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沖縄から企画展情報です。

美ら島おきなわ文化祭2022関連特別展「宮内庁三の丸尚蔵館収蔵品展 皇室の美と沖縄ゆかりの品々」

期 日 : 2023年1月20日(金)~2月19日(日)
会 場 : 沖縄県立博物館・美術館 沖縄県那覇市おもろまち3丁目1番1号
時 間 : 9:00~18:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般¥800(¥640) 高校・大学生¥500(¥400) 小・中学生¥200(¥160)
      ( )内は前売券または20名以上の団体料金。

 復帰50年を節目として行われる国民文化祭「美ら島おきなわ文化祭2022」の一環として、沖縄で初めて皇室に伝えられた美術工芸品の展覧会を開催します。
 宮内庁三の丸尚蔵館は、皇室に代々受け継がれてきた美術品などが平成元年(1989)に国に寄贈されたの機に、皇居東御苑に平成5年に開館した施設です。
 この度、三の丸尚蔵館が所蔵する沖縄ゆかりの油彩画や工芸品と、皇室に伝えられた名品の数々を紹介します。
 絵画や写真を通して、皇室に伝えられた沖縄の姿をご覧ください。

沖縄ゆかりの品々
 明治20年(1887)頃の沖縄を写生した山本芳翠の連作画をはじめ、旧桂宮家に伝えられた「琉球塗料紙箱・硯箱」、昭和天皇や秩父宮家に献上された沖縄ゆかりの作家による作品や沖縄に根ざした特色ある工芸品を展示します。
 また、宮内庁が所蔵する明治時代の古写真の中から沖縄ゆかりの人物写真や明治20年の沖縄を写した写真、明治34年撮影の「沖縄県内各学校写真帖」をパネルで紹介します。

皇室の美 北斎の肉筆画、沖縄で初披露
 三の丸尚蔵館が所蔵する名品から、江戸時代に活躍した円山応挙「張飛図」と葛飾北斎「西瓜図」を紹介します。
 また、明治時代初期に記録のために作成された「雅楽図」や、高村光雲・山崎朝雲「萬歳楽置物」、綴織による大型の壁掛けなど、皇室がその伝承に深く関わってこられた雅楽を主題とした作品や儀式で用いられた伝統的な装束、着物など、高貴で優美な染織美をご覧ください。
このほか、皇室の御慶事の折に記念品として作られてきた愛らしいボンボニエールなどを紹介します。
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三の丸尚蔵館さんといえば、今秋に再開館予定でリニューアル中。そこでその間、収蔵品を全国各地のこうした展覧会に出張させています。この手の展覧会で光雲作が出たものが、下記の通りです。

今回は、九州国立博物館特別展「皇室の名宝 ―皇室と九州を結ぶ美―」でも出品されたブロンズの「萬歳楽置物」(大正4年=1915)が展示されます。木彫原型が、光太郎の父・光雲と、その高弟・山崎朝雲の作、螺鈿の施された台座部分の制作者は、由木尾雪雄という蒔絵師です。大礼(即位式)に際して貴族院から大正天皇に献上されたものです。
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当方、一度、現物を拝見しましたが、実に見事な作でした。何より皇室で大切に保管されてきただけあって、状態がいかにもよく、まるで最近作られたばかりのようでした。

沖縄で光雲作品の展示というのはめったにありませんし、他にも逸品ぞろいです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

后浅沼政規氏くる、余の談話筆記の原稿をあずかる、ヰスキーソーダを出す、

昭和31年(1956)1月19日の日記より 光太郎74歳

004浅沼政規氏」は、昭和27年(1952)まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山口小学校校長を務めていた人物。光太郎にかわいがられた子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、光太郎の語り部を務めて下さっています。

余の談話筆記」は、昭和23年(1948)から同27年(1952)までの、山口小学校で行われた各種の行事や会合などでの光太郎のスピーチ、職員室での茶飲み話の際の発言などを浅沼が記録したもの。平成7年(1995)、ひまわり社さん発行の浅沼の回想録『高村光太郎先生を偲ぶ』に全34篇、50ページ以上にわたって掲載されています。高村光太郎研究会さん発行の『高村光太郎研究』中に当方編集の「光太郎遺珠」として連載を持たせていただいている中で、全篇を転載させていただきました。

浅沼は活字にすることを希望して、光太郎の元に原稿を持ち込みましたが、光太郎は個人的な発言のものであったり、必ずしも光太郎がしゃべった通りになっていなかったりということで難色を示し、光太郎生前には実現しませんでした。

昨日は沖縄県の復帰50周年ということで、県と政府による記念式典等が開催されました。

当方、沖縄と光太郎といえば、3篇の詩(うち2篇は光太郎以外の詩人の作品)を思い浮かべます。

まずは光太郎。

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)4月1日に書かれ、翌日の『朝日新聞』に掲載された詩です。

   琉球決戦

 神聖オモロ草子の国琉球、
 つひに大東亜戦最大の決戦場となる。
 敵は獅子の一撃を期して総力を集め、
 この珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
 万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
 あらゆる暴力を傾け注がんずる。
 琉球やまことに日本の頸動脈、
 万事ここにかかり万端ここに経絡す。
 琉球を守れ、琉球に於て勝て。
 全日本の全日本人よ、
 琉球のために全力をあげよ。
 敵すでに犠牲を惜しまず、
 これ吾が新機の到来なり。
 全日本の全日本人よ、
 起つて琉球に血液を送れ。
 ああ恩納(おんな)ナビの末孫熱血の同胞等よ、
 蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
 弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、
 猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ
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米軍が沖縄に上陸したのは、まさにこの詩が書かれた4月1日午後4時06分。翌日の『朝日新聞』一面には「沖縄本島に敵上陸」の記事を載せ、社説も「沖縄決戦」のタイトルで書かれました。

その直後の4月7日、連合艦隊旗艦だった戦艦大和以下6隻の艦艇は、沖縄への海上特攻中、鹿児島県枕崎沖の東シナ海で米艦隊と遭遇、撃沈されています。沖縄では非戦闘員を巻き込んだ地上戦は6月23日まで続き、沖縄県民4人に1人が亡くなりました(日本軍の戦死者は11万人)。ただ、その詳細は「本土」で報じられることはあまりなかったようです。

こうした翼賛詩などを恥じ、戦後の光太郎が岩手花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居したことは、これまでもこのブログで触れて参りました。光太郎の胸中に、沖縄の人々などに対する鎮魂の意があったことを信じたいものです。

光太郎、沖縄出身の詩人とも交流がありました。そこで、当方が思い起こす2篇目の詩は、そのうちの一人、伊波南哲(いばなんてつ)が書いた作品、昭和18年(1943)3月作です。

  讃 ・与那国島
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 荒潮の息吹にぬれて
 千古の伝説をはらみ
 美と力を兼ね備えた
 南海の防壁与那国島。
 行雲流水
 己の美と力を信じ
 無限の情熱を秘めて
 太平洋の怒濤に拮抗する
 南海の防波堤与那国島。
 宇良部岳の霊峰
 田原川の尽きせぬ流れ
 麗しき人情の花を咲かせて
 巍然とそそり立つ与那国島よ。
 おゝ汝は
 黙々として
 皇国南海の鎮護に挺身する
 沈まざる二十五万噸の航空母艦だ。

伊波は明治35年(1902)、石垣島出身。ただ、大正12年(1923)、数え22歳で上京し、近衛兵となりました。除隊後は警視庁に勤務、そのかたわら詩作に励み、光太郎も寄稿したり題字を書いたりした雑誌『詩之家』(佐藤惣之助主宰)同人となり、光太郎の知遇を得たようです。昭和17年(1942)には光太郎の序文、棟方志功の装幀で『麗しき国土』という詩集を刊行しています。時期が時期だけに、やはり翼賛詩集です。

そしてその翌年に書かれたのが上記の「讃・与那国島」。この詩は早速その年のうちに与那国島に詩碑が作られ、県民の戦意高揚に資することが期されました。意外といえば意外、当然といえば当然ですが、沖縄県民自身もこうした翼賛詩を書いていたわけで……。ちなみに詩碑文を揮毫した人物は、戦後、碑文から自分の名前を削り取ってしまったそうです。

その伊波と同郷で親しかった詩人・山之口貘。伊波より一つ年下の明治36年(1903)生まれです。伊波同様、若いうちに故郷の沖縄を出て上京、ただ、「官」に軸足を置いていた伊波と異なり、ボヘミアン的な詩人でした。ついた職業は数知れず、「貧乏暮らしあるある」が売りでもありました。当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人にも名を連ね、光太郎と共に写っている写真も残っています。下の方に載せておきます。後列左端が山之口、前列中央が光太郎です。

しかし、『高村光太郎全集』に山之口の名は出て来ません。ただ、光太郎歿後になりますが、昭和34年(1959)、『定本山之口貘詩集』が第2回高村光太郎賞(詩部門)を受賞しています。同時受賞が草野天平(心平実弟・故人)、造型部門は豊福知徳でした。

山之口の詩で思い出すのが、以下です。高村光太郎賞受賞前年の昭和33年(1958)、まだ米軍統治下だった沖縄に、33年ぶりで帰郷した際の情景が歌われています。

   弾を浴びた島
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 島の土を踏んだとたんに
 ガンジューイとあいさつしたところ
 はいおかげさまで元気ですとか言って
 島の人は日本語で来たのだ
 郷愁はいささか戸惑いしてしまって
 ウチナーグチマディン ムル
 イクサニ サッタルバスイと言うと
 島の人は苦笑したのだが
 沖縄語は上手ですねと来たのだ

ガンジューイ」は「お元気でしたか」、「ウチナーグチマディン ムル イクサニ サッタルバスイ」が「沖縄弁まで みんな 戦争に やられたのか」。当時の沖縄の状況の一面が象徴されています。この「ウチナーグチ」の衰微は、50年前の復帰により、さらに加速することになるのですが……。

伊波南哲、山之口貘ときて、さらに言うなら、沖縄ではありませんが同じく南西諸島、昭和28年(1953)まで米軍統治下にあった奄美大島出身の泉芳朗の件も思い出します。

そんなこんなで、復帰50年。ロシアによるウクライナ侵攻もあり、実に色々考えさせられました。

再び「琉球決戦」。

珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、/万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)」。「さんばる」のルビは「やんばる」の誤りだと思われますが、この風景描写、伊波や山之口から聞いたものなのかもしれません。

そして「全日本の全日本人よ、/琉球のために全力をあげよ。」「全日本の全日本人よ、/起つて琉球に血液を送れ。」は、基地問題等の解決していない現代の視点から見て、まさにその通りですね。無論、戦争当時の大和のように軍艦を送り込め、という意味ではなく、です。

【折々のことば・光太郎】

午后谷口さんより岡といふ人来り、床下検分、補強方依頼す、 尚床下に人のねてゐたあとあり、中西夫人パトロールに告げ巡査来て調べる、


昭和27年(1952)12月1日の日記より 光太郎70歳

谷口さん」は谷口吉郎。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む設置場所一帯の設計を任された建築家です。「谷口さんより」は「谷口さんの事務所より」という意味でしょう。

床下の補強云々は、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエが、元々、水彩画家の中西利雄が建てたもので、「乙女の像」のような巨大彫刻の重量を想定していないと判断されたためです。

その床下に入り込んで寝ていたというのは、現代で言うところのホームレスのような感じでしょうか。

沖縄から演奏会情報です。

沖縄県立芸術大学音楽学部第32回洋楽定期公演~沖縄から発信する現代の音楽~

期 日 : 2021年10月2日(土)
会 場 : 沖縄県立芸術大学奏楽堂ホール 
       沖縄県那覇市首里当蔵町1-4 首里当蔵キャンパス内
時 間 : 18:00開場 18:30開演
料 金 : 無料(要整理券)

演目・演奏
 柴 佑:Rondo for Violin and Piano
  Violin 古藤 千晶 Piano 玉木 日菜
 油田 燿:Endless Cycle
  Marimba 宮里 凛花 Horn 仲尾 蘭 Piano 名護 茉里奈
 金城 亜美: "If the doors open someday" for string quartet
  Violin I 阿波根 由紀 Violin II 田場 尚子 Viola 佐渡山 安哉 Cello 城間 恵
 江幡 侑奈:《冬が來た》高村光太郎の詩による
  Soprano 山本 奏美 Piano 坂田 歩
 杉山 湧生:《線香花火》―弦楽四重奏のための―
  Violin I 阿波根 由紀 Violin II 田場 尚子 Viola 佐渡山 安哉 Cello 城間 恵
 安元 麦:《光の道》 ―ピアノとヴァイオリン、チェロのための―(2020/2021年改訂)
  Violin 田場 尚子 Cello 城間 恵 Piano 上田 勇貴
 土井 智恵子:HAJICHI BLUE (委嘱新作・世界初演)
  歌三線 新垣 俊道 琉球笛 入嵩西 諭 Violin 岡田 光樹 Cello 林 裕 Piano 新崎 誠実
 塚本 一実:Increasing lights 〜for solo flute〜
  Flute 飯島 諒
 ヤニス・クセナキス (1922-2001/アニバーサリー作曲家没後20年)
  :Psappha pour Percussion Solo(1975)
  Percussion 屋比久 理夏
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沖縄で「冬が来た」。まぁ、土地柄はあまり関係ないのかもしれませんが。当方、20年近く前、12月の暮れに沖縄に行きましたが、チョウチョが舞っていましたし、石垣島の海でダイビングをしました。海に入ると、海水温が冷たいと感じ、思わず「冷てっ!」と言ったら、インストラクターさんに「気のせいです、ここは沖縄ですから」と返されました(笑)。

ちなみに光太郎には「琉球決戦」(昭和20年=1945)という実に陰惨な翼賛詩がありますが……。

閑話休題。今回の演奏会、主催は沖縄県立芸術大学さん、企画は同大音楽学部音楽表現専攻 作曲理論コースさんだそうで、そちらの教職員の方々、学生の皆さんによる演奏会のようです。

公式サイトには「本公演の実施方法については、検討中です。決定後は本ページにてお知らせします。」とあり、やはりコロナ禍の影響なのでしょう。9月25日(土)に同じ会場で行われた別の演奏会は無観客で実施、後日、動画配信だったそうで。

今回の演奏会、有観客だったとしても、動画配信していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

胸から脇腹にかけての赤はれとぶつぶつは寄生虫か、腫物か、丹毒類か不明。わるくもならず、よくもならず、 天気になり次第花巻にゆきて院長さんに見てもらふつもり、ともかく三年前かひたるサルゾールをつづけてのむ。

昭和25年(1950)12月31日の日記より 光太郎68歳

昨日も書きましたが、光太郎日記、前年1月22日から、この年12月30日までの分が失われています。どこかにひっそりと残っていないものでしょうか。

「ぶつぶつ」は帯状疱疹だったようです。

昨日の『沖縄タイムス』さんの記事から

沖縄の実力派アイドルら舞台躍動 魅力オンラインでの生配信、笑顔届ける

 「GFO(GiRLS FES OKiNAWA)」が12日、那覇市のOutput(アウトプット)であった。無観客、オンラインでの生配信ライブで県内女性アイドルグループや歌手、ダンスクルーら4組が画面越しのファンに笑顔とクオリティーの高いパフォーマンスを届けた。(学芸部・西里大輝)
 
 「RYUKYU IDOL」のまいちゆう(26)、こうあ(17)、まり(22)、はるぱん(18)、しゅり(19)の5人はスマイル満開で、オリジナル曲「ミライ」など計9曲を40分間ノンストップで歌い、ステージを躍動。沖縄発アイドルの実力を見せつける。
 続くMATSURI(18)は透明感のある歌声と確かな歌唱力で存在感を示す。詩人・高村光太郎の詩をアレンジしたオリジナル曲「最低にして最高の道」は切ない語り口で心を揺さぶった。
 静かな余韻は、hanaとmionの激しいダンスで一転する。レゲエや洋楽、K・POPの曲を息の合ったキレのある動きでエモーショナルに踊りきり、ライブに熱気をもたらす。
 最後は「Lollipop(ロリポップ)」の比嘉琉那(17)と花城奈央(15)が「Alright」「Let’s」などノリノリのダンスチューンでステージを彩る。笛を吹き、タオルを回してのコール&レスポンス。爽やかさな笑顔でファンの声援に応えた。
 GFOはテレビ番組のディレクターでイベントプロデューサーの金城光生(てるみち)によるプロジェクト。県内で活躍するガールズユニットや女性シンガーらのライブを定期的開催し、魅力を発信してきた。金城プロデューサーは「みんな実力が高く、金の取れるパフォーマンスをしている。そのことを知ってほしい」とし、今後も若いアイドルのステージを提供していきたいと力を込めた。
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017MATSURIさんという方が、光太郎詩「最低にして最高の道」(昭和15年=1940)に曲を付けた歌を歌われたそうです。

この詩、光太郎詩の中ではそれほど有名な作品ではありませんが、クラシック系の歌曲にもなっていたり、朗読CD(小林稔侍さん森田成一さんなど)にも収められたりしています。また、今年はコロナ禍のため中止となりましたが、毎年5月の花巻高村祭でも、花巻高等看護学校の生徒さんが、やはりこの詩に曲を付けた歌を斉唱なさったりもして下さっています。

さて、MATSURIさんの「最低にして最高の道」。動画投稿サイトYouTubeにアップされていました。最初、『沖縄タイムス』さんの記事を読んだ時、サムネイルの画像がグループアイドル系さんが歌って踊って的な(一番上の画像)だったので、「最低にして……」もシャカシャカ系かと思っておりましたが、さにあらず。しっとり系のバラードでした。記事にも「切ない語り口で心を揺さぶった」とありましたね。

動画ありのバージョン。
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動画無しのバージョンもあり、カバー動画を募集しているそうです。



作曲されたKAITOさんという方が歌われているバージョンも。



詩としての「最低にして……」は、挙国一致体制を支持し、聖戦完遂、神国日本に勝利をもたらそう、手を貸してくれと、そういうきな臭い背景のある翼賛詩なのですが、そういう背景を抜きにして読めばそれなりにいい詩です。

逆に言うと、「八紘一宇」だ、「大東亜共栄」だ、「進め一億火の玉だ」といった言葉を使わなくともそういう意図を表してしまえる光太郎の詩才に舌を巻かされますが……。

残念ながらCDにはなっていないようで、CD化を希望します。

【折々のことば・光太郎】

木彫のものはオノでわって、ストーブにくべてしまいました。石膏などであったら、一撃を加えて跡形もなくなってしまいます。そんなものでしたから、いまに残っている作品は少ないのです。これは僕のひとつの病気とでもいうものだったんでしょう。
談話筆記「高村光太郎先生説話 九」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

気に入らない制作はどんどん壊す。芸術家あるある、ですね(笑)。クオリティーを保つためには必要なことなのかも知れません。

さらに言うなら、昭和20年(1945)の空襲で、残っていた作品のほとんども焼けてしまいました。

沖縄から企画展情報で、昨年、足利市立美術館さんで開催されたものの巡回です。巡回があるというのを存じませんで、ご紹介が少し遅れました。面目ありません。

涯テノ詩聲(ハテノウタゴエ )詩人 吉増剛造展

期 日 : 2018年4月27日(金)~6月24日(日)
会 場 : 沖縄県立美術館 沖縄県那覇市おもろまち3丁目1番1号
時 間 : 09:00-18:00  金・土は20:00まで
料 金 : 一般1000(800)円/高校・大学生600(480)円/小・中学生300(240)円
       (  )内団体料金
休館日 : 月曜日 (ただし4月30日(月)は開館)、5月1日(火)

 吉増剛造(よします・ごうぞう 1939- )は、1960年代から現在にいたるまで、日本の現代詩をリードし続けてきました。その活動は、詩をはじめとすることばの領域にとどまらず、写真や映像、造形など多岐に広がり、私たちを魅了し続けています。
 常にことばの限界を押し広げてきた吉増の詩は、日本各地、世界各国をめぐり、古今東西、有名無名の人々との交感を重ねる中で綴られてきました。本展では、半世紀以上におよぶ活動の中から、各時代の代表的な詩集を柱とし、詩や写真をはじめとする吉増の作品群に加えて、関連するさまざまな表現者の作品や資料と共に展示します。
 現代のみならず、古代の営みにまで遡って様々な対象をとらえ、そこからかつてないビジョンを生み出し続ける吉増の視線、声、手は、日常を超えた世界への扉を私たちの前に開くでしょう。

<出品作家>
吉増剛造、赤瀬川原平、芥川龍之介、荒木経惟、石川啄木、浦上玉堂、折口信夫、加納光於、川合小梅、川端康成、北村透谷、島尾敏雄、島尾ミホ、高村光太郎、瀧口修造、東松照明、中上健次、中西夏之、中平卓馬、奈良原一高、西脇順三郎、萩原朔太郎、柳田國男、吉本隆明、松尾芭蕉、南方熊楠、森山大道、与謝蕪村、良寛、若林奮

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足利と同一内容と思われ、吉増氏には、第二詩集『黄金詩篇』(昭和45年=1970)に収められた「高村光太郎によびかける詩」という長詩があることから、台東区立朝倉彫塑館さんの所蔵のブロンズ「手」(大正7年=1918)が展示されているはずです。3点しか現存が確認できていない、大正期の鋳造のうちの一つで、台座の木彫部分も光太郎が彫ったものです。

沖縄では光太郎作品の展示というのは珍しいのではないかと思われます。お近くの方、ぜひどうぞ。

ちなみに8月からは、渋谷区立松濤美術館さんに巡回されるそうです。また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

一番要求されてゐるのは、よろこんで縁の下の力持になれる人間です。隠忍ではいけません。当然の事として、ほがらかな心を以て、此役目を尽す人間です。石のやうにがつしりして、そして微妙で、小うるさい言ひ訳無しに静かに黙つて、常に自然と根を通じ、常に人間以上のものと交渉してゐる人間です。至極平凡なやうな英雄です。

散文「岩石のやうな性格」より 大正7年(1918) 光太郎36歳

「至極平凡」と言われても、なかなかそれが出来ないんですがね(笑)。

一昨日、『徳島新聞』さんの一面コラムに光太郎智恵子が引用されました。

鳴潮 12月20日付

 智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ-。沖縄の人は言う。沖縄には空が無い、米軍機の落ちぬ空が見たいと言う
 重大事故から1週間足らず。大破した機体の回収も終わらないのに、在沖縄米軍は新型輸送機オスプレイの飛行を全面的に再開させた。日本政府も米軍の対応を「理解できる」と容認した
 事故があれば、運用再開より原因究明が優先される。これがこの国の常識だと思っていた。買いかぶりだったようである。沖縄県知事は不信感もあらわに言う。「政府などもう相手にできない」
  配備計画も事故の検証も「日米地位協定の下、政府が手も足も出せない国家」。米軍の言いなり、まるで植民地。その姿を全国民に見てもらいたい、と知事。在沖縄米軍トップは、住民に被害がなかったことを挙げ「操縦士に感謝せよ」と言ってはばからない。一体、誰の空か
 防衛相は言う。「米側の対応は合理性がある。配備が抑止力向上につながる」。沖縄の反発をよそに、政府はオスプレイ擁護に躍起だ。一体、どこを向いて仕事をしているのか
 高村光太郎著「智恵子抄 あどけない話」から-智恵子は遠くを見ながら言ふ。阿多多羅山の山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ-。沖縄にほんとの空が戻るのはいつか。情けない空の話である。

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今月13日、沖縄・名護市の海岸に米軍の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが「墜落」した事故、さらには日本政府が同機の運用再開を容認したことを受けての内容です。

手厳しい論調ですが、一貫して正論ですね。ステレオタイプの反応しかできない幼稚なネトウヨどもは、「これを書いたのは中韓の工作員か」などとのたまうのでしょうが(笑)。

東日本大震災に伴う原発メルトダウンで福島の「ほんとの空」が失われましたが、「ほんとの空」が失われているのは沖縄も同様ですね。

「ほんとの空」の語が、こういった警句として使用されるこの国の矛盾に満ちた現状、泉下の光太郎智恵子も嘆いているのではないでしょうか。「情けない空の話」はもうたくさんだ、と。


【折々の歌と句・光太郎】

わが胸に常によき矛とよき楯と対ひてあればい行きかねつも
明治39年(1906) 光太郎24歳

米国留学中の作。

若き日の光太郎も、己の内面に大いなる矛盾を抱え、「い行きかね」=進むに進めない、という状況でした。おそらくは幼い頃から叩き込まれた江戸の仏師の価値観と、広い世界の美術界の潮流とのギャップに、そろそろ眼を開かされつつあったことが背景にあるように思えます。それが決定的になるのは、もう少し後、米英で約1年ずつを過ごし、パリに移ってからのことです。

人として、大いなる矛盾に悩みつつも、進むべき道を探求し続けた求道者・光太郎。国としてもそうあるべきですね。

沖縄の地方紙『八重山毎日新聞』さんの社説です。 

新空港の悪夢再現避けよ

自衛隊配備で利益誘導の八重山建産連
 
■「琉球決戦」想起させる訓示
 航空自衛隊は1月31日、尖閣諸島などの防衛強化のため、那覇基地に51年ぶりと言われる航空団「第9師団」を新たに編成し、F15戦闘機部隊2隊(40機)を配備した。式典では若宮健嗣防衛副大臣が「国防の最前線という地域・任務に真摯(しんし)に向き合うことで、領土、領海、領空を確実に守り抜くことが可能となる」と訓示した。
 若宮防衛副大臣の訓示は、詩人高村光太郎が沖縄戦の最中に書いた「琉球決戦」を想起させる。高村は「琉球や、まことに日本の頸動脈、万事ここにかかり万端ここに経路す。琉球を守れ、琉球に於いて勝て。全日本の全日本人よ。琉球のために全力をあげよ。敵すでに犠牲惜しまず、これ吾が神機の到来成り。全日本の日本人よ、起って琉球に血液を送れ」と記している。
 高村の「日本の頸動脈」と若宮防衛副大臣の「訓示」は同一基盤に立つものであろう。「血液」は送られず、沖縄県民の普天間基地の県外移設も、どこも受け入れない。沖縄は犠牲を強いられるだけだ。
 石垣市の自衛隊配備計画の賛成反対の運動も活発化している。基地建設予定地の三公民館が反対を表明し、防衛局の説明会も拒否した。
■市議会議長は軽率な行動慎め
 これに対し建設関連10団体で構成する八重山建設産業団体連合会(黒嶋克史会長)が防衛省を訪ね、「外国船の領海侵犯対応、災害時における対応への期待」を表明。①水源地の増設②海水の淡水化施設③浄水場整備水産資源の開発④産業廃棄物処理場の建設⑤川平半島周回道路の建設⑥各地区災害時避難場所などの6項目を要望したという。
 防衛省に要望したのは自衛隊誘致を前提とした「特定防衛施設周辺整備交付金」を狙ってのことであろう。「防衛施設の設置または運用により生じている影響の軽減などを図るため、特定防衛施設関連市町村が行う公共施設の整備、またはその他の環境の改善、開発の円滑な実施に寄与する事業に対し、交付金を交付することにより、関係住民の生活の安定および福祉の向上に寄与することを目的とする」(防衛省平成25年行政事業レビューシート) 防衛省への要望が自衛隊の宣撫工作に沿った誘致活動であるのは一目瞭然であろう。要望には知念辰憲市議ら2人も同行した。「石垣市自治基本条例」第2項は「議員は市民全体の代表者としての品位と責務を忘れずに、常に市民全体の福利を念頭におき行動しなければならない」とある。知念議員は議長である。島を二分する重大な問題で軽率な行動は慎むべきだ。
■市の「情報が不足」は疑問
 1月27日「八重山大地会」が自衛隊配備計画の情報公開を求めたのに対し、漢那副市長は「市役所としても情報が足りず、判断の段階ではない」と述べている。中山市長は昨年6月、配備先選定で調査に協力すると述べ、沖縄防衛局の森部長は「詳細は市の担当者と調整して行いたい」と語った。市の協力なくして選定はできなかったはずだ。説明に疑問を感じる。
 防衛省は三公民館の反対を受け、配備先候補地周辺や市民の理解と協力が得られるよう適切な情報提供に努めたいと述べている。
 新石垣空港建設で白保公民館が二分し住民が激しい対立した悪夢の再現があってはならない。三公民館の意見を尊重し、静かな生活環境のためにも石垣市への自衛隊配備計画は断念すべきだ。
2016年02月06日


引用されている光太郎詩「琉球決戦」は、昭和20年(1945)4月1日作。翌日の『朝日新聞』に掲載されました。当時は『朝日新聞』ですら、国策協力の最先鋒という立ち位置でした。

  琉球決戦

神聖オモロ草子の国琉球、
つひに大東亜戦最大の決戦場となる。
敵は獅子の一撃を期して総力を集め、
この珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
あらゆる暴力を傾け注がんずる。
琉球やまことに日本の頸動脈、002
万事ここにかかり万端ここに経絡す。
琉球を守れ、琉球に於て勝て。
全日本の全日本人よ、
琉球のために全力をあげよ。
敵すでに犠牲を惜しまず、
これ吾が新機の到来なり。
全日本の全日本人よ、
起つて琉球に血液を送れ。
ああ恩納(おんな)ナビの末孫熱血の同胞等よ、
蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、
猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ


数ある光太郎の翼賛詩―負の遺産―のうち、負のベクトルの最たるものの一つです。

この詩の書かれた4月1日、まさにその日に米軍は沖縄本島に上陸、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されます。「起つて琉球に血液を送れ。」とばかりに、無謀な海上特攻を仕掛けた戦艦大和は7日には沖縄にたどり着くことなく撃沈。その後、沖縄戦では約20万人の日本人犠牲者が出ました。そのうちの約3分の2は沖縄の人々でした。

終戦後も永らく占領が続き、現在に至っても在日米軍基地の7割以上は沖縄に集中。普天間基地の移設問題、オスプレイの配備問題など、問題は山積しています。

それに加えて自衛隊の基地も存在。ただし、石垣島を含む八重山諸島には、自衛隊基地はないとのことです。しかし、ここにきて誘致の計画が浮上。それが一概に悪いとは言いません。人工衛星の打ち上げと称する事実上の大陸間弾道ミサイルをぶっ放す国がすぐ近くにあるなど、防衛の必要上、不可欠なのかも知れません。でも、有事の際に真っ先に攻撃目標にされるのは米軍や自衛隊の基地ですね。また、誘致の裏に利権目当ての胡乱な輩の影もあるようです。

大戦中、ある意味、軍の尻馬に乗って翼賛詩を乱発し続けた光太郎は、沖縄戦真っ最中の4月13日の空襲で、亡き智恵子と共に過ごした思い出深い東京のアトリエを失います。手痛いしっぺ返しを喰らったようなものですね。

現在の我が国も、手痛いしっぺ返しを喰わないようにしていきたいものだと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

高きものいやしきをうつあめつちの神いくさなり勝たざらめやも
昭和19年(1944) 光太郎62歳

負の遺産ついでに、戦時中の作品です。結局、うたれたのは「いやしき」日本の軍閥でした。

今日、6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。

太平洋戦争末期であった昭和20年(1945)、3月から始まった住民を巻き込んでの沖縄戦で、組織的な戦闘が終結したのが6月23日。それが由来です。

この戦闘による犠牲者は日米英あわせて約20万人。他の局地戦と異なり、戦闘に巻き込まれたり、集団自決をしたりで、多数の民間人が犠牲になっています。

さて、昨日の沖縄の地方紙『沖縄タイムス』に掲載された一面コラムです。

大弦小弦

2015年6月22日

名護市の私設博物館「民俗資料博物館」が1945年の新聞、365日分を展示している。沖縄戦の記録として、館長の眞嘉比朝政さん(78)が8年かけて集めた
▼新聞は全て本土から。壕で発行された沖縄新報は5月25日で途絶え、戦火でほぼ失われたからだ。眞嘉比さんは「沖縄以外の新聞社の記事で沖縄戦が分かるのは皮肉」と言う
▼色あせた新聞を手に取ると、本土の視点が分かる。沖縄本島に米軍が上陸した直後の4月3日。朝日新聞は高村光太郎の詩「琉球決戦」を掲載した。「琉球やまことに日本の頸(けい)動脈」「琉球を守れ、琉球に於(おい)て勝て」と、抗戦を訴える
▼軍部は負け戦を重々承知だった。敗北が迫った6月15日、毎日新聞は鈴木貫太郎首相の会見を報じる。「私は沖縄を天王山としていない」「あまり沖縄のみを強調して国民の意志を弱めることは好まぬ」と手のひらを返した
▼組織的戦闘が終わった26日。北海道新聞の社説は「沖縄の戦いによって稼いだ『時』はわが本土の防衛態勢を強化せしめ」と、捨て石作戦の性格を露骨に書いた。結局、「本土決戦」はなかった
▼沖縄は昭和天皇の「メッセージ」で米国に差し出され、日本復帰後も基地を背負い続ける。原点である慰霊の日が巡ってくる。70年。かくも長く終わらない不正義を、誰が想像できただろうか。(阿部岳)

016引用されている「琉球決戦」、手許の資料によれば『朝日新聞』への発表は4月2日。『沖縄タイムス』さんでは3日となっていますが、東京版でない版で、1日遅れの掲載という可能性が考えられます。

全文はこうです。

   琉球決戦

 神聖オモロ草子の国琉球、
 つひに大東亜最大の決戦場となる。
 敵は獅子の一撃を期して総力を集め、
 この珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
 万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
 あらゆる暴力を傾け注がんずる。017
 琉球やまことに日本の頸動脈、
 万事ここにかかり万端ここに経絡す。
 琉球を守れ、琉球に於て勝て。
 全日本の全日本人よ、
 琉球のために全力をあげよ。
 敵すでに犠牲を惜しまず、
 これ吾が神機の到来なり。
 全日本の全日本人よ、
 起つて琉球に血液を送れ。
 ああ恩納(おんな)ナビの末裔熱血の同胞等よ、
 蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
 弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、
 猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。


戦後の今だから言えるのかも知れませんが、何をか言わんや、の感がぬぐえません。「全日本の全日本人よ、琉球のために全力をあげよ。」「全日本の全日本人よ、起つて琉球に血液を送れ。」。そんな余裕がどこにあったというのでしょうか。

戦艦「大和」による沖縄特攻が行われたのはこの詩が発表された5日後の4月7日。なるほど、「起つて琉球に血液を送れ」の実行かも知れません。しかし、米軍に制空権を奪われ、航空機部隊の援護もない中での鈍重な艦艇の出撃など、失敗に終わるのは目に見えています。それでも実行したのは「玉砕」の二文字の持つ魔力、とでもいいましょうか、「生きて虜囚の辱を受けず」の精神でしょうか。上層部はそれでいいのかも知れませんが、巻き添えにされる下々の兵卒はたまったものではありません。

そして沖縄でも多数の民間人犠牲者。どこが「吾が神機の到来なり」だったのでしょうか。


こうした愚にもつかない空虚な戦争協力詩を乱発し、多くの前途有為な若者に「命を捧げよ」と鼓舞し続けたことを恥じ、かつ反省し、戦後の光太郎は岩手の不自由な山中に「自己流謫(じこるたく)」の毎日を送る決断をしました。「流謫」は「流刑」に同じ。公的に戦犯として処されることのなかった光太郎は、自分で自分を罰することにしたわけです。

しかし、沖縄戦の実態などは、GHQによる報道管制などの影響もあり、戦後になっても一般国民には余り知らされませんでした。昭和25年(1950)には有名な石野径一郎の小説『ひめゆりの塔』が刊行されましたが、光太郎、これを読んだ形跡がありません。もし読んでいたら、自作の「琉球決戦」と併せ、どのような感想を持ったか、興味深いところです。


ところで、今日行われる沖縄全戦没者追悼式に、集団的自衛権とやらの濫用を目論み、普天間基地移設問題では知事を門前払いにしたあの人も出席するのですね。「弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、/猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。」という国にするのが目標としか思えないのですが。
006

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月23日

昭和48年(1973)の今日、岩波書店から三田博雄著 『山の思想史』 が刊行されました。

当方も寄稿させていただいた山岳雑誌『岳人』さんに連載されたものに加筆修正し、「岩波新書」の一冊として刊行。北村透谷、志賀重昂、木暮理太郎ら、山を愛した近代知識人を取り上げています。

光太郎の項では、青年期に訪れた赤城山と上高地、智恵子の故郷・福島の安達太良山、そして戦後の花巻郊外の太田村での山居について紹介しています。

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