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光太郎の父・光雲の木彫が出ています。

新春特別展 新春工芸名品展

期 日 : 2024年1月5日(金)~3月9日(土)
会 場 : 敦井美術館 新潟市中央区東⼤通1-2-23 北陸ビル1F
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 日曜・祝日
料 金 : 一般500円 大高生300円 中小生200円 団体割引・20名以上

新春を寿ぎ、吉祥文の工芸作品を中心に、干支や富士山などお正月にふさわしい絵画を展示いたします。
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光雲の作品は「木彫 ちゃぼ」。同館サイトの「収蔵作品」に画像がありました。
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宮内庁三の丸尚蔵館さん収蔵のものとよく似ています。ただし三の丸尚蔵館さんのものは雌雄のつがいですが、こちらは雄鶏単体。明治22年(1889)の作で、一般人から注文を受けて制作したものですが、半ば強引に日本美術協会展に出品させられ、それが明治天皇の眼に留まり、お買い上げとなった作です。その辺りの経緯、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』に詳しく記されています。青空文庫さんで無料公開中です。

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もう一つ、別の「矮鶏」があったとは存じませんでした。光雲の場合、同一図題の木彫を複数制作することはよくあるのですが。

それにしても敦井美術館さんの出品目録に「明治22年(1889)」とあり、これは三の丸尚蔵館さん収蔵のものと同じ年です。『光雲懐古談』には同じ年にもう一体彫ったという記述はなく、どういうことなのかな、という感じです。画像で見る限り間違いなさそうなものなのですが……。

他の出品物、彫刻では光雲高弟の一人・山崎朝雲の「大黒天」、日本画では横山大観や前田青邨、洋画で梅原龍三郎、陶芸には宮川香山、富本憲吉などビッグネームが並んでいます。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昼間は九十度以上にのぼる日もたまにありますが、夜は七十度位に下がります。蚊が夜は少いので蚊帳はつりません。蚊えぶしだけでねます。


昭和21年(1946)7月27日 椛沢ふみ子書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の夏。「九十度」「七十度」は華氏ですね。現在一般的な摂氏に直すとそれぞれ33℃、21℃ほどです。

新潟県から市民講座の情報です。

二葉アーツスクール2023「めだかの学校 高村光太郎にとっての新潟」

期 日 : 2023年12月23日(土)
会 場 : ゆいぽーと(新潟市芸術創造村・国際青少年センター)
      新潟市中央区二葉町2丁目5932番地7
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

講 師 : 山浦健夫氏(美術史家)

「めだかの学校」は、ゆいぽーとの自主事業として2018年の開館年にスタートしました。施設の前身である旧二葉中学校の学び舎としての特性を活かし、広く市民に開かれた生涯学習の場として親しまれています。新潟の文化や歴史など独自なテーマ設定と多彩な講師陣が人気を集める連続講座です。

高村光太郎(1883~1956)は彫刻家であり詩人であった。特に詩集『智恵子抄』はあまりにも有名である。その智恵子が光太郎と結婚する前に現在の阿賀野市に滞在していたことは、知られていない。また、光太郎が実業家で文人の渡辺湖畔(1886~1960)の招きで佐渡にわたり作品をのこしたり(大正7年10月)、長岡へも父光雲の遺作展(昭和12年5月)や鯉の制作で何度も訪ねたことも知られていない。今年は高村光太郎の生誕140年にあたる。新潟県に関わるこれらのエピソードをあわせて紹介したい。
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全4回の講座で今回が最終回。これまでに光太郎と縁のあった彫刻家・武石弘三郎や東京美術学校で同級生だった藤田嗣治らについての講座が持たれていました。

そして光太郎。案内にある通り、光太郎、そして智恵子も何度か新潟に足を運んでいます。

智恵子が光太郎と結婚する前に現在の阿賀野市に滞在していたこと」は以下。
探検バクモン「男と女 愛の戦略」。
スキーと智恵子。
『文豪たちのラブレター』。
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渡辺湖畔(1886~1960)」についてはこちら。
新潟よりいただきもの。
『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』。
平塚市美術館「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」レポート。
碌山美術館夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』。
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そして「長岡」関連。
長岡市駒形十吉記念美術館「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」。
新潟長岡レポート 駒形十吉記念美術館「駒形十吉生誕120年 駒形コレクションの原点」他。
和歌山県立近代美術館 小企画展「原勝四郎と同時代の画家たち」/駒形十吉記念美術館「2023年第3回展 茶の湯を楽しむ-併設展 墨の魅力」。
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002他にも智恵子の祖父・長沼次助が南蒲原郡田上町の出身で、杜氏として赴いた二本松に居着いて長沼酒造を興したことなども新潟との関わりですね。

平成23年(2011)、田上町郷土研究会さん発行の『郷土たがみ』第22号に掲載された松井郁子氏「高村智恵子と幕末の起業家長沼次助について」によれば、次助の血縁に連なる方々が田上町にご健在とのことです。ただ、さらに遡ればご先祖は元々は福島の須賀川の出だったそうですが。福島と新潟、現代も磐越道で繋がっていますが、昔は阿賀野川を使った水運などで交流が深かったようです。

こういった光太郎智恵子と新潟との関わり、確かに地元ではかえってあまり知られていないのでしょう。

これを機に新潟の皆さんに広く光太郎智恵子の世界に興味関心を抱いていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

まだ山の分教場に厄介になつてゐますが、いよいよ此の十七日から小屋に移住します。毎日通つて大工仕事をやつてゐます。道具類から造つて仕事を進めるので中々大変です。墨壺、錐、水平器などといふにびに皆自製です。机もつくり、お膳もつくり、重箱も戸棚も床の間も井桁も下水も雨戸も自分でつくります。


昭和20年(1945)11月16日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

いよいよ花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での7年間に及ぶ生活が始まります。

和歌山と新潟から、それぞれ光太郎作品が出ている展覧会の情報です。

まず和歌山。光太郎筆の油絵が出ています。

小企画展「原勝四郎と同時代の画家たち」

期 日 : 2023年10月7日(土)~12月24日(日)
会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 本展のみ 一般350円、大学生240円
      特別展「原勝四郎展 南海の光を描く」一般800円、大学生500円

 本展では、特別展「原勝四郎展 南海の光を描く」の開催に合わせ、当館の洋画コレクションを中心に、一部借用作品も交えて、原勝四郎(1886-1964)と同時代に活躍した画家たちの作品を紹介します。
 原勝四郎は、和歌山県立田辺中学校を卒業後、1905(明治38)年から1906(明治39)年と、1909(明治42)年から1916(大正5)年の二度、画家を志して上京しています。その後1917(大正6)年末から1921(大正10)年4月までフランスに赴きました。帰国後は故郷の田辺へと戻り、1931(昭和6)年からは現在の白浜町に移住して絵を描き続けました。
 原が東京にいた期間は、ヨーロッパ留学から帰国した若い美術家を中心に、新しい美術表現が次々に紹介されていた時期です。今回の展示では、東京美術学校西洋画科の教授であり、原も通った白馬会葵橋洋画研究所の設立者である黒田清輝をはじまりに、原が東京で面識を得て生涯にわたって兄事することになった山下新太郎や、原と同世代の画家たちの作品を通して、原も体感していたであろう、明治時代末から大正時代にかけての東京の美術動向をまず紹介します。
 原がフランスに赴いたのは、ちょうど第一次世界大戦の最中であったこともあり、原自身の絵画学習には困難が伴いました。しかし原に先んじて、またその後に続いてヨーロッパに留学し美術を学んだ日本人は多く、 藤田嗣治のようにパリで大きな成功を収めた画家も生まれます。本展では続いて、原がフランス滞在中に交流をもった青山熊治や長谷川潔など、同時期にフランスへ留学していた日本人画家たちの作品を紹介します。
 帰国後の原は、田辺と白浜を拠点に、画壇とは距離をとって制作を続けました。しかし、1年に1回、戦前は二科展、戦後は二紀展への出品を自らに課し、それが唯一と言っていい中央での作品発表の機会でした。 本展最後には、原を経済的に支援した大阪の実業家、山本發次郎が収集の対象とした佐伯祐三や、原が交流を持った小出楢重らの作品と、戦後、二紀会への参加を促し、親しい交流を持った鍋井克之や、戦前から親交のあった熊谷守一らの作品を通して、1920年代から戦後にかけての絵画を紹介します。
 原が活躍した同じ時代の作品をご覧いただくことで、原自身の表現の特徴もより明確に見えてくるはずです。 どうぞ「原勝四郎展」と合わせてご観覧ください。
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同館と田辺市立美術館さんの共催で特別展「原勝四郎展 南海の光を描く」が開催されており、そちらと「同時開催」という扱いで、館蔵品等の中から大正・昭和前期の様々な作家の作品を出しています。黒田清輝、岸田劉生、有島生馬、梅原龍三郎、萬鉄五郎、藤田嗣治ら光太郎と交流のあった面々の作、さらにロダンのブロンズも。出品目録はこちら

光太郎の油彩画「佐藤春夫像」(大正3年=1914)も。佐藤が和歌山出身ということもあり、同館ではこれまでもそれなりの頻度でこの絵を出して下さっていますし、他館への貸し出し等も行って下さっています。当方、同館蔵と思い込んでいましたが、「個人蔵」とあり、寄託品なのでしょう。

もう一件、新潟。こちらは書です。

2023年第3回展 茶の湯を楽しむ-併設展 墨の魅力

期 日 : 2023年9月30日(土)~12月17日(日)
会 場 : 駒形十吉記念美術館 新潟県長岡市今朝白2丁目1番4号
時 間 : 午前10:00~午後5:00
休 館 : 月・火曜日(祝日・振替休日の場合は開館し翌日が休館)
料 金 : 一般 500円 団体 400円 団体は20名様以上
      大学・高校生 300円  中学・小学生 100円

 茶道は「総合芸術と言われ、日本の伝統文化を代表するもので、その精神は、禅宗の考え方に基づいています。」などと言われると、なんだか面倒そう、難しそうと思ってしまいます。
 日本を代表するグラフィックデザイナー田中一光氏は、「知性と感性を誇りとする最も新しい感覚の遊び」であり「さまざまな領域の美の融合を演出できる世界」であり「茶会は環境全体がインスタレーションであり、茶事はパフォーマンス」と言います。殆ど現代アートではないですか?
 難しく考えずにぜひこの不思議の世界を体験してみましょう。今回はお茶会の形式で作品を展示いたしました。茶会とは客をもてなして「一座建立(こんりゅう)」を楽しみ、主客が直心の交わりをもつこと。そのため道具の取り合わせやお料理の仕立てに、亭主の個性が表徴されます。
 茶会に招待されと思ってぜひ作品をご覧ください。
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003昭和12年(1937)、新潟長岡で光太郎の父・光雲の作を集めた「高村光雲遺作木彫展観」が開催され、その観覧のため訪れた光太郎が、地元の美術愛好家グループ(駒形十吉も含みます)に揮毫して贈った色紙が展示されています。

短歌で「ちちよけふ子は長岡のはつなつにいとどこほしくおん作を見し」。

「こほし」は「こひし」に同じ。漢字で書けば「恋し」です。

一昨年、同館で開催された「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」展に、光太郎写真などの関連資料と共に出品され、拝見して参りました。その時以来の展示のようです。

茶会をイメージしての展示ということで茶道具の逸品や、茶掛けとしての書の優品が出ています。出品目録はこちら

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日秋葉原駅より葱一俵配達有之、荷札紛失いたし居りますが、これは必ず立川貴下の御厚情と拝察、青物不足の昨今ことにありがたくおうけとりいたしました、右略儀ながらとりあへず御礼まで申述べます、


昭和17年(1942)1月26日 佐藤信哉宛書簡より 光太郎60歳

太平洋戦争開戦から2ヶ月足らずですが、既に食料不足は深刻でした。

佐藤は立川農事試験場の場長。その妻、すみ子(スミ)は、亡き智恵子の数少ない親友の一人で、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島出身でした。スミの姉・ヤヱが日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし同じく日本女子大学校卒だった妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在しました。左下の写真、左端が智恵子、後列中央がスミ、大正5年(1916)の撮影です。
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光太郎、大正15年(1926)にはやはり佐藤夫妻から贈られた葱をモチーフに、ずばり「葱」という詩も書いています。この詩を刻んだ詩碑が、農事試験場の後身・東京都農林総合研究センターの一角に平成8年(1996)に建てられました。

演奏会情報です。2月に横浜と広島で公演をなさった「藤木大地&みなとみらいクインテット」の皆さんが、新潟と奈良で。

まずは新潟。

りゅーとぴあ室内楽シリーズNo.49 藤木大地&みなとみらいクインテット

期 日 : 2023年5月3日(水・祝)
会 場 : りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館 新潟市中央区一番堀通町3-2
時 間 : 14:00~ 
料 金 : S : 4,500円 A : 3,500円

日本が世界に誇る国際的カウンターテナーの藤木大地と5人の名手による珠玉の室内楽コンサート 唯一無二の歌声を持つカウンターテナーの藤木大地が名手5人と共に創り上げる極上の時間

りゅーとぴあには2018年「りゅーとぴあ・オルガン・リサイタルシリーズNo.25」のゲスト出演以来の登場となる藤木大地。完璧にコントロールされた柔らかな美声と表現力に魅了された方も多くいらっしゃることでしょう。今回は往古来今、その歌声の魅力を余すことなく味わえる贅沢なプログラム。各界で活躍中の個性あふれる名ソリストたちが放つ輝かしい音色と、丁々発止のやり取りが楽しめる特別なアンサンブルは必聴必見です。この企画は、「横浜みなとみらいホール プロデューサー 2021-23」に就任した藤木大地が提唱する横浜市と地域の文化施設ネットワーク化プロジェクトの第一弾として開催します(他、神奈川県横浜市・横須賀市、奈良県大和高田市、広島県三原市、福岡県福岡市で実施)。

プログラム
 ピアノ五重奏曲より 第3楽章(ショスタコーヴィチ)
 お客を招くのが好き(J.シュトラウス2世)
 アヴェ・マリア(マスカーニ)
 ヴォカリーズ(ラフマニノフ)
 魔王(シューベルト)
 私はこの世に忘れられた(マーラー)
 鎮められたあこがれ(ブラームス)
 ピアノ五重奏曲より 第4楽章(シューマン)
 静かな真昼(ヴォーン=ウィリアムズ)
 ネッラ・ファンタジア(モリコーネ)
 ヤンキー・ドゥードゥル(ヴュータン)
 レモン哀歌(加藤昌則)
 鴎(木下牧子)
 瑠璃色の地球(平井夏美)
 いのちの歌(村松崇継)

出演
 藤木大地(カウンターテナー) 成田達輝(ヴァイオリン) 山根一仁(ヴァイオリン)
 川本嘉子(ヴィオラ) 遠藤真理(チェロ) 松本和将(ピアノ)
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続いて、奈良。

ムジークフェストなら 藤木大地&みなとみらいクインテット

期 日 : 2023年5月21日(日)
会 場 : 大和高田さざんかホール 奈良県大和高田市本郷町6-36
時 間 : 15:00~
料 金 : 一般3,000円 高校生以下500円(当日各500円増)

初夏の大和路に響く 奇跡の歌声と心に染み入る極上のハーモニー
唯一無二の歌声を持つカウンター藤木大地が、今望みうる最高のクインテットと共に再びさざんかホールに登場! この企画は、「横浜みなとみらいホール プロデューサー 2021-2023」を務める藤木大地が提唱する横浜市と地域の文化施設ネットワーク化プロジェクトとして開催します(当館他、神奈川県横浜市・横須賀市、新潟市、広島県三原市、福岡市で実施)。

プログラム
 ピアノ五重奏曲 第3楽章 / ブラームス
 アデライーデ / ベートーヴェン
 魔王 / シューベルト
 リディア / フォーレ
 愛の讃歌 / モノ―
 静かな真昼 / ヴォーン=ウィリアムズ
 遠く、遠く、お互いから / ブリッジ
 ピアノ五重奏曲 第4楽章 / ショスタコーヴィチ
 I Dreamed a Dream / レ・ミゼラブル
 サンクタ・マリア / 加藤昌則
 アメリカの思い出 「ヤンキー・ドゥードゥル」Op.17 / ヴュータン
 レモン哀歌 / 加藤昌則
 鷗 / 木下牧子
 いのちの歌 / 村松崇継
 満ち足れる安らい、うれしき魂の悦びよ / バッハ

出演
 藤木大地(カウンターテナー) 成田達輝(ヴァイオリン) 周防亮介(ヴァイオリン)
 川本嘉子(ヴィオラ) 上村文乃(チェロ) 加藤昌則(ピアノ)
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新潟公演と奈良公演で、プログラムがだいぶ異なっていますが、双方に加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」が入っています。光太郎詩句を反映し、切なくも爽やかな印象の曲です。また奈良公演では加藤氏がピアノ担当です。

それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

帰つて来ました。葉書も見ました。山では少しは画いた。まだ荷をといたばかり、東京の様子更にわからず。会ひたいと思つて居るから二三日うちに行くかも知れない。山の画でみてもらひたいのもある。 いろんな話すことがどつさりある様だ。


大正2年(1913)10月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎31歳

002」は智恵子と過ごし、結婚の約束を果たした信州上高地。「いろんな話すことがどつさりある」のは「智恵子がらみでしょうか。

少しは画いた」のは油絵。10月12日から神田三崎町のヴヰナス倶楽部で開催された生活社主催油絵展覧会に、上高地での油絵21点と彫刻1点、素描3点が出品されました。

油絵21点のうちの1枚の現存が確認できており、時折、光太郎展などに出ます。この1枚のみ、葉舟が入手し、現在は某美術館に寄託されているはずです。

他は生活社展のパンフレットにモノクロの画像が載っているものが2点、それ以外はどんなものか不明ですし、現存が確認できていません。何処かからひょっこり出てこないかな、と思っているのですが……。

生活社は、前年に結成されたフユウザン会が早くも方針の相違から分裂し、光太郎、岸田劉生、木村荘八、岡本帰一の四人で興したグループです。

昨日は、新潟県長岡市に行っておりました。当方、通過したことは何度かありますが、長岡で足を止めるのは初でした。

メインの目的地は、駒形十吉記念美術館さん。
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駒形十吉は長岡経済界の重鎮で、美術にも造詣が深く、そのコレクションを収めた美術館です。

こちらでは現在「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」展が開催中。光太郎の書や写真(それも当方未見と思われるもの)が出ているというので、拝見に伺った次第です。
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書は昭和12年(1937)、この地で「高村光雲遺作木彫展観」が開催された時のものでした。同10年(1935)に歿した光雲の作品が長岡近辺に多数あり、駒形を含む美術愛好家の団体「風羅会」が主催となって、常盤楼という料亭を会場に、一日限定で行ったものです。「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」展を報じた新聞記事から画像を採りました。
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書き下すと、「ちちよけふ子は長岡のはつなつにいとどこほしくおん作を見し」。同作は『高村光太郎全集』第11巻に掲載されていますが、そちらでは「父」「初夏」が漢字表記です。お話しさせていただいた同館学芸員さんによると、「風羅会」メンバーそれぞれに色紙を贈ったというので、表記の異同があったのでしょう。

光太郎写真は2種類展示されており、そのうち同じ記事に掲載されたのがこちら。
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「高村光雲遺作木彫展観」の2年後、長岡を再訪した折の撮影です。場所はキャプションのとおり、長岡市郊外の悠久山公園にある蒼柴(あおし)神社さん。

もう1枚は、おそらく「高村光雲遺作木彫展観」の際、会場となった常盤楼の庭(?)で撮影された立ち姿の写真でした。

双方、撮影は松木喜之七。駒形と同じく「風羅会」メンバーで、光太郎に「鯉」の木彫を依頼した人物です。しかし「鯉」は完成せず、光太郎は代わりに「鯰」を贈りました。松木は写真撮影も趣味としていたそうです。

それから、「高村光雲遺作木彫展観」について報じた当時の地方紙『北越新報』の記事コピーも展示されていました。光太郎の談話が掲載されており、『高村光太郎全集』未収録のもので、驚愕しました。学芸員さんに頼み込んで、コピーを頂きました。来年4月発行の『高村光太郎研究』所収予定の当方の連載「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』遺漏作品の紹介)に全文を掲載します。

また、その記事には不鮮明ながら「高村光雲遺作木彫展観」会場内の写真も。これも初見で、興味深く拝見しました。

さらには展示のキャプションの中に、駒形の著書の中に光太郎に関する記述がなされているものがある、的な記載があり、帰ってから早速当該書籍を注文しました。

そんなこんなで、予想外の大収穫でした。

駒形十吉記念美術館さんに行く前、かつて常盤楼や松木喜之七宅のあったであろう辺りを廻りました。ところどころに古そうな建物も残ってはいましたが、明治・大正という感じではありませんでした。それもそのはず、この辺りが太平洋戦争時に空襲の被害が最もひどかったようでした。
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ちょうどその一角に、山本五十六記念館や、山本記念公園。山本五十六もこの地の出身で、駒形の兄は山本と同級だったそうです。美術館にも山本の書が複数展示されていました。ちなみに光太郎、戦時中の翼賛詩「提督戦死」(昭和18年=1943)、「山本元帥国葬」(同)などで山本を謳っています。

ちなみに戦争といえば、先述の松木喜之七。大戦末期に、もういい年だったにもかかわらず根こそぎ動員で徴発され、台湾沖で戦死したとのことです。光太郎は戦後になってその追悼文を書いています。

時間軸が行ったり来たりになりますが、駒形十吉記念美術館さん拝観のあと、長岡駅前から路線バスで悠久山に足を運びました。光太郎、昭和12年(1937)と同14年(1939)の2度の長岡来訪で、共にここを訪れています。
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小高い丘のような形状で、途中に蒼柴(あおし)神社さん。上記光太郎写真はここで撮影されています。
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例によってこの地の鎮護、自分のためには道中安全を祈願しました。

かたわらに「忠犬しろ神社」。長岡藩のお殿様の愛犬「しろ」が祀られていました。長岡と江戸を自主的に往復したという凄いわんこです。
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4月に17歳で逝ってしまった柴犬系雑種の愛犬を思い出し(決して「忠犬」ではありませんでしたが(笑))、「そっちにうちの犬が行ったので、よろしく」と手を合わせて参りました。

神社のさらに先、標高の高い所には、芝生の広場や小動物園、郷土資料館など。
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コロナ禍のためでしょうか、いずれも閉鎖中でした。

光太郎に「悠久山の一本欅」という随筆があります。2度目の長岡来訪のあとに書かれたもので、芝生広場のあたりで見事な欅の大木を見て、感動したという内容です。非常に目立つ独立樹だというので、探してみたのですが、それらしき木は見つかりませんでした。欅(と思われる木)は何本かあったのですが、光太郎の記述とは合いません。
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まぁ、それにしても、常盤楼のあった辺りもそうですが、80余年前、光太郎もここを歩いたのだ、と思うと、感慨深いものがありました。

この後、またバスで長岡駅まで戻り、帰路に就きました。長岡には、光太郎のブロンズを展示しているという菊盛記念美術館さんもあるのですが、そちらは割愛しました。

同じ新潟には、智恵子の足跡も残っていますし、智恵子の実家の長沼酒造を興した祖父の長沼次助は田上がルーツです。光太郎も長岡以外に赤倉や直江津、さらに佐渡にも足を運んでいます。いずれそうした関係の場所も、廻ってみたいと思っております。

以上、新潟レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

藤島宇内氏来訪。今日花巻着、関登久也氏宅に寄りて来りし由。十字屋よりバタ半斤。昭森社森谷氏よりサントリーヰスキー一本托されしとて持参。


昭和22年(1947)11月30日の日記より 光太郎65歳

藤島宇内は、当会の祖・草野心平の『歴程』同人。のちに光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作(昭和27年=1952~同28年=1953)に際し、いろいろ骨折ってくれました。この日が戦時中以来の久闊でした。

情報を得るのが遅れまして、始まってしまっている企画展示の情報です。

2021年 第1回企画展 -駒形十吉生誕120年 駒形コレクションの原点-

期 日 : 2021年3月24日(水)~6月13日(日)
会 場 : 駒形十吉記念美術館 新潟県長岡市今朝白2丁目1番4号
時 間 : 午前10:00~午後5:00
休 館 : 月・火曜日
料 金 : 一般 500円 団体(1名様) 400円  ※団体は20名様以上
      大学・高校生 300円 中学・小学生 100円

1901年生まれの駒形十吉は本年生誕120年に当たります。そこで、1年を通して駒形コレクションを初期から順次ご覧いただきたいと思います。第1回展は、「駒形コレクションの原点」。駒形の美術への思いをお伝えできたらと考えております。

情報はTwitterを調べている中で得ました。同館の昨日のツイートでした。

新緑の美しい季節となりました。美術館の庭は、ツツジ、石楠花、ヤマボウシでにぎやかです。
高村光太郎氏が父高村光雲の遺作展の際長岡に来られた時の写真を展示いたしました。悠久山の風景を気にいっていたとか。この時駒形は、光太郎氏から色紙を書いて頂いています。
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「ありゃま」と思い、調べてみると、同展の情報に行き当たりました。そして「作品リスト」を拝見すると、光太郎の書も出ているとのこと。
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「父よ今日」、短歌を揮毫した色紙です。

当該の短歌は昭和12年(1937)の作。『高村光太郎全集』第11巻に掲載されています。

父よけふ子は長岡の初夏にいとどこほしくおん作を見し

こほしく」は古語で「こひしく」に同じ。漢字仮名交じりで書けば「恋しく」です。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生による「解題」には、

五月二十三日、長岡市で同地の風羅会が主催して「高村光雲遺作木彫展観」が催された時のもの。揮毫から採録。

とあります。どうも展示されている色紙はこれのようですね。そして、北川先生、かつて実物を御覧になったのでしょう。

高村光雲遺作木彫展観」は、光雲没後の昭和12年(1937)5月23日、一日限定で長岡市の常盤楼という料亭を会場に開催されました。光雲に関しては、生前に個展が開催された記録が見当たらず、確認できている限り最初の個展です。

その作品目録に光太郎が一文を寄せています。

父の遺作がどの位世上に存在するかは関東大震災があつた為にその調査が中々困難である。今度長岡市有志の方々が長岡市所在の父の遺作を一堂に集めて展観せられるといふ事を知つて喜びに堪へない。かねてから同市には父の第一品が多いと聞えてゐるので之は見のがし得ない催であると思ひ、感謝と期待とを以て其日をたのしみにゐる。

これも北川先生による「解題」によれば、

明治三十五年の「聖観音」から昭和九年の「木賊刈り」まで木彫二十六点、ほかに遺墨数点が展示された。次の主催者の言葉を添える。

余花さへも既に地に収まりて心やうやうにしづかなる折柄、明治大正昭和の三聖代にわたる彫塑の巨匠高村光雲翁、二重橋前の大楠公像、上野公園の大西郷像の作者光雲翁、更に上野帝室博物館に見る木彫の神品、老猿の作者光雲翁、この名人の制作のわが長岡の地に蔵せらるゝもの三十点に垂んとする喜びを翁逝いて三年の今日、一室に集ふて心ゆくばかり堪能せんとの念願に幸に大方の御意を得度吹聴すること如斯。


そして光太郎、この遺作展観を見に、長岡に行きました。上記ツイートにある光太郎の写真というのは、この時に撮影されたものでしょうし、展示されている短歌の色紙も、この際に揮毫されたものなのでしょう。同館は、長岡経済界の重鎮だった駒形十吉のコレクションを基幹とする美術館だそうですが、駒形は「高村光雲遺作木彫展観」主催の「風羅会」のメンバーでした。そういうことを考えると、色紙も間違いないものなのでしょう。当方、どちらも現物を見たことがありませんし、画像等も未見です。非常に気になります。

ちなみに、光太郎、昭和14年(1939)にも長岡を訪れています。この時は、やはり長岡の素封家だった松木喜之七を訪問しています。松木は光太郎に鯉の木彫を依頼。光太郎、制作にかかりましたが、どうにもこうにも自分で納得のいく鯉が作れず、その言い訳と、代わりに木彫「鯰」(現在・愛知県小牧市のメナード美術館さん所蔵)を贈るためでした。

光太郎はその後も鯉に挑戦し続けますが、結局、未完。そうこうしているうちに松木は出征し、南方戦線で戦死。光太郎は依頼に応えられなかったことを深く悔恨したようです。
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松木のもとを訪れた際には、長岡市内の悠久山にも足を伸ばしたようで、その後雑誌『改造』に「悠久山の一本欅」というエッセイを寄稿しています。そこで、上記駒形十吉記念美術館さんのツイートに「悠久山の風景を気にいっていたとか。」という記述があるのでしょう。

コロナ禍明けやらぬ中、なかなか難しいところがありますが、折を見て拝見に伺いたいものです。

【折々のことば・光太郎】

七時過出かけて圓次郎翁宅に行く。一緒に二ツ関に出て、余は郵便局にて小為替五〇〇円つくり、翁に案内されて観音山の多田等観氏を訪問。山の坂登り相当なり。汗になる。山上は涼し。 等観氏新宅ヰロリ辺にて談話、中食、酒、御馳走になる。

昭和22年(1947)9月5日の日記より 光太郎65歳

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、その間に、隣村の旧太田村に疎開していた光太郎と知り合い、交流を深めています。

この日に先だって、等観が光太郎の居た太田村を訪れ、この日、逆に光太郎が等観のもとへ初めて足を運びました。当方も一度、麓から歩いて登りましたが、たしかにかなりの山道でした。

その分、山上からの眺望は良く、花巻の観光案内、テレビ番組等ではここからの眺めがよく使われています。
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光太郎の父・高村光雲の関連で3件ほど。

まず、京都から企画展の情報です。

帝室技芸員の仕事 彫刻編

期 日 : 2019年8月24日(土)~11月17日(日)
会 場 : 清水三年坂美術館 京都市東山区清水寺門前産寧坂北入三丁目337-1
時 間 : 10:00~17:00
料 金 : 一般800円/大学・高校・中学生500円/小学生300円
休 館 : 下記参照


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 当館所蔵作品のうち、帝室技芸員による作品を一堂に展示する「帝室技芸員の仕事」シリーズ。今回は石川光明(1852~1913)と高村光雲(1852~1934)の作品を中心に、彫刻分野の帝室技芸員による名品をご覧頂きます。
 帝室技芸員制度は、宮内省(現在の宮内庁)が技術と人柄に優れた当代の美術工芸家を選出し「帝室技芸員」に任命する作家の顕彰制度で、その拝命は作家にとって大変な名誉でした。
 光雲と光明は、帝室技芸員制度が発足した明治23年(1890)、ふたり同時に第一回帝室技芸員に任命されています。光雲が仏師として修業を積み生涯木彫一筋で制作を続けた一方、光明は牙彫を中心に木彫や彫漆にも取り組みました。ふたりはそれぞれ異なる姿勢で制作に取り組みながらも互いに敬意を払い、ともに近代彫刻界の発展に貢献しました。

 この度の展示では、光雲・光明の作品に加え、竹内久一(1857~1916)や山崎朝雲(1867~1954)の作品もご紹介します。作品が持つ気品と迫力、そして人物や動物の描写に発揮された妙技を味わって頂ければ幸いです。また、煙管筒のような小品も多数展示致します。精巧な彫りを作品の間近でどうぞご覧ください。
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というわけで、光雲作の木彫がある程度まとめて展示されます。同館では平成23年(2011)にも「室技芸員series3 彫刻 高村光雲と石川光明」という企画展を開催、その際には、光雲作品は約30点出ました。今回もそれに近いのではないかと思われます。


続いて、新潟県上越市からの展示情報。状況をわかりやすくするため、「上越妙国タウン情報」というサイト、「上越タウンジャーナル」というサイトから引用させていただきます。

高村光雲作 木造毘沙門天像 埋蔵文化財センターで初公開

謙信公祭が近づくなか、かつて春日山城跡の毘沙門堂に安置されていた木造毘沙門天像が、上越市春日山町の埋蔵文化財センターで展示されている。
一般公開は初めてということ。
木造毘沙門天像の大きさは約40㎝。作者は上野公園にある西郷隆盛像などを手がけた仏師、高村光雲。光雲は昭和3年、米沢にあった本物の毘沙門天像が火災の被害を受けたため、その修理を担当したが同時に分身として作ったのがこの像。なかには本物の像のかけらが収められているという。
毘沙門天像は昭和5年、旧春日村に寄贈され、春日山城跡の毘沙門堂に安置され、その後、盗難などの防犯面から春日地区町内会長連絡協議会が保管、現在は埋蔵文化財センターが保管している。協議会では元号が令和になったことにあわせ今回はじめて一般公開した。
木造毘沙門天像は今月30日までの展示。時間は午前9時から午後5時まで入場は無料。

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春日山城跡毘沙門堂にあった彫刻家高村光雲作「木造毘沙門天像」初公開

新潟県上越市春日山町1の同市埋蔵文化財センターで、かつて春日山城跡の毘沙門堂に安置してあり、明治・大正を代表する彫刻家の高村光雲(1852〜1934)が制作した「木造毘沙門天像」が2019年8月19日から展示されている。一般公開は初めてで、期間は8月30日まで。
郷土の戦国武将、上杉謙信は仏教を守護する四天王の一つ毘沙門天を敬い、自らを毘沙門天の化身と信じ、軍旗には「毘」の一字を用いていた。また、出陣前に毘沙門天を安置した毘沙門堂に籠もり、戦勝祈願を行ったといわれている。
上越市によると、謙信が祈願した毘沙門天像は上杉家の移封に伴い会津を経て米沢に移されたが、火災で被害を受けていた。このため1928年、上野公園の西郷隆盛像などを制作した著名な彫刻家で仏師でもあった高村光雲が修理を担当し、その際、像のかけらを体内に収めた分身像を制作。1930年に当時の春日村に寄贈され、翌年に建設された毘沙門堂に安置された。
その後、1969年のNHK大河ドラマ「天と地と」の放送で多くの観光客が春日山城跡に訪れるようになったことから、盗難防止のため、青銅製の像と入れ替え、像は所有者の春日地区町内会長連絡協議会が保管していた。数年前からは埋蔵文化財センターの特別収蔵庫で保管している。
展示は8月24、25日に開催される第94回謙信公祭にあわせて実施。像は木像で大きさは約40cm。左手にやりを持ち、よろいで身を固め怒りの表情をしている。
所有する春日地区町内会長連絡協議会の清水栄一会長は「元号が令和になったこともあり、特別に展示することにした」と話している。開館時間は午前9時〜午後5時。入場無料。

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上越市埋蔵文化財センターさんのサイト等には詳細な情報が出ていません。


最後に、信州善光寺さん。『仁王門再建百年・仁王像開眼百年記念イヤーイベント』の一環として、3月に告知された仁王門の写真コンテスト、光雲曾孫の写真家・髙村達氏らによる審査が終わり、入賞作が同寺のサイトにアップされています。

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なるほど、素晴らしい作品ばかりです。

同寺では、近々、仁王像開眼100周年の記念法要があるはずなのですが、まだ具体的な日程等不明です。詳細がわかりましたらまたご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

妙な所が戦場になつちやつて、ぼくらの近所はひどかつたですよ。電信柱に足がぶら下つてたりね、往来に靴が落つこつてる、見ると中身があるんだ。気味が悪くつてね。ぼくもいつやられるか、と思つてね。

対談「わが生涯」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

戦時中の回想です。ぶら下がっていた脚の印象はかなり強かったようで、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の構想段階で書かれた「わが詩を読みて人死に就けり」という詩にも描かれました。

   わが詩をよみて人死に就けり

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の太腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向つた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

「必死の時」は昭和17年(1942)作の詩。「年代が合わないじゃないか」という指摘がありますが、乞われて揮毫したと考えれば符合します。実際、この詩を書いてくれという需めがけっこうあったようで、揮毫も現存します。

こうした事態を弾き起こした責任の一端は自分にもあると考えて、戦後7年間、花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送ったわけです。

2月も後半となりまして、当方自宅兼事務所のある千葉県は、まだ寒さが残るものの、そちこちで春の気配が漂っています。愛犬の散歩中、今年初めて冬眠から覚めたカエルに遭遇しましたし、裏山では梅が満開です。

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しかし、東北や北陸などの雪国では、まだまだ雪深い状態のようですね。青森に住む友人からのLINEでは、「雪で庭がない」とありました(笑)。

雪国からの新聞記事等を3件。

まずは『福島民報』さん。同社の主催で一昨年に始まった、光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」の語を冠したイベント「ふくしま ほんとの空プログラム」関連です。  

多彩な雪遊び満喫「ほんとの空プログラム」 郡山湖南

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 豊かな自然環境で子どもの好奇心や探究心を育む
活動「ふくしま ほんとの空プログラム~雪まみれになって遊ぼう!!」は十日、郡山市湖南町のホールアース自然学校福島校などで開かれた。
 県内外から集まった小学生とプログラムサポーターのタレント長沢裕さん(伊達市出身)が参加した。旧福良小の校庭でソリ滑りや雪だるま作り、雪に寝そべり人の形を作るなど雪遊びを満喫した。雪合戦では雪玉を投げ合い、白熱した戦いを繰り広げた。参加者全員で力を合わせて、かまくらを作り、白銀の世界を楽しんだ。
 餅つき体験も催され、子どもが餅をついた。出来上がった餅は雑煮に入れたり、あんこ、きな粉などにあえたりして味わった。
 長沢さんは「最初は寒くて動けるかなと思ったが、みんなと大自然の中でいっぱい走って叫んで遊ぶことができて楽しかった」と笑顔を見せた。
 プログラムは福島民報社の主催、オーデン、花王、城南信用金庫、常磐興産、大王製紙、テーブルマーク、日本シビックコンサルタント、日本ファイナンシャル・プランナーズ協会の協賛。


続いて、青森。『東奥日報』さん。開催中の「十和田湖冬物語2019」について。 

昼は雪遊び、夜はイルミネーションの幻想世界 「十和田湖冬物語」24日まで

 十和田湖畔休屋地区で連日多彩なイベントが繰り広げられる「十和田湖冬物語」。光に彩られた白銀の世界で、カップルや家族連れがキャッチフレーズ通り、冬と遊んでいる。会期は24日まで。


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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップ、幻想的ですね。昨年お邪魔した際は、像の周辺は地吹雪で、遭難するかと思いましたが(笑)。


最後に『新潟日報』さん。同紙は一面の題字(会津八一揮毫)の脇に、新潟ゆかりの詩人・堀口大学の短句を載せる「堀口大学 文化の記憶」というコーナーがあり、2/14掲載分が、詩「光太郎詩人の写真に題す」 の一節でした。

堀口大学 文化の記憶

深雪(みゆき)の中のこの老詩人 ひとり暮しはおさびしからう 深雪の中のこの老詩生

末行「妻子かかへて凍えてゐるに」に続く詩「光太郎詩人の写真に題す」。老詩人は高村光太郎、老詩生は大学。光太郎は岩手山中で独り暮らしていた。


この詩は全4行の短い詩です。堀口自身の回想が残っています。雑誌『短歌研究』第十三巻第五号(短歌研究社 昭和三十一年五月)に載った「白い手の記憶――高村光太郎の思い出――」より。

 終戦後、疎開先の岩手の山奥での憔悴の見える高村さんの雪中の写真を見て、その頃妙高山麓の雪にうもれて難儀していた私は『光太郎詩人の写真に題す』という詩を書き、雑誌にのせたり、自分の詩集に収録したりした。
   深雪の中のこの老詩人
   一人暮しはお淋しからう
   深雪の中のこの老詩生
   妻子かかへて凍(こご)えている
 この詩には、戦後の高村さんの自虐とも言いたいほどな修道僧のような生活ぶりに対する、私なりのクリティックを托したつもりであったが高村さんの目には触れずにしまったようだ。

詩は昭和22年(1947)、柏書院刊の『雪国にて』という詩集に収録されています。

堀口大学(明25=1892~昭56=1981)は詩人、フランス文学研究者。はじめ、与謝野鉄幹・晶子の新詩社に拠って短歌に親炙、慶應義塾大学文学部予科に入学後、『三田文学』に寄稿するなどしました。同い年で同門の佐藤春夫とは、終生、交友を持ち、光太郎とも新詩社で知り合いました。

明治44年(1911)から大正6年(1917)にかけ、元長岡藩士で外交官だった父に従い、中南米、欧州十カ国ほどを転々とし、滞仏中には、画家のマリー・ローランサンとのラブロマンスもあったといいます。また、「白い手の記憶――高村光太郎の思い出――」によれば、海外から光太郎に、ロダン関係の新聞記事や文献などを送ったそうです。帰国後は詩作、仏文学の翻訳で活躍。戦時中から戦後しばらくは新潟県妙高山麓の実家に疎開。昭和25年(1950)に疎開から引き揚げて以降は、神奈川県湘南の葉山町に終生在住しました。

時期的に見て、堀口が見たという光太郎の写真は、『週刊朝日』の昭和21年(1946)の2月24日号あたりに載ったものかな、という気がします。

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左が光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋。今もこの季節、こんな感じなのでしょう。


しかし、雪国もそろそろ春の気配が見えてくる頃だと思います。雪国の皆さん、雪に負けずにがんばって下さい。


【折々のことば・光太郎】

毛皮を身に纏ふ事は元来人間のからだと調和しない。極寒の地に於ける実用のみがその美をゆるす。エスキモオの毛皮はいつでも美しい。暖帯地方の都会風俗にあらはれる毛皮は必ず一種のグロテスクさとさもしさとを示し、ダイヤモンドを五本の指に光らすのと似たいやささへ伴ふ。

散文「毛皮」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

十数年後、自らもエスキモーのようにカモシカの毛皮を身に纏うことになるとは、さしもの光太郎も本気では考えていなかったことでしょう。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

新潟から企画展情報です。 

中村屋サロンと會津八一 ~サロンにつどったアーティストたち~

期 日 : 2018年6月28日(木)~2018年9月2日(日) 
会 場 : 新潟市會津八一記念館 新潟市中央区万代3-1-1 メディアシップ5階
時 間 : 午前10時~午後6時
料 金 : 前売り 500円(一般のみ) 
      一般 600円 大学生 300円 高校生 200円 小・中学生 100円
         ※団体20名以上2割引、土日祝日は小・中学生無料
休館日  : 月曜日(祝日の場合はその翌日) 

 パンやカレーで知られる老舗食品メーカーの東京・新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻は芸術・文化に深い理解を示し、明治末期から昭和初期まで、若き芸術家らの活動を支援しました。中村屋には、彫刻家、荻原守衛(碌山)をはじめとする芸術家や文化人らが集うようになり、芸術・文化が薫るヨーロッパのサロンに例えられ、「中村屋サロン」として日本の近代美術史にその名を刻みました。
 會津八一(号・秋艸道人・1881〜1956)は、大正時代、相馬夫妻の長男を早稲田中学で教えたことが機縁で、相馬夫妻と深い関わりを持つようになりました。昭和20年、八一は東京空襲で罹災し新潟に帰郷してからは、上京のたびに相馬家に招かれ歓待を受け、昭和24年には中村屋で個展を開催しています。
 特別展では、中村屋所蔵の八一の墨蹟の名品を展示し、中村屋と八一との関わりを紹介します。また中村屋サロンゆかりの芸術家の秀作も紹介し、日本近代美術史に名を残したアーティストたちの躍動感あふれる作品を披露いたします。さらに、サロンの中心人物であった画家の中村彝が、生前に新潟県柏崎市で個展を開催した際の絵画も陳列し、新潟と関わりも紹介します。

出品作家
荻原守衛/戸張孤雁/高村光太郎/柳敬助/中村不折/中村彝/中原悌二郎/鶴田吾郎/堀信二/保田龍門/萬鉄五郎/棟方志功 など



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関連イベント

講演「中村屋創業の相馬愛蔵・黒光と若き芸術家たち」
 平成30年6月27日(水)13時30分〜15時  
 講師 : 太田美喜子氏(中村屋サロン美術館学芸員)
 会場 : 新潟日報メディアシップ 2階 日報ホール
 定員 : 150名                         
 参加費 : 500円

講演「近代日本美術史と中村屋サロンに集った作家たち」
 平成30年7月11日(水)14時~15時30分  
 講師 : 原田平作氏(大阪大学名誉教授、頴川美術館理事長
 会場 : 新潟日報メディアシップ 2階 日報ホール
 定員 : 150名                         
 参加費 : 500円

講演「東寺の歴史と會津八一」
 平成30年8月1日(水)13時30分~15時  
 講師 : 砂原秀輝師(東寺執事長)
 会場 : 新潟日報メディアシップ 2階 日報ホール
 定員 : 150名                         
 参加費 : 500円

体験講座「拓本と表装」
 平成30年8月18日(土)
  ①10時〜 ②11時10分〜 ③13時30分〜 ④14時40分〜 ⑤15時50分〜  
 講師 : 角田勝久氏(新潟大学准教授)
 会場 : 新潟日報メディアシップ 5階 會津八一記念館
 定員 : 各回6名                         
 参加費 : 1,500円


新宿の中村屋サロン美術館さんの収蔵品を中心にしたもので、光太郎の油彩画「自画像」(大正2年=1913)が出品されます。同館収蔵品の目玉の一つで、現存が確認できている光太郎唯一の油彩自画像です。

會津八一は光太郎より2歳年長の歌人。荻原守衛の関係で光太郎が中村屋さんに出入りしていた明治末とはズレていますが、大正初期に中村屋さんの創業者・相馬夫妻の長男を早稲田中学校で教えていた関係で、中村屋サロンの一員となりました。

光太郎とは直接の交流はほ003とんどなかったようですが、ほぼ同年令で、ともに独特の書を残したことから、並び称されることが多く、平成19年(2007)には、現在地に移転前の會津八一記念館さんで、特別展「會津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」を開催して下さいました。

今回は、光太郎と交流の深かった荻原守衛、戸張孤雁、柳敬助、智恵子の絵画の師であった中村不折などの名品も並びます。当会主催の連翹忌にもご参加下さっている太田美喜子氏の講演会など、関連行事も充実しています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一国の芸術界には常にその中央にかかる犯し難い実力ある翰林派の存在を必要とする。前衛者は常に此に挑戦する。そして常に新らしい生命は生まれる。挑戦すべき権威者も無い芸術界の薄弱さは斯界今日の現状に見よ。

散文「長沼守敬先生の語るを聴く」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

「翰林派」は伝統と格式を重んずる保守的な一派の意。光太郎が敬愛したロダンにせよ、印象派の面々にせよ、そして光太郎も含め中村屋サロンに集った芸術家達にせよ、乗り越えるべき前代の保守的な一派が大きく立ちはだかっていたからこそ、それを打ち破らんとして新しい芸術が生み出せたというわkで、逆説的に芸術におけるアカデミズムを肯定する論調です。

新潟からイベント情報です。

福島大学・うつくしまふくしま未来支援センター主催 新潟シンポジウム ほんとの空が戻る日まで -復興を進める福島の経験を共有し将来につなげる-

日  時 : 2017年3月5日(日) 13:00~17:00
会  場 : 
新潟市東区プラザ ホール 新潟市東区下木戸1丁目4番1号(東区役所2階)
参  加  費 : 無料
参加対象 : 一般市民、大学関係者、学生、行政職員、福島県から避難している方 他
主  催 : 国立大学法人福島大学、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター
共  催 : 国立大学法人新潟大学
後  援 : 文部科学省、復興庁、福島県、新潟県、新潟市、双葉地方町村会、
          日本赤十字社、公益社団法人経済同友会 他

  事前申し込みが必要です。   申込みはこちら →https://ws.formzu.net/fgen/S32789057/

東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故から6年が経過しようとしています。原発周辺地域においては、避難指示が順次解除されることにより、住宅・医療・買物環境など生活に必要な機能も整備され、住民の帰還も着実に進んでおります。一方で、震災以前から地域が内包していた第一次産業の衰退や少子高齢化が急速に加速し、復興が進む中での新たな課題として表面化しています。今回のシンポジウムにおいては、福島県の現状を皆様にお伝えするとともに、復興を通して得られた福島の経験や知見を「経験知・支援知」として生かすことにより、少子高齢化社会に直面するこれからの地域のあり方について共に考えたいと思います。

【プログラム】
Ⅰ 部 基調講演 「震災経験が導くこれからの日本」
   講演者 飯尾 潤 氏 政策研究大学院大学 教授
Ⅱ 部 福島の現状報告
   福島の現状と課題          初澤敏生 FUREセンター長
   原発被災地の復興と市民の力     天野和彦 FURE地域復興支援部門特任准教授
   原子力災害からの福島県農業の再生
  石井秀樹 FURE農・環境復興支援部門特任准教授
   -食と農の安全と安心-福島県における成長産業分野への取組
 安達和久氏 福島県商工労働部再生可能エネルギー産業推進監兼次長
Ⅲ 部 パネルディスカッション「震災・原発事故の経験を活かし将来を思考する」
   モデレーター  丹波史紀  福島大学行政政策学類准教授
   コメンテーター 飯尾潤 氏  政策研究大学院大学教授 
           初澤敏生  FUREセンター長
   パネリスト   遠藤雄幸 氏 福島県双葉郡川内村長
           稲垣文彦 氏 
            公益社団法人中越防災安全推進機構震災アーカイブス・メモリアルセンター長
           松井克浩 氏 新潟大学副学長
           高橋宏一郎 氏 共同通信社編集局科学部長兼原子力報道室長



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同じく福島大学うつくしまふくしま未来支援センターさんの主催で、光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」を冠したシンポジウムは、これまでに京都東京愛知いわきでそれぞれ開催されています。

東日本大震災から間もなく6年。しかし、ここにきてようやく福島第一原発のメルトダウン、メルトスルーの状況が明らかになってきたという状態で、本当の意味の復興にはまだまだというところです。ところが、この分野、人々の関心の風化との闘いという状態でもあります。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此世で一番大切なものを一番むきに求めた人 人間の弱さを知りぬいてゐた人 人間の強くなり得る道を知つてゐた人 彼は自分のからだでその道を示した 天の火、彼

詩「クリスマスの夜」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

「彼」はイエス・キリストです。光太郎はきちんと洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、聖書などは一通り読み、その教義を人生の指針の一つとしていました。この一節も、自分自身の求める道を表出したと読めると思います。

昨日の『朝日新聞』さんに、第37回全日本おかあさんコーラス全国大会の模様を紹介する大きな記事が出ました。
 
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こちらは全日本合唱連盟さんの主催で、8月23日(土)24日(日)の2日間、新潟市のりゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館で行われました。
 
調べてみたところ、東京代表の団体が、光太郎がらみの曲を演奏してくださったとのこと。
 
以下、朝日さんの東京版、先月末の記事から。

東京)2団体がひまわり賞 おかあさんコーラス

 新潟市中央区の新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあで開かれていた第37回全日本おかあさんコーラス全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催、キユーピー協賛)に24日、都内から4団体が東京支部代表として出場。「女声合唱団ジュディ」「舫(もやい)の会女声合唱団」が優秀賞にあたる「ひまわり賞」を受賞し、「グローリア女声合唱団」「アンサンブル ウィスタリア」が「おかあさんコーラス賞」を受けた。
 「ジュディ」と「舫の会」はいずれも指揮者の岸信介さんが指導。信長貴富作曲「世界中の女たちよ」の中からそれぞれに選曲し、反戦のメッセージを発信した。
 「ジュディ」の37人は、息子の死体を捜す母は私でありあなただと歌う曲「たくさんの私」に、戦争の残酷さを浮き彫りにした。福嶋浩美代表(55)は「女性でなければわからない悲しみや、平和を祈る気持ちを、全世界に発信したいと思って歌いました」。
 「舫の会」の75人は、白い総レースのドレスをまとい、「温かいシチュー」を披露した。鍋をかき回し、温かいシチューをつくって、男たちを戦いに行かせないようにしよう――そう世界中の女性たちに呼びかける歌詩を、力強いハーモニーでダイナミックに歌った。茂木やゑ代表(72)は「今、どうしても伝えておきたい、という思いがあって。たくさんのおかあさんたちに、この歌を歌い継いでほしいと願いながら、歌いました」と話していた。
 「グローリア女声合唱団」は2回目の全国大会。18人とは思えない豊かな声量で、美しいハーモニーを響かせた。佐藤賢太郎作詩作曲の「女声合唱とピアノのための合唱組曲『文学へ』」から「ぼうず」「君が見た空」の2曲を披露。百人一首を使ったかるた遊び「坊主めくり」がテーマのコミカルな「ぼうず」も、高村光太郎の「智恵子抄」がテーマで旋律が美しい「君が見た空」も、きれいに合わせるのが難しかったという。田中美知子代表(71)は「全国大会では初めて発信する曲なので、歌ってみたいと思ってもらえるよう頑張りました」と話した。
 藤澤幸義子さん指揮の「ウィスタリア」は初出場。団員13人は木下牧子作曲の「にじ色の魚」「鷗(かもめ)」を、戦争で死んだ若者たちを思う女性の視点に立ってしっとりと歌った。「声高に叫ぶのでなく、静かに平和を願う母なる思いを表現しました」と藤田久美子代表(55)。
2014.08.25
 
佐藤賢太郎氏作詞作曲の「女声合唱とピアノのための合唱組曲『文学へ』」、一昨年に発表されたものだそうですが、楽譜が市販されておらず、今回の報道があるまで存じませんでした。ただ市販されていませんが、PDFで見ることができます。ただし「No copy」の文字が出るのでそのままプリントアウトすることは不可能です。正式な楽譜は佐藤氏に申し込んで取り寄せるという形なのでしょう。またmp3で演奏を聴くこともできます。
 
歌詞は光太郎の「あどけない話」をベースに佐藤氏が作詞したものです。「高村光太郎作詞」というわけではないので、今まで見落としていました。
 
ゆったりとしたテンポで、記事にもある通り、メロディーラインの綺麗な曲です。安達太良山の上に広がる雄大な「ほんとの空」が目に浮かぶような曲です。
 
組曲としての他の曲は『枕草子』へのトリビュート「朝の藤棚」、『小倉百人一首』に題をとった「ぼうず」、松尾芭蕉へのオマージュ「旅に」となっています。
 
全国の女声合唱団の皆様、レパートリーに加えられてはいかがでしょうか。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月4日
 
昭和8年(1933)の今日、智恵子ともども栃木県塩原温泉を訪れました。
 
昭和8年というと、智恵子の統合失調症がかなり進んでいた時期です。光太郎は智恵子の故郷近辺の温泉巡りでもすれば少しは病状が好転するかと考え、智恵子を連れて旅に出ました。昨年焼失した不動湯温泉、裏磐梯などを廻り、その最後に訪れたのが塩原です。しかし、9月中旬に東京に戻ったときには、智恵子の症状はさらに悪化していたそうです。
 
下記は塩原で撮られた一枚。現在伝わっている、智恵子最後の写真です。
 
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光雲の彫刻作品の展示がある展覧会情報を二つ。 

東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち

期 日 : 2014年7月5日(土)~8月17日(日)
会 場 : 新潟県立近代美術館 新潟県長岡市千秋3丁目278-14
時 間 : 9:00~17:00  券売は16:30まで
休 館 : 
7月7日(月)、14日(月)、22日(火)、28(月)、8月4日(月)
  
  催 新潟県立近代美術館 新潟日報社 BSN新潟放送 UX新潟テレビ21
           「法隆寺 祈りとかたち」新潟展実行委員会 法隆寺
特別協力 朝日新聞社
協  賛  大伸社
協  力  日本通運/塩竃港運送
特別協賛  株式会社 福宝

 
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展覧会の概要
 法隆寺は、推古15年(607)に聖徳太子によって斑鳩宮(いかるがのみや)の近くに創建された日本を代表する古刹です。『日本書紀』によれば、天智9年(670)4月30日夜半に落雷によって全焼したとされ、再建には40年を費やしました。その間に、太子時代の優れた仏教美術が多数集められ、法隆寺は太子建立寺院から太子信仰寺院へと変貌を遂げました。現在では、日本で初めて世界文化遺産として指定を受けたことでも、世界中により知られるようになりました。
  本展では、法隆寺が太子信仰寺院として復興していった歴史を踏まえ、国宝《地蔵菩薩立像》をはじめとして、重要文化財18点を含む法隆寺の宝物と、東京美術学校との130年に渡る交流の歴史の証でもある、高村光雲、平櫛田中らの聖徳太子像や《法隆寺金堂壁画模写》、そして法隆寺信仰を示す近代日本美術作品など、一堂に紹介します。
  本年は東日本大震災から3年、そして奇しくも新潟県中越地震から10年にあたります。震災を乗り越えられた方々に、法隆寺再建という歴史を見据えつつ、「日本美術や日本人の精神文化の再発見」を供することは歴史的にも、そしてそれぞれの「復興」という意味においても意義深い展覧会であると言えるでしょう。

展覧会構成
第1部 美と信仰 法隆寺の仏教美術 
第2部 法隆寺と東京美術学校
第3部 法隆寺と近代日本美術

関連イベント
■講演会 講堂 [無料] 申込不要・先着165名
 7月5日(土) 13:00~   「和の社会と日本文化」 講師:大野玄妙 氏(法隆寺管長)
 7月26日(土) 14:00~  「法隆寺の美術と聖徳太子」 
講師:水野敬三郎 氏(同館名誉館長・東京藝術大学名誉教授)

■関連講座 講堂 [無料] 申込不要・先着165名
  8月2日(土)14:00~ 「金堂壁画と日本近代美術」 講師:長嶋圭哉(同館主任学芸員)
■映画鑑賞会 講堂 [無料] 申込不要・先着165名
  7月19日(土)14:00~/15:00~ (2回上映)    映画『聖徳太子』(1994年25分)

 
仙台東京(明後日まで開催中)と巡回され、最後の巡回先の新潟での展覧が始まります。
 
東京美術学校関係者の法隆寺に関わる作品、ということで、光雲の「聖徳太子像(摂政像)」が二体(明治44年=1911、昭和2年=1927)並びます。また、第三部には、法隆寺の103世管主であった佐伯定胤の像も。こちらも光雲作です(昭和5年=1930)。
 
仙台、東京とも好評でした。ぜひ新潟展も盛況となってほしいものです。
 

もう一点、詳細がよくわからないのですが、宮崎県からの情報です。既に始まっています。 

現代人気作家彫刻展

会  場 : 宮崎山形屋 本館6階 美術画廊 宮崎市橘通東3丁目4番12号
開催期間 : 2014年6月18日(水)~30日(月)
開催時間 : 午前10時-午後8時  ※最終日午後5時終了
 
こちらでも光雲の彫刻が並んでいるとのこと。
 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月20日
 
昭和59年(1984)の今日、『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』が刊行されました。
 
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編集・解説は北川太一先生。数百枚の写真を使い、さらに的確な解説で、光太郎の生涯を非常に分かりやすく俯瞰できる作りになっています。
 
刊行後30年経ちますが、まだ新潮社さんのサイトから、新刊で購入できます。

新潟から企画展情報です。

ドナルド・キーンの直筆原稿が語る『日本文学を読む』

会 場 : ドナルド・キーンセンター柏崎 新潟県柏崎市諏訪町10-17
会 期 : 前期 2014年3月10日(月)~7月21日(月)
    : 後期  同 7月25日(金)~12月25日(水) 
 間 : 10時~17時 月曜休館
料 金 : 大人500円 中高生200円 小学生100円
 
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ドナルド・キーンの直筆原稿『日本文学を読む』と直筆の手紙を、連載された雑誌「波」(新潮社)とともに一堂に展示。ドナルド・キーンが伝えたいと願う日本文学の素晴らしさ、面白さを評論で実感していただきたいと思います。
厖大な原稿が埋める展示空間やドナルド・キーンの直筆日本語に圧倒されることでしょう。
そして、直筆原稿が語りかけてくる言葉に眼を向け、耳を澄ませて近現代の日本文学の世界に浸っていただき、さらに、明治、大正、昭和に生きた各作家たちの素顔に触れ、日本文学の素晴らしさ、面白さに思いを巡らせてほしいと思います。
 
雑誌『波』に連載され、昭和52年(1977)に新潮社から単行書として刊行された『日本文学を読む』の草稿を展示するというものです。一回につき6~7枚だったそうです。
  
前後期に分かれ、前期では「高村光太郎」が含まれています。他の作家に関しては上記チラシをご覧下さい。
 
 
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キーン氏といえば、元はアメリカ人(平成24年=2012に帰化)ですが、元々の日本人以上に日本文学に精通されています。おん年91歳(今月で92歳)、まだまだお元気のようで何よりです。
 
今回の展示に関わる『日本文学を読む』は、当方、読んでいませんが、平成9年(1997)に中央公論社から刊行された『日本文学の歴史 17 近代・現代篇8』を持っています。四六判は品切れの可能性がありますが、現在は中公文庫版も発売されています。
 
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画像の帯文でもお分かりになるかと思いますが、近現代詩を扱った巻です。「高村光太郎」の項が約40ページ。図版も豊富で理解の助けになります。ぜひお買い求めを。
 
ところで、この企画展、先頃訪れた成田山書道美術館さんでたまたまチラシを発見し、知りました。ネットでは光太郎をキーワードに検索してもひっかかりません。こういうケースがあるので、怖いですね。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月7日006
 
平成20年(2008)の今日、大阪のいずみホールで開催された関西合唱団創立60周年記念・第73回定期演奏会で、西村朗作曲「混声合唱とピアノのための組曲 レモン哀歌」が委嘱初演されました。
 
全3曲で、第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」、第2曲「山麓の二人」、第3曲「レモン哀歌」です。
 
指揮は守谷博之氏、ピアノ伴奏は門万沙子氏でした。
 
楽譜は全音楽譜出版社から刊行されています(右記画像)。販売用CD等にはなっていないようで、CD化が待たれます。
 

連翹忌ご常連で、元・日本女子医大図書館にお勤めだった細井昌文氏から、今月、新潟で発行された冊子を戴きました。
 
題は『洗心』第24号。発行元は糸魚川市歴史民俗資料館《相馬御風記念館》内の「御風会」さん。詩人の相馬御風の顕彰団体のようです。
 
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細井氏ご執筆の000「御風と高村光太郎」が2ページにわたり掲載されています。
 
相馬御風は光太郎と同じ明治16年(1883)、糸魚川の生まれ。明治末に与謝野鉄幹・晶子の新詩社に加わり、そこで光太郎と知り合っています。
 
明治36年(1903)、同37年(1904)の光太郎日記には御風の名が記されている他、戦時中に御風に宛てた書簡2通、さらに御風に触れた随筆「彫刻その他(二)」(昭和19年=1943)が『高村光太郎全集』に収録されています。
 
また、御風の長女で、智恵子と同じ日本女子大学校卒の文子も本郷の東京帝大史料編纂所に勤務し、光太郎の元を訪れたりしています。『高村光太郎全集』には文子宛の書簡(御風追悼の内容・昭和25年=1950)も掲載されています。
 
細井氏の論考では、御風と光太郎のつながりを解くいくつかのキーワードが挙げられています。
 
その一つ、「口語自由詩」。
 
光太郎が本格的に詩作を始めるのは、海外留学から帰朝後の明治43年(1910)のことです。初めのうちは文語詩が多いのですが、徐々に口語自由詩に移行、大正に入るころにはほぼ文語詩は見られなくなります。
 
一方の御風は光太郎留学中の明治41年(1908)にはすでに口語自由詩を発表しています。他にも口語自由詩に先鞭を付けたのは川路柳虹、三木露風、人見東明など。帰朝語の光太郎はそうした先例に触発されて口語自由詩に傾いていったのだと思われます。
 
また、戦時の体制協力という点もキーワードの一つです。光太郎は文学者の統制団体、日本文学報国会の詩部会長を務め、御風も会員に名を連ねています。光太郎には膨大な数の戦争詩があり、御風もその売上金を海軍省に献金するために発行された『辻詩集』(昭和18年=1943)に作品を寄せるなどしています。もっとも、こうした活動は当時の殆ど全ての文学者に当てはまることですが……。
 
細井氏は、おそらくこの頃に一時途絶えていた光太郎と御風の交流が復活したのではないかと論じられています。また、戦後の光太郎の花巻郊外太田村での隠棲にも触れ、「新しき村」の武者小路実篤や、三里塚に隠棲していた水野葉舟などとともに、既に大正期に糸魚川に帰住していた御風の影響も見て取れるとしています。首肯できる御意見です。
 
ところで、惜しむらくは、おそらくそれなりに数があったであろう御風からのものを含め、戦時中までの光太郎宛の書簡がほとんど残っていないこと。それらは多くの彫刻原型などとともに、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰していまいました。戦後のものはほとんど未整理のまま某所に保管されているのですが、それらの整理も今後の重要な課題です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月22日

昭和35年(1960)の今日、福島二本松の霞ヶ城跡に、光太郎詩碑が建立除幕されました。
 
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霞ヶ城敷地内に、元々あった「牛石」という石に3枚のブロンズパネルを埋め込んだ碑です。
 
表面には光太郎詩「樹下の二人」の一節「あれが阿多多羅山 あのひかるのが阿武隈川」が、裏面には光太郎詩「あどけない話」の一節「阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」が、さらに草野心平による碑陰記がそれぞれ刻まれています。
 
光太郎の筆跡は、智恵子と交流のあった二本松出身の彫刻家、斎藤芳也が木彫で原型を作りました。
 
「あれが阿多多羅山……」の部分の拓本、当方書斎にインテリアとして掲げてあります。
 
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現在、千葉市美術館で開催中の企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。そのポスターやチラシには光太郎の木彫「蟬」が使われています。
 
今回、「蟬」の木彫は3点展示されており、ポスター等に使われているのは、便宜上「蟬3」というナンバーが降られています。こちらは高村家の所有です。
 
他の「蟬」は買われて日本各地に散り、そ無題2のうち「蟬4」とナンバリングされているものは、新潟県佐渡島の渡邉家が購入しました。大正15年(1926)のことです。今でも渡邉家の方が大切に保存なさっていて、今回の企画展で久しぶりに公開されました。
 
大正時代の渡邉家のご当主は渡邉林平。「湖畔」と号し、与謝野鉄幹の『明星』や『スバル』に短歌を発表、その縁で光太郎と知り合いました。単に知り合っただけでなく、お互いに気が合ったようで、佐渡と東京と、離れていながらお互いの家を行き来したりもしていました。
 
そんな関係で、渡邉家にはこの「蟬」以外にも、光太郎筆の油絵(早世した湖畔の娘の肖像)や書幅、書簡なども多数残っています。ちなみに「蟬」は湖畔の弟で、出版社を経営していた芳松の発注です。それらは平成19年(2007)、新潟市会津八一記念館で開催された企画展「会津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」でまとめて公開されました。
 
さて、過日、湖畔の弟、芳松のご子息・和一郎氏から書籍を5冊もいただきました。『渡邉湖畔年譜』、『渡邉湖畔遺稿集』、『佐渡びとへの手紙 渡邉湖畔と文人たち』上中下の5冊です。和一郎氏、連翹忌にもご参加いただいておりますし、千葉展の初日・オープニングレセプションにもいらして下さいました。
 
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光太郎はもちろん、与謝野夫妻や会津八一などとの交流のようすが生き生きと描かれています。全て新潟での自費出版ということで、簡単に手に入るものではありません。ありがたい限りです。
 
特に「蟬」が再び日の目を見たときのくだり。芳松は早くに亡くなり、「蟬」や関連する書簡は久しく土蔵にしまい込まれていて、しまい込まれたことも忘れられていたとのこと。
 
同じような例は他にもいくつかあります。まだまだ日本のどこかに光太郎の彫刻も眠っているのかもしれません。

2020年追記 京都から5点めの「蝉」が見つかり、2020年、富山県水墨美術館さんでの企画展「画壇の三筆」にて展示されます。

さらに追記 同展、コロナ禍のため中止となりました。残念です。

2021年追記 同展、2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

 
【今日は何の日・光太郎】 7月18日

昭和51年(1976)の今日、6月から開催されていた東京セントラル美術館の「高村光太郎―その愛と美―」展が閉幕しました。
 
この時点ではまだ「蟬4」の存在は一般に知られていませんでした。

新潟から入ったイベント情報です。

シーズン&アート第29章 「高村光太郎-安達太良山と智恵子」

 季節にあった文学の朗読・解説と、音楽の生演奏をお楽しみいただく「シーズン&アート」。
 今回の文学は、彫刻家であり偉大な詩人でもあった高村光太郎が、妻・智恵子への想いを綴った愛の詩集《智恵子抄》です。
『智恵子抄』は、高村光太郎の智恵子への深い愛情が、美しい東北の風景や千葉の九十九里浜の砂山の情景と重なり、絵的な美しさを感じさせる作品です。
今回は、高村光太郎の詩集『道程』、『智恵子抄』を、元NHKアナウンサーの高山憲治さんが朗読し、文芸評論家の若月忠信さんが解説します。
 二期会会員のソプラノ歌手・吉田友子さんが、朗読にあわせて歌曲『智恵子抄』より「あどけない話」や「レモン哀歌」などを歌います。
鈴木賢太さんのピアノ演奏でお楽しみいただきます。
 死後も光太郎の心に生き続けた智恵子の姿。詩からあふれる二人の愛の美しさを感じてください。
 
開催概要
日時  平成25年6月1日(土曜) 午後1時から午後3時(開場:午後0時30分)
会場  新潟市江南区文化会館 音楽演劇ホール 新潟市江南区茅野山3丁目1-14 
定員  120名 (先着順) 

文学  高村光太郎 『智恵子抄』、『道程』 
出演者 朗読     高山 憲治 (元NHKアナウンサー)
 解説 
  若月 忠信(文芸評論家)
    歌        吉田 友子(ソプラノ、二期会会員)
    ピアノ   鈴木 賢太(新潟大学教育学部音楽科准教授)
料金  一般1,000円
お申込み方法  新津美術館あてに電話、FAX、メールいずれかで「代表者の住所、氏名、電話番
号、参加人数」をお伝えのうえ、お申込みください。(先着申込順、4月26日より受付開始)
 電話:0250-25-1300 FAX:0250-25-1303
 メール:museum.ni@city.niigata.lg.jp 

公演プログラム
朗読 高村光太郎 『智恵子抄』 より
    樹下の二人 、あなたはだんだんきれいになる
    あどけない話 (智恵子抄「あどけない話」 (清水脩作曲)の演奏とともに )
    千鳥と遊ぶ智恵子
    山麓の二人
    レモン哀歌 (智恵子抄「レモン哀歌」 (清水脩作曲)の演奏とともに)
    案内 ほか
    高村光太郎 『道程』 より 道程
演奏 歌 吉田友子(ソプラノ) ピアノ 鈴木賢太
朗読にあわせて
 あどけない話 (清水脩作曲 「智恵子抄」より)
 レモン哀歌 (清水脩作曲 「智恵子抄」より)
歌 砂山 
  九十九里浜
  浜千鳥 (鹿嶋鳴秋作詞、弘田龍太郎作曲 童謡)
  オペラ 「トスカ」より 歌に生き、恋に生き 
ピアノ  ドビュッシー 「月の光」 
     テクラ・バダジェフスカ 「乙女の祈り」 ほか
注) プログラムは変更になる場合があります。
 


早速、当方、申し込みました。
 
【今日は何の日・光太郎】5月8日
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、運動会を見物しました。
 
光太郎、なんと、前の年の運動会(残念ながら詳細な日付が不明)では、「老人の部」の「瓶つり競走」に参加しています。

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旧山口小学校(現在は取り壊されてしまって見ることができません)

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