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光太郎の父・高村光雲の作品が展示される企画展です。

ニッポンの写実 そっくりの魔力

期 日  : 2017年9月30日(土)~11月12日(日)
会 場  : 豊橋市美術博物館 愛知県豊橋市今橋町3-1(豊橋公園内)
時 間  : 午前9時~午後5時  (金土日祝は午後7時まで夜間開館)
料 金  : 一般・大学生 1000(800)円 小・中・高生 400(300)円
        ( )内前売りまたは20人以上の団体料金
休館日 : 月曜日  (10月9日は開館、翌10日休館)

 近年、緻密な技法で対象をリアルに表現した写実的な造形作品が大きな関心を集めています。美術の歴史をふりかえれば、対象を瓜二つに表現することは、洋の東西を問わず古くから多くの人々の関心を集め、作家たちは迫真的な表現をめざして様々な工夫を凝らしてきたことがわかります。
 本物「そっくり」に表現するという課題は、19世紀に写真が発明されたことで一見解決したかに思われました。しかし、いうまでもなく三次元を二次元に置き換える写真には限界があります。コンピューターや映像技術の進展は、そっくりな表現に新たな曲面を開きましたが、現代にあっても対象をそのまま表現するという課題は残っています。
 なぜ本物と見紛うばかりに表現しようとするのか、またなぜそうした表現に私たちはひきつけられるのか——–?、そこには表現、実在、視覚などをめぐる重要なテーマが存在します。
本展では「そっくり」をキーワードに、近年超絶技巧として注目を集めている安藤緑山・山﨑南海ら明治期の工芸作品にはじまり、岸田劉生らの大正リアリズム、野田弘志・礒江毅・諏訪敦の迫真的写実絵画、上田薫・三尾公三らのフォトリアリズム、須田悦弘・前原冬樹の立体造形など、工芸・立体・絵画・映像といった多種多様な写実作品約80点を紹介し、写しとることの意味とそれらを求める根源的な意識を探ります。

出品作家  
<絵画> 横山松三郎・高橋由一・鹿子木孟郎・岡田三郎助・岸田劉生・椿 貞雄・小絲源太郎・髙島野十郎・大澤鉦一郎・宮脇晴・山田睦三郎・水野正一・筧忠治・野田弘志・磯江毅・三栖右嗣・諏訪敦・水野暁・木下晋・星野眞吾・上田薫・三尾公三・鴫剛・岡田修二・山口英紀・橋爪 彩・宮本佳美

<立体> 高村光雲・石川光明・橋本平八・三宅一樹・須田悦弘・前原冬樹

<工芸> 安藤緑山・山崎南海・明珍正信・富木宗義・三浦鉚三郎・森田藻己・満田晴穂

<映像> 佐藤雅晴・伊藤隆介

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関連行事

●記念講演会「写実とはなんだろう」●
講師:野田弘志(本展出品画家)  日時:10月28日(土)午後2時~  会場:講義室(聴講無料/定員80名)

○アーティスト・トーク○
講師:佐藤雅晴(本展出品作家)  日時:10月14日(土)午後2時~  会場:展示室(申込不要/観覧料が必要)

●ワークショップ● 「みんなでつくる不思議な絵」
講師:宮本佳美(本展出品画家)  日時:11月3日(金・祝)午後1時30分~  会場:講義室
対象:小学生20名 参加料:500円

○ギャラリー・トーク○
講師:担当学芸員  日時:10月8日(日)、29日(日)、11月4日(土) 午後2時~
金曜イブニングツアー=10月13・27、11月10日 午後5時30分~  会場:展示室(申込不要/観覧料が必要)


光雲作品は三点、「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914・大阪市立美術館蔵)、「西行法師」(制作年不明・清水三年坂美術館蔵)の3点です。

「天鹿馴兎」は、京都で行われた第四回内国勧業博覧会に出品され、妙技三等賞を受賞した作品です。「砥草刈」と「西行法師」はこちら。

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同展は全国巡回で、6月から8月まで、北海道立函館美術館さんにて開催されていましたが、その際には情報を見落としていました。豊橋展終了後は、奈良県立美術館さんに巡回します。そちらはまた近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

受付にはウグヒス給仕には山兎、 守衛さんには月の輪熊に来てもらひ、 大に愉快なポラノのひろばにするのですか。

詩「山のひろば」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「ポラノのひろば」は宮沢賢治の童話から採りました。元々、宮沢家の招きで花巻に疎開した光太郎。賢治の「イーハトーブ」の理念を受け継ぎ、郊外旧太田村に図書館や音楽堂などを作る、文化集落の建設的なことも考えていました。「楽天的」と行ってしまえばそれまでですが……。

光太郎の朋友・荻原守衛の談話筆記が載った古い雑誌を入手しました。

『商業界』という雑誌で、明治43年(1910)1月1日発行の臨時増刊号。「世界見物」という副題です。

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その名の通り、世界各地のレポート、観光案内などから成り、そのうち、フランスを紹介する項の中に、守衛による「仏蘭西の美術学生」と題する談話筆記が載っていました。

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守衛は海外留学でアメリカとフランスを行ったり来たりしており、滞仏していたのは、明治36年(1903)から翌年にかけてと、同39年(1906)から翌年にかけてです。39年の夏頃、ニューヨークで光太郎と知り合っています。守衛2度目の滞仏中は、光太郎はまだニューヨーク、そしてロンドンでしたが、ロンドンに移ってからは、パリの守衛とお互いに行き来しています。

そういうわけで、光太郎も見たであろう同じパリの風俗が、ほぼリアルタイムで語られており、非常に興味深く拝読しました。光太郎自身にもパリの回想や、守衛のこれと同じような雑誌への寄稿もありますが、それを補うような内容でした(守衛以外の人物が書いたパリの様子も)。

守衛は同43年(1910)、数え32歳の若さで病歿します。その翌年、雑誌等に発表された文章を集めた『彫刻真髄』という書籍が刊行されました。光太郎が雑誌『方寸』に寄せた追悼文「死んだ荻原君」なども掲載されています。
「仏蘭西の美術学生」は、『彫刻真髄』には漏れていますが、信州安曇野碌山美術館さんの学芸員氏によれば、同館元館長の仁科惇氏の書かれた『荻原碌山 その生の軌跡』(昭和52年=1977)の中で紹介されているということでした。

で、もともとその予定で購入したので、『商業界』、碌山美術館さんに転送しました。あるべきものがあるべきところに収まって、良かったと思います。

碌山美術館さんといえば、先の話ですが、12月2日(土)に、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」が開催されます。パネルディスカッション的なものですが、それほど肩のこらない企画です。当方にパネリスト的な依頼があり、喜んでお引き受けいたしました。近くなりましたらまたご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

その詩を戦地の同胞がよんだ。 人はそれをよんで死に立ち向かつた。 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

連作詩「暗愚小伝」断片の「わが詩をよみて人死に就けり」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

昨日同様、連作詩「暗愚小伝」全20篇を構想する中で、結局は没になった一篇から。終戦の年からの、花巻郊外旧太田村での、自虐に等しい7年間の山小屋生活を送らざるを得なかった理由、それが凝縮された一節です。

福井から、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚を取り上げる企画展情報です。

没後30年記念 高田博厚展 対話から生まれる美

期 日 : 2017年9月16日(土)から11月5日(日)
会 場 : 福井市立美術館  福井市下馬3-1111
時 間 : 午前9時 ~ 午後5時15分(入館は午後4時45分まで)
休 館 : 月曜日(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日(日曜日を除く)
料 金 : 一般1,000円、高校・大学生500円、小中学生200円

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福井市ゆかりの彫刻家・高田博厚(19001987)が、この世を去り今年は30年となります。高田の生涯を彩る多くの師友との交流は、人間の本質を追求し続けた彼の思索と創作の支えともなりました。本展では初期から晩年までの代表作に加え、彼が影響を受けた人々や交流のあった人々の作品を併せて展覧し、その生涯と創作の軌跡、さらに彼の芸術の魅力に迫ります。


『福井新聞』さんの記事から。

高田博厚の生涯たどる 福井市美術館16日から企画展

 少年時代を過ごした福井で文学、哲学、芸術に目覚め、渡仏して近代日本彫刻を代表する作家となった高田博厚(1900-87年)。没後30年を記念し、評論家、思想家としても数々の著作を残し、日本、欧州で一流の文化人と交わったスケールの大きな生涯を、代表作や影響を受けた巨匠の名品とともに展観する企画展「高田博厚展―対話から生まれる美」(福井新聞社共催)が16日から、福井市美術館で開かれる。
  石川県七尾市生まれの高田は、2歳のときに福井県出身だった父の弁護士開業のために福井市に移り住み、18歳までを過ごした。学校の勉強よりも哲学や文学、美術書に熱中する早熟な生徒だった。
  上京後は彫刻家、詩人の高村光太郎と親しく交わり、独学で彫刻を始めた。31年に妻と4人の子どもを東京に残して渡仏。近代彫刻の巨匠ロダン、ブールデル、マイヨールの作品を目の当たりにし、10年間彫刻をやってきた自負は砕け散ったという。
  だが文豪ロマン・ロランをはじめ哲学者アラン、詩人のジャン・コクトーら知識人の輪に招き入れられ、友情に支えられた。高田は彫刻に没頭し、他者、自己との対話を通じて感性を磨き、思索を巡らせた。やがて、彼らの内面や精神の面影までも照らし出すような肖像彫刻を制作するようになる。結局パリ滞在は第2次世界大戦をまたぎ、27年間に及んだ。
  展覧会は福井・東京時代からパリ時代、帰国後の東京・鎌倉時代へと生涯をたどる5章構成。肖像、人体像を中心とした収蔵品に借用品を加えた計65点と、晩年を過ごした鎌倉市などから借り受けた愛蔵品、アトリエにあった制作道具なども並べる。
  パリ時代に手掛けた傑作トルソー「カテドラル」(1937年)や、ロランやアラン、ガンジーら交流のあった人々の肖像彫刻をはじめ、若き日の高田に衝撃を与えたロダンの「ロダン夫人」(1882年、大原美術館寄託)やマイヨールのトルソー「ヴィーナスの誕生」(1918年、群馬県立近代美術館蔵)などの名品も併せて展示。高田の像の特異性を浮き彫りにする構成となっている。
  洋画家岸田劉生の元を訪ねた際に持参した18歳のときの油彩画「自画像」(1918年、個人蔵)や、貴重なドローイングも並べる。福井市美術館の鈴木麻紀子学芸員は「西洋彫刻の精神性を理解し、モデルの内面の本質に迫ることを重視した高田は、『似ていなければ、彫刻に似せていけばいい』とまで言い切り、自分の表現を求めた。福井にこんなスケールの大きな作家がいたことを知ってほしい」と話している。
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 11月5日まで。一般千円、高校・大学生500円、小中学生200円。10月1、7、14、22日は午後2時から作品解説会がある。10月28日には高村光太郎と妻智恵子、高田の人間模様を描いた朗読劇を3回上演する。問い合わせは福井市美術館=電話0776(33)2990。


というわけで、高田の企画展というだけでは紹介しないのですが、光太郎智恵子にかかわる朗読劇があるとのことで、取り上げさせていただきました。ただ、ネットで調べても詳細な情報が未掲載です。

詳しく分かりましたらまたご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】 

午前二時に私はかへる。 電信柱に自爆しながら。

連作詩「暗愚小伝」中の「暗愚」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

戦争が烈しくなってきてからの回想です。午前二時にどこから帰るのかというと、「場末の酒場」からだそうです。「金がはいるときまつたやうに/夜が更けてから家を出た」そうです。「心にたまる膿のうづきに/メスを加へることの代りに」飲んだくれていたとのこと。

大量の翼賛詩を書き殴りながら、戦況は日に日に悪化。学徒出陣の若者などが、出征前に光太郎に会いに来たりということも少なからずありましたが、中には戦死してしまった人もいたわけで、負い目を感じながらも国民を鼓舞することをやめられなかった、己の「暗愚」が描き出されています。

光太郎の父・高村光雲の作品が展示される企画展です。

驚異の超絶技巧! —明治工芸から現代アートへ—

期 日 : 2017年9月16日(土)~12月3日(日) 
会 場 : 三井記念美術館 東京都中央区日本橋室町2-1-1 三井本館7F
時 間 : 10時から17時まで 毎週金曜日及び9/30は19時まで
料 金 : 一般 1,300円(1,100円) 高校生及び学生 800円(700円) 中学生以下無料
       ( )内団体料金
休館日 : 月曜日(9/18,10/9は開館) 10/10(火)

2014年に開催し大好評を博した「超絶技巧!明治工芸の粋」展の第2弾。今回は七宝、金工、牙彫、木彫、陶磁などの明治工芸と、現代アートの超絶技巧がコラボレーション。明治工芸を産み出した工人たちのDNAを受け継ぎつつ、プラスαの機知を加えた現代作家の作品を紹介します。
明治工芸の工人たちの超人的な技とセンスは、失われて久しいロストテクノロジーだと誰もが思っていました。しかし近年、明治工芸に肉迫する作品を手がける現代作家たちが登場してきています。
本展では、超絶技巧による明治工芸と、それに匹敵する現代アートが対決します。明治工芸に劣らぬ、現代アートのクオリティに驚くこと間違いなしです!

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紹介文にあるとおり、平成26年(2014)に開催された「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」展の第二弾的な展覧会です。

前回も光雲の木彫が展示されましたが、今回も出ます。問い合わせたところ、一点、個人蔵の「布袋像」だそうです。

こちらは平成14年(2002)に、茨城県立近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」図録に掲載された「布袋像」。

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これとは別物だと思われますが、同一の図題で複数の作例があるのは珍しいことではありませんので、ほぼこういうものではないかと考えていいでしょう。あるいは異なるポージングかもしれませんが。

今回は、<受け継がれる超絶技巧のDNA ─ 明治工芸から現代アートへ> ということで、現代アート作家の皆さんの作品も多数展示され、美術工芸史的な部分での俯瞰を試みるようです。関連行事も充実していますね。

ぜひ足をお運びください。

さらに、今のところの予定では、来年以降再来年にかけて、岐阜県現代陶芸美術館さん、山口県立美術館さん、富山県水墨美術館さん、あべのハルカス美術館さんに巡回するとのことです。そちらもまた近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一旦まはりはじめると 歯車全部はいやでも動く。

連作詩「暗愚小伝」中の「協力会議」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

戦争責任を中心に、それまでの65年の人生を総括する目的で書かれた連作詩「暗愚小伝」。戦後になって戦時中の大政翼賛を反省し、活字にした文学者がほとんどいなかった中、光太郎の真摯な態度は評価されています。しかし、ある種「言い訳じみている」という評もあります。今回取り上げた詩句などもそうかもしれません。

タイトルの「協力会議」とは昭和15年(1940)に近衛文麿らが中心となり結成された大政翼賛会の中に置かれた下情上通を目的とした機関です。大政翼賛会内に地方組織として道府県・六大都市・郡・市区町村に各支部が置かれ、各段階の支部にそれぞれ協力会議が付置されて、さらに地方代表、各界代表による「中央協力会議」が持たれました。
 
 光太郎は劇作家・岸田国士のすすめで中央協力会議議員となり、昭和15年(1940)の臨時協力会議に出席。この時は一度限りと考えていたようですが、翌16年(1941)の第一回、第二回の会議にも出席しています(同17年=1942の第三回以降は委員を辞退)。第二回の会議はちょうど真珠湾攻撃の日と重なり、会議は途中で切り上げられ、参会者全員で皇居まで行進、「万歳」を叫んだそうです。

自分では歯車を動かす方、という意識はなく、動かされる方、と捉えていた光太郎ですが、その点では他の多くの文学者同様、「あの時点ではそうなるよりほかなかった」的な意識が垣間見えます。ただ、他の文学者たちと決定的に違うのは、花巻郊外太田村の山小屋で、自虐に等しい蟄居生活7年も続け、反省を態度で表したこと。ここにこそ、光太郎の真骨頂があるような気がします。

横浜伊勢佐木町ににあるお三の宮日枝神社さんのお祭りです。たくさんの神輿が出る中で、光太郎の父・高村光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」も出ます。大正天皇即位記念に製作され、関東大震災と、横浜大空襲の2回の火難をくぐり抜けたということで、「火伏」の名が冠されています。

昨年は滋賀県甲賀市のMIHO MUSEUMさんで開催された企画展「かざり -信仰と祭りのエネルギー」に出品された後、本格的な修復に入ったため、この時期の例大祭には出ませんでした。その後、11月には修復が終わり、イセザキ・モールさんでお披露目されました。

というわけで、今年は2年ぶりに火伏神輿の巡幸があります。 

日枝神社例大祭(お三の宮 秋まつり)

期   日 : 2017年9月15日(金)~17日(日)
会   場 : イセザキ・モール 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1・2丁目
日   程 : 9月15日(金) 13:30~ 火伏神輿行列

雅楽の生演奏を先導に、白装束の担ぎ手約30人が厳かに行列します。高村光雲作の神輿。関東大震災・横浜大空襲と、2度の苦難を乗り越えたことから、誰呼ぶともなく、「火伏(ひぶせ)の神輿」との名が付き、災難よけの神輿として崇められています。

 16日(土) 13:00~ 和太鼓演奏   17:00~19:00 千貫神輿奉安
社宝大神輿は千貫神輿とも呼ばれ、その大きさ、巧緻さ、荘重さ等、横浜随一の大神輿です。以前は、3日にわたり飾り立てた黒牛に引かせていましたが、現在は小型トレーラーで牽引しています。
猿田彦神、祓い神職により先導され、氏子・崇敬者と共に丸一日かけて氏子町内を御巡行致します。

  17日(日) 12:00~ 氏子町内神輿連合渡御   13:00~ 和太鼓演奏
奇数年毎の本祭りでは、神社からイセザキモールへと40基にも及ぶ大小の町内神輿が威勢良く練り歩き、大勢の祭り好き、神輿好きが集まります。

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会期中、火伏神輿と同時期の、やはり光雲作である獅子頭も、イセザキ・モール内有隣堂書店さんの前に並びます。
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当方、平成26年(2014)に拝見に伺いましたが、火伏神輿、獅子頭ともに、見事な作でした。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

リンゴばたけに雨ふりて 銀のみどりのけむる時 リンゴたわわに枝おもく 沈々として紅きかな

詩「(リンゴばたけに)」全文 昭和22年(1947) 光太郎65歳

きちんと題名を付けて原稿用紙に書かれたものでなく、まずは手帖に記し、のち、画仙紙に揮毫したものです。

リンゴの生産。青森、長野ほどではありませんが、それに次いで山形と並び岩手でも盛んです。光太郎が蟄居していた旧太田村近辺にも、リンゴ畑が広がっています。

光太郎、リンゴは彫刻のモチーフにはならないと言っていましたが、食べる方では非常に好んだようです。

過日ご紹介した、北海道の小樽芸術村似鳥美術館さんがオープンしました。

先月末の内覧会の報道。 まずは『朝日新聞』さんの北海道版からです。

北海道)小樽芸術村、9月1日にグランドオープン

 小樽市色内1丁目の「小樽芸術村」が9月1日にグランドオープンする。四つの施設は市指定有形文化財と歴史的建造物を活用したもので、旧北海道拓殖銀行小樽支店を改修した「似鳥美術館」などが30日、報道陣に公開された。
 似鳥美術館は1923年の建築で、地上4階・地下1階建て。プロレタリア作家の小林多喜二がここに勤めていたことでも知られる。2~4階に岸田劉生、横山大観、ルノワール、ユトリロなどの絵画約110点のほか、高村光雲らの木彫14点、棟方志功の作品5点を展示する。地下1階は、ガラス工芸品や照明器具など約160点が並ぶグラスギャラリー。6本の円柱が並ぶ1階の吹き抜けのホールはミュージアムショップとなった。
 芸術村は昨年7月、「ステンドグラス美術館」と「アールヌーヴォー館」が先行オープン。今年8月には「旧三井銀行小樽支店」を復元し、歴史的建造物として一般公開を始めた。観覧料は全館共通で一般1900円、学生1400円、中学生以下は無料。ミュージアムショップは入場無料。(佐久間泰雄)


続いて、UHB 北海道文化放送さんのニュースから。 

小樽芸術村 9月1日グランドオープンへ 「似鳥美術館」お披露目 北海道小樽市

 北海道小樽市の歴史的建造物を利用した小樽芸術村。「似鳥美術館」オープンでいよいよ完成です。9月1日のグランドオープンを前に8月30日、お披露目されました。
 小樽芸術村は、2016年オープンしたステンドグラス美術館など、2つの施設に加え8月、「旧三井銀行小樽支店」がオープンしていて、今回の「似鳥美術館」で全面オープンとなります。
  「似鳥美術館」は1923年に建てられた、旧北海道拓殖銀行小樽支店を修復したもので、アールヌーヴォー、アールデコグラスや国内外の絵画、彫刻などが展示されています。
 建物自体も小樽市指定有形文化財で、吹き抜けに立つ6本の円柱も特徴です。
 小樽芸術村は9月1日、グランドオープンで、今後注目の施設となりそうです。
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そして一昨日にはオープン。『北海道新聞』さんから。 

小樽芸術村が全面開業 似鳥美術館オープン

【小樽】家具・インテリア製造小売り最大手のニトリ(札幌)が小樽市中心部で歴史的建造物を使って整備を進めてきた「小樽芸術村」が1日に全面開業し、記念式典が行われた。ニトリホールディングス(札幌)の似鳥昭雄会長や高橋はるみ知事らが新たな観光・文化拠点の誕生を祝った。
 芸術村の四つ目の施設となる「似鳥美術館」が1日にオープン。旧拓銀小樽支店(1923年建築)を改修し、美術品約280点を収蔵する。式典で高橋知事は「岸田劉生ら大家の作品を展示し、小樽や北海道の魅力発信に貢献していただけると思う」とあいさつした。
 開館時間は4館とも午前9時半~午後5時(11~4月は午前10時~午後4時)。入館料は3館共通が一般1900円、学生1400円など。中学生以下無料。

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『朝日新聞』さんの北海道版には、似鳥会長のインタビューも。

北海道)小樽芸術村が全面開業 ニトリ会長が抱負語る

 ニトリホールディングスが小樽市で整備してきた小樽芸術村(色内1丁目)が1日、「似鳥美術館」のオープンで全面開業した。似鳥昭雄会長が朝日新聞の取材に答え、「小樽芸術村を歴史と芸術が響き合う場所として世界に発信していきたい」と抱負を語り、年間20万人の来館者を目標に、小樽や道内の観光振興に貢献したい意向を示した。
 芸術村は小樽運河近くの1920~30年代に建てられた4棟で構成。旧三井銀行小樽支店など「商都」として栄えた時代を象徴する銀行などの建物を活用した。美術館は芸術村の中核施設で、旧北海道拓殖銀行小樽支店を改修した。地上4階、地下1階建て。2~4階に岸田劉生やピカソなどの絵画110点やガラス工芸品160点など、似鳥会長が収集してきたものを含めて展示している。
 似鳥会長は小樽を選んだ理由を「明治から昭和にかけて北海道の経済発展の礎となった土地。当時をしのばせる歴史的建造物が多く、同時代の美術、工芸品を展示することで新たな文化創造や発信ができる。北海道の風景や食に新しい感動をプラスしたい」と述べた。
 小樽には年間790万人の観光客が訪れており、「1990年代の小樽観光を牽引(けんいん)したのが閉館した石原裕次郎記念館ならば、バトンタッチして小樽芸術村が小樽観光のお役にたてたらうれしい」と話した。
 ニトリは1967年に「似鳥家具店」として札幌で創業し、今年で50年。ニトリ北海道応援基金や夕張、小樽への寄付などのメセナ(企業の社会貢献)にも取り組んできた。「60歳まで努力して余裕ができたら社会貢献を考えていた。業績のいい企業がメセナを行うのは欧米では当たり前のこと。そういう文化が根付けば豊かな国になる」と述べた。
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 ニトリホールディングスの似鳥昭雄会長が1日、小樽市で朝日新聞のインタビューに答えた。主な一問一答は次の通り。
 ――創業の札幌でなく、小樽で小樽芸術村を開設したのはなぜですか。
 「基本は現代の建物ではなく、昔からの建物を使って美術館をしたかったんです。小樽は明治から昭和にかけて北海道の経済発展の礎となった土地。当時をしのばせる歴史的建造物が多く、同時代の美術、工芸品を展示することで新たな文化創造や発信ができる。札幌と小樽は近いからやろうと決意したのが6、7年前かな。旧三井銀行小樽支店は7、8年前から見ていました。運河前の旧荒田商会と旧高橋倉庫が譲っていただけるということになり、そのうち、似鳥美術館になったここ(旧北海道拓殖銀行小樽支店)もうまくいきまして、今日に至ったんです」
 ――小樽がかつて物流・金融の要所の街だったということも関係ありますか。
 「そうです。昔、私も父親に連れてこられて、小樽によく来ました。こちらが商業の地ということで、こちらの方が栄えていたんですね。札幌よりもね。だから、日銀はこちらにありましたよね。問屋街で、よく父親が『安く買うなら小樽だ』ということで、小学校の時に連れて行ってもらっていたんです」
 ――今回、四つの歴史的建造物を活用して小樽芸術村ができています。旧三井銀行は展示館というものではなく、銀行そのものを保存していますね。
 「ああいう建物は日本では珍しい。日本を代表する建物じゃないかなと。あそこにペタペタ絵を飾っちゃうと、建物が薄れちゃう。だから建物だけを見せていく」
 ――似鳥美術館の展示品には日本画、洋画、木彫、ガラス工芸と多岐にわたっています。似鳥会長のお気に入りのものは。
 「みんな好きなんです。きれいなもの、美しいものにほれてしまうと。そういう傾向があります。やはり、ステンドグラスなど、日本になかったものが特に興味がありましたね。日本全国各地をみましても、ああいうものは少ないものですから、自分のところで美術館をつくりたいなあと」
 「昔から小樽は、ガラスの街で有名なところですよね。いま、ガラス工芸は少なくなっているのですが、本当のガラスでできたもの、世界の名品をここに見てもらうことが、小樽にぴったりではないかと」
 ――小樽には年間790万人の観光客が訪れます。小樽芸術村の役割をどう考えますか。
 「歴史と芸術が響き合う場所として世界に発信していきたい。北海道の風景や食に新しい感動をプラスしていきたい」
 ――観光名所だった石原裕次郎記念館が閉館しました。
 「1990年代の小樽観光を牽引(けんいん)してきたのが石原裕次郎記念館ならば、バトンタッチして小樽芸術村が小樽観光を引っ張って、お役に立てればうれしい」
 ――ニトリは道内では、小樽市に1億円、夕張市に5億円などの寄付をしています。会社のメセナ(企業の社会貢献)について、どう考えていますか。
 「私が60歳まで努力して余裕ができたら、社会貢献しようと考えていました。それで、『北海道応援基金』っていうので、年1億円で出していこうと。それから植樹ですよね。夕張では桜2万本を植樹し、これも、もう10年近く経つかな。桜が少しずつ大きき成っていますよね」
 ――業績がよい企業はメセナを積極的に行うのは、欧米では当たり前だとおっしゃっていました。
 「そうそう。もうかっていても、全然、出さない企業もあるんですよね。ビジネスとして社会貢献というのが一つありますよね。既存のお客さんが増えることと、また欲しいと言われるような商品をつくることです。そのほかに、文化に関することというのは、欧米では当たり前ですし、一定の企業、豊かな企業が社会貢献することが根付けば、豊かな国になると思うんですよね。日本はまだまだ足りない」
 ――今年はニトリの創業50年。9月には国内外の店舗数が500になります。
 「500店というのは一つの区切りですね。50年、500店、(売上高)5千億円といったし、純利益も500億円を超えた。『5、5、5』というのはいいですね。こんどは『1、1、1作戦』とか。5年後に1千店、1兆円、最終利益1千億円。これはちょっと、まぁいいかな、そんなもんかな」(佐久間泰雄、鯨岡仁)
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■小樽芸術村の建物
①似鳥美術館(旧北海道拓殖銀行小樽支店)
②旧三井銀行小樽支店
③ステンドグラス美術館(旧高橋倉庫)
④小樽芸術村ミュージアムショップ(旧荒田商会)


すばらしい理念だと思います。

光雲らの木彫に目を付けて下さったのも、ありがたい限りですね。光太郎の木彫も、ここに加えていただければさらにありがたいのですが。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

観自在こそ たふとけれ まなこひらきて けふみれば 此世のつねの すがたして わがみはなれず そひたまふ

詩「(観自在こそ)」全文 昭和21年(1946)頃 光太郎64歳頃


七五調四句の「今様」という様式で、題名は付されていません。そのため、昨年、このブログで1年間載せ続けました【折々の歌と句・光太郎】でもご紹介しましたが、『高村光太郎全集』では、詩の巻に入れざるを得ず、「第3巻 詩三」に収録されています。

光太郎、敬虔な仏教徒というわけではありませんでしたが、仏師だった父・光雲が手がけた観音像などを幼い頃から目の当たりにし、自身もブロンズの代表作「手」では、観音菩薩の手印・施無畏の相をモチーフにするなどしています。

戦争協力への反省から蟄居生活を送る中、仏にすがる気持ちも育まれていたかも知れません。

竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中のイベントです。

MOMATサマーフェス

期 日 : 2017年7月19日(水)~9月30日(土)
休場日 : 月曜日(祝なら翌平)
会 場 : 
東京国立近代美術館 千代田区北の丸公園3-1
時 間 : 10:00~17:00(金土~21:00) ※入館は閉館30分前まで

7月から9 月にかけて、大人も子どもも、昼も夜も楽しめる夏のイベント「MOMATサマーフェス」を開催します。
展覧会を中心にイベントやワークショップを開催するほか、金曜・土曜はナイトミュージアムで夜9時まで開館し、お得な夜の割引料金で観覧いただけます。さらに前庭にはガーデンビアバーが出現。ゆっくりと夏の夜をお楽しみいただけます。
所蔵作品展「MOMAT コレクション」では、参加型プログラムの対話による所蔵品ガイドを毎日実施。毎週金曜の「フライデー・ナイトトーク」や、夏休みにあわせた子ども向けプログラムも実施します。
週末の仕事帰りや夏休みにご家族で、また訪日外国人観光客の皆様にもおすすめです。
いつもと一味違う美術館をぜひご体感ください。




展示としては、企画展「日本の家 1945 年以降003の建築と暮らし」の他、「平成29年度第1回所蔵作品展 MOMATコレクション」が開催されていて、光太郎ブロンズの代表作「手」の、大正期の鋳造が並んでいます。出品リストはこちら。キュレータートーク等も充実しているようです。観覧料は一般500円、大学生200円。

さらに、「金曜・土曜のナイトミュージアム&夏限定ガーデンビアバー 」だそうで、毎週金曜・土曜は夜9時まで開館。お得な夜の割引料金で展覧会を観覧できるほか、キッチンカーが登場し、前庭がビアバーに変身、金曜・土曜は夜も営業。当初は8月27日までの予定だったとのことですが、好評につき、9月も営業するそうです。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

風なきに雪蕭々と鳴つて梢を渡り 万境人をして詩を吐かしむ。 早池峯(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。

詩「雪白く積めり」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に入り、7年間の蟄居生活を始めた最初の冬、山小屋生活に関わる最初の詩です。40年を超える詩作を続けてきながら、戦時中、愚にもつかぬ大量の翼賛詩を書き殴り、多くの前途有為な若者たちを戦場に追いやった蛮行をして、「わが詩の稜角いまだ成らざる」としています。

ユマニスト光太郎再生のために、マイナス20℃の酷寒の地での生活は、必要不可欠でした。

北海道から新たな美術館オープンの情報です。

ニトリ小樽芸術村さんのサイトから。

「旧三井銀行小樽支店」公開と「小樽芸術村」グランドオープンのお知らせ

この度、株式会社ニトリホールディングス(札幌市北区、代表取締役社長兼COO 白井俊之、以下ニトリ)は、昨年オープンしたステンドグラス美術館(旧高橋倉庫)、ミュージアムショップ(旧荒田商会)に加え、この今年8 月1 日より隣接する「旧三井銀行小樽支店」を、小樽を代表する歴史的建造物の一つとして公開いたします。さらに9 月1 日より「旧北海道拓殖銀行小樽支店」を修復し、アールヌーヴォー・アールデコグラスと所蔵する絵画・彫刻を一堂に集め「似鳥美術館」として公開いたします。
ニトリは、これまで「ニトリ北海道応援基金」などを通じて、道内の教育・観光・文化活動を支援してまいりましたが、企業メセナ活動の一環として本施設をグランドオープンし、北海道のさらなる観光発展に寄与すると同時に、国内外の多くの方々が優れた文化・芸術に触れ、情操を育み、感動を共有できる場所にしてまいります。

【小樽芸術村 概要】
名 称 :小樽芸術村 英文名 :OTARU ART BASE
昨年7 月より公開●ステンドグラス美術館(旧高橋倉庫)  所在地:小樽市色内1丁目2-17
昨年7 月より公開●小樽芸術村ミュージアムショップ(旧荒田商会)  所在地:小樽市色内1丁目2-17
8 月1 日より公開●旧三井銀行小樽支店  所在地:小樽市色内1丁目3-10
9 月1 日より公開●似鳥美術館(旧北海道拓殖銀行小樽支店)  所在地:小樽市色内1丁目3-1
B1 に、アールヌーヴォー・アールデコグラスギャラリー、
似鳥美術館ミュージアムショップ併設

◆似鳥美術館(旧北海道拓殖銀行小樽支店)
建物:1923 年(大正12 年)の建築。かって作家・小林多喜
二が働いていた旧北海道拓殖銀行小樽支店。2階ホールまでの吹き抜けは、6本の古典的円柱が圧巻。ステンドグラス美術館、旧三井銀行小樽支店同様に小樽市指定有形文化財。
面積:3,309 ㎡(1,002 坪)
4階は横山大観、川合玉堂などの日本画、
3階は岸田劉生をはじめとする日本・海外の洋画、
2階には高村光雲とその弟子たちの木彫
地下はアールヌーヴォー・アールデコグラスギャラリーとなっています。

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というわけで、光太郎の父・高村光雲とその弟子達の作品が、ある程度まとめて展示されるようです。

光雲の作品は、さまざまな美術館に分散しており、それも多くて数点というところが多く、まとめて所蔵している館(京都清水三年坂美術館さんなど)にしても、それらが常に展示されているわけではないので、これは嬉しいニュースです。

点数やどんな作品か、また、弟子達のメンバー構成といった点などが不明ですが、新たな情報が入り次第お伝えします。


【折々のことば・光太郎】

私は拾つた篠懸木の一枚の葉を 如何に木で彫らうかと考へてゐる。

詩「美しき落葉」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

篠懸木は「すずかけのき」と読み、プラタナスの和名です。

多くの前途有為な若者達を戦場へと駆り立てた罪深い翼賛詩を大量に書き殴るかたわら、光太郎は彫刻の方面での戦争協力はほとんど行いませんでした。

同時代の彫刻家の多くは、もはやブロンズが使用できないとなると、セメントまでも使用して、兵士の姿などを彫刻にし、戦意高揚に資していました。光太郎がそうした愚にもつかぬ彫刻に手を染めなかったのは、さすがです。もっとも、大量の翼賛詩による原稿料などで、生活が保障されていたためと考えることもできますが……。

青森の地方紙『デーリー東北』さんから。 

内なる魂を感じて 高村光太郎のブロンズ胸像寄贈/青森・十和田

 青森市在住の元教員田村進さん(84)が、詩人で彫刻家の高村光太郎の偉大さを伝えようと、ブロンズ製の胸像「光太郎山居(さんきょ)」を完成させた。田村さんは8日、青森県十和田市役所に小山田久市長を訪ね、市に寄贈することを報告。胸像は来年4月から、十和田湖畔休屋の光太郎が制作した「乙女の像」の周辺にある十和田湖観光交流センター「ぷらっと」で展示される予定だ。

 田村さんは10代から光太郎の詩や書、彫刻などの作品に親しんだ。乙女の像が完成した1953年には、除幕式の翌日に本人と直接会う機会に恵まれ、以後も光太郎の芸術世界を思い続けてきたという。

 県内の中・高校で美術教員を務め、退職後の80歳の時に、今回の胸像の原型となる石こう像を4カ月半かけて制作。昨年7月、十和田八幡平国立公園の十和田・八甲田地域指定80周年の記念式典会場に展示された。これを契機に市への寄贈の話が進み、石こう像から型を取ったブロンズ像を完成させた。

 像は高さ74センチ、幅78・5センチ。重さが85キロあり、台座を市が今後準備した後、ぷらっとに展示する。

 この日は田村さんが胸像の写真パネルを小山田市長に贈り、制作の経緯などを説明。小山田市長は「観光などで訪れる多くの人に見ていただき、高村や乙女の像について関心を持ってもらえればと思う」と謝辞を述べた。田村さんは取材に「胸像から高村の内なる魂、すごさ、優しさを感じてもらいたい」と話していた。

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田村進氏、記事にあるとおり、青森市在住の彫刻家で、昭和28年(1953)には光太郎本人とも会われたという方です。連翹忌にも3回、ご参加下さっています。

平成24年(2012)頃から、光太郎像の制作にかかられ、レリーフ習作を経て、平成26年(2014)には胸像本体の原型が完成したそうです。で、このたび、ブロンズに鋳造したものが十和田市に寄付されたとのこと。

展示は来春からになるそうですが、十和田湖畔の「十和田湖観光交流センターぷらっと」にてなされるそうで、元々ある光太郎がらみの展示と合わせ、多くの方々に見ていただきたいものです。


十和田市さんのブログサイト「駒の里から」でも報じられているほか、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の方から、さらに詳しくこの件を扱った地元紙『十和田新報』さんの記事を、メールで頂きました。

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画像クリックで拡大します。


来春以降、十和田湖にお立ち寄りの際は、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】005

南へ 北へ (あるけ あるけ)  東へ 西へ (あるけ あるけ)  路ある道も (あるけ あるけ)  路なき道も (あるけ あるけ)  

歌詞「歩くうた」 より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

日本放送協会選定の国民歌謡として作られた、飯田信夫作曲による歌曲です。戦意高揚という部分を抜きに考えれば、詩としては悪くないと思います。

徳山璉(たまき)らの歌唱などでSPレコード化され、それなりにヒットしたそうです。

一昨日、上野、渋谷と都内2ヶ所を廻っておりました。2回に分けてレポートいたします。


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よくある単なる所蔵名品展ではなく、一ひねり、二ひねり、といった感じで、非常に興味深く拝見しました。

名品展的要素としてもかなりのもので、飛鳥時代に始まり、現代までビッグネームや逸品がずらり。さらに美術史上重要な位置づけのものも多く、「これって藝大さんで持っていたのか」「この人も藝大(東京美術学校)出身だったのか」と思わせられるものもけっこうありました。

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光太郎の作品は、明治35年(1902)、彫刻科の卒業制作として作られた「獅子吼」。経巻をうち捨て、腕まくりして憤然と立つ日蓮をモチーフにしています。これまでも各地の企画展等でよく展示されていたブロンズと、今回は石膏像が並べて展示されていました。当方、この石膏原型は初めて拝見しました。

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通常、塑像彫刻の場合、はじめに粘土で原型が作られます。そこから石膏で型を取り、さらに最終的にはそれをもとにブロンズなどで鋳造します。「獅子吼」は、2段階目の石膏の時点で、卒業制作として提出されました。此の時代、展覧会でも石膏原型の出品は珍しくありませんでした。

石膏とブロンズ、結局は同じなのですが、並べてみると、細かな点には相違が見られます。意識しての相違ではなく、自然とそうなってしまう、という部分です。どうしても、石膏からブロンズにうつす際、細かな部分は甘くなってしまうのです。全体にそうなのですが、それが如実に感じられたのが、足の指の部分。石膏では指の一本一本が細かく作られているのですが、ブロンズでは五本がつながって一体化してしまっているような……。もちろん五本指であることは見て取れますが、指と指の境目がゆるくなってしまっています。画像でお見せできないのが残念です。それから、台座に刻まれた「獅子吼」の文字なども、同様でした。となると、粘土から石膏にうつす際にも同じことが起きているような気もします。

このあたり、当方は実作はやらないので感覚
としてはよく分かりませんが、そうなることを考えて、最初の粘土での制作に当たるものなのでしょうか。専門の方のご意見を伺いたいものです。
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さらに言うなら、石膏原型が残っておらず、鋳造されたものから型を取ってさらに鋳造した像も存在します。そうなると、最初の粘土像から比べると、細かな部分はおそろしく変わってしまっているものもあるように思われます。実際、光太郎のブロンズでもそうなんだろうな、と思われるものが展示されている場合があります。どこそこの館のどれどれが、とは申しませんが……。

となると、鋳造されたものより石膏像の方が粘土原型に近いわけで、光太郎の朋友・碌山荻原守衛の絶作「女」なども、重要文化財に指定されているのは実は石膏像です。

明治35年(1902)に、光太郎が卒業制作として提出したのも、今回展示されている石膏原型。そう考えると、感慨深いものがありました。

ちなみに光太郎は二席(第2位)でした。首席は水谷(みずのや)鉄也。のちに同校教授に就任しました。当会顧問・北川太一先生の御著書などには、「きれいな作風」とあり、どんなものだろうと思っていたのですが、水谷の卒業制作も出品されていました。題して「愛之泉」(右画像)。残念なことに石膏はもろいので、手などの末端部分に欠損が見られますが、たしかにきれいな作風だな、と思わせられるものでした。

しかし、これが「獅子吼」より完全に上か、というと、そうも思えません。まあ、このあたりは主観的な問題だと思いますが……。そこで浮かんだのが、最近はやりの「忖度」の語。彫刻科の主任教授は、光太郎の父・光雲だったわけで、その息子が首席では、たとえ技倆が伴っていたとしても「いかにも」ですね。そこで光太郎は二席、ということが考えられます。逆に、本来は五位、六位、もしかするとそれ以下の判定が二席、という「忖度」も無いとは言い切れませんが……。

余談になりますが、これら卒業制作が最004初に出展された「東京美術学校生徒成績品展覧会」の図録では、「獅子吼」の画像の下にローマ字で「Kotarou Takamura」とクレジットが入っており、どうもこの頃から、本名の「みつたろう」ではなく「こうたろう」と名乗り始めたと考えられます。

ところで、石膏原型というと、光太郎最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型も、同館に収蔵されています。当方、こちらも見たことがありません。昨年暮れにATV青森テレビさんで放映された特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」」制作のお手伝いをさせていただいた際に、この石膏原型も取材してはどうかと提案したのですが、番組の尺の関係などで実現しませんでした。また藝大美術館さんで同じような企画展がある場合には、ぜひ出品していただきたいものです。

その他、光太郎・光雲と関わりの深い作家の作品も、かなり出品されていました。平櫛田中、白瀧幾之助、板谷波山、石川光明、米原雲海、藤田嗣治などなど。さらに過日もご紹介した、アーカイブ的な写真も興味深く拝見しました。

なかなか見応えのある企画展です。帙ふうのハードカバーがつけられた図録も立派なものです(1,800円)。来月6日までの会期。ぜひ足をお運びください。

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【折々のことば・光太郎】

一切の苦難は心にめざめ 一切の悲嘆は身うちにかへる 智恵子狂ひて既に六年 生活の試練鬢髪為に白い

詩「或る日の記」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

詩の冒頭部分では、大正2年(1913)、智恵子と一夏を過ごした上高地の風景を水墨画に描いた事が記されています。なぜこの時期に上高地の絵を、と、意外な感がします。詩が書かれた約1ヶ月後、智恵子は帰らぬ人となりました。もしかすると、その予感が既にあったのかも知れず、一種のレクイエムなのかもしれません。

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アートオークションでの光太郎の父・高村光雲作品出品情報です。

第546回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日 程 : 2017/08/04(金) 14:00~  2017/08/05(土) 12:00~

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光雲作品は木彫「翁舞」。光雲が好んで取り上げた題材の一つです。平成14年(2002)に三重県立美術館、茨城県立近代美術館、千葉市立美術館と巡回した「高村光雲とその時代展」にも木彫「翁舞」が2点、出品されました。どちらも今回のものとは別の作品で、共に昭和8年(1933)、光雲晩年の作です。

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おそらく今回のものも、そう離れていない時期の作ではなかろうかと推定できます。

003予想落札価格が80万円から130万円。もう少し行きそうな気もしますが、妥当な線といえばその通りでしょう。というのは、背部に「光雲刀」の刻銘という点です。

光雲は、全体をほぼ一人で仕上げた場合には、「髙邨光雲」と銘を入れることが多かったそうで、絶対とは言えませんが、そうなっていないものは工房作――基本的には弟子が作り、仕上げを光雲が行ったもの――と考えられます。ガレのガラス器などもそうですね。

ただ、だからといって贋作とか、質の良くないものということにはなりません。その辺で、80万から130万というのは、妥当な金額だというわけです。実際、この手のオークションで「髙邨光雲」銘が出ると、約10倍の予想落札価格がつきます。


懐に余裕のある方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

おもむろに迫る未曾有の時 むしろあの冬空の透徹の美に身を洗はう。 清らかに起たう。
詩「未曾有の時」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

やはり日中戦争を背景にしています。「未曾有」は「みぞゆう」ではありません(笑)。念のため。

のちにご紹介しますが、「○○の時」という詩が、この後も2篇作られます。太平洋戦争開戦直前には「必死の時」(発表は開戦直後)、終戦直前の花巻空襲を題材にした「非常の時」。大正年間には、ベルギーの詩人、ウォルト・ホイットマンが妻のマルト・マッサンとの愛の日々を謳った「明るい時」「午後の時」を翻訳していた光太郎だったのですが……。

光太郎の母校・東京藝術大学大学美術館さんからの情報です。

東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!

期 日 : 第1期:2017年7月11日(火)~8月6日(日)
      第2期:2017年8月11日(金)~9月10日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 本館 展示室1、3、4 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 午前10時 - 午後5時 7月11日(火)は午後6時まで開館
休館日 : 毎週月曜日(7月17日、8月14日は開館)、7月18日
料 金 : 一般 800円 (600円)  高校・大学生 500円 (400円)
       ( )内は20名以上の団体料金

東京藝術大学は今年、創立130周年を迎えます。これを記念し、大規模なコレクション展を開催します。
東京美術学校開設以来、積み重ねられてきた本学のコレクションは、国宝・重要文化財を含む日本美術の名品ばかりではなく、美術教育のための参考品として集められた、現在では希少性の高い品々や、歴代の教員および学生たちが遺した美術学校ならではの作品が多くあることが特徴となっています。
本展では、多様なテーマを設けて、すでに知られた名品だけでなく、これまで日の目を見ることの少なかった卒業制作などの作品、模写、石膏像や写真・資料類にもスポットをあてることによって、藝大コレクションの豊富さ、多様さ、奥深さをご紹介します。また、近年の研究成果を展示に反映させ、コレクションに新たな命を吹き込まれていくさまもご覧いただきます。
いったい何が飛び出すか、予測不可能な藝「大」コレクション展。どうぞご期待ください。

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関連行事

シンポジウム「藝大コレクションと美術教育」
 日時:7月11日(火)18:00~19:30(開場17:30)
 会場:東京藝術大学美術学部中央棟1階、第1講義室
 参加方法:直接会場へお越しください。(事前申込不要、先着180名)
 パネリスト:保科豊巳(本学理事)、日比野克彦(本学美術学部長)、
        秋元雄史(本学大学美術館館長)、
千住博(日本画家)、
        古田亮(本学大学美術館准教授)
パンドラトーク
 本学教員を中心とした多彩なゲストが、作品を解説・紹介します。
 7月14日(金)北郷悟(本学美術学部彫刻科教授)「ラグーザの彫刻作品について」
 7月22日(土)O JUN(本学美術学部絵画科教授)「私の自画像」
 8月26日(土)木島隆康(本学大学院美術研究科教授)「油絵の修復」
 9月2日(土)小山登美夫(ギャラリスト・明治大学国際日本学部特任准教授)
        「ギャラリストからみた藝大生」
 9月 9日(土)佐藤道信(本学美術学部芸術学科教授)「藝大の130年」
 9月10日(日)桂英史(本学大学院映像研究科教授)「映像作品の現在」
 集合場所:東京藝術大学大学美術館地下2階 展示室2
 開始時間:各回とも14:00(開場13:30)
 所要時間:1)~3)は約45分 4)~6)は約90分
 参加方法:直接地下2階展示室2へお越しください。(事前申込不要、先着100名)
 ※ただし当日の観覧券が必要です。
 ★各テーマ、所要時間は変更になる可能性がございます。

スペシャル・トーク 山口晃×古田亮 「ヘンな東京藝大」
 日時:8月19日(土)14:00~16:00(開場13:30)
 会場:東京藝術大学美術学部中央棟1階、第1講義室
 参加方法:当日13:00より、第1講義室前の受付にて整理券を配付します。先着170 名
 ※ただし、本展の観覧券(半券可)が必要です。


光太郎作品は、同校卒業制作の「獅子吼」(明治35年=1902)。ブロンズに鋳造されたものは、これまでも各地の企画展等でよく出ていましたが、今回は、「石膏原型一挙開陳」というコーナーで、鋳造前の石膏原型が展示されます。鋳造されたものも一緒に並ぶそうです。

光太郎が同校木彫科を卒業したのは明治35年(1902)7月(この後も研究科に残り、さらに同38年(1905)には西洋画科に再入学します)。卒業制作品の展覧会「東京美術学校生徒成績品展覧会」は、同校を会場に開催され、この際には今回展示される石膏原型が出品されています。ちなみに光太郎は第2位の成績でした。

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他に、創立130周年記念ということで、アーカイブ的なコーナーも設けられ、同校教授だった光太郎の父・光雲に関する展示もあります。

いずれもガラス乾板による展示で、「楠木正成像制作のための木型」、「高村光雲《松方正義像》制作のために撮影された本人の写真 」。

楠木正成像」は、皇居前広場に建っている銅像で、光雲が主任となり、美術学校総出で制作されました。その木型の完成記念に撮られた集合写真です。壮年期の光雲も写っています。

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「松方正義像」も光雲を主任として木型が作られました。こちらは何と、銅像ならぬ銀像として鋳造されています。ただし、その大元の原型は光太郎です。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。 わたくしをよぶ声をしきりにきくが、 智恵子はもう人間界の切符を持たない。

詩「値(あ)ひがたき智恵子」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

それはそれで、ある意味、幸せだったのかも知れません……。

先週のニュースです。

まず『スポーツニッポン』さんから。

関ジャニ横山&丸山 芸術鑑賞はいかが!?

関ジャニ∞の横山裕(36)と丸山隆平(33)が30日、東京国立近代美術館で行われた「プレミアム“カルチャー”フライデー」イベントに出席した。

 プレミアムフライデーは政府などが推奨し、毎月末の金曜日に就業時間を短くしてプライベートを充実させる試み。関ジャニ∞がナビゲーターを務めている。今月は芸術鑑賞を提案しており、2人は同館所蔵の高村光太郎の「手」を鑑賞。横山は「敷居の高いイメージだったが、芸術作品を身近に感じた」と感激していた。

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『日刊スポーツ』さん。

横山裕「大人になった」丸山隆平の文化的活動に感激

 関ジャニ∞横山裕(36)と丸山隆平(33)が30日、東京・東京国立近代美術館で、プレミアムフライデーのナビゲーターとして、文化を切り口に、月末の金曜日の活用を提案する「プレミアム“カルチャー”フライデー」のPRイベントに出席した。

 普段の文化との触れあいに横山は「最近、舞台をよく見ています。勉強にもなるし、非現実的な空気感を体感すると、いい刺激をうけます」。丸山も「ミュージカルをよく見に行っています。史実をテーマにしている作品だと当時の文化を知ることができるので、はまっています」と紹介した。また、絵を購入して鑑賞しているとも。丸山の絵の話に横山は「大人になったな」と感激していた。

 イベントでは、同美術館にある高村光太郎作の「手」が披露された。丸山が「手」のポーズをまねながら「やっぱり、人の人生っていうのは、そんなに簡単なものじゃないと、体で感じてこそ、それが人生」と作品にこめられた思いを推測。横山は「すごい浅はかですけど大丈夫ですか」と丸山を心配しながらも「作品に疎い方でも簡単な楽しみ方もあるんですね」と感心していた。

 一方、イベントには文化庁長官の宮田亮平氏も出席。宮田氏は「高村光太郎ですよね。これが出てくるとは思わなかった。こんな近くで見させてもらうなんて」と興奮気味。丸山が「今ずっと我慢してたんですね」と話しかけると、宮田氏は思わず「お前たちの話、終わらないかなと」と本音をポロリ。横山は「ものすごいテンション」とたじたじになっていた。

 同所では、7月19日以降の金曜、土曜は午後9時まで開館している。丸山は「夜遅くまで楽しめるなら、仕事終わりのデートで美術館に行くというのもいいんじゃないかな」とPR。最後は、横山が「頑張るだけでなく自分にご褒美をあげて、また頑張るというきっかけにプレミアムフライデーを使ってもらえたらいい。美術品を見てよりいっそう思った」と語った。


『スポーツ報知』さん。

関ジャニ∞横山&丸山、高村光太郎の「手」に興奮

 「関ジャニ∞」の横山裕(36)と丸山隆平(33)が30日、東京・竹橋の東京国立近代美術館で「プレミアム“カルチャー”フライデー」のPRイベントに出席した。プレミアムフライデーは「月末の金曜日は仕事を早く終えて豊か・幸せにすごす」というコンセプトで今年2月から経済産業省などが提唱。2人はナビゲーターを務める。

 この日は横山と丸山の間に手の形をした彫刻が至近距離で登場。横山と丸山が何も知らずに「男の手なのかな~」「筋張っているよね」などと論じていると、関係者が「高村光太郎の『手』です」と紹介。めったに近くで見られない美術品を目の当たりにして「おお、急にすごい手に見えてきた」(横山)、「帰って調べないと」(丸山)と急にテンションが上がっていた。


一般紙では『毎日新聞』さんの東京版。

美術館へ行こう 千代田でイベントPR /東京

 プレミアムフライデー推進協議会は30日、千代田区の東京国立近代美術館で、プレミアムフライデーの活用方法として美術館巡りなどを提案するPRイベントを開催した。
 イベントには、プレミアムフライデーナビゲーターを務める関ジャニ∞の横山裕さん、丸山隆平さんが登場。同館の蔵屋美香企画課長は2人に、同館が所有する高村光太郎の彫刻「手」を例に「ポーズをまねてみることで作品が身近に感じられますよ」とアドバイスした。
 横山さんは「美術館は敷居が高かったが、プレミアムフライデーをきっかけに足を運びたい」。丸山さんは「仕事が終わってからデートに美術館に行くのもいいですね」などと語った。【遠山和彦】


テレビのニュースでも取り上げられていました。

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「プレミアムフライデー」自体は、頓珍漢な政府主導で国民の生活実態とかけ離れている、と批判の多い取り組みですが、美術館へ行こう、という呼びかけは否定されるものではありませんね。月末の金曜日に限らず、ですが。


光太郎の「手」、東京国立近代美術館さんで開催中の平成29年度第1回所蔵作品展「MOMATコレクション」で展示中です。以前にも書きましたが、大正期の鋳造であると確認できている3点のうちの一つ。台座の木彫部分も光太郎の手になるもので、有島武郎の旧蔵品です。ぜひご覧ください。


【折々のことば・光太郎】

主人は権威と俗情とを無視した。 主人は執拗な生活の復讐に抗した。 主人は黙つてやる事に慣れた。 主人はただ触目の美に生きた。 主人は何でも来いの図太い放下(はうげ)遊神の一手で通した。 主人は正直で可憐な妻を気違にした。

詩「ばけもの屋敷」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

大正期には、智恵子との愛の巣として高らかに「わが家(や)の屋根は高くそらを切り その下に窓が七つ 小さな出窓は朝日をうけて まつ赤にひかつて夏の霧を浴びてゐる」(「わが家」大正5年=1916)と謳われた、駒込林町のアトリエ。

長期にわたった介護の末、智恵子は南品川ゼームス坂病院に入院し、光太郎は一人暮らしです。疲れ切ってすさんだ光太郎の内面は、住居の外観、というか全体を包む空気感にも影響したようで、近所の子供達は「化け物屋敷」と呼んでいたとのことでした。

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信州安曇野、碌山美術館さんの夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」を拝見して参りました。

光太郎関連以外の雑事で忙しいのと、高速道路の混雑を避けるため、一昨日の深夜に千葉の自宅兼事務所を出発、途中、塩尻の健康センターで入浴、仮眠。翌朝、碌山美術館さん開館時間に一番乗りいたしました。究極の雨男・光太郎に関わる企画展示ですので、予想通りに大雨でした(笑)。

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本来、撮影禁止ですが、関係者ということで許可を頂きまして、宣伝させていただきます。

昨夏、同館で開催された、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」は、「特別企画展」ということで、第1展示棟、杜江館も使っての展示でしたが、今回は第2展示棟のみ。図録等も発行されていません。それでもなかなかに充実していました。

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第2展示棟に入りますと、まず、よくある「ごあいさつ」。企画展としての趣旨が述べられています。

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 日本近代彫刻の先駆・荻原守衛(碌山 1879-1910)が師と仰いだオーギュスト・ロダン(1840-1917)の歿後100年にあたり、高村光太郎編訳 『ロダンの言葉』 (1916年刊)を紹介する企画展を開催いたします。
書籍『ロダンの言葉』は、ロダンに関するさまざまな外国語文献を高村が翻訳・編集したものです。通常ありがちな芸術家の伝記ではなく、ロダンが芸術について話した言葉を集めたもので、意味深い名言にあふれています。「地上はすべて美しい、汝等はすべて美しい」「宗教なしには、芸術なしには、自然に対する愛なしには-此の三つの言葉は私にとつて同意味であるが-人間は退屈で死ぬだらう」「彫刻に独創はいらない、生命がいる」等々。
 これらは、芸術の真髄を言い得た金言であり、読む者の心をふるわせずにはおきません。『ロダンの言葉』を読んで、その感動から彫刻を志した者も少なくなかったといいます。刊行以来100年の月日を経ても今なお、芸術を見る者、考える者にとって、味わい深く、示唆に富む、大変魅力的な著作です。
 これを機に、一人でも多くの方が、ロダンの芸術館にふれるとともに、芸術とりわけ彫刻への理解を深めていただくことを願って本企画展を開催いたします。

背面の大きな壁には、年譜。今年が歿後100年となるロダンその人のものと、日本におけるロダン受容の歴史に関してまとめられています。

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会場内はパーテーションで二つに区切られており、奥の区画には光太郎、荻原守衛等の彫刻の実作が展示されています。

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光太郎のものは、すべてブロンズで、左から「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「園田孝吉像」(同4年=1915)、「手」(同7年=1918)、「腕」(同)。いずれも光太郎が『ロダンの言葉』編訳に取り組んでいた頃の作です。

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他に、ロダンに影響を受けた戸張孤雁、中原悌二郎の作も。

003そして、荻原守衛の「坑夫」の石膏。初めて見ました。ブロンズに鋳造されたものは、守衛代表作の「女」などとともに、本館である碌山館に展示されていますが、こちらは石膏です。守衛がフランスのアカデミー・ジュリアンで学んでいた明治41年(1908)の習作ですが、パリでそれを見せられた光太郎曰く、

この首はまるで自由製作のやうであつて、モデル習作じみたところがない。モデルは生徒仲間によく知られてゐるイタリヤ人の若者で、多分このポーズも教室の合議できめたもので、彼の勝手にきめたものではなからうが、教室の習作にありがちな、いぢけたところがまるでなく、のびのびと自由に製作されて、作家の内部から必然的に出てきた作品に見え、あてがはれたポーズといふ感じがまるでないのにまづ驚いたのである。作風はロダンの影響がまざまざと見えるもので、面(めん)やモドレや粘土の扱ひ方までそつくりであるが、それが少しもただのまねごとには感ぜられず、彼自身の内部要求として強く確信を以て行はれてゐるので、そのロダンじみてゐることが苦にならなかつた。そしていかにも生き生きしてゐた。私も若い頃なので大に感動し、これを習作としてこはしてしまふのは実に惜しいから是非とも石膏にとるやうにと彼に極力すすめた。彼は近いうちに日本に帰るといふことだし、是非これは持つて帰るやうにとくり返し彼に語つた。実物大よりも少し大きいので厄介だらうが、必ずこの習作はこはさぬやうにとくどく念を押した。
(「荻原守衛―アトリエにて5―」 昭和29年=1954)

ということでした。


手前の区画には、ロダンその人の「鼻のつぶれた男」、そしてロダンの弟子、カミーユ・クローデルの「ロダン」。

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どちらも同館で所蔵しているそうですが、常設展示はされていなかったものです。

それを取り囲むように、各種の文献。

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光太郎の識語署名入り『ロダンの言葉』初版。

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光太郎が暗記するほど読んだというカミーユ・モークレール著のロダン評伝などの洋書。このあたりは、当会顧問・北川太一先生の蔵書です。

正続『ロダンの言葉』のさまざまな版。同館所蔵のものや、学芸員氏の私物も並んでいるそうです。新しめのマイナーなものは当方がお貸ししました。

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昭和4年(1929)に叢文閣から刊行された正続普及版がベストセラーとなり、舟越保武、柳原義達、佐藤忠良ら後進の彫刻家たちはこれを読んで彫刻の道を志しました。

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『白樺』などの「ロダンの言葉」初出掲載誌、光太郎以外のロダン紹介文献なども。

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右のブールデル著、関義訳『ロダン』(昭和18年=1943)は、光太郎の装幀。序文も光太郎が書いています。

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壁にはロダンの言葉の抜粋も。

前日の夜まで大わらわで準備に当たられたそうですが、なかなか充実の展示でした。

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隣接する第1展示棟には、『ロダンの言葉』と時期のずれた光太郎ブロンズの数々。少しずつ買い足され、かなりの点数になっています。


企画展は9月3日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

繭には糸口、存在には詩の発端。いたるところの即物即事に、この世の絲はひき切れない。
詩「寸言」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

さかのぼること10年、「彫刻十個條」という散文では、「彫刻の本性は立体感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」と記しています。世の中のどんなものにも、その詩魂の発端をみつけられるものだ、ということでしょうか。

この「寸言」という詩、永らく初出掲載誌が不明でしたが、この年7月、東京農業大学農友会文芸部から発行の雑誌『土』第22号に掲載が確認できています。

一昨日の『東京新聞』さん、埼玉版に載った記事です。

<ひと物語>新たな木彫 今を刻む 彫刻師・宮本裕太さん

003 小鹿野町長留の山あいにある工房。彫刻師の宮本裕太さん(30)は、真剣な面持ちで木彫作品二点の仕上がりを確認する。一つは南国の花プルメリア、もうひとつは観葉植物のモンステラとパイナップルの実がモチーフだ。

 いずれも縦四十六センチ、横幅百六十センチ。人の背丈ほどの大きな壁掛け。「ハワイの別荘向けに」と、東京在住の米国人と日本人の夫婦から注文を受けた。これまで手掛けてきた大黒天の座像やフクロウの置物とはだいぶ趣が異なる。

 「今回の壁掛けは洋間に飾るということもあり、デザインを工夫してみた。こうした作品がこれからのニーズなのかも」。宮本さんは確かな手応えを感じ取った。

 宮本さんが彫刻に関心を持ったのは中学生のとき。テレビ番組で彫刻家高村光太郎の作品「鯰(なまず)」を目にしたのがきっかけだ。「表情がとってもいきいきしている」。将来に向けた明確な目標を決められなかった宮本さんの頭に、彫刻師の道が浮かんだ。

 インターネットで情報を収集し、高校卒業後に富山県南砺市の彫刻師野村清宝さんに弟子入りした。南砺市は精緻な作風で名高い「井波彫刻」のお膝元。そこかしこが彫刻作品に彩られた工芸の町だ。六年間、師匠方に住み込み修業に打ち込んだ。「とにかく経験を積むよう諭された」。独立したのは二〇一一年のことだ。

 木彫はさまざまな工程の積み重ねだ。図案や寸法を決めて、糸のこぎりで大まかな形を切り抜く。のみで形を整えて、小道具や彫刻刀で仕上げる。途中、何度も木を乾燥させる必要があり、数年がかりで取り組む作品もある。

 注文の多くはインターネット経由だ。住宅事情を反映してか、かもいを飾る「欄間」は減り、ウサギやネコの置物や植物のレリーフなどが好まれる。依頼主は主に関東から九州まで。東日本大震災の津波で流されたとして、宮城県の寺からはりを飾る作品のオーダーを受けたこともある。

 宮本さんがいま気に掛けているのは、木彫技術の担い手が少なくなっていること。弟子入りする若者が減っているほか、せっかく独立しても彫刻を断念してしまう人もいる。自ら若手を育成したいとの思いも募る。

 「後継者が少なくなっているからこそ、魅力的な作品が必要。大きな壁掛けや洋風の洒脱(しゃだつ)なデザインなど、いろいろと挑戦していきたい」と見通しを語る。 (出来田敬司)

<みやもと・ゆうた> 小鹿野町生まれ。町立長若中を経て、県立秩父農工科学高電子機械科卒。富山県南砺市の彫刻師野村清宝さんのもとで木彫を習得する。2011年から小鹿野町内で「宮本彫刻」を主宰し、欄間、壁掛け、祭礼用品などを手掛ける。問い合わせ先は宮本彫刻=電0494(75)2276=へ。


現代の若手木彫家の紹介です。なんとまあ、この世界に入ったきっかけが、中学生の時に光太郎の木彫「鯰」をテレビ番組で見たことだそうで、驚きです。

現在30歳の方が中学生だったときで、光太郎の木彫「鯰」……おそらく、テレビ東京さん系の長寿番組「美の巨人たち」でしょう。平成13年(2001)の7月21日に、「鯰」がメインで取り上げられました。

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この番組では、光太郎をメインに扱ったのは3回あり、その最初のものでした(ブロンズ「手」が平成19年=2007、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が平成23年=2011)。

光太郎の簡単な評伝的部分もありました。海外留学でロダンをはじめとする「本物」を見てしまったがゆえの、父・高村光雲との葛藤……。

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幼い頃から光雲に叩き込まれた木彫と、西洋で学んだ塑像彫刻のエスキスとの融合をはからんとする苦闘。その中で「鯰」が生まれたこと、そのために智恵子との生活が犠牲にされたことなど。

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放映当時、神奈川県立近代美術館長だった酒井忠康氏、平成26年(2014)に亡くなった、故・髙村規氏などもコメンテーターとしてご出演なさっていました。

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久しぶりに録画を見返してみましたが、いい作りでした。それにしても、これを見て彫刻家を志した方がいらっしゃるとは、少し驚きました。昨日のこのブログで、昔の美術家の卵は、光太郎編訳の『ロダンの言葉』を読んで美術家を志したと書きましたが、現代は美術番組を見て、というのがあるのですね。当方も時折テレビの仕事のお手伝いをさせていただいていますが、責任重大だな、と思いました。

それにしても、記事にある宮本さん、注文の多くはネット経由だそうで、こういうところにも時代の変化を感じます。

今後とも、光太郎の魂を受け継いでのさらなるご活躍を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て 一片の弧線をも見落さないやうに写生する このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝国資本主義発展の全実歴を記録する 九十一歳の鯰よ わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ

詩「似顔」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

ここにも「鯰」が登場しますが、ここで作っているのは魚の鯰ではなく、鯰のようにグロテスクな人物――戊申戦役の頃から薩長に取り入って財をなし、大倉財閥を興した大倉喜八郎――の肖像です。少し前のこのコーナーで、大正11年(1922)の「信濃川朝鮮人虐殺事件」をちらっと紹介しましたが、この事件の加害者も被害者も大倉組の関係者でした。この時期、プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い位置にいた光太郎にとって、大倉などは不倶戴天の敵です。

それがどうして肖像彫刻を作るはめになったかというと、間に光雲が介在しています。大倉は自身と妻の肖像彫刻を光雲に依頼したのですが、光雲は肖像彫刻をやや苦手としていました。そこで、他にも法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもそうでしたが、まず粘土で光太郎が原型を制作、光雲がそれを元に木で彫るという方式を採っていました。

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左が光太郎の原型から取ったブロンズ、右が光雲の彫った木彫の大倉像です。

光雲の手にかかると、ロダンから学んだ光太郎の荒々しいタッチも影を潜め、大倉の表情も好々爺然としてしまっていますね。まさしく今大流行の「忖度」です(笑)。

光太郎としては、それがまた気に入りません。しかし、光雲の下職仕事は大切な収入源でもあり、廻してくれる光雲の親心も痛いほどわかります。

生きていくことのつらさがにじみ出ているエピソードですね。

信州安曇野の碌山美術館さんでの展示情報です。

夏季企画展示 高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎

期 日 : 2017年7月1日(土)~9月3日(日) 無休
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1 第二展示棟
時 間 : AM9:00~PM5:10
料 金 : 大人 700円(600円)  高校生 300円(250円) 小中学生 150円(100円)
        ( )内20名以上団体料金 
ホームページ特別割引あり

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日本近代彫刻の先駆・荻原守衛(碌山 1879-1910)が師と仰いだオーギュスト・ロダン(1840-1917)の歿後100年にあたり、高村光太郎編訳 『ロダンの言葉』 (1916年刊)を紹介する企画展を開催いたします。
書籍『ロダンの言葉』は、ロダンに関するさまざまな外国語文献を高村が翻訳・編集したものです。通常ありがちな芸術家の伝記ではなく、ロダンが芸術について話した言葉を集めたもので、意味深い名言にあふれています。「地上はすべて美しい、汝等はすべて美しい」「宗教なしには、芸術なしには、自然に対する愛なしには-此の三つの言葉は私にとつて同意味であるが-人間は退屈で死ぬだらう」「彫刻に独創はいらない、生命がいる」等々。これらは、芸術の真髄を言い得た金言であり、読む者の心をふるわせずにはおきません。『ロダンの言葉』を読んで、その感動から彫刻を志した者も少なくなかったといいます。刊行以来100年の月日を経ても今なお、芸術を見る者、考える者にとって、味わい深く、示唆に富む、大変魅力的な著作です。これを機に、一人でも多くの方が、ロダンの芸術館にふれるとともに、芸術とりわけ彫刻への理解を深めていただくことを願って本企画展を開催いたします。

展示書籍
Auguste Rodin,Les Catbédrales de Frame, Librairie Annand Colin,Paris,1914. / L'Art,Entretlens Rénnis par Paul Gsell,Bernard Êditeur,Paris,1911 / Camille Mauclair,Auguste Rodin,The Man-His Ideas-His works,trans.by Clementina Black, Duckworth and Co., London,1905 他

展示作家
 高村光太郎《腕》 戸張孤雁《男の胴》 中原悌二郎《老人》 荻原守衛(碌山)《坑夫》(石膏複製)
 カミーユ・クローデル《ロダン》 オーギュスト・ロダン《鼻欠けの男》(石膏複製) 他


同館では、昨夏、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」を開催して下さいまして、当方、関連行事としての講演を務めさせていただきました。今回は「特別」がつかない企画展で、会場も第二展示棟のみ、昨年のものよりはこぢんまりと開催されます。関連行事、図録の発行もないようです。

光太郎とロダンがらみの資料で、展示にお貸しできるものをリストアップして同館に送りました。初版の『ロダンの言葉』正続(大正5年=1916、同9年=1920)、普及版の『ロダンの言葉』正続(昭和12年=1937の最終版)、評伝『ロダン』(昭和2年=1927)などなど。

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ところが、そのあたりの光太郎生前のものは館で所蔵しているため不要、逆に新しめのものを貸してくれとのことで、昭和34年(1959)の新潮文庫版『ロダンの言葉』正続、平成17年(2005)の沖積舎復刻正続合本『ロダンの言葉』、同19年(2007)の講談社文芸文庫版『ロダンの言葉』をお貸ししました。

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調べてみましたところ、新潮文庫版はもとより、平成の沖積舎版、講談社文芸文庫版すら既に絶版になっています。他に岩波文庫でも『ロダンの言葉抄』(初版・昭和35年=1960)が出ていましたが、そちらも版を断っています。

ということは、『ロダンの言葉』を入手したければ、もはや古書で購入するしかないわけで、なんだかなぁ、という感じです。昔の美術家の卵にはバイブルに等しい扱い、美術史上の金字塔的著作だったのですが、昨今の美大生などはもしかすると、「『ロダンの言葉』? 何、それ?」という状態なのかも知れません。

そういうわけで、とりわけ若い世代の方々にご覧頂きたいものです。

始まりましたらなるべく早く行って、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

方式は簡単すぎて児戯に類する

詩「一艘の船が二艘になること」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

ロダンの芸術なども、「自然」に学ぶ抽象無視、という意味では、簡単すぎる方式です。しかし、ひねりにひねったり、やかましい様式の約束事に縛られたりで、かえって自然から離れ、生命観を喪失してしまっていた当時の芸術界においては、ロダン芸術の出現は、ある意味革命的でした。

その魂を受け継いだ光太郎や碌山荻原守衛、そしてさらに彼らの系譜を受け継いだ後身の作家たち。やはりそういう流れを理解することも大切だと思います。

今月はじめのこのブログで、光太郎の父・高村光雲が明治33年(1900)に制作し、太平洋戦争中の金属供出で無くなり、一昨年再建された静岡県袋井市の寺院「可睡斎(かすいさい)」の境内に建つ「活人剣の碑」に関して、その由来などを描いた紙芝居が出来たという報道をご紹介しました。

他の方のブログで情報を得ましたが、それに伴い、袋井市さんの市役所2階・市民ギャラリーで、その紙芝居原画展が始まっています。20日(火)までだそうです。

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YouTubeに動画もアップされていました。


「YUKIKO」さんは、本名・鈴木幸子さん。

さらに袋井市さんのHPを調べてみましたところ、紙芝居「活人剣の物語」PDF版(PDF:1.6MB) ということで、全篇を見ることが出来るようになっていました。

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光雲作の初代「活人剣の碑」竣工の様子。光雲の名も出して下さっています。

ところが、金属供出で、台座のみになり、訪れる人もいなくなってしまったよ……的な場面。

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しかし、一昨年、地域に眠る日中友好の遺産に再び光を当てるべく、地元の人々の熱意で再建されました、というわけで……。

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碑の再建、紙芝居による啓蒙、その展示、こうした地味ながら地域の宝に光を当てる活動には、頭が下がります。

そして、金属供出などという馬鹿げた事態が起こらない、平和な世の中が続くことを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

どんな豪雨や、 どんな突風にも、この消えずの火をまもつて、ぎつしり築いた、肉の歴史を未来に手渡す者は、 倒れる事によつてさへ罅隙をうづめる。
詩「消えずの火」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

この時期の光太郎同様、アナキストやプロレタリア文学者たちに近い位置にいた詩人・生田春月の追悼詞華集『海図』に寄せた詩です。

生田はさまざまな社会矛盾がアナーキズムやマルキシズムによって解決できないことから、次第に虚無思想的な方向に進み、この年、投身自殺を遂げました。一説には、同年だった芥川龍之介の自裁にも強い影響を受けたといいます。

倒れる事によつてさへ罅隙をうづめる」、つまり、生田の死を賭しての問題提起を無駄にするな、ということになりましょう。「罅隙」は「かげき」と読み、「裂け目、割れ目、亀裂」の意です。

光太郎の父・高村光雲に関わりそうな企画展示です。

台東区博物館ことはじめ

期 日 : 2017年6月16日(金)~9月20日(水)
時 間 : 月から土曜日まで 午前9時から午後8時まで
         日曜・祝日 午前9時から午後5時まで
            台東区西浅草3丁目25番16号 台東区生涯学習センター2階
料 金 : 無料
休館日 : 第3木曜日(祝日の場合は開館し直後の平日を休館)

 本企画展は、台東区発足70周年を記念して台東区の博物館をとりあげます。江戸時代の薬品会や物産会を源流とした博覧会の歴史、そして上野公園に誕生した黎明期の博物館の歴史をひもときます。
 あわせて台東区芸術文化財団が運営する一葉記念館、下町風俗資料館、朝倉彫塑館、書道博物館、旧東京音楽学校奏楽堂の写真を紹介します。

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関連行事 

トーク・イベント「台東区の博物館」 

日   時  平成29年7月8日(土曜日) 14時から16時まで
場   所  台東区生涯学習センター3階 301研修室
定   員  50名(応募多数の場合は抽選)
参加費  無料

1 「江戸の物産会から明治の博覧会へ」
   平野恵(台東区立中央図書館郷土・資料調査室専門員)
2 「台東区の博物館―朝倉彫塑館を中心に―」 戸張泰子(朝倉彫塑館研究員)

 申込方法
 (1)はがきによる申込
  往復はがき(一人一枚)に「トーク・イベント」と明記し、氏名・住所・電話番号を記入
  の上、以下の宛て先に
郵送してください。
  締め切りは、平成29年6月28日(水曜日)17時必着です。
  〒111-8621 台東区西浅草3丁目25番16号 台東区立中央図書館郷土担当  
 (2)電子申請による申込
  以下の電子申請フォームからお申し込みください。
  外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。
  http://www.shinsei.elg-front.jp/tokyo/navi/procInfo.do?govCode=13106&acs=tosho
  申込期限は、平成29年6月28日(水曜日)17時です。
 

専門員によるギャラリー・トーク

 展示品の見どころを直接展示会場で解説します。
  日時 平成29年8月6日(日曜日)16時15分から17時まで
  場所 台東区立中央図書館2階 郷土・資料調査室
  
定員 先着20名
  申込 来館又は電話 03-5246-5911

専門員によるスライド・トーク

 展示品の見どころをスライドで解説します。
 日時 平成29年9月14日(木曜日)13時30分から14時まで
 場所 台東区生涯学習センター5階 504教育研修室
 定員 先着50名 申込 不要

もともと一介の仏師に過ぎず、しかも明治初めにはいわゆる廃仏毀釈のあおりで注文が激減、洋傘の柄や、陶器の灰皿の木型、はては縁起物の熊手まで作って糊口をしのいでいた光雲が、当代一流の彫刻家とみなされ、東京美術学校教授、帝室技芸員にまで上り詰める端緒となったのが、明治10年(1877)に開催された第一回内国勧業博覧会でした。光雲は師・高村東雲の代作で「白衣観音像」を制作し出品、みごと一等龍紋章を受賞して一躍有名になったのです。

第二回内国勧業博覧会は、同14年(1881)、光太郎の生まれる二年前です。この際にも光雲は「龍王像」を出品しました。第三回は同23年(1890年)。この回から光雲は審査員を拝命しています。ここまでの会場は、上野公園の特設会場。第四回(同28年=1895年)は京都、第五回(同36年=1903)が大阪での開催となり、それでその歴史の幕を閉じました。

いっぽう、明治15年(1882)、第二回内国勧業博覧会の会場として建てられた煉瓦造2階建の展示館をメインに、さかのぼる第一回内国勧業博覧会の会場だった建物も使い、東京国立博物館が誕生しました。組織自体はもっと前からあったのですが、実質的なスタートはこの年です。

003今回の企画展、このあたりに関わる展示が為されるようです。上記チラシ表面で使われているのは、第二回内国勧業博覧会の会場を描いた錦絵(右の画像)です。裏面にも別の錦絵が掲載されています。

その後も光雲が出品した種々の展覧会などで、上野を会場としたものが少なからずあったと思われます。

ついでにいうなら、光太郎の展覧会出品歴も、はじめの頃はすべて上野でした。

明治33年(1900)、彫塑会第一回展覧会が上野公園竹の台陳列館五号館で開かれ、塑像「観月」を出品。翌年には同展の第二回で東京美術学校校友会倶楽部が会場、出品作は石膏レリーフ「仙」「まぼろし」。さらに同35年(1902)で、東京美術学校を会場に、塑像「獅子吼」を出品した同校生徒成績品展覧会。そして欧米留学に出る前年の同38年(1905)には、第一回彫塑同窓会展。会場は上野公園竹の台陳列館五号館、出品作は「薄命児」と「解剖台上の紅葉山人」でした。

ただし、今回の企画展のコンセプトからすると、時代が少し下るようです。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

あいにくながら今は誰でも口に蓋する里のならひだ

詩「上州川古「さくさん」風景」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

過日ご紹介した「上州湯檜曾風景」と対を為す詩です。やはり上州山奥の、こちらは木酢工場を舞台とし、こき使われ、旅人=光太郎に人恋しさをつのらせる労働者をモチーフとしています。

前年には我が国初の普通選挙が実施されましたが、社会主義、共産主義、無政府主義の台頭に危機感を抱いた田中義一内閣は、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行い、日本共産党、労働農民党などの関係者約1600人が検挙されました。いわゆる三・一五事件です。これに抗議する小説『一九二八年三月十五日』を書いた小林多喜二は、これにより特高警察の逆鱗に触れ、昭和8年(1933)、拷問の末、虐殺されました。

光太郎の周辺でも、光太郎を敬愛していた彫刻家・高田博厚が、共産党員をかくまったかどで警察に留置されたのも、昭和3年(1928)のことでした。昭和3年といえば、治安維持法違反の最高刑が死刑に改悪された年でもあります。この後の泥沼の15年戦争へと向かう一つの転換点だった、非常にきな臭い時期だったわけですね。

しかし、本当に恐ろしいのは、為政者や軍の暴走ではなく、それを容認していた多数の一般国民の存在です。現今の我が国の情勢と非常によく似ていますね。さまざまな疑惑の当事者は「口に蓋」し、勇気を持って上げた声は黙殺され、あまっさえ見せしめの人格攻撃。そしてあったことがなかったことになる……。

こういうことを書いていると「テロ等準備罪」でひっくくられる、そういう世の中になってしまうのでしょうか?

光太郎の父・高村光雲がらみの報道です。『毎日新聞』さんの静岡版から。 

活人剣の碑 紙芝居に 地元有志ら、小中学校へ贈呈 袋井 /静岡

 袋井市久能の寺院「可睡斎(か000すいさい)」の境内に再建された「活人剣の碑」の由来などを子どもたちに伝えようと、地元有志らで作る再建委員会による紙芝居「活人剣の物語」が完成した。100セットを目標に製作し、市内の小中学校などに贈る。 
 20枚で構成。絵は個展開催歴もあるアマチュア画家で同市堀越の鈴木幸子さん(73)、文章は委員会メンバーがそれぞれ担当した。
 彫刻家の高村光雲作の初代の碑は、日清戦争(1894~95年)の講和交渉で来日した清国全権大使の李鴻章と、主治医を務めた旧陸軍軍医総監の佐藤進の交友の証しとして、1900(明治33)年に境内に建立された。医師の佐藤が軍刀を身に着けている理由を尋ねた李に、「私の剣は活人剣」と答えたことが碑名の由来という。
 しかし、第二次大戦中の金属供出で刀身部分がなくなり、台座だけとなっていた。このため、同寺や市民団体が復活に乗り出し、金属工芸家の宮田亮平氏が2代目を制作。2015年、別の場所に完成した。
 鈴木さんは「古い碑のあった場所にも行き、歴史を思い浮かべて一枚一枚丁寧に描きました」と言う。同寺の佐瀬道淳斎主(84)は「平和を願う碑ということを伝えたい」と話した。
 委員会は同じ内容の絵本を1000部作り、県内の図書館などに配る予定だ。【舟津進】


 「活人剣の碑」。記事にあるとお001、り明治期に光雲作の原型から鋳造されて可睡斎さんに据えられましたが、戦時中の金属供出で無くなってしまっていました。平成27年(2015)に、地元の方々の熱意で、初代の碑に似せて再建、その際の報道を、このブログでご紹介しています。


そこから碑の由来についての部分をコピペします。元ネタは『産経新聞』さんの静岡版。

 日清戦争の講和条約の交渉が下関で行われていた明治28(1895)年3月、清国全権大使の李鴻章が暴漢にピストルで襲われ、左目を負傷する事件が発生。陸軍軍医総監の佐藤進は、明治天皇の勅命を受けて李の治療に当たった。治療を通じて佐藤と交友を深めていた李が、常に軍服帯刀姿で治療する佐藤に「戦い方を知っているのか」と戯れかけると、佐藤は「私が手にする刀は殺人刀ではなく、活人刀だ」と即答。李はこの返答に感じ入り、別れに際して清の光緒帝からの褒章を約する詩を佐藤に贈った。
 
  李と佐藤の交友は、「活人刀」の問答として新聞紙上で大いに評判を呼んだ。佐藤が参禅していた縁もあり、可睡斎の日置黙仙斎主(当時)は「この話を長く後世に伝えたい」と発願。敵も味方もともに平等であるという「冤親(おんしん)平等」の思想のもとに浄財を募り、明治31年ごろに日清両国の戦没者の霊を弔う活人剣碑を建立した。

さらに、やはり『毎日新聞』さんの静岡版。

 地元有志でつくる「袋井まちそだての会」(遠藤亮平代表)や可睡斎、佐藤が第3代理事長を務めた学校法人順天堂(東京)は地域に眠る遺産に再び光を当てるべく、数年前から再建に向けた協議を進めてきた。遠藤代表(66)は「(碑は)歴史を振り返るよすが。日中友好や平和のシンボルにもなるはず」と期待を込める。

そういうわけで、碑が再建されました。

そしてこのたび、上記の由来を地元の子供たちにもっと知ってもらおうと、紙芝居が作成されたというわけです。この手の碑は建てて建てっぱなし、建てられて数年も経つとその存在すら忘れられてしむというものも少なくない中、こうした取り組みには頭が下がります。

特に中国や韓国との関係がぎくしゃくしている現在こそ、こういうことが必要でしょう。


ところで、以前の記事が出たあと、可睡斎さん002について調べていましたら、初代高村晴雲作の仏像がいらっしゃることがわかりました。晴雲は、光雲の師・高村東雲の孫。明治26年(1893)の生まれで、光雲に学びました。10歳年長の光太郎とも交流があり、戦後は花巻郊外太田村に隠棲していた光太郎の元を訪れたりもしています。その際に贈られた晴雲作の観音像が、花巻高村光太郎記念館さんに所蔵されています。

可睡斎さんでは、「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)像」。なんとトイレに安置されています。トイレといっても、「東司(とうす)」という独立した堂宇で、烏枢沙摩明王は「烈火で不浄を清浄とする力を持つ」とされることから、東司の守護神として鎮座ましましているわけです。

像高3メートルの巨大な木彫で、お参りされる方は一様に驚きの声をあげられるそうです。

当方、可睡斎さんにはまだ足を運んだことがありません。折を見て参拝したいと存じます。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

又買ひ出されて来た一団の人夫。 おれの朴歯が縦に割れて、 二千の軀(むくろ)の上に十里の山道がまつ青だ。

詩「上州湯檜曾風景」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

「湯檜曾」は現在の群馬県利根郡みなかみ町。温泉地です。光太郎がここを訪れた際、上越線の清水トンネルの掘削工事が行われているところでした。竣工は2年後です。

「買ひ出されて来た一団の人夫」は、詩の前半に「二千人の朝鮮人」と記されています。この頃、半島の人々を強制連行しての工事が日本各地で行われていました。清水トンエルの工事自体はそれほどの難工事ではなかったようですが、東海道線の丹那トンネルの工事では、延べ 250 万人が動員され朝鮮人7名を含め67人が犠牲になったとか、湯檜曾にほど近い中津川第一発電所の建設工事では逃亡を試みた数十人の朝鮮人労働者たちが射殺されたり、セメント漬けにされて信濃川に投げ込まれたりした「信濃川朝鮮人虐殺事件」も知られています。

こうした事象を背景に、光太郎、思うところがあったのでしょう。詩「上州湯檜曾風景」が作られました。

いわゆる自称「愛国者」のゲスどもは、こうした事件も捏造だ、と言い張るのでしょうか。何かというと「中韓は……」「在日は……」とほざく輩こそ、可睡斎さん「活人の碑」の精神に学びなさい、と言いたいところです。

自主制作のDVDをいただきました。題して「小さなパラダイス 昔の大井町あたり」。

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制作は、品川ご在住の石井彰英(しょうえい)氏。ミュージシャンにしてジオラマ作家の方です。当方、存じ上げない方でしたが、このブログをご覧になられたようで、ご連絡をいただきました。

失礼ながらネットで調べさせていただいたところ、江ノ電さんのサイトに氏のジオラマに関する記述がありました。引用させていただきます。

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平成20年11月20日(木)より江ノ島駅1番線(藤沢行きホーム)の展示室に1/150サイズ(Nゲージ)のジオラマを公開しております。
このジオラマは、平成10年11月11日に当社が当時闘病生活にあった新田朋宏くんの「江ノ電の運転士になりたい」という夢の実現をお手伝いしたご縁で、朋宏くんのお父さん新田和久さんのご友人でおられる石井彰英さんからご寄贈いただいたものです。
寄贈先を探していた石井さんが当社への寄贈を決められたのは、「息子をジオラマの運転士にして欲しい」と熱望された新田さんの優しさに感動して、「ジオラマは朋宏くんが愛した江ノ電の利用者に見ていただくのが一番」とお考えになられたからです。

なお、まことに残念ながら新田朋宏くんは平成10年11月15日に亡くなられましたが、ジオラマ上を走る江ノ電の運転士としてこれからもご活躍されることでしょう。
ジオラマはボタン式になっており、1回押すとミニ江ノ電が1分20秒走行します。
江ノ島に来られましたら、どうぞ江ノ電の江ノ島駅展示室にお越し下さい。


この件、そういえばそういうことがあったと、記憶に残っていました。さらに調べると、当時のニュースがヒットしました。 

運転士の夢、天国でかなえて…16歳で亡くなった少年に江ノ電から辞令交付

 「江ノ電の運転士になりた000い」。そんな夢を抱きながら1998年に先天性の拡張型心筋症で亡くなった新田朋宏さん=当時(16)=に、江ノ島電鉄(神奈川県藤沢市)の深谷研二社長が22日、江ノ島駅で運転士の「辞令」を発令、父親の会社員和久さん(56)=東京都大田区=に手渡した。
 朋宏さんの遺影を首から提げて参加した新田さんは「息子の夢がかない、天国で喜んでくれていると思う。(天国に)辞令を届けたい」と笑顔で話した。
 新田さんは、幼いころから鉄道ファンだった朋宏さんを連れて家族でよく江ノ電に乗車。朋宏さんは、海岸沿いや町中を縫うように走る江ノ電に魅せられ、運転士への夢を膨らませたという。
 同じ心臓病で91年に妻も亡くしたが、新田さんは「息子の夢をかなえてあげたい」と江ノ電に要望。98年11月に江ノ電の計らいで朋宏さんが運転席に。コントロールレバーに触れ、つかの間の「運転士」気分を楽しんだ。だが4日後に朋宏さんは帰らぬ人に。
 22日の「辞令」交付式では、新田さんの知人で塾講師石井彰英さん(53)=東京都品川区=が作った江ノ電の模型(ジオラマ)の「発車式」も実施。畳1畳ほどのジオラマには、新田さん家族も楽しんだ沿線風景が再現されており、石井さんが新田さんに相談して11月に寄贈した。
(共同通信 2008/12/22)


また、石井氏、北鎌倉の町並みのジオラマなども制作され、そして最新作が氏の生まれ故郷・大井町。大井町といえば、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院のあったところで、同院のジオラマも制作、DVDでは2分弱、映し出され、光太郎智恵子にも触れて下さいました。

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以前にもご紹介しましたが、ゼームス坂病院は、大正12年(1923)の創立。院長で智恵子の診察にあたった斎藤玉男は東京帝国医科大学を卒え、大正3年(1914)から翌年にかけ、ドイツ、アメリカに留学し、日本医科大学教授を経て、同院を開設しました。「学者としても一流で、人柄も温厚篤実の士として知られ、病院経営や精神衛生の制度面などから、多角的に積極的に発言」(『東京の市立精神病院史』昭和53年=1978、東京精神病院協会)したそうです。

昭和20年(1945)には、東芝大井病院と改称、心療内科は無くなりました。さらに同39年(1964)に東大井に移転し、現在の東芝中央病院に移行します。跡地には光太郎詩「レモン哀歌」を刻んだ詩碑が建てられています。

さて、ジオラマ。石井氏の幼少のみぎり、昭和30から40年ごろという設定だそうで、病院名は大井病院となっています。実際、この建物をご覧になっていたのですね。ある意味、うらやましいところです。

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「高村光太郎さん 高村智恵子さんに捧ぐ」というテロップもつけて下さいました。ありがとうございます。

エンドロールの部分には、メイキング的な映像や、病院跡地の「レモン哀歌」碑も。

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その他の部分も含め、あたたかみのあるジオラマに感心いたしました。緻密さを追究するあまり、無機質・非人間的な作も目にしますが、それと正反対に人々の息づかいまで聞こえてきそうでした(石井氏曰く「牧歌的」)。また、当方、石井氏より一回りほど後の生まれですが、幼い頃住んでいた東京多摩地区の府中本町駅付近などもあんな感じだったと思いながら、懐かしく拝見しました。南武線も茶色い電車でした。

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なんと、2,000時間を要したそうで、50㌢程度のジオラマ50個ほどで成り立っているとのこと。しかし保管場所が確保できず、撮影しながら破棄したそうです。もったいない気もしますが、仕方がないのでしょう。

DVDに関しては、これまでも石井氏の活動をとりあげたというケーブルテレビ品川さんで紹介されるそうです。また、氏と電話でお話しさせていただきましたが、有効な活用法を模索されているとのこと。

ジオラマ自体もそうですが、ナレーション(ケーブルテレビのアナウンサーさんだそうです)や、BGM(石井氏とそのお仲間たちのオリジナルとのこと)も、あたたかみのあるいいものです。

ご興味を持たれた方、当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


【折々のことば・光太郎】

四月の雨がおれの耳の気圧をかへた おれは少し睡くなつて粘土の馬をこさへてゐる
詩「北島雪山」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎の書き残したものを読んでいると、時折、身体感覚の鋭敏さに驚かされます。木材と同じようにガラスにも縦横の目があるそうで、指の腹で触るとそれがわかるとか……。

この一節も、そうですね。標高の高低やトンネルなどで、気圧の違いを耳で感じることはありますが、天候によってもそれを感じるというのです。鈍感な自分には思いもよりませんでした。

新刊情報です。

片隅の美術と文学の話

2017年4月27日 求龍堂 酒井忠康著 定価2,800円+税

文豪や詩人、画家たちのサイドストーリー
 『鍵のない館長の抽斗』に続くエッセイ集第2弾。
 館長の抽斗奥からさらに出てきた、文学と美術をめぐる32の物語。
 現代日本を代表する美術史家、世田谷美術館館長・酒井忠康の軽妙かつ深い見識によって、近代日本を代表する文豪や詩人、画家たちの精神が映し出され、一筋縄ではいかない強烈な個性の作家たちの生き様が目に浮かぶ。
 「鏑木清方《三遊亭円朝》をめぐる話」…鏑木清方と麻生三郎が、三遊亭円朝を挟み、時空を超えて江戸と昭和を繫ぐ。「川端康成と古賀春江」…川端康成の心を揺らし続けた画家・古賀春江について。「芥川龍之介の河童の絵」…芥川龍之介の人生を写したかのような自身による河童の絵の話。「渋澤龍彦の最後の注文書」…偶然に見せてもらえた、生前最後の本の注文書について等、読み出すと止められない、読書心をくすぐる名エッセイ集。

目次
 Ⅰ文学と美術
  志賀直哉と「美術」
  高村光太郎―パリで秘密にしたもの001
  高村光太郎の留学体験

  鏑木清方《三遊亭円朝》をめぐる話
  谷崎潤一郎の美的側面
  夢二と同時代の美術
  川端康成と古賀春江
  芥川龍之介の河童の絵
  『枕草子』に駆らられた断章
  岡倉天心の『茶の本』―もっもっと深く知りたい日本
  夏目漱石の美術批評「文展と芸術」
  時代をとらえた眼の人

 Ⅱ詩と絵画
  村山塊多と詩と絵画
  萩原朔太郎の装幀
  西脇順三郎の絵
  幻影の人、西脇順三郎の詩と絵画
   対談 吉増剛造(詩人)×酒井忠康
  「瀧口修造 夢の漂流物」展に寄せて
  文具店の溝口修造
  中島敦と土方久功
  喪失と回生と―保田與重郎
  吉田一穂の書と絵のこと
  高見順と素描
  画人・三好豊一郎002
  画家の詩、詩人の絵
   対談 窪島誠一郎(無言館館長)×酒井忠康
 
 Ⅲ文学散歩
  かまくら文士の片影
  安岡章太郎展の一隅
  近藤啓太郎『大観伝』にまつわる消された話
  渋澤龍彦の最後の注文書
  ある日の磯田光一
  前田愛と小林清親
  ある消息―山田稔著『マビヨン通りの店』
  曠野の一軒家―米村晃太郎と神田日勝
  再会の夜の雪道―加藤多一

 Ⅳ描かれたものがたり
  美術と文学の共演

 あとがき


世田谷美術館館長の酒井忠康氏による、雑誌、展覧会図録などに発表された散文、対談を集めたものです。

第一章で、「高村光太郎―パリで秘密にしたもの」「高村光太郎の留学体験」の2編が配されているほか、光太郎と交流のあった人物をメインにした項などでも、光太郎に触れる箇所があります。村山槐多の項、平塚市美術館さんから全国を巡回した「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」展図録に掲載された、窪島誠一郎氏との対談など。

その他、光太郎には触れられないものの、やはり交流のあった人物が多く取り上げられており、興味深く拝読しております。志賀直哉、岡倉天心、夏目漱石、萩原朔太郎、土方久功、高見順などなど。

酒井氏のご著作、昨秋にはみすず書房さんから、『芸術の海をゆく人 回想の土方定一』が刊行され、やはり光太郎にも触れられています。あわせてお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

なにがし九段のさす駒は 見えない造化の絲を持つ。 飛車、角、金、銀、 桂馬の道化にいたるまで、 うてば響いて自然とはたらき 寄せればかへし、 ちればあつまり、 波のやうでもあり、雲のやうでもあり、 はつきりは誰も知らぬ深いところから ただなごやかに動いてゐる。

詩「なにがし九段」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

珍しく、将棋を題材にしています。「なにがし九段」は十三世名人・關根金次郎。慶応年間の生まれですので、この頃は大御所の域に達しています。

その名人の駒の動きに「美」を見いだす光太郎。視覚的な造形美というより、一定の秩序や理法にのっとり、なおかつ意外性も持ち合わせた「見えない造化の絲」を讃えているのでしょう。

同じように「見えない造化の絲」を持つものへの賛美は、多方面にわたります。詩歌における言葉の用法もそうですし、音楽や、アスリートのファインプレイ、はたまた能楽師の動きなどにもそれを見いだしています。深く「美」を感じ得る魂には、そこかしこに「美」が感じられるのですね。そういう感性、見習いたいものです。

将棋と言えば、昨今、14歳プロ棋士・藤井聡太四段の快進撃が話題になっています。大御所とはまたひと味違う駒運び、光太郎が見たらどう表現するかと、興味深いところです。

まずはすでに始まっている展覧会の情報から。

コレクション選 新収蔵品展 ひびき合うコレクション【前期】

会 期 : 2017年4月8日(土)~5月28日(日)
会 場 : 札幌芸術の森美術館 札幌市南区芸術の森2丁目75番地
時 間 : 9:45~17:00
料 金 : 無料
休館日 : 月曜日

 札幌芸術の森美術館では、1990年の開館以来、寄贈や購入を通じてコレクションを着実に充実させ、現在では1,551点の作品を所蔵するにいたっています。そのコレクションをふりかえれば、彫刻、油彩、日本画、水彩、素描、版画、写真、工芸、写真、部族芸術と幅広いジャンルの作品を収集しています。なかでも、日本の近代彫刻をたどることのできる彫刻のコレクション、そして札幌出身の個人コレクターの寄贈による北海道絵画史を一望できるコレクションは特筆に値します。こうしたコレクションは、絶え間ない作品収集によって形作られています。美術館にとってコレクションはかけがえのない基礎資源であり、また美術館の歴史はコレクションを形成してきた歴史であるともいえるでしょう。
 
 これまで「札幌芸術の森美術館コレクション選」では、当館が収蔵する作品を継続的にご紹介してきましたが、その一方で、近年収蔵された作品をまとめて展示する機会はほとんどありませんでした。本展では、近年新しく収蔵された作品を中心に、また、師と弟子、盟友との切磋琢磨などが感じられる新収蔵作品とつながりの深い既存の収蔵作品とあわせて展示いたします。コレクションの共演をお楽しみください。

【出品作品】
 1. 鈴木武右衛門《シルバーペンダントのAisha》 砂岩、赤御影石、銀 2011年
 2. 佐藤忠良《智恵子抄のオリエ》 ブロンズ 1971年 [既収蔵作品]
 3. 笠井誠一《ボトルとミルク缶のある風景》 油彩、キャンヴァス 2012年
 4. 笠井誠一《ふいごのある卓上静物》 油彩、キャンヴァス 2008年
 5. 吉田芳夫《演技者Y(本田明二氏)》 ブロンズ 1982年
 6. 本田明二《けものを背負う男》 木(カツラ) 1982年 [既収蔵作品]
 7. 阿部国利《体内のリズム》 水彩、素描 2002年
 8. 阿部国利《崩壊するマスク》 油彩、キャンヴァス 1995年
 9. 矢崎勝美《愛のシリーズ2》 シルクスクリーン、オフセット、手彩色(吹付) 1972年
 10.矢崎勝美《愛のシリーズ3》 シルクスクリーン、オフセット、手彩色(吹付) 1972年


館蔵品のコレクション展です。収蔵品が多い館では、こういった形でローテーション的に展示品の入れ替えを行うことがよくあります。同館では光太郎の「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)、「裸婦坐像」(大正6年=1917)を所蔵しており、それらもこうした形で出す機会があるのだと思われます。

今回、当方の注目は、光太郎を敬愛していた彫刻家、佐藤忠良の「智恵子抄のオリエ」。

「オリエ」は佐藤の息女で、女優の佐藤オリエさんです。佐藤はたびたびオリエさんをモデルに彫刻を制作していました。


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左はずばり「オリエ」(昭和24年=1949)、右は「冬のオリエ」(同41年=1966)。

「智恵子抄の」というのは、昭和45年(1970)に、TBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、オリエさんが智恵子役を演じたためです。ちなみに光太郎役は故・木村功さんでした。

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佐藤としては、自分が敬愛していた光太郎の妻をお嬢さんが演じたということで、感慨深いものがあったのではないでしょうか。

首都圏であれば観に行きたいところですが……。


美術館がらみでもう一点。光太郎の親友だった碌山荻原守衛を偲ぶ会です。 

第107回碌山忌 

期 日 : 2017年4月22日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 10:30~
料 金 : 無料 (18:00からの「碌山を偲ぶ会」のみ参加費1,000円)
日 程 :
 10:30~     ミュージアム・トーク(碌山館)
 11:00~     墓参
 13:00~     ミュージアム・トーク(企画展・第二展示棟) 
 13:30~15:00 碌山忌コンサート(グズベリーハウス)
 15:30~17:15 研究発表フォーラム・ディスカッション 
          「荻原守衛-ロダン訪問の全容とロダニズムの展開-」(杜江館)
 18:00~     碌山を偲ぶ会(グズベリーハウス)

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昨年、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」を開催してくださり、関連行事の講演会では当方に講師を務めさせてくださった碌山美術館さんの主催行事です。

毎年行っていたのですが、昨年は地域の会議と重なってしまい、欠礼。今年からまたお邪魔いたします。同館では、7/1(土)~9/3(日)には、夏期特別展「『ロダンの言葉』編訳と高村光太郎」、12/2(土)に美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」を開催してくださいますので、情報収集もかねていって参ります。

また、ネット上で詳細な情報が出ていないので全容が不明ですが、光太郎とも関わるはずですので、研究発表フォーラム・ディスカッションが非常に興味深く感じております。


それぞれお近くの方、ご都合のつく方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

護る者から詩は逃げて、 振りはらふ者に詩はまつはる。 こんなあまのじやくにはお構無(かまひな)しに、 おれはどしどし道をゆかう。

詩「「詩」」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

後に光太郎は、「詩は日記のようなもの」と発言しています。つまりは原稿用紙に向かって呻吟しながら作るものではなく、自然にできてしまうということでしょう。「振りはらふ者に詩はまつはる。」とは、そうした意味だと思われます。

だからといって、光太郎の詩が稚拙で無技巧というわけでもなく、発表する詩に対しては、かなり推敲を施した跡がみられます。


信州安曇野にある、光太郎の盟友・碌山荻原守衛の個人美術館、碌山美術館さんから、館報第37号が発行されました。

館のご厚意で、4/2の第61回連翹忌にて、ご参会の皆様に無料で配布するため、昨日、当方自宅兼事務所に宅急便でどさっと届きまして、早速拝読。

毎号充実の内容で(今号も全60ページ)、感心しきりなのですが、特に今回は光太郎がらみの記事が多く、ありがたいかぎりでした。

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いきなり表紙が光太郎のブロンズ「薄命児頭部」(明治38年=1905)。同館顧問の仁科惇氏の解説「高村光太郎の詩魂を見る」という解説の短文がついています。

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目玉の記事は、「新資料紹介 荻原守衛書簡発見報告」。学芸員の武井敏氏の筆になります。

昨秋、当方の手元に送られてきた古書店の合同目録に、画家の白瀧幾之助にあてた荻原守衛の書簡が掲載されており、同館に情報を提供したところ、同館で購入の運びとなりました。同時に販売されていた光太郎から白瀧宛の書簡は当方が購入しました。

さらに同館では光太郎、守衛と親しかった戸張孤雁から白瀧宛の書簡も購入、その他、個人や台東区立書道博物館さん蔵の、これまで知られていなかった守衛書簡の情報も得(そちらの情報も一部、当方が提供しました)、それについても記述されています。

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このうち、明治40年(1907)8月2日消印で、パリ在住だった守衛が訪れたロンドンから送られた絵葉書には、光太郎の名も記されていました。当時、光太郎もロンドン在住でしたが、守衛はロンドンに着いたばかりで「高村兄にはまだ会はぬ」としています。この後、二人は再会し、一緒に大英博物館を訪れるなどしています。

また、従来、「碌山」の号の使用は、この年の秋頃からと推定されていたとのことですが、8月の時点で既に使われていたことも判明したそうです。


その他、同館五十嵐久雄館長の「ロダン没後百年に思う」、昨年12月に同館で開催された「美術講座 ストーブを囲んで 「荻原守衛 パリ時代の交友」を語る」の記録でも、光太郎に触れてくださっています。


そして巻末に、昨年8月、同館の夏季特別企画展「高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として行われた、当方の記念講演「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」の筆記録。9ページもいただいてしまいまして、恐縮です。
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筆記録といいながら、実際にはかなり手を入れさせていただきました。というのは、当初、スタッフの方が録音された当方の講演をそのまま文字に起こしたものが送られてきたのですが、読んでみて「こりゃだめだ」(笑)。自分は普段、こんな滅茶苦茶なしゃべり方をしているのか、とショックでした。

とにかく、ずらずらずらずらと区切れが無く、主語述語ははっきりぜず、「てにをは」も滅茶苦茶(笑)。内容的にも、時間配分を誤り、前半はどうでもいいような余談ばかりで、後半に配した本題の「乙女の像」関連が駆け足の消化不良となっていました。

そこで、徹底的に手を入れて、「こういうことをしゃべりたかったんだよ」という形にまとめさせていただきました。


さらに最終ページには、同館の来年度の予定が載っていました。またまた光太郎関連をいろいろ取り上げてくださるとのことで、感謝です。

7/1(土)~9/3(日) 夏期特別展「『ロダンの言葉』編訳と高村光太郎」

12/2(土) 美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」

それぞれまた近くなりましたら詳しくご紹介いたします。


さて、館報第37号、4/2の連翹忌ご参会の方々には、館のご厚意で無料配布いたします。その他の皆様、ご入用とあらば、同館までお問い合わせください。


【折々のことば・光太郎】

雷獣は何処に居る。 雷獣は天に居る。風の生れる処に居る。 山に轟くハツパの音の中に居る。 弾道を描く砲弾の中に居る。 鼠花火の中に居る。 牡丹の中に、柳の中に、薄の中に居る。 若い女の糸切歯のさきに居る。 さうして、どうかすると、 ほんとの詩人の額の皺の中に居る。

詩「雷獣」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

連作詩「猛獣篇」の一編。「雷獣」は落雷とともに現れるという、架空の妖怪です。詩「清廉」では、同じく架空の妖怪「かまいたち」をモチーフとしていましたが、こうしたモンスター系も、光太郎にとっては「猛獣」の範疇に入るものでした。

「牡丹」「柳」「薄(すすき)」は、線香花火の様態変化を表します。その他様々なシチュエーションで、激しく火花や轟音を発する「雷獣」。「ほんとの詩人」でありたい自分の額にもいてほしい、というところでしょうか。

昨日に引き続き、最近入手した古資料等をご紹介します。今回は光太郎の父・高村光雲の関係で。


まず古絵葉書。

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国指定の重要文化財である「老猿」の写真が使われています。キャプションには「東京朝日新聞社主催 明治大正名作展覧会 (猿) 高村光雲氏作」とあります。

調べてみたところ、昭和2年(1927)6月に東京府美術館で開催されたもので、明治大正期の日本画・洋画・彫刻の代表作計460点を集め、会場は連日盛況で総入場者数は17万8千余人を記録、多くの人々に日本の近代美術というものをあらためて認知させることになったとのことです。

おそらくその会場などで販売されていたものと推定され、絵葉書ではありますが、普通に焼き付けされた写真の裏面に絵葉書のフォーマットを印刷したという感じです。作品題が現在使われている「老猿」ではなく、単に「猿」となっている点が興味深いところです。

この点も気になって調べたところ、昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』でも、口絵部分のキャプションが「猿」となっていました。

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しかし、本文では「栃の木で老猿を彫つた話」となっており、「老猿」の語が使われています。ただ、よく読むと、「老猿」の語は作品題というより、モチーフとして年老いた猿を作ったよ、という使い方になっているようです。いつから作品題として「老猿」が定着したのか、興味深いところです。


続いて、雑誌『キング』から。

昨日ご紹介した光太郎の「ある日の日記から」の関係で、その前後にやはり光太郎文筆作品が載ってはいまいかと探したところ、光太郎のものは見つけられませんでしたが、光雲の談話筆記が2点見つかりました。

まず昭和5年(1930)10月の第6巻第10号。「昔の芝居と今日の芝居」という題で2ページの談話が載っています。

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芝居好きだった光雲、当時や少し前の役者についていろいろ述べています。挙がっている名は初代中村吉右衛門(「吉右衛門」と書いて「はりまや」とルビが振られています。粋ですね)、十五代目市村羽左衛門、そして五代目中村歌右衛門。

さらに、昭和8年(1933)2月の第9巻第2号には、「猫の話 鑿の話」という談話も1ページ載っていました。

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猫に関しては、『光雲懐古談』にも載っている、徒弟修業時代に近所の猫の仕業に見せかけて、鰹の刺身をせしめた話、それから現在製本中の『光太郎資料47』に載せた、光雲ゆかりの金龍山大圓寺さんの発行になる『仰高』という冊子でも語られている、「団扇に眠る猫」について。下の写真は光太郎令甥・髙村規氏です。

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それから、木彫用の鑿について。写真が大きく載っており、最近、みすず書房さん刊行の『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』を読んだこともあり、興味深く感じました。

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いずれ、当方編集発行の『光太郎資料』に転載しようと思っております。


【折々のことば・光太郎】

この世では、 見る事が苦しいのだ。 見える事が無残なのだ。 観破するのが危険なのだ。
詩「苛察」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

連作詩「猛獣篇」の一作。上野動物園の大鷲をモチーフとしています。

この時期、さまざまな社会矛盾に目を向けざるを得ず、また、光太郎の元に集った若い詩人たちの影響などもあって、光太郎はアナーキズム系、プロレタリア文学系に近づいていきます。しかし、完全にはその方面には入れずじまい。そのあたりはまた後ほどご紹介します。

一昨日の『朝日新聞』さんの読書面で、みすず書房さん刊行、土田昇氏著『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』が紹介されました。

(書評)『職人の近代 道具鍛冶千代鶴是秀の変容』 土田昇〈著〉

 やわらかにして鋭い。独特の文体は、刃物店の3代目店主として父から聞き知った逸話の下地に、あるスタイルを追求する意志が加わったものだろう。刀工の家に生まれた大工道具鍛冶(かじ)の名工・是秀(これひで)の、デザイン性の高い切出(きりだし)小刀のように。
 大工の繊細な感覚への挑戦、木彫家に彫刻刀を見せ丸一日の対座、と丁々発止の真剣勝負が面白い。名人は名工を理解する。手練(てだ)れあっての道具だ。しかし近代化は職人に、よい仕事ではなく利益追求を求める。弟子たちに起きた悲劇は、職人の倫理と近代化の矛盾の深さを物語っている。
 是秀は近代化を拒否してはいない。師の遺言もあり、日本古来の玉鋼に拘泥せず、素材として優れた洋鋼を用いた。しかし後にデザイン切出をつくったのは、博物館で見たアイヌの「木製のペーパーナイフのような」もの(儀礼具の捧酒箸〈イクパスイ〉か)に触発されて、と語る。実用具と芸術が乖離(かいり)する時代に、彼はあえてオブジェ的な小刀を作製した。
 中村和恵(明治大学教授)

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主要紙の中では、朝日さんがはじめて取り上げたのではないかと思われます。さすがですね。

光太郎と交流があり、その日記にも名が出てくる千代鶴是秀ですが、高村光雲門下で光太郎と親しかった平櫛田中とも接点がありました。朝日さんの書評に「木彫家に彫刻刀を見せ丸一日の対座、と丁々発止の真剣勝負」とあるのがそれです。

同書によれば、おそらく明治末頃、田中が雑誌に「日本の彫刻刃物は切れ味のよいものがなく、自分は西洋の手術用メスを研ぎ直して仕上げに使っている」的な発言を載せたそうです。それを読んだ是秀が激怒、何本かの彫刻刀を作り、田中の元を訪れます。田中は自分の発言による訪問とすぐに察し、無言のまま是秀の目の前で、持ち込まれた彫刻刀を使って木を削っては研ぎ、削っては研ぎ、丸一日、その対峙が続きました。結局、田中はその出来に脱帽、自分の彫刻刀すべてを是秀に作ってほしいと頼みますが、是秀は拒否します。是秀曰く「日本の鍛冶屋が作ったものでも、きちんとしたものがあるということを知ってもらいたかっただけ」。粋といえば粋ですね。


ところで、田中といえば、今週末、テレビ東京系の「美の巨人たち」で、田中の代表作「鏡獅子」が取り上げられます。

美の巨人たち 平櫛田中『鏡獅子』彫刻家の信念と覚悟▽5代目尾上菊之助の思い

テレビ東京 2017年3月25日(土)  22時00分~22時30分
BSジャパン 2017年4月19日(水)  23時00分~23時30分

6代目尾上菊五郎演じる新歌舞伎十八番を捉えた『鏡獅子』。明治・大正・昭和を生き抜いた彫刻界の巨人・平櫛田中が着想から完成までなんと22年をかけたこの作品に迫ります。

6代目尾上菊五郎演じる新歌舞伎十八番[春輿鏡獅子]。今回の作品は、その一場面を捉えた高さ2mの木造彫刻『鏡獅子』。国立劇場のロビーに展示されています。作者は彫刻家・平櫛田中(ひらくしでんちゅう)。今にも動き出さんばかりの躍動感!しかも裸の姿まで彫り上げています。これこそが田中の頂点を極めた作品だといいます。

田中が作品に挑んだのは65歳。完成は22年後。そこまで歳月をかけたのには、彫刻家と歌舞伎俳優の深い絆と信頼が。知られざる『鏡獅子』誕生物語に迫ります。さらに『鏡獅子』を何度も演じている、5代目尾上菊之助が作品と対面。“6代目”を前に感じたその思いを語ります。

ナレーター 小林薫  蒼井優

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右下の画像は、今月12日まで開催されていた小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」会場です。ちなみにこの「鏡獅子」、田中の故郷、岡山県井原市のゆるキャラ「でんちゅうくん」のモチーフにもなっています。

光雲や光太郎、是秀に触れられるといいのですが……。

是非ご覧ください。


【折々のことば・光太郎】

ちきしやう、 造形なんて影がうすいぞ。 友がくれた一束の葱に 俺が感謝するのはその抽象無視だ。
詩「葱」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

木彫で自然物を作ってみても、やはり一束の葱の持つ自然の精巧な造型力にはかなわない、という感懐が吐露されています。光太郎の木彫に関してはそうでもないような気がするのですが……。

昨日は、千葉市の千葉県立美術館さんに行っておりました。

光太郎の実弟にして、鋳金分野で人間国宝に認定された高村豊周の作品が展示されているという情報を得ていたためです。もう少し早く行きたかったのですが、昨日になってしまいました。

通常、自宅からは車で1時間ほどですが、3連休中日、さらに春のぽかぽか陽気ということもあったのでしょう、京葉道などで交通集中による渋滞が発生しており、若干時間がかかりました。

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所蔵品展的な展示で、「北詰コレクション メタルアートの世界―黎明期の作家を中心に―」。こちらで豊周の作品が展示されているとのことでした。「北詰コレクション」は、千葉県印西市にあった「メタル・アート・ミュージアム 光の谷」が平成26年(2014)に閉館し、そちらの所蔵品がこちらに移ったものです。

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そちらの会場の手前では、やはり所蔵品展的な「コレクション名品展」が開催されていました。

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すると、光太郎のブロンズも3点出品されていました。「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」昭和28年=1953)、「十和田湖畔の裸婦群像のための手習作」(同27年=1952)、「猪」(明治38年=1905)です。同館では光太郎ブロンズの比較的新しい鋳造のものを6点収蔵していて、そのうちの半分ということになります。

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これら3点、一昨年、勝浦市で開催された「第39回千葉県移動美術館 高村光太郎と房総の海」で拝見して以来のご対面でした。

他にもルノワールや梅原龍三郎の洋画、船越保武や高田博厚の彫刻、東山魁夷の日本画などが並んでいます。

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そして、「北詰コレクション メタルアートの世界―黎明期の作家を中心に―」。

豊周の作品は3点並んでいました。大正9年(1920)の「朱銅素文花瓶」と「流れ筋文花瓶」、昭和31年(1956)の「朱銅面取四耳花入」。いずれも見事でした。特にチラシにも画像が使われている「流れ筋文花瓶」は、単純化された全体のフォルムの中に、三筋入れられた「流れ筋文」がアクセントとなり、見ていて飽きない感じです。

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「朱銅面取四耳花入」は、直線的な装飾を施したモダンアート風の作品。もう少し口が広ければ、連翹忌会場で光太郎遺影の前にレンギョウを挿すのに使いたいと思いました。もっともここまでの大きさの豊周作品を購入するほどの財力はありませんが(笑)。

他にも、光雲・豊周・光太郎と関わる作家の作品がたくさん並んでいました。岡崎雪声は、光雲が主任となって制作に当たった「楠木正成銅像」などの鋳造にあたった人物、大島如雲は東京美術学校での光雲の同僚で、光雲とのコラボ作品もあります。津田信夫は豊周の師、丸山不忘は豊周と同級で、豊周の工房にいて、光太郎作品の鋳造にもあたりました。

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4月16日(日)まで開催されています。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を いつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう、

詩「狂奔する牛」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

大正2年(1913)の、ひと月を智恵子と過ごした信州上高地での思い出を謳った詩です。当時、上高地では牛の放牧が行われており、発情期の牡牛の荒ぶる姿を通し、自然を賛美しています。


新品のパソコンが届き、ようやく通常の投稿ができるようになりました。そこで、このコーナーも復活させます。

先月亡くなった、埼玉県東松山市の元教育長で、光太郎と交流のあった田口弘氏の関係で、『産経新聞』さんの埼玉版に、光太郎の名が出ました。

東松山市、高坂彫刻プロムナードを整備 ライトアップや案内板でPR

 東松山市は、東武東上線高坂駅西口の高坂彫刻プロムナードに彫刻32体が野外展示されている彫刻家、高田博厚(1900~87年)が今年で没後30年となることを記念し、命日の6月17日に向けて彫刻のライトアップなどのプロムナード整備や、ゆかりの人によるフォーラムを開催する。
  高田は石川県生まれ。18歳で上京し、高村光太郎と出会って彫刻の道に入り、31歳で渡仏。詩人のジャン・コクトーらと交流し、彫刻の制作に没頭した。昭和32年に帰国後は東京芸術大学講師などを務めた。晩年は神奈川県鎌倉市にアトリエを構え、多くの作品を残した。
  2月に94歳で死去した東松山市の元教育長で詩人、田口弘さんが高田と交流があり、同市が高坂駅西口土地区画整理事業の一環として高田の作品を集めて彫刻通りを整備することを計画。昭和61年から国内に残る高田の彫刻175点のうち、高村光太郎や棟方志功、宮沢賢治などのブロンズから裸婦像まで32体を購入し、延長約1キロにわたって設置。同市の名物となった。
  平成29年度は一般会計当初予算案に事業費2千万円を計上。6月ごろまでに同駅西口ロータリーに幅4メートル、高さ2メートルの案内板を設置し、ロータリー内の2つの彫刻「遠望」と「大地」をライトアップ。同駅西口階段に彫刻などをPRする壁面シールなどを掲示する。
  また、命日の6月17日には市民活動センターホールで没後30年記念フォーラムを開催するほか、同1日から30日まで高坂図書館で高田のアトリエから借用した彫刻やデッサンなどを展示する企画展を開催する。
  定例会見で同事業を発表した森田光一市長は、「高田氏の彫刻が32体もあることは大変な資源であり、観光面でも文化的にも価値がある」と強調。貴重な彫刻群を改めて市民にも知ってもらい、観光客にもアピールする考えだ。(石井豊)


記事にある「彫刻プロムナード」に関してはこちら。

田口氏のお手元にあった光太郎の書や書簡類は、すべて市に寄贈されました。

さらにもう一つの「遺産」である高田博厚の彫刻群も、しっかり活用されていくようです。すばらしいですね。


【折々のことば・光太郎】

桜がいちめんにさいてゐるので、 空も地面もありはしない。

詩「校庭」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

「校庭」は智恵子の母校、日本女子大学校の校庭です。同校同窓会誌『家庭週報』に掲載されました。創立記念式典か何かの一コマを詠んだ詩です。


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画像は戦前の絵葉書。校庭ではなく寮ですが、桜が咲いているようです。

もうすぐ、空も地面も桜に覆い尽くされる季節となります。はやくそうなってほしいものです。

昨日、卒業式に関する話題を載せました。各学校では卒業シーズンでもありますが、来年度入学生の入試シーズンでもありますね。

今月7日に行われた群馬県公立高等学校入試の社会の問題で、光太郎の父・光雲の「老猿」が問題に出されました。

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模範解答として提示されている正解は、以下の通り。

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(例)とありますので、「西洋の技法」以外でも○となるのでしょう。「写実的な作風」とか。そのあたりは採点者向けのマニュアルに記されているはずです。「写実的な作風」と書いて×になったら、当方は暴れます(笑)。

しかし、中学生には難問かな、という気もします。おそらく、中学校の社会の授業で、ここまで掘り下げて扱うことは稀でしょうから。ただ、鋭い生徒は、大問としての設定「「世界の中の日本」というテーマで調べたことをまとめ……」という部分、そして文明開化に湧いた「明治」という時代などから類推することができたのではないでしょうか。

光雲は、おそらくどの教科書会社でも取り上げていると思います。しかし、ただ、「明治の文化、岡倉天心、横山大観、黒田清輝、高村光雲、夏目漱石、森鷗外、与謝野晶子……暗記しろ」ではなく、それぞれの人物の生き様まで(せめて概略でも)、授業で扱ってほしいものです。


文部科学省で定めている「中学校学習指導要領」の社会編、歴史的分野で掲げている目標を抜粋します。

(2) 国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物と現在に伝わる文化遺産を,その時代や地域との関連において理解させ,尊重する態度を育てる。

(3) 歴史に見られる国際関係や文化交流のあらましを理解させ,我が国と諸外国の歴史や文化が相互に深くかかわっていることを考えさせるとともに,他民族の文化,生活などに関心をもたせ,国際協調の精神を養う。

さらに、それぞれの「解説」。

(2)に関しては、

 歴史を具体的に理解させるためには,歴史の展開の中で大きな役割を果たした人物や各時代の特色を表す文化遺産を取り上げることが大切であることを述べている。
 人物の学習については,歴史が人間によってつくられてきたものであることを踏まえて,国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物を取り上げ,主体的に社会を変革しかつ歴史の形成に果たした役割について学ぶことが大切である。その際,人物の活動した時代的背景と地域とを関連させながら,その果たした役割や生き方を具体的に理解させる必要がある。

とあり、(3)の解説は、

 「歴史に見られる国際関係や文化交流のあらましを理解させ」る学習については,国際化の進展の著しい社会に生きる生徒に,他民族の文化や生活などに関心をもたせ,我が国と諸外国の歴史や文化が相互に深くかかわっていることを考えさせて,国際協調の精神を育成することが求められる。

となっています。

これらを踏まえると、上記の「老猿」関連の設問、的確な問題ですね。

それにしても、改めて「学習指導要領」を見てみると、かなりいいことが書いてあります。「我が国と諸外国の歴史や文化が相互に深くかかわっていることを考えさせるとともに,他民族の文化,生活などに関心をもたせ,国際協調の精神を養う。」など、まさしくその通りです。


中学校ではありませんが、それと真逆の、「よこしまな考え方を 持った在日韓国人・支那人」などと書かれたヘイト文書を平気で保護者に配布し、「竹島・北方領土を守り、日本を悪者として扱っている中国・ 韓国が心改め、歴史教科書でウソを教えないようお願いいたします!」と、運動会で選手宣誓させている教育機関があるなど、論外ですね。だいたいそういうよこしまな人物に限って「教育勅語」をありがたがる、というのも不思議です(笑)。


【折々のことば・光太郎】

教養主義的温情のいやしさは彼の周囲に満ちる。 息のつまる程ありがたい基督教的唯物主義は 夢みる者なる一日本人(ジヤツプ)を殺さうとする。

詩「白熊」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

明治39年(1906)から翌年にかけて、ニューヨークで暮らした体験を下敷きにしています。週給7ドルで、彫刻家ボーグラムの助手を務め、休日に訪れるブロンクス・パークの動物園で目にする、やはり異邦から来た象や白熊に、全ての面で「合理的」な事柄を優先するアメリカ社会になじめない自分を仮託しています。

この詩は、単に「敵国」を非難しているという理由から、後に編まれた翼賛詩集『記録』(昭和19年=1944)に再録されました。

一昨日、町田市民文学館ことばらんどさんで開催中の展示「野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-拝見し、その後、JR横浜線、中央線、西武線と乗り継いで、小平市に向かいました。

向かった先は小平駅前のルネこだいら(小平市民文化会館)さん。

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こちらで、小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」の関連行事「音楽と巡るロダンの世界」が開催されます。

先月の関連行事は同館学芸員の藤井明氏による美術講座「ロダンと近代日本彫刻」で、会場は同館近くの放送大学東京多摩学習センターさんでしたが、今回は音楽コンサートを含むということで、こちらが会場でした。

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平櫛田中が晩年を過ごした地ということで、館内にも田中彫刻が。岡倉天心の像です。平成25年(2013)に「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」を巡回して下さった、岡山井原市の田中美術館さんの前にも、同じ像が立っていました。大きさが違うようですが。

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さて、第1部は日本大学芸術学部の髙橋幸次教授によるご講演。題して「ロダン歿後100年。本当のロダンをご存知ですか?」。

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豊富な画像をプロジェクタで投影しつつ、ロダンの人となり、彫刻上の特質、具体的な作品などについて、熱のこもったお話でした。ただ、残念なことに、予定時間をオーバーしてしまい、光太郎がからむ「日本のロダニズム」についてのお話がほとんど無くなってしまいました。終演後、髙橋先生、反省の弁を口にされていましたが、よくあることです。当方も経験があります(笑)。

第2部は、ソプラノの斉藤智恵美さん、ピアノの竹内綾さんのかわいらしいお二人組ユニット「ラ・ペスカ」による演奏。ユニット名の「ラ・ペスカ」はイタリア語で「桃」。ちなみにお二人は小中高とご一緒だったそうで、その小学1年生の時の学級名「1年桃組」にちなむとのこと。

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前半は「ロダンと同時代のフランス音楽を中心に」ということで、ピアノソロ、ピアノ伴奏による歌唱を織り交ぜ、ドビュッシー、サン=サーンス、フォーレ、ラヴェル、グノー。当方の大好きなラインナップでした。ここにサティと、一世代後ですがプーランクが入れば言うことはありません(笑)。

「ロダンと同時代」ということは、光太郎とも同時代なわけで、光太郎、このメンバーの中では特にドビュッシーを高く評価していました。

ロマン・ロランの書いた「クロオド デユビユツシイの歌劇-ペレアス、メリザンド-」の翻訳(明治44年=1911)も手がけていますし、親友だった陶芸家バーナード・リーチのデッサンやエッチングを褒めるのにドビュッシーを引き合いに「其の優雅な美しさを持つ或作品にはドビユツシイの「アラベスク」の美を思はせるものもある」(「リーチを送る」大正9年=1920)と書いています。また、昭和8年(1933)に岩波書店から刊行された『岩波講座世界文学7 現代の彫刻』の中では、ロダンの出現にからめ、19世紀後半のフランスの芸術界を評して「フランスそのものが自分の声を出しはじめたのである」とし、「音楽に於けるドビユツシイ、詩に於けるマラルメ、皆その意味に於いてフランス再発見の声である」と書いています。

また、光太郎は明治末に「詩歌と音楽」という評論を2篇書いています。一つ目は明治43年(1910)発行の雑誌『趣味』に掲載、もう一つは同年の雑誌『常盤木』に発表しました。自身の滞仏体験を元に、ヴェルレーヌやボードレールの詩に曲を付けた音楽などについて述べていますが、この中でもドビュッシーを高く評価し、ラヴェルやグノー、フォーレにも言及しています。

その他、朋友・石井柏亭の絵を評するのにサン=サーンスの音楽を用いたり、フォーレは「パンの会」を謳った詩に登場させたりもしています。詩といえば、一昨日のプログラムには入っていませんでしたが、やはりフランスの一世代前のベルリオーズは繰り返し詩で扱っています。

だから、というわけではありませんが、当方、近代フランスものは大好きで、フォーレやグノー、プーランクの作品は自分の音楽活動でも扱いました。そんなわけで、大満足でした。

後半は、演奏者お二人もおっしゃっていましたが、ちょっとこじつけっぽく(笑)「ロダンの作品が置かれている国へ、世界を巡る旅」。こちらは楽しい演奏でした。


小平市平櫛田中彫刻美術館さんの特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」そのものは、今週末まで。ぜひ足をお運びください。


さて、美術館・文学館関係の皆さん。光太郎をメインにする企画展等の場合、こうした関連行事での講演者(当方を含め)、演奏家、朗読家の方々は当会会友としてたくさんご紹介できます。ご用命下さい。


折々のことば・光太郎】

なんのかんのと言つてゐるうちに どこもかもまつ青ではないか

詩「新茶」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

「新茶のはしりがもう出たね」で結ばれるこの詩、五月の風景を「どこもかもまつ青」と謳っています。

3月となりました。比較的温暖なここ房総半島でも、さすがにまだ「どこもかもまつ青」とは行きませんが、庭の木々や書斎の鉢植えには、続々と新芽が出ています。「山笑う」季節、そして「どこもかもまつ青」も、もうすぐですね。

一昨年、碌山美術館さんで戴いてきたヤマブキ。

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昨年、二本松のレモン忌でいただいたグロキシニア。

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光太郎終焉の地・中野アトリエの庭に咲き、光太郎が「かわいらしい花」だと愛で、その葬儀の際には一枝コップに挿され、「連翹忌」の由来となった連翹から株分けして貰ったもの。

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何のゆかりもありませんが(笑)、アジサイ。

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ミモザは既に花が。

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ユキヤナギも咲き始めました。

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昨日、一昨日と、小平市平櫛田中彫刻美術館さんの特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」について書きました。こちらでは光太郎彫刻「腕」(大正7年=1918)、「十和田湖畔の裸婦群像中型試作」(昭和28年=1953)、そして朝倉彫塑館さん所蔵の「手」(大正7年頃=1918頃)が展示されていました。

同じ「手」が、現在、竹橋の東京国立近代美術館さんで展示されていますので、ご紹介します。 

平成28年度第4回所蔵作品展「MOMATコレクション」

会 期 : 2017年2月18日(土)~5月21日(日)
場 所 : 東京国立近代美術館 千代田区北の丸公園3-1
時 間 : 10:00-17:00 金曜日・土曜日は20:00まで(入館は閉館30分前まで)
休館日 : 月曜日(祝日の場合は開館)
料 金 : 一般:430円(220円) 大学生:130円(70円)( )内は20名以上の団体料金

 MOMATコレクションにようこそ! 今年も、千鳥ヶ淵の桜が美しい季節を迎えます。これにあわせて、前期(2月18日~4月16日)には川合玉堂《行く春》をはじめ、桜を描いた名作が、みなさんをお迎えします。後期(4月18日~5月21日)も加山又造《春秋波濤》など、見逃せない作品ばかりです。
 それだけではありません。個人の特集も充実です。4階4室では山本鼎を、3階6室では藤田嗣治を、7室では長谷川潔と浜口陽三を、9室では植田正治を、そして10室では長谷川利行を特集します。
 一方、4階5室は当館の所蔵する西洋近代美術の特集です。日本への影響関係を知るためにも、コレクションに欠かせないこれらの作品に、あらためてご注目ください。 さらに、1階で開催の「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」展に関連した小特集を、3階8室で行います。樂の茶碗と、当館コレクションの戦後抽象絵画との間に、深いところで響き合うものを感じ取れるはずです。
 それでは、MOMATですてきな春の一日を、ごゆっくりお楽しみください。

出品作品リストは、こちら


先述の通り、光太郎のブロンズ代表作「手」が出品されています。現在、小平市平櫛田中彫刻美術館さんに展示されている朝倉彫塑館さん所蔵の「手」と同じく、光太郎生前の鋳造で、台座の木彫も光太郎の手になるものです。

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有島武郎が入手し、自殺する直前まで手にとって愛でていたという逸話があります。その後、回り回ってこちらに所蔵されました。

一昨年には、武蔵野美術大学美術館さんにて開催された「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」で、二つの手が並びました。当方が把握している限りでは、光太郎生前の鋳造で、台座も光太郎作という「手」は、この2点と、高村家に伝わっている1点の3点のみです。

「MOMATコレクション」、他にも教科書に載っているような作品が満載です。光太郎と関連の深かった作家のものとしては、中村彝「エロシェンコ氏の像」、安井曽太郎「金蓉」、梅原龍三郎「噴煙」、村山槐多「バラと少女」、岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」、柳敬助「白シャツの男」、荻原守衛「女」、藤田嗣治「アッツ島玉砕」、木村荘八「新宿駅」、舟越保武「原の城」など。その他、海外や伝代の作品も充実しています。

4月2日(日)―第61回連翹忌の日ですが―は、「美術館の春まつり」の一環として、観覧料無料。さらに「春まつりトークラリー」ということで、正午受付開始、先着1,000 名様対象のギャラリートークも開催されます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

おれの手の届かないさきを人がやる、 人の手の届かないさきをおれがやる、 それでいい。

詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

上記の光太郎と交流の深かった作者の作品などを目の当たりにすれば、こういう感想を抱いたのでは、と思われます。光太郎に「金蓉」や「アッツ島玉砕」は描けませんが、安井や藤田に「手」は作れません。

このところ「とげとげなエピグラム」からの引用が続いています。このコーナー、基本的に一作品から一つのフレーズを選んでいましたが、「とげとげなエピグラム」は数行ずつの短章が30余り並べられており、一つ一つが一つの作品といった趣ですので、そうしています。明治末の「泥七宝」もそうでした。

どうもこういう短章の羅列があると、光太郎には大きな転機が訪れるようです。「泥七宝」の頃には、智恵子との恋愛を経て、光雲を頂点とする日本彫刻界と縁を切って独自の道に進む姿勢の確立、「とげとげなエピグラム」の頃には、露わになった社会矛盾に怒りを表出する「猛獣篇」時代への突入と。

日曜日に拝見して参りました、小平市平櫛田中彫刻美術館さんの特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」。図録が販売されていましたので購入して参りました。A4判158ページ、なかなか充実した図録でした。

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作品図版は展覧会の構成に従い、「生命の芸術」、「不完全の美」、「手(Hand)」、「醜の中の美」、「群像表現」、「アッサンブラージュ」、「変貌するロダニズム」、「あとに続く作家たち」、「人体構造の追求―ロダン《バルザック》と平櫛田中《鏡獅子試作裸像》との比較から」、「ロダンへの反発」、「リプロデュースとマケット―ロダン《地獄の門》を中心に―」の、それぞれの小題にまとめられています。

その後に出品作家のプロフィール。さらに関連論文。

まずは日曜日に開催された関連行事の美術講座「ロダンと近代日本彫刻」の講師で、今回の特別展の中心と成られた同館学芸員・藤井明氏の「荻原守衛帰国以前の国内におけるロダン受容について」。

ロダン本人から「あなたは私の弟子だ」とお墨付きをもらった荻原守衛が、海外留学から帰国したのは明治41年(1908)。それ以降、日本国内でロダンの名が浸透していきますが、それ以前のロダン受容に的を絞った考察です。どうも東京美術学校関係者に限定される形で、かなり早い時期からロダンの存在が知られていたことが紹介されています。

明治23年(1890)に、同校で岡倉天心が行った講義「泰西美術史」の中に、既にその名が見えています。そして、同38年(1905)、海外留学に出る前年の光太郎が、雑誌『日本美術』に発表した「アウグスト ロダン作「バプテスマのヨハネ」」という評論を大きく取り上げて下さっています。『高村光太郎全集』第7巻に収録されていますが、当方、その存在を失念していました。『日本美術』では、「ヨハ子」と表記されていますが、これは変体仮名的な表記で「子」は「ネ」。十二支の「子・丑・寅・卯・辰・巳」の「子」です。明治末年にはまだ仮名表記も確立していません。したがって、『高村光太郎全集』では、仮名とみなして「ヨハネ」の表記を採っています。

余談になりますが、光太郎、仮名の「し」も、時折、変体仮名的に「志」で表す時がありました。「しま志た」のように。こういったケースも、『高村光太郎全集』では仮名表記と見なし、通常の「し」に置き換えています。

余談ついでにもう一つ。この評論はロダン出世作の「青銅時代」に続く大作「洗礼者ヨハネ」(明治13年=1880)を紹介するものですが、この「洗礼者ヨハネ」、光太郎晩年の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」との関連が夙に指摘されています。すなわち、それぞれこういうポーズをとった場合に、上がるはずの後ろ足の踵が上がっていない点です。これが上がっていると、見た目には非常に不安定になります。具象彫刻として一般的な技法なのかもしれませんが。

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閑話休題。この評論が、一般向けにロダンを国内で紹介した最も早い例だというので、驚きました。これまで、ロダン受容を論じる論文等で、この評論がほとんど紹介されてこなかったそうで、そういわれてみればそうだな、という感じでした。そこで当方も、この評論の存在を失念していました。

続いて、今週土曜日に関連行事として講演「歿後100年。本当のロダンをご存知ですか?」をなさる日本大学芸術学部の髙橋幸次教授の「ロダンとは誰なのか、そして何なのか」。端的にまとめられたロダン評伝で、手っ取り早くロダンその人を知るにはもってこいです。

さらに、静岡県立美術館学芸員の南美幸氏の「フランスにおける日本人のロダン作品体験 1900年~1918年―文献からの分析・整理」。荻原守衛、光太郎ら12人の日本人芸術家が、フランスで実際に見たであろうロダン作品の一覧を表にしています。面白い試みだと思いました。しかし、光太郎に関しては、参照されている文献が少なく、実際に光太郎が見たとされているのは「ジャン=ポール・ローランスの胸像」のみ。疑念が残ります。

そして、いつもお世話になっている碌山美術館の武井敏学芸員による「笹村草家人のロダン感」。笹村は師の石井鶴三ともども荻原守衛や光太郎に私淑し、戦後、花巻郊外太田村の山小屋に隠遁中の光太郎を訪ねたりもしている彫刻家で、興味深く拝読しました。

資料編として、「ロダン年譜」、「ロダンと日本 関連年譜」、光太郎の「アウグスト ロダン作「バプテスマのヨハ子」全文、さまざまな彫刻家のロダン評などの抜粋「ロダンへの言葉」、「参考文献」。

実に充実の内容で、これで2,000円は超お買い得です(笑)。

同展は3月12日(日)までの開催。ぜひ足をお運びの上、図録もご購入下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンを嫌ふのが 進んだ人人の合言葉。 今こそ心置きなく あのロダンを讃嘆しよう。

「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

王道を歩く者は、王道を歩くがゆえに批判に晒されることが多々あります。ロダンも例外ではありませんでした。その地位が確立した後は、もはやロダンは古い、と。そして、その手の王道批判こそが知識人の証しのように考えられることがありますね。

そんな中で、あえて「あのロダンを讃嘆しよう」とする光太郎。軽佻浮薄な批判には与しないと宣言しているわけです。ただ、光太郎のロダン崇拝も、猿まね的なものや、狂信的・盲従的なものではなく、尊敬はするが、自分の北極星は彼とは別の所にある、としています。また、光太郎は彫刻のロダン以外にも、文学方面のロマン・ロランやホイットマンなど、ある意味同じように王道を歩みながら、それゆえ批判にもさらされる先達に対して同様の発言をしています。いずれまたそういう文言を紹介します。

ところで、光太郎自身もそういう憂き目にあっていますね。「光太郎は古い」と。生前もそうでしたし、現代においてもです。最近も、昨年発行された雑誌に載った辛口の批評で知られる文芸評論家のセンセイの光太郎批判が、今年になってある新書におさめられたようです。そこには全くといっていいほど、光太郎ら、そこで取り上げている人物に対するリスペクトの念が読み取れません。さらに云うなら、リスペクトの念がないから詳しく調べるということもしないのでしょう、出版事情等に関し、事実誤認だらけです。そういうものはこのブログではご紹介していません。あしからず。

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