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昨日は六本木に行って参りました。目的地は東京ミッドタウン内のFUJIFILM SQUAREさんにある写真歴史博物館さんです。
 
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以下の展覧会が開催中です。

「土門拳 二つの視点」 第二部「風貌」

開 期  2014年12月2日(火)~ 2015年2月2日(月) 007 (2)
時 間  10:00 ~ 19:00(入館は18:50 まで)
会 場  FUJIFILM SQUARE(フジフイルムスクエア) 写真歴史博物館
      港区赤坂9丁目7番3号東京ミッドタウン・ウェスト
入場料 無料
主  催 富士フイルム株式会社
協  力 土門拳記念館
 
第一部「こどもたち」が10月から開催されていましたが、今週から第二部「風貌」が始まりました。
 
土門撮影の、光太郎を含む26人の肖像写真が展示されています。
 
光太郎以外は以下の通り。
 
志賀直哉 谷崎潤一郎 幸田露伴 島崎藤村 永井荷風
小林秀雄 林芙美子 牧野富太郎 柳田国男 三島由紀夫
山田耕筰 志賀潔 九代目市川海老蔵 初代水谷八重子
十四世千宗室 滝沢修 濱田庄司 イサム・ノグチ 朝倉文夫
安田靫彦 小林古径 上村松園 安井曾太郎 藤田嗣治 
梅原龍三郎
 
これらは昭和28年(1953)にアルスから刊行された土門拳写真集『風貌』に収められた物だと思います。
 
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光太郎の写真は、昭和15年(1940)に駒込林町のアトリエで撮影されたもの。
 
昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展でも出品させていただきましたが、木彫の「鯉」(未完)を制作中の写真です。
 
ほとんど唯一、光太郎が木彫を制作している瞬間を撮影したもので、貴重なショットです。
 
この『風貌』には、光太郎が推薦文を寄せています。
 
 土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。土門拳自身よくピントの事を口にするが、土門拳の写真をしてピントが合つているというならば、他の写真家の写真は大方ピントが合つていないとせねばならなくなる。そんな事があり得るだろうか。これはただピントの問題だけではなさそうだ。あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない。あの一枚の野口米次郎の大うつしの写真ほど詩人野口米次郎を結晶露呈せしめているものは此の世になかろう。ひそかに思うに、日本の古代彫刻のような無我の美を真に撮影し得るのは、こういう種類の人がついに到り尽した時にはじめて可能となるであろう。
 
他にも光太郎は、前年の昭和27年(1952)に書いた「夢殿救世観音像」という文章でも、土門を賞賛し、エールを送っています。
 
 土門拳が法隆寺夢殿の救世観音をとると伝へられる。到頭やる気になつたのかと思つた。土門拳は確かに写真の意味を知つてゐる。めちやくちやな多くの写真家とは違ふと思つてゐるが、中々もの凄い野心家で、彼が此の観音像をいつからかひそかにねらつてゐたのを私は知つてゐる。
(略)
 写真レンズは、人間の眼の届かないところをも捉へる。平常は殆と見えない細部などを写真は立派に見せてくれる。それ故、専門の彫刻家などは、細部の写真によつてその彫刻の手法、刀法、メチエール、材質美のやうな隠れた特質を見る事が出来て喜ぶ。土門拳の薬師如来の細部写真の如きは実に凄まじいほどの効果をあげてゐて、その作家の呼吸の緩急をさへ感じさせる。人中、口角の鑿のあと。衣紋の溝のゑぐり。かういふものは、とても現物では見極め難いものである。
 その土門拳が夢殿の救世観音を撮影するときいて、大いに心を動かされた。彼の事だから、従来の文部省版の写真や、工藤式の無神経な低俗写真は作る筈がない。
(略)
 救世観音像も例によつて甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、からみ合つた手のふるへるやうな細かい神経、あれらをどう写すだらう。土門拳よ、栄養を忘れず、精力を蓄へ、万事最上の條件の下に仕事にかかれ。
 
ただし、この撮影が不可能となり、この文章もお蔵入りになってしまいました。
 
このように土門を高く評価していた光太郎ですが、自身が撮影されることは忌避する部分がありました。
 
 写真と言うものは、あまり好きではない。いつか土門拳という人物写真の大家がやってきた。ボクを撮ろうとしたわけだ。自分は逃げまわって、とうとううつさせなかった。カメラを向けられたら最後と、ドンドン逃げた。結局後姿と林なんか撮られた。写真というものは何しろ大きなレンズを鼻の前に持ってくる。この人はたしか宇垣一成を撮ったのが最初だったが、これなどは鼻ばかり大きく撮れて毛穴が不気味に見える。そして耳なんか小さくなっているし、宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえるものだ。
 
昭和27年(1952)の『岩手日報』に載った談話筆記「芸術についての断想」の一部です。これは『風貌』に載った「鯉」制作中の写真のことではなく、昭和26年(1951)の5月に、土門が花巻郊外太田村の山小屋に撮影に来た時のことを言っているようです。笑えますね。
 
さて、写真歴史博物館さんでの展示、来年2月まで開催されています。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月4日
 
昭和58年(1983)の今日、東京国立近代美術館の工芸館で開催されていた「モダニズムの工芸家たち―金工を中心にして」が閉幕しました。
 
光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった高村豊周の作品も8点、展示されました。図録の表紙も豊周の作品「挿花のための構成」(大正15年=1926)です。
 
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昨日は新宿方面に行って参りました。
 
用件は二つありましたが、まずは新宿文化センター小ホールで開かれた、中村屋サロン美術館開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」を拝聴。
 
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講師は大原美術館館長にして美術史家の高階秀爾氏でした。
 
スクリーンを使って画像を大きく提示しつつ、碌山荻原守衛をはじめ、新宿中村屋に集った芸術家たちのプロフィール、作品、美術史的位置づけなどを非常に分かりやすくお話下さいました。
 
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光太郎については、明治43年(1910)に書かれた評論「緑色の太陽」を軸に、同時代の美術家に与えた影響の大きさを語られました。
 
「緑色の太陽」は、日本初の印象派宣言ともいわれるもので、以下のような部分があります。
 
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。
 
 人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽として其作の格調を味ひたい。
 
その他、柳敬助、戸張孤雁、斎藤与里、中村彝、鶴田吾郎らについて詳述。特に中村彝の画風に見られるルノワールの影響などのお話は、非常に興味深いものでした。
 
また、中村屋サロン美術館さんからのお知らせもありました。現在開催されている開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」は来年2月までですが、その後、サロンを形成した作家一人一人を取り上げていくとのこと。
 
次回企画展は柳敬助を中心にするそうです。柳といえば、やはり光太郎と親しく、また、妻の八重は日本女子大学校での智恵子の先輩。光太郎と智恵子が知り合うきっかけを作った一人です。これも観に行かなければ、と思いました。
 
いずれ光太郎も単独で扱っていただきたいものです。
 
さて、開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた」。まだ御覧になっていない方は、ぜひ足をお運びください。光太郎の油絵「自画像」、ブロンズの「手」「裸婦坐像」が展示されています。
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月2日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、開校記念日の学芸会が行われ、光太郎が寄贈した式場用幔幕が披露されました。
 
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光太郎がデザイン案を出した校章が大きく染められています。この日の児童向け光太郎講話から。
 
 幕に染めた『校章』のことですが、『校章』は学校の印で、帽章としても使われますが、山口の学校の『校章』を、さて何にしようと考えて、結局、栗を採り入れることにしました。
 栗はここの名産です。栗の実は食べるとおいしい。栗はおいしいものの代名詞で、うまいものを栗のようだというくらいです。木は硬くて長持ちします。それに、玉の中央から上に伸びているのは雌しべで、これから大きくなるという意味です。実はふっくらと丸いのがいいのです。
 栗のことを思つていたら、、みなさんの顔も栗の実のようにつやつやして見えます。
 そういうわけで、これを採り入れたのです。
(浅沼政規著『山口と高村光太郎先生』平成7年(1995)㈶高村記念会より)

東京駒場の日本近代文学館さんでのイベントです。

日本近代文学館リーディングライブ2014

日 時 : 2014年11月29日(土) 12:00~
会 場 : 日本近代文学館 東京都目黒区駒場4-3-55
主 催 : プチプラージュ
後 援 : 一般社団法人 日本朗読検定協会
料 金 : 無料
司 会 : 武田あさひ
 
プログラム
 第一部 12:10~12:55 小学生の詩&読み聞かせママグループ
  ・10名の小学生による詩の朗読(谷川俊太郎さんの詩、または自作)
  ・加藤啓子・栗岡まゆみ・黒澤真由美・武田美香・羽田みどり・シュナック千賀子
    「生まれたよ ぼく」「ともだち」「ありがとう」 谷川俊太郎
  ・明瀬亜希子「くまとやまねこ」湯本香樹実
  ・佐川紘子 「狼だんなとろば」外国の昔話
  ・小杉美智子・大久保幸枝・森本雅子 「あらしのよるに」木村裕一

第二部 13:00~16:00 大人の朗読会
  田中康彦・仁林結晶  「サンタクロースはいるんだ」
 フランシス・ファーセラス・チャーチ/大久保ゆう訳
  葉月のりこ  「冬の日、防衛庁にて」 江國香織
  曳地政久・武田あさひ  「羅生門」 芥川龍之介
  宇田川智恵 「海のいのち」 立松和平
  田名網節子  「竹取物語」 川端康成(現代語)
  石橋玲  「ロボットのお仕事」 石橋俊一
  三枝洋子  「雪おんな」 小泉八雲
  阿部早苗  「夢十夜 第一夜」 夏目漱石
  日下昭子  「海辺の王さま」 日下昭子
  坂口亜矢子・森順子・前田裕己  「藪の中」 芥川龍之介
  加藤純恵  「コトコト、ホクホク」 宮島英紀
  北里利恵  「デューク」 江國香織
  駒田早苗  「野菊の墓」 伊藤左千夫
  角田のぶひこ  「帰ってきた先生」 角田のぶひこ
  柿原智恵子  「詩集オンディーヌより【追放】」 吉原幸子
  三上裕恵  「山からの贈物」 高村光太郎
  丸山眞宙  「小さな幸せ物語より【タイムマシン】 」川上健一
  溝呂木さゆり  「ほうすけのひよこ」 谷川俊太郎
  鈴木惠子  「草之丞の話」 江國香織
  野尻陽子  「じいさん・ばあさんの愛し方」 三好春樹
 
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というわけで、朗読のイベントです。
 
光太郎晩年の詩「山からの贈物」がプログラムに入っています。ありがたや。
 
こちらは昭和24年の雑誌『婦人之友』に掲載されたもので、詩集『典型』にも採られています。
 
   山からの贈物
 
 山にありあまる季節のものを
 遠く都の人におくりたいが
 おくらうとすると何もない。
 山に居てこそ取りたての芋コもいいし003
 栗もいいし茸もいいが、
 今では都になんでもあつて
 金がものいふだけだといふ。
 それではいつそ
 旧盆過ぎて穂立をそろへた萱の穂の
 あの美しい銀の波にうちわたる
 今朝の山の朝風を
 この封筒に一杯入れよう。
 香料よりもいい匂の初秋の山の朝風を。
 
なるほど、いい詩ですね。
 
朗読も静かなブームのようです。いろいろな方がいろいろなイベントで光太郎作品を取り上げて下さっています。今後もそういう傾向が続いてほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月25日
 
昭和25年(1950)の今日、光太郎が暮らしていた花巻郊外太田村の村役場落成式が行われ、列席しました。
 
光太郎は祝辞を述べた他、「大地麗」と書いた書を、役場に贈りました。「だいちうるわし」と読みます。
 
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昭和37年(1962)、筑摩書房刊行の『高村光太郎山居七年』に、この書に関するエピソードが載っており、抜粋します。
 
 いよいよ落成したので、先生に何か記念の額を書いていただきたいと思ったのでしたが、役場のできたのは十一月の末の頃の相当寒い時で、先生はすでに筆をおさめて、今年中は何も書かないという時でした。山口小学校の校長さんの浅沼さんなどが行ってたのんでも到底書いてもらえまいし、村長が自身行ってもおおよそことわられるだろう、結局この使は線のやさしいそして先生が気楽にものを考えられるであろう女の人がよいではないかとなりました。
 村長さんは、奥さんのアサヨさんに「書いてもらう使は、しょっちゅう先生のところへ出入りして気のおけないお前がいいよ、お前に行ってもらうことだな。うまく引受けてくれればいいし、ことわるにもお前だら先生も気楽だろう。」ということで、アサヨさんが使に行きました。間もなく帰ってき、「承知しました。」という返事に村長さんは飛上るほど喜びました。
 大きな筆と鳥の子の大紙が要るとのことで、村長さんは早速盛岡に行き、一番大きな筆と鳥の子の大紙二枚とを買ってきて、それを妻君に届けさせました。
 四、五日して、先生から「書きあがった。」との報せがあったので、アサヨさんは早速いただきにいきました。
「大地麗  高村光太郎 印」と書かれてあります。
 落成式が間近いので、大急ぎで表装し、庁舎階上の会議室正面に掲げました。
 落成式の当日、地元有志多数参集の中へ、小屋からは五粁もある役場ですが、喜んで列席、村人のため素晴らしい祝辞を述べました。会衆は稗貫郡全部から集まって三百人ぐらいあり、非常な盛会で、先生も愉快だったと見えて、ほろほろと酔い、来賓がバスで立ったあと、暮色せまる中を酔歩悠々小屋への道を辿られた。
 
この書は現在、花巻市太田の高村光太郎記念館で見ることができます。光太郎自身、この書が気に入ったようで、次の詩に謳っています。
 
    大地うるはし
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 村役場の五十畳敷に
 新築祝いの額を書く。
 「大地麗(だいちうるはし)」、太い最低音部(バス)。
 書いてみると急にあたりの山林が、
 刈つたあとの萱原が、
 まだ一二寸の麦畑のうねうねが、
 遠い和賀仙人の山山が
 目をさまして起き上がる。
 半分晴れた天上から
 今日は初雪の粉粉が
 あそびあそびじやれてくる。
 冬のはじめの寒くてどこか暖い
 大地のぬくもりがたそがれる。
 大地麗(だいちうるはし)を書いた私の最低音部(バス)に
 世界が音程を合わせるのだ。
 大地無境界と書ける日は
 烏有先生の世であるか、
 筆を投げてわたくしは考へる。

 
明治23年(1890)から同25年(1892)にかけ、数え八歳から十歳の光太郎が通った小学校です。母校ということで、いろいろと光太郎顕彰の取り組みもしていただいています。
 
同校で、以下の通り、研究発表会が行われます。 

日本学校図書館学会研究推進校研究発表会

平成26年11月28日(金)13時45分授業開始(受付開始 13時15分)
研究主題
  自らの考えを深め、確かで豊かに表現できる児童の育成
                     ~学校図書館を計画的に利用しその機能の活用を通して~
 
13:45~14:30 公開授業
1年1組 国語 としょかんへいこう 
  学校図書館で発見したことを文章に書き 発表し合う
2年1組 生活 うごけ!わたしのおもちゃ
  資料を読んで動くおもちゃ作りに生かす
3年1組 算数 重さをはかろう      
  重さの表し方を知り 資料を基に学習課題を見付ける
4年1組 国語 新美南吉の世界へ     
  新美南吉の作品を味わい読書会を開く
5年1組 社会 自動車をつくる工業    
  課題解決に必要な情報を収集し選択して活用する
6年1組 総合 先輩「高村光太郎」に学ぶ 
  詩や作品を通して生き方を知り 新たな課題をつくる
6年2組 体育 病気の予防        
  喫煙に関する資料を基に自分の考えをまとめる
 
14:50~15:40 研究発表
15:40~16:45 対談 絵本のちから 
  絵本作家 なかえよしを氏 絵本コーディネータ― 東條知美氏
 
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というわけで、6年生の総合的な学習の時間で、「先輩「高村光太郎」に学ぶ」の公開授業があります。
 
同校では、以前から総合的な学習の時間に光太郎について調べるということをなさっています。当方も資料の提供をさせていただきました。
 
今年6月の学校便り「正直親切」から。
 
 一日小でこそできる学びがあります。6年生が、今、総合的な学習の時間に取り組んでいる、本校の伝統となっている学習「光太郎のバトンをつなぐ」。本校の卒業生である高村光太郎について調べ、詩を通してその生き方を知り、これからの自らの過ごし方を考える機会にします。これから卒業までの時間を使って、「自分流高村光太郎集」を作成し、本校図書館にその作品を残します。今までの卒業生の作品が並ぶ光太郎文庫は本校の大きな財産です。
 子供たちと一緒にたくさんの詩を味わう中で、短い詩「あたり前」と光太郎氏が岩手県の小学生に残した言葉であり、本校の校訓となっている「正直 親切」に表された氏の生き方に改めて深い感動を覚えました。
 
あたり前
あたり前の事でも僕は言ふ
あたり前の事でも僕はする
あたり前でない事でも僕は言ふ
あたり前でない事でも僕はする
 
 人があたり前と考えるかどうかではなく、自分で考えてみて正しいかどうかを問い、「自分の心で、私は行動するぞ!」と宣言した光太郎。外見や周りの評価に惑わされることなく、本当に正しいことは何なのかを自分で考え、自分の心に正直に生きる姿がたった四行の詩の中に詰まっています。本校の校訓である「正直 親切」は、まさに光太郎氏の生き方そのものを表しているのです。
 「自分に正直であれ 人には親切であれ」高村光太郎氏の言葉が、本校の子供たちのこれからの人生の道しるべになってくれることを願います。
 
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ありがたいことです。
 
また、智恵子の母校、二本松市の油井小学校さんでは、智恵子について学ぶ取り組みをいろいろと行って下さっています。特にこうした地元での学校教育を通し、光太郎智恵子の名を語り継いでいくことは非常に大切なことだと思います。
 
さて、第一日暮里小の研究発表会。一般の方は参観するのは難しいかも知れませんが、教育関係の方、お申し込みを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月24日
 
昭和20年(1945)の今日、花巻郊外太田村山口の山小屋に、ランプを設置しました。
 
前日の日記から。
 
夕方、戸来恭三さんランプを持つてきてくれる、院長さんのたのみの由、石油一瓶針金も持参、贈与の由、夜ランプをつける
 
 
そして24日の日記。
 
朝雨、後快晴、小春日和  午前ランプの自在カギツクリ、
 
「高村山荘」として今も遺されている山小屋にあるこれでしょうか。
 
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昭和24年の2月に、村人が電線を引く工事をしてやるまで、3年余りランプの生活でした。

昨日は、東京・護国寺にて開催された第59回高村光太郎研究会に参加して参りました。
 
最近では年に一回行われるもので、毎回、お二方の発表が行われ、昨日は名古屋高村光太郎談話会の大島裕子氏、鶴見大学短期大学部教授・山田吉郎氏のご発表でした。
 
 
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大島氏は「高村光太郎の詩 「N-女史に」の背景」と題してのご発表。
 
「N-女史に」というのは、光太郎智恵子結婚前の明治45年(1912)に書かれた詩で、のち、「人に」と改題され、詩集『智恵子抄』の巻頭を飾ることになる詩です。
 
冒頭部分は以下の通りです。000
 
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな
種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理窟に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 
従来、この詩の書かれた時期に、智恵子は郷里で縁談がもちあがっており、それに対する抗議として光太郎がこの詩を書いたという解釈が為されていました。
 
しかし、大島氏の調査では、その縁談の相手とされていた人物が、どうもそうではないらしいとのこと。智恵子との結婚話は実際に家同士の口約束的なものがあったらしいのですが、それはもっと前の話だったのではないか、ということです。
 
今後のさらなる精査に期待します。
 
山田氏のご発表は、ご専門でもある短歌について。特に、若山牧水の主宰で始まった雑誌『創作』第1巻第5号(明治43年)に載った自選歌についてでした。
 
 
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当時の歌壇の傾向を踏まえての光太郎の歌風の特徴、歌人達の人間関係等にも触れ、興味深い内容でした。
 
光太郎は元々与謝野夫妻の新詩社に籍を置き、『明星』での活動がその文学的活動の出発点といってよいと思います。しかし、専門の歌人としての道を進まなかったためか、いったいに、光太郎の短歌については、あまり注目されていません。現代においてもあまた刊行されている短歌雑誌で、光太郎の短歌を特集するということが皆無に近い状態です。この点、書道関係の雑誌で光太郎の書がくりかえし特集されているのと好対照です。
 
はっきり言うと、歌壇の閉鎖性がその一因ではないのでしょうか。現代の短歌雑誌で過去の歌人の特集が組まれる場合も、その雑誌のルーツをたどるとその歌人の弟子筋に行き当たり、他の系統の歌人は黙殺、ということが行われているようで、実にくだらないと思います。伝統芸能的な分野になってくると、どうしてもそうなるのでしょうか。
 
そうした垣根を越え、もっともっと光太郎短歌に注目が集まっていいと思います。
 
 
昨日は、会の顧問・北川太一先生もご参加下さり、いろいろと貴重なご意見、新しい情報のご提供を賜りました。
 
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北川先生のお話がじかに聴ける機会は滅多になく、貴重な機会です。しかし参加者があまり多くなく、残念です。この会のさらなる発展も切に望みます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月23日
 
大正13年(1924)の今日、詩「清廉」を書きました。002
 
それと眼には見えぬ透明な水晶色のかまいたち
そそり立つ岸壁のががんと大きい
山巓の気をひとつ吸ひ込んで
ひゆうとまき起る谷の旋風に乗り
三千里外
都の秋の桜落葉に身をひそめて
からからと鋪道に音(ね)を立て
触ればまつぴるまに人の肌をもぴりりと裂く
ああ、この魔性のもののあまり鋭い魂の
世にも馴れがたいさびしさよ、くるほしさよ、やみがたさよ
 
愛憐の霧を吹きはらひ
情念の微風を断ち割り
裏にぬけ
右に出て
ひるがへりまた決然として疾走する

その行手には人影もない
孤独に酔ひ、孤独に巣くひ001
茯苓(ふくりやう)を噛んで
人間界に唾を吐く
 
ああ御(ぎよ)しがたい清廉の爪は
地平の果から来る戍亥(いぬゐ)の風に研がれ
みずから肉身をやぶり
血をしたたらし
湧きあがる地中の泉を日毎あびて
更に銀いろの雫を光らすのである
あまりにも人情にまみれた時
機会を蹂躙し
好適を弾き
たちまち身を虚空にかくして
世にも馴れがたい透明な水晶色のかまいたちが
身を養ふのは太洋の藍碧(らんぺき)
又一瞬にたちかへる
あの山巓の気
 
 
光太郎には「猛獣篇」という連作詩があります。教科書にも載った有名な「ぼろぼろな駝鳥」もその一篇です。他に
様々な「猛獣」をモチーフに、荒ぶる魂を表出した連作です。
 
光太郎生前に単行詩集としてまとめられる事はなかったのですが、没後、昭和37年(1962)に、草野心平が鉄筆を握り、ガリ版刷りで刊行されました。
 
この「清廉」はその第一作、発表当時「猛獣篇」のサブタイトルが付けられたのは「清廉」が最初です。
 
モチーフは妖怪「かまいたち」。上記画像はWikipediaさんから拝借しました。なにかの弾みに皮膚に裂傷ができる現象を、昔の人はこの妖怪のしわざだと考えていました。Wikipediaさんによれば、科学的には真空の渦がその原因と言われていたものの、ごく最近はどうもそうではないらしいといわれているようで、結局、これだという結論が出ていないようです。やっぱり妖怪の仕業かもしれません(笑)。
 
ちなみに当方、3歳か4歳の時、当時住んでいた東京都の多摩川の堤防でごろごろ転がり落ちて遊んでいたら、右足をかまいたちにやられました。40年以上経った現在でも、傷跡が残っています。本当にすぱっと皮膚が裂け、しかし血は一滴も出ず、それでいて物凄く痛く、泣きながら家まで走った記憶があります。Wikipediaさんでは「痛みはない」と書いてあるのですが……。今もって不思議です。
 
閑話休題。光太郎にとってはこうした妖怪も「猛獣」だったわけですね。「駝鳥」も一般には「猛獣」とは言えません。そう考えると、荒ぶる魂を持つ獣であれば「猛獣」だという理論です。それを言い出すと、「鯰」や「龍」、果てはもはや生物ですらない「潜水艦」まで「猛獣」の範疇に入っています(どの詩を連作詩「猛獣篇」の一篇と判定するかにもよるのですが)。
 
光太郎の内面世界も、なかなか掴みきれません。

昨日、文京区大塚の「第59回高村光太郎研究会」をご紹介しましたが、同じ日に別の学会が開催されす。 

第8回 明星研究会 シンポジウム 巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎

<主催> 明星研究会 <世話人> 平出洸
<後援> 文化学院・毎日新聞社・国際啄木学会・堺市

<協賛> 与謝野晶子倶楽部・与謝野晶子文芸館
 
 明治から昭和初期に至る近代と呼ばれた時代、日本はフランスから詩・小説、絵画・彫刻を中心に多くの刺戟を受けてきました。首都パリにはフランスに憧れる芸術家・文学者が集まり、ひとつのコミュニティを作ってもいます。
 今回は、明治年間にパリを訪れたこうした人々のうち、小説「ふらんす物語」で知られる永井荷風、ロダンに私淑した高村光太郎、そして与謝野寛・晶子夫妻に焦点を当ててみます。20世紀初頭のパリが彼らの価値観をどう揺さぶり、何を発見させ、ときに挫折感を味わわせたか。そして帰国後の彼らはそれぞれの体験を消化しつつ、どういった進展を見せて行くか。
 パリとの邂逅は、日本人にとって今なお魅了される新鮮なテーマです。多くの皆さまのご参加を期待しております。
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●日時● 2014年11月22(土)14時00分~16時30分 (13時30分開場)
●場所● 日比谷コンベンションホール注・前年までと会場が変わりました)
    (千代田区日比谷公園1番4号【旧・都立日比谷図書館】)
●会費● 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)
●定員●200人
●内容●
    Ⅰ 14:00  開会挨拶  西川恵(毎日新聞社客員編集委員)
    Ⅱ 14:05 ~14:50
      第1部 対談「寛と晶子の歩いたパリ」
        永岡健右(日本大学講師) 米川千嘉子(歌人)
    Ⅲ 14:50 ~15:05 休憩
    Ⅳ 15:05 ~16:25
      第2部 鼎談「パリの果実は甘かったか?~晶子・荷風・光太郎」
        今橋映子(東京大学教授) 内藤明(歌人・早稲田大学教授)
        松平盟子(歌人)
    Ⅴ 16:25 閉会挨拶 平出 洸(平出修研究会主宰)
                    総合司会:古川玲子
●申し込み●「明星研究会」事務局あて。
 ネット上での受付は11月21日(金)まで(先着順)。
 宛先メールアドレスはapply(at)myojo-k.net です。
 申し込みの送信をされる際には、
  (イ)上記アドレスの(at)を半角の @ に変えてください。
  (ロ)メールの件名は、「明星研究会申し込み」とご記入いただき、
  (ハ)メールの本文に、お名前と連絡先住所、電話番号をご記入ください。
  (二)ご家族同伴の場合はご本人を含めた全体の人数も添えてください。
 なお、当日は空席次第で会場でも直接受け付けます。
●終了後懇親会●4,000円(場所は当日お知らせいたします)

 
要項にあるお名前のうち、「世話人」の平出 洸氏は『明001星』に拠った歌人、平出修の令孫。
 
第2部の鼎談の東京大学教授・今橋映子氏には『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房・平成5年=1993)というご著書があります。この中に、「第2部 憧憬のゆくえ―近代日本人作家のパリ体験」という項があり、第1章が「乖離の様相―高村光太郎」となっています。だいぶ前ですが、読んでみて「ほう」と思つた記憶があります。
 
体が二つあれば参加したいのですが……。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月13日
 
大正元年(1912)の今日、『読売新聞』に連載中の『西洋画所見』の中で、夏目漱石に噛みつきました

一昨日、中野鷺ノ宮で、「語り同人《じゃがいも》001」主宰の麦人氏による「一人語り『智恵子とゐふ女』」に行く前、午前中から国立国会図書館に行っておりました。
 
調べ物が主目的でしたが、現在、企画展示「あの人の直筆」が開催されていますので、まずそちらを拝観しました。
 
会場が新館一階とのことで、いつものように本館2階の入り口から入り、新館へ。階段で一階に下りました。しかし、会場に繋がるはずの通路が「関係者以外他通行禁止」になっていました。職員の方に訊いたところ、一度、二階の新館出口を出ないと会場に入れないとのことでした。
 
考えて見れば、企画展示だけ見に来る方のためにそうしているのでしょう。通常の利用で館内に入るには、入館証が必要で、最初に入館証を発行してもらうには面倒な手続きが必要になりますので。
 
下記は簡易図録。A5判15頁で、ありがたいことに無料でした(入場も無料です)。ネットで公開されているよりも詳細な出品目録ももらえます。
 
さて、会場へ。
 
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最初に特別展示ということで、細川ガラシャの書簡。下記は図録から採りましたが、現在は別の書簡が並んでいます。
 
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その後、おおむね時代順にいろいろな「直筆」が展示されていました。事前の告知で目玉として紹介されていた坂本龍馬や中岡晋太郎、高杉晋作などの前には結構人だかりができていました。
 
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時間があればじっくり観たのですが、あくまで調べ物がメインですので、ほとんど横目で見ながら、事前の告知で、光太郎の名があった、ほぼ最後の「署名」コーナーへ。
 
光太郎の「署名」は、昭和17年(1942)刊行の詩集『大いなる日に』でした。見返しに「美は力なり 高村光太郎 昭和十七年七月」と毛筆で識語署名。落款も押してあります。
 
署名として同館が集めたものではなく、たまたま所蔵しているものに署名が入っている、という感じのようです。実際、展示品の多くが、他の通常の所蔵品同様の扱いで、館内のPCを使ってデジタルデータとして見られます。そうなると、真贋の鑑定はどうなっているのかと少し心配になりましたが、大きなお世話でしょうか。
 

その後、主目的の調べ物。000
 
光太郎作品の集成-『高村光太郎全集』に漏れている作品の発掘が、当方の研究のメインです。一昨日は、新聞記事の中で、短い談話を二つ見つけて参りました。いずれ公にします。
 
一つは戦時中のもので、ヘイトスピーチ大好きな右翼(一昨日も議事堂周辺でマイクを持って演説していました。足を止める人もいませんでしたが)が泣いて喜びそうな内容です。こうした「負の遺産」もなかったことにせず、正しく集成せねばなりません。
 
また、当方の刊行している冊子『光太郎資料』執筆のための情報収集も行って参りました。こちらも主に戦時中で、光太郎の詩の中には、数は少ないのですが、歌曲の歌詞として作られたものがあり、それらがどのような経緯で作曲され、公にされたかといった部分が十分に解明されていません。こちらも「負の遺産」的な側面が強いのですが、そのあたりに光を当てることも重要だと考えています。
 
今、調べているのは昭和16年(1941)に作られた「新穀感謝の歌」。信時潔の作曲で独唱歌曲や合唱曲になったり、能の二世観世喜之が謡曲として節附をしたりしています。そのあたりの事情もだいぶわかってきました。こちらもいずれ公にします。
 
さて、企画展示「あの人の直筆」。今月18日までです。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月7日
 
大正14年(1925)の今日、宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)で、光雲の代作「青沼彦治銅像」の落成式が行われました。
 
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像自体は戦時中の金属供出で現存しません。現在は台座と、除幕当時の石の銘板、戦後新たに作られたレリーフが残っています。
 
高さ八尺。これほどの大作は光太郎にしては稀有で、この後、これに近いサイズで作られたのは、四半世紀を経た戦後の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」です。

昨日も上京して参りました。まず午前中から国会000図書館へ。開催中の「国立国会図書館平成26年度企画展示 あの人の直筆」を拝観、さらにいろいろと調べ物をして参りました(明日、レポートします)。
 
夕方から中野の鷺ノ宮にて、「語り同人《じゃがいも》」主宰の麦人氏による「一人語り『智恵子とゐふ女』 」を観せていただきました。
 
会場は西武新宿線鷺ノ宮駅近くの「じゃがいも村」。30席ほどのアングラスペースでした。看板に気づかず、一度、前を通り過ぎてしまいました(笑)。狭い空間で、舞台と客席の距離も非常に近く、一体感のある作りでした。
 
午後4時開演。いったん、客席を含め全ての照明が暗転し、再び点いた時には舞台中央、踏み台に腰かけた麦人氏。丸眼鏡をかけ、襟なしのバンドカラーシャツに半纏、晩年の花巻郊外太田村時代の光太郎を意識したであろういでたちです。
 
「亡き人に」をはじめ、次々と光太郎詩を語られていきます。台本を手に読むわけではないので、「朗読」というわけではなく、舞台上を大きく動き回りもされないので、「芝居」とも言えず、「語り」と分類するしかない、一風変わったジャンルでした。
 
 
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扱われた詩は、『智恵子抄』、『智恵子抄その後』を中心におよそ20篇。全篇、台本を見ずほぼ正確に語られ、感心しました。合間に状況を説明するため、やはり光太郎の散文「智恵子の半生」や「智恵子の切抜絵」、「九十九里浜の初夏」などから、こちらは換骨奪胎ですが、それでも長い語りが入りました。詩にしても説明の部分にしても、まるで光太郎自身が語っているような雰囲気が醸し出されていました。
 
当方、今までに、女性による「智恵子抄」の朗読は何度も聴いてきましたが、男性の、しかもこの年代(麦人氏は古稀)の方の「智恵子抄」を聴くのは初めてでした。女性の澄んだ美しい声による朗読もいいものですが、ある意味無骨な麦人氏の「語り」も、実にリアルに感じました。客席で、当方の前に座られていた女性客、お二人ばかりはハンカチで涙を拭いながら聴かれていました。
 
こちらの公演、9日(日)までです。この種のものとしてはロングランですね。まだ空席があるかも知れません。麦人氏サイトに申し込み方等が記載されていますので、ご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月6日
 
明治30年(1897)の今日、光雲が古社寺保存会委員に任ぜられました。

 
新宿駅の東口を出て、すぐ、新装なった新宿中村屋ビルの3階です。
 
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中村屋さんと縁の深かった荻原守衛の関係で、「中000村屋サロン」が形成され、光太郎もこの場所に足繁く通っていたと思うと、感慨ひとしおでした。
 
その守衛や光太郎をはじめ、「中村屋サロン」の芸術家たちの作品が約50点、展示されていました。
 
光太郎の作品は、事前に展示の目玉の一つとして宣伝されていた油絵の「自画像」、それからブロンズの「手」、さらに同じくブロンズの「裸婦坐像」も並んでいました。
 
「裸婦坐像」が出ているのは存じませんで、ちょっと驚きました。信州安曇野の碌山美術館さんで持っているもので、昨年亡くなった鋳金の人間国宝にして、光太郎の実弟・豊周の弟子、故・齋藤明氏の鋳造になるものです。したがって、非常に美しく鋳造されています(全国にいくつかあるこの「裸婦坐像」、残念ながらあまりよい鋳造ではないものも展示されています)。
 
ちなみに碌山美術館さんでは、このほど光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像」(通称「乙女の像」)の小型試作を購入されたそうです。同館ではもともと同じ像の中型試作を所蔵されていますが、今度は小型。さらに展示が充実しますね。
 

閑話休題。出品目録を見ると、他にも碌山美術館さん所蔵のものが全体の3分の1ぐらいを占めており、全面的にご協力なさっているのがよく判りました。
 
図録にも同館学芸員の武井敏氏の執筆した箇所がありました。
 
 
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守衛の彫刻は2点。石膏原型が重要文化財に指定されている代表作「女」、そして守衛パリ留学時代の作品「坑夫」。
 
「坑夫」は、光太郎とも縁の深い作品です。明治40年(1907)、当時ロンドンに居住していた光太郎が、パリの守衛の元に行った際、まだ粘土の状態だったこの「坑夫」を観て感心し、ぜひ石膏に取って日本に持ち帰るよう進言しました。
 
また、碌山美術館に隣接する穂高東中学校さんの前庭に、この「坑夫」が立っていますが、その題字は昭和30年(1955)に光太郎が揮毫しています。
 
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その他、「中村屋サロン」のメンバーだった柳敬助、中原悌二郎、戸張孤雁、会津八一、中村彝、斎藤与里、中村不折など、光太郎智恵子ともいろいろな縁のある作家の作品がずらり。中村屋さん所蔵のものにも優品が多いなと感じました。
 
帰りがけに、図録と、グッズを購入しました。
 
油絵「自画像」のポストカード。
 
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やはり「自画像」、それから「坑夫」も入った4枚組のしおり。
 
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さらにB1階の直営店ボンナさんで、和菓子の「自慢詰合わせ」。
 
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「碌山」というクルミを使ったまんじゅうがありますが、守衛の号の「碌山」から採った名でしょう。当方、子供の頃はそんな事も知らずに食べていました(笑)。
 
会期は来年2月15日(日)までです。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月3日006
 
昭和18年(1943)の今日、武蔵書房から年少者のための詩集『をぢさんの詩』を刊行しました。
 
単行書としては、光太郎唯一のジュブナイルです。初版と重版は武蔵書房、第三版は同じ紙型を使って、太陽出版社に書肆が替わっています。
 
今日閉幕する「ヨコハマトリエンナーレ2014」で展示されていた『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『記録』(同19年=1944)同様、戦時中ということで、ある意味読むに堪えない残念な作品も多い、いわば「負の遺産」です。

この詩集こそが光太郎詩の真骨頂、大和魂の顕現、皇国臣民よ刮目して見よ、とありがたがる愚か者が21世紀の現在でもいまだにいて非常に困るのですが(笑)。



朗読系の公演情報。アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」などにも出演されていた麦人氏による語りの舞台です。

【じゃがいも村プロデュース公演】麦人じか~ん一人語り『智恵子とゐふ女』

会 場 : スペースじゃがいも村 東京都中野区鷺宮4-1-13 吉田ビルB1
期 日 : 2014年11月1日(土)~9日(日)
時 間 : 11/1~3、11/5、11/8、11/9 16:00から   11/4、11/6、11/7 19:00から  約1時間
出 演 : 麦人
 
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麦人さんサイトから。
 
高村光太郎の詩集「智恵子抄」は1941年に初出版された。
私は1944年生まれだが、
自分が生まれる三年も前にこの詩集は世に出ていたわけだ。
1941年は第二次世界大戦の中、
日本が米英などの連合国に宣戦布告し、
泥沼の太平洋戦争に突入していった年である。
そんな厳しく混沌とした日本社会の中で、
男女の個人的愛の姿を描いたこのような詩集が出版されたのは、 まことに驚きであり、稀有なことではなかったのか…。
これまでに「智恵子抄」は、
小説・評論、映画・TVドラマ・舞台と、多くの表現分野でとりあげられており、
その捉え方、描かれ方はさまざまである。
光太郎は彫刻家としてもすぐれた作品を多く残しており、
芸術分野で発揮したその才能は並々のものではない。
ゆえにあの当時としては数少ない女流洋画家であった智恵子は、 その自身の芸術への希求を、光太郎との生活のために放棄した犠牲者だと捉える人もいる。
いや、光太郎が純粋に妻へ捧げた
愛の詩だと捉える人もいる。
ま、さまざまな論はさておき、今回私が上演する台本は、
原作の詩を一語一句、
可能な限り間違えぬよう忠実に語りたい。
詩でなく、光太郎が智恵子について記した散文については、
光太郎自身の書いた「智恵子の半生」と、「智恵子の紙絵」から一部抜粋し、
一人語りにするため、私なりの手を入れた。
それでも内容的には
光太郎自身の書いたものにほぼそっている。
ともかくこの舞台で光太郎になりかわり語る私自身は、
「智恵子抄」の詩をメインに、古希を過ぎた今の私が感じるままの、一つの夫婦世界を、
可能な限り私自身の世界として、お客様にとどけられればよいと願っている。
そしてあわよくばお客様それぞれが、
お一人、お一人、独自に歩んでこられた人生と重ね、過去を思い、
未来を思ってくださるような舞台になれば幸いだと思うのである。

 
お申し込み、お問い合わせは麦人さんサイトをご参照下さい。
 
当方、11/5(水)の公演に参上します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月29日
 
昭和22年(1947)の今日、草野心平の詩集『定本蛙』の題字を揮毫しました。
 
『定本蛙』は翌年11月8日、大地書房から刊行されまし000た。
 
心平から光太郎に宛てた書簡が残っています。
 
それからぼくの『定本蛙』が大地書房といふところから出ます。『第百階級』と『蛙』からの抜萃とその後に出来たもののうちから十篇程、のものをひとまとめにしたものですが、またまた表紙の題字をお願ひいたしたいのですが、型は前の蛙のやうな大型のもの、
 
文面にある通り、光太郎はこれ以前にも心平の詩集や雑誌の題字を揮毫しています。
 
昭和6年(1931)には雑誌『弩』、同13年(1938)には詩集『蛙』、同18年(1943)には詩集『富士山』。
 
右は『定本蛙』の扉です。

新宿中村屋さん。パン屋の老舗で、明治34年(1901)創業です。
 
創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻は、光太郎の朋友の彫刻家・荻原守衛と親しく、欧米留学から帰った明治41年には新宿にアトリエを構えました。翌年には中村屋さんが新宿支店を現在地に移転、本店とし(それまで本店は本郷だったそうです)、守衛を中心に、やはり帰国した光太郎、中村彝、柳敬助、戸張孤雁、中原悌二郎、中村不折らの美術家が集う「中村屋サロン」が形成されました。
 
その中村屋さんが、新宿の再開発に伴い、新たに「新宿中村屋ビル」を建設、来週、グランドオープンです。内部には「中村屋サロン美術館」が開設され、オープン記念に下記の企画展が行われます。 

中村屋サロン美術館 開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」

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会 期 : 2014年10月29日(水)~2015年2月15日(日)
 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 : 毎週火曜日(火曜が祝祭日の場合は開館、翌日休館)、1月1日
料 金 : 一般300円
 
中村屋サロン美術館の記念すべき第1回展覧会は「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」です。明治末から大正、昭和初期にかけて中村屋には多くの芸術家・文化人たちが集い、後に中村屋サロンと呼ばれるようになりました。本展では中村屋サロンが生まれたまさにこの場所に、そこに集った芸術家たちの作品が集結します。
 

第1章「中村屋サロンの胎動 碌山:穂高~海外時代」

第1章では、荻原守衛(碌山)が米・仏留学中に出会い、交流を深めた芸術家たち(柳敬助、戸張孤雁、斎藤与里、高村光太郎、中村不折)の作品を紹介いたします。彼らは各々帰国をしてからも、荻原や相馬夫妻を核に強く結びつき、やがて誕生する中村屋サロンの基盤をつくりました。

主な展示作品
荻原守衛《女》
柳敬助《順子》 1920年 公益財団法人 碌山美術館蔵
高村光太郎《手》 1918年 個人蔵 
 

第2章「中村屋サロンの躍動 碌山:新宿時代~」

第2章では、帰国後の荻原のもとに集った芸術家たち(中村彝、鶴田吾郎、中原悌二郎、堀進二、保田龍門)や守衛のブロンズを鋳造した山本安曇、相馬夫妻の長男の教師であった會津八一などの作品を紹介いたします。荻原は帰国後約2年で亡くなりますが、その芸術観は中村屋サロンのメンバーに引き継がれ、中村彝を中心に更なる発展を見せます。彼らは厳しい時代において、悩み、苦しみ、命を削りながら、それでも自らの芸術の高みを求めて制作活動に打ち込んでいったのです。
主な展示作品
中村彝《小女》 1914年
鶴田吾郎《盲目のエロシェンコ》 1920年
會津八一《林下十年夢 湖邊一笑新》 1949年
開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」
(抽選)
高階秀爾氏(公益財団法人 大原美術館館長)
美術史家で新宿区の名誉区民でもある高階秀爾氏をお招きし、「中村屋サロン」について学ぶ講演会です。日本近代美術史における中村屋サロンや、その代表作家についてわかりやすく解説していただきます。中村屋サロンに対する知識や興味が深まり、開館記念特別展をより深く楽しめる企画です。皆様のご応募をお待ちしております。
 
 日 2014年12月1日(月)18:00~19:30
場 所 新宿文化センターホール(東京メトロ副都心線・都営大江戸線東新宿駅A3出口より徒歩5分)
費 用 無料(ただし中村屋サロン美術館の入場券またはその半券の呈示が必要です)
参加方法 
 参加ご希望の方は往復ハガキに〒住所・氏名・年齢・電話番号・人数(2名まで)を明記の上、11月10日必着で 下記へご応募ください。抽選結果を返送いたします。
※当日、中村屋サロン美術館の入場券またはその半券と事前にお送りする受講票をお持ちください。
応募宛先 〒107-0062 港区南青山2-18-20南青山コンパウンド502 中村屋サロン美術館講演会係
 
 
一昨日には、美術館の内覧が行われ、報道もされています。 

中村屋サロン美術館が開館。荻原守衛ら「中村屋サロン」の芸術家作品集う

1世紀に渡り親しまれてきた新宿の老舗食品メーカー「中村屋」が、新宿本店ビルの建て替えにあたり、新たに「中村屋サロン美術館」を開館する。10月29日のグランドオープンに先駆けた内覧会では、開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」がお披露目された。
 
新宿中村屋ビル3階に設えられた中村屋サロン美術館は、展示室と多目的スペースを備えた約240平方メートルの文化芸術施設としてオープンする。白と赤の壁、木製の什器とレトロなランプが落ち着いた雰囲気。開館記念展は、中村屋から広まった近代日本の芸術潮流であり、また館名の由来ともなった「中村屋サロン」にスポットを当てる。荻原守衛、中村彝、高村光太郎、會津八一、中原悌二郎ら関連する作家による絵画、彫刻および書など約50点を集め、明治から昭和に掛けての芸術家達の文化交流の様相を提示した。
 
中村屋の創業者である相馬愛蔵・黒光夫妻は芸術に深い理解を示した文化人である。愛蔵と同郷の彫刻家・荻原守衛(碌山)を中心に、中村屋には多くの芸術家達が自然と集い、その様子がさながらヨーロッパのサロンのようであったことから、夫妻のもとに開花した芸術潮流は「中村屋サロン」と呼ばれた。同館の染谷省三館長は、「ここ新宿中村屋で生まれ、発信された芸術文化は中村屋のアイデンティティーである。それを後世に伝え、また人々の文化的集いの場“サロン”となる美術館にしたい」と話す。
 
本展の目玉となる作品が、萩原守衛によるブロンズ彫像『女』だ。不安定な膝立ちのポーズに秘められた躍動感を感じる一作であり、その造形美は必見である。同館の太田美喜子学芸員は、「美術史上ではよく知られた“中村屋サロン”の一般認知度の低下を食い止めるとともに、若者にその存在をもっと知ってもらいたい」と言い、若い世代の鑑賞者に向けて、出品作の中から中村彝の油彩画『小女』を推薦した。
 
相馬夫妻の長女・俊子をモデルに描いた本作は、肺病に侵された画家とモデルの恋のエピソードで有名。俊子の強いまなざしときりりとした太い眉、頬にさす紅色の生命感が鮮烈で、どこか現代にも通ずる魅力を持った作品だ。
 
その他、高村光太郎の『自画像』や、鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』など有名作が出品され、コンパクトながら見どころの多い展覧会にまとめられた。
 
かつて多くの企業美術館が立ち並んだ新宿。新たな新宿の芸術サロンとしての同館の今後に注目したい。

 
 
光太郎の作品として、ブロンズの「手」無題、油絵「自画像」が並びます。
 
 右の画像が「自画像」。昔、中村屋さんが発行していたテレホンカードです。
 
当方、一昨年の5月、信州安曇野の碌山美術館で開催された、守衛の忌日「碌山忌」の際、当時の中村屋さんのCSR広報室長・吉岡修一氏の講演「新宿中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光の商人道と中村屋サロン」を聴きました。
 
この「自画像」の話も出、各地の企画展などへの貸し出しが多く、光太郎は「中村屋一出張の多い男」だそうです(笑)。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月24日
 
明治36年(1903)の今日、智恵子在学中の日本女子大学校で、第三回大運動会が開催されました。
 
 
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上の画像はこの年発行された『日本女子大学校学報』第二号に載った運動会の様子です。どこかに智恵子や平塚らいてうがいるかも知れません。
 
同書によれば、当日のプログラムは以下の通り。
 
番外   テニス
第一   双球転々
第二   鞠体操(英国式)
第三   操鞠競走
第四   くらぶ体操(英国式)000
第六   風船競走
第七   綱引
第八   御給仕(米国遊戯)
第九   亜鈴体操(丁抹式)※丁抹=デンマーク
第十   白妙(和蘭遊戯) ※和蘭=オランダ
第十一  案山子競走
第十二  にんふ(希臘式) ※希臘=ギリシャ
第十三  輪抜競走
第十四  辰宿列張(米国遊戯)
第十五  亜鈴体操(仏国式)
第十六  容儀体操(デルサート式)
第十七  自転車
第十八  綱引
第十九  長竿体操(仏国式)
第二十  御手球
第二十一 旌旗翩々(日耳曼遊戯)※日耳曼=ゲルマン
第二十二 球竿体操(英国式)
第二十三 徒競走
第二十四 軽麗体操(西班牙式) ※西班牙=スペイン
第二十五 第二虹霓舞(仏国遊戯)
第二十六 自転車
第二十七 障害物競走
第二十八 あまぞん(羅馬式) ※羅馬=ローマ
第二十九 旦暮鈴(西班牙遊戯)
第三十  花売り(仏国遊戯)
第三十一 ばすけつと、ぼーる
第三十二 円舞

 
右上の画像、前列右が智恵子です。後列右端の女性がバスケットボールを持っています。おそらくこの写真も運動会の一コマでしょう。

東京永田町の国立国会図書館さんで、明日から下記の企画展示が始まります。 
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国立国会図書館所蔵の貴重書等から、有名人の書簡や原稿を展示します。
国立国会図書館では、国内外の出版物以外にも、様々な資料を所蔵しています。このたび、古典籍資料、憲政資料等から、有名人約150人の直筆を集めた展示会を開催します。
お札になったあの人、教科書に載っているあの人は一体どんな字を書いたのでしょうか。書簡や原稿などからは、あの人の息遣いが聞こえてくるかもしれません。絵画や、今春から提供を開始した脚本の原稿も展示します。国立国会図書館ならではの展示をお楽しみください。
 
   平成26年10月18日(土)~11月18日(火) (日・祝は休館)
   午前10時~午後7時(土曜日は午後6時終了)
   国立国会図書館東京本館 新館1階 展示室(千代田区永田町1-10-1)
 金  無料

※途中で展示替え、展示箇所の変更を行います。
 
フロアレクチャー 10月28日(火)、11月11日(火)近代の政治家を中心に
 講師:季武嘉也(創価大学文学部教授 国立国会図書館客員調査員)
ギャラリートーク 10月25日(土)、11月8日(土)当館担当職員が見所をお話しします。
※いずれも14:00から40分程度。申込不要。展示会場受付にお集まりください。
 
主な展示物
 亡友帖(坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、木戸孝允など)
 夏目漱石 葉書(正岡子規宛)
 勝海舟 自画像
 
展示構成とその他の主な「あの人」
 【特別展示】細川ガラシャ
 【第一部:近世】
  為政者とその周辺 二宮尊徳、徳川慶喜
  著作をめぐって 本居宣長、山東京伝
  科学の眼 杉田玄白、シーボルト、高野長英
 【第二部:近現代】
  幕末・維新の人々 吉田松陰、板垣退助、大久保利通、木戸孝允、榎本武揚、大鳥圭介
  歴代首相 伊藤博文、西園寺公望、原敬、吉田茂、鳩山一郎 
  議会政治家 尾崎行雄、浅沼稲次郎、市川房枝
  日露戦争の軍人 秋山真之
  明治の経済人 岩崎弥太郎、渋沢栄一
  教育家 津田梅子、嘉納治五郎
  学者 牧野富太郎、和辻哲郎
  文芸家 泉鏡花、正岡子規、柳原白蓮、谷崎潤一郎、大仏次郎、司馬遼太郎
  芸術家 岡倉天心、横山大観、北大路魯山人
 【形態別】
  絵画 川瀬巴水、浅井忠、藤田嗣治、狩野芳崖
  署名 新村出、江戸川乱歩、堀口大学、三島由紀夫、葦原邦子
  日記 斎藤実、芦田均
  家族への手紙 陸奥宗光、白洲正子、大山巌 
  脚本 菊田一夫、岩間芳樹、田中千禾夫、津田幸於、藤村志保、三田佳子
  その他 副島種臣
 
問い合わせ先 国立国会図書館利用者サービス部サービス企画課展示企画係
03-3506-5260(直通) tenji-kikaku@ndl.go.jp
 
上記は同館のプレスリリース等から引用させていただきましたが、「おもな「あの人」」の中に光太郎の名がありません。ありませんが、署名本(?)が展示されます。出品一覧には名前があります。
 
ちなみに一覧にはありながら、与謝野晶子や島崎藤村でさえ、「おもな「あの人」」に入っていません。
 
「署名」の項に名前が入っているというだけなので、詳細が分かりませんが、おそらく自著に署名したものなのではないかと思われます。後ほど暇を見て見に行ってきて、レポートします。
 
ところで、署名本。
 
当方、光太郎の「署名本」は一冊だけ持っています。特に収集の対象にしているわけではありません(第一、値段が張るので無理です)が、一冊くらいは持っていたいなと思い、十数年前に購入しました。
 
昭和17年(1942)山雅房発行の詩集『道程』改訂普及版の重版です。見返しに詩人の小池吉昌に宛てた署名が書き込んであります。
 
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詩集『道程』改訂版には、三種の版があります。昭和15年(1940)11月20日刊行で002定価4円80銭の「150部限定版」、同日刊行で定価2円80銭の「書店版」、翌年に刊行され定価1円80銭の「普及版」です。
 
上記署名本は「普及版」の、さらに重版(第8版)。付いているはずのカバーがありませんし、保存状態もよくなく、さらに蔵書印やら書き込みやらもかなりあり、普通なら売り物になりません。しかし、18,000円。ほとんど上記の署名に対して付けられた価格ですね。
 
ちなみに「150部限定版」の見返しにも、光太郎署名が入っています(右の画像)。しかしこれは印刷ですので、「署名本」とは言えません。これを持ち出して、「うちにも光太郎の署名本がある」とぬか喜びしないように気をつけて下さい。
 
その手の勘違いならまだしも、悪徳業者(ネットオークションの場合などは個人も)が「署名本」と偽って高値を付けることがないとは言い切れません(そういう例を見たことはないのですが)。お気を付け下さい。
 
「150部限定版」、相場としては10,000円位だと思います。それが「署名本」となると一桁跳ね上がりますが、本当の署名なのか、右の画像の印刷の署名なのか、よく確かめて下さい。
 
それ以外にも、ネットオークションでは、意外に署名本の偽物がよく出てきます。それなりに筆跡は似せているのですが、やはり力がありません。
 
一度、大笑いしたことがあります。詩人の宮崎丈二宛のつもりで作った偽物「署名本」が出品されていました。ところが「二」のはずが「二」になっていたのです。アホですね(笑)。
 
ちなみに当方、光太郎以外の「署名本」もかなり手元にあります。といってもやはり収集の対象にしているわけではなく、光太郎智恵子の資料として集めたものの中に、それぞれの著者の署名が入っていた、というものです。メジャーなところでは、瀬戸内寂聴さん、故・伊藤信吉氏、無着成恭氏などなど。ただ、光太郎のものなら見てわかりますが、そのあたりになると、当方には真贋の鑑定は出来ません。そこで、「これは違うぞ」と言われるのが怖いので、そのあたりの画像は載せません(笑)。
 
話がそれましたが、国会図書館の「あの人の直筆」、ぜひ足をお運び下さい。まさか偽物ではないでしょうから。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月17日
 
昭和41年(1966)の今日、花巻市太田の光太郎が七年間暮らした山小屋近くに、「高村記念館」が落成し、開館式が行われました。
 
なぜこの日かというと、昨年のこのブログの【今日は何の日・光太郎】でご紹介しましたが、光太郎が山小屋生活を始めた日だからです。
 
開館式には東京から故・高田博厚、故・草野心平、故・髙村規氏、当会顧問の北川太一先生などが駆けつけ、高田・草野の講演がありました。
 
記念館の看板は心平の揮毫です。
 
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記念館は、昨年、近くの花巻市歴史民俗資料館だった建物に移転、リニューアル仮オープンしました。来春にはさらに拡充されてグランドオープンの予定です。旧記念館は現在、倉庫になっています。

福島県がらみの情報ですが、福島からではなく、まずは東京から、続いて奈良からです。
日 時 : 2014年10月19日(日) 14時より(17時終演予定)
場 所 : ゴートクジISIS館 世田谷区赤堤2-15-3
                   
演 目 : 演奏、朗読、映像、ふくしまをめぐる話など
 演 : 世界的な口笛奏者 柴田晶子さん
      ピアニスト    松田光弘さん
      朗読 劇団百景社 鬼頭愛さん
会 費 : 2,000円(税込) 当日ご持参願います。
 
 : skyasu39@ybb.ne.jp
      上記のメールアドレスへ氏名と参加人数をお知らせください。

第一部 「ふくしまに歌う-しのぶ・かたる・つたえる-」
      口笛:柴田晶子  ピアノ:松田光弘  朗読:鬼頭愛
第二部 「ふくしまの姿見-阿多多羅山と阿武隈川-」
      福島で撮影した映像と福島にまつわるさまざまな話
第三部 「ふくしま返し歌-インタースコア一滴-」
      福島へメッセージを送ろう
 
今年は、口笛とピアノの演奏と共に「智恵子抄」の朗読、ふくしまの原郷の映像とふくしま語りが、ゆっくりと交差する時間をお届けします。
 
遠く離れたふくしまの面影を感じつつ、3.11で何が変わり、変わらないのか、ここも一緒に考えていきたいと思います。
 
 
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それから、以前からご紹介している兵庫県人権啓発協会さん企画、東映さん制作の40分程のドラマ「ほんとの空」。福島の原発事故による風評被害、いわれなき差別を扱っていて、タイトルが光太郎詩「あどけない話」から採られています。
ここのところ各地で上映会が相次いで開催されていますが、奈良県葛城市でも行われます、というか既に2会場では終わっています。 

人権教育地区別懇談会

10 月26 日㈰19:00 辨之庄(辨之庄公民館)
11 月1 日㈯19:30 平岡(平岡公民館)
11 月15 日㈯19:30 竹内(竹内集落センター)
11 月16 日㈰19:30 中戸(中戸公民館)
11 月22 日㈯13:00 寺口(寺口ふれあい集会所)
11 月23 日㈰19:00 八川(八川公民館)
11 月30 日㈰19:00 薑(薑コミュニティセンター)
 
 
こうした取り組みで、もっともっと福島について考えていただきたいものです。
 
当方、今日はまた二本松です。智恵子のまち夢くらぶさんの主催で行われる「みんなで語る「智恵子抄」しゃべり場」に参加してきます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月13日
 
明治31年(1898)の今日、東京美術学校の修学旅行兼運動会で栃木県日光に行きました。
 
2泊3日の行程でしたが、どうやって修学旅行と運動会を兼ねたのでしょうか(笑)。

昨日は東小金井にて音楽ユニットotoyomiさんのコンサートを聴いてまいりました。
 
題してotoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』。いいコンサートでした。
 
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ユニットのメンバーは、朗読・歌が宝木美穂さん、テルミンで大西ようこさん、マリンバの今井万里子さん。そこにゲストで和太鼓・江上瑠羽さんが加わった美女4人のステージでした。
 
 二部構成で、第一部が「智恵子抄」。大西さんの構成、清道洋一氏作曲のオリジナル作品で、『智恵子抄』中の詩10篇+αを、テルミン、マリンバ、和太鼓の伴奏で、宝木さんが歌ったり語ったりさらに踊ったりという流れでした。
 
詩は「人に」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」、「あどけない話」、「人生遠視」、「風にのる智恵子」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「値ひがたき智恵子」、「レモン哀歌」、「亡き人に」。フィナーレには短歌も使われました。
 
先日行われた、やはり大西さんご出演の「もうひとつの智恵子抄」は、曲間に語り、というかレクチャーを交えながらの構成でしたが、今回は始めから終わりまでぶっ通しで行う、ある種、音楽劇のような感じでした。
 
宝木さんの熱演、そして伴奏お三方の、それぞれの楽器の特徴を最大限に生かしての熱のこもった演奏。素晴らしいものでした。清道氏の作曲も、緊張感のある導入、そして中盤の夢幻界をさまよう智恵子の表現ではテルミンの不気味な感じが効果的に使われ、終盤の智恵子逝去に際しては逆にさわやかな曲想と、工夫が凝らされていました。
 
今日が命日である智恵子への、よい供養となったと思います。
 
「もうひとつの智恵子抄」レポートの時にも書きましたが、残された光太郎、『智恵子抄その後』、十和田の裸婦像といったあたりでの続編を期待します。
 
第二部はうってかわってア・ラ・カルト的な楽しいステージでした。宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフにした「ふたつの子守唄」、ステージに画像を映し小林煌氏の木版画をインスパイアした「ととんととん」。江上さんの和太鼓VS今井さんのスネアドラムで「太鼓バトル」、やはり清道さんアレンジのジャジーな「山寺の和尚さん」、そして震災復興支援ソング「花は咲く」otoyomi アレンジヴァージョン。
 
4人のみなさんが、ほんとうに楽しんで演奏されている様子が伝わってきて、これぞ「音楽」と感じました。
 
 
当方も本日、ステージに立ちます。といっても音楽ではなく、智恵子の故郷・二本松で行われる第20回レモン忌で、記念講演を仰せつかっております。参加者の多くが智恵子の顕彰活動に携わったりされている地元の方ですので、ここ10年ほどの間に新たに見つかった智恵子資料-写真、絵画、書簡など-を紹介する予定です。
 
全国のみなさん、今日は智恵子の命日「レモンの日」です。智恵子に思いを馳せて下さい。よろしくお願いいたします。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月5日
 
平成14年(2002)の今日、NHKラジオ第2放送で「NHKカルチャーアワー文学と風土 東京文学探訪~大正・昭和を見る、歩く」が始まり、第1回として「原始の太陽 高村光太郎と智恵子を結びつけた場所*千駄木・西日暮里界隈」がオンエアされました。
 
先ほどから書いている通り、今日は智恵子の命日「レモンの日」ですが、それについては昨年の今日、書きましたので別のネタで攻めます。
 
一般向けの教育番組で、講師は元近畿大学教授の井上謙氏でした。この番組では、翌年の第23回「想い遙かに 高村光太郎・智恵子が眠る染井霊園あたり*巣鴨・駒込界隈」でも光太郎智恵子がメインで取り上げられました。
 
テキストも発行されました。古書市場で入手可能です。
 
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昨日は東京国分寺にコンサートを聴きに行って参りました。
 
「Prhymx(ぷらイム)」というユニット――テルミン奏者の大西ようこさんのお話とテルミン、三谷郁夫さんが聞き手、歌、朗読、ギターを務められての、題して「もうひとつの智恵子抄」。すばらしいコンサートでした。
 
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会場は、民家でした。外観は普通のマンションのような建物ですが、一歩足を踏み入れると、別世界。富士吉田にあった築300年以上の古民家の部材を移築したとのことで、いい感じでした。50畳近くあるのでしょうか、大広間的な空間が、音楽サロンとして活用されているそうです。
 
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プログラム的には、アンコールを含め、全10曲の演奏。その合間に大西さんと三谷さんのトークが入るという流れでした。
 
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曲目としては、既製のものがほとん000どで、9曲目の田中修一さん作曲「三つの情景」のみ、「智恵子抄」からのインスパイアということでしたが、既製の曲もそれぞれに「智恵子抄」の雰囲気にぴったり合っていました。カッチー二の「アヴェ・マリア」など、当方も大好きな曲です。
 
テルミンの演奏は、初めて生で聴き、非常に興味深く拝聴しました。というか、テルミンの実物(右の画像)を見たのも初めてでした。どうしてこれで微妙な音程や深い曲想が表現できるのか、まったく不思議です。
 
三谷さんはギターを弾きつつ歌い、朗読をなさり(まさに「弾き語り」ですね)、いい声だな、と感じました。ラフマニノフのピアノ協奏曲に乗せての朗読がありました。「智恵子抄」にはラヴェルやドビュッシーなどのフランス近代もの、またはショパンなどを使う方が多いのですが、ラフマと「智恵子抄」という取り合わせも違和感がありませんでした。
 
そして曲間のトーク。大西さんが光太郎智恵子についてよく調べられていて、感服しました。ご来場の方々は、みなさん光太郎智恵子についてあまり詳しくない方だと拝察されましたが、そういう方々にもわかりやすく、興味深いお話だったのではないでしょうか。
 
おおむね智恵子の生涯を追ったお話でしたが、智恵子の統合失調症が顕在化し、ゼームス坂病院に入院というあたりまででした。智恵子の死、『智恵子抄』の刊行、残された光太郎、『智恵子抄その後』、十和田の裸婦像といったあたりでの続編を期待します。
 
また、昨日の演奏曲目から抜粋されたCDも販売されていまして、1枚購入して参りました。是非お買い求めを。
 
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来月には、やはり大西さんの参加されている別のユニット、「otoyomi/おとよみ」さんによる「otoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄」が開催されます。
 
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以下、コピペです。
 
 ■日時:2014年10月4日(土)13:30~、17:00~二回公演
 ■場所:現代座会館  JR武蔵小金井駅下車
 ■出演:otoyomi
    宝木美穂[朗読・歌]  大西ようこ[テルミン]  今井万里子[マリンバ]
 ■ゲスト:江上瑠羽[和太鼓]
 ■作曲:清道洋一 「智恵子抄」楽曲書き下ろし      
 ■入場料:<前売>一般:3,000円 中学生以下:1,500円
               <当日>一般:3,500円 中学生以下:2,000円
               ※前売は前日10/3(金)23:00締切。それ以降のお申込みは当日料金となります。
               ※未就学児のご入場はご相談ください。
   
 お問い合わせ・お申し込みはこちら
 MAIL:
otoyomi@hotmail.co.jp
 TEL :080-5910-1310 (B-project) 
 お名前・ご連絡先・公演時間・枚数をお知らせください。
 
 
よく同じことを方々で書いたり喋ったりしていますが、どんなにすばらしい芸術作品でも、我々のちの世の人間が、その価値を正しく理解し、次の世代へと受け継ぐ努力をしなければ、やがて歴史の波に埋もれてしまいます。そういう意味で、音楽や舞台芸術、美術作品、文筆作品などの二次創作で、偉人たちの業績をオマージュすることも非常に有効で、こうした取り組みは、実にありがたい限りです。
 
全国の表現者のみなさん、どんどん光太郎智恵子の世界を取り上げて下さい。ただし、健全なリスペクトの念を忘れずに。また、ご連絡いただければ、こちらで紹介したり、できるだけのサポートをしたりということも可能です。あくまで健全なリスペクトの念を持つであろうものに限りますが。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月21日
 
昭和30年(1955)の今日、光太郎終焉の地、中野のアトリエで、家政婦の堀川スイ子を雇いました。
 
堀川は中野家政婦会からの派遣。光太郎が亡くなるまで約半年間、アトリエ所有者の中西家のみなさん共々、光太郎の身の回りの世話をしました。
 
光太郎歿後の昭和34年(1959)、筑摩書房から刊行された草野心平編『高村光太郎と智恵子』という80余名の回想録がありますが、堀川も「高村先生の思ひ出」と題する一文を寄せています。なかなか心打たれる文章です。

昨日の続きです。
 
8/30(土)、四ッ谷の紀尾井ホールにて、合唱の演奏会「The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜」を聴いて参りましたが、今日はまず会場に入る前の話から。
 
四ツ屋駅から紀尾井ホールを目指して歩いていたところ、ホールの建物のすぐ隣に、こんな看板を見つけました。
 
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「尾張名古屋藩屋敷跡」は関係なく、左の方です。「ああ、ここが福田家さんか!」と驚きました。
 
福田家さんは、戦前から続く料亭で、昭和20年(1945)に紀尾井町に移転したとのこと。ここで(もっとも、建物は当時のものではなく、近代的なビルになってしまっていますが)、昭和27年(1952)の10月に、光太郎と元陸軍少尉にして栄養学者の川島四郎、詩人の竹内てるよとの座談会「高村光太郎先生に簡素生活と健康の体験を聞く」が行われ、翌年1月の『主婦之友』に掲載されました。
 
さらにその前後の同誌に載った「編輯室便り」から。
 
  美しき因縁
 
「この世は美しいよ。やつぱりいゝことはするもんだなあ」
 と感激性のH記者。老詩人高村光太郎先生を囲む座談会から先生を送つて帰社するなりひどく感心した様子で語り出した――
 座談会は、千代田紀尾井町の福田家といふ旅館で開いたが、座に着いた高村先生
「僕の山の家へね、食糧不足のころ、二度も沢山の食物を送つてくれた人があるんです。紀尾井町の福田さん……この家ぢやないかな」
 と感慨深さう。
 女中さんに聞いてみると、やつぱり先生の推察どほり、贈主は、この五月に亡くなつた先代主人福田マチさんだつた。
 福田さんは隠れた篤行で、これまでもしばしば話題になつた人、新聞か雑誌で高村先生の御生活を読んだことから、慰問品を送つたものらしい。
「お礼も云はず失礼したが……」
 高村先生は滅多に書かれない筆をとつて、福田家さんのために「美ならざるなし」と色紙に認め、心からほつとした面持。
 偶然選んだ会場ながら、思はぬ美しい因縁話で、かくはH記者を感心させた次第だつた。
 
 
その際に光太郎から贈られた色紙がこちらです。
 
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上記記事、画像とも福田家さんで非売品として出した『福田マチ』(昭和28年=1953)という書籍から採りました。
 
見知らぬ光太郎に援助をした福田家さんの女将も偉いと思いますが、何年も経って、それを忘れないでいた光太郎も偉いと思います。実は光太郎に食糧を送ったという人はかなりの数に上ります。
 
そういう縁のある福田家さんが、コンサート会場紀尾井ホールのすぐ隣でした。
 
さて、「The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜」。光太郎作詞、三好真亜沙さん作曲になる「女声合唱とピアノのための 冬が来た」については昨日書きましたので、他の演奏について。
 
昨日も書いた通り、カワイ出版さん、ジョヴァンニレコードさんの協賛、協力により、若手作曲家に作曲の場を提供し、一流合唱団の初演と楽譜出版を同時に行い、さらにライヴ録音がCD化されるという企画です。今回は、4篇の合唱組曲と、編曲が1篇、初演されました。
 
三好さんのもの以外に初演された合唱組曲は以下の通りです。
 
宮岡絵美作詞、増井哲太郎作曲 混声合唱とピアノのための「平行世界、飛行ねこの沈黙」
水無田気流作詞、田中達也作曲 男声合唱とピアノのための「シーラカンス日和」
工藤直子作詞、名田綾子作曲  混声合唱とピアノのための「いのち」

何度か書いていますが、当方、混声合唱をやっております。所属する団は、指導者が大中恩先生の弟子で、千葉県のアンサンブルコンテストで銀賞をいただいたこともあり、そこそこ本格的にやっています。しかし当方は不真面目な団員で、週1の練習の時にしか楽譜を引っぱり出さず、しかも楽譜を見ながら歌う習慣が身についてしまっており、「次の本番は暗譜」と言われるとお手上げです(笑)
 
そういう立場で聴くと、それぞれ一流合唱団( CANTUS ANIMAEさん、なにわコラリアーズさん、松原混声合唱団さん)の演奏でしたので、素晴らしいものがあり、真剣に音楽に向き合っていない我が身が恥ずかしくなりました。
 
特によかったのが、名田綾子さん作曲の混声合唱とピアノのための「いのち」、終曲の「もしも」。「のはらうた」のシリーズなどで有名な、工藤直子さんの詩です。
 
 もしもいま いなくなるとしたら
 ここに こうしている
 「わたし」のままで いたい
 もしもいま いなくなるとしたら
 星のように月のように
 ほんのり光っていたい
 
 もしもいま いなくなるとしたら
 あちこちを みまわして
 すこし あわててみたい
 もしもいま いなくなるとしたら
 最後に わけしりぶって 
 少し笑っていたい
 
 もしもいま いなくなるとしたら
 空にむかって 大地にむかって
 呼びかけていたい
 
   あなたにあえてよかった
   生まれてきてよかった
   あなたに会えてよかった
   生まれてきてよかった
 
さらに北川昇さん編曲の「花は咲く」 。東日本大震災復興支援ソングということで、繰り返しNHKさんで流れています。当方も何種類かの編曲で何度も歌いました。今さらどのように料理するのだろうと思っていたら、なんとア・カペラ(無伴奏)での編曲でした。歌うはこの日の出演合唱団全員と、三好さんを含む作曲、指揮、伴奏などを務めた方々、総勢百数十人。これも感動でした。
 
周囲には聴きながら涙している人もいらっしゃいました。当方も、あの日、津波に呑まれて亡くなった女川光太郎の会の故・貝(佐々木)廣さんを思い出し、目がうるみました。さらに、先頃亡くなった高村規氏、昨年亡くなった鋳金家の齋藤明氏にも思いを馳せました。
 
そんな思いで帰宅したところ、高村規氏の親族の方からお葉書が届いておりました。ご親族として規氏、さらに元歌手の亜留さんのご逝去が続いたことへの思い等、綴られていました。
 
規氏葬儀の御様子、さらににもはや引退されて公人ではなかった亜留さんの訃報、このブログで紹介すべきか非常に迷いましたが、ご存じなかった方、ご存知でも葬儀等に足を運べなかった方のためにも書くべきと判断し、書かせていただきました。情報の発信というのも、なかなか難しいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月1日
 
明治44年(1911)の今日、智恵子が表紙絵を描いた雑誌『青鞜』が創刊されました。
 
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昭和57年(1982)、暁教育図書さん刊行の『日本女性の歴史 大正の女性群像』という書籍から画像を採らせていただきました。
 
103年前ですが、いま見てもつくづく素晴らしいデザインですね。

昨日は、四ッ谷の紀尾井ホールにて、合唱の演奏会「The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜」を聴いて参りました。
 
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実にいい演奏会でした。
 
「The Premiere」は、今回で3回目だそうで、カワイ出版さん、ジョヴァンニレコードさんの協賛、協力により、若手作曲家に作曲の場を提供し、一流合唱団の初演と楽譜出版を同時に行い、さらにライヴ録音がCD化されるという企画です。今回は、4篇の合唱組曲と、編曲が一篇、初演されました。
 
初演された合唱組曲4篇のうちの一つが、光太郎作詞、三好真亜沙さん作曲「女声合唱とピアノのための 冬が来た」でした。
 
第1曲「冬が来る」、第2曲「冬が来た」、第3曲「孤独で何が珍しい」、第4曲「冬の奴」の4曲からなる組曲です。
 
先述のとおり、昨日、楽譜が発売されましたが、終演後はごった返すと思い、会場に着き次第、購入しました。
 
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開演前に見たところ、やはり変拍子の多用など、いかにも現代音楽風ですが、メロディーラインの美しさは楽譜を見ただけで分かりました。実際の演奏を聴いて、やはりそう思いました。現代音楽では、調性やら主旋律やらが存在しないとか、不協和音の連続とか、実験的なものが多かったりするのですが、そういう感じではなく、非常に聴きやすい作りでした。
 
それにしても、当方の若い頃は、カワイ出版さんから合唱の楽譜を出すというのは、高田三郎、大中恩、三善晃といった大御所、というイメージでした。そう考えると隔世の感があります。
 
演奏が始まる前に、指揮の藤井宏樹氏によるMCで、作曲者・三好さんへのインタビューがありました。
 
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他の方々が、現代詩人の詩をテキストとして使用している中、なぜ光太郎なのか、という問いに対し、既製の女声合唱のイメージ-ふわっとしたきれいなもの-というイメージを毀す、「かっこいい」女声合唱の作品を作りたいと思い、そのためにあえてある意味硬質な言葉を使う光太郎を選んだとのことです。
 
女声アンサンブルJuriさんによる演奏も、そうした意図をくんだいい演奏だったと感じました。
 
特に第2曲「冬が来た」では、冒頭がア・カペラで「きっぱりと」と始まり、その後も「きっぱりと冬がた/八つ手の白い花もえ/公孫樹のも箒(ほう)になった/りともみ込むやうな冬がた」と多用される「き」の子音「K」。「ドイツ語か」と突っ込みたくなりましたが、おそらく光太郎も、硬い「き」音の連続で意識して韻を踏み、冬の厳しさを表現しているはずですので、そういう点でもよく理解された作曲、演奏でした。
 
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終演後、ホワイエで三好さんと少しお話をさせていただきました。例によって連翹忌の営業も。来年の連翹忌にはぜひいらしていただきたいものです。
 
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こちらが「光太郎を取り上げて下さってありがとうございます」的なことを申し上げると、「勝手に曲を着けてしまってすみません」とのこと。光太郎作品は法的に著作権が切れていますので、そこにリスペクトの要素がありさえすればどのように料理するのも勝手です。中には冒瀆のような扱い方があり、時おり憤慨しているのですが、今回のような取り上げ方をされれば、泉下の光太郎も喜んでいることでしょう。
 
他団体の演奏、会場周辺のことなどについて、まだ書きたいことがあるのですが、長くなりましたので、明日に廻します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月31日
 
明治32年(1899)の今日、光雲がパリ万博出品監査委員を拝命しました。
 
パリ万博は翌1900年。今朝のNHKさんの「日曜美術館」は、ガラス工芸のガレとドーム兄弟のライバル関係を取り上げるものでしたが、このパリ万博での対決も扱われていました。光雲に思いを馳せながら拝見しました。

気がつけば8月も最終週。9月のイベント情報を少しずつご紹介します。
 
渋谷の映画館、「シネマヴェーラ渋谷」さんでの特集上映です。 
昨年、東京フィルメックス、ヴェネチア、ベベルリンにおいて回顧上映され、再評価の声が高まる中村登監督の全貌に迫る!

8/16 ~ 9/12「甦る中村登」特集がシネマヴェーラ渋谷で上映されます。2013年ヴェネチア国際映画祭、東京フィルメックス、2014年ベルリン国際映画祭で上映された「夜の片鱗」「土砂降り」「我が家は楽し」の他、全24作品の特集上映です。
 
『智恵子抄(35mm)』 (125分)
公開:1967年
主演:岩下志麻、丹波哲郎、佐々木孝丸、田代信子、中山仁、加藤嘉、宝生あやこ、島かおり、岡田英次、南田洋子、平幹二朗、北見治一、小林博、岩本多代、金子信雄、石立鉄男、内藤武敏、小畠絹子
 
心を病んでゆく妻・智恵子への高村光太郎の愛を丁寧に描いた、同名詩集の二度目の映画化作品。智恵子役の岩下志麻は、鬼気迫る名演で数々の賞を受賞した。芥川比呂志による詩の朗読も心に沁みる感動作であり、米アカデミー賞にノミネートされた文藝映画。
 
上映日程 
 9月6日(土) 11:00 15:00 19:00
 9月9日(火) 11:00 15:00 19:00
 9月12日(金) 11:00 14:55 18:50
 
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昭和42年(1957)公開の松竹映画、「智恵子抄」が上映されます。まだご覧になったことのない方、この機会にぜひ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月24日
 
昭和52年(1977)の今日、光太郎のきょうだいの最後の一人、植物学者・藤岡孟彦が歿しました。
 
明治25年(1892)、高村家四男として生まれた孟彦は養子に出て藤岡姓となりました。ご子息光彦氏はご健在で、連翹忌にもご参加下さっています。過日の高村規氏ご葬儀でもお元気そうでした。

東京は紀尾井町からコンサートの情報です。 
日  時  2014年8月30日(土) 18時00分開演 (開場 17時30分)
会  場  紀尾井ホール(JR・丸ノ内線・南北線「四ツ谷駅」麹町口徒歩 6 分)
チケット  3,000円(全席自由) ※未就学児童入場不可
問 合 せ   高三(たかさん) tel:03-6807-6088
 
増井哲太郎 × CANTUS ANIMAE
指揮:雨森文也
混声合唱とピアノのための「平行世界、飛行ねこの沈黙」
作詩:宮岡絵美
 
三好真亜沙 × 女声アンサンブルJuri
指揮:藤井宏樹
女声合唱とピアノのための「冬が来た」
作詩:高村光太郎
 
田中達也 × なにわコラリアーズ
指揮:伊東恵司
男声合唱とピアノのための「シーラカンス日和」
作詩:水無田気流
 
名田綾子 × 松原混声合唱団
指揮:清水敬一
混声合唱とピアノのための「いのち」
作詩:工藤直子
 
北川昇 × 出演合唱団による合同演奏
「花は咲く」  ※編曲初演
作詞:岩井俊二 作曲:菅野よう子
 
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新進作曲家四氏の合唱曲新作が披露されるコンサートです。光太郎作詞、三好真亜沙さん作曲の「冬が来た」が女声合唱でプログラムに入っています。
 
光太郎の詩による合唱曲は意外と少ないので、ありがたい限りです。
 
ちなみに今回、他の曲を演奏される松原混声合唱団さんは、合唱団京都エコーさんとのコラボでアルバム「私が歌う理由(わけ)」を平成17年(2005)にリリースされていて、その中に光太郎作詞、清水脩作曲「混声合唱組曲 智恵子抄巻末のうた六首」が入っています。
 
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今回の曲目も、ライブCD、楽譜が発行されるようですので、楽しみです。
 
当方、チケット購入いたしました。皆さんもぜひどうぞ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月1日
 
大正2年(1913)の今日、日本洋画協会から、雑誌『現代の洋画』第17号「後期印象派」が刊行されました。
 
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雑誌なのですが、表紙に「木村荘八 高村光太郎 岸田劉生 共著」のクレジットが入っており、実際、執筆者はこの三人だけです。
 
光太郎は翻訳を三篇寄せています。「ポール・ゴーガン」「画論(アンリ・マティス)」「トウルーズ・ロートレク」です。ただし、それぞれ『スバル』や『早稲田文学』に一度発表したものの再録です。
 
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昨日は東京外苑前のライヴバー、Z.imagineさんに行って参りました。光太郎の詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン歌手、モンデンモモさんのライヴでした。
 
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光太郎詩に曲を付けた「樹下の二人」「梅酒」の他、オリジナル詞の「私の智恵子抄」、それからフォーレの「夢のあとに」に乗せての朗読「あをい雨」、さらに光太郎智恵子の周辺人物、平塚らいてう、宮澤賢治に関する曲などを演奏なさいました。
 
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また、シャンソンや日本の古い歌(「ゴンドラの唄」「宵待草」)、ゲストでモモさんのお知り合いの方もステージに立たれ、もりだくさんの内容でした。
 
光太郎智恵子の世界は、さまざまな分野の表現者の感性に訴えかけるようで、音楽、演劇、絵画、文芸、朗読その他いろいろな二次創作等がなされています。こうした風潮が途切れることなく続いてほしいものです。
 
また、そうした活動に取り組まれている方、ご連絡いただければご紹介しますので、よろしくお願い申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月7日
 
昭和59年(1984)の今日、神田の東京古書会館で明治古典会七夕古書大入札会が開催されました。
 
この年の目録のトップに、光太郎からプロレタリア詩人、中野秀人に宛てた書簡11通が大きく掲載されています。
 
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昭和2年(1927)~5年(1930)、滞欧中だった中野に宛てたエアメール……当時はまだ船便ですね。

「オークション」というシステムがあります。昨今は一般人が自由に出品できるインターネットオークションが幅広く利用されています。
 
元々「オークション」といえば、英国のサザビースのように、決まった日にちに特定の会場で競りをするもので、時折報道で「××の絵が○億円」などとあるのは、殆どがこうした「アートオークション」によるものです。
 
日本でもアートオークションを運営している企業が幾つかあり、現在は愛知のメナード美術館に収まっている光太郎作の木彫「栄螺」は、こうしたアートオークションで70余年ぶりに世の中に出て来ました。
 
さて、日本のアートオークション運営会社の中でも大手のシンワアートオークションさん。去る6月28日(土)にシンワアートミュージアムにて「近代美術 / 近代陶芸 / 近代美術PartIIオークション」を開催しました。
 
こちらに光雲作の木彫「聖観世音菩薩像」が出品され、落札されています。
 
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落札価格は、なんと¥10,500,000=一千とび五十万円。普段、せいぜいカンマ一つの世界でしか生活していませんので、右から「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……」と数えないとパッとわかりませんでした。
 
光雲作の優品であれば、このくらいの値段がついてもおかしくはありません。
 
つい先日も同じことを書きましたが、光雲生前には、作品の値段もそれほどではなかったようです。光太郎の回想によれば、光雲は「1日の手間賃がいくら、この作品は何日かかったからいくら」という計算で価格を決め、それもたいした値段をつけなかったといいます。曰く「俺にゃ、そう高く取る度胸はねえ」と、江戸っ子の職人の気概を終生持ち続けたとのこと。
 
ところが、客との間に入る商人がマージンを高く取ることがあったそうで、光雲歿後にはそうした美術商が何軒かつぶれたという話も残っています。泉下の光雲は苦笑しているのではないでしょうか。
 
もっとも、同時に落札された棟方志功の板画は八千二百万でしたが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月4日
 
昭和62年(1987)の今日、八千代出版から石井昌光著『日本近代詩人論 ――高村光太郎から丸山薫まで――』が刊行されました。
 
石井氏は明治44年(1911)のお生まれ。宮城学院女子大002学の学長などを務められた方です。「あとがき」によればこの年に亡くなっています。
 
そういう大先輩に対して失礼かとは存じますが、真面目ないい論考です。
 
扱われているのは光太郎を筆頭に、萩原朔太郎、宮澤賢治、三好達治、丸山薫。それぞれの詩人に対する敬愛の眼差しが伝わってきます。
 
やはり扱う対象に対するリスペクトの念に欠けるものは、読むに耐えません。「対象の批判をするな」というわけではありませんが、その対象が「鼻持ちならない」とか云うなら、「論じるな」と言いたくなります。
 
といって、一面だけを捉えて、我田引水のリスペクトも困りものですが……。自戒のためにも書いておきます。
 
ちなみに右の画像、白っぽいのはパラフィン紙のせい。シミは古書店で購入した時からついていました。

渋谷東急さん8階美術ギャラリー。今年4月には「秀作彫刻展」なる展示即売会を開催しましたが、現在、以下が開催中です。  

佛像の美 展

会場 東急百貨店渋谷本店 8階 美術ギャラリー  渋谷区道玄坂2-24-1
会期 2014年6月26日(木)~7月2日(水)
時間 10時~19時 最終日は17時閉場
 
心穏やかに安心できる喜びを仏像の美しさの中に求めた意欲作の数々を一堂に集め、展示販売いたします。
 
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光雲の師・高村東雲の作品が出品されています。
 
高村東雲は本名・奥村藤次郎。文政9年(1826)、下谷北清島町の生まれ。江戸末期の仏師です。
 
その系譜をたどってみましょう。将軍家ご用達の仏師・七代幸慶門下の法眼・高橋鳳雲のもとで11年の修行を積み、独り立ちの際に、師の姓名から「高」と「雲」、自身の姓から「村」、本名の「藤次郎」の「藤」を「東」に換え、高村東雲を名乗りました。師の高橋鳳雲は安政5年(1858)に歿しています。
 
したがって、光太郎家系の高村姓はここから始まったわけで、それほど由緒が深いわけではありません。
 
光太郎の父・光雲は本名・中島光蔵。文久3年(1863)に東雲に弟子入りしました。かの新選組が結成された年です。当時の慣習に従って、光雲も11年の修行を積み、明治7年(1874)に独立します。ほぼ同時に徴兵忌避のため、師・東雲の姉・悦の養子になり、高村姓となりました。
 
当時の徴兵令では、長男は徴兵免除。光雲には大工となった異母兄がおり、徴兵対象でしたので、養子縁組がなされたのです。
 
東雲はその後、明治12年(1879)に歿。没後、東雲の号は直系の子孫に受け継がれていき、三代目東雲が晴雲と号を変え、さらに二代目晴雲に受け継がれました。
 
その初代東雲の作品が渋谷東急の「佛像の美 展」に出品されています。光雲の識(鑑定)が入っているとのこと。ぜひご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月29日無題
 
昭和55年(1980)の今日、赤坂のサントリー美術館で開催されていた「近代芸術家の書」展が閉幕しました。
 
光太郎を含む50余名、約200点の作品が並ぶ大規模な展覧会でした。
 
光太郎作品は「うつくしきもの満つ」「蟬のうた」「リンゴ畑に」「太田村山口山の……」「有機無機帖」、さらに彫刻「手」。
 
夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、横山大観ら、並み居る諸先輩方をさしおいて(笑)、光太郎の書が図録の表紙を飾りました。

光太郎の詩などにオリジナルの曲を附けて歌っているモンデンモモさんから、来月のライヴのご案内をいただきました。

Gマジックライブ VOL8 2014

日 時 : 2014年7月6日(日) 15:00~
会 場 : Z.imagine 港区北青山2-7-17 青山鈴越ビルB1F
      東京メトロ銀座線 外苑前駅 神宮球場方面出口下車 2番・3番出口を出てすぐ
料 金 : ¥3,000(ドリンク別) 学割あり
 
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ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月21日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校校長・浅沼政規と、読売文学賞の賞金の使い道を相談しました。
 
当日の日記から。
 
学校の学芸会用の幕の為に2万円寄附せんと思ふ。校長さんに話す。
 
前の年に刊行した詩集『典型』が、第二回読売文学賞に選ばれたのが前月。その賞金をそっくり寄附してしまおうというわけで、下記の幕ができあがりました。
 
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描かれているのは山口小学校の校章。このデザイン案も光太郎です。
 
浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年 ひまわり社)より。
 
 昭和二十六年、高村先生が読売文学賞の賞金を寄付してくれ、そのお金で式場用の幕を新調することになり、校章の図案を高村先生にお願いすることにしました。高村先生は快く承諾して、図案を作ってくれることになりました。
 お願いしてから何日かあと、高村先生から
「いろいろ考えてみました。花の模様はどこでも採っているのですが、ここではあまり特徴になりません。文字の図案化もただそれだけの意味です。ここの名産とか、特に関係のあることを考えて見ました。その結果、栗の図案を考えてみましたが、どうでしょうか。ここは栗の産地で、たくさん栗の木があり、栗は大きくなり、木は丈夫で堅く強く、実は青いうちはいがで包まれていますが、熟すといがが開き、丸々とした実がつやつや美しく、食べると、なににもましてうまい。うまいものの代名詞ともなっているくらいです。栗の実の雌しべを上向きにし、それを円で囲み、山口と文字を入れます」
 と図に描いてくれました。
「なるほど栗はここの土地に合うし、堅実を表しますので、それにいたしましょう」
 職員とも相談し、図画の得手な菊池高雄先生が図案を描いて、小屋にいって高村先生に見ていただき、それを校章として決定し、幕に染めることになりました。
 式場用幕は五つで、ステージの前上方の垂れ幕の左と右に校章を大きく染めることになりました。
 
山口小学校は廃校となりましたが、この幕は大切に保存されています。

一昨日、浅草はアミューズミュージアムさんで、「東日本大震災復興支援チャリティ朗読会 届けよう笑顔!~東北に初夏の風~ レジェンド・太宰治」を聴いて参りました。
 
出演者の中村雅子様塙野ひろ子様須賀雅子様のブログにレポートがありますので、リンクさせていただきます。
 
浅草といえば、光雲・光太郎親子のホームグラウンドです。特に光雲は浅草の生まれです。そこで、朗読会が始まる前、少しだけ二人の足跡をたどってみました。
 
まず、浅草寺観音堂前の手水舎。光雲作の「沙竭羅龍王像」。
 
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明治36年(1906)の建立です。ただし、はじめは観音堂裏手にあった池に噴水があり、その噴水塔の上に鎮座ましましていたもので、のちに移転されています。
 
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こちらは当時の絵葉書。一見カラーですが、「手彩色」といって、色は手で塗ったものです。
 
像の迫真の表情、それから東韶光による天井画の龍も実に迫力があります。
 
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続いて観音堂の前を左折、奥山方面へ。奥山門を出ると「浅草花やしきさんがあります。
 
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光太郎、ここには美術学校時代によく通っていました。
 
動物をモデルにすればモデル代がいらないので、よく上野動物園や浅草の花屋敷に時間より早く入れてもらひ、檻のそばでお客の来ないうちに油土で作つた。(「モデルいろいろ」 昭和30年=1955)
 
そんな無理が通った背景には、光太郎の祖父・中島兼吉がこの辺りの香具師(やし)の組、花又組の親分だったことも無関係ではないでしょう。
 
花やしきの前を過ぎ、少し行ったアーケード街を北上すると、老舗の牛鍋屋「米久さんがあります。
 
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光太郎は大正10年(1921)、この店を舞台に「米久の晩餐」という長大な詩を書きました。
 
    米久の晩餐
 
八月の夜は今米久(よねきう)にもうもうと煮え立つ。
 
鍵なりにあけひろげた二つの大部屋に
べつたり坐り込んだ生きものの海。
バツトの黄塵と人間くさい流電とのうづまきのなか、
右もひだりも前もうしろも、
顔とシヤツポと鉢巻と裸と怒号と喧騒と、
麦酒瓶(ビールびん)と徳利と箸とコップと猪口(ちょこ)と、
こげつく牛鍋とぼろぼろな南京米と、
さうしてこの一切の汗にまみれた熱氣の嵐を統御しながら、
ばねを仕かけて縦横に飛びまはる
おうあの隠れた第六官の眼と耳とを手の平に持つ
銀杏返しの獰猛なアマゾンの群れと。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

室に満ちる玉葱と燐とのにほひを
蠍(さそり)の逆立つ瑠璃いろの南天から来る寛闊な風が、
程よい頃にさつと吹き払つて
遠い海のオゾンを皆(みんな)の團扇(うちは)に配つてゆく。
わたしは食後に好む濃厚な渋茶の味ひにふけり、
友はいつもの絶品朝日(ノンパレイユアサヒ)に火をつける。
飲みかつ食つてすつかり黙つてゐる。
海鳴りの底にささやく夢幻と現實との交響音。
まあおとうさんお久しぶり、そつちは駄目よ、ここへお坐んなさい……
おきんさん、時計下のお会計よ……
そこでね、をぢさん、僕の小隊がその鉄橋を……
おいこら、酒はまだか、酒、酒……
米久へ来てそんなに威張つても駄目よ……
まだ、づぶ、わかいの……
ほらあすこへ来てゐるのが何とかいう社会主義の女、随分おとなしいのよ……
ところで棟梁(とうりやう)、あつしの方の野郎のことも……
それやおれも知つてる、おれも知つてるがまあ待て……
かんばんは何時……
十一時半よ、まあごゆつくりなさい……
きびきびと暑いね、汗びつしより……
あなた何、お愛想、お一人前の玉(ぎよく)にビールの、一円三十五銭……
おつと大違ひ、一本こんな處にかくれてゐましたね、一円と八十銭……
まあすみません……はあい、およびはどちら……

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

ぎつしり並べた鍋台の前を
この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
正直まつたうの食慾とおしやべりとに今歓樂をつくす群衆、
まるで魂の銭湯のやうに
自分の心を平氣でまる裸にする群衆、
かくしてゐたへんな隅隅の暗さまですつかりさらけ出して
のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆、
人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせて
せめて今夜は機嫌よく一ぱいきこしめす群衆、
まつ黒になつてはたらかねばならぬ明日を忘れて
年寄やわかい女房に気前を見せてどんぶりの財布をはたく群衆、
アマゾンに叱られて小さくなるしかもくりからもんもんの群衆、
出来たての洋服を氣にして四角にロオスをつつく群衆、
自分でかせいだ金のうまさをぢつとかみしめる群衆、
群衆、群衆、群衆。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

わたしと友とは有頂天になつて、
いかにも身になる米久の山盛牛肉をほめたたへ、
この剛健な人間の食慾と野獣性とにやみがたい自然の声をきき、
むしろこの世の機動力に欺かる盲目の一要素を与へたものの深い心を感じ、
又随処に目にふれる純美な人情の一小景に涙ぐみ、
老いたる女中頭の世相に澄み切つた言葉ずくなの挨拶にまで
抱かれるやうな又抱くやうな愛をおくり、
この群衆の一員として心からの熱情をかけかまひの無い彼等の頭上に浴びせかけ、
不思議な溌溂の力を心に育(はぐく)みながら静かに座を起つた。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。
 
ここで昼食、と考えていましたが、まだ開店前でした。
 
この界隈にはその他にも光太郎光雲ゆかりの場所がまだまだあります。ただ、花やしきさんや米久さんのように、今も続いているところはそう多くはないのですが。また時間を見つけて、古地図片手に足跡をたどってみようと思いました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月26日

平成12年(2000)の今日、俳優の山村聰が歿しました。
 
山村さんといえば、昭和32年(1957)封切りの東宝映画「智恵子抄」で光太郎役を演じられました。その時の智恵子役は原節子さんでした。
 
以前にも書きましたが、山村さんと光太郎の関連は、映画「智恵子抄」だけではありません。山村さんがまだ若手俳優だった戦前から戦時中、ラジオ放送で何度も光太郎詩の朗読をなさっていました。戦時中には「シンガポール陥落」「山道のをばさん」といった戦意昂揚の詩を朗読しています。
 
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画像は映画「智恵子抄」のパンフレットから。
 
山村さんご自身の言葉も載っています。
 
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一昨日、東京国立博物館で光雲作「老猿」、光太郎作「老人の首」を観た後、日本橋の三井記念美術館さんに行きました。こちらでは「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」が開催中です。
 
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上記はチラシですが、ここにあるとおり、「七宝」「金工」「漆工」「薩摩」「刀装具」「自在」「牙彫・木彫」「印籠」「刺繍絵画」の各テーマ別に、百数十点の作品が並んでいます。
 
どれもこれも舌を巻くような技巧がこらされ、しかも趣味がいい作品ばかりです。副題にある「村田コレクション」とは、京都・清水三年坂美術館館長の村田理如氏の収集による同館収蔵品ということです。
 
明治期のこうした工芸については、近年まで正当な評価がされてきませんでした。一つには、主に輸出用に作られたため、国内に現物があまり残っていないという理由があります。村田氏は海外から買い戻したりして収集にあたられたとのこと。頭が下がります。
 
また、一部には度を超して技巧を凝らしすぎた作品があったのも事実です。そのため、永らくゲテモノ扱いされていたという部分があります。
 
そうした経緯は同展図録に掲載の村田氏「明治の工芸に魅せられて」、それから同展監修者の明治学院大学教授・山下裕二氏「超絶技巧の逆襲――明治工芸の再評価に向けて」に詳述されています。
 
1970年代刊行の日本美術史の書籍では、明治期の工芸はほとんど黙殺。「明治以降を専門領域とすることなど、アカデミックな研究者としてはいかがなものか、というような空気がたしかにあった」というのです。
 
上記画像のタケノコの作者、牙彫の安藤緑山などは、未だに生没年すら不詳ですし、弟子もとらなかったとのことで、その着色の方法もよくわかっていないそうです。昨年、テレビ東京系「美の巨人たち」で取り上げられ、興味深く拝見しました。
 
明治の工芸に光があたるようになって20年くらいでしょうか。当方、平成7年(1995)3月刊行の『芸術新潮』を持っていますが、「日本人が見捨てた明治の美「置物」彫刻の逆襲」という特集記事が載っています。
 
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第一部が「明治の木彫王高村光雲ものがたり」32ページ、第二部が「異人さんに買われていった明治輸出工芸の底力」27ページ。
 
この頃から、ようやく明治期の工芸が無視できない風潮になってきましたが、この時点では、まだゲテモノ扱いです(光雲作品は違いますが)。曰く、
 
悪趣味なまでに大胆、過剰なこのデザイン! これでもか、これでもかと持てる技巧を尽くしたこの出来ばえ……明治の職人たちが生き残りを賭けて生んだ異形の工芸品は、それが輸出用であったがために日本では忘れ去られて、欧米で静かに眠り続けてきた。
 
その後、平成5年(1993)に開館された宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品に注目が集まるようになり、昨年には京都国立近代美術館で「皇室の名品-近代日本美術の粋-」展が開催され、それをもとにNHKさんで「皇室の宝「第1夜 日本の危機を救った男た救った男たち」「第2夜 世界が認めたジャパン・パワー」」が放映され、ここにきてとみに明治工芸に注目が集まっています。
 
確かに悪趣味なまでに装飾過剰のものも存在したのですが、000そうではない佳品もたくさん存在するのです。今回の三井記念美術館さんの展覧会を観ればよくわかると思います。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今回、光雲の木彫が2点並んでいます。「西王母」(昭和6年=1931)、 「法師狸」(制作年不詳)です。大作の「老猿」とはまた違った、小品ならではの魅力に富んでいます。
 
以前にも書きましたが、下記日程で巡回されます。

佐野美術館(静岡県三島市) 
 2014年10月4日(土)~12月23日(火・祝)
山口県立美術館(山口市)
 2015年2月末~4月下旬
 
さらに、NHKさんの「日曜美術館」、5月11日の放送が「知られざる明治工芸の超絶技巧」という副題ですので、この展覧会を扱うものと思われます。同番組MCの井浦新さんは、この展覧会の関連行事のトークイベント「日本美術応援団 明治工芸を応援する!」で、山下氏とともにご出演されるそうです。
 
「日曜美術館」については、新たな情報が入りましたらまたお伝えします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月2日

明治37年(1904)の今日、神田の高折周一音楽講習所でヴァイオリンのレッスンを受けました。
 
日記によれば、四月からレッスンに通い始めたとのこと。束脩(入門料)は1円、月謝は1円50銭。自転車の荷台にバイオリンをくくりつけて通ったそうです。
 
高折周一は東京音楽学校出身のヴァイオリニスト。のちに渡米し、明治45年(1912)、有名なポトマックの桜の植樹式で、高折の曲が演奏されたという記録があります。
 
ポトマックの桜をアメリカまで運んだのは、日本郵船の阿波丸(Ⅰ世)という船。この船は、かつて明治42年(1909)、欧米留学から帰る光太郎が乗った船です。不思議な縁を感じます。

昨日は都内に出かけて参りました。
 
まずは上野の東京国立博物館さん。連休谷間の平日、しかもそこそこ雨が降っていましたが、多くの人でにぎわっていました。
 
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特別展「キトラ古墳壁画」が目的の方が多かったようで、ご覧の通りの行列。興味はあるのですが、40分待ち、と言われ、そちらはパスし、本来の目的のジャンル別展示だけ観ることにしました。
 
本館1階第18室が「近代の美術」となっており、光太郎のブロンズ彫刻「老人の首」(大正14年=1925)、光雲の木彫で重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)が展示されています。
 
00418室の入り口近くに「老人の首」がありました。同じ型から作ったものは、昨年、千葉市美術館他で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも並んでいたのですが、こちらの方が古い鋳造のようです。
 
キャプションには「江渡幹子氏寄贈」とあり、光太郎と交友のあった青森県五戸出身の思想家・江渡狄嶺(えとてきれい)の縁者かな、と思いました。狄嶺の妻がミキという名です。当時、女性は戸籍上の名に「子」がついていないことが多く、一種の敬称として互いに「子」をつけて呼び合ったり、自分でも「子」をつけて名乗ったりすることが一般的でした。また、やはり戸籍上の名に漢字が使われていなくても、自分で漢字をあてることもよく行われていました。智恵子も与謝野晶子も、それから現在NHKの朝ドラ「花子とアン」で扱われている村岡花子もそうです。「花子とアン」にはそういうエピソードもありました。

追記 やはり寄贈者は江渡の妻・ミキでした。

 
光太郎の回想に依れば、モデルは駒込林町のアトリエに造花を売りに来る老人。昔、旗本だったそうで、江戸時代の面影を残すその顔に惹かれてモデルとして雇ったそうです。
 
ただ、光太郎の縁者によると、光雲の異母兄・中島巳之助に甚だよく似ている、という証言もあります。
 
そして18室の終わり近くに「老猿」。
 
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圧倒的な存在感です。「高さ90センチ」というデータは頭に入っているのですが、どうみてもそれ以上の大きさに見えます。
 
こちらはあまり目にする機会が多くなかったので(平成14年=2002の茨城県近代美術館「高村光雲とその時代」展、同19年=2007の東京国立近代美術館「日本近代の彫刻」展に続き、3回目です)、興味深く観ました。
 
やはり彫刻は3次元の作品なので、観る角度によって見え方が違いますし、写真等ではわからない細部もよく観られました。
 
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「老人の首」「老猿」の展示は5月25日(日) まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
その後、上野を後に、一路日本橋へ。三井記念美術館さんでの「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」を観て参りました。そちらのレポートはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月1日

明治26年(1893)の今日、シカゴ万国博覧会が開幕しました。
 
はるばる海を渡って「老猿」が展示されました。アメリカの人々は、その技術の巧みさに驚いたといいます。
 
そうした彫刻としての凄さとは別の面でも話題になりました。この「老猿」は、そもそも老いたニホンザルが猛禽と格闘した後、飛び去って行く猛禽を見上げている構図だそうです。左手には逃げた猛禽の羽根を握りしめています。
 
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これが物議をかもしました。シカゴ万博日本パビリオンのすぐ前、一説によると「老猿」の視線の先にはロシアのパビリオンがありました。そのロシアの国章が鷲。
 
当時の日本は東アジアの覇権を巡ってロシアや清とにらみ合いを続けている時期でした。教科書にも載っているビゴーの風刺画が有名ですね。
 
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翌年には日清戦争、さらにその翌年、講和のための下関条約に対しては、ロシアが中心になっていわゆる「三国干渉」を仕掛けてきます。そこで、「老猿」が握りしめている猛禽の羽根はロシアを象徴し、日本のロシアに対する威嚇だ、ととらえられたのです。
 
しかし、光雲はそうした外交や政治には疎かったといいます。どうもこの説は牽強付会に過ぎるように感じます。

ご存知上野の東京国立博物館さん。
 
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企画展や特別展というわけではないのですが、現在、光雲・光太郎父子の作品が同時に展示されています。
 
場所は本館18室。同館は収蔵品数も厖大なため、展示の入れ替えも頻繁にやっています。展示は適当に並べるわけでなく、部屋ごとにコンセプトを明らかにし、関連のある作品をまとめる形をとっています。
 
で、現在、本館18室では「近代の美術」ということで、33件の作品が並んでいます。以下、同館サイトから。
 
近代の美術
本館 18室  2014年4月15日(火) ~ 2014年5月25日(日)
明治・大正の絵画や彫刻、工芸を中心に展示します。明治5年(1872)の文部省博覧会を創立・開館のときとする当館は、万国博覧会への出品作や帝室技芸員の作品、岡倉天心が在籍していた関係から日本美術院の作家の代表作など、日本美術の近代化を考える上で重要な意味を持つ作品を数多く所蔵しています。これら所蔵品から明治、大正、そして昭和の戦前にかけた日本近代の美術を紹介します。
 
光雲作品は重要文化財の木彫「老猿」(明治26年=1893)。光太郎作品はブロンズの「老人の首」(大14=1925)です。
 
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他にも上村松園「焔」、黒田清輝「読書」、土田麦僊「大原女」など、近代美術の至宝が目白押し。同館のブログでは「日本の近代美術の全貌を見ることができる部屋」と書かれています。
 
当方、連休谷間の明後日あたり、三井記念美術館「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」と併せて観に行こうと思っています。
 
みなさんもぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月28日

大正15年(1926)の今日、日本橋柳屋ソーダ・ファウンテンで、来日したフランスの小説家、シャルル・ヴィルドラック夫妻の歓迎会に出席しました。
 
ヴィルドラックはロマン・ロランと親しく、この時期光太郎は片山敏彦らと「ロマン・ロラン友の会」を結成しており、同会主催で行われました。
 
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後列左から二人め光太郎、片山敏彦、右端尾崎喜八
前列左から2人め倉田百三、ヴィルドラック夫妻、高田博厚

東京渋谷の東急百貨店本店で、昨日から下記のイベントが始まりました。

秀作彫刻展

 場 : 東急百貨店渋谷本店 8階 美術ギャラリー  渋谷区道玄坂2-24-1
 期 : 20144月24日(木)~30日(水)
 間 : 10時~19時 最終日は17時閉場
 
木のぬくもりを十分に活かした木彫やブロンズ像などを一堂に集め、展示販売いたします。
 
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展覧会、というより展示即売会です。
 
上記画像にあるとおり、光雲の木彫「阿倍仲麻呂」が出品されています。税込み864万円……。光雲の真作であれば、このくらいの値段はつきます。ただ、何をもって真作とするか、というと微妙な問題をはらみます。
 
光雲には弟子が多数いました。山崎朝雲、米原雲海など、のちに大成し、有名になった弟子もたくさんいましたし、無名のまま終わった弟子はそれ以上に多かったと思われます。
 
ちょっと変わった所では、昭和11年(1936)に猟奇的な殺人事件をおこして世間の耳目を集めた、かの阿部定のヒモだった女衒・秋葉正義も一時期ではありますが、光雲の元で木彫を学んでいたとのこと。
 
そうした無名の弟子はなかなか生活が苦しく、その援助のため、ほとんど弟子が作った作品の仕上げだけを光雲が行い、「光雲」のクレジットを入れてやったこともあるというのです。そうすることによって、市場価格が上がる仕組みです。もちろん、光雲がその上乗せ分をピンハネしていたわけではなく、弟子の実入りにしてやっていたわけです。
 
そうした弟子の手がほとんど入っていない作品の場合、「高村」でなく「高邨」と銘を入れたらしいという説もあります。
 
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といっても、光雲生前には、作品の値段もそれほどではなかったようです。光太郎の回想によれば、光雲は「1日の手間賃がいくら、この作品は何日かかったからいくら」という計算で価格を決め、それもたいした値段をつけなかったといいます。曰く「俺にゃ、そう高く取る度胸はねえ」と、江戸っ子の職人の気概を終生持ち続けたとのこと。
 
ところが、客との間に入る商人がマージンを高く取ることがあったそうで、光雲歿後にはそうした美術商が何軒かつぶれたという話も残っています。
 
さて、864万円……。泉下の光雲は苦笑しているのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月25日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外湯口村(現・花巻市)の円万寺を来訪、一緒に奉納の神楽を見物しました。
 
当時、円万寺には、チベットで修行した経験を持つ僧・多田等観が疎開していて、親密に交流しており、光太郎の暮らす太田村山口の山小屋から5㎞以上ありましたが、ときおり行き来していました。
 
円万寺は小高い山の上にあり、登っていくのは大変です。光太郎もこの日の日記に「観音山正面の石段をのぼる。くたびれる。」と記しています。
 
ただ、それだけにここから見るながめは絶景です。下記は花巻市観光協会さんのページから拝借しました。
 

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昨日書きました三井記念美術館さんの「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」同様、光雲の木彫作品が並ぶ企画展です。 会場は東京藝術大学大学美術館さん。
 
全国3ヶ所の巡回で、すでに1館目の仙台市博物館さんは終了。当方は先月、そちらを観て参りました。 

東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち

 催 : 東京藝術大学 法隆寺 朝日新聞社
 期 : 2014/4/26[土]~6/22[日]
 間 : 午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
 館 : 月曜日(4/28、5/5は開館)、5/7[水]
 金 : 一般前売り¥1,300(当日¥1,500)、大学・高校生前売り¥800(当日¥1,000)
 
推古天皇15年(607年)、聖徳太子によって建立された日本を代表する古刹・法隆寺。その法隆寺の至宝を総合的に紹介する大規模な展覧会が、約20年ぶりに東京で開催される。  本展では、除災や国家安穏を祈って造られた金堂の毘沙門天、吉祥天(いずれも国宝)をはじめ、奈良・飛鳥時代以降の優れた彫刻や絵画、色鮮やかな染織品を含む工芸など仏教美術の粋を出陳。また、法隆寺所蔵の文化財保護と継承に携わってきた東京美術学校(現・東京藝術大学)の活動や、法隆寺を主題に制作された近代の絵画・彫刻なども展示される。
法隆寺で聖徳太子の教えとともに守られてきた、約70件の名品たちとじっくり向き合えるまたとない機会を、ぜひお見逃しなく。
 
 
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飛鳥時代からの仏像などの数々の寺宝に混じって、光雲の木彫「聖徳太子像(摂政像)」(昭和2年=1927)、「佐伯定胤像」(昭和5年=1930)が展示されます。これは東京美術学校と法隆寺が密接な関係にあったことが背景になっています。
 
さらに新潟展ということで、新潟県立美術館にて2014年7無題月5日(土)~8月17日(日)に巡回されます。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月20日

昭和18年(1943)の今日、龍星閣から『随筆某月某日』が刊行されました。
 
同名の題で『知性』、『歴程』、『東京帝国大学新聞』、『改造』など、あちこちの雑誌等に発表した随筆その他を集めたものです。
 
智恵子に関する内容のものも含まれ、『智恵子抄』を補完するという意味合いもある一冊です。

東京日本橋の三井記念美術館さんで、光雲の木彫作品が展示される企画展が、今日から始まります。 

超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―

会期 : 2014年4月19日(土)~7月13日(日)
主催 : 三井記念美術館 朝日新聞社
協力 : 清水三年坂美術館
時間 : 10:00~17:00 金曜日は19:00まで
 : 一般1,300円 大学、高校生800円 中学生以下無料
 
近年、美術雑誌・テレビ番組などで頻繁に取り上げられるようになった明治の工芸。 中でも、超絶技巧による、精緻極まりない作品が注目を集めています。しかしながら、 それらの多くが海外輸出用の商品であったため、これまで日本国内でその全貌を目ににする機会は、ほとんどありませんでした。
本展では、村田理如(まさゆき)氏の収集による京都・清水三年坂美術館の所蔵品のうち、並河靖之(なみかわやすゆき)らの七宝、正阿弥勝義(しょうあみかつよし)らの金工、柴田是真(しばたぜしん)・白山松哉(しらやましょうさい)らの漆工、旭玉山(あさひぎょくざん)・安藤緑山(あんどうろくざん)らの牙彫をはじめ、驚くべき技巧がこらされた薩摩や印籠、近年海外から買い戻された刺繍絵画など、選りすぐりの約160点を初めて一堂に展観いたします。
 
質・量ともに世界一の呼び声が高い、村田コレクション秘蔵の名品が三井記念美術館に勢ぞろいします。
 
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出品目録によれば、光雲の木彫作品が2点並びます。「法師狸」(制作年不詳)と「西王母」(昭和6年=1931)。 
 
他にも七宝や金工、牙彫、自在置物などで、明治期を代表する名工の作品がずらっと並ぶようです。東京美術学校の関係で光雲や光太郎と縁のあった作家の作も含まれます。石川光明、海野勝珉など。
 
これはぜひ観なければ、と思います。
 
また、以下の通り関連イベントも開かれます。 
 
 
トークイベント「日本美術応援団 明治工芸を応援する!」
出演: 井浦 新氏(俳優、クリエーター)、山下裕二氏(本展監修者、明治学院大学教授)
日時: 5月10日(土) 14:30~16:00
 
対談 「村田コレクションの来し方、行く末」
出演: 村田理如氏(清水三年坂美術館館長)、山下裕二氏(本展監修者、明治学院大学教授)
日時: 6月7日(土) 14:00~15:30
 
NHKさんの「日曜美術館」でおなじみ、井浦新さんもご登場です。
 
さらにこの企画展、以下の日程で全国巡回です。
 
佐野美術館(静岡県三島市) 2014年10月4日(土)~12月23日(火・祝)
山口県立美術館(山口市)  2015年2月末~4月下旬
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月19日

昭和56年(1981)の今日、山梨県北巨摩郡長坂町(現・北杜市)に、清春芸術村が開村しました。
 
「清春白樺美術館」を中核とする施設で、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が大正年間に建設しようとして、その夢を果たせなかった幻の「白樺美術館」を実現させようと作られたものです。
 
基本設計は建築家の谷口吉郎。「十和田湖畔の裸婦群像」台座や周辺の設計にも関わった人物です。
 
清春白樺美術館では、現在3点しか現存が確認されていない智恵子の油絵のうちの1点「樟」を所蔵しています。

昨日は光太郎の58回目の命日。東京日比谷松本楼様に於きまして、第58回連翹忌を開催いたしました。
 
と、その前に、当方は駒込染井霊園の高村家のお墓にお参りをしました。染井はソメイヨシノの名前の由来となった地だけに、霊園内の桜も見事でした。
 
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さて、5時30分、第58回連翹忌を開会しました。今年も昨年を上回る76名ものご参加を頂きました。
 
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はじめに、光太郎、そして今日までの一年間に亡くなられた関係者の皆様に対して黙祷を捧げました。続いて、永らく連翹忌の運営をされてきた、高村光太郎記念会事務局長にして、当会顧問の北川太一先生のご挨拶。さらに、光太郎の令甥にあたられる高村光太郎記念会理事長・高村規様のご発声により、献杯。
 
その後はビュッフェ形式で料理を堪能していただき、並行してスピーチやアトラクション演奏。
 
まず、日本画家の故・大山忠作氏ご息女にして女優の大山采子さん(芸名・一色采子さん)にスピーチをお願いしました。大山さん、他にご用がおありのところ、駆けつけてくださり、途中までのご参加でした。
 
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昨年、二本松の大山忠作美術館で開催された「五星山」展についてお話下さいました。
 
連翹忌ということで、鮮やかな黄色のお召し物。さすがです。なぜかシャンソン歌手・モンデンモモさんとのツーショット。
 
続いて、吉川久子様によるフルート演奏。吉川様は昨年、横浜で「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」という演奏会を開かれました。今回はそのダイジェスト版をお願いしました。
 
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伴奏は海老原真二さん、三浦肇さん。
 
演奏だけでなく、朗読、さらに光太郎智恵子に対する思いのトークも入り、皆さん、聴き入っていました。
 
その後、時間の許す限り、いろいろな方にスピーチをいただきました。
 
昨年の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」関係で、愛知碧南市藤井達吉現代美術館長・木本文平様。
 
昨秋、同館で記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」をなさった、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏。
 
美術館つながりで、信州安曇野碌山美術館・五十嵐久雄理事。
 
昨秋、光太郎も関わる「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催された山梨県立文学館長・三枝昻之氏。
 
光太郎と交流のあった詩人、野澤一関連の書籍『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』を編集なされた坂脇秀治様。
 
与謝野晶子研究の第一人者、逸見久美先生。逸見先生は、昨年の連翹忌にご参加の予定でしたが、その当日に急遽御入院。その後、恢復なされ、一年越しのご参加でした。
 
さらに花巻高村記念会の高橋卓也氏、光太郎の血縁・山端通和様加寿子様御夫妻、詩人の間島康子様、福島二本松智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さん、同じく福島川内村草野心平記念館長・晒名昇氏……。
 
スピーチの中に、いろいろ新しい情報もあり、追ってご紹介します。
 
本当はもっとたくさんの方にスピーチを頂きたかったのですが、そうもいかず、残念でした。
 
また、荷物運び、資料の袋詰め、受付、物品販売等で、たくさんの方々にお手伝いいただき、非常に助かりました。
 
泉下の光太郎も、きっと喜んでくれたことと思います。
 
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また、昨日は花巻松庵寺でも花巻としての連翹忌が開催されています。そちらも情報が入り次第、ご紹介します。
 
とにもかくにも、皆様、ありがとうございました。003
 
来年以降も連翹忌の集いは続けられるだけ続けます。新たな方々のご参加もお待ちしております。よろしくお願い申し上げます。
 
また、当会名簿に記載されている方で、昨日ご欠席の方には、配付資料を後ほど郵送します。お待ち下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月3日

昭和59年(1984)の今日、近藤富枝著『愛 一通の手紙 炎の作家15人の愛の書簡集』が刊行されました。
 
版元は主婦の友社。「高村光太郎と妻・智恵子――芸術家の妻の幸と不幸」で光太郎智恵子にふれています。

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