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000昨日は銚子の犬吠埼周辺に行っておりました。生活圏ではあるのですが、昨年からコロナ禍のため不要不急の外出は控え続けており、久しぶりでした。

昨年、福島二本松で開催された「智恵子講座2020」で講師を務めさせていただいた折、ご聴講下さった、都内からお越しの「かたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)と、今秋、「智恵子抄」をメインとしたコラボ公演を都内で開催することになり、その打ち合わせです。

光太郎智恵子ゆかりの犬吠埼を訪れたいというお二人のご希望もあり、光太郎智恵子が大正元年(1912)に泊まった宿である暁鶏館(現・ぎょうけい館)さんをご紹介しました。お二人は土曜の夜からご宿泊、当方は日曜(昨日)の朝にお伺いした次第です。

ちなみに「かたりと」のお二人、来月には二本松でやはり「智恵子抄」のご公演。近くなりましたらまたご紹介します。

ぎょうけい館さんに行く前に立ち寄った、光太郎智恵子が歩いた君ヶ浜から見た犬吠埼灯台。智恵子没後の昭和15年(1940)に書かれた光太郎の随筆「智恵子の半生」には、「君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。」とあります。
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いざ、ぎょうけい館さんへ。君ヶ浜と反対方向、灯台の南側です。
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こちらのロビーで、お二人と打ち合わせ。どういう方向性だか、具体的に見えてきました。

その後、お二人を御案内して、周辺を散策。
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昔、生け簀だった石組み。ここで泳がせておいた魚を宿泊客に供していたそうです。

当方手持ちの戦前の絵葉書。海側から撮影されたものです。
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暁鶏館全景はこんな感じでした。右の方の棟は後から建て増しされたもののようで、さらに古い絵葉書には写っていません。
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KIMG4672奇岩列石の連なる遊歩道を通り、灯台へ。しかし、残念ながらコロナ禍のため、1月8日から公開は中止しているとのこと。せっかく昨年には国の重要文化財に指定されたのに、残念です。

竣工は明治7年(1874)。暁鶏館の創業と同じ年です。大正元年(1912)に訪れた光太郎智恵子も、この灯台を見上げたかと思うと、感無量ですが……。できれば99段の階段を上って、上からの絶景を見たかったのですが、いたしかたありません。他の観光客の方々も残念そうでした。

左下は、灯台のあたりからみた君ヶ浜。
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逆方向、ぎょうけい館さん。
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ぎょうけい館さんに歩いて戻る途中、建物の取り壊し工事が為されていました。おそらく、大正元年(1912)に、智恵子が妹・セキ、友人の藤井勇(ユウ)とともに最初に泊まった御風館(ぎょふうかん)のあった場所です。御風館自体はかなり早く廃業し、大正期の建物も現存せず、取り壊されていたのは昭和戦後期の建物と思われます。
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やはり古絵葉書。キャプションにはありませんが、手前の屋根が御風館です。
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その後、当方の車にお二人を乗せ、犬吠の南、長崎方面へ。光太郎詩「犬吠の太郎」に謳われた、「長崎の太郎」こと、阿部清助の墓に詣でました。

   犬吠の太郎KIMG4680
 
 太郎、太郎
 犬吠(いぬぼう)の太郎、馬鹿の太郎

 けふも海が鳴つてゐる
 娘曲馬のびらを担(かつ)いで
 ブリキの鑵を棒ちぎれで
 ステテレカンカンとお前がたたけば
 様子のいいお前がたたけば
 海の波がごうと鳴つて歯をむき出すよ
 
 ね
 今日も鳴つてゐる、海が――
 あの曲馬のお染さんは
 あの海の波へ乗つて
 あの海のさきのさきの方へ
 とつくの昔いつちまつた
 「こんな苦塩じみた銚子は大きらひ
 太郎さんもおさらば」つて
 お前と海とはその時からの
 あの暴風(しけ)の晩、曲馬の山師(やし)の夜逃げした、あの時からの仲たがひさね
 ね、そら
 けふも鳴つてゐる、歯をむき出してKIMG4681
 お前をおどかすつもりで
 浅はかな海がね

 太郎、太郎
 犬吠の太郎、馬鹿の太郎
 さうだ、さうだ
 もつとたたけ、ブリキの鑵を
 ステテレカンカンと
 そして其のいい様子を
 海の向うのお染さんに見せてやれ 001

 いくら鳴つても海は海
 お前の足もとへも届くんぢやない
 いくら大きくつても海は海
 お前は何てつても口がきける
 いくら青くつても、いくら強くつても
 海はやつぱり海だもの
 お前の方が勝つだらうよ
 勝つだらうよ002

 太郎、太郎
 犬吠の太郎、馬鹿の太郎 

 海に負けずに、ブリキの鑵を
 しつかりたたいた
 ステテレカンカンと
 それやれステテレカンカンと―― 

版画は隣町・旭市ご出身の版画家、土屋金司氏の作になるものです。詩を刻んだ方は、ぎょうけい館さんのロビーにも展示されています。

太郎は暁鶏館で働いていた、当時で言うと下男。本名は阿部清助。父は会津藩士だったそうですが、知的障害があったようで、現代では差別的表現になりますが「馬鹿の太郎」と呼ばれていました。しかし、皆から愛されるキャラだったようです。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演)では、故・石立鉄男さんが演じていました。

光太郎、太郎の(ややこしいですね(笑))鮮烈な印象が後々まで残っていたようで、昭和3年(1928)に書かれた詩「何をまだ指してゐるのだ」にも太郎が登場します。

続いて、犬吠埼の背後、愛宕山へ。銚子で最も標高が高く、「地球の丸く見える丘展望館」が整備されています。灯台に上れなかったので、その代わりに、です。

早咲きの、おそらく河津桜ではないでしょうか、もう咲いていました。
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展望台からの眺め。
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めずらしくよく晴れていて、風もあまりなく、こんな好条件は滅多にありません。

館内に展示されていた、吉田初三郎作の鳥瞰図のコピー。
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銚子の歴史、文化等に関する説明板。
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文学関係。
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光太郎の碑は無いのですが(ぜひ建てて欲しいものですけれど)、光太郎智恵子に関する説明は書かれています。
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さらに、すぐ近くの「風のアトリエ」さんというレストランで昼食。数年ぶりに行きましたが、相変わらず料理が美味でした。

ついでにいうなら、こちらは昔からなぜかヤギさんを飼っており……。
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小池氏、ずいぶんなつかれていました(笑)。

この後、車で都内に帰られるお二人を、ぎょうけい館さんまで送り届けました。
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不要不急の外出を避けている毎日で、ひさびさにのどかな陽光の下、歩き回って、実にいい気分でした。以前は、愛犬と共に朝夕けっこう歩いていたのですが、愛犬が17歳となり、もうあまり歩けなくなってしまったので、散歩は徒歩30秒の公園まで自分が抱っこしていき、数分間歩かせる程度になってしまったため、なおさらです。
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少しでも早く、コロナ禍の終息、収束を願います。

【折々のことば・光太郎】

夜食に久しぶりで牛鍋をやる。酒ののこりをのみ、牛肉五十匁ほど、葱、キヤベツ入にて美味限りなし。米久をおもひ出す。

昭和21年(1946)10月28日の日記より 光太郎64歳

米久」は浅草に現存する牛鍋屋です。大正10年(1921)には、「米久の晩餐」という長大な詩も書きましたし、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京した昭和27年(1952)には、早速、久しぶりにここを訪れています。

光太郎智恵子ゆかりの地を紹介するテレビ放映情報です。ただ、番組内で二人の名が出るかどうか……ですが。

まず、明日放映の番組から。「ほんとの空」のある福島安達太良山です。

にっぽん百名山 安達太良山~湯煙あがる錦の峰~

NHKBSプレミアム 2021年1月4日(月)  19時30分~20時00分

福島の安達太良山(1700m)、みちのくの火山に紅葉のクライマックスを満喫する山旅!中腹に湧き出す温泉は、平安時代から続く源泉かけ流しの秘湯。人気の山を徹底紹介。

東北でも屈指の紅葉の山を行く1泊2日の山旅!名瀑が連続する遊歩道を歩き、草紅葉の溶岩台地・勢至平を巡り、錦に輝く紅葉のトンネルを抜け、温泉のある“くろがね小屋”に宿泊。翌朝、荒々しい鉄山を染める紅葉を眺めながら登り稜線へ、直径1km以上もある巨大な火口・沼ノ平を望む。牛の背と呼ばれる火口の淵をたどり、“乳首山”とも呼ばれる山頂をめざす。案内は、麓の岳温泉で和菓子店を営む異色のガイド・渡辺茂雄さん。

出演 渡辺茂雄  語り 鈴木麻里子
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この番組では、過去3回、安達太良山が取り上げられました。それぞれ初回放映が平成27年(2015)2月(有料のCS放送チャンネル銀河さんで1/5の午前4:30~の放映があります)、平成28年(2016)7月、そして平成30年(2018)4月でした。今回で4作目となるわけですが、これまでの3作中2作で光太郎智恵子に触れて下さっていますので、現在2勝1敗(笑)。3勝目なるか、というところです(笑)。

もう1本。こちらは千葉県。大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼です。同年に発表された光太郎詩「犬吠の太郎」の舞台でもあります。

新美の巨人たち 『犬吠埼灯台』×シシド・カフカ 太平洋を照らす美しき白亜の塔

地上波テレビ東京 2021年1月9日(土) 22:30~23:00
BSテレ東      2021年1月16日(土)  23:00~23:30

初めて灯った日から146年。千葉県銚子市の岬の先端で太平洋を照らし続ける、美しき白亜の塔『犬吠埼灯台』は高さ31.3mの洋式灯台。その光はまさに文明開化の象徴。英国人技師、リチャード・ブラントンが、その能力を駆使して、日本に近代化の光を灯しました。その一方で、使用されたレンガには日本人の誇りが…。さらに灯台のレンズの驚異のメカニズムも明らかに!“灯台の美”を巡る旅をシシド・カフカさんがお届けします。

<Art Traveler>シシド・カフカ  <ナレーター>渡辺いっけい
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昨年、犬吠埼灯台が重要文化財指定を受けたことが、取り上げられる機運の一つとなったのでしょう。この灯台を光太郎智恵子も見上げたわけです。

001ただ、くどいようですが、どちらの番組も番組説明欄に光太郎智恵子の名がないので、二人と同地を巡るエピソードの紹介があるかどうか……です。しかし、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリ縁にて揮毫。昨日の代りに今日試筆、「天下和順」「日月清明」を二枚づつ半紙に書く。


昭和21年1月3日の日記より 光太郎64歳

「試筆」は書き初めの意。古来、書き初めは1月2日に行う習慣ですので「昨日の代りに」とあるわけです。前日は来訪者があり、出来なかったとしています。

「半紙」はいわゆる半紙ではなく、「半切」(約 348 × 1350 mm)でしょう。右がこの日記にある書。書けそうで書けない字ですね。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに、自宅兼事務所から車で1時間程の、九十九里浜片貝海岸に行きました。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養し、ほぼ毎週、光太郎が見舞いに来ていた場所です。

昨年まで、愛犬をお供に連れて行っていましたが、17歳になった愛犬、もう歩くのがだいぶしんどそうで、最近は自宅兼事務所の敷地内だけ歩かせている状況ですので、今年はお留守番。下は先月撮った画像ですが、日中も殆どワンモナイトになっています。
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日の出時刻は午前6時45分過ぎ。
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この時期、西高東低の冬型の気圧配置なので、東の洋上には雲が必ずかかっています。そこで、水平線から昇る朝日とは行きません。一昨年、昨年は、雲が日本本土に近いところまで来ていて、あまり綺麗な日の出は拝めませんでした。ところが、昨日は洋上の雲もだいぶ遠く、絶好の初日の出日和。こんな好条件は平成30年(2018)以来でした。
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人々の歓声と共に、初日の出。コロナ禍終息を願わずにいられませんでした。集まった皆さんも同じだったと思います。
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光太郎詩「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)を刻んだ詩碑。昭和36年(1961)の建立です。除幕の際には、昨年亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生も駆けつけられました。もう60年前なのですね。

こんな希望の朝日が差すような1年であって欲しい、と切に願います。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリに木屑を焚き、コンロと併用炊事。例の通りなり。ヰロリの火ふしぎにたのし。

昭和21年(1946)1月2日の日記より 光太郎64歳

雪ですっぽり覆われた花巻郊外旧太田村の山小屋、唯一の暖房がこの囲炉裏でした。

火を見ていると何だか楽しくなる、「あるある」ですね。当方も昨日、日の出を待つ間、流木を集めて焚き火をしておりました。
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昨日、旧神奈川県立近代美術館の重要文化財指定についてご紹介しましたが、同時に千葉銚子の犬吠埼も指定される見通しとなりました。

『朝日新聞』さんの千葉版から

犬吠埼灯台が国の重要文化財に指定へ

014 千葉県銚子市の犬吠埼灯台と近くの旧霧笛(むてき)舎・旧倉庫を重要文化財(建造物)にするよう、国の文化審議会が文部科学相に答申した。その報もあってか、17日は冷たい雨にもかかわらず、観光客が次々と灯台を訪れていた。今回の指定で、県内の重要文化財の建造物は29件となる見込み。
 県教委などによると、灯台は太平洋に突き出た犬吠埼に位置し、全体的に白く塗られたほぼ円筒形で高さは約31メートル。船舶が北太平洋を安全に航行できるようと建造された。今も現役で、36キロ先まで光が届く。
 19世紀に日本で多くの灯台の建設に携わった英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが設計し、1874年に初めて点灯した。点灯は日本で24番目。
 地震の多い日本で耐震性を高めるため、二重にれんがを積んだ技術が優れていることや、近代の航行の歴史を知る上で価値が高いとして評価された。
 旧霧笛舎は、海上に霧が広がり、視界が悪い時に屋根から伸びたラッパ状の筒から音を鳴らす。船が座礁しないように陸地の位置を知らせていた。
 灯台は海上保安庁が所有し、2010年に登録有形文化財になった。
     ◇
015 犬吠埼灯台は全国でも比較的交通の便がよく訪れやすい灯台として、長く銚子観光の中心にあった。だが近年、銚子観光はじり貧の一途だった。国の重要文化財という「格」を得ることで、観光復興のシンボルとしての期待が高まる。
 全国の灯台ファンも喜ぶ。「灯台マニア」を自認する東京都小平市の会社員平塚よう子さん(37)もその一人で、犬吠埼灯台を「3高」と評する。「岬にシュッと立ち、歴史があり、多くの人が訪れてお金を落とす人気者」と、かつての「もてる男子」の3条件になぞらえる。重文指定で「もっと大事にされてほしい」と話す。
 銚子海上保安部OBで計10年、同灯台の保守を担った銚子市の浦島弘巳さん(67)も感慨がひとしおだ。「5月にはこいのぼりを灯台の上から万国旗のようにはためかせてね。地震に強く、大地震でも水銀灯の水銀が少しこぼれるだけだった」と懐かしむ。続けてきた観光ガイドや灯台内部の清掃などの活動にも、いっそう力が入りそうだ。
 犬吠埼灯台や旧霧笛舎は、これまでは国の登録有形文化財だった。国の重文に指定されると、できる限り公開に努めることを課せられる。一方で、今も投光する現役の灯台でもある。
 市民グループ「犬吠埼ブラントン会」の仲田博史・代表幹事(72)は「耐震のために覆ってしまったコンクリートを一部でも壊し、建築当時のれんがの二重壁を見せるとか、霧笛を再開するかとか、議論が必要だろう。灯台本来の役割と文化財としての役割の両立が、これからの課題になる」と話す。

犬吠埼といえば、大正元年(1912)、光太郎が油絵制作のための写生に訪れ、それを知った智恵子がすぐ下の妹で智恵子と同じく日本女子大学校を出た・セキ、同じく藤井ユウと共に追って現れた場所です。

当方手持ちの戦前の絵葉書。
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宛名面には解説文。
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光太郎が泊まり、智恵子がのちに合流した旅館・暁鶏館から望む灯台。暁鶏館は建物や経営者は変わりましたが健在です。
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暁鶏館と灯台の中間あたりに、最初に智恵子が泊まった御風館。こちらは現存しません。
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旅館二軒は灯台の南側ですが、北側には二人で歩いた君ヶ浜。
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眺め自体は、現在もあまり変わっていません。

やはり戦前の観光案内パンフレット的なものも持っています。そちらには鳥瞰図が掲載されていました。
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灯台のすぐ下に「胎内クグリ」の文字があります。海蝕洞穴のようなものと思われますが、現在は見られないようです。

「犬吠」と書かれている左側の建物が暁鶏館。浜には生け簀が描かれています。現在は使用されていませんが、石組みは現存します。

その上(方角的には南になります)には「長崎」の文字。ここは光太郎詩「犬吠の太郎」(大正元年=1912)のモデルとなった、暁鶏館の下働き、阿部清助が住んでいた場所で、その墓も残っています。

犬吠と長崎の中間あたりに「外川」。市街銚子駅から伸びる銚子電鉄さんの終点で、現在、NHK BSプレミアムさんで再放送中の連続テレビ小説「澪つくし」の舞台の一つとなっています。イラストマップなので、若干、位置関係がおかしいのですが。

下の方(方角としては北)に目を転じると、君ヶ浜の南に「海鹿島(あしかじま)」。「プール」とありますが、海水を引き込んで造られたもので、当方の幼い頃にはまだ使われていました。

さて、これを機に、犬吠埼灯台、上記記事に有るとおり、観光再生の核となってほしいものです。さらには「光太郎智恵子純愛の故地」的な紹介のされ方も、もっとあっていいように思われます。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

パリが世界の魅力といふのは、パリといふものはフランスではない。フランスでもないしドイツでもない。どこでもない。パリといふものなのです。本当のフランスといふものは、フランス魂は田舎にある。

座談会筆録「現代詩の再出発」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

地方の風景を見て、「これが日本の原風景だ」と感じる感覚と同じでしょうか。

当方の住む千葉県北東部はそれなりの田舎でして、「日本の原風景」と感じるような場所も多くありますが、先週行って参りました光太郎第二の故郷ともいうべき花卷などもそうですね。

花卷といえば、NHK BSプレミアムさんで放映されている「にっぽん縦断 こころ旅」。火野正平さんが、視聴者の方々からの手紙を元に自転車で日本各地を訪れる番組ですが、今日の放映が花卷。午前7時45からの「朝版」は、冒頭部分、光太郎と交流のあった僧侶・多田等観が暮らし、光太郎も訪れた円万寺観音堂でのロケでした。ここからのビューは、花卷の観光案内などでよく使われます。
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これもある意味、「日本の原風景」ですね。
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この番組、「朝版」と、午後7時00分からの「とうちゃこ」に分かれていますが、「とうちゃこ」ではこの後に火野さんが宮沢賢治童話村に訪れるはずです。10月24日(土)にも再放送があります。ぜひご覧下さい。

ちなみに平成30年(2018)の放映では、光太郎が暮らした旧太田村の法音山昌歓寺さんが大きく取り上げられました。光太郎もたびたび訪れた古刹です。

千葉は成田から展覧会情報です

第44回千葉県移動美術館~近代日本を代表する作家から成田市ゆかりの作家まで~

期 日 : 2020年9月29日(火)~10月11日(日)
会 場 : 成田市文化芸術センタースカイタウンギャラリーA, B, C, D, E
      千葉県成田市花崎町828−11
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

  千葉県立美術館は、昭和49年に開館して以来、千葉県ゆかりの作家や作品をはじめ、国内外の優れた作品の収集・活用(展示)・保存に努めてまいりました。現在、日本画・洋画・彫刻・工芸・版画・書の各分野の作品約2800点を所蔵しています。
  千葉県移動美術館は、千葉県立美術館の所蔵作品をより多くの県民の皆様にご鑑賞いただくために、県内市町村の文化施設を会場として開催する展覧会です。
  成田市文化芸術センターでは、平成28年に続き、2回目の開催となります。今回は、「日本近代を代表する作家から成田市ゆかりの作家まで」と題して、洋画では浅井忠、クールベ、ドービニー、梅原龍三郎などに加え、明治・大正期の水彩画家の名作、地元作家である篠崎輝夫の特集展示などをご覧いただけます。日本画では東山魁夷、石井林響、横尾芳月、地元作家の小幡春生などの作品を、彫刻では高村光太郎、新海竹太郎、地元作家の島田勝吾などの作品を、工芸では、香取秀真、津田信夫などの金工作品や、宮之原謙、河村蜻山、地元作家の土肥刀泉などの陶芸作品を、書では浅見喜舟、石井雙石の篆刻作品など50点余りにおよぶ名作をお楽しみください。
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関連事業など
千葉県立美術館担当学芸員によるギャラリートーク
①10月4日(日) 午後2時~ ②10月10日(土) 午後2時~ 
事前申込不要。当日、直接ギャラリーCDにお集まりください。各回先着15名までとさせていただきます。
※当日の午後1時からギャラリーCD入口にて受付開始します。事前の受付はいたしませんのでご注意ください。 

成田市特集展示 篠崎輝夫コーナー
成田市ゆかりの画家、篠崎輝夫の作品11点をギャラリーEに展示します。
千葉県移動美術館 特設コーナー
展覧会期間中に、展示作品に関する書籍を紹介します。
会場:成田市立図書館(成田市赤坂1-1-3)TEL:0476-27-4646

千葉県立美術館さん所蔵の優品を、県内各地で出張展示する「移動美術館」。第44回ということで、かなり歴史を刻んでいますね。

同館では光太郎ブロンズ彫刻、代表作の「手」(大正7年=1918)をはじめ、8点の光太郎ブロンズ彫刻を所蔵しており、同館所蔵品の目玉の一つ的な位置づけです。そこでこのところ、移動美術館の際には光太郎彫刻がラインナップに入ることが多く、ありがたいかぎりです。ここ数年では第39回(勝浦市)第40回(成田市)第42回(茂原市)で光太郎彫刻が出ています。

今回は、「裸婦坐像」(大正6年=1917)。光太郎円熟期の逸品の一つです。ただし、鋳造は新しいもののようですが。
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光太郎と交流の深かった詩人・真壁仁の回想から。

「裸婦」はよく夫人をモデルにした作と思われているが、実際は百合子という横浜のチャブ屋の女である。チャブ屋の生活を嫌ってその女が逃げ出してきたとき、先生は一時かくまってあげた。そのとき、モデルになるかと言ったら、なるというので、先生は彫刻にこさえ、夫人は油絵に描いた。そんな商売の女と思えないほどいいからだだったそうである。この彫刻は七つほどブロンズにしたということだから方々にのこっっている筈である。(昭和27年『高村光太郎選集』月報4 中央公論社)

「七つほどブロンズにした」ということから、光太郎自身、お気に入りの彫刻だったのではないかと思われます。それを裏付けるように、大正9年(1920)に刊行された『明星』歌人の渡辺湖畔の歌集『若き日の祈祷』に、口絵として、この像の素描を寄せています。
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妙な言い方になりますが、裸婦でありながらまったく嫌らしさを感じない、ある意味、仏像のようにも見えます。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

嘘をついても、結局わかるし、またひとつ嘘をいうと、次々と嘘が積まれていきます。世の中は嘘によって暗くなり、正直によって明るくなります。

談話筆記「高村光太郎先生説話 十一」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外太田村の山小屋に蟄居中、近くの山口小学校の卒業式・修業式に呼ばれて語った来賓挨拶の一節で、したがって、子供たちに贈った言葉です。

「嘘をついても、結局わかるし、またひとつ嘘をいうと、次々と嘘が積まれていきます。」その通りですね、前○○さん、それから「忖度」まみれの取り巻きの皆さん(笑)。

昨日は千葉市にある千葉県立美術館さんに行っておりました。先週から始まったコレクション展「高村光太郎の生きた時代」拝観のためです。

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光太郎彫刻及び同時代で光太郎と交流のあった美術家たちの作品、30余点が展示されていました。

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光太郎作品はすべてブロンズで、同館所蔵の8点、すべて出ていました。当方手持ちのデータアーカイブから画像を載せます。すべて光太郎令甥にして写真家だった、故・髙村規氏撮影になるものです。

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東京美術学校在学中の作で、「猪」(明治38年=1905頃)、「薄命児男子頭部」(明治38年=1905)。「薄命児」はもともと浅草で玉乗りの曲芸をやっていた幼い兄妹の群像でしたが、現存が確認できているのは兄の頭部のみです。

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「手」(大正7年=1918)。先月、立川のたましん美術館さんでも拝見して参りました。先だって、この作品に関する未知だった文章を発見したばかりでしたので、興味深いものがありました。

「裸婦坐像」(大正6年=1917)。「手」にしてもそうですが、まだ智恵子も健康で、実生活は貧しいながらも平穏だった時期。その心の安定が作品にも反映されているように感じます。

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「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)。光雲が依頼を受けた大倉財閥の創業者夫妻の肖像彫刻のために、光太郎が作った原型です。テラコッタの状態にしてあったものが、戦後になって光太郎の手元に帰り、さらに没後、鋳造されました。当会顧問であらせられた故・北川太一先生宅の居間にこれがなにげに飾られていたと、改めて感慨にふけりました。

「野兎の首」。戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居時代の、現存が確認できている唯一の作。光太郎没後、山小屋の囲炉裏の灰の中からやはりテラコッタの状態で見つかったという、ドラマチックな背景があります。

故・髙村規氏の回想から。

 村のお百姓さんが「囲炉裏の灰の中から、こんな土の塊が出てきたんですけど、これ一体なんでしょうかね」って持ってきたんです。見たら、手のひらにのる一握りの土の塊なんですね。目とか耳らしきものがあるんで兎みたいに見えたんですよ。これはもう小屋の周りの普通の地面の土です。水に溶かしてドロドロにした土を粘土みたいにして作って囲炉裏の火で焼いたんですね。おそらく気持ちとしてはテラコッタみたいになればいいなと思って焼いたんだと。だけど囲炉裏の火じゃあ温度が上がりませんから完璧には焼き締めができてないで、そのまま灰の中に埋めてあったんですね。
(中略)
 見たら、砂の塊みたいでポロポロポロポロ崩れてくるんですね。ちょうど親父のお弟子さんの西大由さんが一緒に僕についてきたもんですから、その人と相談して旅館まで、ハンカチにくるんで怖々やっとの思いで運んで、親父に電話したんです。そうしたら「それは貴重な彫刻家もしれないから、何とかして、うまく石膏だけ残してくれ」。そのお弟子さんとしゃべったら「石膏に取るのはいいけど、石膏が失敗したら両方ともだめになっちゃうよ。そこんとこを、お父さんによく言っといてくれ」って言うから、「そう言ってるよ」って言ったら、「まあ、失敗するかどうかはともかく、石膏を用意してもらって、その土を石膏におこしてくれ」。
(中略)
 「よし」ってんで石膏取りが始まりました。西さんは石膏をどうやって手に入れたんだろう、丁寧に旅館の人に頼んでどっかで石膏を買ってきて貰ったのかな。旅館の部屋の廊下のところで、石膏を溶いて、その土の塊にかぶせたんですよ。
(中略)
 それを親父がブロンズにおこしましてね。《野兎の首》っていうタイトルでよく展覧会に出品するんです。それが戦後七年間の岩手の山小屋時代の唯一の彫刻なんですね。親父はその時はもうほんとに涙を流して喜んでましたね。兄貴はやっぱり彫刻家なんだと。
(「碌山忌記念講演会 伯父 高村光太郎の思い出」 『碌山美術館報第34号』 平成26年=2014)


これが昭和33年(1958)のことです。「親父」は光太郎実弟の豊周。「西大由」は豊周に師事した鋳金家。ともに人間国宝です。「旅館」は光太郎もたびたび泊まった大沢温泉さんでした。のちに鋳造しながら涙を流していたという豊周、感動的です。

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そして生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための試作が2点。「手の試作」と、「中型試作」です。

8点並ぶと、光太郎の世界観がかなりの程度、濃密に現出されるなという感じでした。

その他、先述の通り、同時代で光太郎と交流のあった美術家たちの作品群。豊周、柳敬助、石井柏亭、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、毛利教武、高田博厚、中西利雄、舟越保武。そして、千葉出身ということで、宮崎丈二の絵も出ていました。宮崎の作品は滅多に観る機会がないので、「ほう」という感じでした。

作品を通し、これらの人々の魂がこの場に一堂に会し、旧交を温めているような、そんな不思議な感覚でした。ここに荻原守衛やバーナード・リーチらが入ればなおよかったかな、などとも思いました。

同展、会期は9月21日(月)までと、かなり長めです。新型コロナにはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

希望といふのも変ですが、もつと自分の詩をつきつめて行つて其処から戯曲への道をひらきたいと思つてゐます。

アンケート「本年(昭和三年)の計画・希望など」より
昭和3年(1928) 光太郎54歳


少し前にもエッチングの件で書きましたが、光太郎、「有言不実行」というか、「やるやる詐欺」というか、そいう部分もけっこうありまして(笑)……。この時期に戯曲を執筆したという事実は確認できていません。確認できていないだけで、実は存在するのかも知れませんが。

千葉から所蔵品展の情報です。 
期 日 : 2020年7月18日(土)~9月21日(月)
会 場 : 千葉県立美術館 千葉市中央区 中央港1丁目10番1号
時 間 : 9:00~16:30
休 館 : 月曜日
      ただし、月曜日が祝日・振り替え休日に当たるときは開館し、翌日休館
料 金 : 一般300円/高大150円  *20名以上は団体料金(それぞれ2割引き)
      65歳以上 中学生以下 障害者手帳をお持ちの方及び介護者1名無料 
高村光太郎は、日本近代を代表する彫刻家の一人であると同時に、『智恵子抄』をはじめとする詩作や美術評論など、多岐にわたる芸術活動を展開しました。
活動の幅広さに比例するように、生涯を通じて多くの芸術家と交流しました。その中には実弟で彫金家の高村豊周、家族ぐるみの交流があった柳敬助、フュウザン会で活動をともにした岸田劉生などがいます。
本展は、当館コレクションの中から、高村光太郎本人の作品とともに、高村と交流のあった芸術家たちの作品を紹介することによって、高村が生きた時代を浮かび上がらせようとするものです。

主な展示作品
 高村光太郎《手》1918年 岸田劉生《霽れたる冬之日》1917年

同時開催
 コレクション展 都鳥英喜とその周辺/名品

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展示目録がネット上に出ていませんが、同館では「手」(大正7年=1918)をはじめ、8点の光太郎ブロンズ彫刻を所蔵しています(以前は6点だったように記憶しているのですが)。8点すべて出すのか、セレクトされるのか、不明です。ただし、いずれも新しい鋳造のもののはずです。

それから、説明文には光太郎実弟にして鋳金の人間国宝・豊周の名。やはり同館では「北詰コレクション」ということで、千葉県印西市にあって平成26年(2014)に閉館した、「メタル・アート・ミュージアム 光の谷」の所蔵品がこちらに移っており、その中に豊周の作品が含まれています。何度かそちらの展示も行われています。今回もおそらく豊周の作品も出るのでしょう。

今週末はいろいろ忙しいので、来週には足を運び、レポートしようと考えております。


【折々のことば・光太郎】

一番よく自分の内の声を聴くものが、一番正しい生活に入るのである。人間世界の道徳律はかうして自然に出来たものだと思ふ。

散文「若さ」より 昭和3年(1928)頃 光太郎46歳頃

昭和3年1月14日、東京開成館発行『新制女子国語読本 第二修正版 巻五』(高等女学校用の教科書)に掲載された文章です。初版は大正11年(1922)ですが、毎年のように改訂が入り、いつの時点でこの文章が採録されたか不明です。

大正13年(1924)発行の雑誌『婦人之友』に載った「若い人へ」と内容的にはほぼ同一ですが、細かな部分での相違がかなりあります。現時点ではどちらが先行するか、これも不明です。

「一番よく自分の内の声を聴くものが、一番正しい生活に入るのである。」ある意味、性善説ですかね。

緊急事態宣言の解除を受け、休業していた商業施設等も再開が相次いでいますが、百貨店そごう千葉店さんも今月から営業再開となりました。

現在、本館七階の美術画廊さんで、光太郎の父・光雲の木彫が展示即売されています。 

近代秀作木彫展

期 日 : 2020年6月2日(火)~6月8日(月)005
会 場 : そごう千葉店 本館七階美術画廊
       千葉県千葉市中央区新町1000番地
時 間 : 10:00~19:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

高村光雲や平櫛田中など近代に活躍した彫刻家から大仏師松本明慶まで、秀作木彫作品30余点を一堂に展観いたします。
心と技が一体となって制作された仏さまやぬくもりあふれる木彫作品の数々をご覧ください。

画像:松本明慶「子安観音菩薩」


生活圏ではありませんが、同じ県内ですので、早速拝見に伺いました。

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「30点余」とのことでしたが、ほとんどは現代の京仏師・松本明慶氏の作。光雲作は3点、それから関連する作家として、光雲の師・髙村東雲の孫・髙村晴雲と、光雲の弟子・平櫛田中の作が1点ずつ出ていました。

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光雲の作品、まずは「孔子像」と題された像高20㌢ほどのもの。通常、「大聖像」とされることが多いのですが、「大聖」=「徳を積んだ人物」、具体的には孔子ですので、誤りではありません。光雲が得意とした題材の一つで、複数作品の現存が確認できていますし、時折、アートオークションに出品されています。今回は即売を兼ねての展示で、900万円の値が付けられていました。

「孔子像」より若干大きめの「大国主命」。因幡の白ウサギの神話を図題にし、大国主命の足元にかわいらしい兎。この図題は初めて拝見しました。こちらは何と1,800万円。

もう一点は、短冊形の細長い板に彫られた富士山と雲。「瑞雲」と題されていました。丸板や扇形の板に彫られたものは拝見したことがあります。下記は京都の清水三年坂美術館さん蔵のもの。これを長方形の短冊様にしたと思って下さい。小品ということで、しかしそれでも150万円でした。

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髙村晴雲の作は、「釈迦如来像」。こちらは坐像002で像高15㌢ほどだったでしょうか。350万円。晴雲はのちに祖父の名跡を継いで三代東雲と名乗りますが、その前の作。おそらく戦前のものでしょう。

平櫛田中の作は、彩色彫刻で、田中が得意としたユーモラスな大黒天像でした。右は同趣意の作。小平市平櫛田中彫刻美術館さん蔵のものです。


久しぶりに木彫のいいものを拝見でき、眼福でした。

これも新型コロナの影響なのか、元々そういう予定だったのか、会期が来週月曜までと、短いのですが、ぜひ足をお運び下さい。さらに懐に余裕のある方は、お買い求め下さい。当方は逆立ちしても無理です(笑)。


【折々のことば・光太郎】

油絵には他の材料ではとても出来ない強い、深い、意味のある特別な味がある。今やつて居る人達は大抵他の材料でも出来るやうな仕事をやつてゐる。

座談会筆記「奉祝展洋画と彫刻」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

なるほど、油絵なら油絵でなければ出来ないことをやるべきですね。彫刻も然り。木でなければ出来ないこと、粘土でなければ出来ないこと、そういったことが考えられて当然でしょう。どうもそのあたりがどうなのかな、という、「現代アート」なるガラクタが幅を利かせているような気もします。

昨日の続きです。

当方自宅兼事務所から徒歩30分ほどの、香取市佐原地区伝統的建物群保存地区とその周辺。喜多方や川越ほどではありませんが、やはり蔵が目立ちます。

圧巻はこちら。土蔵としてはおそらく日本一の建坪だという、「与倉屋大土蔵」。明治22年(1889)建造です。

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元は酒や醤油の醸造を行っていた際に使われた蔵でしたが、現在はその広さを生かし、コンサートなども開催されています。

平成27年(2015)公開の、東京美術学校西洋画科で光太郎の同級生だった藤田嗣治を主人公とし、光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)が劇中で使われた映画「FOUJITA」のロケがここで行われ、当方、そうとは知らずに映画館のスクリーンにこの蔵が映って驚いた次第です。

他にも味のある蔵がたくさん。

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左上は、夏と秋に行われる「佐原の大祭」(ユネスコ世界無形文化遺産)の山車を収める蔵です。

その他、蔵ではない住宅も何とも言えない趣に溢れています。郷土の偉人・伊能忠敬の旧宅。

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昔の市長さんの家。だいぶ以前には醸造業を営んでいたそうで、店舗の名残が残っていますが。

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このタイルが昔はモダンだったのでしょう。

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こんな家も。実に立派な屋根です。

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伝統的建造物群保存地区内では、新築や改築の際も、昔風の造りにしなければいけないという条例が施行されており、一見、古い家かと思うと新築だったりします。下の画像では新旧入り乱れています。

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そうそう、忘れてはいけないのは、洋館。純日本式家屋とはまた違った魅力があります。

こちらは旧千葉合同銀行佐原支店。昭和4年(1929)の竣工だそうで。一時、昨日ご紹介した蕎麦屋の小堀屋さんの別館として使われていましたが、現在は空き店舗です。

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左下が旧三菱銀行佐原支店。現在、耐震工事中で残念ながらこんな状態です。赤レンガ造り、屋根にドーム。たまりません(笑)。光太郎が詩集『道程』を上梓し、智恵子と結婚披露を行った大正3年(1914)の建築です。

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右上は、やはり赤レンガの建築ですが、何と、浄国寺さんというお寺のお堂です。これはかなり珍しいのではないでしょうか。明治23年(1890)に建てられたそうです。

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それから、個人のお宅。

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こちらも。こうなると擬洋館の扱いでしょうか。

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新築のビルも、やはり条例のために洋館風に。千葉商船さんの本社ビルです。

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そして、こんな建物。

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一見、洋館にしか見えませんが、後ろは純日本風の建築です。

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「看板建築」といい、店の正面だけ看板代わりに モルタルなどで豪華に作ってあるタイプです。上記はもとは家具屋さんでしたが、現在は隣接する「素顔屋(すっぴんや)」さん(こちらも昨日ご紹介しました)が使っています。ちなみにやはり映画「FOUJITA」に登場しています。


他にも完全な看板建築があと2棟。

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「方林堂」と書かれている方は、現役の薬局です。

ここまで、主に建築を紹介して参りましたが、それ以外にも街を歩けばレトロなアイテムがたくさん。

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赤丸ポストは現役です。あえてあちこちに設置しています。

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右上はたばこの看板。

看板といえば、こんなものも。

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昭和後半から平成初め、条例が施行される前に新築してしまった現代風のお店でも、ウインドーに昔のお宝を展示したりしています。「佐原まちぐるみ博物館」ということで、40軒ほどのお店などが加盟しており、新しい建物のお店も参加しているわけです。

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まだまだ紹介すべきスポットがあるのですが、先週歩いたのはこんなところでした。今回紹介しきれなかった分は、また改めまして。

こんなに趣のある、光太郎智恵子が歩いていてもおかしくない(苦しいのですが(笑))街ですが、平成23年(2011)の東日本大震災では大きな被害を受けました。

大動脈の小野川は液状化がひどく、また、瓦屋根の家屋は惨憺たるものでした。古い家屋では、瓦はしっかり固定しない造りになっています。固定すると、大地震の際、遠心力が働いて建物ごと倒壊してしまうため、あえて瓦が落ちるように作ってあるのだそうです。

下記動画、視聴には注意して下さい。3.11の午後2時46分、まさに「その時」のものです。



液状化の方はこちら。



あれから9年、この惨状から、佐原の街並みは復活しました。

そして今、新型コロナという新たな災厄……。しかし、あの大震災から復興を果たせたこの街、そしてまだ復興途上ではありますが、頑張ってきた東北の町々、そして日本全体。決して新型コロナなどには負けない、と信じています。

一丸となって、この災厄を乗り切りましょう!


【折々のことば・光太郎】

ギリシヤ時代のあの色がここにも生きてゐて愉快に思つた。

雑纂「難波田龍起個展「感想帖」より」より 
昭和28年(1953) 光太郎71歳


難波田は、光太郎の影響で美術の道に進み、さらに詩作も行った画家です。かつては駒込林町の光太郎の住居兼アトリエのすぐ裏手に住んでいました。

「ギリシヤ時代のあの色」、「不易と流行」の「不易」の部分ですね。古い街並みにはやはり「不易」の美を感じます。

昨日も書きましたが、このところのイベント等の自粛やら延期やら中止やらで、このブログのネタに困っています。仕方がないことですが、ついでに言うなら講師を仰せつかっていた市民講座等も続々中止、1年以上前から関わっていた展覧会も中止……。医療現場の最前線で闘っている病院関係の方々や、感染の恐怖におびえながらも通常通りに仕事せざるを得ないさまざまな職種の皆さんなどに比べれば、どうということはないだろう、とも思うのですが、やはり困りますね……。

さて、ネタ不足に対する苦肉の策の第二弾として、光太郎智恵子とは直接関係ないのですが、今日は散歩ネタで。先週木曜日でしたか、すこぶる陽気がよかったし、あまりに暇だったので、自宅兼事務所から徒歩30分ほどの旧市街を散歩しました。はじめに断っておきますが、田舎ですので、散歩している分には「密」の状態はあり得ません。さらにその日はどこの店にも寄りませんでした。まぁ、第一、休業している所が多いのですが……。専門家会議等の提言でも散歩はOKということでしたし。

自宅兼事務所のある香取市佐原地区、平成8年(1996)、関東地方で初めて伝統的建造物群保存地区に指定された、古い街並みが残っています。まるで光太郎智恵子が歩いていてもおかしくないような(苦しいのですが)。そこで、コロナ禍が収まったら、皆さんにどんどん観光に来ていただきたく、その参考に、というコンセプトです。

「光太郎智恵子が歩いていてもおかしくない」というか、おそらく昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)のロケも行われています。ただ、確証がありません。パンフレットには同じ千葉県北部の「佐倉」と書かれています。しかし、写真を見るとどうみても「佐原」でして。「佐原」と「佐倉」昔からよく混同されています。

佐原地区、コロナ騒ぎの前は、平日でもバスツアーなどで観光客の皆さんが多く、また、かえって平日の方が、旅番組系、ドラマやCMなどのロケが多かったのですが、さすがに閑散としていました。

少し前に放映されていた、波瑠さんがご出演なさった大同生命さんのCMは佐原で撮られました。 

 

佐原は元々、利根川支流の小野川沿いに、江戸への舟運で栄えた街です。こちらが小野川。水源から河口の利根川との合流地点までのバイアスがあまりないので、流れはゆるやか、それだけに清流、という感じではありません。ただ、川沿いの道は無電柱化が進み、その意味では景観美が確立されています。

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ところどころに古い橋も残っています。

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下の画像は「樋橋(とよはし)」。通称「ジャージャー橋」。元は農業用水を通す橋で、溢れた水が川に落ちていたので、そういう名です。現在は観光用に30分だか1時間だかに一度、機械仕掛けで人為的に落水させています。

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それから石段は「だし」。荷の積みおろしをするための船着き場です。今もあちこちに残っています。

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船宿も昔は結構あったそうですが、昨年あたりに最後の一軒、「木の下旅館」さんも旅館としては廃業、とんかつ屋さんにリノベーション。ただ、建物はそのまま残っています。

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そのあたり、リアルにそういう内容で、昨年、テレビ東京さんの深夜ドラマ「日本ボロ宿紀行」(深川麻衣さん、高橋和也さん主演)で取りあげられました。劇中歌「旅人」のPVは木の下旅館さんに泊まって作成されたという設定でした。

 

また、木の下旅館さんの対岸にある床屋さんもPVに登場。昭和レトロ感あふれる建物です。

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こちらはやはり少し前に放映されていた、故・大杉漣さん、永山絢斗さんご出演のオロナミンCのCMでも使われていました。




そうした舟運も、鉄道の普及と共に衰退。下記は舟運から鉄道への過渡期の遺構。小野川から佐原駅まで数百㍍を繋いでいたベルトコンベヤーの跡です。

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しかし、小野川沿いを中心に、江戸時代からそのまま続いている老舗もかなり健在。

元々この辺り一帯の大地主でもあった、寛政12年(1800)創業の佃煮屋さん「正上」さん。しょっちゅうテレビで取りあげられます。

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左下はお茶屋さんで「大高園」さん、明和2年(1765)創業。右下は天明2年(1782)創業の蕎麦屋の「小堀屋」さん。昆布の粉を練り込んだ真っ黒な蕎麦が名物です。

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江戸時代と同じ製法でごま油を作り続けているという「油茂(あぶも)製油」さん。このお店が現在も営業している中で最も古く、正確な年代は不明ながら350年以上だそうです。

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文化元年(1805)創業の「福新呉服店」さん。

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勝海舟も逗留したことがあるという造り酒屋の「馬場酒造」さん。創業は天保年間、煙突は明治33年(1900)の建造だそうで。

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植田屋荒物店」さん(宝暦9年=1759年~)。「荒物」は、竹や木などの自然素材で作った笊、籠、箒などのエコ商品です。

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左は「虎屋菓子舗」さん(明暦2年=1657~)。和菓子はもちろん、洋菓子も扱っています。右は陶磁器の「紀の国屋」さん。光太郎が生まれる前年の明治15年(1882)に東京から移転してきたそうです。

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これらのお店は、江戸時代や明治期からの老舗ですが、建物はそのままに、異業種に転換したというお店も少なくありません。

和風雑貨の「素顔屋(すっぴんや)」さん。元は家具屋さんでした。当方愛用の傘はここで購入。着物の際にも使える番傘風の洋傘です。

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並木仲之助商店」さん。元は荒物の卸問屋さんでしたが、現在は和紙やお香などを置いています。

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手前はアンティークショップ、奥はフランス料理店「夢時庵(むーじゃん)」さん。

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板前割烹 真亜房(まあぼう)」さん。地産地消にこだわり、ブランド肉の「恋する豚」などを使った料理がおいしいお店です。

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蕎麦屋の「香蕎庵(かきょうあん)」さん。蕎麦とフレンチを融合させ、「トリュフ蕎麦」なども人気だそうで。

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イタリアン、というか、「洋麺屋」と看板に掲げる「ワーズワース」さん。ボリュームたっぷりのパスタが人気です。尖塔のような蔵の形が面白いですね。

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小野川を運行する観光舟めぐりの事務所。

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左下はサツマイモ専門の和菓子屋「さわら十三里屋」さん。十数年前まで新刊書店の「正文堂」さんでした。しばらく空き店舗だったのが、数年前にリノベーション。

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右上が「中村屋商店」さん。元は畳屋だったのが、和風雑貨の店となり、さらに現在はホテル「NIPPONIA」さんのフロント、レストランも兼ねています。

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「NIPPONIA」さんは、古民家や蔵を改装し、宿泊施設としたちょっと変わったホテルです。現在4棟、13部屋。フロントからは徒歩で移動。「商家町全体をホテルに」というコンセプトです。上記の「並木仲之助商店」さんの一部も使われています。

それ以外には、古民家一軒まるごと借りる形の棟。

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豪商の邸宅だった棟。忍び返し的な柵が塀の上に。

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蔵を改装した棟。

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いい感じですよね。

長くなりましたので、続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

すかり秋になつて、栗がさかんに屋根に落ち、毎日栗飯を炊き、昔の目黒の料亭を時々思ひ出します。

雑纂「消息の中から」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居していた時のものです。「目黒の料亭」というのは戦前の話でしょうか。光太郎が歩いた東京の街並みも、上記佐原の街並みと似た感じだったのでは、と思われます。こじつけっぽく苦しいのですが(笑)。

被災規模に於いて東日本大震災とは比較になりませんが、我が千葉県、昨年の台風15号では、気象庁観測史上1位の最大瞬間風速57.5㍍を記録し、住宅約74,000戸の損壊、停電約64万戸、そして2名の方が亡くなりました。

それが上陸したのが9月9日というわけで、今月9日には半年が経過。それを受けて同日の地元紙『千葉日報』さんの一面コラムが以下の内容でした。 

忙人寸語「智恵子は東京に空が無いといふ、」

 「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」。高村光太郎の詩集『智恵子抄』に収められた「あどけない話」の一節だ▼ふと早春の空を見上げる。智恵子が望んだ故郷・福島の安達太良山の青空に負けず劣らず、我が故郷・千葉の青空も心を晴れやかにしてくれる。昨年9月9日に荒れ狂った空が同じだとは思えない▼同日未明、房総半島台風と先月命名された台風15号が千葉市付近に上陸。同市で観測史上第1位となる最大瞬間風速57.5㍍を観測するなど、暴風が県内を襲った。電柱の損壊や倒木で最大約64万戸が停電。給水ポンプ停止による断水もあり、毎日、四苦八苦された方も多かろう▼二転三転した東京電力の復旧見通しに、停電が解消したとされる地区に点在した「隠れ停電」。翻弄(ほんろう)された日々を思い返しつつ、いかに私たちの生活が電気に頼っているのか改めて実感する▼そして建物被害。屋根が吹き飛んだ住宅、ひしゃげた農業用ハウスの骨組み。生活の基盤を、活計の道を一夜にして失った人にとって再建は端で考えるほど、甘いことではないだろう▼15号上陸から今日で半年、光太郎は力強く歩む牛をテーマにした詩も書き残している。「牛は後ろへはかへらない 足が地面にめり込んでもかへらない」。物心ともに被災地の、被災者の復興が少しでも前に進むことを願ってやまない。

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まったくその通り、と思いました。

千葉県北部に位置する当方自宅兼事務所は、54時間の停電に見舞われたくらいで、幸いに建物への損害はほとんどありませんでした。しかし、南の方では未だに傷跡が残り、生活を立て直すめどが立たずにいる方々も多いのが現状です。

上記一面コラムの上に載った、一面トップの記事がこちら。

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最初に書いた通り、被災規模では比較になりませんが、東日本大震災の時も、津波被害の大きかった地域はこんな感じだったんだろうな、と思いつつ拝読しました。人的被害が少なかったのが、まだしも不幸中の幸いだったと思います。しかし、頻度ということを問題にすると、津波より台風の方が多いわけで、そのあたりが見出しにもある「町に残るか、離れるか…」という悩みにつながっているようです。

とにもかくにも「忙人寸語」の末尾のように、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)の如く、「のろのろと」でも、一歩ずつ進んで行くしかないのかも知れません。ちなみに「牛」全文はこちら(閲覧注意、102行もある詩です)。


【折々のことば・光太郎】

建築家は工芸家はじめ彫刻家、音楽家、園芸家等と一緒に仕事す可き性質のものです。提携などゝ言ふのはまだるい程密接す可きものと思ひます。

アンケート「建築家と工芸家との提携に就きて」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳

「光太郎37歳」で思い出しましたが、今日、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕137年となります。上記の【折々のことば・光太郎】は、数え年で光太郎の年齢を表記していますので1年ずれています。

閑話休題。作例は少ないものの、駒込林町のアトリエ兼住居など、自分でも建築設計にかかわった光太郎ならではの発言です。

当方自宅兼事務所はミサワホームさんの建築です。築20年近くになりますが、建立当時「阪神淡路大震災で1軒も全壊しなかった」というのが売りでした。宣伝ではありませんが、なるほど、確かに台風15号の際もびくともしませんでした。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。
来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに、九十九里浜の片貝海岸に行きました。16歳になった愛犬がお伴でした。

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赤く見えるのは、傍らで流木を燃やして焚き火をしていたためです。

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愛犬、以前は人に触られるのをあまり好まなかったのですが、歳をとって丸くなったようで(笑)。見ならわなければ、と思いました(笑)。

ここは、南北に長い九十九里浜のほぼ中央、昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養していた場所です。智恵子の妹・セツ(節子)の一家と、母のセンも同居していました。

下記写真は明治41年(1908)頃。智恵子数え23歳、前年に日本女子大学校を卒業し、東京に残って太平洋画会で油絵制作に取り組んでいた頃のものです。何かの折に帰省した際に撮られたもので、当時の智恵子の一家が勢揃いしています。

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後列左から、四女・ヨシ、長女・智恵子、次女・セキ、三女・ミツ(後述する宮崎春子の母)、父・今朝吉、長男・啓助。前列左から祖父・次助、五女・セツ(昭和9年=1934当時、九十九里在住)、祖母・ノシ、六女・チヨ、次男・修二、母・センです。

明治、大正と、福島油井村(現二本松市)で、大きな酒蔵を経営していた智恵子の実家は、父・今朝吉の没後に経営が傾き始め、昭和4年(1929)の恐慌のあおりをもろに受けて破産、一家は離散しました。

五女のセツ夫婦が暮らしていた九十九里に母・センも引き取られ、昭和6年(1931)頃から心の病が顕著になっていた智恵子も、先述の通り、昭和9年(1934)5月にセツの元に預けられます。しかし、その病状は好転することなく、完全に夢幻界の住人となってしまい、日がな浜辺の千鳥と遊んだり、「光太郎智恵子、光太郎智恵子」とつぶやいていたりしたそうです。

のちにその頃の智恵子を謳った光太郎詩に「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)などがあります。

しかし、セツには幼い子供もおり、教育上宜しくないと判断され、智恵子は12月には再び駒込林町のアトリエに引き取られ、翌昭和10年(1935)に、終焉の地となった南品川ゼームス坂病院に入院することとなります。妹・ミツの娘、春子が看護師の資格を持っていたこともあり、付き添いに入りました。

下記は、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)、このあたりでロケが行われた東宝映画「智恵子抄」撮影時のスナップ写真です。

左端がセツ、右端が春子。智恵子に扮する原節子さん、光太郎を演じた山村聰さん、それから春子役の青山京子さんも写っています。

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そんなことを考えつつ、片貝海岸で初日の出を待ちました。

しかし、今年は(去年もでしたが)雲が多く、日の出から15分後の7時を過ぎても太陽は拝めませんでした。

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渋滞を避けるため、早めにあきらめて撤収。

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帰りぎわ、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑で。昭和36年(1961)、地元の俳句グループや、当会の祖・草野心平らの尽力で建てられたものです。

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上記は雑誌『文学散歩』第10号に載った、当会顧問・北川太一先生による除幕レポートです。心平や、やはり光太郎と交流のあった詩人の伊藤信吉、彫刻家の高田博厚、皆すでに鬼籍に入っていますが、若かったのですね、半裸で九十九里の荒波に飛び込んだそうで(笑)。

自宅兼事務所を目指して、九十九里沿岸を北上中、蓮沼あたりで、雲の切れ間から太陽が姿を見せそうな気配となりました。そこで再び浜辺へ。

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できれば片貝で見たかったのですが、いたしかたありませんね。まぁ、今年もいいことがあるような、そういう感じのする初日の出でした。

というわけで、しつこいようですが、本年もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

かかる極限の場合に詩人の本質がまじりけ無く迸り出でその詩を生かしてゐる事を痛感する。どの詩人も言葉と実感との間に或る焦燥を持つてゐる。有り余る実感が言葉の間で渦を巻いてゐる。言葉は僅かにその万分の一を象徴してゐる。

散文「山本和夫編『野戦詩集』」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

『野戦詩集』は、日中戦争に出征した山本以下6人の詩人(西村皎三、加藤愛夫、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫)の作品を集めたアンソロジーです。前線で実際に戦闘をしていた詩人の作品集ということで、このような評となっています。ちなみに6人のうち、西村は戦死しています。

たしかに光太郎の言う通りなのでしょうが、こうした時代が再び訪れることの無いように、と思わざるを得ません。

昨日は、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった、歌人・水野葉舟の子息にして、衆議院議員を永らく務められ、総務庁長官、建設相などを歴任された水野清氏のお別れの会に行って参りました。
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会場は、成田ビューホテル。氏の地元で、当方自宅兼事務所から車で30分足らずの場所です。
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亡くなったのは7月末で、葬儀は親族の方々等で既に執り行われていました。参列者が多くなると予想される場合には、このように葬儀は内輪で済ませ、改めてお別れの会というスタイルが定着してきたようです。先月には、出版社・二玄社さんの創業者、渡邊隆男氏のそれが青山斎場でありました。

昨日も、大島衆議院議長ご夫妻をはじめ、東洋大学理事長・安斎隆氏、堂本暁子前千葉県知事など、500名以上の参列があったようです。
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水野氏、光太郎が最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため岩手花巻郊外旧太田村から帰京した昭和27年(1952)当時、NHKさんに勤務されており、たびたび光太郎終焉の地となった中野アトリエを訪問され、光太郎日記にその名がたびたび記されています。

昭和28年(1953)の日記には、「夜十一時過水野さん印バ沼のウナキ白焼持参」とあります。昔風に濁点が省略されていますが「ウナキ」は「ウナギ」、光太郎の好物の一つでした。「十一時過」というのが豪快ですが、水野氏、一刻も早く光太郎に届けたかったのではないでしょうか。

父君の水野葉舟が成田に移り住んだのは、関東大震災の関係もあったようで、光太郎が日本画家・山脇謙次郎のために建ててやった開墾小屋が空いたため、そこに入ったのが始まりです。光太郎はしばしば葉舟の元を訪れ、近くの三里塚御料牧場で見た光景を元に、詩「春駒」(大正13年=1924)を作ったりもしました。

そのあたりにも触れられた、父君・水野葉舟歿後30年記念の企画展示が、昭和52年(1977)、成田山新勝寺内の成田山資料館で開催されました。
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左はその図録の表紙、右は清氏による父君の回想文です。

こうした光太郎とのご縁から、清氏、連翹忌に30回ほどご参加下さっていました。最後のご出席は、平成27年(2015)。この際は久しぶりにお見えになられたということもあり、スピーチをお願いしました。当方、これが氏と直接お会いした最後となりました。
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その水野氏のお別れの会に参列し、自宅兼事務所に帰って、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフの方とメールでやりとりしている中で、花巻の佐藤進氏が亡くなったと知らされ、驚きました。
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進氏、父君は佐藤隆房。昭和8年(1933)に歿した宮澤賢治の主治医でもあり、賢治の父・政次郎ともども、昭和20年(1945)4月の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、その後も物心両面で光太郎を支えてくれた人物です。

隆房は光太郎歿後に結成された花巻の財団法人高村記念会初代理事長となり、進氏は父君が亡くなったあと、そのあとを継がれて永らく彼の地での光太郎顕彰に骨折って下さいました。

光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に移る直前の1ヶ月ほど、佐藤邸に厄介になっていたこともあり、進氏も光太郎と交流がありました。
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左が進氏です。

父君歿後には、父君の書かれたものをまとめられたり、ご自身でも『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(平成5年=1993)という書籍を著され、貴重な光太郎回想を残されました。
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脳梗塞で倒れられてからも、毎年5月15日の高村祭(光太郎が花巻に向けて東京を発った記念日に、郊外旧太田村の山小屋敷地で開催)に車椅子で参加下さり、気丈にご挨拶なさったり、同市の市民講座の際に、光太郎が起居したご自宅離れの公開を快く受け入れて下さったりと、いろいろありがたい限りでした。

水野氏ともども、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

詩を書く場合に、昔の美しい言葉に生命をふき込んで使用するのもいゝが、日常語に、思ひがけぬ美しさ、気のつかぬ美しさのある事を思ひ、詩の中に日常語を取入れて、そこに美を見出したいと思ふ。

談話筆記「清浄簡素の美」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

水野清氏、佐藤進氏、それぞれ、光太郎の言う「清浄簡素の美」に共鳴されていたのだと思います。

昨日は、千葉県銚子市のKIMG3181犬吠埼に行っておりました。銚子は生活圏なので犬吠埼にも時折足を運んでいますが、考えてみると久しぶりでした。

犬吠埼は、大正元年(1912)、光太郎が油絵の写生旅行に訪れ、前年、光太郎と知り合った智恵子もそれを追ってすぐ下の妹・セキ、それから智恵子姉妹と同じ日本女子大学校出身の藤井勇(ゆう)を伴い、犬吠に来ています。智恵子一行ははじめ御風館という宿に泊まっていましたが、智恵子はセキと藤井を先に帰し、光太郎が投宿していた暁鶏館という宿に移りました。二人の婚約は約1年後、信州上高地でのことですが、おそらくこの犬吠埼でお互いにその気持は固まったのではないかと思われます。

光太郎の回想文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であった。私はそんな事は知らなかつたが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれてゐた。

その後、光太郎は暁鶏館の雑用を務めていた、知的障害があった「太郎」こと阿部清助をモデルに、「犬吠の太郎」(大正元年=1912)という詩も書いています。太郎の印象はかなり強烈だったようで、光太郎はのちに油絵でも太郎を描きましたし(現存は確認できていません)、かなり後、昭和3年(1928)に作った詩「何をまだ指してゐるのだ」でも太郎を登場させています。


犬吠埼のシンボルである灯台。明治7年(1874)竣工ですので、光太郎智恵子が訪れた大正元年(1912)にはすでにここにありました。

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灯台の北側は、君ヶ浜。上記「智恵子の半生」で、「君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた」と記されています。

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灯台の南側。突き出た岬の形状から、「長崎」と呼ばれる地区。太郎も地元では「長崎の太郎」と呼ばれていたそうです。太郎の墓も現存します。

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その手前に、光太郎智恵子が愛を確かめ合ったであろう暁鶏館(中央下の2階建て)。建物は建て替えられ、宿の名も「ぎょうけい館」と変わりましたが、同じ場所で営業中です。創業は灯台と同じ明治7年(1874)です。

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さらに手前は中生代の地層。この辺り一帯、地質学的に貴重な場所だそうで、「銚子ジオパーク」として整備されています。

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ところで、昨日はいつものように一人ではなく、妻と一緒でした。愛想を尽かされる前に、たまには女房孝行ということで(笑)。妻が何かのテレビ番組で紹介されているのを見た、ということで、灯台の並びにある「犬吠テラステラス」さんという、今年出来た商業施設に行ってみました。

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以前はひなびた土産物屋、食堂などがあった記憶があるのですが、それが一変、実にシャレオツな店に様変わりしていました。

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「テラステラス」の名前の通り、2階にはゆったりしたテラス。ハンモックが張られていたりします。上記、長崎地区やぎょうけい館さんなどの画像はここから撮りました。

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灯台を模したオブジェ。顔ハメ的に、ここでKIMG3185写真を撮れということでしょう。台座部分に足形が作られています。


ちなみに昼食はこちらに行く前に、もう少し南の銚子電鉄犬吠駅前にある「島武」さんというところで摂りました。これまで、行列が出来ていて断念したこともあったのですが、昨日は奇跡的にすいていました。基本、回転寿司ですが、チェーンの安い店とは違いそれなりの値段、しかし廻らないお寿司屋さんよりはリーズナブルなので(笑)、当方、時折足を運んでいます。回転寿司コーナー以外にも、海鮮丼系などの魚料理コーナーも設置されています。どちらも銚子港で水揚げされた素材を使っています。

回転寿司は、とにかくネタがでかいことで有名です。タコは「大ダコ」と頼むと、短冊のようなタコが乗ってきます(笑)。他のネタも、ほぼほぼシャリが見えない状態です。


というような犬吠埼。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

因みに「天上の炎」といふ題名は星を意味してゐるのである。

雑纂「訳書『天上の炎』白玉書房版序文」より 昭和25年(1950)

『天上の炎』は、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記では「ヹルハアラン」)の詩集。光太郎は大正14年(1925)に単行書としてその翻訳を新しき村出版部から刊行、戦後に白玉書房から復刊されました。上記は復刊版の序文から採りました。

無理くりですが、光太郎にとっての智恵子は「天上の炎」だったようにも思われます。

ちなみに当方もやったことがありますが、時折「天井の炎」と誤植されることがあるのが残念です。

一昨年から、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされているので定期購読させていただいている、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』3月号が届きました。

それとは別に、「みんなの活動報告」というページがあります。

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協会員の皆さんからのお便りのコーナーです。

昨夏、成田市のなごみの米屋總本店さん2階の成田生涯学習市民ギャラリーで、「二人でひとつの展覧会」を開催された大泉さと子さんから、同展に関するお便りが掲載されています。

成田ということで、光太郎がたびたび訪れた宮内庁の御料牧場がかつてあった三里塚記念公園内に立つ、光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)を書いた作品などが展示されました。

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当方、隣町なもので、初日の一番にお邪魔しました。その際、作者の大泉さんとお話しさせていただきました。

先月末、大泉さん、それから同誌の編集部さんからお電話があり、「みんなの活動報告」に、成田での展覧会のレポ-トを載せること、そこに当方の名前を出していいかというお話でした。別にお忍びで行ったわけでもなく(笑)、承諾いたしました。

そして、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」は、その「春駒」。ここに「春駒」が載るというのは聞いておりませんで、「ほう」という感じでした。

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光太郎の草稿を大きく載せて下さっています。つくづく味のある字です。

同誌は一般書店での販売は行っておらず、同会サイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。バックナンバーとして1冊単位の注文も可能なようです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

八百屋に出てる三州ものでは話にならぬがもぎたての近在のものが笊に盛られた溌剌さは、まるで地引網で引き上げた雑魚のやうにはね返りさうだ。艶のある白綠のさやの肌はおそらく意気な季節の寵児だ。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

何が? というと、さやえんどうです。智恵子は既に南品川ゼームス坂病院に入院しているため、光太郎は自ら塩水で茹で、オリーヴオイル、モルトベニガー、胡椒で味をつけ、食べています。

何気なく書かれた「まるで地引網で引き上げた雑魚のやう」の直喩、「艶のある白綠のさやの肌はおそらく意気な季節の寵児」という暗喩、さすがですね。

しかし、地引網云々は、おそらく智恵子が療養していた九十九里浜で見た光景だろうと思うと、複雑な思いにかられます。

絵手紙を趣味にされている方などは、こういうものも題材にするのでしょうね。ちなみに『月刊絵手紙』、上記今月号の表紙には、ふきのとうの写真も載っています。たまたまですが、我が家の今夜の夕食はふきのうの天ぷらでした。春ももうすぐそこです。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

東京美術学校(現・東京藝術大学さん)で、光太郎と同期だった彫刻家に、水谷(みずのや)鉄也という人物がいました。「鉄」の字は「銕」とも表記されたり、「佳園」と号したりしましたので、「水谷銕也」、「水谷佳園」で検索網に引っかかったりもします。また、書籍によっては、苗字も「水ノ谷」となっているものもあります。

水谷は長崎島原の出身で、光太郎より7歳年長の明治9年(1876年)生まれですが、郷里を出て奈良で木彫家の森川杜園に学んでから美校に入学したため、年の離れた光太郎と同期となりました。水谷や光太郎の入学当初は美校彫刻科には木彫科しかなかったのですが、明治32年(1899)に、イタリア帰りの長沼守敬を主任とする塑造科が新設され、水谷はそちらに移りました。卒業は光太郎ともども明治35年(1902)。この際の卒業制作「愛之泉」(左下)は、光太郎の「獅子吼」(右下)を抑えて首席となりました。

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「愛之泉」は、一昨年、東京藝大美術館さんで開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」に出品され、拝見して参りました。優美な作風の作品で、確かに荒っぽい「獅子吼」よりきれいな作ではあります。

また、平成27年(2015)には、武蔵野美術大学美術館さんで「近代日本彫刻展」が開催され、そちらでは水谷作品は木彫の「海老」(大正15年)が出まして、拝見して参りました。この展覧会はイギリスのヘンリ・ムーア・インスティテュートさんとの共同企画で、「海老」はイギリス展にも展示されました。光太郎作品は木彫の「白文鳥」(昭和6年=1931頃)、ブロンズの「手」(大正7年=1918)が出品されました。

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美校卒業後、水谷は同校で教壇に立ち、その間にヨーロッパ留学も経験しています。


さて、昨年の話になりますが、以前に連翹忌にご参加いただいた、水谷の令孫(茨城県にお住まいです)から、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市に、水谷の作品があるという情報を得ました。これには驚きました。そして詳細を知って二度びっくり。何と、勤め人時代にその前を通って十数年通勤していた銅像だったからです。

過日、改めて見に行って参りまして、撮ってきた画像がこちら。

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高安宗悦という、この地で開業していた接骨医の銅像でした。元は昭和10年(1935)の作です。が、どうもこの手の銅像の通例で、戦時中に金属供出にあったらしく、昭和35年(1960)再建というプレートも付いていました。

前を通って通勤していながら、車を駐めてきちんと見るということをしていなかったのですが、車窓から見てもその辺によくある立体写真的な俗悪銅像とは違うとは思っていました。しかし、まさか光太郎ゆかりの人物の作だとは思いもよらず、汗顔の至りです。

さらに、高安宗悦について調べてみて、三度びっくり(笑)。宗悦の子息の恭悦は、漢方医の浅田宗伯の養子となりましたが、その養父・浅田宗伯こそ、かの「浅田飴」の考案者だったのです。

地元の歴史などについても、もっと関心を持たなければ、と思い知らされました。


【折々のことば・光太郎】

葉を落とした灌木や喬木、立ち枯れた雑草やその果実。実に巧妙に縦横に配置せられた自然の風物。落ちるものは落ち、用意せられるものは用意せられて、何等のまぎれ無しにはつきりと目前に露出してゐる潔い美しさは、およそ美の中の美であらう。彼等は香水を持たない、ウヰンクしない。見かけの最低を示して当然の事としてゐる。

散文「満目蕭條の美」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

すっかり葉を落としながらも、実は既に芽をふくらませ始めている連翹や桜などの庭木を見ると、この光太郎の言が実感させられます。

千葉県から所蔵品展の情報です。 

冬のアート・コレクション 具象彫刻展 ―具象彫刻の先駆者たち―

期    日 : 2019年1月29日(火)~4月14日(日)
会    場 : 千葉県立美術館 千葉県千葉市中央区中央港1-10-1
時    間 : 9:00〜16:30
料    金 : 一般 300円(240円)  高校・大学生 150円(120円)
         ( )内は20名以上の団体料金

休 館 日 : 月曜日 (祝日・振替休日に当たるときは開館し、翌日休館)

美術における「具象」とは、人物や身近な動物など具体物を題材にした作品に使われる用語です。
また、「彫刻」とは主に立体の美術作品を示す用語で、石や木などの素材を直接彫り刻む技法(カーヴィング)と、粘土で原型をつくり、それを石膏や金属などで型抜きして作る技法(モデリング)に大別されます。
日本には、埴輪や土偶、ひな人形や仏像など立体造型の伝統がありますが、人物を型抜きしたような写実的な表現は、明治以降、西欧の彫刻作品と技法の導入により普及しました。
「具象」「彫刻」をキーワードとする本展では、日本近代彫刻の先駆者である小倉惣次郎や新海竹太郎をはじめ、彫刻界に多大な功績を残した高村光太郎、高田博厚、戦後日本の彫刻界を代表する舟越保武、千葉県を拠点に活動した大須賀力、長谷川昻などの作品を展示し、具象彫刻の魅力を紹介します。

 同時開催
 近代洋画の先駆者 浅井忠9 -浅井忠の京都時代-
 北詰コレクション メタルアートの世界3 -彫金の魅力-
 コレクション名品展 -バルビゾン派の画家たちを中心に-
 アート・コレクションプラス 具象彫刻の今 -彫刻家宮坂慎司と県美の収蔵作家たち-

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地元ですので、早速行って参りました。

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チラシには光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が大きく掲載されていますが、看板では「手」(同7年=1918)。「おお」という感じでした。

光太郎作品は4点出ていました。上記2点以外に、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための手の試作(昭和27年=1952)と、中型試作(同28年=1953)。4点とも何やかやであちこちで同型のものをしょっちゅう見ている作品ですが、何度見てもいいものはいいと感じます。

光太郎以外に、現代作家の作品も含め、約30点。

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高田博厚、本郷新、菊池一雄、舟越保武といった、光太郎と交流があった彫刻家の作もあり、興味深く拝見しました。

さらに同時開催の絵画のコレクション展「-バルビゾン派の画家たちを中心に-」でも、光太郎と交流のあった面々-安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生、三宅克己など-の作が並んでおり、ラッキーでした。

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また、直接の交流は無かったと思われますが、歿後にそのアトリエを借り受けて、光太郎が「乙女の像」制作に当たった中西利夫の作もありました。それから、岸田劉生に師事した椿貞夫の作は、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼の風景画。二人が泊まった暁鶏館(現・ぎょうけい館)も描かれており、「へー」という感じでした。

皆様もぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本人は自然に逆らはない気質を有する。自然をどづかないで、しかも自然を左右する。

散文「三陸廻り 一 石巻」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

新聞『時事新報』に依頼され、この年8月から9月にかけ、三陸沿岸を旅して書いた紀行文から。ちなみにこの光太郎の旅行中、智恵子の心の病が顕在化したとされています。

宮城県石巻で見た北上川河口の風景への感想です。北上川の流路は、遠く江戸時代から何度も改修工事が行われ、光太郎が訪れた昭和6年(1931)の時点でも工事が行われていました。洪水対策や港としての整備が目的だったようですが、光太郎、スエズ運河の大工事を引き合いに出し、そうした自然に逆らう工事ではないことに感心しています。

昨日は、例年通りに、昭和9年(1934)、智恵子が療養していた九十九里浜片貝海岸に初日の出を見に行きました。

「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)を刻んだ光太郎詩碑の前に車を駐め、有料道路をくぐって海岸へ。

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お供はこれも例年通りに愛犬。正確な誕生日が不明なため、1月1日を誕生日としており、昨日で15歳になりました。先月、少し体調を崩したのですが、恢復しましたので連れていきました。あと何回、こいつと初日の出が見られるか、と思っています。

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昨年一昨年と、比較的きれいに見えたのですが、今年はちょうど太陽の出るあたりに雲。西高東低の冬型の気圧配置なもので、このあたりの水平線上は雲がかかりやすいのです。

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残念ながら、片貝海岸では見えませんでした。しばらく待っていれば、雲の上、けっこう高い所に出るかと思いましたが、周辺の道路が混むもので、あきらめて撤収。途中、海岸沿いに10キロメートルほど北上したあたりで、雲の上に日が昇りました。再び車を駐めて、撮影。

愛犬の散歩で、毎日のように日の出は見ているのですが、やはり初日の出は格別ですね。今年一年も、光太郎顕彰の世界が盛り上がりますようにと、願をかけました。


ところで、初日の出といえば、昨年12月29日(土)の『日本経済新聞』さんに、「富士山2018 季節の移りかわりを写真で紹介」という記事が出ました。当方、電子版で読んだのですが、電子版だけでなく紙面にも載ったのか、山梨県の記事なので山梨版だったのか、そのあたりが不明ですが、ご紹介します。

昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため訪れた山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区が取り上げられています。 

富士山2018 季節の移りかわりを写真で紹介

平成が終わるのを前に甲府支局長がこの1年間、仕事の合間などに山梨県から撮影した富士山を紹介します。あなたの見る初夢は何月の富士山でしょうか。(三浦秀行)

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1月、富士山から昇る初日の出。撮影した富士川町高下(たかおり)地区は、ダイヤモンド富士を観察するには絶好の地点。元旦は山頂から少しずれた地点からの日の出となる。冬至の前後は山頂から昇る太陽を撮影しようと多くのカメラマンで混み合う。高村光太郎の文学碑があり、町によると、この地を訪れた光太郎は「こんな立派な富士は初めて仰いだ」と感嘆したという。


このあと、12月まであるのですが、割愛します。


初日の出を穏やかな気持ちで見られる、そんな平和な日々が続くこの国であってほしいとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

如何なる時代が来ようとも悪趣味のものは許され難い。必ず洗練せれなければ滅びるであらう。これは美の世界の自浄作用である。

散文「二科院展見物」より 大正13年(1924)、光太郎42歳

造形芸術の世界での話ですが、およそ芸術一般にあてはまることでしょう。政治経済の分野には当てはまっていない気がしますが。

暮れも押し詰まって参りまして、いよいよ来週火曜が2019年、平成最後の元日です。

元日といえば、初日の出。そこで、光太郎智恵子ゆかりの地での初日の出情報をまとめてみました。

まずは、大正元年(1912)、光太郎智恵子がお互いにこの人しかいないと確かめ合った、千葉銚子の犬吠埼。 

【2019年】日本一早い初日の出インフォメーション

関東最東端の犬吠埼は、山頂・離島を除き日本で一番早く初日の出を見ることができます。
元旦は、犬吠埼周辺の海岸で雄大な大海原と荒磯に砕ける波や白亜の灯台がおりなす美しい風景とともに、新年の誓いを立ててみてはいかがでしょうか。

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JRさん、それから銚子電鉄さんが臨時列車を出すほか、現地ではさまざまなイベントも企画されています。

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続いて、犬吠埼の少し南、昭和9年(1934)に、智恵子が療養生活を送った九十九里浜。当方、このところこちらで愛犬と共に初日の出を見ており、来年もその予定でいます。 

あなたなら誰とくる?「九十九里町元旦祭」

① 会  場 : 片貝中央海岸
② 住  所 : 千葉県山武郡九十九里町片貝6928
③ 開  催  日   : 平成31年1月1日(火)
④ 開催時間 : 午前5時30分~午前7時00分
   午前5時30分:おもてなしブース開始
                         ・いわしの団子汁(1000人分)  ・いわしの丸干し(700人分)
   午前6時10分~6時45分:郷土芸能披露 愛宕神社獅子舞保存会・九十九里黒潮太鼓
⑤ 駐車場 : 片貝海岸海浜公園町営駐車場(年末年始無料)
⑥ お問い合わせ : 九十九里町産業振興課商工観光係 0475-70-3177
               九十九里町観光協会 0475-76-9449

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次に、山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区。昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため、この地に住んでいた井上くまを訪問しました。それを記念して昭和62年(1987)に光太郎文学碑が建てられています。

元旦も含めた冬至の前後、 ここで富士山頂から日が昇る「ダイヤモンド富士」が見られます。日の出の時刻は7時20分くらいだそうです。

高下ダイヤモンドポイント

新富岳百景「日出づる里」
増穂町穂積(高下・たかおり地区)は、「新富岳百景」に選ばれ、毎年冬至頃から元旦にかけて、富士山頂からの日の出「ダイヤモンド富士」が見え、多くの写真家が訪れます。
ダイヤモンドとは、日の出がダイヤモンドのような輝きになることから名付けられたものです。

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ちょうど1年前に、芳文社さんから刊行されたコミック『ゆるキャン△』第5巻。山梨県を舞台にしたキャンプ愛好女子たちを主人公とする漫画ですが、こちらが紹介されています。

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だいぶ経ってから気づいたので、このブログではご紹介しませんでした。今年、テレビアニメ化もされましたが、このエピソードの前くらいで終わっており、続編が期待されます。


最後に、智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山。こちらも近年、初日の出スポットとして売り出し中。 

安達太良山 初日の出

<日の出目安 6:30>
 日本百名山に数えられている標高1,700mの名峰。
 詩人・彫刻家の高村光太郎が、「あれが阿多多羅山・・・」(樹下の二人)と詠んだことでも有名で、智恵子のふるさととしても知られている。

開催日時 2019年01月01日(火)  会場 あだたら高原リゾート 二本松市奥岳温泉   駐車場あり
お問い合わせ先 二本松市観光連盟 TEL 0243-55-5122


なるほど、奥岳登山口のあたりは南東方向に盆地が広がっている地形ですので、初日の出を見るには良い条件ですね。智恵子の愛した「ほんとの空」に上る初日の出もおつなものでしょう。

また、二本松市街の霞ヶ城も同様に初日の出スポットとなっているようです。

ところで上記、<日の出目安 6:30>となっていますが、高山ということで、銚子犬吠埼(6:46)より早いのでしょうか。それとも間違いなのでしょうか。


気になるのは当日の天気。がっつり晴れることを祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる。

散文「近状」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

復刊なった与謝野夫妻の第二期『明星』に短歌五十首を寄せた、その序文的な文章の一節です。

この時期、彫刻では西洋風の塑像彫をメインにしていたのを、ふと思い立って子供の頃から慣れ親しんだ木彫も手がけるようになり、それが世間で評判となりました。同様に、文学では自由詩を主戦場としていたこの時期、少年時代に与謝野夫妻に見出された短歌をまた詠むようになりました。それぞれが自身の心の平安にもつながったというあたり、興味深く感じられます。

光太郎関連の書籍を何点も出版して下さっている文治堂書店さんが出している、PR誌、文芸同人誌的な『トンボ』。以前も同名のものが出されていましたが、平成28年(2016)から「第二次」ということで、年2回発行されています。

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  第二次創刊号(2016/1)     第二号(2016/7)    第三号(2017/1)     


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当会顧問、北川太一先生の玉稿も載り、当方も第四号から「連翹忌通信」という連載を持たせていただいております。

その各号の表紙絵、それから挿画を描かれている、成川雄一氏の個展が、昨日、始まりました。 

成川雄一近作展

期   日  : 平成30年11月8日(木)~13日(火)
場   所  : 画廊ジュライ 千葉市中央区中央4-5-1 きぼーる2F
時   間  : 11:00~18:00 (最終日 ~17:00)

料   金  : 無料

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文治堂さんから案内を頂き、同じ千葉県内ですし、拙稿のページにも見事な挿画を描いて下さって、拙稿の拙さをカバーして下さっている方ですので、早速、馳せ参じて参りました。

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ご本人がいらしていました。初めてお会いしましたが、画風の通りの温厚そうな方でした。拙稿のページに見事な挿画を描いて下さって、拙稿の拙さをカバーして下さっている件に、厚く御礼を申し上げておきました。

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『トンボ』も並んでいました。

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許可を得て、展示作品を撮らせていただきました。

千葉県といえば、九十九里浜。昭和9年(1934)、智恵子が療養した地でもあります。

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さらに、案内ハガキにも使われた鳥の画の連作。

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桜を描いた水彩画なども。

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成川氏、昭和12年(1937)のお生まれだそうで、御年81歳になられます。失礼ながら、そうは思えない若々しい画風――特に色遣い――に感心させられました。まだまだお元気でご活躍の程、祈念いたします。

というわけで、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

この象徴の森にわたくしが理解よりもさきに先づ感受したものは、人生の深みに激動するものの微妙な寂かさである。それは叙説を絶つ。

散文「田中信造詩集「古き幻想の詩」序」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「寂かさ」は「しずかさ」。

同じ文章に依れば、田中信造は山形県米沢出身。光太郎智恵子と遠い姻族だそうで、そうした縁から智恵子遺作紙絵を詩集の装幀に使用しています。

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市民講座の紹介です。

まずは埼玉県越谷市から。  

合同読書会 高村光太郎「智恵子抄」

期   日  : 平成30年9月29日(土)
場   所  : 
越谷市立図書館2階視聴覚ホール 埼玉県越谷市東越谷四丁目9番地1
時   間  : 13:30~15:30
講   師  : 松本孝氏(作家)
料   金  : 無料

彫刻家、画家でもあり、近現代を代表する詩人でもある高村光太郎が、妻・智恵子のことを、結婚する前から死後の約30年間書き続けた詩集「智恵子抄」について、作家の松本孝氏が講演します。

松本孝
作家。昭和13年、埼玉県草加市生まれ。昭和35年、埼玉県公立中学校国語科の教員となる。教鞭をとるかたわら文芸を学ぶ。現在、埼玉文芸家集団会員。受賞に、文部大臣奨励賞、松下幸之助賞、旺文社社長賞、旺文社学芸奨励賞、埼玉文芸賞準賞、埼玉県文化ともしび賞、草加市文化賞。

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続いて、手前味噌ですが……。  

公開講座 高村光太郎と房総

期   日  : 平成30年10月1日(月)
場   所  : イオンカルチャークラブユーカリが丘店
         千葉県佐倉市西ユーカリが丘6丁目12番地3
         イオンタウンユーカリが丘店 東街区2F

時   間  : 10:30~11:30
講   師  : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
料   金  : 受講料 2160円  教材費 300円

彫刻家・詩人の高村光太郎は、妻・智恵子ともども房総各地をたびたび訪れました。房総を題材にした詩集『智恵子抄』の所収の詩文などを鑑賞し、智恵子との鮮烈な生の軌跡に迫ります。

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手前味噌ついでに(笑)、もう1件。こちらは少し先の話ですが。  

高村光太郎と房総談

期   日  : 平成30年10月13日(土)  11月10日(土) 全2回
場   所  : 株式会社カルチャー成田カルチャーセンター
          千葉県成田市ウィング土屋24イオンモール成田2F
時   間  : 10:30~12:00
講   師  : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
料   金  : 受講料 4,752円  教材費 330円

詩人、彫刻家の高村光太郎と妻の智恵子夫人について夫妻と房総との関わりを中心に学んでいきます。

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10/1、佐倉市の方は全1回、成田市の方は全2回。当然ながら後者の方はより詳細に、前者はダイジェスト的にとなります。

それぞれ人が集まりませんと開設されずポシャってしまいますし、セコい話ですが、当方のギャラは受講してくださる方の人数による歩合制なので、一人でも多くの方に受講していただきたく存じます(笑)。

よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

彼の心身に具象した詩そのものの精神と機能とは、優に彼の宗教を内に包んでゐる。彼の宗教は彼の詩を通過してのみ顕現する。ここに彼の偉大な詩的宿命があつた。
散文「(宮澤賢治は)」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

生涯、どの宗教にも本格的に帰依できなかった光太郎。その点では自らと賢治の生き様とに一線を画す見方をしていたようです。

ここでいう「詩」には、膨大な数の童話の類も含めて指しているようにも思われます。

明日、開幕です。 

第42回千葉県移動美術館「近代日本とフランス-旅するまなざし-」

期   日 : 2018年8月28日(火)~9月9日(日) 会期中無休
会   場 : 茂原市立美術館・郷土資料館 千葉県茂原市高師1345-1
時   間 : 午前9時~午後5時
料   金 : 無料

千葉県移動美術館は、千葉県立美術館の収蔵作品をより多くの県民の皆様にご鑑賞いただくため、市町村の文化施設等を会場に開催する展覧会です。第42回を迎える今回は、茂原市立美術館・郷土資料館を会場に開催します。
第42回となる今回のテーマは「近代日本とフランス―旅するまなざし―」です。日本とフランス両国関係を紐解きながら、浅井忠(あさいちゅう)や都鳥英喜(ととりえいき)、板倉鼎(いたくらかなえ)をはじめとするフランスを旅した作家の作品を展示します。併せて茂原市ゆかりの作家である石川響(いしかわきょう)、関主税(せきちから)の作品もあわせて紹介します。

■主な展示作品
浅井忠《欧州市場風俗》1903年  高村光太郎(たかむらこうたろう)《手》1918年  シャルル・エミール・ジャック《森の中》1871年  ラファエル・コラン《田園詩》1903年  ギュスターヴ・クールベ《眠る人》1853年など

■関連事業
千葉県立美術館学芸員によるギャラリートーク
日時:平成30年9月2日(日曜日)1回目:午前11時~、2回目:午後1時30分~
受付:事前申込不要。当日会場にお集まりください。
2回目はお子さんを連れたお客様を優先とした親子ギャラリートークとして実施します。おおむね、5歳から小学生のお子さんを対象とした内容となりますので、予めご了承ください。

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というわけで、光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)が出ます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

言葉は作者自身の内から確かな選択と自覚とを以て出て来たものでなければ生きない。どんな立派な言葉でもその言葉に神経が無いやうになれば古物化してしまふ。凡(およ)そ詩語といふ特別な用語があるやうに思ふ者もあるが、それは考方が逆で、表現の緊密が極まれば其が即ち詩語となるのである。
散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

なるほど。

4月にご紹介した、千葉県による「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」の選定が終わり、結果が発表されました。 

「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」を選定しました!

オリンピック・パラリンピック競技大会は001スポーツの祭典であると同時に文化の祭典でもあります。東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催は、本県の文化的魅力を発信する絶好の機会です。この機会を活かし、多くの県民の皆様に本県の文化資産を再認識していただくとともに、次世代に継承していくことが重要です。
そこで、県民参加により「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」を選定することとし、昨年、「ちば文化資産」候補を広く募集の上、211件を候補としました。この度、県民の皆様による投票の結果等を踏まえ、111件を「ちば文化資産」として選定しました。
今後は、「ちば文化資産」を活用したイベントを実施する等、本県の文化的魅力を発信するとともに、地域の活性化につなげていきます。

「ちば文化資産」は、県内の文化資産のうち、県民参加により選定した、多様で豊かなちば文化の魅力を特徴づけるモノやコトとします。伝統的なものに限定せず、現代建築や景観等、千葉県の文化的魅力を発信するモノやコトを含みます。


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候補に入っていた、「九十九里浜の景観」も選定されました。説明文がこちら。

九十九里浜沿岸は古来から多くの文化の跡が残されています。江戸時代以降はいわし漁等の漁業が盛んとなり、神輿を担いで浜に降りる「浜降り」や「潮踏み」等と呼ばれる習俗が現代まで続いており、海との深いつながりを感じられます。また、高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台となっています。

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まぁ、九十九里浜は千葉県を代表する景観の一つですので、これが外されてしまうことはありえないだろうとは思っていましたが、無事に選ばれて胸をなで下ろしました。

その他、解説では触れられていませんが、光太郎智恵子の足跡などの残っている場所も複数選ばれています。

大正元年(1912)、光太郎がまず訪れ、智恵子が後を追ってやってきた銚子犬吠埼。経営や建物は変わりましたが、二人が泊まった宿・暁鶏館も健在(ひらがなで「ぎょうけい館」と名前は変更されていますが)。ここで光太郎は詩「犬吠の太郎」を構想しました。

また、市川市の中山法華経寺さん。光太郎の父・高村光雲原型の日蓮像が建っています。鎌倉の長勝寺さんに建つものと同型です。

さらに、「白樺派と文人の郷」ということで、我孫子市の手賀沼周辺。光太郎が訪れたことは確認できていませんが、光太郎と縁の深かった白樺派の面々、志賀直哉、バーナード・リーチ、柳宗悦らが暮らした場所です。

しかし残念ながら、光太郎の親友の作家・水野葉舟が暮らし、光太郎もたびたび訪れて、彼の地に詩碑が建てられた詩「春駒」(大正13年=1924)の舞台となった旧三里塚御料牧場は、「マロニエ並木」として候補には入っていたものの、選定には至りませんでした。

他にも光太郎智恵子の足跡は千葉県内の各所に残っています。当方、今秋、成田市と佐倉市のカルチャースクールで、「高村光太郎と房総」という講座を持たせていただけることになりまして、そのあたりをご紹介する予定です。また詳細が決まりましたらお知らせいたします。

というわけで、房総の地、ぜひお越しください。


【折々のことば・光太郎】

私は何を 措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。私の彫刻がたとひ善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。

散文「自分と詩との関係」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ文章の他の部分からも抜き出しますと、光太郎にとっての詩は「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって彫刻が「文学的になり、何かを物語」るのを避けるため、また「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」に書かれた「安全弁」だというのです。謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る文学的な彫刻(青年期には光太郎もそういう彫刻を作っていましたが)ではなく、純粋に造型美を表現する彫刻を作るため、自分の内面の鬱屈などは詩として吐き出すというわけです。

昨日は、千葉市の朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾千葉教室さんでの公開講座、「愛の詩集<智恵子抄>を読む」の講師を務めさせていただきました。

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もともとこちらで短歌の講座をお持ちの、歌人にして明星研究会の松平盟子氏にご紹介いただき、松平氏とご一緒に講師を仰せつかりました。

受講してくださった方は10名。平日の昼間、受講料もそこそこの料金でしたが、ありがたいかぎりです。文芸誌『青い花』に、「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」というエッセイや、毎年ご参加下さっている連翹忌のレポートなどを寄稿して下さり、「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」、「第5回 春うららの朗読会」、「響きあう詩と朗読」などの朗読公演で、光太郎詩の朗読や自作の脚本による朗読劇「智恵子さん」などに取り組まれている、宮尾壽里子さんが、遠く埼玉から駆けつけて下さいました。ありがたや。

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松平氏は、与謝野夫妻の雑誌『明星』における光太郎、それぞれに光太郎智恵子と縁のあった与謝野夫妻、石川啄木・節子夫妻、岡本一平・かの子夫妻と光太郎夫妻の比較、三期に分かれる光太郎短歌の魅力、「智恵子抄」所収の詩のご紹介などのお話をなさいました。

当方は、光太郎智恵子の略歴、詩集「智恵子抄」の成立と、その受容の歴史といったことについてお話しさせていただきました。

太平洋戦争開戦前夜の昭和16年(1941)8月、出版社龍星閣主・澤田伊四郎のすすめで編まれたオリジナルの『智恵子抄』は、「男女七歳にして席を同じうせず」と言われ、見合い結婚が約7割だった時代に、燃えるような恋愛を謳った詩集として驚きをもって迎えられ、戦争の影響で龍星閣が休業する昭和19年(1944)までに13刷もの版を重ねました。

象徴的なのが、冒頭に配された詩「人に」(明治45年=1912)の、さらに冒頭に掲げられた一節「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」。これは男性である光太郎が女性である智恵子に語りかけるフレーズですが、男女が逆転し、戦時の女性たちは出征する男性たちに「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」という思いを抱き、しかし、それを口に出すことは憚られていた、その思いを託して読み継がれたとも言われています。

戦後、光太郎自身は「ものにならない」だろうと澤田に書き送った『智恵子抄その後』(昭和25年=1950)、龍星閣の戦後復元版、さらに光太郎が歿した昭和31年(1956)の廉価な新潮文庫版『智恵子抄』などが続々刊行され、「智恵子抄」はますます広まり、やはり多くは「純愛の詩集」と受け止められ続けました。講座の受講者の中にも、お父様がお母様に贈った『智恵子抄』をご持参下さった方もいらっしゃいました。

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そうした「純愛の詩集」的な讃美に異を唱えたのが、まずは吉本隆明。「智恵子の姿が見えない光太郎の一人相撲」的な見方を示し、その後、ウーマンリブ系・ジェンダー論系の人々に受け継がれました。光太郎は「似非フェミニスト」「意識せざる男尊女卑論者」、智恵子はその「光太郎によって作り上げられた虚像、犠牲者」、「智恵子抄」は「贖罪の詩集」などという構図です。そこまで過激ではなくとも、小説『智恵子飛ぶ』を書かれた津村節子さんなどは、光太郎が智恵子を聖化しすぎ、智恵子は息が詰まっただろうとおっしゃっています。

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当会顧問にして晩年の光太郎に親炙した北川太一先生は、過激なジェンダー論などに疑問を呈し、戦後、続々と見つかった智恵子自身の文章や書簡、同時代人の証言などをもとに次のように述べられました。

はじめこの詩集は光太郎の一方的な思いこみにすぎず、光太郎の声だけしか聞こえない単なる幻想の産物だと批判した者もあった。しかし智恵子に関する資料が徐々に発掘され、智恵子が肉声で語りはじめるにつれて、その生の軌跡はますますリアリティを加え、文学としての評論、創作はもとより、ドラマ、オペラ、歌曲、舞踊、邦楽等々芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。  (『芸術夢紀行シリーズ 智恵子抄アルバム』 芳賀書店 平成7年=1995)

このあたりを受け、当方、「智恵子抄」の「抄」とは何か、というお話もさせていただきました。「抄」の漢字は、「すくいとる」「書き抜く」という意味で使われるのが一般的で、「戸籍抄本」 「抄録」などがその例です。つまり「智恵子抄」は、「光太郎全文筆作品の中から、智恵子に関するものをすくいとり、抜き書きしたもの」となります。しかし、それだけでなく、「ここに表されている智恵子は、智恵子という人間のすべてではなく、その抄録なのだ」という光太郎のメッセージも込められているような気がします。

「智恵子抄」の詩の中には、心を病んだ智恵子のそれほど具体的な描写がありません。せいぜい以下のようなところです。
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 尾長や千鳥が智恵子の友だち
 もう人間であることをやめた智恵子に
 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
 智恵子飛ぶ
  (「風にのる智恵子」より 昭和10年=1935)


 人間商売さらりとやめて、
 もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
 うしろ姿がぽつんと見える。
  (「千鳥と遊ぶ智恵子」より 昭和12年=1937)


 智恵子は見えないものを見、
 聞えないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、
 出来ないことを 為 る。

 智恵子は 現身うつしみ のわたしを見ず、
 わたしのうしろのわたしに焦がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、
 智恵子はもう人間界の切符を持たない。
   (「ひがたき智恵子」全文 昭和12年=1937)


 半ば狂へる妻は草を 藉 いて坐し
 わたくしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のやうに 慟哭どうこく する
 ――わたしもうぢき駄目になる
  (「山麓の二人」より 昭和13年=1938)


ところが、同時期に明星系の歌人・中原綾子に送った手紙には、智恵子の病状がかなり詳細に記されています。

ちゑ子の狂気は日増しにわろく、最近は転地先にも居られず、再び自宅に引きとりて看病と療治とに尽してゐますが、連日連夜の狂暴状態に徹夜つづき、さすがの小生もいささか困却いたして居ります。何とか方法を講ずる外ないやうに存じます。
  
此を書いてゐるうちにもちゑ子は治療の床の中で出たらめの讒言(うはごと)を絶叫して居る始 末でございます。看護婦を一切寄せつけられぬ事とて一切小生が手当いたし居り殆ど寸暇もなき有様です。

一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやつてゐます。病人の狂躁状態は六七時間立てつづけに独語や放吟をやり、声かれ息つまる程度にまで及びます。拙宅のドアは皆釘づけにしました。往来へ飛び出して近隣に迷惑をかける事二度。器物の破壊、食事の拒絶、小生や医師への罵詈、薬は皆毒薬なりとてうけつけません。

病人は発作が起ると、まるで憑きものがしたやうな、又神がかり状態のやうになつて、病人自身でも自由にならない動作がはじまります。手が動く首がうごくといつたやうな、病人の独語または幻覚物との対話は大抵男性の言葉つきとなります。或時は田舎の人の言葉、或時は候文の口調、或時は英語、或時はメチヤクチヤ語、かかる時は小生を見て仇敵の如きふるまひをします。


こうした点、さらには他の点も含め、「「智恵子抄」に表されている智恵子は、智恵子という人間のすべてではなく、その抄録なのだから、その他の部分は想像して下さい」という、光太郎の意識が、「抄」の一字に垣間見えます。もともと龍星閣の澤田が「詩集 智恵子」という題名を提案したところ、光太郎本人が「抄」の一字を付け加えることを提案したそうです。

それを受けての北川先生の「芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。」の発言なわけです。

そこで当方、「芸術のあらゆる分野の作者、演技者」の皆さんによる、「智恵子抄」二次創作も、いろいろとご紹介させていただきました。小説、漫画、映画、舞台演劇などの文芸系、造形作品系、音楽・舞踊系など。このあたりの内容が、一般の方にはかなりくいつきがいいというのもありましたが。

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そんなこんなで約1時間半。いい機会を与えて頂きました。松平様、朝日カルチャーさんに大感謝です。手前味噌で恐縮ですが、こうした講座の講師等、日程さえ合えば全国どちらででもお受けいたします。ぜひお声がけください。


【折々のことば・光太郎】

農こそ人間の根本的な本業であり、農こそ人間生活の根幹であり、他の一切の人間活動はそれに附随するアクセサリーに過ぎない。農は人間と自然との合力であり、合体であり、最も深いところから人間精神を支え、人間文化の花を咲かせる活動源である。

散文「農にほこりをもて」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像」制作のため、再上京した翌年の文章から。花巻郊外太田村で農作業に取り組み、まがりなりにも野菜類は自給できていた光太郎の言葉。重いものがあります。

千葉から市民講座のご案内です。 

愛の詩集<智恵子抄>を読む

期  日 : 2018年5月18日(金)
        千葉市中央区中央1-11-1 三井ガーデンホテル千葉5階
時  間 : 15:30~17:30
講  師 : 歌人 松平 盟子   高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山 弘明
料  金 : 会員 3,456円  一般 4,104円 

彫刻家で詩人の高村光太郎が、最愛の妻・智恵子への愛を綴った<智恵抄>。光太郎は、智恵子との愛をどのようなかたちで詩に託したのでしょうか。歌人と研究者がそれぞれの視点で語り合います。松平さんは、光太郎の詩の特質と、智恵子が詩にどう捉えられているか、という点について話します。ある意味で理想的な男女関係を模索した光太郎ですが、そのモデルはあったのでしょうか。小山さんは、「抄」の一字に込めた光太郎の思いと、<智恵子抄>が現代までどのように読みつがれてきたのかに焦点をあて、二人の鮮烈な生の軌跡をたどります。

松平 盟子 (マツダイラ メイコ)
愛知県生まれ。南山大学国語国文学科卒。「帆を張る父のやうに」により角川短歌賞。歌集に『プラチナ・ブルース』(河野愛子賞)『カフェの木椅子が軋むまま』『天の砂』など。著書に『母の愛 与謝野晶子の童話』『パリを抱きしめる』など。与謝野晶子のパリ滞在とその文学研究のためパリ第7大学にて在外研究(国際交流基金フェローシップ)。現代歌人協会および日本文藝家協会会員。
小山 弘明 (コヤマ ヒロアキ)
千葉県香取市出身。高村光太郎連翹忌運営委員会代表として執筆、講演、市民講座講師、美術館・文学館アドバイザー、TV番組制作協力などを行っている。

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というわけで、歌人の松平盟子氏と共に、当方も講師を務めさせていただきます。

松平氏とは、昨夏、神保町の学士会館さんで開催された「現代歌人協会公開講座 高村光太郎の短歌」の際に知遇を得まして、秋には日比谷図書館さんを会場とした「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」にもお誘い下さり、参加させて頂きました

光太郎に並々ならぬご関心を抱かれ、他にも朝日カルチャーさんで講座をお持ちの松平氏がご紹介下さり、今回の講座が実現いたしました。ありがたいことです。

当方は、以前から感じていた『智恵子抄』という、ある意味日本近代詩史上、特異な詩集の特異性ということに関し、それがどのように読み継がれてきたのか、そして光太郎自身の意図は奈辺にあったのか、そういった点についてお話をさせていただくつもりで居ります。

こういう機会を与えていただくと、気になっていた課題を自分なりに整理する事ができ、そういう意味でもありがたいことです。

ぜひご参加下さい。


【折々のことば・光太郎】

人の心は理窟だけでは動きません。内面からのうるほひと光とが無ければ人の心は本然のはたらきをいたしません。私がかういふ非常時に際して、芸術といふやうな問題を重要視するのはこの点に根拠があるのであります。

ラジオ放送「芸術と国民生活」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

JOAKから放送された光太郎の講演の一節です。雑誌『歴程』や、書籍『生活と文化技術』にその筆記が載りました。

光太郎、泥沼の戦時体制が止めえないものであれば、せめて人心の荒廃を防ごう、というスタンスでした。そのために非常時こそ芸術を愛する心の重要性を訴えています。何としても戦争終結を、という方向に行かなかったのは残念ですし、この後はさらにヒートアップし、「鬼畜米英殲滅すべし」というプロパガンダに積極的に協力していく光太郎。戦後、自らの扇動で多くの若者を死地に追いやった反省へとつながります。

大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った千葉銚子でのイベント情報です。 

仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展

期   日 : 2018年4月27日(金)~30日(月)
会   場 : 飯沼山圓福寺(飯沼観音)本堂 千葉県銚子市馬場町1-1
時   間 : 10:00~16:00 (最終日15:00まで)
料   金 : 無料

仏と鬼と銚子の風景を版画で表現した旭市出身の版画家・土屋金司さんの作品展。

≪特別上演≫ 語り【犬吠の太郎】
 銚子浪漫ぷろじぇくとによる「犬吠の太郎」語り公演。土屋金司氏の版画と共にお楽しみください。当日は、境内にて和スイーツの販売(雨天中止)も実施いたします。
(開 催 日) 4月29日(日・祝)
(開催時間) 1回目12:00~ 2回目14:00~
(開催場所) 飯沼観音 本堂
(料金) 無料

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土屋氏は銚子に隣接する旭市のご出身だそうで、光太郎智恵子が宿泊した暁鶏館(現・ぎょうけい館)の館内にも作品が展示されています。記憶が定かではないのですが、そのうちの一枚が、光太郎詩「犬吠の太郎」(大正元年=1912)を刻んだ版画だったはずで、「≪特別上演≫ 語り【犬吠の太郎】」につながるのだと思われます。

太郎は暁鶏館で働いていた、当時で言うと下男。知的障害があったようで、現代では差別的表現になりますが「馬鹿の太郎」と呼ばれていました。しかし、皆から愛されるキャラクターだったようです。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演)では、故・石立鉄男さんが演じていました。

光太郎、太郎の(ややこしいですね(笑))印象が後々まで残っていたようで、昭和3年(1928)に書かれた詩「何をまだ指してゐるのだ」にも太郎が登場します。


    何をまだ指してゐるのだ001

 逆まく波のしぶきにうつそり濡れながら、
 あの岩の出鼻に裸で立つて、
 空の果まで何にも見えない沖の深みを見透すやうに、
 馬鹿の太郎は何をまだ指してゐるのだ。

 炎天溫気(うんき)の砂ほこりのまんなか、
 ゴオストツプの忙しい生産社会の人ごみにまぎれこみながら、
 建てかけた鉄骨の外には昼の月すら見えない空に手をあげて、
 馬鹿の太郎は何をまだ指してゐるのだ。 
 

会場の飯沼観音は、銚子の中心街です。昭和4年(1929)、光太郎を敬愛していた日中ハーフの詩人・黄瀛がここを訪れ、境内の火の見櫓から見た風景を「銚子ニテ」という詩に謳っています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一番危険なのは、アンデパンダン展がアンパンデタラメ展となることである。
散文「アンデパンダンについて」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

光太郎には珍しく、オヤジギャグが炸裂しています(笑)。

「アンデパンダン」は仏語の「Indépendants」。本来、「独立した人々」の意ですが、サロン等の公設展覧会に対する無審査、無賞の展覧会を指すようになりました。この年4月、盛岡市の松屋画廊で「第一回岩手アンデパンダン展」が開催され、深沢省三・紅子夫妻、舟越保武らも出品しました。

無審査であるのをいいことに、デタラメな作品がまかり通るようでは本末転倒、という警句です。

過日、「角川文庫 創刊70周年 みんなで選ぶ、復刊総選挙 第一期 日本の名作」の件をご紹介しましたが、ある意味、似たような件です。 

県民の皆様の投票により「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」を選定します!

オリンピック・パラリンピック競技大会はスポーツの祭典であると同時に文化の祭典でもあります。
東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催は、本県の文化的魅力を発信する絶好の機会であり、この機会を活かすためには、多くの県民の皆様に本県の文化資産を再認識していただくとともに、次世代に継承していくことが重要です。
そこで、県民の皆様の参加により「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」(以下、『ちば文化資産』という)を選定することとしました。
先日皆様から応募いただいた内容を基に決定した候補の中から、次世代に残したいと思うものに投票してください!

投票の結果等を踏まえて100件程度、『ちば文化資産』を選定します。
選定したちば文化資産については、県民参加型の文化プログラム等を実施し、千葉県の魅力発信を行っていきます。

 
1 『ちば文化資産』とは?
『ちば文化資産』は、県内の文化資産のうち、県民参加により選定した、多様で豊かなちば文化の魅力を特徴づけるモノやコトとします。
伝統的なものに限定せず景観やイベント、祭りなど、千葉県の文化的魅力を発信するモノやコトを含みます。


2 『ちば文化資産候補』
ちば文化資産の投票候補を、県内11地域に区分して整理しています。
※一部の候補については、複数の地域にまたがって存在しているため、広域候補としています。地域や所在市町村により候補をお探しになる際は、広域候補についても御確認ください。


3 投票資格、投票の方法
 (1)投票資格
  千葉県に在住又は千葉県に通勤・通学している方
  ※お一人様1回までの投票でお願いします
   候補となっている211件の中から1つだけ選んでください。
 (2)投票の方法
  インターネットの場合
   専用入力フォームから、千葉県に送信してください。
   パソコンの方用入力フォーム
   スマートフォンの方用入力フォーム
   携帯電話の方用入力フォーム
  郵送の場合
   1または2で投票してください。
   1 .「投票チラシ」をダウンロードし、必要事項を記載の上、御郵送ください。
   2 .投票したい「ちば文化資産」の番号、名称、氏名、住所、通勤又は通学先の市町村
     (千葉県内在住の
は不要)、電話番号(日中連絡がとれるもの)
     又はメールアドレスを記載の上、御郵送ください。この
     場合、様式は問いません。
   【郵送先】
   〒260-8667 千葉市中央区市場町1-1 千葉県環境生活部県民生活・文化課文化企画班
 (3)投票期間
  平成30年4月6日(金曜日)から6月18日(月曜日)(必着)


4 プレゼントの内容、当選者数など
  投票いただいた方の中から抽選で、今秋デビュー予定の新品種を含む県産落花生商品詰め合わせや
  チーバくんオリジナルグッズ等をプレゼントします!

 ※平成30年7月上旬に、御提出いただいた電話番号又はメールアドレスへ当選の御連絡をしますの
  で、パソ
コンのメール(@pref.chiba.lg.jpのドメイン)を受信できるよう設定をお願いします。
 ※当選の御連絡が取れない場合は当選無効とします。
 ※発送は国内に限ります。

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候補の中に、「205 九十九里浜の景観」が入っており、説明文がこちら。

九十九里浜沿岸は古来から多くの文化の跡が残されています。江戸時代以降はいわし漁等の漁業が盛んとなり、神輿を担いで浜に降りる「浜降り」や「潮踏み」等と呼ばれる習俗が現代まで続いており、海との深いつながりを感じられます。また、高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台となっています。

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「智恵子抄」で言えば、詩「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(同12年=1937)も九十九里浜を舞台としています。

それに先立つ昭和8年(1933)、心を病んだ智恵子が現在の九十九里町片貝にいた智恵子の妹の婚家(田村別荘)で療養したことに由来します。この頃は光太郎、ほぼ毎週のように見舞いに訪れていました。

智恵子が療養していた田村別荘は取り壊されてしまいましたが、その跡地には木標が立ち、東金九十九里有料道路の今泉駐車場には光太郎智恵子像、海岸にほど近いサンライズ九十九里さん脇には「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑が建っています。

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候補の中から「100件程度」が「ちば文化遺産」に認定され、「県民参加型の文化プログラム等」を実施し、千葉県の魅力発信に役立てられるとのことですので、ぜひ「九十九里浜の景観」も選定され、さらにその後の「県民参加型の文化プログラム等」の中で、光太郎智恵子に触れる機会が持たれてほしいものです。

当方はすでに投票しましたが、千葉県ご在住、あるいは通勤されている方、ぜひとも投票にご協力を。


【折々のことば・光太郎】

私の一番底の考へでは、美術家が散らばつてしまふのはむしろ喜ぶ所であつて、善い美術家が市井や山間僻地に散在して真の善き作品を名声に関係なく作てゐてくれる様な時代を想像すると愉快であるが、現前の世の中ではそんな事は夢に近い。

散文「大調和美術展に就て」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「大調和美術展」は、武者小路実篤らの雑誌『大調和』が母胎となって開催されたもので、光太郎は第一回展に塑像「中野秀人の首」、「某婦人の像(智恵子)」、「東北の人」、木彫「魴鮄」、「桃」、「うそ鳥」を、第二回展では、塑像「住友君の首」、木彫「柘榴」を出品しました。

昨日のこのブログで、光太001郎作の「今井邦子像」(大正5年=1916)に、ちらっと触れました。

最終的には大理石像にするつもりで、粘土原型を作っていたものですが、結局、未完のまま終わり、現在、現存が確認できていない彫刻です。

光太郎曰く、

私は智恵子の首を除いては女声の肖像をあまり作つてゐない。はるか以前に歌人の今井邦子女史の胸像をつくりかけたのに、途中で粘土の故障でこはれてしまつたのは惜しかつた。幸ひ写真だけは残つてゐて女史の随筆集の挿画になつてゐる。女史の持つ精神の美と強さとが幾分うかがはれるかも知れない。あの首は大理石で完成するつもりで石まで用意してあつたのである。
(「自作肖像漫談」 昭和15年=1940)

モデルとなったのは、今井邦子(明23=1890~昭23=1948)。島木赤彦の『アララギ』や、長谷川時雨の『女人芸術』に依った歌人で、のち、自ら歌誌『明日香』を主宰しました。

夫の健彦は、衆議院千葉四区選出の代議士。当時の千葉四区は、銚子や、当方自宅兼事務所のある香取市を含む区域でした。そこで今井夫妻、居住はしていなかったようなのですが、たびたびこの地を訪れています。また健彦は、銚子漁港の整備や、現在のJR成田線の敷設に力を注ぎ、そのため、銚子の名誉市民に認定されています。

ちなみに健彦は静岡出身。父親は、何と、坂本龍馬暗殺に関わったとされる幕臣・今井信郎です。邦子は四国の生まれで、幼少期に信州諏訪にうつり、北海道に住んでいたこともありました。それがなぜ千葉四区なのか、当方、寡聞にして不分明です。

その健彦の顕彰碑、そして邦子の歌碑が、香取市の名前の由来となった香取神宮に建っています。昨日、久しぶりに邦子の名を思い出し、さらに、香取神宮は桜の名所としても有名なので、思い立って行って参りました。

香取神宮は、自宅兼事務所から車で10分ほどの所です。しょっちゅう脇を通るのですが、めったに立ち寄りません。境内が非常に広大なので、気軽に立ち寄れる場所ではないもので。昔は子供達のお宮参りや七五三、初詣によく行っていました(子供達が屋台のジャンクフードを目当てにしていました(笑))し、かつては薪能も開催されていて、拝見に伺ったりしました。

門前の駐車場から。

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茶店、土産物屋、蕎麦屋などの並ぶ参道を抜けると、大鳥居。

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大鳥居をくぐってふり返ると、こんな感じです。

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大鳥居から50㍍ほどで、左手に奥宮方面へと分かれる分岐点があり、そこに今井夫妻の碑が経っています。いつも横目に通り過ぎていて、ちゃんと見るのは実は初めてでした。

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健彦の頌徳碑。事績の紹介の中に、邦子の名も。

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邦子の歌碑。

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達筆すぎて判読に苦労するのですが、

いつきても 胸すかすかし 神宮の しつけき森に いろつく楓     邦子女史作紫草の中より


とあります。濁点が使われていませんので、「すかすかし」は「すがすがし(清々し)」、「しつけき」は「静けき」、「いろつく」は「色づく」でしょう。「紫草」は、昭和6年(1931)、岩波書店刊行の第三歌集です。

そういえば、香取神宮、桜と共に紅葉の名所でもあります。

碑陰記。それに依れば、碑の建立は昭和39年(1964)でした。

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せっかくですので、久しぶりに本殿に参拝すべく、歩きました。ソメイヨシノ以外にも、しだれ桜や山桜系もみごとです。また、邦子が歌に詠んだ楓は、この時期、爽やかな新緑です。

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楼門。元禄年間の建立で、国指定重要文化財です。

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こちらも重要文化財の本殿。楼門と同時期の建立です。

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この黒い社殿が珍しい、クール、ということと、広大な境内全域が原生林に囲まれ、マイナスイオンが溢れていることなどから、最近はパワースポットとしても人気です。昨日も、平日にもかかわらず多くの参拝客の皆さんがいらしていました。また、昨今は、少し離れた旧市街とセットのバスツアーなども組まれているようです。そちらは江戸~昭和戦前の街並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

本殿の右側を通って、禁足地を横目に、裏手へ。穴場のスポット、鹿苑があります。一時、鹿さんたちにとってあまりいい環境ではなかったのですが、最近はボランティアの方々のご努力で、改善されています。

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鹿苑わきの茶店の展望台から。

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昔は遠く利根川が見えたのですが、樹木が伸び、展望はきかなくなってしまっていました。しかし、桜はやはり見事でした。

来た道を引き返し、大鳥居をくぐって参道へ。このあたり、昔は旅館が何軒かあったそうで、その名残も。

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これなどは、おそらく各地から仲間同士で参拝に来ていた講の札ではないかと思われます。

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大正10年(1921)、歌人の柳原白蓮が、夫である福岡の炭坑王・伊藤伝右衛門の元から出奔し、宮崎滔天の息子・龍介と駆け落ちしました。その逃避行の際、ほんの一時期ですが、このあたりの旅館に潜伏していたそうです。手引きをしたのが、今井健彦だとのこと。残念ながら、その旅館は残っていないらしいのですが。

また、光太郎の師であり、同じ歌人同士、今井邦子とも多少の関わりがあった与謝野鉄幹・晶子夫妻も、明治44年(1911)初夏、銚子から船で利根川を遡上、香取神宮に参拝しています。その船着場があった津宮(つのみや)地区にあった旅館に夫妻は宿泊。そこには晶子歌碑も建立されています。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私は私の製作する他の芸術が若し彫刻的に傾いて来る様な事があつても驚きはしないだらうと思ふ。又悲しまないだらうと思ふ。私の思想、私の性格、私の想像、私の欲望にかなり粘土のにほひのする事は、うすうす私自身でも感づいて居る。
散文「大正博覧会の彫刻を見て所感を記す」より
 大正3年(1914) 光太郎32歳

夙に光太郎の詩は「彫刻的」と評されてきました。語を立体的に構成し、一つの作品として仕上げていく手法などに対してです。

この短い一文にも、同様の手法が使われているように思えます。まるで塑像に粘土を貼り付けていくように、正面から「私の思想」、サイドには「私の性格」、後ろに回って「私の想像」、下の方に「私の欲望」……というふうに。

千葉から企画展情報です。光太郎の実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を嗣ぎ、鋳金分野の人間国宝に指定された、高村豊周の作品が出ています。

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左から、光雲、豊周、光太郎。

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北詰コレクション メタルアートの世界Ⅱ-メタルアートの匠と技-

期 日 : 2018年1月20日(土) ~ 4月15日(日)
会 場 : 千葉県立美術館 千葉市中央区中央港1丁目10番1号
時 間 : 午前9時~午後4時30分
休館日 : 月曜日(ただし、月曜日が祝日・振り替え休日に当たるときは開館、翌日休館。
料 金 : 一般300円(240円)  高大生150円(120円)
      ( )内は20名以上の団体料金

千葉県印西市の「メタルアートミュージアム光の谷」閉館に伴い、館長の北詰栄男氏より寄贈された365点の近代金工史を代表するメタルアートのうち、昨年度の黎明期の作家を中心とする展覧会に続き、第二弾として大正から昭和にかけての作品を中心にご覧いただけます。

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豊周の作品は、3点出ていました。「青銅環文壺」(昭和35年=1960)、「青銅花盛」(制作年不詳)。こちらの2点は画像がゲットできました。

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それから「朱銅花入」(昭和41年=1966)。001これそのものの画像は見つかりませんでしたが、似たような作品として、こちら。

いずれも見事な作品です。「メタル」というと、冷たい響きに感じられますが、さにあらず。特に「朱銅花入」などは、それが金属であることを忘れさせるような、温かみさえ感じさせられます。それは光太郎のブロンズ彫刻にしてもそうですが。

他に、関係する作家の作品もいろいろ。

豊周の師にあたる、津田信夫、大島如雲。豊周の父・光雲は、明治13年(1880)から翌年にかけ、大島とその父・高次郎の工房で、鋳金の仕事を手伝っていました。ちょうど、廃仏毀釈のあおりで木彫の仕事が激減していた時期です。

それから、やはり豊周の師・香取秀真(ほつま)の長男、香取正彦。光雲が主任となって制作された皇居前広場の「楠木正成像」の鋳造を担当した岡崎雪声。さらに、豊周の弟子にあたる丸山不忘。丸山は、豊周の助手として、光太郎作の日本女子大学校創設者・成瀬仁蔵胸像の鋳造にあたっています。

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当方、昨日、拝見して参りました。昨年の「北詰コレクション メタルアートの世界―黎明期の作家を中心に―」以来でした。

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館の正面玄関。後ろ姿は画家の浅井忠の銅像です。

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「メタルアートの世界Ⅱ」以外にも、アート・コレクション「コレクション名品展」、「浅井 忠6-その師と弟子たち-」 という展示も為されており、光太郎と関わりの深かった梅原龍三郎、安井曾太郎らの絵画が出品されていました。

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ぜひ足をお運びください。002


【折々のことば・光太郎】

工芸家は、作曲家が五線紙に曲を書き込んでゆく時既に演奏の結果を耳で聴く思をすると同様な感覚を持つてゐて、原型を作る時既にその壺なり花瓶なりのブロンズ作品に出来上がつた時の特有の美を感ずるのである。

散文「彫刻家の場合」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳

右は、方眼紙に豊周の描いた、上記とはまた別の「朱銅花入」の下図です。

こうした感覚が無い彫刻家が作った銅像などが鋳造されると、まるでブロンズという素材を生かしていないものになり、太平洋戦争前夜、既に金属の不足が顕著になりつつあったこの時期、実に無駄、という論です。

昨日、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里町の片貝海岸に、今年も初日の出を見に行って参りました。

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予定通り、6時過ぎに到着。6時45分過ぎが日の出時刻です。昨年よりも水平線上の雲が低く、いい感じです。

家から持って行った紙屑を焚き付けに、流木を拾い集めて焚き火。他の方々にありがたがられました。

昨年もそうでしたが、お供は愛犬。14歳になった柴犬系雑種です。自宅兼事務所から片道1時間ほどのドライブ。後部座席でおとなしくしていました。

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社交的なわんこが寄ってきます(笑)。うちのはビビリです(笑)。

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サーファーの皆さんが、初波乗り。

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さて、雲の上に、太陽。

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84年前(ちなみに戌年)、光太郎智恵子も逍遙した同じ浜で見る初日の出は、やはり格別です。今年も光太郎智恵子の世界が盛り上がりますように、と、願をかけました。

しばらく見ていたかったのですが、しばらく見ていると、周辺の道路で大渋滞が起こりますので、すぐに撤収。ここに初日の出を見に来たのは3回目で、ルートなども学習しました。すんなりと抜け出せました。

自宅兼事務所に帰り着き、すぐに近所の公園へ(愛犬、自宅兼事務所敷地内では排泄をしませんので)。そのまま裏山の神社へ初詣。神職もいない小さな神社ですが、裏山一帯が戦国時代の山城跡で、その頃からこの社もあったようです。一度、境内で永楽銭を見つけました。ここでも今年も光太郎智恵子の世界が盛り上がりますように、と、願をかけました。

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自宅兼事務所では、愛猫が鏡餅にいたずらしていました(笑)。

その後はおせちを食べ、届いた年賀状やメール等をチェック。

その中で、今年は光太郎の先輩・与謝野晶子の生誕140年ということを知りました。その流れで、晶子と光太郎的な部分で、どさくさにまぎれて(笑)光太郎にもスポットが当たって欲しいものだと思いました。

ついでに云うなら、今年は九十九里で療養した5年後(昭和13年=1938)に歿した智恵子の歿後80年でもあります。その辺りでの盛り上がりも期待したいところです。



折々のことば・光太郎】

一切の偶然の効果を棄てよ。タツチに惑はさるる勿れ。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

彫刻に於いては、思いがけず現出した効果に頼ってはいけない、徹頭徹尾計算ずくでやるべし、ということでしょうか。

まずは『千葉日報』さんで、先週の記事です。

光太郎と房総、関わり紹介 八街市の市原善衛さん 30年前の冊子改訂

 八街市の市原善衛さん(67)が約30年前に刊行した冊子「高村光太郎と房総」の改訂版(B6判、全32ページ)を発刊した。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と房総の関わりをテーマにした同冊子について、光太郎と友人の文学者との交流など新たな内容を盛り込むとともに、サイズをコンパクトにした。
 元成田市職員の市原さんは、さまざまな文学者と房総とのゆかりを調べている研究家。同書は1986年に初版が発行され、光太郎が写生旅行で銚子を訪れている際、後に妻となる智恵子と再会したエピソードや、成田の開墾地に住んだ生涯の友となる歌人で小説家の水野葉舟を訪れたこと、九十九里で病気療養中の智恵子の見舞いに行ったことなどが紹介されている。
 改訂版では写真を入れ替えるとともに、葉舟と親しく交流した様子、智恵子に関する当時の新聞記事などを加筆した。市原さんは「光太郎と千葉が深い関係にあったことを知ってもらえれば」と話している。
 作成部数は150冊。国会図書館や成田市、八街市の図書館、学校などに配布する予定。問い合わせは市原さん。

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その他、先月後半からの新聞各紙で、光太郎智恵子に触れていただいた記事等をご紹介します。

『毎日新聞』さんで、6月20日(火)の「人生相談」。回答者は当会会友渡辺えりさんです。「老後はスッキリ暮らしたい」という相談に対し、戦時中から光太郎と交流のあったお父様を引き合いに回答されています。

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6月28日(水)の『中国新聞』さんの一面コラム「天風録」。光太郎の「道程」を枕に、将棋界の新星・藤井四段について。ただし、連勝記録がストップする前の掲載です。

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さらに昨日の『毎日新聞』さんの大阪版。時折この手の記事で取り上げられる御堂筋の彫刻群についてです。

御堂筋彫刻ストリート 人々見つめ銅像は何思う /大阪

 完成から80周年を迎えた大阪市の御堂筋。キタとミナミを結ぶ大動脈である一方、人体をモチーフとした彫刻を配するアート空間でもある。1991年、当時の西尾正也市長が寄付を呼びかけ、今では29点のブロンズ像が、地下鉄淀屋橋駅付近から心斎橋駅の間約2キロの歩道に並ぶ。
  ロダン、ルノワール、高村光太郎ら有名芸術家の作品も、全て企業や個人が寄贈した本物だ。一流の作品が無料で鑑賞できる。カメラを手に、イチョウ並木の合間に作品が点在する「なにわのシャンゼリゼ」を歩いた。
 
(1)「考える人」などで知られるオーギュスト・ロダンの「イヴ」。1883年作。
(2)詩人でもある高村光太郎の「みちのく」。妻・智恵子を表した作品という。1953年作。
(3)フランス印象派、オーギュスト・ルノワールの「ヴェールを持つヴィーナス」。1914年作。
(4)夜間ライトアップされる作品も多い。イタリア人画家で形而上絵画の創始者、ジョルジオ・デ・キリコの「ヘクテルとアンドロマケ」。1973年作。
(5)フェルナンド・ボテロの「踊り子」。大阪のおばちゃんのようにユーモラス。1981年作。ボテロは人間や動物をふくよかに表現した作品で知られる。
(6)アントワーヌ・ブールデルの「休息する女流彫刻家」(1906年作)。隣のベンチで休んでいた女性(24)は「御堂筋にこれほど彫刻があるとは。ゆっくり見てみたい」。
(7)イタリア現代具象彫刻の代表作家、エミリオ・グレコの「座る婦人像」。1980年作。「婦人」が足早に通り過ぎるサラリーマンをじっと見つめていた。
    ◇
 大阪市は2008年から、イチョウ並木が色づく10~11月に「御堂筋彫刻ガイドツアー」を開催。今年も開かれる予定だという。

写真が入っているのだと思いますが、ネット上では見られませんでした。


時々書いていますが、「高村光太郎? 知らないなあ」、「智恵子? 誰、それ?」ということにならないようにしていきたいものです。そのためにも各メディアさんで、常に光太郎智恵子を取り上げていただきたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

決して馴れず、 決して脱落せず、 此世に絶えず目をみはつて 彼はただ怒る、怒る。
詩「マント狒狒」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

連作詩「猛獣篇」の最後の頃の作です。かつては矛盾に満ちた社会を糾弾し、ばっさりと斬りつける快刀だった同詩篇でしたが、世の中はどんどん軍国主義の方向に進んでいきます。前年には二・二六事件、日独防共協定の締結、スペイン内戦、西安事件。この詩の書かれた前日には盧溝橋事件が起こり、泥沼の日中戦争へと発展していきます。

檻の中で怒り狂うマント狒々は、その怒りもむなしく、怒るために怒っているような状態で、上記のような世の中を止められない光太郎自身の内面が仮託されていることは言うまでもありません。

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