カテゴリ:東北 > いのちの石碑

昨日お伝えした、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ宮城県女川町の「いのちの石碑」新設の件、後追いでの報道と、当方が見落としていた報道がありましたので、ご紹介します。

ローカルTV局・ミヤギテレビさん。

宮城 女川いのちの石碑20基完成

 津波から避難する目印にと、女川町の当時の中学生が各浜の高台に建てたいのちの石碑。今月20基目までの石碑が完成し披露式が行われました。
 女川町の小乗地区と横浦地区では、今月8日地元住民や女川中学校の卒業生が参加し披露式が行われました。
 いのちの石碑は、当時の中学生が震災の悲しみを繰り返さないために、女川町の21の浜の津波到達地点より高い場所に避難の目印となる石碑を建てる取り組みです。設置の費用1000万円は募金で集め、今回で20基目まで完成しました。
 最後となる21基目の石碑は今年11月に女川小・中学校の近くの高台に設置する予定です。
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続いて地方紙『石巻日日新聞』さん。

千年後の命を守るために 女川の石碑 20基目除幕 11月に残る1基披露

 多くの被害をもたらした東日本大震災の津波の教訓を後世に伝え、千年先の命を守ろうと、女川町立女川中学校の卒業生が設置に取り組んできた「女川いのちの石碑」は8日、19、20基目が除幕された。町内に21ある浜全てに建立する計画。残る1基は小学校併設の新しい中学校敷地内に建て、11月21日に披露する予定。
 19基目は小乗浜、20基目は横浦に建立。いずれも新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、地域への披露式が1年延期されていた。このうち横浦は高台の防災集団移転団地に建立。地域住民や須田善明町長のほか、卒業生のうち4人が海の見える団地内の公園に集まり、石碑を覆った白い布を下ろした。
 4人のうち伊藤唯さん(23)は「町や地元の人に支えられて20基目まで来た」と10年を振り返り、阿部由季さん(23)は「震災を伝えていくのに役立ってほしい」と期待。残り1基となる中、鈴木智博さん(22)は「建てて終わりではなくこれからがスタート」と見据え、山下脩さん(22)も「仕事の合間を縫って語り継ぐことをしてけたら」と話した。
 取り組みを進めたのは、震災翌月に女川第一中(後に女川中)に入学した1年生。社会科の授業をきっかけに津波被害を最小限にする3つの対策(①互いに絆を深める②高台に避難できる町づくり③記録に残す)を考え、その一つとして津波が到達した地点よりも高い場所に石碑を建てることにした。
 2年生の3学期に募金を開始し、半年余りで1千万円が集まり、その年の11月に最初の2基が完成した。石碑は統一した形で台座を含めた高さは2メートル、幅1メートル、重さ2トン。碑文に3つの対策を刻み、津波が来た時の避難や笑顔あふれる未来の町への願いを記してある。
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最後に、やはり地方紙『石巻かほく』さん。

「いのちの石碑」19、20基目 小乗、横浦地区に完成 女川

 東日本大震災の教訓を後世に伝えるため、女川町女川中の卒業生らが町内21カ所に建立を進めている「女川いのちの石碑」の19、20基目が小乗、横浦の両地区に完成した。披露式が8日、現地で行われた。
 小乗地区では、卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民ら約20人が参加した。メンバーが碑文に込めた思いや、各浜で津波到達点より高い場所に建てたことなどを説明した。参加者は石碑を前に震災当時やこれまでの生活を振り返った。
 石碑は高さ約2・3メートル、幅約1・2メートル。「地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などのメッセージや「黒津波 女川の景色 消しさった」といった当時の生徒が考えた俳句が石碑ごとに刻まれている。
 小乗地区の阿部求行政区長(73)は「若者が地域の未来を思って行動してくれている。石碑の意味をしっかり理解し、住民同士で支え合いたい」と話した。
 横浦地区にはメッセージの他に「今ここに 生きててくれた ありがとう」と俳句が記されている。区長の木村初雄さん(72)は「震災を経験した私たちが風化させないように協力しなければいけない」と気持ちを新たにした。
 石碑の建立は2013年に始まり、19、20基目は19年11月に完成した。翌年に披露式を行う予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期していた。
 「いのちを守る会」の阿部由季会長(23)は「石碑を建て終えてからがスタートだと思っている。教科書の作成や講演会の実施など発信に力を入れていく」と抱負を語った。
 21基目は、昨夏新設された女川小中に建てられ、11月21日に披露式を行う予定。各石碑には住民が感じた震災の教訓などを見られるようにしたQRコードを刻むことも検討されている。
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最後に書いてあるQRコードの件。実現して欲しいものです。石碑類、建てて建てっぱなしになることが少なからずあるのですが、「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーの皆さんは、定期的に碑の清掃等にも取り組まれていますし、さらにQRコードの追刻も活動を進化・深化させる上で効果的と存じます。

まったく、頭の下がる思いです。

【折々のことば・光太郎】

牛尾をオツクステールにする。


昭和23年(1948)7月31日の日記より 光太郎66歳

「オツクステール」はスープです。現代では高級なメニューとしてもてはやされていますが、当時の日本では牛の尾は捨てるもの、というのが常識でした。欧米留学の経験もあった光太郎は、捨てられる牛の尾があると、貰って、自家製のスープにしていました。

この日入手したのは、分娩の際、死んでしまったという牛の尾。近くの開拓地に住む青年が届けてくれました。

昨日ご紹介した、宮城県女川町の光太郎文学碑に倣い、費用を募金でまかなった「いのちの石碑」。東日本大震災の後、当時の中学生たちが考案した、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、建立が進んでいます。

全21基中の19・20基目が除幕されたということで、報道されました。

テレビ局のローカルニュースから。まず、OX仙台放送さん。

“強い地震が来たら石碑より上へ逃げて”女川町「いのちの石碑」 中学卒業生が震災の教訓を刻む

 女川町では震災の教訓を石碑に刻んで後世に伝える、「女川いのちの石碑」が新たに2つ完成し8日、除幕式が開かれました。
 この活動は2011年に入学した女川中学校の卒業生たちが、震災の教訓を後世に残そうと町内21の浜に石碑を建てているものです。
 女川町小乗地区で行われた8日の除幕式には、女川中学校の5人の卒業生などおよそ20人が集まり、19基目の石碑が披露されました。
石碑には「地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などとメッセージが刻まれています。
 小乗地区住民「地域の方々が仲良く支え合って歩んでいただければと」
 また午後からは、女川町横浦地区で20基目の石碑が披露されました。
 女川中学校卒業生 山下脩さん「最終的には夢としては千年後まで語り継いでいければなと思っています」
 「いのちの石碑」最後の21基目は、11月に女川小・中学校に建てられる予定です。
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続いてtbc東北放送さん。

 「いのちの石碑」最後1つを残し完成 宮城・女川町

 宮城県女川町出身の若者たちが震災の教訓を語り継ごうと町内21の浜に建立を進めている石碑が20基まで完成しました。
 女川町の小乗地区では、石碑の披露式が行われ、建立した若者たちや住民が参加しました。この石碑は、女川中学校の卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」が建立を続けているものです。町内21の浜の津波到達地点よりも高い場所に石碑を建てる計画で、8日は、19基目の小乗地区と20基目の横浦地区の2つがお披露目されました。会では、最後となる21基目の石碑を女川小中学校に建立し、今年11月21日に披露する予定です。
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さらに、NHKさん。

女川町いのちの石碑 20基目が完成

 東日本大震災の教訓を伝えようと当時、中学生だった人たちの呼びかけで、女川町の沿岸の地区に建てられることになった石碑のうち20基目が完成し、披露されました。
 女川町では、震災当時、中学生だった人たちが、津波の教訓を後世に伝えようと「女川1000年後のいのちを守る会」を立ち上げ、沿岸にある21の地区に石碑をつくる活動を続けています。
大きな被害を受けた横浦地区では、震災後、新たに造成された高台の住宅地に20基目となる石碑が建てられました。
 8日は、大学生や社会人になったメンバー4人と地元の人たちが集まって、全員で石碑の幕を引きました。
 石碑は高さおよそ2メートル、幅およそ1メートルで、「今ここに生きてくれててありがとう」といったことばが刻まれています。
 そして、メンバーの1人の伊藤唯さんが「大きな地震が来たら石碑よりも高い場所に逃げて、家に戻ろうとする人がいたら引き止めてください」と呼びかけました。
 残る1基の石碑は、ことし11月に完成する予定です。
 「女川1000年後のいのちを守る会」の鈴木智博さんは、「21基の石碑を建てて終わりではなく、震災の教訓を伝え続けたい」と話していました。
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それから、KHB東日本放送さん。

東日本大震災の教訓を後世に いのちの石碑 19・20基目 宮城・女川町で披露

 震災の教訓を後世に伝えようと宮城県女川町で、当時の中学生が設置した石碑の披露式が行われました。
 この石碑は、女川中学校の卒業生が、津波で被災した町内21カ所に建設を目指しているもので、8日は19基目と20基目がお披露目されました。
 新型コロナの影響で、1年遅れての公開となりましたが、今年11月には、最後の1基が女川小中学校に設置されます。
 女川1000年後のいのちを守る会・鈴木智博さん
「これを建てて終わりじゃなくて、伝えていくのがこれからの使命なのかなと考えています」
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新聞でも報道されています。仙台に本社を置く『河北新報』さん。

女川中生の思いつないで20基目 避難誘導の「いのちの石碑」

 東日本大震災の教訓を未来に伝え残そうと、宮城県女川町女川中の卒業生らが町内に建立している「女川いのちの石碑」の19、20基目が小乗(このり)、横浦両地区にそれぞれ完成し、8日に現地で披露式があった。
 卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民ら約30人が参加した。石碑を除幕した後、メンバーが碑文に込めた思いを説明。住民らは、震災当日の出来事を振り返りながらメンバーと語り合った。
 小乗地区行政区長の阿部求さん(73)は「当時の子どもたちがプロジェクトを立ち上げ、本当に頑張った。石碑を見て地域で支え合って歩みたい」と話した。
 2基の披露式は新型コロナウイルスの影響で1年延期して開いた。月1回の伝承活動も昨春以降、自粛が続く。守る会の伊藤唯さん(23)は「石碑を建てて終わりではなく、これがスタートだと思って活動したい」と意欲を語った。
 いのちの石碑は2011年4月に女川中に入学した生徒らが企画。「地震が来たらこの碑より上へ逃げて」と避難を促すため、町内各浜の津波到達地点より高い場所に建てている。建立は13年11月に始まり、最後の21基目は昨夏新設された女川小中学校に建て、11月21日に披露式を開く予定。
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この活動、今年6月には、オンラインで開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」の中で、天皇陛下がご紹介。また、一昨年にはNHKさん制作のドラマ「女川 いのちの坂道」でモチーフとなるなどもしています。

今秋には最後の碑が、新たに開校した女川小・中学校に建てられるそうで、今後とも、この活動を見守っていきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

花巻温泉貸別荘の儀は訪問者殺到を恐れて中止にせんかと相談す。


昭和23年(1948)7月24日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、マイナス20度にもなり、メートル単位で雪が積もる厳冬期だけでも、花巻温泉に新設された貸別荘を借りてはどうか、という話があり、光太郎もその気になりかけたのですが、結局、そうすると、交通の便が悪くないため訪問客が多くなりそうだと危惧し、取りやめにしました。

昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額を寄付で集めた「いのちの石碑」に関わります。

「時事通信」さん。

天皇陛下、国連会合で講演=「水と災害」、オンラインで

  天皇陛下は25日、オンラインで開かれた「第5回国連水と災害に関する特別会合」に、お住まいの赤坂御所(東京都港区)から参加し、基調講演された。陛下が即位後講演するのは初めて。
 陛下は「災害の記憶を伝える」と題し、約25分間、写真や図を使って英語でスピーチ。発生から10年がたった東日本大震災の記録や被災者の体験について「時代を超えて継承していくことはとても大事なこと」と述べた上で、語り部活動や震災遺構、宮城県女川町の「1000年後のいのちを守る石碑」などを紹介した。
 新型コロナウイルスについても、スペイン風邪など過去の疫病の経験を知る必要があると言及。「災害や疫病の記憶を後世に伝えつつ、その教訓を生かすべく次の災害や疫病に備えながら、誰一人取り残されることなく健康で幸せな毎日を享受できるような社会の構築に向けて、私も皆さんと一緒に努力を続けていきたい」と語った。
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「共同通信」さん。

東日本大震災陛下、国連の水会合で講演

 天皇陛下は25日、住まいの赤坂御所で、オンライン形式で開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」に出席された。即位後初めてとなる講演も行い、発生10年を迎えた東日本大震災での伝承活動を取り上げ、「後世まで伝えていこうとする一人一人の努力が、次の災害を防ぐ大きな力になると信じている」と訴えた。
 陛下は英語で30分近く、写真や図表を交えて講演。被災地の語り部とオンラインで交流したことを報告し、体験や教訓を「多くの人々と共有することはとても貴重なこと」と紹介した。
 震災後、宮城県女川町に建てられた避難誘導の石碑や、2016年に訪問した岩手県宮古市の震災遺構「たろう観光ホテル」、徳島県の昭和南海地震などの石碑、1771年の明和の大津波での沖縄・石垣島の被害を取り上げた。
 新型コロナウイルス禍にも言及。ワクチン接種に「暗く長いトンネルの先にようやく一筋の光明を見いだしています」と述べ、コロナ後の世界について「語り合うことは、人類の将来にとって大変重要」と指摘。スペイン風邪など過去の疫病から学ぶことも訴えた。
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「第5回国連水と災害に関する特別会合」。調べてみましたところ、以下のような要項でした。
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「いのちの石碑」プロジェクト、女川町内の全ての浜、20数カ所に設置予定で、ほぼ完了しており、今年度中には全基竣工予定であるやに聞いております。こうして天皇陛下も関心を寄せられ、海外にも広く紹介されたということで、活動にさらなる弾みがつくことを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

夕方美術学校の生徒二人(鶴田昭夫、鹿目尚之)来て、音、美両校生徒の雑誌(上野)に文章寄稿してくれといふ。結局承諾今月中位に送る事。


昭和23年2月19日の日記より 光太郎66歳

光太郎の母校・東京美術学校と、すぐ向かいの東京音楽学校が統合され、新制の東京藝術大学になったのは、翌昭和24年(1949)のことでした。

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に訪ねてきた二人の後輩のうち、「鹿目尚之」は、平成29年(2017)に亡くなったデザイナーの鹿目尚志氏の本名です。

東日本大震災後、宮城県女川町で建設が続く、津波対策として避難の目印となるランドマーク「いのちの石碑」。同町に平成3年(1991)に立てられた光太郎文学碑を範とし、建設費用は募金で集めたもので、いわば光太郎文学碑の精神を受け継ぐ活動です。

先月中旬の『毎日小学生新聞』さんで、そのプロジェクトが大きく取り上げられました。

東日本大震災10年 「あの日」に学ぶ 国語<上> 悲しみや希望を言葉に/女川一中で俳句の授業 佐藤敏郎さん

 東日本大震災と防災について考える「『あの日』に学なぶ」第5回は、「国語」<上>、「被災者の心」です。震災の後、被災した人たちは、思いを俳句や作文などの言葉ことばで表現することで、「あの日」の出来事や大切な人との別れ、自分の内面と向き合いました。それらの言葉は、震災が被災者の心に刻んだ傷の深さと、人の強さを教えてくれます。【百武信幸】
 
五七五で向き合う
 宮城県女川町は、津波で町の建物の7割が完全にこわされ、ほとんどの人が被災者になりました。灰色の景色の中で新学期をむかえた町立女川第一中学校(現・女川中学校)の全校生徒は2011年5月、心にうかんだものを自由に詠む俳句づくりに挑みました。先生も生徒もおそるおそる取り組んだ授業でしたが、生徒たちはすぐに五七五の言葉探しを始めました。
 生まれた句の一つが「見上げれば がれきの上に こいのぼり」です。句を詠んだのは当時は中学3年生だった原泉美さん(24)。津波で家が流され、ショックや落ち着かない避難所生活で、体調をくずしていた時のことでした。
 その少し前、車の窓越しに見た景色が頭にうかびました。港の近く、父親がぎりぎり助かった観光物産施設「マリンパル女川」の上に泳ぐこいのぼり。教室には家族を亡くした同級生が何人もいて、かける言葉が見つからない日々が続いていました。自分もつらい。でも「家しかなくしていない私」が詠むならと考え、「見上れば」に「ポジティブ(前向き)に『上を向いて生きよう』との思いを込めた」と言います。
 自らを奮い立たたせる句でもあったそうです。その後、NHKラジオの国際放送で海外に発信され、はげましを込めた詩が世界中から集まりました。
 泉美さんは今、被災後の経験から体の健康について学び、東京都内の保育園で栄養士をしています。
句碑で避難呼びかけ
 その他の句も震災の年の5月か11月に詠まれたものです。「女川一中生の句 あの日から」(小野智美編)という本に、句が詠よまれた一つ一つの背景が書かれています。当時の中学生たちはその後、「1000年後の命を守りたい」と募金活動をして、町内全21地区に高台への避難を呼びかける石碑を建てています。地区によって違う俳句を選び、あの時、震災と向むき合った子どもたちの思いも未来に伝えようとしています。
▽見上げれば がれきの上に こいのぼり
▽ただいまと 聞きたい声が 聞こえない
▽夢だけは 壊せなかった 大震災
▽工事中 沈む私の 応援歌
▽うらんでも うらみきれない 青い海
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<イラスト・にしむらかえ>

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俳句が刻まれた「女川いのちの石碑」を見つめる中学生たち
=宮城県女川町で2013年11月
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津波の被害にあった宮城県女川町で、街を見つめながら歩く人たち
=2011年3月14日

004みんなで共有できる
 国語科教諭として、女川一中での俳句づくりの授業を担当しました。そのころはまだ東日本大震災の発生直後で、自分も次女を亡くしていたから「今の状況を言葉にさせていいのか」という思いがありました。けれどみんな、すぐに指を折り始め、ぴたっと合う言葉を探し出した。生徒が詠んだ句の中で、「見たことない 女川町を 受けとめる」は「受け入れる」ではちょっと違うし、「ありがとう 今度は私が 頑張るね」も「頑張るよ」ではないところに気持が表われている。言葉ってすごいなと思いましたね。
 震災後に気づいたのは、実は震災後にみつけようとした言葉は教科書にあった、ということです。「夏草や 兵どもが 夢の跡」も「国破れて山河あり」も、がれきだらけの女川の風景と同じ。当時使っていた中学3年ねんの教科書の始まりは、中島みゆきさんの「永久欠番」の歌詞で「どんな立場の人であろうと いつかはこの世におさらばをする」とか「順序にルールはあるけど ルールには必ず反則もある」なんて書いてある。被災した後、特別な授業をしなきゃ、なんてあまり考える必要はないのかもしれない。
 俳句は短いから、みんなで共有できるのがいい。彼らが高校生になった時に聞いてみると、俳句づくりの授業を通じて「1人じゃない」とか「こんなふうに考えてもいいのか」と思えたと言っていました。つらい経験は言葉にしてもいいし、しなくてもいい。ただ、言葉にしたい時にできる機会を作るのが学校の役割りです。
 ただし、これは震災が起きてからすることです。起きる前にどうするか。高知県でいっしょに防災教育の講演をした慶応大学の大木聖子准教授は、「防災小説」というユニークな取り組みをしています。防災小説は、子どもたちに災害が起きたと想像してもらい、自のがたりにするというもの。防災ぼうさいは「みんな助かってよかった」というハッピーエンドじゃなきゃだめなんです。
プロフィル
 1963年、宮城県石巻市(旧河北町)生まれ。震災で石巻市立大川小学校6年生だった次女を亡くしました。2015年3月に教員を退職。「大川伝承の会」共同代表として地元で語り部活動に取り組み、全国で講演をしています。

確かに、「言葉」というもの、不思議な力がありますね。悲しみや苦しみ、悩みなどを言葉として吐き出せば楽になることもあれば、逆に改めて言葉にして感情を確認することで、よりその感情が昂ぶることもあるような気もします。

記事で紹介されている『女川一中生の句 あの日から』についてはこちら。

【折々のことば・光太郎】

午前校長さん宅訪問、 大正屋にておみやげをかふ。


昭和22年(1947)5月18日の日記より 光太郎65歳


「校長さん」は佐藤昌。昭和20年(1945)の花巻空襲により、疎開先の宮沢賢治実家を焼け出された光太郎を、その直後から約1ヶ月、住まわせてくれた人物です。旧制花巻中学校の元校長でした。

「大正屋」は、花巻町中心街・若葉町にあった「大正屋果実店」。生前の宮沢賢治が、自分で作った野菜を買い取ってもらっていたのが、ここではないかという説があります。
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これまでもたびたびご紹介してきた、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連。まずは秋田の地方紙『秋田魁新報』さんの一面コラム、3月13日(土)の掲載分。

北斗星

「私たちは小さな集落なのでコミュニティーの絆は強い。でも津波の力はさらに強かった」。東本大震災から約1年後、宮城県女川町竹浦(たけのうら)地区の女性が、現地を激励に訪れた仙北市民たちに語った▼精神的な強さと津波の物理的な強さ。本来は比較できないものだからこそ、生活を壊されたつらさと当時の恐怖感が伝わってきた。海面から高さ十数メートルの斜面に立つ木に、買い物かごが引っ掛かっていた。津波の爪痕だった▼三陸海岸南部にある女川町では震災で800人以上が犠牲になった。町東部の竹浦地区住民ら約100人が震災後の半年間、仙北市で避難生活を送った。この縁で交流が続いていた▼町内には2013年から、津波被害のあった所に高さ約2メートルの「いのちの石碑」が順次建てられている。当時の中学生たちの発案で、これまでに18基がお披露目された。「見上げればがれきの上にこいのぼり」。竹浦地区の1基に刻まれた句である▼他の地区の石碑には「夢だけは壊せなかった大震災」「取り戻せ自然豊かな女川を」など復興への強い願いが記された。石碑は全て震災での津波到達地点より高い位置にある。津波が再び襲った際、「ここより上に逃げて」という指標だ▼震災犠牲者や町外転出者のため、町人口は震災前の約1万人から4割ほど減った。そんな中でも「非常時に助け合うため、普段から絆を強くする」。各石碑の句の下には、命を守る対策としてそんな言葉が共通して刻まれている。

竹浦地区の碑は、旧女川中学校校庭に続き、2番目に建てられたものです。

3.11当日の、KHB東日本放送さんのローカルニュースでも、宮城県内各地での様子を伝える中で、「いのちの石碑」が取り上げられました。

東日本大震災から10年 県内各地で鎮魂の祈り

  石巻市の佐藤美香さんは、日和幼稚園の送迎バスに乗っていた当時6歳の娘、愛梨ちゃんを亡くしました。

佐藤美香さん(46)「娘と会えなくなってから、1日1日が重なっていく一方で、その重なった月日が10年。娘とともに一緒にこれからも歩んでいきたいと思っています」

女川町では、今も行方が分からない妻を捜す男性の姿がありました。

高松康雄さん「今どこにいるの?っていうことと、家族みんな元気にしているし、孫も元気にしているから心配しないでくれと」

また、町内の高台では当時中学生だった世代が、町内21カ所に石碑を建てる「いのちの石碑プロジェクト」を進めていて、11日は黙祷の後、清掃を行いました。
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伊藤唯さん「文章とかも読んでいただきたい文章が書いてあるので、奇麗な状態のまま1000年先まで残っていれば良いなと思って、その気持ちで拭かせていただきました」
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石巻市の管野一之さんは、母・たえ子さんを津波で亡くしました。津波で長く行方不明だった母の姉、阿部きうさん(当時99歳)の身元が特定され、去年7月、遺骨の引き渡しを受けました。今では姉妹が同じ寺に眠っています。

管野一之さん「お互いに喜んでいると思います。行方不明で見つけてくれたという形で」新型コロナの影響で、去年は津波被害を受けた沿岸15の自治体のうち、14の市と町が追悼式典を中止しましたが、今年は松島町と利府町を除く13の市と町が式典を開きました。

村井知事「復旧復興をやる上で、時に被災者の皆さんと意見がぶつかる時もありました。楽しいことよりも辛いことが多かったわけですが、10年経って一定の街づくりができたという意味では頑張ってきて良かった」

名取市閖上では、津波の犠牲となった閖上中学校の生徒14人の遺族が中心となり、追悼イベントを開きました。

今年は亡くなった人へのメッセージを乗せた371個の風船が大空へ。犠牲になった大切な人や失われた故郷に思いをはせ、震災の教訓を未来へつなぎます。
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所変わって、大阪。国立民族学博物館さんで開催中の特別展で、「いのちの石碑」が紹介されているようです。

ラジオ関西さんの報道から。

災害復興で再発見された地域文化を継承する特別展「復興を支える地域の文化―3・11から10年」 国立民族学博物館

015 東日本大震災の発生から10年。災害からの復興を支える地域文化の活動を通し、その大切さと次の世代への継承について考える特別展「復興を支える地域の文化―3・11から10年」が大阪府吹田市の国立民族学博物館で始まった。2021年5月18日(火)まで。

 2011年3月の東日本大震災では、多くの文化財や地域に根付く伝統芸能も被害を受けた。避難生活を余儀なくされ地域コミュニティーの存続が危ぶまれる中、人々はがれきの残る場所や仮設住宅でまつりを開催し、伝統芸能を奉納したという。地域文化とはその土地で受け継がれてきた生活の記憶であり、有形・無形様々、その土地ではあたり前のものもある。一方で変化が大きい現代では容易に忘れ去られてしまうという危機に直面している。特別展では、震災後に再開された郷土芸能が人々の生活を後押しし、復興への支えになっていることや、被災した文化財などの修復作業、そして災害によって再発見された地域文化も紹介する。

 宮城県石巻市では文化財収蔵庫も津波の被害を受けた。その修復作業には東北の大学生たちも参加した。木製の「カマガミサマ」は水を使うことができず刷毛で泥を落とした。塩水に浸かった手押しポンプ車は、その濃度によって対処の方法が変わるため、塩水のサンプルをみんぱく(国立民族学博物館)に送り、指示を受けながらクリーニングに当たった。学生たち自身も被災しており、作業が学生たちのケアにもなったという。

 地域文化の存在は、その地域では日常であり、ほとんど意識されていないこともある。震災によって「貴重な文化」とわかったケースもあった。捕鯨に使われていた道具やその地域ならではの「言葉」だ。震災後、山積みになっていたものが「資料」なのか「ごみ」なのか、聞き取りからわかった。

 特別展では日本で起きたほかの災害にも目を向ける。2004年の新潟県中越地震では、被災した土蔵から見つかった歴史資料が、幕末に徳川家から贈られたものだとわかった。越後縮の商いに関するもので、十日町の越後縮が将軍家に納められていたことが実証された。「きものの町・十日町」の再発見につながったという。

 日本は災害が多い。各地に建立された石碑や震災の記憶を伝える紙芝居など、防災の観点から未来に伝える取り組みも紹介する。最大14.8メートルの津波被害を受けた宮城県女川町では町内にある21の浜に「女川いのちの石碑」が建つ。これは東日本大震災の直後に現在の女川中学校に入学した子どもたちが、将来の津波被害を最小限にとどめようと募金活動を行うなどして建てられたもの。子どもたちは東京への修学旅行で企業を回り、協力を呼び掛けたという。

 国立民族学博物館の日高真吾教授は「地域文化はあまりに身近で意識することが少ない。東日本大震災から10年の今、復興に欠かせない地域文化の役割と大切さを感じてほしい。そのあとでもう一度展示を改めてみると、また違ったものが見えると思います」と話す。

探し方が悪いのか何なのか、なかなか公式サイトにたどり着けなかったのですが、見つけました。

特別展「復興を支える地域の文化―3.11から10年」

期 日 : 2021年3月3日(水)~5月18日(火)
会 場 : 国立民族学博物館 阪府吹田市千里万博公園10-1
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 毎週水曜日
料 金 : 一般880円(600円) 大学生450円(250円) 高校生以下無料

2011年の東日本大震災では、復興の原動力としての「地域文化」に大きな注目がよせられました。本展示では災害からの復興を支える地域文化をめぐる活動について、東日本大震災から10年が経つ今、あらためて振り返ります。また、豊かな社会の礎となる地域文化の大切さとその継承について考えていきます。
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東日本大震災から10年が経ち、10年ということで、ここ数年よりもいろいろな場面で震災について取り上げられる機会が増えました。被災者の方々にとっては、10年だろうと何年だろうと変わらない、という思いはあるのでしょうが、震災の記憶が薄れつつある被災地以外の人々にとっては、改めて震災について思い出す契機にはなったのではないかと思います。

ただ、懸念されるのは、それが一過性のもので終わること。福島の原発がらみの復興はまだまだ道半ば、いや、半ばまでも達していないかもしれません。明日はそのあたりを。

【折々のことば・光太郎】

夜星うつくし。木星、金星未明の頃大きく輝く。


昭和22年(1947)2月25日の日記より

金星はともかく、木星を見てそれが木星だと気付くのは、なかなか天体に詳しくなければ不可能だと思います。当方には分かりかねます。

一度、花巻高村光太郎記念館さんで、市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」の講師を務めさせて頂き、光太郎の詩文に書かれた天体や天文現象についてまとめたのですが、一緒に講師を務められた地元の天文サークルの方は、光太郎の天文知識に舌を巻いていました。

ちなみに10年前の3.11。停電で灯りの消えた東北では、恐ろしい程の美しい星空だったという話は有名ですね。

いよいよ3.11となりました。あの日から10年……。長かったような、あっという間だったような、そんな感じです。

震災前から親しくさせていただいていた、宮城県女川町の女川光太郎の会事務局長で有らせられた貝(佐々木)廣さん。

とにかく郷土愛に燃えた方でした。昭和の終わり頃、光太郎詩に女川の文字が書かれていることを再認識し、女川に光太郎文学碑を建てることを決意、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご協力を仰がれました。「お子さんから大人まで、みんなが小さなお金を出し合って立てるのが一番いいですね」という北川先生のお言葉を実践され、「一口百円募金」で浄財を6年がかりで集められて、平成3年(1991)、当時の女川海浜公園に完成させました。ちなみにこの「一口百円募金」が、震災後の女川で建てられ続けている「いのちの石碑」のヒントになりました。
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中央のプレートは、光太郎自筆の文字を拡大したもので、短歌「海にして 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと」(明治39年=1906)が刻まれています。その両脇は、光太郎の紀行文「三陸廻り」(昭和6年=1931)の一節。北川先生が書かれた文字です。おそらく、北川先生の文字が碑になっているのは、これが唯一ではないかと思われます。一番外側の二つは、光太郎が描いた「三陸廻り」の挿画です。

この碑以外に、「海にして……」のプレートの真下に、同じ短歌を活字で刻んだ小さい碑、少し離れた場所に光太郎詩「霧の中の決意」(昭和6年=1931)、「よしきり鮫」(同12年=1937)を、やはり光太郎自筆の文字から採った碑が二つ。立派な文学碑公園でした。

そして、よくある文学碑を建てて建てっぱなしとならず、翌平成4年(1992)からは、碑の前で「女川光太郎祭」を廣さんが中心となって始められました。北川先生の連続講演、地元の皆さんの光太郎詩朗読、オペラ歌手・本宮寛子さんやギタリスト・宮川菊佳さんの演奏……。

そして平成23年(2011)の今日、廣さんは、あの津波に呑まれ、還らぬ人となりました……。

4基あった光太郎文学碑も、中央の大きな碑は根本から倒壊、「よしきり鮫」の碑と、短歌を活字で刻んだ碑は今以て行方不明です。

ただ、昨年には残る二つの碑を再建し、周辺はやはり横倒しとなった旧女川交番などとともに、メモリアルゾーンとしてほぼ整備が完了したそうです。北川先生の跡を継いで、連続講演を仰せつかっている女川光太郎祭、昨年はやはりコロナ禍のため中止となり、まだ再建された碑は見ていません。

今週月曜日、Yahoo!さんのニュースサイト「Yahoo!ニュースオリジナル」に、廣さん、そして奥様の英子さんが大きく取り上げられました。

2年9か月間だけの結婚生活 「夫の分まで生きる決意」に至るまで 【#あれから私は】

 2011年3月11日の東日本大震災から、10年。大規模な防潮堤整備や復旧工事は、海辺の被災地から生々しい津波の跡を消しつつある。一方で地域では、大切な人を失い、癒えない悲しみを抱えた人々が、懸命に毎日を生きている。復興途上の宮城県女川町で、亡き夫(享年64歳)の言葉に支えられ、前に進むことを決めた1人の女性のこれまでを取材した。(取材・文:下澤悠)

 三陸地方南部の女川町で生まれ育った佐々木英子さんが、後に夫となる(旧姓・貝)廣さんと出会ったのは、20代のころ。日本舞踊の家元の稽古から帰る際の髪を結った浴衣姿が、鶏卵の配達中だった廣さんの目に留まったようだった。「絵を描かせてください」。以前から画家としての活躍を耳にしていた相手で、迷わず「はい」と答えていた。数日後に絵のモデルをして以降、父母が経営していた釣具店へ廣さんは頻繁に顔を出すように。英子さんも手伝っていた家業の店は、船頭やお客さん、友人までがお茶をしていく笑い声の絶えない空間だった。個性的でユーモアにあふれる人柄の廣さんも輪の中に加わり、互いに「えこちゃん」「貝さん」と呼び合うようになった。

 「鋭いまなざしで、まさに『芸術家』という雰囲気が漂っていた」という廣さんは、鶏卵業のかたわら独学で絵画を研究。浜の漁師やその家族、抽象画など幅広いモチーフを描き、東北地方の公募美術展で毎年のように入選したほか知事賞獲得などの実績も多くあった。
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 文学にも造詣が深い廣さんが注目したのは、彫刻家で詩人の高村光太郎が昭和初期に執筆した三陸地方の紀行文。地元ではほとんど知られていなかった光太郎の作品や足跡を人々と振り返ることで、地域の文化を育てようとしていた。

    光太郎の文学碑建立を目指す活動を廣さんと有志が立ちあげると、英子さんも参加した。一口100円で住民に寄付を募る運動を地道に続け、1991年、女川港の海を臨む公園に紀行文や詩を彫った文学碑が完成。顕彰のための式典「光太郎祭」も、毎年開催した。光太郎が三陸沖の航海を詠んだ詩「霧の中の決意」を地元の船頭自らが朗読すると、夜の濃霧を進む船の情景が人々の心に浮かんだ。光太郎の研究者による講演や招待したオペラ歌手の美声に感動のあまり涙した英子さん。「大変な苦労をして素晴らしい機会をつくってくれた」と、廣さんへの尊敬の気持ちがより強くなった。
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  手帳に記した「宝物のような言葉」
 文化的な教養に限らず知識が豊富で、さまざまなことを教えてくれた廣さん。警察官の兄が25歳の若さで殉職していた英子さんを、「人生には悲風や黒風が吹くけれど、必ず快風が吹くよ。元気出して。お兄さんはえこちゃんの心の中で生きているよ」と優しく慰めてくれた。「文字は一度手を離れると、一人歩きするからね」と書き物の怖さを指摘したこともあった。人の生き方や考え方について、そんな話をしてくれる人は他にいなかった。家で電話をする時も、廣さんの「宝物のような言葉」を手帳に書き記して聞き入った。

 いつしか一緒に過ごす時間が長くなり、互いにかけがえのない存在になっていたが、2人ともそれぞれの家を継ぐ立場。それでも「結婚できなくても、そばにいられればいい」と思えるほど、「私にはこの人しかいない」と確信していた。後に英子さんの両親が亡くなり、「えこちゃんが一人になっちゃうから」と廣さんが佐々木家に入ってくれたときには、交際から30年近くがたっていた。英子さんの家で、ようやく一緒に暮らし始めた2人。誰にも気兼ねせずに一緒にいられるだけでうれしくて、楽しかった。

「死んで、夫のもとに行きたい」
 2011年の3月11日は、2人で自宅にいた。突然起きた、大きな地震。これまでに経験のない長い揺れが収まると、廣さんは母と姉を心配して実家に向かった。その帰りを待つため、家にとどまろうとした英子さん。様子を見に来た友人が「津波が来る、逃げろ」と叫び、拒む英子さんを何とか安全な場所へと連れ出した。しばらくして町を襲った真っ黒な海は、夫婦で暮らした家も、みんなで建てた文学碑も、全てをのみ込んでいった。廣さんとは連絡がつかなくなっていた。

 何が起きていたのかは、義姉の話で後に分かった。英子さんと別れた廣さんは、高台に暮らしていた母と姉の無事を確認。しかし周りが止めるのも聞かず、顔色を変えて英子さんのもとへ戻ろうとし、津波に巻き込まれていた。水が引いた後、2人で暮らした家の跡のすぐそばで、廣さんは発見された。

 幸せだった結婚生活は、2年9か月で終わった。「死んで、貝さんのもとへ行きたい」と泣き続け、やつれていった英子さんを友人たちは慰め続けた。幼少のころから50年以上続け、師範まで務めた日本舞踊は、続けられなくなった。母が稽古に協力してくれたことや、廣さんも応援してくれたこと。全てを思い出し、つらくなってしまうからだった。

   託された言葉と、やるべきこと
 苦しい中でも英子さんたちは、「今やらないと、ずっとできなくなる」と、廣さんと始めた光太郎祭を震災の年も絶やさなかった。「何とか前に進もう」と英子さんが考えられたのは、廣さんが繰り返し聞かせてくれた言葉のおかげだった。「お兄さんは心の中で生きている」。同じように、「貝さんも私の心の中で生きている」と、少しずつ思えるようになった。

   廣さんがよく自作の絵手紙を通じて励ましていた知人は、「津波で何も残っていないだろうから」と気遣い、受け取った約100枚のはがきを英子さんに届けてくれた。中でも心に響いたのは、「今日の春のように あかるく あかるく これ一番」の一文。知人宛だった廣さんの便りは英子さんを支えるメッセージへと変わり、「私が生きていけるように、貝さんが備えをしてくれていた」と思えてならなかった。廣さんのことをみんなに知ってほしくて、絵手紙はきれいにTシャツにプリントし、震災から1年後に仮設商店街で再開した釣具店で販売した。
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 月日が経過したからといって、心の深い痛みが癒やされるわけではないと英子さんは思う。あの日のことがフラッシュバックし、普段は「ふたをしているだけ」の悲しみが抑えきれなくなることはたびたびある。震災から数年がたっても、つらさがこみあげて涙が止まらず、仮設住宅の自室に閉じこもって誰にも会わない時期があった。

 一方で、店に出て昔のように友人たちと過ごせば、自然と笑顔になれた。地元の新鮮な魚介を食べさせようとわざわざ持ってきてくれる仲間や、復旧支援が縁で新たにできた友人など、多くの人が寄り添ってくれた。離れていた日本舞踊は、廣さんが「えこちゃんは踊るために生まれてきたんだよ」と励まし、舞踊家としての内面の成長を導いてくれていた生きがい。教室での指導はもうできない。でも徐々に、「体が踊りたがっている」と感じられる。舞台に復帰できたら、慰霊や鎮魂の思いを込めた舞を震災で亡くなった方々へささげたい。そうやっていつのまにか、「振り返らず前だけを見て、明るく生きていきたい」と願っている自分がいた。落ち込むことがあっても、もがき、またはい上がることを繰り返して毎日を生きた。

 英子さんと仲間は行政への働きかけを続け、文学碑の再建を昨年果たした。目の前には、廣さんが残した「やるべきこと」がまだたくさんある。文学碑は、外装を整える仕上げの作業が残っている。光太郎祭も、毎年続けていかないといけない。そして簡単なことではないけれど、いつの日か廣さんの絵の個展を開き、残した言葉を書物にできたら、という希望もある。

 英子さんが今、はっきりと語るのは、「私は貝さんの分まで生きないといけない。生きている私に全部を託してくれたのだから、貝さんのもとに行くのはもっともっと先にする」という決意だ。いつかまた廣さんに会えたとき、「よく頑張ったね」と言ってもらえるように。

ちなみに下の画像は、亡き廣さんが描いた、亡き北川先生の絵です。
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平成14年(2002)、60代の北川先生を描かれた絵です。千駄木の北川先生のお宅の、居間兼応接室に飾られていました。
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下記は廣さんが亡くなる前年、平成22年(2010)のもの。翌年出版された『北川太一とその仲間たち』という書籍のために描かれたものです。
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その北川先生も、もはやこの世にいらっしゃいません……。

さて、10年という節目でもありますし(被災者の方々にとっては、何年だろうとあまり関係ないのかもしれませんが)、何だか居ても立っても居られない思いがこみあげ、今日はこれから女川に行って参ります。

可能であれば町主催の追悼式典に参加させていただき、さらに英子さんにお会いし、そして再建なった光太郎碑や、「いのちの石碑」なども見てこようと思っております。

【折々のことば・光太郎】

風つよく(西北)積雪を吹きとばし、白煙のやうにもうもうと雪ふきちる。飛雪風景をかき消す。

昭和22年(1947)2月11日の日記より 光太郎65歳

場所は蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。いわゆる地吹雪ですね。

昨日から今朝にかけ、宮城県女川町の、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」を取り上げて下さった番組等を拝見しました。

まず、地上波日テレさんの「news every.特別版 未来へつなぐ〜私たちの10年〜」。震災の2年後、平成25年(2013)に1基目が建てられた「いのちの石碑」のこれまでの軌跡が、10分程で紹介されました。やはり日テレさん系で昨年放映された「NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~」、それから平成26年(2014)放映のNNNドキュメント3・11大震災 シリーズ 千年後のあなたへ 15歳…いのちの石碑を下敷きにしていたようです。
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この「企画書」に、光太郎文学碑を手本に、募金で建設費用をまかなうと記されていました。

しかし、中心メンバーの鈴木智博さん、決して喜んでこの活動に携わっていたわけではなく……
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それでもここまで続けてきたのは……
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そういう思いからでした。

そして、
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とのこと。

続いて、地上波テレ朝さんの「テレメンタリー2021 “3.11”を忘れない83 震災家族〜遺された父と子の10年〜」。
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「news every」でも中心に取り上げられた、鈴木智博さんとそのご家族の物語。メインは漁師をなさっているお父さんの鈴木高利さん。津波で奥様とご両親を亡くされ、その後、男手一つで智博さんと二人のお嬢さんの三人を育てられました。その生き様を見て、なるほど、智博さんのような子供が育つのは、こういうお父さんに育てられたためか、と、納得しました。
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智博さんたちの「いのちの石碑」についても言及。
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直上の画像は、平成31年(2019)に行われた女川町の追悼式の模様です。

惜しむらくは、午前4:30からの放映だったこと。こういう番組こそ、もっと早い時間帯に放映すべきなのでは、と思いました。地元、宮城のKHB東日本放送さんでは、今日午前11:20~の放映だそうですが。

さて、今後も「いのちの石碑」関連の番組放映があります。

ザ・ドキュメンタリー「海の声が聞こえますか 東日本大震災から10年」

地上波テレビ東京 2021年3月8日(月) 03:10~03:40

東日本大震災からまもなく10年。海をめぐる様々な人々のその後を追いかける。
▼津波で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町。行方不明となった妻を探すため、自ら海に潜り続ける男性に密着
▼海底を移動し続けるがれきの謎
▼中学生たちが取り組んだ「いのちの石碑プロジェクト」

【ナレーション】早見沙織
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NHKさんと在京民放さん5局が「キオク、ともに未来へ。」をテーマに共同企画した一環だそうです。

もう1件、3.11当日にも。

池上彰の災害サバイバル〜地震・台風…明日から役立つ10ヵ条〜

地上波テレビ東京 2021年3月11日(木) 19:58~21:48

番組内容①
常識と思っている防災知識も時代時代で変わるもの。池上彰が最新の防災知識を大解説!
防災グッズに早変わりする便利な日用品も紹介します。
大型台風で水没したバスに取り残された旅行客の生還劇を実録ドラマ化。暴風雨にさらされ、低体温症の危機があった彼らを救ったのはあの名曲でした。

番組内容②
池上彰が東日本大震災の被災地へ。防災の町として生まれ変わった宮城県女川町をルポします。そこで池上が見つけた「女川いのちの石碑」。被災当時の中学生がこの石碑に込めた思いとは…。

出演者
池上彰、梅沢富美男、高畑淳子、児嶋一哉(アンジャッシュ)、SHELLY、須田亜香里(SKE48)、カミナリ、辻直美、福島和可菜
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池上さん、女川に足を運ばれていたのですね。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

それから、「いのちの石碑」は取り上げられませんでしたが、NHK BSプレミアムさんの「宮城発地域ドラマ ペペロンチーノ」。やはり女川町を舞台としていました。
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津波で店を失ったオーナーシェフの役を、草彅剛さん。熱演、というより、むしろ淡々とした演技が、かえってリアルな印象でした。
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奥様を演じられたのが、吉田羊さん。彼女に関し、途中、「ん?」という箇所が何箇所もあり、「妙だな?」と思っていたら、ドラマ終盤にその謎が明らかにされます。

詳しいネタバレは避けますが、光太郎詩「亡き人に」(昭和14年=1939)を想起しました。

   亡き人に

 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く
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 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処にゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

まさに、この詩のように、「あなたはまだゐる其処(そこ)にゐる」だったわけで……。
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それから、各登場人物の、それぞれの10年。上記の鈴木智博さんの葛藤のように、おのおのが悩みや苦しみ、それからつらい中でも喜びなども抱えて来た姿が、群像ドラマとして描かれてもいました。
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こちらは再放送を期待します。

【折々のことば・光太郎】

夜食いつかの関さんからの牛肉ののこりにてビフテキを作る。キヤベツ、ジヤガをその脂でいためる。豪華晩餐となる。ただ皿に盛つたものが部屋寒きためすぐ冷えるには閉口。

昭和22年(1947)1月14日の日記より 光太郎65歳

寝ている布団に、壁の隙間から舞い込んだ雪が、うっすらと積もるような小屋ですからね……。
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3.11が近づいてきました。今年は震災から10年ということで、各種メディアも、例年より取り上げられる回数が多いようです。

あの日、女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣さんが、津波に呑まれて亡くなってから、はや10年……。月日の経つのは早いものです……。
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その貝さんが奔走されて、平成3年(1991)、女川町の海岸公園に建てられ、津波で横倒しになった後、昨年再建された光太郎文学碑について、昨日の『夕刊フジ』さんが大きく取り上げて下さいました。

【ぶらり、ぶんがく。本と歩く】津波被害からの復興に思い巡らす 高村光太郎「三陸廻り」 宮城県女川町・高村光太郎文学碑

001 出張先の宮城県女川町で、大きな碑を見つけた。震災遺構として整備された旧女川交番に立ち寄ろうと港に車を止めたら、駐車場のわきにある巨大な岩が目に留まった。碑面には、彫刻家としても文筆家としても知られる高村光太郎(1883~1956年)の文章と絵が彫られていた。
 〈古さびた女川の町が夜になると急に立ち上る。ただ海から来た人々への夜の饗宴の為にのみあるかと思う程、此の小さな町が一斉に一個の盛り場となる〉
 ネットで調べると「三陸廻り」という随筆の一節だった。昭和6(1931)年に時事新報に10回掲載された紀行文で、石巻から金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古などを旅したという。平成3(91)年に建立されたこの文学碑は、東日本大震災で倒れはしたものの流されずに残った。町の再整備が進んで、再建されたそうだ。
 10年前の3月11日。女川に押し寄せた津波の高さは20メートルに達した。高台にある病院の1階まで冠水して、市街地は壊滅。港からその病院を見上げると、人々を襲った津波のとんでもない大きさを実感して、へたり込みそうになる。とはいえ再建は少しずつ進んでいる。かさ上げした土地に女川駅が再建され、駅前にはシーパルピア女川という商業施設が整備された。観光客の姿もあった。
   〈女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている〉
 文学碑にはそんな一節も刻まれていたが、町はまた立ち上がろうとしている。
 帰宅後に「三陸廻り」の全文を読みたくなって、文芸評論家の北川太一が著した『光太郎智恵子うつくしきもの』を入手した。そこで知ったのが、光太郎が旅した昭和6年は、2万人以上が犠牲になった明治三陸地震の35年後だったということだ。被災地が活気を取り戻してきた時期にあたる。
 旅人の視点で景色や暮らしが生き生きと描かれる「三陸廻り」にも、ちらほらと災後の意識が浮かび上がる。釜石では自然の調和力に思いを巡らせ〈自然と人工とは衝突とはいえない程一方が大きい〉。宮古については〈海溝に異変のあるたび大海嘯(つなみ)の害をうける〉ので、海岸を避けて街が作られたと推察し、〈裏が今は表になっている〉と記した。光太郎も死者を想っただろうか。いま三陸を歩く私たちが「あの日」を想うように。 (阿蘇望)
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この碑が多くの人々の募金によって建立されたことに倣い、震災後に避難の目安となるランドマークとして建てられ続けている「いのちの石碑」についての、仙台に本社を置く『河北新報』さんの記事。

<ストーリーズ>1000年先の命を守る碑に/鈴木智博さん(21)宮城県女川町

「自分たちの活動が形となり、石碑ができた時はすごくうれしかった」。
 東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県女川町の高台に造成された住宅地。「いのちの石碑」と刻まれた碑のそばで、大学生鈴木智博さん(21)が思い返した。
 震災当時は女川二小6年。漁港のある集落に家族7人で暮らしていた。津波で祖父母と母を亡くした。
 その年、入学した女川中の社会科の授業で「1000年先の命を津波から守ろう」と生徒たちから石碑を建てる案が出た。周囲に勧められリーダー役を引き受けた。活動は保護者や地域に広がった。
 13年11月、女川中の敷地内に1基目が完成した。「世界中から多くの支援がもらえて感謝しかなかった」。約300人の関係者が集まる中、生徒の先頭に立って除幕の綱を引いた。
 町内21カ所に建てられる予定の石碑は、津波到達地点より高い場所にある。現在は18基。教訓や震災を詠んだ俳句も刻まれる。
 「夢だけは 壊せなかった 大震災」。鈴木さんは石碑に刻まれた俳句の一つを口にした。「今後、1000年に一度の大災害があっても石碑より上に逃げ、みんなの命が救われてほしい」。改めて石碑を見つめた。
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鈴木さん、テレビにも出演されます。

テレメンタリー2021「“3.11”を忘れない83 震災家族〜遺された父と子の10年〜」

地上波テレビ朝日 2021年3月7日(日) 04:3005:00

最愛の人を失い、遺された父と子どもたちは震災とどう向き合い、どう生きてきたのか。彼らを支えたものは何だったのか。ある家族の10年を見つめ、震災遺族の今を伝えます。

死者・行方不明者が約2万2000人に上る東日本大震災。宮城県は、被災した自治体の中で最も多い犠牲者が出ました。
女川町の漁師・鈴木高利さんは、津波で両親と妻・智子さんを失いました。遺されたのは長男・智博君、長女・奈桜さん、そして当時まだ2歳だった次女・柚葉ちゃん。7人家族が突然4人家族になって10年。子どもたちが成長するに伴って接し方にも悩みながら、高利さんは男手一つで子どもたちを育ててきました。
今、智博君と奈桜さんは仙台市の大学に通う学生です。智博君は震災を語り継ぎ、津波が襲った故郷に石碑を建てる活動を続けています。奈桜さんは「保育士」になるために勉強中です。まだ2歳だった柚葉ちゃんは、この春、中学生になります。
最愛の人を突然失い、遺された父と子どもたちは震災とどう向き合い、どう生きてきたのかー。彼らを支えたものは何だったのかー。ある家族が歩んだ10年を見つめ、震災遺族の今を伝えます。

◇ナレーター 滝藤賢一
◇制作    東日本放送

智博さん、昨年も「NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~」に出演されました。その際には、平成31年(2019)の台風19号の際、被災地のボランティアをなさっていたことも取り上げられ、頭の下がる思いでした。
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もう1件、「いのちの石碑」が取り上げられます。

news every.特別版 未来へつなぐ〜私たちの10年〜

地上波日本テレビ 2021年3月6日(土) 16:00〜16:55

東日本大震災から10年▽取材記者が見た被災地の歩み▽宮城・女川町「千年後の命を守る〜いのちの石碑」▽岩手・大槌町「心の支えは震災の年に生まれた双子〜自転車店の10年」▽福島・大熊町“じじい部隊”リーダー語る「原発は憎めない〜複雑な胸中」

【メインキャスター】藤井貴彦(日本テレビアナウンサー)
【サブキャスター】 中島芽生(日本テレビアナウンサー)

三浦裕紀(テレビ岩手記者) 藤田耕司(ミヤギテレビ記者)
緒方太郎(福島中央テレビキャスター)
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そして、3月6日(土)には、過日ご紹介した草彅剛さん主演の「宮城発地域ドラマ ペペロンチーノ」。

一昨日発行の女川町さんの広報誌『広報おながわ』でも紹介されました。表紙にドーンと草彅さんと吉田羊さん。自治体の広報誌らしからぬ、ですが(笑)。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜ポスターカラーで描いた紙製の日ノ丸の旗を雪の中に立てる。

昭和22年(1947)1月1日の日記より 光太郎65歳

詩「この年」(昭和25年=1950)にも同様の記述があります。
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  この年
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。

以前、この詩をご紹介した時の記事からコピペします。

その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。
 
老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」とたたえねばならなかった日本。
 
そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。

宮城県震災復興本部さん発行の冊子『NOW IS.』。A4判オールカラー、表紙を含めて8ページです。「宮城県内の復興の状況や復興に向けて取り組んでいる方々の「いま」の姿を紹介する広報紙」というコンセプトで、月刊。宮城県内では、公共施設や市営地下鉄の駅などに無料で置かれています。

毎月11日発行だそうで、もうすぐ今月号の発行となりますが、先月号にあたる第53号、「井ノ原快彦in女川」ということで、V6の井ノ原快彦さんによる女川町訪問記がメインでした。
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カマボコの「高政」さん、カタールの支援で建設された冷凍施設「マスカー」、津波で倒壊し、震災以降として保存公開されている旧女川交番、そしてこのブログでたびたび紹介している、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」についても大きく取り上げられています。
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当方、震災復興本部さんに申し込んで送っていただきましたが、PDF版はweb上で公開されています。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

そして、実物を観察させるにも、子供には子供特有の見方があるから、子供自身の見方によつて見させ、その見た所を描き出せるやうにすれば、自ら描く興味も湧いて来るであらう。


散文「教育圏外から観た現時の小学校」より
大正5年(1916) 光太郎34歳

当時小学校で行われていた図画教育――大人が描いた手本通りに模写させる――に対する批判です。自分も明治期にそういう教育を受け、図画の授業にはまったくつまらなかったと述懐しています。さらに同じことは文章、ひいては芸術一般にいえる、としています。

芸術に限らず、「いのちの石碑」などのアイディアもそうでしょう。はじめ、21基の石碑建立に1,000万円かかると分かった時、大人たちはさっさと「無理だ」と決めつけたようです。しかし、子供たちは光太郎文学碑の例に倣って募金で集めると言いだし、実際に僅かな期間で達成してしまいました。

新刊です。分類上は雑誌なのでしょうが、保存版的な

9月20日(日)の地方紙『石巻かほく』さんに紹介記事が出ていますので、まずそちらから

「石巻学」第5号が完成 文学特集、震災後の動きも紹介

 「石巻と文学」を特集した地域誌「石巻学」の第5号が完成した。石巻を舞台に作家ドリアン助川さんが書き下ろした小説をはじめ、詩人の吉増剛造さんが石巻について語った特集もあり、充実した内容になっている。ページ数も192ページと前号より約40ページも増加。港町・石巻が育んだ文学文化の魅力を伝えると同時に、東日本大震災と文学を考える1冊が誕生した。
 発行したのは「石巻学」プロジェクト(大島幹雄代表)。文学特集にふさわしく吉増さんとドリアンさんが登場。巻頭を飾っているのが「吉増剛造「『石巻』を語る」。吉増さんは昨年夏のリボーンアート・フェスティバルをきっかけに、石巻に足繁く通うようになった。詩人の目が捉えた石巻が語られている。
 ドリアンさんは大島さんと親交があり、小説の依頼を快諾。掲載されたのが「宿題」。ドリアンさんが震災後、門脇地区を訪れていた体験を下に書き上げた短編で、新しい震災文学が生まれた。
 石巻と文人たちとの出合いを振り返ったルポや回想は文学資料としても貴重。(1)結婚したばかりの吉村昭と津村節子夫妻の石巻での行商生活(2)石巻市が生んだ芥川賞作家辺見庸と門脇の思い出-を紹介している。
 高村光太郎や坂口安吾、北杜夫ら石巻地方を旅した作家や詩人は多く、その旅人たちに焦点を当てたのが「紀行文を旅する」。コロナ禍の今、旅の気分を味わえる読み物。紀行文に紹介された石巻の風土や暮らしに思いをはせながら石巻地方の魅力を再発見できる。
 震災後の動きにも着目。短歌集団「カプカプ」の短歌や、中学1年生の少女が亡き姉への思いをつづったメルヘン小説を掲載。第5号は地域から全国に向け発信する文芸誌の一面も備えた1冊になった。
 震災直後、俳句で心に抱いた思いや悲しみなどを表現した女川一中生の9年後を追ったルポや、震災後に読んだ本の中で印象に残った1冊について市民に聞いたアンケートも興味深い。震災を体験した市民や子どもたちに、俳句や読書がどのような役割を果たしたかを考えさせられる。
 代表の大島さんは「日和山にはたくさんの文学碑がある。松尾芭蕉や宮沢賢治、石川啄木ら多くの文学者が訪れ、石巻について書いている。特集は石巻と文学を巡る過去と今がダイナミックに交錯する中身の濃い内容となった。震災と文学の問題にも迫ることができた」と自負する。
 「石巻学」は2015年12月に創刊。これまで「映画」や「鯨」「音楽」などを切り口に、港町・石巻の魅力をさまざまな角度から探り、石巻の文化の奥行きの広さ、深さを発掘してきた。
 第5号は定価1700円(+税)。A5判。こぶし書房(東京都)発売。ヤマト屋書店TSUTAYA中里店などで扱っている。

石巻学VOL.5

2020年9月20日 石巻学プロジェクト編 こぶし書房 定価1,700円+税

「歩く 見る 聞く 石巻」をモットーに、石巻ならではの話題を特集してきた雑誌『石巻学』第5号発刊!

【特集 石巻と文学】
インタビュー 吉増剛造「石巻」を語る
ドリアン助川 宿題
大谷尚文 南浜町の辺見庸さん
大島幹雄 終着駅からの出発――吉村昭・津村節子のふたり旅のはじまり
古関良行 紀行文を旅する
近江瞬 言葉で見つめる
短歌部カプカプ短歌集
 伊藤成美 まちでまなぶ/岩倉曰 わだのは/加藤奨人 綺麗
 阿部達人 雀島トワイライト・ゾーン/岩崎綾 融けるのを待つ
 齋藤麻理奈 知らない道/千葉楓子 七歳までは夢の中/近江瞬 サイレンの尾
佐藤珠莉 真っ白な花のように
伊藤唯 愛すべき未来のために我が道を
阿部一彦 伊藤唯さんと女川1000年後のいのちを守る会
小野智美 言葉を杖に立ち上がる――『女川一中生の句 あの日から』十四歳の九年後
大島かや子 「言葉」でつなぐ3・11――国語教育と震災
アンケート 震災後に読んで、心に残った本は何ですか?
「石巻と文学」ブックリスト
梅里石雪 日和山慕情
【連載】
高成田享 石巻さかな族列伝5 漁師支えて三陸からトンガへ
本間英一 本間家蔵出しエッセー5 「橋本学」石巻を知る多才な郷土史家
大島幹雄 岡田劇場物語5 コロナ危機の中で
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上記目次で、色を変えてある項が、光太郎に関わります。

まず、河北新報社生活文化部長・古関良行氏による「紀行文を旅する」。石巻と、隣接する女川町を題材とした古今の紀行文の紹介です。最初に取り上げられているのが光太郎。昭和6年(1931)の『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」のうち、石巻と女川の項について述べられています。女川の項では、この紀行文が機縁となって光太郎文学碑が建立されたり、女川光太郎祭が開催されるようになったりした経緯、それらのために奔走なさりながら、東日本大震災の津波で還らぬ人となった故・貝(佐々木)廣さんについて、さらに今夏、光太郎文学碑が再建されたことなどについて言及されています。さらに当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書『光太郎 智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(二玄社 平成24年=2012)についても。

光太郎以外には、河東碧梧桐、瀧井孝作、臼井吉見、坂口安吾、田山花袋、白鳥省吾、北杜夫、三浦哲郎、井伏鱒二、池内紀らのそれが紹介されています。

下の方の「愛すべき未来のために我が道を」から「「言葉」でつなぐ3・11――国語教育と震災」が、石巻に隣接する女川町に、大津波の際、避難すべき高さの目安となるランドマークとして建設され続けている「いのちの石碑」関連。先述の光太郎文学碑が「100円募金」によって建てられた故事に倣い、こちらも建設費用は募金でまかなわれています。

ちなみに先月2日の『朝日新聞』さんの投書欄に、「いのちの石碑」の話題が載りました。
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『石巻学』では、碑の建立に携わっている若者たち自身の寄稿もありますし、彼らを見守り続けてきた『朝日新聞』さんの小野智美記者(連翹忌にもご参加下さいました)、阿部一彦先生など。主に、「いのちの石碑」に刻まれている、震災直後に中学生だった若者たちが詠んだ俳句(小野さんの編集で「女川一中生の句 あの日から」としてまとめられています)を軸にしています。

感心したのは、単なる「美談の紹介」的なスタンスではなく、若者たちがプロジェクトの進行中も、時にネガティブになってしまうこともあったことを、赤裸々に紹介している点。あれだけの大災害を目の当たりにし、大切な人を喪い、むべなるかな、です。しかし、だからこそ、彼らの石碑建立にかける思いがより鮮やかに際立つようにも感じられました。

そうした描かれ方は、昨年、NHKさんで初回放映のあったスペシャルドラマ「女川いのちの坂道」でもなされていました。今回執筆されている伊藤唯さんという方、どうも平祐奈さんが演じた主人公のモデルのようです。

さて、『石巻学』。それ以外にも、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を書かれた芥川賞作家の津村節子さんと、ご主人の故・吉村昭氏ご夫妻と石巻の関わりを追った「終着駅からの出発――吉村昭・津村節子のふたり旅のはじまり」なども載っています。他の小説、レポート等もなかなか読みごたえのあるものでした。

また、詩人の吉増剛造氏(表紙の写真が氏です)へのインタビューでは、宮沢賢治と石巻について、詳述されています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

そのころ、草野心平君が『春と修羅』を持ってきました。此の本は僕のところにも届いていたので、荷をといて読んでみました。すばらしいものがありました。
談話筆記「高村光太郎先生説話 一九」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

「その頃」は大正13年(1924)。本当にこの通りだったとすると、心平に薦められるまで、送られてきた『春と修羅』を読んでいなかったわけで、光太郎、チョンボでしたね(笑)。

宮城県からバスツアーの情報です。 

3.11を忘れない 石巻 大川小学校・女川 いのちの石碑

3密を避けた新しい形態で旅行に行きませんか? 東日本大震災時の様子や復興の様子、被災地に今必要なことなどについてお話させて頂く「現地語り部ガイド」2ヶ所付き。

全校児童108人の7割に当たる74人、教職員10人が死亡・行方不明となった石巻市の旧大川小学校跡地で「大川小学校伝承の会」の方から当時の状況などの説明をして頂きます。

東日本大震災で最も高い死亡率となった女川町は、被災地域の中でも唯一「防潮堤を造らない」町として、あくまでも「減災」を意識した町づくりに取り組み、当時の様子や今後の展望など詳しく解説頂きます。

石巻・女川での買い物で復興支援も!

[旅行日]  8月10日(月祝)  
[旅行代金] 9,500円  6,500円 Go To トラベルキャンペーン対象となります!
[行程]
仙台駅東口【8:30】=大川小学校(語り部案内付き)=いしのまき元気いちば(買い物)=シーパルピア女川(昼食)=女川・いのちの石碑など(語り部案内付き)=シーパルピア女川(買い物)=仙台駅東口【17:00】
[旅行条件]
 ・朝食おにぎりとお茶付き  ・昼食付き
 ・最少催行人員10名 ・添乗員同行
 ・バスガイド付き!
 ・ 利用バス会社:仙台バス㈱、仙南交通㈱または、㈱仙塩交通 
  [ご案内・注意]
 ※道路状況などにより帰着が前後する場合がございます。

受付締切  4日前まで
日程変更  予約日時まで
キャンセル 予約日時の11日前まで

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昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために、三陸一帯を約1ヵ月、主に船で移動した光太郎。女川にも立ち寄ったということで、それを記念して平成3年(1991)に光太郎文学碑が建立され、翌年からは「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。

平成23年(2011)の東日本大震災では甚大な被害が発生、その教訓から、当時の女川第一中学校の生徒の皆さんの発案で、町内の各浜に津波の際の避難の目安となるランドマークとして「いのちの石碑」が設置され続けています。最初の企画の段階で、かつて光太郎文学碑が募金で費用をまかなって建てられたことに倣い、「いのちの石碑」も募金活動で資金を集めるということになりました。そう言う意味では、光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。全21基の予定で、今春には18基目の設置が為されたそうです。

で、その「いのちの石碑」も行程に入っているツアーというわけで、ご紹介させていただきました。

実施日は8月10日(月・祝)。その前日には、例年であれば女川光太郎祭開催の予定でしたが、残念ながら、コロナ禍のため今年は中止だそうです。これまでは光太郎詩文の朗読や当方の連続講演などが行われていましたが、今年は規模を縮小し、光太郎文学碑(再建されたそうで、この件はまた改めてご紹介します)への献花のみとするはずだったところ、隣接する石巻でコロナ感染が発生、女川にも濃厚接触者が……ということでそれも無くなりました。致し方ありますまい……。

代わりに、といっては何ですが、こちらのツアー、ご都合の付く方、コロナ対策を充分になさった上で、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩の中心は愛の熱情である。

散文「『職場の光』詩選評 十一」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

おそらく2年前に編んだ『智恵子抄』を念頭に置いた発言だと思われます。

『智恵子抄』所収の散文「智恵子の半生」には、「美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。」と書かれています。

こちらの選評は、引用部分の後にこう続きます。「肉親への愛、友への愛、人への愛、物への愛、自然への愛、祖国への愛、神への敬愛、さうして、畏多くも 大君をみ親と慕ひたてまつる臣子の愛念。詩はさういふところからこんこんと湧いて尽きない。」似ていますね。

ある意味、「大君の愛」、「大君をみ親と慕ひたてまつる臣子の愛念」を、「一人の女性の底ぬけの純愛」や「肉親への愛、友への愛、人への愛、物への愛、自然への愛」とほぼ同列に扱うあたり、不敬のそしりを免れないようにも思われます。しかし、戦時中であっても、ぎりぎりの線でこう書いていた光太郎を改めて尊敬します。

このブログで時折取り上げさせていただいている、宮城県女川町の「いのちの石碑」。東日本大震災の後、当時の中学生たちが考案した、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町にあった光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、建てられ続けているものです。

計画では全21基を、町内の海岸にくまなく設置するということですが、18基目が今年の3月に完成披露、さらに国土地理院さんが制定した「自然災害伝承碑」にも登録されました。

女川町の『広報おながわ』、先月号。うっかりネットで見るのを失念していまして、つい先日、気がつきましたが、18基目の設置について取り上げられています。

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表紙は、やはり東日本大震災がらみで、津波で横倒しになった旧女川交番。こちらは今年、震災遺構として整備が完了しました。

それから、ラジオ番組で「いのちの石碑」が取り上げられますので、紹介いたします。 

復興支援PROGRAM Hand in Hand 1000年後の命を守るために。今年21の浜に完成「女川いのちの石碑」

TOKYO FM 2020年5月9日(土)  8:00~8:25無題2
FM大阪    5月9日(土)  21:30~21:55
FM AICHI   5月14日(木) 20:00~20:25
FM福岡    5月9日(土) 9:30~9:55
AIR-G (北海道) 5月10日(日) 21:30~21:55
DATEFM(仙台) 5月10日(日) 9:30~9:55
ふくしまFM   5月10日(日) 9:30~9:55
広島FM     5月10日(日) 8:00~8:25


2011年3月11日に発生した「東日本大震災」は、巨大な津波によって1万8000人を超える死者・行方不明者を出し、さらには福島第一原発の爆発事故を招き、今なお約5万2千人に及ぶ方が避難生活を余儀なくされています。
そして2015年、鬼怒川を決壊させた「関東・東北豪雨」、2016年「熊本地震」、2017年「九州北部豪雨」、2018年 「西日本豪雨」、そして「北海道胆振東部地震」と、もはや災害列島と言っていいほど、日本では毎年のように 自然災害が発生し、多くの被害をもたらしています。
しかしながら2018年の西日本豪雨を例に取れば、そのとき避難勧告、避難指示が出ているにもかかわらず、
実際 に避難行動をとった人は、わずか1%台にとどまりました。
これほど災害が頻発しているにもかかわらず、どれほどの人が自分の住む地域の災害リスクを認知し、
いざという時に取るべき行動を理解しているのでしょうか。
そして災害が起こった地域では、懸命の復旧、復興への歩みが始まりますが、傷ついた地域からは子育て世帯が減り、過疎と高齢化が加速する・・・、これもまた、被災地の抱える大きな問題となっています。
災害から得た教訓を自分のこととして共有し、そして復興、地域の再生へ励む人たちを応援する・・・、それこそがこのプログラム、「Hand in Hand」が中心に据える想いです。


それから、終わってから気づいたのですが、やはりTOKYO FMさんを中心に、FM AICHIさん、広島FMさん、そしてエフエム青森さんでは、3月まで、同じような趣旨の番組「LOVE&HOPE ヒューマンケアプロジェクト」という番組を放送していました。で、TOKYO FMさんで3月6日(金)にオンエアされた回が、やはり「いのちの石碑」関連でした。 

女川いのちの石碑 18基目の石碑が完成

宮城県女川町「女川いのちの石碑」。震災当時、女004川第一中学校の1年生が町内にある21の全ての浜に、津波到達地点より高い場所に石碑をたてて、避難の大切さを伝えようという取り組み。先日18基目の石碑が完成し、その披露式が行われました。
プロジェクトメンバーの阿部由季さんと、女川中時代の担任教師・阿部一彦先生に話を聞きました。

◆「1000年後の命を守るため」
(阿部由季さん)宮城県女川町大石原浜に18基の石碑が立ちました。最後の21基目の石碑が女川小中一貫校に11月22日に立つ予定です。まず1000万円集まったということがすごすぎて、周りの方々005が支援していただいたおかげ。この石碑が3月11日のことを思い出すきっかけにもなると思うし、地域の方々はもちろん、小中学生も目にすると思うので、まだ生まれていなかった子もいると思うので、これを見て「あ、地震が来たら逃げなきゃいけないんだ!」と思う人もいると思います。「1000年後の命を守る」というのは遠い話だけど、わたしたちも自分の子どもや孫に語り継いでいって、同じ思いをしないでほしいと思っているので、これが少しでも役にたてたらいいなと思います。

◆「21基立てて、そこからがスタート」
(阿部一彦先生)子どもたちが先日言っていたことは。「21006基立てて終わりと思っている人もいるが、わたしたちにとっては違う。21基を立てて、そこからがスタートなんです」と。本当にそうおもっているんだろうなあということをひしひしと感じる9年目。この子たちはたぶん死ぬまで活動を続けるんだろうな、おじいちゃん、おばあちゃんの姿を見て、次の子どもたちも活動を続けるんだと思う。

「1000年後の命を守る」というのが、子どもたちの旗印です。これまで建立した石碑のうち15基がすでに「自然災害伝承碑」として国土地理院のウェブ地図に掲載されています。

またこの石碑を案内する「語り部」の活動もしています。毎月第3日曜日、10時に女川駅前集合とのことです。


当方、ラジオはあまり聴かないので存じませんでしたが、こうした硬派の番組を、しかも民放さんで制作しているのですね。

「復興支援PROGRAM Hand in Hand」、聴取可能な地域の方はぜひお聴き下さい。


【折々のことば・光太郎】

美かぎりなし  短句揮毫  戦後期?

彫刻や絵画など造型芸術の「美」、詩歌などの言葉としての「美」、それらを融合させた「書」の「美」、そして人の心が包含する「美」もイメージしていたのではないでしょうか。

昨日は3.11でした。あらためて、あれから9年経ったか、という感じです。

このところこのブログでよく話題にしている、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ宮城県女川町の「いのちの石碑」につき、昨日は『東京新聞』さんが「社説」で取り上げて下さいました。系列の『中日新聞』さんにも同じ社説が載ったようです。

社説 3・11から9年 千年先の郷土を守る

 牡鹿半島の付け根に位置する宮城県女川町は、東北電力女川原発のある町です。
 リアス海岸の岬を巡るとあちこちで、高さ二メートル、幅一メートルほどの平たい石碑に出合います。「女川いのちの石碑」です。
 建てているのは、女川中学校卒業生の有志でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」。今月一日、十八基目ができました。
 あの日女川町は、最大一四・八メートルの津波に襲われました。
 人口約一万人のうち、死者・行方不明者は八百二十七人に上り、全住宅の九割に当たる約三千九百棟が被害に遭いました。
 東日本大震災の被災市町村の中で、最も被災率の高かった町だと言われています。

◆大震災を記録に残す
 震災翌月、当時の女川第一中(二〇一三年に女川第二中と統合して女川中)に入学した一年生は、社会科の授業で「ふるさとのために何ができるか」を話し合いました。そして「震災を記録に残す」活動の実践に乗り出すことを決めたのです。
 町内に二十一ある浜の集落すべてに津波は押し寄せました。
 それぞれの津波到達点に石碑を建てておこう、ふるさとの風景に震災の記憶を刻みつけ、千年先まで命を守る避難の目安にしてもらおう-。
 街頭やSNSで寄付を募ると、半年で目標額の一千万円が集まりました。
 石碑には、警告が刻まれます。
 <ここは、津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください>

◆津波わずかに高ければ
 末尾には、卒業生から未来へ贈るメッセージも添えました。
 <今、女川町は、どうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています>と。
 第一号は一三年十一月、女川浜を見下ろす母校の校庭に建ちました。今年中には二十一基目が完成し、プロジェクトは完了する予定です。
 そんな女川町でも、原発再稼働の手続きが最終段階を迎えています。
 女川原発は、震源に最も近い原発です。福島同様、激しい揺れと津波に襲われました。到達点よりわずかに高い所にあったため、辛うじて難を逃れたにすぎません。
 原発の敷地は、大地震の影響で一メートルも沈下しました。原子炉建屋の壁からは、千百三十カ所ものひび割れが見つかりました。
 震災で、満身創痍(そうい)にされた原発です。原子力規制委員会の審査を終えて、規制基準に「適合」と判断されはしたものの、とても安心とは言えません。規制委も安全だとは言いません。
 「あと三十センチ津波が高ければ、福島と同じになったと思います。原発に絶対の安全はなく、ふるさと喪失のリスクが付きまとう。福島の教訓です。再稼働を許すとすれば、これからも多大なリスクを、しょっていかねばならんのです。住民の命を預かるものとして、そんなことはできません」
 原発から三十キロ圏内にある宮城県美里町の相沢清一町長は、再稼働にきっぱりと「ノー」を突きつけます。
 「目の前に、現実の課題が山積みです。風化だなんてとんでもない。(放射性物質をかぶった)稲わらひとつ、処分できない。避難計画をつくれと言われても、なかなか答えが見つからない。高齢者はどうなるか? 複合災害が起こったときは? 途中で風向きが変わったら? 隣町から逃げて来る人たちは?…。(国や東北電力は)何をそう急ぐのか」
 東北の被災原発を再稼働に導いて、「復興原発」にしたいのか。原発は安全です、ちゃんと制御(アンダー・コントロール)できていますと、五輪を前に世界へアピールしたいのか。
 いずれにしても、原発のある風景や暮らしの中に刻み込まれた震災の痕跡を、見過ごすことはできません。風化を許してはいけません。
 その一つ一つが、未来ではなく、今を生きる私たちへの「警告」になるはずだから。

◆ふるさとを奪わないで
 女川いのちの石碑には、震災直後に生徒たちが詠んだ句を一句ずつ刻んでいます。
 原発に近い塚浜の公園に立つ十三番目の石碑には、こんな句が添えられました。
 <故郷を 奪わないでと 手を伸ばす>
 この痛切な願い、忘れるわけにはいきません。



女川原発の問題、原子力規制委員会の基準を満たしたという報道に接し、関心を寄せています。全国区のニュースでは報じられていないような気がしますが、先週にはこんな報道も。地元紙『河北新報』さんから。 

宮城県議会、女川再稼働の住民投票条例案を否決 自公会派など反対

 東北電力女川原発2号機(宮城県女川町、石巻市)の再稼働の是非を巡り、宮城県議会の野党会派は3日、開会中の2月定例会に住民投票条例案を議員提出した。即日採決の結果、賛成少数で否決された。

 議長を除く議員58人のうち、自民党・県民会議32人、公明党県議団4人、21世紀クラブ1人、緑風会1人の計38人が反対。賛成はみやぎ県民の声10人、共産党県議団5人、社民党県議団2人、無所属の会の2人の計19人。県民の声の1人が本会議を欠席した。

 野党は当初、「脱原発をめざす県議の会」を構成する5会派で共同提案する予定だったが、緑風会の高橋啓氏が「投票結果の尊重が条例案に盛り込まれていることに賛成できない」などとして提案者から外れ、採決でも反対に回った。

 条例案は自民会派が2日の議会運営委員会で、本会議での提案理由説明や常任委員会への付託の省略を求め、即日採決となった。

 県議の会の佐々木功悦会長は本会議終了後の取材に「残念としか言いようがない。再稼働の是非について意思を示したいという県民の強い思いを踏みにじる行為だ」と語った。


一方で、再稼働に明確に反対の意思表示をしている首長さんもいらっしゃいます。 

「もし国が認めてもノー」 女川原発再稼働に反対の町長

 東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)から30キロ圏内にある美里町の相沢清一町長は、女川原発再稼働への反対の姿勢を貫いている。東日本大震災から11日で8年半。原子力規制委員会の審査会合が大詰めを迎える今、改めて反対の理由を聞いた。
 ――女川原発2号機の再稼働に向けた規制委の審査が大詰めです。
 「やはり再稼働はするべきでないと思う。福島の原子力事故から8年半経った今も大勢が避難している。女川原発の30キロ圏内の住民はもとより、宮城県民が原子力の安全性を本当に信頼して再稼働に踏み切るのか、心配がある。特に宮城は『農業県』なので事故はあってはならない。もし国が認めても『ノー』と言わざるを得ない。私たちには住民の命を守る責任があり、万が一の時にはその責任がとれないからだ」
 ――特に心配な点は。
 「今、いろんな災害が起こっている。安易に環境が整ったと再稼働に踏み切るのは短絡的だ。防潮堤がしっかりしていても、テロ対策はまだ十分でない。つい先日もトラブル(2号機の冷却ポンプ停止)があった。原子炉など主要設備は対策しているだろうが、今回のような付帯設備はどうか。地震でパイプなどが崩れる恐れは大いにあるのではないか。非常に不安だ」
 ――再稼働に反対するきっかけは。
 「福島の事故が起きた。それまで『原子力は安全だ。国策で絶対心配ない』と思っていた。女川も津波があと数十センチ高かったらアウトだった。これは大変なことだと、我々は突きつけられた。自治体として町民の命を守る立場で、安易に納得してはだめだろうと考えた」
(以下略 『朝日新聞』2019.9.22)
 

「本当に安全なのか」 避難計画に疑問も 女川原発2号機、規制基準に適合

 東北電力女川原発2号機の再稼働に必要な審査書案が27日、6年がかりで了承された。今後、手続きを経て審査に合格しても、再稼働は対策工事が終わる見通しの2020年度より後で、地元自治体の同意も必要だ。地元住民は「本当に安全なのか」と話し、東京都港区の原子力規制委員会が入るビルの前でも、再稼働に反対する声が上がった。
 女川原発30キロ圏内にある宮城県美里町の相沢清一町長は「福島の原発事故でなお自宅に帰れない多くの人がいる中、手続きを踏んだから再稼働ということでいいのか。町民の命を守るためにも動かすべきでない」と再稼働に反対することを改めて表明した。
 石巻市民でつくる団体代表の原伸雄さん(77)は規制委の「合格」判定を、「避難計画を審査せずに安全とする仕組みはおかしい」と批判する。原さんら市民17人は今月12日、 女川原発の重大事故を想定した市の広域避難計画に実効性はないとして、県と市を相手取って再稼働に同意しないように求める仮処分を仙台地裁に申し立てたばかりだ。
 申立書では、渋滞が起きると30キロ圏からすぐに脱出できないうえ高齢者らの避難手段も十分でないことを指摘した。原さんは「今の避難計画では住民の命を守れない」と見直しを求める。 避難計画で原発が立地する女川町と石巻市の避難者を受け入れることになっている自治体にも困惑が広がる。市の人口の4分の1に相当する約1万7000人を受け入れる予定の栗原市の担当者は、「体育館などには限りがあり、仮設住宅を建設するにも工務店も足りない。避難者にきちんとサービスを提供できるのか不安だ」と打ち明けた。
 一方、再稼働による被災地への経済効果を期待する声も。女川町観光協会の遠藤琢磨事務局長(51)は「東日本大震災前から電力関係者は宿泊や買い物で町の経済に貢献していた。復興特需も落ち着きつつあり、人の出入りが増えれば町が活性化する」と歓迎した。
 村井嘉浩・宮城県知事は再稼働に必要な知事同意について「立地自治体の首長や議会、県の安全性検討会の結論などさまざまな意見を総合して(再稼働が適切か)判断したい」と述べるにとどめ、賛否を明言しなかった。 規制委の審査会合に時間がかかった要因の一つは、想定する地震や津波がどのくらい影響を及ぼすのか慎重に議論したためだった。東北電は独自の手法で影響を評価。 評価方法を巡って、4年間のやり取りがあった。 震災で震度6弱の揺れに見舞われ、2号機の原子炉建屋の壁に入った1130カ所のひびは、全て幅1ミリ未満だった。揺れが大きかった上部ほど多く、3階に734カ所と集中した。東北電はひびを補修するものの、審査会合では仮に補修しなくても今後の大地震に耐えられるとするデータを示しながら安全性を主張。規制委は東北電の言い分を認めた。
 新たに整備した防潮堤は、地中深くにも壁ができるような形になった。敷地内には、山側から海に流れる地下水がせき止められ、地震時に液状化が起こりやすい状況に。東北電は規制委と議論を重ね、建屋周辺に複数のポンプを設け地下水をくみ上げることにした。規制委の更田(ふけた)豊志委員長は「条件を厳しく設定し慎重に審査した」とした。
 女川原発では、1号機は老朽化のため廃炉が決定。東北電は3号機の再稼働の合格も目指す。2号機が再稼働すれば、東北電として火力発電の燃料費など年間350億円を削減できるとしている。
(『毎日新聞』2019.11.27)


いかが思われますか? 最後に判断を下すのは、住民の皆さんだと思うのですが、しかし、上記の『河北新報』さんの記事の通り、住民投票の条例案は自公会派などにより否決されました。何だか、新型コロナの報道の陰で、こうした地方での大事な動きなどが全国的に報じられていないような気がするのですが……。

最後に明るい話題を。同じ宮城県の名取市のニュースで、『神戸新聞』さんの記事です。

午後2時46分過ぎに大きな虹 東日本大震災9年

 東日本大震災から丸9年。発生時刻の午後2時46分を過ぎたころ、宮城県名取市の震災メモリアル公園上空に、大きな虹がかかった。 見上げた女性は犠牲者を思い、「こうやって渡ってきてくれたんだね」とつぶやいた。

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昨夜7時のNHKさんのニュースでも紹介されました。

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昨夜7時のニュースでは、被災地岩手を舞台とし、震災についても描かれた「あまちゃん」で主演を務められたのんさんが生出演。被災地への思いを語られていました。

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ちなみに当方、昨夏、のんさんとお会いして少しお話をさせていただきました。当会会友・渡辺えりさんが、のんさんもご出演された舞台「私の恋人」にご招待下さり、その終演後でした。

その際、帯にのんさんが掲載されている渡辺さんの戯曲集『渡辺えりⅢ──月にぬれた手/天使猫』を持参、サインしていただきました。もちろん渡辺さんのサインも。念のため(笑)。

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今後とも、被災地復興に一役買い続けていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

私はいろいろの境地をだんだんに通つて来て、今では、吾々人間以上の或る大きな精神が此世に厳存する事を、理屈無しに信じ切るやうになりました。

アンケート「名士の信仰」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

震災も「人間以上の或る大きな精神」の表れかもしれません。しかし、そこから立ち上がろうとする人々の姿にも「人間以上の或る大きな精神」を感じますし、上記の午前2時46分の虹などにも「人間以上の或る大きな精神」を感じます。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

3.11が近いということで、このところ、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ宮城県女川町の「いのちの石碑」関連をご紹介していますが、今日もまたその関係です。

まず、建設関係の業界紙『日刊建設工業新聞社』さんの昨日の記事から。 

東日本大震災9年/国土地理院、自然災害伝承碑をウェブ地図で公開/子どもたちが調査

東日本大震災の被災地の子どもたちが006調べた命を守る記念碑が、過去の自然災害の被害状況を現在に伝える「自然災害伝承碑」として国土地理院のウェブ地図で公開された。宮城県女川町で被災した当時小学校6年生だった子どもたちが、震災直後に入学した中学校の先生と取り組んだ「女川いのちの石碑」15基を掲載。同時に全国で41基を追加し、公開総数は46都道府県150市区町村の472基となった。

1日時点で女川いのちの石碑は18基。小学6年生だった子どもたちは二十歳を超えた。震災のつらく、悲しい出来事を再び繰り返さないよう、1000年後の命を守るために調べた15基を、国土地理院が自然災害伝承碑としてウェブ地図「地理院地図」で公開した。
自然災害伝承碑は過去に発生した津波や洪水、土砂災害などの自然災害の情報を伝える石碑やモニュメントを指す。被災箇所に近い場所に設置される場合が多く、インターネットによる情報発信で発生しやすい自然災害を地域ごとに知るきっかけづくりを目指す。
国土地理院は今後も地方自治体に協力を呼び掛け、情報を定期的に更新。広く発信していくとともに活用方法を提示していく。



「調べた」というわけではないので、若干の誤りがありますが、国土地理院さんで昨年から始まった「自然災害伝承碑」の登録で、「いのちの石碑」もその選に入ったという記事です。

仙台に本社を置く『河北新報』さんも報じています。 

自然災害伝承碑、東北の29ヵ所追加 国土地理院がホームページに掲載

 国土地理院は、自然災害の記憶を刻んだ石碑などの「自然災害伝承碑」に、青森、岩手、宮城、秋田4県の計29カ所を追加し、ホームページ(HP)の地域防災情報コーナー「地理院地図」に掲載した。
 宮城では東日本大震災の教訓を伝える「女川いのちの石碑」など女川町内の16カ所を紹介。岩手県山田町では昭和三陸地震(1933年)で被災した大沢地区の慰霊塔など11カ所を載せた。同地震で被害が出た青森県八戸市の記念碑1カ所と、日本海中部地震(83年)の津波が襲った秋田県三種町の慰霊碑1カ所も加えた。
 国土地理院は、昨年3月に伝承碑の地図記号を制定。同6月にはHPに掲載する取り組みを始めた。今回の追加分を含めると、東北6県は計115カ所となった。全国では472カ所。
 地理院東北地方測量部の担当者は「掲載数が増えれば、防災教育に役立てる動きもさらに広がる。地域の活動を引き続き後押ししたい」と話す。

国土地理院さんのサイトから。 

被災地の子供たちが調べた命を守る記念碑15基を公開【東北地測】

 今年3月11日は平成23年(2011)の東日本大震災発生から9年となります。宮城県女川町で被災した当時小学校6年生だった子供たちが、震災直後に入学した中学校で先生と始めた取組である「女川いのちの石碑」のうち15基を、自然災害伝承碑として新たに公開しました。
 「女川いのちの石碑」は、宮城県女川町内にこれまで18基が設置されています。現在大学生となった彼ら、彼女らが、自分たちが経験した辛く、悲しい出来事を再び繰り返さないよう、1000年後のいのちを守るために活動し、調べた15基について、女川町から自然災害伝承碑の掲載申請があり、3月1日にウェブ地図「地理院地図」で公開しました。
 今回は、全国で41基を公開し、東北地方では、女川町のほかに青森県八戸市1基、岩手県山田町11基、秋田県三種町1基を公開しました。これにより、地理院地図における自然災害伝承碑の公開数は、46都道府県150市区町村の472基となりました。
 自然災害伝承碑の掲載は、市区町村の協力のもとに行っています。今後も全国の市区町村に情報提供を引き続き呼びかけ、情報を定期的に更新し、広く発信していくとともに、活用方法を提示していきます。


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実際の地図がこちら

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碑のマーク上でクリックすると、内容が表示されます。

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さらに碑の画像をクリックすると、詳細情報。

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この「自然災害伝承碑」は、一昨年の西日本豪雨の後、被災地に実は100年前にも大水害があったことを示す碑があったにもかかわらず、その存在が忘れられ、被災抑止に役立てられなかったという反省から制定されました。記憶の風化に歯止めを掛けるという意味では、有効な取り組みだと思います。

つい先日除幕された女川町大石原浜の碑も早速登録されています。その除幕の様子、少し遅れて昨日、仙台放送さんのローカルニュースで報じられました。 

女川町「いのちの石碑」18基目完成 津波を伝える〈宮城〉

震災の記憶を未来に伝える18基目の「いのちの石碑」が女川町に完成し、3月1日、除幕式が開かれました。

この活動は、女川中学校の卒業生たちが震災の教訓を後世に残そうと町内21の浜に石碑の建立を続けているもので、今回で18基目の完成となります。
3月1日、女川町の大石原浜で行われた除幕式には、卒業生3人や地元住民など、およそ30人が集まり石碑の完成を祝いました。

地元の住民
「石碑を見て津波がきたんだねということで、これから地震・津波があった場合は高台に逃げると、これが1番ですね」

女川中学校卒業生 阿部由季さん
「震災がきたときに1人でも多くの命を守るということが目標なので、石碑を生かして、これからも震災を語り継いでいくようになればいいなと思っています」

最後となる21基目の石碑は、今年完成予定の女川小・中学校に建立されるということです。

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碑とともに、その建立に奔走したかつての女川第一中学の生徒たちの功績も、永く語り継がれてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

印象に残った作と特に申し上げたいものは、一つもありません。残らず、朽ち去る可き作品だと感じました。

アンケート「印象に残れる諸作――文展鳥瞰図――」より
 大正2年(1913) 光太郎31歳

「文展」は「文部省美術展覧会」。光太郎、つくづくこの手のアカデミズム展が大嫌いだったようで……。

ちなみにこの年の文展には智恵子が油絵三点を応募しましたが、すべて落選。それに対する抗議の意図も有るのかもしれません。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨夜放映された「NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~」を拝見しました。東日本大震災から9年を経ようとしている被災地のうち、岩手、宮城、福島のこれまでの歩みや現状をトピック的に紹介するものでした。

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宮城では、女川町の「いのちの石碑」関連。震災の年に中学校に入学した当時の女川第一中学校の生徒たちが、「1000年後の命を守るために」を合い言葉に、町内21ヶ所の津波到達地点より高い場所へランドマークとなる石碑の建立を計画、昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して平成3年(1991)に建てられた光太郎文学碑が「100円募金」で建てられたことに倣い、建設資金1,000万円を本当に募金で集めました。

番組では当時の中学生の一人、現在二十歳となった鈴木智博さんを追っていました。昨年、成人式を迎えられたということですが、それでも現在二十歳ということは、いわゆる早生まれなのでしょう。

中学時代の鈴木さん。

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自宅は流され、お母さん、おじいさん、おばあさんを亡くされたそうです。そこで、自分と同じ思いをする人がいなくなってほしいと思ったとのことです。

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学校では、被災体験を元にした授業。このブログでたびたび紹介してきました阿部一彦先生もご登場。その中で「いのちの石碑」プロジェクトが立ち上がりました。

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右上が、生徒さんたちの手になる企画書。ここに光太郎碑に倣って募金で資金を集める旨、記されていました。しかし、募金といっても、1,000万円……。

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ところが、生徒さんたちは、修学旅行先でも募金を呼び掛けたりし、なんと半年余りで目標額を達成。

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石碑を作って下さった石屋さんでの映像も入りました。そして、一基目の除幕。その後も設置は続き、つい最近も18基目が建てられたそうですし、今年中には予定の21基がすべて完了するとのこと。

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鈴木さん、現在は仙台の大学で防災を学ばれているそうですが、週末には女川に帰って、漁業をなさっているお父さんのお手伝いや、昨年の台風19号の際には県内の被災地でボランティアをなさったりもしたそうで、本当に頭が下がります。

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そして、「いのちの石碑」以外にも、「1000年後の命を守る」活動も継続中。

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鈴木さん以外にも、多くの若者たちが活動に携わり、若者たち以外も支援の手を差しのべています。この活動、石碑ももちろん大事ですが、それとともに、人々の絆を深めることも柱として立ち上がりました。そういう意味では、一定の成果がすでにもたらされているように感じます。あの日、津波に呑まれて還らぬ人となった、かつて光太郎文学碑の建立や、その後の女川光太郎祭の開催に奔走した貝(佐々木)廣さんも、空の上で目を細めているような気がします。

震災の悲劇は悲劇として、その後の取り組みということで、今後も語り継がれてほしいものです。

この番組、3月14日(土)の午前11時から、BS日テレさんで再放送があります。ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

いろいろな意味にて心をひかれる様な女性は多くありますが、単に「好きな女」と申す点では、文学、美術、演劇等を通じて小生は未だ仏国画家ルノアル氏の筆に成る女性ほど好きな女に逢つた事がありません。

アンケート「文芸に現はれたる好きな女と嫌ひな女」より
 明治45年(1912) 光太郎30歳

光太郎、どうも生涯を通じてふくよかな女性が好みだったようで……。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。
来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

3.11が近づいてきまして、新聞報道やテレビ番組等でも、かなり東日本大震災がらみが多くなっています。

このブログでたびたびご紹介している、宮城県女川町の「いのちの石碑」。昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して平成3年(1991)に建てられた光太郎文学碑を手本とし、設置費用すべてを募金でまかなう計画で進められています。

その「いのちの石碑」も取り上げられるテレビ番組が、本日深夜(正確には明日未明)、放映されます。 

NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~

地上波日本テレビ 2020年3月8日(日)  24時55分~25時50分=3月9日(月) 午前0時55分~1時50分
BS日テレ       2020年3月15日(日) 11時00分~11時55分

東日本大震災から9年。被災地では多くの人が懸命に生きている。家族との約束。仲間との約束。故郷への約束。果たしたい約束がある。それは心の支えだ。津波で流された自宅を再建したいと願う老夫婦。震災で家族を失い、1000年後の命を守ろうと中学時代の仲間と石碑の建立に取り組む青年。原発事故で一度はあきらめかけた牧場を復活させ、将来は息子にバトンをつなぎたいと考える男性。岩手・宮城・福島の3局共同制作で送る。

制作 テレビ岩手・ミヤギテレビ・福島中央テレビ
ナレーター 土村芳

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インターネットの「テレビ番組表」的な各サイトでは、上記のような説明で、「女川」や「いのちの石碑」という単語が入っていなかったため、昨日まで気づきませんでした。


昨日、アップされた日テレさんのサイトに詳細情報が出ていて、それで気づいた次第です。

東日本大震災から9年になろうとしている今も、被災地では「故郷で生活に向き合っている人々の本質」に出会える。彼らは、何を信じて、何を夢見て、走り続けてきたのか。「支え」になっているのは、友人との「約束」、家族との「約束」、故郷に誓った「約束」だ。

番組では、岩手・宮城・福島、それぞれで懸命に生きる3組に密着。過去の素材を生かしながら「9年間の歩み」を「被災地の約束」と共に描く。

岩手で密着したのは、「高台に住むまで…」陸前高田・念願の自宅再建した老夫婦の9年。津波で1,700人超の犠牲者を出し、4,000余の家屋が倒壊した陸前高田市。震災から1カ月後、プレハブの仮設住宅に入居する被災者の中に佐々木栄さん(当時80歳)、松子さん(同78歳)夫婦の姿があった。佐々木さん夫婦の自宅は津波で流失。その後、学校の体育館、市内の娘宅等、避難生活を転々としていたが、仮設の入居者募集に申し込んだところ当選。「これからの人生、またやり直しができる」と前向きな栄さん。やがて、趣味の川柳に自らの夢を詠み、部屋の壁に貼るように。そこには「高台に住むまで生きて海を見る」と書かれていた…。
震災から7年、夫婦は市内に完成した災害公営住宅の一室にいた。「どんなに狭くても構わない。早く自分の家に住みたい」。しかし、資金面は大丈夫なのか?そもそも体は持つのか?と弱気になる夫婦。それでも19年7月、ついに、念願の家が再建。最大の課題だった資金も3人の娘が援助を申し出てくれたのだ。だが、ここまで来るのに8年以上の月日が…。現在、栄さん88歳、松子さん86歳。かさ上げ地に人は戻らず、ふるさとはすっかり姿を変えてしまったが、「高台に住むまで生きて海を見る」 という“約束”を果たすことはできた。

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宮城で密着したのは、「夢だけは壊せなかった大震災」女川町20歳青年の誓い。女川町出身の大学生・鈴木智博(20)さんは、小学6年の時に発生した東日本大震災で、母親と祖父母を亡くした。津波で、自宅は全壊し、漁師の父と2人の妹と仮設住宅で暮らしを余儀なくされた。中学生の時に誓ったこと…それは同じ悲しみを繰り返さない震災の教訓を言葉で伝えるだけでなく、形にして残そうとした。
鈴木さんをはじめ、女川中学校の生徒たちは“1,000年後のいのち”を守るために町内21の浜の最大津波到達地点に「いのちの石碑」を建てる活動を始めた。21基建てるのに必要な1千万円は、修学旅行先などで募金を呼びかけて自分たちで集めた。1基目の石碑を建ったのは、13年11月。「夢だけは壊せなかった大震災」 石碑には生徒たちが授業で考えた俳句を刻んだ。震災から9年。鈴木さんの自宅は高台に再建され、自身は仙台で一人暮らしをしながら大学に通っている。ふるさとを離れ、震災の風化を感じることもある。それでも当時の仲間たちと集まり、石碑 を建てる活動、そして、「いのちを守る教科書」を作る活動を続けている。

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福島で密着したのは、牛が元気に育つ村へ…と故郷に誓った父と息子。葛尾村は、一部を除き避難指示が解除されてから3年が過ぎ、帰ってきた住民はわずか約2割で、帰還した人のほとんどが高齢者たち。村は標高が高い阿武隈高地に位置し、酪農や畜産が盛んだったが、原発事故によりほとんどの農家たちが避難を余儀なくされ廃業に。佐久間哲次さん(43)もその1人で、父から受け継いだ大切な牧場で牛130頭を飼育する大規模酪農家だった。
しかし、長期間の避難で牛たちは餓死…。佐久間さんは避難指示が解除された16年に村に戻り、賠償金をほぼ全てをつぎ込み、さらに借金までして、牧場を除染、安全な飼料を確保、牛舎をリニューアルし、酪農を再開させる。それは、長男・亮次くん(14)が「父の跡を継いで酪農家になる」と決めていたからだ。息子の夢を叶えるため、去年は生乳の出荷再開へこぎつけた。亮次くんも3月、父に近づくべく、農業高校への受験に挑む。原発事故で人生を翻ろうされながらも、困難を乗り越える際に垣間見える「絆」や「生きがい」とは。そして、酪農を通して、親子がそれぞれの立場で、自分、家族と交わした『約束』とは…。

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ちなみに同じ「NNNドキュメント」では、平成26年(2014)にも、「3・11大震災 シリーズ 千年後のあなたへ 15歳…いのちの石碑」と題して、「いのちの石碑」を取り上げて下さいました。


もう1件、やはりインターネットの「テレビ番組表」的な各サイトで、「女川」の語が入っていないのですが。 

徳光&木佐の知りたいニッポン!ピックアップ!復興の今と未来 徳光がゆく宮城・岩手

BS TBS 2020年3月14日(土) 13時00分~13時30分

徳光和夫さんと木佐彩子さんがお送りする政府広報番組。今回のテーマは「復興の今と未来 徳光がゆく宮城・岩手」です。


3月7日(土)の放映が「復興のいま 福島で見た“希望と未来”」で、つい先日もお会いした、川内村の遠藤雄幸村長がご出演なさるというので、拝見しました。

すると、「次週予告」で、女川町の須田義明町長のお姿が映り、それで次回は女川か、と気づきました。

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川内村に関しては、遠藤村長のご案内で木佐彩子アナウンサーが、川内小学校さん、村唯一のパン屋さん「BAKERY RIVIÈRE」さん、完全密閉型の植物工場「KiMiDoRi」さんなどを紹介されました。

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というわけで、それぞれぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

二、下谷区 八、たゞ我が信ずる所。 十、砕雨。

アンケート「松籟颯々」全文 明治34年(1901) 光太郎19歳

投稿雑誌『文庫』(内外出版協会)が百号を記念し、上野の韻松亭で投書家の集まり「春期松風会」を催し、その席上、用紙を配付して書いて貰ったアンケートです。

下はその際の集合写真。

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質問は10項目ありましたが、光太郎は7項012目は無視し、3項目だけ回答しました。そこで、回答者79名中、最短の回答でした。「二」は「生地」、「八」は「宗教」、そして「十」は「理想の人物」でした。「砕雨」は、当時、光太郎が使っていた雅号。つまり自分自身の名を上げているわけで、不遜とも言えますが、強い矜恃が見て取れます。光太郎はおそらく左上の方。なるほど、生意気そうな面構えです(笑)。

他に、親友だった水野葉舟、歌人の窪田空穂、同じく服部躬治、詩人/仏文学者の吉江孤雁、詩人の伊良子清白、同じく横瀬夜雨、河井酔茗、登山家の小島烏水、画家の一條成美、そして大逆事件の際には幸徳秋水らの弁護を行った平出修なども映っているはずです。どれが誰だか分からないのですが。


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来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

本日も、東日本大震災関連で、宮城県女川町の話題を。

昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念した光太郎文学碑を建立、その後、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町から、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連です。

まず、地元紙『河北新報』さんの記事。 

津波避難の教訓刻む 女川町に「いのちの石碑」18基目完成

 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと、宮城県女川町女川中の卒業生らが建立を続けている「女川いのちの石碑」の18基目が同町大石原浜地区に完成し、現地で1日、披露式があった。

 卒業生有志でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民らが参加。震災当時、同地区では住民が高台に避難し、犠牲者が出なかったことなどが説明された。
 石森昌義行政区長(80)は「壊滅的な被害を受けたが、徐々に生活が落ち着いてきた。石碑を見て、津波避難の教訓を心に刻み生活したい」と話した。
 これまで建立した石碑のうち15基が「自然災害伝承碑」として国土地理院のウェブ地図に同日から掲載されたことも報告された。守る会の阿部由季会長(21)は「地図を通して多くの人が石碑を知ってくれたらうれしい」と期待した。
 いのちの石碑は2011年4月に女川中に入学した生徒たちが発案した。13年11月の1、2基目を皮切りに町内の各津波到達地点より高い場所に建立。最後となる21基目は今夏新設される女川小・中学校敷地内に建てられ、11月22日に披露式がある。


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NHKさんでは、ローカルニュースで取り上げて下さいました。 

「女川いのちの石碑」披露式

東日本大震災の教訓を後世に伝えたいと、女川町で当時の子どもたちの呼びかけで作られることになった石碑の1つが完成し、1日、披露されました。

女川町では津波の教訓を後世に伝えたいと、震災後、地元の中学生たちが「女川1000年後のいのちを守る会」を立ち上げ、集めた募金をもとに沿岸部に21あるすべての集落で石碑の建立を続けています。
震災から9年を前にきょう、津波で大きな被害を受けた集落の1つ、大石原浜に18番目の石碑が完成し、地元の人たちに披露されました。
石碑は高さ2メートル余り、幅がおよそ1.5メートルあり、「一秒間大切にする我が命」ということばが刻まれています。
女川町では残る3つの集落でもことし11月までに石碑が完成し、国土地理院の自然災害伝承碑に登録されることになっています。
「女川1000年後のいのちを守る会」の阿部由季さんは「石碑で震災の記録を伝えることで、次に津波が来てもひとりでも多くの命を救いたいです」と話していました。


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過日も書きましたが、町中心部に近い光太郎文学碑の再建も成されるやに聞いています。期待しております。


【折々のことば・光太郎】

この部落に住んで、「民族の精神、山林に厳たり」との感を深くした。土地が痩せてゐるため苦闘して生きて行かねばならないことが、人間の良さを純粋に残してゐるのではないかと考へる。

談話筆記「光太郎の言葉」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

「この部落」は、前年秋に移り住んだ花巻郊外旧太田村山口地区です。光太郎が入村した当時は開拓団が入る前。火山性の強い酸性土壌で、田畑も少なく、村人は半農半林、炭焼きが貴重な収入源、闇屋の買い出しさえ来なかったといいます。

この談話は昭和21年(1946)3月3日の『週刊朝日』に載りました。偶然ですがちょうど今日は3月3日ですね。その前の週の号には、光太郎の山小屋と光太郎の写真も載りました。

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女川町はじめ、三陸リアス海岸の猫の額のような土地に暮らす皆さんも、立地条件的には「苦闘して生きて行かねばならない」わけで、そういう意味でやはり「人間の良さを純粋に残してゐる」のではないでしょうか。



第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら
新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨日に引き続き、東日本大震災関係で。

まず、2月26日(水)の『毎日新聞』さん夕刊、「わたしの居場所」という連載。昨日ご紹介した女川町に隣接する石巻市の話題です。長い記事ですので、途中、省略します。 

津波被災地に交流の場 高齢者の孤立防止へ食料品店 宮城・石巻

 宮城県石巻市門脇地区の災害公営住宅前にある食料品店「まねきショップ」。常連客の大山泰三(67)が扉を開けると、オーナーの本間英一(70)が笑顔で迎えた。2016年000にオープンした地区唯一の商店だ。「公営住宅に暮らすお年寄りが買い物に困らないように」。私財を投じた本間は、東日本大震災後にできた「かどのわき町内会」の会長も務める。
 大山は公営住宅で1人暮らし。話し相手を求めてほぼ毎日、店を訪れる。「1人では寂しくて落ち込みがち。ここはいろんな人と話せて良いね」。店の隣には、あの日の津波に奇跡的に耐えた土蔵が残る。回船問屋や醸造業を営んでいた本間の先祖が明治期に建てたもので、街の歴史を物語っている。

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 まねきショップでは日中、本間の妻信子(68)と次男の妻美奈子(37)が店に立つ。店頭に並ぶケーキや総菜、喫茶スペースで提供する軽食は2人のお手製だ。
 本間は「買い物客は車を持っていないお年寄りが中心。荷物が重ければ、うちの奥さんが自宅まで届け、ついでに家庭ごみを収集所へ運ぶこともある」と話す。体操教室の日は高齢者を家まで迎えに行く。「やってあげないと、できないので。単なる手伝いです」と本間が言えば、「おせっかいなんです」と信子。
  店が建つのは先祖から受け継いだ広大な敷地の一角だ。震災前は、みそやしょうゆを貯蔵する蔵などが並んでいた。本間は大学で水産を学び、憧れだった船乗りとして世界を航海。30歳で地元に戻り、 テニスコートの経営を始めた。家業の醸造は廃業しており、商売の経験はなかったが「 せっかくある土地を使って、地域に貢献したい」と、知人から助言を得て開店にこぎ着けた。 店には、被災地の視察などで県外や海外からも人々が訪れる。本間が被災体験や街の歴史について話すこともある。手探りで始めた店はその名の通り、人を招く交流の場となった。東北ゆかりの詩人、高村光太郎の詩の一節「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」を引き合いに、本間が言う。「先がどうなるかは分からない。小さなことでもいいから、今できることを始めて、切り開いていくしかない」(敬称略)


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光太郎、昭和6年(1931)、女川を訪れる前に石巻にも立ち寄っています。そういう意味では「東北ゆかり」というより、「石巻ゆかり」。

「まねきショップさん」、これからも頑張っていただきたいものです。


続いて、テレビ放映情報。昨年の3月9日にNHK BSプレミアムさんで放映された「いのちの石碑」関連のドラマが再放送されます。 

ドラマ“女川 いのちの坂道”

NHKBSプレミアム 2020年3月7日(土)26時13分~27時12分(=3月8日(日)午前2時13分~)

東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県女川町。卒業間際で被災した子どもたちは「千年後のいのちを守ろう」と、あの日津波が到達した場所に『いのちの石碑』を建てる活動を続けている。ドラマはその実話をもとに今年20歳になる若者たちの今を描く。12歳で被災した咲が恋人翔太とともにたどる青春ロードムービー。ドラマの見どころは全編ドローンによるダイナミックな映像。女川の風景と咲の心をドローンカメラがとらえる!

出演 平祐奈 平埜生成 岡本夏美 皆川猿時 田根楽子 他

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詳しくは昨年のこのブログの以下の記事をご参照下さい。

 テレビ放映情報。
 「ドラマ"女川 いのちの坂道"メイキング」他。
 ドラマ「女川 いのちの坂道」(その1)。
 ドラマ「女川 いのちの坂道」(その2)。
 宮城県女川町「いのちの石碑」関連。

ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

明治以降の害毒は、物質的にも精神的にも、ものの評価基準を誤つたことです。立身出世主義といふことが、一番いけません。大臣になることなどを渇望の的としてゐるなど滑稽です。地位金力に憧れる気持などは早く捨てねばなりません。さういふ気持から八紘一宇といふことを誤つて、日本が世界を自由に引き廻すことだといふ間違ひをひき起こしたとも考へられます。

談話筆記「美しく懐かしき国、日本」より 昭和20年(1945)

最近は聞かなくなりましたが、かつてこの題名のようなお題目を唱えておきながら、数々のありえないような疑惑にまみれ、説明責任は全く果たさず、ごり押しの法解釈変更等で三権分立を崩壊させ、汚いヤジを飛ばすしか能が無く、原稿は棒読み、そして「思いつき」としか思えない「要請」で日本中を混乱に陥れ、「大臣」の椅子にしがみついている愚か者に叩きつけたい言葉です。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら
新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

光太郎ゆかりの地・宮城県女川町。光太郎が昭和6年(1931)に新聞『時事新報』の依頼で、「三陸廻り」と題する紀行文の連載のため、女川も訪れたことを記念して光太郎文学碑が平成3年(1991)に建立され、その後、毎年、女川光太郎祭を開催して下さっています。

その光太郎碑のすぐ近くにあった旧女川交番。平成23年(2011)の東日本大震災時の津波で、鉄筋コンクリート造りの頑丈な建物が根こそぎ横倒しになってしまいました。震災の翌年の様子がこちら。ちなみに光太郎文学碑の建立や、その後の女川光太郎祭の企画運営に奔走され、そしてあの日、津波に呑まれて還らぬ人となった貝(佐々木)廣さんのご自宅は、この交番のすぐ隣だったはずです。

女川町では、交番や光太郎文学碑を含む海岸一帯をメモリアルゾーンとして整備中で、そのうち交番の「震災遺構」としての整備が終わり、昨日、除幕が行われたそうです。

地元紙、『河北新報』さんの記事。 

震災遺構旧女川交番が完工 横倒しの姿、教訓伝える

 東日本大震災の遺構として宮城県女川町が保存する「旧女011川交番」の完工式が29日、現地で開かれた。約9年前の姿のまま残された建物は震災の記憶と教訓、復興の歩みを後世へ伝える。
 旧女川交番は鉄筋コンクリート2階で、津波で基礎部分のくいが引き抜かれ横倒しになったとみられる。鉄筋コンクリート造の建物が津波で倒壊した世界的にも珍しい事例とされる。
 遺構を囲う壁には震災前の町の様子や被災状況、まちづくりの過程などを記したパネルを展示した。整備費は遺構周辺の広場を含め約4億1500万円。
 式典には約100人が出席。須田善明町長は「震災の悲しみや教訓と共に、立ち上がった人々の強さを伝えたい」と話した。



共同通信さんの配信記事。 

宮城・旧女川交番の遺構整備完了 津波で横転、パネル展示も

 東日本大震災の津波で横倒しになり、そのままの姿001で保存されている宮城県女川町の震災遺構「旧女川交番」と周辺広場の整備が完了し29日、記念式典が行われた。海岸近くの町中心部にある鉄筋コンクリート2階建ての旧交番は、引き波で基礎部分のくいごと引き抜かれた。

 町民ら約100人が参加した式典で須田善明町長は「教訓、悲しみはもちろん(被災から)立ち上がる人々の強さ、歩みを伝えたい」とあいさつ。「旧女川交番」と書かれたパネルを除幕した。

 震災前の街並みや復興をたどる写真も展示する。広場と合わせた整備費は約4億1400万円。国の復興交付金を充てた。



NHKさんのローカルニュース。 

津波で被災「旧女川交番」が震災遺構に

東日本大震災の津波で被災した宮城県女川町にあ000る「旧女川交番」が震災遺構として整備され、29日、工事の完成を記念する式典が開かれました。
震災の津波で横倒しになった宮城県女川町の「旧女川交番」は、津波の威力のすさまじさを後世に伝える「震災遺構」として整備が進められてきました。

この工事が震災から9年を前に完了し、29日開かれた記念の式典では、出席者が全員で黙とうをささげ犠牲者を悼みました。

震災遺構として整備された「旧女川交番」の周辺はおよそ5メートルの高さまで盛り土された広場となっていますが、津波で横倒しとなった鉄筋コンクリート造り2階建ての「交番」は、そのままの状態で保存されています。

また、近くには復興に向けたこれまでの歩みなどをまとめた写真やパネルも設置されています。

中学生の時に保存を求めて活動した勝又愛梨さんは(21)「原爆ドームのように保存して100年後も震災のことを伝えるようにしたいです。実際に来て見てもらい、津波の恐ろしさを感じてほしい」と話していました。

また、女川町の須田善明町長は「震災遺構として、あの日の津波の威力、そこから立ち上がった町の姿を伝えていきたい」と話していました。


仙台放送さん。 

津波の恐ろしさを見て感じて 被災した交番が”震災遺構”に 宮城・女川町

東日本大震災の津波で被災した女川町の交番が、震災遺構として整備され2月29日から一般公開が始まりました。

旧・女川交番は震災の津波で横倒しになり、町が津波のすさまじさを伝える震災遺構として、保存に向けた整備を進めてきました。震災後の再開発で、交番の周りは3mほどかさ上げされましたが、見学用スロープが用意され当時の姿を間近に見ることができます。

女川1000年後のいのちを守る会 勝又愛梨さん
「実際にこの建物の大きさ、頑丈さを見て津波の恐ろしさが伝わるんじゃないか。話だけでは伝わらない、実際に見て感じるものがある」

旧女川交番は29日から一般公開となり、周辺には今後、公園が整備されます。

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NHKさん、仙台放送さんともに、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」建立に携わって来られた「女川1000年後のいのちを守る会」の勝又愛梨さんがインタビューに答えられていました。

今後、同じくメモリアルゾーン内の光太郎文学碑の再建も成されるやに聞いています。期待しております。

明日も震災関連で。


【折々のことば・光太郎】

わが子のために身を捨てて顧みぬ母の愛の深さには世界人類の在るところおしなべて差別はない。これは殆ど生物の本能ともいへる深いところから発動する言語道断の母の慈育愛そのものである。

散文「皇国日本の母」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

この一節だけ取り出せば、首肯できる内容です。ところが、やはり大戦末期、このあとがよろしくありません。末尾には、お国のために「死ねと教へる皇国日本の母の愛の深淵は世界に無比な美の極である」とまで書いてしまっています。さすがに「こんなご時世でも死ぬなと教える母の愛」とは書けなかったのかも知れませんが……。

ちなみに「言語道断」。現代では「もってのほか」など、マイナスの意味でしか使われませんが、元々は仏教用語で仏教の真理や究極の境地は言葉では言い表せない、というわけで、プラスの意味にも使われていました。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

過日のこのブログにおいて、『朝日新聞』さんの記事からご紹介した件、仙台放送さんのローカルニュースでも取り上げられましたので、ご紹介します。

宮城県女川町の「いのちの石碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けているものです。 

女川町「いのちの石碑」 震災から9年目、最後の1基の完成を目指す〈宮城〉

宮城、岩手、福島の被災3県のいまをお伝えする「明日への羅針盤」。今回のテーマは「今年にかける」です。女川町の「いのちの石碑」の取り組みを紹介します。震災後、「1000年後のいのちを守る」を合言葉に当時中学生の生徒たちが町内の全ての浜に津波到達点の目印となる「いのちの石碑」を建てる活動をしています。今年で8年目となりました。
宮城県女川町。
漁業で栄えた港町も東日本大震災の津波で大きな被害を受けました。
町の人口の1割にあたる827人が犠牲に、およそ9割の家屋が被害を受けました。
海が見える高台に「1000年後のいのちを守る」と刻まれた石碑があります。

石碑の俳句
「忘れない この悲しみを 苦しさを」

震災の記憶を未来に残すため俳句とともに津波への対策などが記されています。

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石碑を建てたのは、当時、女川中学校に通っていた生徒たちです。

女川中学校の生徒 (2012年)
「1000年後の人たちの命を救うために、私たちの活動は必要だと思う」

夢だけは壊せなかった大震災。
自分たちが味わったあの悲しみ、苦しみを他の人に味わわせたくない。
石碑を建てるという夢に向かって生徒たちはまっすぐ進みます。

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そんな子供たちの姿に先生も手を差し伸べます。
阿部一彦先生 (2012年11月)
「1000年後まで残しましょう。ここで中途半端にしてはだめだ。大人に訴えましょう。伝わるはず。絶対!」
建設にかかる費用1000万円は募金で集めました。

「ありがとうございます」

募金はおよそ半年で集まり、震災から2年半が経ったころ、1基目の石碑が完成しました。

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女川中学校3年生(当時) 鈴木智博さん (2013年)
「うれしいです、やっと形になったのでいろんな人に見てもらいたいですね。震災があったということを知ってもらえればいい」

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震災から8年10ヵ月。
今では17基が建設されています。
この日は、月1回の活動報告の日です。

渡邊滉大さん(21)
「最終的な到達地点は“防災が当たり前に”。例えばご飯を当たり前に食べる。寝るときは寝る。それが当たり前にできる状況を作り上げて、最終的には防災が空気のように当たり前のような存在になってほしい」

鈴木智博さん(20)
「まだ学生だから時間に余裕がある。これからみんな就職とかして全国ばらばらになると自分の時間が少なくなる。みんなで協力していきたいというのが課題」
震災の経験、活動に対する葛藤。
防災への想いを語りました。
中学生だった子供たちも今では大学生や社会人。
鈴木智博さん(20)
「中学生の時から石碑を立てることを自分たちで計画していて、最後の1基が今年建つということは、自分の中で区切り。石碑は100円募金で建てたので、本当にいろんな人から協力を貰って建てた石碑なので、町内に限らず、支援してくれた人に『良かったね』と声をかけてもらえるような石碑になればいいと思う」

震災から9年目となる今年。最後の1基の完成を目指します。
石碑を立てる活動は今年一つの区切りを迎えますが、1000年後の未来のいのちを守る活動はこれからも続いていきます。


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彼らの未来に幸あれ、と祈念せざるを得ませんね。そして女川町の復興がさらに進むことも切に望みます。


【折々のことば・光太郎】

幼穉なのは困る事だが恐る可き事ではない。恥かしい事ではない。それよりも恐ろしく恥かしいのは正直な心を一瞬でも失ふ事だ。裸のまゝの心を知らずに曇らす事だ。雑念にとらはれる事だ。本源から離れる事だ。

散文「書簡――『智慧』に――」より 大正7年(1918) 光太郎35歳

『智慧』は、親友の水野葉舟、落合直史とともに刊行した個人雑誌です。残念ながら創刊号で終わってしまったようです。

「いのちの石碑」、はじめに上記の若者達が中学生だった頃、光太郎文学碑に倣って費用1,000万円を100円募金で集める、と言った時、「幼稚な思いつきだ、無理に決まっている」と鼻で笑った大人がいるやにも聞きました。しかし、ふたを開けてみれば半年余りで1,000万円が集まったそうで、当時の中学生達が「正直な心」、「裸のまゝの心」で、「雑念にとらはれる事」や「本源から離れる事」なく、頑張ったからだと思います。

昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念した「高村光太郎文学碑」を建立、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町から、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連で、『朝日新聞』さんの宮城版報道です。 

宮城)「女川いのちの石碑」 11月に21基目披露へ

 宮城県女川町内にある21の浜に東日本大震災時の津波到達点の目印となる「いのちの石碑」を建てる活動などをしている団体が19日、同町高白浜の石碑近くで、これまでの取り組みの報告会を開いた。女川小・中学校内に建てられる21基目の石碑の披露式を11月22日に開くことも明らかにした。
 活動しているのは「女川1000年後のいのちを守る会」。小学6年生の時に震災を経験した女川中学校の卒業生を中心に作られ、「いのちの石碑」や防災本「いのちの教科書」などの作成を進めてきた。寄付金でつくった石碑はこれまでに17基が完成している。
 活動に加わった経緯について、阿部由季さん(21)は「家をなくしたのに他人の心配ばかりをしている友人を見て、私も周りのために何かできないかと思った」と振り返った。
 石碑には中学校時代に生徒たちが詠んだ句が刻まれ、「津波が到達した地点なので、絶対に移動させないで下さい」との一文もある。阿部さんは「女川では昔の震災でも石碑が建てられていたが、工事のためにずらされてしまったことがあった」と説明した。
 報告会に訪れた人からは「なぜここまで大きな取り組みができたのか」との質問が出た。「金魚も大きな水槽で飼えば大きく育つ。広い心で見守ってくれた周りの環境が育ててくれたと思う」と、メンバーで大学生の渡辺滉大さん(21)。「防災が『空気』のように当たり前の存在になってほしい」と答えた。
 報告会に参加した「野蒜(のびる)まちづくり協議会」(東松島市)の菅原節郎会長(69)は「つらい過去と向き合うだけでも負担なのに、彼らは未来の命まで救おうとしている。地元の人たちにも彼らの活動を広めたい」と話した。
 21基目の完成日が決まったことについて、メンバーで大学生の鈴木智博さん(20)は「『やっと終わって良かったね』と言われることもあるが、これはゴールでなくスタート。次の災害で本当に命が救われるように、何年かかるかわからないが、活動を続けていきたい」と語った。(山本逸生)

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1基目が建立されたのが、平成25年(2013)。それから7年間かけて、いよいよ最後の碑が建てられるというわけです。頭が下がります。

元々、かつて女川港近くの公園にあった光太郎文学碑が、「100円募金」で建てられたことに倣い、当時中学生だった若者たちが募金を呼び掛けて、資金を集めました。

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光太郎や、文学碑の建立に奔走した女川光太郎の会事務局長であらせられ、あの日、津波に呑み込まれて亡くなった貝(佐々木)廣氏も、泉下で目を細めているのでは、と思います。

津波による辛い体験をそれぞれが経たあと、その逆境をバネに、こうした素晴らしい活動を成し遂げつつある彼らに幸あれと、祈念せざるを得ませんね。

続報が出ましたら、またご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

日本へ帰つて来たら矢張り日本の料理が好い。

談話筆記「画室にて」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

「画室にて」は長い談話筆記で、明治39年(1906)から同42年(1909)まで約3年半、留学のため渡り歩いた欧米各地の食文化、それぞれの地で気に入った食べ物、それらにまつわる体験などについて語られたものです。

延々語った後で、最後に「矢張り日本の料理が好い」。基本的には、日本の料理店で供される洋食が本場のものと比較にならないという苦言です。

しかし、ただそれだけというより、結局、東京美術学校西洋画科での同級生だった藤田嗣治や、年齢差を超えて親炙した高田博厚らと異なり、フランスに軸足を置くことをしなかった=やはり日本、という表れかな、という気もします。

NHKさんで放映されている、東日本大震災をはじめ、各地で被災された方々の証言を紹介する5分間番組「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~」。先週5日の放映が、「宮城県女川町 阿部一彦さん」でした。

阿部さんは、震災のあった平成23年(2011)、当時の女川第一中学校(現・女川中学校)さんの教員でした。女川町では、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっています。

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「石碑」は、昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して平成3年(1991)に建立された「高村光太郎文学碑」の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」です。

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震災の翌月に、中学校に入学した生徒さんたちと阿部さん。

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女川の復興のために、アイディアを絞りました。

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そうして考えられたのが、「いのちの石碑」。

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生徒さんたちが作った「計画書」には、光太郎文学碑が「100円募金」で建てられたことに倣って、建設費用1,000万円を募金でまかなうと記されました。

そして募金活動。修学旅行先でもおこなったそうです。

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その甲斐あって……。

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最後に阿部さんの率直な感想。

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こういう取り組みこそが、「教育」であり、「学習」なのだと思います。


さて、当時の64人の新入生の一人と思われる(違っていたらすみません)若者が、明日の「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~」で取り上げられます。「いのちの石碑」がらみではありませんが。

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~ 「宮城県女川町 佐藤柚希さん」

NHK総合 2019年 12月10日(火)  10時50分~10時55分

東日本大震災のとき小学生だった佐藤さん。復興への希望を込めて作った詩が町民を励ますスローガンになった。高校卒業後、役場の観光係として町のPR活動などに汗を流す。

NHKさんで出した番組説明ではわかりにくいのですが、「いのちの石碑」同様、女川町を象徴する下記のモニュメント関係です。

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町役場近くの地域医療センターのフェンスに設置され、町中心部から見ることができます。当方、初めてこれを見た時は、目が潤みました。 

昨年8月の『朝日新聞』さんの記事から。 

「流されたのではない」作者の佐藤柚希さん 

津波に打ちひしがれたまちで、少年は詩を書いた。「女川は流さ008れたのではない 新しい女川に生まれ変わるんだ」。詩は横断幕になって掲げられ、人々の心に明かりをともした。いま19歳になった少年は、町役場に就職し、ふるさとのために働いている。


 詩は「人々は負けずに待ち続ける 新しい女川に住む喜びを感じるために」と続く4行。震災の年の春、女川町立女川第二小6年生の佐藤柚希(ゆずき)さんが、授業で自分の思いを表現するように言われて、つくった。

 翌2012年9月、復興まちづくりの着工式の際、町が詩の前半を横断幕にして、高台にある地域医療センターのそばに掲げた。津波到達と同じ高さ18メートル、更地になった市街地を見下ろす場所だった。

 親戚から知らされた佐藤さんは、びっくりした。授業で提出して終わりだと思っていたのに、知らないところで詩はいろんな人に伝わっていたのだ。「あの言葉に支えられたよ」と、多くの大人が話した。

 石巻商業高に進み、公務員をめざした。人と接するのが苦手で、パソコンに向かうような事務仕事がいいと思ったからだ。担当の教師に「自分の持ち味をアピールした方がいい」と言われ、女川町の面接では、あの詩のことも話した。今年春に採用された5人の中の1人になった。007

 4月、産業振興課観光係の辞令を受けとった。「なんで配属になったかわかりますね」と総務課長。直属の産業振興課長は以前、復興推進課にいて、「自分が横断幕を発案した」と教えてくれた。

 観光係は、想像していた事務仕事とはまるきり違っていた。各地のイベントに出かけ、いろんな人と出あい、パンフレットを渡し、ふるさとの話をする。人と人のつながりがとても大事だと学んだ。詩のことを説明すると話が弾む。今では名刺に詩のフレーズを刷り込んでいる。

 詩を書いたときのことはよく覚えている。

 まず「女川」と紙に書いた。自分は家を失い、同級生の中には家族を流された者もいる。みんなを前向きにしたいと思った。「流されたんじゃなくて、何だろう?」。浮かんだのが「生まれ変わる」だった。「復興」なんて言葉はまだ知らない。どう生まれ変わるのか、根拠も何もなかった。

 あれから7年半。

 町職員になってわかったのは、女川町は歯をくいしばりながら、詩で書いた方向へと進んでいるということだ。災害公営住宅はすべて完成し、佐藤さんも入居する。海のそばにできた商店街は観光客でにぎわう。ただ町の人口は大きく減った。これからは、若者が住む喜びを感じられる場所が必要だと思う。

 横断幕は、いまも同じ場所で、生まれ変わる女川を見下ろしている。(石橋英昭)


ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

申上げるのは変かも知れませんが、よく写真で見る牧水さんの顔が好きで、折があらば一度彫刻のモデルに坐つていただく事をねだらうなどと思つてゐながら、さういふ折も天然には来ず、ついそれなりになつてしまひました。私一人にとつては此も心のこりのひとつです。

散文「写真の顔――若山牧水009追悼――」より 
昭和3年(1928) 光太郎46歳

若山牧水は、光太郎より2歳年少の歌人。この年、44歳で早世しました。

たしかにいい顔をしています。イケメンとかではなく、何事かを成し遂げた人特有の強さというか、なんというか。

同じことは上記の阿部さんや佐藤さんの顔にも見て取れますね。



テレビ放映情報です。 昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念した「高村光太郎文学碑」を建立、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町から、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連です。 

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 阿部一彦さん」

NHK総合 2019年12月5日(木)  10時50分~10時55分

宮城県女川町の中学校教師だった阿部一彦さんは、津波の悲劇を後世に伝え、100年後の命を守るために、生徒と協力しながら、津波が到達した地点に石碑を建て続けている。

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あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災」は、東日本大震災をはじめ、各地で被災された方々の証言を紹介する5分間番組です。これまでに、やはり「いのちの石碑」建立に携わった勝又愛梨さん、「女川光太郎祭」の折に宿泊させていただいているトレーラーハウスホテルのエル・ファロさんを経営されている佐々木里子さんなども取り上げられてきました。

今回取り上げられる阿部一彦さんは、「いのちの石碑」を発案した震災当時の女川第一中学校生の担任だった方です。当ブログ、以下の記事でご紹介させていただいています。

高校生が未来を創る町 女川町 七つ目のいのちの石碑。
<卒業式>津波で祖母犠牲「成長見守って」/忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書。
中学生が被災地で震災の教訓学ぶ/女川の子どもたちのそばに居続けた阿部一彦先生。

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また、今年3月、NHK BSプレミアムさんで放映された、平祐奈さん主演のスペシャルドラマ「女川いのちの坂道」では、皆川猿時さんが阿部先生の役を演じられました。失礼ながら(「失礼ながら」というのが失礼かもしれませんが)、よく似ていらっしゃいます(笑)。

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「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災」、ぜひご覧下さい。

その他、来週は、女川、十和田湖、花巻といった光太郎関連の地が紹介されるテレビ放映が相次ぎます。明日はそのあたりをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一見蕪雑に見える今日のただの言葉の中に脈々と伝はつてゐる日本古来の語法の美を発見し、その表現の性格を弁別し、正邪の乱れを格(ただ)し得る者にとつては、恐らく捨て置きがたい美の宝庫を其処に見るに違ひない。

散文「言葉の美しさ――日本の感覚――」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳


詩集『道程』(大正3年=1914)によってこの国の口語自由詩を確立し、空虚な美辞麗句の羅列に過ぎなかったあまたの文語定型詩を葬り去った光太郎ならではの言です。

ただし、その光太郎ですら、この直後には空虚なこけおどし的文言に充ちた文語の翼賛詩を乱発する愚にとらわれるのですが……。


台風19号の影響が心配なのですが……。

まず、仙台からコンサート情報。

第19回 華 日本の詩歌の会

期 日 : 2019年10月13日(日)
会 場 : 
宮城野区文化センターパトナホール(コンサートホール)
      仙台市宮城野区五輪2-12-70
時 間 : 14:00開演
料 金 : 2,000円 全席自由

出 演 : 
 ソプラノ 相澤裕子 岩瀬ゆう子 北村裕子
 メゾソプラノ 佐藤明子 佐藤園子 関本愛
 バリトン 原田博之
 ピアノ 海鋒美由紀 古賀望子 松山裕美子 吉川真理

曲 目 : 夢みたものは さくら伝説 青い星 「智恵子抄」よりレモン哀歌
      くちなしのはな みぞれに寄する愛の詩  
      三好達治の詩による四つの歌  他 

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「「智恵子抄」よりレモン哀歌」がプログラムに入っています。どなたの作曲のものなのか、不明なのですが……。

続いて、女川町。

第30回 1000年後の命を守る女川の子どもたちを伝える会

期 日 : 2019年10月13日(日)
会 場 : JR石巻線 女川駅周辺

時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料


主な日程 :
 集合(女川駅前) 開会/日程説明 これまでの活動の紹介 石碑見学 閉会

参加費なし、誰でもご参加いただけます。女川いのちの石碑や、その活動にご興味のあるかたぜひご参加ください。
主催:いのちの石碑を作る女川の子どもたちを支える会・女川1000年後の命を守る会e115c91b
このブログでたびたびご紹介してきました、かつて女川町に建っていた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぎ、女川町内各所に、かつて女川一中の生徒だった若者たちにより、「100円募金」で建てられ続けている「いのちの石碑」。東日本大震災の津波到達地点より高い場所に設置され、避難の際のランドマークとして活用される想定になっています。


気がつけばこのブログでのご紹介も40件近くとなりましたので、新たに「いのちの石碑」というカテゴリを作りました。ライブドアさんのブログに移転しましたところ、カテゴリの編集が容易になったもので。下の方にスクロールしていただくと、カテゴリ別にリンクが貼ってあります。ご覧下さい。


それにしても、台風19号、気になります。それぞれ無事に開催できるといいのですが……。


【折々のことば・光太郎】

詩歌はうたひ棄てるがいゝ。彫刻絵画は作つたら投げ出してしまふがいい。作品が生きると生きないとは作品自体の持つ生活力による事で人の力によるのではない。その分らない芸術品が幾星霜を経てゐるうちに人間の心に浸透してゆく趣は霊妙不思議だ。

散文「芸術品」より 大正13年(1924) 光太郎42歳


「生活力」=「生命感」ということでしょうか。それがあるものは残るし、ないものは滅びるし、それは歴史の審判に待つしかない、と、まぁ、作った当人としてはそうなのでしょうが、次の世代の者としては、こういう素晴らしい芸術があるんだ、と語り継いでいかねばなりません。そういう意味では「人の力」も必要です。

このブログでたびたびご紹介してきた、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」関連です。

秋の女川を楽しむモニターツアー! 「女川の魅力発見ツアー」

期 日 : 2019年10月1日(火)/10月6日(日)
行 程 : 仙台駅東口(8:30)→東北電力女川原子力PRセンター(見学)→
      ステイイン鈴家(海鮮膳の昼食)→大六天駐車場(見学)→
      女川まち巡り(鷲神浜いのちの石碑、駅前付近ほかを
       バスと徒歩で見学。シー
パルピア女川等で買物)→
      女川町まちなか交流館(「OCHACCO」オーナーによるお茶ワークショップ。
       お土産付き)→仙台駅東口(18:00頃)
料 金 : 4,500円
定 員 : 40人(最少催行人員 30人)

東日本大震災から約8年半。復興に向けて歩む女川町の魅力を実感しませんか。

震災遺構や、いのちの石碑、女川駅前など、震災と復興を知るまち巡りを行います。そして震災時に地域の方々が避難した、東北電力女川原子力発電所のPRセンターにも訪れ、模型や映像を通して原子力発電のしくみや、取り組みについて理解を深めます。

海の恵みを実感できる昼食を、女川湾が見渡せる「ステイイン鈴家」で。

また、今回はティータイムを豊かにするお茶のワークショップにも参加します。三陸発日本茶フレーバーティーを発信する「OCHACCO(おちゃっこ)」のオーナーによる、お茶のブレンドワークショップでは、自分で作ったお茶を持ち帰りOK!こちらもお楽しみに。

添乗員は同行しません。仙台リビング新聞社スタッフが同行します。

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この手の「いのちの石碑」見学を含むツアー、結構ありまして、しかし、近くなってからこのブログで紹介しようとすると、既に定員一杯になったようで、ネット上から情報が削除されているということが何度か有りました。

今回も10月6日(日)は既に埋まっているとのことですが、キャンセル等が有るかも知れません。

原発の問題が絡み、ちょっと複雑なのですが、とりあえずご紹介しておきます。女川光太郎祭を毎年開催してくださっている、光太郎ゆかりの地・女川。こうした機会以外でも、ぜひ足を運んでいただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

翼のある人がある。 眼に見えない翼をひるがへすと、 何処か遠くへ行つてしまふ人がある。
詩「(翼のある人がある)」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

のち、『現代詩人全集第九巻』(昭和4年=1929)に収められた際、削除された部分です。

光太郎、そういう意味で書いたのではないのかもしれませんが、「翼をひるがへ」して、「遠くへ行つてしま」った故・貝(佐々木)廣氏を思い出しました。

3件ほど。

<BSフジサスペンス劇場>『浅見光彦シリーズ22 「首の女」殺人事件』

BSフジ 2019年9月3日(火)  12時00分~13時58分 

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。  光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!

<出演者> 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子 ほか

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初回放映は平成18年(2006)。年に何度かBS放送で再放送が繰り返されています。細かな部分は端折っていますが、大筋では故・内田康夫氏の原作を忠実に踏襲しています。


続いて、直接光太郎には関わりませんが……。

フランス人がときめいた日本の美術館 #45「東京国立博物館『黒田記念館&本館』」

BS11イレブン 2019年9月6日(金)  20時00分~20時58分

フランス人の美術史家、ソフィー・リチャード氏のメッセージをもとに、フレッシュで透明感のある旅人がトキメキの旅へ。日本の美術館の魅力を再発見する、美術館探索ドキュメンタリー。

黒田清輝に鎧と兜▼日本近代洋画の父・黒田清輝が遺した黒田記念館で、明治時代に日本美術界に新風を巻き起こしたその絵画の数々を堪能。本館では人気の「甲冑」を見る。

東京国立博物館の『黒田記念館』は、“日本近代洋画の父"と言われた黒田清輝の、美術教育に対する遺志を実現するために、昭和3年に建てられた。旧歌舞伎座などを手掛けた岡田信一郎が設計し、2002年には東京都有形文化財にも指定されている。
フランスに留学して西洋美術の基礎を学んだ黒田は、帰国後、後進の育成に尽力。当時はタブー視されていたヌード画や、軽やかな色彩の絵『逍遥』を発表するなど、西洋絵画の基本を日本に広げ、美術界に新風を起こした。
そんな黒田が、多忙な中で時間を見つけては別荘で描いたという「雲」をモチーフとした作品や、手軽な木の板に思いつくままを写生した作品を紹介。技法の縛りから解放された自然な絵からは、黒田の意外な一面を見ることができる。
そして、東京国立博物館本館では、美術品としての「甲冑」の展示を見る。美しい鎧で戦うことは、武士にとって非常に重要であったということを示し、今に伝える甲冑の数々…。実用品であり美術品でもある、そんな甲冑の変遷を見ていく。

紹介作品:黒田清輝「湖畔」「智・感・情」「椅子による女」「逍遥」「雲」、甲冑より「金小札紅糸中白威腹巻」「赤糸威鎧」「仁王胴具足」「裾濃威筋兜」ほか

<出演者> 野村麻純

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東京国立博物館さんの別館的な付帯施設、黒田記念館が取り上げられます。光太郎によるブロンズの「黒田清輝胸像」(昭和7年=1932)が展示されており、そちらも紹介してほしいものです。

光太郎の黒田評。

概括してヒウザン会の傾向をのべると、フオウビズム、印象派、後期印象派の三つに分れ、われわれの崇拝の的はゴオガンとゴツホであつた。先輩の中で、われわれの兎も角承認したのは黒田清輝氏ただ一人である。(「ヒウザン会とパンの会」より 昭和11年=1936)

明治二十年代に黒田清輝が帰朝するまでの日本での油絵研究はすべて変則なもので、油絵具はまるで便利な泥絵具であるかのやうに使はれた。西欧の通俗画の馬鹿正直な通俗的受け入れであつた。脂色で下画きをして其上へ色をつけてゆくやうな古風な方法も伝へられたが、其は別に復興期のグリザイユ方式の深い研究からの理解に由るのではなく、たださう画くものださうだからさう画くといふ程度の事であつた。黒田清輝は太陽のやうに日本の油絵の世界を明るくした。画風もラフアエル コランやレオン レルミトやジユール バスチアン-ルパアジユ風の通俗的外光派に属して居り、画面の陰影を黒でなしに紫に画くといふので紫派といはれた通り日本に初めて明るい外光の写生派を樹立したが、油絵研究上の方法や教学の方面にも従来の五里霧中の状態を一掃して、秩序ある勉強の方式をフランスから正しく輸入した。むしろ日本に於ける油絵は此時から本当に始まつたと言つてもいいのである。(「素材と造型」より 昭和15年=1940)


ついでに、「黒田清輝胸像」についても。

今美術学校と黒田記念館とにある黒田清輝先生の胸像は二三年かかつて其後つくつた。これは黒田先生を学生時代によく見てゐたので作りよかつた。先生の頭蓋の形の特異さが殊に彫刻的に面白かつた。所謂法然(ほふねん)あたまである。この頃から私もだんだん彫刻性についての自分自身の会得に或る信念を持つやうになつた。


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最後に、宮城県限定の放映ですが……。

ミヤギテレビ報道特別番組 千年後のあなたへ 私たち二十歳になりました

ミヤギテレビ 2019年9月7日(土)  10時30分~11時00分

東日本大震災の2年後、女川町の高台に「いのちの石碑」を建てた中学生たちは今年、成人式を迎えた。故郷を離れ、震災の風化を感じながらも、いま伝えたいことがある。

女川中学校の生徒たちは、多くの命が奪われた悲しみを繰り返してはいけないと町内21の浜の最大津波到達地点に石碑を建てる活動を始めた。1基目が建ったのは2013年11月。「夢だけは 壊せなかった 大震災」 生徒たちが授業で考えた俳句を刻んだ。あの日から8年半、番組ではそれぞれが子どもの頃に描いた「夢」へ着実に歩む姿と、1000年後の命を守るためのメッセージを伝える。

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このブログでたびたびご紹介しています、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連です。そのプロジェクトの中心となって活動してきたかつての中学生達が成人式を迎えたということで、これまでの活動を振り返る内容のようです。

これはぜひ系列の日テレさん系で全国放映もしていただきたいものです。


視聴可能な方、それぞれぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩の訳などは素より馬鹿げた事なので、専らあらましを述べたに過ぎない。

雑纂「訳者曰」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

雑誌『星雲』に発表した翻訳「詩篇」(エミイル ブルデル)に附した注から。光太郎は、散文ならともかく、西洋の詩は韻文の要素が強く、原文で読まない限りその魅力は理解できないというスタンスでした。

先週のテレビ朝日さん系列のニュースから。

災害の教訓活かせ! 13年ぶり「地図記号」で減災へ

 どこにどんな施設があるかなどを地図上に示す「地図記号」。現在、130種類以上もあるが、今回、13年ぶりに新たな地図記号が制定された。そのきっかけとなったのは1年前のあの災害だった。
 地図記号を定める国土地理院はなぜ新たな記号を誕生させたのか。自然災害伝承碑。過去に起きた地震や津波など自然災害の教訓を後世に伝えるためのものだ。
 1年前、300人近くが亡くなった西日本豪雨。被害の大きかった広島県坂町には約100年前の水害を伝える石碑があったのだが、存在を知らない住民も多かったという。ウェブ上にはすでに180基以上の情報が載っている。
 9月からは紙の地図にも順次、反映していくといい、その数も増えていく見込みだ。なかには、宮城県女川町のいのちの石碑。東日本大震災の教訓を伝えようと当時、小学生だった地元の有志が町内に設置した。この石碑も記号となり、今後、地図に掲載されていく予定だ。

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そして、昭和6年(1931)に紀行文執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して光太郎文学碑を建立、さらに毎年女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町に建てられ続けている、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。

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実際に国土地理院さんの当該ページを覗いてみました。

残念ながら、女川町に関してはまだ情報が登録されていませんでしたが、隣接する石巻市の部分では既にアップされています。

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昭和8年(1933)の昭和三陸大津波、そして平成23年(2011)の東日本大震災。

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まさしく「温故知新」。大切なことだと思います。


【折々のことば・光太郎】

芸術の郷土性と世界性との関係には実に汲めどもつきぬ妙味があります。

雑纂「岩手県立美術工芸学校第一回卒業式祝辞」より
 
昭和26年(1951) 光太郎69歳

生粋のパリジャンだったロダンに対し、フランス南部モントーバンの出身であるブールデルを引き合いに出し、ロダンの都会芸術とは別種の風を吹き込んだことを紹介してからの流れです。

昨日のこの項で紹介した、同じ岩手県立美術工芸学校の開校式祝辞(昭和23年=1948)では、岩手に新渡戸稲造や石川啄木、宮沢賢治などの稀有な才能が排出したことにもふれています。

たびたびこのブログにてご紹介させていただいております、宮城県女川町の「いのちの石碑」関連です。東日本大震災後、当時の女川第一中学校の生徒たちが、「1000年後の命を守るために」を合い言葉に、町内21ヶ所の津波到達地点より高い場所へランドマークとなる石碑の建立を計画。かつて光太郎碑が「100円募金」で建てられたことに倣い、建設資金1,000万円を本当に募金で集めました。それが「いのちの石碑」です。
会    場 : 仙台市シルバーセンター 交流ホール
                                 宮城県仙台市青葉区花京院1丁目3番2号
時    間 : 13:20~15:40
料    金 : 無料

内容 : シンポジウム「守りたい、子どもたちの未来」
それぞれの立場で命の大切さを語り継いでいる方々から、現在の活動内容や未来を生きる子どもたちへの
メッセージを伝えてもらいます。当日は関連書籍やグッズ販売も予定しています。
 パネリスト :   ① 佐藤敏郎さん(元中学校教諭)
           ② 丹野祐子さん(閖上中学校遺族会代表)
           ③ 「女川いのちの石碑」活動に従事した渡邊滉大さん
           ④ 谷口光さん(日本ユニセフ協会職員)
 コーディネーター : 渡辺祥子さん(アナウンサー、朗読家)

募集 : 300名 事前のお申し込みをお願いします
申し込み : 宮城県ユニセフ協会
     電話 022-218-5358 FAX 022-218-3663
       E-mail sn.municef_miyagi@todock.coop
 
 
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活動開始当時、中学生だった少年少女達は、今年、成人式を迎えました。そしてやはり今年、NHK BSプレミアムさんでは、平祐奈さん主演のスペシャルドラマ「女川 いのちの坂道」が放映され、「いのちの石碑」が取り上げられました。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

わたしは、山の生活で、彫刻はやらないことにきめました。やりたいと思つていてやらないのは神経にさわつていけないし、小屋の状態や時候から考えても彫刻をすることは無理だと思つて、はつきりとつてしまつたのです。

談話筆記「南沢座談」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

終戦直後から丸七年の、花巻郊外旧太田村での蟄居生活を回顧して語った一節です。

「時候」の一語には、戦時中、大量に書き殴った翼賛詩により、多くの前途有為な若者を死に追いやった反省からくる「自己流謫(るたく)」――「流謫」は「流罪」に同じ――中であったという意味合いが込められているように思われます。

明日はその旧太田村に移り住む前に疎開していた旧花巻町に向けて東京を発った日で、それを記念して花巻では毎年、高村祭が催されています。当方、今日から前乗りします。

昨日は3.11。あれからもう8年経つかという感じです。

8年前のあの日、宮城県女川町では、当時、女川光太郎の会事務局長だった貝(佐々木)廣氏が、津波に呑み込まれて亡くなりました。昭和6年(1931)、光太郎が紀行文「三陸廻り」執筆のため、女川を訪れたことを記念し、画家でもあった貝氏が中心となり、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、光太郎文学碑が建てられました。以来、やはり貝氏が音頭を取って、毎年8月9日(光太郎が三陸に向けて東京を発った日)に、女川光太郎祭が開催されることとなり、貝氏歿後は奥様の英子さんが世話役を引き継いで、現在も続いています。

東日本大震災後、当時の女川第一中学校の生徒たちが、「1000年後の命を守るために」を合い言葉に、町内21ヶ所の津波到達地点より高い場所へランドマークとなる石碑の建立を計画。かつて光太郎碑が「100円募金」で建てられたことに倣い、建設資金1,000万円を本当に募金で集めました。それが「いのちの石碑」です。

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昨日は、テレビ朝日系のニュースで「いのちの石碑」プロジェクトを進めるかつての中学生たち――「女川1000年後のいのちを守る会」が取り上げられました。

石碑と教科書に思いを…林キャスターが見た被災地

 東日本大震災から8年の月日が経った。亡くなられた人は去年から2人増え、1万5897人に。行方不明者は6人減り、2533人に。そして、いまだに5万1778人もの人が全国で避難生活を続けている。宮城県女川町では被災当時小学生だった子どもたちが20歳となり、あの日、体験したことを「1000年先まで伝えよう」と活動を続けている。
  津波到達地点よりも高い場所に設置されている「女川いのちの石碑」。現在、17基が町内に設置されている。すべての石碑の裏面には外国語の記述も。これらの石碑を建てる活動は震災当時、小学6年生だった若い人たちによって進められている。そのメンバーの渡辺滉大さん(20)と鈴木智博さん(19)。2人とも今年、成人式を迎えた大学生だ。800人以上が犠牲となった宮城県女川町。震災直後の春に中学校に入学した彼らは、社会科の授業をきっかけに1000年後の命を守るため、津波の教訓を記した石碑を設置するプロジェクトを立ち上げた。1基目の石碑は中学3年生になった2013年秋に設置することができた。石碑は町内21カ所に設置する予定で、これまでに17基が完成。残りの4つは来年の秋ごろまでに設置する見込みだ。命を守るため、津波からの避難を呼び掛ける石碑づくりは、まさに子どもたちが主役となって進められてきた。
  そして、次に取り組んだのは「いのちの教科書」作りだ。中学卒業後、「女川1000年後のいのちを守る会」を発足した彼ら。進学や就職などそれぞれの道を歩みながらも定期的に集まって震災への備えを学習する教材作りも進めてきた。この教科書、いずれは英訳して津波の多い東南アジアなどにこの教訓を伝えたいと考えているそうだ。1000年後のいのちを守る会では全国の学校などでの講演も行っている。今月も渡辺さんは母校の後輩たちに向けて震災当時の体験談や継続している活動の意義などを語った。

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過去の映像も織り交ぜ、さらに石碑以外にも彼等が取り組んだ「いのちの教科書」にも触れられました。


昨日、女川で行われた追悼式では、テレ朝のニュースにも出演された鈴木智博さんが「遺族代表のことば」を述べられました。

 東日本大震災から今日で8年を迎えます。この8年を長いと感じる方も短いと感じる方もいるでしょう。私にとって8年はあっという間だったと思います。8年前、私は小学6年生で卒業式の練習を終え教室で反省会をしていました。その時震災にあいました。経験したことない地震の揺れ。そして津波によって壊滅した街を眺め、頭で理解できずただただぼう然としていたのを覚えています。母と祖父母の行方が分からないことを教えられたのはそれから約1週間後のことでした。涙もほとんど出ず、顔では笑っているのに心から笑うことができませんでした。
 私は中学時代の同級生とともに「1000年後のいのちを守るために」を合言葉に、震災を未来へ伝えていく活動を行っています。町民どうしで絆を持つ。避難がしやすい安全な街を創る。いのちの教科書や石碑をつくり後の時代に伝える。この3つで津波の被害を減らし、1000年後を生きる人たちが辛い想いをしないようにすることを目標にしています。ですが活動が始まった当初、震災を思い出すのが嫌で、進んで参加しようとは思いませんでした。ましてや自分の体験を人の前で話すことなど考えたくもありませんでした。ですが必死に活動に取り組む同級生たちや、他の地域で震災関連の活動をする同世代の人たちを見て少しずつ、自分も向き合わなければいけない。また何かできることがあるのではないかと思うようになりました。ですがまだ完全に震災を受け止められていません。いろんな 想 いを持って、葛藤もありますが現在も活動を続けています。
 避難先や仮設住宅で5年半を過ごし、今は県内の大学で教職について学んでいます。そして今年成人式を迎えることができました。式の前にお墓参りに行き成人式の事を伝えました。きっと喜んでいると思います。女川町の新成人として責任をもって震災を伝えていきたいと思います。
 平成という時代が幕を閉じ、新しい時代になろうとしている今、震災前に住んでいた尾浦、そして女川の町は復興が進み、あの時とは見違えるほどきれいになりました。サンマ祭りや復幸祭などの大きなイベントには全国から観光客が訪れ、大きなにぎわいをみせています。
 ただ、震災の風化も進んでいます。今年震災を経験していない子どもたちが小学2年生になります。このまま何もしなければ震災の記憶や教訓は忘れ去られ、あの時の繰り返しになってしまいます。だから直接関係のない人も映像で津波を見るだけではなく、実際にあった現実として、見て、聞いて、感じて自分でいのちを守る意識をもってもらいたいです。
 私たちが建てた女川いのちの石碑にはこう刻まれています。
 今、女川町はどうなっていますか?
 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。
 私は震災から立ち直るこの町の一員として震災を語り継ぎ、これからも自分の体験と向き合っていきたいと思います。
 平成31年 3月11日 遺族代表 鈴木智博


彼らへの支援は今でもあちこちで……。

3月7日(木)の『中日新聞』さん。

3・11の経験を基に絵画展 宮城から田原に移住の山本さん

015 東日本大震災で被災し田原市に移住した学校職員、山本美貴子さん(41)と、移住後に再婚した夫の画家、拓也さん(47)によるチャリティー展覧会「3.11 HOPE MARKET」が豊橋市曙町南松原の園芸店「garage(ガレージ)」で開かれている。三十一日まで。
 美貴子さんは震災の発生時、長男と宮城県女川町で二人暮らし。隣の石巻市の職場にいた美貴子さんは近くの高台の神社に避難し、水に囲まれて一晩を明かした。がれきや遺体をかきわけて女川に戻ったのは三日後。美貴子さんは女川へ向かいながら、家族の死を覚悟した。家族は幸いにも無事だったが、「三十人の友人を亡くした」。
 一年ほど避難所や仮設住宅を転々とした。しかし、大切な人を亡くした女川で暮らしつづける苦しみが募り、震災翌年の二〇一二年四月に転居。「どこでもよかったけれど、海で育ったから海のない場所での生活が考えられなかった」と田原を選んだ。
 田原市への移住後、女川でテント暮らしだった時にボランティアとして物資を手渡してくれた拓也さんと夏のアートイベントで再会。共通の趣味のサーフィンなどで愛を深め、一七年三月十一日に入籍した。
 美貴子さんは、被災経験を基に制作した作品を中心に新作の絵画六点を出展。家や車がキャラクターの上にのっている作品は、津波にさらわれた地を表現。月日がたって花が咲いた様子も同時に描き、「津波は憎たらしいけれど、私たちは自然の中で生きてるんだ」との思いを込めた。
 コーヒーを使ってセピア調に仕上げられているのも作品の特長。「故郷では津波とともに古くていいものがなくなってしまったように感じる。セピアに描くのは、古いものへのあこがれかも」と話す。
 会場には過去作のポストカードやポスターも。一方、「シルクスクリーン」と呼ばれる印刷技法を用いたオリジナルデザインのTシャツやトレーナー、かばんやタオルなど、拓也さんの作品も並ぶ。
 二人は「震災は風化しつつあるが、南海トラフ地震だっていつくるか分からない。展覧会をきっかけに、どう逃げるか、どこで落ち合うのかなど、自分たちの防災を家族で話してもらえたらうれしいです」と口をそろえる。
 展覧会は午前十時~午後七時、最終日は午後三時まで。木曜定休。作品を販売し、その売り上げから経費を差し引いた全額を、津波到達地点に石碑を置き後世に伝える女川町の「いのちの石碑プロジェクト」などに寄付する。

山本さんの件は、一昨年にも報道されていました。


同じ『中日新聞』さんで、今日の記事。

いのちの石碑 伝えたい 津波の教訓 女川中生刻む 白山・蕪城小教諭が授業企画

016 東日本大震災で被災した宮城県女川町の女川中学校で始まった「いのちの石碑プロジェクト」について考えてもらおうと、白山市蕪城小学校の内野貴司教諭(29)が、大震災が起きた十一日、五年生の社会科授業で取り上げた。児童約三十人が石碑を造った被災者の思いに寄り添い、次世代に残す大切さを学んだ。
 プロジェクトは、「千年後の命を守る」をテーマに当時の女川中学の一年生が震災の教訓を記した「いのちの石碑」を町内二十一の浜に建てる活動。「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」など、それぞれの石碑には教訓や被災者の思いをつづった俳句が刻まれている。
 内野教諭は昨年八月、女川中や、津波で多くの児童が犠牲になり、閉校した同県石巻市の大川小学校の校舎跡を訪れた。女川中の元教諭で、小六の次女を大川小で亡くした佐藤敏郎さん=石巻市=らと交流した。内野教諭は同じ悲劇が繰り返さないよう石碑を建てる女川中の活動を児童に伝えようと授業を企画した。
 内野教諭が「女川中の生徒はどんな思いで石碑を造ったのか」と呼び掛けると、児童は次々に手を挙げて「将来、震災を知らない人にも思い出してもらえる」「生き残った人の気持ちは壊れていないと思う」と意見を述べた。
 大川小を訪れたことのある横山栞菜(かんな)さん(11)は「被災地にはまだがれきも多いけど、石碑が建つことで私たちにも教訓になる」と話した。内野教諭は「家に帰って震災のニュースを目にした時に心から復興を願ってほしい。今日の授業が、被災者の思いに心を寄せるきっかけになれば」と期待を込めた。


そして、3月10日(日)にNHK BSプレミアムさんで放映されたドラマ「女川 いのちの坂道」。

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上記画像には、最初にご紹介した光太郎文学碑が写っています。「津波」の「津」の字の上です。

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こちらだと、一番下の中央やや左。周辺は「メモリアルゾーン」として整備中ですが、建立当時、日本一巨大な文学碑と言われた横幅10メートルの石碑で、津波で倒れたままとなっています。いずれ再建するとのことですが。

平祐奈さん演じる主人公・咲(さく)は、「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーという設定です。実際に彼等の担任だった阿部一彦先生は、同じく被災地を舞台にした平成25年(2013)の朝ドラ「あまちゃん」でも先生役だった皆川猿時さんが演じました。

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女川中学校のシーンでは、「いのちの石碑」に関わる、おそらく実際の掲示物が使われていました。

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しかし、咲は、「女川1000年後のいのちを守る会」の活動にあまり熱心ではないという設定。未だに母親が行方不明のまま、それが元で父親ともうまく行っておらず、ダンサーを目指して上京したものの、そちらでもなかなか芽が出ない、ということで、ネガティブな感情を持ち続けています。うまい描き方だと思いました。被災地の皆さん、ポジティブな方々がよく報道等で取り上げられますが、失礼ながら、みんながみんな前向きなわけではないというのが現実です。

特に咲をネガティブにさせている要因が、老人たちを助けるため、何度も海岸と高台を往復して、結局、津波にさらわれた母親が英雄扱いされていること。そして、その母親を止めなかった老婆。

しかし、咲は、新たな「いのちの石碑」の除幕式を兼ねた避難訓練で、かつて母親がそうしたように、その老婆を背負って坂道を上ります。

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そうしたことで、もろもろの思いを吹っ切る咲。最後は仲間と共に力強く、序幕のロープを引きます。

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NHKオンデマンドさんで配信されていますが、ぜひ、再放送もしていただきたいものです。


今後も、「女川1000年後のいのちを守る会」の動きを、こちらのブログで追っていこうと思っております。


【折々のことば・光太郎】

地中の冬がほんとに来て此の水が冷え切るのは一月だ。胸をつくやうに冷たい水道の水の出る頃こそ私の製作慾の燃えさかる戦ひの季節だ。もうぢきだ。
散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

生涯、冬を愛した光太郎。この点は残念ながら、当方、同意できません(笑)。自宅兼事務所の庭の連翹や桜の蕾がふくらんできたのを見て、「もうぢきだ」と思っています。


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昨日に引き続き、3月9日(土)、NHK BSプレミアムさんで放映されるドラマ「女川いのちの坂道」関連で。

本日発売の、『NHKステラ』さんに、紹介記事が載りました。

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もう少し大きく取り上げられるかなと思っていましたが、そうでもなく……。

しかし、ラジオを含めて、他にも東日本大震災がらみの番組がたくさん放送されるとのことで、それらの紹介がたくさん載っていました。出来る限り視聴しようと思いました。

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『NHKステラ』さん、定価300円です。ぜひお買い求め下さい。


民放さんでもこの時期、通常の報道番組中で東日本大震災がらみのコーナーを付くって下さったりしているようで、「女川いのちの坂道」で重要なモチーフとなる「いのちの石碑」について、テレビ朝日さんが取り上げて下さいました。取り上げられるという情報を得られませんで、見逃しましたが、昨日の「ワイドスクランブル」、それから今朝の「グッド!モーニング」中の「池上彰のニュース大辞典」で紹介されたとのことでした。

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また、「ザ・テレビジョン」さんのサイトには、「女川いのちの坂道」主演の平祐奈さんのインタビュー。

■ 平祐奈が東日本大震災当時の心境を語る

――東日本大震災当時、平さんは小学6年生。このドラマの主人公・咲と同い年なんですね
当時のことは、今でも覚えています。あの日は東京にいたのですが学校がちょうどお休みで、のどの調子も悪くて母と病院に行っていました。待合室で待っていたら最初は観葉植物がゆらゆら揺れて、立ち上がろうと思った瞬間に大きく揺れました。その後はどうやって1階まで降りよう、どうやって避難しようかと不安でしたね。
 地面にひびが入るのも初めて見ましたし、帰ったら家の中は誰かが入ったんじゃないかってくらい散乱していて。私は大人になれないのかも、と思うくらい怖かったです。未来が見えない感じで…。でも母と一緒だったので、すごく安心できたのを覚えています。
――当時の東日本の映像はニュースなどでご覧になっていましたか?
 衝撃的でした。私は家でテレビを見ている一方で、何で東北はこんなことになっているんだろうと。同じ時間に同じ日本にいるとは思えなかったです。
――今回は被害が大きかった女川で撮影されたんですよね?
2018年の9月に、女川にお邪魔させていただき撮影しました。女川はキレイに整備された所もありますが、海側はまだあのころのままだったり、整地したけれどそのままで何もなかったりと、7年半経ってもこんな状況なんだと思う部分と、7年半経ってやっとこうなったんだと思う部分があって、複雑な気持ちになりました。
でも今、女川で暮らしている人はそういういろんな思いを乗り越えて笑顔でいる。私たちも撮影終わりに地元のお店に行ったのですが、みなさんすごく温かったんです。明るくて気さくで。そんな姿を見ていたら、この方たちだから乗り越えられたんだなと思いました。
――モデルとなった「女川1000年後の命を守る会」の存在は知っていましたか?
 恥ずかしながら今回のドラマを通して知ったのですが、私と同い年の方がやっていることにも驚きましたね。小学6年生の時に被災して、中学生でこのプロジェクトを考える…。私にはない発想で本当に素晴らしいと思います。
 私が何かできることがあるかな?と考えた時、この活動をもっと全国に広めたいと思いました。この作品に出られたことが、いいきかっけになればいいと思います。

――色々と考えることも多かった作品だと思いますが、視聴者の方にメッセージをお願いいたします。
このドラマは、本当に多くの方に見ていただきたい作品。「女川1000年後の命を守る会」のことを知ってもらいたいし、今の女川も見てもらいたい。そして(登場する)色んな方の言葉の重みを、感じとっていただきたいです。
 被災された方にも、もちろん見てもらいたいですが、特に私と同世代の方にこそ見てもらいたいです。咲のセリフでもありましたが、8年経って「関心がない人が多くなってきている」現状もあると思います。今まで考えてこなかったことを、考えるきっかけにしていただければいいなと思います。


何度も書いていますが、かつて女川町に建っていた、昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額を寄付で集めた「いのちの石碑」をめぐる実話を元にしたドラマ。ぜひご覧下さい。


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【折々のことば・光太郎】

生来夏に弱い体質ではあるが昨年ばかりはまるで為事が出来なかつた。為事をしたいと思ふ程なほさら虚脱を感じて意気をするのも厭に思へた。それで思ひきつて昼間は遊ぶ事、夜は読書だけといふ事にした。何も為ないと決心するといくらか楽な気持ちになつて少しは動けた。

散文「蟻と遊ぶ」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

この文章が発表された3カ月後、心を病んで南品川ゼームス坂病院に入院していた智恵子が亡くなります。直接の死因は肺結核でしたが、入院生活は昭和10年(1935)からのことで、その間、快方に向かうことのなかった智恵子を目の当たりにし続け、光太郎も精神的に疲弊していったように思われます。実際、夏の暑さに弱かった光太郎ですが、どうもそれだけでなく、抑鬱状態にあったようにも思えます。

先だってもご紹介しましたが、かつて女川町に建っていた、昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額を寄付で集めた「いのちの石碑」をめぐる実話を元にしたドラマです。

震災復興支援にも力を入れられているNHKさんらしく、BSプレミアムでは毎日のように5分間の番宣番組が流されていましたが、一昨日の3月3日(日)には、地上波の「どーも、NHK」でも番宣がありました。

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いよいよ本放送が今週土曜日となりました(BS4Kさんではすでに先行放映がありましたが)。

ドラマ"女川 いのちの坂道"

NHK BSプレミアム 2019年3月9日(土)  22時00分~23時00分


東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県女川町。卒業間際で被災した子どもたちは「千年後のいのちを守ろう」と、あの日津波が到達した場所に『いのちの石碑』を建てる活動を続けている。ドラマはその実話をもとに今年20歳になる若者たちの今を描く。12歳で被災した咲が恋人翔太とともにたどる青春ロードムービー。ドラマの見どころは全編ドローンによるダイナミックな映像。女川の風景と咲の心をドローンカメラがとらえる!
■あらすじ
 咲(サク)は、「いのちの石碑」活動の中心メンバーだったが、地元の高校を卒業と同時に、ダンサーになる夢をかなえるため、上京して1年半になる。映像作家を目指す彼(翔太)もできて、新しい一歩を踏み出したつもりだったが、偏見の目でみられることを恐れ、自分が被災者であること、母親が未だに行方不明であること…を翔太にも打ち明けられず、生きづらさを感じていた。
 咲は、もう一度故郷と向き合ってみようと、ドローンカメラを携えた翔太と共に女川への旅を決意する。「この道を登って避難した」「この体育館で、眠れない夜を過ごした」…ふたたび“あの日”をたどることで、咲は自分自身の原点と向き合うことになる。そして、町の人々と共に石碑まで登る避難訓練の中、「いのちのつながり」を確信していく。

出演  平祐奈 平埜生成 岡本夏美 皆川猿時 田根楽子 ほか

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ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

人はむかし海から出て来た。海にかへると本能は強く深い。浪に研がれた肌をひるがへして、海の獲物を手づかみにする時、自分のものを自分が取る我を忘れたよろこびに人は身ぶるひする。漁撈は最も根源的な生業だ。

散文「漁」全文 昭和13年(1938) 光太郎56歳

島国で、海と共に生きてきた我々日本人。時に牙を剥くこの海と、これからも共生していかねばなりません。

巨大防潮堤。力学上、垂直に近い壁を立てることは不可能で、高さの2倍から3倍の幅で、断面が三角形のスロープにする必要があるそうです。震災後、女川町ではそれを造るという選択をしませんでした。代わりに居住区域はすべて高台にし、海岸近くは事業所や商業施設としています。

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