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先月、盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんに以下の記事が載りました。花巻高村光太郎記念会さんから画像を戴きました。

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写真で見る花巻での生活 賢治との関わりにも 花巻高村光太郎記念会 新しい図録集を刊行

 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)は、花巻市で晩年を過ごした詩人・彫刻家高村光太郎の暮らしや生涯で残した彫刻、詩、書などを掲載した図録写真集「高村光太郎 Kotarou Takamura 1883-1956」を刊行した。
 これまでの図録を一新。本図録では光太郎と花巻出身の宮沢賢治との出会いや宮沢家との交流にスポットを当て、光太郎の愛用品からその人柄をしのばせるなど、光太郎入門としてもわかりやすく、手に取りやすい内容になっている。
 直接の出会いは一度きりだった賢治の作品を高く評価し、賢治亡き後、その全集刊行に携わった光太郎。1945年4月の東京大空襲でアトリエが全焼し、花巻にやってきた光太郎を温かく迎え入れた宮沢家とのエピソード、その後の太田村(現、花巻市)の山荘でのつつましい暮らしぶりなど写真をふんだんに使って紹介。
 「光太郎の食卓」のページでは、自給自足の生活に入っても東京育ちで留学経験のある光太郎らしく、牛の尻尾で作る「テールスープ」やそば粉の焼きパンなど、しゃれた料理を好んだエピソードも紹介。三度の食事作りに使ったナイフ、ほぼ毎日食べていたバターを保存する館などの愛用品も写真で紹介している。
 3.11絵本プロジェクトいわて代表の末盛千枝子さん(八幡平市在住)、方言指導・朗読教室主宰者の谷口秀子さん(花巻市出身、花巻イーハトーヴ大使・希望王国いわて文化大使)が「高村光太郎との思い出」として寄稿している。
 同図録の編集に関わった高村光太郎記念館の井形幸江さんは「花巻ゆかりの光太郎と賢治は同時代を生きた人で、光太郎は賢治を見いだして世に出した人でもある。図録を通して2人の関わりに改めて関心を寄せ、親しみを持ってもらえればうれしい」と話す。
 高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんが監修した。25×25㌢の変形版、55㌻オールカラー。税込み2000円。
 花巻市太田3の85の1の同記念館(電話0198-28-3012)で販売している他、希望者には郵送も受け付けている(送料は別途)。12月28日から1月3日は休館。


昨年7月の刊行なので、半年遅れですが、大きく取り上げて下さり、ありがたく存じます。当方の名も出していただきました。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

余を目して孤独を守る者となす事なかれ 余に転化は来るべし 恐ろしき改造は来るべし 何時(いつ)なるを知らず ただ明らかに余は清められむ

詩「廃頽者より――バアナアド・リイチ君に呈す――」より
 明治44年(1911) 光太郎29歳

「パンの会」で酒に酔って大騒ぎをしたり、無計画に北海道に渡ったりといった馬鹿をやるのにはもう飽きた、というところでしょうか。「パンの会」には参加せず、異国にやってきて奮闘している親友、バーナード・リーチにあてて、決意表明をしています。

光太郎が昭和20年(1945)から、足かけ8年を過ごした岩手花巻から、企画展情報です。 

光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~

期  日 : 2016年12月3日(土)~2017年2月19日(日)
場  所 : 花巻市立萬鉄五郎記念美術館 岩手県花巻市東和町土沢5区135
時  間 : 8時30分~17時(入館は16時30分まで)
休  館 : 月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
料  金 : 一般400(350)円/高校・学生250(200)円/小中学生150(100)円
       ( )内20名以上団体料金

1914(大正3)年盛岡市に生まれた写真家・内村皓一(1914-1993)は、1940(昭和15)年関東軍に徴用され中国・奉天にわたります。翌16年から2年余りにわたって撮りためたのは、奉天市内の市民や風景。戦争により厳しい生活を送りながらも生き抜く、生々しい市井の人々の姿をとらえた人物像や、戦争のなかでも変わらず美しくあり続ける奉天の風景などでした。終戦後そのなかから30数枚のフィルムを荷物に忍ばせ帰国。残り3,000本は自らの手で焼却しました。
帰国後は花巻市で家業の印刷業を営むかたわら、1947(昭和22)年アムステルダム国際サロン「盗女」「ボロ」「流浪者」「不具者」入賞を皮切りに数多くの国際サロン展に出品。その入選作は2,000点を超え、1950(昭和25)年には、英国ロイヤルアカデミーサロンで「瞑想」グランプリ受賞するなど多くの受賞歴を持ちます。また、戦後花巻に疎開していた高村光太郎と親交を持ち「光の詩人」と称されました。また写真クラブ「皓友会」を結成し後進の指導に努めるかたわら、各国の写真団体と交流展を開催するなど交友をすすめました。1973(昭和48)年には岩手日報文化賞を受賞。昭和59年英国王室写真協会正会員。1993(平成5)年80歳で亡くなるまで後進の指導に尽力しました。
本展では、内村の奉天時代の作品50点に、戦後サロンを中心に発表した女性像や「貌」シリーズをあわせ、初の大規模な回顧展として内村写真の全貌を辿り、これまであまり紹介されることのなかった郷土の美術家を検証します。

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上記紹介にある通り、光太郎と交流のあった写真家・内村皓一の名は、光太郎の日記に散見されます。また、昨年、娘婿に当たる内村義夫氏から、御岳父にあてた光太郎書簡のコピーを拝見させていただきました。また、非常に珍しい光太郎作詞「初夢まりつきうた」のレコードも拝見。さらに、花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)で、光太郎が使っていた皿と同じ物を戴いてしまいました。そのあたりはこちら

さて、その内村皓一の写真展が開催中です。光005太郎を撮った写真も展示されています。開催されることは知っていましたが、光太郎ポートレート出品については存じませんで、紹介していませんでした。

昭和23年(1948)頃、太田村時代の光太郎を撮ったもので、「高村光太郎先生『帰路』」。この頃の光太郎にしては珍しく、きちんとシャツにズボン姿です。大概は国民服や、智恵子の織った布で作ったちゃんちゃんこなどですが、どうも何かオフィシャルな場からの帰り道のようです。

その他にも、日中戦争当時の外地の様子、戦後サロンを中心に発表したものなど、貴重な写真が多数出品されています。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

めづらしき写真機ひたとわれに向くわが身光りてまぬかれがたし
大正15年(1926) 光太郎44歳

光太郎、写真嫌いで有名でした。ただし、晩年になると、そうでもなくなったようです。とはいっても、好きになったというわけでもないのでしょうが。

内村皓一のように、ちゃんと交流のあった相手ではなく、いきなり来ていきなり撮るジャーナリズム系や、パパラッチ的に無遠慮に撮ることを信条としていたカメラマンには、最期まで嫌悪を隠しませんでした。

のち、令甥の規氏が写真家の道を志したと知ったとき、具体名を挙げて、「××のような写真家にはなるな」と釘を刺したそうです。

注文して置いた書籍が届きました。 
2016年7月20日 北野麦酒著 彩流社 定価1,800円+税

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北海道・札幌にある親会社(ビスケットの坂栄養食品)との軋轢から存続の危機に直面している「レトロスペース・坂会館」。

本社と苦闘する坂館長と対峙した渾身のドキュメントを緊急出版します!

札幌市内の私設博物館「レトロスペース・坂会館」。 坂一敬館長は自己の好みを基準として昭和のモノをこれでもかと蒐集し、特異でかつレトロな空間を具現化。いままさに当館が直面する存亡の危機に「命を賭してココを守る!」と意気軒昂だ。

前作の『蒐める!』(彩流社刊)以上のエネルギーで坂館長がこれまでの人生を語り尽くした秘話満載。

「智恵子抄」の高村智恵子のヌード写真、レトロスペースから無くなったマネキンたち、これまで出会った有名・無名の人たち、そして館長をめぐる女性たち、 夢にまで見た幻の1冊。なぜ坂館長はこれほどのモノを蒐めたのか。 運営存続への支援の輪がいま、全国で展開中である!


「レトロスペース・坂会館」さんは、札幌にある、膨大な数のレトログッズを展示している私設博物館のような施設だそうです。花巻南温泉峡にある「昭和の学校」さんと似た雰囲気のようですが、そこに「秘宝館」的なアヤシい要素がかなり加わっているようで、あちこちのサイトなどで「珍スポット」的な紹介もされています。

書籍の方は、全8章から成り、そのうちの第2章が「坂館長が見た「智恵子抄」の智恵子の幻のヌード写真」、第7章が「ヌード写真の智恵子」となっています。ただし、それぞれ智恵子に触れている部分は少しずつで、大半は別件の記述です。

「智恵子のヌード写真」……いったいどういうことかというと、光太郎との結婚前に智恵子が通っていた太平洋画会美術研究所に関わっています。

坂会館さんの館長・坂一敬氏が、その作品に惚れ込み、親交を結んでいた画家の故・宮田清氏という方がいらっしゃいました。あまり有名な画家ではなかったようで、ネット上に載っている情報も多くはありませんが、裸婦画を得意としていたようです。明治22年(1889)、札幌の生まれ。明治末、太平洋画会美術研究所で、智恵子と共に学んだとのこと。明治19年(1886)生まれの智恵子の3歳年下になります。昭和61年(1986)ころ亡くなったとのことです。

その宮田氏が、晩年に坂氏に、「薪ストーブで焼いてくれ」と、段ボール二箱半のヌード写真を渡したそうです(宮田家には薪ストーブがなかったとのこと)。おそらく今で云う「終活」の一環だったのでしょう。裸婦画を描くために撮ったヌード写真、生きているうちに処分してしまいたかったというわけです。宮田氏はフィルムの現像や印画紙への焼き付けも自分で行う技術、機材を持っていたそうです。

その中に、「下宿の畳の上で撮ったもののよう」な智恵子のヌード写真が数枚あったというのです。坂氏、それ以前に智恵子と宮田氏のつながりを聞いていたし、通常の智恵子の写真も見たことがあったようで、すぐに智恵子だと分かったとのこと。

智恵子と宮田氏のつながり、というのはこうです。明治末、宮田氏と、それから仲の良かったやはり太平洋画会美術研究所に学んでいた彫刻家の中原悌二郎の二人が、揃って性病に感染、その治療費を捻出するために春画を描いて売りさばくことを考え、そのモデルを智恵子に依頼したというのです。有り得ない話ではありません。

ところが、写真は現存しません。坂氏、それら数枚に写っているのが智恵子とわかり、それらだけ抜いておこうかとも考えたそうですが、坂氏を信頼して処分を委託した宮田氏の心情を慮り、そのまま火にくべたそうです。

もしそれが残っていて、間違いなく智恵子のヌード写真であれば、とんでもない資料です。しかし、他の写真も含めて、脱いでくれた女性たちと宮田氏の間の信義、処分を託された坂氏と宮田氏の間の信義、そういったことを考えると、残っていてはいけない写真でしょう。

そういうわけで、真偽の程は明らかではありませんが、永遠の謎やロマン的なエピソードとして扱いたいと思います。

ちなみに「レトロスペース・坂会館」さん、現在、存続の危機に立たされているそうで、それを救うため、坂氏と親交のある北野氏が本書を執筆したとのこと。北野氏には同趣旨の『蒐める! レトロスペース・坂会館』というご著書もあり、今回のものと同じ彩流社さんから上梓されています。

場所は札幌市西区の手稲通り沿いだそうです。ご興味のある方は是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

わかき日のこの煩悩のかたまりを今はしづかにわが読むものか
昭和22年(1947) 光太郎65歳

作歌の背景は、この年札幌青磁社から刊行された『道程』復元版にかかわります。晩年を迎え、若き日の詩群を読み返しての感想です。

当方、今日は神田の東京古書会館さんで、「七夕古書大入札会2016」の一般下見展観を拝見して参ります。光太郎若き日の書簡なども手に取って見ることが出来ます。光太郎自身が見れば、やはりこの歌と同じような感想を抱くのではないでしょうか。

また、のちの智恵子が若き日の自分のヌード写真を見たとしたら……などと想像が膨らみます。

東京でもソメイヨシノの開花宣言がなされそうです。

当方自宅兼事務所の庭では、ソメイヨシノではありませんが、早咲きの何とか桜が既に満開です。震災の年に苗を買ってきて植えました。

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さて、智恵子の故郷・福島二本松の桜がらみの展覧会を二つご紹介します。 

第4回 福島の桜フォトコンテスト写真展 東京展

期 日 : 平成28年3月26日(土)~4月3日(日)
時 間 : 午前11時~午後9時
会 場 : 丸ビル 3階回廊(東京都千代田区丸の内)東京駅丸の内南口より徒歩1分
主 催 : NHK福島放送局 福島民報社 福島民友新聞社 福島県写真連盟
共 催 : 福島県
内 容 :6c2092aa

 【展示作品】入賞作品10点 入選作品40点
 【テーマ】「春を彩る福島の桜」
 【審査委員長】写真家 大石芳野
入場方法: 入場自由
問 合 せ:
 ●写真展について
 NHK福島放送局  電話 024-526-4660(平日 午前9時30分~午後6時)
 ●会場案内について
 丸の内コールセンター 電話 03-5218-5100(午前11:00~午後9:00)※日曜・祝日は午後8:00まで

福島には数多くの桜が咲き誇ります。東日本大震災と原発事故から4年、今年も福島を美しく彩る桜は、人々を和ませ、勇気づけてくれました。
4回目となるNHK「福島の桜フォトコンテスト」には県内外の557名の方から1346点の作品をご応募いただきました。これら作品を通じて、復興のシンボル「福島の桜」が美しくも力強く咲く様子をお楽しみいただければ幸いです。

たまたまテレビでNHKさんを見ている時に案内が流れ、知りました。第4回ということで、3年前から実施されていたようです。上記に「東日本大震災と原発事故から4年」とあるのは、募集の時点での話ですね。

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昨春募集があった応募作品のうち、入選作品50点が展示されます。どれも素晴らしい写真ばかりでした。

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調べてみましたところ、二本松の智恵子生家裏の鞍石山にある、光太郎詩「樹下の二人」碑で撮られた作品も含まれていました。

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こうした展覧会が東京で開催されるというのはいいことですね。

第5回の募集も始まっています。来春にはやはり東京展があるのでしょう。

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また、「東京展」とわざわざ銘打っているということは、他にも巡回があるのでは、と思い、調べてみましたところ、福島県内各地と大阪で既に行われていました。気付きませんでした。第5回に関しては早めの情報収集を心がけます。


もう1件ご紹介します。 

二本松さくら展

期 日 : 平成28年4月9日(土)~5月8日(日) ※期間中無休
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
会 場 : 
二本松市大山忠作美術館  福島県二本松市本町二丁目3番地1
料 金 : 一般410(300)円、高校生以下200(150)円
                       ※( )内は20名以上の団体料金
主 催 : 二本松教育委員会
企画・協力 : 「二本松さくら展」実行委員会

門外不出の東山魁夷「花明り」をはじめ、日本画の巨匠達が描いた約30点の桜が館内に咲き誇ります。ぜひ二本松城(お城山)など市内を埋めつくす満開の桜と併せて、ご覧下さい。

出品作家一覧
 伊藤深水 上村松園 奥村土牛 奥田元宋 岡信孝 大山忠作 川合玉堂 川端龍子 後藤純男
 佐藤太清
 高山辰雄 田渕俊夫 中島千波 浜田泰介 東山魁夷 平松礼二 平山郁夫 稗田一穂 
    前本利彦 牧進
 森田曠平 森田りえ子 山本丘人 室井東志生 横山大観

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二本松出身の日本画家の故・大山忠作画伯を顕彰する美術館での企画展です。大山画伯には同郷の智恵子を描いた作品も複数有ります。チラシに使われている「花霞」は、背景に安達太良山。また、「花霞」というのは、智恵子の実家・長沼酒造で作っていた清酒の商標名でもあります。

そんなご縁で、画伯のご長女で女優の一色采子さんからご案内を戴きました。一色さん、今年の連翹忌にもご参加下さるそうです。

こちらもぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

「ガルソン」が何やら言ひぬ春の宵    明治42年(1909) 光太郎27歳

「ガルソン」は「Garçon(ギャルソン)」。「ウェイター」と訳すと、ちょっと興が削がれます(笑)。

まずは昨日の『岩手日報』さんの一面コラム。  

風土計 2016.3.4

詩人の高村光太郎は終生、妻の智恵子を愛した。無二の女性との出会いから、光太郎は退廃的な生活と決別。美に生きる人生へ踏み出す
▼智恵子は心の病を患い、光太郎の手が届かない世界に向かう。その時、真の美が立ち現れる。「あなたはだんだんきれいになる」「人間商売さらりとやめて、もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子のうしろ姿がぽつんと見える」
▼「智恵子抄」につづられた光太郎のまなざしは、どこまでも愛をたたえる。この詩集が不朽の名作たるゆえんは、文学的高みに加え、病気や障害がある人に寄り添うとはどういうことか、心の琴線に触れるからでもあろう
▼超高齢社会の今、愛のまなざしは、監視の目線に取って代わられようとしている。認知症患者の徘(はい)徊(かい)事故で、家族が賠償を求められるケースが相次いでいるからだ。2人が現代に生きていたら、光太郎は智恵子の後ろ姿を慌てて追いかけ、家に閉じ込めたかもしれない
▼愛知県で起きた徘徊事故をめぐり、最高裁は家族の監督義務について、防ぎ切れない事故の賠償責任までは負わないとする初判断を示した。在宅介護に苦悩する家族に朗報となった
▼とはいえ、免責される基準は明確ではなく、家族の負担はなお重い。社会で見守る仕組みがない限り、介護の哀歌は生み出され続ける。


岩手は光太郎の第二の故郷ともいえます。そこで『岩手日報』さんや『岩手日日』さんの一面コラムには、かなりの頻度で光太郎智恵子が登場します。

しかし今回の内容は、その件にからめますか、という感じでした。

たしかに実際、智恵子の心の病が昂進した時期には、どうしても出かけなければいけない用事があると、光太郎はアトリエの戸に釘を打って出かけたとのこと。それでも智恵子は戸をこじ開けて往来に出、大騒ぎをしていたそうです。

明日は我が身、かもしれません。


岩手つながりでもう1件。

過日、『岩手日日』さんの記事から、戦後の太田村時代に撮られた光太郎が写った写真の発見をご紹介しました。

その後、『読売新聞』さんと『朝日新聞』さんの岩手版にも記事が載りましたので、ご紹介します。 

高村光太郎 花巻での姿…民家に写真、市へ寄贈

 詩集「智恵子抄」などで知られ、晩年を旧太田村(現花巻市)で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)が写ったスナップ写真が、花巻市内の民家で見つかった。手のひらサイズの白黒写真で、最前列中央に腰掛けた高村は眼鏡に国民服姿。帽子を左手につかみ、柔らかな表情を浮かべている。
 写真が見つかったのは、花巻市太田の主婦、安藤幸子さん(78)宅。地域の役員など十数人と撮影した集合写真とみられ、右端には民生委員を務めた安藤さんの母・アンさんの姿もある。
 東京のアトリエを空襲で失った高村は1945年から7年間、太田村の山あいにある粗末な小屋「高村山荘」で独居自炊生活を送り、地域住民と交流を続けた。没後60年の今年、太田地区の住民らが高村に関する勉強会を開く中で、安藤さん宅に保管された写真の存在に気付き、花巻市に寄贈した。
 花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さんは「個人所蔵のスナップ写真が見つかるのは珍しい。写真はほかにも存在すると思うが、ここ数年は見つかっていなかった。地域住民との交流を裏付ける貴重な写真」と話している。
 市は写真を修復し、撮影時期を特定したうえで、高村光太郎記念館(花巻市太田)で展示することにしている。
2016年02月28日
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岩手)光太郎先生と貴重なショット 花巻の女性が寄贈

 花巻市太田002の安藤幸子さん(78)が、詩人で彫刻家の高村光太郎が写った写真資料を同市に寄贈した。高村光太郎は1945年から7年間、当時の旧太田村で暮らしており、後半期の撮影とみられる。花巻高村光太郎記念会は「光太郎先生と住民との交流が分かる貴重な資料」と説明する。
 当時の医院の前で撮影したとみられ、向かって光太郎の右隣に医師家族、左隣に太田村長を務めた高橋雅郎氏が写っている。市は今後、撮影日時などを調べ、高村光太郎記念館での展示を予定している。
 安藤さんは子どもの頃、光太郎が住んでいた山荘を訪ねたことがあり、部屋中が本でいっぱいだったと記憶している。「大きな人で迫力があった」と話す。(石井力)
2016年3月4日

この記事を執筆なさった石井氏は同紙北上支局長さんです。昨年、「戦争協力、自ら罰した光太郎」というコラムで、当方もご紹介下さいました。


しつこいようですが、光太郎の第二の故郷ともいえる岩手。本来の故郷の東京は有名人の出身者が多く、光太郎レベルでも出身者としては埋没しています。そういう意味で、第二の故郷・岩手での顕彰がもっともっと進む事を期待します。


【折々の歌と句・光太郎】

くれなゐの蕾うれしき春の朝あなこは小雨さく花の白き
明治34年(1901) 光太郎19歳

いよいよ春本番となって参りました。

「あな」は感動詞。「ああ」といったところ。「こ」は「これ」。紅の蕾で咲いたら白いのは、梅でしょうか。

昨日の『岩手日日新聞』さんに、以下の記事が出ました。 

光太郎の新たな資料 住民との集合写真 安藤さん(太田)、市に寄贈

 花巻市に疎開した彫刻家で詩人の003高村光太郎(1883~1956年)の新たな資料が26日、市に寄贈された。住民との交流を示す集合写真で、関係者は貴重な資料の発見を喜ぶとともに、光太郎に関する資料について新たな情報提供に期待を寄せている。
 寄贈したのは、同市太田の安藤幸子さん(78)。2015年10月に開かれた光太郎に関する太田地区振興会の勉強会をきっかけに、安藤さんが自宅で光太郎の写真を見たことを思い出し、母親アンさん(故人)のアルバムから見つけた。高村光太郎記念館の市川清志館長に拡大した写真を自宅で手渡した。
 当時の太田医院と思われる建物を背景に撮影された写真で、中央に光太郎が写っているほか、同医院の関係者や旧太田村役場職員らと共に、アンさんの姿も納められている。
 光太郎は1945年5月から52年10月まで市内太田地区に疎開していた。花巻高村光太郎記念会事務局企画担当の高橋卓也さん(39)は「手にしたブッシュハットを見ると、撮影されたのは疎開後半の頃では。報道関係など公の写真は多いが、当時は写真機を持っている人が少ないため貴重なスナップ写真。地域の人々との交流を裏付ける資料。光太郎は各地で講演を行っているので、写真が残っているのでは。これをきっかけに、新たな情報提供を期待したい」と話している。
 安藤さんは「中学生の頃に友達と光太郎先生の山荘にお邪魔した記憶がある。玄関先からたくさんの本が積まれていた。そんなに偉い先生とは思っていなかった」と当時に思いを寄せている。
 市川館長は「埋もれている資料が見つかって良かった。光太郎についての地元の顕彰活動を一緒に盛り上げたい」と話している。同館では写真資料を保管し、撮影年代や住民を特定したい考え。


ときおりこういうケースがあって、ありがたいかぎりです。特に光太郎の岩手時代(昭和20年=1945~27年=1952)の写真、書、書簡類はまだまだあちこちに埋もれているはずです。光太郎が居た花巻周辺や、たびたび訪れた盛岡方面など。また、講演などで東北各地に足跡が残っていますので、そういう所でも。

実は当方が昨年暮れに訪れた秋田の横手にも書が複数残っているらしく、時間を見つけて調査に行こうと思っております。光太郎は昭和25年(1950)の3月10日から12日にかけ、講演のため横手を訪れています。

「うちにも光太郎先生の写真やら書やらがある」という方は、花巻の高村光太郎記念館、または当方までご一報いただければ幸いです。
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【折々の歌と句・光太郎】

山の鳥うその来てなく武蔵野のあかるき春となりにけらしな
制作年不詳

大正14年(1925)制作の木彫「うそ鳥」に関わると考えられますが、細かな制作年は不詳です。

「なりにけらしな」は「なったに違いない」。明治生まれなので、ある意味当然かも知れませんが、こうした古語に対する光太郎の知識や、自然にそれを使えるところには舌を巻かされます。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

智恵子の故郷、福島県二本松の観光協会さんのサイトから。 

2015「二本松の四季」観光フォトコンテスト作品展開催中!

【場所】市民交流センター3階市民ギャラリー前通路 福島県二本松市本町二丁目3番地1
【期間】平成28年1月14日(木)~2月3日(水)9時30分~17時00分
市民交流センター3階市民ギャラリー前通路にて 、2015「二本松の四季」観光フォトコンテスト「夏」「秋」「菊人形」部門に応募いただきました全作品を展示しています。是非お立ち寄りください!
※月曜日は大山忠作美術館は休館ですが、市民ギャラリー前通路、展望ラウンジスペースは出入り可能となっており、月曜日も観覧できます。 また、現在「冬」部門の作品を募集中です。沢山のご応募、お待ちしております。

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コンテストは、「二本松市内の様々なスポット、名所、四季の風物等の観光資源を、写真を通じて紹介でき、ポスターやパンフレット等で使用できる作品を募集」というコンセプトで行っているものです。

智恵子ゆかりの地を撮影した作品も多く、今回、「秋」部門の最優秀作が、紅葉の安達太良山頂付近で撮影された「ほんとの空の下」という作品。また、「菊人形」部門では、「菊花にかこまれた智恵子さん」という作品が優秀賞に選ばれています。

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その他の入選作もすばらしいものばかり。で、現在、二本松駅前の市民交流センターで、展示が行われているそうです。

せっかくの素晴らしい作品群ですので、市内で展示するだけでなく、市外、県外、特に首都圏などに持って行っての展示などもなされるといいと思うのですが……。


【折々の歌と句・光太郎】

いたづらに富士を負ひ立つ国かこれ島か小島か人なき土か
明治35年(1902) 光太郎20歳

手厳しいですね。今月から通常国会(常会)が始まりましたが、早速話題になっているのは政治とカネの問題。現今のこの国を見たら、光太郎はどういう歌を残すのでしょうか……。

神奈川県平塚市美術館さんで開催中の企画展です。 

生誕100年記念 写真家 濱谷浩展

期 日 : 2015 年7 月18 日(土) ~ 9月6 日(日)
会 場 : 平塚市美術館
  : 9:30 ~ 18:00( 入場は17:30 まで)

       ※9 /1(火)以降9:30 ~ 17:00( 入場は16:30 まで)
休館日 : 月曜日( ただし7 /20 は開館、7/21は休館)
 
 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円
        ※( ) 内は20 名以上の団体料金
        ※中学生以下、毎週土曜日の高校生は無料
        ※各種障がい者手帳をお持ちの方と付添1 名は無料
        ※65 歳以上で、平塚市民の方は無料、市外在住の方は団体料金
  : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
特別協力
 : 濱谷浩写真資料館

 このたび平塚市美術館では世界的に著名な写真家濱谷浩の生誕100 年を記念した展覧会を開催します。
 濱谷浩(はまやひろし:1915-1999)は東京下谷で生まれ、後年は大磯に居を構えた日本を代表する写真家です。15 歳のときに父の友人からカメラを贈られたことをきっかけに写真に情熱を傾けるようになった濱谷は、高校卒業後に銀座のオリエンタル写真工業に勤め、本格的に写真の技術や知識を身に付けると、まもなくフリーランスのカメラマンとして活動を始めました。1939(昭和14)年に雑誌の取材で新潟県の高田市を訪れ、雪国の厳しい風土とそれに立ち向かう人々の営為に感銘を受け、以降、日本の風土と人間の関係を突き詰めた写真を撮影するようになります。
 その後、高度成長期を迎えた日本においてテレビが普及し、報道の機動性、速報性、同時性などの面でその影響力が増していく中で写真表現の可能性を模索した濱谷は、エヴェレストをはじめ世界に残された自然の撮影を開始します。
 人間の生を深く洞察し、大自然の極限の様相に迫るカメラワークは国内外で高く評価され、1987(昭和62)年写真界のノーベル賞と称される「ハッセルブラッド国際写真賞」を受賞しました。
 本展では、大きく変動する昭和という時代に生き、カメラを通して「人間が生きるとは何か」ということを真摯に問いかけた濱谷の軌跡をご紹介します。

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濱谷浩(はまや ひろし)は大正4年(1915)生まれの写真家。日本の風土に生きる人々を撮り続け、特に「裏日本」を題材にした写真が有名です。また、肖像写真も多く手がけ、昭和58年(1983)には、光太郎を含む学者、芸術家100名ほどのポートレートをまとめた『學藝諸家』という写真集を出版しています。

昭和25年(1950)1月1日発行の『アサヒカメラ』第35巻第1号に、濱谷による光太郎が暮らす山小屋訪問記「孤独に生きる 高村光太郎氏を岩手県太田村に訪ねて」が掲載されました。ちなみに表紙は木村伊兵衛撮影のヴァイオリニスト・諏訪根自子です。

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グラビアとして写真が8葉、長文の訪問記も、光太郎書簡や贈られた短歌などを引きつつ、興味深い内容です。写真はどれも、厳しい山居生活の側面を写し取り、すばらしいものです。上記の手の肖像は、肥後守の小刀で、鰹節を削る光太郎の手です。想像ですが、何か彫っているところを撮りたい、という濱谷のリクエストに、戦時の反省から彫刻封印の厳罰を自らに科していた光太郎が、彫刻刀で木を彫るところではなく、小刀で鰹節を削る様子を撮らせたのではないかと思います。

さて、ここに収められた写真が、平塚市美術館さんの「生誕100年記念 写真家 濱谷浩展」にも並んでいるとのこと。情報を得るのが遅れ、紹介が遅くなりました。濱谷は晩年は平塚に住んでいたとのことで、平塚市美術館さんでの開催です。


ちなみに、疎開などでやはり濱谷と縁の深い新潟・長岡市の新潟県立近代美術館さんでも、「生誕100年 写真家・濱谷浩」展を開催中です。ただ、こちらは光太郎の肖像写真が展示されているかどうか不明です。情報をお持ちの方、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月17日

昭和40年(1965)の今日、詩人の高見順が歿しました。

高見は明治40年(1907)の生まれ。自分よりはるかに若い詩人たちをかわいがった光太郎に気に入られ、昭和25年(1950)に刊行された高見の詩集『樹木派』の題字を揮毫したり、最晩年の昭和30年(1955)には雑誌『文芸』のため、高見との対談「わが生涯」を行ったりしています。

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詩集『樹木派』の題字は、現在も公益財団法人高見順文学振興会さんの会報に使われているそうです。

先だって、ご案内を戴きましたが、光太郎の実弟・豊周の令孫にして、現在の髙村家当主の髙村達氏の写真展が開催されています。 

髙村達氏 写真展「Botanical Garden~植物園」

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会 期 : 2015年5月9日(土)~5月21日(木) 10:30-18:30   ※最終日は16:00まで 
会 場 : ホテル椿山荘東京「アートギャラリー」ホテルロビー階
                    東京都文京区関口2-10-8 03-3943-1111
入場無料

達氏は、昨夏亡くなった父君・規氏の跡を継いで、同じ写真家としてご活躍中です。

ところで、現在、高村家では「たか」の字は「」(いわゆる「はしごだか」)を使われています。

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ちなみに「」の字を、旧字体だと思いこんでいる方が多いのですが、この字は旧字体ではなく、「俗字」という扱いです。この問題は、戦後になって改訂された旧字体、新字体の問題ではありません。戦前から通常の「」の字はちゃんと存在しました。

以前から気になっていたのですが、故・規氏のからんだ光雲や豊周に関する書籍はほとんど「」になっていました。下の画像は平成11年(1999)に刊行された光雲の彫刻写真集の内容見本です。

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どういうことかと思っていたのですが、先月末、花巻の高村光太郎記念館リニューアルオープンの際、記念式典にいらしていた達氏との雑談の中で、その話が出て、疑問が氷解しました。

髙村家では、昔からはしごだかの「髙」の字を慣習的に使用していたとのこと。光太郎も少年時代は「髙」の字を使っていました。下の画像は明治27年(1894)、数え12歳、高等小学校時代の習字です。

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しかし、それがいつのことか詳細が不明なのですが(おそらく明治期)、戸籍の届け出の際に、光雲の弟子の誰かが代わって手続きに行き、「髙」ではなく、通常の「高」の字で届け出てしまったとのこと。

したがって、高村家では戸籍上は「村」、しかし慣習として「村」を使い続けているということです。

ところが光太郎は、少年期は別として、長じてからは、戸籍通りにすべきだろうということで、「村」としていたそうです。自分は家督相続を放棄した分家、という意識もあったのかも知れません。

複雑ですね。

このブログでも、煩瑣になるのを避けるため、「村」で統一させていただきます。ただし、現在の髙村家に関わる箇所のみは「」の字を使います。

ところで達氏写真展、当方、明後日、花巻高村祭に向けて千葉の自宅兼事務所を出ますが、その際に立ち寄っていこうと思っております。みなさんもぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月12日

明治43年(1910)の今日、広島に住む画家の南薫造に宛て、葉書を書きました。

 あの葉書が届いた相ですね。
 チエルジイのあのエムバアクメントや リツチモンドのキングスホテルを思ひ出させて 人に身顫ひさせる 悪いわるい意地の悪い夏が来ましたね。日本に住んで居るといふ外は 僕と日本とは今の処没交渉です。Ah!

前年に欧米留学から帰朝、光雲を頂点とする古い日本彫刻界との闘いを余儀なくされていた時期のものです。

光太郎と南は、明治40年(1907)から翌年にかけ、ともに留学でロンドンに滞在、彼の地で親しく交わりました。「エムバアクメント」はテムズ川のヴィクトリア堤防、「リツチモンド」もロンドンの地名です。

去る1日の日曜日、光太郎の名がちらりと出た新聞記事が2本ありましたのでご紹介します。

まずは『朝日新聞』さんの神奈川版。

神奈川)97歳の女性画家、9年ぶり油絵展 30点展示

97歳の現役画家・井上寛子さん=6c2092aa横浜市神奈川区=の9年ぶりの油絵展「色彩を求めて97年」が同市中区の洋館、山手234番館で開催中だ。一昨年の横浜美術協会展で朝日新聞社賞を受けるなど90歳を超えても精力的に制作する井上さん。ここ10年ほどの作品約30点を展示している。

 井上さんは東京生まれ。23歳で文部省美術展(現・日展)に入選する。絵画の師の紹介で詩人高村光太郎を訪ねたり、同じ学校に娘が通う彫刻家北村西望宅に遊びに行ったり、芸術と触れあう青春を送った。

 1943年に結婚した夫の故・信道さんは横浜駅西口地下街入り口の女性像など各地に作品が残る彫刻家。出産直前に横浜大空襲にあい、戦後は一時病床にふせるなど多難な時期もあったが、夫や長女の大野静子さんともども精力的に展覧会を開いてきた。

 「印象派の絵を見て日本とは違うと思った。光は物理的、生理的、心理的と三つに分けて考えられる。その研究に時間をかけて絵をやり抜いた」と振り返る。

 「絵を続けられるか、続けられないか、ひとつの岐路。たやすいことはいえない」と心境を語りながらも「気に入った構図に色彩がうまくはまった時はうれしい」と笑った。

 3日まで。井上さん夫妻の作品はインターネット(http://www.kanagawarc.org/inoue/)で見られる。(2015年3月1日 山本真男)

井上寛子さんという方、『高村光太郎全集』にはお名前が見えませんが、井上さんの年譜によれば、昭和16年(1941)に、「高村光太郎氏より詩と絵画の精神を学ぶ」とあります。

97歳にして個展の開催、頭が下がります。ただ、既に閉幕しており、残念です。


次いで『読売新聞』さんの読書面。書評です。 

記者が選ぶ 時代(とき)を刻んだ貌(かお) 田沼武能著

 勤労動員で生き抜く術(すべ)を学んだ中学時代。東京大空襲では下町を逃げまどう。生活の場で戦争の悲惨さを知った田沼武能(86)は、人間の生き様を表現する世界に導かれた。1949年、名取洋之助や木村伊兵衛ら錚々(そうそう)たる写真家たちが所蔵する写真通信社に入社。木村に師事し人脈も得る。文化、芸術誌とも嘱託契約を結び、撮影依頼を次々と受けた。59年からはフリーの写真家に。師匠木村は田沼に「おれのマネをしていてもダメだ」と忠告した。
 孫のような若手写真家に見せる、昭和を創りあげた大家240人の諭すような表情が見事だ。高村光太郎、永井荷風ら教科書でおなじみの顔もいることに驚く。当時貴重だった電話で仕事を取り付け、個人著作権のネガを蓄積してきたフリーランスの秘蔵写真集。(クレヴィス、3000円)


田沼氏は評にある通り、木村伊兵衛門下の写真家。したがって、昨夏逝去された光太郎の令甥、故・高村規氏の兄弟子にあたります。そういうわけで、髙村規氏のご葬儀では、弔辞を述べられました。

一昨年、銀座のノエビア銀座本社ビルギャラリーで開催された個展「アトリエの16人」では、やはり光太郎のスナップも出展されていました。

さて、『時代を刻んだ貌』という書籍、版元サイトにリンクを張っておきますのでご覧下さい。表紙は佐藤春夫ですね。サムネイルが数葉出ますが、黒柳徹子さんや梅原龍三郎などで、残念ながら光太郎は出ません。


井上寛子さんにしても、田沼武能氏にしても、生前の光太郎を知る皆さん、まだまだ頑張っていただきたいものです。詳細は未定ですが、今月下旬にやはりそうした生前の光太郎を知る方にお会いし、お話を聴く予定です。レポートをお待ち下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】  3月4日

昭和29年(1954)の今日、20数年ぶりに自作の木彫「魴鮄(ほうぼう)」を手に取りました。

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当日の日記から。

午后宮崎丈二氏くる、「魴鮄」の木彫持参、現存のこと分る、友人の道具屋所有の由、

この「魴鮄」は大正13年(1924)の作。昭和2年(1927)の大調和美術展などに出品されたりもしました。

その後、買い手がついたようで光太郎の手許を離れましたが、昭和20年(1945)の「回想録」に以下の記述があります。

私の乏しい作品も方々に散つて、今は所在の解らないものが多い。『魴鮄』など相当に彫つてあるので、時々見たいと思ふけれども行方不明である。何か寄附する会があつて、そこに寄附して、その会に関係のある人が買つたといふ話だつたが、その後平尾賛平さんが買つたといふ事も聞いたが、どうなつたか分からない。

平尾賛平はレート化粧品を商標とした平尾賛平商店の主。おそらく二代目で、東京美術学校に奉職する前の光雲に援助などもしていました。

その「魴鮄」と奇跡的に再会を果たしたのが61年前の今日でした。

持ち込んだ宮崎丈二は光太郎と交流のあった詩人。昭和37年(1962)に、この「魴鮄」を謳った詩を発表しています。

    蘭と魴鮄
000
花を開き初めた春蘭が
葉を垂れてゐる鉢の傍へ
高村光太郎作魴鮄を置いて眺める
これはいゝ
思はず自分はさう云ひながらも
この心に叶つた快さを
どう説明していゝかは知らない

魴鮄はその面魂(つらだましい)を
それに打ち込んだ作者をさながらに現して
むき出しにしてゐる
ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
きつぱりとそのかたちに切られて
そして今こゝに
蘭の薫を身に染ませて

過日、今年のカレンダーについて書いた時に、「「乙女の像」など光太郎、智恵子作品が使われているカレンダーはないかと、ネットで探してみました。しかし、残念ながらヒットせず。」と書きましたが、なんと、十和田市の観光推進課さんから「乙女の像」の写真が載ったカレンダーが届きました。題して「2015・平成27年 十和田市の四季カレンダー」。
 
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表紙に「乙女の像」が載っています。
 
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各月ごとのページにも十和田の美しい風景が。
 
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写真は十和田出身のフォトグラファー・和田光弘氏の撮影です。調べてみると、「十和田市の四季カレンダー」は和田氏がずっと手がけられているようです。
 
発行元は十和田市となっています。しかし、ネットで検索しても詳しい情報がヒットしません。もっと大々的に売り出してもいいように思うのですが……。
 
各自治体でもこうした動きがもっと広まってもいいような気もします。手軽に「ふるさと」の良さをアピールできますし、時が経てば歴史的資料としての価値も出るのではないでしょうか。
 
また、東日本大震災の津波による甚大な被害を受けた宮城の石巻女川町などでは、震災前の町の姿を描いたカレンダーなどが発行されているそうです。こちらは個人がやっているようですが、もっと自治体が腰を上げてもいいような気がします。自治体が音頭を取って全国に販路を広げ、復興支援に役立てるということで。
 
以前にもご紹介した「復興デパートメント」というサイトがありますが、「カレンダー」で検索しても「HAWAII ALOHAカレンダー」しかヒットしません。なぜハワイ? という感じです。
 
東北の、特に各自治体の皆さん、ご一考を。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月23日

昭和13年(1938)の今日、雑誌『国語特報』にエッセイ「小刀の味」が掲載されました。
 
ここでいう「小刀」は木彫に使う彫刻刀です。
 
書き出しは以下の通り。
 
 飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するように、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するやうになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀(こがたな)を大切にし、まるで生き物のやうに此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。
 
なかなか味わい深い文章です。青空文庫さんで全文が読めます。

特にいつもそれを眺めているわけではありませんが、当方、部屋ごとにカレンダーがないと落ち着きません。2ヶ所あるトイレにも吊していますし、洗面所兼脱衣場に貼った年もありました。
 
しばらく前は、アート系のカレンダーを愛用していました。その月が終わって破り取ったあと、絵の部分を切り取って額に入れ、手軽な複製画として飾るというふうに。竹久夢二、アルフォンス・ミュシャ、鶴田一郎、葉祥明、藤城清治、川瀬巴水、安野光雅、棟方志功などなど。
 
少し前から、もうそうしたものを飾るスペースもなくなってきたので、販促用にその辺の店でくれるものだけを使うようになりました。後で飾らないのにアート系を買うともったいない、破り取った分を捨てるに忍びない、そういう感覚で、アート系は避けていました。
 
ときどき手に入った光太郎智恵子がらみのカレンダーは、使わずに取ってあります。
 
さて、昨年末。「来年のカレンダーはどうしようか」と考えました。やはり販促用にその辺の店でくれるものではものたりません。まず「乙女の像」など光太郎、智恵子作品が使われているカレンダーはないかと、ネットで探してみました。しかし、残念ながらヒットせず。そこで、ふと、「光太郎智恵子ゆかりの地の風景が載ったものはどうだろう」と思いつき、検索したところ、見つかったので、2点購入しました。
 
まず、小暮真望さんという方のシルクスクリーン版画をあしらったもの。「日本百名山」がモチーフです。
 
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5・6月が安達太良山です。「ほんとの空」を映して広がる水田、その彼方に雪を残す安達太良山。いいですね。
 
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もう一点、こちらは写真ですが、「輝く太陽」というカレンダー。日本各地の日の出を撮った写真が使われています。
 
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2月は銚子犬吠埼。大正元年(1912)に、光太郎智恵子が愛を確かめた故地です。
 
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6月は十和田湖。新緑が鮮やかです。
 
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「日本百名山」は書斎に、「輝く太陽」は寝室に掛けました。
 
もう一点、近所の書店で見つけ、買って来たのがこちら。「季節のパノラマ」という題の、山岳写真を使ったものです。
 
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表紙のページが上高地。大正2年(1913)、ここで光太郎智恵子は婚約を果たしました。さらに6月が奥入瀬渓流です。
 
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こちらはトイレに飾ってあります。
 
ところで、3点とも、現在のページ―つまり1月―は、富士山です。
 
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初夢の「一富士二鷹三茄子」ではありませんが、やはり日本人には、「正月は富士山」というイメージなのでしょうか。ちなみに、お互いに知り合う前に別々にですが、光太郎も智恵子も富士登山の経験があり、その意味では故地ですね。
 
その他、それぞれに日本の美しい自然が取り上げられています。こういうものを見ると、この国に生まれて本当に良かったと思います。無論、諸外国にもそれぞれ美しい風景はあるのでしょうが。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月7日
 
昭和26年(1951)の今日、『花巻新報』に詩「初夢まりつきうた」が掲載されました。
 
 
   初夢まりつきうた000
 
 花巻商人なに商人
 花巻商人いい商人
 ねだんがやすくて
 品物たしかで
 なんでもそろえて
 お店はあかるく
 きれいで清潔
 お客の相談こまかに考え
 いつでもにこにこ
 エチケツト身につけ
 しんからしんせつ
 お届けシステム
 きびきびはきはき
 近郷近在遠くは列車で
 なんでも花巻かんでも花巻
 花巻商人なに商人
 花巻商人いい商人
 夢は正夢初笑い
 まずまず一貫かし申した
 
光太郎にしては珍しい作風です。現代仮名遣いによる最初の詩で、はじめ、歴史的仮名遣いで書かれましたが、草稿に新仮名遣いに訂正した跡が残っています。
 
平成21年(2009)、この詩に曲が付けられたSPレコードの発見が報じられました。その発見者の方とコンタクトが取れましたので、いろいろ判りそうだと期待しています。

昨日は六本木に行って参りました。目的地は東京ミッドタウン内のFUJIFILM SQUAREさんにある写真歴史博物館さんです。
 
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以下の展覧会が開催中です。

「土門拳 二つの視点」 第二部「風貌」

開 期  2014年12月2日(火)~ 2015年2月2日(月) 007 (2)
時 間  10:00 ~ 19:00(入館は18:50 まで)
会 場  FUJIFILM SQUARE(フジフイルムスクエア) 写真歴史博物館
      港区赤坂9丁目7番3号東京ミッドタウン・ウェスト
入場料 無料
主  催 富士フイルム株式会社
協  力 土門拳記念館
 
第一部「こどもたち」が10月から開催されていましたが、今週から第二部「風貌」が始まりました。
 
土門撮影の、光太郎を含む26人の肖像写真が展示されています。
 
光太郎以外は以下の通り。
 
志賀直哉 谷崎潤一郎 幸田露伴 島崎藤村 永井荷風
小林秀雄 林芙美子 牧野富太郎 柳田国男 三島由紀夫
山田耕筰 志賀潔 九代目市川海老蔵 初代水谷八重子
十四世千宗室 滝沢修 濱田庄司 イサム・ノグチ 朝倉文夫
安田靫彦 小林古径 上村松園 安井曾太郎 藤田嗣治 
梅原龍三郎
 
これらは昭和28年(1953)にアルスから刊行された土門拳写真集『風貌』に収められた物だと思います。
 
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光太郎の写真は、昭和15年(1940)に駒込林町のアトリエで撮影されたもの。
 
昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展でも出品させていただきましたが、木彫の「鯉」(未完)を制作中の写真です。
 
ほとんど唯一、光太郎が木彫を制作している瞬間を撮影したもので、貴重なショットです。
 
この『風貌』には、光太郎が推薦文を寄せています。
 
 土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。土門拳自身よくピントの事を口にするが、土門拳の写真をしてピントが合つているというならば、他の写真家の写真は大方ピントが合つていないとせねばならなくなる。そんな事があり得るだろうか。これはただピントの問題だけではなさそうだ。あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない。あの一枚の野口米次郎の大うつしの写真ほど詩人野口米次郎を結晶露呈せしめているものは此の世になかろう。ひそかに思うに、日本の古代彫刻のような無我の美を真に撮影し得るのは、こういう種類の人がついに到り尽した時にはじめて可能となるであろう。
 
他にも光太郎は、前年の昭和27年(1952)に書いた「夢殿救世観音像」という文章でも、土門を賞賛し、エールを送っています。
 
 土門拳が法隆寺夢殿の救世観音をとると伝へられる。到頭やる気になつたのかと思つた。土門拳は確かに写真の意味を知つてゐる。めちやくちやな多くの写真家とは違ふと思つてゐるが、中々もの凄い野心家で、彼が此の観音像をいつからかひそかにねらつてゐたのを私は知つてゐる。
(略)
 写真レンズは、人間の眼の届かないところをも捉へる。平常は殆と見えない細部などを写真は立派に見せてくれる。それ故、専門の彫刻家などは、細部の写真によつてその彫刻の手法、刀法、メチエール、材質美のやうな隠れた特質を見る事が出来て喜ぶ。土門拳の薬師如来の細部写真の如きは実に凄まじいほどの効果をあげてゐて、その作家の呼吸の緩急をさへ感じさせる。人中、口角の鑿のあと。衣紋の溝のゑぐり。かういふものは、とても現物では見極め難いものである。
 その土門拳が夢殿の救世観音を撮影するときいて、大いに心を動かされた。彼の事だから、従来の文部省版の写真や、工藤式の無神経な低俗写真は作る筈がない。
(略)
 救世観音像も例によつて甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、からみ合つた手のふるへるやうな細かい神経、あれらをどう写すだらう。土門拳よ、栄養を忘れず、精力を蓄へ、万事最上の條件の下に仕事にかかれ。
 
ただし、この撮影が不可能となり、この文章もお蔵入りになってしまいました。
 
このように土門を高く評価していた光太郎ですが、自身が撮影されることは忌避する部分がありました。
 
 写真と言うものは、あまり好きではない。いつか土門拳という人物写真の大家がやってきた。ボクを撮ろうとしたわけだ。自分は逃げまわって、とうとううつさせなかった。カメラを向けられたら最後と、ドンドン逃げた。結局後姿と林なんか撮られた。写真というものは何しろ大きなレンズを鼻の前に持ってくる。この人はたしか宇垣一成を撮ったのが最初だったが、これなどは鼻ばかり大きく撮れて毛穴が不気味に見える。そして耳なんか小さくなっているし、宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえるものだ。
 
昭和27年(1952)の『岩手日報』に載った談話筆記「芸術についての断想」の一部です。これは『風貌』に載った「鯉」制作中の写真のことではなく、昭和26年(1951)の5月に、土門が花巻郊外太田村の山小屋に撮影に来た時のことを言っているようです。笑えますね。
 
さて、写真歴史博物館さんでの展示、来年2月まで開催されています。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月4日
 
昭和58年(1983)の今日、東京国立近代美術館の工芸館で開催されていた「モダニズムの工芸家たち―金工を中心にして」が閉幕しました。
 
光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった高村豊周の作品も8点、展示されました。図録の表紙も豊周の作品「挿花のための構成」(大正15年=1926)です。
 
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昨日、東京は荒川区の町屋斎場に於いて執り行われた、光太郎の令甥にして高村光太郎記念会理事長、元日本広告写真家協会会長、髙村規氏の葬儀に参列してきました。
 
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心のこもった、いいお式でした。
 
参列者を代表して弔辞を読まれたのは写真家の田沼武能氏。亡くなった規氏の先輩にあたられ、お若い頃の規氏のエピソードなどを交えた弔辞には、心を打たれました。
 
心を打たれたというと、司会の方によってご披露された渡辺えりさんの弔電もでした。渡辺さんは光太郎を主人公とした演劇「月にぬれた手」を作られたり、連翹忌にもたびたびご参加下さったりで、規氏とのご交流も深いものがありました。
 
祭壇の前には、規氏撮影の写真を使った書籍のうち、祖父光雲の作品集「木彫髙村光雲」(中教出版 平成11年=1999)、伯父光太郎の作品集「高村光太郎彫刻全作品」(六耀社 昭和54年=1979)、そして父豊周の作品集「鋳」(髙村豊周作品集刊行会 昭和56年=1981)が飾られていました。
 
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本職の広告写真の分野以外に、智恵子も含め、こうした高村一族の造形作品を写真として遺して下さったことは、規氏の大きな業績と言えます。こうした作品集以外に、各種企画展の図録に使用した写真も、そのほとんどが、規氏によるものです。しかも、この彫刻にはこの写真、というふうにきちっと管理がなされており、それによって図録の編集も容易でした。そうしたデータは、ご長男の達氏が同じ写真家として規氏を助けられていたので、引き継がれていくと思われます。
 
また、いろいろな書籍に掲載された、光太郎の回想。親族の眼から見たそれは、他人には見せなかった光太郎の生の姿が語られ、非常に貴重な記録です。
 
昨年4月、信州安曇野の碌山美術館で開催された碌山忌記念講演会が、規氏の「伯父 高村光太郎の思い出」でした。今年3月に同館から刊行された館報第34号には、その全文が掲載されています。
 
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同館の御厚意で、今年4月2日の第58回連翹忌で、参会の皆様に1部ずつ配布いたしました。そうしましたところ、早速、詩人の間島康子様、同じく宮尾壽里子様が、それぞれそちらを資料に論考を書かれています。
 
同趣旨の回想は、平成23年(2011)刊行の雑誌『花美術館 Vol.18 特集 詩魂が宿る芸術 光太郎、智恵子』にも掲載されています。
 
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また、現在、青森十和田市の十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで刊行を進めている乙女の像60周年記念誌的なものにも、昨秋行った青森テレビの川口浩一アナウンサーによる規氏へのインタビューが掲載される予定です。
 
その他、短いものを含めれば、光雲、光太郎、豊周、智恵子に関する氏の文筆作品は枚挙にいとまがありません。こうした部分も、規氏の大きな業績と言えるでしょう。
 
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月21日
 
明治10年(1877)の今日、東京上野公園で、第1回内国勧業博覧会が開会しました。
 
光雲、数え26歳。師匠高村東雲の名で出品した白衣観音が、一等龍紋賞を獲得、これにより、光雲の名が知られてゆくこととなります。

去る2014年8月13日夜、高村光太郎記念会理事長・元日本広告写真家協会会長、髙村規氏がご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
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氏は光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝、髙村豊周の子息で、光太郎には令甥にあたられた方でした。髙村家当主として、精力的に顕彰活動に取り組まれていました。昭和8年(1933)のお生まれで、おん年81歳でした。
 
また、写真家として、本業の広告写真のかたわら、光太郎、光雲、智恵子、豊周の作品を撮影、その作品はさまざまな書籍等に使われている他、光太郎智恵子、光雲をテーマとする個展も数多く開かれました。
 
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髙村規写真展 「木彫・高村光雲」 -没後六十年記念- 平成7年(1995) 銀座和光


 
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髙村規作品展 「智恵子抄彷徨」 平成7年(1995) JCI I フォトサロン
 
 
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髙村規写真展 -草野心平没後20年記念 平成20年(2008) 福島川内村阿武隈民芸館
 
 
さらには親族の目から見た光太郎の記憶など、貴重な回想も数多く残されています。
 
今年4月2日の連翹忌でも、献杯の御発声をなさってくださり、その時にはお元気なお姿を拝見できましたが、このところお加減がよろしくないというお話を聞いておりました。それにしても、驚きました。
 
通夜は8月19日18:00~、告別式は同20日11:00~、ともに荒川区町屋斎場です。
 
一部報道で通夜が19:00~となっていますが、18:00~です。
 
このブログをお読み下さった方、ご関係の方に、上記連絡をよろしくお願い申し上げます。
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月15日
 
昭和19年(1944)の今日、創藝社から大口理夫編『名品手帖 日本美術論集』が刊行されました。
 
光太郎の評論「十大弟子」が掲載されています。

二本松観光協会さんで、以下の募集を行っています。 

2014「二本松の四季」観光フォトコンテスト

二本松市内の様々なスポット、名所、四季の風物等の観光資源を、写真を通じて紹介でき、ポスターやパンフレット等で使用できる作品を募集します。
来年4月~6月は、JRグループや観光関係者、県や市町村が協力して、全国から観光客を迎える日本最大級の観光イベント「ふくしまデスティネーションキャンペーン(ふくしまDC)」が実施されます。
そこで、そのふくしまDCのPRに活用できる作品を募集するため、今年は8部門からなるふくしまDC枠を新設しました。
夏・秋・冬の作品も例年通り募集しますので、ご応募お待ちしております。
 
募集作品・募集期間
夏部門 : 平成26年8月1日(金)~9月19日(金)
秋部門 : 平成26年10月1日(水)~11月28日(金)
      ※菊人形、また提灯祭り等各種まつり行事を被写体とした作品は除く
菊人形部門 : 平成26年10月1日(水)~11月28日(金)
まつり(四季)部門 : 平成26年12月1日(月)~平成27年1月17日(土)
冬部門 : 平成27年1月20日(月)~2月14日(土)

応募方法
 ◦ カラー(モノクロ可)、四つ切り(ワイド含む)、単写真とします。
◦ デジタルカメラによる作品も応募できます。この場合、四つ切相当サイズでプリント、またはA4サイズでも可。
◦ 各部門「1人3点」まで応募可とします。
◦ 作品の裏面に『部門名、題名、氏名(フリガナ)、年齢、住所、電話番号、撮影地、撮影年月日』を明記(貼付)してください。(応募票備考欄への「返却希望」等の記入不可)
◦ 作品は、未発表のものに限ります。
• 応募票を作品の裏側中央に貼付し、持参または郵送でご応募ください。
 
応募上の注意
◦ 作品は、募集期間最終日から1年以内に撮影したものといたします。
◦ 被写体が人物の場合、応募に際しては、必ず本人(被写体)の承諾を得ること。
◦ 郵送中の作品の紛失や損傷については、主催者は責任を負いません。
◦ 審査結果についての異議の申し立ては、受け付けません。
◦ 応募いただいた作品は返却いたしません。

 
審査
【審査時期】
  ・夏、秋、菊人形 : 平成26年12月(予定)
  ・まつり(四季)、冬 : 平成27年2月(予定)
【審査員】 主催者及び主催者が委嘱した者
【審査基準】
  ・各部門とも、可能な限り被写体が二本松市内と特定できるもの。
  ・作品の2次利用(ポスター、パンフレット、チラシ等)を想定するもの。 表彰
【最優秀賞】 各部門1名 賞状・副賞
【優秀賞】 各部門2名 賞状・副賞
【入選】 各部門2名 賞状・副賞
※応募状況等により、入賞者数は5名と限らない場合がございますが、ご了承願います。
その他
◦ 入賞作品の版権は主催者に帰属します。ポスター、パンフレット等に全部又は一部を使用する場合があります。
◦ 入賞者には主催者へ原版(ポジ・ネガ・画像データ(jpg))を提出していただきます。
なお、原版がAPSフィルムの場合は、カートリッジごとお預かりします。
◦ ご応募頂いた作品は、審査終了後、二本松市役所1階市民ホールなどに展示いたします。
応募・問い合わせ先 二本松観光協会(二本松市役所観光課内)
 〒964-8601 二本松市金色403-1
TEL:0243-55-5122



 
『ふくしまDC』部門の募集が5月まで行われており、先月末に審査があったようで、今月に入って入賞作品がネット上にアップされています。
 
「霞ヶ城公園の桜」 「合戦場のしだれ桜」 「夜桜」 「桜(その他一般)」 「春の安達太良山」 「安達太良山山開き」 「春の花」 「春の風景」のそれぞれで、3~5点ずつ。どれもいい写真です。智恵子の愛した安達太良山をはじめ、霞ヶ城、道の駅「安達」智恵子の里など、ゆかりの場所の写真も。
 
「春の花」部門の入選作『藤花の薫り』は、智恵子生家から霞ヶ城に移植された藤を撮影したものと思われます。
 
ぜひご覧下さい。
 
また、上記の通り、夏、秋、冬、まつりなど各部門の募集があります。智恵子の愛した「ほんとの空」の下に広がる美しい風景を、しっかり世に広めていただきたいと思います。こうした活動も「復興」につながるものだと思います。
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月9日002
 
大正11年(1922)の今日、森鷗外が歿しました。
 
鷗外は明治24年(1891)から東京美術学校の教壇に立ち、「美術解剖」「美学」「泰西美術史」などの授業を受け持ちました。軍医総監でもあった関係で、従軍による中断期間もありましたが、光太郎在学時にも教鞭をとっており、それが光太郎と鷗外との出会いでした。
 
その後、雑誌『スバル』の関係、すぐ近所に住んでいた関係などで、光太郎との交流は続きます。明治末、留学から帰った光太郎が徴兵免除になったのは、鷗外が裏で手を回したからという説があります。
 
光太郎は鷗外を敬愛しながらも反発し、しかし頭が上がらず、鷗外は光太郎を「しょうもない奴だ」と苦笑しながらもかわいがる、といった関係でした。

昨年から今年にかけて出版されたもののうち、ちらっと光雲について記述があるものを3点紹介します。 

戦争という見世物 日清戦争祝捷大会潜入記006

木下直之著
2013年11月20日
ミネルヴァ書房
定価 2,800円+税
 
 
日清戦争に勝利し、日本中が沸いた明治二七年一二月九日。上野公園不忍池付近で開催された、「日清戦争戦捷祝賀大会」にタイムスリップ。清国軍艦撃沈の劇、大きな凱旋門……その祝賀大会の様子を史実に沿い、日本の見世物研究の第一人者が生き生きと活写する。
 
[ここがポイント]
・明治27年12月9日、日清戦争戦捷祝賀大会の全
 貌が明らかに。
・貴重な写真を多数掲載。
・見世物研究の第一人者が活写する。
 
日清戦争祝勝記念ということで、異様に浮かれる明治27年(1894)の東京が描かれます。
 
光雲に関しては、その援助者だった実業家・平尾贊平の依頼で「分捕石鹸」なるものをデザインしたという話が紹介されています。打ち首にされた清国兵の首をモチーフにしたとのこと。ヘイトスピーチのような話です。
 
光太郎に関しても、昭和22年(1947)に発表した連作詩「暗愚小伝」中の「日清戦争」という詩で、平壌の戦いで玄武門突破の戦功を挙げた原田重吉一等兵について取り上げていることにふれています。
 
その他、光雲・光太郎ゆかりの人物がたくさん登場し、さらに当時のある意味狂躁状態だった世相を知るには、うってつけの一冊です。
 
ただし、苦言を一つ。せっかく巻末に「人名索引」が設けられていながら、光雲、光太郎ともに抜け落ちています。内容的には面白い書籍だけに惜しいミスです。


消された「西郷写真」の謎 写真がとらえた禁007断の歴史

斎藤充功著
2014年3月28日
学研パブリッシング
定価 1,800円+税
 
 
歴史上の人物として人気の高い西郷隆盛。だが彼が写っている真正写真はいまだに確認されていない。それはなぜか。本当に写真は存在しないのか……西郷の真正写真を追い求めた筆者による「歴史ミステリー・ノンフィクション」。
 
光雲が制作主任として携わった上野の西郷隆盛像の話-西郷本人に似ていない、とされている-から始まり、確実に西郷隆盛と確認できる写真が伝わっていないこと、そこに明治政府の意図を読み取り、「写真」という新たなメディアツールがどのように取り入れられていったのかまで論じる力作です。一時話題になった「フルベッキ写真」についても触れています。


にほんテキヤはどこからやってくるのか?008 露天商いの近現代を辿る

厚香苗著
2014年4月17日
光文社(光文社新書)
定価 760円+税
 
 
浮かれた気分の人びとが集まるところには、どこからともなく商人がやってくる。ヤキソバを焼くソースの匂いや派手な色彩の露店は、私たちをいつもとは違う心持ちにしてくれる。そんな祝祭空間で生計を立てている露店商たちが本書の主人公である。(「はじめに」より)
主な舞台は東京の下町。そのあたりでは伝統的な露店商を「テキヤさん」と呼んでいる。「親分子分関係」や「なわばり」など、独特の慣行を持つ彼ら・彼女らはどのように生き、生計を立て、商売を営んでいるのか――。
「陽のあたる場所からちょっと引っ込んでいるような社会的ポジション」を保ってきた人びとの、仕事と伝承を考察。
 
民俗学的なアプローチで、「テキヤ」の歴史的背景から現状までの詳細なレポート。光雲の父・兼吉(通称・兼松)が浅草のテキヤだったこと、光雲もその手伝いをしていたことなどに触れています。
 


 
以上3点、すべて光雲がメインではなく、少しふれられるだけではあるものの、いずれも当時の世相、社会的背景といったことを理解する上で、切り口は違いますが、それぞれ興味深いものです。
 
ぜひお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月13日
 
昭和30年(1955)の今日、ラジオで東京六大学野球の早慶戦を聴きました。
 
当時、同じ六大学の立教大には、かの長嶋茂雄が在籍しており、この年の秋季リーグから5シーズン連続でベストナインに選ばれるなどの活躍でした。

1/25のこのブログでご紹介した写真展「昭和初期の赤城山を見る」。先週開幕し、『東京新聞』さんなどで報道されています。

昭和初期の赤城山たどる 前橋で写真展 猪谷六合雄の孫 保管の95枚

 昭和初頭の赤城山の情景をモノ001クロ写真でたどる「昭和初期の赤城山を見る」が赤城公園ビジターセンター(前橋市富士見町)で開かれている。赤城山にゆかりが深く、日本スキー界の草分けとして知られた猪谷六合雄(いがやくにお)の孫が保管していた写真で、まとまった形で公開するのは初めて。 
 
 企画したNPO法人赤城自然塾の小林善紀事務局長は「撮影の時期や場所もはっきりした貴重な資料で、環境学習に生かしたい」と話す。
 
 写真は昭和五(一九三〇)年から同八年の撮影で、一冊の写真帳に九十五枚が収められていた。「早春残雪ノ小沼平 昭和六・五月初」などと、それぞれ台紙に場所、年月を記している。写真の一部に「IGAYA MT.AKAGI JAPAN」の刻印があるが、このころ六合雄は群馬を離れており、親族の撮影との見方もある。
 
 展示には、赤城大沼付近にあった軍馬を育成する牧場や、あちこちで起きていた「ゾロ」と呼ばれる山肌崩壊をとらえた写真がある。戦後、牧場が閉じられると樹木が覆い、砂防ダムの建設でゾロが抑えられた。写真展を監修した東京福祉大大学院の栗原久教授は「数十年で植生や環境が変わったことが分かる」と話す。
 
 旧赤城神社の立派な社殿の写真もあり、住民が赤城山を敬っていたことも読み取れる。
 
 写真帳は猪谷の孫でセンター職員だった小竹恵美子さん(66)=前橋市=が十五年ほど前、父猪谷孟夫さんの遺品から見つけた。小竹さんが自然塾での依頼講演で紹介すると、「多くの人に見てもらうべきだ」と勧められた。運用を任された塾が中部県民局中部行政事務所の協力で写真展にこぎ着けた。
 
 栗原さん、小林さんは「撮影場所をたどる環境ツアーの開催など展示以外でも生かしたい」と話す。
 
 写真展はセンターが七日まで、十二日~三月七日が県前橋合同庁舎(同市上細井町、土日は閉庁)、三月十~十七日が前橋プラザ元気21(同市本町)。二月十三日午後一時半から、同合同庁舎で栗原さんの講演会(先着百人、無料)がある。申し込みは中部行政事務所=ファクス027(234)9333、問い合わせは、同=電027(231)2765=へ。
 
 <猪谷六合雄> 1890~1986年。旧富士見村出身。赤城山で旅館経営に携わり、スキーを愛し指導に取り組んだ。国際オリンピック委員会委員も務めた息子の千春氏は、1956年のコルチナ・ダンペッツォ五輪(イタリア)のアルペン競技(回転)で日本人初の冬季五輪メダリストとなった。小説家の志賀直哉、詩人・彫刻家の高村光太郎らとも交流した
 
ちょうどソチ五輪が開幕しましたが、猪谷六合雄の子息・千春氏は日本人初の冬季五輪メダリストなのですね。ちなみに氏がメダルを獲得したコルチナ・ダンペッツォ五輪は昭和31年(1956)1月26日から2月5日までということで、光太郎は余命あと2ヶ月、ほぼ寝たきりの時期でした。光太郎、千春氏の活躍を知っていたのでしょうか。
 
この記事を書いている今、午前0時をまわって、日付が変わったばかりです。今日から1泊2日で十和田に行って参ります。雪の青森はどんなものなのだろう、と思っていましたら、今日明日と、関東でも大雪という予報。在来線の特急はもう運休が決まっているとのこと。十和田まで予定通りたどりつけるか心配です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月8日

明治44年(1911)の今日、実質的に光太郎が経営していた日本初といわれる画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、与謝野晶子の短冊が売れました。
 
値段は10銭。この日に限らず、晶子の短冊は琅玕洞の人気商品の一つでした。今も時折古書市場で晶子の短冊を見かけますが、中には琅玕洞経由で売られたものも含まれていると考えられます。

群馬発のイベント情報です。 

写真展「昭和初期の赤城山を見る」

(1)主催:中部行政事務所、NPO法人赤城自然塾
(2)写真提供:小竹 恵美子 氏
(3)写真監修:栗原 久 氏(東京福祉大学・大学院教授)
(4)協力:前橋市
(5)内容:
志賀直哉、高村光太郎らと交流があり、日本スキー界の草分けとして知られる猪谷六合雄(息子は日本人初の冬季オリンピックメダリストとなった猪谷千春氏)の孫である小竹恵美子氏のもとから、昭和5年(1930年)から昭和8年(1933年)の赤城山の写真が発見されました。これらの写真95枚を拡大して展示します。
(6)観覧料:無料
(7)会場、開催日など
  ●赤城公園ビジターセンター(前橋市富士見町赤城山1)
   開催日:2月1日(土)~2月7日(金) ※2月3日(月)休館
    時間:9:00~15:00
     ※2月1日(土)12:45~13:00は「ぐんまちゃん」がやってきます。
   ●群馬県前橋合同庁舎1Fロビー(前橋市上細井町2142-1)
    開催日:2月12日(水)~3月7日(金) ※土、日曜日閉庁
     時間:8:30~17:15
               ※2月12日(水)は13:00から。3月7日(金)は13:00まで
   ●前橋プラザ元気21 3F 中央公民館ホワイエ(前橋市本町二丁目12-1)
     開催日:3月10日(月)~3月17日(月) ※休館日なし
   時 間:9:00~22:00
               ※3月10日(月)は13:00から。3月17日(金)は13:00まで
(8)写真説明会
  日時:2月1日(土)13:00~  (「赤城山雪まつり」の開催日)
  会場:赤城公園ビジターセンター(前橋市富士見町赤城山1)
  内容:写真監修者で上毛新聞社刊「なるほど赤城学」の著者・栗原久氏による写真説明会
  料金:無料  ※事前の申し込みは不要です。直接会場にお越しください。
 
2 写真展を記念した講演会「赤城山の魅力を探る」
(1)日時:2月13日(木)13:30~15:00 (※前橋合同庁舎で写真展も開催)
(2)会場:前橋合同庁舎6F大会議室(前橋市上細井町2142-1)
(3)講師:栗原 久 氏(東京福祉大学・大学院教授)
(4)内容:
    赤城山の歴史、文化など意外と知られていない赤城山のいろいろについて、「なるほ
    ど赤城学」の著者が語ります。(※中部県民局県政懇談会の中で実施)
(5)参加料:無料
(6)定員:100名(先着順)
(7)参加方法:事前の申込みが必要です。
   開催日前日までにFAXで代表者氏名、電話番号、参
加人数をお伝えください。
   (様式はありません。)
 
3 問合せ、申し込み先  中部県民局中部行政事務所 
             電話:027-231-2765  FAX:027-234-9333
 
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光太郎の父・光雲は赤城神社を産土神として信仰しており、その影響で、光雲ともども光太郎自身も赤城山に何度も足を運んでいます。また、光太郎は赤城を舞台にした連作短歌「毒うつぎ」(明治38年=1905)なども書いています。
 
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こちらは昭和6年(1931)、赤城神社で撮られた光雲と光太郎です。
 
さらにその影響もあって、光太郎の朋友・水野葉舟や、与謝野鉄幹をはじめとする新詩社の同人も光太郎を案内役に、赤城に逗留しました。そうした際にこ光太郎らが定宿としたのが、猪谷(いがや)旅館、猪谷六合雄の実家です。光太郎や葉舟と、六合雄の姉・ちよとの間には、そこはかとないロマンスがあったとかなかったとか。
 
六合雄と光太郎も親しく交わり(光太郎の方が7歳年上)、明治37年(1904)に光太郎が猪谷旅館に逗留した折に描かれたスケッチ『赤城画帖』(昭和31年=1956、龍星閣より上梓)の解説を、六合雄が執筆したりしています。
 
その六合雄旧蔵と思われる95枚の写真が展示されるとのことで、ちょうど光太郎が足しげく通っていた当時の赤城山のものですね。当時とは赤城神社の位置が変わっていたりするので、貴重なものだと思われます。
 
ぜひ足をお運びください。
 
ちなみに当方も、同じ頃、猪谷旅館が発行した絵葉書セットなどを持っています。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月25日

昭和57年(1982)の今日、日本経済新聞社からバーナード・リーチ著『東と西を超えて 自伝的回想』(福田陸太郎訳)が刊行されました。
 
リーチはイギリス留学中の光太郎とロンドンで知り合い、元々持っていた日本熱が更に昂じて来日し、陶芸家となります。本書には、光太郎に関する回想も書かれています。

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今日は日比谷・銀座に行って参りました。 
 
いろいろ用事を片付ける中、銀座6丁目の株式会社ノエビア銀座本社ビルギャラリーで開催中の田沼武能写真展「アトリエの16人」を観て参りました。
 
8月末から行われていたのですが、気がつくのが遅く、このブログで紹介していませんでした。申し訳ないので実際に足を運んでのレポートといたします。
 
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田沼武能氏は現在も活躍中の写真家。人物写真を多く手がけられ、特に子供の写真で有名ですね。
 
その田沼氏が、かつてそれぞれのアトリエで撮影した16人の美術家のポートレートが並んでいます。
 
以下、ノエビアさんのHPから。
 
「美術家にとってアトリエは戦場である」という田沼武能氏が、アトリエで作品に挑む16人の姿をとらえた写真展です。 美術家の風貌はもちろん、アトリエの空間を通して、その芸術と作品を生み出した時代がよみがえってくるようです。
奥村土牛、岡本太郎、福田平八郎、駒井哲郎、杉山寧、川合玉堂、高村光太郎など、2010年から2013年にかけて都内及び関東近郊の美術館で企画展が開催された美術家も多数含まれています。

 
というわけで、光太郎のポートレートも1枚。昭和28年(1953)、中野のアトリエで撮影されたものでした。光太郎は十和田湖畔の裸婦像を制作していた時期でしたが、像自体は布が巻き付けられた状態で写っています。キャプションには、光太郎が制作途中のものは見せない、と言った旨の記述がありました。
 
しかし、先日も少しご紹介したブリヂストン美術館制作の美術映画では、像の手の部分を制作中のカットがあり、ちょっと矛盾しています。ただ、ブリヂストンの動画でも、顔には布が巻き付けられたままでした。
 
さて、田沼氏の作品。肝心の光太郎は小さく写っています。しかし、その眼光は炯々と光り、まさしく「美術家にとってアトリエは戦場である」との言が納得いきます。その点は他の美術家も同じでしたが。
 
この古武士のような光太郎の風貌には、いろいろな写真家が惹きつけられたようで、早いところでは戦前から、土門拳などが撮影していますし、花巻郊外太田村山口の山小屋にも、土門が再訪したのをはじめ、阿部徹雄、濱谷浩らが撮影に訪れています。
 
それから、光太郎の弟・豊周の子息の高村規氏も、後に写真家となりますが、学生時代に晩年の光太郎をよく撮影していました。連翹忌で飾る遺影は規氏の撮影したものを使わせていただいています。
 
さて、「アトリエの16人」。会期は明後日11/1まで。時間は午前10時~午後6時、入場は無料です。紹介するのが遅くなり、まことに申し訳ありません。お近くの方、銀ブラついでにどうぞ。
 
明日は「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の最後の巡回先、愛知県碧南市藤井達吉美術館にての開会式・内覧会(一般公開は明後日から)に行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月30日6c2092aa

明治36年(1903)の今日、作家・尾崎紅葉が胃癌で歿し、光太郎が東京帝国大学での解剖に立ち会いました。
 
のち、この時の印象を元に「解剖台上の紅葉山人」という彫刻を制作しています。「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展にももちろん並びます。

画像は髙村規氏撮影。光太郎令甥にして、田沼氏と同じく木村伊兵衛に師事した写真家です。

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