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昨日は、東京本郷にて、当会顧問にして光太郎研究の第一人者・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。

主催は北川先生が高校の先生をなさっていた頃の教え子の皆さんである北斗会さん、会場は東大正門前のフォーレスト本郷さん。北斗会さんが北川先生がらみの会をもたれる時は、いつもこちらです。

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おいしい料理を戴きながら、歓談のひととき。

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皆さん、戦後すぐの頃の教え子の方々ですので、70代、80代という方々が中心です。ご卒業後、数十年経ってもこうして先生のために集まられるというのが素晴らしいところです。北川先生ご自身は、今年91歳になられます。

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この会に参加すると、先生からは年賀状が届かず、この会で渡されます。

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視よ聴け喋れ さるのとし 反三猿老人

最初のご挨拶の中で、ご解説がありました。「戦前のような時代に戻りつつある今、さらに国際的にも激動の時代、「見ざる聞かざる言わざる」では駄目で、こういう時代こそ、しっかりと視て聴いて喋ることが大事なのだ」というメッセージだそうです。その通りですね。終戦時には予科練生を率いる四国の部隊の下士官で、明日をも知れぬ毎日を送られたというご経験から絞り出されるお言葉は、重みが違います。

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さらに、昨年、先生のご著書『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』を刊行された文治堂書店さんのPR誌、『トンボ』をいただきました。

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巻頭言が北川先生の手になります。

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こちらは版元の文治堂さんから戴いた年賀状。近刊予告が出ています。

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夏にはまた北川先生のご著書を刊行予定だそうで、今から楽しみです。

いつまでもこの会が続くことを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

門人ら我ら相寄り先生の齢(よはひ)と言へる不可思議を見る
大正12年(1923) 光太郎41歳

〔与謝野寛五十歳の賀に〕の詞書きがあります。4月1日発行の第二次『明星』第3巻第4号に掲載されました。

この年の鉄幹の誕生日である2月26日、帝国ホテルの大広間で百余名が集っての祝賀晩餐会が開催され、発起人一同を代表して光太郎が祝辞を述べました。

光太郎が鉄幹の新詩社に出入りし始めたのは明治33年(1900)。何十年経っても、ともに青年だったその頃の印象が強く、「先生の齢(よはひ)と言へる不可思議」なのでしょう。

70代、80代の北斗会の皆さんも、90歳の北川先生を前に、こういう感覚なのではないでしょうか。

昨秋、ご逝去された原節子さん。追悼特集的な取り組みがいろいろと行われています。

そうした中で、昭和32年(1957)、原さんが智恵子役を演じた熊谷久虎監督による東宝映画「智恵子抄」の上映があります。2件、情報を得ています 

銀幕に輝きつづける、永遠のヒロイン 追悼 原節子

池袋新文芸坐 東京都豊島区東池袋1-43-5 マルハン池袋ビル3F

◆一般1300円 ◆学生1200円 ◆友の会1050円 ◆シニア・障がい者・小学生以下(3歳以上)1050円
◆ラスト1本850円

1/17(日) 東京暮色(1957/松竹/140分)/18:00東京物語(1953/松竹/136分)
18(月)   美しき母(1955/東宝/98分)/巨人傳(1938/東宝/127分)
19(火)   安城家の舞踏会(1947/松竹/89分)/誘惑(1948/松竹/85分)
20(水)   青い山脈(1949/東宝/91分)/続・青い山脈(1949/東宝/91分)
21(木)   白雪先生と子供たち(1952/KADOKAWA/89分)/白痴(1951/松竹/167分)
22(金)   河内山宗俊(1936/日活/82分)/新しき土〈日独版〉(1937/T&Kテレフィルム/106分)
23(土)   山の音(1954/東宝/95分)/めし(1951/東宝/97分)
24(日)   小早川家の秋(1961/東宝/103分)/秋日和(1960/松竹/129分)
25(月)   路傍の石(1960/東宝/104分)/智惠子抄(1957/東宝/98分)
       9:40/13:25/17:10/20:55終映22:35
26(火)   慕情の人(1961/東宝/96分)/愛情の決算(1956/東宝/112分)
27(水)   女ごころ(1959/東宝/95分)/(1958/東宝/101分)
28(木)   大番(1957/東宝/117分)/ふんどし医者(1960/東宝/115分)
29(金)   娘・妻・母(1960/東宝/123分)/驟雨(1956/東宝/90分)
30(土)   晩春(1949/松竹/108分)/麦秋(1951/松竹/126分)

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日本映画傑作選

川崎市市民ミュージアム 神奈川県川崎市中原区等々力1-2(等々力緑地内)

2016年01月26日 10:30-/14:00

「智恵子抄」 原作:高村光太郎 監督:熊谷久虎  昭和32年 モノクロ

入場無料



他にも上映の情報がありましたら、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【折々の歌と句・光太郎】

はこべらを朝のさ粥に摘みいれてわが初春の乏しともなし  制作時期不詳

「はこべら」は「はこべ」。春の七草の一つですね。七草すべてとはいかなくとも、みずみずしいはこべを摘み入れれば、お粥もプチ贅沢になり、自分の生活も決して悲観するほどひどくはないよ、というところでしょうか。

いつ作られた歌か不明ですが、昭和23年(1948)に刊行された歌集『白斧』に収録されています。おそらくその頃の、花巻郊外太田村に移ってからの作品ではないでしょうか。

雑誌新刊情報です。 

『男の隠れ家』 2016年2月号

株式会社三栄書房 2015.12.26発売 特別定価730円

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特集「文豪の描いた世界へ 名作の舞台を往く」の中に、「高村光太郎『智恵子抄』を往く 智恵子生家(福島県・二本松市)」があります。


他のラインナップは以下の通り。

故郷への思いを捨てきれなかった「太宰治」 太宰治『津軽』を往く(青森県・津軽半島)
自身の体験を投影した「川端康成」の自伝的小説 川端康成『伊豆の踊子』を往く(静岡県・伊豆半島)
果てなき故郷への「島崎藤村」の眼差し 島崎藤村『夜明け前』を往く(岐阜県・馬籠宿)12人の子供たちへの「壺井栄」の想い 壺井栄『二十四の瞳』を往く(香川県・小豆島)
懸命に生きた若者の群像を描いた「司馬遼太郎」 司馬遼太郎『坂の上の雲』を往く(愛媛県・松山市)
作品を制作することへの「夏目漱石」の想い 夏目漱石『草枕』を往く(熊本県・熊本市~玉名市)

三島由紀夫『潮騒』を往く 神島(三重県・鳥羽市)
志賀直哉『城の崎にて』を往く 城崎温泉(兵庫県・豊岡市)
伊藤左千夫『野菊の墓』を往く 矢切(千葉県・松戸市)
三浦綾子『氷点』を往く 見本林(北海道・旭川市)
織田作之助『夫婦善哉』を往く 法善寺 夫婦善哉(大阪府・大阪市)

永井荷風が愛した浅草を食べ歩く 
雑司ヶ谷・染井霊園で文豪のお墓参り


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太宰から漱石までは扱いが大きく、各8頁。三島、志賀直哉が各1頁。光太郎を含め、伊藤左千夫から織田作之助までは各半頁。光太郎の扱いが小さいなとは思いますが、まあ、こういうこともあるでしょう。

智恵子の故郷・二本松の智恵子生家/智恵子記念館を取り上げて下さっています。

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それから、「雑司ヶ谷・染井霊園で文豪のお墓参り」の項で、染井霊園の高村家墓所が紹介されています。

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2月号の扱いですが、発売は昨年暮れ。現在も店頭に並んでいます。ぜひお買い求めを。


昨日のこのブログでご紹介した、NHKさんで放映された新春スペシャルドラマ「富士ファミリー」。劇中に「光太郎」が出て来ましたが、高村光太郎とは直接の関係はありませんでした……。すみません。

こちらは確実に高村光太郎・智恵子にからむドラマの放映です。 

浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎

BSフジ 2016年1月 6日(水)12:00~13:57

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。
光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!

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初回放送はもともとは平成18年(2006)。年に1~2回、再放送されています。岩手花巻の、現在は使用されていない、元の高村記念館(ただしドラマでは花巻という設定ではありませんが)、福島二本松の智恵子の生家・智恵子記念館などでロケが行われました。

ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

うつぶきてわれうなづかむえにしありそのかきぞめのこころを問ふな

明治34年(1901) 光太郎19歳

与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社に出入りしていた頃の作品です。この頃の作には、鉄幹の添削がかなり入っているそうですし、内容的にも架空の恋を謳ったものなども多いのですが、とりあえず。

戦後、花巻郊外太田村の山小屋に移ってからの光太郎は、毎年1月2日に書き初めをする習慣があったことがはっきりしていますが、おそらく若い頃からそうだったのではないかとは思われます。

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東京調布市の武者小路実篤記念館さんから、図録を戴いてしまいました。現在開催中の特別展「我が家の実篤作品展」のものです。 

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調布市制施行60周年・武者小路実篤記念館開館30周年・武者小路実篤生誕130周年記念特別展 「我が家の実篤作品展」第2部

会 期 : 2015年12月12日 ~ 2016年1月24日 
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1-8-30
時 間 : 午前9時から午後5時 
休館日 : 月曜日(祝日のときはその翌日) 年末年始(12月29日から1月3日)
料 金 : 大人 200円   小・中学生 100円

武者小路実篤の絵や書は、独特の暖かい作風と味わい深い言葉で、広く親しまれています。
実は、武者小路実篤の作品は、その多くが美術館などではなく、個人のお手元で大切にされてきました。
実篤は昭和4 年以来毎年のように個展を開き、また、自らが主宰創刊した雑誌『心』では、実篤を含む同人の書画の即売会で発行資金を捻出していたため、こうした機会に作品を求めた方も多くいらっしゃいます。
転居の多かった実篤は、絵に本格的に取り組んだ昭和初期以降でも、小岩・落合・成城・吉祥寺・三鷹牟礼と、あちこち移り住みましたが、その時々に近隣で親しくなった方や世話になったお店に作品を差し上げています。また学校などにたのまれると気軽に筆を執りました。
講演などで各地へ旅することも多く、旅先で請われて原稿や書画をかくことも珍しくありませんでした。また、実篤は筆まめで、手紙も多く書いています。
調布市仙川に移り住んでからは、地元の自治会やお店に作品を差し上げたほか、調布市の福祉祭の景品として毎年色紙を提供していたといい、調布市民にはくじ引きであたってお持ちの方がいらっしゃるとお聞きしています。
こうして個人のお手元に届いた作品には、所蔵者の想い出があり、またそれぞれの家族と共に歴史を刻み、様々な逸話を持っています。
本年、武者小路実篤生誕130 年、調布市武者小路実篤記念館開館30 周年を迎えるのを機会に、これまでわからなかった個人でご所蔵の作品について、情報を収集することといたしました。
武者小路実篤の自筆作品・資料をお持ちの方は、ぜひ情報をお寄せください。
また、この調査の結果を踏まえ、地元調布市近隣でご所蔵の作品を中心に、許可をいただいた作品について、12 月12 日から開催予定の特別展「我が家の実篤作品展」第二部で展示することを企画しています。
普段ご家庭で秘蔵され、所蔵者以外は見ることの出来ない作品を、作品に秘められたエピソードとともに、ご覧いただきたいと存じます。


同じ白樺派ということで、武者と親交のあった光太郎も、武者の作品を手元に置いていました。

今回、そのものは展示されませんが、写真での展示があるようです。いただいた図録に掲載されています。

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また、図録には光太郎も写った集合写真が2葉。

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このあたりは「芸術家たちが愛した実篤作品」というコーナーで、各地の文学館や美術館、著作権継承者の皆さんなどの協力により集められた中のものです。ちなみに「芸術家たち」、例えば志賀直哉、柳宗悦、岸田劉生、芥川龍之介、林芙美子、六代目市川歌右衛門、棟方志功などなど。

もちろん写真より実篤作品が中心です。上記図録表紙は新宿区立林芙美子記念館内部に復元された林芙美子邸の客間だそうです。かけられている武者の絵はレプリカで、本物が今回借りられて展示されているようです。

その他、一般の方から提供を受けた実篤の書画もずらり。


こうした企画の開催、なかなか大変だとは思いますが、美術館、文学館の企画展の新しい形として、一石を投じたような気がします。

光太郎の書なども、各地の文学館、美術館に納まっているはずですし、そしてやはり個人のお宅にはまだまだ未知のものも眠っていそうです。「我が家の光太郎作品展」もありかな、と夢想します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月20日

昭和11年(1936)の今日、初めて結核による喀血の症状を起こしました。

2年後に亡くなる智恵子と、おそらく同根の結核。この後、約20年間の付き合いとなります。

東京日比谷から学会情報です。 

第9回明星研究会<シンポジウム>秋の日のヴィオロンの~翻訳詩、あたらしき言葉の輝き

 近代の詩歌は、西洋詩の翻訳から多くの栄養を吸収してきました。わけても上田敏の翻訳詩集『海潮音』(1905年)と象徴主義の紹介は、詩人歌人に大きな影響を与えています。カール・ブッセ、マラルメ、ボードレール、ヴェルレーヌといった詩人の詩は、のちに多くの日本人の心にも植え付けられ、「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」の、ヴェルレーヌの詩「落葉(秋の日)」は殊に有名です。
 『海潮音』に先んじる森鴎外を中心とする『於母影』(1889年)、フランス新進詩人に挑んだ与謝野寛の『リラの花』(1914年)、そして寛主宰の雑誌「明星」から出発した北原白秋や木下杢太郎も、さまざまな形で影響を受けたのでした。その周辺にあった永井荷風、高村光太郎、堀口大学も忘れることはできません。
 翻訳詩に西欧の香りと美を見出し、想いを傾けた100年前の詩人たちについて、今あらためて考えてみたいと思います。
 多くのご参加を心待ちにしております。
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●日時● 2015年11月29(日)13時30分~16時40分 (13時 開場)
●場所● 日比谷コンベンションホール
    (千代田区日比谷公園1番4号【旧・都立日比谷図書館B1】
       (このサイトの下にある地図を参照してください)
●会費● 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)●定員● 200人
●内容●
Ⅰ 13:30  開会挨拶  西川 恵(毎日新聞社客員編集委員)
Ⅱ 13:30 ~14:20
    第1部 講演「ボードレールと日本の近代詩」 酒井 健(法政大学教授)
Ⅲ 14:20 ~14:40 休憩
Ⅳ 14:40 ~16:40
    第2部 ミニ講演&パネルディスカッション
    「翻訳詩、あたらしき言葉の輝き~鴎外・寛・白秋・杢太郎」
     坂井修一(歌人・「かりん」編集人)  渡 英子(歌人)
     丸井重孝(歌人・伊東市立木下杢太郎記念館) 酒井 健
     司会:松平盟子(歌人)
Ⅴ 16:40 閉会挨拶 平出 洸(平出修研究会主宰)
                      総合司会:古谷 円
●申し込み●「明星研究会」事務局あて。
 ネット上での受付は11月27日(金)まで(先着順)。
 宛先メールアドレスはapply@myojo-k.net です。
 申し込みの送信をされる際には、
  (イ)上記アドレスの(at)を半角の @ に変えてください。
  (ロ)メールの件名は、「明星研究会申し込み」とご記入いただき、
  (ハ)メールの本文に、お名前と連絡先住所、電話番号をご記入ください。
  (二)ご家族同伴の場合はご本人を含めた全体の人数も添えてください。
 なお、当日は空席次第で会場でも直接受け付けます。
●終了後懇親会●4,000円程度(場所は当日お知らせいたします)
<主催> 明星研究会 http://www.myojo-k.net/ <世話人> 平出 洸
<協力>
伊東市立木下杢太郎記念館・国際啄木学会・堺市:文化学院・与謝野晶子倶楽部


昨年の同会は「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・・光太郎」と題し、第二部が鼎談「パリの果実は甘かったか?~晶子・荷風・光太郎」ということで、光太郎が前面に押し出されていました。ただ、当方は同じ日に第59回高村光太郎研究会があり、参加できませんでした。

今年は光太郎の名はサブタイトルに入っていませんが、「永井荷風、高村光太郎、堀口大学も忘れることはできません。」とあるので、少しは触れていただけるのかな、と思っております。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月19日

平成2年(1990)の今日、岡山県の衛生会館三木記念ホールで、「野崎幹子ソプラノリサイタル」が開催されました。

別宮貞雄作曲「歌曲集「智恵子抄」より」から抜粋で、「人に」、「あどけない話」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「レモン哀歌」が演奏されました。

のち、ライブ録音のCDもリリースされました。

8日の日曜日に福島大学さんなどの主催で開催されたシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで-福島の復興と地方創生-」について、報道が為されていますのでご紹介します。

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復興担い手増やす 福島大・医大シンポ、小泉進次郎氏ら意見

 福島大と福島医大は8日、東京都内でシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで―福島の復興と地方創生」を開いた。前復興政務官で「ふたばの教育復興応援団」を務める小泉進次郎氏、コピーライター糸井重里氏、福島大特任研究員の開沼博氏による鼎談(ていだん)では被災地支援について「関わりたくてもできなかった人が、復興に参加できる仕組みが重要」との考えで一致した。 
 
 震災と原発事故からの復興の課題などに理解を深めてもらおうと両大が合同で企画、約300人が来場した。小泉氏は「さまざまな立場の人をどう復興に巻き込んでいけるかを意識した。特に企業に協力を呼び掛けた」と述べ、政治家や行政などのほか、幅広い支援の必要性を指摘した。
 また糸井氏は本県復興について「全員が完全にやり遂げるのは無理。それぞれの立場の人が自分の守備範囲で、無理のない範囲で関われるような仕組みが必要」と述べた。
 中井勝己福島大学長、大戸斉福島医大副理事長が主催者を代表してあいさつ。中田スウラ福島大うつくしまふくしま未来支援センター長と谷川攻一福島医大副学長が両大の震災、原発事故後の取り組みを報告した。
(『福島民友』 2015年11月10日) 
 

都内で福大、福医大合同シンポ 糸井氏研究の中心地に 小泉氏人生懸け取り組む

 福島大と福島医大の東京シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで-福島の復興と地方創生」は8日、東京都千代田区の一橋大で開かれた。衆院議員の小泉進次郎氏とコピーライターの糸井重里氏、福島大うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員の開沼博氏による鼎談(ていだん)では、小泉氏が「人生を懸けて(東京電力福島第一原発の)廃炉まで取り組む」と決意を語った。
 東日本大震災後、福島大が県外で復興シンポジウムを開くのは4回目で、福島医大との合同開催は初めて。約300人が来場した。
 鼎談で小泉氏は、広野町のふたば未来学園高の開校を振り返り、「(双葉郡の)教育に携わったというのは一過性のつながりだけでは済まない。廃炉まで50年かかるとしても自分の人生を懸けて取り組む」と述べた。
 さらに「福島大は東北の大学で唯一農学部がない。党農林部会長として力を尽くせるところだ」と述べ、福島大の農学部新設に意欲を示した。
 糸井氏は福島第一原発の廃炉は世界の最先端の取り組みだと強調し、「福島は廃炉研究の中心地になる。ぜひ若い学生に働いてほしい」と呼び掛けた。
 福島大うつくしまふくしま未来支援センターの中田スウラ・センター長による活動報告や、本県の復興をテーマにしたパネルディスカッションもあった。
 会場では、福島大の学生が福島市で収穫した新米も販売され、来場者の人気を集めた。
(『福島民報』 2015年11月10日)  

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福島の復興 東京で考える

◆小泉進次郎氏ら鼎談など
 福島の復興を考えるシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」(福島大、県立医大主催、読売新聞社など後援)が8日、東京都千代田区の一橋大「一橋講堂」で開かれ、大学関係者や被災者ら約300人が参加した。
 鼎談は、前復興政務官の小泉進次郎氏とコピーライターの糸井重里氏、福島大特任研究員の開沼博氏が福島の復興や福島との関わり方について議論した。
 糸井氏は、東京電力福島第一原発事故後、現地でロボットなど廃炉に関する最先端の新事業が始まったことを例に挙げ、「ピンチを経験しないとチャンスは捕まえられない。これは福島全体の問題に応用できるのでは」と指摘。小泉氏は被災地支援について、「被災地での取り組みを笑顔で前向きに発信してくれる人の参加が大切だ。始めやすいところから多くの人に始めてほしい」と語った。
 大学、企業関係者らのパネルディスカッションでは、多分野の連携や社会人教育、県外関係者の活用などの重要性が指摘された。
(『読売新聞』 福島版 2015年11月10日)  
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かけ声だけで終わることのないようにしていただき000たいものですね。


当方、明後日に「智恵子講座’15」及び「第61回 二本松の菊人形」のため、二本松に行って、「ほんとの空」を見て参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月13日

昭和27年(1952)の今日、日比谷公会堂でフランスの詩人、ジョルジュ・デュアメルの講演を聴きました。

デュアメル(1884~1966)は、ユマニストとして知られる詩人。義兄にあたるシャルル・ヴィルドラックも詩人で、大正15年(1926)に来日した際、光太郎もその歓迎会に出席しています。

来日中のデュアメルは、尾崎喜八の案内で鎌倉を散策したり、翌月には広島を訪問したりしました。

この日の講演で、光太郎はかつて「ロマンロラン友の会」で共に活動していた片山敏彦、今井武夫らと再会しています。

文京区大塚にて、「第60回高村光太郎研究会」が開催されます。 

第60回高村光太郎研究会

日 時  2015年11月21日(土)
時 間  午後2時~5時 
場 所  アカデミー音羽 文京区大塚5-40-15 東京メトロ有楽町線護国寺駅から徒歩2分

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参加費  500円
 
<研究発表>
「高村光太郎の戦争詩――『詩歌翼賛』を中心に――」
  佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏
「「画家アンリ・マティス」高村光太郎訳」     西浦基氏

研究発表会後、懇親会あり

この会は昭和38年(1963)に、光太郎と親交のあった詩人の故・風間光作氏が始めた「高村光太郎詩の会」を前身とします。その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏。当方も会員に名を連ねさせていだたいています。
 
ほぼ毎年、この世界の第一人者、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生もご参加下さっていて、貴重なお話を聞ける良い機会です。しかし、そのわりに、参加者が少なく、淋しい限りです。

特に事前の参加申し込み等は必要ありません。直接会場にいらしていただければ結構です。ぜひ足をお運び下さい。
 
研究会に入会せず、発表のみ聴くことも可能です。会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
ご質問等あれば、はこちらまで。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月8日

昭和27年(1952)の今日、実弟で藤岡家に養子に行った孟彦の要請により、茨城県友部町の鯉淵学園で講演を行いました。

この時の筆録は翌年の『農業茨城』という雑誌に掲載されました。

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昨日に引き続き、福島ネタです。

シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで-福島の復興と地方創生-」

日 時 : 2015年11月8日(日) 13:00~17:30
会 場 : 一橋大学一橋講堂(東京都千代田区一ツ橋2-1-2 学術総合センター内)
参加費 : 無料

 象 : 一般市民、大学関係者、学生、行政職員、福島県から避難している方 他
主   催 : 国立大学法人福島大学、公立大学法人福島県立医科大学
後   援
 : 文部科学省 復興庁 福島県 双葉地方町村会 公益社団法人経済同友会 福島民友新聞社
      日本放送協会福島支局 福島テレビ 福島中央テレビ 福島放送 テレビユー福島
      ラジオ福島 ふくしまFM 朝日新聞 讀賣新聞 毎日新聞 日本経済新聞 福島民報社
協 力 : 国立大学法人一橋大学、伊藤園

【プログラム】
Ⅰ部 特別鼎談 「未来を拓く開拓者たち~復興と人づくり・地域づくり~」
  登壇者
   小泉進次郎氏 衆議院議員・ふたばの教育復興応援団
   糸井重里氏  ほぼ日刊イトイ新聞主宰
   開沼 博   FURE特任研究員
Ⅱ部 福島の現状報告
   報告者
    うつくしまふくしま未来支援センター活動報告  中田スウラ FUREセンター長
    福島県立医科大学報告  谷川攻一 福島県立医科大学副学長
    FURE食・農復興支援担当報告  小山良太 FURE副センター長
    FURE放射能汚染対策担当報告  塚田祥文   FURE部門長
Ⅲ部 パネルディスカッション 「福島の復興と地方創生」
    モデレーター  
      山川充夫氏 帝京大学教授(福島大学名誉教授)
    パネリスト
      清水潔氏  明治大学特任教授・元文部科学事務次官
      齋藤喜章氏  特定非営利活動法人ふくしま飛行協会理事長
      髙島宏平氏  オイシックス株式会社代表取締役社長
      竹之下誠一   福島県立医科大学復興担当理事
      本多環    FUREこども・若者支援部門特任教授
    FURE=福島大学うつくしまふくしま未来支援センターの略
※シンポジウムの妨げになる行為がある場合は、ご退場いただくことがあります。

福島で起きている災害弱者の孤立化、震災関連死等の問題は、今後、少子高齢化社会が激化する中で日本各地に出現する諸問題と共通性を持っている。これまで地方が内包してきた第一次産業の衰退や少子高齢化等の問題は、今後、日本各地で激化する深刻な問題だが、そうした諸問題が、福島では東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故を契機に急速に表面化した。福島の地域復興の現状を把握し復興を進めるとともに、その復興過程で得られる経験(工夫・知恵)を、復興のみならず今後の地方復権・創生につなげ、「復興知・支援知」として活かし発信していくことは重要である。その為に、私たちは大震災・原発事故から何を学び何から始めなければならないのか、市民、学生など参加者にこの課題を提起し探究する。

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3月に京都で行われた同趣旨のシンポジウムは、なかなか参加者が集まらず、締め切りを過ぎても追加募集がかけられていましたが、今回は申し込みが多く、既に募集を停止しています。こういうイベントもあるよ、ということでのご紹介ということでよろしくお願いいたします。


もう1件、昨日、川内村での草野心平を偲ぶ集い「かえる忌」について書いた後、川内村関連で調べていたら、次のような情報を得ました。

「藤村記念歴程賞」に川内村 詩を尊ぶ村民の姿勢評価

 同人詩誌「歴程」は9日、第53回「藤村記念歴程賞」に川内村を選んだ。同賞は年に一度、優れた詩集や文芸評論などに贈られるが、自治体が受賞するのは初めて。同誌は1935(昭和10)年にいわき市出身の詩人草野心平らによって創刊され、現在も年5回発行されている伝統ある同人誌。
  同村では、村内の平伏(へぶす)沼に生息するモリアオガエルをきっかけに、「蛙の詩人」として知られる心平と交流を深めており、心平を顕彰する天山文庫を建設、毎年恒例として「天山祭り」を開催してきた。原発事故後も祭りを続け、今年7月には50回記念の祭りを開くなど、震災に向き合い詩を尊ぶ村民たちの精神が評価された。賞金50万円と「草野心平日記」(全7巻)が村に贈られる。
 選考委員も務めた「歴程」発行人の新藤凉子さんは「めげることなく、全国に勇気や元気、希望を発信した村のありようそのものが詩的で、受賞にふさわしい」と評価。受賞を受け、遠藤雄幸村長は「天山祭りは今年50回を迎え、草野心平さん本人がいなくても祭りを続けたことが評価されたのではないか。名誉ある賞を頂くことができ光栄。あらためて草野心平さんや歴程の皆さんに感謝したい」と喜びを語った。
(2015年10月10日 『福島民友』)

『歴程』の皆さん、なかなか粋な計らいですね。記事中にある第50回天山祭についてはこちら


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月30日

昭和24年(1949)の今日、連作詩「智恵子抄その後」を清書しました

六篇から成る連作詩で、翌年元日発行の雑誌『新女苑』第14巻第1号に発表されました。


  元素智恵子 
000

智恵子はすでに元素にかへった。
わたくしは心霊独存の理を信じない。
智恵子はしかも実存する。
智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火を燃やし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、
わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
精神とは肉体の別の名だ、
わたくしの肉に居る智恵子は、
そのままわたくしの精神の極北。
智恵子はこよなき審判者であり、
うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、
耳に智恵子の声をきくときわたくしは正しい。
智恵子はただ嬉々としてとびはね、
わたくしの全存在をかけめぐる。
元素智恵子は今でもなほ
わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。


001  メトロポオル

智恵子が憧れてゐた深い自然の真只中に
運命の曲折はわたくしを叩きこんだ。
運命は生きた智恵子を都会に殺し、
都会の子であるわたくしをここに置く。
岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、
わたくしを囲んで仮借しない。
虚偽と遊惰とはここの土壌に生存できず、
わたくしは自然のやうに一刻を争ひ、
ただ全裸を投げて前進する。
智恵子は死んでよみがへり、
かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ。
変幻きはまりない宇宙の現象、
転変かぎりない世代の起伏、
それをみんな智恵子がうけとめ、
それをわたくしが触知する。
わたくしの心は賑ひ、
山林孤棲と人のいふ
小さな山小屋の囲炉裏に居て
ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ。


  裸形003

智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造型の瑪瑙質に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子まで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造型を生むことは
自然の定めた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小麦と牛酪とがゆるされる。
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中(そちゆう)に帰らう。


007  案内

三畳あれば寝られますね。
これが水屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のやうに美味。
あの畑が三畝、
いまはキヤベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で、
小屋のまはりは栗と松。
坂を登るとここが見晴し、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでゐる突きあたりの辺が
金華山沖といふことでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん斯ういふところ好きでせう。


  あの頃008

人を信ずることは人を救ふ。
かなり不良性のあつたわたくしを
智恵子は頭から信じてかかつた。
いきなり内懐に飛びこまれて
わたくしは自分の不良性を失つた。
わたくし自身も知らない何ものかが
こんな自分の中にあることを知らされて
わたくしはたじろいだ。
少しめんくらつて立ちなほり、
智恵子のまじめな純粋な
息をもつかない肉薄に
或日はつと気がついた。
わたくしの眼から珍しい涙がながれ、
わたくしはあらためて智恵子に向つた。
智恵子はにこやかにわたくしを迎へ、
その清浄な甘い香りでわたくしを包んだ。
わたくしはその甘美に酔つて一切を忘れた。
わたくしの猛獣性をさへ物ともしない
この天の族なる一女性の不可思議力に
無頼のわたくしは初めて自己の位置を知つた。

009
  吹雪の夜の独白

外では吹雪が荒れくるふ。
かういふ夜には鼠も来ず、
部落は遠くねしづまつて
人つ子ひとり山には居ない。
囲炉裏に大きな根つ子を投じて
みごとな大きな火を燃やす。
六十七年といふ生理の故に
今ではよほどらくだと思ふ。
あの欲情のあるかぎり、
ほんとの為事は苦しいな。
美術といふ為事の奥は
さういふ非情を要求するのだ。
まるでなければ話にならぬし、
よくよく知つて今は無いといふのがいい。
かりに智恵子が今出てきても
大いにはしやいで笑ふだけだろ。
きびしい非情の内側から
あるともなしに匂ふものが
あの神韻といふやつだろ。
老いぼれでは困るがね。

一昨日、本郷での北川太一先生の祝賀会に参加したあと、新宿に向かいました。同日開幕した中村屋サロン美術館さんの戸張孤雁のテーマ展示を観るためです。

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孤雁と荻原守衛は、共にアメリカ留学中の明治34年(1901)に知り合い、双方の帰国後も交流が続いて、いわゆる中村屋サロンの中心メンバーとなりました。したがって、孤雁は光太郎とも交流がありました。光太郎より1歳年長です。

また、孤雁は明治43年(1910)、中村屋さんで守衛の臨終に立ち会いました。そんなわけで、昨年放映されたテレビ東京系の「美の巨人たち 荻原碌山作 女」で、孤雁が扱われました。

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この番組は、作品解説の部分と、作品にまつわるミニドラマ的な部分とが交互に配される構成になっており、この回のミニドラマは守衛歿後の中村屋サロンを舞台にしていました。大浦龍宇一さん演ずる光太郎と及川聡さん扮する孤雁を進行役に、守衛の追想がなされるというものでした。

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さて、中村屋サロン美術館さんに話を戻します。同館では展示室が二つあり、「特別展示」の際には2室ぶちぬきで開催、「テーマ展示」は手前の第1室のみをあて、奥の第2室は「通常展示」という構成です。先だって開催されていた「斎藤与里のまなざし」は「特別展示」、今回は「テーマ展示」でした。

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孤雁の作品は計14点。全て碌山美術館さんの所蔵でした。当方、年に1度は「碌山忌」のため碌山美術館さんを訪れていますが、同館でも常に孤雁作品の全てを展示しているわけではないので、初めて観るものもあり、興味深く拝見しました。

しかし、物足りなさも感じました。彫刻が全て小品だということもあるかもしれません。自画像などの絵画の方には感心しましたが……。このあたり、守衛、光太郎と比較しての現代における知名度と関わるような気がしました。

帰ってから、光太郎の孤雁評を改めて調べてみました。すると、交流が深かったにもかかわらず、かなり手厳しい見方もしていました。

戸張孤雁氏は際立つてロマンティツクだ。氏の内面的視野は常にその色を帯びてゐる。去年の文展の「力の弛んだ人」今年の「犠牲者」の如きは明白に其を語つてゐるが、「女の胴」のやうなものにも作者の見方、作者の意志の働き方に於て其の傾向を観取し得る。氏は人の顔がただ人の顔では気が済まない。その顔が或るロマンティツクな背景を持つてゐる事を好む。そして制作の動機が隠約の間に其処から起る。ロマンティツクである事自体には何の言ふべき事もない。唯其が芸術上に気質となつて動き始め、其の一種の好尚が自然に向ふ氏の眼を極限し、専ら其の気分の表現にのみ腐心してゆく様になる所に僕と相容れない点がある。戸張氏は僕の敬愛してゐる故荻原守衛氏と略同系に属すべき人でありながら、此の一点で離れてゐる。此は氏の生来か。それとも氏が暫く挿絵画家をしてゐた名残か。其の何れなるかは僕にもまだ解らない。氏の「犠牲者」が僕にもの足りなく感じさせ、十分やる可き処までやらなかつたと思はせるのは以上の様な理由があるのだらう。
(「彫刻に就て」 大正3年=1914)

ここで光太郎が「ロマンティツク」と言っているのは、言い換えれば彫刻の「物語性」でしょうか。明治末、留学前の光太郎も「物語性」あふれる彫刻を作っていました。軽業師の親方に折檻されて泣く玉乗りの少女とそれをかばう兄(「薄命児」 明治38年=1905)、経巻を投げ捨てて憤然として立つ日蓮(「獅子吼」 同35年=1902)など。

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ところがロダンを知ってからの光太郎は、こういう「物語性」を極力排除し、純粋に対象の造型性を追う彫刻に転じます。

細かな部分は忘れていましたが、こうした孤雁評が頭の片隅に残っていたためか、当方も物足りなさを感じてしまいました。

今回は「テーマ展示」ですので、奥の第2室は「通常展示」。ここの目玉でもある守衛の「女」、光太郎の油彩「自画像」などが展示されています。また、特に興味深く拝見したのは布施信太郎の手になる中村屋さんの包装紙とその原画。春夏秋冬、それぞれ郷愁をそそる絵柄ですし、亡くなった母方の祖父がよく中村屋さんの月餅や「碌山」をお土産に買ってきてくれたことを思い出しました。


現在の展示は来年1月11日(月・祝)までです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月19日

昭和2年(1927)の今日、光太郎の実弟にして後に鋳金の人間国宝となる豊周の第八回帝展特選が報じられました。

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上記は『朝日新聞』。文中に「夫人智恵子さん」とあるのは誤りで、豊周の妻は美和子でした。

この記事を見つけた際、智恵子の談話が新聞に掲載されているのは非常に珍しい、と喜んだのですが、よく読んだら記者の勘違いでした。

今でこそ「智恵子抄」のヒロインとして有名な智恵子ですが、『青鞜』からも離れ、この当時は単なる一般人だったわけで、こういう間違いもしかたがなかったかもしれません。

演劇の公演情報です。 
期  日 : 2015/10/29(木) ~ 2015/10/31(土) 
会  場 : 「劇」小劇場 東京都世田谷区北沢2-6-6
出  演 : 田辺誠二 新宮あかり 山田零 篠崎旗江 松本力 河村啓史 金崎敬江 日野加奈愛 他
脚  本 : 平田オリザ(劇団青年団)
演  出 : 川口典成
料  金 : 前売3,000円  当日3,300円

 タイムテーブル :
 10月29日(木)19:00 10月30日(金)15:00/19:00
 10月31日(日)13:00

 説  明 :
J-Theater日本人作家シリーズ 2015年秋
 第一弾は、劇団青年団主催で劇作家・演出家の平田オリザさんの『暗愚小傳』を送ります!
 高村光太郎と智恵子の生活を素材に、変わりえぬ日常を縦軸に、文学者の戦争協力の問題を横軸に、詩人の守ろうとしたものを独特の作劇で淡々と描く・・・。
 (青年団HPより)
 
チケットのご予約はJ-Theater事務局まで info.jheater@gmail.com
公演日時/お名前(漢字+カナ)/ 枚数をご明記のうえ、お申し込みください。

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演目は平田オリザ氏作「暗愚小伝」。光太郎を主人公とした演劇で、初演は昭和59年(1984)。その後、平田氏率いる劇団・青年団さんによって何度か再演され、昨年から今年にかけても公演がありました。

今回演じるのはは青年団さんではないようです。「ドナルカ・パッカーン」というのが劇団名なのだと思いますが、よくわかりません。

詳細な情報をご存じの方は、こちらまでお知らせいただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月16日

昭和4年(1929)の今日、友人達と赤城山に登りました。

同行者は高田博厚、岩瀬正雄、岡本潤、草野心平、逸見猶吉、横地正次郎でした。

新宿の中村屋サロン美術館さんから、来週末から始まるテーマ展示のお知らせ及び招待券等を戴きました。光太郎とも親交があった彫刻家、戸張孤雁がメインです。 

テーマ展示 戸張孤雁

会 期 : 2015年10月17日(土)~2016年1月11日(月・祝)
会 場 : 中村屋サロン美術館 展示室2
 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 : 毎週火曜日(火曜が祝祭日の場合は開館、翌日休館)
入館料 : 300円 ※入館料は展示室1と併せた料金です 
         ※高校生以下無料(高校生は学生証をご呈示ください) 
         ※障害者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料

明治末から昭和初期にかけて新宿中村屋に集った芸術家のうち、戸張孤雁を紹介します。 戸張は初期「中村屋サロン」の中心的存在でした。 留学し油彩画と挿絵を学びますが、明治43年に彫刻家 荻原守衛(碌山)が亡くなった後は、その粘土を貰い、彫刻家に転身しました。 本展示では碌山美術館にご協力いただき、多才な戸張の、情感溢れる油彩画、版画、素描、彫刻を紹介いたします。


関連イベント ギャラリートーク 学芸員による展示解説
期  日 : 2015年11月28日(土)14:00~ 約50分
費  用 : 無料(要入館)
参加方法 : 参加ご希望の方は、メールまたはお電話にてご応募ください。
 メールでご応募の方は、メールの件名を「ギャラリートーク」とし、①氏名②電話番号③参加人数(2名まで)④参加希望日 をご入力のうえ、ご送信ください。当館職員よりメールまたはお電話にて受付と詳細のご連絡をいたします。
当館連絡先03-5362-7508 メール
museum@nakamuraya.co.jp

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同館は、年2回程度「特別展示」を000行い、それ以外の期間は「通常展示」プラス「テーマ展示」という構成になっています。先頃行われた「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」は「特別展示」。「特別展示」は館内のほとんどのスペースをそれに当てるため、普段「通常展示」で並んでいる作品のほとんどは引っ込みます。

今回の戸張孤雁は「テーマ展示」ですので、館内の半分程のスペースで、残りのスペースが「通常展示となります。今回の「通常展示」は既に先週から始まっています。そして、「斎藤与里のまなざし」の際には引っ込められていた光太郎の油絵「自画像」が復帰しています。

他に、館の目玉作品である荻原守衛の「女」、「坑夫」、中村屋サロンの中心にいた中村彝、鶴田吾郎、會津八一の作品も並んでいます。

さらに今回は、布施信太郎による中村屋さんの包装紙原画なども並んでいるそうです。

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ブログに書くネタのない時には、ここで終わって翌日に回すところですが、芸術の秋、文化の秋ということで、紹介すべき事柄がたまっており(「××について書いてないぞ」的なお叱りを受けたりもしています。少々お待ち下さい)、中村屋さんがらみの内容をさらに続けます。

中村屋サロン美術館さん、今月末に開館1周年を迎えます。そこで記念イベントが3種類設定されています。

〔イベントⅠ〕001
開館記念日に中村屋サロン美術館をご観覧の方全員に、彫刻家 荻原守衛(碌山)《女》をモチーフにしたオリジナル「月餅」等をプレゼント!
※記念品は多数ご用意しておりますが、なくなった場合、通常デザインの「月餅」になりますのでご了承ください 
開催日2015年10月29日(木)

これはレアですね(笑)。

〔イベントⅡ〕
館設置のアンケートで「中村屋サロンにメッセージ」をお寄せいただいた方に、中村彝《小女》のマグネットをプレゼント!
※景品は多数ご用意しておりますが、なくなった場合、別のグッズになりますのでご了承ください
開催日2015年10月29日(木)~11月3日(火・祝)

〔イベントⅢ〕
安曇野バスツアー
碌山美術館で芸術と紅葉を楽しむ安曇野バスツアーを開催いたします。碌山美術館学芸員の解説等、盛り沢山の特典がついたツアーです。詳細は
添付のとおりです。皆様のご参加をお待ちしております!

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碌山美術館さんには、光太郎作品も展示されています。また、現在は「夏季・秋季特別企画展 制作の背景-文覚・デスペア・女- Love is Art Struggle is Beauty」開催中です。このツアーを通じて新たな出会いがあるかも知れませんね(笑)。


というわけで、中村屋サロン美術館さん情報でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月9日

大正7年(1918)の今日、新潟・佐渡島訪問を終え、島を後にしました。

佐渡では歌人の渡辺湖畔の元を訪れています。現在、平塚市美術館さんで開催中の企画展「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく」に展示されている湖畔の娘・道子の肖像制作などに関わります。

昨日は東京晴海に行って参りました。過日ご紹介した「ライフサイクルコンサート 雄大と行く 昼の音楽さんぽ 第3回 小林沙羅 麗しきソプラノの旅」拝聴のためです。ソプラノ歌手・小林沙羅さんのコンサートで、光太郎詩「或る夜のこころ」に曲をつけた作品も演奏されました。

東京もウォーターフロントのあたりは自家用車での移動範囲です。東関東自動車道~高速湾岸線と乗り継ぎ、渋滞にはまりさえしなければ1時間弱。ただ、平日ですと辰巳JCT付近、渋滞がないということがありえない区間です。昨日はそれほど長い渋滞でもなく、比較的スムーズに着きました。

会場は第一生命ホール。晴海アイランドトリトンスクエアという複合ビルの中にあります。


右上がトリトン像。

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まずはドイツ歌曲。シューマンとリヒャルト・シュトラウスの作品から。いきなり圧倒されました。数ヶ月前、とても残念なソプラノ(らしき)独唱を延々と聴かされてしまったことがあり、それがトラウマになっていた部分があったのですが、最初にそれを払拭して下さいました。

ピアノ伴奏は河野紘子さん。フジテレビさんで放映されたドラマ「のだめカンタービレ」で、上野樹里さん扮する主人公・野田恵がピアノを演奏するシーンの手、音の吹き替え、さらに現場でのご指導もなさったそうです。こちらも素晴らしい演奏でした。

途中の休憩はなかったのですが、音楽ライター山野雄大氏によるMCを挟んで、第二部的に「優しき日本~日本歌曲」。ここで中村裕美さん作曲、「「智恵子抄」より「或る夜のこころ」」が演奏されました。

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ピアノの高音のトレモロから始まり、美しいメロディーラインが紡がれて行きます。かと思うと、音程なしの台詞的な部分もあり、歌曲というよりオペラのアリアを彷彿とさせるものでした。

作曲の中村裕美さんはこういう方です。

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光太郎詩「或る夜のこころ」は、大正元年(1912)の『スバル』第4年第9号に、日比谷松本楼さんでの智恵子との1コマを謳った「涙」などとともに掲載されたものです。

    或る夜のこころ

 七月の夜の月は
 見よ、ポプラアの林に熱を病めり
 かすかに漂ふシクラメンの香りは
 言葉なき君が唇にすすり泣けり
 森も、道も、草も、遠き街(ちまた)も
 いはれなきかなしみにもだえて
 ほのかに白き溜息を吐けり
 ならびゆくわかき二人は
 手を取りて黒き土を踏めり
 みえざる魔神はあまき酒を傾け
 地にとどろく終列車のひびきは人の運命をあざわらふに似たり
 魂はしのびやかに痙攣をおこし
 印度更紗の帯はやや汗ばみて
 拝火教徒の忍黙をつづけむとす
 こころよ、こころよ
 わがこころよ、めざめよ
 君がこころよ、めざめよ
 こはなに事を意味するならむ
 断ちがたく、苦しく、のがれまほしく
 又あまく、去りがたく、堪へがたく――
 こころよ、こころよ
 病の床を起き出でよ
 そのアツシシユの仮睡をふりすてよ
 されど眼に見ゆるもの今はみな狂ほしきなり
 七月の夜の月も
 見よ、ポプラアの林に熱を病めり
 やみがたき病よ
 わがこころは温室の草の上
 うつくしき毒蟲の為にさいなまる
 こころよ、こころよ
 ――あはれ何を呼びたまふや
 今は無言の領する夜半なるものを――


文語詩ということもあり、「智恵子抄」がいろいろな二次創作として扱われる場合にも、「レモン哀歌」や「あどけない話」などと比べて、あまり取り上げられることの多くない作品です(数十年前に故・清水脩氏がやはり曲をつけられたことがありましたが)。

ところで、昨日のコンサート、次の曲が伊藤康英氏作曲の「あんこまパン」という曲。サンドイッチ用のパンにバターとあんこ、さらにマヨネーズを塗るので「あんこまパン」だそうで、そのレシピをおもしろおかしく詩にした林望氏の詩に曲をつけたものです。


「「智恵子抄」より「或る夜のこころ」」が終わったところで、小林さん、河野さんが一礼。会場から万雷の拍手。まだ第二部の途中なので、ここ、そういうタイミングじゃないのにな、と不思議に思っていたら、一度お二人が袖に引っ込み、代わりに出て来たのがキャスター付きのテーブルでした。その上にはパン、あんこ、バター、マヨネーズ(笑)。小林さん、詩のとおりの手順で「あんこまパン」を製作しながら歌われていました。さらに完成した後はピアノの河野さんの口元にもってゆき、河野さんが一口がぶり。会場内は爆笑。

こちらのインパクトが強すぎて、「「智恵子抄」より「或る夜のこころ」」が忘れられてしまったのでは、と心配になりました(笑)。

第三部はイタリア系。当方、最初に演奏されたベッリーニの「優雅な月よ」が好きな曲でして、大満足でした。


こうした催しの場合、このブログではいつも同じようなことを書いていますが、こうした取り組みを通し、光太郎智恵子の世界を広めていただけるのは非常にありがたいことです。全国のいろいろな分野の表現者の皆様、ぜひよろしくおねがいいたします(ただ、時折あるのですが、とんちんかんな取り上げ方をされるのは困りものです)。


帰途は高速湾岸線~東関東自動車道、カーラジオを聴きながら、快適なドライブでした。

ラジオといえば、今月5日の智恵子命日「レモンの日」に、TOKYO FMさんが、「レモンの日」にちなみ、「シンクロのシティ」という番組の中の「トウキョウハナコマチ」というコーナーで、やはり「智恵子抄」を取り上げて下さったそうです。事前に情報を把握していなかったので聞きそびれましたが、ネット上に情報がアップされています。

普通のお嫁さんがいやだった!? ある有名カップルの幸せと葛藤

ウーマンリブや、フェミニズム。日本において、「女性解放運動」は明治時代から始まりました。女性も自由に生きる道を選べる。今では当たり前のことですが、当時はとても難しいことでした。男女の立場や関係の変化も激動の時代。そんな時代の、ある有名なひと組の夫婦のエピソードをご紹介します。

明治に生きた女性で解放運動を行っていた人物はたくさんいますが、そのなかの一人「高村智恵子」をご存知でしょうか。そう。高村光太郎の妻であり、画家でもある、あの「智恵子」です。

文学界きってのおしどり夫婦。心から愛し合っていた彼らですが、実際にはほとんどの間「事実婚状態」でした。
籍を入れたのは、彼女が精神を病み統合失調症を発病してから。
これも、高村が万が一の場合に智恵子の生活を保障するため、仕方なく入籍したものでした。

なぜ、二人は事実婚にこだわったのか。
二人の関係を祝福しない人が多かったのも、そのひとつでしょう。
ですが、最も大きい理由は、高村が、世間一般の「結婚」というものを認めていなかったからかもしれません。

あの有名な「智恵子抄」に収められている「人に」という詩の原文には、こんな文があります。
 「いやなんです あなたの往ってしまふのが―― (中略) 小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて (中略) 乳をのませて おしめを干して ああ、何といふ醜悪事でせう」
 
高村は、自由に生きる「新しい時代の女性」であった智恵子を愛しました。
そんな智恵子が結婚をし、家庭に入り、普通の女性として生きることは「醜悪」なことだったのかもしれません。
 二人は男女の新しい形を模索し、そして人生をもってそれを貫きました。
でも、ご存知のとおり、智恵子は心を病み、そのまま亡くなってしまいます。
 
高村光太郎は、こんな言葉を残しています。
 「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」
 彼の傍にいたことにより、智恵子はこのうえない幸せとともに、大きな葛藤を抱えつづけることになったのかもしれません。

 文/岡本清香

TOKYO FM「シンクロのシティ」にて毎日お送りしているコーナー「トウキョウハナコマチ」。江戸から現代まで、東京の土地の歴史にまつわる数々のエピソードをご紹介しています。今回の読み物は、「高村と智恵子、二人の愛の形」として、10月5日に放送しました。


こちらも取り上げて下さってありがたいです。

付け足すなら、現在でもそうらしいのですが、光太郎が留学で滞在したフランスでは、事実婚という形態が珍しくないそうです。光太郎が実際に会ったロダンとローズ・ブーレもそうですし、昨夏亡くなった令甥の髙村規氏は、サルトルとボーヴォワールあたりも意識していたのではないかとおっしゃっていました。

智恵子はこのうえない幸せとともに、大きな葛藤を抱えつづけることになったのかもしれません」、その通りのような気がします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月7日

平成8年(1996)の今日、東京都立川市に光太郎詩「葱」(大正14年=1925)の詩碑が除幕されました。


  葱
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立川の友達から届いた葱は、
長さ二尺の白根を横(よこた)へて
ぐっすりアトリエに寝こんでゐる。
三多摩平野をかけめぐる
風の申し子、冬の精鋭。
俵を敷いた大胆不敵な葱を見ると、
ちきしやう、
造形なんて影がうすいぞ、
友がくれた一束の葱に
俺が感謝するのはその抽象無視だ。


碑が建っているのは現在も続く東京都農事試験場の一角で、日本女子大学校時代からの智恵子の友人だった新潟出身の佐藤スミ(旧姓・旗野)がここの場長夫人でした。スミの名は「智恵子抄」に収められた散文「智恵子の半生」にも現れます。

光太郎智恵子結婚前の大正2年(1913)には、智恵子が新潟のスミの実家に滞在、スキーに興じました。また、その際に光太郎から智恵子に送られた書簡が残っており、一昨年、NHKさんの「探検バクモン「男と女 愛の戦略」で取り上げられました。

過日レポートした平塚市美術館さんの企画展「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」と同じ日に、ノエビア銀座ギャラリーさんで開催中の「山本容子のアーティスト図鑑」を観て参りましたので、レポートします。

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会場のノエビア銀座ギャラリーさんは、銀座7丁目。ノエビアさんの本社ビルの1階にあります。当方、一昨年に開催された田沼武能写真展「アトリエの16人」以来でした。他にも常にいい展示をなさっていて、ご案内も戴くのですが、なかなか光太郎智恵子に関わらない場合には足を向ける余裕がなく、申し訳なく思っています。

今回は版画家山本容子さんの作品展で、日本人アーティストの肖像を描いた版画の蔵書票が展示され、案内葉書には智恵子も載っていたため、拝見しに行って参りました。

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入り口のポスターも案内葉書と同様の版でした。ぜ000ひほしいと思ったのですが、言い出せませんでした(笑)。

蔵書票とは、もともと書物の整理のため、蔵書の見返しに貼るラベルです。昔の愛書家はよく使っていました。それが単なるラベルにとどまらず、次第に意匠を凝らしたデザインのものを自分で作ったり、注文して作ってもらったりするようになり、有名な人物の優れたデザインの蔵書票は、それ自体が売買の対象にもなっています。

展示されていた山本さんの作品、その蔵書票の形をとっているので、それぞれ名刺大よりやや大きいかというくらいです。しかしかえってそのサイズに納まっていることで、愛らしさとでもいいましょうか、そういうものを感じました。

「日本人アーティスト」ということでしたが、32名の肖像が展示されていました。内訳は以下の通り。

泉鏡花 種田山頭火 正岡子規 北原白秋 中原中也 立原道造 金子みすゞ 草野心平 長塚節 室生犀星 堀辰雄 佐藤春夫 幸田文 武者小路実篤 円地文子 野上弥生子 井上靖 石川淳 吉田健一 白洲正子 星新一 山口瞳 藤沢周平 開高健 岸田劉生 梅原龍三郎 片岡球子 北大路魯山人 南方熊楠 古今亭志ん生 そして我らが高村智恵子、さらに驚いたことに光太郎もいました(笑)。

それぞれの作品には、キャプション、というよりそれぞれの人物への思いを書いた、山本さんの文章が添えられていました。ご著書に掲載されたものかもしれません。

智恵子に対しては、

まるで生きているようなハサミたち。両手で耳をおさえてゴマを噛んだ時の音をさせて、布をズリズリと切ってゆくたちばさみ。雀の舌をどうやって切るのかしらと不思議に思った握りばさみ。眉毛や鼻毛の一本のかたさを知ることのできる少し先の丸くそりかえった小さなはさみ。フランス料理では、魚のヒレや尾やホネもジョキジョキと今度は先が左に少しまがった大きなハサミで切ってゆく。まだ使っていないのは手術用のはさみ。切れ味をためしてみたい。でも紙を切ったら、切れ味が悪くなるって叱られたのよ。紙のためにはいいのにね。

となっています。晩年、心を病んで入院した南品川のゼームス坂病院にて、ハサミ一丁だけで千数百枚の紙絵を作った智恵子へのオマージュです。

光太郎には、001

眼には残酷なほどの白さを好み、身体中の穴という穴が一瞬縮こまる凍り付いた空気に喜びを感じ、その厳しさの中、新年が冬に始まる不思議に感謝を述べて、その大きすぎる足で雪や氷を踏みつけて踊る。生きている実感。遠くを見る眼の先には、木片の割れる音、土を押し出す指の圧力、筆の先の絵の具の粘力を透かせながら、純粋な魂に祭り上げた女の裸体をぶらさげる。「光」と彫りぬかれた便所の扉、そこからのぞいた風景だけは、穏やかだった。

見事な一篇の詩になっているような気がします。

ご存じない方のために解説しますと、便所の扉云々は、昭和20年(1945)からの7年間、光太郎が暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隣接する便所(光太郎は「月光殿」と名付けました)の壁に彫られた明かり取りのための「光」一字です。これも考えようによっては、彫刻作品といえるのではないかと思います。

ちなみに山本さんの智恵子肖像は平成14年(2002)、光太郎のそれは同15年(2003)の作品だそうです。

他の作品も、それぞれの人物の特徴をよく捉え、リスペクトの中にもシニカルな見方も感じられたり、ユーモラスなところもあってクスリとさせられたり、なかなか見応えがありました。

10月30日までの開催で、入場無料です。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月26日

明治44年(1911)の今日、『読売新聞』に、散文「画家九里四郎君の渡欧を送る」が掲載されました。

九里四郎は、学習院出身の画家。白樺派の一人として、光太郎とも交流がありました。この年から翌年にかけ、ヨーロッパ留学。それに際して光太郎が書いた一文です。

 物は一見するに如くはないが、一見する甲斐ある人と、甲斐なき人とある事は争はれない。スケツチ帖を厚くしに渡欧する人も多い世の中である。九里君が其の前者に属してゐる事は、其の作品を見ても直ちに解る程凄い所がある。

と、九里に賛辞を送っています。

昨日ご紹介したNHK Eテレさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」同様、当方がちょっとだけお手伝いさせていただいたテレビ番組の情報です。  

グッド!モーニング

テレビ朝日 2015年9月25日(金) 4時55分~8時00分

テレビ・新聞・ネットの情報をまとめてお届け。もっと知りたいニュースをわかりやすく解説。天気や言葉のクイズに答えてプレゼントが当たる。「快適な朝」をお届けします。.

◇番組内容
視聴者に快適な朝をお届けする『グッド!モーニング』。テレビ・新聞・ネットからきょう話題になる情報をキャッチ!わかりやすい解説でニュースをチャージ!「ことば検定」「お天気検定」に参加しプレゼントをゲットしよう。林先生の「金曜言葉塾」で思わず「へぇ」と。Oggiスタイリストによる女子アナ衣装も出勤の参考に。

◇出演者
坪井直樹、松尾由美子、宇賀なつみ、依田司、山本里菜、林修、一色清


グッド!モーニング」はテレビ朝日さんで放映中の朝のニュース・情報番組です。

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その中で、毎週金曜日、「今でしょ」で知られる予備校の東進ハイスクール講師、林修氏による「林修の金曜言葉塾」というコーナーがあります。7時25分過ぎからCMをはさんで10分ちょっとの枠です。下記は今朝のオンエアから。


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おおむね、放映日前後の「○○の日」に合わせ、「○○」に関する文学作品や言葉などについての短い講義を林氏が行う、というコンセプトです。今朝のオンエアでは明日が「苗字の日」だそうで、苗字についてのお話でした。難読苗字、苗字の成り立ち、「姓」「名字」「苗字」の違いなど、「へぇ」と思わせるものでした。

さて、来週25日のオンエアで、光太郎が取り上げられます。

9月25日は、毎年、日比谷公園内のレストラン、日比谷松本楼さんで「10円カレーチャリティー」というイベントを行っています。こちらはユニセフさんとのタイアップで、午前11:00~、松本楼さんの看板メニューの一つであるカレーを先着1,500名に10円で振る舞い、代わりに募金をして貰うというものです。

日比谷松本楼さんといえば、当会の主催、毎年4月2日の光太郎忌日・連翹忌会場です。光太郎ゆかりのお店というわけで、平成11年(1999)から使わせていただいています。

日比谷松本楼さんと光太郎のつながりは、主に二つ。

まずは明治42年(1909)、欧米留学から帰国した年ですが、10月23日に日比谷松本楼さんで開催された「パンの会」大会の発起人に名を連ねています。

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パンの会」はフランスのカフェ芸術運動に倣って始まったもので、文芸誌『スバル』、美術雑誌『方寸』などに依っていた文学者、美術家、さらには演劇界などからも参加者があり、若き芸術家達が大いに気焔をあげた集まりでした。通常の会と、案内状まで発行された大会の二種があり、日比谷松本楼さんでも大会が一度開かれています。


それからもう一点、大正元年(1912)発表の詩「涙」です。

    涙

 世は今、いみじき事に悩み
 人は日比谷に近く夜ごとに集ひ泣けり004
 われら心の底に涙を満たして
 さりげなく笑みかはし
 松本楼の庭前に氷菓を味へば
 人はみな、いみじき事の噂に眉をひそめ
 かすかに耳なれたる鈴の音す
 われら僅かに語り
 痛く、するどく、つよく、是非なき
 夏の夜の氷菓のこころを嘆き
 つめたき銀器をみつめて
 君の小さき扇をわれ奪へり
 君は暗き路傍に立ちてすすり泣き
 われは物言はむとして物言はず
 路ゆく人はわれらを見て
 かのいみじき事に祈りするものとなせり
 あはれ、あはれ
 これもまた或るいみじき歎きの為めなれば
 よしや姿は艶に過ぎたりとも
 人よ、われらが涙をゆるしたまへ

「われら」は結婚前の光太郎と智恵子です。「いみじき事」は明治天皇の危篤。人々が天皇の平癒祈願のため皇居周辺に集まって「涙」を流している中、自分たち二人は自分たちの恋愛問題で「涙」を流している、という構図です。

来週オンエアの「林修の金曜言葉塾」では、この詩が取り上げられます。内容の確認で、少しだけお手伝いをさせていただきました。ただ、ディレクター氏からの文書には「企画段階であり、放送では内容が変更となる場合がございます。」とありました。そうならないことを祈ります。

時折、日比谷松本楼さんがテレビ等で取り上げられる場合に、やはりこの詩が紹介されます。テレビ東京系のBSジャパンさんでは、平成24年(2012)に「小林麻耶の本に会いたい」という番組で、山田五郎さんによるこの詩のレクチャーがありました。

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ちなみに日比谷松本楼さんの「10円カレーチャリティー」、前日から泊まり込みで並ばれる方もいるそうです。このカレーも、もしかすると光太郎智恵子が口にしたかも知れません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月18日

昭和4年(1929)の今日、改造社から『現代日本文学全集 第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』が刊行されました。

光太郎も自選短歌44首を寄せています。

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ノエビア銀座ギャラリーさんから開催案内の葉書を戴きました。今週から始まっている展覧会です。
 期 : 2015 年8 月24 日(月)~10 月30 日(金) 入場無料
 間 : 午前10 時~午後6 時 (土・日・祝日は午後5 時まで)
 場 : ノエビア銀座ギャラリー(ノエビア銀座本社ビル1F 中央区銀座7-6-15)
 催 : 株式会社ノエビア
お問合せ : 0120-401-001(月~金/9:00~18:00 土・日・祝日除く)

独自の作品世界を持つ銅版画家、山本容子。
1995 年より、 「本の話」(文藝春秋)の表紙画として、毎月、アーティストの肖像画を描きました。本展では、17 年にわたり描かれた191 名の銅版画のポートレイトから、日本人アーティストを選んで展示いたします。作品にある“EX-LIBRIS”とは蔵書票を意味し、ひとりひとりが蔵書票のスタイルで描かれています。持ち主の印として蔵書に貼られる蔵書票には、古くは紋章や肖像画をあしらった図案が用いられました。山本が大切に考えたという「作家の人物としての空気感」を感じていただけます。

山本容子 (やまもと ようこ)・銅版画家 1952 年-埼玉県生まれ京都市立芸術大学西洋画専攻科修了。都会的で軽快洒脱な色彩で、独自の銅版画の世界を確立。絵画に音楽や詩を融合させるジャンルを超えたコラボレーションを展開。数多くの書籍の装幀、挿画なども手がける。近年では、医療現場における壁画制作、ホスピタルアート壁画を制作し、幅広い分野で精力的に創作活動を展開している。近著に『山本容子のアーティスト図鑑100 と19 のポートレイト』(文藝春秋)、『Art in Hospital スウェーデンを旅して』(講談社)がある。


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銅版画家の山本容子さん。古今の著名人の肖像を多く手がけられており、雑誌『婦人公論』の表紙絵を集めた『女・女』(平成16年=2004 中央公論社 絶版)、そして一昨年には雑誌『本の話』の表紙絵集『山本容子のアーティスト図鑑 100と19のポートレイト』(文藝春秋社)などには、智恵子の肖像も採用されています。

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今回は『山本容子のアーティスト図鑑 100と19のポートレイト』の原画のうち、智恵子を含む日本人アーティストを描いたものが展示されているそうですが、点数はよくわかりません。近々観に行って、レポートします。

皆様もぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月29日

昭和29年(1954)の今日、終焉の地、中野アトリエ近くに落雷があり、しばらく停電しました。

当方の子供の頃、停電などはしょっちゅうでした。最近はめったなことでは起こらなくなりましたね。

先週土曜日、九段下の玉川堂さんで光太郎短歌の短冊、智恵子の実妹・セキ宛の書簡を拝見した後、九段下から都営新宿線に乗り、次なる目的地、新宿に向かいました。

中村屋サロン美術館さんで開催中の「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」を拝観するのが次の目的でした。

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昨秋、開館の際の記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」、今春の「テーマ展示 柳敬助」に続き、3度目の来訪です。

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斎藤と光太郎の主な接点は以下の通り。明治43年(1910)、光太郎が神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」で個展開催、さらに、大正元年(1912)には、光太郎、斎藤、岸田劉生等が中心となって、アンデパンダンの美術団体「ヒユウザン会」(のちに「フユウザン会」)を結成、といったところです。

それ以前に、斎藤も光太郎もパリ留学経験がありますが、明治41年(1908)、光太郎がロンドンからパリに移るのと同時期に斎藤は帰国。パリでは2人のつながりはなかったようです。その後、光太郎も帰国した明治42年(1909)には、ヒユウザン会展の元になるような会の結成を図る仲間として知り合っています。共通の友人だった碌山荻原守衛が橋渡しをしたと考えられます。斎藤はこの頃、中村屋サロンに出入りしており、もしかするとそこで初めて光太郎と出会ったのかも知れません。

さて、出品目録によれば、40点の斎藤作品が展示されています。

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初期のフォービズムの影響を受けたものから、のちの童画風のものまで、なかなかバリエーション豊富。しかし、一本の筋が通っていると感じました。

大正元年の第一回ヒユウザン会展出品作の「木陰」も展示されており、つい1時間前に玉川堂さんで拝見した書簡がヒユウザン会展がらみのものだったので、不思議な縁を感じました。また、やはり1時間前に拝見した短冊が、斎藤の個展が開催された琅玕洞で販売されていたらしいというところにも。

「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」、来月27日までの開催です。ぜひ足をお運びください。

同展拝観後、同じ中村屋ビルの8階にあるレストラン「Granna」さんで早めの昼食。春に「テーマ展示 柳敬助」を見に行った際には満席&順番待ち行列で断念しましたので、リベンジです。今回は早めに行ったので大丈夫でした。中村屋純印度式カリーのコース3,000円+税のちょっと豪華なランチに舌鼓。その後、次なる目的地、文京区千駄木へ。以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月25日 

昭和25年(1950)の今日、雑誌『スバル』にアンケート回答「与謝野寛・晶子作中の愛誦歌」を発表しました。

「与謝野寛・与謝野晶子作の短歌中、特に愛誦さるるもの、若しくは御記憶に残れるもの。」という質問に対し、以下のように回答しています。

  大空のちりとはいかがおもふべきあつき涙のながるるものを

先生のこのうたが今頭に出て来ました。
晶子女史のにはむろんたくさんあるのですが今うたの言葉を思ひ出しません。

東京から書道関連の学会情報です。 

国際シンポジウム「書の資料学 ~故宮から」

日 時 : 2015年9月12日(土)10:30~17:00
会 場 : 筑波大学東京キャンパス文京校舎134講義室(文京区大塚3-29-1)
主 催 : 「書の資料学」実行委員会
共 催 : 筑波大学
参加費 : 無料 どなたでもご参加いただけます。参加をご希望の方は、事前に住所・氏名・電話番号(またはEメールアドレス)をFAX 029-853-2715へご連絡ください。

プログラム
受付 10:00~ 
開会挨拶 10:30~10:35

第1部 研究発表 10:35~12:05
明末における書体論の諸相 尾川明穂(安田女子大学助教)
松花堂昭乗筆『詠歌大概』(国文学研究資料館蔵)所収秀歌撰について 山口恭子(都留文科大学非常勤講師)
清代書法指南書の受容と展開  髙橋佑太(相模女子大学非常勤講師)

第2部 基調講演 13:00~15:00
『石渠宝笈三編』に見る碑帖と碑学の関係についての初探 何炎泉(国立故宮博物院書画処副研究員兼科長)
書は人を以て伝う―趙孟頫書「絶交書」の考察 陳建志(国立故宮博物院書画処助理研究員)

第3部 討議 15:15~17:00
司会 菅野智明(筑波大学教授)
登壇者 何炎泉 陳建志 家入博徳 矢野千載
登壇者提言
日本書論にみる中国書論の受容 家入博徳(國學院大学兼任講師)
高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について 矢野千載(盛岡大学教授)
           
お問い合わせ:〒305-8574つくば市天王台1-1-1 筑波大学芸術系 菅野研究室 TEL/FAX:029-853-2715


日中両国の研究者による書に関する研究発表、討議です。上記のとおり、盛岡大学の矢野千載(やのせんざい)教授による討議の提言「「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」があります。

宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑は、岩手花巻の羅須知人協会跡地に昭和11年(1936)に建てられました。光太郎が遺族の依頼で、「雨ニモマケズ」の後半部分を揮毫したものが刻まれている碑です。

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この碑、それから作品としての「雨ニモマケズ」にはいろいろな問題があります。まず、賢治が手帳に記した段階で、「ヒドリノトキハ」と書いた部分が、現在では(というか、かなり早い時期から)「ヒデリノトキハ」となって流布している点、花巻の詩碑も、賢治の手帳通りではなく、後に光太郎が誤りに気付き、追刻がなされている点などです(それでもまだ手帳通りになっていません)。

「ヒドリ/ヒデリ」については、光太郎を改変の戦犯扱いする説がありますが、誤りです。

詩碑の追刻の件については、以前にこのブログで、昭和31年(1956)、光太郎歿後すぐ刊行された佐藤勝治著『山荘の高村光太郎』の記述を引用し、紹介しました。

また、昭和18年(1943)には、啄木研究家の川並秀雄に、次の書簡を送っています。

 拝復、おてがみありがたく拝読いたしました、これまで其について質問をうけた事がないので、宮澤賢治詩碑碑面の不審がそのままになつてゐました、貴下によつて事情が明瞭になる事をよろこびます、
 宮澤賢治さんのあの手帖は以前に草野心平君から示されて、その時「雨にもまけず」の鉛筆がきをよみ、感動いたしましたが、手帖はやがて国元へかへり、字句は忘れてゐました、
 その後国元の令弟宮澤清六さんから碑詩揮毫の事をたのまれ、同時に清六さんが写し取つた詩句の原稿をうけとりました、小生はその写しの詩句を躊躇なく、字配りもそのまま揮毫いたした次第であります、
 さて後に拓本を見ると、あの詩の印刷されたものにある、「松の」がぬけてゐたり、其他の相違を発見いたし、もう一度写しの原稿をみると、その原稿には小生のバウがボウであり、小生のサウがソウであつた事を又発見しました、
 つまり清六さんが書写の際書き違つた上に、小生が又自分の平常の書きくせで、知らずにかな遣いを書き違へてゐた事になります、甚だ疎漏であつた事を知りましたが、既に彫刻の出来てしまつたあとの事でありましたため、そのままにいたしました、
 碑面の不審は右のやうな当時の事情で起つた次第、よろしく御解明なし置き下さらば、由来がはつきりして今後の研究者の無駄な考慮や疑問がはぶかれる事となりませう、その点をよろこびます、
 貴下の細心な研究精神をまことにありがたき事と存じ、早速右御返事まで申上げました、
                                                                  艸々
  昭和十八年七月十四                    高村光太郎
 川並秀雄様 侍史

これを読むと、『山荘の高村光太郎』の記述ともまた異なり(『山荘の……』では、戦後になって初めて碑文が誤っていることに気付いたように書かれています)、さらに他の人物の回想ではまた違ったニュアンスのエピソードも紹介されていたりします。

今回の矢野氏の「提言」では、こういった話に触れられるのではないかと思われます。

興味のある方、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月21日

昭和20年(1945)の今日、花巻郊外太田村に初めて足を踏み入れました。

当日の日記から。

晴、暑  太田村山口行、 朝飯盒にて弁当炊き、八時四十分校長先生同道花巻駅より。信一郎、清一郎君落合ふ。二ツ関下車徒歩五十分。午後勝治君の案内にて地所検分、選定。部落会長宅に挨拶にゆく。小屋を勝治氏に一任。五時十二分二ツ関よりかへる。

8月10日の花巻空襲で、疎開していた宮澤家を焼け出された光太郎、旧制花巻中学校長・佐藤昌の家に厄介になっていました。終戦の2日前、山口分教場の教師だった佐藤勝治に勧められ、太田村移住を計画、この日の下見になったわけです。太田村に住み始めたのは10月17日のことでした。

それぞれ先日ご紹介した、中村屋サロン美術館企画展示「生誕130年年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」東京都美術館「伝説の洋画家たち 二科100年展」につき、先月の『産経新聞』さんが、光太郎に触れつつ紹介しています

斎藤与里 詩情あふれる晩年作、作風の変遷たどる

 大正、昭和にかけて活躍した洋画家、斎藤与里(より)(1885~1959年)の生誕130年を記念する展覧会「斎藤与里のまなざし」が、東京・新宿の中村屋サロン美術館で開かれている。
 斎藤の代表的作品といえば「古都の春」が挙げられるだろう。旅先で訪れた家族を描写した作品。人物や事物が平面的に描出され、どことなくユーモラスで、まるで子供の絵のようだ。背後で咲き誇る桜の花のピンクが、暖かく春らしい。明朗快活な絵だ。
 斎藤は明治39年、20歳でパリに留学。後期印象派のセザンヌや象徴主義のシャヴァンヌ、さらにフォービスムの影響を受けた。明治41年に帰国してからは多くの芸術家が集っていた東京・新宿の中村屋に通い高村光太郎や荻原守衛らと交流。「木陰」などヨーロッパ美術から刺激を受けた作品を制作した。
 西洋美術から脱却したのは戦後になってから。昭和20年、戦禍を逃れ東京から生まれ故郷の埼玉県加須市に疎開。のどかな田園暮らしや農村の人たちとのつきあいで、作品は力が抜けて素朴に。さらに、60代になるとハス池で遊ぶ子供を描いた「少年の頃」など、童画的で詩情あふれる作品に変化していった。
 斎藤は「日本の絵は日本の手で作る以外にないと思います」と文章を残しているが、晩年になって自己の絵画世界を確立した。
 本展は20代から60代まで約30点を展示し、作風の変遷をたどっている。
 9月27日まで、火曜休、一般300円。(電)03・5362・7508。

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【伝説の洋画家たち 二科100年展】(中)萬鉄五郎 斬新…でも親しみ感じる油絵

 「裸体美人」などで知られる萬(よろず)鉄五郎(1885~1927年)は大正から昭和初期に活躍した画家だ。
 萬は大正6年の第4回二科展に2点の油彩画を出品した。注目を集めたのは「もたれて立つ人」。人体は幾何学的な面に解体され、機械のパーツのように組み立てられている。あたかもロボットのように。これが日本のキュービスム絵画の記念碑的作品となった。
 もう1点の「筆立のある静物」は、物の簡略化や複数の視点の描写が試みられキュービスム的傾向が見られるものの、まだ試行錯誤の段階だ。
 萬は当時の美術の本場だったパリに留学し、芸術家たちと交流したわけではない。画集などから刺激を受け、咀嚼(そしゃく)して表現した。
 この2点は二科展で岸田劉生の静物画などとともに展示された。現代から見ればとりたてて新しくはないが、1世紀も前にこんな絵画を制作したことは驚きだ。官展でない在野の二科展はこうした実験的な表現の発表の場でもあった。
 萬は岩手県東和賀郡十二ケ村(現在の花巻市)に生まれた。明治39年、20歳のとき渡米。美術学校で学ぼうとしたが、わずか半年で帰国。40年、東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学し、洋画壇の重鎮だった黒田清輝が主導した白馬会展に出品して活躍。美術学校の卒業制作が、ゴッホやマチスに影響を受けた「裸体美人」だった。半裸で草原に寝そべる女性を太い筆致で荒々しく描出し、日本のフォービスムの先駆的作品となった。
 45年には、岸田劉生や高村光太郎らが結成したフュウザン会に参加して頭角を現した。大正3年に一時岩手に帰郷し、茶褐色を主とした風景作品を制作。自己の目指す絵画を模索し、5年に上京。「もたれて立つ人」と「筆立のある静物」を第4回二科展に出品し、時代の最先端を疾走した。
 萬の描く裸婦は日本髪を結っていて、足は短め。決してプロポーションが良いわけではない。西洋人を好んでモデルにした黒田清輝の作品のように、アカデミックでもなければ洗練されてもいない。茶褐色を主体にした色彩は、土俗的で故郷の土の匂いが漂っているかのようだ。表現は斬新でありながら日本的な油彩だった。そんなところに親近感を感じる人は少なくないだろう。(渋沢和彦)

 「伝説の洋画家たち 二科100年展」は9月6日まで、東京・上野公園の東京都美術館。一般1500円ほか。問い合わせはハローダイヤル(電)03・5777・8600。

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ともに「フユウザン会」の仲間だった斎藤与里、萬鉄五郎。それぞれを紹介する中で光太郎の名が挙げられています。斎藤の記事には記述がありませんが、斎藤も「フユウザン会」のメンバーで、光太郎が「フユウザン会」を代表する作家の一人と認められているためです。こうした評価が今後揺らぐことはないとは思いますが、「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまうと、こうした際に光太郎の名は挙がらなくなるでしょう。そうならないよう、正しく光太郎の業績を次代へと引き継いでいこうと、決意を新たにいたしました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月7日

平成19年(2007)の今日、宮城県美術館で「日本彫刻の近代」展が開幕しました。

明治期から1960年代までの日本近代彫刻の歩みを概観するもので、宮城県美術館、三重県立美術館、東京国立近代美術館の3館を巡回した大規模な展覧会でした。

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とにかく出品点数が多く、さらに普段目にする機会のない珍しい作品も出品されました。

図録を兼ねた書籍『日本彫刻の近代』が淡交社さんから刊行されています。図版が掲載されているのが、光雲作品で、「矮鶏置物」、「老猿」、「鞠に遊ぶ狆」、「魚籃観音立像」、「聖徳太子坐像」、「楠木正成銅像頭部(木型)」、「楠木正成像」、「西郷隆盛像」。光太郎作品で「兎」、「裸婦坐像」、「腕」、「手」、「蓮根」、「桃」、「柘榴」、「鯰」、「うそ鳥」、「白文鳥」。当方、東京展を観に行きましたが、確か、掲載作品のほとんどが出品されていたと思います。

下記は「楠木正成銅像頭部(木型)」。珍しい写真です。

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昨日ご紹介した、東京都美術館さんでの「「伝説の洋画家たち 二科100年展」について、いろいろと報道されていますので、ご紹介します。

まず『日本経済新聞』さん。22日の水曜日、文化面にてカラーで紹介されています。光太郎の名も。

 明治末に高村光太郎が評論「緑色の太陽」で芸術家の表現の自由を高らかに宣言してから4年。二科会では留学帰りの画家らが中心となり、海外で吸収した新しい美術を世に問うた。

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光太郎自身は二科会には所属しませんでしたが、昨日ご紹介したとおり、縁の深い画家・彫刻家が名を連ねています。彼等が光太郎の「緑色の太陽」に触発されたであろうことは想像がつきます。その二科展に対して、光太郎は好意的な展覧会評も書きました。

ちなみに「緑色の太陽」は、明治43年(1910)、『スバル』に発表された日本初の印象派宣言ともいわれるもので、以下のような部分があります。
 
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。
 
 人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽として其作の格調を味ひたい。


続いて『産経新聞』さん。21日(火)の記事です 

小倉智昭さん、「二科100年展」を絶賛

 人気キャスター、小倉智昭さん(68)が21日、東京都台東区の東京都美術館で開催中の展覧会「伝説の洋画家たち 二科100年展」を訪れた。東郷青児や岡本太郎ら多くの芸術家が発表の舞台としてきた二科展の作品約120点を鑑賞し、「100年通してみられる機会はそうない。面白い」と絶賛した。
 小倉さんは鑑賞後、岡本太郎の作品「裂けた顔」(昭和35年、川崎市岡本太郎美術館蔵)を前に、「大阪万博の『太陽の塔』は有名だが、その10年前に二科展に出されていたとは。岡本作品はあまり外に出てこないので貴重」と感慨深げだった。
 日本三大公募展の1つ「二科展」は今年9月で100回を迎える。

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産経さんは同展の主催団体に名を連ねており、紙面での紹介にも力を入れているようです。先週には開催告知の大きな記事が出ましたし、一昨日には同展出品作の紹介「【伝説の洋画家たち 二科100年展】(上)岸田劉生 徹底した写実が生む神秘性」という記事も載りました。「(上)」ですので、さらに続きが出るのでしょう。


さて、「伝説の洋画家たち 二科100年展」ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月25日

明治45年(1912)の今日、詩「N――女史に」を執筆しました。

この年(ただし7月30日に大正改元)9月1日発行の雑誌『劇と詩』に発表されました。

   N――女史に000

いやなんです
あなたの往つてしまふのが――

 
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな

種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 
私の芸術を見て下すつた方
芸術の悩みを味つた方
それ故、芸術の価値を知りぬいて居る方
それ故、人間の奥底の見える方
そのあなたが、そのあなたが
――ああ、土用にも雪が降りますね――
お嫁にもうぢき行く相な
 
型のやうな旦那さまと
まるい字を書くそのあなたと
かう考へてさへ
なぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で001
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて
 
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
なぜさう容易(たやす)く
さあ何と言ひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
さうです、さうです
あなたは其の身を売るんです
一人の世界から

万人の世界へ
そして、男に負けて子を孕んで
あの醜(みにく)い猿の児を生んで
乳をのませて
おしめを干して
ああ、何という醜悪事でせう
あなたがお嫁にゆくなんて
まるで さう
チシアンの画いた画が
鶴巻町へ買喰ひに出るのです
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
私は淋しい、かなしい003
何といふ気はないけれど
恰度あなたの下すつた
あのグロキシニアの
大きな花の腐つてゆくのを見るやうな
私を棄てて腐つて行くのを見るやうな
空を旅してゆく鳥の
ゆくゑをじつと見てゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない、淋しい、焼けつく様な
それでも恋とはちがひます
――そんな怖(こは)いものぢやない――
サンタマリア!
あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい
ちがひます、ちがひます
何がどうとは素より知らねど
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
おまけに
お嫁にゆくなんて
人の男の心のままになるなんて
 
外にはしんしんと雨がふる
男には女の肌を欲しがらせ
女には男こひしくならせるやうな
あの雨が――あをく、くらく、
私を困らせる雨が――

のち、この詩は大正3年(1914)刊行の詩集『道程』に収められた際に「――に」と改題、細部もいろいろと手が入ります。さらに昭和16年(1941)には詩集『智恵子抄』の巻頭を飾ることとなります。その際の題名は「人に」と帰られました。


   人に005

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

花よりさきに実のなるやうな
種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟に合はない不自然を

どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

なぜさうたやすく
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
私は淋しい かなしい
何といふ気はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグロキシニヤの
大きな花の腐つてゆくのを見る様な006
私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて


詩としての完成度はこちらの方が高いといえます。しかし、原型の「N――女史に」の方が、ある意味、直裁に感情をぶつけている生々しさが感じられます。

改稿の際に削除された「あの醜(みにく)い猿の児を生んで/乳をのませて/おしめを干して」といった部分や、改稿後は単に「サンタマリア」という聖母マリアへの呼びかけだけになっている部分が、「サンタマリア!/あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい」と、恋の妄念、我執に囚われる自らの救済を乞い願う内容だったりと。「あの恐ろしい悪魔」は、智恵子ではありません。念のため(笑)。

東京都美術館さんで開催中の展覧会。主に絵画の分野で光太郎と縁の深かった諸作家の作品が多数展示されています。 題して「二科100年展」。大正3年(1914)に創立され、今年、100回展を迎える在野の美術団体・二科会の回顧展です。

二科会には第6回展から彫刻部が置かれ、光太郎は好意的に紹介していました。

二科の彫刻は数量的に小さい割にしつかりしてゐる。藤川勇造氏、ザツキン氏、渡邊義知氏等は十分研究に値する。二科の絵画部には新感覚の最先端から超現実派の新鋭まで存在するが、彫刻の方ではザツキン氏を除いては、概してハイカラではあるが素朴質実な道を歩いて居る。(「上野の彫刻鑑賞」 昭和4年=1929)

二科の彫刻部は一見渾沌としてゐるやうであるが、そのハイカラ性は現社会の所謂インテリゲンチヤ層の嗅覚に属する基調を持つてゐる。何処かブツキツシユであり、何処か中間的であり、何処か示唆的であり、何処か国際貿易的であり、何処か知的感傷性を持つて居り、また何処かに現社会の謂ふ所のエログロ的感電の萌芽が見える。まだ概して此の部の人達は消極的にしか、或は内部的にしか仕事してゐないからすべて之等の特性も表面に露骨には出てゐない。けれども嗅ぎわければさういふ匂がするのである。此の部がもつと隆盛になり、もつと多種の要素が加はつてその特色の発揮せられるのも遠くないだらうと思はれる処に興味がある。(「上野の彫刻諸相」 昭和5年=1930)


期 日 : 2015年7月18日(土) ~ 9月6日(日)  (すでに始まっています)
場 所 : 東京都美術館 企画棟 企画展示室 東京都台東区上野公園8-36
休館日 : 月曜日
時 間 : 9:30~17:30 (入室は閉室の30分前まで)  金曜日は9:30~21:00
観覧料 : 前売券  一般 1,300円 / 学生 1,000円 / 高校生 600円 / 65歳以上 800円
         当日券  一般 1,500円 / 学生 1,200円 / 高校生 800円 / 65歳以上 1,000円

当館創設の機をもたらした美術団体展の中でも在野の雄であった二科会。岸田劉生、佐伯祐三、小出楢重、関根正二、古賀春江、藤田嗣治、松本竣介、岡本太郎、東郷青児など、実に様々な作家たちが発表し、海外からはマティスらも参加した二科会の100年の歴史から、20世紀の日本美術史を展観します。

関連行事 : イブニングレクチャー 19:00~19:30  聴講無料
      ただし本展観覧券(半券可)が必要
 7月24日(金)「100回展、そして…」 生方純一(公益社団法人二科会 常務理事)
 7月31日(金)「二科草創期の個性派たち」 川内悟(公益社団法人二科会 常務理事)
 8月7日(金)  「戦後からの二科会」 松室重親(公益社団法人二科会 常務理事)
 8月14日(金) 「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ
平方正昭(東京都美術館学芸員)
 8月21日(金) 「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ
平方正昭(東京都美術館学芸員)
 8月28日(金) 「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ
平方正昭(東京都美術館学芸員)

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「光太郎と縁の深かった諸作家」と書きましたが、出品リストで見ると、以下の名前が挙げられます。

有島生馬、石井柏亭、岸田劉生、熊谷守一、坂本繁次郎、津田青楓、中川一政、藤川勇造、藤田嗣治、松本竣介、村山槐多、安井曾太郎、山下新太郎、萬鉄五郎、アンリ・マティス、などなど。


9月~11月には大阪市立美術館、11、12月で福岡の石橋美術館への巡回もあります。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月24日

昭和2年(1927)の今日、長野県小諸の懐古園に島崎藤村の「千曲川旅情の歌」詩碑が除幕されました。

碑面は藤村の自筆原稿から作ったブロンズのパネル。鋳造は光太郎の実弟にして、のちに鋳金分野で人間国宝となる高村豊周です。今でこそブロンズパネルの文学碑は珍しくなくなりましたが、この藤村碑をもってこの技法が確立されました。

当方の30年以上前のアルバムに、懐古園の入場券が貼り付けてありました(笑)。下の写真が藤村碑です。

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光太郎と縁の深かった彫刻家2人を中心とした企画展をご紹介します。

まずは舟越保武。戦後には岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教鞭を執り、たびたび同校に招かれた光太郎と交流を持ちました。それ以前の、戦前には長女(このブログでたびたびご紹介している末盛千枝子さん)の名付け親になってもらったり、光太郎歿後の昭和37年(1962)には「長崎26殉教者記念像」で高村光太郎賞を受賞されたりしています。 

開館30周年記念 舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに

期 日 : 2015/07/12(日)~2015/9/6(日)  (すでに始まっています)
場 所 : 練馬区立美術館 練馬区貫井1丁目36番16号
休館日 : 月曜日(ただし、7月20日(月曜・祝日)は開館、翌21日(火曜)休館)
時 間 : 午前10時~午後6時 ※入館は午後5時30分まで
観覧料 : 一般800円、高校・大学生および65~74歳600円、
      中学生以下および75歳以上無料、


舟越保武は1912年(大正元)に岩手県に生まれ、盛岡中学時代にロダンに憧れて彫刻家を志しました。大理石や砂岩などの石による清楚な女性像で知られる舟越がはじめて石彫に取り組んだのは練馬に在住していた1940年(昭和15)のことであり、舟越は練馬ゆかりの作家でもあります。
1950年(昭和25)以降は自らのカトリック信仰に裏付けられた宗教的主題の作品で独自のスタイルを確立しました。それらは崇高な美しさをたたえており、他の具象彫刻作品とは一線を画するものです。とりわけ、長崎市に設置された《長崎26殉教者記念像》や《原の城》、《ダミアン神父》は、彼の代表作というだけでなく、戦後日本の彫刻を代表する重要な作品の一つといえるでしょう。 1987年(昭和62)に病気のために右半身不随となりましたが、その後10余年にわたり左手で制作を続け、それまでとは異なる迫力を持つ作品を生み出しました。
本展では、代表的な彫刻作品約60点に加え、初公開を含む多数のドローイングを展示し、舟越保武の生涯にわたる彫刻の仕事を回顧いたします。


関連行事 ※要事前申込 いずれも往復ハガキまたはEメールでお申し込み。

 記念講演会「舟越保武の彫刻:造形性をめぐって」 
   日時 7月25日(土曜) 午後3時~
   講師 髙橋幸次(日本大学芸術学部教授)
  
 記念講演会「手で見るという事―私の舟越保武体験―」   
   日時 8月8日(土曜) 午後3時~
   講師 萩原朔美(多摩美術大学造形表現学部教授)
  
 声優、銀河万丈による読み語り  【貫井図書館共同主催】
   日時 8月29日(土曜) 午後3時~
  
 <美術講座>石彫「身体の一部を彫ってみよう」
   日時 8月8日(土曜)、9日(日曜)【2日制】
      両日とも、午前10時30分~午後5時
   講師 石井琢郎(彫刻家)

 映画上映会「日本二十六聖人 われ世に勝てり」
  (1931年、90分、製作:平山政十、弁士:小崎登明修道士)
   日時 8月30日(日曜) 午後3時~


申し込み不要の関連行事

学芸員によるギャラリートーク
   日時 8月1日(土曜)、15日(土曜) 両日とも、午後3時~
 記念コンサート
   日時 8月22日(土曜) 午後3時~
   演者 小池ちとせ(ピアノ・武蔵野音楽大学准教授)
      河野めぐみ(メゾソプラノ・藤原歌劇団団員/武蔵野音楽大学講師)

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続いて、光太郎の盟友だった碌山荻原守衛。 

夏季・秋季特別企画展 制作の背景-文覚・デスペア・女- Love is Art Struggle is Beauty007 (2)

期 日 : 2015/08/1(土)~2015/11/8(日)  
場 所 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
休館日 : 会期中無休
時 間 : AM9:00~PM4:10(入館は30分前まで)
観覧料 : 大人 700円 高校生 300円 小中学生 150円

荻原守衛(号:碌山 1879-1910年)の残した傑作《女》(1910年)は、相馬黒光への思いが制作の動機となっています。この作品をより深く理解する上で不可欠なのが《文覚》(1908年) 《デスペア》(1909年)の二つの作品です。鎌倉の成就院に自刻像として伝わる木像に、文覚上人の苦悩を見て取り制作した《文覚》、女性の悲しみに打ちひしがれる姿に文字通り絶望(despair)を表わした《デスペア》には、当時の荻原の胸中が重ねられています。最後の作品 《女》には、それらを昇華した高い精神性が感じられます。それはまた人間の尊厳の表象にも
つながるものなのです。
個人的な思いを元にして作られた作品が普遍的な価値あるものとなっていることは、百年前の作品が現代の我々の心に響いていることからも容易にうなずくことができます。作品に普遍的価値をもたらした荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの当時における新しさとを、多くの方々に感じ取っていただこうと本企画展を開催いたします。


「文覚」、「デスペア」、「女」。それぞれ、光太郎が激賞した守衛の作品の題名です。

以下、光太郎の詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)です。

  荻原守衛

単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあつた、007
坑夫、文覚、トルソ、胸像。
人なつこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこに居た、
新宿中村屋の店の奥に。

巌本善治の鞭と五一会の飴とロダンの息吹とで荻原守衛は出来た。
彫刻家はかなしく日本で不用とされた。
荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。

単純な彼の彫刻が日本の底でひとり逞しく生きてゐた。

――原始、008
――還元、
――岩石への郷愁、
――燃える火の素朴性。

角筈の原つぱのまんなかの寒いバラツク。
ひとりぼつちの彫刻家は或る三月の夜明に見た、
六人の侏儒が枕もとに輪をかいて踊つてゐるのを。
荻原守衛はうとうとしながら汗をかいた。
004
粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
「頭がわるいので碌なものは出来んよ。」
荻原守衛はもう一度いふ、
「寸分も身動き出来んよ、追いつめられたよ。」

四月の夜ふけに肺がやぶけた。
新宿中村屋の奥の壁をまつ赤にして
荻原守衛は血の塊りを一升はいた。
彫刻家はさうして死んだ――日本の底で。


この詩を刻んだ詩碑が同館の庭に建っています。ここ最近、毎年4月22日の碌山忌の集いで朗読されてもいます。「絶望」が「デスペア」。上記のチラシに印刷されている彫刻です。


それぞれぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月23日009

昭和56年(1981)の今日、集英社から円地文子監修『近代日本の女性史 第十巻 名作を彩るモデルたち』が刊行されました。


この中で作家の金井美恵子さんが智恵子の章を約40ページ担当されています。

函に描かれているのは、日本画家、故・大山忠作氏の「智恵子に扮する有馬稲子像」です。

他の「モデル」は、有島武郎『或る女』の佐々城信子、徳富蘆花『不如帰』の大山信子、永井荷風「風ごこち」「矢はずぐさ」の藤蔭静枝、谷崎潤一郎『痴人の愛』の小林せい子、そして竹久夢二の絵のモデルとなった山田順子です。

新刊です。 
2015/07/30発行  森まゆみ著 晶文社発行 定価1,800円+税 

版元サイトより

地図を使って読み解く「谷根千」
本郷台地の加賀、水戸屋敷は東大へ。坂を下れば、根津の遊廓に。広大な上野・寛永寺は、明治になると上野公園へ。今も辿れる諏方明神の道、岩槻街道、中山道。かつて不忍通りには都電が走り、谷中銀座、安八百屋通りは人で賑わった。
 約25年間地域雑誌「谷根千」をつくってきた著者が、江戸から現代まで、谷根千が描かれた地図を追いながら、この地域の変遷を辿る。
また、上野の博覧会の思い出を語る人、関東大震災、戦災を語る人、たくさんの人が町に暮らしていた。その古老たちが描いた地図、聞き取り地図も多数収録。

【目次】002
1 地図でみる谷根千
   正保年間江戸絵図
    寛文五枚図
    江戸方角安見図鑑
    享保元年分道江戸大絵図  …etc.
2 谷根千手づくり地図
    森鴎外「雁」を歩く
    一葉の住んだ町完全踏査
    芸人と芸術家のまち
    駒込千駄木林町の地図   …etc.
3 家族の地図、なりわいの地図
    商店街の町並み
    大正時代の学校界隈
    母の出会った浅草の空襲   …etc.

地域雑誌『谷中根津千駄木』(以下、『谷根千』)を刊行されていた森まゆみさんの新著です。森さんのご著書は、以前、智恵子がらみで『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』を紹介させていただきました。

今回のものは、『谷根千』編集の際に利用されたさまざまな地図――古地図や絵図、地元の方に描いてもらったものなど――を読み解くことで、この地の成り立ちや、ここで生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトです。

最近、テレビでも「散歩」系の番組などが静かなブームです。その手の番組の元祖ともいえるテレビ東京さんの「出没!アド街ック天国」は根強い人気を誇っていますし、NHKさんの「ブラタモリ」は地誌学的に見ても優れた番組です。

そうした動きを背景にしての刊行でしょうが、これまた労作です。谷根千地域と縁の深い森鷗外、樋口一葉にはそれぞれ一章を割いていますし、千駄木林町にアトリエを構えた光太郎智恵子についても、「芸人と芸術家のまち」「駒込千駄木林町の地図」の章で言及されています。もちろん地図入りで。

そのあたりを読むと、意外な人物がすぐ近くに住んでいたことがわかったり、光太郎の作品に出て来る場所の位置がわかったり、近くに住んでいたことは知っていたものの正確な位置がわからなかった人物の家がわかったりと、実に有益でした。次に千駄木方面に行く際には、この書を片手に歩こうと思いました。


ところでこの書籍、特殊な造本になっています。

普通はカバーを外すと、背表紙がありますが、この書籍にはそれがないのです。

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そのため、広げた時に全体がフラットになります。

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通常の書籍だと、開いた際に「のど」の部分がくぼんでしまいます。その状態でコピー機やスキャナにかけると、中央は影ができたりピンぼけになったりします。

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しかし、この書籍はどのページを開いてもそうならないような造本になっているのです。これはすばらしい! と思いました。

公共図書館の場合、以前はカバー類を全て取り払って納架するところが多くありました。今でも地方の図書館では時々見かけます。その方法を採ると、この書籍は背表紙がないので困ります。老婆心ながら、そういうところはどうするのだろうと思いました。また、最近は、透明フィルムでカバーごと固定するケースも多くあります。これまた老婆心ながら、下手な固定の仕方をして、せっかくの造本法を台無しにしてほしくないものです。


さて、内容的にも、造本法も素晴らしい書籍です。ぜひ、お買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月21日

昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、北向きの壁を抜いて窓を作りました。

当日の日記です。

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切り抜き、小まいは残す。風のぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風もはいるやうになる。冬には外より丈夫に戸をたてるつもり。此窓なくては小屋の空気こもりて夏は不衛生と思ふ。
(略)
程なく床をとりてねる。十時頃。 北側の窓の為かすずしき風来るやうに感ぜらる。

こちらは『高村光太郎全集』第12巻掲載の、山小屋の図面です。これでいうと、「25」の窓がそれにあたります。

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追記 いったんこの記事を書いてアップロードした後、いろいろネットで検索していたところ、今夜のNHK総合さんの「歌謡コンサート」で光太郎智恵子に触れるという情報を得ましたので紹介します。 

NHK歌謡コンサート「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」

NHK総合 2015/07/21 20時00分~20時43分

テーマ「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」出演:五輪真弓、大竹しのぶ、クリス・ハート、柴田淳、新沼謙治、氷川きよし、増位山太志郎、森進一、八代亜紀.

番組内容
今回は、女優・大竹しのぶの手紙の朗読とともに名曲の数々を紹介。取り上げる手紙は川端康成、寺山修司、マリリン・モンローといった著名人から、戦争で亡くなった夫にあてたラブレターを毎日つづっている94歳の女性まで多岐にわたる。八代亜紀「愛の終着駅」、五輪真弓「恋人よ」、新沼謙治「嫁に来ないか」、氷川きよし「別れのブルース」、柴田淳「あなた」、クリス・ハート「やさしさに包まれたなら」ほか。

出演者 五輪真弓,大竹しのぶ,クリス・ハート,柴田淳,新沼謙治,氷川きよし,増位山太志郎,森進一,八代亜紀,
司会 高山哲哉,
演奏 三原綱木とザ・ニューブリード,東京放送管弦楽団


スタッフさんのブログに以下の記述がありました。

7月21日 手紙で綴る 愛の名曲集
いつもNHK歌謡コンサートをご覧頂き誠にありがとうございます。制作統括の茂山です。7月は文月、23日は ふみの日なので7月23日は「文月ふみの日」という記念日です。今週の歌謡コンサートはそれにちなんで、2月に放送し好評を得た「手紙で綴る愛の名曲集」の第2弾をお届けします。古今東西の有名・無名の恋文をご紹介しながら、愛の歌をお聴きいただきます。朗読は前回と同様、女優の大竹しのぶさんが担当、情感たっぷりに手紙を朗読してくれます。今回ご紹介する恋文は
川端康成から婚約者への手紙
寺山修司から恋人への手紙
マリリン・モンローからジョン・F・ケネディへの手紙
NHKのニュース番組でも取り上げられたことのある亡き夫に送った「70年目の手紙」
南極観測隊員の妻より夫へ送った電文
高村光太郎・智恵子夫妻の作品「恋文」より一部をご紹介
愛を込めた手紙から、愛の歌につながるのか、ご期待下さい。

今日、7月9日は、光太郎と縁の深かった森鷗外の忌日、「鷗外忌」です。昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎 補遺】にてご紹介させていただきました。

その鷗外を顕彰する文京区立森鷗外記念館さんでの展示情報です。 
 期 : 2015年7月17日(金)~9月27日(日)
休館日
 : 7月28日(火)、8月25日(火)
 間 : 10時~18時(最終入館は17時30分)
 ※7月~9月の毎週金曜日は20時まで開館(最終入館は19時30分)
観覧料 : 一般300円 中学生以下無料、障がい者手帳ご提示の方と同伴者1名まで無料

公式サイトより

木下杢太郎(1885~1945、本名 太田正雄)は、医学博士として大学で教鞭をとるかたわら、文学、評論、美術など幅広い分野で活躍した文京区ゆかりの文化人です。加えて本年は、生誕130 年・没後70年という記念の年にもあたります。

杢太郎は、明治18年に現・静岡県伊東市に生まれ、13歳で上京、明治39年東京帝国大学医科大学に入学しました。在学中に与謝野寛の新詩社に入社し、詩や小説を次々に発表します。鷗外との最初の出会いは明治40年、英文学者・上田敏の留学壮行会の時でした。鷗外はその後、当時自宅で開催していた観潮楼歌会に杢太郎を招き、二人の交流がはじまりました。文学の道に進みたいと思いながら、家族のすすめにより医学を修めた杢太郎は、大学卒業にあたって、進路に悩みます。その時、助言を求めたのが鷗外でした。杢太郎はその後、満州赴任と、医学研究のための欧州留学で日本を離れ、フランス・リヨンで鷗外の訃報に触れることになりました。

二人が活動の場を同じくした機会は、多いとはいえません。しかし、鷗外をmaȋtre(巨匠)と呼んで慕っていた杢太郎は、没後の鴎外研究の中で、「鴎外は過去でなくて未来への出発点である」という結論にいたります。パート1では、二人の出会いや交流の他、杢太郎が鷗外について記した文章を通して、杢太郎がたどりついた鷗外像に迫ります。パート2では、杢太郎が創作を発表した明治40年代から、晩年までの多彩な活躍をご紹介します。

◆展示関連事業◆
○ギャラリートーク
展示室にて当館学芸員が展示解説を行います。
日時:7月29日、8月12日、26日、9月9日(いずれも水曜日)14時~
申込不要(展示観覧券が必要です)
所要時間は30分程度を予定しています。

講演会「鴎外を継ぐ者―木下杢太郎のパリ」
日 時 8月22日(土)14時~15時半
講 師 今橋映子(東京大学大学院教授)
料 金 無料
申込締切 2015年8月7日(金)必着

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杢太郎は、芸術運動「パンの会」、雑誌「スバル」などを通し、光太郎とも縁の深かった詩人です。「パンの会」の関連で、先頃、奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメメイゾン鴻乃巣』を読みましたが、杢太郎が頻出し、最近また気になっています。

「最近また」、というのは、以前にも杢太郎がらみの調査をしたことがあったためです。

神奈川近代文学館さんには、特別資料として、光太郎の自筆書簡も30通あまり所蔵されていますが、そのうち6通は杢太郎宛。さらに4通は『高村光太郎全集』未収録のものでしたので、雑誌『高村光太郎研究』に当方が持っている連載「光太郎遺珠」にて紹介させていただきました。また、同館には智恵子と田村俊子による「『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会」(明治45年=1912)の案内状も所蔵されていますが、こちらも杢太郎あてのものです。これを見つけた時の興奮は今でも忘れられません。

杢太郎の故郷・静岡県伊東市には伊東市立杢太郎記念館さんがあり、一度足を運ぼうと思いながらなかなかはたせずにいます。暇を見つけて行ってみようと思っています。

関連行事としての講演会、講師の今橋映子氏は、昨秋開催された明星研究会さん主催のシンポジウム「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎」のパネリストもなさっていました。当方、同日に第59回高村光太郎研究会があったため、参加できませんでしたが、今度はお話を伺ってこようと思っています。

皆様もぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月9日

明治39年(1906)の今日、留学先のニューヨークから、転居の通知を送りました。

この年10月の雑誌『日本美術』第91号に掲載されました。おそらく宛先は版元・日本美術社の川崎安。

小生移転致し候。番地は
150 West 65th Street New York City

さらに、

小生唯今は下宿の最上級、すなはち四面壁にして天井に引き窓のある部屋に籠城

の記述もあります。

光太郎がニューヨークの土を踏んだのは、この年2月27日。はじめは素人下宿c/o Miss Casty,2008 5th Av.に入りましたが、彫刻家、ガットソン・ボーグラムの助手の職を得、週給6ドルを手に出来るようになって、引っ越しました。

晩年の回想「父との関係」(昭和29年=1954)には以下の記述があります。

西六十五丁目の家の屋根裏の窓の無い安い部屋に移転して自炊しながら毎日ボーグラム氏のスチユヂオに通ひ、猛烈に勉強した。

朝はトーストに紅茶、昼は十仙(テンセンツ)食堂で何か一皿、夜は近所のデリカテツセン店で豆やハムを少し買つて食べ、たまには近くの支那飯屋で安いチヤプスイやフーヨンタンを食べた。

また、やはり晩年に高見順と行った対談「わが生涯」(昭和30年=1950)では、このような発言もありました。

高村 それからこんどは屋根裏の窓のない部屋を借りてね。とても安いんですよ。その代りに、まわりに窓がないから、牢屋と同じなんだ。天井に穴があいてて、綱をひつぱると開くんですよ。
高見 天窓ですね。
高村 そこからあかりが来る。それでも水道とガスが附いてて、そこにいてボーグラム先生の所へかよつて、夜は学校へ行つたんです。一日一ドルで、どうやらこうやら、やつていられたですね。
高見 それがおいくつくらいの時でしたか。
高村 二十四か五ですね。
高見 偉いもんですね。

各地の美術館等での展覧会情報を調べているうちに、気になる企画展を見つけました。

光雲・光太郎親子が愛した明治の噺家・三遊亭圓朝に関わるものです。 

うらめしや~ 冥途のみやげ展―全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に―

会 期 : 2015年7月22日(水)~9月13日(日) ※会期中展示替えあり
  前期 :2015年7月22日(水)~8月16日(日)
  後期 :2015年8月18日(火)~9月13日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 地下2階展示室
時 間 : 10:00~17:00(8月11日、21日は19:00まで開館、入館は閉館の30分前まで)
休 館 : 月曜
料 金 : 一般1,100円 高校・大学生700円
      中学生以下
障害者手帳をお持ちの方と介助者1名は無料
主 催 : 東京藝術大学、東京新聞、TBS
後 援 : 台東区
協 力 : 全生庵、下谷観光連盟、圓朝まつり実行委員会、TBSラジオ
問い合わせ:ハローダイヤル 03-5777-8600

公式サイトより
東京・谷中の全生庵には怪談を得意とした明治の噺家三遊亭圓朝(天保10<1839>-明治33<1900>年)ゆかりの幽霊画50幅が所蔵されています。本展は、この圓朝コレクションを中心として、日本美術史における「うらみ」の表現をたどります。

幽霊には、妖怪と違って、もともと人間でありながら成仏できずに現世に現れるという特徴があります。この展覧会では幽霊画に見られる「怨念」や「心残り」といった人間の底知れぬ感情に注目し、さらに錦絵や近代日本画、能面などに「うらみ」の表現を探っていきます。

円山応挙、長沢蘆雪、曾我蕭白、浮世絵の歌川国芳、葛飾北斎、近代の河鍋暁斎、月岡芳年、上村松園など、美術史に名をはせた画家たちによる「うらみ」の競演、まさにそれは「冥途の土産」となるでしょう。

なお、本展は、当初平成23(2011)年夏に開催を予定しておりましたが、同年3月に発生した東日本大震災の諸影響を鑑み、開催直前にして延期を決定したものです。今回、4年の歳月を経て、思いを新たにしての開催となります。

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三遊亭圓朝(天保10年=1839 ~ 明治33年=1900)は、明治落語界を代表する名人。あまりの話芸の巧みさに、師匠からも疎まれ、彼が演じようとしていた演目を先回りして演じられるなどの嫌がらせも受けたといいます。その結果、自作の演目を次々演じるようになり、そうした中で、新作の人情噺や怪談噺も数多く生み出されました。怪談の代表作が「怪談牡丹灯籠」や「真景累ケ淵」です。

光太郎の父・光雲は圓朝のファンでした。光太郎が書き残したエッセイ「父との関係」(昭和29年=1954)には以下の部分があります。

 父はよい職人の持つてゐる潔癖性と、律儀さと、物堅さと、仕事への熱情とを持つてゐたが、又一方では職人にあり勝ちな、太つ腹な親分肌もあり、多くの弟子に取りまかれてゐるのが好きであり、おだてに乗つて無理をしたり、いはば派手で陽気で、その思考の深度は世間表面の皮膜より奥には届かなかつた。そして考へるといふやうなことが嫌ひであつた。この世は人生であるよりも娑婆であつた。学問とか芸術とかいふものよりも、芸人の芸や役者の芸の方が身近だつた。梅若の舞台からきこえてくる鼓の音にききほれ、団菊左に傾倒し、圓朝に感服し、後年には中村吉右衛門をひいきにし、加藤清正のひげのモデルになつて喜んだり、奈良の彫刻では興福寺の定慶作といふ仁王をひどく買つてゐて、推古仏は理解しなかつた。

光太郎自身も圓朝の芸を誉めています。美術史家・奥平英雄との対談「芸術と生活」(昭和28年=1953)から。

九代目団十郎とか講談の圓朝とか、みんな若い時はしようのない、脂つこくて見ていられないほどいやらしいやつだつたらしい。圓朝なんかうしろへそのころないような舞台装置をして講談なんかやつたらしい。それでいやなやつだつて言われていたのが、忽然悟つて、ああいう枯れたものになつて、扇一本で人情ばなしをやるつていうふうになつてね。せんのあくのあつたのがみんな役に立つて、それが一変すると無かつた奴にはできない厚味や深さが出てきてね。


さて、その圓朝が残した幽霊画のコレクションを軸にした企画展です。「第一章 圓朝と怪談」「第二章 圓朝コレクション」「第三章 錦絵による「うらみ」の系譜」「第四章 「うらみ」が美に変わるとき」の四部構成になっています。出品作の中には、光雲と交流のあった日本画家・柴田是真の作や、光太郎もその造型性に深く興味を引かれていた能面なども含まれています。

夏のひととき、「納涼」の意味も含めて、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月8日

昭和15年(1940)の今日、作家・稲垣足穂に葉書を書きました。

拝啓
昨日御著“山風蠱”拝受、繙読をたのしみに存じます、
小生例年の通り夏まけでさんたんたる有様ですが山下風ある卦を得て大に涼爽の気にひたりたいものです、「王侯に事へず其事を高尚にす」とは面白い象です、 とりあゑず御礼まで 艸々
七月八日

稲垣足穂は幻想文学的な方面で有名になった作家。『山風蠱(さんぷうこ)』は前月、昭森社から刊行されました。

題名の「山風蠱」は、易占における卦の一つ。山のふもとに風が吹き荒れ、草木が損なわれている状態を表し、葉書にある「山下風ある卦」がこれにあたります。「王侯に事(つか)へず其事を高尚にす」は、『易経』に記された文言で、「王侯に仕官せず、世を避けるように隠居しながらも、 志を高く清く保って節操を曲げない」といった意味です。

当方、この葉書の実物を所蔵しています。75年前の今日、この葉書が書かれ、投函されたと思いつつ手に取ると、感慨深いものがあります。

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4月に小学館さんから刊行された石川拓治氏著『新宿ベル・エポック』。

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相馬愛藏・黒光夫妻、碌山荻原守衛を軸に、昨日もご紹介した新宿中村屋サロン美術館さんの元となった、「中村屋サロン」を巡る人々の光芒を追った労作です。

先週の『朝日新聞』さんの読書面に、書評が載りましたのでご紹介します。 

新宿ベル・エポック―芸術と食を生んだ中村屋サロン [著]石川拓治

■異文化接合点で濃密な人間模様
 母の勤務地が新宿だったので、子どもの時分、たまに中村屋のカレーを食べに連れて行ってもらった。うちは貧しかったから、それはたいへんなご馳走(ちそう)だった。本書はその中村屋の物語。創業者夫婦の相馬愛蔵・黒光(こっこう)と、夫妻を慕って集まった芸術家たち、なかでも彫刻家の荻原碌山(ろくざん)が織りなす人間模様を記す。
 愛蔵と碌山は同郷で、信州安曇野の人。地域一の名家・相馬家に仙台藩の上士の家から嫁がくる。農家の五男坊だった碌山少年は、彼女を憧れのまなざしで見つめていた。話はそこから始まる。
 三人は互いを大切に思い、認め合った。それは三角関係という言葉でひとくくりにできるものではない。彼らの濃密な連関の向こうには、百年ほど前の、外国に向きあう日本社会の姿が見えてくる。
 中村屋サロンは異文化の接合点であった。インドの志士ボースのカレーも、ロダンに学んだ碌山の彫刻もその好例である。相馬夫妻は新しい文化の揺り籠を用意したのだ。
    ◇
 小学館・1944円

[評者]本郷和人(東京大学教授・日本中世史) 


相馬夫妻、守衛、そして光太郎、それから昨日もご紹介した斎藤与里、中村彝、戸張孤雁、柳敬助、ラス・ビハリ・ボース、エロシェンコなどの織りなす人間模様の格好の手引きです。お買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月7日

昭和26年(1951)の今日、勝手に講演会の講師として報道に名前を挙げられて憤慨しました。

この日の日記の余白メモです。

承諾無きうちに講演などと発表すること岩手の習慣らし、かかる時余は出席せず。

前日の日記には、

七日に太田校にて演講と新聞に出た由、無茶也

とあります。「講演」とすべきところが「演講」となっているのは、怒りに我を忘れていたためでしょうか。

翌年には同じようなケースでブッキングまで起こっています。

新宿の中村屋サロン美術館さんから、先週末に始まった特別展示の招待状を戴きました。  

生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし

 期 : 2015年7月4日(土)~9月27日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 展示室1・2
 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 : 毎週火曜日(火曜が祝祭日の場合は開館、翌日休館)
料 金
 : 300円 高校生以下無料 障害者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料

関連イベント
 学芸員によるギャラリートーク 8/8(土) 9/12(土) 14:00~ 約50分
 メールまたは電話で申し込み 2名まで 先着15名 
         
 パリ留学でシャヴァンヌ、ゴッホ、ゴーガンなど、当時最先端の美術を目の当たりにした画家 斎藤与里。帰国後は、彼の地で親友となった彫刻家 荻原守衛(碌山)らと「中村屋サロン」を形成するとともに、大正期には、岸田劉生、高村光太郎らと反アカデミズムのフュウザン会を結成し、日本洋画界に衝撃を与えました。
 本展では与里の生誕130年を記念し、故郷の加須市教育委員会の所蔵作品を中心に、初期から晩年までの作品をご紹介いたします。
 パリで培われた美しい色彩と、時代によって変化する詩情豊かな画風をお楽しみください。

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新宿中村屋の創業者・相馬愛藏、黒光夫妻の元に集まった芸術家が形成した「中村屋サロン」。荻原守衛、光太郎、柳敬助らとともにその主要メンバーの一人だった、画家の斎藤与里にスポットを当てた企画展です。

斎藤は、岸田劉生、木村荘八、そして光太郎らとともに、文部省美術展覧会(文展)など、アカデミックな権威に対する反抗を旗印とした新進気鋭の美術家達の集まり、「フユウザン会」を結成した一人です。

しかし、なかなかまとめて作品を見られる機会は多くなく、貴重な機会です。

常設展示では、光太郎の油絵「自画像」も並んでいるはず。併せてご覧下さい。

7/15追記 光太郎の油絵「自画像」は並んでいないそうです。すみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月6日

平成17年(2005)の今日、キングレコードから朗読CD「心の本棚~美しい日本語 日本の詩歌 高村光太郎」がリリースされました。

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中井貴一さんによる25篇の詩の朗読が収められています。

一昨日、東京池袋で「東京精神科病院協会 心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」、さらにリブロ池袋本店内のぽえむ・ぱろうるに行った後、JRから地下鉄に乗り換える都合もありまして、巣鴨にも立ち寄りました。

上京した際には複数の用件を済ませるのを基本としており、さらにこのブログのためのネタ拾いという意味合いもあります。

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こちらがかの有名なとげ抜き地蔵・高岩寺さん。巣鴨といえば、「おばあちゃんの原宿」ですが、目的地はこちらではなく、高岩寺さんを横目に中山道(国道17号)を北上、右手の路地を入っていった西巣鴨4丁目にある妙行寺さんというお寺です。こちらの境内に、光雲作の観音像が露座で鎮座なさっているという事だけは知っておりまして、行ってみようと思った次第です。

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めざす妙行寺さんのすぐ近くを、都電荒川線が走っていました。あとで地図を見たところ、巣鴨駅で下りて歩くより、地下鉄三田線の西巣鴨駅、または大塚駅から都電に乗り換え、新庚申塚という駅で下りればすぐでした。巣鴨という地名だけを頼りに、巣鴨駅の近くだろうと、あまり調べもせず行ったので失敗しました。巣鴨駅からはけっこうありました。

さて、妙行寺さん。100㍍ほどのところを国道17号が走っているにもかかわらず、境内は静かな雰囲気でした。本堂やら仏塔やら、いい風情でした。

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目的の光雲作の観音像もすぐに見つかりました。

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光雲作の特徴をよく顕し、優美なお姿です。今年3月に拝観して参りました、紅葉の季節にはライトアップもされる京都・知恩院さんの観音像と相通じる雰囲気です。

しかし、台座の石柱に「うなぎ供養塔」の文字。「なんじゃ、そりゃ?」です。

観音像を含むこの塔が、東京うなぎ蒲焼商組合などの発願で建立されたものでした。細かな場所もそうでしたが、どういう像があるのかもろくに調べずに行ったので、存じませんでした。

台座の側面には、加盟店の名がずらり。

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背面には「原型者 高村光雲先生  鋳造者 渡辺008長男先生  昭和三十五年五月二十日建立」の文字。光雲が歿したのは昭和9年(1934)ですから、歿後かなり経ってから鋳造されたものということになります。そういうケースも少なくないので、この点はあまり意外ではありません。

鋳造者は渡辺長男(おさお)となっています。「あれっ」と思いました。渡辺は日本橋の麒麟などの彫刻を造った彫刻家です。彫刻制作だけでなく、鋳造も手がけていたのか、と思いました。

帰ってから調べてみると、渡辺の義父は岡崎雪声。岡崎は鋳金家で、やはり光雲がらみの楠公銅像や、やはり日本橋の麒麟などの鋳造に携わっています。娘婿の渡辺もそうした関係で鋳造の技術を身につけていたのかも知れません。

しかし、渡辺の没年は昭和27年(1952)。妙行寺さんの「うなぎ供養塔」の建立は昭和35年(1960)。像の鋳造だけは先に行われていたということでしょうか。

目指す観音像を拝観し終え、境内をぶらつきました。すると、こんなものが。

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「四谷怪談お岩様の寺」という碑です。

これも存じませんでしたが、妙行寺さんにはお岩さんの墓があるとのことで、驚きました。歌舞伎などで「四谷怪談」を上演する際には、関係者が必ずお岩さんの墓参りをするという話は聞いたことがありましたが、それがまさかここだとは……。てっきりお岩さんの墓も四谷近辺にあるとばかり思っていました。

やはり帰ってから調べたところ、妙行寺さん、元は四谷の隣の信濃町にあって、明治になってから巣鴨に移転したとのこと。それなら納得です。

光雲作の観音像、うなぎだけでなく、お岩さんの魂も供養していただきたいものです。


この手の光雲が原型を手がけた仏像のたぐいは、都内のあちこちの寺院で見ることが出来ます。浅草寺の沙竭羅龍王像などもその一つ。また折を見て他の寺院の像を拝観し、レポートしたいと思っております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月22日

明治43年(1910)の今日、智恵子が旧制米沢中学の生徒・鈴木謙二郎に宛てて葉書を書きました。

実はねからだがあまり思はしくなかつたのであれから今迄房州に行て居りましたのです 昨夕帰て御はがきを拝見しました さうでしたか けふは廿二日 もう退院なすつたかとも存じますが如何です 其後の御経過はお宜しいですか 其中都合して病院ならば御伺したいと思ますが女は不自由で困ります、まァ折角御摂養して御全快の程祈上ます

鈴木は智恵子の七歳年下。明治40年(1907)、智恵子が父と弟と共に、福島県北部の原釜海岸にあった金波館という旅館での潮湯治(海水浴をそう呼んでいました)逗留中に知り合い、以後、姉弟のように文通をするようになりました。この書簡の「実はね」という書き出しも姉のような雰囲気ですね。

智恵子から鈴木宛の書簡は17通確認されています。智恵子の書簡は70通ほどしか見つかっていません(まだまだどこかに眠っていそうですが)ので、そのうちの17通というのは、かなりのパーセントです。

鈴木はこの時、東京帝大病院の耳鼻科病棟に入院していたとのこと。

昨日、池袋の東京芸術劇場に「東京精神科病院協会 心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」を観に行った足で、同じ池袋の大型書店「リブロ池袋本店」さんに行きました。

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同店は7月20日(月)をもって閉店だそうで、前身の西武ブックセンターが昭和50年(1975)に開店して以来の40年の歴史に幕が閉じられます。以前は西武百貨店池袋店の中にあり、その一角に「ぽえむ・ぱろうる」という詩の本のコーナーがあって、学生時代には時折足を運んでいました。「ああ、そういうコーナー、あったなあ」とご記憶の方も多いのではないでしょうか。

当方、光太郎関連では、思潮社さんから昭和55年(1980)に刊行された『現代詩文庫 1018 高村光太郎』をここで購入した記憶があります。他に当時興味を持っていた故・吉野弘氏、故・川崎洋氏、谷川俊太郎氏の詩集なども。

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「ぽえむ・ぱろうる」は、西武ブックセンターからリブロさんへの移行に伴い、平成18年(2006)にいったんなくなりました。それがこのたび、リブロさんの閉店を受け、ひと月限りの復活となっています。

少し前に自宅兼事務所に届いた練馬の古書店『石神井書林』さんの目録にその旨の記述があって知りました。同店は詩関係の古書が専門です。

調べてみると、今月9日の『朝日新聞』さんの読書面にも記事が載ったらしいのですが、見落としていました。

 閉店が決まった東京・池袋のリブロ本店2階に、詩の本の専門店「ぽえむ・ぱろうる」が9年ぶりに復活しました。7月20日までの期間限定。サイン入り詩集やリトルプレスが平台に置かれ、壁棚には1968年以降の『現代詩手帖(てちょう)』(思潮社)のバックナンバーがずらり。大岡信さんや谷川俊太郎さんらの直筆原稿も展示されています。
 静かな熱気に包まれるなか、谷川さんが43歳の頃に刊行された『定義』(同)が目に留まりました。帯には「詩の曖昧(あいまい)さを突破(つきやぶ)った実験詩集」の一節。詩とは何かを問い続けた詩人は40年後、初の書き下ろし詩集を発表しました。次の面で書評を掲載しています。

商品のラインナップは昔のまま、とは行きませんが、記事にあるとおり、思潮社さんの『現代詩手帖』のバックナンバーがずらりと並んでいたり、懐かしさで胸がいっぱいになりました。

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また、石神井書林さんの商品(古書)も並んでいました。光太郎と仲の良かった木下杢太郎の詩集など、食指が動いたのですが、財布の中身が心許なく、断念。

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さらに帰ってから調べてみると、来週には谷川俊太郎氏のサイン会もあるとのこと。谷川氏、先週はNHKさんの「あさイチ」にもご出演されるなど、御年83歳にしてまだまだお元気ですね。


詩を愛するみなさん、ぜひ足をお運びください。007


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月21日

平成7年(1995)の今日、J-POPバンド・ヤプーズのCDアルバム「HYS」がリリースされました。

ヴォーカルは女優としても活躍されていた戸川純さん。

光太郎の詩「山麓の二人」からのインスパイアで「あたしもうぢき駄目になる」という曲が収められています。智恵子視点の歌詞です。

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新刊です。 

大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣

2015/5/25 奥田万里著 幻戯書房 定価2,000円+税

帯文から

荷風『断腸亭日乗』に記され、杢太郎の詩に詠まれ、晶子がその死を悼んだ男とは?

志賀直哉 吉井勇 北原白秋 小山内薫 高村光太郎 尾竹紅吉 平塚雷鳥 大杉栄 堺利彦 長谷川潔 関根正二 太田黒元雄 ポール・クローデルら文士ばかりでなく、芸術家や社会主義者も集った西洋料理店&カフェ「鴻乃巣」の店主・駒蔵のディレッタントとしての生涯を追った書下ろしノンフィクション。

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「メイゾン鴻乃巣」とは、明治43年(1910)、日本橋小網町に開店した西洋料理店です。のちに日本橋通一丁目、さらに京橋に移転、大正末まで「文化の発信基地」的な役割を担いました。光太郎、北原白秋、木下杢太郎らの芸術運動「パンの会」の会場として使われています。ただし、「パンの会」は案内状まで発送して大々的に行う「大会」と、通常の会の二通りがあり、「メイゾン鴻乃巣」では「大会」は開催されなかったようです(実はこのあたり、同書には勘違いがあって、少し残念です)。

本書はその店主・奥田駒蔵の生涯を追ったノンフィクションです。著者の奥田万里氏は、駒蔵の孫・恵二氏夫人。万里氏から見れば、駒蔵は義祖父ということになります。駒蔵は大正14年(1925)、満43歳で早逝しており、奥田家でも孫の代になるとその業績等、全くといっていいほど不明だったようです。本書は、その駒蔵の生涯を、ご親戚への聞き取りや当時の文献調査などにより、明らかにした労作です。

元は平成20年(2008)、かまくら春秋社からエッセイ集として刊行された『祖父駒蔵と「メイゾン鴻之巣」』。そちらをベースに加筆修正されています。

先月はじめごろ、当会顧問の北川太一先生から、その元版を入手してくれという指示があり、調べてみたところ、月末には新版が刊行されるという情報を得、さっそく北川先生の分と当方の分、2冊予約し、2週間ほど前に届きました。

帯文に光太郎の名がありますが、光太郎もメイゾン鴻之巣によく足を運んでおり、その作品中に登場します。

 飯田町の長田秀雄氏の家の近くの西洋料理店を思ひ出す。ヴエニス風な外梯子のかかつてゐた、船のやうにぐらぐら動く二階で北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇等の諸氏に初めて会つたのだと思ふ。何だか普通の人と違つてゐるので面白かつた。此人達の才気横溢にはびつくりした。負けない気になつて、自分も馬鹿にえらがつたり、大言壮語したり、牛飲馬食したり、通がつたり、青春の精神薄弱さを遺憾なくさらけ出したものだ。真剣と驕飾とが矛盾しつつ合体してゐた。自己解放の一つの形式だつたのだと思ふ。掘留の三州屋の二階。永代橋の橋際の二階。鳥料理都川の女将。浅草のヨカロー。小舟町の鴻乃巣。詩集「思ひ出」。雑誌「方寸」。十二階。
(「パンの会の頃」 昭和2年=1927)

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあつた三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集つたものである。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

奥田さんといふ奇人の創めた小網町河岸のカフエ「鴻の巣」は梁山泊の観があつたし、下町の明治初年情調ある小さな西洋料理店(例へば掘留の三州屋)などを探し出して喜んだりした。
(「あの頃――白秋の印象と思ひ出――」 昭和18年=1943)

相変らず金に困り、困るからなほ飲んだ。鴻乃巣だの、三州屋だの、「空にまつかな雲のいろ」だのといつても、私のは文学的なデカダンではなくて、ほんとに生活そのものが一歩一歩ぐれてゆくやうで、足もとが危険であり、精神が血を吐く思ひであつた。
(「父との関係」 昭和29年=1954)


すぐに思い出したのは以上ですが、精査すればもっとあるかもしれません。


また、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知ったのですが、同店の名物の一つが、ロシアから輸入したというサモワールだったそうです。

その記述を読んで、当方のアンテナが発動しました。「『道程』時代の詩にサモワールが出てきたは004ず」と。調べてみると、明治44年(1911)に書かれた「或日の午後」という詩でした。

     或日の午後

 珈琲(カフエ)は苦く、
 其の味はひ人を笑ふに似たり。

 シヨコラアは甘(あま)く、
 其のかをり世を投げたるが如し。

 ふと眼にうかぶ、
 馬場孤蝶の凄惨なる皮肉の眼(まな)ざし。

 サモワアルの湯気は悲しく、さびしく、完(まつた)くして、
 小さんの白き歯の色を思はしむ。

 此の日つくづく、
 流浪猶太人(ル・ジユイフ・エラン)の痛苦をしのべば――
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 心しみじみ、
 春はいまだ都の屋根に光らず――

 珈琲(カフエ)は苦く、
 シヨコラアは甘し、
 
 倦怠は神経を愛撫す、
 或る日の午後。


雑誌『スバル』に発表された詩です。残念ながら詩集『道程』には採られませんでした。画像は『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』から採らせていただきました。絵画もたしなんだ奥田駒蔵自筆のメイゾン鴻乃巣店内です。サモワールも描かれています。

明治末にサモワールがどの程度普及していたのかよくわかりませんが、「メイゾン鴻乃巣」名物と云われるということは、かなり珍しかったのではないのでしょうか。そうすると、この詩の舞台も「メイゾン鴻乃巣」のように思われます。

これも『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知りましたが、鴻乃巣のサモワールにはこんなエピソードもあります。

やはり明治44年(1911)の雑誌『白樺』の編集後記に、こんな記述があるそうです。

同人の九里四郎は丁度仏蘭西に絵の研究に行つた。お名残の展覧会が琅玕洞で十日斗り開かれてゐた。十七日の日曜日には九里が御ひいきのメーゾン鴻の巣が九里の為めに「雷のやうにピカピカ光るサモワール」を持ち出して御客様に御茶をすゝめた。当日は主人自ら出張してめざましく働いてゐた。

「琅玕洞」は前年に光太郎が神田淡路町に開いた我が国初の画廊です。ただし、この時点では琅玕洞の経営は光太郎の手を離れています。ただ、譲渡後も琅玕洞で自分の個展を開こうとしたり(結局実現せず)しているため、時折足は運んでいたようです。


サモワールがらみでもう一件、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで興味深く思ったことがありました。

佐渡島に住んでいた歌人の渡辺湖畔との関わりです。湖畔は共通の知人であった与謝野夫妻を通じ、大正9年(1920)、駒蔵にサモワール購入の斡旋を頼んだというのです。

「ここで湖畔が出てくるか!」と思いました。湖畔はのち、大正15年(1926)に、光太郎の木彫「蟬」を購入している人物です。その縁で、令甥に当たる和一郎氏ご夫妻は、時折連翹忌にご参加くださっています。


他にもいろいろと、光太郎と奥田駒蔵の関わりがあります。

光太郎が絵を描き、伊上凡骨が彫刻刀をふるった、「メイゾン鴻乃巣」のメニューの存在が、大正2年(1913)9月21日の『東京日日新聞』に紹介されています。これはぜひ見てみたいのですが、現存が確認できていません。当時の雑誌などに口絵の形で載ったものでも……と思って探し続けていますが、いまだに見つかりません。

また、これも、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知ったのですが、大正10年(1921)の新詩社房州旅行に、光太郎智恵子ともども、駒蔵も参加していたそうです。この旅行に関しては、この頃から智恵子の言動が少し異様だったという深尾須磨子の回想が残っています。また、伊上凡骨も此の旅行に参加しています。


とりあえず、光太郎に関わる部分のみを紹介しましたが、全体に非常に面白い内容でした。奥田駒蔵という人物のある意味自由奔放な、しかし世のため人のためといった部分を忘れない生き方、その周辺に集まった人々の人間模様などなど。

さらに、著者の奥田万里氏の調査の過程。当方も光太郎智恵子について、聞き取りやら文献調査やらで同じような経験をしているので、「あるある」と、共感しながら読ませていただきました。ただし、光太郎智恵子については当会顧問の北川太一先生はじめ、先哲の方々の偉大な業績があって、当方はその落ち穂拾い程度ですが、奥田氏の場合、ほぼゼロからのスタート。頭が下がりました。

そして、全編に義祖父・駒蔵へのリスペクトの念が満ち溢れていることにも感心しました。


やはり人を論ずる場合、その人に対するリスペクトが感じられなければ、読んでいて鼻持ちなりません。逆に言えば、「リスペクトの念がないのなら、論じるな」と言いたくなります。

余談になりますが、ある大手老舗出版社が出しているPR誌の今月号に、「智恵子抄」に関するエッセイが載っています。筆者は辛口の批評で知られる文芸評論家のセンセイです。そこには全くといっていいほど、光太郎ら、そこで取り上げている人物に対するリスペクトの念が読み取れません。さらに云うなら、リスペクトの念がないから詳しく調べるということもしないのでしょう、出版事情等に関し、事実誤認だらけです。「○○は、現在××と△△からしか出版されていない」、いやいや「□□と◇◇からもちゃんと出版されているよ、マイナーな出版社のラインナップだけど」と云う感じです。

「解釈」の部分は主観なので、その人の勝手かも知れませんが、客観的な事実の部分までテキトーに書いて、そしてこの方のお家芸(少し前には、光太郎智恵子を取り上げたあるテレビ番組についても、見当外れの罵詈雑言を某新聞の地方版に発表しているようです)ですが、とにかく揚げ足取りや「批判」をしなければ気が済まない、みたいな。その辛口ぶりがかえって新鮮でもてはやされているようですけれど、「それではあなたの仕事が数十年後まで残りますか?」と問いたくなりますね。

むろん、論じる対象に対し、妄信的、狂信的にすべて賞賛すべきとはいいませんが、「リスペクトの念がないのなら、論じるな」です。反面教師とするために論じるというのであれば別かもしれませんが、この人の書き方は揶揄や軽侮が先に立っていて、批判するために批判しているようにしか読めません。

当方、その筆者のセンセイにリスペクトを感じませんので、これ以上は論じません。


閑話休題、リスペクトの念に溢れた『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』、ぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月10日

昭和22年(1947)の今日、日本読書組合から、『宮澤賢治文庫 第三冊』が刊行されました。

第二回配本で、「春と修羅 第二集」。宮澤清六と光太郎の共編、光太郎は装幀、題字と「おぼえ書き」の執筆もしています。

当方手持ちの全6巻は、現在、花巻の高村光太郎記念館にて展示中です。

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現在、武蔵野美術大学美術館さんで開催中の「近代日本彫刻展」の図録が届きました。

先月末、観に行ってきたのですが、その際は図録がまだできていないということで、郵送していただくよう手続きをしておいたものです。表紙は光太郎の木彫「白文鳥」。

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英国のヘンリー・ムーア・インスティテュートとの共同開催で、今年1月から4月までは英国リーズでの開催でした。そこで、半分は英文です。しかし、邦訳も付いているので助かりました。

英国の研究者3名による対談が、非常に興味深く感じられました。3名は、ヘンリー・ムーア・インスティテュート館長のリサ・ルファーブル氏、同館学芸員のソフィー・ライケス氏、そしてロンドン大学教授のエドワード・アーリントン氏。

目から鱗だったのが、西洋諸国には今回出品されているような、動物をモチーフにした小品の彫刻が存在しない、というくだりでした。あちらでは「彫刻」というと偉人などの肖像や人体が基本。動物彫刻もあるにはあっても、ライオンなどの比較的大きな物ばかりだというのです。

ちなみに今回の出品作は、以下の通り。

・「手」 高村光太郎 大正7年(1918) 頃 ブロンズ、木彫(台座部分)
・「白文鳥」 高村光太郎 昭和6年(1931)頃 木彫
・「冬眠」 佐藤朝山  昭和3年(1928) 木彫
・「石に就て」 橋本平八 昭和3年(1928) 木彫/「石に就て」 の原型となった石
・「干物(めざし)」「静物(干物)」「静物(カタクチイワシ)」「静物(豆)」
 「静物(骸)」  横田七郎 昭和3年(1928)~同4年(1929) 木彫
・「蘭者待 模刻」 森川杜園 明治7年(1873) 木彫

さらに英国展では、以下が出品されていました。

・「海老」 水谷鉄也 大正15年(1926) 木彫
・「海幸」 宮本理三郎 制作年不明 木彫

このうち、題名でわかりにくい佐藤朝山の「冬眠」がガマガエル、横田七郎の「静物(骸)」は小鳥の死骸、森川杜園の「蘭奢待 模刻」は正倉院収蔵の香木、宮本理三郎の「海幸」は魚の干物です。

西洋では、こうしたものが彫刻のモチーフになることがない、日本人は「自然」全体からモチーフを採っている、というわけです。


また、唯一、人体をモチーフにした光太郎のブロンズの「手」も、台座の木彫部分とのコラボレーションに、非常に特異なものを感じているようです。


曰く、007

この台は作品の奥深くまで伸びており、作品を直立させています。しかし、手を取り去って台座自身を見てみると、思いがけず素晴らしいものを目にします。(略)台座はそれ自体彫刻なのです。(略)この台は生長する、生きているもののように思われ、木の枝や根あるいは幹に似ています。そして、この有機的な木の土台からブロンズの手が生えているように思えるのです。(ヘンリー・ムーア・インスティテュート学芸員ソフィー・ライケス氏)

図録には、ブロンズ部分を取り去った台座のみの写真も掲載されています。

当方、この状態の実物はまだ見たことがありませんが、いずれそういう機会もあるかと期待はしています。


それから、日本人研究者による論考3本も、なかなかに読みごたえがありました。小平市立平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏の「展示作品の作家について:歴史背景と経歴」、武蔵野美術大学彫刻科教授の黒川弘毅氏による「媒体と素材:リアリズムについての考えの差異」、大分大学教育福祉学部教授の田中修二氏で「日本彫刻への視点:1910年代~1930年代における彫刻家の社会的背景」。


さらに、英国人研究者の論考2本からも彼我の彫刻に対する認識の違いが見て取れます。一例を挙げれば、西洋では「共箱」という概念もないということ。今回、武蔵野美術大学美術館さんでの展示では、光太郎の「白文鳥」の共箱が並んでいましたが、意味もなく並べてあったのではなかったわけです。


その他、近代日本の彫刻史についても随所で触れられ、光雲や荻原守衛などについても記述があります。展示作品以外の図版も豊富。お買い得です。

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武蔵野美術大学美術館さんでの展示は8月16日まで。ただし、「手」が2つ並ぶのは今月20日までです。ぜひ足をお運びいただき、図録もご購入ください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月9日

昭和47年(1972)の今日、この月2日に亡くなった、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝・豊周に、追善のため従四位銀杯一個が贈られました。

先月30日、東京は中野区にある、中西利一郎004氏のお宅にお邪魔して参りました。

氏のお父様は、水彩画家の故・中西利雄氏。小磯良平、猪熊弦一郎らと新制作協会を結成しました。同会は昭和11年(1936)、文部省による美術団体統合に異を唱える若き画家達によって結成された団体。後に佐藤忠良、舟越保武らの彫刻家も同人として加わりました。光太郎自身は加わりませんでしたが、近い位置にいた美術家の団体といえます。

右は2年ほど前に見つけたのですが、同会の機関誌的な雑誌『新制作派』の第5号。昭和15年(1940)の発行です。この中に『高村光太郎全集』未収録の「彫刻について」という短い文章が掲載されています。

そして表紙は中西利雄氏の絵です。

その中西利雄氏は、昭和23年(1948)、数え49歳で早世。その直前に竣工していたアトリエは、使われずじまいだったそうです。

その後、せっかくのアトリエを使わないでおくのももったいないということで、貸しアトリエとして使用。昭和26年(1951)頃には、彫刻家のイサム・ノグチが借りています。ノグチはその頃、昨年亡くなった李香蘭こと山口淑子さんと結婚していました。ただし、ノグチ夫妻はここに居住はしていなかったそうです。

その後、昭和27年(1952)の秋から、昭和31年(1956)4月2日まで(途中、一時的に岩手に帰ったり、赤坂山王病院に入院したりした時期もありますが)、花巻郊外太田村から出てきた光太郎がここに居住。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が制作されました。

裸婦像完成後は再び太田村に帰るつもりでいた光太郎ですが、健康状態がそれを許しませんでした。昭和28年(1953)に一時的に太田村に帰ったものの、また上京、以後、太田村には戻れませんでした。

さらに、光太郎歿後約1年、ここで最初の『高村光太郎全集』の編集が行われました。中心になったのは、当会顧問・北川太一先生、そして草野心平。そして当会の運営する連翹忌の第1回(昭和32年=1957)も、ここで行われています。

さて、中西家アトリエ訪問。当方、外から拝見したことは以前にもあったのですが、中に入れていただいたのは初めてでした。当主の利一郎氏が時折連翹忌にご参加下さっていて、「見にいらっしゃい」的なことをおっしゃってくださっていたのですが、中々機会がありませんでした。

利一郎氏、ひさしぶりに今年の連翹忌にご参加下さり、さらに連翹忌ご常連で、智恵子の学んだ太平洋画会会員の坂本富江さんを交え、今回の訪問が実現しました。

坂本さんとJR中野駅で待ち合わせ、記憶を頼りに歩くこと約10分で到着。

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上記3枚は裏からの眺めです。

表に回るとこうです。住宅密集地なので、超広角レンズでも使わないと全体像はうまく撮影できません。

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訪いを告げ、敷地に入れていただきました。

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瀟洒な建物ですが、もう築70年ほどになりますから、やはり傷みが見られます。

そしていよいよ内部へ。

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故・髙村規氏撮影の光太郎の遺影が出迎えてくれました。

こちらは『高村光太郎全集』に掲載されているアトリエ内部の図面です。

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基本的にはこの通りのままでした。ただし、光太郎が使っていた彫刻の道具類、家具類、身の回りの物などはほとんど残っていません。また、やはり超広角レンズでもなければ全体像は撮れません。

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このあたりに制作中の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が立っていました。

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窓は北向き。造形作家のアトリエでは基本です。

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ここに光太郎が起居し、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り、そして最期の時を迎えたかと思うと、「感慨深い」どころではありませんでした。やはりその場所の空気に触れることで、見えてくるものがあります。何が見えたかというと、うまく言葉で表せませんが。

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その後、当時の写真、光太郎が遺した中西利雄夫人宛の書簡、夫人に託した買い物メモなどを拝見しました。いずれも活字になったものやコピー、画像等は拝見したことがありますが、実物は初めてでした。また、光太郎が当時中学生の利一郎氏にくれたお年玉ののし袋――原稿用紙を折りたたんで作り「のし」と書いたもの――には、思わず笑いました。

というわけで、有意義な訪問でした。

しかし、中西家としては、いろいろ課題もあります。やはり築70年ほどで傷みの目立つこの建物を、今後どうするかという問題。あくまで中西利雄のアトリエであって、光太郎のアトリエというわけではないということもありますし。

花巻郊外旧太田村の山小屋は、中尊寺金色堂のように套屋で覆って保存されています。また、福島二本松の智恵子の生家は、大規模補修復元工事を入れました。そうなると、個人の力では不可能ですね。「色即是空」「諸行無常」とは申しますが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月8日

昭和20年(1945)の今日、疎開していた花巻の宮澤家で、水彩画「牡丹」を描きました。

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後に花巻病院長・佐藤隆房に送られたこの絵は、現存が確認されている中で、日本画を除いて最大の水彩画です。他にも同様の作品がこの時期に描かれましたが、他は8月10日の花巻空襲の際に焼けてしまいました。

現在、この絵は花巻高村光太郎記念館で開催中の企画展「山居七年」で展示中です。

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