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001当会顧問であらせられた、故・北川太一先生が、かつて都立高校教諭をなさっていた頃に教え子だった皆さんの会・北斗会さんの会長を永らく務められた、都内ご在住の小川義夫さんが亡くなりました。

小川さん、新潟の旧山古志村のご出身。北川先生の一回り下の丑年とおっしゃっていましたので、今年、誕生日を迎えられていたとすれば満84歳ということになります。

北斗会さんとして、北川先生の御著書や、北川先生を顕彰する書籍の編集、刊行の中心にいらっしゃり、当方も大変お世話になりました。右画像は、北斗会さん編集の『北川太一とその仲間達』(平成23年=2011)。小川さんもご執筆なさり、さらに小川さんも御出席された北川先生を囲んでの座談会の様子も収録されています。

毎年4月2日の光太郎忌日・連翹忌の集い(昨年・今年はコロナ禍のため中止)、そして8月には、女川光太郎祭(こちらも昨年・今年はコロナ禍のため中止)にもよく参加されていました。
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こちらは東日本大震災の翌年(平成24年=2012)、当時まだ遺されていた、女川港近くの横倒しになったビルを御覧になっている北川先生ご夫妻、そして右は小川さんの後ろ姿です。

また、1月には北川先生ご夫妻を囲む新年会を企画され、当方も参加させていただいておりました。こちらは平成28年(2016)の新年会、開会の挨拶をされている小川さんです。
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さらに、昨年1月の、北川先生ご葬儀では、葬儀委員長を務められたりもなさいました。その折が、当方、小川さんにお会いした最後となってしまいました……。

さて、小川さん。ご本業は、印刷会社の社長さんでしたが、演歌歌手としても活動されていました。70歳を過ぎてから、心臓病の予後のリハビリのためお医者様の勧めでカラオケに取り組み、大会などに出場するうちに、あれよあれよという間にプロデビューとなったそうです。
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BS放送の歌謡番組にもご出演され、当方、「ぶっちゃけ、ギャラとかって、どんなもんなんですか?」などと失礼ながらお訊きしたところ、「いや、こっちがプロモーションさせて貰う立場なので、逆にこっちから「出演料」を払うんだよ。いわゆる大御所でもそうなんだ」などと教えていただきました。そんなことも、今となっては懐かしい思い出です……。
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今頃は、空の上で、北川先生と久闊を叙されているのではないでしょうか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

食事中、東京角川書店主角川源義氏来訪。小山書店の高村昭氏と知合の由。濃茶、チーズ等もらふ。いろいろの談話。出版会の消息等もきく。


昭和23年(1948)9月7日の日記より 光太郎66歳

角川源義は昭和20年(1945)創業の角川書店の創業者。後発の出版社のため、岩波書店や新潮社などに追いつき追い越せ、と、随分努力をしました。源義自ら太田村の光太郎の小屋を訪れること、少なくとも3度。光太郎帰京後も、中野のアトリエに通っていました。その意気やよし、ということで、光太郎は角川文庫や『昭和文学全集』に作品を提供します。

昨日の朝刊を開き、劇作家の清水邦夫氏の訃報が出ていて、驚きました。

劇作家の清水邦夫さんが死去 蜷川幸雄さんとコンビ

001 若者の苦悩やいら立ちを描いて人気を集めた劇作家の清水邦夫(しみず・くにお)さんが15日午後0時46分、老衰のため死去した。84歳。新潟県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。
 1960年代後半から70年代初めにかけて、演出家の蜷川幸雄さんとのコンビで「真情あふるる軽薄さ」「ぼくらが非情の大河をくだる時」などの作品を発表し、全共闘世代の熱い支持を得た。
 妻で俳優の故松本典子さんらと演劇企画集団「木冬社」を結成。戯曲の代表作に「タンゴ・冬の終わりに」「エレジー」「弟よ」などがある。
 岸田国士戯曲賞、泉鏡花文学賞などを受賞。小説も執筆し、芥川賞候補にも挙がった。
(共同通信)

清水氏、平成3年(1991)には、光太郎智恵子の物語「哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて―」を、記事にもある木冬社さんの公演として実施されました。演出も同氏でした。
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平成5年(1993)には再演。
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その後、各地で巡回公演もされたようです。

いずれも光太郎役は小林勝也さん、智恵子役は清水氏の奥様だった故・松本典子さんでした。

脚本は、平成4年(1992)刊行の『清水邦夫全仕事 1981~1991』(河出書房新社』に掲載されています。智恵子が心を病んだ昭和初期のきな臭い世相を背景に、虚実の入り乱れた不思議な世界でした。

また、昭和58年(1983)初演の『いとしいとしのぶーたれ乞食』でも、光太郎智恵子に触れられていたようです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

サダミさん宅の幸子さん来て、ドンといふ米のアラレ菓子、鰯の生干などもらふ。廿三日節句の菖蒲湯に来よとの事。

昭和22年(1947)6月19日の日記より 光太郎65歳

「ドンといふ米のアラレ菓子」、「ポン菓子」という呼称が一般的でしょうか。圧力を掛けて開放、膨張させたものです。

当方、最近、朝食(パン食)には、これを欠かしません。グノーラ的に牛乳をかけていただいています。光太郎が食べたものと全く同じかどうかわかりませんが。
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当方も加入している高村光太郎研究会発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』の第42号が届きました。

今号は、昨年1月に逝去された、当会、そして高村光太郎研究会の顧問であらせられた故・北川太一先生の追悼号。
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研究会主宰の野末明氏をはじめ、7名の研究会員による追悼文等が掲載されています。当方も拙稿を寄せました。
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その他、盛岡大学教授・矢野千載氏による「高村光太郎と中村不折の書道観―明治・大正の六朝書道を中心として―」など、5本の「論文」。

盛りだくさんとなったため、当方が連載として持たせていただいている「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』に未収録作品の紹介)、「光太郎歿後年譜」はカット。原稿を送ってから、「今回は紙幅の都合で載せません」と返答があり、カチンときたのですが、まぁ、いたしかたないでしょう。

それから、追悼といえば、やはり研究会員であらせられた、群馬県立女子大学教授・杉本優氏。昨年9月に亡くなられたということで、その件にも触れられています。

当方、そうとは知らずに今年の年賀状を差し上げたところ、追って、奥様から亡くなったという報を頂き、驚いた次第でした。まだお若かったはずでしたので。
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杉本氏、平成27年(2015)刊行の『近代文学草稿・原稿研究事典』で、光太郎の項、4ページをご執筆なさったほか、共著の研究書、各種雑誌の光太郎智恵子特集にもいろいろ寄稿なさいました。
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平成9年(1997)刊行の『詩う作家たち 詩と小説のあいだ』(野山嘉正編)。
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平成10年(1998)発行の『国文学 解釈と鑑賞』「特集 高村光太郎の世界」。
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昭和63年(1988)発行の『彷書月刊』「特集 高村智恵子」。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『高村光太郎研究』。ご入用の方は、最上部に奥付画像を載せておきましたので、そちらまで。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」への追加詩二篇清書。「報告」「松庵寺」。


昭和22年(1947)6月5日の日記より 光太郎65歳

ここで言う「智恵子抄」は、戦後の一時期刊行されていた白玉書房版です。

昨日から一泊で、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町に来ております。

東日本大震災から10年ということで、10年前、津波に呑まれて還らぬ人となった女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣さんを偲ぼうと、やって参りました。

町主催の追悼式に参加。
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その前後、港や駅前を散策。
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10 年前、津波で倒壊し、昨年、再建された光太郎文学碑。かたわらにはこちらも津波で横倒しになった旧女川交番。
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女川駅から見た街並みと海。
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この海が、10 年前、牙を剥いたというのが信じられないほど穏やかでした。

光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。
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宿泊は駅裏のトレーラーハウスのホテル、エル・ファロさん。
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これから千葉の自宅兼事務所に帰ります。詳細なレポートは明日。

美術家の篠田桃紅さんが亡くなりました。今日の朝刊で知って、驚いている次第です。

『朝日新聞』さん。

美術家の篠田桃紅さん死去 107歳、エッセーも人気

002 前衛書から出発して独自の表現空間を切り開いた美術家の篠田桃紅(しのだ・とうこう、本名篠田満洲子〈ますこ〉)さんが1日、老衰のため死去した。107歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主はめい篠田爽子(そうこ)さん。
 中国・大連市生まれ。幼いころから家庭で書、水墨画の手ほどきを受けた。文字の枠をはみ出して、書を基礎にしつつ、戦後は墨による抽象表現を模索した。
 1956~58年の米ニューヨーク滞在中、米国など各地で個展を開いて注目を集めた。
 大英博物館などに作品が収蔵されているほか、国立京都国際会館や東京・芝の増上寺にも壁画の大作がある。岐阜県に本籍があったこともあり、同県関市に市立篠田桃紅美術空間がある。
 せまいジャンルに限られたくないと、自ら「美術家」と称した。年齢を重ねても凜(りん)としたたたずまいや、「絶対描きたくないものは描きません」「人として何が完成形なのか、わかりません」といったきっぷのいい語り口が、多くの共感を呼んだ。79年に日本エッセイスト・クラブ賞を受けた随筆「墨いろ」など著作も多く、「一〇三歳になってわかったこと」などが人気を呼んだ。映画監督の篠田正浩さんはいとこ。

『時事通信』さん。

美術家の篠田桃紅さん死去

 水墨を使った独自の抽象作品で国際的に知られる美術家の篠田桃紅(しのだ・とうこう、本名満洲子=ますこ)さんが1日、老衰のため東京都内の病院で死去した。
 107歳だった。葬儀は近親者で済ませた。喪主はめい、爽子(そうこ)さん。
 中国東北部(旧満州)の大連生まれ。幼少から書を始め、第2次世界大戦後、文字を解体した抽象表現「墨象」に取り組んだ。1956年に渡米し、ニューヨークを拠点にシカゴやパリなど欧米で個展も開いた。58年に帰国し、東京・芝の増上寺大本堂の壁画やふすま絵を手掛けるなど精力的に活動を続けた。
 エッセイストとしても活躍。著書に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した「墨いろ」などがある。映画監督の篠田正浩さんはいとこ。

当方、篠田さんの御著書を2冊、拝読しました。どちらも軽く光太郎に触れて下さっています。

平成26年(2014)刊行の『百歳の力』(集英社新書)。
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帯が「一〇三歳」となっていますが、増刷の関係ですね。

曰く、

 若いときには、いまのような仕事をしているとは一切予想はついていなかったし、予定もしなかった。予想も予定もない、いきあたりばったり。出たとこ勝負でずっとやってきました。高村光太郎の詩「道程」と同じです。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 ほんとにそう、いつも高村光太郎の詩を心に思い浮かべて生きてきた。私の前に道はない。誰かが歩いた道を私は歩いているんじゃない。先人のやってきたことをなぞっていない。でもいきるってそういうことです。
 前半は私にあてはまりますよ。でも、後半は私にあてはまるとは思わない。私の後ろに道などないですよ。なくてかまわないと思っているんです。道というほどのものができてなくても、作品というものが残っている。それはある程度残っている。どこかに、ある。
 人が敷いてくれた道をゆっくり歩いていけばいいというような一生は、私の性格には合わないんだからしようがない。私の前に道がないのは自分の性格ゆえの報い。そう思って受け入れてきました。

達観、ですね……。

もう一冊は、『一〇三歳になってわかったこと』(幻冬舎)、平成27年(2015)刊行です。

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こちらでは、

 百歳を過ぎて、どのように歳をとったらいいのか、私にも初めてで、経験がありませんから戸惑います。
 九十代までは、あのかたはこういうことをされていたなどと、参考にすることができる先人がいました。しかし、百歳を過ぎると、前例は少なく、お手本もありません。全部、自分で創造して生きていかなければなりません。
(略)
 これまでも、時折、高村光太郎の詩「道程」を思い浮かべて生きてきましたが、まさしくその心境です。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 私の後ろに道ができるとは微塵も思っていませんが、老境に入って、道なき道を手探りで進んでいるという感じです。
 これまでも勝手気ままに自分一人の考えでやってきましたので、その道を延長しています。日々、やれることをやっているという具合です。

 日々、違う。
 生きていることに、
 同じことの繰り返しはない。

  老いてなお、
  道なき道を手探りで進む。

とのこと。

もしかすると、他の御著書にも同様の記述があるのかも知れません。

光太郎が「道程」を書いたのは、大正3年(1914)。篠田さんのお生まれはその前年の大正2年(1913)。そう考えると、すごいものがありますね。ちなみに同じ大正2年(1913)生まれというと、森繁久弥さん、丹下健三氏、金田一春彦氏、家永三郎氏など。驚いたことに、『ごんぎつね』の新美南吉や、『夫婦善哉』を書いた織田作之助もそうでした。この二人は早世していたので、意外でした。

上記両著の中にも、当方にとっては様々な歴史上の人物とも言える人々との交流の様子などが記されています。会津八一、中原綾子、三好達治、北村ミナ(北村透谷未亡人)、イサム・ノグチ、ロバート・キャパ、それから、たまたま見かけただけだそうですが、芥川龍之介……。くらくらします。光太郎智恵子とは交流がなかったようですが。

その107年のご生涯で、抽象表現による新しい美を産み出し続け、現役でありつづけられたその道程には、まさに感服です。ちなみに来月には横浜そごう美術館さんで、「篠田桃紅展 とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」が開催予定とのこと。急遽、追悼展的な形になるのではないかと思われます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

粉雪 終日来訪者なし。 昭和22年(1947)1月4日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活。厳冬期には、さすがに来訪者も少なく、光太郎自身もステイホーム。おのずと、自分自身と向き合う時間が長くなり、詩の創作に影響していきます。

彫刻家の橋本堅太郎氏が亡くなりました

彫刻家・橋本堅太郎さん死去 文化功労者、木彫界を代表

 日本の木彫界を代表する彫刻家で文化功労者の橋本堅太郎(はしもと・けんたろう)さんが1月31日午前10時44分、誤嚥性肺炎のため東京都目黒区の病院で死去した。90歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。喪主は妻芳子(よしこ)さん。
 東京芸大で平櫛田中に師事。東京学芸大教授として教壇に立ちながら優れた作品を発表し、芸術文化の振興発展に寄与した。日展理事長などを歴任し、2011年に文化功労者に選ばれた。日本芸術院会員。
 主な作品に日本芸術院賞を受賞した「竹園生」がある。
(共同通信)

橋本堅太郎さん死去

 橋本堅太郎さん(はしもと・けんたろう=彫刻家、文化功労者)1月31日、誤嚥(ごえん)性肺炎で死去、90歳。葬儀は近親者で営む。喪主は妻芳子さん。
 東京芸術大では平櫛田中(でんちゅう)に学んだ。長く日展で、木彫の温和な人物像などを発表した。日展理事長や東京学芸大教授を務めた。日本芸術院会員。
(朝日新聞)

橋本氏というと、当方、その代表作ではありませんが、真っ先にこれを想起します。
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JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」(平成21年=2009)。氏のお父さまが二本松出身の彫刻家・橋本高昇ということで、氏ご自身は東京ご出身ですが、ゆかりの地のため、氏に依頼がありました。

こちらも橋本氏の作。二本松霞ヶ城の二本松少年隊像です。銅像研究家の遠藤寛之氏が選んだ「キングオブ銅像」では、光太郎の父・光雲が主任となって制作された皇居前広場の「楠木正成像」についで、第2位に輝きました。
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福島ゆかりということで、福島の地方紙二紙は、ご逝去を大きく報じています。

020橋本堅太郎さん死去 彫刻家、元日展理事長 90歳 二本松ゆかり

 二本松市ゆかりの彫刻家で文化功労者、元日展理事長の橋本堅太郎(はしもと・けんたろう)さんは三十一日午前十時四十四分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都の病院で死去した。九十歳。自宅は東京都杉並区今川一ノ一ノ三。葬儀は近親者による家族葬で営む。喪主は妻芳子(よしこ)さん。木彫部門の国内第一人者で、長年にわたり日本最大規模の美術団体・日展を舞台に活躍した。伝統的な木彫による女性像など清らかで生命力にあふれた作品を数多く手掛けた。
(福島民報)

彫刻家・橋本堅太郎氏死去 木彫・文化功労者、二本松市名誉市民

 木彫の第一人者とされる文化功労者で、二本松市名誉市民の彫刻家橋本堅太郎(はしもと・けんたろう)氏は31日、東京都の病院で死去した。90歳。東京都出身。日本芸術院会員、日展顧問。葬儀・告別式は家族と近親者で執り行われる。
 二本松市出身の彫刻家橋本高昇の長男として都内で生まれ、幼少期に同市で多くの時間を過ごした。東京芸術大彫刻科で平櫛田中に師事、卒業翌年の1954(昭和29)年に日展初入選。56年から連続入選し、66年に「弧」で特選を受賞、92年に「清冽」で文部大臣賞を受けた。95年の出品作「竹園生(たけのそのう)」が96年に日本芸術院賞に輝いた。
 木のぬくもりを新しい感覚で表現し、豊かな叙情性をたたえた作品を生み出し続け、木彫では「弧」「竹園生」など裸婦像、「釈迦如来」や「不動明王」などの仏像を手掛けた。「宮沢賢治像」などブロンズ作品も制作した。石こうまで完成し、ブロンズ像にする作業中の「智恵子像」が遺作となった。制作を依頼した二本松市は状況を見て、JR安達駅に設置する。
 日展では理事、常務理事、事務局長を歴任し、2000年に理事長に就任。9年間にわたる在任中、日展会館の建設など、広く親しまれる美術団体としての運営に尽力、組織発展に貢献した。また82~94年に東京学芸大教授を務め、後進の育成に力を注いだ。2009年に旭日中綬章を受章。11年に文化功労者に選ばれた。

愛された作品と人柄 創作鋭く、人には温かく022
 文化勲章受章も期待されていた木彫の第一人者。一方では、二本松市など県内で作品と人柄が広く愛された、ゆかりの作家。31日、90歳で亡くなった彫刻家橋本堅太郎さんを語る人々の話からは、鋭く熱い作家性と、温かな大衆性を兼ね備えた芸術家の姿が浮かび上がる。
 「彫刻の新しい近代性を確立した希有(けう)な人」。日展作家の遠藤徳(のぼる)さん(84)=本宮市=は故人の偉大さを語り「控えめな人なのに、創作にはすごい執念で取り組んでいた」と言う。
 現代彫刻家の吉野ヨシ子さん(70)=田村市出身、千葉県在住=は、橋本さんと一緒に作品を審査したことがあり「具象、抽象ともに鋭い目で本質を見抜き、作家に適切な助言をしていた」と振り返る。
 本県への功績を誇る声も多い。県美術家連盟の酒井昌之会長と斎藤正勝前会長は「県在京美術家協会の会長などとして、県総合美術展覧会(県展)に(出展や助言などで)長く気遣っていただいた」と口をそろえる。
 霞ケ城に二本松少年隊士像、二本松駅前に智恵子像など作品が多い「地元」二本松市では、橋本堅太郎後援会の鈴木安一副会長が「二本松の芸術力、ブランド力の向上にも尽力してもらった」と話す。
 鈴木副会長は、橋本さんが日展理事長時代、「岳温泉十二支めぐり」を制作する際に、同市出身の日本画家大山忠作氏(故人)が描いた原画を基に、版木にする彫刻を橋本さんに依頼した。「ロダンにゴーギャンの絵を版画にしてと頼むようなもので、失礼極まりないお願いだった。それを引き受けてくれた」と、橋本さんの懐の大きさをしのんだ。
(福島民友)

新たに智恵子像を制作されていたとは存じませんでした。それが遺作となったというのも、奇縁を感じます。

平成28年(2016)、福島の出版社・歴史春秋社さんから刊行されたムック『奥州二本松』。こちらでも二本松ゆかりということで、智恵子と並んで氏が大きく取り上げられていました。
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氏の代表作「竹園生」、「清冽」も。
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また、氏は平櫛田中に師事したということで、光太郎の父・光雲の孫弟子にあたります。そこで、田中が大きく紹介される際には、氏の出番。

平成31年(2019)刊行の雑誌『美術の窓』。「平櫛田中、荻原守衛から現代まで 凄いぞ!にっぽんの彫刻」という特集の中で、小平市平櫛田中彫刻美術館長・平櫛弘子氏、同館学芸員で当方もお世話になっている藤井明氏、そして橋本氏による鼎談「ここが凄い‼ 平櫛田中」が掲載されました。
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テレビでも、「美の巨人たち」や「日曜美術館」にご出演。彫刻の空間認識に関する深い造詣と、的確なコメントには実に感心させられました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

分教場の桜花満開。誰の家か知らず一軒の家の山桜らしき淡紅の桜樹こんもりまろく、花をつけ見事なり。

昭和21年(1946)5月2日の日記より 光太郎64歳

関東あたりとは、一ヶ月くらいずれているんですね。

作家の半藤一利氏が亡くなりました。共同通信さんの配信記事から。

作家の半藤一利さんが死去 昭和史研究で著書多数、90歳

017 「日本のいちばん長い日」などの著作で知られる作家の半藤一利(はんどう・かずとし)さんが12日午後、東京都世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、死亡が確認された。関係者への取材で分かった。90歳。東京都出身。
 東京大を卒業して文芸春秋に入社。「週刊文春」「文芸春秋」編集長を歴任、1994年から著述に専念した。
 編集者として坂口安吾らを担当し、歴史研究に開眼。終戦時の軍部関係者らを集めた座談会「日本のいちばん長い日」は、雑誌「文芸春秋」の記事となった後に単行本化され、映画化された。
 憲法9条と平和の大切さを次世代に説き続け、2015年に菊池寛賞を受けた。

御著書の中で、光太郎智恵子に関わる項も設けて下さっていました。

平成18年(2006)刊行の文春新書『恋の手紙 愛の手紙』(文藝春秋)。
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日本史上の有名人30名ほどの「手紙」から見える様々なドラマを紹介するものです。「第三章 家族を想う」中の「「智恵さん、智恵さん」の高村光太郎」という項で、光太郎から智恵子への手紙が二通、取り上げられています。

一通は結婚前の大正2年(1913)1月、新潟出身の友人・旗野スミ(「すみ」「澄」あるいは「澄子」とも表記)の実家に滞在していた智恵子に宛てた、長文の手紙。全文はこちら。画像はこちら。結婚前に智恵子に宛てた手紙で、唯一現存が確認出来ているものであるため、この手の書籍でたびたび取り上げられています。もう一通は、心を病んだ智恵子が療養していた千葉九十九里浜の妹の家に送った葉書。全文、画像はこちら。章題の「智恵さん、智恵さん」は、この葉書の一節です。

無題 (復元済み)手紙の紹介だけでなく、光太郎智恵子の人となり、『智恵子抄』についても簡略にまとめられています。

もう一冊。平成27年(2015)、ポプラ社さん刊行のエッセイ集『老骨の悠々閑々』。「茶碗のかけらの様な日本人」という項で、光太郎詩「根付の国」(明治44年=1911)を取り上げ、そこから夏目漱石、樋口一葉、芥川龍之介らにからめた日本人論を展開されていました。

探せばもっと光太郎智恵子に言及された御著書が出版されているかも知れませんが、当方手持ちの氏の御著書は以上2冊でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

雪かきのつづきをやり、又山の南面傾斜の松の根方の雪なきところに休みて日光をあび、烟草一本。日光浴数分。日ざしはあたたかなり。

昭和21年(1946)3月1日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村でも、さすがに3月となると、春の息吹が感じられたのですね。

昨日、歌手の二代目コロムビア・ローズさんが8月に亡くなっていたというニュースが出ました。

真っ先に報じた『デイリースポーツ』さん

二代目コロムビア・ローズさん8月に死去していた…15年から闘病

008 「智恵子抄」「二十四の瞳」などのヒット曲を持ち、1964年の第15回NHK紅白歌合戦にも出場した、歌手の二代目コロムビア・ローズ(本名・宗紀子)さんが、今年8月16日に心不全のため神奈川県大和市内の病院で死去していたことが7日、分かった。78歳だった。米・ロサンゼルスを拠点に音楽活動を行っていたが、近年は体調を崩し帰国。入退院を繰り返していた。葬儀・告別式は、親族らによる密葬で執り行われた。
 昭和の音楽史の1ページを飾ったスター歌手が、また1人天国へと旅立った。
 関係者によると、米・ロサンゼルスを拠点に音楽活動を行っていた二代目コロムビア・ローズさんは、体調を崩したことから2015年夏に帰国。日本で闘病生活を送っていた。その後は入退院を繰り返していたが、今年8月16日に心不全のため、その生涯に幕を閉じたという。
 体調を崩す直前の2014年11月に日本で出演した「第41回日本歌手協会音楽祭」が、最後のステージとなった。その時はデビュー曲「白ばら紅ばら」、初代コロムビア・ローズと一緒に「東京のバスガール」を元気に歌唱した。
 二代目ローズさんは1942年4月29日生まれ。初代の引退により行われたオーディションで1位となり、62年8月に「白ばら紅ばら」でデビュー。同年11月に初代のヒット曲「東京のバスガール」をリリースし、初代の名を継ぐ人気スターとなった。64年には高村光太郎の詩集をモチーフにした「智恵子抄」が大ヒットし、同年のNHK紅白歌合戦に初出場。その後も文芸路線の「二十四の瞳」がヒットした。
 また歌手活動と平行し大学で児童心理学を学び、卒業後は海外に留学。その後はロサンゼルスに拠点を置き、音楽活動に加え後進の指導などを行っていた。年に数回来日しコンサートや「NHK歌謡コンサート」などの音楽番組に出演。なお、二代目ローズさんが最後に出演した14年のステージの模様は、21年元日のBSテレ東「日本歌手協会新春12時間歌謡祭」の中で追悼企画として放送される。

初代が追悼「年上の私よりも先に逝くだなんて…」

 二代目と長きにわたり親交があった初代コロムビア・ローズは「二代目を選ぶ時、一番声がきれいな子として選んだのが彼女でした。ロスにいた時も『お姉さま元気?』とよく電話をいただいた。先日もふと会いたいな~と思っていたのに、まさか10歳近く年上の私よりも先に逝くだなんて…。心が清らかでやさしい芸能人らしくない子。私より数倍しっかりした女性でした。本当にお疲れさま。ゆっくり休みなさいね」と話した。

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ローズさんというと真っ先に出てくる「智恵子抄」。昭和39年(1964)1月のリリースで、かなりのヒット曲となり、ローズさん、この年の紅白歌合戦にこの曲でご出演なさいました。作詞は智恵子の故郷・二本松にほど近い小野町ご出身の故・丘灯至夫氏、作曲は故・戸塚三博氏でした。
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翌年にはこのトリオで「二十四の瞳」をリリース。B面が「智恵子のふるさと」でした。
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平成11年(1999)には「智恵子抄」と「智恵子のふるさと」を一本にまとめたカセットテープも発売されました。
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「智恵子抄」のヒットを受け、昭和39年(1964)8月にはソノシートブックが発行されています。題して『智恵子のふるさとを訪ねて◆コロムビア・ローズ愛唱歌集◆』。ちなみに「智恵子抄」は二本松で、現在も防災無線の正午の音楽にも使われています。
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昭和30年代の二本松とその周辺の風景がふんだんに掲載されており、貴重な資料でもあります。
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当時は人手に渡っていた智恵子生家。二本松駅も。
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霞ヶ城址の智恵子抄詩碑。
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阿武隈河畔と岳温泉の鏡ヶ池。
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安達太良山。

「智恵子抄」のヒットにより、観光客増加に貢献ということで、ローズさん、丘氏、戸塚氏へ市から表彰がなされた場面も。
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大隣寺さんにある二本松少年隊の墓、そして昭和9年(1934)に智恵子が療養していた千葉九十九里浜も。

ローズさん、最近、テレビで見かけないとは思っていましたが、アメリカご在住ということで、時折帰国なさってコンサートテレビの歌謡番組などにご出演されるというスタイルだったため、まさか日本で闘病生活をなさっているとは思いませんでした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

午前北上川畔イギリス海岸といへる河原に千代田さんとゆく、焚火などす、


昭和20年(1945)7月3日の日記より 光太郎63歳

「イギリス海岸」は、宮沢賢治が名付けました。ここで亡き賢治を偲んだのでしょう。「千代田さん」は、光太郎同様に宮沢家に疎開していた編集者で、戦後には吉本隆明とも交流がありました。

今日の朝刊に、元歌手の守屋浩さんの訃報が出ていました

守屋浩さん死去 「僕は泣いちっち」

 守屋浩さん(もりや・ひろし、本名邦彦〈くにひこ〉=歌手)19日、前立腺がんで死去、81歳。葬儀は近親者で営んだ。
 59年発売の「僕は泣いちっち」が大ヒットし、60年から4年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。ホリプロ(当時は堀プロダクション)の第1号タレントで、76年に引退した後は、同社(当時はホリプロダクション)の取締役宣伝部長に就いた。2年前に前立腺がんであることがわかり、静岡県伊東市
の施設で療養していた。
朝日新聞 2020/09/24


芸能関係者は一般紙よりスポーツ紙の方が詳しく出ますので、調べてみると
、『日刊スポーツ』さんがかなり詳しく報じていました

ホリプロ第1号タレント守屋浩さんが死去 81歳

017 1959年発売「僕は泣いちっち」などのヒット曲で知られ、歌手として活躍した守屋浩(もりや・ひろし)さんが19日に前立腺がんで亡くなっていたことが23日、分かった。81歳だった。
 守屋さんは57年にウエスタンバンド「スイング・ウエスト」にバンドボーイとして加入。58年に同バンドのリーダーだった堀威夫氏(87)からボーカルに抜てきされた。初ステージで一躍女性ファンの注目を浴びて人気メンバーとなった。
 59年に「泣かないで帰ろう」でソロデビューし、同年「僕は泣いちっち」が大ヒットしたことで、60年に同曲で紅白歌合戦に初出場。そこから4年連続で出場を果たした。映画にも20作以上出演した。
 大手芸能事務所ホリプロの第1号タレントでもあった。60年に堀氏が立ち上げた「堀プロダクション」(現・ホリプロ)に所属。76年に引退後はホリプロ社員に転身し、宣伝部長などを歴任。榊原郁恵(61)深田恭子(37)綾瀬はるか(35)石原さとみ(33)らを発掘した、現在にも続く同社の柱事業「ホリプロタレントスカウトキャラバン」の立ち上げに携わり、第1回実行委員長を務めた。
 ホリプロによると、2年前に前立腺がんが発覚。自宅のある静岡県伊東市内の施設で療養していたが、19日午後6時30分に亡くなったという。22日に近親者のみで家族葬を執り行った。

◆守屋浩(もりや・ひろし)1938年(昭13)9月20日生まれ。1959年「泣かないで帰ろう」でデビュー。ホリプロ第1号タレント。76年に引退し、ホリプロ社員に転身した。

守屋さん、昭和39年(1964)に、クラウンレコードから「磐梯山の智恵子」という曲をリリースなさいました。モチーフは「わたしもうぢき駄目になる」のリフレインが印象的な光太郎詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)です。
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B面は苅田千賀子さんという方の「智恵子」。こちらは「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)からのインスパイア。
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作詞は坂口紀さん、作曲は瓜生田和孝さん。ともに当時、東大生だったそうです。残念ながらそれほどヒットしなかったようで、YouTubeなどには見あたりませんでした。

昭和39年(1964)というと、二本松市民のソウルソング、二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(丘灯至夫作詞・戸塚三博作曲)も同じ年です。たまたま同じような企画がかち合ってしまったらしいのですが、その件について当時の『週刊朝日』が報じています。

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ちなみにこの号、表紙は水泳の故・木原光知子さん。裏表紙はこの年開催の東京オリンピックを見据えてカラーテレビの広告でした。時代を感じますね(笑)。
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それにしても守屋さん、引退後にスカウト系の方に行かれていたというのは存じませんでした。それから、離婚されたということで訃報に記述がありませんが、佐藤春夫作詞による、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を題材にした「湖畔の乙女」を歌われた本間千代子さんは元の奥様だったとのこと。奇縁を感じます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

宮沢賢治さんはノーベル賞を受けられてもいいほどの人です。日本から文学方面のノーベル賞候補者をあげようという場合、宮沢さんを推薦しようと考えています。
談話筆記「高村光太郎先生説話 十」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

9月21日(月)は、賢治の命日ということで、本来であれば花巻で賢治祭が開催されているはずでしたが、例によってコロナ禍で中止だそうで……。

ノーベル賞、故人には贈られないという規定がありますが、光太郎、それを知らなかったのか、あるいはその規定が出来たのはこの後だったのか、そのあたりは判然としませんが……。

昨日、朝刊を開きましたら社会面にテノール歌手・永田峰雄氏の訃報。

『朝日新聞』さんから。

テノール歌手、永田峰雄さん死去 欧州を拠点に活躍

 永田峰雄さん(ながた・みねお=テノール歌手)が8日死去した。66歳だった。葬儀は近親者で営む。
 91年にザルツブルク音楽祭に出演し、欧州を拠点に国際的に活躍。モーツァルトを得意とした。東京芸大、愛知県立芸大、洗足学園音大などで指導した。


氏の所属事務所・株式会社AMATIさんののサイトから。 

弊社所属声楽家 永田峰雄(ながた みねお)が7月8日000に逝去しました 享年66歳でした
ここに故人の数々の名演を胸に 哀悼の意をもってお知らせします

永田峰雄は新潟県長岡市に生まれ 東京芸術大学卒業 同大学院修了しました 1991年ザルツブルク音楽祭『サティリコン』に出演して以来 ドイツを拠点にヨーロッパで活躍しました ヴュルツブルク トリーア ギーセン ボン ミュンスター等の歌劇場と専属契約を結びモーツァルト歌手として様式感ある端正な歌唱と柔軟なベルカント唱法が絶賛されたことは広く知られています 日本においても新国立劇場 びわ湖ホール等で数々のオペラ公演 オーケストラとの共演で高い評価を得てまいりました 近年は東京藝術大学 愛知県立芸術大学 洗足学園音楽大学等で後進の指導にも情熱を注いでいました


当方、直接は存じ上げない方でしたが、かつてCDを1枚、購入させていただきました。平成15年(2003)、カメラータトウキョウさんリリースの「別宮貞雄歌曲集「智恵子抄」/ロベルト・シューマン歌曲集「詩人の恋」」。歌唱が永田氏で、ピアノはアメリカのアントニー・シピリ氏。

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氏の訃報を受けて、昨日、久しぶりに聴いてみましたが、20年ほど前の録音で、そろそろ円熟期に入ろうかという氏の伸びやかな歌声、いい感じでした。

まだ新盤で手に入るようです。是非お買い求め下さい。


今朝は今朝で、やはり社会面に、宮中歌会始の選者も務められた歌人の岡井隆氏の訃報。やはり『朝日新聞』さんから。 

岡井隆さん死去 歌人、現代歌壇を牽引

 前衛的な短歌の詠み手として知られ001、現代歌壇を牽引(けんいん)し、皇族の和歌の相談役も務めた歌人の岡井隆(おかい・たかし)さんが10日、心不全で死去した。92歳だった。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。
 1928年、名古屋市生まれ。46年に結社「アララギ」に入会。慶応大学医学部卒業後、内科医として病院に勤務する傍ら、歌を詠んだ。
 終戦直後、短歌や俳句を格下の文学と見なす「第二芸術論」が起こると、それに応答する形で50年代半ばから、寺山修司や塚本邦雄とともに前衛短歌運動を展開。60年安保闘争といった社会の動きを、極めて実験的な表現で詠んだ。
 70年には医師としての立場や歌壇での名声を捨てて九州へ出奔。5年間の沈黙を経て歌壇に復帰した。その後は、和歌のように韻律の美しさを重んじる作品や、口語と文語を自由に交ぜた歌など、短歌の可能性を極限まで追究した。
 92~2014年に宮中歌会始の選者。かつてマルクス主義者を自称した歌人だっただけに、選者を引き受けた時は一部から批判が上がり、話題となった。07~18年には当時の天皇、皇后両陛下や皇族の和歌御用掛(ごようがかり)も務めた。
 歌集「禁忌と好色」で迢空賞、「親和力」で斎藤茂吉短歌文学賞などを受賞。評論・エッセーなどを含む「岡井隆コレクション」で現代短歌大賞。詩人でもあり、「注解する者」で高見順賞を受けた。16年には文化功労者に選ばれた。文芸評論家としても活躍した。
 代表歌に〈父よ父よ世界が見えぬさ庭なる花くきやかに見ゆといふ午(ひる)を〉「天河庭園集」、〈キシヲタオ……しその後(のち)に来んもの思えば夏曙(あけぼの)のerectio penis〉「土地よ、痛みを負え」などがある。
 歌誌「未来」編集・発行人を最期まで務めた。
 <歌人・細胞生物学者 永田和宏さんの話> 政治的なことも巧みな比喩で表現し、前衛短歌運動の一番の立役者。それまで「私」と言えば作者を指したが、その縛りから「私」を解放し、暗喩や口語文体を駆使して表現方法を広げ、一つの時代をつくった。医師でもあり、私がサイエンスの道との両立に悩んだ時、相談に乗ってもらったこともある。

一面コラム「天声人語」でも。 

(天声人語)岡井隆さん逝く

 歌集『現代百人一首』が刊行されたのは25年前のこと。〈みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ〉。テレビで耳にしたCM短歌が、斎藤茂吉や釈迢空の歌と同格に扱われ、新鮮な驚きを覚えた▼その選者で、戦後歌壇を牽引(けんいん)した岡井隆さんが亡くなった。92歳。内科医にして歌会始の選者、皇族の和歌御用掛を務めたという経歴からは想像できないほど、その歩みは波乱に満ちている▼〈一時期を党に近づきゆきしかな処女(おとめ)に寄るがごとく息づき〉。慶応大学の医学生だったころ、マルクス主義にひかれた。共産党系の診療所に詰めていた一夜、警察の家宅捜索を受ける。「歌集や歌誌の原稿まで押収された」とかつて本紙の取材に語った▼家庭や名声をかなぐり捨て、若い女性と九州へ逃避行したのは40代。有名歌人の「蒸発」は騒動を招く。だがその女性とは長続きせず、九州の病院で働くことに。〈女(をみな)とは幾重(いくへ)にも線状(すぢ)あつまりてまたしろがねの繭と思はむ〉。後にそんな官能的な歌を詠んでいる▼「短歌は危機の時を通り越し、廃墟の残骸の中にある」と歌壇の行く末を案じた。「私自身は選歌・添削・講師としてその廃墟に立ち、わずかに再建を夢みている」と繰り返し語っている▼功成り名を遂げたあとも、円熟の歌境に安住することはなかった。ナンセンスなCMから独創的、実験的な作品にまで光を当て、歌の可能性を極限まで広げる。破格、破調の堂々たる生き方であった。

氏の御著書もかつて当方、一冊、購入いたしました。

岩波書店さんから、平成11年(1999)に刊行された『詩歌の近代』。タイトル通り近代詩歌の概説で、光太郎、特に戦争詩について取り上げて下さっています。

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それから、至文堂さんから昭和59年(1984)に発行された雑誌『国文学 解釈と観賞』第49巻第9号「特集=高村光太郎」。岡井氏は「光太郎における短歌の役割」という論考を寄せられています。おそらく調べればこの手の雑誌等にもっと光太郎に言及したものもありそうですが、すぐ思い浮かんだのはこちらでした。

ご両人のご冥福、衷心よりお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

悠ゝ無一物満喫荒涼美  短句揮毫 昭和23年(1948) 光太郎66歳

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元ネタがありまして、連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」(昭和22年=1947)に書かれた、「いま悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の一節です。他に「悠々たる無一物に荒涼の美を満喫せん」と書いた揮毫も存在します。こちらはそれらを漢文風にしたものですね。花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の厳しい自然環境を「荒涼の美」ととらえたわけですか。

昭和23年(1948)6月22日の日記には、「終日揮毫。有賀氏のため色紙に書く。「悠ゝ無一物満喫荒涼美」」の記述があります。有賀剛は、光太郎と交渉のあった彫刻家・笹村草家人の友人で、神田小川町に汁粉屋を営んでいました。

まず、キーワード検索「智恵子」でヒットした、智恵子の故郷、福島二本松の道の駅「安達」智恵子の里さん関連の報道を2件。ともに『福島民友』さんの記事です。 

【二本松】幽玄な光「瓢箪ランプ」 道の駅で高野さん作品展

 ひょうたん工房002「孝瓢(こうひょう)」を開く福島市飯野町の高野孝夫さんは15日まで、二本松市の道の駅「安達」智恵子の里上り線内にある市和紙伝承館で作品展を開いている。

 ヒョウタンに穴を開けて内側から発光ダイオード(LED)電球などをともすことできれいな模様を浮かび上がらせる「瓢箪ランプ」をはじめ、縁起物のひょうたん飾りなどを数多く展示。販売も行っている。時間は午前9時~午後5時。問い合わせは同館(電話0243・61・3200)へ。
(2020/6/8) 

温泉×地酒「フェイスパック」発売 二本松ブランド確立へ

 観光資源を生かした二本松市の経001済振興、交流人口の拡大などを進める「にほんまつDMO」は、市内観光の代表的素材の温泉と地酒を組み合わせた新商品「岳温泉×日本酒フェイスパック『肌とうじ』」を発売した。
 同市のブランド確立を目指す取り組みの一環。市内には「美肌の湯」として人気のある岳温泉、地酒も江戸、明治時代から続く奥の松酒造、大七酒造、檜物屋酒造店、人気酒造の4蔵元がある。これらを合作することで相乗効果を生み出し、同市の代名詞となる土産物にしようと企画開発した。
 新商品は、いずれも保湿効果が高いとされる岳温泉の天然湧泉と、4酒蔵の純米酒を配合。パックを顔に当てると各蔵元の特徴ある香りが漂うという。商品名の「肌とうじ」は「湯治」と「杜氏(とうじ)」に由来する。
 価格は1枚350円。各蔵元の4枚セットは1箱1280円。各蔵元をはじめ、岳温泉観光協会、二本松駅観光案内所、道の駅「安達」智恵子の里などで取り扱っている。問い合わせはにほんまつDMO(電話0243.22.0785)へ。
(2020/6/9)


続いて、美容研究家の佐伯チズさんの訃報。『日刊スポーツ』さんから。 

佐伯チズさん逝く「あきらめません」涙の闘病宣言も

テレビなどでも活躍した美容家の佐伯000チズ(さえき・ちず)さんが5日午後4時59分、筋萎縮性側索硬化症(ALS)のため東京都内の自宅で死去した。76歳。葬儀・告別式は親族で行った。喪主は長男佳之(よしゆき)氏。
佐伯さんは今年3月、公式サイトや動画を通じ、ALSを公表した。昨年秋から右足に違和感があり、同年末には思うように動かせなくなったという。動画では「私はまだまだ負けない。決してあきらめません。頑張ります」と、時折涙を見せ話していた。
個人事務所関係者によると、佐伯さんの希望で自宅療養を続けていたという。最近まで取材を受けたり、7月に発売する著書「夢は薬 諦めは毒~あなたに寄り添う33の言葉」の打ち合わせをするなどして過ごしていた。最期は佳之さんをはじめ、近しい人たちで見送ったという。お別れの会については、新型コロナウイルス感染拡大が収まってから開催を検討するとした。
滋賀県生まれ。フランスの化粧品メーカーを定年退職後、エステサロンを開業。03年に発表した著書「佐伯チズの頼るな化粧品! 顔を洗うのをおやめなさい!」がベストセラーに。エステティシャンとして活動しながら、講演やメディアで活躍した。
◆筋萎縮性側索硬化症(ALS) 手足、のど、舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がやせて力がなくなっていく国指定の難病。運動をつかさどる神経が障害を受け、脳からの「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなる。大リーグで2130試合連続出場のルー・ゲーリッグ内野手(ヤンキース)が患ったことから「ルー・ゲーリッグ病」とも言われる。宇宙物理学者スティーブン・ホーキング博士や「クイズダービー」で知られる篠沢秀夫名誉教授らも闘病。米では14年にALS支援運動、アイス・バケツ・チャレンジが広まった。

佐伯さん、平成28年(2016)8月、BS日テレさんで放映された「イチオシ!2泊3日の旅 青森・奥入瀬~八甲田…水と緑の絶景!」に、フリーアナウンサーの南美希子さんと共にご出演。お二人で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の前で、お約束のポーズをなさって下さいました。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

すこし細かく自然をみていますと、同じ日は決してありません。面白いことです。
座談会筆録「南沢座談抄」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

よく「一期一会」と申しますが、光太郎の場合、農作業に従事していた経験から、このように感じていたようです。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さん。そのPR誌的な『トンボ』の第10号が届きました。


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表紙に大きく書かれているとおり、今号は北川先生の追悼特集です。


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様々な皆さんが、北川先生への追悼詩文を書かれています。

「追悼 北川太一」と括られた部分で、花巻高村光太郎記念会長・大島俊克氏、劇作家・女優の渡辺えりさん、北川先生の菩提寺・浄心寺さんのご住職の佐藤雅彦和尚、光太郎と交流のあった詩人・野澤一ご子息・野澤俊之氏、詩人の服部剛氏、同じく曽我貢誠氏と市川恵子氏、アーティストの前木久里子氏。

それ以外の部分でも、文治堂社主の勝畑耕一氏、服部氏はさらに追悼詩、北川先生ご子息の北川光彦氏、それから当方も書かせていただいております。

若き日の先生のお写真も。

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皆さんの北川先生に対する思いの丈に接し、心打たれるとともに、先生の業績の偉大さ、そして人間的な懐の深さなどを改めて痛感いたしました。同時に、その先生を喪った深い悲しみがまたぞろ思い起こされ、複雑な心境です。

当会にて10月発行予定の『光太郎資料』(北川先生より名跡をお譲りいただいたものですが)をお申し込みいただいている方には、併せてお送りしますが、それ以外の方、それからすぐに読みたいという方は、文治堂書店さんまでお申し込み下さい。一応、定価500円+税ということになっています。


【折々のことば・光太郎】

とにかく、十和田湖というふうな大自然の中へ、大胆に放り出されちやうのだから、そして十和田湖自身が、日本だけのものではなくてスイツツルやイタリアの、僕たちの頭にある湖の風景とくらべて遜色ない、いまに世界的の観光地になるにきまつているから、いい加減なくだらないものは置かれない。相当の覚悟がいるのです。僕は死んだつて構わないという覚悟でやる気なんです。

座談会筆録「美と生活」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見に訪れた十和田湖の、宿泊した東湖館で為された座談会から。その同じ夜、座談会終了後に、ぼそっと「智恵子を作ろう」と呟いたそうです。

昨日はいわき市の草野心平記念文学館さん他に行っておりましたが、そちらのレポートに行く前に、自宅兼事務所に戻りましたところ葉書で訃報が届いておりましたので、そちらを。

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國學院大學名誉教授の傳馬義澄氏。近代文学ご専攻で、『思索と抒情――近代詩文論――』(審美社 平成12年=2000)などのご著書があるほか、お住まいだった埼玉で、「埼玉文芸賞」、それから今年の「第24回全国高校生創作コンテスト」などの審査員も務められていました。

平成24年(2012)には、第57回高村光太郎研究会で「高村光太郎『智恵子抄』再読」と題されてご発表、その後、連翹忌にもおいで下さいました。昨秋も第64回高村光太郎研究会にお越し下さり、当方、それが氏とお会いした最後となりました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あなたの著書「雪明りの路」をいただいてからもう二三度読み返しました。その度に或る名状し難い深いパテチツクな感情に満たされました。チエホフの感がありますね。この詩集そのものもどこかチエホフの響がありますね。

雑纂「「雪明りの路」の著者へ――伊藤整詩集――」全文
昭和2年(1927) 光太郎45歳

伊藤整は明治38年(1905)の生まれ。光太郎の一世代後の詩人です。

「パテチツク」は仏語で「pathétique」。「感傷的な」「哀れな」「悲愴な」といった意味です。

昨日の『毎日新聞』さんに、先月亡くなった俳優の金内喜久夫さんの追悼記事が載りました。 

悼む:文学座俳優・金内喜久夫さん=全身がんのため 4月28日死去・87歳 人間味あふれる演技 文学座演出家・西川信廣

 金内さんが突然この世から「消えた」。昨年の001春、いつものひょうひょうとした口調で「おれ、がんでさ」と告白された時、そこにはがんを患った人の深刻さはみじんもなかった。
 「美しきものの伝説」の先生をはじめ「飢餓海峡」の弓坂刑事、「夢・桃中軒牛右衛門の」の孫文、「藪原検校」の語り役・盲大夫など軽妙洒脱(しゃだつ)、存在感のある演技と語り口で多くの作品を支えていた。
 私との仕事では「マイチルドレン!マイアフリカ!」の黒人教師、「十二人の怒れる男たち」の老人役など人間味あふれる演技で魅了してくれた。
 「十二人」の稽古(けいこ)のとき、私がダメ出しをすると「ハイ!」と大きな声で返事をする。 ある役者が「金内さん、本当分かってるの?」と言ったら「いいんだよ、こう言っておけば、 演出家は安心するんだから」と言って場の笑いを誘った。その時はいたずら好きの少年のような顔だった。 金内さんは自分のセリフを装置、小道具、衣装など舞台上のあちこちに書いて、それをチラリと見ながら演技する達人だった。セリフが出てこないことへの不安解消かと思っていたが、実は皆を和ませるいたずら心だったのかもしれないとふと思う。だって、昨年の暮れの劇団の忘年会で、朗々と高村光太郎の詩を読み上げたのだから。もちろん、何も見ないで。
 2年前、私の初映画監督作品「兄消える」で町内会長の役で出演してもらった。人間味にあふれ、皆に愛される会長だった。4月28日、「兄」ではなく金内さんが私たちの前から消え、旅立っていった。寂しい。合掌。



渡辺えりさん作の舞台「月にぬれた手」(平成23年=2011/同24年=2012)で光太郎役を演じられ、連翹忌でも光太郎詩の朗読をご披露下さった金内さん。昨年にはがんをおして出席された忘年会で光太郎詩を暗誦なさったそうで、そのプロ根性には脱帽です。

コロナ終息後に「お別れの会」が開かれるそうですが、日程は未定。情報が入りましたらまたお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

人間が真に生きてゐる時、その人は天然に純潔で、大きい。いやしくない。作りものでないものは素より荒い。けれどもその荒さは粗ではない。その人はあらゆるニユアンスを微妙に感じ、捉へ、又いたはる。其故天然にやさしい。

散文「林一郎を知る――林一郎著「元始経」序――」より
 昭和2年(1927) 光太郎45歳

林は大阪府出身の詩人です。「その人」は林個人というより、一般論のようです。当方、金内さんの姿にこの詩句がオーバーラップします。

俳優の金内喜久夫さんが亡くなりました。昨日、何気にフェイスブックで渡辺えりさんの投稿を見ておりましたら、その記述がありまして、驚いた次第です。

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『日刊スポーツ』さん。 

文学座の金内喜久夫さん死去、87歳 がんのため

文学座のベテラン俳優金内喜久夫(かなうち・きくお)さんが28日午後、がんのため亡くなった。87歳だった。30日に家族葬を行う。喪主はアニメ「サザエさん」のイクラ役で知られる妻桂玲子(れいこ)さん。

金内さんは67年に文学座の座員となり、舞台「熱海殺人事件」「飢餓海峡」などのほか、大河ドラマ「徳川慶喜」にも出演した。08年に紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞した。18年にがんが見つかり、19年春には転移したことも判明した。同年秋に出演した別役実作品「この道はいつか来た道」が最後の舞台となった。

金内さん、平成23年(2011)と翌年、渡辺えりさん作の舞台「月にぬれた手」で、主役の光太郎役を演じられました。平成23年は東日本大震災のため、途中で打ちきりとなり、翌年、再演。当方、再演の方を拝見に伺いました。

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当方、金内さんのお歳を存じ上げませんで、87歳だったというのにも驚きました。ということは当方が「月にぬれた手」を拝見した平成24年(2012)には79歳だったわけで、とてもそうは見えませんでした。戦時中の翼賛詩文を読んで、多くの前途有為な若者が死んでいったことへの光太郎の自責の念を、見事に表現されていらっしゃいました。

画像は、「月にぬれた手」のパンフレットから。下記は、光太郎終焉の地、中野の貸しアトリエに、主立ったキャストやスタッフの皆さんで行かれた際のショットだそうです。

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脚本の渡辺さん、智恵子役の平岩紙さん、息子が戦死し、戦時中に国民を鼓舞した光太郎を責める農婦役など何役も演じられた木野花さん、光太郎の母役などだった神保供子さんなども写っています。

金内さん、この年の第56回連翹忌にも、渡辺さん、神保さんとご一緒にご参加下さいました。お三方には一篇ずつ光太郎詩の朗読をお願いし、金内さんはまさしく「月にぬれた手」(昭和24年=1949)。情感たっぷりのすばらしい朗読でした。

   月にぬれた手040

 わたくしの手は重たいから
  さうたやすくはひるがへらない

 手をくつがへせば雨となるとも
 雨をおそれる手でもない。
 山のすすきに月が照つて
 今夜もしきりに栗がおちる。
 栗は自然にはじけて落ち
 その音しづかに天地をつらぬく。
 月を月天子とわたくしは呼ばない。
 水のしたたる月の光は
 死火山塊から遠く来る。
 物そのものは皆うつくしく
 あへて中間の思念を要せぬ。041
 美は物に密着し、
 心は造型の一義に住する。
 また狐が畑を通る。
 仲秋の月が明るく小さく南中する。
 わたくしはもう一度
 月にぬれた自分の手を見る。


金内さん、平成5年(1993)の文学座さんの舞台、「愛しすぎる人たちよ 智恵子と光太郎と」にも出演されていました。


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その際は、元活動弁士の役でした。

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また一人、名優が亡くなったか、という感じです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】007

こゝに人あり 雪にうもれて 膝をくめり

短句揮毫 戦後期 光太郎70歳頃 

画像は花巻郊外太田村の山小屋で膝を抱える光太郎。舞台上の金内さん、まさにこんな感じの、光太郎そのもののようでした。
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信州安曇野の碌山美術館さんから、館報の第40号が届きました。

年刊で、毎号50頁ほどのかなりのボリュームで、「館報」と言うより「研究紀要」と言った方がしっくりくるようなものです。

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毎号のように光太郎の名がどこかしらに出て来る感じですが、今号では、「昭和三十六年 皇太子ご夫妻の碌山美術館訪問」という記事の中に。

「皇太子ご夫妻」というのは、現在の上皇ご夫妻です。昨年6月のブログにちらっと書きましたが、昭和36年(1961)、開館して3年あまりの碌山美術館さんに、当時の皇太子殿下と美智子さまがご訪問された際の16ミリフィルムが見つかり、NHKさんでデジタル化、7月には上映会が開かれたそうで、そのあたりのレポートを兼ねています。

その中で、同館開館に尽力した彫刻家の笹村草家人によるご夫妻へのレクチャーが収録されていて、光太郎の名が。

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当然ながらロダン、それから、光太郎の師・与謝野寛・晶子夫妻にも触れられています。

その他、ご夫妻が熱心に見学されたり、時に鋭いご質問をされたりといったご様子がレポートされています。

それから、今年度の同館の予定表。

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ただし、印刷工程の都合上、間に合わなかったのでしょう。4月22日(水)に予定されていた碌山忌の集いは中止、さらに現在の予定では4月24日(金)まで臨時休館だそうです。

ところで、最も驚いたのは、前館長の五十嵐久雄氏がお亡くなりになっていたということ。存じませんでした……。

五十嵐氏は、連翹忌にご参加下さったこともありますし、当方が協力させていただいた平成28年(2016)の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の際に館長さんで、大変お世話になりました。

その後、体調を崩され、館長職を辞されたとは伺っていましたが、亡くなっていたとは存じませんで……。最後にお会いしたのが一昨年の同館開館60周年記念行事の折でした。その際は車椅子で鼻には酸素吸入のチューブという状態でしたが、必ずや恢復なさると信じていたのですが……。

五十嵐氏の前任だった所賛太氏による追悼文が掲載されており、胸を打たれました。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

何んでもござれ。但し日本酒はそこらでうつかり飲まず。

アンケート「酒」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

この部分の設問は「現在愛飲されて居る酒の名は何ですか」。後にはビール党になる光太郎ですが、この頃はまだ「何んでもござれ」だったのですね。ただ、日本酒に関しては好みの銘柄かそうでないかがはっきりしていたようです。

 映画監督の大林宣彦さんの訃報が出ました。

『スポーツニッポン』さんの記事から。

映画監督の大林宣彦さんが肺がんで死002去 82歳 「転校生」など“尾道三部作”

 「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の“尾道三部作”などで知られる映画監督の大林宣彦さんが10日夜、肺がんのため死去した。82歳。広島県出身。葬儀・告別式は家族葬を行い、後日お別れの会を開く。

 2016年に肺がんの宣告を受けていたが、闘病しながら撮影した「花筐 HANAGATAMI」は17年12月に公開。昨年11月には東京国際映画祭で特別功労賞を受賞。遺作となった「海辺の映画館―キネマの玉手箱」はくしくも大林さんが亡くなった10日が公開初日となる予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期となっていた。

 1938年(昭和13)1月9日生まれ。CMディレクターを経て、77年「HOUSE」で商業映画監督デビュー。その後「ねらわれた学園」「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」などを発表。92年「青春デンデケデケデケ」で日本アカデミー賞優秀監督賞。98年「SADA 戯作・阿部定の生涯」でベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞受賞。2004年に紫綬褒章、09年に旭日小綬章を受章。


大林監督、平成10年(1998)、日本テレビ系列で放映された「知ってるつもり?!」の「高村智恵子」の回にゲスト出演されました。

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司会は関口宏さん、千野志麻アナウンサー。大林監督以外のゲストは、舞台で智恵子役を演じられた女優の有馬稲子さん、智恵子に関するご著書のある沖縄国際大学教授の黒澤亜里子さん、俳人の黛まどかさん、俳優の榎木孝明さんでした。大林監督、要所要所で的確なコメントをなさっていました。

もう1点。『スポニチ』さんの記事にもある最新作「海辺の映画館―キネマの玉手箱」。昨年からこの映画には注目しておりました。というのは、戦時中の移動演劇隊「桜隊」が描かれると知ったからです。

 


「桜隊」は国威発揚を目的にした移動演劇隊。丸山定夫という俳優がリーダーでした。当時、国策にそぐわない劇団は解散させられ、わずかにこうした活動のみが許されていました。そして、「桜隊」は、慰問に訪れていた広島で被爆、リーダーの丸山は重傷を負い、終戦の翌日、息を引き取りました。最後の言葉は「やっと自由に芝居ができる」だったそうです。


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この「桜隊」を映画で描くにあたり、大林監督、昨夏には病をおして広島平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に手を合わせられたとのこと。

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くわしくは、NHKさんのサイトに載っています。

「桜隊」のリーダーだった丸山定夫は、それ以外に、ラジオ放送での翼賛詩の朗読にもかなり出演していました。光太郎の作品も複数、丸山の朗読でオンエアされています。

国会図書館さんのデジタルデータでは、「最低にして最高の道」が聴けます。詩が作られたのは昭和15年(1940)ですが、ラジオ放送は昭和17年(1942)4月が初回放送で、その後、繰り返し流されました。おそらく初回放送を録音してレコードにし、使い廻したのだと思われます。

また、こうした戦時中の放送等に関する研究成果である、坪井秀人氏著『声の祝祭 日本近代詩と戦争』(平成9年=1997 名古屋大学出版会)の付録CDには、やはり丸山の朗読による「必死の時」が収録されています。こちらもラジオ放送のためのもので、詩の制作、放送とも昭和17年(1942)でした。

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「桜隊」の追悼法要が、毎年8月6日、目黒の五百羅漢寺さんで開催されています。大林監督、やはり昨年、そちらにも参列なさったそうです。

五百羅漢寺さんといえば、当方、平成29年(2017)に開催された「第2回らかん仏教文化講座 近代彫刻としての仏像」(講師:小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏)を拝聴するために伺いました。レポートはこちら。現地に行くまで「桜隊」ゆかりのお寺さんだと存じませんで、講堂的な建物の展示スペースに「桜隊」に関する資料も並んでいるのを観て、驚きました。

映画「海辺の映画館―キネマの玉手箱」では、丸山の役を窪塚俊介さんが演じられます。公式サイトのキャスト欄には、その窪塚さんと並んで、当会会友・渡辺えりさん。丸山と絡む役どころなのでしょうか。


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そういえば、えりさんのお父様は、戦時中、中島飛行機(現・SUBARU)の武蔵野工場で働いていらして、丸山も朗読した光太郎の「必死の時」をそらんじることで、空襲の恐怖におびえる気持をまぎらわせたそうです。上記予告編動画のトップに「“平和への思い”に賛同し豪華キャストが集結!」とありますが、おそらくそんな関係でえりさんもご出演の運びとなったような気がします。そのうちに訊いてみます。

ところで「海辺の映画館―キネマの玉手箱」、新型コロナの影響で、4月10日(金)予定の封切りがまだ為されていません。いつも書いていますが、この騒ぎが早く収束することを祈ります。

何はともあれ、大林監督のご冥福、謹んでお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

マルセル・マルチネ、ロマン・ロラン、又ピエル・ルヴエルヂなど。

アンケート「この人この本」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

アンケートの設問は「会つてみたい人」。「ピエル・ルヴエルヂ」は、現代では「ピエール・ルヴェルディ」と表記します。三人とも、フランスの人道派的な文学者です。

そうした人物たちに会ってみたいと書いていた光太郎が、10年後には「必死の時」……。つくづく時代の流れとは恐ろしいものです。




昨日、映画監督の佐々部清氏が亡くなったというニュースが出ました。

『日刊スポーツ』さん。

映画「陽はまた昇る」「半落ち」佐々部清監督が死去

映画「陽はまた昇る」「半落ち」などで知られる、映画監督の013佐々部清(ささべ・きよし)さんが、3月31日までに山口県下関市で亡くなったことが分かった。62歳。亡くなる2日前まで、SNSを更新していた。

山口県生まれの佐々部さんは、明大文学部演劇科を経て、84年から映画、テレビドラマの助監督を務め、キャリアを積んだ。崔洋一監督、杉田成道監督、降旗康男監督、和泉聖治監督らに師事した。高倉健さん主演の映画「鉄道員」「ホタル」の助監督も務めた。

監督デビュー作、02年「陽は-」で、日刊スポーツ映画大賞石原裕次郎賞、日本アカデミー賞優秀作品賞に選ばれた。04年「半落ち」で2度目の石原裕次郎賞に輝き、日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した。

「シネコンでは中高年が見られる作品が少ない」と、自らプロデューサーを務めて監督した17年「八重子のハミング」では、認知症を発症した妻と支える夫を描いた。資金集めから始め、全国各地での上映会を企画し評判は口コミで広がった。8館でスタートした作品は100館以上の規模で公開された。

映画はほかに「日輪の遺産」「出口のない海」「夕凪の街 桜の国」「ツレがうつになりまして。」など、ドラマ、舞台の演出も手掛けた。

▽俳優佐野史郎(ツイッターで) 1999年、私の初監督映画「カラオケ」ではチーフ助監督を務めてくれ、2012年テレビ朝日の松本清張ドラマスペシャル「波の塔」では監督と俳優として密度の濃い時間を過ごした。本当に優しい、人情に厚い方でした。安らかにお眠りください。

◆佐々部清(ささべ・きよし) 1958年(昭33)1月8日生まれ。明大文学部演劇科を経て、84年から映画、テレビドラマの助監督を務めた。主に崔洋一、杉田成道、降旗康男、和泉聖治ら各監督に師事した。「鉄道員」「ホタル」(ともに高倉健主演)などの助監督を務めた。

記事にある「八重子のハミング」は、平成29年(2017)に全国公開。升毅さん、高橋洋子さん主演で若年性アルツハイマーを発症した夫人(八重子さん)の介護を描き、平成14年(2002)に出版されて「現代の智恵子抄」と称された陽(みなみ)信孝氏著の同名の手記を原作としていました。

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劇中、光太郎の『智恵子抄』もモチーフとして使われています。

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また、つい4日前にもご紹介した、北原白秋を主人公とし、伊嵜充則さん演じる光太郎も登場する「この道」も、佐々部監督作品でした。
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それぞれDVD化されています。
「八重子のハミング」
「この道」


亡くなる2日前まで、SNSを更新していた。」というのが、Twitterで、こちら。

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同じ山口県出身でありながら、「忖度」も「同調圧力」も関係ないのですね。その他、IR問題、マスク転売などへのツイートも。佐々部氏、これまでに手がけられた映画のラインナップを見ても、気骨の映画人だったようです。

『デイリースポーツ』さん。

佐々部清さんが死去、62歳、映画監督…東京五輪に反対

 映画「半落ち」などで知られる映画監督の佐々部清さんが山口県下関市内で死去したことが31日、分かった。62歳。1958年、山口県出身。

 佐々部さんは明治大学文学部演劇科、横浜放送専門学院(現・日本映画大学)を卒業後、フリーの助監督を経て2002年「日はまた昇る」で監督デビュした。同作で日本アカデミー賞優秀作品賞。04年、作家横山秀夫さんのミステリー小説を寺尾聡さん主演で映画化した「半落ち」がヒット。日本アカデミー賞最優秀作品賞、優勝監督賞、優秀脚本賞を受賞した。

 今月11日にブログを更新。「この国から忘れられようとしていることが残念だとずっと思っている。未だに仮設住宅が残っている。ボクが東京五輪にずっと反対だったのもそのせいだ。仙台五輪だったり東北五輪なら、ボランティアで応援したと思うけど...福島の原発だって全然コントロールなんてされていない。もちろん選手達を応援はするけど、東京で五輪を開催する意義が見つけられなかった」などと投稿していた。


志村けんさんの例もあるので、「新型コロナか?」と思ったのですが、そうではないようでした。62歳、まだまだこれからでしたので、残念です。調べてみましたところ、鹿児島を舞台とした「大綱引の恋」という映画を制作中だったそうで、撮影は終わっているとのこと。無事公開までこぎつけてほしいものです。

何はともあれ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

そんなケチな事を考へた事無し。それよりかもつと働いてもらひたい役者の事を思ひます。

アンケート「引込ませたい役者は?」全文 大正15年(1926) 光太郎44歳

演劇/映画雑誌『テアトル』に掲載されたアンケートです。佐々部監督、「もつと働いてもらひたい」監督でした……。

元映画女優の小林みどりさん(芸名・青山京子さん)の訃報が出ました。

『朝日新聞』さん。 

小林みどりさん死去

 小林みどりさん(こばやし・みどり=元俳優、俳優・歌手小林旭さんの妻)12日、肺がんで死去、84歳。通夜は22日午後6時、葬儀は23日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。喪主は夫旭さん。
 52年に青山京子の名でデビューし、「潮騒」(54年)など多くの映画に出演した。67年の結婚を機に引退した。

『共同通信』さん。 

元俳優の青山京子さんが死去 小林旭さんの妻

 歌手で俳優の小林旭さんの妻で、1950~60年代に映画で活躍した元000俳優の青山京子(あおやま・きょうこ、本名小林みどり=こばやし・みどり)さんが12日午後6時45分、肺がんのため東京都内の病院で死去した。84歳。東京都出身。葬儀・告別式は23日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20、桐ケ谷斎場で。喪主は夫旭(あきら)さん。

 52年に映画「思春期」でデビュー。谷口千吉監督の映画「潮騒」(54年)でヒロインを演じるなど約70本の映画に出演した。67年に旭さんと結婚し、引退した。


『スポーツ報知』さん。 

小林旭の妻、元女優の青山京子さんが肺がんで死去 享年84

 俳優で歌手の小林旭(81)の妻で、元女優の青山京子さんが12日午後6時45分、001肺がんで死去したことが16日、発表された。84歳だった。
 東京・世田谷区出身の青山さんは1952年の映画「思春期」(丸山誠治監督)でデビューし、代表作は54年の映画「潮騒」(谷口千吉監督)。52年から58年まで東宝に在籍し、その後フリーに。東宝時代に約50本、その後の出演を含めると約70本の映画に出演。64年の映画「忍び大名」(佐々木康監督)が最後の出演作となった。67年に小林と結婚し、引退した。
 日活によると、通夜は22日、告別式は23日に、ともに東京・品川区西五反田の桐ケ谷斎場で営まれる。



003芸名の「青山さん」で記述させていただきます。青山さん、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に公開された東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)にも出演されていました。智恵子役は故・原節子さん、光太郎役は故・山村聰さん、青山さんは、智恵子の姪にして、看護師の資格を持ち、その最期を看取った長沼春子の役でのご出演でした。ただ、当時は春子がまだ存命だったこともあり、役名は「秋子」となっていましたが。

今年1月2日(木)のこのブログで、青山さんにも触れたばかりですので、驚いております。

「秋子」の登場は、主に物語後半。智恵子が心を病み、そして南品川ゼームス坂病院で歿するという、とかく暗くなりがちな展開の中で、青山さんの若々しい、清新なご様子が、その暗さの中で、救いのように明るさをもたらしていました。

右上の画像もそうですが、当方、東宝映画「智恵子抄」のスチール写真などもをこつこつ集めておりまして、その中の何枚かに青山さんのお姿が。

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まだ智恵子が健康だった頃の、「秋子」初登場(だったと思います)のシーン。

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破産したという報を受け、智恵子が二本松の実家に駆けつけたシーン。中央は智恵子の母・セン(役名は「けい」、故・三好栄子さん)。

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九十九里浜でのシーン。ただし、実際の春子は九十九里浜では智恵子の付き添いには当たっていませんでした。このあたりは史実と異なります。

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九十九里浜の家に、智恵子の弟・啓助(役名は「光夫」、演じられたのは太刀川洋一さん)が訪ねてきたシーン。

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ゼームス坂病院でのシーン。

そして、智恵子昇天のシーン。
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ところで、青山さんが亡くなったのは、何とまあ、当会顧問・北川太一先生と同じ、1月12日(日)だそうで、奇縁を感じます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

真情によつて書かれた此書は多くの人を啓発する事と信じます。

散文「仲村久慈著『湯地丈雄』」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

「真情によつて書かれた」。光太郎詩もそうですね。だからこそ「多くの人を啓発」し続けているのでしょう。


今日から、一泊二日で花巻に行って参ります。大沢温泉さんをベースに、市内5つの文化施設が「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」を統一テーマに行っている企画展示のうち、花巻高村光太郎記念館さんの「光太郎からの手紙」、花巻市総合文化財センターさんで「ぶどう作りにかけた人々」を、それぞれ拝見して参ります。

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当会顧問にして、晩年の高村光太郎に親炙、その没後は顕彰の第一人者として、実にさまざまな活動に取り組んでこられた、北川太一先生。

1月12日(日)に大動脈乖離のため亡くなられ、そのお通夜が一昨日の1月16日(木)、葬儀が昨日・1月17日(金)に、それぞれ文京区の浄心寺さんで執り行われました。


まず、お通夜。棺の中の先生は、お気に入りの茶色いジャケットに、これまたお気に入りだったループタイ。「ああ」と思いました。

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次いで、ご葬儀。朝は雨。究極の雨男だった光太郎、その関連の大きな何かが行われる時は、必ずと言っていいほど雨でした。天気予報も数日前から雨の予想。1月14日(火)に、先生のお宅にお伺いした際、ご家族も「きっと光太郎さんが雨を降らせるでしょうね」と、おっしゃっていました。しかし、雨は朝のうちに上がりました。光太郎は雨男でしたが、北川先生はご生前、「太一」の「太」の字は「太陽」の「太」、と周りから言われていたそうです。まさしく太陽のようなお方でした。しかし朝晩は雨、ことによると雪だそうで……それは光太郎からの贈りものだったのでしょう。
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両日とも、ご家族、ご親族をはじめ、高村家とそのご親族の皆さん、先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の北斗会の方々(本来なら、1月11日(土)に、北斗会の方々と、例年行われている北川先生を囲む新年会の予定でしたが、先生、あまりお加減宜しくないとのことで、昨年暮れには中止の連絡が入りました)、元同僚の方やご朋輩、出版・美術館・文学館等関係者、女優の渡辺えりさん他さまざまなつながりで連翹忌に集って下さっている皆さん(遠くは四国、宮城女川などからも)など、多数のご参列を賜りました。また、急なこと故、参列叶わなかった多くの方々より、お心の籠もった弔電等を頂きました。僭越ながら、故人に成り代わりまして、厚く御礼申し上げます。

浄心寺さんのご住職も、北川先生の教え子のお一人であるやに聞きました。そこで、昨今主流となった葬祭ホールではなく、ぜひともうちの寺で、ということだったようです。また、光太郎顕彰の第一人者であらせられたことをよくご存じで、ご住職、通常の葬儀の中では読まれない「一枚起請文」を読まれました。

光太郎フリークの方はすぐに思い当たるでしょうが、智恵子の法要を謳った光太郎詩「松庵寺」(昭和20年=1945)に出て来る「一枚起請文」です。

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 奥州花巻といふひなびた町の
 浄土宗の古刹松庵寺で
 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
 まことにささやかな法事をしました
 花巻の町も戦火をうけて
 すつかり焼けた松庵寺は
 物置小屋に須弥壇をつくつた
 二畳敷のお堂でした
 雨がうしろの障子から吹きこみ
 和尚さまの衣のすそさへ濡れました
 和尚さまは静かな声でしみじみと
 型どほりに一枚起請文をよみました
 仏を信じて身をなげ出した昔の人の
 おそろしい告白の真実が
 今の世でも生きてわたくしをうちました
 限りなき信によつてわたくしのために
 燃えてしまつたあなたの一生の序列を
 この松庵寺の物置御堂の仏の前で
 又も食ひ入るやうに思ひしらべました


松庵寺さんは、花巻市街に今も健在の浄土宗の寺院で、光太郎は花巻疎開後、ほぼ毎年、そちらでご両親や智恵子の法要を営んで貰っていました。光太郎歿後は花巻としての連翹忌法要を毎年営んで下さっています。浄心寺さんも浄土宗ということで、ご住職の粋な計らいには感動を覚えました。

さらに、閉式直前のお話では、「浄土再会」というお話をされました。たとえ今生の別れとなっても、やがて西方浄土でまた再会できるのだそうで。まさしくそう考えたいものです。北川先生、今頃はあちらで光太郎や、髙村豊周や、草野心平や、高田博厚や、伊藤信吉や、そして先に逝かれたお嬢さんや、その他大勢の人々に囲まれているのだ、と。

また、ご遺族からは、かようなメッセージ。

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式での喪主としてのご挨拶では、子息・光彦氏、丑年生まれの北川先生、光太郎詩「牛」(大正3年=1914)のごとく、じりじりと一歩ずつ歩まれてきた先生のお姿に触れられていました。

ご葬儀終了後は、先生の棺を載せた霊柩車を先頭に、バス2台に分乗して、近しい一同で町屋斎場へ。

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こちらでご遺体が荼毘に付され、当方も拾骨に加わらせていただきました。

再び浄心寺さんに戻り、お清め。

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午後3時、滞りなく全日程を終えました。両日ともに、本当に心のこもったいいお式でした。こういうと何ですが、仕事上のつきあいや義理での儀礼的な参列者は皆無で、皆さん、心の底から先生のご逝去を悼まれているように感じられました。これも故人のお人柄のなせる業。まさに「人徳」でしょう。


さて、当方自宅兼事務所の書庫から、先生に関わる書籍等いろいろ引っ張り出していた中で、その存在をすっかり失念していて、改めてこんなものを再発見した、というのをご紹介させていただきます。

書籍は、昭和60年(1985)、先生が都立向丘高校教諭をご退職になられた際に、北斗会の皆さんが中心となってその記念に編まれた私家版の『北川太一とその仲間達』(のちに平成23年(2011)にも、同名の書籍が文治堂書店さんからやはり北斗会さんの編集で公刊されていますが、そちらとは内容を異にします)。

その最終ページに近い当たりに、版画をご趣味とされていた先生の手になると思われる、シルクスクリーンでしょうか、とにかく先生御自筆の文字がドンとでっかく刷られた紙が貼られていました。

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書籍の存在は勿論忘れていませんでしたが、この紙が中に貼られていたことは、すっかり失念していまして、この紙を再発見した時は、まるで、彼岸の先生からのメッセージのように感じ、涙が溢れました。「そんな……お礼を賜る筋合いなんて、これっぽっちもありませんよ……」と。

と、ここで、はたと気がつきました。「これをブログ?とやらに載せて、皆さんに伝えて下さい」という、先生からのメッセージなのではないか、と。

というわけで、これまた僭越ながら、故人に成り代わりまして、皆様に画像でお届けいたします。お受け取り下さい。

そして、北川先生、あらためまして、こちらからも、ありがとうございました。どうぞお安らかに……。


【折々のことば・光太郎】

素直さにも深浅大小がありますが、此はともかく詩の基礎を成すものと思ひます。

散文「旭山浩第一詩集『輝かしい朝』」より 昭和9年(1934) 光太郎52歳

北川先生、「深」く「大」きな「素直さ」、すなわち、そのお心に「詩」をお持ちの方でした。

まず大事な連絡を。北川太一先生お通夜/葬儀の日程等決まりました。

お通夜 2020年1月16日(木) 18:00~  ご葬儀 同1月17日(金) 11:00~
会場はともに文京区向丘2-17-4の、浄心寺さんです。こちらのお寺、「さくらホール」という葬祭場を併設なさっていますが、そちらではなく、本堂で執り行うとのことでした。公共交通機関ですと、東京メトロ南北線・本駒込駅、あるいは都営三田線・白山駅からそれぞれ徒歩5分ほどのところ。先生が永らく教壇に立たれていた都立向丘高校さんの近くです。

生花の受付は、フリーダイヤル0120-621-192。葬儀社の東京福祉会さんです。こちらに電話し、FAXを受け取り、必要事項を記入して返信するという手はずになります。花輪はなく生花のみ、16,500円で、のちほど振り込みだそうです。FAXの無い方、とりあえず電話してみて下さい。


昨日、朝一番で1月12日(日)に亡くなられた当会顧問・北川太一先生のお宅に行って参りました。

東京メトロ千代田線千駄木駅で下り、光太郎旧居跡のある団子坂方面とは逆に、不忍通りを根津方面へ。何度も通い慣れた道ですが、こんな気持でここを歩くとは、と思いながら歩を進めました。

主亡きお宅。かつては先生の盟友だった故・吉本隆明氏が、刑事の尾行をまくために立ち寄ったりもされたそうです。玄関先には「高村光太郎記念会」の看板も。

午後からは葬儀社さんや、葬儀委員長的なことをなさって下さるという、先生のかつての教え子の北斗会の方がいらっしゃるということでしたが、当方が伺った9時頃にはご家族だけでした。奥様で、昭和30年(1955)には結婚のご報告に、北川先生ともども光太郎のもとを訪ねられたこともある節子様、子息の光彦氏(「光」の字は光太郎にちなみます)、よく連翹忌の受付や資料の袋詰めなどを手伝って下さった、おじいちゃん子だったお孫さん。そこにあるべき先生のお姿が無いことが、不思議に思えるような……。「あれ、先生、二階の書庫にでもいらっしゃるんですか」と問いたくなるような……。

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居間兼応接室の、いつも、この椅子に座られて、当方が伺うとにこにこしながら出迎えて下さった北川先生……。ちなみに写っている絵は、平成23年(2011)、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった、宮城県女川町の女川光太郎の会事務局長であらせられた故・貝(佐々木)廣氏の筆になる先生の肖像画です。

「会ってやって下さい」とのことで、隣室にてご尊顔を拝見させていただきました。安らかなお顔でした。お顔を目にしてしまうと……駄目ですね……。滂沱禁じ得ませんでした……。

亡くなった日のご様子を伺いました。朝、普通に目覚められ、朝食のため居間の椅子にお座りになったところで意識を失われ、テーブルに突っ伏されたそうです。食事をされながら、調べものでもするおつもりだったのか、何かのご本を手にされていたとのことでした。いかにも先生らしい、と思いました。

救急車で、近くにあるかかりつけの日本医大病院さんに搬送。以前も硬膜下出血でそういうことがあって、しかし、その時は溜まった血を抜いたらすぐに恢復なさったため、ご家族の皆さんは今回も、と思ったそうです。しかし、お医者様の診断は無情にも、心臓の大動脈乖離で、手の施しようが無い、的な……。

結局、その後、お話をなさることは出来なかったそうですが、ご家族が手を握られると握り返されたとのことで、意識は朦朧とされつつも、ある程度わかっていたのではないか、と、光彦氏の弁。この日は日曜でしたので、奥様はじめ、お子さん、お孫さんもお集まりになり、皆さんに看取られて、午後11時20分、先生は天然の素中に還られたそうです。「長く苦しむ事もなく、みんなに看取られて逝ったのは、幸いだったと思うべきでしょうかね」とは、奥様のお話でした。

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その後、上記お通夜やご葬儀の日程等をお聞きし、「遺影をどれにしようか迷ってるんですよ」とおっしゃるので、いくつかの候補の中から「やっぱり、これがいいんじゃないですか」と、当方。普段着で(この上っ張り姿で、この居間で行われたテレビ番組のロケにも臨まれました)、いつもどおりのにこやかな。当方にとっての北川先生は、まさにこういう方です。

おいとまを告げ、電車と高速バスを乗り継いで千葉の自宅兼事務所に帰る間、今月開設したフェイスブックにスマホで情報を上げ(こんなことのために始めたんじゃないんだけどな、と思いつつ)、片っ端から関係の方々の携帯にメールを送り、電話やPCのメールでなければ伝えられない方には帰ってから伝え、しかし、そうして何かやっていないと落ち着かないような、昨日はそんな一日でした。メールの返信等で、そんな当方を気遣って下さった皆様、恐縮です。この場を借りて御礼申し上げます。

17日のご葬儀では、しっかりと、先生をお送りしたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

よみ返して今更この敬虔無垢な詩人を敬愛する情を強めました。かういふ詩人の早世を実に残念に思ひます。御近親の方々のお心も想像いたされます。

散文「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

八木はこの前年、数え30歳で亡くなっています。北川先生は、おん年94。世間的には「大往生」「天寿」といわれるお年でしたが、早世であれ、大往生であれ、残された者の悲しみには共通するものがあるわけで……。

とうとうこの日がやって来てしまったか、という感じです。いずれこの日が来ることを覚悟してはおりましたが、いざ、そうなると、なぜこんな日が来るんだ、と、やり場のない怒りと、虚脱感……。

当会顧問にして、光太郎顕彰の第一人者、北川太一先生が、1月12日(日)、午後11時20分、大動脈乖離のため、亡くなられました。

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先生は、大正14年(1925)、東京日本橋のお生まれ。おん年94歳でした。3月がお誕生日でしたので、今年、95歳になられるはずでした。ちなみに「昭和」の年号が、そのまま先生の満年齢になります。昭和元年に満1歳、同20年には20歳、というわけです。今年は換算すれば昭和95年です。

昭和12年(1937)に尋常小学校を卒業後、東京府立化学工業学校に入学され、旧制中学の課程を学ばれた北川先生、その後、同17年(1942)には、東京物理学校(現・東京理科大学)に進まれ、その頃から理系でありながら詩歌にも親しまれていたそうです。

同19年(1944)、物理学校を戦時非常措置で繰り上げ卒業。海軍省より海軍技術見習士官に任官され、静岡へ。翌20年(1945)には松山海軍航空隊宇和島分遣隊に転属、海軍少尉となられました。結局、四国の山中で、ご自分よりも若い予科練の少年たちと共に塹壕を掘りながら敗戦を迎え、復員。

同21年(1946)、東京工業大学に再入学。一学年上には吉本隆明が居ました。同23年(1948)から、東京都立向丘高校定時制教諭となられ、以後、同60年(1985)まで教員生活を送られました。ご自身の東京工業大学卒業は同24年(1949)。最初の頃は大学生と高校教諭の掛け持ちということで、それが可能だった時代だったのですね。

「智恵子抄」は戦時中に既に読まれ、さらに戦後には雑誌『展望』に載った、光太郎が半生を振り返った連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)を目にされ、「あの戦争はいったい何だったのか」という思いに駆られ、同じく光太郎に注目していた吉本と議論したりなさったそうです。

昭和27年(1952)、光太郎が岩手花巻郊外太田村から、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京すると、早速、中野のアトリエを体当たり的にご訪問、光太郎の生き様を通し、「あの戦争はいったい何だったのか」という命題に向き合われました。たびたび訪問するうちにすっかり光太郎に魅せられた北川先生、光太郎の来し方についてインタビューをなさいました。それが昭和30年(1955)の初夏から、光太郎が亡くなった同31年(1956)の光太郎誕生日、3月13日まで。概ね月1回のペースで為されたその対話は、「高村光太郎聞き書き」として、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻に、二段組み40ページ超で掲載されています。

光太郎没後は、高校教諭のかたわら、同じく光太郎に私淑していた草野心平らと共に、光太郎の業績を後の世に残すことに腐心され続けました。それが連翹忌となり、『高村光太郎全集』となり、『高村光太郎書』(二玄社)となり、『高村光太郎造型』(春秋社)となり、『高村光太郎全詩稿』(二玄社)となり、『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』(新潮社)となり……これを挙げだしたらきりがありません。

先生はよくおっしゃっていました。「どんなに優れた芸術家でも、後の世の人々が、その業績の価値を正しく理解し、次の世代へと引き継ぐ努力をしなければ、たちまち歴史の波に呑み込まれ、忘れ去られてしまう」と。まさしく光太郎という偉大な芸術家の業績を、次の世代へと引き継ぐ、その一点を追い続けられたわけです。

また、こんなこともよくおっしゃっていました。「僕は、単なる光太郎ファンだから」。分類すれば、「文芸評論家」「近代文学研究者」などといったカテゴリに入るそのお仕事でしたが、そのように称されることを嫌っておいででした。それは「謙遜」や「韜晦」といったことではなく、逆に先生の「矜恃」の表れだったように思います。エラい評論家のセインセイたちが、自分のことは棚に上げ、対象を批判することに躍起になっている「論文」などには価値をあまり見出さず、逆にそういう輩と一緒にされてはたまらん、というお気持ちの表れだったように思われます。

そこで、我々次世代の者には「とにかく光太郎本人の書き残したものをよくお読みなさい。そこに答えが書いてある」と、おっしゃっていた先生。「研究」よりも「顕彰」なのだというスタンスでした。「とことん対象に惚れ込むことが大切です」とも。それは、学術的な部分では奨励される態度ではないのでしょう。しかし、先生にとっては、「学術」なんぞ糞食らえ、だったのではないでしょうか。

しかし、「贔屓の引き倒し」のような、妄信的、狂信的なところは一切無く、常に公平公正、たとえ惚れ込んだ光太郎であっても、非なる点は非なり、というお考えでした。そうしたバランス感覚があってこそ、我々は先生を尊敬し続けていたと言えます。

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当方、先生とのお付き合いはそう長いわけではありません。ご著書を通じては、学生だった40年近く前から存じていましたが、直接の関わりを持たせていただいたのは、'90年代半ば頃からです。光太郎に関し、どうにもわからない疑問が生じ(今にして思えば初歩的なことでしたが)、ご著書の奥付に書かれていた千駄木のご住所に手紙を送って質問させていただきました。すると、ほどなく懇切ご丁寧な返信が。その後、やはり先生が顧問を務められていた高村光太郎研究会にお誘い下さり、その席上で始めてお会いした次第です。それから連翹忌にも参加させていただき、何度も千駄木のお宅にお邪魔したりもしました(上記写真は千駄木のお宅でのショットです)。

000平成10年(1998)以後、先生のご編集になった増補版の『高村光太郎全集』が完結した後、それに洩れていた光太郎作品を見つけ、先生の元にコピーをお送りすると、「すごいものを見つけましたね」と賞めて下さり、それが嬉しくてさらに未知の作品発掘に力を注ぐようになり、光太郎没後50年の節目となった平成18年(2006)には、それらをまとめて『光太郎遺珠』として、先生との共同編集という形で世に出させていただきました。'90年代にはインターネットが普及し、情報収集がしやすくなったので、未知の作品発掘もそれほど大仰なことではありません。インターネットはおろか、コピー機さえもなかった時代に、公共図書館などで光太郎作品を発掘し、ご自分の手で筆写し、『全集』にまとめられた先生のご苦労を思えば、頭が下がります。

そして、光太郎忌日の連翹忌。光太郎の歿した翌年の第1回連翹忌から、昨年の第63回まで、一度だけ、インフルエンザか何かでお休みされたことがおありだそうですが、それ以外は欠かさずご参加。第50回までは運営のご中心でした。

その間に、先生と共に連翹忌を立ち上げた佐藤春夫、草野心平、高田博厚、伊藤信吉、髙村豊周らが次々鬼籍に入り、今また先生も、光太郎の元へと旅立たれてしまいました……。

そういうわけで、今年初めて、先生のいらっしゃらない連翹忌を運営することとなります。そのご遺志を引き継ぎ、光太郎の、そして先生の業績も、次の世代へと語り継いでいく所存です。しかしながら、微力な当方には、皆様のお力添えがなければそれが果たせません。今後とも、よろしくお願い申し上げます。

そして、あらためまして、先生のご冥福をお祈り申し上げると共に、今までのご労苦に対し、衷心より感謝の意を申し上げます。ありがとうございました。そして、安らかにお眠り下さい。


本日、朝一番でお宅に伺います。通夜、葬儀等の情報が入りましたら、当方フェイスブックにアップしますので、そちらをご覧下さい。

追記 北川先生お通夜16 日(木)18 時、葬儀17 日(金)11時、それぞれ文京区向丘2-17 -6浄心寺さんで行われることと相成りました。

 先週末、若手俳優の滝口幸広さんの訃報が出ました。

『デイリースポーツ』さん。 

俳優・滝口幸広さん死去 34歳 テニスの王子様、仮面ライダードライブなどで活躍

 俳優の滝口幸広さんが13日に突発性虚血心不全の001ため亡くなったことが15日、分かった。34歳だった。滝口さんの公式ブログで所属事務所が発表した。通夜、告別式は近親者のみで執り行う。

ブログには「これまで温かく応援してくださったファンの皆さまならびにお世話になった関係者の皆さまへご報告致しますとともに厚く御礼申し上げます」と記されている。

 滝口さんは千葉県出身。04年にフジテレビ系ドラマ「ウォーターボーイズ2」でデビュー。14年にはテレビ朝日系「仮面ライダー ドライブ」にも出演した。

 ミュージカル「テニスの王子様」など、舞台でも存在感を見せ、今年もミュージカル「青春鉄道」や「MANKAI STAGE『A3!』」などにも出演。年末の舞台「明治座の変~麒麟にの・る」にも出演予定で、来年も1月に「MANKAI STAGE『A3!』~AUTUMN2020」のスケジュールが発表されていた。


『朝日新聞』さんの紙面から。

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滝口さん、ともに平成24年(2012)に開催された朗読系の公演「僕等の図書室」(以下、「1」)及び「僕等の図書室2」(以下、「2」)で、「智恵子抄」の朗読を披露なさいました。

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「1」のパンフレットから。


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「2」のパンフレットから。

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それぞれに公演の模様がDVD化されています。

まず「1」。

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滝口さんがメインで、三上真史さん、中村龍介さんがサポートメンバーとして途中から合流。光太郎の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)を換骨奪胎したものをト書きにしつつ、「智恵子抄」所収の詩篇を朗読なさいました。30分ほどの構成でした。

「2」。台本的には「1」と同一。サポートメンバーが中村さんはそのままに、三上さんが大山真志さんに変更。

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滝口さん、こちらでは、感極まったか、最後は涙ぐみつつの朗読でした。

DVDは2枚組となり、DISK2の「特典映像」には、出演者それぞれのインタビューなども。

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「1」「2」それぞれLe Himawari(る・ひまわり)さんという演劇制作会社から販売されています。

それにしても滝口さん、前途有為な34歳という若さでの急逝。実に残念です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

芸術家の名誉は作品にあるのだから、勲章なんかいくら胸にぶら下げでもなんにもならんよ、それよりも金でもくれて大いに仕事させてくれたほうがありがたいね。
談話筆記「梅原・安井両君おめでとう」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳


明治末、それぞれに光太郎と留学仲間だった梅原龍三郎、安井曾太郎が文化勲章を受章した際の談話です。上記の一節だけ読むと、ケチをつけているようにも読めますが、そういうわけではなく、両者の受賞を素直に喜んでいます。

その上で、副賞としての金品授与を伴わなかった文化勲章の制度が前年に改正され、受賞者は同時に文化功労者にも認定、文化功労者年金法に基づく終身年金が支給されるシステムとなったことを受けての、「政府も粋な計らいをするじゃん」的な発言です。

毎日のように言い訳をしていますが、とりあげるべき事項が多く、今日も「智恵子抄」がらみで3件まとめてご紹介します。余裕のある時は1件ずつ3日に分けるのですが……。


まずは、名古屋からコンサート情報。

伊藤晶子ソプラノリサイタル ~演奏生活70周年を記念して~

期 日 : 2019年11月16日(土)
会 場 : ザ・コンサートホール 愛知県名古屋市中区栄2-2-5
時 間 : 14:00開演
料 金 : 4,000円

プログラム
 本居長世 十五夜お月さん 青い眼の人形 白月  小松耕輔 母
 大中寅二 椰子の実   平井康三郎 歌曲集「日本の笛」より   團伊玖磨 三つの小唄  
 朝岡真木子 改訂初演「智恵子抄」
  人に あどけない話 風にのる智恵子(委嘱・初演) 千鳥と遊ぶ智恵子 レモン哀歌

出演 伊藤晶子(sp) 伊藤眞理(pf) 朝岡真木子(pf)

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浅岡真木子さんとおっしゃる方の作曲になる独唱歌曲「智恵子抄」全5曲が演奏されます。ありがたいことです。


続いて、地方紙『福島民報』さんの記事。

丘灯至夫さんの作品合唱 東京で「歌う会」

 小野町出身の作詞家、故丘灯至夫さんの作品を歌う会は九日、都内の品川プリンスホテルで開かれた。
 丘さんが二〇〇九(平成二十一)年に他界する前からほぼ毎年開催している。十六回目の今回は、芸能関係者や親交のあった知人ら約百人が集まった。
 丘さんの妻ノブヨさんが「年に一度の歌う会の開催を幸せに思い感謝している」とあいさつした。出演者たちがステージに上がって「高原列車は行く」や「郡商青春歌」「智恵子抄」などの名曲を歌った。歌手の水木一郎さん、県民謡連盟会長の佃光堂さんも熱唱。最後は全員が輪になって、大ヒット曲の「高校三年生」を合唱した。

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昨年もちらっとご紹介しましたが、こういう催しが為されているそうです。

作詞家の故・丘灯至夫氏は智恵子の故郷・二本松に近い小野町のご出身で、昭和39年(1964)リリース、二代目コロムビア・ローズさんによる「智恵子抄」は、二本松市の正午のチャイムに使われるなど、二本松市民の皆さんのソウルソングの一つです。


最後に訃報。俳優の中山仁さんが先月亡くなっていたそうで。下記は「共同通信」さんの配信記事。

俳優の中山仁さんが死去 ドラマ「サインはV」でコーチ役004

 テレビドラマ「サインはV」のコーチ役などで活躍した俳優の中山仁(なかやま・じん、本名中山仁平=なかやま・じんぺい)さんが10月12日午後5時25分、肺腺がんのため東京都内の自宅で死去した。77歳。東京都出身。葬儀・告別式、お別れの会は故人の遺志で行わない。

 早稲田大中退後、文学座養成所に入り、劇団「NLT」を経て三島由紀夫らと「浪曼劇場」を設立。1960~70年代に放送されたバレーボールチームが舞台のスポ根ドラマ「サインはV」で、熱血鬼コーチ役を演じて全国に知られた。他の主な出演作にドラマ「七人の刑事」「ウルトラマン80」など。



さらに『朝日新聞』さん。

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中山さん、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん主演)にご出演なさっていました。光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を嗣ぎ、のちに鋳金分野の人間国宝となる豊周(とよちか)の役でした。

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当方、この映画は一度だけ拝見しましたが、非常に爽やかな豊周だったという印象です。

謹んでご冥福をお祈りさせていただきます。


【折々のことば・光太郎】

彼の画はやはらかい画です。偉大、崇高、厳正、剛直、清澄といふ様な性質は無いかも知れません。しかし限りなき太陽の温かさ、親しさ、神々しさをさげ思はせます。そして徹底的に自己の道を極め尽した大きな魂を思はせます。自己の天凜を生かし尽した人の貴さを思はせます。

散文「美術院の将来品―ルノワール、セザンヌと、ロダン―――」より
大正9年(1920) 光太郎38歳


光太郎が範とした芸術家のうち、彫刻家はミケランジェロとロダンでした。絵画の分野では、ルノワール。その評はイコール、光太郎のあるべき絵画観、芸術観を如実に表しています。

昨日は、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった、歌人・水野葉舟の子息にして、衆議院議員を永らく務められ、総務庁長官、建設相などを歴任された水野清氏のお別れの会に行って参りました。
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会場は、成田ビューホテル。氏の地元で、当方自宅兼事務所から車で30分足らずの場所です。
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亡くなったのは7月末で、葬儀は親族の方々等で既に執り行われていました。参列者が多くなると予想される場合には、このように葬儀は内輪で済ませ、改めてお別れの会というスタイルが定着してきたようです。先月には、出版社・二玄社さんの創業者、渡邊隆男氏のそれが青山斎場でありました。

昨日も、大島衆議院議長ご夫妻をはじめ、東洋大学理事長・安斎隆氏、堂本暁子前千葉県知事など、500名以上の参列があったようです。
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水野氏、光太郎が最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため岩手花巻郊外旧太田村から帰京した昭和27年(1952)当時、NHKさんに勤務されており、たびたび光太郎終焉の地となった中野アトリエを訪問され、光太郎日記にその名がたびたび記されています。

昭和28年(1953)の日記には、「夜十一時過水野さん印バ沼のウナキ白焼持参」とあります。昔風に濁点が省略されていますが「ウナキ」は「ウナギ」、光太郎の好物の一つでした。「十一時過」というのが豪快ですが、水野氏、一刻も早く光太郎に届けたかったのではないでしょうか。

父君の水野葉舟が成田に移り住んだのは、関東大震災の関係もあったようで、光太郎が日本画家・山脇謙次郎のために建ててやった開墾小屋が空いたため、そこに入ったのが始まりです。光太郎はしばしば葉舟の元を訪れ、近くの三里塚御料牧場で見た光景を元に、詩「春駒」(大正13年=1924)を作ったりもしました。

そのあたりにも触れられた、父君・水野葉舟歿後30年記念の企画展示が、昭和52年(1977)、成田山新勝寺内の成田山資料館で開催されました。
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左はその図録の表紙、右は清氏による父君の回想文です。

こうした光太郎とのご縁から、清氏、連翹忌に30回ほどご参加下さっていました。最後のご出席は、平成27年(2015)。この際は久しぶりにお見えになられたということもあり、スピーチをお願いしました。当方、これが氏と直接お会いした最後となりました。
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その水野氏のお別れの会に参列し、自宅兼事務所に帰って、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフの方とメールでやりとりしている中で、花巻の佐藤進氏が亡くなったと知らされ、驚きました。
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進氏、父君は佐藤隆房。昭和8年(1933)に歿した宮澤賢治の主治医でもあり、賢治の父・政次郎ともども、昭和20年(1945)4月の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、その後も物心両面で光太郎を支えてくれた人物です。

隆房は光太郎歿後に結成された花巻の財団法人高村記念会初代理事長となり、進氏は父君が亡くなったあと、そのあとを継がれて永らく彼の地での光太郎顕彰に骨折って下さいました。

光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に移る直前の1ヶ月ほど、佐藤邸に厄介になっていたこともあり、進氏も光太郎と交流がありました。
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左が進氏です。

父君歿後には、父君の書かれたものをまとめられたり、ご自身でも『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(平成5年=1993)という書籍を著され、貴重な光太郎回想を残されました。
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脳梗塞で倒れられてからも、毎年5月15日の高村祭(光太郎が花巻に向けて東京を発った記念日に、郊外旧太田村の山小屋敷地で開催)に車椅子で参加下さり、気丈にご挨拶なさったり、同市の市民講座の際に、光太郎が起居したご自宅離れの公開を快く受け入れて下さったりと、いろいろありがたい限りでした。

水野氏ともども、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

詩を書く場合に、昔の美しい言葉に生命をふき込んで使用するのもいゝが、日常語に、思ひがけぬ美しさ、気のつかぬ美しさのある事を思ひ、詩の中に日常語を取入れて、そこに美を見出したいと思ふ。

談話筆記「清浄簡素の美」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

水野清氏、佐藤進氏、それぞれ、光太郎の言う「清浄簡素の美」に共鳴されていたのだと思います。

昨日は都内港区の青山葬儀所さんに行っておりました。過日ご紹介した、出版社二玄社さんの創業者、渡邊隆男氏の「お別れの会」参列のためです。

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青山葬儀所(別名・青山斎場)さん。昭和31年(1956)4月4日、光太郎の葬儀もここでで行われました。


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その同じ場所で渡邊氏のお別れの会というのも奇縁だなと思いました。

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二玄社さん、写真製版の技術を生かし、中国古典籍の復刻や、雑誌『カーグラフィック』など、さまざまな分野で革新を起こされました。また、光太郎智恵子がらみの出版物等をたくさん刊行して下さっています。過日はその主なものをご紹介しましたが、他にもいろいろ。「あ、これも二玄社さんだったか」「ということは、あれもか」という感じで、当方自宅兼事務所の書庫、二玄社さんだらけです(笑)。順不同ですがご紹介します。

当会の祖・草野心平による『わが光太郎』(昭和44年=1969)、それからやはり光太郎と交流の深かった美術史家・奥平英雄による『晩年の高村光太郎』(昭和37年=1962)。ともに光太郎研究には欠かせない回想です。

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平成13年(2001)、徳島の相生森林美術館さん、兵庫の姫路文学館さん、広島のひろしま美術館さんを巡回した「『智恵子抄』誕生60周年記念 智恵子抄展 高村智恵子の芸術と恋とその生涯」の図録。

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やはり智恵子系で、雑誌『書画船』第2号(平成9年=1997)。光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏へのインタビュー「智恵子と紙絵」が掲載されています。

翌年発行の『PR書画船 かく!』第2号には、当会顧問北川太一先生ご執筆の「声が聞こえる ―智恵子紙絵の魅力」が。

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こちらには智恵子紙絵の複製の広告も。この複製シリーズ、当方、荒井真澄さん/大西ようこさんモンデンモモさんのコンサートなどに持ち込んで、会場内に飾ったりもさせて頂いています。

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それから昭和43年(1968)初版、昭和61年(1986)新装改版の『文士の筆跡三 詩人篇』、平成16年(2004)には日本絵手紙協会の小池邦夫氏による『芸術家・文士の絵手紙』。光太郎の書や書簡も取り上げられています。

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その他、二玄社さんも加盟している出版梓会さんによる『出版ダイジェスト』という業界紙があり、各社共同で発行される号と、二玄社さん単独の号があったりします。そちらにも当会顧問・北川太一先生の玉稿が載ったりしています。
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今後とも、光太郎智恵子の名を次世代に継承していくために、お力添えを頂きたいものです。

そして改めまして渡邊氏のご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

人は真の自由を得又自由といふものゝ真の意味を知れば、実に行住坐臥度を外れないものである。自由にして而も芸術の正道を学生に踏ませるには、どう考へても学校全体の空気が芸術的良心の真摯な力に充ちて居なければならぬ。そして芸術精神が渦を巻いて居るやうに旺盛でなければならぬ。

散文「美術教育の本来」より 大正5年(1916) 光太郎44歳

二玄社さん、「芸術的良心」「芸術精神」の涵養に貢献すること実に大、ですね。

ところでこの文章、学校に於ける美術教育のあり方について論じたものですが、「学校全体」を「国全体」と読み替えてもいいような気がします。

訃報、というか、近々執り行われる「お別れの会」二件の情報です。

お二人とも、今年6月と7月に亡くなられていましたが、当方、報道等見落としておりまして、自宅兼事務所に「お別れの会」の開催通知を頂いて初めて亡くなったことに気づきました。

お一人目、水野清氏。『明星』時代からの光太郎の親友・水野葉舟の子息にして、建設大臣や総務庁長官などを務められた元衆議院議員です。

先月初めに共同通信さん配信で訃報が出ていました。

水野清元総務庁長官が死去 行革推進、橋本首相を補佐

 橋本内閣で行政改革担当の首相補佐官として中央無題省庁再編の実現などに尽力し、建設相や総務庁長官も務めた水野清(みずの・きよし)氏が7月28日午後11時、老衰のため東京都内の老人ホームで死去した。94歳。千葉県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妻陽子さん。

 1983年、中曽根内閣で建設相で初入閣。自民党総務会長などを経て、89年には総務庁長官に就任した。96年の衆院選に出馬せず、国会議員を引退後、橋本内閣で行政改革担当の首相補佐官になった。橋本龍太郎首相が会長を務める行政改革会議の事務局長として、中央省庁再編を柱とする最終報告のとりまとめに尽力した。


先週、「お別れの会」のご案内が届きました。


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ご自身、ご幼少のみぎりから光太郎をご存じで、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には、昭和8年(1933)、満7歳の水野氏に送った光太郎からの年賀状が掲載されています。

しんねんおめでたうごさいます おはがきありがと おばさんからもよろしく 高村光太郎 昭和八年一月三日

「おばさん」は存命だった智恵子ですね。

成人された水野氏、NHKさんに入社、昭和27年(1952)に、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、岩手花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎の元に足繁く通われました。NHKさんの仕事として亀井勝一郎と光太郎の対談に関わったり、父君・水野葉舟の歌碑建立に光太郎の力を貸して貰ったりするためでした。

光太郎歿後は、父君の暮らされていた成田三里塚に建てられた光太郎「春駒」詩碑の建立(昭和52年=1977)に奔走されたり、政界入りされてご多忙だったにもかかわらず連翹忌にもかなりの回数ご参加下さったりしました。


もうお一方、出版社・二玄社さんの元会長の渡邊隆男氏。亡くなられたのは6月だそうですが、昨日、やはり「お別れの会」の通知を頂きました。

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調べてみましたところ『毎日新聞』さんには6月18日(火)に訃報が出ていました。

渡辺隆男さん 

渡辺隆男さん 90歳(わたなべ・たかお=出版社「二玄社」会長)16日、肺炎のため死去 。葬儀は近親者で営む。

二玄社さんからは、光太郎に関わる書籍がたくさん出版されています。書の作品集『高村光太郎書』(初版・昭和34年=1959、改訂新版・昭和41年=1966)、光太郎の手控え原稿をそのまま写真製版にした『高村光太郎全詩稿』上下二冊(昭和42年=1967)。

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さらに智恵子の紙絵作品集『智恵子その愛と美』(平成9年=1997)、光太郎の彫刻、絵画、書などの写真集的な『高村光太郎 美に生きる』(平成10年=1998)、光太郎の書や書論を紹介する『高村光太郎 書の深淵』(平成11年=1999)、光太郎がその生涯を振り返って書いた連作詩「暗愚小伝」にスポットを当てた『詩稿「暗愚小伝」高村光太郎』(平成18年=2006)、女川を含む三陸一帯を旅した光太郎の足跡を追う『光太郎 智恵子 うつくしきもの "三陸廻り"から"みちのく便り"まで』(平成24年=2012)などなど。すべて当会顧問・北川太一先生の編刊です。

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はっきり言うと、商業的にはあまりものにならない出版物ですが、いずれも光太郎智恵子を語るには必携の書。採算を度外視してこうした良書を世に送り続けた心意気に感服します。

そして渡邊氏、水野氏同様、お忙しい中、連翹忌にたくさんご参加下さっていました。ありがたいかぎりです。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

Mite iruto hitorideni hohoemare, Yononaka ga  ôkiku nari, Shimai ni a-haha to waratte shimau. 

詩「Fuyu no Kodomo」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

駒込林町の住居兼アトリエの前を通る千駄木小学校の児童をモチーフにした詩で、雑誌『RÔMAJI』に寄稿されたため、全文ローマ字表記です。漢字仮名交じりに書き下すと「見てゐるとひとりでにほほゑまれ、世の中が大きくなり、しまひにあははと笑つてしまふ。」となります。

昭和初め、水野清少年に会った際にもこのように感じたのでしょうか。

俳優・高島忠夫さんの訃報が出ました。今朝の『朝日新聞』さんから。

高島忠夫さん死去 俳優・司会、幅広く 88歳 

 映画にミュージカル、テレビ番組の司会と幅広く活躍した俳優の高島忠夫(たかしま・ただお、本名高嶋忠夫〈たかしま・ただお〉)さんが26日、老衰で死去した。88歳だった。明るいキャラクターでお茶の間に親しまれ、その一家は円満な家族の代名詞だった。
 神戸市生まれ。大学時代に新東宝映画第1期ニューフェースとして映画界に入り、1952年「恋の応援団長」でデビュー。映画「坊ちゃん」シリーズなどの青春コメディー路線で人気を博した。63年には、日本初のブロードウェー・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(東宝、菊田一夫演出)の主役を演じた。
 70年代以降は、テレビを中心に活動。「クイズ・ドレミファドン」の司会や、夫婦で25年以上出演した料理番組「ごちそうさま」、「ゴールデン洋画劇場」の映画解説などに出演。「イェーイ」の決めぜりふと明るい人柄で親しまれた。
 60年に映画で初共演した俳優の宝田明さん(85)は「テレビの人気者になっても、年下の人に優しく、天性の包容力があった。戦友だと思っていた」と語った。
 私生活では、63年に宝塚の男役スターだった寿美花代さんと結婚。64年には、長男道夫ちゃんがお手伝いの少女に殺害された事件に見舞われた。98年には、うつ病と診断され、闘病生活を経験した。
 俳優高嶋政宏、高嶋政伸兄弟の父でも知られ、寿美さんとは「芸能界一のおしどり夫婦」と呼ばれるほどの仲。「高島ファミリー」としてその私生活は逐一話題になった。
 政宏さんは「母曰(いわ)く最後は眠るように旅立っていった、のがせめてもの救いです」。政伸さんは「最後まで明るく良く通る声で笑ったり、話したりしながら、本当に穏やかに旅立ちました」とのコメントを出した。
 所属事務所によると、27日に家族のみで密葬を行った。お別れの会などの予定はない。

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高島さん、昭和43年(1968)には、梅田コマ・スタジアムで上演された北條秀治脚本の舞台「名作劇場第二作 智恵子抄」で、光太郎役を演じられました。智恵子役は藤純子(現・富司純子)さんでした。

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010この戯曲、元々は光太郎存命中に書かれ(北條は戦時中から光太郎と面識がありました)、光太郎が没した昭和31年(1956)、雑誌『婦人公論』の光太郎追悼特集に掲載されました。

そして光太郎存命中から内諾を得ていた故・初代水谷八重子さんが智恵子役、故・大矢市次郎さんが光太郎役で、その年の11月に東京明治座で初演。この時は同じ北條作の「太夫(こったい)さん」という芝居との二本立てで、それぞれ2時間足らずという制限がありました。

それが高島さんの出演なさった昭和43年(1968)の公演は、「智恵子抄」単独の上演ということで、約2倍に膨らませたそうです。元々は無かった上高地のシーンなどが追加されています。

その後、昭和46年(1971)には初代水谷さんによる再演(光太郎役は故・森雅之さん=光太郎と交流のあった有島武郎の長男)、昭和51年(1976)には有馬稲子さん故・高橋昌也さんがそれぞれ演じられました。その都度、上演時間等の制約のため、長かったり短かったりの改訂が為されていたようです。当方、すべて同じシナリオだと思いこんでいましたが、改めて調べてみてそうではなかったと分かりました。

高島さんの光太郎役、ぜひ見てみたかったと思いました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


【折々のことば・光太郎】

斯ういふ問題で仮定を前提とした質問に逢ふといつも困ります。一般論としては職業を持つ事に男子女子の別を考へません。家庭生活を中心として考へると、其時其場其人の三個の必然に出会はなければ賛否を考慮する根拠が私には持てないのです。理論は考へられますが。

アンケート 「あなたの夫人、令嬢、令妹などが職業を持つことを
お望みになりましたら」全文 大正14年(1925) 光太郎42歳

いわゆる「職業婦人」という言葉が使われるようになった頃のアンケート回答です。人によって事情が違うのだからと、安易に賛成とも反対とも断言しない光太郎の姿勢には好感が持てます。

先月亡くなった、高村光太郎賞受賞者の彫刻家・豊福知徳氏に関し、氏の故郷である福岡県に本社を置く『西日本新聞』さんが大きく記事にされています。 

故豊福知徳さん彫刻作品を巡る 反戦の思い「穴」に込め

 国際的に活躍した久留米市出身の彫刻家、豊福知徳さんが18日に亡くなった。享年94歳。福岡都市圏には、終戦後の旧満州(中国東北部)や朝鮮半島からの博多港引き揚げにちなむ大型記念碑「那の津往還」(福岡市博多区沖浜町)を始め、各所に作品が点在する。主な鑑賞スポットを紹介する。
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 「那の津往還」はマリンメッセ福岡の脇の博多湾沿いにある。高さ15メートル、長さ17メートルの鋼製で、1996年に建立。黒っぽい色の船上に人間をイメージした朱色の像が立つ。
 末広がりの上部に独特の楕円の穴が複数空く。舳先が向くのは、朝鮮半島かその先の中国か、北西の方角だ。豊福さん名の碑文には「敗戦直後の失意とその後に湧き興ってきた生への希望を永遠に記念する…」とあった。引き揚げ者が139万2400人余を数えた博多港の歴史を刻むモニュメントだ。引き揚げ経験者たちの声を受け、市が有識者らを交えた選定委をつくって、豊福さんの作品が選ばれた。
 陸軍特別操縦見習士官として特攻出撃前に終戦を迎え、行き場を失った豊福さん自身の戦争体験と、日本軍不在の下、ソ連軍が侵攻し、襲撃の恐怖、飢餓と長旅の疲労に見舞われながら逃げ延びた引き揚げ者の苦難を重ねている‐。作品をそう解釈するのが、美術評論家で、豊福知徳財団理事長の安永幸一さん(80)。「記念碑には戦争へのアンチテーゼ、戦争放棄、戦争反対、という豊福さんの次世代へのメッセージがこもっていると思います」
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 同市博多区下川端町の博多リバレイン前には、87年建立の「那の津幻想」がある。船上に人が立つデザインは30代の頃、高村光太郎賞を受けた出世作「漂流’58」のシリーズの一つで、「‐往還」もその系列だ。「‐幻想」は、人の胸に複数の楕円の空洞がある。戦争の空しさと戦後の心の漂流を形にして見せてくれているようにも感じる。
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 同市早良区百道浜4丁目には、「豊福知徳ギャラリー」がある。「世界的に著名な彫刻家の豊福さんとその作品をもっと多くの人に知ってほしい」と昨年夏オープンし、金・土・日曜と祝日の正午から午後6時まで無料で鑑賞できる。一部は販売している。代表的なシリーズものなど作品12点と描画4点を展示。代表の阿部和宣さんは「昨年から亡くなられた画家の浜田知明さんや宮崎進さんと同じように、豊福さんの創作の原点には戦争体験があったと思います。作品には精神性があって、見る側は何かを感じ、魅了される」と話す。
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 篠栗町の若杉山中腹にあり、豊福さんがよく通ったのが「茶房 わらび野」。建物内外に大小の計7点の作品があり、喫茶や食事を楽しみながら鑑賞できる。福岡市街地と博多湾を見渡すカウンターがあり、豊福さんはそこでワインを飲んだという。「店を気に入っていただいて、作品は置いていかれた。未完ですが、最後の作品はここで彫られたんですよ」と、女将の久保山美紀さん。
 豊福さんは1960年にイタリア・ミラノに渡り、そのまま定住。それまでの具象表現から、木に楕円形の穴をあしらった抽象形態に転じていった。
 「当時、イタリアの新しい造形表現に触れていた豊福さんは偶然、楕円の穴が開いた時にピーンと来たのだと思う。穴のノミの鋭さにはどきっとするような切れ味がある。剣道や居合道に通じ古武士のようだった豊福さんらしい」。安永さんは和洋折衷の美を語る。
 福岡市美術館は衝立状の大作を常設展示。県立美術館は、6月29日-8月29日に開くコレクション展で、所蔵の数点と肖像写真を追悼展示する予定だ。
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過日も書きましたが、「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、昭和42年(1967)まで10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、豊福氏は造型部門の第2回受賞者です。ちなみに過日、新著『高村光太郎の戦後』をご紹介した中村稔氏、最終第10回の詩部門を受賞されています。

さらにいうなら、第5回詩部門(昭和37年=1962)で受賞の田中冬二(明治27年=1894~昭和55年=1980)の遺品類が山梨県立文学館さんに寄贈されており、その中に「高村光太郎賞」関連の資料も。光太郎が文字を刻んだ木皿を原型に、豊周が鋳造した賞牌などです。光太郎が好んで揮毫した「いくら廻されても針は天極をさす」の語が刻まれています。他に副賞ののし袋や授賞式の次第なども。閲覧も可能です。

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同じ賞牌を授与された豊福氏の受賞作「漂流」そのものは木彫で、イタリアのコレクターに買われたとのことですが、同じ時期に作られたシリーズの1作が、博多に野外彫刻として展示されているそうで、これは存じませんでした。豊福氏というと「楕円の穴」ですが、そこには戦争体験も深く関わっていたとのことで、なるほどなぁ、という感じでした。

地元では氏の顕彰も進んでいるようです。光太郎共々、氏の功績も末永く語り継いでいってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

私は独学のつもりで、フランスのサロンのカタログや、西洋の美術雑誌の挿画の彫刻の写真などを参考にした。もとより甚だ幼稚で、今日から見るとつまらない大サロンの彫刻にひどく感心したり、物語性のある構図に深遠な意味があるやうに思つたりした。そして目の前にある生きたモデルがさつぱり分らず、空しくあはれな模写のやうな写生をつづけてゐた。

散文「モデルいろいろ1 ――アトリエにて6――」より
 昭和30年(1955) 光太郎73歳

その少年時代、まだロダンを知る前の明治30年代の回想です。それからおよそ50年、ようやく豊福氏のように世界に通用する彫刻家が日本から出たわけです。やはり泥沼の十五年戦争の影響ですね。それがなければあるいは光太郎も世界的評価を得るに至れたかもしれません。

予定では、智恵子の故郷、福島二本松に聳え、智恵子が「ほんとの空」があると言ったという安達太良山の山開きの件をレポートするつもりで居ましたが、急遽、訃報が入りましたのでそちらをご紹介します。

彫刻家の豊福知徳さんが死去 楕円の穴特徴000

 楕円形の穴を幾つも開けた抽象的な作品で知られる彫刻家の豊福知徳(とよふく・とものり)さんが18日午後11時57分、福岡市の病院で死去した。94歳。福岡県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。後日、お別れの会を開く予定。喪主は長女夏子(なつこ)さん。
 国学院大在学中に旧日本陸軍に志願し、終戦後は復学せず、彫刻家の冨永朝堂氏の下で木彫を学んだ。1959年に高村光太郎賞を受賞。60年にイタリアのミラノに拠点を移し40年以上活動した。2003年に帰国後は日本とイタリアを行き来しながら創作を続けた。
(共同通信) 

世界的彫刻家の豊福知徳さん死去 「那の津往還」など

 世界的な彫刻家の豊福知徳(とよふく・とものり)さんが18日、福岡市内の病院で死去した。94歳だった。葬儀は近親者で行う。喪主は長女夏子さん。後日、お別れの会を開く。
 福岡県久留米市出身。59年に高村光太郎賞を受賞し、60年のベネチア・ビエンナーレ出品を機にイタリアへ移住。ミラノにアトリエを構え、40年以上にわたり現地で制作を続けた。楕円(だえん)形の穴をいくつも開けた独特な造形作品で知られ、ローマ国立近代美術館や東京国立近代美術館など、国内外の美術館に作品が所蔵されている。
 福岡市の博多港引揚(ひきあげ)記念碑「那の津往還」などの作品も手がけ、昨年には福岡市早良区百道浜に専門ギャラリーが開設された。
(朝日新聞)

昭和34年(1959)、木彫「漂流」により、第2回高村光太郎賞を受賞した彫刻家の豊福知徳氏の訃報です。ここに挙げた以外の各紙の報道でも、「高村光太郎賞受賞」が氏の経歴に必ずと言っていいほど記載されていました。

「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村001光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、歴代受賞者には、造形が柳原義達、佐藤忠良、舟越保武、黒川紀章、建畠覚造、そして豊福氏など、詩では会田綱雄、草野天平、山之口獏、田中冬二、田村隆一ら、錚々たる顔ぶれ。審査員は高田博厚、今泉篤男、谷口吉郎、土方定一、本郷新、菊池一雄、草野心平、尾崎喜八、金子光晴、伊藤信吉、亀井勝一郎など、これまた多士済々でした。

当初から10回限定と決め、昭和42年(1967)で終了。同44年(1969)には、求龍堂さんから大判厚冊の『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』が刊行されました。歴代受賞者や審査員の作品等を紹介し、さらに高村光太郎賞の開始の経緯、年譜などが掲載されています。

そちらに載った豊福氏の彫刻が右画像です。

そして氏の言葉。

受賞作「漂流」は、私にとって殊に思い出深い作品であった。それは受賞作ということからではなく、その頃の自分の仕事の一くぎりを為した作品であったと思うからである。
処でこの重要なるべき作品の記録が手元にない。作品の所有者や所在地に加えて写真すらもないというのは私の不精のせいで、一九六〇年のヴェニス・ビエンナーレに出品して、そのままあるイタリアのコレクショナーに買取られたまではわかっているが、その後の消息は一切不明である。
この作品は受賞作ではなく、その頃しきりに制作していた漂流シリーズの中の一点である。

1950年代後半というと、ヘンリ・ムーアなどの影響もあって、彫刻の世界にも抽象がかなり入り込んできていましたが、この頃の氏の作風は完全な抽象でもなく、さりとて具象とも言えず、双方の良いところをバランスよく取り入れているように感じます。

当時の連翹忌は、高村光太郎賞の授賞式も兼ねていましたので、豊福氏、受賞された昭和34年(1959)と翌年の連翹忌に参加なさっています。受賞の年には豊福和子さんというお名前も参加名簿に残っており、おそらくご夫人なのでしょう。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

とにかく日本人の趣味、教養はいま実におくれている。四等国以下、野蛮人といつてよい。敗戦の混乱で日本人の正体が分つたわけで、実に徳川時代そのままなんだ。こうしたひどい状態で全然絶望かといえばそうでないとやはり考えたい。

談話筆記「ラジオと私」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

敗戦の傷跡がまだ色濃く残っていたこの頃を憂えての発言です。光太郎が亡くなった昭和31年(1956)には「もはや戦後ではない」と言われ、文化的な部分でも新しいものがどんどん出てくるようになりました。豊福氏などもそうした新時代の旗手だったわけで……。重ねて謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

昨日の午後にはインターネットの検索サイトトップページに報じられまして、「ありゃりゃりゃりゃ」という感じでした。

今朝の『朝日新聞』さんから。 

日本文学研究者のドナルド・キーンさん死去 96歳

 日本の古003典から現代文学まで通じ、世界に日本の文化と文学を広めた、日本文学研究者で文化勲章受章者のドナルド・キーンさんが24日、心不全で死去した。96歳だった。葬儀は親族のみで営む。喪主は養子で浄瑠璃三味線奏者のキーン誠己(せいき)さん。
 1922年、米ニューヨーク生まれ。コロンビア大在学中に「源氏物語」と出会う。日米開戦に伴い42年、米海軍日本語学校に入学。語学将校としてハワイや沖縄で従軍、日本兵の日記の翻訳や捕虜の通訳をした。沖縄の前線ではスピーカーで日本兵に投降を呼びかけた。戦後、ハーバード大、ケンブリッジ大で日本文学の研究を続け、53年から京都大に留学。英訳「日本文学選集」を編集し、米国の出版社から刊行、日本文学の海外紹介のきっかけを作った。
 谷崎潤一郎や川端康成、安部公房、三島由紀夫、司馬遼太郎ら日本を代表する作家との交遊が文学研究を豊かにした。「徒然草」「おくのほそ道」などの古典や安部、三島ら現代作家の作品を英訳。「明治天皇」「正岡子規」「石川啄木」など評伝にも力をそそぎ、作家の生涯を通して日本人の精神を浮かび上がらせてきた。
 62年、菊池寛賞を受賞。82~92年に朝日新聞の客員編集委員を務め、平安から江戸期の日記文学を論じた「百代(はくたい)の過客(かかく)」(84年、読売文学賞)などを連載した。83年に山片蟠桃賞。86年には、コロンビア大に「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立。92年コロンビア大名誉教授。97年に「日本文学の歴史」(全18巻)を完結し、同年度の朝日賞を受賞した。2008年に文化勲章。
 日米を行き来していたが、11年の東日本大震災後、日本への永住を決めて日本国籍を取得。講演などで被災地を励ました。13年には、キーンさんが復活を支援した古浄瑠璃の縁から新潟県柏崎市に「ドナルド・キーン・センター柏崎」が開館、蔵書や資料を寄贈していた。半世紀を超える研究や作品を収めた「ドナルド・キーン著作集」(全15巻)は今春、別巻を出して完結する予定だった。


NHKさんのニュースから。 

ドナルド・キーンさん死去 96歳

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文化勲章を受章した日本文学の研究者で、東日本大震災をきっかけに日本国籍を取得したことでも知られるドナルド・キーンさんが、24日朝、心不全のため、東京都内の病院で亡くなりました。96歳でした。
ドナルド・キーンさんは、1922年にニューヨークで生まれ、アメリカ海軍の学校で日本語を学びました。
戦後、京都大学に留学したあとアメリカ・コロンビア大学の教授を務めるなどして、半世紀以上にわたって日本文学の研究を続けてきました。
平安時代から現代までの日本人が書いた日記について解説した「百代の過客」や「日本文学史」など、数々の著作を通じて独自の日本文学論を展開したほか、能や歌舞伎といった日本の古典芸能の評論にも活動の幅を広げ、日本文化について鋭い批評を加えました。
また、近松門左衛門や太宰治、三島由紀夫など、古典から現代の作家まで数々の作品を英語に翻訳し、日本文学を広く世界に紹介しました。
谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫といった日本の文壇の重鎮とも親しく、ノーベル文学賞の選考を行うスウェーデン・アカデミーに対して日本文学についての助言を行ったことでも知られています。
こうした功績で日本の文学評論に関する多くの賞を受賞し、平成20年には文化勲章を受章しています。


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キーンさんは、ニューヨークのコロンビア大学で日本文学の指導にあたりながら、日本とアメリカを行き来していましたが、平成23年の東日本大震災のあと「私の日本に対する信念を見せたい」などとして長年愛着のある日本に移住することを決め、翌年の3月に日本国籍を取得しました。
90歳をすぎても活動を続け、平成28年に歌人、石川啄木の研究書を出版したほか、雑誌のインタビューや対談などにも応じていました。
キーンさんの代理人によりますと、体調が悪化したため去年秋から入退院を繰り返し、24日午前6時すぎ、心不全のために東京都内の病院で亡くなりました。

養子の誠己さん「幸せな一生だった」
ドナルド・キーンさんの養子のキーン誠己さんは「父は苦しむこともなく、穏やかに永遠の眠りにつきました。みずから選んだ母国で日本人として、日本人の家族を持ち、日本に感謝の気持ちをささげつつ、幸せに最後の時を迎えました。日本文学に生涯をささげ、日本人として日本の土となることが父の
長年の夢でしたから、この上なく幸せな一生だったと確信しています」とコメントしています。

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瀬戸内寂聴さん「ぼう然」
ドナルド・キーンさんが亡くなったことについて、同じ大正11年、1922年生まれで数々の対談を重ねてきた作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは「キーンさんとは心が通い合い、親類づきあいのような親しさが生まれていた。会えば何時間も話し込んでしまう仲になっていた。私もキーンさんも、年をとっても仕事をやめず、人にあきれられていたが、キーンさんはいくつになってもアメリカへ行き来するし、海外旅行も平気でされる。こんなことになってぼう然としている」というコメントを発表しました。

後日 お別れの会を予定
代理人によりますと、ドナルド・キーンさんの葬儀と告別式は親族のみで行い、後日、お別れの会が開かれるということです。


日本文学の流れを網羅的、体系的に研究されていたキーンさん。光太郎についても言及されていました。『朝日新聞』さんの記事にもある『日本文学の歴史』(中央公論社)の第17巻近代・現代篇8。明治・大正・昭和の詩についての巻です。光太郎の項は約40ページ。簡にして要、の感があります。

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曰く、

いわゆる現代的で複雑な詩に困惑した読者は、心から発せられた感動的な作品として光太郎の詩を好んだ。高村光太郎はこれからも、このような詩の作者として人々の記憶に残るに違いない。


また、昨年、求龍堂さんから刊行された大野芳(かおる)氏著 『ロダンを魅了した幻の大女優マダム・ハナコ』に、キーンさんが登場なさいます。唯一、ロダンの彫刻モデルを務め、光太郎とも交流があった日本人女優・花子に関する考察です。明治43年(1910)に森鷗外が花子をモチーフにして書いた短編小説「花子」を英訳したキーンさんが、昭和34年(1959)、岐阜に住む花子の遺族の元を訪れたエピソードが紹介されています。この際、キーンさんは、光太郎から花子に宛てた書簡を見せてもらったとのこと。
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ラフな服装で訪問し、気さくな、しかし、日本文学への熱意を存分に感じさせるキーンさんの真摯な人柄に、花子の遺族が感激されたそうです。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

此の彫りかけの鯉が自分で納得できるやうに仕上がる時が来たら、私の彫刻も相当に進んだ事になるであらう。いつの事やら。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

新潟の実業家・松木喜之七が、光太郎に鯉の木彫を依頼、大枚
500円をおいていきました。光太郎は早速制作にとりかかりますが、何度作っても自分で納得が行きません。鱗の処理が出来ない、というのです。鱗をリアルに彫ってしまうと俗な置物のようになるし、彫らずば鯉にならないし……というわけで、結局、完成しませんでした。光太郎、代わりにと「鯰」を進呈しています。現在、愛知小牧のメナード美術館さんに収蔵されている作品です。

確認されている、光太郎が木彫に取り組んでいるところを撮った唯一のスナップ、土門拳による昭和15年(1940)の写真に、「鯉」が写っています。

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その後、松木は召集されて、軍服姿で光太郎の元を訪れ出征の挨拶。しかし、南方戦線で還らぬ人となってしまいました。

ところで、ドナルド・キーンさん、そもそも本格的に日本文学に興味を持った一つのきっかけは、語学将校としてハワイや沖縄で従軍し、日本兵の日記の翻訳や捕虜の通訳をしたことだそうで、不思議な縁を感じます。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

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