カテゴリ:東北以外 > 埼玉県

来年の丑年を前に、光太郎の父・光雲による牛の木彫が出品される(されている)企画展を2件ご紹介します。

まず、埼玉で来週からのもの

遠山記念館 コレクション展 2

期 日 : 2020年12月5日(土)~2021年1月24日(日)
会 場 : 遠山記念館 埼玉県比企郡川島町白井沼675
時 間 : 10:00〜16:30
休 館 : 月曜日 祝祭日の場合は開館、翌日休館
      年末年始(12月22日(火)~1月5日(火))
料 金 : 大人 800円(640円) 学生(高校・大学)600円(480円)
      ※中学生以下は無料  ( )内は20名以上の団体料金
      ※障害者手帳をお持ちの方は200円割引

遠山記念館の所蔵品の中から、狩野晴川院養信「源氏物語子の日図」、仁阿弥道八「黒楽銀彩猫手焙」をはじめとし、干支にちなんだ彫刻や小袖類など、新春を迎えるのにふさわしい美術品を展示します。

また大河ドラマの主人公である明智光秀が所持したと伝えられる、「青磁香炉 銘 浦千鳥」を公開します。
000
光雲木彫は、ずばり「牛」。大正2年(1913)の作だそうですが、当方、見たことがありません。画像も初めて見ました。

遠山記念館さん、たまたま先月に行ったのですが、光雲作品も所蔵しているというのも存じませんでした。ぜひ見に行かねばと思っております。

木目の紋様が牛の筋肉のようで、見事な表現です。それから、おそらく台座から本体まで同じ材で繋がっている一木造りでしょう。

他に仁阿弥道八の陶製の猫や、香川勝慶の金工による鼠など、愛らしい作品群。猫は13番目に神様の所に行ったので、干支には入れてもらえなかったはずなのですが(笑)。
002
ロビーには、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の「女」も展示されています。

もう1件、栃木から。上記の展覧会の情報を得て、「あ、そういえば、あそこでも出すかも」と思って調べたらそのとおりでした。というか、すでに始まっていました

第4回 佐野東石美術館開館40周年記念「木彫の美」

期 日 : 2020年10月19日(月)~12月20日(日)
会 場 : 佐野東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時 間 : 10:00~17:00
料 金 : 大人 700円 ペアチケット 1,000円 小・中・高生 300円
      団体(15名以上)の団体料金 大人 400円 小・中・高生 150円
休 館 : 色が塗りつぶされている日が休館日です。

003
初代館長菊池登の愛した木彫を中心に、二代館長菊池義明、三代館長菊池宏行の蒐集した三代にわたる木彫コレクションを一堂に展示いたします。近世の円空仏から近現代の高村光雲、石川光明、山崎朝雲、佐藤玄々(朝山)、平櫛田中、澤田政廣、圓鍔勝三、長谷川昂、橋本堅太郎、現在活躍中の神保雅など選りすぐりの作品をご覧いただけます。人と自然の共生の中で生まれた芸術、木彫の美をどうぞご高覧ください。

こちらで所蔵されていて、時折、出品されている「牧童」(大正9年=1920)が展示されています。
001
一度拝見して参りましたが、これまた見事な作ですね。まさしく超絶技巧。

同館では光雲の盟友、直弟子、孫弟子らの作も所蔵しており、併せて見ることで近代木彫の系譜の一端を知ることが出来ます。

コロナ禍にはお気をつけつつ、それぞれぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

尚工風あるべし。

明治36年(1903)6月11日の日記より 光太郎21歳

「なおくふうあるべし」と読みます。「まだ工夫すべき点がある」といった意味で、数ヶ月取り組んできた自作の彫刻に対する評。適当なところで「ま、いいか」としない姿勢は、若い頃からのものでした。

昨日は埼玉県に行っておりました。2回にわけてレポートいたします。

メインの目的は、東松山市で開催中の「高田博厚展2020」拝観及び関連行事としての講演会拝聴でした。

彫刻家・高田博厚(明33=1900~昭和62年=1987)は、夭逝した碌山荻原守衛を別として、光太郎がほぼ唯一認めていた同時代の彫刻家でした。それもまだ海のものとも山のものともつかぬ本格的デビュー前からその才を見抜き、昭和6年(1931)の高田渡仏に際しては、「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会」を立ち上げ、その趣意書で広く援助を募るなどしました。そして実際に高田は国際的な彫刻家として大成しました。
005
光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に帰国した高田は、当会の祖・草野心平、当会顧問であらせられた故・北川太一先生らと手を携え、光太郎顕彰活動にも取り組みました。そして光太郎を偲ぶ連翹忌会場で、やはり光太郎と交流があり、同市の元教育長を永らく努められた故・田口弘氏と意気投合。同市で展覧会を開いたり、彫刻を寄贈したりしました。それが現在の東武東上線高坂駅前の光太郎胸像(昭和34年=1959)を含む「彫刻プロムナード」として結実しています。

そうした縁から、鎌倉のアトリエにあった高田の遺作、遺品類などが同市に寄贈され、そのコレクションを根幹とした企画展示が毎年為されています。ただ、昨年は同市では台風19号による浸水被害等が深刻な状況で、中止となりました。

メイン会場は市役所向かいの総合会館1階。2年ぶりにお邪魔しました。
KIMG4357
KIMG4358
KIMG4363
KIMG4364
鎌倉のアトリエから譲り受けた作品が中心。一角にはアトリエの一部を再現したコーナーも。
006
007
008
009
010
具象彫刻の王道、といった感があります。

光太郎胸像は寄贈された中に含まれていませんで、高坂駅前の彫刻プロムナードに関するパネル展示で触れられていました。
KIMG4360
その後、第二会場的な「ギャラリー&カフェ亜露麻」さんへ。車で5分ほどでした。こちらでは高田の素描が展示されています。
003
KIMG4365
亜露麻さん、1階はおしゃれなカフェ、2階がギャラリーとなっていました。
KIMG4371
KIMG4366 KIMG4370
KIMG4368
KIMG4369
光太郎にしても、ロダンにしてもそうですが、卓越した彫刻家で素描が下手、ということはあり得ませんね。高田も例外ではありませんでした。

メイン会場の市総合会館に戻り、午後2時から、4階のホールで関連行事としての講演会。講師は高田の彫刻のモデルを務められた元NHKアナウンサー・室町澄子さんでした。本来、昨年行われるはずでしたが、先述の通り台風19号により中止となっていました。
001
中止といえば、10月2日(金)には、同じく関連行事で、やはり室町さんや当方がパネリストのシンポジウムも開かれる予定でしたが、こちらはコロナ禍のため中止。来年に期待したいところです。

ちなみに室町さんは昨年、ご自身がモデルを務められた高田の彫刻と素描、それ以外にもアトリエでご覧になって気に入った素描、計7点を同市に寄贈なさいました。平時は1階で展示されていますが、昨日は講演会場の4階に運び上げられていました。
002
KIMG4374
KIMG4373
KIMG4382 KIMG4381
森田市長のご挨拶に続いて、最初の60分ほど、室町さんがピンで、モデルを務められたきっかけとなった高田の番組出演や、その後の高田との交流などについて。
KIMG4375
KIMG4376
KIMG4377
004
その後、寄贈に対する表彰状の贈呈。
KIMG4378
KIMG4379
さらに、森田市長と対談形式で30分ほど。
KIMG4380
印象的だったのは、ご自身の彫刻が、初めは「私にそっくりだ」と感じられたのに、制作が進むにつれて、だんだん自分に似なくなっていったというご感想。それに対し高田は、「10年後、20年後のあなたの顔と比べてご覧なさい」的なことを言ったそうです。光太郎も散文「彫刻十個條」で、「似せしめんと思ふ勿れ。構造乃至肉合を得ばおのづから肖像は成る。通俗的肖似をむしろ恥ぢよ。」と書いていまして、それを連想させられました。似ているか似ていないかは問題ではないのだ、ということです。ただ、だからといって何でもありというわけではなく、対象とした人物の精神性、内面、そういったものをきちんと表現すべしということでもありましょう。

同じことは高田作の光太郎胸像にも言えるようにも感じています。8月末に安曇野市の豊科近代美術館さんで拝見してきましたが、写真のように似ているわけでなくとも、光太郎そのもの、という感をあらためて抱かされました。

オフィシャルなプログラムは、ここまで。

この後、関係者のみにクローズド的に声がけがなされた、ノンフィクション作家・神山典士氏のトークイベントがありました。
KIMG4383
さらに会場を移して夕食を兼ねた懇親会。思いがけず旧知の方々にお会いできたり(特に今年は連翹忌の集いもコロナ禍で中止しましたのでなおさらでした)、新たに色々な方とつながりが出来たりと、実に有意義でした。

明日は、東松山に行く前に立ち寄った場所についてレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

天文学者が空をのぞいて計算を行ひ物理学者が原子を砕いて物質を変へ、彫刻家が木石を刻んで形象を起し、画家が絵具を費消して幻像をゑがく。いづれも一歩でも未知の世界に踏み入りたいばかりの人間の行状と思ひます。

アンケート「a.画家が描くといふ事を如何にお考へになりますか b.画家に何を要求なされますか」より  昭和14年(1939) 光太郎57歳


設問「a」に対する回答です。設問「b」へは「従つて画家に要求するところはやはり一歩でも未知の世界をひらいてくれる事です。」となっています。

設問が画家を指定してのものなので、画家が中心となっていますが、彫刻家は彫刻家で同じように木石を刻みつつ「一歩でも未知の世界」を追求すべしということですね。

高田博厚もこうした光太郎の精神を受け継いだと言えるのではないでしょうか。

直接的には光太郎に関わりませんが……

高田博厚展2020

期 日 : 2020年10月7日(水)~11月3日(火・祝)
会 場 : 東松山市総合会館 埼玉県東松山市松葉町1-2-3
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

本年は、高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る彫刻の作者・高田博厚の生誕120年にあたります。
本展では、高田のご遺族から寄贈された貴重な彫刻やデッサンなどの作品を展示し、精力的に創作し続けた彼の功績を紹介します。彫刻作品のほか、デッサンや絵画、フランスから持ち帰った書簡等を展示します。また、アトリエ再現コーナーや視聴覚コーナーなどを設け、高田と高坂彫刻プロムナードのエピソードを紹介します。
また、関連企画として、高田と親交のあった元NHKアナウンサー室町澄子さんによる特別講演会を開催します。(要予約)

彫刻家 高田博厚 1900-1987
石川県生まれ。日本を代表する彫刻家・思想家・随筆家。18歳で上京し、彫刻家で詩人の高村光太郎と親交を深め、21歳の時に高村から借り受けた彫刻台で彫刻制作を始める。30歳で渡仏し、文豪ロマン・ロランや哲学者アランなどヨーロッパの知識人と交流しながら活動し、第二次世界大戦中もフランスに留まる。57歳で帰国した後も精力的に創作活動を続け、86歳でその生涯を閉じた。

高田博厚と高坂彫刻プロムナード
高村光太郎と親交のあった元東松山市教育長の田口弘が、1965年に高村光太郎を偲ぶ連翹忌で高田博厚に会う。その後、東松山市で彫刻展や講演会を開催するなど親交を深めるようになった。そのころ東松山市では、高坂駅西口土地区画整理事業を実施しており、事業の完了に際し、田口が「一人の一流作家の作品で飾る彫刻通りが実現できれば、全国に誇れる彫刻通りになる」と提言し、高田はそれに応じた。1986年に2体、1987年に14体、1989年に11体、そして1994年に5体を設置し現在の高坂彫刻プロムナードの形になった。

015
016
関連行事

特別講演会
高田と親交があり、彫刻作品のモデルになった元NHKアナウンサーの室町澄子さんに、高田が室町さんの彫刻に込めた思いなどを語っていただきます。
 日時 10月25日(日曜日)午後1時30分開場、午後2時開演
 会場 東松山市総合会館4階  多目的ホール
 定員 80人(申込順)
 申込 電話又は東松山市サイトから申込

東松山市で毎年行われている「高田博厚展」、今年も始まります。

当初予定では、まず恵比寿の日仏会館さんで展示が行われ、その後、東松山に巡回のはずでしたが、コロナ禍のため、恵比寿の方は中止、東松山のみでの開催となりました。

また、10月2日(金)には、恵比寿での関連行事としてのシンポジウムが予定されていまして、当方もパネリストを仰せつかっておりましたが、中止(涙)。
013

10月25日(日)の室町澄子さんの講演会は申し込みまして、参加が許可されましたので拝聴して参ります。ちなみに室町さんを作った高田の彫刻は、先月、豊科近代美術館さんで開催されていた「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」の際に拝見して参りました。
005 017
また、東松山市には、上記の通り、高田作品をずらっと並べた高坂彫刻プロムナード(ブロンズ通り)が整備されており、光太郎胸像も含まれています。

さらに市立図書館さんには、元教育長の故・田口弘氏旧蔵の光太郎関連資料が田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として、無料で公開されています。

併せてご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

茅の屋根については、僕はそのゆかしさを慕いますね。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一六」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

アメリカは一般庶民の生活レベルがかなり高くなっており、ヨーロッパには深い芸術の伝統がある、という話の流れから、しかし日本には日本のいいところもある、というわけで。

追記 新型コロナウイルス対策のため、本展示は延期(令和2年度中には開催予定)となったそうです。

埼玉県から展覧会情報です。 

斎藤与里没後60年特別展

期 日 : 2020年3月6日(金)~8日(日)
会 場 : 
加須文化・学習センターパストラルかぞ  埼玉県加須市上三俣2255
時 間 : 9:30~16:00(最終日は15:00まで)
料 金 : 無料

今年度修復を行った100号の大作「合奏」を初公開します。また、令和元年11月に販売されたオリジナルフレーム切手「斎藤与里の世界ー加須が生んだ日本近代洋画界の旗手ー」に掲載絵画も展示します。ぜひ、この機会にご鑑賞ください。

斎藤与里(1885 年(M18)~1959 年(S34)) 洋画家 北埼玉郡樋遣川村(現加須市)に生まれる。 1905 年(M38)京都にて浅井忠、鹿子木孟郎に学ぶ。鹿 子木孟郎とともに渡仏し、パリのアカデミー・ジュリア ンで学び帰国。帰国後は、岸田劉生、高村光太郎らとフ ュウザン会を結成し、明治末から大正期の日本洋画の進 展に大きな役割を果たす。 1915 年(T4)第 9 回文展にて「朝」が初入選し、翌年の 第 10 回文展に出品した「収穫」が特選となる。 1959 年(S34)に日展評議員、加須市名誉市民第 1 号とな り画業と人格をたたえられる。 「加須の偉人」の一人。


000

光太郎同様、明治末にパリに留学した斎藤与里。パリでは光太郎と入れ違いでしたが、光太郎の親友・碌山荻原守衛と交流しました。また、帰国した光太郎ともどもヒユウザン会(のちフユウザン会)の立ち上げに加わり、我が国の絵画革新に功績のあった一人です。

当方、信州安曇野碌山美術館さん、新宿中村屋サロン美術館さん、それからやはり与里の地元・加須市のサトヱ21世紀美術館さんなどで、与里作品を拝見しました。

案内文に「修復」云々の話がありますが、加須市のHPに以下の記事がありますのでご参照下さい。 

斎藤与里絵画の修復

■ 事業の目的・概要 令和元年 12 月に、加須市出身の個人(匿名)の方から斎藤与里絵画の修復のため、 1,000 万円の寄附がありました。そこで、この寄附を活用し、多くの方に斎藤与里の 絵画をご覧いただけるよう、修復計画の前倒しを行い、令和 2 年度に本市所蔵の斎藤 与里の絵画の中から、傷み具合などを考慮した上で、以下の 3 点の修復を行います。 
 
■ 修復する絵画 ①「北畠風景」(10 号) ②「静物二」( 10 号) ③「ハトと少女」( 10 号) ※修復した絵画は、順次当該絵画を中心に「斎藤与里展」を開催し、一般公開する
 
☆ 令和2年度予算額  1,522千円【市費】 偉人顕彰事業  1,522 千円


斎藤与里展の開催

令和元年度は、「加須の偉人」である斎藤与里没後60年にあたり、特別展を開催 します。今回の特別展は、令和2年2月末修復完了予定の100号の大作「合奏」の お披露目も兼ねています。
 
1 期 間 令和2年3月6日(金)~8日(日)の3日間        9時30分~16時00分(最終日は15時まで)
2 会 場 加須文化・学習センター パストラルかぞ 展示室
3 入場料 無 料



なんとまあ、匿名の個人の方が、与里絵画の修復のため1,000 万円の寄附をなさったそうです。なかなかできることではありませんね。今回公開される「合奏」という作品は、寄附以前から修復作業にかかっていたもののようですが。

斎藤与里、もっと知られていい画家だと思います。ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

生活上の強みは私達夫婦が最低の衣食でも平気で居られる性情を持つてゐる事であつた。当座の米がなくなればジヤガイモで生きてゐた。しかし此のなが年の窮乏生活と、其とまるで反対な亡父の嗣子であるといふ世間からの取扱との間に挟つて、智恵子がその神経を陰性にいためた事も大きかつたに違ひない。此は確に智恵子の後年の狂気の原因の一部を成してゐよう。

散文「某月某日(自分の生活の事を)」より
 昭和11年(1936) 光太郎54歳

同じ文章の冒頭では、光雲の内弟子の一人、光太郎の兄弟弟子的な人物から、「生活を顧みないで、取れる金を取ろうとせずに「武士は喰わねど高楊枝」的な姿勢を貫いているのは喜劇だ」的な内容の手紙を受け取ったことが記されています。

その手紙は、光太郎を非難したり揶揄したりするものではなく、忠告の類だったのでしょうが、結果的にはその通りだったわけで、しかし、光太郎には自分を曲げてまで金を稼ぐことは出来ませんでした。

列島各地に大きな爪痕を残した台風19号。いまた被害の全容が見えないというのですから、恐ろしいと思います。被害の大きかった各地で、余波のようにイベントの中止なども起こっています。

光太郎と親交のあった、故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市。田口氏はやはり光太郎顕彰に骨折ってくれた彫刻家の高田博厚とも親交を結び、光太郎胸像を含む高田の作品を野外に展示する彫刻プロムナードが整備されたり、鎌倉市にあった高田のアトリエにあった作品などが同市に寄贈されたりしました。過日ご紹介した現在開催中の「高田博厚展2019」では、寄贈を受けた作品などが展示されています。

その関連行事として、本日予定されていた、高田と親交があり、彫刻作品のモデルになった元NHKアナウンサーの室町澄子氏による特別講演会「一人のアナウンサーと彫刻家高田博厚」が中止になったそうです。

また、同市の名物イベント「日本スリーデーマーチ」。こちらも田口氏の奔走で、同市を会場に開催されるようになりましたが、やはり今年は中止とのこと。

とにかく今は被災された方々の生活再建が最優先ですので、仕方ありますまい。


ところで高田博厚といえば、台風関連とは別件ですが、高田の故郷・福井県の地方紙『福井新聞』さんで、高田がらみの記事を光太郎にからめて報じて下さっています。

「高田博厚」五感で鑑賞できるシート4種発表 福井大院生

 近代日本を代表する福井ゆかりの彫刻家、高田博厚(1900~87年)の世界観を楽しく学べる鑑賞シートを福井大の大学院生が創作し10月12日、福井市美術館で完成発表会が行われた。五感を使った鑑賞や彫刻の制作プロセスを探る学びなど興味関心に応じた4種類を用意した。

 高田は2~18歳の多感な時期を福井で過ごした。上京直後に出会った高村光太郎の影響で彫刻や翻訳に従事。渡仏後は文豪ロマン・ロランら知識人の輪に招き入れられ、才能を開花させた。

 福井市美術館は高田の作品群を常設展示している。鑑賞シートは、常設展を生涯学習の場として多くの世代に活用してもらおうと、美術館と福井大教育学部の濱口由美教授の研究室が連携し、美術教育を学ぶ大学院生が創作した。「学習のとびら」と銘打ち、▽物語▽レシピ▽哲学▽からだ―を各テーマとしている。

 発表会には学生や美術教員ら15人が集まり、シートを創作した福井大大学院2年の高橋葵彩さん、森下由唯さん、松宮史恵さんらが狙いや使い方を説明した。
 「物語のとびら」は、高田の作品を五感で観察して想像を膨らませ、一緒に美術館を訪れた仲間と考え合う。「哲学―」は、年表に示した福井での青少年時代や幅広い交友、名言を基に、高田の心情や大切にしたいものを考え書き込める。

 「レシピ―」は石膏(せっこう)で型を作り、ブロンズを流し込むなどの高田の制作工程をカード形式にした。「からだ―」は、手足のない胴体の像「トルソ」作品の「カテドラル」について、造形的特徴を捉えてポーズをまねる活動や、友だちを彫刻に見立ててポーズを指導する学びができる。

 学生3人は「楽しい仕掛けを通して作品の背景を読み解くことで高田に親近感を持ってほしい。親子やカップルで気軽に楽しく学んで美術の敷居をなくし、美術館そのものも身近に感じもらえれば」と話していた。

 鑑賞シートは常設展で配布し、美術館のホームページからもダウンロードできる。

000


それから、台風関連に戻りますが、やはり地方紙『神戸新聞』さんが、当会の祖・草野心平を一面コラムで取り上げて下さいました。 心平の故郷・いわきを含め、福島県内各地も被害が尋常ではありませんでした。かつて阪神淡路大震災で甚大な被害を受けた神戸だけに「被災」には敏感なのでしょう。

正平調 2019・10・19

福島県いわき市生まれの詩人に草野心平さんがいる。日の光に輝く雪景色を見ては「きれいだねぇ」と言っていた母は、草野さんが小学生のときに亡くなった。母を詠んだ詩がある◆「生きたい・生きる」と題した詩の一節。〈私が憶えている母の最後の言葉。/(きれいだねぇ。)は。しかし不思議に。/自分に悲しみでなく勇気をくれる。〉。寂しさに凍える心を、温めてくれたのだろう◆台風19号の洪水にのまれたいわき市の86歳、関根治さんの最期を本紙が伝えていた。背の高さまで水かさが増した室内で同い年の妻の手を握り「長いこと世話になったな」、そう言いおいて沈んでいったという◆外に向かって助けを求めたし、119番もかけていた。2人して何としてでも生きたい。生きる。その一心だったに違いない。水をかきわけて妻のところにたどり着いたときにはもう、体力は残っていなかった◆宮城県の地元紙、河北新報に寄せられた歌を思い出す。〈手をつなぐことなく過ぎし六十二年その手をつなぎ外に逃れき〉(永澤よう子)。夫婦のことだろうか。詠まれたのは8年前、あの大震災の直後である◆東日本では大雨への警戒がつづく。心のなかで被災地とつないだ手。ぎゅっと力をこめ、きょう一日を過ごす。

「きれいだねぇ」と言える風景の再現のため、がんばりましょう。皆さん、がんばっているとは思いますが、でも、がんばりましょう、としか言えません。


【折々のことば・光太郎】

憎みの裏はすぐ愛で、まことの前に敵は無い。

散文「帝展の彫刻について 一」より 大正14年(1925) 光太郎43歳


何事にも本気で当たれ、ということです。同じ文章では「一番いけないのは、取りつくろつたいい加減、ぬけぬけしたづうづうしさ」とも書いています。

光太郎を敬愛し、光太郎もその才を高く評価した彫刻家・高田博厚の企画展示です。

高田博厚展2019

期 日 : 2019年10月5日(土)~11月4日(月)
会 場 : 東松山市総合会館1階多目的室 東松山市松葉町1-2-3
時 間 : 9:00~17:00
料 金 : 無料

高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る彫刻の作者・高田博厚の企画展を開催します。高田博厚のご遺族から寄贈していただいた貴重な彫刻作品やデッサン、書簡等を展示し、彼の功績を紹介します。また、10月20日には高田博厚と親交があった元NHKアナウンサー室町澄子氏をお招きし、特別講演会を開催します。

高田博厚のご遺族より寄贈いただいた彫刻作品のほか、デッサンや絵画、フランスから持ち帰った書簡等を展示します。また、高田のアトリエ再現コーナーや視聴覚コーナーなどを設け、高田と高坂彫刻プロムナードについて紹介します。
takata2019.1

takata2019.2

関連行事

特別講演会「一人のアナウンサーと彫刻家高田博厚」

高田博厚と親交があり、彫刻作品のモデルになった元NHKアナウンサーの室町澄子氏に、高田が室町氏の彫刻に込めた思いなどを語っていただきます。

日時  10月20日(日曜日)午後1時開場、午後1時30分開演
会場  東松山市総合会館4階  多目的ホール
定員  180人(申込順)
申込  電話で社会教育課へお申し込みください。0493-21-1431


昨年のこの時期に「高田博厚展2018」が開催された、同じ埼玉県東松山市でのイベントです。

同市の教育長であらせられた、故・田口弘氏は戦時中から光太郎との交流があり、大正期に光太郎を知り、その援助で渡仏、光太郎歿後の昭和32年(1957)に帰国した高田と、おそらく連翹忌の席上で知り合いました。高田の芸術に魅せられた田口氏、同市で高田の展覧会を開いたり、高田の彫刻を並べた彫刻プロムナードの整備に腐心したりなさいました。

そうした縁で、鎌倉のアトリエにあった高田の遺品類などが同市に寄贈され、そのコレクションを根幹とした企画展示というわけです。

ちなみに光太郎、高田、田口氏の関わりについては、当方、同市での講演市民講座で紹介させていただいております。

市立図書館さんには、田口氏が同市に寄贈された、光太郎からの書簡や贈られた書などの関連資料を展示する「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設けられています。そちらも併せて御覧頂ければと存じます。


【折々のことば・光太郎】

子供は無いし、妻は病院、 けつく自分一人の穴ずまひだが 第一等と最下等と、此の二つが おれの生活にはちやんぽんに来る。

詩「穴ずまひ」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

前年に歿した智恵子存命中のことを謳っています。

翌年、「へんな貧」と改題され、内容も改訂されて雑誌『文芸』に発表されました。

埼玉から演奏会の公演情報です。

日本のうたカフェvol.5 ~日本のうたでほっこりしたひとときをご一緒に~

期 日 : 2019年9月29日(日)
会 場 : TOIcafe 埼玉県川口市芝新町8-13
時 間 : 14:30開場  15:00開演
料 金 : 2,000円+ワンオーダー

出 演 : 丹羽京子(Sop) 中島佳代子(Sop)  和泉聰子(Sop)  山﨑範子(pf)
曲 目 : さびしいカシの木 レモン哀歌 秋の子 他


001


曲目に「レモン哀歌」とあり、どなたの作曲だろうと思って問い合わせたところ、鈴木憲夫氏の作品だそうでした。平成22年(2010)の作曲で、元々は女声三部合唱曲でしたが、独唱歌曲としてアレンジされ、さらに混声四部合唱バージョンも出ています。

000

独唱版はあまり演奏会等で取り上げられることが無いようですが、昨年、大島久美子さんという方が、ご自身のリサイタルで演奏なさっています。合唱版は全国の合唱団さんで時折歌われており、youtubeにもアップされています。独唱版はメロディー的には合唱版と同一ですので、こういう感じかな、というのは想像できます。

ソプラノの方が歌われるには、音域的に低い箇所があったり、全体にゆったりしたテンポで長い曲だったりと、決して易しい曲ではなさそうです。しかし、美しく清澄なメロディーラインが印象的な歌で、もっともっと多くの演奏家の方に取り上げていただきたい作品ですね。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

誰でも心に感じてゐる事を、 己は唯一切を棄てて熱望するだけなんだ。 いつでも、子供が菓子を欲しがるやうに、 ただ良心を欲しがるだけだ。

詩「エブラハム リンコン」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

初出は雑誌『RÔMAJI』で、ローマ字表記でしたが、光太郎の手元に漢字仮名交じりの異稿が残されており、そこから採りました。

「リンコン」は第16代米国大統領リンカーンです。

埼玉県からイベント情報です。

オペラ勧進「歌と芸術よもやま話 「智恵子抄」を読み解いてみませんか」

期 日 : 2019年9月20日(金)
時 間 : 15:30~16:30
会 場 : 音楽レストラン クロシェット ドゥ ボワ  埼玉県和光市本町11-8
料 金 : 1,000円(コーヒーor紅茶付)

「オペラ勧進 和田タカ子…歌と芸術よもやま話」は毎月第3金曜日3:30~4:30に行っています。
皆様のお越しをお待ちしております。
お問い合わせ (特)オペラ彩事務局 Tel.Fax 048-201-3121


和田タカ子さん。ご自身もオペラ歌手で001すが、オペラ普及のために「特定非営利活動法人 オペラ彩」を主宰なさり、最近はプロデュース活動をメインにされているようです。

手元の記録によれば、平成12年(2000)に埼玉県川口市のリリア音楽ホールさん、平成13年(2001)には四ッ谷区民ホールさんでそれぞれ開催された、仙道作三氏作曲の「オペラ智恵子抄」公演の智恵子役をなさっています。その頃の連翹忌で何度かお会いした記憶があります。

「オペラ勧進」は、月に1回、オペラにまつわる様々なお話を和田さんがなさる催しのようで、なんと今回で134回目だそうです。「オペラ智恵子抄」、それから「智恵子抄」自体にもお話が及びそうな気がいたします。

当方、都合をつけてお伺いしようかと考えております。と言いつつ、昨日、拝見、拝聴するはずだった一色采子さんご出演の「にほんまつArt Fes」、愛車が高速道路走行中にエンジントラブルを起こしてしまい、引き返さざるを得ませんでした。残念です。といって、公共交通機関でもトラブルはあり得ますし、難しいところですね。

閑話休題、皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

それでも恋とはちがひます ――そんな怖(こは)いものぢやない―― サンタマリア! あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい

詩「N――女史に」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

言わずもがなですが「N」は智恵子の旧姓「長沼」の「N」です。

のち、詩集『道程』(大正3年=1914)に収められた際に「――に」と改題され、さらに詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)では「人に」と改められました。その初出形、雑誌『劇と詩』に掲載された形から、最終詩形と大きく異なる部分を抜粋しました。

この詩は突っ込みどころ満載でして、たとえマリア様にすがったとしても「それは恋ですよ」と百人中百人が言うでしょう(笑)。

昨日は埼玉県に行っておりました。

県中央部の東松山市、元教育長の故・田口弘氏が光太郎と交流がおありだったため、何度かお邪魔しているのですが、同市の主にシニアの方々向けの社会教育施設「きらめき市民大学」さんで講座の講師を仰せつかり、お話しして参りました。

同市で講師を務めさせていただくのは3度目となりました。最初は昨年、同市の市立図書館さんに田口氏から寄贈された光太郎関連の資料を展示する「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」がオープンした記念講演、「田口弘と高村光太郎―交差した二つの詩魂―」と題して。二度目は今年の1月、市立図書館さんの主催講座で「高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」という題で、光太郎・田口氏とそれぞれ交流の深かった彫刻家の高田博厚をからめ、お話しさせていただきました。

イメージ 1
すると、同市には主にシニアの方々向けの社会教育施設「きらめき市民大学」さんという施設があって、多方面から講師を招いてさまざまな講義を行っており、そちらでも話をしてくれ、ということになった次第です。

そこで、昨日は「高村光太郎と東松山」と題し、講義をさせていただきました。

90分与えられまして、前半は光太郎の生涯のアウトライン、後半は田口氏、高田博厚との関わりから、市内に残る光太郎関連の資料や石碑、彫刻作品などについて。

イメージ 2 イメージ 3

イメージ 4  イメージ 5


つつがなく終えました。

驚いたことに、事務局の方が、田口氏の奔走で光太郎の筆跡を使って建てられた「正直親切」碑の設置場所である市立新宿小学校さんで建立当時に児童会長をなさっていて、除幕式では児童代表で挨拶をなさったそうでした。

それにしてもきらめき市民大学さん、そういう名称で公民館的な建物を使って実施しているのかと思いきや、そうではなく、きらめき市民大学という施設そのものが存在しており、驚きました。ちゃんとカーナビにも表示されました。

イメージ 6

元は埼玉県立の青年の家だった建物だそうですが。


終了後、隣町の比企郡鳩山町に足を伸ばしました。

昨日は、光太郎が総合的な芸術家だったという実例を示すために、どうせ自家用車ですし、いろいろと車に積み込んで持参し、休憩時間や終了後に受講生の方々に見ていただきました。ブロンズの彫刻、短歌をしたためた自筆の短冊、『道程』や『智恵子抄』の初版、田口氏の御著書などなど。それから、自筆のハガキも一葉。

イメージ 7  イメージ 8

10年ほど前に入手したもので、昭和19年(1944)4月13日のものです。送った相手は当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人だった内山義郎。戦後の昭和27年(1952)に角川書店から出た『現代詩集 歴程篇』では、巻末の同人紹介欄に光太郎と並んで名が載っています。

イメージ 9 イメージ 10

それによると東京の人だそうですが、住所が「比企郡今宿村」となっています。現在の鳩山町です。観音院という寺院であること、戦時中であることを考えると、どうも疎開なのかな、という気はしていました。

で、調べてみましたところ、「大豆戸(まめど)」という字名は現在も使われており、しかも「観音院」という寺院も健在のようで、行ってみた次第です。

こちらが観音院。
014

残念ながらもはや廃寺となっているようでした。それにしても、75年前に光太郎からのハガキがここに届いたのかと思うと、感慨深いものはありましたが。

その後、千葉の自宅兼事務所に戻りました。


さて、「営業」になりますが(笑)、上記のような市民講座等の講師、きちんとした団体さんの主催で(「大東亜八紘一宇の会」とかいうのは勘弁して下さい(笑))、日程さえ合えば、お引き受けいたしますので、お声がけいただければと存じます。


【折々のことば・光太郎】

やはり書は人であり、いかに造型がよくてもわるくても、結局それを書いた人物をよくあらわしています。それがおもしろいです。

アンケート「墨人に」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

上記のハガキなども、何気に書かれた筆跡ですが、きちっとした人格が表れているように感じます。

昨日は埼玉県東松山市で、市民講座の講師を仰せつかっていました。題して高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」。

同市の元教育長で戦時中から光太郎と交流があった故・田口弘氏、光太郎が最も高く評価した同時代の日本人彫刻家にして、光太郎つながりで田口氏と交流があった高田博厚、そして光太郎、この3人が、さながらオリオン座の3つ星のごとく、東松山に大きな芸術文化の花を咲かせた、的なお話をさせていただきました。

イメージ 1

明治16年(1883)、東京に生まれた光太郎。父・光雲の跡を継ぐべく、東京美術学校に入学、3年半の海外留学を経て帰国。ロダンをはじめとする最先端の芸術を目の当たりにし、これこそ自分の道と思い定め、日本彫刻界と訣別します。その決意を「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」(「道程」大正3年=1914)と高らかに宣言するなど、詩にも開眼。画家志望の長沼智恵子と共棲生活に入ります。

そんな時期に、絵を志していた高田と知り合い、たちまちその才を見抜きます。高田は光太郎の影響もあり、彫刻に転じ、ともに芸術精進。さらに人道主義者ロマン・ロランの顕彰などでも手を携えました。

イメージ 2

光太郎は高田の著書(ロマン・ロラン翻訳)の刊行に骨折ったり、装丁を手がけたり、高田と共に雑誌を立ち上げたりしました。

イメージ 3 イメージ 4

光太郎と高田が一緒に写った、確認できている唯一の写真がこちら。大正15年(1926)に来日したシャルル・ヴィルドラック(ロマン・ロランの友人)の歓迎会での一コマです。

イメージ 5

その後、共産主義に傾き、当時非合法だった共産党員をかくまったかどで高田は逮捕。そんなこんなで日本に居づらくなった高田は渡仏を決意。光太郎はその援助にも奔走しました。

2通のみ現存が確認されている光太郎から高田宛の書簡は、ともに高田の渡仏直後に送られたものでした。

イメージ 7

イメージ 6

やがて智恵子の心の病が顕在化。昭和13年(1938)には、肺結核のため亡くなります。その頃、旧制中学の生徒だった田口氏は、師で俳人、光太郎とも交流があった柳田知常の影響で、光太郎に心酔しはじめました。

日中戦争、太平洋戦争と進む中で、三人三様に苦しい日々を送ります。高田はパリを占領したナチスドイツによりベルリンに移送。田口氏は師範学校卒業後、南方の日本語学校に赴任のため出征(その前に柳田の仲介で光太郎に会いました)し、乗っていた輸送船が撃沈されて九死に一生を得、光太郎は戦意高揚の詩文を大量に書く羽目になり、昭和20年(1945)には空襲で東京を焼け出され、花巻の宮沢賢治の実家へ疎開……。

イメージ 8

やがて終戦。高田はソヴィエトに保護され、パリへ戻ることができ、田口氏は捕虜となったものの復員。そして光太郎は戦時の翼賛活動を恥じて、花巻郊外太田村の山小屋で蟄居生活を始めます。

昭和22年(1947)と同24年(1949)には、田口氏が太田村に光太郎を訪ね、中央公論社版の『高村光太郎選集』全6巻のために、当会の祖・草野心平に資料提供。光太郎は最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)に上京、同31年(1956)に亡くなりました。田口氏はその葬儀に参列しました。

ちなみに「乙女の像」といえば、同時代の若手彫刻家たちは、この像をさんざんにけなしましたが、一人高田のみは、傑作とは言い難いとしながらも、その大自然との調和のあり方をたたえています。結局、けなした彫刻家たちの名は現代では忘れられつつあり、高田の名は残っているわけで、見る目のない者とある者の差異はこういうところにも現れるのでしょう。

イメージ 9

高田は光太郎の没した翌年、帰国。以後、様々な分野で光太郎顕彰に骨折ってくれました。10回限定で行われた、造形と詩、二部門の高村光太郎賞選考委員を務めたり、光太郎の胸像を制作したりなど。

イメージ 10

昭和40年(1965)の第9回連翹忌で、高田と田口氏が初めて出会ったようです。昭和51年(1976)に東松山市の教育長に就任された田口氏は、光太郎顕彰(各地での講演、市内新宿小学校さんに光太郎碑を設置など)の傍ら、高田の彫刻にも魅せられ、同市での高田展や、東武東上線高坂駅前に高田の彫刻群を配した彫刻プロムナードの設立に奔走しました。高田もそれに応え、同市での講演なども行っています。

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

田口氏のもう一つの大きな業績、日本最大のウォーキング大会・日本スリーデーマーチの同市での開催にも、光太郎の「歩くうた」(昭和15年=1940)の精神の具現化という意味合いもありました。

イメージ 14

高田は昭和62年(1987)に没。その後も田口氏は光太郎、高田の顕彰に努めます。

イメージ 16

イメージ 15

94歳になられた平成28年(2016)には、光太郎から贈られた書や署名本、書簡などを同市に寄贈されました。同年、その展示が市立図書館さんで行われ、関連行事として氏自ら生前最後のご講演。翌年には逝去されました。氏の没後、寄贈された資料は、やはり市立図書館さんに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、無料で公開されています。

イメージ 17

イメージ 18

田口氏の亡くなった一昨年、鎌倉にあった高田のアトリエの閉鎖に伴い、アトリエにあった彫刻その他も同市に寄贈されています。昨年には、それらを展示する企画展も開催されました。これらも氏のご遺徳の賜ですね。

こういったお話をさせていただきました。

来年は高田の生誕120周年となりますし、今後とも同市では、高田、そして田口氏や光太郎の顕彰に力を注いで下さるそうです。当方、高田に関しては余り詳しいお話をできないもので、今後は高田に通じている方のお話などの機会を設けていただきたいと存じます。

高坂駅前の「彫刻プロムナード」、市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

除去したい記念像や噴水や建築や壁画の類は東京の街上だけにも沢山ある。今後も続々出来る事だらう。之を取締まる方法は無いか。十分信頼すべき鑑査制度を編み出してくれる頭脳は無いか。全国の自治機関は今の内に此事を何とか始末せねばなるまい。

散文「公共記念碑的作品の審美的取締」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

愚劣かつ醜悪なモニュメントが乱立していた当時の東京に対する苦言です。

田口氏も、おそらくこの文章を目にされた上で、高田の彫刻なら大丈夫と、彫刻プロムナードの設立を決意されたのでしょう。炯眼とはまさにこのことですね。

埼玉県から市民講座の情報です。手前味噌で恐縮ですが、当方、講師を仰せつかっております。

図書館講座「高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」

期   日 : 2019年1月19日(土)
会   場 : 東松山市立図書館 埼玉県東松山市本町2-11-20
時   間 : 13:30~15:00
講   師 : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
料   金 : 無料
申 し 込 み : 直接または電話で市立図書館 0493-22-0324

東松山市とゆかりの深い三人の文学と芸術、人生について学びます。

イメージ 1


同市元教育長の故・田口弘氏は、戦時中から光太郎と交流があり、戦後には花巻郊外太田村に蟄居中の光太郎を2回ご訪問、さらに昭和26年(1951)から刊行が始まった中央公論社版『高村光太郎選集』編集のため、戦前から作成されていた光太郎に関するスクラップブックを、当会の祖・草野心平に貸与なさいました。そこで、昭和59年(1984)に、市内の新宿小学校さんに建てられた「正直親切」碑の建立に奔走されたり、平成28年(2016)には、光太郎から贈られた書や署名本、書簡などを同市に寄贈されたりなさいました。氏の没後、寄贈された資料は、市立図書館さんに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、無料で公開されています。

さらに、やはり光太郎と交流のあった彫刻家・高田博厚とも親しくされ、光太郎胸像を含む高田の彫刻32点を配した同市の東武東上線高坂駅前から延びる「彫刻プロムナード」整備にも力を注がれました。そうしたご縁から、鎌倉にあった高田のアトリエの閉鎖に伴い、アトリエにあった彫刻その他も同市に寄贈されています。昨年には、それらを展示する企画展も開催されました。

というわけで、田口氏、高田博厚、そして光太郎、3人の交流と東松山との関わりについて、お話をさせていただきます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

高田君の彫刻の写真は中々見事である。まだ実物は見ないが、此だけでも見当がつく。今知らん顔をしてゐる人達も今に否応無しに此彫刻家を認めねばならない時が来るであらう。実力といふものは面白い。

散文「雑誌「大街道」の事」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

「天才は天才を知る」と申しますが、まだ世間からほとんど注目されていなかった高田の彫刻を、光太郎はいち早く素晴らしいものとして認識していました。

今日は別の件をご紹介する予定だったのですが、昨日、埼玉県東松山市で明日まで開催の「高田博厚展2018」に関し、『朝日新聞』さんと『東京新聞』さんが、光太郎にからめて取り上げて下さいまして、その他、最近の新聞雑誌各紙誌に載った記事と併せてご紹介します。

まず、「高田博厚展2018」、『朝日新聞』さん。 

高田博厚の彫刻展 東松山で18日まで

 埼玉県東松山市は、日本を代表する彫刻家高田博厚(1900~87)の遺族から寄贈を受けた作品と功績を紹介する「高田博厚展2018」を、市総合会館で開いている。文豪ロマン・ロランらとの交遊がわかる日記の翻訳文や鎌倉のアトリエが再現されている。18日まで。
 高田は福井県から上京し、彫刻家高村光太郎らと出会い彫刻を始めた。渡仏してロマン・ロランやジャン・コクトー、画家ルオー、哲学者アランらと交流。知的で詩情ある作風で、ルオー、ロマン・ロランらの肖像作品がある。
 高田の没後30年を迎えた昨年、神奈川県鎌倉市のアトリエが12月に閉鎖され、東松山市に作品群の一部が寄贈された。同年2月に亡くなった元市教育長で詩人の田口弘さん(享年94)が高村光太郎に心酔し、高村や高田とも親交があった関係で寄贈された。
 東松山市は86~94年に高田の彫刻作品32体を購入し、東武線高坂駅前約1キロの通りに設置。「高坂彫刻プロムナード」を整備するなどしてきた。展覧会では、鎌倉に残されていたマハトマ・ガンジーの彫刻とデッサンなど高田が制作した彫像作品や絵画、ロマン・ロランの署名入り著書、彫刻台やヘラ、イーゼルなどの道具を並べて鎌倉のアトリエの一部を再現した展示がある。(大脇和明)

001

002




続いて『東京新聞』さん。埼玉版です。 

日仏で活躍した彫刻家・高田博厚の足跡たどる 東松山市総合会館で18日まで

 国内外の著名人との幅広い交流で知られる彫刻家高田博厚(一九〇〇~一九八七年)の足跡をたどる企画展「高田博厚展2018」が、東松山市総合会館(同市松葉町)で開かれている。彫刻やデッサン、絵画計三十点のほか、書簡などが並ぶ。十八日まで。入場無料。
 高田は、一九三一年から第二次大戦をまたいで五七年までフランスに滞在。ノーベル賞作家のロマン・ロランや哲学者アラン、画家ジョルジュ・ルオー、芸術家ジャン・コクトーら名だたる文化人と交流した。
 七四年、彫刻家で詩人の高村光太郎を共通の知人として東松山市の故田口弘教育長(当時)と出会い、八〇年に同市で彫刻展と講演会を開催。田口さんの提言で市は、東武東上線高坂駅西口に高田の作品三十二体を一キロにわたって並べた「高坂彫刻プロムナード」を整備した。市には昨年十二月、神奈川県鎌倉市の高田のアトリエ閉鎖に伴い、遺族から遺品が寄贈された。
 企画展では、高田が「人格的師」と仰いだロマン・ロランをはじめ、アランや詩人中原中也ら交流のあった文化人をモデルにした彫刻作品のほか、書簡などを展示。アトリエを再現した机やパネル展示、ビデオ上映もある。
 同会館では、高田のフランスのアトリエを受け継いだ洋画家で文化勲章受章者の野見山暁治さん(97)と、芥川賞作家で仏文学者の堀江敏幸さん(54)が高田について対談。野見山さんは、パリでの高田との偶然の出会いから、頼み込んでアトリエを継いだエピソード、帰国後の交流まで、ユーモアを交えて語った。
 野見山さんは、高田が帰国する際にアトリエの作品を「例外なく一枚残らず完璧に焼いてくれ。固い約束をしてくれ」と託され、何日もかけて焼却したという。帰国後、銀座のギャラリーで高田の絵を見て「僕が焼いた作品の方が良かった」と思ったことを述懐した。(中里宏)


003

こちらは過日の関連行事としての野見山暁治氏と堀江敏幸氏の対談についても触れられています。


さて、他の件で。

やはり『朝日新聞』さんで、先月28日、鹿児島版に載った記事。平成30年度(第71回)全日本合唱コンクール中学校・高等学校部門についてです。 

鹿児島)松陽と鹿児島が熱唱 全日本合唱コンクール

 第71回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の高校部門が27日、長野市のホクト文化ホールであり、九州支部代表として県内からは2校が出場した。Aグループ(8~32人)の松陽は銀賞を、Bグループ(33人以上)の鹿児島は銅賞を受けた。
 松陽は自由曲で「牡丹一華(ぼたんいちげ)」を歌い上げた。古今和歌集の恋の歌6首を織り込み、ため息やひそひそ声でうわさ話を交わすような場面もある複雑な旋律だったが、「練習の成果を出せた」と宮原真紀教諭(46)。和楽器の笙(しょう)やピアノの旋律も加わって、豊かな世界を作り上げた。
 出演順が朝一番とあって、出演した23人は「午前5時起床」と話し合った。電話で起こし合う約束をする部員も。花月真悠子(かげつまゆこ)部長(3年)は何人かに電話したが、「しっかり起きていました。おかげで集大成の舞台をやり遂げることができました」。
 鹿児島は自由曲に、高村光太郎の詩に西村朗が曲をつけた「レモン哀歌」を選んだ。最愛の妻を夫がみとる場面を描いた曲だが、単なる悲哀ではなく、妻への深い愛や生きる力が込められていると解釈し、表情豊かに歌った。学校の定期演奏会などで披露する1時間ほどの合唱劇で、表現力を磨いてきたという。
 部長の高岡未侑さん(3年)は「緊張したけど、歌い始めたら最高に楽しかった」と笑顔。顧問の片倉淳教諭は「心のこもったすてきな音楽にあふれていた。今日の演奏を人生の宝物にしてほしい」と部員たちにエールを送った。

イメージ 3

西村朗氏作曲「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」の終曲「レモン哀歌」を自由曲に選んだ鹿児島高校さん、参加賞に当たる銅賞でしたが、全国コンクールの舞台に立ったというのがすでにすばらしいことですので、胸を張っていただきたいものです。

ちなみに、大学・一般部門は11月24日(土)、札幌コンサートホールKitara  大ホールで開催されますが、こちらでは光太郎詩に曲を付けたものの演奏は、残念ながらありません。


お次は『読売新聞』さん。11月12日(月)の書評欄に高橋秀太郎氏、森岡卓司氏共編の『一九四〇年代の〈東北〉表象 文学・文化運動・地方雑誌』が取り上げられ、光太郎の名も。 

新たな自画像を描く 『一九四〇年代の〈東北〉表象』 高橋秀太郎、森岡卓司編

 副題に「文学・文化運動・地方雑誌004」とある。戦中から戦後にかけての文学作品や雑誌、そしてそれをめぐる動きから、東北と、さらに北海道や新潟の地がどのように捉えられてきたのか、自らはなにを発信してきたのかをテーマに検証、スリリングな論集となった。東北文学に関心ある読者には読み逃せない一冊である。
 作家・詩人なら島木健作、太宰治、吉本隆明、宮沢賢治、高村光太郎、更科源蔵、石井桃子らが論じられ、雑誌でいえば『意匠』が『文学報国』が『月刊東北』が『至上律』が『北日本文化』が俎上そじょうに載る。敗戦前後のカタストロフに、戦争にいかに処したかを問い問われた者が、モダニズムの灯を守ろうと試みた者が、疎開によって「東北」を新たに発見した者がいる。人間の疎開だけでなく、雑誌や出版社そのものの疎開もあれば、戦時下や戦後復興への東北の役割や使命も誌上で模索された。
 なつかしき原風景でありながら近代に乗り遅れた貧しい地域といった正と負のイメージの交錯はもちろん、危機の時代にあってさまざまに東北に寄せられるイメージと東北が発するイメージの錯綜さくそうに、東日本大震災後の東北で出版を生業とする私はいまさらながら深く頷うなずかされた。震災のカタストロフを経て、いま、東北はどのようにイメージされるのか。例えば半世紀を経て、東北をめぐる現在の文学はどのように読まれるか。それはこの国のなにを象徴するか。東北を中心に東日本の大学に所属する論者たちによる収録八編の論考を読みながら、さまざまに連想が跳ねた。
 さらに、東北のみならずこのような視点で全国各地が読み解かれてもいい。文学や雑誌、あるいはそれに関わる動きにしろ、なにも東京だけが発信源ではない。本書の視点でそれぞれの地域を読み直せば、その地の新しい自画像が描ければ、日本の文学史はもっと豊かに深まる。
 ◇たかはし・しゅうたろう=東北工業大准教授◇もりおか・たかし=山形大准教授。いずれも専門は日本近代文学。
 東北大学出版会 5000円
 評・土方正志(出版社「荒蝦夷」代表)

今後、他紙でも取り上げていただきたいものです。


最後に、隔月刊雑誌で『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』 さん。先月末に第10号が出ました。花巻高村光太郎記念館さんの協力で為されている連載、今号は「光太郎レシピ」。「馬喰茸の煮付けとハモ入りセリフォン炒め」です。

イメージ 5 イメージ 6

バックに、高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」に出品されている、ジオラマ作家・石井彰英氏制作の昭和20年代、光太郎が暮らした頃の花巻町とその周辺のジオラマが使われています。

同展、11月19日(月)までの開催です。一人でも多くの方のご来場をお待ちしておりますのでよろしくお願い申し上げます。


他にも紹介すべき記事等があるのですが、後日、また改めまして書きます。


【折々のことば・光太郎】

此の詩集に序を書くにしては私は少々野暮すぎる。さう思はれるほと此の詩集には隠微な人情の、見えかくれするしんじつ心の意気が飄々嫋々とうたはれてゐる。

散文「川野辺精詩集「新しき朝」序」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

川野辺精(かわのべくわし)は、茨城県出身の詩人です。『新しき朝』はおそらく川野辺唯一の詩集。玉川学園出版部から刊行されました。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。現在、市立総合会館において「高田博厚展2018」が開催中です。

光太郎を深く敬愛し、光太郎もその才を認めた高田。光太郎に関わる展示も為されていました。

イメージ 1 イメージ 2

昨年、鎌倉にあった高田のアトリエが閉鎖されることとなり、そこにあった品々が、高田と縁の深い東松山市に寄贈され、その寄贈品が展示の中心でした。昨年2月に亡くなった、同市の元教育長・田口弘氏のご遺徳です。

イメージ 3

メインは高田の彫刻群。

イメージ 12

イメージ 4 イメージ 5

左は光太郎、高田、ともに敬愛し、高田は滞仏中に本人にも会ったロマン・ロラン。右はやはり光太郎、高田共に交流のあった武者小路実篤。

光太郎関連では、前述の田口弘氏所蔵だった「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926) 、光太郎令甥の故・高村規氏撮影の光太郎遺影、光太郎から高田宛の献呈署名入り『ロダン』(昭和2年=1927)。

イメージ 6

イメージ 7 イメージ 8

『ロダン』は、鎌倉の笛ギャラリーさんで先月から今月初めに開催された「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その七」に並んだもの。ギャラリーオーナーで、光太郎の妹・しずの令孫に当たる山端夫妻がたまたま入手されたそうです。東松山市の担当者に、こんなものが並んでいましたよ、とお伝えしたところ、早速拝借したそうで。

鎌倉の高田アトリエの様子的な展示。

イメージ 10

市内の中学生による、高田の彫刻に関しての学習の成果や、高田から諸家宛の書簡なども並んでいました。

イメージ 9

それから、昭和32年(1957)、高田からパリ郊外のアトリエを引き継いだ、画家の野見山暁治氏の作品。

イメージ 11

その野見山氏と、作家の堀江敏幸氏による対談が、午後1時半から開催されました。

イメージ 13

イメージ 14

堀江氏は高田の『フランスから』の講談社文芸文庫版の解説を執筆なさっています。主にその堀江氏がインタビュアー的な役割で、野見山氏から高田の思い出を引き出す感じで進みました。

野見山氏、大正9年(1920)12月のお生まれで、もうすぐ満98歳です。まったくそれを感じさせない程、しっかりした口調で(矍鑠、というわけでもなく)、記憶もはっきりされていましたし、何より「人間」高田博厚の様々な側面を、ユーモラスに語って下さいました。

イメージ 15

イメージ 16

スクリーンには古写真などもふんだんに映し出され、興味深く拝見。下の画像は野見山氏も加盟されていた「在仏日本美術家協会」のメンバーですが、中央には、明治末の東京美術学校で光太郎の同級生でもあった藤田嗣治も写っています。

当方、来年1月に、今年に引き続き、同市の図書館さんで講演をさせていただくことになっております。今年は前述の故・田口弘氏と光太郎の交流についてでしたが、来年は高田と光太郎について、さらに田口氏もからめてお話しするつもりで居ります。それに向けて、貴重なお話を伺うことができ、非常に有意義でした。

昨日の対談の模様、おそらく追って東松山市さんのHPに動画等がアップされることと思われます。

講演会終了後、別室で、名刺交換会。

イメージ 17

イメージ 19

イメージ 18

この時になって初めて気づきましたが、野見山氏、何とジーンズ姿でした。失礼ながら、もうじき98歳というお年でジーンズを履きこなされている点に驚きました。

お世話になっている小平市平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員・藤井明氏もいらしていました。最近、行った先々でお世話になっている方々に思いがけずお会いするケースが多く、不思議な感覚です。

さて、「高田博厚展2018」、来週末18日(日)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】001

竹内勝太郎はおそらく日本で詩を構成したと言ひ得る最も大きな詩人であらう。言葉の機能を素材として、ヴアレリの謂ふ意味に於ける詩の能力量の極限にまでこれを発力せしめるための構成を組織しようとして歩々透脱、つひに晩年の生成的渾沌を含む超数学的詩法を創造するに至つたものと思はれる。

散文「竹内勝太郎遺稿詩集「春の犠牲」後記」より
 
昭和16年(1941) 光太郎59歳

竹内勝太郎は、明治27年(1894)生まれの詩人。滞仏経験があり、彼の地でポール・ヴァレリーに傾倒、その影響を受けて日本に於ける象徴詩を確立したと評されています。

昭和10年(1935)、転落事故で死亡。弟子筋に当たる富士正晴の尽力で、『春の犠牲』が刊行されました。光太郎はその題字2種(表紙、扉)と後記に筆を振るいました。

光太郎にしても、高田博厚にしても、野見山暁治氏にしてもそうですが、かつてはフランスの影響というのが実に多大でした。

埼玉から、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚の企画展示情報です。 

高田博厚展2018

期 日 : 2018年10月25日(木曜日)~2018年11月18日(日曜日)
会 場 : 東松山市総合会館1階多目的室 東松山市松葉町1-2-3
時 間 : 9:00~17:00
料 金 : 無料

イメージ 1

イメージ 2

高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る様々な彫刻の作者である高田博厚の企画展を開催します。
この企画展で展示する作品の多くは、高田博厚のご遺族の方から寄贈いただいた品です。高田博厚のご遺族より寄贈いただいた彫刻作品のほか、デッサンや絵画、フランスから持ち帰った書籍等を展示します。


彫刻作品
〇アラン〇マハトマ・ガンジー〇マルセル・マルチネ 〇ロマン・ロラン 〇ジョルジュルオー〇川端康成 〇中原中也 など

デッサン
〇アラン〇マハトマ・ガンジー〇ロマン・ロラン 〇ジャン・コクトー 〇ジョルジュ・ルオーなど

書籍等
アラン『芸術論』
他に高田博厚と著名人との往復書簡の写しなど

その他
高田博厚と交流のあった高村光太郎や田口弘についての展示や、高田博厚のフランス時代のアトリエを引き継いだ野見山暁二氏の展示なども行います。
 

関連行事 特別講演会 野見山暁治/堀江敏幸

日時 2018年11月11日(日)13:00~15:00  会場 東松山市総合会館4階多目的ホール

「高田博厚展 2018」の開催に伴い、1957年に高田のパリ郊外のアトリエを受け継いだ洋画家・野見山暁治氏と、小説家でフランス文学者の堀江敏幸氏の対談を行います。国内外の著名な思想家や芸術家から厚い信頼を得た彫刻家、高田博厚とはどんな人物だったのか、その人柄や生前のエピソードをぜひお聞き下さい。

イメージ 3


過日、光太郎の縁者の山端氏が経営な001さっている北鎌倉の笛ギャラリーさんで開催中の「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その七」を拝見に伺いましたところ、光太郎から高田に贈られた書き下ろし評伝『ロダン』(昭和2年=1927)が展示されていました。たまたま山端氏が古書店から入手されたとのことでした。

で、「こんなものが展示されていますよ」ということを、東松山市の担当者の方にお教えしたところ、非常に興味を持たれ、北鎌倉まで行かれて借用、展示されるとのことです。

高田は昭和6年(1931)に渡仏しましたが、それ以前に持っていたほとんどの品々は散逸してしまったらしく、これもその一つです。

他にも光太郎関連のものが展示されるようで、当方、関連行事の講演の日に拝見に行って参ります。ちなみに講演の講師のお一人、芥川賞作家でもあられる堀江敏幸氏は、角田光代さんとのご共著『私的読食録』(平成27年=2015)の中で、光太郎詩集にも触れて下さっています。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

元来、人はアクの強い四十代前後の中年には、よい顔は少ないとされているものである。しかし、恋愛に耽る頃の青年時代は皆美しいと言われ、また、年老いてからはどことなく風格が出てくるものだともいわれている。

談話筆記「志賀さんの顔」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

「志賀さん」は、光太郎と同年齢の志賀直哉。その風貌について、同じ談話では「志賀さんは稀に見る中年の男の美をたたえた人であつた」としています。

しかし現今は、年老いてからもアクの抜けない、否、いっそう毒々しくなる妖怪のような顔が、特に永田町界隈に多く見受けられますね(笑)。

光太郎以上に肖像彫刻を多く手がけた高田博厚は、どういう意見だったでしょうか。

市民講座の紹介です。

まずは埼玉県越谷市から。  

合同読書会 高村光太郎「智恵子抄」

期   日  : 平成30年9月29日(土)
場   所  : 
越谷市立図書館2階視聴覚ホール 埼玉県越谷市東越谷四丁目9番地1
時   間  : 13:30~15:30
講   師  : 松本孝氏(作家)
料   金  : 無料

彫刻家、画家でもあり、近現代を代表する詩人でもある高村光太郎が、妻・智恵子のことを、結婚する前から死後の約30年間書き続けた詩集「智恵子抄」について、作家の松本孝氏が講演します。

松本孝
作家。昭和13年、埼玉県草加市生まれ。昭和35年、埼玉県公立中学校国語科の教員となる。教鞭をとるかたわら文芸を学ぶ。現在、埼玉文芸家集団会員。受賞に、文部大臣奨励賞、松下幸之助賞、旺文社社長賞、旺文社学芸奨励賞、埼玉文芸賞準賞、埼玉県文化ともしび賞、草加市文化賞。

イメージ 1


続いて、手前味噌ですが……。  

公開講座 高村光太郎と房総

期   日  : 平成30年10月1日(月)
場   所  : イオンカルチャークラブユーカリが丘店
         千葉県佐倉市西ユーカリが丘6丁目12番地3
         イオンタウンユーカリが丘店 東街区2F

時   間  : 10:30~11:30
講   師  : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
料   金  : 受講料 2160円  教材費 300円

彫刻家・詩人の高村光太郎は、妻・智恵子ともども房総各地をたびたび訪れました。房総を題材にした詩集『智恵子抄』の所収の詩文などを鑑賞し、智恵子との鮮烈な生の軌跡に迫ります。

イメージ 2


手前味噌ついでに(笑)、もう1件。こちらは少し先の話ですが。  

高村光太郎と房総談

期   日  : 平成30年10月13日(土)  11月10日(土) 全2回
場   所  : 株式会社カルチャー成田カルチャーセンター
          千葉県成田市ウィング土屋24イオンモール成田2F
時   間  : 10:30~12:00
講   師  : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
料   金  : 受講料 4,752円  教材費 330円

詩人、彫刻家の高村光太郎と妻の智恵子夫人について夫妻と房総との関わりを中心に学んでいきます。

イメージ 3


10/1、佐倉市の方は全1回、成田市の方は全2回。当然ながら後者の方はより詳細に、前者はダイジェスト的にとなります。

それぞれ人が集まりませんと開設されずポシャってしまいますし、セコい話ですが、当方のギャラは受講してくださる方の人数による歩合制なので、一人でも多くの方に受講していただきたく存じます(笑)。

よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

彼の心身に具象した詩そのものの精神と機能とは、優に彼の宗教を内に包んでゐる。彼の宗教は彼の詩を通過してのみ顕現する。ここに彼の偉大な詩的宿命があつた。
散文「(宮澤賢治は)」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

生涯、どの宗教にも本格的に帰依できなかった光太郎。その点では自らと賢治の生き様とに一線を画す見方をしていたようです。

ここでいう「詩」には、膨大な数の童話の類も含めて指しているようにも思われます。

埼玉県東松山市の広報紙『広報ひがしまつやま』の今月号。今年初めに市立図書館さん内にオープンした「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が大きく取り上げられています。

イメージ 1


田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー

ところ  市立図書館2階(常設展示中)
ビデオ上映  午前9時30分~午後5時
問 市立図書館 ☎22-0324 FAX22-0064


田口弘 1922年(大正11年)〜2017年(平成29年)
詩人、教育者。昭和51年から16年半にわたり市教育長を務める。その間、日本スリーデーマーチの開催や、東武東上線高坂駅前に彫刻家・高田博厚の作品32点が並ぶ高坂彫刻プロムナード【高田博厚彫刻群】の整備に携わる。学生時代より、恩師の影響で高村光太郎に傾倒し、生涯研究を続けた。光太郎から贈られた書や交流書簡、関係書籍などを平成28年に東松山市に寄贈した。

高村光太郎 1883年(明治16年)〜1956年(昭和31年)
詩人、彫刻家。彫刻家・高村光雲の長男として生まれる。大正3年、口語自由詩の詩集「道程」を刊行。昭和16年、妻・智恵子との愛の生活をうたった詩集「智恵子抄」を発表。戦後は戦争協力の責任を感じ、岩手県太田村(現花巻市)の粗末な山小屋にこもり自炊生活を送った。アトリエの庭に咲く連翹の花を好んだことから、命日である4月2日には東京と花巻で「連翹忌」が営まれる。

①高村光太郎コーナーの全景。モニターでは光太郎の思い出を生前の田口さんが語りかけてきます。
②光太郎が田口さんのために書した聖書の一節(ロマ書)。
③光太郎から送られた書簡やはがきを展示しています。
④1月13日にオープン式典が行われ、田口さんの長女・直子さんも出席しテープカットが行われたほか、記念講演会も行われました。


東松山市さんといえば、やはり故・田口氏のご遺徳で、光太郎と縁の深かった彫刻家・高田博厚との関わりも深い街です。昨年には鎌倉の高田アトリエにあった遺品類が寄贈されるなどしています。そもそもは、高田の存命中に東武東上線高坂駅前からのびる「高坂彫刻プロムナード」が整備されたのが大きな契機となっています。

その「高坂彫刻プロムナード」の、先月発行された新しいパンフレットを頂きました。恐縮です。

イメージ 2

イメージ 3

高田の詳細なプロフィール、東松山市との関係など、オールカラーで40ページ。

32体並ぶ彫刻、一点ずつ、1ページとって紹介されています。下記は光太郎胸像。

イメージ 4


さらに恐縮なことに、「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」オープンの際に、当方が行った記念講演の模様が、東松山市さんのHP内に動画で紹介されています。暇な方は御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

朝起きて顔を洗ひ含漱をして、ああせいせいしたと思ふのも美である。さういふ単純な感覚上の美がいつのまにか最も深い精神上の美にまでもつながるのである。人は日常身辺の健康な感覚上の美によつて無意識裡に力づけられる。その力が大きい。

散文「十二月八日の記」より 昭和17年(1942) 光太郎59歳

太平洋戦争開戦を受けて、翌年元日発行の『中央公論』に寄せた文章です。

のちに戦局が悪化すると、そうでなくなりますが、開戦の時点での光太郎、まだかなり冷静に「非常時こそ美を愛する心を忘るるなかれ」的な発言をしています。

このブログ、なるべく早くご紹介したい件を先にしています。イベントやテレビ放映情報等は時宜を見て、早すぎず遅すぎぬ時期に。新刊情報、新聞雑誌で光太郎智恵子光雲の名が出た場合などもなるべく直後に、という感じで。逆に速報性の必要ない件は後回しにすることがありまして、今回の件がまさにそうです。

ひと月ほど前、埼玉の大宮で大学時代の同窓会があって参加して参りました。大宮ですと、公共交通機関の場合、夜9時過ぎには出ないと千葉の田舎にある自宅兼事務所に帰れません。翌日は朝からまた別件があり、泊まるわけにも行きません。となると、一次会しか参加できない状況で、それも惜しい気がし、自家用車で参りました。当然酒は飲めませんが、当方、もともとあまり酒は好きではありませんし、最近とみに飲酒の習慣が無くなっていますので、それは苦になりません。

そこで、その同窓会の前に、会場の大宮からそう遠くない、同じ埼玉県の北葛飾郡杉戸町に立ち寄りました。前々から一度行ってみたいと思っていたところでしたので。なぜなら、ここが光太郎のルーツに関わる地だからです。

どういうことかというと、光太郎の父・高村光雲の実母(つまり光太郎の祖母)・すぎ(通称・ます)が、かつてこの地にあった東大寺という寺院(ただし、神仏混淆の修験道のそれ)の出なのです。

光雲の父・中島兼吉(通称・兼003松)は、江戸で香具師(やし)を生業としていました。明治32年(1899)に82歳(おそらく数え年)で歿していますので、文化14年(1817)頃の生まれ。最初の妻との間に、巳之助という子がいましたが、程なく離縁、嘉永3年(1850)頃にすぎと再婚し、同5年(1852)に光雲が生まれています。巳之助は光雲より7歳年上だったそうです。後に腕のいい大工となり、明治22年(1889)、「佐竹っ原」と呼ばれていた現在の新御徒町あたりに、見せ物小屋を兼ねた張りぼての大仏が作られた際、光雲ともどもこのプロジェクトに参加しています。くわしくはこちら

明治になって徴兵令が布かれた際、長男は徴兵免除だったのですが、光雲は次男。そこで、師匠の高村東雲の姉・悦が独り身で居たそうで、その養子となって長男といういわば免罪符を得ました。そのため、高村姓となったわけです。

閑話休題。兼吉とすぎの結婚については、おそらく、香具師だった兼吉が、各地の神社仏閣などの祭礼、縁日などに関わっていたために知り合ったのではないかと思われますが、いろいろわからないことだらけです。光雲や光太郎、それから光太郎実弟の豊周の回想にいろいろ書かれていますが、どれもあやふやな伝聞にもとづくもののようです。第一、すぎ自体、東大寺住職・菅原氏の血縁であることは確かなようですが、何年何月に誰の子として生まれたのかなど、今ひとつはっきりしません。光雲の回想には「東大寺の菅原道甫という住職の娘」とありますが、年代がまるで合わないのです。菅原氏は明治になって東氏と改姓、その後裔の方の書いたものによれば、すぎは道甫の娘・ますの子となっています。すぎの通称「ます」は、母の名を継いだということでしょう。当会顧問の北川太一先生もこの説を採られ、『高村光太郎全集』別巻収録の家系譜はそうなっています。

イメージ 15

ところが、埼玉の郷土史家の方が書かれたものでは、また違う説が唱えられています。

いずれにせよ、光太郎の祖母・すぎ出生の地ということで、行ってみました。

事前の調査では、東大寺という寺院はもはや残っていないそうでしたが、当時の住職等の墓所が残っているということでした。また、隣接していた永福寺さんという寺院は今も健在とのこと。そちらが東大寺の法燈を嗣いでいるそうです。

さて、永福寺さん。杉戸町の下高野地区です。

イメージ 2

イメージ 3 イメージ 4

イメージ 5

山門やら鐘楼やら、そして本堂も、なかなか立派なたたずまいでした。

イメージ 6

本堂には「高村」の千社札。「まさか、関係ないよな」とは思いましたが……。

敷地の一角に、「西行法師見返りの松」。

イメージ 7 イメージ 8

イメージ 9

源平の争乱により焼失した奈良東大寺の大仏再建勧進の途上、西行法師がこの地で行き倒れ、村人に手厚く看病されたという伝説が残っています。のちに東大寺の重源上人もここを訪れ、その話を聞きいて感動し、西行が運び込まれたお堂に東大寺の寺号を許したとのこと。

ところがその東大寺は、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となってしまいました。神仏混淆の修験道系だったそうで、そうした寺院は廃寺の憂き目に遭うことが多かったそうです。当時の住職・道貞(ますの甥のようです)が、その措置に逆らったあげく捕縛され、八丈島送りになったとも伝えられています。明治初年にはまだ島流しの刑があったのですね。

ちなみに文久年間と思われますが、高村東雲に弟子入りする前の10歳頃の光雲が、丁稚奉公の予行演習のような形で東大寺に一年ほど預けられていたそうです。

永福寺さんの北側に、広大な墓地があります。その一角に、「東氏累代之奥津城」ということで、東大寺の人々の墓所が。神仏混淆らしく、鳥居も建てられていました。

イメージ 16

イメージ 10 イメージ 11

右上の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、開祖・西行、二世・重源以下、二十七世・道円までの名が刻まれています。すぎの祖父と思われる二十五世・道甫の名もありました。


イメージ 12 イメージ 13

左上の画像が、すぎの兄と思われる二十九世・道顕と、その子である三十世・道貞の墓。道貞は八丈島から帰ったあと、東と改姓し、神仏分離ということで、神官となったそうです。

この墓所は、男女で位置が異なり、女性陣の墓石は少し離れた一段低いところにかたまって建てられています(下の画像)。兼吉に嫁いだすぎの墓はありませんが、すぎの母・ますの墓なども含まれているのでしょう。どれがそれかは特定できませんでしたが。

すると、そのかたわらに、一本のソテツの木(右上の画像)。杉戸町内には、道貞が八丈島から持ち帰ったというソテツが遺されているそうで、これもそうなのか、或いはその木から株分けでもしたものかもしれない、と思いました。

イメージ 14

それぞれの墓石に、光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。


ちなみにすぎ、そしてその夫・中島兼吉(つまりは光雲の両親・光太郎の祖父母)の墓は、台東区の涼源寺さんというお寺にあるそうで、いずれそちらにも行ってみたいと思っております。


【折々のことば・光太郎】

日本の彫刻は埴輪に帰らなくてはならない。

講話筆録「日本の美」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

棟方志功や岡本太郎などとは異なり、光太郎は縄文の美を認めませんでした。ごてごてしていて日本人の感覚ではない、大陸的だと。それが、古墳時代の埴輪には、簡素な明るさがあってすばらしい、としています。ここにも光太郎の彫刻観の一端が見て取れます。

先月、市立図書館さんに「田口弘文庫高村光太郎資料コーナー」をオープンさせた埼玉県東松山市さんの広報紙『広報ひがしまつやま』の今月号に、その件が報じられました。

イメージ 1

オープン記念に開催された当方の講演についてもご記述下さっています。

このコーナーは、戦時中から光太郎と交流があった、同市の元教育長・故田口弘氏から同市が寄贈を受けた光太郎関連の資料を展示するものです。当方のオープン記念講演の中では、氏と光太郎の関わりについて話させていただきました。その中で、昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さんに、光太郎の筆跡を写した「正直親切」碑(光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんにも同じ文字を刻んだ碑があります)が、氏のお骨折りで建立されたことにも触れました。

そうしましたところ、講演会終了後、市役所の方が、当時の資料が見つかったというので、送って下さいました。B4判二つ折りのリーフレットです。

イメージ 2 イメージ 3

イメージ 4 イメージ 5

当時教育長だった田口氏の「この石碑ができるまで」、当時の校長先生による「記念碑の除幕にあたって」、そしてこの文字を提供して下さった、当時の花巻高村記念会の浅沼政規事務局長が書かれた「高村光太郎書「正直親切」の由来について」が掲載されています。浅沼政規氏は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)にほど近い、山口小学校の初代校長先生でした。もともと「正直親切」の文字は、昭和23年(1948)に、同校が太田小学校山口分教場から山口小学校に昇格した際に、光太郎が校訓として贈ったものです。氏は平成9年(1997)に亡くなりましたが、ご子息の隆氏はご健在。山口小学校に通っていた頃、光太郎の山小屋に郵便物を届けに行ったりなさっていて、今も光太郎の語り部としてご活躍中です。

イメージ 6

ところで、驚いたのは、このリーフレットに光太郎詩「少年に与ふ」(昭和12年=1937)が印刷されていたこと。先日の講演会の冒頭に、地元の朗読グループの方が、光太郎詩と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読なさることとなり、何かふさわしい詩は、と照会されたので、この詩を推薦しました。光太郎詩の中ではそれほど有名な作品ではありませんが、「持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」という一節が、まさに田口氏の生き様に通じると思ったからです。そうしましたところ、昭和58年(1983)作成のリーフレットで、やはり田口氏がこの詩を選んでいたということで、驚いた次第です。

また、田口氏は、光太郎つながりで、彫刻家の高田博厚とも親交を深め、同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。その件でも同市役所の方から照会がありました。高田の居住していた鎌倉のアトリエのリビングに、光太郎の絵らしきものが掛かっていたが、これは何なのか、と。

イメージ 7

イメージ 8

大分色が褪せていますが、これは昭和22年(1947)11月30日発行の雑誌『至上律』に口絵として載ったもので、当時光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村の水彩スケッチです。この切り抜きを高田が壁に掛けていたと知り、胸を打たれました。

さて、同市立図書館さんの「田口弘文庫高村光太郎資料コーナー」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

何だかあたり前に出来てゐると思へれば最上なのである。それが美である。

散文「蝉の美と造型」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

光太郎が好んで木彫のモチーフとした蝉に関する散文です。本来薄い翅(はね)をかえって厚く仕上げるところが腕の見せどころ、としています。そうすることで、彫刻的な美しさがより顕著になるそうです。しかし、翅が薄いとか厚いとか、そんなことは気にならずに、すっと目に入ってくるもの、「何だかあたり前に出来てゐる」べきともしています。

このことは彫刻に限らず、詩にしても、絵画にしても、書にしても、光太郎芸術の根柢に流れる考え方で、実際にそれが実現されているといえるでしょう。

昨日ご紹介した、埼玉東松山市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」オープンにつき、『東京新聞』さんが取り上げて下さいました。 

高村光太郎、思いに触れて 東松山市立図書館に資料コーナー

 昨年二月に亡くなった東松山市の003元教育長田口弘さん=当時(94)=が生前、同市に寄贈した彫刻家で詩人の高村光太郎(一八八三~一九五六年)の資料約百点を活用した「田口弘文庫『高村光太郎資料コーナー』」が十三日、東松山市立図書館二階にオープンした。光太郎が田口さんに贈った書や書簡のほか、田口さんが収集した「道程」「智恵子抄」の初版本など貴重な資料が展示されている。 (中里宏)
 田口さんは旧制松山中学(現松山高校)時代、恩師の影響で光太郎に傾倒。一九四四年、初めて東京・駒込のアトリエで光太郎に会って以来、戦後も交流を続けた。
 同年夏、田口さんは占領地で日本語を教える海軍教員として南方に赴任する前、「世界はうつくし」「うつくしきもの満つ」の二枚の色紙を書いてもらった。しかし、赴任途中に乗っていた輸送船がフィリピン沖で米軍に撃沈され、色紙は失われた。展示されている同じ言葉の色紙は、九死に一生を得た田口さんが戦後、岩手県で隠とん生活を送っていた光太郎を訪ね、再び書いてもらったものだ。田口さんは二〇一六年、これらの資料を市に寄贈した。
 オープン式典でテープカットした田口さんの長女栗原直子さんは「父は『(高村光太郎に)じかに会ったことで人生が変わった。本物に触れれば胸に響くのではないか』と、子どもや若い人が資料を直接見ることを望んでいた。実現して本当にありがたい」と話していた。


それから、オープン記念の講演の中でご紹介させていただきましたが、当日の『朝日新聞』さんの土曜版の連載、「みちのものがたり」が「高村光太郎「道程」 岩手 教科書で覚えた2大詩人」。

イメージ 3

長いので全文の引用はしませんが、昭和20年(1945)から27年(1952)まで、光太郎が蟄居生活を送った岩手花巻郊外の旧太田村に今も残り、田口氏も訪れた山小屋(高村山荘)での光太郎を追っています。当時の光太郎をご存じの皆さんの証言、宮沢賢治との関わり、隣接する花巻高村光太郎記念館さんの紹介等。写真は山小屋別棟の便所です。光太郎自身が明かり採りのために「光」一文字を壁に彫り抜きました。

それから、同じ土曜版の「編集部から」という記事。雑誌の「編集後記」のようなもので、こちらでも光太郎に触れて下さっています。 

編集部から

 三省堂神保町本店(東京都千代田区)は、教科書004を店頭販売する珍しい本屋さんです。そこで、3時間も立ち読みをする迷惑な客をやってしまいました。6、7面「みちのものがたり」で取り上げた高村光太郎の「道程」が、どれだけ今の教科書に載っているか確認するためでした。
 ところが、「僕の前に道はない」で始まる詩がなかなか見つからない。少なくとも、5社から出ている中学の国語教科書(各3学年分)には皆無。出版社が多く、必修用やら選択用やら複雑な高校の教科書はすべてに目を通せた自信はないものの、やっと1冊だけありました。
 岩手県北上市の日本現代詩歌文学館は、2006年度の教科書に掲載された詩歌作品を調べています。それによると、「道程」は中学の3冊、高校の4冊に掲出されていました。教科書の定番教材としての「道程」の地位は、この10年ほどで急激に低下したと考えられます。
 「道程」の読みを聞いて、教室の男子生徒たちがざわついたのも今は昔。「有名な詩にあるだろう。僕らの後ろに道は出来るんだ!」と熱く語っても、きょとんとされてしまう時代が近づいているようです。(坂本哲史)


中学校の教科書に、「道程」が見あたらないという話。確かにそうかもしれません。ただ、道徳の教科書で取り上げて下さっている出版社さんがあるようです。


やはり先週の土曜、『毎日新聞』さんでは、光雲・光太郎父子の名を出して下さいました。

工芸の地平から 人形と彫刻=外舘和子

 日展、日本伝統工芸展などいずれの団体展におい005ても「人形」は工芸領域の一つと見做(みな)されているが、その条件は他の工芸と明らかに異なる。陶芸は土、金工なら金属と、工芸は通常扱う素材によって分類されるが、人形は作家により陶、木、布など、素材を限定しない。人形はヒトの形象を基本とする、その具象性によってのみ領域が成立しているのである。 
 
 日本の歴史を遡(さかのぼ)れば、ヒトガタの形象は縄文時代の土偶や古墳時代の形象埴輪(はにわ)に始まり、仏像のように重厚なものから、雛(ひな)人形など、より親近感ある形象まで幅広い造形として発達した。昨今流行(はや)りの超絶技巧に相当するものなら幕末明治の「生(いき)人形」がある。
 ところが明治期に西洋から「彫刻」の概念が入ってくると、にわかに仏像は「彫刻」に分類されるようになった。仏師であった高村光雲が東京美術学校の彫刻の教員になり、観古美術会などの明治の展覧会の彫刻部門に仏像が出品されたことがその背景にある。しかし日本の木彫や仏像はむしろ人形的であり、その特徴は人形同様“表面への拘(こだわ)り”にある。人形・彫刻とも、量感やバランス、ポーズや動勢に配慮するが、人形はその上でさらに表面造形を丁寧に行う傾向を持つ。彩色し、あるいは衣装を着せ、表面を丁寧に加飾し、顔の表情は細やかに整える。それは日本の仏像において、彩色し、截金(きりかね)を貼り、翻る衣の生地の雰囲気を慎重に表現し、顔の表情で全体の印象が左右される状況と通じる。
 面と骨格、マッスとボリュームで対象を大きく掴(つか)むことを重視し、表面や細部に拘ってはならないとする西洋の人体彫刻とは、日本の人形・仏像とも、理念において対照的でさえある。また、人形と彫刻の違いを“大きさ”であると主張する人もいるが、周知のように仏像は必ずしも大型のものだけではない。また、仮に等身大以上の大きいものが彫刻だというなら、戸張孤雁(とばりこがん)、高村光太郎、中原悌二郎など近代の主要な彫刻家は殆(ほとん)ど彫刻を作っていないことになる。大きいものを彫刻とする説は、近代の主要な彫刻家が得意としたサイズを説明できない。
 昨年、中世を代表する仏師・運慶、快慶の展覧会が相次いで開催された。快慶は表面の截金等による加飾がその特徴でさえある。また日本の造形史上の傑作、運慶の無著(むじゃく)像の最大の魅力は、その今にも言葉を発しそうな顔の表情にある。「人形は顔がいのち」という雛人形のCMが思い出されよう。さらに、無著像はその顔の表情に比べると手指の表現が硬い。顔と手の表現に苦労するのは現代の人形作家も同様だ。表面を重視し、細部に拘る日本の人形と仏像に、西洋由来の彫刻とは異なる、共通の造形姿勢を見るのである。(とだて・かずこ=工芸評論家)


購読していない新聞は、当方、地元の図書館で閲覧させていただいたり、コピーを取らせていただいたりしております。皆様もぜひそうして下さい。


【折々のことば・光太郎】

橋梁、倉庫、事務所、病院、実験室までは通り得る建築機械論も住宅建築に及んで人間性の反逆に遭つた。住む機械は人間の持つロマンチスムをも運転させ得る機械でなければならなくなつた。

散文「七つの芸術」中の「三 建築について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「建築機械論」は、フランスの建築家、コルビジェが提唱したものです。「住宅は住むための機械である」とは、彼の有名な言です。しかし、コルビジェとて、無機質な「機械」を想定してそう言ったわけではなく、水に浮かぶ機能のない船は船ではなく、空を飛ぶ機能のない飛行機は飛行機ではない、同様に住むことができない住宅は住宅ではない、といった意味での「機械」です。

駒込林町の自身のアトリエや、交流のあった思想家・江渡狄嶺の依頼による「可愛御堂」などの建築設計もこなした光太郎。コルビジェについても同じ文章で「彼の機械主義の中に既に新しいロマンチスムが潜んでゐた」と理解を示しています。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。

昨年2月に亡くなった、同市の元教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった故・田口弘氏が、一昨年、光太郎から贈られた書や書籍など、一括して同市に寄贈なさり、市立図書館さん内に、その展示スペース「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、昨日はそのオープンセレモニー等が行われました。

イメージ 1

イメージ 2

そのオープンセレモニーのあとの記念講演講師の依頼があり、馳せ参じた次第です。

イメージ 3 イメージ 4

午後1時半から、資料コーナーに椅子を並べた会場で、オープンセレモニー。

イメージ 5

イメージ 6

設置の経緯の説明や、森田市長さんはじめ来賓の方々のご挨拶等に続き、テープカット。田口氏のご息女もハサミを持たれました。


コーナーの概要をお知らせします。

まず目を引くのが、田口氏が光太郎から贈られた書。

イメージ 7

凸版印刷さんにお願いし、作っていただいた複製だそうですが、この手の技術の進歩には目を見張るものがあります。精巧に出来ており、ぱっと見には本物と区別が付きません。

左の大きな書は、新訳聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。昭和24年(1949)に書かれたもので、筑摩書房『高村光太郎全集』第17巻のグラビアにも使われています。光太郎が聖書の文句を揮毫したものは珍しいのですが、故・田口氏が敬虔なクリスチャンだったことに由来します。

右の方は色紙「世界はうつくし」、「うつくしきもの満つ」など。はじめ、故・田口氏が昭和19年(1944)、南方に出征する際、光太郎に書を書いてもらったそうですが、氏を乗せた輸送艦が撃沈され、氏は九死に一生を得たものの、書は海の藻屑と消えたそうです。そこで戦後、復員された氏が花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を訪ね、再び同じ言葉を揮毫してもらったというものです。

イメージ 8

イメージ 9

光太郎からの書簡類。こちらも基本、カラーコピーですが、小包の包装、鉄道荷札などは現物でした。

それから、光太郎の署名入りの中央公論社版『高村光太郎選集』全6巻。昭和26年(1951)から28年(1953)にかけ、当会の祖、草野心平が中心となって編まれたものですが、故・田口氏が新聞雑誌等から切り抜いたスクラップブックが大いに役立ったそうです。

その他、氏がこつこつ集められた光太郎の著作や、光太郎智恵子に関する書籍類も大量に寄贈されたそうで、それらは定期的に入れ替えながら展示されるとのこと。

002


同館2階にこのコーナーが設けられ、無料で拝観できます。ぜひ足をお運びください。

オープンセレモニーの終了後、3階視聴覚ホールを会場に、当方の記念講演。「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」と題させていただきました。

イメージ 12

前半は、総合的な芸術家として、つまづきをくりかえしながらも大きな足跡を残した光太郎の生涯を紹介させていただきました。途中から、故・田口氏とのかかわり、そして光太郎の「詩魂」を受け継ぎ、光太郎とはまた異なる分野で活躍された田口氏の業績を追いました。

講演に先立ち、地元の朗読サークルの方が、光太郎と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読されることになり、何かふさわしい詩はないかというので、以下の詩を指定させていただきました。

光太郎詩は「少年に与ふ」。昭和12年(1937)、雑誌『無風帯』に発表され、同18年(1943)、詩集『をぢさんの詩』に収められました。

   少年に与ふ

 この小父さんはぶきようで
 少年の声いろがまづいから、
 うまい文句やかはゆい唄で
 みんなをうれしがらせるわけにゆかない。
 そこでお説教を一つやると為よう。
 みんな集つてほん気できけよ。
 まづ第一に毎朝起きたら
 あの高い天を見たまへ。
 お天気なら太陽、雨なら雲のゐる処だ。
 あそこがみんなの命のもとだ。
 いつでもみんなを見てゐてくれるお先祖様だ。
 あの天のやうに行動する、
 それがそもそも第一課だ。
 えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。
 持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。
 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。
 それが自然と此の世の役に立つ。
 窓の前のバラの新芽を吹いてる風が、
 ほら、小父さんの言ふ通りだといつてゐる。



おそらく、少年(青年)時代の田口氏もこの詩を読んだと思われます。そして、戦後に復員されてからの氏のご活躍は、まさに詩の後半の「えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。/持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」を地でゆくようなものだったと思い、この詩を指定した次第です。

田口氏の詩は、「けさ八十歳」。光太郎から受け継いだ「詩魂」を、どのように生かしていったかと、そういう詩です。94歳で亡くなった氏が80歳になられた時の作品ですが、氏の半生が履歴書のように一望できます。

     けさ八十歳004

 八十歳のけさは春の彼岸の入り 雲なく風なし
 白木蓮の円錐の樹形の花群れは
 純白の光のいのちを一身に聚め
 吹上の溢れるほどの豊満な花輪の賜りもの
 それに応えるおまえの八十までは何だったのか
 何でおまえは生きてきたのか
 この日頃思案してもの怖じもなく答えれば
 ハイ 感動を求めて生きて来ました と
 その折々の天の配剤をいただいて
 幼くして母、姉と一時に死別 父、兄妹と離ればなれ
 中学時代かけがいのない師 柳田知常先生に私淑
 駒込林町の高村光太郎さんの美に導かれ
 アララギの五味保義先生の姿勢を敬慕し
001 戦いの末期 ルソン島沖を泳いで助かる
 その折失った高村さんの餞別の書「美しきもの満つ」は
 岩手の山小屋で再び書いて頂いて 今在る
 復員した青年教師は〈創造美育〉の運動に熱中したり
 五年間 日教組のオルグでストライキに人の重さを知る
 また全国教育研究集会の「美術」の司会を担当
 推されて埼玉教職員組合の委員長をしたり
 自分の能力の適正を危ぶむ労働金庫の専務まで
 そんな有為転変もいま思いかえせば
 みんなみんな神さまの深いお図らいだったのか
 この一人の運命の曲がり角はそうとしか考えられない
 きわどくしかも無理のない選択だったのか
 〝風はおのが好むところに吹く〟ように
 終わりの十六年 幸せにふるさとの教育長に迎えられ
 今までのキャリアを集注して教育と文化運動にかかわる
 たまたまその間 日本スリーデーマーチの実行委員長
 以来朝の〈歩け〉は二十三年累計四万キロで地球一周にも
 ウォークマンで十年モーツアルトに離れがたく
 兄に眼を開かれた絵は
 ルオーの「キリスト」に辿り着く
 旬日 フィンの息子からスタミッツのセロのCD届く
 もうすぐ高村さんの連翹忌がやってくる



氏は同市を会場に開催されている「日本スリーデーマーチ」の実行委員長も永らく務められましたが、そこにも光太郎の影響があったそうです。

「文化運動」という部分では、やはり光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚と親交を結ばれ、光太郎胸像を含む高田の彫刻32点を配した同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。亡くなった後も、氏のご遺徳による業績が続いているわけです。


イメージ 13


平成27年(2015)、氏のご自宅にお邪魔する機会がありました。その際に氏がおっしゃったお言葉が、忘れられません。「大事なのは、光太郎なら光太郎から学んだことを、あなたの人生にどう生かすか、ということです」。まさしく氏は、光太郎から受け継いだ魂を、さまざまな分野に生かされたわけで、昨日の講演でも、そのようなお話をさせていただきました。不覚にも、講演をしながら、その時の光景がよみがえり、うるっと来てしまいました。


同市では、高田博厚の関係等で、今後も色々と動きがありそうです。また情報がありましたらお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は極度に触覚の世界である。此れを浅くしては指頭の感覚、此れを深くしては心の触覚、此世を触覚的に感受し精神を触覚的にはたらかす者、それが彫刻家である。

散文「七つの芸術」中の「二 彫刻について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

故・田口氏にしても、「心の触覚」を鋭敏に働かせて、さまざまな業績を残されたのでしょう。「心の触覚」、言い換えれば「詩魂」となるでしょう。

今年2月に亡くなった、元埼玉県東松山市の教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった田口弘氏

昨年には、「終活」の一環として、光太郎から贈られた書や書籍など、一括して同市に寄贈なさいました。

その後、同市立図書館さんで、それらの特別公開、田口氏ご本人によるご講演も行われました。

先月発表された、やはり光太郎と交流のあった彫刻家・高田博厚の遺品が同市に寄贈されることとなった件も、田口氏のご遺徳の賜です。氏を介して、高田と同市は以前から深いつながりがありました。

さて、同市立図書館さんでは、田口氏からの寄贈資料を常設展示する「高村光太郎資料コーナー」を設けることとなり、そのオープン記念の講演会が開催されます。僭越ながら、当方が講師を務めさせていただきます。 

田口弘文庫「高村光太郎資料コーナー」オープン記念講演会

期   日 : 2018年1月13日(土)
会   場 : 東松山市立図書館 3階視聴覚ホール 東松山市本町2-11-20
時   間 : 午後2時から3時30分
料   金 : 無料
内   容 : 詩の朗読(朗読ボランティア「あすなろ」)
        記念講演「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」
         講師 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
定   員 : 100人(申し込み順)
申   込 : 2018年1月5日(金曜日)から直接又は電話で市立図書館へ 
         電話:0493-22-0324 ファックス:0493-22-0064

イメージ 1

当方、田口氏とは連翹忌の席上で何度か、それから昨年の講演会、一昨年にはご自宅にお邪魔いたしましてお会いしました。あとは書簡のやりとりといった程度のおつきあいで、氏について詳しく語る資格は不十分かと存じますが、氏と光太郎との関わりという点になると、やはり出馬せざるを得ないかなと思い、お引き受けしました。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

美を持たないものを心から信ずるわけにはゆかない。美を顧みない諸般の施設を喜ぶわけにゆかない。美を最奥の標準と為ない都市の建設は詮ずる所住民の虐待に急ぐ事となるのである。

散文「美の立場から(震災直後)」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

関東大震災により大きな被害をうけた東京の復興に関する内容です。欧州の諸都市を見てきた光太郎にとって、震災前のごみごみした東京の景観は許せないものでした。これを機に、美しい都市を造ろうという提言でしたが、それはかないませんでした。

昨日の『朝日新聞』さん埼玉版に載った記事です。

埼玉)彫刻家高田博厚の遺品、東松山市に寄贈へ

 文豪ロマン・ロランや詩人ジャン・コクトーらと交遊した世界的な彫刻家高田博厚(ひろあつ、1900~87)が神奈川県鎌倉市に残したアトリエが閉鎖されることになり、ゆかりの東松山市に遺品が寄贈されることになった。12月2日に鎌倉で遺族や知人ら関係者によるお別れの会があり、市への寄贈が改めて表明される。
 高田博厚は石川県生まれで福井県育ち。旧制中学時代から文学や哲学、美術に傾倒し、上京して彫刻家高村光太郎らと出会い彫刻を始めた。31年に渡仏。ロマン・ロランやジャン・コクトー、画家ルオー、哲学者アランらと交遊しながら西欧彫刻界で評価を得た。
 57年に帰国し、鎌倉市稲村ガ崎にアトリエを構えた。真摯(しんし)な写実と知的で詩情ある作風で、代表作にはロマン・ロラン、ルオー、川端康成らの肖像がある。86歳で死去。鎌倉のアトリエには、高田の彫刻作品や絵画、デッサン、ロマン・ロラン、アランの献辞入り書籍などを含む数百冊、彫刻台やヘラ、イーゼルなどの道具もある。没後30年を機に、遺族がアトリエの閉鎖を決めた。
 東松山市との縁は、今年2月に94歳で亡くなった元市教育長で詩人の田口弘さんが、高田と親交のあった国文学者で俳人の柳田知常に師事し、高田と出会ったという。以来、田口さんは東松山市で高田博厚彫刻展を開くなど親交を深めた。市は86~94年には高田の彫刻作品32体を購入し、高坂駅前約1キロの通りに設置。「高坂彫刻プロムナード」として観光資源化を図っている。
 高田の義理の娘、大野慶子さん(80)は「父が亡くなって30年。東松山市の方々の熱意に父も生前に感銘していた。アトリエの遺品すべてを東松山市に寄贈できることをきっと喜んでくれています」と話した。
 お別れ会は鎌倉のアトリエで、慶子さんら遺族のほか、東京芸大名誉教授で文化勲章受章者の洋画家野見山暁治さん、女子美術大名誉教授で洋画家の入江観さん、小樽商大名誉教授の高橋純さんら関係者だけで行われる予定だ。(大脇和明)

イメージ 1

イメージ 2


記事にあるとおり、今年2月になくなった、埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏のご遺徳で、こうなりました。

氏は戦時中に光太郎と知り合い、出征前には光太郎の元を訪れて書の揮毫をもらったりもしたそうです。南方で九死に一生を得て復員後、花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を2度訪問、その後も中央公論社版『高村光太郎選集』編集に協力するなどなさいました。

昨年には、光太郎から贈られた品々などを同市に寄贈。今年、天に召されましたが、実にお見事な「終活」でした。

また、光太郎と深い交流のあった高田博厚とも親しく交わられ、東武東上線高坂駅前に、光太郎像を含む高田の肖像彫刻32体が並ぶ「高坂彫刻プロムナード」の整備に奔走されました。また、今年の6月から7月にかけては、高坂で「高田博厚歿後30年展」が開催されました。そうした縁から、今回の寄贈ということになったのでしょう。

続報が出ましたら、またご紹介します。


ちなみに、来年、氏の一周忌に合わせ、田口氏から同市に寄贈された光太郎関連資料が、市立図書館さんに常設展示されることになりました。蛇足ながら、そのオープン記念ということで、「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」という題で、当方が講演をすることになりました。このあたりも詳細が出ましたらまたご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

ところが、面白いのは如何なるものにも其のもの特殊な興味を発見しないでは止まない人間の芸術慾であります。

散文「版画の話」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

その発明当初、印刷という実用に供するものに過ぎなかった版画が、芸術として発展していったことに対する言です。この場合、「興味」=「美」。

泉下の高田博厚、田口弘氏など「芸術慾」に憑かれた人々も、「そうそう」と首肯しているような気がします。

朗読系イベント情報です。
会 場 : ポルコポルコ 埼玉県越谷市千間台西3丁目1−17
時 間 : 11:00~14:30
料 金 : 第1部 3,800円(アイスティー、チーズケーキ付)  第2部 1,000円

プログラム

第1部 フルート×語りのおとばなライブ 「秘密のおとばな部屋」

 宇高杏那/フルート フルーティスト。作曲も手がける。 フルートオーケストラ「響き」コンサート・ミストレス。
 和久田み晴 /語り 語り手・声優。NHK Eテレ『すすめ!キッチン戦隊クックルン』バニラおばさん役、各種ナレーション・ボイスオーバー等出演。

秘密の隠れ家で、様々な本のページをめくれば人生の様々な機微に遭遇する…
その時きっと、その言葉と音は、あなたの人生にリンクしていく。声と音楽を通して本を味わう1時間!

「ミルクパン」和久田み晴 著
「すりごま」和久田み晴 著
「わが名はピーコ」(角川文庫刊『めろめろ』所収)  犬丸りん 著
「レモン哀歌」(『智恵子抄』所収)  高村光太郎  著
「100万回生きたねこ」(講談社刊)  佐野洋子 著
 物語作品には、すべて宇高杏那&靖人両氏によるオリジナル曲が作曲されています。


第2部 ブクブク交換会

テーマに合った本を持ち寄って、紹介しあって交換するイベント♪
自分では手にとらないであろう本との出会いは面白いもの。
小説に限らず、絵本、ハウツー本、漫画などなど、おススメのものであればなんでもOK!
自分の好きな本を紹介するとき、その人の人柄や本質的なものが現われるのだそう。
本を通して、人とのつながりができるのも、このイベントの面白いところ!
1部から引き続き、おとばなの和久田と宇高も参加♪

※お好きなテーマの本をお持ちください。
※1人2冊くらいお持ちいただくと楽しいです。
※本は新品でも中古でも大丈夫です。
※本は交換してしまうので、持ってきた本は原則手元には戻りません。
 
《今回のテーマ》
 ・知らなかったことを知れた本  ・勇気づけられた本  ・夏休みを思い出す本

イメージ 1


ユニット「おとばな」さん。クラシックギターの宇高靖人氏も加わったフルメンバーで、昨年には「フルートとギターと語りのコンサート『おとばなノスタルジア館』」という公演もなさり、やはり「レモン哀歌」を取り上げて下さいました。ありがたや。

その際は他に用事があって聴きに行けませんでしたが、今回もその前後、岩手に行っておりますので、聴きに行けません。残念です。

ご都合のつく方はぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

昔から此の島の住民は知つてゐる、 嵐のあとに天がもたらす あの玉のやうに美しい秋の日和を。
詩「日本の秋」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

この項、『高村光太郎全集』の掲載順に言葉を拾っておりますので、季節外れとなることもしばしばです。関東は梅雨明けとなり、本格的な夏となりました。当方、光太郎ほどに夏に弱くはありませんが、さすがに35度を超える猛暑日は体にこたえます。「玉のやうに美しい秋の日和」が来ることをイメージしつつ、乗り切ろうと思っております。

一昨日の『東京新聞』さん、埼玉版に載った記事です。

<ひと物語>新たな木彫 今を刻む 彫刻師・宮本裕太さん

003 小鹿野町長留の山あいにある工房。彫刻師の宮本裕太さん(30)は、真剣な面持ちで木彫作品二点の仕上がりを確認する。一つは南国の花プルメリア、もうひとつは観葉植物のモンステラとパイナップルの実がモチーフだ。

 いずれも縦四十六センチ、横幅百六十センチ。人の背丈ほどの大きな壁掛け。「ハワイの別荘向けに」と、東京在住の米国人と日本人の夫婦から注文を受けた。これまで手掛けてきた大黒天の座像やフクロウの置物とはだいぶ趣が異なる。

 「今回の壁掛けは洋間に飾るということもあり、デザインを工夫してみた。こうした作品がこれからのニーズなのかも」。宮本さんは確かな手応えを感じ取った。

 宮本さんが彫刻に関心を持ったのは中学生のとき。テレビ番組で彫刻家高村光太郎の作品「鯰(なまず)」を目にしたのがきっかけだ。「表情がとってもいきいきしている」。将来に向けた明確な目標を決められなかった宮本さんの頭に、彫刻師の道が浮かんだ。

 インターネットで情報を収集し、高校卒業後に富山県南砺市の彫刻師野村清宝さんに弟子入りした。南砺市は精緻な作風で名高い「井波彫刻」のお膝元。そこかしこが彫刻作品に彩られた工芸の町だ。六年間、師匠方に住み込み修業に打ち込んだ。「とにかく経験を積むよう諭された」。独立したのは二〇一一年のことだ。

 木彫はさまざまな工程の積み重ねだ。図案や寸法を決めて、糸のこぎりで大まかな形を切り抜く。のみで形を整えて、小道具や彫刻刀で仕上げる。途中、何度も木を乾燥させる必要があり、数年がかりで取り組む作品もある。

 注文の多くはインターネット経由だ。住宅事情を反映してか、かもいを飾る「欄間」は減り、ウサギやネコの置物や植物のレリーフなどが好まれる。依頼主は主に関東から九州まで。東日本大震災の津波で流されたとして、宮城県の寺からはりを飾る作品のオーダーを受けたこともある。

 宮本さんがいま気に掛けているのは、木彫技術の担い手が少なくなっていること。弟子入りする若者が減っているほか、せっかく独立しても彫刻を断念してしまう人もいる。自ら若手を育成したいとの思いも募る。

 「後継者が少なくなっているからこそ、魅力的な作品が必要。大きな壁掛けや洋風の洒脱(しゃだつ)なデザインなど、いろいろと挑戦していきたい」と見通しを語る。 (出来田敬司)

<みやもと・ゆうた> 小鹿野町生まれ。町立長若中を経て、県立秩父農工科学高電子機械科卒。富山県南砺市の彫刻師野村清宝さんのもとで木彫を習得する。2011年から小鹿野町内で「宮本彫刻」を主宰し、欄間、壁掛け、祭礼用品などを手掛ける。問い合わせ先は宮本彫刻=電0494(75)2276=へ。


現代の若手木彫家の紹介です。なんとまあ、この世界に入ったきっかけが、中学生の時に光太郎の木彫「鯰」をテレビ番組で見たことだそうで、驚きです。

現在30歳の方が中学生だったときで、光太郎の木彫「鯰」……おそらく、テレビ東京さん系の長寿番組「美の巨人たち」でしょう。平成13年(2001)の7月21日に、「鯰」がメインで取り上げられました。

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

この番組では、光太郎をメインに扱ったのは3回あり、その最初のものでした(ブロンズ「手」が平成19年=2007、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が平成23年=2011)。

光太郎の簡単な評伝的部分もありました。海外留学でロダンをはじめとする「本物」を見てしまったがゆえの、父・高村光雲との葛藤……。

イメージ 6

幼い頃から光雲に叩き込まれた木彫と、西洋で学んだ塑像彫刻のエスキスとの融合をはからんとする苦闘。その中で「鯰」が生まれたこと、そのために智恵子との生活が犠牲にされたことなど。

イメージ 7

イメージ 8

放映当時、神奈川県立近代美術館長だった酒井忠康氏、平成26年(2014)に亡くなった、故・髙村規氏などもコメンテーターとしてご出演なさっていました。

イメージ 9

イメージ 10

久しぶりに録画を見返してみましたが、いい作りでした。それにしても、これを見て彫刻家を志した方がいらっしゃるとは、少し驚きました。昨日のこのブログで、昔の美術家の卵は、光太郎編訳の『ロダンの言葉』を読んで美術家を志したと書きましたが、現代は美術番組を見て、というのがあるのですね。当方も時折テレビの仕事のお手伝いをさせていただいていますが、責任重大だな、と思いました。

それにしても、記事にある宮本さん、注文の多くはネット経由だそうで、こういうところにも時代の変化を感じます。

今後とも、光太郎の魂を受け継いでのさらなるご活躍を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て 一片の弧線をも見落さないやうに写生する このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝国資本主義発展の全実歴を記録する 九十一歳の鯰よ わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ

詩「似顔」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

ここにも「鯰」が登場しますが、ここで作っているのは魚の鯰ではなく、鯰のようにグロテスクな人物――戊申戦役の頃から薩長に取り入って財をなし、大倉財閥を興した大倉喜八郎――の肖像です。少し前のこのコーナーで、大正11年(1922)の「信濃川朝鮮人虐殺事件」をちらっと紹介しましたが、この事件の加害者も被害者も大倉組の関係者でした。この時期、プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い位置にいた光太郎にとって、大倉などは不倶戴天の敵です。

それがどうして肖像彫刻を作るはめになったかというと、間に光雲が介在しています。大倉は自身と妻の肖像彫刻を光雲に依頼したのですが、光雲は肖像彫刻をやや苦手としていました。そこで、他にも法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもそうでしたが、まず粘土で光太郎が原型を制作、光雲がそれを元に木で彫るという方式を採っていました。

イメージ 1

左が光太郎の原型から取ったブロンズ、右が光雲の彫った木彫の大倉像です。

光雲の手にかかると、ロダンから学んだ光太郎の荒々しいタッチも影を潜め、大倉の表情も好々爺然としてしまっていますね。まさしく今大流行の「忖度」です(笑)。

光太郎としては、それがまた気に入りません。しかし、光雲の下職仕事は大切な収入源でもあり、廻してくれる光雲の親心も痛いほどわかります。

生きていくことのつらさがにじみ出ているエピソードですね。

先月亡くなった、埼玉県東松山市の元教育長で、光太郎と交流のあった田口弘氏の関係で、『産経新聞』さんの埼玉版に、光太郎の名が出ました。

東松山市、高坂彫刻プロムナードを整備 ライトアップや案内板でPR

 東松山市は、東武東上線高坂駅西口の高坂彫刻プロムナードに彫刻32体が野外展示されている彫刻家、高田博厚(1900~87年)が今年で没後30年となることを記念し、命日の6月17日に向けて彫刻のライトアップなどのプロムナード整備や、ゆかりの人によるフォーラムを開催する。
  高田は石川県生まれ。18歳で上京し、高村光太郎と出会って彫刻の道に入り、31歳で渡仏。詩人のジャン・コクトーらと交流し、彫刻の制作に没頭した。昭和32年に帰国後は東京芸術大学講師などを務めた。晩年は神奈川県鎌倉市にアトリエを構え、多くの作品を残した。
  2月に94歳で死去した東松山市の元教育長で詩人、田口弘さんが高田と交流があり、同市が高坂駅西口土地区画整理事業の一環として高田の作品を集めて彫刻通りを整備することを計画。昭和61年から国内に残る高田の彫刻175点のうち、高村光太郎や棟方志功、宮沢賢治などのブロンズから裸婦像まで32体を購入し、延長約1キロにわたって設置。同市の名物となった。
  平成29年度は一般会計当初予算案に事業費2千万円を計上。6月ごろまでに同駅西口ロータリーに幅4メートル、高さ2メートルの案内板を設置し、ロータリー内の2つの彫刻「遠望」と「大地」をライトアップ。同駅西口階段に彫刻などをPRする壁面シールなどを掲示する。
  また、命日の6月17日には市民活動センターホールで没後30年記念フォーラムを開催するほか、同1日から30日まで高坂図書館で高田のアトリエから借用した彫刻やデッサンなどを展示する企画展を開催する。
  定例会見で同事業を発表した森田光一市長は、「高田氏の彫刻が32体もあることは大変な資源であり、観光面でも文化的にも価値がある」と強調。貴重な彫刻群を改めて市民にも知ってもらい、観光客にもアピールする考えだ。(石井豊)


記事にある「彫刻プロムナード」に関してはこちら。

田口氏のお手元にあった光太郎の書や書簡類は、すべて市に寄贈されました。

さらにもう一つの「遺産」である高田博厚の彫刻群も、しっかり活用されていくようです。すばらしいですね。


【折々のことば・光太郎】

桜がいちめんにさいてゐるので、 空も地面もありはしない。

詩「校庭」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

「校庭」は智恵子の母校、日本女子大学校の校庭です。同校同窓会誌『家庭週報』に掲載されました。創立記念式典か何かの一コマを詠んだ詩です。


003

画像は戦前の絵葉書。校庭ではなく寮ですが、桜が咲いているようです。

もうすぐ、空も地面も桜に覆い尽くされる季節となります。はやくそうなってほしいものです。

今月9日に亡くなった、元埼玉県東松山市教育長にして、生前の光太郎と交流のあった田口弘氏の追悼ページが、同市のホームページ上にアップされました。


全国的に見ても非常に異例のことだと思いますが、それだけに氏の功績や人徳の大きさが偲ばれます。多年にわたり教育長を務められた他、東武東上線高坂駅から伸びる「彫刻プロムナード」(光太郎胸像を含む高田博厚作品群が設置)の整備、同市を会場とした「日本スリーデーマーチ」開催・運営への尽力、そして昨年の光太郎関連資料の寄贈などなど……。

動画投稿サイトYouTube上には、昨夏撮影された氏へのインタビューがアップされ、上記のページにも貼り付けられています。こちらでも転用させていただきます。


光太郎の日記は、明治末のもの、昭和20年(1945)に花巻に疎開した後のものを除くと、戦前・戦時中のものは空襲で灰になってしまいました。したがって、その出会いの頃の日記は残っていません。戦後のものも、昭和24年(1949)、25年(1950)の大半は失われています。

花巻郊外太田村の山小屋で書かれ、残っている戦後の日記に氏の名が初めて出て来るのが、昭和22年(1947)8月23日。上の動画で3分33秒頃からのエピソードです。

午後少し横になる。田口弘氏来訪に起される。木村知常氏の教子。フイリツピン ジヤヷの話等。「ジヤヷ詩抄」肉筆、余に献してくれる。乳かんづめ、急須、湯呑等もらふ。林檎御馳走する。三時半辞去、西鉛を教へる。明日詩碑へ詣る由。

「詩碑」はおそらく花巻町の光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治詩碑と思われます。


それから翌年2月9日。

<田口弘さんより去年八月もらつた乳カンをあける>

おそらく練乳でしょう。


続いて昭和26年(1951)12月22日。

選集第三回分を尾崎喜八、宮崎稔氏、田口弘氏宛の小包をつくる、

さらに「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後の、同28年(1953)2月16日。

藤島氏に田口弘氏宛小包托、

「選集」は中央公論社から全六巻で刊行された『高村光太郎選集』。田口氏が作っていた光太郎のスクラップ帳も参考に草野心平が編集にあたりました。動画では9分45秒頃からその話が出ています。

その他、『高村光太郎全集』およびその補遺である当方編集の「光太郎遺珠」(雑誌『高村光太郎研究』連載)に、光太郎から田口氏宛の書簡が計10通。それら全て(小包の包装紙まで保存されていました)、昨年、東松山市に寄贈され、公開されています。

改めて氏の追悼展的に展示されることを期待します。


【折々のことば・光太郎】

敷居の前にぬぎすてた下駄が三足。 その中に赤い鼻緒の 買ひ立ての小さい豆下駄が一足 きちんと大事相に揃へてある。 それへ冬の朝日が暖かさうにあたつてゐる。
詩「下駄」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

止まった市電の窓から見えた煎餅屋の店先の様子です。そのものを描かなくとも、おかっぱ頭の小さな女の子の姿が目に浮かび、見事です。

短いフレーズを切り取ることが出来ず、このコーナーでは割愛しましたが、この時期、「小娘」「丸善工場の女工達」「米久の晩餐」など、市井に生きる無名の人々に対する暖かな眼差しが感じられる詩が多く作られました。

去る9日、生前の光太郎と交流のあった埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が亡くなりました。

『朝日新聞』さんスポーツ面から。

田口弘さん死去

 田口弘さん(たぐち・ひろし=元埼玉県東松山市教育長)9日、多臓器不全で死去、94歳。通夜は14日午後6時、葬儀は15日午前10時から東松山市松山町2の8の32の東松山斎場で。喪主は長男光夫さん。

 1976年から93年まで東松山市教育長。日本ウオーキング協会副会長も務め、2009年度の朝日スポーツ賞を受賞した。


同紙の埼玉版には、追悼記事的なものも掲載されました。氏の人となりを知るには恰好の内容です。

人生にじむ深いまなざし 田口弘さんを悼む

 東松山市の元教育長、田口000弘さんが94歳で亡くなった。高校野球史に残る大敗、戦地からの帰還、詩人・高村光太郎との交流、日本一のウォーキング大会実行委員長……。温かい視線に人生がにじむ「深いまなざしの人」だった。
 田口さんの詩集「四季『こころの詩』より」(2007年)には、太平洋戦争の記憶が繰り返し出てくる。1944年、海軍所属の日本語教員として向かったフィリピン沖で、乗っていた船が米軍の攻撃で沈没。竹につかまり漂流する。
 横須賀港を一緒に発った300人の中で陸にたどりついたのは約30人。「さらに生きのびて終戦を迎えたのは私だけかもしれない」と語っていた。その後、インドネシアへ空路転進する途中のバシー海峡で、撃沈された艦船から流れた重油が覆う「黒い海」を見た。
 戦争の記憶は彩りのない「黒」だった。生死の境をさまよい、「生かされている」が人生の実感になったという。高村光太郎とのつながりも戦争を抜きには語れない。旧制松山中学時代の恩師に連れられ、心酔する高村を訪ねた。
 「世界はうつくし」「美しきもの満つ」と書いてもらった色紙を手に戦地に赴いたが、船が沈み失った。インドネシアでの捕虜生活を経て46年に帰還。再会した高村の筆に望んだのは同じ言葉だった。そんな交流を通じて集まった書簡類約100点を昨年、東松山市に寄贈した。
 野球での大敗は、松山中時代の36年夏。エースのけがで豊岡実に0―72で敗れた試合を、控えの2年生捕手として見ていた。98年に全国高校野球選手権記念青森大会で0―122の記録が出るまで62年間「最多失点の全国記録」だった。
 2008年、球史を顧みるインタビューを受け「屈辱だとは思わない。先輩たちは棄権しようともせず、正々堂々と戦った。結果だけでなくプロセスを大事にした野球があってもいい」と語っている。田口さんらしい言葉だ。
 東松山市教育長としては日本スリーデーマーチを育てた。国内草分けのウォーキング大会で、当初は参加料を払ってただ歩くことへの理解が広がらなかった。実行委員長を12年務め、打ち出したのは「ウォーキング・ルネサンス」。歩いて自己改革する「人間再生」を訴え続けた。
 大会コースの途中に、東武東上線高坂駅から続く「ブロンズ通り」がある。高村やガンジーの像など、日本を代表する彫刻家高田博厚の作品を30余り集めた。毎年、延べ10万人前後の参加者が集まるようになった大会は今秋で40回目。田口さんの思いを実現した「通り」を歩き、追悼する人も多いだろう。(高橋町彰)


当方、田口氏とは十数年前の連翹忌で知遇を得、一昨年にはご自宅にお邪魔させていただきました。その際のレポートには書きませんでしたが、敬虔なキリスト教徒でもあった氏は、「そろそろ天に召されるだろうから、いわゆる「終活」として、手元にある光太郎関連資料の処分をどうするか考えている」とのことでした。

当会にご寄贈くださる、というお話もあったのですが、拝見した数々の資料、この地にあってこそのものと存じ、市なり県なりにご寄贈なさる方が……と申し上げておきました。

その通り、昨年、市にご寄贈され、ニュースになりました。市では市立図書館で展示及び氏の講演会も開催。

ご講演を拝聴し、まだまだお元気で、安心していたのですが……。

記事にある「彫刻通り」に関してはこちら。記事にはない、同市に建つ光太郎碑についても書いてあります。

さらに日本スリーデーマーチの件。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

花のひらくやうに おのづから、ほのぼのと ねむり足りて めざめる人 その顔幸(さいはひ)にみち、勇にみち 理性にかがやき まことに生きた光を放つ
詩「花のひらくやうに」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

やはり睡眠は大切ですね。このところ、コタツなどで数時間ずつ細切れに眠るという、余り良くない習慣が身についてしまっており、反省しています。

上記田口弘氏。永遠(とわ)の眠りに就かれました。しかし、戦時中、九死に一生を得たそのお命を、戦後はさまざまな方面で人々のために使われ、そして「終活」。まことに見事な生き様でした。

二度と目覚められることはありませんが、おそらくそのお顔は「幸(さいはひ)にみち、勇にみち 理性にかがやき まことに生きた光を放」っているのでは、と存じます。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。同市の市立図書館で開催中の「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」を拝見、さらに講演を拝聴して参りました。田口弘氏は同市の元教育長。戦時中から光太郎と親交のあった方です。

イメージ 1


イメージ 2

イメージ 3


開館と同時くらいに現地に到着、まずは展示を拝見しました。

イメージ 4

入ってすぐが光太郎肉筆資料のコーナー。書や書簡等がガラスケースに並べられています。以前に田口氏のお宅ですべて拝見しましたが、きれいに並べられていると、また違った見え方がします。

イメージ 5

イメージ 11

書簡の大半は、戦後の花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)からのもの。山小屋暮らしの一端が垣間見え、興味深いものです。

例えば昭和25年(1950)2月の封書。欄外に「積雪の重みで電燈は断線、小さな物置小屋はつぶれました、」などとさりげなく書かれています。

一通のみ、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、再上京して居住した中野のアトリエからのハガキがあり、そちらでは乙女の像の制作にも触れられています。

仕事のことに没頭してゐるため、ついお便りを書くことさへのびのびとなつてゐました、仕事の方は着々進んで居ります、

周囲の壁には、花巻高村光太郎記念会さんご提供の写真画像(山小屋生活の様子、乙女の像など)が引き延ばされて貼られており、理解が助けられます。

会場奥は、光太郎に関わる元の田口氏蔵書。光太郎本人から送られたサイン入りのものから、平成に入ってからのものまで、さまざまです。光太郎から贈られたものについては、その小包の包み紙や鉄道荷札まで保存されており、一緒に展示されていました。

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

また、昭和58年(1983)、田口氏のお骨折りで市内の新宿小学校に建立された光太郎書を刻んだ「正直親切」の碑の画像、その元となった光太郎の書(複製/花巻高村光太郎記念会提供)、さらに田口氏、光太郎本人と交流のあった彫刻家・高田博厚のコーナーも設けられていました。

イメージ 6

同館ではここまでがかりな企画展示は初めてとのことでしたが、なかなか充実した展示でした。


その後、展示会場と隣接する視聴覚ホールにて、田口氏のご講演。教育委員会の方もご登壇し、インタビュー形式でのお話でした。「矍鑠(かくしゃく)」という表現が適当かどうか分かりませんが、大正11年(1922)のお生まれで、おん年94歳の田口氏、ユーモアを交えながら、非常に貴重なお話をご披露されました。

イメージ 7

昭和24年(1949)8月、復員後、中学校教諭をなさっていた氏は、二度目の太田村ご訪問をなさいました。この年の大半の光太郎日記は現存が確認できないのが残念です。その際に氏と同道した当時の教え子お三方のうちのお一人、馬橋旭氏も会場にいらっしゃり、思い出をお話下さいました。

イメージ 8

イメージ 9

午後は、同じ会場で昭和42年(1967)公開の中村登監督・岩下志麻さん、丹波哲郎さんコンビによる松竹映画「智恵子抄」の上映がありました。ただ、以前にも観たことがありましたし、他の用件もあったためそちらはパスしました。いずれまたゆっくり拝見したいとは思っております。


同展は28日(日)まで開催中。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん
制作年不詳

昨日に引き続き、昭和5年(1930)頃に制作された木彫「白文鳥」を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。こちらは、画像左の雌の方に添えられたものです。

雌雄を比べてみると、ぱっちりと眼を開けている雄に対し、雌の方はやや眼を細めています。

イメージ 10

先頃、埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が、書簡や書など光太郎関連資料を寄贈された件がニュースになりました。地元テレビ局・テレ玉さんの報道がこちら。『東京新聞』さんと『毎日新聞』さん、そして『産経新聞』さんはこちら

少し遅れて先週、『朝日新聞』さんの埼玉版にも記事が載りました。

埼玉)高村光太郎の書簡、元東松山市教育長が寄付

005 元教師で、東松山市教育長を長く務めた田口弘さん(94)が先月、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883―1956)から届いたはがきや封書、色紙、直筆サイン入り全集など約100点を市へ寄贈した。書簡は主に戦中戦後、田口さんが高村に送った自作の詩や食料品に対するお礼状で、高村の誠実な人柄がうかがえる。
 田口さんは旧制松山中学に在学当時、国文学者だった恩師の影響で高村研究を始めた。師範学校専攻科で、新聞や雑誌に載った高村の記事や作品をノートに書き写すなどして卒業論文にまとめた。44年4月、その恩師に連れられて高村を訪ね、論文を見せたところ、「僕より僕のことを知っているね」と言われたという。
 「すでに『智恵子抄』などを発表した著名人だったのに、初対面の学生の論文を丹念に読んでくれた」と感激した田口さんは、ますますファンに。海軍軍属として南方戦線へ赴く直前に会うと、「世界はうつくし」など色紙2枚を書いてくれたという。田口さんはインドネシアで捕虜生活をおくりながら詩作に励み、「ジャワ抄」にまとめた。
006 復員後、岩手県の疎開先へ高村を訪ねた田口さんが、戦地で色紙を失ったことをわびると書き直してくれた。新制松山中学の教諭となった田口さんは、その後も妻が編んだ靴下や高村が好物の練乳など食料品を送り続け、生まれた長男には「光夫」と名付けた。
 練乳に対して高村は「かかる乳製品の貴重なものを老人がいただくのは世の嬰児達(えいじたち)に相済まぬ気がいたしましたが」「紅茶に入れたり、うすめて朝ののみものにしたり、パンをつくったりしてよろこんで居(お)ります」と封書をしたためた。
 田口さんが送った作品には「立派なものです。新鮮で、ほんとの感じに満ちてゐます」などと評し、「ジャワ抄」で田口さんが用いた「カンポン」(集落)という現地語を返礼のはがきの文面に使うなど気遣いも随所に見せている。
 田口さんは「高村は今も、私の生き方の教科書。若い時代の出会いが人生を決める。寄贈する書簡で、若い人が高村の崇高な人間性にふれてくれれば」と話す。市は書簡を市立図書館に所蔵し、8月10日から公開することにしている。(西堀岳路)

記事にある「ジャワ抄」は正しくは「ジャワ詩抄」。田口氏手製の詩集です。


記事にある市立図書館での公開及び田口氏の講演会について、市の広報誌『広報ひがしまつやま』の今月号に、案内が掲載されました。 

高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~

期 日 : 8月10日(水)~28日(日) 
会 場 : 東松山市立図書館3階展示室 東松山市本町2-11-20
時 間 : 午前9時30分~午後7時
休館日    : 第4月曜日

講演会
期  日 : 8月21日(日)午前11時~11時45分
会  場 : 市立図書館3階研修室
講  師 : 田口 弘 氏
定  員 : 50人(申込順)
申込み 8月5日(金)から直接又は電話で市立図書館へ。[TEL] 0493(22)0324

イメージ 3

『広報ひがしまつやま』、さらに田口氏と光太郎の関わりについての記事も掲載されています。

イメージ 4

当方も講演会にはお邪魔しようと考えております。

展示される資料も、光太郎自筆ハガキ以外にも、筑摩書房『高村光太郎全集』の口絵を飾った書や、それらが贈られた際の小包の包装紙、鉄道荷札などもあるはずで、光太郎の息吹がありありと感じられる逸品ぞろいです。ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

つつましく手にはふ小蝉ぢぢとなきたちまち飛びて青空に入る

大正13年(1924) 光太郎42歳

過日ご紹介した、埼玉県東松山市の元教育長で、生前の光太郎をご存じの田口弘氏から、市へ光太郎の肉筆資料等のご寄贈があった件、新聞三紙で紹介されているのがネットで確認できました。

まずは『東京新聞』さんの埼玉版。 

光太郎との絆、後世に 東松山の田口さんが書簡など市に寄贈

 「道程」「智恵子抄」などで知られる001詩人で彫刻家の高村光太郎(一八八三~一九五六年)の晩年に交流があった東松山市の元教育長田口弘さん(94)が二十四日、光太郎からの書簡や書など約百点を市に寄贈した。直筆の書簡十通はどれも、四十歳近く年下の田口さんに細かい気遣いを見せる誠実な人柄をしのばせる。田口さんは「高村さんに関心を持つ若い人の研究のために少しでも役立てたい。高村さんの高い精神にぜひ触れてほしい」と話している。

 田口さんは旧制松山中学(現松山高校)三年のとき、国語教師だった柳田知常氏(後に金城学院大学長・故人)の授業で光太郎の詩に触れた。以来、新聞・雑誌に掲載される光太郎の詩や随筆のスクラップを始め、入手できなかった「道程」を柳田氏から借りて全文をノートに書き写すなど、光太郎にのめり込んだ。

 田口さんは進学した大泉師範学校専攻科(現東京学芸大)で卒業論文「高村光太郎研究」をまとめ、一九四四年春、師事を続けていた柳田氏に連れられて東京・駒込のアトリエで初めて光太郎に会う。光太郎は卒論を一ページずつめくりながら「私のことを私よりも知っているね」と笑みを浮かべたという。初対面の学生にもていねいに接する光太郎に、田口さんは感銘を受けた。

 田口さんは占領地域で日本語を教える海軍教員として南方への赴任が決まった同年夏、光太郎のアトリエを訪ね「世界はうつくし」「うつくしきもの満つ」の書をもらったが、同年十二月、乗っていた輸送船がフィリピン沖で米軍に撃沈され、書は多くの仲間とともに沈んでしまった。今回、市に寄贈した同じ言葉の書は四七年、岩手県太田村(現花巻市)山口の山小屋に光太郎を訪ね、再び書いてもらったものだ。

 四五年から七年間、雪の吹き込む粗末な山小屋で独居生活をしていた光太郎。戦中に戦争協力詩を多く発表したことへの自省の念から、とされる。田口さんは勤めていた松山中学の教え子を連れて会いに行ったり、足が十三文(約三十一センチ)と大きく、既製品の靴下が買えない光太郎のために、妻の手編みの靴下を送るなどの交流を続けた。

 四八年に届いたはがきには「『ジャワ詩抄』は今も小生の机上にあります。山口部落(カンポン)にて」とあった。ジャワ詩抄は田口さんが復員前のインドネシアの収容所で書いた詩をまとめ、光太郎に送った詩集のタイトル。「カンポン」は詩集の中に出てくるインドネシア語の「村」の意で「あなたの詩集をちゃんと読んでいますよ」という温かい心遣いだった。

 旧制中学時代の田口さんのスクラップノート五冊は詩人の草野心平に貸し出され、草野が編集を担当して五一年から刊行された「高村光太郎選集」(全六冊)に役立てられた。光太郎は「あなたの切り抜きのおかげ」と、自ら包装した小包で配本のたびに送ってきたという。

 田口さんは「詩人、芸術家としての立派さだけでなく、人間として生きる(志の)高さ、誠実な生き方をした人だった」と振り返った。

 市は寄贈された書簡などを八月十~二十八日、市立図書館で一般公開する。森田光一市長は「素晴らしい市の宝として大切にしていきたい」と述べた。


続いて『毎日新聞』さん。こちらも埼玉版に記事が出ました。 

高村光太郎の書や交流書簡 元教育長の田口弘さん、東松山市に全資料 市立図書館収蔵、8月10日から一般公開 /埼玉

「誠実な生き方も次世代に伝えたい」 002
 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と親交があった元東松山市教育長で同市在住の詩人・田口弘さん(94)が24日、高村の書や交流書簡などを同市に寄贈した。寄贈品は同市立図書館に収蔵され、8月10~28日に一般公開される。森田光一市長は「東松山出身の梶田隆章先生のノーベル物理学賞受賞に続き、市の宝がまた一つ増えた」と感謝した。

 1922(大正11)年生まれの田口さんは旧制松山中(現県立松山高)3年の時、国語教師だった恩師から高村のことを教わり、その作品と芸術への取り組み方に魅せられるようになった。高村が書いたり、紹介されたりした新聞や雑誌の記事をもらさずスクラップしたノートは5冊を数える。
 教師を養成する当時の東京府大泉師範学校に進学後も研究を続け、卒業前に論文「高村光太郎研究」にまとめると、恩師と東京・駒込のアトリエに高村を初めて訪ねた。38年に妻の智恵子さんを亡くし「智恵子抄」で多くの人々の心をとらえていた高村は39歳離れた学生の論文に目を通し、「私よりも私のことを知っている」とユーモアを交えて語った。田口さんは高村のこまやかな心遣いに感銘を受け、卒業後、日本軍占領地で住民に日本語を教える海軍軍属になることが決まって出発する前にもアトリエを訪ねた。
 高村は45年の東京空襲で焼け出され、宮沢賢治の弟・清六の招きで疎開した岩手・花巻の宮沢家でも花巻空襲で再び焼け出された。花巻郊外の粗末な小屋で7年間に及ぶ農耕自炊の生活を送った高村を、46年に復員して現在の東松山市立中の美術教師となった田口さんが訪ねたのは47年。49年には中学3年の教え子3人を連れて再訪した。
 52年に帰京するまで冬は雪が吹き込む小屋で農耕がてら詩を作っていた高村に、田口さんは誕生日の贈り物などとして妻手作りの毛糸の靴下や練乳などを送り続けた。
 今回寄贈したのは、その時の礼状を含めた高村直筆の封書2点やはがき8点、訪ねた際に書いてもらうなどした書幅4点に、関連書籍を加えた約100点。封書やはがきの字は能筆でも知られた高村らしく、丁寧でバランスも良い。
 田口さんは、49年に受け取った「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」という書を掛け軸にして特に大切にしてきた。高村は、同封した手紙に新約聖書の中で「感激」した言葉を書いたと記していた。
 田口さんは「私たちがもし、見たいと思っているものがあるなら、それはすぐに見えるものではないのだから、じっと我慢して生活する中で見つめ続けていれば体得できるという意味でしょう」と説明し、「私がキリスト教徒で、詩を書いていることをご存じだったので、『芸術を志す者は忍耐強く、自分の願っているものを終生求めなさい』という励ましを込めた言葉」と受け止めている。
 日教組中央執行委員や県教組委員長などを経て76年から同市教育長を16年間務めながら詩を書き続けてきた田口さんは「青春時代の出会いは大事。高村さんと実際に会って目を開かされた者として、詩人として立派というにとどまらない、その誠実な生き方も次世代に伝えたい。そのために役に立てば、という思いで全ての資料を寄贈しました」と話している。


最後に『産経新聞』さん。やはり埼玉版です。 

高村光太郎の書簡など寄贈 東松山の元教育長、市へ100点 埼玉

 東松山市の元教育長で詩人、田口弘さん(94)が、親交のあった彫刻家で詩人、高村光太郎(1883~1956年)の書簡や書幅など約100点を同市に寄贈した。田口さんは高村と3回面会し、書簡をやりとりするなど高村が亡くなる直前まで細やかな交流が続いた。市は書簡などを市立図書館で所蔵し、今夏一般公開するほか、高村の誕生月の3月に毎年公開する予定だ。
                   ◇
 田口さんは旧松山中在学中に恩師の柳田知常さんの指導で高村を研究。昭和19年、東京府大泉師範学校の卒業論文で高村論を書き上げ、柳田さんに連れられて東京・駒込のアトリエを訪問。初めて会った高村は論文を繰った後、「僕以上によく知っていますね」と笑顔を見せたという。
 その後、田口さんが海外教員として戦地に赴任する際に高村から書を贈られるなど交流は続いた。詩人、草野心平が編纂した「高村光太郎選集」(中央公論社、全6巻)では、田口さんが中学時代から切り抜いた新聞スクラップなどの高村研究ノートが資料として生かされた。
 書簡は昭和23年から高村が亡くなる3年前の同28年まで、直筆はがき8点、直筆封書2点の計10点。田口さんが書いた詩の感想や贈り物への謝礼、日々の暮らしなどが簡潔に綴られている。さらに、直筆の色紙や掛け軸など書幅4点、高村の署名入り同選集など貴重な書籍が寄贈された。
 田口さんは「高村さんは誠実な方でした。半歩でも一歩でも近寄りたいと願い、おぼつかないが生涯の弟子として生きてきた」と述懐。思い出の品の寄贈について「現物で高村さんが生きているんだと紹介できる。青春時代の文学青年は出会いが一番大事。出会いがないと目が開かれない」と話した。このほか、彫刻家、高田博厚(1900~1987年)の彫刻「萩原朔太郎青銅像」(昭和49年制作)1点も寄贈した。
 同図書館は8月10~28日、書簡などを一般公開する。同21日には田口さんの展示品解説を含めた講演会も開かれる。問い合わせは同図書館(電)0493・22・0324。

その他、東松山市さんの公式ツイッター、市長の森田光一氏のブログにも記述がアップされています。ご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

わが船の鳴く声きけばわがこころ神戸の水戸に血をしぼり泣く

明治42年(1909)頃 光太郎27歳頃

明治42年(1909)の今日、光太郎は約3年半の海外留学を終え、日本郵船の阿波丸に乗って、神戸港に到着しました。

欧米で世界最先端の芸術をまのあたりにし、日本美術界とのあまりの落差を感じて、これから始まる自らの苦闘を予感して作った歌です。

イメージ 3

埼玉県のローカルテレビ局、テレ玉さんが昨日報じたニュースです。

高村光太郎と親交があった男性 直筆書簡などを寄贈

詩人、彫刻家として知られる高村光太郎と親交があった男性が高村光太郎から送られた書簡や書籍など100点あまりを東松山市に寄贈しました。東松山市役所を訪れたのは、市内在住で、市教育長を17年間務めた田口弘さん(94)です。田口さんは、旧制中学時代に高村光太郎の研究をはじめ、その時に使っていたノートが「高村光太郎選集」の編集に資料として使われたことから、20歳の頃に高村光太郎と出会い、高村から詩集を贈られるなど交流を続けました。「高村光太郎がライフワーク」と話す田口さんが集めた書籍およそ80冊や直筆の書簡、掛け軸など、およそ100点が寄贈されました。東松山市の森田光一市長は、「市の宝として、多くの人に見てもらえるようにします」と感謝の意を述べました。田口さんから寄贈された書籍などは、8月10日から28日まで市立図書館で一般公開されるということです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7


田口氏は記事にもあるとおり、東松山市の教育長を永らく務めた方です。その間、今も同市で開催されている日本スリーデーマーチの誘致、運営や、東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻通り」の整備などにも力を注がれました。「彫刻通り」は光太郎と縁の深かった故・高田博厚の作品――光太郎胸像を含む――を屋外設置したものです。また、やはり氏のお骨折りで、市立新宿小学校さんには、光太郎の筆跡を刻んだ「正直親切」の石碑が昭和58年(1983)に建立されています。

当方、昨年、東松山の田口氏のご自宅を訪問させていただきました。かつて光太郎命日の集い・連翹忌にご参加いただいていましたが、最近はご高齢のため遠出は不可能とのことで、ご欠席が続いており、10年ぶりくらいにお会いしました。その際のレポートがこちら。氏と光太郎の縁や、今回寄贈された品々の簡単な解説も載せてあります。

その折に、その品々の寄贈先についてのご相談も受けました。当会に寄贈、というお話もあったのですが、それよりも地元のお宝として、市に寄贈されるか、花巻の高村光太郎記念館さんなどの施設に寄贈されるかした方が良いでしょうというお話をして参りました。結局、市に寄贈なさったというわけです。

過日、東松山市立図書館さんから光太郎関連資料の寄贈を受けた旨、メールを戴きました。その中の書簡一通についてのご質問でしたが、個人情報保護の観点からでしょう、最初は田口氏の名は書かれていませんでした。しかし、「東松山」「光太郎」「寄贈」で、田口氏だとピンと来ました。はたしてその通りだと追伸のメール。ただ、失礼ながらお年がお年ですので、亡くなられ、ご遺族からの寄贈かとひやっとしましたが、それは違うとのことで安心しました。

テレ玉さんで、市立図書館さんでの公開については触れられていましたが、さらに会期中に田口氏ご本人の講演も企画されているとのことです。戦後の光太郎をご存じの方はまだ多くご存命ですが、花巻疎開前の駒込林町アトリエ時代をご存じの方はめっきり少なくなりました。非常に貴重な証言が聴けるはずです。

東松山での展覧会については、詳細が出ましたらまたご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

稲妻や旅の靴ぬぐ夕まぐれ        明治42年(1909) 光太郎27歳

そろそろ梅雨も終わりに近づいています。そうすると大気の状態が非常に不安定。九州などでは豪雨の被害も出ています。雷や突風、低い土地への浸水など、十分お気を付け下さい。

↑このページのトップヘ