上の画像は昨年秋のライトアップ時。愚妻がお友達と京都に行くというので撮ってきてもらいました。
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)




【折々のことば・光太郎】
自分は芸術家です。芸術三昧のうれしさと、芸術的全生活の貴さとは既に味ひもし知りもしてゐました。しかし日本に帰つた時日本の社会状態をつくづく見るに及んで此を吾人に近くしてみたいといふ考を起しました。此が動機で琅玕洞も造りました。其他種々の計画でまだ実行されなかつたのも沢山あります。芸術家にこんな事をさせたのは今の社会です。僕は我慢に我慢をしてやつてゐました。然るに此頃つくづく其の馬鹿げてゐた事を感じました。そこで美術国たる日本に全然背中を向けるのです。日本の恩を蒙りたくなくなりました。
山脇信徳は画家。明治42年(1909)の第3回文部省美術展覧会(文展)にコテコテの印象派風の絵画「停車場の朝」を出品しました。これを光太郎は是とし、石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」とディスり、所謂「地方色論争」が巻き起こりました。さらにそれが光太郎の評論にして我が国最初の印象派宣言とも言われる「緑色の太陽」につながります。
さて、その山脇に宛てた書簡から。芸術後進国・日本を啓蒙しようと、画廊・琅玕洞を開いたりしたことについて、芸術家自身がそんなことをすべきでなかったし、結局うまくゆかなかったとしています。