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昨日までレポートしておりました青森十和田での、花巻市太田地区の皆さんと、十和田湖関係者の方々の交流会の様子が、地元紙2紙で報道されています。十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会の方に、画像ファイルを送っていただきました。

まずは『デーリー東北』さん。先月30日に載りました。

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生前の光太郎をご存じという方はやはり貴重な存在で、浅沼隆氏の談話が光っています。当方の談話も載せて下さいました。


続いて『東奥日報』さん。こちらは昨日、掲載されたとのこと。

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こちらにも浅沼さんの談話が。六十数年前の思い出です。

浅沼さんといえば、一昨年にNHKEテレさんで放映された「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」にも出演していただきました。

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これからも光太郎の語り部として、ご活躍なさっていただきたいものです。


それにしても、偉人の顕彰には、こうした草の根の市民運動が欠かせません。今回の交流会の企画運営に当たられた皆さんの御努力には頭が下がります。そして、こうした輪が、もっともっと広がっていってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月2日

昭和55年(1980)の今日、箱根彫刻の森美術館で「第1回高村光太郎大賞展」が始まりました。

同館他の主催で、現代具象彫刻の振興を企図して始められ、抽象彫刻を対象とした「ヘンリー・ムア大賞」と隔年で、昭和59年(1984)の第3回展まで開催されました。

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1泊2日の青森レポートの最終回です。000

7月29日(水)、午前10時過ぎに、岩手花巻から太田地区振興会の皆さん40数名が、大型バス1台でご到着。皆さん、そろいのTシャツに身を包まれていました。背中には光太郎の言葉、「心はいつでもあたらしく」。筆跡も光太郎のそれです。

一行を率いる会長の佐藤定氏は、生前の光太郎をご存じで、秋に福島二本松で行われる智恵子命日の集い「レモン忌」にもご参加下さっています。さらに連翹忌にもご参加下さっているやはり生前の光太郎をご存じの浅沼隆氏、いつもお世話になっている㈶花巻高村光太郎記念会事務局の方々、他にも見知った顔が見えました。

迎えるは十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さん、十和田湖国立公園協会さん、十和田湖観光婦人部さんの方々です。

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早速、観光交流センター「ぷらっと」内で、交流会が始まりました。

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主催者として、観光ボランティアの会の小笠原会長のご挨拶。小笠原会長は、蔦温泉売店のご主人もなさっています。さらに歓迎の挨拶、訪問の挨拶など、和気藹々とした雰囲気で進行しました。

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当方の講話の時間も取っていただきましたが、短時間でしたので、「ぷらっと」内部の見学の時間を十分に取っていただこうと思い、とりあえずレジュメは作っておいて、「詳しくは後で読んでおいて下さい」的な感じでさっさと切り上げました。

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「ぷらっと」内では、昭和28年(1953)の乙女の像除幕式を撮影したフィルムをデジタル化した映像が見られます。また、観光ボランティアの会の方が、今春刊行された書籍、『十和田湖乙女の像のものがたり』に使った古写真等をパネルにしたものをお持ち下さったので、そちらも並べて見ていただきました。皆さん、興味深そうにご覧になっていました。

その後、遊覧船に乗船。船内で昼食。朝方はまだ雨がぱらついていましたが、この頃になるとすっかり晴れました(東北北部もこの日には梅雨明けが宣言されています)。湖上を渡る風が爽快でした。

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こちらは船上からの乙女の像です。

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下船後、観光ボランティアの会の皆さんに案内していただき、乙女の像へ。大半の方は、初めてではないということでしたが、久しぶり、という方が多かったようです。浅沼さんなどは、50年ぶりとおっしゃっていました。

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その後は十和田神社に参拝、さらに土産物購入を兼ねて、十和田湖観光婦人部会長の森田玲子さんのお店などへ。さらに花巻の皆さんは再びバスに乗って、奥入瀬渓流に向かわれました。

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当方は十和田湖で花巻の皆さんを見送った後、十和田の一行とも別れ、レンタカーを駆って、新幹線に乗車すべく八戸へ向かいました。

青森の道路も、昔、やはりレンタカーで走った北海道の道路に似ていると思いました。距離感の部分が、です。交差点を曲がり、カーナビが「この先、しばらく道なりです」と言うので、「『しばらく』ってどのくらいだ?」と突っ込みを入れながら画面を見ると、「41.5㎞」だったり、その40㌔以上の間にすれ違った対向車が10台たらずだったり、コンビニが1軒もなかったり……。おかげで予定よりだいぶ早く八戸に着き、先払いだったレンタカーの料金が返ってきました。ラッキーでした。

そうそう、こちらは花巻の方に戴いたお土産です。

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花巻にある「パティスリー アンジュ」という洋菓子店の商品です。このお菓子が発売されたことや、お店の大体の場所は存じていましたが、まだ行ったことも買ったこともなかったので、ありがたく思いました。素朴な味のクッキーです。

というわけで、有意義な青森旅行でした。次の遠出は来週末。またまた東北で、宮城は女川に行って参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月1日

昭和5年(1930)の今日、光雲が主任となって皇居前広場に建てられた「楠木正成銅像」を額面部分にあしらった官製葉書が発行されました。

当初は額面1銭5厘。その後、デザインや額面金額の改定を経ながら、昭和21年(1946)まで発行されました。

当方、光太郎の自筆葉書を30通ほど持っていますが、そのうちの10通がこの葉書です。下記は昭和17年(1942)、詩人の神保光太郎に宛てたものです。

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青森レポートの2回目です。

7月29日、定宿にしている十和田湖山荘さんで、朝、5時前に目覚めました。それでも前夜8時過ぎには眠ってしまったので、睡眠時間は十分です。旅先ではいつもこんな感じです。早速、温泉で朝風呂。その後、朝食は7時半ということなので、その前にいったん宿を出て、あちこち動きました。今回はレンタカーを借りていたので、少し足が伸ばせます。

まず、何はなくとも湖畔の乙女の像。前日は宿に伝えてあったチェックイン予定時刻を過ぎての十和田湖到着で、もう日も暮れていましたので、行っていませんでした。親子連れなど、他にもすでに散策している人がいましたが、いつもの昼間のように混雑はなく、ゆっくり見られました。

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波打ち際には鴨がのんびりと餌を探していました。

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さて、像と対面。昨秋以来、9ヶ月ぶりです。

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その顔は、やはり智恵子を彷彿とさせられます。

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そして若き日に作ったブロンズの「手」にも通じる像の手。

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光太郎は、二人の像の間にできるこの空間に注目してほしい、と語っていました。

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少し引いて、平成6年(1994)に建立された「十和田湖畔の裸像に与ふ」詩碑を通しての眺め。

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こちらが詩碑の碑面。

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その後、近くの十和田神社に参拝、道中安全と、この地の平安を祈願しました。

まだ朝食までには時間があるので、やはり湖畔の宇樽部地区に車を向けました。ここには「東湖館」という宿がかつてあり、昨日レポートした浅虫温泉の「東奥館」同様、光太郎が昭和27年(1952)の下見の際に1泊、乙女の像の除幕式があった翌28年(1953)にも1泊しています。除幕の際は日記には「宇樽部泊」としか書いていないのですが、おそらくここでしょう。

浅虫の「東奥館」はもはや建物自体なくなっていますが、宇樽部の「東湖館」は、昭和50年代ぐらいで営業はやめたものの、当時の建物が残っています。そうと気づかずに何度かその前を通っていたのですが、今回、事前に調べてそれを知り、見に行くことにしていました。

乙女の像のある休屋地区から5㌔㍍あまり、ものの数分で着きました。平成18年(2006)にトンネルが開通したためです。

こちらが東湖館です。

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看板も残っていました。「A級旅館」とあります。当時の格付けでしょうが、それに恥じない立派な造作です。大正13年(1924)の建築で、皇族方や大町桂月なども宿泊したとのこと。また、昭和42年(1967)公開、加山雄三さんや司葉子さんが出演された映画「乱れ雲」のロケに使われたそうです。監督は成瀬巳喜男。前年には「智恵子抄」をモチーフに使い、安達太良山の麓の福島県本宮を舞台にした「こころの山脈」(山岡久乃主演)の監督も務めています。不思議な縁を感じました。

9/3追記「こころの山脈」は吉村公三郎監督でした。まちがいました。

周囲を歩いていろいろな方向から撮影しました。非常にいいレトロな感じです。せっかくの由緒ある建物ですが、現在は廃墟。何とか有効活用する方法はないものでしょうか。

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↓おそらくこの棟に光太郎も宿泊したのではないかと思いました。

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昭和27年(1952)の下見は6月17日。前夜は蔦温泉に1泊し、この日は船で十和田湖を一周しました。翌日も湖を船で渡り、秋田県側の和井内でヒメマス養殖場を見学、休屋の観光ホテルで1泊しています。

昭和28年(1953)の乙女の像除幕に際し、光太郎の近くにいて、下見にも同行したり、像の製作中も何くれとなく世話を焼いたりした草野心平が作った詩「高村光太郎」の一節です。

たしかにおれは十和田の宿屋での晩。智恵子の裸か000をつくろうと決めた。
  (略)
湖の。あの一種の絶景を見て。
あの絶景のなかへなら女の裸をつくりたいと。
それはほんとうにそう思つた。
そしてその晩。
自分の部屋へもどつてきて。電気を消して。
独り寝つかれずにじつとしていたとき。智恵子はおれにささやいた。
この湖のほとりなら。あたくしをつくつて下さい。
そんなささやきをきいた思いをおれがして。いや。おれがきつぱり決めたので智恵子がそんな気持ちになつたのかもしれなかつた。
  (略)
あの十八のモデルのからだを媒体にしておれは智恵子の精神をつくる。
精神は肉体であるその実在を。
かたちにする。


この「十和田の宿屋」というのが、東湖館か、翌日に泊まった休屋の観光ホテルのどちらかです。

追記 東湖館、平成29年(2017)に解体されてしまいました。残念です。

東湖館の前はすぐ湖畔です。

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さて、東湖館を後に、十和田湖山荘に戻りました。帰りはトンネルのできたバイパスでなく、光太郎も車で通ったであろう御倉半島を通る旧道を使いました。途中にあったキャンプ場から撮った宇樽部の集落がこちら。

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さて、宿に戻って朝食、チェックアウト。メインの目的である岩手県花巻市太田地区振興会の皆さんと、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流会に向け、ふたたび休屋地区に車を走らせました。

会場となっている十和田市の施設「十和田湖観光交流センターぷらっと」に車を駐め、まだ時間があるので周囲を散策しました。

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「ぷらっと」の向かいにある「喫茶憩い」。先日のこのブログでご紹介しましたが、NPO法人十和田奥入瀬郷づくり大学でガイドを務める蝦名隆さんが貸し出した光太郎関連の蔵書が並んでいます。残念ながらまだ開店前でしたので、外から撮らせていただきました。

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秋田県寄りに建つ「十和田ビジターセンター」。初めて足を踏み入れました。

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動植物など、自然科学系の展示がメインなのですが、一角に古い写真が展示してありました。

乙女の像、建立当初の数年間、厳冬期には雪囲いをしていたという話は知っていましたが、このようにしていたと初めて知りました。当方のイメージとは違いました。

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女優の原節子さんが写っている写真もありました。原さんといえば、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)での智恵子役です。十和田湖にもいらしていたのか、と驚きました。


花巻の皆さんが到着する時刻が近づきましたので、いざ、「ぷらっと」へ。以下、また明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月31日

昭和30年(1955)の今日、茨城に住む実弟の藤岡孟彦から鉄道便で桃が届きました。


孟彦は光雲の四男ですが、藤岡家に養子に行きました。植物学を修め、戦後には茨城県の鯉淵学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。

旧制一高時代には明治の文豪・大町桂月の子息で、昆虫学者となった大町文衛とも机を並べています。大町桂月と言えば、乙女の像は、本来、桂月ら、十和田湖を広く世に紹介したりした三人の顕彰モニュメント。不思議な縁を感じます。

一昨日から昨日にかけ、1泊2日で青森に行って参りました。今日明日明後日でレポートいたします。

一昨日、東京駅発10時20分のはやぶさ13号(この列車を利用することが多々あります)に乗り込み、目指すは新青森駅です。そもそもの第一目的は、昨日行われた岩手県花巻市太田地区振興会の皆さんと、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流会に参加することでしたが、ついでに現地調査を、と考えておりました。

13時30分には、新青森駅に到着。予約していたレンタカーを借り、まずは青森市民図書館さんに向かいました。こちらには、地元紙『東奥日報』のマイクロフィルムが揃っており、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の関係で光太郎が青森を訪れた際の記事などを調べるのが目的でした。1年前には青森県立図書館さんに行き、昭和28年(1953)乙女の像除幕前後の記事などはコピーしてきたのですが、その時は時間がなく、昭和27年(1952)に、十和田湖の下見に行った際の記事などを調べることができませんでしたので、今回はそのリベンジでした。

乙女の像の建立は、当時の青森県知事にして太宰治の実兄、津島文治の肝煎りだったためか、下見の際にも記事が何度も出ていました。同行した草野心平の寄稿なども載っていました。

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さらに像の制作にかかっている最中の、昭和28年(1953)元日の紙面には、東京支局の記者による中野のアトリエ訪問記。こちらには光太郎の長い談話も収録されています。

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また、見出しには「乙女」の語。「乙女の像」という通称がいつ頃から使われるようになったのか、実は不明です。除幕された昭和28年(1953)10月の段階で、光太郎自身が青森市の野脇中学校で行った講演の中に、「乙女の像」の語が既に使われていますが、その源流がここに見えるように思いました。今回の談話の中には、以下の記述があります。

大体自然を性で区別すれば湖というのは女性になるが、十和田湖の場合は乙女ともいうべきもので本当に『聖』そのものだ。

湖の景観の中に、光太郎は「乙女」の姿を見ていたのです。

ただし、「乙女の像」という語は、固有名詞ではなく、一種の普通名詞―「騎馬像」「仁王像」のように、像のジャンルを表す語―として、光太郎以外の彫刻家による若い女性の像全般に使われていた形跡もあり、はっきりしたことは何とも言えません。この前後、各地に「××の乙女の像」といった彫刻がいくつか見られるのです。ただ、現代ではそれらの大半は忘れ去られており、光太郎の「乙女の像」と他にあとわずかのみが生き残っているという感じです。

さて、青森市民図書館さんでの調査を終え、次に向かったのは同じ青森市の浅虫温泉。市中心部から東に15㌔㍍ほどのところにある温泉地です。

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ここにあった「東奥館」という旅館に、光太郎が宿泊しました。十和田湖下見の際の昭和27年(1953)に1泊、乙女の像除幕の際の昭和28年(1953)には3泊しています。東奥館自体は既に無くなっていることは事前にネットで調べて分かっていましたが、とりあえず光太郎の滞在した場所ですので、その息吹が感じられるかと思い、行ってみました。

浅虫温泉は、陸奥湾沿いに開けた温泉地です。大正5年(1916)、竹久夢二が文通していた青森の少女と逢うためここを訪れたとのことで、夢二の歌碑が建っていました。

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さて、めざす「東奥館」という旅館が何処にあったのか、わかりません。そこで聞き込みを開始。まずは現代風のホテルの前で、宿泊客の車の誘導に当たっていた男性に尋ねましたが、解りませんでした。「こういうことなら古くからここに住んでいそうな人に訊くのがよかろう」と思い、目についた和菓子屋に入りました。これがビンゴ。「あのあたりにありました」と教えられたのが、何のことはない、当方が車を駐めた広い駐車場のあたりでした。たまたまその店内には、浅虫温泉街の古い写真も飾ってあり、許可を得て撮影させていただきました。

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こんな風に聞き込みなどをしていると、何だか、内田康夫氏原作のシリーズに登場する探偵・浅見光彦になったような気分でした。そういえば、浅見も時折、旅先でレンタカーを使っています。しかし、浅見は行く先々で美人の地元新聞記者や、眉目麗しい地元観光協会の女性職員などと懇意になりますが、当方はそういう機会にめぐまれません(笑)。逆に、浅見と違って事件に遭遇することもないので助かっていますが(笑)。

さて、「東奥館」があったというのはこの辺り。そう思って見ると、やはり感慨深いものがありました。

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近くには元の東北本線だった「青い森鉄道」の浅虫温泉駅。足湯もありました。

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その後、一路、この日の宿の十和田湖へ。この日は東北北部はまだ梅雨明けが宣言されておらず、雨中の運転でした。宿は3度目の宿泊となる十和田湖山荘さん。

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1泊2食付きで7,660円。それでいて十和田湖名物のヒメマスや、B-1グランプリ獲得の「十和田バラ焼き」も出て、かなりお得です。

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温泉にゆっくり浸かり、旅先ではいつもそうですが、さっさと床につきました。

続きは明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月30日

大正2年(1913)の今日、光雲と共に東京美術学校に奉職し、同時に帝室技芸員を拝命した彫刻家、石川光明が歿しました。

石川は象牙彫刻で名を成しましたが、元々は神社仏閣の外装を手がける宮彫師の家系。のちに木彫に転じています。昨年から全国を巡回中の「超絶技巧! 明治工芸の粋」展でも、光雲作品と共に石川の作品も展示されています。

当方の住む千葉県香取市佐原地区の大祭は夏と秋、年に2回行われていますが、引き回される山車の彫刻の中に、石川の家系が関わったものが複数あります。

先ほど、青森方面1泊2日の行程を終えて、千葉の自宅兼事務所に帰り着きました。

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すみません。さすがに疲れました。詳細は明日以降、レポートいたします。

上記画像をご覧の上、内容をご想像下さい(笑)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月29日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を、盛岡の大村服飾学校の生徒、10名ほどが訪れました。

山林孤棲の生活を送る光太郎の生きざまに感銘を受けた岩手の教育者達が、たびたび生徒を連れて光太郎の山小屋や、近くの山口小学校を訪問し、光太郎の話を聴かせました。同校以外にも、やはり盛岡の生活学校、美術工芸学校、花巻町近辺の小中高校など。光太郎も若い世代との交流は喜んでいたようです。

大村服飾学校については、先月書いた「豚の頭を食う会」の記事をご覧下さい。

今日から1泊2日で、青森は十和田湖に行って参ります。

光太郎が昭和20年(1945)から7年間を過ごした、岩手県稗貫郡太田村(現・花巻市)の太田地区振興会の皆さん、約40名が、明日、研修旅行的に十和田湖を訪れ、光太郎最後の大作彫刻である「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を見、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流を図るそうで、それに便乗します。

乙女の像観覧の他、遊覧船でのクルーズ、昨秋開館した「十和田湖観光交流センターぷらっと」の見学などを行うそうで、「ぷらっと」で地元の方々との交流会が行われ、その席上、当方の講演もプログラムに組み込まています。

まぁ、どうしても当方が参加しなければならないというわけでもないのですが、当方、片雲の風に誘われて漂白の思いやまぬ百代の過客を自認しておりまして、自宅兼事務所にくすぶっていると、そぞろ神が心を狂わせ、道祖神の招きにあって取るものも手につかない状態になることがしばしばあり、表八句は残しませんが、行って参ります。

冗談はさておき、こういうご縁は大切にせねば、という思いがありますので。

ついでに青森市民図書館さんで調べ物、さらに現地ではレンタカーを借りますので、浅虫温泉やら十和田湖畔の宇樽部やら、光太郎の足跡の残る場所をたどろうと考えています(奥入瀬渓流や蔦温泉、八甲田山麓の酸ヶ湯温泉などには昨年、足を運びました)。

ところで、十和田といえば、先頃、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんの方から、地方紙『デーリー東北』さんのコピーを戴きました。先月の記事ですが、ご紹介します。

高村光太郎の図書貸し出し 蝦名さん、十和田湖畔の喫茶店に

 十和田市のNPO法人十和田奥入瀬郷づくり大学でガイドを務める蝦名隆さん(60)=三沢市=が、十和田湖を訪れる観光客に乙女の像の作者高村光太郎に親しんでもらおうと、関連図書約80冊を湖畔休屋の喫茶店「茶房憩」に貸し出した。年末まで同店に置く予定。
 蝦名さんが本を収集するきっかけは6年前、同法人のガイド養成研修を受講し、光太郎の像がなぜここにあるか説明できなければと思ったことから。
 最初は県内の古本屋を回って購入。最近はネット上での収集にも力を入れている。気軽に本を手に取ってもらえるようにと、喫茶店に設置を依頼。和紙が使われた1941年製本の「智恵子抄」の初版本をはじめ、全集や画集も含まれている。
 蝦名さんは「自分の本棚に飾っておくのももったいない。高村光太郎像が近くにあるので、寄ったついでに書に触れてほしい。光太郎のことを知って、好きになってくれればいいな」と十和田湖の活性化に期待を寄せた。

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蝦名氏とは、一昨年の智恵子の命日の集い・「レモン忌」でご一緒させていただきましたが、こういうことをなさったとは存じませんでした。素晴らしいと思います。また、こういう記事を載せて下さる『デーリー東北』さんも素晴らしいと思います。

ちなみに茶房憩さんは「ぷらっと」の向かい、遊覧船の桟橋広場の一角にある喫茶店で、当方も一度、花巻高村記念会の事務局の方とお邪魔したことがあります。今日か明日、余裕があればまた寄ってみたいと思っています。

というわけで、行って参ります!


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月28日

昭和23年(1948)の今日、茨城県取手町(現・取手市)の長禅寺に、光太郎が題字を揮毫した「開闡」(かいせん)郷土」碑が除幕されました。

取手には、戦前から光太郎と交流のあった詩人の宮崎稔が住んでおり、その父親で、地元の有力者にして文化人であった仁十郎も光太郎に親炙しました。その関係で、取手随一の古刹である長禅寺に建てられた碑に、光太郎の筆跡が使われました。

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他にも長禅寺には、やはり光太郎が題字を揮毫した「小川芋銭先生景慕之碑」(建立・昭和14年=1939)も現存します。

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当方が訪れた際、どちらも光太郎筆跡が使われていることが大々的に説明されておらず、ひっそりと建っていました。現在はどうなのでしょうか。

昨日同様、十和田湖でのイベント情報です。 

「みなとオアシス十和田湖認定4周年」記念イベント ワンコインで十和田湖 湖上遊覧一周ツアー

日 時 : 2015年7月20日 (月)祝日 “海の日”  午前9時~11時30分頃(約2時間半)
内 容 : 遊覧船での十和田湖一周湖上遊覧
      ※ 定期航路にないコースも運航(北岸、西岸を含む)
料 金 : 500円(当日、受付でお支払いください) 
       小学生以下は無料。ただし保護者同伴でご乗船下さい。
申 込
 : 往復はがきに住所氏名年齢電話番号を記入し、2015年7月5(日)午後5時(必着)
当選については返信がきにてご連絡いたします。はがき一枚で、二名様までご応募できます。
募集人員  200名 (応募者多数の場合は抽選によって決定いたします)
申 込 先 〒018-5501 青森県十和田市大字奥瀬湖畔休屋 486一般社団法人十和田湖国立公園協会内 湖上遊覧一周ツアー係 電話 0176-75-2425 FAX 0176-70-6002
URL http://www.towadako.or.jp/


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通常の遊覧船クルーズが、十和田観光電鉄さんの「十和田湖遊覧船」で1,400円、十和田湖遊覧船企業組合さんの「りんごのマークのゆうらん船」で1,100円。500円なら半額以下ですね。湖上から見る「乙女の像」も乙なものですし、通常の遊覧船コースに入っていない区域にも船が入ります。

昨年の様子がこちら。佐藤春夫作詞で、「乙女の像」を謳ったご当地ソング「湖畔の乙女」が地元合唱団の皆さんにより演奏されたそうです。今年もこういう企画があるのかどうか不明ですが。

前日と前々日は昨日ご紹介した「第50回十和田湖湖水まつり」。あわせて足をお運び下さい。青森、八戸、三沢など県内主要都市からのバス等については、十和田湖国立公園協会さんのサイトをご覧ください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月3日

平成13年(2001)の今日、茨城県取手市の埋蔵文化財センターで企画展「取手ゆかりの人びとの書」が開幕しました。

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取手には、戦前から光太郎と交流があり、戦後になって光太郎の仲立ちで、智恵子の最期を看取った智恵子の姪の長沼春子を娶った詩人の宮崎稔が住んでおり、その関係です。

やはり光太郎と交流のあった稔の父・仁十郎は取手の素封家にして文化人。日本画家・小川芋銭との交流もありました。

8月25日には、当会顧問・北川太一先生の講演「高村光太郎と取手」が関連行事として行われました。

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こちらは市の広報誌。当方も写っています(笑)。

昨日のこのブログで、大阪・御堂筋の光太郎彫刻、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・「乙女の像」)」の中型試作について書きました。

その流れで、本家「乙女の像」に関し、ご紹介します。

まず、昨日発行の十和田市広報誌、『広報とわだ』。「特集 『十和田湖再発見』」という記事が掲載されました。「乙女の像」も大きく取り上げられています。

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ネット上でPDFファイルとして公開されていますので、ぜひご覧下さい。「乙女の像」以外についても2ページ費やされています。

下の方には、昨秋オープンした観光交流センター「ぷらっと」について、さらに「第50回十和田湖湖水まつり」の告知も載っています。

湖水まつり、詳細情報を紹介しましょう。 

第50回十和田湖湖水まつり

十和田湖に夏の観光シーズン幕開けを告げるお祭です。
花火大会では遊覧船が運航し、日中はよさこい演舞やフリーマーケット等のイベントが湖畔で行われます。
ご家族、ご友人、カップルで十和田湖湖水まつりをお楽しみ下さい! 

期日 : 平成27年7月18日(土)・19日(日)
会場 : 十和田湖畔休屋
 青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋

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2日間ともに、「乙女の像」のライトアップがなされます。他にも花火、フリーマーケットなど、いろいろな企画が用意されています。

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昨年、「第49回十和田湖湖水まつり」にお邪魔しました。「乙女の像」をバックに夜空に浮かぶ大輪の花火は幻想的でした。下記はご案内下さった十和田市役所の山本氏の作品。

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当方、今年はその10日後に、昭和20年(1945)から光太郎が7年間を暮らした、花巻郊外太田村(現・花巻市太田)の地区振興会の皆さん約40名が十和田湖をご訪問されるのに同行、というか現地で合流しますので、湖水まつりは欠礼します。

皆さんはぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月2日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、給食の脱脂粉乳を飲みました。

当日の日記から。

ひる頃学校にて児童給食の粉ミルクをとかした牛乳の御馳走になる。脱脂粉乳の由なるが、味よろし。

現在製造されているものは品質も向上、味や匂い等何ら問題はないそうですが、この時代のそれは、不味いものの代名詞とまで言われていたものだったそうです。しかし、光太郎は「味よろし」とのコメント。

アメリカの支援により、日本の学校給食に供されるようになり、地方によっては1970年代前半まで出されていたそうですが、当方がその頃入学した東京の小学校では既に瓶の牛乳でしたので、飲んだことがありません。

昨日の『毎日新聞』さんの青森版に、先月、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集・発行の『十和田湖乙女の像のものがたり』を紹介する記事が載りました。

執筆はATV青森テレビさんのアナウンサー・川口浩一氏。同書に「十和田湖と「乙女の像」を巡る人々(国立公園指定八十年に寄せる)」を寄稿なさっています。

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青森県内数カ所でしか販売されていませんが、電話等での注文は可能かと存じます。

十和田市 大七書店  0176-23-5371
十和田湖総合案内所  0176-75-2425
奥入瀬渓流館      0176-74-1233
なりた本店 しんまち店 017-723-2431

また、明後日、花巻郊外旧太田村の高村山荘高村光太郎記念館敷地にて行われる第58回高村祭にて販売いたします。他にも当方の関わった書籍、雑誌類も販売します。お買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月13日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋前で、さまざまな野菜の種や苗を植えました。

手帖のメモから。007

畑にジャガを五畝いける。インゲン出かかる 南瓜苗床に三種まく。(鶴首、千成、北海道。)茄子をまく。キヤベツ仮植。

かなりの程度の自給自足を目指し、前年から本格的に農業に取り組んだ光太郎。ところが前年は同じ時期に右掌が化膿、花巻町で切開手術を受けたりで、思うように出来ませんでした。

今年こそは、と気負って臨み、この年以降はある程度の成果を上げています。ただし、穀類は配給に頼らざるを得ませんでした。

また、昭和26年(1951)は結核性の肋間神経痛がひどく、耕作を中止しました。

十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんが、約2年間にわたって編集されていた書籍『十和田湖乙女の像のものがたり』が完成しました。

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一昨年、光太郎制作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が建立から60周年を迎えたのを機に、地元の観光ボランティアの皆さんが、像の創られた背景などを改めて知ろうという取り組みの中から生まれたものです。

昨年逝去された光太郎の令甥にして高村光太郎記念会理事長であられた高村規氏、当会顧問にしてこの世界の第一人者・北川太一先生、さらに昭和28年(1953)、像の設置工事の現場監督をされた元青森県技師・小山義孝氏の聞き書きなど、貴重な証言が収められています。高村氏、北川先生へのインタビューは一昨年。当方も同道しました。

当方、たまたま会の皆さんの知遇を得、制作に協力させていただきました。5分の2ほどは当方の執筆、あとは全体の校閲などもやらせていただき、結局、「監修」ということで奥付に名前を載せていただいております。

B5判388ページ、画像をふんだんに使っているため、全ページコート紙の贅沢な造りです。

目次は以下の通り。

発刊に寄せて 北川太一氏
まえがき 十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会会長 小笠原哲男氏
乙女の像ものがたり

資料編
 「乙女の像」概説
 北川太一氏インタビュー
 高村規氏インタビュー
 小山義孝氏インタビュー
 記念色紙 写真と解説
 石版 写真と解説
 講演記録「乙女の像誕生秘話」 十和田市教育長 米田省三氏
 寄稿「十和田湖と『乙女の像』を巡る人々」 ATV青森テレビアナウンサー 川口浩一氏
 記録 第19回レモン忌
 活動記録 乙女の像・ろまんヒストリー発信事業について

あとがき

「乙女の像ものがたり」は、小学生向けに書きました。光太郎の伝記を兼ね、史実を元にしたフィクションです。細かく云うと、この時この人はここにはいなかったはずだとか、いろいろあるのですが、あくまで「ものがたり」ということで勘弁して下さい。

「資料編」は一般向けの内容です。「「乙女の像」概説」という部分を当方が書き下ろしました。また、昨秋、十和田湖畔に開館した観光交流施設「ぷらっと」館内展示説明パネルのために書いたものも転載されています。

その他の記事も、これでもかとてんこ盛りで、非常に充実した内容となっています。

先週にはボランティアの会の皆さんが、十和田市長を表敬訪問、完成の報告をされ、その様子が地元で報道されました。

こちらは『東欧日報』さんの記事。

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さらにローカルテレビ局でも地域のニュースとして紹介されました。

市長さんはことのほか完成を喜んでいらしたそうです。

発行部数はそれなりに多いのですが、地元の学校さんなどに寄贈の分が多く、販売にまわされるのは少ないそうです。好評となり、増刷されることを期待します。

ボランティアの会さんの連絡先は以下の通り。直接お問い合わせ下さい。

十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会
 〒034-0303 青森県十和田市法量字前川原86-15 tel/fax 0176-72-2642

チラシ画像も載せておきます。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月31日

平成23年(2011)の今日、岩手県奥州市の黒壁ガラス館で開催されていた「奥州市郷土先人顕彰事業 企画展 文学の先達と奥州市」が閉幕しました。

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過日もちらっとご紹介した同市の人首(ひとかべ)文庫さん所蔵の資料などから、奥州市にかかわるものが展示されました。

奥州市出身の詩人・佐伯郁郎の関係で、佐伯宛の光太郎書簡、色紙等も並びました。他には井上靖、谷崎潤一郎、山本有三、巽聖歌、萩原朔太郎、井伏鱒二、室生犀星、堀口大学、林芙美子、川端康成、小川未明、西条八十、北原白秋、野口雨情らの自筆資料、宮澤賢治、宮靜枝、川端の初恋の相手・伊藤初代らに関する資料など、これまたてんこ盛りでした。

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青森在住の彫刻家・田村進氏から、書籍を戴きました。008

『日本美術家事典2015』。版元サイトにも載っている序文によれば、「現在制作活動を行っている日本の美術家(日本画・洋画・彫刻・工芸・書)の個々の歩みを一冊にまとめることに主眼をおいて企画された事典」とのことで、平成元年(1989)に創刊、以後、増補改訂が続けられ、今年のものは第26号になるそうです。

B5版、600ページ超の大判大冊で、「現代作家篇」と「物故作家篇」から成り、前者が中心です。「日本画」「洋画」「彫刻」「工芸」「書」の5分野で、作家名を項目とし、おそらく数千名が紹介されているようです。

「彫刻」の部では、扉ページに田村氏の作品「光太郎山居」の石膏原型が使われています。一昨年から制作にかかられ、このほど、ブロンズ鋳造が完成したと、御手紙にはありました。戦後、花巻郊外太田村の山小屋に蟄居生活を送っていた頃の光太郎肖像です。


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田村氏の紹介が載ったページは、全体像も掲載されています。

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昨夏発行された美術雑誌『花美術館』にも紹介がありました。昨秋には、当方、このためのレリーフ習作を戴いてしまいました。4月2日の第59回連翹忌にて展示し、皆様にお見せするつもりでおります。

『日本美術家事典2015』、「物故作家篇」も掲載されており、光太郎、光雲、豊周(智恵子はありません)も項目になっていますし、光太郎と同時代、または次の世代で交流のあった作家も網羅されており、ありがたい書物です。版元サイトから購入可能ですし、公共図書館等に置かれるでしょう。ぜひお手にとっていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月15日

昭和29年(1954)の今日、雑誌『美術街』第121号に、光太郎の実弟・豊周執筆の評論「无型と実在」が掲載されました。

无型(むけい)は鋳金家であった豊周が中心となり、大正15年(1926)に結成された工芸作家の同人の会です。

一昨日、昨日と、十和田湖ネタで攻めましたので、もう1日。

以前にご紹介した、光太郎作の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)をあしらった十和田市のご当地ナンバープレートが今月から交付開始という報道が出ました。 

ご当地ナンバー「十和田湖と乙女の像」/十和田市が交付始める

 十和田市は2日から、「無題十和田湖と乙女の像」をデザインした原動機付き自転車用オリジナルご当地ナンバープレートの交付を始めた。交付第1号となったのは、同市法量家ノ前の山一清一さん(61)。同市役所で小山田久市長から「十和田市 A・・1」のプレートを受け取った。
 市は昨年、新市10周年記念事業として、ご当地ナンバーのデザインを公募。全国から寄せられた31点の中から、十和田湖と外輪山、湖畔のシンボル「乙女の像」をあしらったデザインを決めた。
十和田湖や奥入瀬渓流でボランティアガイドをしている山一さんは、「乙女の像など、一目で十和田のことが分かる良いデザインだと思う」と話し、「どうせなら1番がほしいと思っていたので、ラッキーです」とにっこり。
小山田市長は「このナンバーを付けて、古里を誇りに思い、また愛してもらいたい」と話した。市納税課によると、初日は5人に6枚のプレートを交付した。

東奥日報 2月4日(水)

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十和田市がオリジナルナンバーを交付

 十和田市が合併10周年を記念して作製した原動機付き無題2自転車用オリジナルナンバープレートの交付が2日、同市役所で始まった。申請者第1号は、十和田湖や奥入瀬渓流でボランティアガイドを務める山一清一さん(61)。「1番が欲しいと思っていたのでうれしい」と喜んでいる。
 ナンバープレートは、十和田湖と湖畔を象徴する乙女の像をデザイン。全国から応募があった31件の中で、グラフィックデザイナーの塩崎榮一さん(大阪府)の案が選ばれた。
この日、同市役所では交付開始と同時に山一さんが申請書を提出し、小山田久市長からナンバープレートを受け取った。山一さんは「十和田湖や奥入瀬渓流のPRになるいいデザイン。このナンバープレートを付けることで、十和田湖などに関心を持つ人が増えれば」と笑顔。小山田市長は「いろいろな場面で多くの人の目に留まる。観光PRの弾みになれば」と、効果に期待を寄せていた。
6日までは市役所本館1階の住民税課で、9日以降は同課のほか十和田湖支所でも受け付ける。問い合わせは十和田市役所税務課=電話0176(51)6765=へ。

【写真説明】小山田久市長(右)からナンバープレートを受け取る山一清一さん=2日、十和田市役所


このナンバープレート、ぜひ欲しいものです(笑)。

ところで、交付第一号の山一清一さん。たびたびご紹介しています十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会のメンバーで、ベテランのガイドさんです。

一昨年にはテレビ東京系BSジャパンさんの「にっぽん原風景紀行 第230景 稲生川に息づく開拓の歴史~青森県・十和田市」にご出演、奥入瀬渓流や稲生川で、女優の西原亜希さんをご案内なさっていました。

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さらに当方、昨年の今頃、「十和田湖冬物語2014」にお邪魔した際に、2日間にわたって車であちこちご案内いただきました。その山一さんが第一号の交付ということで、いい意味で笑えました。

乙女の像ナンバープレートは、十和田市のサイト、さらにブログにも紹介記事が載っています。また、同じ十和田市のブログ、それから十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのサイトでは、開催中の「十和田湖冬物語2015」の記事も載っています。リンクをはってありますので、ご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月10日

明治37年(1904)の今日、日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされ、日露戦争開戦となりました。

2日前にはロシア旅順艦隊に対する奇襲攻撃があり、実質的な戦闘状態に入っていましたが、正式な宣戦布告は10日です。

数え22歳の光太郎、東京美術学校の彫刻科を卒業した後も研究科に残って彫刻修行を続けていました。同じ2月にロンドンで刊行されていた雑誌『ステュディオ』でロダンの「考える人」の写真を初めて見て、衝撃を受けています(実物は数年後にパリで初めて見ました)。

戦後の昭和22年(1947)に書いた連作詩「暗愚小伝」の中では、この頃のことをこう謳っています。
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    彫刻一途

日本膨脹悲劇の最初の飴、
日露戦争に私は疎(うと)かつた。
ただ旅順口の悲惨な話と、
日本海々戦の号外と、
小村大使対ウヰツテ伯の好対照と、
そのくらゐが頭に残つた。
 私は二十歳をこえて研究科に居り、

夜となく昼となく心をつくして
彫刻修業に夢中であつた。
まつたく世間を知らぬ壷中の天地に
ただ彫刻の真がつかみたかつた。005
 父も学校の先生も職人にしか見えなかつた。
職人以上のものが知りたかつた。
まつくらなまはりの中で手さぐりに
世界の彫刻をさがしあるいた。
いつのことだか忘れたが、

私と話すつもりで来た啄木も、
彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに
すつかりあきらめて帰つていつた。
日露戦争の勝敗よりも
ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた。


「ロヂン」とは仏語表記の「Rodin」を英語風に読むとそうなるということで、この頃は正確な発音さえ判っていなかったということです。

この時期、というかしばらく後までの光太郎、この詩にある通り、社会問題にはほとんど関心を示さず、ひたすら芸術精進、という感じでした。後に、そうした態度が智恵子の統合失調症発症につながったという反省から、一転して社会と積極的に関わろうとするようになります。それが泥沼の十五年戦争の時期と重なっていたのが、大きな悲劇でした。

画像は掲載誌の『展望』から採りました。「対照」とすべき箇所が「対称」となっています。遺された詩稿でも「対称」となっており、もともと光太郎が間違っていました。このミスは昭和25年(1950)に刊行された詩集『典型』でも修正されず、同27年(1952)の『高村光太郎選集Ⅱ』でようやく訂正されました。

昨日、青森の「十和田湖冬物語2015」の報道について書きましたが、調べてみますと、もっと報道されていました。

まず、仙台に本社のある東北地方ブロック紙、『河北新報』さんです。

雪光照らす「乙女の像」 十和田湖雪祭り開幕

 十和田市の休屋地区で6日、雪祭り「十004和田湖冬物語」が開幕した。湖畔の会場を花火やイルミネーションが彩る。3月1日まで。
地元のバラ焼きなど青森、秋田の名物をそろえた屋台が並び、夜には地酒のかまくらバーが営業する。週末と祝日には、雪上でバナナボートに乗ったりホーストレッキングを体験したりできる。
乙女の像も期間中、毎日午後5~9時にライトアップされる。初日は風もなく、家族連れなどが穏やかな波音に耳を傾けながら冬限定の光景を楽しんだ。
イベントは17年目。期間中は約20万人の人出でにぎわう。連絡先は十和田湖国立公園協会総合案内所0176(75)2425。

こちらは光太郎作の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を前面に押し出して下さいました。ありがとうございます。


続いて青森の地元紙、『東奥日報』さんから。 

十和田湖に大輪/冬物語開幕

 真冬の十和田湖を幻想的な光が包む「十和無題田湖冬物語」が6日、十和田市の十和田湖畔休屋地区の特設会場で開幕した。今年もメーンイベントの冬花火約200発が打ち上げられ、湖畔の夜空を鮮やかに彩った。

【写真説明】十和田湖畔の冬空を鮮やかに染めた花火=6日午後8時すぎ


さらに、『朝日新聞』さんのデジタル版。35秒の動画付きですが、会員限定で視聴可です。 

「十和田湖冬物語」が開幕 巨大雪像や冬の花火

 冬の十和田湖に観光客を呼び込もうという「十和田湖冬物語2015」が6日始まった。3月1日までの間、十和田湖畔休屋地区の特設会場では、巨大雪像やかまくらバー、乙女の像のライトアップが行われるほか、連日午後8時からは冬花火も打ち上げられる。

今年の巨大雪像は「ねぶたとなまはげ」で、青森・秋田両県を代表するイベントがテーマ。毎年の人気となっている「酒かまくら・かまくらバー」も今年は全長26メートルとビッグサイズになった。16万球のLEDを使ったイルミネーションや光のトンネルなどもあり、訪れた観光客たちは寒さも忘れ、幻想的な光景を楽しんでいた。

「冬物語」は今年で17回目。前身となる「冬紀行」から数えると26回目になるという。イベントの開催時間は平日が午後3時から同9時まで、土日祝日は午前11時から午後9時までとなる。

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ぜひ多くの皆さんに足を運んでいただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月9日

昭和16年(1941)の今日、翻訳家の菊池重三郎に葉書を送りました。

 御著「バンビの歌」ありがたくいただきました。御本をおくつて下さつた事をほんとに忝く存じました、いつもあなたがよい仕事をして居られるのに敬意を表します、小生はまが此の本をよんだ事がありません、それ故これを繙くたのしさを思つて非常に愉快です、
 略儀ながら御礼申述べます、

菊池重三郎は「チップス先生さようなら」などの翻訳で有名です。「バンビの歌」はオーストリアの作家、フェーリクス・ザルテン が大正12年(1923)に著したもの。ディズニーのアニメ映画「バンビ」(昭和17年=1942)の原作です。

当方、この記事を書く上で、「バンビ」が戦時中の公開だったと初めて知りました。日米の国力の違いがまざまざと表されていますね。どんなに「大和魂」を振りかざしても、勝てるわけがありません。

先週金曜日、過日ご紹介した「十和田湖冬物語2015」が開幕しました

地元紙、『デーリー東北』さんの記事から 

銀世界彩る光の競演 「十和田湖冬物語」開幕

デーリー東北新聞社 2月7日(土)004

 光の競演が銀世界を幻想的に彩る「十和田湖冬物語2015」が6日、十和田市の湖畔休屋特設会場で開幕した。雪像などが闇に浮かび上がる会場で、大輪の花火が夜空を焦がし、観光客を楽しませた。3月1日まで。

会場では、陸上自衛隊八戸駐屯地が制作した高さ8メートル、幅23・4メートル、奥行き14・3メートルの巨大雪像「ねぶたとなまはげ」が、大迫力で来場者を“お出迎え”。光のゲートやスノーランプが周囲を優しく照らした。

観光客は「ゆきあかり横丁(よこちょう)」で青森、秋田両県のグルメを味わったり、かまくらバーや足湯でくつろいだり、思い思いに祭り気分に浸っていた。

期間中は毎日午後8時から約10分間、花火が打ち上げられる。湖畔を象徴する乙女の像もライトアップされる。


また、青森放送さんからの配信で、日本テレビ系列のCS放送「日テレNEWS24」で取り上げられたようです。 

雪像に明かりともる「十和田湖冬物語」開幕

2月7日(土)13時7分配信

 冬の十和田湖を彩るイベント十和田湖冬物語が青森県十和田市で6日夜、始まった。

今年で17回目となる十和田湖冬物語は休屋地区を会場に6日、始まった。開会式では青森ねぶたと秋田のなまはげを描いた高さ8メートル、幅23メートルの大型雪像に明かりがともされた。会場には光のトンネルや色とりどりのイルミネーションが飾られ、幻想的な雰囲気を演出している。ステージでは津軽三味線やねぶたばやしが演奏され開幕を盛り上げた。そして200発の花火が凍(い)てつく夜空に大輪の花を咲かせ、訪れた観光客を魅了していた。

十和田湖冬物語は来月1日まで開かれる。

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ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月8日

昭和31年(1956)の今日、終焉の地となった中野のアトリエで、指圧の施療を受けました。

当日の日記です。

午后内田文子さん指圧の女性同伴くる、指圧を受ける、

また、2月13日の日記には、

午后内田文子さん指圧の人栗田夏子さん同道くる、指圧を受ける、来週月曜に又くる由、次から一度足とも300円とのこと、

さらに余白のメモにも、

指圧家世田谷区北沢4-487 青木方 栗田夏子氏 電(32)2541(青木) 31年二月十三日 二度目施療 日曜日毎、一回足共300円の由、 

との記述があります。

1月も最終週となりました。2月のイベントを少しずつご紹介します。 

十和田湖冬物語 2015

【期間】
 2015年2月6日(金)~2015年3月1日(日)

十和田湖のシンボル「乙女の像」のライトアップや、幻想的なイルミネーション各イベント等が楽しめます。厳冬期に打ち上げられる冬花火は、湿度が低く空気が澄んでいる為、甲高くまた外輪山にこだまし、夏とは趣が違います。ぜひ、ご来場ください。

【会場】
 十和田湖畔休屋 特設イベント会場無題
[住所]
 〒018-5501 十和田市十和田湖畔休屋
【開催時間】
土、日、祝日  11:00~21:00
 平  日    15:00~21:00
【主催】
十和田湖冬物語実行委員会
【お問い合わせ】
一般社団法人十和田湖国立公園協会(十和田湖総合案内所)
  ☎ 0176-75-2425   Fax 0176-70-6002
 
【イベント内容】
■冬花火:期間中毎日 20:00~20:10004
■乙女の像ライトアップ:期間中毎日 17:00~21:00
■光のゲート&光のトンネル:期間中毎日 17:00~21:00
■イルミネーション・ライトアップ:期間中毎日 17:00~21:00
■ゆきあかり横丁:平日15:00~21:00、土日祝11:00~21:00
■酒かま蔵:期間中毎日 19:00~21:00
■かまくらBar&足湯:期間中毎日 18:00~21:00
■バナナボート:金・土・日・祝 11:00~19:00
■ホーストレッキング:土・日・祝 10:00~15:00
 
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昨年の「十和田湖冬物語2014」にお邪魔しました。やはりとてつもなく寒いのですが、なかなか活気に溢れたイベントでした。もう寒いのは当たり前なんだから、寒いのを楽しんでしまえ、という感じですね。
 
会場へのアクセスは、公共交通機関ですと、秋田鹿角方面からと、十和田市方面から、それぞれシャトルバスが出ているようです。また、ホテルのバスが青森・八戸方面にも運行されているようです。
 
ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月25日005

昭和19年(1944)の今日、光太郎が序文を執筆した池田克己詩集『上海雑草原』が刊行されました。
 
池田は明治45年(1912)生まれの詩人。特殊建設の現場監督として徴用され、中国大陸に渡っての経験を記した詩集です。
 
無事に帰還し、戦後は雑誌『日本未来派』を創刊したり、花巻郊外太田村の光太郎の山小屋に足を運んだりしましたが、昭和28年(1953)、数え42歳で急逝しています。

過日、今年のカレンダーについて書いた時に、「「乙女の像」など光太郎、智恵子作品が使われているカレンダーはないかと、ネットで探してみました。しかし、残念ながらヒットせず。」と書きましたが、なんと、十和田市の観光推進課さんから「乙女の像」の写真が載ったカレンダーが届きました。題して「2015・平成27年 十和田市の四季カレンダー」。
 
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表紙に「乙女の像」が載っています。
 
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各月ごとのページにも十和田の美しい風景が。
 
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写真は十和田出身のフォトグラファー・和田光弘氏の撮影です。調べてみると、「十和田市の四季カレンダー」は和田氏がずっと手がけられているようです。
 
発行元は十和田市となっています。しかし、ネットで検索しても詳しい情報がヒットしません。もっと大々的に売り出してもいいように思うのですが……。
 
各自治体でもこうした動きがもっと広まってもいいような気もします。手軽に「ふるさと」の良さをアピールできますし、時が経てば歴史的資料としての価値も出るのではないでしょうか。
 
また、東日本大震災の津波による甚大な被害を受けた宮城の石巻女川町などでは、震災前の町の姿を描いたカレンダーなどが発行されているそうです。こちらは個人がやっているようですが、もっと自治体が腰を上げてもいいような気がします。自治体が音頭を取って全国に販路を広げ、復興支援に役立てるということで。
 
以前にもご紹介した「復興デパートメント」というサイトがありますが、「カレンダー」で検索しても「HAWAII ALOHAカレンダー」しかヒットしません。なぜハワイ? という感じです。
 
東北の、特に各自治体の皆さん、ご一考を。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月23日

昭和13年(1938)の今日、雑誌『国語特報』にエッセイ「小刀の味」が掲載されました。
 
ここでいう「小刀」は木彫に使う彫刻刀です。
 
書き出しは以下の通り。
 
 飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するように、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するやうになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀(こがたな)を大切にし、まるで生き物のやうに此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。
 
なかなか味わい深い文章です。青空文庫さんで全文が読めます。

昨日のこのブログで、光太郎の父・高村光雲作の楠正成像(楠公銅像)をあしらったご当地キティグッズ、東京限定楠正成公バージョンをご紹介しました。
 
以前にもちらっと書きましたが、光太郎がらみでも、ご当地キティグッズがありますので、ご紹介しておきます。「ご当地」的には十和田湖。十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)をモチーフにした「十和田湖限定乙女の像バージョン」です。
 
まず、ハンドタオル。
 
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続いて「ご当地方言ぷっくりシール」。
 
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この中で2枚、乙女の像があります。
 
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 「けやぐ」というのは「友達」の意だそうです。
 
それから、ストラップ。
 
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この3点は、現地で手に入れてきました。
 
他に、インターネットで入手したものがこちら。
 
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シャープペンシルにボールペン、ファスナーマスコット000です。ストラップを含め、付いているマスコットは全て同一ですね。
 
今年は、十和田市の原付ナンバープレートの図柄に、乙女の像が使われたデザインが採用されたりもしました。
 
楠公銅像同様、乙女の像も、愛されていることの表れだと思います。
 
また、来春には十和田奥入瀬観光ボランティアの会さんから、『乙女の像のものがたり』という書籍が刊行されます。北川太一先生や、故・高村規氏の聞き書きも収録、当方も、一部を執筆させていただきました。編集も最終段階だそうです。
 
ところで、ハローキティ十和田湖限定乙女の像バージョン、他にもラインナップがありました。他の方のブログ等から引用させていただきますが、一番上のハンドタオル以外のハンドタオル、同じ図柄を使った平成22年(2010)のカレンダーなど。こちらは未入手でして、今後も探してみます。
 
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追記:左上のハンドタオルはメルカリでゲットできました。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月21日
 
昭和49年(1974)の今日、水野葉舟選集刊行会から、小品集『草と人』が刊行されました。
 
オリジナルは大正4年(1915)、植竹書院の刊行。光太郎が序文や挿画を担当しています。昭和49年版は、葉舟生涯の小品からの選集で、光太郎に触れた作品も多く収録されました。

最近のいただきもの、2回目です。
 
青森市ご在住の彫刻家・田村進氏から、なんと、彫刻をいただいてしまいました。
 
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一昨年の作品で、「レリーフ習作・巨星光太郎」。光太郎の肖像彫刻です。
 
大きさは38㌢×28㌢、材質はブロンズで、ずしりと重たいものです。材料費だけでも何万円とか……。恐縮です。
 
昨年の連翹忌にて、画像を大きく拡大したものをパネルに入れ、会場内に展示いたしました。もとは昭和24年(1949)10月、花巻郊外太田村の山小屋を訪れた写真家の濱谷浩が撮影した下記の写真をモチーフにしています。
 
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光太郎、数え67歳です。
 
美術雑誌『花美術館』の昨年4月号に、この彫刻が大きく紹介されています。
 
そちらから引用させていただきます。
 
類稀なる一人の芸術家には、そこへ至る道筋が神の計らいの如く予(あらかじ)め用意されているのではないだろうか。然るべき時に、出会うべくして出会う人物、その作品と書物、諸々の事象までもが綿密に配線された”芸術の糸”で硬く結ばれ、やがて自己世界の確立と昇華の時を得る。田村氏と光太郎の出会いはまさに”神のはからい”のそれであった。本作は、光太郎との強い縁(えにし)で結ばれた魂の軌跡が深く刻まれ、敬慕なる純正の輝きが奥深い世界から煌めきを放っている。本作は、光太郎の芸術と人となりを再び掘り起こし、心に刻み続けてきた崇敬の念、この心震わす繊細な表現に、光太郎と初めて出会った氏の心の昂(たかま)り、感慨が我々の胸奥にも甦るかのようだ。光太郎は七十三才のまま氏が年長になる程に長年温めてきた氏の計らいが見事成就し、実に味わい深い。これも神の計らいやも知れぬ。
 
田村氏は昭和28年(1953)10月21日の、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の除幕式にご参加、さらにその2日後に青森の野脇中学校で行われ、光太郎も演壇に立った文芸講演会で光太郎の講演を聴かれたそうです。
 
さらに田村氏は、光太郎の、レリーフではない胸像も制作されています。題して「冷暖自知光太郎山居」。こちらも完成し、鋳造にまわされたとのこと。
 
さて、レリーフ。こんな立派なものを私するのは申し訳ありません。広く皆様に観ていただきたく存じます。そこで、来年4月2日の連翹忌では展示するつもりですし、御依頼があれば貸し出し等も行いたいと思います。こちらまでご一報下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月30日
 
昭和51年(1976)の今日、瑠璃書房から奥平英雄著『晩年の高村光太郎』が刊行されました。
 
奥平は東京国立博物館に勤務していた美術史家。十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため上京した中野のアトリエに足繁く通い、晩年の光太郎に親炙しました。その回想録です。
 
元は昭和32年(1957)に二玄社から刊行されましたものですが、復刊。限定140部、二重函、天金の特装本も刊行されました。
 
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特装本には付録として、カセットテープがついています。こちらは昭和28年(1953)12月の録音。奥平と光太郎の対談です。「彫刻と人生」のタイトルで、翌年1月、ラジオの文化放送でオンエアされました。光太郎の肉声が聴ける貴重な資料です。

新聞記事からご紹介します。 

原付ナンバープレートに乙女の像

 十和田市は5日、合併10周年を記念した原動機付き自転車のオリジナルナンバープレートに、十和田湖と湖畔を象徴する乙女の像の図案を決定したと発表した。
 制作者は大阪府のグラフィックデザイナー塩﨑榮一さん。全国から応募があった31件の中から、同市の特色や魅力が端的に表現された図柄として審査会で選ばれた。
 ナンバープレートは、十和田市の魅力を目に見える形で訴える狙いもある。高村光太郎作の乙女の像は建立から60年が経過してなお、誘客に課題を抱える十和田湖観光のPR役に“就任”。市税務課は「新たなナンバープレートで十和田をアピールしてほしい」と期待を込める。
 新ナンバープレートの交付開始は2015年2月2日の予定。問い合わせは十和田市役所税務課=電話0176(51)6765=へ。
『デーリー東北』 2014/11/05
 
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調べてみると、全国的には300ほどの自治体が原付の「ご当地」ナンバーを導入しています。ただし、かなりの割合で、奇妙な「ゆるキャラ」が採用されています。それを付けて走るのも恥ずかしいんじゃないの? と思います。
 
その点、十和田市さんのものはなかなかいい図案ですね。泉下の光太郎は苦笑しているような気がしますが。
 
ちなみに当方の住む千葉県香取市は、地元の偉人・伊能忠敬のデザインです。地元民にしかわからないのでは……と思いますが、地元への愛着を深める、という意味ではいいのかもしれません。
 
近くの佐倉市では漫画家、モンキー・パンチさんが市内在住ということで、ルパン三世の図柄。これはズルい、という気がしますね(笑)。
 
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さて、新聞がらみでもう一件。  

風土計(2014/11/13)

 「威信の青空」。そう呼ぶのがぴったりの中国・北京の数日間だった。アジア太平洋経済協力会議(APEC)の期間中、北京の空は見事に晴れた
▼中国では微小粒子状物質「PM2・5」による大気汚染が深刻。気象当局は、北京は8~11日に重度から中度の大気汚染に見舞われると予報していた。大事な国際会議の空が暗い霧に覆われてはメンツにかかわる
▼このために当局が取った手段がすごかった。工場の操業停止や交通規制はまだ序の口。中国メディアによると、花火や露天のバーベキューを禁止。周辺の農家では食事や暖を取るために薪や石炭を燃やすことさえ禁じた
▼アジアの大国の威信をかけた青空の演出には恐れ入る。その効果だろうか。日本との間にかかっていた深い霧もとれて、2年半ぶりの首脳会談が実現した。2人の表情は晴れやかとはいかなかったが、まずは良しとしよう
▼とはいえ、これはつかの間の青空。高村光太郎の「智恵子抄」風に言えば「ほんとの空が見たいといふ」が隣国国民の思いではないか。両国関係が改善すれば、大気汚染を防ぐ日本の技術協力もさらに進んでいくだろう
光太郎の随筆「触覚の世界」に「彫刻家の触覚は霧を破ろうとする」とある。一番幼稚で根源的な感覚ゆえに触覚は本質をつかむ。政治家にもほしい。
『岩手日報』 2014/11/13
 
『岩手日報』さんの1面コラムです。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手の地方紙ということで、時折、光太郎にふれて下さいます。ありがたいことです。
 
もう一件。今月8日の『毎日新聞』さんの社会面コラム「季語刻々」でも、光太郎にふれて下さっています。
 
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「ほんとの空」が広がる智恵子の故郷の山、安達太良山や、十和田ではもう雪が積もったそうです。当方の住む南関東でも初冬の気配が漂って参りました。
 
当方、光太郎と違って、冬の寒さは苦手で000す。「冬は僕の餌食だ」ではなく「僕は冬の餌食だ」状態なのですが、「冬来たりなば春遠からじ」と思いつつ、頑張ります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月20日
 
昭和25年(1950)の今日、龍星閣から詩文集『智恵子抄その後』が刊行されました。
 
昨日もご紹介した「元素智恵子」や「裸形」を含む連作詩「智恵子抄その後」を根幹に、戦後に作られた他の智恵子に関する詩篇、散文などを収めています。
 
 

当方の住む関東南部は秋たけなわ。紅葉もこれから見頃です。
 
しかし、北東北はもう冬支度が始まっていることと思います。
 
そういうわけで、岩手花巻の高村光太郎記念館・高村山荘と、青森十和田湖の観光交流センター(愛称「ぷらっと」)が、今月いっぱいで冬期閉鎖に入ります。
 
この冬、花巻や十和田にお越しの皆様、ご注意願います。
 
花巻の記念館の方は、冬期というより、グランドオープンのための改修工事という事情ですが、やはり秋の観光シーズンを終え、冬期をねらったという側面もあるのでしょう。
 
以下、同館サイトからのコピペです。

高村光太郎記念館 リニューアル工事に伴う閉館について

高村光太郎記念館は、光太郎生誕130 年に当たる平成25 年の5 月15 日に旧花巻歴史民俗資料館を活用して暫定的に開館しました。
 
また、平成25 年度に行われた展示設計に基づき、同館では本年度、旧資料庫を含めた建物全体を改修し、より魅力的な展示とするためリニューアルすることとしています。
 
平成26 年12 月1 日より平成27 年4 月中旬まで、記念館は閉館します。      
 
本年12 月より工事を行う予定です。資料等の入れ替えのための期間を含め、本年12月1 日より来年4 月中旬(予定)までの間、高村光太郎記念館は臨時閉館いたします。

大変ご不便をお掛けしますが、ご理解のほどよろしくお願いします。なお、隣接する高村山荘も同期間、冬季閉鎖いたします。
 
閉館中は、まなび学園(生涯学園都市会館)において資料の展示を行います。  
 
高村光太郎記念館の閉館中、まなび学園において同館収蔵資料の一部を展示します。
 
会期は本年12 月上旬からを予定しておりますが、内容や期間など、詳しいことは決まり次第お知らせします。
 
 
来春にはグランドオープンということで、改修計画が進んでいます。より一層充実した施設となることを願ってやみません。
 
 
また、先月、十和田湖畔にオープンした十和田市観光交流センター「ぷらっと」も、11月30日をもって、冬期閉鎖に入ります。
 
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再オープンはやはり来春4月と聞いていますが、こちらはネット上に日時の情報が見つかりません。上記は『広報とわだ』の今月号、オープンの記事です。
 
それぞれ情報が入りましたら、またお知らせします。
 
ちなみに十和田湖といえば、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで、十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)の建立60周年にあたり、記念誌的な書籍の刊行を進めています(当方も一部執筆させていただきました)。同会のサイトで、昨日、その話題がアップされています。ご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月5日
 
昭和27年(1952)の今日、龍星閣『智恵子抄』特装版の製本が完了しました。
 
『智恵子抄』特装版。十和田湖畔の裸婦像制作のため光太郎が帰京した記念、ということで刊行されました。
 
外函のラベルによれば、「最上羊皮丸革朱赤染表装・紺染布函入」、「限定貳百冊」、「但限定貳百冊印刷之内百七十冊製本、参十冊廃棄」、「昭和二十七年十一月五日製本出来」だそうです。
 
こちらが外函。
 
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ぱかっと開けると中函が出てきます。
 
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さらにそれを開けると本体。マトリョーシカ状態です(笑)。
 
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表紙に羊の皮を使っているそうです。昔、この手の皮装本が流行った時期がありました。
 
ところが、奥付を見ると「九月三十日発行」となっています。
 
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一般に、奥付の発行日と、実際に刊行された日が一致しないことは往々にしてありますが、1ヶ月以上もずれているとは、少し不思議です。
 
通常、図書館等のデータは、奥付の日付を公式な発行日とします。しかし、この場合、外函には「十一月五日製本」と明記されています。何だかなー、という感じですね。
 
ちなみに龍星閣さんでは、昭和34年(1959)4月10日には、「皇太子殿下(現・今上天皇)ご成婚記念」で、『智恵子抄』の「紅白版」なるものも出しています。表紙に紅白の布を使っている、というだけですが(笑)。

今日も十和田湖ネタ、直近のイベント情報です。 

十和田湖遊覧船ワンコインナイトクルーズ

 日 :  2014年10月25日(土)
 間 : 16:30~
 金 : お一人様500円
 所 : 休屋遊覧船桟橋
 員 : 200名
 合 : 十和田湖総合案内所 0176-75-2425
 
ライトアップされた「乙女の像」や御前浜から桂ヶ浜までの湖畔歩道「乙女の湖道」に設置されたフットライトの夜景など湖上の遊覧船から、いつもと違う風景を楽しんでみませんか?
 
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昨日書いた通り、通常、1,440円の遊覧船がワンコイン500円で、しかもこの日は乙女の像のライトアップがなされるそうです。
 
真冬の「十和田湖冬物語」、夏の「十和田湖湖水祭り」でも像のライトアップがなされますが、この時期にもあったのは存じませんでした。調べてみたらワンコインクルーズともども、昨年も行われていました。
 
この日、十和田湖から流れ出す奥入瀬渓流では、「奥入瀬渓流エコロードフェスタ」というイベントを行っており、そちらとのタイアップ企画とのこと。そこで、奥入瀬渓流を通る国道102号線は、マイカー通行規制がかかりますのでご注意下さい。25日(土)と翌26日(日)、それぞれ9:00~15:00です。
 
ぜひ足をお運びください。
 
さて、7日、8日に十和田湖に行って参りまして、ここ数日のこのブログで撮ってきた写真をアップしましたが、乙女の像も滞在中に3回観に行きまして、画像に収めていますのでご紹介します。
 
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いったん十和田湖ネタを終了します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月11日002
 
大正7年(1918)の今日、智恵子ともども横浜港からカナダに渡航する作家・田村俊子を見送りました。
 
田村俊子は『青鞜』つながりで智恵子の親友。夫のやはり作家・田村松魚は光太郎と親しく、夫婦ぐるみのつきあいでした。
 
しかし、俊子と松魚の結婚生活は大正5年(1916)に破綻、その後の新しい恋人、ジャーナリストの鈴木悦を追って、俊子は太平洋を渡ります。
 
現地で結婚、帰国したのは悦死後の昭和11年(1936)。智恵子はゼームス坂病院に入院中でした。
 
友達の少なかった智恵子の数少ない親友だった俊子、日本で智恵子との交友が続いていれば、もしかしたら智恵子の運命も変わったかも知れません。

十和田湖レポートの続きです。
 
一昨日、湖畔休屋に新しくオープンした十和田市営の「十和田湖観光交流センターぷらっと」のオープニングに参加して参りましたが、そちらが午前11時からでした。その前にお伺いして、ご挨拶、さらに開館式典参加者対象の内覧があったので、10寺頃には行きましたが、それでもそれまでに時間がありました。
 
そこで、遊覧船に乗ってみました。テレビの旅番組で、船上から光太郎作乙女の像を見ているシーンがあり、なるほど、湖上から見るのもいいなと思つた次第です。
 
ちなみに光太郎も昭和26年(1951)の6月に、乙女の像制作の下見で十和田湖を訪れた際、湖に舟を浮かべ、湖面に映った自分の姿を見て、二体を向き合わせる乙女の像の構想を得ています。
 
現在、遊覧船は2社体制で、2系統が運行されています。
 
かつてもやはり、永らく2社体制でしたが、一昨年、1社が倒産しました。「原発事故による風評被害が深刻」と当時の報道にありました。
 
そこで空き家となったターミナルの建物を市が取得し、「十和田湖観光交流センターぷらっと」にリニューアルされたわけです。
 
そこで、しばらくは1社体制、1系統の運行でしたが、しかし、倒産した社の方々が新たに会社を興し、再び2社体制、2系統運行に戻っています。
 
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1系統は、「ぷらっと」や乙女の像のある休屋発着の周回コース。
 
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もう1系統は、休屋~子の口(奥入瀬渓流への入り口)間の往復です。奥入瀬方面の宿泊者には便利でしょう。
 
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どちらの系統に乗っても、湖上から乙女の像を見ることが出来ます。
 
当方、宿泊が休屋でしたので、周回の方の系統に乗りました。
 
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乗ったのは、「第一八甲田丸」という双胴船。所要時間は50分。現在は30分おきに出航しています。ただし、基本的に11月中旬までの運行です。料金は1,440円でした。
 
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出航後まもなく、乙女の像のある御前が浜沖を通過します。左端に乙女の像が映っています。テレビの旅番組では、もっと近くまで寄っているイメージでしたが、それは小型船のようで、大型の遊覧船ではあまり近くまでは行けないようです。
 
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秋のさわやかな風の中を航行。紅葉は始まっていましたが、見頃はもう少し後だそうです。しかし、陸上からは見られない風景を堪能できました。
 
休屋の港に帰り、土産物を買ったりしたあと、ぷらっとの開館式典に参加いたしました。
 
ここで、昨日、容量の関係でご紹介できなかった画像を載せます。
 
 
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湖畔全体の見頃はまだですが、ところによってはみごとな紅葉です。気温もすでに寒く、ぷらっと館内ではストーブもついていました。明け方頃は4℃くらいでした。
 
ところで、十和田湖までのアクセスですが、東北新幹線のいろいろな駅からバスが出ています。
 
東京に近い順に、まず八戸。JRバスの「おいらせ号」で2時間15分、2,670円です。
 
続いて七戸十和田。十和田観光電鉄さんのシャトルバスが、奥入瀬の焼山というところまで出ており、1時間、料金は何と500円。焼山~十和田湖間(45分・1,130円)はJRバスと連絡する時間で運行しています。
 
新青森は、青森発のJRバスが通っており、約3時間で3,090円です。「みずうみ号」という名前です。
 
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ただ、いずれも季節によって時刻が変動します。とりあえず現在は上記の時間です。
 
東北新幹線の延伸で、十和田もだいぶ近くなりました。これから紅葉シーズン真っ盛り。ぜひ足をお運びください。
 
ちなみに紅葉ということで、当方が乗った「みずうみ号」での経由地の紅葉です。八甲田山などはすでに見頃でした。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月10日
 
昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校に書籍戸棚を寄贈しました。
 
小学校では、その前から光太郎が寄贈していた書籍を収納、「高村文庫」と名付けました。光太郎のもとには、東京の書肆から『少年百科』全12巻、さらに年少者向けの雑誌等もよく送られていました。

お伝えした通り、昨日、青森は十和田湖畔休屋に、新たに十和田市の施設「十和田湖観光交流センターぷらっと」がオープンしました。
 
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落成式典が午前11時から開かれました。
 
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小山田久十和田市長の式辞、工事経過報告、施工業者さんへの感謝状贈呈、公募で決まった「ぷらっと」という愛称の発案者の方の表彰、こけら落としとして地元の子供達による「十和田子どもよさこい」の披露、テープカットなどがありました。
 
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施設は2階建て。1階が無料休憩スペースと、十和田湖特産ヒメマスに関する展示があります。
 
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大きな水槽に、生きたヒメマスの展示も。
 
当方、十和田では宿の食卓に上ったヒメマスや、湖畔で猫が食べているヒメマス(笑)は見たことがありましたが、生きて泳いでいるのは初めて見ました。
 
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2階が大町桂月と光太郎を中心とした展示スペースです。こちらも無料で見られます。
 
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大町桂月は、十和田湖の景勝美を初めて広く世に紹介した文人。道路整備等に腐心した元県知事の武田千代三郎、元法奥沢村村長小笠原耕一ともども、「十和田の三恩人」と呼ばれ、光太郎作の乙女の像も三恩人顕彰のために作られたものです。 
 
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光太郎関連で展示されているのは、以下の通りです。
 
青森県郷土館さんの所蔵の乙女の像の小型試作(光太郎から青森県に寄贈された由緒正しいものです)。十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん所蔵の、乙女の像序幕の際に工事監督だった県の土木技師・小山義孝氏に進呈された寄せ書き。やはり小山氏旧蔵の乙女の像台座に使われた折壁石サンプル。奥入瀬渓流館で展示されていた光太郎作の大町桂月メダルなど。
 
人物としての光太郎、乙女の像、そして上記の展示品に関し、当方、計8枚の説明ボードを執筆させていただきました。
 
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 さらに図書コーナーも設けられています。蔵書数はまだまだですが、これから拡充していくとのこと。当方も旧著等寄贈します。
 
その他、モニターとDVDプレーヤーが設置されており、大町桂月や光太郎に関する動画が視聴可能です。
 
光太郎に関しては、ブリヂストン美術館が昭和29年(1954)に制作した美術映画「高村光太郎」、その前年の乙女の像除幕式の様子を撮影したもの(これは実に貴重なものです)。
 
 
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展示スペースの奥には交流室が設けられ、一般団体への貸し出しを行うそうです。現在、開館記念ということで、十和田出身の写真家の方の作品が展示されています。
 
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その他、館内外のスナップを載せようと思っていたら、掲載できる画像容量の限界になってしまいました。明日以降、またご紹介します。
 
とにもかくにも、ここが新たな観光名所、情報発信の拠点となることを願ってやみません。十和田湖はこれから紅葉シーズン最盛期。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月9日

昭和22年(1947)の今日、花巻の松庵寺で、母・わかの二十三回忌法要を執り行いました。
 
松庵寺さんでは、智恵子や光雲の法要もやってもらっており、現在では4月2日の光太郎忌日に、花巻での連翹忌を開催しています。光太郎詩碑や歌碑も建っているお寺です。

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東北新幹線はやぶさ車中です。

昨日から一泊で十和田湖に行って参りました。新しく湖畔に市営の観光交流センター、愛称「ぷらっと」が作られ、今日がオープンでした。

十和田湖を象徴するヒメマスや明治の文豪・大町桂月、そして光太郎に関する展示がなされています。当方、光太郎関連の展示の説明ボードを執筆させていただきました。

なかなか立派な施設です。

詳細は明日以降、レポート致します。

【今日は何の日・光太郎】 10月8日

大正2年(1913)の今日、智恵子と結婚の約束を交わし、二人でひと月ほど過ごした信州上高地から下山しました。

青森十和田から、湖畔の観光交流センターオープンの情報です。
 
これは、昨年破産した遊覧船会社が所有していた遊覧船ターミナルを市が取得、新たに整備を進めてきたものです。
 
2014/2月の建物の取得に関する報道、同じく7月には施設の愛称募集のお知らせ、9月には愛称「ぷらっと」決定について、このブログでご紹介して参りました。
 
以下、9/29付の十和田市HP内の新着情報から。 

十和田市十和田湖観光交流センター“ぷらっと”がオープンします!

 十和田湖畔休屋地区に、新たな観光拠点施設「十和田市十和田湖観光交流センター」(旧十和田湖遊覧船ターミナル)が、10月8日に開館します。
 この施設は、十和田湖、奥入瀬渓流などの観光に関する情報、市民との交流の場などを提供するもので、本市の魅力発信、賑わい創出など観光振興を図ります。
 皆様のお越しを心よりお待ちしております。
 
1 名    称  十和田市十和田湖観光交流センター“ぷらっと”
※広報とわだなどで当施設の愛称を一般公募したところ、121件という多数の応募をいただき、決定したものです。
【愛称の意味】
・十和田市民や観光客が気軽に立ち寄れるような施設になってほしいとの意味。
・英語のプラットホームの意味と同様に、出発・到着の駅のホームのように、十和田湖観光の起点となることを願って命名。
2 開館期間  平成26年10月8日(水)~11月30日(日) (期間中無休)
3 開館時間  午前9時~午後5時
4 入 館 料  無 料
5 主な展示内容   ヒメマス展示、和井内貞行、高村光太郎、大町桂月の紹介など
 
さらに、本日発行の「広報とわだ」にも記事が掲載されています。
 
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十和田湖に行かれたことのある方は、上記の地図でおわかりかと存じますが、JRバスのターミナルや遊覧船の発着場のある一角です。乙女の像、十和田神社(地図には文字がありませんが)も近くです。
 
当方、光太郎に関する展示の説明ボードを書かせていただきました。その関係で、建物の図面等もお送りいただきましたが、それを見るとなかなか充実した施設のようです。
 
1階は十和田湖特産のヒメマスに関する展示、2階に光太郎や大町桂月などに関する展示、さらに「交流室」という部屋が設けられ、一般の団体に貸し出しを行うとのことです。
 
光太郎に関して展示されるのは、青森県立郷土館にあった乙女の像のブロンズ小型試作(昭和28年=1953に光太郎から青森県に寄贈されたものです)、奥入瀬渓流館で展示されていた光太郎作の大町桂月メダル、乙女の像序幕の際に、工事責任者だった元青森県土木技師の小山義孝氏に贈られた、光太郎、佐藤春夫、草野心平他の寄せ書きなどなど。
 
その他、佐藤春夫や大町桂月の書、平福百穂の日本画なども展示される予定です。
 
オープンは来週10月8日(水)。11時頃から式典を行い、12時頃から一般開放だそうです。せっかくの機会ですので、当方、前日から1泊で行って参ります。
 
そろそろ紅葉シーズン。みなさまもぜひ足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月1日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、村人たちの厚意で風呂が設置されました。

佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』より。
 
先生は風呂がなくてお困りだろう、何とかして風呂場を建てて上げたいものだと、身のまわりを考える人たちが相談しました。だんだん話がすすみ、部落の人たちで材料を持寄って風呂場を建てて上げることになり、花巻の宮沢清六さんは風呂桶を贈りました。
 
風呂桶は花巻で一番上手だという大橋桶屋さんに清六さんが頼み、ヒノキのいい材料を用いて作りあげ、その年の秋の頃風呂場が完成しました。
 
当日の光太郎日記から。005
 
朝食時宮澤清六氏夫人、桶屋さん(大橋氏)同道来訪。宮澤さんより醤油、酢(小瓶)、豆飯(お重に一ぱい)いも煮つけ、つけもの(辛づけ等)等をもらふ。桶屋さんは小判桶持参。丁度大工さんが来たので、桶屋さんと相談して風呂桶の位置、流しの高さ等を決めた様子。
 
ひる前に余は揮毫。桶屋さん(大橋大人)の為に「木竹諧和」と書き宮崎鯉軒翁喜寿の為に「天地寿」と書く。 一時頃夫人桶屋さん辞去。大工さんも仕事を終つてかへる。風呂場は戸も備へられ、窓わくもはめられる。(ガラスはまだ)。流し場も出来て沸すばかり。余は「無可有殿」といふ字を紙に横書きして入口に貼る。
 
しかし、せっかくの風呂も、薪を大量に使わねばならないため、光太郎はそれをもったいながり、結局はあまり使われませんでした。現地には今も残っています。
 
桶屋さんに贈った「木竹諧和」の書はこちらです。
 
ヒノキ材に竹の箍(たが)をはめた風呂桶へのお礼ということで「木竹」です。「諧和」はやわらいで親しみあうこと。
 
その後に出てくる「宮崎鯉軒翁」は智恵子の姪にしてその最期を看取った春子の舅・宮崎仁十郎です。

昨日、青森は十和田の方々と、東京千駄木の高村光太郎記念会事務局長北川太一先生、そして故・高村規氏のお宅にお伺いして参りました。
 
以前にご紹介しましたが、昨年12月に破産した十和田湖観光汽船(青森市)が所有していた湖畔休屋の遊覧船ターミナルを十和田市が取得、十和田湖に関連した歴史・文化を紹介するスペースを新たに開設することになりました。
 
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7月にはその愛称募集が始まり、今月に入って、十和田市のHPで、愛称決定の旨、報じられています。

十和田市十和田湖観光交流センターの愛称決定について

多くのご応募をいただき、ありがとうございました。
6月下旬~7月25日まで公募していました十和田市十和田湖観光交流センターの愛称について、平成26年8月25日に選考委員会を開催し、応募作品(121件)の中から、ふさわしいと思われる愛称を選考いたしました。
1 愛 称   ぷらっと
2 愛称の意味
  ・十和田市民や観光客が気軽に立ち寄れるような施設になってほしいとの意味。
  ・英語のプラットホームの意味と同様に、出発・到着の駅のホームのように、
   十和田湖観光の起点となることを願って命名。
3 提案者氏名
  ・吉田 様(秋田県秋田市)
  ・内河 様(神奈川県相模原市)
4 選考評
  ・呼びやすい。
  ・親しみやすい。
  ・気軽に立ち寄ってもらえそう。
5 その他
  ・愛称のすべての権利は、十和田市に帰属します。
  ・愛称は、施設のPR等に活用し、親しみのある施設運営を目指します。
【問い合わせ先】
〒034-8615 十和田市西十二番町6-1 十和田市 観光商工部 観光推進課 観光施設係
 TEL 0176-51-6771 FAX 0176-22-9799

その後、ネットにはこれ以上の情報が出ていませんが、10月8日(水)オープンの予定だそうです。
 
さらに、「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんが主体となり、十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)の建立60周年記念誌、『乙女の像のものがたり』(仮題)が、今年12月に刊行予定だそうです。
 
そのための写真等を拝借、さらに高村家には了承を求めるといった意味合いで、両家を御訪問、双方の事業に関わらせていただいている当方も、道案内を兼ねて同行いたしました。
 
まずは千駄木二丁目の高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生のお宅にお伺いしました。事前に十和田市の方から、こういう写真などを借りたいという連絡が入っていて、いろいろご準備して下さっていました。
 
「乙女の像」に関わる写真だけでも300枚ぐらいはあるのではないかと思いました。さまざまな制作段階の写真、小型、中型、手のそれぞれの試作をあらゆる角度から撮影したもの、関係者の集合写真、除幕式や除幕直後のようすなどなど。これまでに刊行された書籍に使われていないものがほとんどでした。

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特に興味深かったのは、鋳造を担当した伊藤忠雄の工房で、十和田湖に作られる台座と同じサイズの木枠を作り、二体の位置関係を試行錯誤しているもの。確かにこういう作業をしないことには、いきなり現地で設置できませんが、「こんなことをやっていたんだ」という感じでした。
 
これらは十和田湖畔にオープンする「ぷらっと」の展示、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん刊行の『乙女の像のものがたり(仮題)』に使われるわけです。
 
続いて、同じ千駄木の五丁目にある、髙村家に004お邪魔しました。明治25年(1892)に、光雲一家が谷中から移って以来、住み続けた場所です。光太郎も明治45年(1912)に近くにアトリエを建ててもらうまでここに住んでいました。その前年に、智恵子が先輩芸術家を訪問し、話を聞く一環として、光太郎と初めて出会ったのも、ここです。
 
建物自体は、戦後に建て替えられれているのですが、庭の木は光太郎が住んでいた頃にはすでにあったものです。幼い光太郎が登って遊んだという椎の木です。
 
長男の光太郎に代わって家督を継いだ、三男の豊周(鋳金家・人間国宝)の子息、規氏(写真家)が、この家を守り続けてこられましたが、この夏、ご逝去。現在は、そのご子息で、やはり写真家の達(とおる)氏がお住まいです。
 
髙村家はやはり十和田のみなさんと、昨年の11月にお邪魔して以来でした。その時には、スタジオの一角で、規氏のお話を興味深く拝聴しました。その時のお話が、インタビューの形式で、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん刊行の『乙女の像のものがたり(仮題)』に掲載されます。ご期待下さい。
 
当方、手土産に、当方在住香取市特産の梨を持って参りました。達氏いわく、「父の好物だった」とのことで、それはよかった、と思いました。
 
今後、十和田の方々は、持ち帰った資料を整理し、展示に、記念誌の編集にと、お忙しい日々と存じます。それぞれに立派なものが出来上がるように願ってやみません。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月10日
 
昭和33年(1958)の今日、筑摩書房から『高村光太郎全集』第18巻「翻訳三」が刊行され、全18巻の刊行が完結しました。
 
その後、平成に入って、補遺巻が3巻、別巻1巻の4巻が追加された増補版が刊行されました。その際には旧刊18巻分の解題も全て書き直されました。
 
その中心になられたのが、北川太一先生。来年には満90歳になられます。まだまだこれからもお元気で、ご活躍なさっていただきたいものです。

テレビ放映情報です。  

土曜スペシャル「東北縦断700キロ!名峰・名湯を巡る旅」

 テレビ東京 2014年8月16日(土)  18時30分~20時54分
 
番組内容
渡辺正行と秋本奈緒美のドライブ旅、第4弾!ゲストは舟山久美子。今回の舞台は、日本の原風景が残る東北地方!宮城・松島をスタートし、世界遺産平泉~八幡平~田沢湖~乳頭温泉~白神山地~十和田湖~奥入瀬渓流~八甲田山を巡る!道中には夏限定の絶景や名湯、美味がズラリ!
 
出演者
渡辺正行、秋本奈緒美、舟山久美子 ナレーター キートン山田


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ニッポン絶景街道 十和田・奥入瀬水神街道「大和朝廷も恐れたみちのく謎の文化とは」 

BS朝日1 2014年8月21日(木)  22時00分~22時54分
 
番組内容
昨今話題となっている国内最大級の縄文集落跡が発見された三内丸山遺跡。ここ10年で発掘が進み、注目を浴びているこの場所で、かつて存在した縄文王国に思いを馳せます。その後、二人は八甲田山へ。緑深いブナの森を抜けると、神秘的な雰囲気の中にひっそりとたたずむ蔦沼が現れます。美しい景色を堪能した後は、十和田名物・バラ焼きで腹ごしらえ。鉄板で焼く牛肉の香ばしい香りが食欲をそそります。さらに、避暑地として人気のスポット、奥入瀬渓流へ。十和田湖から流れ出た水が長い歳月をかけ、千変万化の美しい流れを形成しています。その流れに沿って歩くと、緑豊かな樹木や大小様々な滝に癒されます。歴史散策の最終地点は十和田湖。約2千年前にできた美しい湖には、地元に根付く深い信仰がありました。みちのくの地に古くから伝わる文化や信仰の秘密に触れ、奥入瀬水神街道の絶景が物語る歴史を体験する旅です。
 
出演者
鵜川真由子(写真家)、梶本晃司(歴史街道案内人)
 
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どちらも十和田湖が扱われます。少しでも光太郎に触れてくれればいいなと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月16日
 
昭和20年(1945)の今日、詩「一億の号泣」を執筆しました。
 
   一億の号泣
 
 綸言一たび出でて一億号泣す
 昭和二十年八月十五日正午
 われ岩手花巻町の鎮守
 島谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
 天上はるかに流れ来(きた)る
 玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
 五体わななきてとどめあへず
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 玉音ひびき終りて又音なし
 この時無声の号泣国土に起り 普天の一億ひとしく
 宸極に向つてひれ伏せるを知る
 微臣恐惶ほとんど失語す
 ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
 荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
 鋼鉄の武器を失へる時
 精神の武器おのずから強からんとす
 真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
 必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
 
 
この詩は、翌日の『朝日新聞』『岩手日報』に掲載されました。
 
ここには、戦時中、日本の正当性をひたすら信じ、天皇の神格をかたくなに疑わず、一途に国民の戦意昂揚に努めてきた光太郎の、目的を失った衝撃がよく表されています。
 
この後、花巻郊外太田村の山小屋での農耕自炊に入り、厳しい自然の中での生活が、光太郎をして自己の戦争責任の省察へと向かわせます。
 

同じ終戦の日の玉音放送を題材にした「終戦」という詩が書かれたのは、昭和22年(1947)。こちらは20篇から成る連作詩「暗愚小伝」の中の1篇です。
 
   終戦
 
 すつかりきれいにアトリエが焼けて、001
 私は奥州花巻に来た。
 そこであのラヂオをきいた。
 私は端坐してふるへてゐた。
 日本はつひに赤裸となり、
 人心は落ちて底をついた。
 占領軍に飢餓を救はれ、
 わずかに亡滅を免れてゐる。
 その時天皇はみづから進んで、
 われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
 日を重ねるに従つて、
 私の目からは梁(うつばり)が取れ、
 いつのまにか六十年の重荷は消えた。
 再びおぢいさんも父も母も
 遠い涅槃の座にかへり、
 私は大きく息をついた。
 不思議なほどの脱卻のあとに
 ただ人たるの愛がある。
 雨過天青の青磁いろが
 廓然とした心ににほひ、
 いま悠々たる無一物に
 私は荒涼の美を満喫する。
 
 
日を重ねるに従つて/私の目からは梁(うつばり)が取れ、」は、戦時中の光太郎をつき動かしていた軍部主導の国家倫理です。そこから自由になったことで「不思議なほどの脱卻」が訪れたというのです。
 
しかし、光太郎は他の多くの文学者のように、無邪気に民主主義を謳歌するというわけではありませんでした。同じ「暗愚小伝」の終曲、「山林」という詩では、以下のように謳っています。
 
 おのれの暗愚をいやほど見たので、
 自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
 自分に鞭する千の避難も素直にきく。
 それが社会の約束ならば
 よし極刑とても甘受しよう。
 
他の多くの文学者たちが、戦時中に書いた戦意昂揚の作品を「あれは軍の命令で仕方なく書いたものだ」と言い訳していたなか、光太郎はこのように述べているのです。こうした自らの過ちを潔く認め、さらに自らを罰することを実践する(花巻郊外太田村での過酷な独居生活、彫刻の封印は7年に及びました)、そういう点こそ、光太郎の素晴らしさだと考えられます。
 
こうした戦後の光太郎の内面に眼を向けず、光太郎自身が否定した戦意昂揚の作品のみに眼を向け、「御用詩人」と断じるのはどうかと思います。逆に「これこそ大和魂」などと、戦時中の光太郎を賛美するのは論外ですね。
 
晩年の光太郎は、「終戦」の末尾の「いま悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する。」の句をよく色紙などに揮毫していました。まさに当時の心境をよく表す句だったのでしょう。
 
「一億の号泣」の方は、終戦直後のまだ自己省察が進んでいなかった頃に、頼まれて揮毫することがありましたが、のちにはこれも戦意昂揚の詩の延長としてとらえるようになりました。
 
花巻に「一億の号泣」の詩碑を建立する、という話が起こった時、そうした光太郎の意を汲んで、光太郎の実弟・豊周や、過日亡くなった令甥・規氏、北川太一先生らが抗議、一旦は勝手に建てられた碑が撤去されたという経緯があります。しかし、撤去された碑はいつのまにか勝手に元に戻されてしまっています。別に光太郎の汚点だから無かったことにしろ、というわけではありませんが、残念です。

うっかり気がつきませんでしたが、青森十和田湖で先週開催された「「みなとオアシス十和田湖認定3周年」記念イベント ワンコインで十和田湖 湖上遊覧一周ツアー」の模様が、地元紙『デーリー東北』さんで報じられていました。

普段と違う魅力満喫 十和田湖遊覧ツアー

『デーリー東北』2014年7月23日(水)
 
 十和田湖国立公園協会主催の「ワンコインで十和田湖湖上遊覧一周ツアー」が21日に開催され、十和田市や八戸市など県南地域を中心にした約240人が、定期航路からは見ることのできない名所の見学や市内の合唱団の歌声に聞き入るなど、十和田湖の魅力を存分に楽しんだ。
 十和田湖畔休屋の国土交通省「みなとオアシス」認定を記念したイベントで、今年で3回目。御倉半島東側の東湖や秋田県側の和井内といった普段、遊覧船では回らないポイントを楽しんでもらおうと企画した。
 県内外から437件の応募があり、当選した100件の約200人が乗船。出港に先立ち、同協会の中村秀行理事長が「クルージングを楽しみ、口コミで十和田湖の魅力を発信してほしい」とあいさつ。特別ゲストで招かれた十和田市の合唱団「コールアゼリア」と「ポピュラーコーラス十和田」が十和田湖や奥入瀬にちなんだ歌を披露した。このうち、「湖畔の乙女」は文豪佐藤春夫作詞で、歌い継ぐ会が昨年まで湖水まつり開会式で披露し、地域に親しまれてきた歌で、乙女の像への感謝の気持ちをささげた。
 参加者は合唱団の澄んだ歌声やガイドの解説に耳を傾けながら、写真を撮るなどしてゆったりとした湖上遊覧を楽しんだ。
 五戸町に住む祖母前田愛子さん(63)と共に参加した六戸小2年林琉衣さん(8つ)は「楽しかった。合唱もきれいだった」と満足げ。前田さんは「訪れたことのあるキャンプ場や名所を船の上から眺めることができて良かった」と話していた。(三浦千尋)
 
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遊覧船のデッキで澄んだ歌声を響かせたコールアゼリアとポピュラーコーラス十和田
 
湖畔の乙女」は、光太郎と親しかった佐藤春夫が詩を寄託し、当時三本木高校の音楽教師だった長谷川芳美さん(故人)が曲をつけて誕生しました。昭和28(1953)年の除幕式で同校の生徒らによって披露され、10年後にレコード化も実現。東京・新宿の歌声喫茶で歌われるなど全国的な愛唱歌となったものです。
 
「乙女の像」という愛称がついたのは、この歌による部分もあるのでは、という説があります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月28日

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋の畑に殺虫剤DDTを散布しました。

7/19、20の土日で青森に行って参りましたが、十和田湖の周辺で、いろいろと資料を入手して参りましたので、ご紹介します。

十和田国立公園

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森田五成著 十和田文化研究所発行  昭和27年6月5日初版/同57年6月30日改訂版
 
十和田湖国立公園婦人部副会長の森田玲子様からいただきました。森田様の舅にあたられる方のご著書だそうです。
 
十和田湖畔の裸婦群像、通称「乙女の像」についての記述もありますし、その他、十和田湖についてたくさんのことが書かれた、350ページ超の大作です。この手のものは、簡単なものしか手元になかったので、ありがたいかぎりでした。しかも、定価4800円もするのに、無料で戴いてしまいました。
 
乙女の像のある湖畔休屋地区のもりた観光物産さんで販売しています。
 
それから、同じく湖畔休屋地区の総合案内所で、無料で配布しているものを2種。ともに十和田湖国立公園協会さんの発行です。

十和田湖発!開運マンガ♥ 十和田湖にある東北最大(かも)の開運スポットとは!?

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A4判二つ折りです。能町みね子さんによるマンガ「アラサー女子が行く!青森・十和田開運の旅」が掲載されています。十和田神社がメインですが、乙女の像も登場します。
 
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もともと、今年3月刊行の旅行ガイド『じゃらん東北2014-2015完全保存版』に掲載されていたものです。
 
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十和田湖アイドル伝説! 乙女の像S 解散の危機 !?

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同じく能町みね子さんによるマンガで、こちらは7ページの作品です。元プロレスラーで苔玉作りインストラクターの起田高志さんも登場します。
 
乙女の像の片方(右子-みぎこ)が、「乙女の像をやめて上京する」と言いだし、もう片方(左子-ひだりこ)が、十和田湖周辺の魅力を再認識させ、引き留めるというストーリーです。笑えます。
 
こちら、十和田湖国立公園協会さんのサイトで読むことができ、「冊子にすればいいのに」と思っていたところ、すでになっていました(笑)。
 
こちらを読んで、ぜひ十和田湖に足をお運び下さい。
 
しかし、2月にお伺いした時には、大雪や訪れた時間帯のために気がつきませんでしたが、今回あらためて歩いてみて、休業した宿や店舗の多さにおどろきました。
 
先月の地元紙『デーリー東北』さんには、以下の記事が出ています。

女性記者が感じた十和田湖の魅力と課題

 青森県を代表する観光地・十和田湖の人気が低迷している。東日本大震災による風評被害を引きずってホテルや土産店の休廃業が後を絶たず、来訪客は一時、最盛期の半分程度にまで落ち込んだ。背景にあるのは観光地間の競争激化と観光スタイルそのものの変化。低迷を抜け出すために克服すべき課題は多い。
 県によると、十和田湖周辺は1990年代前半には年間300万人以上が来訪。東北新幹線八戸駅開業の2003年には最盛期の90年代を上回る約330万人を記録した。だが、鳥インフルエンザやリーマン・ショックの影響で08年に220万人となり、11年には東京電力福島第1原発事故の風評被害などで160万人にまで激減した。
 新幹線開通などで移動時間が短くなり、首都圏の観光客にも十和田湖はより身近な観光地になった。一方で、日帰りや他観光地への〝はしご〟も可能となり、観光客減少につながっているとみられる。
 県観光企画課は「宿泊を視野に入れない観光客も多く、観光スタイルが変化している」と指摘する。
 
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十和田湖周辺、本当にいいところです。よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月23日
 
平成18年(2006)の今日、朝日新聞社から『週刊人間国宝8 [工芸技術・金工1]』が刊行されました。
 
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光太郎の実弟で、鋳金家の高村豊周、そしてその弟子で、花巻の高村光太郎記念館や、信州安曇野の碌山美術館などに収められている光太郎作品の鋳造を担当した故・齋藤明氏(昨年亡くなりました)が取り上げられています。

7/20(日)、十和田をあとにして、青森市の青森県立図書館に行って参りました。
 
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こちらには、青森県近代文学館も併設されており、時間があればゆっくり見たかったのですが、今回は図書館での調査だけにしました。いずれまた行こうと思っております。
 
図書館での調査も、事前に目星を付けておいた、青森県関係の資料だけにしました。それでも、「大漁」と言っていい成果でした。
 
まず、昭和28年(1953)、十和田国立公園功労者顕彰会編『十和田記念碑』という冊子。光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像」(通称「乙女の像」)の制作の報告書的なものです。
 
東京の北川太一先生のお宅や、花巻の高村光太郎記念会に寄贈された図書の中に あり、その存在は知っていましたが、入手するには至っていないものです。「経過報告」という詳細な年表などが載っており、実に参考になります。
 
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それから、同じく昭和28年(1953)の地元紙、『東奥日報』。
 
『東奥日報』からひいたものとしては、筑摩書房の『高村光太郎全集』第19巻に、「視覚で変る群像」という講演筆録が掲載されていますし、当方編集の『全集』補遺作品集『光太郎遺珠③』に、「乙女の像」除幕前後のインタビューと談話を載せています。こちらは、以前、同館にレファレンス的に依頼して送っていただいたのですが、その前後の紙面をローラー作戦的に当たろうと思って、見て参りました。
 
結果、新たに光太郎談話を一篇見つけましたし、「視覚で変る群像」と同じ時の佐藤春夫、菊池一雄、谷口吉郎の講演の筆録も見つけました。また、除幕前後のいろいろな関連報道も、興味深いものでした。そしてそれらに付された写真。
 
右の画像は、「乙女の像」制作の際にモデルを務めた藤井照子です。記者の求めに応じ、「乙女の像」のポーズを取って、写真におさまっています。これなどは、初めて見るものでした。
 
このあたりの調査の結果は、十和田で刊行される「乙女の像」建立60周年記念誌的なもので、当方の担当する部分に生かしたいと考えております。
 
青森県立図書館以外に、十和田湖でも、いろいろな資料を入手しました。明日はそのあたりをご紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月22日
 
平成2年(1990)の今日、茨城県近代美術館で開催されていた「高村光太郎・智恵子 その造型世界」展が閉幕しました。
 
この年4月から、呉市立美術館、三重県立美術館と巡回してきたもので、茨城展が最終でした。光太郎関連の企画展の中で、出品点数の多さ、充実度で、空前絶後の企画展でした。当方、この時初めて見た作品もかなりあり、圧倒された記憶があります。
 
昨年、当方も関係した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展が、千葉市立美術館、岡山井原市立田中美術館、愛知碧南市藤井達吉現代美術館を巡回しましたが、この際に展示したいと思いながら果たせなかった彫刻も、平成2年の企画展に並びました。また、「造型世界」と冠したため、彫刻に限らず、絵画や書も多数出品されました。
 
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7/19(土)・20(日)と、青森は十和田方面に出かけて参りました。そのレポート2回目です。
 
7/20(日)早朝、宿泊先の十和田湖山荘さんで目を覚ましました。さっそく24時間入浴可能の温泉に入って、頭をシャッキリさせ、朝食前に、湖畔の通称「乙女の像」まで歩きました。
 
2月に「十和田湖冬物語」で訪れた時も、それから前日の19日も、夕刻を過ぎてからライトアップされた「乙女の像」を見たのですが、朝の自然光の中で観ておきたいと思った次第です。
 
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曇り空でしたが、雨は降っておらず、空気が清涼でした。歩くこと30分程で、「乙女の像」に到着。
 
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久しぶりに細部や、かたわらに建てられた光太郎詩「十和田湖畔の裸像に与う」を刻んだ碑などもじっくり観て参りました。
 
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この像がここに建てられて、昨年で60周年でしたが、まったく古びたところが感じられません。像自体、何度か補修されているのですが、そういう意味ではなく、造型としてのこの像のもつ力といいますか、何といいますか……。
 
光太郎を敬愛していた彫刻家の高田博厚の、「やたらにある日本の銅像の中で、これだけ『品格』の高いものがあるか?」「あらゆる文学的感傷を除外して、この像は『自然』の中に調和していて、自然を裏切らない。このことは技術のせいでも、知恵のせいでもない。高村光太郎の『人格』が出ているからである。」という評が、まさしくその通りと思われます。
 
さて、その後、最近、パワースポットとして人気の高い十和田神社に。創建は平安時代初めという、由緒ある神社です。装飾彫刻などもみごとでした。
 
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この地の平安を祈願して参りました。
 
宿に帰る途中、秋田県側の小坂町に入ったところにある「十和田湖開発の碑」、青森県側に戻って石川啄木の歌碑などを見ました。
 
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盛岡中学生だった啄木も、明治34年(1901)頃、十和田湖を訪れているようです。
 
 夕雲に 丹摺はあせぬ 湖ちかき 草舎くさはら 人しつかなり
 
という歌が刻まれています。
 
 
その他、あちこちの標識やら柵やらに、「乙女の像」があしらわれていて、嬉しくなりました。
 
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宿に戻り、朝食を取り、チェックアウト。青森駅行きのJRバスに乗り込みました。バスはほぼ満員で、途中、前日も訪れた奥入瀬渓流や蔦温泉では、乗降する人が多く、いい傾向だと思いました。たくさんの人に、このあたりを訪れていただきたいものです。
 
バスはさらに、やはり昭和27年(1952)6月に光太郎が訪れた酸ヶ湯温泉や、八甲田山を経て、青森駅に着きました。
 
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青森駅からタクシーで青森県立図書館へ。関東の図書館、文学館等ではおめにかかれない資料を探して参りました。
 
長くなりましたので、そのあたりは次回に。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月21日
 
明治39年(1906)の今日、智恵子が、親友の大熊ヤスと共に、富士山に登りました。
 
智恵子は数え21歳。日本女子大学校在学中です。大熊の実家は静岡の沼津です。のちに病気がちになる智恵子ですが、若い頃はテニスや乗馬、自転車にスキー、水泳など、運動好きでした。

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