんでくる。
 その業績を後の世に伝えたのが、妻の梅乃(1921~2006)だった。
 東京で国語教員などをしていた梅乃は、天平を師と仰ぎ、比叡山の天平を訪ねた。やがて前の夫と別れ、天平と結婚して最晩年の1年8カ月を共に過ごした。
 天平亡き後、詩作ノートなどを読み込み、詩集を出すことに心血を注ぐ。没後6年の1958年に「定本 草野天平詩集」を出版し、第2回高村光太郎賞を受賞した。
 生前の梅乃と交流があった安竜さんは「天平が世に知られたのは、梅乃さんがいたからだ」という。今回の著書では、天平の業績だけでなく、寄り添った梅乃のことも詳しく記した。
 生涯をかけて天平を伝え続けた梅乃も亡くなった。梅乃の13回忌の18年7月、天平だけでなく、梅乃や息子・杏平のことも書き記したいと著書にまとめた。
 「天平は自由な精神を持ち、平和を願い続けた。天平の詩をひもとき、その精神に触れてほしい」
 いわき市平の日々の新聞社1階には、詩人ゆかりの資料などを集めた「草野天平・梅乃メモリアルルーム」がある。同市小川町の草野心平記念文学館では1月から「天平と妻梅乃」を3月24日までスポット展示している。「いつくしみ深き」は2千円(税別)。問い合わせは、日々の新聞社(0246・21・4881)へ。

当会の祖・草野心平の弟にして、やはり詩人だった草野天平。光太郎と天平は、直接の面識はなかったようですが、妻の梅乃は、最晩年の光太郎が暮らしていた中野区桃園町のアトリエを訪れるなどしています。子息・杏平氏は以前の連翹忌にもご参加下さり、今年も年賀状をいただきました。

草野心平記念文学館さんでは、光太郎にも触れる冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」が開催中ですので、記事にあるスポット展示も拝見してこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

この項、明日も続けます。


【折々のことば・光太郎】

一般人事の究極は、すべて無駄なものを脱ぎすて枝葉のばかばかしさを洗ひ落し、結局比例の一点に進んではじめて此世に公明な存在の確立を得るものと考へてゐる。比例は無限に洗練され、無限に発見される。比例を脱した比例が又生まれる。人はさうして遠い未来に向つて蝉脱を重ねる。

散文「装幀について」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳
 
書物の装幀には比例の美が必要だという話から、装幀に限らず万事そうであるという、この一節につながっています。その言は文化芸術にとどまらず、生活習慣までそうであるというところに落ち着きます。

今月に入ってからの、新聞各紙等から。

日付順に、まず、1月1日(火)の『産経新聞』さん。 

産経抄

 慶応4(1868)年の元日の江戸は快晴だったらしい。まもなく鳥羽、伏見で旧幕府軍と新政府軍の戦闘が始まる。7月には江戸が東京と改称され、9月には明治と改元、つまりこの年は明治元年となる。
▼もっとも、いつもの年と同じ正月気分にひたる江戸の庶民には、歴史の大きな変わり目に直面している自覚はまったくない。後に上野恩賜公園に立つ西郷隆盛像の作者となる彫刻家、高村光雲もその一人だった。当時は、仏師をめざす修行中の若者である。
▼「町人などは呑ん気なもので、朝湯などで、流し場へ足をなげ出して、手拭(てぬぐい)を頭の上にのせながら、『近い中に公方様と天朝様との戦争があるんだってなァ』というような話でも仕合う位のものである」。昭和2年から翌年にかけて新聞連載された「戊辰物語」に、こんな懐旧談を寄せている
▼幸いにも平成31年の元旦を迎えたわれわれは、今年5月に改元され、あたらしい御代を迎えることを知らされている。とはいえ、世界は激動の最中にある。天地がひっくり返るような出来事が、いつ起こってもおかしくない。ぼんやりとした不安をかかえながらも、なすすべがないという点では、江戸の庶民と大きな違いはない
▼明治に入ると廃仏毀釈(きしゃく)の嵐が吹き荒れ、仏像は破壊の対象となる。光雲は仏師の仕事を失い、苦しい生活を強いられた。それでも逆境に屈することなく、西洋美術の技法を学び、伝統的な木彫の復活に成功する。作品は海外の万博で評判を呼び、多くの弟子を育てた。大正、昭和を生き抜き82年の生涯を終える
▼どんな変革の波が押し寄せようと、時に大きな犠牲を払いながらも、したたかに乗り越えてきた。そんな先人のたくましさを今こそ、見習いたい。


続いて、1月4日(金)で、『毎日新聞』さんの東京多摩版。 

<平成歌物語>東京の30年をたどる/3 変わらぬ「上京の志」 音楽評論家・富澤一誠さん(67) /東京

 音楽評論家として半世紀近いキャリアを持つ富澤一誠さん(67)に「東京をうたった平成の歌」で印象に残る作品を聞いてみた。興味深い答えが返ってきた。福山雅治さん(49)の「東京にもあったんだ」??。
 富澤さんは長野県須坂市出身。なぜ、長崎県出身の福山さんの歌にひかれたのか。
    ◇
 1970年、東京大学に入学するため上京した富澤さんは、1年の時に歌手を目指して歌謡学校に入学したが、早々に挫折。ラジオで聞いた作詩家、なかにし礼さん(80)の「作詞ほど簡単にもうかる商売はない」という内容の言葉に希望を見いだし、作詞家を目指す。岡林信康の「私たちの望むものは」の歌詞に衝撃を受けてフォークの歌詞を書き、演歌の作詞を教えていた先生と対立した。東京でもがく当時の地方出身の若者そのものだった。
    ◇
 翌71年秋、音楽雑誌に投稿したことが、音楽評論家としてのデビューとなった。デビュー作は、歌詞に衝撃を受けたはずの岡林への批判。その年の8月「俺らいちぬけた」を発表し、岐阜県の山村に移住した岡林について、富澤さんはこう書いた。「生きていることを身をもって知るのは、対人関係において、複雑な社会機構を基盤に考えてこそ人間らしさを問いうるのでは」
 複雑な社会機構??東京だ。
 「我々の頃は、マイ・ペースが歌った『東京』のように、東京は花の都。私は田舎者だから東京に勝手なイメージを抱き『都会っていいね』という思いがあった。田舎へ戻ろうとは思わなかった」
    ◇
 富澤さんは自分の人生を、平成の時代に活躍する福山さんに重ねる。シンガー・ソングライターを夢見ていた福山さんは、高校卒業後に一度は地元の会社に就職したが、夢を諦めきれず上京した。
 その福山さんに2000年ごろ、富澤さんはインタビューした。「東京」について、福山さんはこう語ったという。
 「東京は何かやりたい人にとって、実現できる街、チャンスがどこかにある街。志を持って、何か変わりたいと思って東京に来ると、変われる気がする」
 東京にもあったんだ こんなキレイな夕陽(ゆうひ)が
 「高村光太郎の『智恵子抄』に『智恵子は東京に空が無いといふ ほんとの空が見たいといふ』とあるように、長崎出身の福山さんは、東京を『四角い空』だと思っていたのでは。東京にはきれいな夕陽がない、と思っていた福山さんが、それを発見して歌詞にしたのだと思う」
 「東京にもあったんだ」について、富澤さんはこう解説した。
    ◇
 「いつの日か『東京』で夢叶(ゆめかな)え ぼくは君のことを迎えにゆく」と歌った関西出身のシャ乱Q「上・京・物・語」、「東京は怖いって言ってた」と歌った福岡出身のYUI「TOKYO」。「東京の街に住んで大人になってたって」(「東京」)と歌ったケツメイシは、リーダーが神戸市出身だ。富澤さんは言う。
 「昭和の時代、甲斐バンドや長渕剛は九州から上京し、東京で一旗揚げようと『東京』を歌った。平成になっても、地方出身者が東京を歌う心は変わらない。新時代も、東京の歌は地方出身者が歌っていくことになるかもしれないね」


さらに、1月11日(金)、『朝日新聞』さんの夕刊。 

(危機の時代の詩をたどって:5)同調圧力、戦時中に重ねて

 昨年、若手を代表する詩人の一人、山田亮太(36)は詩「報国」を発表した。
 〈借りもののわれら順次熱狂の状態へ推移する〉〈のっぴきならぬ空気をつくりあげ世界を一つの家にする〉
 自分が戦時下に置かれたらという想定で書いた。「異常時には主体が巨大化し、国家を背負ってしまう。そんなさまを描きつつ、批評性を残すことで異常事態に対抗したいと考えた」。熱狂にひたる快感と共に皮肉めいた雰囲気がにじむのは、批評性ゆえだ。
 山田は、小熊秀雄賞に選ばれた2016年の詩集「オバマ・グーグル」にも、「戦意昂揚(こうよう)詩」と題した詩を収録している。〈きみは決断する/絶対に正しいものも絶対に/信じられる悪もないから〉〈きみひとりの戦争だから〉
 このときは、国家という存在を前に出すより、「きみ」という個人に呼びかける方が戦意高揚で効果的と考えた。
 だが、2年がたち、国家をもっと意識せざるをえなくなった。昨春には国会での証人喚問でどれほど追及されても淡々と答弁する財務官僚の姿に「機械のような完璧さ」を感じた。「国家が制御不能なほどに巨大化しているのに、それに巧みに適応している人間の方が格好良く見える。そんな空気を感じる」

000 詩人の鈴木一平(27)も昨年、戦時下を想定した詩を発表した。その題は「高村光太郎日記」。戦争賛美の詩で批判された高村光太郎(1883~1956)の詩句を引用して一編の詩を作った。なぜ高村の言葉を借りたのか。
 「他人の言葉だから自分に責任はないと、ごまかしをして戦争に加担する詩を書く。そういう恐れが自分にはあるし、そんな消極的賛成こそが危険だと指摘したかった」
 山田も高村の詩で当時の空気を学んだ。「人々が動員された熱狂が伝わってきた」

 若い詩人はなぜ今、戦争を意識するのだろう。「戦争詩論」の著書がある詩人の瀬尾育生(いくお)(70)は「フェイスブックなどSNSでの発言も気が抜けない。今の社会は主流の価値観以外を認めず、正しさを強いる息苦しさがあり、その空気を戦時中に直感的に重ねている」とみる。山田らの「戦争詩」はそんな同調圧力への反抗、というのだ。
 詩人の野村喜和夫(67)も最近の若い世代の詩を「反抗と怒りの言語化」とみる。経済は失速、政治は右傾化し、震災も発生。「原発事故、強大な国家、グローバル資本主義……。統御できない怪物たちを前に我々は途方に暮れるしかない。怒るのは当然」
 野村は今年刊行する評論に「危機を生きる言葉」という題をつけた。「詩人は貧乏や逆境に強く、危機に力を持ちうる。全体性という巨大な怪物から逃れた詩の言葉は『弱い力』を解き放ち、読む人の生に力を与える」と野村はいう。そして希望を込め、レジスタンスにも身を投じたフランスの詩人ルネ・シャールの詩句を挙げる。〈危機がきみの光明であるようにするのだ〉。危機の時代だからこそ、詩の可能性を信じたい。=敬称略(赤田康和)


こうして各紙の記事を並べてみると、現在の「世相」というものが見えてくるものですね。

ちなみに、鈴木氏の「高村光太郎日記」の載った雑誌『てつき1』、注文しました。届きましたらまたご紹介します。


次に、『石巻日日新聞』さん。一昨日もご紹介しました、女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト「いのちの石碑」関連です。 

石巻地方で成人式 1900人 震災経て門出 次代を担う二十歳の誓い

きょう14日は「成人の日」。それに先立つ13日、石巻地方の各地で成人式が行われた。今年の新成人は平成10年4月2日―同11年4月1日生まれ。東日本大震災発生当時は小学校6年生だった世代で、石巻地方の対象者は石巻市1357人(男704人、女653人)、東松島市484人(男266人、女218人)、女川町126人(男56人、女70人)が対象となった。二十歳という人生の節目を迎えた紳士淑女たちは久しぶりに再会した友人と近況を報告し合い、将来への決意を胸に刻んだ。

女川町 古里と仲間忘れず未来へ004

 女川町の成人式は13日、生涯学習センターで開かれた。町内21の浜に震災の記憶を未来に伝える「いのちの石碑」の建立に取り組む、女川中の卒業生約60人が出席。決意新たに一歩を踏み出した。
 「多感な時期に苦労をかけ、本当に申し訳なかった」。震災を振り返り、祝辞で深謝した須田善明町長は「辛さ痛みを背負い、皆で行動してきた。その力は誇り。これから人生の幸をつかみ、何事も真剣に全力で取り組んでほしい」と語った。
 新成人代表の千葉嵩斗さん、鈴木美亜さんが「どこにいてもふるさと女川、大震災でも欠けることのなかった仲間を忘れず、一歩ずつ自分の足で未来に向かって進み、社会の発展に貢献していく」と誓いを立てていた。


女川光太郎祭等でお世話になっている、須田町長さんの祝辞、「多感な時期に苦労をかけ、本当に申し訳なかった」の語に、はっとさせられました。別に町長さんが謝ることではありませんし、震災当時は前町長の町政時代でしたし……。

同じく、女川町の成人式について、新聞ではありませんが、仙台放送さんのローカルニュースから。

「千年後の命を守る」活動とは…女川中学校の卒業生が20歳に誓う

「成人の日」は14日ですが、宮城県内のほとんどの自治体では13日、成人式が開かれ、約2万4千人が大人への第1歩を踏み出しました。このうち、女川町では千年後の命を守りたいと活動を続けた女川中学校の卒業生たちが新成人を迎えました。

13日に開かれた、女川町の成人式。
鈴木美亜さん(新成人誓いの言葉)
「どこに行ってもふるさと女川と、大震災でも欠けることなかった大切な仲間を忘れることなく1歩ずつ自分の足で未来に向かって進んでいきます」
千葉嵩斗さん

「そして、ここから生まれる素晴らしい出会いを大切にし、未来の社会の発展に貢献する
ことをここに誓います」
この日参加した新成人は震災当時、小学6年生。1カ月後に入学した女川中学校で、ある活動を始めた学年です。
阿部一彦先生 (2012年取材)
「千年後まで残しましょう。ここで中途半端にしてはダメだ!大人に訴えましょう!伝わるはず!絶対」
それが、千年後
の命を守るための「いのちの石碑」作り。町内21の浜の津波到達点に石碑を建てる計画です。震災から2年後、2013年に1基目が完成。6年かけ、これまでに17基が建てられました。そしてもう1つ、「いのちの教科書」作り。防災の知識や避難の意識、そして、自分たちの経験などを綴り、2017年、完成しました。2つの活動は今も続き、石碑は最後の21基目の完成を、教科書は来年の改訂を目指しています。
山下脩くん
「この仲間たちじゃなかったら多分途中で諦めていたかもしれないし、みんなで支え合って何でも言い合ってきたか
らこそ、ここまで来れたのかな」
伊藤唯さん
「この活動今は十何人とかすごい少ないんですけど、もとは中学生の時に同級生みんなで始めた活動なので、みんなの気持ちを背負って活動していきたい」
そんな彼らに、この日、ある物が配られました。それは「俳句」を書く紙。いのちの石碑には、震災後、授業で詠んだ同級生たちの俳句が刻まれています。 最後の1基、21基目に刻む俳句は成人を迎えた今回書いた俳句の中から選ぶことにしました。いのちの石碑。その1基目に刻まれた句は「夢だけは壊せなかった大震災」。
橋本華奈さん
「4月からバスガイドになるんですけど、東京オリンピックが開催されるからこそ、東京で色んな方に日本の良さを知ってもらえれば」
小松玲於さん
「今、機械保全の仕事をしているんですけど、それとは別でウェディングプランナーという仕事をやってみたくて、それに向けて勉強しているんですけど、なれるように責任持って、ちゃんとした大人になれれば」
鈴木智博さん

「今大学入っているので勉強して女川町とか、お世話になって人に恩返しできるような大人になれれば」
「千年後の命を守る活動」に参加し続けた山下脩さん。海上保安官になるという夢を叶えました。
「地元である女川だけじゃなくて、宮城、東北の海の安全を守るのが目標で、まだ行方不明者の方とかいるので、実際に潜水捜索とかではないんですけど、その支
援として行方不明者捜索にも関わっていきたい」
伊藤唯さん。「笑顔を届けたい」とダンサーを目指しています。
「ダンサーになることも1つですし、
あとはこの活動がもっと多くの人に知ってもらって命の大切さとか、災害は起こりうるものなので、そういう時の対策を多くの方に知っていただいて、後は成人式を迎えたので、自分自身も責任を持って日々過ごしていけたら」

「千年後の命を守る」活動を続ける女川中学校の卒業生たち。それぞれの夢を追いながら、大人の1歩を踏み出しました。


 
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この「いのちの石碑」をめぐる物語、NHKさんが、平祐奈さん主演でドラマ化。3.11直前の3月9日(土)に放映されるそうです。

また近くなりましたら、詳細をお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

今でも、何かあぶないなと思ふ事にあつたり、前後のわからないやうな、むつかしい考に悩んだりする事がある度に、小父さんはまづ自分の足の事を思つてみる。自分がほんとにしつかり立つて、頭を上にあげてゐるかしらと思つてみる。

散文「小父さんが溺れかけた話」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

自分がほんとにしつかり立つて、頭を上にあげてゐるかしら」という問い。常に持っていたいものですね。

昨日に引き続き、最近の新聞記事等から。

まずは12月4日(火)、『福島民友』さん。 

【郡山】柔らかな肌触り特徴 丸栄ふとん、ガーゼタオルを発売

 郡山市の丸栄ふとん店は11月30日、太002さの異なる綿糸を6重に重ねて織り上げたガーゼを使ったガーゼタオル「やまももぼし」を発売した。同店の片田尚子さん(61)は「地元の誇りをぎゅっと詰めたふとん店発のガーゼタオルで『ふくしまプライド。』をアピールしたい」と話す。
 創業100年の同店発ブランドとして一枚一枚丁寧に仕上げたガーゼタオルは柔らかな肌触りが特徴。洗濯すると生地の間に空気の層ができ、さらにふわふわになるという。ガーゼタオルには、安達太良山と磐梯山、吾妻山の稜線(りょうせん)と「ほんとの空」をイメージした星、モモをはじめとする県産果物の絵を施した。同市の今泉女子専門学校の学生のアイデアをデザインに取り入れた。
 同店では、6重ガーゼを使ったハンカチやフェイスタオル、おでかけケット、バスタオルを販売している。問い合わせは同店(電話024・922・2250)へ。

こんなところにも「ほんとの空」なのですね。

丸栄ふとんさんのサイトを調べてみました。「やまももぼし」、大きく紹介されています。

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続いて12月13日(木)、仙台に本社を置く『河北新報』さん。夕刊の一面コラムです。 

河北抄 12/13

 暖冬傾向かと思っていたら、冷え込みが急に厳しくなった。高村光太郎の詩にあるように今年も、きっぱりと冬が来た。仙台市街地から見える泉ケ岳の斜面に白い面積が増えているようだ。
 14日は泉区のスプリングバレー泉高原スキー場でスキー場開きが予定されており、愛好者にとっては少しでも早くゲレンデで滑りたくなる時季。歌人奥村晃作さん(82)が60代の頃に詠んだ代表歌に<一日中雪山に滑り疲れなしスキーは板に乗ってるだけで>がある。
 スキーは板の上に乗って滑るだけなのに、一日中楽しめる。ごく当たり前のことを簡単に言い切ってしまうことで、スキーに限らずスポーツ競技の奥深さが浮き彫りになる。奥村さんが持ち味とする「ただごと歌」の真骨頂である。
 フィギュアスケートのグランプリ(GP)ファイナルが9日にカナダで終わり、年内の主要大会は21~24日の全日本選手権を残すだけとなったが、主役不在の感は否めない。競技の奥深さを体現し続ける羽生結弦選手のけがからの復帰が待たれる。


そのとおり、きっぱりと冬が来ました。自宅兼事務所のある、比較的温暖な千葉県でも、朝は車のウィンドウが凍るなど冷え込みが厳しくなってきました。

光太郎第二の故郷、花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんは、もう雪に覆われているそうです

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この寒さがこたえたらしいとのことで、明日、詳しくご紹介しますが、お近くにお住まいだった、戦後すぐこの地に暮らしていた光太郎をご存じの高橋愛子さんが、昨日、亡くなったそうです。取り急ぎご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。

散文「出さずにしまった手紙の一束」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

光太郎エッセイの中ではかなり有名なものの一つです。パリで本物の芸術の洗礼を受け、芸術後進国の日本とのあまりの差に戦慄し、そしてその頂点に自分の父親(高村光雲)が居る、という現実に苦悩する姿が語られています。同じ文章の少し後の方では、「僕は今に鈴虫の様な事をやるにきまつてゐる」と記しました。

先月末から今月にかけての、光太郎智恵子光雲にちらっと触れて下さっている新聞記事等、2回に分けてご紹介します。

まず11月28日(水)、『毎日新聞』さん北海道版。 

国際高校生選抜書展 札幌北高が3年連続V 道地区大会、67校から1280点 /北海道

 「書の甲子園」の愛称で知ら001れる第27回国際高校生選抜書展(毎日新聞社、毎日書道会主催)の審査結果が27日、発表された。北海道地区は67校から1280点の出品があり、団体部門は札幌北高が3年連続4回目の地区優勝に輝いた。個人部門は札幌北高3年、阿部穂乃加さんと旭川商高3年、小清水琢人さんの2人が大賞を受賞したのをはじめ優秀賞6人、秀作賞10人の計18人が入賞し、162人が入選を果たした。
(略)
◆大賞
◇「詩の力強さ表現」 札幌北高3年・阿部穂乃加さん
 高村光太郎の詩から「歩いても歩いても惜しげもない大地 ふとっぱらの大地」との一節を作品に仕上げた。濃墨をたっぷりと2 本の筆に含ませ、紙面からはみ出すほどの勢いで一気に書き上げ。 「線の強弱のバランスや空間の取り方が難しかった。詩の意味を考えて、力強さを表現しようと心がけた」と振り返る。出来栄えには、自分なりに手応えはあったが「大賞をいただけるとは予想していなかった」。 本格的に書道を始めたのは、高校で書道部に入部してから。選抜書展では1、2年時に連続で入選し、昨年夏には長野県松本市で開催された全国高校総合文化祭に道代表として作品が展示された。 大学入試が間近に迫っており、 受験勉強の日々が続く。将来、医療関係の仕事を目指しており、「進学後も書道は続けていきたい」と抱負を語った。


札幌北高校さんのサイト中の書道部さんのページに作品の写真が出ていました。同じ作品が今夏に松本市で開催された第42回全国高等学校総合文化祭(信州総文祭2018)でも出品されたようです。力強い作品ですね。

取り上げて下さった「歩いても歩いても惜しげもない大地 ふとっぱらの大地」は、大正5年(1916)の詩「歩いても」の一節です。


続いて11月26日(月)、『読売新聞』さんの投稿俳句欄。

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「智恵子像ゆるき着物に秋の風」。なるほど、いい句ですね。おそらく智恵子生家の縁側で、明治末に撮られたと推定される右の写真からのインスパイアのようです。


さらに12月1日(土)の『日本経済新聞』さん読書面。「リーダーの本棚」というコーナーで、お茶の水女子大学学長の室伏きみ子氏。昭和42年(1967)、童心社さんから刊行されたアンソロジー『<詩集>こころのうた』を、真っ先にご紹介下さっています。

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 小さい頃か002ら読書に親しんだ。
 父親が元文学青年で、仕事のかたわら詩も書く人でした。 家には本があふれていました。
 美しい絵は、本を読む楽しみの一つです。幼稚園児のころから好きだったのが、初山滋さんです。詩集『こころのうた』は、初山さんが装画を担当しました。高村光太郎、三好達治、立原道造、 八木重吉さんら、自分が大好きな詩人の詩が収められています。

同書には『智恵子抄』中の三篇、「人に」(大正元年=1912)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)、「案内」(昭和24年=1949)が掲載されています。


最後に『朝日新聞』さんの千葉版。12月5日(水)に掲載されました。

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光太郎の父・光雲と、高弟の米原雲海による信濃善光寺の仁王さまのおみ足です。なるほど面白い写真ですね。

ちなみに記事を読む前に、写真だけ見て「おっ、善光寺の仁王さまだ」とわかった自分を自分で褒めたくなりました(笑)。


この項、明日も続けます。


【折々のことば・光太郎】

今の公衆と芸術批評家との間に、何の差別を見出さんか。芸術と言ふものに対しては、全く同類の盲目なるは無残な事に候。BOURGEOIS+0+0=CRITIQUE+0+0に候。

散文「琅玕洞より」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

当時の新聞に載った美術批評の頓珍漢さを嘆き、一般人の芸術理解のレベルが低いことをも嘆く文章の一節です。「BOURGEOIS」はブルジョア、中産階級の市民、「CRITIQUE」は批評家、共に仏語です。それぞれ鑑賞眼ゼロだと、厳しく切り捨てています。

今日は別の件をご紹介する予定だったのですが、昨日、埼玉県東松山市で明日まで開催の「高田博厚展2018」に関し、『朝日新聞』さんと『東京新聞』さんが、光太郎にからめて取り上げて下さいまして、その他、最近の新聞雑誌各紙誌に載った記事と併せてご紹介します。

まず、「高田博厚展2018」、『朝日新聞』さん。 

高田博厚の彫刻展 東松山で18日まで

 埼玉県東松山市は、日本を代表する彫刻家高田博厚(1900~87)の遺族から寄贈を受けた作品と功績を紹介する「高田博厚展2018」を、市総合会館で開いている。文豪ロマン・ロランらとの交遊がわかる日記の翻訳文や鎌倉のアトリエが再現されている。18日まで。
 高田は福井県から上京し、彫刻家高村光太郎らと出会い彫刻を始めた。渡仏してロマン・ロランやジャン・コクトー、画家ルオー、哲学者アランらと交流。知的で詩情ある作風で、ルオー、ロマン・ロランらの肖像作品がある。
 高田の没後30年を迎えた昨年、神奈川県鎌倉市のアトリエが12月に閉鎖され、東松山市に作品群の一部が寄贈された。同年2月に亡くなった元市教育長で詩人の田口弘さん(享年94)が高村光太郎に心酔し、高村や高田とも親交があった関係で寄贈された。
 東松山市は86~94年に高田の彫刻作品32体を購入し、東武線高坂駅前約1キロの通りに設置。「高坂彫刻プロムナード」を整備するなどしてきた。展覧会では、鎌倉に残されていたマハトマ・ガンジーの彫刻とデッサンなど高田が制作した彫像作品や絵画、ロマン・ロランの署名入り著書、彫刻台やヘラ、イーゼルなどの道具を並べて鎌倉のアトリエの一部を再現した展示がある。(大脇和明)

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続いて『東京新聞』さん。埼玉版です。 

日仏で活躍した彫刻家・高田博厚の足跡たどる 東松山市総合会館で18日まで

 国内外の著名人との幅広い交流で知られる彫刻家高田博厚(一九〇〇~一九八七年)の足跡をたどる企画展「高田博厚展2018」が、東松山市総合会館(同市松葉町)で開かれている。彫刻やデッサン、絵画計三十点のほか、書簡などが並ぶ。十八日まで。入場無料。
 高田は、一九三一年から第二次大戦をまたいで五七年までフランスに滞在。ノーベル賞作家のロマン・ロランや哲学者アラン、画家ジョルジュ・ルオー、芸術家ジャン・コクトーら名だたる文化人と交流した。
 七四年、彫刻家で詩人の高村光太郎を共通の知人として東松山市の故田口弘教育長(当時)と出会い、八〇年に同市で彫刻展と講演会を開催。田口さんの提言で市は、東武東上線高坂駅西口に高田の作品三十二体を一キロにわたって並べた「高坂彫刻プロムナード」を整備した。市には昨年十二月、神奈川県鎌倉市の高田のアトリエ閉鎖に伴い、遺族から遺品が寄贈された。
 企画展では、高田が「人格的師」と仰いだロマン・ロランをはじめ、アランや詩人中原中也ら交流のあった文化人をモデルにした彫刻作品のほか、書簡などを展示。アトリエを再現した机やパネル展示、ビデオ上映もある。
 同会館では、高田のフランスのアトリエを受け継いだ洋画家で文化勲章受章者の野見山暁治さん(97)と、芥川賞作家で仏文学者の堀江敏幸さん(54)が高田について対談。野見山さんは、パリでの高田との偶然の出会いから、頼み込んでアトリエを継いだエピソード、帰国後の交流まで、ユーモアを交えて語った。
 野見山さんは、高田が帰国する際にアトリエの作品を「例外なく一枚残らず完璧に焼いてくれ。固い約束をしてくれ」と託され、何日もかけて焼却したという。帰国後、銀座のギャラリーで高田の絵を見て「僕が焼いた作品の方が良かった」と思ったことを述懐した。(中里宏)


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こちらは過日の関連行事としての野見山暁治氏と堀江敏幸氏の対談についても触れられています。


さて、他の件で。

やはり『朝日新聞』さんで、先月28日、鹿児島版に載った記事。平成30年度(第71回)全日本合唱コンクール中学校・高等学校部門についてです。 

鹿児島)松陽と鹿児島が熱唱 全日本合唱コンクール

 第71回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の高校部門が27日、長野市のホクト文化ホールであり、九州支部代表として県内からは2校が出場した。Aグループ(8~32人)の松陽は銀賞を、Bグループ(33人以上)の鹿児島は銅賞を受けた。
 松陽は自由曲で「牡丹一華(ぼたんいちげ)」を歌い上げた。古今和歌集の恋の歌6首を織り込み、ため息やひそひそ声でうわさ話を交わすような場面もある複雑な旋律だったが、「練習の成果を出せた」と宮原真紀教諭(46)。和楽器の笙(しょう)やピアノの旋律も加わって、豊かな世界を作り上げた。
 出演順が朝一番とあって、出演した23人は「午前5時起床」と話し合った。電話で起こし合う約束をする部員も。花月真悠子(かげつまゆこ)部長(3年)は何人かに電話したが、「しっかり起きていました。おかげで集大成の舞台をやり遂げることができました」。
 鹿児島は自由曲に、高村光太郎の詩に西村朗が曲をつけた「レモン哀歌」を選んだ。最愛の妻を夫がみとる場面を描いた曲だが、単なる悲哀ではなく、妻への深い愛や生きる力が込められていると解釈し、表情豊かに歌った。学校の定期演奏会などで披露する1時間ほどの合唱劇で、表現力を磨いてきたという。
 部長の高岡未侑さん(3年)は「緊張したけど、歌い始めたら最高に楽しかった」と笑顔。顧問の片倉淳教諭は「心のこもったすてきな音楽にあふれていた。今日の演奏を人生の宝物にしてほしい」と部員たちにエールを送った。

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西村朗氏作曲「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」の終曲「レモン哀歌」を自由曲に選んだ鹿児島高校さん、参加賞に当たる銅賞でしたが、全国コンクールの舞台に立ったというのがすでにすばらしいことですので、胸を張っていただきたいものです。

ちなみに、大学・一般部門は11月24日(土)、札幌コンサートホールKitara  大ホールで開催されますが、こちらでは光太郎詩に曲を付けたものの演奏は、残念ながらありません。


お次は『読売新聞』さん。11月12日(月)の書評欄に高橋秀太郎氏、森岡卓司氏共編の『一九四〇年代の〈東北〉表象 文学・文化運動・地方雑誌』が取り上げられ、光太郎の名も。 

新たな自画像を描く 『一九四〇年代の〈東北〉表象』 高橋秀太郎、森岡卓司編

 副題に「文学・文化運動・地方雑誌004」とある。戦中から戦後にかけての文学作品や雑誌、そしてそれをめぐる動きから、東北と、さらに北海道や新潟の地がどのように捉えられてきたのか、自らはなにを発信してきたのかをテーマに検証、スリリングな論集となった。東北文学に関心ある読者には読み逃せない一冊である。
 作家・詩人なら島木健作、太宰治、吉本隆明、宮沢賢治、高村光太郎、更科源蔵、石井桃子らが論じられ、雑誌でいえば『意匠』が『文学報国』が『月刊東北』が『至上律』が『北日本文化』が俎上そじょうに載る。敗戦前後のカタストロフに、戦争にいかに処したかを問い問われた者が、モダニズムの灯を守ろうと試みた者が、疎開によって「東北」を新たに発見した者がいる。人間の疎開だけでなく、雑誌や出版社そのものの疎開もあれば、戦時下や戦後復興への東北の役割や使命も誌上で模索された。
 なつかしき原風景でありながら近代に乗り遅れた貧しい地域といった正と負のイメージの交錯はもちろん、危機の時代にあってさまざまに東北に寄せられるイメージと東北が発するイメージの錯綜さくそうに、東日本大震災後の東北で出版を生業とする私はいまさらながら深く頷うなずかされた。震災のカタストロフを経て、いま、東北はどのようにイメージされるのか。例えば半世紀を経て、東北をめぐる現在の文学はどのように読まれるか。それはこの国のなにを象徴するか。東北を中心に東日本の大学に所属する論者たちによる収録八編の論考を読みながら、さまざまに連想が跳ねた。
 さらに、東北のみならずこのような視点で全国各地が読み解かれてもいい。文学や雑誌、あるいはそれに関わる動きにしろ、なにも東京だけが発信源ではない。本書の視点でそれぞれの地域を読み直せば、その地の新しい自画像が描ければ、日本の文学史はもっと豊かに深まる。
 ◇たかはし・しゅうたろう=東北工業大准教授◇もりおか・たかし=山形大准教授。いずれも専門は日本近代文学。
 東北大学出版会 5000円
 評・土方正志(出版社「荒蝦夷」代表)

今後、他紙でも取り上げていただきたいものです。


最後に、隔月刊雑誌で『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』 さん。先月末に第10号が出ました。花巻高村光太郎記念館さんの協力で為されている連載、今号は「光太郎レシピ」。「馬喰茸の煮付けとハモ入りセリフォン炒め」です。

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バックに、高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」に出品されている、ジオラマ作家・石井彰英氏制作の昭和20年代、光太郎が暮らした頃の花巻町とその周辺のジオラマが使われています。

同展、11月19日(月)までの開催です。一人でも多くの方のご来場をお待ちしておりますのでよろしくお願い申し上げます。


他にも紹介すべき記事等があるのですが、後日、また改めまして書きます。


【折々のことば・光太郎】

此の詩集に序を書くにしては私は少々野暮すぎる。さう思はれるほと此の詩集には隠微な人情の、見えかくれするしんじつ心の意気が飄々嫋々とうたはれてゐる。

散文「川野辺精詩集「新しき朝」序」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

川野辺精(かわのべくわし)は、茨城県出身の詩人です。『新しき朝』はおそらく川野辺唯一の詩集。玉川学園出版部から刊行されました。

まずは10月30日(火)、NHK秋田放送局さん発のローカルニュース。あきた文学資料館さんで開催中の「特別展示 明治150年秋田を訪れた文人たち」を紹介するものです。 

秋田ゆかりの文人紹介の展示

 秋田市の「あきた文学資料館」には、明治から昭和にかけて、秋田を訪れた9人の文人のエピソードを紹介するパネルや著書などが展示されています。
 秋田には豊かな自然や文化を作品に描こうと訪れる文人も多かったということで、歌人・若山牧水のパネルでは、「名に高き 秋田美人ぞ これ見よと 居ならぶ見れば 由々しかりけり」と、秋田の女性の美しさを詠んだ歌などが紹介されています。
 
また、秋田出身の文化人と親交のあった人も多く、詩人で彫刻家の高村光太郎が、小坂町出身の出版人に宛てた67通の手紙も、期間限定で展示されています。
 小坂町に寄贈された光太郎の手紙がすべて展示されるのは、今回が初めてで、岩手県に疎開していたときに、空襲に遭ったことなどが書かれ、当時の生活や人間関係の交流の様子がうかがえます。

あきた文学資料館の京極雅幸副館長は、「文人たちが、秋田で何を見て何を感じたかを知ることで、秋田の魅力を感じてほしい」と話していました。
 展示会は12月27日まで開かれていて、高村光太郎の手紙は11月4日まで展示されています。

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東北のローカルニュースといえば、過日ご紹介した、十和田湖観光交流センター「ぷらっと」の光太郎コーナーリニューアルに関し、RAB青森放送さんのニュースで報じられたそうです。弘前在住の大学時代の友人が、LINEで画像を送ってくれました。何も連絡しておかなかったのですが、当方が映っていることに気づいて撮ってくれたとのこと。

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同じ件を報じた、『デーリー東北』さんの記事がこちら。

高村光太郎の逸話紹介 関係者がトークセッション

  十和田湖観光交流センター「ぷらっと」2階展示スペースにある「高村光太郎コーナー」が28日、リニューアルオープンした。同日、セレモニーとイベントが行われ、同湖のシンボルである「乙女の像」を制作し、彫刻家や詩人として活躍した高村について、関係者がトークセッションを通じ人柄や逸話を紹介した。 同コーナーは、新たにブロンズ製の高村の胸像と、乙女の像の制作で使用された回転台を展示し、解説文のパネルを設置した。 胸像は、戦後に岩手県花巻市で生活していた高村をモチーフに、彫刻家の田村進さん(青森市)が制作。旧日本軍の高射砲の台座として使用した物を転用した回転台は、彫刻家の北村洋文さん(東京)が所有していた。 胸像と回転台はそれぞれ十和田市に寄贈され、同日のセレモニーで小山田久市長が、田村さんと北村さんに感謝状を贈呈した。 続いてトークセッションでは、田村さんと北村さん、リニューアルを監修した高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会代表の小山弘明さん(千葉県)の3人がマイクを握った。 北村さんは「野辺地町出身で、乙女の像の制作に助手として携わった小坂圭二先生から、『使わないと意味がない』と言われて頂いた」と回転台を所有した経緯を説明。田村さんは「(乙女の像の)除幕を記念した高村の講演会があり、待ち伏せしてサインをもらおうと思った。背は大きく声は割と低かった」と振り返った。 小山さんは「高村の生前最後の大作で半年ほどの速いスピードで完成した。十和田湖のシンボルの一つとして愛し続けてほしい」と乙女の像をアピールした。

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光太郎、そして智恵子が愛した「みちのく」の地での、さまざまな顕彰活動。今後もいろいろと続きます。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私は彫刻家だ。彫刻の悦は、黙つてすぱりと、生きてゐる内天の自然を、まるごとのまま、幽、顕のあはひからつかみ出すところにある。

散文「陶山篤太郎詩集「銅牌」序」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

「乙女の像」も、そういう見地から造られたのでしょう。

まず、10月20日(土)の『日本経済新聞』さん。智恵子終焉の地・品川区のゼームス坂病院跡についてです。 

今昔まち話 ゼームス坂(東京・品川) 詩人も通ったなだらかな坂

東京都品川区の大井町駅から3分も歩けば、風変わりな名称の坂道にたどり着く。約400メートル続く2車線の両側には新しい高級マンションから昭和時代に竣工したビンテージ物件などが立ち並ぶ。多くがその名を冠するほど、人気の住宅地に浸透している。ところで、ゼームスって誰?
幕末に来日し、明治期にこの地に邸宅を構えた英国人のJ・M・ゼームス(スペルはJames)。船長で日本海軍の創設に関わり、後に勲章が贈られた人物だ。通りの名となった理由は、私財を投じて急な坂道を緩やかに整備したため、と伝えられている。
「もともと浅間坂と呼ばれていた今のゼームス坂を明治時代に改修したとする文献は見つけられない」と話すのは区立品川歴史館の学芸員を長年務めた「品川郷土の会」の会長、坂本道夫さん(68)だ。坂の脇道を入ったところに邸宅があったことから、この脇道を整備したのではないかと推測している。
坂本さんが国立公文書館アジア歴史資料センターで調べたところ、ゼームスは海外情勢を報告した報酬として海軍省から大金を得ていた。坂の近くにあった青果店の男性(故人)からは「ゼームスさんは近所の子供にお小遣いを与えており、自分ももらったことがある」との証言も得ていることから、坂本さんは「資産家で住民から親しまれていたことは間違いないだろう」とみる。
脇道を挟みゼームス邸跡地の反対側は作家の高村光太郎の妻、智恵子が1938年に亡くなるまで入院していたゼームス坂病院があった地だ。郷土の会は95年、光太郎が妻の最期を詠んだ「レモン哀歌」を黒御影石に刻んだ碑を建てた。
「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとつた一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛(か)んだ」
深い悲しみのなか、優しさに満ちた光太郎の詩は今も多くの人の心を捉えている。智恵子の命日である10月5日、今年も誰かがレモンを詩碑の前に置いていた。人気の住宅街で脇道に潜むストーリーに触れた気がした。

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続いて、10月22日(月)、『福島民報』さん。 

西会津で探究心育む 小学生「ほんとの空プログラム」

 自然の中で子どもたちの好奇心や探究心を育む「ふくしま ほんとの空プログラム-地域の謎を解明せよ!」は二十一日、福島県西会津町奥川で催された。 
  小学一年生から五年生九人が参加した。にしあいづ自遊学校(旧奥川保育所)をスタート・ゴールに、ヒントが記された地図を頼りに約二キロのコースに設けられたチェックポイント八カ所を巡った。途中でバッタやカマキリなどの昆虫採集を楽しむ姿も見られた。 
  昼食ではピザ作りに挑戦。ドラム缶を加工した特製オーブンで焼き上げた熱々のピザを青空の下で味わった。 
  プログラムは福島民報社の主催。オーデン、花王、常磐興産、大王製紙、テーブルマーク、日本シビックコンサルタント、日本ファイナンシャル・プランナーズ協会の協賛。NPO法人寺子屋方丈舎の実施運営。全四回あり西会津町は第三弾。

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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語、もはや福島の復興の合い言葉として、一人歩きの感がありますね。


さらに昨日の『東奥日報』さん。過日ご紹介した十和田湖観光交流センターぷらっと 高村光太郎コーナー リニューアルオープンセレモニーなどについてです。 

十和田湖畔休屋「ぷらっと」 高村光001太郎コーナー改装 28日式典 胸像展示やガイドツアー

 十和田市は28日、十和田湖畔休屋地区の十和田湖観光交流センター「ぷらっと」2階で、高村光太郎コーナーのリニューアルオープンを記念した式典を開く。コーナーは青森市の彫刻家・田村進さんが制作し昨年市に寄贈した胸像「光太郎山居」を回転台とパネル附きで展示。28日は式典後に、田村さんらによるトークセッション、高村が制作した「乙女の像」を巡るガイドツアーも行う。いずれも参加無料。
 式典は午前10時から。田村さんのほか、解説パネルなどを監修した小山弘明さん(高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会代表)、回転台を寄付した北村洋文さん(むつ市)らが出席。
 午前10時20分から同11時40分まで、田村さんら3氏が高村にとって「最後の大作」となった乙女の像について語りあうトークセッションを行う。
 午前11時50分からは、地域おこし協力隊・山下晃平さんによるガイドツアー。かつて東北有数の山岳霊場として信仰を集めた十和田湖に、弘前大学の斉藤利男名誉教授が歴史的側面からアプローチした本紙連載を基にした単行本「霊山十和田」で紹介されたスポットを巡り、乙女の像をバックに記念撮影を行う。いずれも申し込み不要。問い合わせは十和田市観光推進課(電話0176 51 6771)へ


それから、10月22日(月)には、『毎日新聞』さんの岩手版に「7年間過ごした花巻、昭和20年代ジオラマで 記念館で企画展 来月19日まで」という記事が出たようですが、こちらは共同通信さんの配信で、同一の記事が10月5日(金)の『日本経済新聞』さん他にも掲載されました。


最後に、今朝の『朝日新聞』さん。重松清氏による連載小説「ひこばえ」の一節。

 和泉台文庫では、『○月の特集』と002銘打って、毎月テーマを決め、蔵書の中からお勧め本をピックアップしている。発案したのは田辺麻美さんで、テーマ決めや選書も麻美さんが一人でやっている。
(略)
 壁際の本棚ではなくキャスター付きのブックラックが、特集のコーナーになっていた。小説やエッセイ、児童書や絵本に加え、写真集などのビジュアル本も含めて二十冊ほどのラインナップだった。高村光太郎の『智恵子抄』や城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』といった、私でも題名ぐらいは知っている本もあれば、初めて目にした著者の本もある。

川上和生氏による挿画がいい感じです。『智恵子抄』、本題には関係ないのですが「ごくごく当たり前の本」の例として使われています。

しかし、『智恵子抄』、「ごくごく当たり前の本」でなくなるようなことがあってはいけないな、と、改めて感じました。


【折々のことば・光太郎】

鷗外先生の「花子」はまことに簡にして要を得た小説であつて、ロダンの風貌性格習性がいきいきと描かれて居る。巧にロダンの言説まで取り入れられ、又久保田医学博士といふ人の行動をかりて、ダンテからボオドレエルに至るロダンの思想上の経歴まで暗示されてゐる。

散文「鷗外先生の「花子」」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

森鷗外の「花子」(明治43年=1910)は、確認できている限り唯一、ロダンの彫刻モデルを務めた日本人女優・花子とロダンの関わりを描いた短編小説です。

まずは富山県の地方紙『北日本新聞』さん。一昨日、10月5日(金)の一面コラムです。 

天地人

戦後詩を代表する北村太郎さんの詩の一節を引く。〈部屋に入って 少したって/レモンがあるのに/気づく〉。以前からそこにあったレモンは、爽やかな香りがして初めて詩人の目に留まる
▼匂いが演出する“認識の時間差”なら、この時期、キンモクセイとなる。自転車通勤の道すがら、ほのかに香り始めた。ふと、鼻をくすぐられて周りを見ても、にわかには姿を見せない。香りの主張に比べ、花そのものは葉に隠れて目立たない
▼甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで、秋の深まりを思う人も多いだろう。先日の本紙「とやま文学散歩」に、〈この町のこの風が好き金木犀(きんもくせい)〉(吉崎陽子)とあった。見慣れ、住み慣れた町も、季節の匂いの演出で新鮮な顔つきになる
▼〈この風〉は、花を揺らし、芳香を運んでくれる。すそうあってほしい秋の風だが、9月以降、台風が矢継ぎ早にやって来て、秋の野辺を騒がす強風が吹き荒れた。3連休となるこの週末も台風25号が列島に迫るようだ。予報通りに進めば、朝鮮半島をかすめて日本海を北上する。このコースをたどると、県内は強い南風が吹き、過去には大きな火災が起こっている
▼冒頭のレモンのこじつけながら、きょうは高村智恵子の命日「レモン忌」。死を悼んだ夫、高村光太郎の「レモン哀歌」にちなむ。風雨に備えつつ、夜長に詩集などを開く人もいるだろう。

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智恵子の命日、10/5は、どなたが制定されたのか、「レモンの日」ということにもなっており、そのおかげであちこちで取り上げられています。ありがたいことです。


同じく10月5日(金)、『日本経済新聞』さんの夕刊社会面には、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」が紹介されました。共同通信さんの配信記事で、全国の地方紙の中に、同じ記事が載ったところもあるようです。 

高村光太郎、思い出の花巻 記念館でジオラマ

 詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が終戦間際から7年間を過ごした岩手県花巻市の情景を伝えるジオラマが、同市の高村光太郎記念館で展示されている。高村が随筆で「ローカル色豊かで旅情をそそられる」と表した花巻電鉄の企画展の一環だ。
 高村は空襲で東京都内のアトリエを失い、45年5月に宮沢賢治の実家を頼って花巻に疎開。終戦直後に現在の記念館近くの山荘に移り住み、52年までに「暗愚小伝」などを執筆した。
 ジオラマを制作したのは東京都品川区の石井彰英さん(62)。以前の作品で、高村の妻、智恵子が最期を迎えたゼームス坂病院(品川区)をつくったことがきっかけで、同館から依頼を受けた。10月5日は智恵子の命日。
 1年がかりで完成したジオラマは幅180センチ、奥行き120センチ。町のにぎわいや温泉街など昭和20年代の雰囲気を表現した。高村も乗った車幅が狭く前面が縦長の「馬面電車」が走り、背丈1センチほどの約520人の衣服にもこだわった。石井さんは「当時を知る世代も知らない世代も、人々の息吹や幸せを感じ取ってほしい」と話す。企画展は11月19日まで開かれている。

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地方版でなく社会面だったので、ありがたいところです。


昨日には、福島の地方紙二紙。

まずは『福島民友』さん。 

「好きです智恵子純愛通り」 顕彰団体がイメージソングCDに

 詩集「智恵子抄」で知001られる二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子の没後80年、智恵子純愛通り記念碑建立10年を記念し、顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶは」はイメージソング「好きです智恵子純愛通り」を録音、CDを作った。団体代表の熊谷健一さんらが2日、三保恵一二本松市長に報告、曲を録音したCDを贈った。
 作詞、作曲は「安達の光太郎」をペンネームとする二本松市に住む男性。高村光太郎の詩「樹下の二人」や「あどけない話」をモチーフに光太郎、智恵子の美意識などの世界観を表現したという。歌は東日本大震災で浪江町から横浜市に避難した歌手のハーミーさんが吹き込んだ。
 熊谷さんは「歌詞は優しく、メロディーも覚えやすい。気軽に口ずさみ、光太郎や智恵子の世界に思いをはせてほしい」と話した。


続いて『福島民報』さん。 

今日の撮れたて 安達太良山(二本松市) 「ほんとの空」と錦秋満喫

 日本百名山の安達太良山(一、七〇〇メートル)で紅葉が見頃を迎えた。高村智恵子が愛した「ほんとの空」の下、山肌を覆う低木、樹林が赤、黄、茶色に染まる。五葉平の緑に割り込むように秋のモザイクを広げていく。
 連日、大勢の登山者が訪れる。二本松市の奥岳登山口からロープウェイで八合目の薬師岳に登ることができる。降りてからは一面に広がる錦絵のような景色を楽しみながら山頂を目指す。
 問い合わせは富士急安達太良観光 電話0243(24)2141へ。

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当方、今日は二本松に行って参ります。「第24回レモン忌」に参加後、智恵子生家での「坂本富江展 「智恵子抄」に魅せられて そして~今~ パートⅡ」等を拝観、岳温泉に1泊し、明日は二本松市市民交流センターで行われる「智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問」会場に顔を出し、その足で山形県天童市の出羽桜美術館さんで開催中の企画展「開館30周年記念所蔵秀作展 第二部 日本本画と文士の書」を拝見に行く予定です。

錦秋の安達太良山を見、できれば「好きです智恵子純愛通り」CDもゲットしたいと考えております。

皆様もぜひ、二本松、そして花巻へと足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

この詩人の能く重きに堪へるねばり強さと、内燃する熱情と、性来の正直さとを知るものは、尚ほ実に多くの未来を彼に負はせる。この詩人は必ずそれに答へるであらう。

散文「神保光太郎の詩」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ「光太郎」の名を持つ神保光太郎は、高村光太郎より22歳年少、およそ一世代下の詩人です。やはり高村光太郎同様、本名は「みつたろう」ですが、自ら「こうたろう」と名乗りました。

高村光太郎による他の詩人の評はかなり数多く残されましたが、感心するのは、そのどれをとってもありきたりな評ではなく、その詩人を的確に表し、それから、一つとして使い回しがないということ。ある詩人の評に使った表現を、別のある詩人の評にも転用するというインチキをしていません。当然といえば当然ですが、その語彙力、表現の豊かさに感心させられます。

まずは今月9日の『河北新報』さん。宮城県女川町の光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連です。 

<東京五輪>海外メディア、宮城の被災地視察 復興状況発信

 2020年の東京五輪・パラリンピックに向けて東日本大震災の被災地の復興状況を世界に発信しようと、東京都は8日、海外メディア向けに宮城県女川町や東松島市を巡るツアーを開催した。フランスやインドなど13カ国の報道関係者24人が参加した。
 女川町のまちなか交流館では、須田善明町長が復興の歩みを説明。サッカーチーム「コバルトーレ女川」の選手らや、五輪・パラリンピックのポスター作品コンテストで金賞を受賞した女川小6年鈴木御代(みだい)さん(11)が20年大会やスポーツへの思いを語った。一行は町中心部の商業エリアや、女川中に建つ「いのちの石碑」なども見学した。
 シンガポールを拠点に働くスティーブン・ムーラさん(52)は「震災当時の出来事は今も女川の人々の心に鮮明に残っていると感じた。震災の1年後に被災地を訪れたが、復興が進む様子を見られてよかった」と話した。
 東松島市宮野森小では、08年の北京大会ソフトボールに出場した馬渕智子さんによる授業を取材した。9日は五輪出場経験者らが参加する「オリンピックデー・フェスタ」がある福島県昭和村に足を運ぶ。

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今年、JFLに昇格したコバルトーレ女川の千葉洸星選手は女川町出身。「いのちの石碑」建立に拘わってきたメンバーの一人なのですね。


続いて『朝日新聞』さん。14日の東北版です。 

(東北細見)智恵子記念館 福島・二本松市 夫への愛「紙絵」は芸術に /東北・共通

◆みちのくお出かけ  9月に入って雨が続き、安達太良山の上の「ほんとの空」は厚い雲の向こうだった。振り返ると家並みの向こうに阿武隈川の水面が光った。
 1920(大正9)年春、詩人で彫刻家の高村光太郎は妻の智恵子の故郷・福島県二本松市油井を訪ねた。父の三回忌で滞在中の智恵子は喜び、生家の裏の鞍石(くらいし)山からのパノラマを二人で眺めた、と後に光太郎は振り返っている(「智恵子回想」など)。
 同山を整備した智恵子の杜(もり)公園の展望台から下ること約20分。生家の造り酒屋に併設する智恵子記念館に着いた。心を病んだ智恵子は晩年、病室で切り絵細工の「紙絵」制作に没頭した。その日に見た物を手当たり次第に題材にし、包装紙や色紙を切り抜いた。その数、肺結核で亡くなる約2年の間に1千数百点。館内には約30点の複製が常設展示され、期間限定でオリジナルも展示される。
 「すべて智恵子の詩であり、抒情(じょじょう)であり、機知(きち)であり、生活記録であり、此世(このよ)への愛の表明である」。光太郎はそう評したが、少し捕捉が必要だろう。
 付き添いのめいの手記によると、智恵子は完成次第、作品を隠し、見舞いに訪れた夫にだけ見せたという。「病状が悪化し会話も成立しない中、眠っていた芸術的センスが紙絵に現れた」と担当の市文化課の服部正人さん(47)。唯一の理解者である夫にだけ向けられた愛の表明と伝わってくる。
 都内で活動する切り絵作家の福井利佐さん(43)は「まるで筆で描いたよう」と、下書きをせず一気にハサミで切った技法にも注目する。「切り絵が芸術として確立していない時代に独自の表現を見いだしていた」
 二本松市内などを会場にした「福島ビエンナーレ2018」で福井さんは来月中旬~11月下旬、智恵子の生家で作品を展示する。市内に唯一1軒残った正月飾りの切り紙細工の技法を福井さんが学び、智恵子の母校・油井小学校の児童たちに指導した作品と共に。
 女性の芸術家を目指した智恵子。その思いは地域の文化の継承も加え、受け継がれる。

<メモ>二本松市智恵子記念館・生家(水曜休館)へはJR安達駅から徒歩で約20分。東北道二本松インターから国道4号を経由して車で約10分。周辺には智恵子の祖父が奉公した造り酒屋跡、父母の出会いのきっかけとなった商店跡など「ゆかりの地」もあり、散策先として紹介されている。詩碑などのある「智恵子の杜(もり)公園」は記念館の背後の稲荷八幡神社から。展望台まで直接車で向かうルートもある。


というわけで、二本松の智恵子生家・記念館周辺を紹介して下さいました。

記事にある「福島ビエンナーレ2018」が既に始まっていますが、智恵子生家での福井利佐さんのインスタレーションは、10月13日からとなります。詳しくはまたのちほど。


【折々のことば・光太郎】

あまり明白すぎて人にまぶしがられてゐる太陽、あまり確かすぎて人に古臭がられてゐる大空、それを彼は敢然として書く。真理に対する良心の火を彼ほど命にかけて護持する者は偉大である。

散文「ロマン ロラン六十回の誕辰に」より
大正15年(1926) 光太郎44歳

「ジャン・クリストフ」や戯曲「リリユリ」の翻訳を光太郎が手がけた、ロマン・ロランの評です。光太郎自身への評としても当てはまりますね。

周辺人物との関わりから、光太郎について記述された新聞記事を2本。

まずは9月2日(日)の『秋田魁新報』さん。 

ふるさと小紀行[小坂町・出版人・澤田伊四郎]「埋もれたもの」世に

 小坂町立総合博物館郷土館に7月、新たな常設コーナーができた。ショーケースに並ぶのは、竹久夢二、高村光太郎、棟方志功といった文化人の作品集。同町出身で出版社「龍星閣」(東京都千代田区)を創業した澤田伊四郎(1904~88年)が、世に送り出した本の数々だ。
  地元の大地(だいぢ)地区を除き、町内で澤田のことを知る人はこれまでそう多くなかった。親交があった同郷の日本画家、福田豊四郎(1904~70年)と比べ、知名度には差がある。
  注目されるきっかけは今年2月。澤田の長男で龍星閣現社長の大多郎さん(78)が前年、小坂町へ寄贈した膨大な資料の中から、高村に関する未公表資料が見つかった。
  代表作「智恵子抄」の続編の出版に向け、澤田と交わした書簡34通。全集に収録されていない資料だった。高村は当初「これはまずものにならないと思います」と記したが、約1年後には「たのしい詩集になりそうでたのしみです」と書いており、出版を巡る心境の変化が読み取れる。
  大多郎さんが寄贈した資料は、龍星閣の出版物やさまざまな文化人と交わした手紙などで、段ボールで13箱分に及んだ。
  小坂町教育委員会の学芸員、安田隼人さん(35)は「たまたま最初に手を付けた高村の書簡から、未刊行資料が見つかった。この『龍星閣コレクション』は、すごいものなんじゃないかとの思いが強まった」と話す。
  澤田は自身も詩などを創作し、学生時代から同人雑誌を手掛けてきた。1933(昭和8)年に龍星閣を創業。20代後半で編集・出版を専業とするようになった。
  モットーは「有名でないもの、埋もれたもの、独自なものを掘り上げて、世に送る」。龍星閣の出版物は革張りや金箔(きんぱく)といった豪華な装丁が特徴で、澤田の本作りへの情熱、作者に対する敬意がにじむ。
  憂いを帯びた美人画で知られる竹久夢二も、澤田が「掘り上げた」作家の一人だ。竹久の死後に資料収集に奔走し、10冊近い作品集を龍星閣から刊行した。安田さんは「現在に至る竹久夢二人気の中で、澤田が果たした功績は大きい」と指摘する。
  66(昭和41)年の県広報誌に掲載された対談記事で、澤田はこう語っている。「30年たった後の世に読み返して、そこに新しい価値を発見できるといったようなもの、そして他の出版社で出せないようなものというのが、私の出版方針です」
  くしくも逝去から30年。気骨の出版人の業績が、古里で再評価され始めた。

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今年2月に企画展「平成29年度新収蔵資料展」が開催され、その展示品の一部が7月から常設展示となった、小坂町の総合博物館郷土館さんがらみで、同町出身の龍星閣主・澤田伊四郎の紹介です。光太郎代表作の一つ『智恵子抄』などの版元ということもあり、光太郎についても言及して下さいました。

当方、2月GWに現地に伺い、報道されている署名本や書簡類を拝見して参りましたが、とてつもなく貴重な資料です。ぜひ足をお運びください。


続いて9月3日(月)の『東京新聞』さん東京都内版。 

文豪の足跡記す 街歩き冊子発行 森鴎外記念会・倉本事務局長

000 文豪・森鴎外(1862~1922年)を研究している「森鴎外記念会」(事務局・文京区)が、鴎外ら文学者の軌跡をたどる街歩きの冊子を発行している。倉本幸弘事務局長(66)が執筆・編集を担い、これまで2冊を刊行、現在は3冊目を準備中だ。倉本さん独特の目線から街へと誘う。 (中村真暁)
 二〇一六、一七年発行の二冊のコースは、いずれも鴎外が半生を過ごした「観潮楼(かんちょうろう)」(同区千駄木)跡に立つ区立森鴎外記念館が起点。一冊目の「観潮楼から芝、明舟町へ」は、鴎外が実際に歩いたと考えられる港区虎ノ門までの約六・五キロをたどる。続く「団子坂から谷中・上野へ」は、鴎外の小説「青年」の舞台となった上野や谷中(台東区)など、直径一キロほどのエリアを巡る。
 地域ゆかりの文学作品の場面や文学者のエピソードが盛り込まれており、「団子坂-」では、夏目漱石(一八六七~一九一六年)の「三四郎」の主人公が団子坂(千駄木)を下って行くと説明。その様子は、鴎外の小説「団子坂(対話)」でも触れられていると紹介、小説の該当部分を引用して載せた。東京芸術大(台東区上野公園)を取り上げたページには、鴎外の講義を聴講した詩人の高村光太郎(一八八三~一九五六年)による回想を掲載している。
 もともと、街歩きが好きな倉本さん。目的もなく歩いていると、目に留まった風景や建物から、文学作品などの知識が自然と頭に浮かんでくるという。
 冊子はそんな情報が満載で、細かな地図をあえて載せず、倉本さんが見た物、感じたことを文章と写真で表現した。「歩き方を押し付けたくない。自分の感性を大事にしてほしい。歩いてみて、東京はこんなに面白く、美しいところだったんだと感じてもらえれば」と倉本さんは話す。
 三冊目は、鴎外記念館から、奥浅草の台東区立一葉記念館に至るコースを予定している。シリーズのタイトルは「森鴎外記念会事務局長さんの散歩案内-東京は小さい、だから歩いてみよう-」。「観潮楼-」が十一ページ、コピー代として百五十円、「団子坂-」が十七ページ、百七十円。森鴎外記念館で扱っている。


近所に住み、美術学校での恩師でもあった鷗外。しかし、どうも若き光太郎、「権威」には反発したがる癖があったようで、偉そうな鷗外に親しめませんでした。大正に入ってからは、やはり権威的だった鷗外を揶揄し、「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、光太郎は鷗外宅に呼びつけられて叱責されたとのこと。鷗外はこの件を雑誌『帝国文学』に載った「観潮楼閑話」という文章に書いていますし、光太郎も後に高見順や川路柳虹との対談などで回想しています。何だか現代の若者がSNSに悪口を書き込んだとか書き込まないとかのトラブルの話のようです。さすがに暴力行為には発展しませんでしたが(笑)。
 
といって、光太郎は鷗外を嫌悪していたわけではなく、それなりに尊敬していましたし、鷗外は鷗外で、つっかかってくる光太郎を「仕方のないやつだ」と思いつつもかわいがっていた節があります。光太郎が明治末に徴兵検査を受けた際、身長180センチくらいの頑健な身体を持ちながら、徴兵免除となりました。理由は「咀嚼(そしゃく)に耐えず」。確かに光太郎、歯は悪かったのですが、それにしても物が噛めないというほどではありません。これはどうしたことかと思っていたら、帰り際に係官の軍人が「森閣下によろしく」とのたまったとのこと。与謝野寛あたりの配慮で、軍医総監だった鷗外が裏で手を回し、光太郎の徴兵を免除してやったらしいのです。

その鷗外・光太郎がらみの街歩き冊子ということで、良い試みですね。今度、森鷗外記念館さんに行った際にはゲットして参ります。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩とは決してある特殊の雰囲気の中(うち)だけにあるのではなく、人間の生きてゐるあらゆる場所に存在し、あらゆる心情に遍漫して居るのである。各人の心のまんなかにある一番大切なものから不可避の勢で迸出して来る言葉はみな詩となる。その吐かれた詩が又逆に人間活動の原動力となり、人間精神の滋味となる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

確かに当方など、光太郎詩から「人間活動の原動力」、「人間精神の滋味」を得させてもらっています。

呑気に花巻レポート的なことを長々書いているうちに、紹介すべき事項がまた山積みです(笑)。東北の地方紙2紙、コラムで光太郎智恵子に触れて下さっていますのでご紹介します。

まず、『福島民報』さんの「論説」欄。 

【智恵子没後80年】さらに魅力発信を(8月31日)

 今年は二本松市出身の洋画家・高村智恵子の没後八十年に当たる。詩人で彫刻家の夫高村光太郎が詠んだ「智恵子抄」の朗読大会をはじめ各種記念事業が市内で企画されている。智恵子が表現した芸術、文化の世界に改めて思いを巡らせ、魅力を県内外にさらに発信する機会としたい。
 智恵子は一九三八(昭和十三)年に五十二歳で亡くなった。病気療養中、千数百点に上る紙絵を残した。愛と芸術に生きた先駆的な女性と評価され、多くの人々を魅了している。
 朗読大会は全国から参加者を募り、十一月十八日に開かれる。夫妻への思いを込めたスピーチと詩の朗読を通じて二人の世界を感じてもらう。十月には智恵子に関する知識を問う「智恵子検定」や、智恵子抄を題材にしたスケッチ展示が行われる。十二月にはカフェを予定している。市内で販売されている智恵子にちなんだ菓子を味わいながら、二人の人生を語り合う。多くのファンが訪れる場となろう。
 紙絵や油絵が並ぶ記念館と生家は一九九二(平成四)年四月に開館した。一九九五年度には約八万三千人が訪れたが、減少傾向が続き、二〇一七年度は約一万六千人だった。展示物配置の刷新や生家を使った各種企画など来場者増を図る対応が待たれる。すぐ近くの鞍石山には「樹下の二人」の詩碑があり、「あれが阿多多羅山[あたたらやま]、あの光るのが阿武隈川…」を実感できる光景が広がる。記念館と生家を見た後、立ち寄れば、詩の世界をより身近に感じられる。整備されている遊歩道をもっと活用する手だてを探る必要がある。見学者の満足度向上を図り、観光ルートとして一層の売り込みに力を入れてほしい。
 九月九日からは福島現代美術ビエンナーレが「重陽の芸術祭」として二本松市で開幕する。切り絵や絵画の斬新な作品が市内に飾られる。生家も会場となる。新進気鋭の女性作家も多く出品する。若手女性作家を対象に智恵子の名前を冠した賞を創設する考えが実行委員から示されている。どう継続していくかなど課題はあるだろうが、実現へ向け検討してもらいたい。芸術家としての智恵子の魅力を広く訴える契機になる。
 二本松市は、おいしい日本酒、多彩な菓子、霞ケ城や二本松少年隊といった歴史、「ほんとの空」が広がる安達太良山、伝統の祭りなど観光資源に恵まれる。さらに誘客を目指すために全国的な知名度を誇る智恵子抄を生かしてほしい。(吉田雄一)

取り上げられているイベント等、また近くなりましたらそれぞれご紹介いたします。

「全国的な知名度を誇る智恵子抄を生かしてほしい」、その通りですね。


続いて『岩手日報』さん。一面コラムです。 

(風土計)2018.9.4

 挑戦する者には、常に無数の質問が浴びせられる。全く新しい試みであれば、なおさらだろう。「なぜ前例のないことをするのか」「リスクが大きすぎる」
▼一つ一つ質問に答えるうち、挑戦者は不安を覚えてくる。道を切り開く意欲は衰え、守りに入るようになる。英語で言う「death by a thousand questions(千の質問による死)」だ
▼二刀流の復活にも、数々の疑問が米メディアから投げかけられた。「打者に専念すべきでは」「チームが上位進出する見込みも薄いのに投手をやる意味がない」。それらを振り払い、挑戦者はマウンドに戻ってきた
▼大谷翔平選手の投手としての復帰戦は49球で終わったが、存分に野球を楽しんでいるように見えた。二刀流を疑ういくつもの「なぜ」に、日本にいた時から揺るがなかった人だ。これからも千の質問に、自ら切り開く道を阻まれることはないだろう
▼「岩手の人」を信念の強い牛に例えた高村光太郎に、「牛」という別の詩もある。〈牛は為(し)たくなつて為た事に後悔をしない/牛の為た事は牛の自信を強くする〉。自ら好きで挑んだことに悔いなどあるはずもない。挑むことで、自信は強さを増す
▼浴びせられる千の質問にも微動だにせず、ついにその成すべきを成す。牛のような、「岩手の人」の強さを見る。

岩手の皆さん、光太郎から贈られた詩「岩手の人」(昭和24年=1949)を大事にして下さり、いろいろなところで引用して下さいます。

岩手の人眼(まなこ)静かに、001
鼻梁秀で、

おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。

たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるつて巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

画像は花巻北高校さん(大谷選手の母校ではありませんが)に立つ、高田博厚作の光太郎胸像の台座に刻まれたものです。

明日も新聞各紙から、ということで、周辺人物との関わりなどから光太郎に言及された記事をご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

普通に人は、詩精神の衝動によつて詩を書く人が詩人であると考へる。私は、詩精神の衝動によつて書いたものが必然的に詩になる人を詩人であると考へる。同じやうに聞えるがいささか違ふ。あらかじめ詩なるものを書かうとしてかかる人は、新旧に拘らず、詩といふものの類型に堕しがちだ。書いたものが必然に詩になる人にしてはじめて、づばぬけた生きた詩が出来るものだと考へるのである。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

書いたものが必然に詩になる人」。他の文章で述べていますが、そうした者の好例が、宮沢賢治や草野心平だというのです。もちろん、自身も其れを目指していたのでしょう。

少し前から紹介すべき内容が多すぎて、このブログで取り上げるのが中々追いつきません。嬉しい悲鳴ですが。

今月初めからの新聞各紙の記事をまとめてご紹介します。

まず、『福島民友』さん。8月5日(日)に福島市で開催された女優の中嶋朋子さん朗読会についてです。 

北の国からの蛍...倉本作品「朗読」 福島で女優・中嶋朋子さん

 脚本家倉本聰さんが手掛けたドラマ「001北の国から」の蛍役で知られる女優中嶋朋子さんによる朗読会が5日、福島市のとうほう・みんなの文化センターで開かれた。倉本さんが富岡町をテーマにした点描画「夜の森 桜はそっと呟(つぶや)く」に添えた詩の朗読では、中嶋さんが自然の視点に立った情景をしっとりと聞かせ、来場者を倉本作品の世界にいざなった。
 中嶋さんとゲストの詩人和合亮一さん(福島市)が朗読した。「夜の森―」は富岡町にある「夜の森の桜」の東京電力福島第1原発事故後の心情を想像した詩で、中嶋さんは「倉本さんは観察のプロフェッショナル。夜の森の桜を繊細に表現したのだろう。皆さんも作品を心の声で読んで味わってほしい」と語った。
 中嶋さんはこのほか、本県ゆかりの高村光太郎の「樹下の二人」と草野心平の「おたまじゃくしたち45匹」を読み上げた。和合さんも自作「詩の礫(つぶて)」などを披露した。
 トークショーでは「北の国から」の撮影秘話を披露。連続ドラマで列車を中嶋さんが追い掛ける場面は「走りながら、いいタイミングでマフラーが飛んでいくシーンを撮るために何度も走った」と明かし、ユーモアを交えながら倉本さんやスタッフの情熱が今も語り継がれる名シーンをつくり出した様子を紹介した。
 朗読会は福島民友新聞社の主催、大清プロダクションの特別協賛。同センターで開催中の展覧会「森のささやきが聞こえますか―倉本聰の仕事と点描画展」との同時開催。
 「あぁ懐かしい」
 中嶋朋子さんは朗読会前に展覧会会場を訪れ、倉本聰さんが描いた点描画などを鑑賞した。
 中嶋さんは「自然の中にいると人間の無力さが分かる。倉本先生は自然の強さや優しさ、大きさを木に語らせた」と想像した。「北の国から」の小道具や撮影セットの展示では、蛍役の衣装と再会。「あぁ懐かしい」と声が漏れた。
 中嶋さんはこれまでも観光などで何度も来県していると明かし、「自然豊かな福島にまた訪れたい」と話した。


続いて同じ福島の『福島民報』さん。7日掲載の記事です。 

記念事業で誘客 智恵子没後80年

 二本松市出身の洋画家・高村智恵子を顕彰002する民間団体「智恵子のまち夢くらぶ」は今年の智恵子没後八十年に合わせ、多彩な記念事業を展開する。メイン事業として十一月十八日に二本松市コンサートホールで「全国『智恵子抄』朗読大会」を開く。愛と芸術に生涯をささげた智恵子を多くの人に知ってもらい、観光誘客にもつなげる。
 「全国『智恵子抄』朗読大会」は国内初開催となる。詩人で彫刻家の夫高村光太郎が詠んだ智恵子抄は、智恵子への愛情が凝縮された詩集として知られる。智恵子、光太郎夫妻への思いを込めたスピーチと詩の朗読を通じ、県民だけでなく全国の人々に「純愛」を感じてもらう。福島大名誉教授の沢正宏さんが審査委員長を務める。八月下旬から出場者を募る予定。
 十二月には「智恵子カフェ」を催し、智恵子にちなんだ菓子を味わいながら智恵子と光太郎の人生について語り合う。九月には智恵子純愛通り記念碑第十回建立祭、十月には智恵子に関する知識を問う「智恵子検定」などを予定している。夢くらぶは毎年、智恵子に関するイベントを開催してきたが、全国規模の催しを主催するのは初めて。
 六日に同市の市民交流センターで開いた企画会議で事業の詳細を決めた。熊谷健一代表(67)は「智恵子の魅力を発信して文化振興につなげたい」と話した。各種イベントに関する問い合わせは智恵子のまち夢くらぶの熊谷代表 電話0243(23)6743へ。


だいぶ前にちらっとご紹介しまして、詳細はまた改めてご紹介しますが、チラシは下記の通りです。

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それから、8月6日(月)の『毎日新聞』さん。歌人の川野里子氏のコラムです。 

ことばの五感 「本物」はどこに?=川野里子

 都会生活が長くなったせいか「本物の生活」というものに憧れるようになった。しかし「本物の生活」とは一体どんな生活のことなのか? 例えば野菜は無農薬で育て、衣類から家具まで手作りをする。魚を焼くにも炭火を熾(おこ)し、風呂も薪で沸かす。そんな生活のことだろうか。私の父母は老後このような「本物」生活に楽しそうに没頭した。だがそのために働きずくめに見えた。怠け物の私には無理だ。あのひたむきな「本物」への情熱を不思議な気持ちで思い出す。「本物」とは何か?
 あるアメリカ人の老婦人が「アメリカには何でもあるけど、本物がないのよ」と嘆いていた。彼女によればイギリスやフランスには本物があるという。では、ということでイギリスに行き、バッキンガム宮殿を見学した。だが、かつてルネッサンス様式だった建物はその後ネオクラシック様式へと模様替えをし、さらにさまざまに増築されたややこしい建物だった。これは「本物」か? ルネッサンス様式といえばイタリアだ。しかしルネッサンスは古代ローマの復興の意味だという。建築に、絵画に、彫像に古典への憧れが滲(にじ)む。いったい本物はどこにあるのか?
 こないだは祠(ほら)があったはずなのにないやと座りこむ青葉闇 五島 諭 
 確かにあったはずの祠は幻だったのか? どこかにあって、しかし探すとなぜか見つからない。そういうものを私達は常に探しているのかもしれない。ずっと昔から人間は「本物」に憧れ、「本物」を目指して心の旅を続けてきた。ブランドものや骨董(こっとう)品が本物であるか否かに始まって、本物の味、本物の芸術、本物の旅などなど。詩人、高村光太郎の妻の智恵子は「ほんとの空」は故郷にしかない、と言った。そういえば本物の愛なんてことも若い頃は考えたな。苦しい堂々巡りだった。
 肛門をさいごに嘗(な)めて眼を閉づる猫の生活をわれは愛する 小池 光
もしかするとこれこそ「本物の生活」なのか?
(かわの・さとこ=歌人)


川野さんのお名前、記憶のどこかに引っかかっていましたが、5月に中村稔氏著『高村光太郎論』書評を書かれていました。


さらに、昨日の『朝日新聞』さん。読書面です。  

(著者に会いたい)『本を読む。 松山巖書評集』 松山巖さん

心揺さぶられた33年分の541冊 松山巖004さん(73歳)
 大学の建築学科を出て、親友と建築事務所を作ったが、なかなかうまくいかない。もの書きになろうと思っていた1983年、新宿の飲み屋で知り合った「カメラ毎日」の西井一夫編集長(故人)から、書評を書くようにと1冊の本を手渡された。
 『學藝諸家 濱谷浩写真集』。学問や芸術を追求する諸家、つまり藤田嗣治、鈴木大拙、湯川秀樹、高村光太郎、井伏鱒二ら91人を45年かけて撮った本だ。詩人・堀口大学を写した4枚の中には、堀口の娘の子ども時代と、花嫁姿の写真がある。
 「こんなに時間をかけて撮るんだ、とびっくりしましたね。一人一人はともかく、全体としてみると人間って面白いもんだなって。これを気どった文章で評することは僕にはできないと思って、素直に書きました」
 西井さんからは、翌月も、その翌月も、書評の依頼が来た。初の著書である都市論『乱歩と東京』が日本推理作家協会賞を受け、読売新聞の読書委員に。
 その後、毎日、朝日の書評委員になり、読売の委員を一昨年まで長年つとめるなど、新聞に書評を書き続けてきた。
 「はじめは都市や建築、美術の本が中心でしたが、だんだん崩れちゃって、何でもやるようになりました」
 歴史や評論に加え、小説が増えていく。安岡章太郎や井上ひさし、津島佑子、又吉直樹に、パトリック・モディアノ、ギュンター・グラス、ミシェル・ウエルベックらも取り上げた。雑誌での書評もあわせて、この本には541冊分が収められている。33年間の定点観測的な「ブックガイド」ともなった。
 本にまとめたのは、昨春、大腸がんの手術を受けた後、気力が湧かず、書いてきた書評を再読してみたらと思ったからだ。
 「気力も戻ってきたけれど、友だちがすごく喜んでくれるのに驚いてます。書評している本を読みたいとか、図書館で借りて読んでいるとか」
 松山さんはいつも、本から受けた印象をはっきり書く。
 「こんな視点があるのかっていう本や、笑っちゃう本も含めて、心揺さぶられた本を取り上げてきました。『學藝諸家』はいいスタートでしたね」
 (文・石田祐樹 写真・倉田貴志)


戦後、花巻郊外太田村の山小屋に蟄居していた光太郎を訪ね、訪問記を書いた写真家・濱谷浩の写真集について触れられています。

同じく昨日の『室蘭民報』さん。 

伊達で12日まで故佐々木寒湖展、躍動感ある筆遣い

 伊達市ゆかりの書家、故佐々木寒湖(かんこ)005さんの作品展が12日まで、松ヶ枝町のだて歴史の杜カルチャーセンター講堂で開かれている。躍動感あふれる大作が来場者を楽しませている。
 佐々木さんは留萌管内増毛町生まれ。1945年(昭和20年)~56年に伊達高校の教諭を務めた。近代詩文書の草分け・故金子鴎亭氏に師事し、仮名交じりの親しみやすい作品を数多く発表。毎日書道展や日展で活躍し、金子氏とともに創玄書道会を設立した。
  展示は同センターを運営する伊達メセナ協会が初めて企画。97年に遺族から市に寄贈された作品など27点で、高村光太郎や西条八十、更科源蔵の詩などを題材にした近代詩文書は力強さに満ちている。
  「曠野のをちこちの 部落が懐かしく灯を點し初めた頃 駅員は漸くそれに答えるやうに 発車を報らせる笛を鳴らした」としたためた書などが目を引いている。 (野村英史)

光太郎作品を取り上げて下さり、ありがたいかぎりです。


最後に、やはり昨日の『石巻かほく』さん。女川光太郎祭を報じて下さいました。  

高村光太郎をしのび、女川で祭り 詩の朗読や講演

 女川町を訪れた彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第27回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、女川町まちなか交流館で開かれた。町民ら約40人が参加し、作品を通して、光太郎の思いに触れた。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会の小山弘明代表が「高村光太郎、その生の軌跡-連作詩『暗愚小伝』をめぐって」の題で講演した。
 6章20編の詩で作られる「暗愚小伝」では、光太郎が太平洋戦争への協力を促す詩を作り、多くの若者を戦地に向かわせたことを自己批判している。小山代表は「心にたまるうみをはき出すように、酒に溺れたこともあった。罪深かったという思いがあったのではないか」と述べた。
 女川小の児童や愛好家ら8人が光太郎の詩を朗読したほか、光太郎の写真に向かって献花などもした。
 光太郎祭は、光太郎が1931年8月9日、三陸地方を巡る旅に出発した日にちなみ、92年から開催されている。

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余裕が有れば分けてご紹介すべきでしたが、今後も美術館さんの企画展示、公演系、講座系の情報等目白押しですので、いたしかたありません。まぁ、それだけまだ光太郎智恵子(光雲も)が人々に忘れ去られていないということなので、ありがたいことですが。


【折々のことば・光太郎】

詩精神と言つても、別に手の上に載せて、これが詩精神だといふやうに説明することは出来ないが、しかし詩精神を養ふのに欠くことの出来ない心の持ち方といふものはある。それはすべての物なり事なりを、新しい眼と心とで見たり考へたりすることであつて、慣れつこになつてしまはないやうにすることである。毎日はじめて見たやうに物を観察することである。

ラジオ放送「詩精神と日常生活」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

戦後になって、花巻郊外太田村の太田中学校には「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」という言葉を校訓として贈っています。前半部分は盛岡少年刑務所にも。その原型とも言える一節です。

『朝日新聞』さんに載った記事を2本紹介します。

まずは2日の夕刊。先月、岩手版に載った記事を元に、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」を紹介して下さっています。 

(ぶらっと)光太郎が暮らした街再現

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)が終戦後の7年間、山居生活を送った当時の岩手県花巻市を再現したジオラマ模型が、「高村光太郎記念館」(同市太田)で公開されています。
 旧花巻町役場や花巻病院、光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ詩碑」、商店街や花巻温泉、高村山荘など約70の建造物と風景を、約150分の1で再現。光太郎が移動手段として利用した「花巻電鉄」の電車が中を駆け巡っています。
 展示は11月19日まで。問い合わせは同記念館(0198・28・3012)。

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続いて、1日の長崎版に載った記事。 

(人あかり 小さな目・選者より)印象派の絵の前で、高村智恵子を思う /長崎県

 九州国立博物館で「至上の印象派展」が開催され、全64作を堪能した。ルノワール、ゴッホ、ピサロ、シスレー、モネ、ピカソなど教科書に載っている絵の数々。そんな中、セザンヌの作品の前で高村智恵子を思い出した。
 彫刻家・詩人である高村光太郎の妻・智恵子はセザンヌに傾倒していた画家でもあり、結婚当時から他界するまでの生涯を、夫によって一冊の詩集「智恵子抄」にうたいあげられた女性である。
 高村光太郎の父・光雲は1889(明治22)年、彫刻家で岡倉天心らが創立した東京美術学校(現東京藝術大学)に奉職。光雲は著名な彫刻家として、上野の公園に西郷隆盛像を建立したことは広く知られている。
 話は戻るが、智恵子は1911(明治44)年、「元始、女性は太陽であった」と唱(とな)え、婦人解放運動の第一人者であった平塚らいてうらの雑誌「青鞜」創刊号の表紙を描くなど活動していた。この年12月に高村光太郎と出会い、東京・駒込林町のアトリエで窮乏生活が始まった。
 もともと体質が弱かった智恵子は肋膜(ろくまく)炎を患い、父・長沼今朝吉の死に遭い、その後、酒造業を営んでいた長沼家は破産し、憔悴(しょうすい)してしまった。その間、関東大震災が起き、40代半ばから、精神を患う統合失調症の兆候があらわれ、自殺未遂をし、九段病院に入院。病気は進行し、35(昭和10)年、南品川ゼームス坂病院に転院した。夫・光太郎の苦しみは深まるばかりだった。
 苦悩の詩が愛の証しとして「智恵子抄」となり、珠玉の作品集として今日まで読まれている。その中の「山麓(さんろく)の二人」の一節。
 半ば狂へる妻は草を籍(し)いて坐(ざ)し わたくしの手に重くもたれて 泣きやまぬ童女のやうに慟哭(どうこく)する ――わたしもうぢき駄目になる 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて のがれる途(みち)無き魂との別離
 この作詩当時、智恵子の意識は尋常と異常とを交互にさまよっている状況が読み取れる。この詩の悲痛な末尾部の1行。
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 私の手もとに「智恵子の紙絵」(社会思想社)という画集がある。65(昭和40)年12月、紙絵126作品を収録している驚きの本が店頭に並んだ。
 この紙絵の本は色紙(いろがみ)の配色といい画家であった智恵子を思い出させ、狂気の底に美意識が生きていたことを証明していた。入院中、作成された紙絵は、約千数百点にのぼり、光太郎だけに見せていたという。
 忘れられない逸話がある。狂った妻は光太郎が四つん這(ば)いの馬になった背に跨(またが)り、「ハイドー、ハイドー」と乗るのが好きだった。「智恵さん、楽しいかい?」と涙を落としながら光太郎は病室を這(は)い回っていたという。
 智恵子、38(昭和13)年没。41(昭和16)年8月、詩集「智恵子抄」発行。同年12月、太平洋戦争開戦。印象派の光と光太郎の愛は不滅だ。
(県文芸協会長 浦一俊)

智恵子の生涯につき、かなりくわしくご紹介下さっています。ただ、最後の馬のエピソード、後の映像作品等にそういった描写があったと思いますが、光太郎の書いたものには記述はありません。


もう1件、現在発売中の『週刊新潮』さんをご紹介しておきます。

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作家・五木寛之氏の連載「生きぬくヒント!」。先頃世界文化遺産への登録が確定した「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」関係の内容です。

潜伏キリシタン同様、江戸時代に弾圧の対象であった九州の「隠れ念仏」、東北の「隠し念仏」に話が及び、「九州にしても、東北にしても、信仰の自由が保障されたのちも、その土地に熟成された独自の信仰にこだわる人びとは少なからず存在する。それを異端として排除するのはまちがいだろう。宮澤賢治は『春と修羅』のなかで、「秘事念仏」という言葉を使っているし、高村光太郎には「かくしねんぶつ」という詩がある。柳田国男は、遠野には「一種邪宗らしき信仰あり」と書いた。「隠す」のも、大事なことではないかと私は思う。」と結んでいます。

光太郎の「かくしねんぶつ」(昭和23年=1948)は以下の通り。

    かくしねんぶつ001
 
 部落の曲りかどの松の木の下に
 見真大師の供養の石が立つてゐる。
 旧盆の十七日に光徳寺さまが読経にくる。
 お宿は部落のまはりもち。
 今年の当番は朝から餅をつき、
 畑のもので山のやうなお膳立。
 どろりとした般若湯を甕にたたへて
 部落の同信が供養にあつまる。
 大きな古い仏壇の前で
 黒ぼとけさま直伝の
 部落のお知識がまづ酔ふと
 光徳寺さまもみやげを持つて里にかへる。
 あとでは内輪の法論法義。
 異様な宗旨が今でも生きて
 ロオマの地下のカタコムブに居るやうな
 南部曲(まが)り家(や)の
 暗い座敷に灯がともる。

散文でも触れています。

 この山の人々はたいへん信心ぶかく、たいてい真宗の信者である。部落のまんなかに見真大師の供養の石が立つているくらいで、昔は毎月その方の寄り合いなどをして部落中の人がお経をあげたりしたらしい。その上ここには一種の民間だけの信仰があつて、そのおつとめが今も行なわれている。子供が生れると、その赤さんを母親が抱いて、お知識さんといわれる先達にみちびかれて、仏壇の前で或るちかいの言葉をのべる。又子供が五六歳になると、やはりお知識さんのみちびきで或るきびしいおつとめが行なわれる。それをやらない人は焼きのはいらない生(なま)くらの人であるといわれる。
(「山の人々」 昭和26年=1951)

と、かなり堂々と書いている光太郎、潜伏キリシタンほどでないにせよ、弾圧の歴史があったことを、もしかすると知らなかったのかな、とも思いました。

しかし五木氏、光太郎のマイナーな作品をよくご存じだと思ったところ、氏には『隠れ念仏と隠し念仏』という御著書がおありでした。光太郎についても記述があるかもしれませんので、図書館等で探してみます。


【折々のことば・光太郎】

私は日本語の美についてもつと本質的な窮まりない処に分け入りたい。人に気づかれず路傍に生きてゐる日本語そのものに真の美と力との広大な磺脈のある事を明かにしたい念願はますます強まるばかりである。

散文「詩の勉強」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

昭和14年(1939)ともなると、自らが確立した口語自由詩が多くの支持を得、もはや「詩」といえば口語自由詩となったという自負があったのかもしれません。

まずは17日、日曜日の『神戸新聞』さん。一面コラムの「正平調」。

正平調 2018/06/17

作家黒井千次さんの父は90歳で亡くなった。四十九日の法要を済ませた後、残された本を整理しようと入った部屋で1本の黒い万年筆を目にする。握りが太く、吸入式の外国製である◆何げなくキャップを取り、ペン先を走らせて驚く。すらすらと書けた。生前に入れたインクが残っていたのだ。「そこにだけ、まだ父は生きている」。そんな不思議な感慨を覚えたと、エッセーで書いている◆そこにだけ、まだ父は生きている。あるとき、ある瞬間、そんな思いにかられることは間々ある。昨年、牧場を経営する弓削忠生(ただお)さんに書いていただいた本紙「わが心の自叙伝」でも遺品のくだりが印象に残った◆牧場をどう続けるか、決断に迫られていたときのことだ。73歳で生涯を閉じた父の遺品に、彫刻家で詩人、高村光太郎の詩を見つけた。高村は開拓の精神をたたえる詩を残したが、その一節を書き写していた◆「読んでいると、父の思いが見え隠れしているように思えた」。で、意を決したそうだ。難しい課題はあるが、父が挑んできたことに取り組もう、牧場を残し続けようと◆きょうは父の日だ。感謝の贈り物もいいが、もし他界しているのなら、引き出しの奥に眠る遺品を手に取るのもいい。どこかで、まだ父は生きている。

光太郎がメインではありませんが、『神戸新聞』さんの「正平調」、よく光太郎を取り上げて下さっています。ありがたいかぎりです。


続いて、同じく17日の『毎日新聞』さん、読書面。 

今週の本棚・新刊 『高村光太郎論』=中村稔・著(青土社・3024円)

 高村光太郎の詩「寂蓼(せきりょう)」が、漱石「行人」中に描かれた近代人の内面「かうしては居られない、何かしなければならない、併(しか)し何をしてよいか分からない」に酷似しているという指摘から始め、光太郎の西欧体験を辿(たど)り、智恵子との出会いを探る。西欧との齟齬(そご)、日本との齟齬に悩む新帰朝者・光太郎の焦燥の背後には、一貫して「父光雲の脛(すね)をかじるつもりだったとしか思えない」自己中心的な甘えがあった。
 甘えは智恵子との間にもあった。「智恵子は東京に空が無いといふ」に始まる「あどけない話」を、「夫婦としての会話のない」悲劇的作品とする指摘など鋭い。光太郎の性欲は強く、智恵子は淡泊。それが智恵子発狂の遠因の一つだったとする。その孤独が詩篇「猛獣篇」を書かせ、智恵子の死後には、太平洋戦争下、厖大な戦争詩を書かせた。敗戦後、光太郎は岩手山村に「自己流謫」した。だが、「彼がいかなる責任をも感じていなかったことは間違いない」とする。これは通念を覆す指摘だ。
 著者は詩人、満九十一歳。『中原中也私論』『萩原朔太郎論』『石川啄木論』などに続く力作評論。頭脳の明晰と強靱(きょうじん)に驚嘆する。


中村稔氏著『高村光太郎論』の書評です。最後にあるとおり、満九十一歳の氏による書き下ろしの労作。まさにそのバイタリティーには驚かされます。「敗戦後、光太郎は岩手山村に「自己流謫」した。だが、「彼がいかなる責任をも感じていなかったことは間違いない」とする。」という部分には首肯できませんが……。


最後に、訃報を一つ。昨日の『朝日新聞』さんの朝刊を開いて目に入り、あらら……という感じでした。 

小峰紀雄さん死去

 小峰紀雄さん(こみね・のりお=小峰書店社長、元日本書籍出版協会理事長)10日、肝不全で死去、79歳。葬儀は近親者で行った。後日、お別れの会を開く予定。
 児童書専門の同社で、原爆の惨状を伝える絵本「ひろしまのピカ」(丸木俊著)などの編集、出版を手がけた。

小峰書店さんからは、教育評論家の遠藤豊吉氏の編集による「若い人に贈る珠玉の詩集」、『日本の詩』全10巻が刊行されています。おそらく日本全国津々浦々ほとんどの小中学校さんの図書室に完備されているのではないでしょうか。全10巻中の「わたし」、「あい」、「しぜん」に、光太郎の詩が掲載されています。

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当方、うっかり気づきませんでしたが、一昨年には新版が刊行されたそうです。

そして、記事にもあるとおり、小峰書店さんと言えば、丸木位里・俊子夫妻の「ひろしまのピカ」。こういう良質な児童書を世に送り出して下さり、ありがとうございました、そして、お疲れさまでした、という感じです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あの高い哄笑とあの三題噺ももう聞かれないか。あの玄人はだしの落語もあのしんみりした鋭い批評も聞かれないか。あのうまさうな酒の飲みぶりも見られないか。
散文「岸田劉生の死」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

明治末には光太郎が経営していた画廊・琅玕洞で個展を開き、大正初めのヒユウザン会(のちフユウザン会)、生活社、大調和展などで、光太郎と共に洋画の革新運動に携わった鬼才・岸田劉生。光太郎より8歳年下で、数え39歳の若さでの急逝でした。8歳も年長ながら、光太郎は岸田を「無條件に天才であつた」とし、その死を悼みました。

『日経』さん、2日の夕刊文化面に西郷隆盛に関する記事が出、光太郎の父・光雲の名も出ていました。 

遠みち近みち 西郷 そのとらえがたい像

 高村光雲の手になる東京・上野公園の西郷隆盛像。右手で綱を引かれる犬の名をご存じだろうか。「ツン」というらしい。
 西郷の犬好きは、よく知られ、猟犬として飼いつつも座敷に上げてかわいがったらしい。魚肉や卵を与えられ、ひどく肥満してしまい、猟に向かなくなったものもいたという。
 歴史学者の家近良樹さんが昨年、ミネルヴァ書房から出した500ページを超える西郷の評伝には、49年の激動の人生を彩った数多くのエピソードが盛られ、多面的な人物像を存分に知ることができる。
 知略に優れ、事に当たっては綿密な計画を立てて行動する。まじめで、ぜいたくを嫌う禁欲さも備え、「この人のためなら」と接した人を揺り動かす包容力もある。
 一方で、人の好き嫌いもかなり激しく、多情な面もあったという。
 自ら采配をふるって旧体制を破壊しながら、結局、新政府の方針にあらがい、慕う者らとともに西南戦争に打って出て、敗れ去ってしまった。波乱そのものの一生だが、歴史家の目は冷徹だ。
 別の著書で家近さんは、こんなことを書いている。
 西郷は極めて「男ぶり」がよく、数々の試練で人間力を磨き、たぐいまれな人望を得た。しかし、逆にその人望ゆえに身を滅ぼすことになった――。
 一方で、西郷のライバルだった徳川慶喜については、こう評価した。リーダーに不可欠な人望がなく、政権返上(大政奉還)を独断で行い、結果として日本を内乱の危機から救った――。
 慶喜にリーダーの資質がなかったゆえ、近代日本は思わぬ幸運に恵まれたのだという。
 明治維新から150年。数々の国難に直面する現在、往時の指導者らの全貌に迫るのは諸改革へ向けた指針ともなるにちがいない。
(編集委員 毛糠秀樹)

『日経』さんらしく、組織論、リーダー論でまとめています。

記事本文はネットの電子版で読めたのですが、地元の図書館さんでコピーを取っておこうと思い、拝見。すると、隣には「文学周遊」という連載。 光太郎も登場する、室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』についてで、驚きました。ただ、光太郎の名は出ていなかったので、電子版での検索の網に漏れていました。 

室生犀星「我が愛する詩人の伝記」 長野・軽井沢町 先きに死んで行った人はみな人がらが善すぎる

 室生犀星は、長野県の軽井沢を深く愛した詩人である。初めての軽井沢滞在は、31歳になる夏、奥信濃への旅の帰りだった。旧軽井沢にある旧中山道沿いの「つるや」旅館に宿泊した。以来、亡くなるまで40年余り、夏の軽井沢滞在を欠かしたことがない。
 初の滞在から6年後の1926年(大正15年)からは、別荘を借り、31年には「つるや」旅館からほど近い雑木林の中に、木造平屋の別荘を新築した。44年夏には、東京から疎開し、49年までの5年間、厳寒の冬も過ごしている。
 「犀星は多くの文人を軽井沢に招き、結びつけた軽井沢文学の恩人だった」と軽井沢高原文庫副館長の大藤敏行さんは話す。芥川龍之介を軽井沢に誘い、「つるや」で襖(ふすま)一枚隔てた部屋で同宿したのも犀星だったし、後に軽井沢文学の象徴となる堀辰雄が、23年初めてこの地を訪れたのも、犀星の誘いからだった。
 11人の詩人の肖像を描く評伝「我が愛する詩人の伝記」の中でもとりわけ精彩に富むのが、親友、萩原朔太郎や、堀辰雄、立原道造、津村信夫といった年少の詩人の記述だろう。軽井沢の犀星の別荘での描写は中でも印象深い。
 近隣の追分から午前中にやってきた立原は、犀星が原稿を書いていると、庭にあった木の椅子に腰を下ろして、「大概の日は、眼をつむって憩(やす)んでいた」。立原道造が、夏の日の差す庭の椅子に痩躯(そうく)を任せて眠る姿は、何とも魅力的だ。「夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に」。立原の夢のような詩を愛する読者は、犀星が描く立原の生々しい面影に、ハッとするはずだ。多くの年若い詩人に先立たれた犀星は、本書で愛惜の思いを隠さない。
 犀星の旧居は、純和風の建物をほぼそのまま残して軽井沢町が19年前に室生犀星記念館として公開した。現在、老朽化した建物の補修のため閉館中だが、来年4月末には再オープンする。旧軽井沢の商店街からも近い旧居は、洋館の点在する別荘地の中にあり、犀星が丹精して植えた苔(こけ)が新緑に輝いている。
 北陸新幹線開業で、夏の旧軽井沢はにぎわいを増した。しかし、最晩年の犀星が自ら文学碑を建てた矢ケ崎川の河畔は今も静かだ。清流の自然に包まれた小さな詩碑からはこの避暑地とともに歩んだ詩人の深い愛が見えてくる。
(編集委員 宮川匡司)

むろう・さいせい(1889~1962) 金沢市生まれ。詩人・小説家。高等小学校を中退後、金沢地方裁判所に給仕として就職。20歳で上京。貧困と放浪の生活の中で萩原朔太郎と親交を結ぶ。18年、第1詩集「愛の詩集」を刊行。翌年、自伝的短編小説「幼年時代」「性に眼覚める頃」を発表。20年、長野旅行の際、軽井沢に宿泊。31年に新築した軽井沢の別荘で夏を過ごし、多くの作家、詩人を招いた。代表作に詩集「抒情小曲集」、小説「杏つ子」「かげろふの日記遺文」。
 58年刊の「我が愛する詩人の伝記」は、雑誌「婦人公論」連載後に刊行された評伝で、親交のあった詩人11人の生身の人間像を豊富な逸話で描く。

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親交のあった詩人11人」のうちの一人が光太郎というわけで、このブログでも何度か同書がらみの記事を載せました。


犀星記念館さん、記事にあるとおり、来春リニューアルオープンだそうで、折を見て行ってこようと思いました。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

結局どんな人間の姿態でも美でないものはないといふことを納得させられる。人間は一個の豊麗な美のかたまりであるといふことを。

散文「ロダンの作品 素描」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

かつてパリ郊外ムードンのアトリエで、内妻・ローズに見せてもらったロダンの素描についてです。「人間賛歌」的な部分で、ロダンの血脈を継いだ光太郎ならではの感想です。

今月2日、東京日比谷で開催した当会主催の連翹忌とは別に、光太郎第二の故郷・岩手花巻でも花巻としての連翹忌、さらに光太郎が暮らした郊外旧太田村での詩碑前祭が行われました。

毎年、ネットでその報道を検索し、このブログでご紹介していましたが、今年それを報じて下さった地元紙『岩手日日』さん、それから『朝日新聞』さん、ともに有料会員向けページでの掲載で、読むことができませんでした。

ふと、当方事務所兼自宅のある千葉県香取市に隣接する、成田市の市立図書館さんで、『朝日新聞』さんの記事検索ができるデータベースサイト「聞蔵Ⅱビジュアル」が閲覧できることを思い出し、行って検索して参りました。 

光太郎の63回忌 詩を朗読、しのぶ 花巻市の高村山荘/岩手県

 彫刻家で詩人の高村光太郎の63回忌にあたる2日、光太郎が晩年を過ごした花巻市太田の高村山荘で詩碑前祭があった。約50人の住民が参加し、「道程」や「岩手の人」、「雪白く積めり」など光太郎の詩を朗読して故人をしのんだ。
 戦時中、宮沢賢治との縁で東京から花巻に疎開した光太郎は、戦後も1945年から7年間にわたり、当時の太田村山口の山荘で暮らした。
 厳寒の地で1人暮らした理由は、戦争協力詩などを書いたことへの「自責」とされているが、山荘時代の光太郎は、野良仕事帰りの村人をコーヒーでもてなすなど地域と様々な交流を重ねたという。
 白ひげのサンタクロース姿で村の小学校の学芸会に参加したことも。そこで光太郎から駄菓子を貰った記憶がある高橋征一さん(75)は、「クリスマスなんてなかった時代に華やかな気持ちになれた。当時は入植したじいさんだと思っていたが、ありがたい人です」となつかしんだ。
(2018.4.7)

高橋征一さんは、比較的有名なこの写真で、右から二人目。太田地区振興会の副会長さんで、この詩碑前祭や毎年5月15日の高村祭などの裏方を務められ、さらに光太郎の語り部としても活動なさっています。

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ありがたいですね。


ついでに先月末の神奈川版の記事。神奈川近代文学館さんで開催中の特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」に関してです。こちらは無料会員でも閲覧できる記事ですが。 

【神奈川の記憶】 (105)生誕140年「与謝野晶子展」

■恋・戦争…「まことの心」詠む
 ◇大胆でパワフル 行き方たどる
 歌人与謝野晶子の作品と人生をたどる特別展が神奈川近代文学館(横浜・港の見える丘公園)で開かれている。開館から34年、「取り上げたことのない最後の大物」だったというが、生誕140年を記念しての企画となった。
 晶子といえば、まず「みだれ髪」だろう。1901(明治34)年、22歳で刊行した第一歌集である。
  その子二十櫛(はたちくし)にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
  やは肌のあつき血汐(ちしほ)にふれも見でさびしからずや道を説く君
 今日でも奔放さを漂わせる。美への思いや恋愛を若い女性が高らかに歌い上げたのだ。同時代の人には大きな驚きだっただろう。
 展示ではその背景を紹介している。与謝野鉄幹の存在だ。詩歌革新を掲げ「明星」を創刊した鉄幹は投稿作品を熱心に添削したが、晶子への指導は〈挑発〉だったと歌人の三枝昂之さんは指摘する。「京の紅は君にふさはず我が噛(か)みし小指の血をばいざ口にせよ」と「明星」に記した。「晶子の才能を見抜き、もっと大胆に、もっとパワフルに、と煽(あお)り続け」、生まれたのが「みだれ髪」だったと三枝さんは考える。
 晶子は髪が豊かでいつも髪を幾筋か垂らしていたので「みだれ髪の君」と呼ばれていたという。
 鉄幹と晶子はこの年、結婚。晶子の作品に刺激され北原白秋、高村光太郎、石川啄木らが参加し「明星」は浪漫派の拠点となる。
     *
 晶子といえばもう一つ思い出す「君死にたまふこと勿(なか)れ」も紹介されている。
 あゝをとうとよ君を泣く/君死にたまふことなかれ/末に生れし君なれば/親のなさけはまさりしも/親は刃をにぎらせて/人を殺せとをしへしや
 日露戦争が始まった1904年、激戦地の旅順に弟が送られた。当時、問題とされたのは、今日とは異なる視点からだった。
 すめらみことは戦ひに/おほみづからは出でまさね/かたみに人の血を流し/獣(けもの)の道に死ねよとは/死ぬるを人のほまれとは/大みこゝろの深ければ/もとよりいかで思(おぼ)されむ
 天皇は戦場に出ないと指摘したこの部分が、「世を害する」と国家主義の立場から厳しい批判を浴びた。
 それに対して晶子は、何かにつけて天皇の名をあげ「忠君愛国」を説くといった風潮は危険であり、私の好きな王朝文学の中で天皇が人に死ねという場面など見たことがないと指摘。さらに「まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候(そうろう)べき。まことの歌や文を作らぬ人に、何の見どころか候べき」と反論した。
 〈反戦詩〉として脚光を浴びるのは第2次大戦の後のことのようで、「家族を思う〈まことの心〉」を詠んだというのが晶子の思いだったようだ。
     *
 1878(明治11)年に晶子は大阪・堺の和菓子商の家に生まれた。店番のかたわら、蔵にあった古典を読みふけり育った。
 「一生の事業」として晶子は「源氏物語」の現代語訳に取り組むが、紫式部を「12歳の時からの恩師」と慕い、「式部と私との間にはあらゆる註釈(ちゅうしゃく)書の著者もなく候」と記している。
 「新訳源氏物語」全4巻を1913年に完成させたが、納得できなかった。そこで32年に改訳に乗り出した。35年には鉄幹が急逝。「新新訳源氏物語」全6巻が完成したのは39年。その翌年に脳出血で倒れ、42年に亡くなる。文字通りのライフワークだった。
 その生涯をたどるとパワフルさに圧倒される。鉄幹との間にもうけた子どもは12人。その子育てをしながら創作に励んだ。評論も数多く、戦前期を代表する女性論客ともいえそうだ。
 経済的にも家を支えた。鉄幹が不遇の時期を迎えると、鉄幹の渡欧を実現させようと資金集めに奔走。歌を百首も書き付けたびょうぶを売り出している。
 欧州からの手紙を受け取ると、晶子は7人いた子どもを親族に託し12年にパリへと旅立っている。
 近代日本に新たな表現世界をもたらした浪漫派の代表歌人とされる晶子だが、「顕彰されるようになったのは死後いくらかたってからでした」と文学館の浅野千保学芸員は説明する。その奔放さ、大胆さは「ふしだら」と受け止められがちだったようだ。
 展示をめぐりながら、ついつい思い浮かべるのは「忖度(そんたく)」がキーワードの昨今の風潮。晶子ならどんな歌を詠むのだろう。
 「歌は歌に候。後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候」
 晶子のこの言葉が強く記憶に残った。5月13日までの開催。

ちなみに、「君死にたまふこと勿(なか)れ」を批判した急先鋒は、大町桂月。のちに光太郎が、桂月ら「十和田の三恩人」を顕彰する「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作することになるのは、不思議な縁だと思います。


もう1件。福島の地方紙『福島民友』さんから。

【二本松】闇夜に浮かぶ「万燈桜」 道の駅「安達」でライトアップ開始

 二本松市の道の駅「安002達」智恵子の里下り線の入り口にあるエドヒガンザクラの巨木「万燈(まんとう)桜」が満開となり、ライトアップが4日からスタートした。22日まで毎日午後6時30分~同10時に点灯する。
 万燈桜は樹齢約270年の一本桜で、高さ約15メートル。初日は同所で点灯式が行われ、同道の駅を運営する市振興公社社長の三保恵一市長が「利用者に大いに楽しんでもらいたい」とあいさつ。同社の松坂浩統括・駅長と共に点灯のスイッチを押した。
2018/04/06

万燈桜、樹齢はおよそ270年だそうで、かつてこの近くに住んでいた智恵子も見上げたのではないでしょうか。見事ですね。


ところで「聞蔵Ⅱビジュアル」、以前に国会図書館さんでそれを使って、光太郎生前の記事をいろいろ検索させていただきましたが、久しぶりに今回使ってみると、昔の記事も増えている、というか、検索能力が上がってでヒットする件数が増えているように感じました。また、『毎日新聞』さんのデータベース「デジタル毎日」も同様でした。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』、その補遺である当方編集の「光太郎遺珠」(雑誌『高村光太郎研究』に連載中)にも漏れている、光太郎談話等が見つかりそうで、また調べに行って参ります。


【折々のことば・光太郎】

趣味は知識でも得られない。論理でも捕捉し難い。実に厄介至極なものである。
散文「富士見町教会堂の階上にて」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

ここでいう「趣味」とは、「趣味は音楽鑑賞です」などの、「仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄」という意味ではなく、「悪趣味」といった、「どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方」の意です。

まさしくその通りですね。

地方紙二紙、岩手の『岩手日報』さんと、福岡の『西日本新聞』さんが、相次いでそれぞれの一面コラムで光太郎智恵子と光雲に触れて下さっています。

まずは『岩手日報』さん。

風土計 2018・3・1

 3月がまためぐってきた。7年前から、この月は春を迎える以上に重い意味を持った。東日本大震災を振り返り再生を祈る月。傷跡が少しずつ癒えていく様子が、ゆっくりと訪れる東北の春と重なる
▼津波に洗われた陸、原発事故で汚された空を取り戻す作業が続く。「ほんとの空が戻る日まで」は復旧・復興を支援する福島大の合言葉。福島の現状を知らせるため、このタイトルのシンポジウムを全国各地で開く
▼「阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」。高村光太郎「智恵子抄」から。中井勝己福島大学長は「安達太良(あだたら)山の上の空がほんとの空でないと思う県民はまだ多い」と語った
▼「ほんとの空」とは古里のことだ。病弱の智恵子は、時々田舎の空気を吸わなければ体がもたない。光太郎は「智恵子の半生」に「彼女の斯(か)かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった」と書く
▼避難を余儀なくされている福島の人々は、今なお5万人を超える。懐かしい古里をひたすら思う姿は智恵子と共通するものだろう。福島だけではない。宮城でも岩手でも、古里につながる道を人々が歩み続けている
▼春がすみの言葉のように、その視界はまだぼんやりしているかもしれない。けれど、信じて進みたい。その先にきれいな空があるはずだ。


先月ご紹介した福島大学さん主催のシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで--震災の記録と教訓を残し、未来に活かす」にからめています。 同じ東北同士、福島の皆さんに対するあたたかな励ましに溢れています。


続いて『西日本新聞』さん。

春秋  2018.3.5

 きのうは「ミスコンの日」。1908年3月5日、日本で初めて一般女性を対象としたミス・コンテストの結果が発表されたことに由来するそうだ
▼ミスコンといっても、当時は写真だけで審査した。新聞社が主催し、審査員は洋画家の岡田三郎助や彫刻家の高村光雲、歌舞伎役者の中村歌右衛門らそうそうたる顔触れ。約7千の応募の中から1位に選ばれたのは、福岡ゆかりの女性だった
▼旧小倉市(現北九州市)の市長の四女で、学習院女学部に在学中の末弘ヒロ子(16)。実は、義兄が本人に無断でコンテストに写真を送ったのだった。優勝の知らせに彼女はずいぶん困惑したという
▼今ならスターへの登竜門だろうが、良妻賢母が女性の美徳とされた時代のこと。「美貌を誇示するなどけしからん」「美人投票など校風にそぐわない」と批判され、ヒロ子は退学させられた。その時の学習院院長は、名高い陸軍大将、乃木希典だった
▼一説によると、乃木は後に、ヒロ子が自ら応募したのではなく、義兄をかばって事実を告げなかったのだと知り、退学させたことを後悔した。彼女の幸せを考えた乃木は、良い結婚相手を見つけてやろうと、八方手を尽くして探した▼それを聞いた旧知の陸軍大将、野津道貫が長男との結婚を申し出た。ヒロ子は侯爵家に嫁ぎ、良き妻、良き母として義父や夫を支えたという。110年前のミスコンにこんな逸話があった。


明治41年(1908)、『時事新報』が主催しての日本初のミスコンテスト。光雲も審査員だったというのは、意外と有名な話です。

その後に刊行された応募写真の写真集がこちら。

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第一位となった末弘ヒロ子がこちら。

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第一位ということで、他のカットも掲載されています。第二位と第三位の女性は2カット、他は1カットだけです。

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たしかに美人さんですね。

これが元で学習院を退学になったというのは存じていましたが、その後の乃木とのエピソードは存じませんでした。いい話ですね。


ところで、以前にも書きましたが、光太郎もミスコンの審査員を務めたことがあります。父・光雲に遅れること約20年、昭和4年(1929)のことでした。

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この際は『朝日新聞』さんが主催で、『アサヒグラフ』誌上の企画でした。やはり審査は写真のみ。審査後の座談会が『アサヒグラフ』に掲載されました。

光太郎以外の審査員は、藤島武二、柳田国男、朝倉文夫、村山知義など。やはり美術関係者が多いのは、その審美眼を買われての事だったのでしょう。


明日は『日本経済新聞』さんの記事からご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

仕事が巧妙になるほど俗になつてゐる。

散文「天平彫刻の技法」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

室町以降、江戸時代の木彫に対する評です。非常に便利な丸鑿という道具が開発され、平鑿や切り出ししかなかった頃より楽に木を彫れるようになり、かえって堕落した、というのです。

この話、いろいろな分野に当てはまるような気がしますね。

ぽつりぽつりと、新聞各紙で光太郎の名が。それぞれそれ一つをネタにブログ記事にするのはきついなと思っていましたら、たまってしまいました。

まずは先月28日の『神戸新聞』さん。 

「今度は支える立場に」 大学へ進む高3生の目標

 瑛太の部屋の扉には、英語の詩が貼ってある。詩人・高村光太郎の代表作の英訳で、職員が手書きして贈ったエールだ。
 〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉
 高校3年。大学進学を目指して1年の時に部活をあきらめ、学費を稼ぐためにアルバイトに励んだ。最初はすし店。「常連さんなど幅広い年代の人と出会い、いろんな考えに触れられた」。学びは多かった。
 一方、仕事を終えて帰宅すると午前0時を過ぎることも。通学には1時間20分かかるため、午前6時50分に尼学を出る生活。すし店は半年で辞め、その後はプール監視員や飲食店員として働いた。
 その中で勉強時間を確保してきた。
 職員も応援した。瑛太が勉強の息抜きにバドミントンをしようとすると、横に忍び寄ってつぶやいた。「本当にそれでいいんかなー」
 瑛太が笑う。「1回打った瞬間に横にいて、ちょっとくらい息抜きさせてよって。いつもプレッシャーの目があり、勉強するようあおってくれた」
 道は拓けた。昨秋、学費を一部免除してくれる山口県の大学に合格。神戸の財団から返済不要の奨学金を受けることも決まり、新生活に期待を膨らませる。
 将来について尋ねると、真っすぐな目で語った。「経験した自分だからこそ、力になれることがある。児童養護施設で働きたい」。いったんは施設に勤めてから、数学の教師を目指すという。
 尼学に来てから、精神的にまいった時期がある。外に出られなくなり、バイトに行けなかった。高校へは職員に送迎してもらい、何とか通った。「しんどい時に寄り添ってくれた。今度は支える立場になりたい」(敬称略、子どもは仮名)
(記事・岡西篤志、土井秀人、小谷千穂、写真・三津山朋彦)


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執筆から100年以上経った「道程」ですが、こうして現代の若者へのエールとしても現役で機能しているのですね。

ちなみに英訳は「No path lies before me. As I press on. Behind me a path appears.」だそうです。


続いて、今月2日の『毎日新聞』さん北海道版から。 

書学習の集大成 道教育大旭川校書道研、きょうから /北海道

 卒業式を前にした道教育大旭川校書道研究室の「第64回卒業書作展」が2日、旭川市民文化会館で始まる。あふれる躍動感、ストレートな表現、切れ味ある線質、温かみのある筆力といった個性あふれる書学習の集大成が会場を飾る。  
 出展者は、長田さくらさん、小野寺彩夏さん、平木まゆさん、柿崎和泉さんの4人。それぞれが平安時代の藤原行成から唐代の顔真卿の書まで多彩な臨書の卒業論文作品2点と、卒業書作展作品の詩文書2点、漢字創作1点を出品した。
 書作展用の作品では、高村光太郎の詩の一節を題材にした長田さんの作品(縦2・4メートル、横3・6メートル)など、研究室の持ち味でもある大作の詩文書がそろった。指導教官の矢野鴻洞教授も賛助出品している。
 7日までの午前10時~午後6時(7日は同4時まで)。入場無料。【横田信行】

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やはり光太郎詩、若い人たちの心の琴線にも触れるのでしょうか。ただ、画像にうつっているのは宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」の一節ですが(笑)。


それから、『朝日新聞』さん。先月27日の夕刊です。 

(アートリップ)御堂筋彫刻ストリート(大阪市) 名品の数々、歩く目線で 朝倉響子、ジョルジョ・デ・キリコほか作 大阪市

 会社員が足早に行き交う平日の御堂筋。視線を感じた先に、すました表情の女性像がこちらを見ていた。プレートには「朝倉響子 ジル」の銘。通りにはほかにもロダン、ジョルジョ・デ・キリコ、高村光太郎らの趣の異なる彫刻合わせて29体が並ぶ。
 これらは、1991年に始まった大阪市と建設省(当時)による、文化的な街づくりを目指した事業「御堂筋彫刻ストリート」の一環。沿道の老舗企業から募った寄付で設置された。
 彫刻の全体テーマは「人間讃歌(さんか)」。一流作家による、人体をモチーフにした作品に限定し、景観を統一するため、高さは台座を含めて2メートル以内に制限した。結果、巨匠たちの裸婦像や着衣像、抽象表現作品が、歩く人々の目線で見られるように並んだ。
 しかし、試練の時代もあった。バブルがはじけ、企業の再編などで周辺ビルには空室が増加。土日になると人通りが少なくなり、放置自転車で彫刻も埋もれた。「存在が忘れられ、誰も評価しなかった」と話すのは、2000年以降の設置審査委員長を務めた、関西学院大名誉教授の加藤晃規さん(71)。
 市が自転車の即時撤去を開始すると、再び名品が姿を現した。現在、周辺にはホテルなどが入る高層ビルが建設中だ。加藤さんは「作品は潤いのある街並みの一つ。にぎわいが戻れば」と目を細めた。(吉田愛)


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記事にあるとおり、バブル期に作られた大阪御堂筋の彫刻群について。光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)のための中型試作」が「みちのく」という題で設置されています。

これからも愛され続けて欲しいものです。


さらに昨日の『読売新聞』さん。別刷り日曜版の連載「名言巡礼」で、光太郎と交流のあった北海道弟子屈出身の詩人・更科源蔵がメインで扱われています。

更科源蔵「原野というものは、なんの変化もない…」 過酷な自然 生活の原体験

 原野というものは、なんの変化もない至極しごく平凡な風景である(更科さらしな源蔵げんぞう「熊牛くまうし原野げんや」(1965年))
 北海道東部の弟子屈(てしかが)町。厳冬期の熊牛原野に立った。白い雪原には、キタキツネの足跡が点々と続く。
 出身の詩人、更科源蔵は「原野の詩人」と称される。「熊牛原野」は原野での生活をつづった自伝。「原野というものは、なんの変化もない至極く平凡な風景である」は冒頭の一節だ。「私はそんな原野の片隅で生うまれ、そこで育った」と受ける。
 同町で農地の開拓が始まったのは明治中期。新潟から熊牛原野に入植した更科の父は、開拓の草分けでもある。「クマウシ」はアイヌ語で「魚を干す棚が多いところ」のこと。豊漁の地を意味するが、本土から渡ってきた和人はいかにも野蛮な漢字を当てた。その地で、更科は1904年に生まれた。開拓者たちは原野の一角を耕し、牛や馬を放牧した。
 更科は原野を遊び場とし、花や昆虫が友だった。原野の自然は過酷で、猛吹雪により死にかけたこともある。30代半ばで町を離れるまで一時、牧畜農家として苦闘した。「君は牛の使用人ではないか」。都会から訪れた友人にはこう揶揄(やゆ)された。
 〈白く凍いてつく丘に遠い太陽を迎へる厳然たる樹氷であらうとも/森は今断じて遠大な夏を夢見ぬ〉
代表作「凍原(とうげん)の歌」の一節だ。「厳しい原野での生活を原体験に、北海道の大自然とそこに生きる人々の生活を肉声でうたい、中央の詩誌に認められた」と、詩人で更科にちなんだ「更科源蔵文学賞」選考委員長の原子(はらこ)修さん(85)は解説する。
 人々の中には原野で隣人だったアイヌ民族も含まれる。「教科書で教える大和朝廷のエゾ征伐は、和人の勝者の歴史なのでは」。アイヌの子どもらを教えていた代用教員時代、そんな疑問を口にしたところ、思想不穏当として解雇された。権威にも権力にもこびなかった。
 町在住の高田中みつるさん(82)は更科に手を引かれてアイヌの集落を訪れ、ヒグマの魂を神の国に返す「熊送り」を見た。「『更科おじさん』と子どもらに慕われていましたよ」
 「至極く平凡な風景」とは、故郷を卑下しているわけではない。更科にとり、原野は自分という存在の慈しむべき原点なのだから。 (文・阿部文彦 写真・岩佐譲)

更科源蔵
1904~85年。東京の麻布獣医畜産学校(現麻布大)中退。上京時、詩人・尾崎喜八に師事。 「智恵子抄」で知られる高村光太郎の影響も受ける。詩集に「種薯」「無明」など。散文も、「熊牛原野」(大和書房「ふるさと文学さんぽ 北海道」に一部収録)のほか、「アイヌと日本人」、自伝的小説「原野シリーズ」など多数。40年、弟子屈町での生活を諦め、札幌市に転居。北海道立図書館嘱託などを経て、道立文学館理事長。「更科源蔵文学賞」は同町の後援で有志が創設。現在は休止中。

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2ページ分あり、上記は1ページ目です。

光太郎、文中にある更科の詩集『凍原の歌』(昭和18年=1943)の題字を揮毫してやったり、更科が発行に関わった雑誌『大熊座』、『犀』などに寄稿したりしています。また、自然志向の強かった光太郎、実現しませんでしたが、更科を頼って北海道移住を夢見た時期もありました。

また、更科をモデル、というか、更科の語った北海道開拓の様子をモチーフにした「彼は語る」(昭和3年=1928)という詩も書いています。

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    彼は語る

 彼は語る
 北見の熊は荒いのですなあ
 釧路の熊は何もせんのですなあ
 かまはんけれや何もせんのですなあ
 放牧の馬などを殺すのは
 大てい北見から来た熊ですなあ

 彼は語る
 地震で東京から逃げて来た人達に
 何も出来ない高原をあてがつた者があるのですなあ
 ジヤガイモを十貫目まいたら
 十貫目だけ取れたさうですなあ
 草を刈るとあとが生えないといふ
 薪にする木の一本もない土地で
 幾家族も凍え死んださうですなあ
 いい加減に開墾させて置いて
 文句をつけて取り上げるさうですなあ

 彼は語る
 実地にはたらくのは、拓殖移住手引の
 地図で見るより骨なのですなあ
 彼等にひつかかるとやられるのですなあ


この『読売新聞』さんの「名言巡礼」。かつて光太郎や、光太郎と交流の深かった尾崎喜八永瀬清子も取り上げられました。こうした詩人などをもっともっと取り上げていただきたいものです。


当方、読売さんは購読しておりませんので、日曜版にこれが載ったという情報を得、コンビニで買ってきたのですが、本紙にも光太郎の名があり、驚きました。

一面コラムの「編集手帳」です。

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光太郎、昭和2年(1927)には、ずばり「草津」という詩を書いています。引用されているのが全文の、たった四行の短い詩ですが。

光太郎、たびたび草津温泉にも足を運んでいました。ご当地ソングならぬご当地詩、ということで、草津では囲山公園にこの詩を刻んだ碑が建っています。平成2年(1990)の建立で、光太郎自筆の原稿から写した金属パネルを自然石にはめ込んでいます。推敲の跡がそのまま残っており、言葉に鋭敏だった光太郎の詩作態度がよくわかります。パネル制作は光太郎の実弟・豊周の弟子だった故・西大由氏でした。

また、草津温泉のシンボル、湯畑の周囲を囲む石柵には、「草津に歩みし百人」ということで、錚々たるメンバーの名が。もちろん光太郎も入っています。

当方ももう十数年行っていないので、久しぶりに草津へ行ってみたくなりました。


さて、これだけ短期間に、ちょこちょことではありますが光太郎の名が新聞各紙に出るということは、まだまだ光太郎もメジャーな存在でいられているということなのかな、と思いました。ありがたいことですが、光太郎の名が忘れ去れれないよう、今後も努力せねばとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

普通に、彫刻は動かないものと思はれてゐる。実は動くのである。彫刻の持つ魅力の幾分かは此の動きから来てゐる。もとより物体としての彫刻そのものが動くわけはない。ところが彫刻に面する時、観る者の方が動くから彫刻が動くのである。一つの彫刻の前に立つと先づその彫刻の輪郭が眼にうつる。観る者が一歩動くとその輪郭が忽ち動揺する。彫刻の輪郭はまるで生きてゐるやうに転変する。思ひがけなく急に隠れる突起もあり、又陰の方から静かにあらはれてくる穹窿もある。その輪郭線の微妙な移りかはりに不可言の調和と自然な波瀾とを見てとつて観る者は我知らず彫刻のまはりを一周する。彫刻の四面性とは斯の如きものである。

散文「能の彫刻美」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

この一節を読んでから、彫刻鑑賞の方法が変わりました。皆さんもぜひお試しあれ。

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