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いわき市立草野心平記念文学館名誉館長の粟津則雄氏が亡くなりました。

『いわき民報』さん。

粟津則雄さん死去 ランボー研究の第一人者 草野心平記念文学館の初代館長も

000 フランスの詩人ランボーの研究などで知られる文芸評論家・仏文学者で、市立草野心平記念文学館の初代館長を務め、その後も名誉館長として事業運営の相談を受けるなど、小川出身の詩人草野心平を通じ、いわき市の文化発展に多大な功績を残してきた、粟津則雄(あわづ・のりお)さんが、心筋梗塞のため東京都練馬区の施設で19日に死去した。
 96歳。葬儀は近親者などで行い、喪主は弟庸雄(つねお)さんが務めた。粟津さんの著作集を刊行している、思潮社(本社・東京都)が後日、しのぶ会を催す予定。
 1927(昭和2)年8月15日、現在の愛知県西尾市生まれ。東京大文学部フランス文学科を卒業後、学習院大で講師を務める傍ら、57年6月の総合芸術誌「ユリイカ」に評論「ボードレールの近代性」を寄稿して注目を集めた。
 1960年刊行のフランス文学全集第12巻(東西五月社版)では、ランボーの「地獄の一季節」そのほかを初めて訳した。ランボーの翻訳と研究の第一人者として名をはせ、長篇評論の第1巻「少年ランボオ」(思潮社)、「ランボオ全詩」(同)など多くの著書を残した。
 また1970年に第8回藤村記念歴程賞、82年に「正岡子規」(朝日新聞社)で第14回亀井勝一郎賞を受賞。1993(平成5)年には紫綬褒章を受章し、2010年、83歳で刊行した「粟津則雄著作集」(第1次全7巻)は第1回鮎川信夫賞特別賞を受賞した。
 市立草野心平記念文学館が開館した1998年7月から館長を務め、2019年4月に名誉館長に就任。同館によると、同館に最後に来館したのは、同年11月3日の記念講演会「草野心平と粟津則雄」だった。

草野心平記念文学館さんの初代館長を務められていた平成15年(2003)、同館で「高村光太郎・智恵子展」を開催して下さいました。
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その際の図録には館長としてのご挨拶の他、「光太郎と心平」と題する論考をご発表。

他にも光太郎がらみの玉稿が複数おありでした。

現在も版を重ねている集英社文庫『レモン哀歌 高村光太郎詩集』(平成3年=1991)巻末の「解説――剛直な明治人」。
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他に、雑誌の光太郎特集号等で。

『国文學 解釈と教材の研究』第18巻第14号(學燈社 昭和48年=1973)で「特集 詩的近代の成立 萩原朔太郎と高村光太郎」を組んだ際に、「近代芸術家意識-高村光太郎と萩原朔太郎」をご寄稿。

『みづゑ』第856号(美術出版社 昭和51年=1976)の「没後20年記念 高村光太郎 その芸術+智恵子の紙絵」という特集では「高村光太郎の矛盾と超克:ある近代日本精神の道程」。
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『歴程』第282号(歴程社 昭和57年=1982)の「特集 高村光太郎生誕百年」には「「道程」寸感」。

いずれも光太郎へのリスペクト溢れるものでした。

それから間接的な関わりですが、詩人の宮静枝が昭和27年(1952)に花巻郊外旧太田村の光太郎を訪問した際の体験をまとめた『詩集 山荘 光太郎残影』(平成4年=1992)が、その年の第33回晩翠賞に選ばれた際、選考委員のお一人が粟津氏でした。
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翌年刊行された『詩集 山荘 117人の感想録』には、宗左近、吉野弘と選考委員三人の連名で出された「選評」が掲載されています。

他にも、氏のご著作の中で光太郎に言及されているものもいくつか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「光太郎詩集」は鎌倉書房から五冊届きました。一冊署名して別封小包でお送りしました。誤植は十三個所ありました。印税を果してよこすかどうかと思つてゐます。知らない本屋はあてになりません。

昭和22年(1947)7月12日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

鎌倉書房版『高村光太郎詩集』は、戦前戦後通じて初の光太郎選詩集として、草野心平の編集で刊行されました。

豪放な一面のあった心平は、細かいことにはあまりこだわらない部分があり、心平編集の光太郎関連には誤植が目立ちました。光太郎没後の昭和37年(1962)に刊行された光太郎詩集『猛獣篇』は、心平が鉄筆を執り、ガリ版で刷られたものですが、こちらでも誤字が散見されます。心平のことなので「印税を果してよこすかどうか」と光太郎も半ばあきらめていました。

亡くなった粟津氏、心平とは深いご交流がおありで、そのため心平記念文学館初代館長に就任されたわけですが、令和元年(2019)から翌年にかけ、同館ではお二人の交流に的を絞った「草野心平と粟津則雄」という企画展まで開催されました。
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当方、粟津氏から直接伺った話で最も印象に残っているのは、こちらの図録でも触れられていますが、心平からの電話のエピソード。ある日の真夜中に突然心平から粟津氏に電話があり、寝ぼけまなこの粟津氏が電話口に出ると「粟津君、ゴーギャンの赤って、あれ、哀しみの色だね」。氏が「そうですね」と答えると、心平は満足そうに笑って、それでガチャン(笑)。こんな心平とのつきあい、さぞ大変だったのではないかと推察いたしました。

しかし、それを補って余りある「優しさ」的なものを心平から受けられました。氏が飼われていたコリーの「権太」が死ぬと、心平はすぐさま詩「権太」を書いたというエピソードも印象的です。

昨日から信州安曇野に来ております。碌山美術館さんでのイベントで、昨日はNHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されているマルチアーティスト・井上涼氏のトークセッション「表現とアイデンティティ☆」を拝聴、今日は光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛を偲ぶ「第114回碌山忌」に列席させていただきます。
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普段ですとこういう場合には画像を2~3枚載せて「詳しくは帰りましてからレポートいたします」で終わるのですが、このブログサイトで紹介すべき事項が山積しており、全くの別件をご紹介しておきます。歌手・俳優の佐川満男さんの訃報です。

『デイリースポーツ』さん。

歌手・俳優の佐川満男さん死去 84歳 胆のう炎 3月から入院し容体急変 出演映画の公開初日待ち発表

001 NHK連続テレビ小説「おちょやん」「カムカムエヴリバディ」などに出演した、歌手で俳優の佐川満男さんが、12日に胆のう炎のため84歳で死去していたことが20日、分かった。所属事務所がデイリースポーツの取材に対して認めた。葬儀は近親者で営んだという。
 事務所によると、佐川さんは昨年、現在公開中の映画「あまろっく」の撮影中にも体調不良を訴えており、今年3月から入院。容体が急変し、12日に死去した。映画は19日に公開初日を迎えたが、影響を考えて共演者にも訃報は伝えられず、初日終了を待ってこの日の発表となったという。
 佐川さんは神戸市出身で、1960年に「佐川ミツオ」名義でシングル「二人の並木径」を発売し歌手デビュー。68年には本名の佐川満男名義で発売した「今は幸せかい」が大ヒットを記録し、同曲などでNHK紅白歌合戦に4回出場した。
 俳優としても渋い演技で存在感を示し、NHK連続テレビ小説には94年の「ぴあの」を皮切りに「おちょやん」「カムカムエヴリバディ」など10作品に出演した。私生活では71年に歌手・伊東ゆかりと結婚し、一女(歌手・宙美)をもうけたが。75年に離婚。2003年には胃がんの摘出手術を行い、18年にも脊柱管狭窄症の手術を行うなど、病に悩まされていた。

『スポニチ』さん。

歌手で俳優の佐川満男さん死去、84歳 公開中の出演映画も哀悼「これを最後の仕事に」先行上映初日に…

000 「今は幸せかい」で知られる歌手で俳優の佐川満男(さがわ・みつお)さんが12日、胆のう炎のため死去した。84歳。神戸市出身。
 1939年(昭14)11月9日、神戸市生まれ。1960年に「二人の並木径」で歌手デビュー。デビュー当初は「佐川ミツオ」という名義を使用していた。ヒット曲に「無情の夢」「ゴンドラの唄」「背広姿の渡り鳥」などがあり、NHK紅白歌合戦に4度出場した。俳優としても「水戸黄門」やNHK連続テレビ小説「わろてんか」「べっぴんさん」「マッサン」「おちょやん」「カムカムエヴリバディ」などに出演し、今月12日に先行上映、19日に全国公開された「あまろっく」にも出演していた。
 私生活では1971年に同歌手の伊東ゆかりと結婚。一人娘(歌手の宙美)を授かったが、1975年5月に離婚した。
 現在公開中の映画「あまろっく」の公式X(旧ツイッター)が更新され「映画『あまろっく』にご出演頂いた歌手で俳優の佐川満男さんが、ご逝去されました。近松竜太郎(笑福亭鶴瓶)が営む鉄工所のベテラン職人・高橋鉄蔵役を演じて頂きました。和気あいあいと撮影を楽しんで、現場を和ませて頂いた佐川さん、キャスト・スタッフ一同、謹んでご冥福をお祈りします」と追悼した。
 同映画の中村和宏監督は、同Xに「佐川満男さんが、4月12日にこの世を去られました。奇しくも先行上映初日でした。今回、佐川さんにこの映画のオファーをした際、初めはご自身の高齢を理由に謙虚にお断りされましたが、最終的には“これを最後の仕事にする”という決意を示してくださいました」と同作品に懸ける佐川さんの思いを明かした。
 続けて「佐川さんの献身と情熱は、撮影中も変わることがなく、彼のプロフェッショナリズムと温かな人柄は、キャスト、スタッフ全員にとって大きな支えとなりました。佐川さんが遺された作品(映像 音楽 絵画)を通じて、彼の芸術に対する愛と情熱をこれからも多くの人々に伝え続けていくことが、私たちの使命だと信じています。映画『あまろっく』の公開が、佐川さんへの最もふさわしい追悼となるよう、心より願っております。皆さまには、彼の遺作を心ゆくまでお楽しみいただければ幸いです」と旅立った佐川さんに思いをはせ、ファンにメッセージを記した。

佐川さん、「佐川ミツオ」の名でロカビリー系歌手として活動されていた昭和39年(1964)、下記のシングルEPをリリースされました。
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A面の「歩け歩け」が、タイトルが変更されているものの、光太郎作詞・飯田信夫作曲の戦時歌謡「歩くうた」です。
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おそらく売れ行きは良くなかったようで、ウィキペディアの佐川さんの項を見ても記述がありません。

訃報を受けて久しぶりに聴いてみました。故・寺岡真三氏による編曲が粋でした。全体的にジャズ調にアレンジされ、前奏や間奏に口笛が入ったりも。

ちなみに原曲の「歩くうた」は、佐川さんも出演なさったNHKさんの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」でも使われました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

つい先日、光太郎第二の故郷花巻ご在住で、少年時代に光太郎と深く交流された浅沼隆氏の訃報を伝えたばかりですが、またお一人、生前の光太郎と深く交流のあった方が花巻で亡くなりました。

宮沢潤子さん――宮沢賢治実弟の故・宮沢清六氏の次女で、賢治から見れば令姪にあたられます。ただ、昭和12年(1937)のお生まれだったとのことで、昭和8年(1933)に歿した賢治には会われていません。

しかし、光太郎とは一時期、同じ屋根の下で生活されていました。昭和20年(1945)4月、本郷区駒込林町のアトリエ兼住居を空襲で失った光太郎は、翌月、賢治の父・政次郎や清六氏らの誘いで、花巻の宮沢家に疎開しました。その際に潤子さんも居住されていたわけです。そこで光太郎のこの年の日記には潤子さんの名も現れます。光太郎滞在中に潤子さんが痲疹(はしか)に罹患され、光太郎が心配していたことが記されています。

それから終戦後、秋になって光太郎が郊外旧太田村に移住すると、光太郎の山小屋を訪ねたこともおありでした。

また、光太郎から潤子さん宛の書簡も遺されています。昭和23年(1948)8月19日付けで、文面は以下の通り。

おみまひのおたよりをいただいてありがたく思ひました。畑で虫にくはれたのがもとらしく鼻の下のまんなかに面疔がでてき困りましたがよい薬を手に入れてつづけてのんでゐるのでもう九分通り退治しました。このはれものは中々すごい勢のものです。もう安心ですからおぢいさまはじめ皆様によろしくお伝へください。

「面疔」は黄色ブドウ球菌などによる炎症で、化膿を伴う大きな腫れ物。8月15日に清六氏に宛てた書簡に面疔になったと書いたところ、数え12歳の潤子さんから御見舞の書簡が届き、それへの返信です。「おぢいさま」は賢治や清六氏の父・政次郎ですね。

さらに潤子さん、「花巻賢治子供の会」のメンバーでした。同会は賢治の教え子の一人、故・照井謹二郎氏、登久子氏ご夫妻が立ち上げた児童劇団で、主に賢治の童話を劇化して上演していました。
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その第一回公演は昭和22年(1947)。光太郎の山小屋の前でした。もともとは光太郎の無聊を慰問する目的もありました。その後、光太郎のアドバイスで本格的に公演をするようになりましたが、年に一度は山小屋近くの山口分教場(のち小学校に昇格)でも公演を行い、光太郎に見てもらっていました。

当方、潤子さんにお会いしたことはおそらく無いのですが、子息で林風舎代表取締役の和樹氏とは昨年、ともに花巻で行われた、公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」、トークリレー「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」などでご一緒させていただいております。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

十五日の日には潤子さん共々路のわるいところを遠くおいで下されどんなに喜んだか知れません その上いろいろいたゞき唯恐縮の外ございません。


昭和22年(1947)6月19日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳

この項、現在は光太郎書簡からほぼ年月日順に「これは」と思う記述を拾っていますが、ちょうど紹介しようと思っていた頃の書簡に潤子さんの名があったので驚きました。

6月15日は日曜日で、「賢治子供の会」の第一回公演の日でした。この日の日記のうち、関連する記述は以下の通り。

十時頃、花巻の子供賢治の会の連中(二十人余)来る。照井氏と同夫人とが引率。宮沢さん夫人も同道、ジユン子さんもゐる。ケイ子さんもゐる。ジユン子さんに水飴をもらふ。宮沢夫人よりみそをもらふ。(略)小屋前で一同田植え連中に向つて唱歌をうたふ。ひる学校にて弁当を宮沢夫人にもらふ。劇、唱歌、朗読等あり。村の少年も集る。二時頃すむ。三時半頃余もかへる。

またお一人、生前の光太郎をご存じの方がお亡くなりになりました。

浅沼隆さん。

光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村のご出身で、その当時は小学生。お父さまが分教場から昇格した山口小学校の校長先生だった関係もあり、小学校までしか届けてくれない光太郎宛の郵便物を光太郎の山小屋に届けられたこともしばしばでした。光太郎もそんな浅沼さんを随分とかわいがってくれたそうです。
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こちらは比較的有名な写真ですが、昭和24年(1949)、山口小学校の学芸会に現れたサンタクロース(光太郎)と小学校の児童たち。右手後方の窓から顔を出してこちらを見ているのが浅沼さんです。

光太郎歿後はその語り部として、ご活動くださいました。花巻高村光太郎記念会さんの理事も務められました。
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平成25年(2013)、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。

令和2年(2020)、花巻周辺で発行されているタウン誌的な『シニアズ』
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かつて旧太田村で毎年5月15日に開催されていた高村祭では、運営の中心的な役割を務められ、平成30年(2018)の第61回では、当方が司会を務め、浅沼さんはじめ4名の光太郎を直接知る方々にお話を伺うトークイベントも行いました。昨年、同様の企画を花巻の宮沢賢治イーハトーブセンターさんで行い、それが浅沼さんとお会いした最後となりました……。

花巻以外でも、当会主催の連翹忌、二本松でかつて行われていた智恵子を偲ぶレモン忌、同じく二本松での野村朗氏作曲「歌曲集智恵子抄」コンサート(二本松と言えば、二本松の皆さんをおもてなしなさったことも)、仙台で行われたテルミン奏者の大西ようこさんと朗読の荒井真澄さんのコラボ公演、さらには十和田湖でお会いしたこともありました。

かつて花巻高村光太郎記念館さんで無料配付されていたリーフレット。「せいいち」はやはり冒頭のサンタの写真に写っている高橋征一さん。一昨年、亡くなりました。
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こんなエピソードを元に、当方、平成27年(2015)に十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんが刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』中のジュブナイル「乙女の像ものがたり」で、光太郎を慕う太田村の少年「隆くん」を登場させました。言わずもがなですが、幼い日の浅沼さんがモデルです。
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思い出は尽きません……。

ご葬儀は4月6日(土)11:00~ 〒025-0089 花巻市岩手県花巻市豊沢町8-8 花巻葬祭センターさんで執り行われるとのことです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

山でも急に春になり、雪がとけ、草が芽を出し、畑仕事が忙しくなりました。今月中にいろいろ種子まきや植込みをするので今畝つくりです。畑をやつてゐると汗みづくです。


昭和22年(1947)4月20日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

浅沼さん、光太郎への来信を山小屋に届けるだけでなく、こうした手紙を預かって郵便屋さんに渡すということもなさっていたのではないでしょうか。

俳優の寺田農さんが亡くなりました。

『朝日新聞』さんから。

俳優の寺田農さん死去 映画・ドラマで渋い脇役、「ムスカ大佐」も

 渋い脇役として映画やドラマで長く活躍した俳優の寺田農(てらだ・みのり)さんが14日、肺がんで死去した。81歳だった。所属事務所が23日、公式サイトで公表した。葬儀は近親者で営んだ。
 1942年、東京都出身。父は洋画家の寺田政明。文学座付属演劇研究所を経て、テレビドラマ「青春とはなんだ」で注目を集める。68年、岡本喜八監督の映画「肉弾」で毎日映画コンクール男優主演賞を受賞。「セーラー服と機関銃」「ラブホテル」など相米(そうまい)慎二監督や実相寺昭雄監督らの作品、NHK連続テレビ小説「澪(みお)つくし」といったテレビドラマや特撮作品「ウルトラマン」シリーズに出演。主に渋い脇役として長く活躍し、2021年には映画「信虎」で36年ぶりの主役を務めた。
 ナレーターや声優としても活動し、アニメ映画「天空の城ラピュタ」の悪役ムスカ大佐の声で知られた。
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寺田さんが光太郎詩の朗読をなさったソフトが2種類、販売されています。

まず平成6年(1994)にクレオハウスさんという会社の出したVHSビデオ「日本文学紀行 名作の風景 智恵子抄」。ナレーションも寺田さんでした。
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最近も、令和元年(2019)、株式会社トゥーヴァージンズさんから出たCD13枚組「【近代文學の泉】朗読で味わう文豪の名作」で光太郎詩35篇を担当。
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令和3年(2021)には同一音源を使った普及版として「朗読で味わう文豪の名作4(CD3枚組)太宰治・島崎藤村・高村光太郎」も発売されました。
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また、遡って昭和42年(1967)、岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演の松竹映画「智恵子抄」にもご出演。まだ若手の頃で、公式パンフ等にはクレジットがありませんでしたが、美に取り憑かれ、心を病んで自殺してしまう画学生の役でした。
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さらに昭和48年(1973)には、NHKさんの「生きて愛して」。平日午後10時から15分ずつ放映されていた「銀河テレビ小説」という帯ドラの一つで、光太郎智恵子を描いたものでした。光太郎は片岡仁左衛門さん、智恵子が大空真弓さん。寺田さんは光太郎の親友・荻原守衛の役で、全30話中の第2話から第5話にご出演なさいました。

そのご縁で、一昨年、守衛の個人美術館・碌山美術館さんでクラウドファンディングを行った際、寺田さんも応援メッセージを寄せられました。
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最初、「守衛(もりえ)」でなく「守衛(しゅえい)」の役だと勘違いなさったというエピソードには笑わせていただきました。

お父さまは智恵子も通っていた太平洋画会に所属されていた画家ということなので、美術とは浅からぬご縁がおありだったのですね。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今は何を措いても国民が気を揃へて物を生み出す事に懸命になる外ありません。何しろあの無理を押し切つての戦争のあとですから今日のやうな状態はどちらにしても必ず来るにきまつてゐた事です。相互扶助の精神こそ今日最も要求せられるものと存ぜられます。


昭和22年(1947)2月10日 鏑慎二郎宛書簡より 光太郎65歳

終戦からおよそ1年半。空襲やなどによる命の危険は去ったものの、食料をはじめとする物資不足などの国民生活の混乱はまだまだ続いていました。

作家の伊集院静氏が亡くなりました。

共同通信さん配信記事。

伊集院静さんが死去 作家、エッセー「大人の流儀」

002 「機関車先生」などの小説やエッセー「大人の流儀」シリーズで人気の作家の伊集院静(いじゅういん・しずか、本名西山忠来=にしやま・ただき)さんが24日死去した。73歳。山口県出身。告別式は近親者で行う。肝内胆管がんのため治療中だった。
 プロ野球選手を目指したが、肘を痛めて立教大の野球部を退部。卒業後は広告代理店勤務を経てフリーの演出家に。多くのテレビCMに関わり松任谷由実さん、松田聖子さんのコンサートを演出。「伊達歩」名義で近藤真彦さんの「ギンギラギンにさりげなく」「愚か者」など歌謡曲の作詞も手がけた。
 1981年に短編小説「皐月」で作家デビュー、92年に「受け月」で直木賞を受けた。「機関車先生」で柴田錬三郎賞、直木賞の選考委員も務めた。エッセーも人気で、2011年の「大人の流儀」に始まるシリーズは、ベストセラーとなった。16年紫綬褒章。
 芸能界やスポーツ界、経済界の著名人らと交友した。1984年に結婚した俳優の夏目雅子さんが翌年急死。92年に俳優の篠ひろ子さんと結婚した。

同じく時事通信さん。

伊集院静さん死去 「大人の流儀」直木賞作家、73歳

003 エッセー「大人の流儀」シリーズなどで知られる直木賞作家の伊集院静(いじゅういん・しずか、本名西山忠来=にしやま・ただき)さんが24日、死去した。
 73歳だった。葬儀は近親者で行う。10月に肝内胆管がんを公表し、治療のため執筆活動を休止していた。
 山口県防府市出身。立教大文学部を卒業後、広告代理店を経てCMディレクターとして活動した。1981年、小説「皐月(さつき)」で作家デビュー。91年に「乳房」で吉川英治文学新人賞、92年に「受け月」で直木賞、94年に「機関車先生」で柴田錬三郎賞を受賞した。「乳房」や「機関車先生」などは映画化もされた。
 自由な生きざまや文学観から「無頼派作家」とも呼ばれた。豊かな人生経験を基にした「大人の流儀」シリーズは2011年以降、コンスタントに刊行され、累計200万部を超えるベストセラーとなった。
 作詞家としても活躍し、歌手の近藤真彦さんが歌った「ギンギラギンにさりげなく」などがヒット。近藤さんの「愚か者」は87年に日本レコード大賞を受賞した。16年に紫綬褒章受章。
 私生活では、84年に俳優の夏目雅子さんと結婚したが、夏目さんは白血病で翌年死去。92年に俳優の篠ひろ子さんと再婚した。

伊集院氏、平成26年(2014)には書道に関する『文藝春秋』さんの連載、「文字に美はありや」で光太郎の書について取り上げて下さいました。

木彫「白文鳥」(昭和6年=1931)を収めるための袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌、詩「道程」(大正3年=1914)の鉛筆書きと見られる草稿が取り上げられています。また、光太郎の書論「書について」(昭和14年=1939)も紹介されています。
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その後、連載まとめてを単行本化したものが平成30年(2018)に文藝春秋さんから刊行。令和2年(2020)には文庫化も為されました。
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通常、雑誌連載の単行本化の際には加筆がなされるものですが、光太郎の章では逆に連載時の最後の一文がカットされています。曰く「智恵子への恋慕と彼の書についてはいずれ詳しく紹介したい。」それが果たされなかったようで、何とも残念です。

また、小説『イザベルに薔薇を』(ハードカバー・平成30年=2018、文庫・令和2年=2020、いずれも双葉社さん刊)では、詩「道程」(大正3年=1914)を引用して下さっています。
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ご自身の体験等踏まえられたと思われる、ギャンブラー的な破天荒な若者を主人公とした小説です。

詳しく調べれば他にもあるかもしれません。

謹んでご冥福をお祈りします。

【折々のことば・光太郎】

よほど縁があると見えて又花巻で焼かれました。八月十日ひる。花巻町に空襲あり、火災発生。町の重要部分被爆。宮沢氏邸も全焼。従つて小生も罹災。荷物半分ほど焼失を免る。目下元中学校長先生佐藤昌氏邸に避難。絶景一望の一室に起居す。


昭和20年(1945)8月19日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

その直前には広島、長崎への原爆投下もありましたし、光太郎が疎開していた岩手花巻では、終戦5日前に空襲。光太郎がかつて紀行文「三陸廻り」執筆のため訪れた女川気仙沼、宮古でも同じ日に空襲がありましたし、前日にはやはり「三陸廻り」に描かれた釜石は空襲プラス艦砲射撃で壊滅状態でした。

10日の花巻空襲の際には、光太郎と縁の深かった花巻病院長佐藤隆房らが負傷者の救護に奔走。光太郎はその敢闘をたたえ、詩「非常の時」を贈りました。

岩手から市民講座の案内です。手前味噌で恐縮ですが……。

高村光太郎生誕140周年記念事業「続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」

期 日 : 2023年11月1日(水)
会 場 : 宮沢賢治イーハトーブ館 ホール 岩手県花巻市高松1-1-1
時 間 : 14:00~16:30
料 金 : 無料
      ※ 先着200名限定、満席となり次第入場不可 整理券の発行は行いません。

花巻市太田・山口での7年間の生活について、見た事、伝え聞いた事について語り合いながら、光太郎の生き様について紐解いてみる。
第一部は太田地区の皆さんから、第二部は地域外の方々から光太郎観について伺いながら、光太郎ファンの幅広い拡大につなげる。

メインパネラー
 宮沢和樹氏 「林風舎」代表取締役 賢治実弟・宮沢清六令孫

パネラー 
 浅沼隆氏  高村光太郎記念会理事 太田の高村山荘近くに居住 花巻農学校卒
 寺沢三夫氏 花巻地方農業共済組合総代並びに総代長を歴任
 照井康徳氏 高村光太郎山口会会長 花巻農学校卒
 阿部彌之氏 「宮沢賢治」花巻市民の会元会長 「宮沢賢治学会」元副代表
 菊池節子氏 俳句結社「藍生」「樹氷」会員
 森川沙紀氏 花巻市地域おこし協力隊員

コーディネーター
 小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表

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主催は、かつて光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん。今年2月、やはり同会主催で行われた宮沢和樹氏と当方の公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」が好評だったとのことで、第二弾です。

今回は生前の光太郎をご存じの方々などにお集まりいただき、いろいろと語っていただきます。当方はコーディネーターということで、皆様からお話を引き出す役です。

今回もご登壇いただく浅沼隆氏を含め、やはり生前の光太郎の思い出を語って貰う座談会が、平成30年(2018)5月、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で当時行われていた「高村祭」の中で催されまして、司会を務めさせていただきました。
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その際にお話を伺った高橋愛子さん高橋征一さんは既に亡くなられました。

それからつい最近、今回のパネラー候補のお一人だった平賀タエさんという方が亡くなったそうです。平賀さんは、愛子さんと同級。御年91歳であらせられました。光太郎に山小屋の土地を提供した駿河重次郎の長女で、光太郎の日記にも「たえ子」として30回近く名が出て来る方でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、11月1日(水)、平日昼間ですが、ご都合の付く方、ぜひどうぞ。現在、会場の宮沢賢治イーハトーブ館さんでは賢治がらみで「ますむらひろし『銀河鉄道の夜 四次稿編』複製原画展」も開催中です。併せてどうぞ。
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また、翌日の11月2日(木)には、現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展示「光太郎と吉田幾世」の関連行事として、同館で当方ピンでの同名の講座も予定されています。というわけで、当方2日連続です(笑)。

【折々のことば・光太郎】

辻詩の集といふのは小生まだ見ませんが、へんな誤植のあつた事はほんとにお気の毒に存じます、詩の誤植は殊に閉口にて殆ど全篇を傷ける事になります、小生なども常に新聞雑誌でこの誤植になやまされて居ります。


昭和18年(1943)11月10日 上田静栄宛書簡より 光太郎61歳

007「辻詩の集」は『辻詩集』。光太郎が詩部会長となった日本文学報国会の編集で刊行されたアンソロジーで、多くの詩人の翼賛詩が集められました。なぜかこの手のアンソロジーには必ずと言っていいほど採られている光太郎の作は載っていませんが。

誤植は本当に恐ろしいと思います。

当方も最近、よくやります。上述の「光太郎と吉田幾世」講座のレジュメ、花巻市役所さんに送ったところ指摘があり、「地方」を「痴呆」としていました(笑)。「痴呆はお前だ!」とツッコミが入りそうです(笑)。

また、過日発行した『光太郎資料』60集でも、「当会」とすべきところを「倒壊」(これもなかなか笑えます)、「特異な」が「得意な」(こちらは「あるある」ですが)。これも指摘されて初めて気づいた有様で……。一応、それぞれプリントアウトして確認しているのですが、ふっと集中力の途切れた時に視線がそこを通り過ぎると、見落とすのですね。そうでなければ「痴呆」や「倒壊」はありえません。気をつけます。

「絵手紙」の創始者、小池邦夫氏が先月末に亡くなりました。今月初めには訃報が出たようですが、気づきませんでした。今朝の『朝日新聞』さん一面コラム「天声人語」に氏が亡くなったことが書かれていて知った次第です。

共同通信さん配信記事。

書家の小池邦夫さん死去 絵手紙を普及、82歳021

 手がきの素朴な絵と文字で心情を伝える絵手紙の普及に努めた書家の小池邦夫(こいけ・くにお)さんが8月31日午後3時57分、胃がんのため東京都狛江市の自宅で死去した。82歳。松山市出身。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は妻恭子(きょうこ)さん。後日、お別れの会を開く予定。
 東京学芸大書道科で学び、1985年に日本絵手紙協会を設立。「ヘタでいい、ヘタがいい」を合言葉に絵手紙の普及に励み、初心者の指導にも力を入れた。2021年に文化庁長官表彰。著書に「小池邦夫絵手紙50年」など。

小池氏故郷のテレビ愛媛さん。

絵手紙の創始者 松山出身の小池邦夫さん 胃がんのため死去 葬儀は近親者で

絵手紙の創始者で松山市出身の小池邦夫さんが、8月末に亡くなっていたことが5日までに分かりました。82歳でした。
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小池さんは8月31日に胃がんのため都内の自宅で亡くなりました。82歳でした。葬儀は近親者のみで執り行われる予定です。
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小池さんは松山市生まれで松山東高校から東京学芸大学へ進学。19歳から絵手紙を描き始め1985年に日本絵手紙協会を設立し、テレビなどによる発信で全国に文化を広げました。
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また2021年には文化の振興に貢献したとして文化庁長官表彰を、去年は松山市文化スポーツ栄誉賞を受賞していました。
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小池さんの絵手紙はその時々に感じた感動を素直に表現。思いがそのまま相手に伝わるのが特徴でした。
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日本絵手紙協会は「故人の遺志を引き継ぎ、絵手紙の普及活動に取り組む」としています。

氏が主宰されていた日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。氏が光太郎ファンだったようで、繰り返し光太郎特集を組んで下さいましたし、平成29年(2017)6月号から令和2年(2020)3月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていました。
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また、氏の編著等でも、光太郎の絵手紙をご紹介下さったりも。

『心を贈る絵手紙入門』(平成11年=1999 日本放送協会出版)。当時のNHK教育テレビで放映されていた「趣味悠々」のテキストです。
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『芸術家・文士の絵手紙』(平成16年=2004 二玄社)。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

智恵子葬儀も無事終了、明日は早や三七日となりました、明日は春子と一緒に墓参をいたします、


昭和13年(1938)10月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎57歳

智恵子実母に宛てた書簡から。「春子」は智恵子の姪にして、当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の付き添いを務めた長沼春子です。

葬儀は10月8日、駒込林町のアトリエ兼住居で執り行われました。その様子を謳った詩。約3年後、詩集『智恵子抄』刊行に際し、書き下ろされました。
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   荒涼たる帰宅

 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。

画像は最近流行りのモノクロ画像をカラー化するアプリで作ってみました。

作曲家の西村朗氏の訃報が出ました。

「共同通信」さん配信記事。

作曲家の西村朗さん死去 オペラ「紫苑物語」

005 オペラ「紫苑物語」など多くの作品を残した作曲家の西村朗(にしむら・あきら)さんが7日午後8時12分、右上顎がんのため東京都内の病院で死去した。69歳。大阪市生まれ。葬儀は近親者で行った。喪主は妻優子さん。
 NHK・Eテレ「N響アワー」の司会、いずみシンフォニエッタ大阪や草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルの音楽監督を務めた。東京音楽大の教授として後進の指導にも尽力した。
 1977年、エリザベート王妃国際音楽コンクール作曲部門大賞。2013年紫綬褒章。
 19年には、新国立劇場の委嘱で作曲した新作「紫苑物語」が話題を集めた。

『朝日新聞』さん。

作曲家の西村朗さん死去 現代音楽で世界的活躍、N響アワー司会も

 現代音楽の作曲家で、「N響アワー」などの司会でも広く知られた西村朗(にしむら・あきら)さんが7日、右上顎(じょうがく)がんで死去した。69歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻優子さん。
 大阪市生まれ。東京芸大で矢代秋雄、野田暉行に師事。西洋音楽の語法に立脚しつつ、音高やリズムのずれによって多層的な響きを紡ぐ「ヘテロフォニー」の手法を確立した。
 代表作にインドネシアやモンゴルなど、アジア各国の民族の感性を縦横に採り入れた「2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー」など。クロノス・カルテットなど世界的なアーティストから新作委嘱を受け、ウィーン・モデルン音楽祭などで演奏されてきた。2019年、新国立劇場で石川淳の短編を原作にした新作オペラ「紫苑(しおん)物語」が大野和士の指揮で初演され、世界的な話題を集めた。
 武満徹作曲賞など数多くの審査員を歴任した。いずみシンフォニエッタ大阪、10年から草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルの音楽監督も務めた。軽妙な語り手としても知られ、NHK教育「N響アワー」の司会を09年から12年まで務め、現在もNHKFM「現代の音楽」の解説を務めていた。
 東京音大教授。エリザベート国際音楽コンクール大賞、尾高賞など受賞多数。
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西村氏、平成20年(2008)に関西合唱団さんの依嘱で「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」を作曲、同団の第73回定期演奏会で演奏がなされました。翌年には全音さんから楽譜が出版されています。

その後、平成30年(2018)の全日本合唱コンクール第71回大会高校Bグループ(33人以上の大編成)に出場した九州地区代表・鹿児島高等学校音楽部さんが第3曲「レモン哀歌」を歌われました。同部は一昨年の第74回大会では第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」でみごと銀賞に輝きました。

YouTube上に同部の演奏がアップされています。


楽譜集巻頭の氏による「作品解説」。

 関西合唱団の委嘱により作曲。この組曲は、私としては初めて高村光太郎の詩をテキストとして作曲した合唱曲です。ここに用いた詩はいずれも有名なもので、かなり以前から読み親しんでいたものですが、最近になって急に感ずるところが強く深まったものでもあります。ようやくにして詩境に理解が近づいたということかもしれません。
 光太郎(1883~1956)の生涯は日本近代の激動期とも重なっており、伝記などが示すとおり、一人の芸術家としてはその社会的な実生活環境と個人的な内的精神生活の両面において、特異なまでに複雑困難な一生を送ったと言えるでしょう。おそらく、その魂は一生を通じて安息の時を得ることはなかったと思われます。詩集「智恵子抄」(1941)、「典型」「智恵子抄その後」(1950)などには光太郎の魂の孤独と悲哀と絶望が鋭く表現されています。これらは単なる抒情詩集ではありません。より厳しく生と死と人間存在の孤独を描いたものです。晩年、敗戦後の虚脱を経ての隠遁生活のなかで、あるいは、かつてのその清らかな心を病んで先に旅立っていった愛妻、智恵子の思い出だけが老詩人の魂を救い、一点のレモンのように純化されていったのかもしれません。
 光太郎の没後半世紀、「心の時代」と言われて久しい今日ですが、しかしながら「時代の心」は一層貧しくなっているかにも思えます。光太郎の「レモン」は私たちの魂を救ってくれるのでしょうか。
 第1曲は海辺の風光の中での夢幻的な魂の孤独。異界からの千鳥の声と智恵子の遠景。第2曲は峻険な山塊のように残酷に分断されていく二つの意識。魂の呻くような叫びの断章。そして第3曲、レモン哀歌。祈り。


「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」、歌い継がれていってほしいものです。

謹んで氏のご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

【折々のことば・光太郎】

大層あたたかくなりました、皆様おかはり無い事と存じます、小生も元気で毎日仕事してゐます、先日病院へまゐりましたが今月も智恵子に会はずにかへりました、興奮するといけないと思つて案じられます、春先になるといつも悪くなるやうに思ひます、


昭和13年(1938)3月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎56歳

かつて智恵子が千鳥と遊んでいた九十九里浜に暮らす、智恵子の母宛の書簡から。

「家族との面会は興奮状態を引き起こすので控えてほしい」的な指示が智恵子入院先のゼームス坂病院の医師からあったのは確かですが、それにしても光太郎、面会する頻度が極端に落ちました。変わり果てた智恵子の姿を見るにしのびなかったのでしょうか。九十九里で療養していた昭和9年(1934)には、ほぼ毎週、見舞いに訪れていたのですが……。

智恵子は心の病以外にそれ以前から罹患していた結核も進み、余命約半年です。

訃報を2件、亡くなった順に、ともに共同通信さんの配信記事から。

まずは僧侶にして教育評論家の無着成恭氏。

「山びこ学校」無着成恭さん死去 僧侶で教育評論家、96歳

000 中学生たちの生活記録集でベストセラーとなった「山びこ学校」の編者で、僧侶、教育評論家の無着成恭(むちゃく・せいきょう)さんが21日午前8時58分、敗血症性ショックのため死去した。96歳。山形市出身。自宅は千葉県多古町一鍬田292の福泉寺。葬儀・告別式は27日午前11時から福泉寺で。喪主は長男成融(せいゆう)氏。
 1948年に教師として赴任した山形県内の中学校で、生徒に生活の「なぜ」を考えさせる「生活つづり方運動」に取り組み、クラス文集をまとめた「山びこ学校」を51年に出版。大きな反響を呼び、映画化もされた。
 その後上京し、明星学園で教諭や教頭を務めた。64年からは、TBSラジオ「全国こども電話相談室」の回答者として長年出演。大分県国東市の泉福寺の住職も務めた。

無着氏,昭和57年(1982)に、明星学園さんの教壇に立たれていた頃の授業実践をまとめた『無着成恭の詩の授業』という書籍を刊行なさいました。
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ちなみに当方所蔵の同書、無着氏の署名本です。8章から成り、近現代の詩歌を扱った授業の実践記録で、8章のうちのひとつが「奪われた自由 高村光太郎 ぼろぼろな駝鳥」。
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中学1年生に当たる「7年生」の授業で、生徒さんたちの発言や授業後に書いた感想文が、実に的を得ています。大学などの偉いセンセイたちがノルマに追われて「紀要」等に発表する「論文」などよりも(笑)。まぁ、無着氏の巧みな誘導があってのことではありますが。
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その他、実践記録は附されていませんが、巻末の「わたしの愛唱詩抄――この六年間に授業で扱った詩・作品」という項に、「冬が来た」「道程」。

国語教育に携わる人には、ぜひ読んでいただきたい書籍です。

訃報、もう1件。

作家の森村誠一さん死去、90歳 「人間の証明」「悪魔の飽食」

001 映画化されたベストセラー小説「人間の証明」や、ノンフィクション「悪魔の飽食」などで知られる作家の森村誠一(もりむら・せいいち)さんが24日午前4時37分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。90歳。埼玉県出身。葬儀は家族葬で行う。後日お別れの会を開く予定。
 青山学院大を卒業後、大阪や東京のホテルに勤務する傍ら小説を書き、1969年に「高層の死角」で江戸川乱歩賞を受賞、本格的な作家活動に入った。73年に「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受け地歩を固めた。
 都心のホテルで起きた殺人事件を題材に人と人との絆を描いた代表作「人間の証明」(76年)が翌年映画化された。「野性の証明」(77年)も高倉健さん、薬師丸ひろ子さんの共演で大ヒット。映画と小説の相乗効果で一躍人気作家になった。「棟居刑事」シリーズ、「牛尾刑事・事件簿」シリーズなどテレビドラマ化された作品も多い。
 旧日本軍の「731部隊」を通して細菌兵器など戦争の暗部に迫ったノンフィクション「悪魔の飽食」も話題になった。

森村氏にも光太郎がらみのご著書があります。やはり昭和57年(1982)刊行の『新・人間の証明』。当方手持ちのものは昭和60年(1985)発行の角川文庫版です。
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昭和51年(1976)刊行で角川映画にもなった『人間の証明』で謎解き役だった棟居刑事が再登場、以後、「棟居刑事シリーズ」となっていく、いわば第2作です。ただし、内容が内容だけに「大人の事情」でしょう、映画化もテレビドラマ化もなされていません。

昭和56年(1981)に刊行されたノンフィクション『悪魔の飽食』を下敷きにし、旧日本軍の731部隊元隊員や家族などの関係者が次々と殺害され……という話です。

詳しいネタバレは避けますが、タクシー内で変死した(実は毒殺)最初の事件の被害者である中国人女性がレモンを持っていたという設定で、『智恵子抄』の「レモン哀歌」がらみの展開に。

やはり被害者の一人は実在の人物をモデルにしています。明治の末に智恵子が保養に訪れた福島県の原釜海岸で知り合い、その後姉弟のような文通をしていた鈴木謙二郎という当時の旧制米沢中学生です。小説では奥山謹二郎いう名ですが、原釜での智恵子とのエピソードなどはほとんどそのまま使われています。ここからは森村氏の創作で、奥山はその後、自分の娘を「智恵子」と名付けたり、物語の舞台となった1980年代には千駄木の光太郎智恵子旧居近くに一人住まいをしていたりと、初恋の相手であった智恵子の幻影を老人になっても抱き続けている、というわけです。

しかしその奥山老人は元731部隊員で、戦時中には旧満州でいろいろと……ということが明らかになり……。

『人間の証明』では、「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?」という西条八十の「ぼくの帽子」が効果的に使われていましたが(ジョー山中さんが唄った角川映画のテーマソングはその英訳で「Mama, Do you remember…」)、『新……』では「レモン哀歌」。ただしレモンは731部隊でも意外な使われ方をしていて、美しいだけのモチーフではありません。そこで、現在も版を重ねているハルキ文庫版では、表紙にメスが刺さった無気味なレモンがあしらわれています。
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さて、『無着成恭の詩の授業』、森村氏の『新・人間の証明』、それぞれ、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

目下妻の病気入院等にて寸暇無き次第です、


昭和7年(1932)7月25日 万造寺斉宛書簡より 光太郎50歳

智恵子、「病気入院」としていますが、実は睡眠薬アダリンを大量服用しての自殺未遂でした。7月15日朝に、智恵子が起きてこないことを不審に思った光太郎が発見しました。光太郎が気づくのが早かったため、一命はとりとめた智恵子ですが、この後、心の病は一進一退をくり返しつつ、しかしどんどん昂進していくことになります。

今日の朝刊を広げて「ああ……」という感じでした。

野見山暁治さん死去 戦没画学生の遺作に光、美術界を先導 102歳

 抽象性の高い伸びやかな画風で戦後の美術界を先導し、戦没画学生の遺作に光を当てたことでも知られる文化勲章受章者の画家、野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)さんが22日、心不全のため福岡市の病院で死去した。102歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、東京と福岡でお別れの会を開く予定。
 福岡県の炭鉱地帯、嘉穂郡穂波村(現飯塚市)で生まれた。1943年に東京美術学校(現東京芸術大)油画科を繰り上げ卒業し、中国東北部へ出征。病気で内地送還され、終戦を迎えた。
 戦後、自由美術家協会に参加(64年退会)。52年に渡仏し、64年までパリなどで制作した。58年に「岩上の人」で具象画家の登竜門だった第2回安井賞を受賞。渡仏中に水墨画など東洋の美への関心をもち、風景などをもとに、色と形が溶け合うような抽象性の高い画風へと変化した。
 帰国後、自宅のある東京のほか、福岡の海沿いにアトリエをもち、空や海、風など、うつろう自然と向き合って制作を続けた。東京国立近代美術館など、各地の美術館で大規模個展が何度も開かれた。
 戦争体験から、戦没画学生の遺族を回って遺作を集めた画集「祈りの画集 戦没画学生の記録」(共著)を77年に刊行。その遺作を展示する美術館「無言館」(長野県上田市)の設立に、作家の窪島誠一郎さんとともに尽力した。
 東京芸術大教授などとして多くの後進を育てた。東京芸大名誉教授。00年に文化功労者、14年に文化勲章。
 日本エッセイスト・クラブ賞の「四百字のデッサン」(78年)や自伝的エッセー「いつも今日」(05年)などを出し、名文家としても知られた。
 体調を崩し、今月8日から入院していた。

■■評伝
 飄逸(ひょういつ)かつ朗らかに語り、画風も生き生きとした筆が魅力だった。しかしそこに潜む、鈍さ、重さ。102歳の人生をまっとうした野見山暁治さんは「近代」を背負い続けた画家だった。
 日本の産業化を支えた産炭地に生まれ、「すべて人工の中」で育った。美術学校を繰り上げ卒業させられ中国の戦地に向かったものの、病のため終戦は内地で迎えた。
 戦後は故郷のボタ山を描いたこともある。その後、華やかなパリで過ごし、伸びやかなタッチを獲得し、実際の風景や写真から心象とも抽象ともいえる画風を確立した。
 絵が売れることや名声には関心がなく、教員時代は多くの学生から慕われた。「無言館」に結実する戦没画学生への思いは強く、文化勲章を受けた後も「友人は戦争で亡くなったのに後ろめたい」と語った。
 晩年まで福岡県のアトリエ近くの海に潜り、活力に満ちた筆の伸びは永遠に元気なのではと思わせるほど最晩年まで衰えを見せなかった。「生き残った」身体をフルに動かした跡であり、100歳にして、絵を描くことは「こんなに楽しいものか」という境地を語っていた。
 産業化で富を生む一方、戦いや多くの矛盾を抱えた近代という時代。野見山さんは、その光と影を身をもって、色と形が溶け合う表現で示した人だった。

■■野見山暁治さんの歩み
1920年 福岡県穂波村(現・飯塚市)生まれ018
 38年 東京美術学校予科入学
 43年 同校油画科を繰り上げ卒業
 48年 自由美術家協会賞
 52年 私費留学生として渡仏(64年まで)
 58年 安井賞
 72年 東京芸術大教授に
 96年 毎日芸術賞
2000年 文化功労者に
 03年 東京国立近代美術館などで個展
 14年 文化勲章
 20年 東京メトロ・青山一丁目駅にステンドグラス
(『朝日新聞』)

直接、光太郎に関わられた方ではないのですが、当方、一度お会いしてお話を伺いました。氏は早世した荻原守衛を除いてほぼ唯一、光太郎が高く評価した彫刻家・高田博厚とパリで親しくなられ、昭和32年(1957)、高田の帰国に伴い、高田が使っていたアトリエを引き継いだ方です。そのため、高田の顕彰に力を入れている埼玉県東松山市に招かれ、平成30年(2018)に作家の堀江敏幸氏と公開対談をなさいました。その際にはおん年97歳。ジーパン姿でいらっしゃり、それがよく似合っていて舌を巻かされたのもいい思い出です。
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その前年に、鎌倉の高田のアトリエ閉鎖に伴い、そちらにあった作品や遺品類等が東松山市に譲渡されることとなり、その際にも一肌脱がれています。そこで、翌年の公開対談に繋がったようです。遺品類の中には、光太郎に関わる品も含まれていました。

また、記事にある通り、長野県上田市に開設された戦没画学生の作品を集めた「無言館」さんの設立にもご協力。この件は、昨年、日本テレビさん系で放映された「24時間テレビ45スペシャルドラマ 無言館」で描かれ、興味深く拝見しました。野見山氏の役は寺尾聰さんでした。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

この間母のなくなりました時はおこころのこもつた御てがみをいただいてあの時大変に慰められました。


大正14年(1925)10月6日 室生犀星宛書簡より 光太郎43歳

前月、光太郎の母・わかが68歳で大腸カタルのため亡くなりました。髙村家(光雲は健在)では、これを機に墓所を浅草の寺院から染井霊園に移し、墓石を新しく建立しました。これが現在も残っているものです。

訃報を2件。

まず、彫刻家にして元東京藝術大学さん学長の澄川喜一氏。今朝の『朝日新聞』さんから。

澄川喜一さん死去 彫刻家 スカイツリー監修

000 抽象的な木彫で知られた文化勲章受章者で、東京芸術大学長も務めた彫刻家の澄川喜一(すみかわ・きいち)さんが4月9日に91歳で死去していたことが分かった。同大学が発表した。
 島根県に生まれ、山口県の錦帯橋を見て木の造形にひかれ、同大学で彫刻を学んだ。母校の教授や美術学部長を歴任し、95年~2001年に学長を務めた一方、新制作展を中心に作品を発表。70年代後半から続く、木の反りを生かした抽象的な「そりのああるかたち」シリーズで評価された。 その造形性を生かし、東京湾アクアライン川崎人工島「風の塔」に関わり、東京スカイツリーではデザイン監修。平櫛田中賞、本郷新賞といった彫刻賞のほか、日本芸術院会員にもなった。各地で石や金属による野外彫刻も多く手がけた。

戦後、東京美術学校から改組された東京藝術大学さんの美術学部彫刻科を卒業され、母校の教壇に立たれました。光太郎の父・光雲から連綿と続く同大の彫刻の伝統を受け継ぎつつも、革新的な抽象彫刻を得意とされました。さりとて具象彫刻を否定されたわけではなく、公共空間での彫刻のあり方として、光雲が主任となって制作された上野の西郷隆盛像などは高く評価なさいました。また、氏は島根県のご出身で、同郷の森鷗外の顕彰などにも関わられたことがありました。

もうお一方、昨日、亡くなられました。高村光太郎研究会にご所属されていた西浦基(にしうら・はじむ)氏。『雨男 高村光太郎』(平成21年=2009 東京図書出版会)、『高村光太郎小考集』(平成30年=2018 牧歌舎)と、2冊のご著書がおありでした。
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しばらく前から闘病されていたそうでしたが、昨年の高村光太郎研究会ではご病気をおして発表、今年の第67回連翹忌の集いにもご参加下さいました。

お通夜が本日6月22日(木)18時~、告別式は明6月23日(金)11時~、それぞれ大阪府泉南郡田尻町葬祭場(〒598-0092 大阪府泉南郡田尻町吉見335番地1)で執り行われるとのことです。

澄川氏、西浦氏、謹んでご冥福をお祈りします。

【折々のことば・光太郎】

急に来たくなつて、昨夜遅く高崎へ来て、今朝一番の汽車で沼田へ行くところです。右の窓には例の赤城、左には榛名がすつかり晴れ渡つて見えます。 今日は又山を歩いて法師の湯までゆかうと思つてゐます。


大正14年(1925)6月30日 水野葉舟宛書簡より 光太郎43歳

温泉好きだった光太郎、東京在住時には、特に上州の温泉をよく訪れました。「例の赤城」とあるのは、かつて水野と共に赤城山の猪谷旅館に長期滞在したことがあるためです。



今月1日、詩人の平田好輝氏が亡くなったそうで、奥様から訃報のお葉書を戴きました。おん年87歳であらせられたそうです。ご葬儀は3日、近親の方々で済まされたとのこと。
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氏には『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』(昭和48年=1973 東宣出版)というご著書がおありで、連翹忌の集いにも昭和50年代から平成の初めまで、8回ご参加いただいていました。

『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』、智恵子との関係性に軸を置いた光太郎評伝で、当方、大学の卒論執筆時にはかなり参考にさせていただきました。

同書の「あとがき」。

 昭和三十一年四月一日のことである。時ならぬ雪が、激しく降りだした。万愚節のことでもあり、まるで嘘のように思われたが、雪は激しく降り積んだ。
 そのころ、わたしは二十歳で、国文科の学生であり、なによりも詩を書くことに夢中になっていた。第一詩集に収めた作品のうちのいくつかを、このころに書いていた。
 まるで嘘のように降る激しい雪を見ながら、一体、何事が起こったのだろうと思った。わたしが生れた二日後に突如として首都を震撼させた二・二六事件の話は、成長するにつれて、折にふれ聞かされ、二・二六を思うと必ず雪のイメージがひろがったが、その二・二六を思わせるような、何か只事ならざるものに、その雪は思われた。
 激しい雪は四月一日から二日の早朝にかけて降り、東京一帯を真白の雪景色に包んだ。わたしの家の近所には、ゆるやかなスロープがあり、そこに俄かにスキーヤーたちが群がり、若い女や男のほかに、白髪まじりの人まで加わって、真面目にスキーを楽しみ始めたのであった。
 一体、何がどうなったのだろう。桜が満開の筈の時に、首都圏の中でスキーが始まっているとは。
 何か余程の異変があったものと思われた。思いついて、ラジオのスイッチをひねってみた。
 すると不意に、高村光太郎の死が、伝わってきたのだ。三月の中旬頃から、光太郎の容態がよくないことは、かすかに聞き知っていた。しかし、ラジオを通して、光太郎の死を知ったときに、じつに不意打の感じと、『ああ、やっぱりそうだったのか』という感じとが、同時に襲ってきた。光太郎が雪を降らせていたのだ。なァんだ、光太郎のせいだったんだ、と思い、むしろ心の奥深いところで哄笑したいような気持があった。窓から見えるスロープで、スキーを楽しんでいる大人たち、きみたちはなぜ今ごろ、そこでスキー靴を履いて滑っているのか、分っているか。これはみんな、光太郎が降らせた雪なんだよ。わたしは飛び出して行って、大声でふれてまわりたい気持だった。
 昭和三十一年、四月二日未明、高村光太郎、ついに逝く。雪激しく降り、真白に積る。光太郎、七十四歳。
 岩手の山小屋に一人で暮らしていたときには、小屋の中に雪が吹きこみ、光太郎は手帚を持って寝ていたという。ときどき気がついたときに、顔のまわりの雪を掃いてから、また眠るのである。六十代の高齢でありながら、なおも光太郎は山小屋に一人で住み、零下二十度にもなる所で、凜冽の冬を愛しながら暮らしていたのである。そんなにまで、冬や雪を愛し、冬や雪のことを歌った詩人は、ほかにない。
 その光太郎が東京で亡くなるにあたって、東京一帯が時ならぬ雪に見舞われたのは、光太郎にとっての当然であり、それこそ「自然」であった。雪激しく降り、光太郎はその雪に包まれながら死んだ。不思議であるけれども、不思議ではない。詩に夢中になっていた二十歳のわたしにとって、高村光太郎の死にざまは、なにかわたしの奥底を揺るがし、鼓舞してくれているような気がした。「天然の素中」という彼の言葉が、不意に分ったような気がした。わたしが一度も会いに行けないうちに、光太郎は、「天然の素中」に帰って行ってしまったのだ。どうすることもできない。いくら会いたいと思っても、もう会うことはできない。だが、それにも拘らず、わたしには、その四月二日が、正直いって、非常にうれしかった。激しく雪を降らせ、そして彼は死んでいったのである。何も知らないでスキーを持ち出して無心に滑っている大人たちの光景が、わたしの窓から見え、そんな人々に対しても、なにかほのぼのと心の底から親しみを感じたのである。
 いつか必ず、光太郎智恵子のことを書かねばならないと、そのとき思った。その後の十数年に、断片的には書いてきたが、自分の創作にかまけて、一冊に書きおろしてみたい気持を、気持だけのままおしやりながら、年月を過ごしてきた。
 ただ、光太郎智恵子のさまざまなイメージは、この年月の間にも繰り返しあたためてきたつもりである。
 そして、はからずも今度、東宣出版の慫慂を得て、この一本をまとめることが出来た。とくに、田辺辰俊氏と星野正三氏の励ましに深くお礼を申し上げたい。


蓋し、名文ですね。ついつい全文を引いてしまいました。

平田氏、詩人としても現役を続けられていました。当方がいろいろお世話になっている詩人の宮尾壽里子氏が送ってくださる文芸同人誌『青い花』(第四次)の同人であらせられ、枯淡の妙ともいえるような詩を発表なさっていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨夜見えた相ですね。僕はとうと例の風邪にかかつたやうです。医者に見てもらつてねてゐます。夜は四十度以上になるやうです。食事がいけないのでつかれました。しかし気持は元気でゐます。 智恵子は亡父の一周忌で今国へ帰つてゐます。 此手紙はすぐすてて下さい。うつるといけないから


大正8年(1919)5月4日 田村松魚宛書簡より 光太郎37歳

「例の風邪」はこの年猛威をふるったスペイン風邪。しかし、実はそうではなく腸チフスだったことがのちにわかり、入院します。「とうと」は「とうとう」の誤記ですね。

出版社・思潮社さん創業者の小田久郎氏が亡くなっていたことが先月末に報じられました。

『朝日新聞』さん。

小田久郎さん死去 思潮社創業者003

 詩の出版社「思潮社」を創業し、戦後日本の詩壇史に大きな影響を与えた小田久郎(おだ・きゅうろう)さんが昨年1月18日、肺炎で死去した。90歳だった。今月28日発売の詩誌「現代詩手帖(てちょう)」4月号で同社が公表した。
 1956年に思潮社を創業し、59年に「現代詩手帖」を創刊。谷川俊太郎さんや故大岡信さんらを積極的に起用した。95年、詩壇の歩みを綿密に書きとめた「戦後詩壇私史」で大佛次郎賞。2021年、戦後日本の詩と詩壇への貢献に対し、歴程賞を贈られた。

もしかすると記事にある『戦後詩壇私史』等で光太郎に触れられていたかも、と思ったのですが、その辺り、当方、寡聞にして存じませんで、訃報の紹介はいたしませんでした。

ところが、『日本経済新聞』さん(4月6日(木)の掲載でした)に載った氏の追悼記事に、光太郎の名。やはり『戦後詩壇私史』で光太郎の「道程」(大正3年=1914)に言及されていたそうで。

思潮社創業者・小田久郎さん「現代詩」背負って立った人

 昨年1月に90歳で亡くなった「思潮社」の創業者、小田久郎さんは、いつも朗々とした声で語る人だった。
 東京・市谷砂土原町の社屋に小田さんを初めて訪ねたのは34年前。当時58歳の小田さんには、現代詩の出版を背負って立つ自信と気力があふれていた。刊行開始から20年余りを経た「現代詩文庫」発刊の経緯や、田村隆一、鮎川信夫ら「荒地」グループの詩人の仕事を、豊富な逸話と交えて語り出す座談に、駆け出しの文芸記者は魅了された。
 以来、取材などで会うたびに話したのは、いつも詩人と現代詩の話題ばかりだったが、退屈したことがなかった。その訳は、小田さんがその後、齢を重ねても、現代詩の歴史と現在を、いつも我がこととして、受け止め続けてきたからではなかったか。
 現代詩の今を、他人事にはしない姿勢は、思潮社で働く編集者が常々感じていた。看板雑誌「現代詩手帖」の編集長を1960年代に務めた詩人の八木忠栄さんは、小田さんを「貫徹の人だった」と回想する。「現代詩をリードするという意識が常にあって、中心となる企画の決定をするのは、常に小田さんだった」という。柔らかな企画を提案しても、はねられ、悔しい思いをしたこともあった。
 同時に、「新しい詩人を育てないといけない」という意識を強く持っていた。「荒地」の詩人や、大岡信、谷川俊太郎、飯島耕一といった同世代の詩人と並走するとともに、若い編集者を年下の詩人の担当にして、新世代のフォローアップを欠かさなかった。
 「小田さんは、現代詩の流れを更新しよう、という意識をいつも抱いていた」と振り返るのは、2010年から5年間、「現代詩手帖」の編集長を務めた亀岡大助氏さんだ。新しい世代の詩人を取り上げる特集や詩集のシリーズを、21世紀になってからも、次々と送り出していった。
 小田さんの次男で思潮社専務の小田康之さんには、今も忘れられない父の言葉がある。
 「売れる本は作るなよ」。90年代の初め、思潮社で仕事を始めたころに言われて驚いた。売り上げを第一に考える現在の出版界から見れば、ナンセンスにさえ聞こえるかもしれない。しかしそれは、売り上げだけを目的にするのでなく、自社にしか作れない本を作れ、という信念の表れだった。「あれだけ多くの詩集を世に出し続けた出版人は、かつていない。ギネスブックものではないか」。そう語るのは、60年もの親交のある詩人の井川博年さんだ。
 戦後の詩壇の変遷を体験に基づいてたどった著書「戦後詩壇私史」で、小田さんは「現代詩手帖」を創刊した59年ごろの心情を、高村光太郎の詩の一節を借りて表している。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」
 戦後から現代へ至る詩の道を華やかに歩いた詩人は数あれども、その裏で、長きにわたりその道を整備し続けた人は、小田さんをおいてほかにいなかった。
(客員編集委員 宮川匡司)
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なるほど、光太郎の精神を受け継がれての数々の業績だったか、と、粛然とさせられました。

ところで、詩誌『現代詩手帖』をはじめ、このブログサイトでご紹介してきた複数の新刊詩集等で、思潮社さん刊行のものも少なくありません。平田俊子氏『戯れ言の自由』和合亮一氏『QQQ』平岡敏夫氏『平岡敏夫詩集』など。それらの奥付を見てみますと、「発行人 小田久郎」の文字。詩誌『歴程』等を通し、多くの詩人を世に送り出した当会の祖・草野心平や、さらに遡って『明星』で光太郎を含む若い才能を育てた与謝野鉄幹などを彷彿とさせられました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

ふいと出て来たので又出直さうと思つてます 今日は一旦帰るでせう


大正元年(1912)8月31日 前田晁宛書簡より 光太郎30歳

ふいと出て来た」先は、千葉銚子の犬吠埼。今年1月に廃業した老舗旅館・暁鶏館に宿泊し、絵を描くためでした。しかし気乗りがしなかったのでしょうか、すぐ帰ろう、と書いています。

ところがそこに、智恵子が現れます。二人の恋愛問題で煮え切らない態度の光太郎に業を煮やしたのでしょうか。

光太郎の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であつた。私はそんな事は知らなかつたが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれてゐた。

結果、滞在を9月4日まで延ばし、光太郎も智恵子への愛を貫く決意を固めました。

訃報を2件、ご紹介します。

まずは言わずと知れた世界の坂本龍一氏。共同通信さん配信記事から。

世界的音楽家の坂本龍一さん死去 YMO、環境・平和活動も

004 音楽ユニット「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)のメンバーで、世界的な音楽家として知られた坂本龍一(さかもと・りゅういち)さんが3月28日、死去した。71歳。東京都出身。葬儀は近親者で行った。
 1978年に細野晴臣さん、高橋幸宏さんとYMOを結成し、キーボードを担当。シンセサイザーを駆使したテクノ・ポップ・サウンドで一世を風靡した。
 大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」に出演し、音楽も担当。映画「ラストエンペラー」の音楽で、米アカデミー作曲賞、グラミー賞を受賞した。
 環境問題や平和問題にも関心が深く、近年は脱原発で積極的な発言を続けた。

坂本氏、NHKEテレさんの「にほんごであそぼ」内でくりかえし使われ続けている「道程」の作曲を手がけられました。
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「道程」の最終詩形は短いものですので(雑誌への初出発表形は102行ありましたが、詩集『道程』収録時にばっさりカットして9行になりました)、通常、他の作曲家等の方々は全9行に曲をつけられます。しかし、坂本氏は冒頭2行「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」だけを抽出。しかも、ある意味、ポジティブな内容の詩ですからこれも他の作曲家等の方々はドゥア(長調)で作曲されるところを、坂本氏は哀愁漂うモール(短調)で。しかし、それが何ら不自然ではなくこの上なくぴったりはまっていて、この短い曲一つとっても、坂本氏の類い希な才能のほどがわかります。

東日本大震災があった次の年の平成24年(2012)に公開収録が行われ、翌年オンエアされて、さらにDVD化もされた「にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島」では、おん自らピアノ伴奏。
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坂本氏の貴重なかぶりものショットです。

ちなみにこの際の歌唱チームの一員で、他の機会にはソロでも「道程」を歌われていた、おおたか静流さんも昨年亡くなりました。

坂本氏と光太郎、もう1件。

やはり東日本大震災翌年の平成24年(2012)、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された第21回女川光太郎祭の会場が、当時、女川町の仮設住宅敷地内の、坂本氏が資金を出して作られた巨大テントを張ったコミュニティスペース「坂本龍一マルシェ」でした。
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震災の復興支援、原発問題、環境問題などにも並々ならぬ関心を寄せられ、さらに発信を続けられていた氏の姿勢が、こういうところにも表れています。こういうイベントがあったというのは、ご本人はあずかり知らぬところでしょうが。

それにしても、坂本氏の訃報が出たのが、第67回連翹忌の4月2日(日)。不思議な縁を感じます。

もうお一方、今日の朝刊に出た訃報です。評論家の芹沢俊介氏。やはり共同通信さんから。

評論家の芹沢俊介さんが死去 家族、宗教、幅広いテーマ論じる

007 家族や教育、犯罪、宗教など、幅広いテーマを論じた評論家の芹沢俊介(せりざわ・しゅんすけ)さんが3月22日午後7時12分、脳出血のため千葉県我孫子市の病院で死去した。80歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は妻美保(みほ)さん。
 評論家の吉本隆明さんに師事し、雑誌「試行」などで原稿を発表。「鮎川信夫」などの文芸評論のほか、宗教集団信者の集団失踪を論じた「『イエスの方舟』論」で注目を集めた。ひきこもりの問題のほか、宮崎勤元死刑囚による幼女連続誘拐殺人事件や秋葉原無差別殺傷事件など、家庭や養育、若者の犯罪などについて積極的に論陣を張った。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の盟友だった故・吉本隆明氏の弟子筋に当たられた方です。オウム事件以降、いろいろあって表舞台にはあまり出て来られなくなられていましたが、かつては師の吉本氏同様、光太郎論にも取り組まれました。昭和57年(1982)には、筑摩書房さんから『高村光太郎』という書籍を刊行なさっています。
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また、令和元年(2019)、文治堂書店さんから刊行された北川先生の『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』PR用の冊子『トンボの眼玉』№9に、「北川太一とその仕事」という一文を寄せられました。
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坂本氏、芹沢氏、それぞれ謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

Tant de Japonais admirent votre art, cher  Maître, c'est bien naturel.


明治45年4月20日 アンリ・マティス宛書簡より 光太郎30歳

邦訳は「かくも多くの日本人があなたの芸術を賞讃するのは、親愛なる画伯、ごく自然のことなのです」。光太郎自身も含め、光太郎も関わった白樺派の面々を指しての言です。

マティスからは「あなたとお近づきになれますよう、近々パリに戻られますことを願っております。そのときを待ちつつ、御手紙に厚く御礼申し上げます」的な返信を受け取っています。残念ながらそれは実現しませんでしたが。

女優の奈良岡朋子さんが亡くなりました。

NHKさんのニュース。

俳優 奈良岡朋子さん死去 肺炎のため 93歳

 舞台や映画で活躍し、連続テレビ小説「おしん」などテレビドラマのナレーションでも親しまれた俳優の奈良岡朋子さんが今月23日、肺炎のため、東京都内の病院で亡くなりました。93歳でした。
 奈良岡さんは東京の出身で、洋画家の父、奈良岡正夫の影響で今の女子美術大学で絵画を学びながら1948年に現在の劇団民藝に入り、舞台での活動を始めます。
 その後は、同期生だった大滝秀治さんらとともに劇団の代表的な存在となり、「かもめ」や「奇蹟の人」など数々の舞台で高い評価を得てきました。
 テレビドラマや映画でも名脇役を演じたほか、NHKの大河ドラマ「春日局」や「篤姫」、それに連続テレビ小説「おしん」など、多くのナレーションでは落ち着いた語り口で親しまれました。
 1992年には紫綬褒章、2000年には勲四等旭日小綬章を受章しています。
 また、2013年からは原爆の悲惨さを描いた「黒い雨」のひとり語りの舞台がライフワークとなり、全国各地で上演するなど、平和を訴える活動を続けていました。
 劇団民藝によりますと、奈良岡さんは去年も舞台に立つなど最近まで活動を続けていましたが、体調を崩し今月23日夜、肺炎のため亡くなりました。
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『朝日新聞』さん。

奈良岡朋子さん死去 俳優、劇団民芸代表 93歳

 新劇を代表する俳優として70年以上にわたって舞台の第一線で活躍した劇団民芸代表で俳優の奈良岡朋子(ならおか・ともこ)さんが23日午後10時50分、肺炎のため死去した。93歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主はめいで劇団民芸演出家の丹野郁弓(たんの・いくみ)さん。
 1929年東京出身。父は洋画家の奈良岡正夫。女子美術専門学校(現・女子美術大学)在学中の48年、民衆芸術劇場の養成所に入り、50年の民芸創設に参加。旗揚げ公演「かもめ」に出演した。54年の「煉瓦女工」で初主演。宇野重吉や滝沢修らの指導を受けた。
 「ガラスの動物園」「イルクーツク物語」「奇跡の人」「グレイクリスマス」「火山灰地」など劇団公演の出演は7千回を超えた。2000年には同期の大滝秀治と民芸の共同代表となり、12年の大滝死去後も代表を務めた。後進への熱心な指導で知られ、劇団外の俳優も薫陶を受けた。
 森光子が作家林芙美子を演じた「放浪記」でライバルの日夏京子を好演。05年には民芸と無名塾の共同公演「ドライビング・ミス・デイジー」で仲代達矢さんと共演し、孤独な老婦人を陰影深く演じた。映画やドラマでも堅実な脇役で幅広く出演。ドラマ「おしん」「篤姫」などでナレーションも担当した。
 52年の新藤兼人監督の映画「原爆の子」に民芸の仲間らと出演し、戦争の悲劇を語り継ぐことをライフワークに。13年から井伏鱒二の「黒い雨」の一人語りを続けていた。
 69年紀伊国屋演劇賞個人賞、81年菊田一夫演劇賞、92年紫綬褒章、00年勲四等旭日小綬章、06年には朝日舞台芸術賞、毎日芸術賞をそれぞれ受けた。
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奈良岡さん、昭和50年(1975)にラジオの文化放送さんで放送された「青春劇場 日本抒情名詩集」で、「智恵子抄」から数編の朗読をなさいました。平成22年(2010)にはそれを含むCD「文化放送アーカイブス 第2弾 語り芸」がリリースされています。他に宮沢賢治や萩原朔太郎作品の朗読も。
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011
おそらくこのCDから、YouTube上に「あどけない話」朗読がアップされていました。


さすがの朗読です。

奈良岡さん、他に映画でも光太郎智恵子がらみが。

昭和40年(1965)封切りの日本映画「こころの山脈」(吉村公三郎監督、山岡久乃さん主演)。智恵子の故郷・福島県二本松市に隣接する本宮町(現・本宮市)を舞台にしています。東宝系で上映されましたが、製作は東宝さんではなく「本宮方式映画製作の会」。本宮の人々が声を上げて現代のクラウドファンディングのように基金を募り、地域密着型の映画を作る、それが「本宮方式」で、現代ではよくあるスタイルですが、この手の方式の日本初として映画史に残る作品です。
007
奈良岡さんの役どころは、準主役の少年(本宮の一般小学生が演じました)の母親役。ただし、悪女です。
008
元々、夫(郡山のアマチュア劇団員の方が演じました)との仲は冷え切っており、二人の子供に対してもネグレクト気味。
005
ついには夫と子供たちを捨てて、若い男と駆け落ちしてしまいます。
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ただ、最後には少し改心し、少年を迎えに来るのですが。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

札幌にも斯の如きものあり。此は昨日の出来事に候。今円山は花ざかり。

明治44年(1911)5月10日 北原白秋宛書簡より 光太郎29歳

酪農を行いつつ彫刻や絵を制作するという夢の実現のため、とうとう北海道に。「斯の如きもの」は札幌円山公園での「見番観桜会」。ススキノの芸者衆による華やかな踊りの競演です。

下記は同日、編集者の前田晁に送ったほぼ同一の内容の絵葉書。
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昨日、漫画家の松本零士氏の訃報が出ました。

共同通信さんの配信記事。

漫画家の松本零士さんが死去 「銀河鉄道999」「ヤマト」

 013「銀河鉄道999」「宇宙戦艦ヤマト」で知られる漫画家の松本零士(まつもと・れいじ、本名晟=あきら)さんが13日午前11時、急性心不全のため東京都の病院で死去した。85歳。福岡県出身。告別式は近親者で行った。喪主は妻の漫画家牧美也子さん。お別れの会を後日開催予定。
 スケールの大きなSF、戦争漫画を数多く手がけた。戦闘機などの詳細で独特な描写は海外のSF映画にも影響を与えたとされる。
 1954年、高校在学中に「蜜蜂の冒険」でデビュー。上京後、少女漫画などを描いた。71年に雑誌で連載を始めた「男おいどん」で、東京の若者の貧しい下宿生活を描いて人気を得た。同作品も含む「大四畳半シリーズ」は、ユニークなキャラクターが広く親しまれた。
 74年からテレビで放送されたアニメ「宇宙戦艦ヤマト」シリーズの企画に参加、漫画版を手がけ、その後のアニメブームのきっかけをつくった。宇宙への旅を叙情的に描いた代表作「銀河鉄道999」や「宇宙海賊キャプテンハーロック」もアニメ化され、さまざまな社会現象を起こした。
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わずかながら、光太郎智恵子とのかかわりも。

かつて、氏が名誉館長を務められていた福島県郡山市の郡山市ふれあい科学館さんで開催されていた「ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト」審査員を務められました。こちらは光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を用い、「“ほんとの空”のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えて下さい。」と要項に記されていました。

第4回の入選作品集(平成28年=2016)から。
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こんな短い文章にも、氏の理念がよく表されていますね。

個人的なことを申し上げれば、氏の作品の数々、少年時代によく読みました。ひねくれ者の当方ですので、代表作といわれる作品群よりマイナーなものに惹かれました。SF系だと「ワダチ」、「大純情くん」、「ミライザーバン」など。

それから、「戦場まんがシリーズ」。第二次大戦中の日本軍やドイツ軍などの名も無き兵士たちを主人公とした短編連作で、陸軍パイロットだった氏のお父さまのご体験等が反映されています。お父さまは氏に「あんな戦争はやってはいけない」と口癖のように語られていたそうで。そこで、散華する兵士たちを「英霊」「英雄」と讃美せず、どちらかというと愚かな戦争の犠牲者として捉えていました。印象的だったのは、日本軍による特攻を受け、撃沈される米軍空母の艦長が沈没直前に広島への原爆投下を打電で知り「おれたちも、バカか。敵も味方も、みんな大バカだ」と呟いたシーン。他にも、末端の兵士たちそれぞれにさまざまな人間ドラマがあったことがリアルに描かれていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

And yet, I feel happy in the bottom of my heart ; such affairs and bad health gave me deeper lessons than ever. I heard such a marvellous harmony in what I heard only a confused discord befor. I have become <to be> able to look more dearly at the face of Nature. I think I have stepped a little further in understanding the relation between Nature and myself, of course only the relation, not Nature itself.

明治42年(1909)1月4日 バーナード ・リーチ宛書簡より 光太郎27歳

『高村光太郎全集』での訳は以下の通り。

しかし、僕は心の底では喜んでいる――こんな事件があったり、具合が悪かったりしたために、かえって今までに無い深い教訓を得た。これまでは不協和音としか聞こえなかったものの中に、非常に不思議なハーモニイを聞いたのだ。僕は自然の姿を前よりもいとおしく眺めることができるようになった。自然と自分との相互関係の理解に、ささやかな一歩を進め得たと思う。勿論、自然そのものではなくて、それとの関係にしかすぎないけれど……。

こんな事件」は、故国日本で従兄弟が事故死したことを指し、「具合が悪かったり」は、歯の治療で歯医者通いをしていることを指します。

自然」云々、のちの詩「道程」にも通じるような気がします。

国民的アニメ「サザエさん」で、サザエさんの長男・タラちゃんの役をなさっていた貴家堂子さんが亡くなりました。

『朝日新聞』さん。

タラちゃん役53年、声優の貴家堂子さん死去 月内は出演、後任未定

014 フジテレビのアニメ「サザエさん」で1969年の放送開始からフグ田タラオ役を演じてきた、声優の貴家堂子(さすが・たかこ、本名堀内堂子〈ほりうち・たかこ〉)さんが5日死去した。87歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は夫堀内博周(ひろかね)さん。
 「サザエさん」放送開始から53年間、「タラちゃん」ことサザエの息子のタラオを演じ、2019年には「最も長くテレビアニメシリーズにおいて同じ役を演じ続ける声優」として、サザエ役加藤みどりさんとともにギネス世界記録に認定された。
 他にも、「天才バカボン」のハジメちゃん、「ハクション大魔王」のアクビ、「リボンの騎士」のチンクなどを演じた。
 フジテレビによると、貴家さんの「サザエさん」出演は2月26日の放送回まで。タラオ役の後任は検討中という。

『デイリースポーツ』さん。

永遠の3歳 タラちゃんを53年間ありがとう 声優・貴家堂子さん死去 87歳

013 声優の貴家堂子(さすが・たかこ、本名堀内堂子=ほりうち・たかこ)さんが5日午後に死去していたことが10日、分かった。87歳。東京都出身。フジテレビ系の国民的テレビアニメ「サザエさん」(フジテレビ系、日曜、後6・30)でフグ田タラオ(タラちゃん)の声を1969年の放送開始から務め、親しまれていた。葬儀は近親者で行った。喪主は夫の堀内博周(ほりうち・ひろかね)氏。
 あまりにも突然の別れだった。
 放送開始から53年もの間、3歳のタラちゃんを演じてきた貴家さん。母サザエさん役の声優・加藤みどり(83)は、初回放送から伴走してきた最後の共演者を失い、「『サザエさん』の初回放送から50年以上、ずっと一緒に家族として歩んできた貴家ちゃん。“貴家ちゃんがいるうちは私も頑張らなきゃ”と思っていたので貴家ちゃんがいなくなって本当に寂しく、悲しい気持ちです」と別れを惜しんだ。
 関係者によると、貴家さんが最後となった「サザエさん」の収録に臨んだのは今月2日。その時はいつもと変わった様子はなく、病気で療養などもしていなかったという。関係者も「驚いています」と絶句した。
 貴家さんは2019年10月6日、タラちゃん役を演じたキャリアが50年と1日を記録し、「テレビアニメシリーズにおいて最も長く同じ役を演じた声優」として、加藤とともにギネス世界記録に認定された。
 また、「天才バカボン」のハジメちゃん、「ハクション大魔王」のアクビ、「リボンの騎士」のチンクなどのかわいい声で、多くのファンを魅了した。
 貴家さんが最後に出演した「サザエさん」は、今月26日放送の「サザエさん ひな祭り1時間SP」となる。後任について、フジテレビでは「検討中です」としている。
 ◆ファミリー悼む
 マスオ役・田中秀幸「大切な宝物を失った悲しみで一杯です。貴家さん。穏やかな語り口、優しいお言葉、素敵な笑顔…しっかり胸に刻んでおきます。ありがとうタラちゃん」
 波平役・茶風林「突然の訃報に言葉がありません。いつもおしゃれでニコニコと優しい笑顔を振りまいてくださいました。ずっとずっとご一緒できると思っていたのに残念でなりません」
 フネ役・寺内よりえ「貴家さんには折あるごとに温かく見守りお声がけ頂き感謝しております。一つの役を長く演じてこられた大先輩のお言葉・お姿を胸に刻み、励んで参ります。貴家さん、そして愛らしいタラちゃん、お疲れ様でした」
 カツオ役・冨永みーな「スタジオでいつもいつも優しくしていただきました。そしてキュートでいらっしゃった貴家さん。突然の訃報にとても驚いています。寂しいです。心よりご冥福をお祈り致します」
 ワカメ役・津村まこと「貴家さんはお茶目でタラちゃんそのままのような本当にかわいらしい優しい方でした。全く実感はないのに脱力感がすごいです。あのタラちゃんのかわいらしい声が聞けなくなるなんて寂しいです、残念です」

1月29日(日)放映分に「カツオの行く道」という回がありました。カツオ君が、学校の課題なのでしょうか、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を暗誦しなければいけない、しかしなかなか覚えられないという話で……。カツオ君曰く「道路工事のおじさんの詩だと思った」。
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そこで磯野家では、「道程」がちょっとしたブームに。
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最後は3歳のタラちゃんも覚えてしまいました。
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それを道路工事のおじさんたちの前で披露。
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しかし「道路工事のおじさんの詩です」と言う前に、サザエさんが現れ……
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貴家さん、53年間、お疲れさまでした。そしてほぼ最後に、素敵な「道程」をありがとうございました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生は六月頃渡英のつもり。米国の研究の始末をつけるので大多忙、


明治40年(1907)4月30日 大澤三之助宛書簡より 光太郎25歳

前年2月にニューヨークに着いた光太郎、1年余りで次なる目的地、ロンドンを目指します。東京美術学校の先輩、白瀧幾之介らが既にロンドンに居り、また、何と言っても大英博物館がありますので。

宮沢賢治研究家としても有名であらせられた、詩人・仏文学者の天沢退二郎氏の訃報が出ました。

共同通信さんの配信記事から。

詩人の天沢退二郎さん死去 宮沢賢治研究、バタイユ翻訳

  フランス文学者で宮沢賢治の研究でも知られる詩人の天沢退二郎(あまざわ・たいじろう)さんが25日午後7時35分、千葉市稲毛区の病院で死去した。86歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。喪主は妻でイラストレーターのマリ林(まりりん)さん。
 幼い頃から宮沢賢治の作品に親しみ、「校本宮沢賢治全集」の編著に関わった。宮沢賢治学会の代表理事も務め、少年少女のための小説「オレンジ党」シリーズなども執筆した。
 詩集で藤村記念歴程賞、高見順賞などを受賞。ジョルジュ・バタイユやアンリ・ボスコの翻訳も手がけた。

天沢氏、賢治と光太郎についても言及していらっしゃいました。

昭和44年(1969)筑摩書房発行の『現代日本文学大系』第27巻の月報に「光太郎対賢治」と題し、大正15年(1926)の光太郎賢治の最初にして最後の出会いについて等。こちらはのち「《出会い》のななめ背後に」と解題・加筆されて、昭和53年(1978)、思潮社発行の『現代詩読本 高村光太郎』に収められました。
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また、平成8年(1996)にはやはり筑摩書房から出た増補決定版『高村光太郎全集』第19巻の月報に「《光賢太治郎》論のこころみ」と題する一文も寄せられました。題名は光太郎と賢治の名前をアナグラムにしたもので、二人の詩に共通して通底する位相について述べられています。
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『東京新聞』さんには氏の追悼記事も出ました。

【評伝】天沢退二郎さん 圧倒的に熱く語った宮沢賢治「宇宙人にも感動してもらえるように」

000 フランス文学者で宮沢賢治の研究でも知られる詩人の天沢退二郎(あまざわ・たいじろう)さんが25日、86歳で亡くなった。
 多彩な顔を持つ天沢さんには、「ダークファンタジーの傑作」と呼ばれる児童文学の著書「光車よ、まわれ!」もある。子どものころに魅了された者として、本紙エッセー「私の東京物語」の執筆を依頼できたことが光栄だった。2017年、千葉市の自宅近くのカフェで初対面。手書きの原稿を受け取りながら、その中にも登場する「光車」の物語のあれこれを尋ねた。「私の東京物語」は同年11月に掲載された。
 しかし、天沢さんが圧倒的に熱く語ったのは宮沢賢治だった。戦前の旧満州で過ごした小学生時代に夢中になり、作品を読破。34歳の時には賢治論を見込まれ、賢治の弟の清六さんから岩手県花巻市の自宅で、夢だった賢治の直筆原稿を見せてもらう。その時、清六さんに告げられた言葉が人生を決めた。「賢治の全集を作り直してほしい」
 以来、大半が生前未発表で書き直しも多く、本文が定まらない賢治の作品を「決定稿」にすべく、仏文学者の先輩である入沢康夫さん(故人)らと上野発夜行列車で花巻間を何往復もして、生原稿を分析し、校本全集を完成。その後も改訂を続けた。
 賢治に労力を注ぐ理由を尋ねると、天沢さんは事もなげに答えた。「いずれ宇宙人も賢治を読むようになると思うから、宇宙人にも感動してもらえるように」。自らも独特の作品で人々を魅了してきた詩人の言葉だと受け止めた。今は少年のような笑顔で、銀河鉄道に乗って天駆けていると思う。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

山中にて狼の糞はじめて見申候。


明治34年(1901)8月末 高村光雲宛書簡より 光太郎19歳

信州の戸隠より留守宅の父・光雲に宛てた長い書簡から。この旅では一人、野尻、上越の赤倉、また信州に戻って松本、木曽方面まで足を伸ばしました。

ニホンオオカミは明治38年(1905)、奈良の吉野で捕獲されたものを最後に絶滅したとされていますが、信州や武州秩父山塊などには未だに生息しているのではないかともいわれています。ロマンがありますね。

003またお一人、生前の光太郎をご存じだった方が亡くなりました。

中西利一郎氏。光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエの大家さんだった中西家の子息です。昭和12年(1937)のお生まれでしたので、今年のお誕生日で満86歳になられるはずでした。

元々アトリエは氏のお父さまにして新制作派の画家だった中西利雄画伯が自宅敷地内に建てたものでしたが、画伯が急逝し、その後、貸しアトリエとなりました。光太郎の前には、やはり彫刻家のイサム・ノグチが使っていたとのこと。

光太郎がこちらに入ったのは、昭和27年(1952)10月。青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のためでした。以後、昭和31年(1956)に亡くなるまで基本的にこちらで過ごした光太郎と、氏は3年半、同じ敷地内で生活されたわけです。光太郎一周忌だった昭和32年(1957)4月2日の第一回連翹忌もこちらで行われました。そもそも連翹忌の「連翹」は、光太郎が歿した時にもここの庭に咲いていて、光太郎が愛した連翹に由来します。

そうした関係で、氏には連翹忌の集いにたびたびご参加いただきましたし、当方も三回、中野のご自宅にお伺いしました。そして、光太郎遺品の数々などを拝見。

氏が光太郎からもらったお年玉の熨斗袋(熨斗袋といいつつ、原稿用紙を折りたたんで作ったものです)それから外出もままならなくなった最晩年の光太郎が氏のお母さまに買い物を頼んだ際の膨大なメモ。

アトリエを借りることが決まった際に、蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村から氏のお母さまに宛てた葉書、氏のお母さまと光太郎の2ショット写真。

これらは光太郎に関わる企画展や、ATV青森テレビさんで放映された「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」という番組などで紹介されたこともあります。

同番組から。
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中西氏、平成13年(2001)5月15日には花巻の高村山荘敷地内で行われた第44回高村祭で「高村光太郎先生の思い出」と題し記念講演もなさいました。

その抜粋。

 昭和27年10月13日、予定通り、光太郎先生は中野においでになりました。
 レインコートにリックサックを背負って、長靴をはき、登山帽をかぶって…私は、当時、中学三年生、子供心に、大きな体の飾りけのない、えらい先生が見えたと今でも記憶に残っております。「銀河鉄道の夜」や「雨ニモマケズ」の宮沢賢治は知っていても国語で習っていないせいか、高村光太郎先生が、彫刻家で、詩人で、日本のえらい先生とは深く知りませんでした。
 ただ、えらい先生が、アトリエへ見えて、彫刻をおつくりになるのだと聞かされていました。のちに教科書や新聞、本などで知るようになったのですが、一人、家の人が増え、おじいちゃんが出来たぐらいの認識でした。
(略)
 昭和29年春頃から光太郎先生は体調のことを気にされ、肋間神経痛で痛むことを耳にするようになりました。それまでは、先生もお元気で、中野桃園通り商店街で、先生の買い物のお姿を見かけたり、肉屋さん、八百屋さん、果物屋さん、お寿司屋さんでも有名になっていました。後日談で先生にお手洗いを貸して、先生の体をささえてあげたという自転車屋さんの話を今でも聞きます。登山帽をかぶり、長靴をはいて、レインコートを着て、カゴを持った先生のお姿は体が大きいだけに、やはりめだってみえたのでしょう。
(略)
 ところが、昭和30年5月にはベッドをもとめられて、アトリエの中二階から階下で休まれるようになさいました。母がベッドの購入のお手伝いをしたようです。
(略)
 その頃から買い物は母が先生からメモ書きをお受けしてやっていたようで、そのメモが残っていて、先生の生活の一片がわかります。
 母から聞いたエピソードをちょっとお話ししてみます。「先生はお肉がお好きで、歯がないのに、じょうずにひれ肉を焼いて、きれいに食べられるのよ」とか智恵子さんの御命日には「今日は智恵子の命日だから」と言って、二人分の夕食を用意して、会話しながら食べるのだという話を母から聞いて、私は、先生の御気持ち、やさしさが充分すぎる位にわかりました。
(略)
 昭和31年三月下旬に入ると、容態が急変して、看護婦さんもつけることになりました。3月22日だったと思います。私は学校が春休みに入ること、大学受験、卒業式とでガタガタしておりましたが、心配でたまりませんでした。
 アトリエには面会謝絶の紙が貼られて、母屋には心配する見舞いの方々で大変でした。光太郎先生は何度となく喀血をくり返して、衰弱がひどくなってゆかれました。
(略)
 そして、四月一日は、寒く、午後から雪が降り出し、夜になっても牡丹雪となって、しんしんと降り続いた。夜になって草野心平先生が「酸素吸入をしている」ということで、会合を抜けて、雪の中を駆けつけてこられました。

(略)
 深夜十一時半頃、アトリエから母屋へ戻られた草野心平先生は「今夜は落ちついて、休まれているから、だいじょうぶだろう」とおっしゃって帰られて行きました。
(略)
 うとうとする一時が経ったでしょうか。アトリエからのブザーが鳴りました。
(略)
 そのブザーの音を聞いて、私たちも飛び起きました。「これは大変だ。容態が急変したのだ」と……。あとは、言いつけられるままに、私は弟と中野駅へ雪の中を走りました。
 中野駅に出ても、タクシーが思うようでなく、ガードをくぐった北口の方で、やっと一台をつかまえることが出来ました。運転手さんにすかさず、行先大久保の地図を示し、事情を告げて、急いでもらいました。
 「草野先生、草野先生、光太郎先生が……」と戸をたたいて、呼びかけました。「あぶないから」と。
 草野先生は帰られて、数時間もたたないうちに起こされたのですから、意を察して、準備され、すぐに中野アトリエへと急行です。時間は3時30分頃だったと思います。四時頃、中野に着いた時にはあれだけ降っていた雪もやんでいました。
 我が家の表門には車が一台とまっていて、降り立ったのは高村豊周先生御夫妻でした。
 光太郎先生永眠は3時45分、臨終に居合わせたのは、私の母と看護婦二人だったと聞いています。
(略)
 亡くなられた二日は、にわかに弔問客で、わけもわからず、我が家も忙しくなった。
 私達は居場所もないほど、ゴッタ返し、葬儀の準備に入り、三日を通夜、四日の告別式は青山斎場に決まった。
(略)
 私は事務進行の北川太一先生を御案内して、近くの長谷川葬儀社へ出向いて、葬儀の依頼をしたことを覚えています。いまだにその葬儀社の息子さんから、その時のことを聞かされており、オヤジさんは、それこそ、一世一代のお棺を徹夜で作ったそうです。
(略)
 葬儀の日の祭壇は建築家の谷口吉郎先生の設計で、実にシンプルに、大谷石の台の上に、白木のひつぎが安置され、そのひつぎの上に高村規氏の撮影による光太郎先生の微笑むチャンチャンコを着た写真、コップに入った連翹の花一枝がかざられたものでした。
 葬儀も悲しみの中でとどこおりなく終わり、沢山の人におくられて、落合火葬場で、荼毘に附されました。
 私は火葬場の片隅で、煙突から出る煙をみながら、しばし、先生のお姿と、創られた詩を思い浮かべながら、偲んでいました。
(略)
 光太郎先生は旅立たれたのだ。
 私達に素晴らしい作品を、詩や文を、そして思い出を残して。私は立ちつくし、ただ空を眺めて涙をこらえていました。
 私にとって、光太郎先生との出会いは、深い思い出となって、今も残っています。

中西氏、同様のお話を連翹忌の集いなどでお話し下さったこともおありでした。そうした際に良きおじいちゃんのようだった光太郎を偲ばれながら語られていた氏のお顔が忘れられません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

くもり冷、 朝出血あり。 后岡本先生くる、注射 土方定一氏くる ハマクリ 斎藤新吉さんくる 玉子 〈中西夫人に三井通帳托〉


昭和31年(1956)3月30日の日記より 光太郎74歳

土方定一氏」は美術史家にして心平主宰の『歴程』同人、「斎藤新吉さん」は智恵子の妹・セツの夫です。

その死の3日前、これが光太郎の絶筆となりました。

翌日にはまだ意識があり、訪れた心平から心平編集、筑摩書房発行の『日本文学アルバム 高村光太郎』のゲラを見せられ、「That's the endか、人の一生なんか妙なもんだな」とつぶやいたそうです。

それにしても、光太郎の絶筆を紹介する日に、中西氏の訃報をお伝えすることになるとは、その奇縁に驚いております……。

追記 御本人がコロナ感染で延期だそうです。

まずは演奏会情報を。

紀野洋孝テノール・リサイタル

東京公演
 期 日 : 2022年12月18日(日)
 会 場 : 旧東京音楽学校奏楽堂 東京都台東区上野公園8番43号
 時 間 : 18:30開場 19:00開演
 料 金 : 前売 一般 3,000円 学生 1,000円 当日 一般 3,500円 学生 1,500円

大分公演
 期 日 : 2022年12月23日(金)
 会 場 : iichiko音の泉ホール 大分県大分市高砂町2番33号 
 時 間 : 18:30開場 19:00開演
 料 金 : 前売 一般 3,000円 学生 1,000円 当日 一般 3,500円 学生 1,500円

出 演 : 紀野洋孝(テノール) 森裕子(ピアノ)
曲 目 : 
 F.P.トスティ:〈薔薇〉〈祈り〉〈理想の人〉
 山田耕筰:〈この道〉〈かやの木山の〉〈六騎〉〈城ヶ島の雨〉〈みぞれに寄する愛のうた〉
 別宮貞雄:歌曲集《智惠子抄(改訂新版)》

博士号取得とCD“別宮貞雄作品集「Be」”の発売を記念して、東京と大分で『紀野洋孝テノール・リサイタル』行うことになりました!!! リサイタルの前半はお馴染みのトスティと山田耕筰の作品、後半は博士課程でも研究してた別宮貞雄の超大作《智惠子抄》を演奏します!! 《智惠子抄》は歌曲を超えたモノドラマのような作品で、涙なしには歌えない、聴けない、劇的で感動的な名作です! 別宮貞雄生誕100年没後10年の超特別メモリアルな今年聴いてほしいゴリゴリに押しに推しまくっている名作です!本当に沢山の方に知ってほしい、聴いてほしい、歌ってほしい作品です!
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故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」全曲が演奏されます。同曲は昭和57年(1982)の作品で、翌年に初演、昭和61年(1986)には音楽之友社さんから楽譜が刊行されています。

CDでは、故・永田峰雄氏による演奏で全曲が収録されたものが出ている他、抜粋で収められているものが数種類。紀野氏他、演奏会でもぽつぽつプログラムに入れて下さっている方もいらっしゃいます。共に男声、女声、双方が取り組んで下さっています。

他の作曲家の方の「智恵子抄」と較べ、別宮氏のそれは先に曲ありきではなく、本当に智恵子を思う光太郎の語り口が感極まってメロディー化したような、そういう感じに聞こえます。紀野氏曰く「歌曲を超えたモノドラマのような作品で、涙なしには歌えない、聴けない、劇的で感動的な名作」。なるほど、と思いました。

今回の演奏会はCD発売記念ということで、そのCD、注文しておいたのが昨日届きました。歌曲集「智恵子抄」ほか、別宮氏の作品を集めたものです。

Be -別宮貞雄 歌曲集-

2022年12月14日 Toneforest 定価3,000円+税

紀野洋孝(テノール) 森裕子(ピアノ)

歌曲集《智惠子抄(改定新版)》 詩:高村光太郎
 1. 人に002
 2. 深夜の雪
 3. 僕等
 4.晩餐
 5. あどけない話
 6. 人生遠視
 7. 千鳥と遊ぶ智惠子
 8. 山麓の二人
 9. レモン哀歌
歌曲集《淡彩抄》 詩:大木惇夫 
 10.泡001
 11. 蛍
 12. 入墨子
 13. 涼雨
 14. 別後
 15. 燈
 16. 天の川
 17. 青蜜柑
 18. 鷺
 19. 春近き日に
歌曲集《二つのロンデル》より 詩:加藤周一
 20.  さくら横ちょう

早速拝聴しましたが、紀野氏の歌唱、光太郎の魂が乗り移ったかのような、心の叫びがあますところなく表現されていました。

ぜひお買い求め下さい。

ところで、毎日更新しているこのブログサイトですが、紹介すべき事項が多く(もう今年いっぱいは書くことが決まっているような状況です)、失礼とは存じますが、クラシック歌曲系がらみで併せてもう1件。

今日の『朝日新聞』さん朝刊にバリトン歌手・坂本博士氏の訃報が出ていました。

坂本博士さん死去

 坂本博士さん(さかもと・ひろし=バリトン歌手、サカモト・ミュージック・スクール校長)3日、誤嚥(ごえん)性肺炎で死去、90歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻旦子(あさこ)さん。
 54年、東京芸大声楽科卒。57年に藤原歌劇団公演「ラ・ボエーム」のマルチェッロ役でデビュー。63年に始まったNHK「歌おうよ世界の友よ」に1年間レギュラー出演するなどメディアでも活躍。作曲家としても東日本大震災復興のための「絆三部作」など、歌曲、合唱曲、ミュージカルなどを幅広く手がけた。

坂本氏、昭和50年(1975)、キングレコードさんからリリースされた「なつかしの国民歌謡 NHK国民歌謡」というLPレコードで、光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」(昭和15年=1940)を歌われていました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

三時半、北川太一氏くる、智恵子の原稿二枚持参、クツキーをもらふ、


昭和30年(1955)5月27日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核悪化により入院していた赤坂山王病院に、当会顧問であらせられた故・北川太一先生がお見舞いに行かれました。こうした機会に北川先生は光太郎本人へ、その生涯に関しての聞き取り調査を行い、「高村光太郎聞き書」(『高村光太郎全集』別巻所収)としてまとめられました。

「智恵子の原稿」は詳細不明ですが、おそらく北川先生、智恵子が雑誌に寄稿した散文の原稿を入手され、光太郎に見せたのでは、と思われます。懐かしい智恵子の筆跡を見たであろう光太郎、どのような感想を持ったのか、あいにく、日記には記されていませんが。

詩人の新藤凉子氏が亡くなりました。

「時事通信」さん。

詩人の新藤凉子さん死去003

 新藤凉子さん(しんどう・りょうこ=詩人、詩誌「歴程」編集発行人、本名古屋涼子=ふるや・りょうこ)7日、間質性肺炎のため死去、90歳。鹿児島県出身。葬儀は家族で行った。歴程が後日、お別れの会を開く。喪主は長女美可(みか)さん。
 衣装研究室や文壇バー経営を経て「歴程」に参加。詩集「薔薇ふみ」で高見順賞。「連詩 悪母島の魔術師」(河津聖恵さん、三角みづ紀さんとの共著)で藤村記念歴程賞を受賞。日本現代詩人会の会長も務めた。

『読売新聞』さん。

「歴程」編集発行人で詩人の新藤凉子さん死去、90歳…詩集「薔薇ふみ」で高見順賞000

 詩誌「歴程」編集発行人で日本現代詩人会元会長の詩人・新藤凉子(しんどう・りょうこ、本名・古屋涼子=ふるや・りょうこ)さんが7日、間質性肺炎で死去した。90歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長女、美可さん。
 鹿児島県生まれ。歴程の編集発行人を務めた。詩集「薔薇(ばら)ふみ」で高見順賞、詩集「薔薇色のカモメ」で丸山薫賞、河津聖恵、三角みづ紀さんとの連詩集「連詩 悪母島の魔術師」で藤村記念歴程賞を受賞した。

新藤氏、記事に有る通り、詩誌『歴程』の編集権発行人を務められていました。同誌は当会の祖・草野心平が創刊し、光太郎や宮沢賢治なども同人に名を連ねていたものです。

その『歴程』、心平追悼号(平成2年=1990)に氏が寄せられた「心平さんの思い出」から。

 心平さんは歴程を大切にされたが、歴程とは、そもそも何であったのだろうか。私にとっては、青春、そのものであったような気がする。昭和三十七年から今日まで、思えば肉親と同居するよりも、その付き合いは長い。それは偏に、心平さんの自在な人柄によるものだったと、今にしてつくづく思う。
 「伝統だよ、伝統……」と、歴程がいつまでも続くことを念願としておられたが、何よりも「先生」と呼ばれることを嫌われた。「若い人の方が未来がたくさんあるのだから、僕は若い人が先生だと思うよ」とのことである。誰もがシンペイさんと、親しみを込めてお呼びするのが、習わしだった。


当方、心平を祀る福島県川内村での「天山祭り」の際に、何度かお会いしました。氏は『歴程』を受け継がれたお立場でのスピーチや、心平作品の朗読等をなさいました。

『歴程』といえば、今朝の『朝日新聞』さんには、やはり一時『歴程』に依られた安水稔和氏の訃報も出ており、「えー」と言う感じでした。新藤氏と二日連続でしたし。

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 安水稔和さん(やすみず・としかず=詩人、元神戸松蔭女子学院大教授)8月16日に死去、90歳。葬儀は近親者で営んだ。
 神戸市生まれ。「歴程」同人などをへて、84年に詩誌「火曜日」を創刊(15年終刊)。89年、詩集「記憶めくり」で地球賞。95年の阪神・淡路大震災で自宅が半壊し、1週間後に詩「神戸 五十年目の戦争」を書いた。以降、震災について積極的に執筆し続け、詩集「生きているということ」は99年に晩翠賞を受けた。詩集「椿崎や見なんとて」で01年に詩歌文学館賞、詩集「蟹場まで」などで05年に藤村記念歴程賞。

謹んでご冥福をお祈り申し上げますと同時に、今後の『歴程』さん、心平や光太郎、賢治などから連綿と続くDNAを絶やさぬよう、そしてますますのご発展を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

午后草野心平、佐野英夫氏くる、一緒に神田の病院にゆき関先生に見てもらふ、レントゲン検査、心臓肥大ある由、


昭和29年(1954)5月26日の日記より 光太郎72歳

めっきり衰えた光太郎を案じ、心平と、新潮社の編集者・佐野英夫が、神田の出版健康保険組合診療所に光太郎を連れて行きました。「関先生」は関覚二郎。同所勤務の医師で、これ以前に美術史家の奥平英雄が光太郎に紹介した岡本圭三医師らと共に、いわば「チーム光太郎」として診療に当たりました。

元プロレスラー・国会議員のアントニオ猪木氏が亡くなりました。

「共同通信」さん。

アントニオ猪木さんが死去 プロレスブームをけん引

007 「燃える闘魂」のキャッチフレーズで昭和、平成のプロレスブームをけん引し、参院議員も務めたアントニオ猪木(本名猪木寛至=いのき・かんじ)さんが1日午前7時40分、心不全のため自宅で死去した。79歳。横浜市出身。マネジメント会社が明らかにした。
 中学の時にブラジルに移住。遠征した力道山の目に留まり、17歳の時に日本プロレス入団。力道山の死後、ジャイアント馬場とのコンビでプロレス人気を復活させた。
 89年にスポーツ平和党(当時)から出馬し参院選に当選。2013年の参院選では日本維新の会から立候補して国政へ復帰した。20年に心臓の病気を患っていることを公表した。

猪木さんといえば、今年5月にこのブログサイトで猪木さんについてご紹介させていただきました。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖にほど近い蔦温泉に「猪木家の墓」を建てられ、奥様の納骨をなさったという件。

各種訃報の中にも、その件に触れられたものが。

ABA青森朝日放送さん。

アントニオ猪木氏死去 青森・蔦温泉に猪木家の墓 「ゆかりの地」で死を悼む

 元プロレスラーのアントニオ猪木さんが亡くなりました。79歳でした。
 アントニオ猪木さんは、力道山にスカウトされてプロレスの道に入り、1972年に「新日本プロレス」を設立、プロレス全盛時代を築きます。1989年の参議院選挙で初当選し、国会議員となりました。
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【藤原祐輝アナウンサー】
 「十和田市、蔦温泉旅館のすぐ近くに猪木家のお墓があります。猪木さんご夫婦は生前、この蔦温泉を訪れ夫婦水入らずの時間を過ごしていたということです」
 「道」と力強く刻まれた猪木家の墓。2019年に亡くなった妻・田鶴子さんの納骨が5月に行われました。猪木さんの訃報を受け、お墓に手を合わせる人の姿も。
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【墓を訪れた男性】
 「いつも元気いっぱいで、私も元気もらっていましたね。私も随分力をもらったので、天国でも安らかに眠っていただきたいと思います」
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 蔦温泉旅館には猪木さん直筆の詩が飾られています。5月に訪れた際には、明るい人柄で周囲を笑わせていたそうです。その数カ月後の訃報…。
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【蔦温泉旅館・新山耕生支配人】
 「本当にびっくりですね。蔦温泉を見守っていただければなと思います」
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『日刊スポーツ』さん。

【猪木さん死去】妻田鶴子さんと通っていた青森・蔦温泉近くに墓建てていた 墓石に「道」足下に詩

 1日に79歳で亡くなったアントニオ猪木さんは、青森県十和田市の蔦温泉旅館近くに「アントニオ猪木家の墓」を建てていた。
 蔦温泉旅館は猪木さんと妻田鶴子さんが生前通っていたゆかりの地。猪木さんは今年5月22日に建立式を開き、19年に亡くなった田鶴子さんの納骨の儀を行っていた。墓の高さは猪木さんの現役時代の身長と同じ190センチ。墓石には「アントニオ猪木家」。詩集も出している猪木さんがよく口にした詩の題名「道」の文字が大きく刻まれ、足下には詩も記されている。
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 蔦温泉旅館は田鶴子さんについてホームページで「全身全霊でアントニオ猪木様に人生をささげてきた方。魅力あふれる女性でした」とし、旅館でのひと時を「良い思い出ばかりです」とつづっている。
 旅館は宿を愛した作家大町桂月の墓をおよそ100年に渡り管理している。猪木さんは旅館の墓の管理方法に信頼を置き、蔦温泉旅館を墓の場所に選んだという。墓は八甲田連峰内の旅館近くにある。

十和田湖の景勝美を広く世に紹介した明治の文豪・大町桂月にも触れられています。猪木家の墓は桂月の墓の並びに建てられました。ちなみに光太郎の「乙女の像」、元々は桂月ら、周辺の国立公園指定の礎を築いた「十和田の三恩人」を顕彰するというコンセプトで建てられたものでした。他の二人は元県知事の武田千代三郎、元法奥沢村長・小笠原耕一です。

仙台に本社を置く『河北新報』さん。

猪木さん、東北にも縁 仙台のおでん屋行きつけ、十和田に墓建立

 1日に死去したアントニオ猪木さんは東北にたびたび足を運び、各地で親交を結んできた。今年5月には青森県十和田市の蔦温泉旅館近くに「アントニオ猪木家の墓」を建てており、先年亡くなった最愛の妻田鶴子さんと共に葬られる見通しだ。
 「あまりにも突然のことでびっくりした」。行きつけだった仙台市青葉区一番町の「おでん三吉」の2代目、田村忠嗣さん(78)は驚きを隠せない様子だ。
 猪木さんの元妻、俳優倍賞美津子さんの父と田村さんの父が戦友だったのが縁で、交流が続いてきた。猪木さんは興行で仙台を訪れるたび、他の選手を連れて来店した。
 今年は墓の建立式に向かう途中で店に寄った。プロレス中継の実況で一世を風靡(ふうび)したフリーアナウンサーの古舘伊知郎さんと、定番の大根やイイダコなどのおでんをつまみながら、数年ぶりという酒を楽しんだ。
 車いすでの来店だったが、田村さんは「思っていたよりも元気だった」と回想する。同い年で「(えとの)ヒツジは高尚な動物なんだ」と2人で笑い合った思い出を語り「気さくな方だった」と冥福を祈った。
 「アントニオ猪木家の墓」は蔦温泉旅館から歩いて3分ほどの八甲田山麓に、ひっそりとたたずむ。「迷わず行けよ 行けば分かるさ」。墓石には猪木さんが引退試合のスピーチで残した名フレーズが刻まれている。
 蔦温泉は、猪木さんが最愛の妻・田鶴子さんと蔦温泉を繰り返し訪れていた思い出の地。墓を管理する城ケ倉観光(青森市)によると、猪木さんは墓を建てた理由を「ご縁というか、必然というか…」と話していたという。
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青森県の地方紙『デーリー東北』さん。

八戸の定宿に思い出の品々 十和田・蔦温泉には墓建立/アントニオ猪木さん死去

 アントニオ猪木さんはレスラー時代から晩年に至るまで、北奥羽地方ともゆかりが深かった。巡業で八戸市を訪れた際の定宿は、同市寺横町の老舗「柏木旅館」。旅館には、宿泊時の写真や新日本プロレスの創立10周年を記念して贈られた感謝状など思い出の品々が今も残る。
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 滞在時は2代目おかみの故柏木マツヱさん、3代目のまゆみさん(91)と仲良く茶の間で話していたという猪木さん。
 まゆみさんの娘、七穂さん(61)は「気さくでおおらかで優しい人だった。お酒はほとんど飲まず、茶の間で自分の家のようにくつろいでいた」と振り返る。
 市内でサバの塩焼きを購入していたことや、当時からプロテインを飲んで体づくりをしていたことも印象深いという。
 坂口征二さんやストロング小林さんらといった往年のスター選手と、旅館でマージャンを楽しんでいたエピソードも。七穂さんは「(体が大きいので)牌が小さく見えて面白かった」と懐かしむ。
 近年は疎遠になっていたが、闘病を知り、陰ながら応援していた。「亡くなったと聞いて驚いた。何とか治ってくれればと思っていたが」としのんだ。
011 猪木さんは晩年、十和田市の名湯・蔦温泉のコマーシャルにも出演していたほか、温泉近くに「アントニオ猪木家の墓」も建立。温泉ホームページによると5月に、猪木さんの亡妻・田鶴子さんを納骨しているという。
 訃報が届いた1日、墓には多くのファンが足を運んだ。正面に力強く「道」と刻まれた墓石。訪れた人たちは静かに手を合わせたり花を供えたりして、冥福を祈った。
 十和田市の男性会社員(37)は、「自分と知人が猪木さんの大ファン。今日はその知人の分もと思い、花を手向けに来た。病気療養中と聞いていたので、あまり長くないのかもしれないと覚悟はしていたが、残念です」と話した。

ただ、気になるニュースも。『東京スポーツ』さん。

アントニオ猪木さんのお墓は横浜市内の菩提寺に 愛妻が眠る場所とは別なワケ

 〝燃える闘魂〟のお墓はどうなるのか。1日朝に心不全で亡くなったプロレス界のスーパースター、アントニオ猪木さん(享年79)は、故郷の神奈川・横浜市鶴見区内にある猪木家の菩提寺に葬られる方向で、調整されていることがわかった。
 横浜市鶴見区出身の猪木さんは、13歳でブラジルに移住するまで同市内で育った。複数の関係者によると、猪木さんの生前から故郷・鶴見にある猪木家の墓に納骨すると取り決められており、その遺志に沿って調整されているという。
 猪木さんは、今年5月に故・田鶴子夫人とゆかりのある青森・十和田市内に「アントニオ猪木家の墓」を建立。自身も青森を訪れ、その様子をユーチューブチャンネルで公開していた。
 ただ、青森の墓は「アントニオ猪木家の墓」であり、猪木さんは本名の「猪木寛至」として葬られることを望んでいたようだ。

いずれにせよ、蔦温泉の「アントニオ猪木家の墓」、プロレスファンの聖地となるような気がします。同じ並びに墓のある大町桂月ら「十和田の三恩人」や「乙女の像」にもまたスポットが当たってほしいものです。

ちなみに当方、猪木さんの試合等は生で拝見したことはありませんが、お会いしたというか、お見かけしたというか、そういう経験はあります。

バブル前夜の学生時代、大学の合唱団に所属しており、団としてテレビの仕事も何度かさせていただいたりしまして、そのうち、昭和61年(1986)の大晦日、新高輪プリンスホテルさん飛天の間で公開生中継が行われた、当時あった歌番組「夜のヒットスタジオ」。この日は「世界紅白歌合戦」と銘打って、衛星生中継でロッド・スチュワートさんなどもご出演。当方らは谷村新司さん「昴」のバックコーラスをやりました。その頃の同番組司会が古舘伊知郎さん。古舘さんといえば、猪木さんの試合の実況でも有名でした。その関係でしょうか、客席に(ディナーショー形式でした)猪木さんがいらっしゃっていて、番組の合間に「猪木さんもいらしてます」的な紹介がありました。第一印象は「とにかくデカい」(上記、蔦温泉の「アントニオ猪木家の墓」の高さが190㌢で、現役時代の猪木さんの身長だそうです)。

体格だけでなく、人間的にも大きな人だった猪木さん。平成2年(1990)の湾岸戦争では、イラクに連行されたクウェート在留邦人41人の解放にご尽力されたり、「スポーツ外交」ということで、北朝鮮とのパイプを何とか繋げようと33回も渡航されたりなさいました。

対北朝鮮では、確かに目に見える大きな成果は上げられなかったかもしれません。「渡航制限のある国に行くのはいかがなものか」と苦言を呈したのは、当時の外務大臣。ちなみにその人物は先月、呼ばれもしていない英女王の国葬に「参列見送り」を表明して失笑を買いましたし、その後の「弔問外交」とやらでも何らかの成果があったということが報じられていません。そんな輩が何をか言わんや、ですね。

閑話休題。猪木さんのご冥福、衷心よりお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃上條憲太郎氏、岡茂雄氏、笹村氏くる、酒一升もらふ、談話30分、「坑夫」の揮毫を笹村氏に渡す、

昭和29年(1954)4月11日の日記より 光太郎72歳

上條憲太郎氏」は、元長野県教育長。「岡茂雄氏」は長野県出身の出版人。「笹村氏」は彫刻家の笹村草家人です。昭和33年(1958)に開館する碌山美術館さんに関する相談と思われます。

坑夫」は、荻原守衛滞仏中の彫刻で、光太郎が石膏にとって日本に持ち帰るように勧めました。「揮毫」は、碌山美術館さんに隣接する穂高東中学校さんに翌年除幕された「坑夫」の題字です。
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028明後日、英国のエリザベス女王の国葬が行われるとのこと。

同女王は大正15年(1926)のお生まれで、当会顧問であらせられた故・北川太一先生より1歳年少でした。即位されたのは昭和27年(1952)。光太郎の書き残したものにその御名は確認できていませんが、現上皇陛下が翌年、女王の戴冠式出席のため、横浜から船でイギリスに向かわれた際の談話が残っています。

明治以来イギリスの影響をもつとも多く受けていながら、いまの日本で一番欠けているのはジヨンブルのイギリス的性格だ。人間同士が信じ合うこと、不信に対するきびしい批判――他の国では持ち得ないものである。(談話筆記「皇太子さまを送る」より 昭和28年=1953) 

欧米留学中の明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドンにも居住していた光太郎。芸術の分野ではあまりイギリスから学ぶことはなかったと述懐していますが、人々の暮らしぶり、重厚な伝統などには非常に好感を持っていたようです。「ジヨンブル」は「典型的英国人」の意。

同女王、明治43年(1910)、日英博覧会の際に英王室へ日本から贈られた「台徳院殿霊廟模型」(光太郎の父・光雲が監督となって制作)を、平成27年(2015)に、日本に返還する労を執って下さいました。現在、芝増上寺さんの宝物展示室で公開されています。

その国葬が明後日だそうで、既に献花に訪れる一般国民が5㌔㍍もの長蛇の列を成していたというニュースを昨日拝見しました(今朝のニュースでは8㎞)。およそ国葬に値しない人物の国葬を強行しようとし、反対のデモの列が生じているどこぞの国とは大違いですね(笑)。ついでにいうなら呼ばれもしないのに参列見送りを発表して失笑を買ったトンマもいる国ですが(笑)。

さて、「国葬」というと、光太郎にずばり「国葬」の語を題名に使った詩があります。昭和18年(1943)、山本五十六元帥の国葬に際し、『毎日新聞』に寄稿したものです。

   山本元帥国葬009

元帥山本五十六提督の遺骨
いま国葬の儀によつて葬らる。
元帥の勲功めもあやに、
同胞もとより之を熟知す。
われら心を傾けて元帥を送り奉り、
あらためて元帥のおん面影をしのぶ。008
元帥幼にして長岡のきかんぼ、
志を立てて不屈不撓、
外に使して君命を辱めず、
却つて鴃舌の老雄をも脅かす。
元帥身を以て東郷精神の根幹に生き、
更に近代戦術の機秘を握り、
機略に富み、機先を制し、
時に豪放、時に精緻。
若き世代の真面目(しんめんもく)を限りなく愛惜し、
長官の身をほとほと忘れて
一兵の身を忘れず、
丹心を秉(と)つて師友に降(くだ)る。
干戈の間(あひだ)文をすてず、
国風時として絶唱。011
眼(まなこ)笑ひ、口怒り、
むしろ学童腕白の趣あり。
かくの如き提督の力、敵を撃ち、
忽ち太平洋に不敗の堅陣を布き、
更に猛進つひに陣頭の空に隠れたまふ。
国民喪に服していま元帥を送り奉り、
心武者ぶるひして元帥に祈る。012
元帥の成したまはんとせしところ、
われら必ずこれを遂げん。
元帥叱咤して遠くわれらを導きたまへ。


山本の戦死はこの年4月18日、国葬の挙行は6月5日でした。

当時の記録映像が残っています。
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死者を悼むのは人として当然のことでしょう。しかし、その死をもプロパガンダに利用した当時の世情には呆れます。
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「元帥に続け」、つまり「死ね」ということでしょうか。

現在、国民の過半数が反対している国葬を強行しようとしている勢力、また、その被葬当該人物が、戦前戦時のこうした思想を美徳とする輩である(あった)ことに、激しく違和感を感じますね。当該勢力は「国民喪に服していま元総理を送り奉り、心武者ぶるひして元総理に祈る。元総理の成したまはんとせしところ、われら必ずこれを遂げん。」という方向に持って行きたいのでしょうが。そうは問屋が卸しません。

ところで、英女王の逝去に際し、バッキンガム宮殿上空にはみごとな二重の虹が架かったそうです。
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9月27日(火)、ある国には、超大型台風でも来るのではないでしょうか(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午后四時木村修吉郎氏迎にくる、谷口吉郎氏くる、一緒に山王「山の茶屋」行、佐藤春夫、安倍能成、谷口吉郎、田村剛、余、座談会、十和田公園について、

昭和29年(1954)1月8日の日記より 光太郎72歳

この年3月の雑誌『心』に掲載された座談会「自然の中の芸術」当日です。前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関して。当初建立予定だった十和田湖子(ね)の口地区には許可出来ない、と、横槍を入れてきた人物が含まれています。その横槍も正当な理由ではなく、自分がプロジェクトから外された腹いせというのが明白で、光太郎と青森県を仲介した佐藤春夫などは激怒。別の機会に「これは芸術の尊厳のために正しく大声叱呼して糾明すべきだとわたくしは心外に堪えない」と書きました。座談会で初めてその件を知ったという安倍能成も憤慨。光太郎の言いたかったことを代弁してくれています。当該人物は「丁寧な説明」をしようとしたようですが、却って火に油、燃料投下(笑)。

いつの時代にもこういう輩がいるのですね(笑)。

今日の朝刊を開いて「ありゃま」でした。歌手のおおたか静流さんが亡くなったとのこと。

『朝日新聞』さん。

歌手・おおたか静流さん死去 「にほんごであそぼ」、「花」のカバー

004 NHK・Eテレ「にほんごであそぼ」への出演や喜納昌吉さんの「花」のカバーで知られた、歌手のおおたか静流(おおたか・しずる、本名小西静子〈こにし・しずこ〉)さんが5日、がんのため死去した。69歳だった。葬儀は近親者で営む。喪主は夫小西徳雄(こにし・とくお)さん。後日、お別れの会を開く予定。
 東京都出身。7歳からクラシックの声楽家に師事。一時は漫画家を志望したが、大学時代に歌手を志す。ジャズや民俗音楽の影響を受けたボーダーレスな音楽を数多く生み出した。
 喜納さんの「花」のカバーや、映画「シコふんじゃった。」(周防正行監督)で使われたザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」のカバーで知られるほか、数多くのCMソングを歌唱。「七色の声」の異名を持つ。「にほんごであそぼ」では、リズムや韻を踏んだ遊び心あふれる楽曲を作り、子どもたちと一緒にダンスや劇を披露していた。
 絵画や朗読など、ジャンルを超えた活動を続け、ワークショップ「声のお絵描き」の主宰を務めた。
 社会的な活動も多く、米国やフランスで東日本大震災追悼公演を開催したほか、広島の原爆投下時に爆心地にあったピアノを使った「ミサコのピアノ」コンサートシリーズ、核廃絶を訴える国際キャンペーンなどにも参加した。

時事通信さん。

歌手のおおたか静流さん死去005

 おおたか 静流さん(おおたか・しずる=歌手)5日午前、病気で死去、69歳。
 東京都出身。葬儀は近親者で行う。
 89年にユニット「ディド」でデビューし、翌年ソロに。クラシックやジャズ、民族音楽の影響を受けながら、日本情緒がにじむ独創的な作風の歌で知られた。喜納昌吉さんの曲をカバーした「花」などで知られ、多数のCM曲も歌唱。NHK・Eテレの番組「にほんごであそぼ」にもレギュラー出演した。

NHKさん。

歌手のおおたか静流さん死去 69歳 「にほんごであそぼ」に出演

 表現力豊かな歌声で知られ、NHK Eテレの「にほんごであそぼ」にも出演していた歌手のおおたか静流さんが今月5日、がんのため東京都内の自宅で亡くなりました。69歳でした。
 おおたか静流さんは東京都出身で、7歳からクラシックの声楽家に師事して歌を学び「七色の声」と言われた多彩な表現力で数々のCMソングを手がけたほか、ジャズや民族音楽など幅広いジャンルで活動しました。
 喜納昌吉さんのヒット曲「花」をはじめ「林檎の木の下で」、「悲しくてやりきれない」などのカバー曲でも知られ、個性豊かで透き通った歌声が話題となりました。
 また、NHK Eテレの番組「にほんごであそぼ」にも出演し、リズムにのせたことば遊びで人気を集めました。
 親族によりますとおおたかさんは今月5日、がんのため東京都内の自宅で亡くなったということです。
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おおたかさん、NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」では、坂本龍一さん作曲の「道程」も歌われていました。

東日本大震災があった次の年の平成24年(2012)に公開収録が行われ、翌年オンエアされて、さらにDVD化もされた「にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島」。

作曲の坂本龍一さんご自身がピアノ伴奏、尺八の藤原道山さんもご参加。小錦八十吉さんや子供たちと一緒に、おおたかさんも歌唱で加わりました。
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また、平成30年(2018)の同番組では、おおたかさんのソロバージョンも。その後くり返し使われました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

文部省芸術課長宇野俊夫氏くる、理由書ほしとの事なれど必要なき旨を告げる、

昭和28年(1953)12月22日の日記より 光太郎71歳

日本芸術院会員推薦の辞退に関わります。辞退されることを想定していなかった文部省は対応にてんてこ舞いで、3日前に続き、またしても光太郎を訪問、推薦辞退の理由書を書けと迫ります。しかし光太郎、勝手に推薦しておいて、辞退するのにこちらから書面を提出せよとは何事だ! 的な対応。確かにその通りですね。








晩年の光太郎に親炙し、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様・北川節子様が、8月16日(火)に亡くなられました。享年94歳だったそうです。ご葬儀は御家族と近親者のみで、北川先生の時と同じく菩提寺の文京区浄心寺さんにて執り行われたとのこと。

昨日、ご子息光彦氏から通知の葉書が届き、驚いた次第です。そちらによれば、「亡くなる直前まで比較的元気で家族と共に自宅で過ごし、最後も家族に見守られながら静かに亡くなりました」。
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千駄木のお宅にお邪魔するたび、優しい笑顔で迎えて下さった節子様。連翹忌の集いや女川光太郎祭北川先生を囲む新年会等、いつも北川先生の傍らで、その優しい笑顔をふりまかれ、どんな場でもたちまち和ませてしまうという特技をお持ちでした。

節子様、光太郎最晩年の日記に登場されています。

后北川太一氏新婚の細君同伴来訪、二本松訪問の話をきく、(昭和30年(1955)10月27日)

北川先生は昭和27年(1952)には光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪問され、以後、何度も足を運ばれていましたが、この月20日に、当時勤務されていた定時制高校でのご同僚であらせられた節子様とご結婚なさり、初めてお二人でのご訪問でした。

二本松訪問」は、御夫妻の新婚旅行。その際の写真がこちらです。
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翌昭和31年(1956)、光太郎の亡くなった年にも。

后北川太一夫妻くる、メドツクもらふ、三時半辞去、新年詩の新聞贈呈、(昭和31年(1956)1月24日)

「メドツク」はワインと思われます。「新年詩の新聞」はおそらくこの年元日の『中部日本新聞』。詩「開びやく以来の新年」が掲載されていました。

節子様、この2回の会見の際の印象として、「光太郎先生はとても大きい人だった」と語られました。小柄だった御夫妻と較べての体格、という意味もありましょうが、それよりも光太郎の人格的な大きさということをおっしゃっていたのだと存じます。

節子先生(かつての教え子の皆さんがそうお呼びでしたので、当方もうつってしまいました)の笑顔に接することがもうできないのかと思うと、実に淋しい限りですが、北川先生の元に旅立たれたのだと考えれば、心が安らぎます。彼岸にてまた仲睦まじく、そして光太郎とも再会していただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

鼠穴ふさぎ、 夜在宅、うどん玉子等、 ネズミまだ出る、


昭和28年(1953)11月23日の日記より 光太郎71歳

前年まで7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋でも、ネズミは奇妙な同居人でしたが、北川御夫妻が訪問された中野の貸しアトリエでもネズミが出没。昭和20年代には珍しくなかったのかもしれません。

000福島県二本松市で、智恵子顕彰団体「智恵子の里レモン会」会長を務められていた、渡辺秀雄氏が亡くなりました。昨日、ご葬儀(家族葬)だったそうです。

レモン会さんでは、10月5日の智恵子忌日「レモンの日」に合わせ、それと最も近い日曜日という期日設定で、智恵子を偲ぶ「レモン忌」の集いを主催なさっています。ただ、一昨年、昨年と、コロナ禍のため中止となり、最後に開催されたのは令和元年(2019)でした。したがって、当方、最後にお会いしたのもその時。コロナ禍となって以後、最後にお会いしたのがコロナ禍前、という方の訃報がこのところ相次いでおり、一層胸を痛めております。

その際の画像。会の冒頭近く、主催者挨拶をされる渡辺氏。
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その前年。
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智恵子の里レモン会さんは、昭和63年(1988)、晩年の光太郎と交流のあった故・伊藤昭氏が立ち上げられ、一度消滅したものの、平成17年(2005)に渡辺会長の下で復活。以来、先述の通り、智恵子を偲ぶ「レモン忌」の運営を続けて来られました。

渡辺氏個人は、レモン会さんの活動以外に、同じ二本松でやはり智恵子顕彰をされている「智恵子のまち夢くらぶ」さんにも協力を惜しまず、同会主催の「智恵子講座」の講師「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査員、「智恵子抄」出版80周年記念文集へのご寄稿などもなさいました。

また、当会主催の連翹忌にもたびたびご出席下さいましたし、平成27年(2015)に光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村の高村山荘前で行われた「第58回高村祭」では、当方が講演を仰せつかると、福島から駆けつけて下さいました。翌朝、宿で見たローカルニュースに「福島から訪れた人」という肩書きで氏のインタビューが流れ、笑えたのが今となってはいい思い出ですし、様々な機会での氏の魅力溢れるお人柄に触れたことを思い起こすと、滂沱禁じ得ません……。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます

【折々のことば・光太郎】006

十和田の像は冬中雪囲ひの由、


昭和28年(1953)11月11日の日記より 光太郎71歳


十和田の像」は、前月に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。設置当初の数年間は、豪雪による被害が恐ろしいということで、冬期間、右のような状態にしていたそうです。

その後、ここまでやらなくても大丈夫ということがわかり、雪囲いはやめました。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市で、光太郎の語り部として活動されていた高橋征一さんが亡くなりました。

昭和20年(1945)、空襲で東京駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された光太郎は、5月、花巻の宮沢賢治の実家に疎開。終戦となっても帰京せず、逆に花巻郊外の旧太田村に鉱山の飯場小屋を移築してもらって住み始めます。

その山小屋近く(といっても1㎞弱)の太田小学校山口分教場(のち山口小学校)に通っていた児童の一人が、高橋さん。昭和25年(1950)の同校学芸会の際に撮られたこの写真で、右から二人目に写っています。
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コロナ禍前の令和元年(2019)5月に、旧太田村で開催されたの第62回高村祭のローカルニュースから。

その前年に開催された第61回高村祭では、他の3人の方々とともに太田村在住時の光太郎の思い出を語って下さいました。聞き手は当方でした。4人のうち、高橋愛子さんも既に亡くなっています。
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高橋さん、平成28年(2016)に花巻市太田地区振興会さんから刊行された『高村光太郎入村70年記念 ~思い出記録集~ 大地麗』の編集にあたられたり、同じ年には花巻高村光太郎記念館さんで無料配付されていたリーフレット『たかしとせいいち ぼくたちが出会った光太郎先生』で、上記写真左端の浅沼隆さんと共に、光太郎の思い出を証言して下さったりも。
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その他、折々の新聞記事などでも、高橋さんの証言が紙面を飾っています。

河北新報「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」。
新聞各紙から。
「とうほく名作散歩 詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む」。

さらに昭和51年(1976)、読売新聞社盛岡支局発行の『201人の証言 啄木・賢治・光太郎』でも。
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同書から、最上部画像の光太郎サンタについて。
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戦前には、「芸術家あるある」で「俗世間とは極力交わらない」、戦時中には歪んだ愛国意識で国民を鼓舞し死地に追いやった光太郎。戦後、老境に入ってようやく自然に世間と交われるようになった、その頃をご存じの高橋さん……。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

夕方リーチ、石川欣一氏等くる、リーチとアトリエで一寸話、明日出発して東北旅行の由、
昭和28年(1953)10月3日の日記より 光太郎71歳

「リーチ」は陶芸家のバーナード・リーチ。明治41年(1908)、英国留学中の光太郎と知り合ったのがきっかけで、来日。戦前は日本、イギリス、そして中国などを行ったり来たりしていましたが、昭和10年(1935)に帰国後はしばらく母国にとどまり、この年、久しぶりに来日し、光太郎らと雑誌で座談を行ったりもしました。そしてこの日が、光太郎とリーチ、今生の別れとなりました。

文芸評論家の近藤信行氏が亡くなりました。『東京新聞』さんから。

近藤信行さん死去 文芸評論家

007 近藤信行さん(こんどう・のぶゆき=文芸評論家)17日、老衰のため死去、91歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。
 中央公論社で「中央公論」「婦人公論」などの編集に携わり、文芸誌「海」の編集長を務めた。「小島烏水 山の風流使者伝」で大仏次郎賞を受賞。山梨県立文学館の館長も務めた。
 登山関連の書籍を多数編さん。他の著書に「安曇野のナチュラリスト 田淵行男」など。

近藤氏、記事にあるとおり山梨県立文学館さんの館長を務められていまして、その関係もあって連翹忌にご参加下さったこともおありでした。

館長在任中の平成19年(2007)には、同館で企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催して下さいました。

その際には、関連行事として、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏、世田谷美術館館長・酒井忠康氏との鼎談「高村光太郎の人生 パリ・東京・太田村」をなさったり、同展図録には館長としての巻頭挨拶文「開催にあたって」、論考「高村光太郎の“戦後”」をご執筆されたりしました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

大町桂月のメダルをはじめる、


昭和28年(1953)8月4日の日記より 光太郎71歳

大町桂月のメダル」は、この年10月に開催された、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際、関係者に配られたものです。元々「乙女の像」が、十和田湖の景勝美を世に広めた大町桂月らを顕彰するモニュメントだったことに関わります。

小品ながら、完成した彫刻としては、光太郎最後の作品です。
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先日の渡辺正治氏に続き、またしても生前の光太郎をご存じの方の訃報です。

時事通信さんから。

田沼武能さん死去、93歳 世界の子ども撮影、文化勲章

100 世界の子どもや下町の風景などを長年記録し続けた写真家の田沼武能(たぬま・たけよし)さんが東京都内の自宅で死去したことが2日、分かった。93歳だった。東京都出身。葬儀は親族のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は妻敦子(あつこ)さん。
 東京・浅草の写真館に生まれた。東京写真工業専門学校(現・東京工芸大)を卒業後、木村伊兵衛に師事。月刊誌「芸術新潮」の嘱託写真家として小説家や美術家ら文化人の肖像を撮り、米タイム・ライフ社の契約写真家としてフォト・ジャーナリズムの世界でも活躍した。
 1972年に同社との契約が終了し、ライフワークとして世界の子どもたちを撮影。国連児童基金(ユニセフ)親善大使の黒柳徹子さんの各国訪問にも同行し、120を超える国と地域に足を運んだ。
101 日本写真家協会会長、日本写真著作権協会会長、日本写真保存センター代表などを歴任し、写真家の地位向上やフィルムの保存活動に尽力した。東京工芸大教授として後進の指導にも熱心に取り組んだ。
 長年の業績が認められ、85年に菊池寛賞を受賞。90年に紫綬褒章、2002年に勲三等瑞宝章を受け、03年には文化功労者に選ばれた。19年、写真家として初めて文化勲章を受章した。

氏が文化勲章を受章された際の投稿で詳しく書きましたが、氏は昭和27年(1952)、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後、複数回、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪れ、光太郎を撮影なさっています。残念ながら光太郎日記にお名前は記されていませんが。

また、光太郎令甥でやはり写真家だった髙村規氏とは、同じ木村伊兵衛門下ということで親しくなされ、平成26年(2014)の規氏のご葬儀では、弔辞を読まれています。当方、氏にお会いしたのはこの時が最初で最後でした。

今朝の『朝日新聞』さんでは、一面コラムで氏のご逝去に触れています。

天声人語

日本を代表する写真家、田沼武能(たけよし)さんが楽しそうに見せてくれたのは、1冊667円の薄い冊子だった。子どもの素朴な笑顔が満載。「こういう写真集を作りたかったんだよ。立派な表紙の高い本じゃなくてさ」と笑った▼生涯かけて子どもの表情を撮った。ソマリアの廃墟で遊ぶ男児たち。津波に襲われたインドネシアの少女。極限化でなお好奇心あふれる瞳を鮮やかに写した▼原点は東京大空襲にあった。浅草の自宅近くで黒こげの幼児の遺体を見た。防火水槽の中に立った姿だった。母親が炎の熱から「せめて水の中に」と入れたに違いない。幼児の表情は神々しく、地蔵のように見えたという▼「戦場はどうしても撮りたくない」。米誌「ライフ」との契約の際は、ベトナム戦争の取材を勧められても固辞した。報道写真家として名を上げる好機だったが、「空襲で死体をいやになるほど見た。戦争の悲惨を撮る気にはなれませんでした」▼そんな思いを直接伺ったのは3年前の春のこと。月給の16倍もするライカが欲しくて生活費を極端に切り詰め、「タヌちゃんは趣味倹約貯蓄」とからかわれたこと。南米アンデスを撮るため自宅を抵当に入れて出張資金を捻出したこと。欲や得にまどわされぬ人生談義に時のたつのを忘れた▼永遠のカメラ小僧が93歳で旅立ったと聞き、667円の冊子を読み返してみた。題は『地蔵さまと私』。焼け野原の街で見た黒こげの地蔵の記憶が、子どもに向けたやさしい言葉でつづられていた。

『朝日』さんは、氏がかつて会長を務められていた全日本写真連盟の後援に入っている関係もあり、社会面でも大きく取り上げていました。長いので全文引用しませんが、末尾の黒柳徹子さんのコメントのみ。氏はユニセフ親善大使としての黒柳さんの海外訪問等に同行し、125カ国以上を廻られたそうです。

黒柳徹子さん 「世界一上手」

 黒柳徹子さんは2日、コメントを寄せ、「子どもを撮ったら世界一というくらい、子どもの写真を上手に撮りました。秋ごろに、ユニセフの視察に行く約束をしていました。『93歳でも子供たちのところに行こうとなさっていたのか!!』と、改めて感動したのです」と追悼した。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】103

中央公論社より、栗本、松下、宮本氏三氏くる、紙絵展の事、


昭和28年(1953)1月8日の日記より 光太郎71歳

「紙絵展」は、智恵子の紙絵展。翌月2日から、丸ビル内の中央公論社画廊で開催されました。都内では光太郎帰京前の昭和26年(1951)に開催されたのに続き、2度目でした。


昨日、今月17日に亡くなった渡辺正治氏(劇作家・女優渡辺えりさん御父君にして、生前の光太郎をご存じでした)ご遺族から、香典のお返しが届きました。

同封されていたハガキ大二つ折りの「お礼の言葉」。通常、この手のものは葬儀屋さんに既成の雛形があり、その中から選ぶものですね。当方、昨年暮れに妻の母が亡くなった時にもそうしました。
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そう思って開いたところ、驚きました。何と、えりさんによる長文のご挨拶が。ご本名の「えり子」クレジットです。光太郎にも触れて下さっています。
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こういうことも可能なのですね。

もう一件、『山形新聞』さんに載ったえりさんの文章。「渡辺えりのちょっとブレーク」という月イチの連載、5月分で、一昨日の掲載です。

(204)父ちゃん、ありがとう

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 17日の夜、父親が亡くなった。ここ数年、介護施設のお世話になっていた父。先月、高熱が出て入院したが、良くなったので退院することになり安心していた矢先だった。
 毎月お見舞いに行っていたが、コロナ禍で直接触れ合うことができず、ガラス窓越しに10分だけの面会が続いていた。そんな中で逝ってしまった。新幹線で病院に着いたのが午後10時15分。すでに意識はなく、「父ちゃん、父ちゃん」と叫んで体をさすっても意識は戻らず、同36分に帰らぬ人となった。コロナ禍で面会は私と弟の2人きり。本当にコロナは残酷である。
 95歳でも父の肩は厚く、昔、湯野浜海水浴場で肩車をしてもらったことを思い出した。看護師さんに「何度も肩車してもらったんですよ」と話す。父がどれほどたくましかったか、ユーモアがあり優しかったか、誰かに伝えたかった。
 看護師さんに丁寧に体を拭いてもらったためか、父の頬はほんのり赤く色づいて少年のようにふっくらしてきた。見開いた目はどうやっても閉じない。お医者さんから「私が駆けつけるまで待っていた」と聞き、何とか目を開いていようと頑張ってくれたのだと思った。時間がたつにつれ、安心したように目を閉じて口角が上がり、仏像のような表情になってくる。神様か仏様かと、思わず拝んでしまうほどのありがたい顔に変化していった。
 病院の待合室には弟の奥さん、いとこたちが駆けつけていた。葬儀屋さんが父の遺体を運びに来てくれたが、黒いシートにくるまれている。病院の裏口から運び出そうとした瞬間、看護師さんが機転を利かせて父の顔を見せてくれた。親族たちが脱兎(だっと)のごとく駆けつけ、父の名を呼ぶ。
 お通夜の部屋が間に合わず、霊安室に一晩安置された。突然のことなのでお墓もなく、お寺も決まっていない。私も仕事の格好のまま、気が動転して頭がうまく回らない。
 翌日、葬儀屋さんの進行でお寺や葬儀について話し合い、19日にお通夜、20日に葬儀と日程が決まった。
 コロナ禍なので葬儀は親族だけで済まし、一般の方はお焼香だけ。何度説明を受けても理解できない。とにかく東京から喪服とアルバム、父のために書いた戯曲などを送ってもらい、何人かに父の死を伝えた。誰に伝えていいのかもよく分からない。コロナ禍で友人を呼べず、相談することもできない。しかも15日に足首を剥離骨折してしまったために自分で動くことができない。
 こんな時にけがをしている自分が情けなかったが、弟の立派さとその家族の親切さを改めて感じた。取り乱して感情的になっている姉と、周りの人たちに気遣い謙虚に仕切る弟。子供の頃、泣き虫でおねしょをしていた弟の成長に驚き、見直した。親族たちも昔から父を尊敬し慕っていたのだな、と改めて思う。
 お通夜に親族で集まっていると、東京からもたいまさこと光永吉江、元夫、元劇団員が来てくれた。コロナ禍、山形の友人には遠慮してもらっていたが、それを知らない東京の友人が駆けつけてくれたのだ。
 劇団員の元夫がみんなに知らせてくれたらしい。山形では葬儀の前に火葬するしきたりを知り、その前に父の顔を見に来てくれたのだった。劇団3〇〇の芝居が好きで俳優たちを常に応援し、山形公演の時はいつも実家で歓待してくれた両親。みんなが帰った後は、2人そろって寝込んでしまうほどもてなしてくれた。
 もたいと光永とは、3日徹夜で話しても話がつきないほど気が合う。2人の愉快な会話を戯曲に書いたこともあるが、お通夜の席でも大笑いするシーンがあった。私がボロボロのジーンズに赤い靴下をはいていたら、光永が「早く着替えなさい」と言う。「山形のお通夜は普段着なんだ」と答えたら、東京チームは全員驚きの声を上げる。東京からそのまま来た私は喪服がないのは当然だが、親族も全員が普段着。これは山形の風習であった。突然亡くなったのに、以前から準備していたように感じさせない配慮ではないか? 葬儀の当日には全員喪服を着るが、お通夜は昔から親族もわざわざ普段着を装う。
 ここまで書いてきたら、決められた文字数をとうに過ぎてしまった。おくりびとの話や葬儀屋さんの素晴らしさ、ひつぎに入れた愛用品、葬儀で歌った歌、山形新聞の父の記事、火葬場での話、父の教え子、父が戦時中に教員になろうと決意した話、私が演劇をすることに反対だった父が突然許した理由など、これらは次回に書きたいと思う。
 お忙しい中、お焼香に来てくださった皆さま、本当にありがとうございました。
 いつも明るく、人をほめ、会った人がみんな豊かな気持ちになるような温かい父でした。
(俳優・劇作家、山形市出身)

改めまして、正治氏のご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

揮毫書初、奥平さんの幅の箱に“うつくしきもの”宮崎稔氏の箱に“高村智恵子遺作紙絵”北川太一氏の「智恵子抄」特製本の扉に「われらつねにみちよ」“あれが阿多多羅山”を書く、

昭和28年(1953)1月2日の日記より 光太郎71歳

毎年1月2日には書き初めというのがこれまでの通例で、帰京してからもそのルーティーンは崩しませんでした。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の名が、日記では初めて登場しました(書簡では前年から)。前年、光太郎が帰京したと聞きつけて体当たり的に訪問された北川先生、面識もなかったため何度か追い返された後、貸しアトリエの大家だった中西夫人のとりなしで光太郎と会うことが出来、以後、親炙することとなりました。

渡辺えりさん、そのエピソードを舞台「月にぬれた手」で使われています。ただ、「北山」と名前を変えてですが。
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この日、北川先生が書いてもらった揮毫がこちら。
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ここから版を採って、複製の色紙や幅が作られ(それを「真筆」として展示されてしまうことがあり、閉口していますが)、さらに智恵子の故郷・二本松霞ヶ城に建てられた詩碑のプレートも作られました。
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