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明治42年(1909)、光太郎は、ニューヨーク、ロンドン、パリでの3年余の留学を終える決意をし、3月から4月にかけ、締めくくりにイタリアを旅行します。パリから陸路、スイス経由でイタリアに入り、ヴェニス、フィレンツェ、ローマ、ナポリなどを廻ってルネサンス期の芸術作品などを見た光太郎、それらの持つ圧倒的な力に打ちのめされます。
 
先の高村光太郎研究会で、大阪在住の研究者・西浦氏から光太郎が廻った各所の写真等をいただきました(今年、行かれたそうです)。後のブログでその辺りも紹介しようと思っています。
 
さて、光太郎。5月にはいったんロンドンに渡り、テムズ河口から日本郵船の船に乗って、帰国の途に就きます。到着地は神戸港でした。「海の思出」には以下のように書かれています。
 
 日本に帰る時は盛夏の頃ロンドンから郵船の松山丸とかいふ小さな汽船に乗つたが、事務長の好意で愉快な航海をした。
 
この一節を読んで、「あれっ?」と思いました。既知の光太郎作品や年譜では、この時に乗った船の名が、「松山丸」ではなく、すべて「阿波丸」となっているからです。よくある光太郎の記憶違いなのだろうと思いました。「盛夏の頃」というのも間違いで、正確には5月15日です。同様に、船名も単なる間違いだろうと思いました。『高村光太郎全集』第21巻に収録されている、親友だった水野葉舟にあてた書簡は帰国の船中から書かれたもので、「阿波丸船上より」とか「五月十五日に倫敦からこの阿波丸にのり込んで今は地中海の上に居る。」と書いてあるので、まず「阿波丸」で間違いないと思ったのですが、一応調べてみました。
 
すると、この当時、日本郵船には「松山丸」「阿波丸」ともに就航していたことがわかりました。ただし、「松山丸」は3,099トンの小さな船で、一方の「阿波丸」は6,039トンと、「松山丸」の倍位の大きさでした。
 
明治34年(1901)10月、東洋堂刊の『風俗画報増刊乗客案内郵船図会』によれば、欧州航路の説明として、「此航路に供用する汽船は悉く六千噸以上の双螺旋大汽船にして。電気燈、煽風機等諸般の設備其の他の結構。総て最新式に拠れり。」とあります。「松山丸」は明治18年(1985)の建造ですから「最新式」とは言えませんし、何より「六千噸以上」の条件に当てはまりません。
 
また、昭和59年 海人社刊『日本郵船船舶百年史』によれば、欧州航路に就航した船の中に、「阿波丸」の名はありますが、「松山丸」の名はありません。
 
やはり「松山丸」と書いたのは光太郎の記憶違い、従来通り「阿波丸」に乗ったと断定してよいでしょう。
 
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この点を高村光太郎研究会で発表したところ、北川太一先生から「何もないところから『松山丸』という実在の船の名が出て来るというのも考えにくいので、もしかしたら、他の時に他の場所で『松山丸』という船に乗ったのかもしれないから、調べるように」と、宿題を出されてしまいました(さらにイタリア旅行についても宿題を出されています)。参りました(笑)。
 
ちなみに「阿波丸」。太平洋戦争中に米潜水艦に撃沈された有名な「阿波丸事件」の「阿波丸」とは別の船です。やはり船名使い回しで、光太郎が乗ったのはⅠ世、大戦中に撃沈されたのはⅡ世です。余談になりますが、明治45年(1912)、東京市長・尾崎行雄から贈られ合衆国ワシントンポトマック河畔に植えられた桜6,040本を運んだのが、光太郎の乗った「阿波丸」Ⅰ世です。同じ「阿波丸」でも、Ⅰ世は日米友好のシンボルを運び、Ⅱ世は米軍により撃沈。皮肉なものですね。
 
9/12のブログに書きましたが、現在、横浜港に保存されている「氷川丸」。「阿波丸」と同じく日本郵船の船です。ただ、「氷川丸」の方が20年ほど新しく、総排水量も11,622トンと「阿波丸」の2倍程の大きさなのですが、参考になるかと思い見て来ました。なかなか面白いものがありました。皆さんも横浜にお立ち寄りの際にはぜひ行ってみてください。
 
「海の思出」、最後は「私は海が実に好きだ。私は船に乗ると急に若くなる。」の一言で締めくくられます。次回、この一言をめぐる考察を書き、このレポートを終えさせていただきます。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポート。あと少しです。
 
明治40年(1907)の渡英の際、光太郎が乗った船がホワイトスター社の船「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)と判明したことを書きました。
 
「オーシャニック」での船旅でのエピソードを、「海の思出」に光太郎はこのように書きます。
 
私と同じ船室に居た若いフランスの男に君の住所は何処かとたづねたら、「僕の住所は僕の帽子のあるところだ、」と答へた。
 
まるで映画のワンシーンのようですね。「僕の住所は僕の帽子のあるところだ、」なかなか言えるセリフではありませんね。映画といえば、こんなエピソードも。
 
驚いたのはその船に乗つてから初めて知り合つた米国の男女が一週間の航海のうちに恋愛成立、上陸したらすぐ結婚式をあげるのだと一同に披露したことであつた。一同は大にそれを祝つた。
 
映画の「タイタニック」を彷彿させます。もっとも、あちらのディカプリオとケイト・ウィンスレットは例の氷山衝突事故のため、永遠の別れを余儀なくされましたが……。
 
さて、「タイタニック」といえば、光太郎が乗った「オーシャニック」と同じ、ホワイトスター社の船です。処女航海(結局、これで沈没してしまうのですが)は明治45年(1912)。光太郎が「オーシャニック」で渡英した5年後です。この2隻、単に同じホワイトスター社の保有というだけでなく、かなり密接な関係があります。
 
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すなわち、前回のこのブログで書いた「オーシャニック」の基本理念、「豪華な設備と乗り心地のよさ」を発展させていったものが「タイタニック」なのです。また、「タイタニック」のクルーの中に、「オーシャニック」のクルー経験者が4人います。マードック1等航海士、ライトラー2等航海士、ピットマン3等航海士、ムーディ6等航海士の4人です。特にライトラー2等航海士とピットマン3等航海士は、光太郎が乗船した明治40年の時点で、「オーシャニック」に乗っていたようです。
 
「タイタニック」は氷山との衝突による沈没という悲劇的な末路をたどりましたが、「オーシャニック」もその末路は哀れでした。
 
華やかな名声に包まれたこの客船には、短い寿命しかなかった。一九一四年、第一次大戦が勃発するや、仮装巡洋艦に改装され、第一〇巡洋船隊に配属されて作戦行動に出る。ところが、大型商船に無経験な海軍士官が艦長になっていたせいか、悪天候のなかでシェトランド諸島の島で座礁沈没、わずか一五年の生涯を閉じてしまう。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
諸行無常、盛者必衰ですね……。
 
「海の思出」、この後は明治41年(1908)の渡仏に関する短い記述が続きます。
 
 英仏海峡はニユウヘブン――ヂエツプを渡つた。至極平穏な数時間で、私はその間にドオデエの「サフオ」を読み了(おは)つた。海峡の現状を新聞で読むと感慨無きを得ない。
 
何気なく書いてありますが、ニユウヘブン(ニューへブン・英)――ヂエツプ(ディエップ・仏)間の航路を使ったというのも、今まで知られていた光太郎作品や年譜には記載されていませんでした。ちなみにここには現在も航路が通っています。
 
「海峡の現状」は、この「海の思出」が書かれた昭和17年(1942)に、「ディエップの戦い」という連合軍のフランスへの奇襲上陸作戦が行われたことなどを指していると思われます。
 
さらに「海の思出」は、留学の末期(明治42年=1909)にイタリア旅行に行って訪れたヴェニスの記述をへて、同じ年の帰国に関して記されます。そちらは次回に。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートの5回目です。
 
前回、明治40年(1907)の渡英の際、光太郎が乗った船がホワイトスター社の画期的な船「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)と判明したことを書きました。
 
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では、「オーシャニック」、どこが画期的だったのでしょうか。
 
この当時、大西洋を最速で渡った船に「ブルーリボン賞」という賞が与えられる制度がありました。ホワイトスター社の船も、何度か受賞しています。しかし、「最速」にこだわるあまり、乗り心地や乗客の利便性を後回しにする傾向も見られました。
 
当時、スピードが速いと人気のあったドイツ客船は、高速という誉れの蔭に、船体振動という恥部を隠していたわけである。船旅の快適さを考えた振動軽減への配慮よりも、とにかく海象のいかんにかかわらず、蒸気圧を最大に上げて、フルスピードで航海する。そして一時間でも早く目的地に到着するというのが、船会社側のやり方であった。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
2~3時間を短縮するために多大の犠牲を払い、その短縮された時間を到着したニューヨークやマージー川(※リバプール)で錨を降ろして(入港待ちをして)過ごすのは無駄なことだったのである。(中略)ニューヨークへの到着は、暗くなってからだと意味がなかった。乗客は入国手続きを待つために、翌日まで船内に留まることになったからである。(『豪華客船スピード競争の物語』平成10年 デニス・グリフィス著 粟田亨訳 成山堂)
 
ホワイトスター社のイズメイ社長は、こうした風潮に疑問を持ちます。また、コストの問題もありました。
 
ドイツのライバルに勝つためには、二三ノットを出す必要があるが、これには建造費が割高になることから計画を変え、機関の出力を二万八〇〇〇馬力(KWDG=ドイツ船籍の客船、カイザー・ウィルヘルム・ディア・グロッセは三万一〇〇〇馬力)に抑えた。こうして、スピードを犠牲にする一方、安定して快適な航海ができるような大型船、という新しいコンセプトに到達した。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
そうしてエンジンにかかるコストを抑えた分を、内装に回したのです。
 
上等級の船客設備などは、スケールの大きさと豪華さでは、当時で群を抜くと評判を得る。ドーム付き天井の一等食堂は、両舷の大スカイライトから採光されていたり、図書室は念の入った装飾で、人びとを驚嘆させるに充分なものだった。スティアレジ客室のスペースも、他社船よりゆったりしたものだった。(中略)オセアニックは、その豪華な設備と乗り心地のよさで、〈大海原の貴族〉と称えられるようになる。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
速力の不足は、船室と公室の水準が非常に高いことで、補って余りあるものだった。(中略)2本の大変背の高い煙突は、優雅で堂々とした印象をかもし出した。そして速力を追求することだけが大西洋航路客船の目指す絶対目標ではなく、乗客は高水準の船旅や到着時間の確実性をも同じくらい熱望していることを、この船は示して見せたのである。出力に余裕があるために、単調ともいえるほどの定時運転で大西洋を横断できたのであった。ホワイトスター・ラインにおいては、この船は完全な「1週間船」だった。(『豪華客船スピード競争の物語』平成10年 デニス・グリフィス著 粟田亨訳 成山堂)
 
こうした「オーシャニック」の特徴は、「海の思出」や既知の作品「雲と波」に語られる光太郎の回想と一致します。
 
ニユウヨオクから英国サウザンプトンまで一週間の航程であつた。これは又「アゼニヤン」の時とは雲泥の相違で毎日好晴に恵まれて、まるで湖水でも渡るやうな静かな海であつた。(「海の思出」)
 
 大洋を渡るのは二度目になるが、前の時とは違つて今度は出帆の日から今日まで実に静かな美しい海を見つづけた。前の時にはこんなにやさしいあたたかい趣が大洋にあらうとは夢にも思はなかつた。
(略)
 今度の航海の愉快な事は非常だ。全く此の大きな船が揺籃の中に心地よく抱かれてゐる様だ。此の親しむ可くして狎るべからざる自然のTendernessとCalmnessとは僕の心をひどく暖かにして呉れた。と共に又自然の力の限り無く窮り無い事を感ぜしめられる。(「雲と波」)
 
ホワイトスター社では、この船の成功に自信を得て、速度より乗り心地の追及をさらに進めます。その結果、ブルーリボン賞とはほとんど無縁となりますが、このコンセプトが船客には支持されました。特に富裕層は同社の船に好んで乗船したそうです。
 
ここで疑問に思うのは、渡米の際には特別三等の「アセニアン」で経費削減を図った光太郎が、渡英の際にはなぜこんな豪華客船に乗ったのかということ。その答えは昭和29年に書かれた「父との関係―アトリエにて―」にありました。
 
父の配慮で農商務省の海外研究生になることが出来、月六十円ばかりの金がきまつてくる事になつたので、六月十九日に船に乗つて大西洋を渡り、イギリスに移つた。
 
諸説ありますが、明治末の1円は現在の4,000円くらいにあたるとも言われます。そう考えると60円は240,000円。そして光太郎が「オーシャニック」で利用したのは2等。1等は目玉の飛び出る様な金額だったようですが、2等ならそれほどでもなく、利用可能だったのだと思われます。
 
長くなりましたが、明日はもう少しだけ「オーシャニック」の話と、続く渡仏、さらに帰国直前のイタリア旅行中の話を。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートを続けます。
 
幼少年期、渡米に続いて書かれているのは、明治40年(1907)に、アメリカからイギリスに渡った際の話です。
 
最大の収穫は、渡英の際に乗った船が判ったことでした。
 
これまでに見つかっていた光太郎の文筆作品では、明治40年、渡英の船内で書かれた「雲と波」という比較的長い文章があり、航海の様子などは詳細に記されていました。しかし、肝心の船名は書かれていませんでした。また、昭和29年(1954)に書かれた「父との関係-アトリエにて-」という文章でも渡英に触れていましたが、船名の記述はなし。ただ、「ホワイト スタア線の二万トン級」とだけは書かれていました。「ホワイトスター」は、イギリスを代表する船会社で、明治45年(1912)には、かのタイタニックを就航させています。
 
さて、「海の思出」。
 
大西洋を渡つたのは一九〇七年の晩秋頃だつたと思ふが、この時は二萬トンからある「オセアニヤ」とかいふホワイト・スタア線の大汽船で、ニユウヨオクから英国サウザンプトンまで一週間の航程であつた。
 
と、船名が書かれていました。やはり船会社はホワイトスター社とのこと。そこで早速調べて見ましたが、同社の船には「オセアニア」という船名はありませんでした。しかし、よく調べてみると、同社の主要な船は「タイタニック」(Titanic)のように、すべて「~ic」で終わる名前を付けています。これをあてはめると「オセアニア」(Oceania)ではなく「Oceanic」となるはず。こう思って調べてみると、「Oceanic」、確かにありました!
 
まず、明治4年(1871)に就航した同社最初の大西洋横断船。ところが、これは渡米の際に乗った「アセニアン」と同じくらいの3,707トンしかなく、時期的にも古すぎます。しかし、洋の東西を問わず、船名は同じ名前を使い回す習慣があり、「Oceanic」にもⅡ世がありました。こちらは明治32年(1899)の就航。光太郎が渡英した同40年(1907)にも現役で航行していました。総トン数も17,272トン。光太郎曰くの「二萬トンからある」に近い数値です。
 
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ところで「Oceanic」の片仮名表記ですが、当たった資料によって「オセアニック」「オーシアニック」「オーシャニック」といろいろでした。いずれにせよ、「Ocean=海」の派生語ですので、ここからは「オーシャン」に近い「オーシャニック」と表記します。
 
さて、「オーシャニック」。ホワイトスター社のみならず、大西洋航路全体として見ても、画期的な船でした。画期的ゆえに、同社では記念すべき大西洋航路の初船と同じ「オーシャニック」の名を冠したのです。その画期的な部分が、「海の思出」や「雲と波」の光太郎の記述と合致します。どこがどう画期的だったのかは明日のこのブログで紹介します。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートを続けます。少し長くなるかと思いますがよろしくお願いいたします。
 
昨日、明治39年(1909)の渡米について書きました。横浜からヴィクトリア経由でバンクーバーまでの船旅。乗ったのはカナダ太平洋汽船の「アセニアン」という船です。
 
高村光太郎研究会での発表に向け、改めて「アセニアン」について調べてみたところ、いろいろ面白いことがわかりました。
 
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まず、外洋を航海する船としては、非常に小さな船だったということ。
 
船のサイズは総排水量(船自体の重量)で表しますが、「アセニアン」は3,882トンというサイズです。これを他の艦船と比較してみればよくわかります。まず、明治42年(1909)、光太郎が留学から帰国する際に乗った日本郵船の「阿波丸」という船は、総排水量6,309トンと倍近く、同40年(1907)に大西洋横断に使った船は17,272トンと、およそ4倍です。
 
ちなみに世界の有名な艦船では、横浜港で保存されている「氷川丸」が11,622トン、かの「タイタニック」が46,328トン、大戦中の戦艦「大和」が64,000トン、先頃退役すると報道された米海軍の「エンタープライズ」が75,700トンです。
 
カナダ太平洋汽船では、6,000トン級の船も運航していましたが、そちらにはいわばエコノミークラスの「三等」がなく、「アセニアン」と姉妹船の「ターター」の2隻を「三等」と「特別三等」のみに設定していました。光太郎は「特別三等」を利用しています。「留学」とはいいつつ、経済的には余裕がなかったことがよくわかります。
 
それにしても、このトン数に関しては、光太郎の記憶がけっこういい加減だということが判りました。
 
・「アゼニヤン号はたつた六千噸の貧乏さうな船であつた。」(「遙にも遠い冬」 昭和2年=1927)
・「三千噸のボロ船にて渡米」(「山と海」 昭和5年=1930)
・「「アゼニアン号」という二千噸ぐらいの小さな船」(「青春の日」 昭和26年=1951)
・「「アゼニヤン」は四五千トンの小さな船」(「父との関係―アトリエにて―」 昭和29年=1954)
・「『アゼニヤン』といふ幾千トンかの小さい汽船」(「海の思出」 昭和17年=1942)
 
こういう点には注意したいものです。
 
また、「アセニアン」は、カナダ太平洋汽船の保有となる前に、イギリス海軍に徴用、明治33年(1900)の義和団事件に参加しています。
 
逆に智恵子に関わるほのぼのとした記述もあります。
 
西洋料理もろくに食べた事の無い私の船中生活は後で考へれば滑稽至極で、その時の日記を後年妻の智恵子と一緒によく読んで笑つた。(「父との関係―アトリエにて―」 昭和29年=1954)
 
たんねんにつけた日記があって、とても面白いものだったんだが焼いてしまった。毎日毎日びっくりすることばかり。まるで幕府の使者みたいなもので、あの頃は本当に一日がひと月位に相当した。
 食卓に出るものもはじめてのものばかり、ボーイに聞いては書いて置いた。あとで思うと何でもないものだったりして、智恵子とひっぱり出して、一緒に読んで、読みながら大笑いしたことがあった。(「高村光太郎聞き書」 昭和30年=1955)
 
明日は明治40年(1939)にアメリカからイギリスへの船旅についてレポートします。

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昨日、横浜に行ってきました。11月の高村光太郎研究会での発表のため、船と光太郎について調べており、その関係で、横浜開港資料館、日本郵船歴史博物館、そして山下公園の氷川丸を廻りました。
 
明治39年(1906)から42年(1909)にかけ、光太郎は留学ということで、アメリカ、イギリス、フランスに約1年ずつ滞在、ぐるっと地球を一周して帰ってきています。旅客機というもののなかった時代ですから、移動の大半は船。光太郎の船旅に関しては、これまであまり注目されていませんでしたが、いろいろと細かな新事実がわかってきました。詳細は研究会の後でブログに書きます。
 
横浜開港資料館、日本郵船歴史博物館では海事関係の資料の閲覧が目的でしたが、時間の関係で開港資料館の方は閲覧室の利用だけにしましたが、日本郵船歴史博物館の方では、展示も興味深く拝見しました。

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そして氷川丸。初めて中に入ってみました。
 
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氷川丸は日本郵船が所有する船で、昭和5年(1930)、横浜~シアトル航路に就航し、約30年、洋上で活躍しました。現役引退後、山下公園に固定され、現在は産業遺産として内部を一般公開しています(観覧料200円)。
 
光太郎は帰国の際に日本郵船の船「阿波丸」に乗っており、時期は20年ほどずれますし、氷川丸は阿波丸の2倍程の大きさなのですが、参考になるかと思い、見てみました。一等船客のための施設設備は非常に豪華で驚きました。船室(個室)はもちろん、食堂、読書室、社交室など、レトロな雰囲気とも相まって、いい感じでした。
 
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ただし、光太郎は帰国の際は船中無一文だったと述べており、三等船客だったのではないかと思います。三等船室は二段ベッドの8人部屋でした。凄い格差です。

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しかし、光太郎も明治40年(1907)、アメリカからイギリスに渡る際には豪華客船の二等船室を利用しています。このあたり、かのタイタニックにもからむ話になっており、調べていて興奮しました。
 
先述の通り、詳細は研究会の後でブログに書きます。お楽しみに。

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