三山春秋 詩人の室生犀星が萩原朔太郎を訪ねて来たのは...
光太郎に朔太郎、犀星。年齢的には光太郎が最年長の明治16年(1883)の生まれ、次いで明治19年出生の(1886)の朔太郎(智恵子と同年です)、そして犀星が最も若く明治22年(1889)の生まれです。
光太郎は朔太郎、犀星とはそれほど親しかったわけではありませんでしたが、「三山春秋」にあるとおり、二人が駒込林町のアトリエに揃って訪ねてきたことがあり、その件は犀星の随筆「天馬の脚」(昭和4年=1929)に述べられています。
それによれば犀星の光太郎評は「裏側へのびてゆく奥の深い人である。小説を書いてゐたら別の意味の志賀君のやうな人になつてゐたらう。物を研め考へることは当今の文人の比ではない。話をしてゐても気取らず平明で、それでゐてある程度まで他人を容れない冴えをもつてゐる。」「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騒がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、青年の峠を通り抜けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出来であつた。」。そして帰り道、犀星が朔太郎に「かうして高村君を君と訪ねてかへると一寸若くなつたやうな気がするね。」すると「萩原も笑ひながら、いろいろな意味でねと言つた。」
当方、朔太郎に関してはあまり詳しくないのですが、朔太郎もこの際の訪問記的なことを書いているのでしょうか。御存じの方、御教示いただければ幸いです。
しかし犀星、光太郎歿後に書かれた『我が愛する詩人の伝記』(昭和33年=1958)では、光太郎をディする方向に梶を切っていますが……。
光太郎にとっての「益者の友」といえるのは、同年生まれだった水野葉舟、そしてちょうど20歳下でしたが、当会の祖・草野心平でしょうか。
無理くりですが、今日は「成人の日」。新成人の皆さんも、「益者の友」といえる友を得て、人生を豊かにしていっていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
フキノタウは三里塚の土の香りをなつかしいと思ひました。こちらでも此頃やうやく雪の下からフキノタウを発見しました。出はじめれば無限にあるわけです。 いただいたのは早速蕗味噌に作つて賞味します。
光太郎もたびたび訪れた千葉三里塚に隠棲していた葉舟からフキノトウが送られ、その礼状の一節です。温暖な房総と雪深い花巻郊外旧太田村では、春の訪れが何ヶ月もずれます。当方も今月末に房総から花巻郊外旧太田村に足を運ぶ予定でいますが、その点のみが気の重いところです。