まず、『毎日新聞』さんの富山版。現在、富山県水墨美術館さんで開催中の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に関してです。
3人の巨匠が究極の書、表現 県水墨美術館 /富山
近代日本美術界の巨匠、熊谷守一(1880~1977)、高村光太郎(1883~1956)、中川一政(1893~1991)の3人による書に焦点を当てた展覧会「画壇の三筆」展が11月28日まで、富山市五福の県水墨美術館で開かれている。高村は晩年「書は最後の芸術である」と語り、彫刻だけでなく書の中にも東洋の美を追求した。熊谷、中川の画家2人も、絵画作品と同じく味わいのある書を生み出したことで知られ、特に中川は富山名物ますずしのパッケージデザインと題字を手がけたことでも有名。
会場では、同時代を生きた3人の芸術家の書と彫刻、絵画、陶芸作品計約100点を展示。熊谷の「南無阿弥陀仏」は幼くして病死した娘を思って書かれたものといい、子を思う気持ちが胸を打つ一枚。中川の「正念場」は97歳の時の書。生涯、美を追い求めた執念が伝わる。
同美術館では「3人が到達した究極の表現世界を見てほしい」と話す。観覧料一般1200円、大学生1000円。月曜休館。会期中、3人の映画や映像上映もある。問い合わせは同館(076・431・3719)。
会期は今月28日(日)まで。後期に入り、一部作品の展示替えが行われています。光太郎に関しては、駒場の日本近代文学館さん所蔵のものを入れ替えたり、前期から展示されている書画帖『有機無機帖』のページを替えたりしています。まだ行かれていない方も、前期に行かれた方も、ぜひ足をお運び下さい。
ちなみに画像の一番右、確認できている限り、「智恵子抄」の詩句を大書した唯一の作品(色紙や書籍の見返しに揮毫したものは複数確認できていますが)です。「わがこころは今大風の如く君に向へり」、詩「郊外の人に」(大正元年=1912)の冒頭部分です。今回の展覧会のフライヤーにも画像がサムネイル的に使われました。
山形県天童市の出羽桜美術館さんの所蔵で、コレクション展的な際に展示されています。当方も現地で観て参りました。これまで、各地で開催されてきた光太郎展てきなもので展示されたことはなかったと思っていましたが、昭和51年(1976)、かつて銀座にあった東京セントラル美術館で開催された「高村光太郎――その愛と美――没後20周年」展の際に出品されていたことをつきとめました。図録には画像が載っていなかったのですが、出品目録に掲載されていました。
同館の収蔵品を集めた、出羽桜酒造さんの三代目・中野清次郎は詩も書いており、同郷の詩人真壁仁と親しかったそうです。真壁は光太郎とも親しく(戦時中には智恵子紙絵の3分の1を預かり、戦災から守りました)、その真壁を通じてこの書を書いてもらったらしいとわかりました。それが昭和25年(1950)で、この年の光太郎日記は大半が失われており、もし残っていれば関連する記述があっただろうにと残念に思っております。
続いて、『朝日新聞』さんの岩手版。
没後100年、原敬ってどんなひと?

「岩手の人」(昭和23年=1948執筆)。地元岩手では、有り難がられ、現代でも折に触れて引用される詩です。特に今年は丑年だということもあり、牛に触れられている部分がよく取り上げられました。

なるほど、原敬も典型的な「岩手の人」だったのかもしれませんね。
【折々のことば・光太郎】
盛岡生活学校の生徒さん20名ほど吉田幾世さんに引率されて来訪、学校にて話することにし、ひる前山口小学区にゆく。お弁当を一緒にくひ、雑談、後さんびかの合唱をきく。
「吉田幾世さん」は、同校の創立者で、初め、羽仁夫妻の依頼で光太郎の元を訪れ、のち、このように生徒さん達を連れて訪問したりもしていました。
吉田の回想から。弁当を食べた場所が一致しませんが、おそらく記憶違いでしょう。
又、桜の花の咲く頃、先生の山荘に遠足したクラスもある。戦後の食料不足の中で配給された食品を持ちよって皆でサンドイッチをつくり、それを工芸で習った夾纈(きょうけち)染めの和紙に包んだお揃いのお弁当をもって行った。その一つを先生にもお上げして、山荘の横の草原へ円陣を作ってご一緒に頂いた。先生は「おいしい、おいしい」と喜んで召上がり、皆に歌を歌ってちょうだい、と所望された。次々と出る合唱を、先生は目をつぶってたのしそうに聞いて下さった。
(吉田幾世『忘れ得ぬ人々――学園の礎を築いてくださった方々――』平成6年=1994 学校法人向中野学園生活教育研究所)
その際の写真。不鮮明ですが。