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まず大事な連絡を。北川太一先生お通夜/葬儀の日程等決まりました。

お通夜 2020年1月16日(木) 18:00~  ご葬儀 同1月17日(金) 11:00~
会場はともに文京区向丘2-17-4の、浄心寺さんです。こちらのお寺、「さくらホール」という葬祭場を併設なさっていますが、そちらではなく、本堂で執り行うとのことでした。公共交通機関ですと、東京メトロ南北線・本駒込駅、あるいは都営三田線・白山駅からそれぞれ徒歩5分ほどのところ。先生が永らく教壇に立たれていた都立向丘高校さんの近くです。

生花の受付は、フリーダイヤル0120-621-192。葬儀社の東京福祉会さんです。こちらに電話し、FAXを受け取り、必要事項を記入して返信するという手はずになります。花輪はなく生花のみ、16,500円で、のちほど振り込みだそうです。FAXの無い方、とりあえず電話してみて下さい。


昨日、朝一番で1月12日(日)に亡くなられた当会顧問・北川太一先生のお宅に行って参りました。

東京メトロ千代田線千駄木駅で下り、光太郎旧居跡のある団子坂方面とは逆に、不忍通りを根津方面へ。何度も通い慣れた道ですが、こんな気持でここを歩くとは、と思いながら歩を進めました。

主亡きお宅。かつては先生の盟友だった故・吉本隆明氏が、刑事の尾行をまくために立ち寄ったりもされたそうです。玄関先には「高村光太郎記念会」の看板も。

午後からは葬儀社さんや、葬儀委員長的なことをなさって下さるという、先生のかつての教え子の北斗会の方がいらっしゃるということでしたが、当方が伺った9時頃にはご家族だけでした。奥様で、昭和30年(1955)には結婚のご報告に、北川先生ともども光太郎のもとを訪ねられたこともある節子様、子息の光彦氏(「光」の字は光太郎にちなみます)、よく連翹忌の受付や資料の袋詰めなどを手伝って下さった、おじいちゃん子だったお孫さん。そこにあるべき先生のお姿が無いことが、不思議に思えるような……。「あれ、先生、二階の書庫にでもいらっしゃるんですか」と問いたくなるような……。

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居間兼応接室の、いつも、この椅子に座られて、当方が伺うとにこにこしながら出迎えて下さった北川先生……。ちなみに写っている絵は、平成23年(2011)、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった、宮城県女川町の女川光太郎の会事務局長であらせられた故・貝(佐々木)廣氏の筆になる先生の肖像画です。

「会ってやって下さい」とのことで、隣室にてご尊顔を拝見させていただきました。安らかなお顔でした。お顔を目にしてしまうと……駄目ですね……。滂沱禁じ得ませんでした……。

亡くなった日のご様子を伺いました。朝、普通に目覚められ、朝食のため居間の椅子にお座りになったところで意識を失われ、テーブルに突っ伏されたそうです。食事をされながら、調べものでもするおつもりだったのか、何かのご本を手にされていたとのことでした。いかにも先生らしい、と思いました。

救急車で、近くにあるかかりつけの日本医大病院さんに搬送。以前も硬膜下出血でそういうことがあって、しかし、その時は溜まった血を抜いたらすぐに恢復なさったため、ご家族の皆さんは今回も、と思ったそうです。しかし、お医者様の診断は無情にも、心臓の大動脈乖離で、手の施しようが無い、的な……。

結局、その後、お話をなさることは出来なかったそうですが、ご家族が手を握られると握り返されたとのことで、意識は朦朧とされつつも、ある程度わかっていたのではないか、と、光彦氏の弁。この日は日曜でしたので、奥様はじめ、お子さん、お孫さんもお集まりになり、皆さんに看取られて、午後11時20分、先生は天然の素中に還られたそうです。「長く苦しむ事もなく、みんなに看取られて逝ったのは、幸いだったと思うべきでしょうかね」とは、奥様のお話でした。

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その後、上記お通夜やご葬儀の日程等をお聞きし、「遺影をどれにしようか迷ってるんですよ」とおっしゃるので、いくつかの候補の中から「やっぱり、これがいいんじゃないですか」と、当方。普段着で(この上っ張り姿で、この居間で行われたテレビ番組のロケにも臨まれました)、いつもどおりのにこやかな。当方にとっての北川先生は、まさにこういう方です。

おいとまを告げ、電車と高速バスを乗り継いで千葉の自宅兼事務所に帰る間、今月開設したフェイスブックにスマホで情報を上げ(こんなことのために始めたんじゃないんだけどな、と思いつつ)、片っ端から関係の方々の携帯にメールを送り、電話やPCのメールでなければ伝えられない方には帰ってから伝え、しかし、そうして何かやっていないと落ち着かないような、昨日はそんな一日でした。メールの返信等で、そんな当方を気遣って下さった皆様、恐縮です。この場を借りて御礼申し上げます。

17日のご葬儀では、しっかりと、先生をお送りしたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

よみ返して今更この敬虔無垢な詩人を敬愛する情を強めました。かういふ詩人の早世を実に残念に思ひます。御近親の方々のお心も想像いたされます。

散文「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

八木はこの前年、数え30歳で亡くなっています。北川先生は、おん年94。世間的には「大往生」「天寿」といわれるお年でしたが、早世であれ、大往生であれ、残された者の悲しみには共通するものがあるわけで……。

とうとうこの日がやって来てしまったか、という感じです。いずれこの日が来ることを覚悟してはおりましたが、いざ、そうなると、なぜこんな日が来るんだ、と、やり場のない怒りと、虚脱感……。

当会顧問にして、光太郎顕彰の第一人者、北川太一先生が、1月12日(日)、午後11時20分、大動脈乖離のため、亡くなられました。

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先生は、大正14年(1925)、東京日本橋のお生まれ。おん年94歳でした。3月がお誕生日でしたので、今年、95歳になられるはずでした。ちなみに「昭和」の年号が、そのまま先生の満年齢になります。昭和元年に満1歳、同20年には20歳、というわけです。今年は換算すれば昭和95年です。

昭和12年(1937)に尋常小学校を卒業後、東京府立化学工業学校に入学され、旧制中学の課程を学ばれた北川先生、その後、同17年(1942)には、東京物理学校(現・東京理科大学)に進まれ、その頃から理系でありながら詩歌にも親しまれていたそうです。

同19年(1944)、物理学校を戦時非常措置で繰り上げ卒業。海軍省より海軍技術見習士官に任官され、静岡へ。翌20年(1945)には松山海軍航空隊宇和島分遣隊に転属、海軍少尉となられました。結局、四国の山中で、ご自分よりも若い予科練の少年たちと共に塹壕を掘りながら敗戦を迎え、復員。

同21年(1946)、東京工業大学に再入学。一学年上には吉本隆明が居ました。同23年(1948)から、東京都立向丘高校定時制教諭となられ、以後、同60年(1985)まで教員生活を送られました。ご自身の東京工業大学卒業は同24年(1949)。最初の頃は大学生と高校教諭の掛け持ちということで、それが可能だった時代だったのですね。

「智恵子抄」は戦時中に既に読まれ、さらに戦後には雑誌『展望』に載った、光太郎が半生を振り返った連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)を目にされ、「あの戦争はいったい何だったのか」という思いに駆られ、同じく光太郎に注目していた吉本と議論したりなさったそうです。

昭和27年(1952)、光太郎が岩手花巻郊外太田村から、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京すると、早速、中野のアトリエを体当たり的にご訪問、光太郎の生き様を通し、「あの戦争はいったい何だったのか」という命題に向き合われました。たびたび訪問するうちにすっかり光太郎に魅せられた北川先生、光太郎の来し方についてインタビューをなさいました。それが昭和30年(1955)の初夏から、光太郎が亡くなった同31年(1956)の光太郎誕生日、3月13日まで。概ね月1回のペースで為されたその対話は、「高村光太郎聞き書き」として、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻に、二段組み40ページ超で掲載されています。

光太郎没後は、高校教諭のかたわら、同じく光太郎に私淑していた草野心平らと共に、光太郎の業績を後の世に残すことに腐心され続けました。それが連翹忌となり、『高村光太郎全集』となり、『高村光太郎書』(二玄社)となり、『高村光太郎造型』(春秋社)となり、『高村光太郎全詩稿』(二玄社)となり、『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』(新潮社)となり……これを挙げだしたらきりがありません。

先生はよくおっしゃっていました。「どんなに優れた芸術家でも、後の世の人々が、その業績の価値を正しく理解し、次の世代へと引き継ぐ努力をしなければ、たちまち歴史の波に呑み込まれ、忘れ去られてしまう」と。まさしく光太郎という偉大な芸術家の業績を、次の世代へと引き継ぐ、その一点を追い続けられたわけです。

また、こんなこともよくおっしゃっていました。「僕は、単なる光太郎ファンだから」。分類すれば、「文芸評論家」「近代文学研究者」などといったカテゴリに入るそのお仕事でしたが、そのように称されることを嫌っておいででした。それは「謙遜」や「韜晦」といったことではなく、逆に先生の「矜恃」の表れだったように思います。エラい評論家のセインセイたちが、自分のことは棚に上げ、対象を批判することに躍起になっている「論文」などには価値をあまり見出さず、逆にそういう輩と一緒にされてはたまらん、というお気持ちの表れだったように思われます。

そこで、我々次世代の者には「とにかく光太郎本人の書き残したものをよくお読みなさい。そこに答えが書いてある」と、おっしゃっていた先生。「研究」よりも「顕彰」なのだというスタンスでした。「とことん対象に惚れ込むことが大切です」とも。それは、学術的な部分では奨励される態度ではないのでしょう。しかし、先生にとっては、「学術」なんぞ糞食らえ、だったのではないでしょうか。

しかし、「贔屓の引き倒し」のような、妄信的、狂信的なところは一切無く、常に公平公正、たとえ惚れ込んだ光太郎であっても、非なる点は非なり、というお考えでした。そうしたバランス感覚があってこそ、我々は先生を尊敬し続けていたと言えます。

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当方、先生とのお付き合いはそう長いわけではありません。ご著書を通じては、学生だった40年近く前から存じていましたが、直接の関わりを持たせていただいたのは、'90年代半ば頃からです。光太郎に関し、どうにもわからない疑問が生じ(今にして思えば初歩的なことでしたが)、ご著書の奥付に書かれていた千駄木のご住所に手紙を送って質問させていただきました。すると、ほどなく懇切ご丁寧な返信が。その後、やはり先生が顧問を務められていた高村光太郎研究会にお誘い下さり、その席上で始めてお会いした次第です。それから連翹忌にも参加させていただき、何度も千駄木のお宅にお邪魔したりもしました(上記写真は千駄木のお宅でのショットです)。

000平成10年(1998)以後、先生のご編集になった増補版の『高村光太郎全集』が完結した後、それに洩れていた光太郎作品を見つけ、先生の元にコピーをお送りすると、「すごいものを見つけましたね」と賞めて下さり、それが嬉しくてさらに未知の作品発掘に力を注ぐようになり、光太郎没後50年の節目となった平成18年(2006)には、それらをまとめて『光太郎遺珠』として、先生との共同編集という形で世に出させていただきました。'90年代にはインターネットが普及し、情報収集がしやすくなったので、未知の作品発掘もそれほど大仰なことではありません。インターネットはおろか、コピー機さえもなかった時代に、公共図書館などで光太郎作品を発掘し、ご自分の手で筆写し、『全集』にまとめられた先生のご苦労を思えば、頭が下がります。

そして、光太郎忌日の連翹忌。光太郎の歿した翌年の第1回連翹忌から、昨年の第63回まで、一度だけ、インフルエンザか何かでお休みされたことがおありだそうですが、それ以外は欠かさずご参加。第50回までは運営のご中心でした。

その間に、先生と共に連翹忌を立ち上げた佐藤春夫、草野心平、高田博厚、伊藤信吉、髙村豊周らが次々鬼籍に入り、今また先生も、光太郎の元へと旅立たれてしまいました……。

そういうわけで、今年初めて、先生のいらっしゃらない連翹忌を運営することとなります。そのご遺志を引き継ぎ、光太郎の、そして先生の業績も、次の世代へと語り継いでいく所存です。しかしながら、微力な当方には、皆様のお力添えがなければそれが果たせません。今後とも、よろしくお願い申し上げます。

そして、あらためまして、先生のご冥福をお祈り申し上げると共に、今までのご労苦に対し、衷心より感謝の意を申し上げます。ありがとうございました。そして、安らかにお眠り下さい。


本日、朝一番でお宅に伺います。通夜、葬儀等の情報が入りましたら、当方フェイスブックにアップしますので、そちらをご覧下さい。

追記 北川先生お通夜16 日(木)18 時、葬儀17 日(金)11時、それぞれ文京区向丘2-17 -6浄心寺さんで行われることと相成りました。

 先週末、若手俳優の滝口幸広さんの訃報が出ました。

『デイリースポーツ』さん。 

俳優・滝口幸広さん死去 34歳 テニスの王子様、仮面ライダードライブなどで活躍

 俳優の滝口幸広さんが13日に突発性虚血心不全の001ため亡くなったことが15日、分かった。34歳だった。滝口さんの公式ブログで所属事務所が発表した。通夜、告別式は近親者のみで執り行う。

ブログには「これまで温かく応援してくださったファンの皆さまならびにお世話になった関係者の皆さまへご報告致しますとともに厚く御礼申し上げます」と記されている。

 滝口さんは千葉県出身。04年にフジテレビ系ドラマ「ウォーターボーイズ2」でデビュー。14年にはテレビ朝日系「仮面ライダー ドライブ」にも出演した。

 ミュージカル「テニスの王子様」など、舞台でも存在感を見せ、今年もミュージカル「青春鉄道」や「MANKAI STAGE『A3!』」などにも出演。年末の舞台「明治座の変~麒麟にの・る」にも出演予定で、来年も1月に「MANKAI STAGE『A3!』~AUTUMN2020」のスケジュールが発表されていた。


『朝日新聞』さんの紙面から。

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滝口さん、ともに平成24年(2012)に開催された朗読系の公演「僕等の図書室」(以下、「1」)及び「僕等の図書室2」(以下、「2」)で、「智恵子抄」の朗読を披露なさいました。

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「1」のパンフレットから。


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「2」のパンフレットから。

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それぞれに公演の模様がDVD化されています。

まず「1」。

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滝口さんがメインで、三上真史さん、中村龍介さんがサポートメンバーとして途中から合流。光太郎の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)を換骨奪胎したものをト書きにしつつ、「智恵子抄」所収の詩篇を朗読なさいました。30分ほどの構成でした。

「2」。台本的には「1」と同一。サポートメンバーが中村さんはそのままに、三上さんが大山真志さんに変更。

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滝口さん、こちらでは、感極まったか、最後は涙ぐみつつの朗読でした。

DVDは2枚組となり、DISK2の「特典映像」には、出演者それぞれのインタビューなども。

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「1」「2」それぞれLe Himawari(る・ひまわり)さんという演劇制作会社から販売されています。

それにしても滝口さん、前途有為な34歳という若さでの急逝。実に残念です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

芸術家の名誉は作品にあるのだから、勲章なんかいくら胸にぶら下げでもなんにもならんよ、それよりも金でもくれて大いに仕事させてくれたほうがありがたいね。
談話筆記「梅原・安井両君おめでとう」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳


明治末、それぞれに光太郎と留学仲間だった梅原龍三郎、安井曾太郎が文化勲章を受章した際の談話です。上記の一節だけ読むと、ケチをつけているようにも読めますが、そういうわけではなく、両者の受賞を素直に喜んでいます。

その上で、副賞としての金品授与を伴わなかった文化勲章の制度が前年に改正され、受賞者は同時に文化功労者にも認定、文化功労者年金法に基づく終身年金が支給されるシステムとなったことを受けての、「政府も粋な計らいをするじゃん」的な発言です。

毎日のように言い訳をしていますが、とりあげるべき事項が多く、今日も「智恵子抄」がらみで3件まとめてご紹介します。余裕のある時は1件ずつ3日に分けるのですが……。


まずは、名古屋からコンサート情報。

伊藤晶子ソプラノリサイタル ~演奏生活70周年を記念して~

期 日 : 2019年11月16日(土)
会 場 : ザ・コンサートホール 愛知県名古屋市中区栄2-2-5
時 間 : 14:00開演
料 金 : 4,000円

プログラム
 本居長世 十五夜お月さん 青い眼の人形 白月  小松耕輔 母
 大中寅二 椰子の実   平井康三郎 歌曲集「日本の笛」より   團伊玖磨 三つの小唄  
 朝岡真木子 改訂初演「智恵子抄」
  人に あどけない話 風にのる智恵子(委嘱・初演) 千鳥と遊ぶ智恵子 レモン哀歌

出演 伊藤晶子(sp) 伊藤眞理(pf) 朝岡真木子(pf)

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朝岡真木子さんとおっしゃる方の作曲になる独唱歌曲「智恵子抄」全5曲が演奏されます。ありがたいことです。


続いて、地方紙『福島民報』さんの記事。

丘灯至夫さんの作品合唱 東京で「歌う会」

 小野町出身の作詞家、故丘灯至夫さんの作品を歌う会は九日、都内の品川プリンスホテルで開かれた。
 丘さんが二〇〇九(平成二十一)年に他界する前からほぼ毎年開催している。十六回目の今回は、芸能関係者や親交のあった知人ら約百人が集まった。
 丘さんの妻ノブヨさんが「年に一度の歌う会の開催を幸せに思い感謝している」とあいさつした。出演者たちがステージに上がって「高原列車は行く」や「郡商青春歌」「智恵子抄」などの名曲を歌った。歌手の水木一郎さん、県民謡連盟会長の佃光堂さんも熱唱。最後は全員が輪になって、大ヒット曲の「高校三年生」を合唱した。

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昨年もちらっとご紹介しましたが、こういう催しが為されているそうです。

作詞家の故・丘灯至夫氏は智恵子の故郷・二本松に近い小野町のご出身で、昭和39年(1964)リリース、二代目コロムビア・ローズさんによる「智恵子抄」は、二本松市の正午のチャイムに使われるなど、二本松市民の皆さんのソウルソングの一つです。


最後に訃報。俳優の中山仁さんが先月亡くなっていたそうで。下記は「共同通信」さんの配信記事。

俳優の中山仁さんが死去 ドラマ「サインはV」でコーチ役004

 テレビドラマ「サインはV」のコーチ役などで活躍した俳優の中山仁(なかやま・じん、本名中山仁平=なかやま・じんぺい)さんが10月12日午後5時25分、肺腺がんのため東京都内の自宅で死去した。77歳。東京都出身。葬儀・告別式、お別れの会は故人の遺志で行わない。

 早稲田大中退後、文学座養成所に入り、劇団「NLT」を経て三島由紀夫らと「浪曼劇場」を設立。1960~70年代に放送されたバレーボールチームが舞台のスポ根ドラマ「サインはV」で、熱血鬼コーチ役を演じて全国に知られた。他の主な出演作にドラマ「七人の刑事」「ウルトラマン80」など。



さらに『朝日新聞』さん。

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中山さん、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん主演)にご出演なさっていました。光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を嗣ぎ、のちに鋳金分野の人間国宝となる豊周(とよちか)の役でした。

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当方、この映画は一度だけ拝見しましたが、非常に爽やかな豊周だったという印象です。

謹んでご冥福をお祈りさせていただきます。


【折々のことば・光太郎】

彼の画はやはらかい画です。偉大、崇高、厳正、剛直、清澄といふ様な性質は無いかも知れません。しかし限りなき太陽の温かさ、親しさ、神々しさをさげ思はせます。そして徹底的に自己の道を極め尽した大きな魂を思はせます。自己の天凜を生かし尽した人の貴さを思はせます。

散文「美術院の将来品―ルノワール、セザンヌと、ロダン―――」より
大正9年(1920) 光太郎38歳


光太郎が範とした芸術家のうち、彫刻家はミケランジェロとロダンでした。絵画の分野では、ルノワール。その評はイコール、光太郎のあるべき絵画観、芸術観を如実に表しています。

昨日は、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった、歌人・水野葉舟の子息にして、衆議院議員を永らく務められ、総務庁長官、建設相などを歴任された水野清氏のお別れの会に行って参りました。
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会場は、成田ビューホテル。氏の地元で、当方自宅兼事務所から車で30分足らずの場所です。
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亡くなったのは7月末で、葬儀は親族の方々等で既に執り行われていました。参列者が多くなると予想される場合には、このように葬儀は内輪で済ませ、改めてお別れの会というスタイルが定着してきたようです。先月には、出版社・二玄社さんの創業者、渡邊隆男氏のそれが青山斎場でありました。

昨日も、大島衆議院議長ご夫妻をはじめ、東洋大学理事長・安斎隆氏、堂本暁子前千葉県知事など、500名以上の参列があったようです。
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水野氏、光太郎が最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため岩手花巻郊外旧太田村から帰京した昭和27年(1952)当時、NHKさんに勤務されており、たびたび光太郎終焉の地となった中野アトリエを訪問され、光太郎日記にその名がたびたび記されています。

昭和28年(1953)の日記には、「夜十一時過水野さん印バ沼のウナキ白焼持参」とあります。昔風に濁点が省略されていますが「ウナキ」は「ウナギ」、光太郎の好物の一つでした。「十一時過」というのが豪快ですが、水野氏、一刻も早く光太郎に届けたかったのではないでしょうか。

父君の水野葉舟が成田に移り住んだのは、関東大震災の関係もあったようで、光太郎が日本画家・山脇謙次郎のために建ててやった開墾小屋が空いたため、そこに入ったのが始まりです。光太郎はしばしば葉舟の元を訪れ、近くの三里塚御料牧場で見た光景を元に、詩「春駒」(大正13年=1924)を作ったりもしました。

そのあたりにも触れられた、父君・水野葉舟歿後30年記念の企画展示が、昭和52年(1977)、成田山新勝寺内の成田山資料館で開催されました。
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左はその図録の表紙、右は清氏による父君の回想文です。

こうした光太郎とのご縁から、清氏、連翹忌に30回ほどご参加下さっていました。最後のご出席は、平成27年(2015)。この際は久しぶりにお見えになられたということもあり、スピーチをお願いしました。当方、これが氏と直接お会いした最後となりました。
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その水野氏のお別れの会に参列し、自宅兼事務所に帰って、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフの方とメールでやりとりしている中で、花巻の佐藤進氏が亡くなったと知らされ、驚きました。
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進氏、父君は佐藤隆房。昭和8年(1933)に歿した宮澤賢治の主治医でもあり、賢治の父・政次郎ともども、昭和20年(1945)4月の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、その後も物心両面で光太郎を支えてくれた人物です。

隆房は光太郎歿後に結成された花巻の財団法人高村記念会初代理事長となり、進氏は父君が亡くなったあと、そのあとを継がれて永らく彼の地での光太郎顕彰に骨折って下さいました。

光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に移る直前の1ヶ月ほど、佐藤邸に厄介になっていたこともあり、進氏も光太郎と交流がありました。
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左が進氏です。

父君歿後には、父君の書かれたものをまとめられたり、ご自身でも『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(平成5年=1993)という書籍を著され、貴重な光太郎回想を残されました。
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脳梗塞で倒れられてからも、毎年5月15日の高村祭(光太郎が花巻に向けて東京を発った記念日に、郊外旧太田村の山小屋敷地で開催)に車椅子で参加下さり、気丈にご挨拶なさったり、同市の市民講座の際に、光太郎が起居したご自宅離れの公開を快く受け入れて下さったりと、いろいろありがたい限りでした。

水野氏ともども、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

詩を書く場合に、昔の美しい言葉に生命をふき込んで使用するのもいゝが、日常語に、思ひがけぬ美しさ、気のつかぬ美しさのある事を思ひ、詩の中に日常語を取入れて、そこに美を見出したいと思ふ。

談話筆記「清浄簡素の美」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

水野清氏、佐藤進氏、それぞれ、光太郎の言う「清浄簡素の美」に共鳴されていたのだと思います。

昨日は都内港区の青山葬儀所さんに行っておりました。過日ご紹介した、出版社二玄社さんの創業者、渡邊隆男氏の「お別れの会」参列のためです。

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青山葬儀所(別名・青山斎場)さん。昭和31年(1956)4月4日、光太郎の葬儀もここでで行われました。


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その同じ場所で渡邊氏のお別れの会というのも奇縁だなと思いました。

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二玄社さん、写真製版の技術を生かし、中国古典籍の復刻や、雑誌『カーグラフィック』など、さまざまな分野で革新を起こされました。また、光太郎智恵子がらみの出版物等をたくさん刊行して下さっています。過日はその主なものをご紹介しましたが、他にもいろいろ。「あ、これも二玄社さんだったか」「ということは、あれもか」という感じで、当方自宅兼事務所の書庫、二玄社さんだらけです(笑)。順不同ですがご紹介します。

当会の祖・草野心平による『わが光太郎』(昭和44年=1969)、それからやはり光太郎と交流の深かった美術史家・奥平英雄による『晩年の高村光太郎』(昭和37年=1962)。ともに光太郎研究には欠かせない回想です。

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平成13年(2001)、徳島の相生森林美術館さん、兵庫の姫路文学館さん、広島のひろしま美術館さんを巡回した「『智恵子抄』誕生60周年記念 智恵子抄展 高村智恵子の芸術と恋とその生涯」の図録。

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やはり智恵子系で、雑誌『書画船』第2号(平成9年=1997)。光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏へのインタビュー「智恵子と紙絵」が掲載されています。

翌年発行の『PR書画船 かく!』第2号には、当会顧問北川太一先生ご執筆の「声が聞こえる ―智恵子紙絵の魅力」が。

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こちらには智恵子紙絵の複製の広告も。この複製シリーズ、当方、荒井真澄さん/大西ようこさんモンデンモモさんのコンサートなどに持ち込んで、会場内に飾ったりもさせて頂いています。

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それから昭和43年(1968)初版、昭和61年(1986)新装改版の『文士の筆跡三 詩人篇』、平成16年(2004)には日本絵手紙協会の小池邦夫氏による『芸術家・文士の絵手紙』。光太郎の書や書簡も取り上げられています。

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その他、二玄社さんも加盟している出版梓会さんによる『出版ダイジェスト』という業界紙があり、各社共同で発行される号と、二玄社さん単独の号があったりします。そちらにも当会顧問・北川太一先生の玉稿が載ったりしています。
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今後とも、光太郎智恵子の名を次世代に継承していくために、お力添えを頂きたいものです。

そして改めまして渡邊氏のご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

人は真の自由を得又自由といふものゝ真の意味を知れば、実に行住坐臥度を外れないものである。自由にして而も芸術の正道を学生に踏ませるには、どう考へても学校全体の空気が芸術的良心の真摯な力に充ちて居なければならぬ。そして芸術精神が渦を巻いて居るやうに旺盛でなければならぬ。

散文「美術教育の本来」より 大正5年(1916) 光太郎44歳

二玄社さん、「芸術的良心」「芸術精神」の涵養に貢献すること実に大、ですね。

ところでこの文章、学校に於ける美術教育のあり方について論じたものですが、「学校全体」を「国全体」と読み替えてもいいような気がします。

訃報、というか、近々執り行われる「お別れの会」二件の情報です。

お二人とも、今年6月と7月に亡くなられていましたが、当方、報道等見落としておりまして、自宅兼事務所に「お別れの会」の開催通知を頂いて初めて亡くなったことに気づきました。

お一人目、水野清氏。『明星』時代からの光太郎の親友・水野葉舟の子息にして、建設大臣や総務庁長官などを務められた元衆議院議員です。

先月初めに共同通信さん配信で訃報が出ていました。

水野清元総務庁長官が死去 行革推進、橋本首相を補佐

 橋本内閣で行政改革担当の首相補佐官として中央無題省庁再編の実現などに尽力し、建設相や総務庁長官も務めた水野清(みずの・きよし)氏が7月28日午後11時、老衰のため東京都内の老人ホームで死去した。94歳。千葉県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妻陽子さん。

 1983年、中曽根内閣で建設相で初入閣。自民党総務会長などを経て、89年には総務庁長官に就任した。96年の衆院選に出馬せず、国会議員を引退後、橋本内閣で行政改革担当の首相補佐官になった。橋本龍太郎首相が会長を務める行政改革会議の事務局長として、中央省庁再編を柱とする最終報告のとりまとめに尽力した。


先週、「お別れの会」のご案内が届きました。


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ご自身、ご幼少のみぎりから光太郎をご存じで、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には、昭和8年(1933)、満7歳の水野氏に送った光太郎からの年賀状が掲載されています。

しんねんおめでたうごさいます おはがきありがと おばさんからもよろしく 高村光太郎 昭和八年一月三日

「おばさん」は存命だった智恵子ですね。

成人された水野氏、NHKさんに入社、昭和27年(1952)に、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、岩手花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎の元に足繁く通われました。NHKさんの仕事として亀井勝一郎と光太郎の対談に関わったり、父君・水野葉舟の歌碑建立に光太郎の力を貸して貰ったりするためでした。

光太郎歿後は、父君の暮らされていた成田三里塚に建てられた光太郎「春駒」詩碑の建立(昭和52年=1977)に奔走されたり、政界入りされてご多忙だったにもかかわらず連翹忌にもかなりの回数ご参加下さったりしました。


もうお一方、出版社・二玄社さんの元会長の渡邊隆男氏。亡くなられたのは6月だそうですが、昨日、やはり「お別れの会」の通知を頂きました。

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調べてみましたところ『毎日新聞』さんには6月18日(火)に訃報が出ていました。

渡辺隆男さん 

渡辺隆男さん 90歳(わたなべ・たかお=出版社「二玄社」会長)16日、肺炎のため死去 。葬儀は近親者で営む。

二玄社さんからは、光太郎に関わる書籍がたくさん出版されています。書の作品集『高村光太郎書』(初版・昭和34年=1959、改訂新版・昭和41年=1966)、光太郎の手控え原稿をそのまま写真製版にした『高村光太郎全詩稿』上下二冊(昭和42年=1967)。

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さらに智恵子の紙絵作品集『智恵子その愛と美』(平成9年=1997)、光太郎の彫刻、絵画、書などの写真集的な『高村光太郎 美に生きる』(平成10年=1998)、光太郎の書や書論を紹介する『高村光太郎 書の深淵』(平成11年=1999)、光太郎がその生涯を振り返って書いた連作詩「暗愚小伝」にスポットを当てた『詩稿「暗愚小伝」高村光太郎』(平成18年=2006)、女川を含む三陸一帯を旅した光太郎の足跡を追う『光太郎 智恵子 うつくしきもの "三陸廻り"から"みちのく便り"まで』(平成24年=2012)などなど。すべて当会顧問・北川太一先生の編刊です。

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はっきり言うと、商業的にはあまりものにならない出版物ですが、いずれも光太郎智恵子を語るには必携の書。採算を度外視してこうした良書を世に送り続けた心意気に感服します。

そして渡邊氏、水野氏同様、お忙しい中、連翹忌にたくさんご参加下さっていました。ありがたいかぎりです。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

Mite iruto hitorideni hohoemare, Yononaka ga  ôkiku nari, Shimai ni a-haha to waratte shimau. 

詩「Fuyu no Kodomo」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

駒込林町の住居兼アトリエの前を通る千駄木小学校の児童をモチーフにした詩で、雑誌『RÔMAJI』に寄稿されたため、全文ローマ字表記です。漢字仮名交じりに書き下すと「見てゐるとひとりでにほほゑまれ、世の中が大きくなり、しまひにあははと笑つてしまふ。」となります。

昭和初め、水野清少年に会った際にもこのように感じたのでしょうか。

俳優・高島忠夫さんの訃報が出ました。今朝の『朝日新聞』さんから。

高島忠夫さん死去 俳優・司会、幅広く 88歳 

 映画にミュージカル、テレビ番組の司会と幅広く活躍した俳優の高島忠夫(たかしま・ただお、本名高嶋忠夫〈たかしま・ただお〉)さんが26日、老衰で死去した。88歳だった。明るいキャラクターでお茶の間に親しまれ、その一家は円満な家族の代名詞だった。
 神戸市生まれ。大学時代に新東宝映画第1期ニューフェースとして映画界に入り、1952年「恋の応援団長」でデビュー。映画「坊ちゃん」シリーズなどの青春コメディー路線で人気を博した。63年には、日本初のブロードウェー・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(東宝、菊田一夫演出)の主役を演じた。
 70年代以降は、テレビを中心に活動。「クイズ・ドレミファドン」の司会や、夫婦で25年以上出演した料理番組「ごちそうさま」、「ゴールデン洋画劇場」の映画解説などに出演。「イェーイ」の決めぜりふと明るい人柄で親しまれた。
 60年に映画で初共演した俳優の宝田明さん(85)は「テレビの人気者になっても、年下の人に優しく、天性の包容力があった。戦友だと思っていた」と語った。
 私生活では、63年に宝塚の男役スターだった寿美花代さんと結婚。64年には、長男道夫ちゃんがお手伝いの少女に殺害された事件に見舞われた。98年には、うつ病と診断され、闘病生活を経験した。
 俳優高嶋政宏、高嶋政伸兄弟の父でも知られ、寿美さんとは「芸能界一のおしどり夫婦」と呼ばれるほどの仲。「高島ファミリー」としてその私生活は逐一話題になった。
 政宏さんは「母曰(いわ)く最後は眠るように旅立っていった、のがせめてもの救いです」。政伸さんは「最後まで明るく良く通る声で笑ったり、話したりしながら、本当に穏やかに旅立ちました」とのコメントを出した。
 所属事務所によると、27日に家族のみで密葬を行った。お別れの会などの予定はない。

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高島さん、昭和43年(1968)には、梅田コマ・スタジアムで上演された北條秀治脚本の舞台「名作劇場第二作 智恵子抄」で、光太郎役を演じられました。智恵子役は藤純子(現・富司純子)さんでした。

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010この戯曲、元々は光太郎存命中に書かれ(北條は戦時中から光太郎と面識がありました)、光太郎が没した昭和31年(1956)、雑誌『婦人公論』の光太郎追悼特集に掲載されました。

そして光太郎存命中から内諾を得ていた故・初代水谷八重子さんが智恵子役、故・大矢市次郎さんが光太郎役で、その年の11月に東京明治座で初演。この時は同じ北條作の「太夫(こったい)さん」という芝居との二本立てで、それぞれ2時間足らずという制限がありました。

それが高島さんの出演なさった昭和43年(1968)の公演は、「智恵子抄」単独の上演ということで、約2倍に膨らませたそうです。元々は無かった上高地のシーンなどが追加されています。

その後、昭和46年(1971)には初代水谷さんによる再演(光太郎役は故・森雅之さん=光太郎と交流のあった有島武郎の長男)、昭和51年(1976)には有馬稲子さん故・高橋昌也さんがそれぞれ演じられました。その都度、上演時間等の制約のため、長かったり短かったりの改訂が為されていたようです。当方、すべて同じシナリオだと思いこんでいましたが、改めて調べてみてそうではなかったと分かりました。

高島さんの光太郎役、ぜひ見てみたかったと思いました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


【折々のことば・光太郎】

斯ういふ問題で仮定を前提とした質問に逢ふといつも困ります。一般論としては職業を持つ事に男子女子の別を考へません。家庭生活を中心として考へると、其時其場其人の三個の必然に出会はなければ賛否を考慮する根拠が私には持てないのです。理論は考へられますが。

アンケート 「あなたの夫人、令嬢、令妹などが職業を持つことを
お望みになりましたら」全文 大正14年(1925) 光太郎42歳

いわゆる「職業婦人」という言葉が使われるようになった頃のアンケート回答です。人によって事情が違うのだからと、安易に賛成とも反対とも断言しない光太郎の姿勢には好感が持てます。

先月亡くなった、高村光太郎賞受賞者の彫刻家・豊福知徳氏に関し、氏の故郷である福岡県に本社を置く『西日本新聞』さんが大きく記事にされています。 

故豊福知徳さん彫刻作品を巡る 反戦の思い「穴」に込め

 国際的に活躍した久留米市出身の彫刻家、豊福知徳さんが18日に亡くなった。享年94歳。福岡都市圏には、終戦後の旧満州(中国東北部)や朝鮮半島からの博多港引き揚げにちなむ大型記念碑「那の津往還」(福岡市博多区沖浜町)を始め、各所に作品が点在する。主な鑑賞スポットを紹介する。
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 「那の津往還」はマリンメッセ福岡の脇の博多湾沿いにある。高さ15メートル、長さ17メートルの鋼製で、1996年に建立。黒っぽい色の船上に人間をイメージした朱色の像が立つ。
 末広がりの上部に独特の楕円の穴が複数空く。舳先が向くのは、朝鮮半島かその先の中国か、北西の方角だ。豊福さん名の碑文には「敗戦直後の失意とその後に湧き興ってきた生への希望を永遠に記念する…」とあった。引き揚げ者が139万2400人余を数えた博多港の歴史を刻むモニュメントだ。引き揚げ経験者たちの声を受け、市が有識者らを交えた選定委をつくって、豊福さんの作品が選ばれた。
 陸軍特別操縦見習士官として特攻出撃前に終戦を迎え、行き場を失った豊福さん自身の戦争体験と、日本軍不在の下、ソ連軍が侵攻し、襲撃の恐怖、飢餓と長旅の疲労に見舞われながら逃げ延びた引き揚げ者の苦難を重ねている‐。作品をそう解釈するのが、美術評論家で、豊福知徳財団理事長の安永幸一さん(80)。「記念碑には戦争へのアンチテーゼ、戦争放棄、戦争反対、という豊福さんの次世代へのメッセージがこもっていると思います」
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 同市博多区下川端町の博多リバレイン前には、87年建立の「那の津幻想」がある。船上に人が立つデザインは30代の頃、高村光太郎賞を受けた出世作「漂流’58」のシリーズの一つで、「‐往還」もその系列だ。「‐幻想」は、人の胸に複数の楕円の空洞がある。戦争の空しさと戦後の心の漂流を形にして見せてくれているようにも感じる。
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 同市早良区百道浜4丁目には、「豊福知徳ギャラリー」がある。「世界的に著名な彫刻家の豊福さんとその作品をもっと多くの人に知ってほしい」と昨年夏オープンし、金・土・日曜と祝日の正午から午後6時まで無料で鑑賞できる。一部は販売している。代表的なシリーズものなど作品12点と描画4点を展示。代表の阿部和宣さんは「昨年から亡くなられた画家の浜田知明さんや宮崎進さんと同じように、豊福さんの創作の原点には戦争体験があったと思います。作品には精神性があって、見る側は何かを感じ、魅了される」と話す。
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 篠栗町の若杉山中腹にあり、豊福さんがよく通ったのが「茶房 わらび野」。建物内外に大小の計7点の作品があり、喫茶や食事を楽しみながら鑑賞できる。福岡市街地と博多湾を見渡すカウンターがあり、豊福さんはそこでワインを飲んだという。「店を気に入っていただいて、作品は置いていかれた。未完ですが、最後の作品はここで彫られたんですよ」と、女将の久保山美紀さん。
 豊福さんは1960年にイタリア・ミラノに渡り、そのまま定住。それまでの具象表現から、木に楕円形の穴をあしらった抽象形態に転じていった。
 「当時、イタリアの新しい造形表現に触れていた豊福さんは偶然、楕円の穴が開いた時にピーンと来たのだと思う。穴のノミの鋭さにはどきっとするような切れ味がある。剣道や居合道に通じ古武士のようだった豊福さんらしい」。安永さんは和洋折衷の美を語る。
 福岡市美術館は衝立状の大作を常設展示。県立美術館は、6月29日-8月29日に開くコレクション展で、所蔵の数点と肖像写真を追悼展示する予定だ。
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過日も書きましたが、「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、昭和42年(1967)まで10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、豊福氏は造型部門の第2回受賞者です。ちなみに過日、新著『高村光太郎の戦後』をご紹介した中村稔氏、最終第10回の詩部門を受賞されています。

さらにいうなら、第5回詩部門(昭和37年=1962)で受賞の田中冬二(明治27年=1894~昭和55年=1980)の遺品類が山梨県立文学館さんに寄贈されており、その中に「高村光太郎賞」関連の資料も。光太郎が文字を刻んだ木皿を原型に、豊周が鋳造した賞牌などです。光太郎が好んで揮毫した「いくら廻されても針は天極をさす」の語が刻まれています。他に副賞ののし袋や授賞式の次第なども。閲覧も可能です。

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同じ賞牌を授与された豊福氏の受賞作「漂流」そのものは木彫で、イタリアのコレクターに買われたとのことですが、同じ時期に作られたシリーズの1作が、博多に野外彫刻として展示されているそうで、これは存じませんでした。豊福氏というと「楕円の穴」ですが、そこには戦争体験も深く関わっていたとのことで、なるほどなぁ、という感じでした。

地元では氏の顕彰も進んでいるようです。光太郎共々、氏の功績も末永く語り継いでいってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

私は独学のつもりで、フランスのサロンのカタログや、西洋の美術雑誌の挿画の彫刻の写真などを参考にした。もとより甚だ幼稚で、今日から見るとつまらない大サロンの彫刻にひどく感心したり、物語性のある構図に深遠な意味があるやうに思つたりした。そして目の前にある生きたモデルがさつぱり分らず、空しくあはれな模写のやうな写生をつづけてゐた。

散文「モデルいろいろ1 ――アトリエにて6――」より
 昭和30年(1955) 光太郎73歳

その少年時代、まだロダンを知る前の明治30年代の回想です。それからおよそ50年、ようやく豊福氏のように世界に通用する彫刻家が日本から出たわけです。やはり泥沼の十五年戦争の影響ですね。それがなければあるいは光太郎も世界的評価を得るに至れたかもしれません。

予定では、智恵子の故郷、福島二本松に聳え、智恵子が「ほんとの空」があると言ったという安達太良山の山開きの件をレポートするつもりで居ましたが、急遽、訃報が入りましたのでそちらをご紹介します。

彫刻家の豊福知徳さんが死去 楕円の穴特徴000

 楕円形の穴を幾つも開けた抽象的な作品で知られる彫刻家の豊福知徳(とよふく・とものり)さんが18日午後11時57分、福岡市の病院で死去した。94歳。福岡県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。後日、お別れの会を開く予定。喪主は長女夏子(なつこ)さん。
 国学院大在学中に旧日本陸軍に志願し、終戦後は復学せず、彫刻家の冨永朝堂氏の下で木彫を学んだ。1959年に高村光太郎賞を受賞。60年にイタリアのミラノに拠点を移し40年以上活動した。2003年に帰国後は日本とイタリアを行き来しながら創作を続けた。
(共同通信) 

世界的彫刻家の豊福知徳さん死去 「那の津往還」など

 世界的な彫刻家の豊福知徳(とよふく・とものり)さんが18日、福岡市内の病院で死去した。94歳だった。葬儀は近親者で行う。喪主は長女夏子さん。後日、お別れの会を開く。
 福岡県久留米市出身。59年に高村光太郎賞を受賞し、60年のベネチア・ビエンナーレ出品を機にイタリアへ移住。ミラノにアトリエを構え、40年以上にわたり現地で制作を続けた。楕円(だえん)形の穴をいくつも開けた独特な造形作品で知られ、ローマ国立近代美術館や東京国立近代美術館など、国内外の美術館に作品が所蔵されている。
 福岡市の博多港引揚(ひきあげ)記念碑「那の津往還」などの作品も手がけ、昨年には福岡市早良区百道浜に専門ギャラリーが開設された。
(朝日新聞)

昭和34年(1959)、木彫「漂流」により、第2回高村光太郎賞を受賞した彫刻家の豊福知徳氏の訃報です。ここに挙げた以外の各紙の報道でも、「高村光太郎賞受賞」が氏の経歴に必ずと言っていいほど記載されていました。

「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村001光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、歴代受賞者には、造形が柳原義達、佐藤忠良、舟越保武、黒川紀章、建畠覚造、そして豊福氏など、詩では会田綱雄、草野天平、山之口獏、田中冬二、田村隆一ら、錚々たる顔ぶれ。審査員は高田博厚、今泉篤男、谷口吉郎、土方定一、本郷新、菊池一雄、草野心平、尾崎喜八、金子光晴、伊藤信吉、亀井勝一郎など、これまた多士済々でした。

当初から10回限定と決め、昭和42年(1967)で終了。同44年(1969)には、求龍堂さんから大判厚冊の『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』が刊行されました。歴代受賞者や審査員の作品等を紹介し、さらに高村光太郎賞の開始の経緯、年譜などが掲載されています。

そちらに載った豊福氏の彫刻が右画像です。

そして氏の言葉。

受賞作「漂流」は、私にとって殊に思い出深い作品であった。それは受賞作ということからではなく、その頃の自分の仕事の一くぎりを為した作品であったと思うからである。
処でこの重要なるべき作品の記録が手元にない。作品の所有者や所在地に加えて写真すらもないというのは私の不精のせいで、一九六〇年のヴェニス・ビエンナーレに出品して、そのままあるイタリアのコレクショナーに買取られたまではわかっているが、その後の消息は一切不明である。
この作品は受賞作ではなく、その頃しきりに制作していた漂流シリーズの中の一点である。

1950年代後半というと、ヘンリ・ムーアなどの影響もあって、彫刻の世界にも抽象がかなり入り込んできていましたが、この頃の氏の作風は完全な抽象でもなく、さりとて具象とも言えず、双方の良いところをバランスよく取り入れているように感じます。

当時の連翹忌は、高村光太郎賞の授賞式も兼ねていましたので、豊福氏、受賞された昭和34年(1959)と翌年の連翹忌に参加なさっています。受賞の年には豊福和子さんというお名前も参加名簿に残っており、おそらくご夫人なのでしょう。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

とにかく日本人の趣味、教養はいま実におくれている。四等国以下、野蛮人といつてよい。敗戦の混乱で日本人の正体が分つたわけで、実に徳川時代そのままなんだ。こうしたひどい状態で全然絶望かといえばそうでないとやはり考えたい。

談話筆記「ラジオと私」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

敗戦の傷跡がまだ色濃く残っていたこの頃を憂えての発言です。光太郎が亡くなった昭和31年(1956)には「もはや戦後ではない」と言われ、文化的な部分でも新しいものがどんどん出てくるようになりました。豊福氏などもそうした新時代の旗手だったわけで……。重ねて謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

昨日の午後にはインターネットの検索サイトトップページに報じられまして、「ありゃりゃりゃりゃ」という感じでした。

今朝の『朝日新聞』さんから。 

日本文学研究者のドナルド・キーンさん死去 96歳

 日本の古003典から現代文学まで通じ、世界に日本の文化と文学を広めた、日本文学研究者で文化勲章受章者のドナルド・キーンさんが24日、心不全で死去した。96歳だった。葬儀は親族のみで営む。喪主は養子で浄瑠璃三味線奏者のキーン誠己(せいき)さん。
 1922年、米ニューヨーク生まれ。コロンビア大在学中に「源氏物語」と出会う。日米開戦に伴い42年、米海軍日本語学校に入学。語学将校としてハワイや沖縄で従軍、日本兵の日記の翻訳や捕虜の通訳をした。沖縄の前線ではスピーカーで日本兵に投降を呼びかけた。戦後、ハーバード大、ケンブリッジ大で日本文学の研究を続け、53年から京都大に留学。英訳「日本文学選集」を編集し、米国の出版社から刊行、日本文学の海外紹介のきっかけを作った。
 谷崎潤一郎や川端康成、安部公房、三島由紀夫、司馬遼太郎ら日本を代表する作家との交遊が文学研究を豊かにした。「徒然草」「おくのほそ道」などの古典や安部、三島ら現代作家の作品を英訳。「明治天皇」「正岡子規」「石川啄木」など評伝にも力をそそぎ、作家の生涯を通して日本人の精神を浮かび上がらせてきた。
 62年、菊池寛賞を受賞。82~92年に朝日新聞の客員編集委員を務め、平安から江戸期の日記文学を論じた「百代(はくたい)の過客(かかく)」(84年、読売文学賞)などを連載した。83年に山片蟠桃賞。86年には、コロンビア大に「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立。92年コロンビア大名誉教授。97年に「日本文学の歴史」(全18巻)を完結し、同年度の朝日賞を受賞した。2008年に文化勲章。
 日米を行き来していたが、11年の東日本大震災後、日本への永住を決めて日本国籍を取得。講演などで被災地を励ました。13年には、キーンさんが復活を支援した古浄瑠璃の縁から新潟県柏崎市に「ドナルド・キーン・センター柏崎」が開館、蔵書や資料を寄贈していた。半世紀を超える研究や作品を収めた「ドナルド・キーン著作集」(全15巻)は今春、別巻を出して完結する予定だった。


NHKさんのニュースから。 

ドナルド・キーンさん死去 96歳

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文化勲章を受章した日本文学の研究者で、東日本大震災をきっかけに日本国籍を取得したことでも知られるドナルド・キーンさんが、24日朝、心不全のため、東京都内の病院で亡くなりました。96歳でした。
ドナルド・キーンさんは、1922年にニューヨークで生まれ、アメリカ海軍の学校で日本語を学びました。
戦後、京都大学に留学したあとアメリカ・コロンビア大学の教授を務めるなどして、半世紀以上にわたって日本文学の研究を続けてきました。
平安時代から現代までの日本人が書いた日記について解説した「百代の過客」や「日本文学史」など、数々の著作を通じて独自の日本文学論を展開したほか、能や歌舞伎といった日本の古典芸能の評論にも活動の幅を広げ、日本文化について鋭い批評を加えました。
また、近松門左衛門や太宰治、三島由紀夫など、古典から現代の作家まで数々の作品を英語に翻訳し、日本文学を広く世界に紹介しました。
谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫といった日本の文壇の重鎮とも親しく、ノーベル文学賞の選考を行うスウェーデン・アカデミーに対して日本文学についての助言を行ったことでも知られています。
こうした功績で日本の文学評論に関する多くの賞を受賞し、平成20年には文化勲章を受章しています。


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キーンさんは、ニューヨークのコロンビア大学で日本文学の指導にあたりながら、日本とアメリカを行き来していましたが、平成23年の東日本大震災のあと「私の日本に対する信念を見せたい」などとして長年愛着のある日本に移住することを決め、翌年の3月に日本国籍を取得しました。
90歳をすぎても活動を続け、平成28年に歌人、石川啄木の研究書を出版したほか、雑誌のインタビューや対談などにも応じていました。
キーンさんの代理人によりますと、体調が悪化したため去年秋から入退院を繰り返し、24日午前6時すぎ、心不全のために東京都内の病院で亡くなりました。

養子の誠己さん「幸せな一生だった」
ドナルド・キーンさんの養子のキーン誠己さんは「父は苦しむこともなく、穏やかに永遠の眠りにつきました。みずから選んだ母国で日本人として、日本人の家族を持ち、日本に感謝の気持ちをささげつつ、幸せに最後の時を迎えました。日本文学に生涯をささげ、日本人として日本の土となることが父の
長年の夢でしたから、この上なく幸せな一生だったと確信しています」とコメントしています。

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瀬戸内寂聴さん「ぼう然」
ドナルド・キーンさんが亡くなったことについて、同じ大正11年、1922年生まれで数々の対談を重ねてきた作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは「キーンさんとは心が通い合い、親類づきあいのような親しさが生まれていた。会えば何時間も話し込んでしまう仲になっていた。私もキーンさんも、年をとっても仕事をやめず、人にあきれられていたが、キーンさんはいくつになってもアメリカへ行き来するし、海外旅行も平気でされる。こんなことになってぼう然としている」というコメントを発表しました。

後日 お別れの会を予定
代理人によりますと、ドナルド・キーンさんの葬儀と告別式は親族のみで行い、後日、お別れの会が開かれるということです。


日本文学の流れを網羅的、体系的に研究されていたキーンさん。光太郎についても言及されていました。『朝日新聞』さんの記事にもある『日本文学の歴史』(中央公論社)の第17巻近代・現代篇8。明治・大正・昭和の詩についての巻です。光太郎の項は約40ページ。簡にして要、の感があります。

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曰く、

いわゆる現代的で複雑な詩に困惑した読者は、心から発せられた感動的な作品として光太郎の詩を好んだ。高村光太郎はこれからも、このような詩の作者として人々の記憶に残るに違いない。


また、昨年、求龍堂さんから刊行された大野芳(かおる)氏著 『ロダンを魅了した幻の大女優マダム・ハナコ』に、キーンさんが登場なさいます。唯一、ロダンの彫刻モデルを務め、光太郎とも交流があった日本人女優・花子に関する考察です。明治43年(1910)に森鷗外が花子をモチーフにして書いた短編小説「花子」を英訳したキーンさんが、昭和34年(1959)、岐阜に住む花子の遺族の元を訪れたエピソードが紹介されています。この際、キーンさんは、光太郎から花子に宛てた書簡を見せてもらったとのこと。
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ラフな服装で訪問し、気さくな、しかし、日本文学への熱意を存分に感じさせるキーンさんの真摯な人柄に、花子の遺族が感激されたそうです。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

此の彫りかけの鯉が自分で納得できるやうに仕上がる時が来たら、私の彫刻も相当に進んだ事になるであらう。いつの事やら。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

新潟の実業家・松木喜之七が、光太郎に鯉の木彫を依頼、大枚
500円をおいていきました。光太郎は早速制作にとりかかりますが、何度作っても自分で納得が行きません。鱗の処理が出来ない、というのです。鱗をリアルに彫ってしまうと俗な置物のようになるし、彫らずば鯉にならないし……というわけで、結局、完成しませんでした。光太郎、代わりにと「鯰」を進呈しています。現在、愛知小牧のメナード美術館さんに収蔵されている作品です。

確認されている、光太郎が木彫に取り組んでいるところを撮った唯一のスナップ、土門拳による昭和15年(1940)の写真に、「鯉」が写っています。

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その後、松木は召集されて、軍服姿で光太郎の元を訪れ出征の挨拶。しかし、南方戦線で還らぬ人となってしまいました。

ところで、ドナルド・キーンさん、そもそも本格的に日本文学に興味を持った一つのきっかけは、語学将校としてハワイや沖縄で従軍し、日本兵の日記の翻訳や捕虜の通訳をしたことだそうで、不思議な縁を感じます。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

光太郎第二の故郷・岩田花巻郊外旧太田村にお住まいだった、生前の光太郎を知る高橋愛子さんが亡くなられました。

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今年の5月で86歳ということでしたので、その後誕生日を迎えられていれば87歳、そうでなければ86歳ということになります。

愛子さんのお宅は「田頭(たがしら)」という屋号の旧家。お爺さまの故・与左衛門氏は、隣家の故・駿河重次郎氏と共に、村のまとめ役的な存在で、光太郎の山小屋造りに協力を惜しまなかった一人でした。

お父様の故・雅郎氏は、光太郎が太田村に入った昭和20年(1945)にはシンガポールに出征中。翌年に復員し、その後、太田村長になりました。お母様の故・アサヨさんともども、何くれとなく光太郎の面倒を見てくださいました。

そして愛子さん。光太郎の山小屋に配給の物資を届けたり、光太郎を訪ねてくる客人を案内したり、やはり光太郎サポーターでした。

昭和24年(1949)、山小屋近くの山口小学校の学芸会に、サプライズで光太郎がサンタクロースに扮して登場、子供たちにお菓子を配ったり、一緒にステージで踊ったりしましたが、そのサンタの衣裳を作ってあげたのが、愛子さんとお母様。赤い襦袢をベースに、長い白ひげは、当時村で飼われていた羊の毛を使ったそうです。

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昭和24年(1949)に書かれた光太郎詩「山の少女」は、愛子さんがモデルとも言われている作品です。

    山の少女

  山の少女はりすのやうに
  夜明けといつしよにとび出して
  籠にいつばい栗をとる。
  どこか知らない林の奥で
  あけびをもぎつて甘露をすする。
  やまなしの実をがりがりかじる。
  山の少女は霧にかくれて
  金茸銀茸むらさきしめぢ、
  どうかすると馬喰茸(ばくらうだけ)まで見つけてくる。
  さういふ少女も秋十月は野良に出て
  紺のサルペに白手拭、
  手に研ぎたての鎌を持つて
  母(がが)ちやや兄(あんこ)にどなられながら
  稗を刈つたり粟を刈る。
   山の少女は山を恋ふ。
  きらりと光る鎌を引いて
  遠くにあをい早池峯山(はやちねさん)が
  ときどきそつと見たくなる。

光太郎歿後、昭和38年(1963)の第7回連翹忌にご出席くださり、昭和41年(1966)に山小屋近くに開館した旧高村記念館(現・森のギャラリー)の受付を永らく務められました。当方が初めてお会いしたのも、平成の初め頃、旧高村記念館ででした。

さらに、最近まで、光太郎の語り部としてご活躍。

地元テレビ岩手さんの「5きげんテレビ」、NHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」、ATV青森テレビさんの「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」 などにご出演、光太郎の思い出を語られた他、仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さんにはインタビュー記事が載り、地元の太田地区振興会さん編刊の『高村光太郎入村70年記念 思い出記録集 大地麗』に寄稿されたりもしています。

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花巻光太郎記念館さんでは、愛子さんのお話をまとめた「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」というリーフレットも発行。

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たびたび同地を訪れられている渡辺えりさん002とも親しくなさっていて、渡辺さんがお父様の渡辺正治氏が光太郎から贈られた詩集『道程再訂版』や書簡を記念館に寄贈された際のセレモニーにもご出席されています。写真中央に愛子さんが写っています。実を言いますと、当方、愛子さんのご逝去は、渡辺さんからの電話で知りました。

そして、今年の5月15日。毎年この日に、光太郎の暮らした山小屋敷地内で開催されている花巻高村祭で、当方がインタビュアーを務め、愛子さん他4名の生前の光太郎をご存じの皆さんにお話を伺う、トークセッションが開催されました。

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その際には、まだまだお元気だったのですが……。

もっとも、今頃、雲の上で光太郎と再会し、喜ばれているかも知れません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

相変わらずの自炊生活は、単調だけれども興味は深い。些細な食物でも自分の頭の働いてゐるものと思ふと満足が出来る。

散文「三月七日(火曜日)」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

「自炊生活」といっても、戦後の太田村でのそれではなく、ごく短期間、ひとり暮らしをしていた明治末の話です。

戦後の太田村でも、愛子さんたち村人に支えられながら送った「自炊生活」の中で、同じようなことを考えていたのかもしれません。

昨日、入沢康夫さんの訃報をご紹介しました。そちらは先週、報じられたものでしたが、今朝、新聞を開くと、作曲家の大中恩さんの訃報が。2日連続でこうした内容となるのは胸が詰まる思いです(一昨年にも登山家の田部井淳子さんと俳優の平幹二朗さんのそれを2日連続でご紹介した事がありますが)……。 

大中恩さん死去

 大中恩さん(おおな001か・めぐみ=作曲家)3日、菌血症で死去、94歳。葬儀は8日正午から東京都港区赤坂1の14の3の「日本キリスト教団 霊南坂教会」で。喪主は妻清子(せいこ)さん。
 「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」などの童謡のほか、1300曲に及ぶ合唱作品で知られる。24年、作曲家・オルガン奏者の大中寅二を父として東京で生まれた。東京音楽学校(現・東京芸術大)で信時潔(のぶとき・きよし)に師事して作曲を学び、歌曲や合唱曲を中心に創作を続けた。55年、作曲家の中田喜直らと「ろばの会」を結成。テレビやラジオを通じて童謡を家庭に届けるなど、子どものための音楽創作に尽くした。
 82年に日本童謡賞を受賞。89年に紫綬褒章。=一部地域既報
(『朝日新聞』 2018年12月5日)

当方の知る限り、大中氏、光太郎の詩に曲をつけた合唱曲を2曲、公になさっています。昭和35年(1960)の雑誌『音楽の友』の別冊付録に掲載された女声合唱曲「五月のうた」と、昭和37年(1962)にカワイ楽譜さんから出版された『大中恩男声合唱曲集』に収録された「わが大空」。こちらには他に北原白秋作詞の曲も収められています。

「五月のうた」の譜面は未見ですが、「わが大空」が収められた『大中恩男声合唱曲集』は平成16年(2004)に有限会社キックオフさんから再刊され、持っています。

  わが大空002

 こころかろやかに みづみづしく
 あかつきの小鳥のやうに
 胸はばたき
 身うちあたらしく力満つる時
 かの大空をみれば
 限りなく深きもの高きもの我を待つ
 ああ大空 わが大空

 こころなやましく いらだたしく
 逃げまどふ狐のやうに
 胸さわだち
 身の置くところも無きおもひの時
 かの大空をみれば
 美しくひろきものつよきもの我を待つ
 ああ大空 わが大空


この詩に最初に曲がつけられたのは、昭和14年(1939)。坂本龍一氏の師に当たる松本民之助によってでした。そちらはかなりとんがった作曲ですが、大中氏のそれは、奇をてらわぬ穏健なもの。さりとて単純ではありませんが。

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当方、趣味で音楽活動もやっており、そちらの先生が、大中氏の弟子筋に当たられる方です。そこで、大中氏の曲もよく取り上げており(つい3日前も歌いました)、その関係で、平成22年(2010)に一度、氏にお会いする機会がありました。大中氏作のミュージカル「さよならかぐや姫」(初演・昭和40年=1965)が演奏されたコンサートで、当方の先生が指揮、当方は出演ではなく聴きに行っただけでしたが、大中氏もいらっしゃるというので、『大中恩男声合唱曲集』の楽譜を持っていき、どさくさに紛れてサインしていただきました。

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大中氏、こころよくサインして下さいましたが、あれから9年近く経つかという感じです。

ちなみに大中氏、昭和18年(1943)には学徒出陣で国立競技場を歩かれました。そういう意味では歴史の生き証人ですね。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あかるい精神力と合理的な療養法とさへあれば、こんな奇蹟に似た事が、実は奇蹟でなくて誰にでも起り得るに違ひないと考へられて無限の光明を感じます。
散文「竹内てるよ著「いのち新し」序」より
 昭和27年(1952) 光太郎70歳

竹内てるよは明治37年(1904)生まれの詩人。光太郎はたびたび竹内の著書に序を寄せたり、題字揮毫をしたりしています。若い頃に結核性の脊椎カリエスにかかって重篤となり、昭和4年(1929)には、草野心平が中心となって「竹内てるよを死なせたくない会」が結成され、光太郎も力を貸しました。

かつての結核は不治の病に近く、死亡原因のトップでしたが、抗生物質の普及等により、その脅威は薄らぎました。竹内も平成13年(2001)、満96歳まで永らえました。

昭和初めに「もう危ない」と思われていた竹内が恢復し、戦後には光太郎の暮らしていた花巻郊外旧太田村までやって来、自身も永らく結核に冒されていた光太郎は驚きます。同時に、その本復の姿が、畢生の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し始める光太郎にとって、光明になったのではないでしょうか。

先週、H氏賞詩人で宮沢賢治の研究家としても知られる入沢康夫さんの訃報が出ています。 

入沢康夫さん死去 詩人・宮沢賢治研究

 実験的001な作風で1960年代以降の現代詩をリードした詩人で、宮沢賢治研究の第一人者としても知られた入沢康夫(いりさわ・やすお)さんが10月15日に亡くなった。86歳だった。
 松江市出身。仏文学者で明治大教授を務めた。55年に詩集「倖せそれとも不倖せ」を発表。68年の詩集「わが出雲・わが鎮魂」では、古事記などを踏まえた神話的世界を先鋭的な表現で作り出し、60年代以降の現代詩を代表する存在の一人となった。同作で読売文学賞を受賞。82年の詩集「死者たちの群がる風景」で高見順賞、94年の「漂ふ舟」で現代詩花椿賞など受賞多数。98年に紫綬褒章、2008年に日本芸術院会員。
 宮沢賢治の研究では「新校本宮澤賢治全集」の編集委員を務めた。宮沢賢治学会イーハトーブセンターの代表理事を務め、宮沢賢治賞も受けた。
(『朝日新聞』2018/11/30)


光太郎と交流のあった賢治の研究家ということで、平成11年(1999)の『賢治研究』に掲載された「賢治の光太郎訪問」など、二人の交流についても論考を残されています。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

此の多くの無惨の死者が、若し平和への人類の進みに高く燈をかかげるものとならなかつたら、どう為よう。

散文「小倉豊文著「絶後の記録」序」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

小倉豊文は明治32年(1899)生まれの元広島大学名誉教授。千葉県生まれですが(千葉には小倉姓、意外と多くあります)、旧制広島文理科大学卒業後、同校助教授だった昭和20年(1945)8月6日に、原爆投下に遭いました。奥様はその後、原爆症で亡くなり、その経緯を綴ったのが『絶後の記録』です。

小倉は『宮沢賢治の手帳研究』(昭和27年=1952)を著すなど賢治研究でも知られ、入沢氏と同じく宮沢賢治賞を受賞しました。おそらく二人は面識があったと思われます。

先週17日の新聞に、智恵子の母校・日本女子大学さんの元学長・青木生子さんの訃報が出ました。

朝、購読している『朝日新聞』さんの社会面で見つけました。 

青木生子さん死去001

 青木生子さん(あおき・たかこ=元日本女子大学長・理事長、日本上代文学)14日死去、97歳。葬儀は近親者で営む。12月26日に東京都文京区目白台2の8の1の同大目白キャンパスで大学葬を行う予定。


『毎日新聞』さんの方が、よりくわしく業績等記述されているので、そちらも。 

<訃報>青木生子さん97歳=日本女子大元学長・国文学者

 青木生子さん97歳(あおき・たかこ=日本女子大元学長・国文学者)14日、死去。葬儀は近親者で営み、12月26日に東京都文京区目白台2の8の1の日本女子大・成瀬記念講堂で大学葬を開く。時間などは未定。
 東北大など卒。万葉集の研究で知られ、女子教育論も手掛けた。著書に「日本古代文芸における恋愛」「万葉挽歌論」など。93年に勲三等宝冠章。

002

青木さん、ご専門の上代文学以外でも、日本女子大さんに関する御著書が複数あり、当方、一冊持っています。平成2年(1990)、講談社さん刊行の『近代詩を拓いた女性たち 日本女子大に学んだ人たち』。同大の教養部での特別講義の筆録をもとにしたもので、智恵子にも一章割かれています。

基本的な論調は「伝説化された智恵子ではなく、できるだけ生身の人間としての智恵子を、女性として身近に引き寄せながら、彼女の生き方にまなざしを注いでみたいと思います」ということで、同大の同窓会誌である『家庭週報』などの記事を引用するなど、刊行当時としては、智恵子に関するあまり知られていなかった資料が提示されていました。

智恵子以外には、山川登美子、上代たの、平塚らいてう、丹下うめ、大村嘉代子、宮沢トシ(賢治の妹)、網野菊、原口鶴子、高良とみ、茅野雅子が取り上げられています。

残念ながら絶版となっていますが、古書サイト等で入手可能です。


ところで、同じ日の『朝日新聞』さんに、以下の記事も載りました。 

さくらさんへ、明るく別れの歌 ありがとうの会003

 8月に53歳で亡くなった漫画家さくらももこさんをしのぶ「さくらももこさん ありがとうの会」が16日、東京都港区の青山葬儀所で開かれ、約1千人が参列した。笑いを届け続けたさくらさんの意向で、会は「明るくなごやか」がテーマに。参列者はさくらさんの名前にちなんで桜色の小物を身に着けた。
 アニメ「ちびまる子ちゃん」で主人公まる子を演じる声優のTARAKOさんは、まる子の声で「天国へ行くあたしへ。そっちでもたまに、まる子描いてよね」と語りかけた。さくらさんから手紙で歌詞が届き、作曲を依頼された際のエピソードを披露したのは歌手の桑田佳祐さん。「またいつかお会いしましょう」と述べ、2人で共作したアニメのエンディングテーマ曲「100万年の幸せ ‼」を歌った。


亡くなった際には失念していましたが、さくらさん、明治大学教授の斎藤孝氏とのコラボで、平成15年(2003)、集英社さんから『ちびまる子ちゃんの音読暗誦教室』という書籍を刊行されています(著者名は斎藤氏のみのクレジット)。こちらも残念ながら絶版です。

基本、児童書ですが、古今東西の「名文」50余篇を紹介し、斎藤氏の解説に、まる子を主人公とした四コマ漫画が添えられています。で、光太郎詩「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)が取り上げられています。004

   あなたはだんだんきれいになる

 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属。

 見えも外聞もてんで歯のたたない
 中身ばかりの清冽な生きものが

 生きて動いてさつさつと意慾する。
 をんながをんな
を取りもどすのは
 かうした世紀の修業によるのか。
 あなたが黙つて立つてゐると

 まことに神の造りしものだ。
 時時内心おどろくほど
 あなたはだんだんきれいになる。



005

この書籍、手許にありながらその存在を忘れており、さくらさんが亡くなってしばらくしてから思い出し、このブログでご紹介するタイミングを失って、「しまった」と思っていたところでした。

それが、青木さんの訃報と同じ日にさくらさんのお別れ会の記事が出、「このタイミングで紹介するしかない」と思い、本日、記述いたしました。何か不思議な縁を感じます。ともあれ、お二人のご冥福をお祈り申し上げます。



【折々のことば・光太郎】

感じてゐながら言葉でそれを捉へる事のむつかしさを詩を書くほどのものは皆知つてゐる。よほど素直な心と、美を見る感覚との優れてゐるものでなければ此の境にまでは到り得ない。

散文「八木重吉詩集序」より 昭和18年(1953) 光太郎61歳

昭和2年(1927)に数え30歳で早世した八木重吉は、それが出来ていた稀有な詩人の一人、というわけでしょう。光太郎ファンの当方にとっては、光太郎、あなたもですよ、と言いたくなりますが(笑)。

この前年、草野心平らの尽力で、山雅房から『八木重吉詩集』が刊行されましたが、さらに八木の未亡人・とみ子の編集による決定版詩集の刊行が企図されました。光太郎はそれに向けて上記の一節を含む序文を執筆、さらに題字候補ということで3種類の揮毫をとみ子に送りました。

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八木の詩の題名から採った「麗日」二種、やはり八木の詩「うたを味わう」中の短章の題名から採った「花がふつてくるとおもふ」。それぞれ味のある筆跡ですね。

結局、戦局の悪化等もあり、この時点では決定版的八木詩集は刊行できず、序文、題字揮毫ともお蔵入りとなりました。

俳優の加藤剛さんの訃報が出ました。 

加藤剛さん死去 「砂の器」「大岡越前」 80歳

 映画「砂の器」やテレビ時代劇「大岡越前」で知られた俳優の加藤剛(かとう・ごう、本名・剛=たけし)さんが6月18日、胆嚢(たんのう)がんで死去したことが9日わかった。80歳だった。所属する俳優座が発表した。葬儀は家族で営んだ。お別れの会を9月22日、東京都港区六本木4の9の2の俳優座劇場で予定している。
 1961年、早稲田大学文学部(演劇)卒業。俳優座の養成所を経て64年、入団。デビューは62年のテレビドラマ「人間の条件」だった。代表作は70年から99年まで続いた「大岡越前」(TBS)。犯罪に厳しく、人間に温かい名奉行ぶりで人気を博した。NHK大河ドラマでは「風と雲と虹と」(76年)、「獅子の時代」(80年)で2度主演した。
 松本清張原作の映画「砂の器」(74年)では、冷徹さの裏に苦悩を隠し持つ天才音楽家を演じ、映画をヒットに導いた。平和問題への関心が高く、木下恵介監督の「この子を残して」(83年)では、放射線医学の研究者で自らも長崎で原爆に被爆した永井隆博士を誠実に力演した。
 俳優座を代表する俳優の一人として舞台に立ち続けた。80年代から上演された「わが愛」3部作に主演。95年には強制収容所のガス室に消えたポーランド人医師を描いた「コルチャック先生」に、99年には「伊能忠敬物語」に主演した。
 紀伊国屋演劇賞(79、92年)、芸術選奨文部大臣賞(92年)など受賞多数。08年に旭日小綬章を受けた。
 映画「忍ぶ川」などで共演した栗原小巻さんは「悲報に接し、めまいがいたしました。彼はとても知性的で、懸命で、高潔な人でした。人柄も画面や舞台の中の彼そのままでした」と話した。
 俳優座養成所でともに学んだ長山藍子さんは「温かいユーモアもありました。論理だけではなく情の厚さも加わる、あの『大岡裁き』。剛ちゃんだからこそ演じることができたのだと思います」と話した。

『朝日新聞』2018/07/10


加藤さんによる「智恵子抄」の朗読が、2種類、ソフト化されています。

まずは昭和42年(1967)、日本ビクターさんのフィリップスレーベルからリリースされたLPレコード。

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28編の詩が収められています。まだ20代の加藤さんの若々しい声が、印象的です。

ジャケットの内側に、加藤さんの言葉、「僕もまた大風のごとく」。

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 「智恵子抄」の朗読者として僕を、というお話のあったとき、正直のところひどく迷いを感じた。そして考える日数をいただいた。清冽な愛のかたちを思うとき、恐らく日本人の誰もが脳裏に浮かべるだろう、それは美しい詩集である。編まれて以来どれほどの数の人の胸の中に暖かくしみとおり唇の上で愛されてきた作品かを考えると、若い僕などの力の及ぶ範囲は自ずと知れていよう。
 ましてやこの作品の高さに相応しい、磨かれた朗読術――方法論を身につけられた諸先輩が数多くいられるではないか、と僕は心を決しかねた。
 そんな夜半、濃い珈琲を道づれに作品集のページを繰りながら、僕は高村光太郎先生のこんな言葉にふと捉えられた。
 「ともかく私は今いわゆる刀刃上をゆく者の境地にいて、自分だけの詩を体当り的に書いていますが、その方式については全く暗中模索という外ありません。いつになったらはっきりした所謂詩学が持てるか、そしてそれを原則的な意味で人に語り得るか、正直のところ分りません」
 この「自分だけのための体当り的詩」が僕にもうたえぬものか。「智恵子抄」の世界が、生活者としての詩人の心の内を小止みもなく衝きあげるみずみずしい言葉にこんなにもあふれている以上、「所謂詩学」などは無縁なのかも知れない。「方式」などは二の次かもしれない。生命によせる素直な讃美や感動、人を愛する激しく豊かな心のうねり、それらに唯ぴったりと己を重ね合せようとするところに、意外にも僕の出発点はありはすまいか。それが「朗読」と呼べるかどうかはわからない。事実今の僕にとって「方式」は明確ではないのだ。
 僕は多分「詩人高村光太郎」の役を与えられた俳優の発想で「智恵子抄」に立ち向かおうとしているのだと思う。なんとも盲蛇式の図々しい発想ではあるけれども。
 その夜半、僕は冷えた珈琲を啜って再度、智恵子のイメージを追慕した。
 「わがこころはいま大風の如く君にむかへり」。学生時代から何となく暗誦んじていた「郊外の人に」の最初の一節が、不思議に新しい響きを持って心を占めた。僕もまた、今はただひたすら大風のごとく、この仕事に挑むほかはない。

何とも誠実なお人柄が偲ばれる文章です。

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画像はレコーディング風景。左はレコードの監修者で、映画監督の故・若杉光夫氏です。

ちなみにこのレコードは、昭和51年(1976)、フォンタナ・レコードさんから覆刻されました。

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2回目は、昭和62年(1987)。新潮社さんでシリーズ化していた「新潮カセットブック」の一つとしてでした。タイトルは「『智恵子抄』より」。

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詩が29篇、それから「智恵子抄」に収められた「巻末の短歌」6首。

こちらはジャケットに加藤さんの言葉はありませんが、翌年発行の雑誌『彷書月刊』(ちなみに題字揮毫は当会顧問・北川太一先生です)第4巻第10号、「特集 高村智恵子」に掲載された、加藤さんの「無辺際を飛ぶ天の金属」という文章で、前述のレコード、そしてこのカセットブックに触れられています。

 「高村智恵子様。不躾ないい方を許002して下さい。もし、詩
人・彫刻家高村光太郎の役が僕に与えられたのだったら――、そんな発想がある日きらりと全身をつらぬきました。ここからすべての風が起こり、すべてが燃えひろがりました。僕の『智恵子抄』はこのときにはじまったのです。」(エッセイ集『海と薔薇と猫と』)
 と、私はそのとき、正直に記している。私の朗読で「智恵子抄」がレコード化された二十年前であった。この類まれな詩篇の美しさ、高さに、はたして己れが相応しいか、と迷い続けた録音前数ヵ月。けれど、「もう人間であることをやめ」て、「見えないものを見、聞えないものを聞」く、「元素智恵子」は、いつのまにか、あたかも明晰な自然のように無理なく「光太郎」としての私のかたわらにいたのだった。
 「智恵子様。何十年かのち、僕が老優になったときもう一度、この作品を朗読する光栄をお与え下さいますよう」、と私が心の中で結んだ手紙に、「智恵子」からの「返事」が届いたのは二十年後で、この光栄な機会は、あやうく老優になる前に再び訪れた。今回はカセットブックである。「智恵子」が私の「光太郎」を許容してくれたのか、と私は嬉しい。「智恵子」は私にとっても永遠に「無辺際を飛ぶ天の金属」である。


こちらのカセットブックは、同じ新潮社さんからCD化され、現在も販売中です。


そして、平成23年(2011)には、『朝日新聞』さんの福島版で連載された「「ほんとの空」を探して」の第二回にご登場。やはり「智恵子抄」朗読について語られています。

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末尾近くの「国家ではなく、一人ひとりの人間が権威を持つ。光太郎先生と智恵子さんの自由への思いは、我々に力を与えてくれる」というお言葉、その通りですね。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

土門拳は不気味である。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのもののの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。

散文「土門拳写真集「風貌」推薦文」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

光太郎もそのレンズの餌食となった、写真家・土門拳の写真集に寄せた一文から。

朗読レコードにしてもそうですが、まだデジタル技術が開発されていなかったとはいえ、「真」を「写」す技術、それが芸術へと昇華していくことに、光太郎も新時代の到来を感じていたようです。

まずは17日、日曜日の『神戸新聞』さん。一面コラムの「正平調」。

正平調 2018/06/17

作家黒井千次さんの父は90歳で亡くなった。四十九日の法要を済ませた後、残された本を整理しようと入った部屋で1本の黒い万年筆を目にする。握りが太く、吸入式の外国製である◆何げなくキャップを取り、ペン先を走らせて驚く。すらすらと書けた。生前に入れたインクが残っていたのだ。「そこにだけ、まだ父は生きている」。そんな不思議な感慨を覚えたと、エッセーで書いている◆そこにだけ、まだ父は生きている。あるとき、ある瞬間、そんな思いにかられることは間々ある。昨年、牧場を経営する弓削忠生(ただお)さんに書いていただいた本紙「わが心の自叙伝」でも遺品のくだりが印象に残った◆牧場をどう続けるか、決断に迫られていたときのことだ。73歳で生涯を閉じた父の遺品に、彫刻家で詩人、高村光太郎の詩を見つけた。高村は開拓の精神をたたえる詩を残したが、その一節を書き写していた◆「読んでいると、父の思いが見え隠れしているように思えた」。で、意を決したそうだ。難しい課題はあるが、父が挑んできたことに取り組もう、牧場を残し続けようと◆きょうは父の日だ。感謝の贈り物もいいが、もし他界しているのなら、引き出しの奥に眠る遺品を手に取るのもいい。どこかで、まだ父は生きている。

光太郎がメインではありませんが、『神戸新聞』さんの「正平調」、よく光太郎を取り上げて下さっています。ありがたいかぎりです。


続いて、同じく17日の『毎日新聞』さん、読書面。 

今週の本棚・新刊 『高村光太郎論』=中村稔・著(青土社・3024円)

 高村光太郎の詩「寂蓼(せきりょう)」が、漱石「行人」中に描かれた近代人の内面「かうしては居られない、何かしなければならない、併(しか)し何をしてよいか分からない」に酷似しているという指摘から始め、光太郎の西欧体験を辿(たど)り、智恵子との出会いを探る。西欧との齟齬(そご)、日本との齟齬に悩む新帰朝者・光太郎の焦燥の背後には、一貫して「父光雲の脛(すね)をかじるつもりだったとしか思えない」自己中心的な甘えがあった。
 甘えは智恵子との間にもあった。「智恵子は東京に空が無いといふ」に始まる「あどけない話」を、「夫婦としての会話のない」悲劇的作品とする指摘など鋭い。光太郎の性欲は強く、智恵子は淡泊。それが智恵子発狂の遠因の一つだったとする。その孤独が詩篇「猛獣篇」を書かせ、智恵子の死後には、太平洋戦争下、厖大な戦争詩を書かせた。敗戦後、光太郎は岩手山村に「自己流謫」した。だが、「彼がいかなる責任をも感じていなかったことは間違いない」とする。これは通念を覆す指摘だ。
 著者は詩人、満九十一歳。『中原中也私論』『萩原朔太郎論』『石川啄木論』などに続く力作評論。頭脳の明晰と強靱(きょうじん)に驚嘆する。


中村稔氏著『高村光太郎論』の書評です。最後にあるとおり、満九十一歳の氏による書き下ろしの労作。まさにそのバイタリティーには驚かされます。「敗戦後、光太郎は岩手山村に「自己流謫」した。だが、「彼がいかなる責任をも感じていなかったことは間違いない」とする。」という部分には首肯できませんが……。


最後に、訃報を一つ。昨日の『朝日新聞』さんの朝刊を開いて目に入り、あらら……という感じでした。 

小峰紀雄さん死去

 小峰紀雄さん(こみね・のりお=小峰書店社長、元日本書籍出版協会理事長)10日、肝不全で死去、79歳。葬儀は近親者で行った。後日、お別れの会を開く予定。
 児童書専門の同社で、原爆の惨状を伝える絵本「ひろしまのピカ」(丸木俊著)などの編集、出版を手がけた。

小峰書店さんからは、教育評論家の遠藤豊吉氏の編集による「若い人に贈る珠玉の詩集」、『日本の詩』全10巻が刊行されています。おそらく日本全国津々浦々ほとんどの小中学校さんの図書室に完備されているのではないでしょうか。全10巻中の「わたし」、「あい」、「しぜん」に、光太郎の詩が掲載されています。

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当方、うっかり気づきませんでしたが、一昨年には新版が刊行されたそうです。

そして、記事にもあるとおり、小峰書店さんと言えば、丸木位里・俊子夫妻の「ひろしまのピカ」。こういう良質な児童書を世に送り出して下さり、ありがとうございました、そして、お疲れさまでした、という感じです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あの高い哄笑とあの三題噺ももう聞かれないか。あの玄人はだしの落語もあのしんみりした鋭い批評も聞かれないか。あのうまさうな酒の飲みぶりも見られないか。
散文「岸田劉生の死」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

明治末には光太郎が経営していた画廊・琅玕洞で個展を開き、大正初めのヒユウザン会(のちフユウザン会)、生活社、大調和展などで、光太郎と共に洋画の革新運動に携わった鬼才・岸田劉生。光太郎より8歳年下で、数え39歳の若さでの急逝でした。8歳も年長ながら、光太郎は岸田を「無條件に天才であつた」とし、その死を悼みました。

今日のいくつかの朝刊に、毎年4月2日の光太郎忌日・連翹忌を開催させていただいている、日比谷松本楼さんの小坂会長の訃報が出ました。

小坂哲瑯さん死去

小坂哲瑯さん(こさか・てつろう=日比谷松本楼会長、本名・明〈あきら〉)5月23日、悪性リンパ腫で死去、86歳。葬儀は近親者で営んだ。「お別れ会」は21日午後4時30分から東京都千代田区日比谷公園1の2の日比谷松本楼で。委員長は次女で社長の文乃(あやの)さん。連絡先はお別れ会事務局(0120・57・2222)。


そういえば、ここしばらく松本楼さんでお見かけしていなかったと思いました。

小坂会長、社長だった平成24年(2012)に、テレビ東京さん系列のBSジャパンさんで放映された「小林麻耶の本に会いたい #70本に会える散歩道~日比谷編~」で、松本楼さんが紹介された中にご出演なさいました。

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司会は小林麻耶さん、ナビゲーターは山田五郎さん。

当会の祖・草野心平が編んだ新潮文庫版の『智恵子抄』に収められた詩「涙」が、松本楼さんを舞台としていることからのご出演でした。

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光太郎智恵子が明治末に味わった氷菓を前に。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


ところで、テレビ東京さん系、山田五郎さん、とくれば、毎週さまざまな街にスポットを当てて紹介していく地域密着系都市型エンターテインメント「出没!アド街ック天国」。奇しくも今週末の放映が「日比谷」です。  

出没!アド街ック天国~日比谷~

テレビ東京 2018年6月9日(土)  21時00分~21時54分

街を徹底的に紹介する地域密着系都市型エンターテインメント!お馴染みの街から「えっ、こんな街あったの?」という意外な街まで、あらゆる街に出没する情報バラエティ番組

今回のアド街は「日比谷」に出没!そこは都心のオアシス・日比谷公園を有する街。今一番の話題はあらゆる旬が詰まった東京ミッドタウン日比谷の誕生!最新ショップや世界も注目のレストランが集結。屋上ガーデンテラスからはビルの狭間にある緑豊かな公園を望み、都会での休日を満喫できます。歴史ある劇場や巨大シネコンも完成し、まさに文化芸能の聖地。スターが愛した食堂も登場!大きな進化を遂げた日比谷を堪能しましょう。

司会者  井ノ原快彦、須黒清華(テレビ東京アナウンサー)  レギュラー出演者  峰竜太、薬丸裕英、山田五郎 ゲスト 茂木健一郎、紫吹淳、品川祐(品川庄司)

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意外にも、日比谷が取り上げられるのは初めてのようです。

ただ、予告を見ると、「エンタメ文化の発信地」というコピーになっており、野音や今春開業した東京ミッドタウン日比谷さんなどがメインのようです。

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ちらっとでも松本楼さんが紹介されてほしいものですが。


003【折々のことば・光太郎】

此のまるで野獣のやうな巨大な男の肉体は、およそ題名から聯想される瞑想などといふ既成観念からは飛び離れてゐて、むしろ凝然と黙座する人間の鬱積した精力そのものの表現と見るべきである。かういふ姿勢をとつた人間の錯綜した高低無数の凹凸から来る交響楽的造形美を見なくては此像のよさは分らない。

散文「考へる人」より
 昭和19年(1944) 光太郎62歳

明治41年(1908)、パリでその実物を初めて眼にし、その後の光太郎の歩みを決定づけたロダン代表作「考える人」の評です。

左は上野の国立西洋美術館前庭のものです。

昨日昼過ぎ、買い物等のため地元で愛車を走らせていました。地元でしたので、カーナビ画面は地図ではなくテレビ画面、NHKさんの「サラメシ」でした。すると、ニュース速報のチャイム。「何事だ?」と画面に目をやると、「西城秀樹さん死去」の文字。「あらららら」という感じでした。

共同通信さんの発表から。

歌手の西城秀樹さんが死去 新御三家で人気、俳優でも活躍

 「傷だらけのローラ」「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」などのヒット曲で知られる歌手の西城秀樹(さいじょう・ひでき、本名木本龍雄=きもと・たつお)さんが16日午後11時53分、急性心不全のため横浜市内の病院で死去した。63歳。広島市出身。葬儀・告別式の日程は未定、喪主は妻木本美紀(きもと・みき)さん。
 中学生のころからバンド活動を始め、16歳のときに「恋する季節」(1972年)でデビュー。73年の「情熱の嵐」がヒットして人気に火が付き、同時期にデビューした郷ひろみさん、野口五郎さんとともに「新御三家」と呼ばれた。ドラマや映画などで俳優としても活躍。


テレビのニュース映像から。

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西城さん、二度目の脳梗塞で倒れられた後の平成27年(2015)、渋谷Bunkamuraシアターコクーンさんで開催された「世界・日本名作集よりリーディング名作劇場「キミに贈る物語」~観て聴いて・心に感じるお話集~」 に出演され、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)の、初出発表形(102行のロングバージョン)を抜粋して朗読して下さり、その不屈のチャレンジが、その当時のニュースになりました。


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まだ63歳だったとのこと。太く短く、激しく駆け抜けられた一生だったように思われます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

ぼくも妻を亡くしたが妻は「元素」となつてぼくの身の回りに生きている。愛すれば愛するほど亡くなつた人は生きている。悲しいときには無性に悲しいものだ。これ以上悲しいことはない、ドン底だと思うけれど、それが後には光りに変るものです。この悲しみが人を清らかに高くする。死んでしまえば魂も消えてしまうと思うのはごく小さな考えだ。

談話筆記「悲しみは光と化す」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

大正天皇第二皇子・秩父宮雍仁親王の追悼談話です。西城さんご遺族にこの言葉を贈ります。

4月29日(日)、千葉銚子で「仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展」及び、「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り 犬吠の太郎」拝見した後、一旦自宅兼事務所に戻り、今度は北を目指しました。JRさんの在来線、東北新幹線を乗り継いで、午後8時30分過ぎ、岩手の盛岡に到着。この日は駅前のビジネスホテルで1泊し、翌朝、レンタカーを秋田は小坂町に向けました。

目指すは小坂町立総合博物館郷土館さん。3月から、「平成29年度新収蔵資料展」が始まっており、光太郎詩集の代表作の一つ、『智恵子抄』を昭和16年(1941)に刊行し、その後も光太郎の詩集や散文集などを手がけた出版社龍星閣創業者・故澤田伊四郎氏(小坂町出身)の遺品のうち、光太郎や棟方志功関連の資料およそ5,000点が、澤田の故郷である小坂町に、昨秋、寄贈され、その一部が展示されています。

展示が始まる前の2月にも現地に赴き、寄贈されたもののうち、約70通の光太郎から澤田宛の書簡類を拝見して参りました。既に筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に収録されているものと、そうでないものが半々。そうでない方はすべて筆写させて頂きました。そして展示が始まり、もう少し早く行くつもりでしたが、この時期となった次第です。

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入館は無料。ありがたいというか、欲がないというか(笑)。

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会場全景はこんな感じで。

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会場入り口の掲示。当方の名も記していただいており、恐縮しました。

問題の書簡類。『高村光太郎全集』未収録のもののみ34通がずらっと並べられていました。壮観でした。学芸員氏が頑張って、一通一通、活字に翻刻、キャプション的に並べてあり、光太郎筆跡に慣れていない方でもどんな内容か解るようになっています。

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報道された際に目玉的に取り上げられた、昭和25年(1950)、龍星閣から出版された詩文集『智恵子抄その後』に関する葉書。

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それから、2月にお邪魔した際には時間もなく拝見できなかった、光太郎の署名本の数々。

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ほれぼれするような筆跡で、丁寧に書かれています。ネットオークション等で、時折、光太郎署名本なる偽物が出品されていますが、こういう本物を見続けていれば、偽物はいかにもみすぼらしく、下劣な品性の愚物が人をだまくらかそうと書いているのがありありと解ります。

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こちらは地元の子供さん達の作品。光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)にちなむものです。光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんでも同じような取り組みをなさっていました

その他、龍星閣関連で、棟方志功、川上澄生、恩地孝四郎、富本憲吉関連の資料、別ルートの寄贈資料で、画家の福田豊四郎の作品などの小坂町関連資料なども展示されています。

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会期は今月20日まで。ぜひ足003をお運びください。

その後、レンタカーを更に北に向け、十和田湖を目指しました。途中の「道の駅 こさか七滝」には、その名の通り、七滝という大きな滝が。光太郎から澤田に送られた書簡類のうち、澤田が小坂の実家に引きこんでいた時期のものも何通かあり、その住所が「秋田県毛馬内局区内七瀧村大地」となっています。この滝にちなむ地名なのでしょう。

もう少し行くと、道ばたには残雪。運転にはまったく影響ありませんでしたが、さすがに北東北、と思いました。

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ところで、全くの別件ですが、『朝日新聞』さんに、美術評論家の三木多聞氏の訃報が出ていましたのでご紹介しておきます。 

三木多聞さん死去

 三木多聞さん(みき・たもん=美術評論家)23日、急性心不全で死去、89歳。葬儀は家族で行った。喪主は妻玲子さん。
 大阪の国立国際美術館長や東京都写真美術館長を務めた。著書に「近代絵画のみかた 美と表現」などがある。

昭和46年(1971)、至文堂さん刊行の『近代の美術 第7号 高村光太郎』の編者を務められたほか、翌年7月発行の雑誌『ユリイカ 詩と評論』の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」号で、「高村光太郎の彫刻」という評論を発表なさったりされた方です。連翹忌にも2回ほどご参加いただきました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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【折々のことば・光太郎】

若いのはいい、若いのはいい。何かが知りたくて、知りたくて、又遊びたくて、遊びたくて、疲れるといふ事が疲労でなくて休息であるほど、若いのはいい。若い人を見てゐると、自然と心が腕をのばして来て、仕舞に思はず微笑(ほほゑ)まされる。若い人の水々しさはいろんな意味で此世を救ふ。

散文「若い人へ」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

題名の通り、若い人々へのエール的文章です。このあと、「立身出世教」の毒牙にかかるな、的な内容になったりします。

元々、雑誌『婦人の友』に発表されたものですが、のち、昭和に入ってすぐ、かなり改訂されて、女学校用の教科書にも採録されています。

ミステリー作家の内田康夫さんの訃報が出ました。

内田康夫さん死去、83歳=推理作家、浅見光彦シリーズ

 名探偵「浅見光彦」シリーズで知られる作家の内田康夫(うちだ・やすお)さんが13日、敗血症のため東京都内で死去した。
  83歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。お別れの会は行わず、3月23日~4月23日、長野県軽井沢町の浅見光彦記念館に献花台を設ける。喪主は妻で作家の早坂真紀(はやさか・まき、本名内田由美=うちだ・ゆみ)さん。
  コピーライター、CM制作会社経営を経て1980年、「死者の木霊」で作家デビュー。82年の3作目「後鳥羽伝説殺人事件」で初登場した浅見光彦は、警察庁刑事局長を兄に持つ33歳のルポライターというキャラクターが広く愛され、全国各地を舞台にシリーズ化。99年「ユタが愛した探偵」の沖縄県で47都道府県を網羅した。
  作品は相次いでドラマ化され、2008年には日本ミステリー文学大賞を受賞。15年夏に脳梗塞で倒れ、療養を続けていた。
  遺作となった未完の小説「孤道(こどう)」を含め計160冊余りを刊行。これまでの累計発行部数は約1億1500万部という。
(時事通信 2018年3月18日) 

作家・内田康夫さん死去 83歳 「浅見光彦シリーズ」

 名探偵・浅見光彦シリーズを生んだ作家の内田康夫(うちだ・やすお)さんが13日、敗血症のため東京都内で死去した。83歳だった。葬儀は002近親者で営んだ。喪主は妻の作家早坂真紀(はやさか・まき、本名内田由美〈うちだ・ゆみ〉)さん。23日~4月23日、長野県軽井沢町の浅見光彦記念館(火、水休館)に献花台が設けられる。
  34年東京生まれ。東洋大中退。コピーライターなどを経て、80年に3千部を自費出版した「死者の木霊」が、翌年の朝日新聞の書評で取り上げられたことが機となり、作家になった。
  名探偵・浅見は82年の「後鳥羽伝説殺人事件」に初めて登場。警察庁刑事局長の兄を持つ、ハンサムなルポライターが事件を解決するシリーズとして人気を集め、辰巳琢郎、中村俊介らが演じて映像化されてきた。
  事前に構想を固めずに書き進める作法をとり、旅情ミステリー作家として各地の風景や人々の心情を描いてきた。内田康夫財団によると、残された著作は163、累計発行部数は1億1500万部という。
  08年に日本ミステリー文学大賞を受賞。14年には永遠の33歳だった浅見が34歳になり、転機を迎える物語「遺譜 浅見光彦最後の事件」を刊行した。しかし15年、毎日新聞で浅見シリーズ「孤道」を連載中に脳梗塞(こうそく)で倒れ、執筆を中断。17年3月には休筆宣言をし、同作は未完のまま刊行され、今年4月にかけて続編を公募して完結させることになっている。
(朝日新聞 2018/03/19)


未完の「孤道」を含め、116作ある「浅見光彦シリーズ」の中の10作目、『「首の女(ひと)」殺人事件』(昭和61年=1986)が、光太郎の贋作彫刻をめぐる事件を描いたものでした。

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同年、当時、銀座にあった東京セントラル美術館で開催された「the光太郎・智恵子展 高村光太郎没後30年 智恵子生誕100年」が事件の発端という設定でした。

内田氏は他にも、『「萩原朔太郎」の亡霊』(昭和57年=1982 萩原朔太郎)、『津軽殺人事件』(昭和63年=1988 太宰治)、『横浜殺人事件』(平成元年=1989 野口雨情)、『イーハトーブの幽霊』(平成7年=1995 宮沢賢治)、『遺骨』(平成9年=1997 金子みすゞ)、『砂冥宮』(平成21年=2009 泉鏡花)、『汚れちまった道』(平成24年=2012 中原中也)など、文学者をモチーフにした推理小説をたくさん執筆されましたが、モチーフと作品全体の関連度でいえば、話の枕にそれらの文学者が扱われる程度の作と異なり、『「首の女(ひと)」殺人事件』は、ほぼ全篇、光太郎智恵子にまつわる内容でした。智恵子の故郷・二本松の安達太良山が事件現場になったり、事件の重要人物が宿帳に光太郎の住所である「駒込林町二十五番地」と書いたりと。

余談というと失礼ですが、準レギュラー的に後の作品にもたびたび登場する野沢光子(浅見の幼なじみ)がヒロインとして初登場したり、それまで「スポーツタイプ」としか記述がなかった浅見の愛車がトヨタソアラリミテッドであることが初めて明かされたりした作品でもあります。


映像化も2回されています。

平成18年(2006)にはフジテレビさんで、中村俊介さん主演、ヒロインは紫吹淳さんでした。

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原作に即した作りで、二本松ロケも行われ、東京セントラル美術館の代わりに、岩手花巻の高村記念館(リニューアル前の)が使われました。残念ながら、販売用DVD等は発行されていませんが、年に数回、BS放送で再放送が繰り返されています。

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TBSさんでも、平成21年(2009)に、沢村一樹さん主演で「浅見光彦~最終章~ 最終話 草津・軽井沢編」として映像化。ただし、物語の舞台が大きく変わったりしています。

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こちらはDVDボックスが発売されています。

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それにしても内田氏、ミステリー作家として、ある意味、見事な最期でした。『遺譜 浅見光彦最後の事件』(平成26年=2014)で、余韻を持たせながらも、浅見光彦シリーズの終末を描ききり、その直前の事件という設定で『毎日新聞』さんに連載を始めた『孤道』が体調不良のため未完にならざるを得なくなると、続きは公募するという、前代未聞の措置をとられています。来月〆切だそうで、おそらく、熱烈な浅見ファンの方々が、それぞれの物語を執筆なさっているのではないでしょうか。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

小生にとりては此所に挙げたる好きなものに属する作品の外はすべて土塊敗紙に等しく何らの Raison d'être を有せざる作品とより以外に如何にしても感ぜられず、其の中にて嫌ひなものと申すは、特別に小生の神経を害し、見るたびに不愉快に感ぜられたるものを申すのに候。

散文「文部省美術展覧会評」より 明治42年(1909) 光太郎27歳

このコーナー、筑摩書房さんから刊行された『高村光太郎全集』の第一巻からはじめ、光太郎の言葉を拾っています。今日から第六巻に入りまして、当分の間は展覧会評です。

この年、3年半にわたる欧米留学から帰朝した光太郎、世界の最先端の芸術を観てきた眼に、日本の美術家の作品は、一部の例外を除き、西洋美術の猿真のような根柢のないものにしか見えませんでした。

『岩手日報』さんに、彫刻家・深沢竜一氏の訃報が出ました。

深沢 龍一氏ふかざわ・りゅういち=画家の故深沢省三・紅子夫妻の長男)

 10日午後8時12分、肺炎のため都内の病院で死去、93歳。東京都出身。自宅は東京都練馬区南田中。葬儀・告別式は家族らのみで行う。喪主は妻トシさん。
 盛岡市紺屋町の深沢紅子野の花美術館に深沢夫妻の絵を寄贈し、高窓のステンドグラスのデザインに携わるなど開館に尽力した。


昭和18年(1943)、氏は東京美術学校在学中に学徒出陣となり、3人の上級生の皆さんと共に、本郷区駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、大先輩・光太郎から激励の言葉を頂いたそうです。同年、それをモチーフにした「四人の学生」という光太郎の詩が書かれています。

  四人の学生

 けふ訪ねてきたのは四人の学生。
 見しらぬ彫刻科の若い生徒。
 非常措置の実施によつて学窓から
 いち早く入営するといふ美の雛鳥。
 彼等はいふ、002
 「さとりがひらけたやうに
 はつきり心がきまりました。」
 私はいふ、
 「どんなときにも精神の均衡を失はず、
 打てば響いて
 当面する二つなき道に身を挺するこそ
 美を創る者の本領、
 美と義とを心に鍛へる者の姿だ。」
 四人の学生のうしろに
 いま剣をとつて起つ無数の学徒がゐる。
 君、召させたまふ時、
 顧みなくて赴くは臣(おみ)の誇りである。
 まことに千載にして一遇の世に生き
 若き力として名乗り得る者は幸である。
 四人の学生は多くを語らないが
 眉宇すでに美しい。
 「先生もどうかお元気で、」と
 この見しらぬ美の雛鳥らは帰つていつた。
 学徒出陣は日本深奥の決意を示す。
 聖業成りたまふの気
 氤氳として天に漲るを覚える。

海軍の特攻隊に配属されながらも、幸い、無事に復員できた氏は、モンゴルから引き揚げてきたご両親(深沢省一・紅子ご夫妻)と合流、郷里岩手に帰られ、雫石郊外で開墾、牧畜を始めたそうです。ご両親は岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)の教授にご就任、その関係で花巻郊外旧太田村にいた光太郎と親しく交わりました。氏もたびたび光太郎の山小屋を訪れたとのこと。

昭和22年(1947)11月29日の光太郎日記に、氏の訪問の様子が記されています。

午前テカミ書のところへ深沢氏来訪。雫石よりとの事。焼パン、つけものいろいろ、イクラ、牛乳三合ほどもらふ。めづらし。雫石にての開墾生活の話いろいろ。横カケといふところの奥(雫石町より一里程)に新しく家(三十坪)を建てられ、全家すでに移住されし由。風景絶佳の由。ひる弁当を持参此処でくふ。余は汁をつくり進せる。もらつたパンを余はくふ。シユークルートも出す。午後三時半辞去さる。今夜は盛岡泊りの由。

同じ年の8月9日には、やはり太田村の山小屋を訪れたお母様に、氏が頼んでおいた書の揮毫を渡した旨の記述もありました。

午前九時頃分教場行、十時頃盛岡婦人之友友の会の女性達四十人ばかり分教場に来る。深沢紅子さんも来てゐる。(略)深沢さんに「ホメラレモセズ苦ニモサレズ」揮毫を渡す。竜一氏よりたのまれゐしもの。竜一氏より半紙をもらふ。

「ホメラレモセズ苦ニモサレズ」は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節です。おそらくこの時のものと思われる(或いは後述の昭和25年=1950に光太郎が深澤家を訪問した際かもしれません)書を、当方、3年前(平成27年=2015)に氏のご自宅で拝見しました。

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ちなみにその年の連翹忌にもご参加下さいまして、スピーチをお願いしました。上の方の画像がその時のものです。スピーチの前に、光太郎の遺影に深々と頭を下げられ「先生、ご無沙汰しておりました!」と大きなお声でおっしゃっていたのが忘れられません。

昭和25年(1950)の1月には、光太郎が雫石の氏のお宅に2泊しています。残念ながら、この年の光太郎日記は大半が失われていますが、賢治の主治医で、光太郎の花巻疎開に一役買い、さらに終戦直後に約1ヶ月、光太郎を自宅離れに住まわせた佐藤隆房編著の『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962 筑摩書房)に、父君・省三氏からの聞き書きが掲載されています。

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心温まる交流の様子がよくわかります。

太田村に帰った後、光太郎は佐藤隆房にあてた書簡に、「西山村の深沢さんの小屋では二日間に好きな牛乳を一升ものみました。」としたためています。

その後、氏は彫刻を志し、たびたび作品を持参して光太郎の山小屋を訪ね、アドバイスしてもらったそうですが、やはり残念ながらそのあたりの光太郎日記が失われています。

またお一人、生前の光太郎を知る方が亡くなられ、誠に残念です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

書を見てゐるのは無條件にたのしい。画を見るのもたのしいが、書の方が飽きないやうな気がする。書の写真帖を見てゐると時間をつぶして困るが、又あけて見たくなる。疲れた時など心が休まるし、何だか気力を与へてくれる。
散文「書をみるたのしさ」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

光太郎最晩年の言ですが、実際にこの時期、終焉の地となった中野の中西家アトリエで、書の写真集を見る光太郎の姿が、たびたび写真に収められています。

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先週のこのブログでご紹介したばかりの、「現代の智恵子抄」と称された映画「八重子のハミング」にご出演なさっていた、女優の上月左知子さんの訃報が出ました。 

女優の上月左知子さん死去=87歳、NHK大河「春日局」など

 上月 左知子さん(こうづき・さちこ、本名小池みき子=こいけ・みきこ=女優)24日、心不全のため東京都江戸川区の自宅で死去、87歳。

 神戸市出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男健朗(けんろう)氏。後日、お別れの会を開く予定。

 49年宝塚歌劇団入団。上月あきらの名で男役、左知子に改名後は娘役を演じた。退団後は映画「瀬戸内少年野球団」「八重子のハミング」、NHK大河ドラマ「春日局」などに出演した。
(時事通信 2018/01/30)

宝塚出身女優・上月左知子さん死去、87歳 大河や特撮でも活躍「前日まで元気…」

 女優の上月左知子さんが24日、心不全のため亡くなったことが30日、発表された。87歳だった。上月さんは宝塚時代は上月あきらとして活躍、57年に退団してからは上月左知子として活動していた。通夜、告別式は家族葬で執り行うとし、後日、お別れの会を開催予定。

 上月さんは1930年10月9日兵庫県生まれ。49年に宝塚歌劇団に36期生として入団、上月あきらの名前で活躍し、「南の哀愁」で初舞台を踏む。1957年に退団すると、上月左知子として活動し、映画「陽暉楼」「瀬戸内少年野球団」「空海」などに出演。テレビドラマもNHK大河「春日局」や、「花嫁のれん」の第1シリーズなどにも出演していた。また特撮ファンには「流星人間ゾーン」や、「ミラーマン」の母親役などでも知られていた。

 上月さんの長女で、元タカラジェンヌの女優・嘉月絵理は29日に更新したブログで「朝電話しても出ないので家まで行ってみたら、亡くなっていました。前日まで元気だったんですが…。でもピンピンコロリが理想だったので良かったのではないかと思います」と気丈に亡くなった時の様子を明かし「天使のような母の笑顔を思い出して冥福を祈って頂ければと思います」とつづっていた。
(デイリースポーツ 2018/01/30)


「八重子のハミング」では、升毅さん演じる主人公・石崎誠吾の母・みつ役でした。

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物語冒頭近く、誠吾が親友の榎木医師(梅沢富美男さん)から、がんの告知を受けたと告白されるシーン。
取り乱すことなく気丈に振る舞い、さらに息子を励まします。「あんたの運命と思って、あんたがしっかりせんと」と。

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そんな母親を見て、短歌が趣味の誠吾が一首。

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ところが誠吾の妻、八重子(高橋洋子さん)は、動揺を隠しきれず、さらに夫の看病の心労が極限に達し、それも原因となって、若年性アルツハイマーに……。

それを、がんの手術が成功して退院した誠吾が家族に打ち明けるシーン。ここでも上月さんは息子を叱咤激励します。

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「誠吾、あんたの命を助けるために、八重子さんが病気になったんよ」。言い換えれば、「今度はあんたが八重子さんの面倒をしっかり見なさい」ということでしょう。

といって、非協力的というわけではありません。夢幻界の住人となった八重子を温かく見守るシーン。

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直後のシーンでは、共に教員だった誠吾・八重子共通の昔の教え子(月影瞳さん)が、八重子の介護を申し出てくれます。息子夫婦のおこなってきた教育の成果が、思いがけないところで実を結んだと、感極まる上月さん。

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しかし、結局は、八重子の最期を看取ることに……。

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息子には凜として道義を説き、一方で徐々に壊れてゆく嫁を温かく見守る姑、実に難しい役どころですが、上月さん、みごとに演じられていました。

どうもこの作品がご遺作となられたようです。上月さん、最後にすばらしい役に巡り会えたことを喜ばれているのではないでしょうか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

人面の中に彫刻を見、その内面から充溢する彫刻生の美を、その個人的特殊性の下に把握するのが彫刻家である。

散文「彫刻性について」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

シナリオの中に演じる人物の人間性を見、自分という個人的特殊性を通してそれを充溢させられるのが、上月さんのような名優というものでしょう。

今日の『朝日新聞』さん朝刊に、俳優の土屋嘉男さんの訃報が出ていました。

土屋嘉男さん死去 「七人の侍」など出演

 「七人の侍」など多くの黒澤映画で脇を固めた俳優の土屋嘉男(つちや・よしお)さんが、2月8日に肺がんで亡くなっていたことがわかった。89歳だった。
 俳優座養成所を経て東宝入社。54年、黒澤明監督の「七人の侍」で、愛妻を野武士に奪われて苦しむ若い農民の利吉を演じて注目を集めた。以降、55年の「生きものの記録」から65年の「赤ひげ」まで、黒澤映画の脇役として欠かせない存在となった。
 東宝では、ほかに「ゴジラの逆襲」「ガス人間第一号」などの特撮もの、「黒い画集 ある遭難」「乱れ雲」など、幅広い作品に出演した。

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土屋さん、若き日にやはり東宝の、原節子さん主演「智恵子抄」(昭和32年=1957)にも出演なさっていました。光太郎の若い友人である詩人の「小山」という役で、モデルは尾崎喜八と草野心平でした。

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小山の登場シーンは2回(シナリオではもう1回ありましたが、映画本編では2回でした)。

まずは、大正末から昭和初め頃という設定で、森啓子さん(のち森今日子と改名)演じる妻と、生まれたばかりの女の子を連れて、光太郎智恵子の暮らすアトリエを訪ねるシーン。下の画像はスチール写真です。

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実際の映画から。

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そろそろ精神的に不安定になりつつあった、原節子さん演じる智恵子が、赤ちゃんをまるで引ったくるように自室に連れて行ってしまうという流れでした。

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尾崎喜八がよく妻子(妻は光太郎の親友・水野葉舟の娘である実子)を連れて光太郎アトリエを訪問しており、お嬢さんの榮子さんは昨年までご健在で、智恵子に抱っこされた思い出をうかがったことがあります。映画ではそのあたりを脚色したようです。

それから、草野心平とのエピソードも使われていました。智恵子がゼームス坂病院に入院したあと、という設定で、山村聰さん演じる光太郎が「小山」を場末の酒場に呼び出し、くだをまくシーンです。

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どういった事情があったのか、土屋さん、訃報は今日の新聞に載っていましたが、亡くなったのは2月だそうです。ちなみに昨日は、原節子さんのご命日で、今年は三回忌となり、不思議なご縁を感じます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

いつのことだか忘れたが、 私と話すつもりで来た啄木も、 彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに すつかりあきらめて帰つていつた。 日露戦争の勝敗よりも ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた。

連作詩「暗愚小伝」中の「彫刻一途」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「ロヂン」は「ロダン(Rodin)」の英語風の読み方です。東京美術学校に入学後、ロダンの名もまだ日本では知られていなかった頃、海外の雑誌で作品の写真を見て、いち早くその新しい美に打たれた光太郎。社会主義にもかぶれていた啄木が訪ねてきても、話が噛み合わなかったということです。

忠君愛国の精神で育て上げられてきた光太郎、遅まきながらの自我の目覚めは、ロダンとともにやってきました。

地方紙『山形新聞』さんの一面コラム、25日日曜日の掲載分です。

談話室 2017/06/25付

▼▽江戸時代後期に清貧、自由の生涯を貫いた僧良寛。歌人、書家として知られるが漢詩も多く残した。中にこんな一節がある。「花開く時蝶来(ちょう)り 蝶来る時花開く」。花にも蝶にも作為などない。互いに招き、導かれる。
▼▽その人の訃報にふと良寛の詩が浮かんだ。山形市の吉田コトさん。99年の人生は波乱に富む。20歳の頃「宮沢賢治名作選」の編集に関わった。没してからまだ5年。原稿は岩手・花巻の生家の柳行(やなぎごう)李(り)に入ったままだった。賢治の弟清六が手渡す原稿を、行李の蓋(ふた)に仕分けた。
▼▽「名作選」は無名だった詩人・童話作家再発見のきっかけとなる。高村光太郎ら文化人との交流も生まれた。私生活では22歳で結婚。子宝にも恵まれるが太平洋戦争のさなか、夫が病で半身不随になる。戦後は山形市に一銭店「天満屋」を開き、大黒柱として生活を支えた。
▼▽貧乏暮らしながら店には多くの人が訪れ、交流の場になった。人生相談を持ち掛けられたり、山形大の苦学生にはご飯を振る舞ったり。知的好奇心も衰えない。80歳を過ぎても週1回、東北芸術工科大に通って講義を聴講した。「時には蝶、時には花」を体現した人だった。


訃報の記事も載ったようなのですが、ネット上で不鮮明な画像でしか発見できませんでした。それによると土曜が葬儀だったそうなので、亡くなったのは先週でしょうか。吉田コトさん。作家の吉田司氏のお母様で、宮沢賢治の教え子だった松田甚次郎を助け、賢治実弟の清六ともども、昭和14年(1939)に刊行された『宮沢賢治名作選』の編集実務に当たられた方です。

その編集に当たっていた頃、「山形賢治の会」で一緒だった詩人の真壁仁の紹介で、本郷区駒込林町の光太郎と会っています。以下、平成20年(2008)、有限会社荒蝦夷さん刊行の『吉田コト子思い出語り 月夜の蓄音機』より。

「山形賢治の会」を立ち上げて間もなく、000中央大学に進学していた弟が軽い脊椎カリエスを患った。一人で下宿生活が送られなくなったので、私が上京して炊事の面倒を見ることになった。(略)高村光太郎さんに初めて会ったのはこのころだ。真壁さんから私に手紙が来たんだっけ。「高村先生に会いに上京します。ご一緒しましょう」って。私が『宮沢賢治名作選』を手伝っていたころ、政次郎さんが私に光太郎さんの話を聞かせてくれたことがあったの。賢治が生前、『春と修羅』だったか詩集を自費出版して、いろんな人に送ったらしいんだけど、お礼の返事をよこしたのが高村光太郎と詩人の草野心平の二人だけだったんだって。賢治はその葉書がくちゃくちゃになっても、お守りみたいに大事にしてたって。その話を聞いて私は光太郎さんに会ってみたくなったんだ。それで清六さんに紹介状を書いてもらったんだけど、まだ光太郎さんに会いに行ってなかった。真壁さんはこの紹介状のことを知ってて、私を誘ってくれたんだね。

『春と修羅』(大正13年=1924)の礼状をよこしたのが、光太郎と心平だけだったという話。他では読んだことがないのですが、有り得る話です。くちゃくちゃになった葉書を賢治がお守りのように持っていたというのも。そこで2年後に、賢治は光太郎を訪ねていったのでしょう。

上京した真壁さんと二人で光太郎さんを訪ねた。真壁さんは、私のことを三割も五割も足して光太郎さんに話してくれたっけ。「コトさんは真面目で一生懸命、本も読むし文章も書く」って。光太郎さんが「詩の勉強をなさい。書けるように教えてあげます」って言ってくれた。だのに私ったら「授業料が高いでしょう」なんて言ったんだよ、高村光太郎に向かって(笑)。田舎っぺだよね。そして「詩を書くよりも孤児院のお手伝いのような仕事がしたいと思っています」なんて話もした。親のいない寂しさを味わっていたから、ホントにそんな仕事がしたかったの。光太郎さんは「手伝いなんて言わずに、自分で作りなさい。相談にのってあげるから、またいらっしゃい」と言ってくれた。

残念ながら、光太郎の書き残したものの中に、この会見の模様は確認できません。ただ、同行した真壁仁に送った光太郎書簡から、昭和14年(1939)の3月から4月頃だったと推定できます。

余談になるけれど、太平洋戦争が終わるころ、光太郎さんは賢治の生家を頼って岩手に疎開したでしょう。そのあと、なんのときだったかは忘れたけれど、とにかく光太郎さんが山形に立ち寄ったことがあるの。光太郎さんから「もう二度と山形に来ることもないでしょうから、ぜひ会いましょう」と葉書をもらった。そこで、山形駅まで会いに行ったの。確か末っ子の司を背中におぶってた。だから、司も光太郎さんに会ってることになるの。

これは昭和25年(1950)10月のことです。県綜合美術展のため、光太郎は山形を訪れています。審査は断りましたが、批評なら、ということでした。11月1日には料亭野々村で、翌日には山形市教育会館美術ホールで、美術講演会が催され、この際には女優・渡辺えりさんのご両親もそれを聴かれています。渡辺さんのお父様・正治氏は戦時中から光太郎と親交がおありでした。

光太郎からコトさんへの葉書というのも、『高村光太郎全集』等に漏れています。残っていればいいのですが……。

コトさん、戦後は身体が不自由になられたご主人を支えつつがんばられたそうでしたが、実は当方、まだコトさんがご存命とは存じませんでした。99歳だったそうで……天寿ですね。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

とどめ得ない大地の運行 べつたり新聞について来た桜の花びらを私ははじく もう一つの大地が私の内側に自転する

詩「もう一つの自転するもの」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

前年には満州事変、この年には傀儡国家の満州国建国、五・一五事件。翌年には国際連盟脱退と、この国は泥沼の戦争へと一歩一歩進んでいました。

そうした世情とは別に、自分の中には「もう一つの自転するもの」があると宣言していた光太郎ですが、智恵子の心の病がのっぴきならないところまで進むと、「わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し/闃として二人をつつむこの天地と一つに」(「山麓の二人」)なるのです。

0044月に亡くなった詩人の大岡信氏。『朝日新聞』に連載されていたコラム「折々のうた」などで、光太郎に触れて下さっていました。


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静岡三島の大岡信ことば館さん、大岡さんが永らく勤務されていた明治大学さん、そして大岡信研究会さんの主催で、追悼の集いが開催されます。

ご家族での密葬は既に終えられ、一般弔問者対象だということです。

大岡信さんを送る会

期 日 : 2017年6月28日(水)
時 間 : 18:00-20:00 (献花17:00~)
会 場 : 明治大学アカデミーホール(アカデミーコモン内3階)
       千代田区神田駿河台1-1

プログラム
 司会 桜井洋子(アナウンサー)
 1.開会の辞:西川敏晴(各主催者を代表して大岡信研究会会長による挨拶)
 2.弔辞
   弔辞① 粟津則雄(文芸評論家、フランス文学者、いわき市立草野心平記念文学館長)
   弔辞② 菅野昭正(世田谷文学館館長、フランス文学者)
   弔辞③ 谷川俊太郎(詩人)
 3.在りし日の大岡信さん(映像)
 4.ピアノ演奏:一柳慧(作曲家 ピアニスト)
 5.大岡信の詩の朗読:白石加代子(女優)
 6.ジュリエット・グレコの歌(映像)
 7.「大岡信さんと明治大学」:土屋恵一郎(明治大学学長)
  8.お礼のことば:大岡かね子

一般のお客様もご参加いただけます。
参加ご希望の方は、平服でお越しください。会費はいただきません。
また供花、供物、御香典はすべてご辞退させていただきます。


谷川俊太郎さんをはじめ、錚々たるメンバーですね。大岡氏の功徳のほどが偲ばれます。かくありたいものです。


【折々のことば・光太郎】

腹をきめて時代の曝しものになつたのつぽの奴は黙つてゐる。 往来に立つて夜更けの大熊星をみてゐる。 別の事を考へてゐる。

詩「のつぽの奴は黙つてゐる」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

「のつぽの奴」は、身長180㌢超の光太郎です。詩の冒頭近くにも使われています。

親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか、何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。(略)いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。

舞台は昭和3年(1928)4月16日、東京会館で行われた光太郎の父・高村光雲の喜寿祝賀会です。口さがない参会者のひそひそ話(だいぶ「盛っている」ような気がしますが)を引用しているという設定です。

光太郎にしてみれば、世間並みの栄達など、縁もなければ興味もありません。しかし、世間的にはそれでは通用しないわけで、確かにある種の「曝しもの」ですね。しかし、祝賀会からの帰り道、天極に輝く大熊座(北斗七星)を見上げ、その立ち位置を甘んじて受けようと覚悟を語っています。

大岡信さん曰く、

昭和の四、五年頃に「詩・現実」という雑誌に高村が詩を発表しているんです。あれは一種同伴者的な雑誌ですけど、あの中でこの種の高村の詩を見ると、むしろ一番急進的で左翼的なんです。迫力があります。断言のいさぎよさみたいなので、他の人のはインテリ的な口振りがつきまとうから、マルクス主義について言っても、アナーキズムについて言っても、どことなく間接的なんですけど、高村の詩が出てくると非常に強烈ですね。
(「討議 超越性に向かう詩人の方法 その生涯をつらぬいたもの」 『現代詩読本 高村光太郎』 昭和53年=1978 思潮社)

なるほど。

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昨日の『朝日新聞』さんに載った訃報です。

西郷竹彦さん死去

 西郷竹彦さん(さいごう・たけひこ、本名・隆俊=たかとし、文芸教育研究協議会会長)12日、急性肺炎で死去、97歳。葬儀は家族のみで営む。喪主は妻京子さん。同協議会が7月29日に神戸市で開く「文芸研神戸大会」の中で、「偲(しの)ぶ会」を催す予定。著書に「西郷竹彦文芸・教育全集」など。

『東京新聞』さんにも、ほぼ同一の訃報が掲載されたようですが、他紙はネット上では見あたりませんでした。

当方、氏の御著書を一冊持っており、朝刊を広げてお名前を訃報欄で目にし、「あらららら……」と思った次第です。

それが黎明書房さんか004ら平成5年(1993)刊行の『名詩の美学』。小中高の教科書に採用されたものを中心に、光太郎を含む30余名の近現代詩人の作品を取り上げ、「美の構造仮説にもとづく解釈」(「はじめに」より)が為されています。

どちらかというと国語教員向けに書かれたようで、カバーには「小・中・高における詩の「読解鑑賞指導」の限界を明らかにし」という文言も記されています。版元の黎明書房さんは、教育関係図書の出版で実績を持っています。西郷氏ご自身、訃報にあるとおり、文芸教育研究協議会会長であらせられ、鹿児島県立短期大学文学科で教鞭を取られていました。

しかし、純粋に教員向けかというとそうでもなく、授業指導のあり方を提案するとかではないので、いわゆる「教育書」の範疇には入りません。個々の詩の作品論集成です。

光太郎詩は「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)が扱われています。題して「たがいに異質な感情の止揚――高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」」。

終末部分を引用させていただきます。

 この詩の美の構造を図式的に表現するならば、次のようになるだろう。
 怒りの口調に悲しみの心を述べる。悲哀の姿に滑稽をさえ感じさせ、さらに滑稽であることでいっそうのみじめさ、哀れさをひきおこさせる。卑属にまみれた姿の中に超俗の姿を、また失われた聖なるものの姿を垣間見せる。美をねがい救いを求め、理想にあこがれる姿に愚と聖を同時にとらえ、小さな素朴の中に無辺大の夢を追う。つまり駝鳥にして駝鳥にあらざるもの――人間――をともに描き出す。
 ここに、この詩の美の構造を見ることができる。たんに〈怒り〉〈憤怒〉〈批判〉〈抗議〉とのみ見てはならない。

なるほど。

調べてみましたところ、「増補版」が平成23年(2011)の上梓、まだ在庫があるようです。目次は以下の通り。

 序 現実をふまえ、現実をこえる世界―佐藤春夫「海の若者」
 1 矛盾するイメージの二重性―井伏鱒二「つくだ煮の小魚」
 2 美の典型をとらえる―村野四郎「鹿」
 3 一瞬にして永遠なる世界―三好達治「大阿蘇」
 4 イメージの筋が生みだすもの―小野十三郎「山頂から」
 5 現実と非現実のあわいの世界―中原中也「一つのメルヘン」
 6 象徴化されていくプロセス―萩原朔太郎「およぐひと」
 7 日常性に非日常を見る―長谷川龍生「理髪店にて」
 8 心平詩〈つづけよみ〉―草野心平「天」「作品第拾捌」「海」
 9 否定態の表現―中野重治「浪」
 10 たがいに異質な感情の止揚―高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」
 11 現実が虚構である世界―丸山 薫「犀と獅子」
 12 無意味(ナンセンス)の意味―谷川俊太郎「であるとあるで」
 13 自他合一の世界―安水稔和「水のなかで水がうたう歌」
 14 一即一切・一切即一―高見 順「天」
 15 自己の存在証明―石原吉郎「木のあいさつ」
 16 天を見下ろす逆説―山之口 貘「天」
 17 自己分裂・喪失の悲喜劇―藤富保男「ふと」
 18 根拠なき推理の生む虚像―藤富保男「推理」
 19 生命の芽ぶくドラマ―安東次男「球根たち」
 20 まとめられぬまとめ―詩の美のかぎりない多様さ
 21 二相ゆらぎの世界(宮沢賢治)―その1「烏百態」
 22 二相ゆらぎの世界(宮沢賢治)―その2「永訣の朝」
 補説 西郷文芸学の基礎的な原理―主として「話者の話体と作者の文体」について

ぜひお買い求めください。


なお、当方、もう一冊、氏の名が「監修」でクレジットされている書籍も持っています。しかし、重大な瑕疵のあるものですのでご紹介は控えさせていただきます。ただし、その瑕疵に西郷氏は関わっていません。あくまで出版社としての矜恃を持たない間抜けな版元のボーンヘッドで、監修者としての氏が実に気の毒に思われます。

閑話休題。改めまして、謹んで西郷氏のご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

憤りか必至か無心か、 この人はただ途方もなく 無限級数を追つてゐるのか。
詩「刃物を研ぐ人」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

「刃物」は彫刻刀や鑿の類、「刃物を研ぐ人」、「この人」は光太郎自身です。

まさに飽くなき美の探求、そこに生涯をかける意志の表出ですが、それはどこまでいっても終わりのない道程でもあります。人生もとっくに後半生に入っていることを自覚し、残された時間で自分はどこまで進めるだろう、という、青年期の単なる無邪気な夢の追求では済まされない、悲壮感も読み取れます。

そしてそっくり我が身にも……と感じる今日この頃です(笑)。

光太郎関連のさまざまな出版物を刊行して下さっている、東京杉並の文治堂書店さん。そちらの創業者・渡辺文治氏が先月、亡くなったそうです。

当方、直接面識はありませんでしたので、すぐに知らせが来なかったのですが、昨日、別件で同社から届いた書簡にその旨の記述と、葬儀の際の会葬御礼が同封されていました。

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003同社から刊行された当会顧問・北川太一先生の近著『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』に、「文治さんと清二さん」という小文が掲載されており、そこで渡辺氏についての思い出が語られています。初出は平成2年(1990)、同社のPR誌『トンボの眼玉』でした。「清二さん」は渡辺氏の筆名「谷川清二」のことで、「文治さん」と「清二さん」は同一人物です。

氏の業績、人となりのご紹介のため、抜粋します。

 文治さんがはじめて応接間とも書斎とも書庫とも物置ともつかぬ、机一つないわが家の四畳半にやって来て、窮屈そうに坐ったのは、あれはいつのことだったろう。
 ずっとガリ版で出し続けていた『光太郎資料』が二十冊あまりになったのを、詩の輪読会のメンバーの一人、日大法学部の田鍋幸信さんが見て、文治さんに話したらしい。文治さんのことは、僕の大好きな中島敦の、立派な四冊の本の出版社として知っていた。本は飛び切り上等だったけれど、社長と社長夫人しかいないその出版社の実情は、例えば小説「シュロ竹」を見よ。文治さんの本屋さんだから、糞真面目に文治堂というのも良いではないか。
 目の前にいる文治さんは、活字で『光太郎資料』出しましょう、という。好男子なのに風采決して陸離とは言えない。低い声でぼそぼそ話す文治さんの、思い切りのいい決断。文治さんはいったい何を考えているのだろう。
 その本が文治さんの目にかなったとしても、売れる筈のないそんな本を、出す出版社はおそらくない。半分あきれかえりながら、僕はこの降って涌いた計画に熱中した。しかもあろうことか、六冊の無鉄砲なシリーズは、昭和五十二年に五年かかって完結した。

004こうして世に出たのが、『高村光太郎資料』全六集。母胎は北川先生編集の『光太郎資料』ですが、そのまま単行本化したわけではなく、徹底して再編がなされ、第一集から第三集までは、昭和32年(1958)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』補遺作品の巻。平成11年(1999)に同全集の増補改訂版が完結するまで、補遺巻としての役割を果たし続けました。

第四集から第六集までは、諸家による光太郎智恵子の同時代評、回想、そして第一~三集のさらに補遺。こちらも貴重な資料集成です。

これで北川先生と同社との関わりが出来、以後、光太郎関連の出版物等が同社から刊行されたり、同社発行の雑誌に先生の玉稿が載ったりしました。画像の広告にある光太郎デッサン「裸婦」複製などもその一環です。

再び北川先生の玉稿から。

 その間にも感じたことは、このやさしく、声高に語らぬ人が、強情我慢な一面もあり、ことに自分の美意識や語感にかけてはゆずらないこと。ふと作家論などを始めると、思いもかけず熱っぽい、頑強な評論家に豹変すること。「五万円もあれば暮らせますよ」という何気ない文治さんの言葉にも、この人は決して、商売の出版屋にはなれないだろうな、と思いながら、いささか古めかしいけれど、われら同世代には通じるに違いないこの人の、「志」を僕は感じはじめていた。そしてその文治さんの「志」をつつむ文治さんの家の、奥さんや息子さんのなんとも言えぬ温かさも。


雑誌としては、『蝉』、『近代詩研究―詩と音楽―』といったあたりに、北川先生の玉稿が載りました。『高村光太郎資料』を補う、光太郎の評伝「高村光太郎伝試稿」。こちらは掲載誌や形態を変えつつ、現在は高村光太郎研究会さん発行の雑誌『高村光太郎研究』誌上で続いています。

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 『資料』の最後の巻がまだ出来上がらない頃、文治さんは文治堂のPR誌を作るという。僕は長い間地面の中でいのちを養い、或る日与えられた短い時を力いっぱい歌いあげる『蝉』という名を提案し、それは文治さんに採用された。第一号が陽の目を見たのは、ちょうど鳴きしきる蝉の季節、昭和五十年七月のことだったけれど、出来上がったのは、とうていPRになろうとも思えぬ、薄いけれども硬玉のような、読み応えのある文芸誌だった。

その中で、渡辺氏は「谷川清二」の筆名で、私小説風の一篇を発表し、出版者と小説家の二足のわらじの活動が始まりました。

 文治さんは相変わらず、惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出したが、清二さんの小説も次々に生まれた。それは読む者をよろこばせ、或いはさまざまな感慨に誘った。はじめの頃の軽妙に人間の機微を描いた作品は、それぞれのやり方で僕等が歩いて来た、戦中戦後の重い人生への反芻にひろがり、今を覆い、一転して古代に託した力強い人間説話ともなった。

平成のはじめ頃には引退され、現社主の勝畑耕一氏に引き継がれたようで、おそらく引用した北川先生の玉稿は、引退記念のはなむけなのではと思われます。

勝畑氏に委譲された同社、その後も「惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出」すというコンセプトは受け継がれ、光太郎や周辺人物に関するさまざまな良書が刊行されています。また、「とうていPRになろうとも思えぬ、薄いけれども硬玉のような、読み応えのある」PR誌も、昨年、『トンボ』として復活。書かせてくれと言った覚えは全くないのですが(笑)、当方も半ば強引に執筆陣に加えられ、さらに来月発行の次号からは、連載も始まります。

その渡辺氏の訃報。気骨と良心のある出版者がまた一人、旅立たれました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

ちよこまかとして戦ひ獲るのが如何に君の周囲の流行でも、 私はもう一度古風に繰返さう。 ――正しい原因に生きる事、 それのみが浄い。――

詩「或る親しき友の親しき言葉に答ふ」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎詩には珍しく、他の詩に書かれた詩句を引用しています。すなわち終末の「正しい原因に生きる事、 それのみが浄い。」が、大正15年(1926)に書かれた「火星が出てゐる」からの転用です。

故・渡辺氏などもそういった考えから、「周囲の流行」に背を向け、数々の良書を世に送り出していたのでしょう。

虎の威を借る狐よろしく、「官邸の最高レベルが言っている」などと圧力をかけたり、「忖度」を駆使したりして、国有地や学部新設の権利などを、「ちよこまかとして戦ひ獲る」輩、それを許したり、斡旋したりしている輩に贈りたい言葉ですね(笑)。

4月2日の第61回連翹忌の前後、新聞各紙に光太郎の名が載った記事をご紹介します(花巻連翹忌の報道を除きます)。 

まず、3月30日の『毎日新聞』さん。東京版の夕刊です。

書の世界 吹筆会展 個性と品格に宿る力 

 吹筆会展(4月2日まで、東京・銀座の鳩居堂画廊4階)は、「現代の書」への意識的な取り組みが、大変参考になるように思われる。  
 「書は可読性と芸術性のせめぎ合いから生まれるのではないか」と主宰の福地桂玉さん。読みにくい字は論外、かといって個性のない活字のような字を書いても書展会場では立ち止まって感動してはもらえない、というわけだ。その解決策の一つとして、福地さんは独特の書き方を長年にわたり続けている。とりわけ、カタカナへの対応は考えさせられる。
 さらに、紙の大小を問わず、自らの心に響いた言葉を、かなり長い分量、書き続けている。
 今回も「美 イッタン此世ニアラワレタ以上、美ハ決シテホロビナイ……」(高村光太郎)=写真[1]、部分▽「目を開けてつくづく見れば薔薇の木に薔薇が真紅に咲いてけるかも」(北原白秋)などに取り組んだ。
 品格を考慮し、自ら引き付けられた言葉を書き連ねるのは、やはり楽しい行為となるに違いない。だから書に不思議な力が宿っているのだろう。
 指導者の揺るぎない精神は会員にも伝わっている。矢部恵子さん「おんひらひら蝶も金比羅参りかな」=同[2]=や、柳下明雪さん「あさひさす いなだのはての しろかべに……」など、個性的な表現がとても興味深い。
 一方、第33回書道日本社選抜展(4月2日まで、東京銀座画廊・美術館)は、詩文書の作品が多く、会の朗らかな性格も反映して、明るい雰囲気に満ちている。
 石飛博光さん「千里同風」=同[3]▽黒田玄夏さん「鶯の谷より出ずる……」=同[4]▽室井玄聳さん「戯」などベテラン勢が、さすがに骨力のある線を引いている。
 友野浅峰さん「かげろふのゆらりゆらりと……」▽
田中豪元さん「貧想力 不器用を友として前衛ごころを楽しみ……」▽赤沢寧生さん「華厳の滝……湖に向かう白い炎……」などの、言葉の選び方と表現の一工夫も楽しい。【桐山正寿】


福地桂玉氏の主宰する書道教室、吹筆会さんの展覧会評で、福地氏の書かれた光太郎の短文「美」が取り上げられています。

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原文は普通に漢字平仮名混じりなのですが、あえて平仮名を片仮名に。そこが氏のこだわりらしいのですが。


続いて、3月31日の『朝日新聞』さん。「漱石を演じて」という総題で、俳優のイッセー尾形さんと長谷川博己さんが寄稿なさっています。そのうち、NHKさんで昨年放映された「夏目漱石の妻」というドラマで漱石に扮した長谷川さんの「深い苦悩にこそ本質」という稿に光太郎の名が。

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長いので全文は引用しません。007

光太郎については、最後に「いまやってみたいのは『智恵子抄』の高村光太郎。ぼく自身、もっといろんな人生を演じたい。」とあります。

画像、マーカーで線が引いてありますが、先日の第61回連翹忌の際に、一年分の新資料として書籍やパンフレット、チラシ、そしてこの手の新聞記事などを展示しまして、その関係です。

平成21年(2009)に、「妄想姉妹~文学という名のもとに」という深夜ドラマが日本テレビ系列で放映されました。吉瀬美智子さん、紺野まひるさん、岩井堂聖子さん(当時の芸名は高橋真唯さん)の三姉妹がヒロイン。全11回で、各回、一つの近代日本文学作品をモチーフとし、第5話が「智恵子抄」。智恵子役を紺野まひるさん、光太郎役を高橋洋さんが演じられました。長谷川さんは第9話「にごりえ」にご出演。その際のヒロインも紺野さんでした。

長谷川さんの光太郎役、ぜひ見てみたいものです。智恵子役はどなたがいいでしょうか。考えると楽しいものです。


同じ『朝日新聞』さんで、4月1日の夕刊。今年2月になくなった、元埼玉県東松山市教育長で、光太郎と交流のあった田口弘氏の追悼記事です。

歩くことは人生、教育者の信念 日本スリーデーマーチを育てた田口弘さん

2月9日死去(多臓器不全) 94歳

 今年で40回を迎える日本スリーデーマーチ。埼玉県東松山市を主会場に開かれ、毎回10万人前後が参加する国内最大のウォーキングの祭典だ。草創期の1981年から実行委員長を12回務め、オランダのフォーデーズマーチに次ぐ世界的な大会ログイン前の続きに育てた。
 海軍所属の日本語教員として終戦をインドネシアで迎えた。任地へ向かう途中のフィリピン沖で、米軍機の爆撃によって輸送船が沈み、漂流した。ともに日本を発った300人のうち、陸にたどりついたのは30人ほど。「生かされている」との思いで教師の仕事、そして生徒と向き合った。
 約17年間務めた市教育長のとき、市内の小中学校の一斉遠足として児童・生徒をマーチに全員参加させた。「そんな価値はあるのか」との声に、「これほどの教育の場はほかにない」と押し通した。
 詩人で彫刻家の高村光太郎と戦時中から親交があった。3年前にマーチの取材で訪ねたときのこと。高村が疎開先の岩手で中学生に贈った言葉を教わった。「心はいつでもあたらしく、毎日何かしらを発見する」。2月の葬送式でも、高村自筆の「ロマ書(新約聖書)」の一節が掲げられた。
 「一歩一歩の単調な繰り返しでも、胸を張って感性を研ぎ澄ませば、次々と見えてくるものがある。人生そのものだと思うのです」。ウォーキングの魅力、思いを語った。歩くことに文化的な価値を見いだし、実践した人だった。(高橋町彰)

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そして、一昨日には詩人の大岡信氏の訃報。昭和54年(1979)から平成19年(2007)にかけ、一面に大岡氏のコラム「折々のうた」が連載されていた『朝日新聞』さんでは、かなり大きく取り上げていました。

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「折々のうた」の記念すべき第一回が、光太郎の短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)。そのあたりにも触れられていました。

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その他にも、光太郎について触れた評論などが多数あり、それぞれ示唆に富むものでした。

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当方、昨年には企画展「谷川俊太郎展 ・本当の事を云おうか・」拝観のため、静岡三島の大岡信ことば館さんにお邪魔したこともあり、感慨深いものがあります。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

こんな春の夜明を歩いてゐると、 死んで草になるのが何でいけない。

詩「あけぼの」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

光太郎、誰かの通夜の帰りに作った詩だそうです。

勝手な想像ですが、田口氏も、大岡氏も、こんなことを思っていたかも知れません。そう思いたいものです。

今月9日に亡くなった、元埼玉県東松山市教育長にして、生前の光太郎と交流のあった田口弘氏の追悼ページが、同市のホームページ上にアップされました。


全国的に見ても非常に異例のことだと思いますが、それだけに氏の功績や人徳の大きさが偲ばれます。多年にわたり教育長を務められた他、東武東上線高坂駅から伸びる「彫刻プロムナード」(光太郎胸像を含む高田博厚作品群が設置)の整備、同市を会場とした「日本スリーデーマーチ」開催・運営への尽力、そして昨年の光太郎関連資料の寄贈などなど……。

動画投稿サイトYouTube上には、昨夏撮影された氏へのインタビューがアップされ、上記のページにも貼り付けられています。こちらでも転用させていただきます。


光太郎の日記は、明治末のもの、昭和20年(1945)に花巻に疎開した後のものを除くと、戦前・戦時中のものは空襲で灰になってしまいました。したがって、その出会いの頃の日記は残っていません。戦後のものも、昭和24年(1949)、25年(1950)の大半は失われています。

花巻郊外太田村の山小屋で書かれ、残っている戦後の日記に氏の名が初めて出て来るのが、昭和22年(1947)8月23日。上の動画で3分33秒頃からのエピソードです。

午後少し横になる。田口弘氏来訪に起される。木村知常氏の教子。フイリツピン ジヤヷの話等。「ジヤヷ詩抄」肉筆、余に献してくれる。乳かんづめ、急須、湯呑等もらふ。林檎御馳走する。三時半辞去、西鉛を教へる。明日詩碑へ詣る由。

「詩碑」はおそらく花巻町の光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治詩碑と思われます。


それから翌年2月9日。

<田口弘さんより去年八月もらつた乳カンをあける>

おそらく練乳でしょう。


続いて昭和26年(1951)12月22日。

選集第三回分を尾崎喜八、宮崎稔氏、田口弘氏宛の小包をつくる、

さらに「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後の、同28年(1953)2月16日。

藤島氏に田口弘氏宛小包托、

「選集」は中央公論社から全六巻で刊行された『高村光太郎選集』。田口氏が作っていた光太郎のスクラップ帳も参考に草野心平が編集にあたりました。動画では9分45秒頃からその話が出ています。

その他、『高村光太郎全集』およびその補遺である当方編集の「光太郎遺珠」(雑誌『高村光太郎研究』連載)に、光太郎から田口氏宛の書簡が計10通。それら全て(小包の包装紙まで保存されていました)、昨年、東松山市に寄贈され、公開されています。

改めて氏の追悼展的に展示されることを期待します。


【折々のことば・光太郎】

敷居の前にぬぎすてた下駄が三足。 その中に赤い鼻緒の 買ひ立ての小さい豆下駄が一足 きちんと大事相に揃へてある。 それへ冬の朝日が暖かさうにあたつてゐる。
詩「下駄」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

止まった市電の窓から見えた煎餅屋の店先の様子です。そのものを描かなくとも、おかっぱ頭の小さな女の子の姿が目に浮かび、見事です。

短いフレーズを切り取ることが出来ず、このコーナーでは割愛しましたが、この時期、「小娘」「丸善工場の女工達」「米久の晩餐」など、市井に生きる無名の人々に対する暖かな眼差しが感じられる詩が多く作られました。

今朝の新聞各紙に漫画家の谷口ジロー氏の訃報が出ました。

『朝日新聞』さんから。

漫画家の谷口ジローさん死去 「孤独のグルメ」

 「『坊っちゃん』の時代」や「孤001独のグルメ」などで知られる漫画家の谷口ジロー(たにぐち・じろー、本名谷口治郎〈たにぐち・じろう〉)さんが11日、多臓器不全で死去した。69歳だった。葬儀は家族だけで行う。
 鳥取市出身。19歳で上京し、漫画家のアシスタントを経てデビュー。92年に「犬を飼う」で小学館漫画賞、98年に作家の関川夏央さんと手がけた「『坊っちゃん』の時代」で手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。久住昌之さん原作の「孤独のグルメ」は、雑貨輸入商を営む男性が1人で食事を満喫する自由を描いて人気となり、テレビドラマ化された。
 海外でも評価され、11年に仏芸術文化勲章「シュバリエ」を受けた。
 「孤独のグルメ」の主人公を演じた俳優の松重豊さんはブログで、「原作のようにハンサムじゃなかったけれど、先生の作品に出られて光栄でした。心よりご冥福をお祈りいたします」とのコメントを出した。


代表作の一つ、「『坊ちゃん』の時代」は、全5部にわたる大作で、昭和62年(1987)から平成8年(1996)にかけ、双葉社さんの『漫画アクション』に連載されました。作家の関川夏央氏の原作、谷口氏の作画です。明治の文学者たち一人ずつを各部の主人公に据え、彼らを取り巻く人間群像を描いています。

ラインナップは以下の通り。 第1部が「「坊っちゃん」の時代」、主人公は夏目漱石。第2部に「秋の舞姫」で同じく森鷗外。第3部は「かの蒼空に」を石川啄木。第4部「明治流星雨」、これのみ文学者ではなく、幸徳秋水が主人公です。そして第5部の「不機嫌亭漱石」で再び夏目漱石。明治43年(1910)の「修善寺の大患」を以て、物語は完結。ほぼ明治後半を舞台としています。各部とも「凛冽たり近代 なお生彩あり明治人」をサブタイトルとしています。昨今の「文豪」ブームの火付け役とも言えるでしょう。これをNHKさんの大河ドラマの原作に、と推す声も根強くあり、当方も同感いたしております。

さて、以前にもご紹介しましたが、啄木を主人公とした第3部「かの蒼空に」には、智恵子が登場します。

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明治42年(1909)、市電の中で、啄木が平塚らいてうと智恵子に偶然出くわし、らいてうに向かって無遠慮に、前年、漱石門下の森田草平と起こした心中未遂について尋ねるというくだりです。失礼な啄木に智恵子の平手打ちが炸裂します。

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あくまでフィクションですが、あり得る話です。

さらに同じ第3部では、光太郎が海外留学から帰国する直前の「パンの会」が描かれ、出席者たちが光太郎の噂話をしています。

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光太郎智恵子のエピソードはこれだけですが、綺羅星の如き2人の周辺人物があまた登場、虚実織り交ぜて明治の人間ドラマが描かれます。関川氏の原作もさることながら、谷口氏の緻密かつ圧倒的な画力が光り、第1部刊行当時には、「漫画もここまできたか」と感心させられました。

第5部完結後、それで終わるのは非常に残念に感じ、「明治」を引きずり続けた「明治人」ということで、光太郎を主人公にした第6部を作ってくれないかな、などと思っていました。ある意味、関川氏は雑誌『婦人画報』さんに連載され、NHK出版さんから単行本化された「「一九〇五年」の彼ら」で、「『坊っちゃん』の時代」の補遺的に光太郎らを描いて下さいました。それを元に谷口氏の作画で新作を、と期待していましたが、それも叶わず谷口氏のご逝去……。

非常に残念ですが、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

歩いても、歩いても 惜しげもない大地 ふとつぱらの大地  歩いても、歩いても 天然は透明 しんそこわだかまるものもない

詩「歩いても」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

大正5年(1916)といえば、漱石が歿した年です。同元年(1912)には、文展(文部省美術展覧会)への評を巡って、光太郎が漱石に喧嘩を売るような文章を発表しています。結局、「大人」だった漱石が黙殺する形で終わっていますが、その後、智恵子との結婚を経て、心の平安を得ていた光太郎も、もはや漱石には「しんそこわだかまるものもない」と感じていたのではないかと思われます。

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