カテゴリ:東北 > いのちの石碑

004東日本大震災後、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町で建てられた全21基の「いのちの石碑」。津波対策として避難の目印となるランドマークです。同町に平成3年(1991)に立てられた光太郎文学碑に倣い、建設費用は当時の中学生たちが募金で集めたもので、いわば光太郎文学碑の精神を受け継ぐ活動です。

この活動、令和3年(2021)にオンラインで開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」の中で、天皇陛下がご紹介。また、令和元年(2019)にはNHKさん制作のドラマ「女川 いのちの坂道」でモチーフとなるなどもしています。その他、防災の観点から、あちこちで紹介されています。

建設の中心メンバーの中には、女川町で毎年8月に開催されている「女川光太郎祭」に複数年参加され、光太郎詩文を朗読して下さった方もいらっしゃいます。

先週の『高知新聞』さん。

自分も、周囲の命も守ろう 「いのちの石碑」建立進める宮城・女川の被災体験者、いの町伊野中で授業

 宮城県女川町で東日本大震災の津波被害の教訓を伝える「いのちの石碑」を建立した元中学生と恩師が14日、いの町の伊野中学校で防災授業を行い、自身や周囲の命を守る大切さを生徒に訴えた。
 女川町は2011年3月に14・8メートルの津波に襲われ人口の約1割の827人が犠牲になった。発生直後に地元中学に入学した生徒らが、後世の人の命を守ろうと石碑建立を発案。募金活動を行い、13年から町内の高台21地点に建てた。
 今回は発案者の一人、伊藤唯さん(26)=横浜市=と共に取り組んだ教諭の阿部一彦さん(58)=現・石巻市立北上中校長=が来高。約220人を前に伊藤さんは「机の脚を持っていないと耐えられない揺れで、訳が分からなかった」「朝起きて『夢ではなかった』と気付く生活だった」と当時の体験を紹介。生徒から「生きているうちにやりたいことは?」と質問されると「震災後、小さな後悔が積み重なった。だからやりたいことは全部やります」と宣言した。
 阿部さんは「目的は石碑を建てるのではなく、絆をつくることだ」と説明。「隣の人にできることを何かやってと種をまきに来た。行動を起こすには勇気が必要だが、ぜひ一歩踏み出して」と呼びかけた。
 伊野中3年の岡田あんじさん(14)は「生きていることの大切さを実感した。絆を深められるよう、地域で交流できる場をつくりたい」と話していた。
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中心メンバーの皆さん、石碑を建てて終わりではなく、このように活動を紹介したり、防災への呼びかけを行ったりなさっています。今年3月には地元の母校での特別授業の様子が大きく報じられました。今回は遠く高知まで出向かれてのご活動。頭が下がります。

逆に各地の学校さんが校外学習修学旅行等で女川町を訪れて中心メンバーのお話を聞く、ということもありました。ただ、ごく最近、そうした報道を目にしなくなりまして、そうした機会が減ったからなのか、それとも当たり前に行われるようになって報道しきれていないのか、後者であればいいと思うのですが……。

いずれにしても、関係者の皆さん、今後ともこうした活動を続けられることを希望いたします。また、全国の学校関係者さんその他、ご参考にしていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

いただいたあの素晴らしい鮎はあれから二日間に亘つて見事な御馳走になりました。骨は夜間たづねて来る狐にやりました。


昭和23年(1948)1月13日 照井登久子宛書簡より 光太郎66歳

同じ書簡の終末部分には「兎と狐とキツツキとを友達にして雪の山もたのしい日がつづきます」としたためてあります。

画像は昨年、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)附近で撮影したキツネの足跡です。
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このブログサイトでたびたび取り上げさせていただいている、宮城県女川町の「いのちの石碑」。避難の際の目印となるようにと、東日本大震災時の津波到達地点より高い場所、全21箇所に設置されたものです。中学生たちが、同じ女川町の光太郎文学碑を参考に、「100円募金」で建てました。

過日、そのプロジェクトの中心メンバーのうちお三方が、母校の後輩たちに特別授業を行った件が地方紙『石巻日日新聞』さんで報じられましたが、同じ件をミヤギテレビさんでも大きく取り上げていました。

女川中の中学生が建てた「いのちの石碑」卒業生が後輩に伝えたことは

 東日本大震災から13年を迎えた今月11日。3人の卒業生が母校を訪れた。
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 海を臨む高台に4年前に開校した女川小中学校。震災当時小学6年生だった3人は後輩たちに向けてあの日の体験を話した。
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卒業生・阿部由季さん
「震災当日は食料もない、寒い。みんなで大きいペットボトルを回し飲みしたり。 先生が小学校からカーテンを持ってきてくれて。 3月11日は雪が降ってすごく寒い。みんなでカーテンにくるまって過ごしました」
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続いて伝えたのは中学生ながらに考えた町の復興について。

卒業生・鈴木美亜さん
「当時はまだ復興していなくて茶色い土。いまからどういう町にしたいかっていうのを中学生ながらに考えて、それを模型にして女川町長に実際プレゼンをしてこういう町にしたいと考えた」
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当時、生徒たちが取り組んだことは…

  鈴木美亜さん(当時中学生)
「千年後の命を守るために津波の最高到達地点に石碑を建てようと考えていて子ども募金よろしくお願いします」
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津波の記憶と避難の教訓を後世に残そうと女川町のそれぞれの浜の津波より高い場所に避難の目印となる「いのちの石碑」を建てた。
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 中学校卒業もみんなで集まり子どもたちに防災の教訓を伝える「いのちの教科書」作りなどを続けてきた。
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 いまの中学生は震災の記憶がほとんどない世代だ。

 女川中の2年生
「難しい質問になると思うが避難所とか今もそうだと思うんですが人の心を温められることはどんなことだと思いますか?」
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卒業生・伊藤唯さん
「難しい質問ですけど私個人の話なんですけど、東京でダンスの仕事しているんですけど、ダンサーって仕事ね、震災前からやっていて。震災前からの夢ではあったが震災後、笑顔が失われみんな暗い表情をしている中で、中学3年生の時かな女川のサンマ収穫祭、いまもあるよね?サンマ収穫祭でステージに立たせてもらった時に友達とか知らないおじいちゃん おばあちゃんが拍手してくれたのが嬉しくて、この夢絶対かなえて『人の心に寄り添える人になろう』と思って、 いまこの仕事につけているのですごく幸せなんだけど。たぶん人の心を温めることって 難しいけど、だれにでも出来ること。」
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女川中の生徒たちは防災への意識を新たに―

  女川中の生徒会長
「多分、その時、自分が被災してやろうとなったら、やりたいとは思うけど、いざ行動に移してみるのは難しいと思うので、行動に移し途中で途絶えもせず 続けている先輩方は本当に素晴らしい活動をしてると思いました。」
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 13年前、がれきとなってしまった故郷を目の当たりにしながらも未来の命を救いたいと考えた当時の中学生たちの思いはしっかり、伝わっていた。
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彼らの取り組み、単なる「美談」として終わらせるのではなく、この国全体に「防災」の意識を高める契機となればと存じます。

【折々のことば・光太郎】

映画も見ました。「うたかたの恋」といふ変な日本名のフランス物でしたが、久しぶりにボワイエやダリユーのフランス語をきき、なつかしく思ひました。言葉の妙味は尽きません。


昭和22年(1947)2月22日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から久しぶりに花巻町中心街に出て、宮沢賢治実弟の清六らとともに映画鑑賞。「うたかたの恋」は原題「Mayerling」(オーストリアの地名)、昭和11年(1936)の作品です。「ボワイエ」は『ガス燈』で有名なシャルル・ボワイエ、「ダリユー」はのちに『チャタレイ夫人の恋』に出演するダニエル・ダリュー。
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昭和32年(1957)になってアメリカでテレビ映画としてリメイクされ、その際のヒロインはオードリー・ヘップバーンでした。

地方紙2紙の記事から。

まずは長野県松本平地区をカバーする『市民タイムス』さん。少し前の記事で、今月初めのものです。

笑顔と涙の巣立ちの日 高校卒業式

 松本市内の多くの高校で1日、卒業式が開かれた。本年度は新型コロナウイルスの5類移行に伴って制限がほとんどなくなり、会場にはマスクを外した笑顔と歌声が広がった。卒業生は友達や恩師との思い出を胸に、晴れ晴れとした表情で学びやを巣立った。
 松本美須々ケ丘高校は、近くのキッセイ文化ホールで式典を行った。4年ぶりに吹奏楽部の生演奏で卒業生276人が入場し、保護者や在校生の温かい拍手で迎えられた。久保村智校長は式辞で高村光太郎の詩「当然事」を紹介し、日常への感謝を忘れないよう呼びかけ「皆さんのかけがえのない人生が心身ともに健康であり、自分、他者、社会のために大いに活躍することを願っている」とはなむけの言葉を送った。
 卒業生が企画・運営する「第2部」では友達や恩師、後輩、家族に感謝の思いを伝えた。全校生徒の合唱では会場中に澄んだ歌声が響き、多くの卒業生の目に涙が光っていた。前生徒会長の3年・松山葉南さん(18)は「多くの人に支えられた3年間だった。高校での経験を生かして自分らしく頑張りたい」と決意を新たにしていた。
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光太郎詩「当然事」、少し長いのですが全文は以下の通り。
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  当然事

 あたりまへな事だから
 あたりまへな事をするのだ。
 空を見るとせいせいするから
 崖を出て空を見るのだ。
 太陽を見るとうれしくなるから
 盥のやうなまっかな日輪を林中に見るのだ。
 山へ行くと清潔になるから
 山や谷の木魂(こだま)と口をきくのだ。
 海へ出ると永遠をまのあたり見るから
 船の上では巨大な星座に驚くのだ。
 河のながれは悠悠としてゐるから
 岸辺に立つていつまでも見てゐるのだ。
 雷は途方もない脅迫だから
 雷が鳴ると小さくなるのだ。
 嵐がはれるといい匂だから
 雫を浴びて青葉の下を逍遥するのだ。
 鳥が鳴くのはおのれ以上のおのれの声のやうだから
 桜の枝の頬白の高鳴きにきき惚れるのだ。
 死んだ母が恋しいから
 母のまぼろしを真昼の街にもよろこぶのだ。
 女は花よりもうるはしく温暖だから
 どんな女にも心を開いて傾倒するのだ。
 人間のからだはさんぜんとして魂を奪ふから
 裸という裸をむさぼつて惑溺するのだ。
 人をあやめるのがいやだから
 人殺しに手をかさないのだ。
 わたくし事はけちくさいから
 一生を棒にふつて道に向かふのだ。
 みんなと合図をしたいから
 手をあげるのだ。
 五臓六腑のどさくさとあこがれとが訴へたいから
 中身だけつまんで出せる詩を書くのだ。
 詩が生きた言葉を求めるから
 文(あや)ある借衣(かりぎ)を敬遠するのだ。
 愛はぢみな熱情だから
 ただ空気のやうに身に満てよと思ふのだ。
 正しさ、美しさに引かれるから
 磁石の針に化身するのだ。
 あたりまへな事だから
 平気でやる事をやらうとするのだ。

初出は昭和3年(1928)、仲間うちで出していた雑誌『東方』の創刊号でした。翌年には新潮社から刊行の『現代詩人全集』に収められ、その際に若干の改訂が施されています。

光太郎詩としてはあまり有名なものではないのですが、ちりばめられたひと言ひと言にこの頃の光太郎の人生観等がよく表されていますね。そして万人にも共通するような部分も多いと思います。

式辞で取り上げて下さった校長先生、グッジョブです(笑)。

もう1件、宮城県の『石巻日日新聞』さんから。過日も取り上げさせていただいた、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」がらみです。

続けることで原動力に  「いのちの石碑」建立メンバー 母校の女川中で講演

 自然災害や津波から1千年先の命を守るため、女川町内に21基の「いのちの石碑」を建立した東日本大震災当時の中学生。そのメンバーが11日、女川中学校で震災を考える講演を開き、1―2年生70人が受講した。震災の記憶を風化させることなく、後世につないでいく大切さを学んだ。
 石碑建立は、発災直後、女川一中(今の女川中)の1年生(現在24―25歳)が取り組んだ伝承活動。町内21カ所の浜の津波到達地点より高い場所に石碑を建て「有事はこの石碑より高台に逃げてもらう」ことで未来の命を救う狙いがある。
   令和3年までに全て建立し、碑には津波から命を守るために生徒が考えた3つの対策①互いに絆を深める②高台へ避難できるまちづくり③記録に残す―と記されている。
 講演したのはメンバーの阿部由季さん、伊藤唯さん、鈴木美亜さんの3人。震災を知らない後輩に向け、阿部さんは発災直後の心境を「今の自分にできることは何と考える毎日だった」と回顧。「友人と一緒に卒業式で歌うはずの歌を避難所で歌い、皆さんが喜んでくれた。小さなことでも続けることで誰かの原動力になる」と訴えた。
 「町を襲う津波を思い出し、今も眠れない日がある」と打ち明けた伊藤さんは「伝承活動も最初は嫌々参加したが、今は充実感や幸せを感じる。一緒に活動してきた仲間のおかげ」と感謝した。
   「防潮堤を作らない女川の復興まちづくりをどう思うか」という中学生の問いに、鈴木さんは「高い防潮堤を作ってもそれだけでは不十分。津波から命を守るなら高台避難が大事」と強調。「女川は海と共存してきた。身近に海を感じられる今の女川が私は好き」と話した。
 聴講した生徒会長で2年生の高橋莉生さんは「講演を通じて普段から友人や家族、地域と絆を深めることが大事と学んだ。ありがとう、おはよう、おやすみなどのあいさつからしっかりと交わしたい」と語っていた。
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発災当時の出来事などを語った(左から)阿部さん、伊藤さん、鈴木さ

大震災の教訓など、「次世代に伝えるべきこと」の大切さが感じられます。

当方としては、光太郎智恵子、光雲らの事績、その精神を「次世代に伝えるべきこと」として伝えていこうと、改めて思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

堀辰雄氏の「風立ちぬ」雪の中のこの小屋で落手、どんなによろこんだかしれません。

昭和22年(1947)1月11日 角川書店宛書簡より 光太郎65歳

堀辰雄の代表作『風立ちぬ』。光太郎も読んだのですね。どちらかというと若い人向けのというイメージがありますが、数え65歳でこれを楽しめる感性、見習いたいものです。

今年もまた3.11がやって参りました。あの日から13年です。

昭和6年(1931)8月から9月にかけての約1ヶ月、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎は宮城県石巻から岩手県宮古までの三陸海岸を主に船で旅しました。その行程に含まれていた宮城県女川町の海岸公園に、四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)。地元ご在住の画家・貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。

翌年8月9日(昭和6年に光太郎が三陸に向けて東京を発った日)、その文学碑前で第一回女川光太郎祭が開催。碑文の揮毫など建立に協力なさり、当会顧問であらせられた北川太一先生がご講演。その他、光太郎詩文の朗読、地元の合唱団による光太郎短歌に曲を付けた合唱曲演奏などが行われました。以来、毎年8月9日に貝(佐々木)氏を中心に女川光太郎祭が開催され続けていました。

そして平成23年(2011)3月11日。東日本大震災に伴う大津波が女川の町を呑み込みました。
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貝(佐々木)氏も還らぬ人となってしまいました。
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氏の奔走で建立された光太郎文学碑も被災。4基中の2基は海底に沈み、失われました。建立当時に日本一の大きさと言われたメインの碑は倒壊、何とか陸上に引き上げられたものの、その後長らくそのままでした。
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令和2年(2020)に、碑は再建。コロナ禍のため中止を余儀なくされていた女川光太郎祭も、昨年復活しました。

震災後の女川町での大きな動きの一つとして、「いのちの石碑」の建立が挙げられます。町内21箇所の津波到達地点より高い場所に避難の目印となるよう建てられたもので、震災の年に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちが発案しました。
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建立資金の1,000万円は、光太郎文学碑に倣い、募金で集められました。
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令和3年(2021)には予定の全21基が設置完了しました。
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今年3月6日(水)の『読売新聞』さん。全国の「自然災害伝承碑」を取り上げた記事の中で、「いのちの石碑」についてもご紹介下さいました。長大な記事ですので、抜粋で。

全国に2000基超…「伝承碑」から学ぶ大災害の教訓

 東日本大震災から間もなく13年になる。元日には能登半島地震があり、最近は千葉県東方沖でも地震が続いている。寒波の後に初夏のような陽気になり、大雪に大雨、雪崩も起きる。異常気象や災害の激甚化を肌で感じることが増えているように思えてならない。
 日本は昔から自然災害が多かった。われわれの先祖は災害を忘れないよう、その教訓を後世に残そうとしてきた。過去に災害が起きた場所の地名にも先人の教訓が込められていることは、過去にこのコラムでも取り上げたが、もっとわかりやすく災害の教訓を今に伝える遺産がある。全国各地に建つ、過去の風水害や地震を伝える伝承碑(自然災害伝承碑)だ。

きっかけは西日本豪雨で撮られた1枚の写真
  国土地理院は5年前から、新たな地図記号を制定して、自治体などに呼びかけて、伝承碑を地図に掲載する取り組みを続けている。登録された伝承碑は今年2月末で全国598市区町村の2085基に達した。
  どこに、どんな伝承碑があるのかは、誰でも見ることができる。
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地理院地図とともに全国の自然災害伝承碑を見る
  国土地理院がこの取り組みを始めたきっかけは、2018年の西日本豪雨の際、広島県坂町で撮影された1枚の写真だった。土砂に押しつぶされた家で災害救助活動を行う大阪府警の警察官を見下ろすように建っていたのは、高さ3メートルの伝承碑。明治40年(1907年)7月15日、旧坂村を土石流が襲い、「人々不暇逃避(人々は逃げる暇もなく)」46人の命が奪われたことを伝えていた。
 西日本豪雨では、碑が建つ坂町の小屋浦地区に避難勧告が出されたにもかかわらず、地区の住民の避難率は、坂町全体の半分程度にとどまった。多くの住民は石碑の存在は知っていたが、漢文で記された内容を把握していた人は少なかったという。
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 国土地理院で地図掲載の取り組みを進めている環境地理情報企画官の吉武勝宏さんは、「地元の伝承碑の存在を知ることは、身近な災害の危険を知る助けになる。ハザードマップなどと合わせて地図を見ることにより、さらに理解が深まる」と話す。地図を見ていくと、それぞれの伝承碑に込められた先人の警告や、われわれがそれを生かしているかどうかも垣間見ることができる。とても2000基は紹介できないが、伝承碑から何がわかるかを北から見ていこう。
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 繰り返し津波被害にあった東北地方太平洋沿岸には多くの伝承碑が建ち、岩手県田野畑村のように、明治29年(1896年)の明治三陸地震と昭和8年(1933年)の昭和三陸地震、そして東日本大震災の伝承碑が並び建つところもある。
 明治、昭和の三陸地震で2度とも集落が全滅した岩手県宮古市重茂姉吉地区の住民は、大津波記念碑に記された「高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪、 此処ここ より下に家を建てるな」という教訓を守ってきたため、東日本大震災では家屋に被害が出なかった。
 東日本大震災関連では、東北地方の太平洋沿岸を中心に128基の伝承碑が建てられている。高さ14.8メートルの津波に襲われた女川町では、女川第一中学校(現・女川中)の生徒らが地域住民の協力を得て、町内で確認できた津波到達点21か所に「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓を記した「女川いのちの石碑」を建てた。
  全国の伝承碑で最も新しい災害に関する伝承碑は宮城県丸森町などにある令和元年の東日本台風に関するものだ。今後は地球温暖化の影響で、これまでは少なかった東北での豪雨・台風災害にも警戒が必要になるだろう。
(略)
 全国の伝承碑に込められた共通の思いは、過去の記録を継承していくことは防災意識を高め、忘れたころにやってくる天災への備えになる、ということだ。あなたの身の回りにも、まだまだ草むらに埋もれた伝承碑があるかもしれない。

ただ、逆に「「災禍を思い出したくない」「地価が下がってしまう」といった住民の声に配慮して、登録を見送っている自治体もある」とのこと。

難しい問題ですね。

難しい問題といえば、震災後の女川町での大きな動きのもう一つ、女川原発の再稼働。『朝日新聞』さん、今朝の「天声人語」。

(天声人語)311への手紙

宮城県女川町を見下ろす丘の上で、これを書いています。いかがお過ごしですか? あの日と同じように、さっきまで小雪が風に舞っていました。あなたたちを忘れぬようにという空からのメッセージでしょう▼東日本大震災の1カ月後に、ここから見た光景を思い出します。視界いっぱいのがれき。3階建てのビルの屋上に自動車が場違いに転がっています。あなたをさらった津波が残したのでしょう。街全体が沈み、道は海の中へ続いているかのようです。女川原発は、最悪の事態をなんとか免れました▼原発に重大事故が起きたら車で避難を。車のない人は、県や自治体が用意したバスなどが来るまで待って――。震災後につくられた各地の避難計画はそう言います。国も内容を了承しました▼計画を発動しなければならない時、どんな光景が目の前に広がっているか。そうした対応が可能か。自治体も、国も、裁判所も、知らないはずがありません。たった13年前のことです。能登半島でも道が崩れ、救援が立ち往生するさまを見ました▼なぜでしょう。あなたたちの命の代わりに学んだはずのことが、なぜこんなふうになってしまうのでしょう。女川原発は秋にも再稼働するそうです。復興の街を風がただ吹きぬけてゆきます▼いや問うべき相手はあなたでなく、遺(のこ)された私たち自身でしたね。震災後の社会をつくったのは私たちなのですから。それでは、またお便りします。この丘からならば、きっと届くと信じています。

またお便りします」の文面が、最悪の内容にならないよう、祈らずには居られません。

【折々のことば・光太郎】

二日には書初めをやりませう。廿九日には畠山さんに進呈するため半切大の紙に「天地寿」と書きました。


昭和21年(1946)12月31日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「畠山さん」は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村在住の日本画家・畑山崇山。子息の崇一は光太郎の影響で詩作にも取り組みました。
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3.11の今日、「天地寿」と本当に言える日が来ることを願って已みません。

「めぐみネット 共同通信アグリラボ」というサイトに出ていた記事です。共同通信さんの関係なので、全国の地方紙いくつかには掲載されたのではないでしょうか。ご執筆は日本離島センター専務理事・小島愛之助氏。 

よんななエコノミー 震災からの復興と離島振興 宮城県女川町

013 元日に能登半島地震が起きると、宮城県女川町は6日、備蓄していたアルファ米や野菜ジュース、ポリタンク、非常用飲料水袋など生活物資を被災した石川県志賀町に提供し、その3日後には副町長ら職員4人を現地に派遣した。女川町は、東日本大震災の復興支援で志賀町から2015年度に事務員、19年度に保健師の派遣を受けており、同じ被災地として手を携えていこうとしている。
 その東日本大震災によって女川町も壊滅的な被害を受けたが、「あたらしいスタートが世界一生まれる町へ。START! ONAGAWA」をスローガンに、急ピッチで復興まちづくりを行ってきた。その効果もあって、女川駅や駅前商店街(シーパルピア女川)を中心として、かつてのにぎわいが戻ってきている。また、大震災の被害を千年後まで伝え、命を守りたいという思いから、町内21カ所には「いのちの石碑」が建っている。この石碑は、大震災の年に中学校に入学した子どもたちがプロジェクトを立ち上げ、建設資金の調達や石碑のデザインなどを行ったものである。
 女川町には、人口が50人足らずの江島と約90人の出島の二つの有人離島があるが、このうち出島を今回は紹介したい。出島は、女川町の沿岸から一番近いところで300メートルほどしか離れていない。そのため、本土と島を結ぶ全長364メートルの橋を建設する出島架橋の整備事業が17年からスタートし、昨年11月に橋の中央部分が設置された。今後、道路の整備などが進められ、ことし12月に開通する予定である。
 出島への交通アクセスは、シーパル女川汽船の「しまなぎ」で女川港から20分。出島架橋が開通すれば、女川の市街地から車で15分に短縮されるという。時間・距離の短縮はもちろんのこと、病気やけがなどの緊急時にすぐ搬送できないという問題が解消し、住民の安心な生活につながるという点も大きい。一大漁業基地であり、釣り客のメッカでもある島と本土が陸路でつながることで、島の産業が継続的に営まれていくというメリットも多大である。
 出島には縄文時代の配石遺構があり、「出島ストーンサークル探検ツアー」の実施主体となっている「一般社団法人 女川未来会議出島プロジェクト」は、架橋後の町施設の管理をはじめとして、島の観光など各種事業の発展と創出に関わる支援を行うことにあるという。
 同プロジェクトの代表理事を務める高野信さんは福島県郡山市出身の元教員。定年後に教員時代の上司の故郷である出島に半ば移住した。架橋の効果も相まって、離島観光が女川町の復興に大きく寄与することを期待したい。

昭和6年(1931)に光太郎が訪れ詩文を残したゆかりの町として「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。東日本大震災では甚大な被害でしたが、その後、記事にあるとおり、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町の光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、10年以上かけて町内の海岸沿いの高台等に全21基の「いのちの石碑」が建てられました。
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そういう女川町さんですので他人事ではないと、能登半島地震に被災地に対しての素早い支援。記事は先月のものですので「6日」とあるのは地震発生から5日後の1月6日(土)です。素晴らしい。

その背景には、東日本大震災の折に、今回大きな被害のあった志賀町さんから支援を受けていたお返し的な要素もあるとのこと。まさに「情けは人のためならず」。ちなみにこのことわざ、「他人に情けをかけるとそのひとが甘えてしまって結局はその人のためにならないから控えるべきだ」という意味だと誤用されることが多いそうですが、正しくは「常日頃から他人に情けをかけておけば、いざ自分が困った時にそれが返ってくる」という意味ですね。だからといってそれを期待して「常日頃から他人に情けをかけておこう」というのでもなく、逆に考えれば「常日頃から他人に反感を買いまくっている輩はいざという時にも助けてもらえないよ」ということになるのかもしれません。

その他にも東日本大震災の被災地から、今回の能登半島地震の被災地への支援が続々という報道をよく目にします。まだまだこの国も捨てたもんじゃないなと思う今日この頃です。

記事内容に戻りまして、女川町の友人離島の一つ、出島(いずしま)。こちらには女川光太郎祭を主催されている「女川光太郎の会」の須田勘太郎会長がお住まいです。一度渡ってみようと思いつつなかなか果たせないでいるのですが、記事にある今年開通するという橋が完成すればすぐに行ける感じになりますね。ちなみに出島にも「いのちの石碑」が建立されています。
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3.11もあと1ヶ月ほど。13年経ちますが、福島の原発周辺など、いまだに復興の進まない地域もありますし、その後も今回の能登半島や熊本など地震の被害は後を絶ちません。それでもその都度、過去の教訓を生かしてやっていくしかないのだろうなと思います。

【折々のことば・光太郎】

どうか十分に治療を尽してください。牛乳などは三里塚の事だからたくさんあるのだらうと思つてゐますが、あびる程のんでください。日本には以前から牛乳が少くて一般人の健康にかなり影響してゐたと思ひます。岩手地方はすべて酪農にするといいと考へてゐます。


昭和21年(1946)8月24日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

千葉成田の三里塚に居た親友・水野葉舟宛書簡から。葉舟は結核性の肋膜炎で翌年には没します。光太郎、この頃から食と健康に関する発言が目立つようになります。家庭菜園に毛が生えた程度とはいえ、まがりなりにも農業に従事するようになったことが大きいのでしょう。

宮城レポートの2回目です。

8月9日(水)、第32回女川光太郎祭が行われ、その様子は昨日レポートいたしましたが、そちらが始まる前、さらに午前中の光太郎文学碑への献花と午後の式典の間などに、会場周辺をうろうろしました。

見ておこうと思ったのは、光太郎文学碑の精神を受け継ぎ、「100円募金」で建てられた「いのちの石碑」。避難の際の目印となるよう、東日本大震災の津波到達地点より高い場所に設置され続け、一昨年、予定の全21基がすべて完成しました。

以前にも拝見したのですが、港の東、山祇神社さん境内に建てられた碑。
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この碑を発案した、震災当時の中学生たちが作った碑ごとに異なる俳句、それから全碑共通の避難マニュアル的な文章などが刻まれています。これも全碑共通の右肩が上がったシルエットは町内の遺跡から発掘された鎌倉時代の板碑をモチーフとし、供養塔の意味合いも込められているとのこと。

1号碑が建てられたのは、平成25年(2013)。
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女川光太郎祭会場のまちなか交流館さんや、光太郎文学碑と隣接する震災遺構・旧女川交番などに設置されたパネルに、その際の様子が記されています。

それから毎年のように少しずつ碑が建てられ続け、最後の一基が建ったのが一昨年。その最後の碑は、新設された女川小中学校内に設置され、まちなか交流館さんからも見えました。
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高台に建てられたそれは、まるで町中心街を見守る守護神のようにも見えました。これからも、その役割を果たし続けてほしいものです。

8月10日(木)、女川町を後に、松島町に向かいました。そのあたりは、明日。

【折々のことば・光太郎】

今ちゑ子は殆ど癡呆状態をつづけてゐます、此は体質に潜んでゐた精神病の素質が出て来たのではないかと心配してゐます、遺伝梅毒の懸念を持つて血液検査をしてもらひましたところ此方は痕跡無しといふ事です、 年齢上の更年期に来る強い神経衰弱かとも思ひますがそれにしては少し度が強過ぎます、

昭和8年(1933)11月6日 水野葉舟宛書簡より 光太郎51歳

8月から9月にかけ、東北と北関東の温泉廻りをした後、智恵子の心の病状は却って悪化していました。そこで脳梅毒の検査をしてもらったところ陰性だったとのこと。わざわざ陽性だったものを陰性だったと虚偽の記述をしないでしょうから、これは真実でしょう。

しかし、ネット上などではまことしやかに「智恵子は脳梅毒だった、若い頃の光太郎が女遊びにうつつをぬかしていたせいだ」と、エビデンスも明記せず面白おかしく書いている輩が多く、閉口しています。

今年も3.11が近づいて参りました。「あの日」から丸12年ですので、亡くなられた方々の十三回忌ということになります。その中には、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で「女川光太郎祭」を主催なさっていた貝(佐々木)廣氏も含まれます。

『毎日新聞』さん、2月19日(日)の記事から。女川町に建てられ、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」に関わります。

「記憶のない私は何もできない?」 母と向き合った14歳の決意

 宮城県石巻市立桃生(ものう)中学校2年の武田瑚白(こはく)さん(14)は、夏休みに書いた作文に胸の内をつづりました。まだ2歳だった「あの日」の記憶はほとんどありません。
 東日本大震災の発生から間もなく丸12年になります。この春からは小学校の全学年が「震災後生まれ」です。当時を知らない世代にも震災を身近な出来事と受け止めてもらい、将来の災害から命を守るためにはどうすればいいのでしょうか。
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  瑚白さんが生まれ育った石巻市は2011年3月11日の大震災で津波にのまれたり、避難生活で体調を崩したりして、約4000人が犠牲になりました。当時、暮らしていたアパートは津波の被害を免れ、両親とも無事でした。でも、隣町の女川町にあった母志乃さん(45)の実家は流され、同じ町に住んでいた曽祖父母や叔母らが亡くなりました。
 テレビで震災特集が始まると「見たくない」とチャンネルを変え、街に流れる防災サイレンの音を聞き「思い出す」と体をビクリと反応させる母。そんな様子を見て、いつしか「震災には、触れちゃいけないのかな」と思うようになりました。
 被災地の人たちは、日ごろから震災について語り合っているわけではありません。多くの人が心に傷を負っただけに「思い出したくない」「思い出させて、傷つけてしまうかもしれない」との不安があり、震災を話題にしづらい空気もあるのです。
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東日本大震災の津波で被災した宮城県女川町の実家跡地で長女瑚白さんと話す武田志乃さん

ありのままに伝えることで
 瑚白さんに昨年7月、転機が訪れます。それは桃生中の阿部一彦校長(56)が「より深く震災のことを理解するきっかけになれば」と初めて企画した社会科見学での体験でした。まずは海から約1キロにあり、教室などが黒焦げのままの石巻市立門脇(かどのわき)小学校の被災校舎を訪ねました。当時の惨状を語ったのは、伝承活動を支援する団体「3・11メモリアルネットワーク」の藤間千尋さん(44)です。
 3階建て校舎には1階天井に近い高さ約1・8メートルまで津波が襲いました。街では車のガソリンなどが流れ出して「津波火災」が起き、校舎も火災に。校内の児童224人と教職員は高台に避難し助かりましたが、下校した児童7人が犠牲となりました。
 震災の惨状をありありと語る姿に瑚白さんは「石巻で被災した人だろう」と思い込んでいました。でも藤間さんは神奈川県出身。1995年の阪神大震災の時、高校2年生で被災者の救援に駆けつけられなかった後悔がありました。そんな思いが背中を押し、震災後に石巻でボランティアを始めて移住した人でした。
 藤間さんは、被災者や語り部の体験に耳を傾け、その言葉や思いをありのままに伝えるよう努めたといいます。「経験していなくても伝えられることはある。みんなも伝える一人になって」との言葉が、瑚白さんの胸に刺さりました。
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門脇小学校の被災校舎前で藤間千尋さん(中央)の説明を聞く桃生中学校の生徒ら

「生きて戻ってきて」校長の言葉の意味
 その後、女川町立女川中学校(震災当時は女川第一中学校)の旧校舎の脇にある「女川いのちの石碑」を訪ねました。阿部校長は、震災時に社会科教諭としてこの中学に勤めていました。校内にいた生徒たちの命を守った一方、自宅に帰った生徒2人が犠牲になりました。学校再開後も生徒たちに街の様子を見せるか迷い教室のカーテンを閉めたこともありました。窓から見える一面のがれきの中で遺体を捜す人もいたからです。
 阿部校長は、教え子たちが「1000年後の人にも震災の教訓が伝わるように」と、この石碑を建てたことを説明。そして「命って一つしかない。一人一人の命が大事だよ」と力を込めました。桃生中で阿部校長は連休前の集会の時に「生きて戻ってきてください」と話していました。その言葉の意味が瑚白さんには実感をもって伝わってきたそうです。
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石巻市立桃生中学校の阿部一彦校長(右)から震災体験を聴く生徒たち。
後方にあるのが「女川いのちの石碑」

 「私たちは震災を経験した人から話を聞ける世代。被災した人の気持ちを100%理解できなくても『もっと知ろう』と聞くことで少しずつでも近づけるはずだ」。そう感じた瑚白さんは「少年の主張」大会に向けて作文に書こうと決め、震災体験を志乃さんに聞くことにしました。
 でも、志乃さんは戸惑います。「もう、あんな思いを誰にもしてほしくない」と経験を伝えたい気持ちがある一方、思い出したくない記憶でもあったからです。それでも、我が子が熱心に相談を持ちかける姿を見て「もう中学生だし、娘の手伝いができたら」と話すことにしました。
 震災直後、瑚白さんの妹の瑚志(こゆき)さん(11)の出産予定日が迫る中、女川の実家が跡形もなく流され、がれきの街で両親を捜し回ったこと。出産後は物資不足でミルクさえ手に入らずに不安だったこと……。話したことで心が少し整理され「私も前を向かなきゃ」と思えたそうです。
 志乃さんはこうも言います。「震災を経験したからこそ簡単には伝えられないこともある。『責任を持って伝えたい』という娘の姿は頼もしく、娘たちが体験者の話を心で受け止めたことを、年の近い世代に伝える方が響く気がします」
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火災が発生した住宅街=宮城県石巻市で2011年3月11日

「命のバトンを終わらせたくない」
 桃生中では、昨夏の社会科見学後、昼休みや放課後を利用した自主学習活動に、「いのちの大切さを考える会」が加わりました。瑚白さんはリーダーを務めています。震災後生まれの最初の世代である妹に、いつか自分の言葉で語り継ぐことが目標になったそうです。作文の最後にはこう書きました。<命のバトンを、絶対にここで終わらせたくない>
 被災地では、災害を体験した人たちが、その記憶や教訓を伝える「語り部」をしています。当事者の声は心に訴える力があり、各地の震災遺構や伝承施設で聞くことができます。被災地に足を運べなくても、文部科学省の「学校安全ポータルサイト」で、若い語り部による「東日本大震災の教訓を語り継ぐ動画教材」が見られます。
 文科省は12年に閣議決定された「学校安全の推進に関する計画」で、東日本大震災では徹底した防災教育により危険を免れた学校などがあったことに触れています。その上で「地域で語り継がれてきた災害教訓の中には、地域の特性によらない普遍的な内容も含まれており、それを受け継いでいく中から具体的な対策が見いだされることもある」として、児童・生徒らによる語り継ぎが重要だと指摘しています。
 被災地では学校で「語り継ぎ」を進める取り組みも始まっています。宮城県気仙沼市立鹿折(ししおり)中学校は、生徒が震災を体験した地域の人たちにインタビューした内容をまとめ、地元の小学生や大人たちに発表。生まれる前の災害でも、身近な人に聞くことで自分のことと捉えやすくなります。
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津波で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町の街を歩く人たち=2011年3月14日

「誰でも語り継げる」
 02年度に開設された兵庫県立舞子高校の環境防災科で、初代科長を務めた諏訪清二さん(62)=防災教育学会会長=は「1期生は阪神大震災があった時、まだ小2でした。授業で『語り継ぐ』をテーマに作文の課題を出したところ、親に初めて体験を聞いた生徒も多くいました。語り継ぐ役割を親だけに期待せず、学校がきっかけを作り、自然と親子で語らうことが大事です」と言います。
 その上で、学校教員に対しても「自分は経験していないからと引いてしまうのではなく、先生も、生徒も『誰でも語り継げるんだ』ということを一緒に学んでほしい」と話します。

12年が経とうとし、震災を直接知らない世代が増える中、いかに伝えていくかというのは本当に大切な課題ですね。

【折々のことば・光太郎】

五月十五日に倫敦からこの阿波丸にのり込んで今は地中海の上に居る。七月一日頃神戸着の由。二ヶ月間のうちには君にも会へる訳である。碧い空と紫の水とを見て愉快に日を送つて居る。


明治42年(1909)5月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎27歳

明治39年(1906)2月に横浜を出航し、カナダのヴァンクーヴァーから大陸横断鉄道でニューヨークへ。翌年には豪華客船オーシャニックでロンドンに。さらにその翌年、英仏海峡を渡ってパリ。それぞれの都市で約1年ずつを過ごし、最後はおよそ1ヶ月間のイタリア旅行。3年余りの留学も終わりを告げ、ぐるりと地球を一周して日本に帰ります。

まず、仙台に本社を置く『河北新報』さん、先週土曜日の記事です。

小学生に人気「守ろう! みんなの東北」完結 地域課題学ぶ漫画シリーズ

 東日本大震災からの復興、人口減少…。東北が抱える難題がモンスターになった―。漫画で地域を学ぶ「守ろう! みんなの東北」全4巻がこのほど完結した。東北の小学生の間で人気が高まっているシリーズはどのように生まれたのか。(編集局コンテンツセンター・佐藤理史)
   主人公は岩手県遠野市に暮らす小学6年の石澤研治(ケンジ)。ある日、大きな地震により、異世界の東北に迷い込む。現実世界の東北の人たちの怒りや不満、不安から生まれたモンスター(「もんのけ」と呼ばれる)がケンジに東北の諸課題を突きつけ、対応を迫るというファンタジーアドベンチャーだ。
 巨大なこけしのもんのけは「なぜ人間は昔ほどこけしを買わぬ? 作らぬ?」「よいのか!? 東北の文化が消え去っても」と詰め寄る。ケンジがインターネットを活用した魅力発信など、自分たちにもできることを提示すると、もんのけは笑顔になって消える。
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 発行したマイクロマガジン社(東京)の第一編集部リーダー岡野信彦さん(53)は「これまで地域学習漫画は郷土の文化や特産品の紹介にとどまっていた。本作は社会問題に踏み込んでいるのが特徴だ」と話す。
 各巻のテーマは「自然と伝統文化」「復興と気候」「人口減少とお祭り」「東北の未来」。東京電力福島第1原発事故で国内外でいまだ残る風評被害をどう払拭するか。再生可能エネルギーの推進と自然環境の保護をどう両立するか。大人も明快な答えを出せない大きなテーマをあえて選び「視野を広げるきっかけにしてほしい」と狙いを語る。
 読者と想定するのは地域探究学習が始まる小学5、6年。2010、11年度に生まれた子どもだ。「東北の未来をつくるのは震災を経験していない世代。風化させず、まずは事実を知ってもらいたい」と岡野さん。
 1巻の冒頭、巨大地震に襲われたケンジが冷静に避難行動を取り「東北で育った子どもはみんな知っている。地震の恐ろしさや『防災』の大切さを!」と語る場面は印象的だ。復興をテーマにした2巻では、女川中(宮城県女川町)の卒業生らが津波の記憶を後世に伝えるため「女川いのちの石碑」を21基建立した取り組みを紹介する。
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 人口減を扱う3巻では「おぬしらも大人になれば東北を出て行くのだろう?」ともんのけに問われ、子どもたちの意見は分かれる。考えの違いを受け入れる大切さが込められており、岡野さんは「自分だったらこうしたい、こうした方が面白いという風に、ケンジたちと一緒に考えながら読んでほしい」と期待する。
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 昨年9月に1巻を発売。3カ月おきに続編を出し、今年6月の4巻で完結した。各巻の初版は8000部。図書館の蔵書検索サイト「カーリル」によると、東北の135館が所蔵する(7月現在)。21年度の青森県推奨図書に選ばれ、学級文庫にも多く採用されており、順番待ちができている学校もあるという。
 仙台市図書館で借りた市内の小学5年女子は「キャラクターがかわいくて、一気に読めた。東北の伝統工芸が危なくなっているのは初めて知った」と話した。
 A5判、全カラー。各巻1100円。東北の地域活性化のための調査研究などを行う公益財団法人「東北活性化研究センター」(仙台市)が監修した。

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[マイクロマガジン社]1984年設立。人気作「転生したらスライムだった件」に代表されるライトノベルや絵本を中心に出版。2007年に始まった「これでいいのか地域批評シリーズ」は全国各地の県民性や課題をまとめる。「まんが地域学習シリーズ」1作目の本作の舞台に東北を選んだのは「課題先進地」であることに加え「地域批評の反応、売れ行きが良かったから」だという。

『守ろう! みんなの東北』全4巻。第2巻の「復興と気候編」で、宮城県女川町に21基建てられた、津波からの避難のランドマーク「いのちの石碑」が紹介されています。同じ女川町の光太郎文学碑(平成3年=1991建立)に倣って、1,000万円といわれた設置費用を募金でまかなったというプロジェクトです。中心人物の一人、鈴木智博さんは、かつて複数回、光太郎を偲ぶ女川光太郎祭にご参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさっていただきました。
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このシリーズの何巻目かに「いのちの石碑」が紹介されているという情報は得ていたのですが、何巻目だかがわからず、書店で探してもみたのですが見つからず、というわけで未入手でしたが、『河北新報』さんの記事で第2巻だったとわかり、早速Amazonさんで購入しました。

守ろう! みんなの東北 ②復興と気候編

2021年12月9日 原作 青木健生 漫画 藤原ちづる 監修 東北活性化研究センター
マイクロマガジン社 定価1,000円+税

もうひとつの東北を舞台に、子どもたちが現実の東北で起きているさまざまな社会問題を探究する、まんが地域学習シリーズ第二弾! 今回は、復興と気候編! 子どもたちは次々とおそいかかる『地域問題』をどう解決するのか? キミならどうする?

現実の東北とそっくりだけど東北とは違う不思議な世界、バケモノが暮らす「もうひとつの東北」に飛ばされた、岩手の少年・石澤研治、青森の少女・玉神むつみ、福島の少女・花咲ななえの3人は、現実の東北の怒り・不安・不満によって生み出された「もんのけ」が突きつけてきた難題を見事解決してみせた。だが、彼らの「もうひとつの東北」をめぐる冒険はまだまだ始まったばかり。舞台は岩手を飛び出し、宮城、そして山形へ!  

行く先々で研治たちの前に新たな「もんのけ」が立ちふさがる。彼らが突きつけるのは東北にまつわるまた別の難題。研治たちは「もんのけ」の怒りにどう向きあっていくのか? 宮城、山形、秋田から新たな仲間を加え、東北を救う冒険の第2章がいま、スタートする! 

様々な問題を考えながら、東北の未来を考えてみませんか! ?
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東北6県の抱える課題、そしてそれらを解決していこうという地道な取り組みなどがわかりやすく語られ、これは日本全国の子供たちに読んでほしいものだな、と感じました。

お子様、お孫さんをお持ちの方、ぜひどうぞ。また、学校関係、図書館関係の方々も、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

来週金曜頃松方三郎氏くる由、


昭和28年(1953)6月20日の日記より 光太郎71歳

松方三郎氏」は、日本電報通信社(現・電通)取締役にして、登山家、ジャーナリストでもありました。父は明治の元勲・松方正義。かつて光雲・光太郎父子がその像を制作しています。実兄は松方幸次郎。上野の国立西洋美術館さんの礎となった「松方コレクション」を集めた人物です。

実際、翌週の金曜には、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエに松方がやって来ましたが、その用件は光太郎日記には記されていませんでした。それにしても、光太郎人脈の広さの一端が垣間見えます。

このブログでたびたびご紹介している、宮城県女川町の「いのちの石碑」。平成23年(2011)に起きた東日本大震災直後に中学校に入学した若者たちが、津波の際の避難の目安にと、町内の浜の高台に建て続けてきたものです。

中学校での授業の中でその設置を考え、費用は同じ女川町の光太郎文学碑(平成3年=1991建立)に倣って、募金で賄われました。平成25年(2015)の1基目に始まり、年に数基ずつ建てられ、昨年には当初予定の21基めが竣工しました。

先週、5月19日(木)のkhb東日本放送さんのローカルニュースから。

宮城県の新たな津波浸水想定 沿岸部の住民は避難マニュアルの見直しへ

 宮城県が先週公表した津波の浸水想定についてです。公表から1週間、沿岸部の住民は避難マニュアルの見直しに動き出しています。災害への備えに終わりはない、次の災害に備える住民の思いを取材しました。
  県が、5月10日に公表した新たな津波の浸水想定。満潮時に地盤沈下が起き、防潮堤や水門が壊れるなど最悪のケースを想定していて、浸水面積は県全体で391平方キロメートルと東日本大震災の1.2倍に上ります。
 宮城県河川課佐藤宏課長「何としても人命を守るのが今回の主眼。何があってもとにかく逃げるという行動を取ってください」

■津波で被災し移転するも移転先が浸水想定域に
 東松島市のあおい地区で、自治会長を務める小野竹一さん(74)です。東日本大震災の津波で、海の近くの大曲浜にあった自宅が流されました。
 安全な場所を求めて、2016年に海から3.5キロほど離れたあおい地区に移転した小野さん。しかし、新たな想定ではこの地区にも津波が及びます。
 あおい地区会小野竹一会長「ここには津波来ない。大丈夫という先入観がすごくあったと思う。自分の命を守るために、どんなふうにするのかが大事ですから、それに適応した暮らし方、避難の仕方、高齢者、小さい子どもを守るためにどんなことをしていなかればいけないか」
 東松島市には、最大10.6メートルの津波が押し寄せる想定です。今回の想定では、東日本大震災の1.3倍が浸水することに。
 あおい地区は市内最大の集団移転団地で、災害公営住宅や戸建ての住宅に580世帯、約1300人が暮らしています。
 東日本大震災では津波は到達しませんでしたが、今回の想定では1メートルから3メートルの津波が押し寄せます。
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■新たな避難マニュアルを作成へ
 あおい地区の自主防災組織では、これまで年に2回のペースで防災訓練を行ってきました。今後、内陸や高台への避難場所を盛り込んだ避難マニュアルを作成することを決めました。
 あおい地区会小野竹一会長「あおい地区として、一番良い避難マニュアルをこれから作っていく必要がある。できれば6年の総合防災訓練までには、住民に示すことができれば、一番良いのかなと思う」
 東日本大震災を上回る災害にどう備えるのか。岩沼市は県の担当者を招き、19日に住民説明会を開催。この他、松島町と利府町以外の12の市と町でも住民説明会を検討しています。
 宮城県河川課佐藤宏課長「もしかすると、あの時よりも深くなるかもしれない。そういったことがあり得ることを常に認識しながら、津波、地震が来た時には、避難という行動を取っていただきたいということを説明していく」

■避難して命を守ることの大切さを訴える
 今回の想定を受け、思いを新たにした人がいます。津波で母親と祖父母を失った、女川町の鈴木智博さん(23)です。
 震災後、中学校の同級生たちと津波が押し寄せた町内の21カ所すべての地区に石碑を建て、避難して命を守ることの大切さを訴え続けています。
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 女川いのちの石碑プロジェクト鈴木智博さん「やっぱり、ここまで来るのかと驚きました」
 女川町では、最大20.7メートルの津波が想定され、浸水面積は東日本大震災の2.1倍に拡大します。
 女川いのちの石碑プロジェクト鈴木智博さん「どれだけ災害に備えていても終わりはないと考えていますし、少しでも命を守れるような行動を取ってほしいと自分たちの経験からも思う」
 竹浦地区に造った石碑。そこに刻んだ言葉。
「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」
 新たな想定では、津波はこの石碑を超えることが分かりました。東日本大震災を上回る災害に備える。次こそ、命を守る避難を。
 女川いのちの石碑プロジェクト鈴木智博さん「今回の浸水想定が出たことで、新たに災害に対する関心が上がったと思うので、この機会に改めて災害に対する準備や避難の行動を考え直してほしいと思う」
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鈴木さん、中高生の頃、昭和6年(1931)に光太郎が『時事新報』の依頼で三陸沿岸一帯の紀行文を書くため女川にも立ち寄ったことを記念して行われている(一昨年・昨年はコロナ禍のため中止)女川光太郎祭にご参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさって下さいました。

あまり考えたくないのですが、あの大津波を上回る想定が新たに出され、防災計画の見直しも必要とのこと。「満潮時に地盤沈下が起き、防潮堤や水門が壊れるなど最悪のケースを想定」とのことですが、決してあり得ない話ではないわけで……。

もう1件、やはり「いのちの石碑」がらみで、地元紙『河北新報』さんから。やはり5月19日(木)の報道でした。

女川・出島の自然や歴史堪能 有志がトレッキングコース整備

 宮城県女川町の離島・出島(いずしま)で、有志のグループがトレッキングコースの整備を進めている。豊かな自然や歴史に触れられる約10キロの周回路で、今年4月にルートが決まった。島と町本土を結ぶ出島架橋の開通を2024年度に控え、関係者は観光の目玉にしようと、韓国版トレッキング「宮城オルレ」の認定を目指す。
 コースを作ったのは島内外の有志でつくる「女川未来会議出島プロジェクト」。出島架橋後を見据えて新たな観光資源を発掘するため、トレッキングに着目した。プロジェクト事務局の高野信さん(63)=郡山市=が20年3月に島民対象の説明会を開き、理解を得て整備に取り組んでいる。
 人口減少で使われなくなり、草木が生い茂るかつての生活道路を基にコースを検討。島の西側中央にあり、巨石が並ぶ縄文時代の配石遺構群「出島遺跡」を発着地に選んだ。ボランティアの協力を得て樹木を伐採したり急斜面にロープを設置したりし、水平線を一望できる入り江や神社、漁港を巡るルートを決めた。
 女川中の卒業生が東日本大震災の津波の記憶を後世に伝えるため、島内2カ所に建立した「女川いのちの石碑」もコースに取り入れ、震災の教訓を伝える。
 コースは決まったが、課題は残る。案内板がなく、ルートを示すテープの設置も不十分。島内に商店はなく、飲料の自動販売機が港に1台あるだけで、公衆トイレも1カ所しかない。
 高野さんはトイレ増設や駐車場設置を町に働きかける考え。「島民や町の協力を得ながら架橋開通までに島ぐるみで観光客を迎える環境を整えたい」と話す。
[出島]女川町本土から東に約300メートル離れ、面積約2・6平方キロメートル。女川港から離島航路を使い約20分で着く。主要産業は漁業。東日本大震災の津波で島民25人が犠牲になり、島内に1校ずつあった小中学校は2013年3月に閉校。人口は震災前の約500から94(今年3月末現在)に激減した。全長約360メートルの架橋は17年に着工し、24年度の開通を予定する。
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出島(いずしま)は女川湾の入り口に浮かぶ島で、女川光太郎祭を主催なさっている女川光太郎の会・須田勘太郎会長がお住まいです。人口が震災前の5分の1まで減少してしまったというのがショッキングでした。しかし、逆に本土から移住なさった方が民宿を開くなどの動きもありますし、画像にもある縄文遺跡なども貴重なものですね。



震災で25人が亡くなったという出島にも、鈴木さんらのご努力で「いのちの石碑」が設置されています。上記動画では4:55頃から。

こちらにも一度行ってみようと思いながら果たせないでいます。今年は女川光太郎祭も復活することを期待し、できれば足をのばしてみようかと思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】003

晴、 手の彫刻の支度、 午后藤島さんくる、 谷口さんの彫刻写真撮影は来月にのびる、

昭和27年(1952)12月20日の日記より
 光太郎70歳

手の彫刻」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための手の習作です。大正7年(1918)作の「手」と同じく、観世音菩薩の印相・施無畏印の形をとっています。元々「乙女の像」が「智恵子観音」という当初構想からの発展系であることの名残です。

藤島さん」は、この頃、光太郎の身の回りの世話を何くれとなく見てくれた詩人の藤島宇内、「谷口さん」は建築家の谷口吉郎、「乙女の像」一帯の公園の設計を任されていました。

仙台に本社を置く『河北新報』さん主催のオンラインイベント「3.11大震災メモリアルトーク 想いと未来を語る2022」、3月11日(金)に開催されライブ配信されましたが、その後、編集作業を経てのアーカイブ配信が始まりました。
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司会は山寺宏一さん。宮城県塩竃市のご出身で、3.11大震災直後から、復興支援や募金活動に参画なさっています。
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そうした関係をいろいろなさっている中で、当ブログでは、平成30年(2018)封切りの映画「一陽来復 Life Goes On」(当方友人が出演しています)のナレーション、その前年には女川町を舞台にした「アニメドキュメント 女川中バスケ部 5人の夏」にご出演などの件をすでにご紹介しております。

ゲストは音楽家・かの香織さん、プロレスラーの新崎人生さん、「女川1000年後のいのちを守る会」の鈴木智博さん。
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かのさん、新崎さん、それぞれの被災地支援レポートの後、「いのちの石碑」活動の紹介。震災直後に当時の女川一中に入学した鈴木さんたちの発案により、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町の光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、建てられ続けたものです。昨秋には当初予定の全21基が完成しています。
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鈴木さん、中高生の時には「女川光太郎祭」にもご参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさって下さいました。
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石碑以外にも、鈴木さんたちが手がけた「女川いのちの教科書」の紹介も。
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かのさんや新崎さんの取り組みにしてもそうですが、本当に頭が下がります。

動画、貼り付けておきます。


「いのちの石碑」については59:40頃からです。

【折々のことば・光太郎】

晴、朝近所を散歩、25番地を見る、
 

昭和27年(1952)10月13日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年半ぶりに帰京し、千駄木の実家に一泊した翌朝です。「25番地」はかつて智恵子と暮らしたアトリエ兼住居のあった跡地。何気に書いてありますが、感慨深かったようで……。光太郎令甥・故髙村規氏の回想から。

 「規、明日の朝学校へ行く前に、ちょっと自分ちのアトリエの焼け跡へ連れてってくれないか」って言われて、「そういうのはおやすいご用ですよ」って言って。
 僕は、疎開先から帰って来てから次の日の朝すぐにアトリエの焼け跡へ見に行ったことがあるんですよね。地面から立ち上がりの階段がそのまま残ってましたけど、ずーっと周辺が板囲いしてあったんです。板囲いの隙間から中を覗いて見ましたらね、一体は焼け野原ですけれど、この一角だけ畑になってなかったんですよ。あの頃は、人の土地でも何でも自分で勝手に耕して種蒔いて、さやいんげんでも何でもできれば、自分のものになっちゃったんですからね。まわりは全部畑になっていましたが、光太郎のアトリエの一角だけは板囲いはしてありましたけれども、焼け跡のまんまだったんです。(略)石膏のかけらや本の焼け残りなんかがあったもんだから畑にしたくてもならなかったんですね。
(略)
 それで、光太郎を連れてここへ行ったんですね。そしたらやっぱりまだ板囲いなんですよ。でも木の節目やなんか外れたところがぽつぽつ穴があいてるもんですから、光太郎は自分が二十四年間も智恵子さんと一緒にいた場所だし、二人で一所懸命新しい芸術のために努力した場所ですからやっぱり懐かしさも一入なんでしょうね、隙間から中を丹念に一ヶ所一ヶ所見て歩いてるんですよ。こっちは学校へも遅れそうになっちゃうけどそんなことはまあいいやと思って。鼻が潰れそうになるくらいむきになって中を覗いているんですね。(略)近くにいた近所のおかみさんだったかな、だんだん不思議そうな顔し出したんです。「誰かが土地を覗いてる」っていうふうに思ったんでしょうね。おかみさんが光太郎に何か言ったら光太郎が気の毒だなと思って。そこへ飛んでいってその奥さん連中に「あの人はね、高村光太郎っていって僕の伯父さんで、昔ここにあったアトリエに住んでて、『智恵子抄』で有名な智恵子さんと一緒にここにいた人で、今東京へ帰ってきてね、懐かしくて一所懸命自分の住んでた所を丹念に見てるんだから好きなようにさせといて」と言いました。

光太郎、さらに板の隙間から中に入りました。

 光太郎は亡くなった智恵子さんを抱いて上がったこの階段を上がったり下りたりしてましたよ、何べんも何べんも。

東日本大震災で甚大な被害を受けた光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連、昨日でいったん終わるつもりでしたが、3.11当日の昨日も関連報道がありまして、予定を変更してそちらをご紹介します。

まず、『新潟日報』さん。

[座標軸]いのちの石碑 千年後のために伝えたい

 波は、こんなに高い場所にまで届くものなのか。
 11年前の東日本大震災で15メートルもの大津波にのまれた宮城県女川町を昨年3月、歩いた。
 震災直後に中学生になった女川町の子どもたちが「千年先の人々の命を守りたい」と発案して募金を集め建立した「女川いのちの石碑」を巡るためだ。
 碑は町内に21ある浜で津波到達地点より上に建てる計画で、訪れた時には20基が設置されていた。
 高台にある碑にはそれぞれ、異なる句が刻んであった。
 〈ただいまと/聞きたい声が/聞こえない〉〈逢いたくて/でも会えなくて/逢いたくて〉
 奪われた命への悲しさ、悔しさを胸に詠んだものなのだろう。
 碑の前で震災の日を頭に描こうとしたが、石碑から臨む海はどこも思っていた以上に遠く、静かで、なかなか像を結ばなかった。
 緊迫したあの日を想起させたのは、全ての碑に共通して刻まれていた避難を迫る一文だ。
 「大きな地震が起きたら、この石碑より上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください」
 計画の最後となる21基目の碑は昨年11月に完成した。そこには、〈夢だけは/壊せなかった/大震災〉と、8年前に設置された1基目の碑と同じ句が刻まれた。
 千年先の命を守る。その夢は、あの日の教訓を永遠に伝え継ぐことで実現させたい。

続いて、兵庫県を放送対象地域とするラジオ関西さん。

《東日本大震災11年》「月のスマイル~夢だけは 壊せなかった 大震災」 手作り絵はがきに込めたぬくもりと愛の書

 東日本大震災から11年。1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災を経験した元教師が、自ら描いた「月のスマイル」の挿絵に書とコラボレーションした絵はがきを作成、その売り上げを被災地の復興支援活動に寄付する。
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 大阪教育大学附属特別支援学校(旧・大阪教育大学附属養護学校)の教諭として31年間勤務した大島昇さん(71・大阪市大正区)は、20年ほど前に書家・川合翠石さん(49・大阪市阿倍野区)と出会う。
 川合さんは書家・榊莫山さんの晩年の弟子。近畿大学文芸学部芸術学科を卒業し、奈良教育大学大学院修士課程を修了。
 川合さんの一筆一筆の癒しの書は、素朴な画にフレーズを添える独自の書の世界を開き、親しみやすさと柔らかい語り口で多くのメディアに登場、「バクザン先生」と親しまれた榊莫山さんを思わせる。
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 「大島さんの月のスマイルには、優しさが一枚一枚にこもっている」と話す川合さんは、その絵に合う素朴な言葉を書で表現している。
 温かみのある絵に文字が加わることで、大きなメッセージになる。時に勇気づけ、時に和ませる。東日本大震災への思いを忘れないためにも、20年近くの親交のある、川合さんに書と絵画のコラボ絵はがきを作ることを提案、快諾を得て作成した。
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 書の世界は、従来の古典的なものから素朴なものまで幅広く、このようなスタイルは公募展ならば規定外、型破りとされるが、川合さんは墨の濃淡も考えながら、一枚一枚に優しさを込めた書を添えた。こうした取り組みは「大島さんとでなければ、出来なかった企画だった」と話す。
 やり直しが効かない直筆でのコラボレーション。楽しみながらコラボは続く。
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 大島さんは阪神・淡路大震災の被災地、兵庫県西宮市内の重度障がい者福祉施設の避難所へ、毎週末にカートやリュックに水や菓子などを詰め込んで届けた。その施設では、大島さんの恩師の小児科ドクターが泊まり込んでいた。そこで「この震災の記憶を決して忘れないようにしないとね」と話していたことが忘れられないという。
 その言葉を胸に、自分自身で何かできることはないかと思いついたのが、「月のスマイル」を描くことだった。鎮魂の祈りを込めて、1日1枚のペースで阪神・淡路大震災の犠牲者の数と同じ6434枚を、10センチ四方の和紙に約10年で描きあげた。
 大島さんが定年退職を控えた2011年3月11日に東日本大震災が起きた。退職後にボランティアの誘いを受けた宮城県石巻市の学校での炊き出しに出向いた。避難所となった施設での炊き出しを通して、被災地で懸命に生きる人々の姿を見て逆にエネルギーをもらったと振り返る。
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 そして阪神・淡路大震災と同様に、東日本大震災も忘れまいと自分の心に留め、「月のスマイル」の絵はがきを描いた。犠牲者、行方不明者(※)を上回る計1万9000人分を描き上げたのが2019年の夏だった。
 しかし、新型コロナウイルスの猛威は被災地と大島さんとの距離を遠ざけた。震災から9年経った2020年以降は、訪れることができなくなり、震災10年を迎えた昨年、宮城県女川町の支援学校や小、中学校、福祉事業所、「つながる図書館」などに、「月のスマイル」の絵はがきすべてを寄贈した。
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 大島さんは「関西から『忘れないよ!』というメッセージを送りたい、この絵と書を見てほっこりしてもらえたら」その一心だった。
 作成にあたり、印刷以外は専門業者を介さず、一からの手作り。絵はがき用に書きあげた百数十枚の作品の中から、川合さんと選んだ。そして昨年秋に1万5000枚(15枚組×1000セット)が完成した。
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 大島さんが震災直後に訪れた宮城県女川町では2013年11月に「女川いのちの石碑プロジェクト」がスタート。その最後となる21基目の石碑除幕式(2021年11月)に合わせて、コラボ絵はがきを届けることができた。
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 絵はがきは大島さん・川合さんらの友人や知人の購入協力で多くのカンパとなり、増刷もできた。ささやかな取り組みが実を結んでゆく。大島さんは「心温かい方々との良き出逢いと協力に、心から感謝するとともに、これからも活動を継続していきたい」と話す。
 震災から11年を迎え、大島さんらは多くの人に「月のスマイル」の絵はがきを手に取ってもらえるようになってもらいたいとの思いから、その売り上げを「頒布協力金」の収益として、「女川いのちの石碑プロジェクト」をはじめ支援学校や福祉事業所などに贈るという。

 ※2021年3月11日の震災10年を前に公表した警察庁の統計では死者1万5899人、行方不明者2526人 計1万8425人
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  【東日本大震災・チャリティー絵はがき「月のスマイル」】

〇金額 1セット15枚組・1500円で頒布(税込み金額 ※送料は別途必要) 
〇申し込み方法 希望セット数と送付先を nobo224@amigo.zaq.jp(大島昇さん)まで。折り返し、ゆうちょ銀行の払込用紙「いのちの石碑プロジェクト応援し隊」振込用紙を送付する。
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中越地震が起こった新潟、阪神・淡路大震災に見舞われた兵庫、やはりそれぞれ大地震の被災地ということで、東日本大震災で大きな被害を受けた地域へのシンパシーが深いのでしょう。他の地域の方々が冷たい、というわけではないのですが。

昨日もご紹介しました通り、今上陛下も高いご関心を寄せられている活動ですが、まだまだ全国的な認知度はそう高くないと思われます。また何か動きがありましたら、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

快晴、 朝薬師堂に参詣、小杉未醒作の薬師を見る、 蔦沼にゆく。 九時過車にて一同オイラセをさかのほり、子の口に至る、モニユマン建設地点を見る、 宇樽部に来り、東湖館入、 後小憩後舟にて十和田湖を一周、東湖館に帰着、夜談話、 (宇樽部泊)

昭和27年6月17日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見です。

子の口」は、十和田湖から奥入瀬川が流れ出す地点。元々、像はここに建設予定でした。その後、横槍が入り、現在の休屋地区に変更になっています。「宇樽部」は、子の口と休屋の中間の集落。「東湖館」についてはこちら。この夜、関係者一同の前で、モニュメント制作を引き受けることを公言、さらにプライベートで「智恵子を作ろう」と呟いたと云います。

3.11当日となりました。11年前と同じような、穏やかな朝です。あの日の朝も、また穏やかな一日が過ぎていくものだと信じて疑わなかったのですが……。

東日本大震災で甚大な被害を受けた光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連で、とりあえず最後です。

昨日までと少し違った切り口で、3月6日(日)の『朝日新聞』さん。

(わたしと震災のあいだに 東日本大震災11年:1)いつか、語れるのかな 家族も家も無事 だから苦しくて それでも

 紺色の制服を着ているのは、私とあと数人しかいなかった。
 2011年4月。宮城県女川(おながわ)町にある女川第一中学(現女川中)の入学式。1カ月前の地震で体育館は壊れ、紅白の幕を張った図書室に約60人の新入生が集っていた。
 ほとんどはパーカやセーターなどの私服姿だ。着るはずだった制服は、家ごと津波で流された。部屋からあふれた上級生は、廊下で校歌を歌った。
 新入生だった阿部由季さん(23)は、自分が制服を着てきたことを悔やんだ。「なんで気づけなかったんだ。私だけ家があることを自慢してるみたい」
 東日本大震災で女川町は9割の住宅が全壊などの被害に遭い、800人以上が犠牲になった。
 5月の大型連休明け。窓を閉めても腐った魚のようながれきの臭いが漂う。放課後、学年主任の教諭に尋ねられた。「震災の前後で家族の人数に変化はありますか」。町役場は流され、住民に関する書類も失われた。学校が家庭の被災状況をつかむ調査だった。
 「先生、すみません」
 声が少し震えた。
 「家族は全員無事でした。家も被害がない。みんなに申し訳ないです」
 涙がほおをつたった。
 その数週間後、生徒たちの俳句が廊下に張り出された。
 「逢(あ)いたくて でも会えなくて 逢いたくて」
 「ただいまと 聞きたい声が 聞こえない」
 自分は震災を簡単に語ってはいけない、と思った。

 16年8月、数台のテレビカメラに囲まれ、次々と質問される。「今はどんな思いですか?」「震災当時を振り返ってどうですか?」
 高校3年になった阿部さんが答えた。「将来の災害に備え、命を救えるようになってほしいです」
 中学2年から同級生たちと女川町に「いのちの石碑」を21基つくる活動を始めた。つらい経験をした友人も活動に参加しているのに、頑張らないわけにはいかないから。碑には「この石碑よりも上に逃げて下さい」と刻んだ。
 阿部さんは何度も取材に応じた。でも、事前に考えた内容にとどめ、自分の思いは口にしない。
 笑顔で話すのは失礼だと思い、眉間に力が入る。家族も家も無事だった自分が「被災者ぶっている」。そんな思いが心に居座り、苦しかった。
 高校を卒業して、教育に携わる仕事に就いた。子どもたちに震災のことを話したいと思っていたが、踏み出せないままだった。

 昨年11月、最後の21基目の碑が完成した。集まった報道陣に中学の同級生たちがそれぞれの思いを語ったが、阿部さんはそこでも発言を控えた。
 自分以外の7人は津波で自宅や家族を失っている。「私の話はやっぱり薄っぺらいから」
 ただ、震災直後と違うこともある。活動をともにしてきた友人たちがいる。
 その一人が鈴木智博さん(22)。震災で母や祖父母を亡くしている。数年前の3月11日に集まったとき、彼は「今日は法事で来るのがけっこう大変だったよ」とさりげなく言った。
 「ごめんね、気がつかなかった」。集まる日を決めた阿部さんは謝った。でも同時に、ずっと家族の話題を避けていた彼が「大変」と正直に伝えてくれたことが、うれしくもあった。
 震災体験は人によって違う。失っていない私は、悲しみを本当のところでは分からないし、震災を語れない。そんな気持はまだ消えない。それでも、お互いを受け入れあえる友人がいることに支えられている。
 コロナ禍が終息したら、そろった石碑の前で友人たちと語り部活動を始める。
 「私は自宅も家族も無事でした」。女川を訪れてくれた人に語れる日が来るのかな、と思う。

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読んで切なくなりました。「あなたが負い目を感じる必要はないんだよ」と云いたくもなりました。「震災で家族を亡くした友人がいる」というだけで、辛いことです。女川町の友人を亡くしている当方としては、そう思います。

続いて、『産経新聞』さんのニュースサイト。紙面に載ったかどうか、不明ですが。

震災11年 陛下見守られる「記憶の襷」 女川中卒業生が描く夢

 「バトンズ・オブ・メモリー(記憶の襷(たすき))」。天皇陛下が昨年、国際会合で紹介された東日本大震災の津波碑が、宮城県女川町にある。千年に1度といわれた災害で死者・行方不明者が800人を超えた同町で、悲劇を繰り返さないため、震災当時の子供たちが夢見た「1000年後の命を守る」21基の石碑。昨年11月には最後の1基が完成したが、成年となった子供たちは新たな夢を描き始めている。
 「石碑は、過去の災害を知るうえで役立つだけではなく、未来の人々の命を守るため、災害の記憶と教訓を未来へと繋いでいく『記憶の襷』でもあるのです」。昨年6月、各国首脳ら約500人が参加してオンラインで開催された「国連水と災害に関する特別会合」。陛下は1枚のスライドを示しながら、英語でこう、語りかけられた。
 スライドに映されたのは、震災直後の平成23年4月に女川第一中(現・女川中)に入学した生徒ら。社会科の授業で津波対策案を立て、町内にある21の全ての浜に避難の目印となる石碑を建てようと、募金活動を実施。半年間で1千万円を集め、25年11月に1基目を建立した。現在も卒業生ら十数人が石碑建立や教科書作り、体験の伝承などの活動を続けている。
 陛下はライフワークとして過去の災害の記録や石碑を研究しており、女川の石碑についても熱心に資料を集められていたという。ご研究を支える広木謙三・政策研究大学院大教授(62)は「『記憶の襷』というお言葉のとおり、過去に学び未来に生かすということは、陛下が大切にされてきたメッセージ。特に、若い世代の人たちがそうした活動に継続的に取り組んでいることに、関心を持たれたのではないか」と話す。
 「21基目が、できたんですね」。広木教授は昨年11月、陛下からこう、言葉をかけられたという。
  
 「自分たちの活動が、陛下のところにまで届いていたんだなあって。でも、まだ、これからなんです」
 10年以上活動を続けてきた女川第一中の卒業生の一人、伊藤唯(ゆい)さん(23)=横浜市=は今、新たな一歩を踏み出そうとしている。最近、その「準備」として始めたことがある。
 《3月11日…教室で卒業式の準備をしていた時に地震が起きて、机の下に潜った…真っ黒な津波を見て言葉を失う…みんなで歌を歌って気持ちを紛らわした》
《4月12日…私服での入学式…「愛するふるさとが、大震災で大変なことになった。社会科として何ができるか。小学校で学んだことを生かして考えてみよう」…最初の授業の先生の言葉》
 スマートフォンのメモアプリに、びっしりと書き込んだ震災以降の記録。「自分の体験を、きちんと伝えられるように」と2月から書き始めた。でも、「一気には書けない」。
 毎年3月が近づくと、体調を崩す。当時の光景がフラッシュバックする。眠れない。昨年10月、東京などで最大震度5強を観測した地震でも大きな衝撃を受けた。それでも、「自分の言葉で伝えていけたら、伝わり方も変わるんじゃないか」とメモに向かう。震災と向き合う「怖さ」が「なくなってしまうことのほうが怖い」。活動を通じて、そう思うようになった。
 最後の石碑が完成した昨年、集まった同級生らは、「ここがスタートライン」と口をそろえた。活動について話し合う年末恒例の「合宿」にも、多くのメンバーが参加。「石碑を世界文化遺産に」「新しい教科書を作りたい」…。新たな夢、やるべきことが「山のように」出てきた。
 「石碑を設置して終わりじゃない。千年先に、あの石碑を使って一人でも多くの命を救えていたら、その瞬間に、自分たちの夢が本当にかなう」。1基目の石碑が建ったあの日のように、皆で描いた夢は必ず実現できると、信じている。
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第5回国連水と災害に関する特別会合」についてはこちら

11年が経ち、この手の報道は激減するのでは、と心配していたのですが、杞憂でした。マスコミの皆さんの「この手の報道を激減させてはいけない」という気概を感じます。ありがたし。

【折々のことば・光太郎】

古間木駅下車、副知事等出迎、車にて蔦温泉まで、三本木を通る、 大町桂月墓に詣づ、 (蔦温泉泊)〈(浴)〉


昭和27年(1952)6月16日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作となった「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見です。もっとも、この時点ではまだ青森県からの依頼を受けるか否か、決めかねていましたが。「古間木駅」は、現在の三沢駅です。

もともとこのモニュメントが、十和田湖の国立公園指定15周年、さらに十和田湖の景勝美を広く世に紹介した大町桂月ら、功労者の顕彰碑というコンセプトだったため、桂月が移り住んだ蔦温泉に立ち寄りました。

昨日に続き、東日本大震災で甚大な被害を受けた、光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連です。

『毎日新聞』さん。3月6日(日)の一面トップでした。かつて数年間、女川光太郎祭で光太郎詩文の朗読をなさった鈴木智博さんに迫ります。

宮城・女川、津波到達点の石碑 1000年後の命を守る

013 波は穏やかに打ち寄せていた。東日本大震災から10年以上が過ぎた宮城県女川町。多くの漁船が行き交い、カキなどの養殖が行われている女川湾を見下ろす高台に2021年11月21日、1基の石碑が完成した。碑にはこう刻まれている。「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」。碑の周りには20代の若者たちの姿があった。
 震災の教訓として、町内の沿岸部21カ所の「浜」と呼ばれる集落の津波到達点に石碑を建てる――。こう計画したのは、震災直後に中学生になった鈴木智博さん(22)をはじめとする仲間たち。11月に完成した碑が目標とした21基目。「1000年後の命を守る」。この誓いを、ともに被災した同級生たちと次世代に受け継ごうとしている。
 小学校の卒業を間近に控えた「あの日」の朝も、いつもと同じように母の智子さん(当時38歳)に見送られた。「行ってらっしゃい」という母の声は今も耳に残っている。
 小学3年だった妹と一緒にバス停まで走った。生まれ育った尾浦地区の当時の人口は約200人。ほとんどの家が漁を営んでいた。
 教室で卒業式の準備をしていた午後2時46分。突然「ドン」と突き上げるような揺れに襲われた。机の下に隠れたが、激しく動く机を押さえることができなかった。避難した校庭の地面はひび割れ、しばらくすると雪が降り始めた。体がぬれないよう、頭上に大きなブルーシートをかぶせられ、その下で膝を抱えて寒さをこらえていた。
 「津波が来たぞ!」。約50分後、大人の叫び声が校庭に響いた。より高台にある総合体育館に向かって走った。背後から地鳴りのような音に加え、流された建物がぶつかり合うごう音が聞こえ、同級生らの悲鳴と混じり合った。
 たどり着いた体育館で、毛布を体に巻いて過ごした。友人たちには次々と家族が訪れたが、自分の家族は姿を見せなかった。体育館の中はいつしか、家族単位と見られる固まりが増えてきた。「尾浦の方は家が残っているらしい」。そんな大人たちの会話が聞こえたが、不安は消えなかった。 父の高利さん(55)が体育館に現れたのは、震災から数日後だった。異臭が漂うがれきの中を歩き、尾浦地区の寺に身を寄せた。そこで、高利さんから、智子さんと祖父母の3人が「どこにもいないんだ」と知らされた。「どこかに逃げていてほしい」心の中で何度も祈ったが現実は非情で、3人は遺体で見つかった。
 古里の被害は甚大だった。住民約1万人の8%以上が津波の犠牲となり、6511棟あった建物の約65%が地震で全壊するか、津波で流された。自宅を失った鈴木さんは親類のいる仙台市に避難。さらに奈良県の親類宅に移った。女川町に戻るのは、再び雪がちらつき始める約9カ月後のことになる。

◇中学生が建立を計画
鈴木さんが進学するはずだった町立女川中学校(当時は女川第一中学校)は4月12日に再開し、入学式を行った。校舎は女川湾を望む高台にあり、被害を免れた。生徒の半数以上は各地の避難所から臨時のスクールバスで通った。
 未曽有の災害で教師たちも混乱を極めた。1年生の学年主任になった阿部一彦さん(55)も悲惨な出来事を経験した生徒とどう向き合うか悩んでいた。入学式から2日後にあった最初の授業は鮮明に覚えている。教室の窓は全てカーテンが閉められていた。壊滅的な被害を受けた町を見ないようにするためだった。 授業の冒頭に「今の女川にできることを考えてみよう」と切り出したが、生徒の反応は薄かった。「被災した町の様子も見せずに、どうやって古里のことを考えさせられるんだ」。思い切ってカーテンを開けた。3階の窓からは、がれきが広がる町の中心部と、遺体を捜す大人たちの姿が見えた。すると生徒たちも一斉に立ち上がり、窓から変わり果てた古里を見下ろした。
 「見せてはいけなかったかもしれない」。阿部さんは再びカーテンを閉めてから後悔したが、生徒たちは机に向かい「女川にできること」を書き始めていた。「漁業を復興しよう」「観光の町だけど、今は観光どころじゃない」……。10代の子どもたちなりに考えた未来への思いが並んだ。「前を向こうとする生徒のために、私も何かやらなければいけない」。阿部さんは生徒たちと、次のいけない」。阿部さんは生徒たちと、次の津波対策を考えていこうと決めた。
 授業の一環として生徒たちは町を歩き、津波の到達点を確認していった。震災から8カ月が経過した11年11月。津波の到達点に石碑を建設して避難路を整備することなど、三つの「対策案」をまとめた。
 1カ月後、鈴木さんが避難先から女川町に戻ってきた。久しぶりに会った同級生たちが石碑の建設を計画していると知って驚き、同時に否定的な考えが頭を占めた。「そんなこと、中学生にできるわけがない」
 だが、鈴木さんたちは、時に涙して被災体験を友人らと語り合い「いのちの石碑」を建てる活動に踏み出していく。
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さらに3面に続き。

宮城・女川、津波到達点の石碑 10年かけて21基完成 次世代に活動語り継ぐ

011 巨大津波が襲った宮城県女川町で育った鈴木智博さん(22)には三つの古里の姿が目に浮かぶ。一つ目は、もう正確には思い出すことができない震災前の町。二つ目は、鮮明に脳裏に焼き付いている津波が押し流した町。そして復興計画が進み、生まれ変わった今の町――。
 鈴木さんは2011年12月、避難先の奈良県から女川町に戻ってきた。更地が広がっているだけだった。
 中学校での友人たちは自然に受け入れてくれた。「プリントが配られる度に、お前の机の中に入れるの大変だったんだぞ」。自分の存在を忘れずにいてくれた同級生の言葉がうれしかった。仮設住宅での暮らしだったが、同級生は誰もが同じような境遇。「避難先では、被災していない地域とのギャップを感じていました。でも、女川に帰ってきて、普通の中学生に戻れたような気がしました」
 それでも同級生が取り組んでいた津波対策を考える授業には積極的に関わる気になれなかった。母と祖父母の3人を奪った津波のことを思い出したくはなかったし「対策を作っても無駄だ」とも感じていたからだ。震災をテーマにした作文には自分の体験や家族については何も書かなかった。

◇被災経験作文に
転機は2年生の12年7月、仙台市などで開かれた「世界防災閣僚会議」に参加したことだ。開会式では、親族を亡くした同級生が代表して演台に立ち、家族を失う悲しさや防災の大切さを訴えた。 会議から約10日後の放課後。鈴木さんは、学年主任だった阿部一彦さん(55)の前で切り出した。「先生、俺も書いてみます」。どうして嫌がっていた作文を書こうと決めたのか、はっきりとは思い出せない。経験を人に伝えたいと思う一方で、被災の記憶が曖昧になっていくことにモヤモヤした気持ちを抱えていた。「文章にしたらすっきりするかな」。そう考えたのかもしれない。
 作文は全校集会で披露することになり、一晩で書き上げた。震災があった日の朝のこと、県外へ避難したこと、家族への思い……。気持ちが整理されたわけではなかったが「自分の中で一つの区切りにはなったかも」。全校集会の後、生徒たちは津波対策案の実現に向けて実行委員会を作ることを決めた。同級生の中で唯一親を亡くしながら、被災と向き合おうとした鈴木さんを友人が委員長に推薦した。鈴木さんは「お飾りみたいなものだろうと思っていたんですよ」と、重責を引き受けた当時を振り返り、笑みを浮かべる。
 中学生が始めた小さな活動は、徐々に町を巻き込んで本格化していった。女川町は沿岸部に漁業を営む「浜」と呼ばれる集落が点在し、いずれも津波の被害を受けた。避難を促す石碑は、津波が襲った21カ所の浜の全てに建てるべきだ。そう考えた鈴木さんたちは、12年11月に町長や町議会にも石碑建立を提案した。 ただ、鈴木さんは口にしなかったが「大人は自分たちに授業として津波対策を考えさせたいだけだ。結局、石碑なんて建たないんだろう」と冷めていた。建設資金が1000万円と聞いた時は気が遠くなった。
 それでも費用を募金で集めることを決め、13年2月、町内の仮設商店街や旅館、水産会社に頼んで募金箱を置かせてもらった。3年生の時に修学旅行で訪ねた東京では、企業や大学を訪ね、協力を呼び掛けた。
 後ろ向きな気持ちが少しずつ変わっていった。津波対策を訴えると、子どもの話だと聞き流さずに真剣に耳を傾けてくれる大人たちがいた。全国から寄付も相次ぎ、わずか半年で1000万円が集まった。「本当に石碑を建てられるかもしれない」。計画は現実味を帯びてきた。
 石碑に刻む言葉は「自分たちと同じ思いをする人が二度と出ないように」と生徒が知恵を出し合って考えた。石碑の形は町内にある鎌倉時代の供養塔を参考に、上部の右側が高くなるデザインにした。津波で命を奪われた大切な人たちへの追悼の思いも込めたいと、鈴木さんが提案した。
 最初の石碑は同年11月23日、女川中学校の敷地内に完成した。鈴木さんが「無理だ」と否定してから約2年。「自分たちの活動が形になった」。達成感がこみ上げた。ただ、町の復興は始まったばかりで、高台造成が終わらずに石碑が建てられない集落も多かった。「成人式までに全ての石碑を建てよう」。それがみんなの次の目標になった。
 生徒たちは、津波で壊れた建物を震災遺構として後世に残すことも町に提案した。実は、鈴木さんは「津波を思い出すから見たくない。残したところで本当に震災のことが伝わるのか」と反対していた。だが戦争の悲惨さを広島から世界に発信する原爆ドームを思い、意見をのみ込んだ。生徒たちは13年10月に須田善明町長と面会。町は程なく、津波で横倒しになった旧女川交番を保存する方針を決めた。須田町長は「子どもたちの思いを確認した上での決断だった」と明かす。

◇見守った保護者
 これらの活動は、当初から賛同者ばかりだったわけではない。「悲しい思い出を直視させていいのか」「(親が)止めなければだめじゃないか」。そうした声が渦巻く中、活動を見守る「支える会」の代表になった保護者の一人、山下由希子さん(53)は「子どもたちを信じましょう」と周囲の説得を続けた。山下さんは津波で友人を亡くし、自宅を流された。生活を立て直すことに精いっぱいだった時、未来を語る息子たちの姿に励まされた。石碑を建てられる場所も探し、地権者らと交渉した。子どもたちにはばれない ように、こっそりと。
 鈴木さんたちが14年に中学を卒業すると活動は休日が中心となった。集まれる機会が減っても活動を続けたのは、そこが同じ境遇の仲間たちがいつも同じように出迎えてくれる「居場所」だったからだ。
 その年の5月、鈴木さんの古里、尾浦地区に石碑が完成した。この頃から、鈴木さんは各地で中学生らに向けた講演を頼まれることが増えた。震災を知らない子どもたちは真剣なまなざしで被災体験に聴き入ってくれた。大学生になると、石碑や震災遺構を案内する町の語り部ガイドも引き受けるように。19年には町の追悼式で遺族代表としてマイクの前に立った。人見知りな性格を自覚している。「昔の自分からしたら信じられない。でも石碑を建てる活動があったから、震災と向き合うことができた」
 21基目の石碑は、21年11月21日に完成した。場所は、新しく建てられた女川小・中学校の前。除幕式が開かれた高台からは復興した女川の町と、太陽の光を反射する女川湾がよく見えた。
 その3日前、鈴木さんは自分たちが学んだ旧校舎の敷地内に建てた1基目の石碑の前で、修学旅行で訪れた中学生約100人に体験を語っていた。今だからこそ必ず口にする言葉がある。「中学生や高校生までは誰かに守ってもらう立場だったと思います。でも、皆さんが大人になったら、自分が誰かを守らなければいけない立場になる。その時に、震災のことを思い出してほしい。今ここで聞いた話を伝えてほしい」
 中学生の頃は被災体験を隠すものだと思っていた。「どんなに頑張っても、石碑が建っても、震災を『良かったこと』にすることはできない。震災のマイナスは大きすぎる」と考えていたからだ。でも活動を支えてくれた多くの出会いを経て「この経験を少しでもプラスの方向に変えていきたい」と思えるようになった。
 この春、社会人になる。震災前の女川の姿は薄れてきたが、1000年後の命を守る。「次の目標は私たちが活動した意味を下の世代に語り継いでいくこと。残りはまだ990年もあるんです」

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11年が経とうとし、記憶の風化が懸念されていますが、その中でこれだけ長い記事を、一面トップ、さらに三面と2ページにわたり掲載して下さった『毎日新聞』さんの英断に、敬意を表します。

明日は同じく「いのちの石碑」関連、違った切り口での報道を。

【折々のことば・光太郎】

花巻カジ町シバタにてレインコオトを求む、やぶにて中食ビール、 花巻温泉に行き、マドロスパイプ、モモヤマ等、 鎌田女史にあふ、一緒に花巻駅七時の電車で(志戸平温泉泊)


昭和27年(1952)6月15日の日記より 光太郎70歳

翌日、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、十和田湖方面に向かいます。「やぶ」は宮沢賢治もよく通った「やぶ屋」さん。「モモヤマ」は「桃山」、現在も販売されている刻み煙草の銘柄です。花巻温泉や大沢温泉に泊まることが多かった光太郎ですが、この日は大沢温泉の近く、志戸平温泉に宿泊しました。翌日からの長旅に向けて、英気を養おうとしたのでしょう。

十和田湖で撮られた写真には、この日購入したレインコートと思われるものを着た光太郎が写っています。
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今年も3.11が近づいて参りました。

宮城県女川町。昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎が女川を訪れたことを記念し、平成3年(1991)に竣工した光太郎文学碑の建立に奔走し、その後の女川光太郎祭運営に尽力した貝(佐々木)廣さんが、津波に呑まれて亡くなって、もう11年か、という感じです。

震災後、津波の際の避難の目印として、町内の高台に建てられ続けてきた「いのちの石碑」。光太郎文学碑の建設費用が募金でまかなわれたことに倣い、当時の中学生たちが全国に呼びかけ、浄財が集まりました。震災から10年だった昨年には、当初計画の21基が完成しています。

先月15日の『河北新報』さん。仙台市の尚絅(しょうけい)学院中学校さんの生徒さんたちによる「尚絅新聞」というコーナーで、「いのちの石碑」を訪れた際のレポート等が。

1000年後の命を守りたい 宮城・女川 震災教訓刻んだ「いのちの石碑」 実行委・鈴木さん 「1000万円 募金集め建立」

 「1000年後の命を守っていくための活動です」
 旧女川中の敷地内に建てられた「いのちの石碑」を前に鈴木智博さん(22)は実行委の取り組みを語りました。震災当時は小学6年生。直後に入学した女川中の同級生らとともに、2012年秋ごろから津波の脅威を伝える石碑を建設しようと活動を始めました。
 提示された1000万円の建設費用は、修学旅行先の東京など、各地で100円募金を呼び掛け、約半年かけて集めました。
 13年11月、1基目が完成。女川町内の全21行政区に、順次石碑が設置されました。石碑には、「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください」という言葉を入れました。
 さらに、女川中の生徒が考えた俳句も添えられています。「夢だけは壊せなかった大震災」「ただいまと聞きたい声が聞こえない」など全21基にそれぞれ句が彫ってあります。どれも震災を経験して感じた率直な気持ちが込められています。
 実行委では、震災の記憶を後世に伝えるための「命の教科書」の制作など、さまざまな活動にも取り組んでいます。
 長い間、海と共に暮らしてきた女川の人にとって、海はなくてはならない存在。津波が街を襲っても、再び海の見える街をつくろうと決断しました。鈴木さんたちの活動は、これから増えていく震災を知らない世代に、自分の命を自分で守る大切さを伝える役割も担っているのです。
 最後の1基は21年11月23日に完成しましたが、「1000年先の命も守る」という思いを持つ鈴木さんたちにとっては、たった1%を過ぎただけ。鈴木さんは、「大きな津波が来たとしても、被害を受ける人を一人でも少なくしたい。そして、残りの990年、みんなで命を守っていきたい」と強く語りました。
 今回、鈴木さんにお話を聞いて、いのちの石碑の存在をもっとたくさんの人に知ってもらい、命を守るために何ができるかを考えていきたいと思いました。
【2年生 佐藤ひかり・鳥飼日和・藤枝慎之輔】

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記事にある鈴木智博さん。かつて、毎年8月9日(光太郎が昭和6年=1931に、「三陸廻り」執筆のため東京を発った日)に行われていた(一昨年、昨年はコロナ禍のため中止)光太郎を顕彰する「女川光太郎祭」に複数回参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさいました。

最近はこのように県内外から訪れる人々に、「いのちの石碑」のあらましを伝える語り部としても活動されています。今年1月の栃木県那須町の広報誌『広報那須』から。
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昨秋行われた、那須中央中学校さんの修学旅行に関わります。この際も鈴木さんがご講演なさいました。

鈴木さん、今月初めと思われますが、NHKさんのローカル番組にもご出演。

未来への証言/女川町 鈴木 智博さん

鈴木 智博(すずき・ともひろ)さん(22)※年齢や情報は取材時点
女川町在住。震災の津波で母と祖父母の3人を亡くした。中学生の時から同級生とともに未来の人たちへのメッセージを記した「女川いのちの石碑」を建てる活動を始め、令和3年11月に当初の目標であった21基目が完成した。子どもたちに震災の教訓を伝える教科書作りや、震災遺構を残す活動も行っている。
(聞き手・構成:丹沢研二アナウンサー 令和3年12月22日取材)
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小学校卒業間近 津波が町を襲った
丹沢)つらい記憶を思い出すことにもなるので、話したくないことは話したくないと言ってくださいね。震災当時は小学校6年生?
鈴木)小学校6年生ですね。卒業式の練習が終わって教室に戻って反省会とかをしていた時間でした。
すごい覚えているのが、黒板の横に天井からちょっと低いくらいの戸棚が置いてあって、その上にブラウン管のテレビが置いてあったんですね。それが地震の揺れで目の前にバーンと落ちてきてグチャグチャになって、机の下には隠れていたんですけど机ごと揺れて動いて、という状況でした。その後はいったんみんなで校庭まで急いで避難しました。3月で雪もちらほら降っていたのですごい寒くて、でも着のみ着のまま避難してきました。先生が、余震もあったんですけど学校の中に戻って、上着を取ってベランダからポンポン投げてくれて、それを拾って自分のを着たのを覚えています。
丹沢)津波が来たときはどんな状況でしたか?
鈴木)地域の人たちが下からどんどん避難してきて「津波が来る」って誰かが言いました。僕自身は見てはいないんですけど「すごい勢いで波が来る」って言うので、そこからもっと上の方の、山の上の総合体育館に避難しました。最初の夜はクラスの友達同士で集まっていたんですけど、次の日とか、ちょっと経ってくると家族の人が迎えに来たり一緒に避難したりしていましたね。そこにどれぐらいいたのかな。1週間までいないと思うんですけど。
丹沢)家族の安否は分からなかった?
鈴木)全然分からなかったです。当時避難所で、よく遊びに行っていた家の人に混ぜてもらって一緒に毛布みたいなのに入らせてもらっていたんですけど、人づてに尾浦の方ではうちのお父さんは何とか大丈夫そうだと、船回してるっていうのはちらっと聞いて、それ以外は全く分からない。妹2人いて、上の方は小学生だったんで一緒に避難して分かっていたんですけど、当時保育所にいた下の妹の方は全然分からないという状況でした。
丹沢)分かったのはいつぐらいですか?
鈴木)お父さんが女川町内から外れた浜だったので、何日か経った後に同じ浜の近所の人が迎えに来てくれて、その時に下の妹は保育所の先生が避難させたって一緒に来て、そのあと自分の浜に帰ってから、お母さんとおじいさんおばあさんがいないんだっていうのを聞かされました。
丹沢)どこで亡くなったとか詳しいことが分かったのは?
鈴木)最初おじいさんだったんですけど、それが大体5月6月ぐらいだったかな、確か。7月まで仙台市の方に避難していて、そこから奈良県に行くんですけど、7月までにおじいさんとお母さんは何とか見つかりました。その後におばあさん。おばあさんだけ見つからなくて、DNA鑑定で分かったという状態でした。

父と子ども、家族4人の生活に
鈴木)最初女川のお寺で3月末ぐらいまで、そのあと仙台の伯母さんの所に避難して、そのあと奈良県にお母さんの実家のおじいさんおばあさんがいるんですけど、そこに避難しました。
丹沢)転々としながら。女川に戻ったのはいつぐらいですか?
鈴木)2011年の12月末ぐらいかな。冬休みに入る時に転校して、こっちに帰って来て仮設住宅に入って、1月から女川の第一中学校に通い始めました。中学校高校で大体5年弱ぐらい仮設住宅に4人で住んでいたんですけど、お父さん、仕事は毎日朝も早い中で、朝ご飯、夕ご飯、高校の時はお弁当も作ってもらって。本当に感謝しています。
丹沢)当時お父さんは漁に出て、カキの養殖とか…。
鈴木)メロウド漁も行っていました。朝はいなかったですね。たぶん何か出来たやつをチンしたりしていたのかな、高校の時は。今だと自分でぱっと作れるんですけど。お弁当買ってあることが多かったかな。
丹沢)その中で長男だったらまだ3歳だった妹のお世話とか…。
鈴木)そうですね。妹と遊ぶからっていうので家事からは逃げていましたね。(笑)

家族を失った悲しみは…
丹沢)お母さんやおじいさんおばあさんが亡くなった悲しみを家族で受け入れていくのも大変だったんじゃないですか?
鈴木)たぶん…。最初の方はそんな暇もなかったのかなと思いますね。毎日大変すぎてあまり覚えていないんですよ。妹2人の方が覚えているかなって思うんですけど、それどころじゃないぐらい毎日毎日何かしなきゃならなかったので、やっと今になって少しずつって感じじゃないかなと思います。
丹沢)今になって?10年経って…。
鈴木)本当に。そんな暇がないくらい、毎日大変だったかなと思いますね。
丹沢)今思い出すことはあります?
鈴木)そうですね。たとえば卒業式とか成人式とか。もしかしたらその先の結婚式とかあるかもしれない中で、そういう時にたぶん思い出すんだろうなというのはありますね。お父さんが言っていたのは、「見せたかった」じゃないですけど、卒業式とかそういう締めの時にいないのは思う所があるみたいです。

1000年後の命のために石碑を建てる
智博さんは中学生時代から同級生らとともに石碑を建てる活動を始めた。「1000年後の命を守るために」を合言葉に、津波の到達点より上の高台などに設置されている。写真は2013年11月23日、1基目の石碑の除幕式の時のもの
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鈴木)石碑は、2011年4月に津波で大変なことになってしまった故郷のためにどういうことが出来るかみんなで考えたいという授業を最初にしたらしいんですけど(※当時智博さんは仙台の中学校に通っていてた)、急にこっちに帰ってきたら「石碑を立てたい」とか色々聞いて、「無理だろうな」って。どうせ中学生が言っているだけで、計画させて「よく出来ました」で終わりなんだろうなって何となく思っていたんですけど、1年生の最後の方に、当時の僕は何を思ったか分からないんですけど、社会科の先生に「作文を書きます」って言ったんですよ。内容が震災の記憶というか体験について。「誰か書く人いれば教えてね」と言われて「僕書きます」って言っちゃったんですよ。そこから中心っていうか関わるようになってきて。僕の始まりはそんな感じでした。

中学校1年生だった智博さんの作文。智博さんたちが作った「女川いのちの教科書」に掲載されている。
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丹沢)作文を見た周りの人たちが「こういう思いがあるなら」ということで巻き込んでいったんですか?
鈴木)作文を書いたあとに、委員会みたいなのを作ろうという話があった時に勝手に名前が載っていたんです。当時「津波対策実行委員会」って名前だったんですけど、そこに入れられていて、「実家が漁師だから海のことにも詳しいだろう」って委員長に祭り上げられて、そこから中学校の間は一応まとめ役としてやっていました。

中学生が1000万円の資金を集める
丹沢)石碑を建てるとなったらお金とか色々なことが出てくるでしょう?
鈴木)一番はやっぱりそこで、まず協力してくれる石屋さんがなかったんですよ。最初の頃。丸森の石屋さんに何とか紹介していただいて、行ったら「石は寄付させていただきます」と。本当に有難い話なんですけど、「設置費と工事費、あと彫るお金は何とかしてほしいです」と言われて、どれぐらいなのかなと思っていたら、「1000万かかる」って言われたんですよ。
丹沢)中学生で…。
鈴木)いやこれはどうしようって思って、でもせっかくやってきたんだし、お金がないから募金して集めるしかないよねって。中学2年生の秋、冬ぐらいかな、最初100円募金で色んなお店に募金箱を置かせていただいて女川の町内で募金活動していました。そのあと東京に修学旅行で4月に行った時に、まあ大人になってからでも東京は行けるだろうし、中学生の時、この活動をやっている時にしかできないことをしたいねということで、文部科学省とか電通とかジブラルタ生命とかユネスコとかそういう所にお邪魔して発表して募金活動させてもらいました。2013年の夏に目標の金額達成して11月に第1基、第2基の披露ということでつながりました。
丹沢)すごい!中学生が1000万。
鈴木)そうなんですよ!本当にまさかと自分たちもびっくりしたんですけど、何より先生方とか、よく来て取材していた方とかが、もう「まさか」って感じで本当にびっくりしていました。

自分と同じ思いはしてほしくないから
丹沢)気が付いたら委員長になっていたという状態で。そういうことを頑張るのはすごくはっきりした意志がないとできないんじゃないかと思うんですけど…。
鈴木)はっきりした意志があるかと言われたらそれは自分でもよくわかっていない所はあるんですけど、でも、地元のために何かしたいなっていう気持ちと、自分みたいな被害というか、同じ思いをしてほしくないって思いは中学校の時から今もあると思います。僕だけじゃないんですけど、みんなそういう気持ちで、何とか今もやっているのかなという気がしています。
よく「建って良かったね」「これで終わりだね」って言われるんですけど、建てて終わりではなくて、100年後だろうが200年後だろうが1000年後だろうが、それがあるからこそ一人でも多くの人の命を救えたら、その時にやっと建てて良かったなというのを思うと思うんですよ。
ゴール的には、一人でも多くの人の命が次に災害が起きた時に助かればって思いでやっています。
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「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」
「逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください」などと刻まれている。

“夢だけは 壊せなかった 大震災”
石碑にはそれぞれ五七五のメッセージが刻まれている。1基目と21基目のメッセージは「夢だけは 壊せなかった 大震災」
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丹沢)「夢だけは壊せなかった大震災」あの言葉は誰が考えたんですか?
鈴木)あれは同級生です。僕ではないんですけど、当時中学生だった僕らの1個2個上の世代の人たちが国語の授業で、俳句の短い言葉で自分の思いを吐き出そうという中で出来た俳句で、これはいいなって思うのを自分たちが選んで載せています。あの「夢だけは壊せなかった大震災」もその一つで、第1基と最後の石碑の両方で同じやつが刻まれています。
丹沢)ちょっと難しい質問かもしれないですけど、夢ってなんですか?
鈴木)笑。難しいですね。
丹沢)智博君にとっての。
鈴木)そうですね。なんでしょうね。昔から「自分はこうしたい」というのはあんまりないんですけど、何かしらの形で人のために貢献できるような活動ができればなあって思っていた所があったので、それがこういう防災の活動に近いのかなっていうのはあります。これを自分が嫌になるまで、とりあえず死ぬまで続けていきたいなって。自分も続けられるようにですけど、下にもちゃんと受け継いでいけるような、そういう活動をしていきたいなっていうのが、夢ですかね。

あの甚大な被害、そして残された人々の思い、決して風化させてはならない、と、改めて思います。明日もこの項、続けます。

【折々のことば・光太郎】

晴、 かたづけ、洗濯、毛皮収納、


昭和27年(1952)6月13日の日記より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋。さすがに6月ともなれば、マタギから買い求めた分厚いカモシカの毛皮も不要となったようです。
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今年も3.11が近づいて参りました。そこで、仙台に本社を置く『河北新報』さん主催のオンラインイベントです。

3.11大震災メモリアルトーク 想いと未来を語る2022

期 日 : 2022年3月11日(金)
時 間 : 19:00~20:30 
料 金 : 無料

新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、総合的に判断し、今年もオンラインで開催します。どこからでも、どなたでも視聴できますので、皆さまぜひご参加ください!

ライブ配信の視聴方法
当日この特設WEBページに動画配信スペースを設けますので、このページから視聴できます。 時間になりましたら、スマートフォンやパソコン、タブレットなどからこちらのページを表示してください。 こちらのページを表示しやすいように、ブックマークなどにご登録いただくことをおすすめいたします。

3月11日イベント当日に配信した映像を一部編集し、3月後半からアーカイブ配信を実施します。ぜひそちらもご覧ください。
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018トークイベントホスト
 声優 山寺宏一 さん
1961年6月17日生まれ。宮城県塩釜市出身。1985年声優デビュー。アニメ、洋画、ラジオ、ナレーションなど声に関するあらゆるジャンルで活躍中。3.11大震災直後から、復興支援や募金活動に参画。例年「3.11メモリアルイベント」に出演。

トークゲスト
 音楽家 かの香織さん
1991年、ソニーミュージックエンタテインメントよりソロデビュー。東日本大震災で被災し統合・閉校となった校歌を高品質のデジタル音源で100年以上先の未来へ伝えるための「校歌復刻保存プロジェクト」を進行中。これまで県内6校歌をデジタル化。
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 プロレスラー 新崎人生さん
徳島県出身。1993年、みちのくプロレスでデビュー。お遍路さんのスタイルと、リング内外で言葉を発しないという特異なキャラクターで一躍注目を集める。被災地を巡ってプロレス披露やラーメンを振る舞うなど、復興活動に尽力。現在はコロナ禍で苦しむ中小企業などを支援。

 「女川いのちの石碑」女川1000年後のいのちを守る会 有志
1000年先の命を津波から守ろうという目的で、震災直後に女川一中(現女川中)に入学した生徒たちが石碑の建立を発案。2013年11月に1基目を設置、2021年11月には目標の21基目を設置完了。津波到達地点より高い場所にあり、地震が来たら石碑より高い所へ逃げるようメッセージが記されている。

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当ブログでしばしば取り上げさせていただいている、宮城県女川町の「いのちの石碑」を建て続けてきた「女川1000年後のいのちを守る会」有志の皆さんがご出演。「いのちの石碑」は、東日本大震災の後、当時の中学生たちが考案した、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町の光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、建てられ続けたものです。昨秋には当初予定の全21基が完成しています。

昨年は10年の節目ということで、3.11関連、メディア等で大きく取り上げられました。今年以降、記憶の風化との戦いとなるかと思いますが、精一杯の抵抗をしていこうではありませんか、と思います。

案内にもありますが、ライブ配信、そして今月後半には編集されたもののアーカイブ配信もあるそうですので、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

一時半公民館にて賢治子供の会の童話劇を見る、四時過ぎ終り、写真撮影後タキシにて小屋にかへる、

昭和27年(1952)5月24日の日記より 光太郎70歳

賢治子供の会」は、宮沢賢治記念館の初代館長も務められた故・照井謹二郎氏が昭和22年(1947)に立ち上げ、第一回公演は光太郎の山小屋前の野外で行われました。以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続けました。会の命名も光太郎とのこと。

「写真撮影」、下記の写真です。
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この年10月、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京する光太郎にとって、最後の「賢治子供の会」観劇でした。

このブログでたびたびご紹介している、宮城県女川町の「いのちの石碑」。東日本大震災直後に中学校に入学した若者たちが、津波の際の避難の目安にと、町内の浜の高台に建て続けてきたものです。中学校での授業の中でその設置を考え、費用は同じ女川町の光太郎文学碑(平成3年=1991竣工)に倣って、募金で賄われました。
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先月、当初予定の全21基の最後となった碑が除幕されましたが、その時の様子や、これまでの活動、そして立役者の若者たちの現在の様子などを、一昨日、NNN系ミヤギテレビさんが報じました。題して「女川いのちの石碑10年 その先の夢」。ネット上でもその動画(8分ほど)が見られまして、拝見しました。

これまでの活動について。
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きっかけは、震災直後、社会科教諭だった阿部一彦先生の授業。
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最初の企画書。ここに光太郎文学碑に倣って募金で費用を賄う旨、記載されています。
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町関係者へのプレゼン。
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募金活動。映像はおそらく町内でのものでしたが、彼らは修学旅行先でも募金を呼びかけました。
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そして、あっという間に目標の1,000万円を集め、年に2基くらいずつ、町内の各浜の高台に碑が建てられていきました。
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各碑には、大地震の際には、この碑より高い場所に逃げるようにということなどが記されています。また、佐藤敏郎先生の国語の授業で彼らが詠んだ俳句も刻まれています。

そして、先月、最後の21基目が除幕。
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中心になって活動した、何人かの若者の現在が紹介されました。
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橋梁建設等の会社に就職した渡邊滉大さん。
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上京し、ダンサーを目指しているという伊藤唯さん。
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地元で語り部的な活動を続けている鈴木智博さん。
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今秋、女川を修学旅行で訪れた栃木県の中学生に、講演。
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女川では、毎年8月9日に、女川光太郎祭が開催されています(昨年と今年はコロナ禍で中止)。先述の光太郎文学碑が除幕された翌年の平成4年(1992)に始まりました。かつては当会顧問であらせられた、故・北川太一先生が講演を務められ、その後、当方が引き継ぎました。それ以外に、県内外の皆さんによる光太郎詩文の朗読が為されています。

つい先日、昔の女川光太郎祭パンフレットを引っ張り出して見たところ、かつて鈴木さんがその詩文朗読をなさっていたことがわかり、驚きました。それも、震災翌年の平成24年(2012)から同26年(2014)まで、3回も。もしかすると、それ以前にもやって下さっていたかも知れません。

平成24年(2012)。町営野球場に建てられた仮設住宅内の坂本龍一マルシェが会場でした。
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同25年(2013)、かつてあった仮設商店街に会場が移りました。当時のこのブログを見たところ、鈴木さんが写っている画像がありました。
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翌26年(2014)には、長い紀行文の朗読を担当して下さっていました。
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当方、この当時は鈴木さんのことを存じ上げませんでした。

ぜひまたお願いしたいものです。

ミヤギテレビさんでは紹介されませんでしたが、活動に携わってきた若者の中にはJリーガー海上保安官になった方もいらっしゃいます。
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彼らの未来に幸多かれ、ですね。

【折々のことば・光太郎】

夕方たえ子さん砂糖持参 配給


昭和26年(1951)8月9日の日記より 光太郎69歳

女川の光太郎文学碑の由来となった、新聞『時事新報』の依頼による紀行文「三陸廻り」のため、光太郎が東京を発ったのが、昭和6年(1931)8月9日。その日を記念して、8月9日に女川光太郎祭が行われています。

その丁度20年後の8月9日の日記から。何気なく書かれた一節ですが、終戦後6年経とうとしていたこの時期に、まだ配給があったのか、と、意外でした。調べてみますと、煙草は昭和22年(1947)まで、酒は同24年(1949)まで、衣料は翌25年(1950)まで、それぞれ切符による配給が続けられていたとのこと。もっとも、物によっては配給制も有名無実化していたようですが。

一昨日ご紹介しました、宮城県女川町の「いのちの石碑」。同じ女川町の光太郎文学碑の精神を受け継いだプロジェクトです。

一昨日はテレビ報道系を紹介いたしましたが、今日は新聞記事から。

まず、『朝日新聞』さん。社会面に掲載されました。

女川いのちの石碑 完成 「千年に1度の災害から守るため」

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町で津波の教訓を後世に残す「女川いのちの石碑」が完成し、21日に披露された。
 震災直後の2011年4月、旧女川第一中学校(現在の女川中)の授業で当時の1年生が話し合い、「千年に1度の災害がまた来たときに命を守る」ための活動を開始。町内21カ所の浜の津波到達地点付近に石碑を設置していった。この日の女川中で21基目。当初の計画通り完成した。
 碑には「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などと刻まれた。住民から他の地点にも設置してほしいとの要望があり、今後も活動は続ける。卒業生で祖父母と母親を津波で亡くした大学生の鈴木智博さん(22)は「石碑を建てて終わりじゃない。語り継いだり、防災教育に使ったり、千年後の災害で命を守れたときに意味が生まれると思う」と話した。

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続いて、『毎日新聞』さん。宮城県版での掲載でした。

いのちの石碑、「夢」は続く 女川、目標の21基完成 「1000年後まで」「心に寄り添い」 中学から10年「女川に石碑21基」実現 1000年後の命守る「夢」

 1000年後の命を守りたい-―。東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の中学生の願いから始まった「女川いのちの石碑」の活動が大きな節目を迎えた。目標の21基目が完成し、21日に披露式が開かれた。この10年、力を合わせ活動を続けた女川中の卒業生らは目標達成に感謝し「これからがスタート」と誓い合った。
 21基目が建てられたのは、2020年に新設された町立女川小・中学校の校舎脇で、女川湾を望む一角。石碑には「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などと教訓が刻まれた。
 震災直後に女川一中(後に女川中)に入学した生徒らは誰もが大切な人を亡くしたり、自宅を流されたりする中、社会科の授業で対策を話し合い、「これからを生きる人が同じ思いをしてほしくない」と石碑設置を発案。募金活動で1000万円以上集め、周りの大人も動かして1基目が13年11月に完成。卒業後も「女川1000年後のいのちを守る会」として、町内の各浜の津波最高到達点に建立してきた。
 この日の披露式は、メンバーが「支援への感謝を伝えたい」と関係者を招待し、除幕後、中学時代から支えてきた阿部一彦・現石巻市立桃生中校長らと笑顔で記念撮影。全21基には震災直後に中学生が詠んだ句が刻まれ、21基目は1基目と同じ「夢だけは 壊せなかった 大震災」。メンバーは21基建立という「夢」の実現を喜びながら、新たな「夢」をかみしめた。
 気仙沼海上保安署で働く山下脩さん(22)は「これからがスタート。1000年後まで続け、亡くなる人を1人でも減らすことが夢」と話し、横浜市で暮らす伊藤唯さん(23)は「みんなで続けてきたから自分の夢もぶれなかった。ダンサーとして子どもたちを教えており、活動を続けて誰かの心に寄り添えるダンスが踊れたら」と語った。
 石碑設置と合わせ、当時の記憶を残す教科書づくりや語り部を続けていて、新たな石碑の設置も検討する。
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「共同通信」さん。全国の地方紙や『日本経済新聞』さんが、これを使いました。

女川いのちの石碑、21基目建立 中学生が発案、計画達成

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町で、津波の脅威を後世に伝える「女川いのちの石碑」の21基目が完成し21日、除幕式が開かれた。発生直後に町立女川中に入学した生徒らが「千年先の人々の命を守りたい」と石碑の建立を発案。この日で、町内の津波到達地点より高い場所に計21基建立する計画が達成された。
 最後の1基は、昨年移転した町立女川小・中学校脇に建立。式典で、同級生ら有志でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」会長の阿部由季さん(23)は「石碑が震災を後世に語り継ぐ一つのきっかけになれば幸いです」と話した。
 石碑は震災を記録に残し、将来の津波被害を最小限にするため当時の生徒が提案。修学旅行先などで街頭募金を行い資金を調達し、2013年11月に1基目が完成した。卒業後も活動を続け、これまでに20基を町の防災集団移転地など高台に設置してきた。
 メンバーは今後、追加の建立や、石碑にQRコードを付け、震災前後の町の様子を伝える仕組みづくりを計画している。鈴木智博さんは「まだ1%の10年しか経過していない。残り990年、次の世代に伝えながら防災の輪を広げたい」と語った。
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『読売新聞』さん。社会面で、かなり大きく取り上げられました。

1000年後も 命守る碑 震災直後入学 中学生ら 女川 津波到達地点21基目完成

 東日本大震災で被災した宮城県女川町で、津波到達点に警鐘の石碑を建てる活動を続けてきた当時の中学生らが21日、、目標だった最後の21基目を建てた。震災の教訓が刻まれた「女川いのちの石碑」。「いつまでも忘れずに命を守ってほしい」との願いが込められている。
 震災で町は高さ14.8㍍の津波に襲われ、800人超が犠牲となった。女川第一中学校(現・女川中)の社会科教諭だった阿部一彦さん(55)は、震災直後の4月に入学した1年生の授業で、「ふるさとのために何ができるか」と問いかけた。これをきっかけに、生徒らは町内の津波到達点付近に石碑を建て、被災体験を後世に伝える活動を始めた。
 目標は、町内で確認できた到達点21か所に建てること。修学旅行先の東京都内で寄付を呼びかけるなどして約1000万円を集め、2013年に1基目を建てた。活動は卒業後も続いた。
 21日には除幕式が行われ、高台に移転した女川中近くの設置場所に、活動してきた卒業生や阿部さんらが集まった。大学4年生になった鈴木智博さん(22)は「目指すのは1000年後の人たちの命を守ること。震災を語り継ぎ、世界に防災の輪を広げたい」と語った。
 「夢だけは 壊せなかった 大震災」――。生徒らが当時詠んだ五七五が全ての石碑に1句ずつ刻まれ、最後の21基目は、東北大大学院で地球物理学を学ぶ山田太介さん(23)の句になった。句の通り、地震発生のメカニズムを解明したいと、研究者の道に進むことを目指して努力を重ねてきた。
 幼い頃から、道端できれいな小石を拾うのが好きだった。鉱物の研究者に憧れた。そんな日常を、震災が一変させた。家族は無事だったが、宝物の小石は自宅とともに津波で流された。がれきが散乱する通学路、重苦しい雰囲気の教室。この10年間、厳しい状況でも「震災に夢を変えられたくない」と思い続けてきた。
 「また大災害が起きても、この句を見て少しでも前向きな気持ちになってもらいたい」と願っている。

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地元紙『河北新報』さん。

「夢だけは 壊せなかった 大震災」 いのちの石碑、最後の21基目完成

 東日本大震災の津波の記憶を後世に伝えようと、宮城県女川町の女川中卒業生が建立する「女川いのちの石碑」の最後の21基目が完成し、21日に町内の現地で除幕式があった。2013年11月の1基目設置から丸8年で整備を終えた。同級生らが集い、災害から未来の命を守る決意を新たにした。
 いのちの石碑は震災直後の11年4月に入学した生徒が計画した。「地震が来たらこの碑より上へ逃げて」と避難を促す言葉を碑に刻み、町内各浜の津波到達地点より高い場所に建ててきた。
 21基目は昨年夏に開校した女川小中学校の校舎脇に設置。碑文は1基目と同じ「夢だけは 壊せなかった 大震災」を選んだ。
 全ての碑には災害への備えとして「非常時に助け合うため普段からの絆を強くする」「高台にまちを作り、避難路を整備する」「震災の記録を後世に残す」との文字が刻まれている。
 除幕式には同級生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーや保護者ら約30人が出席した。阿部由季会長(23)が「私たちのようにつらく悲しい経験をすることがないよう活動してきた。震災を後世に語るきっかけになってほしい」と語った。
 守る会はメンバーが中学2年だった13年2月、建立費に充てる募金を開始。約半年間で約1000万円を集めた。現在は社会人や大学生になった約10人が中心となり、各石碑の前で語り部活動を続ける。
 メンバーの鈴木智博さん(22)は「残りの990年、人々が自分の命を守れるように防災の輪を広げていきたい」と力を込めた。
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同じく『石巻日日新聞』さん。

いのちの石碑 計画達成 女川・最後の21基目建立 ゴールでなく〝スタート〟 1千年後へメッセージ

 東日本大震災の教訓を生かし、1千年後の命を守ろうと女川町立女川中学校の卒業生が設置を進めてきた「女川いのちの石碑」の最後となる21基目が21日、お披露目された。出席した卒業生8人は、プロジェクト完結を喜びながらも「これからがスタート」とさらなる伝承活動に誓いを新たにした。
 平成25年11月の第1基設置から丸8年。21基目は、女川の海を見晴らす女川小中学校東側の遊歩道に建立された。
 関係者約30人が見守る中、卒業生で構成する「1000年後のいのちを守る会」の阿部由季会長(23)は「支え協力してくれた皆がいて活動が続いた」と多くの支援に感謝。「この石碑が震災を語り継ぐきっかけになれば」と思いを語った。
 震災当時の中学1年生が「自分たちに何ができるか」考えを絞って取り組んできた。重ねた会合は200回以上。呼び掛けた募金は半年ほどで1千万円を超え、地元石材店からは石碑の無償提供を受けた。
 山下脩さん(23)は「ゴール地点とも思うが、建てることが目的ではなく、今回がスタート。これから伝えていく活動をしたい」、鈴木美亜さん(22)は「一つの自信になり、誇りを持てた。大好きな女川が笑顔あふれる町になればいい」と生き生きとした表情をあふれさせた。
   須田善明町長は「皆さんの思いと行動力には頭が下がる。このつながりを大切にこれからも歩みをすすめてほしい」と激励した。
 石碑には①普段から絆を強く②高台にまちを作り、避難路を整備③震災の記録を後世に残す―などの言葉が刻まれている。すべて津波到達点より高い地点に設置され、避難の目印の役割もある。
 そして後世の人たちへのメッセージも。「今、女川町はどうなっていますか?悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています」
 1基目と同じ山田太介さん(23)の句「夢だけは 壊せなかった 大震災」も刻まれた。
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一昨日も書きましたが、活動に取り組んできた若者たちの多くが、「これがゴールではない」という前向きな姿勢でいることに感動しました。しかし、こうした方面にのみ縛られることなく、それぞれの道で夢を叶えることも期待します。

【折々のことば・光太郎】

新しき村の連中三人来訪、小屋の前に腰かけて談話。甲州のブドウ酒2本もらふ。一緒にのむ。
昭和26年(1951)6月3日の日記より 光太郎69歳

新しき村」は、『白樺』以来の朋友・武者小路実篤が、大正7年(1918)、宮崎県に開いたコミュニティーです。昭和14年(1939)には埼玉県に「東の村」も作られ、さらに昭和23年(1948)には財団法人化も為されました。

実篤のこうした活動の先例も、光太郎が山小屋生活に入った一つの契機と言えるかも知れません。

先週、修学旅行系の報道としてもご紹介しましたが、東日本大震災の津波で、甚大な被害を受けた宮城県女川町。当時の女川第一中学校の生徒の皆さんの発案で、町内の各浜、21箇所に津波の際の避難の目安となるランドマークとして「いのちの石碑」が設置され続けてきました。最初の企画の段階で、かつて女川港の光太郎文学碑が募金で費用をまかなって建てられたことに倣い、「いのちの石碑」も募金活動で資金を集めるということになりました。その意味では、光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。

昨日、その「いのちの石碑」、当初予定の最後の1基が除幕されました。

最後の1基ということで、全国的に報道がなされました。自宅兼事務所で購読している『朝日新聞』さんも社会面で報じて下さいましたし、共同通信さんが記事を配信したため、全国の地方紙の多くがとりあげたようです。それら新聞報道は明日ご紹介いたします。

今日は、テレビのニュースから。

まず、NHKさん。

震災伝える“いのちの石碑” 最後の1基が完成 宮城 女川町

 東日本大震災の記憶や教訓を1000年先まで伝えようと、宮城県女川町の当時の子どもたちが、10年かけて町内の20か所余りに建ててきた“いのちの石碑”の最後の1基が完成し、披露されました。
 宮城県女川町は東日本大震災で最大で高さ14.8メートルの津波に襲われ、町民の8%に当たる800人以上が亡くなりました。
 震災の年に地元の中学校に入学した生徒たちは、1年生の社会の授業で震災について話し合い、1000年先まで震災の記憶や教訓を伝えようと、町内21か所の津波の最高到達点の付近に“女川いのちの石碑”を建てることを計画しました。
 3年生になった頃には募金活動でおよそ1000万円を集め、女川中学校の敷地内に最初の石碑を完成させました。
 石材会社の協力も得てその後も建立を進め、計画からおよそ10年たった21日、最後の21基目が完成して披露されました。
 除幕式には、活動の中心となった卒業生7人のほか多くの支援者が集まり、カウントダウンとともに石碑の幕を下ろしました。
 石碑にはすべて、当時の生徒が考えた五七五のメッセージが刻まれていて、21日に披露された石碑には、8年前に最初に建てた物と同じ「夢だけは壊せなかった 大震災」と書かれていました。
 当時、鉱物学者になりたいという夢を持っていた生徒が詠んだもので、集めていた石を家ごと流されても自分の夢を持ち続けた気持ちが表されています。
 これまで建てられた石碑は、国土地理院の自然災害伝承碑に登録され、県外の中学校が修学旅行で訪れるなど、伝承の拠点になっているということです。
 “女川いのちの石碑”を建てる活動の中心メンバーの1人、鈴木智博さん(22)は、「家族を亡くした僕のような経験をしてほしくないので、今後も石碑を通して、震災を伝える活動をしていきたい」と語っています。
 鈴木さんは、小学6年生のときに起きた東日本大震災で母親と祖父母を亡くしました。一時は仙台市や奈良県に避難していましたが、その後、女川に戻り中学校の社会の授業をきっかけにこの活動を始めました。
 現在は鈴木さんや同級生10人ほどで活動を続けています。大学生になってからは月に1回程度、修学旅行生や観光客を石碑まで案内し、震災の教訓を伝えてきました。
 また、子どもたちが災害から命を守る方法を学べるようにと、「いのちの教科書」というハンドブックも製作しました。今後は、この「教科書」を全国の小学校や中学校に届け、防災の大切さを伝えたいとしています。
 石碑を建てる活動が完了し、鈴木さんは「10年活動を続けてきて、目標が達成したことはすごくうれしいです。1000年先の人にも家族を亡くした僕のような経験をしてほしくないので、建てて終わりではなく、今後は石碑を通して震災を伝えるほか、教科書をいろんな人に届けるための活動を続けていきたいです」と話していました。
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ANN系、全国放送。

震災の教訓を後世に 「いのちの石碑」21基目が完成

 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと宮城県女川町の当時の中学生たちが考えた「いのちの石碑」の21基目が完成し、21日に披露されました。
 2011年、震災直後に女川中学校に入学した生徒たちは「1000年後の命を守る」を合言葉に町内21カ所の高台に津波避難を呼び掛けるため石碑の建設を進める取り組みを始め、建設費用およそ1000万円を募金や寄付で集めました。
 1基目の建設から8年、当初目標としていた21基の最後となる石碑が完成し、設置されました。
 21基すべてに「もし、大きな地震が来たらこの石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください」と刻まれています。
 女川中学校の卒業生・鈴木智博さん(22):「終わりではなく、これをどんどん次の世代につないでいくのが今後の自分たちの活動のひとつになっていくので頑張っていきたい」
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JNN系、tbc東北放送さん。

女川いのちの石碑 目標の21基目完成

 女川町出身の若者たちが震災の教訓を語り継ごうと町内に建立を進めていた石碑は目標としていた21基全てが完成しました。
 女川小中学校で行われた21基目の披露式には、石碑を建立した「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーや町の関係者らが出席しました。
 この石碑は震災直後に入学した当時の女川中の生徒らが震災の教訓を後世に伝えようと町内21の浜の津波到達点よりも高い場所に建立を続けてきたものです。在校中に募金で資金を集めて卒業後も活動を続け、震災発生から10年あまりで目標の21基を立て終えました。
会のメンバーは今後も石碑を活用した語り部活動などで震災の教訓を伝えていきます。
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FNN系、仙台放送さん。

「この石碑よりも上に逃げて」女川いのちの石碑 目標の21基目がついに完成 <宮城県> 

 女川町で東日本大震災の発生直後から中学校の生徒たちが進めていた、津波の到達地点に石碑を建てる活動で21日、目標だった21基目の石碑が完成しました。
 21日女川小中学校の横に建てられたのは、21基目の「女川いのちの石碑」です。
この石碑は、震災の発生直後に中学生になった女川町の子どもたちが「千年後の命を守る」を合言葉に建てられたものです。
 町内21カ所にある浜の津波の到達地点に、石碑を建てることが目標で、資金の1000万円は、募金で集めました。
 石碑には「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上に逃げてください」「家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください」などと刻まれています。
 活動を続けてきた伊藤唯さん
 「ここまでやってきた活動は、絶対に無駄にならないですし、これからの活動につながるような第一歩を踏めたと思う」
 活動を続けてきたメンバーは、今後も、いのちを守る取り組みを続けていきたいとしています。
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ある意味、驚いたのが、この活動に取り組んできた若者たちが、「これで終わりでなく、第一歩」的なコメントをしていることでした。これまでの10年ほどの活動でも、様々な困難があったはずなのですが……。頼もしい限りです。

明日は同じ件で、新聞各社の報道等をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

二時間ばかり大気浴、今日心地よし、


昭和26年(1951)5月30日の日記より 光太郎69歳

宿痾の肺結核による肋間神経痛も少し治まり、この日は調子が良かったようです。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺で、マイナスイオンを満喫したとのこと。

東日本大震災による大津波で、甚大な被害を受けた宮城県女川町。震災後、当時の中学生たちが、大地震の際に避難する目印として、津波到達地点より高い場所に「いのちの石碑」の設置を続けています。かつて「100円募金」で建てられた、女川港の高村光太郎文学碑に倣い、費用は全て募金で賄われています。

その取り組みは多方面で注目され、高校生になった発案者の若者たちが、国連の防災会議で発表を行ったり、天皇陛下も「第5回国連水と災害に関する特別会合」で紹介されたり、「自然災害伝承碑」という新たな地図記号が制定される契機になったりしています。

その「いのちの石碑」関連で、昨日のNHKさんのローカルニュースから。

「いのちの石碑」 震災遺族が修学旅行生に語り部 女川町

 女川町で東日本大震災の記憶や教訓を記した石碑を建てる活動を続けている女川中学校の卒業生が、修学旅行で訪れた県外の中学生に語り部を行い、助け合うことの大切さを伝えました。
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 語り部を行ったのは、震災当時、小学6年生で、県内の大学に通っている鈴木智博さん(22)です。震災で母親と祖父母を亡くしています。
 鈴木さんたち女川中学校の卒業生は、1000年先まで震災の記憶を伝えようと、町内の、津波が到達した場所付近の合わせて21か所に「いのちの石碑」を建てる活動を続けています。
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 18日は、町に最大で14.8メートルの津波が来て、町民の8%以上が犠牲になったことなどを体験談を交えて語りました。
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 その後、旧女川中学校にある最初に建てた「いのちの石碑」まで案内し、「これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみを、再びあわせたくない」などと書かれた碑文を読みました。
そして、石碑には亡くなった方への慰霊や鎮魂の思いも込められていることや、非常時に助け合うためにふだんから人と人との絆を強くすることが大事なことなどを伝えました。
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 話を聞いた女子生徒は、「石碑を見て、思いが大事に刻まれているなと感じました。自分の地域でも地震が起こったとき、近所の人と一緒に逃げられるようにしたいです」と話していました。
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 鈴木さんは、「今の中学生は震災当時の記憶があまりないと思うので、自分の話を聞いて今後、災害があった時に自分の命を守れるように行動してほしいです。きょう聞いたことを周りの人にも話してほしいと思います」と話していました。
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 今月21日には、最後の21か所目の「いのちの石碑」が披露されるということです。

修学旅行で訪れたのは、栃木県の中学生でした。『下野新聞』さんから。

大震災の教訓 現地で体感へ 那須の小中3校、東北に修学旅行

【那須】新型コロナウイルスの感染状況が落ち着いたことを受け、町内の公立5小中学校は今月、修学旅行を実施する。このうち3校の行き先は東北地方で、震災遺構見学や全町避難した小学生との交流などが予定されている。町は2年前から防災教育に力を入れてきたため、関係者は「多くのことを学んでほしい」と期待している。
 那須中央中3年生は18日、昨年からオンライン交流を重ねてきた宮城県女川町を訪れ、震災時の津波到達点の目印「いのちの石碑」を見学。石碑建立に携わり、現地で語り部活動を続ける大学生の鈴木智博(すずきともひろ)さんに話を聞く。
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修学旅行というと、関東からは京都・奈良、関東以外からは東京というのが定番のような気がしますが、コロナ禍の影響もあり、だいぶ様変わりしているようですね。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手・花巻でも受け入れに力を入れているようですし、「東北」としての修学旅行ガイドでも光太郎ゆかりの地が取り上げられたりしています。

かなり前から、単なる物見遊山ではなく、体験型の取り組みなどが取り入れられてはいる(「いのちの石碑」発案者の若者たちは、中学校時代の修学旅行先でも募金への呼びかけを行っていました)ようですが、そういった部分で、光太郎智恵子ゆかりの地がもっと注目されてほしいものです。

さて、「いのちの石碑」。NHKさんの報道の最後にも触れられていましたが、明後日、当初計画で最後の一基の除幕が行われるそうです。来週には、そちらの報道もご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

五月廿六日はじめて時鳥の声をきく。この夜夜鷹なきはじめる。廿七日も八時頃よりなく。

昭和26年(1951)5月27日の日記より 光太郎69歳

時鳥」は「ホトトギス」。都会の人はご存じないかも知れませんが、田舎では夏の到来の象徴です。当方自宅兼事務所周辺もかなりの田舎(笑)、初夏の朝はあちこちで「テッペンカケタカ」の大合唱です。
夜鷹」(ヨタカ)についてはこちら

昨日お伝えした、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ宮城県女川町の「いのちの石碑」新設の件、後追いでの報道と、当方が見落としていた報道がありましたので、ご紹介します。

ローカルTV局・ミヤギテレビさん。

宮城 女川いのちの石碑20基完成

 津波から避難する目印にと、女川町の当時の中学生が各浜の高台に建てたいのちの石碑。今月20基目までの石碑が完成し披露式が行われました。
 女川町の小乗地区と横浦地区では、今月8日地元住民や女川中学校の卒業生が参加し披露式が行われました。
 いのちの石碑は、当時の中学生が震災の悲しみを繰り返さないために、女川町の21の浜の津波到達地点より高い場所に避難の目印となる石碑を建てる取り組みです。設置の費用1000万円は募金で集め、今回で20基目まで完成しました。
 最後となる21基目の石碑は今年11月に女川小・中学校の近くの高台に設置する予定です。
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続いて地方紙『石巻日日新聞』さん。

千年後の命を守るために 女川の石碑 20基目除幕 11月に残る1基披露

 多くの被害をもたらした東日本大震災の津波の教訓を後世に伝え、千年先の命を守ろうと、女川町立女川中学校の卒業生が設置に取り組んできた「女川いのちの石碑」は8日、19、20基目が除幕された。町内に21ある浜全てに建立する計画。残る1基は小学校併設の新しい中学校敷地内に建て、11月21日に披露する予定。
 19基目は小乗浜、20基目は横浦に建立。いずれも新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、地域への披露式が1年延期されていた。このうち横浦は高台の防災集団移転団地に建立。地域住民や須田善明町長のほか、卒業生のうち4人が海の見える団地内の公園に集まり、石碑を覆った白い布を下ろした。
 4人のうち伊藤唯さん(23)は「町や地元の人に支えられて20基目まで来た」と10年を振り返り、阿部由季さん(23)は「震災を伝えていくのに役立ってほしい」と期待。残り1基となる中、鈴木智博さん(22)は「建てて終わりではなくこれからがスタート」と見据え、山下脩さん(22)も「仕事の合間を縫って語り継ぐことをしてけたら」と話した。
 取り組みを進めたのは、震災翌月に女川第一中(後に女川中)に入学した1年生。社会科の授業をきっかけに津波被害を最小限にする3つの対策(①互いに絆を深める②高台に避難できる町づくり③記録に残す)を考え、その一つとして津波が到達した地点よりも高い場所に石碑を建てることにした。
 2年生の3学期に募金を開始し、半年余りで1千万円が集まり、その年の11月に最初の2基が完成した。石碑は統一した形で台座を含めた高さは2メートル、幅1メートル、重さ2トン。碑文に3つの対策を刻み、津波が来た時の避難や笑顔あふれる未来の町への願いを記してある。
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最後に、やはり地方紙『石巻かほく』さん。

「いのちの石碑」19、20基目 小乗、横浦地区に完成 女川

 東日本大震災の教訓を後世に伝えるため、女川町女川中の卒業生らが町内21カ所に建立を進めている「女川いのちの石碑」の19、20基目が小乗、横浦の両地区に完成した。披露式が8日、現地で行われた。
 小乗地区では、卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民ら約20人が参加した。メンバーが碑文に込めた思いや、各浜で津波到達点より高い場所に建てたことなどを説明した。参加者は石碑を前に震災当時やこれまでの生活を振り返った。
 石碑は高さ約2・3メートル、幅約1・2メートル。「地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などのメッセージや「黒津波 女川の景色 消しさった」といった当時の生徒が考えた俳句が石碑ごとに刻まれている。
 小乗地区の阿部求行政区長(73)は「若者が地域の未来を思って行動してくれている。石碑の意味をしっかり理解し、住民同士で支え合いたい」と話した。
 横浦地区にはメッセージの他に「今ここに 生きててくれた ありがとう」と俳句が記されている。区長の木村初雄さん(72)は「震災を経験した私たちが風化させないように協力しなければいけない」と気持ちを新たにした。
 石碑の建立は2013年に始まり、19、20基目は19年11月に完成した。翌年に披露式を行う予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期していた。
 「いのちを守る会」の阿部由季会長(23)は「石碑を建て終えてからがスタートだと思っている。教科書の作成や講演会の実施など発信に力を入れていく」と抱負を語った。
 21基目は、昨夏新設された女川小中に建てられ、11月21日に披露式を行う予定。各石碑には住民が感じた震災の教訓などを見られるようにしたQRコードを刻むことも検討されている。
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最後に書いてあるQRコードの件。実現して欲しいものです。石碑類、建てて建てっぱなしになることが少なからずあるのですが、「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーの皆さんは、定期的に碑の清掃等にも取り組まれていますし、さらにQRコードの追刻も活動を進化・深化させる上で効果的と存じます。

まったく、頭の下がる思いです。

【折々のことば・光太郎】

牛尾をオツクステールにする。


昭和23年(1948)7月31日の日記より 光太郎66歳

「オツクステール」はスープです。現代では高級なメニューとしてもてはやされていますが、当時の日本では牛の尾は捨てるもの、というのが常識でした。欧米留学の経験もあった光太郎は、捨てられる牛の尾があると、貰って、自家製のスープにしていました。

この日入手したのは、分娩の際、死んでしまったという牛の尾。近くの開拓地に住む青年が届けてくれました。

昨日ご紹介した、宮城県女川町の光太郎文学碑に倣い、費用を募金でまかなった「いのちの石碑」。東日本大震災の後、当時の中学生たちが考案した、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、建立が進んでいます。

全21基中の19・20基目が除幕されたということで、報道されました。

テレビ局のローカルニュースから。まず、OX仙台放送さん。

“強い地震が来たら石碑より上へ逃げて”女川町「いのちの石碑」 中学卒業生が震災の教訓を刻む

 女川町では震災の教訓を石碑に刻んで後世に伝える、「女川いのちの石碑」が新たに2つ完成し8日、除幕式が開かれました。
 この活動は2011年に入学した女川中学校の卒業生たちが、震災の教訓を後世に残そうと町内21の浜に石碑を建てているものです。
 女川町小乗地区で行われた8日の除幕式には、女川中学校の5人の卒業生などおよそ20人が集まり、19基目の石碑が披露されました。
石碑には「地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などとメッセージが刻まれています。
 小乗地区住民「地域の方々が仲良く支え合って歩んでいただければと」
 また午後からは、女川町横浦地区で20基目の石碑が披露されました。
 女川中学校卒業生 山下脩さん「最終的には夢としては千年後まで語り継いでいければなと思っています」
 「いのちの石碑」最後の21基目は、11月に女川小・中学校に建てられる予定です。
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続いてtbc東北放送さん。

 「いのちの石碑」最後1つを残し完成 宮城・女川町

 宮城県女川町出身の若者たちが震災の教訓を語り継ごうと町内21の浜に建立を進めている石碑が20基まで完成しました。
 女川町の小乗地区では、石碑の披露式が行われ、建立した若者たちや住民が参加しました。この石碑は、女川中学校の卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」が建立を続けているものです。町内21の浜の津波到達地点よりも高い場所に石碑を建てる計画で、8日は、19基目の小乗地区と20基目の横浦地区の2つがお披露目されました。会では、最後となる21基目の石碑を女川小中学校に建立し、今年11月21日に披露する予定です。
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さらに、NHKさん。

女川町いのちの石碑 20基目が完成

 東日本大震災の教訓を伝えようと当時、中学生だった人たちの呼びかけで、女川町の沿岸の地区に建てられることになった石碑のうち20基目が完成し、披露されました。
 女川町では、震災当時、中学生だった人たちが、津波の教訓を後世に伝えようと「女川1000年後のいのちを守る会」を立ち上げ、沿岸にある21の地区に石碑をつくる活動を続けています。
大きな被害を受けた横浦地区では、震災後、新たに造成された高台の住宅地に20基目となる石碑が建てられました。
 8日は、大学生や社会人になったメンバー4人と地元の人たちが集まって、全員で石碑の幕を引きました。
 石碑は高さおよそ2メートル、幅およそ1メートルで、「今ここに生きてくれててありがとう」といったことばが刻まれています。
 そして、メンバーの1人の伊藤唯さんが「大きな地震が来たら石碑よりも高い場所に逃げて、家に戻ろうとする人がいたら引き止めてください」と呼びかけました。
 残る1基の石碑は、ことし11月に完成する予定です。
 「女川1000年後のいのちを守る会」の鈴木智博さんは、「21基の石碑を建てて終わりではなく、震災の教訓を伝え続けたい」と話していました。
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それから、KHB東日本放送さん。

東日本大震災の教訓を後世に いのちの石碑 19・20基目 宮城・女川町で披露

 震災の教訓を後世に伝えようと宮城県女川町で、当時の中学生が設置した石碑の披露式が行われました。
 この石碑は、女川中学校の卒業生が、津波で被災した町内21カ所に建設を目指しているもので、8日は19基目と20基目がお披露目されました。
 新型コロナの影響で、1年遅れての公開となりましたが、今年11月には、最後の1基が女川小中学校に設置されます。
 女川1000年後のいのちを守る会・鈴木智博さん
「これを建てて終わりじゃなくて、伝えていくのがこれからの使命なのかなと考えています」
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新聞でも報道されています。仙台に本社を置く『河北新報』さん。

女川中生の思いつないで20基目 避難誘導の「いのちの石碑」

 東日本大震災の教訓を未来に伝え残そうと、宮城県女川町女川中の卒業生らが町内に建立している「女川いのちの石碑」の19、20基目が小乗(このり)、横浦両地区にそれぞれ完成し、8日に現地で披露式があった。
 卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民ら約30人が参加した。石碑を除幕した後、メンバーが碑文に込めた思いを説明。住民らは、震災当日の出来事を振り返りながらメンバーと語り合った。
 小乗地区行政区長の阿部求さん(73)は「当時の子どもたちがプロジェクトを立ち上げ、本当に頑張った。石碑を見て地域で支え合って歩みたい」と話した。
 2基の披露式は新型コロナウイルスの影響で1年延期して開いた。月1回の伝承活動も昨春以降、自粛が続く。守る会の伊藤唯さん(23)は「石碑を建てて終わりではなく、これがスタートだと思って活動したい」と意欲を語った。
 いのちの石碑は2011年4月に女川中に入学した生徒らが企画。「地震が来たらこの碑より上へ逃げて」と避難を促すため、町内各浜の津波到達地点より高い場所に建てている。建立は13年11月に始まり、最後の21基目は昨夏新設された女川小中学校に建て、11月21日に披露式を開く予定。
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この活動、今年6月には、オンラインで開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」の中で、天皇陛下がご紹介。また、一昨年にはNHKさん制作のドラマ「女川 いのちの坂道」でモチーフとなるなどもしています。

今秋には最後の碑が、新たに開校した女川小・中学校に建てられるそうで、今後とも、この活動を見守っていきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

花巻温泉貸別荘の儀は訪問者殺到を恐れて中止にせんかと相談す。


昭和23年(1948)7月24日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、マイナス20度にもなり、メートル単位で雪が積もる厳冬期だけでも、花巻温泉に新設された貸別荘を借りてはどうか、という話があり、光太郎もその気になりかけたのですが、結局、そうすると、交通の便が悪くないため訪問客が多くなりそうだと危惧し、取りやめにしました。

昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額を寄付で集めた「いのちの石碑」に関わります。

「時事通信」さん。

天皇陛下、国連会合で講演=「水と災害」、オンラインで

  天皇陛下は25日、オンラインで開かれた「第5回国連水と災害に関する特別会合」に、お住まいの赤坂御所(東京都港区)から参加し、基調講演された。陛下が即位後講演するのは初めて。
 陛下は「災害の記憶を伝える」と題し、約25分間、写真や図を使って英語でスピーチ。発生から10年がたった東日本大震災の記録や被災者の体験について「時代を超えて継承していくことはとても大事なこと」と述べた上で、語り部活動や震災遺構、宮城県女川町の「1000年後のいのちを守る石碑」などを紹介した。
 新型コロナウイルスについても、スペイン風邪など過去の疫病の経験を知る必要があると言及。「災害や疫病の記憶を後世に伝えつつ、その教訓を生かすべく次の災害や疫病に備えながら、誰一人取り残されることなく健康で幸せな毎日を享受できるような社会の構築に向けて、私も皆さんと一緒に努力を続けていきたい」と語った。
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「共同通信」さん。

東日本大震災陛下、国連の水会合で講演

 天皇陛下は25日、住まいの赤坂御所で、オンライン形式で開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」に出席された。即位後初めてとなる講演も行い、発生10年を迎えた東日本大震災での伝承活動を取り上げ、「後世まで伝えていこうとする一人一人の努力が、次の災害を防ぐ大きな力になると信じている」と訴えた。
 陛下は英語で30分近く、写真や図表を交えて講演。被災地の語り部とオンラインで交流したことを報告し、体験や教訓を「多くの人々と共有することはとても貴重なこと」と紹介した。
 震災後、宮城県女川町に建てられた避難誘導の石碑や、2016年に訪問した岩手県宮古市の震災遺構「たろう観光ホテル」、徳島県の昭和南海地震などの石碑、1771年の明和の大津波での沖縄・石垣島の被害を取り上げた。
 新型コロナウイルス禍にも言及。ワクチン接種に「暗く長いトンネルの先にようやく一筋の光明を見いだしています」と述べ、コロナ後の世界について「語り合うことは、人類の将来にとって大変重要」と指摘。スペイン風邪など過去の疫病から学ぶことも訴えた。
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「第5回国連水と災害に関する特別会合」。調べてみましたところ、以下のような要項でした。
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「いのちの石碑」プロジェクト、女川町内の全ての浜、20数カ所に設置予定で、ほぼ完了しており、今年度中には全基竣工予定であるやに聞いております。こうして天皇陛下も関心を寄せられ、海外にも広く紹介されたということで、活動にさらなる弾みがつくことを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

夕方美術学校の生徒二人(鶴田昭夫、鹿目尚之)来て、音、美両校生徒の雑誌(上野)に文章寄稿してくれといふ。結局承諾今月中位に送る事。


昭和23年2月19日の日記より 光太郎66歳

光太郎の母校・東京美術学校と、すぐ向かいの東京音楽学校が統合され、新制の東京藝術大学になったのは、翌昭和24年(1949)のことでした。

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に訪ねてきた二人の後輩のうち、「鹿目尚之」は、平成29年(2017)に亡くなったデザイナーの鹿目尚志氏の本名です。

東日本大震災後、宮城県女川町で建設が続く、津波対策として避難の目印となるランドマーク「いのちの石碑」。同町に平成3年(1991)に立てられた光太郎文学碑を範とし、建設費用は募金で集めたもので、いわば光太郎文学碑の精神を受け継ぐ活動です。

先月中旬の『毎日小学生新聞』さんで、そのプロジェクトが大きく取り上げられました。

東日本大震災10年 「あの日」に学ぶ 国語<上> 悲しみや希望を言葉に/女川一中で俳句の授業 佐藤敏郎さん

 東日本大震災と防災について考える「『あの日』に学なぶ」第5回は、「国語」<上>、「被災者の心」です。震災の後、被災した人たちは、思いを俳句や作文などの言葉ことばで表現することで、「あの日」の出来事や大切な人との別れ、自分の内面と向き合いました。それらの言葉は、震災が被災者の心に刻んだ傷の深さと、人の強さを教えてくれます。【百武信幸】
 
五七五で向き合う
 宮城県女川町は、津波で町の建物の7割が完全にこわされ、ほとんどの人が被災者になりました。灰色の景色の中で新学期をむかえた町立女川第一中学校(現・女川中学校)の全校生徒は2011年5月、心にうかんだものを自由に詠む俳句づくりに挑みました。先生も生徒もおそるおそる取り組んだ授業でしたが、生徒たちはすぐに五七五の言葉探しを始めました。
 生まれた句の一つが「見上げれば がれきの上に こいのぼり」です。句を詠んだのは当時は中学3年生だった原泉美さん(24)。津波で家が流され、ショックや落ち着かない避難所生活で、体調をくずしていた時のことでした。
 その少し前、車の窓越しに見た景色が頭にうかびました。港の近く、父親がぎりぎり助かった観光物産施設「マリンパル女川」の上に泳ぐこいのぼり。教室には家族を亡くした同級生が何人もいて、かける言葉が見つからない日々が続いていました。自分もつらい。でも「家しかなくしていない私」が詠むならと考え、「見上れば」に「ポジティブ(前向き)に『上を向いて生きよう』との思いを込めた」と言います。
 自らを奮い立たたせる句でもあったそうです。その後、NHKラジオの国際放送で海外に発信され、はげましを込めた詩が世界中から集まりました。
 泉美さんは今、被災後の経験から体の健康について学び、東京都内の保育園で栄養士をしています。
句碑で避難呼びかけ
 その他の句も震災の年の5月か11月に詠まれたものです。「女川一中生の句 あの日から」(小野智美編)という本に、句が詠よまれた一つ一つの背景が書かれています。当時の中学生たちはその後、「1000年後の命を守りたい」と募金活動をして、町内全21地区に高台への避難を呼びかける石碑を建てています。地区によって違う俳句を選び、あの時、震災と向むき合った子どもたちの思いも未来に伝えようとしています。
▽見上げれば がれきの上に こいのぼり
▽ただいまと 聞きたい声が 聞こえない
▽夢だけは 壊せなかった 大震災
▽工事中 沈む私の 応援歌
▽うらんでも うらみきれない 青い海
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<イラスト・にしむらかえ>

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俳句が刻まれた「女川いのちの石碑」を見つめる中学生たち
=宮城県女川町で2013年11月
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津波の被害にあった宮城県女川町で、街を見つめながら歩く人たち
=2011年3月14日

004みんなで共有できる
 国語科教諭として、女川一中での俳句づくりの授業を担当しました。そのころはまだ東日本大震災の発生直後で、自分も次女を亡くしていたから「今の状況を言葉にさせていいのか」という思いがありました。けれどみんな、すぐに指を折り始め、ぴたっと合う言葉を探し出した。生徒が詠んだ句の中で、「見たことない 女川町を 受けとめる」は「受け入れる」ではちょっと違うし、「ありがとう 今度は私が 頑張るね」も「頑張るよ」ではないところに気持が表われている。言葉ってすごいなと思いましたね。
 震災後に気づいたのは、実は震災後にみつけようとした言葉は教科書にあった、ということです。「夏草や 兵どもが 夢の跡」も「国破れて山河あり」も、がれきだらけの女川の風景と同じ。当時使っていた中学3年ねんの教科書の始まりは、中島みゆきさんの「永久欠番」の歌詞で「どんな立場の人であろうと いつかはこの世におさらばをする」とか「順序にルールはあるけど ルールには必ず反則もある」なんて書いてある。被災した後、特別な授業をしなきゃ、なんてあまり考える必要はないのかもしれない。
 俳句は短いから、みんなで共有できるのがいい。彼らが高校生になった時に聞いてみると、俳句づくりの授業を通じて「1人じゃない」とか「こんなふうに考えてもいいのか」と思えたと言っていました。つらい経験は言葉にしてもいいし、しなくてもいい。ただ、言葉にしたい時にできる機会を作るのが学校の役割りです。
 ただし、これは震災が起きてからすることです。起きる前にどうするか。高知県でいっしょに防災教育の講演をした慶応大学の大木聖子准教授は、「防災小説」というユニークな取り組みをしています。防災小説は、子どもたちに災害が起きたと想像してもらい、自のがたりにするというもの。防災ぼうさいは「みんな助かってよかった」というハッピーエンドじゃなきゃだめなんです。
プロフィル
 1963年、宮城県石巻市(旧河北町)生まれ。震災で石巻市立大川小学校6年生だった次女を亡くしました。2015年3月に教員を退職。「大川伝承の会」共同代表として地元で語り部活動に取り組み、全国で講演をしています。

確かに、「言葉」というもの、不思議な力がありますね。悲しみや苦しみ、悩みなどを言葉として吐き出せば楽になることもあれば、逆に改めて言葉にして感情を確認することで、よりその感情が昂ぶることもあるような気もします。

記事で紹介されている『女川一中生の句 あの日から』についてはこちら。

【折々のことば・光太郎】

午前校長さん宅訪問、 大正屋にておみやげをかふ。


昭和22年(1947)5月18日の日記より 光太郎65歳


「校長さん」は佐藤昌。昭和20年(1945)の花巻空襲により、疎開先の宮沢賢治実家を焼け出された光太郎を、その直後から約1ヶ月、住まわせてくれた人物です。旧制花巻中学校の元校長でした。

「大正屋」は、花巻町中心街・若葉町にあった「大正屋果実店」。生前の宮沢賢治が、自分で作った野菜を買い取ってもらっていたのが、ここではないかという説があります。
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これまでもたびたびご紹介してきた、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連。まずは秋田の地方紙『秋田魁新報』さんの一面コラム、3月13日(土)の掲載分。

北斗星

「私たちは小さな集落なのでコミュニティーの絆は強い。でも津波の力はさらに強かった」。東本大震災から約1年後、宮城県女川町竹浦(たけのうら)地区の女性が、現地を激励に訪れた仙北市民たちに語った▼精神的な強さと津波の物理的な強さ。本来は比較できないものだからこそ、生活を壊されたつらさと当時の恐怖感が伝わってきた。海面から高さ十数メートルの斜面に立つ木に、買い物かごが引っ掛かっていた。津波の爪痕だった▼三陸海岸南部にある女川町では震災で800人以上が犠牲になった。町東部の竹浦地区住民ら約100人が震災後の半年間、仙北市で避難生活を送った。この縁で交流が続いていた▼町内には2013年から、津波被害のあった所に高さ約2メートルの「いのちの石碑」が順次建てられている。当時の中学生たちの発案で、これまでに18基がお披露目された。「見上げればがれきの上にこいのぼり」。竹浦地区の1基に刻まれた句である▼他の地区の石碑には「夢だけは壊せなかった大震災」「取り戻せ自然豊かな女川を」など復興への強い願いが記された。石碑は全て震災での津波到達地点より高い位置にある。津波が再び襲った際、「ここより上に逃げて」という指標だ▼震災犠牲者や町外転出者のため、町人口は震災前の約1万人から4割ほど減った。そんな中でも「非常時に助け合うため、普段から絆を強くする」。各石碑の句の下には、命を守る対策としてそんな言葉が共通して刻まれている。

竹浦地区の碑は、旧女川中学校校庭に続き、2番目に建てられたものです。

3.11当日の、KHB東日本放送さんのローカルニュースでも、宮城県内各地での様子を伝える中で、「いのちの石碑」が取り上げられました。

東日本大震災から10年 県内各地で鎮魂の祈り

  石巻市の佐藤美香さんは、日和幼稚園の送迎バスに乗っていた当時6歳の娘、愛梨ちゃんを亡くしました。

佐藤美香さん(46)「娘と会えなくなってから、1日1日が重なっていく一方で、その重なった月日が10年。娘とともに一緒にこれからも歩んでいきたいと思っています」

女川町では、今も行方が分からない妻を捜す男性の姿がありました。

高松康雄さん「今どこにいるの?っていうことと、家族みんな元気にしているし、孫も元気にしているから心配しないでくれと」

また、町内の高台では当時中学生だった世代が、町内21カ所に石碑を建てる「いのちの石碑プロジェクト」を進めていて、11日は黙祷の後、清掃を行いました。
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伊藤唯さん「文章とかも読んでいただきたい文章が書いてあるので、奇麗な状態のまま1000年先まで残っていれば良いなと思って、その気持ちで拭かせていただきました」
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石巻市の管野一之さんは、母・たえ子さんを津波で亡くしました。津波で長く行方不明だった母の姉、阿部きうさん(当時99歳)の身元が特定され、去年7月、遺骨の引き渡しを受けました。今では姉妹が同じ寺に眠っています。

管野一之さん「お互いに喜んでいると思います。行方不明で見つけてくれたという形で」新型コロナの影響で、去年は津波被害を受けた沿岸15の自治体のうち、14の市と町が追悼式典を中止しましたが、今年は松島町と利府町を除く13の市と町が式典を開きました。

村井知事「復旧復興をやる上で、時に被災者の皆さんと意見がぶつかる時もありました。楽しいことよりも辛いことが多かったわけですが、10年経って一定の街づくりができたという意味では頑張ってきて良かった」

名取市閖上では、津波の犠牲となった閖上中学校の生徒14人の遺族が中心となり、追悼イベントを開きました。

今年は亡くなった人へのメッセージを乗せた371個の風船が大空へ。犠牲になった大切な人や失われた故郷に思いをはせ、震災の教訓を未来へつなぎます。
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所変わって、大阪。国立民族学博物館さんで開催中の特別展で、「いのちの石碑」が紹介されているようです。

ラジオ関西さんの報道から。

災害復興で再発見された地域文化を継承する特別展「復興を支える地域の文化―3・11から10年」 国立民族学博物館

015 東日本大震災の発生から10年。災害からの復興を支える地域文化の活動を通し、その大切さと次の世代への継承について考える特別展「復興を支える地域の文化―3・11から10年」が大阪府吹田市の国立民族学博物館で始まった。2021年5月18日(火)まで。

 2011年3月の東日本大震災では、多くの文化財や地域に根付く伝統芸能も被害を受けた。避難生活を余儀なくされ地域コミュニティーの存続が危ぶまれる中、人々はがれきの残る場所や仮設住宅でまつりを開催し、伝統芸能を奉納したという。地域文化とはその土地で受け継がれてきた生活の記憶であり、有形・無形様々、その土地ではあたり前のものもある。一方で変化が大きい現代では容易に忘れ去られてしまうという危機に直面している。特別展では、震災後に再開された郷土芸能が人々の生活を後押しし、復興への支えになっていることや、被災した文化財などの修復作業、そして災害によって再発見された地域文化も紹介する。

 宮城県石巻市では文化財収蔵庫も津波の被害を受けた。その修復作業には東北の大学生たちも参加した。木製の「カマガミサマ」は水を使うことができず刷毛で泥を落とした。塩水に浸かった手押しポンプ車は、その濃度によって対処の方法が変わるため、塩水のサンプルをみんぱく(国立民族学博物館)に送り、指示を受けながらクリーニングに当たった。学生たち自身も被災しており、作業が学生たちのケアにもなったという。

 地域文化の存在は、その地域では日常であり、ほとんど意識されていないこともある。震災によって「貴重な文化」とわかったケースもあった。捕鯨に使われていた道具やその地域ならではの「言葉」だ。震災後、山積みになっていたものが「資料」なのか「ごみ」なのか、聞き取りからわかった。

 特別展では日本で起きたほかの災害にも目を向ける。2004年の新潟県中越地震では、被災した土蔵から見つかった歴史資料が、幕末に徳川家から贈られたものだとわかった。越後縮の商いに関するもので、十日町の越後縮が将軍家に納められていたことが実証された。「きものの町・十日町」の再発見につながったという。

 日本は災害が多い。各地に建立された石碑や震災の記憶を伝える紙芝居など、防災の観点から未来に伝える取り組みも紹介する。最大14.8メートルの津波被害を受けた宮城県女川町では町内にある21の浜に「女川いのちの石碑」が建つ。これは東日本大震災の直後に現在の女川中学校に入学した子どもたちが、将来の津波被害を最小限にとどめようと募金活動を行うなどして建てられたもの。子どもたちは東京への修学旅行で企業を回り、協力を呼び掛けたという。

 国立民族学博物館の日高真吾教授は「地域文化はあまりに身近で意識することが少ない。東日本大震災から10年の今、復興に欠かせない地域文化の役割と大切さを感じてほしい。そのあとでもう一度展示を改めてみると、また違ったものが見えると思います」と話す。

探し方が悪いのか何なのか、なかなか公式サイトにたどり着けなかったのですが、見つけました。

特別展「復興を支える地域の文化―3.11から10年」

期 日 : 2021年3月3日(水)~5月18日(火)
会 場 : 国立民族学博物館 阪府吹田市千里万博公園10-1
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 毎週水曜日
料 金 : 一般880円(600円) 大学生450円(250円) 高校生以下無料

2011年の東日本大震災では、復興の原動力としての「地域文化」に大きな注目がよせられました。本展示では災害からの復興を支える地域文化をめぐる活動について、東日本大震災から10年が経つ今、あらためて振り返ります。また、豊かな社会の礎となる地域文化の大切さとその継承について考えていきます。
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東日本大震災から10年が経ち、10年ということで、ここ数年よりもいろいろな場面で震災について取り上げられる機会が増えました。被災者の方々にとっては、10年だろうと何年だろうと変わらない、という思いはあるのでしょうが、震災の記憶が薄れつつある被災地以外の人々にとっては、改めて震災について思い出す契機にはなったのではないかと思います。

ただ、懸念されるのは、それが一過性のもので終わること。福島の原発がらみの復興はまだまだ道半ば、いや、半ばまでも達していないかもしれません。明日はそのあたりを。

【折々のことば・光太郎】

夜星うつくし。木星、金星未明の頃大きく輝く。


昭和22年(1947)2月25日の日記より

金星はともかく、木星を見てそれが木星だと気付くのは、なかなか天体に詳しくなければ不可能だと思います。当方には分かりかねます。

一度、花巻高村光太郎記念館さんで、市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」の講師を務めさせて頂き、光太郎の詩文に書かれた天体や天文現象についてまとめたのですが、一緒に講師を務められた地元の天文サークルの方は、光太郎の天文知識に舌を巻いていました。

ちなみに10年前の3.11。停電で灯りの消えた東北では、恐ろしい程の美しい星空だったという話は有名ですね。

いよいよ3.11となりました。あの日から10年……。長かったような、あっという間だったような、そんな感じです。

震災前から親しくさせていただいていた、宮城県女川町の女川光太郎の会事務局長で有らせられた貝(佐々木)廣さん。

とにかく郷土愛に燃えた方でした。昭和の終わり頃、光太郎詩に女川の文字が書かれていることを再認識し、女川に光太郎文学碑を建てることを決意、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご協力を仰がれました。「お子さんから大人まで、みんなが小さなお金を出し合って立てるのが一番いいですね」という北川先生のお言葉を実践され、「一口百円募金」で浄財を6年がかりで集められて、平成3年(1991)、当時の女川海浜公園に完成させました。ちなみにこの「一口百円募金」が、震災後の女川で建てられ続けている「いのちの石碑」のヒントになりました。
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中央のプレートは、光太郎自筆の文字を拡大したもので、短歌「海にして 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと」(明治39年=1906)が刻まれています。その両脇は、光太郎の紀行文「三陸廻り」(昭和6年=1931)の一節。北川先生が書かれた文字です。おそらく、北川先生の文字が碑になっているのは、これが唯一ではないかと思われます。一番外側の二つは、光太郎が描いた「三陸廻り」の挿画です。

この碑以外に、「海にして……」のプレートの真下に、同じ短歌を活字で刻んだ小さい碑、少し離れた場所に光太郎詩「霧の中の決意」(昭和6年=1931)、「よしきり鮫」(同12年=1937)を、やはり光太郎自筆の文字から採った碑が二つ。立派な文学碑公園でした。

そして、よくある文学碑を建てて建てっぱなしとならず、翌平成4年(1992)からは、碑の前で「女川光太郎祭」を廣さんが中心となって始められました。北川先生の連続講演、地元の皆さんの光太郎詩朗読、オペラ歌手・本宮寛子さんやギタリスト・宮川菊佳さんの演奏……。

そして平成23年(2011)の今日、廣さんは、あの津波に呑まれ、還らぬ人となりました……。

4基あった光太郎文学碑も、中央の大きな碑は根本から倒壊、「よしきり鮫」の碑と、短歌を活字で刻んだ碑は今以て行方不明です。

ただ、昨年には残る二つの碑を再建し、周辺はやはり横倒しとなった旧女川交番などとともに、メモリアルゾーンとしてほぼ整備が完了したそうです。北川先生の跡を継いで、連続講演を仰せつかっている女川光太郎祭、昨年はやはりコロナ禍のため中止となり、まだ再建された碑は見ていません。

今週月曜日、Yahoo!さんのニュースサイト「Yahoo!ニュースオリジナル」に、廣さん、そして奥様の英子さんが大きく取り上げられました。

2年9か月間だけの結婚生活 「夫の分まで生きる決意」に至るまで 【#あれから私は】

 2011年3月11日の東日本大震災から、10年。大規模な防潮堤整備や復旧工事は、海辺の被災地から生々しい津波の跡を消しつつある。一方で地域では、大切な人を失い、癒えない悲しみを抱えた人々が、懸命に毎日を生きている。復興途上の宮城県女川町で、亡き夫(享年64歳)の言葉に支えられ、前に進むことを決めた1人の女性のこれまでを取材した。(取材・文:下澤悠)

 三陸地方南部の女川町で生まれ育った佐々木英子さんが、後に夫となる(旧姓・貝)廣さんと出会ったのは、20代のころ。日本舞踊の家元の稽古から帰る際の髪を結った浴衣姿が、鶏卵の配達中だった廣さんの目に留まったようだった。「絵を描かせてください」。以前から画家としての活躍を耳にしていた相手で、迷わず「はい」と答えていた。数日後に絵のモデルをして以降、父母が経営していた釣具店へ廣さんは頻繁に顔を出すように。英子さんも手伝っていた家業の店は、船頭やお客さん、友人までがお茶をしていく笑い声の絶えない空間だった。個性的でユーモアにあふれる人柄の廣さんも輪の中に加わり、互いに「えこちゃん」「貝さん」と呼び合うようになった。

 「鋭いまなざしで、まさに『芸術家』という雰囲気が漂っていた」という廣さんは、鶏卵業のかたわら独学で絵画を研究。浜の漁師やその家族、抽象画など幅広いモチーフを描き、東北地方の公募美術展で毎年のように入選したほか知事賞獲得などの実績も多くあった。
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 文学にも造詣が深い廣さんが注目したのは、彫刻家で詩人の高村光太郎が昭和初期に執筆した三陸地方の紀行文。地元ではほとんど知られていなかった光太郎の作品や足跡を人々と振り返ることで、地域の文化を育てようとしていた。

    光太郎の文学碑建立を目指す活動を廣さんと有志が立ちあげると、英子さんも参加した。一口100円で住民に寄付を募る運動を地道に続け、1991年、女川港の海を臨む公園に紀行文や詩を彫った文学碑が完成。顕彰のための式典「光太郎祭」も、毎年開催した。光太郎が三陸沖の航海を詠んだ詩「霧の中の決意」を地元の船頭自らが朗読すると、夜の濃霧を進む船の情景が人々の心に浮かんだ。光太郎の研究者による講演や招待したオペラ歌手の美声に感動のあまり涙した英子さん。「大変な苦労をして素晴らしい機会をつくってくれた」と、廣さんへの尊敬の気持ちがより強くなった。
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  手帳に記した「宝物のような言葉」
 文化的な教養に限らず知識が豊富で、さまざまなことを教えてくれた廣さん。警察官の兄が25歳の若さで殉職していた英子さんを、「人生には悲風や黒風が吹くけれど、必ず快風が吹くよ。元気出して。お兄さんはえこちゃんの心の中で生きているよ」と優しく慰めてくれた。「文字は一度手を離れると、一人歩きするからね」と書き物の怖さを指摘したこともあった。人の生き方や考え方について、そんな話をしてくれる人は他にいなかった。家で電話をする時も、廣さんの「宝物のような言葉」を手帳に書き記して聞き入った。

 いつしか一緒に過ごす時間が長くなり、互いにかけがえのない存在になっていたが、2人ともそれぞれの家を継ぐ立場。それでも「結婚できなくても、そばにいられればいい」と思えるほど、「私にはこの人しかいない」と確信していた。後に英子さんの両親が亡くなり、「えこちゃんが一人になっちゃうから」と廣さんが佐々木家に入ってくれたときには、交際から30年近くがたっていた。英子さんの家で、ようやく一緒に暮らし始めた2人。誰にも気兼ねせずに一緒にいられるだけでうれしくて、楽しかった。

「死んで、夫のもとに行きたい」
 2011年の3月11日は、2人で自宅にいた。突然起きた、大きな地震。これまでに経験のない長い揺れが収まると、廣さんは母と姉を心配して実家に向かった。その帰りを待つため、家にとどまろうとした英子さん。様子を見に来た友人が「津波が来る、逃げろ」と叫び、拒む英子さんを何とか安全な場所へと連れ出した。しばらくして町を襲った真っ黒な海は、夫婦で暮らした家も、みんなで建てた文学碑も、全てをのみ込んでいった。廣さんとは連絡がつかなくなっていた。

 何が起きていたのかは、義姉の話で後に分かった。英子さんと別れた廣さんは、高台に暮らしていた母と姉の無事を確認。しかし周りが止めるのも聞かず、顔色を変えて英子さんのもとへ戻ろうとし、津波に巻き込まれていた。水が引いた後、2人で暮らした家の跡のすぐそばで、廣さんは発見された。

 幸せだった結婚生活は、2年9か月で終わった。「死んで、貝さんのもとへ行きたい」と泣き続け、やつれていった英子さんを友人たちは慰め続けた。幼少のころから50年以上続け、師範まで務めた日本舞踊は、続けられなくなった。母が稽古に協力してくれたことや、廣さんも応援してくれたこと。全てを思い出し、つらくなってしまうからだった。

   託された言葉と、やるべきこと
 苦しい中でも英子さんたちは、「今やらないと、ずっとできなくなる」と、廣さんと始めた光太郎祭を震災の年も絶やさなかった。「何とか前に進もう」と英子さんが考えられたのは、廣さんが繰り返し聞かせてくれた言葉のおかげだった。「お兄さんは心の中で生きている」。同じように、「貝さんも私の心の中で生きている」と、少しずつ思えるようになった。

   廣さんがよく自作の絵手紙を通じて励ましていた知人は、「津波で何も残っていないだろうから」と気遣い、受け取った約100枚のはがきを英子さんに届けてくれた。中でも心に響いたのは、「今日の春のように あかるく あかるく これ一番」の一文。知人宛だった廣さんの便りは英子さんを支えるメッセージへと変わり、「私が生きていけるように、貝さんが備えをしてくれていた」と思えてならなかった。廣さんのことをみんなに知ってほしくて、絵手紙はきれいにTシャツにプリントし、震災から1年後に仮設商店街で再開した釣具店で販売した。
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 月日が経過したからといって、心の深い痛みが癒やされるわけではないと英子さんは思う。あの日のことがフラッシュバックし、普段は「ふたをしているだけ」の悲しみが抑えきれなくなることはたびたびある。震災から数年がたっても、つらさがこみあげて涙が止まらず、仮設住宅の自室に閉じこもって誰にも会わない時期があった。

 一方で、店に出て昔のように友人たちと過ごせば、自然と笑顔になれた。地元の新鮮な魚介を食べさせようとわざわざ持ってきてくれる仲間や、復旧支援が縁で新たにできた友人など、多くの人が寄り添ってくれた。離れていた日本舞踊は、廣さんが「えこちゃんは踊るために生まれてきたんだよ」と励まし、舞踊家としての内面の成長を導いてくれていた生きがい。教室での指導はもうできない。でも徐々に、「体が踊りたがっている」と感じられる。舞台に復帰できたら、慰霊や鎮魂の思いを込めた舞を震災で亡くなった方々へささげたい。そうやっていつのまにか、「振り返らず前だけを見て、明るく生きていきたい」と願っている自分がいた。落ち込むことがあっても、もがき、またはい上がることを繰り返して毎日を生きた。

 英子さんと仲間は行政への働きかけを続け、文学碑の再建を昨年果たした。目の前には、廣さんが残した「やるべきこと」がまだたくさんある。文学碑は、外装を整える仕上げの作業が残っている。光太郎祭も、毎年続けていかないといけない。そして簡単なことではないけれど、いつの日か廣さんの絵の個展を開き、残した言葉を書物にできたら、という希望もある。

 英子さんが今、はっきりと語るのは、「私は貝さんの分まで生きないといけない。生きている私に全部を託してくれたのだから、貝さんのもとに行くのはもっともっと先にする」という決意だ。いつかまた廣さんに会えたとき、「よく頑張ったね」と言ってもらえるように。

ちなみに下の画像は、亡き廣さんが描いた、亡き北川先生の絵です。
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平成14年(2002)、60代の北川先生を描かれた絵です。千駄木の北川先生のお宅の、居間兼応接室に飾られていました。
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下記は廣さんが亡くなる前年、平成22年(2010)のもの。翌年出版された『北川太一とその仲間たち』という書籍のために描かれたものです。
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その北川先生も、もはやこの世にいらっしゃいません……。

さて、10年という節目でもありますし(被災者の方々にとっては、何年だろうとあまり関係ないのかもしれませんが)、何だか居ても立っても居られない思いがこみあげ、今日はこれから女川に行って参ります。

可能であれば町主催の追悼式典に参加させていただき、さらに英子さんにお会いし、そして再建なった光太郎碑や、「いのちの石碑」なども見てこようと思っております。

【折々のことば・光太郎】

風つよく(西北)積雪を吹きとばし、白煙のやうにもうもうと雪ふきちる。飛雪風景をかき消す。

昭和22年(1947)2月11日の日記より 光太郎65歳

場所は蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。いわゆる地吹雪ですね。

昨日から今朝にかけ、宮城県女川町の、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」を取り上げて下さった番組等を拝見しました。

まず、地上波日テレさんの「news every.特別版 未来へつなぐ〜私たちの10年〜」。震災の2年後、平成25年(2013)に1基目が建てられた「いのちの石碑」のこれまでの軌跡が、10分程で紹介されました。やはり日テレさん系で昨年放映された「NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~」、それから平成26年(2014)放映のNNNドキュメント3・11大震災 シリーズ 千年後のあなたへ 15歳…いのちの石碑を下敷きにしていたようです。
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この「企画書」に、光太郎文学碑を手本に、募金で建設費用をまかなうと記されていました。

しかし、中心メンバーの鈴木智博さん、決して喜んでこの活動に携わっていたわけではなく……
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それでもここまで続けてきたのは……
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そういう思いからでした。

そして、
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とのこと。

続いて、地上波テレ朝さんの「テレメンタリー2021 “3.11”を忘れない83 震災家族〜遺された父と子の10年〜」。
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「news every」でも中心に取り上げられた、鈴木智博さんとそのご家族の物語。メインは漁師をなさっているお父さんの鈴木高利さん。津波で奥様とご両親を亡くされ、その後、男手一つで智博さんと二人のお嬢さんの三人を育てられました。その生き様を見て、なるほど、智博さんのような子供が育つのは、こういうお父さんに育てられたためか、と、納得しました。
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智博さんたちの「いのちの石碑」についても言及。
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直上の画像は、平成31年(2019)に行われた女川町の追悼式の模様です。

惜しむらくは、午前4:30からの放映だったこと。こういう番組こそ、もっと早い時間帯に放映すべきなのでは、と思いました。地元、宮城のKHB東日本放送さんでは、今日午前11:20~の放映だそうですが。

さて、今後も「いのちの石碑」関連の番組放映があります。

ザ・ドキュメンタリー「海の声が聞こえますか 東日本大震災から10年」

地上波テレビ東京 2021年3月8日(月) 03:10~03:40

東日本大震災からまもなく10年。海をめぐる様々な人々のその後を追いかける。
▼津波で壊滅的な被害を受けた宮城県女川町。行方不明となった妻を探すため、自ら海に潜り続ける男性に密着
▼海底を移動し続けるがれきの謎
▼中学生たちが取り組んだ「いのちの石碑プロジェクト」

【ナレーション】早見沙織
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NHKさんと在京民放さん5局が「キオク、ともに未来へ。」をテーマに共同企画した一環だそうです。

もう1件、3.11当日にも。

池上彰の災害サバイバル〜地震・台風…明日から役立つ10ヵ条〜

地上波テレビ東京 2021年3月11日(木) 19:58~21:48

番組内容①
常識と思っている防災知識も時代時代で変わるもの。池上彰が最新の防災知識を大解説!
防災グッズに早変わりする便利な日用品も紹介します。
大型台風で水没したバスに取り残された旅行客の生還劇を実録ドラマ化。暴風雨にさらされ、低体温症の危機があった彼らを救ったのはあの名曲でした。

番組内容②
池上彰が東日本大震災の被災地へ。防災の町として生まれ変わった宮城県女川町をルポします。そこで池上が見つけた「女川いのちの石碑」。被災当時の中学生がこの石碑に込めた思いとは…。

出演者
池上彰、梅沢富美男、高畑淳子、児嶋一哉(アンジャッシュ)、SHELLY、須田亜香里(SKE48)、カミナリ、辻直美、福島和可菜
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池上さん、女川に足を運ばれていたのですね。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

それから、「いのちの石碑」は取り上げられませんでしたが、NHK BSプレミアムさんの「宮城発地域ドラマ ペペロンチーノ」。やはり女川町を舞台としていました。
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津波で店を失ったオーナーシェフの役を、草彅剛さん。熱演、というより、むしろ淡々とした演技が、かえってリアルな印象でした。
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奥様を演じられたのが、吉田羊さん。彼女に関し、途中、「ん?」という箇所が何箇所もあり、「妙だな?」と思っていたら、ドラマ終盤にその謎が明らかにされます。

詳しいネタバレは避けますが、光太郎詩「亡き人に」(昭和14年=1939)を想起しました。

   亡き人に

 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く
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 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処にゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

まさに、この詩のように、「あなたはまだゐる其処(そこ)にゐる」だったわけで……。
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それから、各登場人物の、それぞれの10年。上記の鈴木智博さんの葛藤のように、おのおのが悩みや苦しみ、それからつらい中でも喜びなども抱えて来た姿が、群像ドラマとして描かれてもいました。
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こちらは再放送を期待します。

【折々のことば・光太郎】

夜食いつかの関さんからの牛肉ののこりにてビフテキを作る。キヤベツ、ジヤガをその脂でいためる。豪華晩餐となる。ただ皿に盛つたものが部屋寒きためすぐ冷えるには閉口。

昭和22年(1947)1月14日の日記より 光太郎65歳

寝ている布団に、壁の隙間から舞い込んだ雪が、うっすらと積もるような小屋ですからね……。
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3.11が近づいてきました。今年は震災から10年ということで、各種メディアも、例年より取り上げられる回数が多いようです。

あの日、女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣さんが、津波に呑まれて亡くなってから、はや10年……。月日の経つのは早いものです……。
006
その貝さんが奔走されて、平成3年(1991)、女川町の海岸公園に建てられ、津波で横倒しになった後、昨年再建された光太郎文学碑について、昨日の『夕刊フジ』さんが大きく取り上げて下さいました。

【ぶらり、ぶんがく。本と歩く】津波被害からの復興に思い巡らす 高村光太郎「三陸廻り」 宮城県女川町・高村光太郎文学碑

001 出張先の宮城県女川町で、大きな碑を見つけた。震災遺構として整備された旧女川交番に立ち寄ろうと港に車を止めたら、駐車場のわきにある巨大な岩が目に留まった。碑面には、彫刻家としても文筆家としても知られる高村光太郎(1883~1956年)の文章と絵が彫られていた。
 〈古さびた女川の町が夜になると急に立ち上る。ただ海から来た人々への夜の饗宴の為にのみあるかと思う程、此の小さな町が一斉に一個の盛り場となる〉
 ネットで調べると「三陸廻り」という随筆の一節だった。昭和6(1931)年に時事新報に10回掲載された紀行文で、石巻から金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古などを旅したという。平成3(91)年に建立されたこの文学碑は、東日本大震災で倒れはしたものの流されずに残った。町の再整備が進んで、再建されたそうだ。
 10年前の3月11日。女川に押し寄せた津波の高さは20メートルに達した。高台にある病院の1階まで冠水して、市街地は壊滅。港からその病院を見上げると、人々を襲った津波のとんでもない大きさを実感して、へたり込みそうになる。とはいえ再建は少しずつ進んでいる。かさ上げした土地に女川駅が再建され、駅前にはシーパルピア女川という商業施設が整備された。観光客の姿もあった。
   〈女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている〉
 文学碑にはそんな一節も刻まれていたが、町はまた立ち上がろうとしている。
 帰宅後に「三陸廻り」の全文を読みたくなって、文芸評論家の北川太一が著した『光太郎智恵子うつくしきもの』を入手した。そこで知ったのが、光太郎が旅した昭和6年は、2万人以上が犠牲になった明治三陸地震の35年後だったということだ。被災地が活気を取り戻してきた時期にあたる。
 旅人の視点で景色や暮らしが生き生きと描かれる「三陸廻り」にも、ちらほらと災後の意識が浮かび上がる。釜石では自然の調和力に思いを巡らせ〈自然と人工とは衝突とはいえない程一方が大きい〉。宮古については〈海溝に異変のあるたび大海嘯(つなみ)の害をうける〉ので、海岸を避けて街が作られたと推察し、〈裏が今は表になっている〉と記した。光太郎も死者を想っただろうか。いま三陸を歩く私たちが「あの日」を想うように。 (阿蘇望)
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この碑が多くの人々の募金によって建立されたことに倣い、震災後に避難の目安となるランドマークとして建てられ続けている「いのちの石碑」についての、仙台に本社を置く『河北新報』さんの記事。

<ストーリーズ>1000年先の命を守る碑に/鈴木智博さん(21)宮城県女川町

「自分たちの活動が形となり、石碑ができた時はすごくうれしかった」。
 東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県女川町の高台に造成された住宅地。「いのちの石碑」と刻まれた碑のそばで、大学生鈴木智博さん(21)が思い返した。
 震災当時は女川二小6年。漁港のある集落に家族7人で暮らしていた。津波で祖父母と母を亡くした。
 その年、入学した女川中の社会科の授業で「1000年先の命を津波から守ろう」と生徒たちから石碑を建てる案が出た。周囲に勧められリーダー役を引き受けた。活動は保護者や地域に広がった。
 13年11月、女川中の敷地内に1基目が完成した。「世界中から多くの支援がもらえて感謝しかなかった」。約300人の関係者が集まる中、生徒の先頭に立って除幕の綱を引いた。
 町内21カ所に建てられる予定の石碑は、津波到達地点より高い場所にある。現在は18基。教訓や震災を詠んだ俳句も刻まれる。
 「夢だけは 壊せなかった 大震災」。鈴木さんは石碑に刻まれた俳句の一つを口にした。「今後、1000年に一度の大災害があっても石碑より上に逃げ、みんなの命が救われてほしい」。改めて石碑を見つめた。
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鈴木さん、テレビにも出演されます。

テレメンタリー2021「“3.11”を忘れない83 震災家族〜遺された父と子の10年〜」

地上波テレビ朝日 2021年3月7日(日) 04:3005:00

最愛の人を失い、遺された父と子どもたちは震災とどう向き合い、どう生きてきたのか。彼らを支えたものは何だったのか。ある家族の10年を見つめ、震災遺族の今を伝えます。

死者・行方不明者が約2万2000人に上る東日本大震災。宮城県は、被災した自治体の中で最も多い犠牲者が出ました。
女川町の漁師・鈴木高利さんは、津波で両親と妻・智子さんを失いました。遺されたのは長男・智博君、長女・奈桜さん、そして当時まだ2歳だった次女・柚葉ちゃん。7人家族が突然4人家族になって10年。子どもたちが成長するに伴って接し方にも悩みながら、高利さんは男手一つで子どもたちを育ててきました。
今、智博君と奈桜さんは仙台市の大学に通う学生です。智博君は震災を語り継ぎ、津波が襲った故郷に石碑を建てる活動を続けています。奈桜さんは「保育士」になるために勉強中です。まだ2歳だった柚葉ちゃんは、この春、中学生になります。
最愛の人を突然失い、遺された父と子どもたちは震災とどう向き合い、どう生きてきたのかー。彼らを支えたものは何だったのかー。ある家族が歩んだ10年を見つめ、震災遺族の今を伝えます。

◇ナレーター 滝藤賢一
◇制作    東日本放送

智博さん、昨年も「NNNドキュメント東日本大震災9年 約束 ~それぞれの道~」に出演されました。その際には、平成31年(2019)の台風19号の際、被災地のボランティアをなさっていたことも取り上げられ、頭の下がる思いでした。
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もう1件、「いのちの石碑」が取り上げられます。

news every.特別版 未来へつなぐ〜私たちの10年〜

地上波日本テレビ 2021年3月6日(土) 16:00〜16:55

東日本大震災から10年▽取材記者が見た被災地の歩み▽宮城・女川町「千年後の命を守る〜いのちの石碑」▽岩手・大槌町「心の支えは震災の年に生まれた双子〜自転車店の10年」▽福島・大熊町“じじい部隊”リーダー語る「原発は憎めない〜複雑な胸中」

【メインキャスター】藤井貴彦(日本テレビアナウンサー)
【サブキャスター】 中島芽生(日本テレビアナウンサー)

三浦裕紀(テレビ岩手記者) 藤田耕司(ミヤギテレビ記者)
緒方太郎(福島中央テレビキャスター)
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そして、3月6日(土)には、過日ご紹介した草彅剛さん主演の「宮城発地域ドラマ ペペロンチーノ」。

一昨日発行の女川町さんの広報誌『広報おながわ』でも紹介されました。表紙にドーンと草彅さんと吉田羊さん。自治体の広報誌らしからぬ、ですが(笑)。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜ポスターカラーで描いた紙製の日ノ丸の旗を雪の中に立てる。

昭和22年(1947)1月1日の日記より 光太郎65歳

詩「この年」(昭和25年=1950)にも同様の記述があります。
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  この年
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。

以前、この詩をご紹介した時の記事からコピペします。

その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。
 
老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」とたたえねばならなかった日本。
 
そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。

宮城県震災復興本部さん発行の冊子『NOW IS.』。A4判オールカラー、表紙を含めて8ページです。「宮城県内の復興の状況や復興に向けて取り組んでいる方々の「いま」の姿を紹介する広報紙」というコンセプトで、月刊。宮城県内では、公共施設や市営地下鉄の駅などに無料で置かれています。

毎月11日発行だそうで、もうすぐ今月号の発行となりますが、先月号にあたる第53号、「井ノ原快彦in女川」ということで、V6の井ノ原快彦さんによる女川町訪問記がメインでした。
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カマボコの「高政」さん、カタールの支援で建設された冷凍施設「マスカー」、津波で倒壊し、震災以降として保存公開されている旧女川交番、そしてこのブログでたびたび紹介している、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」についても大きく取り上げられています。
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当方、震災復興本部さんに申し込んで送っていただきましたが、PDF版はweb上で公開されています。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

そして、実物を観察させるにも、子供には子供特有の見方があるから、子供自身の見方によつて見させ、その見た所を描き出せるやうにすれば、自ら描く興味も湧いて来るであらう。


散文「教育圏外から観た現時の小学校」より
大正5年(1916) 光太郎34歳

当時小学校で行われていた図画教育――大人が描いた手本通りに模写させる――に対する批判です。自分も明治期にそういう教育を受け、図画の授業にはまったくつまらなかったと述懐しています。さらに同じことは文章、ひいては芸術一般にいえる、としています。

芸術に限らず、「いのちの石碑」などのアイディアもそうでしょう。はじめ、21基の石碑建立に1,000万円かかると分かった時、大人たちはさっさと「無理だ」と決めつけたようです。しかし、子供たちは光太郎文学碑の例に倣って募金で集めると言いだし、実際に僅かな期間で達成してしまいました。

新刊です。分類上は雑誌なのでしょうが、保存版的な

9月20日(日)の地方紙『石巻かほく』さんに紹介記事が出ていますので、まずそちらから

「石巻学」第5号が完成 文学特集、震災後の動きも紹介

 「石巻と文学」を特集した地域誌「石巻学」の第5号が完成した。石巻を舞台に作家ドリアン助川さんが書き下ろした小説をはじめ、詩人の吉増剛造さんが石巻について語った特集もあり、充実した内容になっている。ページ数も192ページと前号より約40ページも増加。港町・石巻が育んだ文学文化の魅力を伝えると同時に、東日本大震災と文学を考える1冊が誕生した。
 発行したのは「石巻学」プロジェクト(大島幹雄代表)。文学特集にふさわしく吉増さんとドリアンさんが登場。巻頭を飾っているのが「吉増剛造「『石巻』を語る」。吉増さんは昨年夏のリボーンアート・フェスティバルをきっかけに、石巻に足繁く通うようになった。詩人の目が捉えた石巻が語られている。
 ドリアンさんは大島さんと親交があり、小説の依頼を快諾。掲載されたのが「宿題」。ドリアンさんが震災後、門脇地区を訪れていた体験を下に書き上げた短編で、新しい震災文学が生まれた。
 石巻と文人たちとの出合いを振り返ったルポや回想は文学資料としても貴重。(1)結婚したばかりの吉村昭と津村節子夫妻の石巻での行商生活(2)石巻市が生んだ芥川賞作家辺見庸と門脇の思い出-を紹介している。
 高村光太郎や坂口安吾、北杜夫ら石巻地方を旅した作家や詩人は多く、その旅人たちに焦点を当てたのが「紀行文を旅する」。コロナ禍の今、旅の気分を味わえる読み物。紀行文に紹介された石巻の風土や暮らしに思いをはせながら石巻地方の魅力を再発見できる。
 震災後の動きにも着目。短歌集団「カプカプ」の短歌や、中学1年生の少女が亡き姉への思いをつづったメルヘン小説を掲載。第5号は地域から全国に向け発信する文芸誌の一面も備えた1冊になった。
 震災直後、俳句で心に抱いた思いや悲しみなどを表現した女川一中生の9年後を追ったルポや、震災後に読んだ本の中で印象に残った1冊について市民に聞いたアンケートも興味深い。震災を体験した市民や子どもたちに、俳句や読書がどのような役割を果たしたかを考えさせられる。
 代表の大島さんは「日和山にはたくさんの文学碑がある。松尾芭蕉や宮沢賢治、石川啄木ら多くの文学者が訪れ、石巻について書いている。特集は石巻と文学を巡る過去と今がダイナミックに交錯する中身の濃い内容となった。震災と文学の問題にも迫ることができた」と自負する。
 「石巻学」は2015年12月に創刊。これまで「映画」や「鯨」「音楽」などを切り口に、港町・石巻の魅力をさまざまな角度から探り、石巻の文化の奥行きの広さ、深さを発掘してきた。
 第5号は定価1700円(+税)。A5判。こぶし書房(東京都)発売。ヤマト屋書店TSUTAYA中里店などで扱っている。

石巻学VOL.5

2020年9月20日 石巻学プロジェクト編 こぶし書房 定価1,700円+税

「歩く 見る 聞く 石巻」をモットーに、石巻ならではの話題を特集してきた雑誌『石巻学』第5号発刊!

【特集 石巻と文学】
インタビュー 吉増剛造「石巻」を語る
ドリアン助川 宿題
大谷尚文 南浜町の辺見庸さん
大島幹雄 終着駅からの出発――吉村昭・津村節子のふたり旅のはじまり
古関良行 紀行文を旅する
近江瞬 言葉で見つめる
短歌部カプカプ短歌集
 伊藤成美 まちでまなぶ/岩倉曰 わだのは/加藤奨人 綺麗
 阿部達人 雀島トワイライト・ゾーン/岩崎綾 融けるのを待つ
 齋藤麻理奈 知らない道/千葉楓子 七歳までは夢の中/近江瞬 サイレンの尾
佐藤珠莉 真っ白な花のように
伊藤唯 愛すべき未来のために我が道を
阿部一彦 伊藤唯さんと女川1000年後のいのちを守る会
小野智美 言葉を杖に立ち上がる――『女川一中生の句 あの日から』十四歳の九年後
大島かや子 「言葉」でつなぐ3・11――国語教育と震災
アンケート 震災後に読んで、心に残った本は何ですか?
「石巻と文学」ブックリスト
梅里石雪 日和山慕情
【連載】
高成田享 石巻さかな族列伝5 漁師支えて三陸からトンガへ
本間英一 本間家蔵出しエッセー5 「橋本学」石巻を知る多才な郷土史家
大島幹雄 岡田劇場物語5 コロナ危機の中で
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上記目次で、色を変えてある項が、光太郎に関わります。

まず、河北新報社生活文化部長・古関良行氏による「紀行文を旅する」。石巻と、隣接する女川町を題材とした古今の紀行文の紹介です。最初に取り上げられているのが光太郎。昭和6年(1931)の『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」のうち、石巻と女川の項について述べられています。女川の項では、この紀行文が機縁となって光太郎文学碑が建立されたり、女川光太郎祭が開催されるようになったりした経緯、それらのために奔走なさりながら、東日本大震災の津波で還らぬ人となった故・貝(佐々木)廣さんについて、さらに今夏、光太郎文学碑が再建されたことなどについて言及されています。さらに当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書『光太郎 智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(二玄社 平成24年=2012)についても。

光太郎以外には、河東碧梧桐、瀧井孝作、臼井吉見、坂口安吾、田山花袋、白鳥省吾、北杜夫、三浦哲郎、井伏鱒二、池内紀らのそれが紹介されています。

下の方の「愛すべき未来のために我が道を」から「「言葉」でつなぐ3・11――国語教育と震災」が、石巻に隣接する女川町に、大津波の際、避難すべき高さの目安となるランドマークとして建設され続けている「いのちの石碑」関連。先述の光太郎文学碑が「100円募金」によって建てられた故事に倣い、こちらも建設費用は募金でまかなわれています。

ちなみに先月2日の『朝日新聞』さんの投書欄に、「いのちの石碑」の話題が載りました。
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『石巻学』では、碑の建立に携わっている若者たち自身の寄稿もありますし、彼らを見守り続けてきた『朝日新聞』さんの小野智美記者(連翹忌にもご参加下さいました)、阿部一彦先生など。主に、「いのちの石碑」に刻まれている、震災直後に中学生だった若者たちが詠んだ俳句(小野さんの編集で「女川一中生の句 あの日から」としてまとめられています)を軸にしています。

感心したのは、単なる「美談の紹介」的なスタンスではなく、若者たちがプロジェクトの進行中も、時にネガティブになってしまうこともあったことを、赤裸々に紹介している点。あれだけの大災害を目の当たりにし、大切な人を喪い、むべなるかな、です。しかし、だからこそ、彼らの石碑建立にかける思いがより鮮やかに際立つようにも感じられました。

そうした描かれ方は、昨年、NHKさんで初回放映のあったスペシャルドラマ「女川いのちの坂道」でもなされていました。今回執筆されている伊藤唯さんという方、どうも平祐奈さんが演じた主人公のモデルのようです。

さて、『石巻学』。それ以外にも、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を書かれた芥川賞作家の津村節子さんと、ご主人の故・吉村昭氏ご夫妻と石巻の関わりを追った「終着駅からの出発――吉村昭・津村節子のふたり旅のはじまり」なども載っています。他の小説、レポート等もなかなか読みごたえのあるものでした。

また、詩人の吉増剛造氏(表紙の写真が氏です)へのインタビューでは、宮沢賢治と石巻について、詳述されています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

そのころ、草野心平君が『春と修羅』を持ってきました。此の本は僕のところにも届いていたので、荷をといて読んでみました。すばらしいものがありました。
談話筆記「高村光太郎先生説話 一九」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

「その頃」は大正13年(1924)。本当にこの通りだったとすると、心平に薦められるまで、送られてきた『春と修羅』を読んでいなかったわけで、光太郎、チョンボでしたね(笑)。

宮城県からバスツアーの情報です。 

3.11を忘れない 石巻 大川小学校・女川 いのちの石碑

3密を避けた新しい形態で旅行に行きませんか? 東日本大震災時の様子や復興の様子、被災地に今必要なことなどについてお話させて頂く「現地語り部ガイド」2ヶ所付き。

全校児童108人の7割に当たる74人、教職員10人が死亡・行方不明となった石巻市の旧大川小学校跡地で「大川小学校伝承の会」の方から当時の状況などの説明をして頂きます。

東日本大震災で最も高い死亡率となった女川町は、被災地域の中でも唯一「防潮堤を造らない」町として、あくまでも「減災」を意識した町づくりに取り組み、当時の様子や今後の展望など詳しく解説頂きます。

石巻・女川での買い物で復興支援も!

[旅行日]  8月10日(月祝)  
[旅行代金] 9,500円  6,500円 Go To トラベルキャンペーン対象となります!
[行程]
仙台駅東口【8:30】=大川小学校(語り部案内付き)=いしのまき元気いちば(買い物)=シーパルピア女川(昼食)=女川・いのちの石碑など(語り部案内付き)=シーパルピア女川(買い物)=仙台駅東口【17:00】
[旅行条件]
 ・朝食おにぎりとお茶付き  ・昼食付き
 ・最少催行人員10名 ・添乗員同行
 ・バスガイド付き!
 ・ 利用バス会社:仙台バス㈱、仙南交通㈱または、㈱仙塩交通 
  [ご案内・注意]
 ※道路状況などにより帰着が前後する場合がございます。

受付締切  4日前まで
日程変更  予約日時まで
キャンセル 予約日時の11日前まで

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昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために、三陸一帯を約1ヵ月、主に船で移動した光太郎。女川にも立ち寄ったということで、それを記念して平成3年(1991)に光太郎文学碑が建立され、翌年からは「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。

平成23年(2011)の東日本大震災では甚大な被害が発生、その教訓から、当時の女川第一中学校の生徒の皆さんの発案で、町内の各浜に津波の際の避難の目安となるランドマークとして「いのちの石碑」が設置され続けています。最初の企画の段階で、かつて光太郎文学碑が募金で費用をまかなって建てられたことに倣い、「いのちの石碑」も募金活動で資金を集めるということになりました。そう言う意味では、光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。全21基の予定で、今春には18基目の設置が為されたそうです。

で、その「いのちの石碑」も行程に入っているツアーというわけで、ご紹介させていただきました。

実施日は8月10日(月・祝)。その前日には、例年であれば女川光太郎祭開催の予定でしたが、残念ながら、コロナ禍のため今年は中止だそうです。これまでは光太郎詩文の朗読や当方の連続講演などが行われていましたが、今年は規模を縮小し、光太郎文学碑(再建されたそうで、この件はまた改めてご紹介します)への献花のみとするはずだったところ、隣接する石巻でコロナ感染が発生、女川にも濃厚接触者が……ということでそれも無くなりました。致し方ありますまい……。

代わりに、といっては何ですが、こちらのツアー、ご都合の付く方、コロナ対策を充分になさった上で、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩の中心は愛の熱情である。

散文「『職場の光』詩選評 十一」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

おそらく2年前に編んだ『智恵子抄』を念頭に置いた発言だと思われます。

『智恵子抄』所収の散文「智恵子の半生」には、「美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。」と書かれています。

こちらの選評は、引用部分の後にこう続きます。「肉親への愛、友への愛、人への愛、物への愛、自然への愛、祖国への愛、神への敬愛、さうして、畏多くも 大君をみ親と慕ひたてまつる臣子の愛念。詩はさういふところからこんこんと湧いて尽きない。」似ていますね。

ある意味、「大君の愛」、「大君をみ親と慕ひたてまつる臣子の愛念」を、「一人の女性の底ぬけの純愛」や「肉親への愛、友への愛、人への愛、物への愛、自然への愛」とほぼ同列に扱うあたり、不敬のそしりを免れないようにも思われます。しかし、戦時中であっても、ぎりぎりの線でこう書いていた光太郎を改めて尊敬します。

このブログで時折取り上げさせていただいている、宮城県女川町の「いのちの石碑」。東日本大震災の後、当時の中学生たちが考案した、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町にあった光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、建てられ続けているものです。

計画では全21基を、町内の海岸にくまなく設置するということですが、18基目が今年の3月に完成披露、さらに国土地理院さんが制定した「自然災害伝承碑」にも登録されました。

女川町の『広報おながわ』、先月号。うっかりネットで見るのを失念していまして、つい先日、気がつきましたが、18基目の設置について取り上げられています。

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表紙は、やはり東日本大震災がらみで、津波で横倒しになった旧女川交番。こちらは今年、震災遺構として整備が完了しました。

それから、ラジオ番組で「いのちの石碑」が取り上げられますので、紹介いたします。 

復興支援PROGRAM Hand in Hand 1000年後の命を守るために。今年21の浜に完成「女川いのちの石碑」

TOKYO FM 2020年5月9日(土)  8:00~8:25無題2
FM大阪    5月9日(土)  21:30~21:55
FM AICHI   5月14日(木) 20:00~20:25
FM福岡    5月9日(土) 9:30~9:55
AIR-G (北海道) 5月10日(日) 21:30~21:55
DATEFM(仙台) 5月10日(日) 9:30~9:55
ふくしまFM   5月10日(日) 9:30~9:55
広島FM     5月10日(日) 8:00~8:25


2011年3月11日に発生した「東日本大震災」は、巨大な津波によって1万8000人を超える死者・行方不明者を出し、さらには福島第一原発の爆発事故を招き、今なお約5万2千人に及ぶ方が避難生活を余儀なくされています。
そして2015年、鬼怒川を決壊させた「関東・東北豪雨」、2016年「熊本地震」、2017年「九州北部豪雨」、2018年 「西日本豪雨」、そして「北海道胆振東部地震」と、もはや災害列島と言っていいほど、日本では毎年のように 自然災害が発生し、多くの被害をもたらしています。
しかしながら2018年の西日本豪雨を例に取れば、そのとき避難勧告、避難指示が出ているにもかかわらず、
実際 に避難行動をとった人は、わずか1%台にとどまりました。
これほど災害が頻発しているにもかかわらず、どれほどの人が自分の住む地域の災害リスクを認知し、
いざという時に取るべき行動を理解しているのでしょうか。
そして災害が起こった地域では、懸命の復旧、復興への歩みが始まりますが、傷ついた地域からは子育て世帯が減り、過疎と高齢化が加速する・・・、これもまた、被災地の抱える大きな問題となっています。
災害から得た教訓を自分のこととして共有し、そして復興、地域の再生へ励む人たちを応援する・・・、それこそがこのプログラム、「Hand in Hand」が中心に据える想いです。


それから、終わってから気づいたのですが、やはりTOKYO FMさんを中心に、FM AICHIさん、広島FMさん、そしてエフエム青森さんでは、3月まで、同じような趣旨の番組「LOVE&HOPE ヒューマンケアプロジェクト」という番組を放送していました。で、TOKYO FMさんで3月6日(金)にオンエアされた回が、やはり「いのちの石碑」関連でした。 

女川いのちの石碑 18基目の石碑が完成

宮城県女川町「女川いのちの石碑」。震災当時、女004川第一中学校の1年生が町内にある21の全ての浜に、津波到達地点より高い場所に石碑をたてて、避難の大切さを伝えようという取り組み。先日18基目の石碑が完成し、その披露式が行われました。
プロジェクトメンバーの阿部由季さんと、女川中時代の担任教師・阿部一彦先生に話を聞きました。

◆「1000年後の命を守るため」
(阿部由季さん)宮城県女川町大石原浜に18基の石碑が立ちました。最後の21基目の石碑が女川小中一貫校に11月22日に立つ予定です。まず1000万円集まったということがすごすぎて、周りの方々005が支援していただいたおかげ。この石碑が3月11日のことを思い出すきっかけにもなると思うし、地域の方々はもちろん、小中学生も目にすると思うので、まだ生まれていなかった子もいると思うので、これを見て「あ、地震が来たら逃げなきゃいけないんだ!」と思う人もいると思います。「1000年後の命を守る」というのは遠い話だけど、わたしたちも自分の子どもや孫に語り継いでいって、同じ思いをしないでほしいと思っているので、これが少しでも役にたてたらいいなと思います。

◆「21基立てて、そこからがスタート」
(阿部一彦先生)子どもたちが先日言っていたことは。「21006基立てて終わりと思っている人もいるが、わたしたちにとっては違う。21基を立てて、そこからがスタートなんです」と。本当にそうおもっているんだろうなあということをひしひしと感じる9年目。この子たちはたぶん死ぬまで活動を続けるんだろうな、おじいちゃん、おばあちゃんの姿を見て、次の子どもたちも活動を続けるんだと思う。

「1000年後の命を守る」というのが、子どもたちの旗印です。これまで建立した石碑のうち15基がすでに「自然災害伝承碑」として国土地理院のウェブ地図に掲載されています。

またこの石碑を案内する「語り部」の活動もしています。毎月第3日曜日、10時に女川駅前集合とのことです。


当方、ラジオはあまり聴かないので存じませんでしたが、こうした硬派の番組を、しかも民放さんで制作しているのですね。

「復興支援PROGRAM Hand in Hand」、聴取可能な地域の方はぜひお聴き下さい。


【折々のことば・光太郎】

美かぎりなし  短句揮毫  戦後期?

彫刻や絵画など造型芸術の「美」、詩歌などの言葉としての「美」、それらを融合させた「書」の「美」、そして人の心が包含する「美」もイメージしていたのではないでしょうか。

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