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昨日は、上野の東京藝術大学さんで、「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展を拝見して参りました。
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光太郎の父にして、近代彫刻界の泰斗・髙村光雲、その子・光太郎、そして鋳金分野で人間国宝となり、家督相続を放棄した光太郎の代わりに髙村家を嗣いだ三男・豊周、三人の制作の舞台裏を展示するものでした。

会場は、正木記念館
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ふと、視線を感じ、振り返ると……。
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閑話休題、正木記念館は、東京美術学校第5代校長・正木直彦(光太郎在学中に着任)を顕彰するためにその名を冠し、昭和10年(1935)、作品陳列館として建てられました。

その正木像。一見、木彫に見えますが、陶製です。作者は美校出身で、のち、母校で教鞭を執った沼田一雅。
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いざ、2階の会場へ。残念ながら、内部は撮影禁止でした。

畳敷きの大広間二つをぶちぬきにして、周縁に展示物。反時計回りに進みました。

まずは光雲、光太郎、豊周の順に、使っていた道具類、スケッチ帖・作品下図や習作の小品などがまとめてありました。

興味深かったのは、彫刻刀などの類。光雲のものは200本程、光太郎のそれは150本くらい展示されていました。両者共に木彫を手掛けていたので、種類的に重なるものも多かったのですが、明らかに違うと感じたのは、篦(へら)。光雲は、柄の先に輪になった針金を付けた搔き篦(下の画像のタイプ)を多用していましたが、光太郎の道具の中に、それは見あたりませんでした。
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光太郎の使用していたという篦は、下記のタイプ。それもけっこう大きなものでした。
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光雲は、仏像等ではない、あまり作り慣れない物をモチーフにする際には、粘土や石膏で原型を作り、星取りの技法で木に写していたようですが(そのための鹿の彫刻の石膏原型が2点、星取り器も展示されていました)、やはり根本は木彫伝来の「カーヴィング」(削り取る技法、いわば「マイナス」)。それに対し光太郎は、ロダンから学んだ「モデリング」(積み重ねるやり方、言い換えれば「プラス」)が中心だったことが、篦一つとってもわかります。

先月お会いした彫刻家の吉村貴子さんもこの展示をご覧になり、同じことを感じられたとメールに書かれていました。実作者もそう感じるんだな、と思い、嬉しくなりました(笑)。

ところで、光太郎の彫刻刀の中に、一本、「千代鶴是秀作」とキャプションのついたものがありました。柄の部分まで鉄で出来ている特徴的なもので、「やはり是秀作を使っていたか」という感じでした。

彫刻刀以外には、光雲の使っていたものとして玄翁や墨壺、焼き印、光太郎使用ではチョークや鉛筆、さらに回転台なども展示されていました。豊周は鋳金家でしたので、二人とはだいぶ異なる道具でした(鏝や火箸、デバイダなど)。

それぞれに、彼らの息づかいが伝わってきそうで、感無量でした。

会場右手が道具類の展示でしたが、正面と左手は、作品が中心でした。といっても、完全な完成作はほとんどなく、石膏原型など。かえって、普段あまり観る機会のないもので、興味が尽きませんでした。

光雲の石膏原型は、フライヤーに使われている宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の「鹿置物(キャプションは「秋の鹿」)」(大正9年=1920)、それとは別の「鹿置物」(昭和3年=1928)、「春の鶏」、「元禄若衆」(大正14年=1925)、「三番叟」(大正11年=1922)、「郭子儀」。また習作と思われる木彫の「魚籃観音」(大正8年=1919)も展示されていました。

また、展示という訳ではないのですが、もともとある会場の欄間。こちらも光雲の手になる物だそうです。下記はネット上にあった画像を拝借しました。
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こちらにはキャプションがなされておらず、光雲作と分からない人には分からないのですが……。

さらに、道具類と共に並べられていた、光雲のスケッチ帖の類も興味深く拝見しました。まず、人体解剖図的なもの。下記は平成14年(2002)、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」図録から。
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その他、信州善光寺さんの仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像の下絵なども。

ちなみに仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像に関しては、現・髙村家当主の写真家・髙村達氏撮影の写真が、大きなタペストリーで壁面に飾られていました。

010光太郎の石膏原型は、「虎の首」(明治38年=1905)と「野兎の首」(制作年不詳)。「野兎の首」の石膏には驚きました。もしオリジナルのものであれば、豊周の弟子筋の故・西大由氏がボロボロのテラコッタから苦労してとったものです。

豊周の作は、完成品の「朱銅花入」が二点。それぞれに見事な作です。うち一点は、光太郎が使っていたという彫刻用の回転台の上に置かれており、いい感じでした。

さらに、光雲が守り本尊的に大切にしていた仏像も展示されていました。江戸時代の仏師・松雲元慶の作になる聖観音像。光雲がまだ徒弟修行中の明治9年(1876)頃のこと。当時はいわゆる「廃仏毀釈」の時代で、本所にあった(現在は目黒に移転)羅漢寺境内の栄螺堂が取り壊され、堂内に安置されていた観音像百体が焼却されることになり、その直前に、光雲や師匠の髙村東雲が救い出したうちの一体です。

青空文庫さんに、そのエピソードがアップされています。

本所五ツ目の羅漢寺のこと 蠑螺堂百観音の成り行き 私の守り本尊のはなし

画像は平成7年(1995)3月の『芸術新潮』から。光雲の特集「これが日本の木彫だ! 高村光雲」が組まれていました。

当方、これの実作はおそらく初めて拝見しましたが、やはり後の光雲の作に通じると感じました。

また、東雲のさらに師匠・高橋鳳雲の兄で、これも仏師だった高橋宝山の小品「亀」と「文殊菩薩」も。こちらも初見でした。

なかなか玄人好みの展示で、あまり一般向けではないかも知れませんが、彫刻史を考える上では非常に貴重な機会です。会期が12月19日(日)までと短いのですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】011

夜「天」といふ字を書く、草野君のため。


昭和26年(1951)8月10日の日記より
 光太郎69歳

当会の祖・草野心平の詩集『天』が翌月刊行されましたが、その題字です。

光太郎、これ以外にも心平詩集の題字を多く手掛けましたが、心平自身はこの「天」の字が、最も気に入っていたようです。


都内から展覧会情報です。

髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料

期 日 : 2021年12月10日(金)~12月19日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 正木記念館2F 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 午前10時 ~午後5時
休 館 : 12月13日(月)
料 金 : 無料

本展では髙村光雲(1852~1934)・光太郎(1883~1956)・豊周(1890~1972)が制作時に使用した原型、道具、下図・スケッチ類を展示公開します。光雲は、生涯木彫制作を中心に創作活動を行いました。その制作方法は、髙村東雲工房で学んだ仏師としての直彫りによる方法から、明治30年以降に米原雲海(1869~1925)と共に始めた油土・石膏原型を使用する星取り法へと変化していきます。本展で展示する光雲が制作した石膏原型類からは、油土で造られた原型を石膏像に起こし、星取りをする過程を知ることができます。また、あわせて光雲・光太郎が使用した箆、彫刻刀類と豊周の制作道具類も紹介します。光雲工房の制作方法と光太郎の制作手法についてその有様と変化を見ることができるでしょう。

展示協力 髙村達、加藤恵美子、山田亜紀
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関連行事

「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展 関連講演会
 ※事前予約制(定員80名)
 予約フォーム:https://forms.gle/LGaHyQXk7pghp3tD7
 日時:12月11日 13時(開場は12時30分)
 会場:東京藝術大学美術学部 中央棟1階 第一講義室
 内容:
 ・藤曲隆哉「髙村光雲資料と制作背景について」30分
 ・髙村達「レンズを通じてみた光雲・光太郎・豊周」30分
 ・田中修二(大分大学)
「近代日本彫刻史における髙村光雲の位置─彫刻史を創った彫刻家」30分
 ・藤井明(小平市平櫛田中彫刻美術館)「髙村光雲の周辺-平櫛田中を中心に―」30分
 ・座談会 「髙村光雲・光太郎・豊周研究のこれから(仮)」15:30~
   毛利伊知郎(美術史家・前三重県立美術館長) 高村達 田中修二 藤井明 藤曲隆哉(司会)

彫刻の原型や道具類など、いわば制作の舞台裏に関する展示が中心のようですが、普段、眼にする機会の少ない分野で、いわば玄人好みという感じですが、非常に興味深いところです。

フライヤーに使われているのは、宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の「鹿置物」(大正9年=1920)の石膏原型。
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星取りを行って、木彫に仕上げたわけですが、当方、恥ずかしながら光雲が星取りを実践していた事は存じませんでした。

ちなみに星取りというのは、こういうことです。
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東京都小平市さんで発行している『田中彫刻記』から。

その他、光太郎の彫刻でも、石膏原型が出品されるようです。
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こちらは藝大さんの構内に立っている、「光雲一周忌記念胸像」(昭和10年=1935)。この石膏原型は当方、未見です。

追記・これは展示されていませんでした。すみません。

会期が短いのが残念ですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

屋根囲の杉皮30本哲夫さんが馬車で運びくる、


昭和26年(1951)7月10日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、増築が為されましたが、そのついでに、元々の小屋の方も手を入れることになりました。屋根は瓦やスレートなどではなく、杉皮葺きで、その杉皮を交換するというのです。

昨日は上野、銀座を廻っておりました。

まず上野。イチョウが、いい感じに染まっていました。公園内の東京都美術館さんで「第43回東京書作展」(12月2日(木)まで)が開催されており、そちらを拝観。
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一昨年の第41回展で、内閣総理大臣賞を受賞された菊池雪渓氏から招待券をいただきまして、拝見に伺った次第です。

その菊池氏の出品作。光太郎も敬愛した蘇東坡の七言絶句です。見事ですね。
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このところ、光太郎詩が書かれた作品が上位入賞となるケースが続いていたのですが、残念ながら、今回は上位10点ではそれはありませんでした。

こちらが内閣総理大臣賞他、上位入賞作品。
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それらに次ぐ「優秀賞」に、昭和29年(1954)1月の雑誌『婦人公論』に発表された詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」を書いた作品が入っていました。
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菊池氏、この作品をかなり推されていたそうですが。

その他の入選作で、光太郎詩を書かれたもの。
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「智恵子抄」から「樹下の二人」(大正12年=1923)。雄渾な筆致が、光太郎詩の世界観をよく表しているような気がしました。

それから、おそらく無鑑査の作品なのでしょう。「審査会員」の方々の作品。

光太郎詩の原点の一つ「根付の国」(明治44年=1911)。
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昭和2年(1927)に訪れた草津温泉を題材にした詩「草津」
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「独り酸素を奪つて」(昭和4年=1929)。
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続いて「依嘱」作品。かつて同展で上位入選されたりした方々の作のようです。

「花下仙人に遭ふ」(昭和2年=1927)。
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連作詩「猛獣篇」中の「苛察」(大正15年=1926)。有名な「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)同様、会場の東京都美術館さんのお隣、上野動物園さんで発想を得た詩です。
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おそらく、光太郎詩が書かれた作品は以上でした(もし見落としがあったらすみません)。今回はいつにも増して多かったように思われます。やはり光太郎詩の持つ、ある種の精神性的な部分や、内在律といったものが、書家の方々の創作意欲をくすぐるのではないかと、勝手に想像しております。

同館では、他の書道展も開催されていました。ただ、そちらは光太郎詩文を書かれた作品が出品されているという情報を得ていませんで、パス。

書家の皆さん、書道展主催の方々、その手の情報がありましたらお知らせください。できる限りご紹介いたしますので。

この後、銀座に出まして、「朗読劇 智恵子抄」の稽古を拝見して参りました。明日はそちらのレポートを。

【折々のことば・光太郎】

尚今日午后教員実務(インターンの如きもの)の人十二人ばかり太田校から来る、山口校にて見学、後余を訪問、草原にて談話一時間、


昭和26年(1951)6月29日の日記より 光太郎69歳

今でいう、教育実習生のような人々なのでしょう。この時代から「インターン」という語がすでに使われていたのには、少し驚きました。

一昨日、また都内に出ておりまして、2件、用を済ませて参りました。

まず向かったのは、竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さん。
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展覧会等の観覧ではなく、アートライブラリで調べ物です。以前、こちらでは、古い美術雑誌で『高村光太郎全集』に収録されていない光太郎の文章を発掘したりしたのですが、やはり『高村光太郎全集』に漏れている書簡が収蔵されているという情報を得まして、調べに行った次第です。書簡などの一点物がここにあるというのは存じませんで、盲点でした。
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具体的には、昨年寄贈された「難波田龍起関係資料」の中に、それが含まれていました。難波田は明治38年(1905)生まれの画家で、大正2年(1913)、少年時代に本郷区駒込林町の光太郎アトリエ裏に移り住み、光太郎に親炙、美術と詩作も光太郎の影響で始めたという人物です。

難波田宛の書簡は、『高村光太郎』全集に18通収録されていますが、リストを見ると、他に3通。うち1通は書簡とは言えず、昭和17年(1942)に開催された難波田の個展の目録に寄せた「難波田龍起の作品について」という文章(『高村光太郎全集』第6巻所収)の原稿だけが封筒にボンと入っていました。

封筒、といえば、昭和13年(1938)11月8日付けのもの。こちらは前月に亡くなった智恵子の会葬御礼的なもので、印刷でした。おそらく多数の人物に同一のものが送られたようで、『高村光太郎全集』には、光太郎の親友だった水野葉舟に送られたものが掲載されています。最後の宛名だけ異なりますが、同じものでした。

そして、葉書。昭和17年(1942)2月24日付けのもので、こちらは完全に『高村光太郎』全集に漏れていたもので、これを確認できただけでも収穫がありました。

内容的には、駒込林町のアトリエに来てくれたのに、留守にしていて申し訳なかった、別封で新刊の評論集『造型美論』を送ったよ、といったものでした。留守にしていた理由というのが、「文芸会館の会合」。具体的に何を指すのか不明ですが、この月に日本少国民文化協会が結成されていますので、それに関わるかもしれません。それに伴い幼少年誌が統合され、光太郎も寄稿した『少国民の友』や『日本少女』といった雑誌が生まれました。また、翌月には同会主催の講演会で光太郎が演壇に立ち、詩「或る講演会で読んだ言葉」として発表しています。

また、光太郎が議員を務めていた大政翼賛会中央協力会議の件にも触れられ、いかにも戦時、という内容でした。

驚いたのは、難波田と連れだって光太郎の留守宅を訪れたのが、中込友美であったことでした。中込に関しては、先月の『東京新聞』さんに大きく取り上げられ、このブログでもご紹介しました。詩作のかたわら、社会福祉にも高い関心を持ち、戦後は戦災孤児のための施設を運営したりした人物です。今回見つけた葉書の中にも「中込さんの厚生美術制作団の構想と実行との力に期待します」という一節があり、戦時中からそういう活動に携わっていたのか、と思いました。

『高村光太郎全集』に3箇所しか出て来ない中込の名を、このところ立て続けに眼にし、不思議な感覚でした。まるで中込の魂に導かれてそうなったような……。

そう思っておりましたところ、昨日、智恵子もかつて所属していた太平洋美術会の坂本富江さんから封書。「『東京新聞』さんにこんな記事が載ってましたよ」ということで。
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10月10日の記事を読んでの感想的なものですね。これも中込の魂の導きか、と思いました(笑)。

MOMATさんのアートライブラリ、まだまだ何かありそうだと思いますので、さらに調査を継続しようと思っております。

さて、竹橋を後に、続いて入谷に。次なる目的地は、入谷駅からほど近い「いりや画廊」さんです。こちらでは彫刻家の吉村貴子さんの個展「雲魂UNKON」が開催中。
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吉村さん、光太郎にも興味をお持ちで、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関する論考等も書かれています。そんな関係でご案内をいただき、これは参上せねば、というわけで馳せ参じました。

「雲根」とは、元々中国の古典に出て来る言葉で「岩石」の意です。日本でも江戸時代に「弄石家」と云われる趣味人の間で広く使われていたそうです。吉村さんの修士論文が、その弄石家で『雲根志』という書物を著した江戸時代の木内石亭という人物に関してのもので、こちらは帰りの車中で興味深く拝読いたしました。

実際に吉村さんとお会いするのは初めてでしたが、いろいろお話を伺う中で、維新後に西洋から入ってきた石彫とは別の系列で、元々日本には石彫文化があり、吉村さん御自身も実作でその流れを汲む、ということなのかと理解しました。
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石の作品の素材は花崗岩だそうですが、割って、彫って、削って、磨いて、ということで、凄い労力なのでしょう。下の画像は吉村さんのフェイスブックから。
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ちなみに光太郎も、数は少ないのですが、石彫を手掛けています。現存が確認できていない作品で、大正6年(1917)、実業家・図師民嘉の子息・尚武に依頼された「婦人像」(仮題)。写真のみ確認できています。詳しくはこちら
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吉村さん、石以外に、ガラスの作品も。
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ガラスでありながら、やはり岩石感があふれていますが。

多くの作品で、中央に丸い穴が開けられています。「これ、どういう意図ですか?」とお聞きしたところ、この穴から裏側に入ってまた表に戻ってくる、表裏一体、循環、「雲根」の原義「雲は石より生ずるによりて、石を雲根と云ふ」みたいな……。なるほど、と思いました。今流行りの「SDGs」を連想させられました。

こちらは11月13日(土)まで。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヱン豆は小鳥が皆たべてしまふ。

昭和26年(1951)4月26日の日記より 光太郎69歳

ヱン豆」は「えんどう」、サヤエンドウでしょうか。とあるテレビ番組で、アナウンサーの方が光太郎書簡を読む中で、「えんまめ」と読んでいて吹き出しましたが(笑)。

鳥さんたちは非常に賢く、人間が畑やプランターなどに種子などを埋めるのを見て理解しており、人がいなくなったら速攻で掘って食べるそうです。

昨日は都内2箇所を廻っておりました。廻った順にレポートいたします。

まず、六本木の国立新美術館さん。
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こちらでは、第8回日本美術展覧会(通称・日展)が開催中。
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日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の5部門に分かれており、そのうち第5科・書部門で、光太郎詩文を書いた作品が入選し、展示されているという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

第5科は3階でした。
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確認した限り、3点、光太郎詩文を書いて下さった作品が。展示番号順にご紹介します。

まず、照井皓月さんという方の作品。光太郎詩「鯉を彫る」(昭和11年=1936)の一節です。
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この方、光太郎第二の故郷ともいうべき花巻ご在住だそうです。

続いて、篠原挙秋さんという方で、「智恵子の半生より」。『智恵子抄』にも収録された随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。
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日展さんでは、こういう巻紙の形での出品がありなのですね。
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それから、冨本琇瑩さんという方。「新入選」とありました。初の入選ということでしょうか。作品題は「智恵子抄より」。
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こちらも巻紙で、「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)が書かれています。
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KIMG5458おそらく、光太郎詩文が書かれた作品は、この3点でした(もし見落としがあったらすみません)。

雅号では分かりにくいのですが、お三方とも女性の方でした(出品名簿に本名が書かれていました)。

「男性らしく雄渾壮大」、「女性らしく繊細優美」などと書くと、昨今は「ステレオタイプのとらえ方はジェンダー差別に他ならん!」とお叱りを受けそうですが、やはり厳然としてそういう部分はあると思いますし、3点の書からは、たおやかな女性らしさを感じました。

ところで、日展さん、入選者の名簿等に、作品名も併せて公開なさっています。これはいい試みだと存じます。「誰が」というのはもちろんですが、「何を」というのも重要な要素でしょう。当方など、光太郎詩文を書かれた作品が出ているので観に行こう、という気になりましたし。

同じことは、音楽の演奏会等(コンクール等も含め)にも言えるような気がします。やはり「誰(どの団体)が」は、もちろん必須ですが、「どんな曲を」も非常に大切だと思います。「この曲が演奏されるんなら、聴きに行こう」というニーズが結構あるような気がしますが、どうも主催者側はそう考えず、「誰(どの団体)」ばかり前面に出すケースが少なくありません。

閑話休題。日展さん、今月21日までの会期です。ぜひ足をお運びください。

007ちなみに会場の国立新美術館さん、「エヴァンゲリオン」シリーズなどで有名な庵野秀明氏の「庵野秀明展」も開催中で、混み合っています。ご注意下さい。

【折々のことば・光太郎】

随筆集校閲、朱筆入れ、

   昭和26年4月8日の日記より 光太郎69歳

「随筆集」は、この年6月に、『智恵子抄』と同じ龍星閣から刊行された『独居自炊』。若干の加筆訂正がありますが、ほぼほぼ戦時中の『美について』(昭和16年=1941)、『某月某日』(昭和18年=1943)からの再編です。

都下東久留米市関連で2件、いずれも『東京新聞』さんに載った記事から。

まずは地元コミュニティFMさんと市立図書館さんのコラボ企画だそうで。

「思い出の1冊」エピソード70点に共感 地元FM局が募り、東久留米の図書館展示

 東久留米市立ひばりが丘図書館とコミュニティーFM局「TOKYO854くるめラ」の共同企画展「あなたの本の思い出、教えてください」が、同館で開かれている。くるめラリスナーらの「思い出の一冊」を、寄せられたエピソードと共に展示。長年、親しまれてきた絵本や児童書、小説が並び、来館者は「私もこの本好きだったな」と自身の思い出を語り合っている。
◆利用者と双方向
 図書館の展示は、館側がテーマに沿った本を選ぶことが一般的だが、佐々木吾一館長は「利用者と双方向でつながれる企画をしたかった」という。エピソード募集はくるめラの番組内の「図書館へ行こう」のコーナーなどで呼び掛け、九月上旬からの一カ月で約七十件が集まった。
 絵本のエピソードは、読み聞かせをした親や、してもらった子どもからも届いた。今は社会人になった息子に「よるくま」(酒井駒子、偕成社)を毎晩、読み聞かせた応募者は「最後の一文『おやすみ』を合唱してから眠っていたのを息子は覚えているかなあ」と記した。「わたしのワンピース」(西巻茅子、こぐま社)を挙げた女性は「この絵本を読むときの母の声が優しかったので好きになりました」とつづった。
◆大人になっても読む
 ミヒャエル・エンデの「モモ」やモンゴメリの「赤毛のアン」については、子どものころ出合い、大人になっても読み続けているといった声が寄せられた。高村光太郎の「智恵子抄」や沢木耕太郎の「深夜特急」なども挙がった。
 佐々木館長は「たくさんの人が共鳴できる、すてきなエピソードが集まった」と話す。展示中の本も借りられる。貸し出し中は本の題とエピソードのみ掲示される。十一月九日まで。
 くるめラでは今月二十八日午前十一時十五分から、特番を放送して数通のエピソードを紹介する。
 金曜休館。問い合わせは同館=電042(463)3996=へ。
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『智恵子抄』をご推薦下さった方、ありがとうございます!

というわけで、展示の詳細はこちら。

TOKYO854 くるめラ・ひばりが丘図書館共同企画 『あなたの本の思い出、教えてください』

期 日 : 2021年10月9日(土)~11月9日(火)
       東京都東久留米市ひばりが丘団地185 南部地域センター2階
時 間 : 午前9時~午後7時
休 館 : 毎週金曜日
料 金 : 無料

読書から得られる様々な思いは、決して色褪せることはありません。

お子さんがまだ小さい頃に、膝の上で読み聞かせた絵本たち。多感な青春時代に巡り会い、心を揺さぶられた本。心が少し疲れてしまった時に、そっと励ましの言葉をくれた本。

そんな思い出がいっぱい詰まった一冊を、エピソードと共に教えてもらえませんか。

みなさまの素敵な記憶と共に、思い出の一冊をひばりが丘図書館の展示企画内でご紹介させていただきます。もちろん匿名(ペンネーム・ラジオネーム)で賜ります!
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ラジオ番組の方は、こんな感じです。

特番 あなたの本の思い出、教えてください

TOKYO854 くるめラ 2021年10月28日(木) 午前11時15分~11時54分

みなさまから寄せられた本の思い出エピソードをいくつかピックアップしてご紹介する特別番組が決定しました!企画展と併せてお楽しみください。

聴取可能な区域(小平、清瀬、東久留米他)にお住まいの方、ぜひどうぞ。

もう1件、『東京新聞』さんから。

10月10日(日)に載った(系列の『中日新聞』さんには10月20日(水)に載ったようです)「こちら特報部」というコーナーの大きな記事に、光太郎の名が。ただし、光太郎は添え物だったので、これまで紹介してきませんでしたが、やはり東久留米関連ですので、ここでついでに(というと何ですが)ご紹介します。

ただ、あまりに長いので全文は引用しません。下記画像、クリックしてご覧下さい。
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戦後、戦災孤児のための施設として存在していた「久留米勤労補導学園」についてのものです。

ここの施設長だった、中込友美という人物が、詩人でもあり、光太郎と交流があったため、光太郎の名が記事に出ています。下記画像、前列中央が中込、施設の子供たちと撮影されたショットです。
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中込は、戦前には詩誌『河』や『はなかご』などに拠った詩人でしたが、詩人としてはほとんど無名だったようです。

当方手元に、光太郎を含む多数の詩人の作品を収録したアンソロジー的な書籍が100冊ばかりあり、収録されている詩人の名はすべてデータ化しましたが、検索をかけてみると、中込の詩が載っているものは1冊のみでした。昭和13年(1938)、詩報発行所から刊行の『新日本詩鑑 第一輯』。ここに中込の詩が2篇採録されていました。
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もっとも、当時のアンソロジー全てに光太郎作品が載ったわけでもないので、当方の手元にないものに中込作品がもっと載っている可能性もありますが……。

『高村光太郎全集』には、3箇所、中込の名が出て来ます。

まず、中込宛の書簡が1通。昭和9年(1934)のもの。智恵子にも触れられています。
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それから、昭和19年(1944)の『日本読書新聞』に載ったアンケート「読書会に薦める」。

さき頃読んだものゝ中で、友人中込友美君の著書「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行 売価一圓四六銭)は適当な書物と考へます。すべて実際的に書いてあります。

ただ、太平洋戦争末期の世の中全体が無茶苦茶な状況でしたので、出版の方もいい加減。どこかで誤植が生じたようで、書名やカッコの位置がめちゃめちゃです。
誤 「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行売価一圓四六銭)
正 「勤労青年の教養的生活」(国民教育会出版部発行売価一圓四六銭)

あとは、詩人の川崎芳太郎に送った書簡に、中込の名がちらっと。こちらは昭和3年(1928)でした。ということは、意外と長い付き合いだったというのが分かります。

中込には、思想家の江渡狄嶺に関する著作もあり、江渡は光太郎とも親しかったため、そのあたりの人脈なのかな、という気がします。

それにしても、『東京新聞』さんの記事、興味深く拝読しました。しかし、もう現地の東久留米でも、当時のことはほとんど忘れられているようで、残念です。

そういう意味では、こういう記事は大きな価値のあるものだと思います。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃集配人今年はじめてくる。お年玉進呈(200円)


昭和26年(1951)3月8日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、住み始めた当初は、郵便配達夫は、1㌔弱離れた山口分教場(のち山口小学校)までしか届けに来てくれませんでしたが、のちには光太郎の山小屋まで、直接来てくれるようになりました。しかし、それも雪深い時期は無理だったようでした。





10月8日(金)、富山県水墨美術館さんでの「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」開会式を終え、一路、東京都内へ。東京駅から地下鉄を乗り継ぎ、六本木に向かいました。

六本木駅からほど近いCLEAR GALLERY TOKYOさんで開催中の「あどけない空#2 The artless sky #2」展を拝観して参りました。
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チョークを画材として使う、現代アート作家・来田広大さんの個展です。

本展は、高村光太郎の詩集「智恵子抄」の一節「あどけない話」に着想を得て福島の空を描いた「あどけない空」(2020)の連動した作品として、来田が2021年夏に屋上で東京の空をトレースしていくところを記録した映像作品と、平面作品を発表いたします。」とのこと。
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まず、映像作品。今年の夏、ビル屋上で東京の空をトレースしていく様子を記録したもの、だそうで。
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そのための構想スケッチでしょうか、スマホの動画と共に展示。
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そして、来田氏の本領(なのでしょう)、チョークによる作品群。
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雲のような、波のような、はたまた沙漠、あるいは山脈にも見え、不思議な世界観です。これがチョークによるものとは、そうだと知らないとわかりません。油絵と聞いてもうなずけますし、日本画だと言われれば、「ああ、そうか」と思うでしょう。鉱物顔料という意味では、日本画に近いのかも知れません。来田氏は藝大さんで油絵専攻だったそうですが。

拝見し終わり、外に出て見た「東京の空」。
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つい先ほどまで、富山の青空が映っていた眼には、やはり「ほんとの空」には見えませんでした。都民の皆さん、すみません(笑)。

会期は今月30日までです。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに今日は、北鎌倉に行って参ります。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃水沢より花巻温泉松雲閣別館にゆき、一泊、 ゆつくり入浴、


昭和26年(1951)1月16日の日記より 光太郎69歳

花巻温泉旧松雲閣別館、現存します。現在は使用されていないようですが、平成30年(2018)には国の登録有形文化財指定を受けました。下記は戦前の絵葉書です。
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現代アートのインスタレーションです。

あどけない空#2 The artless sky #2

期 日 : 2021年10月8日(金)~10月30日(土)
会 場 : CLEAR GALLERY TOKYO 東京都港区六本木7-18-8
時 間 : 12:00~18:00
料 金 : 無料
休 館 : 日曜日、月曜日

この度CLEAR GALLERY TOKYOでは、来田広大による「あどけない空 #2」展を開催いたします。

来田広大は、国内外各地でのフィールドワークをもとに、絵画やインスタレーション、野外ドローイングなどを展開し、身体的経験を通じた作品を制作・発表しています。来田は定着のしないチョークを主要な画材として使用し、手/指で描いていきます。描かれているモチーフは実際に訪れた風景であったり具象的なイメージでありながら、ためらいや、恐怖、興奮といった作家の感情の形跡を伴った躍動感のあるストロークが、遠い距離にあった鑑賞者の視点を、画面の近くまで引き寄せ、「来田の見ていた風景」を観ていたはずの意識を、描いている作家側へとフォーカスしてさせていきます。

本展は、高村光太郎の詩集「智恵子抄」の一節「あどけない話」に着想を得て福島の空を描いた「あどけない空」(2020)の連動した作品として、来田が2021年夏に屋上で東京の空をトレースしていくところを記録した映像作品と、平面作品を発表いたします。この機会にぜひご覧いただけましたら幸いです。

作者の言葉

本作は、高村光太郎の詩「あどけない話」(詩集「智恵子抄」に掲載)をもとに制作している。
精神病を患い闘病中であった智恵子が夫の光太郎に向かって、「東京には空がない」、「あたたら山の『ほんとの空』が見たい」と語ったという詩である。(智恵子は安達太良山がある福島県二本松市出身)

2020年の夏、私は智恵子のいう『ほんとの空』をこの目で確かめるために安達太良山に登り、そこで見た空や自身の登山の経験をもとに作品を制作した。(同年いわき市内のギャラリーにて発表)
そして、東京での開催となる本展では、東京の街でフィールドワークをおこない、東京の空と安達太良山の空を対比することを試みる。

私たちを取りまく環境において、場所との関わりや場所に対する記憶は曖昧で不確かなものであり、それは各々が持つアイデンティティにも起因する。移動や外出が制限され、人との距離や場所との関わりに変化が生じつつある現代において、『ほんとの空』とはどのような意味を持ち、何を表象しているのだろうか。

雲のように移り変わり、消え去っては立ち上がる風景の記憶の断片を、対象に直接触れるように画面上に重ねていく。
この詩を読む人がそれぞれの空を想像するように、それぞれが想いを馳せることのできる空が描ければと思う。 

来田広大
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来田氏、昨年12月から今年1月にかけ、いわき市のギャラリー昨明(caru)さんで、「来田広大個展「あどけない空」KITA Kodai Solo Exhibition “Candid Sky”」を開催されていたそうで、それに続くチャプター2、ということだそうです。いわきでの告知には「高村光太郎」「智恵子」「ほんとの空」といったワードが入っていませんでしたので、こちらの検索の網に引っかかりませんでした。
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昨日ご紹介した演劇「金魚鉢の夜」にしてもそうですが、若い方々が光太郎智恵子の世界観にインスパイアされている現状を喜ばしく存じます。

当方もうかがうつもりでおりますが、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝弘さん栗もち持参、雪ふかき由、明日花巻よりペニシリンを買つてきてくれる由につき2000円渡し。


昭和26年(1951)1月2日の日記より 光太郎69歳

「弘さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓団の青年。この頃になると、抗生物質も入手しやすくなっていたのですね。おそらく智恵子と同時期に結核に罹患したはずの光太郎も、元々身体頑健ということもあったでしょうが、医薬品類の普及で永らえた部分があったように思われます。

都内から演劇公演の情報です

小夜なら×表現集団蘭舞 あの夕暮れをもう一度

期 日 : 2021年10月8日(金)~10月10日(日)
会 場 : 北とぴあ ドームホール 東京都北区王子1丁目11−1
時 間 : 8日(金)18時30分~(公開ゲネ) 9日(土)12時~ 15時30分~ 18時30分~
      10日(日)13時~ 17時~
料 金 : 通常チケット 3,500円 ゲネプロ見学チケット 3,500円 
      特別チケット4,000円(キャストからのメッセージ付き)
      動画配信チケット3,000円

演出・脚本 
仲野 識(小夜なら)ダーハナ(表現集団蘭舞)

今回は〈夕暮れ〉をテーマに、4作品のオムニバス朗読劇を上演します!
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金魚鉢の夜
あなたを愛した、それが私の罪ならば、私、罪だってきっと受け入れるわ。
時は大正。一人の女詩人が、夫になるはずだった男を亡くした。彼女は仲の良かった女性教師に話をする。その後、女は何故か子供を遺し自殺してしまった。そして、時は現代。詩人の九条穂波は、祖母の遺品の中から金魚鉢と日記を見つけた。穂波は長らく会っていなかった、親友の間嶋夕里江と再会する。過一夕、高村光太郎の詩と共に4人の女が金魚鉢の謎に沈んでいく。
片山 小夜子:橋本 佳奈子 会津 しづか:杉宮 加奈 九条 穂波:沖村 彩花
間嶋 夕里江:清水 こまき 語り:伊冬 ともこ
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途上
舞台は大正時代の東京。十二月も押し詰まったある日の夕暮れのこと。サラリーマンの湯河勝太郎は金杉橋の電車通りを新橋の方へ散歩していた。湯河が振り向くと、そこには面識の無い立派な風采の紳士が立っていて― 近代日本の探偵小説として完全犯罪を描いた谷崎潤一郎小説を朗読化。
湯河 勝太郎:森山 幸央 安藤 一郎:木下 章嗣 語り:上野山 航
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優等生と不良は交わらない
優等生の如月真奈、不良の神田千草。平日の昼間。学校をさぼった二人の女子高生が、心を交流させる。いつも遠くから眺めているだけだった。
如月 真奈:柊 みさ都 神田 千草:ハラグチ リサ
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オレンジ色のふたり
翌日に結婚式を控えた一条陸と美弥。しかし数日前から美弥は妹の元に家出中。陸は一人、夕焼け空を眺めていた。特別なような日常のようなそんな結婚式前夜の夕暮れ時。
泰野 碧:水星 七星 一条 陸:寺島 八雲 平井 七海:角掛 みなみ 一条 美弥:佐藤 茜

うかがいたいところですが、その前後、富山県水墨美術館さんの「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」開会式、さらに帰ってきてからすぐ鎌倉他に行かねばならず、うかがえません。

皆様は、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后学校よりスキーにて富澤先生郵便物持参、スキーでなくては歩けさうもなし、婦人之友正月号など届く。


昭和26年(1951)1月1日の日記より 光太郎69歳

前年、前々年の日記は、その大半が失われていますが、この年以降、亡くなる昭和31年(1956)までの日記は、ほぼ全て残っています。

婦人之友正月号」には、光太郎のエッセイ「山の雪」が掲載されました。

ちなみにこの年は、前年に勃発した朝鮮戦争が継続中、9月にはサンフランシスコ講和条約と日米安保条約がセットで締結されるなどした年でした。

一昨日は、都内文京区千駄木の、旧安田楠雄邸にて開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、講師を務めさせていただきました。

午後1時からと4時からの2回公演でしたが、その合間等に、会場周辺をぶらぶら散歩。ご来場いただいた方々に、この地が光太郎智恵子、そして光雲らのゆかりの地であることから、当方作成の「光太郎智恵子光雲関連マップ」をお配りしました。ところが、自分自身、ゆかりのスポットとして挙げておきながらそこに行ったことがないという場所もありまして、時間もあったので歩いた次第です。

こちらがマップの「千駄木版」。地図上の番号は、だいたいの位置です。
千駄木マップ
まず、午後1時の部の始まる前、会場の旧安田邸から100㍍程の、光太郎アトリエ跡に。「光太郎先生、智恵子さん、これからお二人のお話をさせていただきますよ」という意味で。
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現在は一般の方の住宅となっており、当時を偲ぶよすがは文京区教育委員会さんの設置したこの案内板しかありませんが。

ここに昭和20年(1945)の空襲で焼失するまで、これが建っていたわけです。
アトリエ
その後、午後1時の部終了後、須藤公園へ。この周辺は光太郎詩「落葉を浴びて立つ」(大正11年=1922)の舞台とされています。光太郎が詩に謳った頃には、まだ公園として整備されていませんでした。
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道すがら、戦災に遭わなかったと見られる建造物がいろいろありまして、古建築好きの当方、テンションが上がりました(笑)。
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この一角、元々お屋敷町でしたので、さもありなん、です。

それにしても、旧安田邸や、隣接する光太郎実家(旧髙村光雲邸)もそうですが、空襲の被害を免れた家もあれば、光太郎アトリエや、団子坂の観潮楼(森鷗外邸)のように、焼失してしまったところもあり、紙一重の差だったんだなぁと思いました。

歴史に「たられば」は禁物ですが、もし光太郎アトリエも燃えずに残っていたら、光太郎もわざわざ花巻まで疎開することもなかったでしょうし、その後の光太郎の人生も大きく変わったように思われます。

ちなみにマップは裏表両面印刷になっておりまして、もう片面には「広域版」ということで、千駄木を中心に半径3㌔㍍ほどの広域バージョンも作りました。ご参考までに。
広域マップ
これ以上広げて、浅草や日本橋、神田方面等まで入れますと、さらにゆかりの場所が倍増して、説明を書ききれませんので、この範囲でやめておきました。

さて、昨日、愛車に積んで置いた機材やら展示した資料やらの荷物を下ろしたところ、紙包みが。安田邸スタッフの方に「聴きにいらした方から差し入れだそうです」と渡されたものでした。開けてみると……
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どなたか存じませんが、ありがとうございました。この場をお借りして(自分のサイトですが(笑))御礼申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

学校までの往復の雪みちもかたまりて歩きよくなれり。 兎や狐の足あと此頃ふえる。


昭和24年(1949)1月21日の日記より 光太郎67歳

この年の日記は、翌日以降、翌年12月30日までの、約2年間分の現存が確認できていません。そのため、昭和24年(1949)、25年(1950)と、光太郎の細かな行動で不明の部分が多くあり、残念です。

光太郎自身が処分したとも考えにくく、誰かが持ち出してしまったのかという気もします。どこかにひっそりと残っていないものでしょうか。

昨日は、都内文京区千駄木の、旧安田楠雄邸にて開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、講師を務めさせていただきました。
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会場の旧安田楠雄邸は、大正8年(1919)の竣工。光太郎の実家・旧髙村光雲邸はすぐ隣ですし、光太郎智恵子が暮らしたアトリエとも100㍍ほどしか離れていません。当然、光太郎智恵子もこの前を通っていたところです。
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古建築好きの当方には、たまりません(笑)。

髙村家の御厚意で、智恵子紙絵の細密複製をお借りすることができ、一階に展示されていました。
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イベント会場は二階。開場前の様子。
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自宅兼事務所から、7冊ばかり関連書籍を持参して展示しました。
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左から、詩集『道程』初版(大正3年=1914)。雑誌『青鞜』第二巻第六号( 明治45年=1912)、前年の創刊号と同じ智恵子による表紙絵が使われ、智恵子唯一の寄稿「マグダに就て」が掲載されています。それから詩集『智恵子抄』初版(昭和16年=1941)、今年はこちらの発刊80周年ということで、今回のイベントに繋がりました。さらに詩集『智恵子抄』限定特装版(昭和27年=1952)、「乙女の像」制作のため光太郎が帰京した記念出版で、表紙は羊皮、170部しか出回らなかったものです。そして、詩集『智恵子抄』戦後新版第一刷(昭和26年=1951)、詩集『智恵子抄』皇太子殿下(現・上皇陛下)ご成婚記念紅白版、詩文集『智恵子抄その後』初版(昭和25年=1950)。

最終リハーサル時。
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このように、上手(かみて)に北原さんが立たれて朗読、当方はスクリーンを挟んで下手(しもて)に陣取り、パワーポイントのスライドショーを操作しながら補足説明。全体で1時間半あまりと、尺も充分でした。

午後1時からと4時からの2回公演でしたが、おかげさまで2回とも満席。当方も事前にお近くにお住まいの方などへチラシをお送りしたところ、旧知の方々数人がいらして下さいました。ありがたし。

当方、各種講座や講演等、やれと云われれば全国どちらでも参上しますが、やはりこの地で出来たというのは感慨深いものがありました。また、北原さんの朗読が素晴らしく、ご一緒させていただき光栄でした。

コロナ禍も終息しつつあり、まだまだ油断は禁物ですが、この手のイベントがまた広く行われるよう、願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

確定申告書を花巻税務署に標準申告書を太田村役場宛に発送す。確定額による第三期税を払込む。去年とは大した相違にて少額也。税率も小さくなつてゐるやう也。

昭和24年(1949)1月20日の日記より 光太郎67歳

終戦に伴うハイパーインフレの余波がまだ残っていたようで、経済的な混乱は山奥での蟄居生活にも影響があったようです。

9月18日(土)は、9月26日(日)に開催予定で、当方が講師を務めさせていただく「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」の打ち合わせで、文京区千駄木の旧安田楠雄邸庭園に行って参りましたが、その前に都内2つの美術館さんをハシゴしました。

まず訪れた、小平市
平櫛田中彫刻美術館さんを後に、続いて向かったのは、新宿中村屋サロン美術館さん。こちらでは企画展「自身への眼差し 自画像展 Self-Portrait」が開催中です。
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光太郎のそれを含む、約40点の自画像が、おおむね時代順に展示されています。順路に従って、年代別に拝見。

まずは「第1章 明治初期の画家たち -再現描写の追及-」。それまで「自画像」という概念がほぼ無かった日本の画家達が、西洋絵画の本格的流入と共に取り組んだ、鹿子木孟郎ら、草創期の作品群です。したがって、極めて写実的、アカデミックな作風から始まり、徐々に白馬会系などが、印象派風の技法を取り入れる、といった流れです。
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続いて、「第2章 明治中期・後期の画家たち -自己の内面の表現-」。ここに光太郎の自画像(大正2年=1913)も含まれます。単なる外形描写にとどまらず、自己の内面を掘りさげる、という方向に。技法的にはポスト印象派の影響も色濃く見られるようになります。光太郎の自画像も、明らかにフォービズム系です。

そして、この第2章では、岸田劉生、斎藤与里、藤田嗣治ら、光太郎と交流の深かった面々の作が並び、興味深く拝見しました。テレ東さんの「新美の巨人たち」で、よくそういう描写がありますが、閉館後の館内で、絵から抜け出した彼らが、昔話に花を咲かせていそうな気がします(笑)。

最後が「第3章 大正・昭和の画家たち -公と個の間、関係性の中の自己認識-」。ここまで来ると、かなり現代風だな、という感じです。

図録が販売されていましたが、購入せずに帰りました。光太郎の自画像は掲載されていませんでしたので。元々この展覧会、日動美術財団さんの所蔵品を中心としたもので、図録も同財団発行。それに対し、光太郎の自画像は中村屋さんの所蔵で、そのあたりの大人の事情があるのではないかと思われます。

コロナ禍ということもあるのでしょうか、ギャラリートーク的なことは行われず、オンラインでの紹介となっています。先述の3章での章立てにしたがい、現在は「第1章 明治初期の画家たち -再現描写の追及-」。今後、2章と3章についてもアップされる予定です。


同展、12月5日(日)まで。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

十一時半学校行。雪ふかくつもり、長靴を没す。炭俵の曲木(丸型)にてカンジキを作りたれど、途中で靴が外れたり。


昭和24年(1949)1月6日の日記より 光太郎67歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、この時期が最も雪深い時期です。

9月18日(土)は、9月26日(日)に開催予定で、当方が講師を務めさせていただく「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」の打ち合わせで、文京区千駄木の旧安田楠雄邸庭園に行って参りましたが、その前に都内2つの美術館さんをハシゴしました。

後ほど詳しく御紹介しますが、10月8日(金)から富山県水墨美術館さんで開催される企画展「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に協力させていただいておりまして、そのポスターやチラシを置いていただこうと、まぁ、いわば営業。それから、2館で開催中の企画展を拝見するのも目的でした。

まず、小平市の平櫛田中彫刻美術館さん。
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こちらでは、光太郎の父・光雲の孫弟子にして、JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」、同じく安達駅前の「今ここから」の作者、故・橋本堅太郎氏の作品を集めた「橋本堅太郎展-無分別」が開催中です。

2体の智恵子像は、橋本市のお父さまで、やはり彫刻家だった橋本高昇が二本松出身という縁もあって制作されました。そして「今ここから」の方は、橋本市の遺作となった作品です。
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残念ながら、今回、2体の智恵子像に関する展示はありませんでした(石膏原型か習作でも出ていれば、と思ったのですが)。ただ、氏の得意とした数々の女性像が並び、2体の智恵子像と相通じるテイストを感じました。
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橋本作品は一部を除き、撮影可でした。

左下は代表作「竹園生」の雛形。星取の赤い点が残っています。右下は「まとう」と題された作品。
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続いて「希№2」(左下)、「無題」(右下)。
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地下展示室では、「つたえあい」(左下)、「Largo」(右下)。
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「渓流」(左下)、ステンレスを使った「風をきく」(右下)。
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「流木 その四」(左下)、そしてこれも代表作「清冽」(右下)。
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「日ざしを追う」。
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きれいなだけの作ではなく、時に、荒々しい彫り跡が残っていたりもします。しかし、それが却って生命感を醸すのに役立っているようにも見えました。そして、人体構造を熟知した上で、さらに確かなデッサン。止まっているポーズでも躍動感を感じられるところは、ロダンなどの影響も見て取れるような気がします。

光太郎とも親しかった平櫛田中に師事した橋本氏、もちろん、氏なりの個性も持ちつつ、系譜的にはやはり相通じるものがあるのかな、と思いました。

その田中の作品群も久々に拝見し、眼福の思いでした。

それにしても、コロナ禍ということもあり、きちんとした彫刻をまとめて観たのは、実に久しぶりでした。まだ油断は禁物ですが、ぼちぼちコロナ禍も収束・終息に向かいつつあるようで、以前のように気軽に展覧会を堪能できる日も遠くないのかな、という気がし、喜ばしく思います。

今回の企画展としての図録は発行されていませんでした。代わりに、橋本氏の作品写真集の豪華本が販売されていました。見本を手にとってめくると、平成23年(2011)の出版で、当然、遺作の「今ここから」は載っていません。「ほんとの空」も見あたりませんでした。

ところが、別の作品を発見し、びっくり仰天。当方、何度か実物を目にしていたのに、それが橋本氏の作品と知らなかった(アホですね(笑))彫刻がありました。

こちらです。
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光太郎と縁の深い、宮沢賢治の像。花巻農業高校さんの敷地内に移転されて建っている、羅須地人協会(賢治の旧居)の前に設置されています。平成18年(2006)の作ということでした。橋本氏が亡くなった時の報道に「宮沢賢治像」の語があったのですが、これだとは思いませんでした。

さて、「橋本堅太郎展-無分別」、11月23日(火・祝)までの予定です。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ボールペンで書いてみる。スルスルすべるやうな感じなれど、面白味なし。インキが油のやうなり。

昭和24年(1949)1月4日の日記より 光太郎67歳

ボールペン、意外と歴史は新しいのですね。調べてみたところ、昭和18年(1943)、ハンガリーで発明され、日本には戦後になって入ってきたようです。

光太郎のボールペン、この日、交流のあった編集者から届いた小包に入っていたものです。おそらく、初めて手にしたのでしょう。

昨日は、久々に都内に出ておりました。9月26日(日)に開催予定で、当方が講師を務めさせていただく「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」の打ち合わせというか、リハーサルというか、ゲネプロというか、そのためです。
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会場は、文京区千駄木の旧安田楠雄邸。光太郎実家の旧髙村光雲邸の隣です。光太郎一家は明治25年(1892)に一家で谷中からこの地に移ってきました。明治45年(1912)竣工の光太郎アトリエ(昭和20年=1945、空襲で焼失)も、指呼の距離でした。
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都心とは思えない、緑溢れる、いわば異空間です。
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こちらの2階2部屋をぶち抜きにして会場とし、朗読の北原久仁香さん、補足説明の当方で、「智恵子抄」の世界を御紹介します。
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スクリーンにパワーポイントのスライドショーを投影しつつ、進めます。スライドショーはステイホーム期間が長く、暇だったので(笑)、気合いを入れて作りました。おかげで、「パワーポイントにこんな機能があったんだ」というのにいくつも気がつきました(笑)。

以前にも書きましたが、朗読の北原久仁香さんは、「語りと和楽の芸人衆 かたりと」の一員として、また、ピンでも、精力的に活動されている方で、YouTubeに「智恵子抄」12篇の朗読、当方執筆の「聴く読書 乙女の像ものがたり」8篇をアップされたりなさっています。オンラインもいいのですが、やはり肉声で聴くのはまったく違いますね。

隣接する髙村家のご当主にして、光太郎実弟・髙村豊周令孫の写真家・髙村達氏のご厚意で、智恵子紙絵の細密複製の展示、当方手持ちの各種『智恵子抄』や雑誌『青鞜』などの展示も行いますし、当日いらして下さった方には、さまざまな「お土産」も用意してあります。

13:00からと、16:00から、2回公演です。おかげさまで13:00の会はほぼ満席となりましたが、16:00からのほうはまだ空席があるそうです。最上部、チラシ画像に申込先等印刷されています。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

松の枝を入り口にうちつける。門松のしるし。


昭和23年(1948)12月31日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋ですので、松の枝はその辺から拾ってきたか、折ってきたか、そんなところでしょう。

都内から映画上映会の情報です。

第 43 期江東シネマプラザ「智恵子抄」

期 日 : 2021年9月25日(土)
会 場 : 古石場文化センター 東京都江東区古石場2丁目13−2
時 間 : 午前の部 11時開演  午後の部15時開演
料 金 : 500円

名監督・小津安二郎は深川で生まれ、深川の風景を愛しました。古石場文化センターでは小津監督作品の上映機会や紹介展示コーナーを設けています。「江東シネマプラザ」は名画を楽しむ会員制の上映会です。
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智恵子抄

詩人・彫刻家の高村光太郎が愛妻 智恵子を偲んでうたった詩集『智恵子抄』の映画化。夫を深く敬愛しながら、芸術の才能の限界や身内の度重なる不幸により傷つき、智恵子は精神を病み、衰弱していく。主演の原節子が小津監督作品とは異なった表情を魅せる。

監督 / 熊谷久虎 出演 / 山村聡、原節子 1957 年/ 97 分/モノクロ

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基本、年間会員を募り、月1回、名画系の上映会を行っている一貫での実施です。したがって、年間会員が優先で、1回のみの鑑賞も受け付けているとのこと。また、空席がある場合、当日受付も可だそうです。

光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に封切られた、原節子さん主演の「智恵子抄」。コロナ禍前は、何だかんだで、年に1,2回、全国のどこかしらで上映があった感じですが、久しぶりだな、という気がします。

ところで、当会で年2回発行している冊子、『光太郎資料』。「光太郎回想・訪問記」という項を設け、生前の光太郎と交流のあった人々の回想などのうち、光太郎関連の書籍にまとめられていないものを載せています。10月発行予定の第56集では、「座談会 三人の智恵子」。光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、「智恵子抄」二次創作が相次いで行われ、その関係者による座談会です。昭和32年(1957)6月1日『婦人公論』第42巻第6号に掲載されました。
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司会は武智鉄二。新作能「智恵子抄」の演出を手掛けました。「三人の智恵子」は、初代水谷八重子さん、原さん、そして新珠三千代さん。それぞれ、新派の舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた方々です。

その中の一節、原さんの発言から。

私は自分の力を知ってますから、自分でしたいとは思わなかったんです。ですから、五年ほど前会社で企画が出たとき、私は自信がないからとお断りしたんです。じゃ五年後の今は自信が出たのかというと、そういうわけじゃないのですが、ただ美しい映画が出来ればいいと思って、ですから私じゃなくてもいいと思うけれど、たまたまそういうお話になって……。今度は私が一番まずいんです、ハイ。ですけれども光太郎さんをやられる山村さんという方が、雰囲気をもっていらっしゃる方ですし、それに映画は、一人まずくても大分まわりでカバーしてくれますから。(笑)

「山村さん」は、光太郎役の山村聰さん。戦時中にはラジオで光太郎の翼賛詩朗読にあたったりもされました。

原さん、だいぶ謙遜されていますが、それなりに見応えのある作品です。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前十時過学校行。山口小学校開校式落成式。盛大。余もお祝のことばをよむ。

昭和23年(1948)12月3日の日記より 光太郎66歳

昨日に引き続き、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校関係。分教場から小学校に昇格し、新校舎の落成式と開校式がセットで行われ、光太郎も招かれました。

「お祝のことば」。詩として『高村光太郎全集』第3巻に収録されています。全集刊行時点では、光太郎生前に活字になった記録がなかったのですが、地方紙『花巻新報』の、山口小学校落成式を報じた記事に掲載れていたのを確認しました。
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光太郎智恵子がその人生の永い時間を過ごした東京文京区から、写真コンクールの情報です。

第59回文京区観光写真コンクール

文京区内の観光スポットや催しで賑わう様子、今も残る昔の情景、花の五大まつりの賑わいなど、見た人が足を運びたくなるような観光写真を募集します。

主催:文京区観光協会   共催:文京区

募集期間  2021年8月1日(日曜日)~9月30日(木曜日)※当日必着

各賞一覧
 推薦(1点) 文京区観光協会会長賞 賞状・賞金2万・賞品
 特選(1点) 文京区長賞 賞状・賞金1万・賞品
 審査員特別賞(若干点) 賞状・賞金5千円・賞品
 準特選(10点) 文京区議会議長賞、文京区教育委員会賞ほか 賞状・賞金・賞品
 入選(10点)  賞状・賞品
 佳作(10点)  賞状・賞品
 ジュニア賞(4点)  賞状・賞品 ・図書カード

審査結果
 11月下旬までに応募者全員に発送します。表彰式は12月12日(日曜日)に行います。
 入賞作品は写真展に展示されます 。

応募規定
 カラープリント四切り(ワイド四切り・サービス判四切りを含む)、またはA4サイズ 。
 小・中学生対象のジュニア賞に限り2Lサイズ(127mm×178mm)可 。
 デジタル写真可。ただし、画像修正・加工は不可。
 色調補正(色調、コントラスト、明度調整など)は審査対象外となる場合があります。
 銀塩印画紙にプリントしたもの。インクジェットプリントでの応募も可。
 2019年4月以降に文京区内を撮影した作品。 
   ※規定にあてはまらない作品は審査対象外となります。

応募細則
 応募はアマチュアに限ります。
 応募作品はお一人につき5点までとし(複数の部門で応募の場合も合計で5点まで)、
 応募者本人が撮影した未発表のものに限ります。 
 不正な二重応募と主催者が判断した場合には入賞等を取消すことがあります。
 個人を特定できる写真で応募する場合、その肖像権について、
  必ず応募者が本人に許可を得てください。
 万一、第三者と紛争が生じた際は、応募者自身の責任と費用負担によって
  解決していただきます。
 立ち入り禁止区域からの撮影や無許可での私有地からの撮影など、
  モラルに著しく反した場合、第三者に不利益を与える場合は審査対象外となります。
 新規で写真撮影する際には、三密を避ける・ソーシャルディスタンスの確保等、
  新型コロナウイルス感染症対策を行ったうえでの撮影をお願いします。
 
応募方法
 所定の応募票(コピー可)を作品ごとに貼付のうえ、
文京区観光協会へ持参または郵送してください。

応募票 
 PDF ファイルをプリントアウトしてご利用ください

応募先
 〒112-0003 東京都文京区春日1-16-21 文京シビックセンター1階 文京区観光協会 

お問い合わせ先 
 文京区観光協会 電話番号:03-3811-3321
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第59回ということで、伝統あるコンテストですね。昨年まで、このブログでは御紹介していませんでしたが、存じ上げませんでした。今年になって気がつきましたのは、審査委員長が髙村達氏だということで、検索の網に引っかかったためです。これまでも委員長をなさっていたかもしれませんが、今年、初めて気づきました。
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達氏、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ、光太郎実弟にして、鋳金分野の人間国宝・髙村豊周の令孫に当たられます。したがって、光太郎の父・光雲の令曾孫。

お父さまの故・髙村規氏も写真家で、高村光太郎記念会理事長を務められ、光雲、光太郎、豊周、そして智恵子の作品を高精細の写真データで遺されました。

文京区内、いわゆる「映(ば)える」スポットも少なからず存在するでしょうし、そうでなくとも、ありきたりの風景の中にも美が見いだせるはずですね。光太郎も「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」 昭和4年=1929)と云っています。だからといって瓦礫の写真で応募しろ、という訳ではありませんが(笑)。

腕に覚えのある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夕方山口小学校の門標をかく。


昭和23年(1948)12月2日の日記より 光太郎66歳

「山口小学校」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近く(といっても1㌔近くありましたが)にあった小学校です。
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この年4月、分教場から小学校に昇格し、新しい校舎も完成。その落成式が翌日と云うことで、門標の揮毫を頼まれていました。
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こちらは翌年行われた学芸会の日に撮影された写真ですが、サンタ姿で乱入した(笑)光太郎の右側に、門標が写っています。いい字ですね。

現物は、当方、拝見したことがありません。現存するのでしょうか。

以前にもちらっと御紹介しましたが、光雲の孫弟子にして、JR東北本線二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」、同じく安達駅前の「今ここから」の作者、故・橋本堅太郎氏の作品を集めた展覧会が開催されます。

橋本堅太郎展-無分別

期 日 : 2021年9月17日(金)~11月23日(火・祝)
会 場 : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時 間 : 10:00~16:00
休 館 : 毎週火曜日
料 金 : 一般300円(220円)・小中学生150円(110円)
       ※( )20名以上団体料金

東京藝術大学で平櫛田中に彫刻を学び、2021年1月31日に他界した橋本堅太郎(文化功労者)は、戦後ながく具象彫刻の第一人者として活躍しました。本展では、数多くの温和で美しい女性像を創り出した橋本堅太郎の彫刻世界を紹介します。
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代表作の一つ「竹園生」の画像が案内に使われています。

できれば来週末には拝見に伺う予定でおります。コロナ感染にはお気を付けつつ、皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝、岡崎市の石屋さんといふ鈴木政夫といふ人来訪。バタ、サツマイモ等もらふ。愛読者。石彫希望の由。


昭和23年(1948)11月24日の日記より 光太郎66歳

鈴木政夫(大正5=1916~平14=2002)は、のち、木内克に学び、石彫の彫刻家となります。太平洋戦争に出征、復員後、家業の石材店を手伝ったりしていたのですが、彫刻への思い断ちがたく、敬愛していた光太郎を岩手の山中に訪ねました。30歳を過ぎて、彫刻家として立っていけるかどうか、専門の教育も受けて居らず、家族も反対している中、光太郎に相談に来たのです。

ちなみに鈴木の兄・基弘は、東京美術学校で学んだ彫刻家でしたが、鈴木は兄のアカデミックな作風を嫌っていました。

鈴木の著書『高村光太郎先生訪問始末記』(平成2年=1990 私刊)より。

「私はこのままでは駄目になってしまいます。先生、彫刻とは一体何なのでしょうか。彫刻とは人生にとって何なのでしょうか。今の私には基礎となるものを持っていません。でも私の兄のような彫刻が、どうしても本当の彫刻とは思われません。すでに私は三十歳半ばの年齢です。今から彫刻などして、果たしてものになるでしょうか。仕事には年齢のタイミングというものがあると聞いています。しかし、石が叩けるということ。身体がなんとか丈夫である、ということ。そして彫刻がしたいという情熱、この三つだけは持っているつもりです」
 先生はじっと私の話を聞き終わり、しばらくお考えになっていた。
「君は何を言っている。何を心配しているのかね。明治から今日まで、日本の彫刻家で、石の自由に叩けた彫刻家がいたというのかね。それに彫刻の仕事だけは身体が丈夫でなくては駄目だ。あのミケランジェロを見たまえ。それに君は何よりも彫刻を作りたいという情熱に燃えているではないか。こんなにまで三拍子揃った財産を、すでに君は持っているではないか。それだけで、君はもう立派に彫刻家となれる資格を持っているのだよ。あせることはない。遅いということはそれだけ大きくなるということなのだ。ゆっくり、ゆっくりやりたまえ」
 私はみるみるうちに目頭が熱くなり、一筋二筋と涙が頬に伝わった。やがてとめどもなく流れてきた。今までの思いつめていた力が一度に抜けた。思えば長い長い道のりであった。これだけの言葉を聞きたいばかりに、なんと私は大きな犠牲を青春に支払ったことか。しかし今まさにその支払いも、私にとって決して無駄使いではなかったことが、こうして先生に証明していただけた。

ただし、光太郎、太田村で光太郎の元、修業をしたいという鈴木の申し出は断っています。

開催期日が迫ってきたので、さて、紹介しよう、とすると、実は申込期限が過ぎていたということが往々にしてあります。これからは開催期日ではなく申込期日でメモしておこうと思いました。

で、今回もそのケースですが、とりあえず。まだキャパに余裕があるかもしれませんし……。

9月田端ひととき講座 平塚らいてう没後50年~青鞜から新婦人協会までの軌跡~

期 日 : 2021年9月19日(日)
会 場 : 田端文士村記念館ホール 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 午後1時開演(0時30分開場)
料 金 : 無料(事前申し込み)

田端で新婦人協会を創設するなど、女性解放運動の先駆けとなった平塚らいてう。本年はらいてう没後50年の節目を迎えたことから、らいてうが田端で過ごした時代を中心に、戦前までの活動について、同館研究員が講義をおこなう。講座参加者たちは、女性の社会参加や社会的地位の向上を目指して尽力した、らいてうの軌跡を知ることができる。

明治時代、産業革命とともに女性の社会進出が進んだ一方、その地位は一向に低いままであった。平塚らいてうは女性解放運動が活発になり始めた明治末期に、女性による女性のための文芸雑誌『青鞜』を創刊し、女性が抑圧されて輝けない状況をなげき、「元始女性は太陽であった」と女性の本来あるべき姿を訴えた。

1918年(大正7年)、平塚らいてうは田端へ転入し、自宅を事務所として市川房枝らと新婦人協会を創設。彼女たちは田端を拠点に婦人運動に尽力し、女性の政治活動を禁じていた「治安警察法第5条」の一部改正を実現させ、女性の政治活動の自由を獲得するという偉業を成し遂げた。同協会は女性の政治的権利獲得に成功した戦前唯一の団体であり、その活動の拠点となった田端は、女性運動の聖地と言える。らいてうの田端時代は、朝も昼も夜もなく働き、家庭を顧みられない生活と自身で語るほど、人生で最も忙しい日々となった。

本年は、日本の女性運動の草分け的存在である平塚らいてうの没後50年の節目となる。本講座では、青鞜から新婦人協会時代までを中心とした軌跡を辿り、その活動を同館研究員が紹介する。参加者たちは、女性の社会参加や社会的地位の向上を目指して尽力したらいてうの若き日の活躍を知るとともに、その信条に思いを馳せることができる。

また、同館常設展示スペースでは「平塚らいてう没後50年特別展 ~らいてうの軌跡~」が開催中。らいてうが田端で過ごした時代を中心に、女性たちの力で創刊した文芸雑誌『青鞜』から、女性運動を展開した新婦人協会までの軌跡を辿り、らいてうの家庭生活を交えながら紹介している。9月19日(日曜日)まで。
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明治末、日本女子大学校における智恵子の1年先輩にしてテニス仲間でもあった平塚らいてう。卒業後、雑誌『青鞜』を立ち上げ、その創刊号の表紙絵を智恵子に依頼しました。

そのらいてうの軌跡を追う講座ということで、おそらく智恵子にも言及されるのではないかと存じます。

また、解説にあるように、ミニ展示では「平塚らいてう没後50年特別展~らいてうの軌跡~」、メイン展示が「心豊かな田端の芸術家たち」。

先述の通り、申込期限が過ぎてしまっていますが、ご希望の方、とりあえずフライヤー画像一番下の問い合わせ先までご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后八森氏の義父君地主久太郎氏来訪。ヰスキー2本等もらふ。標札2枚を書き進ぜる。「道程」署名。


昭和23年(1948)11月4日の日記より 光太郎66歳

「八森氏」は八森虎太郎。北海道在住だった詩人・編集者です。その義父という「地主久太郎」なる人物については詳細不明ですが、翌日に書かれた八森宛の葉書には、八森から頼まれて、ウイスキー等を届けに来てくれたとのこと。八森が元々花巻出身なので、地主も花巻在住だったかもしれません。

「標札」は「表札」でしょうか。もしかすると、現在もどこかに現存しているか、あるいは現役で使われているかもしれませんね。「道程」はおそらく前年に札幌青磁社から刊行された復元版と思われます。

若干先の話ですし、手前味噌で恐縮なのですが、当方が出演するイベントの告知を。

語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄

期 日 : 2021年9月26日(日)
会 場 : 旧安田楠雄邸庭園 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 1回目:13時~(開場12時30分)2回目:16時~(開場15時30分)
      ※上演は1時間40分程度です。
料 金 : 一般3000円、中高生1700円

高村光太郎、智恵子が芸術とともに暮らした地で、詩を語り、作品や二人のエピソード等をお話します。智恵子の命日レモン忌(10月5日)を前に、高村家のお隣、旧安田邸でお楽しみください。

【出演】
 語り 北原久仁香(語りと和楽の芸人衆 かたりと)
 講話 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
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というわけで、朗読と講話(解説)で綴る「智恵子抄」です。

朗読は北原久仁香さん。「語りと和楽の芸人衆 かたりと」の一員として、また、ピンでも、精力的に活動されている素敵な方です。昨年は「智恵子抄」12篇の朗読をYouTubeにアップされ、今年は「聴く読書 乙女の像ものがたり」8篇を、やはりYouTubeに。こちらは平成27年(2015)、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんが刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』に載せていただいた、当方執筆のジュブナイルです。なぜかいたく気に入っていただいて、「朗読して公開したい」とのことでした。

当日は、発刊80周年を迎えた龍星閣版『智恵子抄』(昭和16年=1941)から、詩15篇と短歌の朗読をしていただきます。従って、戦後の詩篇は入りません。

合間に当方のべしゃくりが入ります。光太郎智恵子の生涯をダイジェストで、パワーポイントのスライドショーを上映しつつ、です。

会場の旧安田楠雄邸庭園さんは、大正8年(1919)の建築で、関東大震災後、旧安田財閥の安田善四郎が買い取り、平成7年(1995)まで安田家の所有でした。現在は公益財団法人日本ナショナルトラストさんによって管理されており、一般公開や各種イベントなどに活用されています。

光太郎の実家である旧髙村光雲・豊周邸に隣接しています。旧住居表記では本郷区駒込林町155番地。光太郎の父・光雲が終の棲家とし、家督相続を放棄した光太郎に代わって、鋳金の人間国宝となった実弟の豊周が受け継ぎました。その後、豊周子息の写真家だった故・規氏に引き継がれ、そして今は豊周令孫でやはり写真家の達氏がお住まいです。明治44年(1911)暮れ、光太郎と智恵子が初めて出会ったのも、ここでした。ただ、こちらは改築されています。

そんなわけで、安田邸を会場に、平成21年(2009)に規氏の写真展「となりの髙村さん展」、平成29年(2017)で「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」、そして翌平成30年(2018)には「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」が開催されるなどしています。

また、光太郎智恵子が永らく暮らしたアトリエ跡も指呼の距離。当方、各種講座や講演等、やれと云われれば全国どちらでも参上しますが、やはりこの地で出来るというのは感慨深いものがありますね。

13時からと16時からの2回公演で、現在、13時からの方はかなり埋まっているようですが、16時からの方はまだまだ余裕があるとのことでした。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方瀧清水へ散歩。  昭和23年(1948)10月10日の日記より 光太郎66歳

「瀧清水」は、「瀧清水神社」。現在の花巻市桜町、光太郎が花巻町に出て来た際によく宿泊していた佐藤隆房花巻病院長宅の近くにある小さな神社です。

前日に光雲や智恵子の法要を花巻町中心街の松庵寺さんで営んでもらうため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から出て来ていました。

新宿中村屋サロン美術館さんでの企画展示です。

自身への眼差し 自画像展 Self-Portrait

期 日 : 2021年9月15日(水)~12月5日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 東京都新宿区新宿3丁目26番13号 新宿中村屋ビル3階
時 間 : 10:30~18:00
料 金 : 300円 ※高校生以下無料 障がい者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料
休 館 : 毎週火曜日 11/23は祝日のため開館し、翌24日を振替え休館

「自画像」は、画家が自分自身の肖像を描いたものです。伝統である日本画にはもともと「自画像」というテーマはありませんでした。自分を描くという明確な意図をもって描かれ始めるのは、幕末以降になります。明治に入ると美術学校の誕生によって西洋式の人体デッサンを学べるようになり、次第に画家たちが自己の内面を追求し、表現する手段として自画像が多く描かれるようになりました。

本展では、明治から昭和にかけて活躍した画家たちの自画像約40点を一堂に会します。それらを「明治初期の画家たち-再現描写の追及-」、「明治中期・後期の画家たち-自己の内面の表現-」、「大正・昭和の画家たち-公と個の間、関係性の中の自己認識-」と、時代ごとに3つの章に分け、画家と「自画像」の関係性が時代とともにどのように変容していったのかを追及していきます。

主な出品作家
鹿子木孟郎 満谷国四郎 南薫造 辻永 斎藤与里 高村光太郎 中村彝 萬鉄五郎 安井曾太郎 
岸田劉生 木村荘八 北川民次 長谷部英一 佐伯祐三 宮本三郎 古沢岩美 木村忠太 鴨居玲
深澤孝哉 渡辺榮一 パブロ・ピカソ レオナール・フジタ モイーズ・キスリング 他

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関連イベント
明治から昭和にかけて活躍した画家たちの自画像約40点を、時代ごとに3つのセクションに分け、画家と「自画像」の関係性が時代とともにどのように変容していったのかを、当館学芸員 太田美喜子が解説致します。当館ホームページよりアクセスし、ぜひご覧下さい。

<動画配信>
第1章 明治初期の画家たち -再現描写の追及- 
 配信日時:2021.9/18(土) AM10:30~
第2章 明治中期・後期の画家たち -自己の内面の表現-
 配信日時:2021.10/9(土) AM10:30~
第3章 大正・昭和の画家たち -公と個の間、関係性の中の自己認識-
 配信日時:2021.10/30(土) AM10:30~

f734d725日動美術財団さんのご協力だそうで、そんな関係で、錚々たるメンバーの自画像が集まるようです。ただ、光太郎の自画像は、元々、同館の所蔵品で、現在開催中のコレクション展示にも出ていまして、そのまま継続しての展示となります(中村彝も)。

ラインナップを見ると、光太郎と交流のあった面々も多く、彼らの自画像と共に並ぶことで、また違った見え方がするのかな、という気がします。南薫造斎藤与里安井曾太郎岸田劉生木村荘八藤田嗣治(レオナール・フジタ)など。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

明方鼠が頭の毛をかぢり、めざめる。


昭和23年(1948)10月3日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、ネズミは奇妙な同居人(「人」ではありませんが(笑))として、退治しても退治しても巣を作り続けました。それにしても、寝ている時に、残り少なくなった頭髪をかじられるとは……(笑)。

ちなみに当方は、ほぼ毎朝5時頃、こいつが起こしに来ます。
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寝ていると、手足や顔にスリスリしながら(一日の中ですり寄ってくるのはこの時だけです(笑))、「ニャオニャオ! ニャーニャー!(起きろ、下僕! とっとと朝ごはんよこせ!)」(笑)。妻や娘には行きません。誰が根負けして起きるか、わかっていやがるのですね(笑)。

古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん。2021年9月号に光雲の作品が紹介されていました。
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古美術研究家・加瀬礼二氏という方のご執筆で「高村光雲 聖徳太子像」。全4ページです。
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紹介されているのは、上野の東京国立博物館さん所蔵の聖徳太子像。大正元年(1912)、鋳銅の作品です。

前年に制作された木彫の原型は、同じく上野の東京藝術大学大学美術館さんの所蔵。ここから型を取って、鋳金家の安部胤齋により61体が鋳造され、光雲の帝室技芸員任命記念として配付されたそうです。

木彫原型については、光雲の談話筆記「聖徳太子御像に就いて」(大正10年=1921、雑誌『建築図案工芸』第七巻第五号所収)に、次の一節があります。

 聖徳太子の御像の話としては、いま国華倶楽部の本尊たる太子像に就いて物語るのが一番に相応しい気がします、作家としての私にとつては。
 明治四十一二年頃に国華倶楽部でとまれ一つの本尊を建立する議案が出て、それが聖徳太子御像と定められたのでしたが、自分が彫刻家であり、また倶楽部の理事でもある関係上、総べてに出しやばるやう想はれてもと思ひまして、種々と差控へてをりましたら、また他に適当な木彫家の方を推してもおきましたが、どうしても遣らねばならぬやうな羽目になりましたので、断然製作する決心をしたのでした、丁度その時は六十一歳に相当しましたので、その御礼にもと想ひまして、太子様の御像を一つ建立する事に依つて、せめても今日まで報恩の一部だに尽すことが出来たならと思ひまして、その紀念に歓びを献ずる意りで寄附する事を約しまして、六十歳の時に懸りまして六十一歳で製作を了り自分の気持ちを献しました、それは聖霊殿の木像の形でした、

美術家の社交団体であった国華倶楽部の主催で、明治末から「聖徳太子祭」が行われていました。その際に太子像がなければ盛り上がりに欠ける、みたいな感じだったのでしょう。光雲に白羽の矢が立ち、みんなで拝むための太子像を作れ、ということになったようです。

そこで光雲、法隆寺聖霊殿所蔵の太子像を手本に、坐像を制作しました。おそらくこれが太子像をきちんと制作した最初なのではないかと思われます。この後、法隆寺や橘寺所蔵の他の太子像をモデルにしたり、新たな図案を取り入れたりしながら、光雲は複数の太子像を制作しました。昭和2年(1927)には、国華倶楽部の像とよく似た図題の「聖徳太子摂政像」を制作、法隆寺に納めています。

光雲の太子像諸作については、下記をご参照下さい。
京都大覚寺光雲作木彫。
京都・大阪レポート その1。「大覚寺の栄華 幕末・近代の門跡文化」展。
東北レポートその2(仙台編)。
第587回毎日オークション 絵画・版画・彫刻。
テレビ放映情報。

ところで、談話筆記「聖徳太子御像に就いて」。当会で会報的に刊行を続けている『光太郎資料』中の「光雲談話筆記集成」、次回発行分(10月5日予定)に載せるつもりで文字起こしをしているところでした。そこで『小さな蕾』さんにこの記事が出たので、驚いている次第です。

さて、『小さな蕾』さん9月号。実は最新号は10月号ですが、9月号もオンライン等で入手可能。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方五時過村長さん宅より子供等迎へにくる。一緒にゆく。晩餐に六七人集まる。酒肴。馬喰茸の煮つけをめづらしくくふ。小豆餅、クルミ餅。十時半辞去。サダミさんがアセチリン燈を持ちて小屋まで送つてくれる。


昭和23年(1948)9月29日の日記より 光太郎66歳

「村長さん」は高橋雅郎、光太郎が援助を惜しまなかった山口小学校近くに住まいがありました。お嬢さんの故・愛子さんは光太郎の語り部として永らく活動された方です。

「アセチリン燈」。通常、「アセチレン」と表記しますが、炭化カルシウム(カルシウムカーバイド) と水を反応させ、発生したアセチレンを燃焼させるもの。昔は寺社の縁日の夜店などで見かけたものです。

『東京新聞』さんの記事から。

103歳 絵に託す希望 横浜の画家・井上寛子さん 北区の母校に新作寄贈「未完成な自分 高めたい」

002 ことし百三歳を迎える現役の女性画家がいる。横浜市に住む井上寛子(ひろこ)さん。新型コロナウイルス禍の世界の「希望」を描いた新作が先月、東京都北区中里にある母校の女子聖学院に寄贈された。井上さんは「これからも人として未完成な自分を少しでも高めていきたい」と話す。
 昇りゆく太陽が日食のように大きく欠け、小枝に止まる一羽の小鳥が向き合う−。作品は「朝陽はまた昇る」と題した油彩画だ。
 寛子さんは自宅二階にあるアトリエの窓に立ちながら「日光浴がてら太陽を肉眼で見ていたら、ぐらっと黒くなった瞬間があったの」と制作の動機を語る。
 「若い絵描きをはじめ、みんな苦しんでいるでしょ。先が見えないけど、希望は持ちたいと思ってね」
 小鳥は小さな人間、緑の葉っぱは生命の源のシンボルという。この新作を世田谷区内のギャラリーで四月に開いた個展「満103歳の挑戦」に出品すると、思わぬ展開をたどる。
 寛子さんは一九一八(大正七)年十二月生まれ。北区西ケ原で育ち、文京区本駒込にあった理化学研究所のマネジャーだった父の勧めで女子聖学院に入学。〇五(明治三十八)年に創立されたプロテスタント系の女子中高一貫校だ。
 病院で見た西欧の中世画に絵心を抱き、高卒後は女性では珍しい画家の道へ。印象派を学び、四一年、文部省美術展に初入選。四三年、彫刻家で詩人の高村光太郎を本郷の私邸に訪ねると、「日本の藍の色を研究したら」と励まされた。
 同年、彫刻家の井上信道氏と結婚。四五年五月の横浜大空襲で夫は大やけどを負い、疎開先の伊豆・湯ケ島で長女の静子さんを出産し終戦を迎えた。いまも米軍機の焼夷(しょうい)弾の痕跡が残る木造住宅で現代アート作家の静子さん夫婦と暮らす。
 寛子さんは二〇一九年、母校の同窓会報「翠耀(すいよう)」に寄稿した。それが縁となり母親が同窓生だった鈴木貴子さん(54)が個展での新作に感動し、亡き母の遺志として寄贈を申し出た。
 寄贈の集いは七月二十日。寛子さんは卒業から八十六年ぶりに母校を訪れ、山口博校長や翠耀会の大塚明子会長らが出迎えた。
 鈴木さんは「コロナ禍で学校生活もままならない。そんな生徒の心に寄り添い、明るい未来へのメッセージを感じます」と作品を紹介。寛子さんは「再び誰もが立ち上がることのできる広々とした明るい前途があることでしょう」と掲額へのお礼を述べた。
 実は、太陽の黒は高村光太郎が助言した「藍」の到達点とも言える。十七世紀のオランダの巨匠レンブラントの「無限の黒(闇)」を意識し、藍に近い多くの暗い色を重ねて、あの重厚な漆黒を創作したのだ。
 再び自宅アトリエ。寛子さんに次回作を尋ねると、照れ隠しか文字にしたためた。「存在するものをかきます」。古代ギリシャの哲学者アリストテレスを口にして、百四歳を見据える。
 さらにいまの心境を伺うと「倖(しあわ)せに気づきました」。戦火の時代を生き抜いたつらい日々の記憶は年を重ねて鮮明になるらしい。平和のありがたさに感謝して一日一日を生きる。
◆井上さんの1日 しっかり食べ 家事・体操も
   「朝陽は〜」を制作中の2月24日の「103歳の1日」の記録によると−。
 5時半、起床。朝焼けを眺めキャンバスに向かう。8時、朝食は牛乳を泡立てたカプチーノ、野菜と001果物のスムージー、パン、ハム、チーズ。同40分、キャンバスへ。10時15分、仮眠。正午、昼食はダッチオーブンで焼いたサツマイモ。13時、絵を描く。14時半、横浜駅地下街の画材屋にバスで出かける。アサリのつくだ煮と煮豆を買う。15時半、帰宅。煮豆を食べる。
 16時、夏ミカンのマーマレードを煮込む。18時、夕食はごはん、ブイヤベース、豪州産牛肉。肉が大好き。19時、テレビニュースを見る。20時、就寝。
 毎日、娘夫婦と一緒に食事し、掃除や洗濯の家事をこなす。制作に集中するときは5時間近く描く。天野式リトミック体操を行う。
 静子さんは「絵に向かわないときも常に何かやっている。耳は遠いが自立して行動しています」と話す。

井上さん、平成27年(2015)、97歳の折に開いた個展の報道(『朝日新聞』さん神奈川版)でも、光太郎とのご縁が紹介されており、「ああ、あの井上さんか。まだお元気だったんだ」と、嬉しくなりました。

まだまだお元気で、画業に邁進されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

午后雑用、畑少々、 「噴霧的な夢」といふ一枚ばかりの詩を書く。「女性線」へ送るつもり。

昭和23年(1948)9月21日の日記より 光太郎66歳

「噴霧的な夢」は、前年に発表された連作詩「暗愚小伝」以来、久しぶりに智恵子を謳った詩です。「女性線」は、その掲載紙。

現代では「荒唐無稽」「恣意的」と退けられている「精神分析」の分野の人々が、喜びいさんで勝手な解釈を加えたがった作品でした(笑)。

  噴霧的な夢

 あのしやれた登山電車で智恵子と二人、
 ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。
 夢といふものは香料のやうに微粒的で
 智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。
 ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
 ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)のやうに吹き出てゐた。
 その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
 お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
 お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
 智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
 ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
 智恵子はほのぼのと美しく清浄で
 しかもかぎりなき惑溺にみちてゐた。
 あの山の水のやうに透明な女体を燃やして
 私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。
 そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
 昨日までの私の全存在の異和感が消えて
 午前五時の秋爽やかな山の小屋で目がさめた。
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001当会顧問であらせられた、故・北川太一先生が、かつて都立高校教諭をなさっていた頃に教え子だった皆さんの会・北斗会さんの会長を永らく務められた、都内ご在住の小川義夫さんが亡くなりました。

小川さん、新潟の旧山古志村のご出身。北川先生の一回り下の丑年とおっしゃっていましたので、今年、誕生日を迎えられていたとすれば満84歳ということになります。

北斗会さんとして、北川先生の御著書や、北川先生を顕彰する書籍の編集、刊行の中心にいらっしゃり、当方も大変お世話になりました。右画像は、北斗会さん編集の『北川太一とその仲間達』(平成23年=2011)。小川さんもご執筆なさり、さらに小川さんも御出席された北川先生を囲んでの座談会の様子も収録されています。

毎年4月2日の光太郎忌日・連翹忌の集い(昨年・今年はコロナ禍のため中止)、そして8月には、女川光太郎祭(こちらも昨年・今年はコロナ禍のため中止)にもよく参加されていました。
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こちらは東日本大震災の翌年(平成24年=2012)、当時まだ遺されていた、女川港近くの横倒しになったビルを御覧になっている北川先生ご夫妻、そして右は小川さんの後ろ姿です。

また、1月には北川先生ご夫妻を囲む新年会を企画され、当方も参加させていただいておりました。こちらは平成28年(2016)の新年会、開会の挨拶をされている小川さんです。
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さらに、昨年1月の、北川先生ご葬儀では、葬儀委員長を務められたりもなさいました。その折が、当方、小川さんにお会いした最後となってしまいました……。

さて、小川さん。ご本業は、印刷会社の社長さんでしたが、演歌歌手としても活動されていました。70歳を過ぎてから、心臓病の予後のリハビリのためお医者様の勧めでカラオケに取り組み、大会などに出場するうちに、あれよあれよという間にプロデビューとなったそうです。
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BS放送の歌謡番組にもご出演され、当方、「ぶっちゃけ、ギャラとかって、どんなもんなんですか?」などと失礼ながらお訊きしたところ、「いや、こっちがプロモーションさせて貰う立場なので、逆にこっちから「出演料」を払うんだよ。いわゆる大御所でもそうなんだ」などと教えていただきました。そんなことも、今となっては懐かしい思い出です……。
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今頃は、空の上で、北川先生と久闊を叙されているのではないでしょうか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

食事中、東京角川書店主角川源義氏来訪。小山書店の高村昭氏と知合の由。濃茶、チーズ等もらふ。いろいろの談話。出版会の消息等もきく。


昭和23年(1948)9月7日の日記より 光太郎66歳

角川源義は昭和20年(1945)創業の角川書店の創業者。後発の出版社のため、岩波書店や新潮社などに追いつき追い越せ、と、随分努力をしました。源義自ら太田村の光太郎の小屋を訪れること、少なくとも3度。光太郎帰京後も、中野のアトリエに通っていました。その意気やよし、ということで、光太郎は角川文庫や『昭和文学全集』に作品を提供します。

若干、先の話ですが、コロナ禍による中止/延期、又は無観客開催などの発表があるやもしれませんので、その前に。

東京混声合唱団特別演奏会~田中信昭と共に~東混オールスターズ

期 日 : 2021年8月31日(火)
会 場 : 東京芸術劇場 東京都豊島区西池袋1-8-1
時 間 : 19:00 開演(開場18:00)
料 金 : 一般:4,500円 学生:1,500円

【プログラム】
パレストリーナ:『教皇マルチェルスのミサ』より「サンクトゥス」
西村朗:混声合唱とピアノのための組曲『レモン哀歌』より「レモン哀歌」
上田真樹:混声合唱とピアノのための組曲『夢の意味』より「夢の意味」「夢の名残」
野平一郎:混声合唱のための幻想編曲集『日本のうた』より「ずいずいずっころばし」
小山清茂:「誕生祭」
ブラームス:「祝祭と格言」
シェーファー:「ガムラン」「ミニワンカ」
ラフマニノフ:『晩禱』より 第2曲、第9曲
三善晃:混声合唱曲『小さな目』より

【指揮】:田中信昭 / 山田和樹 / キハラ良尚 / 松原千振 / 大谷研二 / 水戸博之
     山田茂 / 髙谷光信
【ピアノ】:中嶋香 / 萩原麻未
【合唱】: 東京混声合唱団

WEBサービス『カーテンコール』にて公演のLIVE配信を行います!
価格 1,500円(税込み) 購入・視聴はこちら 
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田中信昭氏は、指揮者にして東京混声合唱団の創設者。おん年93歳です。平成元年(1989)、赤坂草月ホールで開催された仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」初演の際、伴奏の10人編成管弦アンサンブルの指揮をして下さったりもしました。

今回、田中氏の指揮で、西村朗氏作曲の「レモン哀歌」(平成21年=2009)がプログラムに入っています。この曲は、全3曲から成る「混声合唱とピアノのための組曲『レモン哀歌』」の最終曲。当方の把握しているところでは、全日本合唱連盟さん主催の「平成30年度(第71回)全日本合唱コンクール」の高校Bグループ(33人以上の大編成)に出場なさった九州地区代表・鹿児島高等学校音楽部さんが、この曲を自由曲に選ばれていました。

そちらを御紹介した時には気づかなかったのですが、YouTube上に、この曲がアップされていました。ただ、あまりバランスのいい演奏ではありませんが、楽譜を見ながら曲の感じを掴むのにはいいのかな、という動画です。


「混声合唱とピアノのための組曲」ですから、ピアノは単なる伴奏ではなく、ウェイトがかなり大きいと、ここしばらくの流行ですね。ただ、上記の動画ではピアノが大きすぎて歌詞がよく聴き取れません。

東混さんのコンサートでは、絶妙のバランスでの演奏が聴けることと存じます。

ご興味のある方、コロナ感染には十分お気を付けつつ、足をお運び下さい。また、WEBでのLIVE配信も用意されているとのことですので、ご活用下さい。

【折々のことば・光太郎】

二三日前の夜関上場の娘さん寒沢川にはまつて死んだ由、狐のわざといふ。


昭和23年(1948)8月17日の日記より 光太郎66歳

「関上場」は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の地区名です。狐の件、光太郎は無論のこと信じなかったでしょうが、村人の中には、まことしやかにそう噂する人がいたようで、戦後になってもそうだったのだなぁと思いました。

都内から演劇公演の情報です。

第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭 青鞜の女たち

期 日 : 2021年8月7日(土)
会 場 : たましんRISURUホール(立川市市民会館)小ホール
       東京都立川市錦町3-3-20
時 間 : 13:00開演 / 16:00開演
料 金 : (全席自由)1,000円

「元始 女性は太陽であった。」明治44年、日本初の女性の手による女性のための雑誌「青鞜」が発刊された。中心となった人物は、フェミニスト 平塚雷鳥。雑誌は与謝野晶子、松井須磨子、田村俊子らを巻き込み華々しく創刊するが...。欧米ではフェミニズムが叫ばれていた時代、日本ではいまだ良妻賢母の道しかなかった。そんな時代に彼女たちは何を感じ、何を考え立ち上がったのか。社会の風に逆らいながらも強く光り輝く女性たちの物語。

町田市文化事業の一環として町田市こども創造キャンパス「ひなた村」で17年間に亘り開催された演劇教室(講師:高垣葵氏)の卒業生を中心に結成されている市民劇団です。小学生から70代の幅広い年齢の役者が所属しています。劇団員募集中!!
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多摩地区の劇団7団体による「第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭」の一環です。

初演は今年4月。当方、拝見して参りましたが、『青鞜』に集った多士済々の女性たちを軸に、それぞれの女性に関わった男性たちをからめ、総勢20数名のキャストで、様々な愛憎劇が展開されました。主人公の平塚らいてうと「若いツバメ」奥村博史、与謝野鉄幹・晶子に山川登美子の三角関係、松井須磨子には島村抱月、岡本かの子&一平、神近市子及び伊藤野枝と大杉栄のこちらも三角関係、そしてわれらが光太郎智恵子……。
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コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

猫二匹此頃小屋の近くに出没。魚の骨のすてたのをねらふらし。尚畑仕事中、小屋の中に一匹入り居たり。鼠退治によからんか。


昭和23年(1948)6月17日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋付近。熊や狐などの珍しめの動物も現れましたが、野良猫もやって来たそうで(笑)。

ちなみに下記はわが家の猫です(笑)。
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都内からコレクション展情報です。光太郎の父・光雲の木彫が出ています。

藝大コレクション展 2021 I 期 雅楽特集を中心に

期 日 : 2021年7月22日(木)~8月22日(日)
会 場 : 東京藝術大学 大学美術館 台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日、8月10日(火) ※ただし、8月9日(月)は開館
料 金 : 一般440円(330円) 大学生110円(60円) 高校生以下及び18歳未満は無料
       ( )は20名以上の団体料金

今年の藝大コレクション展では、竹内久一《伎芸天》、《浄瑠璃寺吉祥天厨子絵》、小倉遊亀《径》をはじめとする名品を紹介するとともに、特集として本学が所蔵する「雅楽に関連する作品」にも焦点を当てます。
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昨年4月から5月にかけて開催予定で、コロナ禍のため中止となった「御即位記念特別展 雅楽の美」展の流れを汲む展示かと思われます。

光雲作品は、木彫の「蘭陵王」(明治37年=1904)。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。
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「蘭陵王」は雅楽の演目の一つで、中国北斉(6世紀)の蘭陵王・高長恭の故事にちなみます。長恭は、出陣に当たって、常に自らの美しい顔を勇壮な面で隠して兵を率い、連戦連勝を誇ったとのこと。そこで、この作品も、面が外れるように作ってあります。残念ながら、掲げた右手の先が欠けているなど、保存状態が芳しくないのですが、それにしても見事な作といえましょう。像高30㌢ほどです。

当方、平成14年(2002)に茨城県立近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際に拝見しましたが、その後、見ていません。

他に、竹内久一の彩色木彫「伎芸天」、小倉遊亀の代表作の一つ「径」などが展示されている「あの名品に会える!」も同時開催。
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コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

外の板を外し、小マヰの張紙をとる。鼠が巣をつくり居り、中から蛇が出てくる。横にしまのある蛇。名を知らず。


昭和23年(1948)6月16日の日記より 光太郎66歳

光太郎、日記の余白にサラサラッと蛇の姿をスケッチしていました。
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蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、奥羽山脈の麓で、湿気が多く、蛇には天国でした。

ちなみに当方自宅兼事務所も低山の麓。やはり近辺で蛇をよく見かけます。3日ほど前に、裏山へ登る坂道で撮った画像。子供の蛇でした。
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新刊です。といっても、2ヶ月ほど経ってしまいましたが。

博覧男爵

2021年5月20日 志川節子著 祥伝社 定価1,800円+税

日本に始めて博物館を創り、知の文明開化を成し遂げた挑戦者!

幕末の巴里(パリ)万博で欧米文化の底力を痛感し、武力に頼らないに日本の未来を開拓する男がいた!

日(ひ)の本(もと)にも博物館や動物園のような知の蓄積を揃えたい!

黒船の圧力おびただしい幕末。信州飯田で生まれ育った田中芳男は、巴里(パリ)で行なわれる万国博覧会に幕府の一員として参加する機会を得た。その衝撃は大きく、諸外国に比して近代文化での著しい遅れを痛感する。軍事や産業を中心に明治維新が進む中、日の本が真の文明国になるためには、フランス随一の植物園ジャルダン・デ・プラントのような知の蓄積を創りたい。「己れに与えられた場で、為すべきことをまっとうする」ことを信条とする芳男は、同じ志を持つ町田久成や大久保利通らと挑戦し続け、現代の東京国立博物館や国立科学博物館、恩賜上野動物園等の礎を築いていく……。
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田中芳男(天保9年=1838~大正5年=1916)は、元々、信州飯田の医師の家に生まれ、本草学を修めました。その後、興味の対象が広がる中で、幕府の蕃書調所に出仕、博物学者として名を成します。

慶応3年(1867)のパリ万博に出張し、彼の地の文化施設、物産等を実地に見て、日本を文化先進国とする大望を抱いて帰国。幕府の瓦解や戊辰戦争、西南戦争など、様々な苦難を乗り越え、日本でも各種の博覧会を開催、そして東京帝室博物館(現・東京国立博物館)などを造り上げました。「政治や軍事、産業の面ばかりに目が向きがちだが、文化面での開化なくして真の文明国とはいえない」という信念が、そこにありました。

その功績が認められ、晩年の大正4年(19815)、男爵位に列せられたため、タイトルが「博覧男爵」となっています。

物語の終盤近く、明治10年(1877)、第一回内国勧業博覧会が上野で開催されるという場面で、出品者を募る中、田中が光太郎の父・光雲の師匠であった高村東雲の工房を訪れるシーンがあります。

「博覧会」と言われても、東雲はじめ、何のことだか分からないという人が殆どでした。そこで田中は、「何も特別なものではなく、普段作っているようなものを出品してくれればいい」と、東雲に告げます。すると東雲、「それでは弟子の光雲に作らせましょう」。田中が「それは困る」と言うと、東雲は「いや、この者の技倆は保証します」。

このあたりのやりとりは、作者・志川さんの創作かな、という気がしますが、いずれにせよ、光雲は東雲の名で白衣観音像を制作し、出品。見事、一等龍門賞に輝きました。

ところで、慶応3年(1867)のパリ万博といえば、かの渋沢栄一(当時・篤太夫)も、徳川慶喜の実弟・徳川昭武の随員として参加しています。そこで、本書でも、ちらっと渋沢が登場しています。

また、渋沢を主人公とするNHKさんの大河ドラマ「青天を衝け」、7月11日(日)の放映がまさにパリ万博の模様でした。
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キャストとして、田中の名はクレジットされていませんでしたが、上の画像の武士団の一人が田中、という感じですかね。

それにしても、現在、双子パンダの誕生に湧く上野動物園さんや、光太郎の母校・東京美術学校(現・東京藝術大学さん)などを含めた上野一帯の各文化施設が、どういう経緯で整備されていったのかなど、非常に興味深く拝読いたしました。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后二時学校増築上棟式に列席。つついて校庭にて宴会。拡声器など使つて唄つたり踊つたり。歌のうまき人数人あり。五時頃けへる。折詰やお祝の餅をもちかへる。

昭和23年(1948)5月24日の日記より 光太郎66歳

「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近く(といっても500メートルほど離れていますが)の、山口小学校。この年4月、分教場から小学校に昇格しました。

それにしても、のどかですね(笑)。しかし、光太郎が帰った後、「会計に関する事のもつれ」で、村の顔役同士の乱闘騒ぎが起きたそうで(笑)。

地上波日本テレビさん系で放映されている5分間番組「心に刻む風景」。6月30日(水)から、全6回(毎週水曜夜)で「高村光太郎・智恵子」が放映されていますが、明日、第4回の放映があります。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子④ 東京都千代田区…幸せのひととき あなたは本当に私の半身(はんしん)です 私を全部に解(かい)してくれるのはただあなたです

地上波日本テレビ 2021年7月21日(水) 21:54〜22:00

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#4 舞台(日比谷松本楼)
松本楼は智恵子と光太郎のお気に入りの店。彫刻家・詩人・画家として活動をしていた光太郎だったが
まだ世間に認められておらず、生活は豊ではなかった時代。
当時は贅沢だったこの店で、大好きなアイスクリームを食べるのが二人の幸せなひとときだった。

ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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光太郎の命日である毎年4月2日(昨年と今年はコロナ禍のため中止)、連翹忌の集いを開催させていただいている日比谷松本楼さんでのロケがメインです。

先週、7月14日(水)の放映は「千葉県犬吠埼…運命の再会」でした。
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光太郎智恵子が連れ立って歩いた、君ヶ浜から見る犬吠埼灯台
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まず、光太郎が宿泊し、のちに智恵子が追ってきて泊まった、暁鶏館(現・ぎょうけい館)。
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当初、「智恵子には親の決めた婚約者がいた。しかし、智恵子はその結婚を断り光太郎の元にやってくる。」というニュアンスの一節が入っていましたが、カットしてもらいました。最近の研究で、「智恵子の縁談の相手」とされていた二本松の寺田医師は、既に結婚して子供までいたことがわかっています。

しかし、智恵子が光太郎に「縁談が持ち上がっている」と言ったことは確実なようです。そこで、「いやなんです あなたのいつてしまふのが」。
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寺田医師以外の男性との縁談があったかも知れませんし、もしかすると、煮え切らない光太郎に対し、智恵子がありもしない縁談をでっちあげて、その気持ちを確かめようとしたのかも知れません。真相は闇の中です。

いずれにしても、この犬吠埼での再会を機に、
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というわけで。

明日の放映は、先述の通り、日比谷松本楼さんがメインです。光太郎智恵子が犬吠埼で再会したのは、大正元年(1912)の8月末か9月の頭ですが、その前、大正改元直前の7月に、日比谷松本楼さんで、「氷菓」を二人で食べています。その際の様子は、9月に発表された詩「涙」に描かれています。

したがって、それだけ取り出せば、犬吠埼での再会と時間軸が逆転しますが、その後も日比谷松本楼さんを二人で訪れたことがあっただろう、というコンセプトで、第4回に持ってきたようです。

視聴可能な方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

花巻行にきめ、焼パンをリユツクに入れて出かける。 サンマータイム十一寺四十三分電車にのる。

昭和23年(1948)5月10日の日記より 光太郎66歳

夏期に時計の針を1時間進める「サマータイム」。EU加盟国では今年限りで廃止、という報道が為されていましたが、その後、どうなったのでしょうか。

日本でも、昭和23年(1948)から導入されましたが、結局、定着することなく4年間で廃止となりました。そうかと思うと、平成30年(2018)頃には、今回の東京五輪に向けて、再び日本でもサマータイムを、という声が上がりました。あっという間にポシャりましたね(笑)。

昨日は、都内六本木の新国立美術館さんにて、書道展「第40回日本教育書道藝術院同人書作展」を拝見して参りました。
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光太郎詩が題材にされた書が、複数、入賞しているという情報を得たためです。

まず、同人の部・会長奨励賞の平井澄圓氏の作品。
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昭和10年(1935)の光太郎エッセイ「新茶の幻想」からの抜粋です。この文章、長らく初出掲載誌が不明でしたが、同年6月30日発行の『週刊朝日』第27巻第31号に掲載を確認しました。
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この年のはじめに、南品川ゼームス坂病院に入院した妻・智恵子と、この年秋に亡くなる父・光雲、自分も含め、茶が好きだった三人での新茶にまつわる回想を軸にした、実に味わい深いエッセイです。いわば『智恵子抄』を補完する位置づけのような。

五月、五月、五月は私から妻を奪つた。去年の五月、私の妻は狂人となつた。

去年」は昭和9年(1934)。かなり前から異状が見られ(詩人の深尾須磨子は、大正10年=1921には、既に智恵子の言動に異様なものを感じていました)、昭和7年(1932)には自殺未遂を起こした智恵子ですが、それでも会話が成り立っていた間は、光太郎はまだ「狂人」と認識していなかったということでしょう。「去年の五月」に、千葉九十九里に移り住んでいた智恵子の妹・セツ夫婦や智恵子の母・センの元に、智恵子を預けました。それによって、智恵子は浜に飛来する千鳥の群れと一体化し、「人間商売さらりとやめて、/もう天然の向うへ行つてしまつた」(「千鳥と遊ぶ智恵子」昭和12年=1937)、「智恵子はもう人間界の切符を持たない。」(「値ひがたき智恵子」同)状態になったのが、「去年の五月」というわけですね。

智恵子は今どうしてゐるだらう。千羽鶴は折れたか。茶の味は忘れたらうか。

痛切な結びです。ちなみにこの時点では、まだ奇跡と言われる紙絵の制作は始まっていなかったようです。

平井氏、このマイナーなエッセイを題材になさったところに、まず驚きました。それから、作品の中央、「二度ともうかへつて来ない時間といふことをその瞬間に悟らせながら」あたりをズドンと大きな字で書かれている手法。音楽で言えばサビというか、ヤマ場というか、そういう感じを視覚的に表現されたということでしょうか。
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他にも、光太郎詩を書かれた方が複数。
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同人の部・特選の石山恍遙氏。書かれているのは、御存じ「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。意図的と思われる滲みが、アクセントになっていますね。

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無鑑査出品の谷美翠氏。「狂者の詩」(大正元年=1912)。日本の文学作品で、コカコーラが登場した初のもの、とも言われている詩です。

こちらの会を創設した、故・大渓洗耳氏の遺作を集めたコーナーにも。
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ぐっと下って昭和22年(1947)作の「リンゴばたけに……」。七五調四句の今様体で書かれた即興詩で、おそらく生前には活字になることがなかったものです。

ちなみに、同じ詩の光太郎自身の揮毫はこちら。
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下の画像の方は、親しかった美術史家の奥平英雄に贈った画帖『有機無機帖』から。左端には、智恵子のそれを模して光太郎が作ったリンゴの紙絵が付されています。使っている紙は、洋モク(死語ですね(笑))の包み紙です。

その他、当会の祖・草野心平をはじめ、光太郎と交流の深かった面々、与謝野晶子、宮沢賢治、中原中也、尾崎喜八などの詩文書を書かれた作品も散見されましたし、以前に光太郎詩を書かれて、東京書作展などで入賞されたりした方々の作品(光太郎詩文ではありませんでしたが)なども出ていて、興味深く拝見して参りました。

会期は7月4日(日)まで。コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ガンジー暗殺されし由、初めてきく。


昭和23年2月1日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、まだ電線が引かれておらず、ラジオも聴けませんでした。たまたま訪ねてきた村人との世間話の中で、2日前のニュースを知ったようです。

新型コロナに振り回されてしっまたのですね……。

明治末から大正にかけ、智恵子が所属した太平洋画会の後身の太平洋美術会さん。毎年、六本木の国立新美術館さんで大規模な展覧会を行っていましたが、昨年はコロナ禍のため中止。今年は5月12日(水)~24日(月)の会期で開催できるという方向で、作品の公募、審査、そして搬入、さらに会場での展示まで済んだそうなのですが、緊急事態宣言延長の際、公立美術館等への休業要請を解除するのしないののドタバタ(5/12から再開予定が一転して5/31まで休館延長)があり、それに巻き込まれてしまって開催できずだったとのこと。関係者の皆さんの落胆ぶりが目に浮かびます。

5/12~24、今にして思えば、ピンポイントでエアポケットの時期にあたってしまったわけで、残念としか言いようがありませんね。トーハクさんで鳴り物入りで始まった「鳥獣戯画展」も影響を受けましたが、こちらはもともと会期が長い設定だったので、今月に入ってから再開できました(ちなみに常設展の方では、光雲の「老猿」、それから珍しく光太郎木彫「鯰」と「魴鮄(ほうぼう)」も出ているそうです)。
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展示の一般公開は出来なかったものの、審査まで終了していたとのことで、今年の第116回太平洋展は実施した、ということにしたそうです。

図録も制作されていまして、先日、同会事務局よりご寄贈いただきました。多謝。
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同会には、智恵子に憧れて同会に加入された、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』のご著者・坂本富江さんがいらっしゃいます。坂本さん、同展にはおおむね智恵子の故郷・二本松やその近隣地域を描いた作品を出品なさっていますが、今回も三春町の滝桜と思われる作品などを出されていました。
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それから、図録の巻末に「太平洋美術館縁の物故作家」。以前の図録では、この項は抄録的な感じで、載っている名前も少なかったのですが、同会の歴史の検証が進んだようで、ボリュームアップしていました。そして、以前はなかった智恵子の名も。
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当会顧問だった故・北川太一先生制作の智恵子年譜に拠れば、智恵子は明治40年(1907)に日本女子大学校を卒業し、太平洋画会に通い始めたとなっていますが、同会の資料では明治38年(1905)加入となっています。学生時代から通っていたということも十分考えられます。また、北川先生制作の年譜では、大正7年(1918)の項で、智恵子が彫刻制作にトライし始めた的な記述があります。この年に同会の彫刻部に加わったというのは確かなようです。

智恵子以外にも、碌山荻原守衛をはじめ、光太郎とも縁のあった名前がずらり。「えっ、この人もか」という名前もありますが、あまり詳しく書くと「お前、そんなことも知らなかったのか?」と言われそうなので、書きません(笑)。

来年以降、旧に復することを願って已みません(「いません」ではありません。「やみません」です(笑))。

【折々のことば・光太郎】

星が出ると、オリオン、大犬等の壮観、 夜半くもる。


昭和22年(1947)12月8日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。都会でも冬の星空は他の季節に比べればきれいなものですので、おそらく本当に「壮観」としかいいようのないものだったのではないでしょうか。

5月30日(日)、目黒の「反転する光」展会場を後に、南青山に向かいました。次なる目的地は、銕仙会能楽研修所さん。こちらで「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見・拝聴して参りました。


南青山ですので、瀟洒な建物が建ち並び、道行く人々も一様にシャレオツ、走る車もポルシェにアウディにフェラーリにBMW(笑)。その一角に突如、古風なたたずまい。しかし、さほど違和感はありません。
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この2階に能舞台。ここは異世界、という感じではありました。
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こちらがプログラム。
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基本、観世流シテ方の山本順之氏を中心に据えた構成で、氏が地謡(じうたい)の名手であらせられることから、謡がメイン。したがって、面を付けての能楽はありませんでした。

プログラムの最初が、いきなり「連吟 智恵子抄」。昭和32年(1957)、武智鉄二構成演出、観世寿夫らの作曲・作舞で演じられた「新作能 智恵子抄」が元になっています。「新作能 智恵子抄」は、光太郎詩歌10篇から成っていました。「僕等」、「樹下の二人」、「あどけない話」、「人生遠視」、「風に乗る智恵子」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「山麓の二人」、「レモン哀歌」、「荒涼たる帰宅」、そして短歌「光太郎智恵子はたぐひなき……」。このうち、「風に乗る智恵子」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、短歌「光太郎智恵子はたぐひなき……」が、山本氏を中心とした5人の方々の連吟で演じられました。
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日本の古典芸能には、西洋音楽のようなハーモニーという概念がないため、西洋音楽風に言えばユニゾン。しかし、5人の声質は全く同一ではないため、それが合わさることで太い川(たとえば阿武隈川)の流れのような、あるいは寄せては返す波(まるで九十九里浜)のような、そんな感じでした。そして、最初から最後までトゥッティーではなく、要所要所はソロ。それが全体の流れに変化をもたらし、メリハリがきちんと付いています。また、皆さん、当然のように暗譜。以前、アマチュア音楽活動をしていた頃、楽譜を見ながらでなくては不安でしょうがなかった自分が恥ずかしくなります(笑)。

ちなみに5人のうちのお一人、清水寛二氏は、先月、江戸川区のタワーホール船堀さんで開催された「もやい展2021東京 3.11から10年 語り継ぐ命の連綿」のステージパフォーマンスの部でも、「智恵子抄」の朗誦をなさいました。
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上記画像は、以前に入手した西洋音楽の楽譜に当たるもの。素人の当方、これを見てもよくわからなかったのですが、実際に初めて聴いてみて、なるほど、そういうことかと得心しましたし、これは凄い、と感動しました。

また、プログラムと共に受付で頂いた資料には、「新作能 智恵子抄」についての解説がかなり詳しく載っており、興味深く拝読しました。
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さらに、第二部の山本氏と竹本幹夫氏(能楽研究者、早稲田大学名誉教授)の対談の中でも、「智恵子抄」に触れられ、そちらも「なるほど」でした。例えば、「新作能 智恵子抄」では、どちらかというとシテが智恵子、ワキが光太郎だったものが、抽出して演じられる舞囃子などの形式ではそれが逆転するとか。ダイジェスト版の舞囃子としてもあまり演じられる機会が多くなく、いい作品なのに残念と思って、今回のプログラムに入れられたとか。

ただ、解説に「能形式での再演はなく、すべて舞囃子、能舞という部分演奏形式で……」とあるのですが、手元の資料に拠りますと、平成9年(1997)7月24日、赤坂日枝神社で行われた「日枝神社薪能」の中で、「新作能 智恵子抄」全体が演じられたという記録があるのですが……。

他の演目は、やはり新作系で芥川龍之介の未発表詩に曲を付けた「相聞」(山本氏独吟)、後進の方々を交えた仕舞(面を付けない演舞)で古典作品の「嵐山」「西行櫻」「井筒」「天鼓」、闌曲(らんぎょく)「玉取」(山本氏独吟)。そして第二部が対談でした。

山本氏、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)のお生まれですので、御年82歳。失礼ながら、張りのある謡のお声も、ピタリと頭を動かさない舞の所作も、それを感じさせないものでした。さすが重要無形文化財保持者と思いました。

終演後、山本氏や清水氏とお話しさせていただこうかとも思ったのですが、意外と観客が多く、密の状態が怖いので、早々に失礼しました。

今後、できれば「智恵子抄」全10曲を聴いてみたいものですし、やはり「新作能 智恵子抄」として観てみたいとも思いました。そうした機会があることを期待いたします。

【折々のことば・光太郎】

宮崎稔氏に千円小為替送り置きて買物に備ふ。油脂類を頼む。ラケットの値段を問合せる。フタバヤ指定。


昭和22年(1947)11月3日の日記より 光太郎65歳

「宮崎稔氏」は、智恵子の最期を看取った智恵子の姪で看護婦だった春子の夫。茨城取手在住で、岩手では入手出来にくいものなどを、このようにして送ってもらっていました。

で、唐突に「ラケツト」。調べたところ確かに「フタバヤ」というテニス用品メーカーがかつてあり、そこの製品のようです。なぜ岩手の山中で、数え65歳の光太郎がテニスラケットを必要としていたのかと思ったら、自分のためではなく、村の青年達に寄付するため、と、書簡に記載がありました。なぜ「フタバヤ指定」かは謎ですが。

さしもの光太郎でも「エア・ケイ」はできなかったでしょう(笑)。

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