カテゴリ:東北以外 > 東京都

昨日は大正12年(1923)に起こった関東大震災からちょうど100年。

8月26日(土)の『毎日新聞』さんに、震災直後、貼り紙が無数に貼られた上野公園の西郷隆盛像(光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校総出で制作)の写真が半ページ使って掲載されましたが、NHKさんのニュース番組内でも同様の画像が流れました。

上野だけでなく、都内(当時は「東京府」でしたが)各所の被災の様子等でした。

関東大震災100年 被災直後の東京 写真で見る被害状況

 9月1日で関東大震災の発生から100年となります。NHKのアーカイブスには、関東大震災の発生直後に東京の都心部を撮影した写真や映像が数多く残っています。どの写真も巨大災害の大変貴重な記録です。今回、その写真が撮影されたのとほぼ同じ場所を訪ねました。私たちもよく知っているあの場所が100年前の被災直後はどうだったのか、動画で紹介します。
018
皇居外苑 二重橋前 ~ 被災者がバラックで避難生活
 皇居外苑の二重橋前信号付近から皇居の方向を撮影しました。100年前と現在の写真を動画で比較しています。皇居は、明治21年から昭和23年まで宮城(きゅうじょう)と言われていました。発災時は多くの被災者が宮城外苑の二重橋前広場に避難し、そこにバラックと言われる仮設の建築物を建てて避難生活を送っていたことが見てとれます。写真の上部に木が生い茂っていることから、その奥に宮城があることがわかります。
 警視庁の「大正大震火災誌」によりますと、地震が発生した9月1日に、外苑に避難した人は約21万人いたということです。その後、月末には4162名にまで減り、翌大正13年1月初旬には1890人いた避難者が芝離宮内に移転したということです。
015
こちらには西郷隆盛像と同様に、光雲主任、チーム美校で制作した楠木正成像が既にあったのですが、西郷像のように伝言板的な使い方はされなかったのでしょうか。

日本橋 三越 ~ 建物火災も“ライオン像”は被害免れる
 関東大震災発生直後の三越呉服店(現在の日本橋三越本店)とその周辺です。100年前と現在の写真を比較した動画です。内閣府の資料によると、三越呉服店は地震の影響により屋上の貯水タンクの配管が破損して漏水し、消防設備が無力となって延焼したということです。
 当時の写真からは、火災で焦げたような跡が建物に残っていることや、入り口にあるシンボルのライオン像は被害を免れたことが見て取れます。発災時の様子が記録された『大正大震大火之記念』には、当日の百貨店の様子などについて、月の初めの土曜日ということで商売に携わっている人の中には休みの人も多く、浅草方面や活動写真劇場などの歓楽街は朝からずっと大いににぎわっていて、三越をはじめとする百貨店も非常に多くの人で混み合っていた、と書かれています。

011
三越さんには、光雲作の「活動大黒天」が納められていましたが、たまたま金庫に保管されていて焼け残り、現在は屋上の三囲神社さんに奉納されています。

日本橋 ~ 路面電車が焼けて台車部分のみに
 関東大震災が発生した直後の日本橋と、現在の日本橋を比べた動画です。装飾柱には今も残存する麒麟(きりん)像がうつっています。左側の白い壁の建物は当時あった村井銀行です。粉じんなどを避けるためか、マスクをしている人がいます。画面右では路面電車の上が焼けてしまい、台車部分のみが残っている様子がわかります。内閣府の資料によると、地震発生翌日の9月2日の未明には日本橋のほとんどの地域が焼失したということです。
013
隅田川 吾妻橋 ~ 火災で路面抜けるなどの甚大な被害
 関東大震災直後の吾妻橋の写真と、現在の様子を比べた動画です。内閣府の資料によると、隅田川には当時、北から吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋の5つの橋が架かっていて、このうち吾妻橋、厩橋、永代橋の3つの橋が火災で甚大な損傷を受けたということです。画面の左奥に見えるのは大日本麦酒の工場でビールを製造していました。路面が抜けるなどの被害を受けた橋を鉄道第二連隊が補修している様子が撮影されています。全国から復旧の応援が来ていました。
017
隅田川べりは、明治末、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」の会場となった幾つかの料亭などがあった場所です。

浅草寺 ~ 境内は支援拠点や避難所に “尋ね人”の紙も
 関東大震災の後、浅草寺本堂周辺で撮影された写真です。同じ位置から撮影した現在の様子と動画で比較しています。写真からは激しい揺れで灯籠が崩れている様子や尋ね人の紙も確認できます。当時、浅草寺は支援の拠点や避難所になっていて、炊き出しなどが行われていました。『浅草寺社会事業概要 大正13年10月現在』の記録によりますと、被災者約1万5000人の収容、食料その他の配給、尋ね人受付、はがきの代書、巡回回向(供養)、慰安会開催などその活動は多岐にわたりました。浅草寺に属する60余りの僧侶や婦人会、学生僧侶はこれらの臨時救済事業に全力を費やしていたということです。
012
浅草 仲見世 ~ 炊き出しや給付に向かう人々の列
 浅草寺の仲見世商店街の関東大震災直後の写真と、現在を比較した動画です。本堂のあるほうに向かって歩く人々の姿が見えます。当時、浅草寺は支援物資拠点や避難所の一つになっていて、炊き出しや給付が行われていました。浅草寺のホームページによりますと、仲見世は関東大震災から2年後の1925年(大正14年)に鉄筋コンクリート造り、朱塗りの商店街に生まれ変わったということです。

014
浅草寺さんが焼けなかったのは、本堂裏手に広大な池があったためとも言われているようです。その池の中央にあった噴水には、光雲作の「沙竭羅龍王像」が配されていました。現在は本堂手前の手水舎に移転されています。

そして、西郷像。

上野公園 ~ 西郷隆盛像が“伝言板” 約50万人が避難
 上野公園にある西郷隆盛の銅像とその周辺の様子です。100年前の写真と現在を動画で比べてみました。体や立っている台のあたりに多くの張り紙が貼ってあるのが確認できます。当時の東京市の『東京震災録 前輯』など複数の資料によりますと、銅像や柱や壁は行方不明者を尋ねたり避難者の無事を知らせたりするといった伝言板代わりとなっていました。
 上野公園は火事から免れ、内閣府の資料によると、都内で最も多いおよそ50万人が避難したということです。当時の内務省の「大正震災志」によりますと、広大な公園がわずかな隙間もない状態で、避難者は一時お互いの体を枕にして夜を明かしたということです。その後はそれぞれの故郷に帰ったり、被害が軽微な場所に移ったりし、9月下旬には大部分が退去して、わずかに残った避難者が現在の東京国立博物館の敷地内や池之端に建設された公営のバラックに収容されたということです。
005
006
007
008
009
010
あの上野公園に50万人とは驚きでした。光雲はこの時、まだ存命でしたが、どう感じていたのでしょうか。

上野駅 ~ 多くの避難者がホームや線路にあふれる
 関東大震災直後の上野駅周辺の写真と、現在の様子を比較した動画です。避難した大勢の人たちが写っています。内閣府の資料によると、上野駅は地震当日、屋根が落ちるなどの被害にとどまったため、多くの避難者が駅周辺に押し寄せ、ホームや線路にまで人があふれたということです。しかし翌日の2日には上野駅周辺にも火災が広がり、避難者は西側の上野公園に逃げ込みました。鉄道省の「国有鉄道震災誌」によりますと、関東大震災で駅舎は焼け落ちましたが、復旧に向けて動き、9月23日には運輸営業を再開したということです。
016
明日も関東大震災関連で、新刊書籍をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

与謝野先生が御病気で中々御重態の事を一昨日平野万里さんからの電話ではじめて知り昨日慶応病院にお見舞い申上げました、一昨日が一番容態が悪く、昨日はよほど持ち直された御様子で此の分ならばまづ安心といふ事でありました、

昭和10年(1935)3月22日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

「与謝野先生」は光太郎の師・鉄幹与謝野寛。「よほど持ち直された御様子」とありますが、蠟燭が消える前の一瞬の煌めきだったようで、3月26日には亡くなりました。死因は気管支カタルでした。

9月1日(金)は、関東大震災からちょうど100年となります。

区切りのいい年ですので、各種メディア等でも取り上げていますし、関連するイベント等も多く計画されているようです。

一昨日の『毎日新聞』さん夕刊。

震災時の写真を手に探した影 関東大震災100年

 関東大震災から100年の移り変わりを写真に収めるため、本社に残る1世紀前の写真を手に街を歩いた。1923(大正12)年9月1日に発生し、近代以降で最大規模の被害となった災害の死者・行方不明者は10万人以上に及んだ。
 発生当初の惨状を記録した数百枚から人の営みが伝わる写真を選定した。当時のカメラマンの正確な撮影位置を探し求めて炎天下を汗だくになって歩いた。東京大空襲や高度成長を経た首都圏の風景は形を変え、結局、当時と比較できたのはわずかだった。
 2枚を見比べると、私たちが見慣れた風景に100年前の未曽有の災害が現実味を帯びてくる。東京都防災会議の昨年5月の発表によると、最大震度7の「都心南部直下地震」は今後30年以内に70%の確率で起こると予想されている。
 もし再び大地震が発生したら、我々も公園や駅などの開けた場所に逃げるかもしれない。ファインダーの中に地続きの歴史を垣間見た気がした。

記事本体は短いものですが、写真が大きく掲載されていました。そのうちのトップの1葉が、光太郎の父・光雲を主任として東京美術学校総出で制作された上野公園の西郷隆盛像。この画像だけでB4判ほどの大きさでした。
000
まったく同じアングルから撮影した写真を合成したもので、左が現在の様子、右が震災時の古写真。長いキャプションがついています。

彫刻家の高村光雲作で1897年に完成した上野公園の西郷隆盛像。その周辺は震災直後から行方不明者を捜す張り紙であふれていた。火災を免れた公園内は救護所などが設置されたという=写真右は1923年9月

同じ手法で、銀座、浅草、日暮里駅、そして鎌倉鶴岡八幡宮の画像も。

オリジナルの写真がこちら。
005
この伝言板と化した西郷像のインパクトは大きかったようです。

こちらは古絵葉書。
007
日本画家の堅山南風の描いた「大震災実写図巻」の一部。昨日、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 アートシーン」内で映りました。
006
こちらは千代田区の半蔵門ミュージアムさんで開催中の特集展示「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」で展示されているそうです。フライヤーにも使われていました。

堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春

期 日 : 2023年7月19日(水)~11月5日(日)
会 場 : 半蔵門ミュージアム 東京都千代田区一番町25
時 間 : 10時00分~17時30分
休 館 : 毎週月曜日・火曜日(月曜日・火曜日が、祝日や振替休日にあたる場合も休館)
料 金 : 無料

1923年の関東大震災から100年の節目をむかえる本年、堅山南風《大震災実写図巻》を展示します。巣鴨で被災した南風は浅草や上野に出向いて、被害状況や復興に至る様子を描き留め、のちに31枚の絵を3巻に仕立てました。その描写から、当時の人々の苦悩・悲哀や助け合いの様相が伝わります。

あわせて、南風と同時代の画家による作品12点を初公開します。会期前半の9月10日までは、日本の風景を題材とした、横山大観、川合玉堂、棟方志功、山田申吾の作品です。9月13日以降の会期後半は、竹内栖鳳、鏑木清方、小杉放菴、前田青邨、山口蓬春による人物や動植物の絵画を紹介します。
008
歴史に学び、防災意識を高めるためにも、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやつてゐます、病人の狂躁状態は六七時間立てつづけに独語や放吟をやり、声がかれ息がつまる程度にまで及びます、拙宅のドアは皆釘づけにしました、往来へ飛び出して近隣に迷惑をかける事二度、器物の破壊、食事の拒絶、小生や医師への罵詈、薬は皆毒薬なりとてうけつけません、


昭和10年(1935)1月8日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

心を病んだ智恵子の病状、親交のあった歌人の中原綾子に宛てた複数の書簡に細かく記されています。

一昨日から始まっていました。

日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―

期 日 : 2023年8月22日(火)~10月9日(月・祝)
会 場 : 東京国立博物館 本館1階14室 東京都台東区上野公園13-9
時 間 : 9時30分~17時00分
休 館 : 月曜日 祝日の場合は翌火曜日
料 金 : 一般1,000円 大学生500円

日本人として初めてチベット・ネパールを訪れた僧河口慧海(1866~1945)の収集品は、その大半が甥の河口正氏によって東北大学に寄贈された後、姪の宮田恵美氏の相続分が昭和48年(1973)に当館に寄贈されました。チベット旅行の収集品のみならず、遺愛の品も含まれることが特徴ですが、平成11年(1999)の東洋館開館30周年記念特集「河口慧海将来品とラマ教美術」以来、まとまった公開の機会に恵まれませんでした。
今回、客員研究員田中公明氏や同石松日奈子氏等との再調査の知見を踏まえつつ、寄贈から50年を記念してあらためてその全容をご覧いただきます。
なお、寄贈品の一部である「西蔵服の河口慧海師肖像」は本館18室「近代の美術」にて9月12日から12月10日まで展示いたします。また、本館14室会場には、図書資料として第1回チベット旅行時の収集品を東京美術学校(現東京藝術大学)で展示した際に刊行された『河口慧海師将来西蔵品図録』(明治37年・1904)もあわせて展示いたします。
000
河口慧海は、光雲・光太郎父子と交流がありました。大阪出身なのですが、髙村家に近い東京の本郷弥生町や根津などで暮らしていた時期があり、光雲は慧海の求めで仏像を複数彫り、光太郎は戦時中に慧海の坐像制作にかかりました。ただし光太郎作の坐像は完成したのかしなかったのか、いずれにしても戦災で焼失したと考えられています。
003
下記画像では、左が光雲、右が
慧海です。
002
さて、今回の展示。

「企画展」や「特別展」という扱いではなく、常設展示的な「総合文化展」の一環。それでも第14室がまるまるそれにあてられ、慧海関連の25点の出品物が並んでいます。

その中に、光雲作の「檀木釈迦如来立像」(昭和3年=1928)と、光雲、それから光雲三男にして鋳金分野の人間国宝となった豊周の合作という扱いで、「誕生釈迦仏立像」(大正~昭和初期)。「檀木釈迦如来立像」の方は木彫と思われますし、「誕生釈迦仏立像」は鋳像でしょう。

ちなみにサムネイル的に使われている最上部の画像にある木彫の像は、昭和10年(1935)、藤岡光田作の「入蔵沙門(河口慧海立像)」。藤岡は光雲の弟子の一人です。

こりゃ、観に行かなきゃな、という感じでして、近いうちに行って参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

先日叢書中の小生作の題名を申上げて置きましたが、其後病人の容態皆あしく、ちゑ子の外父が最近重態に陥り医者からは絶望を宣告され、毎日注射で過して居る次第、小生匆忙の日を暮し、原稿の整理もまだ出来てゐません、


昭和9年(1934)9月27日 井上康文宛書簡より 光太郎52歳

結局、光雲は約2週間後の10月10日、数え83年の生涯を終えました。胃潰瘍から進行した胃ガンでした。

本日開幕です。

CHIBA ハートフルアート展 ―「千葉市障害者作品展」出展者による作品展―

期 日 : 2023年7月19日(水)~8月20日(日)
会 場 : ちばぎんひまわりギャラリー
       東京都中央区日本橋室町一丁目 5 番 5 号 [コレド室町 3] 4 階
時 間 : 午前 10 時~午後 6 時  最終日は午後 4 時まで
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

本展は、障がい者が自らの障がいを乗り越え制作した作品を公開することで、社会に多様性の意義や価値を伝えるとともに、障がいを持つ方に自信と希望を持っていただきたいとの想いで開催するものです。多くの皆さまにご覧いただくことで、ダイバーシティーへのご理解と共生社会を実現し、作者のさらなる創作意欲向上の一助となることを希望しています。本企画展では、約 30 点の作品を一堂に展観しますので、この機会にご覧くださいますようご案内申し上げます。

おかげさまで、当ギャラリーは 2014 年 3 月のオープン以来、10 万人を超えるお客さまにご来場いただきました。今後も、多くの方々の心安らぐ空間となり、地域における文化・芸術活動の発展にお役に立てれば幸いです。
001
003
いわゆる「パラアート」の展覧会。過去の「千葉市障害者作品展」出展作等が再び並ぶ、というコンセプトだそうです。

フライヤー裏面に、書の作品で「高村光太郎“樹下の二人”より」。
014
一昨年開催された第27回展で千葉市議会議長賞に輝いた作品だそうです。その際にはそういう展覧会があり、この作品が入賞していたというのには気がつきませんでした。
018
こうした作品をその時限りの展示で終わりにするのではなく、また改めて、さらに地元を出て都内での展示というところに、主催者の方々などの熱意が感じられます。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

「ロダンの言葉」別封で送ります。持つて参上したいと思つてゐたのですが、まだ仕事が片づかないので出られません。表紙をあのデツサンにしたので昔を思ひ出します。実に遠い昔のやうな気がします。


昭和4年(1929)3月24日 水野葉舟宛書簡より 光太郎47歳

「ロダンの言葉」は、この年、叢文閣から出版されたペーパーバックの普及版(元版は大正5年=1916、阿蘭陀書房)。この後、版を重ね、舟越保武、佐藤忠良等、次世代の彫刻家達がバイブルのように身辺に置いた書籍です。
015 016
表紙画は、ロダンの裸婦デッサンです。光太郎、同一のデッサンを明治43年(1910)、親友の水野葉舟の小説集『おみよ』のカバーにも使おうとしました。ところが同書はこのデッサンのために「風俗壊乱」とされて発禁処分とされてしまいました。

そこで「表紙をあのデツサンにしたので昔を思ひ出します。実に遠い昔のやうな気がします」。

7月7日(金)、座・高円寺さんでの「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」拝聴後、高円寺駅前で牛丼を掻き込み(笑)、高田馬場経由で西武新宿線野方駅へ。概ね同じ方角でしたので助かりました。公演のハシゴで、「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」会場のBook Trade Cafe どうひんさんに。
PXL_20230707_100738299 PXL_20230707_100933309
こちらはカフェ兼古書店。古書店と云っても、ちょっと変わったシステムで「ハードカバーの書籍をお持ち下されば、書棚にあるお好きな書籍と交換させていただきます」だそうで。

その書棚がこちら。
PXL_20230707_101856070.MP
画像右の方に、室町時代の雪村周継筆「呂洞賓図(りょどうひんず)」。店名の由来でしょう。中国の仙人・呂洞賓が瓶から小さな竜を呼び出し成長させるさまが描かれており、お客さんが持ちよった書籍が次へと広がり……という、このお店のコンセプトを表しているようです。人の多い都内だと、こんなシステムも成り立つのですね。

その書棚をそのまま大道具として使い、今回の二本立ての演劇公演が行われました。
001
第一部、『カラノアトリエ』、差異等たかひ子さんという方の作。こちらは短く、20分程でした。サブタイトル的にに「ポエトリーリーディング」と題され、中原中也の詩などが使われました。

光太郎智恵子とは直接関わらないものでしたが「アトリエには作家志望の男がひとり 理想の少女に「君が知りたい」と問い掛ける 少女は答える 「わからない」「だって、貴方が書いてくれないから」 アトリエにまだ産声は響かない ノートは未だに白いまま 煙草の煙で薄汚れて行く」ということで、ある意味、光太郎智恵子の関係性にも通じるなと思いました。

『智恵子抄』収録の多くの詩篇は、元々、一冊の詩集としてまとめられることを意図したものではなく、光太郎も特に智恵子の姿を書きとどめておこう、というつもりもそれほどありませんでした。智恵子が心を病んでからの「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(同13年=1938)あたりにはそういった意図も見え隠れしますが。

逆に智恵子の姿を残そう、と考えたのは、彫刻で。作品の現存が確認できませんが(おそらく空襲で焼失)、複数の「智恵子の首」が作られました。
006 003
また、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、智恵子の俤をとどめるものです。
007
こうした作を通し、光太郎が智恵子の姿を表現し尽くせたかどうか、などと考えさせられました。

休憩を挟んで、『トパアズ』。こちらは完全に光太郎智恵子の世界をモチーフにしたものでした。約60分の長丁場。
PXL_20230707_114425516
西瓜すいかさんという方の脚本で、ありがたいことに、コピーを希望者に無料配付というので、いただいて帰りました。
002
智恵子の心の病については、百家争鳴、実に様々な要因が指摘されていますが、今回の舞台では、ある意味、智恵子自身が自分に「かくあるべし」という枷を嵌めて自らを追い込んだ的な要素が濃い、という描き方だったように思われました。実家の長沼酒造の窮状などを光太郎にひた隠しにしようとする姿などが強調され、光太郎を世事に巻き込みたくない、そういった部分で光太郎に頼りたくない、という智恵子の意図が、過大な緊張や心労を呼んだというような……。

過去には「無言の圧」で光太郎がそうさせた一種のモラハラ、という解釈で書かれたものも存在しますし、芸術至上の脳天気な光太郎が智恵子の苦悩を見くびっていた、という描き方になっていたものもありました。しかし、今回の舞台は、光太郎がかなり心配して手を差しのべようとしながらも、智恵子の方でそれを拒絶し……的な設定と思われ(違っていたらすみません)、なるほど、そういう事態も充分考えられるな、と思いました。

そうした脚本のもと、末永全さん、三枝ゆきのさん、光太郎智恵子を熱演され、本当にこんなやりとりがあったんじゃないか、という気がしました。お二人はこの舞台に向け、智恵子の故郷・福島二本松や染井霊園の髙村家墓所なども訪問なさり、インスピレーションを受けられたそうで、それがかなり生かされているように感じました。

また、キャパ20ほどの狭い空間での公演ということで、大劇場にはない一体感といいますか、臨場感といいますか、そういったものも感じられました(第一部、第二部ともに)。これが大きなステージでのそれだと、絵空事感が感じられてしまうような……。

関係の皆様の、今後とものご活躍、ついでにいうなら再演なども祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

夏の暑さに閉口してゐます。訪問客と話するのも苦痛に思ひます。もすこし涼しくなつてからおめにかかりたいと思ひます。


昭和2年(1927)8月26日 山本稚彦宛書簡より 光太郎45歳

とにかく夏の暑さを苦手としていた光太郎。夏場には執筆された原稿の数もやはり少ないようです。

まだ梅雨明けとはなりませんが、連日蒸し暑く、自宅兼事務所のも、このブログを書いているたった今、背後の廊下でのびています(笑)。
PXL_20230709_233602924[1]

一昨日、昨日と、あちこち吹っ飛び廻っておりました。3回に分けてレポートいたします。

まず7月7日(金)、座・高円寺さんへ。
PXL_20230707_062914022
渡辺えりさん作の「天使猫」「月にぬれた手」拝見以来、11年ぶりでした。

こちらでは「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~」が開催され、昼公演、夜公演と内容の異なる二本立てでしたが、夜公演の方で光太郎の「智恵子抄」取り上げられるということでお邪魔しました。
PXL_20230707_063054676
001 002
006
朗読系の公演を聴くといつも感じるのですが、絶対量はともかく、普段の読書の幅が狭い当方としては、実に新鮮でした。光太郎智恵子らに関わらない書籍はあまり読む余裕がありません。公共交通機関を使って移動する際には頭を使わないで済む歴史小説、時代小説、推理小説等は読みますが、それ以外はとんと御無沙汰です。そこで、普段読まないジャンルのものを聴けて、新鮮、というわけです。

また、数十年前に読んだものも、細かな内容等は忘れていて「ああ、そういう話だったっけ」的なことも。今回で云えば「星の王子様」や太宰の短編など。

それぞれに聴きやすい、レベルの高い方々で、いい感じでした。

さて、大トリが「智恵子抄」から。今回のグループの主宰者的な葉月のりこさんという方と、大物ゲスト的な扱いなのでしょう、唐ひづるさんという方。

はじめに「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)をお二人で分担しつつ。お二人の声が一瞬重なり、奇しくもハモったところもあり、ゾクッときました。

その後、プログラムでは「僕等」(大正2年=1913)「おそれ」(大正元年=1911)となっていましたが、掛け合いのように二つの詩を少しずつ交互に朗読されるというスタイルで、斬新だな、と思いました。

どこで区切ったかまでは細かく憶えていないのですが、こんな感じでした。

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
一滴の水の微顫も
無益な千万の波動をつひやすのだ
水の静けさを貴んで
静寂の価(あたひ)を量らなければいけない
僕はあなたをおもふたびに
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり あなたがある
自分はこれに尽きてゐる
僕のいのちと あなたのいのちとが
よれ合ひ もつれ合ひ とけ合ひ
渾沌としたはじめにかへる
すべての差別見は僕等の間に価値を失ふ
あなたは其のさきを私に話してはいけない
あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ
口から外へ出さなければいい
出せば則すなはち雷火である
あなたは女だ
男のやうだと言はれても矢張女だ
あの蒼黒い空に汗ばんでゐる円い月だ
世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ
僕等にとつては凡すべてが絶対だ
そこには世にいふ男女の戦がない
信仰と敬虔けいけんと恋愛と自由とがある
そして大変な力と権威とがある
人間の一端と他端との融合だ
僕は丁度自然を信じ切る心安さで
僕等のいのちを信じてゐる
そして世間といふものを蹂躪してゐる
頑固な俗情に打ち勝つてゐる
二人ははるかに其処をのり超えてゐる
それでいい、それでいい
その夢を現(うつつ)にかへし
永遠を刹那にふり戻してはいけない
その上
この澄みきつた水の中へ
そんなあぶないものを投げ込んではいけない
僕は自分の痛さがあなたの痛さである事を感じる
僕は自分のこころよさがあなたのこころよさである事を感じる
自分を恃たのむやうにあなたをたのむ
自分が伸びてゆくのはあなたが育つてゆく事だとおもつてゐる
僕はいくら早足に歩いてもあなたを置き去りにする事はないと信じ 安心してゐる
僕が活力にみちてる様に
あなたは若若しさにかがやいてゐる
私の心の静寂は血で買つた宝である
あなたには解りやうのない血を犠牲にした宝である
この静寂は私の生命いのちであり
この静寂は私の神である
しかも気むつかしい神である
夏の夜の食慾にさへも
尚ほ烈しい擾乱じようらんを惹き起すのである
あなたはその一点に手を触れようとするのか
あなたは火だ
あなたは僕に古くなればなるほど新しさを感じさせる
僕にとつてあなたは新奇の無尽蔵だ
凡ての枝葉を取り去つた現実のかたまりだ
あなたのせつぷんは僕にうるほひを与へ
あなたの抱擁は僕に極甚(ごくじん)の滋味を与へる
いけない、いけない
あなたは静寂の価を量らなければいけない
さもなければ
非常な覚悟をしてかからなければいけない
その一個の石の起す波動は
あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない
百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない
あなたの冷たい手足
あなたの重たく まろいからだ
あなたの燐光のやうな皮膚
その四肢胴体をつらぬく生きものの力
此等はみな僕の最良のいのちの糧かてとなるものだ
あなたは女だ
これに堪へられるだけの力を作らなければならない
それが出来ようか
あなたは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない
あなたは僕をたのみ
あなたは僕に生きる
それがすべてあなた自身を生かす事だ
御覧なさい
煤烟と油じみの停車場も
今は此の月と少し暑くるしい靄との中に
何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか
あの青と赤とのシグナルの明りは
無言と送目との間に絶大な役目を果たし
はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる
僕等はいのちを惜しむ
僕等は休む事をしない
僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない
私は今何かに囲まれてゐる
或る雰囲気に
或る不思議な調節を司る無形な力に
そして最も貴重な平衡を得てゐる
私の魂は永遠をおもひ
私の肉眼は万物に無限の価値を見る
しづかに、しづかに
私は今或る力に絶えず触れながら
言葉を忘れてゐる
伸びないでは
大きくなりきらないでは
深くなり通さないでは
――何といふ光だ 何といふ喜だ
いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない

もうちょっと短いスパンで交代していたような気もしましたが、こんな感じでした。

「おそれ」は光太郎がまだ智恵子と恋愛関係となる前、これから先、経済的に苦労するに決まっている自分の生活に智恵子を巻き込みたくない、しかし、自分自身も智恵子に惹かれてしまう思いが抑え難い、という苦悩を謳ったもの。

それに対し「僕等」は、「おそれ」の1年4ヶ月後に書かれ、もはや腹を決めて智恵子と二人、手を取り合って苦楽を分かち合っていこう、愛があれば何とかなるさ! という決意の表明。

それを交互に読み合うことで、二つの心の間で揺れ動く光太郎、的なことが表されていました。面白い取り組みだと思いました。

詩の朗読は、ただ単純に詩を羅列していくだけでは、なかなか山あり谷ありの小説等のそれとは異なり、平板になってしまいがちです。山なしオチなし意味なし、ただ単に雰囲気だけ味わってもらえれば……みたいな。そうならないように、と云う工夫の意味もあったのでしょう。

終演後の出演者の皆さん。
PXL_20230707_085827092
今後ともご活躍されることを祈念いたしております。

その後、中野区野方に移動。「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」を拝見しました。そちらは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

草津に四五日居て今別所に来ました、繭のにほひが温泉のけむりにまじつて古風です、僕につきものの雨が今も降つてゐます。雨を聴きながら湯に入るのは価千両。

昭和2年(1927)7月7日 水野葉舟宛書簡より 光太郎45歳

草津」は群馬県の草津温泉、「別所」は現・長野県上田市の別所温泉。別所の麓の塩田平に当方の亡くなった父親の実家があり、子供の頃から別所温泉にはたびたび参りました。ここ十年程の間にも何度か。

都内から演劇系の公演情報です。

三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』

期 日 : 2023年7月7日(金)~7月9日(日)
会 場 : Book Trade Cafe どうひん 東京都中野区丸山2-20-4
時 間 : 7月7日(金) 19:30 8日(土)14:00/19:00 9日(日)14:00/18:00
料 金 : 前売り2500円/当日2700円

〈あらすじ〉
『カラノアトリエ』
アトリエには作家志望の男がひとり 理想の少女に「君が知りたい」と問い掛ける
少女は答える「わからない」「だって、貴方が書いてくれないから」
アトリエにまだ産声は響かない ノートは未だに白いまま煙草の煙で薄汚れて行く
音と詩的独白で紡ぐ物語

『トパアズ』
夫婦がいる およそ、大正十年頃のようだ 絵に作家業にと精を出す夫コウ それを支える妻チイ
美しい暮らし 父の死 実家の困窮 チイはしばらく絵を描く道具には触れていない
次第に言葉を失い 本棚の本を開いては読み 読んではセリフを繰り返す
智恵子抄を下敷きにした、高村光太郎・智恵子の〈魂の交歓〉の物語。
「空には意志がありまして?」
006
「チイ」さん役の三枝ゆきのさんという方、役作りのためでしょう、智恵子の故郷・福島二本松を旅されていたレポートがSNS上にいろいろあがっていました。やはりその人物の息吹の感じられる場所に足を運び、インスピレーションを受けるというのは大事なことだと思われます。

昨日ご紹介した「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」とハシゴでお邪魔しようかと考えております。皆様もぜひどうぞ。

ちなみに当方、今日明日と盛岡、花巻に行って参ります。

【折々のことば・光太郎】

厭でも応でも自身の全身を以て無心で事に当つてゆくのは本当の事と思ひます。

昭和元年(1926)12月30日 山本稚彦宛書簡より 光太郎44歳

山本の父・瑞雲は光太郎の父・光雲の高弟の一人。稚彦自身ものちに彫刻家となりました。この時期は志願兵として目黒の陸軍輜重第一大隊に所属。そこで光太郎は、軍隊生活のつらさを励ます意図で上記の文言を書き送ったと思われます。

都内から朗読系の公演情報です。

ろうどくdeおもてなし 🌟七夕公演🌟~会えば何かがはじまる~【夜公演】

期 日 : 2023年7月7日(金)
会 場 : 座・高円寺2 杉並区高円寺北2-1-2
時 間 : 開演16:00(開場20分前)~終演18:00すぎ
料 金 : 前売り2,000円 当日2,500円 高校生以下無料

① 堀真潮『抱卵』(脚色:葉月のりこ) 葉月のりこ 
② 堀真潮『訃報』『ドーナツ2』 上野純子・今井理恵子 
③ イソップ「イソップ物語」より『コウモリの話』(訳:宇野葉子・ IBCパブリッシング)
 舞はるり 
④ アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 『星の王子さま』(声劇・朗読用台本より) 
山下すみれ・碧唯香子 
(10分休憩) 
⑤ 紙中礼子『愛って、愛って、愛って』 (書き下ろし)   澤木桃栄 
⑥ 太宰治『黄金風景』 きさらぎゆうこ 
⑦ 谷川俊太郎『ほしにむすばれて』 (文研出版)   伊島久美 
⑧ 太宰治 『灯籠』 山木梨可 
⑨ 宮沢賢治『どんぐりと山猫』  ( 脚色:今井理恵子)  今井理恵子・林あや子 
⑩ 高村光太郎「智恵子抄」より『千鳥と遊ぶ智恵子』『僕等』『おそれ』
 唐ひづる・葉月のりこ 
007
006
プログラムの異なる「昼公演」もあるそうで(13:00~)、通しでの料金は3,000円だそうです。

都合がつきそうなのでお邪魔しようかな、と考えております。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

宮沢氏からの本先日女中さんに托しましたが、此前の「注文の多い料理店」は黄瀛君に返却しなければなりませんから、お手許へ出して置いて下さい。


大正15年(1926)10月11日 水野葉舟宛書簡より 光太郎44歳

「宮沢氏からの本」は、賢治から贈られた『春と修羅』です。何度も紹介していますが、草野心平共々、光太郎は生前の賢治を高く評価していました。そのため、親友の水野葉舟にもぜひ読んでみろ、というわけですね。

童話集『注文の多い料理店』は、黄瀛から借りたものの又貸しだったようで、「だめじゃん」ですが(笑)。

昨日は三越百貨店日本橋本店さんに行っておりました。主目的は、渡辺えりさんご出演の舞台「三婆」の拝見。
PXL_20230617_012525867 001
特に光太郎智恵子らと関わる内容ではないのですが、渡辺さんからの「観に来なさい」圧が凄く、さらに、妻が「チケット取って!」。どうも当方と共にえりさんご出演のテレビ番組をいろいろ観ているうちに、あろうことか(笑)渡辺さんのファンになってしまったようです。

ちなみに「三婆」には水谷八重子さんもご出演。水谷さんのお母さまの初代・水谷八重子さんは、光太郎とと面識があり、昭和32年(1957)から何度か舞台「智恵子抄」で智恵子役を演じられました。
009
そんなわけで、昨日は夫婦で三越劇場さんへ。
PXL_20230617_012639065
PXL_20230617_012644070
当方は昨秋の一色采子さん、松村雄基さんによる「朗読劇 智恵子抄」以来でした。こちらは初代・水谷八重子さんが演じられたもののリメイクでした。

その際にも参拝したのですが、三越さんの屋上には、オーナー三井家の守護神たる三囲(みめぐり)神社さん。こちらには光太郎の父・光雲作の「活動大黒天」が納められています。
PXL_20230617_013537667
PXL_20230617_013826306
PXL_20230617_013547883 PXL_20230617_013737053
PXL_20230617_013611103
残念ながら通常非公開で、当方も現物は拝見したことがありません。

この活動大黒天像については、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に記述があります。初出は大正5年(1916)の雑誌『建築工芸叢誌』第15号ですが。それによると、伝説の名工・左甚五郎作と伝えられる大黒天像が三井家に在るという話が巷間に伝えられていて(古典落語「三井の大黒」など)、明治期には既に左甚五郎の実在に疑念をいだいていた光雲が三越の専務取締役・日比翁助に問い合わせ、日比は三越の生き字引と云われていた常務取締役の藤村喜七にも話を聞き、結局、そういったものは無い、とのことでした。それを機に、じゃあ、ちゃんとした大黒天像を店に祀ろう、ということになり、光雲に制作が依頼されたというのです。

それがどうやら大正元年(1912)。この年11月に発行された三越さんのPR誌『三越』に「美術工芸品の部には高村光雲氏が子年に因み今年の刀始めに彫(きざ)んだ大黒天の像が鑿の匂ひ床(ゆかし)く場中に異彩を放ち」という記述があり、この像のことと思われます。三囲神社さんの由来記的な看板にも大正元年(1912)作である由、書かれています。

そして大正12年(1923)の関東大震災で店が全焼した際にも、この像はたまたま金庫に保管されていて、焼失を免れたそうです。焼け跡の灰の中から無傷で現れた「活動大黒天」は店員達を勇気づけ、その後の三越復興のシンボルとなったとのこと。
007
ところが、これ以前にも三越さんがらみの大黒天像が、光雲によって制作されていました。

先述の常務取締役・藤村喜七の勤続50周年の祝にと、店員一同名義で贈られた大黒天像が、やはり光雲作だったというのです。ただし、こちらは木彫ではなく、何と光雲の木彫原形から鋳造された純金製。何とも豪華です。さらに附属の厨子は、藤村がいつもその前に座していた旧店舗の大黒柱の部材を使って制作されたとのこと。
003
006
『光雲懐古談』では、「活動大黒天」が先で、「黄金の大黒天」が後、となっています。そこで当方もそれを信用していたのですが、最近、例によって国会図書館さんのデジタルデータリニューアルにともない、自宅兼事務所でPR誌『三越』や同じく『みつこしタイムス』などを拝見することが出来るようになった結果、『光雲懐古談』の記述が誤りであることがわかりました。「黄金の大黒天」は明治43年(1910)4月3日、藤村の勤続50周年の祝の席上で進呈されていたのです。

生涯に彫って彫って彫りまくった光雲ですので、細かな制作年代まで記憶していないものも多かったのでしょう。さらにそれを云うなら、『光雲懐古談』では藤村の名も「嘉七」と誤記しています。正しくは「喜七」です。

三越さんと光雲の大黒天、ということになると、もう1点、昭和5年(1930)の『三越』誌上で「おお」という記事を見つけました。記事、というより広告ですが、以下のものです。
008
恵比寿と大黒のセットでの「世直し福神」。光太郎実弟にして光雲三男、後に鋳金の人間国宝となる豊周の鋳造で、大量生産されたようです。

「あ、これ、髙村家にあるやつだ」と思いました。昨年、光太郎実家の旧光雲邸に隣接する安田楠雄邸で開催された「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」に出品され、拝見して参りました。この時点では当方も(髙村家現当主の達氏も)来歴等を存じませんで、「あれはこれだったのか」という感じです。ただ、意外と最近、髙村家に戻ってきたものだそうですが。

ネットオークションにも類似のものがよく出ています。これそのものなのならいいのですが、悪質な場合は、そのものから型を採って複製したものもあるようで(そうなると鋳造がぼやけます)、注意が必要です。安田邸で拝見した髙村家のものは鋳造の具合がいい感じで、豊周の手になるもので間違いなさそうでした。

箱の画像もありましたので、この箱のついた良さげなものが廉価でネットオークションに出たら、入札しようと思います。

ところで、藤村に贈られた「黄金の大黒天」は、現存するのかしないのか、そのあたりが不明です。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

近年ますます其の魅力に誘惑されて、日本の自刻木版のますますよくなつて行つて広く世間の人の間に鑑賞せられるやうになる事を望んでやまないものであり、又今後機会ある毎に紹介と推奨とに努めて、世間の人が此の芸術に強い興味を持つやうになる事に少しでも力を致したいと思つてゐるのです。


大正14年(1925)1月28日 川西英雄宛書簡より 光太郎43歳

川西英雄は版画家。光太郎も版画にかなり高い興味を持っていました。

光太郎智恵子ゆかりのお店ということで、当会主催の連翹忌の集いで使わせていただいている日比谷松本楼さん。今年が創立120周年だそうです。

以前に紹介したつもりでいたのですが、忘れていた件がありました。

日比谷松本楼120周年記念特別プラン

期 間 : 令和5年4月1日から令和6年3月31日
会 場 : 日比谷松本楼本店2F/3F 個室・宴会場
料 金 : おひとりさま ¥12,000(4名様より)

お祝いのお席・同窓会・同期会・OB会・ご卒業記念・社内懇親会などさまざまなお楽しみのお席に、今年で120周年を迎える松本楼のあゆみをお料理でご堪能いただける特別なプランをご用意いたしました。

MENU
 ジャルダン・ドゥ・レギューム 季節野菜の菜園風 5代目シェフ六川スタイル
 八丈島うみかぜ椎茸のポタージュカプチーノ仕立て
 松本楼初代出身地より 
  信州サーモンの温かいキッシュ 東京ビーフの生ハムとセップ茸のコンフィ
 夏目漱石 小説「野分」の牛フィレ肉のステーキ 松本楼伝統のデミグラスソースとともに
 〆のハイカラ カレーライス または ハヤシライス
 詩集「智恵子抄」より 光太郎と智恵子のアイスクリームサンデー
 ⻑崎県そのぎ茶のパン・まつもとロール
 珈琲
※ 食材の仕入れ状況などによりメニューの内容が変更になる場合があります。

★ 特典 ★
 1: 乾杯用スパークリングワイン付
 2: フリードリンク(2時間)追加おひとりさま ¥3,000
 3: お祝いのホールケーキを特別価格でご提供
 4: 松本楼のレトルト食品を特別価格でご提供
 5: 花束・卓上装花をフローリストよりご提案いたします。(別途料金)

ご利用案内
料金にはお料理・乾杯酒・お部屋代・サービス料・消費税が含まれています。
ご利用時間は2時間を基本として、延⻑は30分ごとにおひとりさま ¥1,500のご負担となります。

お電話でのお問い合わせ
tel 03-3503-1453(日比谷松本楼本店 宴会営業部)
受付時間 10:00~20:00
004
新潮文庫版『智恵子抄』所収の詩「涙」(大正元年=1912)に登場する「氷菓」=アイスクリームサンデーをメニューに入れていただきました。ありがたし。

ついでにと云うと何ですが、テレビ放映情報も

新美の巨人たち レトロ建築in日比谷公園×杏子(バービーボーイズ)

BSテレ東 2023年6月17日(土) 23:30~00:00

東京・千代田区「日比谷公園」は、今年で120周年。園内にはレトロな建物たちが感動的な美しさを今に伝えている。音楽の聖地「野音」も今年で100年、そんなレトロの美こそ「100年浪漫」。

日本初の近代西洋風公園には、各時代の建造物(「市政会館・日比谷公会堂」「日比谷松本楼」「日比谷図書文化館」「日比谷公園大音楽堂」など)が建ち並んでいます。威厳に満ちた「時計塔」、「日本のカーネギーホール」と呼ばれた音楽の殿堂…さらに「野音」のたくましき存在感。そんな「100年浪漫」の美の世界へ。

出演者 アートトラベラー:杏子(バービーボーイズ)  ナレーション:渡辺いっけい

音楽 【オープニング&エンディングテーマ】 作曲・編曲 亀田誠治
   オープニング曲「カミーユ」 エンディング曲「雨のカフェテラス」

系列の地上波テレビ東京さん系で、6月3日(土)に放映された回です。

日比谷公園さん自体も120周年だそうで、園内のさまざまな施設等が紹介されました。その中で、松本楼さんも。

当時の東京市のコンセプトが、「三つの洋」を取り入れることだったそうで……
056
一つ目は、西洋の花卉。同園、現在も色とりどりのお花でいっぱいですね。
057
二つ目で、野音や日比谷公会堂などによる、洋楽の普及。
058
そして三つ目が……
059
そこで、松本楼さん。
060
061
062
日露戦争後の日比谷焼き討ち事件などがありましたので、現在の建物は昭和48年(1973)竣工の3代目だそうです。勝手にもう少し新しいと思い込んでいましたが、実はもうちょうど50周年なのですね。意外でした。
063
そして……
064
「来た来たぁ、光太郎、出るかぁ」と思ったのですが……
065
残念、漱石にしてやられました(笑)。
066
067
松本楼さんとしても、コスパを考えれば氷菓よりフィレステーキを推してほしいでしょうし(笑)。このステーキも上記「120周年記念特別プラン」に入っていますね。

さて、番組をご覧の上、「120周年記念特別プラン」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ロダンの彫刻もお返却しようと思ひながら一日一日と見てゐるのでのびて、此も大変長くなりました。近くお返しいたします。


大正13年(1924)6月8日 木村荘五宛書簡より 光太郎42歳

「ロダンの彫刻」は、明治44年(1911)、ロダンから白樺同人一同に贈られた三点のうちのどれか、または全部と思われます。またはその後、武者小路実篤や安達峰一郎(外交官)らがロダン作品を入手しており、そのあたりかもしれません。
002
同人中の誰よりもロダンを敬愛していた光太郎ですので、なかなか手放せなかったようです。さすがに借りパクはしなかったようですが(笑)。
001
この葉書も当方手元にあります。

都内から同日開催の演奏会系情報を2件。

まずは練馬、クラシック系です。

齊藤恵ソロコンサート にほんのうた

期 日 : 2023年6月24日(土)
会 場 : 光が丘美術館 東京都練馬区田柄5-27-25
時 間 : 14:00~
料 金 : 一般3,000円 小学生以下1,000円

「にほんのうた」と題しまして、前半は童謡・唱歌に素敵な伴奏を付けたもの、後半は高村光太郎の詩に別宮貞雄が曲を付けた歌曲集「智恵子抄」を全曲歌います。
「智恵子抄」は数年前に抜粋で演奏したことがあり、いつか全曲をやりたいと思っていたものです。Ⅰ 人に Ⅱ 深夜の雪 Ⅲ 僕等 Ⅳ 晩餐 Ⅴ あどけない話 Ⅵ 人生遠視 Ⅶ 千鳥と遊ぶ智恵子 Ⅷ 山麓の二人 Ⅸ レモン哀歌 の9曲から成り、光太郎の智恵子への愛が存分に感じられる曲集です。
「50歳を過ぎたら日本歌曲をしっかり勉強しよう」と思っていたのですが、その歳を過ぎても遅々として進まない状況ですが、今回思い切って企画しました。まだまだ拙い演奏ですが、ぜひご来場いただき、ご高評をいただきたく存じます。よろしくお願いいたします。

出 演 : 齊藤恵(ソプラノ) 野入葉子(ピアノ)
曲 目 : 
 どこかで春が 百田宗治作詞 草川信作曲 伊藤康英編曲
 うみ~唱歌ファンタジー~
  われは海の子 文部省唱歌
  うみ 林柳波作詞 井上武士作曲 伊藤康英編曲
 村祭 文部省唱歌 伊藤康英編曲
 冬景色 文部省唱歌 伊藤康英編曲
 赤とんぼ 三木露風作詞 山田耕筰作曲 伊藤康英編曲
 あわて床屋 北原白秋作詞 山田耕筰作曲 伊藤康英編曲
 宵待草 竹久夢二作詞 多忠亮作曲 伊藤康英編曲
 歌曲集『智恵子抄』 高村光太郎作詞 別宮貞雄作曲
  Ⅰ 人に Ⅱ 深夜の雪 Ⅲ 僕等 Ⅳ 晩餐 Ⅴ あどけない話 Ⅵ 人生遠視
  Ⅶ 千鳥と遊ぶ智恵子 Ⅷ 山麓の二人 Ⅸ レモン哀歌
004
005
「智恵子抄」は数年前に抜粋で演奏したことがあり」というので調べてみましたところ、平成27年(2015)に、青山の草月ホールさんで開催された「日本の音楽展(XXXVII)」で、確かに4曲抜粋で歌われていました。今回ピアノを担当される野入さんという方も、同じ演奏会で別の曲の伴奏をなさっていました。

故・別宮貞雄氏の「智恵子抄」、テノールの紀野洋孝氏が積極的に取り上げられ、他にもぽつりぽつり色々な方が歌って下さっています。非常に抒情的かつ、日本語のフレーズを大切にした作曲です。

今回は美術館さんでコンサート。何とも優雅ですね。

もう1件。一転してジャズ系です。

ノスタルジックな世界

期 日 : 2023年6月24日(土)
会 場 : 名曲喫茶ヴィオロン 東京都杉並区阿佐谷北2-9-5
時 間 : 19:00~
料 金 : 1,000円(1ドリンク付)

出 演 : MIHOE(朗読/歌) 藤澤由二(ピアノ)
      中山ふじ枝(クロマチック・ハーモニカ)

中原中也 寺山修司 智恵子抄 そしてオリジナル ノスタルジックな世界をJAZZ演奏と朗読で綴る小さな時間
006
昨年8月にも同じ会場で、「智恵子抄」を扱って下さいました。それからツィッター投稿に「智恵子抄」の文字が無くて気づかなかったのですが、今年3月にも演(や)られていました。

継続して取り上げて下さるのは非常に有り難いところです。

それぞれ是非お伺いしたかったのですが(ハシゴも可能かな、と)、自分の市民講座「高村光太郎・智恵子と房総」がまさにその日でして(ちなみにおかげさまで定員に達したそうです。多謝)、残念ながら欠礼致します。

お近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今度の災厄については市民一同いづれも悲痛な経験を負はされましたが、私自身として、柳君の遺作の事ほど切実に悲しまされた事はありません。身に近く、苦しい気がします。 あなたの御心持を推察する事は更に強い圧迫です。 けれど事実は二度とあともどりしない事を思へばどう考へてもどう為ようもなく又どう言ひやうもありません。 せめて友人間にまだ散らばつてゐる遺作をあなたの許に集め寄せる事が出来れば一つの慰めになるかと思ひました。

大正12年(1923)10月23日 柳八重宛書簡より 光太郎41歳

「今度の災厄」は、関東大震災。柳八重は画家の柳敬助夫人。柳夫妻は明治末、智恵子を光太郎に紹介するのに一役買ってくれました。

敬助はこの年5月に急逝。その遺作展が日本橋三越で始まったのがまさしく震災当日の9月1日で、集められた柳の遺作絵画38点、さらに具体的な作品名は不明ですが光太郎作品を含む、賛助出品された友人たちの作品64点すべてが焼失してしまいました。

昨日は都内に出ておりました。

まずはよく行く国立国会図書館さん。例によって調べものです。
PXL_20230609_013708215
昨年12月の、同館デジタルデータリニューアルに伴い、閲覧できる件数が飛躍的に増え、自宅兼事務所のPCでも見られるデータからも続々、これまで知られていなかった光太郎文筆作品等を見つけ続けています。が、「館内限定」ということで、同館まで足を運ばないと見られないデータも多く、先月も調査に赴きましたが、今月も行って参りました。

その結果、書籍の短評、それからアンケート回答で『高村光太郎全集』未収録のものを発見しました。来年4月発行の雑誌『高村光太郎研究』内の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。

ただ、昨日はその方面の調査より、別件の調べものがメインでした。雑誌『婦人之友』に関してです。同誌、今年で創刊120年を迎える我が国婦人雑誌の最古参の一つ。過日も新刊書店の店頭で立ち読みして参りましたが、森まゆみ氏らによる創刊120周年キャンペーン的な連載も為されています。

同誌、光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が始めたもので、光太郎は明治期の創刊間もない頃から亡くなる直前まで、断続的に寄稿を続けました。雑誌としての光太郎寄稿数の多さはおそらく十指(ことによると五指)に入るのではと思われます。また、その数だけでなく、寄稿していた期間の長さも特異です。下記は当方作成の資料から。
無題
その羽仁夫妻が創設し、これまた健在、都下東久留米市の自由学園さんの出身で、『婦人之友』にも関係していた盛岡出身の吉田幾世。自由学園さんの精神を引き継ぐ新制の「向中野学園高校」を昭和23年(1948)に創立(前身は昭和8年=1933創立の私塾的な「盛岡友の会生活学校」)しました。こちらは「盛岡生活学校」「向中野学園高等学校」そして「盛岡スコーレ高等学校」と名を改め、やはり現在も続いています。

吉田は光太郎と交流があり、盛岡生活学校時代に、生徒たちを花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋に引率していったりしましたし、光太郎も同校の卒業式に参列したり、カリキュラムについてさまざまなアドバイスをしたりしていました。そのため、同校には光太郎関連の書や写真等が残っているそうです。下の画像は昭和31年(1956)刊行の『日本文学アルバム高村光太郎』(筑摩書房)から。光太郎、ウハウハですね(笑)。
無題2
そこで今秋、花巻高村光太郎記念館さんを会場に、花巻市の主催で吉田や盛岡生活学校と光太郎の交流をメインとした企画展示を行うとのこと。当方、そのための事前調査で、花巻市の職員の方々などと共に今月末に同校へ伺うことになりました。

そのため、『婦人之友』の調査です。同誌には光太郎の寄稿以外にも、吉田その他による複数の光太郎訪問記や、光太郎の消息の紹介などがたくさん載っており、それらは国会図書館さんまで行かないと閲覧できないため、足を運んだ次第です。ごっそりコピーを取ってきました。今後、精査し、今秋の展示に生かしたいと存じます。

調査終了後、同館最寄りの永田町駅から東京メトロ半蔵門線で2駅、表参道駅で下車。北青山に向かいました。絵画の個展の拝見です。
無題3
描かれたのは加藤真夢さん。やはり光太郎や吉田と交流の深かった画家・深沢省三、紅子夫妻の令孫です。また、お父さまの竜一氏は光太郎の後輩で詩「四人の学生」(昭和18年=1943)のモデル。お母さまのトシ様との新婚時代、現在の雫石町にお住まいで、昭和25年(1950)にはそちらに光太郎が逗留したこともありました。そして真夢さんご自身も自由学園さんの卒業生です。

会場はギャラリーコンセプト21さん。
PXL_20230609_053628490 PXL_20230609_053612822
お隣は青山セントグレース大聖堂さん。
PXL_20230609_045850896
ちょうど御夫妻で在廊なさっていて、いろいろお話をさせていただきました。御夫妻、それからお母さま、息子さんと、4名様で今年の第67回連翹忌の集いにご参加して下さいました。

油彩、水彩で花を描かれた作品が中心。
PXL_20230609_052118084
PXL_20230609_052105598
PXL_20230609_052810418
PXL_20230609_052049787
PXL_20230609_052122204
その色彩の鮮やかさに眼を奪われました。

お祖父さま、お祖母さまが手がけられていたような、挿画等の作品の載った子供向けの書籍も展示されていました。
PXL_20230609_052030804
001さらに真夢様、吉田幾世をよく御存じだそうで、驚きました。お祖父様が岩手大学に奉職なさっていた頃、さらに退官なさって上京、練馬に居を移されてからもたびたびお宅でお会いになったそうです。吉田の著書『忘れ得ぬ人々』には、深沢家を訪れたエピソードも書かれていましたので、考えてみれば不思議はないのですが。ちなみに同書には、光太郎の項も設けられています。

それから、先述の国会図書館での『婦人之友』調査で、お祖母様と吉田、さらに羽仁夫妻の令嬢・説子らによる座談会の記事「新しき農村工芸を語る」(昭和26年=1951)もコピーを取ってきました。この中で光太郎も話題に上がっています。

「そういうことでしたら、吉田の関係で公開するに差し支えのないものがお宅にありましたら、お貸しいただけますか」と、お願いして参りました。

というわけで、来月初めには盛岡での調査の報告も載せさせていただきます。ちなみに花巻高村光太郎記念さんでは、今秋の吉田がらみの展示以前に、光太郎が太田村で残したスケッチに関わる展示をされるそうです。来週末からと聞いていますがまだ詳細が発表されていません。わかりましたら改めてご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

そのうち自由学園の建物を拝見させて頂きにまゐりたいと思つております。


大正12年(1923)3月10日 龍田秀吉宛書簡より 光太郎41歳

龍田はこの当時の『婦人之友』編集長。のち三上姓となりますが、やはり戦後まで光太郎との交流が続きます。

「自由学園の建物」は、おそらくフランク・ロイド・ライト設計の「明日館(みょうにちかん)」と思われます。光太郎、建築にも造詣が深く、自身で建築設計も行っていました。
002
先述の『婦人之友』記事中に、翌大正13年(1924)、羽仁もと子によるもので、光太郎が同校を訪れたことが記されているものもありました。

昨日、テレビ朝日さんで放映された5分間番組「東京サイト」を拝見しました。今週は「TOKYO霊園さんぽ」ということで、昨日放映分は光雲、光太郎智恵子らが眠る染井霊園。
001
東京都さんがスポンサーというか、都としてのお知らせなどを扱う番組で、関東圏しか放映がありませんが、放映終了回は一定期間、一部を除いて公式サイトで動画として公開されています。

まずは染井霊園の概要。開園は明治7年(1874)、園内にはソメイヨシノの古木が約100本だそうです。二葉亭四迷もここに眠っています。
011
そしてわれらが光雲光太郎。
002
「髙村」と「高村」をきちんと書き分けていて、感心しました。その点の詳細はこちら
003
お参りに訪れる人が多いとのことで、有り難く存じます。
056
その後、都からのお知らせということで、今年度の申し込み受付等。「分譲」というと語弊があるでしょうか。
004
005
わずか半坪ほどで250万円超、それでも昨年は5倍近い倍率だったそうで……。

とても無理、という方などには、納骨堂的な……。
006
007
008
しかしこれでも60万円オーバー。
010
さらに倍率は一般の墓所より高く……。
009
都民の皆さんには格段驚くことでもないのかもしれませんが、田舎者には「ひょえー!!!!」というか「じぇじぇじぇ!!!!」というか(笑)。

何はともあれ、オンラインでの動画、ご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

一般楽団の事もさる事ながら、 たちのよい、小ぢんまりしたcafé-concertが欲しいと思ひます。 さういふものは今日まだ経営がむつかしいでせうか。

大正11年(1922)11月28日 吉村幸夫宛書簡より 光太郎40歳
001
宛先の吉村幸夫の住所が「誠之堂編輯部」となっており、おそらく何らかの雑誌へのアンケート回答と思われますが、掲載誌等不明です。

café-concert」はカフェ・コンセール。フランスなどのワンドリンクで歌やショーを見せる店です。たしかに当時の日本には無かったようですね。

この葉書、当方手持ちのものです。

対面式およびオンラインでの講座です。

憧れ本読書会 #29 高村光太郎『智恵子抄』

期 日 : 2023年6月17日(土)
会 場 : 三鷹古典サロン裕泉堂 東京都武蔵野市御殿山2丁目21−9
      オンライン会議アプリzoomによるリモート参加
時 間 : 10:30~12:30
料 金 : 800円

「いつかは読んでみたかったあの本に挑戦してみよう!」という趣旨の読書会の29回目です(単発参加も可)。年度当初の3か月は詩歌を読む三ヶ月です(4月山頭火、5月啄木『一握の砂』、6月光太郎『智恵子抄』)。続けて参加するもよし、興味のある回だけで出るもよし、一緒に楽しんで行けたら嬉しいです。

この6月に取り上げるのは、高村光太郎が夭折の妻をうたった『智恵子抄』です。印象に残った作品に目印などを付けてきていただき、感想などをシェアし合い、読みを広げたり深めたりできればと思います。
 ※どの版でも構いません。
 (例)・智恵子抄 (新潮文庫) ・高村光太郎詩集 (岩波文庫)  など
 ※青空文庫(WEB・無料)で読むことも可能です。
  https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46669_25695.html

正しく読む、深く読む、といったことは考えなくとも構いません。お一人お一人がそれぞれのやり方で、その本と出合う経験を大切にしたいと思います。「読書会がある!」となると、「〆切効果」が生じますので、この読書会が、前々から憧れていた本を実際に読んでみよう、という機会となれば幸いです。

当日のファシリテーターは、国語講師で『10分読書』(集英社)著者の吉田裕子(よしだゆうこ)です。

ご参加いただくにあたっての条件(偉そうでスミマセン……)は以下の通り。
①参加条件を整えられること
 (特にオンライン参加の場合、zoomでの参加が技術的に可能であること。
  (ハンドルネーム等での参加可、発言参加は必須、顔出しはできれば))
②当日までにその本を読み終えること
  (どの出版社の、どの版で読んでいただいても構いません。電子書籍や青空文庫でも可)
③3つの質問に答えを用意すること
です。

ぜひご参加お待ちしております。

============
ご参加の皆様に3つの質問(当日の話のネタに使います)
============
①参加したきっかけ、この本を読んでみようと思ったきっかけは?
②印象に残った部分は?
③よく分からなかった部分は?
000
講師の吉田裕子氏、平成25年(2013)にも「”大人向け古典講座” 朗読 耳から味わう日本文学の傑作」という講座で智恵子抄を扱って下さっています。多謝。

以前も書きましたが、会場での対面式、ZOOMによるオンライン、双方が用意されるというのは、元はコロナ禍によって広まったといえる慣習ですが、今後、さらに拡大していってほしいものですね。

【折々のことば・光太郎】

ゴツホの写真を長らく拝借して居てすみません。あまり立派な写真だつたのでとうと印刷所へ廻しかねてしまひました。「回想のゴツホ」が出来ました故別封で一冊お贈りいたしました。


大正10年(1921)中川一政宛書簡より 光太郎39歳

『回想のゴツホ』は、叢文閣から出版された光太郎の訳書。原著はフィンセントの妹、エリザベット・ゴッホによるフィンセントの評伝です。

当方手持ちのものはカバー欠の裸本(左下)。この書籍、カバー付きで市場に出ることがめったにありません。カバーは光太郎自身の装幀、題字です(右下)。
001 002
同書にはゴッホ油絵の図版はたくさん載っていますが、確かにゴッホ肖像写真はありません。光太郎、やっちゃった感がありますね(笑)。「やっちゃった」といえば、光太郎、癖なのか何なのか、この書簡でもそうですが「とうとう」と書くべきところを「とうと」とする例が複数見受けられます。

関東圏限定の5分間番組です。

東京サイト「染井霊園」

地上波テレビ朝日 2023年6月8日(木) 13:45〜13:49

今後ますますの進化が期待される日本の首都・東京。この世界屈指の巨大都市の知られざる魅力を発見し、暮らしに役立つ最新情報をお届けします。

ソメイヨシノの古木が100本ほどあり、歴史を感じさせる「都立染井霊園」は1874年に開園。明治期の小説家・二葉亭四迷や、彫刻家・髙村光雲と息子の光太郎も眠っています。

ナビゲーター 林家きく姫
000
都立染井霊園が取り上げられ、髙村家の墓所がある、という番組説明ですから、動画が流れるのでしょう。意外とテレビで髙村家の墓所が写される機会はありません。

今回の放映に関し、「たかむら」の「たか」をいわゆる「はしごだか」の「髙」で表記しているサイトと、一般的な「高」で表記しているサイトが混在しています。墓石に「髙村氏」と刻まれており、制作サイドで現当主にして光太郎実弟令孫の達氏あたりに確認したところ、「うちは確かに『髙村』だ」という回答で、ではそうしよう、ということのような気がします。

下の画像は平成17年(2005)10月発行の雑誌『散歩の達人』から。
004
以前にも書きましたが、元々髙村家は、達氏曰く、昔から慣習として「髙」を使っているとのこと。しかし、おそらく明治期、戸籍の登録の際に、光雲が弟子の誰だかを手続きに行かせたところ、「高村」と書いてしまったので戸籍上は「高村」となったと伝わっているそうです。このあたり、5月26日(金)にNHKさんで放映された「チコちゃんに叱られる」で、「なぜ“さいとう”にはいろいろな漢字がある?」というコーナーがあり、明治期の戸籍登録の際にいろいろあった申請の通り(中にはむちゃくちゃな字も)受け付けてしまったため……という話で、似たような事例だな、と思いました。

ちなみに「髙」を「高」の「旧字体」と思い込んでいる方が多くいらっしゃいますが、誤りです。「髙」は「俗字」。手書きの場合等に慣習的に用いられてきたものの、正格な字体ではないものです。左下は当方が常用している漢和中辞典から。
001 002
また、光太郎は幼少期には「髙村」と書いていたものの(右上画像参照)、長じてからは「戸籍が『高村』ならそう書くべきだろう」と、「髙」を使わなくなったとも聞いたとのこと。光太郎にしてみれば、自分は家督相続を放棄した分家だから、というのもあるかもしれません。「豊周が嗣いだ本家は「髙村」と名乗れ、俺は分家で「高村」とする」というわけでしょう。

ところが「髙」の字は先述の通り俗字の扱いで、活版印刷の頃は活字がほとんど存在しなかったようです。そこで、生前の豊周の著書等はほぼ「高村」、パソコン等が普及してきて、「髙」が使えるようになると「髙村」となってきた感があります。豊周子息の故・規氏も、かつては出版社等から「うちでは『髙』の字は出せない」と言われていたのでしょうが、後年になってそれが可能になると、「髙村」で通すようになりました。
003 005
1990年代頃がその境だったようで、右上画像は平成4年(1992)、下画像は平成7年(1995)のものです。
006
それぞれの家や個人でこだわりもありましょうし、いろいろ難しいところですね。

さて、「東京サイト」、ぜひご覧下さい。ちなみに同番組、月から金の平日5日間の放映で、明日からのラインナップは「TOKYO霊園さんぽ」だそうです。染井霊園以外の詳細は以下の通りです。
001
6月5日(月) 青山霊園 
6月15日〜7月3日に使用者の募集を行う8カ所の都立霊園のひとつ、「都立青山霊園」をご紹介。忠犬ハチ公の碑がある農学者・上野英三郎のお墓には多くの外国人も訪れます。

6月6日(火) 雑司ヶ谷霊園
木々に囲まれ自然豊かな「雑司ケ谷霊園」は明治時代の1874年開園。文豪・夏目漱石のお墓は安楽椅子を模したといわれる墓石が特徴です。小説家・永井荷風のお墓もあります。

6月7日(水) 八王子霊園
山に囲まれる自然景観を生かし、全て芝生墓地の「都立八王子霊園」には大正から昭和期に活躍した小説家・若杉鳥子や、1973年に直木賞を受賞した藤沢周平も眠っています。

6月9日(金) 八柱霊園
都内の墓地不足に対応する郊外墓地として、1935年に千葉県松戸市に開園した「八柱霊園」。昭和を代表する写真家・土門拳や講道館柔道の創始者・嘉納治五郎も眠っています。


関東圏以外では放映がありませんが、放映終了後、公式サイトで動画として公開されるはずです。ただ、大人の事情で公開されない回(4月27日(木)放映の「重要文化財の秘密」がそうでした)もありますが……。

【折々のことば・光太郎】

今日は小生十数年来の親友リーチ君が英国へ出発いたし 横浜埠頭にて彼と別れてより 雨にうたれて帰り来り、椅子にもたれて終日憂愁にとざされ居り候 生きながら友と遠く別るるより悲しきは無之候


大正9年(1920)6月29日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎38歳

「リーチ君」は陶芸家のバーナード・リーチ。明治末の英国留学中に知り合い、それが縁で来日しましたが、故国イギリスに窯を作り、英国伝統の陶芸と日本のそれを融合させるため、やはり陶芸家の濱田庄司を伴って帰国しました。ただ、その後も何度か来日し、光太郎と旧交を温めています。

テレビ放映情報、2件です。

じゅん散歩 「千駄木」

地上波テレビ朝日 2023年5月30日(火) 09:55~10:25

「一歩歩けば、そこにひとつの出会いが生まれる…」
三代目散歩人・高田純次が“一歩一会(いっぽいちえ)”をテーマに自由気ままに街を歩きます!

三代目散歩人・高田純次が「千駄木」を散策▽指人形でけん玉!?職人が手がける圧巻人形劇▽写真映え!ドライフラワーカフェの花パフェ▽文人ゆかりの街の老舗せんべい店

【出演】高田純次  【通販コーナー】新山千春、愛華みれ

◇音楽
◆テーマ曲:斉藤和義 『純風』  ◆エンディング曲:アルステイク 『わんちゃん』
008
「千駄木」ということで、光太郎自宅兼アトリエのあった、旧本郷区駒込林町です。光太郎自宅兼アトリエのあった保健所通りも歩かれ、光太郎自宅兼アトリエ跡も紹介されるようです。というのも、1ヶ月以上前ですが、廻り巡ってテレ朝さんだか制作会社さんだかから、光太郎自宅兼アトリエの古写真画像を使いたいが、どうすれば……という問い合わせがありまして……。

こういう場合に使える写真を所蔵していらっしゃる、尾崎喜八関係の方をご紹介したのですが、その後、連絡が取れたのかどうか等は不明ですが。

また、番組説明にある「文人ゆかりの街の老舗せんべい店」は、団子坂下の菊見せんべいさんですね。光太郎、実家の駒込林町155番地から東京美術学校に通学していた頃の思い出として、「私の青銅時代」(昭和29年=1954)という散文で、菊見せんべいさんについて記述しています。

 塩せんべい屋は店先でせんべいを押し、刷毛で醤油を付けながら焼く。そこの娘がちゃんとしたきりっとした娘で、子供の時から店に出ていて私も知っていたが、美術学校に行く途中でその煎餅屋の前に来ると、私は顔が赤くなる。それが自分で分かる。何故か分からぬがそうなる。はじめは気がつかなかったけれど、毎日毎日そうなるので何だか恥ずかしくなってきた。店の処まで歩いてくると胸がどきどきして顔がほてって困った。しまいにはどうしてもその通りが通れなくなった。だから根津の方を遠回りして学校に行ったけれども、後で考えると、その娘に思し召しがあって、娘の顔を見ると顔がほてったのだと知った。むこうでも真っ赤になっていた。あれがむかしの純情な子供の気持ちなんだろう。

「思し召しがあって」というのは、「何か気になるところがあって」といった意味でしょう。何とも微笑ましい、光太郎初恋の思い出です。問題の娘さんは、先代の奥様のいとこだったそうで、たまたま偶然なのですが「智恵子」という名前だったそうです。

「菊見」は、かつて団子坂で菊人形が催されていたことに由来するのでしょう。下は当方手持ちの古写真です。
002
夏目漱石の「三四郎」などにも描かれています。そのあたりも紹介されるのかどうか、というところですね。

ちなみにこの番組、5月22日(月)と23日(火)の2回にわたり、渡辺えりさんがゲスト出演なさり、高田さんとご一緒に池袋を歩かれていまして、23日放映分では、えりさん、光太郎の名も出して下さいました。ありがとうございました。
056
編集の関係か、今一つ脈絡が分かりにくかったと思うのですが、えりさんが高校を卒業されて上京なさった際、お母さまが買って下さった強力な目覚まし時計を、光太郎と交流のあったお父さまが、昭和61年(1986)4月2日、パリのカフェで開かれた第30回連翹忌の集いにご参加の際、フランスまで持って行かれた、というお話です。

「じゅん散歩」、明日以降のラインナップは以下の通り。

5月29日(月) 三代目散歩人・高田純次が「田端」を散策▽4年ぶりの再会…パン職人が絵本作家に▽山手線&新幹線が一望できる絶景鉄道カフェ▽形も音も様々!自転車ベルの世界

5月30日(火) 三代目散歩人・高田純次が「千駄木」を散策▽指人形でけん玉!?職人が手がける圧巻人形劇▽写真映え!ドライフラワーカフェの花パフェ▽文人ゆかりの街の老舗せんべい店

5月31日(水) 三代目散歩人・高田純次が「駒込」を散策▽北島康介や寺川綾が学んだ名門スイミングセンター▽マスターズ日本記録を10個もつ女性スイマー▽生徒も作る!製菓学校のケーキ店

6月1日(木) 三代目散歩人・高田純次が「駒込」を散策▽看板ネコが鎮座!呉服店のアイデア小物入れ▽蒸して焼いて揚げて…変わり種シュウマイ▽中国にも無い「水シュウマイ」とは?

6月2日(金) 三代目散歩人・高田純次が「西日暮里」を散策▽紅茶専門店で味わう世界三大銘茶▽アートな壁画が目印!街の名物酒店▽線路沿いで発見!壁を登る人々


高田さん、千駄木とその周辺を歩き回られるようです。

もう1件。

新美の巨人たち レトロ建築in日比谷公園×杏子(バービーボーイズ)

地上波テレビ東京 2023年6月3日(土) 22:00~22:30

東京・千代田区「日比谷公園」は、今年で120周年。園内にはレトロな建物たちが感動的な美しさを今に伝えている。音楽の聖地「野音」も今年で100年、そんなレトロの美こそ「100年浪漫」。

日本初の近代西洋風公園には、各時代の建造物(「市政会館・日比谷公会堂」「日比谷松本楼」「日比谷図書文化館」「日比谷公園大音楽堂」など)が建ち並んでいます。威厳に満ちた「時計塔」、「日本のカーネギーホール」と呼ばれた音楽の殿堂…さらに「野音」のたくましき存在感。そんな「100年浪漫」の美の世界へ。

出演者 アートトラベラー:杏子(バービーボーイズ)  ナレーション:渡辺いっけい

音楽 【オープニング&エンディングテーマ】 作曲・編曲 亀田誠治
   オープニング曲「カミーユ」 エンディング曲「雨のカフェテラス」
009

014
010
012
013
かつて光太郎智恵子が「氷菓」を食し、また光太郎も中心メンバーの一人だった芸術至上主義運動「パンの会」会場としても使われ、そして現代、光太郎偲ぶ連翹忌の集い会場とさせていただいてる日比谷松本楼さんも取り上げられます。
016 015
現在の松本楼さんの建物自体は新しいものですが、かつての姿など、古写真等で紹介されるのでしょう。また、日比谷公会堂も光太郎所縁の建物。戦後には各種コンサートに何度も足を運びましたし、戦時中には光太郎が詩部会長を務めた日本文学報国会の発会式も行われました。
011
それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

先週十四日は誕生日だつたので 心ばかりの野の花を写真に供へて其日を祝福しました。

大正8年(1919)11月17日 一志茂樹宛書簡より 光太郎37歳

「誕生日」はロダンの誕生日です。ただ、正確にはロダンの誕生日は11月12日、14日は洗礼の日です。ロダンは前年に没し、光太郎は翌年には叢文閣から『続ロダンの言葉』を上梓、そういった時期ですので、感慨一入だったようです。

昨日は都内に出ておりました。レポートいたします。

まずは上野の森美術館さんで昨日始まった「第4回日本木彫刻協会展」。
003
PXL_20230519_012243867 PXL_20230519_012251068
PXL_20230519_013817043.PORTRAIT
仏師の関侊雲氏が会長を務められている一般社団法人「日本木彫刻協会」さんの主催です。
004 005
受付でいただいたフライヤーに、「事業内容」の一つとして、こんな記述。
009
なるほど、大切なことですね。

そこで、積極的に入門者等を募集されているようです。
010 006
木彫のみでなく、仏画も。
007 008
素晴らしい!

さて、展示作品を拝見。
PXL_20230519_013038734.MP
PXL_20230519_013052450.MP
こじんまりした会場で、さほど展示点数も多くなく、ちょうどいい感じです。大規模な公募展等で「これでもか、これでもか、いやいや、まだまだぁ!」というスタイルだと、申し訳ありませんが食傷気味になってしまいますので。
002
関氏、それから高弟とおぼしき方の作品。
PXL_20230519_012641314 PXL_20230519_012652230
こういう作を前にすると、同じ日本人として誇らしくなりますね。

それから、名誉会員のテノール歌手・秋川雅史氏の作。光太郎の父・光雲が主任となって皇居前広場に据えられた「楠木正成銅像」の模刻。申し訳ありませんが、高村光太郎連翹忌運営委員会代表として、こちらを拝見するのがメインの目的でした。
PXL_20230519_012832839.MP
PXL_20230519_012926367.MP PXL_20230519_012935320
外連も衒いも韜晦もなく、実に真摯に作られているのがよく分かります。こちらが出品された一昨年の二科展、昨年の秋川氏個展ともに見逃していましたので、ようやく拝見できて満足でした。

同じく秋川氏、昨年の二科展入選作。
PXL_20230519_012957044
さらに金剛力士像。群馬県前橋市の天明寺さんに納められる予定の像の下絵だそうで。
PXL_20230519_012824522
秋川氏、いつのまにかテノール歌手としてではなく、彫刻家としてのオフィシャルサイトも立ち上げられていました。かなり本気ですね。今後ともそれぞれの分野でご活躍されることを祈念いたします。

ところでこんな展示も。
PXL_20230519_012720899
PXL_20230519_012735273
関氏、今年の大河ドラマ「どうする家康」のお仕事もされているそうで。

当方、同番組は拝見していませんので存じませんでしたが、毎週書かさず見ている妻にこの画像を見せたところ、「ああ、これ!」。かなり重要なモチーフのようでした。

会場の上野の森美術館さんを後に、すぐそばの、やはり光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」にご挨拶。
PXL_20230519_013600270 PXL_20230519_013606945
その後、永田町の国会図書館さんへ。
PXL_20230519_050926238
PXL_20230519_050930528
昨年12月のデジタルデータリニューアルに伴い、自宅兼事務所のPCで閲覧できるデータ数が飛躍的に増大。その結果、『高村光太郎全集』等に洩れていた光太郎文筆作品などが続々見つかっています。ただ、大人の事情で自宅兼事務所のPCで閲覧できず、館内限定閲覧可のデータも多く、そちらを調べに行った次第です。

集中力が保てませんので2時間ちょっと、明治末から昭和初めまでのデータを調べ、やはり『高村光太郎全集』等に洩れていた光太郎文筆作品を見つけてきました。散文と、書簡(雑誌に転載されたもの)のそれぞれ複数です。高村光太郎研究会さんから来春発行予定の年刊誌『高村光太郎研究』中の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。それから本日誕生日の智恵子がらみでも実に面白い婦人雑誌記事を見つけました。大正末のものですが、いずれこのブログで紹介します。

しかし、まだまだ調べるべきデータが山のようにあり、これから何度も通うことになりそうです。「浜の真砂は尽きるとも世に光太郎智恵子の種は尽きまじ」という感じです(笑)。

さて、「第4回日本木彫刻協会展」。会期が短く5月23日(火)までですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

此間お話の御尊父の肖像製作の事は大変たのしみに思つて居ります それに佐渡ははじめての処故秋の風景などいろいろ想像してみて居ます


大正7年(1918)6月13日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎36歳

渡辺湖畔は新潟佐渡島の素封家にして与謝野夫妻の新詩社同人だった歌人。のちに光太郎はその歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀、装画を手がけます。

「御尊父の肖像製作」は結局実現せず、代わりに、というわけでもないのでしょうが、木彫の「蟬」が贈られましたし、湖畔の愛娘で夭折した道子の肖像画を描きました。また、この年の10月に佐渡島を訪れた際には、書幅も残しました。

対面式およびオンラインでの講演会です。

春の特別展関連講演会「関東大震災と武者小路実篤」

期 日 : 2023年5月20日(土)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 13:00~15:00 
料 金 : 無料

大正12(1923)年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災は、10万人以上の犠牲を出した国内最悪の自然災害と言われます。巨大地震を体験した里見弴、高村光太郎、地震の知らせを聞いて東京へ駆けつけた志賀直哉、そして武者小路実篤。白樺同人が書き残した文章から、彼らが見た関東大震災を探ります。

講師
石井正己氏(日本文学研究者・東京学芸大学名誉教授)
東京学芸大学名誉教授。著書に「文豪たちの関東大震災体験記」(小学館)、「感染症文学論序説」(河出書房新社)、「震災は語り継げるか」(三弥井書店)などがある。

申し込み
往復はがきの往信面に、講座名・応募者全員(1枚につき2名まで)の氏名(ふりがな)・年代・郵便番号・住所・電話番号を、返信面にご自身の宛先を明記し、5月9日(火曜日)必着で実篤記念館まで。

注意事項
応募者多数の場合は抽選を行います。
はがき締切後、定員に余裕がある場合は5月10日(水曜日)午前9時から5月19日(金曜日)午後5時まで先着順で電話受付。詳細は実篤記念館までお問い合わせください。
はがきの到着に時間がかかることがあります。余裕をもってご投函ください。
都合により、内容が変更される場合がございます。最新の情報は当館ホームページやツイッターをご覧いただくか、お電話でお問い合わせください。

配信視聴
会場参加に加え、オンライン配信も行います(ライブのみ)。
5月12日(金曜日)午後5時までオンライン配信専用の申込みフォームを開設します。
講座の詳しい内容や対面での応募方法については次のリンクをご確認ください。

000
同館で開催中の特別展「武者小路実篤の1923年」の関連行事という位置づけです。
001 002
大正12年(1923)9月1日の関東大震災からちょうど100年という節目の年ですので、このような企画になっているのでしょう。

南関東ではどこも甚大な被害だったわけで、個々の芸術家かどういう状況になったかまでは当方もそれほど存じません。武者にしても。同展の案内文に依れば、武者自身は地震発生当時、宮崎の新しき村に居たそうですが「東京の実家に住む母と甥らが被災し、一時は安否が分かりませんでした。家族は無事だったものの、実篤が生まれ育った家は全焼しました。」ということだったそうで、それは初めて知りました。ありゃま、という感じですね。

光太郎は、というと、駒込林町の住居兼アトリエは大きな損傷もなく、光太郎や近くに住んでいた父・光雲らに怪我もありませんでした。智恵子も二本松の実家に帰っていたため無事。しかし27畳のアトリエは被害の大きかった下町からの避難者に開放し、光太郎自身は何ヶ月かを四畳半の和室で過ごすこととなりました。その間、智恵子の実家の長沼酒造から酒を取り寄せ、引札も自作し、にわか酒屋を始めています。

今回の講演では、「白樺同人が書き残した文章から、彼らが見た関東大震災を探ります。」とのことで、では、光太郎はどんな文章を書いていたか、調べてみました。

すると、震災に関わるものとして公表されたものは、11月に雑誌『女性』に載ったアンケート回答「アメリカ趣味の流入を防げ――帝都復興に対する民間からの要求――」、同じく『報知新聞』に連載された散文「美の立場から」がありました。

「アメリカ……」の方は短いので全文を引き写してみます。

 大東京の築造については、自分が六年前に「東京日日新聞」に載せた「芸術雑話」の中の意見と今でも大体に於て同じ意見を持してゐます。何よりも日本の東京にしたいものです。アメリカ趣味の流入を殊に出来るだけ防ぎたいものです。質素で確かで優美な都が造りたい。末梢は後にせよ。市民にとつて、また殊に建築家にとつて、何といふ天啓に満ちた時機でせう。
 鉄腕ある者よ、出てくれ。


六年前に「東京日日新聞」に載せた「芸術雑話」」は、国会議事堂の建築(現在の議事堂は昭和11年(1936)の竣工ですが、それ以前に大正7年(1918)にコンペが行われました)についての内容を根幹としつつ、都市計画を論じた長い連載でした。一部、抜粋します。

 芸術の中で人間の心に一番影響を与へるものは建築であると思ふ。一番直接といふよりは一番手近と言ふ方がいいかも知れない。建築が恐ろしく因縁の深い感化を人間に与へるのは、建築が幼年少年の生活を支配して、外の芸術よりも早く人間の精神肉体に影響を及ぼすからである。

 国民の性格を天日の下に麗々と暴露してゐるのは建築である。倫敦、巴里、紐育其他いづこの市街乃至村落に足を踏み入れたとしても、いきなり観察者の心に襲ひかかつて来るのは其家屋の列の持つ不可言の気魄である。何の説明を聞くまでもなく、ははあ、と思ふ。

 建築の事を世人は今余り考へなさ過ぎる。自分たちの住んでゐる市町の街路に聳え立つ怪しげな建築にも眉を寄せず、喜ぶ可き建物にも感謝しない。そして其が次の時代を形づくる自分たちの子孫にどんな関係を持つかといふ事を心配しない。何をされても平気で、善いものも悪いものも無差別に受取つてゐる。東京の市街は今建築の百鬼夜行である。


明治末の欧米留学中に都市計画にも興味を持ち、ニューヨークではセントラルパークについてかなり研究した光太郎ならではの言ですね。ちなみに駒込林町の住居兼アトリエは光太郎自身の設計です。

さらに「美の立場から」。こちらも長い連載でしたので、一部抜粋。

 人は帝都の復興といふ。けれどもどんなものを復興しようといふのか。焼けて無くなつたものを取りかへして、其上この機会に多年の宿望であつた都市計画を遂行しようといふ。けれども其は一体どんな種類の都市を予想しての事であるか。都市の品格、傾向、風貌等に就てどんな好みを以ての事であるか。どんな性格の都市を実現させようと「欲」するのであるか。どんな統一をその都市性格の上におかうとするのであるか。ただ聯絡ある市街の集団であるに止まらせて満足しようとするのか。それとも是非ともミヤコを築造しようとすののであるか。この最初の覚悟によつて、今後の当事者と市民との責任も負担も忍耐も根本的の相違を来たすであらう。この覚悟を一定せしめておかなければ諸人の計画に対する態度、心構へに異同が出来て、無駄な水掛論が百出するに違ひない。

 東京は救はれなければならない。東京は健康な、正直な、清朗な、大丈夫な都にならなければならない。見かけ倒しと、無定見と、紛雑と、悪趣味と、お先走りとはもう沢山である。もうこりごりである。そしてあの無作法に四方に這ひ出す市街の集合に過ぎないものを其のまま復活される事は心苦しい。是非ともミヤコにした。日本の性格を立派に左右する「築造」されたミヤコにしたい。幾十年かかつても。幾遍壊されても。


これが100年前の文章なわけですが、100年経って、光太郎の至極まっとうな提言は果たして実現しているのでしょうか。そうでないと言わざるを得ないような気もしますが……。

ところで、散文以外に、震災直後の書簡等も調べてみました。すると、光太郎に智恵子を紹介してくれた画家の柳敬助夫人・八重に送った書簡が目に留まりました。やはり一部抜粋します。

 今度の災厄については市民一同いづれも悲痛な経験を負はされましたが、私自身として、柳君の遺作の事ほど切実に悲しまされた事はありません。身に近く、苦しい気がします。
 あなたの御心持を推察する事は更に強い圧迫です。
 けれど事実は二度とあともどりしない事を思へばどう考へてもどう為ようもなく又どう言ひやうもありません。
 せめて友人間にまだ散らばつてゐる遺作をあなたの許に集め寄せる事が出来れば一つの慰めになるかと思ひました。


柳は震災前の5月16日(まさに100年前の今日)に急逝。そしてその遺作展が日本橋三越で始まったのがまさしく震災当日の9月1日で、集められた柳の遺作絵画38点、さらに光太郎のそれ(具体的な作品名は不明ですが 追記:人体を描いたデッサンでした)を含む賛助出品された友人たちの作品64点すべてが焼失してしまいました。

八重にとっては5月に夫を亡くし、さらにその遺作の多くも9月に失うという、踏んだり蹴ったりだったわけで、その心痛はいかばかりか、というところですね。

ちなみに無事だった柳の作品、現在、信州安曇野の碌山美術館さんで「没後100年 柳敬助展」ということで多数展示中です。

さて、講演会「関東大震災と武者小路実篤」。オンラインでの聴講も可能です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

例の大理石はあれから毎日仕事に掛り居り既に職人の手を離れて小生自ら鑿を取つて居ります

大正6年(1917)4月28日 図師尚武宛書簡より 光太郎35歳

図師尚武は実業家・図師民嘉の子息。「仕事」は図師に依頼された石彫です。「職人の手を離れて」は、元の石材から大まかな形を切り出すまでを石工にやってもらったということでしょう。

003この作品、仮題が「婦人像」。現存が確認できて居らず、写真だけ残っています。それから最晩年に光太郎が語った制作の経緯。

大正五、六年頃か、落合にいた実業家の息子が、美人の、西洋人の写真を持って来てね、それをどうしても大理石で作ってくれっていううんだな。その写真がぼやっとした芸術写真でね。僕は面白くって作りかけたけれど、どうしても出来上らない。随分重いものだったけれど、それを欲しくて仕方がなくて、出来上らないうちに自動車で来て持っていってしまった。はじめに金を貰っていたんだけれど、出来上らなかったんだから、といってあとでその家にお金を返しに行った。そしたらちょうど息子さんが居なくてね。お母さんが出て来た。ところがお母さんは知らないんだね、そんなことでお金を使っていたってことを。それは何か映画女優か何かの写真だったらしいんだが、それであとで散々叱られた、とその息子が書いてきたことがあった。
(「高村光太郎聞き書」 昭和30年=1955)

どこかにひっそりと現存していてほしいものですが……。

都内から邦楽系の演奏会情報です。

東京インターアーツ目黒 第20回記念公演 和草(にこぐさ)コンサート

期 日 : 2023年5月20日(土)
会 場 : 中目黒GTプラザホール 東京都目黒区上目黒2-1-3
時 間 : 14:00~ 17:00~
料 金 : 一般 4,000円 学生(小中高校生)1,000円 親子ペア券(一般+小中高校生)4,500円

邦楽と洋楽のコラボレーションコンサート。朗読付き作品やミニレクチャーコーナーもあります。

曲目
 三宅一徳:祝宴 組曲「竹取物語」より  F.シューベルト: アヴェ・マリア
 宮城道雄:春の海  平岡吟舟:猩々   琴古流本曲:巣鶴鈴慕
 中島はる:智恵子抄 人に 樹下の二人 千鳥と遊ぶ智恵子 レモン哀歌
 間・かけ声・所作:魅力の宝庫 邦楽囃子の世界 ゲスト島村聖香さんを迎えて
 宮田耕八:豊年太鼓

出演
牧原くみ子(箏)、寺井奈美(箏)、富緒清律(箏・三絃)、大江美恵(箏・17絃)
武松洋子(朗読)、芦垣皋盟(尺八)、野村浩子(ソプラノ)、金井由里子(ピアノ)
高橋章子(フルート) 【ゲスト】島村聖香(邦楽囃子)
000
故・中島はる氏作曲の、ピアノと箏、尺八の伴奏による独唱歌曲「智恵子抄」全4曲がプログラムに入っています。

同曲、平成4年(1992)に初演が為されています。歌唱はテノールの森田澄夫氏、ピアノが渡辺一史氏、箏で砂崎知子氏、尺八に山本邦山氏というラインナップでした。当日のパンフレットには、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のお言葉。
003 002
作曲者、中島氏のお言葉も。
001
当方、これは聴いたことがなく(上記パンフレットは北川先生から頂きました)、楽譜も未見です。どんな感じかぜひ聴いてみたいもので、日程的に都合がつけば拝聴に伺いたいと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今までこんなに全体の抱和した芸術を日本でみたことのない気がします、私はまだ詩について何事も公けに言はない時に居ますが後に詩の事について書く時、この集が実に重要なものである事を感じます。


大正6年(1917)3月(推定)『感情』第2年第4号所収書簡より 光太郎35歳

この集」は、萩原朔太郎の『月に吠える』。我が国の口語自由詩の確立における功績という意味では、光太郎の『道程』(大正3年=1914)と双璧を為すものですね。

そしてどちらかというと「述志」の詩篇で成り立つ『道程』、白秋系の芸術至上的な色合いの『月に吠える』と、ベクトルが異なる二つの巨峰がこの時期に相次いで上梓されたことは、非常に興味深いところです。

現代の仏師の方々などの作品展です。

第4回日本木彫刻協会展

期 日 : 2023年5月19日(金)~5月23日(火)
会 場 : 上野の森美術館 東京都台東区上野公園 1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

展示物 現代仏師・木彫刻作家による仏像・パネル・置物などの木彫刻 約30点
出展者 協会会員、準会員を中心とした、プロ及びプロを目指す木彫刻作家数名
000
画像に使われている作品は、テノール歌手にして同会準会員の秋川雅史氏の作。一昨年の第105回二科展入選作です。

秋川氏、同会会長の関侊雲氏に師事なさり、木彫に取り組まれています。元々は光太郎の父・光雲の木彫に魅せられてのことだそうで、上記作品も光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻です。
001
同作、先述の第105回二科展の他、昨年開催された秋川氏の個展にも出品されました。一昨年には『毎日新聞』さんで同作について語られています。

また、令和元年(2019)には、光雲作の木彫「寿老舞」を引っ提げて、テレビ東京さん系の「開運! なんでも鑑定団」にご出演。1,200万円という高額鑑定となりました。その後、同作は平塚市美術館さん他を巡回した「リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」展に貸し出されました。また、同展の図録には秋川氏と現代の作家さんたちの対談も収録されています。

会期が短いのが残念ですが、日程的に都合がつけば拝見に伺おうと思っております。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

大理石購入の為めこんな所迄来ました。二三日で帰るでせう

大正6年(1917)3月18日 水野葉舟宛書簡より 光太郎35歳

「こんな所」は福島・いわき。大理石は石灰岩の一種で、関東や福島の山地でも産出します。注文のあった石彫の制作のため、大理石を入手する目的での旅でした。光太郎、生涯に何点か石彫作品も制作しています。

光太郎の父・光雲の「老猿」が出品されている、竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。アート系テレビ番組でも随分取り上げられたり、新聞各紙の文化面等にも紹介記事がたくさん載ったりするなど、かなり注目度が高かったようです。SNS上にも観覧された方々の「高村光雲の「老猿」すげぇ」といった投稿が相次いでいます(光雲と光太郎を混同する人も多く、「高村光太郎の「老猿」すげぇ」的な投稿も目立ちますが……)。

『読売新聞』さん、4月12日(水)の記事。

重文が語る 近代美術評価の変遷 東京国立近代美術館で51点展示

 全出品作が重要文化財という豪華な展覧会「重要文化財の秘密」が、東京・竹橋の東京国立近代美術館で開かれている。ただの名品展ではなく、日本近代美術の評価の変遷に迫る内容だ。
 明治以降の絵画、彫刻、工芸で重文指定を受けた作品は68件。そのうち高橋由一の「鮭(さけ)」、岸田劉生が愛(まな)娘を描いた「麗子微笑」など51点を会場に集めた。
 本展のうたい文句は「『問題作』が『傑作』になるまで」。それを象徴する作品の一つが、萬(よろず)鉄五郎の「裸体美人」だ。悠然と草原に横たわる裸婦は、アカデミズムの写実的な美女とは言いがたい。それ故、東京美術学校の卒業制作だった本作は発表当時、19人中16番目と低評価だった。しかし、近代絵画のポスト印象派やフォービスム(野獣派)の造形表現をいち早く吸収した先駆的な作品として、後に評価が覆り、2000年に重文になった。
 会場にある重文の指定年表も興味深い。1983~98年の16年間、近代の美術工芸品の重文指定は皆無なのだ。本展担当の大谷省吾副館長は「西洋美術の潮流をいかに巧みに取り込んだかが重視された。それに見合った作品が出そろったとみなされたのではないか」と推測する。 その中断期に国内で近代美術館の開館が相次ぎ、学会が設立されると、近代美術の研究が進み、西洋の尺度がよりどころだった評価方法が多様化していった。日本的な主題と西洋画の技法の融合を試みた黒田清輝の「湖畔」(99年指定)、迫真性という西洋彫刻の概念と伝統的な木彫の性格を併せ持った高村光雲の「老猿」(同)が好例だろう。
 岸田や日本画家の速見御舟は重文指定作があるが、同年代で「エコール・ド・パリ」を代表する画家、藤田嗣治はない。本展に不在の未指定作品や作家にも目を向けると、日本の近代美術の価値観は現在進行形で変化する、より生々しいものだと感じられる。
 5月14日まで。展示替えあり。

001
4月25日(火)、『朝日新聞』さん。

なぜ重要文化財に? たどってみたら 東京国立近代美術館に51点集結 

 「『問題作』が『傑作』になるまで」「史上初、ぜんぶ重要文化財」。こんな惹句(じゃっく)を掲げる東京国立近代美術館の「重要文化財の秘密」展がにぎわっている。明治以降の重文68件中51点を紹介する展覧会は、多くの観客動員を期しつつ、美術品評価の不思議に迫ろうとする試みでもある。
評価基準の揺れ動きに注目
 高橋由一の「鮭(さけ)」(1877年ごろ)に、高村光雲の「老猿」(93年)、黒田清輝の「湖畔」(97年)、岸田劉生「麗子微笑」(1921年)。展示替えが多く一度に見られる点数は40点程度だが、教科書でもおなじみの作品が次々に現れ、目が吸い寄せられる。
 主催関係者の話し合いで重要文化財(重文)だけの展覧会の案が出たとき、同館の大谷省吾・副館長は懐疑的だったという。開館70周年を記念し、開館2年前の1950年施行の文化財保護法に基づく重文の展覧会という企画だが、そもそも貴重な重文作品を貸してもらえるのか、のんきな名品展になってしまわないのか、という思いだった。
 しかし出品50点以上のめどが立ち、文献を読み、どの作品がいつ重文に指定されたかの年表を作ったことで、「文化財指定の歴史を俯瞰(ふかん)することで、違う景色が見える」と意義を見いだせるようになった。「重文だから素晴らしいのではなく、なぜ重文に指定されたのかという視点です」
第1弾は日本画
 確かに、会場に掲示されている年表は興味深い。近代美術が最初に重文に指定されたのは、保護法施行5年後の55年の4件で、56年は2件。狩野芳崖、橋本雅邦、菱田春草の日本画が2点ずつで、明治期に流入した西洋画に対抗する表現を模索した表現者たちだ。
 しばらく間を置き、67年~72年に一挙に約20点が指定されたが、これは68年の明治100年を記念した面がありそうだという。ここで「鮭」「麗子微笑」が指定される一方、超有名な「湖畔」や「老猿」はない。
 大谷さんは「西洋美術的な価値観が優先されたのではないか」と指摘する。洋画なら伝統的な西洋絵画や印象派、彫刻ならロダンに学んだような表現であり、和風の「湖畔」や仏像彫刻の伝統をひき、置物とも連なるような「老猿」は避けられたのだろう。
美術館増で急増
 そして83年から98年には近代美術が一件も指定されない長き空白が訪れる。大谷さんは「当初の評価基準では、まずはこれぐらいと考えたのか」と推測。一方、99年から指定が急に増えるのは、各地で近代美術館が整備され、美術館制度を巡る論考などが充実したことで評価の基準が変わっていった可能性があるという。
 こうして「湖畔」と「老猿」は99年に、フォービスムを思わせる萬(よろず)鉄五郎「裸体美人」(1912年)が2000年に、工芸では初代宮川香山「褐釉蟹(かつゆうかに)貼付台付鉢」(1881年)が02年に指定されている。
 評価基準という意味では「永仁の壺(つぼ)事件」も忘れがたい。鎌倉時代の古瀬戸の傑作として1959年に重文に指定された壺が、実はもっと新しいとされ、61年に指定が解除された事件だ。美術品の評価について考えさせる例だが、今展では触れられていない。
 黒田清輝「舞妓(まいこ)」(1893年)など、借りられなかった重要作もあるが、展覧会のもう一つの狙いを、大谷さんはこう語った。「今は近世以前の美術や現代美術に人気があり、日本の近代美術への関心が薄くなっている。これを機にその魅力を知ってもらえれば」
▽5月14日まで、東京・竹橋の東京国立近代美術館。

000
今回の展覧会を通し、両紙とも指摘していますが、重文に指定の評価基準がどうだったかという点が見直されたのは大きかったと思います。

会場内に展示されている「年表」はこんな感じです。
PXL_20230321_004642440 PXL_20230321_004632028
「老猿」は、昭和42年(1967)に指定候補に挙がりながら、「保留」。その年には荻原守衛の絶作「女」(明治43年)が指定されました。やはりその後の日本近代彫刻の大きな潮流であるロダニズムを色濃く持つ「女」の指定は妥当ですが、「そうでない」という理由で「老猿」の指定が見送られたのは興味深いところです。

評価基準ということを問題にすれば、もう1点。大谷省吾副館長は立場上、明言できないと思うのですが、現在指定されている68件の内訳ということも問題視されるべきかと存じます。はっきり言えば「絵画偏重」。68件中、工芸は9点のみ、彫刻にいたってはわずか6点しか指定されていません。残り53件が絵画です。

彫刻に関しては、「老猿」のような木彫は別ですが、ブロンズに鋳造されている作品だと、同じ作品が複数存在し、指定しにくいという面はあるでしょう。そこで、「女」や、同じ守衛の「北条虎吉像」は石膏原型が指定されています。版画が一件も指定されていないのも同じ理由なのでしょうか。棟方志功やら川瀬巴水やらの作品は他の指定作と比較しても決して遜色はないように感じるのですが。

それにしても、8割方絵画が占めているという現状はいかがなものかと思われます。苦言を呈せば「なぜこれが重文?」、もっと言えば「誰? この作者」という絵画も指定されています。あくまで当方の主観ですが。

言ってしまえば「美術」というカテゴリーの中に、肉筆絵画が上位に位置し、版画や彫刻、工芸を下とするヒエラルキーというか、カーストというか、そういうものの存在を感じずには居られません。

今後の議論を待ちたいところです。

ちなみに平成11年(1999)、「老猿」が指定された際の新聞記事のスクラップが出てきましたので載せておきます。
001
ここでも「湖畔」が先で画像入り、「老猿」は後ですね。

さて、「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」。最初に書きました通り、明日までです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

私は一体ナマハンジヤクな微笑が大嫌ひです。微笑は大ていの場合ゴマカシを意味してゐます。現今社会の老人株の微笑は到底たまらないものです。(惚れた同士の微笑と非常な大人物の微笑とを除いては。)


大正5年(1916)8月8日 田村松魚宛書簡より 光太郎34歳

交流のあった作家・田村松魚が日暮里に骨董店を開き、その屋号が「微笑堂」。そこでその開店通知に対しての返信でしょう。

田村の妻・俊子は智恵子の親友でしたが、この時期に松魚と別れ、2年後に新しい恋人・鈴木悦を追ってカナダに渡ってしまいます。

映画の上映情報です。

昭和の銀幕に輝くヒロイン 第105弾 岩下志麻 智恵子抄

期 日 : 2023年5月14日(日) 5月18日(木)~5月23日(火)
会 場 : ラピュタ阿佐ヶ谷 東京都杉並区阿佐谷北2-12-21 ラピュタビル
時 間 : 朝10時30分より1回のみ上映 
料 金 : 一般 1,300円 / シニア・学生 1,100円 / 会員 900円
      水曜サービスデー 1,100円均一
000
智恵子抄 1967年(S42)/松竹/カラー/125分
 監督・脚本:中村登  原作:高村光太郎、佐藤春夫  脚本:広瀬襄
 撮影:竹村博     美術:浜田辰雄        音楽:佐藤勝
 出演:丹波哲郎、平幹二朗、中山仁、南田洋子、岡田英次、佐々木孝丸

原作は高村光太郎の詩集『智恵子抄』と佐藤春夫の『小説智恵子抄』。岩下志麻が光太郎の妻・智恵子に扮し、出逢いから結婚、発狂から死までを中村登監督の叙情的演出に包まれ好演、代表作の一つとした。
003
昭和42年(1967)の松竹映画「智恵子抄」。光太郎役が故・丹波哲郎さん、智恵子は岩下志麻さんが演じられました。

やはり映画版は、東宝さんで昭和32年(1957)に故・原節子さんと故・山村聰さんで制作され、そちらはVHSビデオが販売、この手の上映会にかかる回数も松竹版より多くあります。
東宝映画智恵子抄
その点、この松竹版は市販の映像ソフト化がされておらず、上映される回数もそう多くありません。ご覧になったことのない方(ある方も)、この機会をお見逃しなく。

ちなみに「昭和の銀幕に輝くヒロイン 第105弾 岩下志麻」自体は先月から始まっており、既に上映が終了したものを含め、ラインナップは以下の通りとなっています。

わが恋の旅路 / 山の讃歌 燃ゆる若者たち / 100万人の娘たち / あねといもうと / 素敵な今晩わ / 暖流 / 智恵子抄 / あかね雲 / 女の一生 / 日も月も / 婉という女 / 心中天網島

【折々のことば・光太郎】

荻原君の胸像は僕が同君に対する敬愛のしるしとして是非とも(御依頼の有無に拘らず)作る意志を持つて居て先年来種々研究いたして居るのですが最近になつて どうもまだ今の僕の想像力の強さでは十分に頭の中にある荻原君を構成する事が出来兼ねるといふ事を確実に知りました


大正5年(1916)2月20日 山本安曇宛書簡より 光太郎34歳

「荻原君」は明治43年(1910)に亡くなった親友・荻原守衛、山本安曇は守衛と同郷の鋳金家で、光太郎実弟の豊周とともに、守衛絶作の「女」の鋳造を手がけました。

この年は守衛七回忌に当たり、浅草橋で帽子商を営んでいた守衛実兄の本十から、光太郎に守衛胸像の制作が依頼されていました。しかし光太郎、今の自分の実力では、モチーフがモチーフだけに不可能、というわけです。謙虚といえば謙虚ですが……。

結局この後も、光太郎による守衛胸像の制作は実現しませんでした。残念です。

4月23日(日)の朝、前日行われた第113回碌山忌のため訪れていた信州を後に、千葉の自宅兼事務所へ向かいました。その帰り道、都内で高速を下り、連翹忌の集い会場の日比谷松本楼さん地下にある駐車場に車を置いて、銀座まで歩きました。

目指すは五丁目の大黒屋さん。こちらの6・7階ギャラリーで開催されていた染色工芸家の志村ふくみ氏・洋子氏母子の作品展示販売会「五月のウナ電」最終日でした。
PXL_20230423_015145054 PXL_20230423_015209496
五月のウナ電」は、昭和7年(1932)、雑誌『スバル』に発表された詩で、当時の電報のスタイルを使って書かれています。
008
ヘラクレス座の電報局から地球の鳥獣草木に届いた電報という設定で、差出人はヘラクレス神なのでしょうか。初夏5月、それぞれの生命を謳歌せよ、的な文面です。

一見、のどかな詩に見えますが、この詩の書かれた当時の光太郎、大変な時期でした。前年あたりから智恵子の心の病が誰の目にも明らかになり、この詩の書かれた直後には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂を起こします。また、世相も風雲急。やはり前年には柳条湖事件、満州事変、この年に入ると上海事変、血盟団事件、傀儡国家の満州国建国、そして五・一五事件。翌年には日本が国際連盟から脱退、ドイツではナチス政権樹立……。

志村ふくみ氏による詩の解説がこちら。
005
006
ふくみ氏のエッセイ集『白夜に紡ぐ』(平成21年=2009 人文書院)には、この詩に強く惹かれ、和紙を貼ったパネルに詩を写し、裂を貼ってみたお話や、詩の解釈等をめぐって交わされた、当会顧問であらせられた故・北川太一先生とのやりとりなどが詳しく語られていますし、智恵子の心の病や世相などにも触れられています。

そのパネルが会場内に展示されていました。許可を頂いて撮影。
PXL_20230423_015609067.MP
PXL_20230423_015615556.MP
PXL_20230423_015620628.MP
PXL_20230423_015624126.MP
照明の関係で、横に縞模様のように線が走っていますが、実際の作品にはこうしたむらはありません。

また、今回の展示に合わせて新たに作られた複製パネルも。
PXL_20230423_020223230
PXL_20230423_020230042
PXL_20230423_020246090
文字の部分は印刷だそうですが、貼られている裂は印刷ではなく裂そのものです。

こちらを和綴じの装幀で製本したもの。
PXL_20230423_020235510
それぞれオンデマンドで販売されているそうで。
007
また、会場内には、お弟子さんたちの遊び心あふれる「ウナ電」。
PXL_20230423_021011222
PXL_20230423_021016241.MP
この現物を1枚、戴いてしまいました。多謝。
004
やはり貼られている裂は印刷ではなく裂そのものです。

その他、着物や小物、大小様々な裂などの展示。実に見応えがありました。

ふくみ氏は東京会場にはいらしていませんでしたが、令嬢の洋子氏、令孫にしてアトリエシムラさん代表取締役の昌司氏、お弟子さんたちと、しばしお話をさせて戴きました。単なる光太郎ファンの当方が予想外に歓待されてしまい、戸惑いつつも(笑)。

ところで、染織工芸と光太郎智恵子、浅からぬ縁があります。

油絵制作に自信が持てず断念した智恵子は、機織りや草木染めにも挑戦し、光太郎ともども、「草木染」の命名者でもある染織工芸家・山崎斌(あきら)と交流がありました。昭和13年(1938)に智恵子が歿した際、山崎は光太郎に弔電を送っています。

ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテアテナリシヒトイマハナシハヤ
(袖のところ一筋青き縞を織りて貴なりし人今は亡しはや)

山崎曰く「アヲキシマ――とは、故人が特にその好みから、袖口の部分に一筋の青藍色を織らせた着衣をされてゐた追憶」。「貴(あて)なり」は古語で「品のある美しさ」といった意です。

これに対する光太郎の返歌。

ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテミヤコオホヂヲカマハズアリキシ
(袖の所一筋青き縞を織りて都大路を構はず歩きし)

ある種、奇抜ともいえる柄の着物を着て歩いていた智恵子の追憶です。

再び山崎曰く「故人が見え、高村氏が見え、涙が流れた」。

また、「草木染」といえば、イギリスの染織工芸家、エセル・メレ作のホームスパン。戦前に智恵子がメレの個展で見て欲しがり、東京と花巻、二度の戦災をくぐり抜けて奇跡的に残ったものです。これを通して光太郎は岩手のホームスパンの祖・及川全三とも親しくなりました。
1bd082a6-s
当方、そのあたりは詳しくないのですが、山崎、及川、エセル・メレ、志村ふくみ氏、それぞれ何処かで繋がっているのではないでしょうか。そんなことを考えつつ、花巻高村光太郎記念館でも「五月のウナ電」展ができれば面白いな、などと思った次第です。

さて、同展、東京展示は会期終了ですが、来月、京都での展示があります。会場は岡崎のものがらさん。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

きのふ青踏の講演会にいつてみました。母と妹をひつぱつてゆきました。 あまり外形にかゝづらはつた議論ばかり多くて何にもなりませんでした。


大正2年(1913)2月16日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎31歳

前年からこの年にかけ、智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』(光太郎、「青踏」と誤記しています(笑))発行元の平塚らいてう率いる青鞜社の講演会。東京基督教青年会館で開催された「青鞜社第一回公開講演会」ですが、何と1,000人もの聴衆が詰めかけたとのこと。演壇に立ったのは、らいてう、生田長江、岩野泡鳴、馬場孤蝶、岩野清子、そして伊藤野枝(ちなみに村山由佳氏による野枝の評伝小説『風よ あらしよ』、集英社さんが文庫化なさいました。光太郎智恵子も登場します。お買い求め下さい)。

母と妹をひつぱつて」行ったのは、青鞜社の予告で、野次馬的な男性を排除するため、必ず女子同伴で来るよう指示されていたためです。智恵子はまだ新潟旅行中だったのかもしれません。

それにしても光太郎の評、手厳しいものですね。

都内のホテル2軒の実にユニークな宿泊プランです。

浅草で東京発祥のお菓子「たい焼き」作りの体験はいかがですか。

 江戸時代、神田今川橋付近(現在の東京都千代田区鍛冶町)で売り出されていた「今川焼」をルーツに持つ「たい焼き」は、東京発祥のお菓子と言われています(諸説あります)。江戸時代から、その場で食べられる庶民のおやつは大変人気があり、明治時代に作られた「たい焼き」もその流れの一つとして好まれていました。泉鏡花や高村光太郎などの多くの文豪が作品の中に登場させています。また、当時の俳句や新聞記事にも「たい焼き」の記述があります。

 鯛の焼き型になったのは、大阪から東京にやってきて商売を始めた神戸清次郎が、お店の今川焼きが売れないことに悩み、試行錯誤ののち、お祝いごとの時に食べられる縁起物の「鯛」(めでたい)の形にすると飛ぶように売れ、そこから「たい焼き」として広まったと言われています。

 東京下町にある「ホテルグレイスリー浅草」と「ホテルタビノス浅草」では、「浅草たい焼き工房求楽(ぐらく)」とのコラボレーションプラン「浅草でたい焼きづくり体験プラン」をご用意しております。求楽では、業務用のたい焼き機材を使って、生地から手作りする本格的なたい焼き作りを体験していただけます。

 エプロンや必要な材料はお店で用意してくれるので手ぶらでOK。「たい焼き」に使用する具材を持ち込むこともできますので、自分だけのオリジナル「たい焼き」を作って楽しむこともできます。ぜひこの機会に、食べるだけでなく「たい焼き」作りを体験してみてはいかがですか。「ホテルグレイスリー浅草」と「ホテルタビノス浅草」は、東京下町の浅草など、東京観光に最適なホテルです。「たい焼き」体験の他にも、浅草ならではの体験プランもたくさん!東京旅行の拠点として、ぜひご利用ください。
002 004
001 003

【浅草×体験】浅草でたい焼きづくり体験プラン(朝食ビュッフェ付き)
ホテルグレイスリー浅草 東京都台東区雷門2丁目10番2号
雷門から徒歩1~2分に位置し、都営浅草線浅草駅にも徒歩約3分と、国内外のお客様の観光・レジャーの拠点として最適な立地です。客室面積はダブルルーム約18㎡、ツインルーム約24㎡となり、「独立型バスルーム」を全室(※ユニバーサルツインルームを除く)に導入し、お客様にゆったりとお寛ぎいただける時間をご提供いたします。
006
気分は和菓子職人!? たい焼き体験プラン >゜)))彡
ホテルタビノス浅草 東京都台東区浅草2丁目18番8号
“MANGA(マンガ)”の世界に 飛び込んだような気分になれるユニークなゲストルームがあなたの旅に彩りを添えます。ホテルタビノス浅草は、浅草のランドマークの「雷門」「浅草寺」「花やしき」へも徒歩圏内にあり、浅草観光にぴったりな立地です。
007
たい焼き制作体験のついた宿泊プラン。それだけならこのブログでご紹介しませんが、光太郎の名を出されてしまっては、取り上げないわけには参りません(笑)。

光太郎作品でたい焼きが登場するのは、「智恵子抄」にも収められた詩「美の監禁に手渡す者」(昭和6年=1931)。

   美の監禁に手渡す者

納税告知書の赤い手触りが袂にある、
やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。

売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、
所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。

両立しない造形の秘技と貨幣の強引、
両立しない創造の喜と不耕貪食の苦(にが)さ。

がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片(こつぱ)、
ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。

ことは木彫作品の売買に関わります。大正末から取り組み始めた「蟬」や「鯰」などの木彫。父・光雲から受け継いだ伝統的な技法に、ロダンなどから学んだ西洋彫塑のエッセンスを盛り込んだまったく新しい作風で、世間からは好評を以て受け入れられました。ただし、光雲のように彫って彫って彫りまくるということはせず(「出来ず」というべきでしょうか)、同一のモチーフを彫るにしてもそれぞれに形を変え、あくまで自分で納得のいくものだけ作品として世に出す、というスタンスでした。

しかし、光太郎の木彫作品を購入できるのは、プロレタリア・アナーキズム詩人たちに近い位置にいた当時の光太郎が嫌っていた富裕層が多く、そしてそれらの人々は掌中の宝として仕舞い込みます。そのあたりが「所有は隔離」、「美の監禁」というわけです。中には光太郎作品の真の価値が解って買っているのかどうかあやしいと思われる人物も含まれていたのではないでしょうか。そうかと言って、作品を売らなければ生計が立たないわけで、「美の監禁に手渡」さざるを得ないのです。

智恵子も光太郎木彫をこよなく愛し、懐に入れて持ち歩いたこともあったそうです。散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)には、「又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作つた木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫した。」とあります。数ある木彫のうちのどの作品、というのは書かれていません。従って、エラいセンセイの「論文」などで具体的な作品名を出し、これを智恵子が懐に入れて愛した、的な記述をよく見かけますが、全て想像です。

そして光太郎、詩「美の監禁に手渡す者」の舞台設定は、智恵子が懐に入れて持ち歩いた木彫を売りに行った帰りなのでしょうか、代わりに自分の懐に入っているのは、その代金で買った「鯛焼」。そう考えると、甘い甘い鯛焼きも、光太郎にとってはほろ苦い味なわけです。と、まぁ、これも想像ですが(笑)。

何はともあれ、「たい焼き」作りの体験つき宿泊プラン、スイーツ好きの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

海が荒れて居る 銚子にて


大正元年(1912)9月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

銚子犬吠埼の暁鶏館に泊まり、絵を描きに来た光太郎。それを追って智恵子も現れます。
000
この葉書が書かれたのは、智恵子が来る前なのか、来た後なのか、判然としませんが、後だとすると、もはや智恵子への思いは抑えきれぬ、荒れた太平洋の波濤のようだ、という意味にも取れますね。

昨日は光太郎の忌日、第67回の連翹忌でした。

コロナ禍のため、3年間中止していた日比谷松本楼さんでの集いを4年ぶりに再開。盛会のうちに終えることが出来ました。レポートいたします。

会場入りする前に、まずは当会元顧問で、昭和32年(1957)の第1回連翹忌から会の運営に永らくたずさわられた、故・北川太一先生(令和2年=2020没)と、奥様(同4年=2022没)のお墓に参拝。文京区向丘の浄心寺さんです。
PXL_20230402_030745379
「4年ぶりにやります」と、ご報告。

続いて都立染井霊園の高村家墓所に。

ソメイヨシノ発祥の地ですが、すでに桜は盛りを過ぎていたものの、まだ咲き残っていました。
PXL_20230402_041851704
PXL_20230402_042227077.MP
高村家の墓所近くでは、以前は黒猫2匹をよく見かけたのですが、今年はキジトラ系が。
PXL_20230402_041901232
PXL_20230402_042028241.MP
既にご遺族の方が参拝されたあとだったようで、香華がたむけられていましたが、持参した連翹を追加し、香も。
PXL_20230402_041357065
こちらでも「4年ぶりにやります」とご報告。

さて、日比谷公園に。こちらの松本楼さんが、集いの会場です。かつて光太郎智恵子が今も饗されている氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」大会の会場としても使われた老舗洋食店です。連翹忌の集いの会場としては、平成11年(1999)から使わせていただいております。
PXL_20230402_050321406 PXL_20230402_050508404.MP
早く着いてしまったので、近くを散策。桜はやはり盛りを過ぎていましたが、咲いているのが見られる最後の週末でしょう、多くの花見客が。
PXL_20230402_050357428.MP
松本楼さんエントランスの掲示板、4年ぶりに「連翹忌」の文字。これを見ただけでうるっと来てしまいました。
PXL_20230402_050647769
泉下の光太郎も喜んでくれていたと信じたいところです。
338754144_1248749995756503_2147779930985244063_n
5時30分開会でしたが、文書でお願いしたところ、3時頃には、太平洋美術会さんの坂本富江様はじめ、多くの皆さんが駆けつけて下さり、資料の袋詰め等、お手伝い下さいました。中には今回初めてご参加の方も。感謝に堪えませんでした。

さて、開会。

光太郎、そして、4年の間に亡くなった関係の方々へ、ということで黙祷。続いて高村家ご当主にして、光太郎実弟・豊周の令孫の髙村達様の御発声で献杯。

2月に告知をした段階では、4年ぶり、さらにコロナ禍もまだ完全に終わったわけでもないということもあって、どれだけ集まって下さるか心配していたのですが、蓋を開ければコロナ禍前と同様、70名超の皆さんがお集まり下さいました。
PXL_20230402_084806265
PXL_20230402_084758477.MP
ただ、直前になって御家族にコロナ感染が出たということでキャンセルされた方、ご高齢のため出て来られないという方もけっこういらっしゃいましたし、何より、北川先生御夫妻をはじめ、この4年の間に亡くなったご常連の方々も多く、その点が残念でした。

その後、ビュッフェ形式で会食をしつつ、歓談。合間に何人かの方にスピーチを賜りました。

北川先生令息・光彦氏、女川光太郎の会の佐々木英子様(今年は8月の女川光太郎祭も復活するそうです)、光太郎第二の故郷たる花巻市の松田副市長、同じく花巻で活動されているやつかの森LLCの藤原代表(オリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」の件等、お話しいただきました)、今回唯一生前の光太郎をご存じの深澤様(画家の深沢省三・紅子夫妻令息の故・竜一氏夫人。代理でご令嬢にエピソードを語っていただきました)。
PXL_20230402_090839670.MP
光太郎の親友・水野葉舟令曾孫にして、やはり光太郎と親しかった尾崎喜八令孫の石黒敦彦氏、光太郎の影響で彫刻家となった高田博厚の顕彰に埼玉県東松山市で当たられている同市教委の柳沢様、日本詩人クラブの曽我様、詩人・吉野弘ご令嬢の久保田奈々子様、当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館の元学芸員・小野様碌山美術館長・幅谷様、そして富山県で演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子様。

それから、劇作家・女優の渡辺えりさん。戦時中から戦後にかけ、光太郎と交流のあったお父さまのエピソードを語られ、さらに光太郎詩の朗読をお願いしておりましたので、熱演して下さいました。
PXL_20230402_094915605
PXL_20230402_100544018 PXL_20230402_101759266.MP
バックでピアノ演奏を、作曲家の朝岡真木子様にお願いしました。過日、えりさんから突然電話がかかってきて「朗読だけじゃさびしいから、誰か、ピアノをポロロロンって弾ける人、いない?」。無茶振りです(笑)。無茶を承知で朝岡様に電話したところ、快く引き受けて下さいました。多謝。

元々、朝岡様には、メゾソプラノの清水邦子様に朝岡様作曲の「組曲 智惠子抄」から抜粋で歌っていただく伴奏をお願いしていまして、「ついでというと何ですが……」とお願いした次第です。

その清水様、朝岡様の演奏。「組曲 智惠子抄」から「人に」。さらに今回ご参加いただいた詩人の柏木隆雄氏作詞の曲も。柏木氏、たまたまですが、ご実家が当方自宅兼事務所近くの最中屋さんです。
PXL_20230402_104714594
名残惜しいところでしたが、これにて閉会とさせていただきました。

4年ぶりということで至らぬ点も多々あり、申し訳なく感じる次第ですが、皆様方のお力添えで、4年ぶりの集いを開催することができ、感無量でした。

コロナ禍の日々は、当たり前の日常が当たり前に続くとは限らないということを知らしめたという意味では意義のあった日々だと存じます。以前は「さて来年もがんばろう」と、当然のように翌年も出来ると決めてかかっていましたが、今年は「来年もまたつつがなく開催できますように」と、切に願うばかりです。

以上、第67回連翹忌レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

自分の感情をごまかしてしまふのは随分いやだから何でも積極的にやらうと今は思つてゐる。

明治45年(1912)2月12日 津田青楓宛書簡より 光太郎30歳

などと言いつつ、1ヶ月半前に初めて会って、好感情を抱いた智恵子に対しては、「自分の感情をごまかしてしまふ」部分が多々ありました。新しい芸術をこの国に根付かせるため、父・光雲の関係する範囲から距離を置くことで、苦労することになるのが目に見えている自分の生活に智恵子を巻き込みたくないと、それはそれで無責任な言動ではないので評価されるべきでしょうが。

今日、4月2日(日)は第67回連翹忌です。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受けた中野の貸しアトリエで、宿痾の肺結核のため光太郎が亡くなったのは、昭和31年(1956)4月2日の早暁。前日から都内は季節外れの大雪にすっぽりと包まれていました。
光太郎肖像
戦時中から光太郎と親しかった美術史家・奥平英雄の回想「晩年の高村光太郎」から。

 次の土曜日、すなわち三月二十四日の午後、私はいつものように勤めの帰りに彼を見舞った。すると令弟高村豊周夫婦をはじめ草野氏、岡本・関両医師、駒込病院長などが詰めていて、アトリエの様子が一変していた。聞くと光太郎は十九日の夕方喀血して容態遽かにあらたまったとのことだった。病室には見なれぬ看護婦がいて光太郎の脚をさすっていた。私が光太郎に顔を近づけると、「ぼくの心臓は強いんだそうだ。弱いんだと三、四分で楽になれるんだけどなあ」と低い声でいった。私が悄然と立ちすくんでいると、彼は昏々と眠りに入ったようだったが、また目をさまし私の姿を見つけると、「ああ、まだそこにいたの」といった。そしてこれが私に遺した光太郎の最後の言葉となった。
 それから後、アトリエをとりまく様子がにわかに変った。医師たちの手であらゆる治療の手がつくされると同時に、重態と聞いてかけつける人が多くなった。私も連日のように、訪ねるか電話で問い合わせたりしていたが、今日は遠来の見舞客で病人もひどく疲れているとか、われわれは遠慮して病室にいくのは控えようという声を聞いては、病室にはいっていく勇気も失ってしまった。そして中西家の母屋にいて、中庭をへだてたアトリエを望みながら、私は終始いらいらしていた。その当時の日記を開いてみると、いいいよ絶望ということを聞き、私は次のような走り書きをしている。「昨夜、先生ノコト気ニカカリ眠ラレズ。先生ノ最後ガ見トリタイ、一日一分デモ先生ヲ見タイ、先生ノ最後ノ姿ガ見タイ、ソノ声ガ聴キタイ……」
 喀血は一時やんだかに見えたが、四月一日にふたたび大喀血が起こり、二日の午前三時四十五分、四月の雪の激しく降る中を彼はついにこの世を去った。中西家の知らせで駆けつけた私は、ひっそりと静まり返ったアトリエの中にはいっていった。そして光太郎の顔から白い布をとったとき、私はその詩の顔を実に静かな美しい顔だと思った。生前あれほど彼を苦しめた胸の痛みからも、苦しみの連続だと語った人間の生涯からも、いまやっと彼は死んで解放されたのだと思った。
 私がこれまでしばしば見てきた光太郎の顔は、魂の底に深い孤独の影をたたえたような、謹厳な中にも悲愴のにじんだ顔であった。私はそうした彼の顔に惹かれてきたが、いまここに見る光太郎の安らかな死顔は、生前の顔とはまた別な、実におだやかな美しさをたたえていた。私はいまこそ高村光太郎は、平安な天に還っていったのだと思った。そう思って彼の前に掌(て)を合わせた。


1年後の昭和32年(1957)4月2日、草野心平や、当会顧問であらせられた北川太一先生らの呼びかけで、その終焉の地となった貸しアトリエを会場に、第1回連翹忌の集いが開催されました。

以後、集いはその会場や形態を変遷しつつ連綿と続き、平成11年(1999)の第43回から、会場を日比谷松本楼さん(光太郎智恵子が名物の氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」会場にもなった老舗洋食店です)に移しました。

平成23年(2011)には東日本大震災直後だったため、集いは中止。そして令和2年(2020)から昨年までは、コロナ禍のためやはり集いの開催を見送りました。集いは中止としても、当方が代表して墓参したりで、カウントは続け、本日が第67回連翹忌です。今年は4年ぶり、令和に入って初めての開催となります(2019年は改元直前で平成31年でしたので)。光太郎生誕140年という節目の年に、4年ぶりに志を同じくする人々が集まり、光太郎を偲ぶことが出来るのを、無上の喜びと存じます。ステイホームの日々は、志を同じくする人々があたりまえのように集えることが、実はあたりまえでなどでなく特別なことなのだと、思い知らされた日々でもありました。

しかし残念なのは、この4年の間に、北川太一先生御夫妻をはじめ、関係の方々の訃報が相次いだこと。詳しくはこのブログの「お悔やみ」カテゴリーをご覧下さい。今日の集いは、そうした方々への追悼の意味も込めた特別な集いと位置づけたいと存じます。

集いの様子については、明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

Je suis Japonais. Et, j'ai commencé d'aimer profondément votre art dès que j'ai trouvé dans vos ouvrages en l'exposition du Salon d'Automne en 1908 (C'était la première fois que je voyais vos toiles et bronzes) quelque chose si précieuse, si essentielle, que je ne pouvais pas trouver dans toutes les écoles des arts contemporaines en l'Europe.
 Mais, je n'avais pas le courage d'oser vous visiter, pendant ma séjour à Paris.
 Maintenant, je suis si loin de la France et je ne peux plus voir votre ouvrages.
 J'envie de recueillir les reproductions des vos tableaux et statuettes, et je vous prie que vous voulez bien m'informer le photographe chez qui je les pourrais acquérir.

明治45年(1912)1月10日 アンリ・マティス宛書簡より 光太郎30歳

邦訳は以下の通り。

私は日本人です。そして1908年のサロン・ドートンヌの展覧会におけるあなたの作品に(私があなたの絵とブロンズ彫刻を拝見したのはその時が最初でした)、ヨーロッパの同時代芸術のいかなる流派にも見いだすことができないような、何かとても貴重で、とても本質的なものを見出した時以来、あなたの芸術を深く愛し始めました。
しかしパリ滞在の折には、あなたをお訪ねする勇気がありませんでした。
現在、フランスからかくも遠く離れて、私にはもはやあなたの作品を見ることが叶いません。
私はあなたの絵や小彫刻の複製を集めたいと思っています。そこで、あなたの作品の複製を手に入れることのできる写真家をご教示いただければ幸いです。

光太郎の要請に対し、マティスからは作品の写真が贈られ、翌年の雑誌『白樺』の口絵に使われました。

紹介すべき事項が多く、美術展関連で2件まとめて。

まずはテレビ放映情報。竹橋の東京国立近代美術館さんで開催中の「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が大きく取り上げられます。

日曜美術館 重要文化財の秘密 知られざる日本近代美術史

NHK Eテレ 2023年4月2日(日) 09:00〜09:45  再放送 4月23日(日) 09:00〜09:45

明治以降に制作された日本近代美術を代表する重要文化財の絵画や彫刻。どのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが知る傑作の、知られざる物語をひもときます。

文化財保護法に基づいて国がその価値を認めて指定する重要文化財。美術工芸分野の重要文化財件数は1万件を超える。しかしそのうち明治以降の絵画・彫刻・工芸はわずか68件に過ぎない。時代が浅く、絶対的な評価が固まり切れない中で重要文化財に指定された作品たちはどのような評価を経て、指定されるに至ったのか?誰もが一度は目にしたことのある傑作中の傑作、その知られざる物語をひもとく。

出演者
【司会】小野正嗣,柴田祐規子,【出演】東京国立近代美術館副館長…大谷省吾
000
001
002
059
予告編、最後の締めは光太郎の父・光雲作の「老猿」。本編をぜひご覧下さい。

同展、主催に入っている毎日新聞社さんでCMも作って下さっています。3月17日(金)、BSイレブンさんで放映された「アートミステリー 国立西洋美術館誕生秘話 ~モネを救え~」を拝見していたところ、流れました。こちらはつかみが「老猿」。
056
057
058
062
061
060
もう1件、今日開幕の展覧会情報です。

「買上展」藝大コレクション展2023

期 日 : 2023年3月31日(金)~5月7日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、5/1は開館)
料 金 : 一般1,200円(1,100円)、大学生500円(400円)
       ( )は前売り料金 高校生以下及び18歳未満は無料

「買上」とは、東京藝術大学が卒業および修了制作の中から各科ごとに特に優秀な作品を選定し、大学が買い上げてきた制度です。遡って、前身である東京美術学校でも卒業制作を買い上げて収蔵する制度がありました。本学が所蔵する「学生制作品」は1万件を超えますが、本展ではその中から約100件を厳選し、東京美術学校時代から現在にいたる日本の美術教育の歩みを振り返ります。

第1部 巨匠たちの学生制作
 明治26年(1893)に最初の卒業生を送り出して以来、東京美術学校では卒業制作を中心に自画像などを含めた学生たちの作品を教育資料として収集してきました。本展では、卒業後に日本近代美術史を牽引した作家たちを各分野から選りすぐり、その渾身のデビュー作が一堂に会します。

第2部 各科が選ぶ買上作品
 東京藝術大学では昭和28年(1953)より買上制度がはじまり、卒業していく学生たちを勇気づけてきました。今年で創設70年を迎えるこの制度は、現在では多くの科で首席卒業と位置づけられています。近年は先端芸術表現、文化財保存学、グローバルアートプラクティス、映像研究など研究領域も広がり、表現方法も多様化してきています。今回、各科による選定意図などを添えて展示することで、各科が特に優秀と認めてきた買上作品の傾向が浮かび上がることでしょう。

出展作家
第1部
 横山大観   児島虎次郎  萬鉄五郎  下村観山   和田三造   高村豊周
 板谷波山   橋口五葉   金観鎬   白浜徴    山本鼎    吉村忠夫
 菱田春草   南薫造    松田権六  西郷孤月   朝倉文夫   伊原宇三郎
 和田英作   小村雪岱   山口蓬春  小林万吾   富本憲吉   吉田五十八
 北蓮蔵    岡本一平   山本丘人  平福百穂   近藤浩一路  山崎覚太郎
 津田信夫   藤田嗣治   東山魁夷  石田英一   建畠大夢   小磯良平
 中沢弘光   小絲源太郎  赤松麟作  李叔同    吉村順三   高村光太郎
 中村岳陵   高山辰雄   松岡映丘  広島新太郎  六角大壌   青木繁
 北村西望   平山郁夫   熊谷守一  今和次郎

光太郎彫刻は、日蓮像の「獅子吼」。明治35年(1902)、東京美術学校彫刻科をいったん卒業した際の卒業制作です。
006
「いったん卒業」は、この後も研究科に残り、さらに留学前年の明治38年(1905)には、根底から勉強し直そうと、西洋画科に再入学したためです。西洋画科ではやはり買い上げ作品が展示される岡本一平や藤田嗣治などが同級生でした。ただし、こちらは中退の扱いで、翌年には留学に出ています。

さらに光太郎実弟にして、鋳金分野の人間国宝となった豊周の作品も出ます。豊周は同校鋳金科を卒業し、母校で永らく教壇に立ちました。

「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」と併せ、こちらもぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

About the matter of your letter of the other day, I must think over them a little more. For my HOKKAIDO affairs do not finish all yet. I hurried back to Tokio at that time because of the fire. Perhaps, I go round there once more this summer.


明治44年(1911)7月3日 バーナード・リーチ宛書簡より 光太郎29歳

邦訳は以下の通り。

いつかの君の手紙のことはもう少し考える必要がある。僕の北海道の件はまだ終わったわけではないからだ。あの時は火事のため急いで東京に帰って来たので、恐らく、この夏もう一度行くだろう。

酪農で生計を立てつつ、彫刻や絵を制作する夢を抱いて北海道に渡り、札幌郊外月寒の牧場まで行ったものの、1ヶ月足らずですごすごと東京に舞い戻りました。
001
007
火事」は道内20数カ所で起こった山火事や大火。確かに現地の人々は大変だったのでしょうが、光太郎はどうもそれを言い訳にしている部分があるように感じます。結局、少しの資本ではどうにもならず夢は夢でしかないというわけで。

リーチにはこの夏もう一度北海道へ、と語っていましたが、この後、確認できている限り、光太郎が北海道の土を踏むことは二度とありませんでした。

3月21日(火)、竹橋の東京国立近代美術館さんをあとに、銀座に向かいました。午後2時開演の「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」拝聴のためです。

会場は王子ホールさん。昨秋開催された「えつ子とまき子のコンサート 2022秋」と同じでした。
6db72ec2 PXL_20230321_040928967
作曲家・朝岡真木子氏の歌曲作品を、7人の歌手の皆さんが歌われるというコンセプトで、基本、独唱ですが、二重唱あり、合唱ありと、飽きさせない構成になっていました。
001
002
003
004
今回は「第6回」と冠されており、継続的に行うには、やはりアップデートが必要なのでしょう。初演の新作を含むプログラムでした。

歌詞は現役の詩人の皆様から提供を受けたものが多く、絵本作家としても活躍されているこわせたまみ氏、金子みすゞ顕彰でも名高い矢崎節夫氏など、作詞者の方々がほとんどいらしていまして、終演後に紹介されていました。詩の選択は書き下ろしなのか、朝岡氏が旧作からセレクトして使わせてもらっているのかまでは寡聞にして存じませんが。

というわけで、新作もあれば、二重唱や合唱なども盛り込まれていたため、歌い手さんたちはそれなりに練習が大変だったでしょう。それを言えば、ピアノは全て朝岡氏ご本人で、幕開けからカーテンコールまで出ずっぱり。そのあたりの大変さをお客様に気取られないようにされるあたり、プロですね。

で、プログラム中に、組曲「智惠子抄」から2曲、「千鳥と遊ぶ智恵子」「値ひがたき智恵子」。こちらは最近、メゾソプラノの清水邦子氏の持ち歌的な感じになっており、やはり清水氏の歌唱でした。

過日、ご紹介いたしましたが、清水氏、組曲「智惠子抄」CDをリリースされ、公的にはこの日が発売日でした。そこで、受付でコンサート自体のプログラムとともにフライヤーも配付されていました。
005
清水氏と親しい、映画監督の水谷俊之氏(一昨年にNHK BSプレミアムさんで放映された「プレミアムドラマ山女日記3 #3 あどけない空・安達太良山」の監督もなさった方)、それから当方が書いたライナーノートの抜粋も印刷されています。恐縮至極。

オンライン販売も為されていますし、フライヤー裏面はFAXでの注文書になっていまして、必要な方は下記画像を印刷してお使い下さい。
006
PXL_20230321_060411330開演前、第1部と第2部の間の休憩時間、それから終演後、ロビーに物販コーナーが設けられ、このCDも並びました。

わずかながら制作に協力させていただいた身としましては、売れ行き等気にかかるもの。少し離れた場所からチラ見しておりました(笑)。そこそこ売れていたようです。ただ、他の歌手の方がリリースされたCDも多数並んでいたため、「智惠子抄」のみが飛ぶように売れるというわけにはいかなかったようですが。「智惠子抄」を買われた方には「えらい!」と、心の中で賛辞を送らせていただきました(笑)。

日比谷松本楼さんで4月2日(日)開催の第67回連翹忌の集い会場内でCDの販売も致しますし、朝岡氏、清水氏には「智惠子抄」から抜粋で演奏していただく予定です。

ご参加なさる方、お楽しみに。また、これから参加したいという方、まだ受付中です。コメント欄(非公開設定可)からお申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

濱田葆光氏作画展覧会 自二月十一日 至二月二十日
濱田葆光氏は、所謂「ヸルヂニテエ、デモオシヨン」を蔵する画家にして、熱心なる自然の真の探求者に御座候。今回、品川海岸の研究画を主として、氏の油画十数点の展覧会を弊堂に於て相催し候間幸に御抂駕御一覧の程偏に願上候 神田区淡路町一丁目一番地 琅玕洞

明治44年(1911)2月10日 水野葉舟宛書簡より 光太郎29歳

葉舟宛、というより広く送られた案内状と推定されます。

琅玕洞」は、前年、光太郎が開店した画廊。日本の画廊の中では最初期のものです。名目上の店主は、実弟の道利でした。ここでは正宗得三郎、柳敬助、斎藤与里、濱田葆光ら親しかった新進美術家の個展をたびたび開きました。濱田葆光は太平洋画会研究所に学び、中村不折、満谷国四郎に師事した画家です。「ヸルヂニテエ、デモオシヨン」は、「無垢な凄み」とでもいった感じでしょう。
無題

昨日は都内に出ておりました。

主たる目的は、銀座王子ホールさんでの「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」拝聴でしたが、その前に竹橋の東京国立近代美術館さんで「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」を拝見。
PXL_20230321_004027483
PXL_20230321_004056607
名品の数々がこれでもかこれでもかと並んでおり、予想通り、クラクラしました(笑)。

やはり当方にとって一番の目玉は、光太郎の父・光雲の「老猿」。トーハクさんその他で何度も見ている作品ですが、何度見ても見飽きることがありません。
PXL_20230321_005219313 PXL_20230321_005211049.MP
PXL_20230321_005228001
PXL_20230321_005200759 PXL_20230321_005252389
PXL_20230321_005302325 PXL_20230321_005310411.MP
マルチアーティスト・井上涼さんが「黙すれど語る背中」と評されましたが、その通りですね。

トーハクさんでの展示より、間近で観ることができました。毛並みの一筋一筋、手に持った猛禽の羽根など、それを彫る光雲の息づかいも聞こえてきそうです。
PXL_20230321_005418571
PXL_20230321_005404137.MP
PXL_20230321_005355562
台座にあたる岩の部分は仏像彫刻の様式が色濃く残っており、やはり仏師なんだなぁと。

材はトチノキ。当初、光雲はもっと白いと思っていて、白猿を彫るつもりでいましたが、栃木鹿沼の山から入手したあとに意外と赤いことに気付き、年老いた猿に変更したとのこと。ちなみに当初は「老猿」ではなく、「猿」一文字でした。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛の「北条虎吉像」。碌山美術館さん蔵の石膏原型です。ブロンズ彫刻の場合、文化財指定は鋳造されたものではなく、原型で指定されることがありますので。
PXL_20230321_005547542
PXL_20230321_005553570
PXL_20230321_005540435
そのあたりで「大人の事情」があるのでしょう、同じ守衛の「女」は今回の展示には出ないそうです。

その他の作品、特に光太郎や光雲とつながりの深かった作家の作品、光太郎や光雲とのつながりなどについても紹介したいところですが、それを書き始めると10日ぐらいかかりそうなので、割愛します。

続いて常設的な「MOMATコレクション」を拝見。こちらには重要文化財指定はされていないものの、負けず劣らずの逸品がズラリ。

光太郎の「手」
PXL_20230321_011639048 PXL_20230321_011647942
PXL_20230321_011710600 PXL_20230321_011727636
PXL_20230321_011814002 PXL_20230321_011758058
光太郎生前に鋳造された3点のうちの一つ。有島武郎旧蔵のもので、木彫の台座は光太郎の手になるもの。有島や、有島から受け継いだ秋田雨雀の名が記されています。仮に今後、「手」が文化財指定されるとしたら、これが指定されるような気がしています。「北条虎吉像」や「女」のように石膏原型が、ということになると、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周の弟子筋に当たり、光太郎作品の鋳造を多く手がけ、やはり人間国宝だった故・斎藤明氏旧蔵の石膏原型があるにはあるのですが、それがいつどのように取られた型なのかなど、当方、寡聞にして不分明です。
393fa963
さらに光太郎が敬愛してやまなかったロダンの「トルソ」、そして守衛の「女」(鋳造)。
PXL_20230321_011743762 PXL_20230321_011835342
PXL_20230321_011826622 PXL_20230321_011848639
さらに守衛の「坑夫」。パリ留学中、光太郎がこれを見せられ、ぜひ石膏にとって日本に持ち帰るようにと進言した作品です。光太郎、グッジョブ(笑)。
PXL_20230321_011921897
「重要文化財の秘密」の図録をゲット。この手の図録には珍しくハードカバーでした。それだけに3,300円とお高め(笑)。重量が1.3㎏を超えていました(笑)。昼食はコンビニのパンで済ませても、迷わずこれを買うのが当方です(笑)。
006
展示入れ替えのため、昨日の時点では出ていなかった作品(黒田清輝「湖畔」など)、「大人の事情」で今回は展示されない作品(「女」の石膏原型や竹内栖鳳「斑猫」など)の図版もしっかり掲載されていますし、詳細な作品解説、論考も3本(大谷省吾氏「重要文化財の「指定」の「秘密」」、同じく「東京国立近代美術館における近代日本美術展をふりかえる」、花井久穂氏「「唯一」と「複数」――近代の美術/工芸)の重要文化財指定をめぐって」)。

ぜひ足をお運びいただき、図録もお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

浜町の下宿は馬鹿に気持が可い。大工の神さんの内職の様だ。生活に秩序がついた様な気がする。

明治43年(1910)12月(推定) 水野葉舟宛初刊より 光太郎28歳

この月から翌月にかけ、わずか2ヶ月足らずですが、日本橋浜町31番地の「松葉館」という下宿で独り暮らしをしました。

本日開幕、銀座の画廊での展示です。

高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達

期 日 : 2023年3月20日(月)~4月6日(木)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜・祝日休廊  土曜不定休
料 金 : 無料

日本の近代彫刻の歴史はロダンの影響をうけた荻原守衛と高村光太郎からはじまる。高村光太郎訳「ロダンの言葉」(1916年)は当時の若い芸術家に多大な影響をあたえた。ロダンから出発し独自の造形を確立することになる3人の彫刻家を紹介します。

高村光太郎 1883 - 1956
012
011
017
佐藤忠良 1912 – 2011

013
舟越保武 1912 - 2002
015
柳原義達 1910 - 2004
014
光太郎のブロンズが数点。画像で見えるのは、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「野兎の首」(昭和20年代)、「十和田湖畔の裸婦群像のための中型習作」(昭和28年=1953)。他にも出ているかもしれません。

そして、光太郎のDNAを受け継ぐ、次世代の彫刻家である佐藤忠良舟越保武柳原義達の作品も。それぞれの個性、逆に4人に通底して流れる普遍的な「生命へのオード」的なものなどに注目して観ると面白いでしょう。

当方、明日、銀座王子ホールさんでの「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」を拝聴に上がりますので、こちらも廻ろうかと思いましたが、残念ながら日曜・祝日休廊とのこと。

代わりに、というわけでもありませんが、竹橋の国立近代美術館さんでの「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」を拝見してこようと思っております。時間があれば常設の「MOMATコレクション」も。こちらでは光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)や、なぜか「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」に出ていない、荻原守衛の「女」(明治43年=1910)も展示されています。

【折々のことば・光太郎】

僕は何も為ないで暮してゐる。暮せないのに暮してゐる。どうにか暮さうと考へながら暮してゐる。


明治43年(1910)10月16日 津田青楓宛書簡より 光太郎28歳
016
留学仲間だった画家で京都在住の津田青楓に宛てた、自画像入りの葉書。

昨日も書きましたが、前年に欧米留学から帰って、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界とは距離を置くことを決意しましたので、彫刻を作っても発表する機会は無し、自分で売りさばくことも無名の自分には不可能、という状況でした。

昨日ご紹介した、竹橋の東京国立近代美術館さんで明日から始まる「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」展につき、主催に名を連ねている『毎日新聞』さんに予告報道が出ています。

東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密 東京で17日から 問題作が傑作へ、変遷たどる

 「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」が17日から東京国立近代美術館(東京都千代田区)で始まる。重要文化財に指定されている明治以降の絵画・彫刻・工芸51点による豪華な展覧会だ。本展を企画した同館の大谷省吾副館長が見どころを解説する。
006
 東京国立近代美術館は1952(昭和27)年12月1日に開館し、さきごろ開館70周年を迎えた。本展はこれを記念し、ほぼ同時期の55年から近代美術の指定が始まった重要文化財に焦点を当てるものである。2023年3月現在、重要文化財に指定されている明治以降の絵画・彫刻・工芸は全部で68件だが、本展はそのうち51点を集めた、これまでに類のない展覧会である。とはいえ、ただの名品展ではない。本展は重要文化財イコール名品として手放しで礼賛するのではなく、「なぜ、これが重要文化財なの?」と考えてもらうことを真のねらいとしている。
 重要文化財の指定基準のひとつに「各時代の遺品のうち製作優秀で我が国の文化史上貴重なもの」というのがある。だが「優秀」で「貴重」とする評価の基準は何だろう? 明治以降の美術は、それ以前からの伝統的な美意識と、新たに西洋から伝えられた美術との間でさまざまな葛藤を経ながら展開してきたし、近代美術とは本質的に、それ以前のものの見方を批判的に乗り越えようとしながら新しいものを作り出そうとしてきたから、評価の基準も単純ではないのだ。だから本展のキャッチコピーに“「問題作」が「傑作」になるまで”とあるように、重要文化財に指定された個々の作品が、発表当時はどのような批評を受け、それが時代の変遷とともにどのように評価を変え、そしてどのような理由で重要文化財に指定されるに至ったのかを検証していくと、さまざまな面白いことがわかってくる。以下、主要な作品をいくつかご紹介したい。
  横山大観「生々流転」は、描かれてから今年でちょうど100年になる。発表された展覧会の初日に関東大震災が起きたが、作品は幸いに救い出された。全長40メートルに及ぶ大作で、重要文化財に指定されたのは67年。描かれてから44年後のことで、史上最速の重要文化財指定作品である。
005
 この作品と同じ年に、洋画で最初に重要文化財に指定されたのが高橋由一の「鮭」である。この67年とは、翌年が明治100年にあたり、日本中で明治文化の見直しが行われていた時期だった。日本の伝統的な画法では表現できなかった立体感や質感の描写が、西洋からもたらされた技法によって可能となったことへの素直な驚きと喜びが見てとれる。
003
 この年、やはり明治時代の名品として指定の候補に挙げられながら、選に漏れて保留となったのが黒田清輝「湖畔」と高村光雲「老猿」だった。
002 004
この2点が重要文化財に指定されるのは、意外にもごく最近、99年のことである。どうして67年当時、選に漏れたのか。99年に指定されたときは、どんな理由だったのか。それらを調べていくと、近代日本美術の評価の基準が時代とともに更新されてきたことが見えてくる。そしてその背景には、近代日本美術史研究の深まりがあることも理解できるだろう。 さまざまな価値観が交錯しているからこそ、近代日本美術は面白い。その魅力をぜひご堪能いただきたい。

音声ガイド、新井さんが初挑戦
 音声ガイドナビゲーターは、ナビゲーター初挑戦のフリーアナウンサー・新井恵理那さんと、声優・小野大輔さんが務める。貸出料金650円(税込み)。
007 008
図録 通販サイトでも
 会場特設ショップのほか、本日より通販サイト「まいにち書房」(https://www.mainichi.store/)でも公式図録を予約販売する。出品作品はもちろん本展不出品の重文指定品を含む全68件のカラー図版と作品解説を収録した充実の一冊。発送は22日以降。送料別。図録はA4変型判。1冊3300円(税込み)

「老猿」の重文指定についての裏話は存じませんでした。そのあたり、図録所収の論考等で触れられているのではないかと思われます。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

日本に住んで居るといふ外は 僕と日本とは今の処没交渉です。Ah!


明治43年(1910)5月12日 南薫造宛書簡より 光太郎28歳

旧態依然の日本美術界(その頂点の一つが、父・光雲)と距離を置き、独自の道を行こうとする意志の表出です。しかしそれは、茨の道でした。

↑このページのトップヘ