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定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第24号が届きました。
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平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」。光太郎の日記や書簡、周辺人物の回想文などに書き残された食事の記録から、光太郎が作ったメニューを再現したり、現代風にアレンジしたりというコンセプトです。今号は「酢豚とお粥」。
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酢豚の方は、昭和20年(1945)の日記に「夕食古鹵肉をつくる」とあるのが元ネタです。

昨年の暮れ頃でしたか、こちらの連載に関わっていらっしゃる花巻高村光太郎記念会さんの女性スタッフの方からメールが来まして「古鹵肉って何ですか?」。当方、光太郎はともかく、料理には詳しくありませんが(笑)。

調べてみたところ、国会図書館さんのデジタルデータで答えを見つけました。
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大正15年(1926)刊行の『手軽に出来る珍味支那料理法』。

そこで、さも以前から知ってましたよ、という顔をして「酢豚のことです」と返信(顔は関係ありませんが(笑))。というわけで、今回の「光太郎レシピ」、当方も軽~く協力させていただきました(笑)。

それにしても光太郎が「古鹵肉」などという語を知っていたというのも不思議です。光太郎の知識や興味は実に多岐にわたっており、まさに「博覧強記」という語がよくあてはまります。

『マチココ』さん、オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回偶数月配本、送料込みで3,920円です。ぜひどうぞ。

明日も『マチココ』24号ネタで(このところまたブログのネタが不足気味なので、卑怯ですが2回に分けます(笑))。

【折々のことば・光太郎】

カツコー、時鳥、此頃更に声をきかず、鴬のみ相変らずさかん也。候鳥已に去りしか。キヨ、キヨ、キヨコ、コイ、コイ、コイといふやうに鳴く鳥あり。カナカナ終日さかんになく。油蝉もなく。


昭和21年(1946)7月24日の日記より 光太郎64歳

「時鳥」はホトトギス、「候鳥」は渡り鳥です。「キヨ、キヨ、キヨコ、コイ、コイ、コイ」野鳥好きの方はこれで何の鳥なのかわかるのでしょうかね。

出版されていたことに気付かず、1ヶ月以上経ってしまいましたが……

続 宮沢賢治の食卓

2020年12月14日 魚乃目三太著 少年画報社 定価690円+税

注文の多い料理店などおなじみ誰もが知っている宮沢賢治の作品と共に紡がれるエピソードを食べ物と共にお届けします。魚乃目三太の人情味ある描写で描かれる伝記グルメ浪漫堂々完結!
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 壱品目  梅干しのおむすび
 弐品目  トマトのスープ
 参品目  干しいも
 四品目  塩鮭
 五品目  茄子の漬物
 六品目  ライスカレー
 七品目  ひっつみと明日葉
 八品目  お粥
 九品目  かけそば
 十品目  キャラメル
 十一品目 塩むすび


平成29年(2017)に刊行された『宮沢賢治の食卓』の続編です。その際には鈴木亮平さん主演でドラマ化もされました。

正編は大正10年(1921)から同15年(1926)、賢治の花巻農学校教師時代を中心に、妹・トシの死、『春と修羅』や『注文の多い料理店』の刊行なども描かれました。「思い出食堂コミックス」というシリーズの一環ですので、正続とも各話で何らかの料理がモチーフとして扱われています。

正編刊行時、賢治が光太郎と出会う直前で終わっていたので、ぜひ続編を、と思っていたところ刊行されたので、嬉しく存じました。

しかも、ちゃんと光太郎が登場! 大正15年(1926)12月、二人の最初で最後の会見の場面。
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当会の祖・草野心平も。
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巻末のおまけ的な部分でも。
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笑えますが、史実です(笑)。

続編は、大正15年(1926)、羅須地人協会の立ち上げから、賢治の死までが描かれています。「雨ニモマケズ」も。
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物語の始まりは、プロローグ的に、賢治没後の昭和9年(1934)、光太郎や心平も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の場面でした。
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名前は挙げられませんでしたが、「あら、手帳が…」と言った女性は、詩人の永瀬清子です。

この場で光太郎も手帳に書かれた「雨ニモマケズ」を読んだはずなのですが、コミックでは後日、賢治実弟の清六が光太郎にだけ見せる、という形になっていました。
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その他、光太郎の親友・水野葉舟の娘で、やはり光太郎を敬愛していた詩人の尾崎喜八と結婚した實子、終戦後の一時期、光太郎を自宅離れに住まわせてくれた総合花巻病院長・佐藤隆房、そして昭和20年(1945)の空襲で東京を焼け出された光太郎を疎開させてくれた賢治の両親・政次郎とイチ、直木賞作家の森荘已池、賢治の親友だった藤原嘉藤治など、光太郎と交流のあった人々が多数登場します。
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これら多くの人々に愛され、そして愛した賢治の人間像がしっかりと描かれた力作です。また、当方、それほど賢治に詳しいわけではないので何ともいえませんが、以外と最近わかってきた事柄なのではないのかな、と思われるようなエピソードも散りばめられているようです。ほのかな恋の顛末など。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午後小屋の直前の水田一枚のひろさを実測してみる。八間余に八間あり。二畝ほどある事を確かむ。60坪余なり。ここに稗を撒かんと思ふ。今水田になり居れど、水を乾かして畠として使はんと思ふ。

昭和21年(1946)4月12日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)前の畑、元は水田だったのですね。
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結核性の肋間神経痛がひどかった昭和26年(1951)を除き、野菜類はほぼ自給できていました。穀類は配給に頼らざるを得ませんでしたが。

時代や取り組み始めた年齢は異なりますが、農学校を退職し、耕作を始めた賢治ともかぶるような気がします。

昨日ご紹介した日記の一節と順序が逆ですが、紹介しようと思っていてうっかり飛ばしてしまいましたので、戻りました。

まず地方紙『岩手日報』さんの記事から

光太郎ランチ弁当を開発した「ミレットキッチン花(フラワー)」の代表 本舘博子さん

002 彫刻家で詩人の高村光太郎の日記を基に、地元の食材をふんだんに用いる光太郎ランチ弁当を開発。花巻市轟木の道の駅はなまき西南で毎月15日に限定販売している。「人が集まり、にぎわう地区にするため食からサポートしたい」と意気込む。
 同市轟木出身。子どもの頃は自宅裏山で竹スキーをしたり、ゴム跳びをして遊んだ。「ジャンパースカート」に憧れ、当時女子高だった花巻南校に進学。友達の推薦で応援団リーダーになり、華やかな校風ながら「あえてビリッと厳しい態度を取っていた」と笑う。
 盛岡市の盛岡中央職業訓練校の事務科で和文タイプライターや簿記、珠算を学び、花巻商工会議所に就職。結婚を機に退職し、旧笹間、花巻農協で金融関係の業務に長く携わった。
 農協女性部の活動で雑穀料理のレパートリーを広げる活動や幼児の食育に取り組んだ。「地域の人と接する機会が増え、人生が豊かになった」と振り返る。
 かごや花器に自由に花を飾るフラワーアレンジメントが趣味。「花を見ていると心が安らぐ」と自宅には生花を絶やさない。花巻市北笹間で夫、次男夫婦と4人暮らし。

光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村の山小屋近くに昨年オープンした、道の駅はなまき西南さんのテナントで、記事にある通り毎月15日に限定販売の「光太郎ランチ」産みの親の方です。高齢者向けに弁当の宅配などの事業もなさっているそうで、頭が下がります。

さて、今月の「光太郎ランチ」。下記のメニューだったそうです。
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さらに画像も花巻光太郎記念会の女性スタッフの方から送っていただきました。
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美味しそうですね。

実際に召し上がっての感想は、特に大根とソーセージのケチャップ炒め、イカとキャベツの酢味噌和えが特に美味しかったとのこと。

フルーツは、キウイを煮たものとミカンだそうです。また、メニューにありませんが、塩こうじ入り玉子焼きもリクエストして入れてもらい、ボリューム満点だったそうで。これで定価は800円。十分に元は取れそうですね(笑)。

ちなみにボストンビーンズは、光太郎が明治末の海外留学中に作り方を覚え、現地でもよく食していたものです。その他も、記事にある通り、光太郎の日記などから着想を得てのメニューで、こじつけではありません。
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そういう意味では、なかなかメニューを考えるのも制約があって大変だと思いますが、「光太郎ランチ」、末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

ひる食、ソバ粉をスルメをつけてある汁にてとき、飯盒中皿に入れてむす。一種のパンとなる。味淡泊にてあしからず。バタでくふ。 こいか漬けを仕込む。大根千六本、刻みスルメ、せん切コブ、それに伊藤光富久氏よりもらつたアラレ(焼米と黒豆)をも入れる。唐辛子。醤油を補充す。


昭和21年3月3日の日記より 光太郎64歳

ついでですので、この項も食事内容で。昭和21年(1946)から翌年の春ぐらいまでは、細かに作ったメニューを記録しています。この日もこれ以外に朝食、夕食の品目をすべて書き残しました。

そば粉パン、光太郎の得意料理の一つとなりました。「大根千六本(せろっぽう/せんろっぽん)」は、マッチ棒ほどの太さに刻んだもので、味噌汁の具などに使いますね。これも光太郎の好物の一つでした。

先週の『読売新聞』さんの岩手版に8月にオープンした道の駅「はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」に関する記事が出ています

いわて経済便 地域の「食」支える道の駅 はなまき西南 高齢者へ弁当宅配も

 県内で特色のある道の駅が増えている。花巻市の「はなまき西南」は、道路利用者へのサービスに加え、スーパーがない地元住民の暮らしを支える役割も果たしている。
 同所は、県内34番目の道の駅として8月にオープン。市中心部から西南に約7㌔・㍍離れた田園地帯にあり、近くには彫刻家の高村光太郎が終戦後の一時期、暮らした山荘が残る。この山荘や温泉地にやって来た観光客がターゲットだ。施設内には高村のほか、花巻生まれの詩人・宮沢賢治の写真や詩が掲げられている。
 同時に力を入れているのが、地区住民への生活のためのサービスだ。
 西南地区では6年前、唯一のスーパーが閉店。住民の中には、隣の北上市まで買い物に行かざるを得なくなった人もいる。
 閉店の前後から、地元の住民組織が道の駅誘致の運動を始め、「高齢者などが気軽に立ち寄れ、買い物もできる場所」にするよう市に訴えた。さらに住民ら約170人が出資して株式会社「はなまき西南」を設立し、道の駅の運営を担うことになった。
 同社がテナントに迎えたのが、JAいわて花巻の農産物直売所「すぎの樹」。道の駅オープンに合わせ、地区の別の場所から移転した。観光客向けに漬け物などの土産物を販売する一方、住民ニーズの高い野菜や果物などの生鮮食料品も維持した。「車で中心部に出られない高齢者を意識した」(JAの担当者)という。
 「以前は市中心部のスーパーで買い物していた。近くで買えるようになって便利になった」。近くに住む男性(52)は出店を喜ぶ。
 さらに、買い物が困難な高齢者のため、道の駅を拠点に、弁当や総菜の宅配サービスも始まった。
 地元の女性たちで作る加工グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」は、元々ボランティアで、宅配活動を行ってきた。これを事業化し、規模や配達地域を拡大。地元産野菜をふんだんに使い、道の駅でも店頭販売している。代表の本舘博子さん(70)は「高齢者を見守りながら、一般のお客さんにも飽きのこない味を提供したい」と意欲を見せる。
 隣接地には10月、地区初の大手コンビニチェーン店もオープンした。安藤功一駅長(62)は、「コンビニと産直の組み合わせで、スーパーに代わる役割を果たすのが目標。外からの利用者と住民の両方を意識し、品ぞろえを充実させていきたい」と話している。

県内の特色ある道の駅
 くじ(久慈市) 久慈秋まつりの山車などを展示 
 三田貝分校(岩泉町) 廃校になった分校の跡地を利用
 石神の丘(岩手町) 彫刻美術館に隣接。緑豊かな立地
 雫石あねっこ(雫石町) 日帰り温泉施設を併設
 とうわ(花巻市) 温泉と宿泊施設を併設
 遠野風の丘(遠野市) 沿岸被災地の鮮魚を売る店舗併設
 厳美渓(一関市) 伝統の餅料理を提供
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なるほど、オープンの裏側にはこういう経緯があったのかと、納得させられる記事でした。

紹介されている「ミレットキッチン花(フラワー)」さんは、毎月15日、限定販売の「光太郎ランチ」も手がけられています。

今月の「光太郎ランチ」はこんな感じ。花巻高村光太郎記念会さんから画像を頂きました。
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美味しそうですね。

この取り組みも地域活性化に一役買い続けていってほしいものです。

001【折々のことば・光太郎】

栗をひろつてやいてくふ。美味限りなし。


昭和20年(1945)10月19日の日記より 光太郎63歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で、初めて囲炉裏で火を起こし、最初に手がけたのが焼き栗でした。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第23号が届きました。
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平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で「光太郎レシピ」という連載が為されていますが、今号は「リンゴとサツマイモのケーキ」。
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意外と光太郎はスイーツ好きだったようで、戦前の文章にもそうした記述がありますし、今号で紹介されていますが、戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋で、ケーキを自作していたとのこと。昭和22年(1947)の日記には「午後シヨートケーキをつくりくふ。」の一文があります。あのぼろぼろの小屋でどうやって作っていたのか、ちょっと想像ができませんが(笑)。

山小屋でケーキといえば、以前にも書きましたが、昭和26年(1951)の日記には「昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。」の記述があります。数ある光太郎笑えるエピソードの中でもポイントの高いものの一つです(笑)。

リンゴに関しては、宮沢賢治の教え子で、花巻で林檎園を経営していた阿部博とのからみ。平成27年(2015)、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた「甘酸是人生」の書を贈られた人物です。
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甘く酸っぱいリンゴの味と人生の甘酸との掛詞で、ザブトン一枚ものです(笑)。

また、光太郎は阿部に、即興で詠んだ「酔中吟」という詩も揮毫して贈りました。
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「たいしよ」は「大将」ですね。のちに阿部はこの書を石碑に刻み、リンゴ園の敷地に建立しました。
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昨年開催された市民講座「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」で、花巻、北上の光太郎碑を案内して歩いたのですが、この碑も行程に入れていただきました。

こちらのリンゴ園では、この揮毫から文字を採ったリンゴジュース「阿部のたいしよ」を販売していたとのこと。『マチココ』さんの画像にも写っています。
リンゴジュースのラベル
現在はやめてしまったそうですが、ぜひ復刻していただきたいものです。

ちなみに『マチココ』さんの撮影、こちらのリンゴ園内にあるレストラン「わいんさっぷ」さんで行われたとのこと。
リンゴ園のカレー屋さん表札 阿部リンゴ園
牛すじカレー
牛スジカレーが人気だそうです。

また、花巻高村光太郎記念会さんから、こちらのリンゴも送っていただきました。
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まだ手を付けていません。それ以前にも、石鳥谷地区産のものを送っていただき、そちらを食べているところです。
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ちなみに特にこの時期、全国から色々なものが届きます。ありがたし。
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積んである一番下が阿部さんのリンゴ、その上が石鳥谷地区産のリンゴ、さらに昨日落手した十和田産の長芋(箱に光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が印刷されています)、右は愛媛から届いたミカンです。
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さて、『マチココ』さんに戻ります。

今号の特集は「看板」。
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花巻市街などの、どちらかというとレトロな、味のある看板が多数取り上げられています。何度か泊めていただいた在来線花巻駅前のかほる旅館さんのそれも。
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昨日、『朝日新聞』さんの先週の夕刊に掲載された「(まちの記憶)大井町 東京都品川区 物語生む、にぎわいの交差点」という記事をご紹介する中でも書きましたが、どんどん変貌していく「まち」。しかし、そこに刻みつけられた「記憶」、しっかり残していくことは大切なことだと思います。

【折々のことば・光太郎】

正午鳥谷崎神社々務所ニテ天皇陛下の玉音録音放送ヲキキ平和再建の詔書渙発を知る。

昭和20年(1945)8月15日の日記より 光太郎63歳

鳥谷崎神社、そしてその時の模様を綴った詩「一億の号泣」についてはこちら

10月15日(木)、花巻高村光太郎記念館さんで企画展示「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」を拝見した後、レンタカーを道の駅はなまき西南さん(愛称・賢治と光太郎の郷)に向けました。10分足らずで着く距離です。
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こちらのテナントの一つ、ミレットキッチン花(フラワー)さんで開発された新メニューの弁当「光太郎ランチ」のお披露目会に呼ばれていました。
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レポートする前に、状況をわかりやすくするため地方紙二紙の記事をご紹介。

まずは『岩手日日』さん 

光太郎の好物弁当に 毎月15日「ランチの日」 10食限定 道の駅はなまき西南

 花巻市轟木の道の駅はなまき西南で15日から、花巻ゆかりの彫刻家高村光太郎が好んで食べていた物を入れた手作り弁当の販売が始まった。光太郎が花巻へ疎開するため東京をたったのが1945年5月15日だったことから、毎月15日を「光太郎ランチの日」とし10食限定で提供する。
 同道の駅には「賢治と光太郎の郷」の愛称があり、構内に併設されている食品加工女性グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」(本舘博子代表)が開業前から、光太郎に結びつくメニューを考えていた。市の委託を受けて高村光太郎記念館(同市太田)を運営する「花卷高村光太郎記念会」の女性スタッフが4年ほど前から光太郎の食事を再現し、研究しているのを知った本舘代表が提案し、今年8月下旬から打ち合わせや試食などを重ね、協力して販売にこぎ着けた。
 同記念会では、光太郎が花卷で過ごした7年間のうちに残した日記や手紙にあった食に関わる記述を参考に、出来るだけ近づけて試作していた。
 弁当には地元産の食材をふんだんに使用。メニューは毎月変更予定で、第1弾は▽枝豆・青のりごはん▽ブリの醤油(しょうゆ)麹(こうじ)焼き▽牛肉ステーキのキノコ添え▽大豆のトマト煮▽キュウリのつくだ煮-など。光太郎が好んだ牛肉やキノコ、リンゴ、マメのほか、自分で栽培していたトマトやキュウリも取り入れた。
 15日には同道の駅でお披露目会が行われ、関係者ら10人余りが弁当を味わった。
 本舘代表は「光太郎がグルメだったことはあまり知られていないのではないか。弁当を通じて光太郎の意外な面に触れてもらえたら」と期待。同記念館女性スタッフの井形幸江さんは「戦後の食糧難の中、光太郎は健康な体をつくるため食べることを大事にしていた。道の駅に寄る地域内外の人に食べてもらい、光太郎の人柄や功績の普及につなげたい」と話していた。
 1食800円(税込み)。毎月午前11時ごろには店頭に並ぶ。問い合わせはミレットキッチン花=0198(29)5522=へ。

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続いて『岩手日報』さん 

「光太郎ランチ」始めました 花巻・道の駅で毎月15日、限定販売

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が、花巻市西南地区で過ごした際の日記を基にした「光太郎ランチ」弁当(800円)を地元の女性グループが開発した。
 「ミレットキッチン花(フラワー)」(本舘博子代表)が15日、同市轟木(とどろき)の道の駅はなまき西南で初めて販売。西南地区の食材をふんだんに使った。光太郎が花巻に向けて東京を出た45年5月15日にちなみ、毎月15日に限定10食を販売する。
 次回は来月15日午前10時半ごろから販売する。
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というわけで、お披露目会に参加して参りましたので、レポートします。

早く着いてしまったので、道の駅内をうろうろ(笑)。写真を撮り忘れましたが、先月は建設中だったファミマさんが敷地内にオープンしていました。
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JAいわて花卷さん直営の産直コーナー「すぎの樹」さん。平日でしたがにぎわっていました。
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その奥にミレットキッチン花(フラワー)さん。
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「光太郎ランチ」、お披露目会の前に既に販売されていました(笑)。
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視線を上げると壁に光太郎肖像画。先月は気付きませんでした(笑)。
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お披露目会会場のインフォメーションスペースへ。
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ハロウィン仕様です。
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すでにテーブルに「光太郎ランチ」。見るからにおいしそうです(笑)。
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参加者名簿も。当方、上田市長、道の駅代表取締役の根子氏と同じテーブルでした。
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やがて時間となりまして、開会。上記記事にありましたミレットキッチン花(フラワー)代表・本舘さんのご挨拶。
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そしていよいよ、待ちに待った「いただきます」(笑)。
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色どりもいい感じですね。

メニューが箸袋の中に。
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隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの連載「光太郎レシピ」にしてもそうですが、実際の光太郎日記などの記述から、現代風にアレンジして作られています。
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意外とボリューミーでしたし、品数が多めで飽きさせない工夫がされているな、と感じました。そしてやはり手作り感。お世辞抜きで(笑)美味しくいただきました。参会の皆様も同様だったようです。また、800円(税込み)という価格も妥当だろうと感じました。
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当方、食べるのに夢中で、皆さんの写真を撮るのを忘れており(笑)、正方形の写真は花巻高村光太郎記念館の方の撮影です。

自分の名が冠された施設で、自分の名が冠された弁当……泉下の光太郎も苦笑しつつ喜んでいるのではないかと思いました。「光太郎ランチ」、末永く愛されてほしいものです。

以上、花卷レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

開発も道路からでなくてはならないと思います。道路は誰かが一心になって、働きかければできないことはないのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 三三」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

道の駅はなまき西南さん、広い県道13号沿いに作られました。この県道も道の駅も、地元の皆さんがその必要性を訴え、整備されたのでしょう。

光太郎、詩の代表作「道程」(大正3年=1914)でも謳ったように、「道」を絶えず意識する、「求道者」の生涯でした。

今日明日と1泊で、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花卷に行って参ります。

まず、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」を拝見。それから、8月に記念館近くにオープンした道の駅はなまき西南(愛称「賢治と光太郎の郷」)さんでのイベントに参加して参ります。

花卷といえば、このブログでも2ヵ月に1度、欠かさずご紹介しています隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第22号が届きました。
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平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で「光太郎レシピ」という連載が為されていますが、今号は「カレイの青菜ソースとキガラチャ飯」。
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「キガラチャ飯」は「黄枯ら茶飯」のようです。「醤油と酒などとを加えて炊いた飯」だそうで、存じませんでした。「
黄枯ら茶」は色の名前で、「黄唐茶」とも書き、薄い藍色を帯びた薄茶色とのこと。そういう色になっているので「黄枯ら茶飯」なのでしょう。

毎号、このように光太郎が実際に作ったメニューを元に現代風にアレンジしたりしたレシピが掲載されていますが、今までに紹介された「光太郎レシピ」を取り入れた「光太郎ランチ」なる新メニューが、道の駅はなまき西南さんのテナント「ミレットキッチン花」さんでお披露目されます。

今のところの予定では、毎月15日に限定10食販売する予定だそうです。毎年5月15日、旧太田村山口地区の光太郎が暮らした山小屋敷地で、「高村祭」が開催されている(今年はコロナ禍で中止でしたが)ことにちなみ、15日だとのこと。また、別途予約注文の場合は、5日前までに数量申し込みで受注可能だそうです。

そのお披露目会に呼ばれましたので、行って参ります。

ちなみに道の駅はなまき西南さんに関し、先月、地方紙『岩手日日』さんに記事が出ましたが、ご紹介するタイミングを失っていましたので、これ幸い、ここでご紹介します 

道の駅はなまき西南 花巻市西南地区に道の駅がオープン

県道13号沿い、花巻市轟木に市内4番目となる道の駅が8月にオープンした。駅内は24時間利用可能なトイレや駐車場、インフォメーションスペースを完備し、テナントとして産直施設「すぎの樹」と、地元で長年愛されている焼肉店「味楽苑」が移転したほか、地域のお母さんたちで立ち上げた加工グループ「ミレットキッチン花(フラワー)」が入居。産直では採れたての野菜や花をはじめ、同グループ手作りの弁当や総菜、パン、加工品、宮沢賢治や高村光太郎に関連したお土産やグッズも販売している。田畑に囲まれた交通量の多い地域とあって、住民やドライバーが待ち望んでいた道の駅。買い物や休憩に立ち寄る人で連日にぎわっている。
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偉人ゆかりのスポットにも近く、「賢治と光太郎の郷」を愛称にオープン。

産直にはアスパラやズッキーニ、トマトなどの新鮮な野菜がずらり
産直にはアスパラやズッキーニ、トマトなどの新鮮な野菜がずらり。

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地元産の雑穀や野菜を使ったミレットキッチン花の「弁当」(500円)。
高齢者世帯への配達も行っている。

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地元で人気の焼肉店「味楽苑」が移転入居。焼き肉やラーメン、定食などが味わえる。

味楽苑の看板メニュー「笹間ホルモン」(500円)
味楽苑の看板メニュー「笹間ホルモン」(500円)。

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オープンを機に開発された新商品「智恵子のレモンキャンディ」(350円)

詳しくは帰りましてからレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

僕は東京でもひとりでいるのがよかったし、そんなことで、山口にやって来ているので、できれば誰も来てもらいたくないのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 三〇」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

太田村山口に来て、村人たちに敬愛されていた光太郎でしたが、本来あまり人付き合いは得意な方ではありませんでしたし、「厚かましい」ことは自分がするのも、他人にされるのも大嫌いでした。

それでも村人と酒を酌み交わしたり、近くの山口小学校で茶飲み話をしたりはしていたわけですが、それすらもかつての光太郎からすれば、あり得ないようなことでした。ただ、やはり自分のテリトリーである山小屋にはあまり来てほしくなかったようです。

花巻高村光太郎記念館さんから荷物が届きました。開けてみると、同館オリジナル商品「智恵子のレモンキャンディ」など。先月の「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」オープンに合わせて開発された新商品です。

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今月中旬にはあちらに参りますので、その際に購入しようと思っていたのですが、何とまあ、それまでに売り切れ必至、増産の発注をかけたものの間に合わないだろう、とのことで、わざわざ送って下さいました。

懐かしの「サクマ式ドロップス」のような(というかまったく同一?)缶入りです。ちなみに
サクマ式ドロップス、健在です。


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アニメ映画「火垂るの墓」を想起される方も多いのではないでしょうか。

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さて、マイナスドライバーを使って蓋を開け……。

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「酸っぱいだろうな」と覚悟しつつ(といっても当方、柑橘系の酸っぱさは大丈夫です。梅干し系、酢の物系の酸っぱさは苦手ですが)、パクリ。

ところが、予想していたほどには酸っぱくありませんでした。食べる前は、やはり昔懐かしのロッテさんの「小夏」を思い描いていました。ところが「小夏」に比べれば酸っぱさはたいしたことがありません。というか、甘さの方が勝っているような。これなら小さいお子さんでも食べられるな、と思いました。それでもレモン果汁はちゃんと使われています。配合にはかなりこだわったそうで、こういう味が出来上がったのでしょう。

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ちなみに「小夏」はロッテさんのラインナップから外れているようです。姉貴分の「小梅」は健在ですが。ただ、キャラクターとしての「小夏」(「小梅」の従姉妹だそうで(笑))は同社のサイトに紹介されています。集英社文庫の『レモン哀歌 高村光太郎詩集』の表紙も手がけられたイラストレーター、林静一氏のデザインです。

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「智恵子のレモンキャンディ」のラベル画は、以前から花巻高村光太郎記念館さんで、ポストカード等に使われていたもの。これはこれで今風な感じがいいように思われます。

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さて、同館からはもう一つ、先月末にいわてめんこいテレビさんで放映された「智恵子さん、岩手は気に入りましたか、好きですか?~高村光太郎の山小屋暮らし7年~」を録画したDVDも入っていました。

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なかなかよくまとまっていましたし、様々な切り口がなされていて、その点には感心いたしました(突っ込みどころも多いのですが)。深夜でも、または系列のBS放送などででも、とにかく全国放映を期待しております。

さて、「智恵子のレモンキャンディー」、しばらく品薄が続きそうですが、ぜひお買い求め下さい!


【折々のことば・光太郎】

美しい細い絹の絲を使つて、花や、葉や、実や様々な模様が編み出されたアイリツシユレースは精巧なものになると、実に立派なものであります。洋服の胸飾、帽子の装飾などに、その一部分を応用しても随分美しいではありませんか。

散文「帽子に応用したアイリツシユレース」より
大正13年(1924) 光太郎42歳


雑誌『婦人之友』に、写真入りで掲載されました。光太郎、造型作家として、アパレル系にも一家言持っていたようです。

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ゲットしました。

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先月発売の「リアルゴールド ウルトラチャージレモン 「やる気」をアップする、“あの人”の金言つきデザインボトル」の光太郎バージョン。詩「道程」のあまりに有名な一節「僕の前に道はない 僕の後に道は出来る」が印刷されています。

よく行くスーパーにはこの商品を置いておらず、なかなかゲットできていないでいたのですが、ふと思い立ち、普段行かないスーパーに行ったらありました。その店は、先月の発売当初の頃は3月に出たシリーズが並んでいたので、そろそろ新しいシリーズに切り替わっているかな、と思って行ったところ、ビンゴでした。

自宅兼事務所に戻って「yeah!」とか叫んでいたら、ツチノコに「アホですかニャ?」という目で見られました(笑)。

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皆様もぜひお探し下さい。


【折々のことば・光太郎】

一軒の家の前が際立つて美しく清潔に掃き清められ、歩道にあたるところまで涼しげに水が打つてある。店のあとのガラス戸もきれいに磨かれてゐるし、鉢の植木が健康に青々としてゐる。たつたこれだけのことだが、これだけのことが人の心を、こんなに爽かにするするのに驚いた。

散文「街の健康さ」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

平時であれば別になんということのない風景ですが、戦時でおおかたの商店は休業、疎開で空き家となった世帯も多く、家々の窓の手すりなども金属供出で無くなっているという状況下、こういう家があることが心の救いとなっている、というのです。

さらに同じ文章の終末は「私は今出て来た自分の家の埃つぽい入口を思ひ出して恥かしくなつた」と結んでいます。非常時こそ身辺を美しく、という心がけ、たしかになかなか出来そうで出来ませんね。

明朝は当方も自宅兼事務所の周り、桜や紫陽花の落葉が散っていますので、掃き清めようと思いました(笑)。

昨日に引き続き、花巻ネタで。

地方紙『岩手日日』さんの記事から。 

「智恵子のレモンキャンディ」発売 花巻・高村記念館【岩手】

 花巻市太田の高村光太郎記念館で、同館オリジナル商品「智恵子のレモンキャンディ」の販売が始まった。道の駅はなまき西南開業に合わせて開発され、同館、同駅で取り扱い中。光太郎詩・レモン哀歌にちなんだネーミングやパッケージデザインが楽しく、観光客らの人気を集めている。
 同駅は、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が花巻居住の拠点とした山小屋から、さほど遠くない立地。駅内には地元ゆかりの偉人について伝える情報発信コーナーがあり、同館や花巻高村光太郎記念会では、PRのためグッズ開発にも力を注ぐ。今春から取り組む光太郎詩「非常の時」関連手作りマスクは、多くの観光客が手にするほど人気という。
 パッケージにはレモン哀歌にちなんだ「トパアズ色の香気が立つ」の一文が添えられ、光太郎と妻・智恵子のエピソードを想起させる挿絵が目を引く。酸味は控えめで、子供にも優しい味わいに仕上がっているのも特徴的だ。
 パッケージ裏面では同館や高村山荘について紹介しており、駅利用者が、花巻と光太郎について知るきっかけづくりにもなりそう。開発に携わった同館スタッフの井形幸江さんは「駅の開業に合わせ、オリジナルで手頃、お土産になる物をみんなで考え合った。味やデザインなど細かいところまでこだわった商品なので、キャンディを通じて光太郎や記念館にも関心を持ってもらえたら」と願う。
 85グラム、約30粒入り。税込み350円。問い合わせは同館=0198(28)3012=まで。

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同館ブログによれば、「道の駅の開業に合わせて、私達も何かお土産になるものを、と昨年から考え、ついに実現したキャンディです。中身の味は勿論、デザインなど細かいところまで検討しました。あまりにも検討しすぎて、納品がギリギリでした。」だそうで。

来月には同館で開催される市民講座の講師を仰せつかっておりますので、買い込んで来たいと存じます。今月オープンした「道の駅はなまき西南」も訪れたいところですし。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

結局文部省あたりであらうが、それは局であらうと課であらうと構はないが、美術はもとより文芸にしても、一般国民生活の上の美に関する條件だとか、古社寺保存の類、名所旧跡も入るし、また芸術家の生活に就ても、それら一切を管轄するところがあつてほしい。

散文「文部省へ 美の問題の統一」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この後の部分では「現状のやうでは問題によつて色色なところへ持つて行かねばならないし、面倒で連絡もとれてゐない。一切のさういふものを、大きくても小さくても係りの者があつて、そこで凡そ美に関する問題を職掌してくれるところが分れば、僕ら国民は大変楽だと思ふ。」と続きます。

横の連携がない、いわゆる「縦割り行政」に対する批判と提言です。80年前もそうだったのですね。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第21号が届きました。

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平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」。今号は「梅酒とナスとキュウリの煮びたし」だそうで。

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自宅兼事務所の庭にもナスがなっています。当方は好きではないので食べませんが(笑)。

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「食べません」といえば、昨年、碌山美術館さんで種をいただいてきたソバ。昨年植えて、結構花が咲いて実がなりましたが、蕎麦を打てるほどには収穫できませんでしたので、種を取っておき、今年も植えたら咲きました。もっぱらベランダでの観賞用です。

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「ベランダでの観賞用」といえば、右上の花。近くの駐車場に生えていたのを取ってきました。可憐な水色の花がいい感じなのですが、名前が判りません。草花に詳しい方、ご教示いただければ幸いです。

閑話休題。もう一つ「マチココ」さんで紹介されている梅酒。「智恵子抄」中の絶唱の一つ、「梅酒」(昭和15年=1940)が元ネタですね。

   梅酒
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 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。

狂瀾怒濤の世界の叫」は、この年開戦の第二次世界大戦。昭和12年(1937)に始まった日中戦争は泥沼化の様相を呈していました。

光太郎、智恵子を喪った心の空隙を埋めるように、すでに大量の空虚な翼賛詩を書き殴るようになっていました。しかし、亡き智恵子を思い起こす時(「あはれな一個の生命を正視する時」)のみ、「世界はただこれを遠巻にする」というのです。

しかし、局面打開のため、翌年には太平洋戦争へと突入。そうなると、公表される光太郎詩はそのほとんどが翼賛詩。智恵子が謳われることはありませんでした。

再び詩の中に智恵子が蘇るのは、終戦後の昭和20年(1945)の智恵子命日(10月5日)に書かれた「松庵寺」においてでした。

今号の『マチココ』さん、奥付では8月10日(月)の発行となっていますが、ちょうど終戦記念日ころ読者に届くということで、このような選択にしたのかも、などと思いました。考え過ぎかも知れませんが。

『マチココ』さん、オンラインで定期購読の手続きが可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

家庭の雑事を女の人が受持つてゐるのはたいへんなものですね。僕は自分でそれをやつてゐるからよく分ります。

座談会筆録「新女性美の創造」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

智恵子が亡くなりすでに3年、そしてこの後も約15年間、光太郎は「家庭の雑事」をほぼ自分一人でやり続けました。「業績」というには語弊がありますが、こうした点も光太郎の偉いところだと思います。

日本コカ・コーラさんの人気商品の一つ、リアルゴールド。当方、缶入りはたまにいただきますが、ペットボトルもあったそうで……。さらに、ラベルに「「やる気」をアップする、“あの人”の金言つき」が新発売だとのこと。同社のサイトから。 

 コカ・コーラシステムは、エナジードリンクブランド「リアルゴールド」から、働く人の「やる気」をアップする「リアルゴールド ウルトラチャージレモン」の「金言」つきデザインボトル第2弾として、著名人の金言がついたボトルを7月6日(月)より全国で発売します。

 「リアルゴールド ウルトラチャージレモン」は、ビタミンCやローヤルゼリー、BCAAなどのエナジー・栄養成分を配合した持続系エナジー炭酸です。すっきりとしたレモンフレーバーのリアルゴールドの味わいとエナジー・栄養成分に加え、元気をチャージしてくれる “あの人”の金言が、心身ともにリフレッシュしやる気のスイッチを入れてくれます。

製品特徴
 レモンフレーバーの爽快な味わいで、ごくごく飲める持続系エナジードリンク
 ビタミンC、ローヤルゼリー、BCAAなどのエナジー・栄養成分を配合
ターゲット/飲用シーン
 20代~40代男性
 仕事中、休憩中、移動中などで心身をリフレッシュして気持ちを切り替えたい時
パッケージ
 働く人のやる気をアップする、16種の著名人「金言」つきデザイン
 やる気がでる「金言」動画が楽しめるQRコードつき。
 その場で LINEポイントが当たるキャンペーンにも参加可能

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ラベル側面に、近代から現代まで16名の”あの人”(架空の人物を含む)の「金言」が印刷されており、光太郎も選んでくださいました。

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お馴染み、詩「道程」(大正3年=1914)から、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」。

ちなみに同社と光太郎の因縁は深く、大正元年(1912)12月の雑誌『白樺』第3巻第12号に発表され、同3年(1914)刊行の詩集『道程』に収められた詩「狂者の詩」に、「コカコオラ」の語が3回出てきます。これが今のところ、日本の文学作品におけるコカ・コーラ初登場とされています。

下記はすべてのラインナップです。

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確かに「やる気」が喚起されるような言葉の数々。ただ、当方のごときヘタレは、これだけポジティブな言葉をズラリと並べられると、逆にプレッシャーを感じざるを得ないような気もしますが(笑)。

そうなると、「それでも男ですか、軟弱者!」(『機動戦士ガンダム』 セイラ・マス)などが入っているとなお良いのかな、と言う気もします(笑)。

ついでに言うなら「逃げちゃ駄目だ 、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ」(『新世紀エヴァンゲリオン』 碇シンジ)、「ファイト! 闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」(『ファイト!』 中島みゆき)、「燃えたよ‥‥まっ白に‥‥燃えつきた‥‥まっ白な灰に‥‥‥‥」(『あしたのジョー』 矢吹丈)などもでしょうか。あ、燃えつきてはいけませんか(笑)。

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ところで、「リアルゴールド ウルトラチャージレモン 「やる気」をアップする、“あの人”の金言つきデザインボトル」の光太郎バージョン、早速、店頭で探してみました。近くのコンビニと最初に行ったスーパーには当該商品自体が置いて居らず、2軒目に廻ったスーパーには並んでいたものの、こちらの新シリーズではなく、3月発売の旧シリーズでした。「田舎ではこんなものか」と思いましたが、あきらめずに探査にあたります。

皆様もぜひ探してみてください。


【折々のことば・光太郎】

高村光太郎 明16・3 東京、東京美術、彫刻、詩、洋画 昭和二十年戦災後移転、山小屋で半農生活に入つた、 岩手県稗貫郡太田村山口

雑纂「日本人名録」全文 昭和24年(1949) 光太郎67歳

『毎日年鑑昭和二十五年版』から。凡例には「本社の照会に対する回答及び本社調査の資料を基として衆参議院議員、中央官庁主要職員、都道府県知事、日本芸術院会員、日本学士院会員をはじめ現在各界で活躍の文化人、実業家、政治家等より収録した」とあります。

同じ『毎日年鑑』の、前後の年の版では単に住所等のみの記載となっており、この年の版だけ若干詳しい記載があるため採録しました。

昨日まで3日間続けました「最近手に入れた古いもの」シリーズ、いったん休止しまして新着情報紹介に戻ります。またネタ不足に陥りましたら再開します。

今日はテレビ放映情報。

まずはNHK Eテレさんで放映されている「にほんごであそぼ」。光太郎を取り上げて下さった6月26日(金)放映分が再放送されます。

にほんごであそぼ「草にすわる」

NHK Eテレ 2020年7月10日(金) 6時35分~6時45分 再放送 17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。

今日のひこうき山陽は「草にすわる」です。各コーナーの内容は…文楽/いやなんです…「人に」高村光太郎、うた「どすこい!すもうの決まり手」、ひこうき山陽たんけん隊/わたしのまちがいだった「草にすわる」八木重吉、名文を言ってみよう!「いろは」、うた「日本全国むかし歩き」

出演 美輪明宏 神田山陽(三代目) 竹本織太夫 鶴澤清介 三世桐竹勘十郎 小錦八十吉
    おおたか静流 
白A 中尾隆聖 ラッキィ池田 ほか

6月26日(金)の本放送を拝見しました。過去の作品の使い回しではなく、新作でした。

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人形浄瑠璃の三世桐竹勘十郎さん、竹本織太夫さん、鶴澤清介 さんによる「人に」。いつもながらにシュールでした(笑)。

ご覧になっていない方、ぜひ再放映をご覧下さい。


続いて、光太郎の名が出るかどうか微妙ですが……。 

あなたの駅前物語 #164 「千駄木駅前/東京都 文豪が慕った坂道の駅前」

地上波テレビ朝日 2020年7月9日(木)  23時10分~23時15分
BS朝日 2020年7月11日(土)  18時55分~19時00分


「駅前」には、様々な人々の営みがあり、歳月が刻んできた多彩な「物語」が残る…日本中の“駅前物語"をたどり、“街のぬくもり"を感じる。

#164 千駄木駅/東京都 東京都文京区、東京メトロ千代田線の千駄木駅。地上へ出ると、駅前から、文豪や落語家も居を構えた街が見える。東へいくと、くねくねと曲がった路地がある。その形から、「へび道」と呼ばれている。かつては細い川が流れていたが、今は暗渠(あんきょ)になっている。千駄木は、江戸時代に武士の家が多くあったが、染物屋もいて、流れ出る染料で川は青く色づき、藍染川の名が付いた。


ナレーター 黛まどか(俳人)

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文豪」の中で、この地に暮らした光太郎の名を挙げてほしいものですが……。

ちなみにこの番組、平成29年(2017)9月28日には、二本松駅を取り上げて下さり、光太郎智恵子にも触れられました。


もう1件、光太郎の名は出なかったのですが、昨夜放映されたテレビ東京さんの「新美の巨人たち」。連翹忌会場の松本楼さんを含む日比谷公園でした。

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日本初の本格的都市公園として、明治36年(1903)に造営された日比谷公園。設計にあたった植物学者の本多静六の苦労や工夫がメインの内容でしたが、公園内の松本楼さんも大きく取り上げられました。

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ナビゲーターは要潤さん。それから四代目社長の小坂文乃さんがご出演。一昨年亡くなった三代目・小坂哲瑯氏のお嬢さんです。

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松本楼さんでカレーを食べてコーヒーを飲むのが明治大正期の最先端だったというわけで……。

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ここで具体名として高村光太郎・智恵子夫妻と出ればなおよかったのですが……。連翹忌会場の2階宴会場です。今年の連翹忌は新型コロナのために集いを中止いたしましたので、この部分の映像を見て「ああ……」という感じでした。来年はまたここで皆様とお会いできることを楽しみにしております!

ちなみに創業当時、光太郎智恵子が訪れた頃の松本楼さん。

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番組後半では、料理長の六川健氏もご出演。本多の公園設計図にちなむ特製幕の内弁当づくりにチャレンジして下さいました。

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これは凄い! と思いました。一緒に番組を見ていた愚妻曰く「3,000円+税くらいかな?」(笑)。

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ニンジンとブロッコリーだそうです。「首賭けイチョウ」は、本多が「私の首を賭けて守る」と、当初予定の伐採に断固として反対し残した大木です。

この回、BSテレ東さんで、7月11日(土)23:30~24:00で放映されます。地上波テレ東さん受信区域外の皆さん、ぜひご覧ください。


【折々のことば・光太郎】

天地寿  短句揮毫 昭和23年(1948) 光太郎66歳

過日ご紹介した「乾坤美にみつ」同様、「この世は美しいもの、素晴らしいものに溢れている」的な意味でしょう。

複数の揮毫が残されていますが、年代のはっきりしているものは、姻戚となった茨城の素封家・宮崎仁十郎に送ったもの。「鯉軒翁喜寿に寄す」という為書きも附されています。「鯉軒」は宮崎の雅号です。また、花巻在の詩人・畑山崇一を光太郎令甥の故・髙村規氏が撮影した肖像写真にも、他の「天地寿」書が写っています。時期的にはほぼ同じ頃でしょう。というか、殆ど同じ筆跡で、同時に書かれたものかもしれません。

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定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第20号が届きました。

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平成29年(2017)の創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」。今号は「山菜ミズのたたきとウコギのホロホロかけご飯」。美味しそうです。

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「ミズ」はイラクサ科ウワバミソウ属。よく似た名の「ミズナ」とは別物で、きれいな沢沿いなど湿った場所に生える山菜です。当方も花巻でよく饗されます。

花巻郊外旧太田村における光太郎の好物の一つで、昭和22年(1947)にはずばり「山菜ミヅ」という詩も書いています。

   山菜ミヅ

 奥山の渓流に霧がこもつて
 岩の間にミヅが生える。山菜づくし
 ウハバミとまではゆかないが
 大きなシマヘビがぬらぬら居る。
 岩手の人はこの不思議な山菜を
 暗いうちから一日がかりで採つてくる。
 山の匂が岩手の町にただよつて
 ミヅは吸物となり煮びたしとなり
 なんだかしらないどろどろな
 白緑いろのソースとなる。
 岩手の人は夏がくると
 何よりさきにミヅを思ひ出す。
 ぬめりがあつてしやきしやきして
 どこかひいやり涼しくて
 風雅なやうで精気絶倫。
 配給などとけちは言はず002
 山の奥にはウハバミサウが
 ぬるぬるざわざわ生えてゐる。

右の画像は光太郎の残した「ミズ」のスケッチです。書き込みは以下の通り。

ミズ 西鉛温泉ニテ 昭和二十年六月二十日  
○花 淡緑  ○根もと 淡紅  ○葉 鮮緑
 ウラ 白緑  ○総丈 一尺五寸位 


花巻郊外旧太田村に移る前、花巻町中心街の宮沢賢治実家に厄介になっていた頃、結核性の肺炎で1ヶ月臥床した予後を養うため滞在した西鉛温泉で書かれたものです。


さて、『マチココ』さん。第20号記念と言うことで、特集は「20歳のころ」。花巻のさまざまな皆さんにインタビューか寄稿してもらうかしたようで、20余名の方々の「20歳のころ」が掲載されています。

で、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長をはじめ、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフの皆さんの「20歳のころ」も多数掲載されています。それぞれ「なるほどね」という感じでした。

『マチココ』さん、オンラインで定期購読の手続きが可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

第一次大戦当時のスペイン風邪みたいに、例えば、アブストラクトが、全世界をふきまくるのではありますまいか。

座談会筆録「敗けた国の文化――東西美術・工芸の交流――」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

昨今のコロナ禍にともない、約100年前のスペイン風邪のパンデミックがまた脚光を浴びていますね。光太郎自身は罹患しませんでしたが、光太郎が将来を嘱望していた画家の村山槐多はスペイン風邪で死亡しています。また、光太郎の師・与謝野寛、晶子夫妻は家族が次々感染、大変な思いをしたそうです。

「アブストラクト」は「抽象芸術」。彫刻でも絵画でも主に具象を主戦場としてきた光太郎ですが、その勢いは無視できないものとなっていたようです。

それにしてもその例えが、40年近く前のスペイン風邪。よほど印象に残っていたのでしょう。

まずは残念なお知らせから……。

過日、ご紹介しました富山県水墨美術館さんで5月22日(金)から開催予定だった「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」が、新型コロナの影響で中止となりました。

まあ、ある程度は予想していましたので、驚きはしませんでしたが、やはり残念です。美術館さんとしても断腸の思いだと存じます(「中止で当然だろう」と簡単に片付けないで下さい)。あらためて開催するかどうか、未定だとのことです。ぜひこの騒ぎが終息したのち、仕切り直しで開催していただきたいものです。

緊急事態宣言が全国対象となり、ほとんどの美術館さん、文学館さんなどが既に休館となっていたり、これからなったりということになるのでしょう。本当に早く、元に復してほしいものです。

そんな中、やはり休館中の花巻高村光太郎記念館さんで、女性職員の方々が中心となって作られたグッズをいただきました。

まず、「光太郎の食卓カレンダー」。A5サイズ(開くとA4サイズ)の冊子型壁掛けタイプです。今月から来年3月まで、つまりは令和2年度としてのカレンダーになっています。

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『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんに連載中の、「光太郎レシピ」で使われた写真を元に、巻末には簡略な解説も。

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それから、手作りの布製マスク。

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添えられたカードに引用されているのは、昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲の際、自らの危険を顧みず、負傷者の看護に当たった当時の総合花巻病院の医師や看護師たちの奮闘をたたえ、終戦直後に行われたその表彰式で光太郎自らが朗読した「非常の時」の一節です。

   非常の時

 非常の時
 人安きをすてて人を救ふは難いかな。002
 非常の時 
 人危きを冒して人を護るは貴いかな。
 非常の時
 身の安きと危きと両つながら忘じて
 ただ為すべきを為すは美しいかな。
 非常の時
 人かくの如きを行ふに堪ふるは
 偏に非常ならざるもの内にありて
 人をしてかくの如きを行はしむるならざらんや。
 大なるかな、
 常時胸臆の裡にかくれたるもの。
 さかんなるかな、
 人心機微の間に潜みたるもの。
 其日爆撃と銃撃との数刻は004
 忽ち血と肉と骨との巷を現じて
 岩手花巻の町為めに傾く。
 病院の窓ことごとく破れ、
 銃丸飛んで病舎を貫く。
 この時従容として血と肉と骨とを運び
 この時自若として病める者を護るは
 神にあらざるわれらが隣人、
 場を守つて動ぜざる職員の諸士なり。
 神にあらずして神に近きは
 職責人をしておのれを忘れしむるなり。
 われこれをきいて襟を正し、
 人間時に清く、
 弱
ものき亦時に限りなく強きを思ひ、
 内にかくれたるものの高きを
 凝然としてただ仰ぎ見るなり。


今年はやはり中止となってしまいましたが、毎年5月15日に行われている花巻高村祭では、花巻高等看護学校さんの生徒さんが、この詩を必ず朗読なさっています。画像、上は花巻病院さんの古絵葉書、下は過去の高村祭です。

カードにある「3.11震災のとき、多くのボランティアの共感を呼びました」というのは存じませんでした。なるほど、そう言われてみればそういう内容ですね。そして、今、まさに最前線で新型コロナと闘われている医療関係の皆さんに、この詩を贈りたく存じます。

このカレンダーとマスク、5月14日(木)と翌日、盛岡と花巻で開催予定だった市民講座(講師は当方の予定でした)の際にセットで販売予定だったものだそうです。ところがやはり新型コロナのために講座は延期となり、品物が余ってしまっているとのこと。花巻市内で必要な方に譲られているそうですが。

そこで、「当会ブログサイトやフェイスブックで呼び掛けますから、ネット販売的にやってみてはいかがですか」と提案しました。そこで協議していただいたところ、マスクそのものはネット販売だとトラブルの元になるかもしれないということで、「カレンダーのみ」、「カレンダーとマスク型紙・素材(手ぬぐい)のセット」で注文を受けることにしたそうです。

詳細は以下の通りになります。

光太郎の食卓カレンダー 001

1冊 500円(送料込み)
2冊以上6冊まで 一冊分300円+送料180円
  (例:4冊……300円×4+180円=1,380円)

代金は郵便切手可



 

カレンダーとマスク型紙・素材(手ぬぐい)のセット

1セット 1,500円(送料込み) 手ぬぐい1枚からマスク4枚制作可 代金は郵便切手可

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申し込み方法

 品名、数量、送付先郵便番号、住所、氏名、電話番号を明記の上、代金(郵便切手可)を以下まで。

 〒025-0037 岩手県花巻市太田3-85-1 花巻高村光太郎記念館内 記念館物販担当 井形様宛

申し込み期限
 2020年5月15日(金)まで または、カレンダー、手ぬぐいの在庫(各100)がなくなり次第終了します。


お問合せ先 Eメールアドレス
 
kotarocafe30@gmail.com     花巻高村光太郎記念館内 井形様  まで


ふるって(ふるわなくても結構ですが(笑))お申し込み下さい。


【折々のことば・光太郎】

然し、光に面してゐる人のみが光を求めてゐる人達だと断言することはいけない。社会の闇の面に対し、それを正視しつゝ苦しんでゐる人達も光を求め、闇を貫いて光を求めてゐるのだと云ふことは忘れてはならない。

アンケート「闇を貫く光」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

この後の部分には、「真つ暗な不遇の境遇の真中で胸の中の小さな光を消されまいと、雄々しく闘つてゐる者もゐる」という一節もあります。

新型コロナ、最前線で身を削って闘われている医療関係の皆さん、休業や自粛で収入が激減し不安を抱える皆さん、休みたくても休めず仕事を続けるしかない皆さん、そして罹患して重症となり苦しい思いをされている皆さん、それを支える家族や周りの皆さん、あきらめることなく、闘いましょう。

最後に光太郎はこう結んでいます。「要は「光」への信仰を失はなければ、如何なる闇に向ふとも、否向ふ程、その人の光は浄く明るく輝くのだと思ふ。

隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第18号。創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。今号は「チーズとふきのとう入り茶碗蒸し」だそうで。

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「茶碗蒸しにチーズを入れるか?」という感覚でしたが、実際、光太郎の日記(昭和21年4月3日)にそう書いてあり、意外でした。上記画像、クリックすると拡大表示されます。ちなみに今回の撮影場所は光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)の囲炉裏ばたですね。

当方、チーズもふきのとうなどの山菜も大好きですので、これは是非食べたいと思いましたが、愚妻がチーズを苦手としており、頼んでも作ってくれないでしょう(笑)。自分で自分の分だけ作るというのも何ですし……(笑)。

他に今号は「特集 花」だそうで、花巻市内いろいろな場所で撮影された花の画像がてんこ盛りです。

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都会の片隅にひっそり咲く花もいいのでしょうが、やはり花は広々とした自然の中に置いてこそ、という気がしました。

例年であれば、「ぜひ見に行きましょう」的な呼びかけをここに書くところですが、今年はそうも行きません。

昨日現在、岩手県は47都道府県で唯一、新型コロナの感染報告がありません。『産経新聞』さんのサイトにこんな記事が出ていました。 

「普段通りの春」感染者ゼロの岩手 マスク売れ残るスーパーも、にぎわう回転ずし店

 日本国内で新型コロナウイルスの感染者が増加する中、全国の都道府県で唯一「感染確認ゼロ」が続く人口約123万人の岩手県。6日には学校の新学期が始まり、通学路に子供たちの笑顔も戻った。県内では首都圏や関西圏に比べ、マスク姿もまだまだ少ない。県庁にも「なぜ岩手はゼロなのか?」との疑問が寄せられているという。「移動する人口が少ない」「まじめな県民性で手洗いを守っている」などの声もあるが、隣接する青森、宮城、秋田の3県は感染者が2ケタ台だけに、それだけでは説明がつかない。県民の暮らしぶりは-。
 「普通通りの春を迎えている」。盛岡市近郊に住む主婦(39)は、新型コロナウイルスの感染拡大が続く中での生活ぶりをこう語った。

 3月中はほとんど休みだった中学生の子供2人は、一斉休校が続く首都圏や関西圏とは違い、4月6日に新学期が始まると毎朝、学校に通っている。授業も通常通り夕方まで行われ、部活動でも何の制限もなく練習をこなしているという。

 大型スーパーでもドラッグストアでもマスクは品薄状態が続くが、街ではマスクをしていない人を多く見かける。3月中旬に一度だけトイレットペーパーの買い占めも起きたが、それ以降は普通に買えるようにもなり、特に困ったことはない。ほかの食料品の品ぞろえも豊富で、レジでも前の人や後ろの人と間隔をあけて並ぶこともない。

 「そもそも、住んでいる地域では(感染リスクが高まる密閉、密集、密接という)『3密』の場所や機会がほとんどない」(主婦)。岩手県の面積は47都道府県中、北海道に次いで2位と広く、1平方キロメートル当たりの人口密度の小ささは83・8人とやはり2位。「3密」があるのは「ボウリング場やカラオケのような娯楽施設か居酒屋、スナックぐらい」という。

 それでも、気になることがある。最近、地元のテレビ番組で首都圏から夜行バスで若者たちが帰省してきたというニュースが報じられたからだ。「頼むから、今の時期、コロナ疎開だけがやめてほしい」と眉をひそめた。

 県内で複数の店舗を展開しているスーパーの男性社員(46)によると、新幹線の駅近くや幹線道路の国道4号沿いにある店舗ではマスクがすぐに売り切れてしまうが、それ以外の店舗では1日ではけないこともしばしばあるという。

 「地元では(新型コロナウイルスの感染拡大を)まだまだ対岸の火事で見ている」と打ち明ける。

 土日になれば、国道沿いの回転ずし店の駐車場はいっぱいになり、家族連れでにぎわう。東京都内の飲食店で閑古鳥が鳴いているのに比べて「緊迫感や危機感が薄いことを物語る光景」と話す一方、「地元の人々は、岩手が日本一の『田舎』であることが証明された、と自虐的に言っている」と苦笑する。

 ただ、ご多分に漏れず高齢化が進む岩手では持病を抱える高齢者と一緒に3世代、4世代が暮らす大家族や高齢者のみの家も多く、こうした世帯の危機感は強い。男性社員は「感染者が出るのは時間の問題だと思う。高齢者が多い地区は特に心配だ」と語った。

 日本での感染拡大は、春節の時期に中国から多くの観光客が来日したのが引き金になったとの分析がある。

 岩手の場合、北海道や宮城県などに比べて台湾からの観光客が多い。台北から花巻空港への直行便もあり、台湾総督府民政長官として台湾の発展に貢献した後藤新平の記念館(奥州市)などが人気スポットだ。「中国本土からの観光客が他県に比べ少なかったからこそ、1、2月に感染が広がらなかったのではないか」との声がある。

 県庁には現在、「なぜ感染者ゼロなのか」という問い合わせが県内外から相次いでいるという。県外からの場合、そこには「特別な対策があるのではないか」というニュアンスが含まれており、ある県幹部は「東京まで新幹線の往復が3万円以上で、おいそれと遊びには行けない。まじめな県民性で手洗いを励行しているからだと思う」と分析する。

 ただ、県民が問い合わせる理由は異なる。「PCR検査の実施件数が少ないのが理由ではないのか」というのだ。

 事実、感染の有無を調べるPCR検査は10日現在で136件と全国最少。最後まで「感染者ゼロ」を争った鳥取県、島根県の対人口比検査実施件数と比べてもそれぞれ5分の1、5分の2程度に過ぎず、いずれも感染者数が2ケタ台の宮城県(660件)、秋田県(491件)、青森県(313件)の実施件数と比べても各段に少ない。

 「単に検査体制が十分に整備されていないからではないか」という疑念はある意味もっともにも見えるが、岩手県側は「必要な検査は行っている」と真っ向から否定する。

 今月7日に東京都や大阪府など7都府県に緊急事態宣言が出された直後、県は対象地域への往来自粛を呼びかけた。このまま感染者ゼロが維持されるに越したことはないが、いったん感染者が出れば、一気に拡大した時のリスクは都市部の比ではない。関係者は注意深く動向を見守っている。

どうもそう単純な話ではなさそうですが、まさしく「感染者ゼロが維持されるに越したことはない」わけで、そうなってほしいものです。

そのための対策の一環として、各種イベント等の中止は、やはり岩手県でも行われています。印刷等の関係でしょう、『マチココ』さんには予告の案内が出てしまっていますが、例年5月15日に、光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で開催されている「高村祭」、今年は中止だそうです。その前日と、当日、盛岡と花巻で、それぞれ当方が講師を務める市民講座が予定されていましたが、それも中止。花巻高村光太郎記念館さんなども休館中だそうです。致し方ないでしょう。

毎日のように書いていますが、早くこの騒ぎが終息、収束することを祈念するばかりです。


【折々のことば・光太郎】

現代新興美術の立場より見て、古美術を否定すべきいはれ更に無し。

アンケート「古美術と現代美術」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

アンケート全体としては、いわゆる「温故知新」の精神を説いています。

料理研究家の中野由貴さんから、『ワルトワラ』第45号が届きました。宮沢賢治ファンの方々による文芸同人誌のようです。

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中野さんご執筆の「イーハトーヴ料理館 賢治たちの自炊めし 二膳目 光太郎さんからの食アドバイス」が5ページにわたり掲載されています。

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昭和22年(1947)、光太郎が雑誌『農民芸術』第1巻第3号に発表した散文「玄米四合の問題」を中心に、光太郎の「食」に対する意識、光太郎から見た賢治の「食」などについて述べられています。

また、昨年の今頃、花巻高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展「光太郎の食卓」のレポートなども。同展は、一昨年の秋に行われた同館主催の市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓 part .2」の内容を元にしたものでした。そちらの講師を当方が務めさせていただき、その際のレジュメを中野さんにお送りしたところ、いたく感謝されてしまい、かえって恐縮している次第です。

中野さんとはその後、昨春、いわき市立草野心平記念文学館さんでの企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」の関連行事として開催された「居酒屋「火の車」一日開店」でご一緒させていただきました。そんなこんなで今回の玉稿にも当方の名を出して下さっています。ありがたし。

それから、中野さんが監修された都内でのイベントのご案内も同封されていました。花巻市さんと小岩井農場さんのコラボ企画だそうで、題して「宮沢賢治のイーハトーブ花巻レストラン」。


2月8日(土)には、中野さん他によるトーク・朗読イベントもあるそうです。『ワルトラワラ』の件も含め、詳しくは中野さんのサイトをご参照下さい。


【折々のことば・光太郎】

さう言つても、他の人の「存在の理由」を否定するわけでは決してありません。人には各々天性がありますから。

散文「武者小路実篤氏」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

この前段で、朋友・武者小路の人となり、芸術世界を激賞した後の一言です。

一昨日から、残念ながら他の人の「存在の理由」を否定し、「人には各々天性がありますから」と考えられなかった故に起こった凶悪犯罪の裁判が始まっています。その報道を読むにつけ、改めて心が痛みます。

手前味噌で恐縮ですが、拙稿の載った雑誌が出ましたのでご紹介します。

歌壇 2019年9月号

2019年8月16日 本阿弥書店 定価800円(税込み)

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今年3月に開催された、明星研究会さん主催の公開講座的イベント「第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎」で発表を仰せつかり、光太郎の「食」について語らせていただきまして、それを元に書きました。題して「苦しい中でも工夫して」。25字×240行=6,000字=400字詰め原稿用紙15枚。掲載誌には6頁で載っています。

廃仏毀釈のあおりで、仏師だった父・光雲への仕事の注文が激減し、どん底だった幼少年期――光雲が東京美術学校に奉職し、少し生活が好転した学生時代――3年半にわたる欧米留学――極力俗世間と交流を絶った智恵子との芸術精進の生活――智恵子没後の戦時中――戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活――そして最晩年の再上京後と、順を追って、光太郎本人や周辺人物の回想などを紹介しつつ、光太郎の「食」をまとめてみました。

同じ『歌壇』さんの7月号には、静岡県立大学さんの細川光洋氏による「極道に生れて河豚のうまさかな——健啖家・吉井勇」、8月号で歌人・伊東市立木下杢太郎記念館館長丸井重孝氏による「木下杢太郎 割烹は芸術の一種であり、美食は最高の贅沢である」が掲載されています。お二人ともやはり3月の講座で発表された方々です。

それぞれぜひご購入下さい。Amazonさん等でも取り扱いがあります。

【折々のことば・光太郎】

まあ僕は性質としてあんなオーソリテイに対しては意識的に「好かれようとする態度」をとらないで、わざとぶつかつて行くやうな事ばかりしたもので、そんな事ではよく鷗外先生にやられましたよ。

対談「鷗外先生の思出」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

当方、光太郎のこういうところも大好きです(笑)。

光太郎が絡んでいるとは気づかず、紹介が遅れました。 

コレクション展「文学とビール―鷗外と味わう麦酒(ビール)の話」

期 日 : 2019年7月5日(金)~10月6日(日)
時 間 : 午前10時~午後6時
場 所 : 文京区立森鷗外記念館  東京都文京区千駄木1-23-4
料 金 : 一般 300円  20名以上の団体は240円  中学生以下無料
休 館 : 7月23日(火)、8月27日(火)、9月24日(火)

「とりあえずビール」と、現在では手軽に飲むことができるビール。江戸時代末に日本にもたらされたビールは、明治に入って本格的に醸造され始め、広く飲まれるようになったのは40年代以降のことでした。
鷗外は、日本ではまだビールが貴重だった明治17年から21年まで、陸軍軍医としてドイツに留学し、本場のビールを楽しみました。留学中の日記『独逸日記』では、鷗外が醸造所やオクトーバーフェスト(ビール祭り)を訪れたり、自ら被験者となって「ビールの利尿作用」について研究していたことが分かります。
こうした鷗外のビール体験は『うたかたの記』(明治23年)などの作品に生かされました。また、同時代の文学者たちもビールを作中に描きました。夏目漱石『吾輩は猫である』(明治38~39年)、太宰治『酒の追憶』(昭和23年)に見られるおもてなしや晩酌としてのビール、高村光太郎『カフエ、ライオンにて』(大正2年)に見られる酒場の様子など、文学作品には明治・大正から現代に通じる様々なビールのある風景が登場します。
本展では、鷗外のビール体験に触れると共に、文学作品に登場するビールのある風景を、所蔵資料から紹介します。この夏、ビールを切り口に文学作品を味わってみませんか。

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光太郎に関しては、小曲詩「カフエライオンにて」6篇の載った雑誌『趣味』第7年第2号(大正2年=1913)が展示されます。復刻版だそうですが。「カフエライオンにて」は、6篇中の4篇が「カフエにて」と改題され、第一詩集『道程』に収められました。

カフェ・ライオンは、明治44年(1911)、銀座に創業したカフェで、光太郎も足繁く通ったようです。美人女給が和服にエプロンという揃いの衣裳で給仕するのが売りでした。また、ビールが一定量売れると、店内のライオン像が吠える仕組みになっていたそうです。経営は変わりましたが現在もビアホール銀座ライオンとして健在です。

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左は雑誌『趣味』第7年第2号に送られたものと見られる詩稿(天理大学さん所蔵)、右は同誌に掲載された、光太郎によるカット。カフェライオンの絵です。

ところで「カフエライオンにて」といえば、過日ご紹介した『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」でも引用して下さいました。その際には、当方、引用部分が「カフエライオンにて」の一節と気づきませんでしたが、あとで気づきました。全文は以下の通り。天理大学さん所蔵の詩稿にも入っています。

 何もかもうつくしい
 このビイルの泡の奮激も
 又其を飲むおれのこころの悲しさも
 かうやつて
 じつと力をひそめてゐると
 何処からかうれしい声が湧いて来る
 酔つぱらひの喧嘩さへ
 リズムをうつてひびくんだ


また、やはり『岩手日報』さんの「風土計」で引用された随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)の載った雑誌『ホーム・ライフ』第2巻第8号も「参考図版」扱いで展示品目録に載っています。パネル展示でしょうか。

それから、展示品目録に光太郎の作品が載った雑誌がまだありました。『ARS』第1巻第3号(大正4年=1915)、それから『スバル』9号(明治42年=1909)。『ARS』には光太郎による翻訳「ドユ モーパスサンの描いたロダン」、『スバル』にはやはり翻訳で「HENRI MATISSEの画論(一)」、それから裏表紙に戯画「屋根の草」が収められています。ただ、ビールとは無関係なので、他の誰かの作品でビールがらみの何かが載っているのでしょう。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

美ならざるなし   短句揮毫  戦前?

右の画像は戦後のものですが、おそらく戦前からこの句を好んだ光太郎、頼まれて色紙などに書く揮毫にしばしばこの句を選びました。
 
現在も複数の揮毫が遺されています。
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光太郎第二の故郷ともいうべき・岩手の地方紙『岩手日報』さん。生前の光太郎もたびたび寄稿しました。

その一面コラム「風土計」。たびたび光太郎の名を出して下さいますが、一昨日も。 

風土計

ビールを愛した詩人は多いけれど、代表は高村光太郎だろうか。〈何もかもうつくしい/このビイルの泡の奮激も/又其(それ)を飮(の)むおれのこころの悲しさも〉
▼好きが高じて、飲み方にもこだわりがある。「ビールをのむ時つまみ物は本當(ほんとう)はいらない」。つまみは口寂しいから用意するだけで、なるべく味のない物がいい。のしイカなどよりも、「生胡瓜(きゅうり)ぐらゐがいい」と
▼詩人が好むビールやキュウリが今、ニュースで報じられている。記録的な日照不足で、ビール類の売れ行きが振るわない。キュウリをはじめとする夏野菜は病害や生育の遅れで、価格が5割も上がっているという
▼きょうの「大暑」も、はっきりしない天気になりそうだ。盛岡はそうでもないが、沿岸や関東地方は梅雨寒が続く。選挙の熱量がいまひとつだったのは、そのせいか
▼コーラやウーロン茶を日本で初めて詩にしたのは、光太郎と言われる。〈ウウロン茶、風、細い夕月〉。〈柳の枝さへ夜霧の中で/白つぽげな腕を組んで/しんみに己(おれ)に意見をする気だ/コカコオラもう一杯〉。飲み物に心の内を投影させる人だった
▼そのコーラなどの飲料も、今夏は販売の落ち込みが伝えられる。週間予報は曇りがちだが、土日には日照が戻りそうだ。冷えたビイルやコオラを文字に味わうだけで、ぎらつく夏の太陽が恋しくなる。



ビールをのむ時つまみ物は」云々は、随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)。雑誌『ホーム・ライフ』に掲載された比較的長いもので、『高村光太郎全集』第20巻に収録されています。

下戸の当方、あまり実感がわきませんが「ビール党あるある」がけっこうちりばめられているようです。

曰く、

小さなコツプへちびちびついで時間をとつて飲んでゐるのは見てゐてもまづさうだ。(略)ビールは飲み干すところに味があるのだから飲みかけにすぐ後からまたつがれてしまつては形無しである。(略)ビールの新鮮なものになるとまつたくうまい。麦の芳香がひどく洗練された微妙な仕方で匂つて来る。どこか野生でありながらまたひどくイキだ。さらさらしてゐてその癖人なつこい。一杯ぐつとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨツトの白い帆を見た時のやうな、いつでも初めて気のついたやうな、ちよつと驚きに似た快味をおぼえる。麦の芳香がその時嗅覚の後ろからぱあつと来てすぐ消える。すぐ消えるところが不可言の妙味だ。(略)二杯目からはビールの軽やかな肌の触感、アクロバチツクな挨拶のやうなもの、人のいい小さなつむじ風のやうなおきやんなものを感じる。十二杯目ぐらゐになるとまたずつと大味になつてコントラバスのスタツカートがはひつて来る。からだがきれいに洗はれる。

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写真は昭和27年(1952)、戦前から行きつけだった三河島のトンカツ屋・東方亭で。たしかに目の前にピール瓶が並んでいますね(笑)。


「風土計」、コーラやウーロン茶にも言及されています。コーラは大正元年12月の雑誌『白樺』に載った詩「狂者の詩」、ウーロン茶は同じ年の雑誌『朱欒』に載った詩「或る宵」に登場します。

ところで、「風土計」冒頭の「何もかもうつくしい/このビイルの泡の奮激も/又其(それ)を飮(の)むおれのこころの悲しさも」という一節、出典が分かりません。ご存じの方はご教示いただければ幸いです。

追記 当該の詩は「カフエライオンにて」(大正2年=1913)、『高村光太郎全集』では補遺巻の第19巻に収められていました。

【折々のことば・光太郎】

何しろ非常に頭のいい人ですから、うつかりした質問でもしようものなら、その質問の下らなさ加減で、お前はもう駄目だ、試験なんか受けなくてもいいと言はれさうな気がして、質問したい事があつても却々(なかなか)切り出せなかつたものです。

談話筆記「頭の良い厳格な人――鷗外追悼――」より
 大正11年(1922) 光太郎40歳

光太郎、東京美術学校時代に鷗外が担当していた美学の講義を受けています。その頃から尊敬はするけれども、親しくつきあいたい人ではないと思っていたようで……。のちにはうっかり「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、鷗外に自宅に呼びつけられて説教されたこともありました(笑)。

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写真は明治44年(1911)、鉄幹与謝野寛の渡欧送別会での集合写真。後列左から5人目が光太郎、前列左から4人目が鷗外です。二人、前後に並んでいます(笑)。

先週号の『週刊ポスト』さんに光太郎の名が。

7代にわたって受け継がれる秘伝のタレ 駒形 前川 東京・台東区

 浅草・駒形橋のたもと、隅田川沿いに位置する「駒形前川」では、風情ある景色を眺めながら、ゆったりと鰻を堪能できる。創業は江戸末期の文化文政期。200年以上引き継がれるタレは、空襲や地震を逃れてきたという。「関東大震災のときは、タレの入った壺を大八車に乗せて逃げたと聞いています」(7代目・大橋一仁さん)
 鰻を幾度も返しつつ焼き上げる熟練の技によって、艶やかな飴色に仕上がる。重箱の蓋をあければ、香ばしさをまとった鰻が姿を現わす。タレは江戸前の辛口でさっぱり。身はふんわりと味わい深い。
 醤油とみりんしか使わずに継ぎ足された秘伝のタレ。詩人の高村光太郎や作家の池波正太郎も駒川前川の味を愛した。
 老舗の味を守りながら、新しい食の提案も行なう。スペインワインの輸入販売も手掛け、ここでしか味わえない鰻とワインのペアリングも楽しめる。
■駒形 前川 住所:東京都台東区駒形2-1-29 営業時間:11時半~21時(L.O.20時半) ※売り切れ次第終了
定休日:年中無休

巻頭グラビアの「鰻の季節がやってきた!」という記事の一部で、他に名古屋の「鰻(うな)う おか富士」さん、葛飾区の「うなぎ 魚政」さん、浜松の「うなぎ 大嶋」さん、久留米の「富松うなぎ屋」さんが紹介されています。

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他店はそれぞれ1ページですが、前川さんのみ見開き2ページ。いわば横綱扱いですね。

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現在は七代目の方が嗣がれているということですが、四代目の時代に光太郎がよく肝焼きを智恵子の土産にと買って帰ったという逸話が残っているそうです。


戦前の光太郎日記はほとんど残っていないため、光太郎の書き残したものの中にそのエピソードは見あたりませんが、たしかにそういうことがあったのでしょう。

光太郎の父・光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)には、前川さんの名が出て来ます。幕末の徒弟時代の回想で「名高かった店などの印象」という項です。

鰌屋横丁を真直に行けば森下(もりした)へ出る。右へ移ると薪炭(しんたん)問屋の丁字屋(ちやうじや)、その背面(うしろ)が材木町の出はずれになつてゐて、この通りに前川(まへかは)といふ鰻屋がある。これも今日繁昌してゐる。

前川さんの名は出ていませんが、光太郎の詩「夏の夜の食慾」(大正元年=1912)には、鰻屋の店頭風景が。

「ぬき一枚――やきお三人前――御酒(ごしゆ)のお代り……」
突如として聞える蒲焼屋の渋団扇
土用の丑の日――
「ねえさん、早くしてくんな、子供の分だけ先きにしてくれりや、あとは明日(あした)の朝までかかつても可いや、べらぼうめ」
「どうもお気の毒さま、へえお誂へ――入らつしやい――御新規九十六番さん……」
真つ赤な火の上に鰻がこげる、鰻がこげる

この直後の部分で、天ぷら屋の「中清(なかせい)」さんが登場します。前川さんと中清さん、直線距離で300メートルほどですので、ことによると前川さんなのかもしれません。もっとも、浅草近辺には他にも鰻屋さんがありますので、何ともいえませんが……。ちなみに光太郎、戦後には日記によるとやはり浅草の小柳さんという鰻屋さんに行ったことを記録しています。


今年の土曜丑の日は月末、7月27日(土)だそうです。夏バテ予防にぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

十年前の今頃は、亡妻智恵子の病気とたたかつてゐました。そして一方、團十郎の首を作り上げようとしてゐました。

アンケート「十年前のあなたは」全文 昭和23年(1948) 光太郎66歳

出典は雑誌『日本未来派』です。ある意味、酷な質問をするものですね。

「團十郎」は九代目市川團十郎。光太郎はその芸を愛し、彼の肖像彫刻で世上にろくな物がないのが残念だと、その制作にかかりました。しかし、戦争の激化とともにそれも頓挫し、結局、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰しました。

ちなみにこのアンケート、「十年後のあなたは」という設問もありましたが、光太郎、そちらには回答していません。もはや自分に十年後はない(8年後に光太郎は没)ことがわかっていたのでしょうか。何とも不思議です。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第14号。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

今号は「カフェドシトロンとサヤエンドウサラダ」。

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欧米留学から帰国してすぐの随筆「珈琲店より」(明治43年=1910)、心を病んだ智恵子が入院中の昭和11年(1936)に書かれた随筆「某月某日」が典拠です。

花巻といえば、この『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん、花巻市さんで発行している季刊情報誌『花日和』の2019年夏号に大きく取り上げられました

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『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの版元であるオフィス風屋さん、そして編集に当たられている北山公路氏と高橋菜摘さんの紹介です。当方、昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に昭和20年代の花巻とその周辺を再現するジオラマを作成していただいた石井彰英氏の工房を、北山氏と共に訪れたことがあります。熱い方でした(笑)。

冒頭部分、抜粋します。

 ひと味違う切り口  「 Machicoco (マチココ)」は、花巻 の「まち」と「ひと」にスポットを当て、魅力を伝えることで街歩きにつなげる“花巻まち散歩マガジン”。2017年に創刊し、じわじわとファンを増やしている。今年4月発行の13 号では、特集「春が来たっ。」と題し、市内の春の風景とともに、ピカピカのランドセルを背負った小学生、袖の長い学生服を着た中学生の姿を掲載。他にも「花巻ウラ昔話」、「花巻まにあ」、高村光太郎の食した料理を紹介する「光太郎レシピ」など、観光情報誌とはひと味違った切り口で、地元ならではの話題が盛り込まれている。

そして終末部分。

 北山さんはマチココが街に根付いた理由について、次のように語る。「紙媒体にとって大切だと感じるのは、ブレないこと。クオリティを落とさないこと。創刊当時の初心を貫いたことで、その想いが徐々に浸透したのだと思います」
 ページをめくり、興味を持った人が一人また一人と街に出かけていく。紙媒体には心を動かし、波及させる力がある。北山さんと高橋さんの挑戦は続く。

おっしゃるとおり、紙媒体の良さというものはやはり厳然として存在するわけで、今後もそれにこだわった紙面作りに邁進していただきたいものです。


『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんは、花巻高村光太郎記念館さんをはじめ、花巻市内各所で販売しています。また、オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回配本、送料込みで3,840円。

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『花日和』は無料。市役所や観光案内所等に置いてある他、都内でも岩手県のアンテナショップである東銀座の「いわて銀河プラザ」さんなどで入手可能です。


【折々のことば・光太郎】

返事が出来ないのでせずにゐました。感動をまるで受けないものについての所感をきかれるのは困るものです。

アンケート「帝展の佳作に就いて」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

「帝展」は、文展(文部省美術展覧会)の後身としてこの年から始まった「帝国美術院展覧会」。光太郎、こうした審査を伴うアカデミックな公設展覧会はとにかく毛嫌いしていました。

智恵子の故郷・福島二本松からの情報です。

日本酒オリジナルカクテル「ほんとうの空」をご提供!

期   日 : 2019年5月11日(土) 12日(日) 13日(月) 14日(火) 15日(水)
        16日(木) 17日(金)
会   場 : ダイニングバー メモリー 福島県二本松市本町2-33
時   間 : 19:00-翌3:00011
料   金 : 1杯700円

地元二本松の地酒を使用したここでしか飲めない二本松のカクテルをお楽しみ下さい!
地元二本松の日本酒を使用した、二本松の酒、二本松の空、二本松の菊人形、智恵子抄などをイメージした当店オリジナルカクテルを1杯700円でご提供致します!また、他店ではなかなかご覧になれないフレアバーテンディング(カクテルパフォーマンス)なども是非この機会にご覧下さい!
(フレアは要リクエスト)

なるほど、シャレオツですね。

やはり5月11日(土)、茨城県の旅行会社・石塚サン・トラベルさんでは、こんなバスツアーも組んで下さっています。
会   場 : 二本松市智恵子の生家/智恵子記念館 羽山の里クマガイソウ群生地 他
時   間 : 那珂IC 7:00出発 17:45帰着
料   金 : 10,800円

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ともに茨城県ご在住の画家・村田伊佐夫氏、絵手紙作家・友部久美子氏が同行され、智恵子生家/智恵子記念館裏の智恵子の杜公園から安達太良山スケッチ(雨天時は生家にて)、智恵子生家で紙絵作り体験が組み込まれています。紙絵作り体験は、「高村智恵子生誕祭」の一環として行われているものですね。

今月号の『広報にほんまつ』さんにも紹介されています。

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今月、二本松ではこの他にも様々なイベントが企画されています。少しずつご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

すべての精神活動は生理に基づく。

散文「夏の食事」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居も5年経ち、すっかり独居自炊生活に慣れた頃の文章です。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」というわけで、健全な肉体を維持するための食事の大切さを説いています。

定期購読しております雑誌2誌、届きました。

まず隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第13号。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。今号は「そば粉ガレットとウニペイスト 夏みかん添え」だそうで。

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読者の方からの投稿的なページには、以前の号の「光太郎レシピ」を参考に料理を作った旨の記述。

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「花巻ウラ昔話」というコーナーは、かつて花巻市にあった雪印乳業花巻工場について。ここには昭和43年(1968)、光太郎詩「牛」(大正3年=1914)の一節を刻んだ碑が建てられました。平成14年(2002)に工場は閉鎖、現在は雪印さん系の岩手雪運さんという会社の営業所になっています。光太郎碑はまだ健在なのではないかと思われますが、不明です。

石碑といえば、『マチココ』さんに掲載されている石碑の写真。「あれ? こんなところに光太郎が」でした。

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おわかりでしょうか。石碑上部に写真が4枚並べられていますが、左から2枚目が光太郎です。郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で撮影されたもの。000

この石碑は、平成21年(2009)に建てられたもので、かつてここに雪印乳業花巻工場があったことを示す碑のようです。この存在は存じませんでした。

今秋、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座で、花巻市と、さらに隣接する北上市にある光太郎関係の石碑等をめぐるバスツアー的なものが計画されており、当方、講師を仰せつかっています。その際にこちらも見て来ようと思っております。

ちなみに先述の「光太郎レシピ」中の「そば粉ガレット」、光太郎の日記の記述に従い、雪印さんのバターが使われています。写真にも写っています。


その他、特集が「春がきたっ。」ということで、花巻市内各所の春の風景などなど。

オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回配本、送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


もう1点、『月刊絵手紙』さん。

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「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされています。今号は詩「母をおもふ」(昭和2年=1927)の全文。2年前に亡くなった母・わかを偲ぶ詩です。5月は母の日があるということからの引用だそうです。

その他、特集は「夏目漱石の愉快な手紙、いい手紙」。先月のこのブログでご紹介した書籍『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』を書かれた中川越氏の御執筆です。

同誌は一般書店での販売は行っておらず、同会サイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。バックナンバーとして1冊単位の注文も可能なようです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

小生は言はば一個の風来で、何処にゐても、其処で出来るだけの仕事をし、出来るだけの務めを果たして、そして天命来らば一人で死ねばそれで万事決着といふ孤独生活者です。

散文「ある夫人への返事」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれた文章の一節です。もはやこういう割り切りだったわけですね。

3月23日(土)、前日に引き続き、都内に出まして、吉祥寺の武蔵野商工会議所さんにて開催の「第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎」で、公開講座の講師を務めさせていただきました。
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講座は前後半にわかれ、前半が「杢太郎と勇 美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」。木下杢太郎に関し、「グルメといわれるが―杢太郎は何を食べたか」と題し、歌人で伊東市立木下杢太郎記念館の丸井重孝氏、吉井勇について静岡県立大学の細川光洋氏が「極道に生れて河豚のうまさかな―健啖家(グールマン)・吉井勇」と題されたご発表および対談。

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後半は「晶子と光太郎 日仏の出会う食卓風景」ということで、当方が「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」、歌人の松平盟子氏が 「家族と囲む食の喜び ~駿河屋の娘のそののち」という題で、与謝野晶子についてご発表。当方、ついついしゃべりすぎて、持ち時間をオーバーしてしまい、ご迷惑をおかけしました。反省しきりです。

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杢太郎や吉井が「食」へのこだわりを強く持っていたというのはほとんど存じませんでしたし、晶子は子だくさんの大変な状況でも、栄養価を考えたり、フランス仕込みの知識などを活用したりで、それなりに豊かな食生活を送ろうと努めていたことがわかりました。

光太郎も、少年時代には廃仏毀釈の影響で父・光雲の仏師としての苦闘期を送り、留学からの帰国後も決して裕福ではなかった智恵子との生活を経、戦中戦後の混乱期と、さまざまに工夫しながらの食生活でした。昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言し、さまざまな工夫を披瀝したりもしています。

今回、目からウロコだったのは、同じ「簡素生活と健康」の中での次の発言。花巻郊外太田村での山居生活に関してです。「川島」は川島四郎。元軍人(最終階級は陸軍主計少将)、栄養学者、農学博士でした。

高村 主食はもともと少かつたんですが、食糧には困らなかつた。みんな持つて来てくれるんです。お
   米でも
でも、漬物や南瓜なども……。蛋白質だけはなかつたな。
川島 田舎ではね……。
高村 それで蛙をとつて食べたんです。赤蛙をね。まだ動いているのを  皮をはいで……。近所には
   いゝやつ
がどつさりいたんです。

本当にカエルを食べていたのか? と、以前から疑問でした。座談会ということで、リップサービス的に話を盛っているのでは、と。ところが、松平氏曰く、カエルはフランスではごく普通の食材なので、十分あり得る、とのこと。
確かに、明治45年(1912)に書かれた「画室にて」という散文では、パリ留学中の思い出を語る中で、次の発言もあります。

就中(なかんずく)珍なのは、オルドーブルと云つて外にはないスープの前に出る一皿。それには、雁の胆、蝸牛なぞがつきます。然かも本当の料理を食べる仏蘭西人は、外の物には手もつけない。そのオルドーブルだけ食べるのです。オルドーブルだけで売出した家(うち)さへある。(略)大体の料理は五フランぐらゐで一寸食へるが、その家は五フランでオルドーブルが食べ度いだけ食べられる。

「オルドーブル」は「オードブル」。カエルもちゃんと入っていますね。日本での感覚で考えるとゲテモノですが、そうではなかったわけです。


終了後、近くの居酒屋で懇親会。

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晶子研究の泰斗で、旧知の逸見久美先生のお隣に座らせていただきました。逆サイドのお隣には、光雲の師・高村東雲の末裔に当たられる高村晴雲氏の講座で仏像彫刻を学ばれたというお坊様。驚いたことに、岡本かの子の血縁の方だそうでした。かの子は智恵子同様『青鞜』メンバーでしたし、かの子の夫・一平は東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生でした。いわずもがなですが、一平・かの子の子息はかの岡本太郎です。不思議な縁を感じました。


というわけで、4回にわたっての都内レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

春が来ると何よりも新鮮な食べものの多くなるのがうれしい。私は野のもの山のものが好きなので、摘草にわざわざ行くといふ程の閑暇はないが、そこらに生えてゐる草の芽の食べられるものは何でも食べる。

散文「春さきの好物」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ文章で光太郎が食べるとしている野草、山菜類 は以下のとおり。ハコベ、ヨメナ、ノビル、スベリヒユ、タンポポ、ツクシ、カンゾウ、カタバミ、イタドリ、ユキノシタ、フキノトウ、センブリ、オニフスベ、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、タラの芽、杉の芽、マタタビ。

親友で、やはり『明星』に拠っていた水野葉舟が『食べられる草木』という書物を著しており、参考にしたかもしれません。

お世話になっております明星研究会さん主催の公開講座的イベントです。

第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎

期    日 : 2019年3月23日(土)
会    場 : 武蔵野商工会議所 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7

時    間 : 13:30〜16:30
料    金 : 1,500円 (資料代を含みます/お支払いは当日にお願いいたします)

第1部:対談 杢太郎と勇「美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」
 「グルメと言われるが―杢太郎は何を食べたか」
   丸井重孝(歌人・伊東市立木下杢太郎記念館)
 「極道に生れて河豚のうまさかな―グールマン・吉井勇」
   細川光洋(静岡県立大学)
第2部:対談 晶子と光太郎「日仏の出会う食卓風景」
 「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」
   小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 「家族と囲む食の喜び ~駿河屋の娘のそののち」  
   松平盟子(歌人)
 日本の四季は食卓に旬の素材と料理を提供し、茶や酒を用意しました。感性豊かな「明星」の歌人・詩人たちにとっても同じ。西洋への憧れを秘めたサラダ、パン、コーヒーやリキュール酒などに揺れる心を託し、日常の彩りとすることも……。与謝野家では子供たちとどんな食卓を囲んでいたのでしょうか? 祇園に出入りした吉井勇は? 伊豆伊東の海を眺めて育った木下杢太郎は? パリ体験が人生の刻印となった高村光太郎は?
 今年は木下杢太郎の詩集『食後の唄』刊行から100年に当たります。これを記念して、詩歌や随筆などに描かれた食の現場・食をめぐる心情風景を追体験してみましょう。多くの皆さまのご来場を心よりお待ちしています。

申し込み 氏名・連絡先(電話)を添え、メールかFAXでお申し込み下さい。当日受付も可能です。
      メールアドレス : apply@myojo-k.net   FAX : 0463-84-5313(古谷方)
終了後、懇親会 会費4,000円 (当日受付でお申し込みください)

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『朝日新聞』さんと『毎日新聞』さんに案内が載ったようです。

光太郎の部分を担当することになりました。ぜひお越し下さいませ。


【折々のことば・光太郎】

一つの型(かた)にまで上昇しない芸術には永遠性が無い。ただ別個的の状態を描き、現場の状況を記録し、瞬間の感動を叙述したに止まる芸術には差別美だけあつて普遍美が無い。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

同じ文章で具体例は挙げられていませんが、他の文章を見ると、ピカソあたりを念頭に置いての発言のようです。「型」といっても、類型を繰り返すことではないとも書いています。

昨日は、福島県いわき市に行っておりました。その前に花巻・盛岡と廻っていたのですが、いわきには立ち寄る形でなく、いったん千葉の自宅兼事務所に戻り、また改めて東北にとんぼ返り。公共交通機関だと、いわきから自宅兼事務所までが面倒ですし、目的地のいわき市立草野心平記念文学館さんがJRの駅から遠い、ということもありまして。

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で、いわき市立草野心平記念文学館さん。

先月もお邪魔しましたが、冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」を開催中で、昨日は、関連行事としての市民講座的な「居酒屋「火の車」一日開店」が行われました。

「火の車」というのは、昭和27年(1952)、当会の祖・草野心平が文京区田町に開いた居酒屋です。その後、新宿に移転、区画整理により取り壊される同31年(1956)まで存続しました。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎もよく足を運んでいましたし、他にもそうそうたる顔ぶれが常連で、一種の芸術サロン的な役割を果たしたわけです。

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まずは文学館ボランティアの会の皆さんによる寸劇「火の車の思い出」。

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心平と、心平により「火の車」のにわか板前に仕立てられた同郷の橋本千代吉の二人が「火の車」の思い出を語るという設定でした。橋本には、『火の車板前帖』(昭和51年=1976)という回想録――ここに集った酔漢たちのとんでもない行状録があり、珍しく下ネタを披露した光太郎も描かれています。

最後に観客全員で、心平作詞の「火の車の歌」を斉唱。かつて店でよく歌われていたとのことで、遠く明治末、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」で、酔った参加者たちが、やはり中心メンバー北原白秋の「空に真っ赤な雲の色」を歌っていたというエピソードを思い出しました。

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続いて、館内の講堂に移動、「「火の車」ランチタイム」。

料理研究家の中野由貴さんのご指導のもと、文学館ボランティアの会の皆さん、中野さんのお仲間の方々が腕をふるった料理をいただきました。心平が考案し、「火の車」で出されていたメニューの一部、さらに心平と交流のあった光太郎と宮沢賢治ゆかりの料理が、ビュッフェ形式で並べられました。

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中野さんの解説を拝聴しつつ、美味しくいただきました。


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当方、昨年、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を務めさせていただきましたが、その際に作成したレジュメが回り回って中野さんのお手元に行き、参考にして下さったそうです。光太郎がほめたフランスパンが出たり、「火の車」メニューの「白夜」(スープ)には、光太郎の好物の一つ、大根の千六本(せろっぽう……マッチ棒ほどの大きさに刻んだもの)を入れていただいたりしました。

また、おむすびは賢治が羅須地人協会で推奨していたという「陸羽132号」。おみやげにも同じお米をいただきました。右下は生産者の方のご挨拶。下に写っているのがおみやげの「3合入り陸羽132号」です。

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お腹も満たされたところで、最後に食卓トーク「心平・賢治・光太郎 ある日の食卓」。

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002講師は中野さん……のはずだったのですが、賢治研究家でもあらせられるお医者様の浜垣誠司氏、さらに当方も講師席に座らされ(笑)……。

それもこれも同館学芸員の小野浩氏の差し金です。バイタリティーに溢れ、さまざまな部分で強引に事を進めた心平よろしく、小野氏の力わざも半端ではありません(笑)。最近は顔つきまで心平に似てきました(笑)。

その前に、展示ケースをわざわざ開けていただき、昭和28年(1953)の3月15日、「火の車」の大福帳に書かれた光太郎の筆跡――開店一周年を祝うメッセージ――を見せていただいたので、文句は言えませんが(笑)。

終了後、中野さんやそのお仲間の方々、小野氏、さらにいわきご在住の彫刻家・安斉重夫氏(賢治作品へのオマージュとしての彫刻も作られています)などの皆さんと、いわき駅前で軽く打ち上げ(当方、中座させていただきましたが)。

というわけで、有意義ないわき紀行でした。

ところで今日は3.11。昨日も、行き帰りの愛車内で見たテレビで、東日本大震災がらみの番組がいろいろありました。明日はそのあたりで書かせていただきます。


【折々のことば・光太郎】

母は全くの無筆で、お家流まがひの金釘流でただたどしく書きつらねた文字であつたが、私の帰国の決心を最初に書き送つた手紙を見ての歓喜の情をそのまま夢心地に書きつけたものと思はれる。こんなよろこびの歌をどうして無視出来ようかと思つて私は読みながら泣いた。

散文「よろこびの歌」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

明治42年(1909)、パリで受け取った母・わe5be2049かからの手紙に関してです。
10年のつもりで出かけた留学を3年あまりで切り上げ、光太郎は帰国の途につきましたが、その主な要因は、結局、西洋人は理解不能という感覚でした。そして日本に帰って、自分の学んだ新しい芸術を日本に根付かせようという使命感。しかし、最終的に決断をさせたのは、帰国しようかどうしようか迷っていると書いた手紙に対する、「早く帰ってこい」という母からの返答でした。

大根の千六本など、「食」の部分でも母から受けた影響が大きかった光太郎。終生、母への敬慕を胸に抱き続けていました。

智恵子の故郷、福島県二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』、今月号は道の駅の特集が組まれています。

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市長・三保恵一氏の玉稿。智恵子に触れて下さっています。

こちらにもあるとおり、同市には3ヶ所の道の駅が存在し、そのうち一つが「道の駅 安達 智恵子の里」。智恵子生家/智恵子記念館に近い、旧安達町にあります。全国的にも珍しいという、国道を挟んで上り線側と下り線側別々に展開している施設です。

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新商品も開発されているようで、「智恵子の思い出 甘酸っぱいレモンゼリー」というのは存じませんでした。次に行く時は買ってこようと思っています。

「通常のレモンゼリーより、酸味が濃いゼリー。一粒が大きいゼリーなので、食べ応え抜群!」だそうで、想像するだけで唾液が分泌されます。「パブロフの犬」状態です(笑)。

もう一点紹介されている「智恵子の里だよりレモンサブレ」は、昨秋、現代アートの祭典「福島ビエンナーレ 重陽の芸術祭2018」の一環として智恵子の生家/智恵子記念館を会場に行われた「重陽の芸術祭in智恵子」の際にゲットしましたが。

上記2点は上り線側での販売のようです。

下り線側にも「道の駅 安達 智恵子の里レモンケーキ」。素朴な感じのものですが、バラ売りで一つから買えるそうで、ありがたいですね。

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いっそのこと、二本松市として「レモンの里」というキャッチコピーにして、道の駅で「全国レモンサミット」でも開催し、ゲストは米津玄師さん……などと勝手なことを考えています(笑)。

まじめな話としては、来月、二本松市でレモンならぬ「2019全国さくらシンポジウム㏌二本松」が企画されています。また近くなりましたら詳しくご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

智恵子のいのちは此家に充満する。智恵子の個体が灰になつてしまふと同時に、智恵子の存在はアトムとなつて至る処に遍在し、到る処を充填する。百千倍となつた復活である。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

昭和13年(1938)、レモンをがりりと噛んで天に昇っていった智恵子。光太郎はその後、智恵子がアトム(原子)となって自分の周囲に充満していると信じるようになりました。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

新刊の雑誌系に載った記事を2件ご紹介します。たまたまどちらも「食」がらみです。

まず、『週刊読書人』さん。いまわの際の智恵子が「がりり」と噛んだレモンにからみます。3月1日号中の「【書評キャンパス】大学生がススメる本」というコーナーで、光太郎の『智恵子抄』が取り上げられました。

高村 光太郎著『智恵子抄』 評者:黒川 あさひ(明治大学文学部3年)

二〇一八年末のNHK紅白歌合戦に今を時000めく米津玄師が出場し、連続ドラマ『アンナチュラル』の主題歌である『Lemon』を歌いあげた。この曲は非常に人気があり、カラオケのランキングでも一を総ナメしているらしい。この『Lemon』という曲は、「レモン哀歌」を元として作ったと米津さんがどこかのインタビューで答えていたことを記憶している。「レモン哀歌」というのは、彫刻家や画家、そして詩人として活躍した、高村光太郎によって紡がれた詩集『智恵子抄』に収録されている詩の一つである。米津の歌詞の節々に『智恵子抄』に収録されている、「レモン哀歌」以外の詩を思わせるような単語もあるため、「レモン哀歌」というよりは『智恵子抄』全体を元にしたのではないだろうかと思う。
『智恵子抄』は愛の詩集だ。高村光太郎が、妻・智恵子と出会い、「清浄」されて、精神分裂症を患った妻をひたすらに支えて、妻が亡くなった後も愛し続けた、その証だ。夫妻が結婚する前から智恵子が亡くなった後までの、30年にもわたる年月の中で光太郎が妻へ宛てて書いた詩を収録している。愛の詩といっても、あまったるいというわけではない。「人に(いやなんです)」「あなたはだんだんきれいになる」といった粉砂糖のようにきらきらと輝いている甘い詩もあれば、「レモン哀歌」や「梅酒」のような、それこそお酒のようにほろ苦いけれど止められない、そんな詩もある。
『智恵子抄』はいくつかの出版社から出ているが、私は中でも新潮文庫版の『智恵子抄』が好きだ。理由としてはいくつかあり、まず他版元では初版に準じて、「『智恵子抄』」「『智恵子抄』補遺」の順に掲載されているが、新潮文庫版では、両方を合わせて作品が全て年代順に並べられているということ。年代順に読むことで、光太郎の幸せ、喜び、そして嘆き、悲しみがより伝わってくるように感じる。次に、表紙、及び冒頭のカラーページを飾るのは、智恵子によって作られた切抜絵の作品ということ。これが非常に素晴らしいもので、またそれらは智恵子が光太郎にだけ見せるために作り続けたものであることが巻末の文章で分かる。最後に、巻末の文章に詩人の草野心平による高村夫妻のエピソードが書かれている文章があること。それがまたどうしようもなく悲しくて切ない、けれどとてつもなく素敵なエピソードなのだ。
この草野心平の文章の中に先ほど挙げた切抜絵のエピソードもあるのだが、私が思わず涙してしまったのは、光太郎が、草野を「喫茶店ともバアともつかないとこ」に呼び出した時に投げかけた言葉だ。思わず息を飲み、何も言えなくなってしまう。静かに涙を流しながら残りの数ページを震える手で捲ったことを覚えている。是非読んでみて欲しい。
『智恵子抄』はぜひとも、夜中に大切な人のことを考えながら読んでみて頂きたい。できればお供として「梅酒」を片手に。

このコーナー、「現役大学生が自ら選書し書評を書く人気コーナー。紙面「週刊読書人」で毎週一人ずつ掲載する他、ウェブ限定の書評もあります。いまの大学生が友だちに薦めたい!と思う本とは?どんなところに魅力を感じているのか?どれも読みごたえのある書評ばかりです。」だそうで、新刊書籍に限らず、古今東西の名著的なものも取り上げられています。そこで、新潮文庫版の『智恵子抄』。

当方、常に光太郎智恵子が忘れ去られる危機感を抱いて活動しているのですが、まだ21世紀を生きる若者の心の琴線に触れる部分がやはりあるのですね。そういった意味で、昨今の「文豪」ブーム、そして書評でも触れられている米津玄師さんの「lemon」、ありがたいところです。


もう1件、定期購読しています『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第12号が届きました。

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花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」、今号は「光太郎の正月」だそうです。元ネタは昭和23年(1948)1月6日付けの書簡。

姻戚となった茨城取手在住の宮崎仁十郎から届いた餅を使い、雑煮とお汁粉を作ったそうで、小豆は自分で栽培したものを使用したとのこと。さらにイカの中華炒め。美味しそうです。

この連載が実を結んだ部分もあるのでしょう。多方面で「光太郎の食」についてスポットが当てられています。昨年から今年初めにかけ、花巻高村光太郎記念館さんでは企画展「光太郎の食卓」が開催されましたし、現在、いわき市立草野心平記念文学館さんで開催中の冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」でも光太郎が取り上げられています。今週末には関連行事で料理研究家の中野由貴さんを講師に、「居酒屋「火の車」一日開店」があり、その中で「心平・賢治・光太郎 ある日の食事」というトークも為されます。

ちなみに偶然ですが、今月東京武蔵野市で開催される「第13回 与謝野寛・晶子を偲ぶ会」のテーマが「「明星」文学者、四季の食卓――杢太郎、勇、晶子、光太郎」ということで、発表を仰せつかっています。またのちほど詳しくお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

此所で喰べた野草の味が忘れられない。蕨のやうだが蕨よりも歯ぎれぎよく、ぜんまいのやうだがぜんまいよりもしやつきりしてゐる。ただの煮つけではあるが其色青磁の雨過天青といふ鮮やかさにまがひ、山野の香り箸にただよひ、舌ざはり強く、しかも滑かで、噛めばしやりりといさぎがよい。

散文「こごみの味」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

「此所」というのは、群馬県の利根川上流域の藤原村、現在のみなかみ町藤原です。昭和4年(1929)の5月にこの近辺を旅した際の思い出で、題名にもある「こごみ(クサソテツ)」に関わります。村に1軒だけあった食堂でこごみの煮つけを饗され、その味わいに感動したとのこと。

光太郎、この後、戦時中には食糧不足のためやむなく、戦後は岩手花巻郊外太田村の山小屋での蟄居生活で、こちらは自ら好んで、さまざまな野草を口にしています。

昨日は、福島県いわき市に行き、当会の祖・草野心平を祀る同市立草野心平記念文学館さんで開催中の、冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」およびスポット展示「天平と妻梅乃」を拝見して参りました。

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「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」の方は、奥の展示室1室を使い、心平が昭和27年(1952)3月に東京都文京区田町に開店した居酒屋「火の車」に関する展示。

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原稿、日記などの心平が書いたものが中心でしたが、「火の車」開店案内などを含め、光太郎に宛てて書かれた書簡類が多数展示されており、「光太郎がこれを手に取って読んだのか」と思いつつ感慨深く拝見しました。

逆に、光太郎が書いたものも。「火の車大福帳」(昭和28年=1953)の中に、開店一周年を祝う光太郎のメッセージが書かれているそうでした。当方、この存在は存じませんでした。ただ、その箇所ではないページが開かれており、見られませんでしたので、後ほど改めて拝見させていただきたいと思っております。

他に、光太郎と宮沢賢治についてのパネル展示、さらに花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されている隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの既刊すべて(こちらは手に取って見られるように置いてありました)など。

「火の車」は、一時期の心平が心血を注いだ活動で、単なる飲食店の枠を超え、光太郎を含む多くの芸術家のサロン的役割を果たしました。しかし、気取った社交場ではなく、集まったそれぞれが人間性を剥き出しにし、激論を闘わせたり、深いつながりを生じさせたりと、その果たした役割は非常に大きかったと思われます。

心平の出す怪しげな料理(笑)と酒が、その媒介となりました。やはり「食」は生きていく上での基本ですので、集った面々も自らの基本に立ち返り、飾らない自己をさらけ出したのでしょう。光太郎もここでは珍しく下ネタを披露したと、「火の車」板前だった故・橋本千代吉の回想にあります。

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スポット展示「天平と梅乃」は、企画展示室の前の一角に。心平とはまたひと味違った、しかし、やはり根っこのところでは相通じる魂を持つ、弟・天平とその妻・梅乃に関する展示でした。

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3月10日(日)には、企画展関連イベントとして、料理研究家の中野由貴さんを講師に、「居酒屋「火の車」一日開店」が催されます。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は此夜見かけたいろいろの群像を幻想の中で勝手に構成してみる。エネルギイそのもののやうな鮪と女との構図をいつか物にしたいと思ふ。

散文「三陸廻り 六 女川の一夜」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

女川の飲み屋街を歩き、宿に帰っての感懐です。当時の女川は、新興の港町として非常に活気に溢れる町でした。夜ともなれば漁師たちが紅灯街に繰り出し、矢場や飲み屋など、さまざまな店で女たちが嬌声を上げ、停電になると街のあちこちで、さながら篝火のような焚き火。

居酒屋「火の車」も似たような雰囲気だったのかもしれません。

女川では、昼間、漁港で見た鮪(マグロ)や鮫、そして夜の女たちが光太郎の印象に深く残りました。下記は掲載誌『時事新報』に載った光太郎自筆のカットです。

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グルメ情報です。 

脇農園レモンフェア

期 間 : 平成31年2月4日(月)~3月末
会 場 : 御茶ノ水イタリアン トラットリアレモン
 千代田区神田駿河台 1-5-5 レモンパートII ビル1F
時 間 : 17:30~22:00 ラストオーダー21:30

レモンフェアは今年で2年目になります。今年も青いレモン島、愛媛県岩城島にある脇農園さんのレモンでお料理、カクテル、デザートをご用意します!
脇さんは中学生の頃に高村光太郎が書いた「レモン哀歌」という詩を読んだことがきっかけになり、レモンを育てようと思ったそうです。それまでレモンを見たことがなかった脇さんは、レモンとはどんな香りでどんな味がするのだろうと憧れたそうです。大学で農業を学び、昭和46年に愛媛県果樹試験場にやって来たときには、岩城島にレモンの木が1本もなかったそうなのですが、それが今では岩城島が「青いレモンの島」と呼ばれるほどたくさん育てられています。
その脇農園さんのレモンでシェフがご用意するのは!
昨年好評をいただいた脇農園レモンクリームソースパスタ、今年も復活です!野菜は旬のものが4種類ほど入っています。ほんのりレモンの酸味がクリームソースを軽やかにします。
そして今年は脇農園レモンと魚介のリゾットも。ドライトマト、魚介(日替わりですが海老やイカ、貝など)&レモンのさっぱりリゾットです。
シェフ力作2品どうぞお楽しみください。
カクテルは昨年お出しした自家製レモンシロップのレモンスプマンテ、今年はレモンモヒートも登場です!
デザートもレモンづくしでいかがでしょうか?
レモンのティラミスと、レモンパイもご用意しました。

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トラットリアレモンさんは、御茶ノ水にある老舗の画材店・レモン画翠さん(同じビルです)が経営するイタリアンレストランです。レモン画翠さんの前身の今井鐵次郎商店は大正12年(1923)創業で、昭和初期には光太郎の母校である東京美術学校内の売店を引き継ぎ、現在も藝大さんの中に姉妹店・画翠さんが続いています。卒業後も黒田清輝や父・光雲の胸像制作、それから後輩に招かれての座談会などのため、なんやかやで母校に足を運んでいた光太郎、売店を訪れていても不思議ではありません。

昭和25年(1950)には、本店の御茶ノ水に喫茶部ができ、それが現在のイタリアンレストランとなったそうです。こちらでは、愛媛県の脇農園さんと提携し、国産レモンを使ったメニューを充実させているとのことで、そのフェアとなります。

脇農園さんのご主人が、光太郎の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)に触発されてレモン栽培を思い立ったというのですから、不思議な縁を感じます。

レモンといえば、やはり「レモン哀歌」からのインスパイアの要素もあるという米津玄師さんの「Lemn」。遅ればせながら購入しました。心にしみる歌ですね。そういえば、米津さんの故郷は愛媛に隣接する徳島県です。気になって調べたところ、国産レモンの出荷額トップは広島県。第2位が脇農園さんのある愛媛県、徳島県は19位でした。
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昨日発効された日欧EPAや、数年前から話題のTPP環太平洋パートナーシップ協定などの影響で、日本の農業も転換点を迎えつつあり、レモンも今後どうなるか、というところですね。国産レモン農家さんにはがんばっていただきたいものです。

というわけで、トラットリアレモンさんの「脇農園レモンフェア」、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

雲と岩とのグロテスクさは想像の外にあるが、凡て宇宙的存在の理法に、万物を統一する必然の道が確にあると思はれる節がある。それは此等無生物の形態生成に人間や動物と甚だよく似たデツサンが用ゐられてゐる事だ。逆には、人間や動物の形態は此等物質の形態されると同じ機構上の約束によつて出来てゐるものと考へられる。

散文「三陸廻り 四 雲のグロテスク」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

雲や岩石、動物や人間(それからここに書かれていませんが、植物なども想定しているかもしれません)など、地球上の万物はその形態生成のあり方に共通する法則的なものがあるのではないか、という言です。だから雲を見て動物に似ていると感じるとか、人間の姿が見えるとかいうのは不思議でないというのです。


光太郎、この後の部分では、地球上に限らず、エイリアンがもしいたら、案外地球人と似た形態なのではないか、それが理にかなっているから、的な発言もしています。

卓越した造形作家の眼で見ると、そういうことなのでしょう。

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