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紹介すべき事項が多く、美術展関連で2件まとめて。

まずはテレビ放映情報。竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が大きく取り上げられます。

日曜美術館 重要文化財の秘密 知られざる日本近代美術史

NHK Eテレ 2023年4月2日(日) 09:00〜09:45  再放送 4月23日(日) 09:00〜09:45

明治以降に制作された日本近代美術を代表する重要文化財の絵画や彫刻。どのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが知る傑作の、知られざる物語をひもときます。

文化財保護法に基づいて国がその価値を認めて指定する重要文化財。美術工芸分野の重要文化財件数は1万件を超える。しかしそのうち明治以降の絵画・彫刻・工芸はわずか68件に過ぎない。時代が浅く、絶対的な評価が固まり切れない中で重要文化財に指定された作品たちはどのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが一度は目にしたことのある傑作中の傑作、その知られざる物語をひもとく。

出演者
【司会】小野正嗣,柴田祐規子,【出演】東京国立近代美術館副館長…大谷省吾
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予告編、最後の締めは光太郎の父・光雲作の「老猿」。本編をぜひご覧下さい。

同展、主催に入っている毎日新聞社さんでCMも作って下さっています。3月17日(金)、BSイレブンさんで放映された「アートミステリー 国立西洋美術館誕生秘話 ~モネを救え~」を拝見していたところ、流れました。こちらはつかみが「老猿」。
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もう1件、今日開幕の展覧会情報です。

「買上展」藝大コレクション展2023

期 日 : 2023年3月31日(金)~5月7日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、5/1は開館)
料 金 : 一般1,200円(1,100円)、大学生500円(400円)
       ( )は前売り料金 高校生以下及び18歳未満は無料

「買上」とは、東京藝術大学が卒業および修了制作の中から各科ごとに特に優秀な作品を選定し、大学が買い上げてきた制度です。遡って、前身である東京美術学校でも卒業制作を買い上げて収蔵する制度がありました。本学が所蔵する「学生制作品」は1万件を超えますが、本展ではその中から約100件を厳選し、東京美術学校時代から現在にいたる日本の美術教育の歩みを振り返ります。

第1部 巨匠たちの学生制作
 明治26年(1893)に最初の卒業生を送り出して以来、東京美術学校では卒業制作を中心に自画像などを含めた学生たちの作品を教育資料として収集してきました。本展では、卒業後に日本近代美術史を牽引した作家たちを各分野から選りすぐり、その渾身のデビュー作が一堂に会します。

第2部 各科が選ぶ買上作品
 東京藝術大学では昭和28年(1953)より買上制度がはじまり、卒業していく学生たちを勇気づけてきました。今年で創設70年を迎えるこの制度は、現在では多くの科で首席卒業と位置づけられています。近年は先端芸術表現、文化財保存学、グローバルアートプラクティス、映像研究など研究領域も広がり、表現方法も多様化してきています。今回、各科による選定意図などを添えて展示することで、各科が特に優秀と認めてきた買上作品の傾向が浮かび上がることでしょう。

出展作家
第1部
 横山大観   児島虎次郎  萬鉄五郎  下村観山   和田三造   高村豊周
 板谷波山   橋口五葉   金観鎬   白浜徴    山本鼎    吉村忠夫
 菱田春草   南薫造    松田権六  西郷孤月   朝倉文夫   伊原宇三郎
 和田英作   小村雪岱   山口蓬春  小林万吾   富本憲吉   吉田五十八
 北蓮蔵    岡本一平   山本丘人  平福百穂   近藤浩一路  山崎覚太郎
 津田信夫   藤田嗣治   東山魁夷  石田英一   建畠大夢   小磯良平
 中沢弘光   小絲源太郎  赤松麟作  李叔同    吉村順三   高村光太郎
 中村岳陵   高山辰雄   松岡映丘  広島新太郎  六角大壌   青木繁
 北村西望   平山郁夫   熊谷守一  今和次郎

光太郎彫刻は、日蓮像の「獅子吼」。明治35年(1902)、東京美術学校彫刻科をいったん卒業した際の卒業制作です。
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「いったん卒業」は、この後も研究科に残り、さらに留学前年の明治38年(1905)には、根底から勉強し直そうと、西洋画科に再入学したためです。西洋画科ではやはり買い上げ作品が展示される岡本一平や藤田嗣治などが同級生でした。ただし、こちらは中退の扱いで、翌年には留学に出ています。

さらに光太郎実弟にして、鋳金分野の人間国宝となった豊周の作品も出ます。豊周は同校鋳金科を卒業し、母校で永らく教壇に立ちました。

「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」と併せ、こちらもぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

About the matter of your letter of the other day, I must think over them a little more. For my HOKKAIDO affairs do not finish all yet. I hurried back to Tokio at that time because of the fire. Perhaps, I go round there once more this summer.


明治44年(1911)7月3日 バーナード・リーチ宛書簡より 光太郎29歳

邦訳は以下の通り。

いつかの君の手紙のことはもう少し考える必要がある。僕の北海道の件はまだ終わったわけではないからだ。あの時は火事のため急いで東京に帰って来たので、恐らく、この夏もう一度行くだろう。

酪農で生計を立てつつ、彫刻や絵を制作する夢を抱いて北海道に渡り、札幌郊外月寒の牧場まで行ったものの、1ヶ月足らずですごすごと東京に舞い戻りました。
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火事」は道内20数カ所で起こった山火事や大火。確かに現地の人々は大変だったのでしょうが、光太郎はどうもそれを言い訳にしている部分があるように感じます。結局、少しの資本ではどうにもならず夢は夢でしかないというわけで。

リーチにはこの夏もう一度北海道へ、と語っていましたが、この後、確認できている限り、光太郎が北海道の土を踏むことは二度とありませんでした。

3月21日(火)、竹橋の東京国立近代美術館さんをあとに、銀座に向かいました。午後2時開演の「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」拝聴のためです。

会場は王子ホールさん。昨秋開催された「えつ子とまき子のコンサート 2022秋」と同じでした。
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作曲家・朝岡真木子氏の歌曲作品を、7人の歌手の皆さんが歌われるというコンセプトで、基本、独唱ですが、二重唱あり、合唱ありと、飽きさせない構成になっていました。
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今回は「第6回」と冠されており、継続的に行うには、やはりアップデートが必要なのでしょう。初演の新作を含むプログラムでした。

歌詞は現役の詩人の皆様から提供を受けたものが多く、絵本作家としても活躍されているこわせたまみ氏、金子みすゞ顕彰でも名高い矢崎節夫氏など、作詞者の方々がほとんどいらしていまして、終演後に紹介されていました。詩の選択は書き下ろしなのか、朝岡氏が旧作からセレクトして使わせてもらっているのかまでは寡聞にして存じませんが。

というわけで、新作もあれば、二重唱や合唱なども盛り込まれていたため、歌い手さんたちはそれなりに練習が大変だったでしょう。それを言えば、ピアノは全て朝岡氏ご本人で、幕開けからカーテンコールまで出ずっぱり。そのあたりの大変さをお客様に気取られないようにされるあたり、プロですね。

で、プログラム中に、組曲「智惠子抄」から2曲、「千鳥と遊ぶ智恵子」「値ひがたき智恵子」。こちらは最近、メゾソプラノの清水邦子氏の持ち歌的な感じになっており、やはり清水氏の歌唱でした。

過日、ご紹介いたしましたが、清水氏、組曲「智惠子抄」CDをリリースされ、公的にはこの日が発売日でした。そこで、受付でコンサート自体のプログラムとともにフライヤーも配付されていました。
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清水氏と親しい、映画監督の水谷俊之氏(一昨年にNHK BSプレミアムさんで放映された「プレミアムドラマ山女日記3 #3 あどけない空・安達太良山」の監督もなさった方)、それから当方が書いたライナーノートの抜粋も印刷されています。恐縮至極。

オンライン販売も為されていますし、フライヤー裏面はFAXでの注文書になっていまして、必要な方は下記画像を印刷してお使い下さい。
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PXL_20230321_060411330開演前、第1部と第2部の間の休憩時間、それから終演後、ロビーに物販コーナーが設けられ、このCDも並びました。

わずかながら制作に協力させていただいた身としましては、売れ行き等気にかかるもの。少し離れた場所からチラ見しておりました(笑)。そこそこ売れていたようです。ただ、他の歌手の方がリリースされたCDも多数並んでいたため、「智惠子抄」のみが飛ぶように売れるというわけにはいかなかったようですが。「智惠子抄」を買われた方には「えらい!」と、心の中で賛辞を送らせていただきました(笑)。

日比谷松本楼さんで4月2日(日)開催の第67回連翹忌の集い会場内でCDの販売も致しますし、朝岡氏、清水氏には「智惠子抄」から抜粋で演奏していただく予定です。

ご参加なさる方、お楽しみに。また、これから参加したいという方、まだ受付中です。コメント欄(非公開設定可)からお申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

濱田葆光氏作画展覧会 自二月十一日 至二月二十日
濱田葆光氏は、所謂「ヸルヂニテエ、デモオシヨン」を蔵する画家にして、熱心なる自然の真の探求者に御座候。今回、品川海岸の研究画を主として、氏の油画十数点の展覧会を弊堂に於て相催し候間幸に御抂駕御一覧の程偏に願上候 神田区淡路町一丁目一番地 琅玕洞

明治44年(1911)2月10日 水野葉舟宛書簡より 光太郎29歳

葉舟宛、というより広く送られた案内状と推定されます。

琅玕洞」は、前年、光太郎が開店した画廊。日本の画廊の中では最初期のものです。名目上の店主は、実弟の道利でした。ここでは正宗得三郎、柳敬助、斎藤与里、濱田葆光ら親しかった新進美術家の個展をたびたび開きました。濱田葆光は太平洋画会研究所に学び、中村不折、満谷国四郎に師事した画家です。「ヸルヂニテエ、デモオシヨン」は、「無垢な凄み」とでもいった感じでしょう。
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昨日は都内に出ておりました。

主たる目的は、銀座王子ホールさんでの「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」拝聴でしたが、その前に竹橋の東京国立近代美術館さんで「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」を拝見。
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名品の数々がこれでもかこれでもかと並んでおり、予想通り、クラクラしました(笑)。

やはり当方にとって一番の目玉は、光太郎の父・光雲の「老猿」。トーハクさんその他で何度も見ている作品ですが、何度見ても見飽きることがありません。
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マルチアーティスト・井上涼さんが「黙すれど語る背中」と評されましたが、その通りですね。

トーハクさんでの展示より、間近で観ることができました。毛並みの一筋一筋、手に持った猛禽の羽根など、それを彫る光雲の息づかいも聞こえてきそうです。
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台座にあたる岩の部分は仏像彫刻の様式が色濃く残っており、やはり仏師なんだなぁと。

材はトチノキ。当初、光雲はもっと白いと思っていて、白猿を彫るつもりでいましたが、栃木鹿沼の山から入手したあとに意外と赤いことに気付き、年老いた猿に変更したとのこと。ちなみに当初は「老猿」ではなく、「猿」一文字でした。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛の「北条虎吉像」。碌山美術館さん蔵の石膏原型です。ブロンズ彫刻の場合、文化財指定は鋳造されたものではなく、原型で指定されることがありますので。
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そのあたりで「大人の事情」があるのでしょう、同じ守衛の「女」は今回の展示には出ないそうです。

その他の作品、特に光太郎や光雲とつながりの深かった作家の作品、光太郎や光雲とのつながりなどについても紹介したいところですが、それを書き始めると10日ぐらいかかりそうなので、割愛します。

続いて常設的な「MOMATコレクション」を拝見。こちらには重要文化財指定はされていないものの、負けず劣らずの逸品がズラリ。

光太郎の「手」
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光太郎生前に鋳造された3点のうちの一つ。有島武郎旧蔵のもので、木彫の台座は光太郎の手になるもの。有島や、有島から受け継いだ秋田雨雀の名が記されています。仮に今後、「手」が文化財指定されるとしたら、これが指定されるような気がしています。「北条虎吉像」や「女」のように石膏原型が、ということになると、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周の弟子筋に当たり、光太郎作品の鋳造を多く手がけ、やはり人間国宝だった故・斎藤明氏旧蔵の石膏原型があるにはあるのですが、それがいつどのように取られた型なのかなど、当方、寡聞にして不分明です。
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さらに光太郎が敬愛してやまなかったロダンの「トルソ」、そして守衛の「女」(鋳造)。
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さらに守衛の「坑夫」。パリ留学中、光太郎がこれを見せられ、ぜひ石膏にとって日本に持ち帰るようにと進言した作品です。光太郎、グッジョブ(笑)。
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「重要文化財の秘密」の図録をゲット。この手の図録には珍しくハードカバーでした。それだけに3,300円とお高め(笑)。重量が1.3㎏を超えていました(笑)。昼食はコンビニのパンで済ませても、迷わずこれを買うのが当方です(笑)。
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展示入れ替えのため、昨日の時点では出ていなかった作品(黒田清輝「湖畔」など)、「大人の事情」で今回は展示されない作品(「女」の石膏原型や竹内栖鳳「斑猫」など)の図版もしっかり掲載されていますし、詳細な作品解説、論考も3本(大谷省吾氏「重要文化財の「指定」の「秘密」」、同じく「東京国立近代美術館における近代日本美術展をふりかえる」、花井久穂氏「「唯一」と「複数」――近代の美術/工芸)の重要文化財指定をめぐって」)。

ぜひ足をお運びいただき、図録もお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

浜町の下宿は馬鹿に気持が可い。大工の神さんの内職の様だ。生活に秩序がついた様な気がする。

明治43年(1910)12月(推定) 水野葉舟宛初刊より 光太郎28歳

この月から翌月にかけ、わずか2ヶ月足らずですが、日本橋浜町31番地の「松葉館」という下宿で独り暮らしをしました。

本日開幕、銀座の画廊での展示です。

高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達

期 日 : 2023年3月20日(月)~4月6日(木)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜・祝日休廊  土曜不定休
料 金 : 無料

日本の近代彫刻の歴史はロダンの影響をうけた荻原守衛と高村光太郎からはじまる。高村光太郎訳「ロダンの言葉」(1916年)は当時の若い芸術家に多大な影響をあたえた。ロダンから出発し独自の造形を確立することになる3人の彫刻家を紹介します。

高村光太郎 1883 - 1956
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佐藤忠良 1912 – 2011

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舟越保武 1912 - 2002
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柳原義達 1910 - 2004
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光太郎のブロンズが数点。画像で見えるのは、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「野兎の首」(昭和20年代)、「十和田湖畔の裸婦群像のための中型習作」(昭和28年=1953)。他にも出ているかもしれません。

そして、光太郎のDNAを受け継ぐ、次世代の彫刻家である佐藤忠良舟越保武柳原義達の作品も。それぞれの個性、逆に4人に通底して流れる普遍的な「生命へのオード」的なものなどに注目して観ると面白いでしょう。

当方、明日、銀座王子ホールさんでの「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」を拝聴に上がりますので、こちらも廻ろうかと思いましたが、残念ながら日曜・祝日休廊とのこと。

代わりに、というわけでもありませんが、竹橋の国立近代美術館さんでの「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」を拝見してこようと思っております。時間があれば常設の「MOMATコレクション」も。こちらでは光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)や、なぜか「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」に出ていない、荻原守衛の「女」(明治43年=1910)も展示されています。

【折々のことば・光太郎】

僕は何も為ないで暮してゐる。暮せないのに暮してゐる。どうにか暮さうと考へながら暮してゐる。


明治43年(1910)10月16日 津田青楓宛書簡より 光太郎28歳
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留学仲間だった画家で京都在住の津田青楓に宛てた、自画像入りの葉書。

昨日も書きましたが、前年に欧米留学から帰って、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界とは距離を置くことを決意しましたので、彫刻を作っても発表する機会は無し、自分で売りさばくことも無名の自分には不可能、という状況でした。

昨日ご紹介した、竹橋の東京国立近代美術館さんで明日から始まる「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」展につき、主催に名を連ねている『毎日新聞』さんに予告報道が出ています。

東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密 東京で17日から 問題作が傑作へ、変遷たどる

 「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が17日から東京国立近代美術館(東京都千代田区)で始まる。重要文化財に指定されている明治以降の絵画・彫刻・工芸51点による豪華な展覧会だ。本展を企画した同館の大谷省吾副館長が見どころを解説する。
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 東京国立近代美術館は1952(昭和27)年12月1日に開館し、さきごろ開館70周年を迎えた。本展はこれを記念し、ほぼ同時期の55年から近代美術の指定が始まった重要文化財に焦点を当てるものである。2023年3月現在、重要文化財に指定されている明治以降の絵画・彫刻・工芸は全部で68件だが、本展はそのうち51点を集めた、これまでに類のない展覧会である。とはいえ、ただの名品展ではない。本展は重要文化財イコール名品として手放しで礼賛するのではなく、「なぜ、これが重要文化財なの?」と考えてもらうことを真のねらいとしている。
 重要文化財の指定基準のひとつに「各時代の遺品のうち製作優秀で我が国の文化史上貴重なもの」というのがある。だが「優秀」で「貴重」とする評価の基準は何だろう? 明治以降の美術は、それ以前からの伝統的な美意識と、新たに西洋から伝えられた美術との間でさまざまな葛藤を経ながら展開してきたし、近代美術とは本質的に、それ以前のものの見方を批判的に乗り越えようとしながら新しいものを作り出そうとしてきたから、評価の基準も単純ではないのだ。だから本展のキャッチコピーに“「問題作」が「傑作」になるまで”とあるように、重要文化財に指定された個々の作品が、発表当時はどのような批評を受け、それが時代の変遷とともにどのように評価を変え、そしてどのような理由で重要文化財に指定されるに至ったのかを検証していくと、さまざまな面白いことがわかってくる。以下、主要な作品をいくつかご紹介したい。
  横山大観「生々流転」は、描かれてから今年でちょうど100年になる。発表された展覧会の初日に関東大震災が起きたが、作品は幸いに救い出された。全長40メートルに及ぶ大作で、重要文化財に指定されたのは67年。描かれてから44年後のことで、史上最速の重要文化財指定作品である。
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 この作品と同じ年に、洋画で最初に重要文化財に指定されたのが高橋由一の「鮭」である。この67年とは、翌年が明治100年にあたり、日本中で明治文化の見直しが行われていた時期だった。日本の伝統的な画法では表現できなかった立体感や質感の描写が、西洋からもたらされた技法によって可能となったことへの素直な驚きと喜びが見てとれる。
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 この年、やはり明治時代の名品として指定の候補に挙げられながら、選に漏れて保留となったのが黒田清輝「湖畔」と高村光雲「老猿」だった。
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この2点が重要文化財に指定されるのは、意外にもごく最近、99年のことである。どうして67年当時、選に漏れたのか。99年に指定されたときは、どんな理由だったのか。それらを調べていくと、近代日本美術の評価の基準が時代とともに更新されてきたことが見えてくる。そしてその背景には、近代日本美術史研究の深まりがあることも理解できるだろう。 さまざまな価値観が交錯しているからこそ、近代日本美術は面白い。その魅力をぜひご堪能いただきたい。

音声ガイド、新井さんが初挑戦
 音声ガイドナビゲーターは、ナビゲーター初挑戦のフリーアナウンサー・新井恵理那さんと、声優・小野大輔さんが務める。貸出料金650円(税込み)。
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図録 通販サイトでも
 会場特設ショップのほか、本日より通販サイト「まいにち書房」(https://www.mainichi.store/)でも公式図録を予約販売する。出品作品はもちろん本展不出品の重文指定品を含む全68件のカラー図版と作品解説を収録した充実の一冊。発送は22日以降。送料別。図録はA4変型判。1冊3300円(税込み)

「老猿」の重文指定についての裏話は存じませんでした。そのあたり、図録所収の論考等で触れられているのではないかと思われます。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

日本に住んで居るといふ外は 僕と日本とは今の処没交渉です。Ah!


明治43年(1910)5月12日 南薫造宛書簡より 光太郎28歳

旧態依然の日本美術界(その頂点の一つが、父・光雲)と距離を置き、独自の道を行こうとする意志の表出です。しかしそれは、茨の道でした。

都内から企画展情報です。

東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密

期 日 : 2023年3月17日(金)~5月14日(日)
会 場 : 東京国立近代美術館 千代田区北の丸公園3-1
時 間 : 9:30-17:00(金曜・土曜は9:30-20:00)
休 館 : 月曜日(ただし3月27日、5月1日、8日は開館)
料 金 : 一般 1,800円(1,600円) 大学生 1,200円(1,000円)
      高校生 700円(500円) ( )内は20名以上の団体料金

東京国立近代美術館は1952年12月に開館し、2022年度は開館70周年にあたります。これを記念して、明治以降の絵画・彫刻・工芸のうち、重要文化財に指定された作品のみによる豪華な展覧会を開催します。とはいえ、ただの名品展ではありません。今でこそ「傑作」の呼び声高い作品も、発表された当初は、それまでにない新しい表現を打ち立てた「問題作」でもありました。そうした作品が、どのような評価の変遷を経て、重要文化財に指定されるに至ったのかという美術史の秘密にも迫ります。

重要文化財は保護の観点から貸出や公開が限られるため、本展はそれらをまとめて見ることのできる得がたい機会となります。これら第一級の作品を通して、日本の近代美術の魅力を再発見していただくことができるでしょう。

1.史上初、展示作品すべてが重要文化財
明治以降の絵画・彫刻・工芸の重要文化財のみで構成される展覧会は今回が初となります。明治以降の絵画・彫刻・工芸については、2022年11月現在で68件が重要文化財に指定されていますが、まだ国宝はありません。本展ではそのうち51点を展示します。

2.「問題作」が「傑作」になるまで 指定の歩みから浮かび上がる近代日本美術史
明治以降の作品が最初に重要文化財に指定されたのは1955年。以降、いつ、何が指定されたかをたどっていくと、評価のポイントが少しずつ変わってきているように見えます。それはすなわち、近代日本美術史の研究の深まりの反映でもあるでしょう。

3.東京国立近代美術館所蔵の重要文化財全17件を公開
10年前の開館60周年記念展「美術にぶるっ!」展では当館の所蔵品・寄託作品計13点の重要文化財をまとめて展示しましたが、今回はその後に指定された作品や国立工芸館の鈴木長吉《十二の鷹》、そして2022年11月に新たに指定された鏑木清方《築地明石町》《新富町》《浜町河岸》三部作も加えた17件を、初めてまとめて公開します(会期中展示替えがあります。鏑木清方三部作の展示期間は3月17日~4月16日です)。作品保護のため、会期中一部展示替えがあります。
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関連イベント(講演会)

本展出品作品の所蔵館の方および日本近代の絵画・彫刻・工芸の専門家による講演会です。各美術館・博物館のコレクション形成史をメインに、本展の出品作品にも触れながらお話しいただきます。

3月25日(土)
 第一部 14:00-15:00(開場は13:40)
  登壇者:伊藤嘉章(愛知県陶磁美術館総長、町田市立博物館長)
 第二部 15:30-16:30(開場は15:10)
  登壇者:貝塚健(公益財団法人石橋財団アーティゾン美術館 特命事項担当学芸員)
4月8日(土)
 14:00-15:00(開場は13:40)
  登壇者:大谷省吾(東京国立近代美術館副館長)
   UDトーク対応(字幕表示あり) 協力:国立アートリサーチセンター
4月15日(土)
 第一部 14:00-15:00(開場は13:40)
  登壇者:古田亮(東京藝術大学大学美術館教授)
 第二部 15:30-16:30(開場は15:10)
  登壇者:舟串彩(公益財団法人永青文庫学芸員)
■会場 東京国立近代美術館 地下1階講堂
■定員 各回140名(先着順)
■参加方法
各日12:00より、1階インフォメーションカウンターにて整理券を配布します。
3月25日、4月15日は一部のみ、二部のみの参加も可能です。一部と二部どちらも参加希望の方は、それぞれの参加券をお受け取りください。

というわけで、現在68件が重要文化財に指定されている明治以降の絵画・彫刻・工芸のうち、51点が展示される展覧会です。

そこで、光太郎の父・光雲作の「老猿」(東京国立博物館所蔵)も出ます。
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「老猿」を所蔵しているトーハクさんでは、昨年、「国宝 東京国立博物館のすべて」展が開催され、こちらでは膨大な所蔵品の中から国宝89件すべてが展示されました。同時開催の常設展示ではこの「老猿」も展示されており、SNS上では「国宝も素晴らしいが、常設の「老猿」も超インパクト」的なコメントが目立ちました。

他にも教科書や何かでお馴染みの作品がズラリ。出品目録はこちら

それぞれ、様々な機会に別個に見ることはあっても、まとめて見られる機会はめったにありませんね。当方、拝見に伺う予定ですが、おそらく頭がクラクラしそうです(笑)。
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ところで、素朴な疑問。上記画像にもある岸田劉生の「麗子微笑」など、一連の「麗子像」のタイトルを「智恵子抄」と勘違いしている人が実に多いのです。
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なぜなんでしょうね?

閑話休題、「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

Mr.Ogihara, a friend of mine, is dead suddenly. I am here by by his tomb. You cannot imagine how I am sad! April 26th


明治43年(1910)4月26日 バーナード・リーチ宛書簡より 光太郎28歳

昨日のこの項でも書きましたが、親友だった碌山荻原守衛が突然没したのが4月22日。旅行中の奈良でそれを知らせる電報を受け取った光太郎、信州穂高の守衛の墓に馳せ参じました。

それを知らせるバーナード・リーチ宛の葉書。普段、端正な文字を書く光太郎が、この時はまるで殴り書きのような筆跡。大文字と小文字が入り乱れ、むちゃくちゃです。それだけに激しい動揺が伝わってきます。文言的にも「君には僕がどれほど悲しんでいるか解るまい!」。まるで八つ当たりです。
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昨日も引用した、水野葉舟の「日記の中より(故荻原守衛氏に対する記憶)」から。

 その高村君が留守に寄られた時にこのやうな挿話があつた。これはほんの一つの挿話に過ぎぬが自分はそれを聞くと鋭く胸に映るものがあつた。
 その挿話といふのは斯うである。丁度二十二日の午前一時か二時の頃高村君が宿屋の室で寝て居た。すると誰かがそつと障子を開けて入つて来た。と思ふと床(とこ)の上から非常な力で圧されて苦しくつてたまらなかつた。と思ふと目が覚めた。深更であつたが両側の室にはまだ燈火がついて居た。
 丁度その時刻に荻原氏は死んだのであつた。後になつて考へると実に恐くつてたまらぬ、実に今度こそ非常な経験をしたものだと言つたさうだ。
 奈良から帰つた高村君は信州に行つた。その途から自分に当てられた端書及び帰つて来てからの端書にも、非常に興奮して居る様子であつた。自分は平常沈んだ心の静かなこの友人が、このやうに興奮したので自分にも重いものを負つて居るやうに心を動かされた。


奈良の宿屋でのエピソード、現在確認できている限り、光太郎自身は書き残していません。それを自ら公表するのも不謹慎だと思ったのでしょうか。

ところで、守衛の「北条虎吉像」も重要文化財指定を受けていますので、上記「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」に展示されます。

昨日も都内に出ておりました。行く先は初台の東京オペラシティさん。こちらのリサイタルホールにて、テノール歌手紀野洋孝氏のテノール・リサイタルを拝聴。
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ご本人がコロナ感染のため、昨年12月に予定されていながら延期となったもの。こういうと何ですが、逆に延期になったため日程の都合がつきまして、伺った次第です。ネットでチケットの予約をさせていただき、受付で当日精算しようとしたところ、「ご招待」扱いになっていて恐縮してしまいました。

前半はイタリアのトスティ、そして山田耕筰。
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久々にテノールの方の独唱を拝聴しましたが、やはり生で聴く演奏はいいですね。会場も大ホールではなく、さりとてこぢんまりというわけでもなく、適度な広さで、お一人で歌われるには丁度良いと思われました。あまりに狭い会場だと声や伴奏だけがストレートに飛んできますが、適正な広さのホールですと、しっかり残響がありますし、何というか、空間全体がある種の楽器のような感じがします。もちろん、紀野氏の確かな歌唱力あってのことですが。

後半が故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄(改訂新版)」全9曲。
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楽譜を以前に入手、それを見ながらCDでは拝聴したことがありましたが、生演奏で聴くのは初めてで、興味深く感じました。

今回の演奏会パンフレットに引用されていた別宮氏の言葉によれば「高村光太郎のこの詩集は私の青春の愛読書のひとつ、いつかは作曲したいと思っていたのだが、周知のように、各篇長大で詩句も長く、扱いかねていた。しかしオペラ作曲の経験をへて、なんとかできるのではないかとおもうにいたり、一九八二年夏、三ヶ月ばかりかけて作った」とのこと。なるほど、確かにオペラ的要素が色濃く感じられました。

それはまず構成の妙。第1曲「人に」(「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」で始まる「智恵子抄」巻頭の詩、大正元年(1912)の作)から第4曲「晩餐」までは、光太郎智恵子恋愛時代の詩。いわばまだ幸福だった時代。第5曲「あどけない話」(「智恵子は東京に空が無いといふ」のフレーズで有名な昭和3年(1928)の作)がターニングポイントとなって、後半は心を病んだ智恵子と、その死が謳われます。まぁ、この点は「組曲」として作曲されている多くの方々が同じようなことを考えられてはいるのでしょうが、中には後から後からどんどん曲を追加、というスタイルでやられている方もいらっしゃるもので……。

それから、昨年リリースされた紀野氏のCDのライナーノートに「オペラ作曲で得た、能の謡などを応用して日本語と西洋音楽を融合させる技術を用いた」とあり、なるほど、確かに「和」のテイストもふんだんに盛られているな、と感じました。

そういったもろもろを、紀野氏があますところなく表現され、聴いている方としては、至福の時間でした。

終演後のMCで、紀野氏、「日本人として日本語の歌曲をしっかり歌えるようでありたい」的なお話をなさいました。実は外国語の方が歌いやすかったりするもので、子音が立たず、アクセント等も平板な日本語はドラマチックな表現には不向きです。そこで昨今のJ-POP系の皆さんは、あえてそうしているのでしょう、鼻濁音という美しい日本語の伝統を捨て、がっつりと濁音の「ガギグゲゴ」。まぁ、これは音楽に限らずで、テレビ等、アナウンサー諸氏までもで、憂うべき事態だと思っています。もっとも、広い日本国内には鼻濁音というものがほぼ存在しない地域もあるそうですが……。

さて、紀野氏のリサイタル、3月6日(月)には紀野氏の故郷、大分での公演もあるそうです。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

多分四月頃スペインへ参りませう。グレコとヹラスケスとゴヤを見に参るのです。和蘭太や白耳義や独乙へは多分参りますまい。伊太利へも参れますまい。希朧も同様、埃及もポチポチ。

明治42年(1909)1月26日 南薫造宛書簡より 光太郎27歳

ロンドンで一緒だった留学仲間・南薫造にあてたパリからの書簡の一節。光太郎、スペイン旅行を企てていたことが記されています。しかし、これは実現せず、逆に「参れますまい」と書いているイタリアへ約1ヶ月の旅行に出、ルネサンス期の逸品の数々を眼にします。

埃及(エジプト)は、おそらく親友・荻原守衛が盛んにそのプリミティブな美を褒めそやしていた影響で興味を持ったものと思われます。光太郎、晩年には平凡社刊行の『世界美術全集』のエジプトの巻で実に的確かつ詳細な解説を書いています。

コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、感染対策を施した上で4年ぶりに下記の通り開催致します。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。詳細な案内文書等必要な方は、当ブログコメント欄等までご連絡下さい。郵送いたします。コメント非公開希望の方はその旨お書き添え下さい。

                                     
                                        
日 時  令和5年4月2日(日) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
            JR山手線・京浜東北線 有楽町駅 地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅下車

松本楼地図
会 費  11,000円(含食事代金)

御参加申し込みについて

 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(水)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
 基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。

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 ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。
 申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 ご送金後、急な御都合でご欠席の場合、3月30日(木)までにご連絡下さい。
 後日、返金致します。
 当日、会場でも参加受付を致しますが、座席等確保のため、事前のお申し込みをお願い致します。
 当日お申し込みの場合も、名簿等作成の都合上、事前に連絡いただきたく存じます。
 事前連絡があれば会費納入は当日に現金でも結構です。
  
 複数名の方で御参加の場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、参加なさる方のご氏名をあらかじめお知らせ頂ければ幸いです。


配布物について
 会場でパンフレット、チラシ等配布をご希望の方は、150部ほどご用意頂き、3月31日(金)必着にて下記までご送付下さい。当日、皆様に配布致します。残部は当日欠席の関係各位に送付いたします。特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構ですが、公序良俗に反するもの、配付する価値を認めがたいもの等はお断りいたします。当日、御持参頂く場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。

 〒100-0012東京都千代田区日比谷公園1-2日比谷松本楼 連翹忌宛 (必ず明記) tel 03-3503-1451

当日、お時間に余裕のある方には配付資料袋詰め等をして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、ご協力の程、よろしくお願い致します。当方、3時頃には会場に入って居ります。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

また、中止としておりました間、当会顧問であらせられた北川太一先生御夫妻をはじめ、多くの関係の方々の訃報が相次ぎました。それらの方々の追悼も兼ねた催しとさせていただきます。

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

前にボーグラム先生より今年の成績の賞として、七十五弗をもらひ候間、旅費は早速出来候。


明治40年(1907)5月(推定) 東京美術学校校友会宛書簡より
光太郎25歳

昨日のこの項でご紹介しましたが、ニューヨークの美術学校「アート・ステューデント・リーグ」で翌年度の授業料免除の特待生に選ばれた光太郎。しかし、次なる目的地、ロンドンへ渡ることにしており、授業料免除の特典が無駄に。すると、同校で教鞭を執り、かつて光太郎を助手に雇ってくれた彫刻家・ガッツオン・ボーグラムが、免除分を現金で支給するという配慮をしてくれました。そのため大西洋を渡る船賃が出来、渡英することとなります。

イベント等が少なくネタ不足の状態ですので、昨日から、逆にネタが多すぎて書く余裕が無かった昨秋のレポートをまとめています。

今日は昨年11月10日(木)、中央区日本橋の三越さん本店内にある三越劇場さんで、一色采子さん、松村雄基さん主演の「朗読劇 智恵子抄」を拝見した前後。周辺の光太郎・光雲ゆかりの場所についてです。

千葉の田舎にある自宅兼事務所から都心までは、高速バスで行くことが多いのですが、本数も限られていますし、時折、高速道路の渋滞に巻き込まれ、遅延が生じます。そこで余裕を持って出て、早く着いたら着いたで目的地周辺で時間を潰すというのが習い性となっています。

この日はまず、小網町方面へ。八重洲地下街のバスターミナルからてくてく歩き、10分少々。日本橋川にかかる鎧橋に到達。
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橋のすぐ近く、現在の小網町安田ビルさんのある場所が、かつて「メイゾン鴻乃巣」というカフェでした。光太郎も主要メンバーだった芸術至上主義運動「パンの会」の集いがたびたび開かれた店です。ただ、「パンの会」は広く招待状を発送し、大々的に行う「大会」と、中心メンバーのみが集う「例会」があり、こちらでは「大会」はなかったようです。
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ビルの前に説明板。光太郎の名も記されています。
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以前にもこの場所を訪れたことがありましたが、やはり感慨深いものがあります。

ちなみに智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』のメンバーだった尾竹紅吉は、ここでカクテル「五色の酒」をあおり、それを『青鞜』誌上にレポートしたところ、「女だてらに!」と、今で言う「炎上」状態。そういう時代でした。

近くには、都心にもかかわらず、空襲の被害を免れたと思われる建物もちらほら。
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その後、三越本店さんへ。三越さんも関東大震災後の昭和2年(1927)建築の部分が残っており、現役の百貨店でありながら重要文化財に認定されています。以前にも書きましたが、当方、学生時代の4年間、三越さんで配送のアルバイトをしていましたので、親しみを感じます。

「朗読劇 智恵子抄」開演までまだ時間がありましたので、屋上へ。こちらには喫煙コーナーがあるので、煙草吸いには貴重なスポットです(笑)。

どうも知る人ぞ知る、のようですが、屋上には庭園も。
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そしてその一角に、三井家ゆかりの三囲(みめぐり)神社さん。
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通常、非公開でこの日も見ることは叶いませんでしたが、光雲作の「活動大黒天」が安置されています。
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戦時中に建立された石碑には光雲の名が。
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「活動大黒天」、いつかはこの目で見たいものです。

この後、館内の三越劇場さんで「朗読劇 智恵子抄」を拝見しました。その際のレポートがこちら

帰りがけ、中央ホールも廻りました。こちらには佐藤玄々作の木彫「天女(まごころ)像」。佐藤は光雲の高弟・山崎朝雲に師事していましたので光雲の孫弟子にあたり、光太郎とも交流がありましたが、師の元を離れ、「朝山」の号を「玄々」と改めました。
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毀誉褒貶いろいろある像ですが、ど迫力、という意味では他の追随を許さないと思います。

というわけで、都心での光太郎・光雲ゆかりの地廻り。皆様もお時間のあるときにぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

I am sorry i cannot write you in full pages; but you may write me in the same way again; it is as you said, very good idea for studying English. Now, I hope you will be strong, energetic, faithful and noble every day, Your Brother Mitsutaro.


明治39年(1906)12月24日 高村豊周宛書簡より 光太郎24歳

留学先のニューヨークから、実弟にして当時旧制中学校生だった豊周にあてた書簡から。

英語のよい勉強になるから、お互いに英文で手紙をやりとりしようというわけで、いい兄貴ですね。「 I hope you will be strong, energetic, faithful and noble」、自分自身に言い聞かせているようにも感じられます。














キーワード「智恵子抄」で検索していてヒットしました。

まずJAZZ系のライヴだそうで。

Summer Time Valentine Live 

期 日 : 2023年2月11日(祝・土)
会 場 : ライブ居酒屋キンのツボ 東京都世田谷区用賀2-36-13
時 間 : 19:00~ 3ステージ
料 金 : ライブチャージ:3,000円

出 演 : ジャズ<Summer Time> Nalmi (vo)  奥吉聡子 (pf)  多田和弘 (b)  戸村幹 (ds)

用賀 キンのツボにてサマータイムのLiveです♪ 毎回、文Jazzの新作を披露させて頂いておりまして、この度は、あたためている、智恵子抄を…と思っております。バレンタインLiveなので、愛する気持ちをテーマに演奏できたらと思っております。
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ヴォーカルのNalmiさんを中心に、「文JAZZ」と称し「文学作品とジャズとを融合させて、朗読と歌と生演奏で表現。」だそうです。これまでにも宮澤賢治作品等を取り上げられたとのこと。

光太郎とジャズ、意外と面白い化学反応が起こりそうな気がします。「歌物語」でたびたび「智恵子抄」を取り上げて下さっている潮見佳世乃さんも、バックボーンはジャズの方ですし。

もう1件、打って変わって市民講座です。

高村光太郎 智恵子抄を中心に

期 日 : 2023年2月18日(土)
会 場 : 御国野公民館 兵庫県姫路市御国野町御着1142-8
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料
講 師 : 森本穫先生(元賢明女子学院短期大学教授 生涯学習大学講師 文学博士)

作者が妻智恵子への愛をつづった詩集『智恵子抄』。テレビドラマや映画化もされた有名な作品です。定員:25人(公民館窓口・お電話にて受付中)。マスク着用でお越しください。 
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姫路というと、光太郎智恵子とはゆかりの薄い土地(光太郎の父・光雲とは多少のゆかりが)ですが、こうして「智恵子抄」がらみの講座を開催してくださるとはありがたいところです。

今日ご紹介した2つのイベントの間に挟まる日程で、クラシック系のコンサートもあるのですが、また改めて取り上げさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

調べ始め候処中々大仕事にて迚も一寸とはまゐらず此の夏の休暇頃出来得べくは又来りたしと存ずる程に候。


明治38年(1905)5月11日 高村光雲宛書簡より 光太郎23歳

旅行先の奈良から実家に送った書簡より。この際には興福寺の諸仏を熱心に見せてもらいました。光太郎、飛鳥時代や奈良時代の仏像にはかなり心酔し、のちの自作にもそのテイストを盛り込んだようです。

ところで、この項、少し前から書簡から抜き出していますが、膨大な光太郎書簡、あちこちに掲載されているためまだ慣れず、時系列が多少前後しています。すみません。


昨日は都内に出ておりました。

まずは「龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―」を拝見。『智恵子抄』初版版元の龍星閣主・澤田伊四郎と竹久夢二にスポットを当てた展示で、『智恵子抄』関連の展示はないだろうと思いこんでおりましたところ、「いや、あるよ」という情報をご提供いただきまして、伺った次第です。

会場の日比谷図書文化館さん。
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連翹忌の集いの会場としてお借りしている日比谷松本楼さんと同じく、日比谷公園内にあり、松本楼さんを横目に見ながら参りました。ちなみに今年4月2日(日)には、4年ぶりに連翹忌の集いを開催する予定で、会場は押さえてあります。詳細はまた後ほど。
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会場内、撮影可でした。

メインは龍星閣さんから千代田区さんへ寄贈された夢二作品でしたが、その前段的に、出版人としての澤田の紹介がなされ、『智恵子抄』を世に出したことにも触れられていました。
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『智恵子抄』の各種の版とともに、光太郎から澤田宛書簡も。
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平成30年(2018)、龍星閣さんから同町に光太郎関連資料が大量に寄贈された中に含まれるものでした。

図録も販売されており、このあたりも記述があります。1,500円也です。
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その後、メインの夢二関連。
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大正期に人気を博した夢二ですが、昭和に入って、戦中・戦後すぐまでは一旦、忘れられかけていたとのこと。その夢二を再発掘したのが澤田だそうで、「夢二をやる。ブームにしてみせる。見ているがいい」と、語り、画集の出版などでそれを実現させました。

それにしても、出品点数が実に多く、入場無料なのでもっと小規模な展示かと思っていたのですが、あにはからんや、でした。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

またまた老大家諸先生の御勉励には実に小生ら感憤いたさんずれば無之候。評判の象評判の如くにて候 小生らは偏に感心仕候


明治33年(1900)9月25日 加藤景雲宛書簡より 光太郎18歳

加藤景雲は光太郎の父・光雲の高弟の一人。後にこうした先輩やアカデミズム系の彫刻家の作品をけちょんけちょんにディするようになる光太郎ですが、この頃はまだ筆鋒おだやかです。

「象」は「像」の誤りでしょう。あるいはこの頃は「像」という表記がまだ確立していなかったのかも知れません。

この書簡、現在、売りに出ています。値段は88万円也です。
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003またお一人、生前の光太郎をご存じだった方が亡くなりました。

中西利一郎氏。光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエの大家さんだった中西家の子息です。昭和12年(1937)のお生まれでしたので、今年のお誕生日で満86歳になられるはずでした。

元々アトリエは氏のお父さまにして新制作派の画家だった中西利雄画伯が自宅敷地内に建てたものでしたが、画伯が急逝し、その後、貸しアトリエとなりました。光太郎の前には、やはり彫刻家のイサム・ノグチが使っていたとのこと。

光太郎がこちらに入ったのは、昭和27年(1952)10月。青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のためでした。以後、昭和31年(1956)に亡くなるまで基本的にこちらで過ごした光太郎と、氏は3年半、同じ敷地内で生活されたわけです。光太郎一周忌だった昭和32年(1957)4月2日の第一回連翹忌もこちらで行われました。そもそも連翹忌の「連翹」は、光太郎が歿した時にもここの庭に咲いていて、光太郎が愛した連翹に由来します。

そうした関係で、氏には連翹忌の集いにたびたびご参加いただきましたし、当方も三回、中野のご自宅にお伺いしました。そして、光太郎遺品の数々などを拝見。

氏が光太郎からもらったお年玉の熨斗袋(熨斗袋といいつつ、原稿用紙を折りたたんで作ったものです)それから外出もままならなくなった最晩年の光太郎が氏のお母さまに買い物を頼んだ際の膨大なメモ。

アトリエを借りることが決まった際に、蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村から氏のお母さまに宛てた葉書、氏のお母さまと光太郎の2ショット写真。

これらは光太郎に関わる企画展や、ATV青森テレビさんで放映された「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」という番組などで紹介されたこともあります。

同番組から。
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中西氏、平成13年(2001)5月15日には花巻の高村山荘敷地内で行われた第44回高村祭で「高村光太郎先生の思い出」と題し記念講演もなさいました。

その抜粋。

 昭和27年10月13日、予定通り、光太郎先生は中野においでになりました。
 レインコートにリックサックを背負って、長靴をはき、登山帽をかぶって…私は、当時、中学三年生、子供心に、大きな体の飾りけのない、えらい先生が見えたと今でも記憶に残っております。「銀河鉄道の夜」や「雨ニモマケズ」の宮沢賢治は知っていても国語で習っていないせいか、高村光太郎先生が、彫刻家で、詩人で、日本のえらい先生とは深く知りませんでした。
 ただ、えらい先生が、アトリエへ見えて、彫刻をおつくりになるのだと聞かされていました。のちに教科書や新聞、本などで知るようになったのですが、一人、家の人が増え、おじいちゃんが出来たぐらいの認識でした。
(略)
 昭和29年春頃から光太郎先生は体調のことを気にされ、肋間神経痛で痛むことを耳にするようになりました。それまでは、先生もお元気で、中野桃園通り商店街で、先生の買い物のお姿を見かけたり、肉屋さん、八百屋さん、果物屋さん、お寿司屋さんでも有名になっていました。後日談で先生にお手洗いを貸して、先生の体をささえてあげたという自転車屋さんの話を今でも聞きます。登山帽をかぶり、長靴をはいて、レインコートを着て、カゴを持った先生のお姿は体が大きいだけに、やはりめだってみえたのでしょう。
(略)
 ところが、昭和30年5月にはベッドをもとめられて、アトリエの中二階から階下で休まれるようになさいました。母がベッドの購入のお手伝いをしたようです。
(略)
 その頃から買い物は母が先生からメモ書きをお受けしてやっていたようで、そのメモが残っていて、先生の生活の一片がわかります。
 母から聞いたエピソードをちょっとお話ししてみます。「先生はお肉がお好きで、歯がないのに、じょうずにひれ肉を焼いて、きれいに食べられるのよ」とか智恵子さんの御命日には「今日は智恵子の命日だから」と言って、二人分の夕食を用意して、会話しながら食べるのだという話を母から聞いて、私は、先生の御気持ち、やさしさが充分すぎる位にわかりました。
(略)
 昭和31年三月下旬に入ると、容態が急変して、看護婦さんもつけることになりました。3月22日だったと思います。私は学校が春休みに入ること、大学受験、卒業式とでガタガタしておりましたが、心配でたまりませんでした。
 アトリエには面会謝絶の紙が貼られて、母屋には心配する見舞いの方々で大変でした。光太郎先生は何度となく喀血をくり返して、衰弱がひどくなってゆかれました。
(略)
 そして、四月一日は、寒く、午後から雪が降り出し、夜になっても牡丹雪となって、しんしんと降り続いた。夜になって草野心平先生が「酸素吸入をしている」ということで、会合を抜けて、雪の中を駆けつけてこられました。

(略)
 深夜十一時半頃、アトリエから母屋へ戻られた草野心平先生は「今夜は落ちついて、休まれているから、だいじょうぶだろう」とおっしゃって帰られて行きました。
(略)
 うとうとする一時が経ったでしょうか。アトリエからのブザーが鳴りました。
(略)
 そのブザーの音を聞いて、私たちも飛び起きました。「これは大変だ。容態が急変したのだ」と……。あとは、言いつけられるままに、私は弟と中野駅へ雪の中を走りました。
 中野駅に出ても、タクシーが思うようでなく、ガードをくぐった北口の方で、やっと一台をつかまえることが出来ました。運転手さんにすかさず、行先大久保の地図を示し、事情を告げて、急いでもらいました。
 「草野先生、草野先生、光太郎先生が……」と戸をたたいて、呼びかけました。「あぶないから」と。
 草野先生は帰られて、数時間もたたないうちに起こされたのですから、意を察して、準備され、すぐに中野アトリエへと急行です。時間は3時30分頃だったと思います。四時頃、中野に着いた時にはあれだけ降っていた雪もやんでいました。
 我が家の表門には車が一台とまっていて、降り立ったのは高村豊周先生御夫妻でした。
 光太郎先生永眠は3時45分、臨終に居合わせたのは、私の母と看護婦二人だったと聞いています。
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 亡くなられた二日は、にわかに弔問客で、わけもわからず、我が家も忙しくなった。
 私達は居場所もないほど、ゴッタ返し、葬儀の準備に入り、三日を通夜、四日の告別式は青山斎場に決まった。
(略)
 私は事務進行の北川太一先生を御案内して、近くの長谷川葬儀社へ出向いて、葬儀の依頼をしたことを覚えています。いまだにその葬儀社の息子さんから、その時のことを聞かされており、オヤジさんは、それこそ、一世一代のお棺を徹夜で作ったそうです。
(略)
 葬儀の日の祭壇は建築家の谷口吉郎先生の設計で、実にシンプルに、大谷石の台の上に、白木のひつぎが安置され、そのひつぎの上に高村規氏の撮影による光太郎先生の微笑むチャンチャンコを着た写真、コップに入った連翹の花一枝がかざられたものでした。
 葬儀も悲しみの中でとどこおりなく終わり、沢山の人におくられて、落合火葬場で、荼毘に附されました。
 私は火葬場の片隅で、煙突から出る煙をみながら、しばし、先生のお姿と、創られた詩を思い浮かべながら、偲んでいました。
(略)
 光太郎先生は旅立たれたのだ。
 私達に素晴らしい作品を、詩や文を、そして思い出を残して。私は立ちつくし、ただ空を眺めて涙をこらえていました。
 私にとって、光太郎先生との出会いは、深い思い出となって、今も残っています。

中西氏、同様のお話を連翹忌の集いなどでお話し下さったこともおありでした。そうした際に良きおじいちゃんのようだった光太郎を偲ばれながら語られていた氏のお顔が忘れられません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

くもり冷、 朝出血あり。 后岡本先生くる、注射 土方定一氏くる ハマクリ 斎藤新吉さんくる 玉子 〈中西夫人に三井通帳托〉


昭和31年(1956)3月30日の日記より 光太郎74歳

土方定一氏」は美術史家にして心平主宰の『歴程』同人、「斎藤新吉さん」は智恵子の妹・セツの夫です。

その死の3日前、これが光太郎の絶筆となりました。

翌日にはまだ意識があり、訪れた心平から心平編集、筑摩書房発行の『日本文学アルバム 高村光太郎』のゲラを見せられ、「That's the endか、人の一生なんか妙なもんだな」とつぶやいたそうです。

それにしても、光太郎の絶筆を紹介する日に、中西氏の訃報をお伝えすることになるとは、その奇縁に驚いております……。

『智恵子抄』初版の版元・龍星閣さんの創業者・澤田伊四郎に関わる企画展が開催中です。企画展自体は光太郎と直接関わらないと思いますが、関連行事が気になります。

追記:光太郎智恵子コーナーもあるそうです。

龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―

期 日 : 2023年1月7日(土)~2月28日(火)
会 場 : 日比谷図書文化館 東京都千代田区日比谷公園1-4
時 間 : 午前10~午後7時
休 館 : 1月16日(月) 2月20日(月)
料 金 : 無料

 現在千代田区が所蔵する「龍星閣旧蔵竹久 夢二コレクション」は、元々区内にある出版社・龍星閣(りゅうせいかく)が収集した竹久 夢二に関する作品群です。龍星閣の澤田 伊四郎さんは、「埋もれたもの、独自なものを掘り出して世に送ること」を出版理念に掲げ、精力的に夢二の作品を収集し、作品集にまとめて次々と世に送り出しました。そうした澤田の取り組みが、一時下火となっていた夢二を復活させ、現在にもつながる夢二ブームを生み出しました。
 本展では、夢二ブーム再燃のきっかけを作った龍星閣の取り組みとともに、その原点となった龍星閣が築き上げた「竹久 夢二コレクション」を紹介します。コレクションの目玉である夢二の肉筆作品のほか、最初期の作品とされる「揺籃」や夢二の自伝的小説「出版」の挿絵原画なども公開予定です。また本コレクションの中から、「女性」「子ども」「植物」「船」の描かれた4つのモチーフをもとに、「大正ロマン」の象徴とされる夢二作品の面白さも紹介します。

関連講座

「龍星閣創業者 澤田 伊四郎:出版にかける情熱」
 日時:2月4日(土曜日)午後2時
 会場:日比谷図書文化館4階 スタジオプラス
 講師:安田隼人さん(秋田県小坂町立総合博物館郷土館)
 参加費:500円 (注意) 事前申込抽選制(定員40名)
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関連講座のうち、2月4日(土)開催のもの。澤田の出身地である秋田県小坂町の総合博物館郷土館さんの学芸員・安田隼人氏が講師を務められます。

平成30年(2018)、龍星閣さんから同町に光太郎関連資料が大量に寄贈されました。『高村光太郎全集』に漏れていたものも含む光太郎から澤田宛の書簡、光太郎が贈った署名本などなど。それらを拝見するために、同館を二度訪れましたが、その際に大変お世話になりました。
東北レポートその1 秋田小坂。
東北レポートその2 青森十和田湖。
GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。

また、その後、岩手花巻の高村山荘(光太郎が戦後の7年間蟄居生活を送った山小屋)、高村光太郎記念館さんを訪れた際、たまたま同氏も小坂町の一般の方々を引率なさって訪れられていたのにも遭遇しました。

講座の副題が「出版にかける情熱」ということですので、『智恵子抄』その他の光太郎著書についても触れられるのではないでしょうか。現物は無理としても、光太郎署名本の画像等、講座内で提示されるかも知れません。

実は申込期限が過ぎているのですが、まだ定員に達していない可能性、キャンセル等があることも考えられますので、ご紹介しておく次第です。

ちなみに企画展自体は、上記プレスリリースの通り、竹久夢二がメインです。光太郎関連は小坂町さんに寄贈されましたが、夢二関連は平成27年(2015)、千代田区さんに寄贈され、これまでも東京ステーションギャラリーさんなどで展示が為されています。

死蔵とならないようこうして機会を設けて展示する千代田区さんの姿勢にも、頭が下がりますね。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

くもり冷 看護婦変る、 孟彦くる 新潮田中女史くる 原稿渡し 草野さんくる、 藤間節子さんくる


昭和31年(1956)3月28日の日記より 光太郎74歳

その死の5日前です。「孟彦」は実弟の藤岡孟彦、「藤間節子さん」は「智恵子抄」を舞踊化した人物。

原稿」は雑誌『新潮』に載った「アトリエにて」という連載の第10回にして最終回「焼失作品おぼえ書」です。当会の祖・草野心平の日記から。

高村さん新潮の原稿一枚書く。(アトリエにてを八枚書いてあつたが、一枚書き足す)ビツクリする。新潮社田中さんきたり原稿をもつてかへる。今日は可成り元気。NHKから来た果物を食べるといはれる。

しかし、いわゆる蠟燭の炎が消える前の一瞬の輝きだったようでした。

昨日開幕した杉並区立郷土博物館さんの企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」を拝見して参りました。尾崎喜八は杉並に暮らしたこともあり、光太郎と交流の深かった詩人です。

同館には平成29年(2017)、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎書簡を拝見するため訪れましたので、2度目でした。

最寄りの光太郎京王井の頭線永福町駅。光太郎のDNAを受け継いだ彫刻家・佐藤忠良の作品。
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徒歩十数分で同館に到着。
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豪農の家だったところに建てられており、長屋門は昔のまま、裏手には母屋も。
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敷地内の本館は近代的な建築です。
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観覧料100円を払って、早速拝見。
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当然、尾崎の生涯についての展示がメインで、著書や草稿、遺品、尾崎の写った写真パネル、写真が趣味だった尾崎が写した写真パネルなどなど。著書も数十冊をずらっと並べると圧巻の見映えでした。

そして交流のあった人々ということで、光太郎との関わり。光太郎が尾崎の結婚祝いに贈ったミケランジェロの模刻「聖母子像」、光太郎から尾崎宛の葉書(昭和21年=1946)も展示されていました。驚いたことに、帰ってから調べましたところ、この葉書は『高村光太郎全集』に漏れていたものでした。尾崎宛書簡は全集に10通ほど掲載されており、そのうちの1通だろうとたかをくくっていたのですが、違いました。

それから、尾崎が撮影した光太郎写真、尾崎一家(妻・實子――光太郎の親友・水野葉舟の息女、長女・榮子)と光太郎の写真(いずれも駒込林町の光太郎アトリエ兼住居で撮影)。集合写真は4人が写っている部分を引き伸ばした形でよく拝見しますが、元版は背景の光太郎アトリエの窓や二階の出窓などがしっかり写っていて、驚きました。最近、建築としての光太郎アトリエに興味を惹かれているもので。
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他に光太郎とも交流のあった人々についての展示も興味深く拝見しました。尾崎岳父にして光太郎の親友・水野葉舟、思想家の江渡狄嶺、彫刻家の高田博厚、「ロマン・ロラン友の会」で一緒だった片山敏彦、当会の祖・草野心平など。

意外だったのは、上井草にホームグラウンドがあったプロ野球の球団「東京セネタース」との関わり。球団歌の作詞をしたり、選手や監督とも個人的な交流があったりしたとのこと。これは存じませんでした。

図録が刊行されていました。A4判48ページで600円。入館料100円といい、実に良心的です(笑)。しかし600円と侮るなかれ、充実の内容です。
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ぜひ足をお運びの上、お買い求め下さい。会期は来年2月19日(日)となっています。

【折々のことば・光太郎】

午后四時半中西夫人くる、桑原さん澤田さん草野さんくる、支度して五時過退院、ハイヤー2台、 伊藤信吉氏奥平さんアトリエにくる、 無事に過ごす、横臥 玉ずしの夕食、

昭和30年(1955)7月8日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核の悪化で4月末に赤坂山王病院に入院しましたが、退院。しかし、治癒したわけではなく、逆に治癒の見込みも薄く、といって、今すぐどうこうというわけでもないので、それなら高い入院費を払い続けるより、自宅療養に切り替えることにしました。この後は「チーム光太郎」ともいうべき医師団が代わる代わる往診に訪れます。

都内で光太郎にもからむ内容の企画展です。

企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」

期 日 : 2022年12月17日(土)~2023年2月19日(日)
会 場 : 杉並区立郷土博物館 東京都杉並区大宮1丁目20番8号
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日・毎月第3木曜日(祝日と重なった場合は開館、翌日休館)
      12月28日~1月4日
料 金 : 100円(中学生以下、障害者手帳を提示する方および付き添いの方は無料)

詩人・尾崎喜八(1892年~1974年)は、白樺派から出発し、杉並で「自然と文学」の金字塔となる作品を多く遺しました。大正12年(1923年)の関東大震災後に作家・水野葉舟(みずのようしゅう)の親友であった農業思想家・江渡狄嶺(えどてきれい)の導きで現在の高井戸東に新居を構えた尾崎は、翌春、水野の娘・實子(みつこ)と結婚してそこに暮らしました。のち、昭和19年(1944年)まで、現在の南荻窪、善福寺と戦前の杉並に住み、野鳥研究家・中西悟堂(なかにしごどう)とは自然・野鳥を、詩人・片山敏彦(かたやまとしひこ)とは海外の新しい文学を探求して、『山の絵本』などの博物誌を書きました。また、ノーベル賞作家ロマン・ロランと交友してその文化使節を杉並に迎えるなど、世界文学とのつながりを持ちました。

本展では、寄贈を受けた資料の中から、尾崎がガラス乾板・写真に残した100年近く前の杉並の農村風景や生態系の様子とともに、深い交流のあった高村光太郎ら文学者とのかかわりなどを紹介します。
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関連行事 石黒敦彦氏講演会 
 第1回 「詩人・尾崎喜八」 令和4年12月18日(日曜日)
 第2回 「口語自由詩と昭和の杉並・武蔵野」 令和5年1月15日(日曜日)
 時 間 午後2時 から 午後4時 まで
 対 象 中学生以上の方
 場 所 郷土博物館
 講 師 石黒敦彦氏(尾崎喜八孫・東京工芸大学講師)

詩人・尾崎喜八はおそらく『白樺』を通じて光太郎の知遇を得たのではないかと思われますが、光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子と結婚し、さらに光太郎と深く交流するようになったようです。光太郎は結婚祝いにミケランジェロの模刻「聖母子像」を夫妻に贈りました。

令嬢の故・榮子さん。当方、2度ほどお会いしましたが、生前の智恵子をご存じでした。令孫の石黒敦彦氏はご健在で、連翹忌の集いにもたびたびご参加下さっています。

石黒氏の依頼で、少しだけ協力させていただきました。尾崎一家を高井戸に招いた思想家・江渡狄嶺と光太郎のからみについて。光太郎は江渡が拓いた農場に建てられた霊堂「可愛御堂」の設計を担っていまして、そのあたりについて資料を提供しました。

光太郎、葉舟、尾崎、江渡、さらにそこにロマン・ロランつながりで片山敏彦や渡仏前の高田博厚なども加わった人脈が形成されており、非常に興味深いところです。

当方、初日の12月17日(土)に伺う予定です。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃理髪くる、350円払、


昭和30年(1955)5月20日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核悪化による、赤坂山王病院入院中の一コマです。入院はしたものの、危篤状態というわけでもなく、調子のいい時には床屋さんを呼んで理髪してもらったりもしていたようです。

昨日は、日本詩人クラブさんという団体の2022年12月例会にお招きいただき、都内に出ておりました。基本、クローズドのイベントでしたので、このブログではご紹介していませんでしたが。

会場は新宿区の早稲田奉仕園さん。
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キリスト教系の施設ですが、この中にリバティホールというスペースがあり、そちらで。下記は開会前です。
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講演を仰せつかりまして、約60分、喋らせていただきました。
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日本詩人クラブさんでは、ほぼ毎月、「例会」を催され、その都度さまざまなテーマを設定なさっています。今年5月は西条八十を取り上げ、9月には「国際交流」とのことでインドの詩人の方をお招きしたということでした。

で、12月例会は光太郎。会員であらせられる曽我貢誠氏、宮尾壽里子氏がご推挙下さって、当方が講演をすることに。以前からそういうお話があったのですが、コロナ禍の関係で延び延びとなって、本来は『智恵子抄』発刊80周年に当たる昨年のはずだったようですが。

まぁ1年遅れではありましたが『智恵子抄』、そして太平洋戦争開戦の12月8日の翌々日ということもあり、さらに今年起こって今も続くロシアによるウクライナ侵攻にもからめまして、演題を「2022年の高村光太郎――ウクライナ、そして『智恵子抄』――」とさせていただきました。初版『智恵子抄』の刊行が太平洋戦争開戦前夜の昭和16年(1941)8月、収録詩の最後のあたりは泥沼化していた日中戦争との絡みも語られており、『智恵子抄』と戦争は切っても切り離せない関係にあります。

自分ではあまり見たくないのですが(笑)、YouTubeにアップされています。以前も書きましたが、人前でしゃべるのは抵抗はありませんがさりとて自信もありません。

後半は「高村光太郎「智恵子抄」朗読ドラマ――発刊80周年を過ぎて振り返る」。会員の皆さん、すなわち詩人の方々が演じられました。
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脚本は宮尾氏(上記画像左端)。以前から朗読のお仲間と同様の公演を何度かなさっていて、それをアレンジしたという感じでした。

プロの役者さんや朗読家の方ではなく、詩人の皆さんが演じられたわけですが、日頃から「言葉」に対して鋭敏な感覚を持たれているご一同、なるほどねと思わされるステージでした。こちらもYouTube動画に当方の講演の後に収録されています。当方の講演よりそちらをご覧下さい(笑)。

それにしても、詩人の皆さんがこういう団体を結成され、詩作だけでなくいろいろな活動を行われているということを、当方、お話を頂くまでよく存じませんでした。2月24日(木)に始まったロシアによるウクライナ侵攻に対しても、翌3月には早速反対声明を発表なさっていますし。そのあたりを踏まえ、日中戦争・太平洋戦争中に、光太郎はじめ、殆ど全てといっていい詩人達が犯した戦争推進協力の過ちを繰り返さないよう、まぁ、それ以前にそういう状況にしないためにも、詩人の皆さんの出来ることをなさって下さいとお願いして参りました。言わずもがな、かも知れませんが。

戦争と光太郎については、また近々、このブログで取り上げます。以上、レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

からだのいたみまだあり、中腰の位置の時痛し、


昭和30年(1955)5月5日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核による赤坂山王病院への入院が前月30日。入院はしても積極的な治療ができるわけでもなく、こういう状況でした。光太郎余命あと1年足らずです。

新聞報道を2件、ともに現在開催中の企画展示を紹介するものです。

まず、福岡は北原白秋生家・記念館さんの「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」。『読売新聞』さんの福岡版から。

北原白秋没後80年記念、ゲーム「文豪とアルケミスト」とタイアップ企画展…柳川・生家にキャラ等身大パネルも

 柳川市出身の詩人・北原白秋の没後80年を記念し、人気オンラインゲームとタイアップした特別企画展「~白秋と若き文士たち~」が、同市の北原白秋生家・記念館で開かれている。来年3月末まで。
 ゲームは「文豪とアルケミスト」で、本の中の世界を破壊する「 侵蝕(しんしょく)者」と、アルケミスト(錬金術師)の力でこの世に転生した文豪たちが戦う内容。ゲームを配信する合同会社「EXNOA」(東京)の協力で企画展が実現した。
 白秋の青春時代にスポットを当て、ゲームに登場する白秋や吉井勇、高村光太郎、室生犀星(さいせい )、萩原朔太郎(さくたろう)の等身大キャラクターパネルを展示。5人の作品や交流を、与謝野鉄幹が結成した新詩社の機関誌「明星」、青年文学者らの懇談会「パンの会」、白秋主宰の文芸雑誌「 朱欒(ザムボア)」の三つの時代に分けて紹介している。
 同館は「芸術の自由と享楽の権利を 謳歌(おうか)した若き文士たちの作品を、白秋生家のたたずまいとともに楽しんでほしい」と来場を呼びかけている。
 来館者には非売品のしおりをプレゼントするほか、クリアファイルやポストカードといったゲームとのコラボグッズも販売している。
 また、来年1月末まで「交声曲『海道東征』」展も同時開催している。「海道東征」は、晩年の白秋が病魔と闘いながら、1940年の皇紀2600年を祝って作った長編詩。「海ゆかば」などで知られる 信時潔(のぶとききよし)が、合唱や管弦楽のための交声曲として作曲を手がけた。
 展示会では、関連書籍やレコード、白秋が晩年まで愛用した机や原稿、仕事着など約30点が並ぶ。12月4日には柳川市内で初の演奏会が予定されている。
 開館時間は午前9時~午後5時。入館料は大人600円、高校・大学生450円、小中学生250円。問い合わせは同館( 0944・72・6773 )へ。
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続いて、文京区立森鷗外記念館さんで開催されている「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」。共同通信さんの配信記事で、全国の地方紙に掲載されたようです。神奈川近代文学館さんで開催されていた「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」展のレポートと2本立てでしたが、そちらは割愛します。

【逍遥の記(4)】肉筆の圧倒的な訴求力示す 災厄を力にした川端、来信から描く鷗外の輪郭

16歳と54歳の筆跡
 文京区立森鷗外記念館の特別展「鷗外遺産」も内覧会で見た。54歳のときに新聞連載として発表した伝記「渋江抽斎」の直筆原稿や、夏目漱石らから鷗外に送られた書簡など、近年続々と見つかっている新資料多数が初めてまとまった形で公開されている。
 「渋江抽斎」の原稿は16年の新聞連載(全119回)の49回と50回。49回はほとんど直しがなく、50回には目立った加筆や修正がある。記者会見した山崎一穎・跡見学園女子大名誉教授は「推敲の跡に注目してほしい。49回の方は新聞掲載後、事実の誤りが見つかり増補訂正されています」と解説してくれた。

 東大医学部の学生だった16歳のとき、生理学の講義を受けてまとめた冊子「筋肉通論」も新資料である。端正で几帳面な文字が印象的だ。54歳の「渋江抽斎」と16歳の筆跡を見比べることができるのも楽しい。人間性の深化は文字にどう表れているか。 鷗外宛ての書簡は、島根県津和野町の森鷗外記念館に新たに寄託された約400通のうちの一部。夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、高村光太郎、小山内薫…。差出人の名前を見ていくと、詩や短歌、俳句、美術や演劇などジャンルを超えて交流していたことが分かる。前期と後期合わせて15人からの18通を展示する。
 永井荷風からの10年の手紙は、近く創刊する雑誌「三田文学」の準備の様子を報告している。荷風は鷗外を師と仰ぎ尊敬していた。
 「雑誌体裁は凡(すべ)て短篇、(中略)寄稿者の署名は表題の下に印刷せず、文章の終りに廻(まわ)して見るつもり」「広告は凡て奥付ばかりに致したく」「兎(と)に角(かく)一号だけは、全く理想的に見本として発行致し度(た)き考(かんがえ)に御座候(ござそうろう)」とつづっている。
 多くの人からの鷗外宛て書簡を読んでいると、彼がどんな人間に囲まれ、どんなふうに交流しながら生きていたのかが分かる。鷗外の外側から、鷗外の輪郭が浮かんでくるようだ。 

 二つの展覧会に共通するのは、肉筆の訴求力だ。書いた人の心情やその時の情景にまで思いが及ぶ。想像は時空を超える。
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それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后永瀬清子さんくる、来月インド行の由、


昭和30年(1955)2月25日の日記より 光太郎73歳

永瀬清子は現在の岡山県赤磐市出身の詩人。光太郎とは戦前から交流がありました。永瀬が光太郎の借りていた貸しアトリエを訪れたのは、前年に続き二度目。「インド行」は、ニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨だった「アジア諸国民会議」に「婦人団体代表」として永瀬が参加したことを指します。

この日、永瀬に贈ったはなむけの言葉が、永瀬の主宰していた地方詩誌『黄薔薇』のこの年4月号に掲載されました。曰く「裏の山へ植林にいくようなお気持ちでいつてゐらつしやい」。なかなかそうも行かないと思うのですが(笑)。

昨日は、第65回高村光太郎研究会ということで、都内に出ておりました。同会、コロナ禍のため3年ぶりの開催となりました。

会場は文京区のアカデミー千石さん。
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ご発表はお二方。

『高村光太郎小考集』という書籍の御著者・西浦基氏。千葉県職員であらせられる安藤仁隆氏。
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西浦氏は「彫刻家・高村光太郎」と題し、様々な私見やヨーロッパで撮影された画像等ご紹介しつつ、光太郎の造型について語られました。
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安藤氏は、「旧居アトリエと智恵子抄ゆかりの田村別荘(その変遷と間取りについて)」。まず旧本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎住居兼アトリエについて、建築の方面からの実に詳細なアプローチ。光太郎自身が書き残した図面や文章、周辺人物の回想、さらに戦前の航空写真などから、建築系のソフトやCG等も駆使され、住居兼アトリエの姿を浮き彫りにされました。
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同様に、昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が療養のため半年余り滞在した千葉県九十九里浜の「田村別荘」についても。
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安藤氏、既に今年4月に発行された同会から発行された『高村光太郎研究(43)』に、二つの建物についての論考を発表なさっていますが、さらに詳細な点が解明されていました。

ところで、光太郎アトリエといえば、今回会場のアカデミー千石さんのロビーで、こんなものをゲットしました。「谷根千ゆかりの文人まっぷ」。文京区立本郷図書館さんの制作です。
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A4判を3枚、横につなげた判型で、その表裏両面に印刷されていますから、全6ページ。2ページずつ、地図、谷根千ゆかりの文人たち紹介、彼らの生没年表となっていました。

光太郎智恵子、光雲も。
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アカデミー千石さんのような文京区内の区立施設には、ほぼ必ず置いてあるのではないでしょうか。ご入用の方、探してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

宮崎丈二氏檜材(小)持参、


昭和30年(1955)2月23日の日記より 光太郎73歳

肺結核のため、ほとんど臥床していた光太郎ですが、木彫作品用の木材を手配を頼んでいました。結局、それを使って木彫作品が作られることはありませんでしたが。光太郎自身も無理だろうとわかっていたように思われるのですが、それでも入手するあたり、彫刻家としての「業(ごう)」のようなものを感じます。

宮崎丈二」は詩人。宮崎の親友で、光太郎が起居していた貸しアトリエを、宮崎と共に何度か訪れた浅野直也という人物が材木商でしたので、入手経路はその関係と思われます。

3年ぶりの開催です。

第65回高村光太郎研究会

期 日 : 2022年11月26日(土)
会 場 : アカデミー千石 東京都文京区千石1‐25‐3
時 間 : 14:00~17:00
料 金 : 500円 

研究発表
 「彫刻家 高村光太郎」 西浦基氏

 「旧居アトリエと智恵子抄ゆかりの田村別荘(その変遷と間取りについて)」
   安藤仁隆氏

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当方も加入しております高村光太郎研究会主催の研究会で、コロナ禍前は年に一度開催されていました。昔は年に数回ということもあったようで、65回目のようです。

発表されるのはお二方。

西浦基氏は『高村光太郎小考集』という書籍の御著者。

安藤仁隆氏は、一昨年の研究会でご発表の予定でしたが、コロナ禍のため中止となり、今回にスライド。今年同会から発行された『高村光太郎研究(43)』に、「光太郎・智恵子が暮らした旧居アトリエの建築について」及び「智恵子抄ゆかりの「田村別荘」(その変遷と間取りについて)」という論考2本を執筆されていて、そちらを元にされたご発表でしょう。

建築に造詣の深い同氏、タイトルの通り、旧本郷区駒込林町にあって、昭和20年(1945)の空襲で焼け落ちた光太郎アトリエ兼住居、そして昭和9年(1934)に智恵子が療養のため半年余り滞在した千葉県九十九里浜の「田村別荘」について、実に詳細な調査を行われています。最近もまた、新たな発見があったとお知らせいただきました。

研究会への参加はご自由に、です。組織としての会に加入せずとも、発表の聴講のみも可能です。ぜひご参加を。

【折々のことば・光太郎】

タバコ買ひに一寸外出、 
昭和30年(1955)2月9日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核のため、前年から臥床していることが多く、一時は外出もままなりませんでしたが、この時期は小康状態。おそらく前年5月以来の外出でした。

しかし、その用事が「タバコ買ひ」。肺結核なのに、自殺行為ですね……。

紹介すべき事項が多いので、4件まとめます。

まずは『岩手日日新聞』さん。花巻市東和町で開催中の「器とたのしむ光太郎ランチ」展の件。

光太郎ランチの原画紹介 東和・土沢カフェくるみ【花巻】

  彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が食べたレシピを色鉛筆画で紹介する絵本「器と楽しむ光太郎ランチ」の原画展は、花巻市東和町の土沢カフェくるみで開かれている。同市星ヶ丘の西堀みちよさん(66)が制作した色彩豊かな原画が並び、光太郎の食卓に光を当てている。21日まで。
 西堀さんはmichinoのペンネームで活動。これまで一般に作品を公開したことがなかったが、絵本を発行する花巻市のやつかのもりから依頼を受けて、初めて絵本の原画を制作した。
 展示されているのは原画と花をモデルにした絵画など19点。原画は昨年6月から制作しており、1月から12月までのその月に光太郎が食べた食事を描いている。西堀さんによると、道の駅西南で販売されている手作り弁当「光太郎ランチ」を食器に移し替え、絵のモデルにしたという。
 グリンピースご飯、ヨモギの天ぷら、そば粉のパンケーキなど緻密に再現され、光太郎の日記などから抜粋された食に関する一節も紹介されている。
 西堀さんは「彫刻が好きで高村光太郎のことは知っていたが、こんなレシピが残っているなんて担当するまで知らなかった。(原画は)料理が映えるように、自宅にあるさまざまな食器を利用した。多くの人に見ていただきたい」と笑顔を見せる。
 鑑賞無料。時間は午前10時から午後5時まで。問い合わせは土沢カフェくるみ=080(3334)3003=へ。
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続いて、八戸に本社を置く『デーリー東北』さん。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」もコースに入り、十和田湖周辺で今年から始まったウォーキングイベント「ONSEN・ガストロノミーウォーキング in カミのすむ山 十和田湖」について。ただし、「乙女の像」には触れられていませんでしたが……。

歩いて食べて十和田湖畔巡り ONSEN・ガストロノミーウォーキング

 温泉地を舞台に地域の食や自然、歴史と文化が体感できるコースを歩くイベント「ONSEN・ガストロノミーウォーキング in カミのすむ山 十和田湖」が12日、十和田湖畔周辺で開催された。青森県内外から約60人が参加し、各所に設定されたポイントに立ち寄り、湖畔の景観や食事を楽しんだ。
 ONSEN・ガストロノミーウォーキングは滞在型、体験型観光の推進や温泉地の活性化に向け、全国各地で行われている。十和田市版DMO(観光地域づくり推進法人)十和田奥入瀬観光機構が主催し、一般社団法人ONSEN・ガストロノミーツーリズム推進機構が協力した。
 十和田神社、石川啄木の碑などの観光スポットをつなぐ約6キロのコースと、地酒や地元産食材の料理を提供するポイントを設定。参加者は自分たちのペースで巡り、十和田バラ焼き、そばかっけを味わったり、同市無形文化財の民俗芸能「晴山獅子舞」を観賞したり、地域の魅力に触れた。ゴール後は食材や菓子、指定の4施設で使える入浴券を受け取った。
 黒石市から訪れた歯科助手高田絵梨さん(43)は姉妹2人で参加。「人混みもなくゆっくり楽しめた。疲れないコース設定で、もう少し距離があっても良かった」と語った。
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続いて『毎日新聞』さん。文京区立森鷗外記念館さんで開催中の特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」がらみ。

森鷗外記念館 直筆原稿や書簡、新発見資料を公開

 森鷗外の没後100年を記念し、東京都の文京区立森鷗外記念館で特別展「鷗外遺産」が開かれている。伝記「渋江抽斎」の直筆原稿や、夏目漱石らからの書簡など、近年見つかった資料が初めて一般公開されている。来年1月29日まで。
 「渋江抽斎」の原稿は1916年の新聞連載(全119回)の49回と50回。49回はほぼ直しがなく、50回は加筆や修正がある。「推敲(すいこう)の跡に注目してほしい」と山崎一穎・跡見学園女子大名誉教授。
 16歳の時、東大医学部で受けた講義をまとめた冊子「筋肉通論」も新資料として展示される。54歳の時の「渋江―」の筆跡と見比べたい。
   鷗外宛ての書簡は、島根県津和野町の森鷗外記念館に新たに寄託された約400通の一部。漱石、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、小山内薫らからで、美術、演劇などジャンルを超えて交流していたことが分かる。前期と後期で15人からの18通を展示する。
 詩人で彫刻家の高村光太郎の17年の手紙には「御引用になつた様なムチヤクチヤな事を考へた事もありません」とある。光太郎が「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と述べたと鷗外が思い込んだ。手紙はその誤解を解こうと書かれた。
 作家の永井荷風からの10年の手紙は、近く創刊する「三田文学」の構想を鷗外に報告している。 監修を務めた須田喜代次・大妻女子大名誉教授は「鷗外がどんな文化的風土で生きていたかが分かる。直筆の力を感じてほしい」と語る。
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最後に再び『朝日新聞』さん。作家の澤田瞳子さんによる『平櫛田中回顧談』の書評です。

『平櫛田中回顧談』 平櫛田中〈著〉 本間正義〈聞き手〉 小平市平櫛田中彫刻美術館〈監修〉 近代美術界の逸話惜しげもなく

005 平櫛田中(ひらくしでんちゅう)と聞いて、「あの彫刻家の」とすぐ思い至る方は、残念ながらそう多くはあるまい。ただ舞台をよくご覧になる方であれば、東京の国立劇場ロビーに飾られている田中の代表作「鏡獅子」をご覧になった折がおありかもしれない。
  本書は1965(昭和40)年、当時93歳の田中の口述を、美術評論家・本間正義が筆録したもの。ゆえあって未刊行とされていた原稿が、田中の生誕150年を機に約半世紀を経て出版された奇縁の回顧談である。
 田中は大阪での修業を経て1897(明治30)年に上京、高村光雲の門下となった。光雲同様に師と仰いだ岡倉天心や深い縁を結んだ禅僧・西山禾山(かさん)、はたまた「鏡獅子」のモデルとなった六代目尾上菊五郎などの思い出は活気に満ち、近代美術界の激動を眩(まばゆ)いほどに蘇(よみがえ)らせる。興味深いのは、当時の美術界の内幕までが垣間見えることで、たとえばある時、兄弟子・米原雲海の作品が宮内省に買い上げられたはいいが、実は子どもが犬にまたがった様を彫り出したその作は、鼻を削(そ)ぎ過ぎたために後から部材を接いでいた。「湿気がある頃になると取れるかもしれないぞ」という米原の困惑は、当人には申し訳ないがつい口元が緩む。
 田中は100歳を超えてもなお、いつでもすぐ作品に取りかかれるよう、手元に膨大な木材を蓄えていた。そんな彼ならではの材木や道具、伝統技法に関する逸話も読みどころの一つ。中に節がある木材の見分け方、樟(くす)や桐(きり)、榧(かや)といった木材ごとの長所と短所など、随所にちりばめられた実作者ならではの観察にはつい驚きの声が漏れる。
 岡倉天心にまつわる複数の艶事(つやごと)、「悲母観音」で知られる日本画家・狩野芳崖の死を巡る経緯など、なかなか他では読めぬエピソードが惜しげもなく披瀝(ひれき)される一方で、個々の田中作品の制作譚(たん)が豊富な図版とともに紹介される。
 日本美術界に新たな光を当てる貴重な一冊である。
    ◇
ひらくし・でんちゅう 1872~1979。彫刻家。東京芸術大教授を務める。1962年、文化勲章を受章。

以上、4件。ブログのネタがない時であれば、4日に分けてご紹介するところですが、まだまだ紹介すべき事項がたくさんありまして(10日先まで書く内容が決まっています(笑))、嬉しい悲鳴です。

【折々のことば・光太郎】

午后、東方亭の幸子さんくる、掃除のため毎週金曜日午后一時頃来て二時ばかり働いてもらふ相談、アルバイト1日400円、(お年玉1,000)


昭和30年(1955)1月4日の日記より 光太郎73歳

東方亭」は荒川区三河島にあったトンカツ屋。光太郎戦前からの行きつけの店でした。そこの長女・明子は医師となり、光太郎詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりしました。

幸子さん」は次女。肺結核のため力仕事がほぼ不能となったため、起居していた貸しアトリエの清掃等を頼むことにしました。

アルバイト」という語と概念、すでにこの頃にはあったのですね。

昨日は日本橋三越さん内の三越劇場さんにて、朗読劇『智恵子抄』東京公演を拝見して参りました。
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昨年も上演され、銀座ブロッサムさんでの公演に参上しましたが、今年はキャストも代わり、さらに劇伴がチェロとヴァイオリンの生演奏ということで、改めてパワーアップヴァージョンを拝見。
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当方、三越劇場さんは初めてでした。昭和2年(1927)の竣工と云うことで、レトロかつモダンな造り。テレビ東京さんの「新美の巨人たち」で取り上げられたほど特別なホールです。

開演前。
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PXL_20221110_050424776天井にはステンドグラス、壁面下部は天然大理石、上部は漆喰でしょうか。柵などはロココ調の装飾が見事です。

ステージはまるで額縁のように縁取られ、底部には三越さんの象徴とも云うべきライオン。一階正面玄関の有名なライオン像はロンドン・トラファルガー広場のライオン像の模刻で、普通のライオンですが、こちらは「ヴェネツィアの獅子」のような有翼の獅子です。一瞬、翼があるので日本橋欄干の渡辺長男による彫刻のように麒麟かと思ったのですが、ライオンでした。

材質的にはは石膏に着色しているようでした。気になったのでネットで調べてみましたが、作者に言及しているサイトは見つけられませんでした。

さて、開幕。
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オリジナルの脚本は、昭和32年(1957)、光太郎と交流のあった北条秀司が書いたもので、その年、初代水谷八重子さんによって上演されたもの。
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その後、水谷さんの再演がなされ、さらに藤純子さん(現・富司純子さん)、有馬稲子さんによる公演もありました。その都度、他の演目との兼ね合いなどで長かったり短かったりでした。

昨年の公演から、成瀬芳一氏構成と云うことで、オリジナルの脚本を75分ほどで上演出来るように改めたもので上演されています。ただ、今回の上演に当たっても、細部に少し手を入れられたそうですが。

キャストは、昨年に引き続き智恵子役に一色采子さん。こういうと失礼ながら、昨年は昨年で素晴らしかったのですが、今回はさらに智恵子になりきっていらしたと感じました。光太郎は昨年の横内正さんから松村雄基さんにバトンタッチ。若返った感じでした。
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さらに二反田雅澄さん、小川絵莉さんがそれぞれ複数の役を演じられました。終盤、お二人が光太郎蟄居先である花巻郊外旧太田村の村人役をなさいましたが、なんともナチュラルな東北弁。あれ? 東北のご出身なのかな、と思ったのですが、調べてみたところ、小川さんは東京、二反田さんにいたっては大阪のお生まれだそうで、驚きました。さすがプロですね。

そしてチェロとヴァイオリンのお二方。実にいい感じに雰囲気を作って下さっていました。

下記は終演後。
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明後日には、智恵子の故郷、福島二本松の旧安達町での公演もあります。楽屋口で一色さんに「二本松公演も頑張って下さい」とお声がけして、会場を後に致しました。

ところで、「朗読」「智恵子抄」というと、ついでのようになってしまって申し訳ありませんが、明日、京都でこんなイベントがあるとのこと。気づくのが遅れ、明日になってしまいました。

茶子 TeaTime 小さな朗読会 ~2022 秋~

期 日 : 2022年11月12日(土)
会 場 : 本屋ともひさし 京都市下京区烏丸通五条下る大坂町405
時 間 : 13:20~
料 金 : 500円

出 演 : Tea Time 茶子

小さな朗読会を開催します! 智恵子抄を8本程選ばせて頂きました。高村光太郎氏と智恵子さんの世界観をぜひお楽しみ下さい。
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ぽつりぽつりではありますが、いろいろなところで光太郎智恵子の世界を取り上げて下さり、有り難いかぎりです。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃鯉淵より孟彦くる、生徒さんら6人つれてくる、暫時談話、


昭和29年(1954)11月14日の日記より 光太郎72歳

鯉淵」は茨城県の鯉淵学園、現在も鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。「孟彦」は光太郎実弟にして藤岡家へ養子に行った光雲四男です。鯉淵学園に勤務していました。

この頃、離れて暮らしていた弟妹の訪問が相次ぎます。すぐ下の弟・豊周が「兄貴もそろそろやばいかも」という連絡を廻したのではないかと思われます。どっこいこの後もまだ1年半近く、光太郎の命の炎は燃え続けましたが。





昨日は都内に出ておりました。

まずは中目黒。めぐろ歴史資料館さんで昨日から始まった特別展「目黒の名工 千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」を拝見。
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明治生まれで既に故人となった目黒ゆかりの名工二人(道具鍛冶・千代鶴是秀と蒔絵筆師・小宮又兵衛)、昭和生まれで現在も目黒でご活躍中の刀装師・髙山一之氏の三人にスポットを当てたものです。

このうち、千代鶴是秀は光太郎と直接交流があり、光太郎は是秀作の彫刻刀を使っていまして、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展に出品されました。

今回の展示、是秀は朝倉文夫と交流が深かったため、台東区の朝倉彫塑館さん所蔵の是秀作品が数多く、さらに、平成29年(2017)に『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされた土田昇氏(土田刃物店さん)所蔵のものなどが展示されていました。

図録(700円)から。
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以前に朝倉彫塑館さんで拝見した記憶があるのですが、何度見ても素晴らしいものです。

昭和15年(1940)に土門券が撮影した光太郎の写真には、これとよく似た彫刻刀が映っています。
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もしかすると、これも是秀作かな、と思っております。

ただ、同じ日に撮影された別のショットでは、是秀っぽくない道具を使っています。まぁ、一つの彫刻を制作するにも色々な道具を使うのでしょうが。
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その他、是秀から朝倉宛の書簡なども多数展示されており、興味深く拝見しました。他の二人の「名工」の作も。

続いて、地下鉄を乗り継いで文京区千駄木へ。旧駒込林町の、光太郎アトリエにほど近い旧安田楠雄邸庭園さんが次なる目的地でした。こちらでは一昨日から「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」が開催中。
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こちらは、入り口の向きは逆なのですが、まさに髙村家(光太郎実家)の隣です。当方、昨年「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で講話をさせていただいて以来、約1年ぶりでした。

2階建ての1階では、髙村家所蔵の光雲作品や古写真など。
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2回の座敷では、昨年から今年にかけての、「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展東京藝大さん)、「髙村達写真展 髙村光雲の仕事」(日本写真会館さん)、「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」(長野県立美術館さん)などに展示された、光雲作品の写真タペストリー等(光雲令曾孫・髙村達氏撮影)が中心でした。
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達氏がいらしていて、久しぶりにお目にかかりました。コロナ禍前の令和元年(2019)の連翹忌以来だったでしょうか、久闊を除しました。この写真類をお借りして、当方が関わっている花巻の高村光太郎記念館さんあたりで企画展示が行えないものかと、そんな提案をしておきました。

安田邸をあとに、ここまで来たついでなので(笑)、指呼の距離にある光太郎旧居址。今は一般の住宅になってしまっています。
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その中間には、過日ご紹介した洋画家・近藤洋二が厄介になっていた、宮本百合子の実家。
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この案内板の前を通って、細い路地をくねくね行き、突き当たりを左折すれば光雲邸(光太郎実家)のあった現・髙村邸。さらに安田邸の裏門となります。

さて、「目黒の名工」は12月11日(日)まで、「となりの髙村さん展」は会期が短く11月6日(日)までです。さらに安田邸にほど近い文京区立森鷗外記念館さんでは、特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」も開催中です。それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后山端静子くる、果物をもらふ、丈夫のやうなり、155番地にゆきたる由、筆談、

昭和29年(1954)9月29日の日記より 光太郎72歳

山端静子」は光太郎のすぐ下の妹。現在、令孫が北鎌倉でカフェ兼ギャラリー笛を経営なさっています。この兄妹が会ったのは戦後2回目、そしておそらく光太郎生前最後だったようです。

155番地」は先述の光太郎実家。光太郎、しづ(静子)兄妹のさらに下の豊周が跡を継いで居住していました。

詩人で、朗読の活動もなさっている宮尾壽里子氏からご案内を頂きました。朗読系のイベントのようです。

満ちてゆく秋の午後 IN BON ART & 霜月 満月 一日遅れの誕生日

期 日 : 2022年11月8日(火)
会 場 : BON ART 東京都文京区本郷5-25-17
時 間 : 15:00~18:00
料 金 : 無料

軽食を頂きながら、みんなで歌って踊って語って楽しく過ごしませんか。一芸をプレゼントして下さい ♪
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昨年、フランスで刊行された仏訳『智恵子抄』・『Poèmes à Chieko』(当方が宮尾氏にお貸ししました)から、「山麓の二人」を朗読される方がいらっしゃるとのこと。

その他「詩人、役者、朗読者と賑やかな会」だそうです。また、「一芸をプレゼントして下さい ♪」だとのことですので、飛び入りも可なのでしょうか。

残念ながら、今月はあちこち顔を出す機会委が多く、当方は欠礼いたしますが、ご興味のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后岡本先生くる、診察、血圧をはかる、二度はかりしが、115度くらゐとの事、かなり低し、今夕死んだ水爆患者、久保山氏は85度とのこと、 平熱、

昭和29年(1954)9月23日の日記より 光太郎72歳

水爆患者、久保山氏」は、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験に巻き込まれた第五福竜丸の無線長です。被爆から約半年後のこの日、亡くなったとのこと。

血圧の「115」とか「85」は、最高血圧でしょうが、「115」で「かなり低し」……「うーむ」という感じです。当方、最近測っていませんが、最高は100ちょっと、下手すると2桁、最低は70くらいです。

直接は光太郎らに関わらないのではないかと思われますが……。

令和4年度めぐろ歴史資料館特別展 「目黒の名工 千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」

期 日 : 2022年11月3日(木・祝)~12月11日(日)
会 場 : めぐろ歴史資料館 東京都目黒区中目黒三丁目6番10号
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

大正から昭和前期にかけての目黒地域は、目黒川沿いを中心に工場地帯を形成していて、当時は、ものづくりの音の響く街でした。工業化が進む中でも伝統的な技術を継承し、ひたむきにその姿勢を貫き、現在でも名工として語り継がれている技術者もいました。本展では、目黒の2人の名工「千代鶴是秀(大工道具鍛冶)」と「小宮又兵衛(蒔絵筆製作)」に再注目してその業績を紹介します。また併せて、平成30年に国の「選定保存技術」保持者に認定された高山一之氏を現在の目黒区内で活躍中の名工として紹介します。

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関連行事 特別展「目黒の名工千代鶴是秀×小宮又兵衛×高山一之」記念講演会
現在、目黒区内の活躍中の名工で、国の選定保存技術保持者「刀装(鞘)製作修理」に認定されている高山一之氏、千代鶴是秀研究の第一人者である土田昇氏(土田刃物店店主)のお二人をお迎えして、令和4年度めぐろ歴史資料館特別展の記念講演会を開催します。また、当館蔵の小宮又兵衛「蒔絵筆製作道具一式」について当館学芸員が解説いたします。

 開催日 令和4年11月26日(土曜日)
 時 間 午後1時から
 場 所 めぐろ学校サポートセンター第1研修室(めぐろ歴史資料館と同じ建物です)
 講 師
  高山一之(国の選定保存技術保持者「刀装(鞘)製作修理」)
  土田昇(有限会社土田刃物店 店主 「千代鶴是秀研究の第一人者」)
  当館学芸員(当館蔵 小宮又兵衛「蒔絵筆製作道具一式」について)
 定 員 40名(応募多数の場合は抽選)
 申 込 ハガキ・ファックス・電子申請のいずれかでお申し込みください。
     令和4年9月30日(金曜日)から11月3日(木曜日・祝日)まで(必着)

取り上げられる三人のうち、千代鶴是秀は、伝説的道具鍛冶。光太郎と直接の交流があり、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展では、光太郎が使っていた是秀作の彫刻刀が展示されました。他に平櫛田中や朝倉文夫などが是秀の作品を愛用していました。

また、是秀の娘婿・牛越誠夫は石膏取り職人で、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を石膏に取っています。

関連行事の講演会講師に名を連ねられている土田昇氏、平成29年(2017)には『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

腫、猛暑、36.3 今年最高といふ、 来訪者なし、


昭和29年(1954)8月23日の日記より 光太郎72歳

地球温暖化が進行した現今、真夏の36℃ちょっとは当たり前になってしまいましたが……。

都内での演奏会情報2件、ご紹介します。

開催順に、まずクラシック系で、銀座。

えつ子とまき子のコンサート 2022秋

期 日 : 2022年11月6日(日)
会 場 : 王子ホール 東京都中央区銀座4-7-5
時 間 : 14:00開演
料 金 : 全自由席 一般¥4,500(当日¥5,000)

出 演 : 前澤悦子(ソプラノ) 朝岡真木子(作曲家・ピアノ)
ゲスト : 清水邦子(メゾソプラノ)、加賀清孝(バリトン)

演奏予定曲:
 朝岡真木子歌曲より
  歩こうよ(詩・戸張みち子)  ガラスのオルゴール(詩・今村佳枝)
  追憶の風(詩・木下宣子)   風といっしょに〔二重唱〕(詩・高木あきこ)
  黒豆のなっとう〔二重唱〕(詩・中野惠子)  組曲「あなたへ」(詩・星乃ミミナ)
  「智惠子抄」より あどけない話・レモン哀歌(詩・高村光太郎)
 〈初演〉ソプラノとバリトンのための「薔薇の園」(詩・岡崎カズヱ)
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作曲家・朝岡真木子さんによる歌曲のコンサートです。

先月24日、旧東京音楽学校奏楽堂さんにおいて行われた「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」で演奏された「組曲 智恵子抄」から抜粋で「あどけない話」と「レモン哀歌」が演奏されます。歌唱は同じく清水邦子さん、ピアノは朝岡さんご本人です。

今回は、メインの歌い手さんは前澤悦子さんという方で、さらにバリトンの方も参加なさり、さまざまな朝岡さんの作品が演奏されます。

もう1件、原宿からシャンソン系で。

新・智恵子抄 智恵子飛ぶ

期 日 : 2022年11月7日(月) 11月8日(火)
会 場 : アコスタディオ 東京都渋谷区神宮前1丁目23-27 赤星ビル
時 間 : 11/7 19:00~  11/8 15:00~  19:00~
料 金 : 前売り4,000円 当日4,500円

出 演 : モンデンモモ(歌・舞踊) 田中知子(ピアノ) 伊藤耕司(チェロ)

本当に自分として 『これがわたしです!』という作品ができましたので、ぜひみなさまにご高覧頂きたくご案内を出させていただきました!!

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「智恵子抄」をはじめとした様々な光太郎詩に、ご自分でオリジナルの曲をつけて歌われているシャンソン系歌手のモンデンモモさん。他にミュージカルの監督的なこともやられたりなさっていて、そのあたりがお忙しかったのでしょう、ひさびさに智恵子抄系に特化したコンサートです。今回は舞踊系の要素も取り入れつつ、だそうで。


それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后山口村の田頭さん奥さんと難波田さん夫人とくる、レモンスカツシ風にソーダ水をつくりて進ずる、


昭和29年(1954)8月22日の日記より 光太郎72歳

山口村」は誤りで正しくは「太田村」、光太郎が昭和20年(1945)から同27年(1952)まで蟄居生活を送っていた岩手の寒村です。「田頭(たがしら)さん」は屋号で、当主は高橋雅郎元太田村長。「奥さん」はアサヨといい、夫妻で何くれとなく光太郎の世話を焼いてくれていました。息女の故・愛子さんは最近まで光太郎の語り部を務められていました。

難波田さん」は洋画家の難波田龍起。かつてあった駒込林町の光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住んでいました。その夫人と高橋アサヨがどういう伝手(つて)で知り合ったのかは不明です。たまたま同時刻に光太郎が起居していた貸しアトリエを訪れただけかも知れませんが。

レモンスカッシ風にソーダ水」、遠く大正初めの智恵子との結婚直後、既に光太郎がこれと同じか、似たようなものを作って来客をもてなしていたことが、詩人・歌人の上田静栄の回想に語られています。

昨日は都内に出、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」に行っておりました。8月にご紹介した、新発見の鷗外直筆稿、鷗外に宛てた光太郎を含む諸家の書簡の一部が展示されているということで、拝見に伺った次第です。

東京メトロ千代田線の千駄木駅で下車、団子坂を上がりきると同館ですが、一旦通り過ぎ、そのまま歩きました。本郷通りにぶつかって左折すると、当会顧問であらせられ、晩年の光太郎に親炙された故・北川太一先生の菩提寺である浄心寺さんがあります。
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浄心寺さんには4月の連翹忌の日にも伺いましたが、その後、8月に奥様の節子様(やはり生前の光太郎をご存じでした)がお亡くなりになったので、墓参させていただきました。墓石側面には、北川先生と奥様の名が並んで刻まれ、それを見て改めてもうお二人ともこの世にいらっしゃらないのだなぁと、しみじみさせられました。

さて、改めて鷗外記念館さんで展示を拝見しました。
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光太郎から鷗外宛の書簡、一昨日に図録の一部をtwitterでご紹介されていた方がいらっしゃり、そういう関係というのは存じていましたが、実際に全文を読んで驚きました。「軍服着せれば鷗外だ事件」に関する長いものだったからです。

大正6年(1917)、光太郎数えで35歳、鷗外は同じく56歳。光太郎がかつて美校生時代の恩師であり文壇の重鎮だった鷗外をこき下ろしたというのです。後に昭和になってから光太郎が川路柳虹との対談で、詳細を語っています。

川路 いつか高村さんが先生のことを皮肉つて「立ちん坊にサーベルをさせばみんな森鷗外になる」といつたといふので、とてもおこつて居られたことがありましたなあ。(笑声)
高村 いやあれは僕がしやべつたのでも書いたのでもないんですよ。
川路 僕も先生に、まさか高村さんが……と言ふと、先生は「いや、わしは雑誌に書いてあるのをたしかに見た」とそれは大変な権幕でしたよ。(笑声)
高村 あとで僕もその記事を見ましてね、あれは「新潮」か何かのゴシツプ欄でしたよ。或は僕のことだから酔つぱらつた序に、先生の事をカルカチユアルにしやべつたかも知れない。それを聞いてゐる連中が(多分中村武羅夫さんぢやないかと思ふんだが)あんなゴシツプにしちやつたんでせう。それで先生には手紙であやまつたり、御宅へあがつて弁解したりしたのですが、何しろ先生のあの調子で「いや君はかねてわしに対して文句があるのぢやらう」といふわけでしかりつけられました。(笑)

立ちん坊」は、急な坂の下で重そうな荷車を待ちかまえ、押してやってお金をもらう商売。まぁ、まっとうな職業ではないという例です。他にも最晩年の高見順との対談でも、同様の発言をしています。

この中の「手紙であやまったり」の「手紙」が、新たに発見され、展示されているのです。

同展図録に画像と全文が引用されています。ぜひ足をお運びの上、実物をご覧になったうえでこちらもお買い求め下さい。
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書簡は便箋に2枚、びっちりと、これこれこういうことを自分が言っていると噂が立っているようだが、それはまったくのデタラメだし、自分は鷗外先生を心から敬愛しているので、そんなことを考えたこともありません、といった、まさに平身低頭(笑)。これが大正6年(1917)の10月7日付けでした。

噂が立っている、というのは、10月1日発行と奥付にある雑誌『帝国文学』に載った鷗外の「観潮楼閑話」というエッセイ中の次の一節によります。

高村光太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と書いたことがあるやうだ。簡単で明白で痛快を極めてゐる。

今回の光太郎書簡の中に、「今度出た『帝国文学』にこんなことが書かれているぞ」と、劇作家の小山内薫が教えてくれ、早速取り寄せて読んだとありました。「げっ!」と思った光太郎、急ぎ鷗外に弁明の手紙を送ったのでしょう。

これに対し、翌日の10月8日付で鷗外は以下の返信を送りました。

御書状拝見仕候 帝国文学談話中ノ貴君ノ言ハイツドコデ見タカ知ラズ候ヘ共アマリ奇抜ニ面白ク覚エシユヱ記憶シ居リフト口上ニ上シモノニ有之候 ソレ以上御書中御示被下候貴君ノ心事ニ付テハ長クノミナリテ詳悉シ難ク面談ナラバ小生ノ意中モ申上グルヿ(こと)出来可申カト存候 シカシ貴君ニ於テハ御聞ナサレ候モ無益ト御考へナサレ候哉モ不知候 果シテ然ラバソレマデノ事ニ可有之候 万一御聞被下候トナラバイツデモ可申上候 丁巳十月八日 森林太郎 高村光太郎様

漢文調で若干わかりにくいかと存じますが、先述の北川太一先生、『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』(平成21年=2009 北斗会出版部)中で、一言で要約されています。「いつでも会って話は聞くよ、君が聞いても仕方がないというのならそれはそれまでだけど」。ナイスな翻訳です(笑)。

この手紙を受け取った光太郎、自宅兼アトリエから彼我の距離にあった鷗外邸(観潮楼、現在、記念館の建つ場所)に走りました(たぶん(笑))。
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そして手紙にしたためたのと同様の弁明をしたようです。その件は翌年1月の「観潮楼閑話」に載りました。

 閑話は今一つ奇なる事件を生じた。それは高村光太郎さんが閑話中に引かれたことを人に聞いてわたくしに書をよせた事である。閑話に引いた高村光太郎氏の語は自ら記したものではなく、多分新聞記者の聞書などであつただらうと云ふことである。高村さんは又書中自分とわたくしとの間に多少の誤解があるらしく思ふと云ふ事をわたくしに告げたのである。わたくしは高村氏に答へて、何時にても面会して、こちらの思ふところを告げようと云つた。とうとうわたくしは一夜高村氏を引見して語つた。高村氏は初対面の人ではない。只今久しく打絶えてゐただけの事である。
 高村氏はかう云ふ。自分は君を先輩として尊敬してゐる。唯君と自分とは芸術上行道を異にしてゐるだけだと云ふ。わたくしは答へた。果して芸術上行道を異にしてゐるなら、よしや先輩と云ふとも、それがよそよそしい関係になるであらう。わたくしの思ふには、君とわたくしとは行道を異にしてはをらぬやうである。
(略)
 高村氏は私の言を聞いてこれに反対すべきものをも見出さなかつた。そして高村氏とわたくしとの間には、将来に於て接近し得べき端緒が開かれた。是は帝国文学が閑話を采録してくれた賜である。

どうやらこれで一件落着(笑)。

それにしても、今回の光太郎書簡には笑いました。これまで確認出来ていた光太郎から鷗外宛書簡5通は、どれも葉書一枚の簡略なもの、中には偉そうに「森林太郎殿」と表書きにしたためたものさえあったのに、一転してへいこらしている内容だったためです。

一つ残念だったのは、亡くなった北川太一先生に、この書状をご覧になっていただきたかったということ。先述の『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』中に次の一節があります。

釈明の手紙がただちに認(したた)められ、その手紙は現存しませんが、鷗外はこれもまたすぐ光太郎に、私なんかが見ると実に愛情深い返事を出していて、光太郎はその返事をもらった翌日に、すぐここ観潮楼を訪ねるのです。

その手紙が現存したわけですから。

ところで、『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』刊行の際に、北川先生から、全ての原因となった「「新潮」か何かのゴシツプ欄」の記事を探せ、という宿題を出されましたが、果たせませんでしたし、その後も見つかっていません。今度はそれを見つけて先生の墓前に報告させていただきたいものです。

さて、特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」。他にも夏目漱石、夏目鏡子(漱石の妻)、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、坪内逍遙、高浜虚子、中村不折、藤島武二、永井荷風ら、錚々たるメンバーから鷗外宛の新発見書簡等が出ています。また、これも新発見の鷗外直筆原稿の数々も。ぜひ足をお運び下さい。

展示を拝見後、関連行事的に行われました「朗読会 北原久仁香さんが「高瀬舟」をよむ」を拝聴しました。
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北原さんは、昨年、同館と光太郎旧居址の中間にある旧安田楠雄邸で開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、朗読をないました(講話は当方が担当させていただきました)。

驚いたことに、「朗読」といいつつ、それなりに長い「高瀬舟」を、暗誦なさったこと。素晴らしい!

同展、来年1月29日(土)と長い会期ですし、今後も関連行事が続きます。また、近くの旧安田楠雄邸では、過日もご紹介しましたが、「となりの髙村さん展 第3弾「髙村光雲の仕事場」」も予定されています(11月2日(水)~11月6日(日))。あわせてぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后日活の人くる、智恵子抄映画化のこと、断る、音楽映画の人四人くる、八田氏、早川氏其他、映画化のこと、断る、


昭和29年(1954)8月5日の日記より 光太郎72歳

『智恵子抄』の映画化。実現したのは光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)、熊谷久虎監督、原節子さん、山村聰さん主演による東宝映画でしたが、光太郎生前から映画化の話はたびたびありました。

この日の「日活」と「音楽映画」はそれぞれ別口で依頼に訪れています。「音楽映画」は新東宝で、前月末にも光太郎の許を訪れていました。いずれも実現しませんでしたが。

都内からのイベント情報です。

となりの髙村さん展 第3弾 「髙村光雲の仕事場」

期 日 : 2022年11月2日(水)~11月6日(日)
会 場 : 旧安田楠雄邸 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00 
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般700円 中高生400円

2009年、2017年に続く「となりの髙村さん展」第3弾は、「髙村光雲の仕事場」をとりあげます。 明治25年12月、駒込林町に越して来た木彫家・髙村光雲は、この地で「老猿」等、数々の作品を生み出しました。 曾孫髙村達さん(写真家)の協力を得て、光雲の仕事をご紹介します。
東京文化財ウィーク2022企画事業。
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「となりの」というのは、会場の旧安田楠雄邸庭園さんが、光太郎の実家である光雲邸跡に隣接するところからのネーミングです。髙村家は、家督相続を放棄した長男・光太郎に代わって、三男にして鋳金家だった豊周が嗣ぎ、その子息の写真家の故・規氏、そしてそのまた子息にして同じく写真家の達氏が住まい続けていらっしゃいます。建物は改築されていますが。

隣接する安田邸では、平成21年(2009)に、故・規氏の写真展「となりの髙村さん展」、平成29年(2017)で「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」、そして翌平成30年(2018)には「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」が開催されました。

また、昨年には「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」ということで、朗読家の北原久仁香さんと当方のコラボイベントの会場としても使わせていただきました。

今回はどんな感じの展示になるのか、詳細は訊いておりませんが、光雲の遺品的な彫刻道具類なども並ぶのかもしれません。

当方、11月3日(木・祝)に伺う予定で居ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平氏くる、岩波文庫の話、大体承諾の返事


昭和29年(1954)7月16日の日記より 光太郎72歳

「奥平氏」は、美術史家の奥平英雄。「岩波文庫」は、光太郎生前最後の選詩集となった岩波文庫版『高村光太郎詩集』を指します。編集には奥平があたり、光太郎は「はしがき」を寄せました。刊行は翌年3月のことでした。こちらは現在も版を重ねているようです。

光太郎旧居址にほど近い、文京区千駄木は団子坂上の区立森鷗外記念館さんでの企画展示です。8月にご紹介した、新発見の鷗外直筆稿、鷗外に宛てた光太郎を含む諸家の書簡の一部が展示されます。

特別展 鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡

期 日 : 2022年10月22日(土)~2023年1月29日(土)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 10月25日(火) 11月22日(火) 12月27日(火)~1月4日(水)
      1月23日(月) 24日(火)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円) 中学生以下無料

  文学、美術、演劇…森鴎外(1862~1922)は、陸軍軍医をつとめながら学芸においてジャンルを超えて活躍した知の巨人です。
 文京区立森鴎外記念館(2012~)では、前身の鴎外記念本郷図書館、本郷図書館鴎外記念室と受け継いできた、原稿や書簡、愛用品、初版本など文学的にも歴史的にも貴重な“鴎外遺産”を収集・保存してきました。
 開館10周年を迎えた本年、鴎外文学最高峰とも称される『渋江抽斎(その四十九、その五十)』の直筆原稿が“鴎外遺産”に加わりました。本展では、この『渋江抽斎』をはじめとする貴重な鴎外直筆原稿を紹介するとともに、近年発見され、森鴎外記念館(津和野)に寄託された鴎外宛書簡の一部を初公開いたします。
 直筆原稿には推敲の跡も残り、出版された作品からは知り得ない創作過程を見ることができ、執筆時の鴎外を目撃しているような感動につつまれます。鴎外宛書簡では、夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、高村光太郎など文学や美術などの分野で活躍した著名人の書簡を紹介します。各人の筆跡や文面からは、その人となりや鴎外との関係性が読み取れ、思いがけず親近感が湧いてきます。
 書き癖や文字の勢いなど手書きだからこそ視覚に訴える心情や、活字では見ることができない躍動――直筆資料が伝える心の軌跡をぜひご体感ください。
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関連行事等

「森鴎外~ゆかりの地文学フォーラム」
 基調講演:須田喜代次氏(大妻女子大学名誉教授、森鴎外記念会副会長)
 鼎談:須田喜代次氏、今川英子氏(北九州市立文学館館長)、
    山崎一穎氏(森鴎外記念館(津和野)館長、跡見学園女子大学名誉教授)
 日時:11月26日(土)14時~16時
 会場:文京シビックセンター26階 スカイホール
 定員:90名(事前申込制、応募者多数の場合は抽選)
 料金:無料(参加票が必要)

「渋江抽斎の魅力~直筆原稿と作品と」
 講師:山崎一穎氏(森鴎外記念館(津和野)館長、跡見学園女子大学名誉教授)
 日時:12月18日(日)14時~15時30分
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室
 定員:30名(事前申込制、応募者多数の場合は抽選)
 料金:(参加票と本展の観覧券(半券可)が必要)003

朗読会 北原久仁香さんが「高瀬舟」をよむ
 朗読:北原久仁香氏
 日時:10月23日(日) 14:00~15:30
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室
 定員:30名(定員を超えた場合は抽選)
 参加費用:1000円

最後の朗読会のみ申込期限を過ぎており、満席だそうです。当方も申し込みまして、当選しましました。すみません(笑)。昨年、同館と光太郎旧居址の中間にある旧安田楠雄邸で開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、朗読をなさった北原久仁香さんがご出演なさいます。余談ですが、「語りと講話……」の講話は当方が担当させていただきました。

ちなみに旧安田楠雄邸では、来月初めから写真展「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」が開催されます。もう少し近くなりましたら詳細をご紹介します。

展示の話に戻りますが、光太郎からの書簡、非常に気になっております。これまでに鷗外に宛てた光太郎書簡は5通しか確認出来ておらず、どれも簡略なものでした。『高村光太郎全集』に収録されているものは4通、明治42年(1909)とその翌年のものです。すべて鷗外が自宅(現在、記念館のある場所)で主宰していた観潮楼歌会への欠席連絡。どうも意図的に逃げ回っていたようです(笑)。光太郎、東京美術学校時代に同校非常勤講師だった鷗外の講義を受けましたが、その権威的な授業態度に親しめず、その後も敬して遠ざける感じでした。また、鷗外の陰口をたたき、それを知った鷗外に呼び出されてネチネチと叱責されたことも(笑)。

もう1通は島根の森鷗外記念館さん所蔵のもので、明治44年(1911)の年賀状。「賀正」一言と「光」のサインのみです。同一の意匠の年賀状は、この年、方々に出されたようで、その後、続々見つかりました。左上が鷗外宛、右上は木下杢太郎宛、左下で佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の元ネタを提供した人物)。
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右下は、川崎安宛。『高村光太郎全集』では大正4年(1915)となっていますが、全く同じデザインなので、これもおそらく明治44年(1911)でしょう。全集編集に当たられた当会顧問であらせられた故・北川太一先生、多分、消印から年代を判断されたのでしょうが、その消印が不鮮明だったのだと思われます。

最初は木版かと思ったのですが、そうではなく「籠書き」という白黒反転の特殊な筆法で書いたものですね。光太郎、この技を得意とし、与謝野夫妻の新詩社歌会で短冊に短歌をしたためる際や、自著の題字などにも使いました。

ところで、この年賀状、表の宛名は「森林太郎殿」。普通、目下から上の者に「殿」は使いませんね。また、歌会への欠席連絡の葉書に書かれた宛名にも「森林太郎様侍史」となっているものがあり、何だかなぁという感じです。「侍史」は秘書やお付きの人のことで、「身分の高い人に直接手紙を出すのは失礼なので、秘書やお付きの方にお渡しする」という意味になります。「直接出してるだろ」と突っ込みたくなります(笑)。また、「森林太郎先生」となっているものも、文字通りの「先生」ではなく、軽薄に「センセ」のように感じるのは考えすぎでしょうか。

こんな感じですので、今回見つかった書簡、どういう内容、表書きなのか、非常に興味深いところです。

閑話休題。鷗外記念館さん特別展、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜七時過ブリツヂストンより映画班くる、映画映写、


昭和29年(1954)7月3日の日記より 光太郎72歳

映画」はブリヂストン美術館制作の「美術映画 高村光太郎」。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作風景や、前年に花巻郊外旧太田村へ一時的に帰った光太郎を撮ったものです。他に彫刻作品の映像をまじえ、光太郎の生涯を紹介しています。
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結核が進行し、外出もままならなくなりつつあった光太郎のため、終の棲家となった貸しアトリエで、光太郎一人のために上映会が行われたというわけです。

一昨日ご紹介しました『平櫛田中回顧談』(中央公論新社)。『産経新聞』さんに書評が出ました。

芸術の理解に自伝、評伝 平櫛田中回顧談

000 芸術家の人生や時代背景を知ることは、作品を理解する助けとなる。芸術と読書の秋、アートを巡る自伝、評伝を手に取ってみた。
 東京・国立劇場にある名作「鏡獅子」で知られる近代彫刻の巨匠、平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)(1872~1979年)。その生誕150周年を記念して『平櫛田中回顧談』(小平市平櫛田中彫刻美術館編、中央公論新社・2420円)が刊行された。
 昭和40年、93歳の年に、美術評論家の本間正義を聞き手に自らの来し方を語ったこの筆録は、さまざまな事情でお蔵入りとなっていた。没後40年以上を経て出版され、田中の飾らない人柄をいきいきと伝えてくれる。
 大阪の人形師に木彫の手ほどきを受けた後、上京し高村光雲の門下生となった若き日々、師の岡倉天心や臨済宗の高僧、西山禾山(かさん)から受けた多大な影響などが、驚くべき記憶力をもって語られる。仏教説話や中国の故事を題材にした精神性の高い作品、田中らしい写実に優れた肖像彫刻は、こうした修業時代が素地になっているのだろう。
 日本画家、狩野芳崖(かのう・ほうがい)の絶作「悲母観音」を巡る秘話など、当時の美術界に身を置いた田中ならではの証言も。「鏡獅子」のモデルである六代目尾上菊五郎との交流をはじめ、制作エピソードが興味深いのはもちろん、自分が作った観音像が知らぬ間に海外で古仏に化けていたという落語のような話も挟まれ、最後まで飽きさせない。
 田中は現在の岡山県井原市に生まれ、明治から昭和にかけて活躍した。百寿を超えてなお現役で制作したという。田中の旧宅を生かした小平市平櫛田中彫刻美術館(東京都)では今、特別展「生誕150年 平櫛田中展」(11月27日まで、火曜休館)が開かれており、実作の鑑賞も合わせて楽しみたい。

その他、美術史家・矢代幸雄の評伝、建築家・安藤忠雄の自伝も紹介されていますが割愛します。

さらに、紹介されている小平市平櫛田中彫刻美術館さんでの特別展についてはこちら。

特別展「生誕150年 平櫛田中展」

期 日 : 2022年9月17日(土)~11月27日(日)
会 場 : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時 間 : 午前10時~午後4時
休 館 : 火曜日
料 金 : 一般 1000円(800円) 小・中学生 500円(400円)( )内は団20人以上

今年は、平櫛田中(1872-1979)の生誕150年です。それを記念して、全国各地の美術館や博物館に所蔵されている田中の作品を一堂に会し、明治から昭和にかけて長きに渡る創作人生の中で生み出された珠玉の作品をご紹介します。

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そちらを紹介する『東京新聞』さんの記事。

平櫛田中彫刻美術館 生誕150年展 小平市

 近代日本を代表する彫刻家平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(一八七二〜一九七九年)の生誕百五十年を記念する特別展が東京都小平市学園西町の平櫛田中彫刻美術館で開かれている。十一月二十七日まで。
◆120年ぶり公開
 同展では、個人所蔵を含め全国の美術館など十六カ所からえりすぐりの作品約六十点を集め、一堂に紹介している。目玉は、約百二十年ぶりの公開となった「樵夫(しょうふ)」(個人蔵)。木樵(きこり)の顔に刻まれた深いしわや着ている服のひだなど細部まで克明に再現された作品。一八九九年、田中が展覧会に出品してから長年行方不明だったもので、最近、美術館に鑑定依頼で持ち込まれた。
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◆モデルは長男
 代表作の一つ、「幼児狗張子(いぬはりこ)」(一九一一年、岡山県井原市立田中美術館蔵)も見どころだ。モデルは田中の長男で、ふっくらとした頬やすべすべした肌など幼児の生き生きとした表情を群を抜く写実力で表現している。
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 同館の松本郁(ふみ)学芸員は「普段は見ることができない遠方の美術館や個人所蔵の作品を一堂に集めた。田中の創作活動は長期にわたり、時期ごとの作風の変化が見て取れて興味深い展示になっています」と話す。火曜休館。入場料は一般千円、小・中学生五百円。問い合わせは同館=電042(341)0098=へ。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】005

くもり、雨、温 胸像少し、
 
   昭和29年(1954)4月29日の日記より
光太郎72歳

「胸像」は未完のまま絶作となった「倉田雲平胸像」。倉田はツチヤ地下足袋(現・ムーンスターさん)の初代社長。嘉永4年(1851)生まれですので、光太郎の父・光雲の一つ年上です。大正6年(1917)に亡くなっていたのですが、ぜひその胸像を、ということで、光太郎実弟で鋳金家の豊周が仕事をとってきました。

2月から制作を始めましたが、体調が思わしくなく、また生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の際とは異なり、助手を雇わなかったため、少しずつしか制作が進みませんでした。

この日を境に日記に胸像制作の記述がなく(粘土に水を掛けたという記述はありますが)、この日で制作が途絶したようです。

豊周の回想から。

 あの彫刻にかかった時間はほんのわずかで、あとは体がわるくなり、とうとう死ぬまでそのままだったが、途中で二度ほど僕に見せた。兄の没後、未完成のままブロンズにしたものを、九州から副社長と、初代在世中から会社に勤続している大久保彦左衛門のような番頭さんが検分に来たが、やっと骨組みが出来ているだけで、仕上げるとどうなるということは一寸素人にはわかりにくい。僕は何と言うかと思っていた。ところがその番頭さんが先代様にそっくりだと涙を流さんばかりに喜んでいる。
 久留米にブリヂストンの美術館が出来、その記念の展覧会にも出品されて反響を呼んだということだが、未完成の荒いタッチが不思議な迫力を持っている。石井鶴三は鎌倉の美術館でこの胸像を見て、これは未完成じゃない、これで完成している、と言ってくれたりした。

昨日は、久々に都内に出ておりました。上野公園の旧東京音楽学校奏楽堂さんで開催された「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」拝聴のためです。
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奏楽堂さん、藝大美術館さん等に行く際に前を通過したことは数知れずでしたが、初めて中に入りました。
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昨日の演奏会では使われませんでしたが、ステージにはパイプオルガン。ほう、と思いました。

コロナ禍以来、各種演奏会自体減りましたし(だいぶ元に戻りつつありますが)、やはりコロナ禍ということもあって外出をできるだけ避けていたため、当方、この手の演奏会は久しぶりでした。
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ソプラノ歌手の清水邦子さんという方が、作曲家・朝岡真木子さんの作品を歌われるというコンセプト。ピアノ伴奏は朝岡さんご自身でした。
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二部構成で、第一部は各種組曲等からの抜粋。爽やかなイメージの曲、かわいらしい曲などが多めでしたが、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」に曲を付けた作品のみは、内容が内容だけに重厚で厳粛な感じでした。

終演後にご紹介がありましたが、作詞された星野ミミナさん、こわせ・たまみさん、それから岡崎カズヱさんも会場にいらしていました。与謝野晶子さんはいらしていませんでしたが(笑)。

第二部が「組曲 智恵子抄」全5曲。30分弱でしたが、光太郎智恵子の世界観が実によく表されていました。「智恵子抄」の詩にメロディーをつけたものは、クラシック系で独唱歌曲や合唱曲、オペラもありますし、他に伝統邦楽系やシャンソン系、J-POP系など、実に多くの方々がそれぞれの解釈で作曲なさっていまして、二番煎じにならず独自性を出すのも難しくなってきているように思われますが、朝岡さんの曲作りにはオリジナリティーが発揮されていたと思われます。

全体的には歌曲というよりオペラのアリアのような。そしてそれが清水さんの確かな歌唱力に裏付けられて、ぐいぐい引き込まれました。また、朝岡さんご自身が弾かれていたピアノ伴奏も実に効果的でした。

第1曲「人に」(大正元年=1912)。「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」で始まる、詩集『智恵子抄』の巻頭を飾る詩。この詩の書かれた前年に二人は知り合いました。「――それでも恋とはちがひます」などと言いつつ、抑えきれない智恵子への思い。十六分音符の連続、5連符や6連符も交じりで、一種早口言葉のような部分もあったりでした。しかし、光太郎の熱情のほとばしりが頂点に達した部分では長いフレーズで「サンターーーマリーアーー」。なるほど、と思いました。

続いて「あどけない話」(昭和3年=1928)。結婚し、それなりに充実した生活を送っていた光太郎智恵子。しかし、智恵子の実家の造り酒屋が傾きはじめ(不動産登記簿によれば、この詩が書かれた前日に家屋の一部が福島区裁判所の決定で、仮差し押さえの処分を受けています。翌昭和4年(1929)には、全ての家屋敷は人手に渡り、実家の家族は離散、智恵子は帰るべき故郷を失います)、さらに生涯の道と思い定めたはずの油絵制作もうまくゆかず、「東京には空が無い」という心境に。触れれば崩れそうな不安定な智恵子の内面がよく表現されていました。

そして毀れてしまった智恵子を謳った「千鳥と遊ぶ智恵子」。Aモール、アレグロ、センプレスタッカートで「タタッタ タタッタ タタッタ タタッタ」と、ピアノの左手。緊迫した情景です。そこにタイトル通りに千鳥と遊ぶ智恵子、「ちい、ちい、ちい」という千鳥の鳴き声が被さっていきます。終末近く、「人間商売さらりとやめて……」では、一転、バラード調。そうかと思うと、最後のフレーズ「二丁も離れた防風林の……」以下はメロディー無しのセリフ。そしてレントで静かに終わります。

第4曲「値(あ)ひがたき智恵子」。基本、8分の5拍子です。調和のとれた3拍子、4拍子、または8分の6拍子などでは夢幻界に彷徨(さまよ)う智恵子が表現できないということでしょうか。

ここで、4月に刊行された『朝岡真木子歌曲集2』には収録されていない、インストゥルメンタルの「間奏曲」。「あれっ」と思いました。もの哀しくも、メロディアス。この曲だけでも「智恵子抄」の世界観がよく表されていました。

そしてアタッカで終曲「レモン哀歌」に突入。一転してドゥア。予定調和的な。「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた」……。うるっと来てしまいました。ちなみに昨日の都内は台風のため、開演前は雨でしたが、この「レモン哀歌」の演奏中くらいに、窓から陽光が差し込みはじめました。智恵子の魂が天上へと誘(いざな)われていくようなイメージでした。

終演後のお二人。
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やりきった感が溢れていますね。

さらに全てハネたあとの入り口付近。お二人がお見送り。
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朝岡さんが当方の知り合いの知り合いだったため招待券を頂いて伺ったので、お礼かたがたお二人とお話をさせていただきました。来春にはコロナ禍も収まっていることを改めて願いつつ、連翹忌の集いへのお誘いも。

今後とも、お二人のご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

奥平さんの帖に揮毫、リンゴの画を切紙でつくる、洋モク、ペルメルの赤い包紙でつくる、

昭和29年(1954)2月18日の日記より 光太郎72歳

奥平さんの帖」は、「有機無機帖」。交流のあった美術史家・奥平英雄のために書いた書画帖です。「ペルメル」は「ポールモール(PALL MALL)」。赤いパッケージが特徴的なアメリカのタバコで、現在でも日本で販売されているでしょう。「洋モク」という語は、現代の若者には通じないかもしれませんね(笑)。当方、若い頃、ジタン(庄野真代さんの「飛んでイスタンブール」にも登場します)やらゴロワーズやらを気取って吸っていた時期もありました(笑)。
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そして千疋屋の包装紙なども使って紙絵を作った智恵子へのオマージュ。泣けますね(笑)。

都内から演奏会情報です。

清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界

期 日 : 2022年9月24日(土)
会 場 : 旧東京音楽学校奏楽堂 東京都台東区上野公園8番43号
時 間 : 13:30~
料 金 : 全席自由 4,000円

清水邦子が朝岡真木子の組曲『智恵子抄』全曲に挑みます。

曲 目 : 高村光太郎 組曲「智恵子抄」
       1.人に  2.あどけない話  3.千鳥と遊ぶ智恵子
       4.値ひがたき智恵子  5.レモン哀歌
      与謝野晶子 君死にたもうことなかれ
      茨木のり子 一人は賑やか
      星乃ミミナ 生命の彩り
      岡崎カズヱ 私に歌があればこそ
      こわせ・たまみ 秋風の中で
      矢崎節夫 しゃなりと あるく
      他

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朝岡真木子氏作曲の独唱歌曲を、清水邦子さんという方が歌われるコンサート。

組曲「智恵子抄」は、令和元年(2019)に全曲の改訂初演が行われましたが、その後、今年4月に刊行された『朝岡真木子歌曲集2』に収められています。その他、ぽつりぽつりと抜粋で各種演奏会のプログラムに入っていました。

名古屋二期会 日本歌曲コンサート~朝岡真木子の歌曲を中心として~
朝岡真木子 歌曲コンサート 第5回。

上記、あくまで当方の把握していた限りのもので、他にも演奏される機会があったかもしれません。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】001

午后五時万安にゆく、十和田委員会解散の会、谷口、草野、土方、菊池、藤島、余の六人、十時過ぎ終り、「好きな場所」に皆で立より、十二時かへる、


昭和28年(1953)12月28日の日記より 光太郎71歳

万安」は「万安楼」。現在は銀座タワーとなっている場所です。「十和田委員会」は、この年10月に除幕された光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の在京建設委員会。その解散式という名目でしたが、気の置けないメンバーでもあり、忘年会的な要素が強かったように思われます。一応、これで「乙女の像」がらみの諸々は全て終了、ということにはなりましたが。

好きな場所」は、小説家武田麟太郎の未亡人・とめが経営していた酒場。武田は昭和14年(1939)に、「好きな場所」という短編小説で光太郎を登場させています。

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