カテゴリ:東北以外 > 東京都

まことに残念ながら、今年も、です。

来たる4月2日(金)、開催予定でした光太郎忌日・第65回連翹忌の集い、やはりコロナ禍のため、開催を見送ります。

会場となるべき東京都を含む地域で緊急事態宣言解除の見通しがまだ立たないこと、一般の方々に対するワクチン接種のタイムテーブルも不透明であること、全国規模の催しであるため長距離・長時間の移動を求めざるをえないことなど、不安要素は尽きません。

以前のような、会食を伴う形以外での開催も検討いたしました。ホール等を使い、密にならないよう配慮した上で、講演・シンポジウム等をメインとした形態、Zoom等を利用してのオンラインでの開催など。しかし、いずれもこれまでの連翹忌の集いの趣旨とはなじまないと判断いたしました。また、そうした形で無理矢理開催したところで、果たしてどれだけの参加が見込めるか、というご意見もありました。

以前のように会食を伴う形態でも、やってできないことはないとは存じますが、皆様に真に安心してご参加いただけるかというと、それは不可能です。言い換えれば、皆様が何らの心配もなくお集まりいただけるようになるまで、開催は見送るべきかと存じました。

光太郎、それから当会の祖・草野心平、そして昨年1月に亡くなられた当会顧問・北川太一先生も、きっと理解を示して下さるでしょう。
000
4月2日当日は、正午頃、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に香華を手向け、それをもって第65回連翹忌とさせていただきます。屋外であっても密の状態は避けたく存じますので、皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

昨年も「来年こそは」と願っていたのですが、それが果たせず断腸の思いです。しかし、これで連翹忌の灯を絶やすことなく、またしても「来年こそは」と願わずにいられません。「来年こそは」よろしくお願い申し上げます。

東京都中央区観光協会さんのサイトから。

日本橋から青空を取り戻せ。国と都の合同プロジェクト、高速道路地下化計画が始動!

 今から約400年前、江戸開幕とともに架けられた日本橋。五街道の起点と定められて以来、日本の中心であり、繁栄を象徴してきました。現在の橋は石橋になって3代目。明治44年に完成したアーチ型の美しい花崗岩の橋で、翼が生えた大きな麒麟と獅子のブロンズ像が見事です。橋のふもとには観光船乗り場、魚河岸記念碑、高札場レリーフ、徳川慶喜の筆による橋銘板、日本国道路元標や日本橋由来記など見所一杯。訪れる人が絶えません。

 1964東京オリンピックの開催が決まっていた日本は高度成長期の真っ最中。当時の交通事情は極端に悪く、羽田空港からメイン会場の代々木まで2時間以上かかっていました。特に日本橋付近の渋滞はひどくて平均時速は15~20キロのノロノロ運転。とても外国からゲストを迎えられる状態ではありません。新たに高速道路が必要。でも工期は5年だけ。用地を買収していては、とてもオリンピックに間に合いません。そこで、考えられたのが全体の85%以上を川や道路の上を通すという「空中道路」です。こうして日本の中心、日本橋の上を無粋な高速道路が走ってしまいます。皇居の前にも高速道路を通そうとしたそうですが、さすがにこれは却下されました。本当に、なんでもありだったんですね。

 そして、57年後、奇しくも次の東京オリンピック・パラリンピックの開催年に日本橋に青空を取り戻そうという計画、別名、智恵子プロジェクトが動き出しました(東京には空がないという。ほんとの空が見たいという。あたたら山に毎日出ている青い空がほんとうの空だという。「智恵子抄」 高村光太郎)
000
赤線の部分、江戸橋から神田橋出入り口まで日本橋川上の約1.1キロの高速道路を地下化。
 2021年1月26日、首都高速道路(株)は江戸橋と常盤橋出入り口を廃止すると発表しました。廃止日時は5月10日。首都高速道路日本橋地区地下化事業の実施に伴う廃止で、2035年までに地下トンネルが開通し、2040年までに現高架橋が撤去されて、日本橋に青空を回復する予定です。
001

日本橋川を活かした「東洋のヴェネチア」を目指したことがありました。
  明治時代に入ると、日本橋は巨大な東京港を臨む水運都市の核に位置付けられました。そのリード役を果たしたのが渋沢栄一と三井財閥で、今も日本橋に建つ三越と三井本館がそのシンボルです。イタリアのヴェネチアを手本に日本橋川沿いには多くの洋風建築物が建てられ、特に第一国立銀行、三井銀行など独特の味わいを持った和洋折衷の疑洋風建築の人気は高く、多くの錦絵に描かれています。

明治の文化人たちは鎧橋にパリのセーヌ河を感じました
 前方に見える鎧橋(日本橋より数百M隅田川寄り)の左側たもとに開業した西洋料理屋、メイゾン鴻の巣にパリのセーヌ河の香りを感じた作家や詩人たちが集います(パンの会:小山内薫、北原白秋、永井荷風、谷崎潤一郎、武者小路実篤、島崎藤村他そうそうたるメンバー多数)。あまりの喧騒に警官が出動したこともあったそうです。高村光太郎が智恵子に出会ったのはこのメイゾン鴻の巣でした。
 かっては水都の景観が眺められた日本橋。関東大震災、空襲、それに続く高度成長期と1964東京オリンピック前の交通インフラ工事でほとんどの川や建物が消滅してしまったため、今では東洋のヴェネチアの片りんも残っていません。
 日本橋1丁目再開発と日本橋青空化プロジェクトがきっかけとなって、日本橋は水辺と親しむ街に変わっていくことでしょう。
002
なるほど、という感じですね。

引用部分、最後のあたりに「パンの会」会場となったメイゾン鴻乃巣についての記述がありますが、「高村光太郎が智恵子に出会ったのはこのメイゾン鴻の巣でした」というのは大間違いですのでよろしく。ついでにいうなら、上の方で「あどけない話」(昭和3年=1928)が引用されている中の「ほんとうの空」という部分は「ほんとの空」です。

首都高速道路株式会社さんのサイトも確認してみました。すると、「START」というプロジェクト名で概要が説明されていました。「Safety(安全・安心) 未来にも走り続けられる安心・安全」の「S」、「Technology(技術) 交通機能を確保しながら地下化する技術」で「T」、「Activation(活性化) 景観形成・都市再生による日本橋エリア活性化」から「A」、「Renewal(更新事業)道路構造物を長期にわたり健全に保つ」ということで「R」、そして最後の「T」は「Tunnel(トンネル) 神田橋・江戸橋JCTの地下をつなぐ」だそうです。動画もアップされていました。
こちらには「智恵子プロジェクト」の語は見つかりませんで、正式名称ではないようです。

当方、都心に出る際は高速バスを利用することが多く、この地下化計画が為されている区間を通る路線です。いつも「なんだかなぁ」と思いつつ、日本橋の上を通過していました。
003
ちなみに麒麟や獅子などの日本橋の装飾彫刻は、光太郎の父・光雲が主任となって制作された皇居前広場の「楠木正成像」の鋳造を手がけた岡崎雪声の娘婿・渡辺長男の作品(明治44年=1911)です。鋳造は岡崎が担当しました。

光太郎、留学中に都市計画にも興味を持ち、その分野にも一家言ありました。もし存命なら、どう考えたでしょうね。

【折々のことば・光太郎】

朝晴れ、後曇り、涼、 暁方は毛布にては冷えるので掛蒲団をかける。

昭和21年(1946)9月2日の日記より 光太郎64歳

岩手の山懐では、9月ともなるとそうなのですね。

都内から企画展情報です。光太郎と親しかった画家・南薫造の作品が集められました。

没後70年 南薫造

期 日 : 2021年2月20日(土)~4月11日(日)
会 場 : 東京ステーションギャラリー 東京都千代田区丸の内1-9-1
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 月曜日(4/5は開館)
料 金 : 一般 1100円 / 大学・高校生 900円 / 中学生以下無料
      入館券はローソンチケットで販売、日時指定・事前購入制。
      詳細は公式ウェブサイトへ

日本では毎年数多くの美術展が開催され、多くの観客を集めています。大規模な西洋美術展はもとより、最近では、江戸期を中心とする日本美術や、現代アートの展覧会が大きな話題となることも少なくありません。そうした中で、めっきり数が減っているのが日本近代洋画の展覧会です。東京ステーションギャラリーでは2012年の再開館以来、一貫して近代洋画の展覧会の開催を続けてきました。それは多くの優れた洋画家たちの業績が忘れられるのを恐れるからであり、優れた美術が、たとえいま流行りではなかったとしても、人の心を揺り動かすものであることを信じるからです。
南薫造(1883-1950)、明治末から昭和にかけて官展の中心作家として活躍した洋画家です。若き日にイギリスに留学して清新な水彩画に親しみ、帰国後は印象派の画家として評価される一方で、創作版画運動の先駆けとなるような木版画を制作するなど、油絵以外の分野でも新しい時代の美術を模索した作家ですが、これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。
本展は、文展・帝展・日展の出品作など、現存する南の代表作を網羅するとともに、イギリス留学時代に描かれた水彩画や、朋友の富本憲吉と切磋琢磨した木版画など、南薫造の全貌を伝える決定版の回顧展となります。
000
001
南薫造は光太郎と同年の明治16年(1883)生まれ。東京美術学校西洋画科で学び、在学期間は光太郎とかぶっています。本格的な交流は明治40年(1907)、ともに留学でロンドンに滞在していた際からと思われます。もう一人、二人の先輩に当たる白瀧幾之助を交え、すき焼きパーティーなどにも興じたそうです。

光太郎の南評。

南君の芸術には如何にもなつかしみがある。大手を振つた芸術ではない。血眼になつた芸術でもない。尚更ら武装した芸術ではない。どこまでもつつましい、上品な、ゆかしい芸術である。
(散文「南薫造君の絵画」より 明治43年(1910))

そんな南ですが、上記案内に「これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。」とあります。なるほど、そうなんだという感じです。確かに昨年も南の作品を集めた展覧会がありましたが、広島県呉市での開催でした。

また、古書店で入手した当方手持ちの図録も広島県立美術館さんでのもの(平成10年=1998の「南薫造展―イギリス留学時代を中心に―」)ですし、実際、多数の作家の作品を集めた展覧会でしか南の絵を見たことがありません。
002 001
ちなみに広島県美さんの図録に、南、白瀧、光太郎のスリーショットとキャプションの付けられた写真が載っていますが、光太郎とされる人物は光太郎ではありません。似ているといえば似ているのですが……。これが誰なのかおわかりの方、ご教示いただければ幸いです。

さて、新型コロナの影響で、今回の展覧会は事前予約制となっています。いたしかたありますまい。感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切りぬき、小まいは残す。風ぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風も入るやうになる。


昭和21年(1946)7月21日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、当初は北側に窓がありませんでした。そこを自分で刳り抜いて、無理くり窓にしてしまったというわけです。窓と言っても、ガラスではなく障子紙でふさぐ形でした。

とにかくこの小屋は山の麓にあるため湿気が多く、そうなると大して気温が高くなくとも熱中症の危険が増します。実際、後の昭和24年(1949)の夏には、熱中症とみられる症状のため4回も臥床し、村人の世話になっています。当方も一度、7月頃でしたか、隣接する旧高村記念館(現・森のギャラリー)で数時間かけて寄贈された資料のリスト作成をしていた際に、ひどい眩暈(めまい)に襲われました。外気温は30℃に届いていなかったと思うのですが……。

都内から企画展情報ですが、まず『高田馬場経済新聞』さんの記事から 

早稲田の「漱石山房記念館」で特別展 漱石山房に集う文人たち生き生きと

000 明治の文豪 夏目漱石晩年の住居後地に新宿区が設置した漱石山房記念館(新宿区早稲田南町7、TEL 03-3205-0209)で現在、漱石の著書「道草」の装丁などで知られる津田青楓と漱石山房に集った人々との交流に焦点を当てた特別展「漱石山房の津田青楓」が開催されている。
 同館は、漱石が亡くなるまでの約9年間を過ごした「漱石山房」と呼ばれた家の跡地に新宿区が2017 (平成29)年9月に開設した施設。この山房では「木曜会」と呼ばれた漱石のサロン的な会合が開かれ多くの文化人が集った。同展は、そのうちの一人である津田青楓の生誕140年の年が2020年であることから企画された。青楓の手による漱石とその門下生たちの著書の装丁、漱石山房を描いた絵画などに加えて文章にも着目。青楓の仕事や書簡は、当時の漱石および門下生らの交友をみずみずしく伝える。
 同館の客間や書斎、ベランダ式回廊など在りし日の漱石山房を復元したフロアと、青楓が描いたその客間や書斎、回廊を同時に観賞できる展覧会は同館ならでは。

001 同展を担当した学芸員の鈴木希帆さんは「青楓といえば、装丁家、画家としての評価が一般的だが、『ホトトギス』や『白樺』などの文芸誌に小説を発表するなど『書く』仕事も手がけている。本展では、青楓の『描く(えがく)』『書く(かく)』の2つの仕事を紹介する。青楓は97歳まで存命したが、特に漱石および漱石没後の門下生との交流に焦点を当てた。このコロナ禍の中で、青楓にゆかりのある個人、文学館、美術館などから多くの貴重な資料提供や協力を得られたことでこの展示が充実した」と説明する。
 鈴木さんは「青楓は漱石を父のように慕っていた時期があり、漱石の死に際しては慟哭したと聞く。漱石山房の中でも重要な人物だったのだと感じる。青楓の文や描いたものから、ここ早稲田南町の漱石山房での青楓と漱石および門下生との心の交流までも感じとることができる。ここでこの展覧会を行うことの意義を、この土地に来てぜひ感じていただきたい」と呼び掛ける。
 関連イベントとして、講師に柏木博(武蔵野美術大学名誉教授)、大野淳一(武蔵大学名誉教授)による「対談 津田青楓のデザインと文章」(要予約)も3月7日に同館で開催予定。
 開館時間は10時~18時(入館は17時30分まで)。月曜休館。観覧料は、一般=500円、小・中学生=100円。3月21日まで。
 

《特別展》漱石山房の津田青楓

期 日 : 2021年1月26日(火)~3月21日(日)
会 場 : 新宿区立漱石山房記念館 新宿区早稲田南町7
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)
料 金 : 一般500円、小中学生100円 
      ※団体(20名以上・要事前連絡)は個人の観覧料の半額
      ※小中学生は土日祝日は無料

夏目漱石の『道草』を装幀した画家・津田青楓は、2020年に生誕140年を迎えました。
染色図案やプロレタリア美術運動への関与など、青楓の画業についてはこれまでにも検証が行われていますが、その文筆活動についてはまとまった研究は行われていません。
青楓は『ホトトギス』や『白樺』などの文芸雑誌に小説を発表し、生涯に20冊以上もの単著を刊行しています。
画家青楓のみずみずしい文章は、「翻訳ものを読むような新しさ」で漱石山房の門下生たちをも唸らせ、漱石山房への青楓の出入りもパリで書かれた青楓の小説を読んだ小宮豊隆による紹介で始まりました。
青楓は描くだけでなく、「書く」画家でもありました。
本展示では、漱石や漱石の門下生たちの本の装幀、漱石山房を描いた絵画に加えて、青楓の文章に着目して、漱石に最も愛された画家・津田青楓に迫ります。
008
関連行事
特別展記念講演会「対談 津田青楓のデザインと文章」
日時:3月7日(日)14時~15時30分
講師:柏木博(武蔵野美術大学名誉教授)・大野淳一(武蔵大学名誉教授)
申込:2月15日(月)必着
会場:漱石山房記念館地下1階講座室・多目的スペース
定員:40名(申込多数の場合は抽選)
料金:500円(特別展招待券付)

津田青楓は光太郎より3歳年上の画家。光太郎とは留学仲間で、俳句仲間でもありました。明治42年(1909)、光太郎は留学の終わり近くに約1ヶ月、イタリアを旅行しますが、その旅先からパリの津田に送った俳句が50句以上知られています。

双方の帰国後も、しばらくは交遊が続いていましたが、やがて疎遠になりました。どちらかというと光太郎が嫌っていた(光太郎も嫌われていた)漱石の関係かも知れません。津田は漱石の著書の装幀を多く手がけ、漱石に絵の手ほどきをしています(結局、ものにならなかったようですが(笑))。

また、津田は光太郎と知り合う前の智恵子とも、絵画つながりで交流がありました。智恵子の言葉として現代でもよく引用される「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。」は、津田が書き残したものです。

昨年、練馬区立美術館さんで、津田の大規模な回顧展がありましたが、コロナ禍のため、結局、行かずじまいでした。今回は行ってこようと思っております。皆様も感染対策に配慮しつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝食の頃雪囲ひを取り外しに青年達来る。又恭三さんかんとくに来る。お礼をのべる。皆はづし、萱と丸太とを始末してかへつてゆく。萱はそれぞれ背負つてゆく。

昭和21年5月13日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、冬場は村人達が小屋の回りに雪囲いを作ってくれていました。「恭三さん」は戸来恭三。光太郎と親しかった村人の一人です。
002
右は当会の祖・草野心平。昭和26年(1951)の写真です。後に光太郎の山小屋と雪囲いが写っています。

それにしても、これを外すのが5月中旬とは……。

演劇公演の情報です 

チエコ

期 日 : 2021年1月28日(木)~2月1日(月) 1月31日(日)は生配信
会 場 : 両国・エアースタジオ   墨田区両国2丁目18-7ハイツ両国駅前地下1階
時 間 : 1/28 18:00~ 1/29 15:00~ 18:00~ 1/30~2/1 13:00~ 15:00~ 18:00~
料 金 : 公演チケット¥3,000 配信チケット¥2,500 
出 演 : 坂口実成夢 雛衣 山端零 宇木達哉 霧嶋あさと 砂浜みまれ 林田葵 阿部優華
      神野祥 二木将 早川真矢 楓明堂ふみたろう 三上夏生 渡辺広大
脚 本 : 野口麻衣子
演 出 : 野地伸吾
主 催 : 劇団空感エンジン
協 力 : RMP アミティープロモーション WESSAP オムニア
      サンミュージックアカデミー 
ゆーりんプロ

詩人・高村光太郎とその妻智恵子の愛の物語。智恵子の死後、智恵子抄を作ろうと、友人の草野心平と中原綾子を呼び、智恵子の思い出を振り返る。
009
010
同じ脚本の公演が平成25年(2013)平成30年(2018)にも同じ会場であり、それぞれ拝見して参りました。奇を衒わない正統派の脚本で、非常にわかりやすい舞台でした。

登場人物は7人。光太郎、智恵子、光太郎実弟の豊周、智恵子を看取った姪の春子、当会の祖・草野心平、光太郎に心酔していた歌人の中原綾子、智恵子の親友・田村俊子。それぞれがそれぞれの立場で喜怒哀楽し、結局、ハッピーエンドにはならないのですが、さりとてお涙頂戴の安っぽいメロドラマでもなく、ある意味爽やかな印象でした。

主催者側で対策は講じているようですが、移動中も含め、コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。また、1月31日(日)には生配信もあるそうで、そちらもどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

鼻緒をつくつてゐる。布をさきて三ツあみにして芯をつくり、新聞紙で巻き、之に色の布をかぶせて縫ひ、下駄にすげる。

昭和21年(1946)3月21日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋生活では、こんなものも自作していたのですね。

12月7日(月)、『朝日新聞』さんの夕刊に掲載された記事をご紹介します。執筆された記者さんからちらっと電話取材を受けまして、掲載紙を送って下さいました。自宅兼事務所でも同紙を購読しているのですが、夕刊は契約していませんので、ありがたく存じました

品川区の大井町を紹介する、まるまる1ページとった大きな記事です。大井町といえばゼームス坂病院。智恵子終焉の地で、跡地には光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)を刻んだ碑が建っています。
KIMG4582 005

(まちの記憶)大井町 東京都品川区 物語生む、にぎわいの交差点

 交差点の歩道橋を、日傘を差した若い女が軽やかに渡っていく。らせん階段を下り、目の前のさびれた古道具屋の中へ。女はガラス製の舶来骨董(こっとう)「なみだ壺(つぼ)」を手に取り、自分の目元に近づけ、店主の中年男にほほ笑む――。
 1983年公開の映画「時代屋の女房」は、早世した夏目雅子の美しさと演技力が際立つ作品だ。原作者で、82年の直木賞に輝いた村松友視さん(80)は当時42歳。小説の舞台に、出版社員だった30歳前後の時に暮らした東京都品川区の大井町を選んだ。
 「隣の駅の大森がしゃれた屋敷街なら、大井町はパチンコ屋とか映画館とかが軒を連ねて雑然としていた。僕のアパートも、洋館風なのに壁一面が鏡張りの和室があって魑魅魍魎(ちみもうりょう)の棲家(すみか)の気配(笑)。物語の一つでも書かなきゃと思わせる街でした」
     *
 時代屋は、大井町駅から徒歩数分の「三ツ又」交差点に実在した古道具屋で、村松さんも通勤の際はその前を行き来していた。映画製作ではロケ現場になったが、しばらくして取り壊され、現在の駐車場になって久しい。
 一方、道を隔てた向かいにあり、映画にも映り込む「三ツ又地蔵尊」はいまも健在だ。小さな三角地帯には病魔や難産の「身代わり地蔵」がまつられ、通りすがりに拝む人々は多い。品川区立品川歴史館の学芸員、冨川武史さんは「三ツ又は、740年近い歴史を持つ池上本門寺の参拝客が行き交った『池上通り』など、さまざまな方面への交差点。地域の信仰の中心になっていたはず」と語る。
     *
 三ツ又から沿岸部へ向かって国道15号を越え、京浜急行線を過ぎると旧東海道にぶつかる。一番宿としてにぎわった品川宿から川崎へ向かう途中、現在の南大井にあるのが「鈴ケ森刑場跡」だ。1651(慶安4)年から約220年間に、膨大な罪人が処刑された。みせしめに残忍な刑が執行された一方、悲恋のヒロイン八百屋お七を題材とした歌舞伎など、芸術作品を生み出した場でもあった。
 村松さんも、刑場近くの土地に生きる人々の心情に迫る小説を書いた。1981年の直木賞候補作「泪(なみだ)橋」。刑場まで数百メートルの、立会川にかかる「浜川橋」の別名で、罪人はこの橋で、見送りに来た家族との今生の別れに涙した。
 小説は橋の近くで長年暮らす老人2人が、偽名の男女をかくまう物語。村松さんも大井町にいたころ、過激派の学生を1週間ほど泊めたことがある。追われる身となった人々に、理由も聞かず手を差し伸べる老人たちの「不思議なやさしさ」が描かれる。
     *
 ■刑場跡地、無縁仏が夢枕に
 江戸時代の死刑囚がはりつけや火あぶりなどに処せられた鈴ケ森刑場。その跡地は旧東海道と第一京浜が交わる三角地「大経寺」の境内にあり、史跡巡りの人気スポットだ。ただし敷地は大正期以降の国道建設で縮小、無縁仏が眠る一帯ならではの逸話が残る。
 1954年夏、第一京浜の拡幅工事の際、たくさんの人骨が出土した。作業員が形をとどめる二つの頭蓋骨(ずがいこつ)=写真=をその場に放っておくと、住職の妻の夢枕に2人の男が立ち、「暑いので水をかけて」と頼んできた。妻が応じた3日後、2人は再び夢にあらわれ、2羽の鳳凰(ほうおう)と化して天高く舞い上がったという。その後、頭蓋骨は手厚く回向され、一連の物語が広く伝えられたと当時の新聞は報じる。「そのころに、大きな供養が催されたと聞く。立ち寄られる際は、ぜひ手を合わせてお参りを」と現住職の狩野豊明さん(39)。
 ◆品川区立品川歴史館(03・3777・4060)には水琴窟がある。JR大森駅徒歩10分、大井町駅からバス「鹿島神社前」下車1分。開館状況はホームページで。
007 009
 創作意欲をかき立てる街の力は、病んだ心にも作用したのだろうか。
 詩人で彫刻家だった高村光太郎の妻、智恵子は1935(昭和10)年2月に大井町駅北東のゼームス坂病院へ入院した。38年10月、肺結核により52歳で亡くなるまで、色紙を切り貼りする「紙絵」作りに没頭し、千点以上を残した。食事に出たアジの干物や病室に届いた果物などをモチーフにはさみで直接切り出し、完成すると見舞いにくる光太郎だけに見せた。
 智恵子は若き日、油絵に打ち込んだが、現存するのは3点。生家の破産などを経て自殺を図った40代半ば以降、統合失調症を悪化させていく。出身地の福島県二本松市で活動する市民団体「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷健一代表(70)は「病気で普通に暮らせなくなっても創作技術や美意識は衰えず、素晴らしい紙絵として実を結んだ。真の芸術家と仰ぐ光太郎に高く評価され、人生最大の喜びを感じていたはず」と語る。
 故郷から遠く離れた大井町で智恵子が逝った縁を後世に伝える碑が95年、地元住民で作る「品川郷土の会」の尽力で病院跡地に完成した。黒い御影石には光太郎が妻の臨終をうたった「レモン哀歌」が刻まれ、今も足元に黄色いレモンが供えられている。
008
001
■昭和の姿、ジオラマで再現
 幼いころに綱渡りの曲芸を見た駅前広場、親に「行くな」と固く禁じられた闇市の跡、初めてドライカレーを食べた喫茶店――。
 品川区二葉1丁目に住む元学習塾経営者の石井彰英さん(65)が、生まれ育った大井町駅付近の昭和30~50年代をジオラマで再現したのは3年前のことだ=写真は夜の大井町駅前。それまでも神奈川の江ノ島電鉄沿線や北鎌倉駅周辺などを、趣味で製作してきた。大井町の再現に挑んだのは「今は治安が良くなり、便利で暮らしやすくなったが、あのころの猥雑(わいざつ)さが失われて面白みがなくなった」と思うからだ。そこで古い町並みの写真を集め、90代の人から直接話を聴き、参考にした。「懐かしんでもらうのと同時に、ジオラマの中に溶け込んで一緒に遊んでほしい」と臨場感あふれる動画を編集し、同世代の音楽仲間の協力を仰いでオリジナルの曲もつけた。ホームページ「大井町の語り部」の中で公開している(http://oikataribe.jpn.org/diorama別ウインドウで開きます)。
003
006
一昨年、花卷高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に、光太郎が暮らした頃の花巻とその周辺のジオラマを作成された石井彰英氏についても書かれています。元々、花巻ジオラマをお願いしたのは、先に作成された大井町のジオラマでゼームス坂病院を取り上げて下さったいたためです。

どんどん変貌していく「まち」。しかし、そこに刻みつけられた「記憶」、しっかり残していくことは大切なことだと思います。そのために、こうした記事や、石井氏のジオラマなど、好個の取り組みかと存じます。

明日は花巻に関し、同様の内容で。

【折々のことば・光太郎】

宮沢邸焼けあとの壕より余のもの大半出る。リユツクもある。馬車にて桜の農家に持ちゆけり、蔵の火きえる。


昭和20年(1945)8月12日の日記より 光太郎63歳

花巻空襲から2日後です。「蔵」は疎開していた宮沢家の蔵です。「余のもの大半」の中には、先頃、花巻高村光太郎記念館さんで展示されたホームスパンの毛布なども含まれていました。在りし日の智恵子にせがまれて購入したもので、不思議な縁を感じます。

昨日は上野の東京都美術館さんへ、第42回東京書作展を拝見に伺いました。
KIMG4502
KIMG4503
KIMG4504 001
右上は図録表紙です。

総評。
KIMG4505
今回は上位10点中7点が漢文系でしたが、その他3点が漢字仮名交じりで、すべて光太郎詩を書かれたものということで、実に驚きました。

まず最優秀に当たる「内閣総理大臣賞・東京書作展大賞」。中村若水さんという方で、光太郎詩「冬」(昭和15年=1940)の全文を書かれました。
KIMG4514 KIMG4515
KIMG4516 KIMG4517
中村さんが会場にいらしていて、お話をさせていただきました。現在は川崎にお住まいだそうですが、元々は福島市のご出身、ご実家のそばには阿武隈川が流れ、ご自身、智恵子の母校である福島高等女学校の後身・福島女子高校(現・橘高校)さんを出られているとのこと。そこで、光太郎愛にあふれられているそうで、ありがたく存じました。

大書されている「精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、/一切をアルカリ性の昨日に投げこむ。」という一節、さらにそれに続く「わたしは又無一物の目あたらしさと/すべての初一歩(しよいつぽ)の放つ芳(かん)ばしさとに囲まれ、/雪と霙と氷と霜と、/かかる極寒の一族に滅菌され、/ねがはくは新しい世代といふに値する/清潔な風を天から吸はう。」あたり、コロナ禍による閉塞感からの脱出といった願いをオーバーラップさせて書かれたそうです。

昨年の大賞を受賞された菊地雪渓氏もいらしていて、菊地氏が中村さんをご紹介くださり、3人でひとしきりこうした光太郎話に花を咲かせました。

菊地氏、昨年は第64回高村光太郎研究会で「光太郎の書について―普遍と寛容―」と題され、実演を交えながら光太郎自身の書の特徴などを語られました。また、連翹忌レモン忌にもご参加下さっています。中村さんもぜひこちらの世界に引きずり込みたいものです(笑)。

その菊池氏の書。昨年の大賞受賞者ということで、審査対象ではない「依嘱」作品です。
KIMG4525 KIMG4526
書かれているのはやはり光太郎詩で「案内」(昭和25年=1950)。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺を亡き智恵子に案内するという内容の、意外とファンの多い詩です。

続いて「東京新聞賞」。まずは長谷部華京さんという方で、「上州川古「さくさん」風景」(昭和4年=1929)。
KIMG4509 KIMG4510
KIMG4511 KIMG4512

さらに田川繍羽さんという方の「何をまだ指してゐるのだ」(昭和3年=1928)。
KIMG4506 KIMG4507
KIMG4508 KIMG4513

ここまでは報道や菊地氏からのメール等で存じていましたが、これ以外にもやはり光太郎詩を題材にされた方が予想通り複数いらっしゃいました。やはりこのコロナ禍の中で、ポジティブな光太郎詩が書家の方々の琴線に触れたのでしょうか。

「特選」で、野嶋謳花さんという方。「冬の言葉」(昭和2年=1927)の全文です。
KIMG4518 KIMG4519

さらに審査会員の方々の作。「失はれたるモナ・リザ」(明治43年=1910)の一節を、千葉凌虹さんという方。これは大正3年(1914)の第一詩集『道程』の冒頭を飾った詩です。
KIMG4520 KIMG4521

同じく岩田青波さんという方が、「後庭のロダン」(大正14年=1925)の一節を。赤い紙が鮮烈ですね。
KIMG4522 KIMG4524

それから、菊地氏と同じ「依嘱」出品で山口香風さん。長大な詩「落葉を浴びて立つ」(大正11年=1922)の一節です。
KIMG4527 KIMG4528
そういえば、上野公園、ケヤキやイチョウの落葉がいい感じでした。
KIMG4529
コロナ禍なかりせば、台東区立中央図書館さんの企画展「上野公園~近代の歩み~」など、このあともゆっくり見て回りたかったのですが、やはり第三波のただ中ですので、残念ながら早々に撤収しました。

何らの軛もなく普通に歩ける日がはやく戻ることを切に願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

朝 味噌汁 昼、おから、晩 焼豆腐の煮附。

明治37年(1904)5月2日の日記より 光太郎22歳

戦後の日記にも、その日食べたものを記録していた光太郎ですが、その習慣は青年期から既にあったようです。ただ、さすがにこれだけでは無かったと思いますが(笑)。

下記は、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの市民講座で講師を務めさせていただいた際のレジュメから。
000

けっこう前に始まっていたのですが……

企画展「上野公園~近代の歩み~」

期 日 : 前期 2020年 9月18日(金曜日)~10月14日(水曜日)
      中期 2020年10月16日(金曜日)~11月18日(水曜日) 
      後期 2020年11月20日(金曜日)~12月13日(日曜日)
会 場 : 台東区立中央図書館 台東区西浅草3丁目25番16号
時 間 : 月~土 9:00〜20:00 日 9:00~17:00
休 館 : 第3木曜日
料 金 : 無料

上野の山は、江戸時代、天海により寛永寺が建てられ、将軍家の菩提寺がある桜や蓮の名所として、一大行楽地となりました。上野戦争を経て、日本初の公園になると、博物館、美術館などが建てられ、現在の文化施設が集まる地域として整備されていきました。

本企画展では郷土・資料調査室で所有する浮世絵・絵はがき・地図等の貴重資料を用いて、明治初期から昭和に至るまでの上野公園の歴史をご紹介します。
みなさまのご来場をお待ちしております。
001
002
上野といえば、東京美術学校の教授と生徒だった、光雲・光太郎父子のホームグラウンドのひとつですね。

そこで、美校として依頼を受け、光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」(明治31年=1898)が鎮座ましましています。
000
遡って明治10年(1877)には、第一回内国勧業博覧会が上野で開催され、光雲は師匠・高村東雲の代作で白衣観音像を出品し、一等龍紋賞に輝きました。
004
光太郎も生まれは下谷区西町三番地(現・台東区東上野)でした。

下って大正後期、光太郎は上野動物園に足繁く通い、「傷をなめる獅子」(大正14年=1925)、「苛察」(大正15年=1926)、「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)、など、連作詩「猛獣篇」所収の詩のいくつかをを構想します。
003
005
そうした近代の上野を、当時の資料を基に紹介する展示、おもしろそうですね。

ちなみに当方、同館で平成29年(2017)に開催された同様の展示「台東区博物館ことはじめ」を拝見しました。こうした取り組みに積極的である同館の意気やよしと存じます。

コロナ禍には充分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

赤貧の醍醐味、是れだ。赤貧を何も好むでは無いが、人間の徳操、品位といふものがいかなる場合に於いても維持せられ得るものだといふ事を実験したいのだ。

明治36年(1903)7月7日の日記より 光太郎21歳

セザンヌなどとも交流があり、若い頃は「赤貧洗うが如し」だったというフランスの作家、エミール・ゾラの伝記を読んでの感想です。

光太郎が生まれた頃は、廃仏毀釈の影響で、仏師であった光雲の注文仕事は激減。酉の市の熊手や洋傘の柄などを作って凌いでいたそうです。それが、明治20年(1887)には皇居造営に伴う内部彫刻の仕事を得、さらに2年後には岡倉天心の推挙で美校に奉職。このころから一家の生活は安定していきました。

しかし光太郎はのちに家督相続を放棄。智恵子と二人、赤貧というほどではないにせよ、豊かではない生活を続けます。

そうした中でも「貧すれば鈍する」とはならなかったわけで、見習いたいものです。

「真に実力があり、研鑚を怠らない全国の篤学の人々のため」と標榜する全国公募の「東京書作展」。今年の選考結果が発表され、最優秀に当たる「内閣総理大臣賞・東京書作展大賞」をはじめ、光太郎詩に題を採った作品が3点、上位入賞を果たしました。

上位10点中、漢文系を書かれたものが7点、その他が3点。その3点がすべて光太郎詩ということで、非常に驚いております。

まず、「内閣総理大臣賞・東京書作展大賞」。中村若水さんという方で、光太郎詩「冬」(昭和15年=1940)の全文。
001
006
当方、書としての評は出来ませんので、上記の審査員評をご覧下さい。

詩は以下の通り。001


    冬

 新年が冬来るのはいい。
 時間の切りかへは縦に空間を裂き
 切面(せつめん)は硬金属のやうにぴかぴか冷い。
 精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、
 一切をアルカリ性の昨日に投げこむ。
 わたしは又無一物の目あたらしさと
 すべての初一歩(しよいつぽ)の放つ芳(かん)ばしさとに囲まれ、
 雪と霙と氷と霜と、
 かかる極寒の一族に滅菌され、
 ねがはくは新しい世代といふに値する
 清潔な風を天から吸はう。
 最も低きに居て高きを見よう。
 最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。
 ああしんしんと寒い空に新年は来るといふ。

最も低きに居て高きを見よう。/最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。」あたりは、同じ時期に書かれた詩「最低にして最高の道」にも響き合います。昭和15年(1940)ということで、既に多くの翼賛詩が発表されていた時期にあたり、それらとも通じるところがありますが、そうした点を抜きにすれば、「冬の詩人」の面目躍如、力強い詩ですね。

この「冬」、一昨年の第40回東京書作展でも、第3位に当たる「東京都知事賞」に選ばれています。中原麗祥さんという方の作でした。

続いて「東京新聞賞」。7点中の2点が光太郎詩。
002 003

左が田川繍羽さんという方の「何をまだ指してゐるのだ」(昭和3年=1928)。大正元年(1912)に智恵子と共に過ごした千葉銚子犬吠埼で出会った「馬鹿の太郎」こと阿部清助を思い出して書かれた詩です。

右は長谷部華京さんという方で、「上州川古「さくさん」風景」(昭和4年=1929)。群馬県みなかみ市の川古温泉を訪れてものにした詩で、山奥にまで資本主義が浸蝕していた現状を憂えるものです。

お二方とも全文を書いて下さっています。

この他にも、委嘱作品で、昨年の内閣総理大臣賞を受賞された菊地雪渓氏が、光太郎詩「案内」(昭和25年=1950)を出されるそうですし、おそらく他の委嘱作品や入選作の中にも光太郎詩を取り上げて下さった方がいらっしゃるように思われます。

展覧会自体は今月末から。詳細は以下の通りです

第42回 東京書作展003

期 日 : 2020年11月26日(木)~12月2日(水)
会 場 : 東京都美術館 東京都台東区上野公園8-36
時 間 : 午前9時30分~午後5時30分
      最終日(12月2日)は午後2時30分まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 500円
主 催 : 東京書作展 東京新聞
後 援 : 文化庁 東京都

コロナ禍には十分にお気をつけつつ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

あらゆる人の手に、手そのものに既に不可抗の誘惑があるのである。


散文「手」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

つい最近発見した随筆「手」
から。

稀代の悪筆である当方にしてみれば、上記の書家の皆さんの「手」は、どういう「手」なのか、非常に興味ひかれるところです。

都内から展覧会情報です

第87回展覧会「名作を伝える-明治天皇と美術 後期展示 明治天皇のまなざし

期 日 : 2020年11月14日(土)~12月13日(日)
会 場 : 三の丸尚蔵館 東京都千代田区千代田1-1
休 館 : 毎週月・金曜日 11月23日(月・祝)は開館、翌24日(火)休館
時 間 : 午前9時~午後3時45分
料 金 : 無料 

001
明治天皇は、その御世を通して、博覧会や美術展覧会に度重ねて行幸され、美術の振興に深く心を寄せられました。このような行幸に際しては、多くの作品の御買上げが行われています。その一方で御下命による美術品製作も行われ、様々な作家たちが活躍の場を得ることにもなりました。御買上げや御下命の品々には、伝統的な様式と技法による作品のほか、西洋から取り入れた表現技法である写真や油彩画も含まれ、新しい技術、表現の試みにも広く関心を寄せられた明治天皇の眼差しを感じとることができます。
また、明治21年(1888)には明治宮殿が完成、翌年には大日本帝国憲法が発布されるなど、国家の体制が確立していく中、美術の奨励と保護のため、明治23年には帝室技芸員の任命が始まります。その後、明治30年代にかけて、天皇の勅裁のもと、宮内省が製作を主導することで明治期を代表する記念碑的な名作が幾つか生み出されました。これらの御下命製作が行われた背景には、明治の優れた技を次の時代に伝えようとした意図がうかがえます。皇室は、美術品製作に直接に関わることで、その伝統を繋ぐ、大きな役割を果たされてきたのです。
本展では当館に引き継がれた作品の中から、明治10年代から30年代にかけての御下命による作品や博覧会等での御買上げ品を中心に紹介します。皇室が護り育み、伝えてきたこれらの名作の数々から、明治美術の多彩な魅力を楽しんでいただければ幸いです。

出品作品
水晶玉蟠龍置物    精工社 明治12年(1879)
稲穂に群雀図花瓶       濤川惣助、泉梅一 明治14年(1881)
行書七言絶句「金闕暁開晴日紅」    日下部鳴鶴 明治14年(1881)頃
草書七言絶句「王家楷則定何如」    日下部鳴鶴 明治14年(1881)頃
塩瀬友禅に刺繍海棠に孔雀図掛幅    西村總左衛門(12代) 明治14年(1881)
塩瀬友禅に刺繍薔薇に孔雀図掛幅    西村總左衛門(12代) 明治15年(1882)
磐梯山破裂之図    山本芳翠 明治21年(1888)
琉球東城旧跡之眺望    山本芳翠 明治21年(1888)
熊坂長範          森川杜園 明治26年(1893)
還城楽       森川杜園 明治26年(1893)
矮鶏置物          高村光雲 明治22年(1889)
百布袋之図       河鍋暁雲 明治27年(1894)
岩倉公画傳草稿絵巻 第14・17巻    田中有美 明治23年(1890)頃
三條実美公事蹟絵巻 第24巻       田中有美 明治34年(1901)
明治12年明治天皇御下命人物写真帖『皇族 大臣 参議』大蔵省印刷局 明治13年(1880)頃
明治12年明治天皇御下命人物写真帖『皇族』『諸官省』大蔵省印刷局  明治13年(1880)頃

というわけで、光太郎の父・光雲の木彫「矮鶏置物」が出ます。こちらは一昨年に同じ会場で開催された 第82回展覧会 「明治美術の一断面-研ぎ澄まされた技と美」でも展示されました。制作やお買い上げの経緯等、その際のブログに書きましたのでご一読を。
002
光雲木彫を見られる機会はあまり多くありません。ぜひこの機会にどうぞ。ただし、コロナ感染には十分ご注意を。

【折々のことば・光太郎】

まことに母の尊(たふと)さはかぎり知れない。母の愛こそ一切(いつさい)の子たるものの故巣(ふるす)である。即ち人たるものの故巣(ふるす)である。

散文「母」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

これで終わっていれば、「なるほど」なのですが、書かれた時期が時期だけに、「されば皇国の人の子は皇国の母のまことの愛によつて皇国の民たる道を無言の中にしつけられる。」といった一節もあり、残念です。

一昨日から昨日にかけ、1泊2日で岩手花巻に行っておりましたが、その前に上野の東京藝術大学大学美術館さんで「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」を拝見してから行きました。

平時であれば招待券を頂いてすぐ伺うところなのですが、やはりコロナ禍、できるだけ外に出る機会は減らしたいので、花巻行きにかぶせました。

本日は藝大さんのレポートを。
KIMG4255 KIMG4256
朝10時の開館と同時に入館。

平時であれば、2フロア使われている同館ですが、やはりコロナ禍のためでしょうか、今回は地下の1フロアのみ。

まず第1部「「日本美術」を創る」。
006
007
008
004いきなり重要文化財の「鮭」。明治10年(1877)頃、高橋由一による日本最初期の油彩画です。その両脇を黒田清輝「婦人像」と原田直次郎「靴屋の親爺」が固めています。

ちなみに右は、無料配付の簡易図録。お一人様一部です。「鮭」が表紙を飾っています。

その後は「年代記(クロニクル)」というコンセプトに従い、藝大さん前身の東京美術学校初代校長岡倉天心らによる参考資料としての古美術コレクション、泰西画家の模写を含む西洋画科関係者の作品、明治33年(1900)のパリ万博関連、平櫛田中のコレクションによる彫刻作品群、さらに「官展出品・政府買上作品」と「特別出品」いうことで、上村松園「序の舞」や狩野芳崖「非母観音」、鏑木清方「一葉」など、教科書にも載るような作。眼福でした。

そして「年代記(クロニクル)」とは別枠で、光太郎木彫「蓮根」(昭和5年=1930頃)。
000
画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。
009
昨年、藝大さんに寄贈されました。「令和元年度 新収蔵品紹介」という枠で、「とんでもない逸品が寄贈されたから、ついでというと何だけど、一緒に展示しよう」というコンセプトだと思われます。別枠扱いなので、上記簡易図録には記述がありませんでした。

平成28年(2016)、信州安曇野の碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」で拝見して以来、4年ぶりでした。

作品を収める絹製と思われる袋も一緒に展示されていました。こうしたものの通例で、おそらく智恵子が縫ったものでしょう。そしてこれも通例で、光太郎詠歌が墨書でしたためられています。曰く、

揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉

中央やや下よりの節の部分に巻葉が彫られ、さらにそれをついばもうとするカタツムリも添えられています。智恵子の心の病が誰の目にも明らかになる少し前と思われる頃、光太郎が彫刻家として最も脂ののっていた時期の作で、こうした遊び心にもそれがうかがえます。

第2部は、「自画像をめぐる冒険」。
005
藝大さんの伝統で、卒業制作に描かれた自画像の数々。

第一号が、光太郎の留学仲間・白瀧幾之助。その他、光太郎智恵子と関わりのあった作家のそれも多く、興味深く拝見しました。熊谷守一、山本鼎、南薫造、藤田嗣治、岡本一平、近藤浩一路、山脇信徳、萬鉄五郎、中西利雄などなど。
001
002
003
また、「この人も藝大卒だったのか」という発見もありました。その人々の研究者やファンにとっては当たり前のことなのでしょうが。

花卷へは、上野駅から東北新幹線です。まだ時間がありましたので、大学美術館さん向かいの陳列館も拝観。こちらでは在校生、教員の方々による屏風絵等の展示が行われていました。
KIMG4259
KIMG4260
陳列館の入り口には、ロダンの出世作「青銅時代」(明治10年=1877)。ここにこれがあるということは、当方、寡聞にして存じませんでした。
KIMG4257 KIMG4258
同様に、屋外展示で光太郎作の光雲胸像もあるのですが、そのエリアはコロナ禍のため、現在は学外者立ち入り禁止です。

まだ時間がありましたので、すぐ近くの黒田記念館さんへ。現在、特別室は閉鎖中で、「湖畔」などの大作は見られませんが、光太郎作の「黒田清輝胸像」(昭和7年=1932)は常設です。
KIMG4261 KIMG4262
KIMG4263
KIMG4266
KIMG4268
KIMG4265
「蓮根」とほぼ同時期、こちらの方が若干あとです。木彫も造り、塑像の肖像彫刻も手がけ、まさに脂がのっていたのですが、智恵子の心の病の顕在化により、この後、光太郎の彫刻制作は激減します。

さて、上野駅に戻り、新幹線に乗って、北へ。花卷レポートは明日以降お届けします。


【折々のことば・光太郎】

僕は入学した当時のことは忘れません。あのときの靴の匂いは。鉛筆や本などをカバンに入れて学校に行って、それを机にしまうときの匂いはいまも忘れません。それから墨汁の匂いです。机のわきに掘りつぼがあり、そこにせとが入って、そのせとに先生が墨汁を注いでくれます。そのときの墨汁の匂い。
談話筆記「高村光太郎先生説話 三一」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

「入学」は、東京美術学校ではなく、近くにあった練塀尋常小学校の話です。明治21年(1888)、光太郎数え6歳でした。「せと」は「瀬戸」、陶器のことですね。

なぜか嗅覚で記憶が彩られているのが不思議なところです。

都下小金井市の古書店、えびな書店さん。美術系が中心で、書籍も扱っていますが、どちらかというと肉筆などの一枚物に力を入れられています。

先月届いた在庫目録に、光太郎関連が多数出ていました。
001

まずは「新蒐品」で、どちらも筑摩書房さんの『高村光太郎全集』既収のものですが、光太郎書簡が2点。
002

000
まずは光太郎の父・光雲の高弟の一人だった加藤景雲にあてた墨書のもの。明治32年(1899)4月と推定されています。光太郎、数え17歳です。ただ、封筒が欠損しており、あるいは1、2年の前後があるかも知れないとのことです。

 長々ありがたう御座りました。御蔭様で自殺詩人の厭世観を精読いたす事が出来ました。序に外のも読みまして大層おもしろくおぼえました。本をだいなしにいたしましたのは御免ください。漸く春の景色になつたとおもふまに咲いたもさいたも隅のすみまであまり一時でいまさらさうやけに咲かないでもほんとに惜しいやうです。日曜の夜にはいつも大抵内ですから御暇の時には御はなしにおいでください。このごろは月もあります。これは言文一致で書いたのです。
   六日                                  光太郎
  景雲様 梧下


「自殺詩人」は北村透谷、借りたという書物は明治27年(1894)刊行の『透谷集』と推定されます。「これは言文一致で書いたのです。」というのが笑えますね(笑)。

もう1点は、詩人・新聞記者で、光太郎彫刻のモデルも務めた中野秀人あて。昭和2年(1927)1月の発信で、当時、中野はロンドンに居ました。
010 000
ロンドンの中野にあてた書簡11通が、昭和59年(1984)の明治古典会七夕古書入札会に出品されましたが、今回のものもそのうちの1通、最初のものです。どうもバラバラに散逸してしまったようですね。

長い手紙なのでこちらは全文引用しませんが、「あなたがだんだん英国の空気の中に浸潤してゆき、又其処で成長し、あなた独自の世界を造り上げる事を見るのが実にたのしみです」とか、「此から折々に消息を下さい。つまらないと思ふ事でも書いて来て下さい。そちらでつまらないと思ふ事がこちらで中々つまらなくない事が沢山あるものです」、「遠く離れてゐると何よりもまづ健康が気になります。外に気をつける人も居ない事でせうから自分でよくからだを大切にして下さい。よく睡眠して下さい。猛烈な勇気で毎日を送つて下さい」などと、後輩(中野は15歳年下)への慈愛に溢れた文言が並んでいます。

続いて、光太郎自身のものではありませんが、光太郎について書かれた原稿。作家の十和田操によるものです。題して「高村さんのことば ある資料断片」。
005003



























当方、寡聞にして「十和田操」の名は存じませんでした。『高村光太郎全集』にもその名は見えません。どういった内容なのかなど、これから調べようと思っています。

えびなさん、「新蒐品」以外にも、以前からの在庫品を2割引だそうで、めぼしいものがピックアップされていました。

004
明治44年(1911)の詩「鳩」を書いた色紙、大正13年(1924)頃に詠んだ蝉の短歌をしたためた短冊、おそらく智恵子を詠んだと思われ、昭和5年(1930)頃の筆跡と推定される短歌「北国の女人はまれにうつくしき歌をきかせぬものゝ蔭より」、大正13年の雑誌『人間生活』に載った米詩人ウォルト・ホイットマンの翻訳「エブラハム リンカンの死」。さらには光雲の筆跡も。

今回ご紹介したものには、以前、他店で売られていたものが結構あります。昨日ご紹介した光雲木彫同様、収まるべきところに収まってほしいものですが、なかなかそうもいかないようですね……。


【折々のことば・光太郎】

書は日によって書けないときは、どうしてもだめなものです。いいときにはよくできます。いま東京からも頼まれています。東京ではすぐ簡単に書けるように考えているらしいのです。こっちは身を削られる思いで書くのですがね。
談話筆記「高村光太郎先生説話 二六」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

上記の色紙や短冊等も、いいかげんな気持ちで書かれたものではないのでしょう。

このブログでたびたびご紹介しておりますアートオークション大手の毎日オークションさん。時折、光太郎や光太郎の父・光雲関連が出品されます。

今月開催の「第650回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」、「第651回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」で、光雲の作品が出ます

まず第650回、うっかりしていまして、もう今日です。

第650回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日 程 : 2020/10/9(金) 14:00~ Lot.1~ 2020/10/10(土) 11:00~ Lot.391~
会 場 : 毎日オークションハウス 東京都江東区有明3-5-7
下見会 : 2020年10月8日(木)・10月9日(金) 10:00~18:00

光雲木彫の「大聖像」が出ています。「大聖」は孔子、光雲が好んで彫った題材の一つで、類例は複数確認できています。
010
011
012

これ以外に、木彫を原型とする観音像の鋳造も出ていますが、現代の鋳造のもの――いわば工芸品――のようですので割愛します。

ちなみに、地上波テレビ東京さんで放映されている「所さんのそこんトコロ」9月4日(金)の放映分開かずの蔵を開けろ!」というコーナーで、長野県の旧本陣だった旅館の蔵から光雲作の木彫を原型としたブロンズが出て来たところが紹介されました。
041 043
046 049
047
048
「造立」ではなく「造之」、漢文的に読んで「之(これ)を造る」なのですが……。

光雲生前に、その監督のもとで鋳造されたということであれば、工芸品という扱いではなくなります。ただ、これが鋳造ではなく木彫原型だったらとんでもない値段になるのは言わずもがなですね。

閑話休題、毎日オークションさんにもどります。来週開催の回にも光雲作品

第651回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日 程 : 2020/10/17(土) 13:00~
会 場 : 毎日オークションハウス 東京都江東区有明3-5-7
下見会 : 2020年10月15日(木)・16日(金)10:00~18:00 10月17日(土)  10:00~12:30

こちらの光雲作品は2点。

013
014
015

016

017
018
出品3点で、だいぶ予想価格に差がありますが、保存状態と、それから工房作なのか光雲個人の作なのかといったところで評価が分かれます。最も高額な「聖観音像」は弟子の手が入って居らず、保存状態も良好ということですね。技術的にもとんでもない超絶技巧です。

ポイントは像の持物(じもつ)。「大聖像」と「聖徳太子像」の笏(しゃく)はそれほどでもありませんが、「聖観音像」の蓮華はなまなかの技倆では不可能です。同様に衣の処理も、「聖観音像」は際立って難しいことに挑戦しています。

それぞれ、収まるべきところに収まってほしいものです。最近、ネットオークションに出た光太郎の肉筆物の逸品2種類、収まるべきところに収まったことが判明しまして、安心しております。うち1種類は来月拝見してくる予定です。

【折々のことば・光太郎】

山口ではそんなことはやらないので、いいのですが、僕は商店で買いものをするとき、ある店でいかがわしいことがあると、絶対に行かないことにしています。花巻ではそういう店があります。一度、今度のようなことをしたところへは、もうこれからは行きません。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二五」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

最後の「今度のようなこと」は、承諾無しに光太郎の名を講演会のプログラムに入れたことを指します。たしかにとんでもありませんね(笑)。

前半の「いかがわしいこと」は具体的にはわかりませんが、花卷中心街には光太郎の怒りを買うような商売をしていた店があったようですね。光太郎が暮らしていた山口地区ではそういうことはなかったそうですが。

ところで、現代のオークション系でも「いかがわしいこと」がよくあり、閉口しています。ネットオークションはまさにその宝庫で、光雲作という木彫で本物が出てくることはまずほとんどなく、「彫刻」とさえ言えないような稚拙なものを光雲、あるいはその高弟の作として出品している例がほとんどです。なぜか富山県の業者が多く(というか同一の業者が複数のアカウントを使い分けてやっているようですが)、富山県の名折れだと思います。

それでも買い手が付くのが不思議なのですが、どうも悪徳骨董業者が偽物と分かっていて買っているように思われます。結局は誰かをだまして売りつけるわけですが、その偽物も自分で作るのは面倒なわけで、偽物の仕入れ先として手軽なネットオークションが重宝がられているのではないかと思います。

同様のケースは古書店等の在庫目録にも散見されます。現在も神保町の有名な古書店が、光太郎肉筆なるものの偽物を堂々と出しています。当方、光太郎ではありませんが、もうその店からは絶対に買わないことに決めました。以前は有料で目録を取り寄せていたのですが、その更新手続きも断りました。

都内から展覧会情報です

藝大コレクション展 2020――藝大年代記(クロニクル)

期 日 : 2020年9月26日(土)~10月25日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 午前10時 - 午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般440円(330円) 大学生110円(60円) 高校生以下及び18歳未満は無料
       ( )は20名以上の団体料金
東京美術学校(美校)開学から現在の東京藝術大学まで、130年以上にわたって引き継がれている本学の美術・教育資料の集積である「藝大コレクション」。2020年の展示では、美校・藝大に残された多様な美術作品によって、学史を「年代記」のように辿ります。
第1部では、上村松園の《序の舞》、狩野芳崖の《悲母観音》など、名品群を紹介します。
第2部では、藝大を象徴するコレクションと言える自画像群を特集します。黒田清輝を中心とする西洋画科の卒業課題としてはじまり、現在まで続くコレクションで、その総数は現在6000件を超えます。これらの自画像を、日本近代美術・美術教育史の流れを示す「歴史資料」として扱い、100件以上の自画像を一堂に並べ、美校・藝大の流れを「年表」のようにご覧いただきます。
004
002
藝大さんのサイトやフライヤー(チラシ)に記述がないのですが、光太郎の木彫「蓮根」(昭和5年頃=1930頃)が出ているとのことです。関係の方からご案内、招待券を頂き、それで知りました。
003
写真は光太郎令甥で写真家の故・髙村規氏の撮影によるものです。

光太郎木彫、常時見られる館は無く、貴重な機会です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

人は誰でも「美しいなあ」と感じがしたとき、なにかに表現してみたくなります。そこがやはり人らしい芸術の芽生えです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一三」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

光太郎自身もレンコンを見て、「美しいなあ」と感じたのでしょう。そしてレンコンをそのまま再現するのではなく、いろいろ考えて彫っていると思います。

以下、あくまで推測ですが、どうも「白銀比」を使っているように思われます。「白銀比」は、古来、わが国で建築や美術作品に使われてきた、日本版「黄金比」。1:√2(1.414)です。A判、B判の用紙はタテヨコこの比率ですね。日本人が美しいと感じる比率だそうで。
005
本当に昔から経験則的に使われており、建築では法隆寺、三十三間堂などでの使用例が有名です。
007 010
絵画でも。
009 011
左は雪舟、右は菱川師宣。

さらに現代。
006
そして光太郎。
000
まぁ、この「蓮根」に関しては、「だいたい」ですけれど……。

それぞれの作者、1:1.414という数式を意識してわざわざこうしたわけではなく、経験則から最も美しい比率と感じた結果だというのが面白いところです。第一、光太郎は数学を大の苦手としていました。数学教師が「ある他の数が……」と言うのを「アルタの数って何だ?」と聞いていたそうで(笑)。そうなると平方根あたりはもうお手上げだったのではないでしょうか(笑)。

光太郎彫刻、絵画には、他にも「白銀比」使用例がありそうです。暇な時に(笑)探してみます。

コロナ禍ということで、アートの世界にもリモートやらテレやらの流れが取り入れられています。

そんな中、東京都としての、「アートにエールを!東京プロジェクト」という芸術文化活動支援事業が展開されています。「新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止に伴い、活動を自粛せざるを得ないプロのアーティストやスタッフ等が制作した作品をWeb上に掲載・発信する機会を設けることにより、アーティスト等の活動を支援するとともに、在宅でも都民が芸術文化に触れられる機会を提供するものです。」だそうで。
art_logo

Web上に掲載・発信を希望する人は、専用サイトから登録を行い、動画等を投稿、何でもかんでもアップされるわけではなく、審査に通れば配信されるというシステムのようです。「個人型」と「ステージ型」があり、「個人型」は自主制作した動画を応募、出演料が支払われるそうです。「ステージ型」は劇場・ホール等を利用した無観客や入場制限のある公演等の制作及び配信の支援だとのこと。

で、「個人型」の方で、光太郎のエッセイ「人の首」(昭和2年=1927)からインスパイアされた作品が配信されています

Rising Tiptoe出演者有志 人の首

今作は高村光太郎のエッセイ「人の首」を題材としています。
「見る」をテーマに、現代の社会情勢を風刺した新しい作品として仕上げました。
コロナ禍にありこれまで以上に人を「見る」ようになった私たちも実は常に人から「見られ」続けているという不条理作品となっています。
通常は舞台での会話劇として上演しますが、今回は客席にてそれぞれがソーシャルディスタンスを守りながら現代社会を反映した作品に挑戦します。

Rising Tiptoe出演者有志
 出演 : おおばゆか 岡庭菜穂 小田切沙織 中島多朗
 撮影・舞台監督 : 服部寛隆
【協力】脚本提供 : 宇吹萌(Rising Tiptoe)



出演されている方のブログがこちら

光太郎の「人の首」は青空文庫さんで読めます。傑出した彫刻家としての見方というのはこういうものなのか、と感心させられる文章です。

このブログでは、基本、個人の方がご自分のサイトに上げたり、動画投稿サイトなどにアップしたりした動画等はご紹介しませんが、今後、こうしたリモート○○、テレ××の世界、一つのジャンルとして定着して行くのかも知れませんね。

余談ですが、今日から1泊2日で岩手花巻に行って参ります。花巻高村光太郎記念館さんで4日から開催されている展示「光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」の関連行事としての市民講座で、講師を務めて参ります。今年度に入って、コロナ禍のためこの手の仕事は軒並み中止や延期で、実に久しぶりです。

【折々のことば・光太郎】

人は満ちたりたと思ったときには進歩がありません。環境のよいところでは、なかなか進歩しません。むしろ少々困るときや恵まれないときに勤勉になるし、そこからよい考えもよい方法も工夫されていきます。環境の悪いところにいながら、たゆまず努めて、よいものを作りだしていく。そこに大きな力が生まれます。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一」より
 昭和23年(1948) 光太郎66歳

浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995)からの転載です。故・浅沼氏は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)近くの山口分教場が小学校に昇格した際、校長として赴任してきました。当時同校の児童だった子息の隆氏は今も光太郎の語り部としてご活躍されています。

浅沼校長は折に触れ、光太郎の語った言葉を筆録し、長短併せてその数30数編に及びます。「一」は山口小学校のPTA結成会での光太郎のスピーチ的なもの。

何だか今のコロナ禍を予言しているようにも読めますが、戦時中の耐乏生活、戦後の太田村の山小屋での厳しい生活を念頭に置いての発言でしょう。

こういう番組があること自体、存じませんでした。月一回、最終日曜(=月曜未明)に放映されているそうです。

地上波TBS 2020年8月30日(日) 25時20分~26時25分 =8月31日(月) 午前1時20分~2時25分

「東京に空は無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」『智恵子抄』より- “ほんとの空”とは何なのでしょう?番組では、進行性の病で外出できない人、東京大空襲を見た人、光を浴びてはいけない難病の女性、色覚障害の絵本作家など、様々な人の空への思いを取材し、“東京のほんとの空”を描きます。

オリンピック開催を控え、世界の注目を集める東京。最先端の技術や新たな文化・流行が生まれる場所でありながら、歴史と伝統を有する魅力あふれる街。 24 時間眠らないこの街には、およそ1300万人が暮らしています。ある人は夢に情熱を傾け、ある人は人生に苦闘し、さまざまな人生が“東京の空”の下で繰り広げられているのです。“東京”をキーワードに、毎回、この街に生きる人たちを独自の目線で取材。日本の今を見つめる1時間のドキュメンタリーです。

テーマ曲「東京の空」 小田和正

012

003

002


光太郎詩「あどけない話」、全体を通すモチーフとして使われるようです。まぁ、文学史的な解説等は枕の部分だけのような気もしますが。

000

007

008

001

メインは「様々な人の空への思い」。

東京大空襲を見た方。
005 009

光を浴びてはいけない難病の女性。
011 8e13ecbb-s

色覚障害の絵本作家さん。
006 010

そうした皆さんの“東京のほんとの空”、興味深いところです。

地上波のこの手の番組、地方ですと放映があるのかないのか、あったとしてもいつなのか、わかりかねます。申し訳ありませんが、それぞれのご地域でお調べ下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本の婦人の頭脳がよくないと言はれるのは主に睡眠不足から来るやうに見えます、主婦にしても女中さんにしても毎晩最後まで起きてゐて翌朝は誰よりも先に起き出でねばならぬ状態ですから、常に不足続きで心身共に損ねて行くのに違ひありません

談話筆記「(日本の婦人の頭脳が)」全文 大正10年(1921) 光太郎39歳

当時の『読売新聞』の「お茶うけ」というコラムで、この後に「とは高村光太郎さんのお話です」と続いて全文です。

100年経ってもあまり状況は変わっていないような……。

都内からコンサート情報です。 

期 日 : 2020年8月10日(月・祝)
会 場 : 浜離宮朝日ホール 東京都中央区築地5-3-2
時 間 : 14:00~16:00 開場13:30
料 金 : 一般5,500円 学生席2,700円 全席指定

出 演 : 小林沙羅(Sp)  河野紘子 (Pf)  見澤太基 (尺八)  澤村祐司 (箏)

曲 目 :
 武満徹 : 小さな空 (詩:武満徹)
 山田耕筰 : この道 (詩:北原白秋)
 山田耕筰 : 赤とんぼ (詩:三木露風)
 山田耕筰 : ペチカ (詩:北原白秋)
 中田章 : 早春賦 (詩:吉丸一昌)
 越谷達之助 : 初恋 (詩:石川啄木)
 武満徹 : 死んだ男の残したものは (詩:谷川俊太郎)
 中村裕美 : 「智恵子抄」より (詩:高村光太郎)
          或る夜のこころ  あなたはだんだんきれいになる  亡き人に
 早坂文雄 : うぐひす (詩:佐藤春夫)
 瀧廉太郎 : 荒城の月 (詩:土井晩翠)
 宮城道雄 : せきれい (詩:北原白秋)
 宮城道雄 : 浜木綿 (詩:宮城道雄)
 井上武士 : うみ (詩:林柳波)
 橋本国彦 : お六娘 (詩:林柳波)
 橋本国彦 : 舞 (詩:深尾須磨子)
 小林沙羅 : ひとりから (詩:谷川俊太郎)

CDアルバム「日本の詩」制作のきっかけとなったのは、2018年8月浜離宮朝日ホールでのランチタイムコンサートでした。私にとって、そして日本語を母国語とする私たちにとって、日本の歌は魂に結びついたとても大切なものなのだということを、強く感じたのでした。今回、アルバム「日本の詩」発売記念リサイタルを、浜離宮朝日ホールで開催できる日を、心から楽しみに思っています。 3月に開催予定だったこのリサイタルが延期となり、演奏会のない毎日を過ごす中で、どれだけ音楽が、歌が、私にとって大切なものであったか、生で演奏会を開き、お客様と一緒に時間と空間を共有する事がどれだけ掛け替えのない事であったのかを、改めて感じます。8月10日に演奏会を開催する事ができ、お客様皆さまとお会いできる事を心から願っています。 皆さまどうぞご自愛ください。そしてコンサート会場でお会いしましょう!8月10日のコンサートが、祈りと感謝と喜びに満ちたコンサートになりますように。

本公演は2020年3月12日(木)に予定されておりました公演の振替となります。当初、中止となった公演のチケットをお持ちの方はそのままご入場いただけますとご案内いたしましたが、ソーシャル・ディスタンスの観点により、お座席の間隔を空けての実施となりましたので、3月の公演チケットではご入場いただけません。3月のチケットをお持ちの方は払戻手続きの上、新たに本公演のチケットをお買い求め下さい。

003

004
上記説明にある通り、昨秋リリースされた3rdアルバム「日本の詩(うた)」のリリース記念として、3月に開催予定だった公演が新型コロナの影響で延期となったものです。光太郎詩に曲をつけられたものも、「或る夜のこころ」はCDにも入り、福島県棚倉町でのNHKさんの「クラシック倶楽部 小林沙羅&山本耕平 デュオ・リサイタル」公開収録でも演奏されましたが、それ以外に「あなたはだんだんきれいになる」と「亡き人に」もラインナップに入っています。作曲は中村裕美さんという方です。



ご都合の付く方、コロナ対策を充分になさった上で、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

愛こそは詩を生む母胎である。感情に甘えてはいけないが―。

散文「『職場の光』詩選評 十」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

小林さんの演奏された「或る夜のこころ」。『智恵子抄』所収の詩篇が元ですが、大正元年(1912)、智恵子への揺れ動く「こころ」を謳った詩です。光太郎数え30歳、遅まきながら初めての真摯な恋愛「感情」に「甘え」ることなく、必死で抑えようとして抑えられない、そういった苦悶も見て取れます。

光太郎や、その親友だった碌山荻原守衛らに多大な影響を与えた、オーギュスト・ロダン(1840~1917)関連。少し長いのですが、代表作の一つ「カレーの市民」が取り上げられている、今月中旬に『聖教新聞』さんに掲載された記事です 

〈世界の名画との語らい〉ロダン《カレーの市民》 先入観を打ち破る新たな英雄像 人間の可能性ひらいた「近代彫刻の父」。

001 1959年に開館した東京・上野の国立西洋美術館は、西洋の美術作品を専門とした美術館です。所蔵品の基礎を成している“松方コレクション”は、第1次世界大戦中に造船業で巨万の富を築いた松方幸次郎によって収集されました。番外編として、絵画ではなく、近代彫刻の父、オーギュスト・ロダンの傑作<カレーの市民>を紹介します。(サダブラティまや記者)

語り継がれる6人の物語
 フランス北部、英仏海峡沿いの港町であるカレー市は、同市を救った英雄、ウスタッシュ・ド・サン=ピエールをたたえる記念碑の計画を立てていた。不思議な縁に手繰り寄せられて、その依頼が彫刻家オーギュスト・ロダンのもとに舞い込んで来たのは、1884年のこと。
 ウスタッシュは、どんな人物だったのか。史実によると、英仏の百年戦争時代(1337年~1453年)、カレー市はイングランド王エドワード3世の侵略を受け、包囲された。兵糧攻めが1年以上も続き、極限に達したある日、王は要求する。市を解放する代わりに、6人の人質を差し出すこと。帽子を取り、裸足となり、首に縄を巻いて、市の鍵を手にして処刑台に向かえ、と。
 市民はたじろぎ、怒り、嘆いた。“いっそ戦おう!”“華々しく散ろう!”と、ある者は叫んだ。不気味な沈黙が場を包んだ時、一人、決然と立ち上がったのがウスタッシュだった。“私が人質になろう”。彼の姿に鼓舞され、一人、また一人と、後に続いた。
 この年代記を読んだロダンの心は、感動で打ち震えた。“ウスタッシュの示した勇気の行動は、今もなお欧州の人々の間で語り草となっている。その記念碑に携われるとは、なんと栄誉なことだろう”。ロダンは、自らが金銭的な負担を背負ってもいいとの覚悟で、制作費も高額なものは請求せず、喜んでこれに応じた。
 どのように表現するか。それがロダンにとって究極の挑戦だった。伝統的に記念碑とは、一人の人物を中心に制作される。「しかし、ロダンは初めから、一人だけを輝かせるのではなく、市民を守った6人を組み合わせて彫刻を作ることに強い意志を示していました。この事件の重みを全員で受け止められるよう、均等にポーズを取らせたことは非常に斬新です」と話すのは、国立西洋美術館の馬渕明子館長。
 前例がないロダンの発想は、“もっと英雄らしい気高い姿を描写するべきだ”と非難を浴びた。ロダンは自身の心情を次のように語っている。「私の示そうとしたものは、あの時代の自分たちの名前も出さないで犠牲に身を投じたような市民だったのです」(高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』岩波文庫)

000紆余曲折を経て日本へ
 ロダンは、1840年、パリの下町に、庶民の子として生まれた。父は、パリ警視庁の下級官吏だった。6歳の時、キリスト教の学校で初等教育を受け始めるが、近視のためか、成績は芳しくなかった。
 息子の将来を案じた父親は、絵を描くのが好きだったロダンを帝国素描・算数専門学校に通わせる。当時のフランスで、芸術家の登竜門とされていた国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に対して、通称“小校”と呼ばれていたこの学校は、装飾美術の職人を養成する目的で創られた。
 この小校で、古い規則にとらわれない斬新な美術教育を受けられたことは、後年、“戦う芸術家ロダン”を育む上で、重要な役割を果たした。
 彫刻でプロの道を目指したロダンは、1857年から毎年、国立美術学校を受験するも、3年連続で不合格。自信のあった彫刻の分野で認められなかったショックは、大きかった。
 生活のために、装飾仕事に従事しつつ、人気があった彫刻家のカリエ=ベルーズに師事し、石膏取りや建築装飾など、どんな下請けも引き受けた。自作に師匠のサインが入る屈辱にも耐えながら、20年がたった頃、彼の人生に光が差し始める。
 1880年、ロダンの出世作である<青銅時代>が政府に買い上げられたのだ。さらに同年、<地獄の門>の発注も受けた。<カレーの市民>の依頼も、その延長線上にあった。
 現在、国立西洋美術館の前庭に設置されている<カレーの市民>が松方幸次郎により発注されたのは、1918年。松方はこの時期、日本に美術館を造ろうと、フランスで芸術品の収集に奔走していた。
 だが、<カレーの市民>が日本に送られて来たのは、それから40年以上も経過した1959年のこと。この間、もともと松方が注文した彫刻は、アメリカのコレクターに売却。それを補うために造られた次の作品も、第2次世界大戦中にナチスが買い上げてしまった。
 戦後、パリのロダン美術館に返還されたものの、フランス側の強い要請でそのまま本国にとどまることに。ようやく1950年代に入り、フランスに没収されていた数々の松方コレクションの寄贈・返還交渉が開始された際、国立西洋美術館のために新しく鋳造(金属を鋳型に流し込んで作る方法)されたのが本作だった。

真実の勇者の証しとは
 馬渕館長はロダン芸術の魅力について、こう語る。
 「ロダンの彫刻は、ものすごく人間くさいんです。彼は、人間の持つ可能性をくまなく研究しました。人体の構造に始まり、動作、表情、内面の描写に至るまで、全てを解体して、一から作り直すことに躊躇がなかった。だからこそ、思いがけない組み合わせを発見できた。先入観を壊していく勇気があったのだと思います」
 カレーの市民たちの物語は、ドイツの作家ゲオルク・カイザーによって戯曲となり、世界中の人々に広く親しまれている。このエピソードを貫く最大のテーマは、「真実の勇気」だ。
 馬渕館長は続ける。
 「ロダン以前に表現されてきた勇気の行為は、最後の決断の時だけがクローズアップされてきました。そこに至るまでに、実は、複雑な心の過程があることを、ロダンは伝えたかったのでしょう。恐怖、悲しみ、決意といった感情が、6人の存在によって時間のように流れていきます。単に立派な人物の描写で終わるのではなく、人間が葛藤しながらも、正しい選択をしていく強さを表したかったのではないでしょうか」
 ロダンが映しだそうとした感動的な人間像をなかなか理解できなかったカレー市当局は、記念碑の設置をためらっていたが、ついに1895年、除幕式が行われた。彫刻が発注されてから11年が経過していた。
 とはいえ、<カレーの市民>はロダンが携わった記念碑の中でも、成功したプロジェクトとして際立っている。他の代表作は、生前には公共の場所に設置されなかったり、完成しても受け取りを拒否されたりしていた。常に無理解と中傷にさらされてきたロダンのキャリアの中で、彼の意図に共鳴してくれる人々がいることは、決して当たり前のことではなかったのだ。
 ロダンが命を削って描きだそうとした6人の市民たちは、名誉も地位も財産もない。けれど、一番大切な「勇気」を持っていた。勇敢に見えるウスタッシュとて、激しい心の葛藤があっただろう。でも、正しいと信じるがゆえに、行動を起こさずにはいられなかった。愛する同胞たちの希望になることを確信して。
 目には見えない静かな勇気。華やかではない勇気。それが自分を変え、周囲を変え、世界を変えていく――。勇者たちのそんな魂の叫びが聞こえる。

<画家 略歴>
オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin 1840年~1917年)。近代彫刻の父。警察官の息子としてパリに生まれ、彫刻家を目指して美術学校を受験するが、3度連続で不合格。建築装飾の仕事に約20年間、従事した。ミケランジェロに傾倒し、<青銅時代>でデビュー。代表作に<地獄の門><考える人><バルザック>など。

<国立西洋美術館>
東京都台東区上野公園7-7。JR上野駅下車(公園口出口)徒歩1分。開館時間=9時半~17時半。金・土曜日は9時半~20時。※入館は閉館の30分前まで。休館日=月曜日(休日の場合は翌平日)、年末年始、2020年10月19日~2022年春(予定)全館休館。

ついでですので、光太郎の筆になる「カレーの市民」解説も。

彼が「地獄の門」の諸彫刻に熱中してゐる間にフランスの一関門カレエ市に十四世紀に於ける市の恩人ユスタアシユ ド サンピエルの記念像を建てる議が起つた。其話をカレエ市在住の一友から聞かされ、いろいろの曲折のあつた後、雛形を提出して、結局依頼される事になつた。ルグロやカザンの骨折が大に力になつたのだといふ。十四世紀の中葉、カレエ市を包囲した英国王エドワアド三世が市の頑強な抵抗に腹を立てて、市を破壊しようとした時、残酷な條件通り身を犠牲にする事を決心して市民を救つた当年の義民の伝を年代記で読んだロダンはひどく其主題に打たれた。犠牲に立つた者は一人でなくして六人であつた。ロダンは一人の銅像の製作費で六人を作る事を申出で、十年かかつて「カレエの市民」を完成した。
(略)
「カレエの市民」で彼は更に破天荒な構図を作つた。当時の黄金律になつてゐたネオ希朧派の構図法三稜形を全く無視し、十四世紀当時の光景をロダンの幻像のままに示顕させようとした。六人の人物の配置は線の連絡よりも、むしろ明暗の連絡と、劇的心理の連絡によつて行はれた。彫刻の技法は省略と誇張とを強めて、外光を顧慮し、中世期の彫刻精神に余程近づいた。此の彫刻の中には既に後年の「バルザツク」の萌芽があるのである。ロダンは此群像をカレエ市庁の階段の上の石畳へ置いて通行する者と同列の親密感を得させたいと考へた。しかし其は同意せられず、やはり普通のやうに台の上に載せられた。中世期のカテドラルの人物彫刻が彼の意識を支配して居たであらうといふ事が此の群像に特殊の興味を与へる。此は一八九五年に除幕された。
(「オオギユスト ロダン」より 昭和2年=1927)

光太郎はおそらくこの彫刻そのものは見ていないと思われます。現在、全世界に同型の鋳造は12組存在しますが、光太郎が滞欧していた当時(明治40年=1907~同42年=1909)、まだ最初のカレー市(ドーバー海峡に面した都市)にしか設置されて居らず、その作を見たということは光太郎の文筆作品では確認できません。ロンドンからパリに移った明治41年(1908)には、ドーバーを船で渡りましたが、フランス側の到着地はカレーより100㌔ほど南のディエップでした。

また、光太郎はロダンのアトリエを少なくとも2回訪れていますが、いずれもロダンは留守(それを狙っていたふしもあります)。応対してくれた妻のローズに、デッサンは見せて貰いましたが、彫刻の石膏原型などを見たということも光太郎の文筆作品では確認できません。

現在、上野の国立西洋美術館さん前庭に据えられている「カレーの市民」は、昭和28年(1953)の鋳造。この時点ですぐに送られていれば間に合ったのですが、上記記事にあるように紆余曲折があって、設置は昭和34年(1959)。光太郎が歿して3年後でした。ぜひ光太郎に見せたかったなぁ、という感じです。

次に上野に行く機会がありましたら、そんなこんなを思い浮かべつつ、改めて「カレーの市民」を見てこようと思っております。


【折々のことば・光太郎】

説明に過ぎると却て弱くなる。

散文「『職場の光』詩選評 五」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

詩に関しての発言です。一語一語が内包している背後にあるものを大切にすべし、ということですね。短歌や俳句などの短詩系文学では、さらにその傾向をつきつめたものが優れているとされますが、詩においてもそうだ、と。ついでに言えば、文学に限らず、造形芸術でもそうなのではないでしょうか。

一昨日の『日本経済新聞』さんから。 

絵の具手作り、変わらない色を届けて3代100年 銀座の画材店「月光荘」、大正文化に恩返し 日比康造

東京・銀座8丁目の雑居ビルの中に月光荘はある000。創業は大正6年(1917年)。絵の具、絵筆、パレットからそれらを持ち運ぶバッグまですべてを自社で製造し販売する。100年を超える老舗は私で3代目となる。創業者は祖父の橋本兵蔵だ。もともと、絵が好きでたまらないから始めた店ではない。運命を変えたのは偶然の出会いだ。

祖父は富山で生まれ育ち、18歳で上京。郵便局員や運転手などをしながら暮らしていた。あるとき住み込みで働いていた家の向かいに、歌人の与謝野鉄幹、晶子夫妻が住んでいることを知った。夫妻の本を愛読していた祖父は、大胆にも家を訪ねた。親切に招き入れられ、「いつでも来なさい」と言われた。

そこでは素晴らしい出会いが待っていた。夫妻の家には北原白秋、石川啄木、高村光太郎などの詩人、藤島武二、梅原龍三郎、有島生馬などの画家など当時の文化人が集まっていた。交流を通し、祖父は芸術という世界の素晴らしさに心奪われるようになる。画材店を始めたのは、画家たちが絵の具に不満を持っているのを知ったからだ。

店名の月光荘は、鉄幹がフランスのヴェルレーヌの詩「月光と人」から引用して名付けてくれた。店のトレードマークのホルンは与謝野夫妻と交遊があった芥川龍之介らが考案してくれたもの。音を奏でて多くの人に集まってもらうという願いが込められている。

当時、店は銀座ではなく新宿にあった。銀座に移るのは戦争で新宿の店が焼け落ちたあとのことだ。建築設計は画家の藤田嗣治によるもので、パリにあるような当時としては珍しい造りだった。店にはカフェも併設されており、数多くの文化人が集まるサロンのような場所となっていった。

芸術の世界を教えてくれた人たちに恩返しをすることが祖父の願いだった。1940年に誕生した純国産絵の具第1号のコバルトブルーもそうした思いから生まれた。当時、絵の具はフランス頼りで、船便で到着までに2カ月はかかった。戦争が始まると外国からの輸入も途絶えた。

コバルトは特殊鋼の製造に使われるため、政府が各大学の研究室に開発を命じていたが、完成に至っていなかった。祖父は、専門書を読みあさり、原料の鉱物の焼成温度や時間を試行錯誤しながら執念で完成させた。軍からは供出の命令がきたが、絵の具以外の用途では決して首を縦に振らなかった。猪熊弦一郎、梅原龍三郎ら著名な画家も月光荘の絵の具をひいきにしてくれた。

私が知る祖父は晩年の姿だ。6歳の1年間、一緒に暮らした。明治の男らしく、寡黙で余計なことは言わず、背中で語る人だった。自分のやるべきことを黙々とやる姿に大きな影響を受けた。商売人というより、職人のような人だった。

時代が変わった今も、祖父のときのまま、絵の具はすべて手作りだ。顔料をバインダーと呼ぶ糊(のり)状のものとローラーで練り合わせる。作るのに8時間以上かかる色もあり、職人がつきっきりで作る。季節によっても色は変わってしまう。配合のレシピはあっても、同じ色にはならない。最後はやはり経験がものをいう。いつまでも変わらない同じ色を届ける。使ってくれる方々との約束を守るために、若い職人の育成にも力を注いでいる。

「色感は人生の宝物」。祖父は生前そう言っていた。素晴らしい色との出会いは人生を豊かにしてくれる。その思いを次の時代にも届けることが自分の使命と考えている。

(ひび・こうぞう=月光荘画材店店主)


月光荘画材店さん創業者の橋本兵蔵に関しては、与謝野夫妻を中心とした文献だったか、美術史を扱った文献だったかで読んだ記憶がありました。残念ながら『高村光太郎全集』にはその名が見えませんが。コバルトの軍への供出を拒んだというエピソード、いいですね。

名前といえば、この記事に出て来る面々、殆どすべて、光太郎となにがしかのつながりのあった人々です。

こういう人物の業績にも、もっともっと光が当たっていいように思われます。


【折々のことば・光太郎】

人間の不自由なんてものは、やっぱり一つの欲ですから、あの、欲、捨てっちまえば何でもない。
対談「朝の訪問」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

この年11月にNHK盛岡放送局で収録された対談の一節です。花巻郊外旧太田村での蟄居生活について。聞き手は同局アナウンサーと思われますが、詳細は不明。12月2日にラジオで放送予定だったのですが、なぜかお蔵入りとなりました。平成16年(2004)にNHKラジオセンターでそのオープンリールテープが発見され、カセットテープにダビングされたものが、故・北川太一先生経由で当方の元に。「文字起こしをしてくれ」とのことで。

10分ほどの長さだったと記憶していますが、結構大変でした。カセットデッキで再生 → 一時停止 → 鉛筆で筆記、の繰り返し。不明瞭な所は何度も巻き戻して(「巻き戻す」というのが、今の若い人にはもう通じないそうですが(笑))再生し、前後のつながりから「ああ、そういうことか」という場合もありました。光太郎、数え67歳のくせに(笑)結構早口でしたし。今となってはいい思い出です。

今日明日で2件ご紹介しますが、まずは神奈川県全域と東京都多摩地域の『タウンニュース』さん。7月2日(木)の八王子版に光太郎の名。 

人物風土記 書家であり、多摩地区で「文字遊び」の教室を開く 吉沢和子さん 元本郷町 77歳

戯れるように書く001

 ○…心を解放し、自分自身を表現することが芸術だ。書家の榊莫山氏に17年間師事し、現在は市内で書道教室を開くほか「はがきで文字遊び」教室を多摩地域18カ所で主宰する。教室で緊張してしまう生徒にリラックスしてもらおうと自身が作った「のびのび体操」では、途中「にっこりして」と声をかける。

 ○…生まれ、育ちは元本郷町。歌や山遊びが楽しみだった。中学校の授業では、高村光太郎の愛情深い詩に衝撃を受けた。戦争に加担する作品を作ったことを悔い、山で隠遁生活を行った姿を尊敬し「多少の困難は乗り越えられる」心構えが養われた。本格的に書道を始めたのは金融業界に務めていた26歳のとき。それまで水墨画を学んでいたが、知人の誘いがきっかけとなり書道の古典に触れる。漢詩や格言などから型を習得するうちに、「既成概念から解放されたい」と考えるようになった。

 ○…そんな頃に出会い、弟子入りしたのが、型破りな表現で知られていた大家榊氏だった。言葉数は少ないが、「空気」から多くを得たという。師に作品を見せると3作品のうち1枚を指さし、「これ、ええで」とポツリ。手本をなぞるのではなく自分自身を表現することを学んだ。そして生まれたのが「はがきで文字遊び」だ。絵を描くように文字を書き、素直な気持ちを伝える。

 ○…休日は夫婦二人で街道歩きを楽しむ。直接見て感じることが、書にも表れるという。新型コロナウイルスでふさぎがちな気持ちを明るくしたいと書いたはがきには「歩こう」の一言。「う」の文字を軸と斜めに傾けることで上向きの気持ちを伝えた。割りばしで足跡のような斑点も添えて。今後も「書と戯れる」心を忘れずに活動していく。

他の記事で、吉沢さんの作品の画像も。 

人物風土記関連 はがきで文字遊び 嬉しいこと素直に

シンプルな言葉で送り手の気持ちを000伝える、見た目にもかわいらしいはがきの教室が、市内等で開かれている。指導をする書家の吉沢和子さん(77)=人物風土記で紹介=は筆や割りばしなど、様々な道具と色を使って文字の書き方を工夫する。

 この「はがきで文字遊び」教室のきっかけは、知人から「難しい作品は初心者にはわからない」と言われたこと。「感謝の気持ちなどは、細かく文字を書かずとも、素直な一言でも伝わるのではないか」と話す。

 吉沢さんは、26歳から本格的に書道を始めた。「自分を自由に表現する」書は、42歳から59歳まで師事した、書家の故・榊莫山氏から学んだ。2000年には国際公募アート未来展で内閣総理大臣賞を受賞したほか、これまで市内を中心に書の個展を12回開催している。

 教室の開始は2000年に出版した本が好評だったため。当初8人だった生徒数は、今では150人になり、8人の講師とともに多摩地区各地で開講している。詳細は【電話】042・623・3028へ。

光太郎に影響を受けたという書家の方はけっこうたくさんいらっしゃいますね。書そのものに魅せられた方、生き様からインスパイアされた方など。吉沢さんは後者のようです。

「はがきで文字遊び」の公式サイトもありました。ご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

比例の美きはまりなし  短句揮毫 戦後期? 光太郎65歳頃?

001

こういう書を見せられてしまうと、魅せられてしまいますね(笑)。ご自分でも書をやろうという方は、影響を受けざるを得ないような……。

広島に本社を置く『中国新聞』さん。昨日のデジタル版から。紙面にも載ったのでしょうか。

000

広島ご出身の歌人・作家の東直子さんによる短歌を中心とした連載エッセイです。写真撮影も東さんだそうで。

言ノ葉ノ箱 丘の上から

 ≪稲は刈り取られた寒い田甫(たんぼ)を見遥るかす道灌山の婆の茶店に腰を下ろした時、居士は、
「お菓子をおくれ。」と言った。茶店の婆さんは大豆を飴(あめ)で固めたような駄菓子を一山持って来た。居士は、「おたべや。」と言ってそれを余に勧(すす)めて自分も一つ口に入れた。居士は非常に興奮しているようであったが余はどういうものだか極めて冷かに落着いて来た。何も言わずにただ居士の唇(くちびる)の動くのを待っていた。≫
 「居士」は正岡子規、「余」は作者である高浜虚子を指す。「子規居士と余」というタイトルで、俳句の師であった子規についての高浜虚子による回想記である。ここに出てくる道灌山は、現在は東京都の荒川区、JR西日暮里駅あたりにある高台で、駅のある低地の道から急な階段を上ってたどりつく、山というより丘のような場所である。

002

 虚子は、葉書で子規の住む根岸に呼び出され、「うちよりは他(よそ)の方がよかろう」と言われて道灌山まで二人で歩いて行った。大人の足で20分ほどで到着する距離だが、子規が結核療養中だったことを考えると、もう少し時間をかけたかもしれない。わざわざ出かけたのは、虚子が自分の後継者になってくれるかどうか、改めて確認するためである。虚子の快諾を期待していたが、21歳とまだ若い虚子は、「私(あし)は学問をする気はない」とすげなく断ってしまう。俳句史では「道灌山事件」と呼ばれるエピソードである。子規はさぞかし落胆したことだろう。

村つづき青田を走る氣車(きしや)見えて諏訪(すは)の茶店はすずしかりけり
                    正岡子規

 道灌山の諏方神社の茶屋から見えた風景を詠んでいる。虚子と話した茶屋だろう。諏方神社は今も存在するが、茶屋はない。青田を走る「氣車」は、隣接する田端から伸びていた日本鉄道の車両だろう。田端駅ができたのが、明治29年4月。この歌が作られたのが明治31年初夏。氣車が青田を走り抜ける景色は、とても新鮮だっただろう。「道灌山事件」は明治28年の冬なので、そのときまだ「氣車」は走っていなかったのだ。道灌山でいったん決裂した二人だが、諸事情で仕事を失った虚子は、子規の協力を得て、明治31年から俳誌「ホトトギス」の編集に携わることになる。虚子が自分の所に戻ってきた嬉(うれ)しさが「すずしかりけり」に込められている気がする。

 現在、諏方神社の高台からは、山手線、京浜東北線、東北新幹線、北陸新幹線、山形新幹線、京成線などの車両が行き交うのが見える。
 神社のそばに荒川区立第一日暮里小学校があり、校門前にふくろうの石像が首をかしげている。高村光太郎の記念碑で、「正直親切」という揮毫(きごう)と「君たちに」という子どもたちへのメッセージを込めた詩も刻まれている。

001

 道灌山から続く高台から、田端駅北口に続く坂道は、新海誠監督のアニメーション映画「天気の子」の舞台として印象深く描写されていた。
 見晴らしのよい丘の上に、様々な人の時間が繋(つな)がり続けている。

003

光太郎直筆の文字を写した「正直親切」を校訓として下さっている荒川区立第一日暮里小学校さんに触れられています。同校は明治25年(1892)、光太郎が尋常小学校の課程を卒(お)えた、日暮里小学校の後身です。「「君たちに」という子どもたちへのメッセージを込めた詩」は光太郎の詩ではなく、現代のものです。

近くには智恵子も通った太平洋美術会研究所さん、子規庵朝倉彫塑館さんなどがあり、当方も大好きなエリアです。コロナ禍が収まったら、またのんびり歩きたいものです。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

乾坤美にみつ  短句揮毫  昭和14年(1939)頃 光太郎57歳頃

「乾坤(けんこん)」は「天地」とほぼイコールです。

例年ですと、この時期に古書業界最大の市(いち)、七夕古書大入札会が行われています。古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)など数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。出品物全点を手に取って見ることができる下見展観もあり、ここのところ毎年お邪魔していました。

 「明治古典会七夕古書大入札会2019」レポート。

ところが今年は、例の新型コロナの影響で中止です。主催者サイトから。

005


むべなるかな、という感じですね。

代わりといっては何ですが、最近、自宅兼事務所に届いた各古書店さんの目録から。

まずは美術専門店のえびな書店さん。小金井の在です。

001

表紙にドーンと光太郎の色紙。

002

戦後の筆跡ですね。光太郎が好んで揮毫した文言で、花巻高村光太郎記念館さんには軸装された他の作品が所蔵されています。

昭和3年(1928)、当会の祖にして光太郎と最も交流の深かった詩人・草野心平の第一詩集『第百階級』の序文に、「詩人とは特権ではない。不可避である。」と書きました。その頃からの「持論」なのですね。

続いて、本郷の森井書店さん。近代文学、山岳系の古書を扱っているお店です。

003

こちらも表紙に「高村光太郎書簡」の文字。画像は井原西鶴ですが。

004

大正11年(1922)、日本女子大学校の智恵子の先輩・小橋三四子にあてた長い書簡です。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第21巻に収録されていますが、画像で見るのは初めてで(全部は載っていませんが)、興味深く拝見しました。

上記色紙ともども、味のある字です。

それから、先月、神保町の近代文学系専門古書店さんから届いた目録にも、光太郎筆という短冊が掲載されていましたが、そちらはどうもいけません。はっきり言えば、光太郎筆ではないだろうと思われます。似せて書こう、だまくらかしてやろう、という匂いが、写真でも伝わってきます。「××堂さん、こんなもの扱っちゃうのか」と、残念でした。

もっとも、上記の七夕古書大入札会でもそういうものが出品された年もありまして、わかっていて出しているのか、鑑定する力がないのか、何ともいえないところですが……。

それはともかく、来年以降、また七夕古書大入札会、復活することえお願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

画の話は一体、作品を目にせずしては聞くものが途方に迷ふものである。けれども、自由を貴んで大抵の極端なことには驚かぬ巴里のまんなかで、此程世人を騒がしてゐる画だと思へば、およそ其の極端さ加減も想像ができよう。

雑纂「HENRI-MATISSE(アンリイ、マチス)の画論㈠[前書き]」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

雑誌『スバル』に掲載されたマチスによる画論翻訳の序文から。

マチス(マティス)は、確認できている限り唯一、光太郎と手紙のやりとりがあった当時の一流フランス人画家です。

000

演劇の公演情報です。新型コロナによる緊急事態宣言もとりあえず解除され、少しずつこうしたものも復活しつつあるようです。 

期 日 : 2020年6月27日(土)・28日(日)
会 場 : パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』 
       東京都新宿区山吹町361 誠志堂ビル
時 間 : 27(土)15時/19時 28(日)13時/17時 上演時間90分(休憩込)
料 金 : 3,700円(ワンドリンク付)

高村光太郎の妻 『智恵子抄』の智恵子 そんなあたしは こう生きた……

作:野田秀樹 出演・演出:角田佳代

000

005

「売り言葉」、平成14年(2002)、野田秀樹氏の脚本、主役・大竹しのぶさんで初演されました。登場人物は智恵子のみの一人芝居です。翌年に新潮社さんから出版された野田氏の脚本集『二十一世紀最初の戯曲集』に収められた後、プロアマ問わず全国で取り上げられています。昨年は確認できている限り6件の公演がありましたし、今年に入っても、コロナ禍がひどくなる前に、2件の公演がありました。

コロナ禍といえば、今回の公演、だいぶ感染予防等には注意を払って行われるようです。

001

002

まあ、暫くの間は、この手の公演などはこんな感じなのだろうと思います。それでも上演されるだけまだいいかな、と感じます。

少し前、渡辺えりさんと電話でお話する機会があったのですが、3月くらいから演劇公演等は軒並み自粛、特に若い役者さんたちには死活問題だそうで……。

ちなみに当方も講師を依頼されていた市民講座等、上半期はすべて中止or延期となり、まぁ、死活問題とまでは行きませんが、結構困りました。その分、秋口にはかなり依頼が入っています。ただ、それも第二波、第三波によって無くなるかもしれず、何とも言えません。

早く旧に復して欲しいものですが、まだまだ予断を許さない状況が続きそうですね……。


【折々のことば・光太郎】

どんな時にも光を見失はず いたづらに人生に対して駄々をこねず 勇猛に前進する気魄を言葉の節奏に感じました。

散文「詩集“陽とともに”を読む」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

『陽とともに』は、ともに北海道出身の詩人・枯木虎夫と山内栄二の共著詩集です。

「どんな時にも光を見失はず いたづらに人生に対して駄々をこねず 勇猛に前進する気魄」。コロナ禍の今こそ、こうした精神が必要なのかもしれませんね。

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は、都内在住の方から花巻高村光太郎記念館さんに、光太郎の書簡が寄贈されることになって、その贈呈に立ち会うことでした(当方が仲介したもので)。内容等、公表されましたらまたご紹介しますが、明治末、光太郎が欧米留学の最後にイタリア旅行をした際に、ローマから日本に送った絵葉書で、資料価値的には極めて高いものです。

そちらの用事が午後からでしたので、午前中、今月開館した立川市のたましん美術館さんに足を運びました。「開館記念展Ⅰたまびらき―たましんの日本近代美術コレクション―」が開催されています。当初予定では先月からのはずでしたが、コロナ禍によりずれ込みました。

003

KIMG3964 KIMG3961

KIMG3962

「たましん」は「多摩信用金庫」さん。元々昭和49年(1974)に、メセナ(企業による文化芸術方面への社会貢献活動)の一環として、本店ビルに「たましん展示室」をオープン、その後、国立支店には「たましん美術サロン」(のち「たましん歴史・美術館」)、その分館として青梅市に「たましん御岳美術館」などが設置されてきましたが、それらを統合して生まれたのが「たましん美術館」さんです。

収蔵品は三つの柱で構成されています。まず、近代日本美術の名品、次に東洋古陶磁、そして地元作家の作品です。

今年度は開館記念ということで、それら三本柱の一つずつ、開館記念展Ⅰ、Ⅱ、Ⅲとして展示するとのこと。

で、まずは「日本近代美術コレクション―」。さらに前後期に分け、現在は前期です。


004 001

003 002

画像はそれぞれクリックで拡大します。001

目玉の一つとして、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)。ただし、あたらしい鋳造のようでした。

「手」は、都内では竹橋の東京国立近代美術館さん、台東区の朝倉彫塑館さんなどにも所蔵されていますが、常に展示されているわけではありません。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛の絶作「女」(明治43年=1910)、それから光太郎、守衛とも交流のあった中原悌二郎の「若きカフカス人」(大正8年=1919)も並んでいました。

その他、絵画では、やはり光太郎と交流のあった面々――岡田三郎助、岸田劉生、椿貞雄、山下新太郎、梅原龍三郎、安井曾太郎、斎藤与里、藤田嗣治ら――の作品を、興味深く拝見しました。

前期は7月5日(日)まで、後期は展示替え期間を挟んで7月11日(土)~8月23日(日)です。光太郎「手」、守衛の「女」などは通期展示となっています。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

いい方がおかしいが、岩手の冬は人を殺さない。非人間的な冬と、人間的な冬の限界のところにあるのだと思う。この冬にきたえられて、時にぽかつと、すごい精神的な天才的な人間が出てくるのだと思う。なまぬるいものではない。この冬のきびしさが賢治や啄木も生み、原敬なども生んだのだろうと思う。
談話筆記「緑陰に語る」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「非人間的な冬」として挙げている例はシベリアなど。なるほど、言いたいことはよくわかります。

このブログでたびたびご紹介しておりますアートオークション大手の毎日オークションさん。時折、光太郎や光太郎の父・光雲関連が出品されます。

今月開催の「第641回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」では、光雲の作品が出ます。

第641回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日  程 : 2020年6月19日(金) 14:00~  6月20日(土) 12:00~
会  場 : 毎日オークションハウス 東京都江東区有明3-5-7
下見会 : 2020年6月18日(木)・19日(金) 10:00~18:00

さて、光雲作品。

まずは木彫丸彫の「翁舞」。衣の紋様まで細かに彫られています。まさに超絶技巧。

006


008


同じく「大聖像」。ほぼ同型の作品が、現在、千葉そごうさんの美術画廊で開催中の「近代木彫秀作展」に展示販売されています。

007

009

丸彫りの二点とも、千葉そごうさんに出ているものと比較すると、かなりの安値です。「作品詳細」欄にあるとおり、それぞれ、若干、状態がよくない点があるためでしょうか。それにしても、画像で見る限り目立つ瑕疵ではないので、もう少し値がついて落札されるような気がします。

続いて、手板浮彫(レリーフ)の小品で「月宮殿」。月で餅を搗く愛らしい兎です。

010

012

最後に彫刻ではなく、書。雄渾な文字ですね。

011

013

それぞれ、おさまるべきところにおさまってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

だからぼくのは出すたびにやられるので弱つていたもんです。非詩だつて、そう感じるんだからしようがないというので書いていたもんです。

座談会筆録「現代詩について」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

半世紀近く前の明治末、詩集『道程』所収の詩篇を作っていた頃の回想です。口語自由詩はまだ一般的でなく、しかもある意味醜い自己の内面をさらけ出した光太郎の詩は、時代を突き抜けていたといえましょう。

このところ、展覧会系をご紹介しておりますので、もう1件。 

期 日 : 2020年6月2日(火)~8月23日(日)
会 場 : たましん美術館 東京都立川市緑町3-4 多摩信用金庫本店1階
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 月曜日、展示替え期間(7月6日~7月10日)
      ただし8月10日(月・祝)は開館、8月11日(火)を閉館。
料 金 : 一般500円(400円) 高大生300円(200円)( )内20名以上の団体

令和2年(2020)5月、多摩信用金庫(たましん)は新たに美術館をオープンいたします。たましんが長年貫いてきた多摩地域の文化振興への貢献という姿勢は、ここにきて美術館という形で結実することになりました。

さかのぼれば昭和49年(1973)にたましん旧本店・本部棟ビルが完成した時、同ビル内に「たましん展示室」が併設されました。それから47年の時を経て、立川市の新街区GREEN SPRINGSへの本店・本部棟の移動にともない、新たに誕生するのが「たましん美術館」です。

初年度は、たましんが誇る優れた美術コレクション(たましんコレクション)を一挙にご紹介します。たましんコレクションは大きくは三つのジャンルに分類することができ、ひとつは近代(明治時代以降)の洋画や彫刻の名品。次に中国・朝鮮・日本の貴重な古陶磁。そして多摩地域を中心に活動してきた作家たちの作品となります。その中で、新美術館の幕開けを飾る開館記念展Ⅰでは、たましんコレクションの中から選りすぐった日本近代(明治、大正、昭和)の洋画・彫刻の名品を並べます。

明治最初の洋画団体である明治美術会、ヨーロッパから鮮やかな外光表現を持ち帰った白馬会、アカデミズムに与せず個性の表出を重視した白樺派や草土社、若き才能が集まり切磋琢磨した中村屋サロン、より挑戦的な作風を発表するために官展から脱却して生まれた二科会や独立美術協会などの作家たち、そしてそのどこにも属さない独自性を求めた作家たちの作品も含めて展示いたします。新美術館のこだわりのつまった展示空間で、日本近代美術史の豊かな流れを味わっていただければ幸いです。

003

たましん美術館さん。前身は青梅市にあった「たましん御岳美術館」さんと、旧本店にあった「たましん展示室」。平成29年(2017)に、新美術館構想が報じられ、昨秋には「たましん御岳美術館」さんが閉館し、移転が終了したようです。

画像にあるとおり、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が出ます。元々「たましん御岳美術館」さんで展示されていたものです。ただ、新しい鋳造のものだと思われます。

それから、光太郎の親友だった荻原守衛の「女」(明治43年=1910)も画像にありますね。

『読売新聞』さんでは都内版で報じています。 

たましん美術館が開館 立川新街区 高村光太郎作品など

 JR立川駅北口の新街区「グリー001ンスプリングス」で、多摩信用金庫(立川市)が収集してきた美術品などを展示する「たましん美術館」が2日、開館した。
 美術館は、5月中旬に新街区に移転した同金庫本店1階。展示室の広さは207平方メートルで、同金庫が1950年代から収集してきた「日本近代美術」「東洋古陶磁」「多摩の作家」に関する所蔵品約5000点を順次、展示する。
 この日始まった開館記念展「たまびらき」では、詩集「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)のブロンズ像「手」(高さ37センチ)や、洋画家の岸田劉生りゅうせい(1891~1929年)の油彩画「初冬の田畑」(縦45・6センチ、横53・2センチ)など、日本近代美術の所蔵品計23点を展示している。
 たましん美術館の学芸員、斉藤全人まひとさん(41)は「展示スペースは小さいが、良質なコレクションを地域の人に広く知ってほしい」と話している。今後、所蔵品以外の企画展も開催される予定。
 開館記念展前期は7月5日まで。後期は展示作品を入れ替えて、7月11日~8月23日に開催する。入館料は一般500円、高校、大学生300円、中学生以下無料。原則月曜休館。


暇を見て拝見に伺おうと思っております。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

日本人はみんな歌とか俳句とかをやる方がいゝと思ひます。

座談会筆録「大東亜文化建設の課題」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

「五七五七七」あるいは「五七五」という音律の制約、さらに短い中に深遠な心情、情趣を象徴的に含ませなければならない短詩系文学としての短歌や俳句。光太郎自身も優れた作をたくさん残しましたが(このブログの平成28年=2016では【折々の歌と句・光太郎】ということで、366首/句のそれらを紹介しました)。

歌人や俳人からすると、自由詩は「散文を行分けしただけじゃないか」だそうで、確かに悲しいかな、そういう作品も多く存在します(というか、現在氾濫している「詩集」なるもの、ほとんどがそうだと感じます)。しかし自由詩であっても、「内在律」ともいうべきリズム感、象徴性、その他、自由詩でなければ出来ないことがあるはずで、光太郎などはそれを実現できていたと言っていいのではないでしょうか(戦時中の愚にもつかない駄作も多いのですが)。

新刊情報です。 2020年4月10日 日本近代文学館編 勉誠出版 定価2,800円+税

003


文豪たちが愛した東京!

夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、泉鏡花…。
日本を代表する文豪たちは、東京のどこに住み、どんな生活を送っていたのか。
彼ら・彼女らの生活の場、創作の源泉としての東京を浮かびあがらせる。東京を舞台とした作品の紹介のほか、古写真やイラスト、新聞・雑誌の記事や地図など当時の貴重な資料と、原稿や挿絵、文豪たちの愛用品まで100枚を超える写真も掲載。現在につながる、文豪たちの生きた東京を探す。
都内にある8箇所の文学館ガイドも掲載! アクセス方法、代表的な収蔵品など、写真付きで紹介。


目次

 刊行にあたって 坂上弘
 はじめに―東京文学を歩く  池内輝雄

 生活を支えた本郷菊坂の質店―樋口一葉と伊勢屋  山崎一穎
 千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎  小林幸夫
 漱石作品における「東京」の位置―「山の手」と「下町」の視点から  中島国彦
 女性たちの東京―泉鏡花と永井荷風  持田叙子
 近代医学へのまなざし―斎藤茂吉と青山脳病院  小泉博明
 作家たちの避暑地―芥川龍之介の軽井沢体験など  池内輝雄
 伏字の話から始まって―弴・万太郎・瀧太郎  武藤康史
 林芙美子の東京―雌伏期の雑司ヶ谷、道玄坂、白山上南天堂喫茶部  江種満子
 遊び、働き、住むところ―川端康成・佐多稲子たち、それぞれの浅草  宮内淳子


[文学館記念館紹介]
 一葉記念館/武者小路実篤記念館/田端文士村記念館/世田谷文学館/太宰治文学サロン/
 森鷗外記念館/漱石山房記念館/日本近代文学館



平成25年(2013)と同28年(2016)、駒場の日本近代文学館さんを会場に、同館主宰で開催された文学講座「資料は語る―資料で読む東京文学誌」を元にしているようです。

光太郎に関しては、上智大学教授・小林幸夫氏による「千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎」。平成25年(2013)に開催された講座の第1回、「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」の内容をさらにふくらませているものでした。

中心になるのは、小林氏が『日本近代文学館年誌―資料探索 第10号』(平成27年=2015)にも書かれていた、「軍服着せれば鷗外だ」事件。事件そのものは大正6年(1917)ですが、のちに昭和に入ってから、光太郎が川路柳虹との対談で、詳細を語っています。

川路 いつか高村さんが先生のことを皮肉つて「立ちん坊にサーベルをさせばみんな森鷗外になる」といつたといふので、とてもおこつて居られたことがありましたなあ。(笑声)
高村 いやあれは僕がしやべつたのでも書いたのでもないんですよ。
川路 僕も先生に、まさか高村さんが……と言ふと、先生は「いや、わしは雑誌に書いてあるのをたしかに見た」とそれは大変な権幕でしたよ。(笑声)
高村 あとで僕もその記事を見ましてね、あれは「新潮」か何かのゴシツプ欄でしたよ。或は僕のことだから酔つぱらつた序に、先生の事をカルカチユアルにしやべつたかも知れない。それを聞いてゐる連中が(多分中村武羅夫さんぢやないかと思ふんだが)あんなゴシツプにしちやつたんでせう。それで先生には手紙であやまつたり、御宅へあがつて弁解したりしたのですが、何しろ先生のあの調子で「いや君はかねてわしに対して文句があるのぢやらう」といふわけでしかりつけられました。(笑)
(「鷗外先生の思出」昭和13年=1938)

「立ちん坊」は、急な坂の下で重そうな荷車を待ちかまえ、押してやってお金をもらう商売です。「軍服」云々は鷗外の言から引きましょう。

高村光太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と書いたことがあるやうだ。
(「観潮楼閑話」 大正6年=1917)

それで怒った鷗外が、光太郎を呼びつけたというわけです。さすがにボコボコにはしませんでしたが(笑)。数ある光太郎の笑えるエピソードの中でも、これはかなりランキング上位です(笑)。

これを紹介する小林氏の本論考書き出しの部分もまた、笑えます。

高村光太郎は走った、と思われる。自宅からの道を団子坂に向って。何故か。その坂の上にひとりの高名な文学者が住んでいて、怒っていたからである。その文学者とは森鷗外。

どうも権威的なものには反抗しないと気が済まない我らが光太郎(笑)、東京美術学校在学中の明治31年(1898)、美学の講師として美校の教壇に立った軍医総監の鷗外にも、だいぶ反発を感じていたようで、それがすべての大元になったようです。

しかし、反発するだけでなく、鷗外が顧問格だった『スバル』では中心メンバーの一人となりましたし、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた画廊の店名は、鷗外の訳書から採った「琅玕洞」。鷗外は鷗外で、裏で手を回して光太郎の徴兵を免除してやったりもしています。

何とも不思議な、二人の関係です。

『ビジュアル資料でたどる 文豪たちの東京』、他に帝塚山学院大学教授・宮内淳子氏による「遊び、働き、住むところ―川端康成・佐多稲子たち、それぞれの浅草」でも、光太郎に触れられています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

一、国史眼、史記、八犬伝等。
二、物語もの、万葉集、八代集等。
三、ロダン、ホヰツトマン、ヹルハアラン等。
四、ベルグソン、ロマン・ロラン、ヷレリイ等。
五、座右に書籍乏しく、手当たり次第。
六、聖書、仏典、ロダン等。

アンケート「私の愛読書」全文 昭和24年(1949) 光太郎67歳

設問は以下の通り。

一、二十歳以前(少年時代)には
二、二十代(青年時代)には
三、三十代には
四、四十代には
五、現在は
六、各年代を通じての座右の書は


こうして見ると、光太郎という人物を構成した要素がかなりの部分、表されているような気がします。





東京駒場の日本近代文学館さん。「所蔵資料紹介の機会を増やすため、「日本近代文学館年誌―資料探索」という紀要を年に一冊刊行しております。」とのことで、館蔵資料の紹介、各氏論考、エッセイなどが掲載されている厚冊のものです。その15号が刊行されました。 2020年3月20日 公益財団法人日本近代文学館編刊 定価1,040円(税込) B5判 236頁

001

2020年3月、年誌15号を刊行いたしました。
文学館の所蔵資料紹介の機会を増やすため、「日本近代文学館年誌―資料探索」という紀要を年に一冊刊行しております。
文学者の書下ろしエッセイ、館蔵資料を用いた論考、未発表資料の翻刻と解説を収録。お申し込みは文学館まで(一般1040円/会員880円)。

目次

エッセイ
ひかりの在処 三角みづ紀
与謝野夫妻の書簡と祖父古澤幸吉のこと 古澤陽子
一人の両性具有者の手記――南方熊楠とミシェル・フーコーの共振 安藤礼二
北関東のその土地へ 宮沢章夫
高村光太郎と「書」 古谷稔

論考
春のや主人/二葉亭四迷合作「新編浮雲 上篇」の書誌について 飛田良文
お縫の将来への想像力――樋口一葉「ゆく雲」精読―― 戸松泉
太宰治『お伽草紙』の本文研究――新出原稿を中心に―― 安藤宏
ひと・地域・コレクションをつなぐ――文学展「浅草文芸、戻る場所」から考える―― 金井景子
伊藤整『発掘』の原稿について――人間認識の転回―― 飯島洋
井上満 獄中の記(1936―1938) 郡司良
初期春陽堂の研究――東京芝新橋書林の時代まで 山田俊治

資料紹介
資料翻刻1 片山敏彦宛諸氏書簡(2) 石川賢・小川桃 他
資料翻刻2 内海信之宛諸氏書簡 石川賢・小川桃 他


書道史研究家で、東京国立博物館名誉館員の古谷稔氏002による「高村光太郎と「書」」。同館所蔵の光太郎の書作品のうち、3点について専門家のお立場から解説なさっています。

3点中2点は、平成11年(1999)、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご著書『高村光太郎 書の深淵』にも図版入りで取り上げられています。

戦後、花巻郊外旧太田村に蟄居中の昭和24年(1949)に書かれた色紙が2点。まず、短歌「太田村山口山の山かけにひえをくらひてせみ彫る吾は」。「山かけ」は濁点が省略されていますが「山かげ(山陰)」です。「くらひて」の「ひ」は変体仮名的に「「比」、「せみ」の「み」と「吾は」の「は」も同様に「ミ」、「ハ」と書かれています。こうした部分もアクセントになっているように当方には思えます。

「せみ」は木彫の「蝉」。大正末から昭和初めにかけ、光太郎が好んで彫った題材です。従来、4点の現存が確認されていましたが、このたび5点目が出てきまして、5月22日(金)から富山県水墨美術館さんで開催予定の企画展「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品されます。

4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。

では、戦後の太田村でも「蝉」を彫っていたのか、というと、きちんとした作000品として彫っていたわけではないようですが、手すさび、または腕を鈍らせないための修練といった意味合いで彫っていたようです。光太郎の山小屋を訪ねた詩人の竹内てるよ、地元在住の浅沼隆氏などの目撃談があります。

北川先生、『書の深淵』を書かれた当時はその目撃談の存在をご存じなかったようで、同書では「だが、「蝉」は願望の象徴にすぎず、この時点でもその後も、作品として彫られることはなかった」と解説されていましたが、その後、目撃談に気づかれ、「やはり本当に太田村でも「蝉」を彫っていたんですね」とおっしゃっていました。ただし、戦後の「蝉」の現存は確認できていません。

ちなみに古谷氏は「「蝉」は光太郎の代表作で、この時期にも数多く制作されたようである」と書かれていますが、「数多く」というのは絶対にありませんので、よろしくお願いいたします。

2点めも色紙で、光太郎が好んで揮毫した短句「うつくし001きもの満つ」。先述の「太田村……」の短歌色紙とほぼ同時に書かれたものです。

「満つ」を、やはり片仮名で変体仮名的に「ミつ」と書いたバージョンも存在しますが、こちらは漢字で「満つ」となっています。山梨県富士川町の光太郎文学碑は「ミつ」と書かれた揮毫から写されたもので、「ミつ」を「みつ」ではなく「三つ」と読んでしまい、「高村光太郎は三つの「美しいもの」を愛した。一つは何々で……二つ目は何それで……」といったトンデモ解釈が流布しており、閉口しています。

3点目は、書画帖『有機無機帖』。やはり太田村時代の昭和27年(1952)から、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京したあとも書き継がれ、昭和29年(1954)に完成しました。光太郎と親しく、岩波文庫版『高村光太郎詩集』(昭和30年=1955)の編集に当たった美術史家・奥平英雄が光太郎に乞うて書いて貰ったものです。ちなみに先述の色紙2点も奥平に贈られたものです。

003

詩や短歌、「ロダンの言葉」やヴェルハーランの詩の訳、さらには智恵子の紙絵を模して光太郎が作った紙絵まで、全20面ほどの書画帖です。006

古谷氏、このうちの紙絵が附された詩「リンゴばたけに」の面について解説されています。

古谷氏は、かつて東京国立博物館さんで奥平と同僚だったそうで、奥平の歿後、日本近代文学館さんに寄贈された光太郎の書を同館でご覧になり、この稿を書かれたとのこと。同館では、光太郎書作品、展示されているわけではなく、収蔵庫に仕舞われています。ただ、事前に申請をすれば収蔵庫から出して下さって観られるというシステムになっています。

上記以外にも、光太郎の書がたくさん収蔵されていて、先ほども「蝉」の件で触れましたが、5月22日(金)から開催予定の富山県水墨美術館さんの「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品されます。上記3点はすべて出る他、短歌を大書した幅、宮沢賢治の詩の一節を書いたもの、短句揮毫の色紙など、日本近代文学館さん所蔵のものは10点並ぶ予定です。

大半は「奥平コレクション」に含まれるものです。奥平がそれらについて語った記録は、以下の書籍等に詳述されています。ご参考までに。

004
『晩年の高村光太郎』 奥平英雄著  二玄社  昭和37年(1962) 
『晩年の高村光太郎 特装版』 〃   瑠璃書房 昭和51年(1976) (光太郎と奥平の対談を収録したカセットテープつき)
『忘れ得ぬ人々 一美術史家の回想』 〃 瑠璃書房 平成5年(1993)
雑誌『書画船』№1 二玄社 平成9年(1997) 

富山では、他にも、他館や個人の方所蔵の優品を、まだまだたくさん展示予定でして(また折を見てご紹介いたします)、新型コロナによる緊急事態宣言が出ましたが、始まるころにはこの騒ぎも治まり、予定通り開催されることを祈念いたしております。

4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。

『日本近代文学館年誌 資料探索 15』は、日本近代文学館さんのサイトから購入可能です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

私には子供がありません。

アンケート「児童と映画」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳

『いとし児』という雑誌が実施したアンケートで、質問は「一、お子様に映画をお見せになりますか、否や、その理由。 二、月に何回ぐらゐ。 三、種類の御選択は。」。光太郎に子供がいないということも調べずに、アンケートを依頼したようです。

で、回答が上記の一言のみ。かなりムッとしている光太郎の顔が思い浮かびますが、それをそのまま載せる方も載せる方だと思います(笑)。

結局、光太郎智恵子夫妻に子供は生まれませんでしたが、単にできなかったのか、それとも、あえて作らなかったのか、何とも言えません。光雲との芸術上の確執に悩み、「親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。(略)僕を外国に寄来したのは親爺の一生の誤りだった。(略)僕は今に鈴虫の様なことをやるにきまつてゐる。」(「出さずにしまつた手紙の一束」明治43年=1910)とまで書いた光太郎ですが、真相は闇の中です。

新型コロナウイルスの影響で、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼様で例年執り行っておりおりました集いは中止といたしましたが、昨日、4月2日は、昭和31年(1956)に歿した光太郎64回目の命日でした。

集いに代えて、運営委員会代表ということで、当方が染井霊園・光太郎の墓にお参りさせていただきました。例年も松本楼様での集いの前に、墓参しているのですが、昨日は集いを中止にした関係上、例年よりじっくりと頭(こうべ)を垂れて参りました。

例年、この時期は花見、というか、散策に訪れている方が多い染井霊園ですが、昨日はさすがに閑散としていました。ただ、例年ですといっぱいの無料駐車場に車を駐められたのはラッキーでした。

005

早くに咲いてしまった、この地原産のソメイヨシノも、まだ保(も)っていました。

010 006

高村家墓所には、昨年は無かった、光雲・光太郎・智恵子を紹介する説明板が新設されていました。ここは光太郎一人の墓ではなく、高村家の墓所ですので、三人の紹介となっています。


008

自宅兼事務所から剪(き)って持参した連翹を花立てに。

009 018

光太郎が歿した際、その終焉の地・中野の貸しアトリエの庭に咲き、葬儀の折には愛用のビールのコップに生けられた連翹から株分けされたものです。こちらも桜同様、今年は早く花が咲き、葉も出始めています。

線香に火をともし「今年は皆さんで集まることが出来なくなってしまいましたが、それぞれの場所できっと光太郎さんを偲んで下さることと思います。来年こそはまた皆さんで集まれるよう、お力添えを」と、心の中で語りかけて参りました。

続いて、松本楼様に行かねばなりません。集いの席上で配付予定だったチラシ、招待券の類、毎年、最初の案内で松本楼様にお送りいただくようお願いしております関係上、今年も何種類か届いているとのことで、その受け取りです。

偶然なのか必然なのか、染井霊園から日比谷公園に車を進めますと、途中で、今年1月に亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生の菩提寺・浄心寺さんの前を通ることになります。同寺は先生のお通夜・葬儀の会場でもありました。

これは寄らざるをえまい、と思い、車を駐めて北川先生の墓参もさせていただきました。

017

浄心寺さんは、別名「さくら寺」。1月のお通夜・葬儀の際には底冷えしていましたが、昨日はおだやかな陽気に桜が満開で、いい感じでした。

そして日比谷松本楼様。日比谷公園の桜も見事でした。しかし、やはり例年とは異なり、花見客は皆無……。

014

012
011








013













松本楼様も、午前11時頃に着いたのですが、普段ですと行列が出来ている時間帯なのに、閑古鳥……。

留め置いていただいていたチラシ類を受け取り、さらに、いつもお世話になっているスタッフの方と立ち話させていただきました。やはりとてつもなく厳しい状況とのこと。お互いに「来年こそは」、「ええ、来年こそは」と、約して松本楼様をあとにしました。

受け取ってきたチラシ類、また、自宅兼事務所に届いたチラシ、招待券、書籍類、それから当会発行の『光太郎資料53』等、参会予定だった皆様などに、順次発送させていただきます。今しばらくお待ち下さい。


【折々のことば・光太郎】

斯ういふインスチチユウシヨンが出来たり消えたりしながら総体的に進んでゆく社会の波動に活発な力を感じます。

アンケート「詩話会解散に対する感想」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

「インスチチユウシヨン」は英語の「institution」。「公共団体」、「協会」といった意味合いです。「詩話会」は、光太郎と親しかった川路柳虹らの旗振りで、大正6年(1917)に結成された詩人の会。年刊『日本詩集』、雑誌『日本詩人』などを発行し、会員に名を連ねていた光太郎もそれらに寄稿しました。

このアンケートが書かれた大正15年(1926)、いわゆる民衆詩派(白鳥省吾、福田正夫、富田砕花ら)といわゆる芸術派(北原白秋、日夏耿之介、西条八十ら)との対立から、解散となりました。

光太郎はどちらに与するわけでもなく、アンケート回答にあるように、こうして世の中が進んで行くのだ、と、達観していたようです。

無理くりですが、昨日、都心を車で走りつつ、報道で見るゴーストタウンのようなパリや、野戦病院のようなニューヨークの惨状との違いに、「活発な力」を感じました。総体的に少ないものの、人も車も普通に動き(それが感染拡大につながっているといえばそれまでですが)、おそらく、今年、色々なことを断念せざるを得なかった人々も、「来年こそは」と、心に期しているのではないかとも思いました。

連翹忌の集いも、「来年こそは」です!

1007新型コロナウイルスの影響で、午後5時30分から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼様で予定しておりました集いは中止といたしましたが、今日、4月2日は、昭和31年(1956)に歿した光太郎64回目の命日です。

例年、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手花巻でも、詩碑前祭と連翹忌法要を挙行して下さっていますが、そちらも中止。

追記 「詩碑前祭」は行ってくださったそうです。

当方、皆様を代表して、駒込染井霊園の光太郎奥津城に墓参(公共交通機関は使わず、自家用車にて行って参ります)、それをもちまして第64回連翹忌とさせていただきます。皆様もそれぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければと存じます。

ちなみにその終焉の地・中野の貸しアトリエで、光太郎が息を引き取ったのは、2日の未明、午前3時45分ですので、大半の方はお休みになっている時刻かと存じます。東日本大震災のように午後2時46分に黙祷、というわけにはいきませんが、それぞれお好きな時刻に光太郎を偲んでいただければ幸いです。

ところで、連翹忌につき、先週、長野県の松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さんが、一面コラムでご紹介下さいました。   

2020.3.29 みすず野

 冬の上高地を初めて歩いたのは20年近く前だ。膝まで埋まる雪をつぼ足で踏み、徳沢の冬期小屋にたどり着いた。迎えてくれた火炉と小屋番の温かさを忘れない。静寂と景色にすっかり魅了され、翌年も翌々年も釜トンネルをくぐった◆高村光太郎の詩集『智恵子抄』にある「狂奔する牛」は大正2(1913)年夏の思い出だとか。徳沢に牧場があった。智恵子が牛の群れを怖がったのだろう。光太郎は〈今日はもう画くのを止して/この人跡たえた神苑をけがさぬほどに/又好きな焚火をしませう〉と声を掛ける◆徳沢の徳澤園に社長の上條敏昭さん(70)を訪ね、冬期小屋が5年前に閉じられたと聞いたのは昨夏だった。「気ままに文学散歩」の取材で井上靖の『氷壁』にまつわる話を伺った。その時草稿を見せてもらった『徳澤園135年史』が完成した。牧場時代からの歩みである◆絵の道具を持った智恵子が上高地にやって来る。光太郎は徳本峠を越えて岩魚止で迎えた。二人は翌年結婚する。〈智恵子は東京に空が無いといふ/ほんとの空が見たいといふ〉4月2日は光太郎が好んだというレンギョウの花にちなんで連翹忌。

一面コラムといえば、一昨日の『日本農業新聞』さんの一面コラム「四季」でも、光太郎に触れて下さいました。   

四季 2020年03月31日

 きょうは一つの区切り、年度末である。令和元年度を振り返れば、新型コロナを筆頭に重大事が相次ぐ▼小欄が担う1面コラムは新聞にとり特別な存在である。いやが応でも目に付く場所に位置する。最重要記事を掲げる1面は顔と同じ。コラムは人に例えれば口に当たる。その日のニュースが明るい暗いで口元が上下し複雑な感情を抱えながらの筆運びに。だが、志村けんさんの突然の悲報にはどんな追悼をささげればいいのか言葉を失う▼先達の力も借り切り開いてきた道を歩む。しかし、この先は自らつくらないと前に進めない。〈僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎の『道程』冒頭の珠玉の言葉を思う。いや、昭和の歌姫・美空ひばりさんの名曲「川の流れのように」がふさわしい。〈地図さえない それもまた人生〉と胸に刻みながら▼伝説の名コラムニストで深代惇郎が浮かぶ。深い洞察力と縦横無尽の筆遣い。豊かな表現と語彙(ごい)の多さ。喜怒哀楽に深みと軽やかさが備わる。コラム書きなら必ず、その著書に目を通し味わいある作品に深く沈み込む。そして自らの筆力のなさを思い知る▼ただ、非力ならではの味わいは出ないか。小欄はタイトル同様に<四季>の彩りを感じ、朝の食卓に吹く快い“そよ風”でありたい。

両紙ともに、これまでも時折、光太郎に触れて下さっていて、ありがたく存じます。

それにしても、新たな年度となりましたが、このような形で迎える新年度、未知の領域といわざるを得ません。そういう意味では、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」でもあります。力を合わせ、新型コロナの脅威に立ち向かって行く道を作るべきかと存じます。


【折々のことば・光太郎】

かかる時代に生きる者は、心の悩を当然の事として立つ可きです。心の悩むことを忌避するのは卑怯になります。朗らかなる可きは霊魂です。霊魂は人倫を絶したものにつながつてゐます。此のみはいかなる時にも天空の清さを持つてゐます。

アンケート「懊悩と清朗」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

発表されたのは昭和2年(1927)元日発行の、智恵子の母校・日本女子大学校同窓会である桜楓会機関誌『家庭週報』ですが、執筆は前年12月と推定され、大正天皇崩御の直前、金融恐慌の気配が漂いつつあった時期です。掲載紙の「年頭言」では、同紙記者がこのアンケートの趣旨として、次のように述べています。

新しき年を重ねるに当りまして、悲しみは悲しみとして、お互に何等かの向上を希むることゝ存じます。(略)このもの騒がしい世界に面接して、自分たちは外界をどう支配して行かうか、どうしたらややもすれば引きずられ勝ちな生活を抜け切つて朗らかな心地よい生活に歩み入る事が出来るか、かういふ問題について考へますことは、どなたもが望まれることであらうと存じまして、先見の方々のお話を承り、左に掲げることに致しました。

それに対し、光太郎は上記の通り、悩むことをおそれるな、と回答したわけです。

新型コロナの脅威に対する恐怖、それはそれとして受け入れ、なおかつ朗らかなるべき魂を涵養すること、そういったことが重要なのかもしれませんね。

012来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことを苦渋の決断として決定致しました。

参加申し込みが少なく、政府の云う「大規模イベント」には当たらないという判断でしたし、今回は去る1月に亡くなられた当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼という意味合いもあり、何とかぎりぎりまで状況を見極めて開催したいと思っておりましたが、関係各位と協議の結果、中止のやむなきに至りました。間際の決定となり、申し訳ありません。

今日までにいろいろな方から、ご意見、ご要望等頂いております。有り難うございました。本当にさまざまなご意見がありました。正反対のご意見をいただいても、それぞれに「なるほど」と思わせられる点があり、また、報道や世の中の方向性も日によってめまぐるしく変わり(各種施設や公演等の再開を前面に押し出す日もあれば、情勢の悪化をトップにする日もあり……)、非常に頭を悩ませました。

しかし、どなたにもお優しかった北川先生がご存命であれば、「今年はおやめなさい」とおっしゃったように思われ、それが最終決定の要因となりました。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。

4月2日当日は、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に墓参致します。皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

ご入金頂いた参加費に関しましては、当日配付予定だった各種資料と共に、後日発送致しますので、よろしくお願い申し上げます。この点に関しましても、一律に返金させていただくことに決めております。「会の運営に使って下さい」というありがたいお申し出も複数ありましたが、「あの人は寄附をした」「あの人はしなかった」など、そういうのが後々しこりを残すことにもなりかねませんので。

寄附を受けた場合、こちらで「誰それは寄附をした」「誰それには返金した」というようなことは決して明かしませんが、寄附を受けた後に「寄附ということで返金を受けなかった人も居るんですか?」と問われたら、それに対し「ええ、いらっしゃいませんでした」と嘘はつけません。この点につきましてもご了承の程、よろしくお願いいたします。

来年以降、この騒ぎが収束し、また開催にこぎつけ、お会いできることを楽しみにしております。


【折々のことば・光太郎】

無に到るにあらず 無より出でゝ進むなり     


短句揮毫より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

上記の通り、今年の第64回連翹忌の集いは中止とさせていただきますが、それは「無に到るにあらず」です。必ずやまた「無より出でゝ進むなり」という気持でやっていこうと思っております。

001

↑このページのトップヘ