カテゴリ:東北以外 > 栃木県

6月30日(水)から、全6回(毎週水曜夜)で「高村光太郎・智恵子」を放映して下さっている、地上波日本テレビ系「心に刻む風景」。第5回の放映が明日夜です。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子⑤ 栃木県塩原温泉…最後の旅 泣きやまぬ童女(どうじょ)のやうに慟哭(どうこく)する

地上波日本テレビ 2021年7月28日(水) 21:54〜22:00

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#5 舞台(栃木 塩原温泉)
昭和8年、統合失調症を患った智恵子のために柏屋旅館に滞在。
智恵子を少しでも癒そうと自然の中に連れ出し、優しく寄り添う。
しかしこれが2人にとって最後の旅になってしまう。

ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
060
昭和8年(1933)8月24日から、9月初旬にかけての、光太郎智恵子最後の二人旅。

8月23日、光太郎は心を病んだ智恵子と初めて正式に結婚。その届けを本郷区役所に提出しました。この時光太郎、数え51歳、智恵子は同じく48歳。光太郎にしてみれば、万が一、自分の方が先に逝くことになってしまったら(実際、光太郎も既に結核に罹患していました)、事実婚だった智恵子は何も相続できないので、その関係です。

24日に東京を発ち、翌25日には、福島二本松の智恵子実家の菩提寺・満福寺さんで墓参、その足で裏磐梯川上温泉に向かいました。
008
009
その裏磐梯での思い出を、約5年後、詩にしたのが、「山麓の二人」。

  山麓の二人那須

 二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
 険しく八月の頭上の空に目をみはり
 裾野とほく靡いて波うち
 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
 半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
 わたくしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
 ――わたしもうぢき駄目になる
 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
 のがれる途無き魂との別離
 その不可抗の予感
 ――わたしもうぢき駄目になる
 涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
 わたくしは黙つて妻の姿に見入る
 意識の境から最後にふり返つて
 わたくしに縋る
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
 闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた。

この詩の一節が、明日の放映のキーセンテンスとして使われます。

二人はその後、宮城蔵王の青根温泉を経て、9月1日には再び福島に戻り、土湯温泉の旅館街から山奥に入った不動湯に宿泊しました。この旅館は平成25年(2013)に火災焼失、現在は焼け残った露天風呂を使い、日帰り入浴施設として再オープンしています。

そして、9月4日、この旅最後の宿泊地、塩原温泉。右上の画像は、二人が投宿していた柏屋旅館近くの鹿股川の渓谷で撮られたもので、現存が確認できている智恵子最後の写真(その後、翌年に九十九里で撮った写真もあったらしいのですが、当方、未見)です。

番組では、塩原の映像を中心に、この光太郎智恵子最後の旅をふりかえるとのこと。全6回の構成の中で、最も悲しい回となりそうです。

先週、7月21日(水)の放映は、真逆の内容で「幸せのひととき」。光太郎智恵子がお気に入りだった、日比谷松本楼さんが舞台でした。
040
041
042
043
044
045
046
047
048
049
記録に残っている、光太郎智恵子の日比谷松本楼さん来店は、明治45年(1912)の7月。先々週放映の犬吠埼篇より前でしたが、その後も訪れただろう、ということで。
050
051
052
053
054
056
引用されたのは、詩「人類の泉」(大正2年=1913)の一節。
057
058
059
毎年4月2日、連翹忌の集いの会場として使わせていただいている日比谷松本楼さん。昨年と今年は、コロナ禍のため中止と致しましたが、ワクチン接種もそれなりに進んでいますので、来春には、またここで皆様にお目にかかれると信じております。

さて、明日の塩原温泉篇、オリンピック中継の合間に(笑)ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヨタカの声しきりにきこえる。


昭和23年(1948)5月28日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、ヨタカも生息していたのですね。そういえば、やはり花巻の宮沢賢治の童話に「よだかの星」(大正10年=1921頃)がありますね。


当方、見たことも、啼き声を聞いたことも無いように思います。

ちなみに賢治が没したのは、光太郎智恵子が塩原から東京に帰ってすぐの9月21日。光太郎は智恵子を置いて駆けつけることも出来ず、当会の祖・草野心平に金を握らせ、派遣しました。

半年経っていますので、「新刊」と言っていいものかどうか……。過日、都内に出た際に新刊書店で入手しました。 

2019年11月30日 週刊朝日編集部編 朝日新聞出版 定価1,500円+税

週刊朝日の人気連載(2017年11月〜2019年5月まで)だった「文豪の湯宿」を再編集して収録。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、森鴎外ら文豪が宿泊した温泉宿を、当時のエピソードとともに見開きで紹介する。温泉ガイドとしての情報も満載なのでこれからの温泉シーズンにぴったり。

004

目次
 小林一茶 湯田中湯本(長野県・湯田中温泉)門弟が営む宿で酒をおねだり
 森鷗外 緑霞山宿 藤井荘(長野県・山田温泉)購入を持ちかけて断られた宿
 正岡子規 鷹泉閣 岩松旅館(宮城県・作並温泉)疲れ切ってたどり着いたら長階段の湯
 国木田独歩 上会津屋(栃木県・塩原温泉)若き独歩が恋人と逃避行した宿
 高浜虚子 ふなや(愛媛県・道後温泉)供されたステーキに馴染めなかった虚子
 泉鏡花 まつさき(石川県・辰口温泉)愛する叔母に会うための宿
 幸田露伴 満寿家(栃木県・塩原温泉)暑い夏を避け、生涯何度も訪れた定宿
 夏目漱石 湯回廊 菊屋(静岡県・修善寺温泉)「修善寺の大患」大吐血の舞台
 志賀直哉 三木屋(兵庫県・城崎温泉)列車事故の傷を癒やした城崎の宿
 久米正雄 旅館 花屋(長野県・別所温泉)支払いを忘れて、仲間とともに放蕩
 宇野浩二  聴泉閣 かめや(長野県・下諏訪温泉)思い焦がれた芸者に会うために通った宿
 室生犀星 香嶽楼(新潟県・赤倉温泉)友・朔太郎と小競り合いした思い出
 若山牧水 ゆじゅく金田屋(群馬県・湯宿温泉)鮎料理を“お代わり”して大いに飲食
 田山花袋 依山楼 岩崎(鳥取県・三朝温泉)小声で歌って湯でリラックス
 有島武郎 ゆとうや旅館(兵庫県・城崎温泉)心中の1カ月前に訪れた温泉場
 吉川英治 越後屋旅館(長野県・角間温泉)全財産を投じて籠もった修業の地
 葛西善蔵 湯元板屋(栃木県・奥日光湯元温泉)悲惨な生活から遁走した宿
 川端康成 湯本館(静岡県・湯ヶ島温泉)10年間、ツケ払いで暮らした伊豆の宿
 芥川龍之介 新井旅館(静岡県・修善寺温泉)風呂嫌いで有名な文人も喜んだ湯
 武者小路実篤 いづみ荘(静岡県・伊豆長岡温泉)初めて絵を描いた記念の宿
 谷崎潤一郎 陶泉 御所坊(兵庫県・有馬温泉)原稿料の前払いを求めた書簡の残る贅の宿
 林芙美子 塵表閣本店(長野・上林温泉)子供を預けて執筆した疎開の宿
 井伏鱒二 古湯坊源泉舘(山梨県・下部温泉)神経痛を養生した釣りの基点
 直木三十五 岸権旅館(群馬県・伊香保温泉)謎の戯れ歌を残した雨の伊香保旅
 小林多喜二 福元館(神奈川県・七沢温泉)特高から身を隠した宿
 コラム 文豪たちが残した書画
 与謝野晶子 大丸旅館(大分県・長湯温泉)「旅かせぎ」で訪れた人気の炭酸泉
 高村光太郎 柏屋旅館(栃木県・塩原温泉 塩の湯)智恵子と最後の2人旅をした宿
 斎藤茂吉 わかまつや(山形県・蔵王温泉)書の“三無い”をすべて破った宿
 坂口安吾 あさま苑(長野県・奈良原温泉)肺病の親友とともに長期滞在した秘湯
 横光利一 瀧の屋(山形県・あつみ温泉)夫婦水入らずの“あて”が外れた宿
 尾崎一雄 上高地温泉ホテル(長野県・上高地温泉)オフシーズンに格安で連泊
 山岡荘八 和泉屋旅館(栃木県・塩原温泉郷福渡温泉)宿主と義兄弟の契りを交わした宿
 石坂洋次郎 今井荘(静岡県・今井浜温泉)健康づくりの拠点にした宿
 太宰治 旅館 明治(山梨県・湯村温泉)毎日必ず袴を着け執筆した宿
 獅子文六 松坂屋本店(神奈川県・箱根芦之湯温泉)名作の“ネタ元”となった宿
 佐藤春夫 佐久ホテル(長野県・旭湯温泉)帰京を勧められても断った疎開中の縁
 火野葦平 葉隠館(熊本県・杖立温泉)“戦犯作家”の汚名を返上した復活の原点
 高見順 仙郷楼(神奈川県・箱根仙石原温泉)画を描いて心身を癒やした箱根の宿
 吉村昭 北温泉旅館(栃木県・北温泉)大病から生き延びた自分を見つめた宿
 田宮虎彦 藤三旅館(岩手県・花巻温泉郷鉛温泉)スランプ脱出のきっかけをつくった宿
 井上靖 白壁荘(静岡県・伊豆天城湯ヶ島温泉)命名の約束を果たせなかった故郷の宿
 丹羽文雄 積善館(群馬県・四万温泉)同人仲間と楽しく騒いだ四万の夜
 石川達三 強羅環翠楼(神奈川県・強羅温泉)親睦会で無邪気に遊んだ社会派作家
 内田百閒 皆美館(島根県・松江しんじ湖温泉)“乗り鉄”がたどりついた宍道湖の名宿
 山本周五郎 湯元不忘閣(宮城県・青根温泉)名作のヒントをつかんだ一本の木
 新田次郎 旅館二階堂(福島県・微温湯温泉)名物の“ぬる湯”を沸かして入った
 松本清張 ゑびす屋(京都府・木津温泉)『Dの複合』執筆のため2ヵ月過ごした宿
 開高健 環湖荘(群馬県・丸沼温泉)掃除の従業員も断り籠もった宿
 草野心平 神泉亭(福島県・高野鉱泉)いつまでも庭を眺めた「僕の部屋」
 小林秀雄 みなとや旅館(長野県・下諏訪温泉)“先生”が何度も満室で断られた名宿
 あとがき

版元の紹介文にあるとおり、『週刊朝日』さんで為されていた連載「文豪の湯宿」を再編集したものです。

光太郎の項は、同誌平成31年(2019)2月22日号に「高村光太郎・智恵子×栃木県・塩原温泉塩の湯 柏屋旅館」として載りました。塩原は顕在化した心の病がどんどん進行し、自殺未遂まで起こした智恵子を連れ、恢復への一縷の望みを託して東北から北関東で湯治旅行をした最後の投宿地です。

005

その他、光太郎以外の人物の項で、光太郎も泊まった宿が何ヶ所か。花巻の鉛温泉藤三旅館さん、四万温泉積善館さん、蔵王青根温泉・湯元不忘閣さんなど。

それから、光太郎と交流の深かった人物の項も充実。当会の祖・草野心平、光太郎の姉貴分・与謝野晶子、東京美術学校での「恩師」・森鷗外、『白樺』での盟友・有島武郎や武者小路実篤など。

このブログで『週刊朝日』さんの連載を紹介した際、「ぜひ単行本化していただきたいものですね。」と書いたのですが、単行本化されていました。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

次には大正二年信州上高地にて相愛の女性と共に山岳写生に送りし一夏。

アンケート「山と海」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

設問は「山の思ひ出・水の思ひ出」。

智恵子との最後の旅が塩原を含む湯治行脚でしたが、最初の旅は、ここに言う大正2年(1913)の上高地でした。その前年、光太郎が滞在していた千葉銚子犬吠埼に、智恵子があとを追って押しかけたことがありますが、これはしめしあわせてのことではなかったので除外します。

栃木県小山市の広報誌『広報おやま』の今月号に、光太郎の名。 

シリーズ小山の歴史199 紀元二千六百年 昭和15(1940)年

 「日本書紀」の記述を西暦におきかえると、神武天皇が東征して大和(やまと)を平定し、橿原(かしはら)宮で即位したのが紀元前660年にあたります。昭和15年は神武天皇の即位以来2600 年にあたる年だとして、奉祝記念行事が行われました。神話に登場する神武天皇が、 建国の神祖として称揚されました。泥沼化した日華事変(日中戦争)で国力を消耗し、 予定されていたオリンピックも万国博も返上した日本が、内外に向け国威発揚を企図したこの「紀元二千六百年奉祝」でした。
 日華事変下の奉祝昭和15年は紀元二千六百年一色に染め上げられた一年でした。「〽金鵄(きんし)輝やく日本の栄えある光身にうけていまこそ祝えこの朝(あした)紀元は二千六百年ああ一億の胸はなる」と、奉祝国民歌「紀元二千六百年」がラジオから流れていました。またこの年、高村光太郎作詞の「歩くうた」も、戦時下に歩くことが奨励され、シンプルな文句をリズミカルな曲で、かなりのヒット曲となりました。神武天皇即位の聖地・畝傍山(うねびやま)(奈良県)の麓の橿原宮では社殿が修復され、「建国奉仕隊」と称する勤労奉仕団が全国からくり出し、その数は延べ百二十万人に達しました。約50万平方メートルの敷地をもつ神宮外苑が造られ、橿原文庫、大和歴史館、総合グラウンド、森林公苑などがここに生まれました。

(以下略)
000


001

長いので全文は引用しませんが、この後、小山市での紀元2600年の様子が少し紹介され、さらに皇居での式典の様子が述べられています。

その枕として、この年のヒットソングというわけで、光太郎作詞、飯田信夫作曲、徳山璉(たまき)歌唱の「歩くうた」が取りあげられています。当時はオリコンチャート○位、といったものはなかったと思われますので、どの程度のヒットだったのかは何ともわかりませんが……。ただ、確認できている限りレコードはインスト版も含め、4種類も発売されています。ま、何はともあれ、光太郎の「負の遺産」の代表格ですね。

作曲者・飯田信夫は、他に同じ徳山が歌った「〽とんとん とんからりと 隣組 」の「隣組」(岡本一平作詞)などでも有名な作曲家です。現在、NHKさんで放映中の連続テレビ小説「エール」の主人公、窪田正孝さん演じる古山裕一のモデル、古関裕而とも交流があり、ドラマでも取りあげられた古関作曲による早稲田大学応援歌「紺碧の空」のレコード(戦後の昭和26年=1951)は、飯田が編曲しています。

「エール」といえば、現在は新型コロナの影響なのでしょう、今週からスピンオフ的な回が続いていますが、おそらく、今後、戦時の話となり、古関作曲の「負の遺産」である「露営の歌(〽勝ってくるぞと勇ましく……)」、さらには「若鷲の歌(予科練の歌、〽若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨……)」なども取りあげられるのではないかと思われます。既に伏線は張られているようです。二階堂ふみさん演じる裕一の妻・音の実家「関内馬具店」が軍用の馬具を制作しているという話の流れで、音は間接的に戦争に荷担していることにしこりを感じ、裕一は「でも、馬具が兵隊さんを守ってくれてるんだから……」的なことを言って慰めるシーンがありました。おそらく後の軍歌や戦時歌謡を暗示していたのでしょう。

また、やはり「エール」と言えば、昨日放映のスピンオフ「環のパリの物語」では、「智恵子抄」を連想してしまいました。音の師にして、三浦環をモデルとする双浦環(柴咲コウさん)の若き日の物語。オペラ「蝶々夫人」の主役の座を射止めた環に対し、恋人の売れない画家・嗣人(金子ノブアキさん)は売れない画家のまま……。嗣人は環の成功を素直に喜べず、あまっさえ嫉妬したり、環に歌をやめてくれと身勝手な懇願をしたり……。音楽と絵画、ジャンルは違えど同じ「芸術」という土俵にいる者同士で結ばれてしまったがゆえの悲劇でした。

006

無論、すべての芸術家カップルがそうだとは言いませんが、光太郎智恵子の場合も、似たようなことがあったように思われます。彫刻家として、詩人として、徐々に世に認められてゆく光太郎に対し、やはり売れない画家だった智恵子も嫉妬を感じていたことは想像に難くありません。それが心の病を引き起こした要因の一つと言ってしまっても過言ではありますまい。

ちなみに光太郎、明治末に三浦環の公演をその目で観ています。が、そちらは改めてご紹介するとして、今日はこの辺で。


【折々のことば・光太郎】

御企てについての印刷物拝誦、良心と精覈とを以て事に当らば十分意義ある仕事と存じます、しかし経済的に成立せしめるには余程の手腕がいる事と考へられ、御志を壮とします。

散文「創刊に寄する諸家の言葉」全文 昭和12年(1937) 光太郎55歳

昭和12年(1937)8月22日発行『詩報』第一年第一号(二)面に掲載された短文です。『詩報』は「全日本/詩人の新聞」の副題を持ち、のちに光太郎が題字を揮毫した詩集『山川秘唱』(昭和19年=1944)の著者・村上成實が編刊にあたっていました。

005

ちなみにこの項、筑摩書房さん『高村光太郎全集』第一巻から言葉を拾い続けて参りましたが(日記、書簡、翻訳、短歌、俳句等は割愛)、少し前に最終巻の別巻まで拾い尽くし、その後、『全集』未収録の座談会筆録、談話筆記を文治堂書店さん『光太郎資料』第三巻、第六巻から拾い、そして、それらの補遺たる『光太郎遺珠』から拾い始めました。したがって、当分の間、『高村光太郎全集』に漏れていた新発見作品から引用していきますのでよろしく(何が「よろしく」なのだかよく分かりませんが(笑))。

情報を得るのが遅れ、既に始まっていますが、栃木県から企画展情報です。 

 第4回「森の交響曲(シンフォニー)」

期  日 : 2019年9月23日(月)~12月17日(火)
会  場 : 
佐野東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時  間 : 午前10時~午後5時
料  金 : 大人700円 小・中・高生300円
休館日 : 水曜、木曜

高村光雲「牧童」を中心に、神様や仏様、花と虫や鳥たち、子供たちの笑顔、様々なモチーフの木彫を展示いたします。作家たちが高い理想と智慧をもって創造した作品は展示とともに森の交響曲(シンフォニー)を奏でます。
芸術の秋、美しい心の共鳴をお楽しみください。


地方紙『下野新聞』さんに紹介の記事が出ていました。 

木彫と絵画で「森」表現 各30点合わせ企画展 佐野東石美術館

【佐野】本町の佐野東石美術館で、木彫と絵画を取り合わせ森を表現する企画展「森の交響曲(シンフォニー)」が開かれている。17日まで。
 「日本近代木彫の父」といわれる高村光雲(たかむらこううん)の「牧童」をはじめ、光雲の流れをくむ作家が制作した花、虫、鳥や子どもたちの笑顔などをモチーフにしたさまざまな木彫約30点を展示。田崎草雲(たざきそううん)の「風雨赴釣図」といった日本画や県内出身画家の風景画など約30点の絵画と組み合わせ、心の中に自然をイメージできる空間を演出した。


003

記事にある「牧童」はこちら。

001

平成27年(2015)に同館で開催された「木彫の美-高村光雲と近現代の彫刻-」展にも出品され、拝見して参りました。光雲ならではの、精緻な彫りが実に見事でした。牛の毛並み、笛を吹く少年の指先や衣の皺にいたるまで、徹底して彫り込まれています。

光雲の流れをくむ作家」は、直弟子の山崎朝雲、平櫛田中、それから孫弟子にあたる澤田政廣といったところでしょう。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩はけつして虚偽からは生れないので、心にもないことはいくら善い、美しいことを書いても役に立たない。どんな些細なことでも、まことをもつて見、まことをもつて表現することから詩の第一歩は始まる。それ故、詩を書くといふことは人間の品性を養ふ。
散文「『職場の光』詩選評 八」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

職場の光 八

「善い、美しい」、しかし「心にもない」「虚偽」ばかり述べ、肝心なことは丁寧な説明など一切せずに隠し通す「まこと」「品性」皆無の輩に叩きつけたい一節です。

『週刊朝日』さんの先週号。情報を得るのが遅れ、慌てて買いに行ったら店頭ではもう今週号に切り替わっており、しかたなくネット通販で手に入れました。

「文語の湯宿」という連載が為されており、その第63回だそうで、光太郎智恵子がメインに取り上げられています。

イメージ 1 イメージ 2

「湯宿」は、栃木県の那須塩原温泉に今も健在の柏屋旅館さん。昭和8年(1933)に、光太郎智恵子が滞在しています。 

【文豪の湯宿】 高村光太郎・智恵子が新婚写真を撮影した、最後の2人旅

 文豪たちの作品に登場する温泉宿を訪ねる連載「文豪の湯宿」。今回は「高村光太郎・智恵子」の「柏屋旅館」(栃木県・塩原温泉 塩の湯)だ。
 因習を嫌った高村光太郎と智恵子は大正3年の結婚披露宴以降も入籍を拒んできた。だが、昭和6年に精神を病んだ智恵子が、その翌年に睡眠薬自殺未遂を起こすと、光太郎は全精力を智恵子の回復のために注いだ。昭和8年8月23日に入籍したのも智恵子を守るためだった。
  入籍の翌日から2人は、墓参りを兼ねて智恵子の故郷に近い東北地方の温泉をめぐる3週間の療養の旅に出る。福島・宮城の湯治場を回り、9月4日には旅程の最後となる栃木県塩原温泉・柏屋旅館に到着した。2人はその翌日、智恵子の母・長沼セン宛てに絵葉書を送っている。
 <(塩原塩ノ湯柏屋にて)帰りかけに塩原へよりました 智恵>
  十数日間の滞在中、宿の下を流れる鹿股川で、2人は写真屋に記念写真を撮ってもらっている。数少ない貴重なツーショット写真となった。
  9月18日、療養の旅を終え帰宅したが、智恵子の病状は<上野駅に帰着した時は出発した時よりも悪化していた>(「智恵子の半生」)。
  光太郎の必死の看病にもかかわらず智恵子は、昭和13年に結核で死去。塩原は最後の2人旅となった。(文/本誌・鈴木裕也)
■柏屋旅館(かしわやりょかん)  栃木県那須塩原市塩原364

よくまとまっています。

「新婚」といっても、文中にあるとおり、正式な入籍に対しての「新婚」で、光太郎智恵子、事実婚の開始は大正3年(1914)に上野の精養軒で行った結婚披露よりさらに遡ります。当時の(現在でもそうだそうですが)フランスでは事実婚のまま入籍しないカップルが多いとのことで、それにあやかったのでしょう。この時期に正式に入籍したのは、やはり文中にあるとおり、心の病が顕在化した智恵子の身分保障のためでした。智恵子もそうでしたが、既に光太郎自身も結核に冒されており、万一、自分の方が先に逝くことになったら……という配慮です。

そして、智恵子の愛した「ほんとの空」のある東北方面の温泉地で療養すれば、智恵子の心の病も快方に向かうのではないかという淡い期待の元、昭和8年(1933)8月24日からおそらく9月中旬まで、二人は4ヵ所の温泉地を廻りました。

まず、福島の裏磐梯川上温泉。ここにはこの湯治旅行で最も短く、一泊しかしませんでしたが、この際に、「わたしもうぢき駄目になる」のリフレインで有名な詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)が着想されました。

イメージ 3

イメージ 4
013続いて向かったのは、宮城県蔵王山中の青根温泉。二人が泊まった湯元不忘閣さんは今も健在です。青根に「一週間ばかり滞在」したという二人は、8月末か9月の頭に、次なる投宿地、福島土湯温泉に向かいました。土湯では旅館街から山奥に入った不動湯に宿泊しました。この旅館は平成25年(2013)に火災焼失、現在は焼け残った露天風呂を使い、日帰り入浴施設として再オープンしています。

そして、不動湯に9月4日まで滞在した二人は、福島市方面に山を下ります。おそらく東北本線を使って移動。翌5日に塩原温泉から、智恵子の母・センに宛てて、『週刊朝日』さんに紹介されている連名の絵葉書を送っています。

塩原では、柏屋旅館に投宿。柏屋は、塩原の中でも鹿股川の渓谷沿いの「塩の湯」というエリアにあり、塩原温泉の中心街からは離れて位置しています。いったいに、この湯治行では、一件宿だったり、温泉街のはずれだったりのいずれも静かな宿が選ばれました。症状の思わしくない智恵子や、他の湯治客への配慮でしょう。

そして、『週刊朝日』さんにも載った、右の写真が撮られました。これが確認できている限り、智恵子最期の写真です。

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

上は戦後すぐと思われる柏屋さんのパンフレット、それから戦前と思われる絵葉書です。絵葉書には、上記ツーショット写真にも写っている橋が。残念ながらこの橋は戦時中に金属供出に遭い、現存しません。

9月19日には、二人で撮った写真を使った絵葉書を、やはり連名でセンに送っています。

 しばらく方々を歩いてゐましたが先日帰宅しました、秋になりましたがお変りありませんか、当方無事、

文面は光太郎の筆跡で、差出人欄の「智恵」署名のみ智恵子の手になると思われます。そうとすれば、現存が確認できる智恵子最後の筆跡です。

19日の時点で「先日」と書かれているので、そう遠くない9月中旬の帰京だったのでしょう。『週刊朝日』さんには「9月18日、療養の旅を終え帰宅した」とありますが、こちらでは正確な帰京の日付を特定できていません。何か新資料でもあったのでしょうか? 柏屋の後に、二人が他の温泉宿に寄ったという記録が見あたらないので、ここには10日ほども滞在したと考えられます(今後、書簡等の発見で、新事実が出て来るかも知れませんが)。

「文豪の湯宿」、ぜひ単行本化していただきたいものですね。


【折々のことば・光太郎】

智恵子は私との不如意な生活の中で愛と芸術との板ばさみに苦しみ、その自己の異常性に犯されて、刀折れ矢尽きた感じである。精一ぱいに巻き切つたゼムマイがぷすんと弾けてしまつたのだ。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

精一ぱいに巻き切つたゼムマイがぷすんと弾けてしまつた」、恐ろしいまでに的確な、しかし哀しい比喩です。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

ちょっと変わった企画展です。

涯テノ詩聲(ハテノウタゴエ )詩人 吉増剛造展

期日 : 2017年11月3日(金・祝)~12月24日(日)
会場 : 足利市立美術館 栃木県足利市通2丁目14-7
時間 : AM10:00~PM6:00
料金 : 一般700(560)円/高校・大学生500(400)円/中学生以下無料 
     ( )内団体料金
      11月23日(祝・木)は無料
     第3日曜日「家庭の日」(11/19、12/17)は中学生以下のお子さま同伴ご家族無料

 吉増剛造(よします・ごうぞう 1939- )は、1960年代から現在にいたるまで、日本の現代詩をリードし続けてきました。その活動は、詩をはじめとすることばの領域にとどまらず、写真や映像、造形など多岐に広がり、私たちを魅了し続けています。
 常にことばの限界を押し広げてきた吉増の詩は、日本各地、世界各国をめぐり、古今東西、有名無名の人々との交感を重ねる中で綴られてきました。本展では、半世紀以上におよぶ活動の中から、各時代の代表的な詩集を柱とし、詩や写真をはじめとする吉増の作品群に加えて、関連するさまざまな表現者の作品や資料と共に展示します。
 現代のみならず、古代の営みにまで遡って様々な対象をとらえ、そこからかつてないビジョンを生み出し続ける吉増の視線、声、手は、日常を超えた世界への扉を私たちの前に開くでしょう。

1.詩集の彼方へ
 吉増剛造は、1964年に第一詩集『出発』(新芸術社)を刊行して以来、現在まで20冊あまりの詩集を含む、70冊を超える著作を発表してきました。その軌跡を辿ることで、吉増が現代詩の枠にととまらず、文学の限界を押し広げ、新たな言葉の可能性を表現し続けていることが明らかになるでしょう。ここでは、半世紀におよぶ詩作の中から、代表的な10冊の詩集を時代ごとに選び、吉増の活動を振り返りながら、各時代で関わりある人々の作品や資料をあわせて紹介します。

2.写真を旅する 
  詩人として出発した吉増剛造は、その活動の初期から数多くの写真を撮影し、それらは詩作にも影響を与えています。国内外の様々な場所で撮られたこれらの写真は、1970-80年代よりしばしば自著の中でも使用され、1990年代以降はギャラリーなどでの発表が始まりました。さらに、現在にいたるまで、吉増独自の多重露光写真を中心に、国内外各地で精力的に写真展が開催され、3冊の写真集が刊行されています。写真家としての吉増も、その活動を辿る中で重要なものの一つです。

3.響かせる手
 現代の詩人の中で、吉増剛造ほど、手で言葉を記すという行為を深めてきた者はいないでしょう。豊かな色彩と文字で記された吉増の原稿は、直筆原稿のイメージを越えて見るものを魅了します。近年では、きわめて細やかな文字が記された上からさらにインクなどで彩られ、絵画的ともいえる表現へと発展し、そこからは、書家としての吉増剛造の姿が新たに見えてくるでしょう。ここでは、現在の吉増の作品のほか、吉増が言及してきた様々な表現者、書き手の原稿、書などの作品をあわせて紹介します。

出品作家:吉増剛造/赤瀬川原平/芥川龍之介/荒木経惟/石川啄木/浦上玉堂/折口信夫/加納光於/川合小梅/北村透谷/島尾敏雄 /島尾ミホ/ダイアン・アーバス/高村光太郎/瀧口修造/東松照明/中上健次/中西夏之/中平卓馬 /奈良原一高/西脇順三郎/萩原朔太郎/柳田國男/吉本隆明/松尾芭蕉/南方熊楠/森山大道/与謝蕪村/良寛/若林奮


「1.詩集の彼方へ」で、「各時代で関わりある人々の作品や資料をあわせて紹介」とあり、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が展示されます。 吉増氏には、第二詩集『黄金詩篇』(昭和45年=1970)に収められた「高村光太郎によびかける詩」という長詩があるので、そのためでしょう。

イメージ 1

台東区立朝倉彫塑館さんの所蔵で、3点しか現存が確認できていない、大正期の鋳造のうちの一つです。台座の木彫部分も、光太郎が彫ったものです。

今年はじめに小平市平櫛田中彫刻美術館さんで開催された特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」、一昨年に武蔵野美術大学美術館さんで開催された「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture)」などにも展示されています。


ちなみに吉増氏、評論でも光太郎に触れて下さっています。昭和54年(1979)、河出書房新社さん刊行の『文芸読本 高村光太郎』所収の「高村光太郎の詩の文体」。昭和48年(1973)のご執筆だそうで、初出は他の雑誌なのでは、と思われます。

イメージ 2  イメージ 3

余談ですが、同書は、当方学生時代の講義のテキストでした。


お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

世界の機構の万華鏡は 転々として偶然の連鎖のやうでゐて しかも力学の必然を持つてゐる。 人力に基いて人力を超えてゐる。

詩「偶作」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

所詮人類は、お釈迦様の手のひらの上で暴れる孫悟空のようなもの、ということでしょうか。

晩年の光太郎詩には、この種の「諦観」が見て取れます。ただ、それがニヒリズムや無力感に結びつかず、「それでもやれることをやろう」といった建設的な方向にベクトルが向いていた点は、高く評価されて然るべきだと思います。

紹介すべき事項が多く、うっかり事前に紹介するのを忘れていました。光太郎の絵画が出展されている企画展です。  
会 期 : 2016 年4月9 日(土) ~6月12 日(日)
時 間 : 10:00 ~ 18:00
会 場 : 足利市立美術館 栃木県足利市通2丁目14-7
休館日  月曜日(ただし5月 2日は開館)、 5月6 日(金)
料 金 : 一般700(560)円、高校・大学生500(400 )円、中学生以下無料
      *( )内は20名以上の団体料金
 6月12日(日)は栃木県民の日協賛で観覧無料 

詩人と画家、
それはふたつの人種ではない。
二人はある日、どこかで出会ったのだが、
あとから確かめるすべもなく
ふたつが、ひとつのものの
          なかで出会う

これは瀧口修造の詩です。瀧口は画家と詩人は本来ひとつだと言っています。彼らは 表現方法は異なりますが、自身の意や情にかたちを与えるべく、やみがたい思いに駆られている点ではひとつなのです。ときとして絵の果てに言葉が、言葉の果てに絵が顕れ、画家は詩を、詩人は絵を手がけました。それは、言葉でしか、あるいは絵でしか表現できないものと彼らが出会ったことによります。このとき画家は自身の内に詩人を、詩人は画家を見出します。本展はそのような画家と詩人の展覧会です。

 そもそも画家と詩人を分けること自体、便宜的なことなのかもしれません。古来、「絵 は黙せる詩、詩は語る絵」といわれてきました。ときに絵は詩のように語りかけ、詩は絵のような豊かな色彩とかたちをありありと提示します。もとより日本には文人画の伝統があり、絵画と詩の分かちがたい表現こそ、その独自性を表していると言えるでしょう。今後、詩と絵は越境し、ともども新たな境地を開いていくと思われます。 

本展は、明治から現代までの画家と詩人の 詩と絵を一堂にあつめ、彼らの絵と詩は、けっして一方が他方を補足するものではないという観点から見直す試みです。「ひとつのもののなかで出会う」画家と詩人 詩と絵をご覧ください。

出品作品
画家
小杉未醒 青木繁 竹久夢二 萬鐵五郎 藤森静雄 恩地孝四郎 田中恭吉 中川一政 長谷川利行 古賀春江 川上澄生 村山槐多 谷中安規 三岸好太郎 棟方志功 長谷川潾二郎 難波田龍起 山口薫 香月泰男 津高和一 南桂子 松本竣介 浅野弥衛 飯田善國 草間彌生 田島征三 芥川麟太郎 藤山ハン 難波田史男 イケムラレイコ  瓜南直子  O JUN  鴻池朋子 小林孝亘 村瀬恭子 伊庭靖子 篠原道生(特別出品)  
詩人
正岡子規 高村光太郎  北原白秋  木下杢太郎  萩原朔太郎 佐藤春夫 西脇順三郎 宮沢賢治 佐藤一英 尾形亀之助 稲垣足穂 岡崎清一郎 富永太郎 小熊秀雄 北園克衛 瀧口修造 草野心平 中原中也 長谷川四郎 まど・みちお 立原道造 三好豊一郎 新国誠一 木島始 春日井建 吉増剛造 田畑あきら子 山本陽子

イメージ 1

昨年、神奈川平塚市美術館さんを皮切りに始まり、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、姫路市立美術館さんと巡回した企画展です。図録を兼ねた書籍『画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』は広く販売中です。

光太郎作品はのべ3点。大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」が会期中ずっと。前期(4/9~5/8)で、同年に描かれた洋酒の瓶と果実を描いた「静物」。後期(5/9~6/12)に、新潟・佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女を描いた「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)です。

イメージ 2


関連行事として、以下の通り開催されます。

講演会 宮沢和樹氏(林風舎代表取締役) 「祖父  清六から  聞いた  兄  宮沢賢治 -絵画について-」
日時: 4月9 日(土)午後2 時より    終わってしまいました。すみません。
会場:足利市立美術館多目的ホール 定員 : 60名 参加費:無料 

講演会 吉増剛造氏(詩人) 「〝たったいま性〟について」
日時: 4月24 日(日)午後2 時より 会場:足利市立美術館多目的ホール
定員: 60 名 参加費:無料

 *参加ご希望の方は電話(0284-43-3131 )でお申込みください。定員になり次第締め切らせていただきます。
*展覧会観覧の場合は別途観覧料(高校生以上)が必要となります。

学芸員によるギャラリートーク
日時: 5月4 日(水・祝)、6月5 日(日)午後2 時より
*参加ご希望の方は当日午後2時に美術館入口受付までお集まりください。
*参加は無料ですが、観覧料(高校生以上)が必要です。

対話型鑑賞の会「作品の声を聴こう」
日時: 4月17日(日)、 5月8日(日)各日午後2 時より
 対話型鑑賞とは、一点の作品を、美術の知識にたよらず自由に観て、その感想をみんなで話し合いながら作品の理解を深める鑑賞方です。展示室で出品作品をもとに、ファシリテーター(司会役) が参加者に質問をしながら対話を進めます。
4月17 日(日)対象:小学生 定員:15名 参加費:無料
5月8日(日)対象:中学生~一般 定員:15名 参加費:無料
ただし、高校生以上は観覧券が必要。
それぞれ、参加ご希望の方は電話(0284-43-3131)でお申込みください。 定員になり次第締め切らせていただきます。


ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

春の日や御堂をさして畷道      明治42年(1909) 光太郎27歳

イタリア旅行中の作ですので、「御堂」はやはりキリスト教の教会や修道院の類、「畷道(なわてみち)」は麦畑的なところを通る小径でしょう。しかし、日本の田園風景としてイメージしてもいい句ですね。     

栃木県佐野市にある佐野東石美術館さんでの企画展です

木彫の美-高村光雲と近現代の彫刻-

会  期 : 2015年9月18日(金)~ 12月20日(日) 木曜休館
会  場 : 佐野東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時  間 : 午前10時~午後5時
料  金 : 大人700円 小・中・高生300円

 日本近代木彫の父・高村光雲(1852~1934)を中心に、光雲門下の山崎朝雲,大内青圃,阿井瑞岑らの作品を展示いたします。また、光雲の高弟に学んだ平櫛田中,師事した澤田政廣,佐藤玄々(朝雲)など珠玉の作品を一堂に展示いたします。木彫の生命の輝きをどうぞご鑑賞ください。


最初にこの情報を見つけた時、「佐野東石」は人名かと思いました。ところがさにあらず、「佐野」は所在地の地名、「東石」は「東京石灰工業株式会社」の略で、コンクリートの原料や線路の敷石などに使われる砕石を扱う会社だそうです。美術館はかつての同社社長・故菊池登氏が、文化教養の高揚に寄与する目的で設立されたとのこと。

その意気や良し、というわけで、こうした小規模な私営美術館や文学館にはエールを送りたくなります。再来週あたり、あちら方面に行く都合がありますので、行ってこようと思っています。皆様もぜひどうぞ。


同館のサイトには、所蔵作品として光雲の木彫「牧童」が紹介されています。他にも光雲作品の所蔵があるかどうか、解りかねますが。

000



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月2日

昭和30年(1955)の今日、『朝日新聞』に連載された「私のきいた番組」の第一回を執筆しました。

「私のきいた番組」は、9月4日、18日、10月9日、23日の4回にわたって連載された、ラジオに関する随筆です。

第一回は、ニュースをよく聴く、としたうえで、この年起こった森永ヒ素ミルク事件にも言及しています。

9月も下旬となりました。10月に行われる光太郎智恵子、光雲関連のイベント等を順次紹介していきます。 
イメージ 2
 
平成26年10月4日(土)~平成26年12月23日(火)
 
佐野美術館 〒411-0838 静岡県三島市中田町1−43 TEL:055-975-7278 FAX:055-973-1790
 
入 館 料  一般・大学生1,000円 小・中・高校生500円 ※毎週土曜日は小中学生無料
開館時間 10:00~17:00(入館の受付は16:30まで)
休 館 日  木曜休館
主  催  佐野美術館、三島市、三島市教育委員会、静岡新聞社・静岡放送
後  援  静岡県教育委員会
助  成  医療法人社団清風会 芹沢病院
協  賛  伊豆箱根鉄道株式会社
協  力  清水三年坂美術館
監  修  山下裕二(明治学院大学教授)
企画協力 広瀬麻美(浅野研究所)
 
鋭い観察眼から生まれた本物と見紛うほどのリアリティ、文様をミリ単位で刻み、彩色し、装飾を施す繊細な手仕事――明治時代、表現力・技術ともに最高レベルに達した日本の工芸品は、万国博覧会に出品され海外の人々を驚嘆させました。多くは外国の収集家や美術館に買い上げられたため、日本で目にする機会はほとんどありませんでした。
その知られざる存在となりつつあった明治の工芸に魅了されたのが村田理如(むらた まさゆき)氏です。村田氏は1980年代後半、出張先のニューヨークの骨董商で日本の印籠に出会ったことをきっかけに収集を始め、2000年京都に清水三年坂美術館を設立。現在、1万点を超えるコレクションを築き上げています。
本展は、村田コレクションから並河靖之(なみかわ やすゆき)らの七宝、正阿弥勝義(しょうあみ かつよし)らの金工、柴田是真(しばた ぜしん)・白山松哉(しらやま しょうさい)らの漆工、旭玉山(あさひ ぎょくざん)・安藤緑山(あんどう ろくざん)の木彫・牙彫をはじめ、京薩摩の焼きものや印籠、刺繍絵画など厳選した約160点により、明治の工芸家たちの気概を表した「超絶技巧」の世界を展観します。
 
 
関連イベント
 
日 時 2014年10月25日(土) 14:00~15:30 
講 師 村田理如(清水三年坂美術館館長)、山下裕二(本展監修者・明治学院大学教授)
会 場 佐野美術館講堂
定 員 60名
参加費 500円
申 込 要申込・先着順
一万点を超えるコレクションを築いた清水三年坂美術館の館長・村田理如氏と、「超絶技巧! 明治工芸の粋」展の監修者・山下裕二氏が、明治工芸について熱く語ります。
コレクターと研究者と、立場の違うお二人から、どんな話題が繰り出されるのか、どうぞお楽しみに。
 
 
今年4月から7月にかけ、日本橋の三井記念美術館さんで開催されていた同じ企画展の巡回です(その後、山口県立美術館さんが2015年2月21日~4月12日、さらに富山県水墨美術館さんで2015年6月中旬~8月上旬だそうです)。
 
三井記念美術館さんに観に行ったレポートにも書きましたが、光雲作の木彫、「西王母」と「法師狸」が並びます。
 
その他、七宝、金工、漆工、薩摩焼、刀装具、自在置物、牙彫、印籠、刺繍絵画……まさしく「超絶技巧」が目白押しです。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
 
当方、本日は国分寺に、テルミン奏者・大西ようこさんとギタリスト三谷郁夫さんによるコンサート「もう一つの智恵子抄」を聴きに行って参ります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月20日
 
昭和15年(1940)の今日、昭森社から森谷均編、『風経』が刊行されました。
 
イメージ 1
 
光太郎をはじめ、富本憲吉、北園克衛、土方定一、佐藤惣之助、倉田叕、蔵原伸二郎ら、美術家、文学者20余名の寄稿による書籍です。表紙は棟方志功。
 
光太郎の作品は、散文「鷗外先生の「花子」」。ロダンのモデルを務めた日本人女優、花子を描いた鷗外の短編小説「花子」について述べています。

当方、あちこち出かけておりますが、基本的にいつも一人です。
 
すると妻が「日帰りでいいから、たまにはどこかちゃんとした温泉に連れて行け」と言い出しました。
 
そこで、一昨年、全線開通した北関東自動車道を使えば、栃木までは比較的楽に行けるので、塩原温泉に行って参りました。
 
二人とも塩原には行ったことがありませんでしたし、訪れてみたい場所があったからです。
 
こんな写真があります。
 
イメージ 1
 
昭和8年(1933)9月、光太郎智恵子、塩原で撮影された一葉です。
 
光太郎智恵子が一緒に写っている写真で、現在でも普通に見られるものは6葉しかありません。
 
大正15年(1926)に、駒込林町のアトリエで撮られた3葉、その翌年に箱根大湧谷で撮られた2葉、そしてこれです。つまり、光太郎智恵子がそろって写っている最後のものです。
 
昭和8年というと、智恵子の統合失調症がかなり進んでいた時期です。光太郎は智恵子の故郷近辺の温泉巡りでもすれば少しは病状が好転するかと考え、智恵子を連れて旅に出ました。8月24日のことです。
 
ちなみにその前日には、本郷区役所に婚姻届を提出しています。永らく事実婚だったのを、光太郎は自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障のため、そうしたのです。
 
巡った温泉は福島の川上、青根、土湯など。今年8月末に全焼してしまった不動湯を訪れたのもこの旅の途次でした。
 
そして塩原。おそらくここが最後に寄った温泉だろうと推定されています。
 
しかし、9月中旬に東京に帰ってみると、智恵子の病状は出発前より悪化していたと言われています。
 
さて、上記の写真。二人が投宿していた柏屋旅館近くの鹿股川の渓谷で撮られたとのこと。そこでこの場所に行ってみたいと思い立ったわけです。
 
こんな時にも光太郎がらみか、と突っ込まれそうですが、妻も当方の仕事には理解を示してくれているので甘えました。
 
さて、柏屋旅館さんは今も健在。
 
 
イメージ 2
 
イメージ 11
 
調べてみると、本館は昭和10年(1935)の竣工。惜しいところで光太郎智恵子が訪れた時期に重なっていません。ただ、看板はもっと古いもののような気がしました。
 
さて、問題の写真が撮られた場所、柏屋さんのサイトの記述をたよりに探してみました。
 
初めは林道から渓谷へ下りる道の入り口が分からず、一度通り過ぎてしまいましたが、何とかたどり着けました。
 
010
 
この鹿股川、大雨で氾濫することも多いようで、さらにちょうど80年経っているので、多少は地形も変わっているかと思いますが、まずここで間違いないと思います。感慨深いものがありました。
 
ちなみに光太郎智恵子が柏屋さんから智恵子の母・センに送った葉書が残っています。
 
イメージ 6   イメージ 7
 
帰りがけに塩原によりました 智恵
此間福島のそばやで二本松の久保さんに偶然あひました 光太郎
 
光太郎との連名ですが、これが確認されている智恵子最後の直筆書簡です。
 
また、旅から帰って、光太郎はやはりセンに、上記の二人の写真を絵葉書にして送っています。
 
しばらく方々を歩いてゐましたが、先日帰宅しました、
秋になりましたがお変りありませんか、当方無事、
高村光太郎 智恵
 
こちらは署名のみ智恵子自筆と思われます。
 
ところでこの一角、実は塩原温泉の中心部からはけっこう離れています。下記画像で赤マルが柏屋さんのあるあたり、青マルが塩原温泉の中心部です。
 
イメージ 8
 
他の温泉を巡った時-焼失した不動湯さんにしてもそうだったようですが、智恵子を落ち着いてゆっくり静養させるため、わざわざ中心部から離れた静かな宿を選んで泊まっていたとのこと。
 
さて、当方夫婦、その後、塩原温泉の中心部に行き、上記地図にもある「塩原もの語り館」というところに入ってみました。
 
塩原周辺出身だったり、塩原を訪れたりした文人墨客に関する展示があるというので、光太郎智恵子も紹介されているかと思ったわけです。
 
イメージ 9
 

ありました。塩原に関する大きな年011表があり、昭和8年(1933)の項には光太郎智恵子の名。それから二本松市教育委員会さん発行の『アルバム 高村智恵子』も手に取ってみられる状態で置いてありましたし、例の写真もパネルに拡大されて展示されていました。
 
ただ、光太郎は塩原では詩歌を作っていないということもあり、あまり深く紹介されていませんでした。
 
ここでは室生犀星や尾崎紅葉などが大きく取り上げられていました。
 
その後、新そばを食べ、温泉につかり、足湯も堪能し、帰りました。紅葉にはまだ早かったのが残念でしたがなかなか有意義なプチフルムーン旅行でした。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月13日

昭和27年(1952)の今日、終焉の地となった中野桃園町のアトリエに入居しました。
 
智恵子の顔を持つ、といわれる十和田湖畔の裸婦像制作のため、7年半ぶりに上京した光太郎は、水彩画家の故・中西利雄のアトリエを借りました。それまで住んでいた花巻郊外太田村山口の山小屋では、大きな彫刻を作る事は不可能だったためです。
 
本日、夜8:00からNHKEテレで「日曜美術館「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」」の再放送があります。この中野のアトリエ、さらに塩原での写真も映ります。先週の本放送を見逃された方、ぜひご覧下さい。

yahoo!のニュース検索で1件、ヒットがありましたのでご紹介します。光雲の代表作の一つ、有名な「老猿」に関してです。
 
画像は平成14年に開催された展覧会のチラシです。「老猿」が大きく載っているので使わせていただきます。 
イメージ 1

にほんご鹿沼市:高村光雲「老猿」生んだトチノキで「木彫りのまち」PRへ 第1弾、26日に国立博物館見学ツアー /栃木

 ◇若手林業者ら乗り出す
日本近代彫刻の重鎮・高村光雲(1852~1934)の代表作「老猿」の素材が、鹿沼市産のトチノキだったことに、同市の若手林業者のグループ「森のなかま」(福田勝美代表)が着目。「木彫のまち鹿沼」のPRに乗り出した。26日には第1弾として東京国立博物館に展示されている「老猿」見学ツアーを計画。国の重要文化財である作品を味方につけ、イメージアップに努める。【浅見茂晴】
木工業が盛んな同市には、鹿沼産材の使用拡大を目指し、森林組合や製材所、建具店など木工関係者でつくる鹿沼地区木材需要拡大協議会がある。「森のなかま」は協議会の企画を実行するグループで、チェーンソーアーティストによる松尾芭蕉像をまちの駅「新・鹿沼宿」に設置した。
また、彫刻屋台や木版画の「川上澄生美術館」もあることから、森のなかまでは「木のまち、木工のまち鹿沼」に続く第三のキャッチコピーとして「木彫のまち」を考案した。
高村は東京生まれ。仏師の弟子として木彫を学び、同時に西洋の写実主義を取り入れて、新しい時代を切りひらいた。「老猿」のほか東京・上野の西郷隆盛像や皇居前広場の楠公像などで知られる。
「老猿」(高さ90・9センチ)は1893(明治26)年のシカゴ万博出品のため制作。大ワシとの格闘直後の気迫あふれる姿を描写した。材料のトチノキは、鹿沼に来て買い付けた。その際のエピソードを「栃の木で老猿を彫ったはなし」に書き残している。同市の上粕尾地区にあった、幹の直径が約2メートルの大木を切り出したという。その後、切り株から新たな芽が出て、現在は3代目と伝えられる木が、幹の周囲約3メートルにまで成長している。
現地は林道の終点から徒歩約30分上った斜面にあり、雑草が生い茂っている。整備が必要な状態だ。「森のなかま」は11月、現地確認に訪れる予定で、このトチノキをそのシンボルの一つと位置づけ、イメージアップを図っていくと同時に木彫に関するエピソードの掘り起こし作業も進める。代表の福田さんは「老猿に使われた木にあやかって、いろいろな方法でPRし、木工業の発展に寄与したい」と話している。
見学日程は26日、市民を対象に定員25人を募集する。8月10日までに申し込む。問い合わせは、協議会事務局(電話0289・62・5171)。

毎日新聞 8月7日朝刊

光雲、この「老猿」の制作には非常に苦労したそうです。彫刻そのものに関してもそうでしたし、ニュースで取り上げられている材料の買い付けも予想外の出来事が重なったため苦労しています。また、ちょうどこの時期に長女(光太郎にとっては姉)さくが急逝するという悲しい出来事もありました。
 
そのあたりは光雲自身の回想録『光雲懐古談』(昭和4年)に詳しく書かれています。サイト「青空文庫」に掲載されていますので、リンクを貼ります。
 
それにしても100年以上前に一度伐採された栃の木がまた芽を吹いて生き延びている、というのもすごいですね。
 
花巻や二本松、女川、そして今回の鹿沼など、光太郎・智恵子・光雲ゆかりの地は全国にたくさんあります。それぞれの地域で町おこしに活用してほしいものですね。そういうことが顕彰活動にもつながりますから。
 
明日は宮城県女川光太郎祭に行って参ります。

↑このページのトップヘ