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神奈川県平塚市美術館さんで開催中の企画展です。 

生誕100年記念 写真家 濱谷浩展

期 日 : 2015 年7 月18 日(土) ~ 9月6 日(日)
会 場 : 平塚市美術館
  : 9:30 ~ 18:00( 入場は17:30 まで)

       ※9 /1(火)以降9:30 ~ 17:00( 入場は16:30 まで)
休館日 : 月曜日( ただし7 /20 は開館、7/21は休館)
 
 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円
        ※( ) 内は20 名以上の団体料金
        ※中学生以下、毎週土曜日の高校生は無料
        ※各種障がい者手帳をお持ちの方と付添1 名は無料
        ※65 歳以上で、平塚市民の方は無料、市外在住の方は団体料金
  : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
特別協力
 : 濱谷浩写真資料館

 このたび平塚市美術館では世界的に著名な写真家濱谷浩の生誕100 年を記念した展覧会を開催します。
 濱谷浩(はまやひろし:1915-1999)は東京下谷で生まれ、後年は大磯に居を構えた日本を代表する写真家です。15 歳のときに父の友人からカメラを贈られたことをきっかけに写真に情熱を傾けるようになった濱谷は、高校卒業後に銀座のオリエンタル写真工業に勤め、本格的に写真の技術や知識を身に付けると、まもなくフリーランスのカメラマンとして活動を始めました。1939(昭和14)年に雑誌の取材で新潟県の高田市を訪れ、雪国の厳しい風土とそれに立ち向かう人々の営為に感銘を受け、以降、日本の風土と人間の関係を突き詰めた写真を撮影するようになります。
 その後、高度成長期を迎えた日本においてテレビが普及し、報道の機動性、速報性、同時性などの面でその影響力が増していく中で写真表現の可能性を模索した濱谷は、エヴェレストをはじめ世界に残された自然の撮影を開始します。
 人間の生を深く洞察し、大自然の極限の様相に迫るカメラワークは国内外で高く評価され、1987(昭和62)年写真界のノーベル賞と称される「ハッセルブラッド国際写真賞」を受賞しました。
 本展では、大きく変動する昭和という時代に生き、カメラを通して「人間が生きるとは何か」ということを真摯に問いかけた濱谷の軌跡をご紹介します。

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濱谷浩(はまや ひろし)は大正4年(1915)生まれの写真家。日本の風土に生きる人々を撮り続け、特に「裏日本」を題材にした写真が有名です。また、肖像写真も多く手がけ、昭和58年(1983)には、光太郎を含む学者、芸術家100名ほどのポートレートをまとめた『學藝諸家』という写真集を出版しています。

昭和25年(1950)1月1日発行の『アサヒカメラ』第35巻第1号に、濱谷による光太郎が暮らす山小屋訪問記「孤独に生きる 高村光太郎氏を岩手県太田村に訪ねて」が掲載されました。ちなみに表紙は木村伊兵衛撮影のヴァイオリニスト・諏訪根自子です。

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グラビアとして写真が8葉、長文の訪問記も、光太郎書簡や贈られた短歌などを引きつつ、興味深い内容です。写真はどれも、厳しい山居生活の側面を写し取り、すばらしいものです。上記の手の肖像は、肥後守の小刀で、鰹節を削る光太郎の手です。想像ですが、何か彫っているところを撮りたい、という濱谷のリクエストに、戦時の反省から彫刻封印の厳罰を自らに科していた光太郎が、彫刻刀で木を彫るところではなく、小刀で鰹節を削る様子を撮らせたのではないかと思います。

さて、ここに収められた写真が、平塚市美術館さんの「生誕100年記念 写真家 濱谷浩展」にも並んでいるとのこと。情報を得るのが遅れ、紹介が遅くなりました。濱谷は晩年は平塚に住んでいたとのことで、平塚市美術館さんでの開催です。


ちなみに、疎開などでやはり濱谷と縁の深い新潟・長岡市の新潟県立近代美術館さんでも、「生誕100年 写真家・濱谷浩」展を開催中です。ただ、こちらは光太郎の肖像写真が展示されているかどうか不明です。情報をお持ちの方、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月17日

昭和40年(1965)の今日、詩人の高見順が歿しました。

高見は明治40年(1907)の生まれ。自分よりはるかに若い詩人たちをかわいがった光太郎に気に入られ、昭和25年(1950)に刊行された高見の詩集『樹木派』の題字を揮毫したり、最晩年の昭和30年(1955)には雑誌『文芸』のため、高見との対談「わが生涯」を行ったりしています。

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詩集『樹木派』の題字は、現在も公益財団法人高見順文学振興会さんの会報に使われているそうです。

昨日は鎌倉に行って参りました。
 
あじさい寺として有名な明月院さんの近くに、「ギャラリー笛」という不思議なお店があります。カフェ兼ギャラリー、店内でコンサートも行うというところです。
 
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こちらは光太郎の縁戚(妹・静子(しず)のお孫さん)にあたる山端様のお店です。
 
「笛」という店名の通り、店内にはオカリナや各種の笛をはじめ、さまざまな民族楽器なども並んでいます。
 
こちらで現在、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」という展示がなされています。
 
 
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お近くに光太郎と親交の深かった詩人の故・尾崎喜八氏、故・伊藤海彦氏が住まわれていて、山端家、尾崎家、伊藤家に伝わる光太郎関連のお宝が展示されています。
 
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彫刻、古写真、光太郎書簡、色紙、関連書籍などなどです。
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彫刻は尾崎喜八の結婚祝いに送られたミケランジェロ模刻の「聖母子像」(大正13年=1924頃)。原型は既に失われ、鋳造もこれ1点しか為されていない、非常に貴重なものです。
 
昨年、千葉市美術館他3館で巡回された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にもお貸しいただきましたが、その時以来、約1年ぶりに拝見しました。
 
古写真は、すでにいろいろな書籍に掲載されているものの他に、少年時代の光太郎や、戦時中の山端家の結婚式での集合写真など、当方も初めて見るものがあり、驚きました。
 
書簡も、『高村光太郎全集』、さらにその補遺として当方が継続中の「光太郎遺珠」未収録のものが3通もあり、早速コピーを戴いて参りました。来年4月、高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
 
さらに驚いたことがもう一つ。
 
昨日、当方はお伺いするとも何とも言わず、突然お邪魔したのですが、たまたま、本当に偶然にも、故・尾崎喜八氏のお嬢さん・榮子様と、故・伊藤海彦氏の奥様もいらしていて、いろいろ貴重なお話が聴けました。
 
榮子様は上記チラシの画像、一番左に写っている女の子です。その隣が光太郎、そして喜八と故・實子夫人。實子夫人は光太郎の親友・水野葉舟の娘で、光太郎が取り持つ縁で結ばれました。したがって、榮子様は水野葉舟のお孫さんにもあたられるわけです。
 
そのあたり、以下の書籍に詳述されています。amazon等で購入可能です。
 
『夏の最後の薔薇 詩人尾崎喜八の妻 實子の生涯』004
2004/2/4 有限会社レイライン刊
重本恵津子著
 
女性の年齢を話題にするのも失礼ですが、榮子様は大正14年(1925)のお生まれ。故・伊藤海彦氏、北川太一先生も同じ年のお生まれです。昨日は、駒込林町のアトリエでの光太郎智恵子に関する思い出をお話ししていただきました。アトリエの2階が智恵子の画室で、智恵子にだっこしてもらい、その窓から駒込林町の風景を見たことなどなど。
 
生前の光太郎をご存知の方は、まだまだ方々にいらっしゃいますが(それでもだいぶ少なくなりましたが)、智恵子の生前を語れる方は、当方、他に存じません。本当に貴重な体験をさせていただきました。
 
さて、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」。11月4日(火)までの会期です。月水木はお休み、さらに10月26日(日)と11月1日(土)は臨時休業だそうです。時間は10:00~16:00だそうですが、昨日、当方は16:00過ぎても居座ってしまいました(笑)。
 
その他にも、音楽関連のイベント、講座等も行われています。
 
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ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月12日005
 
昭和27年(1952)の今日、「十和田湖畔の裸婦群像」(通称「乙女の像」)制作のため、7年半ぶりに帰京しました。
 
右は上野駅での一コマ。ホームスパンの猟人服に巨大な長靴(ちなみに光太郎の足のサイズは30㌢ほどあったといわれています)。
 
戦後のまだ傷跡の残る時代でしたが、朝鮮戦争による特需景気で、東京はかなり復興が進んでいました。その東京で、この光太郎の姿は実に異様だったそうです。
 
光太郎、このあとすぐに草野心平らを引き連れて生ビールを堪能、この日は駒込林町の実家に泊まりました。
 
戦前からいたばあやさんがまだ健在で感激したり、翌朝、空襲で焼失したかつてのアトリエ跡を見に行ったりしたと、この夏亡くなった甥の規氏の回想にあります。
 
アトリエ跡を見に行った13日には、中野に今も残る水彩画家、故・中西利雄のアトリエに入り、裸婦像の制作にかかりました。

昨日は、横浜伊勢佐木町に行き、先週ご紹介した日枝神社例大祭で、光雲作の彫刻を配した神輿を観て参りました。
 
午後1時から神輿の巡行というので、それに併せて自宅を出、「ヨコハマトリエンナーレ2014」会場の横浜美術館に車を駐めました。高速を下りてすぐですし、意外といつもガラガラなので、都合がよいのです。天気もよかったので、伊勢佐木町まで歩きました。ただ、汗ばむ陽気でした。
 
イセザキモールの有隣堂さんの前に神輿があるというので、そちらへ。時計を見ると12時過ぎ。ちょうど和太鼓の演奏で盛り上がっていました。
 
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少し離れたところにめあての神輿。立派な神輿でした。
 
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てっぺんには鳳凰。側面には唐獅子のレリーフ。唐獅子は丸彫りのものも四隅に配されています。
 
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さらに唐獅子と唐獅子の間には、十二支の彫刻。非常に精緻です。
 
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ただ、よく見る光雲作品と違って、彩色が施されており、木肌の感じなどがよく判りませんでした。
 
近くにはやはり光雲作の獅子頭も。こちらは木の質感がまさに光雲彫刻です。
 
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午後1時の巡行にはまだ間があったので、近くで昼食を取り、あらためて出直しました。
 
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若衆が威勢よくかつぐのもいいのですが、こういう白装束の面々がしずしずとかついでいくのもいい感じですね。
 
ちなみに『神奈川新聞』さんの記事がこちら。 

白装束で厳かに 横浜・イセザキモールで火伏神輿行列

 災難よけで知られる神輿(みこし)が練り歩く「火(ひ)伏(ぶせ)神輿行列」が13日、横浜市中区伊勢佐木町1、2丁目で行われた。日枝神社例大祭のメーン行事の一つ。今年で10回目。
 町内の有志による担ぎ手30人が白装束に身を包み、雅楽の演奏を先導に「エイサー、エイサー」と掛け声を掛けながら厳かに1、2丁目を往復した。
 同神輿は関東大震災や戦火を免れたことから、火を逃れた霊験をたたえ火伏の神輿と呼ばれるようになったという。
 
 
ちなみに光雲が暮らした文京区千駄木にも、光雲作の子供神輿が残っているはずなのですが、詳細が不明です。情報をお持ちの方はご教示下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月14日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の診療所医師・太田公俊方で村人15,6人と酒を飲みつつ座談を行いました。
 
十和田湖畔の裸婦像制作のため上京する光太郎の送別会的に、村長・高橋雅郎の肝煎りで行われました。筆録が残っており、平成18年(2006)刊行の厚冊『光太郎遺珠』に掲載してあります。

昨日に引き続き、光太郎の父・高村光雲に関する新着情報です。

シンワアートオークション 近代美術

開催日 2014年 9月27日(土)
時間 17:00
会場 シンワアートミュージアム
下見会 シンワアートミュージアム
 2014年 9月24日(水)~9月26日(金) 10:00~18:00
 2014年 9月27日(土) 10:00~12:00 
カタログ 4,000円
出品点数 176点
落札予想価格下限合計 3億6,175万円
 
主な出品作品
高村光雲 「大黒天像」 H14.9cm 木彫 大正13年作 落札予想価格:\5,000,000.~\8,000,000
 
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東山魁夷「湖光る」/荻須高徳「Marchand de Charbon à Vanve, Paris」/ピエール=オーギュスト・ルノワール「Buste de Femme」
 
以前にも光雲作品が出たのでご紹介したシンワアートオークションさんでの、新たな入札会です。
 
 
もう1件。
2014/9/12(金)~14(日)
 
年間で最も大切な祭事であり、かつ盛大に執り行われる日枝神社の例祭のことです。
また、お三の宮秋祭りでも知られており、現在は九月中旬、敬老の日前の金土日に行われ、『神奈川の祭り五〇選』にも選ばれています。

横浜随一の大神輿による氏子内御巡行は毎年行われ、本祭り(奇数年毎)には大小40基にも及ぶ町内神輿連合渡御がイセザキ町などを練り歩き、市内屈指の規模を誇ります。
境内では神賑行事として、氏子有志による奉納演芸会や、児童園児による書画の作品展などが催され、縁日や献灯で賑わいます。
 
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横浜は南区山王町のお三の宮日枝神社さんのお祭りです。年中行事ですので、このブログでも一昨年昨年と紹介いたしました。光雲作の「火伏神輿」も出ます。13日(土)の13時から、伊勢佐木町を練り歩きます。3日の間で練り歩かないときは有隣堂さんの前に、やはり光雲作の獅子頭とともに展示されるとのことです。
 
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今年は見に行ってみようかな、と思っております。000
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月8日
 
昭和17年(1942)の今日、光太郎が背の文字を揮毫した佐藤隆房著『宮澤賢治』が冨山房から刊行されました。
 
佐藤隆房医師は、総合花巻病院を開いた宮澤賢治の主治医。その関係で、賢治を広く世に紹介した光太郎と知り合いました。昭和20年(1945)に空襲で東京のアトリエを失った光太郎を花巻に招くのに一役かってもいます。
 
花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したり、終戦直後の短期間、光太郎を自宅に住まわせたりもしました。その後も足かけ8年岩手で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後も花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。
 
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今週初めに行って参りました。 

ヨコハマトリエンナーレ2014

展覧会タイトル 「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」
期 日 : 2014.8.1[金]-11.3[月・祝] 開場日数:89日間
会 場 : 横浜美術館新港ピア(新港ふ頭展示施設)
時 間 : 10:00-18:00 ※入場は閉場の30分前まで
料 金 : 一般・高校生500円、中学生300円、小学生以下無料。
休 日 : 月曜、火曜

主催
 横浜市 (公財)横浜市芸術文化振興財団  NHK 朝日新聞社 横浜トリエンナーレ組織委員会
支援
 文化庁(国際芸術フェスティバル支援事業) 文化庁(国際芸術フェスティバル支援事業)
 特別協力独立行政法人国際交流基金
後援
 外務省、神奈川県、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)、スペイン大使館、
 駐日韓国大使館韓国文化院、中華人民共和国駐日本国大使館、Goethe-Institut Tokyo、
 東京ドイツ文化センター、ベルギー王国大使館
認定 公益社団法人企業メセナ協議会
 

 
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横浜市で、3年に1度開かれる、基本、現代アートの展覧会です。今年の開場は、みなとみらい地区の横浜美術館と、埠頭展示施設の新港ピアです。

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基本、現代アートですのでこういう感じです。
 
メイン開場二つのうち、横浜美術館の一角に、「大谷芳久コレクション」という展示がなされています。
 
以下、公式サイトから。
 
現代美術画廊「かんらん舎」のオーナー・大谷芳久が、1995年にドイツで見たジョージ・グロスの個展を機に、太平洋戦争期の日本の芸術家の表現活動を調べるべく収集した書籍コレクションの一部を展示。戦中に出版された詩文の多くは戦争や軍への讃歌であり、ベストセラーとなったが、戦後はその多くが消えることとなった。
 
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光太郎の詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『記録』(同19年=1944)を含む、戦時下の文芸書、17点が展示されています。
 
『大いなる日に』『記録』以外は以下の通り。
 
三好達治 『捷報いたる』(同17年=1942) 『寒析』(同18年=1943)
草野心平 『大白道』 (同19年=1944)
伊東静雄  『春のいそぎ』(同18年=1943)
北原白秋  『大東亜戦争小国民詩集』(同18年=1943)
佐藤春夫 『東天紅』(同13年=1938) 『日本頌歌』(同17年=1942)  『大東亜戦争』(同18年=1943)
野口米次郎  『伝統について』(同18年=1943) 『宣戦布告』(同18年=1943)
中勘助  『詩集百城を落す』(同14年=1939)
西条八十 『銃後』(同18年=1943)
日本文学報国会編 『辻詩集』(同18年=1943) 『辻小説集』(同)
大政翼賛会文化部編 『軍神につづけ』(同18年=1943)
 
最後の『軍神につづけ』は、多数の詩人によるアンソロジーで、光太郎の詩「みなもとに帰るもの」も載っています。

さらに、光太郎とも交流のあった画家・松本竣介が、疎開先の妻と四歳の息子にあてた、終戦前後の書簡三通も展示されています。
 
で、この展示がいったい何を目指しているのか、ということになりますと、トリエンナーレ全体のタイトル、「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」につながるわけです。
 
以下、やはり公式サイトから。
 
ヨコハマトリエンナーレ2014がめざすのは
芸術的冒険の可能性を信じるすべての人々
そして、大胆な世界認識を持ちたいと望む
 すべての人々と共に
「芸術」という名の舟に乗り込み
「忘却」という名の大海へと
冒険の旅に出ることである

「華氏451の芸術」というタイトルは、言うまでもなく、レイ・ブラッドベリ作のSF小説『華氏451度』に由来している。いわゆる焚書がテーマの小説で、本を読むことも持つことも禁じられた近未来社会が舞台となっている。
1953年作とは思えないくらい、現代社会を予見していて見事だが、それ以上に興味深いのは、これが「忘却」の重みについてあらためて考えさせられる小説だという点である。
 物語の後半、「本になる人々」の集団というものが登場する。一人ひとりが一冊ずつ本を選び、それをまるごと記憶しようとする。つまり焚書へのレジスタンス(抵抗)として、本という物質を記憶という非物質に置き換え、本の精神のみを隠し持とうと試みる。
 「本になる人々」は本を禁止する社会からの亡命者達であり、また上述のように本を非物質な記憶に置き換えようとしているため、その存在と行為の両側面において、現実社会の表舞台には決して現れることのない、不在の人々となる(=生きている痕跡をこの世から消滅させた「忘却の人々」たらざるをえなくなる)。ところがこの「忘却の人々」にこそ、膨大な本の記憶がたまり込んでいるというのが、ブラッドベリの小説がもたらす、「忘却」に関する重い教訓なのである。

「忘却」とは、記憶されざる記憶がたまりこんだ、ブラックホールとしての記憶のことである。
 
ここに展示された書籍は、それぞれの作家の「汚点」「黒歴史」ともいえるものです。光太郎自身も戦後になってこれらの戦争協力の作品を「変な方角の詩」と言っています。作家によっては、戦後に刊行された全集には収録せず、無かったことにしてしまっている場合もあります。
 
いわば、戦後の「焚書」によって忘れ去られつつあるものです。
 
しかし、その「忘却」には危険が伴います。光太郎のしたような真摯な反省までも忘却の彼方へ押しやられると、「歴史は繰り返す」に成りかねません。
 
これはそういう点への警鐘の意味での展示です。キャプションにも、その辺りがよく表現されていました。書籍のキャプションには「美しい言葉の羅列がもつ魔力」、松本の書簡には「無差別に人を殺傷する近代戦争の無慈悲さへの衝撃」「息子が生きる未来を案じる」などなど(うろおぼえですが)。
 
現実に、ことさらに光太郎の戦時の作品を賛美し、戦前戦時を髣髴とさせるおぞましいヘイトスピーチ的な言説がまかり通っています。そういう幼稚なネトウヨは、この展示を見て、「素晴らしい! これぞ大和魂だ!」とかいうトンチンカンな感想を持つのかも知れませんね(笑)。
 
今年の連翹忌のご案内に載せさせていただいた、北川太一先生のご挨拶の中の「歴史がもういちど反転しそうな今こそ、その命の軌跡をかえりみ、繰り返し語り合い、語りつぐひと時を、思いを同じくするみなさんと一緒に過ごしたいと存じます。」という一節が、ほんとうに心に染みる今日この頃です。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月30日
 
昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、村の青年が蓄音機とレコードを持ってきてくれました。
 
当日の日記の一節です。
 
夜になつてから佐藤弘さん、大三さんが蓄音機の箱とレコードとを持参。五六枚きかしてくれる。バツハのコンチエルトあり。すばらしさに魂を奪はれる思す。
 
当方、今日は四ツ谷の紀尾井ホールにて、The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜を聞いて参ります。「すばらしさに魂を奪はれる思」をしたいものです。

昨日、横浜に行って参りました。
 
午前中、港の見える丘公園にある神奈川近代文学館で調べ物をし、午後はそこからほど近い南区の増徳院というお寺に行きました。元々は元町にあったお寺で、有名な外国人墓地はこのお寺の敷地だったそうですが、関東大震災の関係で、数㌔離れた現在地に移転したとのことでした。
 
こちらの境内に光雲作という聖観音菩薩像が鎮座ましましているというので、観に行った次第です。
 
港の見える丘公園から、外個人墓地やフェリス女学院などのある山手地区の高台の道を、カーナビに導かれて走ること数分、着きました。門前に駐車スペースが見あたらなく、「困ったな」と思ったところ、山門をくぐった境内が非常に広く、そちらに駐められました。
 
目指す観音像は、本堂の手前に独立した観音堂という堂宇があり、そちらにいらっしゃいました。
 
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像高約七尺。かたわらに立つ案内板に依れば、奈良薬師寺の聖観音像を模刻したものだそうです。非常に優美なお姿の鋳造仏です。
 
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大正12年(1923)10月の作とあり、まさに関東大震災の直後です。説明板には震災の文字はありませんが、このお寺の縁起にも震災が関わっており、無関係とは思えません。ただし、この地にこの像が建てられたのは昭和42年(1967)だそうです。しかし、この案内板を読んでも今ひとつなぜここにこれが、というのがよく判りませんでした。
 
失礼して像の裏手に回ってみると、台座にいろいろと銘が入っていました。
 
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「大正十三年四月」の文字。鋳造の成った年月でしょう。
 
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「顧問 高村光雲」。「顧問」という語から、工房作といったニュアンスが感じられます。
 
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さらに「池田鋳造所」の文字。
 
ただ、案内板を読んでも詳しいことが判りません。
 
光雲の仏像はあちこちで見られます。同じ神奈川の鎌倉は材木座の長勝寺さんの日蓮像、東京浅草観音の沙竭羅龍王像信濃善光寺の仁王門などなど。
 
ただし、なぜそこにこれが、という由来が今ひとつはっきりしないものが多く、そのあたりの調査も今後の課題の一つかな、と思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月26日

昭和16年(1941)の今日、『都新聞』に散文「神経の浪費 中央協力会議の印象(上)」が掲載されました。
 
「中央協力会議」は大政翼賛会の肝煎りで始まったもので、各地方代表、各界代表の代議員が参加、挙国一致体制の確立に向け、さまざまな提案、議論がなされました。
 
前年12月に臨時会議が開催され、さらにこの年6月16日~20日の日程で第1回会議が開催されました。光太郎はこの第1回会議で「芸術による国威宣揚」について提案しています。さらに第2回会議はちょうど太平洋戦争開戦の日に重なり、途中で切り上げられました。この後も何度か開催されましたが、光太郎は第2回限りで委員を辞しています。
 
こういう会議の印象記であるにもかかわらず、光太郎の論調は否定的ですし、サブタイトルが「神経の浪費」、さらに翌日掲載の(下)に至っては「無駄な時間」というサブタイトルです。このサブタイトルは『都新聞』がつけたものかもしれませんが、大政翼賛会にケンカを売っているようにしか見えません。太平洋戦争開戦前には、まだこんなことが許されていたのですね。ちなみに『都新聞』は現在の『東京新聞』です。
 
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この文章、永らく初出掲載誌が不明で、『高村光太郎全集』には随筆集『某月某日』からの採録でしたが、数年前に『都新聞』に掲載を確認しました。

鎌倉から映画の上映情報です。

「智恵子抄」を上映

  映画「智恵子抄」(中村登監督・1967年)の上映会が6月20日(金)、鎌倉生涯学習センターホールで行われる。「鎌倉で映画と共に歩む会」が主催。午前9時15分開場、9時30分開映。入場料は前売900円、当日1千円。
 同作品は松竹大船撮影所でメガホンをとっていた中村監督の手によるもの。詩人で彫刻家の高村光太郎が妻・智恵子との30年に及ぶ愛を綴った詩集「智恵子抄」と佐藤春夫の「小説 智恵子抄」が原作となっている。第40回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。チケットは たらば書房などで販売中。予約や問合わせは【電話】0467・23・3237同会・木口さんへ。
(『タウンニュース』)
 
昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」です。主演は岩下志麻さん、故・丹波哲郎さん。
 
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以下、昭和63年(1988)刊行の雑誌『彷書月刊』第4巻第10号「特集 高村智恵子」に載った岩下さんの回想です。
 
 私が、高村光太郎さんの『智恵子抄』の智恵子を演じさせて戴いたのは昭和四二年ですから、もう随分昔になります。
 中村登監督のもとで、光太郎役は丹波哲郎さんでした。
 その時、はじめて智恵子の切り絵を見せて戴きましたが、優れた色彩感覚、繊細で巧妙な技術、その切り絵から智恵子の純粋な魂の叫びが聞こえてくるような感動で、長い間見とれていたのを今も鮮明に覚えています。又、精神に異常をきたしてしまった智恵子をうたった光太郎の詩の何篇かに心から涙しました。
 『智恵子抄』は、夫婦の愛のあり方、愛についてを改めて考えさせられた作品でもあります。今も、私は“智恵子”と聞くと、病弱で非社交的でやさしいが勝ち気で、単純で真摯で、愛と信頼に全身を投げだしているような智恵子が目の前にいる様で、なつかしさでいっぱいになります。
 それ程、『智恵子抄』は、私にとって心に残っている映画の一つです。
 
販売用のDVD等になっていない作品ですが、このようにポツリポツリとではありますが、上映され続け、ありがたいかぎりです。販売用DVDにしていただけるとありがたいのですが、かえってそうなっていないからこうして上映され続けているのかもしれません。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月11日
 
昭和16年(1941)の今日、詩「荒涼たる帰宅」を書きました。
 

  荒涼たる帰宅
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あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
 
この年8月に刊行された龍星閣版オリジナル『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されています。
 
右上はありし日の智恵子と光太郎。昭和3年(1928)、箱根での一コマです。

昨日は二十四節季の一つ、「小寒」でした。冬の寒さが一番厳しい時期となる節目ですが、生涯、冬を愛した光太郎にとっては、本領発揮の時候です。
 
さて、その小寒の日の『神奈川新聞』さんのコラムです。朝日新聞における「天声人語」のような位置づけでしょうか。

照明灯 

 冬型の気圧配置が平年よりも強まり、気象庁の予想では1月から3月は東日本の気温は平年より低くなるそうだ。太平洋側ではからりと晴れの日が多くなる見込みだという
 
 ▼「秩父、箱根、それよりもでかい富士の山を張り飛ばして来た冬/そして、関八州の野や山にひゆうひゆうと笛をならして騒ぎ廻る冬」。高村光太郎の詩の一節。冷厳なこの季節を愛した高村は冬の詩人とも呼ばれる。力強く人を鼓舞する詩句が好きで、青春時代、よく親しんだ
 
 ▼冬の詩人が「ひとちぢみにちぢみあがらして」と難じる中年者となった今だが、澄んだ外気に身をさらせば、正月の酒席でほてった酔顔もいやおうなく寒風にはたかれ、がつんといさめられたような気分となる。何やら凜(りん)として、心地がいい
 
 ▼昨年、世界の平均気温は平年を0・2度上回り1891年の統計開始以来2番目の高温。史上最高だった1998年はエルニーニョ現象の影響が顕著だったが昨年は特殊事情がなく、「地球温暖化の傾向が明瞭に示された」と専門家は言う
 
 ▼「サッちゃん」の作詞で知られる阪田寛夫の詩。「こんなに さむい/おてんき つくって/かみさまって/やなひとね」。こわばる頬も緩む。温暖化の今、冬らしい冬がいい。小寒。寒の入りだ。

 
引用されている光太郎の詩は、大正2年(1913)に書かれた「冬の詩」。「冬だ、冬だ、何処もかも冬だ」で始まり、150行を超える長大な作品です。数年前に黒木メイサさん、松田龍平さんがご出演されたユニクロさんのCMで使われていたので、耳に残っている方も多いのではないでしょうか。


 
からっ風にさらされる関東平野の冬もきついのですが、北国はもっとすごいことになっているでしょう。皆様、どうぞご自愛のほどお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月6日
昭和2年(1927)の今日、詩集『智恵子抄』に収録された「あなたはだんだんきれいになる」を執筆しました。
 
  あなたはだんだんきれいになる005
 
をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。  
 
智恵子歿後の昭和15年(1940)に光太郎が書いた散文「智恵子の半生」で、この詩について次のように語られています。
 
私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、
 
 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属
 
と私が書いたのも其の頃である。
 
木々は葉を落とし、澄み切った空気に包まれる「冬」。木々と同じように、余計な装飾を落とし、凛とした雰囲気を身にまとう智恵子に、「冬」のイメージを重ねていたのかもしれません。

昨日に続き鎌倉ネタです。
 
鎌倉は鶴岡八幡宮にほど近いところに川喜多映画記念館さんがあります。こちらで現在、「~永遠の伝説~ 映画女優 原節子」という企画展示および映画上映を行っています。
 
同館サイトから。
 
『ためらふ勿れ若人よ』でデビューとなった15歳の新人女優は、役名の一部から「原節子」と名付けられました。類まれなる美貌でたちまち注目を浴び、16歳で日独合作映画『新しき土』のヒロインを演じ、映画は大ヒットを記録します。戦後は『わが青春に悔なし』、『東京物語』などに出演、日本映画界を代表するスター女優として、多くの名作を残します。しかし、昭和37年『忠臣蔵』への出演を最後に、表舞台には一切出ることなく、その存在は永遠の伝説として人々の心に深く刻み込まれました。
 本企画展は、写真家・秋山庄太郎、早田雄二によるポートレートや映画資料などの展示、出演作品や『新しき土』関連映像の上映を中心に、鎌倉にゆかりの深い大女優・原節子の軌跡を辿ります。今も多くの人々を魅了し続けるその美しさを、名作の数々とともにぜひご覧ください。
 
原節子さんといえば、伝説の映画女優ですね。同じく伝説的な映画監督・小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男らの作品に出演しています。引退後は一切メディアに出ず、鎌倉で暮らされているそうです。
 
その原節子さんが智恵子役、光太郎役に山村聰さんを配した熊谷久虎監督作品「智恵子抄」が、光太郎の歿した翌年の昭和32年(1957)に封切られました。
 
川喜多映画記念館での「~永遠の伝説~ 映画女優 原節子」の一環として、「智恵子抄」も上映されます。
 
期間は来年1月7日(火)~9日(木)。7日は午前10:30からと、午後2時からの2回、8日と9日は午後2時からの1回のみの上映です。
 
昨日ご紹介した神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「ロダンからはじまる 彫刻の近代」と併せて是非ご覧下さい。
 
ちなみに原節子さんの映画「智恵子抄」、20年ほど前にVHSテープで市販されました。現在は版を絶っており、時折中古市場でかなりプレミアの付いた価格で売りに出ています。
 
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その他、当方、こつこつと集めたポスター、パンフレット、チラシ、シナリオ、スチール写真、記事の載った当時の雑誌などを持っています。その一部を、一昨年、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」の際にお貸しし、展示されました。年配のお客様には「あらー、原節子よー」ということで、好評だったそうです。
 
こうしたものに限らず、当方手持ちのものは、各種企画展、イベントなどにお貸しすることは可能ですので、必要とあらばお声がけ下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月24日

昭和16年(1941)の今日、大政翼賛会会議室で催された文学者愛国大会に出席、日本文学者会設立委員に任じられました。
 
翌年設立された日本文学報国会につながって行く流れです。 

昨日は鎌倉に行って参りました。
 
第一の目的は、神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「ロダンからはじまる 彫刻の近代」を観るためでした。
 
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こじんまりとした企画展示でしたが、内容は濃いものでした。
 
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まず会場にはいるとロダン作「花子のマスク」。明治41年(1908)の作です。ただし、「鋳造1974年」と特記してありました。
 
以前にも書きましたが、花子はロダンのモデルを務めた日本人女優で、光太郎は昭和2年(1927)に岐阜まで会いに行っています。
 
それからロダンの素描が1点、展示されていました。
 
他はロダンに影響を受けた後進の彫刻家達の作品。海外ではブールデル、ジャコメッティなど、日本では中原悌二郎、戸張孤雁、保田龍門など。
 
そして光太郎。大正6年(1917)の「裸婦坐像」と、同15年(1926)の「大倉喜八郎の首」が並んでいました。
 
それから特集展示ということで、チェコの彫刻家ズビネック・セカールの作品が約20点。庭にも本郷新や柳原義達など、やはりロダンや光太郎の影響を受けた彫刻科の作品がありました。
 
正直、荻原守衛や舟越保武、佐藤忠良なども並んでいるともっとよかったかな、と思いましたが、ぶらっと立ち寄るにはちょうどいい規模かもしれません。
 
会期は来年3月23日までです。
 
こちらがあまり時間がかからなかったので、古都・鎌倉を歩きました。以前から行ってみたいと思いつつ、未踏の場所があったからです。
 
材木座にある長勝寺さん。日蓮宗の古刹で、元々日蓮が草庵を結んだ地だそうです。
 
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こちらの境内に立つ日蓮上人の銅像が、光雲の作です。
 
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上の画像、対象物がなくて大きさがわかりにくいと思いますが、高さ約8メートルだそうで、巨大な像です。日蓮と言えば辻説法。その姿をとらえています。
 
この像、もともとここに建てられたものではなく、東京の洗足池畔にあったものを移したとのことですが、詳しい経緯などは書かれていませんでした。
 
日蓮といえば、光太郎も東京美術学校の卒業制作(明治00635年=1902)で日蓮を作っています。題して「獅子吼」。こちらは経巻を投げ捨て、憤然として立つ姿、とのことですが、腕まくりをして、今にも殴りかかってきそうなポーズです。腕を組んでいる、と勘違いしている方が多いのですが、右腕は垂らしています。
 
やはり光太郎の日蓮の方が、近代的ですね。おそらく光雲の日蓮は上野の西郷隆盛像や皇居前広場の楠木正成像同様、原型は木型でしょう。衣の波打ち方など、様式にはまっていて、リアルさには欠けています。迫力はあるのですが……。
 
さて、今日は自家用車でなく、公共交通機関で行きました。鎌倉駅に行くのも一つの目的でしたので。
 
今年6月に、横浜で、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」というコンサートをされたフルート奏者の吉川久子さん。

今年7月から、JR鎌倉駅の発車メロディーとして、吉川さんの演奏による「鎌倉」(♪しーちりがーはーまーのー、いーそづーたーいー)が流れているとのことで、聴いてみたかったのです。いい感じでした。通常の発車メロディーは電子音によるもので、やはり機械的な感じが否めませんが、JR鎌倉駅のものは吉川さんのフルート演奏を録音して使っているため、温かみがあります。古都の雰囲気にぴったりですね。
 
鎌倉駅をご利用の際には、ぜひ耳をお傾け下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月23日

昭和63年(1988)の今日、東京地方裁判所民事法廷において、長く争われていた『智恵子抄』著作権に関する裁判の判決が言い渡され、著者側の勝利となりました。
 
その後の控訴審も同様の判決が出、著作権に関する代表的な判例ということで、法曹界では有名な事象です。

展覧会情報です。  

ロダンからはじまる 彫刻の近代

2013年12月14日~2014年3月23日
神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 鎌倉市雪ノ下2-8-1
近代彫刻の父と呼ばれるフランスの彫刻家ロダンとその弟子ブールデル、彼らの影響を受けた高村光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎らのほか、海外の20世紀彫刻からはアルプやジャコメッティなど、当館の所蔵作品から選りすぐりの彫刻作品と彫刻家による素描や版画、約30点を紹介します。併せて、チェコスロバキア出身の彫刻家ズビネック・セカール(1923-1998)の作品約20点による特集展示を行います。
 
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先日、同館館長の水沢勉氏にお聞きしたのですが、光太郎作品は、同館で所蔵している「裸婦坐像」が展示されるとのことです。
 
12/22追記「大倉喜八郎の首」も展示されていました。
 
チラシ右上の画像はロダンの「花子の首」ですね。光太郎はロダンの評伝執筆(昭和2年=1927)に際し、モデルになった日本人女優・花子こと太田ひさに会いに岐阜まで行っています。

他にも光太郎と交流のあった彫刻家の作品が並び、彫刻史の中で光太郎を捉えるには恰好の機会でしょう。冬の鎌倉も乙なものと思います。ぜひ足をお運び下さい。
 
展覧会がらみでもう一件。現在、愛知碧南の藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」についての報道がありました。 

高村光太郎展、入場1万人に 愛知・碧南、15日まで

2013年12月5日03時00分 朝日新聞
 碧南市藤井達吉現代美術館で開催中の「彫刻家 高村光太郎展」(同美術館主催、朝日新聞社など共催)が4日、入場者1万人を達成した。
 1万人目は、初めて同館を訪れた半田市上池町の主婦広瀬和子さん(66)。彫刻家としての光太郎に興味があり、友人と一緒に訪れたという。
 広瀬さんは「力強いブロンズの『手』や、可愛らしい『蝉(せみ)』『柘榴(ざくろ)』などの木彫に感動しました。彫刻家としての才能も感じた」と話し、木本文平館長から認定書や同展の図録、藤井達吉の陶板などが贈られた。
 同展は、光太郎の生誕130年を記念して開催。妻智恵子の切り紙絵なども展示されている。
 15日まで。一般700円、高大生500円、小中学生300円。問い合わせは同美術館(0566・48・6602)へ。
 
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先日も書きましたが、3館巡回のうち、既に終了している千葉市美術館ではのべ2万人近く、岡山井原の田中美術館でも同じく1万人以上の方がご来場下さったそうです。ありがたいことです。
 
こちらは来週末までとなっています。あと10日ほどでどれだけ入場者数が伸びるでしょうか。本当に一人でも多くの方にご覧いただきたいと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月6日

昭和30年(1955)の今日、『国立博物館ニュース』掲載のため、美術史家の奥平英雄と対談を行いました。
 
原題は「高村光太郎氏にきく/芸術について私はこう思う/自然に残る伝統芸術/詩精神と彫刻の問題など」。「芸術について」の題で『高村光太郎全集』第11巻に収録されています。

昨日は横浜みなとみらいホールにて、フルート奏者・吉川久子さんのコンサート、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」を聴いて参りました。
 
とてもいい演奏会でした。
 
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もちろん吉川さんの演奏がメインで、曲間に吉川さんご自身が『智恵子抄』収録詩の朗読をなさったり、光太郎智恵子についての解説をなさったりという構成でした。
 
曲目は以下の通り。
 
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直接、智恵子に関わる曲はありませんでしたが、既存の曲の組み合わせでもたしかに『智恵子抄』の世界がうまく表現されていたように感じました。
 
吉川さんのフルートはもちろんすばらしく、伴奏のお二人(キーボード・海老原真二さん、パーカッション・三浦肇さん)の演奏も非常に工夫されていました。特にパーカッションは、いろいろな楽器……というより道具? を使って、効果音のような音を奏でていたのが面白く感じました。時に鳥のさえずり、時に虫の声、そうかと思えば川のせせらぎ、九十九里の波の音、などなど。
 
さらに曲間の吉川さんのMC。通り一遍の解説でなく、よく調べているな、と感心いたしました。数年前に発見された光太郎の短歌「北国の/女人はまれに/うつくしき/うたをきかせぬ/ものの蔭より」を引用されて、智恵子が時折、造り酒屋だった実家の杜氏たちが歌っていた酒造りの歌などを口ずさんでいたことに結びつけるなど。この短歌、一般にはほとんど知られていないはずですので。また、太陽が赤いという固定観念に異を唱える光太郎の評論「緑色の太陽」の話、智恵子の恩師・服部マスの話など、ずいぶんお調べになったのがわかりました。実際、二本松にも行かれたというお話でした。
 
それにしても、平日の昼間にもかかわらず、440席ほぼ満員でした。吉川さん、「こころに残る美しい日本のうた」と冠したコンサートはこれまでも定期的に続けてこられたようで、コアなファンがいらっしゃるようでした。「智恵子抄」だから、というお客さんがどの程度だったのか、興味のあるところですが。
 
いつも同じことを書いていますが、こういう形でも光太郎・智恵子の世界を広めていただけるのは、本当にありがたいことです。
 
当方も明日は二本松に参り、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座’13」にてしゃべって参ります。このところ、月に1~2件、この手の仕事が入っています(もっと増えるといいのですが……)。与えられた場で光太郎・智恵子の世界を無題1広めて行きたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月15日

昭和27年(1952)の今日、裸婦像制作のための現地視察で、十和田湖に向けて花巻郊外太田村の山小屋を出発しました。
 
画像は一昔前のテレホンカードです。
 
裸婦像に関しては、また折を見て詳述します。
 

横浜でのコンサート情報です。以下、『産経新聞』さんのサイトから。 

フルート奏者の吉川さん「智恵子抄」の世界に挑戦 福島に思いはせ14日に横浜でコンサート

 日本の美しい旋律を演奏し続ける横浜市在住のフルート奏者、吉川久子さんが14日、詩人・高村光太郎が妻、智恵子との愛をつづった詩集「智恵子抄」をテーマにしたコンサートを開く。智恵子は光太郎と暮らした東京から故郷・福島を思い続けた。吉川さんは演奏を通じて、東日本大震災に伴う福島第1原発事故から2年以上が過ぎても避難生活を続ける被災者へ思いをはせたいと意気込む。(渡辺浩生)
 
 吉川さんは7年前からコンサート「こころに残る美しい日本のうた」を毎年開催。東日本大震災直後の一昨年4月には、岩手県出身の宮沢賢治を題材にチャリティー演奏会を実施し、被災者の心の支えとして当時注目された代表作「雨ニモマケズ」も朗読した。
 今年、「智恵子抄」に着目したのも、故郷に戻れぬ福島県の被災者を「忘れてはならない」という思いがあるからだ。
 「智恵子は東京に空が無いといふ」(あどけない話=智恵子抄に収録)。智恵子は東京になじめず、福島県中部の名山、安達太良山(あだたらやま)の上の「ほんとの空が見たい」と言い続けた。 智恵子の心は時代を超えて被災者とも通じている-。5月、智恵子の故郷、同県二本松市を訪ねた吉川さんは、「同じ青空を見上げて」そう感じた。
 コンサートでは、智恵子や福島にちなんだ唱歌・童謡の演奏や詩の朗読を通じて光太郎と智恵子の愛の世界、智恵子の望郷の念を表現する。キーボードは海老原真二氏、パーカッションは三浦肇氏が担当。
 14日午後1時開場、1時半開演。横浜みなとみらいホール小ホール。申し込み・問い合わせは「心に残る美しい日本の曲を残す会事務局」((電)03・5540・8675)まで。
 

このコンサートについて検索してみたところ、いろいろとヒットしました。イベント情報的なサイトから。 

吉川久子フルートコンサート『こころに残る美しい日本のうた』 智恵子抄の世界に遊ぶ

期 日 : 2013年 6月14日(金)
会 場 : 横浜みなとみらいホール小ホール
時 間 : 1時開場  1時半開演
料 金 : 全席自由 2,500円

「東京に空がない」という詩の一節で知られる『智恵子抄』は、詩人で彫刻家の高村光太郎が妻智恵子との愛を綴った詩集。 
 
大正三年に結婚した二人でしたが、洋画家だった智恵子は東京に馴染めず、油絵もなかなか評価されず悩んでいました。そんなおり、実家の破産も重なり、昭和六年頃から精神を病みはじめ、昭和十六年に七年にわたる闘病生活のすえ五十二歳で旅立ちます。 
『智恵子抄』には、二人が共有した時代の愛と喜び、生活の変転、人の世の悲しみが詠われています。

第八回を数える今回の「こころに残る美しい日本のうた」は、フルート奏者の吉川久子が、かつて映画や舞台にもなり、多くの人々に感動をあたえた『智恵子抄』に挑戦し、現代にも通じる光太郎と智恵子の愛の強さ、愛の深さを音の世界で表現します。 

[出演]
吉川 久子/フルート
東京生まれ、鎌倉育ち。横浜在住。ソリストとしてクラシックは勿論、幅広い楽曲を優雅に親しみやすく奏でるフルート奏者。リラックスタイムを演出するコンサートは大好評で、「マタニティーコンサート」の草分け的存在。1993年、秋篠宮紀子妃殿下のご臨席を仰ぎ、フルートの音を披露。コロンビア ミュージックエンターテインメント、エム・アイ・シー、キングレコードから多数のCDアルバムも発売されている。チェコフィルハーモニー六重奏団等、海外アーティストとの共演も多く、高い評価を獲得している。
 
海老沢 真二/キーボード
関西にて、フォークヂュオ「紙ふうせん」のサポートキーボーディストとしてプロ活動を開始。上京後、岡村孝子、あみん、森口博子、森公美子、喜多郎、TOSHI(XJpan)等々、様々なアーティストのコンサートツアーサポート、レコーディングセッションに参加。喜多郎ワールドツアーにも数年にわたり参加する。その他、中国人アーティストとのコラボレーション等様々なジャンルで活動。吉川久子の新譜「アニマ」にもアレンジャー、プレーヤーとして参加している。
 
三浦  肇/パーカッション
打楽器奏者として数々のオーケストラに参加。スタジオワークからライブ演奏まで、幅広いフィールドで活躍を続ける一方、ドラム教室を開催。後進の指導を通じ、打楽器の魅力を広く伝えている。吉川久子の新譜「アニマ」にも参加している。 

後援:横浜市文化観光局・神奈川新聞社・TVK(テレビ神奈川) 

チケット取扱:みなとみらいホールチケットセンターにて発売
チケット予約:ビー・ビー・ビー株式会社内「心に残る美しい日本の曲を残す会」
事務局 担当:榎本 ☎03-5540-8675 FAX.03-5540-8501
 
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何とか都合をつけて聴きに行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月7日

昭和28年(1953)の今日、最晩年を過ごした中野のアトリエで、十和田湖畔の裸婦像原型からの石膏取りが始まりました。

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昨日に引き続き、あちこちの美術館、文学館等での企画展で光太郎作品が展示されているものをご紹介します。   

期 日 : 平成25年1月26日(土)~3月24日(日)
会 場 : 神奈川県立近代美術館葉山館 神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1
時 間 : 午前9時30分から午後5時
休 館 : 月曜日(ただし祝日および振替休日の場合は開館)
料 金 : 一般 900円(団体800円)20歳未満・学生 750円(団体650円)65歳以上 450円
      高校生 100円


「保存、修復という作品の知られざる部分に光をあてることによって、近代日本美術の問題点を探り、新たなる発見を浮かび上がらせようとする展覧会」だそうで、岸田劉生、藤田嗣治、松本竣介などを中心に明治期から昭和前期までの約60名による油彩画、水彩画、約170点が並んでいるそうです。
 
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光太郎の作品は大正2年の油絵「上高地風景」1点。また、約60名ということで、光太郎と交流のあった画家の作品も数多く展示されています。黒田清輝、岸田劉生、藤田嗣治ら有名どころもいれば、あまり観る機会の多くない村山槐多、柳敬助、南薫造らの作品も並んでいるそうです。
 
別件ですが「上高地」ということで、先月のブログで御紹介したBSフジのテレビ番組「絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」」、再放送があります。2013/03/01(金)22:00~22:55 です。見逃した方はぜひご覧下さい。光太郎・智恵子のエピソードが約3分間あります。
 
【今日は何の日・光太郎】2月22日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、村人の好意で初めて電灯がともりました。
 
光太郎がこの小屋に入ったのが昭和20年(1945)の秋ですから、約3年半、電気のない生活を送っていたのです。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にて、当方が発表を行いました。題は「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。その内容について何回かに分けてレポートいたします。
 
今年に入り、光太郎が書いた「海の思出」という随筆を新たに発見しました。そこには今まで知られていた光太郎作品や、『高村光太郎全集』所収の年譜に記述がない事実(と思われること)がいろいろと書かれており、広く知ってもらおうと思った次第です。ちなみに先月当方が発行した冊子『光太郎資料』38には既に掲載しましたし、来年4月に刊行予定の『高村光太郎研究』34中の「光太郎遺珠⑧」にも掲載予定です。
 
「海の思出」、掲載誌は昭和17年(1942)10月15日発行『海運報国』第二巻第十号です。この雑誌は日本海運報国団という団体の発行で、翌昭和18年(1943)と、さらに同19年(1944)にも光太郎の文章が掲載されています(それらは『高村光太郎全集』「光太郎遺珠」に所収済み)。日本海運報国団は、その規約によれば「本団は国体の本義にのっとり海運産業の国家的使命を体し全海運産業人和衷協同よくその本分をつくしもって海運報国の実をあげ国防国家体制の確立をはかるを目的とす」というわけで、大政翼賛会の指導の下に作られた海運業者の統制団体です。
 
そういうわけで、昭和18年、同19年に掲載された光太郎作品はかなり戦時色の強いものでしたが、なぜか今回の「海の思出」は、それほど戦時に関わる記述がありません。まだ敗色濃厚という段階ではなかったためかもしれません。
 
では、どのような内容かというと、光太郎の幼少年期から明治末の海外留学時の海や船に関する思い出が記されています。
 
まず幼少年期。
 
 東京に生まれて東京に育つた私は小さい頃大きな海といふものを見なかつた。小学生の頃蒲田の梅園へ遠足に行つた時、品川の海を眺めたのが海を見た最初だつた。その時どう感じたかを今おぼえてゐないが、遠くに房州の山が青く見えたのだけは記憶してゐる。その後十四歳頃に一人で鎌倉江の島へ行つた事がある。この時は砂浜づたひに由比ヶ浜から七里ヶ浜を歩いて江の島に渡つたが押し寄せる波の烈しさにひどく驚いた。波打際にゐると海の廣さよりも波の高さの方に多く気を取られる。不思議にその時江の島の讃岐屋といふ宿屋に泊つて鬼がら焼を食べた事を今でもあざやかにおぼえてゐる。よほど珍しかつたものと見える。十六歳の八月一日富士山に登つたが、頂上から眺めると、世界が盃のやうに見え、自分の居る処が却て一番低いやうな錯覚を起し、東海の水平線が高く見上げるやうなあたりにあつて空と連り、実に気味わろく感じた。高いところへ登ると四方がそれにつれて盛り上るやうに高くなる。
 
 この中で、「小学生の頃蒲田の梅園へ遠足に行つた」「十四歳頃に一人で鎌倉江の島へ行つた」というのは既知の光太郎作品や年譜に記述がありません。はっきり明治何年何月とはわかりませんが、記録にとどめて置いてよいと思われます。江ノ島に関しては「十四歳頃」と書かれていても、単純に数え14歳の明治29年(1896)とは断定できません。意外と光太郎の書いたものには時期に関する記憶違いが目立ちますので。ただ、場所まで記憶違いということはまずありえないでしょう。実際、明治三十年五月刊行の観光案内『鎌倉と江之島手引草』の江ノ島の項には「金亀山と号し役の小角の開闢する所にして全島周囲三十余町 人戸二百土地高潔にして四時の眺望に富み真夏の頃も蚊虻の憂いなく実に仙境に遊ぶ思いあらしむ 今全島の名勝を案内せん(略)旅館は恵比寿屋、岩本楼、金亀楼、讃岐屋を最上とす 江戸屋、堺屋、北村屋之に次ぐ」という記述があり、光太郎が泊まったという讃岐屋という旅館が実在したことがわかります。ちなみに「鬼がら焼」は今も江ノ島名物で、伊勢エビを殻のまま背開きにし、焼いたものです。なぜか14歳くらいの少年が一人旅をし、豪華な料理に舌鼓を打っています。

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つづく「十六歳の八月一日富士山に登つた」は、昭和29年(1954)に書かれた「わたしの青銅時代」(『全集』第10巻)にも「わたしは、十六のとき祖父につれられて富士山に登つた」とあるので、数え16歳の明治31年(1898)で確定かな、と思うとそうではなく、どうやら記憶違いのようです。祖父・兼松の日記(『光太郎資料』18)によれば、富士登山は翌32年(1899)です。こちらの方がリアルタイムの記録なので優先されます。こういうところが年譜研究の怖ろしいところですね。
 
いずれにしても既に東京美術学校に入学してからで、彫刻科の卵だった時期です。「頂上から眺めると、世界が盃のやうに見え、自分の居る処が却て一番低いやうな錯覚を起し、東海の水平線が高く見上げるやうなあたりにあつて空と連り、実に気味わろく感じた。高いところへ登ると四方がそれにつれて盛り上るやうに高くなる。」こういった空間認識は、やはり彫刻家としてのそれではないでしょうか。
 
「海の思出」、このあと、留学時代の内容になります。以下、明日以降に。

今日は横浜の神奈川近代文学館さんに行って参りました。
 
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こちらも国会図書館さんや駒場の日本近代文学館さん同様、収蔵資料が閲覧でき、よく利用させてもらっています。特筆すべきは書簡や草稿などの肉筆ものが充実していること。それも、どんどん新しいものが増え続けていることです。こうしたものは寄贈による場合が多いようで、館から届くメールニュースに毎回のように「寄贈資料」としていろいろ紹介されています。
 
こうしたものを寄贈なさる方々、非常に素晴らしいと思います。売れば売ったでかなりの値がつくものもあり、結局、古書市場に出回っているものは売られたものです。それはそれで入手したいという需要に応える上で大切なのでしょうが、我々個人にとっては、なかなか手が出ません。はっきり言えば、わけのわからない人に買われてしまって、日の目を見ずに死蔵されてしまうということも少なからずあります。
 
その点、こういうちゃんとした公的機関に寄贈されていれば、我々も眼にすることができ、非常にありがたいわけです。
 
いつも一言多いのがこのブログですが、公的機関でも、収蔵資料の状況を外部に発信しなかったりと、死蔵に近い状態にしているところもあり、困ったものだと思うこともしばしばです。
 
さて、今日は詩人の上田静栄に宛てた書簡などを拝見してきました。最近同館に所蔵されたものです。上田には「海に投げた花」(昭和15年=1940)という詩集があり、序文を光太郎が書いています(その草稿も見せていただきました)。つい最近、このブログで誤植についていろいろ書きましたが、上田宛の書簡の中でも誤植の件が話題になっていました。また、智恵子に関する内容も含まれており、興味深いものでした。いずれ「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介するつもりです。

閲覧数が4,000件を超えました。ありがとうございます。
 
昨日、横浜に行ってきました。11月の高村光太郎研究会での発表のため、船と光太郎について調べており、その関係で、横浜開港資料館さん、日本郵船歴史博物館さん、そして山下公園の氷川丸を廻りました。
 
明治39年(1906)から42年(1909)にかけ、光太郎は留学ということで、アメリカ、イギリス、フランスに約1年ずつ滞在、ぐるっと地球を一周して帰ってきています。旅客機というもののなかった時代ですから、移動の大半は船。光太郎の船旅に関しては、これまであまり注目されていませんでしたが、いろいろと細かな新事実がわかってきました。詳細は研究会の後でブログに書きます。
 
横浜開港資料館さん、日本郵船歴史博物館さんでは海事関係の資料の閲覧が目的でしたが、時間の関係で開港資料館の方は閲覧室の利用だけにしました。日本郵船歴史博物館さんの方では、展示も興味深く拝見しました。

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そして氷川丸。初めて中に入ってみました。
 
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氷川丸は日本郵船さんが所有する船で、昭和5年(1930)、横浜~シアトル航路に就航し、約30年、洋上で活躍しました。現役引退後、山下公園に固定され、現在は産業遺産として内部を一般公開しています(観覧料200円)。かつてかの嘉納治五郎師範が、IOC会議の帰途この船に乗られ、そして洋上で亡くなりました。その他、チャップリンや秩父宮御夫妻なども。
 
光太郎は帰国の際に日本郵船さんの船「阿波丸」に乗っており、時期は20年ほどずれますし、氷川丸は阿波丸の2倍程の大きさなのですが、参考になるかと思い、見てみました。一等船客のための施設設備は非常に豪華で驚きました。船室(個室)はもちろん、食堂、読書室、社交室など、レトロな雰囲気とも相まって、いい感じでした。
 
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ただし、光太郎は帰国の際は船中無一文だったと述べており、三等船客だったのではないかと思います。三等船室は二段ベッドの8人部屋でした。凄い格差です。

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しかし、光太郎も明治40年(1907)、アメリカからイギリスに渡る際には豪華客船の二等船室を利用しています。このあたり、かのタイタニックにもからむ話になっており、調べていて興奮しました。
 
先述の通り、詳細は研究会の後でブログに書きます。お楽しみに。

ブログ、開設したばかりで最近の報告が追いつきません。
 
4月14日(土)、まずは横浜のそごう美術館さんに行って参りました。お目当ては企画展「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」(会期は4/22までで、もう終わってしまっています)。


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現在は福島のいわき市立美術館で巡回開催中(6/17まで)。
 
赤羽末吉、いわさきちひろ、武井武雄、司修、ますむらひろしなど、後世のアーティスト達が表現した賢治の世界がメインでしたが、そこに光太郎の書も展示されました。岩手花巻、羅須地人協会の跡地に建つ「雨ニモマケズ」を刻んだ詩碑の元になった光太郎の揮毫です。
 
光太郎と賢治、二人が直接会ったのは大正15年の秋、おそらく一度しかありません。しかし、お互いにお互いの芸術世界を激賞していました。そうした縁もあり、賢治没後の昭和11年(1936)に建てられた碑の揮毫を光太郎が引き受けたのです。
 
当方、碑は何度も見ましたし、拓本も持っているのですが、やはり元の筆跡はまた違った感じがしました。

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それにしても光太郎の筆跡のすばらしさ。この揮毫に限らず、光太郎書の全般にいえることですが、どれもものすごい芸術的な書、というわけではなく、当たり前の書法で当たり前に書いています。しかし、そこから漂う「品格」「気」とでもいうのでしょうか、それは絶対に真似の出来ないものだと思います。

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