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市民講座のご案内です。

高村光太郎『智恵子抄』を語り合おう 

期 日 : 2023年10月29日(日)、11月26日(日)
会 場 : 市民大学たかおか学遊塾 富山県高岡市末広町1番7号 高岡市生涯学習センター
時 間 : 14:00~16:00 
料 金 : 運営費1,000円 資料代300円(2回分) 合計1,300円
講 師 : 茶山千恵子

高村光太郎の人生に妻の智恵子はどのような影響を与えたのか、『智恵子抄』を読んで語り合いましょう。 10月29日(日) 「智恵子の半生」を朗読し深く読み取る 11月26日(日) 『智恵子抄』誕生秘話

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講師の茶山さん、これまでもたかおか学遊塾さんで同様の講座講師を務められた他、同塾主催のイベント「たかおか学遊フェスタ」で光太郎詩朗読をなさったり、劇団「よろこび」として演劇でも「智恵子抄」を取り上げて下さったりしました。

さらに今年の第67回連翹忌にご参加下さり、その後、ご自宅を開放されて予約制で振る舞う「光太郎ランチ」などの活動にも取り組まれています。ありがたし。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

一寸甲州の方に旅行してゐたところ帰宅、御恵贈のめづらしき蛍烏賊といふもの拝受、まことにありがたく存じました、 暑さにやられて小生殆ど半病人のやうな有様で日を送つて居ります、


昭和17年(1942)8月24日 前田健次郎宛書簡より 光太郎60歳

この年10月、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため、山梨県南巨摩郡穂積村(現・富士川町)上高下(かみたかおり)地区を訪れました。

黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「日本の母」を顕彰する運動の一環です。軍人援護会の協力の下、各道府県・植民地の樺太から一人ずつ(東京府のみ2人)「日本の母」が選考され、光太郎をはじめ、当代一流の文学者がそれぞれを訪問、そのレポートが『読売報知新聞』に連載されました。さらに翌年には『日本の母』として一冊にまとめられ、刊行されています。
 
井上くまは、女手一つで2人の息子を育て、うち1人は光太郎が訪ねた時点で既に戦病死、しかしそれを誇りとする、この当時の典型的な「日本の母」でした。光太郎はまた、『読売報知新聞』のレポート以外にも、くまをモデルに詩「山道のをばさん」という詩も書いています。
 
昭和62年(1987)には、光太郎が上高下を訪れたことを記念して、光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句を刻んだ碑が建てられています。冬至の前後にはここから「ダイヤモンド富士」が見えるということで、名所となっています。

で、井上家訪問が10月14日。ところが最近発見したこの書簡では8月にも甲州を訪れたと記述があり、その事実はこれまで知られていませんでした。「暑さにやられて小生殆ど半病人のやうな有様」とあるので8月で間違いありません。どうも井上家訪問の下準備的な感じで甲州に行き、現地の軍人援護会などの関係者と打ち合わせをして来たのではないかと思われます。

全国紙の地方版から2件、ご紹介します。

まず、『毎日新聞』さんの富山版。現在、富山県水墨美術館さんで開催中の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に関してです。

3人の巨匠が究極の書、表現 県水墨美術館 /富山

 近代日本美術界の巨匠、熊谷守一(1880~1977)、高村光太郎(1883~1956)、中川一政(1893~1991)の3人による書に焦点を当てた展覧会「画壇の三筆」展が11月28日まで、富山市五福の県水墨美術館で開かれている。
 高村は晩年「書は最後の芸術である」と語り、彫刻だけでなく書の中にも東洋の美を追求した。熊谷、中川の画家2人も、絵画作品と同じく味わいのある書を生み出したことで知られ、特に中川は富山名物ますずしのパッケージデザインと題字を手がけたことでも有名。
 会場では、同時代を生きた3人の芸術家の書と彫刻、絵画、陶芸作品計約100点を展示。熊谷の「南無阿弥陀仏」は幼くして病死した娘を思って書かれたものといい、子を思う気持ちが胸を打つ一枚。中川の「正念場」は97歳の時の書。生涯、美を追い求めた執念が伝わる。
 同美術館では「3人が到達した究極の表現世界を見てほしい」と話す。観覧料一般1200円、大学生1000円。月曜休館。会期中、3人の映画や映像上映もある。問い合わせは同館(076・431・3719)。

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会期は今月28日(日)まで。後期に入り、一部作品の展示替えが行われています。光太郎に関しては、駒場の日本近代文学館さん所蔵のものを入れ替えたり、前期から展示されている書画帖『有機無機帖』のページを替えたりしています。まだ行かれていない方も、前期に行かれた方も、ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに画像の一番右、確認できている限り、「智恵子抄」の詩句を大書した唯一の作品(色紙や書籍の見返しに揮毫したものは複数確認できていますが)です。「わがこころは今大風の如く君に向へり」、詩「郊外の人に」(大正元年=1912)の冒頭部分です。今回の展覧会のフライヤーにも画像がサムネイル的に使われました。

山形県天童市の出羽桜美術館さんの所蔵で、コレクション展的な際に展示されています。当方も現地で観て参りました。これまで、各地で開催されてきた光太郎展てきなもので展示されたことはなかったと思っていましたが、昭和51年(1976)、かつて銀座にあった東京セントラル美術館で開催された「高村光太郎――その愛と美――没後20周年」展の際に出品されていたことをつきとめました。図録には画像が載っていなかったのですが、出品目録に掲載されていました。

同館の収蔵品を集めた、出羽桜酒造さんの三代目・中野清次郎は詩も書いており、同郷の詩人真壁仁と親しかったそうです。真壁は光太郎とも親しく(戦時中には智恵子紙絵の3分の1を預かり、戦災から守りました)、その真壁を通じてこの書を書いてもらったらしいとわかりました。それが昭和25年(1950)で、この年の光太郎日記は大半が失われており、もし残っていれば関連する記述があっただろうにと残念に思っております。

続いて、『朝日新聞』さんの岩手版。

没後100年、原敬ってどんなひと?

004 【岩手】「平民宰相」「初の本格的政党内閣」などと語られることの多い原敬(盛岡市出身、1856~1921)。その死から4日で100年を迎え、大慈寺(同市)で追悼会(え)が開かれた。原はどのような人物だったのか。原敬記念館の学芸員、田崎農巳(あつみ)さん(46)は「現実主義が重要な特質」と説明する。(唐沢俊介)
 「退屈だと思う」。田崎さんはそう語り、赤茶けた史料を指し示した。原が行った演説の速記録だ。「政策の説明に時間を割くため、面白みに欠ける」という。
 田崎さんは、原は目先の利益や甘い言葉を操る「大衆迎合」とは異なる現実主義者、リアリストで、「公利」を追求していたとみる。「官僚組織や新聞社で仕事をする中で身につけた知識と経験で、この国に必要なことを見極め、着実に実行しようとした」
 例えば、外交ではそれまでの強硬路線から、世界的な潮流であった協調路線へ転換した。「これは日本の大陸進出を警戒する欧米列強をむやみに刺激しないようにするためです。日記にも『将来恐ルヘキハ此国』と記し、原は特にアメリカとは戦争をしてはいけないと考えていました」
 原は普通選挙法に否定的だったとされている。しかし、「それは間違い」と田崎さんは指摘する。「彼は普通選挙法に反対していません。日記にも徐々に進めていくと書いてあります」
 田崎さんは、原が問題にしたのは国民の政治的成熟度だったと考える。「『世論(せいろん)』と『輿論(よろん)』を明確に区別していました。前者は、他者に依存した言論、つまり『誰それが言っているから』という理由で決めた意見。後者は自ら学び、組み立てた意見。『輿論』を主張できる国民の増加に合わせて普通選挙権を認めていくというのが原の考えでした」。ここにも現実主義が貫かれている。
 原の生涯をたどっていると、ある詩を思い出すと田崎さんは言う。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)の「岩手の人」の一節だ。
 高村は岩手県人を牛にたとえ、「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひにその成すべきを成す」と表現した。「歩みは遅いのですが、着実に前へ進み、結果を出す。原は置かれた場所で、自分にできることを懸命に取り組んできました」。戊辰戦争で敗れた「賊軍」側でありながら、実績を重ね、総理大臣にまで上りつめた。
 次の一歩を踏み出そうとした原だったが、1921年11月4日、道半ばで18歳青年の凶刃に倒れた。65歳だった。
 原敬の墓所がある大慈寺で4日、第101回忌追悼会があった。約140人が参列し、原の功績をしのんだ。
 原敬100回忌記念事業実行委員会が主催。委員長である谷藤裕明・盛岡市長(71)らが追悼の言葉を述べた。読経や焼香のほか、盛岡市立大慈寺小学校の校歌奉納があった。コロナ禍のため、児童の歌う映像が堂内で流された。
 原敬のひ孫で京都市在住の岩谷千寿子さん(69)も参列し、「原敬から何事にもチャレンジする精神を学び取ってほしい」と語った。
 1856年、岩手郡本宮村(当時)の盛岡藩士の家に生まれる。15歳で上京した後、司法省法学校に入学し、26歳で外務省に入省。天津領事やパリ公使館書記官として勤務した。辞職後、大阪毎日新聞の社長に就任した。
 1900年、立憲政友会に入党。同党の総裁に就き、18年に第19代内閣総理大臣になった。21年11月4日、東京駅で暗殺された。脅迫状も届いていたが、「運を天に任せる」として、警備を厚くすることはなかった。葬儀は大慈寺で行われ、約3万人が参列したという。
 離婚歴がある。1人目の妻・貞子とはうまくいかず離縁。2人目の妻・浅と再婚する。2人の間に子どもはおらず、養子・貢(みつぎ)を迎える。子煩悩な一面を持ち、息子と2人で出かけた際、「家では浅に怒られてしまうから」と2人前の汁粉を注文し、どちらも子どもに食べさせた。愛妻家で、字が読めない浅に新聞の講談読物を毎晩、読んで聞かせていたという。
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「岩手の人」(昭和23年=1948執筆)。地元岩手では、有り難がられ、現代でも折に触れて引用される詩です。特に今年は丑年だということもあり、牛に触れられている部分がよく取り上げられました。
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 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。015
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

なるほど、原敬も典型的な「岩手の人」だったのかもしれませんね。

【折々のことば・光太郎】

盛岡生活学校の生徒さん20名ほど吉田幾世さんに引率されて来訪、学校にて話することにし、ひる前山口小学区にゆく。お弁当を一緒にくひ、雑談、後さんびかの合唱をきく。

昭和26年(1951)5月5日の日記より 光太郎69歳

盛岡生活学校」(現・盛岡スコーレ高等学校さん)は、光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が出版していた雑誌『婦人之友』に感銘を受けた仲間が集まり、良き家庭を築く生活の知恵を学ぶ場としてスタートしたといいます。同校では光太郎の薦めでホームスパン製作や果実ジュース作りをカリキュラムに取り入れ、それが受け継がれているそうです。

吉田幾世さん」は、同校の創立者で、初め、羽仁夫妻の依頼で光太郎の元を訪れ、のち、このように生徒さん達を連れて訪問したりもしていました。

吉田の回想から。弁当を食べた場所が一致しませんが、おそらく記憶違いでしょう。

 又、桜の花の咲く頃、先生の山荘に遠足したクラスもある。戦後の食料不足の中で配給された食品を持ちよって皆でサンドイッチをつくり、それを工芸で習った夾纈(きょうけち)染めの和紙に包んだお揃いのお弁当をもって行った。その一つを先生にもお上げして、山荘の横の草原へ円陣を作ってご一緒に頂いた。先生は「おいしい、おいしい」と喜んで召上がり、皆に歌を歌ってちょうだい、と所望された。次々と出る合唱を、先生は目をつぶってたのしそうに聞いて下さった。
(吉田幾世『忘れ得ぬ人々――学園の礎を築いてくださった方々――』平成6年=1994 学校法人向中野学園生活教育研究所)

その際の写真。不鮮明ですが。
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富山県から企画展示情報ですが、まず、地方紙『北日本新聞』さんの記事から。

高峰の別邸と接点か 高岡出身の彫刻家 本保義太郎 市美術館、情報提供呼び掛け

 高岡市美術館は、開催中の国立美術館巡回展「高岡で考える西洋美術-〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき」で紹介している市出身の彫刻家、本保(ほんぼ)義太郎(ぎたろう)(1875~1907年)について、同郷の化学者、高峰譲吉(1854~1922年)ゆかりの建物「松楓殿(しょうふうでん)」と接点があった可能性があるとして、裏付ける資料を探している。高峰の別邸として知られる同建物は、元々は米セントルイス万国博覧会で日本のメインパビリオンとして建設され、本保が万博を視察しているためだ。同館は市民らに情報提供を呼び掛けている。(牧野陽子)
 1904年開催のセントルイス万博で日本のパビリオンだった建物は高峰が譲り受けてニューヨークに移設し、松楓殿として日米親善の社交場に活用した。昨年、建物の一部が高岡商工ビルに再現され、常設展示されている。
 本保は高岡市源平町の仏師の家に生まれた。東京美術学校(現東京芸術大)に進み、卒業生が出品した展覧会で、高村光太郎と共に新進彫刻家として注目を集めた。フランスに留学し、ロダンが彫塑のトップを務めた展覧会で入選した。
 本保は32歳で病死。市美術館の村上隆館長は「偉大な芸術家へと歩み始めた矢先に亡くなり残念」と話す。早世で市民に存在があまり知られておらず、巡回展を企画した国立西洋美術館関係者は「高岡の宝が知られていないのはもったいない」と言う。
 同展では本保が手掛けたブロンズ像「若菜売」や裸婦立像、デッサンをはじめ、肖像写真や所有していた美術雑誌など資料を含め約20点を展示。本人が入手したセントルイス万博の図録も並ぶ。本保は万博に出品し、県などの委嘱で現地を視察しており、松楓殿や高峰と直接つながりがあった可能性がある。
 村上館長は「松楓殿、本保さんの存在は高岡にとっても大きな財産。きちんとした資料で調べていきたい」と話している。
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本保義太郎。東京美術学校彫刻科で、光太郎の一級上でした。明治37年(1904)3月31日の光太郎日記に「やがて本保君来られ会談三十分許にして帰らる」という記述があります。『高村光太郎全集』では、本保の名は唯一、ここだけですが。

記事に「卒業生が出品した展覧会で、高村光太郎と共に新進彫刻家として注目を集めた。」とありますが、当方が資料を持っているところでは、明治34年(1901)に美術学校校友会倶楽部で開催された「彫塑会第二回展覧会」。図録がこちら。
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光太郎と本保の作品が連番になっています。本保の作はこちら。
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改めて引っ張り出して見て、「あれっ」と思いました。上記記事の画像に写っている「若菜売」は上半身のみですが、こちらは全身像です。別の作なのか、鋳造する際に上半身だけとしたのか、何とも不明ですが。

前年の第一回展にも光太郎、本保、ともに作品を出しているようです。

本保と光太郎、他にも縁があります。

光太郎は、明治39年(1906)から欧米留学に出、初め、1年余りニューヨークに滞在しました。その間、現地の彫刻家、ガッツオン・ボーグラムの助手を短期間務めました。それに先立つ明治37年(1904)、本保も渡米し、ボーグラムの助手となっていました。ただ、翌年に本保はパリに渡り、明治40年(1907)には彼の地で客死しており、同41年(1908)に渡仏した光太郎とは、直接会えなかったようです。本保がボーグラムを光太郎に紹介した、というわけでもなさそうです。

パリでの本保は、ロダンに認められ、サロン出品も果たしたそうですが、その半年後、32歳の若さで結核のため没したとのこと。やはり光太郎より先にパリに渡っていた荻原守衛が、その最期を看取ったそうです。

その本保の作がまとまって出品されているということで。

令和3年度国立美術館巡回展 国立西洋美術館コレクションによる 高岡で考える西洋美術-〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき

期 日 : 2021年9月14日(火)~10月31日(日)
会 場 : 高岡市美術館 富山県高岡市中川1丁目1-30
時 間 : 9:30〜17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 1,200円(団体・シニア 900円) 高校・大学生 600円(団体 480円)
      小・中生 300円 親子券 1,400円(大人 1名、小・中生迄 2名のセット券)

2021年(令和3年)9月10日(金)から10月31日(日)の間、令和3年度国立美術館巡回展 国立西洋美術館コレクションによる 高岡で考える西洋美術 -〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき が開催されます。臨時休館に伴い、会期は10月31日(日)まで、延長されました。

国立西洋美術館は、1959年(昭和34年)に開館以来、松方コレクションをはじめとする良質な西洋美術の作品及び資料を収集・展示し、調査研究・保存修復・教育普及等の活動を行っています。

本展では、国立西洋美術館のコレクション形成史に触れつつ、西洋のルネサンスから20世紀初頭までの優品を紹介するとともに、異なる地域の背景をもちながら1951年(昭和26年)に創立された高岡市美術館のコレクションと並べて展示し、これらを双方向的に照らし合わせる新たな試みによって、歴史あるそれぞれのコレクションの意義、地域と美術の関係性をあらためて問い直します。

日本が西洋への扉を開いた明治時代、高岡は二人の先駆者を輩出しました。1900年パリ万国博覧会の事務局長を務めた林 忠正と、留学先で彫刻家・ロダンにめぐりあった本保義太郎。彼らを手掛かりに、近代以降の日本に流入した西洋美術の源流を探ります。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

原稿終り、清書、丁度10枚になる、「婦人之友」宛のもの。


昭和26年(1951)1月29日の日記より 光太郎69歳

湯治的に滞在していた、花巻南温泉峡・大沢温泉さんでの一コマです。「原稿」はエッセイ「山の春」。温泉旅館で執筆、「文豪あるある」ですね。当方もやってみたいものですが(笑)。

一昨日、昨日と、富山県富山市に行って参りました。富山県水墨美術館「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」にうかがうためでした。
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まずは10月7日(木)、最終準備の最中にお邪魔しました(といっても本当に邪魔はしていません(笑))。
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主催に名を連ねるチューリップテレビさんの取材が入っていました。

その報道がこちら。一昨日のローカルニュースですね。

「画壇の三筆」展 開幕に備え準備進む/富山

 明治から昭和にかけて活躍した同世代3人の芸術家の作品を集めた展覧会「画壇の三筆」展が8日から県水墨美術館で開かれるのを前に会場では準備が進められています。
 チューリップテレビ開局30周年を記念して開かれる「画壇の三筆」展は明治・大正・昭和と連なる日本の近代美術のなかで同じ時代を生きた3人の芸術家にスポットをあてています。
 絵画や詩のほかに書も手がける高村光太郎、97歳まで絵筆を握り続けた画家の熊谷守一、そして自由奔放な色彩と筆をもつ画家の中川一政の足跡を辿る三人展は前例のない企画です。
 県水墨美術館・中川美彩緒館長「今何かと世の中緊張する出来事や気を使うことが多い中で本当の意味で心安らかにして遊ばせる、素直に見ていただけると大変楽しめる展覧会だと思う」。
 書作品に加え墨彩画や彫刻など3人の力作114点が並ぶ「画壇の三筆」展は8日から来月28日まで富山市の県水墨美術館で開催されます。
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まだ無観客の状態でしたので、出品作品をゆっくり鑑賞。
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書作品は、初めて拝見したものもありますが、大半は全国各地で単品で見たもので、そのうちのかなりの部分、当方が関わって出品にこぎ着けました。それらが一堂に会し、感無量でした。

光太郎に関しては、ブロンズや木彫も出品。
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ブロンズはともかく、木彫は複数まとめて見るのは久々で、涙が出そうになりました。書にしてもそうですが、旧友たちに再会したような(笑)。

このうち、新発見の「蝉」については、雑誌『美術の窓』さんの11月号に拙稿が載る予定ですので、その折にまた。

熊谷と中川。彼らの作品をまとめて見るのは初めてでした。
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出品目録がこちら。
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かなり点数が多いのですが、光太郎、熊谷、中川と、三者三様ですので、飽きの来ない構成になっています。

その夜は富山駅前のビジネスホテルに宿泊。夕食は、館長さん、企画会社の高松氏と三人で。主に美術の話で盛り上がりました。これまでステイホーム期間が長く、そうした話をする機会がほぼありませんでしたので、新鮮でした。

昨日、10月8日(金)は開会式。県知事さんたちと一緒に、ひな壇に座らされてしまいました(笑)。
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テープカットの後、一般公開開始でした。
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地方紙『北日本新聞』さんから。

画壇の三筆展が開幕 県水墨美術館

 明治から昭和期にかけて画家や詩人として活動した3人の足跡をたどる「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」が8日、県水墨美術館で始まり、来館者は自由奔放で飾らない美の世界を堪能した。11月28日まで。
 3人の作品を一堂に集めた企画展は今回が初めてとなる。西洋美術の波が押し寄せる中、日本の心を求め、独自の作風を追求した画家たちの多彩な活動を伝える。
 同展では会場を3章に分け、画家ごとに書や油彩画、陶芸、彫刻作品など約120点を展示。柔らかなにじみが目を引く熊谷守一の書「無一物」や、木彫家の父光雲を表現した高村光太郎のブロンズ像「光雲一周忌記念胸像」、鮮やかな色彩が印象的な中川一政の油彩画「向日葵(ひまわり)」などが並ぶ。
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図録がこちら。
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出品全作品の画像と、論考等の文章など。総論的に、東京学芸大学の萱のり子教授の「「ありのまま」を味わう」、光太郎に関しては、当会会友の渡辺えりさんによる「光太郎と父」、鳥取大学の住川英明教授で「光太郎書とその変遷」。定価2,200円はお買い得です。

会期は11月28日(日)までと、長めです。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

樋口文正氏青年一人と迎へに来る、一緒に水沢行。文化ホールにて成人の日の講演(夜になる)後料亭にて座談会、 公民館長さん自宅に宿泊 夜二時になる。

昭和26年(1951)1月15日(金)の日記より 光太郎69歳

「樋口文正氏」は正しくは「樋口正文氏」。水沢町は現・奥州市。大谷翔平選手の故郷です。

成人の日は昭和23年(1948)の制定。光太郎の講演を聴いたこの年の新成人、ある意味、贅沢ですね(笑)。

昨日から、富山県富山市に来ております。
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富山県水墨美術館さんで今日始まる「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の最終準備にお邪魔。
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書の数々や、「白文鳥」、新発見の「蝉」などの彫刻などをじっくり拝見しました。今日はこれから同展の開会式に行って参ります。

詳しくは帰りましてから。

昨年開催予定だったのですが、コロナ禍とのため中止となり、改めて開催される運びとなりました。

チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展

期 日 : 2021年10月8日(金)~11月28日(日)
会 場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777
時 間 : 午前9時30分から午後6時まで
休 館 : 毎週月曜日、11月4日(木)
料 金 : 一般:1,200円(1,000円)/大学生:1,000円(700円)
       ( )内は20人以上の団体料金 


 「書は最後の芸術である」――高村光太郎晩年のこの言葉に引き寄せられるように、「画壇の三筆」と題して、熊谷守一(画家)、高村光太郎(詩人・彫刻家・画家)、中川一政(画家)の三人展を開催します。
 明治・大正・昭和へと連なる日本の近代美術の展開のなかで、ほぼ同時代を生きた三人の芸術家。その作品は、〈西洋〉化する日本の美術と〈東洋〉的な精神との折衝のなかから出現した、《模倣を嫌う》確固たる日本人の絵であり、彫刻であり、その書にはそれぞれの芸術観がよくあらわれています。
 本展では、書作品に、日本画、墨彩画、彫刻、陶芸を加えて、三人の芸術の足跡を辿ります。生涯にわたって美の理想を問い続けた三人の日本人芸術家が到達した、究極の表現世界をご覧ください。
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関連行事

映像で見る三巨人 会場:映像ホール 各日①11:00~ ②14:00~ 各回先着50名
 Ⅰ.「モリのいる場所」          10月9日(土)  11月7日(日)
     熊谷守一夫妻の日常を描いた傑作。 出演:山崎努 樹木希林
 Ⅱ.「高村光太郎」               10月10日(日) 11月13日(土) 
     ブリヂストン美術映画シリーズより
 Ⅲ.「中川一政生誕百年 記念番組」     10月17日(日) 11月6日(土)
     制作:北陸放送・北陸スタッフ

ギャラリートーク 会場:展示室1.2 要観覧券
 ① 10月16日(土)   講師:徳井静華氏(白山市立松任中川一政記念美術館学芸員)
 ② 11月3日(水)   講師:高松源一郎氏(ギャラリー晴耕雨読代表)
 ③ 11月21日(日)   講師:富山県水墨美術館学芸員

美術界の中で「書」もよくした三人の芸術家の、「書」を中心とした展覧会です。他にも「書」で有名な美術家は少なからず存在しますが、まぁ、とりあえずこの三人ということで。

1年半前にも書きましたが、展示すべき作品の選定、その貸借の交渉等に当方が協力させていただきました。最初に話があってから、足かけ3年程になるでしょうか。おかげさまで様々な機関や個人の方々にご協力いただき、本邦初公開を含む、いいものが集まりました。

しかし、苦労の連続でした。熊谷、中川の書は、大きい作品が中心ということで、光太郎もそうせざるを得ず、色紙等の小さなものはあまり出しません。そうなると、対象の絶対数が減ります。また、せっかくいいものをお持ちの団体さん等でも、他への貸し出しは行っていないとか、提示した貸借料で折り合いが付かなかったりとかで、借りられなかった作品が少なからずありました。また、昨年の段階では出品に応じていただける承諾を頂いていたのに、その後、所有者が手放してしまったという作品もあり、残念でした。

さらに云うなら、物理的に作品を運ぶ上で、所蔵先までの交通の問題で断念したケースもありました。作品の運搬には、ヤマト運輸さんの美専(美術品専門輸送)を使いますが、たった1点のために何百㌔㍍も距離を伸ばせない、ということで……。逆に、「××を貸して下さい」と交渉したところ、「こんなものも持ってますよ、一緒にお貸ししましょう」「おお、それは凄い、ありがたい!」というケースがありました。捨てる神あれば拾う神ありですね。こういう裏事情に詳しくなりますと、企画展もまた見る眼が変わってくるものです(笑)。

また、「書」以外にも、三人それぞれの「本業」、熊谷と中川に関しては絵画、光太郎は彫刻も出品されます。

これも一年半前に書きましたが、光太郎は新発見の「蝉」を含みます。他に、光太郎木彫の中で最も人気の高いうちの一つ、「白文鳥」なども。
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会期が結構長いというのもありがたい点です。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

デンキ会社関係の人三人来る、電燈布設の由にて請負の人と何課長とかいふ老人と世話人のやうな人となり。


昭和24年(1949)1月12日の日記より 光太郎67歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、光太郎が入居したのは昭和20年(1945)10月でしたが、3年以上ずーっと電気のない生活でした。山小屋が村の一番奥にあり、そこから先には一軒も民家が無かったせいもあります。で、この時期、光太郎を敬愛していた村人たちが、見るに見かねて電線を引いてあげようということになりました。

この年の光太郎日記は1月途中までしか現存が確認できておらず、残念ながら電気が通じた2月の記述が見られません。





光太郎実弟にして鋳金の人間国宝となった髙村豊周関連です。

まず、『中日新聞』さんの記事。

家持歌碑 高岡市に保管依頼 尾竹睦子さんの遺志継ぐ 長男・正達さん「肩の荷が下りた」

 万葉集を編さんしたとされる歌人大伴家持を顕彰して戦前に高岡市伏木で結成された「伏木家持会」が建立した歌碑の碑文銅板が、同市万葉歴史館で保存展示されることになった。万葉集愛好家の故尾竹睦子さんが保管していたが、長男正達さん(68)=同市宝町=が遺志を引き継ぎたいと10日、市に保管を依頼した。 (武田寛史)
 銅板は、太平洋戦争の金属供出を恐れ、建立を予定していた石雲寺喜笛庵(きてきあん)の縁側に隠し、1963年に銅板をはめ込んだ歌碑が完成した。しかし、風化した歌碑が倒れる恐れが生じ、会員だった万葉集研究家の田辺武松氏の三女睦子さんが銅板を家で保管していた。
 銅板は縦108センチ、横68センチで、揮毫(きごう)者は金沢市出身の国文学者(歌人)の尾山篤二郎。木彫家・高村光雲の三男で、詩人・高村光太郎の弟の鋳金家・高村豊周(とよちか)が制作した。
 碑文の歌は、家持が越中国守として赴任し伏木の地で詠んだ「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ」(訳・海に行くなら水に漬かる屍となり、山に行くなら草の生える屍となっても天皇の側で死ぬならば後悔はしない)。
 奈良時代に聖武天皇が大伴氏に期待する言葉に感動した家持が詠んだ長歌の一節。これに曲を付けた「海行かば」が戦争中に戦意高揚のために歌われた。
 正達さんは「肩の荷が下りた」と安堵(あんど)。高橋正樹市長は「銅板を大事にされたことに感謝したい」と話した。
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この記事で、元の制作年が書かれていなかったため、調べたところ、『北日本新聞』さん、『北国新聞』さん、さらに『富山新聞』さんに載った記事(すべて同一のようです)も見つけました。

家持の歌碑 万葉歴史館に 高岡・伏木で詠まれた「海ゆかば」 尾竹さんが保管依頼

  高岡市伏木国分の石雲寺に設置されていた昭和初期の「万葉歌碑」銅板が市万葉歴史館で保管されることになった。大伴家持(おおとものやかもち)が伏木で詠んだ「海ゆかば」で始まる長歌が記され、自宅で大切に保管していた市内の万葉愛好家が「碑を通じ家持が地元で詠んだ歌を広く知ってほしい」と望んでいた歌碑だ。10日に市役所で引き渡され、愛好家の願いがかなった。
 歌碑銅板を保管していた尾竹正達(まさたつ)さん(68)=宝町=が市役所に高橋正樹市長を訪ね、歌碑を引き渡した。縦108センチ、横68センチの銅板で、家持の「海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草むす屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ」が記されている。
 1940(昭和15)年、石雲寺の住職らが中心となり結成した「伏木家持会」が、地域住民の寄付を募って制作した。鋳金家の高村豊周(とよちか)が蝋(ろう)型鋳造で手掛け、歌人の尾山篤二郎(とくじろう)が碑文を揮毫(きごう)した。戦時中は寺の縁の下に隠されていたが、63(昭和38)年に境内に建立された。
 2015年に亡くなった尾竹さんの母・睦子さんが万葉集の普及に尽力しており、歌碑の劣化により倒壊の恐れがあったため、銅板を設置場所から取り外し、自宅で保管していた。長男の正達さんが受け継ぎ、歌碑の存在を知らしめたいとの生前の睦子さんの思いに応えるため、市に管理を依頼した。寄付者名を記した名板や伏木家持会の趣意綱領も引き渡された。
 歌碑銅板は10日から21日まで万葉歴史館で展示される。尾竹さんは「伏木で誕生した有名な万葉歌をあらためて知ってもらうきっかけにしたい」と話した。
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こちらの記事で、制作年が昭和15年(1940)だったとわかりました。

しかし、文治堂書店さんから刊行された『髙村豊周文集』全5巻に、この碑に関する記述が見当たりません。どうも記事にあるように戦時中は隠匿されていたということで、制作したことを大っぴらにできなかったということなのだと思われます。

碑文の揮毫をした尾山篤二郎は、光太郎より6歳年下の歌人。前田夕暮が創刊した『詩歌』に参加し、短歌に親炙していた豊周と親しかったようです。

『詩歌
』には光太郎も、明治末から昭和初めにかけてかなりの寄稿をしており、この頃から光太郎と尾山も面識があったのではないかと思われます。『高村光太郎全集』には、尾山に宛てた光太郎の書簡が一通掲載されています。昭和20年(1945)8月29日付です。

おはがき忝く拝見、先日は図らず異郷にてお目にかかり一種の感慨を覚え申候。廿六日朝には硯其他御持参下されし由、小生等早朝の出発と相成り失礼仕候、貴台には降雪前御引上の予定とのこと、小生未だ当地方の人情風俗に通ぜず、ともかくも越年可致候、

先日は図らず異郷にてお目にかかり」は、8月25日、盛岡市の県庁内公会堂多賀大食堂で開催された「ものを聴く会」の席上。光太郎が講演をし、盛岡に疎開していた尾山がそれを聴きに駆けつけたことを指します。

揮毫された文字を蠟型鋳金でブロンズパネルにする手法は、豊周が工夫して編み出しました。最初の例は昭和2年(1927)、信州小諸の懐古園に建立された島崎藤村の詩碑。のちに光太郎詩碑の幾つかも、この手法で豊周やその弟子、西大由によって制作されています。

家持の「海ゆかば」。『中日新聞』さんの記事に「これに曲を付けた「海行かば」が戦争中に戦意高揚のために歌われた」とありますが、作曲者は信時潔。光太郎作詞の岩波書店店歌「われら文化を」(昭和17年=1942)、戦時歌謡的(というより式典歌)な「新穀感謝の歌」(同16年=1941)の作曲も手がけています。

こうして見ると、いろいろな人物がそれぞれの人生を生き抜く中で、交錯し、繰り返し関わり合っているのだな、という感があります。

それにしても、この銅板、よくぞ保存しておいて下さっていた、という気がします。そして戦時の馬鹿げた金属供出……。そのせいでどれだけの貴重な作品が失われたことか……。二度とこんな時代に戻してはいけないと、改めて思いました。

【折々のことば・光太郎】002

夜風北窓より入りて涼し。 夜はれ渡る。月を見る。 此位の月なり。

昭和21年(1946)7月23日の日記より 光太郎64歳

この日の日記はイラスト入りでした。

「北窓」は、昨日のこの項でご紹介した、壁を自分で刳り抜いた窓です。

だんだんと新着情報も戻りつつあります。富山県の地方紙『北日本新聞』さん。
 

令和の匠 岩崎努(いわさき・つとむ)さん(47) 木彫家

■本物以上の美を求め002
 大きな窓に向かい、制作中のブドウのレリーフに取り掛かる。のみの刃を入れるたびに、 波打った葉や張り詰めた実が輝きを増す。無言で木と向き合いながら、命を吹き込んでいく。
 井波彫刻で培った伝統的な技術を生かし、レリーフや彩色木彫、肖像彫刻を手掛ける。
 作品は全て、1本の木材から彫り出す「一木(いちぼく)造り」。木の繊維に沿ってのみの刃を入れ、艶を引き出す。確かな技術で作る写実性の高い作品は東京の三つ星フランス料理店に飾られるなど、和洋を問わず空間に彩りを添える。 目指すのは高村光雲ら明治時代の彫刻家。
 武蔵野美術大在学中に作品を目にし、圧倒的な写実表現に言葉を失った。「この時代のクオリティーをよみがえらせることができたら、どこでも戦える」。逃げ場のない写実表現の世界で勝負することを決めた。
 井波彫刻師の父の元に生まれ、ごく自然に彫刻の道を志した。大学卒業後は彫刻家の多田美波さん(東京)の研究所で2年間働いた。井波に戻って父の下で修業を積み、8年後に独立。より写実的な表現を追求し始めた。
 ほどなくして、 富山市岩瀬地区を「芸術村」にする構想を知った。異分野で活躍する同世代の作家たちと切磋琢磨(せっさたくま)できる環境は魅力的だった。
 だが、父からは反対された。「木彫刻をやるのに井波を出る必要があるのか」。名の通った井波の地を離れ、家族を抱えて生活できるのか心配され、勘当に近い形で父と別れた。
 岩瀬に移り住んで12年。 順風満帆だったわけではない。写実性を追求すると制作に時間がかかり、値段は上がる。価値を認めてもらうのは難しく、しばらくは安定して注文がある天神様の制作で生計を立てた。
003 転機は4年ほど前、柿をモチーフにした彩色木彫を発表したことだった。明治時代の牙彫(げちょう)師、安藤緑山(ろくざん)が作る野菜や果物の彩色彫刻が昔から好きだった。
 安藤のように姿形だけでなく質感まで再現するリアルな造形を突き詰めた。
 「日本らしさを凝縮して世界に発信したい」。柿は「国果」とも言われる。日本の木を使い伝統の技を駆使した精巧な作品は口コミで広まった。顧客が増え、生活のめどが立ったことで、父とのわだかまりも消えた。
 昨年12月、「嘉来(かき)」と題した柿の彩色木彫2点を京都の清水三年坂美術館に収めた。幕末・明治の名作がそろう同館に認められるのは長年の目標だった。念願がかない「ある基準までは来た」と思う。「でも、まだまだ行ける」 「写実」は対象を写し取ることではない。「そのものらしさを表現する中に、自分が出ている」。大胆にカーブを描く枝、黒い傷のある実、枯れてくしゃりと折れた葉-。「嘉来」は自分が美しいと感じる柿の姿を重ね合わせた集大成。実物以上の「柿」を目指した。
 今は国内外から注文があり、1年以上待ってもらうことも珍しくない。それでも「 目指すところには遠い」。伝統技術をベースに自分らしい「写実」を追求し続ける。

光雲ら明治の彫刻家を範とし、「この時代のクオリティーをよみがえらせることができたら、どこでも戦える」とする意気や良し、ですね。

「具象」と「抽象」という問題を考えた時、たしかに「抽象」には逃げ場が存在します。わけのわからない表現でも、「抽象だから」の一言で済んでしまうような……。作者が意図せず偶然に生まれたような表現を、さも苦心の末に編み出した表現だ、などとする不届き者もいそうな気がします。

その点、「具象」、特に「写実」は、そういうわけにはいきません。まず実物に似せなければなりませんし、ただ似ているだけでも不可。「似せよう」という意識が厭味に残らず、実物以上に実物、という域に達しなければ、「写実」に取り組む意味がないのではないでしょうか。

光太郎も散文「彫刻十個條」で、「似せしめんと思ふ勿れ。構造乃至肉合を得ばおのづから肖像は成る。通俗的肖似をむしろ恥ぢよ。」と書いています。これは肖像彫刻を念頭に置いての言ですが、実物写生にも当てはまるのではないでしょうか。

守旧にとどまることなく、伝統を更に発展させようとするこうした取り組み、応援していきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

木竹諧和  短句揮毫  昭和23年(1948) 光太郎66歳

花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に、花巻病院長・佐藤013隆房や村人たちの厚意で、それまで無かった風呂場が作られました。風呂は鉄砲風呂と呼ばれるタイプ。水の中に金属製の筒が入っており、その中で薪を燃やすことで湯を沸かします。

その風呂桶を造ったのが花巻一の桶造り職人、大橋喜助。光太郎はお礼にと、この句を揮毫した書を贈りました。「諧和」は「やわらいで親しみあうこと」の意。木や竹などの材料を「諧和」させる見事な匠の技へのオマージュですね。

しかし、せっかく造ってもらった風呂でしたが、薪を大量に消費せねばならず、結局、あまり使われませんでした。

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左の画像はその現物です。竹は箍(たが)の部分に使われています。






2020/4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。

2021/3/26追記 本展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。


富山県から企画展情報です。チケット販売会社さん等のサイトには、既に今月初めくらいから記述がありましたし、ポスターやフライヤー(チラシ)は既にこちらに届いていたのですが、正式な館のHPに昨日アップされましたので、解禁かな、というわけで。新型コロナの関係で延期とか中止とか、そうならないかと思っていたところ、とりあえず予告が出まして、ほっとしています。

チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展

期 日 : 2020年5月22日(金)~7月12日(日)
会 場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777番地
時 間 : 午前9時30分~午後6時00分
休 館 : 月曜日
料 金 : 前売り一般1,000円 当日一般1,200(1,000)円 大学生1,000(700)円 ( )内20人以上の団体


「書は最後の芸術である」――高村光太郎のこの言葉に引き寄せられるように、「画壇の三筆」と題して、熊谷守一(画家)、高村光太郎(詩人・彫刻家・画家)、中川一政(画家)の三人展を開催します。明治・大正・昭和へと連なる日本の近代美術の展開のなかで、ほぼ同時代を生きた三人の芸術家。その作品は、<西洋>化する日本の美術と<東洋>的な精神との折衝のなかから出現した、《模倣を嫌う》確固たる日本人の絵であり、彫刻であり、その書にはそれぞれの芸術感がよくあらわれています。本展では、書作品に、日本画、墨彩画、彫刻、陶芸を加えて、三人の芸術の足跡を辿ります。生涯にわたって美の理想を問い続けた三人の日本人芸術家が到達した、究極の表現世界をご鑑賞ください。

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関連行事

映像で見る三巨人 会場:映像ホール 各日①11:00~ ②14:00~ 各回先着100名

 Ⅰ.「モリのいる場所」          5月23日(土)  6月21日(日)
     熊谷守一夫妻の日常を描いた傑作。 出演:山崎努 樹木希林
 Ⅱ.「高村光太郎」             5月24日(日)  6月27日(土)
     ブリヂストン美術映画シリーズより
 Ⅲ.「中川一政生誕百年 記念番組」 5月31日(日)  6月20日(土)
     制作:北陸放送・北陸スタッフ

ギャラリートーク 会場:展示室1.2 要観覧券
 ① 5月30日(土) 講師:徳井静華氏(白山市立松任中川一政記念美術館学芸員)
 ② 6月14日(日) 講師:高松源一郎氏(ギャラリー晴耕雨読代表)
 ③ 7月5日(日)   講師:富山県水墨美術館学芸員 


光太郎、熊谷守一、中川一政、三人の書作品を軸とする展覧会です。

このうち熊谷と中川の書は、ほぼほぼまとめて所蔵されているところからの借り受けだそうでしたが、問題は光太郎。駒場の日本近代文学館さん、花巻高村光太郎記念館さん、そして今年1月に亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生宅以外は、どこにどういう書作品が所蔵されているのか、よくわからないとのことでした。

そこで当方の出番となりました。全国のめぼしい光太郎書作品、それから彫刻や絵画も出したいというので、そうしたものの所蔵先(団体・個人)を紹介したり、ところによっては借り受けの交渉に同行したりしました。

これがなかなか大変でした。まず、熊谷、中川の書は、大きい作品をたくさん出すということで、光太郎についても基本的には大きな書、という制約(結局は色紙や短冊も出しますが)。次に、せっかく素晴らしい大きな書を持っている館さんでも「うちでは他館さんへの貸し出しは行っていませんので……」と断られることも。そして、やはり現実的な問題として、借り受け金額の問題。それで折り合いが付かず、断念したケースもありました。

そうしたハードルを何とか乗り越え、かなりの優品が集まりました。関係各位には大感謝です。また改めて詳細をご紹介しようと思っておりますが、本邦初公開(つまりは世界初公開)のものも複数ありますし、通常は各所蔵先の収蔵庫に入っていて、滅多に見られないものも数多く出ます。

というわけで、目玉だらけなのですが(笑)、まず1点だけ超目玉を挙げろ、と言われたら、その存在自体ほとんど知られていない、とんでもないものということで、下記でしょうか。

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書単体ではなく、木彫の蝉に書がついている形です。これまで、木彫の蝉は4点の現存が確認できていましたが、これは新発見の5点目です。実は4点のうちの1点が所在不明になっていまして、それがまた出てきたのかと最初は思ったのですが、違いました。

所蔵されているのは京都の古美術商さん。当方、平成27年(2015)に、拝見に伺いました。木箱、それから袋もついていまして、それぞれにまごうかたなき光太郎の筆跡と印(箱と袋も展示されます)。箱書きによれば、昭和6年(1931)作ということで、驚きました。これまで確認されていた蝉は、すべて大正末のものだったからです。もっとも、同じ木彫の「白文鳥」や「蓮根」も同じ頃の作なので、不思議ではありません。

そして袋(おそらく智恵子手縫いのものです)にしたためられているのは、他の木彫作品にもそうしたように、短歌――これもこれまで知られていなかった歌です。

遠く来るうねりはあをくとど崎の岩白くして蝉なきしきる

「とど崎」は、岩手県宮古市の魹ヶ崎(とどがさき)です。この蝉の作られた昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を執筆するため、まさに蝉鳴きしきる8月から9月にかけ、約一ヶ月の行程で三陸海岸一帯を旅した折の作でしょう。「三陸廻り」の「宮古行」の回(全十回連載の最終回)には、「やがて海が暮れかかる頃、新聞の写真で見たトド崎の灯台を通過する。灯台で赤ランプを出す。船が答へる。」とあります。

この三陸旅行中、智恵子の心の病が顕在化、危険回避のため、光太郎は木彫用の彫刻刀類をすべてしまい込み、以後、きちんとした木彫作品は作られなくなりました。したがって、もしかすると、現存が確認できている光太郎最後の木彫作品、ということになります。「白文鳥」、「蓮根」との前後関係が不明ですが(ちなみに「白文鳥」、「蓮根」も今回の展示に並びます)。だめもとでご紹介し、借り受けを依頼していただいたところ、他の所蔵作も一緒に貸して下さることになり、喜んでおります。

その他、単体の書でも、本邦初公開のもの等、しつこいようですが目玉だらけです。また折を見て、ご紹介します。

一部の方には、昨日ご紹介した『光太郎資料53』などとともに、フライヤー(チラシ)、それから招待券をお送りします。新型コロナ騒ぎが早く終息して、皆様に足をお運びいただきたく存じます。

2020/4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。

2021/3/26追記 本展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

【折々のことば・光太郎】

花は何でも好きですが、桜の花の明けつぱなしの趣は又他に類が無くて好きです。

アンケート「京都御室のさくら」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

下記は、自宅兼事務所から徒歩30秒の公園のソメイヨシノ。3月21日(土)の撮影で、昨日あたりはもう満開でした。

4月2日(木)、連翹忌の集いを開催するはずだった松本楼さんがある日比谷公園の桜も、今頃さぞ美しかろうと思います。来年以降、また皆様と桜を愛でたいものです。

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やっちまいました。

このブログ、元々、平成24年(2012)にyahoo!ブログでスタートしたのですが、yahooさんがブログサービスを廃止することになり、今年8月にライブドアさんに引っ越しました。

とりあえず過去の記事が無くなってしまうなどの大きなエラーはなく、無事に移転できたのですが、過去の記事は画像や文字のサイズ、表示位置などがおかしかったり、一部では文字化けもあったり、さらにはyahooブログ内にリンクを貼っている箇所は今年いっぱいでリンク切れになったりと、そのあたりを訂正せねばなりません。ほぼ毎日こつこつその作業をやっているのですが(1日に20日分が限界です。集中力がちません)、昨日、作業中に誤って(勘違いして)、消してはいけない画像をけっこう消してしまいました。まだライブドアさんのブログの機能がよく分かっていませんで……。その結果、先月から今月に書けての記事で、画像がまったくないという状態が生じています。途中で気がついたのでまだよかったのですが……。

PCに画像が残っているものなどは少しずつ復元していますが、もともとの過去記事の訂正もあり、余計な仕事を増やしてしまいました。今年中に終わるかどうか、というところです。

そうこうしているうちにも新着情報が続々。書籍をご寄贈下さったり、イベントのご案内を下さったりした方で、「まだ載っていないぞ」という方、済みません。順番待ちです。特にこの時期、「芸術の秋」ということでいろいろありますので……。

さて、本日の情報は、富山県から。

令和元年度文学講座「ゆかりの文学者」シリーズ

期 日 : 2019年11月2日(土) 11月9日(土) 11月16日(土) 12月1日(日)
会 場 : 
高志の国文学館 富山県富山市舟橋南町2-22
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料


【開催日及び講師】
 第1回 青鞜の10代社員、尾竹紅吉の天真爛漫な生き方
 開催日 11月2日(土)
 講 師 作家、エッセイスト 森まゆみ 氏
 
 第2回 田部重治の自然観と現代アメリカハイキング文化
 開催日 11月9日(土)
 講 師 ハイカーズデポオーナー 土屋智哉 氏
 
 第3回 山田孝雄先生に学ぶ-あゆみ・連歌・文法など-
 開催日 11月16日(土)
 講 師 「熱血あるものゝ黙視しうべき秋ならむや 山田孝雄」著者 神島達郎 氏
 
 第4回 吉井勇と高志びとたち-疎開日記をもとに
 開催日 12月1日(日)
 講 師 静岡県立大学国際関係学部教授 細川光洋 氏


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光太郎智恵子のその人ではありませんが、関連人物について取り上げられます。

まず、11月2日(土)の森まゆみさんによる尾竹紅吉。智恵子同様、『青鞜』の表紙絵を描いていました。富山の出身ということで、取り上げられるようですが、同じく富山で今年の8月、「とやま学遊ネット男女共同参画サテライト講座 「尾竹紅吉と『青鞜』」」という市民講座があり、その紹介をこのブログで致しました。紅吉についてはそちらをご参照下さい。

講師の森さん、『青鞜』についてのご研究もなかなかのもので、光太郎智恵子にも言及して下さった『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』『「谷根千」地図で時間旅行』などのご著書がおありの他、『青鞜』がらみのご講演などよくなさっているようです。

それから、12月1日(日)、細川光洋氏で吉井勇。吉井は『明星』、「パンの会」などで光太郎と親しかった歌人です。代表作「酒ほがひ」(初版・明治43年=1910、二版・昭和21年=1946)は光太郎の装幀です。そんなこんなで戦後も光太郎との交流は続きました。富山への疎開経験があるそうで。

細川氏には、「明星研究会」や「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」などでお世話になっております。

それぞれご都合の付く方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

若い魂のこれほど揃つてむきになつてゐる集団は、きつと公けの或る特殊の意味を作り出すであらう。途中でいゝ加減に利口になつて世渡りに眼がくらみさへしなければ、世間によくある小遣いかせぎに終る小展覧会とは違つた発達を遂げるであらう。
散文「「童顔社」を観た日の日記 下」より
大正14年(1925) 光太郎43歳

「童顔社」は、帝展に対抗し、伊藤廉、野間仁根、山本稚彦ら二十代前半の若者が無料で開いた在野展です。山本(父は光太郎の父・光雲の高弟であった山本瑞雲)と伊藤は、しばしば光太郎アトリエを訪れて議論したそうです。

智恵子がその創刊号などの表紙絵を描いた雑誌『青鞜』がらみです。

男女共同参画サテライト講座 「尾竹紅吉と『青鞜』」

期 日 : 2019年8月31日(土)
時 間 : 14:00~15:30
         富山県富山市新富町一丁目2番3号 CiCビル3F
料 金 : 無料
対 象 : 富山市内に在住か通勤・通学している方 定員30名(申込順)
講 師 : 黒﨑 真美さん(富山国際大学付属高等学校非常勤講師)

女性が自由に振る舞うことが難しい時代の問題を、作家の記述・作品を通して学びます。


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尾竹紅吉――なかなか数奇な生涯(特に前半生)を送った女性です。本名・一枝。明治26年(1893)、富山の生まれ。智恵子より7歳年下です。父は日本画家の尾竹越堂、叔父も日本画家で尾竹竹坡。本人も画家を目指し、上京して女子美術学校に入学しましたが程なく中退、平塚らいてうに心酔し、『青鞜』メンバーに加わります。智恵子の跡を継いでその表紙絵を描いたり、記事の執筆にもあたったりしました。

ところが天性の不思議ちゃんだったようで、『青鞜』誌上に、光太郎もパンの会の会合で使っていた鎧橋のメイゾン鴻乃巣で出された、比重の違う5種類の酒を順に注ぎ美しいグラデーションを作る「五色の酒」を紹介したり、吉原の遊郭で娼妓へのインタビューを行ったり(叔父の竹坡が唆したようですが)といった、当時としては破天荒な行動の数々。さらにらいてうと同性愛的な関係にもなったそうで、やがてらいてうと結婚する奥村博史を交え、奇妙な三角関係。結局、『青鞜』を去って行きます。

のち、光太郎の親友、バーナード・リーチと共に陶芸の世界で活躍した富本憲吉と結婚(大正3年=1914)。しばらく落ち着きましたが、戦後には別れています。

同じく『青鞜』の表紙絵を描いた関係で、智恵子と面識がありました。明治45年(1912)7月の『青鞜』には、智恵子がやはり『青鞜』メンバーの田村俊子とともに開催した「あねさまとうちわ絵」の展覧会評を書いています。概ね好意的に書かれていますが、やはり智恵子に対するライバル意識があったようで、少し辛口な部分も。

 「うちわ絵」は沢山青い壁に飾られてゐた。
 六十七本だつたと思ふ。プリミチブなのが随分あつた。けれど室に入るとすぐ「うちわ絵」の色が赤と白にはつきり分れてしまつた。
 強いと思つて見ると青い色と紫が横つちよから、のぞいてゐる。そして一度どつかで見せてもらつた様な気分が、終ひまで、しつこくつき廻つてゐた。どうかすると早稲田文学の色まで引張つて来そうだつた。自分で紙を張つた「うちわ」が面白いと思つた。
 ほかに色んなのが有つたが、渋団扇もあたりまへのも、岐阜団扇も三角のも絵馬のやうな形のも始めて生れて来たやうな姿のも、どれもみな地色が筆者によつて、より以上生かされてゐたのは心持がよかつた。
 長沼氏は、いろんな玩具に趣味をもつてゐられるさうだと或る友人が聞かせてくれたのを思い出すまもなく、「うちわ絵」を見ると同時に、氏の所謂、玩具の面白味のやうな気分が出てゐるのを見つけた。勿論色彩にも。
 いつかゴオガンのノアノアを見た時、うはづつた光りの中に、氏の「うちわ絵」と同じやうな明るさを見出したことも思出された。
 とにかく「アンプレツシヨニズム」なのだともいへさうだつた。紅地にチヤンチヤン坊主を墨でかいたのと、蛇の目の傘をあねさま二人の首がさしてゐるのが面白かつた。
 どれを一本と、殊更とりたてゝ買ふ気にはならないけれど、あの「うちわ絵」みんななら買つてみたいやうに思つた。

 
また、光太郎没後に、当会の祖・草野心平が編んだ光太郎智恵子の周辺人物による回想集『高村光太郎と智恵子』(昭和34年=1959)にも、紅吉(富本一枝)の「一つの原型」という智恵子回想が寄せられました。

 或る日、田村俊子さんが、長沼智恵子さんをともなつて、散歩のついでに訪ねてみえた。私は長沼さんとは初対面である。青鞜のいつかの集りにも見かけなかつたし、『青鞜』の表紙画を描いた人としか知つていなかつた。
 (略)
 長沼さんは、薔薇の花弁でふわりと包めそうな感じの人だつた。紫の荒い矢絣の袷に、びろうどの短いコートのような上着を着物の前で無造作に合せたかたちは、なんとも淑やかで美しかつた。やわらかいからだの線、ゆたかな白色の頬にしぜんの紅みがさして、かきあわせた襟元が清潔に見えた。口数がすくなくて、じかにものをいいかけにくく、私はいちいち田村さんにうけついでもらうような話し方しか、出来なかつた。ふわつとした包み声で、唇がいつしよにものをいわずに、口の中で言葉になり、そこでまた言葉が消えてしまう、そんな、もののいい方だつた。
(略)
 帰りぎわに田村さんが、そのうち、私を長沼さんのところに連れて行くといつた。私が「そのときに、画を見せてください。」というと、
 「遊びに来てくださるのはうれしいが、画は、自分ひとりのものだから誰にも見せない。」
と、断られた。
 私の画を見て、自分の画は見せない、と平気で断る神経に、どうしたわけか私はひどく感心した。
(略)
 長沼さんは見かけよりずつと強靱なものを内にしまつていた。童女のようにあどけなく、美しく澄んだあのつぶらな眼は、おのれひとりを愛した眼である。気質も肌合もまるでちがつてはいたが、田村さんにもおなじものが感じられた。



薔薇の花弁でふわりと包めそうな感じの人」、言い得て妙です。

さて、そんな紅吉に関する講座、智恵子にも触れていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

訳語の専門的に亙るもの、例へば、返相(へんさう)(Le Profil)、肉づけ(Le Modelé)、動勢(Le Mouvement)、面(めん)(Le Plan)、半調色(Le Demi-teinte)、量(Le Volume)などといふ類の多数は、多く自分で考へて適当だと思つたものをを造り又は慣用した。

雑纂「ロダンの言葉 凡例」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

訳書『ロダンの言葉』刊行に際し、巻頭に掲げた凡例から。「動勢」などの語は彫刻用語として、現在も広く使われているようです。

昨年から始まり、三井記念美術館さん、岐阜県現代陶芸美術館さん、山口県立美術館さんと巡回した展覧会です。 

驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ

期    日 : 2018年11月16日(金)~12月24日(月・振休) 
会    場 : 富山県水墨美術館  富山市五福777番地
時    間 : 午前9時30分から午後6時まで
料    金 : 前売り 一般のみ900円
            当日 一般1200(900)円 大学生900(650)円
         ※( )内は20名以上の団体 高校生以下無料
休 館 日  : 月曜日 ただし12月24日は開館

近年、明治工芸に対する注目度が飛躍的に高まってきました。七宝、金工、牙彫、木彫、漆工、刺繍絵画など、おもに輸出用としてつくられた工芸作品が海外から里帰りし、多くの人が瞠目するようになったのです。2014年から翌年にかけて、当館など全国6会場を巡回した「超絶技巧!明治工芸の粋」展は、そんな明治工芸再評価の機運を盛り上げるための画期的な展覧会でした。
大好評を博したその企画の第2弾として、明治工芸と現代アートの超絶技巧が対決する展覧会を開催します。明治工芸を産み出した工人たちのDNAを受け継ぎ、超絶技巧プラスαの機知に富んだ現代作家の作品も多数展示します。

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おそらく、これまでの巡回会場同様、光太郎の父・光雲作の木彫「布袋像」が展示されるものと思われます。

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その他、様々なジャンルの超絶技巧系。七宝、金工、牙彫、漆工、刺繍絵画などですが、明治期のそればかりでなく、現代作家による超絶技巧の復元や、さらに明治の技巧を凌ぐ作も。大竹亮峯氏の自在置物「鹿子海老」、髙橋賢悟うじによるアルミニウムを使った金工「flower funeral(花葬)」は、少し前にテレビ東京さん系の美術番組「美の巨人たち」で取り上げられました。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

民族の大いに動くとき、人は必ず詩を渇望する。澎湃たる民族の動きそのものが已に詩を意味するのである。

散文「田村昌由編「日本青年詩集」序」より 
昭和16年(1941) 光太郎59歳

太平洋戦争開戦直前ということもあり、若干(というかかなり)、きな臭い表現ではありますが……。

情報を得るのが遅れましたが、光太郎の木彫が出ている企画展です。 
会 場 : 富山県美術館 富山県富山市木場町3-20
時 間 : 9:30〜18:00
休 館 : 水曜日(祝日を除く)、祝日の翌日  9月24日、11月4日は臨時開館
料 金 : 一般1,300円(1,000円)大学生950円(750円)( )内20名以上の団体料金

古来より現在まで、多くの作品が「生命=LIFE」をテーマに生み出されてきました。古今東西の芸術家たちがこのテーマに関心を持ち、作品を通してその本質を明らかにしようとしてきたのは、それが私たち人間にとってもっとも身近で切実なものであったからにほかなりません。
本展は、富山県美術館(TAD)の開館記念展の第一弾として、アートの根源的なテーマである「LIFE」を「『すばらしい世界=楽園』をもとめる旅」ととらえ、「子ども」「愛」「日常」「感情」「夢」「死」「プリミティブ」「自然」の8つの章により構成し、国内外の美術館コレクションの優品を中心とした約170点を紹介するものです。ルノワールなどの印象派から、クリムト、シーレなどのウィーン世紀末美術、ピカソ、シャガールなどの20世紀のモダンアート、青木繁、下村観山などの日本近代絵画、折元立身、三沢厚彦などの現代アートまで、生命と美の深い関わりについて考察し、この富山県美術館でしか体験できない、新たなアートとの出会いを創出します。

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光太郎の木彫「蝉」(大正13年=1924)が出ています。

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複数現存している「蝉」のうち、「1」のナンバーのものですので、「展示作品リスト」には「蝉1」となっています。富山県内の個人の方が所蔵されています。

同館は先月のオープン。その開館記念ということで、気合の入った企画展です。日本中の美術館等から、古今東西かなりの数の名品が集められています。また、同時開催のコレクション展では、東京美術学校で光太郎が彫刻科を卒業したあと入り直した西洋画科での同級生・藤田嗣治の作品が目玉となっています。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

はじめて一人は一人となり、 天を仰げば天はひろく、 地のあるところ唯ユマニテのカオスが深い。

詩「脱卻の歌」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「ユマニテ」は「humanité」、「ヒューマニティー」の仏語です。「卻」は「却」の正字。連作詩「暗愚小伝」を書き終え、自らの戦争責任と、そこに到るこれまでの生涯を振り返り、光太郎は真に自らの進むべき道に開眼します。

各地で開催される市民講座的なもので、光太郎智恵子の世界を扱ってくださる企画がありますので、ご紹介します。

まずは、光太郎がその生涯の一番長い期間を過ごした文京区から。 

智恵子はるか―高村光太郎・その愛と美―

期 日 : 2016/05/12(木)~2016/06/09(木)[毎週木曜 全5回]
会 場 : アカデミー文京 学習室 
       東京都文京区春日1-16-21 文京シビックセンター地下1階

時 間 : 各回とも午前10時30分から正午まで
講 師 : 早稲田大学名誉教授 榎本 隆司氏
受講料
 : 3,000円
対 象 : 15歳以上の区内在住・在勤・在学の方(中学生を除く)
定 員 : 40名(抽選)
問合せ : アカデミー文京 学習推進係 03-5803-1119
内 容 :
没後60年。光太郎の絶筆は空襲により駒込林町のアトリエで焼失した彫刻等、数々の作品の覚書でした。長沼智恵子との愛に生き、独自の美を造形した光太郎の足跡を明らかにします。

反逆―パリから根付の国へ 05/12
愛と生命―『樹下の二人』ほか 05/19
人間界の切符―『風にのる智恵子』ほか 05/26
絶唱―『レモン哀歌』ほか 06/02
戦う光太郎―『おそろしい空虚』06/09

受付を終了させていただきました。定員に余裕がある場合は、2次募集を行います。詳しくは、下記へお問い合わせください。 アカデミー文京 学習推進係 TEL 5803-1119


もう1件、同じ文京シビックセンターさんでの開催です。 

特別公開講座「鴎外、漱石と平塚らいてう~千駄木の山の雑誌『青鞜』をめぐって~」

期 日 : 2016/05/14(土)
会 場 : 文京シビックホール 小ホール 
       東京都文京区春日1-16-21 文京シビックセンター2階

時 間 : 13:00 〜 14:40
講 師 : 作家・編集者 森まゆみ氏
受講料
 : 無料
対 象 : 15歳以上の区内在住・在勤・在学の方(中学生を除く)
定 員 : 300名(抽選)  
問合せ : アカデミー文京 学習推進係 03-5803-1119 
申込方法 
往復はがきに①特別公開講座・5月②住所③氏名(ふりがな)④年齢⑤電話番号⑥在勤者は勤務先名・所在地・電話番号、在学者は学校名と、返信用にもあて先を明記し下記へ 4月27日(水)必着
〒112-0003 文京区春日1-16-21 アカデミー文京学習推進係

内  容 :「『青鞜』の冒険-女が集まって雑誌を作ること」で第24回紫式部文学賞を受賞した作家森まゆみ氏による特別公開講座です。『青鞜』に関わった女性たちと谷根千ゆかりの文豪たちの人間模様をお話しします。


さらに、富山県高岡市から。 
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期 日 : 2016/05/07(土)~09/03(土) 毎月第一土曜日
会 場 : 高岡市生涯学習センター和室603、スタジオ401
時 間 : 14:00 〜 15:30
講 師 : 市民教授 茶山千恵子氏
受講料
 : 運営費1,500円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,000円(初回納付)

定 員 : 10名  
お申込み
氏名・住所・年齢・電話番号・講座名をお知らせください(リレー講座は受講希望講座名も)。
申込期間4月1日(金)~4月30日(土) 締切厳守 電話ではお受けできませんので、はがき(当日消印有効)〒933-0023 高岡市末広町1-7ウイング・ウイング高岡3階 Fax 23-0515 または 020-4666-1182 メールgakuyujyuku@yahoo.co.jp のいずれかでお申し込みください。


内  容 : 
彫刻家・高村光太郎と荻原碌山(守衛)は親友であり、互いに影響を与え合いました。高岡と関わりのある二人の軌跡を巡りましょう。
 5/7(土) 光太郎と守衛のパリでの出会い (和室)
 6/4(土) 光太郎と守衛、パリとロダン (スタジオ401)
 7/2(土) 光太郎と守衛のそれぞれの愛 (和室)
 8/6(土) 守衛の死後 (スタジオ401)
 9/3(土) 博物館門庭「女」の像見学会 (野外学習)



こうした動きがもっともっと広まって欲しいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

羊飼ひの背中に春の夕日かな    明治42年(1909) 光太郎27歳

イタリア旅行中の作です。ミレーの農民画を彷彿とさせられますね。

智恵子関連のイベント情報を2件ご紹介します。 

まずは福島・いわきから、智恵子紙絵の複製展示販売会です。 

甦る高村智恵子・紙絵の世界 光太郎への愛のメッセージ

期 日 : 2015年10月02日~10月05日
時 間 : 9時から18時まで
場 所 : 人形の東月いわき総本店2階フロア 福島県いわき市自由ヶ丘61-7
入場料 : 無料

高村智恵子紙絵の世界として智恵子が製作した紙絵の復刻版を展示即売いたします。
同時開催、「大リヤドロ展」「大掛軸展」

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もう1件、富山から市民講座です。 

市民大学たかおか学遊塾 高村光太郎・智恵子の世界を談ろう会

市民教授 : 茶山千恵子(ちゃやまちえこ)  富山県子どもと詩を楽しむ会 劇団「喜び」主宰 女優
時  間 : 土曜日 10:00~12:00  定員 10人
運  営 費 : 1,500円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,000円(初回納付)
会  場 : 高岡市生涯学習センター6階和室 
富山県高岡市末広町1番7号

高村光太郎『智恵子抄』を通して真実に生きる姿、愛について談り愛(かたりあい)ませんか?

 10/3(土) 高村光太郎詩集より
 11/7(土) 智恵子抄より①
 12/5(土) 智恵子抄より②
 1/9(土)  智恵子抄より③
 2/13(土) 高村光太郎の晩年

同じ茶山氏による講座「高村光太郎・智恵子の世界を語ろう」が、前期講座として5月から9月にかけて行われていましたが、後期講座として「語ろう」が「談ろう」になって開催されるようです。


こうした活動を通し、光太郎智恵子の名が身近に感じられるようになっていってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月1日

昭和26年(1951)の今日、雑誌『婦人公論』に散文「「樹下の二人」」が掲載されました。

「自選自解現代詩人代表作品集」というコーナーで、光太郎、佐藤春夫、室生犀星、堀口大学らの作品を集め、それぞれの詩の後に作者による解説を添えたコーナーでした。

光太郎は大正12年(1923)に書かれた詩「樹下の二人」について書いています。

 智恵子は東京に居ると病気になり、福島県二本松の実家に帰ると健康を恢復するのが常で、大てい一年の半分は田舎に行つてゐた。その年(大正十二年春)も長く実家に滞在してゐたが、丁度叢文閣から「続ロダンの言葉」が出てその印税を入手したので、私はそれを旅費にして珍しく智恵子を田舎の実家に訪ねた。智恵子は大よろこびで、二本松界隈を案内した。二人は飯坂温泉の奥の穴原温泉に行つて泊つたり、近くの安達が原の鬼の棲家といふ巨石の遺物などを見てまはつた。或日、実家の裏山の松林を散歩してそこの崖に腰をおろし、パノラマのやうな見晴しをながめた。水田をへだてて酒造りである実家の酒倉の白い壁が見え、右に「嶽(だけ)」と通称せられる(安達太郎山)が見え、前方はるかに安達が原を越えて阿武隈川がきらりと見えた。

文中、「大正十二年春」とあるのは「大正九年春」の誤りです。詩は大正12年(1923)に作られましたが、「続ロダンの言葉」の刊行は大正9年(1920)です。

詩は以下の通り。

    樹下の二人
 
   ――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――000

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。

 かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、

 うつとりねむるやうな頭(あたま)の中に、
 ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
 この大きな冬のはじめの野山の中に、
 あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
 下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

 あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
 ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
 ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
 ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
 無限の境に烟るものこそ、
 こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
 こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
 むしろ魔もののやうに捉へがたい
 妙に変幻するものですね。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。

 ここはあなたの生れたふるさと、
 あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
 それでは足をのびのびと投げ出して、
 このがらんと晴れ渡つた北国(きたぐに)の木の香に満ちた空気を吸はう。
 あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
 すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
 私は又あした遠く去る、
 あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
 私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
 ここはあなたの生れたふるさと、
 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
 まだ松風が吹いてゐます、
 もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。


明後日から1泊で二本松に行って参ります。初日はモンデンモモさんのコンサート、翌日は智恵子命日の集い、第21回レモン忌にお邪魔します。

昨日に引き続き、開催中の展覧会情報です。光雲作品が出品されているとのことですが、気付くのが遅れました。

北陸新幹線開業記念 お召列車と鉄道名画 ~東日本鉄道文化財団所蔵作品を中心に~

会 期 : 2015年8月21日(金曜)~9月27日(日曜)
会 場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777番地
休館日 : 月曜日(ただし9月21日は開館)
 間 : 午前 9時30分から午後5時まで(入室は午後4時30分まで)
観覧料 : [前売り]一般のみ800円 [当日]一般1,000円 大学生700円
主 催 : 「お召列車と鉄道名画」実行委員会(富山県水墨美術館、富山テレビ放送)
共 催 : 北日本新聞社
後 援 : 滑川市、滑川市教育委員会

関連行事
鉄道模型運行 場所 エントランスホール
運転日 会期中の日曜・祝日(8/23 30 9/6 13 20〜23 27)
運転時間 午後1時〜4時  見学無料

学芸員による作品解説
日時 8/22、9/5、19 いずれも土曜日 午後2時〜
※要展覧会観覧券


 この展覧会は、北陸新幹線の開業を記念し、美術と鉄道の関わりという視点から、JR東日本、東京ステーションギャラリーと鉄道博物館の運営母体である東日本鉄道文化財団の協力を得て開催します。
  「お召列車」は、天皇・皇后両陛下、皇太子殿下が乗車されるために運行される列車で、「御料車」は御乗用される車両の総称です。また、「御座所」は車両内でお座りになる場所を指し、その席を「玉座」と呼びます。
  本展は、この「御料車」に実際に用いられていた、工芸技術の粋が惜しみなく注ぎ込まれた装飾と玉座を紹介するとともに、蒸気機関車や機関庫など、鉄道の情景が描かれた作品や、鉄道をモチーフにイメージを膨らませて描かれた作品、昨年開業百年を迎えた東京駅が描かれた作品などの絵画を展示します。
  これら貴重な作品の数々が富山に一堂に会するのは、北陸新幹線の開業という二度とない機会だからこそと言えます。さらに、展覧会としてだけではなく、鉄道事業への理解を深める機会とします。

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同展について報じた『中日新聞』さんの記事です。

これがお召列車「玉座」 県内初 県水墨美術館で展示 新幹線開業記念 JR東から借り受け

北陸新幹線開業を記念し、美術品を通して鉄道が楽しめる企画展が、富山市五福の県水墨美術館で開かれている。九月二十七日まで。
 「お召(めし)列車と鉄道の名画」と題し、JR東日本(東京都渋谷区)や東日本鉄道文化財団(同)の所蔵品五十二点を借り受けた。今回、天皇、皇后両陛下がお座りになる「玉座」を県内で初公開している。
 玉座は、一九三三年に一脚、五九年にもう一脚が製作された。色調は控えめで、絹製のクッションに、金糸の装飾が施され、テーブルとともに展示している。
 ほかに、彫刻家高村光雲(一八五二~一九三四年)が制作、監督を務めた「お召列車」の食堂車の窓枠や、勢いのある筆遣いの洋画家長谷川利行(一八九一~一九四〇年)の油彩画「赤い汽罐(きかん)車庫」(一九二八年)などが並んでいる。
 学芸員の鈴木博喬(ひろたか)さん(48)は「特に、玉座はなかなか見られない。大人から子どもまで楽しめます」と来館を呼び掛けている。
 休館は月曜日。開館時間は、午前九時半~午後五時(入館は午後四時半)。一般千円、大学生七百円、高校生以下は無料。


というわけで、光雲作の窓枠が展示されているとのことです。

当方、鉄道マニアではないのでよくわからず、調べてみました。すると、「御召列車博物館」というサイトがあり、その歴史が年表になっていました。

そちらによると、光雲存命中に15回ほどお召列車の車両が作られています。光雲は明治20年(1887)に、皇居造営に伴う彫刻の仕事を命ぜられ、それがきっかけで飛躍していくのですが、その流れでお召列車の内装も手がけたのでしょう。

ただ、現在、最も詳細な光雲の年譜は、平成11年(1999)に中教出版から刊行された『木彫高村光雲』巻末のものですが、こちらにも記録がありません。まだまだ光雲の事績の全体像も不明のところが多いのが現状です。そこで、お召列車の仕事にも携わっていたと知り、「ほう」と思いました。

お近くの方、ぜひどうぞ。

他にも別件で光雲関連、ぽつぽつ報道が為されています。明日はそのあたりを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月30日

平成15年(2003)の今日、新人物往来社から沼口勝之著『裸像 小説・若き日の高村光太郎』が刊行されました。

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サブタイトルの通り、明治39年(1906)の欧米留学から、大正元年(1912)、智恵子と愛を確かめ合った銚子犬吠埼までの光太郎を描いた小説です。なかなかの力作、「ここはおかしい」という突っ込みどころも皆無だった記憶があります。

残念ながら版元の新人物往来社は吸収合併され、絶版ですが、古書市場では入手可能です。

一昨日からの流れがありますので、光雲ネタをもう一日続けます。

富山からの企画展情報です。 

チューリップテレビ開局25周年記念 超絶技巧! 明治工芸の粋

会 期 : 2015年6月26日(金曜)~8月16日(日曜)
会 場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777番地
主 催 : 明治工芸の粋実行委員会(富山県水墨美術館・チューリップテレビ)
休館日 : 月曜日(ただし、7月20日は開館)、7月21日(火曜)
  : 午前 9時30分から午後5時まで(入室は午後4時30分まで)
観覧料 : [前売り]一般のみ800円 [当日]一般1,000円 大学生700円 高校生以下無料
関連行事 : 日本美術応援団(山下裕二団長・本展監修者)のメンバーによるトークショー
       会場 富山県水墨美術館映像ホール 定員 120名 日時未定

 鋭い観察眼から生まれた本物と見まがうほどのリアリティ、文様をミリ単位で刻み、彩色し、装飾を施す繊細な手仕事。明治時代、表現力・技術ともに最高レベルに達した日本の工芸品は、万国博覧会にも出品され海外の人々を驚嘆させました。しかし、その多くは外国の収集家や美術館に買い上げられたため、日本で目にする機会にはほとんど恵まれませんでした。
 その知られざる存在となりつつあった明治の工芸の魅力を伝えるべく、長年をかけて今や質・量ともに世界随一と評されるコレクションを築き上げたのが村田理如(むらたまさゆき)氏です。本展では、村田氏の収集による清水三年坂美術館(京都)の所蔵品から選りすぐりの逸品を一堂に紹介します。並河靖之(なみかわやすゆき)らの七宝、正阿弥勝義(しょうあみかつよし)らの金工、柴田是真(しばたぜしん)・白山松哉(しらやましょうさい)らの漆工、旭玉山(あさひぎょくざん)・安藤緑山(あんどうろくざん)の木彫・牙彫をはじめ、京薩摩の焼きものや印籠、刺繍絵画など、多彩なジャンルにわたる約160点の優品をとおして、明治の匠たちが魂をこめた、精密で華麗な「超絶技巧」の世界をお楽しみください。

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昨年の東京三井記念美術館さんから始まり、これまで静岡佐野美術館さん、山口県立美術館さん、郡山市立美術館さんを巡回した展覧会です。

これまでと同じく、光雲の木彫「西王母」「法師狸」が並ぶとのこと。

他にも七宝、金工、自在置物、薩摩焼、象牙彫刻、漆工、刀装具などの逸品が目白押しです。


ちなみに会場の富山県水墨美術館さんは、平成15年(2003)には「高村光太郎と智恵子の世界」展を開催して下さいましたし、光太郎のブロンズ「薄命児男子頭部」(明治38年=1905)、「裸婦坐像」(大正6年=1917頃)を所蔵しています。


お近くの方、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月16日

昭和28年(1953)の今日、東京中野の料亭ほととぎすで、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型完成の報告会に出席しました。

像の制作のため、「十和田国立公園功労者顕彰会」という組織が結成され、光太郎のバックアップがなされました。そのメンバーに対しての報告会で、青森からは副知事の横山武夫が上京し、他に佐藤春夫夫妻、土方定一、藤島宇内、草野心平、小坂圭二、谷口吉郎が参加しました。

この時、光太郎が行った報告のためのメモ書きが現存しています。

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昨日に続き、光雲ネタで。

一昨日、富山の地方紙『北日本新聞』さんに載った記事です

日蓮像の完成を祈願し鋳造火入れ式 高岡・古城製作所が受注

 高岡市野村の古城製作所(大野政治社長)は、石川県七尾市の日蓮宗実相寺に建立される開祖・日蓮の銅像を受注した。13日、高岡市福岡町土屋の工場で、鋳造火入れ式が行われ、建立を計画した千葉県市川市の日蓮宗大本山、法華経寺の新井日湛貫首や大野社長らが無事な完成を祈った。9月に建立、開眼予定で、来年4月に奉納される。
 法華経寺は1260(文応元)年創建の日蓮が最初に開いた寺として知られる。実相寺は、145代の新井貫首が生まれ育った寺。今回は、2021年に日蓮の生誕800年を控え、来年は実相寺31代で新井貫首の祖父の50回忌となることから、12年に法華経寺に建立した日蓮像と同型の製作を古城製作所に依頼した。
 建立するのは、近代彫刻界の大家、高村光雲による日蓮像の原型を使った高さ約4メートルの銅像。台座を含めると約8メートルにもなる。火入れ式では僧侶2人が木剣を打ち、祈禱する中、職人が溶かした銅を鋳型の湯口に注いだ。
 大野社長は「立派な銅像に仕上げ、高岡銅器をアピールしたい」と話した。


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石川県の実相寺さんという寺院に、光雲が原型を作った日蓮像が建立されるという内容です。

この像は、鎌倉の長勝寺さんにあるものと同型で、他にも各地に建立されています。

静岡県富士市の妙祥寺さんにあることは、以前から存じておりましたが、千葉県市川市の中山法華経寺さんにも奉納されていたと、今回の記事で初めて知りました。そちらは今回と同じ高岡の古城製作所さんの鋳造だそうで、ホームページを見て驚いたのですが、同社の取扱商品のラインナップに今回の像が入っています。他の寺院、あるいは個人でも注文されたのかも知れません。

古城さんでは45㌢のミニチュア版も作っているとのことで、これには少し笑いました。泉下の光雲も苦笑しているのではないでしょうか。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月15日

昭和44年(1969)の今日、求龍堂から高村光太郎記念会編、『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』が刊行されました。

「高村光太郎賞」は、昭和32年(1957)、筑摩書房から最初の『高村光太郎全集』の刊行が始まった直後、実弟の豊周から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業にあてたいという意向が出され、始まったものです。

その規定を抜粋します。

一、故高村光太郎を記念し、造型及び詩の二部門に高村光太郎賞を設定する。
一、授賞対象となる作品は、主として、造型部門に於いては発表作品、詩部門に於いては詩集とする。
一、本賞設定当初の選考委員は、
 造型=今泉篤男、木内克、菊池一雄、高田博厚、谷口吉郎、土方定一、本郷新
 詩=伊藤信吉、尾崎喜八、亀井勝一郎、金子光晴、草野心平
 とする。

賞金は十万円。同一部門で複数の授賞が出た場合には折半、そして、永続的に行うのではなく、10回で終わる、とも定められました。

副賞として、光太郎が短句「いくら廻されても針は天極をさす」と刻んだ木の盆を、豊周がブロンズに鋳造した賞牌が贈られました。

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『天極をさす』の書名はここから採りました。

ところで、数年前にこの賞牌がネットオークションに出品され、ある意味、少し残念でした。出所もわかっています。

第一回の授賞式は昭和33年(1958)、最終第10回は同42年(1967)。10年間で造型部門17名、詩部門15名が授賞
しました。内訳は以下の通り。

造型部門は、柳原義達、豊福知徳、佐藤忠良、向井良吉、白井晟一、舟越保武、堀内正和、西大由、吾妻兼治郎、水井康夫、細川宗英、大谷文男、黒川紀章、一色邦彦、篠田守男、建畠覚造、加守田章二。

詩部門が、会田綱雄、草野天平、山之口貘、岡崎清一郎、山本太郎、手塚富雄、田中冬二、高橋元吉、田村隆一、金井直、山崎栄治、中桐雅夫、生野幸吉、中村稔、富士川英郎。

これらの人々の略歴を調べると、多くは「高村光太郎賞授賞」と記されています。また、造型部門の受賞者及び選考委員により、「連翹会展」が6回開かれました。

『天極をさす』は、高村光太郎賞の完了を記念して、上記受賞者及び選考委員、そして高村豊周の作品(造型系は写真)を掲載した大判の書籍です。

その後、箱根彫刻の森美術館さんで、具象彫刻を対象とした「高村光太郎大賞」が始まりましたが、どうも趣旨が違う、ということで、3回で終了しました。

富山県は高岡から市民講座の情報です。 

市民大学たかおか学遊塾「高村光太郎・智恵子の世界を語ろう会」

高村光太郎「智恵子抄」を通して、精神性や愛、又は二人の交友関係から芸術家との関わりより見えてくる生き方、真実に生きる姿、愛について談り愛(かたりあい)ましょう。

 間 : 土曜日 10:00~12:00  定員 10人
運営費 : 1,500円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,000円(初回納付) 
 場 : 高岡市生涯学習センター研修室504B 富山県高岡市末広町1番7号
 師 : 茶山千恵子市民教授 富山県子どもと詩を楽しむ会 劇団「喜び」主宰 女優
 5/9 (土) 高村光太郎について 6/13 (土) 高村智恵子について
 7/11(土) 二人の結婚生活     8/1 (土) 智恵子没後 
 9/12(土) 交友関係、高岡とのつながり

お申込み
 氏名・住所・年齢・電話番号・講座名をお知らせください。
 申込期間4月1日(水)~4月30日(木) 締切厳守  電話ではお受けできませんので、
 はがき(当日消印有効)〒933-0023 高岡市末広町1-7ウイング・ウイング高岡3階
 Fax 23-0515 または 020-4666-1182  

 メールgakuyujyuku@yahoo.co.jp  のいずれかでお申し込みください。


申し込み締め切りを過ぎてしまっているのですが、定員に達していないことがあるかもしれませんので、ご紹介しておきます。

こうした市民講座的なものでも、光太郎智恵子、光雲などについて、もっともっと取り上げていただきたいものです。関係者の皆さん、ご検討を。

講師のあてがない、という場合、日程さえ調整できればお引き受けしますし、ご紹介もできます。こちらまでご連絡下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月5日

明治34年(1901)の今日、雑誌『文庫』第百冊臨時増刊「松風」号に、光太郎を含む72名のアンケート「松籟颯々」が掲載されました。


『文庫』は少年園から刊行されていた、当時流行の投稿雑誌です。前月2日、上野韻松亭で『文庫』100号を記念して、投書家の集まり春期松風会が催され、その席上で出席者に用紙を配り、アンケート回答を募りました。

質問項目は次の通り。

一、年令  二、生地  三、職業  四、短所  五、長所  六、希望  七、嗜好  八、宗教  九、愛読の書  十、理想の人物(古人今人)

光太郎の回答は以下の通り。008

二、下谷区。
八、たゞ我が信ずる所。
十、砕雨。

十項目のうち、七項目は無視。これは全回答者のうち、最少です。「十、理想の人物(古人今人)」に対しての回答ですが、「砕雨」というのは、当時の光太郎が使っていたペンネームです。数え19歳の光太郎、自分の名前を挙げてしまっているわけです。やりますね。

富山県高岡市から企画展の情報です。

高岡市美術館開館20周年記念 メタルズ!-変容する金属の美-

期 日 : 2014年6月28日(土)~8月31日(日)
会 場 : 高岡市美術館 富山県高岡市中川1丁目1番30号
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
料 金 : 
一般1,000円(前売・団体・65歳以上800円)、
      高校・大学生700円(団体560円)
 小中学生300円(団体240円)

休 館 : 月曜日(月曜日が祝・休日の場合は開館し、翌平日に休館)
 
 金属器生産の長い歴史を持つ高岡から発信する展覧会。古代から現代に至るさまざまな金属造形・金属工芸作品を展示します。展示構成は、時間軸にとらわれずに、輝き、彩り、音など、金属の持つ特性や機能性に着目するなど、これまでにない切り口とします。
 
 本展は、400年にわたる金属器生産の歴史を持つ高岡からの発信として、高岡市美術館が企画し、金属産業とゆかりの深い地域の博物館・美術館と連携して開催します。各地の博物館・美術館のご協力のもと、古代から現代に至るさまざまな金属造形作品、金属工芸作品をご覧いただきます。
 その構成は、時間軸にとらわれずに、例えば、輝き、彩り、音など、金属の持つ特性や、道具、装飾などの機能性に着目するなど、これまでにない切り口とします。博物館・美術館がそれぞれの枠組みを超えて連携するのは画期的であり、美術界、さらには産業界に対しても「明日への提言」となる展覧会です。
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関連行事
 
○展覧会鑑賞と鋳造メーカー・作家アトリエ見学ツアー
第1回 7月11日(金)午後1時~5時
内容:展覧会鑑賞(学芸員による解説)/大澤美術鋳造所/般若鋳造所/畠春斎家
第2回 7月18日(金)午後1時~5時
内容:展覧会鑑賞(学芸員による解説)/株式会社老子製作所/平和合金株式会社/中村美術工芸
集合・解散 いずれも高岡市美術館  参加料 観覧券が必要
申込み 7月1日(火)午前9時30分から受け付け 
     電話(0766-20-1177)先着12名まで受付け 1回のみの参加も可能
 
○連続講演会
(1)「近代作家の工芸表現について」 7月19日(土)午後2時~3時30分
  講師 諸山 正則氏(東京国立近代美術館工芸館 工芸室長)
(2)「変容する金属の美」 7月26日(土)午後2時~3時30分
  講師 村上 隆(高岡市美術館長)
いずれも 高岡市美術館BF ビトークホール (聴講無料・申込不要)
 
○シンポジウム ・トークショー 「メタルズ!展を語ろう」
井浦 新氏(俳優、NHK日曜美術館キャスター)×村上 隆
パネルディスカッション「金属の美について語ろう」
 コーディネーター:村上 隆(高岡市美術館長)
パネリスト:大澤 光民氏(人間国宝 金工作家)  能作 克治氏(株式会社能作 社長)
      原田 一敏氏(東京藝術大学大学美術館 教授)
      平戸 香菜氏(金屋町金属工芸工房かんか 金工作家)
とき 8月10日(日)午後1時30分~4時10分(開場 午後1時)
ところ 高岡市生涯学習センターホール(高岡市末広町1番7号ウイング・ウイング高岡4F)
参加料 無料


富山県高岡市は、鋳造による「高岡銅器」の街として有名です。そちらで館長の村上隆氏自らが企画・監修されたという企画展です。約100点の、古代から現代に至るまでの金属造形作品が展示されているそうです。ネット上で出品目録が見つかりませんが、光太郎作のブロンズ彫刻「手」も出品されているとのこと。
 
また、関連行事ではNHK「日曜美術館」でおなじみの俳優・井浦新さんもご登場。
 
お近くの方、ぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月8日
 
昭和27年(1952)の今日、盛岡の岩手県公会堂で、ジャーナリスト・下村海南の講演会を聴きました。

先日のブログでふれた光雲の高弟・米原雲海がらみの情報です。『北日本新聞』さんの記事から。  

「清宵」高岡に“里帰り” 光雲弟子・米原雲海の木彫像

 高岡市の美術品収集家、荒俣勝行さん(70)が所有し、3月まで国登録美術品として東京国立近代美術館に預けられていた木彫像「清宵(せいしょう)」が高岡に“里帰り”し、24、25の両日、同市で行われる「高岡山町筋土蔵造りフェスタ」(北日本新聞社後援)で展示される。高村光雲の高弟、米原雲海(1869-1925年)が1907年に制作し、東京と西欧で高く評価された作品で、荒俣さんは「優しい表情が何よりの魅力。多くの人に見てもらいたい」と話している。

 国登録美術品制度は、優れた価値を持つ作品に、美術館で広く公開の機会を設けるために国が実施している。登録されると、文化庁の推奨する全国の美術館で展示される。

 「清宵」は稚児天神像で、東京勧業博覧会で1等、日英博覧会で金賞となった雲海の出世作。文化庁の調査員は「どの方向から見ても欠点がない」と評価した。雲海は岡倉天心の教えを受けており、美術史上の価値も高いという。

 荒俣さんは2001年に県内の古物商から入手した。文化庁による鑑定を受け、翌年、国登録美術品に選ばれた。島根県立美術館に5年、その後、東京都国立近代美術館に5年預けたが、「手元に置き、県内で公開したい」との思いからことし3月に登録を取りやめ、作品を引き取った。

 土蔵造りフェスタでは、同市木舟町の国重要文化財「菅野家」に展示し、24日は午後1時から、25日は午前11時から見学できる。「清宵」のみ、両日とも午後6時まで。入場には菅野家の観覧料が必要。
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「高岡山町筋土蔵造りフェスタ」は高岡市で恒例のイベントだそうです。土蔵造りの街並みとして国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている山町筋(やまちょうすじ)で「土蔵の家で所蔵のお宝展示」などが行われるとのこと。その一環として雲海の木彫が観られるようです。
 
高岡というと高岡銅器が有名で、彫刻と因縁浅からぬ土地柄、そういうつながりもあるのでしょう。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月23日

昭和8年(1933)の今日、光太郎・智恵子、正式に入籍しました。
 
二人が結婚披露宴を行ったのは大正3年(1914)暮。それ以来、世間の習慣に束縛されたくないということで、事実婚の状態でした。フランスでは事実婚は今も珍しくないそうで、光太郎の敬愛していたロダンとローズ・ブーレもそうでした。
 
日本でも智恵子と縁の深い平塚らいてうと奥村博なども大正元年(1912)から昭和16年(1941)まで事実婚状態でした。らいてうは長男の兵役に際し、「私生児」として不利益を被らないようにと入籍を決意したそうです。
 
光太郎の場合は、智恵子の統合失調症が関係しています。自分に万一のことがあった場合の財産分与などを考えてということだったそうです。

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