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先週、各界で功績のあった人をたたえる2016年春の叙勲受章者が発表されました。

主に政治家や民間人対象の「旭日章」、主として元公務員に贈られる「瑞宝章」、それぞれ「大綬章」「重光章」「中綬章」「小綬章」に分かれ、4,000人あまりが受章対象ということで発表されました。

報道では、いわゆる著名人ということで、それぞれ旭日小綬章に選ばれた、女優の富司純子さんと歌手の北島三郎さんが大きく取り上げられました。

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お二人とも、「智恵子抄」との縁がおありです。

まず富司さん。

昭和43年(1968)、大阪梅田コマ・スタジアムで開催された「名作劇場第三作 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました。光太郎役は高島忠夫さんでした。

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脚本は北条秀司。同じ北條作の「智恵子抄」で、初代水谷八重子さんや、有馬稲子さんも智恵子役を演じられています。


続いて北島さん。

昭和39年(1964)、五月みどりさんとのデュエットで、シングル「新民謡 九十九里音頭」をリリース。

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三番の歌詞に、九000十九里浜片貝海岸の「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑がうたわれています。

昭和8年(1933)、心を病んだ智恵子がこの地で療養したことにちなみ、同36年(1961)に建立された碑です。

ただし、「千恵子抄」というよくある誤植をやらかしていますが(笑)。

「東洋のマイアミ」というのも、わかるようなわからないような(笑)。突っ込みどころ満載です。


お二人とも、今後もお元気で、さらなるご活躍を期待します。


【折々の歌と句・光太郎】

新緑のみどりのいろの流れ入る画室の中に君と語りき
大正9年(1920) 光太郎38歳

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今日は「みどりの日」。自宅兼事務所裏山の緑も、だいぶ濃くなってきました。

過日、日比谷松本楼さんで執り行った第60回光太郎忌日・連翹忌の集いに、全国から約80名の方がご参集下さいました。

参会の皆さんに、ということで資料をお持ち下さった方も多く、また、運営委員会代表の当方に、ということでいただきものもしてしまいました。

チラシなどに書かれていた情報(ソフト)的な部分は順次ご紹介しますが、もの(ハード)としていただいたものの中からいくつかご紹介します。

作曲家・野村朗氏から、今年1月に名古屋で行われたコンサート「Gruppo Giglio Vol.8」の模様を撮影したDVD。参会者全員分用意して下さいました。

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野村氏作曲、第60回連翹忌で演奏をご披露下さった森山孝光・康子ご夫妻の演奏による連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六編より」が収録されています。

コンサート当日は当方、他の用事のため足を運べなかったもので、ありがたく存じました。


冊子『高村光太郎入村70年記念 ~思い出記録集~ 大地麗』。

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花巻市太田地区振興会さんの発行で、同会の佐藤定氏が当方に、ということでお持ち下さいました。

昨年10月、花巻郊外太田村時代(昭和20年=1945~同27年=1952)の光太郎を知る皆さんの座談会が行われた、その記録です。70年前から65年前の話で、当時を知る方が少なくなり、変な話ですが、残った方もご高齢。今のうちに皆さんの記憶を記録に残そうという試みでした。

これまで活字になったことがないのではないか、というようなエピソードや、当方も初めて見る写真などが掲載されており、非常に貴重な記録です。

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上記は大田村役場落成記念に撮られた集合写真。昭和25年(1950)11月25日です。この際に光太郎は、「大地麗(だいちうるわし)」と書いた大きな扁額を村に贈っており、冊子の題名はここから採られています。


高村光太郎研究会発行の雑誌『高村光太郎研究37』。連翹忌当日の発行です。

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当方も寄稿しているため、1冊戴きました。当会顧問の北川太一先生の玉稿、昨秋行われた、「第60回高村光太郎研究会」で発表をされた田所弘基氏、西浦基氏などの論考等が掲載されています。


その他、光太郎には直接関わりませんが、連翹忌でスピーチをお願いした、鋳金家の後藤信夫様から鋳金関係の書籍を3冊戴きました。

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後藤氏は光太郎の実弟・豊周、その弟子筋に当たる故・西大由氏、故・斎藤明氏の流れをくむ方です。光太郎のブロンズ彫刻は前記の人々らにより鋳造されています。戴いた書籍を読んで、鋳造方面について勉強させていただきます。


連翹忌には、顧問の北川太一先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の皆さんも多数参加下さっています。「北斗会」という名前で、毎年、北川先生を囲む新年会をなさったり、8月の宮城女川光太郎祭にご参加下さったりしています。

その「北斗会」さんの中心で、箔押(書籍の表紙や背などの文字に金箔などを施す特殊印刷)の会社を経営されている小川義夫さんから、こんなものを。

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小川さんが唄っている演歌のCDです。なぜ印刷会社の社長さんが……というと、『歌の手帖』という雑誌のコピーが添えられていました。


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心臓病の予後のリハビリのためにカラオケに取り組み、大会などに出場するうちに、あれよあれよと歌手デビューなさったそうです。失礼ながら、齢(よわい)70を過ぎてからこういうこともあるのですね。当方も芸能界入りを目指そうかと思いました(笑)。


逆に当方から参会の皆様にお配りしたもの。

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年2回発行している、手製の冊子です。

「光太郎遺珠」から 第九回 詩人として(二)
  『高村光太郎全集』に収録されていない光太郎作品集成です。
・光太郎回想・訪問記 『読売新聞』より
  明治大正期の『読売新聞』さんに載った光太郎の記事です。
・光雲談話筆記集成 『味覚極楽』より「四谷馬方蕎麦」(その一)
  光太郎の父・光雲の談話筆記です。
・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 浅虫温泉・蔦温泉(青森)
  題名の通りです。
・音楽・レコードに見る光太郎 「新穀感謝の歌」(その一)
  昭和16年(1941)、信時潔によって作曲された儀式歌「新穀感謝の歌」に関する論考です。
・高村光太郎初出索引
・編集後記

当会名簿に記載のある個人・団体様には順次発送しています。その他でご入用の方、こちらまでご連絡下さい。送料のみでお分けします。


【折々の歌と句・光太郎】

春の水小さき溝を流れたり      明治42年(1909) 光太郎27歳

何のひねりもない句に見えますが、詠めそうでいてなかなか詠めない句だと思います。

昨日は光太郎の命日、連翹忌でした。

まずは昼頃、駒込染井霊園の高村家墓所に、代表して香華を手向けに参りました。昨日が連翹忌というのが、意外と知られているようで、当方が着いた際に、一般の方々が10名程、お参りして下さっていました。ありがたいかぎりです。他にも夕方からの日比谷松本楼さんでの集まりに行く前に、墓参をされた方が複数いらっしゃいました。

さすがは発祥の地、ソメイヨシノがみごとでした。

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その後、日比谷松本楼さんへ。午後5時30分から、連翹忌の集いです。当方は2時30分過ぎには会場入りし、準備。多くの皆さんが、配付資料の袋詰めや名札の準備、受付などでお手伝い下さり、助かりました。ありがとうございました。

午後5時30分、開会。まずは光太郎に、そしてこの1年に亡くなった関係者の皆様に、ということで黙祷を捧げました。つい先だって、光太郎の親友だった作家の水野葉舟のお孫さんで、さらには光太郎に私淑した詩人・尾崎喜八のお嬢さんにあたる尾崎榮子様が亡くなったそうで、昨日、初めて知りました。一昨年に鎌倉でお会いしたのが最後になりました。生前の智恵子を知る方でした。残念です。

晩年の光太郎に親しく接した当会顧問の北川太一先生のご挨拶。最近、フランスで実物が確認されたアンリ・マチスと光太郎の往復書簡についてお話下さいました。

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続いては、光太郎の実弟で鋳金の人間国宝だった高村豊周のお孫さんにして、現在の高村家当主・達氏の御発声により、献杯。

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その後はビュッフェ形式で料理を戴きつつ、アトラクションとしての音楽家の皆さんの演奏と、全国からお集まりの皆さんからスピーチを賜りました。

演奏は毎年ひと組の方にお願いしていたのですが、今年は是非にというお申し出もありましたし、60回の節目だから盛大にいこうと、3組の皆さんにお願いしました。

バリトン歌手・森山孝光氏と、ピアノの康子様ご夫妻による歌曲「千鳥と遊ぶ智恵子」「案内」。

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作曲された野村朗氏もいらしていて、スピーチをお願いしました。

その後はスピーチをいろいろな方に。

遠く花巻からいらした市の生涯学習交流課長・高村光太郎記念館長の市川清志様。

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智恵子の故郷・二本松の観光大使をなさっている女優の一色采子001さん。お父様は二本松出身の日本画家、故・大山忠作氏です。智恵子をモチーフにした作品も多く描かれました。「二本松さくら展」などについてお話しいただきました。

九段下の書道用品店・玉川堂さんは、明治末と推定される光太郎直筆の短冊を持ってきて下さり、そのお話を。

詩人の曽我貢誠氏、碌山美術館学芸員の武井敏氏。

太平洋美術会の坂本富江さんと沼津第一小学校長・斎藤匡洋先生には、智恵子が描いた油絵「樟」についてお話しいただきました。

出版社、コールサック社の鈴木比佐夫様、鋳金家の後藤信夫様。

女川光太郎の会の佐々木英子さん。震災から5年の現状を語って下さいました。先頃、天皇皇后両陛下が女川をご訪問された際のお話なども。

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そしてシンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんのギター弾き語り。曲目は「レモン哀歌」「十和田湖畔の裸像に与ふ」。3年前の智恵子命日の集い「レモン忌」で演奏を聴かせていただき、ぜひ連翹忌でも、とお誘いし続けていましたところ、今年、とうとう実現しました。

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熱の籠もった歌声に、会場も感動。

仙台からいらした朗読家の荒井真澄さんには、急遽、「あどけない話」の朗読をお願いしました。突然の無茶ぶりにも快く応じて下さいました。

さらにシャンソン系のモンデンモモトリオ。モモさんに歌っていただくのは5年ぶりくらいです。

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チェロの伊藤耕司さん、ギターの田嶌道生さんの伴奏で、「オーロードコレクトミー」「樹下の二人」「道程~冬が来た」。いつもながらに素晴らしい演奏でした。

ご参会の方全てに光太郎智恵子への思いを語っていただきたかったのですが、そういうわけにもいかず、盛会のうちに、閉幕。充実した会でした。

来年以降も4月2日には、日比谷松本楼さんで連翹忌の集いを行います。ご興味のある方は、ぜひぜひご参加下さい。参加資格はただ一つ、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです。


【折々の歌と句・光太郎】

桜狩り桜をめでて日をめでて暮れてかへるに君か要(い)るべき
明治38年(1905) 光太郎23歳

駒込染井霊園、そして日比谷公園も桜が満開でした。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部はまだ2~3分咲き。今月は信州などにも出かけますので、満開の桜が長い間見られます。

当方も会員に名を連ねさせていただいている高村光太郎研究会発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』に、連載を持たせていただいております。
 
題して「光太郎遺珠」。筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』増補版が平成11年(1999)に完結しましたが、その後も見つかり続ける光太郎智恵子の文筆作品を集成しています。
 
平成18年(2006)に、光太郎没後50年を記念して、当会顧問・北川太一先生との共編で第一弾を厚冊の単行書として刊行しましたが、その後も続々と補遺作品が見つかり続けるため、現在はほぼ1年間に見つけた新たな文筆作品の集成として雑誌『高村光太郎研究』中の連載という形で続けております。
  
『高村光太郎研究』は4月2日の光太郎忌日・連翹忌の刊行。原稿締め切りが今月いっぱいということで、このたび脱稿しました。
 
今回の「光太郎遺珠」に載せた作品は以下の通りです。智恵子のものはなく、すべて光太郎の作品です。

短歌
金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜの吹く
九段下の書道用品店・玉川堂さん所蔵の短冊から採らせていただきました。明治末と推定できます。

散文
「貧弱なる個性の発露」 明治45年(1912)5月1日『東洋時論』第三巻第五号
信州安曇野の碌山美術館さん学芸員の武井敏氏からご教示いただきました。長い美術評論です。

「希望 親切な案内役を」 昭和23年(1948)11月7日『花巻新報』第七十二号
「岩手は日本の背骨 ノロイが堅実」 昭和24(1949)年9月28日『花巻新報』第百十五号
ともに岩手の地方紙『花巻新報』から。前者は創刊に寄せた談話筆記、後者は宮澤賢治に関わる講演の筆録です。後編のみ『高村光太郎全集』に既収ですが、前編を新たに見つけました。

「高村光太郎先生説話」
花巻郊外太田村の山口小学校で折に触れて語った光太郎の講演、談話を、同校校長の故・浅沼政規氏が筆録していたものです。膨大な量なので分割して掲載。今回は昭和25年(1950)上半期の分を掲載しました。

翻訳
「モンテスパンの序」 昭和4年(1929)3月10日『南方詩人』第六輯
ロマン・ロラン作の戯曲「モンテスパン夫人」の序文の訳です。原典は大正12年(1923)にアメリカで出版された同書の米国版です。昨年、雑誌『日本古書通信』に紹介されました。

書簡
長沼せき子宛 室生犀星宛 翁久允宛 「夜の鏡」幹事宛 佐伯郁郎宛(2通) 松下英麿宛 石川佀宛 西倉保太郎宛(4通) 旭谷正治郎宛(4通) 内村皓一宛(2通) 黒須忠宛
参考書簡 丹塚もりえ宛
書簡は毎年のようにたくさん見つかっています。リンクを貼った部分をご参照いただければわかりますが、足で集めてもいます。

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a.画家が描くといふ事を如何にお考へになりますか b.画家に何を要求なされますか 昭和14年(1939)12月25日『美術文化』第二号

短句
針は北をさす
岩手県奥州市の佐伯郁郎生家・人首文庫さん所収の色紙から採録しました。

題字
『花巻新報』
『高村光太郎全集』別巻に不完全な記述がありますが、詳細な点が判明したので掲載しました。


ご協力いただいた団体、個人の皆様には感謝申し上げます。

『高村光太郎研究』第37号、4月2日の第60回連翹忌の席上で販売開始、頒価は1,000円の予定です。上記以外に北川太一先生の玉稿、やはり当方編集の「高村光太郎没後年譜 平成27年1月~12月/未来事項」なども載る予定です。ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。後ほど郵送いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

ふと見えて消しは神か水色のみけしさながら夜はあけにけり
明治34年(1901) 光太郎19歳

「みけし」は「御衣」。貴人の衣服を言う尊敬語です。「けし」は「着る」の尊敬語「けす」の名詞化。夜明けの清澄な空を「さながら」「水色のみけし」のようだと謳っています。

一昨日からの続きで、今年あった光太郎智恵子、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。今日は9月から12月。

書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。


9月2日(水) 名古屋市のメニコンアネックスにおいて、舞踊公演「智恵子抄~故郷 福島への想い~ パート1  あわい 愛~」が開催されました。10月5日(月)、「智恵子抄~故郷 福島への想い~ パート2  あわい 淡~」が追加公演されました。

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9月5日(土) 岐阜県関市中池公園内旧徳山村民家において、語り人あきと弦術師aokiによるユニット梅弦が「梅弦ワンマンコンサート」を開催、「智恵子抄」の朗読を行いました。
 同日、二本松市の現代詩研究会から文芸同人誌『現代詩研究 第75号』が発行されました。智恵子のまち夢くらぶ会長・熊谷健一氏の「「高村光太郎留学の地芸術の都パリ研修」報告」が収められました。
 さらにこの日、元女優の原節子さんが老衰のため死去しました。95歳。昭和32年、東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)で智恵子役を演じました。

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9月8日(火) 女優の宝生あやこさんが老衰で死去、97歳。昭和42年、松竹制作の映画『智恵子抄』で智恵子の母、長沼センを演じました。

9月12日(土) 筑波大学東京キャンパス文京校舎において、国際シンポジウム「書の資料学 ~故宮から」が開催されました。第3部・討議で矢野千載氏(盛岡大学教授)による「高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」の提言がありました。


9月13日(日) 山形市中央公民館多目的ホールにおいて、「山形大学特別プロジェクト いま、言葉を東北の灯(ともしび)に 第8回山形大学高校生朗読コンクール」が開催されました。課題は「智恵子抄」でした。
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9月18日(金)~22日(火) 福島県いわき市のワタナベ時計店特設ギャラリー「ナオ ナカムラ」において、「毒山凡太朗+キュンチョメ展覧会今日も きこえる」 が開催されました。共に映像作品を主とする現代アート作家で、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故を、光太郎詩「あどけない話」にからめたメッセージ性溢れるものでした。

9月18日(金)~12月20日(日) 栃木県佐野市の佐野東石美術館で、「木彫の美―高村光雲と近現代の彫刻―」展が開催され、光雲木彫「牧童」「狛犬」が展示されました。

9月19日(土) 晶文社から『吉本隆明全集10[1965‐1971]』が刊行されました。春秋社版『高村光太郎選集』の解題として書き継がれた光太郎論を収録しています。

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9月19日(土)~11月8日(日) 神奈川県平塚市美術館に於いて企画展「画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催されました。光太郎油彩画「静物(瓶と果物)」「渡辺湖畔の娘道子像」が展示されました。

9月19日(土)~11月29日(日) 和歌山県高野山霊宝館において、光雲作の金剛峯寺秘仏本尊薬師如来像の頭部試作品が展示されました。

9月20日(日) 二本松市智恵子の生家近くの智恵子純愛通り石碑前で、智恵子純愛通り記念碑第7回建立祭が開催されました。地元小中高生による朗読等が行われました。

9月26日(土) FTV福島テレビで「いっしょに歩こう―ふくしま・わがまま!気まま!旅気分 愛か、お笑いか⁉初恋カップルIN福島~城下町・二本松の旅」が放映されました。出演、タレント・白鳥久美子さん他。智恵子生家等で撮影が行われました。10月3日、BSフジで全国放映されました。

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10月1日(木) NHK出版より『NHKテレビテキスト 趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門』が刊行されました。11月放映の同名のテレビ番組テキスト。「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×高村智恵子」が収められました。
 同日、無明舎出版から成田健著『「智恵子抄」をたどる』が刊行されました。地方紙『北鹿新聞』に連載されたものの単行本化です。
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10月2日(金) 光太郎詩に自作の曲を附けて歌うモンデンモモの東北ツアー「モンデンモモ日本を歌う!/モンデンモモ 智恵子抄を歌う!」が始まりました。2日(金)、秋田県鹿角市旧関善酒店特設ステージ、3日(土)、二本松市鐵扇屋酒蔵。これに合わせてCD「モンデンモモの智恵子抄」がリリースされました。

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10月3日(土) 『産経新聞』にコラム「日本の書〈37〉近代篇⑨高村光太郎「うつくしきものみつ」」が掲載されました。

10月4日(日) 二本松市らぽーとあだちにて、第21回レモン忌が開催されました。智恵子の里レモン会主催。特別講演は児童文学者・金田和枝さん。

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10月4日(日)~11月1日(日) 和歌山県の高野山金剛峯寺で、 金堂御本尊の秋の特別開帳が行われました。春に続き、秘仏である光雲作の薬師如来坐像の特別公開がありました。

10月9日(金) 京都外国語大学国際交流会館において、「日本ソロー学会創立50周年記念2015年度全国大会」が開催されました。記念シンポジウムで立正大学教授・齊藤昇氏「ソロー・野澤一・高村光太郎」の発表がありました。

10月9日(金)~11月10日(火) 光太郎の実妹・しづの孫にあたる山端通和夫妻が経営する鎌倉市の笛ギャラリーで「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四」が開催されました。光太郎書作品、書簡等が展示されました。

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10月9日(金) 平成28年2月22日(月)迄の予定で、花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(後期)が始まりました。太田村時代の光太郎の書、遺品等の展示です。

10月10日(土) 青幻社から『画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』が刊行されました。平塚市美術館他で開催された同名の企画展の図録を兼ねています。

10月11日(日) 名古屋市のドルチェ・アートホールNagoyaで「作曲野村朗・フルート吉川久子 智恵子抄の世界を遊ぶ ~その愛と死と~」が開催されました。

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10月12日(月) 二本松市市民交流センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」が始まりました。第1回は智恵子の里レモン会会長・渡辺秀雄氏「長沼家の家族とふるさと二本松」。

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10月14日(水) 秋田公立美術大学サテライトセンターで、公開講座【明治の彫刻と工芸性】が開催されました。光雲に触れました。講師は同大教授・志邨匠子氏でした。

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10月17日(土) 文治堂書店から、北川太一先生著『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』が刊行されました。著者自選の随想集。随所で光太郎に触れています。

10月17日(土) 神奈川県立近代美術館鎌倉館で「鎌倉からはじまった 1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」がはじまりました。平成28年1月31日(日)まで。同館閉鎖に伴う最後の企画展で、光太郎ブロンズ「裸婦坐像」、油彩画「上高地風景」が展示されました。

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10月23日(金) 講談社から清家雪子さん著の漫画『月に吠えらんねえ』第4巻が刊行されました。「第十七話 あどけない話」が収められました。

10月24日(土)~12月23日(水) 秋田県横手市の雄物川郷土資料館で、第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編~あの人はこんな字を書いていました~」が開催され、同市出身の画商・旭谷正治郎に宛てた全集等未収録の光太郎書簡が展示されました。

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10月24日(土) 平成28年3月13日(日)迄の予定で、埼玉県加須市のサトヱ記念21世紀美術館において、「生誕130年記念 斎藤与里展~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~」が始まりました。光太郎の戯画が描かれた与里書簡など、ヒユウザン会展関連の資料も多数展示されました。

10月27日(火) 平成28年2月15日(月)迄の予定で、盛岡市の盛岡てがみ館で第48回企画展「宮沢賢治を愛した人々」が開催され、同館所蔵の光太郎書簡5通が展示されました。

10月29日(木)・30日(金) 神戸アートビレッジセンター KAVCホールにおいて、舞踊「Tubular Bells」の公演が行われました。「智恵子抄」をイメージし、智恵子と彼女の幻影を対比的に描かれました。

10月29日(木)~31日(土) 世田谷区「劇」小劇場で、「J-Theater日本人作家シリーズ ドナルカ・パッカーン第一回公演2015年秋 「暗愚小伝」」が開催されました。作・平田オリザ氏。

11月2日(月) 女優の加藤治子さんが心不全のため死去しました。92歳。昭和37年、文化放送からオンエアされたラジオドラマ「智恵子抄」で、智恵子役を演じました。

11月3日(火) NHKEテレで、「趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の第五回「高村光太郎×高村智恵子」が放映されました。ナビゲーター、書家・石川九楊氏、女優・羽田美智子さん。再放送、11月5日(木)、11月10日(火)。

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11月8日( 一橋大学一橋講堂、シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで-福島の復興と地方創生-が開催されました。

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11月14日(土) 十和田市主催で、友好都市花巻を訪れる「花巻探訪ツアー」が開催され、十和田市民が花巻高村光太郎記念館、高村山荘などを訪れました。
 同日、東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生だった画家・藤田嗣治を描いた映画「FOUJITA」が封切られました。小栗康平氏監督、オダギリジョーさん主演。光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」が劇中で使用されました。

11月15日(日) 二本松市の福島県男女共生センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」の第2回が開催されました。講師は福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭・小島喜一氏、題は「油井小学校と福島高等女学校の先生達」。

11月17日(火)~12月20日(水) 愛知県碧南市003藤井達吉現代美術館で、企画展「画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」が開催されました。9月~11月の平塚市美術館に続いての巡回で、平塚で展示された2点に加え、光太郎油彩画「日光晩秋」も展示されました。

11月21日(土) 文京区アカデミー音羽で第60回高村光太郎研究会が開催されました。発表は佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏「高村光太郎の戦争詩――『詩歌翼賛』を中心に――」、高村光太郎研究会員・西浦基氏「「画家アンリ・マティス」高村光太郎訳」。

12月11日(金)~13日(日) 大阪市ABCホールに於いて、劇団レトルト内閣 第24回本公演「まことに神の造りしをんな―智恵子抄―」が公演されました。作・三名刺繍氏。

12月20日(日) 二本松市の福島県男女共生センターで、智恵子のまち夢くらぶ主催の「智恵子講座'15」の第3、4回が開催されました。題はそれぞれ「松井昇と太平洋画会研究所」(講師、太平洋美術会員・坂本富江さん)、「成瀬仁蔵と日本女子大学校」(講師、当方)でした。

12月24日(木) 浪曲師の国本武春さんが亡くなりました。55歳。NHK Eテレで放映中の「にほんごであそぼ」で、「うなりやベベン」として、たびたび光太郎詩に曲をつけた作品を披露なさいました。


というわけで、今年一年、実にいろいろなことがありました。いろいろな方が、いろいろな分野で光太郎智恵子、光雲を取り上げて下さり、ありがとうございました。

来年以降も引き続き、この世界がもっともっと広がっていくことを願ってやみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月31日

昭和39年(1964)の今日、東京宝塚劇場で開催された「第15回NHK紅白歌合戦」で、二代目コロムビア・ローズさんが「智恵子抄」(作詞・丘灯至夫、作曲・戸塚三博)を歌いました。

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二代目コロムビア・ローズさん。昭和37年に「白ばら紅ばら」でデビュー、「智恵子抄」でブレイクし、紅白歌合戦出場を果たしました。当時は紅白に出る、というのは大変なことでした。現在は米国・ロサンゼルスにお住まいで、時折日本に帰ってきてテレビ出演等をされています。

今年3月には、「コロムビア・ローズ三代そろい踏み」 ということで、中野サンプラザで開かれたコンサート「コロムビア大行進2015」で、初代、三代目のコロムビア・ローズさんと共演なさいました。

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さて、このブログ、一昨年は【今日は何の日・光太郎】、昨年は【今日は何の日・光太郎 補遺】、そして今年は【今日は何の日・光太郎 拾遺】ということで、まる3年間、光太郎・智恵子・光雲に関し、「その日」にあった出来事を紹介して参りました。

どうにもネタが見つからず、周辺人物の話になったり、日常の些細な出来事を取り上げたりもしましたが、365日×3年間=1,095件をご紹介する事ができました。

さすがにこれ以上は無理です。来年以降は別の方向性で行きますので、お楽しみに。

昨日からの続きで、今年あった光太郎智恵子、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。今日は5月から8月。

書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。

5月6日(水) 大田区のライブハウス・風に吹かれてに於いて、シンガーソングライター潮見佳世乃さん演奏の「歌物語コンサート 智恵子抄」が開催されました。

5月15日(金) 岩手花巻の高村山荘敷地で第58回高村祭が開催されました。特別講演は当方の「高村光太郎と花巻・山口」でした。

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同日、山荘に隣接する花巻高村光太郎記念館の企画展示「高村光太郎山居七年」(前期)が始まりました。太田村時代の光太郎の書、遺品等の展示でした。9月28日(月)まで。

また、花巻高村光太郎記念会より佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』が復刻されました。元版は昭和37年(1962)でした。

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やはり同日、日本古書通信社から月刊で発行されている『日本古書通信』第1030号で、廣畑研二氏「幻の詩誌『南方詩人』」の連載が始まりました。鹿児島の詩誌『南方詩人』に関しての調査で、これまで知られていなかった光太郎の翻訳等が掲載されていたことが報じられました。8月15日発行の第1033号まで連載されました。

5月17日(日) 仙台市Jazz Me Blues Nolaにおいて、「無伴奏ヴァイヲリンと朗読「智恵子抄」」の公演が行われました。ヴァイオリン・佐藤実治氏、朗読・荒井真澄さんでした。

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5月25日(月) 幻戯書房から奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』が刊行されました。「パンの会」会場にもなったメイゾン鴻乃巣店主・奥田駒蔵評伝。随所で光太郎に触れています。

5月25日(月)~8月16日(日) 武蔵野美術大学美術館に於いて「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」が開催されました。1月~4月、英国ヘンリー・ムーア・インスティテュートにて開催されたものの日本巡回。日本展では、木彫「白文鳥」、東京国立近代美術館及び台東区朝倉彫塑館所蔵の、二種類のブロンズ彫刻「手」(ともに光太郎自身が台座を木彫で制作したもの)が展示されました。ブロンズ部分を取り外して撮影された珍しい写真を含む図録が刊行されました。

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5月27日(水)~31日(日) 千葉県流山市の生涯学習センターで「後閑寅雄喜寿チャリティ書画展」が開催されました。「参考借用陳列敬仰作品」に、明治末と推定できる光太郎の未知の短歌が記された短冊(神田玉川堂さんの所蔵)が出品されました。

5月31日(日) NHKEテレで「日曜美術館 一刀に命を込める 高村光雲が生きた道」が放映されました。再放送、6月7日(日)。

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6月6日(土) 福島二本松市の智恵子生家で、智恵子の部屋を含む通常非公開の2階部分限定公開が始まりました。8月23日(日)まで、10・11月と平成28年2月の土日祝日に実施されました。

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6月9日(火) 静岡沼津の地方紙『沼津朝日』に「沼津に足跡残す高村智恵子 ゆかりの大熊家の所在知りませんか 智恵子が描いた一枚の絵 エッセイストがモデルの木を探す」という記事が掲載されました。坂本富江さんによる沼津での大正年間の智恵子足跡調査を報じています。

6月16日(火) 『朝日新聞』の東北版に「戦争協力、自ら罰した光太郎」と題する記事が掲載されました。同紙北上支局長・石井力氏の執筆でした。

6月17日(水)~21日(日) 東京芸術劇場ギャラリー1に於いて、「心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」が開催されました。東京精神科病院協会主催。智恵子の紙絵(複製)、書簡類などの関連資料が展示されました。図録には北川太一先生の「智恵子の場合」が収められました。

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7月1日(水) 青森県十和田市の広報紙『広報とわだ』に「特集 十和田湖再発見」が組まれ、「十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)」について詳しく紹介されました。

7月7日(火) 虹の会より文芸同人誌『虹』第6号が刊行されました。豊岡史朗氏「〈高村光太郎論〉晩年」が収められました。

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7月26日(日) 仙台に本社を置く東北の地方紙『河北新報』に「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」という記事が掲載されました。

7月29日(水) 十和田湖畔の観光交流センターぷらっとにおいて、「「乙女の像」でつながる花巻市太田地区のみなさんと十和田湖関係者との交流会」が開催されました。十和田市と花巻市が友好都市交流を行っている縁で、光太郎が戦後の七年間を暮らした旧太田村の太田地区振興会が十和田湖を訪問、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなどがこれを迎えました。

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7月30日(木) 晶文社から、森まゆみ氏著『「谷根千」地図で時間旅行』が刊行されました。古地図や絵図などを読み解くことで、光太郎ら千駄木周辺で生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトでした。
 同日、文芸同人誌『青い花』第四次81号が発行されました。宮尾壽里子氏「「第59回連翹忌」に参加して」を収めています。

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8月3日(月) BSフジで「発掘!歴史に秘めた恋物語〜高村光太郎と智恵子〜決して女神でない」が放映されました。ゲストコメンテーターは、詩人・郷原宏氏、女優・石田えりさん。北川太一先生、智恵子の里レモン会副会長・根本豊徳氏らがビデオ出演しました。

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8月7日(金) 紅書房から星野晃一編『多田不二来簡集』が刊行されました。詩人・多田不二のもとに寄せられた、光太郎からの5通を含む各界著名人194名からの書簡集です。

8月9日(日) 宮城県女川町きぼうのかね商店街で、第24回女川光太郎祭が開催されました。町内外の人々による朗読、当方による記念講演、北川太一先生の講話などが行われました。

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8月18日(火)~31日(月) 千葉県勝浦市芸術文化交流センター・キュステにおいて、第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」が開催され、千葉県立美術館所蔵の光太郎ブロンズ6点が展示されました。

8月19日(水) 『東京新聞』の千葉中央版に「〈九十九里の赤とんぼ 千葉の戦後70年〉智恵子が愛した砂浜 句に込めた平和への思い」が掲載されました。

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8月24日(月)~10月30日(金) ノエビア銀座ギャラリーにて、銅版画家山本容子さんの「山本容子のアーティスト図鑑」展が開催されました。雑誌『本の話』(文藝春秋)の表紙画として作成されたアーティストの肖像画32点が並び、光太郎と智恵子のそれも展示されました。

8月28日(金) 書肆心水から『異貌の日本近代思想1』が刊行されました。「高村光太郎……美と生命/日本美の源泉」を含みます。


明日は最終回的に、9月から12月篇をお届けします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月30日

平成9年(1997)の今日、元花巻高村記念会事務局長、浅沼政規が交通事故で歿しました。

浅沼は宮澤賢治の教え子で、戦後、光太郎がいた頃の太田小学校山口分教場(のち山口小学校に昇格・下記参照)の校長先生でした。その分教場を光太郎は「風の又三郎の舞台のよう」と言っていました。氏には『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995 ひまわり社)などの貴重な光太郎回想があります。

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ご子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、花巻の財団法人高村記念会理事として、毎年5月15日の高村祭開催に尽力されています。

早いもので、今年もあと残すところ3日となってしまいました。

今日から3日間、4ヶ月ずつ区切って、今年あった光太郎智恵子000、光雲をめぐる主な出来事を振り返ります。書籍等の刊行日は、奥付記載の日付を採りました。実際に店頭に並んだ日とずれている場合があります。

1月2日(金) 台東区東京国立博物館内の黒田記念館が、約三年間かけての耐震工事を終え、リニューアルオープンしました。二階黒田記念室入り口には、昭和7年、光太郎作の黒田清輝胸像が再び据えられました。

1月10日(土) NHKEテレにて、「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第5回吉本隆明」が放映されました。当会顧問・北川太一先生がビデオ出演し、吉本と光太郎について語りました。再放送、17日(土)。

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1月16日(金)~19日(月) 兵庫県伊丹市立演劇ホールAI・HALLにて、劇団青年団主催の演劇公演「暗愚小伝」が行われました。作・平田オリザ氏。光太郎が主人公。前年10月の東京公演の地方巡回でした。22日(木)~24日(土)、香川善通寺市四国学院大学ノトススタジオに巡回公演されました。

1月17日(土)~3月22日(日) 福島県いわき市立草野心平記念文学館で、「平成26年度所蔵品展 草野心平と高村光太郎往復書簡にみる交友」が開催されました。戦後、光太郎と心平の間に交わされた四十通余りの往復書簡、心平「高村光太郎病床日記」他が展示されました。

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全く同一の日程で、群馬県立土屋文明記念文学館において、第87回企画展「近代を駆け抜けた作家たち~文豪たちの文字は語る~」が開催され、光太郎書も展示されました。2月15日(日)、記念講演会「編集者の仕事とは」。講師・石原正康氏(幻冬舎取締役兼専務執行委員編集本部本部長)。

1月28日(水)~4月19日(日) 英国リーズ市ヘンリー・ムーア・インスティテュートにおいて、武蔵野美術大学との共催による「A Study of Modern Japanese Sculpture」が開催されました。光太郎彫刻「白文鳥」「手」、他に、橋本平八、佐藤朝山、水谷鉄也、宮本理三郎の作品が展示されました。

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1月31日(土) 東洋出版社から『未来を拓く 学校の力 地域と学校の心触れ合う教育活動』が刊行されました。全国連合退職校長会編。光太郎が卒業生である荒川区第一日暮里小学校の元校長・天野英幸氏「バトンを繋ぐ」を収めます。学校図書館の活用により、6年生の総合的な学習の時間に於ける、先輩・光太郎についての調べ学習や、全校生徒による光太郎詩の群読などについて述べられています。

2月9日(月) NHKBSプレミアムで、「にっぽん百名山 安達太良山」が放映され、「智恵子抄」に触れられました。再放送、15日(日)、19日(木)。

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2月11日(水) NHK総合テレビで「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」が放映されました。北川太一先生、作家・津村節子氏、太田村時代の光太郎を知る高橋愛子さんらがビデオ出演しました。司会、渡邊あゆみさん。再現ドラマの部分は、光太郎役を鈴木一真さん、智恵子役を前田亜希さんが演じました。再放送、2月18日(水)、11月4日(水)。

2月14日(土) ネイチュアエンタープライズから山岳雑誌『岳人』第813号が刊行されました。特集「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」。当方執筆の「高村光太郎と智恵子の上高地」を含む他、草野心平、尾崎喜八等にも触れています。

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2月20日(金) 八木書店から日本近代文学館編『近代文学草稿・原稿研究事典』が刊行されました。「第四部 作家的事例」で、群馬県立女子大学教授・杉本優氏が光太郎の項を担当しました。

2月21日(土)〜4月12日(日) 山口県立美術館で、「特別展 超絶技巧!明治工芸の粋」が開催されました。前年4月から日本橋三井記念美術館他で開催された展覧会の地方巡回。光雲作「西王母」「法師狸」の木彫二点が展示されました。郡山市立美術館(4月21日(火)~6月14日(日))、富山県水墨美術館(6月26日(金)~8月16日(日))、岐阜県現代陶芸美術館(9月12日(土)~12月6日(日))にも巡回しました。

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2月21日(土)〜5月17日(日) 京都市の清水三年坂美術館で、企画展「明治の彫刻」が開催され、光雲木彫「聖観音像」「月宮殿天兎」「老子出関」「西行法師」が展示されました。

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2月25日(水) ハーツ&マインズから品川区の地域情報誌『月刊おとなりさん』第380号が刊行されました。「特集 智恵子 愛と芸術の生涯」を収めています。

3月1日(日) 『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第四十三号』が発行されました。佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏「高村光太郎の短歌と美術評論 ―留学直後の作品を中心に―」を収めています。

3月10日(火) 十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会編刊『十和田湖乙女の像のものがたり』が刊行されました。平成25・26年度、十和田市づくり市民活動支援事業の助成により、建立から60年を経た「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の背景を多方面からまとめたもの。当方が監修と一部執筆を担当させていただきました。

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3月12日(木) 現代企画室から『少女は本を読んで大人になる』が刊行されました。クラブヒルサイド+スティルウォーター編。平成25年から翌年にかけ、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたもの。彫刻家・舟越保武の長女、末盛千枝子さんの「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」を含みます。

3月20日(金) 日本近代文学館から『日本近代文学館年誌―資料探索 第10号』が発行されました。上智大学教授小林幸夫氏「〈軍服着せれば鷗外だ〉事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎」を含みます。

3月21日(土)~6月21日(日) 宮内庁三の丸尚蔵館において、「第68回展覧会 鳥の楽園-多彩,多様な美の表現」が開催され、光雲木彫「松樹鷹置物」「矮鶏」が展示されました。

4月1日(水) 東京国際芸術協会から、野村朗氏作曲『連作歌曲智恵子抄~その愛と死と~』楽譜集が刊行されました。森山孝光、康子夫妻演奏による同曲のCDも同日発行されました。

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4月2日(木) 第59回連翹忌が、日比谷松本楼に於いて開催されました。

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この日、『光太郎資料43』が参加者に無料配布されました。当会の刊行です。

また、高村光太郎研究会より『高村光太郎研究36』が刊行されました。北川太一先生「高村光太郎・最後の年 1月⑵」、山田吉郎氏「高村光太郎と雑誌『創作』―自選短歌を中心に」、坂本富江さん「詩人野澤一という人―そして高村光太郎との関係性―」、当方執筆の「光太郎遺珠⑩」「高村光太郎没後年譜」、野末明氏「高村光太郎文献目録」「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」。

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同日、文治堂書店から、北川太一先生の『ヒユウザン会前後―光太郎伝試稿―』が刊行されました。『高村光太郎研究』連載の単行本化です。

やはり同日、岩手花巻でも、旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くで詩碑前祭、松庵寺にて花巻連翹忌が開催されました。

さらに同日、和歌山県高野町の高野山真言宗総本山・金剛峯寺で、開創千二百年記念大法会が始まりました。これまで開帳された記録が残っていない、高野山の総本堂、金堂の本尊・薬師如来像(光雲作)の特別開帳が行われました。5月21日(木)まで。

この日はいろいろ重なり、港区の増上寺でも、新たに宝物展示室がオープンしました。光雲が監修に名を連ね、東京美術学校が制作した英国ロイヤルコレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」(徳川二代将軍・秀忠霊廟)が展示されています。明治43年、ロンドンで開催された日英博覧会に東京市の展示物として出品されたものです。

4月16日(木) 墨田区すみだトリフォニーホールに於いて「第25回 21世紀日本歌曲の潮流」が開催され、森山孝光、康子夫妻により、野村朗氏作曲『連作歌曲智 恵子抄~その愛と死と~』が演奏されました。

4月20日(月) 小学館より石川拓治氏著『新宿ベル・エポック 芸術と食を生んだ中村屋サロン』が刊行されました。中村屋創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻、碌山荻原守衛を中心とし、光太郎にも触れています。

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4月22日(水) 碌山美術館より『荻原守衛書簡集』が刊行されました。守衛の書簡約百五十通、光太郎を含む守衛宛の書簡が、原本が残る物は全て写真付で収められています。

4月28日(火) 花巻高村光太郎記念館がリニューアルオープンしました。平成25年5月から、元の花巻市歴史民俗資料館を改装し、暫定オープンしていたものが、全面的な改修工事を行い、展示室面積はおよそ2倍となりました。

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4月30日(木) 邑書林からわたなべじゅんこ氏著『歩けば俳人』が刊行されました。光太郎を含む十五名の文化人の俳句に言及しています。

明日は、5月~8月の出来事を。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月29日

平成16年(2004)の今日、東海テレビ・フジテレビ系で放映されていた昼の帯ドラマ「愛のソレア」が最終回を迎えました。

荻野目慶子さん主演。東海テレビさん制作のいわゆる「ドロドロの昼ドラ」です。昭和30~50年代を舞台とし、随所に光太郎の詩が用いられました。

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11月も下旬となりました。そろそろ来月の話を書きたいと思います。

12月10日は「世界人権デー」。第二次世界大戦後、昭和23年(1948)に開催された第3回国連総会で、「世界人権宣言」が採択された日にちなんで制定されました。さらに日本では、それに先立つ12月4日から10日までを「人権週間」と位置づけています。そこで、この時期、各地の自治体さんなどが中心となって、「人権研修会」「人権フェスタ」などの催しが開かれる場合があります。

そういう際に上映されてきた、兵庫県人権啓発協会さん作成の「ほんとの空」というドラマがあります。光太郎の詩「あどけない話」にからめ、福島の原発事故による風評差別などを扱ったもので、平成13年度には人権啓発資料法務大臣表彰映像作品部門優秀賞を受賞した作品です。白石美帆さん他のご出演で、上映時間は36分です。

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メインは東日本大震災に伴う原発事故によるいわれなき風評被害ですが、その他にも高齢者に対する偏見、外国人や障害者、同和地区に対する差別、ネット上の無責任な書き込み、そしていじめまで、36分の中に人権問題がてんこ盛りです。それでいて、それぞれ「あるある」と感じさせるリアリティーがあります。

今年も各地の人権関連行事で上映されるという情報を得ています。愛媛県松山市北条公民館さんでの「人権学習会 ほんとの空」(11/1~29)、奈良県葛城市さんが「人権教育地区別懇談会」(11/7~21)、岡山県真庭市さんで「人権を考える市民の集い」(12/6)……探せばまだあると思います。

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今後、同様の企画を考えている自治体さん(あるいは学校さんなど)、ぜひこちらの上映をよろしくお願いします。制作元の兵庫県人権啓発協会さんで団体向けに貸し出しを行っていますし、個人では公益財団法人 人権教育啓発推進センターさんの人権ライブラリーから借用できます。

また、ぽつり ぽつりと全国の地方テレビ局さんで放映されているようですが、全国放映されたという話を聞きません。ぜひ放映もしていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月20日

平成23年(2011)の今日、いわき市立草野心平記念文学館で、朗読祭「ほんとの空~智恵子抄に故郷・福島への想いを込めて~」が開催されました。

東日本大震災のあった年です。二部構成で、第一部は一般参加者による朗読、第二部では、緑川明日香さんによる朗読が披露されました。

3日連続二本松ネタで攻めましたので、さらにもう1件。二本松から市民講座の情報です。 

智恵子講座’15

テーマ  高村智恵子に影響を与えた人達

会場は全て二本松市市民交流センター( JR 二本松駅前)

10/14追記 第2回から第4回の会場は福島県男女共生センターに変更だそうです。

第1 回 1 0 月1 2 日( 祝) 午前9 時3 0 分受付1 0 時開会
 題   「長沼家の家族とふるさと二本松」
 講師  渡辺秀男さん( 智恵子の里レモン会長)
第2 回 1 1 月1 5 日( 日) 午前1 0 時開会
 題   「油井小学校と福島高等女学校の先生達」
 講師  小島喜一さん( 福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭)
第3 回 1 2 月2 0 日( 日) 午前1 0 時開会
 題   「成瀬仁蔵と日本女子大学校」
 講師  小山弘明さん( 高村光太郎連翹忌運営委員長)
第4 回 1 2 月2 0 日( 日) 午後1 時開会
 題   「松井昇と太平洋画会研究所」
 講師  坂本富江さん( 作家、画家、智恵子研究者)

募集定員 3 0 名( 定員になり次第〆切ります)
参 加 費  今期4 回4 0 0 0 円( 最終日の昼食代含みます)
単回の受講も可能です。1 回1 0 0 0 円( 各1 週間前まで申し込み)

プレミアム紹介
 第1 回終了後→ 大玉村県民の森民話茶屋、あだたら高原美術館「青」( 希望者で実施)
 第2 回終了後→ 大山忠作美術館、安達ヶ原ふるさと村「先人館」

申し込み先 智恵子のまち夢くらぶ事務局 TEL 0 2 4 3 - 2 3 - 6 7 4 3
主 催   智恵子のまち夢くらぶ
後援
 二本松市 二本松教育委員会 智恵子の里レモン会 あだち観光協会
 二本松観光協会あだたら商工会 
二本松商工会議所 二本松未来創造ネットワーク
 二本松青年会議所 NPOまちづくり二本松 
福島民報社 福島民友新聞社
 福島中央新報社 ラジオ福島


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単回での受講も可能とのこと、ぜひどうぞ。当方も講師を仰せつかっています。


ところで二本松といえば、先週土曜、10月3日の朝、BSフジさんで、「いっしょに歩こう!ふくしま・わがまま!気まま!旅気分 愛か、お笑いか!?初恋カップルIN福島~城下町・二本松の旅」のオンエアがありました。当方、録画してDVDにダビング、モンデンモモさんのコンサート、レモン忌のため、二本松に向かう車中で拝見しながら行きました。

郡山ご出身のたんぽぽ白鳥久美子さんと、「彼氏」のチェリー吉武さん、福島テレビアナウンサーの藺草英己さんによる珍道中でした。

光太郎智恵子関連のスポットも満載でした。

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スポンサーは二本松観光協会さんでした。

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霞ヶ城にて、二本松少年隊のみなさん。

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わかりにくいのですが、光太郎智恵子の顔ハメ。

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智恵子生家近くの「智恵子純愛通り」碑前では、新野洋市長がご登場。

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その他、グルメ、レジャー、温泉などの情報もてんこ盛り。最後は再び智恵子生家で締めでした。

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これから有名な菊人形の期間になりますし、智恵子記念館では紙絵の実物展示、智恵子生家では二階の智恵子の部屋の限定公開などもあります。

他にもいろいろ見所の多い二本松。ぜひ智恵子講座と一緒に観光もどうぞ。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月6日

昭和14年(1929)の今日、光太郎が題字を揮毫した、山本和夫著『武漢攻略戦記 山ゆかば』が刊行されました。

前年に智恵子を亡くした光太郎、その空虚感を埋めるため、また、世間と交渉を絶って芸術精進に邁進した生き方が智恵子の心の病を引き起こしたという反省から、積極的に戦争協力に進んで行きます。

自身の詩文でも国民を鼓舞する内容を書きまくった他、こうした他人の著作でも題字揮毫や序跋文の執筆などで、一種の戦争協力を行いました。

智恵子関連のイベント情報を2件ご紹介します。 

まずは福島・いわきから、智恵子紙絵の複製展示販売会です。 

甦る高村智恵子・紙絵の世界 光太郎への愛のメッセージ

期 日 : 2015年10月02日~10月05日
時 間 : 9時から18時まで
場 所 : 人形の東月いわき総本店2階フロア 福島県いわき市自由ヶ丘61-7
入場料 : 無料

高村智恵子紙絵の世界として智恵子が製作した紙絵の復刻版を展示即売いたします。
同時開催、「大リヤドロ展」「大掛軸展」

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もう1件、富山から市民講座です。 

市民大学たかおか学遊塾 高村光太郎・智恵子の世界を談ろう会

市民教授 : 茶山千恵子(ちゃやまちえこ)  富山県子どもと詩を楽しむ会 劇団「喜び」主宰 女優
時  間 : 土曜日 10:00~12:00  定員 10人
運  営 費 : 1,500円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,000円(初回納付)
会  場 : 高岡市生涯学習センター6階和室 
富山県高岡市末広町1番7号

高村光太郎『智恵子抄』を通して真実に生きる姿、愛について談り愛(かたりあい)ませんか?

 10/3(土) 高村光太郎詩集より
 11/7(土) 智恵子抄より①
 12/5(土) 智恵子抄より②
 1/9(土)  智恵子抄より③
 2/13(土) 高村光太郎の晩年

同じ茶山氏による講座「高村光太郎・智恵子の世界を語ろう」が、前期講座として5月から9月にかけて行われていましたが、後期講座として「語ろう」が「談ろう」になって開催されるようです。


こうした活動を通し、光太郎智恵子の名が身近に感じられるようになっていってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月1日

昭和26年(1951)の今日、雑誌『婦人公論』に散文「「樹下の二人」」が掲載されました。

「自選自解現代詩人代表作品集」というコーナーで、光太郎、佐藤春夫、室生犀星、堀口大学らの作品を集め、それぞれの詩の後に作者による解説を添えたコーナーでした。

光太郎は大正12年(1923)に書かれた詩「樹下の二人」について書いています。

 智恵子は東京に居ると病気になり、福島県二本松の実家に帰ると健康を恢復するのが常で、大てい一年の半分は田舎に行つてゐた。その年(大正十二年春)も長く実家に滞在してゐたが、丁度叢文閣から「続ロダンの言葉」が出てその印税を入手したので、私はそれを旅費にして珍しく智恵子を田舎の実家に訪ねた。智恵子は大よろこびで、二本松界隈を案内した。二人は飯坂温泉の奥の穴原温泉に行つて泊つたり、近くの安達が原の鬼の棲家といふ巨石の遺物などを見てまはつた。或日、実家の裏山の松林を散歩してそこの崖に腰をおろし、パノラマのやうな見晴しをながめた。水田をへだてて酒造りである実家の酒倉の白い壁が見え、右に「嶽(だけ)」と通称せられる(安達太郎山)が見え、前方はるかに安達が原を越えて阿武隈川がきらりと見えた。

文中、「大正十二年春」とあるのは「大正九年春」の誤りです。詩は大正12年(1923)に作られましたが、「続ロダンの言葉」の刊行は大正9年(1920)です。

詩は以下の通り。

    樹下の二人
 
   ――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――000

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。

 かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、

 うつとりねむるやうな頭(あたま)の中に、
 ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
 この大きな冬のはじめの野山の中に、
 あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
 下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

 あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
 ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
 ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
 ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
 無限の境に烟るものこそ、
 こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
 こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
 むしろ魔もののやうに捉へがたい
 妙に変幻するものですね。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。

 ここはあなたの生れたふるさと、
 あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
 それでは足をのびのびと投げ出して、
 このがらんと晴れ渡つた北国(きたぐに)の木の香に満ちた空気を吸はう。
 あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
 すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
 私は又あした遠く去る、
 あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
 私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
 ここはあなたの生れたふるさと、
 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
 まだ松風が吹いてゐます、
 もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。


明後日から1泊で二本松に行って参ります。初日はモンデンモモさんのコンサート、翌日は智恵子命日の集い、第21回レモン忌にお邪魔します。

報道ではありませんが、新聞には欠かせないコラム。最近、光太郎が取り上げられたコラムをご紹介します。 

まずは『神戸新聞』さん。

正平調 2015/08/30

大事にする言葉を毛筆でしたためる。揮毫(きごう)は、筆遣いはもちろん、どんな言葉を選ぶかに人となりがうかがえ興味が尽きない◆とりわけ勝負に生きるプロ棋士の揮毫は味わい深い。将棋の内藤國雄さんは「伸び伸び しみじみ」だ。自在を旨とする内藤さんらしい。「遊藝」は囲碁の羽根直樹さん。勝敗にとらわれぬよう心をもみほぐす意味と察する◆将棋界の第一人者羽生善治さんは「玲瓏(れいろう)」を好む。いつだったか色紙に書いてもらったら、物静かな印象とまったく違う。激しい筆運びで、戦う人の素顔に触れた思いがした◆先日、本紙主催の王位戦で5連覇を遂げた。記事に「玲瓏」にまつわる話がある。透き通る美しさ。それを表す2文字に「まっさらな気持ちで」との思いを託しているのだという◆これでタイトルの通算獲得数が93期になった。歴代1位の自身の記録を自身で塗り替えていく。高村光太郎の詩「道程」は「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」で始まる。この「僕」を「羽生」と書き換えたくもなる。力は衰えない◆タイトルを総なめにした若い頃は「泰然自若」と書いた。平常心で、との戒めだ。まだ44歳。勝ち星を重ねるこの先、どんな言葉を胸に81マスと向き合うのだろう。揮毫の移り変わりだけで、棋士の人生が読み解けそうにも思う。


以前にもご紹介しましたが、『神戸新聞』さんの「正平調」では、たびたび光太郎を取り上げて下さっています。ありがたいかぎりです。


続いて『毎日新聞』さん。古今の俳句を一句ずつ紹介するコラム「季語刻々」が、社会面に掲載されていますが、先週から今週にかけ、4日連続で光太郎に触れて下さいました。著者は俳人の坪内稔典氏。ただ、紹介した俳句は光太郎以外の作品です。

季語刻々

焼茄子(やきなす)の皮のくろこげほどでなし 岡本高明(こうめい)  
何が「焼茄子の皮のくろこげほどでな」いのだろう。愛情か人生? 句集「ちちはは」から引いた。高村光太郎は敗戦後の数年を岩手・花巻の西郊で過ごした。小屋で独居生活をしたのだが、1946年9月4日の日記には、「茄子皆大きな実をつける」とある。夕食でさっそく焼き茄子にし、酢みそで食べた。その感想はただ一語、「美味」。(2015/09/04)

採る茄子(なす)の手籠にきゆァとなきにけり 飯田蛇笏
「きゆァ」と鳴くって、いいなあ。こんな茄子だと生でかじれそう。昨日、高村光太郎の日記を引いたが、1946年9月5日の朝食は冷や飯とみそ汁。みそ汁の具は「ジャガ、わかめ、茄子」など。彼は茄子を自家栽培していた。翌6日の記事には「畑の茄子五六個とる。相当になり居れり」とある。茄子を楽しむ日が続いている。(2015/09/05)

やわらかく包丁はじくトマトかな 乳原孝
とりたて? ぷりぷりのトマトが、「切らないでかぶりついてよ」と言っている感じ。作者は私の俳句仲間だ。1946年9月6日、岩手・花巻の郊外にいた高村光太郎は、野菜の栽培を楽しんでいた。この日は起きるとすぐにトマトの支柱を補強した。「トマト赤きもの二個とる。此頃(このごろ)はトマト殆と毎日とる」と日記に書いている。(2015/09/06)

二階より駆け来(こ)よ赤きトマトあり 角川源義
「晴、ひる間暑気つよく、朝夕涼し。明方は冷える。五時にてはまだうすぐらし。日の出六時半頃」。これは1946年9月7日の高村光太郎の日記。彼は岩手・花巻の郊外にいたが、この時期、夏と秋が入り交じっていることが日記からよく分かる。源義はKADOKAWAの創業者、俳人でもあった。この句、トマトが実にうまそう。(2015/09/07)

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すべて筑摩書房『高村光太郎全集』第12巻に収められている昭和21年(1946)の日記にからめています。花巻郊外太田村での山居生活は、昭和20年(1945)から7年間続き、穀類は配給に頼らざるを得なかったものの、野菜や芋類はほぼ自給できていました。

この頃の光太郎自身の俳句を一句。

新米のかをり鉋のよく研げて

昭和20年(1945)、太田村の山に入って間もなくの作です。鉋(かんな)は大工道具の鉋。山小屋生活を始めるに当たって、小屋の流しや棚、机などの調度品類を、光太郎は自作しており、それにかかわるのでしょう。新米は村人が持ってきてくれたとのこと。

下の写真、大工仕事をする光太郎(昭和20年=1945)と、トマトを作る光太郎(昭和25年頃=1950頃)です。

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農と俳句、ともに四季の移ろいとの対話、格闘から生まれるものです。そして、古来から自然の営為と不即不離の関係を続けてきた日本人の魂の原点に関わると思います。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月10日

大正2年(1913)の今日、『国民新聞』に「女絵師(五) 新しい女智恵子」掲載されました。

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いわゆるゴシップ記事で、智恵子を誹謗中傷するものでした。

その書き出しはこうです。

女の誇(プライド)に生き度いとか何んとか云つて威張つてる女、 節操の開放とか何とか云つて論じ立てる女、 之れが当世社会の耳目を集めて居る彼(か)の新らしい女である 長沼智恵子は矢張りさうした偉い考へをもつた青鞜社同人の一人である 女子大学を出てから太平洋画会の研究所に入つたのが四十二年で昨年辺迄同所に通つて居た、見た所沈着(おちつ)いた静かな物言ひをする女であるがイザとなれば大に論じて男だからとて容捨はしない、研究所の男子の群に交つて画を描いて居ても人見しりするやうな事は断じてなく話しかけられても気に喰はぬ男なら返辞は愚か見返りもしない 

ある意味、真実かも知れませんが……。

さらに結びの部分では、

近頃に至つては高村光太郎氏と大いに意気投合して二人は結婚するのではないかと迄流言(いは)れたが 智恵子は却々(なかなか)もつて結婚なぞする模様はない 矢つ張友人関係の気分を心ゆく許り味ははうとして居る 而(そ)して青鞜社講演会なぞにも鴛鴦の如(や)うに連れ立つて行けば旅行にも一緒に出蒐(でかけ)て居る 玆(ここ)暫くは公私内外一致の行動を取るのださうな

となっています。旅行云々は、ちょうどこの頃二人で訪れていた上高地への婚前旅行を指します。この5日前には、『東京日日新聞』に、「美くしい山上の恋」というゴシップ記事も載りました。

昨日も、都内に出、3件の用事を済ませて参りました。

一つずつ詳しくレポートしたいところなのですが、今日から花巻に泊まりがけで出かけますので、そちらのレポートも書かねばならず、昨日の分はダイジェストで記述します。

まず、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さん。企画展「鳥の楽園-多彩,多様な美の表現」を観て参りました。

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先月から始まっているのですが、一昨日から「中期」日程(5/17まで)に入り、展示替えで光雲木彫が展示されています。明治22年(1889)作の「矮鶏(ちゃぼ)置物」と、大正13年(1924)作の「松樹鷹置物」です。

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どちらも平成14年(2002)、茨城県立近代美術館で開催された企画展「高村光雲とその時代」展で観て以来、13年ぶりに拝見しました。何度観ても、光雲の刀技の冴えは、神業の域です。

「矮鶏」はポストカードが販売されていました。さらに図録を購入。花巻から帰ってからゆっくり読みます。


続いて、都下・調布の武者小路実篤記念館さんへ。こちらはこのブログを始める前、震災の年の夏にお邪魔したことがあり、2度目の訪問でした。その際は、収蔵されている光太郎から武者小路宛の葉書の調査でした。

こちらも一昨日、春の特別展「一人の男~武者小路実篤の生涯~」が始まりました(6/14まで)。同館の特別展では、これまでに「実篤と○○」、「白樺派と××」的ないわばミクロ的視点の企画が多かったようですが、今回は、生誕130年記念やら開館30周年やらということで、実篤その人をマクロ的に取り上げ直す、といったコンセプトのようでした。すると、光太郎もからんできますし、同館から招待券を戴きましたので、観に行った次第です。

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入ってすぐ、巨大な年譜が展示されており、ざっと見ただけでも武者小路が主宰したり関わったりした雑誌で、光太郎が寄稿している雑誌が結構あることに、改めて気づきました。『白樺』をはじめ、『生長する星の群』、『大調和』、『星雲』、『向日葵』、『心』など。また、それらの現物も並んでいましたし、展示されていた写真パネルには光太郎が写っているものも。興味深く拝見しました。

こちらも詳しくレポートしたいところですが、先を急ぎます。すみません。


最後に練馬の光が丘。「智恵子抄」を中心として、光太郎詩にオリジナルの曲をつけて唄っているシャンソン歌手のモンデンモモさんの「ミニミニライブ 第13回」です。

何が「ミニミニ」かと言いますと、会場です。ホールやライブハウスなどではなく、民家の一室(それも一戸建てでなく、光が丘団地の集合住宅)でやってしまうという大胆な試みで、したがって、キャパシティー的に「ミニミニ」です。それでも20名ほどお客さんが集まっていました。

プログラム的には「ミニミニ」ではなく、みっちり2時間。前半が「智恵子抄」ということで、モモさんオリジナル曲を中心に、モノドラマ形式のステージでした。後半は「イタリアン・ポップス」。伴奏はもはや「相棒」と化しているピアニストの砂原dolce嘉博さん。いつもながらに息の合った演奏でした。

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民家の一室だけあって、非常に家庭的な雰囲気、さらに終演後にはお部屋をご提供下さった澤村様ご夫人の手料理を賞味しつつの懇親会も行われました。当方、帰ってやることもあり、途中で退散いたしましたが。


というわけで、またまた有意義な1日でした。先述の通り、今日から花巻です。明日は花巻高村光太郎記念館のリニューアルオープンと言うことで、そちらの式典、さらに午前中は報道陣への内覧があり、当方も説明のお手伝いです。特になにもなければ1泊009で(宿泊は光太郎も泊まった鉛温泉さん)帰る予定ですが、もしかすると滞在が延びるかも知れません。いずれにせよ、有意義な旅としたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月27日

大正8年(1919)の今日、『時事新報』で連載「ホヰツトマンのこと」が始まりました。

ホヰツトマン」は、ウォルト・ホイットマン(1819~1892)。アメリカの詩人です。光太郎は大正6年(1917)から、『白樺』などにホイットマンの「自選日記」の翻訳を発表、同10年(1921)には単行本として刊行しています。

昨日は高村光太郎の忌日ということで、日比谷松本楼様におきまして、第59回連翹忌の集いを開催いたしました。

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開会は午後5時半でしたが、当方、その前に、参会者を代表して、駒込染井霊園の高村家墓所に参拝しました。

例年、連翹忌の日は雨です。光太郎が亡くなった昭和31年(1956)の4月2日は前日から季節外れの春の大雪でしたし、その後も雨になる確率が非常に高いのです。昨年も会が終わって外に出るとぽつぽつ雨でしたし、一昨年は春の大嵐でした。しかし、昨日は珍しく快晴。名の由来となった染井、本場のソメイヨシノが見事でした。

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松本楼さんのある日比谷公園も桜が満開、というか少し散り始めており、雨や雪の代わりに桜の花びらが降っていました。「桜吹雪」と云うほどではなく、「桜小雪」の状態でした(笑)。

少し遅れて5時40分、開会。まずは光太郎に、そして、昨年8月に逝去された光太郎の令甥、高村規氏をはじめとする、この一年になくなった関係者の皆さんに、黙祷を捧げました。続いて、当会顧問、北川太一先生のご挨拶、高村規氏令息・高村達氏の御発声による献杯。

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さらに、昨年9月にコンサート もうひとつの智恵子抄」をなさった音楽ユニットPrhymx(ぷらイム)のお二人、テルミン奏者の大西ようこ様(大西様はやはり昨年10月にはotoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』でも演奏なさいました)、ギターの三谷郁夫様による演奏。

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哀愁漂うカッチーニの「アヴェ・マリア」、さらに大西様の演奏に合わせ、三谷様の朗読「Nー女史に」。会に花を添えて下さいました。

その後は会食、歓談しつつ、多くの方にスピーチを戴きました。

今月28日にグランドオープンとなる花巻高村光太郎記念館がらみで、花巻市長・上田様。


過日ご紹介した、光太郎詩「四人の学生」のモデルになった深沢竜一様と、そのお話を聴く際に同道された女優の渡辺えりさん。

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つい最近も福島の地方紙で紹介された、日本画家・大山忠作氏のお嬢さん、女優の一色采子さん。

やはり生前の光太郎を知る、元建設大臣、水野清様。水野様は光太郎の親友・水野葉舟のご子息です。

『歴程』同人の伊武トーマさん

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新宿中村屋サロン美術館の太田様、河野様。太平洋画会の坂本富江様。作曲家の野村朗様。詩人・野沢一の研究者・坂脇秀治様。福島二本松の智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さん。山岳雑誌『岳人』編集部の加藤様。信州安曇野碌山美術館の五十嵐館長。北川先生のご著書を出版されている二玄社さん、さらに文治堂書店さん(代理で曽我様)、元かわうち草野心平記念館長・晒名様。

最後の締めを、「連翹忌」の名の由来となった、光太郎の愛した連翹が咲いていた、その終焉の地・中野のアトリエの所有者の中西利一郎様。中西様には高校生だった光太郎終焉の時の思い出を語っていただきました。

今更ながらに、たくさんの人々に愛され続けている光太郎の遺徳を、しみじみと感じました。

ご参会の皆様、さらに資料袋詰めやら受付やら物販等でお世話になった皆様、ありがとうございました。

来年は第60回連翹忌となります。したがって、光太郎歿後60年のメモリアルイヤーとなります(メモリアルイヤーといえば、智恵子生誕130年でもあり、いろいろな企画が進むことを期待します)。さらに閏年の関係で、来年の連翹忌は土曜日です。このところ、年度初めの平日と云うことで、なかなか参加したくても不可能だった方も、来年はよろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月3日

昭和37年(1962)の今日、一ツ橋の如水会館で、第6回連翹忌が開催されました。

この年は、4月2日が日曜日。会場の関係で2日に行えず、3日の月曜日に執り行いました。その後も何度かそういうことがありましたが、会場が松本楼様に移ってからは、曜日に関係なく4月2日に挙行しております。

年2007回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その43集、原稿が仕上がり、印刷に廻しました。

以前にもご紹介しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、当会顧問にして高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて7冊目の刊行ということになります。

毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。

「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている雑誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。

今回は「造形作家として(五) 十和田湖畔の裸婦群像」と題し、最晩年の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)にかかわるものを紹介しています。


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光太郎回想・訪問記 「高村光太郎氏とアトリエと袴と」 高山辰夫」 / 「高村光太郎氏のこと」 近藤憲二
大正期の光太郎回想です。
 
光雲談話筆記集成   浅草の話(下)その2  『漫談 江戸は過ぎる』より
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第七回 安達(福島)
光太郎や智恵子、光雲ゆかりの地の古い絵葉書の画像と共に、その地の概要、光太郎や智恵子・光雲との関わりなどを紹介しています。

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音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(三)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。

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高村光太郎初出索引(七) は行(一)


4月2日の第59回連翹忌の席上でご参会の皆様には無料で配布いたします。また、当会名簿にお名前のある方で、連翹忌当日ご欠席の方には後ほど郵送いたします。

ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。

併せて連翹忌の参加者も募っております。よろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月1日

平成元年(1989)の今日、NTT東北岩手支社より、50度数テレホンカード「小屋の入り口に安らぐ高村光太郎」が発行されました。

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花巻郊外太田村の山小屋での光太郎と、当時の筆跡「人は野をおもひ山をおもふ 光」が印刷されています。

携帯電話の普及により、めっきり見かけなくなったテレホンカードですが、当方、光太郎智恵子、光雲がらみのテレカを50枚程持っています。ネットオークションなどで見かけると、ついつい買ってしまいます(笑)。

当方も所属している「高村光太郎研究会」という会があります。そちらの機関誌的な雑誌『高村光太郎研究』が、年刊で発行されています。発行日は毎年、光太郎忌日・連翹忌の日に設定しています。

こちらが昨年刊行の第35号です。

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第36号の刊行が近づいて参りまして、当方の連載「光太郎遺珠」、それから今年から担当することになった「高村光太郎没後年譜」の校正稿が送られて来、昨日、朱筆を入れたものを主宰の野末明氏に返送しました。そちらが2校ということで、これで校了です。

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以前にもご紹介しましたが、「光太郎遺珠」は、筑摩書房の『高村光太郎全集』が平成10年(1998)に完結した後、さらに見つかり続ける光太郎智恵子の作品を網羅するものです。

今回載せるものは以下の通りです。

まず、短歌が一首。昭和26年(1951)のもので、もともと与謝野晶子の没後十周年記念講演会に際し、電報として贈られた片仮名書きものが『高村光太郎全集』に収められていますが、雑誌『スバル』に漢字ひらがな交じりで掲載された形を見つけましたので、そちらを載せました。

それから戦後の談話筆記。花巻郊外太田村の山口小学校長だった浅沼政規が、PTAの会合、講演会などで語った光太郎の言葉を記録していたものです。浅沼は最晩年の光太郎に校閲を求め、活字にすることを希望していましたが、光太郎の健康状態がそれを許さず、その時点ではその話は流れました。平成7年(1995)に浅沼が花巻で私刊した『高村光太郎先生を偲ぶ』という書物に掲載されていますが、広く世に知らしめるため、子息の浅沼隆氏に承諾を得、掲載させていただきます。ただ、量が多いので、今年から3~4カ年計画です。

雑纂として、新聞記事に付された光太郎のコメントが3件。日本女子大学校創設者・成瀬仁蔵の胸像制作を依頼された際のものと、太平洋戦争直前、大政翼賛会第一回中央協力会議に出席する際のコメント、そして十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)除幕のため、昭和28年(1953)秋に青森入りした際の談話です。

乙女の像に関しては、制作にかかる前の構想スケッチ、その完成記念会での挨拶に用いたメモ書きも載せました。

書簡が13通。昨年開催された盛岡てがみ館さんでの企画展「高村光太郎と岩手の人」、山形の最上義光歴史館さんの企画展「第6回 市民の宝モノ2014」、鎌倉の笛ギャラリーさんでの「回想 高村光太郎 尾崎喜八詩と友情」に出品されたものや、『朝日新聞』さんの岩手版で発見が報じられたもの、などです。

さらに座談会が一篇。戦時中のものです。

書簡に関しては新しい発見をどんどん載せていますが、その他はページ数の都合により、数年前に発見したものを順次小出しにしている状態です。


「高村光太郎没後年譜」は昨年1年間の光太郎がらみの出来事――このブログでご紹介してきたようなこと――を時系列でまとめたものです。やはりページ数の都合があり、大きな出来事しか載せられないのが残念ですが、なるべく記述を簡潔にし、できるだけ多くの項目を設定しました。

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『高村光太郎研究』第36号、4月2日の第59回連翹忌の席上で販売開始、頒価は1,000円です。上記以外に北川太一先生の玉稿なども載るはずです。ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。後ほど郵送いたします。

併せて連翹忌の参加者も募っております。よろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月28日

昭和4年(1929)の今日、萬里閣書房から河野桐谷(こうのとうこく)編 『漫談 江戸は過ぎる』が刊行されました

540頁にわたる大冊ですが、「維新の巻」「江戸の巻」の二部に分かれ、30余人の談話から構成されています。

「はしがき」によれば「五六年前から、田中智学先生、高村光雲先生等の下に、江戸文化研究の座談会を月一回開いて、それが国醇会の名の下に今でも継続してゐる。」とあります。

光雲談話は「江戸の巻」の半分以上を占め、題目は「歳の市の話」「両国の夕凉み」「浅草の話(上)」「浅草の話(下)」「新落語 喜の字」。いずれも幕末から明治初年の回想譚ですが、その記憶力には舌を巻かされます。光太郎の生まれ育った背景、その思想上のバックボーンを 知る上で、貴重な記録です。

左の画像は函、右の画像は表紙と背です。題字揮毫は光雲です。

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上記の『高村光太郎研究』とは別に、当会で刊行している『光太郎資料』という冊子がありますが、そちらで「光雲談話筆記集成」という項を設け、こちらの内容も少しずつご紹介しています。

また、昭和44年(1969)には、新人物往来社から復刻版が出されています。

版元の萬里閣書房は本書以外にも、光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)、東野善一郎著『天誅組天誅録』(同)、篠田鉱造著『幕末百話』(同)、子母沢寛著『新選組遺聞』(同)など、江戸時代を回顧する内容の書籍をこの時期に上梓しています。これはこの当時、いわゆる「江戸ブーム」が起こったことが背景にあります。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第59回連翹忌を開催いたします。
 
昨年の第58回連翹忌の様子はこちら

当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。

3月30日追記 申し込みは締め切らせていただきました。

詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。 

第59回連翹忌の御案内                     

記                                                        

                                       
日 時  平成27年4月2日(木
) 午後5時30分~午後8時
 
会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)
 
会 費  10,000円


御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(日)までにご送金下さい。
会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
 郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。
              口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

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申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 
当日、お時間に余裕のある方には参加者に配付する資料の袋詰めをして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、 ご協力の程、よろしくお願い致します。当方、3時頃には会場入りしております。


当会顧問にて、高村光太郎記念会事務局長、北川太一先生の玉稿も戴いております。


ご 挨 拶

 草野心平さんが「この日を連翹忌と名づけて今後ひきつづき高村さんの思い出を語りあいたいと存じます。」と最初の案内状に書いてから、今年はもう五十九回目になります。

 その間にたくさんの出来事がありましたが、高村さんや智恵子さんを敬愛する皆さんに支えられて、私たちの心の中のお二人の姿は、ますます強く、ますます大きく生き続けてきました。

 荒々しい自然現象や、異常な世界情勢のなかで、様々な困難を乗りこえて実現し、いまも企てられつつある出来事の詳細は、今年もそれぞれ親しく報告されるでしょう。

 お元気でお目にかかれるのを楽しみにしております。

平成二十七年 春
                                        高村光太郎記念会 事務局長 北川太一

以上、よろしくお願い致します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月14日

昭和29年(1954)の今日、新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵が歿しました。

愛蔵は明治34年(1901)に、東大赤門前にてパン屋の中村屋を創業、のち、本店を新宿に構えます。同郷の彫刻家・荻原守衛を援助し、守衛を中心に光太郎を含む若き芸術家達が中村屋に集い、中村屋サロンが形成されました。

とうとう大晦日となりました。今年もいろいろありました。その都度、多くの方々にお世話になりました。今年1年をふりかえってみます。
 
メインイベントは4月2日の第58回連翹忌。光太郎忌日の集いということで、全国からたくさんの方々にお集まりいただきました。ありがとうございました。
 
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光太郎が足かけ8年を過ごした花巻でも、花巻連翹忌
  
今年は「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年の記念の年で、いろいろなイベントなどで、その件に触れて下さいました。
 
イベントも、ここですべてを振り返るわけにもいきませんので、光太郎智恵子をメインにあつかったもののみ、ご紹介します。
 
盛岡てがみ館さんでは、2月から6月にかけ、第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」が開催されました。実際に行って参りましたが、なかなかいい企画展でした。
 
同じ盛岡では、やはり2月に演劇「泣きビッチョ光太郎」が上演されました。見に行けなくて残念でした。再演を希望します。演劇系では10月から、劇団青年団第73回公演 『暗愚小傳』。11月には【じゃがいも村プロデュース公演】麦人じか~ん一人語り『智恵子とゐふ女』。12月には微笑企画第4弾「一人芝居 人に~智恵子抄より~」
 
5月には毎年恒例の花巻光太郎祭。今年の記念講演は、光太郎が名付け親となった絵本作家・編集者の末盛千枝子さんでした。
 
8月には、宮城県は女川町で、第23回女川光太郎祭。それに先立つ6月には、福島二本松の智恵子のまち夢くらぶさん一行が、女川をご訪問。『朝日新聞』さんで大きく取り上げていただきました。
 
10月には、二本松で第20回レモン忌。智恵子命日の集いです。今年は当方が記念講演をさせていただきました。同じ10月には、鎌倉の笛ギャラリーさんで、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」展。書家・金子大蔵氏の作品展「第三回金子大蔵書展-近代詩文書の可能性を探る(高村光太郎の詩を書く)」も10月でした。金子氏が、やはり光太郎の詩を題材にしていた金子鴎亭のお孫さんだと、最近まで知りませんでした(汗)。
 
また、10月には十和田湖畔に観光交流センター「ぷらっと」がオープン。光太郎作の「乙女の像」関連の展示に協力させていただきました。
 
音楽系ですと、 「第10回智恵子生誕祭 朗読とギターで綴る智恵子と光太郎の道程」が5月にありました。また、テルミン奏者の大西ようこさんが中心となり、9月にはPrhymx(ぷらイム)「もうひとつの智恵子抄」、10月にはotoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』。大西さんは11月の第59回高村光太郎研究会にもご参加下さいました。
 
その他、光太郎智恵子、光雲に少しだけ関わるイベント、書籍の出版、音楽CDリリース、テレビ放映などなど、細かく紹介出来ませんが、いろいろとありました。ありがたいかぎりです。
 
反面、残念だったのが訃報。光太郎の令甥で、高村光太郎記念会理事長だった写真家の高村規氏、令姪のお嬢さんで、歌手だった高村亜留さんが亡くなりました。また、俳優・高橋昌也さん、女優・松本典子さん、作家・渡辺淳一さん、李香蘭こと山口淑子さんも。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
最後に、一昨年の大晦日にも同じことを書きましたが、今年1年、皆様からいただいた郵便に貼ってあった切手を切り取り、使用済み切手を収集している団体-公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)さんに寄付、同会サイトに寄付団体として名前を載せていただきました。
 
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昨年も寄贈したのですが、昨年はうっかり差し出し人欄に、高村光太郎連翹忌運営委員会代表として当方の名前を書いたラベルを貼ってしまい、そうすると個人名は掲載しないという同会サイトの方針で、載せていただけませんでした。
 
さて、今年も残すところあと数時間。来年もよろしくお願い申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月31日
 
昭和45年(1970)の今日、TBS系テレビで放映されていた「花王愛の劇場 智恵子抄」が最終回を迎えました。
 
光太郎役は故・木村功さん、智恵子役は佐藤オリエさんでした。
 
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上記は番宣用のスチール写真と、角川文庫の佐藤春夫著『小説智恵子抄』カバーです。佐藤さんのお父様は彫刻家・佐藤忠良。光太郎に心酔していた一人でした。
 
さて、昨年は【今日は何の日・光太郎】、今年は【今日は何の日・光太郎 補遺】ということで、365日×2、のべ730日分のエピソードを紹介して参りました。時には苦し紛れのネタもありましたが、つつがなく2年間書き続けることができました。ご愛読ありがとうございました。

昨日は、東京・護国寺にて開催された第59回高村光太郎研究会に参加して参りました。
 
最近では年に一回行われるもので、毎回、お二方の発表が行われ、昨日は名古屋高村光太郎談話会の大島裕子氏、鶴見大学短期大学部教授・山田吉郎氏のご発表でした。
 
 
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大島氏は「高村光太郎の詩 「N-女史に」の背景」と題してのご発表。
 
「N-女史に」というのは、光太郎智恵子結婚前の明治45年(1912)に書かれた詩で、のち、「人に」と改題され、詩集『智恵子抄』の巻頭を飾ることになる詩です。
 
冒頭部分は以下の通りです。000
 
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな
種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理窟に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 
従来、この詩の書かれた時期に、智恵子は郷里で縁談がもちあがっており、それに対する抗議として光太郎がこの詩を書いたという解釈が為されていました。
 
しかし、大島氏の調査では、その縁談の相手とされていた人物が、どうもそうではないらしいとのこと。智恵子との結婚話は実際に家同士の口約束的なものがあったらしいのですが、それはもっと前の話だったのではないか、ということです。
 
今後のさらなる精査に期待します。
 
山田氏のご発表は、ご専門でもある短歌について。特に、若山牧水の主宰で始まった雑誌『創作』第1巻第5号(明治43年)に載った自選歌についてでした。
 
 
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当時の歌壇の傾向を踏まえての光太郎の歌風の特徴、歌人達の人間関係等にも触れ、興味深い内容でした。
 
光太郎は元々与謝野夫妻の新詩社に籍を置き、『明星』での活動がその文学的活動の出発点といってよいと思います。しかし、専門の歌人としての道を進まなかったためか、いったいに、光太郎の短歌については、あまり注目されていません。現代においてもあまた刊行されている短歌雑誌で、光太郎の短歌を特集するということが皆無に近い状態です。この点、書道関係の雑誌で光太郎の書がくりかえし特集されているのと好対照です。
 
はっきり言うと、歌壇の閉鎖性がその一因ではないのでしょうか。現代の短歌雑誌で過去の歌人の特集が組まれる場合も、その雑誌のルーツをたどるとその歌人の弟子筋に行き当たり、他の系統の歌人は黙殺、ということが行われているようで、実にくだらないと思います。伝統芸能的な分野になってくると、どうしてもそうなるのでしょうか。
 
そうした垣根を越え、もっともっと光太郎短歌に注目が集まっていいと思います。
 
 
昨日は、会の顧問・北川太一先生もご参加下さり、いろいろと貴重なご意見、新しい情報のご提供を賜りました。
 
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北川先生のお話がじかに聴ける機会は滅多になく、貴重な機会です。しかし参加者があまり多くなく、残念です。この会のさらなる発展も切に望みます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月23日
 
大正13年(1924)の今日、詩「清廉」を書きました。002
 
それと眼には見えぬ透明な水晶色のかまいたち
そそり立つ岸壁のががんと大きい
山巓の気をひとつ吸ひ込んで
ひゆうとまき起る谷の旋風に乗り
三千里外
都の秋の桜落葉に身をひそめて
からからと鋪道に音(ね)を立て
触ればまつぴるまに人の肌をもぴりりと裂く
ああ、この魔性のもののあまり鋭い魂の
世にも馴れがたいさびしさよ、くるほしさよ、やみがたさよ
 
愛憐の霧を吹きはらひ
情念の微風を断ち割り
裏にぬけ
右に出て
ひるがへりまた決然として疾走する

その行手には人影もない
孤独に酔ひ、孤独に巣くひ001
茯苓(ふくりやう)を噛んで
人間界に唾を吐く
 
ああ御(ぎよ)しがたい清廉の爪は
地平の果から来る戍亥(いぬゐ)の風に研がれ
みずから肉身をやぶり
血をしたたらし
湧きあがる地中の泉を日毎あびて
更に銀いろの雫を光らすのである
あまりにも人情にまみれた時
機会を蹂躙し
好適を弾き
たちまち身を虚空にかくして
世にも馴れがたい透明な水晶色のかまいたちが
身を養ふのは太洋の藍碧(らんぺき)
又一瞬にたちかへる
あの山巓の気
 
 
光太郎には「猛獣篇」という連作詩があります。教科書にも載った有名な「ぼろぼろな駝鳥」もその一篇です。他に
様々な「猛獣」をモチーフに、荒ぶる魂を表出した連作です。
 
光太郎生前に単行詩集としてまとめられる事はなかったのですが、没後、昭和37年(1962)に、草野心平が鉄筆を握り、ガリ版刷りで刊行されました。
 
この「清廉」はその第一作、発表当時「猛獣篇」のサブタイトルが付けられたのは「清廉」が最初です。
 
モチーフは妖怪「かまいたち」。上記画像はWikipediaさんから拝借しました。なにかの弾みに皮膚に裂傷ができる現象を、昔の人はこの妖怪のしわざだと考えていました。Wikipediaさんによれば、科学的には真空の渦がその原因と言われていたものの、ごく最近はどうもそうではないらしいといわれているようで、結局、これだという結論が出ていないようです。やっぱり妖怪の仕業かもしれません(笑)。
 
ちなみに当方、3歳か4歳の時、当時住んでいた東京都の多摩川の堤防でごろごろ転がり落ちて遊んでいたら、右足をかまいたちにやられました。40年以上経った現在でも、傷跡が残っています。本当にすぱっと皮膚が裂け、しかし血は一滴も出ず、それでいて物凄く痛く、泣きながら家まで走った記憶があります。Wikipediaさんでは「痛みはない」と書いてあるのですが……。今もって不思議です。
 
閑話休題。光太郎にとってはこうした妖怪も「猛獣」だったわけですね。「駝鳥」も一般には「猛獣」とは言えません。そう考えると、荒ぶる魂を持つ獣であれば「猛獣」だという理論です。それを言い出すと、「鯰」や「龍」、果てはもはや生物ですらない「潜水艦」まで「猛獣」の範疇に入っています(どの詩を連作詩「猛獣篇」の一篇と判定するかにもよるのですが)。
 
光太郎の内面世界も、なかなか掴みきれません。

昨日、文京区大塚の「第59回高村光太郎研究会」をご紹介しましたが、同じ日に別の学会が開催されす。 

第8回 明星研究会 シンポジウム 巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎

<主催> 明星研究会 <世話人> 平出洸
<後援> 文化学院・毎日新聞社・国際啄木学会・堺市

<協賛> 与謝野晶子倶楽部・与謝野晶子文芸館
 
 明治から昭和初期に至る近代と呼ばれた時代、日本はフランスから詩・小説、絵画・彫刻を中心に多くの刺戟を受けてきました。首都パリにはフランスに憧れる芸術家・文学者が集まり、ひとつのコミュニティを作ってもいます。
 今回は、明治年間にパリを訪れたこうした人々のうち、小説「ふらんす物語」で知られる永井荷風、ロダンに私淑した高村光太郎、そして与謝野寛・晶子夫妻に焦点を当ててみます。20世紀初頭のパリが彼らの価値観をどう揺さぶり、何を発見させ、ときに挫折感を味わわせたか。そして帰国後の彼らはそれぞれの体験を消化しつつ、どういった進展を見せて行くか。
 パリとの邂逅は、日本人にとって今なお魅了される新鮮なテーマです。多くの皆さまのご参加を期待しております。
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●日時● 2014年11月22(土)14時00分~16時30分 (13時30分開場)
●場所● 日比谷コンベンションホール注・前年までと会場が変わりました)
    (千代田区日比谷公園1番4号【旧・都立日比谷図書館】)
●会費● 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)
●定員●200人
●内容●
    Ⅰ 14:00  開会挨拶  西川恵(毎日新聞社客員編集委員)
    Ⅱ 14:05 ~14:50
      第1部 対談「寛と晶子の歩いたパリ」
        永岡健右(日本大学講師) 米川千嘉子(歌人)
    Ⅲ 14:50 ~15:05 休憩
    Ⅳ 15:05 ~16:25
      第2部 鼎談「パリの果実は甘かったか?~晶子・荷風・光太郎」
        今橋映子(東京大学教授) 内藤明(歌人・早稲田大学教授)
        松平盟子(歌人)
    Ⅴ 16:25 閉会挨拶 平出 洸(平出修研究会主宰)
                    総合司会:古川玲子
●申し込み●「明星研究会」事務局あて。
 ネット上での受付は11月21日(金)まで(先着順)。
 宛先メールアドレスはapply(at)myojo-k.net です。
 申し込みの送信をされる際には、
  (イ)上記アドレスの(at)を半角の @ に変えてください。
  (ロ)メールの件名は、「明星研究会申し込み」とご記入いただき、
  (ハ)メールの本文に、お名前と連絡先住所、電話番号をご記入ください。
  (二)ご家族同伴の場合はご本人を含めた全体の人数も添えてください。
 なお、当日は空席次第で会場でも直接受け付けます。
●終了後懇親会●4,000円(場所は当日お知らせいたします)

 
要項にあるお名前のうち、「世話人」の平出 洸氏は『明001星』に拠った歌人、平出修の令孫。
 
第2部の鼎談の東京大学教授・今橋映子氏には『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房・平成5年=1993)というご著書があります。この中に、「第2部 憧憬のゆくえ―近代日本人作家のパリ体験」という項があり、第1章が「乖離の様相―高村光太郎」となっています。だいぶ前ですが、読んでみて「ほう」と思つた記憶があります。
 
体が二つあれば参加したいのですが……。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月13日
 
大正元年(1912)の今日、『読売新聞』に連載中の『西洋画所見』の中で、夏目漱石に噛みつきました

来週末、文京区大塚にて、「第59回高村光太郎研究会」が開催されます。

第59回高村光太郎研究会

日 時 : 2014年11月22日(土)
時 間 : 午後2時~5時  11/13追記 
場 所 : アカデミー音羽3階学習室A 文京区大塚5-40-15
       東京メトロ有楽町線護国寺駅徒歩2分
 
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参加費  500円
 
<研究発表>
「高村光太郎の詩 「N-女史に」の背景」 大島裕子氏(名古屋・高村光太郎談話会
「高村光太郎と雑誌『創作』-自選短歌作品を中心に-」山田吉郎氏(鶴見大学短期大学部教授)
 
研究発表会後、懇親会あり
 
この会、元々は昭和38年に、光太郎と親交のあった詩人の故・風間光作氏が始めた「高村光太郎詩の会」に端を発します。その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏。
 
ほぼ毎年、この世界の第一人者、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生もご参加下さっていて、貴重なお話を聞ける良い機会です。しかし、そのわりに、参加者が少なく、淋しい限りです。
 
当方、昨年は同じ日に愛知碧南で開催されていた「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏のご講演を聴きに行き、欠席しました。今年は参加します。
 
事前の参加申し込み等必要ありません。直接会場にいらしていただければ結構です。ぜひ足をお運び下さい。
 
研究会に入会せず、発表のみ聴くことも可能です。会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
ご質問等あれば、はこちらまで。000
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月12日
 
平成12年(2000)の今日、静岡アートギャラリーで開催されていた「高村光太郎の書 智恵子の紙絵展」が閉幕しました。
 
光太郎作品は54点。彫刻は2点のみで、あとは書簡、草稿、色紙、掛け軸などの肉筆もの、そして装幀や題字を手がけた書籍など、「書」にこだわった珍しい展覧会でした。
 
智恵子作品は52点。書簡1通と油絵「ヒヤシンス」の他、紙絵の実物が50点並びました。

先日、5日に福島二本松行われた智恵子忌日の集い「レモン忌」を報じた『福島民報』さんの記事コピーを、主催の智恵子の里レモン会さんから戴きました。
 
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他紙、または『福島民報』さんでも他に光太郎智恵子がらみの記事が出ていないかと思い、昨日、当方の住む香取市の隣・成田市立図書館に行って参りました。同館では復興支援として、、『福島民報』、『福島民友』の2紙が開架で置いてあります。
 
ところが、主に原発事故による避難生活を余儀なくされている人のための措置ですので、原発のある浜通り地区の版で、二本松を含む中通り地区の記事はあまり多くありませんでした。レモン忌の記事も中通り地区の版にしか載らなかったようです。
 
そんな中で見つけたのが、菊人形の記事。さすがにこちらはいろいろ報じられていました。その中で、智恵子(と思われる)の人形が写っている記事がありました。やはり『福島民報』さんで、まだ開幕前の、作業中の写真です。
 
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二本松の菊人形出番待つ 11日開幕、着付け始まる

 福島県二本松市の県立霞ケ城公園で11日に開幕する「二本松の菊人形」の人形の着付けが始まった。台風一過となった7日、早朝から菊が次々と搬入され、主催する二本松菊栄会の菊師らが、約40体の人形に、丁寧に小菊を飾り付けた。
 「二本松の菊人形」は60回の記念開催となる。二本松城築城600年の節目の年とも重なることから、「にほんまつヒストリア」をテーマに地域の歴史に焦点を当てる。「二本松の提灯祭り」「二本松少年隊」のほか、詩集「智恵子抄」で知られる同市出身の高村智恵子・光太郎夫婦など全8場面に分けて表現する。
 例年の菊花展ゾーンに加え、ガーデンゾーンも新設する。NHKのテレビ番組「趣味の園芸」でおなじみのガーデンデザイナー・玉崎弘志さんに監修を依頼し、菊を魅力的に展示する。
 問い合わせは二本松菊栄会事務局 電話0243(55)5122へ。
福島民報 10月8日(水)
 
 
ところで「新聞記事」といえば、先頃相次いで全国紙にも光太郎の名が出ました。イベントなどの速報的な記事ではないので、すぐには紹介しませんでしたが、ここらでまとめて紹介します。
 
『朝日新聞』さんの今月2日の記事。教育面の連載、「おやじのせなか」です。
 
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各界著名人がご自分の父親について語るもので、この日は福島在住の詩人、和合亮一さん。以前にレモン忌で記念講演をされたこともあります。
 
最後をこのように結んでいます。
 
高村光太郎の「道程」に「常に父の気魄を僕に充たせよ」との一節があります。父の気迫を受け継いでも、超えたいとは思わない。むしろ超えたくない、超えなくていいんです。
 
そう思わせる立派なお父様なのですね。
 
ちなみに和合さん、以前にも『朝日新聞』さんに光太郎がらみで載りました。こちらです。
 
続いて9日の『日本経済新聞』さん。
 
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こちらも連載で「文豪が愛した美術十選」の第7回で「高村光太郎「手」」。
 
光太郎の代表作の一つで、大正7年(1918)頃の作です。最初に鋳造されたもののうちの一つが、自裁直前の有島武郎に贈られました。有島歿後は秋田雨雀の手に渡り、それを林芙美子が見たというわけです。
 
当方、寡聞にして『放浪記』に光太郎の名が出て来るとは知りませんでした。調べてみると、確かにこういう記述があります。
 
二階の秋田さんの部屋には黒い手の置物があった。高村光太郎さんの作で、有島武郎さんが持っていらっしたのだとかきいた。
 
いろいろな人物がいろいろなところで繋がっているものですね。
 
さて、この頃は地方紙の記事もかなりネットで読むことができるようになっています。しかし、全ての記事がアップされるかというとそうでもありません。実際、上記レモン忌の記事はネットでは見つかりませんでした。「私のところの新聞にこんな記事が出たよ」というのがありましたら、ご教示いただけると幸いです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月18日
 
平成10年(1998)の今日、新宿のスペース・ゼロで、鍵田真由美、佐藤浩希のフラメンコ「レモン哀歌〜智恵子の生涯〜」が上演されました。
 
能楽とのコラボレーションで、この年度の文化庁芸術祭新人賞に輝いています。

年2回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その42集が完成しました。以前から寄贈させていただいている団体、個人の皆さんには発送も完了しています。
 
以前にも解説しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて6冊目の刊行ということになります。
 
昨秋、第40集を刊行した際には、岩手の地方紙『岩手日日』さんでご紹介いただきました。
 
毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。
 
「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている雑誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。
 
今回は「造形作家として(四) 岩手にて」と題し、光太郎の彫刻や絵画の造形作家としての側面を表すもののうち、戦中戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)の、岩手での生活の中で書かれたものを紹介しました。
 
光太郎回想・訪問記 長与善郎「高村光太郎君のこと」/宮芳平「宮芳平自伝(抄)」
大正期の光太郎回想です。
 
光雲談話筆記集成   浅草の話(下)その1  『漫談 江戸は過ぎる』より
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第六回 原釜海岸(福島)
 
音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(二)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。
 
高村光太郎初出索引(六) な行
 
第五八回連翹忌報告
 
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ほとんど手製のもので、お恥ずかしい限りですが、ご希望の方には送料のみでお分けしています。このブログのコメント欄、またはこちらからご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも僅かながら残っています。
 
逆にこちらから勝手に寄贈しているので、送られている団体・個人の方で「こんなものいらん」という方も、同様にご連絡下さい。また、毎回、「転居先不明」などで戻ってくるものがあります。該当の方もご連絡いただければ再送付いたします。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月16日
 
明治43年(1910)の今日、画家の津田青楓に絵手紙を書きました。
 
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僕は何にも為ないで暮してゐる。暮せないのに暮してゐる。どうにか暮さうと考へながら暮してゐる。
一遍東京へ出て来ませんか。展覧会もあるから。 光
C'est moi
 
絵は自画像です。その下の「C'est moi」は仏語で「これは私です」の意。
 
この前年に欧米留学から帰った光太郎は、ロダンを頂点とする彼地の芸術界の様相と、旧態依然とした日本のそれとの、目もくらむばかりの差異にうちのめされ、日本にも新しい芸術を根付かせようと苦闘していた時期です。

『毎日新聞』さんの岡山版でしょうか。「高村光太郎」の検索ワードでヒットしました。

<朗読劇>永瀬清子の半生 自然や暮らし、平和願う心織り交ぜ 岡山の竹入さんが脚本「鬣よなびけ」 9日、津山で公演 /岡山

『毎日新聞』 2014年8月5日(火)16:16
 赤磐市(旧熊山町)出身の詩人、永瀬清子(1906~95)の詩を基にした朗読劇「鬣(たてがみ)よなびけ 永瀬清子物語」の公演が9日午後3時から、津山市山下の津山文化センターである。永瀬の詩を愛する岡山市のライター、竹入光子さんが脚本を担当。数々の名作と、その背景となった永瀬の半生を伝える。【五十嵐朋子】
 
 朗読劇は竹入さんが25編以上の詩と短章を引用・抜粋して構成し、2幕8場に仕上げた。永瀬について取材する記者が物語の進行役を担うなど、演劇の要素も織り交ぜる。
 
 永瀬が終戦後、故郷の熊山に戻り、農業をしながら詩作に励んだ40代の頃を中心に描く。それまで夫の仕事の都合で東京などに住み、高村光太郎や草野心平といった詩人たちと交流もあった。熊山に戻り、文学界と距離ができたが、創作欲はむしろ旺盛に。敬愛した詩人・童話作家、宮沢賢治にならって「農村芸術」を志し、自然や暮らしの中で心を動かされる一瞬一瞬を書き留めた。
 
 一方で、永瀬は社会的な活動にも精力的だった。朗読劇では、米国のビキニ環礁水爆実験による第五福竜丸の被ばく(1954年)に危機感を得た「滅亡軌道」、戦争に向かう社会の狂気を見据える「有事」など、平和を願う詩も盛り込んでいる。
 
 竹入さんは「永瀬さんの宇宙観が広がったのが熊山。弱いもの、はかないものを大事にしていた」と話す。生前の永瀬に詩を教わったこともあるといい、「一つか二つしか詩を知らない人にも、永瀬さんの生き方が分かるように構成した」と思い入れを語った。
 
 昨年2月に岡山市で初演し、「県北でも上演を」との依頼を受けた再演。永瀬の詩の朗読のために結成した「白萩の会」のメンバーたちが出演する。劇団や朗読グループで活動経験のある人が多く、朗々とした声を響かせる。特別出演に俳優の真実一路さん(東京都)を迎える。全編を通し、歯科医でチェロ奏者の三船文彰さん(中区)の独奏が彩りを添える。三船さんは「永瀬さんに敬意を表し、詩の良さを引き出したい」と話している。
 
 学生1000円、一般1800円。収益金は永瀬の生家保存に役立てる。問い合わせは主催の津山文化振興財団(0868・24・0201)。
 
 
このイベントが、直接、光太郎と関わるわけではなさそうですが、以前、命日である紅梅忌のイベントに参加させていただいた、岡山出身の詩人・永瀬清子をメインに据えた朗読劇のようです。
 
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主催の津山文化振興財団産のサイトがこちら。岡山では地元出身の詩人ということで、顕彰活動がしっかり行われており、素晴らしいと思います。
 
 
「地元での顕彰活動」といえば、同じく9日(土)に、宮城女川で、第23回女川光太郎祭が開催されます。当方、昨年から記念講演を仰せつかっており、明後日から女川入りします。
 
昨年の様子がこちらですが、仮設の商店街を会場に、こじんまりと行っています。ネットでも特に案内等が見つかりません。
 
おそらく、昨年同様であれば、午後2時くらいから、女川町浦宿浜の「きぼうのかね商店街」で行われます。この世界の第一人者・北川太一先生のご講演もあるそうです。
 
お近くの方、ぜひ足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月6日
 
明治27年(1894)の今日、木彫「紅葉と宝珠」を制作しました。
 
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現存する光太郎彫刻作品の中で、最も古いものと認定されています。「明治廿七年八月六日三枚仕上リ モミヂ 光太郎 十二才」の墨書署名が書かれています。一枚の板の表裏に彫られたもので、「宝珠」の方は翌七日仕上がりと書かれています。
 
戦後になって鎌倉の古道具屋から出て来たとのことですが、十二歳の少年の作にしては巧みすぎ、本当に光太郎の作か、と疑われましたが、間違いなく光太郎の作でした。
 
現在は東京芸術大学が所蔵、昨年全国巡回開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも出品されました。

今年も光太郎忌日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第58回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には郵送いたしましたので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。
 
第58回連翹忌の御案内
 

                                       
日 時  平成26年4月2日(水
) 午後5時30分~午後8時
 
会 場  日比谷松本楼
     〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
 
会 費  10,000円

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(土)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
 郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。
              口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

 
 
申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 
 当日、お時間に余裕のある方には参加者に配付する資料の袋詰めをして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、 ご協力の程、よろしくお願い致します。
 


ごあいさつ

 この一年は、オリンピックなどの世界をつなごうとする人々の真摯な努力もありましたが、猛暑や豪雪など荒々しい天候や、心痛む世情も続きました。いつも連翹忌にお出かけ下さる皆さん、ことにみちのくの被災者の皆さんには、お変わりなくお過ごしでいらっしゃいましたか。

 その間にも各地で光太郎生誕百三十年を記念するメモリアルな展覧会が開かれ、十和田裸婦像建立から六十年になるという年にも遭遇して、たくさんの彫刻や智恵子の紙絵が展示されました。じかに二人の作品にふれることによって、心うつ創作、新しい感想や解釈も次々に寄せられています。        

 歴史がもういちど反転しそうな今こそ、その命の軌跡をかえりみ、繰り返し語り合い、語りつぐひと時を、思いを同じくするみなさんと一緒に過ごしたいと存じます。

 今年は更に加えて、最初の詩集『道程』が刊行され、光太郎智恵子が共に棲み始めた大正三年から百年になります。

 運営委員諸君の努力によって、たのしい試みやご報告もたくさんあることでしょう。

 春の一夜を今年も是非お目にかかりたく、お誘い申し上げます。

平成二十六年 春
                                        高村光太郎記念会 事務局長 北川太一


 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月21日001

昭和28年(1953)の今日、詩人・編集者の池田克己の逝去に際し送る弔電のために短歌を詠みました。
 
ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト
 
(我が山に ライカを持ちて いち早く 訪ね来し彼と 語ることごと)
 
池田は昭和22年(1947)に、高見順、菊岡久利らと詩誌『日本未来派』を創刊しました。早くから光太郎を敬愛し、昭和19年(1944)に刊行された池田の詩集『上海雑草原』では光太郎に序文を依頼し、戦後は花巻郊外太田村の山小屋を訪れたりもしました。
 
「ライカ」云々は、昭和23年(1948)7月の『小説新潮』グラビアに載った池田撮影の光太郎ポートレートに関わると思われます。

年2回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その41集を脱稿しました。
 
以前にも解説しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて5冊目の刊行ということになります。
 
昨秋、第40集を刊行した際には、『岩手日日』さんでご紹介いただきました。

毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。
 
「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている別誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。
 
今回は「造形作家として(三) 昭和・戦時」と題し、光太郎の彫刻や絵画の造形作家としての側面を表すもののうち、太平洋戦争前夜の昭和16年(1941)から、戦時中のものを紹介しました。
 「文部省へ 美の問題の統一」 (遺珠⑦所収) 昭和16年(1941)
 「書簡三二一八 平櫛田中宛」 (遺珠②所収) 同
 「菊池寛・尾崎士郎・高村光太郎文化鼎談」 (遺珠⑤所収) 同
 「飛行機の美」 (遺珠⑤所収) 昭和18年(1943)
 「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひされ」 (遺珠⑦所収) 同
 「火を噴く“神州の怒り” 征け・不退転の道 逞しき素朴美で敵撃滅」 (遺珠⑦所収) 昭和19年(1944)
 「書簡三二五二 内山義郎宛」 (遺珠④所収) 同
 「書簡三一五四 清水房之丞宛」 (遺珠①所収)昭和20年(1945)
 「彫刻について」(遺珠⑨掲載予定) 昭和15年(1940)前号補遺
 
光太郎回想・訪問記 上田静栄歌文集『こころの押花』より
あまり多くない、大正初期の光太郎・智恵子回想です。
 
光雲談話筆記集成   浅草の話(上) 『漫談 江戸は過ぎる』より
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第五回 福島高等女学校(福島)
先般、福島に調査に行つた際の成果も記しました。
 
音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(一)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。
 
高村光太郎初出索引(五) た行(二)
 
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このあと、地元の印刷屋さんで印刷をしていただき、綴じ込みは自分で行います。上記はワープロソフトの画面をプリントスクリーン機能で取り込みましたので、カラーですが、印刷はモノクロです。
 
4/2の連翹忌にご参加いただける方には当日、会場でお渡しします。当会名簿に載っている方で、連翹忌にご欠席の場合はのちほど郵送します。
 
ご希望の方には送料のみ(80円)でお分けしています。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも僅かながら残っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月4日

昭和2年(1927)の今日、書肆アルスの松本弘二に葉書を書きました。
 
この年4月にアルスから刊行された評伝『ロダン』に関わります。
 
お葉書及ゲラ刷落手、
今度は絶体絶命の気でやつてゐますが、まだ 三四十枚のこつてゐます、
今夜中にあぶない懸念が あります、
少し頭の運転が悪くなりました、毎日殆と徹夜です。
 
ゲラの校正に悪戦苦闘しているという内容ですが、この気持ち、よくわかります。上記の『光太郎資料』、プリントアウトしたものを校正したところ、7割方のページで訂正がありました。
 
「大政翼賛か異」→「大政翼賛」、「日本画経済的にも……」→「日本が経済的にも……」、「航空機による最初の飛行を実施した期待の一つが……」→「航空機による最初の飛行を実施した機体の一つが……」、「一行の部分」→「一行空きの部分」……。
 
まったく「少し頭の運転が悪くなりました」です。

昨日の【今日は何の日・光太郎 補遺】でご紹介した「高村光太郎研究会」発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』に、当方、連載を持たせていただいております。
 
題して「光太郎遺珠」。筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』増補版が平成11年(1999)に完結しましたが、その後も見つかり続ける光太郎智恵子の文筆作品を集成しています。
 
平成18年(2006)に、北川太一先生との共編で第一弾を厚冊の単行書として刊行しましたが、現在は「高村光太郎研究会」発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』中の連載という形になっております。
 
年刊誌の連載ですので、ほぼ1年間に見つけた新たな文筆作品の集成ですが、次から次へと見つかり続け、気がつけば9年目です。
 
『高村光太郎研究』は4月2日の光太郎忌日・連翹忌の刊行。原稿締め切りが今月いっぱいということで、このたび脱稿、昨日、研究会代表の野末明氏にデータとプリントアウトしたものを郵送しました。
 
今回の「光太郎遺珠」に載せた作品は以下の通りです。智恵子のものはなく、すべて光太郎の作品です。
 
散文
 「ロダン翁病篤し 大まかな芸術の主 作品は晩年に一転して静に成て来た」
   大正六年二月二日『東京日日新聞』
 「帽子に応用したアイリツシユレース」 大正十三年四月一日『婦人之友』第十八巻第四号
 「倫理の確立」 昭和十五年七月一日『東亜解放 日本版』第二巻第七号
 「彫刻について」 昭和十五年九月一日『新制作派』第五号
 
書簡
 平櫛田中宛 津田青楓宛  室生犀星宛 上田静栄宛(6通) 高祖保宛
 伊藤祷一宛(2通) 岩田シゲ宛 鈴木政夫宛 池田克己宛 田口弘宛
 
翻訳
 「死者」(ヴェルハーレン) 大正十四年二月一日『虹』第二巻二月号
 
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2015/1/9追記 この「死者」は訳詩集『天上の炎』の一篇として、『全集』第十八巻に収録されていたため、抹消します。
  
アンケート
 「口語歌をどう見るか(批判)」 大正十四年一月一日『芸術と自由』第一巻第八号
 「新婚旅行通知状(葉書回答)」 昭和十一年十一月一日『婦女界』第五十四巻第五号
 「昭和二十二年に望む事」 昭和二十二年一月一日『人間』第二巻第一号。
 
雑纂
 「高祖保宛『をぢさんの詩』献辞」 直筆
 「高村光太郎氏の話」 昭和二十五年十一月三日発行『山形新聞』
 「‶詩だけはやめぬ″」 昭和二十七年十一月十日『朝日新聞』
 
座談
 「第二回研究部座談会」 昭和十五年三月二十日発行『九元』第二号
 
短句
 「世界はうつくし」 直筆
 
参考資料
 「東京仮装会」 印刷案内状
 
我ながらよく見つけたものだと思います。しかし、当方一人の力ではここまで見つかりません。「こんなものを見つけた」と教えていただいたり、他の方の書かれたものの中から「光太郎がこんなものを書いている」という記述を見つけたりで、これだけ集まっています。ご協力、ご教示いただいた皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
また、刊行物であれば、それらを所蔵し、閲覧の用に供して下さっている図書館、文学館さまのご協力も欠かせません。こちらにも感謝です。さらには書簡を所蔵され、情報を提供して下さった個人、団体の皆様にも。
 
さて、『高村光太郎研究』。先述の通り、4月2日の光太郎忌日・連翹忌に刊行予定です。ご入用の方はご連絡いただければ仲介いたします。このところ、頒価は税込み1,000円ですので、今年も同じだと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月11日

昭和59年(1984)の今日、光太郎と交流のあった山形出身の詩人、真壁仁が歿しました。
 
戦時中、空襲による焼失を避けるため、亡き智恵子が残した千数百枚の紙絵を、光太郎は3箇所に分けて疎開させました。そのうちの1箇所が真壁の元で、真壁は戦後しばらくの間もそれを預かり、昭和24年(1959)に山形で開催された初の智恵子紙絵展では、この中から作品が選ばれました。

平成25年(2013)も、とうとう今日で終わりです。
 
昨日からの続きで、光太郎智恵子をめぐるこの一年を振り返ります。
 
日本各地での顕彰活動も盛んでした。
 
青森十和田。今年は十和田湖畔の裸婦群像建立60周年ということで、来年にかけてもいろいろと動きがあるようです。
 
岩手花巻。昨日もご紹介しましたが、光太郎が暮らした太田地区の山小屋「高村山荘」、その近くの高村光太郎記念館を拠点に、財団法人高村記念会様によって、各種活動が行われています。

 高村記念館仮オープン、第56回高村祭報道。

 
宮城女川では、震災による津波の被害にもめげず、女川光太郎祭。かつて建てられた光太郎文学碑を範として、100円募金による「いのちの石碑」も建てられました。
 
福島二本松では、智恵子命日の「レモン忌」、智恵子のまち夢くらぶさんによる「智恵子講座'13」、「智恵子に扮する有馬稲子像」も展示された「五星山」展。かつて舞台で智恵子を演じられた有馬稲子さんのトークショーもありました。
 
東京では高村光太郎研究会様による活動。
 
荻原守衛草野心平など、周辺人物の顕彰活動の中でも、光太郎に触れていただきました。
 
こうした動きが途絶えることなく、さらに盛り上がって行ってほしいものです。
 
しかし、残念なニュースもいろいろありました。
 
まずは訃報。生前の光太郎を知る方々で、連翹忌にもご参加いただいていた皆さんとしては、3月に詩人の寺田弘氏、6月に鋳金家の西大由氏、11月に同じく鋳金家の齋藤明氏。文筆作品や演劇などの分野で光太郎を取り上げて下さった方々で、西沢利明氏(俳優)、佐野洋氏(作家)、夏八木勲氏(俳優)、やなせたかし氏(詩人)、すまけい氏(俳優)。他に一般の方でも、連翹忌にご参加いただいていた方々の訃報が届いております。
 
昨日は昨日で、仏教学者の紀野一義氏の訃報が出ました。

仏教学者の紀野一義さん死去 真如会を設立(2013/12/29) 

紀野一義さん(きの・かずよし=仏教学者、真如会主幹、元宝仙学園短大学長)が28日、肺炎で死去、91歳。葬儀は親族と近親者のみで行い、お別れの会を後日開く。喪主は長男真輝(まさき)さん。 著書に「生きるのが下手な人へ」、共訳注に「般若心経・金剛般若経」など。在家仏教団体の真如会を設立した。
 
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氏には光太郎に触れたご著書が何冊かありました。
 
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左から『遍歴放浪の世界』 昭和42年 日本放送出版協会、『般若心経の風光 観自在の世界』 昭和57年 実業之日本社、『死にざま生きざま 美しき人になりたく候』 昭和53年 PHP研究所。
 
それから、8月には、昭和8年に光太郎智恵子が滞在し、その当時の部屋がそのまま残っていた、福島の不動湯温泉が全焼、従業員の方が亡くなりました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、今年一年、お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月31日

昭和45年(1970)の今日、新潮文庫版『智恵子抄』第47刷が刊行、現在と同じ智恵子紙絵を用いたカバーデザインとなりました。
 
こちらのコーナー【今日は何の日・光太郎】も、365日、つつがなく書き終えました。ご愛読ありがとうございました。

昨日の『山陽新聞』さん掲載のコラムです。『朝日新聞』さんでいえば「天声人語」にあたる欄でしょうか。昭和22年(1947)の、花巻郊外太田村山口の山小屋で書いた光太郎日記が引用されています。

[滴一滴]   

 〈一月七日 午前まだあたたか。朝食、粥(かゆ)。セリを入れる。七草粥のつもり。雪に埋れて青いものなし。芹(せり)だけ入れる……夜又寒くなる。雲あれど月あかるし。時々雪ふるらし…〉
 「智恵子抄」などで知られる高村光太郎が、晩年の60代のときにつづった日記の一部である。無駄のない、詩的な響きが心地よい。特段変わりばえのしない一日が、何ともきれいに記されるものだ
 年が改まるこの時季、日記が書店の売り場で“主役”になっている。5年や10年連用できるもの、学校での大切な日などを書き込める小学生向け、献立付きの主婦向けなどさまざまだ。日本人ほど日記を書くのが好きな民族はいない、という説もうなずける
 本紙ちまた欄にも、日記を習慣にしている人の投稿がしばしば登場する。30年、50年と続けている人もいる。もう立派な「自分史」「家族史」だろう
 流儀はさまざまだ。楽しいこと以外は書かない。あるいは誰にも言えない愚痴を文字に託す。毎日欠かさぬのが目標という人もいれば、何日分かのまとめ書きを勧める声もある。記憶をたどり、出来事を思い出そうとする努力は脳を活性化させるという
 ブログなどを楽しむ「ネット派」も隆盛だが、心を静めて向き合う手書きの日記帳にはぬくもりがある。つづる文字もどこか優しい。
 
いかにもいよいよ年の瀬、という内容ですね。
 
そこで、今日、明日と2回にわたって、今年1年を振り返ってみます。
 
今年、平成25年(2013)は、光太郎生誕130年ということで、色々と大きな動きがありました。
 

早速手前味噌で申し訳ありませんが、0064月2日、第57回連翹忌を当会主催にて開催し、多くの方にお集まりいただきました。
 
 
5月には先の日記が書かれた花巻郊外の高村山荘近くに、元の歴史民俗資料館をリニューアルして、高村光太郎記念館が仮オープンしました。元々、昭和41年(1966)、近くにこじんまりした記念館が建てられましたが、そちらが手狭となり、設備も整っていないための措置でした。仮オープンは例年行っている高村祭の日に合わせ、渡辺えりさんに記念講演をしていただきました。007
おかげさまで入場者数も伸び、さらに今年から通年開館。来年以降も本格整備が続きます。ぜひ足をお運びください。
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6月から12月にかけ、『生誕130年 彫刻家高村光太郎展』が、千葉市美術館さん、岡山井原市田中美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さんで巡回008開催されました。ひさしぶりの大規模な光太郎展ということで、いろいろなメディアで取り上げて下さり、3館累計でのべ4万人超の方に御来場いただきました。最後の碧南では、会期終了を待たずに図録が完売とのこと。ありがたいやら申し訳ないやらです。

千葉


10月にはNHKさんの「日曜美術館」で光太郎を取り上げて下さいました。題して「智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。 なかなか好評だったようです。
日曜美術館、10月6日の放送。
「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。
ネタバレ注意、「日曜美術館」。
レモン忌報道/「日曜美術館」。

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それぞれの関係者の皆様、お疲れ様でした。当方も微力ながらそれぞれに関わらせていただき、望外の喜びです。
 
他にも光太郎智恵子・光雲に関わる展覧会、出版、テレビ放映、公演等、たくさんありました。とりあげてくださり、ありがとうございました。
 
明日もこの項、続けます。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月30日

平成3年(1991)の今日、長く北川太一先生のお手伝いをされていた堀津省二氏が亡くなりました。
 
北川太一先生が刊行されていた頃の『光太郎資料』、そこから生まれた何冊かのご著書、当方も活用させていただいて居ります。

当方も会員に名を連ねております「高村光太郎研究会」という団体があります。
 
「研究」と名が付いておりますので、とりあえず光太郎やその周辺についての研究を志す人々の集まりです。といって、堅苦しいものではなく、参加資格も特にありません。特に職業として研究職についていないメンバーも多数在籍しています。高村光太郎記念会の北川太一先生に顧問をお願いしており、じかに北川先生の薫陶を受けることができるのが大きな魅力です。
 
年に1回、研究発表会を行っております。昨年は当方が発表を行いました。
 
今年の案内が参りましたので、ご紹介します。

第58回高村光太郎研究会 

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日 時 : 2013年11月23日(土) 14時
会 場 : アカデミー音羽 文京区大塚5-40-5
参加費 : 500円
発 表 : 
  「高村光太郎小考-直哉と光太郎-」 大島龍彦氏
  「光太郎と野澤一との関係性について/智恵子抄を訪ねる旅から学んだこと」坂本富江氏
 
会に入らず、当日の発表を聞くだけの参加も可能です。特に申し込みも必要ありません。
 
会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
興味のある方はぜひ11/23の研究発表会にお越し下さい。おそらく北川太一先生もお見えになると思われます。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月24日

大正2年(1913)の今日、『時事新報』に評論「文展の彫刻」の連載を始めました。
 
「文展」は「文部省美術展覧会」。彫刻部門は光雲を頂点とする当時の正統派の彫刻家達によるアカデミックな展覧会でした。
 
明治末に3年あまりの海外留学を経験し、本物の芸術に触れて帰ってきた光太郎にとって、そこに並ぶ彫刻はどれもこれも満足の行くものではなく、出品作一つ一つについてこれでもかこれでもかと容赦なく厳しい評を与えています。
 
盟友・荻原守衛の存命中は、彼の彫刻のみ絶賛していましたが、明治43年(1910)に守衛が歿した後は、褒めるべき彫刻が見つからないという状態だったようです。あくまで光太郎の感覚で、ということですが。
 
光太郎自身は決して文展に出品しませんでした。自信がなかったわけではなく、自身の進むべき道とは全く違う世界と捉えていたようです。

年2回、当方が刊行しております004冊子『光太郎資料』の第40集、当会の名簿に載っている方や、全国の主要な図書館、光太郎智恵子に関わりそうな文学館・美術館等に発送いたしました。
 
以前にも書きましたが、元々は昭和35年から平成5年にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が刊行されていたものの名跡をお譲りいただきました。
 
内容的には以下の通りです。
 
光太郎遺珠から 第4回 造形作家として(二) 昭和戦前
・ 昭和2年(1927) 福田正夫宛書簡
・ 同         八束清宛書簡
・ 昭和4年(1929) 中込純次宛書簡
・ 昭和5年(1930) 木彫「栄螺」短歌
・ 昭和8年(1933) 「『画工志願』読後感」
・ 昭和11年(1936) 「『青沼彦治翁遺行録』序」
・ 昭和13年(1938) 雑纂 高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布
・ 同         森川勇作宛書簡
・ 昭和15年(1940) 雑纂「(私信より)」
・ 同         座談 「第2回研究部座談会」008
・ 同         散文 「仕事場にて」
 
筑摩書房『高村光太郎全集』補遺作品です。テーマ別、時期別にまとめています。 
 
光太郎回想・訪問記 高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり 斎藤明
光太郎の弟で鋳金家の高村豊周の助手を長らく務めた人間国宝の鋳金家・斎藤明氏の回想です。実際に各地に残る光太郎ブロンズ彫刻を鋳造した時の経緯等が語られています。
 
光雲談話筆記集成 『漫談 江戸は過ぎる』より 両国の夕凉み(二)
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 三陸海岸(宮城・岩手)
 
音楽・レコードに見る光太郎 松本民之助作曲「わが大空」
 
高村光太郎初出索引 た行(一)
 
第五十七回連翹忌報告

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上記画像は原稿をプリントスクリーン機能で画像化したものです。したがって、カラーになっていますが、実際に印刷製本したものはモノクロです。
 
ホチキス留めの手製のもので(印刷のみ印刷屋さんに依頼)お恥ずかしい限りですが、ご希望の方には送料のみでお分けしています。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも少々残っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月19日

明治33年(1900)の今日、東京美術学校の修学旅行で伊豆修善寺を訪れています。
 
光太郎は東京美術学校本科三年生。同四年生(最終学年)の修学旅行は以前にも紹介しましたが、2週間にわたる奈良・京都方面でした。この年は2泊3日、現代の感覚では「修学旅行」というより「宿泊学習」という感じかも知れません。ちなみに1年生では日光に2泊3日、2年生では箱根に1泊2日。毎年「修学旅行」という名称で行っていました。

4月2日の光太郎命日、連翹忌まであと1週間となりました。
 
おかげさまで東京日比谷松本楼様での連翹忌の集まりには、昨年より多い70名程のご参加申し込みをいただいております。
 
さて、連翹忌といえば、東京のみではなく、光太郎が足かけ8年暮らした岩手花巻でも開催されています。
 
以下、花巻市のページ、「広報はなまき 平成25年3月15日号」から。

高村光太郎の連翹忌

彫刻家で詩人の高村光太郎を偲び、連翹忌を開きます。
【日時】 4月2日(火)、午後1時
【会場】 松庵寺
※当日は、午前9時から高村山荘敷地内で「詩碑前祭」が開催されます
【問い合わせ】 財団法人高村記念会(総合花巻病院内29-4681)
 

松庵寺さんは、宮沢賢治の生家にもほど近い花巻市街にあり、光太郎が花巻滞在中、よく光雲や智恵子の法要をしてもらっていました。昭和20年(1945)の10月には、そんな縁で、ずばり「松庵寺」という詩も作っています。
 
   松庵寺001
 
奥州花巻といふひなびた町の
浄土宗の古刹松庵寺で
秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すつかり焼けた松庵寺は
物置小屋に須弥壇をつくつた
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚さまの衣のすそさへ濡れました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どほりに一枚起請文をよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなき信によつてわたくしのために
燃えてしまつたあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置御堂の仏の前で
又も食ひ入るやうに思ひしらべました

 
 
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松庵寺さんには、この「松庵寺」を刻んだ詩碑、「松庵寺」を英訳した碑、そして短歌「花巻の 松庵寺にて 母にあふ はははりんごを たべたまひけり」という光太郎の短歌を刻んだか歌碑が建てられています。
 
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岩手方面在住で、東京まで出てくるのはちょっと、という方、是非とも花巻の連翹忌にご参加下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】3月26日

昭和10年(1935)の今日、鉄幹与謝野寛が亡くなりました。

光太郎も葬儀の手伝い等をしたそうです。

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