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展示系の情報を2件、始まってしまっているものと、もうすぐ開幕のものと。

まず始まってしまっているのが、書道の作品展。

岩手ゆかりの近代詩文書作品展

期 日 : 2024年2月23日(金)~3月17日(日)
会 場 : もりおか町家物語館 岩手県盛岡市鉈屋町10-8
時 間 : 午前9時から午後7時
料 金 : 無料

岩手ゆかりの近代詩文を題材とした書道作品の公募展です。併せて、岩手にゆかりのある書道家の作品も展示します。


先月、地上波IBC岩手放送さんのローカルニュースで取り上げられていました。

啄木、賢治の作品やオリジナルの歌を書に 岩手ゆかりの近代詩文書作品展始まる 盛岡市

  岩手にゆかりのある短歌や詩を書道作品で表現した展示会が、盛岡市で開かれています。
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 もりおか町家物語館で23日始まったのは、「岩手ゆかりの近代詩文書作品展」です。会場には、盛岡市と石川啄木記念館が所蔵するものと、一般公募で集められた書道作品合わせて36点が展示されています。
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 作品の多くが歌人・石川啄木の歌や詩人で童話作家の宮沢賢治の詩が個性豊かに書かれたものですが、滝沢市に住む書家・戸島魯休さんは自ら詠んだ歌を書にしたためたものを出品しています。造り酒屋の跡地に整備されたもりおか町家物語館を訪れた際、蔵の造りと資料展示を見て感じたイメージが筆で力強く表現されています。

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 この企画展は3月17日まで開かれています。
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「岩手ゆかり」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで、花巻町と郊外旧太田村とに足かけ8年暮らした光太郎の詩句も。
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昭和4年(1929)の詩「人生」の一節。ただし「重いものを」の「を」が抜けていますが。

ところでこのフレーズ、フェイスブックやX(旧ツィッター)上で、光太郎の名言としてよく引用されています。それはそれで有り難いのですが、しかし「棄てると」が「捨てると」と誤記されているケースがほとんどでして、閉口しております。

他に啄木や賢治の詩句等を書いたものがずらっと。「女啄木」と称された西塔幸子の短歌もあって、「ほう」と思いました。幸子の実弟・大村次信は盛岡で「オームラ洋裁学校」を創設し、光太郎とも交流のあった人物です。

続いて今週末から始まる展示。福島は郡山です。

第7回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト作品展

期 日 : 2024年3月16日(土)~5月26日(日)
会 場 : 郡山市ふれあい科学館スペースパーク 福島県郡山市駅前二丁目11番1号
時 間 : 平日 10:00~16:15 金曜 10:00~19:45 土・日・祝 10:00~17:45
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

コンテスト選出作品40点を展示いたします。 "ほんとの空"のある、福島の素晴らしい星・月の風景をお楽しみください。
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昨秋、約3年ぶりに作品募集のあった「第7回 ふくしま星・月の風景 フォトコンテスト」。審査結果が先月発表され、入選作が展示されます。フライヤー等に大きく出ているのが大賞に輝いた「蕎麦畑に白虹」。埼玉県の方が会津の下郷町で撮影されたものだそうです。日光が霧に当たって出来る「白虹」、当方、見たことがありません。一度見てみたいものですが。

その他、PDFで入選作が見られますが、サムネイル的な小さな画像でも、力作ぞろいというのがよくわかります。残念ながら智恵子の愛した安達太良山の風景はなかったようです。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

屋根の雪は一度学校の先生がおろしてくれました。寒さは雪の割にゆるく、まだ零下十度にもなりません。去年は〇下二十度になりましたが。


昭和21年(1946)12月30日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に入って二度目の冬。このシーズンは雪が多かったそうですが、気温的にはそれほど冷え込まなかったようで、年明けには摂氏9℃とかになって驚いたとのこと。それにしても土壁一枚のあばら屋でしたから……。

昨日は大正12年(1923)に起こった関東大震災からちょうど100年。

8月26日(土)の『毎日新聞』さんに、震災直後、貼り紙が無数に貼られた上野公園の西郷隆盛像(光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校総出で制作)の写真が半ページ使って掲載されましたが、NHKさんのニュース番組内でも同様の画像が流れました。

上野だけでなく、都内(当時は「東京府」でしたが)各所の被災の様子等でした。

関東大震災100年 被災直後の東京 写真で見る被害状況

 9月1日で関東大震災の発生から100年となります。NHKのアーカイブスには、関東大震災の発生直後に東京の都心部を撮影した写真や映像が数多く残っています。どの写真も巨大災害の大変貴重な記録です。今回、その写真が撮影されたのとほぼ同じ場所を訪ねました。私たちもよく知っているあの場所が100年前の被災直後はどうだったのか、動画で紹介します。
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皇居外苑 二重橋前 ~ 被災者がバラックで避難生活
 皇居外苑の二重橋前信号付近から皇居の方向を撮影しました。100年前と現在の写真を動画で比較しています。皇居は、明治21年から昭和23年まで宮城(きゅうじょう)と言われていました。発災時は多くの被災者が宮城外苑の二重橋前広場に避難し、そこにバラックと言われる仮設の建築物を建てて避難生活を送っていたことが見てとれます。写真の上部に木が生い茂っていることから、その奥に宮城があることがわかります。
 警視庁の「大正大震火災誌」によりますと、地震が発生した9月1日に、外苑に避難した人は約21万人いたということです。その後、月末には4162名にまで減り、翌大正13年1月初旬には1890人いた避難者が芝離宮内に移転したということです。
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こちらには西郷隆盛像と同様に、光雲主任、チーム美校で制作した楠木正成像が既にあったのですが、西郷像のように伝言板的な使い方はされなかったのでしょうか。

日本橋 三越 ~ 建物火災も“ライオン像”は被害免れる
 関東大震災発生直後の三越呉服店(現在の日本橋三越本店)とその周辺です。100年前と現在の写真を比較した動画です。内閣府の資料によると、三越呉服店は地震の影響により屋上の貯水タンクの配管が破損して漏水し、消防設備が無力となって延焼したということです。
 当時の写真からは、火災で焦げたような跡が建物に残っていることや、入り口にあるシンボルのライオン像は被害を免れたことが見て取れます。発災時の様子が記録された『大正大震大火之記念』には、当日の百貨店の様子などについて、月の初めの土曜日ということで商売に携わっている人の中には休みの人も多く、浅草方面や活動写真劇場などの歓楽街は朝からずっと大いににぎわっていて、三越をはじめとする百貨店も非常に多くの人で混み合っていた、と書かれています。

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三越さんには、光雲作の「活動大黒天」が納められていましたが、たまたま金庫に保管されていて焼け残り、現在は屋上の三囲神社さんに奉納されています。

日本橋 ~ 路面電車が焼けて台車部分のみに
 関東大震災が発生した直後の日本橋と、現在の日本橋を比べた動画です。装飾柱には今も残存する麒麟(きりん)像がうつっています。左側の白い壁の建物は当時あった村井銀行です。粉じんなどを避けるためか、マスクをしている人がいます。画面右では路面電車の上が焼けてしまい、台車部分のみが残っている様子がわかります。内閣府の資料によると、地震発生翌日の9月2日の未明には日本橋のほとんどの地域が焼失したということです。
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隅田川 吾妻橋 ~ 火災で路面抜けるなどの甚大な被害
 関東大震災直後の吾妻橋の写真と、現在の様子を比べた動画です。内閣府の資料によると、隅田川には当時、北から吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋の5つの橋が架かっていて、このうち吾妻橋、厩橋、永代橋の3つの橋が火災で甚大な損傷を受けたということです。画面の左奥に見えるのは大日本麦酒の工場でビールを製造していました。路面が抜けるなどの被害を受けた橋を鉄道第二連隊が補修している様子が撮影されています。全国から復旧の応援が来ていました。
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隅田川べりは、明治末、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」の会場となった幾つかの料亭などがあった場所です。

浅草寺 ~ 境内は支援拠点や避難所に “尋ね人”の紙も
 関東大震災の後、浅草寺本堂周辺で撮影された写真です。同じ位置から撮影した現在の様子と動画で比較しています。写真からは激しい揺れで灯籠が崩れている様子や尋ね人の紙も確認できます。当時、浅草寺は支援の拠点や避難所になっていて、炊き出しなどが行われていました。『浅草寺社会事業概要 大正13年10月現在』の記録によりますと、被災者約1万5000人の収容、食料その他の配給、尋ね人受付、はがきの代書、巡回回向(供養)、慰安会開催などその活動は多岐にわたりました。浅草寺に属する60余りの僧侶や婦人会、学生僧侶はこれらの臨時救済事業に全力を費やしていたということです。
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浅草 仲見世 ~ 炊き出しや給付に向かう人々の列
 浅草寺の仲見世商店街の関東大震災直後の写真と、現在を比較した動画です。本堂のあるほうに向かって歩く人々の姿が見えます。当時、浅草寺は支援物資拠点や避難所の一つになっていて、炊き出しや給付が行われていました。浅草寺のホームページによりますと、仲見世は関東大震災から2年後の1925年(大正14年)に鉄筋コンクリート造り、朱塗りの商店街に生まれ変わったということです。

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浅草寺さんが焼けなかったのは、本堂裏手に広大な池があったためとも言われているようです。その池の中央にあった噴水には、光雲作の「沙竭羅龍王像」が配されていました。現在は本堂手前の手水舎に移転されています。

そして、西郷像。

上野公園 ~ 西郷隆盛像が“伝言板” 約50万人が避難
 上野公園にある西郷隆盛の銅像とその周辺の様子です。100年前の写真と現在を動画で比べてみました。体や立っている台のあたりに多くの張り紙が貼ってあるのが確認できます。当時の東京市の『東京震災録 前輯』など複数の資料によりますと、銅像や柱や壁は行方不明者を尋ねたり避難者の無事を知らせたりするといった伝言板代わりとなっていました。
 上野公園は火事から免れ、内閣府の資料によると、都内で最も多いおよそ50万人が避難したということです。当時の内務省の「大正震災志」によりますと、広大な公園がわずかな隙間もない状態で、避難者は一時お互いの体を枕にして夜を明かしたということです。その後はそれぞれの故郷に帰ったり、被害が軽微な場所に移ったりし、9月下旬には大部分が退去して、わずかに残った避難者が現在の東京国立博物館の敷地内や池之端に建設された公営のバラックに収容されたということです。
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あの上野公園に50万人とは驚きでした。光雲はこの時、まだ存命でしたが、どう感じていたのでしょうか。

上野駅 ~ 多くの避難者がホームや線路にあふれる
 関東大震災直後の上野駅周辺の写真と、現在の様子を比較した動画です。避難した大勢の人たちが写っています。内閣府の資料によると、上野駅は地震当日、屋根が落ちるなどの被害にとどまったため、多くの避難者が駅周辺に押し寄せ、ホームや線路にまで人があふれたということです。しかし翌日の2日には上野駅周辺にも火災が広がり、避難者は西側の上野公園に逃げ込みました。鉄道省の「国有鉄道震災誌」によりますと、関東大震災で駅舎は焼け落ちましたが、復旧に向けて動き、9月23日には運輸営業を再開したということです。
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明日も関東大震災関連で、新刊書籍をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

与謝野先生が御病気で中々御重態の事を一昨日平野万里さんからの電話ではじめて知り昨日慶応病院にお見舞い申上げました、一昨日が一番容態が悪く、昨日はよほど持ち直された御様子で此の分ならばまづ安心といふ事でありました、

昭和10年(1935)3月22日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

「与謝野先生」は光太郎の師・鉄幹与謝野寛。「よほど持ち直された御様子」とありますが、蠟燭が消える前の一瞬の煌めきだったようで、3月26日には亡くなりました。死因は気管支カタルでした。

都内から写真展の情報です。

壊死するフウケイ/ Landscape of death

期 日 : 2023年8月8日(火)~8月20日(日)
会 場 : TOTEM POLE PHOTO GALLERY 東京都新宿区四谷4-22 第二富士川ビル1F
時 間 : 12:00~19:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

下総の牧の広野の暁の、空をばいそぐいそぐ水鳥 ー水野葉舟「滴瀝」より

 昭和の激動期に建設された、成田国際空港。政治的問題を抱えながらも、40年以上日本の玄関口としての役割を果たしてきた。現在、成田空港では新しい滑走路の建設が進んでいる。約1000haの建設用地(現在の空港敷地は1198ha)が買収される事で、空港の南東に広がる古くからの里山や明治以来の開墾地が失われてしまうのだ。 私は典型的な里山風景という表象をこの地に求め、失われる農村を撮影しようと試みた。しかし時すでに遅く、過疎化により、集落としての共同体は崩壊しかけ、農地は荒廃していた。聞くところによると、集落の殆どが空港拡張に賛成だと言う。 私は空港拡張に反対する立場ではないが、環境保護が叫ばれている昨今、更に自然に手を加え、大規模な人工物を建造するという事に関しては、一考の余地があるだろう。この風景たちは現代の縮図であり、状況の一部なのだと思う。

 展示では、新滑走路建設により失われる農村風景の写真を中心に、現場で録音されたフィールドレコーディング作品、映像作品の3点で構成される。フィールドレコーディングは写真撮影にちなんで「フォノトグラフィー」とも呼ばれ、今回は風景写真の延長として制作した。映像作品は、静止画では伝わり難い現地の動感を表現するために展示した。この3点をサウンドインスタレーションとして構成する事で現地の雰囲気が一層伝わるよう工夫した。

出典 水野葉舟著 歌集「滴歴」草木屋出版部, 1940
   のら社同人, 北井一夫他箸「壊死する風景―三里塚農民の生とことば」のら社, 1970

水野葉舟 ー 1883-1947 明治ー昭和時代の歌人、詩人、小説家。トルストイや高村光太郎の影響により、大正13年から三里塚駒井野で半農生活に入った。
のら社 ー 写真家北井一夫が主宰する出版社。北井一夫「三里塚」、木村伊兵衛「パリ」などを出版。
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光太郎の親友・水野葉舟の短歌が全体のイメージとして使われています。出典の歌集『滴瀝』(草木屋出版部 昭和15年=1940)は光太郎の装幀・題字です。
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大正12年(1923)の関東大震災後、光太郎は日本画家・山脇謙次郎のために千葉県印旛郡遠山村(現・成田市)の宮内省三里塚御料牧場近くに開墾小屋を設計し、建ててやりました。結局、この地に定着できなかった山脇に代わり、親友の水野葉舟がこの小屋を譲り受け、さらに近くに家を建てて、昭和22年(1947)に没するまで、ここに住みました。光太郎もしばしば葉舟の元を訪れ、詩「春駒」(大正13年=1924)を書くなどしています。

その後、御料牧場は那須に移転、跡地に成田空港が建設されました。空港建設が決まった当初から、いわゆる「三里塚闘争」。用地取得を巡って強引に事を進めた政府に対し、地元農民等が黙っていませんでした。そして現在、拡幅工事。それが終われば倍する面積となります。もはやほとんど反対運動はないそうです。

そこで、まだ僅かに残っている、葉舟や光太郎が愛したこの地の里山や開墾地の風景を撮った写真展。タイトルの「壊死するフウケイ」は、闘争の歴史の中で出版された『壊死する風景―三里塚農民の生とことば』(のら社 昭和45年=1970)から。「壊死」、ドキリとさせられる言葉です。

成田空港を巡る問題は、実に複雑です。あれだけ騒いで開港したものの、結局、羽田の国際線機能が拡大され、何だったの? という部分もありますし……。開港したからには半端な形での運用を続けるな、という意見ももっともですし、さりとて風景を壊死させることが正しいのか、という考えも正論です。ちなみに当方自宅兼事務所は成田の隣町。これを書いている現在も、離着陸する飛行機の爆音が響いています。もはや慣れてしまって、まったく気になりませんが……。

というわけで、写真展「壊死するフウケイ/ Landscape of death」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

青根から土湯へまゐりました。土湯で一番静かな涼しい家に居ます。 もう二三日ここにゐるつもりでゐます


昭和8年9月2日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の療養の旅。「青根」は蔵王青根温泉。「土湯で一番静かな涼しい家」は、福島土湯温泉のさらに奥、一軒宿の不動湯温泉。平成25年(2013)に火災で焼失するまで、光太郎智恵子の泊まった部屋、光太郎が書いた宿帳が当時のまま残っていました。
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焼失後、焼け残った露天風呂を使って日帰り入浴施設として再開しましたが、コロナ禍のためでしょうか、令和3年(2021)から再び休業中です。

現在、都内竹橋の東京国立近代美術館さんでは、光太郎の父・光雲の代表作「老猿」も展示されている「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が開催中ですが、「文化財」つながりで2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻。地元紙『岩手日日』さんから。

有形文化財登録へ 花巻・旧菊池家住宅西洋館 文化審答申

 国の文化審議会(佐藤信会長)は、17日に開かれた同審議会文化財分科会で、登録有形文化財(建造物)に、花巻市御田屋町にある「旧菊池家住宅西洋館」を登録するよう文部科学大臣に答申した。老朽化を理由に一度は解体の話が持ち上がったが、関係者の尽力で保存がなされ、今に伝えられる大正期の洋風住宅。関係者は今後の保存活用に向けた活動の弾みになると答申を喜ぶ。
 旧菊池家住宅西洋館は、花巻出身で全国各地の農業試験場長などを務めた菊池捍(まもる)が1926年に建てた木造一部2階建ての自宅。
 瓦ぶきの半切妻屋根で、長い板材を横に重ねた外壁と縦長窓を並べた外観に、正玄関と通用玄関があり、生活空間と応接空間を分ける武家屋敷の間取りを持ちながらも、洋風天井で全て開戸、しっくい壁と、和洋折衷の独特な雰囲気を醸し出す。宮沢賢治の寓話「黒ぶだう」の舞台となったとも考えられている。
 2005年には老朽化から取り壊しの話が持ち上がり、保存運動が活発化した。07年には市の建造物評価委員会が「保存すべき建物」と結論づけ、市民有志の守る会が発足したが、市の財政支援が見込めないことから解散。盛岡市の医師が10年に購入し、市文化財保護審議会委員で長年調査や保存運動に携わってきた木村清且さん(72)に管理を託した。
 屋根瓦や内装を改修して活用方法を探り、21年には建物の継続的な保存・活用とゆかりの先人の顕彰活動を目的に発足した市民有志で組織する保存・活用委員会(木村清且委員長)が、一般公開と先人を紹介する展示を企画した。
 木村さんは文化財として認められたことを受け、「やっとここまできたという気持ち。先人が生きた証しであり、賢治の世界に迷い込んだような建物。先人の思いを掘り下げ、歴史をくみ上げて賢治の世界を醸し出すようなまちづくりにつなげたい」と話している。
 同市内の登録有形文化財(建造物)は花巻温泉旧松雲閣別館(湯本)が登録されており今回の登録を含め2件、県内では102件となる。
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同じ件でIBC岩手放送さん。

賢治の寓話の舞台にも 旧菊池家住宅西洋館(花巻市)など国登録有形文化財に

 大正時代に建設された花巻市の旧菊池家住宅西洋館など岩手県内で2件が新たに国の登録有形文化財に登録されることになりました。
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 花巻市御田屋町にある旧菊池家住宅西洋館は、1926(大正15)年に建設された洋風建築が特徴で、宮沢賢治の寓話「黒ぶだう」の舞台となったとも考えられています。
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 部屋は和室主体となっていますが洋風の天井で、全て開き戸と和洋折衷の貴重な建造物とされています。
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 明治前期に建設された遠野市の旧高善旅館は民俗学者・柳田國男が定宿としていて、通り土間など遠野の典型的な町屋として貴重な建造物とされています。
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 2階には床構え付の客室もある近代和風旅館のつくりです。今回の2件を含め、岩手県内の登録有形文化財は102件となります。

旧菊池家住宅西洋館、おそらく昭和21年(1946)、花巻郊外旧太田村に隠棲していた光太郎がこの家を訪れ、ピアノ演奏を聴いたというので、一昨年にお邪魔しました。確かに面白い建築でした。

『岩手日日』さんの記事にあるとおり、花巻市内では登録有形文化財(建造物)指定は、花巻温泉旧松雲閣別館に続き、2件目。こちらは光太郎が何度も宿泊した建物で、市内2件の指定がいずれも光太郎がらみの建造物ということになり、喜ばしい限りです。

松雲閣別館の方は、今一つ活用が為されていないようですが、旧菊池家住宅西洋館の方は、さまざまな機会に利用し、町おこしに貢献していただきたいものです。

ところで、今回の答申では、智恵子の故郷・福島二本松市街の「檜物屋酒造店旧店蔵」も登録されました。「文庫蔵」と「仕込蔵」の2件です。檜物屋酒造店は明治7年(1874)の創業。智恵子の祖父・長沼次助が油井村に長沼酒造を興したのは明治16、17年(1883、84)頃。同じ酒造業同士、つながりはあったでしょう。
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上の画像は、かなり後になりますが昭和12年(1937)の『大日本職業別明細図』から。この時点では長沼酒造は破産しているのですが、なぜかまだ智恵子の弟・啓助の名で出ています。

ちなみに檜物屋酒造店さんは健在で、銘酒「千功成」は数々の賞に輝いています。公式サイトでは「智恵子の里は 酒の里 ほんとうの空 ほんとうの酒」と謳ってくださっています。
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もう1件、杉並区さんのサイトから。

4年度の区指定文化財が決まりました(5年3月15日)

 区では、昭和58年度から文化財指定を行っています。令和4年度は、歴史資料1件、考古資料1件を指定しましたのでご紹介します。

(1)【区指定有形文化財(歴史資料)】尾崎喜八関係資料(ガラス乾板附ネガフィルム)747点
本資料は、大正末期から昭和戦前期にかけて杉並区に住んだ詩人・尾崎喜八が杉並区内外の風景・人物などを撮影したガラス乾板とネガフィルムです。
 同資料からは、尾崎の嗜好や生活環境、交友関係などが窺えると同時に、カメラが希少な時期に撮影された区内外の写真は全体として貴重であり、農村の面影を残す当時の区内の自然や生活風景も収められています。
 写真を自らの創作の背景を説明する手段としても利用した尾崎の乾板は、尾崎自身や作品の理解に資する資料であり、詩人・尾崎喜八を考察する上で欠く事の出来ない貴重な資料です。
【所在】郷土博物館(杉並区大宮1丁目20番8号)

昨年12月から先月にかけ、杉並区立郷土博物館さんで開催された企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」で一部が展示された、尾崎喜八撮影の古写真が区の文化財に指定されたとのこと。同区在住当時の尾崎が撮った戦前の写真が中心でしょう。ビジュアル的に当時の様子をつかむには、写真は最適ではありますが、写真を文化財指定するという区の英断には頭が下がります。
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気になるのは「杉並区内外の風景・人物などを撮影」となっていること。となると、尾崎は駒込林町の光太郎アトリエでも数葉の写真を撮影しており、それも含まれるのかな、と思いました。

この写真も尾崎の撮影です。
駒込林町アトリエ
また、光太郎のポートレートも。
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ともに昭和8年(1933)2月のものです。

それから、下記は尾崎一家と光太郎。
喜八撮影
これには尾崎自身が写っており、当時、セルフタイマーというものは無かったのではないかと思われ、そうすると他の人物の撮影ということになりますが、どうなのでしょう。カメラの歴史に詳しい方、御教示いただければ幸いです。

また、4月2日(日)日比谷松本楼さんで開催予定の第67回連翹忌の集いに、尾崎令孫の石黒敦彦氏もご参加下さり、写真の一部をご持参、展示して下さるそうなので、訊いてみようかとは思っております。

さて、文化財指定。

形有るものはすべていずれその形を失うものではあります。だからと言って、失われるに任せるのではなく、少しでも失われるまでの時間を延ばすことは可能なわけで、そうした意味では文化財指定は有効な手段の一つでしょう。

そして、指定して終わりではなく、先述しましたが、指定後の有効活用も重要ですね。今回指定されたもろもろも、そうなっていって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

あゝ彫刻が作りたい。


明治43年(1910)10月10日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳

「じゃあ、作れよ」とツッコミたくなりますが、ことはそう簡単ではありません。前年に欧米留学から帰ってからの光太郎、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界とは距離を置くことを決意しましたので、作っても発表する機会は無し、自分で売りさばくことも無名の自分には不可能、という状況でした。

光太郎の生涯にたびたび訪れた、彫刻制作空白の時期、その最初のものです。








先日の渡辺正治氏に続き、またしても生前の光太郎をご存じの方の訃報です。

時事通信さんから。

田沼武能さん死去、93歳 世界の子ども撮影、文化勲章

100 世界の子どもや下町の風景などを長年記録し続けた写真家の田沼武能(たぬま・たけよし)さんが東京都内の自宅で死去したことが2日、分かった。93歳だった。東京都出身。葬儀は親族のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は妻敦子(あつこ)さん。
 東京・浅草の写真館に生まれた。東京写真工業専門学校(現・東京工芸大)を卒業後、木村伊兵衛に師事。月刊誌「芸術新潮」の嘱託写真家として小説家や美術家ら文化人の肖像を撮り、米タイム・ライフ社の契約写真家としてフォト・ジャーナリズムの世界でも活躍した。
 1972年に同社との契約が終了し、ライフワークとして世界の子どもたちを撮影。国連児童基金(ユニセフ)親善大使の黒柳徹子さんの各国訪問にも同行し、120を超える国と地域に足を運んだ。
101 日本写真家協会会長、日本写真著作権協会会長、日本写真保存センター代表などを歴任し、写真家の地位向上やフィルムの保存活動に尽力した。東京工芸大教授として後進の指導にも熱心に取り組んだ。
 長年の業績が認められ、85年に菊池寛賞を受賞。90年に紫綬褒章、2002年に勲三等瑞宝章を受け、03年には文化功労者に選ばれた。19年、写真家として初めて文化勲章を受章した。

氏が文化勲章を受章された際の投稿で詳しく書きましたが、氏は昭和27年(1952)、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後、複数回、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪れ、光太郎を撮影なさっています。残念ながら光太郎日記にお名前は記されていませんが。

また、光太郎令甥でやはり写真家だった髙村規氏とは、同じ木村伊兵衛門下ということで親しくなされ、平成26年(2014)の規氏のご葬儀では、弔辞を読まれています。当方、氏にお会いしたのはこの時が最初で最後でした。

今朝の『朝日新聞』さんでは、一面コラムで氏のご逝去に触れています。

天声人語

日本を代表する写真家、田沼武能(たけよし)さんが楽しそうに見せてくれたのは、1冊667円の薄い冊子だった。子どもの素朴な笑顔が満載。「こういう写真集を作りたかったんだよ。立派な表紙の高い本じゃなくてさ」と笑った▼生涯かけて子どもの表情を撮った。ソマリアの廃墟で遊ぶ男児たち。津波に襲われたインドネシアの少女。極限化でなお好奇心あふれる瞳を鮮やかに写した▼原点は東京大空襲にあった。浅草の自宅近くで黒こげの幼児の遺体を見た。防火水槽の中に立った姿だった。母親が炎の熱から「せめて水の中に」と入れたに違いない。幼児の表情は神々しく、地蔵のように見えたという▼「戦場はどうしても撮りたくない」。米誌「ライフ」との契約の際は、ベトナム戦争の取材を勧められても固辞した。報道写真家として名を上げる好機だったが、「空襲で死体をいやになるほど見た。戦争の悲惨を撮る気にはなれませんでした」▼そんな思いを直接伺ったのは3年前の春のこと。月給の16倍もするライカが欲しくて生活費を極端に切り詰め、「タヌちゃんは趣味倹約貯蓄」とからかわれたこと。南米アンデスを撮るため自宅を抵当に入れて出張資金を捻出したこと。欲や得にまどわされぬ人生談義に時のたつのを忘れた▼永遠のカメラ小僧が93歳で旅立ったと聞き、667円の冊子を読み返してみた。題は『地蔵さまと私』。焼け野原の街で見た黒こげの地蔵の記憶が、子どもに向けたやさしい言葉でつづられていた。

『朝日』さんは、氏がかつて会長を務められていた全日本写真連盟の後援に入っている関係もあり、社会面でも大きく取り上げていました。長いので全文引用しませんが、末尾の黒柳徹子さんのコメントのみ。氏はユニセフ親善大使としての黒柳さんの海外訪問等に同行し、125カ国以上を廻られたそうです。

黒柳徹子さん 「世界一上手」

 黒柳徹子さんは2日、コメントを寄せ、「子どもを撮ったら世界一というくらい、子どもの写真を上手に撮りました。秋ごろに、ユニセフの視察に行く約束をしていました。『93歳でも子供たちのところに行こうとなさっていたのか!!』と、改めて感動したのです」と追悼した。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】103

中央公論社より、栗本、松下、宮本氏三氏くる、紙絵展の事、


昭和28年(1953)1月8日の日記より 光太郎71歳

「紙絵展」は、智恵子の紙絵展。翌月2日から、丸ビル内の中央公論社画廊で開催されました。都内では光太郎帰京前の昭和26年(1951)に開催されたのに続き、2度目でした。


少し前のものですが、3月に駒場の日本近代文学館さんから発行された『日本近代文学館年誌-資料探索』17号、注文しておいたものが届きました。

B5判167ページ、目次的には以下の通り。

エッセイ
 文は人なりき 中村明
 調べることの楽しさと限界 樽見博
 フランスにおける日本文学の受容 ――翻訳と研究の近況 坂井セシル
 有島生馬の小説「彫千代」と関連資料について 山本芳美
 『谷崎潤一郎と書物』その後 ――『春琴抄』赤表紙本の謎 山中剛史
 とうに終わっていた「女流文学」 水村美苗
論考
 内田魯庵訳『小説罪と罰』と二葉亭四迷 高橋修
 耐震元年の「五重塔」――濃尾大地震と〈暴風雨〉 馬場美佳
 尾崎紅葉と高村光太郎 ――その肖像制作をめぐって―― 吉田昌志
 獅子文六「やっさもっさ」原稿にみる「混血児」・売春婦・女のビジネス 小平麻衣子
 漱石「野分」前後と絵画の領域 ――『草枕絵巻』を補助線として―― 関礼子
資料紹介
 資料翻刻 伊藤整宛諸氏書簡 ――チャタレイ裁判関係書簡を中心に 
  青木裕里香・石川賢・小川桃・加藤桂子・田村瑞穂・土井雅也・信國奈津子・宮川朔
  ・宮西郁実

昭和女子大学教授・吉田昌志氏による「尾崎紅葉と高村光太郎 ――その肖像制作をめぐって――」が目当てで注文いたしました。

尾崎紅葉は『金色夜叉』で知られる小説家。慶応3年(1868)の生まれで、光太郎より15歳年長です。胃ガンで亡くなったのは明治36年(1903)、数えで36歳ということになり、早世と言っていいでしょう。何となく「明治文壇の重鎮」的なイメージがあって、これは意外でした。

光太郎、紅葉とは文学的な交流ではなく、彫刻の制作を通しての関係がありました。確認できている限り、光太郎は紅葉の肖像彫刻を3点作っています。

 紅葉は、死ぬ少し前に肖像を作ったんだ。研究科の頃で、二、三日通って寝床のそばで作った。それを家に帰って完成したんだが、大きいのと小さいのと二つ石膏で作った。一つは紅葉にあげたかも知れない。寝床のまわりに、鏡花・風葉等の弟子がいっぱい取り囲んでいて、その隅で作ったんだ。痩せている紅葉だな。それでも洒落をとばしたりしていた。
(「高村光太郎聞き書」昭和30年=1955)

これで2点。ただし、この2点は現存が確認出来ていません。時に光太郎数え21歳、東京美術学校の本科を卒業後、研究科に残っていた頃です。この後、西洋画科に入り直し、さらに明治39年(1906)には欧米留学へと旅立ちました。

そしてもう1点は、紅葉が亡くなった直後、東京帝国大学医科大学で、紅葉の遺言により解剖が施された際の制作。光太郎は解剖に立ち会い、その印象をもとに「解剖台上の紅葉山人」という塑像を仕上げました。

こちらは幸い、現存が確認出来ています。
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さらに素描も。
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この時期、光太郎は当時の文化人の中で、これは、と思う人物の肖像彫刻を作ることを企図しており、元々紅葉もその中の一人としてターゲットにしていました。そこで、紅葉の親戚だった小説家・劇評家の山岸荷葉の知遇を得、尾上菊五郎や紅葉に繋ぎを取ろうとしました。そのあたりはたまたま残っていた明治36年(1903)の日記に記述があります。ところが残念ながら、紅葉像を制作したり解剖に立ち会ったりした時期の日記は失われています。

さて、吉田氏の論考。上記のような光太郎サイドの記録(実弟・豊周の証言等を含め)の他に、紅葉サイドのそれが細かく紹介されていて、非常に興味深く拝読いたしました。

中でも驚いたのは、紅葉の解剖時の写真が掲載されていたこと。元ネタは吉田精一旧蔵の『阿免乃安渡』、紅葉の葬儀写真集で、日本近代文学館さんに所蔵されているそうです。これは存じませんでした。
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この中には光太郎の姿もあるとのこと。ただ、手前の人物の頭に阻まれて、よくわかりません。それにしても、明治36年(1903)にはまだ美校の研究生だった数え21歳の光太郎にしては、貫禄があるような気もします。むしろ矢印の人物の後の学生服二人組のうちの、右側の長い顔の方が光太郎なのではないかと感じます。矢印の人物の髪が長いのも気になるところです。これまでに確認出来ている明治37年(1904)の写真では、光太郎は坊主頭です。
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ことによると『阿免乃安渡』には細かな説明が書いてあって、「これは誰々」と特定出来るのかもしれませんが……。

最後に紅葉逝去に際し、光太郎が詠んだ歌。翌年1月の第一期『明星』辰歳第1号に「白斧」の総題で発表されたうちの一首です。

やがて見む国に巨人の生(あ)れし日をさらば讃へよとばかり泣かる(紅葉山人の死に)

さて、『日本近代文学館年誌-資料探索』17号、オンラインで入手可です。頒価1,040円(送料別途)とのこと。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方エントツ屋くる、とりつける、ストーブよくもえる、


昭和27年(1952)12月24日の日記より 光太郎70歳

場所は終焉の地となった中野の貸しアトリエです。ストーブは前日、大枚19,500円を払って購入しました。2ヶ月前まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋では囲炉裏生活だったことを考えると、格段の違いですね(笑)。
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膝に掛けているのは、かつて智恵子にせがまれて買ったエセル・メレ作のホームスパンの毛布かと思われますが、この写真では判然としません。

2月5日(土)付けの『毎日新聞』さん、「今週の本棚」欄。

堀江敏幸・評 『写文集 我が愛する詩人の伝記』=室生犀星・文、濱谷浩・写真 詩人たちの横顔を捉えた卓抜な批評

001 室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』は、一九五八年一月から十二月にかけて『婦人公論』に同題で連載された文章をまとめたものである。犀星没後六〇年として編まれた本書が写文集と題されているのは、初出時に犀星の散文に寄り添っていた濱谷浩の写真を呼び寄せているからだ。じつは写真の方も『詩のふるさと』として、犀星の本と同時に世に出ていた。
 濱谷浩の写真は、その清潔な構図と節度のある抒情(じょじょう)をもって、輪郭のない犀星の散文をみごとに支えている。詩人たちのゆかりの土地を訪ねて切り取ってきた鮮やかな映像と選ばれた詩との相乗効果で、収められた十二篇は文学紀行にもなっている。  北原白秋と柳河、高村光太郎と阿多多羅山・阿武隈川、萩原朔太郎と前橋、釈迢空と能登半島、堀辰雄と軽井沢・追分、立原道造と軽井沢、津村信夫と戸隠山、山村暮鳥と大洗、百田宗治と大阪、千家元麿と出雲、島崎藤村と馬籠・千曲川、そして作者犀星と金沢。濱谷浩の写真と並べると、詩の言葉に、書き手が触れた土地や人肌から発せられる気のようなものが含まれていることに気づかされる。
  しかし本書の真の魅力は、独特の律動を持った犀星の、手びねりの文章にある。純真で遠慮のない子どもとずる賢い大人が共存しているまなざしで捉えられた詩人たちの横顔は、いったんゆがみ、しばらくすると元にもどってあたらしい真実となり、知らぬ間に卓抜な批評として読者の心に焼き付けられるのだ。
 たとえば師の白秋が、詩誌『朱欒(ザムボア)』に投稿された犀星の詩について、十年後に酒の席でその原稿の字のひどく拙かったことを「ひときわ真面目な顔付」で指摘し、ではどうして採用してくれたのかと問われると、「字は字になっていないが詩は詩になっていたからだ」と答えた話。白秋の慧眼(けいがん)は犀星の文学の根を簡潔に言い当て、犀星はその現場の空気を逃さず、ぎゅっと拳に包む。白秋は犀星を「故郷の郷という字も碌(ろく)にかけない男だ」と評しているのだが、最もよく知られた犀星の詩「小景異情」の、遠きにありて思うものとしてのふるさとは、漢字が書けない男だから生まれたのだとつい言いたくなる陽性の逸話だ。
 犀星とおなじく白秋の雑誌の投稿者として親友となった萩原朔太郎との関係も控えておきたい。「私がたちの悪い女で始終萩原を追っかけ廻(まわ)していて、萩原もずるずるに引きずられているところがあった」。酒を飲み、口論して別れた晩の犀星は恋人に振られたように黙して「何処(どこ)に行ってもおちつきがなかった」という。理に立つ男と理を拒む男の、隔たりがあるからこその愛憎が、危うい譬(たと)えの中で小説の一場面になる。
 高村光太郎を智恵子に照らした一節にも、残酷な性愛の匂いがある。「かれが死ぬまで、智恵子の肉体がかれのお腹(なか)のうえにあって、かれの胃と腸をあたためていた」。「かれ」を無造作に繰り返すこんな寸評に触れると、光太郎の詩にはやわらかい腹部があって、大きな手がその上で見えない言葉の卵を包んでいるとしか思えなくなってくるだろう。その卵を孵化(ふか)させるのが詩の器だとすれば、愛する知友について四苦八苦しながら、字になっていない字で綴(つづ)っていた犀星こそ、真正の詩人と呼ばれるべきかもしれない。

写文集 我が愛する詩人の伝記』の書評、先月には和合亮一氏のそれが、『産経新聞』さんに掲載されましたが、今度は堀江敏幸氏の評。同書、錚々たる方々の歓心を買っているようです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

東京より毎日新聞出版部の三井良尚といふ人来訪、土方定一氏の紹介状持参、「日本の詩歌」総論執筆の件。結局承諾。


昭和27年(1952)1月15日の日記より 光太郎70歳

002『日本の詩歌』は、毎日新聞社から昭和29年(1954)4月に刊行されました。

その年1月の『毎日新聞』に連載された光太郎の評論「日本詩歌の特質」(日記にある「総論」でしょう)を巻頭に置き、その他、「日本の詩歌の系譜」(吉田精一)、「現代詩概観」(三好達治)、「近代短歌」(木俣修)、「近代俳句」(加藤楸邨)から成ります。
 
光太郎が編者となっていますが、実務は毎日新聞社図書編集部でした。

どうした事情があったのか不明ですが、依頼から執筆、刊行までけっこうなタイムラグがありました。

昨日は群馬県に行っておりました。

メインの目的は、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんで開催中の第114回企画展「写真で見る近代詩—没後20年伊藤信吉写真展—」の拝見。先月から始まっていたのですが、昨日、関連行事として写真家の小松健一氏のご講演があり、それに合わせて行って参りました。
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伊藤信吉は、初代同館館長。明治39年(1906)現・前橋市生まれで、戦前から同郷の萩原朔太郎をはじめ、朔太郎つながりで室生犀星、一時期群馬に住んでいた当会の祖・草野心平、そして戦後は光太郎などと深い交流がありました。

そして日本近代詩史に関し、厖大な評論等を残した他、実際に日本全国の近代詩「歌枕」を訪れ、写真を撮影、紀行文も書いています。今回の企画展は、その「写真」をメインに据えたものでした。
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展示会場に入ってすぐ正面、伊藤の著書、編著等の書誌が巨大なパネルに。主要なものは書影写真入りで、見応えがありました。光太郎に関するそれも非常に多く、当方もそれらからどれだけ啓示を受けたか知れません。このパネルは今回だけのものではなく、永久保存していただきたいものだと思いました。

入って右手に伊藤の年譜。光太郎との関わりにも言及されていました。

そしてメインの写真系。

前半「伊藤信吉が旅した近代詩の世界」は、写真の他に、光太郎を含む18人の詩人について主要作品の抜粋と、昭和41年(1966)に刊行された『詩のふるさと』、同45年(1970)の『詩をめぐる旅』から、伊藤の紀行文の一節がパネル展示。
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光太郎に関しては、『詩のふるさと』に書かれた、智恵子の故郷・福島二本松を紹介する「樹下の二人」。
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18人中、光太郎を含む8人(他に朔太郎、島崎藤村、室生犀星、中原中也、峠三吉、北原白秋、伊藤自身)のパネルは、図録(500円)にも転載されていました。
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後半は「カメラを通して語られる伊藤信吉の抒情風景」と題し、写真のみずらっと30葉ほど。
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このうち№28の「岩手県花巻市にて 餓死供養碑」は、光太郎詩碑も三基ある、花巻市街の松庵寺さんでの撮影で、「ありゃま、松庵寺さんだ」という感じでした。

写真系は壁面を使っての展示でしたが、フロアにはガラスケースに収められ、伊藤の著書、原稿、愛用のカメラ・ニコンF、取り上げられた各詩人の書簡、草稿などが展示されていました。
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光太郎から伊藤宛の葉書も3通。すべて『高村光太郎全集』所収のものですが、「ほう」という感じでした。

それにしても、伊藤の事蹟をたどることが、イコール日本の近代詩史を俯瞰することにもつながると、改めて実感させられました。

展示を拝見後、関連行事としての、写真家・小松健一氏のご講演を拝聴。小松氏、やはり群馬で育たれ、伊藤とも交流が深く、そうしたご縁などについて語られました。また、伊藤の『詩のふるさと』、『詩をめぐる旅』同様、日本近代詩の「歌枕」をめぐる写真集の決定版的なものもいずれ出版したい、ということでした。既に平成11年(1999)には、『詩人を旅する』という写真集、さらに一昨年には『写真家の心 詩人の眼』という書籍も出されていますが、期待したいところです。
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明日も群馬レポートを続けます。

【折々のことば・光太郎】

厳寒、凍結、0下10度4分 ねてゐるうち黒沢尻の教員斎藤氏及女性来訪、ねてゐて挨拶、そんまま帰る、せんべいもらふ、


昭和27年(1952)1月9日の日記より 光太郎70歳

黒沢尻の教員斎藤氏」は、斎藤充司。斎藤の旧蔵の光太郎写真、書など、智恵子の故郷・二本松の岳温泉にある「あだたらの宿扇や」さんで入手され、展示されています。

斎藤は、ほぼ1年前の昭和26年(1951)1月8日にも光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪ねていますが、この時も「ねてゐうちち黒沢尻より斎藤充司氏他4人の小学教師遊びにくる」ということで、光太郎の寝込みを襲う(笑)常習犯だったようです。光太郎が宵っ張りの朝寝坊だったのかもしれませんが(笑)。

都内から写真展の情報です。

髙村達写真展「髙村光雲の仕事」

期 日 : 2022年2月3日(木)~2月9日(水)
会 場 : 日本写真会館 東京都新宿区四谷1丁目7番地12
時 間 : 午前 10 時~午後 6 時(最終日は午後 3 時終了)
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

石膏作品に当たる光と影が微妙なディテールを表現し同じ素材である石膏のペーパーに表現を残していく。
フレスコ画でも有名なインクジェットペーパーによる表現になります。彫刻作品と写真作品を表現できるのか?写真家として残すべきことが私の道程である。
曾祖父「髙村光雲の仕事」では石膏原型から木彫まで道具も含めレンズを透した写真作品を展示いたします。
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家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ、実弟にして鋳金分野の人間国宝髙村豊周の令孫(=光雲の令曾孫)・髙村達氏の写真展です。

上野の東京藝術大学さんで昨年開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展で、光雲・光太郎・豊周それぞれの作品、石膏原型、道具類などが並び(達氏の写真もタペストリーなどで展示)ましたが、今回はそれらを撮影した写真がメインのようです。

コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

選集第三回分を尾崎喜八、宮崎稔氏、田口弘氏宛の小包をつくる、


昭和26年(1951)12月22日の日記より 光太郎69歳

選集第三回分」は、中央公論社版『高村光太郎選集』第三回配本の第五巻「随筆(上)」。当会の祖・草野心平による編集に協力した、元埼玉県東松山市教育長・田口弘氏にも贈られました。

田口氏、書籍本体はもちろん、この際の小包の包装紙まで大事に保存。亡くなる前に他の光太郎関連の品々と共に同市へ一括して寄贈され、現在は同市の市立図書館内に設けられた「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」で展示されています。
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現在発売中の『週刊新潮』さん1月20日号。巻末近くのグラビア的な記事のページに光太郎の名と写真――という情報を、お世話になっている坂本富江様から御教示いただき、早速買って参りました。
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「没後100年「森鷗外」 文豪の”顔は履歴書”」という3ページの記事で、文京区立森鴎外記念館さんで開催中の特別展「写真の中の鴎外 人生を刻む顔」とリンクしたものです。
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光太郎と鷗外の出会いは、光太郎が東京美術学校在籍中だった明治31年(1898)と推定されます。この年、鷗外が美学の講師として美校の教壇に立ち、光太郎もその講義を受けました。もっとも、鷗外邸と光太郎の実家は指呼の距離でしたので、それ以前に道端ですれ違ったりしていた可能性もありますが……。

光太郎には、軍医総監だった鷗外の講義ぶりなどが権威的に感じられ、あまり親しめなかったようです。後に鷗外が自宅で開いた観潮楼歌会、呼ばれても1度かそこらしか顔を出しませんでした。そして「軍服着せれば鷗外だ」事件

一方の鷗外。明治末、留学から帰った光太郎が徴兵免除になったのは、光雲に頼まれた鷗外が裏で手を回したからという説があります。
 
光太郎は鷗外を尊敬しながらも反発し、しかし頭が上がらず、鷗外は光太郎を「しょうもない奴だ」と苦笑しながらもかわいがる、といった関係でした。

で、『週刊新潮』さんに載った、光太郎も写っている写真。
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場所は上野の精養軒さん、時は明治44年(1911)、光太郎の師・鉄幹与謝野寛の渡欧送別会の席上です。昭和59年(1984)刊行の『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』等にも掲載されており、初見ではありませんが、ドンと大きく載っていたので「おお」という感じでした。

前列中央で膝掛けをしているのが鷗外、一人置いて右から二人目が主賓の鉄幹です。光太郎は後列左から4人目(『週刊新潮』さんでは「後の口髭は高村光太郎」と書かれています(笑))。左隣は佐藤春夫、右隣に江南文三、万造寺斉、北原白秋、木下杢太郎と続き、中々錚々たるメンバーです。ちなみにオリジナルはもっと横長の写真で、右端に『野菊の墓』の伊藤左千夫も写っていますが、『週刊新潮』さんではカットされています。

鴎外記念館さんで開催中の特別展「写真の中の鴎外 人生を刻む顔」では、この写真も出品されているのでしょう。

興味のある方、足をお運びいただき、さらに『週刊新潮』さんもお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

院長さんの息進さんと熊谷さん父子来訪、山鳥一羽、カリフラワ、セロリ、砂糖等もらふ、新小屋で談話、夕方学校まで送る、ダツトサンで帰らる、


昭和26年(1951)11月21日の日記より 光太郎69歳

「院長さん」は、花巻病院長・佐藤隆房。光太郎歿後は花巻高村記念会を立ち上げ、永らく会長を務められました。「息進さん」は、隆房の子息にて、花巻病院長、花巻高村記念会長を嗣いだ佐藤進氏です。

群馬県から企画展情報です。

第114回企画展「写真で見る近代詩—没後20年伊藤信吉写真展—」

期 日 : 2022年1月15日(土)~3月13日(日)
会 場 : 群馬県立土屋文明記念文学館 群馬県高崎市保渡田町2000
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 火曜日
料 金 : 一般410(320)円、大高生200(160)円 ( )内は20名以上の団体割引料金
      中学生以下、障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料

前橋市出身で詩人・評論家として活躍し、当館の開館時館長を務めた伊藤信吉は、昭和30年代末から約10年をかけて、全国の詩人ゆかりの地を訪ねました。それは、詩人としての伊藤の人生に大きな視点の変化をもたらすものでした。
本展では、高度経済成長期の激変する社会の中で伊藤が見、写真に残した風景を、その土地と詩人との結びつきに着目した紀行文とともに展示します。令和4年の新春は、文学館で名詩を巡る旅に出かけてみませんか。
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関連行事

記念講演会1「写真家の心 詩人の眼 —伊藤信吉さんのこと」
 令和4年2月5日(土)14:00~15:30  講師 小松健一 氏(写真家)
 定員100名 無料 要事前申込

記念講演会2「《ひらく》詩の世界 —伊藤信吉、旅の先にあるもの—」
 令和4年3月5日(土)14:00~15:30  講師 東谷篤 氏(日本社会文学会理事)
 定員100名 無料 要事前申込

展示解説
 1月15日(土)、1月30日(日)、2月19日(土) 各日14:00~(20分程度)要観覧料 申込不要

同館初代館長で、生前の光太郎とも交流の深かった伊藤信吉。展示解説にあるように、昭和30年代末から約10年をかけて、全国の詩人ゆかりの地を訪ね、写真を撮影し、紀行文にまとめました。

まず、昭和41年(1966)の『詩のふるさと』、同45年(1970)には『詩をめぐる旅』。共に新潮社さんから刊行されました。
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『詩のふるさと』の目次は以下の通り。

 さいはての町 釧路(石川啄木)     雪の曠野の旅 空知川(石川啄木)
 砂山の思い出 函館(石川啄木)     ふるさとの歌 渋民村(石川啄木)
 空知川の岸辺 歌志内(国木田独歩)   情感の物語 小樽(伊藤整)
 浜風のなでしこ 塩谷・忍路(伊藤整)  花の田舎唄 津軽(福士幸次郎)
 湖畔の乙女像 十和田(高村光太郎)   樹下の二人 阿多多羅山(高村光太郎)
 山麓の二人 裏磐梯(高村光太郎)    自己流謫の地 岩手(高村光太郎)
 北上川の畔 花卷(宮沢賢治)      地人・土地の愛 花卷(宮沢賢治)
 古城にうたう 仙台(土井晩翠)     懐郷の国語読本 上小川(草野心平)
 利根のアカシヤ 前橋(草野心平)    波宜亭の秋 前橋(萩原朔太郎)
 追憶の古き林 前橋(萩原朔太郎)    おだまきの花 山科(萩原朔太郎)
 山脈の方へ 三国峠(高橋元吉)     雲に寄せて 大洗(山村暮鳥)
 蓮に書ける歌 不忍池(与謝野鉄幹)   都会の触手 東京(萩原恭次郎)
 「はけ」の村の記憶 多摩(村野四郎)  旅人かえらず 相模川(西脇順三郎)
 湖畔の亡命者 山中湖(金子光晴)    湖に凍る歌 山中湖(金子光晴)
 秋の夜をこめて 甲府盆地(尾崎喜八)  高原に立って 美ヶ原(尾崎喜八)
 浅間山麓の村 追分(立原道造)     生涯の秋の歌 追分(立原道造)
 林檎の花の慕情 馬籠(島崎藤村)    千曲川のほとり 小諸(島崎藤村)
 伝説の荒い海 親不知(中野重治)    荒涼の旅情 親不知(中野重治)
 裏日本の村 生地(田中冬二)      湖面の星座 松江(田中冬二)
 犀川のほとり 金沢(室生犀星)     雪に萌える春 金沢(室生犀星)
 朝明けの空の雁 洲崎(室生犀星)    切なき思いぞ 軽井沢(室生犀星)
 砂丘の夜の流星 内灘(井上靖)     薬種商の町で 富山(井上靖)
 豪奢なる亡び 京都(村山槐多)     「葦の地方」で 大阪(小野十三郎)
 市民精神の歌 堺(与謝野晶子)     追憶の夜の雨 奈良(西条八十)
 紀の国の五月 新宮(佐藤春夫)     「愚者」の墓地 新宮(佐藤春夫)
 名も知らぬ花 犬吠岬(佐藤春夫)    金釘流の母たち 播磨(坂本遼)
 一輪の花の幻 広島(原民喜)      人間を返せ! 広島(峠三吉)
 水は流れて…… 長門峡(中原中也)   ふるさとの風 湯田(中原中也)
 GONSHAN.GONSHAN. 柳川(北原白秋) 水の上の廃市 柳川(北原白秋)
 利休鼠の雨 城ヶ島(北原白秋)     落葉松の林 軽井沢(北原白秋)
 泥海の物語 有明海(伊東静雄)     帰郷者の墓 諫早(伊東静雄)
 殉教者たちの声 長崎(大江満雄)    山村の天主堂 大江(木下杢太郎)
 雨の放牧場で 草千里浜(三好達治)   二十年の回憶 草千里浜(三好達治)
 西南戦争の後に 阿蘇(落合直文)    叢の中の礎石 都府楼址(伊藤信吉)

同じく『詩をめぐる旅』。

 北海の日の在処 オホーツク(北原白秋) 渚の黒い人影 北見・網走(中野重治)
 「海の捨児」の碑 塩谷(伊藤整)    シャコタン紀行 古平(吉田一穂)
 修道院の鐘の音 当別(吉田一穂)    月夜の連絡船(吉田一穂)
 星形の洋式城趾 五稜郭(秋山清)    最北端の夏の海 野寒布岬(草野心平)
 十三の砂山唄 北津軽(草野心平)    花輪の中の富士 荒川土堤(草野心平)
 雪国のオルガン 岩根沢(丸山薫)    まんさくの花 岩根沢(丸山薫)
 牧歌的な聖地 小岩井農場(宮沢賢治)  畦道の墓花 雫石(宮沢賢治)
 鹿踊りの高原 種山ヶ原(宮沢賢治)   濃霧の夜の航路 三陸海岸(高村光太郎)
 千鳥の足あと 九十九里浜(高村光太郎) 国境の工事現場 清水トンネル(高村光太郎)
 冬の夜の火星 駒込台地(高村光太郎)  若菜の萌える春 仙台(島崎藤村)
 「椰子の実」の歌 伊良子岬(島崎藤村) 松山のひぐらし 平潟(西條八十)
 生と死の荒海 銚子君ヶ浜(三富朽葉)  郷愁をこめて 水郷潮来(野口雨情)
 沖に鳴る石臼 房州布良(金子光晴)   燈台の物語 房州白浜(金子光晴)
 潮流の連絡船 関門海峡(金子光晴)   早春の芽立ち 荒川(森山啓)
 葉ざくらの陰に 東京九段(白鳥省吾)  もろこし村の秋 河口湖(堀口大学)
 霜の溶ける「声」 鎌倉円覚寺(高見順) 峠路の道しるべ 飯能・入間(蔵原伸二郎)
 家郷への渇き 品川沖(萩原朔太郎)   監獄裏の雑木林 前橋(萩原朔太郎)
 敗亡者の墓銘 国定(萩原朔太郎)    海水旅館の灯 鯨波海岸(萩原朔太郎)
 出稼ぎの別れ 赤城山麓(萩原恭次郎)  望郷の山上湖 榛名湖(山村暮鳥)
 風の町の思い出 高崎(福永武彦)    漁師町の年月 戸田(福永武彦)
 蒟蒻村紀行 下仁田(西脇順三郎)    「分去れ」の歌 追分(立原道造)
 北佐久の「村人」 佐久(佐藤春夫)   高原牧地の憂愁 野辺山(尾崎喜八)
 旅の途次の音楽 安曇野(尾崎喜八)   山の抒情日誌 戸隠(津村信夫)
 啄木鳥の橡量り 野麦街道(田中冬二)  風車をまわして 糸魚川(田中冬二)
 失われた砂山 新潟(市島三千雄)    松林の蔭の尼寺 金石(室生犀星)
 粉雪の舞う港 能登七尾(室生犀星)   古都漂泊の歌 西陣(室生犀星)
 砂山に描く面影 利根河畔(室生犀星)  昔の日の暮れ 福井(中野鈴子)
 断崖の水仙花 三国(三好達治)     志賀高原の四季 発哺・上林(三好達治)
 旅の終りの鷗鳥 伊豆西海岸(三好達治) 砂浜の網の花 安乗崎(伊良子清白)
 壁にのこる楽書 尾張一宮(佐藤一英)  物質的な感動 飛騨(小野十三郎)
 火を噴く砂丘 鳥取(小野十三郎)    別離を思う旅 日の御碕(木下夕爾)
 中国山脈の野分 伯耆大山(井上靖)   幻の石楠花の花 比良(井上靖)
 煙まやまやと 神戸(八木重吉)     海図の導く死 小豆島(生田春月)
 ふるさとの墓山 宿毛(大江満雄)    街の石油ランプ 宿毛(大江満雄)
 「新しき村」の歌 日向(武者小路実篤)

これらの中から、パネル展示などがなされるようです。ぜひ光太郎も取り上げていただきたいところです。

それから関連行事の講演会。2月5日(土)の講師を務められる写真家の小松健一氏、伊藤の著書と同じようなコンセプトの『詩人を旅する』という書籍を刊行されています。平成11年(1999)、草の根出版会さんの「母と子でみる」という叢書の一冊です。

こちらの目次は以下の通り。

 啄木の流離を巡る北の旅006
 啄木が青春を謳歌した盛岡
 啄木、中学生の時の思い出
 賢治の感性を育んだイーハトーブ
 茂吉のこころ映す最上川の急流
 自己を罰した奥羽の山小屋
 牧水が好んだ上州「枯野の旅」行
 赤城おろしの中にきく望郷歌
 雨あがりの浅間山麓の虹
 藤村を酔わした千曲川の蒼き流れ
 木曽谷・大妻籠の夜明け
 遠きふるさと 能登・犀川の原風景
 春夫が愛した五月の紀の国
 晶子を育てた自由都市・堺
 にんげんをかえせ 峠の叫び聞く広島の夏
 中也20歳 詩人への宣言
 白秋詩歌の母体 水郷柳川
 火の国・阿蘇 雨の草千里浜

色を変えておきましたが、「自己を罰した奥羽の山小屋」の章が、光太郎関連。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋が中心ですが、智恵子の故郷、福島二本松も扱われています。

小松氏、光太郎の代わりに髙村家を嗣いだ実弟の豊周令息の故・髙村規氏と、日本写真家協会の役員を共に務められるなど、旧知の仲だったそうで、氏のブログには昨年末に開催された東京藝術大学大学美術館正木記念館さんでの「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展レポートなども載っていました。

これは行かざあなるめい、ということで、講演の拝聴申し込みを致しました。後ほど、展示と併せてレポートいたします。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

塩がまの人佐久間氏といふ人新婚にて花巻松雲閣より八重樫マサさんの案内で来訪、前田夕暮の弟子の由。


007昭和26年(1951)11月9日の日記より 光太郎69歳

八重樫マサ」は花巻温泉松雲閣の仲居さん。たびたび光太郎訪問客の案内役を務めたそうです。

佐久間氏」は仙台ご在住の佐久間晟氏。永らく警察庁技官を務められたかたわら、光太郎とも交流のあった前田夕暮に師事して短歌に親炙し、宮城県歌人協会会長、NHK仙台ラジオ歌壇・『毎日新聞』宮城歌壇選者などを務められました。夫人のすゑ子氏も歌人で、ご夫妻で歌誌『地中海』同人でした。右画像、左から八重樫マサ、光太郎、佐久間夫妻です。

平成17年(2005)、同誌にこの日の光太郎訪問記等がすゑ子夫人のご執筆で掲載され、その後、当方、仙台でご夫妻と面会、詳しくお話を伺うことができまして、その際の聞き書きを『高村光太郎研究』第28号(平成19年=2007、高村光太郎研究会)に寄稿いたしました。

008それによれば、光太郎の山小屋の書棚に白い皿へ置かれたレモンがあって印象的だったとか、新小屋の掘りごたつにはラジエントヒーター(ニクロム線が渦巻きになってついている鍋用の電熱器)が入っていたなど、細かな様子まで覚えておいででした。

光太郎の話も、「風呂の湯から智恵子が飛び出してくる幻を見た」とか、外出から帰ると智恵子が居るような気がしてつい「ただいま」ということがあるとか、しんみりさせられるものだったそうです。

話は戦前のことにも及び、駒込林町のアトリエでは、階上の智恵子を呼ぶのに大声をあげたくないので、土鈴を鳴らして呼んでいたとか、ゼームス坂病院に持って行ったレモンは懇意にしていた銀座のレストランの厨房から頒けてもらっていた(当時、青果店にはほとんど売っていなかった)など、他の資料にはほぼ見あたらない内容も含まれていました。

今年のカレンダー、光太郎に関係するものを入手していますのでご紹介します。

まず、光太郎第二の故郷、岩手花巻で光太郎顕彰に当たられている、やつかの森LLCさん発行のものが2種類。いずれもB3判の1枚物で、12ヵ月分です。
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左上は、昨秋刊行された写真集『山からの贈り物 やつかの森の四季』から写真を採ったもので、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋と、その周辺の風景です。
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右上は、『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』さんに連載中の「光太郎レシピ」から。リーフレットもついていました。
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いずれも「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんで販売中です。

もう1点。東京都立川市に本店を置く、多摩信用金庫さんのカレンダー。系列のたましん美術館さんの収蔵品をあしらったものです。

A2判で、すべて彫刻が使われています。表紙には中国六朝時代の「東魏二尊仏」、1~3月(初めて見ましたが、3ヵ月で1枚です)が、光太郎の盟友・荻原守衛の「女」(明治43年=1910)。
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4~6月に、光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)。
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7~9月は、光太郎に影響を受けた中原悌二郎の「若きカフカス人」(大正8年=919)、そして10~12月で、光太郎が敬愛したロダンの「カレーの市民」(明治17年=1884)。
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彫刻フリークにはたまらないと思います(笑)。

当方、ネットオークションで入手しました。今日現在、まだ出品されているようですし、たましんさんでも配付しているかもしれません。

それにしても、光太郎智恵子がらみのカレンダー、毎年のように入手はしていますが、結局、勿体なくて使えません(笑)。今年の3点も大事に保存します。

【折々のことば・光太郎】

山口小学校のため揮毫、「正直親切」と横にかく。


昭和26年(1951)10月25日の日記より 光太郎69歳

「正直親切」。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近く(といっても1キロメートル弱)の山口小学校に、校訓として贈った言葉です。
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12月には同校の学芸会に招かれた光太郎、児童たちにこの言葉について、こう語りました。

結局、平凡なことですが、「正直」というのを採りました。正直は一番根本になると思いますし、正直はそのときは損なようでも、永い間には得になるのです。それに「親切」を加えました。そういうわけで、あの書「正直親切」をあげた次第です。

書は、戦後風に左から右に書き、さらに低学年でも読めるようにと新仮名遣いでルビを振っています。

この文字を刻んだ碑は、山口小学校跡、光太郎の母校である東京都荒川区の第一日暮里小学校ん、光太郎と交流のあった田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市立新宿小学校さんにそれぞれ建てられています。

余談ですが、1月12日(水)には、東松山市で生涯学習講座の講師オファーがあり、行って参ります。

本日も新刊紹介で……。

写文集 我が愛する詩人の伝記

2021年12月10日 室生犀星 文/濱谷浩 写真 中央公論新社 定価3,500円+税 

詩人は友を追慕し写真家は〈詩のふるさと〉を訪う 1958年『婦人公論』同時連載のエッセイとグラビアを併せた完全版 収録写真104点

白秋の柳川、朔太郎の前橋、犀星の金沢……親しき友人たちを詩人が追慕し、ゆかりの地を写真家が訪ね歩く。写真集『詩のふるさと』と併せた、ありし日の日本の詩情を捉えた写文集。

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目次

北原白秋―柳河 高村光太郎―阿多多羅山・阿武隈川 萩原朔太郎―前橋
釈迢空―能登半島 堀辰雄―軽井沢・追分 立原道造―軽井沢 津村信夫―戸隠山
山村暮鳥―大洗 百田宗治―大阪 千家元麿―出雲 島崎藤村―馬籠・千曲川
室生犀星―金沢
『我が愛する詩人の伝記』あとがき 室生犀星
濱谷浩さんのこと 室生犀星
『詩のふるさと』あとがき 濱谷浩
作品リスト


帯文にある通り、昭和33年(1958)、『婦人公論』に連載されたものから、犀星の文章のみで『我が愛する詩人の伝記』、濱谷の写真集として『詩のふるさと』として二分冊で刊行されました。それを一冊にまとめ、犀星没後60年記念出版という位置づけで「完全版」として出版したそうです。

『我が愛する詩人の伝記』の方は、のちに中公、角川、新潮の各文庫にも組み入れられ、最近も講談社文芸文庫の一冊で再刊されています。また光太郎の項は、光太郎の研究書『高村光太郎と智恵子』(昭和34年=1959 筑摩書房)、『文芸読本 高村光太郎』(昭和54年=1979)にも採用され、意外と有名な文章となっています。

同時代を生き、浅からぬ交流のあった犀星の観た光太郎。さすがに鋭い視点で、なるほど、と思わせられる部分も多く、光太郎研究の上では必読の一文かも知れません。

ここでの犀星の光太郎への眼差しは、一貫してシニカルと言うか、アイロニカルと言うか、厳しいものです。書き出しからして「高村光太郎の伝記を書くことは、私にとって不倖な執筆の時間を続けることで、なかなかペンはすすまない、高村自身にとっても私のような男に身辺のことを書かれることは、相当不愉快なことであろう。」と始まります。

犀星をしてこのように書かしめたのは、一つはライバル意識でしょうか。窮乏生活をさまざまな詩に書いた光太郎に対し、こんな立派なアトリエで暮らしているくせに、何が貧乏だ、的な記述がありますし、商業資本の大雑誌より、仲間内の同人誌的なものに好んで寄稿したことなども、ある種の「構え」と評しています。そして6歳下の自分が、まだ詩壇で認められていない、という妬みも。さらには筆鋒は智恵子にも及び、光太郎の留守(居留守?)にアトリエを訪れたところ、智恵子に冷たく追い返されたエピソードが語られ、「夫には忠実でほかの者にはくそくらえという眼付」としています。

ところが、同じ犀星が書いた光太郎回想でも、まったく逆に、手放しで光太郎を称賛している一篇も存在します。改造社から昭和4年(1929)に刊行された随想集『天馬の脚』。この中に「人物と印象」という章があって、「高村光太郎氏」という項が設けられています(国会図書館さんのデジタルデータで公開中。166コマめからです)。盟友の萩原朔太郎と共に、光太郎のアトリエを訪れた際のことが中心で「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騒がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、青年の峠を通り抜けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出来であつた。」とまで書いています。

『天馬の脚』の方は、光太郎生前の出版なので「忖度」があり、それに対し『我が愛する詩人の伝記』は光太郎が歿してからの執筆で、気兼ねなく本音が書けた、ということかもしれません。または、両書の間の約30年で、光太郎に対する見方が変わったのかもしれません。まぁ。そちらが強いのかな、という気がします。

それにしても、『天馬の脚』所収の「高村光太郎氏」、光太郎研究書の『高村光太郎読本』(昭和31年=1956 河出書房)、『高村光太郎資料 第五集 論と印象』(昭和50年=1975 文治堂書店)にも採られていますが、ほとんど注目されていないような気がします。『我が愛する詩人の伝記』の方が、インパクトが強いせいでしょうか。

ところで、『我が愛する詩人の伝記』、論考等に参考にしたり引用したりする際には、注意が必要です。ここに挙げられている光太郎のエピソードのうち、どうもここにしか書かれていないこと、それも事実かどうか不明なことがけっこうあるからです。

例えば、光太郎智恵子の生活。

夏の暑い夜半に光太郎は裸になって、おなじ裸の智恵子がかれの背中に乗って、お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた。

犀星がこの場面を実際に目撃した訳ではなく、あくまでも伝聞のはずです。それも、光太郎以外からの、と思われます。光太郎本人からそう聞いたなら、そう書くでしょうし。これを「事実」として、論考等の中に「こういうことがあった」と書くと、問題がありますね。実際、そういう話が聞こえてきて、辟易しています。まぁ、「火のないところに煙は立たぬ」とは言いますが……。

他にも戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中のエピソードなどにも、ファンの少女が訪ねてきたことを、さも見てきたかのように事細かに描写していますが、これなどもやはり伝聞に基づくもので、注意が必要です。

……という、『我が愛する詩人の伝記』ですが、光太郎をディすることに終始している訳ではなく、結局、「いろいろ書いたけれども、やはり高村光太郎は凄い人物だった」というスタンスです。

そして濱谷の写真。光太郎の項は、「阿多多羅山・阿武隈川」とサブタイトルにあり、智恵子の故郷・二本松の写真が使われています。ただ、それだけでなく、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の内部や周辺、さらに昭和24年(1949)に、濱谷が『アサヒカメラ』の取材で生前の光太郎を訪った際に撮ったポートレートも載っています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

村役場の書記折居氏といふ人くる、国税庁で余の完納三ヶ年を表彰する由にて年齢其他をきくため。暫時談話。


昭和26年(1951)9月1日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。文字通りの寒村で、光太郎は村一番の高額納税者でした。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻で、光太郎顕彰活動を進められている「やつかの森LLC」さんが、写真集を刊行されました。

山からの贈り物 やつかの森の四季

2021年9月1日 やつかの森LLC編・刊 定価1,320円
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 令和3年9月1日に私どもの写真集が出来ました。表紙は、皆さんなかなか足を運びにくい冬の季節です。
「暮しの手帳」の元編集長の松浦弥太郎氏が「雪の積もった冬の夜、一度で良いから、山荘で眠ることだ。」と言っている、憧れの景色と思われます。
 四季を通して、私どもが見てきた景色をお届けします。景色は似ていても同じ景色は二度とはなく、
朝、箒を持ち掃除をしながら、夕方、自転車で廻りカギを閉めに行きながら、お客様を案内しながら、荷物を運びながら、目に留まったものを撮りためました。
 今、里では稲が実り、光太郎がおいしいと絶賛した花巻のお米が収穫を迎えるのももう少し。あまりおいしくて、次の日の分まで食べてしまったり、秋には光太郎も少し肥ったと友人に伝えたエピソードもあります。
 高村光太郎記念館周辺では、こんな景色が見られることでしょう。遠く真っ赤に見える水引も、早く会いたいです。


「山からの贈り物」というタイトルは、光太郎詩「山からの贈り物」(昭和24年=1949)にちなみます。挟まっていたリーフレットに全文が印刷されていました(上記挨拶文も)。
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光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)周辺、四季折々の景色。実にいい感じです。雪深い地域であるだけに、冬とそれ以外の季節のギャップが大きいのもありますし、光太郎が愛した豊かな自然がそれぞれの季節を美しく彩っています。
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道の駅はなまき西南さんで店頭販売中、また、最上部画像に連絡先がありますので、そちらまでご注文下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜圓次郎翁宅にて法隆寺幻灯会。説明をする。


昭和23年(1948)12月12日の日記より 光太郎66歳

光太郎が小学校に寄贈した幻灯機を使っての幻灯会。講師も光太郎が務めました。なんとも贅沢ですね(笑)。

光太郎智恵子がその人生の永い時間を過ごした東京文京区から、写真コンクールの情報です。

第59回文京区観光写真コンクール

文京区内の観光スポットや催しで賑わう様子、今も残る昔の情景、花の五大まつりの賑わいなど、見た人が足を運びたくなるような観光写真を募集します。

主催:文京区観光協会   共催:文京区

募集期間  2021年8月1日(日曜日)~9月30日(木曜日)※当日必着

各賞一覧
 推薦(1点) 文京区観光協会会長賞 賞状・賞金2万・賞品
 特選(1点) 文京区長賞 賞状・賞金1万・賞品
 審査員特別賞(若干点) 賞状・賞金5千円・賞品
 準特選(10点) 文京区議会議長賞、文京区教育委員会賞ほか 賞状・賞金・賞品
 入選(10点)  賞状・賞品
 佳作(10点)  賞状・賞品
 ジュニア賞(4点)  賞状・賞品 ・図書カード

審査結果
 11月下旬までに応募者全員に発送します。表彰式は12月12日(日曜日)に行います。
 入賞作品は写真展に展示されます 。

応募規定
 カラープリント四切り(ワイド四切り・サービス判四切りを含む)、またはA4サイズ 。
 小・中学生対象のジュニア賞に限り2Lサイズ(127mm×178mm)可 。
 デジタル写真可。ただし、画像修正・加工は不可。
 色調補正(色調、コントラスト、明度調整など)は審査対象外となる場合があります。
 銀塩印画紙にプリントしたもの。インクジェットプリントでの応募も可。
 2019年4月以降に文京区内を撮影した作品。 
   ※規定にあてはまらない作品は審査対象外となります。

応募細則
 応募はアマチュアに限ります。
 応募作品はお一人につき5点までとし(複数の部門で応募の場合も合計で5点まで)、
 応募者本人が撮影した未発表のものに限ります。 
 不正な二重応募と主催者が判断した場合には入賞等を取消すことがあります。
 個人を特定できる写真で応募する場合、その肖像権について、
  必ず応募者が本人に許可を得てください。
 万一、第三者と紛争が生じた際は、応募者自身の責任と費用負担によって
  解決していただきます。
 立ち入り禁止区域からの撮影や無許可での私有地からの撮影など、
  モラルに著しく反した場合、第三者に不利益を与える場合は審査対象外となります。
 新規で写真撮影する際には、三密を避ける・ソーシャルディスタンスの確保等、
  新型コロナウイルス感染症対策を行ったうえでの撮影をお願いします。
 
応募方法
 所定の応募票(コピー可)を作品ごとに貼付のうえ、
文京区観光協会へ持参または郵送してください。

応募票 
 PDF ファイルをプリントアウトしてご利用ください

応募先
 〒112-0003 東京都文京区春日1-16-21 文京シビックセンター1階 文京区観光協会 

お問い合わせ先 
 文京区観光協会 電話番号:03-3811-3321
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第59回ということで、伝統あるコンテストですね。昨年まで、このブログでは御紹介していませんでしたが、存じ上げませんでした。今年になって気がつきましたのは、審査委員長が髙村達氏だということで、検索の網に引っかかったためです。これまでも委員長をなさっていたかもしれませんが、今年、初めて気づきました。
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達氏、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ、光太郎実弟にして、鋳金分野の人間国宝・髙村豊周の令孫に当たられます。したがって、光太郎の父・光雲の令曾孫。

お父さまの故・髙村規氏も写真家で、高村光太郎記念会理事長を務められ、光雲、光太郎、豊周、そして智恵子の作品を高精細の写真データで遺されました。

文京区内、いわゆる「映(ば)える」スポットも少なからず存在するでしょうし、そうでなくとも、ありきたりの風景の中にも美が見いだせるはずですね。光太郎も「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」 昭和4年=1929)と云っています。だからといって瓦礫の写真で応募しろ、という訳ではありませんが(笑)。

腕に覚えのある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夕方山口小学校の門標をかく。


昭和23年(1948)12月2日の日記より 光太郎66歳

「山口小学校」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近く(といっても1㌔近くありましたが)にあった小学校です。
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この年4月、分教場から小学校に昇格し、新しい校舎も完成。その落成式が翌日と云うことで、門標の揮毫を頼まれていました。
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こちらは翌年行われた学芸会の日に撮影された写真ですが、サンタ姿で乱入した(笑)光太郎の右側に、門標が写っています。いい字ですね。

現物は、当方、拝見したことがありません。現存するのでしょうか。

千葉県で、「ちばアート祭2021」というアートフェスティバルが開催されています。
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現代アートのインスタレーションと、一般の方々から公募した「「ちば文化資産」絵画・写真公募作品展」がメインです。

このうち、「「ちば文化資産」絵画・写真公募作品展」は、平成30年(2018)に選定された111件の「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」をテーマとした絵画・写真・Instagramの作品を募集したものです。

111件中には、「高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台」というキャッチフレーズで、「九十九里浜の景観」も選定されましたし、光太郎智恵子の名は説明に使われませんでしたが、銚子犬吠埼などのゆかりの地が他にも含まれています。

ちなみにインスタレーションの方も、ちば文化資産インスパイアということになっているようです。

千葉県立美術館さんでは、8月3日(火)~15日(日)の日程で、絵画・写真応募作品の原則全てが展示されています(Instagram部門は受賞作品のみの展示)。ちなみに同館で同時開催中の「名品3 ―巨匠の眼と手―」では、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が出ているようです。

美術館にほど近い千葉ポートタワーさんでは、8月16日(月)~9月5日(日)に、応募作品のうち、受賞作品24点を展示とのこと。また、オンラインでも開催されています。
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ぜひ御覧頂き、千葉県の魅力に触れていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

畑の事いろいろやつてゐる、さかんにブヨにくはれる。ひどくはれる。


昭和23年(1948)7月15日の日記より 光太郎66歳

「ブヨ」。標準語だと思っていましたが、どうも関東方言のようで、学術的には「ブユ」と言うのが正しいようです。蚊と同じく、吸血のために刺すそうですが、問答無用で襲来してくるという感じですね(笑)。当方も、かつていきなり刺されてひどい目に遭いました。

『朝日新聞』さんの岩手版に載った記事から。10月21日(水)の掲載だったようです

花巻の自然・動物パチリ 元教諭が写真展

003 花巻市の自然を中心に撮影を続けている同市下幅の元県立高校教諭、瀬川誠孝さん(82)の作品を集めた「残したい花巻の自然・写真展」が同市四日町1丁目の花北振興センターで開かれている。動物の生態や自然風景などを写した約30点が、高村光太郎ら岩手ゆかりの先人の言葉とともに展示されている。11月30日まで。
 水鳥を捕らえたタカの仲間のノスリや、卵塊の泡にまみれたモリアオガエル――。自然の一瞬をとらえた作品の数々は、北上川や周辺の山々を毎日歩き続けて見つけた光景を記録したものだ。写真の傍らに、瀬川さん自身が墨書した高村光太郎の「心はいつでもあたらしく……」や、石川啄木の「ふるさとの山に向ひて言ふことなし……」などの言葉が、語りかけるように掲げられている。
 瀬川さんは県立高校で40年以上化学の教諭を務めた。写真撮影を始めたのは40代からで、オオルリやハクビシンなどの生態をとらえた作品は、たびたび朝日新聞などで紹介されてきた。瀬川さんは「自然の中から生まれた先人の言葉に学び、新しいものを発見してきました。自然と人間の生き方について考えるきっかけにしていただければうれしい」と話している。

光太郎や啄木の言葉を添えて、というのがいいですね。調べてみましたところ、花巻市の花北地区コミュニティ協議会さんのページに案内がありました

残したい花巻の自然・写真展

期 日 : 2020年10/1(木)~11/30(月)006
会 場 : 花北振興センター ギャラリー 
      岩手県花巻市四日町一丁目1-27
時 間 : 午前9時~午後9時
休 館 : 期間内無休
料 金 : 無料

長年、花巻の自然を撮り続けている瀬川誠孝さん(82歳、下幅)の写真の中から、「残したい自然」として30点を選んでいただき、写真展を開催します(内容 野鳥11点、動物7点、祭り4点、風景8点)。

お近くの方、ぜひどうぞ。

もう1件、同じ日に載った記事。過日ご紹介した道の駅はなまき西南さんで販売が始まった「光太郎ランチ」について地元紙では既報ですので、後追い記事といったところです。

高村光太郎にちなんだ豪華弁当 花巻の道の駅で限定販売

 岩手県花巻市轟木に今夏オープンした道の駅はなまき西南に、彫刻家で詩人の高村光太郎の食事をヒントにした手作り弁当「光太郎ランチ」が登場した。毎月15日の1日限定で販売する。
 終戦後の7年間、同市太田の山荘で暮らした光太郎にちなみ、地元の女性グループ・ミレットキッチン花が、財団法人花巻高村光太郎記念会の協力で地元の食材を使って創作した。
 今月15日の第一弾は「牛肉ステーキきのこ添え」や「枝豆ご飯」など9品入りの豪華版で一食800円。「林檎(りんご)汁1瓶、牛肉百匁(もんめ)、納豆2最中7個などもらう。夜牛鍋」(1947年10月22日の光太郎日記)などの記述を参考にした。グループ代表の本舘博子さんは「光太郎さんはグルメとは聞いていたが、あの時分に牛肉を食べていたとか新たな発見で驚いた。光太郎さんを知ってもらうきっかけになれば」。
 光太郎が花巻に疎開するため東京を出発した1945年5月15日にちなみ、毎月15日に10食限定で発売する。季節の食材を使い、メニューは月替わりという。

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ちなみに10月15日(木)の販売分10個、花卷高村光太郎記念館さんの方によれば、あっという間に完売だったそうです。

コンビニ弁当などと比べると、800円というのは安くないと思いますが、素材がいいものですし(もちろんお味も美味にござりました)、手間も格段にかかっているわけで、やはりいいものはいい値段でも売れるということでしょう。他のメニューもありますし、10個限定というのがまたマーケティング的にはいい線なのかも知れません。

今後も完売状態が続いて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

制作の苦心は一口にはいえないが同じ像を二つならべるといふ行き方は若い人には無理で、老人の私だからやれたと考えている。

談話筆記「間に合つてよかつた 寒くなつたら山へ帰りたい」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」序幕式(昭和28年=1953の10月21日)に出席するため青森入りした際の談話の一節です。
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先月末、今年の文化勲章受章者、文化功労者が発表され、今月3日にはその伝達式が行われました。文化勲章を受章された6名の方々のうち、写真家の田沼武能氏が、光太郎と関わります。

受賞を報じた『朝日新聞』さんの記事。

人間の姿追い写真分野で初 田沼武能さん004

 写真の分野で初の受賞者だ。「びっくりしました。大変光栄で、写真界の励みにもなると確信しています」と喜びを語る。
 東京・浅草の写真館に生まれ、東京写真工業専門学校を卒業後、木村伊兵衛に師事。「人間の生きる姿」に一貫して関心を注ぎ、世界中の子どもたちを写した写真群は自身のライフワークとなった。「人間は生まれてから死ぬまで、即興のドラマを演じている。同じ場面は二度とないんです」
 日本写真家協会会長、日本写真著作権協会会長といった職を通して、写真界の発展に尽力したことも今回評価された。朝日新聞社が後援する写真愛好家の全国組織・全日本写真連盟では、2000年から会長を務めている。
 近年は、自ら提言して設立した日本写真保存センターの代表として、時代の記録となるような古い写真フィルムの保存活動に力を注ぐ。「今やっておかないと、無くなってからでは取り戻せない。後世に悔いを残さないよう、活動を軌道に乗せなければと思っています」


田沼武能氏(たぬま・たけよし)90歳。写真家。米タイム・ライフ社契約写真家を経てフリーに。「子どもたちの写真」という新たな分野を開拓した。全日本写真連盟会長、日本写真著作権協会会長としても写真家の地位向上や後進の育成に尽力、東京工芸大名誉教授。85年菊池寛賞。
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当方、田沼氏と一度お会いしたことがあります。平成26年(2014)8月の、光太郎令甥にして田沼氏と同じく木村伊兵衛門下の写真家だった、故・髙村規氏の葬儀でした。兄弟子に当たられる田沼氏、参列者を代表して弔辞を読まれました。

田沼氏ご自身も、光太郎と面識、というより、光太郎の肖像写真を撮られています。

昭和27年(1952)の『芸術新潮』。


「芸術界時の人」というグラビアで、田沼氏が撮影された、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した直後の光太郎写真が掲載されています。

同じ写真は、平成12年(2000)、筑摩書房さん刊行の田沼氏の『作家の風貌』にも載っています。こちらは、平成3年(1991)、文藝春秋刊行の『わが心の残像』の再編だそうですが。

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こちらは、田沼氏がポートレートを撮られたそれぞれの人物とのエピソードも記されています。それを読むと、載せられている光太郎写真撮影時の内容ではなく、翌昭和28年(1953)、「乙女の像」制作がかなり進捗してからの内容でした。

そういえば、平成25年(2013)に拝見した氏の個展「アトリエの16人」に出ていた光太郎写真が、昭和28年(1953)のものでした。

残念ながら、光太郎日記には田沼氏の名が出て来ず、こちらでは撮影日時までは特定できませんが、田沼氏、複数回、中野のアトリエを訪問されているようです。

ちなみに『作家の風貌』には、当会の祖・草野心平の項もあります。それによれば、心平、撮影を約束していた日時を忘れ、行方不明(笑)。やっとつかまって氏が訪ねると、氏をもてなそうと、秘書嬢に「○○堂のお菓子はどうした?」。秘書嬢「先生が食べてしまったのに……」。いかにも、で、笑いました。

閑話休題。田沼氏、これからもお元気で、さらなるご活躍を祈念いたしております。


【折々のことば・光太郎】

実技家から見ると、裸体は平等といふ観念を意味するよりも、やはりギリシヤに始まつた普遍の美を欲するところから専ら来てゐると言ひたいのである。
散文「羽仁五郎氏著『ミケルアンヂエロ』」より
昭和14年(1939) 光太郎57歳


羽仁五郎は歴史家。光太郎と交流のあった、自由学園の創始者、羽仁吉一・もと子夫妻の娘婿です。

昨日に引き続き、新聞各紙から。特に東北の地方紙です。

まずは『山形新聞』さんの社説。

土門拳生誕110年 今に生きる「鬼の仕事」

 酒田市出身の写真家土門拳は今年、生誕110年を迎えた。戦後にリアリズム写真を提唱し、数多くのテーマに取り組んで膨大な作品を残した。日本人の心を探求し、妥協を許さぬ姿勢から「写真の鬼」とも呼ばれる。節目の年に人物や業績を見直し、酒田から発信したい。
 同市の土門拳記念館では生誕110年に合わせた企画展「鬼が撮った日本」を9月23日まで開催している。生誕100年の際に土門を取り上げた「別冊太陽」(平凡社)の内容に沿って生涯をたどるものだ。土門の写真作品121点、絵18点、書18点を紹介している。
 写真集「風貌」からは作家の志賀直哉や三島由紀夫、版画家棟方志功ら著名人の肖像写真を展示。土門は撮りたい相手の資料を集めて徹底的に人物像に迫り、撮影現場では詩人高村光太郎が「土門拳のレンズは人や物の底まであばく」と評した執念で撮り続けた。洋画家梅原龍三郎は怒って籐(とう)椅子をアトリエの床にたたきつけたというエピソードが残る。
 「筑豊のこどもたち」は福岡県の閉山した炭鉱を取材し、ざら紙に印刷した100円の廉価な写真集。窮状を社会に訴えて反響を呼び、ベストセラーになった。収録した「母のない姉妹」「弁当を持ってこない子」などを展示している。
 後遺症に苦しむ被爆者たちを取材した写真集「ヒロシマ」からは「胎児で被爆した少年梶山健二君の死」「十三年寝たきりの人」など。生々しい写真は衝撃を与えたが、悲劇を繰り返さないようにと進んでカメラの前に立つ被爆者に、土門は何度も目頭を熱くしながらシャッターを切ったという。
 土門は「日本中の仏像という仏像を撮れば、日本の歴史も、文化も、そして日本人をも理解できると考えたのである」(「仏像巡拝」)と書いている。ライフワークとなった「古寺巡礼」をはじめ日本の伝統美に挑み、大きな業績を残した。企画展では「永遠を生きる仏像」「古寺巡礼の名建築」「室生寺にはじまり、室生寺におわる」といったタイトルごとに見応えのある写真が並ぶ。
 写真家として駆け出しの時代の仕事にも触れることができる。早稲田大政治経済学部の卒業アルバムは、学生たちに溶け込んで私生活をリアルに深く楽しく描写した。お茶の水女子大の前身である東京女子高等師範学校文科の卒業アルバムも手掛け、こちらも展示した。
 土門拳は1909(明治42)年、現在の酒田市相生町で生まれた。幼い頃に一家で東京に移り住み、57(昭和32)年、約40年ぶりに酒田山王祭りの取材で故郷を訪れた。74年には酒田市の名誉市民第1号に。土門は自身の全作品を郷里に贈りたいと語り、記念館は一人の作家をテーマにした世界でも珍しい写真専門の美術館として83年に開館した。
 土門は写真技術と強靱(きょうじん)な精神力、行動力で独自の世界を切り開き、脳出血の病に襲われても撮影を続けた。映像技術が進化した今でも作品の価値が損なわれることはない。レンズを通して現実を直視し、より正しい方向に向けようとした姿勢は、混迷する現代にこそ求められているのではないか。業績を多くの人に知らせる努力を続けたい。
(2019/08/19付)


光太郎関連の写真のうち、重要なものを撮っている土門拳。

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左は確認できているものとしては唯一、光太郎が木彫作品を彫っているところ。昭和15年(1940)のカットです。右は現物が失われてしまった塑像「黄瀛の首」。同じ彫刻の写真は何点か残っていますが、土門撮影のものがもっともよく撮れています。

また、昭和27年(1952)には、土門が写真を撮り、光太郎、志賀直哉、高見順らが解説を書いた『日本の彫刻Ⅱ飛鳥時代』という大判の写真集が美術出版社から刊行されています。


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その前年、土門は花巻郊外太田村に逼塞していた光太郎の元を訪れ、その暮らしぶりをパパラッチ(笑)。土門の写真を賞めていたものの、自分が写真に撮られることは好まなかった光太郎は、閉口したようです。くわしくはこちら


続いて、『福島民報』さん。

安達太良登山楽しむ ほんとの空プログラム

 自然の中で子どもたちの好奇心や探究心を育む、福島民報社の「ふくしま ほんとの空プログラム」安達太良山トレッキングは十八日、二本松市の安達太良山で開かれた。
 県内各地から二十五人が参加した。安達太良マウンテンガイドネットワークの案内で夏の登山を楽しんだ。一行はロープウエーで八合目の山頂駅に移動し、薬師岳を登り山頂を目指した。
 登山道ではさまざまな木々や草花、青い空と雄大な安達太良連峰の景色を眺めた。好天に恵まれ、山頂では猪苗代湖や磐梯山を望みながらおにぎりや弁当を食べた。下山後にガイドネットワーク代表の加藤正広さんが「秋や冬など他の季節も楽しめるので、また安達太良山に来てほしい」と参加者に呼び掛けた。
 プログラムは県教委、二本松市などの後援。花王、城南信用金庫、スパリゾートハワイアンズ、全日本空輸、大王製紙、テーブルマーク、トイコー、ヒカリレンタ、ヒューマンサポートの協賛。


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一昨年から同社の主催で開催されている「ふくしま ほんとの空プログラム」。さまざまな体験活動が用意されていて、たくましい子供の育成につながりそうです。この後も、9月14日(土)に「猪苗代湖の水をきれいにしよう<日帰り>」、9月21日(土)~23日(月・祝)が「田舎は最高!体験交流しよう<2泊3日>」、10月27日(日)で「希望の桜をみんなで植えよう!<日帰り>」といったプログラムが用意されています。智恵子が愛した「ほんとの空」の下、見聞を広めて欲しいものです。


最後は『石巻かほく』さん。

被災地でJICA研修 3カ国の海図作製者が安全対策学ぶ 石巻、女川

 独立行政法人国際協力機構(JICA)の外国人研修員が20日、東日本大震災の被災地石巻市と女川町を訪問した。JICAと海上保安庁が主催する海図作製研修の一環。インドネシア、ミャンマー、タイから来日した6人が震災の被害と復興状況を確認し、災害対策などに理解を深めた。
 石巻市内では、甚大な被害を受けた南浜地区を訪問。災害伝承施設「南浜つなぐ館」の敷地で、石巻観光ボランティア協会の語り部から、震災前と直後の南浜地区の様子を写真で確認したほか、被災状況や復興の進捗(しんちょく)状況の説明を受けた。南浜を襲った津波が高さ約7メートルを示す看板に、驚く研修員もいた。
 女川町では、魚市場や町内各地の「いのちの石碑」などを見学したほか、JR女川駅前の商店街で語り部の話に耳を傾けた。
 研修員は全員、母国の海図作製機関で働いている。インドネシア人のイクサン・デヤスマラさん(25)は「母国もスマトラ沖地震などで津波の被害を受けている。帰国後、災害時も安全に航行できる海図を作製したい」と話した。
 同じインドネシア人のエディチオ・ドゥイ・クルニアワンさん(31)も「実際に来て津波の高さ、災害の大きさに驚いた。帰国後は避難訓練や、海の近くの住人への防災教育などをしていきたい」と語った。
 研修員は、6月に来日。別府港(大分県)での港湾測量実習、駿河湾(静岡県)での洋上実習などを経て、12月に帰国する。

光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」の活動、海外にも広まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

僕ら、文学はどういうわけだかどうしても書きたくなるんだね。

対談「芸術よもやま話」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

亡くなる前年、対談相手は当会の祖・草野心平でした。「文学」は「文学者」という意味でしょう。心平はこの発言に対し、「それは宿命ですね。(笑声)しょうがない。(笑声)」と返しています。まったくそうなのでしょう。


光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが納められている信州善光寺さんでの写真コンテストが開催されます。

地元紙『信濃毎日新聞』さんから。

善光寺・仁王門、初の写真コンテスト 4月1日から作品募集

 長野市の善光寺は、仁王門の000写真コンテストを初めて企画し、4月1日に作品募集を始める。仁王門が昨年、火災後の再建から100年を迎えたことを記念し、参拝客により親しんでもらおうと企画。併せて明治、大正時代や昭和の前半ごろまでに撮影された仁王門の写真提供も呼び掛けている。
  コンテストの題材は、仁王門や門の中に納められている仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像など。1912(明治45)年の御開帳の際に一時的に置かれ、現在は飯山市の広場にある「先代」仁王像も含む。
  現在の仁王像の制作に携わった彫刻家高村光雲(1852~1934年)のひ孫で写真家の高村達(とおる)さん(51)=東京=や同寺の小林順彦(じゅんげん)・寺務総長(53)らが審査。特賞3点、入選5点を選び、7月25日?9月15日に境内の善光寺史料館に展示し、仁王門再建100年を記念して9月に予定する特別法要で表彰する。
  同寺事務局文教課は「善光寺の身近さが感じられるよう表現してほしい」としている。
  コンテストへの応募は、カラーA4サイズで題名、住所、氏名、年齢、連絡先を明記し、6月14日までに善光寺事務局文教課(〒380―0851長野市長野元善町491―イ)に送る。問い合わせは同事務局(電話026・234・3591)へ。
  仁王門の昔の写真は資料として保存し、後世に残す考えだ。これまでに門前の大石堂写真館から、仁王像が納まる前の仁王門の写真を入手。正月行事を担う堂童子とみられる僧侶が写っており、18年12月?19年1月の撮影と推測される。他に、現在の仁王門の前に建てられていた「仮の門」の写真なども提供された。寄せられた写真は、展示パネルや刊行物などに掲載する場合がある、としている。


善光寺さんのサイトから。

【仁王門の写真コンテストを開催致します。】

『仁王門再建百年・仁王像開眼百年記念イヤーイベント』の一環としまして、現在の仁王門を題材にした写真コンテストを実施致します。応募方法等は、下記の通りです。応募開始は、4月1日(月)からとなりますのでふるってご応募願います。


【応募方法】
・カラープリントA4サイズにて応募してください。※応募件数に制限はありません。(写真プリント又はインクジェットで、プリントしたものに限ります。)
・題名・住所・氏名・年齢・連絡先を明記のうえ、善光寺まで送ってください。
★作品の返却は、致しません。(大切な作品は、複製を取って応募ください。)

【賞】
・特賞3点  ・入選5点  

【題材】
・(現在の)善光寺仁王門及び仁王像、三宝荒神像、三面大黒天像
・飯山市“寺町シンボル広場”内 仁王門(旧仁王像)

【締切】
・2019年6月14日(金)必着

【審査員】
・高村達氏(写真家・高村光雲の子孫)    ・毛利英俊氏(元信濃毎日新聞社・写真部長)
・長瀬哲氏(飯山市教育委員会・教育長)  ・小林順彦師(善光寺寺務総長)

【その他】
・応募封筒の表に『仁王門写真コンテスト応募』と明記してください
・他人の著作権・肖像権を侵害するような行為が行われた場合、それに関するトラベルの責任は一切負いかねます。
・被写体が人物の場合、必ずご本人(被写体)の承諾をいただいてください。
・入特選作品は、ご通知後に弊局まで原版(画像データ)を提出いただき、善光寺史料館に展示及び善光寺HPに掲載いたします。
◎入特選の方へ、仁王門再建百年記念法要(仮称)時に表彰いたします。
《応募先》
〒380-0851 長野市大字長野元善町491-イ 善光寺事務局 文教課 電話026-234-3591


仁王像の開眼から100周年ということで、善光寺さんでは昨年からさまざまな取り組みをなさっています。例年開催されている寺域全体でのライトアップに加え、仁王門北側に納められた、やはり光雲らによる「三宝荒神像」と「三面大黒天像」のライトアップ仁王像に関する市民講座、そして文化財指定に向けた仁王像の本格調査など。この秋には100周年特別法要も予定されています。

そうした流れの中での写真コンテスト。腕に自信のある方、ぜひご応募下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は生来の雷ぎらひである。どういふわけといふ理由も何もないが、あの比例外れな、途方もない、不合理極まる大音響が第一困る。これはまるで前世紀の遺物ではないか。イグアノドン、マストドンの夢ではないか。

散文「雷ぎらひ」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

誰にでも恐怖を伴う苦手なものがあるようで、虫が苦手、犬が苦手、蛇が苦手、高いところが苦手、お化けが苦手、注射が苦手などなど、よく聞きますね。光太郎の場合は、雷だったそうで。

そうでない人から見れば、甚だ滑稽に見えることもあり、光太郎の雷嫌いにもつい笑ってしまいますが、当人はいたって真面目。それがまた笑いを誘ったりもします。ちなみにその様子は以下の通り。

・ 夜間に落雷があることを昼間のうちに予知。
・ 落雷が近づくと、電気のブレーカーを切る。
・ 一切の金属を体から遠ざける。足袋のこはぜも不可。
・ 脚に滑り止めのゴムをはめた籐椅子の上であぐらをかく。
・ 恐怖を紛らわすために『古事記伝』のような木版本を読み、そちらに意識を向ける。

まぁ、落雷も確かに危険ですが……。

ちなみに信濃善光寺さん、平安時代末の治承3年(1179)には落雷による火災に見舞われています。

新刊書籍です。

一色采子のきものスタイルBOOK 母のタンス、娘のセンス

2019年3月20日 一色采子著 世界文化社 定価1,600円+税

あなたの家にも母や叔母からのお下がりきもの、ありませんか?それらはちょっと古臭くさかったり、地味だったりしてタンスの肥やしになっているのではないでしょうか。著者の一色采子さんはそんなきものや帯を、自分のセンスですっかり見違えるようなコーディネートにして着こなし、日々の暮らしを楽しんでいます。
例えば、お母さんの地味色きものに自分の娘時代の派手な帯で大人可愛くしたり、きものの色と帯の色を合わせてワントーンにまとめてハンサムに着こなしたり、レトロな色合わせのきものが白い帯を合わせることで新しく
誂えたきもののように甦ったり。自由な発想から生まれるスタイルは、見ているだけでも楽しくなります。
そして何より、タンスに眠っているお古のきものを簡単に今っぽく着こなすためのアイディア集がたくさん散りばめられているのです。

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目次
 Part.1 母譲りのアイテムをとことん着こなす
  theory.1 母のタンスの渋味きもの着こなし術
    オリエンタル帯で作るオンリースタイル/娘時代の派手帯できりりと引き締めて
    無地感覚の万能帯のススメ/ワントーンでハンサム顔に
  theory.2 母のタンスのレトロ晴れ着の着こなし術
    白地の帯でセンスアップ引き算/銀地の帯で洒脱にドレスダウン/
    金地の帯で華やぎコーディネート
  theory.3 母のタンスの個性派帯の着こなし術
    鮮やかきものと合わせて若々しく/柄×柄でポップアートのように/
    娘から母へのラブレター
 Part.2 娘のセンスで綴るきものダイアリー
    睦月/如月/弥生/卯月/皐月/水無月/文月/葉月/長月/神無月/霜月/師走
    父から母へのラブレター
 Part.3 娘のセンス、アイデア集
    裾回しを染め替え、黒地の江戸小紋を万能選手に/
    羽織の足し算で、ちょい派手きものをエイジレスに/
    小さく赤を効かせて、仄かな色香を演出/お洒落の心意気を映す、草履の春夏秋冬
    と愛用の足袋/
きもの姿に優雅な腕時計を/装いの矜持を忍ばせる扇子
    小粋な遊び心を添える、愛しのアニマルモチーフ/
    ひと工夫で快適に、タンスの収納アイデア
    娘から父へのラブレター
 福島県二本松市の“私的"プチ観光ガイド
    二本松城跡/大山忠作美術館/智恵子の生家・智恵子記念館/
    岳温泉・陽日の郷あづま館/
大七酒造/檜物屋酒造店/
    国田屋醸造・蔵カフェ千の花/母への思いが生んだ“瓢箪から駒”


このブログにたびたびご登場いただいている、女優の一色采子さん。お父様は智恵子と同郷の日本画家・故大山忠作画伯で、智恵子をモチーフにした作品も複数描かれています。ご自身も、連翹忌や智恵子命日のレモン忌にご参加下さったり、智恵子生家で「智恵子抄」の朗読をなさったりしています。昨秋は、お父様が光太郎と交流のあった渡辺えりさん主演の「喜劇有頂天団地」にご出演。当方、新橋演舞場さんで拝見して参りました。

で、その一色さんのご著書が刊行されました。雑誌『家庭画報』さんのサイト「家庭画報.COM」で連載されていた「母のタンス、娘のセンス」がベースです。基本、お母様のお召し物をアレンジしたり、さまざまなコーディネートを加えたりの、和装の着こなし術の指南書的な書籍です。

智恵子とお父様の故郷・福島二本松の観光大使も務められている一色さんですので、最終章は二本松の観光ガイドになっています。

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智恵子生家・智恵子記念館さんもご紹介下さいました。

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素敵なお召し物の数々が、カラー写真でこれでもか、と満載。見ていて楽しい書籍です。しかし、こと和装に関しては女性用はさまざまな生地や柄があり、得ですね。当方も和装は好きで、ちょっとしたお呼ばれの際や、最近は連翹忌も着物で参りますが、男性用の着物はとにかくバリエーションが限られています。アンサンブルはよくある鉄紺色のものと銀ねずのものの2組。それ以外は奇抜に感じて手が出ませんし、他に白紋付きもありますが、普段使いにはなり得ません。また、袴は仙台平の比較的いい物を持っていますが、袴まで着用すると大げさな感じで……。

ところで、一色さん、今年の連翹忌のご案内に対し、一度はご出席の連絡を賜り、またお会い出来るのを楽しみにしていましたが、追ってやはりご欠席とFAXが来まして、残念です。「大山」はご本名です。「喜劇有頂天団地」の後も、横内正さんたちと「マクベス」の舞台にご出演なさったりと、ご多忙のようです。

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というわけで、『一色采子のきものスタイルBOOK 母のタンス、娘のセンス』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

極度に純粋になれば人は誰でも狂気になるにちがひない。極度の純粋には社会性の存在する余地がない。社会性の喪失する時当然その人は社会から閉め出される。それを人が狂人とよぶ。純粋である事を理想としながら、しかもあまり純粋すぎる事は人間に許されない。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

当会の祖・草野心平主宰の雑誌『歴程』に発表されたのが昭和14年(1939)ですが、前年に亡くなった智恵子をゼームス坂病院に見舞っての感想ですので、書かれたのはもっと以前と推定されます。

智恵子の陥った状況を冷静に(ある意味冷徹に)分析できているような気がします。とはいうものの、そうした智恵子の姿を見ると、完膚無きまでに打ちのめされて何も手につかなくなる、と、この前段で述べています。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

昨日、拝見して参りました。  

−オリジナルプリント展− Life 命の輝き -Portraits-

期 日 : 2018年5月8日(火)~6月8日(金)
会 場 : 日本大学藝術学部芸術資料館 東京都練馬区旭丘2-42-1
時 間 : 9:30〜16:30《土曜は12:00 まで》
料 金 : 無料
休館日 : 日曜日

「Life 命の輝き」をテーマに国内外の写真家による⼈物の写真を集めました。いわゆるポートレートから街⾓でのスナップ写真まで多様な写真表現によるイメージを通して、様々な環境のもとで⽣活している⼈々の⽣き⽣きとした⽣命の輝きを感じていただければ幸いです。

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もう少し早く行くつもりが、いろいろあって昨日になってしまいました。

西武新宿線江古田駅で降り、ほぼ駅前の同大藝術学部江古田校舎。

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受付で入館証を受け取り、警備員の方が入り口まで案内して下さいました。資料館といっても独立した建物でなく、普通の校舎の3階にあります。

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すべてモノクロの作品で、世界各国の写真家約50名のプリントおよそ100点が展示されていました。当方も存じていたところでは、ユージン・スミス(米)、ウジェーヌ・アジェ(仏)、大石芳野など。このうち、ウジェーヌ・アジェは、光太郎と同じ時期に、光太郎のアトリエがあったパリのカンパーニュ・プルミエール街17番地に居住していて、交流はなかったようですが、面識程度はあったかも知れません。

古いもので、19世紀の写真から、'90年代の比較的新しいものまで、題材としては基本的に全て人物写真ですが、有名人から市井の人々まで、いわゆる肖像写真的なものから、日常のスナップ的なものまで、さまざまで飽きさせませんでした。モノクロ写真のもつ独特の迫力、一種の抽象性など、たしかに芸術の名を冠されるにふさわしいと感じます。

有名人のポートレートとしては、海外ではチャップリン、オーソン・ウェルズ、ピカソなど。国内では、林忠彦撮影の太宰治、坂口安吾など。

そして、光太郎。003

日藝さんで開催と聞き、光太郎令甥の故・髙村規氏がそちらの卒業生なので、規氏の作品かな、と思っておりましたが、さにあらず。肖像写真家として活躍していた、故・吉川富三氏の右の作品でした。

撮影場所は光太郎が蟄居生活を送っていた、花巻郊外太田村の山小屋内部です。キャプションでは昭和24年(1949)となっています。

光太郎の日記によると、同23年(1948)9月に吉川が来訪しています。おそらくその時の写真で、発表されたのが翌年ということなのではないかと思われますが、翌年の日記の大部分が欠けているので、不詳です。

吉川来訪の記述がこちら。まず8月22日。

吉川富三といふ人より写真アルバムを小包書留にて送り来る。来月余の写真撮影に来たしとの事。文化人多くの写真(署名入)あり。預かりもの。(郁文帖)

そして9月10日。

午前九時盛岡よりとて写真家吉川富三氏同業(盛岡)の唐健吉といふ人と来訪。高橋正亮さんが案内してくる。ズボンの尻の修繕をしてゐたところ。修繕を終りてよりあふ。午后二時頃まで撮影さまざま。「郁文集」を返却す。揮毫してくれとて紙を置いてゆく。同氏の器械は普通の三脚附器械。 そのうち細川書店の岡本氏といふ人来訪。東京より来たりし由。吉川氏等一行大澤温泉泊りの由にて辞去後、岡本氏と談話。(略)弘さんからもらつた大西瓜を割つて一同に御馳走せり。吉川氏より食パン、チース(小箱)(ソーセージ)をもらふ。

『郁文集』は、武者小路実篤の題字、志賀直哉の序文で昭和37年(1962)に出版された吉川の作品集。もうこの頃には既に原型が出来上がっていたのですね。

さらに9月30日。

吉川富三氏より先日撮影の写真の内4葉送つてくる。随分老人らしくなれり。

笑えます。光太郎は写真嫌いで有名でした。9月12日に、詩人の宮崎丈二に送ったはがきにこんな一節があります。

昨日は東京の吉川富三氏といふ写真家が来て弱りました。

その後、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)に帰京した後も、吉川は中野のアトリエを3回ほど訪れてやはり写真を撮影しているようです。

はがきといえば、光太郎が吉川に送ったはがきも一通、確認されています。昭和25年(1950)のものです。

おハガキと「文化人プロフイル」と忝なくいただきました、豪華な写真帖なのでびつくりしました。多くの知人がゐるのでなつかしく飽かず見入つてゐます、畑の仕事が中々いそがしくなりました、今日は雨で静かですが、みどりの美しさ限りなしです、

『文化人プロフイル』は、『郁文集』に先だって、吉川単独でなく数人の写真家の作品を収めた写真集です。


写真に限らず、どういった造形芸術でも、或いは文筆作品などでも、作品は作品としてのみ見るべきと、よく言われますが、こうした背景を知って見るのも大事なのではないかと思いました。


というわけで、日藝さんの「−オリジナルプリント展− Life 命の輝き -Portraits-」、以上の背景を踏まえて御覧いただければと存じます。


【折々のことば・光太郎】

私は今迄に経験した事の無い淋しい鋭い苦痛の感情をしみじみと感じた。動乱と静粛と入りまざつた心の幾日かを空しく過した。さうしてロダンが立派にやり遂げるだけの事をやり遂げて、其の私的存在をかき消してしまつた事を思ふと、不思議な伝説的の偉大さを感じる。ロダンの生きてゐた時代に自分も生きてゐたといふ事がまるで歴史のやうに意味深く、又貴く感ぜられる。
散文「ロダンの死を聞いて」より 大正7年(1918) 光太郎36歳

吉川富三の写真を見、山小屋来訪の話に触れ、つくづく光太郎の生きていた時代に自分も生きていたかったと思いました。

都内レポート2回目です。

新宿での「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~ 坂本富江個展」会場を後に、文京区千駄木に向かいました。目指すは光太郎実家の隣、旧安田楠雄邸。こちらで光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周令孫・髙村達氏の写真展「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」が開催されています。

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受付で観覧料金を支払い、一路、写真展会場の2階へ。邸内の説明をボランティアガイドさんがなさって下さるのですが、昨秋、「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」」を拝観した際に拝聴しましたので、割愛。

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老朽化のため解体されることになった光太郎実家の、四季折々を収めた達氏撮影の写真が20葉ほど。ご自分の育ったお宅に対する愛おしさとでもいうようなものが感じられました。

会場の安田邸が、ボランティアガイドさんの都合もあり、水、土のみの公開のため、写真展自体も明後日25日(水)、28日(土)と、あと2回のみの開催です。

後で達氏に、ラジオ局の取材が入ったと聞き、帰ってから調べましたところ、「ブルーレディオドットコム」というネットラジオで、達氏の写真家仲間・熊谷正氏のコーナーがあって、そちらで達氏のインタビューもオンエアされていました。しばらくはネット上でも配信されているようです。

その後、安田邸内外をじっくり拝観。大正8年(1919)の建築で、関東大震災後、旧安田財閥の安田善四郎が買い取り、平成7年(1995)まで安田家の所有でした。現在は公益財団法人日本ナショナルトラストさんによって管理されており、一般公開や企画展示などに活用されています。

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窓からは、楓や柏などの新緑が目に染みました。

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ここのみ洋風になっている応接間。

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台所。天井全体から採光されるようになっており、非常に明るかったのが印象的でした。当時としては珍しく、シンクやガスレンジなども完備されていたとのこと。右は電気を使わず、氷を入れて全体を冷やすタイプの木製の冷蔵庫。いい感じですね。

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昨秋訪れた際には、庭の見学は致しませんでしたが、今回はそちらも拝観。

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指呼の距離にあった光太郎アトリエや、森鷗外宅・観潮楼などは、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰しましたが、この一角は無事だったわけで、今もこうして観ることができます。


その後、安田邸見学者対象に、隣接する髙村邸の見学ツアーが行われました。当方は一足早く髙村邸へ。明日はそちらをレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

絵画に画品と言ふものが顧みられない傾向は近年ますます激しくなつたやうで、画界には腕達者やいたづら者や粗率の者が充満してゐる。私はかやうな画家の作を眼から上に置いて観る気がしない。

散文「宮崎丈二色紙の会」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

絵画に限らず、すべての造形芸術、というか、造型限定でもない芸術全般には、確かに「品」が必要ですね。そして「品」は、「品性」やら「人品骨柄」やら「気品」やらで、人間性にも直結します。

本日行って参ります都内での展覧会二つ、それぞれ報道されていますので、ご紹介します。  

まずは『東京新聞』さんの東京版で、昨日掲載された記事。「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」髙村豊周邸写真展」に関してです。

高村光太郎の弟、鋳金家・高村豊周 書斎、庭を写真で紹介

 詩人・高村光太郎の弟で工芸家の002高村豊周(とよちか)(一九七二年没)が暮らした家の写真展「となりの高村さん展」が、隣接する旧安田楠雄邸庭園(文京区千駄木五)で開催されている。高村邸は来月にも解体されることが決まっており、豊周の孫で写真家の達(とおる)さん(50)が、何とか形に残したいと撮影した。達さんは「当時のまま残してあった書斎などを見てほしい」と話している。 (原尚子)

 豊周は人間国宝の鋳金(ちゅうきん)(金物工芸)家で、「藤村詩碑」など数々の作品を残した。伝統的な手法を使いながらも新しい作風で知られ、工芸の近代化運動にも貢献。与謝野鉄幹・晶子夫妻に短歌を学び「歌ぶくろ」などの歌集も出している。

 高村邸は一九五八年築の数寄屋建築で、国の登録有形文化財だった。光太郎・豊周兄弟の父で彫刻家の光雲から家督を継いだ豊周が建てたが、息子で写真家の規(ただし)氏が二〇一四年に亡くなった後、老朽化もあって解体が決まったという。

 会場には、達さんが昨秋から最近まで何度も撮り直して厳選した約三十点を展示。雪景色や桜、咲き始めたばかりの藤棚といった四季折々の庭や書棚など、豊周が愛したたたずまいが、家族ならではの温かいまなざしで表現されている。達さんは「四歳のときに豊周が亡くなり、あまり記憶はないが、最後に書斎をバックに写真を撮った思い出の場所」と話す。

 都指定名勝の旧安田邸の公開日に合わせて二十一、二十五、二十八日に開催。旧安田邸の入館料(一般五百円、中高生二百円、小学生以下無料)が必要。畳の保護のため靴下を着用する。二十一、二十五日には高村邸の見学ツアーもあり、達さんも参加する。問い合わせは、旧安田邸=電03(3822)2699=へ。


続いて、昨日もご紹介した、太平洋美術会、高村光太郎研究会に所属されている坂本富江さんの個展。坂本さんご本人からコピーを頂きまして、『読売新聞』さんの東京版の記事だそうですが、大見出しが切れています。「智恵子」というのは判読できるのですが。

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仕方がないので小見出しから始めます。

坂本さん個展 福島など1都10県巡り

 詩人・高村光太郎(1883~1956年)の妻、智恵子の足跡をたどり、風景画などを描いている元板橋区職員の坂本富江さん(68)の個展「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~」が18日、新宿区西新宿の「ヒルトピアアートスクエア」で始まった。
 坂本さんは中学時代に光太郎の「道程」を読んだのをきっかけに、光太郎の作品のファンとなった。一方で、その光太郎が詩集「智恵子抄」で情熱的に描いた智恵子にも次第に興味を持つようになった。
 1995年以降、区で保育の仕事をしながら、智恵子の出身地の福島県や智恵子が光太郎と暮らした文京区千駄木など、1都10県を何度も巡り歩き、300枚以上の絵を描いてきた。なかでも、福島は何十回も訪れ、生前の智恵子の姿を追い求めた。
 東日本大震災の後には、少しでも復興に協力しようと、多くの人に福島などの被災地を訪れてもらうため、「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を自費出版。1000部が完売した。
 個展では各地で描いた約50点の作品を展示している。坂本さんは「作品を通じて智恵子だけでなく、被災地にも思いをはせてもらえれば」と話している。24日まで。午前10時~午後7時で、24日は午後3時まで。問い合わせはヒルトピア7アートスクエア(03・3343・5252)へ。


明日からはそれぞれのレポートを載せます。


【折々のことば・光太郎】

南洋の諸民族とわれわれとには切つても切れない血縁がある。今われわれは新東洋芸術の確立に力を致さねばならない時に来てゐるが、支那朝鮮の古美術がかなり精しく研究されてゐる割合に、われわれの遠祖の一系である南洋の古美術はまだ本当に究められてゐない。われわれが東洋芸術に包摂綜合しなければならない此等の要素がまだ日本人に十分に摂取さへもされてゐない。
散文「片岡環渡闍作品頒布会」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

片岡環という人物に関しては、ネット上でもほとんどヒットしません。この文章に依れば、「新進彫刻家」だそうです。その片岡がジャワ島の古彫刻を研究しに行くため計画された作品頒布会の推薦文です。題名の「闍」はジャワの漢字表記「闍婆」の略ですね。

同じく南洋のパラオに渡った彫刻家・土方久功の作も高く評価した光太郎、どうも南洋系のプリミティブな美への憧憬があったようです。

文京区千駄木の、旧安田楠雄邸。大正8年(1919)の建築で、関東大震災後、旧安田財閥の安田善四郎が買い取り、平成7年(1995)まで安田家の所有でした。現在は公益財団法人日本ナショナルトラストさんによって管理されており、一般公開や企画展示などに活用されています。

その安田邸から路地を一本はさんで北隣が、光太郎の実家である旧駒込林町155番地。光太郎の父・光雲が終の棲家とし、家督相続を放棄した光太郎に代わって、鋳金の人間国宝となった実弟の豊周が受け継ぎました。その後、豊周子息の写真家だった故・規氏、そして今は豊周令孫でやはり写真家の達氏がお住まいです。明治44年(1911)暮れ、光太郎と智恵子が初めて出会ったのも、ここでした。

そんな関係で、旧安田邸では、「となりの髙村さん」展の第1弾を平成21年(2009)に開催しました。その頃ご存命だった規氏の写真などが展示されたそうです(当方、そちらには行けませんでした)。


そして今月、その補遺展および光太郎実家の一般公開が行われます。

となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展

期 日 : 2018年4月18日(水)002・21日(土)
       25日(水)・28日(土)
会 場 : 旧安田楠雄邸庭園
       東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00
料 金 : 一般500円、中高生200円、
      小学生以下無料(保護者同伴必須)

昨年11月に開催した「となりの髙村さん展第2弾」。その補遺(ほい)として、旧安田邸お隣の高村豊周(とよちか)邸の写真展と見学会を開催します。

高村光雲の三男で、高村光太郎の弟の高村豊周氏は、鋳金家で人間国宝。
また、高村邸は昭和34年築の数寄屋建築で、国の登録有形文化財に登録されています。
ぜひこの機会に足をお運びください!
*髙村邸は、老朽化のため本年解体の予定です。

高村邸見学会:1回目13:00~、2回目14:30~
 *28日(土)を除く
 *旧安田楠雄邸庭園見学者対象 各回20名

園路特別開放: *21日(土)、28日(土)のみ


当方、高村邸は何度かお邪魔し、智恵子の紙絵の現物を手にとって拝見したりしましたが、いつも規氏、達氏の写真スタジオでした。この機会にお邪魔させていただこうと思っております。

皆様もぜひどうぞ。003


【折々のことば・光太郎】

外側ばかりを気にするな。内の力をまづ養へ。
散文「寸感」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

この年、東京府美術館で開催された、「聖徳太子奉讃美術展覧会」の評から。

光太郎自身も、大正2年(1913)の生活社主催展覧会以来、13年ぶりに彫刻を出品しました。塑像「老人の首」、木彫「鯰」が出品作でした。

この展覧会には、光雲、豊周も作品を出しており、父子三人が同時出品したのは、おそらくこれが最初で最後ではないかと思われます。

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地方紙・高知新聞さんの一面コラム「小社会」。先週、歿後100年のロダンに絡め、光太郎に触れて下さいました。 

小社会 2017.11.17

 美術の教科書に載っている著名な作品の本物に出合うと、心の内でガッツポーズをしたくなる。だから印象が強く残っているはずなのに、「いつ、どこで」が定かでない作品が少なからずある。

 フランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの「考える人」もその一つ。東京・上野の国立西洋美術館の前庭にある大きな像は何度も見ているが、原型の小さな像との初対面は思い出そうとしても出てこない。

 40年余り前に、高知市で開かれた同美術館所蔵の「松方コレクション展」で見たという県民は多いだろう。実業家の松方幸次郎が1910年代から欧州で収集し、59年にフランス政府から日本に寄贈返還された絵画や彫刻のコレクションだ。

 中でも、ロダンの彫刻は世界でも有数の規模を誇るという。「考える人」のほか、「青銅時代」「地獄の門」「バルザック」といった代表的な作品が網羅されている。日本にロダンのファンが多いとされるのは、松方のおかげといえるかもしれない。

 美術学校生の時に雑誌でロダンに出合った高村光太郎は、のどが詰まりそうな気がしたという。当時の西洋の彫刻家とはまるで異なり、日本人の作家に近いと感じたようだ。ロダンは日本の職人かたぎに感心し、「あれでなくては芸術はできない」と述べたと光太郎が書き残している。

 近代彫刻に新たな生命を吹き込んだロダンが77歳で没して、きょうでちょうど100年になる。


というわけで、光太郎が敬愛し、確かに日本にもファンの多いロダン。公開中のフランス映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」(次の日曜に観て参ります)、上野の国立西洋美術館さんで開催中の「《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』」展など、好評のようです。


もともとロダン作品を多数所蔵されている静岡県立美術館さんでは、以下の企画展が開催中です。

彫刻を撮る:ロダン、ブランクーシの彫刻写真

期 日 : 2017年11月14日(火)~12月17日(日)
会 場 : 静岡県立美術館 静岡市駿河区谷田53-2
時 間 : 10:00~17:30
料 金 : 一般:300円(200円)/大学生以下・70歳以上:無料
      ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 毎週月曜日

2017年は、彫刻家オーギュスト・ロダン(1840〜1917年)の没後100年にあたります。
これを記念し、日本でも有数のロダン・コレクションを誇る当館は、「ロダン没後100年に寄せて」という総称のもと、彫刻家ロダンと写真との関係に着目した3つの小企画展を連続で開催します。
写真術が誕生したのは19世紀。
多数の芸術家がこのメディアを積極的に活用しました。
ロダンも例外ではなく、自作の彫刻を写真家に撮影させ、1890年代以降、それらの写真を作品として展覧会に出品しました。
本企画は、当館所蔵品を中心に、ロダンと写真との関係性を直接に物語る作品のみならず、ロダンとほぼ同時代の彫刻家ブランクーシの自撮による彫刻写真や、さらにはロダンの彫刻を現代の写真家が撮影したものなど、複数の作品/テーマを組み合わせることによって、ロダンの芸術観や写真観を多方面から再考する試みです。
ロダンの新たな一面をご紹介する本企画。
ご鑑賞の後は、ロダン館へも足をお運びいただき、新たな視点でロダン芸術を丸ごと味わってください。

写真を積極的に活用したものの、決して自ら撮影は行わなかったロダン。 ロダンと交流のあった彫刻家ブランクーシは、彼とは異なり、第三者に作品の撮影を任せず、自らアトリエの演出・照明・撮影の全てを行いました。ロダンおよびブランクーシの彫刻・アトリエや肖像を撮影した写真を展示し、その相違や、彫刻家と写真との関係について再考します。


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第1,2は紹介しませんでしたが、「ロダン歿後100年に寄せて」の総題で9月から始まっている企画展示の第3弾です。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

一年の目方がひどく重く身にこたえ、 一年の味がひどく辛く舌にしみる。

詩「開びゃく以来の新年」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

翌年の『中部日本新聞』他の元日号のために書かれた詩の冒頭部分です。草稿に残されたメモによれば、制作の日付は12月5日。光太郎、余命4ヶ月足らずです。その自覚も既にあったと思われます。

この年4月には宿痾の肺結核による大量の血痰。7月まで赤坂山王病院に入院。退院し、中野のアトリエに戻りましたが、もはや手の施しようがないという意味での退院でした。それでも岩波文庫版『高村光太郎詩集』の校閲をしたり、筑摩書房版『宮沢賢治全集』の題字揮毫、装幀を行うなど、その歩みを止めることはありませんでした。

10月にはラジオ放送のための対談を草野心平と行い、その音源はNHKさんに残っています。最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関する部分は、先月、十和田市で講演させていただいた際に聴衆の皆さんに聴いていただきました。

一昨日、上野の東京藝術大学美術館さんで開催中の「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」を拝見したあと、谷中を抜けて千駄木へと歩きました。

谷中は明治23年(1890)~同25年(1892)、光太郎一家が一時居住していました。父・光雲は同22年(1889)から東京美術学校に奉職、谷中に移ってから教授に昇格するとともに、帝室技芸員も拝命し、皇居前広場の楠木正成像の制作主任にもなりました。代表作の「老猿」も谷中で制作しました。

ところが光太郎が尊敬し、強く感化を受けていた6歳年上の姉・咲(さく)が16歳の若さで肺炎で亡くなり、失意の光雲は谷中の家に居たたまれず、千駄木への転居を決めました。

さて、不忍通りを渡って団子坂を上り、森鷗外の観潮楼跡を過ぎて、路地を右に入ります。少し歩くと、現在も続く髙村家。家督相続を放棄した光太郎に代わり、後に鋳金の人間国宝となった実弟の豊周が跡を継ぎました。豊周令孫の朋美さんが庭掃除をなさっていました(笑)。

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その手前が目的地・旧安田楠雄邸なのですが、安田邸は髙村家とは逆サイドに正面玄関があり、さらに路地をくねくねと進み、旧保健所通りに出て、少し戻ります。
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豊島園の創設者・藤田好三郎によって大正8年(1919)に建てられた邸宅を、安田財閥の安田善四郎が買い取り、その子、楠雄が住み続けました。

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こちらでは、水曜、土曜のみ「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催中です。故・髙村規氏は豊周の子息、つまりは光太郎の令甥。写真家として活躍された方でした。

入り口で入場料700円也を納め、靴を脱いで上がります。ボランティアガイドの方が邸内や庭園の説明をして下さいました。

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こちらは平成8年(1996)に安田家から公益財団法人日本ナショナルトラストさんに寄贈されています。その後、邸内でさまざまな催しや展示に利用されており、その一環として「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催中です。

在りし日の規氏。

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平成21年(2009)に開催された「第一弾」の折のものも。

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愛用のカメラや日用品。

2階にあがると、昔の千駄木の写真が。題して「規さんが生まれ育った千駄木林町」。このあたり、旧地名は本郷区駒込林町でした。レトロな建物や自動車、行き交う人々など、実に自然でいい感じでした。

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光雲、光太郎、そして智恵子の作品の写真は、邸内のあちこちに。

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21世紀の都心に居ることを忘れさせられるようなひとときでした。

今月29日までの水曜、土曜に公開されています。ぜひ足をお運びください。

続いて、安田邸を出て左、光太郎アトリエ跡地を通り過ぎ、動坂方面へ。

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動坂上交差点を右折、田端駅を目指しました。田端といえば文士村。芥川龍之介や萩原朔太郎、そして室生犀星等が住んでいました。犀星は、このルートを辿って光太郎アトリエを何度か訪れたはずです。大正初期、最初に訪れた頃は何度も智恵子に追い返されたそうですが(笑)。

田端駅から山手線で池袋へ。豊島区役所さんで開催中だった(昨日で終了)「2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展」会場へと足を向けました。そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

おれは十年ぶりで粘土をいじる。 生きた女体を眼の前にして まばゆくてしようがない。 こいつに照応する造型の まばゆい機構をこねくるのが もつたいないおれの役目だ。

詩「お正月に」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

005翌年の『朝日新聞』元日号のために書かれた詩です。

「生きた女体」は、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため雇ったモデル・藤井照子。当時19歳でした。

プールヴーモデル紹介所に所属していたプロの美術モデルで、木内克の彫刻のモデルも務めていたとのこと。「乙女の像」の仕事のあと、結婚してモデルはやめたようで、結婚の報告のため光太郎を訪れたりもしていました。

以前にも書きましたが、まだご存命なら80代前半のはずで、消息をご存じの方はご教示いただければと存じます。

先日、十和田市に行った際、現地の方から、「東京の青果店に嫁いだらしい」という情報を聴いたのですが、詳細が不明です。

情報を得るのが遅れ、始まってしまっている展覧会を2つ。いずれも都内で開催中です。 

となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展

期 日 : 2017年11月1日(水)~5日(日) 11月8日(水)~29日(水)の水・土
会 場 : 東京都指定名勝 旧安田楠雄邸庭園 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00
料 金 : 一般700円、中高生400円、小学生以下無料(保護者同伴必須)

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東京文化財ウイーク2017参加企画

写真家・高村規(ただし)。1933‐2014 父は人間国宝の彫金家・豊周(とよちか)、 伯父は彫刻家で詩人・光太郎、 伯母は画家で紙絵作家・智恵子、そして祖父の木彫家仏師・光雲(こううん)・・・本郷区駒込林町155番地(現・文京区千駄木5丁目)、 明治25年(1892)にはじまる芸術家の系譜。

芸術家の仕事を後世に伝えた写真家が写し撮った町がわたしたちに語りかける。 高村規の原点、懐かしい駒込林町、そして千駄木と名を変えた町の風景。ぜひご覧ください。


会場の旧安田楠雄邸は、光太郎の実家にして、現在も光太郎の実弟・豊周が継いだ髙村家の「となり」です。普段から水、土に一般公開はされていますが、時折、このような形で企画展示が為されます。「となりの髙村さん」展の第1弾が開催されたのが平成21年(2009)。やはりその頃ご存命だった光太郎の令甥で写真家髙村規氏の写真などが展示されたそうです(当方、そちらには行けませんでした)。

ちなみに光雲、豊周、規氏、そして現在の規氏ご長男達氏と続く家系は、戸籍上は通常の「高」だそうですが、昔から慣例的に「髙」の字を使用されています。戸籍の届けを光雲の弟子の誰かにやってもらったところ、「髙」ではなく「高」で登録してしまったとのこと。長男でありながら家督相続を放棄し、分家扱いとなった光太郎は、戸籍が「高」なのだから、と、「高」で通しました。

今回も、規氏の作品が展示されています。昔の千駄木界隈や、光雲、豊周、光太郎、智恵子らの作品を撮影したもの等だそうです。チラシに使われているのは、昔の団子坂です。

11/1から始まっていて、5日までの期間は髙村家の見学もあったそうです。不覚にも情報を得られませんでした。すみません。


もう1件。 こちらは一昨日からです。 

2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展

期     日 : 2017年11月8日(水)~11月12日(日)
会     場 : 豊島区役所本庁舎1階としまセンタースクエア 東京都豊島区南池袋2-45-1
時     間 : 午前10時~午後6時
料     金 : 無料

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概要をわかりやすくすために、後援に入っている『毎日新聞』さんの東京版記事から。 

アジア・パラアート展  始まる 5カ国100人の力作展示 揮毫に会場沸く 南池袋 /東京

 「アジア・パラアート~書~TOKYO国際交流展」(日本チャリティ協会主催)が8日、豊島区南池袋の区役所1階「としまセンタースクエア」で始まった。日本、中国、韓国などアジア各地で活躍する障害者の書作品を通して交流を図ろうという企画。会場には5カ国100人の感動的な力作が展示されている。 
 8日は日本、中国、韓国の書家による開幕を記念した揮毫(きごう)会が開かれ、訪れた多くの人たちから大きな声援が送られた。日本からはダウン症の金澤翔子さんが参加。大きな筆を勢いよく動かし「共に生きる」を書き上げた。
 四肢体幹機能障害の鈴木達也さんは、自ら考案したヘッドキャップに筆を取り付け、首の力で草書体の「命」を書いた。事故で両腕を失った中国の書家、趙靖さんは、筆を口にくわえて「友誼常青」を書き、ソウル五輪のオープニングで見事なパフォーマンスを見せた韓国の義手の書家、チャン・ウ・ソクさんは、「サイクリング」を巧みな筆致で表現し、会場は盛大な拍手でわいた。
 特別展示では、吉田茂、山本五十六、高村光太郎、水上勉、ペギー葉山の各氏はじめ、安倍晋三首相ら各界著名人の作品45点も飾られている。
 12日まで。入場無料。問い合わせは同協会(03・3341・0803)。【鈴木義典】
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というわけで、基本、「パラ」ですので、パラリンピック的に、障がい者の皆さんの作品展ですが、特別展示ということで、近現代の著名人の書も展示されているそうです。そのトップに光太郎の名。ありがたや。他にも光太郎と関係があった小川芋銭、平塚らいてうなどの書も展示されています。


明日、元々上京する予定でしたので、今回ご紹介した2件も拝見し、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

おれは気圏の底を歩いて 言葉のばた屋をやらかさう。 そこら中のがらくたに 無機究極の極をさがさう。

詩「ばた屋」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「ばた屋」は、現代ではいわゆる放送禁止用語のコードに抵触するでしょう。古紙や布、金属片などを回収して換金する職業です。それも路上から拾い集めて、というのが主流でした。おそらくこの当時の東京にも多かったのではないかと思われます。

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京する直前の作です。「ばた屋」の闊歩する東京で、自らは「言葉のばた屋」として、日常生活の中から言葉を拾い集め、詩作をしようということでしょう。

写真系の展覧会情報です。情報を得るのが遅れ、既に始まっています。

高橋昌嗣展 文士の逸品 物から物語へ。

期   日 : 2017年10月21日(土)~10月28日(土)009
会   場 : アートスペース煌翔 
       東京都杉並区南阿佐ヶ谷3-2-29
時   間 : 11:00~19:00
料   金 : 無料

写真家・高橋昌嗣さんが撮影してきた、文士たちの愛用品の写真展。

元になったのは、雑誌『文藝春秋』に連載された「文士の逸品」(1997年7月号〜2001年9月号連載)で撮影されたもの。いま『サライ.jp』で「漱石と明治人のことば」を連載中の文筆家・矢島裕紀彦さんとの二人三脚の取材で、その後、同タイトルの単行本として一冊に纏まった。

山口瞳の帽子、向田邦子のシャツジャケット、金子みすゞの手帳、中山義秀のハガキ、芥川龍之介のマリア観音像、小泉八雲の蛙の灰皿、佐佐木信綱の風帽、椎名麟三の鉛筆削り、田山花袋の版木、西田幾多郎の人形、有吉佐和子の三味線、川端康成の土偶、森鴎外の双六盤、斎藤茂吉のバケツ、志賀直哉の杖、与謝野晶子の訪問着、井上靖の靴、坂口安吾のストップウオッチ、梶井基次郎の鞄、北原白秋の硯箱、尾崎放哉のインク瓶、壺井栄の姫鏡台、寺山修司の人形、樋口一葉の櫛、田中英光の本、岡本かの子のロケット、萩原朔太郎のギター、高村光太郎の長靴、中勘助の匙、野上彌生子の伎楽面、谷崎潤一郎の長襦袢、山本有三の戸棚、泉鏡花の兎の置物、幸田露伴の煙管……これでもまだ、展示作品の半分にも満たない。

時として数々の作家達に創作の情熱を与えたり、時には折れそうな心を支えたりもしたであろう愛用品たちの姿は、作品からは伺えない文士たちの“人間”としての存在を、問わず語りに伝えてくれる。


同タイトルの単行本」は、文藝春秋社さんから平成13年(2001)に刊行されています。

008光太郎の長靴は、おそらく、花巻高村光太郎記念館さんの所蔵のものでしょう。身長180㌢超と、当時としては大男だった光太郎、手足も並外れて大きく、足のサイズも30㌢超だったそうです。そのあたり、手前味噌になりますが、平成24年(2012)にTBSサービスさん刊行の『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』中の、当方の談話筆記「光太郎の足は三十センチあった⁉」でご紹介しております。

右の画像は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した、昭和27年(1952)のもの。それまで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で、農作業の際に履いていたであろう長靴で、かまわず東京の街に現れました。

その後も、長靴に国民服というこの出で立ちで都内を闊歩(美術展などにも)、「あら、高村光太郎よ」と奇異の目で見られたそうですが、全く気にしなかったとのこと。さすがです(笑)。

光太郎の長靴以外も、「斎藤茂吉のバケツ」だの「坂口安吾のストップウオッチ」だの、「何じゃ、そりゃ?」というものがたくさんありますね(笑)。しかし、そいうったものにも、それぞれのドラマがあるのでしょう。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

二つに割れた世界の間に挟まる者に 一九五〇年は容赦もなからう。 白く冷たく雪に埋もれた正月を 東北は今どんな決意で迎へる気だ。

詩「一九五〇年」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』の、翌年元日号のために書かれた詩です。そこで、「東北は今……」となっているわけです。「二つに割れた世界」は東西冷戦を指します。

あと2ヶ月ちょっとで、2018年です。自公連立与党の圧勝に終わった衆議院選挙を経て、新聞紙上ではもはや既定路線のように「改憲」の文字が目立ちます。2018年、どうなることやら、ですね。

ところで、今回の選挙でも、福島の原発事故の処理もまだ終わらないというのに、エネルギー政策がまったくといっていいほど争点に上らなかったように思います(選挙区によってはそうでもなかったのかも知れませんが)。果たして、それでいいのでしょうか……。

過日ご紹介した「ふくしま ほんとの空プログラム」関連で、続報的な……。 

ふくしま ほんとのプログラム フォトコンテスト

【福島県産米「天のつぶ(5㎏)」が3名様に当たる!】

応募期間 2017年10月31日(火)まで

< 応募方法 >
①インスタグラムアカウントを公開してください。
②ふくしまほんとの空プログラムの公式インスタグラムアカウント「@f_hontonosora」をフォローしてください。...

③ハッシュタグ“#ふくしまほんとの空”を付けて、撮影場所を記載し、福島の空(昼夜問わず)の写真を投稿してください。

※お一人様何回でも投稿できますが、同一画像の投稿はご遠慮ください。
※本ハッシュタグをつけた投稿写真と文章は、当選の有無に関わらずふくしまほんとの空プログラムのインスタグラムやfacebook等で掲載させていただく場合があります。

< 当選発表 >
・応募期間終了日を持って応募締め切りとします。厳正なる審査のうえ、当選者を決定いたします。
・結果発表は当選者にインスタグラムダイレクトメールでご連絡いたしますので、公式アカウントを必ずフォローしてください。
・結果発表は2017年11月下旬を予定しています。
・当選者は、事務局からの当選通知ダイレクトメールの送信後7日以内にご連絡いただけない場合は、当選を無効とさせていただきます。
・当選商品の発送は日本国内に限らせていただきます。
・政治・宗教・営利活動に該当するもの及び公序良俗等に反する作品は受付できません。

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「ふくしま ほんとの空プログラム」は、9月と10月に鮫川村で開催される自然体験イベントですが、それと直接関係なく、福島の「ほんとの空」を撮った写真のコンテストだそうです。


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既にfacebook上に応募写真のいくつかが掲載されています。

どれもいい写真ですね。

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もう1件。昨日の『福島民報』さんから。

ミスセブンティーンに 郡山在住、箭内夢菜さん

003 郡山市在住の高校2年生箭内夢菜(やない・ゆめな)さん(17)が、10代向けのファッション誌「Seventeen」(集英社)のオーディションで、専属モデルとなる「ミスセブンティーン2017」に選ばれた。集英社によると県内在住者が選出されたのは初めて。

 箭内さんは「ずっとSeventeenモデルになるのが夢だったので本当にうれしい。初心を忘れずに、たくさんの人に愛されるモデルになりたい」と話している。
 「Seventeen夏の学園祭2017」が24日に横浜市で開かれ、発表された。鹿児島県出身の宮野陽名さん(13)とともに、応募者5981人の中から選考された。イベントで箭内さんは約3000人の歓声を浴びながらランウエーを歩いた。
 ミスセブンティーンは、広瀬すずさんら女優・人気モデルを多数輩出している。
 箭内さんは東京マラソンのオフィシャルドリンク「ポカリスエット」をPRする「ポカリガール2017」に選ばれて注目を浴びた。今夏は全国高校野球選手権福島大会を盛り上げる「KFB高校野球ガール」に起用された。
 10月28、29の両日、福島民報社が鮫川村で催す「ふくしま ほんとの空プログラム」宿泊体験にプログラムナビゲーターとして参加する。


記事にある広瀬すずさん以外にも、北川景子さん、木村カエラさん、水原希子さんらがこのオーディションの出身だそうで、福島をもりあげるための今後の活躍が期待されますね。


【折々のことば・光太郎】

限りなき信によつてわたくしのために 燃えてしまつたあなたの一生の序列を  この松庵寺の物置御堂の仏の前で 又も食ひ入るやうに思ひしらべました
詩「松庵寺」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

昭和16年(1941)8月、詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定される「荒涼たる帰宅」以来4年ぶりに、公表された詩に智恵子がメインで現れました。

詩の舞台は花巻町中心部の松庵寺さん。10月10日には、父母と智恵子の法要を営んでもらっていますが、制作の日付は10月5日。智恵子の命日です。8月23日の日記には、「雨、晴、朝一寸雨ふる。(略)松庵寺にて一枚起請文をもらふ。」とあり、この時の出来事を謳ったものかもしれません。

JR成田駅前の成田市芸術文化センタースカイタウンギャラリーで、以下の企画展が催されています。

下総御料牧場の記憶 ~第9代下総御料牧場長・田中二郎の残したアルバムを中心に~

期 日 : 2017年6月3日(土)~6月25日(日)
会 場 : 成田市芸術文化センタースカイタウンギャラリー5F 
       千葉県成田市花崎町828-11
時 間 : 午前10時から午後5時
休館日 : 月曜日
料 金 : 無料
主 催 : 成田市 成田市教育委員会

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昨日の『朝日新聞』さんの千葉版に載った記事です。

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宮内庁下総御料牧場は、明治8年(1875)に開場した下総牧羊場を前身とし、同18年(1885)、宮内省(当時)直轄化。成田空港の建設工事に伴い、昭和44年(1969)に那須に移転するまで存続していました。

一帯は、成田空港や宅地となっていますが、航空写真を見ると、牧場だった頃の名残があちこちに見られます。この楕円形になっている道路などもその一つ(NHKさんの「ブラタモリ」のようですね(笑))。

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光太郎の親友だった作家の水野葉舟が大正13年(1924)にこの地に移り住み、昭和22年(1947)に亡くなるまで、牧場近くに住み続けました。葉舟は、元々、前年に光太郎が日本画家の山脇謙次郎のために建ててやった小屋に入り、その後、近くに自分で家を建てました。そうした縁もあり、光太郎も何度か御料牧場を訪れています。ただし、細かな年月日、何度訪れたかなどは現時点では不明です。

以前にもご紹介しましたが、光太郎は御料牧場を舞台に、詩「春駒」を作りました。

  春駒
 
三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場(ごれうまきば)にうつすり003
もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、
雨ならけむるし露ならひかるし、
明方かけて一面に立てこめる杉の匂に、
しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ
春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ。
すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、
ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、
ただ一心に草を喰ふ。
かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい。
三里塚の春は大きいよ。


昭和52年(1977)には、この詩を刻んだ碑が、かつての御料牧場跡地に建てられた三里塚御料牧場記念館を含む三里塚記念公園内に除幕されました。

実は最近、大正時代に御料牧場の獣医師だった人物の御子孫(東京ご在住)から連絡がありました。光太郎と葉舟がかつて牧場内のその獣医師の官舎を何度か訪れ、別のご子孫のお宅に、光太郎関連の資料が遺っているとのこと。この秋に拝見するお約束をいたしました。もしかすると、前述の御料牧場を訪れた、細かな年月日、何度訪れたかなどの手がかりがつかめるかも知れません。

そうした関係もあり、もう一度、御料牧場について調べ始めた矢先に、この企画展。隣町ですので、早速、拝見して参りました。

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昭和17年(1942)から同39年(1964)にかけ、代9代の牧場長を務めた、故・田中二郎氏のアルバムから採った写真が中心で、光太郎が訪れた時期より下るものでしたが、興味深く拝見しました。

御料牧場ということで、皇室の方々もよくいらしていたようで、颯爽と馬にまたがる今上天皇の皇太子時代のお写真、美空ひばりさんやエンタツ・アチャコさんらが写っている同牧場での映画のロケでのスナップ(上記チラシ等に使われているもの・おそらく昭和25年=1950封切りの「青空天使」)などなど。

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前列左から4人目の少女が美空さん、その右隣が母親役の入江たか子さんです。後ろには牧場のサイロが写っています。

写真以外にも、動物彫刻家・池田勇八から田中が贈られた騎馬像なども展示されていました。池田は東京美術学校での光太郎の後輩に当たり、光太郎は文展や帝展の評では、池田の作品を比較的好意的に紹介しています。

牧場跡地の三里塚記念公園ともども、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此世の表層(うはかは)をむき取るとこんなに世界は美しい

詩「“Die Welt ist schoen”」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

005題名の「“Die Welt ist schoen”」は、「世界は美しい」の意の独語です。ドイツの写真家、アルベルト・レンゲル・パッチュがこの2年前に刊行した写真集の題名を転用しており、詩の中にもレンゲルに語りかける部分があります。

のちに光太郎自身も「世界は美し」という詩(昭和16年=1941)を書きましたし、表記を変えて揮毫したりもしています。右は今年2月に亡くなった、埼玉東松山市教育長、日本ウオーキング協会副会長だった田口弘氏に贈られた書です。

「美し」といえる世界であって欲しいものです。ところが、「美しい国、日本」はどこへやら、提唱者自身がこの国を踏みにじっているのが現状ですね(笑)。

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