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光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になる中野区の中西利雄アトリエの保存運動の関係です。

1月に『東京新聞』さん、2月には『読売新聞』さんが報じて下さいまして、保存に向けての関係者会合を既に3回行いました。ちなみに会の代表には、亡きお父さまが光太郎と交流がおありだった、劇作家・女優の渡辺えりさんにお願いしました。

その席上、中野区やその周辺にご在住の方々から「中野にこういう建築が残っているとは知らなかった」という声も聞かれました。さらに「知らない人が多いだろう」とも。確かにそうでしょう。現在は単に民家の敷地の一部に建っているだけで、外部に説明板やらは設置されていませんし、一般公開も基本的には行っていませんので。

ただ、『東京新聞』さんや『読売新聞』さんの記事で、関心を持って下さった方も少なからずいらっしゃるようで、中には保存運動に関わりたいと申し出て下さって、会合に参加されるようになった方もいらっしゃいます。ありがたいかぎりです。

また、先日、会のメンバーの方から、中野区内のギャラリー兼カフェの入口に『東京新聞』さんの記事が貼られてあるのをたまたま見かけた、と、画像入りでお知らせを頂きました。これも実にありがたく存じました。
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茶房・靑蛾さん。東中野です。元々は戦後すぐに新宿で喫茶店として開業されたお店ですが、創業者の方の没後、中野に移転してギャラリーのみだったのが、近年、茶房としても復活されたとのこと。

その創業者のご息女に当たる方、令和2年(2020)に、光太郎から実弟の道利に宛てたローマからの絵はがき(明治42年=1909)を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈下さいました。こちらは一昨年、同館で開催された企画展示「光太郎、海を航る」の際に展示されました。

そういう方のお店ですので、光太郎関連、これは、ということで記事を掲げて下さっているようです。

それにしても、アトリエ保存、なかなか難しい問題です。単に建物を修復して保存する、というだけではただ建物の寿命を延ばすだけで、いずれまたどうするかということになってしまいます。修復・保存した上で「活用」の方法などを考えて行かなくてはなりません。

もはや個人でどうこうできるレベルではなく、そうなると、行政の支援がほしいところです。理想を言えば敷地ごと区が買い取って下さって、区立のなにがしかの施設として運営していただくという方法(区立が不可能なら、NPO法人さんなどに委ねることもありましょうが)、或いは現地での保存が無理ということであれば、次善の策ですが、移転しての保存、活用。それにしても支援を受けたく存じます。

幸い、区議さんの中には理解を示して下さり、区への働きかけを少しずつ進められている方もいらっしゃるとのこと。

それでも、「この建物を残すとことについて、これだけたくさんの人々の声が上がっていますよ」という後ろ盾が無ければ、というお話です。

そこで、会として署名を集め始めています。当会としましても、4月2日(火)に開催いたしました連翹忌にご参集下さった皆さんに用紙を配付したり、その際にご欠席だった関係の方々や、全国の少しでも光太郎に関わりのありそうな文学館さん/美術館さんなどに用紙を発送したりいたしました。また、4月22日(月)の、信州安曇野での碌山忌にお集まりの方々に署名していただいております。

さらに、署名を集めたいと存じますので、ご賛同下さる方は、下記画像をプリントアウトしてご協力下さい。アナログで申し訳ありませんが、手書きでお願いいたします。電子署名、PDF形式でフォーマットを引っぱり出すなどということが、このサイトでは不可能でして。いずれ会としてのHPを立ち上げ、そちらからいろいろできるようにすることになると思うのですが、それまでの繋ぎです。
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手書きでご署名下さいましたら、可能な方はスキャンしていただき、メールの添付ファイルで、そうでない方はFAXや郵送で、とりまとめ役の曽我貢誠氏(日本詩人クラブ理事)までお願いいたします。宛先は用紙の下部に記入してあります。特に〆切り等は設けておりません。

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

姉の命日には焼香、取り立ての胡瓜茄子等供へました。 今年は母の廿三回忌なので十月九日松庵寺で法要を営みます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

光太郎には姉が二人いましたが、いずれも早世しています。ここでいう「姉」は、長姉・さく(咲/咲子とも)。光太郎より6歳年長でした。狩野派の日本画を学び、かなりの腕前で将来を嘱望されていましたが、明治25年(1892)、数え16歳で病没しました。さくの描いた幼き日の光太郎像が現存しています。
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50年以上前の姉の命日やら、母の回忌までよく記憶しているものだと思いました。父・光雲には芸術上の行き方で反発することが多かった光太郎ですが、そういった部分を抜きにすれば家族思いだったことがうかがえます。

都内から演奏会情報です。

大阪コレギウム・ムジクム演奏会 大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団第21回東京定期公演

期 日 : 2024年4月29日(月・祝)
会 場 : 第一生命ホール 東京都中央区晴海1-8-9 晴海トリトンスクエア内
時 間 : 午後2:30開演(午後2:00開場)
料 金 : 全席指定 S席 ¥5,500 A席 ¥4,500 B席 ¥3,000
      学生 ¥1,800(当日¥2,000) 高校生以下 ¥800(当日¥1,000)
      ライブ配信チケット料金 2,000円 + システム利用料220円

こころ通う仲間がいる こころ動く音がある
大阪の地に育まれて49年。音楽と、人との出会いに導かれて演奏を続けています。今回は、木下氏、昨年惜しくも亡くなられた西村氏の人気の合唱作品に加え、ベートーヴェンの名曲の“本歌取り”が驚きと感動を呼ぶ千原氏の最近作をご紹介します。指揮者・當間修一とともに時を重ね、互いを信頼し合うメンバーが音楽の力を信じて奏でるアンサンブルが、どうか皆さまのこころに届きますように。

指 揮 : 當間 修一
ピアノ : 木下 亜子
室内楽 : シンフォニア・コレギウムOSAKA

曲 目

 木下牧子 珠玉のア・カペラ コーラス セレクション
  女声合唱曲「めばえ」〔詩:みずかみかずよ〕
  男声合唱曲「恋のない日」〔詩:堀口大学〕
  混声合唱曲「44わのべにすずめ」〔原詩:ダニエル・ハルムス 訳詩:羽仁協子〕
  混声合唱曲「祝福」〔詩:池澤夏樹〕  ほか
 千原英喜
  ピアノと7楽器のためのコンチェルティーノ
   ベートヴェニアーナ“明けない夜はない”【関東初演】
    ピアノ:木下亜子 ヴァイオリン:森田玲子・中前晴美 
    ヴィオラ:神谷将輝・澤井杏
 チェロ:大木愛一・柳瀬史佳 
    クラリネット:鈴木祐子 ホルン:椋橋基博
    ファゴット:渡邊悦朗 ティンパニ:高鍋歩
 西村朗
  混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」〔詩:高村光太郎〕
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昨年亡くなった西村朗氏作曲の「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」がプログラムに入っています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間「道程復元版」の事で更科君と真壁君と同道で来られました。


昭和22年(1947)7月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

002詩集『道程』は、大正3年(1914)に初版が抒情詩社から刊行された後、売れ残りの残本を改装し奥付だけ変えた再版(国会図書館さんのデジタルデータで見られるのはこれです)が数回出されました。その後、昭和15年(1940)に山雅房から「改訂版」が三種(百五十部限定版/書店版/普及版)、戦時中の昭和20年(1945)1月には青磁社から「再訂版」が上梓されました。

それらも書店の店頭から消えていたこの時期、青磁社の札幌支社的な札幌青磁社から「復元版」が刊行。「改訂版」「再訂版」が初版と詩の選択が異なっていたのに対し、こちらは初版の内容の復元を図ったものでした。奥付では6月の発行となっていますが、東京本社と札幌青磁社との間でのゴタゴタもあったらしく、実際にはずれ込んだようです。そのため札幌青磁社に勤務していた更科源蔵が、友人の真壁仁を伴って弁明に訪れたと思われます。

昨日は光太郎忌日、第68回の連翹忌でした。『東京新聞』さんで取り上げて下さいました。
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午後5:30から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷公園松本楼さんにて、全国の関係の方々に集まっていただき、集いを催しました。
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その前に、毎年のルーティンですが、晩年の光太郎に親炙し、その歿後は永らく連翹忌を主宰なさっていた故・北川太一先生と奥様の節子先生のお墓に詣でました。文京区の浄心寺さん、桜のお寺として有名です。
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さらに都立染井霊園の髙村家墓所に参拝。それぞれのお墓に連翹の花を手向け、香を焚き、「本日、第68回をやります。」とご報告。
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染井霊園の桜。
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そして日比谷公園。
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集いの開会は午後5:30の予定でしたが、その前に配付資料の袋詰めや参会の皆様のネームプレートなどの準備。多くの方々にお手伝いいただきまして、スムーズに進みました。感謝に堪えません。

光太郎遺影をセット。
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毎年、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏撮影およびプリントの写真を、北川先生から受け継いだ当方が持参して飾っていたのですが、昨日は愛車に積み忘れ、「やべっ」(笑)。それに気づいたのが浄心寺さんで車内から線香をガサガサ探していた時で、慌てて規氏子息の達氏に「面目ありません、遺影を置いてきてしまいましたので、お宅にあれば持ってきて下さい」とメール。幸い、立派な額装のものをお持ち下さいまして、ことなきを得ました。

さて、開会。当方の開会宣言の後、光太郎に、そしてこの一年に亡くなられた関係の皆様に、黙祷。続いて、達氏に音頭を取っていただいて、献杯。
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ビュッフェ形式にて会食。
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お集まりいただいた70余名の皆様の中から、10名ほどにスピーチをお願いいたしました。

トップバッターは女優・一色采子さん。令和3年(2021)同4年(2022)、北條秀司作の「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を務められました。お父さまの故・大山忠作画伯は智恵子と同郷で、智恵子を描いた作品も複数。采子さんが名誉館長を務められる二本松の大山忠作美術館さんで、画伯渾身の大作・成田山新勝寺さんの襖絵を今秋展示されるということで、その宣伝。
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二本松で活動されている智恵子の顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」熊谷代表。今年度の顕彰活動予定を。
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ちなみに昨日、東北新幹線が工事用車両の故障とかで大幅にダイヤが乱れ(JR東日本さん、最近グッダグダですね。企業体質として何か大きな問題があるのではないでしょうか)、同会の皆さん8名もご参加いただきましたが、在来線で上京なさったとのこと。大変でした。

今年元日の能登半島地震で大きな被害のあった富山県からいらしてくださった、茶山千恵子氏と森寛子氏。茶山氏は今秋、「ひとり芝居 智恵子抄」を都内で公演なさるそうで。
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花巻高村光太郎記念館さんの梅原奈美館長。北東北の皆さんは昼頃復旧した新幹線で来ることができたそうです。
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中国からの留学生の唐昆宇さん。一橋大学さんで光太郎について学ばれているそうで。素晴らしい!

この3月で神奈川県立近代美術館館長を退任なさった水沢勉氏。
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早世した荻原守衛を除き、唯一光太郎が高く評価した同時代の彫刻家・高田博厚を顕彰する活動を進められている埼玉県東松山市教育委員会の柳沢知孝氏。

昨年、中野区で開催された朗読公演「くつろぎの朗読」で「智恵子抄」を朗読して下さった出口佳代氏。それからやはり昨年、横浜で「智恵子抄」を箏曲で演じられた元井美智子氏。
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智恵子や荻原守衛も学んだ太平洋画会(現・太平洋美術会)の坂本富江氏。同会、今年で創立120周年だそうです。
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そして、お父さまが光太郎と交流がおありだった、ご存じ渡辺えりさん。
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えりさんには昨年に引き続き光太郎詩朗読もお願いしておきました。

光太郎終焉の地にして記念すべき第一回連翹忌会場ともなった中野の中西利雄アトリエ保存運動にも関わっていただいておりますので、その中野のアトリエで作られた詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)。やはり中野のアトリエで作られた生涯最後の大作「乙女の像」に寄せた詩です。
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それを受けて、日本詩人クラブの曽我貢誠氏。アトリエ保存運動の中心メンバーで、その件を熱く語って下さいました。あまりに熱き語り口で、写真を撮るのを忘れてしまいました(笑)。
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さらに同じ件で、やはり保存運動に関わられている櫻井美佐氏。光太郎実弟・豊周の令孫です。直接生前の光太郎をご存じのお母さまはご存命ですが、連翹忌にはしばらくいらしていません。

そんなこんなで午後8:00、予定通り閉会。

たくさんの方々のご協力により、つつがなく終えることができました。ありがとうございました。

先日も書きましたが、昨夜は連翹忌史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなりました。そして中野のアトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるところです。

今後とも皆様方のご協力を仰ぎつつ、顕彰活動を進めて参ります。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

東京はもう春になつた由、こちらはまだですが、雪の下からフキの花が出てきました。此辺ではバツケと言ひます。


昭和22年(1947)4月6日 髙村珊子宛書簡より 光太郎65歳

当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、都内の実姪に送った絵手紙の一節です。
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今年も4月2日、光太郎の命日が巡って参りました。

朝鮮戦争による特需景気、その後の神武景気を経て、前年のGDPが戦前の水準を上回り、政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言し、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞受賞、「太陽族」の語が流行語となった昭和31年(1956)。その4月2日(月)、不世出の巨人・高村光太郎は天然の素中に還っていきました。

その終焉の地、中野区の中西利雄アトリエの大家(おおや)だった中西夫人、故・富江氏の回想。

 先生が私の家に来られたその翌年の正月、十和田湖の彫刻の仕事に打込んでいられた時のことでしたが、ちようど正月の仕事始めをなさるその日に雪が降りました。「これは縁起がいい」と先生がつぶやかれたのを覚えています。雪の白さに先生は天啓のようなものを感じられたのでしょうか。子どものころ雪が降ると湧きたつたあのうれしさ楽しさ、そんなものを先生はやはり心のどこかにもつていられたに違いありません。
 そして、あの四月二日未明は十何年ぶりとかの春雪にこの地上は祝福されていたのでした。先生のいわれたあの言葉。縁起がいいというあのお言葉のままに、先生は白い清らかな雪に迎えられて、この地上から旅立たれて行かれたのでした。
 あの時、アトリエからのベルに飛び起きました。あまりの衝撃に私は気を失わんばかりでした。膝はガクガクふるえ、羽織を着る手もふるえて手間どつたように思い出されます。廊下から飛び出すようにして雪に包まれた庭を敷石伝いに走りながら「どうかご無事でありますように」と心の中で私は祈り続けました。
 アトリエに入ると、看護婦さんが、私をみるなり「もう駄目ですよ」と言いました。それは暗い暗い深いおとし穴に突き落とされた瞬間でした。
 ベッドにかけつけた時の先生のお痛ましいお姿、前の晩から、よほど苦しかつたとみえて、酸素吸入をしたいとご自分から云い出された先生。吸入器をつけて、ずい分お苦しかったことでしよう。
 かすかな息づかいの中で……あのひと息ごとにうなるようにしていられた声も今は立てられず……それから間もなく本当に静かに、素直に、大きな自然の中へ帰つて行かれたのでした。
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 いよいよ重態になられてからも、看護婦さんや家政婦さんの喰べるものまでも心配されていたことなど、最後まで意識がはつきりしておられた先生のお言葉が未だに私の脳裡をはなれません。
 あれからもう一と月経ちました。高村先生がお好きだつたれんぎようの美しい花もすつかり散り、燃えるような新緑が五月の風にそよいでいます。母屋からアトリエに通ずる庭の石ダタミの道。お元気だつたころは、よく夕方、母屋でお湯を使つてから、タオルと石ケンを片手に、ゆらりゆらりとアトリエに帰つて行かれるその後姿が、まるで昨日のことのように思いおこされます。……その道も今は樹々の緑におおわれて、緑のトンネルのようになつています。私の心の中で、肩を落として背を丸められた丹前姿の先生が小さく……だんだん小さく緑の中に遠ざかつて行きます。
 尾崎喜八さんが弔辞の中でお話しになつたように、もう一度こちらを振返えつて、あの大きなお手をふつて下されば……などと時折考えたりいたしております。
(「中野アトリエの高村先生」 『高村光太郎と智恵子』草野心平編 筑摩書房 昭和34年=1959) 
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胸打たれる文章ですね。

1年後の昭和32年(1957)4月2日(火)、記念すべき第一回連翹忌も、終焉の地・中西利雄アトリエで行われました。以後、いろいろな場所に会場を変え、平成11年(1999)の第43回から、現在と同じ、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんでの開催となっています。

本日も午後5:30開会で、全国から光太郎智恵子を敬愛する方々70名超にお集まりいただき、連翹忌の集いを開催いたします。

昨年、コロナ禍も漸く沈静化し、4年ぶりに第67回連翹忌を開催致しましたが、今年もつつがなく執り行うことができそうで、喜びに堪えません。

今回の連翹忌は、その史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなります。そしてやはり今回、光太郎終焉の地にして記念すべき第1回連翹忌会場となった中野区の中西利雄アトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるのかと考える次第であります。

皆様方におかれましても、それぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければ幸いに存じます。

【折々のことば・光太郎】

もう雪解の季節になりました。今日は猛烈な風で山林が鳴動してゐます。

昭和22年(1947)4月2日 安藤一郎宛書簡より 光太郎65歳

ちょうど亡くなる9年前、当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋からの発信です。

都内から個展の情報です。

ASAKO展 春、在りし日、過ぎし日

期 日 : 2024年4月5日(金)~7日(日)、4月12日(金)~14日(日)
会 場 : デザイン&ギャラリー装丁夜話
       東京都渋谷区神宮前1-2-9 原宿木多マンション103
時 間 : 12:00~19:00
料 金 : 無料

墨画、水彩画などの絵で活動し、たくさんの人に絵画を教えるASAKOさんは今回が初個展。高村光太郎や中原中也の詩を元に作品集を作りました。

ASAKOさんメッセージ
中原中也、高村光太郎、芥川龍之介の詩に、絵を添えた作品集と原画を準備致しました。在廊しております。桜、お花見のついでにお寄りくださいませ。
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今月、「レモン哀歌」もモチーフとして使われた「星センセイと一郎くんと珈琲」展を開催して下さった、ギャラリー装丁夜話さんで、またしても光太郎インスパイアの作品が出ます。おそらくたまたまなのでしょうが、それだけ現代の作家さんの中にも光太郎オマージュの精神が浸透しているということなのかなと存じ、ありがたいかぎりです。

ASAKO氏、ご本名と思われる「井出朝子」クレジットで『琥珀糖』という画集も出される由、その出版記念的な要素もある個展なのでしょうか。
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おそらく会場で販売されるのではないでしょうか。

当方、昨日ご紹介した「旧平櫛田中邸 de タコダンス」と併せてお伺いする予定です。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】001

今日は三月十三日、いかにも誕生日らしく、連日の雪がはれて今朝は朝日が雪の上にまばゆく輝き三尺もある軒のツララが日にとけて落ちる音がしてゐます。

昭和22年(1947)3月13日
椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

満65歳となった日の書簡です。便箋代わりに原稿用紙を使っていますが、その上部余白には氷柱の絵。ほんとうに天性の芸術家だったんだな、と改めて思わせられます。

昨日も上京しておりました。目的地は台東区上野の落語協会さん。
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こちらで開催された「彌生・初演の会」拝聴のためです。
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「初演の会」は毎月開かれているようで、「初演」ですから古典ではなく創作落語。昨日は鈴々舎馬桜師匠による「高村光雲」が初演されました。
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光太郎の父・光雲の談話筆記になる『光雲懐古談』を読まれた馬桜師匠が、その落語的面白さや光雲の江戸っ子的テイストなどを創作落語に出来ないか? と考えられての試みでした。

前半は『光雲懐古談』にある、光雲少年時代(まだ幕末)、ひょんなことから当代一の仏師・高村東雲の元に弟子入りすることになったくだり、修業時代に端材で彫った鼠の木彫が高僧の目にとまり、思いがけず買い上げて貰ったエピソードなど。

後半は上野ということで、光雲が主任となって東京美術学校総出で制作された上野公園の西郷隆盛像について。『光雲懐古談』には西郷像の話は出て来ませんので、他の資料をベースに、馬桜師匠が「こんなこともあったんじゃないか」という想像です。岡倉天心、勝海舟、伊藤博文、岩崎久弥、果ては明治天皇まで登場し、歴史好きにはたまらないでしょう。

ちなみに『光雲懐古談』では西郷像の件は語られていませんが大正12年(1923)に刊行された『南洲手抄言志録解』(馬場禄郎編・一指園)、昭和9年(1934)1月7日の『小樽新聞』に光雲の苦心談が語られています。共に当会発行・当方編集の『光太郎資料』第59集に載せておきました。

他の演目は、以下の通り。

やはり馬桜師匠による「宿題三題噺」。毎月の「初演の会」で、その時のお客さんから「題」を預かり、翌月までに一つの噺にまとめて披露するというもの。お題は「①大谷翔平」「②金持ち喧嘩せず」「③花見酒」。当初予定では他の噺家さんの担当だったそうですが、急遽、馬桜師匠が代役を務められました。来月分の「題」もこの日のお客さんから募り、当方以外は皆常連さんやご同業の方だったようで、いろいろ無茶振りが提案されていました(笑)。

林家たたみさんによる上方古典落語「花筏」。まだ前座の方だそうでしたが、かえってその初々しい感じに好感が持てました。

桂右團治さんで「心眼」。右團治さん、現代の落語界に詳しくない当方、そのお名前から当然男性だろうと勝手に思い込んでいましたが、囃子とともに出ていらしたのが女性だったので驚きました。落語芸術協会さんで初の女性真打だそうでした。「心眼」は光雲が(息子の光太郎も)ファンだった三遊亭圓朝が明治期に作ったものだそうで、奇縁に驚きました。

さて、馬桜師匠の「高村光雲」。来月、また高座にかかります。

山野楽器落語の一日 第二部 熱血・若手落語会

期 日 : 2024年4月5日(金)
会 場 : ヤマノミュージックサロン池袋 東京都豊島区南池袋1-19-5
時 間 : 15:00~17:00
料 金 : 2,000円

番組
 |、牛ほめ     台所おさん
 |、高村光雲    鈴々舎馬桜
 |、饅頭怖い    林家たこ蔵
 |、百年目     鈴々舎馬るこ

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

予定の彫刻はまづ潺湲楼の額を彫り、次に椿材で帯留を一ツ彫り、これは院長さんの夫人に献ずるつもり。それから小木彫と粘土の裸像、これは智恵子観音の原型。

昭和22年(1947)2月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活、まだこの頃は戦争協力を恥じ、自らに罰を与える彫刻封印という考えには至っていなかったようです。

「潺湲楼」は山小屋に移る前に厄介になっていた総合花巻病院長・佐藤隆房邸離れ。光太郎が命名し、佐藤が「ではその文字を彫って下さい」と板を用意し、制作を始めましたました。しかし、結局途中で放棄してしまいます。
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「帯留」も佐藤家には見あたらないとのこと。ところが昨年、宮沢賢治実弟の清六夫人に送られていたことが判明し、仰天しました。しかし、戦後のドサクサで現物は残っていないということでした。

「智恵子観音」は形を変え、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として昭和28年(1953)に結実します。

昨日は都内に出ておりました。メインの目的は銀座王子ホールさんで開催された「朝岡真木子歌曲コンサート 第7回」

そちらが午後2時開演でしたので、その前に駒場の日本近代文学館さんで調べもの。
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国立国会図書館さんのデジタルコレクションリニューアルに伴い、自宅兼事務所に居ながらにして、未知の光太郎作品等の発見が相次ぎました。ただ、新たに公開されたデータの数が膨大なので、未だ調査中です。しかも自宅兼事務所のPCでは見られない「国会図書館内限定」というデータも多く、同館に出向いての閲覧も行っていますが、昨日は祝日で同館が休館。そこで、目星を付けておいた資料のうち、日本近代文学館さんにも所蔵があるものを閲覧させていただこうというわけです。

しかし、ほとんどは空振りでした。

たとえば国会図書館さんのデジコレ検索画面でこういう情報が。
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雑誌『少年倶楽部』。同誌に載った既知のものは大正15年(1926)の詩「路ばた」しかありません。そこへ来てこういう情報が出て来ると、それ以前の大正8年(1919)に「我美術界の将来」と題する文章が掲載されているかも、と思うわけです。当方作成の光太郎文筆作品等リストに「我美術界の将来」という作品はありません。期待が高まります。

ところが、実際に『少年倶楽部』の当該ページを見ると、同じ講談社発行の雑誌『雄弁』の広告。では『雄弁』に「我美術界の将来」という文章が掲載されているかというと、当該号に載っているのは「戦後の我が芸術界」。既知の作品です。広告と実際のものとで題名が変わっているわけです。よくある話ではあります。ちなみに「戦後」は「第一次世界大戦後」の意です。

それからこんなケース。
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これは当初から広告だろうとわかりましたが、「高村光太郎氏曰く」とあるので、その後に光太郎の文章が続いているはず。たしかに以下の通り、光太郎の文章がありました。
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この手の広告に載った短評で、未知のものの発見が昨年相次ぎましたので、「よっしゃ!」と思ったのもつかの間、これは雑誌『詩神』に載った既知の「田中清一詩集『永遠への思慕』読後感」からの転載でした。

こんな感じばかりでしたが、こんなことでめげていられません。今後も鋭意調査を継続します。

さて、その後、銀座王子ホールさんに移動。
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メインの目的、「朝岡真木子歌曲コンサート 第7回」を拝聴。
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光太郎詩をテキストに「組曲 智惠子抄」を作曲なさった作曲家・朝岡真木子氏の作品集が演奏されるコンサートで、ピアノは朝岡氏ご自身です。

今回は、昨秋開催された「福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~」で初演された「冬が来た」が、バリトンの馬場眞二氏の歌唱で演奏されました。女声による演奏もいいのですが、硬質な「冬」を謳い上げた詩ですので、男声の響きが非常にマッチしていた感じでした。

   冬が来た
 
 きつぱりと冬が来た
 八つ手の白い花も消え
 公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

 きりきりともみ込むやうな冬が来た
 人にいやがられる冬
 草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
 冬よ
 僕に来い、僕に来い
 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
 しみ透れ、つきぬけ
 火事を出せ、雪で埋めろ
 刃物のやうな冬が来た

その他、現代詩人の皆さんの作品に曲を付けられた作品など。かつて「組曲 智惠子抄」をリサイタルで取り上げられたり、CD化なさったりした清水邦子氏もご登場。毎回そうですが、その詩人の皆さんの何人かもご来場なさっていました。

終演後のホワイエ。

朝岡氏。
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清水氏、馬場氏。
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今後とも皆様がご活躍されることをを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

人から貰つた青竹の火吹竹を割つて茶杓をつくるつもりです。畳目十三本の長さにして火だめにしませう。銘を「火ふき」とつけます。火ふきは火吹きでもあり、又火噴きでもあります。光太郎好みの形にします。


昭和22年(1947)2月4日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村での7年間の蟄居生活中、作品として発表した彫刻は1点も作りませんでしたが、こうした身の回りのものは自作していたようです。

そろそろ桜便りも届き始めていますね。それに合わせて全国各地で夜間ライトアップ等が催されます。光雲、光太郎ゆかりの場所でのそれをご紹介します。

まず京都。光太郎の父・光雲が主任となって原型を制作した鋳銅の聖観音像(露座)もライトアップされます。

春のライトアップ2024

期 間 : 2024年3月23日(土)~4月3日(水)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑 国宝三門周辺 女坂 国宝御影堂 阿弥陀堂(外観のみ) 大鐘楼
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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御影堂(国宝)
寛永16(1639)年、徳川家光公によって再建されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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大鐘楼(重要文化財)
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし テーマ『一心に専(もっぱ)ら』~開宗850年への思い~
手の正しい合わせ方が分からない。仏教の話は難しそう…。お坊さんの話を今まで聞いたことがない。どのようなお方も大歓迎です! 気軽に御影堂へいらしてください。正座じゃなくて大丈夫です。椅子席もありますよ! お話の後、木魚にふれ「南無阿弥陀仏」とお称えする、木魚念仏体験の時間があります。日常を忘れ、心静かなひとときを味わってみませんか?
開始時間:18:00~ 18:45~ 19:30~ 20:15~(各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)
知恩院七不思議のひとつ「忘れ傘」をモチーフにした缶バッジを参加者全員に差し上げます!(無くなり次第終了)
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月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内!1時間30分たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:毎夜開催
 開始時間:17:45~/19:30~
 所要時間:約1時間30分
 定員:各回30名様まで
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。料金は拝観受付にてお支払いください。
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ライトアップ同時開催企画展示
 「鬼より強い守り神」 3月23日(土) ~ 3月27日(水)
  吉田瑞希・陶芸家
  「鍾馗(しょうき)」という中国から日本に伝わってきた、屋根に佇む魔除けの神様。
  友禅苑 茶室「白寿庵」(23日(土)・24日(日)のみ)、茶室「華麓庵」
 「千代紙の色とデザイン」 3月29日(金) ~ 3月31日(日)
  REKAO 桜柄の千代紙の屏風や、14枚の型で染め上げられた椿柄の屏風等を展示。
  友禅苑 茶室「華麓庵」
  REKAOの千代紙を使った御朱印帳を御朱印所にて販売します。
  販売日:3月23日(土)、24日(日)、29日(金)、30日(土)、31日(日)
 「花明 Ceramic × Scissors Vol.2」 3月29日(金) ~ 3月31日(日)
  林侑子・陶芸家
  土をハサミで切る、新しい装飾技法から生まれる土鋏作品を展示します。
  友禅苑 茶室「白寿庵」
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関連行事等も充実していますね。

もう1件、光雲、光太郎、そして智恵子らが眠る髙村家墓所のある、駒込染井霊園です。

染井霊園ライトアップ

期 日 : 2024年3月23日(土)~4月7日(日)
会 場 : 都立染井霊園 東京都豊島区駒込5-5-1
時 間 : 17:30~20:00
料 金 : 無料

園内には約100万本ものソメイヨシノが植えられ、高村光太郎、智恵子をはじめ、岡倉天心、二葉亭四迷など多くの偉人が眠っています。開花の時期には園内が一部ライトアップされ幻想的な夜桜を楽しめます。
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このブログでご紹介するのは今年が初めてですが、「染井よしの桜まつり」の一環としてかなり前から行われていたようです。今年は案内に「高村光太郎、智恵子」とあったのでこちらの検索網に引っかかりました。

夜の霊園で、というとちょっと怖いかなと思われる向きもいらっしゃるかもしれませんが、染井霊園、きれいに整備され、いわゆる「墓場」という感じではありません。

そして何と言ってもこの辺り一帯、ソメイヨシノの発祥の地です。そう思って見ると、また格別なのではないでしょうか。

それぞれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

入口の戸は夜になると凍りついて中々開きません。急須の蓋も凍りついて、湯を上からかけないととれません。


昭和22年(1947)2月3日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋、前年の冬よりは寒くなかったそうですが、それでもこういうありさまでした。

落語の公演情報です。

彌生・初演の会 =お楽しみ宿題三題噺=

期 日 : 2024年3月23日(土)
会 場 : 一般社団法人落語協会 東京都台東区上野1-9-5
時 間 : 開場 17:10 開演 17:30
料 金 : 1,500円

番組
|、宿題三題噺 林家たま平
|、名人傳   鈴々舎馬桜
|、相撲風景  林家たま平
|、心眼    桂右團治

馬桜:名人傳は、創作落語になるか?「浜野矩髄」に成ります。

@終演後、反省会を兼ねた懇親会が有ります。参加費:3000円前後 村役場です。

宿題三題は、2月24日の初演の会で題を頂きます。

メール予約:baorin@reireisha.com

鈴々舎馬桜師匠の「名人傳」が、光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)からのインスパイアだそうです。

『光雲懐古談』、真面目な話が根幹ですが、ユーモア溢れる話も多く、そうした意味では落語のネタとして格好の素材です。

平成27年(2015)、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」。当時のプロデューサー氏が『光雲懐古談』を読み、その落語的面白さに惹かれて制作されました。ナレーションに俳優の石橋蓮司さんを起用し、落語っぽい語りが挿入され、いい感じでした。

元々、光雲は語り上手で知られていました。『光雲懐古談』中にまるまる一節が使われているところが複数箇所ありますが、「国華倶楽部」「国醇会」などで講話をする機会も多く、宴席などではその話芸があまりに巧みで、芸者衆などが光雲の周りにばかり集まり、美術学校の同僚たちが「高村さんとはもう飲みに行かない」とやっかんだというエピソードも伝わっています。

また、『光雲懐古談』以外に、同じ昭和4年(1929)に刊行された『漫談 江戸は過ぎる』(河野桐谷編 万里閣)などにも光雲による実に面白い談話が多数掲載されており、当方編集当会刊行の『光太郎資料』にて少しずつご紹介しています。

000今回は『光雲懐古談』中のエピソードを使っての新作落語。馬桜師匠のフェイスブック投稿から。

今日の一句
|、春深し面白すぎの懐古談
*はるふかしおもしろすぎのかいこだん

夕飯迄の時間を読書に当てる、拾い読みしていたものを始めからじっくり読む。
『高村光雲懐古談』面白い。そして為になる。
改めて感心する。幕末から明治維新の頃の浅草の様子が良く解る。
そして、仏師の修業過程が良く解ります。
噺の裏付けできちんと読み直そうと思ったのですが、違う題材でも一席出来そうな・・・。
初演の会で『高村光雲』と云う噺にこさえてますが・・・
皆さんのその目と耳で確かめて下さい!!
ご予約メール待ってます。

初演の会の準備。
高村光雲が作った上野恩賜公園の西郷隆盛の銅像を造る裏話を・・・
落語家から観たその騒動?を 探ってます。
ただ その裏付けとして、明治の歴史を改めて勉強のし直しです。
憲法発布で西郷が罪一等を減じられて、「維新の功績」を見直されて銅像を!
声が上がり、日本全国から募金をつのり出来上がった様です。
『高村光雲懐古談』を読み直しましたが・・・江戸っ子なんですね。
寄席に行って講釈や落語も聴いた。と云う前提で噺が出来上がりつつあります。

実際、光雲は(息子の光太郎もですが)三遊亭圓朝のファンでした。そこで、少なからず影響を受けていたのではないかと思われます。

ちなみにオリジナルの昭和4年(1929)版『光雲懐古談』には、「ふどう売りもの――落語になる話――」という、まさに落語を意識した項もあったりします。戦後の復刻版ではカットされていますが。

当方、予約いたしました。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生も元気で新年を迎へました。現実の世情は目で見る通りですが、本来大いに好季節に向はねばならぬ次第、あとは国民一人一人の叡智如何による事です。

昭和22年(1947)1月5日 小盛盛宛書簡より 光太郎65歳

昭和22年(1947)となりました。この稿、慣例により年齢は数え年で表記していますので、年明けとともに光太郎65歳です。

001実は(実はと言うほどでもありませんが(笑))、今日、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕141年となりました。

誕生日と言えば、光雲の誕生日。フェイスブックやX(旧ツィッター)上では、3月8日に「今日誕生日の偉人」的な書き込みで光雲の名が書き込まれていて閉口しております。実際には2月18日ですので。ではなぜそういうズレが生じているかというと、光雲の生まれた嘉永5年(黒船来航の前年です)は当然、旧暦だったわけで、それを新暦に換算すると2月18日は現在の3月8日になるとのこと。こういう換算はいかがなものかと思います。

たとえば「忠臣蔵」。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは元禄15年(1702)12月14日。そこで現代でも12月14日前後にテレビ等で「忠臣蔵」関連の放映が為されていますが、これを新暦に換算すると1703年1月30日になります。そこで、1月30日前後に「忠臣蔵」特集を組んだとしたら「はぁ?」ですよね。

あくまで光雲の誕生日は2月18日でお願いしたいところです。

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は、光太郎終焉の地にして昭和32年(1957)の第一回連翹忌会場となった、中野の貸しアトリエ保存に向けての関係者会合でした。

そちらが夕方からということで、その前にギャラリー2軒をハシゴ。

まずは銀座のギャラリーせいほうさん。
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こちらでは「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」が開催中です。
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メインは光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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戸板に手をかける福の神と、扇形の地板の外に追いやられた邪鬼と。それぞれの部分での刀技の冴え、陽刻と陰刻のバランス、余白の取り方など、まさしく超絶技巧ですね。

他に光雲高弟の面々の作。

山崎朝雲。
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米原雲海。
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平櫛田中。
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孫弟子にあたる佐藤玄々。
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孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇。
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これは存じませんでしたが、高昇は光雲の高弟・山本瑞雲の系譜に連なるそうで、実の血縁と師弟の系譜と、かなり錯綜しています。息子の堅太郎氏が孫弟子、父親の高昇は曾孫弟子、逆転していますね。
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孫弟子までは概ね頭に入っていましたが、曾孫弟子となると誰が誰に師事したか存じませんで、こういう系図になるか、と、新鮮でした。ここに挙げられていない枝葉も多く存在するわけで、そうした部分での光雲の功績というものを実感させられました。弟子や孫弟子、さらにその次と、伝統的な技法をしっかり受け継いだ上でそれぞれの独自性を出し、そうやって袋小路に入らずに発展していくんだな、と。

続いて、原宿に。次なる目的地はデザイン&ギャラリー装丁夜話さん。こちらでは二人展というか三人展というか、「星センセイと一郎くんと珈琲」が開催中です。
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こちらはマンションの一室をギャラリー兼カフェとして使っており、なるほど、そういうのもありかと思いました。

香川県ご在住の山口一郎氏のドローイングが2種類。いずれも光太郎詩「レモン哀歌」オマージュです。ありがたし。

まずは「レモン」。
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アクリル絵の具で描かれたものだそうですが、ズラッと並ぶとものすごいインパクトでした。

それからずばり「レモン哀歌」。
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詩「レモン哀歌」が18行あるということで、その1行ずつが描かれています。面白い発想ですね。

今回の展示のサムネイル的に使われているこの絵もその中の1枚で、智恵子でした。詩句としては「ぱつとあなたの意識を正常にした」。
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画像は18枚を一冊にまとめて印刷したポストカードブックの表紙です。
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一冊2,200円也。デザイン&ギャラリー装丁夜話さんサイトでオンライン販売が始まりました。ぜひお買い求め下さい。

今回の展示、メインは山口氏の師・星信郎氏のデッサン。こちらはサマセット・モームからのインスパイアだそうで。
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こちらもいい感じでした。

ギャラリー2軒ハシゴの後、新宿へ。メインの目的、中野アトリエ保存に向けての関係者会合です。会場は新宿村CENTRALさん。
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PXL_20240308_070935608意外といえば意外な会場なのですが、会合メンバーのお一人、渡辺えりさんが、4月6日(土)開幕の舞台「さるすべり」の稽古でこちらを使われていて、稽古終了後にそのまま稽古場を使わせていただいたわけです。

ちなみに会合には参加されず、稽古終了後にお帰りになりましたが、「さるすべり」で渡辺さんとW主演の高畑淳子さんもいらっしゃいました。

高畑さんといえば、令和3年(2021)、テレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」にご出演。何と、高畑さんがモデルを務められた彫刻の鑑定でした。作者は先述の橋本高昇の子息にして、光雲孫弟子にあたる故・橋本堅太郎氏。高昇は智恵子と同郷の二本松出身、堅太郎氏は智恵子像を2点(二本松駅前安達駅前)作られました。意外なところでいろいろつながっているものですね。
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ちなみに鑑定額は700万円でした。さもありなんです。

高畑さん、公式プロフィールでは新潮163㌢だそうで、なるほど、シュッとした感じでした。別に渡辺さんがずんぐりむっくりなどとは申しませんが(笑)。

会合の方は、現状報告と今後の運営方針の確認や意見交換、情報交換。まだ具体的に皆様に「こうこうこうだよ」と提示できる段階ではありませんで、いずれこのブログにて詳細をご紹介いたします。

戻りますが、「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」は3月16日(土)、「星センセイと一郎くんと珈琲」は明日まで。それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

春子さん千葉真亀にゆかれたよし、真亀ときくとあの苦しかつた昭和九年頃の真亀訪問を思ひだします。一週間に一度づつ菓子や果物を持つて智恵子を訪れ、追ひすがる智恵子をすかしなだめて、後ろ髪を引かれる思で帰つて来た頃がまざまざと思ひ出されます。東京へ帰ると大学病院に入院してゐる父をたづね、まつたく寧日無かつた明け暮れでした。


昭和21年(1946)12月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「春子さん」は宮崎の妻にして智恵子の姪。さらに智恵子の最期を看取った元看護師でもありました。「真亀」は現在の九十九里町真亀。昭和9年(1934)に智恵子が半年あまりここで療養生活を送りました。その年には光雲が死去。たしかに光太郎にとっては実に大変な一年でした。

都内から古書即売会の情報です。

この手の即売会、規模の大小はいろいろあって、以前よりぐっと減ったものの小規模なものまで含めれば常にどこかしらで開催されてはいる感じですが、今回ご紹介するのはそれなりに大規模、ネット上でも積極的に宣伝が為されています。ちなみに「ABAJ」というのは「日本古書籍商協会」さんだそうで。

ABAJ 国際 2024稀覯本フェア

期 日 : 2024年3月15日(金)~3月17日(日)
会 場 : 東京交通会館展示会場 カトレアサロンA・B 千代田区有楽町2-10-1
時 間 : 3月15日(金)12時〜19時 /16日(土)10時〜18時 /17日(日)10時〜16時
料 金 : 無料

 向春の候、皆様には益々のご健勝の事とお慶び申し上げます。いつも私共ABAJ(日本古典籍商協会)並びに会員各位に対して格別のご支援とお引き立てを賜り誠に有難うございます。
 今日、激動の国際情勢と変化を求められる世情の中で、書物の価値は益々高くなるものと確信いたしております。この度のフェアでは内外の有力書店28社の協力により精選された稀覯本を展示して皆様のご来場をお待ち申し上げます。
 2024年が皆様にとりまして大躍進の年となります様、心より祈念致します。

2024年2月吉日
ABAJ 会長(日本古書籍商協会)北澤一郎
ABAJ国際稀覯本フェア実行委員会一同
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出品目録に依れば日本の古典籍と洋書が中心ですが、日本近代ものもちらほら。

その中で、札幌の弘南堂書店さん(30年程前に一度お伺いしました)で、光太郎のそれを含む萩原朔太郎追悼文の直筆原稿25人分。
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昭和17年(1942)8月の雑誌『四季』第67号で、この年5月に没した朔太郎の追悼特集を組み、それに寄せられた原稿です。光太郎の稿は「希代の純粋詩人-萩原朔太郎追悼-」という題でした。下画像の右端です。
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一括で残っていたんだ、という感じでした。

さらに弘南堂さん、光太郎第一詩集『道程』もご出品。
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カバー欠ですが、識語署名入り。識語は聖書の一節です。

ご興味おありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それで「開闡郷土」の揮毫も思の外すらすら書けました。

昭和21年(1946)11月22日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「開闡(かいせん)」は「開き広める」の意。茨城取手の素封家だった宮崎の父・仁十郎らに依頼され、取手の長禅寺に郷土の開拓発展の歴史を振り返り、功労者を顕彰する的な碑を建てることになり、その題字「開闡郷土」を光太郎が揮毫しました。ところがこの時書いた揮毫を宮崎が列車の網棚に置き忘れ、のちに再度揮毫することになります。

碑は長禅寺参道石段右側に現存しますが、繁茂する篠竹に覆われ、視認が困難な状況になっています。
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都内で一昨日から始まっている展示即売会的な展覧会です。

近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー

期 日 : 2023年3月20日(月)~4月6日(木)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜休廊
料 金 : 無料

《作品展示作家》
 高村光雲     1852-1934  山崎朝雲     1867-1954  米原雲海     1869-1927
 吉田白嶺     1871-1942  平櫛田中     1872-1979  吉田芳明     1875-1945
 佐藤玄々     1888-1963  澤田政廣     1894-1988  橋本高昇     1895-1985
 宮本理三郎 1904-1998  圓鍔勝三     1905-2003  長谷川   昻   1909-2012
 鈴木 実     1930-2002  及川 茂     1940-
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「高村光雲の流れ」と謳っていますので、一番の目玉が光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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これは髙村家で持っているはずのものなのですが、価格が千五百万。まぁ、ほぼ非売品という意味の設定なのでしょう。

他に光雲高弟は山崎朝雲「狗子」、平櫛田中「霊亀」(田中作は他にも色々)、米原雲海「恵比寿尊像/大黒天像」など。
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さらに佐藤玄玄(朝山)や澤田政廣は光雲の孫弟子ですし、同じく孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇の作なども。

会場のギャラリーせいほうさん、昨年はブロンズ中心の「高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達」を開催して下さっていました。

明後日、光太郎中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、過日ご紹介しました「星センセイと一郎くんと珈琲」ともども、立ち寄ってみようかと思っております。

みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は一日買物をして歩きました。山の夜にどうしても必要なので手さげラムプを買つたら七十五円もとられたので驚きました。つまらない金物にガラスのホヤがはまつてゐるだけのラムプです。

昭和21年(1946)11月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる新円切替はこの年2月。花巻郊外旧太田村での蟄居生活を送っていると、この日のようにたまに花巻町中心街に買い出しに出た時以外、実感がなかったようです。
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画像は光太郎の山小屋(高村山荘)内部に残されているランプ。この日に買ったものかどうか判りませんが。ランプ生活は、見かねた村人が電線を引っ張る工事をしてやった昭和24年(1949)まで続きました。

光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動について、1月の『東京新聞』さんに続き、『読売新聞』さんでもご紹介下さいました。X(旧ツイッター)やフェイスブックではシェアしておいたのですが、こちらでも取り上げさせていただきます。

光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵

 詩集「智恵子抄」などで知られる詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごした中野区にあるアトリエを保存しようと、関係者が動き出している。昨年1月にアトリエの所有者が亡くなり、管理が難しくなっているためで、関係者らは「歴史的に価値のある大切なアトリエをなんとか残したい」と知恵を絞っている。
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■「乙女の像」制作
 高村は下谷区(現在の台東区)生まれ。文京区千駄木にアトリエを構えたが、戦災で住居は焼失し、岩手県花巻市に疎開した。中野区のアトリエには戦後の1952年に移り、亡くなるまでの約4年間を過ごした。青森県の十和田湖畔に立つ彫刻の代表作「乙女の像」の塑像もここで制作したという。
 アトリエは、斜めの屋根が特徴的な木造一部2階建て。施工主は洋画家の中西利雄(1900~48年)で、建築家の山口文象(1902~78年)が設計を務めた。建物は中西が亡くなった48年に完成したため、貸しアトリエとして使われ、高村だけでなく、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らも滞在していたという。
 完成から70年以上が経過したアトリエは、青系の色だった外壁が白くなったが、造りはほとんど変わっていない。縦約3メートル、横約2・5メートルの大きな窓は当時のままで、高村の親戚に当たる桜井美佐さん(60)は「光太郎も同じ窓から外の景色を見ていたのだと実感できて感動する。都内ではゆかりの建物は珍しく、貴重だ」と強調する。
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■「企画書」を作成
 しかし、アトリエを管理していた中西の息子の利一郎さんが昨年1月に亡くなった。建物の老朽化は進み、アトリエは現在非公開になっている。利一郎さんの妻の文江さん(73)は「維持費もかかるし、このまま残しておくのは危ない。公的な機関が動いてくれればいいが、そうでなければ壊すしかない」と頭を悩ます。
 そこで立ち上がったのが、利一郎さんと親交があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)だ。曽我さんはアトリエを後世に残すための「企画書」を作成。曽我さんら有志は、アトリエの保存に向けた組織設立を模索している。
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■CF活用視野
 老朽化した建物の保存を巡っては、明治時代の作家・樋口一葉(1872~96年)が通ったとされる文京区本郷の「旧伊勢屋質店」も解体の危機に陥った建物の一つ。元の所有者が「個人で維持するのは限界」と売却の意向を示したが、2015年に跡見学園女子大(文京区)が取得し、現在は週末を中心に内部を一般公開している。
 曽我さんも、アトリエを改修した後、高村らゆかりのある芸術家の資料を展示するスペースを設けることを想定している。中野区や都などへの働きかけのほか、クラウドファンディング(CF)の活用も視野に入れているという。
 曽我さんは「高村や中西の芸術や歴史を後世に残すためにも、アトリエは非常に価値があるものだ。中西家に負担をかけずに、なんとか保存できるやり方を考えていきたい」と話している。
 保存方法の提案や問い合わせは曽我さん(090・4422・1534)へ。

曽我氏を中心としたこの運動の会合、先月、初めて行われましたが、来週また開催されるので出席して参ります。

先月も書きましたが、この手の件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールは以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

【折々のことば・光太郎】

五日には小生花巻町に出かけ、松庵寺と申す浄土宗の古刹にて、智恵子の命日と亡父十三回忌の法要をいとなみました。かかる遠方の土地にて焼香されるとは智恵子も父も思ひかけなかつた事でせう。現時の有為転変はまるで物語をよむやうです。小生健康、好適の季節に朝夕心爽やかに勉強してゐます。早く世の中が直つてアトリヱ建築の出来る日の来る事が待たれます。


昭和21年(1946)10月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

既に前年から、後の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」につながる「智恵子観音」の構想はありましたが、さすがに七尺もの大作という予定ではなかったようです。

昭和27年(1952)になって、「乙女の像」建立計画が具体化すると、花巻郊外旧太田村では資材の調達なども不可能ということで、再上京、中野のアトリエに入ることになります。

光太郎の父・高村光雲が主任となって、東京美術学校総出で作られた「西郷隆盛像」関連で2件。

まずは今日から5日間限定で開催の展示です。

出張!江戸東京博物館

期 日 : 2024年2月21日(水)~2月25日(日)
会 場 : 東京都美術館 ロビー階第4公募展示室、1階第4公募展示室、2階第4公募展示室
      東京都台東区上野公園8-36
時 間 : 9:30~17:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

 江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化をふりかえり、未来の都市と生活を考える場として、平成5年(1993)3月28日に開館しました。これまで国内はもとより、海外からも多くの方々が江戸東京博物館に足を運んでくださいました。
 開館から約30年経過した現在、大規模改修工事のため、2025年度中(予定)まで休館の予定です。そのため、ご覧いただけない常設展示室の一部を、上野の東京都美術館で展示することとなりました。
 本展では、第4公募展示室のロビー階と1階のフロアで、常設展示室の一部をまとめた展示をご覧いただきます。おなじみの「千両箱」や「人力車」などの体験模型を中心に、その関連資料を展示します。
 また2階の第4公募展示室では特集展示として、開催場所である上野の歴史を錦絵や絵葉書からご紹介します。現在でも上野のシンボルとなっている西郷隆盛の銅像や不忍池など、現代と重なる風景を見ることができます。もしかすると、東京都美術館への道の途中で見かけるものもあるのかも知れません。
 本展で多彩な江戸博コレクションをご覧いただき、当館の魅力や江戸東京の歴史と文化を体感していただけますと幸いです。
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というわけで、現在改修工事中の江戸東京博物館さんから、展示品の出開帳。三の丸尚蔵館さんなどでも行っていた手法ですね。

かつての常設展からの出品と、会場が上野ですので「特集展示「上野の山」をめぐる」の二本立てのようで、後者の方で、西郷隆盛像を描いた錦絵が展示されます。
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楊斎延一が明治32年(1899)に描いた「上野山王台西郷隆盛銅像」。

平成30年(2018)、東京藝術大学大学美術館で開催された「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」展」の際、ミュージアムショップでこちらをあしらったクリアファイルが2種類販売されていて、ゲットいたしました。
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ちなみに今回はこの絵を含む「入場者特典カード」が10種類作られ、無料配付されるそうです。ただし、日替わりで2種類ずつ、選べないとのことですが。
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錦絵の展示がもう1点、藤山種芳が描いた「上野山王台故西郷隆盛翁銅像」。こちらも明治32年(1899)です。
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他にも展示されるかもしれません。

当方もこの手の錦絵を何点か所持しておりまして、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。

ところで西郷隆盛像、テレビ番組でも取り上げられます。

カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」

地上波NHK総合 2024年2月25日(日) 04:15〜04:18

100年の間に震災と戦争によって2度焼け野原となり、そこから不死鳥のようによみがえった都市・東京。NHKは、東京を撮影した白黒フィルムを世界中から収集、現実にできるだけ近い色彩の復元に挑んだ。色を取り戻した東京は、どんな表情を見せるのか。今回は上野にしぼって、激動の歩みを、初公開フルカラー映像でたどる。

語り 塚原愛アナウンサー


平成26年(2014)に、やはり地上波NHK総合さんで放映された特番「カラーでよみがえる東京~不死鳥都市の100年~」から、都内の区域ごとに細切れにして放映され続けている番組の上野編です。昨年末にも放映があって拝見。西郷隆盛像が二つの時期で取り上げられました。

最初は大正12年(1923)の関東大震災。同じ動画は昨年放映された「NHKスペシャル 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編」でも使われていて、これは予想していました。
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ところがこれだけでなく、なんと戦時中の動画も。昭和18年(1943)、早稲田大学海軍予備学生壮行会が西郷像の前で開催され、その際に撮影されたものでした。
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この手の動画だと、国立競技場で行われた雨中の出陣学徒壮行会のものが有名でよく使われますが、西郷像の前でこんな催しがあったというのは存じませんでした。
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つくづくこういう時代に戻してはいかんな、と思いました。こういう時代に戻したくて仕方のない輩が政権を握っている国ですが……。

館外展示「出張!江戸東京博物館」/カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」、それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の論難はすべて快くうけるつもりです。壺井さんのはよみましたが小田切さんのはまだ見ません。時間が一切を裁断するでせう。

昭和21年(1946)9月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

「壺井さん」は壺井繁治、「小田切さん」は小田切秀雄。ともに戦時中の光太郎の翼賛詩等を痛烈に批判しました。それに対し、弁解めいたことは言わないよ、と、こういうところが光太郎です。
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しかし、戦時中、特高に逮捕されていた小田切はともかく、自らも翼賛詩を書いていながら戦後になるとそれを無かったかの如く批判に転じた壺井は、まさに「おまいう」。そういう点などを後に糾弾され、詩壇からは葬られて行く感じです。

昨年、コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を4年ぶりに開催いたしましたが、今年も下記の通り実行できる運びとなりました。お誘い合わせの上、ご参加下さい。


日 時  令和6年4月2日(火) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線 京浜東北線 有楽町駅  地下鉄日比谷線 千代田線 三田線 日比谷駅下車
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会 費  12,000円(含食事代金)
           諸物価異常高騰の折、申し訳ありませんが改訂させていただきました。

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(金)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替
  「払込取扱票」にて郵便局よりお願いいたします。
   ATM、窓口にて取り扱い可能です。申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。
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  ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(土)までにご連絡頂ければ、
  後日、返金いたします。

  参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
  事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

  複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
  参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

  ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

配布物について
  会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
  4月1日(月) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
  残部は欠席の方等にお送りいたします。公序良俗に反するものでなければ
  特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
  当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
  書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

  当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いを
  お願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。
  当方、午後3時頃には会場入りしております。
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着席ビュッフェ形式で行います。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

作品は殆ど失ひましたが小生の内に生きてゐる彫刻はやがて姿をあらはして来るでせう。山に来てから準備はしてゐますがまだ資材が整はないので彫刻の仕事はちつとも進みません。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んでほぼ1年。まだこの時期は山小屋で彫刻制作をするつもりだったようです。しかし、その後、自らの戦争責任を悔悟する中で、自らへの最大の罰として、彫刻制作を封印するに至ります。

一昨日の『東京新聞』さん、社説欄に光太郎の名が。

<社説>週のはじめに考える 「おまかせ」が過ぎると012

 正直、「回っていない方」にはあまり明るくないのですが、白木のカウンターでいただくような高級な寿司(すし)店でよく採用されているのが、「おまかせ」という注文の仕方です。注文といっても、おまかせですから、どんな寿司が、どんな順番で出てくるかは寿司職人の胸一つ。旬を考え、ネタを吟味し、客の食べるペースにも気を配って「はい、トロです」などと順次、供してくれる仕組みです。
 こうした「おまかせ」を創始したのは、戦前戦後と東京で活躍した藤本繁蔵という寿司職人だといいます。何年か前のNHKの特集番組で初めて知ったのですが、白木のカウンターの採用も、この人を嚆矢(こうし)とするとか。高級寿司店ばかりを渡り歩いて「天才」の名をほしいままにし、多くの著名人らの舌もとりこにした伝説の職人だったようです。
◆「自分で決める」から解放
 その「おまかせ」は寿司を出す順番、いわば構成の妙も含めて職人の力量が問われるわけですが、味覚も食材の知識も覚束(おぼつか)ない者にとっての“利点”は「自分で決める」からの解放かもしれません。「こんなものを頼んだら季節外れだと笑われないか?」などとびくつかずにすみますから、心穏やかに、職人が技を凝らした一貫一貫を味わえるというものです。
 寿司だけでなく、和洋中どの料理にもある「コース」も同じ。いちいち何を、どんな順番で注文するか自分で決めなくてよい。それが客をして「コース」を選ばせる理由の一つではないでしょうか。
 考えてみると、外食に限らず、私たちは暮らしのいろんな場面で「おまかせ」に浸っています。極端なことを言えば、自動ドアだってそうですが、デジタル時代の当節はなおさら。リポートなどの作成で頼りにする人も増えているらしい生成AI(人工知能)こそ、「おまかせ」の極致でしょう。
 もっと身近なところでは、例えば道案内です。特に地理的に詳しくない場所に行く時など、経路の選択は、ほぼ全面的にスマホなどの地図アプリに「おまかせ」という人が今や多数派かと。代表詩の『道程』で<僕の前に道はない>とうたった高村光太郎は、既に目の前の画面にある道を従順に進む<僕>たちを見て、さて、泉下で何を思っているでしょう。
◆まれに見る「選挙イヤー」
 道の選択といえば、今年、2024年は、まれに見る「選挙イヤー」です。台湾総統選は今月、既に終わりましたが、2月にインドネシア大統領選、3月にロシア大統領選があり、4月には韓国、4~5月にはインドで総選挙が予定されています。そして11月には米大統領選が。結果いかんでは、動揺が世界中に及ぶでしょう。
 そして、わが国でも今年は、衆院の解散・総選挙の可能性が高いとみられています。派閥パーティーの裏金問題で大揺れ、岸田内閣の支持率も急落する中、自民党は9月末で任期満了の総裁選を前倒しし、「党の顔」をすげ替えた上で総選挙に臨むのではないか-といった観測も飛び交っています。
 その場合、懸念されることの一つが、低投票率。ただでさえ衆院選は過去4回連続で60%に届かなかったのに、裏金問題などで増大した政治不信がさらに足を引っ張る恐れがあります。でも、国の進む道を左右する大事な選択の機会です。ここは、さすがに「おまかせ」はまずい。寿司でいうなら、自分の胃袋とよくよく相談し、本当に自分が食べたいネタを自分で決めなくてはなりません。
 「政治的無関心」とは、日本や世界の命運を誰かに「おまかせ」にすることでしょう。確かに、政治的な出来事をフォローし、考えを深めるのは面倒といえば面倒です。でも、恐れるのは、その面倒を省き「おまかせ」に慣れきってしまううちに、自分で考え、自分で決めるという回路が錆(さ)びついてしまわないか、という点です。
◆錆びつく思考回路、記憶
 元日に発生した能登半島地震でもそうでしたが、災害時には携帯電話が使えなくなることが少なくない。しかし、やっと公衆電話をみつけ、いざかけようとしたら、家族や友人の電話番号を覚えていないことにはたと気づく…というのは、いかにも現代人に起こりそうなことでしょう。そう。電話番号の記憶をスマホに「おまかせ」にするうち、私たちの記憶は錆びついてしまうのです。
 さて正月も暮れていきますが、年始につきものの「福袋」こそ、「おまかせ」の典型でしたね。中身が分からない点がみそですが、あれは価格より価値の高い商品が入っているのが前提で、だからこその「福」のはず。でも選挙の場合は違います。「おまかせ」の袋から「福」が出てくることはまずないと考えるべきでしょう。

何が出てくるかのワクワク感や、ルーティンにこだわっていては得られない意外性といったものを楽しみたいのなら「おまかせ」も悪くはないと思います。また、いろいろ考えて組み合わせるのが面倒だったり、お店の人に手間をかけるのが申し訳ないと思ったりの場合。例えば当方、コンサート等によく持参するのですが、アレンジフラワーやら花束やら。また、お菓子の詰め合わせなどもそうでしょう。既成のものを頼んでしまった方が自分にとっても、お店にとっても、圧倒的に楽ですね。

しかし、後半にあるとおり、政治の世界での「おまかせ」は駄目ですね。ところがそれがまかり通っているのが現状でしょう。「「○○党」という字しか書けない」と公言し、思考停止に陥っている輩の何と多いことか。

それにしても、最後の方に挙げられたスマホの電話帳の例にはドキリとさせられました。といって、今さら紙のアドレス帳というわけにもなかなかいきませんし……。

たしかにこうした現代人のライフスタイル、泉下の光太郎はどう見るかと考えさせられますね。

【折々のことば・光太郎】

御帰還後も御無事でお過ごしの事と存じます、ますます御元気で進んでください。小生東北の山間で頗る元気に健康にやつて居ります。


昭和21年(1946)7月29日 大木実宛書簡より 光太郎64歳

大木は大正2年(1913)生まれの詩人。光太郎は戦時中の昭和18年(1943)、大木の第三詩集『故郷』の序文を頼まれて書いています。

この時期の「帰還」はイコール「復員」だろうと思って調べたところ、やはりそうでした。何と召集されたのは結婚3ヶ月後だったそうでした。

大木や、当会の祖・草野心平などは無事だったクチですが、光太郎と交流があった文学者たちの中には、高祖保など戦場の露と消えた人々も。そういう報せも届き始めていたと思われます。

最近の新聞記事から2件。

まず1月17日(水)、『読売新聞』さん一面コラム。

編集手帳

高村光太郎には冬の詩が多くあり「冬の詩人」と呼ばれる。詩集「道程」のなかに収まる「冬が来た」は、〈刃物のような冬が来た〉という一節でしめくくられる◆人生を厳しい冬にたとえ、乗り越えていく光太郎の強い意志を示す詩だが、小欄には今はまぶしいだけに思えるところがある。〈刃物のような冬〉が、能登地震の被災地では人々が乗り越えられる程度を超えていよう◆雪が降り続いている。避難所では低体温症などの懸念がいっそう深刻になってきた。依然、孤立した集落に暮らす住民も多い。どうか立ち向かったりせずに、広域避難を急いでもらいたい◆輪島市ではきょう、中学生が同じ石川県の中南部に位置する白山市に集団避難する。小学生は年齢的に親元を離れにくいため、中学生のみが対象になった。被災地の教育を軌道に戻す呼びかけに約250人の生徒が応じた◆バスに乗る生徒たちに贈りたい一節が先の詩にある。〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。気持ちを強く持って、刃物のような冬に打ち勝ってほしい。親やきょうだいを残して、さみしいだろうけれど。

昨夏のような酷暑でも困りますが、厳冬期のしかも雪国で難儀されている皆さんには、心よりお見舞い申し上げたく存じます。

もう1件、ネット上でみつけた記事です。米国ワシントン州のシアトルで刊行されている在外邦人向け邦字新聞の『北米報知』さん、1月16日(火)の掲載です。

龍と宝珠〜地球からの贈りもの〜宝石物語

 辰、竜、龍。年末年始がやってくるたび、干支とそれに当てはまる漢字が、日常で使用する該当の字とは違うことが疑問だった。十二時辰や十干十二支という暦や時間、方位などを表す物がベースになっていると知ったのは、いつの事だったか。
 そもそも辰(龍)は十二支の中で唯一の架空生物。考えてみると、西洋と東洋の龍に対する認識には差がある。西洋は羽があって火を噴いたりして悪者であることが多いに対し、東洋では基本的には水を司る神であり、うねる様に体躯を動かす。私が龍という存在を意識したのは、間違いなく「まんが日本昔ばなし」のオープニングの龍。龍に乗っていた子どもが何の昔話の主人公だったかは忘れてしまったが、子どもを乗せているぐらいだから「怖い」という印象ではなかった気がする。その後は世界的超人気アニメ「ドラゴンボール」の神龍。そして大人になった今の「推し」龍と言えば、浅草寺と略して呼ばれることが多いが、正式名に龍を冠する金龍山浅草寺で見られるさまざまな龍。今年の夏に経年劣化で剥がれてしまった本堂の川端龍子画「龍之図」、お水舎の天井画である東韶光による「墨絵の龍」と高村光雲作の龍神像。それに雷門の赤い大提灯の下の部分には彫刻された龍が。そのほかにも至る所に水の神である龍が潜んでいて、幾度とない火事に見舞われた浅草寺を守っている。因みに、日光東照宮の薬師堂の天井にいる「鳴き龍」もお薦め。雨の降った後などは龍がよく鳴くと言われている。
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▲東韶光画の天井絵「墨絵の龍」。光の位置によって見え方が変わる、迫力の龍

 龍のイメージの基となった蛇をモチーフにしたジュエリーはかなりデフォルメされた物から鱗まで詳細なデザインまで多種多様。それが龍となると一気に選択の幅が狭くなる。角、髭、爪など鋭利な部分が多いこともあり、模った物だと軽く凶器になる。ネットを見るとそういった凶器みたいなジュエリーもあるが、日常使いを考えるのであれば、龍のモチーフが彫られた程度の凹凸がせいぜいでは。龍に関連付くジュエリーというのは中々難しい。こじつけるとすれば、龍の持つ如意宝珠に因んだ物などはどうだろうか。
 宝珠は、本来は前足2本しかない黒龍が持っているものということだが、剥がれた浅草寺の龍も黒龍ではないので、あくまでも「基本的には」という事だろう。宝珠と言うと水晶を思い浮かべる人も多いだろうが、個人的に、数珠の進化系のようなパワーストーンを連ねたブレスレットなどは芸がないと思ってしまう。代わりに、ドーム型や円錐形にツルっとしているカボションカットなどのジュエリーはどうだろうか?
 宝石の多くは、ファセット(面)と呼ばれるカット面がいくつも施されている。たとえば、ラウンドのダイヤモンドは通常58面である。光の反射を効率よくするために面があるが、面の無いカボションカットはまた別の味わいがある。面を取ることで、より多く削ってしまう原石の部分を削減し、色の深みを引き出すのもカボションカットの長所と言えるだろう。さらには、アステリズムと呼ばれるスタールビーやスターサファイヤに見受けられる星状の線が出る現象。猫目石の名の如く、中央に黄金の光の筋が見えるようなシャトヤンシー現象。オパールやムーンストーンなどの、内側で光が反射して踊っているような、視覚的効果や現象なども引き出す。
 ブルガリが昨年晩秋にカボション・コレクションというシリーズを発表したが、これは地金でカボションカットを表現している。このコレクションが象徴するように、カボションカットの宝石の地位を押し上げたのは色の魔術師と呼ばれるブルガリだと言える。50年代以降、カボションカットの紫のアメシストと緑のペリドットの組み合わせたネックレスなど、それまでハイジュエリーとは分類されにくかった半貴石の地位を押し上げた張本人。
 宝珠の様な滑らかさと艶やかさ。見つめると吸い込まれそうなそれぞれの色の深みが堪能できるカボションカット。変革の年と言われる辰年に是非トライしてはいかがだろうか。

415939502_7132432230154910_7550647139489207099_nご執筆は宝石鑑定士の金子倫子氏。在米経験もおありだそうですが、現在は帰国されているとのこと。

画像は浅草寺さん本堂右手前にある手水舎の天上画。この下に光太郎の父・光雲作の「沙竭羅龍王像」が鎮座ましましています。

12年前の辰年の際にはそうでもなかったように記憶しているのですが、今年はやけにこの像があちこちで取り上げられているのが目に付きます。いいことです。右画像は光雲令曾孫にして写真家の髙村達氏撮影になるショット。すばらしい感じですね。

元々は本堂裏手にあった池の噴水に据えられていたもので、関東大震災の際にはこの池のおかげで浅草寺さんは焼失を免れたとのこと(その後、昭和20年(1945)の東京大空襲ではやられてしまいましたが)。地震にはご利益がありそうなので、近くに行った際には久しぶりに参拝し、鎮護国家を祈願して来ようかと存じます。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ゑんどう豆が芽を出しました。ささぎはまだ。今ゼンマイが盛んでワラビが出かかりました。ホロホロといふ花芽をとつてたべます。春日うらうらと山村をくゆらし林間に珍奇の花を人知れず咲かせてゐます。


昭和21年(1946)5月6日 真壁仁宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村もようやく春本番。「ホロホロ」は「ウコギ」の方言のようです。

能登半島地震の被災地にも早く春が訪れて欲しいものですね。

昨日は光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエに保存運動が起きている件をご紹介しました。

今日は逆の件を。先月5日、『朝日新聞』さん夕刊に出た記事です。

戦前のまま、時とまったアトリエ 老朽化、近く取り壊し 木彫家・三木宗策が使用

015 東京都北区の路地の奥に、木彫家、三木宗策(そうさく)(1891~1945)が使ったアトリエが残されている。戦前のアトリエが現存するのは珍しく、木彫の像を制作するための石膏(せっこう)原型も保存されていた。当時の息づかいが聞こえてきそうなアトリエだが、老朽化のため、近く取り壊されることが決まった。
 「まるでそこだけ時間が止まっているようでした。見上げた高い屋根裏と上の棚に並んだ石膏(せっこう)の原型から、70年のときを超えて作家の存在を感じました」
 福島県郡山市美術館の中山恵理学芸員は2015年初秋、アトリエに初めて入ったときの感動をそう話す。その年、地元出身だった三木の没後70年展を企画していた。準備が大詰めを迎えたころ、アトリエが現存することを親族から教えられた。

高さ6㍍の吹き抜け
 建物は木造2階建てで、北面の大きなガラス窓の木枠にはツタがからまり、年月を感じさせる。アトリエは約30平方㍍の床面から2階の屋根裏まで吹き抜けの空間構造で、最高部まで高さは 6㍍を超す。
 郡山市出身の三木は14歳で上京し、高村光雲門下の山本瑞雲(ずいうん)に学んだ。22歳で独立。代表作は、全体の高さが3㍍を超える燈明(とうみょう)寺(東京都江戸川区)の本尊・不動明王だ。45(昭和20)年11月、疎開先の郡山市で53歳で病死した。
 東京芸術大学の調査によると、アトリエの建築年代は大正末から昭和初めとされる。三木の次男で美術評論家・三木多聞(1929~2018)の著書「三木宗策の木彫」によると、三木は19(大正8)年までにこの地に転入し、その後、アトリエ付き住宅を建てたらしい。

大空襲の戦火も免れ
 アトリエは、23(大正12)年の関東大震災にも耐えたという話が遺族に伝わる。だが、確実なのは、45(昭和20)年4月13~14日、現在の豊島区、北区、荒川区にかけての米軍による「城北大空襲」の戦火を免れたことだ。
 戦後は子ども部屋や書架など遺族の生活空間として使われてきたという。次第にアトリエとしての存在も家族以外からは忘れられた。
 連絡を受けた中山学芸員ら彫刻関係者らは、残された石膏原型などを郡山市内の施設に運び出し、一時保管した。同美術館ではアトリエの記録や資料の調査をしたのち、所蔵先について検討するという。
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残った石膏原型50点
 いまのところ、アトリエに残された石膏原型約50点のうち、10点は現存する作品の原型、6点は写真だけが残る作品の原型だと確認された。所在不明だった木彫「傷つきたる鳥人」(40年)もみつかった。
 調査にかかわった彫刻家・修復家の藤曲隆哉さんによると、三木は、最初に粘土で塑像(そぞう)を制作したのち石膏原型をつくり、星取り機を用いて木彫の完成作をつくる手順で制作していたという。原型にいくつかの点(星)をうち、その点を星取り機で木に写し取り、空間上の点の位置関係を頼りに彫る。
 藤曲さんは「石膏原型は資料の域を超えることはない」としながらも、「作家本人の純粋な手が入っている。完成作品と原型を比較する価値はあると考えられる」と話している。

三木宗策は、記事にあるとおり、光太郎の父・光雲の孫弟子です。孫弟子ではありますが、光雲との合作もありました。

光雲とゆかりの深い、文京区の金龍山大圓寺さんに、昭和4年(1929)から同8年(1933)にかけて七尊の木彫観音像が寄進され、そのうち五尊は光雲と山本瑞雲(光雲高弟にして宗策の直接の師)、二尊が光雲と宗策の合作という扱いでした。こうした場合、合作という条、メインに鑿を振るったのは瑞雲や宗策なのでは、と思われます。
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これら七観音は戦災で全て焼失、聖観音像のみ鋳銅されたものが大圓寺さん境内に露座でおわしますが、それぞれの胎内仏は現存します。七観音それぞれの開眼供養の際、胎内仏のコピーが鋳銅で造られ、檀家や寄進者に配付されました。像高10㌢弱の懐中仏です。そのうち「准胝(じゅんてい)観音」の鋳銅が花巻市に寄贈され、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで行われた企画展示「高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」に出品されました。

その後、七観音すべてがセットで売りに出ているのを見つけ、購入しました。上記十一面観音、千手観音の懐中仏がこちら。
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この件はまた後日、ご紹介いたします。

その宗策の使っていたアトリエが取り壊されるということで、記事が出たのは先月初めでしたから、既に解体済みかもと思われます。

この記事で知ったのですが、宗策の次男が故・三木多聞氏。昭和46年(1971)、至文堂さん刊行の『近代の美術 第7号 高村光太郎』の編者を務められたほか、光雲、光太郎に触れた論考をいろいろ書かれていました。かつて連翹忌にもご参加下さったそうです。
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お素人さんではない多聞氏が子息だったにもかかわらず、アトリエ保存という話にならなかったということを考えると、今回の取り壊しの件、仕方がないといえばそれまでなのかもしれません……。余人にはうかがい知れぬ事情等、いろいろあるでしょうし……。

そう考えると、昨日ご紹介した光太郎ゆかりの中野のアトリエ保存の件も、もちろんきちんと保存・活用が為されればそれに越したことはないのですが、なかなか難しいのかな、という感じですね……。

また詳しい情報が入りましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

「北方風物」は先日拝受、小生の素描はインキで画きたるため印刷によく出なかつたものと見え甚だ生彩を欠いてすみませんでした。


昭和21年(1946)4月27日 更科源蔵宛書簡より 光太郎64歳

光太郎、7年間の花巻郊外旧太田村の山小屋暮らしの中で、折に触れ身の回りの自然や道具類などをスケッチし続けました。『北方風物』は、詩人の更科源蔵が北海道で刊行していた雑誌です。
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一昨日の『東京新聞』さんに、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエ保存運動についての記事が大きく出ました。

高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野  残したい 代表作「乙女の像」塑像も制作

014 「智恵子抄」「道程」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、彫刻の代表作「乙女の像」の塑像を制作したアトリエが中野区にある。所有者が昨年死去し、受け継いだ妻は「これ以上、個人での保存や活用は難しい」と頭を悩ます。専門家らは貴重な建物と評価し、保存の道を模索している。
 アトリエは中野駅から徒歩10分ほどの住宅街にたたずむ。施工主は大正から昭和にかけて活躍し、「水彩画の巨匠」と呼ばれた洋画家中西利雄(1900~48年)。設計は近代日本建築運動を先導した建築家山口文象(1902~78年)。完成した1948年に利雄が死去したため、貸しアトリエとして使われ、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らが滞在した。
 建坪17坪のアトリエは、斜めの屋根が目を引く一部2階建て。天井が高く、日光が安定して差し込むよう北側に縦3メートル、幅2・5メートルの大きな窓があるのが特徴だ。作品が見下ろせる2階部分は、楽団の演奏場所として造られた。外壁は現在は白いが、建築当時はすみれ色に塗られていた。
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 光太郎は38年に妻智恵子を失った後、終戦間際から岩手・花巻で過ごした。晩年上京し、52~56年にアトリエで生活し、亡くなった。アトリエ前を流れていた川(現在は暗渠(あんきょ)化)に咲くレンギョウを好み、棺(ひつぎ)にこの花がささげられたという逸話から、命日は「連翹(れんぎょう)忌」と命名され、第1回もこのアトリエで開かれた。光太郎の姪(めい)の娘にあたる櫻井美佐さん(60)は「光太郎をしのぶ建物は都内にここしか残っていない。この景色を見ていたと思うと不思議な感覚になる」と大伯父へ思いをはせる。
 アトリエは利雄の長男、利一郎さんが所有者として「自分の生きているうちは」と外壁にペンキを塗るなどして大切に維持してきたが、昨年1月に死去。相続した妻の文江さん(73)は建物の老朽化などから、一度は解体を決心した。
◆「貴重な建築」有志が保存模索
 昨年秋、利一郎さんと交友があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠(こうせい)さん(71)が「芸術的、歴史的に価値がある文化遺産」として保存を提案。有志で会を立ち上げ、クラウドファンディングなどを視野に活動を始めた。
 近代住宅史が専門の内田青蔵・神奈川大建築学部特任教授は建物について「戦前から戦後に活躍した山口文象による貴重な事例で、オリジナルが残っている。モダニズムを象徴する無駄のない空間を創る思想が現れた建物だ」と評価する。
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 歴史ある建物を調査する「伝統技法研究会」のメンバーで建築士の十川百合子さん(69)も調査に入り、「中野には棟方志功ら文化人が創作の場を構えた。中西利雄と山口文象が生み、地元に愛されてきた建築は貴重」とし、オリジナルを尊重しながら補強して保存する方法を提案。文江さんは区など公的な機関による対応を希望している。
 アトリエは非公開。保存・活用法の提案や問い合わせは曽我さん=電090(4422)1534、メールsogakousei@mva.biglobe.ne.jp=へ。
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記事にもある曽我貢誠氏制作の「アトリエ保存企画書」がこちら。
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曽我氏と関わりの深い文治堂書店さんのHPにPDFで掲載されています。7ページ目の「これからの主な予定」という項に関しては、まるで予定通りに進んでいないようですが……。

フライヤー的なものも。
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また、記事にあるとおり、アトリエの設計はモダニズム建築家の山口文象(この件、当方もアトリエ保存運動が起こるまでは存じませんでした)。山口は北鎌倉の宝庵さん、現在は新宿区立林芙美子記念館さんの一部として活用されている林芙美子邸などを手がけたそうです。そうした和風の建築は現存、活用されているものの、山口が設計したモダンスタイル木造住宅作品は、この中西利雄アトリエが現存する唯一のものだとのこと。『東京新聞』さん記事を受けて、都市プランナーの伊達美徳氏が書かれたブログにその辺りが解説されていますのでリンクを貼らせていただきます。

ついでですのでもう1件。『東京新聞』さん記事に、「彫刻の代表作「乙女の像」の塑像を制作したアトリエ」と紹介されていますが、その制作の模様がブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館さん)制作の「美術映画 高村光太郎」(昭和28年=1953)と「美術家訪問 第7集」(昭和33年=1958)に含まれています。

昨年、アーティゾン美術館さんで開催された「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」展でそれらの動画が会場で常時公開され、それを受けてYouTubeでもアップされましたので貼り付けておきます。当時のアトリエ内部の様子(1:47頃から)、ご覧下さい。


明日もこの件で。

【折々のことば・光太郎】

以前「婦人公論」に「日本美の源泉」といふのを六ヶ月つづいて書いたことがありましたが、若しやあの切抜を貴下が持つて居られたら暫く拝借願へないでせうか。来月あたりから此処で日本美について毎月一回づつ六ヶ月間講演をやらうかと考へてゐますが、あの原文をテキストにして述べたいと思つてゐます。禅の提唱のやうに、美を中心にして万般の事に亘つて語るつもりで居ます。

昭和21年(1946)4月19日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、移住当時はここに最高の文化部落を造る、といった意気込みがありまして、その一環でしょう。ことによるとこの地に光太郎を招いた分教場(講演会場)の教師・佐藤勝治が宮沢賢治の信奉者でしたので、その提案でかつての賢治の羅須地人協会的な実践を……という話になったのかも知れません。「日本美の源泉」についてはこちら

昨秋から始まっている展示です。年末年始休館が明けて今日再開します。

コレクション展 衣裳は語る──映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事

期 日 : 2023年10月7日(土)~2024年3月31日(日)
会 場 : 世田谷文学館 東京都世田谷区南烏山1-10-10
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 毎週月曜日 1月8日(月・祝)、2月12日(月・祝)は開館、翌日休館
料 金 : 一般 200円 大学・高校生 150円 65歳以上・小中学生 100円

 1950年代から80年代まで、数々の映画で衣裳デザインを担当した柳生悦子(やぎゅう・えつこ 1929~2020)。舞台衣裳デザインの道を志していた柳生は東京美術学校在学中から映画美術監督・松山崇に師事、美術助手として映画制作に携わります。『ロマンス娘』(東宝 1956年)で映画衣裳を手がけるようになり、以降「三人娘」「若大将」「社長」「クレージー」ものなどの東宝の人気シリーズから音楽映画、文芸作品、時代劇、戦争、SF映画などあらゆるジャンルの映画衣裳デザイナーとして活躍していきます。85年の『Mishima』(日米合作映画・日本未公開)、88年の『敦煌』(大映・電通)まで作品数は100本以上に上ります。
 現在でこそ映像作品におけるコスチューム・デザインは作品を成り立たせる重要な要素として認識されていますが、柳生がキャリアをスタートした1950年代から60年代の映画界はモノクロからカラー、ワイド画面への転換期と軌を一にし、登場人物たちの色調やスタイルを全体バランスの中で考える専門職としての衣裳デザイナーの必要性がようやく認められはじめた時期でもありました。柳生は手さぐりの中で、映画全体と調和する「グッド・デザイン」とは何かを追求し続けました。
 世田谷文学館は柳生の生前、約3000点に及ぶデザイン画の寄贈を受けました。本展は、歳月を経てなお色彩鮮やかなデザイン画の数々を中心に構成し、映画衣裳デザイナーのパイオニア・柳生悦子の仕事をご紹介いたします。約400点の衣裳デザイン画を閲覧できるデジタル展示とともにお楽しみください。
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昨年末にX(旧ツイッター)世田谷文学館さんの公式アカウントに出た投稿で、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」岩下志麻さんが演じられた智恵子役の衣裳に関する展示も為されているということを知った次第です。
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手許の資料とつつきあわせてみますと、何点かは「ああ、このシーンでの衣裳か」という感じでした。
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ちなみに光太郎役は丹波哲郎さんでした。
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改めてお着物をよく見てみますと、意外と凝った柄になっていますね。しかしそれが違和感を感じさせず、非常に自然です。柳生さんという方、存じませんでしたが、いい仕事をなさっていましたね。
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ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

苦しめる間は必ず進みます。これでもういいと思つた時はお仕舞です。


昭和21年(1946)3月19日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

なるほど。

元日には能登半島での大地震、昨日は羽田空港での事故と、大変な幕開けになってしまった2024年です。亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したく存じます。

こんな時こそ神仏のご加護にすがり、心落ちつけたいものです。今年は辰年ということで、龍神様。台東区の浅草寺さんお水舎に鎮座まします、光太郎の父・光雲作の「沙竭羅龍王像」が注目されています。

昨年12月28日(木)の『東京新聞』さん。「想像膨らむ「辰」の由来 干支で唯一架空の生き物」という記事で取り上げて下さいました。

想像膨らむ「辰」の由来 干支で唯一架空の生き物

008 来年の干支(えと)は「辰(たつ)」。龍(竜)とも解せられ、十二支の中では唯一、想像上の生き物だ。辰が干支の一つに選ばれた理由を探るとともに、龍が祀(まつ)られている都内の寺社を訪ねた。

◆干支の起源は天体 農耕始める目安に
 なぜ干支に辰(龍)が入ったか。ワニが転じて龍になったとか、インドの教典が起源など諸説あるが、天体からとられたと天文学者の新城(しんじょう)新蔵(1873~1938年)が説いている。新城は宇宙物理学を専門としたが、中国天文学の権威でもあり、戦前に京都帝国大学総長も務めた人物。
 新城は「東洋天文学史大綱」に「古代中国では農作業を行う暦に恒星の『大火』を用いた。大火とは、さそり座のアンタレス」「殷(いん)の時代は大火を『辰』と呼び、守護神扱いした」と記す。十二支を制定する際に5番目が辰となったのは「大火が五月の星だから」という。さそり座は夏の星座で、赤く目立つアンタレスは農耕を始めるのに良い目安になったと想像できる。
 今の時期は、夜空にアンタレスを見ることはできない。多摩六都科学館(西東京市)にお願いして世界最大級のプラネタリウムにさそり座を投影してもらった。南の空、天の川付近に輝く。「アンタレスはさそりの心臓あたり」と天文グループリーダーの齋藤正晴さん。
 中国の星座ではおとめ座、てんびん座、さそり座、いて座にかけての領域を四神獣の青龍に見立てており、辰の星があるから龍に置き換わっていったのではないだろうか。

◆田無神社に5龍神
 龍の神社といえば、西武新宿線・田無駅の近くにある田無神社(西東京市)だ。「鎌倉時代の創建以来、祭神の級津彦命(しなつひこのみこと)・級戸辺命(しなとべのみこと)は龍神として祀っている」と賀陽(かや)智之宮司。現在は五行思想に基づいて本殿内に金龍、境内各所に黒龍、白龍、赤龍、青龍が配され、五龍神として信仰されている。
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    青梅街道に面した南側の一の鳥居をくぐると、すぐ右に赤龍がある。参道を進んで二の鳥居の西に白龍、本殿・拝殿の東に青龍、北参道わきには黒龍が置かれている。
   中国の神話にある四神獣は東が青龍、南が朱雀(すざく)、西が白虎(びゃっこ)、北が玄武だが、田無神社ではいずれも龍だ。金龍は拝観することはできないが、おみくじの入った置物には金龍もある。

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 本殿・拝殿には龍の彫刻が施されている。境内にはイチョウの木が立ち並び、参拝者の中には手を触れて祈る人も。神木「龍木」として親しまれているようだ。
 田無神社にはこんなエピソードもある。作家の五木寛之さんが早稲田大に入った1952年の春から夏にかけ、この神社の床下をねぐらにしていたというのだ。五木さんは「あちこちの神社にお世話になった」のだが「最も快適だったのは田無神社の床下である」と雑誌の随想に書いている。

◆金龍出現で松林1000株 浅草寺の山号に
 龍と縁の深い寺といえば浅草寺(台東区)。東京最古といわれているこの寺の山号は金龍山という。飛鳥時代の628年、隅田川から本尊の観音様が現れた時、金龍が天空から舞い降り、一夜で千株の松林ができあがったという縁起がある。春と秋に奉納される「金龍の舞」の由来だ。
  最初に龍がいるのは雷門。赤い大ちょうちんの底に木彫りの龍が施されている。雷門の南側には風神像と雷神像、北側には龍神像2体が奉安されている。門の正式名称は「風雷神門」だが、江戸時代後期にはすでに雷門と呼ばれるようになった。
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  仲見世を抜けて宝蔵門へ。「小舟町」と記された赤ちょうちんの底にも木彫りの龍がいる。本堂に向かう手前東側のお水舎(みずや)では高村光雲作の龍神像が立ち、足元では龍の口から水が注がれている。天井には東韶光(あずましょうこう)が描いた「墨絵の龍」がにらみをきかせる。
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 本堂の天井にも川端龍子の「龍之図」があったが今年7月に剝落してしまい、現在は高精細の複製画が掲示されている。

雑誌『家庭画報』さんの新春特大号でも。
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特集「辰年の開運祈願 龍神絶景を行く」の中の「あなたの町にも龍はいる!日本全国の社寺建築に息づく龍の傑作選」という記事です。

●浅草寺(東京都) 都内最古の寺院で神像を囲む8体の龍

約1400年前、今の隅田川で聖観世音菩薩の像が、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の投網にかかったことを由緒に持つ「浅草寺」。御水舎には明治から大正にかけて活躍した彫刻家・高村光雲作の龍神像を据え、その周りを8体の龍が囲む。天井にも「墨絵の龍」が描かれている。
浅草寺 住所:東京都台東区浅草2-3-1 TEL:03(3842)0181
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開運・招福にご利益のあるとされる龍神様。年明け早々の暗雲を祓っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

明日は小生の誕生日なので、取つて置いた少しばかりの小豆を煮て明朝は赤飯を祝ふつもりです。

昭和21年(1946)3月12日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

この項、慣例により光太郎の年齢は数え年で記載していますので食い違いますが、翌13日は満63歳の誕生日でした。日記によれば、朝のうちに近くの分教場の先生が用事で訪ねてきた以外は訪問者もなく、一人で祝う誕生日でした。

新春を彩るにふさわしい企画展です。

開館記念展 皇室のみやび 第2期 近代皇室を彩る技と美

期 日 : 2024年1月4日(木)~3月3日(日)
      前期:1月4日(木)―2月4日(日) 後期:2月6日(火)―3月3日(日)
会 場 : 皇居三の丸尚蔵館 東京都千代田区千代田1-8 皇居東御苑内
時 間 : 午前9時30分〜午後5時
休 館 : 月曜日(ただし月曜が祝日または休日の場合は開館し、翌平日休館)
料 金 : 一般1,000円、大学生500円

本展は、今年11月に開館30年を迎える三の丸尚蔵館が、令和という新たな時代に、装いを新たに「皇居三の丸尚蔵館」として開館することを記念して開催するものです。約8か月にわたって開催する本展では、「皇室のみやび」をテーマに、当館を代表する多種多彩な収蔵品を4期に分けて展示します。これらは、いずれも皇室に受け継がれてきた貴重な品々ばかりです。長い歴史と伝統の中で培われてきた皇室と文化の関わり、そしてその美に触れていただければ幸いです。

※出品作品は全て国(皇居三の丸尚蔵館収蔵)の作品です。

皇居三の丸尚蔵館の収蔵作品には、明治時代以降に宮中において室内装飾として使用された美術工芸品類が含まれています。なかでも、明治22 年(1889)に大日本帝国憲法発布式が行われた場所でもある明治宮殿を飾った作品は、当時の著名な作家が最高の技術を凝らしたものです。第2期では、それらの作品とともに御即位や大婚25 年(銀婚式)など皇室の御慶事を契機として制作された作品、さらに明治・大正・昭和の三代の天皇皇后にゆかりのある品々をご紹介します。

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今秋リニューアルオープンした皇居三の丸尚蔵館さんの開館記念展。第1期の「三の丸尚蔵館の国宝」が既に先月から始まっており、年明けから第2期「近代皇室を彩る技と美」期間に入ります。
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光太郎の父・光雲の木彫、絶対になにがしかは出品されるだろうと予想し、何が出るかなといろいろ調べていたのですが詳細が分からずやきもきしていたところ、昨日になって詳細が発表されました。

それによると光雲作は「猿置物」(大正12年=1923)。昭和天皇の弟の秩父宮殿下から、母親の貞明皇后陛下に献上されたもので「三番叟」とも称されます。
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第2期の中でさらに前期(1月4日(木)―2月4日(日))、後期(2月6日(火)―3月3日(日))に分かれ、前期のみの展示だそうです。

他の目玉の展示品は川合玉堂の「昭和度 悠紀地方風俗歌屏風」、横山大観で「日出処日本」、海野勝珉による「蘭陵王置物」(重要文化財)など。いずれも新春らしく吉祥感あふれる作です。

出品目録がこちら。
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観覧には予約が必要ですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の冬籠ももう半分通り越して残り惜しいやうな、又春が待たれるやうないろいろの気がします。今年は暖冬に属してゐるやうで零下二〇度の日は一朝だけでした。吹雪のひどいのも一晩だけ。幸に健康でゐます。


昭和21年(1946)2月7日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

マイナス20℃の日があっても暖冬ですか……。岩手県、おそるべしです。

来年の話ではありますが、もう2週間足らず後ですので……。

モンデンモモ ニューイヤーコンサート2024

期 日 : 2024年1月5日(金)
会 場 : 紅葉丘文化センター 東京都府中市紅葉丘2丁目1番地
時 間 : 15:00頃
料 金 : 無料(当日午前中から整理券配付のようです)

歌い始めがどんなふう?ってすごくその年を表しますね 来年2024年の歌い初めはこんな風〜 いつもミュージカルやお芝居のお稽古にお世話になっている地元の文化センターからオファーいただきました 各ジャンルの作品精一杯お届けしてみますね

出演
 歌 お話 モンデンモモ   ピアノ おのゆみ

予定曲目
 愛の賛歌 アヴェマリア オペラ夕鶴より さよならのアリア みだれ髪 レモン哀歌
 百万本のバラ さよならはダンスの後に 天城越え ラ・クンパルシータ 私はマリア
 古代への旅 他 

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「智恵子抄」をはじめ、光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手・モンデンモモさんのコンサートです。

「レモン哀歌」がプログラムに入っています。平成6年(1994)にリリースされたCD「REQUIEM」に収録されていた曲ですから、もう30年歌い継がれていることになりますね。

最近は鳥取やら島根やら、あちらの方での活動が中心となりつつあるようですが、ご自宅は東京都府中市で、そちらでの開催です。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

砥石の凍結の危険のため彫刻も大工仕事も出来ないのが残念です。


昭和21年(1946)2月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

厳寒期にはマイナス20℃にもなる花巻郊外旧太田村の山小屋。砥石は水で濡らして使用するため、その水がしみ込んで凍結すると膨張し、砥石自体が割れてしまいます。

始まってしまっている展覧会ですが、昨日、気が付きました。

大倉組商会設立150周年記念 偉人たちの邂逅―近現代の書と言葉

期 日 : 2023年11月15日(水)~2024年1月14日(土)
会 場 : 大倉集古館 東京都港区虎ノ門2-10-3
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌火曜日)、
      12/29~12/31 ※年始は1月1日より開館します
料 金 : 一般 1,000円 大学生・高校生 800円 中学生以下 無料

今から150年前の明治6(1873)年10月、大倉喜八郎によって大倉組商会が設立されました。大倉組商会は後に15財閥の一つに数えられる大企業に成長します。本展では大倉組商会設立から150年を数えた本年、創設者・大倉喜八郎と、嗣子・喜七郎による書の作品とともに、事業や文雅の場で交流した日中の偉人たちによる作品を展示し、詩作や書の贈答によって結ばれた交流の様を展観いたします。

大倉集古館には、大倉喜八郎と交流をもった中国清時代や、明治大正の偉人たちの書が所蔵されています。彼らは折に触れ歌を詠み、それを贈り合いました。また、喜八郎自身は、光悦流と称する自らの書風によって歌を書きあげ、嫡子の喜七郎は、松本芳翠に書を学び、友とともに漢詩を作り軸に仕立てました。大倉財閥150年をめぐる偉人たちの交流の跡を示す書の数々を展示いたします。
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はじめ、各地に同型のブロンズがある光太郎作の「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)が出ているのかと思ったのですが、さにあらずでした。出品リストによれば、展示されているのはそちらを元に光太郎の父・光雲が制作した木彫「大倉鶴彦翁夫妻像」(昭和2年=1927)。「鶴彦」は大倉の号です。
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リストでは光雲・光太郎合作となっています。現に生きている人物の肖像彫刻はやや苦手としていた光雲、光太郎に粘土で原型を作らせ、それを見ながら木彫にすることがあって、この像もその一つ。法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもその手法で制作されています。また、塑像となると、まるまる光太郎が代作した作品が4点ばかり確認できています。

光太郎はこんなことを書き残しています。

 首は可成作つたが、半分以上は父の仕事の下職のやうにしてやつてゐたから、半ば父の意志が入つて居り、数は沢山拵へたけれど自分の作には入らない訳だ。私が粘土で原型を拵へても、それを鋳金にしたり木彫にうつしたりする時に無茶苦茶に毀されて了ふ。法隆寺の佐伯さんの肖像なども父の名で私が原型を拵へたものだが、出来上つたものはまるで元のものとは違ふ。(「回想録」昭和20年=1945)

ある意味、仕方のないことだと思いますが。

ところで、この書きぶりだとまだ同様の作がたくさんあるような感じですね。個人の肖像などで知られていない例が相当数あるのかもしれません。

「大倉鶴彦翁夫妻像」、二十数年前に一度拝見しましたがそれ以降目にしておりません。今月末に上京する予定がありますので、その際に、と思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草野心平さんの事大に心配してゐたところ、おてがみに同封の同君のテガミ拝受、又おてがみによりて草野夫人や子供さん達が郷里にかへられて居る事を知り、なつかしく存じました。


昭和20年(1945)11月6日 川鍋東策宛書簡より 光太郎63歳

戦時中、中国にいた心平の消息が終戦後にまるでわからず、気を揉んでいたところにもたらされた心平無事の報。心平にしても、光太郎が岩手に疎開し、そのまま居着いているとは夢にも思っていなかったため、連絡が取れなかったのでしょう。

心配は翌年3月には復員、9月に光太郎の隠棲していた太田村を訪れ、再会を果たします。

都内から演奏会情報です。

歌曲個展+5 ドイツロマン派の歌曲――残照の時――

期 日 : 2023年12月16日(土)
会 場 : やなか音楽ホール 東京都台東区谷中3-23-8
時 間 : 14:30開場 15:00開演
料 金 : 一般3,500円 学生2,000円 全席自由

曲 目 : 
 リヒャルト・シュトラウス
  4つの最後の歌 Vier Letzte Lieder
 フーゴ・ヴォルフ
  ミケランジェロの詩による3つの歌曲 Drei Lieder nach Michelangelo
 ヨハネス・ブラームス
  4つの厳粛な歌 作品121 Vier ernste Gesänge Op.121
 ロベルト・シューマン
  暁の歌 作品133 Gesänge der Frühe Op.133(ピアノ独奏)
 根本卓也
  組曲『智恵子抄』(新作初演)

出 演 :
 ソプラノ 坂口真由  バスバリトン 牧山亮  ピアノ 蓜島啓介

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当方は寡聞にして存じ上げませんが、根本卓也氏という作曲家の方による組曲「智恵子抄」がプログラムに入っています。氏のHPには「こちらは、以前《亡き人に》という題で発表した重唱曲に、ソプラノ・バスバリトン・ピアノそれぞれのソロ曲を一曲ずつ足す形で組曲にしました。詩は全て高村光太郎の『智恵子抄』から採っています。」とのこと。そういえば昨年でしたか、他の演奏会で正規のプログラムではなくアンコールで「亡き人に」が演奏された、的な記述をSNSで見たような気がしています。

それから「おやっ」と思ったのが、「ミケランジェロの詩による3つの歌曲」。ロダンと共に光太郎が終生敬愛し続けた、あのミケランジェロが詩を書いていたというのは存じませんでした。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。残念ながら当方、この日は法事が入っておりまして伺えませんが。

【折々のことば・光太郎】

午後二時頃分教場に到着、今晩は分教場に宿泊、明日よりだんだんに小屋の整備にかかります。


昭和20年(1945)10月17日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎63歳

約1ヶ月厄介になった、花巻病院長・佐藤隆房宅を出て、旧太田村山口地区に入りました。既に村民らの手で鉱山の飯場小屋が移設されていましたが、内部の造作等は未完成で、ここからまた1ヶ月は旧太田小学校山口分教場に寝泊まりしながら自分で大工仕事をしました。ちなみに光太郎に太田村移住を勧めたのは、山口分教場の教師・佐藤勝治でした。

ここから7年間に及ぶ太田村での暮らし。当初は若い頃からの夢だった北方の僻村での生活の実現、文化集落の建設といった無邪気な夢想の部分がありましたが、自らの戦争責任の省察が進むとともに、徐々に「自己流謫」(流謫=流罪)へと変容していきます。

時折、本当に時折ですが、光太郎のブロンズ彫刻が売りに出されます。ブロンズは同一の型から同じ物が作れますので、光太郎歿後に鋳造された物が販路に乗るわけです。といっても無制限に鋳造されることもないので、やはり貴重な機会ではあります。

まず、大阪で昨日始まった展示即売会。「手」(大正7年=1918)が出ています。

古美術上田 EXHIBITION

期 日 : 2023年11月23日(木)~11月30日(木)
会 場 : 竹井事務所 大阪市西区新町1-2-13 新町ビル2F 206号
時 間 : 13:00~19:00
料 金 : 入場無料

超名品!高村光雲の息子であり、智恵子抄で有名な“高村光太郎” 代表作「手」を11月23日~30日の1週間限定で展示販売 ~あの超貴重品を手に入れる今世紀最後のチャンス! 昭和初期美術の名品と共にガラス越しではなく“間近”で!~

株式会社竹井事務所は、竹井事務所2F(所在地:大阪市西区新町1-2-13 新町ビル2F 206号)にて高村光太郎の「手」を中心に、古美術上田による昭和初期美術の展示・販売会を2023年11月23日(木)から11月30日(木)の期間限定で開催します。

昭和初期の日本は、第一次世界大戦による好況が終わり、戦後恐慌によって日本全体が貧しくなった時代です。そんな中で作り上げられた美術品には作家の強い意志が感じられ、その象徴の一つとして高村光太郎の「手」がしばしば挙げられます。不遇の時代に作られた逞しい作品の力と美を間近でご高覧下さい。

【主な展示・販売品】
 ・高村光太郎「手」 ・鋳銅金鶏鳥置物  ・純銀鵞置物  ・青銅器倣花瓶
 ・鋳銅蟹香炉  ・鋳銅蜂文花瓶  ・鋳銅篝火形香炉  他

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会場の「竹井事務所」さんは大阪ですが、主催の「古美術上田」さんは東京都文京区(そこで、下記の別の業者さんによるオークション会場も都内ですし、この記事のカテゴリは「東京都」としました)。

上記の説明文、突っ込みどころが多いのですが……。

まず「今世紀最後のチャンス」。今世紀はまだ80年近く残っていますし……。まぁ、貴重な機会であることはその通りですね。それから「昭和初期」と謳っていますが、「手」は大正7年(1918)の作と確認できています。まぁ、他の展示品の多くが「昭和初期」なのでしょう。

そして、「手」の販売価格。書いてありません。「応談」ということでしょうか。台座を見るとどうも古い鋳造ではないようなのですが、どのくらいで考えているかと、気になりますね。

もう1件、美術品オークションから。

第764回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

期 日 : 2023年12月7日(木)、8日(金)
会 場 : 東京毎日オークションハウス 
       東京都江東区有明3-5-7 TOC有明ウエストタワー5階
時 間 : 12/7(木) 16:00 - (Session1 online)
      12/8(金) 12:00 - (Session2 Auction House)
料 金 : 入場無料

こちらでは、やはりブロンズの「薄命児男子頭部」(明治38年=1905)が出ます。

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006欧米留学に発つ前年、浅草の花やしきで見た、曲芸の幼い兄妹がモデルです。もともと右画像のように兄妹の群像として作られました。親方に怒られて泣いている妹をかばう兄、という構図。しかし、残念ながら現存するのは兄の頭部のみです。

同型のものは、髙村家、碌山美術館さん、千葉県立美術館さん、花巻高村光太郎記念館さんなどにあります。

ところでこの手のオークション、以前はこのブログで度々ご紹介していましたが、一度、光太郎の父・光雲作の木彫ということで出品されていたものが、画像を見ただけでもあまりに「いけない」ものだったので、以後、ここで取り上げるのをやめていました。ただ、今回はブロンズで、まず間違いなさそうなのでご紹介します。

予想落札価格的な設定が100万から150万。まぁ、妥当な線でしょう。「代表作」とは言えない「薄命児」でこの値段ですから、上記の「手」はその数倍ではないかと思われます。

懐に余裕のおありの方(個人でも法人でも)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今朝は西鉛の山のマタギが宮沢さんところへ訪ねて来たので、熊捕りの話をききました。

昭和20年(1945)8月3日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

「西鉛」は花巻南温泉峡の一番奥にあった西鉛温泉。光太郎は花巻の宮沢家に疎開後、肺炎で高熱を発して約1ヶ月臥床した予後を養うため、6月に1週間程当時に音すれました。

そのあたりのマタギは、賢治の「なめとこ山の熊」に登場しますね。

お世話になっている書家の菊池雪渓氏から招待状を頂き、「第45回東京書作展」を拝見して参りました。

会場は上野の東京都美術館さん。
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昨年はそれが無かったようなので欠礼しましたが、今年は上位入賞作に光太郎詩を書かれた作品があるとのことで。

こちらがその作品。
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光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居席活を始めた直後の昭和20年(1945)に書かれた詩「雪白く積めり」の一節です。高田月魁氏という方、これではない作の方が最高賞に当たる内閣総理大臣賞/東京書作展大賞に選ばれていました。

その他の入選作でも光太郎詩文を書かれた方が複数いらっしゃり、有り難く存じました。

散文「満目蕭条の美」(昭和7年=1932)から。
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詩「平和時代」(昭和3年=1928)全文。
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詩「芋銭先生景慕の詩」(昭和14年=1939)より。「芋銭」は日本画家・小川芋銭です。
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見落としがなければ光太郎詩文を題材にしたものは以上でした。

「あれっ」と思ったのが、こちら。
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光太郎の親友・荻原守衛の書簡(片岡当宛・年月日不明)の一節が書かれています。文学系で光太郎と交遊のあった人物の作品から題を採ったものは多く見かけます(今回も北原白秋やら与謝野晶子やらが目立ちました)が、書道展で守衛の名に接する機会は今まで無かったような気がします。

しかし、いい文言です。

蕾ニシテ凋落センモ亦面白シ 天ノ命ナレバ之又セン術ナシ 唯人事ノ限リ尽シテ待タンノミ 事業ノ如何ニアラズ心事ノ高潔ナリ 涙ノ多量ナリ以テ満足ス可キナリ

満30歳で夭折した守衛晩年の書簡と思われますが、自身の運命を予言しているかのような……。

招待券を下さった菊池氏の作。
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菊地氏も令和元年(2019)の同展で内閣総理大臣賞/東京書作展大賞に輝かれています。

同展、昨日開幕で、11月24日(金)まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

毎日花巻の地理踏査、先日は詩碑に詣でました、清六さんが写真をとつてくれましたがまだ出来ません、警戒警報頻発、昨夜も十二時頃サイレンに起されました、

昭和20年(1945)7月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

5月16日に花巻の宮沢家に疎開、翌日から結核性の肺炎で約1ヶ月臥床した光太郎ですが、この頃には本復。賢治実弟・清六の案内で、自らが昭和11年(1936)に揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑を初めて見に行きました。除幕の際は智恵子が南品川ゼームス坂病院に入院中ということもあり、訪れませんでした。

招待状を頂いており馳せ参じる予定なのですが、このサイトでご紹介するのを失念していました。というか、紹介したつもりでいたら「しまった、書いてなかった!」状態でした。すみません。

福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~

期 日 : 2023年11月4日(土)
会 場 : 王子ホール 東京都中央区銀座4-7-5
時 間 : 14:00開演(13:30開場)
料 金 : 4,500円(全席自由)

予定プログラム : 朝岡真木子作曲作品
 秋です      詩:西岡光秋
 しだれ桜     詩:岡崎カズヱ
 露草 〈初演〉      詩:こわせ・たまみ
 海の待宵草    詩:こわせ・たまみ
 きつねのよめいり 詩:野上彰
 金木犀の秋〈初演〉詩:冨永佳与子
 冬が来た〈初演〉    詩:高村光太郎
 組曲「みだれ髪」〈改訂初演〉短歌:与謝野晶子
 さんまのうた   詩:大竹典子
 だんごむし    詩:矢崎節夫
 うめぼし     詩:浅田真知
 黒豆のなっとう  詩:中野惠子
 おにぎりのうた  詩:柏木隆雄
 わすれない    詩:星乃ミミナ    ほか

出 演 :
 福成紀美子(ソプラノ)、朝岡真木子(作曲・ピアノ)
 特別ゲスト 下野 昇(テノール)
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作曲家・朝岡真木子氏。平成13年(2001)、組曲「智恵子抄」のうち「人に」「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」の4曲を作曲され、初演。令和元年(2019)に「値ひがたき智恵子」を加えて完成版として初演。共にソプラノの伊藤晶子氏の歌唱でした。

昨年には同組曲を含む楽譜集『朝岡真木子歌曲集2』が刊行され、メゾソプラノの清水邦子氏が全曲演奏、さらに今年に入ってCD化もなされました。その前後、清水氏や他の方の歌唱で、様々な機会に抜粋の演奏がくり返されていますし、今年の第67回連翹忌の集いでも「人に」を清水氏の歌唱、朝岡氏のピアノでご披露いただきました。連翹忌と言えば、渡辺えりさんの無茶振りで(笑)えりさんの朗読のBGMも朝岡氏にお願いしました。

その朝岡氏が新作として「冬が来た」を作曲なさり、今回のコンサートで初演が為されます。ありがたし。歌唱は福成紀美子氏、ピアノはこうした場合にほとんどそうですが、朝岡氏ご自身です。

もう明日になってしまいましたが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

思ひきつて静養にゆかれた事をよろこびます、十分効果のあるまで落ちついて滞在せられるやうに申進めます、小生は地下霊泉の信仰者で、地底ふかき所から自然が人間に贈るこの無類の霊気は必ず人の身体と精神とを健康に導くものと確信してゐます、


昭和19年(1944)12月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎62歳

健康を害して福島の湯岐温泉に湯治に出かけた宮崎に宛てた書簡から。光太郎の温泉好きは若い頃からでしたが、単に「温泉はいいですよ」ではなく「小生は地下霊泉の信仰者で、地底ふかき所から自然が人間に贈るこの無類の霊気は必ず人の身体と精神とを健康に導くものと確信」。笑えます。

当方も昨日まで花巻南温泉峡・大沢温泉さんに2泊し、光太郎も浸かった露天風呂を朝に晩に堪能して参りました。帰って来てもそれほど疲労を感じていないのは温泉の効用かも知れません。

その花巻レポート、明日は書かせていただきます。

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は中野区で開催された朗読公演「くつろぎの朗読」拝聴でしたが、その前に駒場東大前の日本近代文学館さんで調べもの。
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コロナ禍以後、初めてで、数年ぶりでした。

SNSで花巻の方から「ご存じかも知れませんが、ある雑誌の×巻×号に光太郎のアンケート回答が載っている」という情報がもたらされ、当方が作成した光太郎文筆作品リストと照らし合わせてみると記載がなく、またその雑誌はよく行く国会図書館さんに収蔵がないので行った次第です。

ところが、実際に閲覧してみると、「あれ? これ、知ってるぞ」。帰ってから調べてみると、なんとまあ、リストにそのアンケート回答を載せるのを忘れていました。チョンボでした。しかしチョンボに気がつけたのを良しとしましょう。

まぁ、それでも他の雑誌に載った戦後の光太郎訪問記で、「これは」というものが見つかったりもし、無駄足には成らずに済みました。

さらに帰りがけ、受付兼ミュージアムショップで、ポストカードを1枚ゲット。
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光太郎と親しかった木下杢太郎の詩集『食後の唄』(大正8年=1919)をモチーフにしたもの。一番左の画像は杢太郎自身の描いた同書の挿画ですが、杢太郎や光太郎が中心メンバーだった芸術至上主義運動「パンの会」の様子を描いたものです。で、右下の緑色の帽子を被ってこちらを振り向いているチョビひげの人物が、光太郎と言われています。同館のポストカード、光太郎の『有機無機帖』由来のものは存じておりましたが、こちらは「ありゃ、こんなのあったんだ」でした。

その後、中野へ。東中野駅でJRを降りて、昼食を摂りつつぶらぶら歩き、「くつろぎの朗読」会場のオルタナティブスペースRAFTさんへ。
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江戸川乱歩の短編「火縄銃」との2本立てでしたが、「智恵子抄」の方が長い時間を取って下さいました。
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読み手は声優・ナレーターの出口佳代さんという方。よどみなくしっとりとした大人のお声で、実に聴きやすい朗読でした。

「高村光太郎の智恵子抄を、時系列に沿って、解説をナレーションしながら読んでいきます」という予告が出ていましたが、その通りで、適度に時代背景や事実関係などの解説を交えつつ展開。

朗読された詩は「人に(いやなんです)」、「僕等」、「我が家」、「道程」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」、「あどけない話」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「風にのる智恵子」、「レモン哀歌」、そして戦後の「元素智恵子」。それ以外に智恵子書簡も。

クラシック系のCDをBGMに使われていました。バッハのカンタータBWV147「主よ、人の望みの喜びよ」や「G線上のアリア」、サティの「ジムノペディ」、ベートーベンのピアノソナタ「悲愴」など。選曲も的確でしたし、さらに感心したのは、長めの詩の朗読の際、BGMが終わると同時に朗読も終わるという実にナイスなタイミングの取り方。舌を巻きました。

「智恵子抄」。こういう展開になる、とわかっていても、やはり聴いていてじーんと来てしまいました。

終演後、少しお話をさせていただき、その後、中野の街へ。

中野と言えば、光太郎終焉の地です。会場のオルタナティブスペースRAFTさんから少し南下すると、桃園川緑道。川は暗渠となっており、地上部分は石畳の歩道が延々東西に続いています。西に1㌔ちょっと歩くと、緑道沿いにそこだけ時が止まったかのような建物。
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戦後、水彩画家の中西利夫が自身のために建てたアトリエですが、利夫はこのアトリエをほとんど使うことなく昭和23年(1948)に急逝。その後、貸しアトリエとなり、イサム・ノグチがここを使った後、昭和27年(1952)10月に花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎が入りました。ここで生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作した光太郎、翌年には一時的に太田村に帰ったものの、もはや健康状態が山での生活に耐えられず、またここに戻り、昭和31年(1956)4月2日早暁、ここでその生涯を閉じました。翌年の第一回連翹忌もここで行われています。

当時中学生で、光太郎にかわいがられた中西家子息・利一郎氏がご存命の頃、3回、中に入れていただきました。その最後の機会は、平成28年(2016)、当方も出演させていただいたATV青森テレビさん制作の「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」という番組のロケの際でしたので、いや、もう7年も経つか、という感じでした。

このアトリエの保存・活用運動が起こっているのですが、その後、どうなっているのか……。
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というわけで、まとまりませんが、都内レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

きたない本ですが「大いなる日に」といふ詩集を出しましたので別便でお贈りいたしました。


昭和17年(1942)4月30日 篠田定吉宛書簡より 光太郎60歳

前年の『智恵子抄』に続く、光太郎第三詩集です(昭和15年=1940の『道程 改訂版』は除く)。それまでとは一変し、翼賛詩一辺倒。さらに翌年には年少者向けの『をぢさんの詩』、そしてその翌年には『記録』と、光太郎黒歴史詩集の出版が相次ぎます。
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画像はこの夏、信州安曇野の碌山美術館さんで開催された「特別企画 生誕140周年高村光太郎展」の際にお貸ししたもろもろのうち黒歴史三点セット。これこそ光太郎詩の真髄、と涙を流して有り難がる愚かとしか言いようのない自称・研究者が居るのには呆れます。

今日10月5日は智恵子の命日「レモンの日」です。忌日として「レモン忌」という場合もあります。漢字で「檸檬忌」とすると梶井基次郎の忌日(3月24日)となりますのでご注意願います。

10月2日付の『しんぶん赤旗』さん。歌人の寺井奈緒美氏の連載で「レモン忌」としてご紹介下さいました。

くねくねTANKAロード 40 レモン哀歌 高村光太郎

007 古典音痴の私が歌碑や句碑を巡り、くねくね遠回りしながら歌のヒントを探すエッセー。10月5日は詩人・彫刻家の高村光太郎の妻・智恵子の忌日「レモン忌」。東京・品川のゼームス坂病院跡地にある「レモン哀歌」の碑を訪れた。
〈そんなにもあなたはレモンを待つてゐた かなしく白くあかるい死の床で〉
   *……*
冒頭だけでも美しく、完成された詩だ。光太郎は歌人でもあり『智恵子抄』にこんな歌がある。
〈光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき〉
 「此所」とは、千駄木にあった二人のアトリエのことだ。ちょうど詩人・室生犀星の散歩コースの途中にあったらしく、『我が愛する詩人の伝記』の中で「白いカーテンの時は西洋葵(あおい)の鉢が置かれて、花は往来のほうに向いていた。あきらかにその窓かざりは往来の人の眼を計算にいれた、ある矜(ほこり)と美しさを暗示したものである」と描写している。下宿住まいだった犀星としては、嫌でも目に入ってくるこの愛の巣を苦々しく思っていたようで、智恵子の印象についても、訪問者を瞬間に見破りバカにしているような「ツメタイ眼」だったと記していて、ひがみっぽい文章に笑ってしまう。
 しかし、犀星が嫉妬する気持ちもわかる。光太郎はニューヨーク、パリへの留学経験があり文芸誌『スバル』で活躍。智恵子も『青鞜』の表紙絵を手がけ、「あたらしい女」として注目された。長男ながら家を継がず子を持たず、智恵子の晩年まで入籍せず事実婚状態だったことも当時では珍しかったと思う。
   *……*
 先月最終回だったテレビドラマ「こっち向いてよ向井くん」を思い出す。自立していたい女性たちが抱く婚姻制度や性役割へのモヤモヤが描かれていて、目が離せなかった。光太郎と智恵子も人がうらやむような「あたらしい」関係に見えるが、因習にとらわれない「たぐいなき夢」を実現するには葛藤もあったようだ。ドラマの主人公・向井くんの「役割を生きない方がずっと難しくない?」というせりふが印象深い。
 翻訳の仕事や木彫小品でも稼げる光太郎に対し、いくら頑張っても経済的に自立した画家の役割を得られない智恵子は、精神を病んでいった。 
 光太郎の「牛」という詩がある。
〈牛はただ為(し)たい事をする/自然に為たくなる事をする/牛は判断をしない/けれども牛は正直だ〉
 人の関係性に完成はない。不格好でも、モヤモヤに正直に牛歩のごとく進んでいきたい。
・唐揚げのレモン係と「そろそろ」と切り出す役はあなたでしたね 奈緒美


きれいにまとめて下さいました。多謝。

智恵子の故郷・福島二本松では、かつて存在した顕彰団体「智恵子の里レモン会」さん主催で「レモン忌」の集いが行われていましたが、会の解散で消滅。代わりに、というわけではありませんが、二本松市として今年から「レモン祭」と称し、智恵子生家・智恵子記念館でさまざまなコンテンツを用意しています。そのうち、生家のライトアップに関して予告記事が出ています。地元紙『福島民友』さん。

智恵子の生家、夜に浮かぶ 10月5日の命日にライトアップ

009 詩人・彫刻家高村光太郎の妻で、光太郎の詩集「智恵子抄」の「レモン哀歌」でも知られる二本松市出身の洋画家高村智恵子の命日の5日、同市の智恵子の生家・記念館で「蘇る智恵子~生家のライトアップ~」と題した初のイベントが行われる。ライトアップ時は生家を無料開放する。時間は午後5時~同8時。
 「高村智恵子レモン祭」(5日~11月19日)の一環として同館が実施する。当日は生家に智恵子のシルエットを浮かび上がらせるほか、生家内や庭園で竹灯(あか)りや和紙ランプシェードによる演出を行う。
 同レモン祭期間中は、通常は非公開の智恵子の生家2階の特別公開(7日~11月5日の土、日曜日、祝日)や奇跡といわれる智恵子作の実物紙絵の展示(5~17日)、「みんなで作るシンメトリー展・作製編」(5日~11月19日)を行う。
 智恵子の生家・記念館の入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。

今日、それから11月6日(月)~19日(日)に行われるライトアップでは智恵子のシルエットを浮かび上がらせるそうで、その画像がどうしてもう出ているのか不思議なのですが、試しにやってみた際のものなのかもしれません。一般社団法人にほんまつDMOさんのSNSにも上がっていました。
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というわけで、本日のレモンの日(レモン忌)、それぞれの場所で智恵子に思いを馳せていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

書かない方がよかったやうな原稿をかいてしまつて何だかさびしい感じがします、あの日婦人公論にみな渡しました、


昭和15年(1940)11月5日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎58歳

原稿」は翌月の『婦人公論』に載った随筆「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」。翌年には「智恵子の半生」と改題、詩集『智恵子抄』に収められます。

30枚程のものですが、取りかかってから稿了までかなりかかりました。智恵子との日々を文章にまとめてしまうことに少なからず抵抗があったようです。そう思って読むからかも知れませんが、普段の光太郎の文章の持つ理路整然とした感じはなく、思いつくままに後から後から書き足していった感が感じられます。そして行間から嗚咽が聞こえてきそうです。

「青空文庫」さんで全文が読めます。ぜひどうぞ。

都内で開催中の企画展です。

楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス

期 日 : 2023年9月2日(土)~10月15日(日)
会 場 : 泉屋博古館東京 東京都港区六本木1丁目5番地1号
時 間 : 午前11時 ~ 午後6時 金曜日は午後7時まで開館
休 館 : 月曜日、9月19日(火)、10月10日(火)
      9月18日(月・祝)、10月9日(月・祝)は開館
料 金 : 一般1,000円 高大生600円 中学生以下無料

 安らぎと自由の追求。
 忙しない俗世を離れ、清雅な地での隠遁生活を送りたいと願うのは、超高速の情報が飛び交う現代社会に生きる私達ばかりではありません。むかしの人たちも政治や社会のしがらみから逃れ、清廉な生活にあこがれたがために、自ら娯しみ遊戯の精神を忘れず、自由を希求する「自娯遊戯」の世界を描いた絵画や工芸品を求めたりしました。そのために、東洋の山水画には、生き方の理想や文学的なテーマが隠されていることが少なくありません。そこには、田舎暮らしのスローライフを求める「楽しい」隠遁から、厳しい現実を積極的に切り抜ける「過激な」隠遁まで、実に多種多様な隠遁スタイルが見いだせます。
 本展は、理想の隠遁空間をイメージした山水・風景や、彼らが慕った中国の隠者達の姿を描いた絵画作品とともに、清閑な暮らしの中で愛玩されたであろう細緻な文房具なども併せて展示いたします。中国の士大夫や日本の文人たちが抱いたマインドフルネス(安寧な心理状態)に触れることで、暮らしを楽しむ生の充実の一助となれば幸いです。

同時開催:特集展示「住友コレクションの近代彫刻」
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メインの「楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス」ではなく(そちらはそちらで優品がいろいろ出ているのですが)、同時開催としてひっそり行っている特集展示「住友コレクションの近代彫刻」で、光太郎の父・光雲作の「楠木正成銅像頭部木型」(明治26年=1893)が出品されています。

その名の通り、皇居前広場に立つ「楠木正成銅像」の頭部の木型です。像自体が巨大なものですので、頭部のみとはいえ、像高70㌢ほどの大きなものです。当方、平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」、平成30年(2018)に小平市平櫛田中彫刻美術館さんで開催された「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」で拝見しました。

元々「楠木正成銅像」は、住友家の別子銅山開坑200周年という意味合いもあって奉納され、その関係でこの作品が住友コレクションに入っています。頭部以外の木型は行方不明となりました。
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他に光雲高弟の一人、山崎朝雲や東京美術学校での光雲の同僚にして盟友・石川光明、光太郎と交流のあった木内克の作なども出ています。
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また、「住友コレクションの近代彫刻」に絞った記念講演会も開催されます。

講師:野城今日子氏(渋谷区立松濤美術館学芸員) 定員:50名(予約制)

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日碑文の石刷り到着、彫刻の早く出来たのに驚きました。 文字の拙さは汗顔の至りでありますが、石屋さんの彫刻は大層やはらかにうまく彫れたと感心しました。 今部屋にかけて眺めて居ります。


昭和11年(1936)11月19日 宮沢清六宛書簡より 光太郎54歳

この年、宮沢家の依頼で揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の拓本が届けられたことに対する返信です。同碑は全国に数ある賢治碑の第一号です。

石屋さん」は今藤清六。昭和21年(1946)、詩碑の誤字脱字の追刻の際にも鑿を振るいました。

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