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千葉県で、「ちばアート祭2021」というアートフェスティバルが開催されています。
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現代アートのインスタレーションと、一般の方々から公募した「「ちば文化資産」絵画・写真公募作品展」がメインです。

このうち、「「ちば文化資産」絵画・写真公募作品展」は、平成30年(2018)に選定された111件の「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」をテーマとした絵画・写真・Instagramの作品を募集したものです。

111件中には、「高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台」というキャッチフレーズで、「九十九里浜の景観」も選定されましたし、光太郎智恵子の名は説明に使われませんでしたが、銚子犬吠埼などのゆかりの地が他にも含まれています。

ちなみにインスタレーションの方も、ちば文化資産インスパイアということになっているようです。

千葉県立美術館さんでは、8月3日(火)~15日(日)の日程で、絵画・写真応募作品の原則全てが展示されています(Instagram部門は受賞作品のみの展示)。ちなみに同館で同時開催中の「名品3 ―巨匠の眼と手―」では、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が出ているようです。

美術館にほど近い千葉ポートタワーさんでは、8月16日(月)~9月5日(日)に、応募作品のうち、受賞作品24点を展示とのこと。また、オンラインでも開催されています。
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ぜひ御覧頂き、千葉県の魅力に触れていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

畑の事いろいろやつてゐる、さかんにブヨにくはれる。ひどくはれる。


昭和23年(1948)7月15日の日記より 光太郎66歳

「ブヨ」。標準語だと思っていましたが、どうも関東方言のようで、学術的には「ブユ」と言うのが正しいようです。蚊と同じく、吸血のために刺すそうですが、問答無用で襲来してくるという感じですね(笑)。当方も、かつていきなり刺されてひどい目に遭いました。

昨日は、千葉県印西市に行っておりました。お世話になっています、書家の菊地雪渓氏が、書道塾を開設なさったということで、そのお祝い的な。

菊地氏、たびたび光太郎詩を題材にされた作品を書かれ、各種展覧会で入賞なさったりしています。

第38回日本教育書道藝術院同人書作展
第40回東京書作展
第42回東京書作展

また、そうした作品を、連翹忌レモン忌にお持ち下さったり、書家の眼から見た光太郎書について高村光太郎研究会で発表されたりなさっています。その発表は活字にもなさいましたが、慧眼、と唸らされるものでした。

菊地氏、築80数年という古民家を借りられ、書道塾を始められたということで、これは行かざぁなるめい、と、参上した次第です。HPはこちら

印西市も意外と広く、都心に近い千葉ニュータウンなどがある区域ではなく、北部の利根川に近い木下(きおろし)方面で、江戸時代には利根川水運の木下河岸(きおろしがし)が栄えた地域。したがって、後で紹介しますが、レトロな建物も多く残っています。
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元は医院だったという建物だそうですが、実にいい感じです。

部屋の間仕切りの戸は、障子紙でなく磨りガラス。昭和初期としてはモダンです。桟に施された地紋も手が込んでいます。

伝統的な「麻の葉」が多い感じでした。
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菱紋や、工字紋、井桁紋の変形的な紋様も。
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古建築好きにはたまりません(笑)。

ちなみにこの手の地紋は、光太郎も少年時代から木彫の修業の一環で、毎日のように木の板に彫っていました。光太郎曰く、声楽家の発声練習のようなもの、だそうで。昭和17年(1947)刊行の評論集『造型美論』中の「木彫地紋の意義」には、実際に光太郎が彫った地紋の拓本が図版として掲載されています。
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ダミーのマントルピース。当方の祖父(職業軍人でした)宅にもありました。これもモダンな邸宅のお約束です。
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教室として使われている部屋は、こんな感じ。
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内閣総理大臣賞に輝かれた作品が展示されていました。
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菊地氏と、あれこれお話をさせていただきました。

その際に頂いた、書道塾のパンフレット等。
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京扇子の白竹堂さんと組まれて、扇面揮毫の販売もされているそうです。智恵子の遺した言葉「世の中の習慣なんて……」を書かれたものもラインナップに。残念ながら、昨日の段階では品切れということでゲットできませんでしたが(笑)。
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菊地氏、今後も光太郎詩文に取り組まれるそうで、さらなるご健筆を祈念いたしつつ、帰途に就きました。

ところで、書道塾さんに伺う前、約束の時間に遅れちゃ行けないと思って、少し早めに自宅兼事務所を出たところ、早く着きすぎてしまったので、ほど近い場所の古建築を見て廻りました。

現役の蕎麦屋、「柏屋」さん。
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現在は単に車庫として使われているらしい建物。
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昔は医院だった建物。いかにもです。
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醸造業の蔵元的な。
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KIMG5252国指定天然記念物の「木下貝層」を切り出して作った石灯籠。約12万年前、このあたりが内海だった頃の名残です。

その他、開館日ではなかったので割愛しましたが、蔵を改装して作られた「吉岡まちかど博物館」さん、古民家カフェの「町家カフェむさしや改めShimiya」さんなど、古建築好き必見のスポットも数多く遺っています。

印西書道塾さんと併せ、ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに書道塾さんでは、7月31日(土)に以下のイベントを企画されているそうです。

【 題目 書に触れる 】
日時:7/31(土)
対象:大人(高校生以上)10:00~12:00
   児童(中学生以下)14:00~16:00
会費:無料
予約:要(電話にてご予約ください)
電話:0476-33-6382
人数:先着8名様
道具:不要(こちらでご用意します)
内容:主に漢字について、その発祥から現在にいたるまでの流れに従って、気楽に座談会形式でお話しします。最後に実際に筆を持って中国の故事や日本の俳句などお好きなものを書いてみましょう。書道に触れる良い機会と思います。どうぞお気軽にご参加下さい。


【折々のことば・光太郎】

武者小路さんに返事、新しき村展覧会への出品はどうか分からぬ旨。


昭和23年(1948)5月26日の日記より 光太郎66歳

この葉書が、調布市武者小路実篤記念館さんに現存しています。

おてがみいただきました。あの変な詩を快くうけ入れて下さつた事を感謝してゐます。雑誌からもらつた金は大いに助かりました。
新しい村三十年記念展覧会に出品の事まだ何ともお答へ出来ません。穣さん御承知の通りの光線メチヤメチヤな小屋なのでまだ本格的な彫刻は始めません。やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎないので、東京の展覧会に送るのはどうかと思つてゐますが、いづれ来月□手紙で申上げる事にいたします。今日は茄子の移植をやります。

あの変な詩」は、この年、武者小路が主幹となって発刊された雑誌『心』に掲載された「人体飢餓」と思われます。「□手紙」の「」は染みのため判読不能でした。

メインは、この年秋に神田共立講堂で開催された「新しき村三十周年を祝う会」に関する内容です。「穣さん」は武者小路の三女・辰子の夫で後に和光大学名誉教授を務めた武者小路穣(みのる)。この当時、日本読書購買利用組合(のち日本読書組合と改称)に勤務、光太郎が編集に当たった『宮澤賢治文庫』の出版に携わっていました。

やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事」に関しては、そうして作られたものの現存は確認できていません。

同じ日の日記に「阿部さんの魚板彫刻は南部の鮭にきめたり」とありますが、前後に関連する記述が無く、「阿部さん」も誰だか分かりません。おそらく、親しかった林檎農家の阿部博かな、という気もするのですが。

情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

昨日は、昭和9年(1934)、智恵子が半年あまり療養生活を送っていた、旧片貝町(現・九十九里町)方面に行きました。

もともとそのつもりではなく、調べ物のため、自宅兼事務所のある香取市に隣接する旭市にある、県の東部図書館さんに行ったのですが、調査終了後、足を伸ばしました。旭市は九十九里浜の北端で、旧片貝町辺りは浜のほぼ中央部。旭まで行けば、そこからは車で30分ほどです。毎年の初日の出拝観をはじめ、よく行く場所ですが、気になる情報を新たに得たので、行ってみました。
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一般の方のfacebook投稿で、永らく草木に覆われ埋もれていた光太郎歌碑が、周囲の草刈りが為されて再び見られるようになった、という情報で、今年5月の投稿でした。

歌碑はそう古いものではなく、平成10年(1998)の建立です。下は、その頃撮った写真。
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『智恵子抄』に収められた、光太郎短歌三首が刻まれています。

いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる
わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき
光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき

最初の「いちめんに……」の歌は、この地で詠まれたものです。

昭和9年(1934)に、智恵子が療養していた家は、所有者の名を取って「田村別荘」と呼ばれていましたが、空き家となったあと、昭和47年(1972)に、元の場所から500㍍ほど離れた、大網白里町に移築され、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていました。下は、平成のはじめ頃に撮った写真です。
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ところが、元々があまり立派な家屋でもなく、さらに無人の状態だったため、中に入り込んで悪さをする馬鹿者もいたりで、内部にゴミ等が散乱していた時期もありました。

平成6年(1994)頃には、元の位置に近い所に戻す、という計画もあったのですが、いつの間にかうやむやに。
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そこで、平成10年(1998)、観光資源としての活用を図ろうと、地元有志による保存修復の動きが出、実際、きれいになりました。その際、建物の傍らに、歌碑が建てられたのです。
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ところが、田村別荘、翌平成11年(1999)に、管理を巡る感情的な行き違いから、突如、解体されてしまいました。

歌碑は残されたのですが、その後、敷地全体は草木が繁茂するままとなり、ここ数年は、元の位置もどこだかわからなくなっていました。

それが、先述の通り、今年5月に草刈りが行われ、碑が見えるようになったという情報。そこで、見に行ってみたわけです。

ところが、やはりよくわかりません。ようやく、周囲より草木の少なめの場所を見つけ、「ここか?」と思って、踏み込んでみると、ありました。県道から20㍍ほど、海側に入ったところです。
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5月に草刈をしたはずなのですが、2ヶ月でもうこの状態です。雑草、恐るべし。

足で草をかき分け、撮影。
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ちなみに県道沿いの、入り口に当たる部分はこんな感じです。このままだと、遠からずまた、碑に近づくことも出来なくなりそうだと思いました。
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歌碑自体はきれいに残っているので、どこか適当な場所に移すことは出来ないのでしょうか……。

その後、ちょうど昼時でしたので、川を渡ってすぐの国民宿舎サンライズ九十九里さんへ。
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レストランのある2階のエレベーターホールには、光太郎智恵子像。制作は日展作家の久保田俶通氏。こちらの像はミニチュアで、本体は、東金九十九里有料道路の今泉PAにあります。

ついでだ、と思い、そちらにも足を伸ばしました。
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なぜか、以前はなかったお賽銭が、それも、かなり。
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別に、ご利益は無いように思うのですが(笑)。

ここまで来たら、さらについでだ、と思い、田村別荘が元々建っていた場所にも。サンライズ九十九里さんのすぐ近くのテニスコート付近です。
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以前は、右の木の下に木製の標柱が建っていたのですが、それも無くなっており、ここと知らなければ通り過ぎてしまう所です。

さらにサンライズ九十九里さん裏手の方の、「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑。
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昭和36年(1961)の建立で、この場所は砂浜だったのですが、碑と海の間に有料道路が造られてしまいました。
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上は、昭和46年(1971)の新聞記事です。「千鳥と遊べぬ智恵子」うまい見出しですね。

さらに現在、有料道路の海側に、巨大防潮堤も建設中。
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波打ち際は、智恵子が千鳥と遊んだ昔のままなのでしょうが……。
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各場所の細かな位置は、最初の画像をご覧下さい。文学散歩的な取り組みで、ガイドが必要、というような場合にはお声がけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩「人体飢餓」書きかけ。 十時頃ねる。


昭和23年(1948)4月6日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋では、戦争責任へ自ら与えた罰として、「天職」とまで考えていた彫刻を封印する日々でした。

手すさびに、送られてきた彫刻材で蝉を彫ったり、粗悪な畑土で塑像――ともいえない程度のもの――を作ったりということはありましたが、きちんとした「作品」と呼べるものは、太田村時代の7年間で一つも遺しませんでした。

転機となったのは、青森県から十和田湖畔に国立公園指定功労者顕彰のためのモニュメント制作を依頼された昭和27年(1952)。これが「乙女の像」として昇華してゆきますが、それもまだ先の話です。

「彫刻封印」というあまりに過酷な罰は、光太郎をして、雪女の姿を雪で作るという夢想さえ見せしめました。

 雪女出ろ。
 この彫刻家をとつて食へ。
 とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
 その時彫刻家は雪でつくる。
 汝のしなやかな胴体を。
 その弾力ある二つの隆起と、
 その陰影ある陥没と、
 その背面の平滑地帯と膨満部とを。


「人体飢餓」の題名は、「彫刻で人体を造ることに飢えている自分」、という意味です。

千葉県の地上波ローカルテレビ局、チバテレさん。今年5月から、第2放送として「チバミライチャンネル」の放映が始まりました。

コロナ禍により、子ども達が学校へ通えない時期がありました。
チバテレではそんな子ども達のために、第2チャンネルを利用し、学校の授業番組を放送いたしました。
学校の先生と共に1から手作りで制作した番組でしたが、対象外の市町村の方からもご好評をいただき、チバテレにとって放送電波の活用について考えるきっかけとなりました。
2021年5月、チバテレは開局50周年を迎えます。
これを機に第2チャンネルを『チバテレミライチャンネル』と変更し、子ども達を中心とした様々な方へ向けた「未来のため」のチャンネルへと進化いたします。

だ、そうで。

終日放映しているわけではなく、朝夕に1時間半、午後に1時間ほどの枠で、千葉県内の高校生が制作した番組や、全国11のローカルテレビ局との共同制作になる「なんとなく歴史が学べる」というゆるい番組「戦国鍋」などが放映されています。

さらに、「ちば見聞録」という番組も。こちらは、平成26年(2014)から同28年(2016)までに、計78本が制作された30分番組で、千葉県各地の歴史紀行的な内容。昭和48年(1973)から平成16年(2004)にかけて制作された「房総プロムナード」の後継番組です。
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一昨日の放映が「#045 九十九里紀行」でした。初回放映は平成27年(2015)8月とのこと。
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九十九里浜を、北限の旭市太東岬から南下しつつ、沿岸の名所旧跡、歴史的背景等を紹介していました。

九十九里町の、光太郎詩碑も取り上げられました。
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画面では正しく「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑となっていましたが、ナレーションでは「「智恵子抄」の一節、「九十九里の初夏」を記した詩碑」と言っていたのには閉口しましたが……。「九十九里浜の初夏」は、『智恵子抄』刊行直前の昭和16年7月、雑誌『新若人』に発表された散文です。

九十九里町より南、一宮町の部分では、芥川龍之介関連。
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光太郎と芥川は、面識はあったものの、親しかったわけではなかったようで、『高村光太郎全集』に、芥川の名は1回しか出て来ません。昭和2年(1927)作の詩「北東の風、雨」を、翼賛詩集『記録』(昭和19年=1944)に収めた際に付した前書き中に「芥川龍之介全集の刊行が着手せられたのも此年である」とあるのみです。ただ、芥川が光太郎の書を高く評価し、入手したというエピソードがありますが。

さて、「ちば見聞録」。全78作が、YouTube上にアップされています。「九十九里紀行」はこちら。


光太郎に関しては、14:43頃から、芥川は16:12頃からです。

その他、全78回中、光太郎智恵子ゆかりの場所である、銚子犬吠埼や成田三里塚なども扱われていますが、残念ながら、光太郎智恵子には触れられていないようです。

ただ、「#061 手賀沼物語」では、光太郎も写っている写真が使われています。
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光太郎は後列右端。雑誌『白樺』10周年の会、大正8年(1919)の撮影です。

我孫子市の手賀沼周辺に、柳宗悦、バーナード・リーチ、志賀直哉、武者小路実篤ら、白樺派の面々が移り住み、その紹介の部分です。

全78回、こちらから選んで視聴できます。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ひげそり。久しくそらざりし為め、ひげひどくのび、そるのに一仕事。


昭和23年(1948)3月24日の日記より 光太郎66歳

そいうえば、この時期、無精ヒゲの伸びた写真が多く残されています。
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昨日は千葉市文化センターで開催された「潮見佳世乃歌物語コンサート 智恵子抄・羽衣伝説」を拝聴して参りました。
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ジャズシンガーの潮見さん、お父さまの故・高岡良樹氏が始められた「歌物語」というジャンルも引き継がれています。様々な文芸作品等をそれぞれ数十分のステージで、歌や語りで紡ぐというものです。昨日はそのうちの「羽衣伝説」と「智恵子抄」。

前半が「羽衣伝説」。現在の千葉市に残る羽衣伝説を元にしたものです。全国各地に残るそれと異なり、のちに「千葉氏」の姓を賜ったという平常将、その子・平常長ら実在の人物が登場します。
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休憩を挟み、後半が「智恵子抄」。

「歌物語」に入る前に、ア・カペラで光太郎詩の朗読二篇。昭和11年(1936)作の「鯉を彫る」と、同7年(1932)作の「もう一つの自転するもの」でした。

「もう一つの……」は、前年の満州事変勃発などを背景に、どんどんきな臭い方向に進む世情に抗し、「もう一つの自転するもの」が自分の中にあるのだ、と宣言する内容(しかし、数年後には抗しきれず、智恵子の死に伴う空虚感などもあって、一気に大政翼賛の方向に梶を切ることになりますが)。

「鯉を彫る」は、新潟長岡の素封家・松木喜之七に依頼された木彫の鯉を制作している様子を詩にしたもの。つい先だって、その関係で長岡に行って参りましたので、奇遇に驚きました。
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朗読に続いて、いよいよ歌物語。

当方、3回目の拝聴となりましたが、それぞれ伴奏の楽器が異なっていまして、曲や全体の構成は同じでも、全く違うステージという感じでした。

最初に聴いた時の伴奏はキーボードとアコースティックギター。そこで、ニューミュージックやジャズのテイストが強く感じられました。今年3月、熱海で拝聴した際には、ピアノ一本。するとクラシック音楽に近い感じでした。

今回は、ピアノ(TATOO)に加え、尺八(小湊昭尚)、そして箏(市川慎)。いやがうえにも「和」。間奏的にインストゥルメンタルの部分もかなり長くあったりし、アレンジが大変だったのでは、と思いましたが、終演後、潮見さんとお話ししたところ、そこは皆さんプロフェッショナル、ツーとカーで、けっこうひょいひょいできてしまったとのこと。素晴らしい!

箏も、当初は通常の十三弦のみの予定だったのが、十七弦も加えてみよう、ということで、市川氏、二面を行ったり来たりでした。
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全体に、かなりドラマチックな構成で、初めて聴いたと思われるお客さんが当方の周囲にいらっしゃいましたが、演者の皆さんの織り成す世界にぐいぐい引き込まれているな、というのがよくわかりました。

構成は、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「千鳥と遊ぶ智恵子」/「風にのる智恵子」(昭和12年=1937/昭和10年=1935)、「値ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)、「山麓の二人」(昭和13年=1938)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)、「亡き人に」(同)。これらが、メロディーのついた「歌」、そうかと思うと「語り」のみ、また、それらを交えた形で、そして先述の通り、インストゥルメンタルの間奏(以前拝聴した2回より長いものでした)と、実に変化に富んでいました。

今後も折に触れ、演じていただきたいものです。

以上、レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

中島中将開墾地放棄の由。


昭和23年(1948)1月4日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れた村人たちとの、茶飲み話に出て来た話題です。

中島という人物、海軍中将だったそうで、ネットで調べてみたのですが、該当する人物が見つかりませんでした。下の名前も分かりません。光太郎が花巻疎開に際し、世話になった佐藤隆房の遠い姻戚らしいようです。光太郎が山小屋で暮らし始めた後、近くにの開拓地に入りました。

典型的、ステレオタイプの愚かな軍人だったようで、村人たちの助言には聞く耳を持たず、馬鹿なことをいろいろやって、自分で自分の首を絞めていたとのこと。

例えば、草を刈るにしても、軍刀を力任せに振り回して斬ろうとしていたそうで、村人が「それじゃ、切れません。片手で草を束ねて、もう一方の手に持った刃物で切れば楽に切れますよ」的なアドバイスをしても、「これがわしのやり方じゃ!」。

家を建てる際も、縄文時代の竪穴住居のように、地面に穴を掘って「板の節約じゃ!」。山の麓なのですぐ水が湧き、到底無理でした。

積極的に村人の助言を聞き、皆に敬愛されていた光太郎とは真逆ですね。結局、2年ほどで開墾地を放棄し、何処かへ消えていったようです。光太郎はこの人物を冷ややかに見ているだけでした。

こんな馬鹿な将校に率いられて進めた戦争で、先述の松木喜之七ら、徴発された兵らがあたら貴い命を落としていたわけで……。

妻が御朱印マニアでして、一緒に月一度ほどのペースで、少し離れたところにある寺社巡りをしております。ついでに当方も光太郎智恵子関連の踏査を兼ねるようにしています。

昨日は同じ千葉県内の松戸市へ。まず、妻の希望で「あじさい寺」の異名を持つ本土寺さんに参拝。その後、同じ松戸市の萬満寺さんへ。

先に萬満寺さんをレポートします。

JR常磐線各駅停車の馬橋駅にほど近い、住宅街にたたずむ古刹です。
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山門(左)と鐘楼(右)。
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山門をくぐった先にある仁王門。

こちらの仁王門に納められている鎌倉期の仁王像は、国指定重要文化財です。指定が大正5年(1916)、当時施行されていた古社寺保存法に基づく指定で、同法には「重要文化財」という枠はなく、「特別保護建造物」「国宝」の二本立てで、「国宝」の認定でした。戦後、現在の文化財保護法が制定され、「重要文化財」が新設されると、そちらに移行しています。こうした例は多く、旧古社寺保存法下での指定を「旧国宝」と称することもあるようです。

で、大正5年(1916)の旧国宝指定の際には、光太郎の父・光雲が関わっていたらしいのです。光雲は東京美術学校教授のかたわら、古社寺保存会委員、国宝保存会委員などを兼任しており、こうした指定に携わっていました。寺伝では、萬満寺さんの仁王像や、他の仏像を絶賛したそうで。

こちらが仁王像。まず向かって右側の阿形像。
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逆サイドの吽形像。
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鋼線入りのガラス越しですので、細かな部分は観察できませんでしたが、それでも全体のフォルムなど、非常にダイナミックに感じました。また、関東地方有数の古さを誇る仁王像ですので、重要文化財指定もうなずけます。伝・運慶作ということですが、これは古い仁王像に付きものでして、残念ながら信用できません。それにしても見事な作です。

驚いたことに、春と秋、それから正月三が日には仁王門のご開帳が行われ、参拝客が阿形像の股の下をくぐれるそうです。

寺伝では、大正8年(1919)に光雲とその高弟・米原雲海が、信濃善光寺さんの仁王像を制作した際、こちらの仁王像も参考にした、ということになっているようです。ただ、善光寺さんのそれとは、かなりポージングが違うのですが……。また、阿吽の配置も、善光寺さんは通常とは異なり、向かって左が阿形、右が吽形です。この配置は奈良東大寺さん南大門の金剛力士像に倣ったようです。ちなみにポージングということを問題にすると、東大寺さんのそれもまた、善光寺さんのそれとかなり異なっています。

それから、萬満寺さんには、松戸市の有形文化財に指定されている仏像が多数おわし、その中に中国明時代の鋳造魚籃(ぎょらん)観音像もいらっしゃるとのことでした。やはり光雲も魚籃観音像を複数彫っていますので、そちらも拝見できれば、と思っていたのですが、残念ながら萬満寺さん自体、この日は無人で、本堂の扉も閉ざされていました。コロナ禍のせいなのでしょうか。
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仁王門や山門の彫刻、龍の天井画など、いい感じでしたが。
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さて、こちらに行く前に参拝した、本土寺さん。
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鎌倉の明月院さんほどではありませんが、「あじさい寺」として有名です。
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広い境内に、色とりどりの紫陽花が満開でした。

妻がいただいた御朱印がこちら。
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左が通常のもの。右は季節限定あじさいバージョン(別途料金)だそうで(笑)。

この後参拝した萬満寺さんの御朱印もいただきたかったのですが、残念ながら昨日は無人。仁王像股くぐりのご縁日に、もう一度行ってみようかと思っております。

以上、千葉松戸レポートでした。

【折々のことば・光太郎】

岡本弥太詩碑「白牡丹図」を用紙に書く。二枚は弥太の署名入、一枚は署名無し。先方の選択にまかせるつもり。


昭和22年(1947)12月21日の日記より 光太郎65歳

岡本弥太(明32=1899~昭17=1942)は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、生前唯一の詩集『瀧』を光太郎に贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。そうした縁から、高知に建てられる詩碑の揮毫を光太郎が依頼され、それに関する記述です。

千葉県からコンサート情報です。

潮見佳世乃歌物語コンサート「智恵子抄・羽衣伝説」

期 日 : 2021年6月20日(日)
会 場 : 千葉市文化センター 6階・スタジオⅠ 千葉市中央区中央2-5-1
時 間 : 【昼の部】開場14:00/開演14:30(SOLD OUT)
      【夜の部】開場16:45/開演17:15
料 金 : 前売 4,000円 当日4,500円

出 演 : 潮見佳世乃(歌と語りと鳴り物) 
TATOO(ピアノ) 
      市川慎(箏) 小湊昭尚(尺八)


市制100周年を記念して、6月20日(日)千葉市文化センター6階 スタジオ1にて、歌物語コンサートを開催いたします。語ります物語は、千葉市の伝説「羽衣伝説」そして、高村光太郎の「智恵子抄」。歌物語で文学の名作・伝説を体感して下さい。どうかあたたかい応援をよろしくお願いいたします。只今チケット発売中です。

「歌物語」とは、父高岡良樹が創りだした、文学、演劇、音楽を融合させたこれまでにない芸能ジャンルです。琵琶法師や浄瑠璃など、物語を語る先人たちの伝統を引き継ぎながら、創作した物語に演劇的要素と音楽を取り入れ、奏でる音楽は、ジャズ、フォーク、ポップスなどを独自にアレンジしたもの。
ぜひ、この機会にご鑑賞ください。

※新型コロナウイルス感染拡大防止対策の為、定員数を減らし開催させていただきます。
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当方、潮見さんの「歌物語 智恵子抄」、2度拝聴しました。1度目は平成27年(2015)、都内大森のライブハウスで。2度目は今年3月、熱海の起雲閣さんで。どちらも素晴らしいものでした。

オリジナルの曲に乗せて、「智恵子抄」所収の詩10篇弱を、歌と語りで紡ぐという基本的な構成は変わらないのだと思いますが、今回はピアノに加え、箏や尺八と、和楽器を伴奏として演(や)られるそうです。箏は一般的な十三絃にプラスして十七絃も使ってみようか、というお話でした。当方、十七絃を使った演奏は一度、拝聴したことがありますが、単に音域が広いというだけでなく、低音域の響きがベースギターのようにしっかり支えていると感じました。

「智恵子抄」以外に「羽衣伝説」。静岡三保松原のそれが有名ですが、東京湾岸の千葉にもあったのですね。千葉県民でありながら存じませんでした(汗)。もっとも、「羽衣伝説」は日本国内だけでなく、西アジアのあたりが発祥らしく、ヨーロッパ、東南アジア、なんとアフリカや北米にもあります。そういった部分でも、非常にロマンを感じます。

新型コロナ感染症対策として、キャパを減らしての実施だそうで、既に昼の部は完売だそうですが(すみません、当方も昼の部で申し込みました(笑))、夜の部はまだ余裕があるようですし、昼の部もキャンセル等が出るかもしれません、上記リンクまでお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】

終日雨、小雪、あられ等。時々鼠出る。 朝八時頃までねすごす。


昭和22年(1947)12月2日の日記より 光太郎65歳

「朝八時頃までねすごす」。「山中暦日なし」とはいいますが、光太郎、その日の日付がわからなくなることはあっても、体内時計の時間はかなり正確で、朝寝坊はめったにしませんでした。農閑期に入り、少し気が抜けていたようです(笑)。

3日程前の『岩手日報』さん。

【花巻】挑戦する人から刺激

 花巻支局に着任した初日、支局駐車場の前でキツネを見掛けた。JR花巻駅近くの市街地にもかかわらず、ひょっこり現れた野生動物。驚きと共に、これまでに出合ったことのない新たな土地だと再認識させられ心が躍った。
 県内で暮らした市町村は花巻市で5カ所目。温泉や食事に何度も訪れているが、勤務するのは初めて。周囲からは保守的な町と聞いていたが、着任間もなくから既存の施設や文化を生かして新たな挑戦をする人に出会い刺激を受けている。
 同市東和町では、空き店舗で多様な店が定期的に出店し起業家も育成するイベントが開催されている。発案者らは、今後も多様なアイデアで市内外から集客する計画だ。
 さらに中山間地で地元住民が運営するスーパーの開業、彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する女性たちによる起業など従来の考えに縛られない新しい動きが活発化している。
 宮沢賢治の作品に「雪渡り」という童話がある。キツネに対する古い考えを払拭(ふっしょく)するために、子ギツネが人間の子どもたちを啓発しようとする物語だ。
 伝統や文化が色濃く残る地が、どのように変わっていくのか-。作品に描かれた情景のような真っ白な気持ちで見つめていきたい。

花巻市で起業された「やつかの森LLC」さんが紹介されています。合わせてこちらもご覧下さい。
「やつかの森LLC」さん。
光太郎の食卓再現。

それにしても、『岩手日報』さんの花巻支局、まさしく花巻駅に近く、大通りに面している場所ですが、令和の現代でも、あんな立地のところにキツネが現れるのか、と思いました。花巻、おそるべしですね(笑)。
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記事にもある宮沢賢治の童話に、キツネがよく登場しますが、花巻で生まれ育った賢治にとってはなじみ深い動物だったということなのでしょう。

光太郎が戦後の7年間を暮らした、郊外旧太田村の山小屋周辺は、光太郎がいた当時からキツネが生息していましたし、今も普通にいるようです。
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こちらは上記「やつかの森LLC」さんのサイトから。光太郎が暮らした山小屋近く、キツネだそうです。

光太郎詩にも、キツネがたびたび登場します。

部落の畑の尽きるあたり、/狐とマムシの巣だといはれる草場の中に/クリの古木にかこまれて/さういふおれの小屋がある。(「山口部落」昭23=1948)

金毛白尾の狐さへ/夕日にきらきら光りながら/小鳥をくはへて畑を通る。(「別天地」同)

また狐が畑を通る。/仲秋の月が明るく小さく南中する。(「月にぬれた手」昭25=1950)

変らないのはウグイス、キツツキ、/トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス。/兎と狐の常連のほか、このごろではマムシの家族。(「山のともだち」昭27=1952)


当方、野生のキツネにお目にかかったことは、おそらくありません。ただ、生活圏内でタヌキはしょっちゅう見かけます。

一度、夜間に狭い道で車を走らせていたら、道の真ん中に亀の子ダワシのような形状、大きさのものが5、6個。「誰が何のために道のど真ん中にタワシを置いてんだ?」と思いつつ近づくと、タワシたちがむっくり起き上がり、道の端へとことこと移動。何と、子ダヌキの群れでした(笑)。

その他、愛犬の散歩中に出くわしたこともたびたび。

すると、2週間程前、自宅兼事務所の庭にも現れました。
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ただ、タヌキにしてはちょっとシュッとした体型で、あとになってから「もしかするとアナグマかも」とも思いました。目の周りが黒いのは共通していまし、また、完全にアナグマと思われるやつにも、一度、自宅兼事務所の近くで遭遇しましたし。どちらなのか、判断が付きませんでした。

いずれにしても、自宅兼事務所の敷地内で見たのは初めてでした。以前は柴犬系雑種の愛犬が庭にいたので、恐れて近づかなかったのかもしれません。愛犬は先月、17歳で逝ってしまいましたので……。

ちなみに自宅兼事務所周辺では、他にもイノシシ、野ウサギ、イタチ、それから一部で「幻の蛇」と言われているシロマダラと思われるヘビなどにでくわしました(笑)。

上記動物の画像、Facebookに上げたところ、智恵子の故郷・二本松在住の方から、うちの近くにもいるよ、的なコメントが寄せられました。すると、1週間程前、公益財団法人福島県観光物産交流協会さんの観光情報サイト「ふくしまの旅」に、智恵子生家にほど近い上川崎地区のタヌキ情報がアップされたりもしました。

光太郎や賢治が愛した、この手の野生動物が普通に歩いている自然環境、残していきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

初雪、昨夜より降り始め午前中はチラホラシ、午后やみ、日も出る。


昭和22年(1947)11月12日の日記より 光太郎65歳

11月中旬に初雪とは、これも花巻恐るべし、ですね(笑)。

昨日の関東は、およそ1週間ぶりに晴れました。既に近畿・東海までは入梅しており、先週の様子では、関東も実は梅雨入りしてるんじゃないの? と思っておりましたが、まだ梅雨の走りだったようでした。今日も晴れています。

久しぶりの好天に誘われて、昨日は自宅兼事務所から車で15分ほどの水郷佐原あやめパークに行って参りました。市立の水生植物園です。かつてはずばり「水生植物園」という名称でしたが、平成29年(2017)、園内の一部リニューアルと同時に改称されました。「佐原」は合併前の市名です。ときおり、テレビの旅番組系などでも「さはら」と平気で読んでいてムカッとしますが、「さわら」です。沙漠ではなく真逆の水郷地帯です(笑)。
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利根川が運んできた土砂が堆積して出来た大きな中州(地元民は「新島(しんしま)」または単に「島」と呼んでいます。もとは「十六島」とも呼ばれていました)にあり、広大な敷地内にハナショウブを中心とした花々が植えられています。ハナショウブの見頃はこれからで、今週末からは「あやめ祭り」と称し、様々なイベントも。そうなると入園者数も増加しますので、その前に行っておこうと思った次第です。600円→800円と、入園料金も上がりますし(笑)。

ちなみにハナショウブとアヤメは、似て非なる植物です。こちらではハナショウブが中心ですが、「ハナショウブパーク」ではわかりにくいので、「あやめパーク」なのでしょう。

早咲きのものは、既にいい感じに咲いていました。
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ハスやスイレン(この二つも、似て非なる植物です)も。
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さらに、こちらはそろそろ見頃が終わりという感じでしたが、薔薇。
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園内を周遊する舟廻りのサッパ舟(有料・500円)。「サッパ」は「笹の葉」の転訛です。舟の形状に由来します。
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001昨日、こちらを訪れたのは、何も花々を見るためだけではありませんでした。

話せば長いことながら、先週、旧市街の古書店さんに行ったところ(最近、店を閉めていることが多いのですが、前を通りかかったら久々に開いていましたので)、右の書籍があって、購入してきました。江戸川大学教授・鳥海宗一郎氏著『文学の旅・千葉県』(龍書房)。平成15年(2003)の刊行ですので、「古本」というほどの「古本」ではありません。

平成3年(1991)から同11年(1999)まで、『朝日新聞』さんの千葉版に連載されたものに加筆訂正、千葉県内の文学史跡がほぼほぼ網羅されています。光太郎智恵子に関しても、九十九里成田三里塚銚子犬吠埼と、三箇所で言及。その部分では、特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、光太郎と交流の深かった面々が、千葉にどんな足跡を残しているかをもっと知りたいと思い、大枚500円(笑)をはたいて購入しました。

すると、自宅兼事務所のある佐原の項で、光太郎と親しかった北原白秋の詩碑が、あやめパーク内に建っているという記述。地元でありながら、これは存じませんでした。元々手元に『北総の文学碑』という、佐原周辺限定で文学碑の数々を紹介した書籍もあったのですが、そちらには記述がありませんでした。

それもそのはず、『北総の文学碑』は昭和61年(1986)の刊行、白秋碑の建立はそのあとの平成2年(1990)でした。

というわけで、白秋詩碑。実は10年程前にもここを訪れていながら、その際には気づきませんでした(笑)。
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昭和4年(1929)刊行の詩集『海豹と雲』に収められた、「水村の春」という詩の一節が刻まれていました。下記の色を変えた部分です。先に書いておきますが「田螺」は「タニシ」です。念のため。

  水村の春 KIMG5050

  一
水車のまはる樋口に
窗障子あくる子のあり。
春はまだしか、芽麦に
はだら雪など光れり。

  二
春雨けぶる小がはに
板橋わたす里かや。
この田かの田の下萠え、
簑笠つけて早や鋤く。

  三
ひとむら萠えしなづなを
朝出て食(は)むや雌(め)の牛、
沼の田べりはわづかに
降りつぐもののにほへり。

  
かはづの啼くはころころ、
田螺の啼くはころろよ、
ころころ、ころろ、ころころ、
萠え来(こ)よ、春の下(した)ん田(だ)。

  五
蛙が啼くよ、沖田にKIMG5046
芽柳もなびくよ。
誰(た)ぞや、こぬかの小雨(こさめ)に
今朝あかあかと火を焚く。

  六
春はまだ浅き水田の
根芹は馬に食まれぬ。
ゆきかへりつつ、鋤きつつ、
ひと日は雨に暮れたり。

  七
ふたもと高い葉楊、
鍋底こする舟の子、
つん抜け土間の藁家は
燕の飛ぶにまかせぬ。

  八
夜明けの靄にめざめて、
渡るは雁か、くぐひか、
早や榜(こ)ぎいでよ、作舟、
沖田あたりは晴れうよ。

  九
耕作舟につむもの、
犂、鍬、黒の雌(め)の牛、
朝靄がくり棹さす002
娘のあかい細帯。

  十
せんだんの実もさみしや。
蓆機織る藁家は、
日がな日ぐらし音して、
日がな日ぐらし雨ふる。

  十一
藁すぐる子の目見(まみ)ゆゑ、
沼のあかりがしむかよ。
ときたま鳴けよ、鳰鳥、
昼間の月も渡るよ。

  十二
前ゆく蝶のつばさに
土のしめりはながれぬ。
まことに春は田の面の
末より野路(のぢ)ににほひぬ。

「青空文庫」さんから取らせていただきました。この詩は、「水郷の早春」という小題でまとめられた四篇のうちの一つでした。碑陰記には「水郷をうたつた白秋の長詩水村の春十六島の一節」とあります。白秋で「水郷」というと、故郷の福岡柳川が思い浮かびますが、「水郷の早春」中の「朝靄の中」には「ここは潮来の出はづれ、沼から沼へとかよふ水路だ。」というフレーズがあり、柳川ではなく、「ちばらぎ」の水郷であることは明白です。「潮来」は茨城県に属し、あやめパークのある佐原の新島地区と隣接、同じように水路が張り巡らされています。同じ水郷風景と云うことで、白秋も親近感を抱いたかも知れません。

また、『海豹と雲』には、「早春 香取神宮」という詩も収められていますが、「香取神宮」も佐原です。ちなみに香取神宮には、光太郎の彫刻のモデルを務めた歌人・今井邦子の歌碑、香取神宮の一の鳥居がある利根川河畔のかつての河岸(かし=船着き場)には、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の歌碑が、それぞれ建てられています。

邦子や晶子の足跡があることは存じていましたが、白秋も佐原に来ていたんだ、と、それは存じませんで、汗顔の至りです。ただ、手元にある書籍や、ネット上の情報では、それがいつなのかはっきりしません。御存じの方、御教示いただければ幸いです。

さて、「水郷佐原あやめパーク」、もうすぐ園内のハナショウブが満開となります。コロナ感染にはお気を付けつつ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】003

草野君の詩集の為「蛙(かへる)」といふ題字を書く。


昭和22年(1947) 10月29日の日記より

翌年に刊行された『定本 蛙』のためのものです。

同じ蛙でも、白秋の手にかかれば「かはづの啼くはころころ」とかわいらしく、心平が謳えば「ぎゃわろ、ぎゃらろ、ぎゃわろろろろり」(笑)。面白いものです。

それにしても、この字もなかなか書けない凄い字だと思います。「蛙(かへる)」を三つ、絶妙のバランスで並べるこの感覚、脱帽です。心平の原稿の書き方にも影響されているかも知れませんが。

一昨日、千葉東葛地区の柏市で「熱血の旅行作家 山本鉱太郎展」を拝見して参りましたが、先週は隣接する野田市に行っておりました。行き先は、茂木本家美術館さん。

続けて同じ地域に行ったのは、まったくのたまたまです。この日は、御朱印集めを趣味としている当方の妻が、「野田の櫻木神社さんに行きたい!」と言いだし(というか、前々から言っていたのですが)、じゃあ行くか、ということになって、では近くに茂木本家美術館さんというのがあるはずだから、そちらも、となった次第です。

同館、醤油メーカーのキッコーマンさんの創業家の一つ、茂木家の十二代目・茂木七左衞門氏のコレクションを根幹に、平成18年(2006)に創設された美術館です。光太郎の父・光雲の木彫も常設展示されているらしいという情報を得、以前から行ってみようと思っておりました。
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右下に変なものが写っていますが、気にしないで下さい(笑)。
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「ファウンダーズ・ルーム」という展示室に、光雲作の木彫が展示されていました。フラッシュをたかなければ撮影可。ありがたし。
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キャプションによれば、大正12年(1923)作の「孔子椅座像」。久しぶりに光雲木彫の現物を見ましたが、いつみても舌を巻くような精緻さです。

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隣り合わせで、光雲の高弟の一人、平櫛田中の木彫も。
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さらに、光雲の孫弟子・宮本理三郎。これも一つの材から彫り出した木彫です。
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他には、梅原龍三郎、小倉遊亀らの絵画等。

続いて、「ギャラリー1」という部屋。こちらは富士山を描いた日本画、洋画。
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やはり梅原や、中島千波氏らにまじって、親しくさせていただいている女優の一色采子さんのお父さま、故・大山忠作画伯の絵も。
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その奥の「ギャラリー3」では、「広重の富士 不二三十六景を中心に」展。
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北斎の「富岳百景」の、まあ、悪く言えばパクリ、よく言えばインスパイアされた広重の浮世絵です。基本、嘉永5年(1852)に出されたものだそうで、この年は光雲の生まれた年です。

途中途中で、光太郎と交流の深かった、舟越保武のブロンズ。
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この後、屋外の庭園へ。
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おそらく、隣接する茂木家の住宅の一角と思われる稲荷神社があり、受付のお姉さんが「江戸時代の彫刻があるのでご覧下さい」とおっしゃっていましたので、行ってみました。

まずは社殿。漆喰の鏝絵ですね。
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脇の手水舎には木彫。
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稲荷神社だけに、狐の嫁入り。洒落が利いています。いずれも作者は不明のようですが、名のある職人の手によるものと想像できました。もしかすると、木彫の方は光雲の系譜(高橋鳳雲、高村東雲など)に関連があるかもしれません。

美術館はこんな感じ。眼福でした。

ついでですので、妻が行きたがっていた櫻木神社さん。
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当方、その存在を存じませんでしたが、御朱印マニアの間では有名だそうで。

ご神木はその名の通り、桜の老木でした。それも珍しいのかな、と思います。
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ご神木の花や、境内各所のソメイヨシノ系は既に散ってしまっていましたが、種類によってはまだ満開の桜も。

それぞれ、コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

夕方血がのどから出る。わたのやうな形のものまじる。蒲団をしいて横臥。


昭和22年(1947)6月17日の日記より 光太郎65歳

明らかに結核の自覚症状があったはずなのですが、診療はかたくなに拒否。ある意味、自殺行為に近いようにも思えます。

題名に記しました「千葉東葛(とうかつ)地区」とは、千葉県の北西部、元は東葛飾郡と言っていた地域で、現在の松戸市、柏市、流山市、野田市などを指します(茨城県の一部も含むようですが)。「葛飾」という地名は東京都葛飾区が有名ですが、本来はかなり広いエリアで、北は埼玉県で「北葛飾郡」が現存していますし、東は千葉県の東葛飾郡だったわけです。

さて、その東葛エリアに、先週、それから昨日と、2回に分けて足を運びました。自宅兼事務所のある千葉県香取市からは車で1時間半くらいのところです。

時系列とは逆に、まず昨日。柏市に行っておりました。

きっかけは、一昨日の『朝日新聞』さん千葉版。「温泉本・グルメ…多彩な足跡 旅行作家の草分け・山本鉱太郎さん、柏で作品展」という記事が出まして、拝読し、「あっ、これは行かねば」と思った次第です。
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山本氏、平成元年(1989)初演の「オペラ智恵子抄」の脚本を書かれた方です。作曲は仙道作三氏、そして監修は当会顧問であらせられた、故・北川太一先生でした。
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その山本氏の足跡を辿る展示がなされているということで、当方、仙道氏、それから智恵子役を演じられた本宮寛子さん、和田タカ子さんとも親しくさせていただいておりますが、山本氏とはお会いしたことがなく、おそらく会場にいらっしゃるのではなかろうかと思い、行ってみた次第です。

会場は柏市の花井山大洞院さんという寺院内の「大洞院ギャラリー」。柏でも古くから栄えていた地区、野田方面に延びる旧道から少し入ったところにあります。
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立派な本堂。
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その前には、イチョウの巨木。神社ではないのでご神木、というわけではありませんが、江戸時代には既にランドマークだったそうです。色づいたらさぞ見事でしょう。
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ギャラリーは本堂と繋がっていました。
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一室のみで、あまり広くはありません。その空間に、山本氏の足跡が、これでもかとてんこ盛り。
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「オペラ智恵子抄」関連の資料も複数、並んでいました。
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KIMG4966山本氏直筆の脚本原稿、何度か各地で公演されたその時々のパンフレットやチラシ、ポスターなどなど。

案の定、山本氏がいらしていたので、お話しをさせていただきました。まずは北川太一先生のこと。山本氏、千駄木の北川先生宅にも行かれたそうで、そうした思い出など。

それからもちろん作曲の仙道氏についても。山本氏、「オペラ智恵子抄」以外にも、仙道氏とタッグを組んでのお仕事をなさっています。

そして、話は宮城県女川町に。女川町でも「オペラ智恵子抄」が上演されたことがあり、その際、山本氏も女川に行かれていたそうで、勧進元だった故・貝(佐々木)廣氏のお話、オペラ上演のきっかけとなった女川町の光太郎文学碑の話などなど。

また、山本氏、最近は女川に行かれたことはないそうで、東日本大震災から10年経って、女川がどう変わったのかなども。スマホでこのブログから、最近の女川の様子をお見せすると、興味深そうにご覧下さいました。
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こちらが山本氏。

「オペラ智恵子抄」以外にも、山本氏の筆は光太郎に及んでいます。ご自身、流山ご在住で、やはり東葛エリアの手賀沼関連。ここには光太郎も名を連ねた『白樺』の面々が移り住み、一種の芸術村が形成されました。
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その関連の展示。

こちらは山本氏ご著書『白樺派の文人たちと手賀沼 その発端から終焉まで』
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特に、バーナード・リーチとのからみで、光太郎について詳述されています。

あつかましくもこの書籍を持参、サインしていただきました(笑)。
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「オペラ智恵子抄」の楽譜にも。

さて、展覧会の詳細をご紹介します。

熱血の旅行作家 山本鉱太郎展

期 日 : 2021年4月10日(土)~4月18日(日)
会 場 : 大洞院ギャラリー 千葉県柏市花野井1757
時 間 : 10:00~16:30
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

旅行作家山本鉱太郎の著作やそれに関連したものの展示をします。4月11日は「人生思い立った日が青春」の朗読と講演を行います。4月18日は山本さんの台本によるラジオ放送劇「宮沢賢治」の一部の朗読、趣味のハーモニカ演奏などを楽しみます。
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会期残り僅かとなってのご紹介で面目次第もありませんが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

十時頃、花巻の子供賢治の会の連中(二十人余)来る。照井氏と同夫人とが引率。


昭和22年(1947)6月15日の日記より 光太郎65歳

「花巻賢治子供の会」は昭和22年(1947)に結成され、第一回公演が光太郎の山小屋前の野外。以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続けました。会の命名も光太郎だそうです。賢治実弟・清六息女の潤子さんなどもメンバーでした。

太田村での公演は、光太郎の慰問がメインの目的だった部分もあったようです。
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000昨日は銚子の犬吠埼周辺に行っておりました。生活圏ではあるのですが、昨年からコロナ禍のため不要不急の外出は控え続けており、久しぶりでした。

昨年、福島二本松で開催された「智恵子講座2020」で講師を務めさせていただいた折、ご聴講下さった、都内からお越しの「かたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)と、今秋、「智恵子抄」をメインとしたコラボ公演を都内で開催することになり、その打ち合わせです。

光太郎智恵子ゆかりの犬吠埼を訪れたいというお二人のご希望もあり、光太郎智恵子が大正元年(1912)に泊まった宿である暁鶏館(現・ぎょうけい館)さんをご紹介しました。お二人は土曜の夜からご宿泊、当方は日曜(昨日)の朝にお伺いした次第です。

ちなみに「かたりと」のお二人、来月には二本松でやはり「智恵子抄」のご公演。近くなりましたらまたご紹介します。

ぎょうけい館さんに行く前に立ち寄った、光太郎智恵子が歩いた君ヶ浜から見た犬吠埼灯台。智恵子没後の昭和15年(1940)に書かれた光太郎の随筆「智恵子の半生」には、「君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。」とあります。
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いざ、ぎょうけい館さんへ。君ヶ浜と反対方向、灯台の南側です。
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こちらのロビーで、お二人と打ち合わせ。どういう方向性だか、具体的に見えてきました。

その後、お二人を御案内して、周辺を散策。
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昔、生け簀だった石組み。ここで泳がせておいた魚を宿泊客に供していたそうです。

当方手持ちの戦前の絵葉書。海側から撮影されたものです。
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暁鶏館全景はこんな感じでした。右の方の棟は後から建て増しされたもののようで、さらに古い絵葉書には写っていません。
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KIMG4672奇岩列石の連なる遊歩道を通り、灯台へ。しかし、残念ながらコロナ禍のため、1月8日から公開は中止しているとのこと。せっかく昨年には国の重要文化財に指定されたのに、残念です。

竣工は明治7年(1874)。暁鶏館の創業と同じ年です。大正元年(1912)に訪れた光太郎智恵子も、この灯台を見上げたかと思うと、感無量ですが……。できれば99段の階段を上って、上からの絶景を見たかったのですが、いたしかたありません。他の観光客の方々も残念そうでした。

左下は、灯台のあたりからみた君ヶ浜。
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逆方向、ぎょうけい館さん。
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ぎょうけい館さんに歩いて戻る途中、建物の取り壊し工事が為されていました。おそらく、大正元年(1912)に、智恵子が妹・セキ、友人の藤井勇(ユウ)とともに最初に泊まった御風館(ぎょふうかん)のあった場所です。御風館自体はかなり早く廃業し、大正期の建物も現存せず、取り壊されていたのは昭和戦後期の建物と思われます。
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やはり古絵葉書。キャプションにはありませんが、手前の屋根が御風館です。
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その後、当方の車にお二人を乗せ、犬吠の南、長崎方面へ。光太郎詩「犬吠の太郎」に謳われた、「長崎の太郎」こと、阿部清助の墓に詣でました。

   犬吠の太郎KIMG4680
 
 太郎、太郎
 犬吠(いぬぼう)の太郎、馬鹿の太郎

 けふも海が鳴つてゐる
 娘曲馬のびらを担(かつ)いで
 ブリキの鑵を棒ちぎれで
 ステテレカンカンとお前がたたけば
 様子のいいお前がたたけば
 海の波がごうと鳴つて歯をむき出すよ
 
 ね
 今日も鳴つてゐる、海が――
 あの曲馬のお染さんは
 あの海の波へ乗つて
 あの海のさきのさきの方へ
 とつくの昔いつちまつた
 「こんな苦塩じみた銚子は大きらひ
 太郎さんもおさらば」つて
 お前と海とはその時からの
 あの暴風(しけ)の晩、曲馬の山師(やし)の夜逃げした、あの時からの仲たがひさね
 ね、そら
 けふも鳴つてゐる、歯をむき出してKIMG4681
 お前をおどかすつもりで
 浅はかな海がね

 太郎、太郎
 犬吠の太郎、馬鹿の太郎
 さうだ、さうだ
 もつとたたけ、ブリキの鑵を
 ステテレカンカンと
 そして其のいい様子を
 海の向うのお染さんに見せてやれ 001

 いくら鳴つても海は海
 お前の足もとへも届くんぢやない
 いくら大きくつても海は海
 お前は何てつても口がきける
 いくら青くつても、いくら強くつても
 海はやつぱり海だもの
 お前の方が勝つだらうよ
 勝つだらうよ002

 太郎、太郎
 犬吠の太郎、馬鹿の太郎 

 海に負けずに、ブリキの鑵を
 しつかりたたいた
 ステテレカンカンと
 それやれステテレカンカンと―― 

版画は隣町・旭市ご出身の版画家、土屋金司氏の作になるものです。詩を刻んだ方は、ぎょうけい館さんのロビーにも展示されています。

太郎は暁鶏館で働いていた、当時で言うと下男。本名は阿部清助。父は会津藩士だったそうですが、知的障害があったようで、現代では差別的表現になりますが「馬鹿の太郎」と呼ばれていました。しかし、皆から愛されるキャラだったようです。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演)では、故・石立鉄男さんが演じていました。

光太郎、太郎の(ややこしいですね(笑))鮮烈な印象が後々まで残っていたようで、昭和3年(1928)に書かれた詩「何をまだ指してゐるのだ」にも太郎が登場します。

続いて、犬吠埼の背後、愛宕山へ。銚子で最も標高が高く、「地球の丸く見える丘展望館」が整備されています。灯台に上れなかったので、その代わりに、です。

早咲きの、おそらく河津桜ではないでしょうか、もう咲いていました。
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展望台からの眺め。
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めずらしくよく晴れていて、風もあまりなく、こんな好条件は滅多にありません。

館内に展示されていた、吉田初三郎作の鳥瞰図のコピー。
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銚子の歴史、文化等に関する説明板。
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文学関係。
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光太郎の碑は無いのですが(ぜひ建てて欲しいものですけれど)、光太郎智恵子に関する説明は書かれています。
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さらに、すぐ近くの「風のアトリエ」さんというレストランで昼食。数年ぶりに行きましたが、相変わらず料理が美味でした。

ついでにいうなら、こちらは昔からなぜかヤギさんを飼っており……。
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小池氏、ずいぶんなつかれていました(笑)。

この後、車で都内に帰られるお二人を、ぎょうけい館さんまで送り届けました。
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不要不急の外出を避けている毎日で、ひさびさにのどかな陽光の下、歩き回って、実にいい気分でした。以前は、愛犬と共に朝夕けっこう歩いていたのですが、愛犬が17歳となり、もうあまり歩けなくなってしまったので、散歩は徒歩30秒の公園まで自分が抱っこしていき、数分間歩かせる程度になってしまったため、なおさらです。
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少しでも早く、コロナ禍の終息、収束を願います。

【折々のことば・光太郎】

夜食に久しぶりで牛鍋をやる。酒ののこりをのみ、牛肉五十匁ほど、葱、キヤベツ入にて美味限りなし。米久をおもひ出す。

昭和21年(1946)10月28日の日記より 光太郎64歳

米久」は浅草に現存する牛鍋屋です。大正10年(1921)には、「米久の晩餐」という長大な詩も書きましたし、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京した昭和27年(1952)には、早速、久しぶりにここを訪れています。

光太郎智恵子ゆかりの地を紹介するテレビ放映情報です。ただ、番組内で二人の名が出るかどうか……ですが。

まず、明日放映の番組から。「ほんとの空」のある福島安達太良山です。

にっぽん百名山 安達太良山~湯煙あがる錦の峰~

NHKBSプレミアム 2021年1月4日(月)  19時30分~20時00分

福島の安達太良山(1700m)、みちのくの火山に紅葉のクライマックスを満喫する山旅!中腹に湧き出す温泉は、平安時代から続く源泉かけ流しの秘湯。人気の山を徹底紹介。

東北でも屈指の紅葉の山を行く1泊2日の山旅!名瀑が連続する遊歩道を歩き、草紅葉の溶岩台地・勢至平を巡り、錦に輝く紅葉のトンネルを抜け、温泉のある“くろがね小屋”に宿泊。翌朝、荒々しい鉄山を染める紅葉を眺めながら登り稜線へ、直径1km以上もある巨大な火口・沼ノ平を望む。牛の背と呼ばれる火口の淵をたどり、“乳首山”とも呼ばれる山頂をめざす。案内は、麓の岳温泉で和菓子店を営む異色のガイド・渡辺茂雄さん。

出演 渡辺茂雄  語り 鈴木麻里子
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この番組では、過去3回、安達太良山が取り上げられました。それぞれ初回放映が平成27年(2015)2月(有料のCS放送チャンネル銀河さんで1/5の午前4:30~の放映があります)、平成28年(2016)7月、そして平成30年(2018)4月でした。今回で4作目となるわけですが、これまでの3作中2作で光太郎智恵子に触れて下さっていますので、現在2勝1敗(笑)。3勝目なるか、というところです(笑)。

もう1本。こちらは千葉県。大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼です。同年に発表された光太郎詩「犬吠の太郎」の舞台でもあります。

新美の巨人たち 『犬吠埼灯台』×シシド・カフカ 太平洋を照らす美しき白亜の塔

地上波テレビ東京 2021年1月9日(土) 22:30~23:00
BSテレ東      2021年1月16日(土)  23:00~23:30

初めて灯った日から146年。千葉県銚子市の岬の先端で太平洋を照らし続ける、美しき白亜の塔『犬吠埼灯台』は高さ31.3mの洋式灯台。その光はまさに文明開化の象徴。英国人技師、リチャード・ブラントンが、その能力を駆使して、日本に近代化の光を灯しました。その一方で、使用されたレンガには日本人の誇りが…。さらに灯台のレンズの驚異のメカニズムも明らかに!“灯台の美”を巡る旅をシシド・カフカさんがお届けします。

<Art Traveler>シシド・カフカ  <ナレーター>渡辺いっけい
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昨年、犬吠埼灯台が重要文化財指定を受けたことが、取り上げられる機運の一つとなったのでしょう。この灯台を光太郎智恵子も見上げたわけです。

001ただ、くどいようですが、どちらの番組も番組説明欄に光太郎智恵子の名がないので、二人と同地を巡るエピソードの紹介があるかどうか……です。しかし、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリ縁にて揮毫。昨日の代りに今日試筆、「天下和順」「日月清明」を二枚づつ半紙に書く。


昭和21年1月3日の日記より 光太郎64歳

「試筆」は書き初めの意。古来、書き初めは1月2日に行う習慣ですので「昨日の代りに」とあるわけです。前日は来訪者があり、出来なかったとしています。

「半紙」はいわゆる半紙ではなく、「半切」(約 348 × 1350 mm)でしょう。右がこの日記にある書。書けそうで書けない字ですね。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに、自宅兼事務所から車で1時間程の、九十九里浜片貝海岸に行きました。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養し、ほぼ毎週、光太郎が見舞いに来ていた場所です。

昨年まで、愛犬をお供に連れて行っていましたが、17歳になった愛犬、もう歩くのがだいぶしんどそうで、最近は自宅兼事務所の敷地内だけ歩かせている状況ですので、今年はお留守番。下は先月撮った画像ですが、日中も殆どワンモナイトになっています。
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日の出時刻は午前6時45分過ぎ。
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この時期、西高東低の冬型の気圧配置なので、東の洋上には雲が必ずかかっています。そこで、水平線から昇る朝日とは行きません。一昨年、昨年は、雲が日本本土に近いところまで来ていて、あまり綺麗な日の出は拝めませんでした。ところが、昨日は洋上の雲もだいぶ遠く、絶好の初日の出日和。こんな好条件は平成30年(2018)以来でした。
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人々の歓声と共に、初日の出。コロナ禍終息を願わずにいられませんでした。集まった皆さんも同じだったと思います。
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光太郎詩「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)を刻んだ詩碑。昭和36年(1961)の建立です。除幕の際には、昨年亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生も駆けつけられました。もう60年前なのですね。

こんな希望の朝日が差すような1年であって欲しい、と切に願います。

【折々のことば・光太郎】

ヰロリに木屑を焚き、コンロと併用炊事。例の通りなり。ヰロリの火ふしぎにたのし。

昭和21年(1946)1月2日の日記より 光太郎64歳

雪ですっぽり覆われた花巻郊外旧太田村の山小屋、唯一の暖房がこの囲炉裏でした。

火を見ていると何だか楽しくなる、「あるある」ですね。当方も昨日、日の出を待つ間、流木を集めて焚き火をしておりました。
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昨日、旧神奈川県立近代美術館の重要文化財指定についてご紹介しましたが、同時に千葉銚子の犬吠埼も指定される見通しとなりました。

『朝日新聞』さんの千葉版から

犬吠埼灯台が国の重要文化財に指定へ

014 千葉県銚子市の犬吠埼灯台と近くの旧霧笛(むてき)舎・旧倉庫を重要文化財(建造物)にするよう、国の文化審議会が文部科学相に答申した。その報もあってか、17日は冷たい雨にもかかわらず、観光客が次々と灯台を訪れていた。今回の指定で、県内の重要文化財の建造物は29件となる見込み。
 県教委などによると、灯台は太平洋に突き出た犬吠埼に位置し、全体的に白く塗られたほぼ円筒形で高さは約31メートル。船舶が北太平洋を安全に航行できるようと建造された。今も現役で、36キロ先まで光が届く。
 19世紀に日本で多くの灯台の建設に携わった英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが設計し、1874年に初めて点灯した。点灯は日本で24番目。
 地震の多い日本で耐震性を高めるため、二重にれんがを積んだ技術が優れていることや、近代の航行の歴史を知る上で価値が高いとして評価された。
 旧霧笛舎は、海上に霧が広がり、視界が悪い時に屋根から伸びたラッパ状の筒から音を鳴らす。船が座礁しないように陸地の位置を知らせていた。
 灯台は海上保安庁が所有し、2010年に登録有形文化財になった。
     ◇
015 犬吠埼灯台は全国でも比較的交通の便がよく訪れやすい灯台として、長く銚子観光の中心にあった。だが近年、銚子観光はじり貧の一途だった。国の重要文化財という「格」を得ることで、観光復興のシンボルとしての期待が高まる。
 全国の灯台ファンも喜ぶ。「灯台マニア」を自認する東京都小平市の会社員平塚よう子さん(37)もその一人で、犬吠埼灯台を「3高」と評する。「岬にシュッと立ち、歴史があり、多くの人が訪れてお金を落とす人気者」と、かつての「もてる男子」の3条件になぞらえる。重文指定で「もっと大事にされてほしい」と話す。
 銚子海上保安部OBで計10年、同灯台の保守を担った銚子市の浦島弘巳さん(67)も感慨がひとしおだ。「5月にはこいのぼりを灯台の上から万国旗のようにはためかせてね。地震に強く、大地震でも水銀灯の水銀が少しこぼれるだけだった」と懐かしむ。続けてきた観光ガイドや灯台内部の清掃などの活動にも、いっそう力が入りそうだ。
 犬吠埼灯台や旧霧笛舎は、これまでは国の登録有形文化財だった。国の重文に指定されると、できる限り公開に努めることを課せられる。一方で、今も投光する現役の灯台でもある。
 市民グループ「犬吠埼ブラントン会」の仲田博史・代表幹事(72)は「耐震のために覆ってしまったコンクリートを一部でも壊し、建築当時のれんがの二重壁を見せるとか、霧笛を再開するかとか、議論が必要だろう。灯台本来の役割と文化財としての役割の両立が、これからの課題になる」と話す。

犬吠埼といえば、大正元年(1912)、光太郎が油絵制作のための写生に訪れ、それを知った智恵子がすぐ下の妹で智恵子と同じく日本女子大学校を出た・セキ、同じく藤井ユウと共に追って現れた場所です。

当方手持ちの戦前の絵葉書。
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宛名面には解説文。
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光太郎が泊まり、智恵子がのちに合流した旅館・暁鶏館から望む灯台。暁鶏館は建物や経営者は変わりましたが健在です。
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暁鶏館と灯台の中間あたりに、最初に智恵子が泊まった御風館。こちらは現存しません。
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旅館二軒は灯台の南側ですが、北側には二人で歩いた君ヶ浜。
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眺め自体は、現在もあまり変わっていません。

やはり戦前の観光案内パンフレット的なものも持っています。そちらには鳥瞰図が掲載されていました。
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灯台のすぐ下に「胎内クグリ」の文字があります。海蝕洞穴のようなものと思われますが、現在は見られないようです。

「犬吠」と書かれている左側の建物が暁鶏館。浜には生け簀が描かれています。現在は使用されていませんが、石組みは現存します。

その上(方角的には南になります)には「長崎」の文字。ここは光太郎詩「犬吠の太郎」(大正元年=1912)のモデルとなった、暁鶏館の下働き、阿部清助が住んでいた場所で、その墓も残っています。

犬吠と長崎の中間あたりに「外川」。市街銚子駅から伸びる銚子電鉄さんの終点で、現在、NHK BSプレミアムさんで再放送中の連続テレビ小説「澪つくし」の舞台の一つとなっています。イラストマップなので、若干、位置関係がおかしいのですが。

下の方(方角としては北)に目を転じると、君ヶ浜の南に「海鹿島(あしかじま)」。「プール」とありますが、海水を引き込んで造られたもので、当方の幼い頃にはまだ使われていました。

さて、これを機に、犬吠埼灯台、上記記事に有るとおり、観光再生の核となってほしいものです。さらには「光太郎智恵子純愛の故地」的な紹介のされ方も、もっとあっていいように思われます。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

パリが世界の魅力といふのは、パリといふものはフランスではない。フランスでもないしドイツでもない。どこでもない。パリといふものなのです。本当のフランスといふものは、フランス魂は田舎にある。

座談会筆録「現代詩の再出発」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

地方の風景を見て、「これが日本の原風景だ」と感じる感覚と同じでしょうか。

当方の住む千葉県北東部はそれなりの田舎でして、「日本の原風景」と感じるような場所も多くありますが、先週行って参りました光太郎第二の故郷ともいうべき花卷などもそうですね。

花卷といえば、NHK BSプレミアムさんで放映されている「にっぽん縦断 こころ旅」。火野正平さんが、視聴者の方々からの手紙を元に自転車で日本各地を訪れる番組ですが、今日の放映が花卷。午前7時45からの「朝版」は、冒頭部分、光太郎と交流のあった僧侶・多田等観が暮らし、光太郎も訪れた円万寺観音堂でのロケでした。ここからのビューは、花卷の観光案内などでよく使われます。
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これもある意味、「日本の原風景」ですね。
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この番組、「朝版」と、午後7時00分からの「とうちゃこ」に分かれていますが、「とうちゃこ」ではこの後に火野さんが宮沢賢治童話村に訪れるはずです。10月24日(土)にも再放送があります。ぜひご覧下さい。

ちなみに平成30年(2018)の放映では、光太郎が暮らした旧太田村の法音山昌歓寺さんが大きく取り上げられました。光太郎もたびたび訪れた古刹です。

千葉は成田から展覧会情報です

第44回千葉県移動美術館~近代日本を代表する作家から成田市ゆかりの作家まで~

期 日 : 2020年9月29日(火)~10月11日(日)
会 場 : 成田市文化芸術センタースカイタウンギャラリーA, B, C, D, E
      千葉県成田市花崎町828−11
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

  千葉県立美術館は、昭和49年に開館して以来、千葉県ゆかりの作家や作品をはじめ、国内外の優れた作品の収集・活用(展示)・保存に努めてまいりました。現在、日本画・洋画・彫刻・工芸・版画・書の各分野の作品約2800点を所蔵しています。
  千葉県移動美術館は、千葉県立美術館の所蔵作品をより多くの県民の皆様にご鑑賞いただくために、県内市町村の文化施設を会場として開催する展覧会です。
  成田市文化芸術センターでは、平成28年に続き、2回目の開催となります。今回は、「日本近代を代表する作家から成田市ゆかりの作家まで」と題して、洋画では浅井忠、クールベ、ドービニー、梅原龍三郎などに加え、明治・大正期の水彩画家の名作、地元作家である篠崎輝夫の特集展示などをご覧いただけます。日本画では東山魁夷、石井林響、横尾芳月、地元作家の小幡春生などの作品を、彫刻では高村光太郎、新海竹太郎、地元作家の島田勝吾などの作品を、工芸では、香取秀真、津田信夫などの金工作品や、宮之原謙、河村蜻山、地元作家の土肥刀泉などの陶芸作品を、書では浅見喜舟、石井雙石の篆刻作品など50点余りにおよぶ名作をお楽しみください。
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関連事業など
千葉県立美術館担当学芸員によるギャラリートーク
①10月4日(日) 午後2時~ ②10月10日(土) 午後2時~ 
事前申込不要。当日、直接ギャラリーCDにお集まりください。各回先着15名までとさせていただきます。
※当日の午後1時からギャラリーCD入口にて受付開始します。事前の受付はいたしませんのでご注意ください。 

成田市特集展示 篠崎輝夫コーナー
成田市ゆかりの画家、篠崎輝夫の作品11点をギャラリーEに展示します。
千葉県移動美術館 特設コーナー
展覧会期間中に、展示作品に関する書籍を紹介します。
会場:成田市立図書館(成田市赤坂1-1-3)TEL:0476-27-4646

千葉県立美術館さん所蔵の優品を、県内各地で出張展示する「移動美術館」。第44回ということで、かなり歴史を刻んでいますね。

同館では光太郎ブロンズ彫刻、代表作の「手」(大正7年=1918)をはじめ、8点の光太郎ブロンズ彫刻を所蔵しており、同館所蔵品の目玉の一つ的な位置づけです。そこでこのところ、移動美術館の際には光太郎彫刻がラインナップに入ることが多く、ありがたいかぎりです。ここ数年では第39回(勝浦市)第40回(成田市)第42回(茂原市)で光太郎彫刻が出ています。

今回は、「裸婦坐像」(大正6年=1917)。光太郎円熟期の逸品の一つです。ただし、鋳造は新しいもののようですが。
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光太郎と交流の深かった詩人・真壁仁の回想から。

「裸婦」はよく夫人をモデルにした作と思われているが、実際は百合子という横浜のチャブ屋の女である。チャブ屋の生活を嫌ってその女が逃げ出してきたとき、先生は一時かくまってあげた。そのとき、モデルになるかと言ったら、なるというので、先生は彫刻にこさえ、夫人は油絵に描いた。そんな商売の女と思えないほどいいからだだったそうである。この彫刻は七つほどブロンズにしたということだから方々にのこっっている筈である。(昭和27年『高村光太郎選集』月報4 中央公論社)

「七つほどブロンズにした」ということから、光太郎自身、お気に入りの彫刻だったのではないかと思われます。それを裏付けるように、大正9年(1920)に刊行された『明星』歌人の渡辺湖畔の歌集『若き日の祈祷』に、口絵として、この像の素描を寄せています。
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妙な言い方になりますが、裸婦でありながらまったく嫌らしさを感じない、ある意味、仏像のようにも見えます。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

嘘をついても、結局わかるし、またひとつ嘘をいうと、次々と嘘が積まれていきます。世の中は嘘によって暗くなり、正直によって明るくなります。

談話筆記「高村光太郎先生説話 十一」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外太田村の山小屋に蟄居中、近くの山口小学校の卒業式・修業式に呼ばれて語った来賓挨拶の一節で、したがって、子供たちに贈った言葉です。

「嘘をついても、結局わかるし、またひとつ嘘をいうと、次々と嘘が積まれていきます。」その通りですね、前○○さん、それから「忖度」まみれの取り巻きの皆さん(笑)。

昨日は千葉市にある千葉県立美術館さんに行っておりました。先週から始まったコレクション展「高村光太郎の生きた時代」拝観のためです。

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光太郎彫刻及び同時代で光太郎と交流のあった美術家たちの作品、30余点が展示されていました。

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光太郎作品はすべてブロンズで、同館所蔵の8点、すべて出ていました。当方手持ちのデータアーカイブから画像を載せます。すべて光太郎令甥にして写真家だった、故・髙村規氏撮影になるものです。

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東京美術学校在学中の作で、「猪」(明治38年=1905頃)、「薄命児男子頭部」(明治38年=1905)。「薄命児」はもともと浅草で玉乗りの曲芸をやっていた幼い兄妹の群像でしたが、現存が確認できているのは兄の頭部のみです。

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「手」(大正7年=1918)。先月、立川のたましん美術館さんでも拝見して参りました。先だって、この作品に関する未知だった文章を発見したばかりでしたので、興味深いものがありました。

「裸婦坐像」(大正6年=1917)。「手」にしてもそうですが、まだ智恵子も健康で、実生活は貧しいながらも平穏だった時期。その心の安定が作品にも反映されているように感じます。

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「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)。光雲が依頼を受けた大倉財閥の創業者夫妻の肖像彫刻のために、光太郎が作った原型です。テラコッタの状態にしてあったものが、戦後になって光太郎の手元に帰り、さらに没後、鋳造されました。当会顧問であらせられた故・北川太一先生宅の居間にこれがなにげに飾られていたと、改めて感慨にふけりました。

「野兎の首」。戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居時代の、現存が確認できている唯一の作。光太郎没後、山小屋の囲炉裏の灰の中からやはりテラコッタの状態で見つかったという、ドラマチックな背景があります。

故・髙村規氏の回想から。

 村のお百姓さんが「囲炉裏の灰の中から、こんな土の塊が出てきたんですけど、これ一体なんでしょうかね」って持ってきたんです。見たら、手のひらにのる一握りの土の塊なんですね。目とか耳らしきものがあるんで兎みたいに見えたんですよ。これはもう小屋の周りの普通の地面の土です。水に溶かしてドロドロにした土を粘土みたいにして作って囲炉裏の火で焼いたんですね。おそらく気持ちとしてはテラコッタみたいになればいいなと思って焼いたんだと。だけど囲炉裏の火じゃあ温度が上がりませんから完璧には焼き締めができてないで、そのまま灰の中に埋めてあったんですね。
(中略)
 見たら、砂の塊みたいでポロポロポロポロ崩れてくるんですね。ちょうど親父のお弟子さんの西大由さんが一緒に僕についてきたもんですから、その人と相談して旅館まで、ハンカチにくるんで怖々やっとの思いで運んで、親父に電話したんです。そうしたら「それは貴重な彫刻家もしれないから、何とかして、うまく石膏だけ残してくれ」。そのお弟子さんとしゃべったら「石膏に取るのはいいけど、石膏が失敗したら両方ともだめになっちゃうよ。そこんとこを、お父さんによく言っといてくれ」って言うから、「そう言ってるよ」って言ったら、「まあ、失敗するかどうかはともかく、石膏を用意してもらって、その土を石膏におこしてくれ」。
(中略)
 「よし」ってんで石膏取りが始まりました。西さんは石膏をどうやって手に入れたんだろう、丁寧に旅館の人に頼んでどっかで石膏を買ってきて貰ったのかな。旅館の部屋の廊下のところで、石膏を溶いて、その土の塊にかぶせたんですよ。
(中略)
 それを親父がブロンズにおこしましてね。《野兎の首》っていうタイトルでよく展覧会に出品するんです。それが戦後七年間の岩手の山小屋時代の唯一の彫刻なんですね。親父はその時はもうほんとに涙を流して喜んでましたね。兄貴はやっぱり彫刻家なんだと。
(「碌山忌記念講演会 伯父 高村光太郎の思い出」 『碌山美術館報第34号』 平成26年=2014)


これが昭和33年(1958)のことです。「親父」は光太郎実弟の豊周。「西大由」は豊周に師事した鋳金家。ともに人間国宝です。「旅館」は光太郎もたびたび泊まった大沢温泉さんでした。のちに鋳造しながら涙を流していたという豊周、感動的です。

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そして生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための試作が2点。「手の試作」と、「中型試作」です。

8点並ぶと、光太郎の世界観がかなりの程度、濃密に現出されるなという感じでした。

その他、先述の通り、同時代で光太郎と交流のあった美術家たちの作品群。豊周、柳敬助、石井柏亭、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、毛利教武、高田博厚、中西利雄、舟越保武。そして、千葉出身ということで、宮崎丈二の絵も出ていました。宮崎の作品は滅多に観る機会がないので、「ほう」という感じでした。

作品を通し、これらの人々の魂がこの場に一堂に会し、旧交を温めているような、そんな不思議な感覚でした。ここに荻原守衛やバーナード・リーチらが入ればなおよかったかな、などとも思いました。

同展、会期は9月21日(月)までと、かなり長めです。新型コロナにはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

希望といふのも変ですが、もつと自分の詩をつきつめて行つて其処から戯曲への道をひらきたいと思つてゐます。

アンケート「本年(昭和三年)の計画・希望など」より
昭和3年(1928) 光太郎54歳


少し前にもエッチングの件で書きましたが、光太郎、「有言不実行」というか、「やるやる詐欺」というか、そいう部分もけっこうありまして(笑)……。この時期に戯曲を執筆したという事実は確認できていません。確認できていないだけで、実は存在するのかも知れませんが。

千葉から所蔵品展の情報です。 
期 日 : 2020年7月18日(土)~9月21日(月)
会 場 : 千葉県立美術館 千葉市中央区 中央港1丁目10番1号
時 間 : 9:00~16:30
休 館 : 月曜日
      ただし、月曜日が祝日・振り替え休日に当たるときは開館し、翌日休館
料 金 : 一般300円/高大150円  *20名以上は団体料金(それぞれ2割引き)
      65歳以上 中学生以下 障害者手帳をお持ちの方及び介護者1名無料 
高村光太郎は、日本近代を代表する彫刻家の一人であると同時に、『智恵子抄』をはじめとする詩作や美術評論など、多岐にわたる芸術活動を展開しました。
活動の幅広さに比例するように、生涯を通じて多くの芸術家と交流しました。その中には実弟で彫金家の高村豊周、家族ぐるみの交流があった柳敬助、フュウザン会で活動をともにした岸田劉生などがいます。
本展は、当館コレクションの中から、高村光太郎本人の作品とともに、高村と交流のあった芸術家たちの作品を紹介することによって、高村が生きた時代を浮かび上がらせようとするものです。

主な展示作品
 高村光太郎《手》1918年 岸田劉生《霽れたる冬之日》1917年

同時開催
 コレクション展 都鳥英喜とその周辺/名品

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展示目録がネット上に出ていませんが、同館では「手」(大正7年=1918)をはじめ、8点の光太郎ブロンズ彫刻を所蔵しています(以前は6点だったように記憶しているのですが)。8点すべて出すのか、セレクトされるのか、不明です。ただし、いずれも新しい鋳造のもののはずです。

それから、説明文には光太郎実弟にして鋳金の人間国宝・豊周の名。やはり同館では「北詰コレクション」ということで、千葉県印西市にあって平成26年(2014)に閉館した、「メタル・アート・ミュージアム 光の谷」の所蔵品がこちらに移っており、その中に豊周の作品が含まれています。何度かそちらの展示も行われています。今回もおそらく豊周の作品も出るのでしょう。

今週末はいろいろ忙しいので、来週には足を運び、レポートしようと考えております。


【折々のことば・光太郎】

一番よく自分の内の声を聴くものが、一番正しい生活に入るのである。人間世界の道徳律はかうして自然に出来たものだと思ふ。

散文「若さ」より 昭和3年(1928)頃 光太郎46歳頃

昭和3年1月14日、東京開成館発行『新制女子国語読本 第二修正版 巻五』(高等女学校用の教科書)に掲載された文章です。初版は大正11年(1922)ですが、毎年のように改訂が入り、いつの時点でこの文章が採録されたか不明です。

大正13年(1924)発行の雑誌『婦人之友』に載った「若い人へ」と内容的にはほぼ同一ですが、細かな部分での相違がかなりあります。現時点ではどちらが先行するか、これも不明です。

「一番よく自分の内の声を聴くものが、一番正しい生活に入るのである。」ある意味、性善説ですかね。

緊急事態宣言の解除を受け、休業していた商業施設等も再開が相次いでいますが、百貨店そごう千葉店さんも今月から営業再開となりました。

現在、本館七階の美術画廊さんで、光太郎の父・光雲の木彫が展示即売されています。 

近代秀作木彫展

期 日 : 2020年6月2日(火)~6月8日(月)005
会 場 : そごう千葉店 本館七階美術画廊
       千葉県千葉市中央区新町1000番地
時 間 : 10:00~19:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

高村光雲や平櫛田中など近代に活躍した彫刻家から大仏師松本明慶まで、秀作木彫作品30余点を一堂に展観いたします。
心と技が一体となって制作された仏さまやぬくもりあふれる木彫作品の数々をご覧ください。

画像:松本明慶「子安観音菩薩」


生活圏ではありませんが、同じ県内ですので、早速拝見に伺いました。

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「30点余」とのことでしたが、ほとんどは現代の京仏師・松本明慶氏の作。光雲作は3点、それから関連する作家として、光雲の師・髙村東雲の孫・髙村晴雲と、光雲の弟子・平櫛田中の作が1点ずつ出ていました。

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光雲の作品、まずは「孔子像」と題された像高20㌢ほどのもの。通常、「大聖像」とされることが多いのですが、「大聖」=「徳を積んだ人物」、具体的には孔子ですので、誤りではありません。光雲が得意とした題材の一つで、複数作品の現存が確認できていますし、時折、アートオークションに出品されています。今回は即売を兼ねての展示で、900万円の値が付けられていました。

「孔子像」より若干大きめの「大国主命」。因幡の白ウサギの神話を図題にし、大国主命の足元にかわいらしい兎。この図題は初めて拝見しました。こちらは何と1,800万円。

もう一点は、短冊形の細長い板に彫られた富士山と雲。「瑞雲」と題されていました。丸板や扇形の板に彫られたものは拝見したことがあります。下記は京都の清水三年坂美術館さん蔵のもの。これを長方形の短冊様にしたと思って下さい。小品ということで、しかしそれでも150万円でした。

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髙村晴雲の作は、「釈迦如来像」。こちらは坐像002で像高15㌢ほどだったでしょうか。350万円。晴雲はのちに祖父の名跡を継いで三代東雲と名乗りますが、その前の作。おそらく戦前のものでしょう。

平櫛田中の作は、彩色彫刻で、田中が得意としたユーモラスな大黒天像でした。右は同趣意の作。小平市平櫛田中彫刻美術館さん蔵のものです。


久しぶりに木彫のいいものを拝見でき、眼福でした。

これも新型コロナの影響なのか、元々そういう予定だったのか、会期が来週月曜までと、短いのですが、ぜひ足をお運び下さい。さらに懐に余裕のある方は、お買い求め下さい。当方は逆立ちしても無理です(笑)。


【折々のことば・光太郎】

油絵には他の材料ではとても出来ない強い、深い、意味のある特別な味がある。今やつて居る人達は大抵他の材料でも出来るやうな仕事をやつてゐる。

座談会筆記「奉祝展洋画と彫刻」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

なるほど、油絵なら油絵でなければ出来ないことをやるべきですね。彫刻も然り。木でなければ出来ないこと、粘土でなければ出来ないこと、そういったことが考えられて当然でしょう。どうもそのあたりがどうなのかな、という、「現代アート」なるガラクタが幅を利かせているような気もします。

昨日の続きです。

当方自宅兼事務所から徒歩30分ほどの、香取市佐原地区伝統的建物群保存地区とその周辺。喜多方や川越ほどではありませんが、やはり蔵が目立ちます。

圧巻はこちら。土蔵としてはおそらく日本一の建坪だという、「与倉屋大土蔵」。明治22年(1889)建造です。

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元は酒や醤油の醸造を行っていた際に使われた蔵でしたが、現在はその広さを生かし、コンサートなども開催されています。

平成27年(2015)公開の、東京美術学校西洋画科で光太郎の同級生だった藤田嗣治を主人公とし、光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)が劇中で使われた映画「FOUJITA」のロケがここで行われ、当方、そうとは知らずに映画館のスクリーンにこの蔵が映って驚いた次第です。

他にも味のある蔵がたくさん。

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左上は、夏と秋に行われる「佐原の大祭」(ユネスコ世界無形文化遺産)の山車を収める蔵です。

その他、蔵ではない住宅も何とも言えない趣に溢れています。郷土の偉人・伊能忠敬の旧宅。

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昔の市長さんの家。だいぶ以前には醸造業を営んでいたそうで、店舗の名残が残っていますが。

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このタイルが昔はモダンだったのでしょう。

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こんな家も。実に立派な屋根です。

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伝統的建造物群保存地区内では、新築や改築の際も、昔風の造りにしなければいけないという条例が施行されており、一見、古い家かと思うと新築だったりします。下の画像では新旧入り乱れています。

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そうそう、忘れてはいけないのは、洋館。純日本式家屋とはまた違った魅力があります。

こちらは旧千葉合同銀行佐原支店。昭和4年(1929)の竣工だそうで。一時、昨日ご紹介した蕎麦屋の小堀屋さんの別館として使われていましたが、現在は空き店舗です。

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左下が旧三菱銀行佐原支店。現在、耐震工事中で残念ながらこんな状態です。赤レンガ造り、屋根にドーム。たまりません(笑)。光太郎が詩集『道程』を上梓し、智恵子と結婚披露を行った大正3年(1914)の建築です。

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右上は、やはり赤レンガの建築ですが、何と、浄国寺さんというお寺のお堂です。これはかなり珍しいのではないでしょうか。明治23年(1890)に建てられたそうです。

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それから、個人のお宅。

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こちらも。こうなると擬洋館の扱いでしょうか。

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新築のビルも、やはり条例のために洋館風に。千葉商船さんの本社ビルです。

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そして、こんな建物。

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一見、洋館にしか見えませんが、後ろは純日本風の建築です。

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「看板建築」といい、店の正面だけ看板代わりに モルタルなどで豪華に作ってあるタイプです。上記はもとは家具屋さんでしたが、現在は隣接する「素顔屋(すっぴんや)」さん(こちらも昨日ご紹介しました)が使っています。ちなみにやはり映画「FOUJITA」に登場しています。


他にも完全な看板建築があと2棟。

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「方林堂」と書かれている方は、現役の薬局です。

ここまで、主に建築を紹介して参りましたが、それ以外にも街を歩けばレトロなアイテムがたくさん。

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赤丸ポストは現役です。あえてあちこちに設置しています。

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右上はたばこの看板。

看板といえば、こんなものも。

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昭和後半から平成初め、条例が施行される前に新築してしまった現代風のお店でも、ウインドーに昔のお宝を展示したりしています。「佐原まちぐるみ博物館」ということで、40軒ほどのお店などが加盟しており、新しい建物のお店も参加しているわけです。

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まだまだ紹介すべきスポットがあるのですが、先週歩いたのはこんなところでした。今回紹介しきれなかった分は、また改めまして。

こんなに趣のある、光太郎智恵子が歩いていてもおかしくない(苦しいのですが(笑))街ですが、平成23年(2011)の東日本大震災では大きな被害を受けました。

大動脈の小野川は液状化がひどく、また、瓦屋根の家屋は惨憺たるものでした。古い家屋では、瓦はしっかり固定しない造りになっています。固定すると、大地震の際、遠心力が働いて建物ごと倒壊してしまうため、あえて瓦が落ちるように作ってあるのだそうです。

下記動画、視聴には注意して下さい。3.11の午後2時46分、まさに「その時」のものです。



液状化の方はこちら。



あれから9年、この惨状から、佐原の街並みは復活しました。

そして今、新型コロナという新たな災厄……。しかし、あの大震災から復興を果たせたこの街、そしてまだ復興途上ではありますが、頑張ってきた東北の町々、そして日本全体。決して新型コロナなどには負けない、と信じています。

一丸となって、この災厄を乗り切りましょう!


【折々のことば・光太郎】

ギリシヤ時代のあの色がここにも生きてゐて愉快に思つた。

雑纂「難波田龍起個展「感想帖」より」より 
昭和28年(1953) 光太郎71歳


難波田は、光太郎の影響で美術の道に進み、さらに詩作も行った画家です。かつては駒込林町の光太郎の住居兼アトリエのすぐ裏手に住んでいました。

「ギリシヤ時代のあの色」、「不易と流行」の「不易」の部分ですね。古い街並みにはやはり「不易」の美を感じます。

昨日も書きましたが、このところのイベント等の自粛やら延期やら中止やらで、このブログのネタに困っています。仕方がないことですが、ついでに言うなら講師を仰せつかっていた市民講座等も続々中止、1年以上前から関わっていた展覧会も中止……。医療現場の最前線で闘っている病院関係の方々や、感染の恐怖におびえながらも通常通りに仕事せざるを得ないさまざまな職種の皆さんなどに比べれば、どうということはないだろう、とも思うのですが、やはり困りますね……。

さて、ネタ不足に対する苦肉の策の第二弾として、光太郎智恵子とは直接関係ないのですが、今日は散歩ネタで。先週木曜日でしたか、すこぶる陽気がよかったし、あまりに暇だったので、自宅兼事務所から徒歩30分ほどの旧市街を散歩しました。はじめに断っておきますが、田舎ですので、散歩している分には「密」の状態はあり得ません。さらにその日はどこの店にも寄りませんでした。まぁ、第一、休業している所が多いのですが……。専門家会議等の提言でも散歩はOKということでしたし。

自宅兼事務所のある香取市佐原地区、平成8年(1996)、関東地方で初めて伝統的建造物群保存地区に指定された、古い街並みが残っています。まるで光太郎智恵子が歩いていてもおかしくないような(苦しいのですが)。そこで、コロナ禍が収まったら、皆さんにどんどん観光に来ていただきたく、その参考に、というコンセプトです。

「光太郎智恵子が歩いていてもおかしくない」というか、おそらく昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)のロケも行われています。ただ、確証がありません。パンフレットには同じ千葉県北部の「佐倉」と書かれています。しかし、写真を見るとどうみても「佐原」でして。「佐原」と「佐倉」昔からよく混同されています。

佐原地区、コロナ騒ぎの前は、平日でもバスツアーなどで観光客の皆さんが多く、また、かえって平日の方が、旅番組系、ドラマやCMなどのロケが多かったのですが、さすがに閑散としていました。

少し前に放映されていた、波瑠さんがご出演なさった大同生命さんのCMは佐原で撮られました。 

 

佐原は元々、利根川支流の小野川沿いに、江戸への舟運で栄えた街です。こちらが小野川。水源から河口の利根川との合流地点までのバイアスがあまりないので、流れはゆるやか、それだけに清流、という感じではありません。ただ、川沿いの道は無電柱化が進み、その意味では景観美が確立されています。

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ところどころに古い橋も残っています。

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下の画像は「樋橋(とよはし)」。通称「ジャージャー橋」。元は農業用水を通す橋で、溢れた水が川に落ちていたので、そういう名です。現在は観光用に30分だか1時間だかに一度、機械仕掛けで人為的に落水させています。

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それから石段は「だし」。荷の積みおろしをするための船着き場です。今もあちこちに残っています。

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船宿も昔は結構あったそうですが、昨年あたりに最後の一軒、「木の下旅館」さんも旅館としては廃業、とんかつ屋さんにリノベーション。ただ、建物はそのまま残っています。

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そのあたり、リアルにそういう内容で、昨年、テレビ東京さんの深夜ドラマ「日本ボロ宿紀行」(深川麻衣さん、高橋和也さん主演)で取りあげられました。劇中歌「旅人」のPVは木の下旅館さんに泊まって作成されたという設定でした。

 

また、木の下旅館さんの対岸にある床屋さんもPVに登場。昭和レトロ感あふれる建物です。

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こちらはやはり少し前に放映されていた、故・大杉漣さん、永山絢斗さんご出演のオロナミンCのCMでも使われていました。




そうした舟運も、鉄道の普及と共に衰退。下記は舟運から鉄道への過渡期の遺構。小野川から佐原駅まで数百㍍を繋いでいたベルトコンベヤーの跡です。

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しかし、小野川沿いを中心に、江戸時代からそのまま続いている老舗もかなり健在。

元々この辺り一帯の大地主でもあった、寛政12年(1800)創業の佃煮屋さん「正上」さん。しょっちゅうテレビで取りあげられます。

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左下はお茶屋さんで「大高園」さん、明和2年(1765)創業。右下は天明2年(1782)創業の蕎麦屋の「小堀屋」さん。昆布の粉を練り込んだ真っ黒な蕎麦が名物です。

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江戸時代と同じ製法でごま油を作り続けているという「油茂(あぶも)製油」さん。このお店が現在も営業している中で最も古く、正確な年代は不明ながら350年以上だそうです。

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文化元年(1805)創業の「福新呉服店」さん。

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勝海舟も逗留したことがあるという造り酒屋の「馬場酒造」さん。創業は天保年間、煙突は明治33年(1900)の建造だそうで。

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植田屋荒物店」さん(宝暦9年=1759年~)。「荒物」は、竹や木などの自然素材で作った笊、籠、箒などのエコ商品です。

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左は「虎屋菓子舗」さん(明暦2年=1657~)。和菓子はもちろん、洋菓子も扱っています。右は陶磁器の「紀の国屋」さん。光太郎が生まれる前年の明治15年(1882)に東京から移転してきたそうです。

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これらのお店は、江戸時代や明治期からの老舗ですが、建物はそのままに、異業種に転換したというお店も少なくありません。

和風雑貨の「素顔屋(すっぴんや)」さん。元は家具屋さんでした。当方愛用の傘はここで購入。着物の際にも使える番傘風の洋傘です。

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並木仲之助商店」さん。元は荒物の卸問屋さんでしたが、現在は和紙やお香などを置いています。

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手前はアンティークショップ、奥はフランス料理店「夢時庵(むーじゃん)」さん。

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板前割烹 真亜房(まあぼう)」さん。地産地消にこだわり、ブランド肉の「恋する豚」などを使った料理がおいしいお店です。

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蕎麦屋の「香蕎庵(かきょうあん)」さん。蕎麦とフレンチを融合させ、「トリュフ蕎麦」なども人気だそうで。

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イタリアン、というか、「洋麺屋」と看板に掲げる「ワーズワース」さん。ボリュームたっぷりのパスタが人気です。尖塔のような蔵の形が面白いですね。

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小野川を運行する観光舟めぐりの事務所。

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左下はサツマイモ専門の和菓子屋「さわら十三里屋」さん。十数年前まで新刊書店の「正文堂」さんでした。しばらく空き店舗だったのが、数年前にリノベーション。

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右上が「中村屋商店」さん。元は畳屋だったのが、和風雑貨の店となり、さらに現在はホテル「NIPPONIA」さんのフロント、レストランも兼ねています。

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「NIPPONIA」さんは、古民家や蔵を改装し、宿泊施設としたちょっと変わったホテルです。現在4棟、13部屋。フロントからは徒歩で移動。「商家町全体をホテルに」というコンセプトです。上記の「並木仲之助商店」さんの一部も使われています。

それ以外には、古民家一軒まるごと借りる形の棟。

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豪商の邸宅だった棟。忍び返し的な柵が塀の上に。

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蔵を改装した棟。

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いい感じですよね。

長くなりましたので、続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

すかり秋になつて、栗がさかんに屋根に落ち、毎日栗飯を炊き、昔の目黒の料亭を時々思ひ出します。

雑纂「消息の中から」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居していた時のものです。「目黒の料亭」というのは戦前の話でしょうか。光太郎が歩いた東京の街並みも、上記佐原の街並みと似た感じだったのでは、と思われます。こじつけっぽく苦しいのですが(笑)。

被災規模に於いて東日本大震災とは比較になりませんが、我が千葉県、昨年の台風15号では、気象庁観測史上1位の最大瞬間風速57.5㍍を記録し、住宅約74,000戸の損壊、停電約64万戸、そして2名の方が亡くなりました。

それが上陸したのが9月9日というわけで、今月9日には半年が経過。それを受けて同日の地元紙『千葉日報』さんの一面コラムが以下の内容でした。 

忙人寸語「智恵子は東京に空が無いといふ、」

 「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」。高村光太郎の詩集『智恵子抄』に収められた「あどけない話」の一節だ▼ふと早春の空を見上げる。智恵子が望んだ故郷・福島の安達太良山の青空に負けず劣らず、我が故郷・千葉の青空も心を晴れやかにしてくれる。昨年9月9日に荒れ狂った空が同じだとは思えない▼同日未明、房総半島台風と先月命名された台風15号が千葉市付近に上陸。同市で観測史上第1位となる最大瞬間風速57.5㍍を観測するなど、暴風が県内を襲った。電柱の損壊や倒木で最大約64万戸が停電。給水ポンプ停止による断水もあり、毎日、四苦八苦された方も多かろう▼二転三転した東京電力の復旧見通しに、停電が解消したとされる地区に点在した「隠れ停電」。翻弄(ほんろう)された日々を思い返しつつ、いかに私たちの生活が電気に頼っているのか改めて実感する▼そして建物被害。屋根が吹き飛んだ住宅、ひしゃげた農業用ハウスの骨組み。生活の基盤を、活計の道を一夜にして失った人にとって再建は端で考えるほど、甘いことではないだろう▼15号上陸から今日で半年、光太郎は力強く歩む牛をテーマにした詩も書き残している。「牛は後ろへはかへらない 足が地面にめり込んでもかへらない」。物心ともに被災地の、被災者の復興が少しでも前に進むことを願ってやまない。

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まったくその通り、と思いました。

千葉県北部に位置する当方自宅兼事務所は、54時間の停電に見舞われたくらいで、幸いに建物への損害はほとんどありませんでした。しかし、南の方では未だに傷跡が残り、生活を立て直すめどが立たずにいる方々も多いのが現状です。

上記一面コラムの上に載った、一面トップの記事がこちら。

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最初に書いた通り、被災規模では比較になりませんが、東日本大震災の時も、津波被害の大きかった地域はこんな感じだったんだろうな、と思いつつ拝読しました。人的被害が少なかったのが、まだしも不幸中の幸いだったと思います。しかし、頻度ということを問題にすると、津波より台風の方が多いわけで、そのあたりが見出しにもある「町に残るか、離れるか…」という悩みにつながっているようです。

とにもかくにも「忙人寸語」の末尾のように、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)の如く、「のろのろと」でも、一歩ずつ進んで行くしかないのかも知れません。ちなみに「牛」全文はこちら(閲覧注意、102行もある詩です)。


【折々のことば・光太郎】

建築家は工芸家はじめ彫刻家、音楽家、園芸家等と一緒に仕事す可き性質のものです。提携などゝ言ふのはまだるい程密接す可きものと思ひます。

アンケート「建築家と工芸家との提携に就きて」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳

「光太郎37歳」で思い出しましたが、今日、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕137年となります。上記の【折々のことば・光太郎】は、数え年で光太郎の年齢を表記していますので1年ずれています。

閑話休題。作例は少ないものの、駒込林町のアトリエ兼住居など、自分でも建築設計にかかわった光太郎ならではの発言です。

当方自宅兼事務所はミサワホームさんの建築です。築20年近くになりますが、建立当時「阪神淡路大震災で1軒も全壊しなかった」というのが売りでした。宣伝ではありませんが、なるほど、確かに台風15号の際もびくともしませんでした。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。
来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

昨日は、毎年恒例の初日の出を拝みに、九十九里浜の片貝海岸に行きました。16歳になった愛犬がお伴でした。

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赤く見えるのは、傍らで流木を燃やして焚き火をしていたためです。

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愛犬、以前は人に触られるのをあまり好まなかったのですが、歳をとって丸くなったようで(笑)。見ならわなければ、と思いました(笑)。

ここは、南北に長い九十九里浜のほぼ中央、昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年あまり療養していた場所です。智恵子の妹・セツ(節子)の一家と、母のセンも同居していました。

下記写真は明治41年(1908)頃。智恵子数え23歳、前年に日本女子大学校を卒業し、東京に残って太平洋画会で油絵制作に取り組んでいた頃のものです。何かの折に帰省した際に撮られたもので、当時の智恵子の一家が勢揃いしています。

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後列左から、四女・ヨシ、長女・智恵子、次女・セキ、三女・ミツ(後述する宮崎春子の母)、父・今朝吉、長男・啓助。前列左から祖父・次助、五女・セツ(昭和9年=1934当時、九十九里在住)、祖母・ノシ、六女・チヨ、次男・修二、母・センです。

明治、大正と、福島油井村(現二本松市)で、大きな酒蔵を経営していた智恵子の実家は、父・今朝吉の没後に経営が傾き始め、昭和4年(1929)の恐慌のあおりをもろに受けて破産、一家は離散しました。

五女のセツ夫婦が暮らしていた九十九里に母・センも引き取られ、昭和6年(1931)頃から心の病が顕著になっていた智恵子も、先述の通り、昭和9年(1934)5月にセツの元に預けられます。しかし、その病状は好転することなく、完全に夢幻界の住人となってしまい、日がな浜辺の千鳥と遊んだり、「光太郎智恵子、光太郎智恵子」とつぶやいていたりしたそうです。

のちにその頃の智恵子を謳った光太郎詩に「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)、「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)などがあります。

しかし、セツには幼い子供もおり、教育上宜しくないと判断され、智恵子は12月には再び駒込林町のアトリエに引き取られ、翌昭和10年(1935)に、終焉の地となった南品川ゼームス坂病院に入院することとなります。妹・ミツの娘、春子が看護師の資格を持っていたこともあり、付き添いに入りました。

下記は、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)、このあたりでロケが行われた東宝映画「智恵子抄」撮影時のスナップ写真です。

左端がセツ、右端が春子。智恵子に扮する原節子さん、光太郎を演じた山村聰さん、それから春子役の青山京子さんも写っています。

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そんなことを考えつつ、片貝海岸で初日の出を待ちました。

しかし、今年は(去年もでしたが)雲が多く、日の出から15分後の7時を過ぎても太陽は拝めませんでした。

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渋滞を避けるため、早めにあきらめて撤収。

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帰りぎわ、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑で。昭和36年(1961)、地元の俳句グループや、当会の祖・草野心平らの尽力で建てられたものです。

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上記は雑誌『文学散歩』第10号に載った、当会顧問・北川太一先生による除幕レポートです。心平や、やはり光太郎と交流のあった詩人の伊藤信吉、彫刻家の高田博厚、皆すでに鬼籍に入っていますが、若かったのですね、半裸で九十九里の荒波に飛び込んだそうで(笑)。

自宅兼事務所を目指して、九十九里沿岸を北上中、蓮沼あたりで、雲の切れ間から太陽が姿を見せそうな気配となりました。そこで再び浜辺へ。

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できれば片貝で見たかったのですが、いたしかたありませんね。まぁ、今年もいいことがあるような、そういう感じのする初日の出でした。

というわけで、しつこいようですが、本年もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

かかる極限の場合に詩人の本質がまじりけ無く迸り出でその詩を生かしてゐる事を痛感する。どの詩人も言葉と実感との間に或る焦燥を持つてゐる。有り余る実感が言葉の間で渦を巻いてゐる。言葉は僅かにその万分の一を象徴してゐる。

散文「山本和夫編『野戦詩集』」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

『野戦詩集』は、日中戦争に出征した山本以下6人の詩人(西村皎三、加藤愛夫、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫)の作品を集めたアンソロジーです。前線で実際に戦闘をしていた詩人の作品集ということで、このような評となっています。ちなみに6人のうち、西村は戦死しています。

たしかに光太郎の言う通りなのでしょうが、こうした時代が再び訪れることの無いように、と思わざるを得ません。

昨日は、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった、歌人・水野葉舟の子息にして、衆議院議員を永らく務められ、総務庁長官、建設相などを歴任された水野清氏のお別れの会に行って参りました。
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会場は、成田ビューホテル。氏の地元で、当方自宅兼事務所から車で30分足らずの場所です。
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亡くなったのは7月末で、葬儀は親族の方々等で既に執り行われていました。参列者が多くなると予想される場合には、このように葬儀は内輪で済ませ、改めてお別れの会というスタイルが定着してきたようです。先月には、出版社・二玄社さんの創業者、渡邊隆男氏のそれが青山斎場でありました。

昨日も、大島衆議院議長ご夫妻をはじめ、東洋大学理事長・安斎隆氏、堂本暁子前千葉県知事など、500名以上の参列があったようです。
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水野氏、光太郎が最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため岩手花巻郊外旧太田村から帰京した昭和27年(1952)当時、NHKさんに勤務されており、たびたび光太郎終焉の地となった中野アトリエを訪問され、光太郎日記にその名がたびたび記されています。

昭和28年(1953)の日記には、「夜十一時過水野さん印バ沼のウナキ白焼持参」とあります。昔風に濁点が省略されていますが「ウナキ」は「ウナギ」、光太郎の好物の一つでした。「十一時過」というのが豪快ですが、水野氏、一刻も早く光太郎に届けたかったのではないでしょうか。

父君の水野葉舟が成田に移り住んだのは、関東大震災の関係もあったようで、光太郎が日本画家・山脇謙次郎のために建ててやった開墾小屋が空いたため、そこに入ったのが始まりです。光太郎はしばしば葉舟の元を訪れ、近くの三里塚御料牧場で見た光景を元に、詩「春駒」(大正13年=1924)を作ったりもしました。

そのあたりにも触れられた、父君・水野葉舟歿後30年記念の企画展示が、昭和52年(1977)、成田山新勝寺内の成田山資料館で開催されました。
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左はその図録の表紙、右は清氏による父君の回想文です。

こうした光太郎とのご縁から、清氏、連翹忌に30回ほどご参加下さっていました。最後のご出席は、平成27年(2015)。この際は久しぶりにお見えになられたということもあり、スピーチをお願いしました。当方、これが氏と直接お会いした最後となりました。
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その水野氏のお別れの会に参列し、自宅兼事務所に帰って、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフの方とメールでやりとりしている中で、花巻の佐藤進氏が亡くなったと知らされ、驚きました。
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進氏、父君は佐藤隆房。昭和8年(1933)に歿した宮澤賢治の主治医でもあり、賢治の父・政次郎ともども、昭和20年(1945)4月の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、その後も物心両面で光太郎を支えてくれた人物です。

隆房は光太郎歿後に結成された花巻の財団法人高村記念会初代理事長となり、進氏は父君が亡くなったあと、そのあとを継がれて永らく彼の地での光太郎顕彰に骨折って下さいました。

光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に移る直前の1ヶ月ほど、佐藤邸に厄介になっていたこともあり、進氏も光太郎と交流がありました。
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左が進氏です。

父君歿後には、父君の書かれたものをまとめられたり、ご自身でも『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(平成5年=1993)という書籍を著され、貴重な光太郎回想を残されました。
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脳梗塞で倒れられてからも、毎年5月15日の高村祭(光太郎が花巻に向けて東京を発った記念日に、郊外旧太田村の山小屋敷地で開催)に車椅子で参加下さり、気丈にご挨拶なさったり、同市の市民講座の際に、光太郎が起居したご自宅離れの公開を快く受け入れて下さったりと、いろいろありがたい限りでした。

水野氏ともども、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

詩を書く場合に、昔の美しい言葉に生命をふき込んで使用するのもいゝが、日常語に、思ひがけぬ美しさ、気のつかぬ美しさのある事を思ひ、詩の中に日常語を取入れて、そこに美を見出したいと思ふ。

談話筆記「清浄簡素の美」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

水野清氏、佐藤進氏、それぞれ、光太郎の言う「清浄簡素の美」に共鳴されていたのだと思います。

昨日は、千葉県銚子市のKIMG3181犬吠埼に行っておりました。銚子は生活圏なので犬吠埼にも時折足を運んでいますが、考えてみると久しぶりでした。

犬吠埼は、大正元年(1912)、光太郎が油絵の写生旅行に訪れ、前年、光太郎と知り合った智恵子もそれを追ってすぐ下の妹・セキ、それから智恵子姉妹と同じ日本女子大学校出身の藤井勇(ゆう)を伴い、犬吠に来ています。智恵子一行ははじめ御風館という宿に泊まっていましたが、智恵子はセキと藤井を先に帰し、光太郎が投宿していた暁鶏館という宿に移りました。二人の婚約は約1年後、信州上高地でのことですが、おそらくこの犬吠埼でお互いにその気持は固まったのではないかと思われます。

光太郎の回想文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であった。私はそんな事は知らなかつたが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれてゐた。

その後、光太郎は暁鶏館の雑用を務めていた、知的障害があった「太郎」こと阿部清助をモデルに、「犬吠の太郎」(大正元年=1912)という詩も書いています。太郎の印象はかなり強烈だったようで、光太郎はのちに油絵でも太郎を描きましたし(現存は確認できていません)、かなり後、昭和3年(1928)に作った詩「何をまだ指してゐるのだ」でも太郎を登場させています。


犬吠埼のシンボルである灯台。明治7年(1874)竣工ですので、光太郎智恵子が訪れた大正元年(1912)にはすでにここにありました。

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灯台の北側は、君ヶ浜。上記「智恵子の半生」で、「君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた」と記されています。

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灯台の南側。突き出た岬の形状から、「長崎」と呼ばれる地区。太郎も地元では「長崎の太郎」と呼ばれていたそうです。太郎の墓も現存します。

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その手前に、光太郎智恵子が愛を確かめ合ったであろう暁鶏館(中央下の2階建て)。建物は建て替えられ、宿の名も「ぎょうけい館」と変わりましたが、同じ場所で営業中です。創業は灯台と同じ明治7年(1874)です。

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さらに手前は中生代の地層。この辺り一帯、地質学的に貴重な場所だそうで、「銚子ジオパーク」として整備されています。

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ところで、昨日はいつものように一人ではなく、妻と一緒でした。愛想を尽かされる前に、たまには女房孝行ということで(笑)。妻が何かのテレビ番組で紹介されているのを見た、ということで、灯台の並びにある「犬吠テラステラス」さんという、今年出来た商業施設に行ってみました。

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以前はひなびた土産物屋、食堂などがあった記憶があるのですが、それが一変、実にシャレオツな店に様変わりしていました。

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「テラステラス」の名前の通り、2階にはゆったりしたテラス。ハンモックが張られていたりします。上記、長崎地区やぎょうけい館さんなどの画像はここから撮りました。

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灯台を模したオブジェ。顔ハメ的に、ここでKIMG3185写真を撮れということでしょう。台座部分に足形が作られています。


ちなみに昼食はこちらに行く前に、もう少し南の銚子電鉄犬吠駅前にある「島武」さんというところで摂りました。これまで、行列が出来ていて断念したこともあったのですが、昨日は奇跡的にすいていました。基本、回転寿司ですが、チェーンの安い店とは違いそれなりの値段、しかし廻らないお寿司屋さんよりはリーズナブルなので(笑)、当方、時折足を運んでいます。回転寿司コーナー以外にも、海鮮丼系などの魚料理コーナーも設置されています。どちらも銚子港で水揚げされた素材を使っています。

回転寿司は、とにかくネタがでかいことで有名です。タコは「大ダコ」と頼むと、短冊のようなタコが乗ってきます(笑)。他のネタも、ほぼほぼシャリが見えない状態です。


というような犬吠埼。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

因みに「天上の炎」といふ題名は星を意味してゐるのである。

雑纂「訳書『天上の炎』白玉書房版序文」より 昭和25年(1950)

『天上の炎』は、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記では「ヹルハアラン」)の詩集。光太郎は大正14年(1925)に単行書としてその翻訳を新しき村出版部から刊行、戦後に白玉書房から復刊されました。上記は復刊版の序文から採りました。

無理くりですが、光太郎にとっての智恵子は「天上の炎」だったようにも思われます。

ちなみに当方もやったことがありますが、時折「天井の炎」と誤植されることがあるのが残念です。

一昨年から、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされているので定期購読させていただいている、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』3月号が届きました。

それとは別に、「みんなの活動報告」というページがあります。

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協会員の皆さんからのお便りのコーナーです。

昨夏、成田市のなごみの米屋總本店さん2階の成田生涯学習市民ギャラリーで、「二人でひとつの展覧会」を開催された大泉さと子さんから、同展に関するお便りが掲載されています。

成田ということで、光太郎がたびたび訪れた宮内庁の御料牧場がかつてあった三里塚記念公園内に立つ、光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)を書いた作品などが展示されました。

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当方、隣町なもので、初日の一番にお邪魔しました。その際、作者の大泉さんとお話しさせていただきました。

先月末、大泉さん、それから同誌の編集部さんからお電話があり、「みんなの活動報告」に、成田での展覧会のレポ-トを載せること、そこに当方の名前を出していいかというお話でした。別にお忍びで行ったわけでもなく(笑)、承諾いたしました。

そして、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」は、その「春駒」。ここに「春駒」が載るというのは聞いておりませんで、「ほう」という感じでした。

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光太郎の草稿を大きく載せて下さっています。つくづく味のある字です。

同誌は一般書店での販売は行っておらず、同会サイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。バックナンバーとして1冊単位の注文も可能なようです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

八百屋に出てる三州ものでは話にならぬがもぎたての近在のものが笊に盛られた溌剌さは、まるで地引網で引き上げた雑魚のやうにはね返りさうだ。艶のある白綠のさやの肌はおそらく意気な季節の寵児だ。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

何が? というと、さやえんどうです。智恵子は既に南品川ゼームス坂病院に入院しているため、光太郎は自ら塩水で茹で、オリーヴオイル、モルトベニガー、胡椒で味をつけ、食べています。

何気なく書かれた「まるで地引網で引き上げた雑魚のやう」の直喩、「艶のある白綠のさやの肌はおそらく意気な季節の寵児」という暗喩、さすがですね。

しかし、地引網云々は、おそらく智恵子が療養していた九十九里浜で見た光景だろうと思うと、複雑な思いにかられます。

絵手紙を趣味にされている方などは、こういうものも題材にするのでしょうね。ちなみに『月刊絵手紙』、上記今月号の表紙には、ふきのとうの写真も載っています。たまたまですが、我が家の今夜の夕食はふきのうの天ぷらでした。春ももうすぐそこです。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

東京美術学校(現・東京藝術大学さん)で、光太郎と同期だった彫刻家に、水谷(みずのや)鉄也という人物がいました。「鉄」の字は「銕」とも表記されたり、「佳園」と号したりしましたので、「水谷銕也」、「水谷佳園」で検索網に引っかかったりもします。また、書籍によっては、苗字も「水ノ谷」となっているものもあります。

水谷は長崎島原の出身で、光太郎より7歳年長の明治9年(1876年)生まれですが、郷里を出て奈良で木彫家の森川杜園に学んでから美校に入学したため、年の離れた光太郎と同期となりました。水谷や光太郎の入学当初は美校彫刻科には木彫科しかなかったのですが、明治32年(1899)に、イタリア帰りの長沼守敬を主任とする塑造科が新設され、水谷はそちらに移りました。卒業は光太郎ともども明治35年(1902)。この際の卒業制作「愛之泉」(左下)は、光太郎の「獅子吼」(右下)を抑えて首席となりました。

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「愛之泉」は、一昨年、東京藝大美術館さんで開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」に出品され、拝見して参りました。優美な作風の作品で、確かに荒っぽい「獅子吼」よりきれいな作ではあります。

また、平成27年(2015)には、武蔵野美術大学美術館さんで「近代日本彫刻展」が開催され、そちらでは水谷作品は木彫の「海老」(大正15年)が出まして、拝見して参りました。この展覧会はイギリスのヘンリ・ムーア・インスティテュートさんとの共同企画で、「海老」はイギリス展にも展示されました。光太郎作品は木彫の「白文鳥」(昭和6年=1931頃)、ブロンズの「手」(大正7年=1918)が出品されました。

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美校卒業後、水谷は同校で教壇に立ち、その間にヨーロッパ留学も経験しています。


さて、昨年の話になりますが、以前に連翹忌にご参加いただいた、水谷の令孫(茨城県にお住まいです)から、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市に、水谷の作品があるという情報を得ました。これには驚きました。そして詳細を知って二度びっくり。何と、勤め人時代にその前を通って十数年通勤していた銅像だったからです。

過日、改めて見に行って参りまして、撮ってきた画像がこちら。

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高安宗悦という、この地で開業していた接骨医の銅像でした。元は昭和10年(1935)の作です。が、どうもこの手の銅像の通例で、戦時中に金属供出にあったらしく、昭和35年(1960)再建というプレートも付いていました。

前を通って通勤していながら、車を駐めてきちんと見るということをしていなかったのですが、車窓から見てもその辺によくある立体写真的な俗悪銅像とは違うとは思っていました。しかし、まさか光太郎ゆかりの人物の作だとは思いもよらず、汗顔の至りです。

さらに、高安宗悦について調べてみて、三度びっくり(笑)。宗悦の子息の恭悦は、漢方医の浅田宗伯の養子となりましたが、その養父・浅田宗伯こそ、かの「浅田飴」の考案者だったのです。

地元の歴史などについても、もっと関心を持たなければ、と思い知らされました。


【折々のことば・光太郎】

葉を落とした灌木や喬木、立ち枯れた雑草やその果実。実に巧妙に縦横に配置せられた自然の風物。落ちるものは落ち、用意せられるものは用意せられて、何等のまぎれ無しにはつきりと目前に露出してゐる潔い美しさは、およそ美の中の美であらう。彼等は香水を持たない、ウヰンクしない。見かけの最低を示して当然の事としてゐる。

散文「満目蕭條の美」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

すっかり葉を落としながらも、実は既に芽をふくらませ始めている連翹や桜などの庭木を見ると、この光太郎の言が実感させられます。

千葉県から所蔵品展の情報です。 

冬のアート・コレクション 具象彫刻展 ―具象彫刻の先駆者たち―

期    日 : 2019年1月29日(火)~4月14日(日)
会    場 : 千葉県立美術館 千葉県千葉市中央区中央港1-10-1
時    間 : 9:00〜16:30
料    金 : 一般 300円(240円)  高校・大学生 150円(120円)
         ( )内は20名以上の団体料金

休 館 日 : 月曜日 (祝日・振替休日に当たるときは開館し、翌日休館)

美術における「具象」とは、人物や身近な動物など具体物を題材にした作品に使われる用語です。
また、「彫刻」とは主に立体の美術作品を示す用語で、石や木などの素材を直接彫り刻む技法(カーヴィング)と、粘土で原型をつくり、それを石膏や金属などで型抜きして作る技法(モデリング)に大別されます。
日本には、埴輪や土偶、ひな人形や仏像など立体造型の伝統がありますが、人物を型抜きしたような写実的な表現は、明治以降、西欧の彫刻作品と技法の導入により普及しました。
「具象」「彫刻」をキーワードとする本展では、日本近代彫刻の先駆者である小倉惣次郎や新海竹太郎をはじめ、彫刻界に多大な功績を残した高村光太郎、高田博厚、戦後日本の彫刻界を代表する舟越保武、千葉県を拠点に活動した大須賀力、長谷川昻などの作品を展示し、具象彫刻の魅力を紹介します。

 同時開催
 近代洋画の先駆者 浅井忠9 -浅井忠の京都時代-
 北詰コレクション メタルアートの世界3 -彫金の魅力-
 コレクション名品展 -バルビゾン派の画家たちを中心に-
 アート・コレクションプラス 具象彫刻の今 -彫刻家宮坂慎司と県美の収蔵作家たち-

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地元ですので、早速行って参りました。

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チラシには光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が大きく掲載されていますが、看板では「手」(同7年=1918)。「おお」という感じでした。

光太郎作品は4点出ていました。上記2点以外に、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための手の試作(昭和27年=1952)と、中型試作(同28年=1953)。4点とも何やかやであちこちで同型のものをしょっちゅう見ている作品ですが、何度見てもいいものはいいと感じます。

光太郎以外に、現代作家の作品も含め、約30点。

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高田博厚、本郷新、菊池一雄、舟越保武といった、光太郎と交流があった彫刻家の作もあり、興味深く拝見しました。

さらに同時開催の絵画のコレクション展「-バルビゾン派の画家たちを中心に-」でも、光太郎と交流のあった面々-安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生、三宅克己など-の作が並んでおり、ラッキーでした。

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また、直接の交流は無かったと思われますが、歿後にそのアトリエを借り受けて、光太郎が「乙女の像」制作に当たった中西利夫の作もありました。それから、岸田劉生に師事した椿貞夫の作は、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼の風景画。二人が泊まった暁鶏館(現・ぎょうけい館)も描かれており、「へー」という感じでした。

皆様もぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本人は自然に逆らはない気質を有する。自然をどづかないで、しかも自然を左右する。

散文「三陸廻り 一 石巻」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

新聞『時事新報』に依頼され、この年8月から9月にかけ、三陸沿岸を旅して書いた紀行文から。ちなみにこの光太郎の旅行中、智恵子の心の病が顕在化したとされています。

宮城県石巻で見た北上川河口の風景への感想です。北上川の流路は、遠く江戸時代から何度も改修工事が行われ、光太郎が訪れた昭和6年(1931)の時点でも工事が行われていました。洪水対策や港としての整備が目的だったようですが、光太郎、スエズ運河の大工事を引き合いに出し、そうした自然に逆らう工事ではないことに感心しています。

昨日は、例年通りに、昭和9年(1934)、智恵子が療養していた九十九里浜片貝海岸に初日の出を見に行きました。

「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)を刻んだ光太郎詩碑の前に車を駐め、有料道路をくぐって海岸へ。

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お供はこれも例年通りに愛犬。正確な誕生日が不明なため、1月1日を誕生日としており、昨日で15歳になりました。先月、少し体調を崩したのですが、恢復しましたので連れていきました。あと何回、こいつと初日の出が見られるか、と思っています。

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昨年一昨年と、比較的きれいに見えたのですが、今年はちょうど太陽の出るあたりに雲。西高東低の冬型の気圧配置なもので、このあたりの水平線上は雲がかかりやすいのです。

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残念ながら、片貝海岸では見えませんでした。しばらく待っていれば、雲の上、けっこう高い所に出るかと思いましたが、周辺の道路が混むもので、あきらめて撤収。途中、海岸沿いに10キロメートルほど北上したあたりで、雲の上に日が昇りました。再び車を駐めて、撮影。

愛犬の散歩で、毎日のように日の出は見ているのですが、やはり初日の出は格別ですね。今年一年も、光太郎顕彰の世界が盛り上がりますようにと、願をかけました。


ところで、初日の出といえば、昨年12月29日(土)の『日本経済新聞』さんに、「富士山2018 季節の移りかわりを写真で紹介」という記事が出ました。当方、電子版で読んだのですが、電子版だけでなく紙面にも載ったのか、山梨県の記事なので山梨版だったのか、そのあたりが不明ですが、ご紹介します。

昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため訪れた山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区が取り上げられています。 

富士山2018 季節の移りかわりを写真で紹介

平成が終わるのを前に甲府支局長がこの1年間、仕事の合間などに山梨県から撮影した富士山を紹介します。あなたの見る初夢は何月の富士山でしょうか。(三浦秀行)

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1月、富士山から昇る初日の出。撮影した富士川町高下(たかおり)地区は、ダイヤモンド富士を観察するには絶好の地点。元旦は山頂から少しずれた地点からの日の出となる。冬至の前後は山頂から昇る太陽を撮影しようと多くのカメラマンで混み合う。高村光太郎の文学碑があり、町によると、この地を訪れた光太郎は「こんな立派な富士は初めて仰いだ」と感嘆したという。


このあと、12月まであるのですが、割愛します。


初日の出を穏やかな気持ちで見られる、そんな平和な日々が続くこの国であってほしいとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

如何なる時代が来ようとも悪趣味のものは許され難い。必ず洗練せれなければ滅びるであらう。これは美の世界の自浄作用である。

散文「二科院展見物」より 大正13年(1924)、光太郎42歳

造形芸術の世界での話ですが、およそ芸術一般にあてはまることでしょう。政治経済の分野には当てはまっていない気がしますが。

暮れも押し詰まって参りまして、いよいよ来週火曜が2019年、平成最後の元日です。

元日といえば、初日の出。そこで、光太郎智恵子ゆかりの地での初日の出情報をまとめてみました。

まずは、大正元年(1912)、光太郎智恵子がお互いにこの人しかいないと確かめ合った、千葉銚子の犬吠埼。 

【2019年】日本一早い初日の出インフォメーション

関東最東端の犬吠埼は、山頂・離島を除き日本で一番早く初日の出を見ることができます。
元旦は、犬吠埼周辺の海岸で雄大な大海原と荒磯に砕ける波や白亜の灯台がおりなす美しい風景とともに、新年の誓いを立ててみてはいかがでしょうか。

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JRさん、それから銚子電鉄さんが臨時列車を出すほか、現地ではさまざまなイベントも企画されています。

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続いて、犬吠埼の少し南、昭和9年(1934)に、智恵子が療養生活を送った九十九里浜。当方、このところこちらで愛犬と共に初日の出を見ており、来年もその予定でいます。 

あなたなら誰とくる?「九十九里町元旦祭」

① 会  場 : 片貝中央海岸
② 住  所 : 千葉県山武郡九十九里町片貝6928
③ 開  催  日   : 平成31年1月1日(火)
④ 開催時間 : 午前5時30分~午前7時00分
   午前5時30分:おもてなしブース開始
                         ・いわしの団子汁(1000人分)  ・いわしの丸干し(700人分)
   午前6時10分~6時45分:郷土芸能披露 愛宕神社獅子舞保存会・九十九里黒潮太鼓
⑤ 駐車場 : 片貝海岸海浜公園町営駐車場(年末年始無料)
⑥ お問い合わせ : 九十九里町産業振興課商工観光係 0475-70-3177
               九十九里町観光協会 0475-76-9449

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次に、山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区。昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため、この地に住んでいた井上くまを訪問しました。それを記念して昭和62年(1987)に光太郎文学碑が建てられています。

元旦も含めた冬至の前後、 ここで富士山頂から日が昇る「ダイヤモンド富士」が見られます。日の出の時刻は7時20分くらいだそうです。

高下ダイヤモンドポイント

新富岳百景「日出づる里」
増穂町穂積(高下・たかおり地区)は、「新富岳百景」に選ばれ、毎年冬至頃から元旦にかけて、富士山頂からの日の出「ダイヤモンド富士」が見え、多くの写真家が訪れます。
ダイヤモンドとは、日の出がダイヤモンドのような輝きになることから名付けられたものです。

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ちょうど1年前に、芳文社さんから刊行されたコミック『ゆるキャン△』第5巻。山梨県を舞台にしたキャンプ愛好女子たちを主人公とする漫画ですが、こちらが紹介されています。

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だいぶ経ってから気づいたので、このブログではご紹介しませんでした。今年、テレビアニメ化もされましたが、このエピソードの前くらいで終わっており、続編が期待されます。


最後に、智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山。こちらも近年、初日の出スポットとして売り出し中。 

安達太良山 初日の出

<日の出目安 6:30>
 日本百名山に数えられている標高1,700mの名峰。
 詩人・彫刻家の高村光太郎が、「あれが阿多多羅山・・・」(樹下の二人)と詠んだことでも有名で、智恵子のふるさととしても知られている。

開催日時 2019年01月01日(火)  会場 あだたら高原リゾート 二本松市奥岳温泉   駐車場あり
お問い合わせ先 二本松市観光連盟 TEL 0243-55-5122


なるほど、奥岳登山口のあたりは南東方向に盆地が広がっている地形ですので、初日の出を見るには良い条件ですね。智恵子の愛した「ほんとの空」に上る初日の出もおつなものでしょう。

また、二本松市街の霞ヶ城も同様に初日の出スポットとなっているようです。

ところで上記、<日の出目安 6:30>となっていますが、高山ということで、銚子犬吠埼(6:46)より早いのでしょうか。それとも間違いなのでしょうか。


気になるのは当日の天気。がっつり晴れることを祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる。

散文「近状」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

復刊なった与謝野夫妻の第二期『明星』に短歌五十首を寄せた、その序文的な文章の一節です。

この時期、彫刻では西洋風の塑像彫をメインにしていたのを、ふと思い立って子供の頃から慣れ親しんだ木彫も手がけるようになり、それが世間で評判となりました。同様に、文学では自由詩を主戦場としていたこの時期、少年時代に与謝野夫妻に見出された短歌をまた詠むようになりました。それぞれが自身の心の平安にもつながったというあたり、興味深く感じられます。

光太郎関連の書籍を何点も出版して下さっている文治堂書店さんが出している、PR誌、文芸同人誌的な『トンボ』。以前も同名のものが出されていましたが、平成28年(2016)から「第二次」ということで、年2回発行されています。

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  第二次創刊号(2016/1)     第二号(2016/7)    第三号(2017/1)     


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当会顧問、北川太一先生の玉稿も載り、当方も第四号から「連翹忌通信」という連載を持たせていただいております。

その各号の表紙絵、それから挿画を描かれている、成川雄一氏の個展が、昨日、始まりました。 

成川雄一近作展

期   日  : 平成30年11月8日(木)~13日(火)
場   所  : 画廊ジュライ 千葉市中央区中央4-5-1 きぼーる2F
時   間  : 11:00~18:00 (最終日 ~17:00)

料   金  : 無料

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文治堂さんから案内を頂き、同じ千葉県内ですし、拙稿のページにも見事な挿画を描いて下さって、拙稿の拙さをカバーして下さっている方ですので、早速、馳せ参じて参りました。

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ご本人がいらしていました。初めてお会いしましたが、画風の通りの温厚そうな方でした。拙稿のページに見事な挿画を描いて下さって、拙稿の拙さをカバーして下さっている件に、厚く御礼を申し上げておきました。

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『トンボ』も並んでいました。

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許可を得て、展示作品を撮らせていただきました。

千葉県といえば、九十九里浜。昭和9年(1934)、智恵子が療養した地でもあります。

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さらに、案内ハガキにも使われた鳥の画の連作。

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桜を描いた水彩画なども。

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成川氏、昭和12年(1937)のお生まれだそうで、御年81歳になられます。失礼ながら、そうは思えない若々しい画風――特に色遣い――に感心させられました。まだまだお元気でご活躍の程、祈念いたします。

というわけで、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

この象徴の森にわたくしが理解よりもさきに先づ感受したものは、人生の深みに激動するものの微妙な寂かさである。それは叙説を絶つ。

散文「田中信造詩集「古き幻想の詩」序」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「寂かさ」は「しずかさ」。

同じ文章に依れば、田中信造は山形県米沢出身。光太郎智恵子と遠い姻族だそうで、そうした縁から智恵子遺作紙絵を詩集の装幀に使用しています。

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