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光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻で、光太郎顕彰活動を進められている「やつかの森LLC」さんが、写真集を刊行されました。

山からの贈り物 やつかの森の四季

2021年9月1日 やつかの森LLC編・刊 定価1,320円
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 令和3年9月1日に私どもの写真集が出来ました。表紙は、皆さんなかなか足を運びにくい冬の季節です。
「暮しの手帳」の元編集長の松浦弥太郎氏が「雪の積もった冬の夜、一度で良いから、山荘で眠ることだ。」と言っている、憧れの景色と思われます。
 四季を通して、私どもが見てきた景色をお届けします。景色は似ていても同じ景色は二度とはなく、
朝、箒を持ち掃除をしながら、夕方、自転車で廻りカギを閉めに行きながら、お客様を案内しながら、荷物を運びながら、目に留まったものを撮りためました。
 今、里では稲が実り、光太郎がおいしいと絶賛した花巻のお米が収穫を迎えるのももう少し。あまりおいしくて、次の日の分まで食べてしまったり、秋には光太郎も少し肥ったと友人に伝えたエピソードもあります。
 高村光太郎記念館周辺では、こんな景色が見られることでしょう。遠く真っ赤に見える水引も、早く会いたいです。


「山からの贈り物」というタイトルは、光太郎詩「山からの贈り物」(昭和24年=1949)にちなみます。挟まっていたリーフレットに全文が印刷されていました(上記挨拶文も)。
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光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)周辺、四季折々の景色。実にいい感じです。雪深い地域であるだけに、冬とそれ以外の季節のギャップが大きいのもありますし、光太郎が愛した豊かな自然がそれぞれの季節を美しく彩っています。
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道の駅はなまき西南さんで店頭販売中、また、最上部画像に連絡先がありますので、そちらまでご注文下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜圓次郎翁宅にて法隆寺幻灯会。説明をする。


昭和23年(1948)12月12日の日記より 光太郎66歳

光太郎が小学校に寄贈した幻灯機を使っての幻灯会。講師も光太郎が務めました。なんとも贅沢ですね(笑)。

光太郎智恵子がその人生の永い時間を過ごした東京文京区から、写真コンクールの情報です。

第59回文京区観光写真コンクール

文京区内の観光スポットや催しで賑わう様子、今も残る昔の情景、花の五大まつりの賑わいなど、見た人が足を運びたくなるような観光写真を募集します。

主催:文京区観光協会   共催:文京区

募集期間  2021年8月1日(日曜日)~9月30日(木曜日)※当日必着

各賞一覧
 推薦(1点) 文京区観光協会会長賞 賞状・賞金2万・賞品
 特選(1点) 文京区長賞 賞状・賞金1万・賞品
 審査員特別賞(若干点) 賞状・賞金5千円・賞品
 準特選(10点) 文京区議会議長賞、文京区教育委員会賞ほか 賞状・賞金・賞品
 入選(10点)  賞状・賞品
 佳作(10点)  賞状・賞品
 ジュニア賞(4点)  賞状・賞品 ・図書カード

審査結果
 11月下旬までに応募者全員に発送します。表彰式は12月12日(日曜日)に行います。
 入賞作品は写真展に展示されます 。

応募規定
 カラープリント四切り(ワイド四切り・サービス判四切りを含む)、またはA4サイズ 。
 小・中学生対象のジュニア賞に限り2Lサイズ(127mm×178mm)可 。
 デジタル写真可。ただし、画像修正・加工は不可。
 色調補正(色調、コントラスト、明度調整など)は審査対象外となる場合があります。
 銀塩印画紙にプリントしたもの。インクジェットプリントでの応募も可。
 2019年4月以降に文京区内を撮影した作品。 
   ※規定にあてはまらない作品は審査対象外となります。

応募細則
 応募はアマチュアに限ります。
 応募作品はお一人につき5点までとし(複数の部門で応募の場合も合計で5点まで)、
 応募者本人が撮影した未発表のものに限ります。 
 不正な二重応募と主催者が判断した場合には入賞等を取消すことがあります。
 個人を特定できる写真で応募する場合、その肖像権について、
  必ず応募者が本人に許可を得てください。
 万一、第三者と紛争が生じた際は、応募者自身の責任と費用負担によって
  解決していただきます。
 立ち入り禁止区域からの撮影や無許可での私有地からの撮影など、
  モラルに著しく反した場合、第三者に不利益を与える場合は審査対象外となります。
 新規で写真撮影する際には、三密を避ける・ソーシャルディスタンスの確保等、
  新型コロナウイルス感染症対策を行ったうえでの撮影をお願いします。
 
応募方法
 所定の応募票(コピー可)を作品ごとに貼付のうえ、
文京区観光協会へ持参または郵送してください。

応募票 
 PDF ファイルをプリントアウトしてご利用ください

応募先
 〒112-0003 東京都文京区春日1-16-21 文京シビックセンター1階 文京区観光協会 

お問い合わせ先 
 文京区観光協会 電話番号:03-3811-3321
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第59回ということで、伝統あるコンテストですね。昨年まで、このブログでは御紹介していませんでしたが、存じ上げませんでした。今年になって気がつきましたのは、審査委員長が髙村達氏だということで、検索の網に引っかかったためです。これまでも委員長をなさっていたかもしれませんが、今年、初めて気づきました。
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達氏、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ、光太郎実弟にして、鋳金分野の人間国宝・髙村豊周の令孫に当たられます。したがって、光太郎の父・光雲の令曾孫。

お父さまの故・髙村規氏も写真家で、高村光太郎記念会理事長を務められ、光雲、光太郎、豊周、そして智恵子の作品を高精細の写真データで遺されました。

文京区内、いわゆる「映(ば)える」スポットも少なからず存在するでしょうし、そうでなくとも、ありきたりの風景の中にも美が見いだせるはずですね。光太郎も「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」 昭和4年=1929)と云っています。だからといって瓦礫の写真で応募しろ、という訳ではありませんが(笑)。

腕に覚えのある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夕方山口小学校の門標をかく。


昭和23年(1948)12月2日の日記より 光太郎66歳

「山口小学校」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近く(といっても1㌔近くありましたが)にあった小学校です。
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この年4月、分教場から小学校に昇格し、新しい校舎も完成。その落成式が翌日と云うことで、門標の揮毫を頼まれていました。
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こちらは翌年行われた学芸会の日に撮影された写真ですが、サンタ姿で乱入した(笑)光太郎の右側に、門標が写っています。いい字ですね。

現物は、当方、拝見したことがありません。現存するのでしょうか。

千葉県で、「ちばアート祭2021」というアートフェスティバルが開催されています。
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現代アートのインスタレーションと、一般の方々から公募した「「ちば文化資産」絵画・写真公募作品展」がメインです。

このうち、「「ちば文化資産」絵画・写真公募作品展」は、平成30年(2018)に選定された111件の「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」をテーマとした絵画・写真・Instagramの作品を募集したものです。

111件中には、「高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台」というキャッチフレーズで、「九十九里浜の景観」も選定されましたし、光太郎智恵子の名は説明に使われませんでしたが、銚子犬吠埼などのゆかりの地が他にも含まれています。

ちなみにインスタレーションの方も、ちば文化資産インスパイアということになっているようです。

千葉県立美術館さんでは、8月3日(火)~15日(日)の日程で、絵画・写真応募作品の原則全てが展示されています(Instagram部門は受賞作品のみの展示)。ちなみに同館で同時開催中の「名品3 ―巨匠の眼と手―」では、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が出ているようです。

美術館にほど近い千葉ポートタワーさんでは、8月16日(月)~9月5日(日)に、応募作品のうち、受賞作品24点を展示とのこと。また、オンラインでも開催されています。
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ぜひ御覧頂き、千葉県の魅力に触れていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

畑の事いろいろやつてゐる、さかんにブヨにくはれる。ひどくはれる。


昭和23年(1948)7月15日の日記より 光太郎66歳

「ブヨ」。標準語だと思っていましたが、どうも関東方言のようで、学術的には「ブユ」と言うのが正しいようです。蚊と同じく、吸血のために刺すそうですが、問答無用で襲来してくるという感じですね(笑)。当方も、かつていきなり刺されてひどい目に遭いました。

『朝日新聞』さんの岩手版に載った記事から。10月21日(水)の掲載だったようです

花巻の自然・動物パチリ 元教諭が写真展

003 花巻市の自然を中心に撮影を続けている同市下幅の元県立高校教諭、瀬川誠孝さん(82)の作品を集めた「残したい花巻の自然・写真展」が同市四日町1丁目の花北振興センターで開かれている。動物の生態や自然風景などを写した約30点が、高村光太郎ら岩手ゆかりの先人の言葉とともに展示されている。11月30日まで。
 水鳥を捕らえたタカの仲間のノスリや、卵塊の泡にまみれたモリアオガエル――。自然の一瞬をとらえた作品の数々は、北上川や周辺の山々を毎日歩き続けて見つけた光景を記録したものだ。写真の傍らに、瀬川さん自身が墨書した高村光太郎の「心はいつでもあたらしく……」や、石川啄木の「ふるさとの山に向ひて言ふことなし……」などの言葉が、語りかけるように掲げられている。
 瀬川さんは県立高校で40年以上化学の教諭を務めた。写真撮影を始めたのは40代からで、オオルリやハクビシンなどの生態をとらえた作品は、たびたび朝日新聞などで紹介されてきた。瀬川さんは「自然の中から生まれた先人の言葉に学び、新しいものを発見してきました。自然と人間の生き方について考えるきっかけにしていただければうれしい」と話している。

光太郎や啄木の言葉を添えて、というのがいいですね。調べてみましたところ、花巻市の花北地区コミュニティ協議会さんのページに案内がありました

残したい花巻の自然・写真展

期 日 : 2020年10/1(木)~11/30(月)006
会 場 : 花北振興センター ギャラリー 
      岩手県花巻市四日町一丁目1-27
時 間 : 午前9時~午後9時
休 館 : 期間内無休
料 金 : 無料

長年、花巻の自然を撮り続けている瀬川誠孝さん(82歳、下幅)の写真の中から、「残したい自然」として30点を選んでいただき、写真展を開催します(内容 野鳥11点、動物7点、祭り4点、風景8点)。

お近くの方、ぜひどうぞ。

もう1件、同じ日に載った記事。過日ご紹介した道の駅はなまき西南さんで販売が始まった「光太郎ランチ」について地元紙では既報ですので、後追い記事といったところです。

高村光太郎にちなんだ豪華弁当 花巻の道の駅で限定販売

 岩手県花巻市轟木に今夏オープンした道の駅はなまき西南に、彫刻家で詩人の高村光太郎の食事をヒントにした手作り弁当「光太郎ランチ」が登場した。毎月15日の1日限定で販売する。
 終戦後の7年間、同市太田の山荘で暮らした光太郎にちなみ、地元の女性グループ・ミレットキッチン花が、財団法人花巻高村光太郎記念会の協力で地元の食材を使って創作した。
 今月15日の第一弾は「牛肉ステーキきのこ添え」や「枝豆ご飯」など9品入りの豪華版で一食800円。「林檎(りんご)汁1瓶、牛肉百匁(もんめ)、納豆2最中7個などもらう。夜牛鍋」(1947年10月22日の光太郎日記)などの記述を参考にした。グループ代表の本舘博子さんは「光太郎さんはグルメとは聞いていたが、あの時分に牛肉を食べていたとか新たな発見で驚いた。光太郎さんを知ってもらうきっかけになれば」。
 光太郎が花巻に疎開するため東京を出発した1945年5月15日にちなみ、毎月15日に10食限定で発売する。季節の食材を使い、メニューは月替わりという。

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ちなみに10月15日(木)の販売分10個、花卷高村光太郎記念館さんの方によれば、あっという間に完売だったそうです。

コンビニ弁当などと比べると、800円というのは安くないと思いますが、素材がいいものですし(もちろんお味も美味にござりました)、手間も格段にかかっているわけで、やはりいいものはいい値段でも売れるということでしょう。他のメニューもありますし、10個限定というのがまたマーケティング的にはいい線なのかも知れません。

今後も完売状態が続いて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

制作の苦心は一口にはいえないが同じ像を二つならべるといふ行き方は若い人には無理で、老人の私だからやれたと考えている。

談話筆記「間に合つてよかつた 寒くなつたら山へ帰りたい」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」序幕式(昭和28年=1953の10月21日)に出席するため青森入りした際の談話の一節です。
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先月末、今年の文化勲章受章者、文化功労者が発表され、今月3日にはその伝達式が行われました。文化勲章を受章された6名の方々のうち、写真家の田沼武能氏が、光太郎と関わります。

受賞を報じた『朝日新聞』さんの記事。

人間の姿追い写真分野で初 田沼武能さん004

 写真の分野で初の受賞者だ。「びっくりしました。大変光栄で、写真界の励みにもなると確信しています」と喜びを語る。
 東京・浅草の写真館に生まれ、東京写真工業専門学校を卒業後、木村伊兵衛に師事。「人間の生きる姿」に一貫して関心を注ぎ、世界中の子どもたちを写した写真群は自身のライフワークとなった。「人間は生まれてから死ぬまで、即興のドラマを演じている。同じ場面は二度とないんです」
 日本写真家協会会長、日本写真著作権協会会長といった職を通して、写真界の発展に尽力したことも今回評価された。朝日新聞社が後援する写真愛好家の全国組織・全日本写真連盟では、2000年から会長を務めている。
 近年は、自ら提言して設立した日本写真保存センターの代表として、時代の記録となるような古い写真フィルムの保存活動に力を注ぐ。「今やっておかないと、無くなってからでは取り戻せない。後世に悔いを残さないよう、活動を軌道に乗せなければと思っています」


田沼武能氏(たぬま・たけよし)90歳。写真家。米タイム・ライフ社契約写真家を経てフリーに。「子どもたちの写真」という新たな分野を開拓した。全日本写真連盟会長、日本写真著作権協会会長としても写真家の地位向上や後進の育成に尽力、東京工芸大名誉教授。85年菊池寛賞。
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当方、田沼氏と一度お会いしたことがあります。平成26年(2014)8月の、光太郎令甥にして田沼氏と同じく木村伊兵衛門下の写真家だった、故・髙村規氏の葬儀でした。兄弟子に当たられる田沼氏、参列者を代表して弔辞を読まれました。

田沼氏ご自身も、光太郎と面識、というより、光太郎の肖像写真を撮られています。

昭和27年(1952)の『芸術新潮』。


「芸術界時の人」というグラビアで、田沼氏が撮影された、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した直後の光太郎写真が掲載されています。

同じ写真は、平成12年(2000)、筑摩書房さん刊行の田沼氏の『作家の風貌』にも載っています。こちらは、平成3年(1991)、文藝春秋刊行の『わが心の残像』の再編だそうですが。

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こちらは、田沼氏がポートレートを撮られたそれぞれの人物とのエピソードも記されています。それを読むと、載せられている光太郎写真撮影時の内容ではなく、翌昭和28年(1953)、「乙女の像」制作がかなり進捗してからの内容でした。

そういえば、平成25年(2013)に拝見した氏の個展「アトリエの16人」に出ていた光太郎写真が、昭和28年(1953)のものでした。

残念ながら、光太郎日記には田沼氏の名が出て来ず、こちらでは撮影日時までは特定できませんが、田沼氏、複数回、中野のアトリエを訪問されているようです。

ちなみに『作家の風貌』には、当会の祖・草野心平の項もあります。それによれば、心平、撮影を約束していた日時を忘れ、行方不明(笑)。やっとつかまって氏が訪ねると、氏をもてなそうと、秘書嬢に「○○堂のお菓子はどうした?」。秘書嬢「先生が食べてしまったのに……」。いかにも、で、笑いました。

閑話休題。田沼氏、これからもお元気で、さらなるご活躍を祈念いたしております。


【折々のことば・光太郎】

実技家から見ると、裸体は平等といふ観念を意味するよりも、やはりギリシヤに始まつた普遍の美を欲するところから専ら来てゐると言ひたいのである。
散文「羽仁五郎氏著『ミケルアンヂエロ』」より
昭和14年(1939) 光太郎57歳


羽仁五郎は歴史家。光太郎と交流のあった、自由学園の創始者、羽仁吉一・もと子夫妻の娘婿です。

昨日に引き続き、新聞各紙から。特に東北の地方紙です。

まずは『山形新聞』さんの社説。

土門拳生誕110年 今に生きる「鬼の仕事」

 酒田市出身の写真家土門拳は今年、生誕110年を迎えた。戦後にリアリズム写真を提唱し、数多くのテーマに取り組んで膨大な作品を残した。日本人の心を探求し、妥協を許さぬ姿勢から「写真の鬼」とも呼ばれる。節目の年に人物や業績を見直し、酒田から発信したい。
 同市の土門拳記念館では生誕110年に合わせた企画展「鬼が撮った日本」を9月23日まで開催している。生誕100年の際に土門を取り上げた「別冊太陽」(平凡社)の内容に沿って生涯をたどるものだ。土門の写真作品121点、絵18点、書18点を紹介している。
 写真集「風貌」からは作家の志賀直哉や三島由紀夫、版画家棟方志功ら著名人の肖像写真を展示。土門は撮りたい相手の資料を集めて徹底的に人物像に迫り、撮影現場では詩人高村光太郎が「土門拳のレンズは人や物の底まであばく」と評した執念で撮り続けた。洋画家梅原龍三郎は怒って籐(とう)椅子をアトリエの床にたたきつけたというエピソードが残る。
 「筑豊のこどもたち」は福岡県の閉山した炭鉱を取材し、ざら紙に印刷した100円の廉価な写真集。窮状を社会に訴えて反響を呼び、ベストセラーになった。収録した「母のない姉妹」「弁当を持ってこない子」などを展示している。
 後遺症に苦しむ被爆者たちを取材した写真集「ヒロシマ」からは「胎児で被爆した少年梶山健二君の死」「十三年寝たきりの人」など。生々しい写真は衝撃を与えたが、悲劇を繰り返さないようにと進んでカメラの前に立つ被爆者に、土門は何度も目頭を熱くしながらシャッターを切ったという。
 土門は「日本中の仏像という仏像を撮れば、日本の歴史も、文化も、そして日本人をも理解できると考えたのである」(「仏像巡拝」)と書いている。ライフワークとなった「古寺巡礼」をはじめ日本の伝統美に挑み、大きな業績を残した。企画展では「永遠を生きる仏像」「古寺巡礼の名建築」「室生寺にはじまり、室生寺におわる」といったタイトルごとに見応えのある写真が並ぶ。
 写真家として駆け出しの時代の仕事にも触れることができる。早稲田大政治経済学部の卒業アルバムは、学生たちに溶け込んで私生活をリアルに深く楽しく描写した。お茶の水女子大の前身である東京女子高等師範学校文科の卒業アルバムも手掛け、こちらも展示した。
 土門拳は1909(明治42)年、現在の酒田市相生町で生まれた。幼い頃に一家で東京に移り住み、57(昭和32)年、約40年ぶりに酒田山王祭りの取材で故郷を訪れた。74年には酒田市の名誉市民第1号に。土門は自身の全作品を郷里に贈りたいと語り、記念館は一人の作家をテーマにした世界でも珍しい写真専門の美術館として83年に開館した。
 土門は写真技術と強靱(きょうじん)な精神力、行動力で独自の世界を切り開き、脳出血の病に襲われても撮影を続けた。映像技術が進化した今でも作品の価値が損なわれることはない。レンズを通して現実を直視し、より正しい方向に向けようとした姿勢は、混迷する現代にこそ求められているのではないか。業績を多くの人に知らせる努力を続けたい。
(2019/08/19付)


光太郎関連の写真のうち、重要なものを撮っている土門拳。

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左は確認できているものとしては唯一、光太郎が木彫作品を彫っているところ。昭和15年(1940)のカットです。右は現物が失われてしまった塑像「黄瀛の首」。同じ彫刻の写真は何点か残っていますが、土門撮影のものがもっともよく撮れています。

また、昭和27年(1952)には、土門が写真を撮り、光太郎、志賀直哉、高見順らが解説を書いた『日本の彫刻Ⅱ飛鳥時代』という大判の写真集が美術出版社から刊行されています。


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その前年、土門は花巻郊外太田村に逼塞していた光太郎の元を訪れ、その暮らしぶりをパパラッチ(笑)。土門の写真を賞めていたものの、自分が写真に撮られることは好まなかった光太郎は、閉口したようです。くわしくはこちら


続いて、『福島民報』さん。

安達太良登山楽しむ ほんとの空プログラム

 自然の中で子どもたちの好奇心や探究心を育む、福島民報社の「ふくしま ほんとの空プログラム」安達太良山トレッキングは十八日、二本松市の安達太良山で開かれた。
 県内各地から二十五人が参加した。安達太良マウンテンガイドネットワークの案内で夏の登山を楽しんだ。一行はロープウエーで八合目の山頂駅に移動し、薬師岳を登り山頂を目指した。
 登山道ではさまざまな木々や草花、青い空と雄大な安達太良連峰の景色を眺めた。好天に恵まれ、山頂では猪苗代湖や磐梯山を望みながらおにぎりや弁当を食べた。下山後にガイドネットワーク代表の加藤正広さんが「秋や冬など他の季節も楽しめるので、また安達太良山に来てほしい」と参加者に呼び掛けた。
 プログラムは県教委、二本松市などの後援。花王、城南信用金庫、スパリゾートハワイアンズ、全日本空輸、大王製紙、テーブルマーク、トイコー、ヒカリレンタ、ヒューマンサポートの協賛。


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一昨年から同社の主催で開催されている「ふくしま ほんとの空プログラム」。さまざまな体験活動が用意されていて、たくましい子供の育成につながりそうです。この後も、9月14日(土)に「猪苗代湖の水をきれいにしよう<日帰り>」、9月21日(土)~23日(月・祝)が「田舎は最高!体験交流しよう<2泊3日>」、10月27日(日)で「希望の桜をみんなで植えよう!<日帰り>」といったプログラムが用意されています。智恵子が愛した「ほんとの空」の下、見聞を広めて欲しいものです。


最後は『石巻かほく』さん。

被災地でJICA研修 3カ国の海図作製者が安全対策学ぶ 石巻、女川

 独立行政法人国際協力機構(JICA)の外国人研修員が20日、東日本大震災の被災地石巻市と女川町を訪問した。JICAと海上保安庁が主催する海図作製研修の一環。インドネシア、ミャンマー、タイから来日した6人が震災の被害と復興状況を確認し、災害対策などに理解を深めた。
 石巻市内では、甚大な被害を受けた南浜地区を訪問。災害伝承施設「南浜つなぐ館」の敷地で、石巻観光ボランティア協会の語り部から、震災前と直後の南浜地区の様子を写真で確認したほか、被災状況や復興の進捗(しんちょく)状況の説明を受けた。南浜を襲った津波が高さ約7メートルを示す看板に、驚く研修員もいた。
 女川町では、魚市場や町内各地の「いのちの石碑」などを見学したほか、JR女川駅前の商店街で語り部の話に耳を傾けた。
 研修員は全員、母国の海図作製機関で働いている。インドネシア人のイクサン・デヤスマラさん(25)は「母国もスマトラ沖地震などで津波の被害を受けている。帰国後、災害時も安全に航行できる海図を作製したい」と話した。
 同じインドネシア人のエディチオ・ドゥイ・クルニアワンさん(31)も「実際に来て津波の高さ、災害の大きさに驚いた。帰国後は避難訓練や、海の近くの住人への防災教育などをしていきたい」と語った。
 研修員は、6月に来日。別府港(大分県)での港湾測量実習、駿河湾(静岡県)での洋上実習などを経て、12月に帰国する。

光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」の活動、海外にも広まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

僕ら、文学はどういうわけだかどうしても書きたくなるんだね。

対談「芸術よもやま話」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

亡くなる前年、対談相手は当会の祖・草野心平でした。「文学」は「文学者」という意味でしょう。心平はこの発言に対し、「それは宿命ですね。(笑声)しょうがない。(笑声)」と返しています。まったくそうなのでしょう。


光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが納められている信州善光寺さんでの写真コンテストが開催されます。

地元紙『信濃毎日新聞』さんから。

善光寺・仁王門、初の写真コンテスト 4月1日から作品募集

 長野市の善光寺は、仁王門の000写真コンテストを初めて企画し、4月1日に作品募集を始める。仁王門が昨年、火災後の再建から100年を迎えたことを記念し、参拝客により親しんでもらおうと企画。併せて明治、大正時代や昭和の前半ごろまでに撮影された仁王門の写真提供も呼び掛けている。
  コンテストの題材は、仁王門や門の中に納められている仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像など。1912(明治45)年の御開帳の際に一時的に置かれ、現在は飯山市の広場にある「先代」仁王像も含む。
  現在の仁王像の制作に携わった彫刻家高村光雲(1852~1934年)のひ孫で写真家の高村達(とおる)さん(51)=東京=や同寺の小林順彦(じゅんげん)・寺務総長(53)らが審査。特賞3点、入選5点を選び、7月25日?9月15日に境内の善光寺史料館に展示し、仁王門再建100年を記念して9月に予定する特別法要で表彰する。
  同寺事務局文教課は「善光寺の身近さが感じられるよう表現してほしい」としている。
  コンテストへの応募は、カラーA4サイズで題名、住所、氏名、年齢、連絡先を明記し、6月14日までに善光寺事務局文教課(〒380―0851長野市長野元善町491―イ)に送る。問い合わせは同事務局(電話026・234・3591)へ。
  仁王門の昔の写真は資料として保存し、後世に残す考えだ。これまでに門前の大石堂写真館から、仁王像が納まる前の仁王門の写真を入手。正月行事を担う堂童子とみられる僧侶が写っており、18年12月?19年1月の撮影と推測される。他に、現在の仁王門の前に建てられていた「仮の門」の写真なども提供された。寄せられた写真は、展示パネルや刊行物などに掲載する場合がある、としている。


善光寺さんのサイトから。

【仁王門の写真コンテストを開催致します。】

『仁王門再建百年・仁王像開眼百年記念イヤーイベント』の一環としまして、現在の仁王門を題材にした写真コンテストを実施致します。応募方法等は、下記の通りです。応募開始は、4月1日(月)からとなりますのでふるってご応募願います。


【応募方法】
・カラープリントA4サイズにて応募してください。※応募件数に制限はありません。(写真プリント又はインクジェットで、プリントしたものに限ります。)
・題名・住所・氏名・年齢・連絡先を明記のうえ、善光寺まで送ってください。
★作品の返却は、致しません。(大切な作品は、複製を取って応募ください。)

【賞】
・特賞3点  ・入選5点  

【題材】
・(現在の)善光寺仁王門及び仁王像、三宝荒神像、三面大黒天像
・飯山市“寺町シンボル広場”内 仁王門(旧仁王像)

【締切】
・2019年6月14日(金)必着

【審査員】
・高村達氏(写真家・高村光雲の子孫)    ・毛利英俊氏(元信濃毎日新聞社・写真部長)
・長瀬哲氏(飯山市教育委員会・教育長)  ・小林順彦師(善光寺寺務総長)

【その他】
・応募封筒の表に『仁王門写真コンテスト応募』と明記してください
・他人の著作権・肖像権を侵害するような行為が行われた場合、それに関するトラベルの責任は一切負いかねます。
・被写体が人物の場合、必ずご本人(被写体)の承諾をいただいてください。
・入特選作品は、ご通知後に弊局まで原版(画像データ)を提出いただき、善光寺史料館に展示及び善光寺HPに掲載いたします。
◎入特選の方へ、仁王門再建百年記念法要(仮称)時に表彰いたします。
《応募先》
〒380-0851 長野市大字長野元善町491-イ 善光寺事務局 文教課 電話026-234-3591


仁王像の開眼から100周年ということで、善光寺さんでは昨年からさまざまな取り組みをなさっています。例年開催されている寺域全体でのライトアップに加え、仁王門北側に納められた、やはり光雲らによる「三宝荒神像」と「三面大黒天像」のライトアップ仁王像に関する市民講座、そして文化財指定に向けた仁王像の本格調査など。この秋には100周年特別法要も予定されています。

そうした流れの中での写真コンテスト。腕に自信のある方、ぜひご応募下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は生来の雷ぎらひである。どういふわけといふ理由も何もないが、あの比例外れな、途方もない、不合理極まる大音響が第一困る。これはまるで前世紀の遺物ではないか。イグアノドン、マストドンの夢ではないか。

散文「雷ぎらひ」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

誰にでも恐怖を伴う苦手なものがあるようで、虫が苦手、犬が苦手、蛇が苦手、高いところが苦手、お化けが苦手、注射が苦手などなど、よく聞きますね。光太郎の場合は、雷だったそうで。

そうでない人から見れば、甚だ滑稽に見えることもあり、光太郎の雷嫌いにもつい笑ってしまいますが、当人はいたって真面目。それがまた笑いを誘ったりもします。ちなみにその様子は以下の通り。

・ 夜間に落雷があることを昼間のうちに予知。
・ 落雷が近づくと、電気のブレーカーを切る。
・ 一切の金属を体から遠ざける。足袋のこはぜも不可。
・ 脚に滑り止めのゴムをはめた籐椅子の上であぐらをかく。
・ 恐怖を紛らわすために『古事記伝』のような木版本を読み、そちらに意識を向ける。

まぁ、落雷も確かに危険ですが……。

ちなみに信濃善光寺さん、平安時代末の治承3年(1179)には落雷による火災に見舞われています。

新刊書籍です。

一色采子のきものスタイルBOOK 母のタンス、娘のセンス

2019年3月20日 一色采子著 世界文化社 定価1,600円+税

あなたの家にも母や叔母からのお下がりきもの、ありませんか?それらはちょっと古臭くさかったり、地味だったりしてタンスの肥やしになっているのではないでしょうか。著者の一色采子さんはそんなきものや帯を、自分のセンスですっかり見違えるようなコーディネートにして着こなし、日々の暮らしを楽しんでいます。
例えば、お母さんの地味色きものに自分の娘時代の派手な帯で大人可愛くしたり、きものの色と帯の色を合わせてワントーンにまとめてハンサムに着こなしたり、レトロな色合わせのきものが白い帯を合わせることで新しく
誂えたきもののように甦ったり。自由な発想から生まれるスタイルは、見ているだけでも楽しくなります。
そして何より、タンスに眠っているお古のきものを簡単に今っぽく着こなすためのアイディア集がたくさん散りばめられているのです。

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目次
 Part.1 母譲りのアイテムをとことん着こなす
  theory.1 母のタンスの渋味きもの着こなし術
    オリエンタル帯で作るオンリースタイル/娘時代の派手帯できりりと引き締めて
    無地感覚の万能帯のススメ/ワントーンでハンサム顔に
  theory.2 母のタンスのレトロ晴れ着の着こなし術
    白地の帯でセンスアップ引き算/銀地の帯で洒脱にドレスダウン/
    金地の帯で華やぎコーディネート
  theory.3 母のタンスの個性派帯の着こなし術
    鮮やかきものと合わせて若々しく/柄×柄でポップアートのように/
    娘から母へのラブレター
 Part.2 娘のセンスで綴るきものダイアリー
    睦月/如月/弥生/卯月/皐月/水無月/文月/葉月/長月/神無月/霜月/師走
    父から母へのラブレター
 Part.3 娘のセンス、アイデア集
    裾回しを染め替え、黒地の江戸小紋を万能選手に/
    羽織の足し算で、ちょい派手きものをエイジレスに/
    小さく赤を効かせて、仄かな色香を演出/お洒落の心意気を映す、草履の春夏秋冬
    と愛用の足袋/
きもの姿に優雅な腕時計を/装いの矜持を忍ばせる扇子
    小粋な遊び心を添える、愛しのアニマルモチーフ/
    ひと工夫で快適に、タンスの収納アイデア
    娘から父へのラブレター
 福島県二本松市の“私的"プチ観光ガイド
    二本松城跡/大山忠作美術館/智恵子の生家・智恵子記念館/
    岳温泉・陽日の郷あづま館/
大七酒造/檜物屋酒造店/
    国田屋醸造・蔵カフェ千の花/母への思いが生んだ“瓢箪から駒”


このブログにたびたびご登場いただいている、女優の一色采子さん。お父様は智恵子と同郷の日本画家・故大山忠作画伯で、智恵子をモチーフにした作品も複数描かれています。ご自身も、連翹忌や智恵子命日のレモン忌にご参加下さったり、智恵子生家で「智恵子抄」の朗読をなさったりしています。昨秋は、お父様が光太郎と交流のあった渡辺えりさん主演の「喜劇有頂天団地」にご出演。当方、新橋演舞場さんで拝見して参りました。

で、その一色さんのご著書が刊行されました。雑誌『家庭画報』さんのサイト「家庭画報.COM」で連載されていた「母のタンス、娘のセンス」がベースです。基本、お母様のお召し物をアレンジしたり、さまざまなコーディネートを加えたりの、和装の着こなし術の指南書的な書籍です。

智恵子とお父様の故郷・福島二本松の観光大使も務められている一色さんですので、最終章は二本松の観光ガイドになっています。

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智恵子生家・智恵子記念館さんもご紹介下さいました。

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素敵なお召し物の数々が、カラー写真でこれでもか、と満載。見ていて楽しい書籍です。しかし、こと和装に関しては女性用はさまざまな生地や柄があり、得ですね。当方も和装は好きで、ちょっとしたお呼ばれの際や、最近は連翹忌も着物で参りますが、男性用の着物はとにかくバリエーションが限られています。アンサンブルはよくある鉄紺色のものと銀ねずのものの2組。それ以外は奇抜に感じて手が出ませんし、他に白紋付きもありますが、普段使いにはなり得ません。また、袴は仙台平の比較的いい物を持っていますが、袴まで着用すると大げさな感じで……。

ところで、一色さん、今年の連翹忌のご案内に対し、一度はご出席の連絡を賜り、またお会い出来るのを楽しみにしていましたが、追ってやはりご欠席とFAXが来まして、残念です。「大山」はご本名です。「喜劇有頂天団地」の後も、横内正さんたちと「マクベス」の舞台にご出演なさったりと、ご多忙のようです。

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というわけで、『一色采子のきものスタイルBOOK 母のタンス、娘のセンス』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

極度に純粋になれば人は誰でも狂気になるにちがひない。極度の純粋には社会性の存在する余地がない。社会性の喪失する時当然その人は社会から閉め出される。それを人が狂人とよぶ。純粋である事を理想としながら、しかもあまり純粋すぎる事は人間に許されない。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

当会の祖・草野心平主宰の雑誌『歴程』に発表されたのが昭和14年(1939)ですが、前年に亡くなった智恵子をゼームス坂病院に見舞っての感想ですので、書かれたのはもっと以前と推定されます。

智恵子の陥った状況を冷静に(ある意味冷徹に)分析できているような気がします。とはいうものの、そうした智恵子の姿を見ると、完膚無きまでに打ちのめされて何も手につかなくなる、と、この前段で述べています。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

昨日、拝見して参りました。  

−オリジナルプリント展− Life 命の輝き -Portraits-

期 日 : 2018年5月8日(火)~6月8日(金)
会 場 : 日本大学藝術学部芸術資料館 東京都練馬区旭丘2-42-1
時 間 : 9:30〜16:30《土曜は12:00 まで》
料 金 : 無料
休館日 : 日曜日

「Life 命の輝き」をテーマに国内外の写真家による⼈物の写真を集めました。いわゆるポートレートから街⾓でのスナップ写真まで多様な写真表現によるイメージを通して、様々な環境のもとで⽣活している⼈々の⽣き⽣きとした⽣命の輝きを感じていただければ幸いです。

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もう少し早く行くつもりが、いろいろあって昨日になってしまいました。

西武新宿線江古田駅で降り、ほぼ駅前の同大藝術学部江古田校舎。

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受付で入館証を受け取り、警備員の方が入り口まで案内して下さいました。資料館といっても独立した建物でなく、普通の校舎の3階にあります。

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すべてモノクロの作品で、世界各国の写真家約50名のプリントおよそ100点が展示されていました。当方も存じていたところでは、ユージン・スミス(米)、ウジェーヌ・アジェ(仏)、大石芳野など。このうち、ウジェーヌ・アジェは、光太郎と同じ時期に、光太郎のアトリエがあったパリのカンパーニュ・プルミエール街17番地に居住していて、交流はなかったようですが、面識程度はあったかも知れません。

古いもので、19世紀の写真から、'90年代の比較的新しいものまで、題材としては基本的に全て人物写真ですが、有名人から市井の人々まで、いわゆる肖像写真的なものから、日常のスナップ的なものまで、さまざまで飽きさせませんでした。モノクロ写真のもつ独特の迫力、一種の抽象性など、たしかに芸術の名を冠されるにふさわしいと感じます。

有名人のポートレートとしては、海外ではチャップリン、オーソン・ウェルズ、ピカソなど。国内では、林忠彦撮影の太宰治、坂口安吾など。

そして、光太郎。003

日藝さんで開催と聞き、光太郎令甥の故・髙村規氏がそちらの卒業生なので、規氏の作品かな、と思っておりましたが、さにあらず。肖像写真家として活躍していた、故・吉川富三氏の右の作品でした。

撮影場所は光太郎が蟄居生活を送っていた、花巻郊外太田村の山小屋内部です。キャプションでは昭和24年(1949)となっています。

光太郎の日記によると、同23年(1948)9月に吉川が来訪しています。おそらくその時の写真で、発表されたのが翌年ということなのではないかと思われますが、翌年の日記の大部分が欠けているので、不詳です。

吉川来訪の記述がこちら。まず8月22日。

吉川富三といふ人より写真アルバムを小包書留にて送り来る。来月余の写真撮影に来たしとの事。文化人多くの写真(署名入)あり。預かりもの。(郁文帖)

そして9月10日。

午前九時盛岡よりとて写真家吉川富三氏同業(盛岡)の唐健吉といふ人と来訪。高橋正亮さんが案内してくる。ズボンの尻の修繕をしてゐたところ。修繕を終りてよりあふ。午后二時頃まで撮影さまざま。「郁文集」を返却す。揮毫してくれとて紙を置いてゆく。同氏の器械は普通の三脚附器械。 そのうち細川書店の岡本氏といふ人来訪。東京より来たりし由。吉川氏等一行大澤温泉泊りの由にて辞去後、岡本氏と談話。(略)弘さんからもらつた大西瓜を割つて一同に御馳走せり。吉川氏より食パン、チース(小箱)(ソーセージ)をもらふ。

『郁文集』は、武者小路実篤の題字、志賀直哉の序文で昭和37年(1962)に出版された吉川の作品集。もうこの頃には既に原型が出来上がっていたのですね。

さらに9月30日。

吉川富三氏より先日撮影の写真の内4葉送つてくる。随分老人らしくなれり。

笑えます。光太郎は写真嫌いで有名でした。9月12日に、詩人の宮崎丈二に送ったはがきにこんな一節があります。

昨日は東京の吉川富三氏といふ写真家が来て弱りました。

その後、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)に帰京した後も、吉川は中野のアトリエを3回ほど訪れてやはり写真を撮影しているようです。

はがきといえば、光太郎が吉川に送ったはがきも一通、確認されています。昭和25年(1950)のものです。

おハガキと「文化人プロフイル」と忝なくいただきました、豪華な写真帖なのでびつくりしました。多くの知人がゐるのでなつかしく飽かず見入つてゐます、畑の仕事が中々いそがしくなりました、今日は雨で静かですが、みどりの美しさ限りなしです、

『文化人プロフイル』は、『郁文集』に先だって、吉川単独でなく数人の写真家の作品を収めた写真集です。


写真に限らず、どういった造形芸術でも、或いは文筆作品などでも、作品は作品としてのみ見るべきと、よく言われますが、こうした背景を知って見るのも大事なのではないかと思いました。


というわけで、日藝さんの「−オリジナルプリント展− Life 命の輝き -Portraits-」、以上の背景を踏まえて御覧いただければと存じます。


【折々のことば・光太郎】

私は今迄に経験した事の無い淋しい鋭い苦痛の感情をしみじみと感じた。動乱と静粛と入りまざつた心の幾日かを空しく過した。さうしてロダンが立派にやり遂げるだけの事をやり遂げて、其の私的存在をかき消してしまつた事を思ふと、不思議な伝説的の偉大さを感じる。ロダンの生きてゐた時代に自分も生きてゐたといふ事がまるで歴史のやうに意味深く、又貴く感ぜられる。
散文「ロダンの死を聞いて」より 大正7年(1918) 光太郎36歳

吉川富三の写真を見、山小屋来訪の話に触れ、つくづく光太郎の生きていた時代に自分も生きていたかったと思いました。

都内レポート2回目です。

新宿での「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~ 坂本富江個展」会場を後に、文京区千駄木に向かいました。目指すは光太郎実家の隣、旧安田楠雄邸。こちらで光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周令孫・髙村達氏の写真展「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」が開催されています。

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受付で観覧料金を支払い、一路、写真展会場の2階へ。邸内の説明をボランティアガイドさんがなさって下さるのですが、昨秋、「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」」を拝観した際に拝聴しましたので、割愛。

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老朽化のため解体されることになった光太郎実家の、四季折々を収めた達氏撮影の写真が20葉ほど。ご自分の育ったお宅に対する愛おしさとでもいうようなものが感じられました。

会場の安田邸が、ボランティアガイドさんの都合もあり、水、土のみの公開のため、写真展自体も明後日25日(水)、28日(土)と、あと2回のみの開催です。

後で達氏に、ラジオ局の取材が入ったと聞き、帰ってから調べましたところ、「ブルーレディオドットコム」というネットラジオで、達氏の写真家仲間・熊谷正氏のコーナーがあって、そちらで達氏のインタビューもオンエアされていました。しばらくはネット上でも配信されているようです。

その後、安田邸内外をじっくり拝観。大正8年(1919)の建築で、関東大震災後、旧安田財閥の安田善四郎が買い取り、平成7年(1995)まで安田家の所有でした。現在は公益財団法人日本ナショナルトラストさんによって管理されており、一般公開や企画展示などに活用されています。

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窓からは、楓や柏などの新緑が目に染みました。

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ここのみ洋風になっている応接間。

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台所。天井全体から採光されるようになっており、非常に明るかったのが印象的でした。当時としては珍しく、シンクやガスレンジなども完備されていたとのこと。右は電気を使わず、氷を入れて全体を冷やすタイプの木製の冷蔵庫。いい感じですね。

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昨秋訪れた際には、庭の見学は致しませんでしたが、今回はそちらも拝観。

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指呼の距離にあった光太郎アトリエや、森鷗外宅・観潮楼などは、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰しましたが、この一角は無事だったわけで、今もこうして観ることができます。


その後、安田邸見学者対象に、隣接する髙村邸の見学ツアーが行われました。当方は一足早く髙村邸へ。明日はそちらをレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

絵画に画品と言ふものが顧みられない傾向は近年ますます激しくなつたやうで、画界には腕達者やいたづら者や粗率の者が充満してゐる。私はかやうな画家の作を眼から上に置いて観る気がしない。

散文「宮崎丈二色紙の会」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

絵画に限らず、すべての造形芸術、というか、造型限定でもない芸術全般には、確かに「品」が必要ですね。そして「品」は、「品性」やら「人品骨柄」やら「気品」やらで、人間性にも直結します。

本日行って参ります都内での展覧会二つ、それぞれ報道されていますので、ご紹介します。  

まずは『東京新聞』さんの東京版で、昨日掲載された記事。「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」髙村豊周邸写真展」に関してです。

高村光太郎の弟、鋳金家・高村豊周 書斎、庭を写真で紹介

 詩人・高村光太郎の弟で工芸家の002高村豊周(とよちか)(一九七二年没)が暮らした家の写真展「となりの高村さん展」が、隣接する旧安田楠雄邸庭園(文京区千駄木五)で開催されている。高村邸は来月にも解体されることが決まっており、豊周の孫で写真家の達(とおる)さん(50)が、何とか形に残したいと撮影した。達さんは「当時のまま残してあった書斎などを見てほしい」と話している。 (原尚子)

 豊周は人間国宝の鋳金(ちゅうきん)(金物工芸)家で、「藤村詩碑」など数々の作品を残した。伝統的な手法を使いながらも新しい作風で知られ、工芸の近代化運動にも貢献。与謝野鉄幹・晶子夫妻に短歌を学び「歌ぶくろ」などの歌集も出している。

 高村邸は一九五八年築の数寄屋建築で、国の登録有形文化財だった。光太郎・豊周兄弟の父で彫刻家の光雲から家督を継いだ豊周が建てたが、息子で写真家の規(ただし)氏が二〇一四年に亡くなった後、老朽化もあって解体が決まったという。

 会場には、達さんが昨秋から最近まで何度も撮り直して厳選した約三十点を展示。雪景色や桜、咲き始めたばかりの藤棚といった四季折々の庭や書棚など、豊周が愛したたたずまいが、家族ならではの温かいまなざしで表現されている。達さんは「四歳のときに豊周が亡くなり、あまり記憶はないが、最後に書斎をバックに写真を撮った思い出の場所」と話す。

 都指定名勝の旧安田邸の公開日に合わせて二十一、二十五、二十八日に開催。旧安田邸の入館料(一般五百円、中高生二百円、小学生以下無料)が必要。畳の保護のため靴下を着用する。二十一、二十五日には高村邸の見学ツアーもあり、達さんも参加する。問い合わせは、旧安田邸=電03(3822)2699=へ。


続いて、昨日もご紹介した、太平洋美術会、高村光太郎研究会に所属されている坂本富江さんの個展。坂本さんご本人からコピーを頂きまして、『読売新聞』さんの東京版の記事だそうですが、大見出しが切れています。「智恵子」というのは判読できるのですが。

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仕方がないので小見出しから始めます。

坂本さん個展 福島など1都10県巡り

 詩人・高村光太郎(1883~1956年)の妻、智恵子の足跡をたどり、風景画などを描いている元板橋区職員の坂本富江さん(68)の個展「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~」が18日、新宿区西新宿の「ヒルトピアアートスクエア」で始まった。
 坂本さんは中学時代に光太郎の「道程」を読んだのをきっかけに、光太郎の作品のファンとなった。一方で、その光太郎が詩集「智恵子抄」で情熱的に描いた智恵子にも次第に興味を持つようになった。
 1995年以降、区で保育の仕事をしながら、智恵子の出身地の福島県や智恵子が光太郎と暮らした文京区千駄木など、1都10県を何度も巡り歩き、300枚以上の絵を描いてきた。なかでも、福島は何十回も訪れ、生前の智恵子の姿を追い求めた。
 東日本大震災の後には、少しでも復興に協力しようと、多くの人に福島などの被災地を訪れてもらうため、「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を自費出版。1000部が完売した。
 個展では各地で描いた約50点の作品を展示している。坂本さんは「作品を通じて智恵子だけでなく、被災地にも思いをはせてもらえれば」と話している。24日まで。午前10時~午後7時で、24日は午後3時まで。問い合わせはヒルトピア7アートスクエア(03・3343・5252)へ。


明日からはそれぞれのレポートを載せます。


【折々のことば・光太郎】

南洋の諸民族とわれわれとには切つても切れない血縁がある。今われわれは新東洋芸術の確立に力を致さねばならない時に来てゐるが、支那朝鮮の古美術がかなり精しく研究されてゐる割合に、われわれの遠祖の一系である南洋の古美術はまだ本当に究められてゐない。われわれが東洋芸術に包摂綜合しなければならない此等の要素がまだ日本人に十分に摂取さへもされてゐない。
散文「片岡環渡闍作品頒布会」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

片岡環という人物に関しては、ネット上でもほとんどヒットしません。この文章に依れば、「新進彫刻家」だそうです。その片岡がジャワ島の古彫刻を研究しに行くため計画された作品頒布会の推薦文です。題名の「闍」はジャワの漢字表記「闍婆」の略ですね。

同じく南洋のパラオに渡った彫刻家・土方久功の作も高く評価した光太郎、どうも南洋系のプリミティブな美への憧憬があったようです。

文京区千駄木の、旧安田楠雄邸。大正8年(1919)の建築で、関東大震災後、旧安田財閥の安田善四郎が買い取り、平成7年(1995)まで安田家の所有でした。現在は公益財団法人日本ナショナルトラストさんによって管理されており、一般公開や企画展示などに活用されています。

その安田邸から路地を一本はさんで北隣が、光太郎の実家である旧駒込林町155番地。光太郎の父・光雲が終の棲家とし、家督相続を放棄した光太郎に代わって、鋳金の人間国宝となった実弟の豊周が受け継ぎました。その後、豊周子息の写真家だった故・規氏、そして今は豊周令孫でやはり写真家の達氏がお住まいです。明治44年(1911)暮れ、光太郎と智恵子が初めて出会ったのも、ここでした。

そんな関係で、旧安田邸では、「となりの髙村さん」展の第1弾を平成21年(2009)に開催しました。その頃ご存命だった規氏の写真などが展示されたそうです(当方、そちらには行けませんでした)。


そして今月、その補遺展および光太郎実家の一般公開が行われます。

となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展

期 日 : 2018年4月18日(水)002・21日(土)
       25日(水)・28日(土)
会 場 : 旧安田楠雄邸庭園
       東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00
料 金 : 一般500円、中高生200円、
      小学生以下無料(保護者同伴必須)

昨年11月に開催した「となりの髙村さん展第2弾」。その補遺(ほい)として、旧安田邸お隣の高村豊周(とよちか)邸の写真展と見学会を開催します。

高村光雲の三男で、高村光太郎の弟の高村豊周氏は、鋳金家で人間国宝。
また、高村邸は昭和34年築の数寄屋建築で、国の登録有形文化財に登録されています。
ぜひこの機会に足をお運びください!
*髙村邸は、老朽化のため本年解体の予定です。

高村邸見学会:1回目13:00~、2回目14:30~
 *28日(土)を除く
 *旧安田楠雄邸庭園見学者対象 各回20名

園路特別開放: *21日(土)、28日(土)のみ


当方、高村邸は何度かお邪魔し、智恵子の紙絵の現物を手にとって拝見したりしましたが、いつも規氏、達氏の写真スタジオでした。この機会にお邪魔させていただこうと思っております。

皆様もぜひどうぞ。003


【折々のことば・光太郎】

外側ばかりを気にするな。内の力をまづ養へ。
散文「寸感」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

この年、東京府美術館で開催された、「聖徳太子奉讃美術展覧会」の評から。

光太郎自身も、大正2年(1913)の生活社主催展覧会以来、13年ぶりに彫刻を出品しました。塑像「老人の首」、木彫「鯰」が出品作でした。

この展覧会には、光雲、豊周も作品を出しており、父子三人が同時出品したのは、おそらくこれが最初で最後ではないかと思われます。

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地方紙・高知新聞さんの一面コラム「小社会」。先週、歿後100年のロダンに絡め、光太郎に触れて下さいました。 

小社会 2017.11.17

 美術の教科書に載っている著名な作品の本物に出合うと、心の内でガッツポーズをしたくなる。だから印象が強く残っているはずなのに、「いつ、どこで」が定かでない作品が少なからずある。

 フランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの「考える人」もその一つ。東京・上野の国立西洋美術館の前庭にある大きな像は何度も見ているが、原型の小さな像との初対面は思い出そうとしても出てこない。

 40年余り前に、高知市で開かれた同美術館所蔵の「松方コレクション展」で見たという県民は多いだろう。実業家の松方幸次郎が1910年代から欧州で収集し、59年にフランス政府から日本に寄贈返還された絵画や彫刻のコレクションだ。

 中でも、ロダンの彫刻は世界でも有数の規模を誇るという。「考える人」のほか、「青銅時代」「地獄の門」「バルザック」といった代表的な作品が網羅されている。日本にロダンのファンが多いとされるのは、松方のおかげといえるかもしれない。

 美術学校生の時に雑誌でロダンに出合った高村光太郎は、のどが詰まりそうな気がしたという。当時の西洋の彫刻家とはまるで異なり、日本人の作家に近いと感じたようだ。ロダンは日本の職人かたぎに感心し、「あれでなくては芸術はできない」と述べたと光太郎が書き残している。

 近代彫刻に新たな生命を吹き込んだロダンが77歳で没して、きょうでちょうど100年になる。


というわけで、光太郎が敬愛し、確かに日本にもファンの多いロダン。公開中のフランス映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」(次の日曜に観て参ります)、上野の国立西洋美術館さんで開催中の「《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』」展など、好評のようです。


もともとロダン作品を多数所蔵されている静岡県立美術館さんでは、以下の企画展が開催中です。

彫刻を撮る:ロダン、ブランクーシの彫刻写真

期 日 : 2017年11月14日(火)~12月17日(日)
会 場 : 静岡県立美術館 静岡市駿河区谷田53-2
時 間 : 10:00~17:30
料 金 : 一般:300円(200円)/大学生以下・70歳以上:無料
      ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 毎週月曜日

2017年は、彫刻家オーギュスト・ロダン(1840〜1917年)の没後100年にあたります。
これを記念し、日本でも有数のロダン・コレクションを誇る当館は、「ロダン没後100年に寄せて」という総称のもと、彫刻家ロダンと写真との関係に着目した3つの小企画展を連続で開催します。
写真術が誕生したのは19世紀。
多数の芸術家がこのメディアを積極的に活用しました。
ロダンも例外ではなく、自作の彫刻を写真家に撮影させ、1890年代以降、それらの写真を作品として展覧会に出品しました。
本企画は、当館所蔵品を中心に、ロダンと写真との関係性を直接に物語る作品のみならず、ロダンとほぼ同時代の彫刻家ブランクーシの自撮による彫刻写真や、さらにはロダンの彫刻を現代の写真家が撮影したものなど、複数の作品/テーマを組み合わせることによって、ロダンの芸術観や写真観を多方面から再考する試みです。
ロダンの新たな一面をご紹介する本企画。
ご鑑賞の後は、ロダン館へも足をお運びいただき、新たな視点でロダン芸術を丸ごと味わってください。

写真を積極的に活用したものの、決して自ら撮影は行わなかったロダン。 ロダンと交流のあった彫刻家ブランクーシは、彼とは異なり、第三者に作品の撮影を任せず、自らアトリエの演出・照明・撮影の全てを行いました。ロダンおよびブランクーシの彫刻・アトリエや肖像を撮影した写真を展示し、その相違や、彫刻家と写真との関係について再考します。


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第1,2は紹介しませんでしたが、「ロダン歿後100年に寄せて」の総題で9月から始まっている企画展示の第3弾です。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

一年の目方がひどく重く身にこたえ、 一年の味がひどく辛く舌にしみる。

詩「開びゃく以来の新年」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

翌年の『中部日本新聞』他の元日号のために書かれた詩の冒頭部分です。草稿に残されたメモによれば、制作の日付は12月5日。光太郎、余命4ヶ月足らずです。その自覚も既にあったと思われます。

この年4月には宿痾の肺結核による大量の血痰。7月まで赤坂山王病院に入院。退院し、中野のアトリエに戻りましたが、もはや手の施しようがないという意味での退院でした。それでも岩波文庫版『高村光太郎詩集』の校閲をしたり、筑摩書房版『宮沢賢治全集』の題字揮毫、装幀を行うなど、その歩みを止めることはありませんでした。

10月にはラジオ放送のための対談を草野心平と行い、その音源はNHKさんに残っています。最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関する部分は、先月、十和田市で講演させていただいた際に聴衆の皆さんに聴いていただきました。

一昨日、上野の東京藝術大学美術館さんで開催中の「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」を拝見したあと、谷中を抜けて千駄木へと歩きました。

谷中は明治23年(1890)~同25年(1892)、光太郎一家が一時居住していました。父・光雲は同22年(1889)から東京美術学校に奉職、谷中に移ってから教授に昇格するとともに、帝室技芸員も拝命し、皇居前広場の楠木正成像の制作主任にもなりました。代表作の「老猿」も谷中で制作しました。

ところが光太郎が尊敬し、強く感化を受けていた6歳年上の姉・咲(さく)が16歳の若さで肺炎で亡くなり、失意の光雲は谷中の家に居たたまれず、千駄木への転居を決めました。

さて、不忍通りを渡って団子坂を上り、森鷗外の観潮楼跡を過ぎて、路地を右に入ります。少し歩くと、現在も続く髙村家。家督相続を放棄した光太郎に代わり、後に鋳金の人間国宝となった実弟の豊周が跡を継ぎました。豊周令孫の朋美さんが庭掃除をなさっていました(笑)。

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その手前が目的地・旧安田楠雄邸なのですが、安田邸は髙村家とは逆サイドに正面玄関があり、さらに路地をくねくねと進み、旧保健所通りに出て、少し戻ります。
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豊島園の創設者・藤田好三郎によって大正8年(1919)に建てられた邸宅を、安田財閥の安田善四郎が買い取り、その子、楠雄が住み続けました。

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こちらでは、水曜、土曜のみ「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催中です。故・髙村規氏は豊周の子息、つまりは光太郎の令甥。写真家として活躍された方でした。

入り口で入場料700円也を納め、靴を脱いで上がります。ボランティアガイドの方が邸内や庭園の説明をして下さいました。

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こちらは平成8年(1996)に安田家から公益財団法人日本ナショナルトラストさんに寄贈されています。その後、邸内でさまざまな催しや展示に利用されており、その一環として「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催中です。

在りし日の規氏。

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平成21年(2009)に開催された「第一弾」の折のものも。

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愛用のカメラや日用品。

2階にあがると、昔の千駄木の写真が。題して「規さんが生まれ育った千駄木林町」。このあたり、旧地名は本郷区駒込林町でした。レトロな建物や自動車、行き交う人々など、実に自然でいい感じでした。

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光雲、光太郎、そして智恵子の作品の写真は、邸内のあちこちに。

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21世紀の都心に居ることを忘れさせられるようなひとときでした。

今月29日までの水曜、土曜に公開されています。ぜひ足をお運びください。

続いて、安田邸を出て左、光太郎アトリエ跡地を通り過ぎ、動坂方面へ。

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動坂上交差点を右折、田端駅を目指しました。田端といえば文士村。芥川龍之介や萩原朔太郎、そして室生犀星等が住んでいました。犀星は、このルートを辿って光太郎アトリエを何度か訪れたはずです。大正初期、最初に訪れた頃は何度も智恵子に追い返されたそうですが(笑)。

田端駅から山手線で池袋へ。豊島区役所さんで開催中だった(昨日で終了)「2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展」会場へと足を向けました。そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

おれは十年ぶりで粘土をいじる。 生きた女体を眼の前にして まばゆくてしようがない。 こいつに照応する造型の まばゆい機構をこねくるのが もつたいないおれの役目だ。

詩「お正月に」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

005翌年の『朝日新聞』元日号のために書かれた詩です。

「生きた女体」は、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため雇ったモデル・藤井照子。当時19歳でした。

プールヴーモデル紹介所に所属していたプロの美術モデルで、木内克の彫刻のモデルも務めていたとのこと。「乙女の像」の仕事のあと、結婚してモデルはやめたようで、結婚の報告のため光太郎を訪れたりもしていました。

以前にも書きましたが、まだご存命なら80代前半のはずで、消息をご存じの方はご教示いただければと存じます。

先日、十和田市に行った際、現地の方から、「東京の青果店に嫁いだらしい」という情報を聴いたのですが、詳細が不明です。

情報を得るのが遅れ、始まってしまっている展覧会を2つ。いずれも都内で開催中です。 

となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展

期 日 : 2017年11月1日(水)~5日(日) 11月8日(水)~29日(水)の水・土
会 場 : 東京都指定名勝 旧安田楠雄邸庭園 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00
料 金 : 一般700円、中高生400円、小学生以下無料(保護者同伴必須)

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東京文化財ウイーク2017参加企画

写真家・高村規(ただし)。1933‐2014 父は人間国宝の彫金家・豊周(とよちか)、 伯父は彫刻家で詩人・光太郎、 伯母は画家で紙絵作家・智恵子、そして祖父の木彫家仏師・光雲(こううん)・・・本郷区駒込林町155番地(現・文京区千駄木5丁目)、 明治25年(1892)にはじまる芸術家の系譜。

芸術家の仕事を後世に伝えた写真家が写し撮った町がわたしたちに語りかける。 高村規の原点、懐かしい駒込林町、そして千駄木と名を変えた町の風景。ぜひご覧ください。


会場の旧安田楠雄邸は、光太郎の実家にして、現在も光太郎の実弟・豊周が継いだ髙村家の「となり」です。普段から水、土に一般公開はされていますが、時折、このような形で企画展示が為されます。「となりの髙村さん」展の第1弾が開催されたのが平成21年(2009)。やはりその頃ご存命だった光太郎の令甥で写真家髙村規氏の写真などが展示されたそうです(当方、そちらには行けませんでした)。

ちなみに光雲、豊周、規氏、そして現在の規氏ご長男達氏と続く家系は、戸籍上は通常の「高」だそうですが、昔から慣例的に「髙」の字を使用されています。戸籍の届けを光雲の弟子の誰かにやってもらったところ、「髙」ではなく「高」で登録してしまったとのこと。長男でありながら家督相続を放棄し、分家扱いとなった光太郎は、戸籍が「高」なのだから、と、「高」で通しました。

今回も、規氏の作品が展示されています。昔の千駄木界隈や、光雲、豊周、光太郎、智恵子らの作品を撮影したもの等だそうです。チラシに使われているのは、昔の団子坂です。

11/1から始まっていて、5日までの期間は髙村家の見学もあったそうです。不覚にも情報を得られませんでした。すみません。


もう1件。 こちらは一昨日からです。 

2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展

期     日 : 2017年11月8日(水)~11月12日(日)
会     場 : 豊島区役所本庁舎1階としまセンタースクエア 東京都豊島区南池袋2-45-1
時     間 : 午前10時~午後6時
料     金 : 無料

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概要をわかりやすくすために、後援に入っている『毎日新聞』さんの東京版記事から。 

アジア・パラアート展  始まる 5カ国100人の力作展示 揮毫に会場沸く 南池袋 /東京

 「アジア・パラアート~書~TOKYO国際交流展」(日本チャリティ協会主催)が8日、豊島区南池袋の区役所1階「としまセンタースクエア」で始まった。日本、中国、韓国などアジア各地で活躍する障害者の書作品を通して交流を図ろうという企画。会場には5カ国100人の感動的な力作が展示されている。 
 8日は日本、中国、韓国の書家による開幕を記念した揮毫(きごう)会が開かれ、訪れた多くの人たちから大きな声援が送られた。日本からはダウン症の金澤翔子さんが参加。大きな筆を勢いよく動かし「共に生きる」を書き上げた。
 四肢体幹機能障害の鈴木達也さんは、自ら考案したヘッドキャップに筆を取り付け、首の力で草書体の「命」を書いた。事故で両腕を失った中国の書家、趙靖さんは、筆を口にくわえて「友誼常青」を書き、ソウル五輪のオープニングで見事なパフォーマンスを見せた韓国の義手の書家、チャン・ウ・ソクさんは、「サイクリング」を巧みな筆致で表現し、会場は盛大な拍手でわいた。
 特別展示では、吉田茂、山本五十六、高村光太郎、水上勉、ペギー葉山の各氏はじめ、安倍晋三首相ら各界著名人の作品45点も飾られている。
 12日まで。入場無料。問い合わせは同協会(03・3341・0803)。【鈴木義典】
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というわけで、基本、「パラ」ですので、パラリンピック的に、障がい者の皆さんの作品展ですが、特別展示ということで、近現代の著名人の書も展示されているそうです。そのトップに光太郎の名。ありがたや。他にも光太郎と関係があった小川芋銭、平塚らいてうなどの書も展示されています。


明日、元々上京する予定でしたので、今回ご紹介した2件も拝見し、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

おれは気圏の底を歩いて 言葉のばた屋をやらかさう。 そこら中のがらくたに 無機究極の極をさがさう。

詩「ばた屋」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「ばた屋」は、現代ではいわゆる放送禁止用語のコードに抵触するでしょう。古紙や布、金属片などを回収して換金する職業です。それも路上から拾い集めて、というのが主流でした。おそらくこの当時の東京にも多かったのではないかと思われます。

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京する直前の作です。「ばた屋」の闊歩する東京で、自らは「言葉のばた屋」として、日常生活の中から言葉を拾い集め、詩作をしようということでしょう。

写真系の展覧会情報です。情報を得るのが遅れ、既に始まっています。

高橋昌嗣展 文士の逸品 物から物語へ。002

期   日 : 2017年10月21日(土)~10月28日(土)
会   場 : アートスペース煌翔 
       東京都杉並区南阿佐ヶ谷3-2-29
時   間 : 11:00~19:00
料   金 : 無料

写真家・高橋昌嗣さんが撮影してきた、文士たちの愛用品の写真展。

元になったのは、雑誌『文藝春秋』に連載された「文士の逸品」(1997年7月号〜2001年9月号連載)で撮影されたもの。いま『サライ.jp』で「漱石と明治人のことば」を連載中の文筆家・矢島裕紀彦さんとの二人三脚の取材で、その後、同タイトルの単行本として一冊に纏まった。

山口瞳の帽子、向田邦子のシャツジャケット、金子みすゞの手帳、中山義秀のハガキ、芥川龍之介のマリア観音像、小泉八雲の蛙の灰皿、佐佐木信綱の風帽、椎名麟三の鉛筆削り、田山花袋の版木、西田幾多郎の人形、有吉佐和子の三味線、川端康成の土偶、森鴎外の双六盤、斎藤茂吉のバケツ、志賀直哉の杖、与謝野晶子の訪問着、井上靖の靴、坂口安吾のストップウオッチ、梶井基次郎の鞄、北原白秋の硯箱、尾崎放哉のインク瓶、壺井栄の姫鏡台、寺山修司の人形、樋口一葉の櫛、田中英光の本、岡本かの子のロケット、萩原朔太郎のギター、高村光太郎の長靴、中勘助の匙、野上彌生子の伎楽面、谷崎潤一郎の長襦袢、山本有三の戸棚、泉鏡花の兎の置物、幸田露伴の煙管……これでもまだ、展示作品の半分にも満たない。

時として数々の作家達に創作の情熱を与えたり、時には折れそうな心を支えたりもしたであろう愛用品たちの姿は、作品からは伺えない文士たちの“人間”としての存在を、問わず語りに伝えてくれる。


同タイトルの単行本」は、文藝春秋社さんから平成13年(2001)に刊行されています。

光太郎の長靴は、おそらく、花巻高村光太郎記念館さんの所蔵003のものでしょう。身長180㌢超と、当時としては大男だった光太郎、手足も並外れて大きく、足のサイズも30㌢超だったそうです。そのあたり、手前味噌になりますが、平成24年(2012)にTBSサービスさん刊行の『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』中の、当方の談話筆記「光太郎の足は三十センチあった⁉」でご紹介しております。

右の画像は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した、昭和27年(1952)のもの。それまで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で、農作業の際に履いていたであろう長靴で、かまわず東京の街に現れました。

その後も、長靴に国民服というこの出で立ちで都内を闊歩(美術展などにも)、「あら、高村光太郎よ」と奇異の目で見られたそうですが、全く気にしなかったとのこと。さすがです(笑)。

光太郎の長靴以外も、「斎藤茂吉のバケツ」だの「坂口安吾のストップウオッチ」だの、「何じゃ、そりゃ?」というものがたくさんありますね(笑)。しかし、そいうったものにも、それぞれのドラマがあるのでしょう。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

二つに割れた世界の間に挟まる者に 一九五〇年は容赦もなからう。 白く冷たく雪に埋もれた正月を 東北は今どんな決意で迎へる気だ。

詩「一九五〇年」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』の、翌年元日号のために書かれた詩です。そこで、「東北は今……」となっているわけです。「二つに割れた世界」は東西冷戦を指します。

あと2ヶ月ちょっとで、2018年です。自公連立与党の圧勝に終わった衆議院選挙を経て、新聞紙上ではもはや既定路線のように「改憲」の文字が目立ちます。2018年、どうなることやら、ですね。

ところで、今回の選挙でも、福島の原発事故の処理もまだ終わらないというのに、エネルギー政策がまったくといっていいほど争点に上らなかったように思います(選挙区によってはそうでもなかったのかも知れませんが)。果たして、それでいいのでしょうか……。

過日ご紹介した「ふくしま ほんとの空プログラム」関連で、続報的な……。 

ふくしま ほんとのプログラム フォトコンテスト

【福島県産米「天のつぶ(5㎏)」が3名様に当たる!】

応募期間 2017年10月31日(火)まで

< 応募方法 >
①インスタグラムアカウントを公開してください。
②ふくしまほんとの空プログラムの公式インスタグラムアカウント「@f_hontonosora」をフォローしてください。...

③ハッシュタグ“#ふくしまほんとの空”を付けて、撮影場所を記載し、福島の空(昼夜問わず)の写真を投稿してください。

※お一人様何回でも投稿できますが、同一画像の投稿はご遠慮ください。
※本ハッシュタグをつけた投稿写真と文章は、当選の有無に関わらずふくしまほんとの空プログラムのインスタグラムやfacebook等で掲載させていただく場合があります。

< 当選発表 >
・応募期間終了日を持って応募締め切りとします。厳正なる審査のうえ、当選者を決定いたします。
・結果発表は当選者にインスタグラムダイレクトメールでご連絡いたしますので、公式アカウントを必ずフォローしてください。
・結果発表は2017年11月下旬を予定しています。
・当選者は、事務局からの当選通知ダイレクトメールの送信後7日以内にご連絡いただけない場合は、当選を無効とさせていただきます。
・当選商品の発送は日本国内に限らせていただきます。
・政治・宗教・営利活動に該当するもの及び公序良俗等に反する作品は受付できません。

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「ふくしま ほんとの空プログラム」は、9月と10月に鮫川村で開催される自然体験イベントですが、それと直接関係なく、福島の「ほんとの空」を撮った写真のコンテストだそうです。


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既にfacebook上に応募写真のいくつかが掲載されています。

どれもいい写真ですね。

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もう1件。昨日の『福島民報』さんから。

ミスセブンティーンに 郡山在住、箭内夢菜さん

003 郡山市在住の高校2年生箭内夢菜(やない・ゆめな)さん(17)が、10代向けのファッション誌「Seventeen」(集英社)のオーディションで、専属モデルとなる「ミスセブンティーン2017」に選ばれた。集英社によると県内在住者が選出されたのは初めて。

 箭内さんは「ずっとSeventeenモデルになるのが夢だったので本当にうれしい。初心を忘れずに、たくさんの人に愛されるモデルになりたい」と話している。
 「Seventeen夏の学園祭2017」が24日に横浜市で開かれ、発表された。鹿児島県出身の宮野陽名さん(13)とともに、応募者5981人の中から選考された。イベントで箭内さんは約3000人の歓声を浴びながらランウエーを歩いた。
 ミスセブンティーンは、広瀬すずさんら女優・人気モデルを多数輩出している。
 箭内さんは東京マラソンのオフィシャルドリンク「ポカリスエット」をPRする「ポカリガール2017」に選ばれて注目を浴びた。今夏は全国高校野球選手権福島大会を盛り上げる「KFB高校野球ガール」に起用された。
 10月28、29の両日、福島民報社が鮫川村で催す「ふくしま ほんとの空プログラム」宿泊体験にプログラムナビゲーターとして参加する。


記事にある広瀬すずさん以外にも、北川景子さん、木村カエラさん、水原希子さんらがこのオーディションの出身だそうで、福島をもりあげるための今後の活躍が期待されますね。


【折々のことば・光太郎】

限りなき信によつてわたくしのために 燃えてしまつたあなたの一生の序列を  この松庵寺の物置御堂の仏の前で 又も食ひ入るやうに思ひしらべました
詩「松庵寺」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

昭和16年(1941)8月、詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定される「荒涼たる帰宅」以来4年ぶりに、公表された詩に智恵子がメインで現れました。

詩の舞台は花巻町中心部の松庵寺さん。10月10日には、父母と智恵子の法要を営んでもらっていますが、制作の日付は10月5日。智恵子の命日です。8月23日の日記には、「雨、晴、朝一寸雨ふる。(略)松庵寺にて一枚起請文をもらふ。」とあり、この時の出来事を謳ったものかもしれません。

JR成田駅前の成田市芸術文化センタースカイタウンギャラリーで、以下の企画展が催されています。

下総御料牧場の記憶 ~第9代下総御料牧場長・田中二郎の残したアルバムを中心に~

期 日 : 2017年6月3日(土)~6月25日(日)
会 場 : 成田市芸術文化センタースカイタウンギャラリー5F 
       千葉県成田市花崎町828-11
時 間 : 午前10時から午後5時
休館日 : 月曜日
料 金 : 無料
主 催 : 成田市 成田市教育委員会

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昨日の『朝日新聞』さんの千葉版に載った記事です。

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宮内庁下総御料牧場は、明治8年(1875)に開場した下総牧羊場を前身とし、同18年(1885)、宮内省(当時)直轄化。成田空港の建設工事に伴い、昭和44年(1969)に那須に移転するまで存続していました。

一帯は、成田空港や宅地となっていますが、航空写真を見ると、牧場だった頃の名残があちこちに見られます。この楕円形になっている道路などもその一つ(NHKさんの「ブラタモリ」のようですね(笑))。

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光太郎の親友だった作家の水野葉舟が大正13年(1924)にこの地に移り住み、昭和22年(1947)に亡くなるまで、牧場近くに住み続けました。葉舟は、元々、前年に光太郎が日本画家の山脇謙次郎のために建ててやった小屋に入り、その後、近くに自分で家を建てました。そうした縁もあり、光太郎も何度か御料牧場を訪れています。ただし、細かな年月日、何度訪れたかなどは現時点では不明です。

以前にもご紹介しましたが、光太郎は御料牧場を舞台に、詩「春駒」を作りました。

  春駒
 
三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場(ごれうまきば)にうつすり003
もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、
雨ならけむるし露ならひかるし、
明方かけて一面に立てこめる杉の匂に、
しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ
春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ。
すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、
ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、
ただ一心に草を喰ふ。
かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい。
三里塚の春は大きいよ。


昭和52年(1977)には、この詩を刻んだ碑が、かつての御料牧場跡地に建てられた三里塚御料牧場記念館を含む三里塚記念公園内に除幕されました。

実は最近、大正時代に御料牧場の獣医師だった人物の御子孫(東京ご在住)から連絡がありました。光太郎と葉舟がかつて牧場内のその獣医師の官舎を何度か訪れ、別のご子孫のお宅に、光太郎関連の資料が遺っているとのこと。この秋に拝見するお約束をいたしました。もしかすると、前述の御料牧場を訪れた、細かな年月日、何度訪れたかなどの手がかりがつかめるかも知れません。

そうした関係もあり、もう一度、御料牧場について調べ始めた矢先に、この企画展。隣町ですので、早速、拝見して参りました。

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昭和17年(1942)から同39年(1964)にかけ、代9代の牧場長を務めた、故・田中二郎氏のアルバムから採った写真が中心で、光太郎が訪れた時期より下るものでしたが、興味深く拝見しました。

御料牧場ということで、皇室の方々もよくいらしていたようで、颯爽と馬にまたがる今上天皇の皇太子時代のお写真、美空ひばりさんやエンタツ・アチャコさんらが写っている同牧場での映画のロケでのスナップ(上記チラシ等に使われているもの・おそらく昭和25年=1950封切りの「青空天使」)などなど。

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前列左から4人目の少女が美空さん、その右隣が母親役の入江たか子さんです。後ろには牧場のサイロが写っています。

写真以外にも、動物彫刻家・池田勇八から田中が贈られた騎馬像なども展示されていました。池田は東京美術学校での光太郎の後輩に当たり、光太郎は文展や帝展の評では、池田の作品を比較的好意的に紹介しています。

牧場跡地の三里塚記念公園ともども、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此世の表層(うはかは)をむき取るとこんなに世界は美しい

詩「“Die Welt ist schoen”」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

題名の「“Die Welt ist schoen”」は001、「世界は美しい」の意の独語です。ドイツの写真家、アルベルト・レンゲル・パッチュがこの2年前に刊行した写真集の題名を転用しており、詩の中にもレンゲルに語りかける部分があります。

のちに光太郎自身も「世界は美し」という詩(昭和16年=1941)を書きましたし、表記を変えて揮毫したりもしています。右は今年2月に亡くなった、埼玉東松山市教育長、日本ウオーキング協会副会長だった田口弘氏に贈られた書です。

「美し」といえる世界であって欲しいものです。ところが、「美しい国、日本」はどこへやら、提唱者自身がこの国を踏みにじっているのが現状ですね(笑)。

先月、盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんに以下の記事が載りました。花巻高村光太郎記念会さんから画像を戴きました。

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写真で見る花巻での生活 賢治との関わりにも 花巻高村光太郎記念会 新しい図録集を刊行

 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)は、花巻市で晩年を過ごした詩人・彫刻家高村光太郎の暮らしや生涯で残した彫刻、詩、書などを掲載した図録写真集「高村光太郎 Kotarou Takamura 1883-1956」を刊行した。
 これまでの図録を一新。本図録では光太郎と花巻出身の宮沢賢治との出会いや宮沢家との交流にスポットを当て、光太郎の愛用品からその人柄をしのばせるなど、光太郎入門としてもわかりやすく、手に取りやすい内容になっている。
 直接の出会いは一度きりだった賢治の作品を高く評価し、賢治亡き後、その全集刊行に携わった光太郎。1945年4月の東京大空襲でアトリエが全焼し、花巻にやってきた光太郎を温かく迎え入れた宮沢家とのエピソード、その後の太田村(現、花巻市)の山荘でのつつましい暮らしぶりなど写真をふんだんに使って紹介。
 「光太郎の食卓」のページでは、自給自足の生活に入っても東京育ちで留学経験のある光太郎らしく、牛の尻尾で作る「テールスープ」やそば粉の焼きパンなど、しゃれた料理を好んだエピソードも紹介。三度の食事作りに使ったナイフ、ほぼ毎日食べていたバターを保存する館などの愛用品も写真で紹介している。
 3.11絵本プロジェクトいわて代表の末盛千枝子さん(八幡平市在住)、方言指導・朗読教室主宰者の谷口秀子さん(花巻市出身、花巻イーハトーヴ大使・希望王国いわて文化大使)が「高村光太郎との思い出」として寄稿している。
 同図録の編集に関わった高村光太郎記念館の井形幸江さんは「花巻ゆかりの光太郎と賢治は同時代を生きた人で、光太郎は賢治を見いだして世に出した人でもある。図録を通して2人の関わりに改めて関心を寄せ、親しみを持ってもらえればうれしい」と話す。
 高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんが監修した。25×25㌢の変形版、55㌻オールカラー。税込み2000円。
 花巻市太田3の85の1の同記念館(電話0198-28-3012)で販売している他、希望者には郵送も受け付けている(送料は別途)。12月28日から1月3日は休館。


昨年7月の刊行なので、半年遅れですが、大きく取り上げて下さり、ありがたく存じます。当方の名も出していただきました。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

余を目して孤独を守る者となす事なかれ 余に転化は来るべし 恐ろしき改造は来るべし 何時(いつ)なるを知らず ただ明らかに余は清められむ

詩「廃頽者より――バアナアド・リイチ君に呈す――」より
 明治44年(1911) 光太郎29歳

「パンの会」で酒に酔って大騒ぎをしたり、無計画に北海道に渡ったりといった馬鹿をやるのにはもう飽きた、というところでしょうか。「パンの会」には参加せず、異国にやってきて奮闘している親友、バーナード・リーチにあてて、決意表明をしています。

光太郎が昭和20年(1945)から、足かけ8年を過ごした岩手花巻から、企画展情報です。 

光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~

期  日 : 2016年12月3日(土)~2017年2月19日(日)
場  所 : 花巻市立萬鉄五郎記念美術館 岩手県花巻市東和町土沢5区135
時  間 : 8時30分~17時(入館は16時30分まで)
休  館 : 月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
料  金 : 一般400(350)円/高校・学生250(200)円/小中学生150(100)円
       ( )内20名以上団体料金

1914(大正3)年盛岡市に生まれた写真家・内村皓一(1914-1993)は、1940(昭和15)年関東軍に徴用され中国・奉天にわたります。翌16年から2年余りにわたって撮りためたのは、奉天市内の市民や風景。戦争により厳しい生活を送りながらも生き抜く、生々しい市井の人々の姿をとらえた人物像や、戦争のなかでも変わらず美しくあり続ける奉天の風景などでした。終戦後そのなかから30数枚のフィルムを荷物に忍ばせ帰国。残り3,000本は自らの手で焼却しました。
帰国後は花巻市で家業の印刷業を営むかたわら、1947(昭和22)年アムステルダム国際サロン「盗女」「ボロ」「流浪者」「不具者」入賞を皮切りに数多くの国際サロン展に出品。その入選作は2,000点を超え、1950(昭和25)年には、英国ロイヤルアカデミーサロンで「瞑想」グランプリ受賞するなど多くの受賞歴を持ちます。また、戦後花巻に疎開していた高村光太郎と親交を持ち「光の詩人」と称されました。また写真クラブ「皓友会」を結成し後進の指導に努めるかたわら、各国の写真団体と交流展を開催するなど交友をすすめました。1973(昭和48)年には岩手日報文化賞を受賞。昭和59年英国王室写真協会正会員。1993(平成5)年80歳で亡くなるまで後進の指導に尽力しました。
本展では、内村の奉天時代の作品50点に、戦後サロンを中心に発表した女性像や「貌」シリーズをあわせ、初の大規模な回顧展として内村写真の全貌を辿り、これまであまり紹介されることのなかった郷土の美術家を検証します。

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上記紹介にある通り、光太郎と交流のあった写真家・内村皓一の名は、光太郎の日記に散見されます。また、昨年、娘婿に当たる内村義夫氏から、御岳父にあてた光太郎書簡のコピーを拝見させていただきました。また、非常に珍しい光太郎作詞「初夢まりつきうた」のレコードも拝見。さらに、花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)で、光太郎が使っていた皿と同じ物を戴いてしまいました。そのあたりはこちら

さて、その内村皓一の写真展が開催中です。光005太郎を撮った写真も展示されています。開催されることは知っていましたが、光太郎ポートレート出品については存じませんで、紹介していませんでした。

昭和23年(1948)頃、太田村時代の光太郎を撮ったもので、「高村光太郎先生『帰路』」。この頃の光太郎にしては珍しく、きちんとシャツにズボン姿です。大概は国民服や、智恵子の織った布で作ったちゃんちゃんこなどですが、どうも何かオフィシャルな場からの帰り道のようです。

その他にも、日中戦争当時の外地の様子、戦後サロンを中心に発表したものなど、貴重な写真が多数出品されています。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

めづらしき写真機ひたとわれに向くわが身光りてまぬかれがたし
大正15年(1926) 光太郎44歳

光太郎、写真嫌いで有名でした。ただし、晩年になると、そうでもなくなったようです。とはいっても、好きになったというわけでもないのでしょうが。

内村皓一のように、ちゃんと交流のあった相手ではなく、いきなり来ていきなり撮るジャーナリズム系や、パパラッチ的に無遠慮に撮ることを信条としていたカメラマンには、最期まで嫌悪を隠しませんでした。

のち、令甥の規氏が写真家の道を志したと知ったとき、具体名を挙げて、「××のような写真家にはなるな」と釘を刺したそうです。

注文して置いた書籍が届きました。 
2016年7月20日 北野麦酒著 彩流社 定価1,800円+税

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北海道・札幌にある親会社(ビスケットの坂栄養食品)との軋轢から存続の危機に直面している「レトロスペース・坂会館」。

本社と苦闘する坂館長と対峙した渾身のドキュメントを緊急出版します!

札幌市内の私設博物館「レトロスペース・坂会館」。 坂一敬館長は自己の好みを基準として昭和のモノをこれでもかと蒐集し、特異でかつレトロな空間を具現化。いままさに当館が直面する存亡の危機に「命を賭してココを守る!」と意気軒昂だ。

前作の『蒐める!』(彩流社刊)以上のエネルギーで坂館長がこれまでの人生を語り尽くした秘話満載。

「智恵子抄」の高村智恵子のヌード写真、レトロスペースから無くなったマネキンたち、これまで出会った有名・無名の人たち、そして館長をめぐる女性たち、 夢にまで見た幻の1冊。なぜ坂館長はこれほどのモノを蒐めたのか。 運営存続への支援の輪がいま、全国で展開中である!


「レトロスペース・坂会館」さんは、札幌にある、膨大な数のレトログッズを展示している私設博物館のような施設だそうです。花巻南温泉峡にある「昭和の学校」さんと似た雰囲気のようですが、そこに「秘宝館」的なアヤシい要素がかなり加わっているようで、あちこちのサイトなどで「珍スポット」的な紹介もされています。

書籍の方は、全8章から成り、そのうちの第2章が「坂館長が見た「智恵子抄」の智恵子の幻のヌード写真」、第7章が「ヌード写真の智恵子」となっています。ただし、それぞれ智恵子に触れている部分は少しずつで、大半は別件の記述です。

「智恵子のヌード写真」……いったいどういうことかというと、光太郎との結婚前に智恵子が通っていた太平洋画会美術研究所に関わっています。

坂会館さんの館長・坂一敬氏が、その作品に惚れ込み、親交を結んでいた画家の故・宮田清氏という方がいらっしゃいました。あまり有名な画家ではなかったようで、ネット上に載っている情報も多くはありませんが、裸婦画を得意としていたようです。明治22年(1889)、札幌の生まれ。明治末、太平洋画会美術研究所で、智恵子と共に学んだとのこと。明治19年(1886)生まれの智恵子の3歳年下になります。昭和61年(1986)ころ亡くなったとのことです。

その宮田氏が、晩年に坂氏に、「薪ストーブで焼いてくれ」と、段ボール二箱半のヌード写真を渡したそうです(宮田家には薪ストーブがなかったとのこと)。おそらく今で云う「終活」の一環だったのでしょう。裸婦画を描くために撮ったヌード写真、生きているうちに処分してしまいたかったというわけです。宮田氏はフィルムの現像や印画紙への焼き付けも自分で行う技術、機材を持っていたそうです。

その中に、「下宿の畳の上で撮ったもののよう」な智恵子のヌード写真が数枚あったというのです。坂氏、それ以前に智恵子と宮田氏のつながりを聞いていたし、通常の智恵子の写真も見たことがあったようで、すぐに智恵子だと分かったとのこと。

智恵子と宮田氏のつながり、というのはこうです。明治末、宮田氏と、それから仲の良かったやはり太平洋画会美術研究所に学んでいた彫刻家の中原悌二郎の二人が、揃って性病に感染、その治療費を捻出するために春画を描いて売りさばくことを考え、そのモデルを智恵子に依頼したというのです。有り得ない話ではありません。

ところが、写真は現存しません。坂氏、それら数枚に写っているのが智恵子とわかり、それらだけ抜いておこうかとも考えたそうですが、坂氏を信頼して処分を委託した宮田氏の心情を慮り、そのまま火にくべたそうです。

もしそれが残っていて、間違いなく智恵子のヌード写真であれば、とんでもない資料です。しかし、他の写真も含めて、脱いでくれた女性たちと宮田氏の間の信義、処分を託された坂氏と宮田氏の間の信義、そういったことを考えると、残っていてはいけない写真でしょう。

そういうわけで、真偽の程は明らかではありませんが、永遠の謎やロマン的なエピソードとして扱いたいと思います。

ちなみに「レトロスペース・坂会館」さん、現在、存続の危機に立たされているそうで、それを救うため、坂氏と親交のある北野氏が本書を執筆したとのこと。北野氏には同趣旨の『蒐める! レトロスペース・坂会館』というご著書もあり、今回のものと同じ彩流社さんから上梓されています。

場所は札幌市西区の手稲通り沿いだそうです。ご興味のある方は是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

わかき日のこの煩悩のかたまりを今はしづかにわが読むものか
昭和22年(1947) 光太郎65歳

作歌の背景は、この年札幌青磁社から刊行された『道程』復元版にかかわります。晩年を迎え、若き日の詩群を読み返しての感想です。

当方、今日は神田の東京古書会館さんで、「七夕古書大入札会2016」の一般下見展観を拝見して参ります。光太郎若き日の書簡なども手に取って見ることが出来ます。光太郎自身が見れば、やはりこの歌と同じような感想を抱くのではないでしょうか。

また、のちの智恵子が若き日の自分のヌード写真を見たとしたら……などと想像が膨らみます。

東京でもソメイヨシノの開花宣言がなされそうです。

当方自宅兼事務所の庭では、ソメイヨシノではありませんが、早咲きの何とか桜が既に満開です。震災の年に苗を買ってきて植えました。

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さて、智恵子の故郷・福島二本松の桜がらみの展覧会を二つご紹介します。 

第4回 福島の桜フォトコンテスト写真展 東京展

期 日 : 平成28年3月26日(土)~4月3日(日)
時 間 : 午前11時~午後9時
会 場 : 丸ビル 3階回廊(東京都千代田区丸の内)東京駅丸の内南口より徒歩1分
主 催 : NHK福島放送局 福島民報社 福島民友新聞社 福島県写真連盟
共 催 : 福島県
内 容 :6c2092aa

 【展示作品】入賞作品10点 入選作品40点
 【テーマ】「春を彩る福島の桜」
 【審査委員長】写真家 大石芳野
入場方法: 入場自由
問 合 せ:
 ●写真展について
 NHK福島放送局  電話 024-526-4660(平日 午前9時30分~午後6時)
 ●会場案内について
 丸の内コールセンター 電話 03-5218-5100(午前11:00~午後9:00)※日曜・祝日は午後8:00まで

福島には数多くの桜が咲き誇ります。東日本大震災と原発事故から4年、今年も福島を美しく彩る桜は、人々を和ませ、勇気づけてくれました。
4回目となるNHK「福島の桜フォトコンテスト」には県内外の557名の方から1346点の作品をご応募いただきました。これら作品を通じて、復興のシンボル「福島の桜」が美しくも力強く咲く様子をお楽しみいただければ幸いです。

たまたまテレビでNHKさんを見ている時に案内が流れ、知りました。第4回ということで、3年前から実施されていたようです。上記に「東日本大震災と原発事故から4年」とあるのは、募集の時点での話ですね。

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昨春募集があった応募作品のうち、入選作品50点が展示されます。どれも素晴らしい写真ばかりでした。

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調べてみましたところ、二本松の智恵子生家裏の鞍石山にある、光太郎詩「樹下の二人」碑で撮られた作品も含まれていました。

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こうした展覧会が東京で開催されるというのはいいことですね。

第5回の募集も始まっています。来春にはやはり東京展があるのでしょう。

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また、「東京展」とわざわざ銘打っているということは、他にも巡回があるのでは、と思い、調べてみましたところ、福島県内各地と大阪で既に行われていました。気付きませんでした。第5回に関しては早めの情報収集を心がけます。


もう1件ご紹介します。 

二本松さくら展

期 日 : 平成28年4月9日(土)~5月8日(日) ※期間中無休
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
会 場 : 
二本松市大山忠作美術館  福島県二本松市本町二丁目3番地1
料 金 : 一般410(300)円、高校生以下200(150)円
                       ※( )内は20名以上の団体料金
主 催 : 二本松教育委員会
企画・協力 : 「二本松さくら展」実行委員会

門外不出の東山魁夷「花明り」をはじめ、日本画の巨匠達が描いた約30点の桜が館内に咲き誇ります。ぜひ二本松城(お城山)など市内を埋めつくす満開の桜と併せて、ご覧下さい。

出品作家一覧
 伊藤深水 上村松園 奥村土牛 奥田元宋 岡信孝 大山忠作 川合玉堂 川端龍子 後藤純男
 佐藤太清
 高山辰雄 田渕俊夫 中島千波 浜田泰介 東山魁夷 平松礼二 平山郁夫 稗田一穂 
    前本利彦 牧進
 森田曠平 森田りえ子 山本丘人 室井東志生 横山大観

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二本松出身の日本画家の故・大山忠作画伯を顕彰する美術館での企画展です。大山画伯には同郷の智恵子を描いた作品も複数有ります。チラシに使われている「花霞」は、背景に安達太良山。また、「花霞」というのは、智恵子の実家・長沼酒造で作っていた清酒の商標名でもあります。

そんなご縁で、画伯のご長女で女優の一色采子さんからご案内を戴きました。一色さん、今年の連翹忌にもご参加下さるそうです。

こちらもぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

「ガルソン」が何やら言ひぬ春の宵    明治42年(1909) 光太郎27歳

「ガルソン」は「Garçon(ギャルソン)」。「ウェイター」と訳すと、ちょっと興が削がれます(笑)。

まずは昨日の『岩手日報』さんの一面コラム。  

風土計 2016.3.4

詩人の高村光太郎は終生、妻の智恵子を愛した。無二の女性との出会いから、光太郎は退廃的な生活と決別。美に生きる人生へ踏み出す
▼智恵子は心の病を患い、光太郎の手が届かない世界に向かう。その時、真の美が立ち現れる。「あなたはだんだんきれいになる」「人間商売さらりとやめて、もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子のうしろ姿がぽつんと見える」
▼「智恵子抄」につづられた光太郎のまなざしは、どこまでも愛をたたえる。この詩集が不朽の名作たるゆえんは、文学的高みに加え、病気や障害がある人に寄り添うとはどういうことか、心の琴線に触れるからでもあろう
▼超高齢社会の今、愛のまなざしは、監視の目線に取って代わられようとしている。認知症患者の徘(はい)徊(かい)事故で、家族が賠償を求められるケースが相次いでいるからだ。2人が現代に生きていたら、光太郎は智恵子の後ろ姿を慌てて追いかけ、家に閉じ込めたかもしれない
▼愛知県で起きた徘徊事故をめぐり、最高裁は家族の監督義務について、防ぎ切れない事故の賠償責任までは負わないとする初判断を示した。在宅介護に苦悩する家族に朗報となった
▼とはいえ、免責される基準は明確ではなく、家族の負担はなお重い。社会で見守る仕組みがない限り、介護の哀歌は生み出され続ける。


岩手は光太郎の第二の故郷ともいえます。そこで『岩手日報』さんや『岩手日日』さんの一面コラムには、かなりの頻度で光太郎智恵子が登場します。

しかし今回の内容は、その件にからめますか、という感じでした。

たしかに実際、智恵子の心の病が昂進した時期には、どうしても出かけなければいけない用事があると、光太郎はアトリエの戸に釘を打って出かけたとのこと。それでも智恵子は戸をこじ開けて往来に出、大騒ぎをしていたそうです。

明日は我が身、かもしれません。


岩手つながりでもう1件。

過日、『岩手日日』さんの記事から、戦後の太田村時代に撮られた光太郎が写った写真の発見をご紹介しました。

その後、『読売新聞』さんと『朝日新聞』さんの岩手版にも記事が載りましたので、ご紹介します。 

高村光太郎 花巻での姿…民家に写真、市へ寄贈

 詩集「智恵子抄」などで知られ、晩年を旧太田村(現花巻市)で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)が写ったスナップ写真が、花巻市内の民家で見つかった。手のひらサイズの白黒写真で、最前列中央に腰掛けた高村は眼鏡に国民服姿。帽子を左手につかみ、柔らかな表情を浮かべている。
 写真が見つかったのは、花巻市太田の主婦、安藤幸子さん(78)宅。地域の役員など十数人と撮影した集合写真とみられ、右端には民生委員を務めた安藤さんの母・アンさんの姿もある。
 東京のアトリエを空襲で失った高村は1945年から7年間、太田村の山あいにある粗末な小屋「高村山荘」で独居自炊生活を送り、地域住民と交流を続けた。没後60年の今年、太田地区の住民らが高村に関する勉強会を開く中で、安藤さん宅に保管された写真の存在に気付き、花巻市に寄贈した。
 花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さんは「個人所蔵のスナップ写真が見つかるのは珍しい。写真はほかにも存在すると思うが、ここ数年は見つかっていなかった。地域住民との交流を裏付ける貴重な写真」と話している。
 市は写真を修復し、撮影時期を特定したうえで、高村光太郎記念館(花巻市太田)で展示することにしている。
2016年02月28日
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岩手)光太郎先生と貴重なショット 花巻の女性が寄贈

 花巻市太田002の安藤幸子さん(78)が、詩人で彫刻家の高村光太郎が写った写真資料を同市に寄贈した。高村光太郎は1945年から7年間、当時の旧太田村で暮らしており、後半期の撮影とみられる。花巻高村光太郎記念会は「光太郎先生と住民との交流が分かる貴重な資料」と説明する。
 当時の医院の前で撮影したとみられ、向かって光太郎の右隣に医師家族、左隣に太田村長を務めた高橋雅郎氏が写っている。市は今後、撮影日時などを調べ、高村光太郎記念館での展示を予定している。
 安藤さんは子どもの頃、光太郎が住んでいた山荘を訪ねたことがあり、部屋中が本でいっぱいだったと記憶している。「大きな人で迫力があった」と話す。(石井力)
2016年3月4日

この記事を執筆なさった石井氏は同紙北上支局長さんです。昨年、「戦争協力、自ら罰した光太郎」というコラムで、当方もご紹介下さいました。


しつこいようですが、光太郎の第二の故郷ともいえる岩手。本来の故郷の東京は有名人の出身者が多く、光太郎レベルでも出身者としては埋没しています。そういう意味で、第二の故郷・岩手での顕彰がもっともっと進む事を期待します。


【折々の歌と句・光太郎】

くれなゐの蕾うれしき春の朝あなこは小雨さく花の白き
明治34年(1901) 光太郎19歳

いよいよ春本番となって参りました。

「あな」は感動詞。「ああ」といったところ。「こ」は「これ」。紅の蕾で咲いたら白いのは、梅でしょうか。

昨日の『岩手日日新聞』さんに、以下の記事が出ました。 

光太郎の新たな資料 住民との集合写真 安藤さん(太田)、市に寄贈

 花巻市に疎開した彫刻家で詩人の003高村光太郎(1883~1956年)の新たな資料が26日、市に寄贈された。住民との交流を示す集合写真で、関係者は貴重な資料の発見を喜ぶとともに、光太郎に関する資料について新たな情報提供に期待を寄せている。
 寄贈したのは、同市太田の安藤幸子さん(78)。2015年10月に開かれた光太郎に関する太田地区振興会の勉強会をきっかけに、安藤さんが自宅で光太郎の写真を見たことを思い出し、母親アンさん(故人)のアルバムから見つけた。高村光太郎記念館の市川清志館長に拡大した写真を自宅で手渡した。
 当時の太田医院と思われる建物を背景に撮影された写真で、中央に光太郎が写っているほか、同医院の関係者や旧太田村役場職員らと共に、アンさんの姿も納められている。
 光太郎は1945年5月から52年10月まで市内太田地区に疎開していた。花巻高村光太郎記念会事務局企画担当の高橋卓也さん(39)は「手にしたブッシュハットを見ると、撮影されたのは疎開後半の頃では。報道関係など公の写真は多いが、当時は写真機を持っている人が少ないため貴重なスナップ写真。地域の人々との交流を裏付ける資料。光太郎は各地で講演を行っているので、写真が残っているのでは。これをきっかけに、新たな情報提供を期待したい」と話している。
 安藤さんは「中学生の頃に友達と光太郎先生の山荘にお邪魔した記憶がある。玄関先からたくさんの本が積まれていた。そんなに偉い先生とは思っていなかった」と当時に思いを寄せている。
 市川館長は「埋もれている資料が見つかって良かった。光太郎についての地元の顕彰活動を一緒に盛り上げたい」と話している。同館では写真資料を保管し、撮影年代や住民を特定したい考え。


ときおりこういうケースがあって、ありがたいかぎりです。特に光太郎の岩手時代(昭和20年=1945~27年=1952)の写真、書、書簡類はまだまだあちこちに埋もれているはずです。光太郎が居た花巻周辺や、たびたび訪れた盛岡方面など。また、講演などで東北各地に足跡が残っていますので、そういう所でも。

実は当方が昨年暮れに訪れた秋田の横手にも書が複数残っているらしく、時間を見つけて調査に行こうと思っております。光太郎は昭和25年(1950)の3月10日から12日にかけ、講演のため横手を訪れています。

「うちにも光太郎先生の写真やら書やらがある」という方は、花巻の高村光太郎記念館、または当方までご一報いただければ幸いです。
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【折々の歌と句・光太郎】

山の鳥うその来てなく武蔵野のあかるき春となりにけらしな
制作年不詳

大正14年(1925)制作の木彫「うそ鳥」に関わると考えられますが、細かな制作年は不詳です。

「なりにけらしな」は「なったに違いない」。明治生まれなので、ある意味当然かも知れませんが、こうした古語に対する光太郎の知識や、自然にそれを使えるところには舌を巻かされます。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

智恵子の故郷、福島県二本松の観光協会さんのサイトから。 

2015「二本松の四季」観光フォトコンテスト作品展開催中!

【場所】市民交流センター3階市民ギャラリー前通路 福島県二本松市本町二丁目3番地1
【期間】平成28年1月14日(木)~2月3日(水)9時30分~17時00分
市民交流センター3階市民ギャラリー前通路にて 、2015「二本松の四季」観光フォトコンテスト「夏」「秋」「菊人形」部門に応募いただきました全作品を展示しています。是非お立ち寄りください!
※月曜日は大山忠作美術館は休館ですが、市民ギャラリー前通路、展望ラウンジスペースは出入り可能となっており、月曜日も観覧できます。 また、現在「冬」部門の作品を募集中です。沢山のご応募、お待ちしております。

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コンテストは、「二本松市内の様々なスポット、名所、四季の風物等の観光資源を、写真を通じて紹介でき、ポスターやパンフレット等で使用できる作品を募集」というコンセプトで行っているものです。

智恵子ゆかりの地を撮影した作品も多く、今回、「秋」部門の最優秀作が、紅葉の安達太良山頂付近で撮影された「ほんとの空の下」という作品。また、「菊人形」部門では、「菊花にかこまれた智恵子さん」という作品が優秀賞に選ばれています。

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その他の入選作もすばらしいものばかり。で、現在、二本松駅前の市民交流センターで、展示が行われているそうです。

せっかくの素晴らしい作品群ですので、市内で展示するだけでなく、市外、県外、特に首都圏などに持って行っての展示などもなされるといいと思うのですが……。


【折々の歌と句・光太郎】

いたづらに富士を負ひ立つ国かこれ島か小島か人なき土か
明治35年(1902) 光太郎20歳

手厳しいですね。今月から通常国会(常会)が始まりましたが、早速話題になっているのは政治とカネの問題。現今のこの国を見たら、光太郎はどういう歌を残すのでしょうか……。

神奈川県平塚市美術館さんで開催中の企画展です。 

生誕100年記念 写真家 濱谷浩展

期 日 : 2015 年7 月18 日(土) ~ 9月6 日(日)
会 場 : 平塚市美術館
  : 9:30 ~ 18:00( 入場は17:30 まで)

       ※9 /1(火)以降9:30 ~ 17:00( 入場は16:30 まで)
休館日 : 月曜日( ただし7 /20 は開館、7/21は休館)
 
 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円
        ※( ) 内は20 名以上の団体料金
        ※中学生以下、毎週土曜日の高校生は無料
        ※各種障がい者手帳をお持ちの方と付添1 名は無料
        ※65 歳以上で、平塚市民の方は無料、市外在住の方は団体料金
  : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
特別協力
 : 濱谷浩写真資料館

 このたび平塚市美術館では世界的に著名な写真家濱谷浩の生誕100 年を記念した展覧会を開催します。
 濱谷浩(はまやひろし:1915-1999)は東京下谷で生まれ、後年は大磯に居を構えた日本を代表する写真家です。15 歳のときに父の友人からカメラを贈られたことをきっかけに写真に情熱を傾けるようになった濱谷は、高校卒業後に銀座のオリエンタル写真工業に勤め、本格的に写真の技術や知識を身に付けると、まもなくフリーランスのカメラマンとして活動を始めました。1939(昭和14)年に雑誌の取材で新潟県の高田市を訪れ、雪国の厳しい風土とそれに立ち向かう人々の営為に感銘を受け、以降、日本の風土と人間の関係を突き詰めた写真を撮影するようになります。
 その後、高度成長期を迎えた日本においてテレビが普及し、報道の機動性、速報性、同時性などの面でその影響力が増していく中で写真表現の可能性を模索した濱谷は、エヴェレストをはじめ世界に残された自然の撮影を開始します。
 人間の生を深く洞察し、大自然の極限の様相に迫るカメラワークは国内外で高く評価され、1987(昭和62)年写真界のノーベル賞と称される「ハッセルブラッド国際写真賞」を受賞しました。
 本展では、大きく変動する昭和という時代に生き、カメラを通して「人間が生きるとは何か」ということを真摯に問いかけた濱谷の軌跡をご紹介します。

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濱谷浩(はまや ひろし)は大正4年(1915)生まれの写真家。日本の風土に生きる人々を撮り続け、特に「裏日本」を題材にした写真が有名です。また、肖像写真も多く手がけ、昭和58年(1983)には、光太郎を含む学者、芸術家100名ほどのポートレートをまとめた『學藝諸家』という写真集を出版しています。

昭和25年(1950)1月1日発行の『アサヒカメラ』第35巻第1号に、濱谷による光太郎が暮らす山小屋訪問記「孤独に生きる 高村光太郎氏を岩手県太田村に訪ねて」が掲載されました。ちなみに表紙は木村伊兵衛撮影のヴァイオリニスト・諏訪根自子です。

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グラビアとして写真が8葉、長文の訪問記も、光太郎書簡や贈られた短歌などを引きつつ、興味深い内容です。写真はどれも、厳しい山居生活の側面を写し取り、すばらしいものです。上記の手の肖像は、肥後守の小刀で、鰹節を削る光太郎の手です。想像ですが、何か彫っているところを撮りたい、という濱谷のリクエストに、戦時の反省から彫刻封印の厳罰を自らに科していた光太郎が、彫刻刀で木を彫るところではなく、小刀で鰹節を削る様子を撮らせたのではないかと思います。

さて、ここに収められた写真が、平塚市美術館さんの「生誕100年記念 写真家 濱谷浩展」にも並んでいるとのこと。情報を得るのが遅れ、紹介が遅くなりました。濱谷は晩年は平塚に住んでいたとのことで、平塚市美術館さんでの開催です。


ちなみに、疎開などでやはり濱谷と縁の深い新潟・長岡市の新潟県立近代美術館さんでも、「生誕100年 写真家・濱谷浩」展を開催中です。ただ、こちらは光太郎の肖像写真が展示されているかどうか不明です。情報をお持ちの方、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月17日

昭和40年(1965)の今日、詩人の高見順が歿しました。

高見は明治40年(1907)の生まれ。自分よりはるかに若い詩人たちをかわいがった光太郎に気に入られ、昭和25年(1950)に刊行された高見の詩集『樹木派』の題字を揮毫したり、最晩年の昭和30年(1955)には雑誌『文芸』のため、高見との対談「わが生涯」を行ったりしています。

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詩集『樹木派』の題字は、現在も公益財団法人高見順文学振興会さんの会報に使われているそうです。

先だって、ご案内を戴きましたが、光太郎の実弟・豊周の令孫にして、現在の髙村家当主の髙村達氏の写真展が開催されています。 

髙村達氏 写真展「Botanical Garden~植物園」

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会 期 : 2015年5月9日(土)~5月21日(木) 10:30-18:30   ※最終日は16:00まで 
会 場 : ホテル椿山荘東京「アートギャラリー」ホテルロビー階
                    東京都文京区関口2-10-8 03-3943-1111
入場無料

達氏は、昨夏亡くなった父君・規氏の跡を継いで、同じ写真家としてご活躍中です。

ところで、現在、高村家では「たか」の字は「」(いわゆる「はしごだか」)を使われています。

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ちなみに「」の字を、旧字体だと思いこんでいる方が多いのですが、この字は旧字体ではなく、「俗字」という扱いです。この問題は、戦後になって改訂された旧字体、新字体の問題ではありません。戦前から通常の「」の字はちゃんと存在しました。

以前から気になっていたのですが、故・規氏のからんだ光雲や豊周に関する書籍はほとんど「」になっていました。下の画像は平成11年(1999)に刊行された光雲の彫刻写真集の内容見本です。

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どういうことかと思っていたのですが、先月末、花巻の高村光太郎記念館リニューアルオープンの際、記念式典にいらしていた達氏との雑談の中で、その話が出て、疑問が氷解しました。

髙村家では、昔からはしごだかの「髙」の字を慣習的に使用していたとのこと。光太郎も少年時代は「髙」の字を使っていました。下の画像は明治27年(1894)、数え12歳、高等小学校時代の習字です。

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しかし、それがいつのことか詳細が不明なのですが(おそらく明治期)、戸籍の届け出の際に、光雲の弟子の誰かが代わって手続きに行き、「髙」ではなく、通常の「高」の字で届け出てしまったとのこと。

したがって、高村家では戸籍上は「村」、しかし慣習として「村」を使い続けているということです。

ところが光太郎は、少年期は別として、長じてからは、戸籍通りにすべきだろうということで、「村」としていたそうです。自分は家督相続を放棄した分家、という意識もあったのかも知れません。

複雑ですね。

このブログでも、煩瑣になるのを避けるため、「村」で統一させていただきます。ただし、現在の髙村家に関わる箇所のみは「」の字を使います。

ところで達氏写真展、当方、明後日、花巻高村祭に向けて千葉の自宅兼事務所を出ますが、その際に立ち寄っていこうと思っております。みなさんもぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月12日

明治43年(1910)の今日、広島に住む画家の南薫造に宛て、葉書を書きました。

 あの葉書が届いた相ですね。
 チエルジイのあのエムバアクメントや リツチモンドのキングスホテルを思ひ出させて 人に身顫ひさせる 悪いわるい意地の悪い夏が来ましたね。日本に住んで居るといふ外は 僕と日本とは今の処没交渉です。Ah!

前年に欧米留学から帰朝、光雲を頂点とする古い日本彫刻界との闘いを余儀なくされていた時期のものです。

光太郎と南は、明治40年(1907)から翌年にかけ、ともに留学でロンドンに滞在、彼の地で親しく交わりました。「エムバアクメント」はテムズ川のヴィクトリア堤防、「リツチモンド」もロンドンの地名です。

去る1日の日曜日、光太郎の名がちらりと出た新聞記事が2本ありましたのでご紹介します。

まずは『朝日新聞』さんの神奈川版。

神奈川)97歳の女性画家、9年ぶり油絵展 30点展示

97歳の現役画家・井上寛子さん=6c2092aa横浜市神奈川区=の9年ぶりの油絵展「色彩を求めて97年」が同市中区の洋館、山手234番館で開催中だ。一昨年の横浜美術協会展で朝日新聞社賞を受けるなど90歳を超えても精力的に制作する井上さん。ここ10年ほどの作品約30点を展示している。

 井上さんは東京生まれ。23歳で文部省美術展(現・日展)に入選する。絵画の師の紹介で詩人高村光太郎を訪ねたり、同じ学校に娘が通う彫刻家北村西望宅に遊びに行ったり、芸術と触れあう青春を送った。

 1943年に結婚した夫の故・信道さんは横浜駅西口地下街入り口の女性像など各地に作品が残る彫刻家。出産直前に横浜大空襲にあい、戦後は一時病床にふせるなど多難な時期もあったが、夫や長女の大野静子さんともども精力的に展覧会を開いてきた。

 「印象派の絵を見て日本とは違うと思った。光は物理的、生理的、心理的と三つに分けて考えられる。その研究に時間をかけて絵をやり抜いた」と振り返る。

 「絵を続けられるか、続けられないか、ひとつの岐路。たやすいことはいえない」と心境を語りながらも「気に入った構図に色彩がうまくはまった時はうれしい」と笑った。

 3日まで。井上さん夫妻の作品はインターネット(http://www.kanagawarc.org/inoue/)で見られる。(2015年3月1日 山本真男)

井上寛子さんという方、『高村光太郎全集』にはお名前が見えませんが、井上さんの年譜によれば、昭和16年(1941)に、「高村光太郎氏より詩と絵画の精神を学ぶ」とあります。

97歳にして個展の開催、頭が下がります。ただ、既に閉幕しており、残念です。


次いで『読売新聞』さんの読書面。書評です。 

記者が選ぶ 時代(とき)を刻んだ貌(かお) 田沼武能著

 勤労動員で生き抜く術(すべ)を学んだ中学時代。東京大空襲では下町を逃げまどう。生活の場で戦争の悲惨さを知った田沼武能(86)は、人間の生き様を表現する世界に導かれた。1949年、名取洋之助や木村伊兵衛ら錚々(そうそう)たる写真家たちが所蔵する写真通信社に入社。木村に師事し人脈も得る。文化、芸術誌とも嘱託契約を結び、撮影依頼を次々と受けた。59年からはフリーの写真家に。師匠木村は田沼に「おれのマネをしていてもダメだ」と忠告した。
 孫のような若手写真家に見せる、昭和を創りあげた大家240人の諭すような表情が見事だ。高村光太郎、永井荷風ら教科書でおなじみの顔もいることに驚く。当時貴重だった電話で仕事を取り付け、個人著作権のネガを蓄積してきたフリーランスの秘蔵写真集。(クレヴィス、3000円)


田沼氏は評にある通り、木村伊兵衛門下の写真家。したがって、昨夏逝去された光太郎の令甥、故・高村規氏の兄弟子にあたります。そういうわけで、髙村規氏のご葬儀では、弔辞を述べられました。

一昨年、銀座のノエビア銀座本社ビルギャラリーで開催された個展「アトリエの16人」では、やはり光太郎のスナップも出展されていました。

さて、『時代を刻んだ貌』という書籍、版元サイトにリンクを張っておきますのでご覧下さい。表紙は佐藤春夫ですね。サムネイルが数葉出ますが、黒柳徹子さんや梅原龍三郎などで、残念ながら光太郎は出ません。


井上寛子さんにしても、田沼武能氏にしても、生前の光太郎を知る皆さん、まだまだ頑張っていただきたいものです。詳細は未定ですが、今月下旬にやはりそうした生前の光太郎を知る方にお会いし、お話を聴く予定です。レポートをお待ち下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】  3月4日

昭和29年(1954)の今日、20数年ぶりに自作の木彫「魴鮄(ほうぼう)」を手に取りました。

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当日の日記から。

午后宮崎丈二氏くる、「魴鮄」の木彫持参、現存のこと分る、友人の道具屋所有の由、

この「魴鮄」は大正13年(1924)の作。昭和2年(1927)の大調和美術展などに出品されたりもしました。

その後、買い手がついたようで光太郎の手許を離れましたが、昭和20年(1945)の「回想録」に以下の記述があります。

私の乏しい作品も方々に散つて、今は所在の解らないものが多い。『魴鮄』など相当に彫つてあるので、時々見たいと思ふけれども行方不明である。何か寄附する会があつて、そこに寄附して、その会に関係のある人が買つたといふ話だつたが、その後平尾賛平さんが買つたといふ事も聞いたが、どうなつたか分からない。

平尾賛平はレート化粧品を商標とした平尾賛平商店の主。おそらく二代目で、東京美術学校に奉職する前の光雲に援助などもしていました。

その「魴鮄」と奇跡的に再会を果たしたのが61年前の今日でした。

持ち込んだ宮崎丈二は光太郎と交流のあった詩人。昭和37年(1962)に、この「魴鮄」を謳った詩を発表しています。

    蘭と魴鮄
000
花を開き初めた春蘭が
葉を垂れてゐる鉢の傍へ
高村光太郎作魴鮄を置いて眺める
これはいゝ
思はず自分はさう云ひながらも
この心に叶つた快さを
どう説明していゝかは知らない

魴鮄はその面魂(つらだましい)を
それに打ち込んだ作者をさながらに現して
むき出しにしてゐる
ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
きつぱりとそのかたちに切られて
そして今こゝに
蘭の薫を身に染ませて

過日、今年のカレンダーについて書いた時に、「「乙女の像」など光太郎、智恵子作品が使われているカレンダーはないかと、ネットで探してみました。しかし、残念ながらヒットせず。」と書きましたが、なんと、十和田市の観光推進課さんから「乙女の像」の写真が載ったカレンダーが届きました。題して「2015・平成27年 十和田市の四季カレンダー」。
 
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表紙に「乙女の像」が載っています。
 
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各月ごとのページにも十和田の美しい風景が。
 
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写真は十和田出身のフォトグラファー・和田光弘氏の撮影です。調べてみると、「十和田市の四季カレンダー」は和田氏がずっと手がけられているようです。
 
発行元は十和田市となっています。しかし、ネットで検索しても詳しい情報がヒットしません。もっと大々的に売り出してもいいように思うのですが……。
 
各自治体でもこうした動きがもっと広まってもいいような気もします。手軽に「ふるさと」の良さをアピールできますし、時が経てば歴史的資料としての価値も出るのではないでしょうか。
 
また、東日本大震災の津波による甚大な被害を受けた宮城の石巻女川町などでは、震災前の町の姿を描いたカレンダーなどが発行されているそうです。こちらは個人がやっているようですが、もっと自治体が腰を上げてもいいような気がします。自治体が音頭を取って全国に販路を広げ、復興支援に役立てるということで。
 
以前にもご紹介した「復興デパートメント」というサイトがありますが、「カレンダー」で検索しても「HAWAII ALOHAカレンダー」しかヒットしません。なぜハワイ? という感じです。
 
東北の、特に各自治体の皆さん、ご一考を。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月23日

昭和13年(1938)の今日、雑誌『国語特報』にエッセイ「小刀の味」が掲載されました。
 
ここでいう「小刀」は木彫に使う彫刻刀です。
 
書き出しは以下の通り。
 
 飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するように、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するやうになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀(こがたな)を大切にし、まるで生き物のやうに此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。
 
なかなか味わい深い文章です。青空文庫さんで全文が読めます。

特にいつもそれを眺めているわけではありませんが、当方、部屋ごとにカレンダーがないと落ち着きません。2ヶ所あるトイレにも吊していますし、洗面所兼脱衣場に貼った年もありました。
 
しばらく前は、アート系のカレンダーを愛用していました。その月が終わって破り取ったあと、絵の部分を切り取って額に入れ、手軽な複製画として飾るというふうに。竹久夢二、アルフォンス・ミュシャ、鶴田一郎、葉祥明、藤城清治、川瀬巴水、安野光雅、棟方志功などなど。
 
少し前から、もうそうしたものを飾るスペースもなくなってきたので、販促用にその辺の店でくれるものだけを使うようになりました。後で飾らないのにアート系を買うともったいない、破り取った分を捨てるに忍びない、そういう感覚で、アート系は避けていました。
 
ときどき手に入った光太郎智恵子がらみのカレンダーは、使わずに取ってあります。
 
さて、昨年末。「来年のカレンダーはどうしようか」と考えました。やはり販促用にその辺の店でくれるものではものたりません。まず「乙女の像」など光太郎、智恵子作品が使われているカレンダーはないかと、ネットで探してみました。しかし、残念ながらヒットせず。そこで、ふと、「光太郎智恵子ゆかりの地の風景が載ったものはどうだろう」と思いつき、検索したところ、見つかったので、2点購入しました。
 
まず、小暮真望さんという方のシルクスクリーン版画をあしらったもの。「日本百名山」がモチーフです。
 
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5・6月が安達太良山です。「ほんとの空」を映して広がる水田、その彼方に雪を残す安達太良山。いいですね。
 
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もう一点、こちらは写真ですが、「輝く太陽」というカレンダー。日本各地の日の出を撮った写真が使われています。
 
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2月は銚子犬吠埼。大正元年(1912)に、光太郎智恵子が愛を確かめた故地です。
 
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6月は十和田湖。新緑が鮮やかです。
 
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「日本百名山」は書斎に、「輝く太陽」は寝室に掛けました。
 
もう一点、近所の書店で見つけ、買って来たのがこちら。「季節のパノラマ」という題の、山岳写真を使ったものです。
 
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表紙のページが上高地。大正2年(1913)、ここで光太郎智恵子は婚約を果たしました。さらに6月が奥入瀬渓流です。
 
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こちらはトイレに飾ってあります。
 
ところで、3点とも、現在のページ―つまり1月―は、富士山です。
 
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初夢の「一富士二鷹三茄子」ではありませんが、やはり日本人には、「正月は富士山」というイメージなのでしょうか。ちなみに、お互いに知り合う前に別々にですが、光太郎も智恵子も富士登山の経験があり、その意味では故地ですね。
 
その他、それぞれに日本の美しい自然が取り上げられています。こういうものを見ると、この国に生まれて本当に良かったと思います。無論、諸外国にもそれぞれ美しい風景はあるのでしょうが。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月7日
 
昭和26年(1951)の今日、『花巻新報』に詩「初夢まりつきうた」が掲載されました。
 
 
   初夢まりつきうた000
 
 花巻商人なに商人
 花巻商人いい商人
 ねだんがやすくて
 品物たしかで
 なんでもそろえて
 お店はあかるく
 きれいで清潔
 お客の相談こまかに考え
 いつでもにこにこ
 エチケツト身につけ
 しんからしんせつ
 お届けシステム
 きびきびはきはき
 近郷近在遠くは列車で
 なんでも花巻かんでも花巻
 花巻商人なに商人
 花巻商人いい商人
 夢は正夢初笑い
 まずまず一貫かし申した
 
光太郎にしては珍しい作風です。現代仮名遣いによる最初の詩で、はじめ、歴史的仮名遣いで書かれましたが、草稿に新仮名遣いに訂正した跡が残っています。
 
平成21年(2009)、この詩に曲が付けられたSPレコードの発見が報じられました。その発見者の方とコンタクトが取れましたので、いろいろ判りそうだと期待しています。

昨日は六本木に行って参りました。目的地は東京ミッドタウン内のFUJIFILM SQUAREさんにある写真歴史博物館さんです。
 
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以下の展覧会が開催中です。

「土門拳 二つの視点」 第二部「風貌」

開 期  2014年12月2日(火)~ 2015年2月2日(月) 007 (2)
時 間  10:00 ~ 19:00(入館は18:50 まで)
会 場  FUJIFILM SQUARE(フジフイルムスクエア) 写真歴史博物館
      港区赤坂9丁目7番3号東京ミッドタウン・ウェスト
入場料 無料
主  催 富士フイルム株式会社
協  力 土門拳記念館
 
第一部「こどもたち」が10月から開催されていましたが、今週から第二部「風貌」が始まりました。
 
土門撮影の、光太郎を含む26人の肖像写真が展示されています。
 
光太郎以外は以下の通り。
 
志賀直哉 谷崎潤一郎 幸田露伴 島崎藤村 永井荷風
小林秀雄 林芙美子 牧野富太郎 柳田国男 三島由紀夫
山田耕筰 志賀潔 九代目市川海老蔵 初代水谷八重子
十四世千宗室 滝沢修 濱田庄司 イサム・ノグチ 朝倉文夫
安田靫彦 小林古径 上村松園 安井曾太郎 藤田嗣治 
梅原龍三郎
 
これらは昭和28年(1953)にアルスから刊行された土門拳写真集『風貌』に収められた物だと思います。
 
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光太郎の写真は、昭和15年(1940)に駒込林町のアトリエで撮影されたもの。
 
昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展でも出品させていただきましたが、木彫の「鯉」(未完)を制作中の写真です。
 
ほとんど唯一、光太郎が木彫を制作している瞬間を撮影したもので、貴重なショットです。
 
この『風貌』には、光太郎が推薦文を寄せています。
 
 土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。土門拳自身よくピントの事を口にするが、土門拳の写真をしてピントが合つているというならば、他の写真家の写真は大方ピントが合つていないとせねばならなくなる。そんな事があり得るだろうか。これはただピントの問題だけではなさそうだ。あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない。あの一枚の野口米次郎の大うつしの写真ほど詩人野口米次郎を結晶露呈せしめているものは此の世になかろう。ひそかに思うに、日本の古代彫刻のような無我の美を真に撮影し得るのは、こういう種類の人がついに到り尽した時にはじめて可能となるであろう。
 
他にも光太郎は、前年の昭和27年(1952)に書いた「夢殿救世観音像」という文章でも、土門を賞賛し、エールを送っています。
 
 土門拳が法隆寺夢殿の救世観音をとると伝へられる。到頭やる気になつたのかと思つた。土門拳は確かに写真の意味を知つてゐる。めちやくちやな多くの写真家とは違ふと思つてゐるが、中々もの凄い野心家で、彼が此の観音像をいつからかひそかにねらつてゐたのを私は知つてゐる。
(略)
 写真レンズは、人間の眼の届かないところをも捉へる。平常は殆と見えない細部などを写真は立派に見せてくれる。それ故、専門の彫刻家などは、細部の写真によつてその彫刻の手法、刀法、メチエール、材質美のやうな隠れた特質を見る事が出来て喜ぶ。土門拳の薬師如来の細部写真の如きは実に凄まじいほどの効果をあげてゐて、その作家の呼吸の緩急をさへ感じさせる。人中、口角の鑿のあと。衣紋の溝のゑぐり。かういふものは、とても現物では見極め難いものである。
 その土門拳が夢殿の救世観音を撮影するときいて、大いに心を動かされた。彼の事だから、従来の文部省版の写真や、工藤式の無神経な低俗写真は作る筈がない。
(略)
 救世観音像も例によつて甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、からみ合つた手のふるへるやうな細かい神経、あれらをどう写すだらう。土門拳よ、栄養を忘れず、精力を蓄へ、万事最上の條件の下に仕事にかかれ。
 
ただし、この撮影が不可能となり、この文章もお蔵入りになってしまいました。
 
このように土門を高く評価していた光太郎ですが、自身が撮影されることは忌避する部分がありました。
 
 写真と言うものは、あまり好きではない。いつか土門拳という人物写真の大家がやってきた。ボクを撮ろうとしたわけだ。自分は逃げまわって、とうとううつさせなかった。カメラを向けられたら最後と、ドンドン逃げた。結局後姿と林なんか撮られた。写真というものは何しろ大きなレンズを鼻の前に持ってくる。この人はたしか宇垣一成を撮ったのが最初だったが、これなどは鼻ばかり大きく撮れて毛穴が不気味に見える。そして耳なんか小さくなっているし、宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえるものだ。
 
昭和27年(1952)の『岩手日報』に載った談話筆記「芸術についての断想」の一部です。これは『風貌』に載った「鯉」制作中の写真のことではなく、昭和26年(1951)の5月に、土門が花巻郊外太田村の山小屋に撮影に来た時のことを言っているようです。笑えますね。
 
さて、写真歴史博物館さんでの展示、来年2月まで開催されています。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月4日
 
昭和58年(1983)の今日、東京国立近代美術館の工芸館で開催されていた「モダニズムの工芸家たち―金工を中心にして」が閉幕しました。
 
光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった高村豊周の作品も8点、展示されました。図録の表紙も豊周の作品「挿花のための構成」(大正15年=1926)です。
 
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