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手前味噌で恐縮ですが……。

文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」

期 日 : 2023年6月24日(土)
会 場 : 千葉県立東部図書館 千葉県旭市ハの349
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 無料

日本の近代美術・文学に偉大な足跡を残した高村光太郎は、今年生誕140年を迎えます。十和田湖畔の『乙女の像』をはじめとする彫刻作品、人口に膾炙した詩の数々。中でも特に人々に愛される詩集『智恵子抄』の中に、千葉県を舞台にした作品があることをご存じでしたか。 本講座では、光太郎と妻・智恵子の波乱に満ちた生涯に触れ、二人が訪れた銚子・犬吠埼、成田・三里塚、九十九里浜を資料とともに辿ります。(聴講無料)  チラシはこちら(PDF:1.5MB)

講 師 : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
定 員 : 30名
募集方法 
 6月1日(木)より、電話・FAX・E-mail・来館にて先着順に受け付けます。

※手話通訳や車いす等の配慮が必要な方は、6月10日までにお申し出ください。なお、ご希望に沿えない場合もありますので、あらかじめご承知おきください。

問い合わせ
千葉県立東部図書館 読書推進課
〒289-2521 旭市ハの349 TEL 0479-62-7070 FAX 0479-62-7466
E-mail:elib-kouza@mz.pref.chiba.lg.jp

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若干先の話ですが、どうもあまり応募が多くなさそうなので……。

案内文にあるように、光太郎智恵子と房総各地の関わり――二人が愛を確かめ合った銚子犬吠埼、光太郎親友の水野葉舟が移り住み光太郎もたびたび訪れた成田市三里塚、心を病んだ智恵子が半年余り療養した九十九里浜など――について、語らせていただきます。

ちなみに東部図書館さん、住所は「旭市ハ」ですが「はち」ではありません。カタカナの「ハ」です。カーナビ等使われる方、御注意下さい。千葉県では住所に「イロハ」が用いられるケースが少なくありません。当方自宅兼事務所のある香取市(東部図書館さんのある旭市の隣町)にも「佐原イ」から「佐原ホ」が存在します。現在住んでいる場所は別ですが、生まれは「佐原ロ」。「さわらぐち」ではありません。「さわら・ろ」です(笑)。このように「地区名」+「イロハ」が多いのですが、旭市は地区名そのものが「イロハ」。千葉県立旭農業高校さん(昔、親戚が勤務していました)の住所は「千葉県旭市ロ1番地」。これが不動産登記簿に登記されている日本で最短の地名だそうです(笑)。

閑話休題、お近くの方(首都圏からですとけっこうな距離なので、お薦めするのが心苦しいところです(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】002

新潮社からの刺繍の名はまだきめてありません。多分「猛獣篇」かと思ひます。期日もわかりませんが十一月頃でせうか。


大正11年(1922)6月25日
 野田守雄宛書簡より
 光太郎40歳

猛獣篇」の連作詩は2年後の大正13年(1924)から書かれ始めます。さまざまな動物や架空の生き物に仮託して、自己の荒ぶる魂を謳うものです。有名な「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)なども含まれています。まだ具体的な詩篇が書かれていないうちに、新潮社から出版の話があったようです。しかし、結局、「猛獣篇」としての単独出版は光太郎生前には実現せず、没後の昭和37年(1962)になって、当会の祖・草野心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで刊行されました。印刷、製本等には当会顧問であらせられた故・北川太一先生もご協力なさいました。

大正元年(1912)夏、光太郎智恵子が愛を確かめ合った犬吠埼のある千葉県銚子市。

昨年から市のサイト上で「銚子市デジタルアーカイブ」の運用が始まっています。

銚子市デジタルアーカイブについて

化石、土器、民俗資料など銚子の文化財や標本をネット上で公開する「銚子市デジタルアーカイブ」の運用を4月1日から開始しました。博物館がない、展示スペースや学芸員が足りないなどの理由からなかなか公開できなかった貴重な資料が、いつでもだれでも閲覧できるようになります。

銚子ジオパークミュージアムの目玉資料でもある「千葉県指定天然記念物犬吠埼産出のアンモナイト」。デジタルアーカイブでは、自分でカーソルを操作して360度見ることができます。

開始日時  令和4年4月1日(金曜日)
公開資料数 約1万点

デジタルアーカイブはこちらから
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違っていたらごめんなさい、ですが、その後、閲覧できるデータを増やしているようで、先頃、ネット全体をキーワード「高村光太郎」で新着情報の調査中に、このアーカイブに辿り着きました。

調べてみて仰天しました。銚子出身の詩人で、光太郎と交流の深かった宮崎丈二関連の資料がごっそり(なんと1,239件)市に寄贈されていたためです。

大半は宮崎が手元に残した原稿(コピー機のなかった時代、出版社等に送るのと別に自分で手控え用に残したのでしょう。光太郎も同じように詩稿を遺しています)、それから画家としても名を成した宮崎ですので、絵画でした。それ以外に、光太郎を含むビッグネームからの来翰も。

ただ、光太郎からのものは、担当者の方が題名を誤っていまして、「高村光太郎が宮崎丈二に宛てた書簡」とすべきところを逆に「宮崎丈二が高村光太郎に宛た書簡」としてしまっています。ついでに言うなら「宛てた」が「宛た」。まぁ、あまりに膨大な点数なのでデータ入力も半端ないでしょうから、いたしかたありますまい。
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光太郎書簡は3通。封書は封筒と便箋を別にカウントしています。全て『高村光太郎全集』に既収で、以前には同市にあった青少年文化会館というホールのロビーに設けられていた郷土の偉人コーナー的なスペースに展示されていて、現物を拝見したこともあるものでした。

それから、宮崎が光太郎について書いた様々な原稿など。光太郎の原稿(「宮崎丈二詩集「白猫眠る」を読む」 雑誌『河』第6年第59号 昭和7年掲載)というのもありますが、これも宮崎が手元に残した手控えらしく、光太郎の筆跡ではありませんでした。
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これ以外にも、題名に「光太郎」と入っていませんが、やはり宮崎の光太郎に触れた詩文原稿が複数ありました。

光太郎以外のビッグネームからの宮崎宛来翰、送り主は、室生犀星、梅原龍三郎、武者小路実篤、木村荘八、岸田劉生、長与義郎、佐藤惣之助ら錚々たる面々。さらにはパリから高田博厚。これには驚きました。

また、宮崎関連資料でないところでは、光太郎智恵子が大正元年(1912)に宿泊した暁鶏館犬吠埼灯台等の古写真、「まちなかの文化遺産」ということで「犬吠の太郎」こと阿部清助の墓の画像なども見られます。

この手のデジタルアーカイブ、国立国会図書館さんをはじめ、図書館さん等で手持ちの貴重資料等のそれを公開している例は少なくないようですが(台東区立図書館さんなど)、市町村としてやられている例は珍しいのではないでしょうか。今後、こういった取り組みがさらに広がってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

長らくの間ちゑさんをおねがひいたし お蔭さまにて大層健康を取り返し 此度帰京の運びと相成候事まことにうれしき事とよろこび居申候 御たんせいの段ありがたく存上候 ちゑさんより皆々様目下無事の事承りよろこび候 小生つねづね御無沙汰のみいたし居り申訳無之 せめてこの五月にはちゑ子ともども参上いたし度き事に存居候 ちゑさんもなほ当分は静かに生活いたして再び健康をそこねぬやうにと用心いたし居候間 此段御安心被下度候


大正9年(1920)3月16日 長沼セン宛書簡より 光太郎38歳

前年に湿性肋膜炎(おそらく結核性)を発症した智恵子は東京で入院後、8月頃郷里二本松に帰り、この年3月まで実家の長沼家に滞在していました。そこで長々と智恵子を預かってもらった礼状です。

五月にはちゑ子ともども参上」は智恵子の父・今朝吉の三回忌法要にあわせて実現し、この際の体験が、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」(大正12年=1923)で謳われることになります。

千葉県北東部、九十九里浜北端付近の旭市にある県立東部図書館さんでのミニ展示です。すでに先月から始まっているのですが、公式サイトに案内が出ましたのでこのタイミングでのご紹介です。

資料展示「高村光太郎 生誕140周年」

期 日 : 2023年4月23日(日)~6月30日(金)
会 場 : 千葉県立東部図書館 千葉県旭市ハの349
時 間 : 平日 午前9時から午後7時 土・日・祝休日 午前9時から午後5時
休 館 : 月曜日 第3金曜日
料 金 : 無料

 日本の近代美術・文学に偉大な足跡を残した高村光太郎は、今年生誕140年を迎えます。 十和田湖畔の『乙女の像』をはじめとする彫刻作品、人口に膾炙した詩の数々。中でも特に人々に愛される詩集『智恵子抄』の中に、千葉県を舞台にした作品があることをご存じでしたか。
 東部図書館では、光太郎のあゆみや作品、妻・智恵子を初めとする周辺人物について知ることのできる資料を展示します。光太郎が翻訳・執筆した大正時代の出版物も並びます。この機会にぜひお手に取ってご覧ください。

展示資料リストは こちら(1MB)

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案内にある通り、千葉県には光太郎、そして智恵子の足跡も残っています。特に人生の節目節目にそれらを残しているというのも特徴です。

大正元年(1912)には、銚子犬吠埼で結婚前の二人が愛を誓い合いました。しかし、二人の共棲生活は智恵子の心の病で破綻、智恵子は昭和9年(1934)に九十九里浜で約半年の療養生活を送ります。また、成田三里塚には光太郎詩「春駒」詩碑。関東大震災の後に作られた詩で、この頃から光太郎詩は「猛獣篇」時代に入ります。

で、まだ公式発表になっていませんが、来月24日(土)、同館で開催されるそのあたりに関する市民講座の講師をすることになりまして、その関係もあってこの展示が為されています。

今月初めに、調べ物もありましたし、打ち合わせを兼ねて同館にお邪魔し、展示を拝見して参りました。その際に撮影した画像。
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同館のみならず他館からも借りうけたりし、なかなか賑やかな感じにレイアウトされていました。中には古い雑誌でちょっと珍しいもの、地元で少部数の自費出版が為されたものなども。さらにバックヤードにも入れていただき、「この本でも光太郎が大きく取り上げられていますよ」というのを何冊か推薦し、増えています。

当方の講座の方は、また詳細が発表されたらご紹介します。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

クリスマスのおよろこびを私達からもお受け下さい。 あなたの清い心と同朋を思ふ熱い情とにますます祝福のある様にといのります。


大正7年(1908)12月24日 小橋三四子宛書簡より 光太郎36歳

光太郎、洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、キリスト教の考え方に対する興味関心は少なからず持っていました。少し後にはイエスを題材とした詩「クリスマスの夜」(大正11年=1922)「触知」(昭和3年=1928)なども書いています。

この葉書は珍しい光太郎智恵子連名のものの一つです。そこで、「私達」です。
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昨日は市原湖畔美術館さんの「末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―」展に行っておりました。レポートいたします。

同じ千葉県内ということで、自宅兼事務所から自家用車で1時間ちょっと。美術館さんの近くまで行ったあたりで、小湊鐵道さんの「房総里山トロッコ」が走っていました。
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美術館さんはその名の通り、高滝湖というダム湖に面した高台に。
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まずは展示を拝見。
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絵本編集者にして生前の光太郎をご存じの末盛千枝子氏と、光太郎と親しく交わったお父さま・舟越保武をはじめとする芸術一家にまつわる展示です。
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末盛氏が関わられた絵本、その原画、弟君の舟越桂氏の作品など。
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夫君にしてNHKさんの伝説的番組「夢であいましょう」などを手がけられたディレクター末盛憲彦氏関連の展示もなされていました。

撮影不可でしたが、父君・舟越保武の彫刻も。代表作の一つにして高村光太郎賞受賞作「長崎26殉教者記念像」のうちの一体などが出ていました。
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直接、光太郎に関連する展示物はなかったようですが、説明パネルに等は随所に光太郎の名。
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舟越家クロニクル的な御家族の写真コーナーもありました。昭和37年(1962)の第6回連翹忌の集い兼第5回高村光太郎賞授賞式の写真がないかと探しましたが、残念ながらありませんでした。千枝子氏が連翹忌の集いにご参加下さった唯一の機会でしたが。左下の画像は、千枝子氏の御著書『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』から。右下は故・北川太一先生がまとめられたこの年の連翹忌の記録です。「舟越」が「船越」と誤植されていますが。
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錚々たる出席者ですね。しかし、当方が把握している限り、ご存命の方は千枝子氏とあとお二人だけです。ちなみに当方、まだ生まれていません(笑)。

展示を拝見し終わり、午後1時から、千枝子氏のご講演。

そちらの会場には、八幡平市ご在住の千枝子氏が関わられた「3.11 絵本プロジェクトいわて」関連の写真。東日本大震災で被災した子供たちに絵本を届けようというコンセプトでした。
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昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎も訪れた釜石。
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そしてその後、全国から寄せられた絵本。
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うるっと来てしまいました。

そしてご講演。
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絵本関連のお話を中心に、上皇后美智子さまとのご交流のお話なども交え、約2時間弱。

終了後、サイン会。
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「10年近く前、花巻代官山でお世話になりました」とご挨拶して参りました。

同展、6月25日(日)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヒユウザン会が明日から始まりますので今朝早く京橋のヨミウリ社へまゐりちよつと中途で帰宅しましたら花がどつさりとおてがみがはいつてゐました 折角わざわざおいでの処をほんとに残念に存じました


大正元年(1912)10月14日 長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子の直ぐ下の妹。ヒユウザン会展開幕を祝って、光太郎アトリエ兼住居に花を届けに来たようですが、入れ違いになってしまったとのこと。

同展には智恵子の出品も予告されていましたが、どうしたわけかそれは実現しませんでした。
ヒユウザン会
予告広告では10月5日開幕となっていますが、実際には15日開幕でした。

どうもこの時期は関連するイベント等が少なく、ネタ不足です。まぁ10年以上このブログを続けていますと、この時期そうなることはわかっていますので、そうなった場合に備えてストックしておいたネタを、今日明日で使います。

今日は光太郎の父・光雲ゆかりの千葉県市川市の中山法華経寺さんを訪れたレポート。訪れたのは昨年10月、同じ市川市の市川市文学ミュージアムさんで開催されていた「月に吠えらんねえ展<ようこそ!おもひ まぼろし ことだまの街へ>」を拝観した後でした。その季節は逆に紹介すべきネタが多すぎて、特に速報性の必要ないネタはネタ不足になった際に使おうと、ストックしていたわけです。

こちらには、光雲原型の日蓮上人銅像が平成25年(2013)に奉納されており、そちらを拝見しようと伺いました。ちなみに同型の像は鎌倉の長勝寺さん、石川県の実相寺さんにも納められていまして、探せばさらに他にもありそうです。

中山法華経寺さんには自家用車で参りまして、駐車場は境内裏手でした。三門(山門)脇に目指す日蓮上人像が見えたのですが、それを横目に通り過ぎ、駐車場へ。裏から参拝するというのも何ですが、仕方がありません。

「中山」といえば「中山競馬場」。指呼の距離なので、このあたり一帯、もっとごみごみしているのかなと想像していたのですが、あにはからんや静謐な一角でした。
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国指定重要文化財の五重塔などを見つつ、広い境内を進みました。

本堂にあたる祖師堂は改修工事中でした。
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境内に茶店などが軒を連ねており、いずれかのお店で飼われているのでしょうか、丸々としたにゃんこ(笑)。
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やけに友好的でしたので、なでてあげました(笑)。

さて、裏から三門をくぐり、改めて正面から撮影。大正15年(1926)の建築だそうで、それほど古いわけではありませんが実に立派です。
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そのかたわらに、目指す日蓮上人像。なかなかの迫力です。
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台座正面のプレートには「光雲原作」の文字。「高村」の文字が無いのが何だかなぁという感じでした。裏手の碑陰記的なプレートにも「高村」の文字は入っていません。そのあたり、権利関係などどうなっているのかなと思いました。

再び三門をくぐり、祖師堂に参拝して帰りました。

銅像フェチの方、古刹マニアの方、光雲ファンの方、日蓮信奉者の方、その他、ぜひ足をお運び下さい。

明日は、急ぎ紹介すべき事項がなければ、都内中央区日本橋付近のレポートを。

【折々のことば・光太郎】

君は「ホームシツク」を起しちやいけないと言ふけれど、いけないと言つても起つて来れば仕方がないが人間の弱みですよ。何ぼ僕でもメソメソしてゐるのでは無いが、時々シンから底からぼんやりして、何事も思はず、時間と空間とを忘れて、東京にゐて僕の家にゐて、親や兄弟の声の聞える自分の室にゐて、君なんかと話をしたり、油土をいぢつたりした事を、想ひ出すのではない、其の時になつて仕舞ふ事があります。恁ういふ時が又何とも言はれない程楽しいので、言はば眼の覚めてゐる夢ですね、確に父や母の声が聞えますし、面影が眼に浮んで来て、丁度其時の衣服の縞柄、色工合まで間違つてゐないと思はれる。こんな心の状態は僕は今まで知らなかつた。


明治39年(1906) 月日不明 水野葉舟宛書簡より 光太郎24歳

留学先のニューヨークから、日本にいた親友の水野葉舟に送った書簡の一節です。明治末期には既に「ホームシック」という言葉、概念があったのですね。

過日ご紹介した、千葉県銚子市犬吠埼の老舗旅館にして光太郎智恵子ゆかりの宿・ぎょうけい館さんの閉館の件につき、確認出来ている限り新聞二紙が光太郎智恵子にからめて報道して下さいました。

まず『読売新聞』さん、閉館直前の1月15日(日)の報道でした。

犬吠埼・老舗旅館 あす終了 明治7年創業 伊藤博文、島崎藤村も滞在

 創業150年近くの歴史を持ち、明治から昭和にかけて多くの著名人が宿泊したことで知られる銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」が、今月16日に旅館営業を終了し、31日に閉館する。
 同館は1874年(明治7年)創業。太平洋を一望できる水郷筑波国定公園内にあり、離島や高所を除けば日本で最も早いとされる初日の出を全客室(33)から眺めることができる。かつては伊藤博文、国木田独歩、島崎藤村ら多くの著名人が滞在。詩集「智恵子抄」を書いた高村光太郎が、後に妻となる智恵子と再会した場所とも伝えられている。過去には囲碁の本因坊戦の開催地にもなった。
 同館は株式会社「銚子暁鶏館(ぎょうけいかん)」が所有するが、1986年からは日本ビューホテルグループに運営を委託している。同グループとの運営委託契約を打ち切った。
 コロナ禍なども影響したとみられるが、銚子市を代表する観光施設の一つで、閉館を惜しむ声も聞かれる。銚子暁鶏館は、「旅館がある場所は唯一無二の景観を誇る。銚子市の貴重な資産でもあり、できればその資産を生かし続けたい」とし、再開を模索する考えも示している。


続いて『朝日新聞』さん。昨日の千葉版。

ぎょうけい館 伊藤博文らも宿泊 149年の歴史に幕 銚子・犬吠埼、観光客減り

 銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」が16日、営業を終えた。31日に閉館し、149年の歴史に幕を閉じる。伊藤博文や国木田独歩、島崎藤村ら著名人が宿泊したことでも知られるが、銚子市の観光客減少の影響を受けた。
 北海道から来た父親と宿泊した成田市の男性(32)は「初めて泊まったら最後だった。また来たかったのに残念」と話した。
 同旅館は1874(明治7)年創業。犬吠埼灯台の南側にあり、太平洋を一望できる温泉露天風呂や全33室から海が見渡せる宿として人気だった。
 詩人で彫刻家の高村光太郎は1912年、宿に泊まった折、別の宿にいた後の妻となる智恵子と再会し、写生などをして過ごした。「智恵子抄」では「運命のつながり」と書いている。
 旅館の所有者は銚子暁鶏館(銚子市)で、86年から日本ビューホテルグループに運営を委託してきた。その委託を終了した。グループ側の斉藤浩文総支配人は「歴史がありリピーターに支えられてきた。明かりはともし続けてほしい」。暁鶏館関係者は「新たな利用方法も含め検討したい」と話すが、具体策は未定だ。
 市によると、市内宿泊客数のピークは1985年の58万7千人。団体旅行の減少や東日本大震災、原発事故の風評被害、コロナ禍などが重なり、2021年は11万6千人に。犬吠埼周辺の温泉宿はかつての半分以下の4軒になる。
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3枚目の画像は館内に展示されている伊藤博文の書だそうです。下の方にはこちらで行われた囲碁の本因坊戦の写真も。

光太郎智恵子がここに泊まったのは、大正元年(1912)8月末から9月頭にかけて。光太郎は、この年秋に開催されたヒユウザン会展に出品する油絵を描くためでした。父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と訣別するため、光太郎はこの時期、彫刻より油絵制作を主に行っていました。

光太郎の犬吠行きを聞きつけたであろう智恵子が、すぐ下の妹で智恵子と同じく日本女子大学校(教育学部)を出たセキ、同じく日本女子大学校の英文科を智恵子と同じ明治40年(1907)に卒業した藤井ユウとともに、犬吠にやってきました。最初、三人で暁鶏館とは別の御風館に泊まっていたのですが、セキと藤井が先に帰京、智恵子は光太郎の泊まっていた暁鶏館に移ったといいます。

以前の通説では、この時期、智恵子に地元・福島で医師との縁談があり、煮え切らない態度の光太郎にふんぎりをつけさせるべく、智恵子は縁談を断って光太郎の元に駆けつけたとされていました。しかし、近年の研究で相手の医師にはこの時期既に妻子がいたことが分かっており、その医師との縁談があったとしてももっと前、この時期に縁談がまたあったとしても別の人物が相手、ということになります。また、この時期に縁談が、ということそのものが優柔不断な光太郎に対する智恵子の嘘だった可能性も否定できません。そうだとすると、詩「人に」(原題「N――女史に」)で「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳った光太郎、まんまとしてやられたわけですが(笑)。

光太郎の犬吠からの帰京は9月4日。翌日、編集者の前田晁に送った絵葉書の発見により、特定出来ました。
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宛名面に「犬吠でひどい風雨にあひました 昨夕帰つて来ましたら東京の静かなのに驚きました 潮の音のないのがつまりません」としたためられています。

ちなみにまさに暁鶏館で書かれたであろう8月31日付けの絵葉書も一緒に発見。
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写真は犬吠埼の北、黒生海岸のものです。

智恵子の方はというと、光太郎と共に帰京したのか、それとも前後して一人で帰ったのか、そのあたりは未だ不明です。

暁鶏館と光太郎、というと、これも以前にも書きましたが、詩「犬吠の太郎」。光太郎が犬吠を訪れた際に暁鶏館の風呂番をしていた本名・阿部清助、通称「長崎の太郎」(長崎は犬吠の南の地名ですが、それではわかりにくいので「犬吠の」としたのでしょう)をモデルにした詩です。太郎は会津藩士の息子でしたが、知的障害があり、曲馬団のビラ配りや暁鶏館での下働きなどをしていました。

ぎょうけい館さんのエントランスホールには、隣接する旭市ご出身の版画家・土屋金司氏の版画「犬吠の太郎」が飾られていたはずでしたが……。

さて、ぎょうけい館さん、上記新聞記事には「再開を模索する考え」「新たな利用方法も含め検討」という記述もありますので、このまま廃墟になったり、取り壊されて更地になったりということにはならないでほしいものです。できればやはり旅館として存続してほしいのですが……。

【折々のことば・光太郎】

今日は誰も来ず、しづかに原稿かき、「焼失作品おぼえ書」20枚かき終る、

昭和31年(1956)2月26日の日記より 光太郎74歳

「焼失作品おぼえ書」は、この年4月、5月の雑誌『新潮』に載りました。戦災や金属供出で失われた自作の彫刻の数々について、淡々と語るものです。発表された散文としては最後のものとなりました。ただし、翌月、死の4日前に追加で1枚を書き足しています。

昭和20年(1945)の空襲で駒込林町の住居兼アトリエが全焼した際は、多くの彫刻が焼失したことをむしろさばさばした思いで捉えていた光太郎ですが、もはや彫刻制作不可能となった死の床での、かつて自らの手で生み出された造型の数々に対する思いは、読む者の胸を打ちます。

千葉県佐倉市の志津図書館さん。毎月、佐倉市近隣エリアへの「マイクロツーリズム」と題し、館内の一角で近隣地域の歴史的スポット等をパネルや映像、関連図書等で紹介なさっています。

昨年10月が富里市七栄の「国登録有形文化財 旧岩崎邸末廣別邸」、11月で佐倉市下志津原と四街道市内に残る「旧軍施設の遺構」、12月には総武本線の駅でありながら秘境感漂う「JR南酒々井駅」を起点に、地酒・甲子正宗の醸造元である「飯沼本家」がそれぞれ紹介されました。

そして今月は「日本一短い鉄道 芝山鉄道「芝山千代田駅」を起点に、成田市三里塚記念公園」。

明治の初めから三里塚の地にあって、〝桜と馬の牧場〟として長い間多くの人々に親しまれてきた旧宮内庁「下総御料牧場」は、成田空港の建設に伴い昭和44年に栃木県塩谷郡高根沢町に移転しました。
園内には、我が国の畜産振興のパイオニアとして輝かしい足跡を残してきた御料牧場の名を永くこの地にとどめるため、旧御料牧場事務所を模して建設した「三里塚御料牧場記念館」があり、御料牧場の歴史、皇室と御料牧場の関わりについての資料、御料牧場の畜産機材などが保存・展示されています。
また、各国の大公使を招待する園遊会場、皇族の宿舎として使用された「三里塚貴賓館」、大平洋戦争開戦時に、皇族〈東宮:現在の上皇〉の使用を想定して建設された「防空壕(御文庫)」があります。
広い敷地にはマロニエの並木道が続き、三里塚ゆかりの水野葉舟、高村光太郎の文学碑などもあり、市民の憩いの場となっています。
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三里塚記念公園は、宮内庁の旧御料牧場があった場所に整備されています。そこからほど近い場所に、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も訪問、詩「春駒」を作りました。昭和52年(1977)には公園内に光太郎自筆稿を元にした詩碑も建立されています。

また、昨年には公園近くの三里塚コミュニティーセンターさんで、「春駒」の一節を冠した「三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』」展も開催されました。

御料牧場だけあって、貴賓館や、戦時中にはやんごとなき方々のための防空壕も建設。そのあたりについても紹介されているとのこと。

こちらの展示、さらには三里塚公園さん自体も、ぜひ足をお運び下さい。

それにしても志津図書館さん、こうした地域の歴史をを掘り起こすミニ展示を毎月なさっているその姿勢には頭が下がります。全国の類似施設の方々、ご参考になさって下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后自由国民社の人くる、花巻温泉のこと談話筆記七枚位、


昭和31年(1956)2月15日の日記より 光太郎74歳

花巻温泉のこと」は、「ここで浮かれ台で泊る/花巻」の題で、4月発行の『旅行の手帖』第26号に掲載され、9月には『ポケット四季の温泉旅行』に転載されました。

「花巻温泉」といいつつ、花巻温泉さんだけでなく、鉛温泉さん、大沢温泉さん、台温泉さんなどにも触れ、かつて花巻郊外旧太田村に蟄居していた際にたびたび訪れた各温泉の魅力や思い出を、楽しげに語っています。

この手の談話筆記、光太郎生涯最後のものとなりました。

新年早々残念な話題ですが……。
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千葉県銚子市犬吠埼の老舗旅館・ぎょうけい館さん。明治7年(1874)創業で、大正元年(1912)夏には、結婚前の光太郎が写生旅行のため滞在、それを追ってきた智恵子も宿泊し、愛を確かめ合った宿です。光太郎智恵子ゆかりの宿としてテレビ番組等で紹介されたこともたびたびでした。

光太郎が「智恵子抄」を執筆した宿、と紹介されることもありました。ただ、確かに犬吠から帰った直後に「智恵子抄」に収められた「或る宵」「梟の族」「郊外の人に」などの詩を発表していますが、これらをこの宿で書いたという事実は確認出来ていません。
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建物は建て替わり(明治期の生け簀の跡などは現存)、経営も代わって(現在の母体は日本ビューホテル株式会社さん)、宿の名も元々漢字だった「暁鶏館」から平仮名交じりの「ぎょうけい館」となりはしましたが、連綿と歴史を刻んで来られました。

当方、宿泊したことはありませんが、何度も訪れ、食事はさせていただいたりしました。

しかし、1月16日(月)のチェックアウトをもって、およそ150年の歴史に幕を閉じられるとのこと。残務整理等のため、1月31日(火)までは業務を続けるそうですが。
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既にレストランは営業を終了しています。

特に言及はされていないのですが、やはりコロナ禍によるところが大きいのではないのでしょうか。コロナのため全国的に大ホテルさんの営業停止が続いていますし。

どこか他の会社さんで営業を引き継いで「暁鶏館(ぎょうけい館)」の名を残していただければ、と思うのですが、難しいのでしょうね。

かえすがえす残念です。

続いて、まったくの別件ですが、テレビ放映情報です。

徹子の部屋 渡辺えり

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演劇の道一筋50年、渡辺えりさんがゲスト。高校卒業後は地元・山形に残ってほしかった父の反対を押し切り上京。当時、娘を心配した父からは毎日手紙が…。それほど娘を溺愛した父が昨年95歳で亡くなった。病室で最期に対面した後は葬儀までバタバタと進んだ。突然のことで気が動転する自分をなだめ、全てを取り仕切ってくれたのは弟だったという。実は父が他界する直前に足を剥離骨折した渡辺さん。自分のことまで気遣ってくれた親族のありがたさが身に沁みたと語る。

出演 黒柳徹子 渡辺えり

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ゲストの渡辺えりさん、昨年亡くなったお父さまについてのお話もなさるそうです。お父さまの渡辺正治氏、戦中、戦後と、光太郎と交流がおありでした。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃奥平さんくる、岩国のハスをもらふ、 ヒゲソリ、洗髪、 藤島さんくる、詩朗読の話、
昭和30年(1955)12月31日の日記より 光太郎73歳

昭和30年(1955)も暮れて行きました。光太郎の生命の炎、あと3ヶ月と少しです。

毎年恒例となっていますが、昨日は初日の出を拝みに、九十九里浜に行っておりました。

以前は昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が療養していた現在の九十九里町の片貝海岸まで足を伸ばしておりましたが、そちらは近年、複雑な形の巨大防潮堤が出来てしまい、味気ない感じになってしまいましたので、昨年からは自宅兼事務所のある香取市に隣接する旭市でご来光を拝んでいます。

ついでに言うと、17歳で逝ってしまった愛犬が健在だった頃は毎年連れて行きましたが、一人で行くようになって3回目でした。現在も居る愛猫ではこんな際のお供は務まりません(笑)。

今年は、昨年行った足川浜というところからさらに南の海岸で。昨年の場所は車を駐めたり出したりで少し苦労しましたので。今年はそのあたりスムーズに動ける場所を探し出しました。それでもそれなりの人出でした。
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現地に着いた午前6時過ぎ。すでに東の空は茜色。
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西高東低の冬型の気圧配置で、太平洋上には低気圧があるため水平線上には雲がかかっていましたが、その上は快晴状態。なかなかいい条件でした。

それから、ここ数年で最も気温が高かったように感じました。それを裏付けるように、海面には海霧。幻想的でした。
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それでもやはり寒いのは寒いので、流木を集めて焚き火。
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この場所から右手の方。遙か遠く霞んでいる辺りが智恵子が療養していた片貝方面です。
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さて、6時50分過ぎ、雲の上に太陽が姿を現しました。
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人々の間からは歓声も。

コロナ禍やウクライナ侵攻、むちゃくちゃな日本の政治状況など、今年は解決して良い年となるようにと祈らざるを得ませんでした。

さて、夜。BS朝日さんで放映された「暦に集う ダイヤモンド富士」を拝見。
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昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため光太郎が訪れ、それを記念して昭和62年(1987)には光太郎文学碑も建立された山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区。冬至の前後には富士山頂から日が昇る「ダイヤモンド富士」現象が見られる場所です。
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おそらく冬至の頃にロケが行われたのでしょう。アマチュアカメラマンの方々にお話を聞いていました。
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三田寛子さんによるナレーションでは昭和17年(1942)にこの地を訪れた光太郎が「こんなに立派な富士山は初めてだ」と感嘆したということに触れて下さいました。しかし、すぐ近くの光太郎文学碑は映されませんでした。

日テレさん系のニュースでも取り上げられました。光太郎の名は出ませんでしたが。

新年への願い込め…富士山の山頂から昇る“ダイヤモンド”初日の出 山梨・富士川町

 1日、山梨県富士川町では富士山の山頂から昇る初日の出に多くの人が新年への願いを込めました。
 山梨県富士川町の高下地区では毎年この時期、富士山頂から朝日が昇るダイヤモンド富士を見ることができます。
 1日は多くの人が訪れ初日の出を見ようとその瞬間を待ちました。
 そして午前7時26分ごろ、訪れた人は太陽と富士山が作る幻想的な光景に新年への願いを込めていました。
 訪れた人「20歳になって初めて見た初日の出だったのでよかった」
 訪れた人「自分は営業の仕事をしているが、去年の成績よりもことしは上を目指したい」
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かえすがえす、良い年になってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

長岡輝子さんくる、ブドウ酒2本もらふ、朗読について、


昭和30年(1955)11月3日の日記より 光太郎73歳

女優の故・長岡輝子さんが、中野の貸しアトリエを訪問なさったとのこと。長岡さんといえば、岩手のご出身で、同郷の宮沢賢治作品の朗読などでも有名な方でした。また、お父さまが光太郎と交流のあった渡辺えりさんは、長岡さんの舞台をご覧になって演劇の世界に進むことを決意されたそうです。

昨日は千葉県市川市の市川市文学ミュージアムさんに行っておりました。自宅兼事務所からは、同じ千葉県内ですので車で1時間弱。
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こちらでは以下の企画展が開催中です。

月に吠えらんねえ展<ようこそ!おもひ まぼろし ことだまの街へ>

期 日 : 2022年10月8日(土)~12月11日(日)
会 場 : 市川市文学ミュージアム 千葉県市川市鬼高1丁目1番4号
時 間 : 平日 10:00~19:30 土日祝 10:00~18:00
休 館 : 月曜日 10月28日(金) 11月30日(水)
料 金 : 一般 500(400)円 65歳以上 400(300)円 高大生 250(200)円
      中学生以下無料 ( )内は25名以上の団体料金

『月に吠えらんねえ』は□(詩歌句)街で暮らす主人公【朔くん】をはじめ、近代日本の様々な文学作品から造形された人物たちが織りなす、人間模様の機微や狂気、幻想が混じり合う世界を描いた作品です。本展では、登場人物に関する作品やエピソード、萩原朔太郎と文士の交流にスポットをあててご紹介いたします。また、市川市ゆかりの文士の作品からイメージされたキャラクターたちが登場する清家雪子氏による描き下ろし漫画も展示いたします。
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「月に吠えらんねえ」は、平成25年(2013)、講談社さんの『月刊アフタヌーン』で連載が始まった清家雪子さんの漫画。単行本化され、令和元年(2019)に完結しました。

近代の文豪たちの作品からイメージされたキャラクターを登場人物とし(文豪たちそのものというわけではなく)、不思議な世界観で彩られています。主人公は萩原朔太郎由来の「朔」ですが、光太郎作品から擬人化された「コタローくん」、コタローくんが作ったロボットの「チエコさん」が第1巻から登場します。
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さらに第4巻では、コタローくんの回想として、生前の「チエコさん」も登場します。

さて、今回の展示。「月に吠えらんねえ」のキャラクターのうち、主人公の「朔」の元となった萩原朔太郎以外にも、市川市に在住したことがある文豪から創出された登場人物、その元となった4人の文豪を大きく取り上げています。「白さん」で北原白秋、「ぐうるさん」の草野心平(当会の祖)、「ヨッシー」は吉井勇、「カフー先生」が永井荷風。くどいようですが、文豪たちそのものというわけではなく、彼らの作品からイメージされたキャラクターということですが。

で、元になった文豪たちの資料が多数。
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その他、室生犀星、与謝野晶子、芥川龍之介、若山牧水なども。その合間合間に、光太郎の名が各種キャプション等に。光太郎が装幀・序文を担った書籍が展示されていたり、光太郎も写っている写真がパネルになったりもしていました。朔太郎年譜の最後にも「1942(昭和17) 5月11日 肺炎のため死去(享年55) 犀星・高村光太郎・谷崎潤一郎らに見送られる」との記述(光太郎、死に目に会ったわけではありませんが)。さらに「月に吠えらんねえ」の漫画そのものがパネルに拡大して展示されていましたが、その中にも「コタローくん」や「チエコさん」の姿。

こちらは図録(500円也)。同展監修の栗原飛宇馬氏らの考察が「鋭い」と思いました。
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今回の展示のために書き下ろされたスピンオフ「イチカワで吠えらんねえ」も掲載されています(会場内にもパネルで展示)。「朔」以外に上記の市川市に在住したことのある文豪由来のキャラクターたちのイチカワ散策記的な。残念ながらこちらには「コタローくん」と「チエコさん」は登場しませんが。

上記フライヤーとは別の、年間予定、開館カレンダーを兼ねたフライヤー。
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ここだけ写真撮影可の、企画展示室入り口。
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ミュージアムショップでゲットした缶バッヂ。「チエコさん」もいます(笑)。
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ところで、今回の展示、全国52カ所の文学館や美術館、大学等で共催の「萩原朔太郎大全2022」の一環です。

過日、お世話になっておるいわき市立草野心平記念文学館さんから、やはり「萩原朔太郎大全2022」参加の企画展「詩の岬」の招待状、ポスター、フライヤーが届きました。同館のような個人を顕彰する文学館では、その文豪と朔太郎との交流など、市川市文学ミュージアムさんのようなところでは、その地域と朔太郎とのからみといった切り口で、また他にも色々なアイディアで企画されているようです。「月に吠えらんねえ」にスポットを当てているのは市川のみのようですが。うらやましいかぎりです。ぜひ「高村光太郎大全」も企画していただきたいと存じます。

さて、それぞれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

神田の関院長さんくる、ストレプトマイシンの注射第1回、尻の筋肉注射、


昭和29年(1954)6月6日の日記より 光太郎72歳

戦前には不治の死病に近かった結核も、戦後には抗生物質の普及でその脅威は減退しました。ほぼ同時に罹患した智恵子が早々に亡くなったのに対し、光太郎がその後も生きながらえたのは、光太郎自身が頑健だったこともあるでしょうが、薬学の進展が大きかったように思われます。














大正元年(1912)夏、結婚前の光太郎智恵子が愛を確かめ合った千葉県犬吠埼でのイベントです。

駅からハイキング ~関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ~

期 日 : 2022年10月1日(土)~12月25日(日)
会 場 : 千葉県銚子電鉄笠上黒生駅~同犬吠駅
時 間 : 受付時間  9:00~12:00
      ゴール時間 安全にご参加いただくため16:30までにゴールしてください。
料 金 : 無料

JR 東日本の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」。四季折々の絶景ポイントを味わいながら気軽に参加できる日帰りイベントです。参加無料!

【銚子電鉄共同開催】銚子を愛した文人墨客たちの足跡をめぐろう。ゴールは犬吠埼温泉でリラックス。犬吠埼灯台や銚子ジオパークの森など銚子の見どころ満載のコースです。
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駅からハイキング」は、JR東日本さんのキャンペーン的なイベント。様々なコースが設定されています。一部を除き参加予約は不要で、専用のスマートフォンアプリ「駅からハイキング」をダウンロードして、「コースに参加する」ボタンを押し、参加するコースを選択後、コースマップを元にハイキングスタート!同一日の受付時間内にスタートし、ゴール時間内までにゴールするというものです。参加回数に応じてドリンクなどが当たるプレゼント抽選に参加できるそうです。

さて、「関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ」。銚子電気鉄道(銚子電鉄)さんとの共同開催で、スタート、ゴール共に同鉄道の駅となっています。
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銚電さんのサイトはこちら。「ハイキング、ウォーキングが好きな方はもちろん、国木田独歩や高村光太郎などの多くの文学碑がありますので、「文豪ストレイドッグス」がお好きな方や「文豪とアルケミスト」の特務司書の皆様にもおすすめです」とあり、当方の検索網に引っかかった次第です。ただし、光太郎文学碑はありませんのでよろしく。ぜひ建立されてほしいものなのですが……。

まぁ、それでも地球の丸く見える丘展望館さん、光太郎智恵子が宿泊したぎょうけい館さんなどの内部に光太郎智恵子に関する案内板等は設置されています。

また、今回のフライヤーにも光太郎智恵子の名。
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ちなみにトリビア的に紹介されている他の2件、東映さんのオープニング「荒波に磯」が犬吠埼だというのは存じていましたが、三越さんの包装紙も犬吠由来というのは今回初めて知りました。学生時代、三越さんでがっつりバイトをさせていただき、この包装紙でお歳暮の包装などもさんざんやったのですが(笑)。それから猪熊弦一郎デザインというのは存じておりましたが、やなせたかし氏の手も入っていたというのも初耳でした。

参加には、銚電さんの1日乗車券「弧廻手形(こまわりてがた)」(大人700円、小児350円)があると便利ですね。「ハーブガーデンポケットに設置してあるチラシとセットで、犬吠駅売店でお見せいただくと、ぬれ煎餅1枚をプレゼント!」だそうです。
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ところで銚電さんのサイトでは、上記の通りアニメ「文豪ストレイドッグス」やゲーム「文豪とアルケミスト」も持ち出されていますが、今回はそれらとは公式のタイアップではないようです。また別の機会にでもそれらときちんと提携し、「文豪列車」など運行してみるのもいいかもしれない、と思いました。これまでにアイドルグループとのタイアップや、お化け屋敷的なホラー列車などは実現していますので。

というわけでコロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜在宅、 〈机上の春蘭よく匂ふ、夜、〉


昭和29年(1954)4月2日の日記より 光太郎72歳

「春蘭」は銚子出身の詩人・宮崎丈二から贈られたものです。このちょうど2年後が、光太郎の命の尽きる日でした。

全て新しい鋳造ですが、当方の知る限り光太郎ブロンズ作品を8点所蔵している千葉県立美術館さん。おおむね年に1度、県内各地にいわば「出開帳」をなさっています。名付けて「移動美術館」。光太郎作品群は目玉のコレクションの一つで、その中から「移動美術館」の際に展示されることがあります。

ここ10年ほどの同展で、光太郎作品が出たと当方が気づいたもの。
 第37回(平成25年=2013) 第39回(平成27年=2015) 第40回(平成28年=2016)
 第42回(平成29年=2017) 第44回(令和元年=2019)

今年度の「移動美術館」は木更津市です。

第46回千葉県移動美術館

期 日 : 2022年9月17日(土)~10月16日(日)
会 場 : 木更津市郷土博物館金のすず 千葉県木更津市太田2丁目16-2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 9月20日(火)、9月26日(月)、10月3日(月)、10月11日(火)
料 金 : 無料

千葉県移動美術館は、千葉県立美術館が所蔵する作品をより多くの県民の皆様にご鑑賞いただくために、県内市町村と協力し文化施設等を会場として開催している展覧会です。今回は、木更津市及びその周辺地域にゆかりのある作家の作品や房総地方に係わりのある作品と併せて著名作家の名品など29点を展示します。

洋画では浅井忠、コロー、ドービニー、フォンタネージ、梅原龍三郎、林倭衛、椿貞雄、熊谷文利などの作品をご覧いただけます。さらに、日本画では東山魁夷、若木山、峯岸魏山人の作品を、彫刻では、高村光太郎、安西順一、梅原正夫の作品を、工芸では、津田信夫、香取秀真の金工作品に加え、板谷波山、宮之原謙の陶芸作品や藤田喬平のガラス工芸作品を、書では、浅見喜舟、小暮青風、千代倉桜舟、他にも石井雙石の篆刻作品を、版画では、石井柏亭、川瀬巴水、深沢幸雄の作品など、29点におよぶ名作をお楽しみください。
 
関連行事
千葉県立美術館担当学芸員によるギャラリートーク
(1)10月1日(土曜日)午後2時から1時間程度
(2)10月2日(日曜日)午後2時から1時間程度
参加申込不要。当日開始時刻までに博物館エントランスにお集まりください。参加者は、各回先着15名までとさせていただきます。
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光太郎作品は「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)。翌年、欧米留学に発つ光太郎が東京美術学校研究科に在籍していた頃のものです。
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テキヤの親分だった祖父の威光で顔パスだった浅草花やしきで見た、曲芸の幼い兄妹がモデルです。もともと右上画像のように兄妹の群像として作られました。親方に怒られて泣いている妹をかばう兄、という構図。しかし、残念ながら現存するのは兄の頭部のみです。それでも若き日の光太郎の既に並々ならなかった力量が感じられます。ただし、帰朝後の光太郎は、こうした「物語性」を彫刻に持たせることは、彫刻を堕落させる元凶だと考えるようになりましたが……。

その他、梅原龍三郎、椿貞雄、石井柏亭といった光太郎と交流のあった面々の作、それ以外にもビッグネームの作が並びます。お近くの方、ぜひどうぞ。

また、こうした企画、全国の公立美術館さん等でどの程度行われているのか存じませんが、関係の皆さんのご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

小雪ふる、寒、 朝鎌田さん、瀬川さん(支配人)くる、 小包をつくり、郵送、 終日宿にゐて静かにしてゐる、 女中さんのため色紙一枚かく、 夕食時鎌田常務、吉田副社長、島氏くる、


昭和28年(1953)12月4日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻。明日にはまた上京する、花巻温泉松雲閣別館での最後の一日です。

花巻温泉株式会社のお偉いさんたちが挨拶に来、しばし歓談。その模様は地方紙『花巻新報』で報じられました。
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ネタがなければ足で探せ、というわけで、一昨日、昨日と、ふらふら出歩いておりました(笑)。

一昨日は、自宅兼事務所隣町の成田市へ。こちらでは、以下の展示が開催中です。

関東の山車人形と成田祇園祭展

期 日 : 2022年6月4日(土)~7月10日(日)
会 場 : 成田市文化芸術センタースカイタウンギャラリー 千葉県成田市花崎町828-11
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

 成田山奥之院の祭禮(成田山祇園会)について、文献では享保6年(1721年)には行われていたとの記載があり、これを起源とすると令和3年(2021年)に300年の節目を迎えました。昨年開催されました「関東の山車人形と成田祇園祭展」は盛況のうちに終了することができ、今年は3年ぶりに開催される成田祇園祭を盛り上げるため、昨年に引き続き、「関東の山車人形と成田祇園祭展」を開催いたします。
 前期(6/4~6/19)はスカイタウンギャラリー4階では歌舞伎をモチーフにした作品に加え、本展にちなんだ浮世絵を、5階では成田祇園祭の歴史を紹介したパネルやミニチュアの山車などの展示を行います。
 後期(6/25~7/10)は4階では関東各地の歴史ある作品と前期に引き続き浮世絵を、5階ではおとぎ話の主人公である桃太郎など魅力あふれる作品と前期に引き続き成田祇園祭に関する展示を行います。
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成田市で開催される山車祭り「成田祇園祭(成田山祇園会)」に合わせ、成田以外にも、関東各地の山車祭りで山車の上に飾られる人形などを借りてきて展示するものです。昨年も開催されていたそうですが、存じませんでした。
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このうち、8月上旬に行われる群馬県桐生市の「桐生祇園祭」では、松本喜三郎の生人形(いきにんぎょう)が使われているということで、その展示もあり、「これは見てみたい」と思って参上しました。
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4月に神奈川の平塚市美術館さんで開催された「市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」で、光太郎の父・光雲の木彫も出るというので拝見に行きましたが、その際、喜三郎の生人形も展示されていて、その迫力に圧倒されました。喜三郎は光雲も絶賛した生人形師です。そして同展の図録を兼ねた書籍『リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと』を拝読、明治になって西洋から伝わった写実表現とは別系統で、生人形などに日本独自の超絶写実の技法があったことにも注目すべし、的な内容で「なるほど」と思わされました。

その喜三郎の作品。
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なるほど、見事でした。

他の人形師たちの作品も、「ほう」と思わせられるものばかり。
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ただ、「生人形」と、「生」がつかない人形との区別はどう定義されるのだろうと、疑問が湧きました。手の表し方など、下記のように血管まで作っているものは「生人形」と言っていいのかとも思うのですが、どうなのでしょう。詳しい方、御教示いただければ幸いです。
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KIMG6353それから、意外だったのが、人形師たちの肩書き。上の方の画像にもありますが「法橋(ほっきょう)」を名乗っている者が複数いました。

これは、「僧綱(そうごう)」の一種で、本来は僧侶の位階なのですが、名誉称号として仏師にも与えられました。「法橋上人位(僧正階)」、「法眼和尚位(僧都階)」、「法印大和尚位(律師階)」などがあり、平安時代の仏師定朝が、仏師として初めて「法橋位」に補任され、のちに興福寺の復興の功績で「法眼位」に進みました。その弟子長勢は法勝寺造仏の賞として最高位の「法印位」に補任。以後、名のある仏師は僧位を叙せられる習慣となります。

実は光太郎の父・光雲も「法橋位」。国指定重要文化財の「老猿」背部に刻まれた銘には「法橋高村光雲」とあります。光雲の師・高村東雲、更にその師・高橋鳳雲は「法眼位」でした。ただ、江戸期や明治期、誰がその位階を授けたのか(自称ということは有り得ないと思います)、当方、寡聞にして存じません。この辺りも詳しい方、御教示いただければ幸いです。

そして、人形師にも光雲と同じ「法橋位」がいたというのがわかり、「へー」という感じでした。専門の方にとっては当たり前のことなのかも知れませんが(笑)。

その他。

「成田祇園祭(成田山祇園会)」過去のポスター、山車のミニチュア。
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かつて江戸の神田明神でも行われていた山車祭りなどの錦絵。明治期までは山車が出ていたそうで。
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今回の展示に人形を貸し出して下さった関東各地の各祭礼の地図。
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なぜか、隣町であるにもかかわらず、当方自宅兼事務所のある香取市の山車祭り(他の複数の山車祭りと一括でユネスコ世界文化遺産にも指定されています)がありませんでした。やはり光雲が絶賛したという三代安本亀八の生人形を乗せた山車が複数ありますし、他の人形も今回展示されている作品と較べても、勝るとも劣らないものばかりなのですが……。どうも何らかの「大人の事情」があったとしか思えません。

それにしても、こうした人形の系統、もっともっと評価されていいものだと思われます。成田での展示、7月10日(日)まで。会場はJR成田駅前、京成成田駅もすぐ近くです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大悟法利雄氏くる、講道館雑誌の事、断り、


昭和28年(1953)4月18日の日記より 光太郎71歳

大悟法利雄」は明治31年(1898)、大分の生まれ。若山牧水の高弟、助手として知られた歌人。沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた他、編集者としても活躍しました。

大悟法はこの日の出来事を含む戦前からの光太郎回想を書き残し、『文壇詩壇歌壇の巨星たち』平成10年=1998 短歌新聞社)に収められています。

 光太郎が青森県から委嘱されて十和田湖畔にブロンズの女人像をつくることになり、その制作の必要上東京に出て来たのは昭和二十七年の秋だった。私はその中野区桃園町四八の故中西利雄画伯のアトリエに初めて訪ねていったとき、しばらく逢わないうちに光太郎がひどく老衰していることにすっかり驚いた。その時私は講道館から出ている雑誌「柔道」の編集に関係していて、全日本柔道選手権大会の観戦に誘い出してその座談会に出てもらうつもりで、ちょっとそのことを話してみると、かなり心を動かしたらしいが、光太郎は制作の都合と健康状態とから躊躇しているらしかった。それでも、ぜひにと勧めれば出てくれそうに見えたけれど、なにかしら痛々しい気がして、ぜひにとまでは言い出しかね、光太郎が若き日の外遊中にアメリカで柔道の前田光世と外人拳闘選手の決死的な試合を見た話などを聞いて帰って来た。

柔道初段の当方としては、光太郎の全日本選手権観戦記をぜひ読みたかったところでしたが(笑)。

前田光世(みつよ)は、講道館黎明期の柔道家。ブラジルのグレイシー柔術の祖としても知られています。光太郎より1年早く、明治37年(1904)に柔道使節の一員として渡米。滞在費稼ぎや柔道普及のために、ボクサーやプロレスラーなどとの異種格闘技戦を行いました。光太郎が見たというのはこうした試合の中の一つでしょう。

まず状況をわかりやすくするために、一昨日の『東京新聞』さんの記事から。

千葉県の成田、匝瑳、八街を結んだ「軽便鉄道」とは 600ミリ線路を小型機関車が走る 8日まで成田市で展示

 現在の千葉県成田と匝瑳(そうさ)、八街(やちまた)の3市を結ぶ鉄道が、明治末期から昭和初期にかけて存在した―。知られざる交通インフラに光を当てた「三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』展」が成田市の三里塚コミュニティセンターで、8日まで開かれている。企画したのは、同市周辺の有志でつくる「軽便鉄道を考える会」。代表の岡野肇さん(69)は「現在、鉄道駅がない富里市や多古町にも鉄路が敷設されていた」と話す。
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 鉄道は軍用から県営に引き継がれ、1911(明治44)年に成田―三里塚駅、三里塚―多古駅が開業した。14(大正3)年には富里駅を経由する三里塚―八街駅、26(同15)年に多古―八日市場駅(匝瑳市)がつながり、成田―八日市場駅が約30キロ、成田―八街駅が約20キロの路線になった。
 当初は多古―八日市場駅を除く全路線が標準ゲージ(線路幅)の1067ミリを大きく下回る600ミリで、小型の蒸気機関車が客車をけん引した。民営移行後の27(昭和2)年に成田―三里塚駅で標準ゲージが採用され、桜の名所だった三里塚と東京間に臨時の直通列車が走るほどのにぎわいを見せたが、日中・太平洋戦争の激化に伴い、鉄を供出するため、全路線が44年までに姿を消した。
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 企画展では、沿線風景や列車の古写真、時刻表などを紹介。地元にとって、この鉄道がいかに大切で繁栄をもたらしていたかをよみがえらせる。会員が手作りした機関車や、高速化を図って八街線を走行したガソリンカーの模型は、段ボールが材料とは思えない硬質感を持ち、富里付近のジオラマとともに飾られている。
 実物の枕木も興味深い。素材は鉄。岡野さんは「路線は戦地で鉄道を敷設する陸軍の『鉄道連隊』の演習線を元に巡らされた。線路との組み立てと、輸送を容易にするため、枕木を鉄製にしている」と指摘する。
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 企画展の副題は「三里塚の春は大きいよ」。高村光太郎(1883~1956年)の詩「春駒」の一節から借りた。小説家平林たい子(1905~72年)が自叙伝的作品「砂漠の砂」で、小型機関車がこの路線を走った様子を描写している場面もあり、三里塚は文学上の舞台として、しばしば扱われたという。
 午前9時~午後5時。無料。

明治末から戦時中にかけ、現在の成田駅から八街市、さらに途中、成田市のはずれの三里塚(現在の成田空港付近)で分岐し、九十九里浜に面した匝瑳市までの区間を走っていた成田鉄道をメインにした展示が行われている、というわけです。
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サブタイトル的に、光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)の一節からの引用で「三里塚の春は大きいよ!」。明治末の『明星』以来の親友だった作家・水野葉舟が三里塚に住んでいて、光太郎は複数回この地を訪れています。後述しますが、三里塚記念公園には、「春駒」を刻んだ詩碑が建てられています。おそらく、光太郎も問題の路線に乗ったのでしょう。

三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』展

期 日 : 2022年4月23日(土)~5月8日(日)
会 場 : 三里塚コミュニティセンター 千葉県成田市三里塚2
時 間 : 9:00~17:00
料 金 : 無料
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「三里塚の春は大きいよ」これは高村光太郎の『春駒』のなかの一節です。このように著名な文人にも愛された三里塚の発展には軽便鉄道の力が欠かせないものでした。はじまりは明治43年。三里塚に駐屯していた陸軍鉄道連隊の演習用として敷かれたもので、翌44年に成田-三里塚と三里塚-多古間、大正3年に三里塚-八街間も開通しています。当初は軍用鉄道でしたが、次第に地域交通の要としての役割を担うようになっていきます。昭和に入ると国有鉄道と同等のレール幅に拡幅され、上野や両国から直通列車が運行されるようになりました。乗客のお目当てはもちろん「三里塚の春」。三里塚は、桜の名所として全国にその名を轟かせたのです。昭和19年に太平洋戦争当時の南方占領地の鉄道開発のために資材転用され、姿を消してしまいましたが、鉄道の名残はまだまだ各所に見られます。
この企画展では、当時の繁栄ぶりが分かる資料や写真、枕木をはじめとした鉄道用品、ジオラマなど、貴重な資料が一堂に会します。かつての「大きな三里塚の春」を思い浮かべながらご鑑賞ください。


成田は隣町ですので、昨日、早速行って参りました。
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それほど広くない会場に、さまざまな展示物がみっしりと。

かつてあった富里駅付近のジオラマ。
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かつて走っていた機関車等の模型。段ボール製だそうですが、なかなかどうして精巧です。
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レールや枕木。
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パネル展示。
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元々が陸軍の鉄道連隊により、鉄道敷設演習で作られた路線だったというのが驚きでした。それが千葉県、さらに民間に払い下げられたとのこと。そしてその終焉も軍の関係で、撤去した資材を南方の占領地に運び、現地で活用しようとしたためというのもさらに驚きでした。

しかし、そんな計画がうまくいくはずもなく……。
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現役で運行されていた当時、出征兵士を見送るこんな風景も各所で見られたようで……。
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さらに、他の路線等についても展示が為されていました。
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光太郎や「春駒」に関する展示もあればなおよかったのですが、残念ながら、それはありませんでした。

帰りがけ、すぐ近くの三里塚記念公園に。このあたり一帯、元々は宮内庁の御料牧場でして、その歴史を偲ぶということで「記念」です。光太郎詩「春駒」も、御料牧場の馬を謳ったものでした。
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マロニエの並木を過ぎると、記念館。入場無料です。
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こちらでは、牧場関連の展示、さらにこの地に骨を埋めた水野葉舟、葉舟を訪ねてやってきた光太郎、さらにやはり成田で最期を迎えた木村荘太(明治末、光太郎と吉原の娼妓・若太夫をめぐって三角関係となった作家)などについても展示が為されています。
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園内の「春駒」詩碑を見に行こうとしたのですが、やんごとなき方々のための貴賓館で、萱葺きの葺き替え作業を行っており、その一角が立ち入り禁止でした。
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竹矢来の隙間から撮った「春駒」詩碑(右)。
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左は水野葉舟歌碑。光太郎が揮毫する予定でしたが、最晩年で健康がすぐれず断念、代わりに窪田空穂が筆を執りました。

さて、軽便鉄道等ご興味のある方、ぜひ足をお運び下さい。鉄道自体はもう無くなっていますが、代わりに運行されるようになった路線バスが健在です。

【折々のことば・光太郎】

午前モデル、粘土をつけ始める、一尺五寸、


昭和27年(1952)11月17日の日記より 光太郎70歳

一尺五寸」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための小型試作です。こののち、手の試作、中型試作と進みます。
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昨日は、千葉県佐倉市に行っておりました。自宅兼事務所のある香取市から、車で高速を使って1時間弱、佐倉市立美術館さんがメインの目的地でした。

光太郎智恵子らに直接関わらないので、これまで紹介しませんでしたが、こちらでは、現在、「フランソワ・ポンポン展―動物を愛した彫刻家」が開催中です。同展、昨年から京都、名古屋、群馬と巡回し、こちらで四館め、さらに来月には山梨で開催予定です。

フランソワ・ポンポン展―動物を愛した彫刻家

期 日 : 2022年2月3日(木)~3月29日(火)
会 場 : 佐倉市立美術館 千葉県佐倉市新町210
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 月曜日(祝日の場合はその翌日)
料 金 : 一般800(640)円、大学・高校生600円(480)円、中・小学生400(320)円
      ( )内は前売り及び団体料金


19世紀末から20世紀初頭にフランスで活躍した彫刻家フランソワ・ポンポン(1855‐1933)。
ロダンのアトリエなどで下彫り職人として経験を積み、51歳で動物彫刻家に転向し、シンプルな形となめらかな表面をもつ 《シロクマ》や《フクロウ》、《ペリカン》などを生み出しました。
日本初の回顧展となる本展では、最初期の人物から洗練された最晩年の動物彫刻まで、旧ブルゴーニュ地方のディジョン美術館や出身地ソーリューのポンポン美術館、 また国内でポンポンの彫刻と資料を多数所蔵する群馬県立舘林美術館から彫刻、スケッチなど、約90点を出品します。
あわせて、ポンポンに影響を受けたとされる佐倉ゆかりの金工家・津田信夫(つだ・しのぶ 1875‐1946)の当館所蔵品もご紹介します。
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ポンポンは、解説にある通り、ロダンに師事した彫刻家で、ロダンの工房の長も務めた人物です。のちに独立し「アニマリエ」と呼ばれる動物彫刻家として名を馳せました。

光太郎のポンポン評。

 狂信的な「ぢか彫り」運動もやがて此が常識になると騒ぐのが滑稽になつて漸く退潮したが、その中から相当な作家と良い伝統とを残した功があつた。
 フランソワ ポンポン(François Pompon; 1855-)此好々爺は長年サロンに出品してゐたが六十七歳まで人に認められず、「ぢか彫り」運動の気運から一九二一年ベルナアルに推奨されて急に大家となつた動物彫刻家だ。此のブルゴオニユ出の半仙人は此技法を以前から実行して居り、異常な動物愛から鳥獣魚介に人間以上の崇高性と優美性とを与へる。細部を悉く棄てて量(ヴオリウム)だけで表現する。彼の巨大な「白熊」の悠久の美は人を全く新らしい世界に導く。「俺の彫刻は見るよりも撫でてくれ」といつでもいふ。今は光栄に囲まれてゐるが相変らず汚いアトリエでのんきに仕事してゐる。作品は無数。(「現代の彫刻」昭和8年=1933)


 一九三〇年となると、動物彫刻家のポンポンも、曾ての新人オルロフ夫人も、エルナンデエも、もう大家の列に並び、後からはもつと若い、まだ未来の分らない彫刻家が続出しては来るが、あらゆる昨日の尖端的な新運動も時がたつと却つてひどく古くさく、間ぬけになつて来て、今では人がむしろ折衷派に多く活路を見出してゐる状態である。(同)

ぢか彫り」は「ダイレクト・カーヴィング」。星取り機などを使わず、大理石や木といった素材を直接削ったり切ったりしていく制作方法です。西欧では一般的ではありませんでした。第一次大戦前後、急進派と目された一部の若手が、プリミティブなアフリカの民俗彫刻などからヒントを得、塑像技法(モデリング)を全く排除して展開しました。ポンポンもこの系統に連なるということですね。ただし、ポンポンは元々ロダンにモデリングを学びましたし、カーヴィングでなければ駄目、という立場ではありませんでした。実際、展示の中にポンポンの使った道具類の写真がありましたが、星取り機もありました。

また、平成29年(2017)、テレビ東京さん系列で放映された「美の巨人たち」で、代表作「シロクマ」が取り上げられましたが、その際、ポンポンが動物園に足繁く通い、スケッチを描く代わりに粘土を持参し、いわば立体スケッチを行っていたというくだりもありました。

さて、佐倉市立美術館さん。城下町佐倉市の旧市街的な一角にあり、大正時代に建てられた旧川崎銀行佐倉支店(千葉県指定有形文化財)の建物を使っています。いい活用法ですね。
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入ってすぐ、受付カウンターより前のエントランスホール的なところに、ポンポンのアトリエの写真。光太郎が「汚いアトリエ」と書いていた、それでしょうか(笑)。
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キャプションを見て、「ありゃま!」と思いました。
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「カンパーニュ=プルミエール通り3番地」。明治41年(1908)から翌年にかけ、光太郎は同じカンパーニュ=プルミエール通りの17番地にアトリエを構えていましたので、近くですね。ただ、ポンポンがこのアトリエをいつからいつまで使っていたのか、光太郎と同時期だったのか否か、当方、寡聞にして存じません。詳しい方、御教示いただけると幸いです。

昨日は、妻も見てみたいといっていたので連れて行きまして、2人分チケットを購入し、展覧会場へ。出品作品の大半は群馬県立館林美術館さんからの借りうけでした。
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当方、ポンポンの作品は、単体で見たことはあったものの、まとめて目にするのは初めてで(それもそのはず、今回の巡回展が日本初のポンポン展だそうで)、興味深く拝見させていただきました。


初期の人物塑像などもありましたが、やはりポンポンをポンポンたらしめた動物彫刻に、より目が行きました。先述の「美の巨人たち」の影響もありましたし。

特に代表作の「シロクマ」。

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オルセーにあるほぼ実物大のそれではなく、雛形的な小さなものでしたが、それでもいいものだと思いました。

「美の巨人たち」の受け売りですが、上半身は歩いていて方向転換する直前。シロクマは方向を転換する直前は立ち止まって、頭をふっと高く上げる習性があるそうで、その瞬間です。ところが下半身は、立ち止まった際には揃っているはずの後ろ脚をそう作らず、歩いている時の形で前後に開いています。しかし、それが不自然に見えません。ポンポンは、二つの瞬間を一つの彫刻に閉じこめた、というわけで、その方がよりシロクマの本質が表せる、とのこと。

「美の巨人たち」では、ポンポンの師・ロダンの「考える人」も、右の肘を左の膝に置くという、通常ではありえないポージングを採っていることに関連づけて紹介していました。あながち牽強付会とも言えないでしょう。

先述の光太郎評「「白熊」の悠久の美は人を全く新らしい世界に導く」というのもうなずけました。

ポンポンの作品以外に、参考出品という扱いで佐倉出身の鋳金家・津田信夫の作品が4点出ており、再び「ありゃま!」(笑)。津田は、光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣ぎ、鋳金分野の人間国宝となった豊周の師です。そして津田はポンポンからも影響を受けていたとのこと。そういえばそうだった、と、この件は忘れていました。

同展拝見後、近くの麻賀多神社さんへ。御朱印マニアの妻のためです(笑)。
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こちらは佐倉藩総鎮守だそうで。

花手水、最近、流行りですね。
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参拝後、妻が御朱印を書いていただいているのを待つ間、境内をぶらぶら。

そこで三たび「ありゃま!」(笑)。こんな石碑と案内板がありました。
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香取秀真。先述の津田信夫と並び、日本の鋳金分野の泰斗です。香取が佐倉に隣接する印西の出身というのは記憶していましたが、この神社の養子になったというのは存じませんでした。

さらに四度目の「ありゃま!」がありました(笑)。

駐めていた車に戻る途中、佐倉市立体育館さんの前に、銅像が。
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「誰だ? これ」と思って見てみると、「西村勝三翁像」。

戦時中に金属供出で失われてしまいましたが、明治39年(1906)、光太郎の父・光雲が、東京向島にあった西村家の別邸に西村の銅像を作っています。
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こちらの像の建立は昭和59年(1984)ということで、現代の作家のものですが、そういえば西村も佐倉出身だったっけ、というわけで「ありゃま!」した。

さて、「フランソワ・ポンポン展―動物を愛した彫刻家」。佐倉では3月29日(火)まで、その後、4月16日(土)から6月12日(日)まで甲府の山梨県立美術館さんに巡回です。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ひる、照井欣平太氏、ハーモニカの人と同道来訪、立ち話、拓本を見る、

昭和27年(1952)7月6日の日記より 光太郎70歳

照井欣平太氏」は、花巻で椎茸栽培を大規模に行っていた農家。光太郎歿後の昭和35年(1960)には、光太郎からの書簡2通を拡大して刻んだ石碑を自宅農園敷地内に建立しました。当方、30年程前にお邪魔して碑を拝見し、お話を伺いました。

ハーモニカの人」は新井克輔氏。かつて連翹忌にご参加下さり、ハーモニカ演奏を披露いただくのが常でした。

お二人ともご存命なのかどうか……。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに行きました。

例年ですと、昭和9年(1934)、智恵子が療養していた九十九里町の真亀地区、国民宿舎サンライズ九十九里さんのあたりで遙拝していましたが、今年はずっと北の旭市で。まぁ、同じ九十九里浜の一部ですから、勘弁して下さい、という感じです(笑)。

ちなみに千葉県民あるあるで、「チーバくんの後頭部あたり」などと説明するのですが、千葉県民以外には通じません(笑)。
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チーバくん」は千葉県のゆるキャラ。
決してメタボ犬ではありません。第一、犬ですらなく「不思議ないきもの」です。JR東日本さんの「Suica」も手掛けられた坂崎千春氏のデザインですが、「Suica」も西の方の人には通じません(笑)。


九十九里町には巨大防潮堤が出来てしまい、波打ち際の辺りはそうでもないのですが、どうも風情に欠ける感じになってしまいましたし、遠方からも初日の出を見に来る皆さんが多く、密の状態に成りかねないと判断したため、今年は旭市に。

昨日行った場所は、足川浜、矢指ヶ浦と呼ばれる辺りで、九十九里浜の北端に近いゾーンです。九十九里町と異なり、自動車専用道がこの辺りまでは延びてきていないので、都内からの初日の出参拝客などはほとんどいなかったようですが、それでも地元ナンバーの車で駐車場等はいっぱいでした。
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サーファーの皆さんが、既に波乗り初め。
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南の方、智恵子が療養していた九十九里町方面。
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6時46分、水平線から太陽が顔を覗かせているはずですが、この季節、西高東低の冬型の気圧配置のため、絶対といっていいほど、水平線上には雲がかかっています。
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6時50分頃、その雲の上に太陽が。
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海面に反射して、きれいです。

コロナ禍完全収束、そして一昨年、昨年と開催できなかった光太郎智恵子関連もろもろの諸行事等が、今年こそは元に戻せますようにと、祈願しました。
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希望を感じさせてくれる、美しい初日の出でした。空振りに終わらないことも祈ります。

【折々のことば・光太郎】

蠅とり茸で蠅がとれる。 昭和26年(1951)9月30日の日記より 光太郎69歳

「蠅とり茸」は「ハエトリシメジ」。その名の通り、このキノコをなめたハエが死ぬ(実際には仮死状態になる)という特性があるそうです。ところが食用として料理に使われ、味もよいとのこと。ただし、やはり大量に摂取すると人体にも毒だそうです。
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一昨年、花巻在住の方に茸を大量に頂き、煮物や茸ご飯にしていただきましたが、このハエトリシメジも入っていたように思われます。たしかに美味でした。

千葉県印西市で、古民家を改装し、「印西書道塾」を運営なさっている書家の菊地雪渓氏が、光太郎の言葉を揮毫された作品です。
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菊地氏からご案内のメールを賜り、早速、購入させていただきました。
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書かれている光太郎の言葉は、「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」。昭和24年(1949)、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近辺を学区とした太田中学校に、校訓として贈った言葉です。

太田中学校は統合のため、現在は花巻市立西南中学校さんとなっています。同校の生徒さん達は、コロナ禍前、毎年5月15日(光太郎が疎開のため東京を発った日)に行われていた高村祭にご出席下さり、この言葉を歌詞に盛り込んだ「精神歌」を演奏して下さっていました。
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こちらが光太郎の書。
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前半部分は翌年、盛岡少年刑務所さんにも贈りました。光太郎自身、気に入った言葉だったのでしょう。

菊地氏、他にも智恵子の言葉を含む、さまざまな扇を取り揃えていらっしゃいます。オンラインで注文可。ぜひ皆様もご購入下さい。

【折々のことば・光太郎】

静かにしてゐる、肋間神経痛まだあり、 昨夜つもる 夜ドローランをのむ。

昭和26年(1951)2月9日の日記より 光太郎69歳

「ドローラン」は鎮痛剤です。中上健次の小説「灰色のコカコーラ」では、ドローランを大量に服用してラリっている若者が描かれています。

文豪と薬物といえば、太宰治のパピナール、坂口安吾でヒロポンなどがすぐ思い浮かびます。光太郎はジャンキーにはならずに済んだようですが、上記の日記、体調の話になったり、雪の件を書いたり、すぐまた薬のことに戻ったりと、話題があちこちに飛んでいます。少しヤバかったのではないかと、心配になりました(笑)。

千葉県で、「ちばアート祭2021」というアートフェスティバルが開催されています。
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現代アートのインスタレーションと、一般の方々から公募した「「ちば文化資産」絵画・写真公募作品展」がメインです。

このうち、「「ちば文化資産」絵画・写真公募作品展」は、平成30年(2018)に選定された111件の「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」をテーマとした絵画・写真・Instagramの作品を募集したものです。

111件中には、「高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台」というキャッチフレーズで、「九十九里浜の景観」も選定されましたし、光太郎智恵子の名は説明に使われませんでしたが、銚子犬吠埼などのゆかりの地が他にも含まれています。

ちなみにインスタレーションの方も、ちば文化資産インスパイアということになっているようです。

千葉県立美術館さんでは、8月3日(火)~15日(日)の日程で、絵画・写真応募作品の原則全てが展示されています(Instagram部門は受賞作品のみの展示)。ちなみに同館で同時開催中の「名品3 ―巨匠の眼と手―」では、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が出ているようです。

美術館にほど近い千葉ポートタワーさんでは、8月16日(月)~9月5日(日)に、応募作品のうち、受賞作品24点を展示とのこと。また、オンラインでも開催されています。
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ぜひ御覧頂き、千葉県の魅力に触れていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

畑の事いろいろやつてゐる、さかんにブヨにくはれる。ひどくはれる。


昭和23年(1948)7月15日の日記より 光太郎66歳

「ブヨ」。標準語だと思っていましたが、どうも関東方言のようで、学術的には「ブユ」と言うのが正しいようです。蚊と同じく、吸血のために刺すそうですが、問答無用で襲来してくるという感じですね(笑)。当方も、かつていきなり刺されてひどい目に遭いました。

昨日は、千葉県印西市に行っておりました。お世話になっています、書家の菊地雪渓氏が、書道塾を開設なさったということで、そのお祝い的な。

菊地氏、たびたび光太郎詩を題材にされた作品を書かれ、各種展覧会で入賞なさったりしています。

第38回日本教育書道藝術院同人書作展
第40回東京書作展
第42回東京書作展

また、そうした作品を、連翹忌レモン忌にお持ち下さったり、書家の眼から見た光太郎書について高村光太郎研究会で発表されたりなさっています。その発表は活字にもなさいましたが、慧眼、と唸らされるものでした。

菊地氏、築80数年という古民家を借りられ、書道塾を始められたということで、これは行かざぁなるめい、と、参上した次第です。HPはこちら

印西市も意外と広く、都心に近い千葉ニュータウンなどがある区域ではなく、北部の利根川に近い木下(きおろし)方面で、江戸時代には利根川水運の木下河岸(きおろしがし)が栄えた地域。したがって、後で紹介しますが、レトロな建物も多く残っています。
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元は医院だったという建物だそうですが、実にいい感じです。

部屋の間仕切りの戸は、障子紙でなく磨りガラス。昭和初期としてはモダンです。桟に施された地紋も手が込んでいます。

伝統的な「麻の葉」が多い感じでした。
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菱紋や、工字紋、井桁紋の変形的な紋様も。
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古建築好きにはたまりません(笑)。

ちなみにこの手の地紋は、光太郎も少年時代から木彫の修業の一環で、毎日のように木の板に彫っていました。光太郎曰く、声楽家の発声練習のようなもの、だそうで。昭和17年(1947)刊行の評論集『造型美論』中の「木彫地紋の意義」には、実際に光太郎が彫った地紋の拓本が図版として掲載されています。
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ダミーのマントルピース。当方の祖父(職業軍人でした)宅にもありました。これもモダンな邸宅のお約束です。
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教室として使われている部屋は、こんな感じ。
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内閣総理大臣賞に輝かれた作品が展示されていました。
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菊地氏と、あれこれお話をさせていただきました。

その際に頂いた、書道塾のパンフレット等。
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京扇子の白竹堂さんと組まれて、扇面揮毫の販売もされているそうです。智恵子の遺した言葉「世の中の習慣なんて……」を書かれたものもラインナップに。残念ながら、昨日の段階では品切れということでゲットできませんでしたが(笑)。
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菊地氏、今後も光太郎詩文に取り組まれるそうで、さらなるご健筆を祈念いたしつつ、帰途に就きました。

ところで、書道塾さんに伺う前、約束の時間に遅れちゃ行けないと思って、少し早めに自宅兼事務所を出たところ、早く着きすぎてしまったので、ほど近い場所の古建築を見て廻りました。

現役の蕎麦屋、「柏屋」さん。
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現在は単に車庫として使われているらしい建物。
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昔は医院だった建物。いかにもです。
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醸造業の蔵元的な。
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KIMG5252国指定天然記念物の「木下貝層」を切り出して作った石灯籠。約12万年前、このあたりが内海だった頃の名残です。

その他、開館日ではなかったので割愛しましたが、蔵を改装して作られた「吉岡まちかど博物館」さん、古民家カフェの「町家カフェむさしや改めShimiya」さんなど、古建築好き必見のスポットも数多く遺っています。

印西書道塾さんと併せ、ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに書道塾さんでは、7月31日(土)に以下のイベントを企画されているそうです。

【 題目 書に触れる 】
日時:7/31(土)
対象:大人(高校生以上)10:00~12:00
   児童(中学生以下)14:00~16:00
会費:無料
予約:要(電話にてご予約ください)
電話:0476-33-6382
人数:先着8名様
道具:不要(こちらでご用意します)
内容:主に漢字について、その発祥から現在にいたるまでの流れに従って、気楽に座談会形式でお話しします。最後に実際に筆を持って中国の故事や日本の俳句などお好きなものを書いてみましょう。書道に触れる良い機会と思います。どうぞお気軽にご参加下さい。


【折々のことば・光太郎】

武者小路さんに返事、新しき村展覧会への出品はどうか分からぬ旨。


昭和23年(1948)5月26日の日記より 光太郎66歳

この葉書が、調布市武者小路実篤記念館さんに現存しています。

おてがみいただきました。あの変な詩を快くうけ入れて下さつた事を感謝してゐます。雑誌からもらつた金は大いに助かりました。
新しい村三十年記念展覧会に出品の事まだ何ともお答へ出来ません。穣さん御承知の通りの光線メチヤメチヤな小屋なのでまだ本格的な彫刻は始めません。やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎないので、東京の展覧会に送るのはどうかと思つてゐますが、いづれ来月□手紙で申上げる事にいたします。今日は茄子の移植をやります。

あの変な詩」は、この年、武者小路が主幹となって発刊された雑誌『心』に掲載された「人体飢餓」と思われます。「□手紙」の「」は染みのため判読不能でした。

メインは、この年秋に神田共立講堂で開催された「新しき村三十周年を祝う会」に関する内容です。「穣さん」は武者小路の三女・辰子の夫で後に和光大学名誉教授を務めた武者小路穣(みのる)。この当時、日本読書購買利用組合(のち日本読書組合と改称)に勤務、光太郎が編集に当たった『宮澤賢治文庫』の出版に携わっていました。

やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事」に関しては、そうして作られたものの現存は確認できていません。

同じ日の日記に「阿部さんの魚板彫刻は南部の鮭にきめたり」とありますが、前後に関連する記述が無く、「阿部さん」も誰だか分かりません。おそらく、親しかった林檎農家の阿部博かな、という気もするのですが。

情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

昨日は、昭和9年(1934)、智恵子が半年あまり療養生活を送っていた、旧片貝町(現・九十九里町)方面に行きました。

もともとそのつもりではなく、調べ物のため、自宅兼事務所のある香取市に隣接する旭市にある、県の東部図書館さんに行ったのですが、調査終了後、足を伸ばしました。旭市は九十九里浜の北端で、旧片貝町辺りは浜のほぼ中央部。旭まで行けば、そこからは車で30分ほどです。毎年の初日の出拝観をはじめ、よく行く場所ですが、気になる情報を新たに得たので、行ってみました。
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一般の方のfacebook投稿で、永らく草木に覆われ埋もれていた光太郎歌碑が、周囲の草刈りが為されて再び見られるようになった、という情報で、今年5月の投稿でした。

歌碑はそう古いものではなく、平成10年(1998)の建立です。下は、その頃撮った写真。
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『智恵子抄』に収められた、光太郎短歌三首が刻まれています。

いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる
わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき
光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき

最初の「いちめんに……」の歌は、この地で詠まれたものです。

昭和9年(1934)に、智恵子が療養していた家は、所有者の名を取って「田村別荘」と呼ばれていましたが、空き家となったあと、昭和47年(1972)に、元の場所から500㍍ほど離れた、大網白里町に移築され、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていました。下は、平成のはじめ頃に撮った写真です。
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ところが、元々があまり立派な家屋でもなく、さらに無人の状態だったため、中に入り込んで悪さをする馬鹿者もいたりで、内部にゴミ等が散乱していた時期もありました。

平成6年(1994)頃には、元の位置に近い所に戻す、という計画もあったのですが、いつの間にかうやむやに。
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そこで、平成10年(1998)、観光資源としての活用を図ろうと、地元有志による保存修復の動きが出、実際、きれいになりました。その際、建物の傍らに、歌碑が建てられたのです。
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ところが、田村別荘、翌平成11年(1999)に、管理を巡る感情的な行き違いから、突如、解体されてしまいました。

歌碑は残されたのですが、その後、敷地全体は草木が繁茂するままとなり、ここ数年は、元の位置もどこだかわからなくなっていました。

それが、先述の通り、今年5月に草刈りが行われ、碑が見えるようになったという情報。そこで、見に行ってみたわけです。

ところが、やはりよくわかりません。ようやく、周囲より草木の少なめの場所を見つけ、「ここか?」と思って、踏み込んでみると、ありました。県道から20㍍ほど、海側に入ったところです。
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5月に草刈をしたはずなのですが、2ヶ月でもうこの状態です。雑草、恐るべし。

足で草をかき分け、撮影。
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ちなみに県道沿いの、入り口に当たる部分はこんな感じです。このままだと、遠からずまた、碑に近づくことも出来なくなりそうだと思いました。
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歌碑自体はきれいに残っているので、どこか適当な場所に移すことは出来ないのでしょうか……。

その後、ちょうど昼時でしたので、川を渡ってすぐの国民宿舎サンライズ九十九里さんへ。
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レストランのある2階のエレベーターホールには、光太郎智恵子像。制作は日展作家の久保田俶通氏。こちらの像はミニチュアで、本体は、東金九十九里有料道路の今泉PAにあります。

ついでだ、と思い、そちらにも足を伸ばしました。
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なぜか、以前はなかったお賽銭が、それも、かなり。
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別に、ご利益は無いように思うのですが(笑)。

ここまで来たら、さらについでだ、と思い、田村別荘が元々建っていた場所にも。サンライズ九十九里さんのすぐ近くのテニスコート付近です。
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以前は、右の木の下に木製の標柱が建っていたのですが、それも無くなっており、ここと知らなければ通り過ぎてしまう所です。

さらにサンライズ九十九里さん裏手の方の、「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑。
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昭和36年(1961)の建立で、この場所は砂浜だったのですが、碑と海の間に有料道路が造られてしまいました。
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上は、昭和46年(1971)の新聞記事です。「千鳥と遊べぬ智恵子」うまい見出しですね。

さらに現在、有料道路の海側に、巨大防潮堤も建設中。
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波打ち際は、智恵子が千鳥と遊んだ昔のままなのでしょうが……。
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各場所の細かな位置は、最初の画像をご覧下さい。文学散歩的な取り組みで、ガイドが必要、というような場合にはお声がけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩「人体飢餓」書きかけ。 十時頃ねる。


昭和23年(1948)4月6日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋では、戦争責任へ自ら与えた罰として、「天職」とまで考えていた彫刻を封印する日々でした。

手すさびに、送られてきた彫刻材で蝉を彫ったり、粗悪な畑土で塑像――ともいえない程度のもの――を作ったりということはありましたが、きちんとした「作品」と呼べるものは、太田村時代の7年間で一つも遺しませんでした。

転機となったのは、青森県から十和田湖畔に国立公園指定功労者顕彰のためのモニュメント制作を依頼された昭和27年(1952)。これが「乙女の像」として昇華してゆきますが、それもまだ先の話です。

「彫刻封印」というあまりに過酷な罰は、光太郎をして、雪女の姿を雪で作るという夢想さえ見せしめました。

 雪女出ろ。
 この彫刻家をとつて食へ。
 とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
 その時彫刻家は雪でつくる。
 汝のしなやかな胴体を。
 その弾力ある二つの隆起と、
 その陰影ある陥没と、
 その背面の平滑地帯と膨満部とを。


「人体飢餓」の題名は、「彫刻で人体を造ることに飢えている自分」、という意味です。

千葉県の地上波ローカルテレビ局、チバテレさん。今年5月から、第2放送として「チバミライチャンネル」の放映が始まりました。

コロナ禍により、子ども達が学校へ通えない時期がありました。
チバテレではそんな子ども達のために、第2チャンネルを利用し、学校の授業番組を放送いたしました。
学校の先生と共に1から手作りで制作した番組でしたが、対象外の市町村の方からもご好評をいただき、チバテレにとって放送電波の活用について考えるきっかけとなりました。
2021年5月、チバテレは開局50周年を迎えます。
これを機に第2チャンネルを『チバテレミライチャンネル』と変更し、子ども達を中心とした様々な方へ向けた「未来のため」のチャンネルへと進化いたします。

だ、そうで。

終日放映しているわけではなく、朝夕に1時間半、午後に1時間ほどの枠で、千葉県内の高校生が制作した番組や、全国11のローカルテレビ局との共同制作になる「なんとなく歴史が学べる」というゆるい番組「戦国鍋」などが放映されています。

さらに、「ちば見聞録」という番組も。こちらは、平成26年(2014)から同28年(2016)までに、計78本が制作された30分番組で、千葉県各地の歴史紀行的な内容。昭和48年(1973)から平成16年(2004)にかけて制作された「房総プロムナード」の後継番組です。
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一昨日の放映が「#045 九十九里紀行」でした。初回放映は平成27年(2015)8月とのこと。
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九十九里浜を、北限の旭市太東岬から南下しつつ、沿岸の名所旧跡、歴史的背景等を紹介していました。

九十九里町の、光太郎詩碑も取り上げられました。
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画面では正しく「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑となっていましたが、ナレーションでは「「智恵子抄」の一節、「九十九里の初夏」を記した詩碑」と言っていたのには閉口しましたが……。「九十九里浜の初夏」は、『智恵子抄』刊行直前の昭和16年7月、雑誌『新若人』に発表された散文です。

九十九里町より南、一宮町の部分では、芥川龍之介関連。
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光太郎と芥川は、面識はあったものの、親しかったわけではなかったようで、『高村光太郎全集』に、芥川の名は1回しか出て来ません。昭和2年(1927)作の詩「北東の風、雨」を、翼賛詩集『記録』(昭和19年=1944)に収めた際に付した前書き中に「芥川龍之介全集の刊行が着手せられたのも此年である」とあるのみです。ただ、芥川が光太郎の書を高く評価し、入手したというエピソードがありますが。

さて、「ちば見聞録」。全78作が、YouTube上にアップされています。「九十九里紀行」はこちら。


光太郎に関しては、14:43頃から、芥川は16:12頃からです。

その他、全78回中、光太郎智恵子ゆかりの場所である、銚子犬吠埼や成田三里塚なども扱われていますが、残念ながら、光太郎智恵子には触れられていないようです。

ただ、「#061 手賀沼物語」では、光太郎も写っている写真が使われています。
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光太郎は後列右端。雑誌『白樺』10周年の会、大正8年(1919)の撮影です。

我孫子市の手賀沼周辺に、柳宗悦、バーナード・リーチ、志賀直哉、武者小路実篤ら、白樺派の面々が移り住み、その紹介の部分です。

全78回、こちらから選んで視聴できます。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ひげそり。久しくそらざりし為め、ひげひどくのび、そるのに一仕事。


昭和23年(1948)3月24日の日記より 光太郎66歳

そいうえば、この時期、無精ヒゲの伸びた写真が多く残されています。
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昨日は千葉市文化センターで開催された「潮見佳世乃歌物語コンサート 智恵子抄・羽衣伝説」を拝聴して参りました。
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ジャズシンガーの潮見さん、お父さまの故・高岡良樹氏が始められた「歌物語」というジャンルも引き継がれています。様々な文芸作品等をそれぞれ数十分のステージで、歌や語りで紡ぐというものです。昨日はそのうちの「羽衣伝説」と「智恵子抄」。

前半が「羽衣伝説」。現在の千葉市に残る羽衣伝説を元にしたものです。全国各地に残るそれと異なり、のちに「千葉氏」の姓を賜ったという平常将、その子・平常長ら実在の人物が登場します。
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休憩を挟み、後半が「智恵子抄」。

「歌物語」に入る前に、ア・カペラで光太郎詩の朗読二篇。昭和11年(1936)作の「鯉を彫る」と、同7年(1932)作の「もう一つの自転するもの」でした。

「もう一つの……」は、前年の満州事変勃発などを背景に、どんどんきな臭い方向に進む世情に抗し、「もう一つの自転するもの」が自分の中にあるのだ、と宣言する内容(しかし、数年後には抗しきれず、智恵子の死に伴う空虚感などもあって、一気に大政翼賛の方向に梶を切ることになりますが)。

「鯉を彫る」は、新潟長岡の素封家・松木喜之七に依頼された木彫の鯉を制作している様子を詩にしたもの。つい先だって、その関係で長岡に行って参りましたので、奇遇に驚きました。
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朗読に続いて、いよいよ歌物語。

当方、3回目の拝聴となりましたが、それぞれ伴奏の楽器が異なっていまして、曲や全体の構成は同じでも、全く違うステージという感じでした。

最初に聴いた時の伴奏はキーボードとアコースティックギター。そこで、ニューミュージックやジャズのテイストが強く感じられました。今年3月、熱海で拝聴した際には、ピアノ一本。するとクラシック音楽に近い感じでした。

今回は、ピアノ(TATOO)に加え、尺八(小湊昭尚)、そして箏(市川慎)。いやがうえにも「和」。間奏的にインストゥルメンタルの部分もかなり長くあったりし、アレンジが大変だったのでは、と思いましたが、終演後、潮見さんとお話ししたところ、そこは皆さんプロフェッショナル、ツーとカーで、けっこうひょいひょいできてしまったとのこと。素晴らしい!

箏も、当初は通常の十三弦のみの予定だったのが、十七弦も加えてみよう、ということで、市川氏、二面を行ったり来たりでした。
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全体に、かなりドラマチックな構成で、初めて聴いたと思われるお客さんが当方の周囲にいらっしゃいましたが、演者の皆さんの織り成す世界にぐいぐい引き込まれているな、というのがよくわかりました。

構成は、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「千鳥と遊ぶ智恵子」/「風にのる智恵子」(昭和12年=1937/昭和10年=1935)、「値ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)、「山麓の二人」(昭和13年=1938)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)、「亡き人に」(同)。これらが、メロディーのついた「歌」、そうかと思うと「語り」のみ、また、それらを交えた形で、そして先述の通り、インストゥルメンタルの間奏(以前拝聴した2回より長いものでした)と、実に変化に富んでいました。

今後も折に触れ、演じていただきたいものです。

以上、レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

中島中将開墾地放棄の由。


昭和23年(1948)1月4日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れた村人たちとの、茶飲み話に出て来た話題です。

中島という人物、海軍中将だったそうで、ネットで調べてみたのですが、該当する人物が見つかりませんでした。下の名前も分かりません。光太郎が花巻疎開に際し、世話になった佐藤隆房の遠い姻戚らしいようです。光太郎が山小屋で暮らし始めた後、近くにの開拓地に入りました。

典型的、ステレオタイプの愚かな軍人だったようで、村人たちの助言には聞く耳を持たず、馬鹿なことをいろいろやって、自分で自分の首を絞めていたとのこと。

例えば、草を刈るにしても、軍刀を力任せに振り回して斬ろうとしていたそうで、村人が「それじゃ、切れません。片手で草を束ねて、もう一方の手に持った刃物で切れば楽に切れますよ」的なアドバイスをしても、「これがわしのやり方じゃ!」。

家を建てる際も、縄文時代の竪穴住居のように、地面に穴を掘って「板の節約じゃ!」。山の麓なのですぐ水が湧き、到底無理でした。

積極的に村人の助言を聞き、皆に敬愛されていた光太郎とは真逆ですね。結局、2年ほどで開墾地を放棄し、何処かへ消えていったようです。光太郎はこの人物を冷ややかに見ているだけでした。

こんな馬鹿な将校に率いられて進めた戦争で、先述の松木喜之七ら、徴発された兵らがあたら貴い命を落としていたわけで……。

妻が御朱印マニアでして、一緒に月一度ほどのペースで、少し離れたところにある寺社巡りをしております。ついでに当方も光太郎智恵子関連の踏査を兼ねるようにしています。

昨日は同じ千葉県内の松戸市へ。まず、妻の希望で「あじさい寺」の異名を持つ本土寺さんに参拝。その後、同じ松戸市の萬満寺さんへ。

先に萬満寺さんをレポートします。

JR常磐線各駅停車の馬橋駅にほど近い、住宅街にたたずむ古刹です。
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山門(左)と鐘楼(右)。
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山門をくぐった先にある仁王門。

こちらの仁王門に納められている鎌倉期の仁王像は、国指定重要文化財です。指定が大正5年(1916)、当時施行されていた古社寺保存法に基づく指定で、同法には「重要文化財」という枠はなく、「特別保護建造物」「国宝」の二本立てで、「国宝」の認定でした。戦後、現在の文化財保護法が制定され、「重要文化財」が新設されると、そちらに移行しています。こうした例は多く、旧古社寺保存法下での指定を「旧国宝」と称することもあるようです。

で、大正5年(1916)の旧国宝指定の際には、光太郎の父・光雲が関わっていたらしいのです。光雲は東京美術学校教授のかたわら、古社寺保存会委員、国宝保存会委員などを兼任しており、こうした指定に携わっていました。寺伝では、萬満寺さんの仁王像や、他の仏像を絶賛したそうで。

こちらが仁王像。まず向かって右側の阿形像。
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逆サイドの吽形像。
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鋼線入りのガラス越しですので、細かな部分は観察できませんでしたが、それでも全体のフォルムなど、非常にダイナミックに感じました。また、関東地方有数の古さを誇る仁王像ですので、重要文化財指定もうなずけます。伝・運慶作ということですが、これは古い仁王像に付きものでして、残念ながら信用できません。それにしても見事な作です。

驚いたことに、春と秋、それから正月三が日には仁王門のご開帳が行われ、参拝客が阿形像の股の下をくぐれるそうです。

寺伝では、大正8年(1919)に光雲とその高弟・米原雲海が、信濃善光寺さんの仁王像を制作した際、こちらの仁王像も参考にした、ということになっているようです。ただ、善光寺さんのそれとは、かなりポージングが違うのですが……。また、阿吽の配置も、善光寺さんは通常とは異なり、向かって左が阿形、右が吽形です。この配置は奈良東大寺さん南大門の金剛力士像に倣ったようです。ちなみにポージングということを問題にすると、東大寺さんのそれもまた、善光寺さんのそれとかなり異なっています。

それから、萬満寺さんには、松戸市の有形文化財に指定されている仏像が多数おわし、その中に中国明時代の鋳造魚籃(ぎょらん)観音像もいらっしゃるとのことでした。やはり光雲も魚籃観音像を複数彫っていますので、そちらも拝見できれば、と思っていたのですが、残念ながら萬満寺さん自体、この日は無人で、本堂の扉も閉ざされていました。コロナ禍のせいなのでしょうか。
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仁王門や山門の彫刻、龍の天井画など、いい感じでしたが。
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さて、こちらに行く前に参拝した、本土寺さん。
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鎌倉の明月院さんほどではありませんが、「あじさい寺」として有名です。
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広い境内に、色とりどりの紫陽花が満開でした。

妻がいただいた御朱印がこちら。
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左が通常のもの。右は季節限定あじさいバージョン(別途料金)だそうで(笑)。

この後参拝した萬満寺さんの御朱印もいただきたかったのですが、残念ながら昨日は無人。仁王像股くぐりのご縁日に、もう一度行ってみようかと思っております。

以上、千葉松戸レポートでした。

【折々のことば・光太郎】

岡本弥太詩碑「白牡丹図」を用紙に書く。二枚は弥太の署名入、一枚は署名無し。先方の選択にまかせるつもり。


昭和22年(1947)12月21日の日記より 光太郎65歳

岡本弥太(明32=1899~昭17=1942)は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、生前唯一の詩集『瀧』を光太郎に贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。そうした縁から、高知に建てられる詩碑の揮毫を光太郎が依頼され、それに関する記述です。

千葉県からコンサート情報です。

潮見佳世乃歌物語コンサート「智恵子抄・羽衣伝説」

期 日 : 2021年6月20日(日)
会 場 : 千葉市文化センター 6階・スタジオⅠ 千葉市中央区中央2-5-1
時 間 : 【昼の部】開場14:00/開演14:30(SOLD OUT)
      【夜の部】開場16:45/開演17:15
料 金 : 前売 4,000円 当日4,500円

出 演 : 潮見佳世乃(歌と語りと鳴り物) 
TATOO(ピアノ) 
      市川慎(箏) 小湊昭尚(尺八)


市制100周年を記念して、6月20日(日)千葉市文化センター6階 スタジオ1にて、歌物語コンサートを開催いたします。語ります物語は、千葉市の伝説「羽衣伝説」そして、高村光太郎の「智恵子抄」。歌物語で文学の名作・伝説を体感して下さい。どうかあたたかい応援をよろしくお願いいたします。只今チケット発売中です。

「歌物語」とは、父高岡良樹が創りだした、文学、演劇、音楽を融合させたこれまでにない芸能ジャンルです。琵琶法師や浄瑠璃など、物語を語る先人たちの伝統を引き継ぎながら、創作した物語に演劇的要素と音楽を取り入れ、奏でる音楽は、ジャズ、フォーク、ポップスなどを独自にアレンジしたもの。
ぜひ、この機会にご鑑賞ください。

※新型コロナウイルス感染拡大防止対策の為、定員数を減らし開催させていただきます。
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当方、潮見さんの「歌物語 智恵子抄」、2度拝聴しました。1度目は平成27年(2015)、都内大森のライブハウスで。2度目は今年3月、熱海の起雲閣さんで。どちらも素晴らしいものでした。

オリジナルの曲に乗せて、「智恵子抄」所収の詩10篇弱を、歌と語りで紡ぐという基本的な構成は変わらないのだと思いますが、今回はピアノに加え、箏や尺八と、和楽器を伴奏として演(や)られるそうです。箏は一般的な十三絃にプラスして十七絃も使ってみようか、というお話でした。当方、十七絃を使った演奏は一度、拝聴したことがありますが、単に音域が広いというだけでなく、低音域の響きがベースギターのようにしっかり支えていると感じました。

「智恵子抄」以外に「羽衣伝説」。静岡三保松原のそれが有名ですが、東京湾岸の千葉にもあったのですね。千葉県民でありながら存じませんでした(汗)。もっとも、「羽衣伝説」は日本国内だけでなく、西アジアのあたりが発祥らしく、ヨーロッパ、東南アジア、なんとアフリカや北米にもあります。そういった部分でも、非常にロマンを感じます。

新型コロナ感染症対策として、キャパを減らしての実施だそうで、既に昼の部は完売だそうですが(すみません、当方も昼の部で申し込みました(笑))、夜の部はまだ余裕があるようですし、昼の部もキャンセル等が出るかもしれません、上記リンクまでお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】

終日雨、小雪、あられ等。時々鼠出る。 朝八時頃までねすごす。


昭和22年(1947)12月2日の日記より 光太郎65歳

「朝八時頃までねすごす」。「山中暦日なし」とはいいますが、光太郎、その日の日付がわからなくなることはあっても、体内時計の時間はかなり正確で、朝寝坊はめったにしませんでした。農閑期に入り、少し気が抜けていたようです(笑)。

3日程前の『岩手日報』さん。

【花巻】挑戦する人から刺激

 花巻支局に着任した初日、支局駐車場の前でキツネを見掛けた。JR花巻駅近くの市街地にもかかわらず、ひょっこり現れた野生動物。驚きと共に、これまでに出合ったことのない新たな土地だと再認識させられ心が躍った。
 県内で暮らした市町村は花巻市で5カ所目。温泉や食事に何度も訪れているが、勤務するのは初めて。周囲からは保守的な町と聞いていたが、着任間もなくから既存の施設や文化を生かして新たな挑戦をする人に出会い刺激を受けている。
 同市東和町では、空き店舗で多様な店が定期的に出店し起業家も育成するイベントが開催されている。発案者らは、今後も多様なアイデアで市内外から集客する計画だ。
 さらに中山間地で地元住民が運営するスーパーの開業、彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する女性たちによる起業など従来の考えに縛られない新しい動きが活発化している。
 宮沢賢治の作品に「雪渡り」という童話がある。キツネに対する古い考えを払拭(ふっしょく)するために、子ギツネが人間の子どもたちを啓発しようとする物語だ。
 伝統や文化が色濃く残る地が、どのように変わっていくのか-。作品に描かれた情景のような真っ白な気持ちで見つめていきたい。

花巻市で起業された「やつかの森LLC」さんが紹介されています。合わせてこちらもご覧下さい。
「やつかの森LLC」さん。
光太郎の食卓再現。

それにしても、『岩手日報』さんの花巻支局、まさしく花巻駅に近く、大通りに面している場所ですが、令和の現代でも、あんな立地のところにキツネが現れるのか、と思いました。花巻、おそるべしですね(笑)。
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記事にもある宮沢賢治の童話に、キツネがよく登場しますが、花巻で生まれ育った賢治にとってはなじみ深い動物だったということなのでしょう。

光太郎が戦後の7年間を暮らした、郊外旧太田村の山小屋周辺は、光太郎がいた当時からキツネが生息していましたし、今も普通にいるようです。
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こちらは上記「やつかの森LLC」さんのサイトから。光太郎が暮らした山小屋近く、キツネだそうです。

光太郎詩にも、キツネがたびたび登場します。

部落の畑の尽きるあたり、/狐とマムシの巣だといはれる草場の中に/クリの古木にかこまれて/さういふおれの小屋がある。(「山口部落」昭23=1948)

金毛白尾の狐さへ/夕日にきらきら光りながら/小鳥をくはへて畑を通る。(「別天地」同)

また狐が畑を通る。/仲秋の月が明るく小さく南中する。(「月にぬれた手」昭25=1950)

変らないのはウグイス、キツツキ、/トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス。/兎と狐の常連のほか、このごろではマムシの家族。(「山のともだち」昭27=1952)


当方、野生のキツネにお目にかかったことは、おそらくありません。ただ、生活圏内でタヌキはしょっちゅう見かけます。

一度、夜間に狭い道で車を走らせていたら、道の真ん中に亀の子ダワシのような形状、大きさのものが5、6個。「誰が何のために道のど真ん中にタワシを置いてんだ?」と思いつつ近づくと、タワシたちがむっくり起き上がり、道の端へとことこと移動。何と、子ダヌキの群れでした(笑)。

その他、愛犬の散歩中に出くわしたこともたびたび。

すると、2週間程前、自宅兼事務所の庭にも現れました。
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ただ、タヌキにしてはちょっとシュッとした体型で、あとになってから「もしかするとアナグマかも」とも思いました。目の周りが黒いのは共通していまし、また、完全にアナグマと思われるやつにも、一度、自宅兼事務所の近くで遭遇しましたし。どちらなのか、判断が付きませんでした。

いずれにしても、自宅兼事務所の敷地内で見たのは初めてでした。以前は柴犬系雑種の愛犬が庭にいたので、恐れて近づかなかったのかもしれません。愛犬は先月、17歳で逝ってしまいましたので……。

ちなみに自宅兼事務所周辺では、他にもイノシシ、野ウサギ、イタチ、それから一部で「幻の蛇」と言われているシロマダラと思われるヘビなどにでくわしました(笑)。

上記動物の画像、Facebookに上げたところ、智恵子の故郷・二本松在住の方から、うちの近くにもいるよ、的なコメントが寄せられました。すると、1週間程前、公益財団法人福島県観光物産交流協会さんの観光情報サイト「ふくしまの旅」に、智恵子生家にほど近い上川崎地区のタヌキ情報がアップされたりもしました。

光太郎や賢治が愛した、この手の野生動物が普通に歩いている自然環境、残していきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

初雪、昨夜より降り始め午前中はチラホラシ、午后やみ、日も出る。


昭和22年(1947)11月12日の日記より 光太郎65歳

11月中旬に初雪とは、これも花巻恐るべし、ですね(笑)。

昨日の関東は、およそ1週間ぶりに晴れました。既に近畿・東海までは入梅しており、先週の様子では、関東も実は梅雨入りしてるんじゃないの? と思っておりましたが、まだ梅雨の走りだったようでした。今日も晴れています。

久しぶりの好天に誘われて、昨日は自宅兼事務所から車で15分ほどの水郷佐原あやめパークに行って参りました。市立の水生植物園です。かつてはずばり「水生植物園」という名称でしたが、平成29年(2017)、園内の一部リニューアルと同時に改称されました。「佐原」は合併前の市名です。ときおり、テレビの旅番組系などでも「さはら」と平気で読んでいてムカッとしますが、「さわら」です。沙漠ではなく真逆の水郷地帯です(笑)。
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利根川が運んできた土砂が堆積して出来た大きな中州(地元民は「新島(しんしま)」または単に「島」と呼んでいます。もとは「十六島」とも呼ばれていました)にあり、広大な敷地内にハナショウブを中心とした花々が植えられています。ハナショウブの見頃はこれからで、今週末からは「あやめ祭り」と称し、様々なイベントも。そうなると入園者数も増加しますので、その前に行っておこうと思った次第です。600円→800円と、入園料金も上がりますし(笑)。

ちなみにハナショウブとアヤメは、似て非なる植物です。こちらではハナショウブが中心ですが、「ハナショウブパーク」ではわかりにくいので、「あやめパーク」なのでしょう。

早咲きのものは、既にいい感じに咲いていました。
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ハスやスイレン(この二つも、似て非なる植物です)も。
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さらに、こちらはそろそろ見頃が終わりという感じでしたが、薔薇。
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園内を周遊する舟廻りのサッパ舟(有料・500円)。「サッパ」は「笹の葉」の転訛です。舟の形状に由来します。
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001昨日、こちらを訪れたのは、何も花々を見るためだけではありませんでした。

話せば長いことながら、先週、旧市街の古書店さんに行ったところ(最近、店を閉めていることが多いのですが、前を通りかかったら久々に開いていましたので)、右の書籍があって、購入してきました。江戸川大学教授・鳥海宗一郎氏著『文学の旅・千葉県』(龍書房)。平成15年(2003)の刊行ですので、「古本」というほどの「古本」ではありません。

平成3年(1991)から同11年(1999)まで、『朝日新聞』さんの千葉版に連載されたものに加筆訂正、千葉県内の文学史跡がほぼほぼ網羅されています。光太郎智恵子に関しても、九十九里成田三里塚銚子犬吠埼と、三箇所で言及。その部分では、特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、光太郎と交流の深かった面々が、千葉にどんな足跡を残しているかをもっと知りたいと思い、大枚500円(笑)をはたいて購入しました。

すると、自宅兼事務所のある佐原の項で、光太郎と親しかった北原白秋の詩碑が、あやめパーク内に建っているという記述。地元でありながら、これは存じませんでした。元々手元に『北総の文学碑』という、佐原周辺限定で文学碑の数々を紹介した書籍もあったのですが、そちらには記述がありませんでした。

それもそのはず、『北総の文学碑』は昭和61年(1986)の刊行、白秋碑の建立はそのあとの平成2年(1990)でした。

というわけで、白秋詩碑。実は10年程前にもここを訪れていながら、その際には気づきませんでした(笑)。
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昭和4年(1929)刊行の詩集『海豹と雲』に収められた、「水村の春」という詩の一節が刻まれていました。下記の色を変えた部分です。先に書いておきますが「田螺」は「タニシ」です。念のため。

  水村の春 KIMG5050

  一
水車のまはる樋口に
窗障子あくる子のあり。
春はまだしか、芽麦に
はだら雪など光れり。

  二
春雨けぶる小がはに
板橋わたす里かや。
この田かの田の下萠え、
簑笠つけて早や鋤く。

  三
ひとむら萠えしなづなを
朝出て食(は)むや雌(め)の牛、
沼の田べりはわづかに
降りつぐもののにほへり。

  
かはづの啼くはころころ、
田螺の啼くはころろよ、
ころころ、ころろ、ころころ、
萠え来(こ)よ、春の下(した)ん田(だ)。

  五
蛙が啼くよ、沖田にKIMG5046
芽柳もなびくよ。
誰(た)ぞや、こぬかの小雨(こさめ)に
今朝あかあかと火を焚く。

  六
春はまだ浅き水田の
根芹は馬に食まれぬ。
ゆきかへりつつ、鋤きつつ、
ひと日は雨に暮れたり。

  七
ふたもと高い葉楊、
鍋底こする舟の子、
つん抜け土間の藁家は
燕の飛ぶにまかせぬ。

  八
夜明けの靄にめざめて、
渡るは雁か、くぐひか、
早や榜(こ)ぎいでよ、作舟、
沖田あたりは晴れうよ。

  九
耕作舟につむもの、
犂、鍬、黒の雌(め)の牛、
朝靄がくり棹さす002
娘のあかい細帯。

  十
せんだんの実もさみしや。
蓆機織る藁家は、
日がな日ぐらし音して、
日がな日ぐらし雨ふる。

  十一
藁すぐる子の目見(まみ)ゆゑ、
沼のあかりがしむかよ。
ときたま鳴けよ、鳰鳥、
昼間の月も渡るよ。

  十二
前ゆく蝶のつばさに
土のしめりはながれぬ。
まことに春は田の面の
末より野路(のぢ)ににほひぬ。

「青空文庫」さんから取らせていただきました。この詩は、「水郷の早春」という小題でまとめられた四篇のうちの一つでした。碑陰記には「水郷をうたつた白秋の長詩水村の春十六島の一節」とあります。白秋で「水郷」というと、故郷の福岡柳川が思い浮かびますが、「水郷の早春」中の「朝靄の中」には「ここは潮来の出はづれ、沼から沼へとかよふ水路だ。」というフレーズがあり、柳川ではなく、「ちばらぎ」の水郷であることは明白です。「潮来」は茨城県に属し、あやめパークのある佐原の新島地区と隣接、同じように水路が張り巡らされています。同じ水郷風景と云うことで、白秋も親近感を抱いたかも知れません。

また、『海豹と雲』には、「早春 香取神宮」という詩も収められていますが、「香取神宮」も佐原です。ちなみに香取神宮には、光太郎の彫刻のモデルを務めた歌人・今井邦子の歌碑、香取神宮の一の鳥居がある利根川河畔のかつての河岸(かし=船着き場)には、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の歌碑が、それぞれ建てられています。

邦子や晶子の足跡があることは存じていましたが、白秋も佐原に来ていたんだ、と、それは存じませんで、汗顔の至りです。ただ、手元にある書籍や、ネット上の情報では、それがいつなのかはっきりしません。御存じの方、御教示いただければ幸いです。

さて、「水郷佐原あやめパーク」、もうすぐ園内のハナショウブが満開となります。コロナ感染にはお気を付けつつ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】003

草野君の詩集の為「蛙(かへる)」といふ題字を書く。


昭和22年(1947) 10月29日の日記より

翌年に刊行された『定本 蛙』のためのものです。

同じ蛙でも、白秋の手にかかれば「かはづの啼くはころころ」とかわいらしく、心平が謳えば「ぎゃわろ、ぎゃらろ、ぎゃわろろろろり」(笑)。面白いものです。

それにしても、この字もなかなか書けない凄い字だと思います。「蛙(かへる)」を三つ、絶妙のバランスで並べるこの感覚、脱帽です。心平の原稿の書き方にも影響されているかも知れませんが。

一昨日、千葉東葛地区の柏市で「熱血の旅行作家 山本鉱太郎展」を拝見して参りましたが、先週は隣接する野田市に行っておりました。行き先は、茂木本家美術館さん。

続けて同じ地域に行ったのは、まったくのたまたまです。この日は、御朱印集めを趣味としている当方の妻が、「野田の櫻木神社さんに行きたい!」と言いだし(というか、前々から言っていたのですが)、じゃあ行くか、ということになって、では近くに茂木本家美術館さんというのがあるはずだから、そちらも、となった次第です。

同館、醤油メーカーのキッコーマンさんの創業家の一つ、茂木家の十二代目・茂木七左衞門氏のコレクションを根幹に、平成18年(2006)に創設された美術館です。光太郎の父・光雲の木彫も常設展示されているらしいという情報を得、以前から行ってみようと思っておりました。
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右下に変なものが写っていますが、気にしないで下さい(笑)。
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「ファウンダーズ・ルーム」という展示室に、光雲作の木彫が展示されていました。フラッシュをたかなければ撮影可。ありがたし。
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キャプションによれば、大正12年(1923)作の「孔子椅座像」。久しぶりに光雲木彫の現物を見ましたが、いつみても舌を巻くような精緻さです。

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隣り合わせで、光雲の高弟の一人、平櫛田中の木彫も。
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さらに、光雲の孫弟子・宮本理三郎。これも一つの材から彫り出した木彫です。
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他には、梅原龍三郎、小倉遊亀らの絵画等。

続いて、「ギャラリー1」という部屋。こちらは富士山を描いた日本画、洋画。
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やはり梅原や、中島千波氏らにまじって、親しくさせていただいている女優の一色采子さんのお父さま、故・大山忠作画伯の絵も。
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その奥の「ギャラリー3」では、「広重の富士 不二三十六景を中心に」展。
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北斎の「富岳百景」の、まあ、悪く言えばパクリ、よく言えばインスパイアされた広重の浮世絵です。基本、嘉永5年(1852)に出されたものだそうで、この年は光雲の生まれた年です。

途中途中で、光太郎と交流の深かった、舟越保武のブロンズ。
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この後、屋外の庭園へ。
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おそらく、隣接する茂木家の住宅の一角と思われる稲荷神社があり、受付のお姉さんが「江戸時代の彫刻があるのでご覧下さい」とおっしゃっていましたので、行ってみました。

まずは社殿。漆喰の鏝絵ですね。
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脇の手水舎には木彫。
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稲荷神社だけに、狐の嫁入り。洒落が利いています。いずれも作者は不明のようですが、名のある職人の手によるものと想像できました。もしかすると、木彫の方は光雲の系譜(高橋鳳雲、高村東雲など)に関連があるかもしれません。

美術館はこんな感じ。眼福でした。

ついでですので、妻が行きたがっていた櫻木神社さん。
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当方、その存在を存じませんでしたが、御朱印マニアの間では有名だそうで。

ご神木はその名の通り、桜の老木でした。それも珍しいのかな、と思います。
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ご神木の花や、境内各所のソメイヨシノ系は既に散ってしまっていましたが、種類によってはまだ満開の桜も。

それぞれ、コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

夕方血がのどから出る。わたのやうな形のものまじる。蒲団をしいて横臥。


昭和22年(1947)6月17日の日記より 光太郎65歳

明らかに結核の自覚症状があったはずなのですが、診療はかたくなに拒否。ある意味、自殺行為に近いようにも思えます。

題名に記しました「千葉東葛(とうかつ)地区」とは、千葉県の北西部、元は東葛飾郡と言っていた地域で、現在の松戸市、柏市、流山市、野田市などを指します(茨城県の一部も含むようですが)。「葛飾」という地名は東京都葛飾区が有名ですが、本来はかなり広いエリアで、北は埼玉県で「北葛飾郡」が現存していますし、東は千葉県の東葛飾郡だったわけです。

さて、その東葛エリアに、先週、それから昨日と、2回に分けて足を運びました。自宅兼事務所のある千葉県香取市からは車で1時間半くらいのところです。

時系列とは逆に、まず昨日。柏市に行っておりました。

きっかけは、一昨日の『朝日新聞』さん千葉版。「温泉本・グルメ…多彩な足跡 旅行作家の草分け・山本鉱太郎さん、柏で作品展」という記事が出まして、拝読し、「あっ、これは行かねば」と思った次第です。
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山本氏、平成元年(1989)初演の「オペラ智恵子抄」の脚本を書かれた方です。作曲は仙道作三氏、そして監修は当会顧問であらせられた、故・北川太一先生でした。
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その山本氏の足跡を辿る展示がなされているということで、当方、仙道氏、それから智恵子役を演じられた本宮寛子さん、和田タカ子さんとも親しくさせていただいておりますが、山本氏とはお会いしたことがなく、おそらく会場にいらっしゃるのではなかろうかと思い、行ってみた次第です。

会場は柏市の花井山大洞院さんという寺院内の「大洞院ギャラリー」。柏でも古くから栄えていた地区、野田方面に延びる旧道から少し入ったところにあります。
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立派な本堂。
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その前には、イチョウの巨木。神社ではないのでご神木、というわけではありませんが、江戸時代には既にランドマークだったそうです。色づいたらさぞ見事でしょう。
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ギャラリーは本堂と繋がっていました。
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一室のみで、あまり広くはありません。その空間に、山本氏の足跡が、これでもかとてんこ盛り。
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「オペラ智恵子抄」関連の資料も複数、並んでいました。
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KIMG4966山本氏直筆の脚本原稿、何度か各地で公演されたその時々のパンフレットやチラシ、ポスターなどなど。

案の定、山本氏がいらしていたので、お話しをさせていただきました。まずは北川太一先生のこと。山本氏、千駄木の北川先生宅にも行かれたそうで、そうした思い出など。

それからもちろん作曲の仙道氏についても。山本氏、「オペラ智恵子抄」以外にも、仙道氏とタッグを組んでのお仕事をなさっています。

そして、話は宮城県女川町に。女川町でも「オペラ智恵子抄」が上演されたことがあり、その際、山本氏も女川に行かれていたそうで、勧進元だった故・貝(佐々木)廣氏のお話、オペラ上演のきっかけとなった女川町の光太郎文学碑の話などなど。

また、山本氏、最近は女川に行かれたことはないそうで、東日本大震災から10年経って、女川がどう変わったのかなども。スマホでこのブログから、最近の女川の様子をお見せすると、興味深そうにご覧下さいました。
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こちらが山本氏。

「オペラ智恵子抄」以外にも、山本氏の筆は光太郎に及んでいます。ご自身、流山ご在住で、やはり東葛エリアの手賀沼関連。ここには光太郎も名を連ねた『白樺』の面々が移り住み、一種の芸術村が形成されました。
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その関連の展示。

こちらは山本氏ご著書『白樺派の文人たちと手賀沼 その発端から終焉まで』
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特に、バーナード・リーチとのからみで、光太郎について詳述されています。

あつかましくもこの書籍を持参、サインしていただきました(笑)。
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「オペラ智恵子抄」の楽譜にも。

さて、展覧会の詳細をご紹介します。

熱血の旅行作家 山本鉱太郎展

期 日 : 2021年4月10日(土)~4月18日(日)
会 場 : 大洞院ギャラリー 千葉県柏市花野井1757
時 間 : 10:00~16:30
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

旅行作家山本鉱太郎の著作やそれに関連したものの展示をします。4月11日は「人生思い立った日が青春」の朗読と講演を行います。4月18日は山本さんの台本によるラジオ放送劇「宮沢賢治」の一部の朗読、趣味のハーモニカ演奏などを楽しみます。
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会期残り僅かとなってのご紹介で面目次第もありませんが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

十時頃、花巻の子供賢治の会の連中(二十人余)来る。照井氏と同夫人とが引率。


昭和22年(1947)6月15日の日記より 光太郎65歳

「花巻賢治子供の会」は昭和22年(1947)に結成され、第一回公演が光太郎の山小屋前の野外。以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続けました。会の命名も光太郎だそうです。賢治実弟・清六息女の潤子さんなどもメンバーでした。

太田村での公演は、光太郎の慰問がメインの目的だった部分もあったようです。
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000昨日は銚子の犬吠埼周辺に行っておりました。生活圏ではあるのですが、昨年からコロナ禍のため不要不急の外出は控え続けており、久しぶりでした。

昨年、福島二本松で開催された「智恵子講座2020」で講師を務めさせていただいた折、ご聴講下さった、都内からお越しの「かたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)と、今秋、「智恵子抄」をメインとしたコラボ公演を都内で開催することになり、その打ち合わせです。

光太郎智恵子ゆかりの犬吠埼を訪れたいというお二人のご希望もあり、光太郎智恵子が大正元年(1912)に泊まった宿である暁鶏館(現・ぎょうけい館)さんをご紹介しました。お二人は土曜の夜からご宿泊、当方は日曜(昨日)の朝にお伺いした次第です。

ちなみに「かたりと」のお二人、来月には二本松でやはり「智恵子抄」のご公演。近くなりましたらまたご紹介します。

ぎょうけい館さんに行く前に立ち寄った、光太郎智恵子が歩いた君ヶ浜から見た犬吠埼灯台。智恵子没後の昭和15年(1940)に書かれた光太郎の随筆「智恵子の半生」には、「君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。」とあります。
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いざ、ぎょうけい館さんへ。君ヶ浜と反対方向、灯台の南側です。
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こちらのロビーで、お二人と打ち合わせ。どういう方向性だか、具体的に見えてきました。

その後、お二人を御案内して、周辺を散策。
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昔、生け簀だった石組み。ここで泳がせておいた魚を宿泊客に供していたそうです。

当方手持ちの戦前の絵葉書。海側から撮影されたものです。
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暁鶏館全景はこんな感じでした。右の方の棟は後から建て増しされたもののようで、さらに古い絵葉書には写っていません。
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KIMG4672奇岩列石の連なる遊歩道を通り、灯台へ。しかし、残念ながらコロナ禍のため、1月8日から公開は中止しているとのこと。せっかく昨年には国の重要文化財に指定されたのに、残念です。

竣工は明治7年(1874)。暁鶏館の創業と同じ年です。大正元年(1912)に訪れた光太郎智恵子も、この灯台を見上げたかと思うと、感無量ですが……。できれば99段の階段を上って、上からの絶景を見たかったのですが、いたしかたありません。他の観光客の方々も残念そうでした。

左下は、灯台のあたりからみた君ヶ浜。
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逆方向、ぎょうけい館さん。
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ぎょうけい館さんに歩いて戻る途中、建物の取り壊し工事が為されていました。おそらく、大正元年(1912)に、智恵子が妹・セキ、友人の藤井勇(ユウ)とともに最初に泊まった御風館(ぎょふうかん)のあった場所です。御風館自体はかなり早く廃業し、大正期の建物も現存せず、取り壊されていたのは昭和戦後期の建物と思われます。
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やはり古絵葉書。キャプションにはありませんが、手前の屋根が御風館です。
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その後、当方の車にお二人を乗せ、犬吠の南、長崎方面へ。光太郎詩「犬吠の太郎」に謳われた、「長崎の太郎」こと、阿部清助の墓に詣でました。

   犬吠の太郎KIMG4680
 
 太郎、太郎
 犬吠(いぬぼう)の太郎、馬鹿の太郎

 けふも海が鳴つてゐる
 娘曲馬のびらを担(かつ)いで
 ブリキの鑵を棒ちぎれで
 ステテレカンカンとお前がたたけば
 様子のいいお前がたたけば
 海の波がごうと鳴つて歯をむき出すよ
 
 ね
 今日も鳴つてゐる、海が――
 あの曲馬のお染さんは
 あの海の波へ乗つて
 あの海のさきのさきの方へ
 とつくの昔いつちまつた
 「こんな苦塩じみた銚子は大きらひ
 太郎さんもおさらば」つて
 お前と海とはその時からの
 あの暴風(しけ)の晩、曲馬の山師(やし)の夜逃げした、あの時からの仲たがひさね
 ね、そら
 けふも鳴つてゐる、歯をむき出してKIMG4681
 お前をおどかすつもりで
 浅はかな海がね

 太郎、太郎
 犬吠の太郎、馬鹿の太郎
 さうだ、さうだ
 もつとたたけ、ブリキの鑵を
 ステテレカンカンと
 そして其のいい様子を
 海の向うのお染さんに見せてやれ 001

 いくら鳴つても海は海
 お前の足もとへも届くんぢやない
 いくら大きくつても海は海
 お前は何てつても口がきける
 いくら青くつても、いくら強くつても
 海はやつぱり海だもの
 お前の方が勝つだらうよ
 勝つだらうよ002

 太郎、太郎
 犬吠の太郎、馬鹿の太郎 

 海に負けずに、ブリキの鑵を
 しつかりたたいた
 ステテレカンカンと
 それやれステテレカンカンと―― 

版画は隣町・旭市ご出身の版画家、土屋金司氏の作になるものです。詩を刻んだ方は、ぎょうけい館さんのロビーにも展示されています。

太郎は暁鶏館で働いていた、当時で言うと下男。本名は阿部清助。父は会津藩士だったそうですが、知的障害があったようで、現代では差別的表現になりますが「馬鹿の太郎」と呼ばれていました。しかし、皆から愛されるキャラだったようです。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演)では、故・石立鉄男さんが演じていました。

光太郎、太郎の(ややこしいですね(笑))鮮烈な印象が後々まで残っていたようで、昭和3年(1928)に書かれた詩「何をまだ指してゐるのだ」にも太郎が登場します。

続いて、犬吠埼の背後、愛宕山へ。銚子で最も標高が高く、「地球の丸く見える丘展望館」が整備されています。灯台に上れなかったので、その代わりに、です。

早咲きの、おそらく河津桜ではないでしょうか、もう咲いていました。
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展望台からの眺め。
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めずらしくよく晴れていて、風もあまりなく、こんな好条件は滅多にありません。

館内に展示されていた、吉田初三郎作の鳥瞰図のコピー。
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銚子の歴史、文化等に関する説明板。
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文学関係。
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光太郎の碑は無いのですが(ぜひ建てて欲しいものですけれど)、光太郎智恵子に関する説明は書かれています。
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さらに、すぐ近くの「風のアトリエ」さんというレストランで昼食。数年ぶりに行きましたが、相変わらず料理が美味でした。

ついでにいうなら、こちらは昔からなぜかヤギさんを飼っており……。
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小池氏、ずいぶんなつかれていました(笑)。

この後、車で都内に帰られるお二人を、ぎょうけい館さんまで送り届けました。
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無題
不要不急の外出を避けている毎日で、ひさびさにのどかな陽光の下、歩き回って、実にいい気分でした。以前は、愛犬と共に朝夕けっこう歩いていたのですが、愛犬が17歳となり、もうあまり歩けなくなってしまったので、散歩は徒歩30秒の公園まで自分が抱っこしていき、数分間歩かせる程度になってしまったため、なおさらです。
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少しでも早く、コロナ禍の終息、収束を願います。

【折々のことば・光太郎】

夜食に久しぶりで牛鍋をやる。酒ののこりをのみ、牛肉五十匁ほど、葱、キヤベツ入にて美味限りなし。米久をおもひ出す。

昭和21年(1946)10月28日の日記より 光太郎64歳

米久」は浅草に現存する牛鍋屋です。大正10年(1921)には、「米久の晩餐」という長大な詩も書きましたし、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京した昭和27年(1952)には、早速、久しぶりにここを訪れています。

光太郎智恵子ゆかりの地を紹介するテレビ放映情報です。ただ、番組内で二人の名が出るかどうか……ですが。

まず、明日放映の番組から。「ほんとの空」のある福島安達太良山です。

にっぽん百名山 安達太良山~湯煙あがる錦の峰~

NHKBSプレミアム 2021年1月4日(月)  19時30分~20時00分

福島の安達太良山(1700m)、みちのくの火山に紅葉のクライマックスを満喫する山旅!中腹に湧き出す温泉は、平安時代から続く源泉かけ流しの秘湯。人気の山を徹底紹介。

東北でも屈指の紅葉の山を行く1泊2日の山旅!名瀑が連続する遊歩道を歩き、草紅葉の溶岩台地・勢至平を巡り、錦に輝く紅葉のトンネルを抜け、温泉のある“くろがね小屋”に宿泊。翌朝、荒々しい鉄山を染める紅葉を眺めながら登り稜線へ、直径1km以上もある巨大な火口・沼ノ平を望む。牛の背と呼ばれる火口の淵をたどり、“乳首山”とも呼ばれる山頂をめざす。案内は、麓の岳温泉で和菓子店を営む異色のガイド・渡辺茂雄さん。

出演 渡辺茂雄  語り 鈴木麻里子
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この番組では、過去3回、安達太良山が取り上げられました。それぞれ初回放映が平成27年(2015)2月(有料のCS放送チャンネル銀河さんで1/5の午前4:30~の放映があります)、平成28年(2016)7月、そして平成30年(2018)4月でした。今回で4作目となるわけですが、これまでの3作中2作で光太郎智恵子に触れて下さっていますので、現在2勝1敗(笑)。3勝目なるか、というところです(笑)。

もう1本。こちらは千葉県。大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼です。同年に発表された光太郎詩「犬吠の太郎」の舞台でもあります。

新美の巨人たち 『犬吠埼灯台』×シシド・カフカ 太平洋を照らす美しき白亜の塔

地上波テレビ東京 2021年1月9日(土) 22:30~23:00
BSテレ東      2021年1月16日(土)  23:00~23:30

初めて灯った日から146年。千葉県銚子市の岬の先端で太平洋を照らし続ける、美しき白亜の塔『犬吠埼灯台』は高さ31.3mの洋式灯台。その光はまさに文明開化の象徴。英国人技師、リチャード・ブラントンが、その能力を駆使して、日本に近代化の光を灯しました。その一方で、使用されたレンガには日本人の誇りが…。さらに灯台のレンズの驚異のメカニズムも明らかに!“灯台の美”を巡る旅をシシド・カフカさんがお届けします。

<Art Traveler>シシド・カフカ  <ナレーター>渡辺いっけい
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昨年、犬吠埼灯台が重要文化財指定を受けたことが、取り上げられる機運の一つとなったのでしょう。この灯台を光太郎智恵子も見上げたわけです。

001ただ、くどいようですが、どちらの番組も番組説明欄に光太郎智恵子の名がないので、二人と同地を巡るエピソードの紹介があるかどうか……です。しかし、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリ縁にて揮毫。昨日の代りに今日試筆、「天下和順」「日月清明」を二枚づつ半紙に書く。


昭和21年1月3日の日記より 光太郎64歳

「試筆」は書き初めの意。古来、書き初めは1月2日に行う習慣ですので「昨日の代りに」とあるわけです。前日は来訪者があり、出来なかったとしています。

「半紙」はいわゆる半紙ではなく、「半切」(約 348 × 1350 mm)でしょう。右がこの日記にある書。書けそうで書けない字ですね。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに、自宅兼事務所から車で1時間程の、九十九里浜片貝海岸に行きました。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養し、ほぼ毎週、光太郎が見舞いに来ていた場所です。

昨年まで、愛犬をお供に連れて行っていましたが、17歳になった愛犬、もう歩くのがだいぶしんどそうで、最近は自宅兼事務所の敷地内だけ歩かせている状況ですので、今年はお留守番。下は先月撮った画像ですが、日中も殆どワンモナイトになっています。
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日の出時刻は午前6時45分過ぎ。
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この時期、西高東低の冬型の気圧配置なので、東の洋上には雲が必ずかかっています。そこで、水平線から昇る朝日とは行きません。一昨年、昨年は、雲が日本本土に近いところまで来ていて、あまり綺麗な日の出は拝めませんでした。ところが、昨日は洋上の雲もだいぶ遠く、絶好の初日の出日和。こんな好条件は平成30年(2018)以来でした。
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人々の歓声と共に、初日の出。コロナ禍終息を願わずにいられませんでした。集まった皆さんも同じだったと思います。
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光太郎詩「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)を刻んだ詩碑。昭和36年(1961)の建立です。除幕の際には、昨年亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生も駆けつけられました。もう60年前なのですね。

こんな希望の朝日が差すような1年であって欲しい、と切に願います。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリに木屑を焚き、コンロと併用炊事。例の通りなり。ヰロリの火ふしぎにたのし。

昭和21年(1946)1月2日の日記より 光太郎64歳

雪ですっぽり覆われた花巻郊外旧太田村の山小屋、唯一の暖房がこの囲炉裏でした。

火を見ていると何だか楽しくなる、「あるある」ですね。当方も昨日、日の出を待つ間、流木を集めて焚き火をしておりました。
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