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今月1日、詩人の平田好輝氏が亡くなったそうで、奥様から訃報のお葉書を戴きました。おん年87歳であらせられたそうです。ご葬儀は3日、近親の方々で済まされたとのこと。
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氏には『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』(昭和48年=1973 東宣出版)というご著書がおありで、連翹忌の集いにも昭和50年代から平成の初めまで、8回ご参加いただいていました。

『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』、智恵子との関係性に軸を置いた光太郎評伝で、当方、大学の卒論執筆時にはかなり参考にさせていただきました。

同書の「あとがき」。

 昭和三十一年四月一日のことである。時ならぬ雪が、激しく降りだした。万愚節のことでもあり、まるで嘘のように思われたが、雪は激しく降り積んだ。
 そのころ、わたしは二十歳で、国文科の学生であり、なによりも詩を書くことに夢中になっていた。第一詩集に収めた作品のうちのいくつかを、このころに書いていた。
 まるで嘘のように降る激しい雪を見ながら、一体、何事が起こったのだろうと思った。わたしが生れた二日後に突如として首都を震撼させた二・二六事件の話は、成長するにつれて、折にふれ聞かされ、二・二六を思うと必ず雪のイメージがひろがったが、その二・二六を思わせるような、何か只事ならざるものに、その雪は思われた。
 激しい雪は四月一日から二日の早朝にかけて降り、東京一帯を真白の雪景色に包んだ。わたしの家の近所には、ゆるやかなスロープがあり、そこに俄かにスキーヤーたちが群がり、若い女や男のほかに、白髪まじりの人まで加わって、真面目にスキーを楽しみ始めたのであった。
 一体、何がどうなったのだろう。桜が満開の筈の時に、首都圏の中でスキーが始まっているとは。
 何か余程の異変があったものと思われた。思いついて、ラジオのスイッチをひねってみた。
 すると不意に、高村光太郎の死が、伝わってきたのだ。三月の中旬頃から、光太郎の容態がよくないことは、かすかに聞き知っていた。しかし、ラジオを通して、光太郎の死を知ったときに、じつに不意打の感じと、『ああ、やっぱりそうだったのか』という感じとが、同時に襲ってきた。光太郎が雪を降らせていたのだ。なァんだ、光太郎のせいだったんだ、と思い、むしろ心の奥深いところで哄笑したいような気持があった。窓から見えるスロープで、スキーを楽しんでいる大人たち、きみたちはなぜ今ごろ、そこでスキー靴を履いて滑っているのか、分っているか。これはみんな、光太郎が降らせた雪なんだよ。わたしは飛び出して行って、大声でふれてまわりたい気持だった。
 昭和三十一年、四月二日未明、高村光太郎、ついに逝く。雪激しく降り、真白に積る。光太郎、七十四歳。
 岩手の山小屋に一人で暮らしていたときには、小屋の中に雪が吹きこみ、光太郎は手帚を持って寝ていたという。ときどき気がついたときに、顔のまわりの雪を掃いてから、また眠るのである。六十代の高齢でありながら、なおも光太郎は山小屋に一人で住み、零下二十度にもなる所で、凜冽の冬を愛しながら暮らしていたのである。そんなにまで、冬や雪を愛し、冬や雪のことを歌った詩人は、ほかにない。
 その光太郎が東京で亡くなるにあたって、東京一帯が時ならぬ雪に見舞われたのは、光太郎にとっての当然であり、それこそ「自然」であった。雪激しく降り、光太郎はその雪に包まれながら死んだ。不思議であるけれども、不思議ではない。詩に夢中になっていた二十歳のわたしにとって、高村光太郎の死にざまは、なにかわたしの奥底を揺るがし、鼓舞してくれているような気がした。「天然の素中」という彼の言葉が、不意に分ったような気がした。わたしが一度も会いに行けないうちに、光太郎は、「天然の素中」に帰って行ってしまったのだ。どうすることもできない。いくら会いたいと思っても、もう会うことはできない。だが、それにも拘らず、わたしには、その四月二日が、正直いって、非常にうれしかった。激しく雪を降らせ、そして彼は死んでいったのである。何も知らないでスキーを持ち出して無心に滑っている大人たちの光景が、わたしの窓から見え、そんな人々に対しても、なにかほのぼのと心の底から親しみを感じたのである。
 いつか必ず、光太郎智恵子のことを書かねばならないと、そのとき思った。その後の十数年に、断片的には書いてきたが、自分の創作にかまけて、一冊に書きおろしてみたい気持を、気持だけのままおしやりながら、年月を過ごしてきた。
 ただ、光太郎智恵子のさまざまなイメージは、この年月の間にも繰り返しあたためてきたつもりである。
 そして、はからずも今度、東宣出版の慫慂を得て、この一本をまとめることが出来た。とくに、田辺辰俊氏と星野正三氏の励ましに深くお礼を申し上げたい。


蓋し、名文ですね。ついつい全文を引いてしまいました。

平田氏、詩人としても現役を続けられていました。当方がいろいろお世話になっている詩人の宮尾壽里子氏が送ってくださる文芸同人誌『青い花』(第四次)の同人であらせられ、枯淡の妙ともいえるような詩を発表なさっていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨夜見えた相ですね。僕はとうと例の風邪にかかつたやうです。医者に見てもらつてねてゐます。夜は四十度以上になるやうです。食事がいけないのでつかれました。しかし気持は元気でゐます。 智恵子は亡父の一周忌で今国へ帰つてゐます。 此手紙はすぐすてて下さい。うつるといけないから


大正8年(1919)5月4日 田村松魚宛書簡より 光太郎37歳

「例の風邪」はこの年猛威をふるったスペイン風邪。しかし、実はそうではなく腸チフスだったことがのちにわかり、入院します。「とうと」は「とうとう」の誤記ですね。

出版社・思潮社さん創業者の小田久郎氏が亡くなっていたことが先月末に報じられました。

『朝日新聞』さん。

小田久郎さん死去 思潮社創業者003

 詩の出版社「思潮社」を創業し、戦後日本の詩壇史に大きな影響を与えた小田久郎(おだ・きゅうろう)さんが昨年1月18日、肺炎で死去した。90歳だった。今月28日発売の詩誌「現代詩手帖(てちょう)」4月号で同社が公表した。
 1956年に思潮社を創業し、59年に「現代詩手帖」を創刊。谷川俊太郎さんや故大岡信さんらを積極的に起用した。95年、詩壇の歩みを綿密に書きとめた「戦後詩壇私史」で大佛次郎賞。2021年、戦後日本の詩と詩壇への貢献に対し、歴程賞を贈られた。

もしかすると記事にある『戦後詩壇私史』等で光太郎に触れられていたかも、と思ったのですが、その辺り、当方、寡聞にして存じませんで、訃報の紹介はいたしませんでした。

ところが、『日本経済新聞』さん(4月6日(木)の掲載でした)に載った氏の追悼記事に、光太郎の名。やはり『戦後詩壇私史』で光太郎の「道程」(大正3年=1914)に言及されていたそうで。

思潮社創業者・小田久郎さん「現代詩」背負って立った人

 昨年1月に90歳で亡くなった「思潮社」の創業者、小田久郎さんは、いつも朗々とした声で語る人だった。
 東京・市谷砂土原町の社屋に小田さんを初めて訪ねたのは34年前。当時58歳の小田さんには、現代詩の出版を背負って立つ自信と気力があふれていた。刊行開始から20年余りを経た「現代詩文庫」発刊の経緯や、田村隆一、鮎川信夫ら「荒地」グループの詩人の仕事を、豊富な逸話と交えて語り出す座談に、駆け出しの文芸記者は魅了された。
 以来、取材などで会うたびに話したのは、いつも詩人と現代詩の話題ばかりだったが、退屈したことがなかった。その訳は、小田さんがその後、齢を重ねても、現代詩の歴史と現在を、いつも我がこととして、受け止め続けてきたからではなかったか。
 現代詩の今を、他人事にはしない姿勢は、思潮社で働く編集者が常々感じていた。看板雑誌「現代詩手帖」の編集長を1960年代に務めた詩人の八木忠栄さんは、小田さんを「貫徹の人だった」と回想する。「現代詩をリードするという意識が常にあって、中心となる企画の決定をするのは、常に小田さんだった」という。柔らかな企画を提案しても、はねられ、悔しい思いをしたこともあった。
 同時に、「新しい詩人を育てないといけない」という意識を強く持っていた。「荒地」の詩人や、大岡信、谷川俊太郎、飯島耕一といった同世代の詩人と並走するとともに、若い編集者を年下の詩人の担当にして、新世代のフォローアップを欠かさなかった。
 「小田さんは、現代詩の流れを更新しよう、という意識をいつも抱いていた」と振り返るのは、2010年から5年間、「現代詩手帖」の編集長を務めた亀岡大助氏さんだ。新しい世代の詩人を取り上げる特集や詩集のシリーズを、21世紀になってからも、次々と送り出していった。
 小田さんの次男で思潮社専務の小田康之さんには、今も忘れられない父の言葉がある。
 「売れる本は作るなよ」。90年代の初め、思潮社で仕事を始めたころに言われて驚いた。売り上げを第一に考える現在の出版界から見れば、ナンセンスにさえ聞こえるかもしれない。しかしそれは、売り上げだけを目的にするのでなく、自社にしか作れない本を作れ、という信念の表れだった。「あれだけ多くの詩集を世に出し続けた出版人は、かつていない。ギネスブックものではないか」。そう語るのは、60年もの親交のある詩人の井川博年さんだ。
 戦後の詩壇の変遷を体験に基づいてたどった著書「戦後詩壇私史」で、小田さんは「現代詩手帖」を創刊した59年ごろの心情を、高村光太郎の詩の一節を借りて表している。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」
 戦後から現代へ至る詩の道を華やかに歩いた詩人は数あれども、その裏で、長きにわたりその道を整備し続けた人は、小田さんをおいてほかにいなかった。
(客員編集委員 宮川匡司)
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なるほど、光太郎の精神を受け継がれての数々の業績だったか、と、粛然とさせられました。

ところで、詩誌『現代詩手帖』をはじめ、このブログサイトでご紹介してきた複数の新刊詩集等で、思潮社さん刊行のものも少なくありません。平田俊子氏『戯れ言の自由』和合亮一氏『QQQ』平岡敏夫氏『平岡敏夫詩集』など。それらの奥付を見てみますと、「発行人 小田久郎」の文字。詩誌『歴程』等を通し、多くの詩人を世に送り出した当会の祖・草野心平や、さらに遡って『明星』で光太郎を含む若い才能を育てた与謝野鉄幹などを彷彿とさせられました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

ふいと出て来たので又出直さうと思つてます 今日は一旦帰るでせう


大正元年(1912)8月31日 前田晁宛書簡より 光太郎30歳

ふいと出て来た」先は、千葉銚子の犬吠埼。今年1月に廃業した老舗旅館・暁鶏館に宿泊し、絵を描くためでした。しかし気乗りがしなかったのでしょうか、すぐ帰ろう、と書いています。

ところがそこに、智恵子が現れます。二人の恋愛問題で煮え切らない態度の光太郎に業を煮やしたのでしょうか。

光太郎の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であつた。私はそんな事は知らなかつたが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれてゐた。

結果、滞在を9月4日まで延ばし、光太郎も智恵子への愛を貫く決意を固めました。

訃報を2件、ご紹介します。

まずは言わずと知れた世界の坂本龍一氏。共同通信さん配信記事から。

世界的音楽家の坂本龍一さん死去 YMO、環境・平和活動も

004 音楽ユニット「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)のメンバーで、世界的な音楽家として知られた坂本龍一(さかもと・りゅういち)さんが3月28日、死去した。71歳。東京都出身。葬儀は近親者で行った。
 1978年に細野晴臣さん、高橋幸宏さんとYMOを結成し、キーボードを担当。シンセサイザーを駆使したテクノ・ポップ・サウンドで一世を風靡した。
 大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」に出演し、音楽も担当。映画「ラストエンペラー」の音楽で、米アカデミー作曲賞、グラミー賞を受賞した。
 環境問題や平和問題にも関心が深く、近年は脱原発で積極的な発言を続けた。

坂本氏、NHKEテレさんの「にほんごであそぼ」内でくりかえし使われ続けている「道程」の作曲を手がけられました。
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「道程」の最終詩形は短いものですので(雑誌への初出発表形は102行ありましたが、詩集『道程』収録時にばっさりカットして9行になりました)、通常、他の作曲家等の方々は全9行に曲をつけられます。しかし、坂本氏は冒頭2行「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」だけを抽出。しかも、ある意味、ポジティブな内容の詩ですからこれも他の作曲家等の方々はドゥア(長調)で作曲されるところを、坂本氏は哀愁漂うモール(短調)で。しかし、それが何ら不自然ではなくこの上なくぴったりはまっていて、この短い曲一つとっても、坂本氏の類い希な才能のほどがわかります。

東日本大震災があった次の年の平成24年(2012)に公開収録が行われ、翌年オンエアされて、さらにDVD化もされた「にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島」では、おん自らピアノ伴奏。
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坂本氏の貴重なかぶりものショットです。

ちなみにこの際の歌唱チームの一員で、他の機会にはソロでも「道程」を歌われていた、おおたか静流さんも昨年亡くなりました。

坂本氏と光太郎、もう1件。

やはり東日本大震災翌年の平成24年(2012)、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された第21回女川光太郎祭の会場が、当時、女川町の仮設住宅敷地内の、坂本氏が資金を出して作られた巨大テントを張ったコミュニティスペース「坂本龍一マルシェ」でした。
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震災の復興支援、原発問題、環境問題などにも並々ならぬ関心を寄せられ、さらに発信を続けられていた氏の姿勢が、こういうところにも表れています。こういうイベントがあったというのは、ご本人はあずかり知らぬところでしょうが。

それにしても、坂本氏の訃報が出たのが、第67回連翹忌の4月2日(日)。不思議な縁を感じます。

もうお一方、今日の朝刊に出た訃報です。評論家の芹沢俊介氏。やはり共同通信さんから。

評論家の芹沢俊介さんが死去 家族、宗教、幅広いテーマ論じる

007 家族や教育、犯罪、宗教など、幅広いテーマを論じた評論家の芹沢俊介(せりざわ・しゅんすけ)さんが3月22日午後7時12分、脳出血のため千葉県我孫子市の病院で死去した。80歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は妻美保(みほ)さん。
 評論家の吉本隆明さんに師事し、雑誌「試行」などで原稿を発表。「鮎川信夫」などの文芸評論のほか、宗教集団信者の集団失踪を論じた「『イエスの方舟』論」で注目を集めた。ひきこもりの問題のほか、宮崎勤元死刑囚による幼女連続誘拐殺人事件や秋葉原無差別殺傷事件など、家庭や養育、若者の犯罪などについて積極的に論陣を張った。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の盟友だった故・吉本隆明氏の弟子筋に当たられた方です。オウム事件以降、いろいろあって表舞台にはあまり出て来られなくなられていましたが、かつては師の吉本氏同様、光太郎論にも取り組まれました。昭和57年(1982)には、筑摩書房さんから『高村光太郎』という書籍を刊行なさっています。
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また、令和元年(2019)、文治堂書店さんから刊行された北川先生の『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』PR用の冊子『トンボの眼玉』№9に、「北川太一とその仕事」という一文を寄せられました。
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坂本氏、芹沢氏、それぞれ謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

Tant de Japonais admirent votre art, cher  Maître, c'est bien naturel.


明治45年4月20日 アンリ・マティス宛書簡より 光太郎30歳

邦訳は「かくも多くの日本人があなたの芸術を賞讃するのは、親愛なる画伯、ごく自然のことなのです」。光太郎自身も含め、光太郎も関わった白樺派の面々を指しての言です。

マティスからは「あなたとお近づきになれますよう、近々パリに戻られますことを願っております。そのときを待ちつつ、御手紙に厚く御礼申し上げます」的な返信を受け取っています。残念ながらそれは実現しませんでしたが。

女優の奈良岡朋子さんが亡くなりました。

NHKさんのニュース。

俳優 奈良岡朋子さん死去 肺炎のため 93歳

 舞台や映画で活躍し、連続テレビ小説「おしん」などテレビドラマのナレーションでも親しまれた俳優の奈良岡朋子さんが今月23日、肺炎のため、東京都内の病院で亡くなりました。93歳でした。
 奈良岡さんは東京の出身で、洋画家の父、奈良岡正夫の影響で今の女子美術大学で絵画を学びながら1948年に現在の劇団民藝に入り、舞台での活動を始めます。
 その後は、同期生だった大滝秀治さんらとともに劇団の代表的な存在となり、「かもめ」や「奇蹟の人」など数々の舞台で高い評価を得てきました。
 テレビドラマや映画でも名脇役を演じたほか、NHKの大河ドラマ「春日局」や「篤姫」、それに連続テレビ小説「おしん」など、多くのナレーションでは落ち着いた語り口で親しまれました。
 1992年には紫綬褒章、2000年には勲四等旭日小綬章を受章しています。
 また、2013年からは原爆の悲惨さを描いた「黒い雨」のひとり語りの舞台がライフワークとなり、全国各地で上演するなど、平和を訴える活動を続けていました。
 劇団民藝によりますと、奈良岡さんは去年も舞台に立つなど最近まで活動を続けていましたが、体調を崩し今月23日夜、肺炎のため亡くなりました。
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『朝日新聞』さん。

奈良岡朋子さん死去 俳優、劇団民芸代表 93歳

 新劇を代表する俳優として70年以上にわたって舞台の第一線で活躍した劇団民芸代表で俳優の奈良岡朋子(ならおか・ともこ)さんが23日午後10時50分、肺炎のため死去した。93歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主はめいで劇団民芸演出家の丹野郁弓(たんの・いくみ)さん。
 1929年東京出身。父は洋画家の奈良岡正夫。女子美術専門学校(現・女子美術大学)在学中の48年、民衆芸術劇場の養成所に入り、50年の民芸創設に参加。旗揚げ公演「かもめ」に出演した。54年の「煉瓦女工」で初主演。宇野重吉や滝沢修らの指導を受けた。
 「ガラスの動物園」「イルクーツク物語」「奇跡の人」「グレイクリスマス」「火山灰地」など劇団公演の出演は7千回を超えた。2000年には同期の大滝秀治と民芸の共同代表となり、12年の大滝死去後も代表を務めた。後進への熱心な指導で知られ、劇団外の俳優も薫陶を受けた。
 森光子が作家林芙美子を演じた「放浪記」でライバルの日夏京子を好演。05年には民芸と無名塾の共同公演「ドライビング・ミス・デイジー」で仲代達矢さんと共演し、孤独な老婦人を陰影深く演じた。映画やドラマでも堅実な脇役で幅広く出演。ドラマ「おしん」「篤姫」などでナレーションも担当した。
 52年の新藤兼人監督の映画「原爆の子」に民芸の仲間らと出演し、戦争の悲劇を語り継ぐことをライフワークに。13年から井伏鱒二の「黒い雨」の一人語りを続けていた。
 69年紀伊国屋演劇賞個人賞、81年菊田一夫演劇賞、92年紫綬褒章、00年勲四等旭日小綬章、06年には朝日舞台芸術賞、毎日芸術賞をそれぞれ受けた。
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奈良岡さん、昭和50年(1975)にラジオの文化放送さんで放送された「青春劇場 日本抒情名詩集」で、「智恵子抄」から数編の朗読をなさいました。平成22年(2010)にはそれを含むCD「文化放送アーカイブス 第2弾 語り芸」がリリースされています。他に宮沢賢治や萩原朔太郎作品の朗読も。
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おそらくこのCDから、YouTube上に「あどけない話」朗読がアップされていました。


さすがの朗読です。

奈良岡さん、他に映画でも光太郎智恵子がらみが。

昭和40年(1965)封切りの日本映画「こころの山脈」(吉村公三郎監督、山岡久乃さん主演)。智恵子の故郷・福島県二本松市に隣接する本宮町(現・本宮市)を舞台にしています。東宝系で上映されましたが、製作は東宝さんではなく「本宮方式映画製作の会」。本宮の人々が声を上げて現代のクラウドファンディングのように基金を募り、地域密着型の映画を作る、それが「本宮方式」で、現代ではよくあるスタイルですが、この手の方式の日本初として映画史に残る作品です。
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奈良岡さんの役どころは、準主役の少年(本宮の一般小学生が演じました)の母親役。ただし、悪女です。
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元々、夫(郡山のアマチュア劇団員の方が演じました)との仲は冷え切っており、二人の子供に対してもネグレクト気味。
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ついには夫と子供たちを捨てて、若い男と駆け落ちしてしまいます。
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ただ、最後には少し改心し、少年を迎えに来るのですが。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

札幌にも斯の如きものあり。此は昨日の出来事に候。今円山は花ざかり。

明治44年(1911)5月10日 北原白秋宛書簡より 光太郎29歳

酪農を行いつつ彫刻や絵を制作するという夢の実現のため、とうとう北海道に。「斯の如きもの」は札幌円山公園での「見番観桜会」。ススキノの芸者衆による華やかな踊りの競演です。

下記は同日、編集者の前田晁に送ったほぼ同一の内容の絵葉書。
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昨日、漫画家の松本零士氏の訃報が出ました。

共同通信さんの配信記事。

漫画家の松本零士さんが死去 「銀河鉄道999」「ヤマト」

 013「銀河鉄道999」「宇宙戦艦ヤマト」で知られる漫画家の松本零士(まつもと・れいじ、本名晟=あきら)さんが13日午前11時、急性心不全のため東京都の病院で死去した。85歳。福岡県出身。告別式は近親者で行った。喪主は妻の漫画家牧美也子さん。お別れの会を後日開催予定。
 スケールの大きなSF、戦争漫画を数多く手がけた。戦闘機などの詳細で独特な描写は海外のSF映画にも影響を与えたとされる。
 1954年、高校在学中に「蜜蜂の冒険」でデビュー。上京後、少女漫画などを描いた。71年に雑誌で連載を始めた「男おいどん」で、東京の若者の貧しい下宿生活を描いて人気を得た。同作品も含む「大四畳半シリーズ」は、ユニークなキャラクターが広く親しまれた。
 74年からテレビで放送されたアニメ「宇宙戦艦ヤマト」シリーズの企画に参加、漫画版を手がけ、その後のアニメブームのきっかけをつくった。宇宙への旅を叙情的に描いた代表作「銀河鉄道999」や「宇宙海賊キャプテンハーロック」もアニメ化され、さまざまな社会現象を起こした。
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わずかながら、光太郎智恵子とのかかわりも。

かつて、氏が名誉館長を務められていた福島県郡山市の郡山市ふれあい科学館さんで開催されていた「ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト」審査員を務められました。こちらは光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を用い、「“ほんとの空”のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えて下さい。」と要項に記されていました。

第4回の入選作品集(平成28年=2016)から。
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こんな短い文章にも、氏の理念がよく表されていますね。

個人的なことを申し上げれば、氏の作品の数々、少年時代によく読みました。ひねくれ者の当方ですので、代表作といわれる作品群よりマイナーなものに惹かれました。SF系だと「ワダチ」、「大純情くん」、「ミライザーバン」など。

それから、「戦場まんがシリーズ」。第二次大戦中の日本軍やドイツ軍などの名も無き兵士たちを主人公とした短編連作で、陸軍パイロットだった氏のお父さまのご体験等が反映されています。お父さまは氏に「あんな戦争はやってはいけない」と口癖のように語られていたそうで。そこで、散華する兵士たちを「英霊」「英雄」と讃美せず、どちらかというと愚かな戦争の犠牲者として捉えていました。印象的だったのは、日本軍による特攻を受け、撃沈される米軍空母の艦長が沈没直前に広島への原爆投下を打電で知り「おれたちも、バカか。敵も味方も、みんな大バカだ」と呟いたシーン。他にも、末端の兵士たちそれぞれにさまざまな人間ドラマがあったことがリアルに描かれていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

And yet, I feel happy in the bottom of my heart ; such affairs and bad health gave me deeper lessons than ever. I heard such a marvellous harmony in what I heard only a confused discord befor. I have become <to be> able to look more dearly at the face of Nature. I think I have stepped a little further in understanding the relation between Nature and myself, of course only the relation, not Nature itself.

明治42年(1909)1月4日 バーナード ・リーチ宛書簡より 光太郎27歳

『高村光太郎全集』での訳は以下の通り。

しかし、僕は心の底では喜んでいる――こんな事件があったり、具合が悪かったりしたために、かえって今までに無い深い教訓を得た。これまでは不協和音としか聞こえなかったものの中に、非常に不思議なハーモニイを聞いたのだ。僕は自然の姿を前よりもいとおしく眺めることができるようになった。自然と自分との相互関係の理解に、ささやかな一歩を進め得たと思う。勿論、自然そのものではなくて、それとの関係にしかすぎないけれど……。

こんな事件」は、故国日本で従兄弟が事故死したことを指し、「具合が悪かったり」は、歯の治療で歯医者通いをしていることを指します。

自然」云々、のちの詩「道程」にも通じるような気がします。

国民的アニメ「サザエさん」で、サザエさんの長男・タラちゃんの役をなさっていた貴家堂子さんが亡くなりました。

『朝日新聞』さん。

タラちゃん役53年、声優の貴家堂子さん死去 月内は出演、後任未定

014 フジテレビのアニメ「サザエさん」で1969年の放送開始からフグ田タラオ役を演じてきた、声優の貴家堂子(さすが・たかこ、本名堀内堂子〈ほりうち・たかこ〉)さんが5日死去した。87歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は夫堀内博周(ひろかね)さん。
 「サザエさん」放送開始から53年間、「タラちゃん」ことサザエの息子のタラオを演じ、2019年には「最も長くテレビアニメシリーズにおいて同じ役を演じ続ける声優」として、サザエ役加藤みどりさんとともにギネス世界記録に認定された。
 他にも、「天才バカボン」のハジメちゃん、「ハクション大魔王」のアクビ、「リボンの騎士」のチンクなどを演じた。
 フジテレビによると、貴家さんの「サザエさん」出演は2月26日の放送回まで。タラオ役の後任は検討中という。

『デイリースポーツ』さん。

永遠の3歳 タラちゃんを53年間ありがとう 声優・貴家堂子さん死去 87歳

013 声優の貴家堂子(さすが・たかこ、本名堀内堂子=ほりうち・たかこ)さんが5日午後に死去していたことが10日、分かった。87歳。東京都出身。フジテレビ系の国民的テレビアニメ「サザエさん」(フジテレビ系、日曜、後6・30)でフグ田タラオ(タラちゃん)の声を1969年の放送開始から務め、親しまれていた。葬儀は近親者で行った。喪主は夫の堀内博周(ほりうち・ひろかね)氏。
 あまりにも突然の別れだった。
 放送開始から53年もの間、3歳のタラちゃんを演じてきた貴家さん。母サザエさん役の声優・加藤みどり(83)は、初回放送から伴走してきた最後の共演者を失い、「『サザエさん』の初回放送から50年以上、ずっと一緒に家族として歩んできた貴家ちゃん。“貴家ちゃんがいるうちは私も頑張らなきゃ”と思っていたので貴家ちゃんがいなくなって本当に寂しく、悲しい気持ちです」と別れを惜しんだ。
 関係者によると、貴家さんが最後となった「サザエさん」の収録に臨んだのは今月2日。その時はいつもと変わった様子はなく、病気で療養などもしていなかったという。関係者も「驚いています」と絶句した。
 貴家さんは2019年10月6日、タラちゃん役を演じたキャリアが50年と1日を記録し、「テレビアニメシリーズにおいて最も長く同じ役を演じた声優」として、加藤とともにギネス世界記録に認定された。
 また、「天才バカボン」のハジメちゃん、「ハクション大魔王」のアクビ、「リボンの騎士」のチンクなどのかわいい声で、多くのファンを魅了した。
 貴家さんが最後に出演した「サザエさん」は、今月26日放送の「サザエさん ひな祭り1時間SP」となる。後任について、フジテレビでは「検討中です」としている。
 ◆ファミリー悼む
 マスオ役・田中秀幸「大切な宝物を失った悲しみで一杯です。貴家さん。穏やかな語り口、優しいお言葉、素敵な笑顔…しっかり胸に刻んでおきます。ありがとうタラちゃん」
 波平役・茶風林「突然の訃報に言葉がありません。いつもおしゃれでニコニコと優しい笑顔を振りまいてくださいました。ずっとずっとご一緒できると思っていたのに残念でなりません」
 フネ役・寺内よりえ「貴家さんには折あるごとに温かく見守りお声がけ頂き感謝しております。一つの役を長く演じてこられた大先輩のお言葉・お姿を胸に刻み、励んで参ります。貴家さん、そして愛らしいタラちゃん、お疲れ様でした」
 カツオ役・冨永みーな「スタジオでいつもいつも優しくしていただきました。そしてキュートでいらっしゃった貴家さん。突然の訃報にとても驚いています。寂しいです。心よりご冥福をお祈り致します」
 ワカメ役・津村まこと「貴家さんはお茶目でタラちゃんそのままのような本当にかわいらしい優しい方でした。全く実感はないのに脱力感がすごいです。あのタラちゃんのかわいらしい声が聞けなくなるなんて寂しいです、残念です」

1月29日(日)放映分に「カツオの行く道」という回がありました。カツオ君が、学校の課題なのでしょうか、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を暗誦しなければいけない、しかしなかなか覚えられないという話で……。カツオ君曰く「道路工事のおじさんの詩だと思った」。
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そこで磯野家では、「道程」がちょっとしたブームに。
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最後は3歳のタラちゃんも覚えてしまいました。
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それを道路工事のおじさんたちの前で披露。
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しかし「道路工事のおじさんの詩です」と言う前に、サザエさんが現れ……
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貴家さん、53年間、お疲れさまでした。そしてほぼ最後に、素敵な「道程」をありがとうございました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生は六月頃渡英のつもり。米国の研究の始末をつけるので大多忙、


明治40年(1907)4月30日 大澤三之助宛書簡より 光太郎25歳

前年2月にニューヨークに着いた光太郎、1年余りで次なる目的地、ロンドンを目指します。東京美術学校の先輩、白瀧幾之介らが既にロンドンに居り、また、何と言っても大英博物館がありますので。

宮沢賢治研究家としても有名であらせられた、詩人・仏文学者の天沢退二郎氏の訃報が出ました。

共同通信さんの配信記事から。

詩人の天沢退二郎さん死去 宮沢賢治研究、バタイユ翻訳

  フランス文学者で宮沢賢治の研究でも知られる詩人の天沢退二郎(あまざわ・たいじろう)さんが25日午後7時35分、千葉市稲毛区の病院で死去した。86歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。喪主は妻でイラストレーターのマリ林(まりりん)さん。
 幼い頃から宮沢賢治の作品に親しみ、「校本宮沢賢治全集」の編著に関わった。宮沢賢治学会の代表理事も務め、少年少女のための小説「オレンジ党」シリーズなども執筆した。
 詩集で藤村記念歴程賞、高見順賞などを受賞。ジョルジュ・バタイユやアンリ・ボスコの翻訳も手がけた。

天沢氏、賢治と光太郎についても言及していらっしゃいました。

昭和44年(1969)筑摩書房発行の『現代日本文学大系』第27巻の月報に「光太郎対賢治」と題し、大正15年(1926)の光太郎賢治の最初にして最後の出会いについて等。こちらはのち「《出会い》のななめ背後に」と解題・加筆されて、昭和53年(1978)、思潮社発行の『現代詩読本 高村光太郎』に収められました。
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また、平成8年(1996)にはやはり筑摩書房から出た増補決定版『高村光太郎全集』第19巻の月報に「《光賢太治郎》論のこころみ」と題する一文も寄せられました。題名は光太郎と賢治の名前をアナグラムにしたもので、二人の詩に共通して通底する位相について述べられています。
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『東京新聞』さんには氏の追悼記事も出ました。

【評伝】天沢退二郎さん 圧倒的に熱く語った宮沢賢治「宇宙人にも感動してもらえるように」

000 フランス文学者で宮沢賢治の研究でも知られる詩人の天沢退二郎(あまざわ・たいじろう)さんが25日、86歳で亡くなった。
 多彩な顔を持つ天沢さんには、「ダークファンタジーの傑作」と呼ばれる児童文学の著書「光車よ、まわれ!」もある。子どものころに魅了された者として、本紙エッセー「私の東京物語」の執筆を依頼できたことが光栄だった。2017年、千葉市の自宅近くのカフェで初対面。手書きの原稿を受け取りながら、その中にも登場する「光車」の物語のあれこれを尋ねた。「私の東京物語」は同年11月に掲載された。
 しかし、天沢さんが圧倒的に熱く語ったのは宮沢賢治だった。戦前の旧満州で過ごした小学生時代に夢中になり、作品を読破。34歳の時には賢治論を見込まれ、賢治の弟の清六さんから岩手県花巻市の自宅で、夢だった賢治の直筆原稿を見せてもらう。その時、清六さんに告げられた言葉が人生を決めた。「賢治の全集を作り直してほしい」
 以来、大半が生前未発表で書き直しも多く、本文が定まらない賢治の作品を「決定稿」にすべく、仏文学者の先輩である入沢康夫さん(故人)らと上野発夜行列車で花巻間を何往復もして、生原稿を分析し、校本全集を完成。その後も改訂を続けた。
 賢治に労力を注ぐ理由を尋ねると、天沢さんは事もなげに答えた。「いずれ宇宙人も賢治を読むようになると思うから、宇宙人にも感動してもらえるように」。自らも独特の作品で人々を魅了してきた詩人の言葉だと受け止めた。今は少年のような笑顔で、銀河鉄道に乗って天駆けていると思う。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

山中にて狼の糞はじめて見申候。


明治34年(1901)8月末 高村光雲宛書簡より 光太郎19歳

信州の戸隠より留守宅の父・光雲に宛てた長い書簡から。この旅では一人、野尻、上越の赤倉、また信州に戻って松本、木曽方面まで足を伸ばしました。

ニホンオオカミは明治38年(1905)、奈良の吉野で捕獲されたものを最後に絶滅したとされていますが、信州や武州秩父山塊などには未だに生息しているのではないかともいわれています。ロマンがありますね。

003またお一人、生前の光太郎をご存じだった方が亡くなりました。

中西利一郎氏。光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエの大家さんだった中西家の子息です。昭和12年(1937)のお生まれでしたので、今年のお誕生日で満86歳になられるはずでした。

元々アトリエは氏のお父さまにして新制作派の画家だった中西利雄画伯が自宅敷地内に建てたものでしたが、画伯が急逝し、その後、貸しアトリエとなりました。光太郎の前には、やはり彫刻家のイサム・ノグチが使っていたとのこと。

光太郎がこちらに入ったのは、昭和27年(1952)10月。青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のためでした。以後、昭和31年(1956)に亡くなるまで基本的にこちらで過ごした光太郎と、氏は3年半、同じ敷地内で生活されたわけです。光太郎一周忌だった昭和32年(1957)4月2日の第一回連翹忌もこちらで行われました。そもそも連翹忌の「連翹」は、光太郎が歿した時にもここの庭に咲いていて、光太郎が愛した連翹に由来します。

そうした関係で、氏には連翹忌の集いにたびたびご参加いただきましたし、当方も三回、中野のご自宅にお伺いしました。そして、光太郎遺品の数々などを拝見。

氏が光太郎からもらったお年玉の熨斗袋(熨斗袋といいつつ、原稿用紙を折りたたんで作ったものです)それから外出もままならなくなった最晩年の光太郎が氏のお母さまに買い物を頼んだ際の膨大なメモ。

アトリエを借りることが決まった際に、蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村から氏のお母さまに宛てた葉書、氏のお母さまと光太郎の2ショット写真。

これらは光太郎に関わる企画展や、ATV青森テレビさんで放映された「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」という番組などで紹介されたこともあります。

同番組から。
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中西氏、平成13年(2001)5月15日には花巻の高村山荘敷地内で行われた第44回高村祭で「高村光太郎先生の思い出」と題し記念講演もなさいました。

その抜粋。

 昭和27年10月13日、予定通り、光太郎先生は中野においでになりました。
 レインコートにリックサックを背負って、長靴をはき、登山帽をかぶって…私は、当時、中学三年生、子供心に、大きな体の飾りけのない、えらい先生が見えたと今でも記憶に残っております。「銀河鉄道の夜」や「雨ニモマケズ」の宮沢賢治は知っていても国語で習っていないせいか、高村光太郎先生が、彫刻家で、詩人で、日本のえらい先生とは深く知りませんでした。
 ただ、えらい先生が、アトリエへ見えて、彫刻をおつくりになるのだと聞かされていました。のちに教科書や新聞、本などで知るようになったのですが、一人、家の人が増え、おじいちゃんが出来たぐらいの認識でした。
(略)
 昭和29年春頃から光太郎先生は体調のことを気にされ、肋間神経痛で痛むことを耳にするようになりました。それまでは、先生もお元気で、中野桃園通り商店街で、先生の買い物のお姿を見かけたり、肉屋さん、八百屋さん、果物屋さん、お寿司屋さんでも有名になっていました。後日談で先生にお手洗いを貸して、先生の体をささえてあげたという自転車屋さんの話を今でも聞きます。登山帽をかぶり、長靴をはいて、レインコートを着て、カゴを持った先生のお姿は体が大きいだけに、やはりめだってみえたのでしょう。
(略)
 ところが、昭和30年5月にはベッドをもとめられて、アトリエの中二階から階下で休まれるようになさいました。母がベッドの購入のお手伝いをしたようです。
(略)
 その頃から買い物は母が先生からメモ書きをお受けしてやっていたようで、そのメモが残っていて、先生の生活の一片がわかります。
 母から聞いたエピソードをちょっとお話ししてみます。「先生はお肉がお好きで、歯がないのに、じょうずにひれ肉を焼いて、きれいに食べられるのよ」とか智恵子さんの御命日には「今日は智恵子の命日だから」と言って、二人分の夕食を用意して、会話しながら食べるのだという話を母から聞いて、私は、先生の御気持ち、やさしさが充分すぎる位にわかりました。
(略)
 昭和31年三月下旬に入ると、容態が急変して、看護婦さんもつけることになりました。3月22日だったと思います。私は学校が春休みに入ること、大学受験、卒業式とでガタガタしておりましたが、心配でたまりませんでした。
 アトリエには面会謝絶の紙が貼られて、母屋には心配する見舞いの方々で大変でした。光太郎先生は何度となく喀血をくり返して、衰弱がひどくなってゆかれました。
(略)
 そして、四月一日は、寒く、午後から雪が降り出し、夜になっても牡丹雪となって、しんしんと降り続いた。夜になって草野心平先生が「酸素吸入をしている」ということで、会合を抜けて、雪の中を駆けつけてこられました。

(略)
 深夜十一時半頃、アトリエから母屋へ戻られた草野心平先生は「今夜は落ちついて、休まれているから、だいじょうぶだろう」とおっしゃって帰られて行きました。
(略)
 うとうとする一時が経ったでしょうか。アトリエからのブザーが鳴りました。
(略)
 そのブザーの音を聞いて、私たちも飛び起きました。「これは大変だ。容態が急変したのだ」と……。あとは、言いつけられるままに、私は弟と中野駅へ雪の中を走りました。
 中野駅に出ても、タクシーが思うようでなく、ガードをくぐった北口の方で、やっと一台をつかまえることが出来ました。運転手さんにすかさず、行先大久保の地図を示し、事情を告げて、急いでもらいました。
 「草野先生、草野先生、光太郎先生が……」と戸をたたいて、呼びかけました。「あぶないから」と。
 草野先生は帰られて、数時間もたたないうちに起こされたのですから、意を察して、準備され、すぐに中野アトリエへと急行です。時間は3時30分頃だったと思います。四時頃、中野に着いた時にはあれだけ降っていた雪もやんでいました。
 我が家の表門には車が一台とまっていて、降り立ったのは高村豊周先生御夫妻でした。
 光太郎先生永眠は3時45分、臨終に居合わせたのは、私の母と看護婦二人だったと聞いています。
(略)
 亡くなられた二日は、にわかに弔問客で、わけもわからず、我が家も忙しくなった。
 私達は居場所もないほど、ゴッタ返し、葬儀の準備に入り、三日を通夜、四日の告別式は青山斎場に決まった。
(略)
 私は事務進行の北川太一先生を御案内して、近くの長谷川葬儀社へ出向いて、葬儀の依頼をしたことを覚えています。いまだにその葬儀社の息子さんから、その時のことを聞かされており、オヤジさんは、それこそ、一世一代のお棺を徹夜で作ったそうです。
(略)
 葬儀の日の祭壇は建築家の谷口吉郎先生の設計で、実にシンプルに、大谷石の台の上に、白木のひつぎが安置され、そのひつぎの上に高村規氏の撮影による光太郎先生の微笑むチャンチャンコを着た写真、コップに入った連翹の花一枝がかざられたものでした。
 葬儀も悲しみの中でとどこおりなく終わり、沢山の人におくられて、落合火葬場で、荼毘に附されました。
 私は火葬場の片隅で、煙突から出る煙をみながら、しばし、先生のお姿と、創られた詩を思い浮かべながら、偲んでいました。
(略)
 光太郎先生は旅立たれたのだ。
 私達に素晴らしい作品を、詩や文を、そして思い出を残して。私は立ちつくし、ただ空を眺めて涙をこらえていました。
 私にとって、光太郎先生との出会いは、深い思い出となって、今も残っています。

中西氏、同様のお話を連翹忌の集いなどでお話し下さったこともおありでした。そうした際に良きおじいちゃんのようだった光太郎を偲ばれながら語られていた氏のお顔が忘れられません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

くもり冷、 朝出血あり。 后岡本先生くる、注射 土方定一氏くる ハマクリ 斎藤新吉さんくる 玉子 〈中西夫人に三井通帳托〉


昭和31年(1956)3月30日の日記より 光太郎74歳

土方定一氏」は美術史家にして心平主宰の『歴程』同人、「斎藤新吉さん」は智恵子の妹・セツの夫です。

その死の3日前、これが光太郎の絶筆となりました。

翌日にはまだ意識があり、訪れた心平から心平編集、筑摩書房発行の『日本文学アルバム 高村光太郎』のゲラを見せられ、「That's the endか、人の一生なんか妙なもんだな」とつぶやいたそうです。

それにしても、光太郎の絶筆を紹介する日に、中西氏の訃報をお伝えすることになるとは、その奇縁に驚いております……。

追記 御本人がコロナ感染で延期だそうです。

まずは演奏会情報を。

紀野洋孝テノール・リサイタル

東京公演
 期 日 : 2022年12月18日(日)
 会 場 : 旧東京音楽学校奏楽堂 東京都台東区上野公園8番43号
 時 間 : 18:30開場 19:00開演
 料 金 : 前売 一般 3,000円 学生 1,000円 当日 一般 3,500円 学生 1,500円

大分公演
 期 日 : 2022年12月23日(金)
 会 場 : iichiko音の泉ホール 大分県大分市高砂町2番33号 
 時 間 : 18:30開場 19:00開演
 料 金 : 前売 一般 3,000円 学生 1,000円 当日 一般 3,500円 学生 1,500円

出 演 : 紀野洋孝(テノール) 森裕子(ピアノ)
曲 目 : 
 F.P.トスティ:〈薔薇〉〈祈り〉〈理想の人〉
 山田耕筰:〈この道〉〈かやの木山の〉〈六騎〉〈城ヶ島の雨〉〈みぞれに寄する愛のうた〉
 別宮貞雄:歌曲集《智惠子抄(改訂新版)》

博士号取得とCD“別宮貞雄作品集「Be」”の発売を記念して、東京と大分で『紀野洋孝テノール・リサイタル』行うことになりました!!! リサイタルの前半はお馴染みのトスティと山田耕筰の作品、後半は博士課程でも研究してた別宮貞雄の超大作《智惠子抄》を演奏します!! 《智惠子抄》は歌曲を超えたモノドラマのような作品で、涙なしには歌えない、聴けない、劇的で感動的な名作です! 別宮貞雄生誕100年没後10年の超特別メモリアルな今年聴いてほしいゴリゴリに押しに推しまくっている名作です!本当に沢山の方に知ってほしい、聴いてほしい、歌ってほしい作品です!
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故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」全曲が演奏されます。同曲は昭和57年(1982)の作品で、翌年に初演、昭和61年(1986)には音楽之友社さんから楽譜が刊行されています。

CDでは、故・永田峰雄氏による演奏で全曲が収録されたものが出ている他、抜粋で収められているものが数種類。紀野氏他、演奏会でもぽつぽつプログラムに入れて下さっている方もいらっしゃいます。共に男声、女声、双方が取り組んで下さっています。

他の作曲家の方の「智恵子抄」と較べ、別宮氏のそれは先に曲ありきではなく、本当に智恵子を思う光太郎の語り口が感極まってメロディー化したような、そういう感じに聞こえます。紀野氏曰く「歌曲を超えたモノドラマのような作品で、涙なしには歌えない、聴けない、劇的で感動的な名作」。なるほど、と思いました。

今回の演奏会はCD発売記念ということで、そのCD、注文しておいたのが昨日届きました。歌曲集「智恵子抄」ほか、別宮氏の作品を集めたものです。

Be -別宮貞雄 歌曲集-

2022年12月14日 Toneforest 定価3,000円+税

紀野洋孝(テノール) 森裕子(ピアノ)

歌曲集《智惠子抄(改定新版)》 詩:高村光太郎
 1. 人に002
 2. 深夜の雪
 3. 僕等
 4.晩餐
 5. あどけない話
 6. 人生遠視
 7. 千鳥と遊ぶ智惠子
 8. 山麓の二人
 9. レモン哀歌
歌曲集《淡彩抄》 詩:大木惇夫 
 10.泡001
 11. 蛍
 12. 入墨子
 13. 涼雨
 14. 別後
 15. 燈
 16. 天の川
 17. 青蜜柑
 18. 鷺
 19. 春近き日に
歌曲集《二つのロンデル》より 詩:加藤周一
 20.  さくら横ちょう

早速拝聴しましたが、紀野氏の歌唱、光太郎の魂が乗り移ったかのような、心の叫びがあますところなく表現されていました。

ぜひお買い求め下さい。

ところで、毎日更新しているこのブログサイトですが、紹介すべき事項が多く(もう今年いっぱいは書くことが決まっているような状況です)、失礼とは存じますが、クラシック歌曲系がらみで併せてもう1件。

今日の『朝日新聞』さん朝刊にバリトン歌手・坂本博士氏の訃報が出ていました。

坂本博士さん死去

 坂本博士さん(さかもと・ひろし=バリトン歌手、サカモト・ミュージック・スクール校長)3日、誤嚥(ごえん)性肺炎で死去、90歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻旦子(あさこ)さん。
 54年、東京芸大声楽科卒。57年に藤原歌劇団公演「ラ・ボエーム」のマルチェッロ役でデビュー。63年に始まったNHK「歌おうよ世界の友よ」に1年間レギュラー出演するなどメディアでも活躍。作曲家としても東日本大震災復興のための「絆三部作」など、歌曲、合唱曲、ミュージカルなどを幅広く手がけた。

坂本氏、昭和50年(1975)、キングレコードさんからリリースされた「なつかしの国民歌謡 NHK国民歌謡」というLPレコードで、光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」(昭和15年=1940)を歌われていました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

三時半、北川太一氏くる、智恵子の原稿二枚持参、クツキーをもらふ、


昭和30年(1955)5月27日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核悪化により入院していた赤坂山王病院に、当会顧問であらせられた故・北川太一先生がお見舞いに行かれました。こうした機会に北川先生は光太郎本人へ、その生涯に関しての聞き取り調査を行い、「高村光太郎聞き書」(『高村光太郎全集』別巻所収)としてまとめられました。

「智恵子の原稿」は詳細不明ですが、おそらく北川先生、智恵子が雑誌に寄稿した散文の原稿を入手され、光太郎に見せたのでは、と思われます。懐かしい智恵子の筆跡を見たであろう光太郎、どのような感想を持ったのか、あいにく、日記には記されていませんが。

詩人の新藤凉子氏が亡くなりました。

「時事通信」さん。

詩人の新藤凉子さん死去003

 新藤凉子さん(しんどう・りょうこ=詩人、詩誌「歴程」編集発行人、本名古屋涼子=ふるや・りょうこ)7日、間質性肺炎のため死去、90歳。鹿児島県出身。葬儀は家族で行った。歴程が後日、お別れの会を開く。喪主は長女美可(みか)さん。
 衣装研究室や文壇バー経営を経て「歴程」に参加。詩集「薔薇ふみ」で高見順賞。「連詩 悪母島の魔術師」(河津聖恵さん、三角みづ紀さんとの共著)で藤村記念歴程賞を受賞。日本現代詩人会の会長も務めた。

『読売新聞』さん。

「歴程」編集発行人で詩人の新藤凉子さん死去、90歳…詩集「薔薇ふみ」で高見順賞000

 詩誌「歴程」編集発行人で日本現代詩人会元会長の詩人・新藤凉子(しんどう・りょうこ、本名・古屋涼子=ふるや・りょうこ)さんが7日、間質性肺炎で死去した。90歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長女、美可さん。
 鹿児島県生まれ。歴程の編集発行人を務めた。詩集「薔薇(ばら)ふみ」で高見順賞、詩集「薔薇色のカモメ」で丸山薫賞、河津聖恵、三角みづ紀さんとの連詩集「連詩 悪母島の魔術師」で藤村記念歴程賞を受賞した。

新藤氏、記事に有る通り、詩誌『歴程』の編集権発行人を務められていました。同誌は当会の祖・草野心平が創刊し、光太郎や宮沢賢治なども同人に名を連ねていたものです。

その『歴程』、心平追悼号(平成2年=1990)に氏が寄せられた「心平さんの思い出」から。

 心平さんは歴程を大切にされたが、歴程とは、そもそも何であったのだろうか。私にとっては、青春、そのものであったような気がする。昭和三十七年から今日まで、思えば肉親と同居するよりも、その付き合いは長い。それは偏に、心平さんの自在な人柄によるものだったと、今にしてつくづく思う。
 「伝統だよ、伝統……」と、歴程がいつまでも続くことを念願としておられたが、何よりも「先生」と呼ばれることを嫌われた。「若い人の方が未来がたくさんあるのだから、僕は若い人が先生だと思うよ」とのことである。誰もがシンペイさんと、親しみを込めてお呼びするのが、習わしだった。


当方、心平を祀る福島県川内村での「天山祭り」の際に、何度かお会いしました。氏は『歴程』を受け継がれたお立場でのスピーチや、心平作品の朗読等をなさいました。

『歴程』といえば、今朝の『朝日新聞』さんには、やはり一時『歴程』に依られた安水稔和氏の訃報も出ており、「えー」と言う感じでした。新藤氏と二日連続でしたし。

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 安水稔和さん(やすみず・としかず=詩人、元神戸松蔭女子学院大教授)8月16日に死去、90歳。葬儀は近親者で営んだ。
 神戸市生まれ。「歴程」同人などをへて、84年に詩誌「火曜日」を創刊(15年終刊)。89年、詩集「記憶めくり」で地球賞。95年の阪神・淡路大震災で自宅が半壊し、1週間後に詩「神戸 五十年目の戦争」を書いた。以降、震災について積極的に執筆し続け、詩集「生きているということ」は99年に晩翠賞を受けた。詩集「椿崎や見なんとて」で01年に詩歌文学館賞、詩集「蟹場まで」などで05年に藤村記念歴程賞。

謹んでご冥福をお祈り申し上げますと同時に、今後の『歴程』さん、心平や光太郎、賢治などから連綿と続くDNAを絶やさぬよう、そしてますますのご発展を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

午后草野心平、佐野英夫氏くる、一緒に神田の病院にゆき関先生に見てもらふ、レントゲン検査、心臓肥大ある由、


昭和29年(1954)5月26日の日記より 光太郎72歳

めっきり衰えた光太郎を案じ、心平と、新潮社の編集者・佐野英夫が、神田の出版健康保険組合診療所に光太郎を連れて行きました。「関先生」は関覚二郎。同所勤務の医師で、これ以前に美術史家の奥平英雄が光太郎に紹介した岡本圭三医師らと共に、いわば「チーム光太郎」として診療に当たりました。

元プロレスラー・国会議員のアントニオ猪木氏が亡くなりました。

「共同通信」さん。

アントニオ猪木さんが死去 プロレスブームをけん引

007 「燃える闘魂」のキャッチフレーズで昭和、平成のプロレスブームをけん引し、参院議員も務めたアントニオ猪木(本名猪木寛至=いのき・かんじ)さんが1日午前7時40分、心不全のため自宅で死去した。79歳。横浜市出身。マネジメント会社が明らかにした。
 中学の時にブラジルに移住。遠征した力道山の目に留まり、17歳の時に日本プロレス入団。力道山の死後、ジャイアント馬場とのコンビでプロレス人気を復活させた。
 89年にスポーツ平和党(当時)から出馬し参院選に当選。2013年の参院選では日本維新の会から立候補して国政へ復帰した。20年に心臓の病気を患っていることを公表した。

猪木さんといえば、今年5月にこのブログサイトで猪木さんについてご紹介させていただきました。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖にほど近い蔦温泉に「猪木家の墓」を建てられ、奥様の納骨をなさったという件。

各種訃報の中にも、その件に触れられたものが。

ABA青森朝日放送さん。

アントニオ猪木氏死去 青森・蔦温泉に猪木家の墓 「ゆかりの地」で死を悼む

 元プロレスラーのアントニオ猪木さんが亡くなりました。79歳でした。
 アントニオ猪木さんは、力道山にスカウトされてプロレスの道に入り、1972年に「新日本プロレス」を設立、プロレス全盛時代を築きます。1989年の参議院選挙で初当選し、国会議員となりました。
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【藤原祐輝アナウンサー】
 「十和田市、蔦温泉旅館のすぐ近くに猪木家のお墓があります。猪木さんご夫婦は生前、この蔦温泉を訪れ夫婦水入らずの時間を過ごしていたということです」
 「道」と力強く刻まれた猪木家の墓。2019年に亡くなった妻・田鶴子さんの納骨が5月に行われました。猪木さんの訃報を受け、お墓に手を合わせる人の姿も。
001
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【墓を訪れた男性】
 「いつも元気いっぱいで、私も元気もらっていましたね。私も随分力をもらったので、天国でも安らかに眠っていただきたいと思います」
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 蔦温泉旅館には猪木さん直筆の詩が飾られています。5月に訪れた際には、明るい人柄で周囲を笑わせていたそうです。その数カ月後の訃報…。
005
【蔦温泉旅館・新山耕生支配人】
 「本当にびっくりですね。蔦温泉を見守っていただければなと思います」
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『日刊スポーツ』さん。

【猪木さん死去】妻田鶴子さんと通っていた青森・蔦温泉近くに墓建てていた 墓石に「道」足下に詩

 1日に79歳で亡くなったアントニオ猪木さんは、青森県十和田市の蔦温泉旅館近くに「アントニオ猪木家の墓」を建てていた。
 蔦温泉旅館は猪木さんと妻田鶴子さんが生前通っていたゆかりの地。猪木さんは今年5月22日に建立式を開き、19年に亡くなった田鶴子さんの納骨の儀を行っていた。墓の高さは猪木さんの現役時代の身長と同じ190センチ。墓石には「アントニオ猪木家」。詩集も出している猪木さんがよく口にした詩の題名「道」の文字が大きく刻まれ、足下には詩も記されている。
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 蔦温泉旅館は田鶴子さんについてホームページで「全身全霊でアントニオ猪木様に人生をささげてきた方。魅力あふれる女性でした」とし、旅館でのひと時を「良い思い出ばかりです」とつづっている。
 旅館は宿を愛した作家大町桂月の墓をおよそ100年に渡り管理している。猪木さんは旅館の墓の管理方法に信頼を置き、蔦温泉旅館を墓の場所に選んだという。墓は八甲田連峰内の旅館近くにある。

十和田湖の景勝美を広く世に紹介した明治の文豪・大町桂月にも触れられています。猪木家の墓は桂月の墓の並びに建てられました。ちなみに光太郎の「乙女の像」、元々は桂月ら、周辺の国立公園指定の礎を築いた「十和田の三恩人」を顕彰するというコンセプトで建てられたものでした。他の二人は元県知事の武田千代三郎、元法奥沢村長・小笠原耕一です。

仙台に本社を置く『河北新報』さん。

猪木さん、東北にも縁 仙台のおでん屋行きつけ、十和田に墓建立

 1日に死去したアントニオ猪木さんは東北にたびたび足を運び、各地で親交を結んできた。今年5月には青森県十和田市の蔦温泉旅館近くに「アントニオ猪木家の墓」を建てており、先年亡くなった最愛の妻田鶴子さんと共に葬られる見通しだ。
 「あまりにも突然のことでびっくりした」。行きつけだった仙台市青葉区一番町の「おでん三吉」の2代目、田村忠嗣さん(78)は驚きを隠せない様子だ。
 猪木さんの元妻、俳優倍賞美津子さんの父と田村さんの父が戦友だったのが縁で、交流が続いてきた。猪木さんは興行で仙台を訪れるたび、他の選手を連れて来店した。
 今年は墓の建立式に向かう途中で店に寄った。プロレス中継の実況で一世を風靡(ふうび)したフリーアナウンサーの古舘伊知郎さんと、定番の大根やイイダコなどのおでんをつまみながら、数年ぶりという酒を楽しんだ。
 車いすでの来店だったが、田村さんは「思っていたよりも元気だった」と回想する。同い年で「(えとの)ヒツジは高尚な動物なんだ」と2人で笑い合った思い出を語り「気さくな方だった」と冥福を祈った。
 「アントニオ猪木家の墓」は蔦温泉旅館から歩いて3分ほどの八甲田山麓に、ひっそりとたたずむ。「迷わず行けよ 行けば分かるさ」。墓石には猪木さんが引退試合のスピーチで残した名フレーズが刻まれている。
 蔦温泉は、猪木さんが最愛の妻・田鶴子さんと蔦温泉を繰り返し訪れていた思い出の地。墓を管理する城ケ倉観光(青森市)によると、猪木さんは墓を建てた理由を「ご縁というか、必然というか…」と話していたという。
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青森県の地方紙『デーリー東北』さん。

八戸の定宿に思い出の品々 十和田・蔦温泉には墓建立/アントニオ猪木さん死去

 アントニオ猪木さんはレスラー時代から晩年に至るまで、北奥羽地方ともゆかりが深かった。巡業で八戸市を訪れた際の定宿は、同市寺横町の老舗「柏木旅館」。旅館には、宿泊時の写真や新日本プロレスの創立10周年を記念して贈られた感謝状など思い出の品々が今も残る。
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 滞在時は2代目おかみの故柏木マツヱさん、3代目のまゆみさん(91)と仲良く茶の間で話していたという猪木さん。
 まゆみさんの娘、七穂さん(61)は「気さくでおおらかで優しい人だった。お酒はほとんど飲まず、茶の間で自分の家のようにくつろいでいた」と振り返る。
 市内でサバの塩焼きを購入していたことや、当時からプロテインを飲んで体づくりをしていたことも印象深いという。
 坂口征二さんやストロング小林さんらといった往年のスター選手と、旅館でマージャンを楽しんでいたエピソードも。七穂さんは「(体が大きいので)牌が小さく見えて面白かった」と懐かしむ。
 近年は疎遠になっていたが、闘病を知り、陰ながら応援していた。「亡くなったと聞いて驚いた。何とか治ってくれればと思っていたが」としのんだ。
011 猪木さんは晩年、十和田市の名湯・蔦温泉のコマーシャルにも出演していたほか、温泉近くに「アントニオ猪木家の墓」も建立。温泉ホームページによると5月に、猪木さんの亡妻・田鶴子さんを納骨しているという。
 訃報が届いた1日、墓には多くのファンが足を運んだ。正面に力強く「道」と刻まれた墓石。訪れた人たちは静かに手を合わせたり花を供えたりして、冥福を祈った。
 十和田市の男性会社員(37)は、「自分と知人が猪木さんの大ファン。今日はその知人の分もと思い、花を手向けに来た。病気療養中と聞いていたので、あまり長くないのかもしれないと覚悟はしていたが、残念です」と話した。

ただ、気になるニュースも。『東京スポーツ』さん。

アントニオ猪木さんのお墓は横浜市内の菩提寺に 愛妻が眠る場所とは別なワケ

 〝燃える闘魂〟のお墓はどうなるのか。1日朝に心不全で亡くなったプロレス界のスーパースター、アントニオ猪木さん(享年79)は、故郷の神奈川・横浜市鶴見区内にある猪木家の菩提寺に葬られる方向で、調整されていることがわかった。
 横浜市鶴見区出身の猪木さんは、13歳でブラジルに移住するまで同市内で育った。複数の関係者によると、猪木さんの生前から故郷・鶴見にある猪木家の墓に納骨すると取り決められており、その遺志に沿って調整されているという。
 猪木さんは、今年5月に故・田鶴子夫人とゆかりのある青森・十和田市内に「アントニオ猪木家の墓」を建立。自身も青森を訪れ、その様子をユーチューブチャンネルで公開していた。
 ただ、青森の墓は「アントニオ猪木家の墓」であり、猪木さんは本名の「猪木寛至」として葬られることを望んでいたようだ。

いずれにせよ、蔦温泉の「アントニオ猪木家の墓」、プロレスファンの聖地となるような気がします。同じ並びに墓のある大町桂月ら「十和田の三恩人」や「乙女の像」にもまたスポットが当たってほしいものです。

ちなみに当方、猪木さんの試合等は生で拝見したことはありませんが、お会いしたというか、お見かけしたというか、そういう経験はあります。

バブル前夜の学生時代、大学の合唱団に所属しており、団としてテレビの仕事も何度かさせていただいたりしまして、そのうち、昭和61年(1986)の大晦日、新高輪プリンスホテルさん飛天の間で公開生中継が行われた、当時あった歌番組「夜のヒットスタジオ」。この日は「世界紅白歌合戦」と銘打って、衛星生中継でロッド・スチュワートさんなどもご出演。当方らは谷村新司さん「昴」のバックコーラスをやりました。その頃の同番組司会が古舘伊知郎さん。古舘さんといえば、猪木さんの試合の実況でも有名でした。その関係でしょうか、客席に(ディナーショー形式でした)猪木さんがいらっしゃっていて、番組の合間に「猪木さんもいらしてます」的な紹介がありました。第一印象は「とにかくデカい」(上記、蔦温泉の「アントニオ猪木家の墓」の高さが190㌢で、現役時代の猪木さんの身長だそうです)。

体格だけでなく、人間的にも大きな人だった猪木さん。平成2年(1990)の湾岸戦争では、イラクに連行されたクウェート在留邦人41人の解放にご尽力されたり、「スポーツ外交」ということで、北朝鮮とのパイプを何とか繋げようと33回も渡航されたりなさいました。

対北朝鮮では、確かに目に見える大きな成果は上げられなかったかもしれません。「渡航制限のある国に行くのはいかがなものか」と苦言を呈したのは、当時の外務大臣。ちなみにその人物は先月、呼ばれもしていない英女王の国葬に「参列見送り」を表明して失笑を買いましたし、その後の「弔問外交」とやらでも何らかの成果があったということが報じられていません。そんな輩が何をか言わんや、ですね。

閑話休題。猪木さんのご冥福、衷心よりお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃上條憲太郎氏、岡茂雄氏、笹村氏くる、酒一升もらふ、談話30分、「坑夫」の揮毫を笹村氏に渡す、

昭和29年(1954)4月11日の日記より 光太郎72歳

上條憲太郎氏」は、元長野県教育長。「岡茂雄氏」は長野県出身の出版人。「笹村氏」は彫刻家の笹村草家人です。昭和33年(1958)に開館する碌山美術館さんに関する相談と思われます。

坑夫」は、荻原守衛滞仏中の彫刻で、光太郎が石膏にとって日本に持ち帰るように勧めました。「揮毫」は、碌山美術館さんに隣接する穂高東中学校さんに翌年除幕された「坑夫」の題字です。
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028明後日、英国のエリザベス女王の国葬が行われるとのこと。

同女王は大正15年(1926)のお生まれで、当会顧問であらせられた故・北川太一先生より1歳年少でした。即位されたのは昭和27年(1952)。光太郎の書き残したものにその御名は確認できていませんが、現上皇陛下が翌年、女王の戴冠式出席のため、横浜から船でイギリスに向かわれた際の談話が残っています。

明治以来イギリスの影響をもつとも多く受けていながら、いまの日本で一番欠けているのはジヨンブルのイギリス的性格だ。人間同士が信じ合うこと、不信に対するきびしい批判――他の国では持ち得ないものである。(談話筆記「皇太子さまを送る」より 昭和28年=1953) 

欧米留学中の明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドンにも居住していた光太郎。芸術の分野ではあまりイギリスから学ぶことはなかったと述懐していますが、人々の暮らしぶり、重厚な伝統などには非常に好感を持っていたようです。「ジヨンブル」は「典型的英国人」の意。

同女王、明治43年(1910)、日英博覧会の際に英王室へ日本から贈られた「台徳院殿霊廟模型」(光太郎の父・光雲が監督となって制作)を、平成27年(2015)に、日本に返還する労を執って下さいました。現在、芝増上寺さんの宝物展示室で公開されています。

その国葬が明後日だそうで、既に献花に訪れる一般国民が5㌔㍍もの長蛇の列を成していたというニュースを昨日拝見しました(今朝のニュースでは8㎞)。およそ国葬に値しない人物の国葬を強行しようとし、反対のデモの列が生じているどこぞの国とは大違いですね(笑)。ついでにいうなら呼ばれもしないのに参列見送りを発表して失笑を買ったトンマもいる国ですが(笑)。

さて、「国葬」というと、光太郎にずばり「国葬」の語を題名に使った詩があります。昭和18年(1943)、山本五十六元帥の国葬に際し、『毎日新聞』に寄稿したものです。

   山本元帥国葬009

元帥山本五十六提督の遺骨
いま国葬の儀によつて葬らる。
元帥の勲功めもあやに、
同胞もとより之を熟知す。
われら心を傾けて元帥を送り奉り、
あらためて元帥のおん面影をしのぶ。008
元帥幼にして長岡のきかんぼ、
志を立てて不屈不撓、
外に使して君命を辱めず、
却つて鴃舌の老雄をも脅かす。
元帥身を以て東郷精神の根幹に生き、
更に近代戦術の機秘を握り、
機略に富み、機先を制し、
時に豪放、時に精緻。
若き世代の真面目(しんめんもく)を限りなく愛惜し、
長官の身をほとほと忘れて
一兵の身を忘れず、
丹心を秉(と)つて師友に降(くだ)る。
干戈の間(あひだ)文をすてず、
国風時として絶唱。011
眼(まなこ)笑ひ、口怒り、
むしろ学童腕白の趣あり。
かくの如き提督の力、敵を撃ち、
忽ち太平洋に不敗の堅陣を布き、
更に猛進つひに陣頭の空に隠れたまふ。
国民喪に服していま元帥を送り奉り、
心武者ぶるひして元帥に祈る。012
元帥の成したまはんとせしところ、
われら必ずこれを遂げん。
元帥叱咤して遠くわれらを導きたまへ。


山本の戦死はこの年4月18日、国葬の挙行は6月5日でした。

当時の記録映像が残っています。
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死者を悼むのは人として当然のことでしょう。しかし、その死をもプロパガンダに利用した当時の世情には呆れます。
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「元帥に続け」、つまり「死ね」ということでしょうか。

現在、国民の過半数が反対している国葬を強行しようとしている勢力、また、その被葬当該人物が、戦前戦時のこうした思想を美徳とする輩である(あった)ことに、激しく違和感を感じますね。当該勢力は「国民喪に服していま元総理を送り奉り、心武者ぶるひして元総理に祈る。元総理の成したまはんとせしところ、われら必ずこれを遂げん。」という方向に持って行きたいのでしょうが。そうは問屋が卸しません。

ところで、英女王の逝去に際し、バッキンガム宮殿上空にはみごとな二重の虹が架かったそうです。
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9月27日(火)、ある国には、超大型台風でも来るのではないでしょうか(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午后四時木村修吉郎氏迎にくる、谷口吉郎氏くる、一緒に山王「山の茶屋」行、佐藤春夫、安倍能成、谷口吉郎、田村剛、余、座談会、十和田公園について、

昭和29年(1954)1月8日の日記より 光太郎72歳

この年3月の雑誌『心』に掲載された座談会「自然の中の芸術」当日です。前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関して。当初建立予定だった十和田湖子(ね)の口地区には許可出来ない、と、横槍を入れてきた人物が含まれています。その横槍も正当な理由ではなく、自分がプロジェクトから外された腹いせというのが明白で、光太郎と青森県を仲介した佐藤春夫などは激怒。別の機会に「これは芸術の尊厳のために正しく大声叱呼して糾明すべきだとわたくしは心外に堪えない」と書きました。座談会で初めてその件を知ったという安倍能成も憤慨。光太郎の言いたかったことを代弁してくれています。当該人物は「丁寧な説明」をしようとしたようですが、却って火に油、燃料投下(笑)。

いつの時代にもこういう輩がいるのですね(笑)。

今日の朝刊を開いて「ありゃま」でした。歌手のおおたか静流さんが亡くなったとのこと。

『朝日新聞』さん。

歌手・おおたか静流さん死去 「にほんごであそぼ」、「花」のカバー

004 NHK・Eテレ「にほんごであそぼ」への出演や喜納昌吉さんの「花」のカバーで知られた、歌手のおおたか静流(おおたか・しずる、本名小西静子〈こにし・しずこ〉)さんが5日、がんのため死去した。69歳だった。葬儀は近親者で営む。喪主は夫小西徳雄(こにし・とくお)さん。後日、お別れの会を開く予定。
 東京都出身。7歳からクラシックの声楽家に師事。一時は漫画家を志望したが、大学時代に歌手を志す。ジャズや民俗音楽の影響を受けたボーダーレスな音楽を数多く生み出した。
 喜納さんの「花」のカバーや、映画「シコふんじゃった。」(周防正行監督)で使われたザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」のカバーで知られるほか、数多くのCMソングを歌唱。「七色の声」の異名を持つ。「にほんごであそぼ」では、リズムや韻を踏んだ遊び心あふれる楽曲を作り、子どもたちと一緒にダンスや劇を披露していた。
 絵画や朗読など、ジャンルを超えた活動を続け、ワークショップ「声のお絵描き」の主宰を務めた。
 社会的な活動も多く、米国やフランスで東日本大震災追悼公演を開催したほか、広島の原爆投下時に爆心地にあったピアノを使った「ミサコのピアノ」コンサートシリーズ、核廃絶を訴える国際キャンペーンなどにも参加した。

時事通信さん。

歌手のおおたか静流さん死去005

 おおたか 静流さん(おおたか・しずる=歌手)5日午前、病気で死去、69歳。
 東京都出身。葬儀は近親者で行う。
 89年にユニット「ディド」でデビューし、翌年ソロに。クラシックやジャズ、民族音楽の影響を受けながら、日本情緒がにじむ独創的な作風の歌で知られた。喜納昌吉さんの曲をカバーした「花」などで知られ、多数のCM曲も歌唱。NHK・Eテレの番組「にほんごであそぼ」にもレギュラー出演した。

NHKさん。

歌手のおおたか静流さん死去 69歳 「にほんごであそぼ」に出演

 表現力豊かな歌声で知られ、NHK Eテレの「にほんごであそぼ」にも出演していた歌手のおおたか静流さんが今月5日、がんのため東京都内の自宅で亡くなりました。69歳でした。
 おおたか静流さんは東京都出身で、7歳からクラシックの声楽家に師事して歌を学び「七色の声」と言われた多彩な表現力で数々のCMソングを手がけたほか、ジャズや民族音楽など幅広いジャンルで活動しました。
 喜納昌吉さんのヒット曲「花」をはじめ「林檎の木の下で」、「悲しくてやりきれない」などのカバー曲でも知られ、個性豊かで透き通った歌声が話題となりました。
 また、NHK Eテレの番組「にほんごであそぼ」にも出演し、リズムにのせたことば遊びで人気を集めました。
 親族によりますとおおたかさんは今月5日、がんのため東京都内の自宅で亡くなったということです。
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おおたかさん、NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」では、坂本龍一さん作曲の「道程」も歌われていました。

東日本大震災があった次の年の平成24年(2012)に公開収録が行われ、翌年オンエアされて、さらにDVD化もされた「にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島」。

作曲の坂本龍一さんご自身がピアノ伴奏、尺八の藤原道山さんもご参加。小錦八十吉さんや子供たちと一緒に、おおたかさんも歌唱で加わりました。
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また、平成30年(2018)の同番組では、おおたかさんのソロバージョンも。その後くり返し使われました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

文部省芸術課長宇野俊夫氏くる、理由書ほしとの事なれど必要なき旨を告げる、

昭和28年(1953)12月22日の日記より 光太郎71歳

日本芸術院会員推薦の辞退に関わります。辞退されることを想定していなかった文部省は対応にてんてこ舞いで、3日前に続き、またしても光太郎を訪問、推薦辞退の理由書を書けと迫ります。しかし光太郎、勝手に推薦しておいて、辞退するのにこちらから書面を提出せよとは何事だ! 的な対応。確かにその通りですね。








晩年の光太郎に親炙し、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様・北川節子様が、8月16日(火)に亡くなられました。享年94歳だったそうです。ご葬儀は御家族と近親者のみで、北川先生の時と同じく菩提寺の文京区浄心寺さんにて執り行われたとのこと。

昨日、ご子息光彦氏から通知の葉書が届き、驚いた次第です。そちらによれば、「亡くなる直前まで比較的元気で家族と共に自宅で過ごし、最後も家族に見守られながら静かに亡くなりました」。
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千駄木のお宅にお邪魔するたび、優しい笑顔で迎えて下さった節子様。連翹忌の集いや女川光太郎祭北川先生を囲む新年会等、いつも北川先生の傍らで、その優しい笑顔をふりまかれ、どんな場でもたちまち和ませてしまうという特技をお持ちでした。

節子様、光太郎最晩年の日記に登場されています。

后北川太一氏新婚の細君同伴来訪、二本松訪問の話をきく、(昭和30年(1955)10月27日)

北川先生は昭和27年(1952)には光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪問され、以後、何度も足を運ばれていましたが、この月20日に、当時勤務されていた定時制高校でのご同僚であらせられた節子様とご結婚なさり、初めてお二人でのご訪問でした。

二本松訪問」は、御夫妻の新婚旅行。その際の写真がこちらです。
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翌昭和31年(1956)、光太郎の亡くなった年にも。

后北川太一夫妻くる、メドツクもらふ、三時半辞去、新年詩の新聞贈呈、(昭和31年(1956)1月24日)

「メドツク」はワインと思われます。「新年詩の新聞」はおそらくこの年元日の『中部日本新聞』。詩「開びやく以来の新年」が掲載されていました。

節子様、この2回の会見の際の印象として、「光太郎先生はとても大きい人だった」と語られました。小柄だった御夫妻と較べての体格、という意味もありましょうが、それよりも光太郎の人格的な大きさということをおっしゃっていたのだと存じます。

節子先生(かつての教え子の皆さんがそうお呼びでしたので、当方もうつってしまいました)の笑顔に接することがもうできないのかと思うと、実に淋しい限りですが、北川先生の元に旅立たれたのだと考えれば、心が安らぎます。彼岸にてまた仲睦まじく、そして光太郎とも再会していただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

鼠穴ふさぎ、 夜在宅、うどん玉子等、 ネズミまだ出る、


昭和28年(1953)11月23日の日記より 光太郎71歳

前年まで7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋でも、ネズミは奇妙な同居人でしたが、北川御夫妻が訪問された中野の貸しアトリエでもネズミが出没。昭和20年代には珍しくなかったのかもしれません。

000福島県二本松市で、智恵子顕彰団体「智恵子の里レモン会」会長を務められていた、渡辺秀雄氏が亡くなりました。昨日、ご葬儀(家族葬)だったそうです。

レモン会さんでは、10月5日の智恵子忌日「レモンの日」に合わせ、それと最も近い日曜日という期日設定で、智恵子を偲ぶ「レモン忌」の集いを主催なさっています。ただ、一昨年、昨年と、コロナ禍のため中止となり、最後に開催されたのは令和元年(2019)でした。したがって、当方、最後にお会いしたのもその時。コロナ禍となって以後、最後にお会いしたのがコロナ禍前、という方の訃報がこのところ相次いでおり、一層胸を痛めております。

その際の画像。会の冒頭近く、主催者挨拶をされる渡辺氏。
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その前年。
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智恵子の里レモン会さんは、昭和63年(1988)、晩年の光太郎と交流のあった故・伊藤昭氏が立ち上げられ、一度消滅したものの、平成17年(2005)に渡辺会長の下で復活。以来、先述の通り、智恵子を偲ぶ「レモン忌」の運営を続けて来られました。

渡辺氏個人は、レモン会さんの活動以外に、同じ二本松でやはり智恵子顕彰をされている「智恵子のまち夢くらぶ」さんにも協力を惜しまず、同会主催の「智恵子講座」の講師「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査員、「智恵子抄」出版80周年記念文集へのご寄稿などもなさいました。

また、当会主催の連翹忌にもたびたびご出席下さいましたし、平成27年(2015)に光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村の高村山荘前で行われた「第58回高村祭」では、当方が講演を仰せつかると、福島から駆けつけて下さいました。翌朝、宿で見たローカルニュースに「福島から訪れた人」という肩書きで氏のインタビューが流れ、笑えたのが今となってはいい思い出ですし、様々な機会での氏の魅力溢れるお人柄に触れたことを思い起こすと、滂沱禁じ得ません……。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます

【折々のことば・光太郎】006

十和田の像は冬中雪囲ひの由、


昭和28年(1953)11月11日の日記より 光太郎71歳


十和田の像」は、前月に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。設置当初の数年間は、豪雪による被害が恐ろしいということで、冬期間、右のような状態にしていたそうです。

その後、ここまでやらなくても大丈夫ということがわかり、雪囲いはやめました。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市で、光太郎の語り部として活動されていた高橋征一さんが亡くなりました。

昭和20年(1945)、空襲で東京駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された光太郎は、5月、花巻の宮沢賢治の実家に疎開。終戦となっても帰京せず、逆に花巻郊外の旧太田村に鉱山の飯場小屋を移築してもらって住み始めます。

その山小屋近く(といっても1㎞弱)の太田小学校山口分教場(のち山口小学校)に通っていた児童の一人が、高橋さん。昭和25年(1950)の同校学芸会の際に撮られたこの写真で、右から二人目に写っています。
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コロナ禍前の令和元年(2019)5月に、旧太田村で開催されたの第62回高村祭のローカルニュースから。

その前年に開催された第61回高村祭では、他の3人の方々とともに太田村在住時の光太郎の思い出を語って下さいました。聞き手は当方でした。4人のうち、高橋愛子さんも既に亡くなっています。
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高橋さん、平成28年(2016)に花巻市太田地区振興会さんから刊行された『高村光太郎入村70年記念 ~思い出記録集~ 大地麗』の編集にあたられたり、同じ年には花巻高村光太郎記念館さんで無料配付されていたリーフレット『たかしとせいいち ぼくたちが出会った光太郎先生』で、上記写真左端の浅沼隆さんと共に、光太郎の思い出を証言して下さったりも。
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その他、折々の新聞記事などでも、高橋さんの証言が紙面を飾っています。

河北新報「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」。
新聞各紙から。
「とうほく名作散歩 詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む」。

さらに昭和51年(1976)、読売新聞社盛岡支局発行の『201人の証言 啄木・賢治・光太郎』でも。
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同書から、最上部画像の光太郎サンタについて。
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戦前には、「芸術家あるある」で「俗世間とは極力交わらない」、戦時中には歪んだ愛国意識で国民を鼓舞し死地に追いやった光太郎。戦後、老境に入ってようやく自然に世間と交われるようになった、その頃をご存じの高橋さん……。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

夕方リーチ、石川欣一氏等くる、リーチとアトリエで一寸話、明日出発して東北旅行の由、
昭和28年(1953)10月3日の日記より 光太郎71歳

「リーチ」は陶芸家のバーナード・リーチ。明治41年(1908)、英国留学中の光太郎と知り合ったのがきっかけで、来日。戦前は日本、イギリス、そして中国などを行ったり来たりしていましたが、昭和10年(1935)に帰国後はしばらく母国にとどまり、この年、久しぶりに来日し、光太郎らと雑誌で座談を行ったりもしました。そしてこの日が、光太郎とリーチ、今生の別れとなりました。

文芸評論家の近藤信行氏が亡くなりました。『東京新聞』さんから。

近藤信行さん死去 文芸評論家

007 近藤信行さん(こんどう・のぶゆき=文芸評論家)17日、老衰のため死去、91歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。
 中央公論社で「中央公論」「婦人公論」などの編集に携わり、文芸誌「海」の編集長を務めた。「小島烏水 山の風流使者伝」で大仏次郎賞を受賞。山梨県立文学館の館長も務めた。
 登山関連の書籍を多数編さん。他の著書に「安曇野のナチュラリスト 田淵行男」など。

近藤氏、記事にあるとおり山梨県立文学館さんの館長を務められていまして、その関係もあって連翹忌にご参加下さったこともおありでした。

館長在任中の平成19年(2007)には、同館で企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催して下さいました。

その際には、関連行事として、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏、世田谷美術館館長・酒井忠康氏との鼎談「高村光太郎の人生 パリ・東京・太田村」をなさったり、同展図録には館長としての巻頭挨拶文「開催にあたって」、論考「高村光太郎の“戦後”」をご執筆されたりしました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

大町桂月のメダルをはじめる、


昭和28年(1953)8月4日の日記より 光太郎71歳

大町桂月のメダル」は、この年10月に開催された、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際、関係者に配られたものです。元々「乙女の像」が、十和田湖の景勝美を世に広めた大町桂月らを顕彰するモニュメントだったことに関わります。

小品ながら、完成した彫刻としては、光太郎最後の作品です。
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先日の渡辺正治氏に続き、またしても生前の光太郎をご存じの方の訃報です。

時事通信さんから。

田沼武能さん死去、93歳 世界の子ども撮影、文化勲章

100 世界の子どもや下町の風景などを長年記録し続けた写真家の田沼武能(たぬま・たけよし)さんが東京都内の自宅で死去したことが2日、分かった。93歳だった。東京都出身。葬儀は親族のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は妻敦子(あつこ)さん。
 東京・浅草の写真館に生まれた。東京写真工業専門学校(現・東京工芸大)を卒業後、木村伊兵衛に師事。月刊誌「芸術新潮」の嘱託写真家として小説家や美術家ら文化人の肖像を撮り、米タイム・ライフ社の契約写真家としてフォト・ジャーナリズムの世界でも活躍した。
 1972年に同社との契約が終了し、ライフワークとして世界の子どもたちを撮影。国連児童基金(ユニセフ)親善大使の黒柳徹子さんの各国訪問にも同行し、120を超える国と地域に足を運んだ。
101 日本写真家協会会長、日本写真著作権協会会長、日本写真保存センター代表などを歴任し、写真家の地位向上やフィルムの保存活動に尽力した。東京工芸大教授として後進の指導にも熱心に取り組んだ。
 長年の業績が認められ、85年に菊池寛賞を受賞。90年に紫綬褒章、2002年に勲三等瑞宝章を受け、03年には文化功労者に選ばれた。19年、写真家として初めて文化勲章を受章した。

氏が文化勲章を受章された際の投稿で詳しく書きましたが、氏は昭和27年(1952)、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後、複数回、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪れ、光太郎を撮影なさっています。残念ながら光太郎日記にお名前は記されていませんが。

また、光太郎令甥でやはり写真家だった髙村規氏とは、同じ木村伊兵衛門下ということで親しくなされ、平成26年(2014)の規氏のご葬儀では、弔辞を読まれています。当方、氏にお会いしたのはこの時が最初で最後でした。

今朝の『朝日新聞』さんでは、一面コラムで氏のご逝去に触れています。

天声人語

日本を代表する写真家、田沼武能(たけよし)さんが楽しそうに見せてくれたのは、1冊667円の薄い冊子だった。子どもの素朴な笑顔が満載。「こういう写真集を作りたかったんだよ。立派な表紙の高い本じゃなくてさ」と笑った▼生涯かけて子どもの表情を撮った。ソマリアの廃墟で遊ぶ男児たち。津波に襲われたインドネシアの少女。極限化でなお好奇心あふれる瞳を鮮やかに写した▼原点は東京大空襲にあった。浅草の自宅近くで黒こげの幼児の遺体を見た。防火水槽の中に立った姿だった。母親が炎の熱から「せめて水の中に」と入れたに違いない。幼児の表情は神々しく、地蔵のように見えたという▼「戦場はどうしても撮りたくない」。米誌「ライフ」との契約の際は、ベトナム戦争の取材を勧められても固辞した。報道写真家として名を上げる好機だったが、「空襲で死体をいやになるほど見た。戦争の悲惨を撮る気にはなれませんでした」▼そんな思いを直接伺ったのは3年前の春のこと。月給の16倍もするライカが欲しくて生活費を極端に切り詰め、「タヌちゃんは趣味倹約貯蓄」とからかわれたこと。南米アンデスを撮るため自宅を抵当に入れて出張資金を捻出したこと。欲や得にまどわされぬ人生談義に時のたつのを忘れた▼永遠のカメラ小僧が93歳で旅立ったと聞き、667円の冊子を読み返してみた。題は『地蔵さまと私』。焼け野原の街で見た黒こげの地蔵の記憶が、子どもに向けたやさしい言葉でつづられていた。

『朝日』さんは、氏がかつて会長を務められていた全日本写真連盟の後援に入っている関係もあり、社会面でも大きく取り上げていました。長いので全文引用しませんが、末尾の黒柳徹子さんのコメントのみ。氏はユニセフ親善大使としての黒柳さんの海外訪問等に同行し、125カ国以上を廻られたそうです。

黒柳徹子さん 「世界一上手」

 黒柳徹子さんは2日、コメントを寄せ、「子どもを撮ったら世界一というくらい、子どもの写真を上手に撮りました。秋ごろに、ユニセフの視察に行く約束をしていました。『93歳でも子供たちのところに行こうとなさっていたのか!!』と、改めて感動したのです」と追悼した。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】103

中央公論社より、栗本、松下、宮本氏三氏くる、紙絵展の事、


昭和28年(1953)1月8日の日記より 光太郎71歳

「紙絵展」は、智恵子の紙絵展。翌月2日から、丸ビル内の中央公論社画廊で開催されました。都内では光太郎帰京前の昭和26年(1951)に開催されたのに続き、2度目でした。


昨日、今月17日に亡くなった渡辺正治氏(劇作家・女優渡辺えりさん御父君にして、生前の光太郎をご存じでした)ご遺族から、香典のお返しが届きました。

同封されていたハガキ大二つ折りの「お礼の言葉」。通常、この手のものは葬儀屋さんに既成の雛形があり、その中から選ぶものですね。当方、昨年暮れに妻の母が亡くなった時にもそうしました。
001
そう思って開いたところ、驚きました。何と、えりさんによる長文のご挨拶が。ご本名の「えり子」クレジットです。光太郎にも触れて下さっています。
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こういうことも可能なのですね。

もう一件、『山形新聞』さんに載ったえりさんの文章。「渡辺えりのちょっとブレーク」という月イチの連載、5月分で、一昨日の掲載です。

(204)父ちゃん、ありがとう

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 17日の夜、父親が亡くなった。ここ数年、介護施設のお世話になっていた父。先月、高熱が出て入院したが、良くなったので退院することになり安心していた矢先だった。
 毎月お見舞いに行っていたが、コロナ禍で直接触れ合うことができず、ガラス窓越しに10分だけの面会が続いていた。そんな中で逝ってしまった。新幹線で病院に着いたのが午後10時15分。すでに意識はなく、「父ちゃん、父ちゃん」と叫んで体をさすっても意識は戻らず、同36分に帰らぬ人となった。コロナ禍で面会は私と弟の2人きり。本当にコロナは残酷である。
 95歳でも父の肩は厚く、昔、湯野浜海水浴場で肩車をしてもらったことを思い出した。看護師さんに「何度も肩車してもらったんですよ」と話す。父がどれほどたくましかったか、ユーモアがあり優しかったか、誰かに伝えたかった。
 看護師さんに丁寧に体を拭いてもらったためか、父の頬はほんのり赤く色づいて少年のようにふっくらしてきた。見開いた目はどうやっても閉じない。お医者さんから「私が駆けつけるまで待っていた」と聞き、何とか目を開いていようと頑張ってくれたのだと思った。時間がたつにつれ、安心したように目を閉じて口角が上がり、仏像のような表情になってくる。神様か仏様かと、思わず拝んでしまうほどのありがたい顔に変化していった。
 病院の待合室には弟の奥さん、いとこたちが駆けつけていた。葬儀屋さんが父の遺体を運びに来てくれたが、黒いシートにくるまれている。病院の裏口から運び出そうとした瞬間、看護師さんが機転を利かせて父の顔を見せてくれた。親族たちが脱兎(だっと)のごとく駆けつけ、父の名を呼ぶ。
 お通夜の部屋が間に合わず、霊安室に一晩安置された。突然のことなのでお墓もなく、お寺も決まっていない。私も仕事の格好のまま、気が動転して頭がうまく回らない。
 翌日、葬儀屋さんの進行でお寺や葬儀について話し合い、19日にお通夜、20日に葬儀と日程が決まった。
 コロナ禍なので葬儀は親族だけで済まし、一般の方はお焼香だけ。何度説明を受けても理解できない。とにかく東京から喪服とアルバム、父のために書いた戯曲などを送ってもらい、何人かに父の死を伝えた。誰に伝えていいのかもよく分からない。コロナ禍で友人を呼べず、相談することもできない。しかも15日に足首を剥離骨折してしまったために自分で動くことができない。
 こんな時にけがをしている自分が情けなかったが、弟の立派さとその家族の親切さを改めて感じた。取り乱して感情的になっている姉と、周りの人たちに気遣い謙虚に仕切る弟。子供の頃、泣き虫でおねしょをしていた弟の成長に驚き、見直した。親族たちも昔から父を尊敬し慕っていたのだな、と改めて思う。
 お通夜に親族で集まっていると、東京からもたいまさこと光永吉江、元夫、元劇団員が来てくれた。コロナ禍、山形の友人には遠慮してもらっていたが、それを知らない東京の友人が駆けつけてくれたのだ。
 劇団員の元夫がみんなに知らせてくれたらしい。山形では葬儀の前に火葬するしきたりを知り、その前に父の顔を見に来てくれたのだった。劇団3〇〇の芝居が好きで俳優たちを常に応援し、山形公演の時はいつも実家で歓待してくれた両親。みんなが帰った後は、2人そろって寝込んでしまうほどもてなしてくれた。
 もたいと光永とは、3日徹夜で話しても話がつきないほど気が合う。2人の愉快な会話を戯曲に書いたこともあるが、お通夜の席でも大笑いするシーンがあった。私がボロボロのジーンズに赤い靴下をはいていたら、光永が「早く着替えなさい」と言う。「山形のお通夜は普段着なんだ」と答えたら、東京チームは全員驚きの声を上げる。東京からそのまま来た私は喪服がないのは当然だが、親族も全員が普段着。これは山形の風習であった。突然亡くなったのに、以前から準備していたように感じさせない配慮ではないか? 葬儀の当日には全員喪服を着るが、お通夜は昔から親族もわざわざ普段着を装う。
 ここまで書いてきたら、決められた文字数をとうに過ぎてしまった。おくりびとの話や葬儀屋さんの素晴らしさ、ひつぎに入れた愛用品、葬儀で歌った歌、山形新聞の父の記事、火葬場での話、父の教え子、父が戦時中に教員になろうと決意した話、私が演劇をすることに反対だった父が突然許した理由など、これらは次回に書きたいと思う。
 お忙しい中、お焼香に来てくださった皆さま、本当にありがとうございました。
 いつも明るく、人をほめ、会った人がみんな豊かな気持ちになるような温かい父でした。
(俳優・劇作家、山形市出身)

改めまして、正治氏のご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

揮毫書初、奥平さんの幅の箱に“うつくしきもの”宮崎稔氏の箱に“高村智恵子遺作紙絵”北川太一氏の「智恵子抄」特製本の扉に「われらつねにみちよ」“あれが阿多多羅山”を書く、

昭和28年(1953)1月2日の日記より 光太郎71歳

毎年1月2日には書き初めというのがこれまでの通例で、帰京してからもそのルーティーンは崩しませんでした。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の名が、日記では初めて登場しました(書簡では前年から)。前年、光太郎が帰京したと聞きつけて体当たり的に訪問された北川先生、面識もなかったため何度か追い返された後、貸しアトリエの大家だった中西夫人のとりなしで光太郎と会うことが出来、以後、親炙することとなりました。

渡辺えりさん、そのエピソードを舞台「月にぬれた手」で使われています。ただ、「北山」と名前を変えてですが。
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この日、北川先生が書いてもらった揮毫がこちら。
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ここから版を採って、複製の色紙や幅が作られ(それを「真筆」として展示されてしまうことがあり、閉口していますが)、さらに智恵子の故郷・二本松霞ヶ城に建てられた詩碑のプレートも作られました。
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今月17日に亡くなった、戦中・戦後の光太郎と交流がおありだった故・渡辺正治氏(劇作家・女優渡辺えりさん御父君)関連です。

まず『スポーツニッポン』さん。5月23日(月)の掲載でした。

渡辺えり 父の死去を涙ながらに報告「“父ちゃん”って叫んでも反応がなくて…」

002 女優の渡辺えり(67)が23日、ニッポン放送「垣花正 あなたとハッピー!」(月~木曜前8・00)に生出演。95歳の父が死去していたことを明かした。
 冒頭、渡辺は「父親が亡くなっちゃったんですよ」と報告。「夜の10時半ごろ亡くなったので。私が病院に到着したのが10時15分で、だから呼吸はまだあったんだけど、もう意識はなくて。“父ちゃん”って叫んでも反応がなくて。“私が到着するまではまだ生きてた”ってお医者さんは言ってくれたんですけどね」と涙ながらに明かした。
 「不幸中の幸いと言っていいのか分かんないですけど、全部見届けることができた」という。「葬儀屋さんが来て、運ばれて。今コロナ禍で亡くなる人がいっぱいいすぎて、お通夜の会館が開いてなかったんで、霊安室に運んで、その後会場に次の日から行ったんですけど、弟が凄い立派でしたね。悲しい気持ちを抑えて段取りを全部踏んで、お棺の値段を決めたり」と回想した。
 亡くなった日は言及しなかったが、20日に火葬を行ったという。「介護施設にいたんですけど、凄く元気で。たまたま熱が上がって入院するよって弟から電話があって、先月お見舞いに行った」といい「それが最後だったんですね」としみじみ語っていた。

続いて一昨日の『日本経済新聞』さん。えりさんご自身のコメントです。

父の死 劇作家 渡辺えり

 5月17日の夜、父が逝ってしまった。入院中に容体が急変し、弟が連絡をくれたのは午後3時頃。ラジオの生本番を終えて新幹線に飛び乗り、山形の病院に到着したのが午後10時15分頃。「父ちゃん! 父ちゃん!」と何度声を掛けても意識は戻らず、10時30分頃に呼吸を止めてしまった。
 回復して退院できると聞いていたので、動揺し混乱し、現実を受け止められない。コロナ禍で病室に入れたのは私と弟だけ。3年半触れられなかった父の体を触り続けたが生き返ることはなかった。脱脂綿で父の体を拭きながら昔を思い出す。今も厚みのある95歳の肩で「何度も肩車してもらったんです」。看護師さんに訴えていた。
 父は戦時中の少年時代、武蔵野の軍需工場で戦闘機のエンジンを作っていた。爆撃で親友を失い、工場も総攻撃を受けたが九死に一生を得た。敗戦の焼け跡で、価値観の180度変わった「不思議」には教育が関わっていると気付く。百姓に教育はいらないと言われた村で、夜学に通い教員になった。昼間働いていて農協の窓口の母を見初め、8年の文通後に結婚、私が生まれた。
 「臓物が口から出るほどの死への恐怖」をやわらげてくれた高村光太郎の詩に心酔し、彼の思想を生涯の支柱とした。父が90歳の頃、私は問うたことがある。「もうあの時ほどの死の恐怖はないよね? 年取ると怖くないよね?」。父は答えた。「おんなじだ。あの時と少しも変わらない」
 娘の芝居を愛し、世界平和を夢見ていた父。父が焼かれる時、弟に縋(すが)りつき、「熱くないよね? 父ちゃん熱くないよね? 助けて!」と泣いた自分に驚いた。

臓物が口から出るほどの死への恐怖」に関しては、以下。平成15年(2003)、中央公論社さん刊行のえりさん著『思い入れ歌謡劇場』から。

 父は、戦時中の十五歳から終戦時の十九歳までの五年間、武蔵野の軍需工場で働いていた。
 日本画戦争に勝つことがアジアの正義だと、ただただ信じながら、戦闘機のエンジンを作り続けた。
 工場を狙った激しい爆撃で多くの仲間を失うなかで、少年だった父は必死の思いで生きてきたのだ。
 ある日、これまでで最大の爆撃があるとの通報を受け、六万人が働く工場に避難命令が下った。しかし、工場を無人にしてはならないという指示があり、居残るメンバーを決めることになった。必ず死ぬと決まっている仲間を選ぶ、仲間同士の討議である。
 時が経つにつれ、皆、醜い鬼になっていく。耐えきれなくなった父は、自分が残ると手をあげた。父の親友も手をあげ、結局、十代の少年三人が残ることになった。
 三人は、死んだ時に見苦しくないよう、一旦、寮に帰って一張羅に着替えた。そして深夜、無人の工場を見回り、屋上に集合した。
 「もう二度と朝日を見ることはないんだなあ」と誰かが言った。
 父は臓物が口から飛び出るような死の恐怖に襲われたが、そんな時に呟くと不思議と心が落ち着く詩があった。高村光太郎の「必死の時」だった。幾度も幾度も、その詩は父を救ってくれた。
 その日、父たちはラジオで、爆撃の方向が南にそれた事を知った。父は奇跡的に命拾いしたのだ、
 東京大空襲の翌日、父は光太郎のアトリエが無事かどうか、自転車で武蔵野から駒込林町まで見に行った。出迎えた光太郎は、父と握手し、詩集をくれた。振り返っても振り返っても、光太郎は生け垣の前に立っていた。父は光太郎に心酔した。自分を生かしてくれたのは彼だと言い切る。
 その光太郎は、戦後、「必死の時」をはじめとした一連の詩作により、戦争に荷担したという罪に問われることになる。そして彼は、花巻の山奥の小さな小屋でひっそりと暮らすようになるのである。
 父は「あの時、自分は死んだのだ。戦後の人生は余りの人生にすぎない」と言った。私は父の余りの人生の中で生まれた子だった。
 百八十度変わった価値観の中で、世の中を客観的に見つめていきたいとの思いから、父は独学して教師になった。そして、光太郎が智恵子に恋したように、母に恋し、愛読書を交換し合い、八年間の交際ののちに結婚した。
 交際中、山形で光太郎の講演会があった。当時、母は鼻の手術で入院していたが、父は病室の窓から忍び込み、無理やり母を連れ出した。幼い頃に男親を亡くしていたため、父は光太郎の生き方を己に投影していた感がある。人生の師匠とも言える光太郎の講演を、ぜひ母と聞きたかったに違いない。顔に包帯を巻いた寝間着姿の母と、父は並んで座ったのだった。
 父は、生まれたばかりで言葉も知らない私に、しょっちゅう光太郎の詩を読んで聞かせた。「レモン哀歌」「樹下の二人」私の耳元で父の妙に改まった声が響いた。
 毎年五月十五日に花巻で開催される高村祭に、今年、父が講演を依頼され、私もついて行った。光太郎の山荘近くの広場、大きな光太郎の写真の前で、父は生前の光太郎の仕事を語り、自己の思いを語った。四十年ぶりに聞く父の朗読に、私は涙が止まらなくなった。


元は『婦人公論』さんでの連載でしたので、文中「今年、父が講演を依頼され」とあるのは書籍自体の刊行年ではなく、連載掲載時の平成12年(2000)のことです。 

その際のカット。
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100この時、正治氏とえりさんは、花巻南温泉峡の大沢温泉さんで、かつて光太郎の泊まっていた部屋を再現した「ぼたん」の間にご宿泊。こちらにはその際に正治氏が書かれた色紙が今も飾られています。正治氏が勇気づけられたという光太郎詩「必死の時」(昭和15年=1940)の一節がしたためられています。
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また、えりさんも、平成25年(2013)の高村祭でご講演くださり、上記の正治氏と光太郎のエピソード等、ご披露なさいました。さらには正治氏が光太郎から貰った『道程再訂版』、そして戦後の葉書はえりさんを通して花巻高村光太郎記念館さんに寄贈されています。

ただ、寄贈されてから展示されたことがなく、残念に思っております。このままではせっかく寄贈されても死蔵になってしまいますので……。柔軟に対応していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

画商弥生画廊の長谷錦一氏来る、ブロンズ「腕」の箱書きす、


昭和27年(1952)12月28日の日記より 光太郎70歳

ブロンズ「腕」」は、同じくブロンズの「手」と同じく、大正7年(1918)の作。おそらくかなり久しぶりに対面したと思われます。
103

またお一人、生前の光太郎をご存じの方が亡くなりました。昨日、何気にネットで『山形新聞』さんの一面コラムを読んでいて、気づきました。

談話室

▼▽山形市出身の教育者無着成恭(むちゃくせいきょう)さんの青春は戦争のただ中にあった。山形中学時代は群馬県の軍需工場に動員された。師範学校に入ってからは庄内に赴き、燃料油の原料となる松の根を掘った。終戦の日も庄内で迎えた。

▼▽戦後、価値観は百八十度変わる。それまで18年、軍国教育を叩(たた)き込まれていた無着さんは気付いた。「自分の生き方は自分で考える時代になった。その力を子どもにつけてやるのが教育だ」。赴任先の山元中(上山市)で実践した成果は学級文集「山びこ学校」に結実した。

▼▽俳優渡辺えりさんの父正治(まさじ)さんも教師として同じ時代を生き、山形市で95年の生涯を閉じた。会葬者に手渡した「お礼の言葉」でえりさんが綴(つづ)っていた。父は東京の軍需工場で働き、九死に一生を得る。終戦後は教育の大切さに思い至り働きながら山形大に入り先生となる。

▼▽教え子たちを愛した分、慕われもした。「尊敬する人」として1位シュバイツァー、2位は渡辺先生と挙げられたほどだった。「格差や差別のない平和な世の中を希求していた」とえりさん。戦中戦後を生き抜いた人々の軌跡は、未来への道標ともなる。忘れてはなるまい。

000慌ててさらに検索をかけたところ、訃報もヒットしました。先週、亡くなったとのことでした。ここ数年は山形の施設に入られているというお話は伺っていましたが……。

正治氏、大正15年(1926)、山形のお生まれ。昭和16年(1941)、高等小学校を卒業なさった後、叔父様も勤めていらした東京の中島飛行機(現・スバル)武蔵製作所に入社され、終戦まで勤務されました。主に戦闘機のエンジンを作るお仕事だったとのことです。

軍需工場ということで、たびたび空襲の目標とされ、実際に正治氏が尊敬していた同僚の方は空襲の犠牲になったそうです。昭和19年(1944)12月8日(或いは25日)には、また大規模な空襲の目標となっているという情報があり、工員らは退避の命令。しかし、機械の保守のために誰かが残らなければならないという状況で、「誰が残るか」と、皆でその役を押しつけ合う醜い争いになったそうです。それに耐えかねた正治氏、「自分が残る」と宣言。ご友人2人とともに残られました。

その際の恐怖は「臓物が口から飛び出そう」というほどのものだったとのこと。むべなるかな、ですね。しかし、その恐怖も、当時からよく読んでいた光太郎の詩を口ざすむことで、かなりやわらいだそうです。結局、その際には空襲の標的がずれ、助かりました。

翌昭和20年(1945)3月10日には東京大空襲。その後も断続的に無差別の空襲が続きました。光太郎と文通もしていたという同僚に、「高村先生の安否を確かめてきてくれ」と頼まれた正治氏、住所を頼りに駒込林町の光太郎アトリエを訪れました。それが4月10日だそうで、この3日後の空襲で、光太郎アトリエは灰燼に帰してしまいます。在宅していた光太郎は正治氏のような若者がわざわざ来てくれたことに感激、この年刊行された詩集『道程』再訂版に献呈署名を入れ、正治氏にくれたそうです。これは戦後の光太郎からの葉書と共に、えりさんを通じて花巻高村光太郎記念館さんに寄贈されています。
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戦後、正治氏は郷里に帰られ、山形大学に入学、教職の道に進まれます。そして『山形新聞』さんにあるように、生徒の崇敬を集めたわけですね。

昭和25年(1950)11月、花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送っていた光太郎は、講演のために山形を訪問。その際にも正治氏は光太郎に会っています。正治氏、蓄膿症の手術で入院されていたのちの奥様を強引に連れだして、光太郎の講演に駆けつけたとのこと。その後、お二人はご結婚され、えりさんが生まれます。ご自宅には光太郎の写真が飾ってあり、幼い頃のえりさんは、それが御自分のおじいさんだと勘違いして育ったそうです。

正治氏は、えりさんに光太郎との関わり、戦時中のご体験などを語られたのはずっと後だったそうですが、お話を聞いたえりさん、これを埋もれさせてはならないと、お父さまを主人公にした戯曲「光る時間(とき)」を書かれて上演なさったり、「徹子の部屋」など各種テレビ番組講演などでお父さまと光太郎について語られたりなさっています。

昭和61年(1986)の光太郎忌日・連翹忌の集いは、第30回を記念して、かつて光太郎が暮らしたパリのモンパルナスにある老舗のカフェ、クロズリー・デ・リラで開催されました。海外での実施にもかかわらず、30名ほどの参加があったそうですが、その中に正治氏とご子息も。えりさんはその前からご参加下さっていましたが、正治氏はこの時が初参加でした。その後、20回ほどご参加下さっています。上記の光太郎とのエピソード、当方が初めて知ったのは、連翹忌での正治氏のスピーチによってでした。また、同じ東北人として宮沢賢治も敬愛なさっているというお話も。

先述の通り、近年は体調を崩され、山形の施設にご入所されていましたが、先週、95年のご生涯を閉じられたわけで……。今頃は天上で光太郎や、当会顧問であらせられた北川太一先生らと久闊を叙されているのではないでしょうか。

正治氏と光太郎については、以下の書籍等に詳細が記述されています。

戦時下の武蔵野 Ⅰ 中島飛行機武蔵製作所への空襲を探る』 平成23年(2011) 牛田守彦著 株式会社文伸

『月刊絵手紙』2003年6月号通巻90号 特集「高村光太郎(山のスケッチと手紙)」 平成15年(2003) 日本絵手紙協会
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】004

新潮社佐野英夫氏くる、詩集の事、


昭和27年(1952)12月23日の日記より
 光太郎70歳

佐野英夫氏」は新潮社の編集者。深田久弥の『日本百名山』なども手がけました。「詩集」は、翌年刊行された『高村光太郎詩集』。同社では既に昭和25年(1950)に伊藤信吉編集で新潮文庫版『高村光太郎詩集』を出していますが、それとは別に二回り大きい四六判で新たに上梓しました。こちらも伊藤信吉編です。通常、大判のものが先に出て、あとから文庫化されるものですが、この際は逆でした。それだけ需要があったということなのでしょう。

2月5日(土)に亡くなった芥川賞作家・西村賢太氏と、氏が「没後弟子」を自称し、光太郎がその代表作『根津権現裏』の題字揮毫を担当した大正期の作家・藤澤清造関連。

『山形新聞』さんが一面コラムで取り上げました。

談話室

▼▽アパートの家賃を4年余りも払わなかった。酒に酔って暴行を働き、警察の厄介になったこともある。すると周りの人も離れていく。そんな時に支えになったのは、大正末-昭和初めに活動した藤沢清造の小説だった。
▼▽西村賢太さんが作家になる前の逸話である。清造作品の登場人物は社会の底辺で鬱屈(うっくつ)した心を抱える。作者自身、42歳だった昭和7年1月、奇行の末に公園で凍死した。恵まれない少年時代も似ており、「涙がでてくる程身につまされ」た。随筆「清造忌」でそう振り返る。
▼▽清造の「没後弟子」と称し、傾倒した。彼を巡る物語を多くつづってきただけではない。月命日のたび、石川県七尾市の菩提(ぼだい)寺にある清造の墓に詣でた。29歳から始めて25年。芥川賞を得て人気作家になってからも、毎月の七尾行を続けた。清造の脇に自らの墓標も立てた。
▼▽先月中旬、書評紙に載った対談では執筆の原動力を聞かれ「清造がいるからこそ、いまも小説を書く意地を持続できています」。変わらぬ思いを語った。それから1カ月足らず、まだ54歳の西村さんが急死したのは清造没後90年の命日直後である。奇(くす)しき縁(えにし)と言うほかない。

「清造没後90年の命日」に関して、先月の『中日新聞』さんが報じていました。

清造先生 見守ってて 芥川賞・西村賢太さん 合掌

 七尾市出身の作家、藤沢清造(せいぞう)(一八八九〜一九三二年)の没後九十年の命日の二十九日、「清造忌」が同市小島町の菩提(ぼだい)寺・浄土宗西光寺で営まれ、藤沢に心酔する芥川賞作家、西村賢太さん(54)が墓前に手を合わせた。
 藤沢は同市馬出町に生まれ、高等小学校を卒業して上京。一九二二年に貧困と病苦の中に生きる主人公を描いた長編私小説「根津権現裏」を発表した。島崎藤村らに評価されたが、その後は作品に恵まれない生活を送り、困窮の果てに東京・芝公園で凍死した。
七尾に26年墓参「おかげで食えてる」
 西光寺には五三年に藤沢の墓碑が建立され、当時の住民有志が一度だけ追悼会を開いた。西村さんらはその意思を継ぎ、途絶えていた追悼会を二〇〇一年に「清造忌」として復活させた。命日に毎年一、二人が参列している。西村さん自身は、月命日と命日に欠かさず墓参りを始めて二十六年目。〇二年には藤沢の墓の隣に自らの生前墓を建てた。
 午後四時半すぎ、墓を訪れた西村さんは缶ビールや酒などを供え、手を合わせた。墓参りを終え「最初に来た時は二十五年前で、俺も年をとったが、清造先生も遠くに行きましたね」としのび、「作家になる前から毎月(墓参りを)やっていたから小説で食っていけているんじゃないかと思う。清造先生のおかげ」と話した。
 西村さんは今夏にも藤沢清造の随筆集を出版する予定という。
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そして同じく『中日新聞』さん、西村氏の訃報を受けて。

「賢太さん 若かったのに」 訃報受け 生前墓に七尾市民 西光寺の高僧住職「真面目で紳士 残念で仕方ない」

 五日に五十四歳で亡くなった芥川賞作家の西村賢太さんの訃報から一夜明けた六日、西村さんが生前建てた墓がある七尾市小島町の西光寺(さいこうじ)には、墓参りに訪れる市民の姿があった。「若かったのに」「信じられない」。早すぎる別れを惜しむ声が聞かれた。
 「先週来たばかりだったんでしょ。本当に信じられない」。午前十時すぎ、同市栄町の永田房雄さん(73)は墓に積もった雪を手ではらうと、近くの和菓子店で購入した草餅を供え、静かに手を合わせた。
 西村さんは七尾出身の作家藤沢清造(一八八九〜一九三二年)に心酔。二〇〇二年に藤沢の墓の隣に自身の生前墓を建てた。藤沢の命日の一月二十九日を「清造忌」とし、月命日の墓参を欠かさなかった。先月も缶ビールや酒などを墓前に供えたばかりだった。
 永田さんは「お酒は隣にあるから、甘いものを味わってもらえたらと思って」としみじみ。西村さんに会ったことはないが、一一年に芥川賞を受けた「苦役列車」は手に取ったことがある。「難しくて理解できなかった気がする。改めてじっくり読み返そうと思う」
 住職の高僧英淳(こうそうえいじゅん)さん(69)は「西村さんは七尾の人よりもしょっちゅう寺に来てくれた。二月も二十八日に来ると話したばかり。いつもと同じ様子だったからびっくり。根は真面目で紳士。若すぎる。残念で仕方ない」と肩を落とした。寺に連絡があれば、遺骨を受け取りに行くという。
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西村氏の生前墓については、亡くなってから知りました。そして毎月墓参に訪れていたということも。その心酔ぶりは半端ではありませんね。

これを期に、また藤澤に脚光が当たることを期待するとともに、改めて西村氏のご冥福を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

午前十一時頃村会議員等10人余恭三さんの案内で来訪、小屋を見てゆく。一緒に小学校にゆく。一時間はかり座談。村長も来てゐる。後酒食。午後四時頃辞去、小屋にかへる。

昭和27年(1952)1月29日の日記より 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活も6年以上が過ぎ、今さら感がありますが、もしかすると新しく議員になった人々が挨拶に、という趣旨だったのかも知れません。

芥川賞作家の西村賢太氏の訃報が出ました。

時事通信さん。

西村賢太さん死去、54歳 私小説作家、芥川賞「苦役列車」

002 「破滅型」といわれる作風の私小説で知られ、「苦役列車」で芥川賞を受賞した作家の西村賢太(にしむら・けんた)さんが5日午前、東京都内の病院で死去した。
 54歳だった。関係者によると、4日夜にタクシー内で意識を失い、病院に運ばれたという。
 1967年、東京都生まれ。中学時代に不登校となり、高校進学はせず、港湾荷役や警備員などの仕事をしながら古書店に通った。私小説にのめりこみ、大正期の作家で同じく破滅型といわれた藤澤清造に心酔した。
 2003年、同人雑誌「煉瓦(れんが)」で小説を書き始め、翌年発表の「けがれなき酒のへど」が文芸誌「文学界」に転載。その後、相次いで作品を発表し、07年には「暗渠(あんきょ)の宿」で野間文芸新人賞を受賞した。
 11年、日雇い労働で糊口(ここう)をしのぐ若者の屈折を描いた「苦役列車」で芥川賞を受賞。翌年に映画化もされた。
 藤澤の菩提(ぼだい)寺の浄土宗西光寺(石川県七尾市)への墓参を続けた。後年まで「藤澤らの私小説に救われてきた」との思いを強く抱き、代表作「根津権現裏」を復刊させたほか、短編集の編集も担当した。

西村氏、記事にある通り、大正期のマイナー作家・藤澤清造に光を当てたことで、当方は記憶していました。

藤澤の代表作とされる『根津権現裏』(大正11年=1922)は、題字の揮毫が光太郎です。
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装幀は工芸家の広川松五郎で、木版画は広川の手になるもの。函の「根津権現裏」という題字と、作者名「藤澤清造」が光太郎の筆です。
根津権現裏扉
こちらは同書の扉ですが、函の光太郎揮毫を広川が木版に写し取ったと推定されます。

光太郎と藤澤、直接の交流のあったことは確認できていません。ただ、光太郎と広川はいろいろな場面で繋がっており、どうも広川経由で光太郎への題字揮毫依頼が実現したものと思われます。

西村氏、この『根津権現裏』復刊を新潮社さんに働きかけ、平成23年(2011)に、氏の解説で文庫化されました。当方、その際にちょっとしたニュースになったのを記憶していました。

翌年にはやはり氏の解説、編集で、『藤澤清造短編集』も新潮文庫の一冊として刊行されています。また、『藤澤清造全集』の刊行も予告されましたが、そちらは頓挫。今後に期待したいところです。それから、こちらは存じませんでしたが、西村氏、令和元年(2019)には講談社さんから『藤澤清造追影』という書籍も刊行されています。

氏の藤澤評。

この人の、泥みたような生き恥にまみれながらも、地べたを這いずって前進し、誰が何と言おうと自分の、自分だけのダンディズムを自分だけの為に貫こうとする姿、そして、結果的には負け犬になってしまった人生は、私にこれ以上とない、ただ一人の味方を得たとの強い希望を持たせてくれたのである。

結果的には負け犬になってしまった人生」は、心を病んだ末、昭和7年(1932)、芝公園で凍死し、身元不明行旅死亡人として荼毘に付され、死後、遺品から藤澤だったと判明したことなどを指しています。

生き恥にまみれながらも、地べたを這いずって前進し、誰が何と言おうと自分の、自分だけのダンディズムを自分だけの為に貫こうとする姿」あたり、もしかすると光太郎もシンパシーを感じたかもしれません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨日あたりよりタバコをやめる事にしたり。実際うまくなし。


昭和27年1月12日の日記より 光太郎70歳

1012光太郎、喫煙を始めたのは意外と遅かったようです。大正14年(1925)、数え43歳の時に回答したアンケート「紫煙問答」では、以下のように書いています。

小生、大ていのものはいけますが、タバコだけは生来甚だ不調法で、たまに試るときつと目をまはすか、胸をわるくするといふ次第故残念ながら何も申上げる資格がございません。

で、ここにきての禁煙宣言。しかしそれも守られなかったようで、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後の、中野の貸しアトリエで撮られた写真には、パイプをくわえたショットなども現存します。肺病病みのくせに、自殺行為ですね(笑)。





詩人の高良留美子さんの訃報が出ました。

『朝日新聞』さん。

高良留美子さん死去

002 高良留美子さん(こうら・るみこ=詩人、評論家、本名竹内留美子〈たけうち・るみこ〉)12日、膵臓(すいぞう)がんで死去、88歳。葬儀は近親者で行った。喪主は長女小松美穂子さん。
 詩人としてH氏賞、現代詩人賞を受賞。97年に女性文化賞を創設し、私費で賞金を授与。17年に女性史研究者の米田佐代子さんに賞の運営を引き継いだ。

『読売新聞』さん。

詩人の高良留美子さん死去…女性史研究にも力注ぐ

001 詩人で、女性史研究者としても知られた高良留美子(こうら・るみこ、本名・竹内留美子=たけうち・るみこ)さんが12日、膵臓(すいぞう)がんで死去した。88歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長女、小松美穂子さん。
 東京都出身。大学時代から文化総合雑誌「希望」に参加し、1963年に詩集「場所」でH氏賞、88年に詩集「仮面の声」で現代詩人賞を受賞。女性史研究にも力を注ぎ、97年には、女性の文化向上に貢献した人に贈る「女性文化賞」を個人で創設した。アジア・アフリカの詩人とも交流し、翻訳にも取り組んだ。また、本紙で83年から98年まで、詩の投稿欄「女の詩・女のうた」の選者を務めた。

『読売』さんの見出しに「女性史研究にも力注ぐ」とありますが、当方、その関係の御著書を一冊、所蔵しております。

平成21年(2009)、學藝書林さん刊行の『恋する女 一葉・晶子・らいてうの時代と文学』。
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サブタイトルが「一葉・晶子・らいてうの時代と文学」で、その3人がメインですが、帯文にある通り、智恵子の章も設けられています。

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久しぶりに読み返してみました。

黒澤亜里子氏の先行研究などを踏まえ、基本、ジェンダー論に立脚されたものですが、ヒステリックに光太郎の悪行を糾弾する、というスタンスではなく、新しい男女の姿を追い求めながら、刀折れ矢尽きていく二人の姿を追っています。そこに、智恵子の親友だった田村俊子とのからみも。

当時の一般的な男性と較べ、ジェンダー平等の観念の部分では進んでいた光太郎も、所詮は「良妻賢母」を無意識に求める部分があったという指摘、絵画については才能溢れる、とまではいかなかった智恵子が、画業に見切りをつけ「偉大な芸術家の妻」という道を選択したこと、そしてそれに伴う悲劇として、心の病は必然的に訪れた、といった論は、うなずけるものがありました。

曰く

彼女は絵を描きつづけながらも、〈我をすて〉ようとしていたのだ。しかしひとたび自我に目覚めた人間にとって、それは衰弱へ向かう道であり、とくに智恵子のような強烈な自我意識をもっていた人間にとって自己破滅へ向かう道であった。

もう一冊、部分的なご執筆で『『青鞜』を読む』。平成10年(1998)、やはり學藝書林さんの刊行で、「新・フェミニズム批評の会」の編著です。
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高良さん、こちらでは、「成瀬仁蔵の女子教育思想と平塚らいてう」の題で、30ページ程。

智恵子が創刊号の表紙絵を描いた『青鞜』。発起人や社員の中に、らいてうをはじめ、日本女子大学校出身者が多数いたことから、同校創立者の成瀬仁蔵の思想が彼女たちにどう影響を及ぼしたか、という趣旨です。

2冊とも、Amazonさん等で入手可能です。

さて、改めまして、高良さんのご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

たえ子さん立ちよる、コーヒー御馳走。


昭和26年(1951)9月13日の日記より 光太郎69歳

たえ子さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の婦人。

光太郎がふるまった「コーヒー」は、おそらくインスタントでしょう。過日、久々に光太郎の山小屋に入れていただいた際、作り付けの棚にネスカフェの瓶がありました。
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作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。

「時事通信」さん配信記事から。

瀬戸内寂聴さん死去、99歳 純文学から伝記、大衆小説まで 

無題 私小説から伝記、歴史物まで幅広く手掛け、文化勲章を受章した作家で僧侶の瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)さんが9日午前6時3分、心不全のため京都市の病院で死去した。99歳だった。葬儀は近親者で行う。後日、東京都内でお別れの会を開く予定。
 1922年、徳島市生まれ。東京女子大在学中に結婚。北京に滞在したが、46年に引き揚げ後、夫の教え子と恋愛関係になり協議離婚した。前後して小説を書き始め、丹羽文雄主宰「文学者」の同人に。57年に新潮社同人雑誌賞を受賞し、初の短編集「白い手袋の記憶」を刊行した。
 続けて発表した短編「花芯」で人妻の不倫を描き、「子宮作家」と呼ばれるなど物議を醸した結果、文芸誌からの執筆依頼が数年途絶えた。その間も雑誌に発表した作品が人気を集め、流行作家に。純文学と大衆小説のジャンルをまたいで活躍し、61年に伝記小説「田村俊子」で田村俊子賞、63年には「夏の終り」で女流文学賞を受賞した。
 明治・大正期の女性解放運動に共感し、伊藤野枝らを題材に「美は乱調にあり」などの伝記小説を次々と発表した。古典文学にも造詣が深く、70歳になる92年から「源氏物語」の現代語訳に取り組み、98年に全10巻を完成。京都府宇治市の源氏物語ミュージアムの名誉館長も務めた。
 多忙を極める中で出家への思いを募らせ、岩手県平泉町の中尊寺で73年に得度(出家)した。旧名「晴美」から法名「寂聴」に改名し、執筆を続けながら、京都市の「寂庵」を拠点に法話活動を展開。岩手県二戸市の天台寺住職も兼ね、孤独や病、家族などに悩む人々に寄り添った。
 政治・社会運動にも関わり、91年の湾岸戦争や2001年の米同時多発テロの際は断食により反戦を訴えた。東日本大震災後も現地の慰問や脱原発運動などに奔走した。
 著書は、谷崎潤一郎賞の「花に問え」、芸術選奨文部大臣賞の「白道」、野間文芸賞の「場所」、泉鏡花文学賞の「風景」のほか、エッセーや対談集など多数。06年に文化勲章を受章した。
 14年に背骨の圧迫骨折、胆のうがん摘出を経験したが、その後回復し、17年に作家としての来歴や闘病を題材にした長編小説「いのち」を刊行するなど、晩年まで精力的に文学活動を続けた。

当方、伝記小説のジャンルで、いろいろ参考にさせていただきました。光太郎智恵子を中心に据えた作品は書かれませんでしたが、その周辺人物たちを描いたもの。
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最近に読んだのは、一番右の『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』(昭和59年=1984)。白秋を主人公とした映画「この道」公開記念に出た文庫の新装版で読みました。中央が『田村俊子』(昭和36年=1961)。上記画像はやはり文庫版ですが、寂聴さんと交流の深かった横尾忠則さんの表紙が鮮烈です。智恵子と最も親しかった作家の田村俊子が主人公です。右は『青鞜』(昭和59年=1984)。平塚らいてうを中心に、尾竹紅吉、伊藤野枝ら『青鞜』メンバーの群像。智恵子も登場します。上記文庫版の表紙でもモチーフになっている、『青鞜』創刊号の表紙のくだり。
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ちなみに当方手持ちの『青鞜』。これも文庫版ですが、寂聴さんサイン入りです。当方が書いてもらったわけではなく、古書店で購入したもので、真筆かどうかよくわかりませんが。
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002これら三冊、いずれも厚冊で、改めて読み返してはいませんが、平成24年(2012)に発行された雑誌『いろは』に載った、瀬戸内さんと森まゆみさんの対談を読み返してみました。題して「青鞜の女たち」。

田村俊子やらいてう、そしてやはり寂聴さんが伝記小説で描かれた岡本かの子(『かの子撩乱』昭和40年=1965)、伊藤野枝(『美は乱調にあり』同)などにも触れられています。野枝あたりと較べれば、らいてうはまだまだ優等生、的なご発言もあったりで、寂聴さんの一種の豪快さも改めて感じました。

『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』でメインだった江口章子なども含め、三浦環や管野須賀子、金子文子など、強烈な女性たちを多く描いてこられた瀬戸内さん。御自身も彼女たちに負けず劣らず、ですね。ぜひ森さんあたりに伝記小説『瀬戸内寂聴』を書いていただきたいものです。

改めて、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

午后佐藤隆房氏、宮澤政次郎氏、〃老母同道来訪。熊谷さん運転と見ゆ、もらひものいろいろ。

昭和26年(1951)5月6日の日記より 光太郎69歳

宮澤政次郎氏」は賢治の父、「老母」はその妻・イチです。光太郎は花巻郊外旧太田村の山小屋に移った後も、花巻町中心街に出ると、ほぼ必ず宮沢家に顔を出していましたが、政次郎夫妻が太田村の山小屋を訪れたのは、この時が初めてでした。

自動車が通れる道が光太郎の山小屋から1㌔弱の山口小学校までしか通じておらず、明治7年(1874)生まれの政次郎は足を悪くしていたため、無理だったわけです。

この時期、山小屋の増築工事もあり、道も整備され、この日は佐藤隆房家のダットサンで、政次郎夫妻が念願の光太郎山小屋訪問を果たしました。下記がこの日撮られた写真で、左からイチ、政次郎、光太郎です。

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001当会顧問であらせられた、故・北川太一先生が、かつて都立高校教諭をなさっていた頃に教え子だった皆さんの会・北斗会さんの会長を永らく務められた、都内ご在住の小川義夫さんが亡くなりました。

小川さん、新潟の旧山古志村のご出身。北川先生の一回り下の丑年とおっしゃっていましたので、今年、誕生日を迎えられていたとすれば満84歳ということになります。

北斗会さんとして、北川先生の御著書や、北川先生を顕彰する書籍の編集、刊行の中心にいらっしゃり、当方も大変お世話になりました。右画像は、北斗会さん編集の『北川太一とその仲間達』(平成23年=2011)。小川さんもご執筆なさり、さらに小川さんも御出席された北川先生を囲んでの座談会の様子も収録されています。

毎年4月2日の光太郎忌日・連翹忌の集い(昨年・今年はコロナ禍のため中止)、そして8月には、女川光太郎祭(こちらも昨年・今年はコロナ禍のため中止)にもよく参加されていました。
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こちらは東日本大震災の翌年(平成24年=2012)、当時まだ遺されていた、女川港近くの横倒しになったビルを御覧になっている北川先生ご夫妻、そして右は小川さんの後ろ姿です。

また、1月には北川先生ご夫妻を囲む新年会を企画され、当方も参加させていただいておりました。こちらは平成28年(2016)の新年会、開会の挨拶をされている小川さんです。
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さらに、昨年1月の、北川先生ご葬儀では、葬儀委員長を務められたりもなさいました。その折が、当方、小川さんにお会いした最後となってしまいました……。

さて、小川さん。ご本業は、印刷会社の社長さんでしたが、演歌歌手としても活動されていました。70歳を過ぎてから、心臓病の予後のリハビリのためお医者様の勧めでカラオケに取り組み、大会などに出場するうちに、あれよあれよという間にプロデビューとなったそうです。
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BS放送の歌謡番組にもご出演され、当方、「ぶっちゃけ、ギャラとかって、どんなもんなんですか?」などと失礼ながらお訊きしたところ、「いや、こっちがプロモーションさせて貰う立場なので、逆にこっちから「出演料」を払うんだよ。いわゆる大御所でもそうなんだ」などと教えていただきました。そんなことも、今となっては懐かしい思い出です……。
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今頃は、空の上で、北川先生と久闊を叙されているのではないでしょうか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

食事中、東京角川書店主角川源義氏来訪。小山書店の高村昭氏と知合の由。濃茶、チーズ等もらふ。いろいろの談話。出版会の消息等もきく。


昭和23年(1948)9月7日の日記より 光太郎66歳

角川源義は昭和20年(1945)創業の角川書店の創業者。後発の出版社のため、岩波書店や新潮社などに追いつき追い越せ、と、随分努力をしました。源義自ら太田村の光太郎の小屋を訪れること、少なくとも3度。光太郎帰京後も、中野のアトリエに通っていました。その意気やよし、ということで、光太郎は角川文庫や『昭和文学全集』に作品を提供します。

昨日の朝刊を開き、劇作家の清水邦夫氏の訃報が出ていて、驚きました。

劇作家の清水邦夫さんが死去 蜷川幸雄さんとコンビ

001 若者の苦悩やいら立ちを描いて人気を集めた劇作家の清水邦夫(しみず・くにお)さんが15日午後0時46分、老衰のため死去した。84歳。新潟県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。
 1960年代後半から70年代初めにかけて、演出家の蜷川幸雄さんとのコンビで「真情あふるる軽薄さ」「ぼくらが非情の大河をくだる時」などの作品を発表し、全共闘世代の熱い支持を得た。
 妻で俳優の故松本典子さんらと演劇企画集団「木冬社」を結成。戯曲の代表作に「タンゴ・冬の終わりに」「エレジー」「弟よ」などがある。
 岸田国士戯曲賞、泉鏡花文学賞などを受賞。小説も執筆し、芥川賞候補にも挙がった。
(共同通信)

清水氏、平成3年(1991)には、光太郎智恵子の物語「哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて―」を、記事にもある木冬社さんの公演として実施されました。演出も同氏でした。
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平成5年(1993)には再演。
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その後、各地で巡回公演もされたようです。

いずれも光太郎役は小林勝也さん、智恵子役は清水氏の奥様だった故・松本典子さんでした。

脚本は、平成4年(1992)刊行の『清水邦夫全仕事 1981~1991』(河出書房新社』に掲載されています。智恵子が心を病んだ昭和初期のきな臭い世相を背景に、虚実の入り乱れた不思議な世界でした。

また、昭和58年(1983)初演の『いとしいとしのぶーたれ乞食』でも、光太郎智恵子に触れられていたようです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

サダミさん宅の幸子さん来て、ドンといふ米のアラレ菓子、鰯の生干などもらふ。廿三日節句の菖蒲湯に来よとの事。

昭和22年(1947)6月19日の日記より 光太郎65歳

「ドンといふ米のアラレ菓子」、「ポン菓子」という呼称が一般的でしょうか。圧力を掛けて開放、膨張させたものです。

当方、最近、朝食(パン食)には、これを欠かしません。グノーラ的に牛乳をかけていただいています。光太郎が食べたものと全く同じかどうかわかりませんが。
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当方も加入している高村光太郎研究会発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』の第42号が届きました。

今号は、昨年1月に逝去された、当会、そして高村光太郎研究会の顧問であらせられた故・北川太一先生の追悼号。
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研究会主宰の野末明氏をはじめ、7名の研究会員による追悼文等が掲載されています。当方も拙稿を寄せました。
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その他、盛岡大学教授・矢野千載氏による「高村光太郎と中村不折の書道観―明治・大正の六朝書道を中心として―」など、5本の「論文」。

盛りだくさんとなったため、当方が連載として持たせていただいている「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』に未収録作品の紹介)、「光太郎歿後年譜」はカット。原稿を送ってから、「今回は紙幅の都合で載せません」と返答があり、カチンときたのですが、まぁ、いたしかたないでしょう。

それから、追悼といえば、やはり研究会員であらせられた、群馬県立女子大学教授・杉本優氏。昨年9月に亡くなられたということで、その件にも触れられています。

当方、そうとは知らずに今年の年賀状を差し上げたところ、追って、奥様から亡くなったという報を頂き、驚いた次第でした。まだお若かったはずでしたので。
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杉本氏、平成27年(2015)刊行の『近代文学草稿・原稿研究事典』で、光太郎の項、4ページをご執筆なさったほか、共著の研究書、各種雑誌の光太郎智恵子特集にもいろいろ寄稿なさいました。
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平成9年(1997)刊行の『詩う作家たち 詩と小説のあいだ』(野山嘉正編)。
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平成10年(1998)発行の『国文学 解釈と鑑賞』「特集 高村光太郎の世界」。
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昭和63年(1988)発行の『彷書月刊』「特集 高村智恵子」。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『高村光太郎研究』。ご入用の方は、最上部に奥付画像を載せておきましたので、そちらまで。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」への追加詩二篇清書。「報告」「松庵寺」。


昭和22年(1947)6月5日の日記より 光太郎65歳

ここで言う「智恵子抄」は、戦後の一時期刊行されていた白玉書房版です。

昨日から一泊で、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町に来ております。

東日本大震災から10年ということで、10年前、津波に呑まれて還らぬ人となった女川光太郎の会事務局長であらせられた貝(佐々木)廣さんを偲ぼうと、やって参りました。

町主催の追悼式に参加。
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その前後、港や駅前を散策。
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10 年前、津波で倒壊し、昨年、再建された光太郎文学碑。かたわらにはこちらも津波で横倒しになった旧女川交番。
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女川駅から見た街並みと海。
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この海が、10 年前、牙を剥いたというのが信じられないほど穏やかでした。

光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。
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宿泊は駅裏のトレーラーハウスのホテル、エル・ファロさん。
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これから千葉の自宅兼事務所に帰ります。詳細なレポートは明日。

美術家の篠田桃紅さんが亡くなりました。今日の朝刊で知って、驚いている次第です。

『朝日新聞』さん。

美術家の篠田桃紅さん死去 107歳、エッセーも人気

002 前衛書から出発して独自の表現空間を切り開いた美術家の篠田桃紅(しのだ・とうこう、本名篠田満洲子〈ますこ〉)さんが1日、老衰のため死去した。107歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主はめい篠田爽子(そうこ)さん。
 中国・大連市生まれ。幼いころから家庭で書、水墨画の手ほどきを受けた。文字の枠をはみ出して、書を基礎にしつつ、戦後は墨による抽象表現を模索した。
 1956~58年の米ニューヨーク滞在中、米国など各地で個展を開いて注目を集めた。
 大英博物館などに作品が収蔵されているほか、国立京都国際会館や東京・芝の増上寺にも壁画の大作がある。岐阜県に本籍があったこともあり、同県関市に市立篠田桃紅美術空間がある。
 せまいジャンルに限られたくないと、自ら「美術家」と称した。年齢を重ねても凜(りん)としたたたずまいや、「絶対描きたくないものは描きません」「人として何が完成形なのか、わかりません」といったきっぷのいい語り口が、多くの共感を呼んだ。79年に日本エッセイスト・クラブ賞を受けた随筆「墨いろ」など著作も多く、「一〇三歳になってわかったこと」などが人気を呼んだ。映画監督の篠田正浩さんはいとこ。

『時事通信』さん。

美術家の篠田桃紅さん死去

 水墨を使った独自の抽象作品で国際的に知られる美術家の篠田桃紅(しのだ・とうこう、本名満洲子=ますこ)さんが1日、老衰のため東京都内の病院で死去した。
 107歳だった。葬儀は近親者で済ませた。喪主はめい、爽子(そうこ)さん。
 中国東北部(旧満州)の大連生まれ。幼少から書を始め、第2次世界大戦後、文字を解体した抽象表現「墨象」に取り組んだ。1956年に渡米し、ニューヨークを拠点にシカゴやパリなど欧米で個展も開いた。58年に帰国し、東京・芝の増上寺大本堂の壁画やふすま絵を手掛けるなど精力的に活動を続けた。
 エッセイストとしても活躍。著書に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した「墨いろ」などがある。映画監督の篠田正浩さんはいとこ。

当方、篠田さんの御著書を2冊、拝読しました。どちらも軽く光太郎に触れて下さっています。

平成26年(2014)刊行の『百歳の力』(集英社新書)。
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帯が「一〇三歳」となっていますが、増刷の関係ですね。

曰く、

 若いときには、いまのような仕事をしているとは一切予想はついていなかったし、予定もしなかった。予想も予定もない、いきあたりばったり。出たとこ勝負でずっとやってきました。高村光太郎の詩「道程」と同じです。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 ほんとにそう、いつも高村光太郎の詩を心に思い浮かべて生きてきた。私の前に道はない。誰かが歩いた道を私は歩いているんじゃない。先人のやってきたことをなぞっていない。でもいきるってそういうことです。
 前半は私にあてはまりますよ。でも、後半は私にあてはまるとは思わない。私の後ろに道などないですよ。なくてかまわないと思っているんです。道というほどのものができてなくても、作品というものが残っている。それはある程度残っている。どこかに、ある。
 人が敷いてくれた道をゆっくり歩いていけばいいというような一生は、私の性格には合わないんだからしようがない。私の前に道がないのは自分の性格ゆえの報い。そう思って受け入れてきました。

達観、ですね……。

もう一冊は、『一〇三歳になってわかったこと』(幻冬舎)、平成27年(2015)刊行です。

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こちらでは、

 百歳を過ぎて、どのように歳をとったらいいのか、私にも初めてで、経験がありませんから戸惑います。
 九十代までは、あのかたはこういうことをされていたなどと、参考にすることができる先人がいました。しかし、百歳を過ぎると、前例は少なく、お手本もありません。全部、自分で創造して生きていかなければなりません。
(略)
 これまでも、時折、高村光太郎の詩「道程」を思い浮かべて生きてきましたが、まさしくその心境です。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 私の後ろに道ができるとは微塵も思っていませんが、老境に入って、道なき道を手探りで進んでいるという感じです。
 これまでも勝手気ままに自分一人の考えでやってきましたので、その道を延長しています。日々、やれることをやっているという具合です。

 日々、違う。
 生きていることに、
 同じことの繰り返しはない。

  老いてなお、
  道なき道を手探りで進む。

とのこと。

もしかすると、他の御著書にも同様の記述があるのかも知れません。

光太郎が「道程」を書いたのは、大正3年(1914)。篠田さんのお生まれはその前年の大正2年(1913)。そう考えると、すごいものがありますね。ちなみに同じ大正2年(1913)生まれというと、森繁久弥さん、丹下健三氏、金田一春彦氏、家永三郎氏など。驚いたことに、『ごんぎつね』の新美南吉や、『夫婦善哉』を書いた織田作之助もそうでした。この二人は早世していたので、意外でした。

上記両著の中にも、当方にとっては様々な歴史上の人物とも言える人々との交流の様子などが記されています。会津八一、中原綾子、三好達治、北村ミナ(北村透谷未亡人)、イサム・ノグチ、ロバート・キャパ、それから、たまたま見かけただけだそうですが、芥川龍之介……。くらくらします。光太郎智恵子とは交流がなかったようですが。

その107年のご生涯で、抽象表現による新しい美を産み出し続け、現役でありつづけられたその道程には、まさに感服です。ちなみに来月には横浜そごう美術館さんで、「篠田桃紅展 とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」が開催予定とのこと。急遽、追悼展的な形になるのではないかと思われます。

追記・篠田さん、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん他ご出演)の題字を揮毫なさっていました。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

粉雪 終日来訪者なし。 昭和22年(1947)1月4日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活。厳冬期には、さすがに来訪者も少なく、光太郎自身もステイホーム。おのずと、自分自身と向き合う時間が長くなり、詩の創作に影響していきます。

彫刻家の橋本堅太郎氏が亡くなりました

彫刻家・橋本堅太郎さん死去 文化功労者、木彫界を代表

 日本の木彫界を代表する彫刻家で文化功労者の橋本堅太郎(はしもと・けんたろう)さんが1月31日午前10時44分、誤嚥性肺炎のため東京都目黒区の病院で死去した。90歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。喪主は妻芳子(よしこ)さん。
 東京芸大で平櫛田中に師事。東京学芸大教授として教壇に立ちながら優れた作品を発表し、芸術文化の振興発展に寄与した。日展理事長などを歴任し、2011年に文化功労者に選ばれた。日本芸術院会員。
 主な作品に日本芸術院賞を受賞した「竹園生」がある。
(共同通信)

橋本堅太郎さん死去

 橋本堅太郎さん(はしもと・けんたろう=彫刻家、文化功労者)1月31日、誤嚥(ごえん)性肺炎で死去、90歳。葬儀は近親者で営む。喪主は妻芳子さん。
 東京芸術大では平櫛田中(でんちゅう)に学んだ。長く日展で、木彫の温和な人物像などを発表した。日展理事長や東京学芸大教授を務めた。日本芸術院会員。
(朝日新聞)

橋本氏というと、当方、その代表作ではありませんが、真っ先にこれを想起します。
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JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」(平成21年=2009)。氏のお父さまが二本松出身の彫刻家・橋本高昇ということで、氏ご自身は東京ご出身ですが、ゆかりの地のため、氏に依頼がありました。

こちらも橋本氏の作。二本松霞ヶ城の二本松少年隊像です。銅像研究家の遠藤寛之氏が選んだ「キングオブ銅像」では、光太郎の父・光雲が主任となって制作された皇居前広場の「楠木正成像」についで、第2位に輝きました。
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福島ゆかりということで、福島の地方紙二紙は、ご逝去を大きく報じています。

020橋本堅太郎さん死去 彫刻家、元日展理事長 90歳 二本松ゆかり

 二本松市ゆかりの彫刻家で文化功労者、元日展理事長の橋本堅太郎(はしもと・けんたろう)さんは三十一日午前十時四十四分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都の病院で死去した。九十歳。自宅は東京都杉並区今川一ノ一ノ三。葬儀は近親者による家族葬で営む。喪主は妻芳子(よしこ)さん。木彫部門の国内第一人者で、長年にわたり日本最大規模の美術団体・日展を舞台に活躍した。伝統的な木彫による女性像など清らかで生命力にあふれた作品を数多く手掛けた。
(福島民報)

彫刻家・橋本堅太郎氏死去 木彫・文化功労者、二本松市名誉市民

 木彫の第一人者とされる文化功労者で、二本松市名誉市民の彫刻家橋本堅太郎(はしもと・けんたろう)氏は31日、東京都の病院で死去した。90歳。東京都出身。日本芸術院会員、日展顧問。葬儀・告別式は家族と近親者で執り行われる。
 二本松市出身の彫刻家橋本高昇の長男として都内で生まれ、幼少期に同市で多くの時間を過ごした。東京芸術大彫刻科で平櫛田中に師事、卒業翌年の1954(昭和29)年に日展初入選。56年から連続入選し、66年に「弧」で特選を受賞、92年に「清冽」で文部大臣賞を受けた。95年の出品作「竹園生(たけのそのう)」が96年に日本芸術院賞に輝いた。
 木のぬくもりを新しい感覚で表現し、豊かな叙情性をたたえた作品を生み出し続け、木彫では「弧」「竹園生」など裸婦像、「釈迦如来」や「不動明王」などの仏像を手掛けた。「宮沢賢治像」などブロンズ作品も制作した。石こうまで完成し、ブロンズ像にする作業中の「智恵子像」が遺作となった。制作を依頼した二本松市は状況を見て、JR安達駅に設置する。
 日展では理事、常務理事、事務局長を歴任し、2000年に理事長に就任。9年間にわたる在任中、日展会館の建設など、広く親しまれる美術団体としての運営に尽力、組織発展に貢献した。また82~94年に東京学芸大教授を務め、後進の育成に力を注いだ。2009年に旭日中綬章を受章。11年に文化功労者に選ばれた。

愛された作品と人柄 創作鋭く、人には温かく022
 文化勲章受章も期待されていた木彫の第一人者。一方では、二本松市など県内で作品と人柄が広く愛された、ゆかりの作家。31日、90歳で亡くなった彫刻家橋本堅太郎さんを語る人々の話からは、鋭く熱い作家性と、温かな大衆性を兼ね備えた芸術家の姿が浮かび上がる。
 「彫刻の新しい近代性を確立した希有(けう)な人」。日展作家の遠藤徳(のぼる)さん(84)=本宮市=は故人の偉大さを語り「控えめな人なのに、創作にはすごい執念で取り組んでいた」と言う。
 現代彫刻家の吉野ヨシ子さん(70)=田村市出身、千葉県在住=は、橋本さんと一緒に作品を審査したことがあり「具象、抽象ともに鋭い目で本質を見抜き、作家に適切な助言をしていた」と振り返る。
 本県への功績を誇る声も多い。県美術家連盟の酒井昌之会長と斎藤正勝前会長は「県在京美術家協会の会長などとして、県総合美術展覧会(県展)に(出展や助言などで)長く気遣っていただいた」と口をそろえる。
 霞ケ城に二本松少年隊士像、二本松駅前に智恵子像など作品が多い「地元」二本松市では、橋本堅太郎後援会の鈴木安一副会長が「二本松の芸術力、ブランド力の向上にも尽力してもらった」と話す。
 鈴木副会長は、橋本さんが日展理事長時代、「岳温泉十二支めぐり」を制作する際に、同市出身の日本画家大山忠作氏(故人)が描いた原画を基に、版木にする彫刻を橋本さんに依頼した。「ロダンにゴーギャンの絵を版画にしてと頼むようなもので、失礼極まりないお願いだった。それを引き受けてくれた」と、橋本さんの懐の大きさをしのんだ。
(福島民友)

新たに智恵子像を制作されていたとは存じませんでした。それが遺作となったというのも、奇縁を感じます。

平成28年(2016)、福島の出版社・歴史春秋社さんから刊行されたムック『奥州二本松』。こちらでも二本松ゆかりということで、智恵子と並んで氏が大きく取り上げられていました。
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氏の代表作「竹園生」、「清冽」も。
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また、氏は平櫛田中に師事したということで、光太郎の父・光雲の孫弟子にあたります。そこで、田中が大きく紹介される際には、氏の出番。

平成31年(2019)刊行の雑誌『美術の窓』。「平櫛田中、荻原守衛から現代まで 凄いぞ!にっぽんの彫刻」という特集の中で、小平市平櫛田中彫刻美術館長・平櫛弘子氏、同館学芸員で当方もお世話になっている藤井明氏、そして橋本氏による鼎談「ここが凄い‼ 平櫛田中」が掲載されました。
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テレビでも、「美の巨人たち」や「日曜美術館」にご出演。彫刻の空間認識に関する深い造詣と、的確なコメントには実に感心させられました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

分教場の桜花満開。誰の家か知らず一軒の家の山桜らしき淡紅の桜樹こんもりまろく、花をつけ見事なり。

昭和21年(1946)5月2日の日記より 光太郎64歳

関東あたりとは、一ヶ月くらいずれているんですね。

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