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石川は金沢の室生犀星記念館でのイベント(講座)の情報です。

『我が愛する詩人の伝記』を読む 第2回『高村光太郎』

期 日 : 2014年11月29日(土)  
時 間 : 午前10時~11時
会 場 : 室生犀星記念館 石川県金沢市千日町3-22
講 師 : 上田正行氏(同館館長)
 
※お電話でお申し込みください(室生犀星記念館:076-245-1108) 入館料が必要です。
 
 
『我が愛する詩人の伝記』は、昭和33年(1958)に雑誌無題『婦人公論』に連載され、同年単行本化された室生犀星の著書です。詩人としての犀星が間近に見た詩人達の、「伝記」というより「印象記」「回想」に近いものです。
 
取り上げられたのは12人。『婦人公論』掲載順に、北原白秋、光太郎、萩原朔太郎、釈迢空(折口信夫)、佐藤惣之助、島崎藤村、堀辰雄、立原道造、津村信夫、山村暮鳥、百田宗治、千家元麿です。
 
貴重な回想を含み、さらに犀星自身、そう書いているように「詩人の伝記を書いてゐるが、どうもすぐ自分のことを書いてしまふ」というわけで、犀星本人の人間像も浮き彫りになっている一冊です。
 
したがって、この書自体が研究の対象となることも多く、今回の講座でもそういうわけで取り上げるのだと思われます。ちなみに全6回の予定だそうで、白秋を扱った初回の講座は先月終了。今後、光太郎、朔太郎、釈迢空、立原道造と佐藤惣之助、藤村と千家元麿というラインナップになっています。
 
ちなみに今回の講座とは関係ないとは思うのですが、『我000が愛する詩人の伝記にみる室生犀星』(葉山修平著 龍書房 平成12年=2000)という書籍も刊行されています。
 
さて、『我が愛する詩人の伝記』の中で、光太郎がどう描かれているか、少し紹介しておきます。中心になっているのは、青年期の回想です。
 
犀星は光太郎より6つ年下の明治22年(1889)の生まれ。中央の詩壇にデビューするのも大正に入ってからと、光太郎のそれより後のことです。そこで、すでに名声を得ている先輩に対するやっかみのような、シニカルな見方が垣間見えます。
 
千駄木の桜の並木のある広いこの通りに光太郎のアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れ、白いカーテンの時は西洋葵の鉢が置かれて、花は往来のはうに向いてゐた。あきらかにその窓のかざりは往来の人の眼を計算にいれたある矜(ほこり)と美しさを暗示したものである。千九百十年前後の私はその窓を見上げて、ふざけてゐやがるといふ高飛車(たかびしや)な冷たい言葉さへ、持ち合すことのできないほど貧窮であつた。かういふアトリエに住んでみたい希(のぞ)みを持つたくらゐだ。四畳半の下宿住ひと、このアトリエの大きい図体の中にをさまり返つて、沢庵と米一升を買ふことを詩にうたひ込む大胆不敵さが、小面憎かつた。
 
また、そのアトリエをおとなったものの、実に三回にわたり、智恵子に追い返されたエピソードも語られています。
その時の智恵子を「夫には忠実でほかの者にはくそくらへといふ目附」と評しています。ちなみにまだこの時点では犀星と光太郎はお互い相知らぬ時期だったそうです。
 
しかし、何も光太郎智恵子をけちょんけちょんにけなしている訳ではありません。
 
光太郎の死は巨星墜つといふことばどほりのものを、私に感じさせた。巨星墜つといふばかばかしいことばが、やはりかれの場合ふさはしく、それだけ私は依然距たりをおぼえてゐたのだ。
 
ここだけ取り上げても伝わりにくいのですが、「距たり」といっても、「敬遠」とか「拒絶」ではなく、「脱帽」に近い感覚です。
 
このほかの部分にも、光太郎に対する敬愛の情がしっかり伝わってきます。また、遺された光太郎から犀星宛の書簡を見ると、光太郎の母が亡くなった際には犀星から心のこもった手紙が来たことや、逆に犀星の母(義母)の逝去に際しても、光太郎は衷心から哀悼の意を表しています。
 
先に挙げたシニカルな見方も、犀星が自らを偽悪家として韜晦する一面を見せているように思われます。そうした部分が、この書物自体、研究の対象として重要視されている一因でしょう。
 
『我が愛する詩人の伝記』、光太郎の回の最後はこんなふうに終わっています。
 
智恵子さん曰く、四十何年か前に見た人がまたいやなことを書いてゐるわね、なんてしつこい厭な奴!
 
 
さて、犀星記念館の講座。お近くの方、ぜひどうぞ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月22日
 
昭和2年(1927)の今日、詩人の尾崎喜八に絵葉書を送りました。
 
この時期の光太郎は、自作の彫刻を写真に撮り、絵葉001書にして使っています。この葉書もそうで、この時開催されていた大調和展覧会に出品していた塑像「某夫人の像」をプリントしています。
 
「某夫人」=智恵子です。文面は以下の通り。
 
 この間の夜は急用があつたので失敬しました。二三日前 大調和展へも来られたといふ事を千家君にききましたが その日も遅く行つたので会へないで残念でした。
 此の彫刻は誰も本当には認めませんが自分では信用してゐます。多くの芽を持つてゐると思ひます。
 
光太郎はこの他にも智恵子像を作っていますが、それらすべて、現存が確認できていません。ほとんど昭和20年(1945)の空襲で燃えてしまったと推定されています。
 
どこかからひょっこり出てこないかと期待しているのですが……。
 

芸術の秋、文化の秋、ということで、このところ光太郎に関連するイベントが盛りだくさんです。このブログ、それらの紹介と、足を運んでのレポートで、かなりネタを稼がせていただきました。今月に限っても、まだ三つ四つ、把握しているイベントがあるのですが、一旦そちらから離れます。
 
予定では今日から4回、新刊書籍をご紹介します。イベントの記事と比べると、速報性の意味であまり重要でないかなと思い、後回しにしていましたが、いつまでも紹介しないと「新刊」と言えなくなりますし、「こういう本が出ているのに気づいていないのか」と思われるのも癪ですので。

山に遊ぶ 山を思う

正津勉著  2014/9/30 茗渓堂  定価 1,800円+税
 
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著者の正津氏は詩人。山岳愛好家でもあります。その正津氏がこの十年ほどの間に歩いた全国の山々の紀行です。基本、白山書房刊行の雑誌『山の本』に「山の声」の題で連載されていたものに加筆訂正を加えたものだそうです。
 
単なる山岳紀行ではなく、それぞれの山と縁の深い文学者のエピソード、作品を紹介しながらというスタイルです。
 
さて、光太郎。
 
第12章の「詩人逍遥 赤城山――萩原朔太郎・高村光太郎」で扱われています。
 
光太郎は赤城山を非常に愛し、生涯に何度も訪れています。明治37年(1904)には、5月から6月にかけてと、7月から8月にかけての2回、計40日ほどを赤城に過ごしており、あとから合流した与謝野鉄幹ら新詩社同人のガイド役も買って出ています。また、昭和4年(1929)にも、草野心平らを引き連れて登っています。この時同行した詩人の岡本潤の回想に拠れば、光太郎は下駄履きで登っていったとのこと。ちなみに前橋駅で落ち合った朔太郎は登らなかったそうです。
 
こうしたエピソードや、赤城山に関わる光太郎の短歌などが紹介されています。
 
他にも宮澤賢治、更科源蔵、川路柳虹、竹内てるよ、大町桂月、尾崎喜八、風間光作、真壁仁といった、光太郎と縁の深い文学者のエピソードが盛りだくさんです。
 
先頃、『日刊ゲンダイ』さんに書評が載りました。
 
 北は北海道の離島に位置する利尻山から、南は薩摩半島の南端の開聞岳まで、日本全国30カ所の山々を歩いた詩人による山岳紀行。スポーツとしての登山ではなく、都会の喧騒から離れることで俗世間の煩わしさを忘れ、自然の中で心を豊かに遊ばせる山行きの楽しさを感じさせてくれる。
  特筆すべきなのは、それぞれの山にちなんだ詩歌や言葉など、先人の文学をあらかじめ下調べした上で山に向かっている点。たとえば、津軽富士と呼ばれる岩木山の章では、太宰治の「津軽」や河東碧梧桐の「三千里」、今官一の「岩木山」などの一節が紹介されているほか、地元詩人の方言詩などにも触れていく。
  群馬県の赤城山の章では、萩原朔太郎の「月に吠える」「蝶を夢む」「青猫」や、高村光太郎の「明星」、さらに草野心平や金子光晴の名も登場。自らの山行きを悠久の時を超えた先人の言葉と重ね合わせながら、より深く楽しんでいる姿が何とも味わい深い。

 
「高村光太郎の「明星」」には「おいおい!」と思いましたが、よく書けています。
 
ちなみに著者の正津氏には、他にも光太郎にふれたご著書がありますので、紹介しておきます。

人はなぜ山を詠うのか001

平成16年 アーツアンドクラフツ 定価2,000円+税  版元サイトはこちら
 
こちらも山と文学者の関わりについて述べたもの。第一章が「私は山だ……高村光太郎」。こちらでは上高地、安達太良山、磐梯山、そして花巻郊外太田村の山口山といった、光太郎が足を運んだり、作品でふれたりした山を追っています。

小説尾形亀之助 窮死詩人伝

平成19年(2007) 河出書房新社 定価2,200円+税   000版元サイトはこちら
 
光太郎と交流のあったマイナー詩人・尾形亀之助の評伝です。光太郎も登場します。帯には光太郎の亀之助評も。

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合わせてお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月16日
 
昭和20年(1945)の今日、光太郎の住む花巻郊外太田村の山小屋を、編集者の鎌田敬止が訪れました。
 
鎌田は岩波書店を振り出しに、北原白秋の弟・鉄雄が経営していたアルス、平凡社など、光太郎とも縁のある出版社を渡り歩き、昭和14年(1939)には八雲書林を創立しました。八雲書林は、戦時中に他の出版社と統合して青磁社となり、この時は青磁社の所属でした。さらに同24年(1949)頃に白玉書房を設立。休業中の龍星閣に代わって、『智恵子抄』を復刊しました。

新刊です。 
2014/10/1 東京大学國語國文学会編 明治書院発行 定価1,143円+税
 
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國語と國文學』。古典から近現代まで幅広く扱う雑誌です。巻末に「投稿規定」が載っていて、それによれば「本誌は広く国語国文学研究者の発表機関としてこれを開放し、大方のご投稿を歓迎します。」とあり、原稿依頼ではなく投稿で成り立っているようです。そういう意味では書けば載る大学の研究紀要などとは違い、載せてもらうためのハードルが高そうです。ただ、今号の目次、巻頭の「前号要目」「次号予告」等を見ると、大半が国文学の論文で、国語学に関するものはほとんど無いようです。
 
さて、今号には駿河台大学准教授、長尾健氏の論考「高村光太郎『道程』前期論――巻頭三作品の解釈を中心に――」が掲載されています。
 
今年、刊行100年を迎える詩集『道程』。明治43年(1910)から大正3年(1914)までの詩、76篇が載っています。内容的に、明治44年(1911)の「泥七宝」あたりを境に、前半と後半に分けて読み取るのが一般的です。前半は欧米留学から帰朝し、北原白秋、吉井勇らと「パンの会」の狂躁に身を投じたり、吉原の娼妓・若太夫や浅草のカフェの女給・お梅に入れ込んだりしていたデカダン生活の時期のもの。後半は智恵子との邂逅を経て、頽廃生活からの脱却、『白樺』的な人道主義の影響も見て取れる、表題作「道程」を含む作品群、といった区分けです。
 
長尾氏の論考は、前半、特に冒頭の三作品「失はれたるモナ・リザ」「生けるもの」「根付の国」を中心に展開されています。キーワードは「普遍的な美」「西洋でも日本でもないある絶対的な場所」「ナショナル・アイデンティティ」などなど。
 
雑誌専門の通販サイトfujisan.co.jpから購入できます。ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月19日
 
昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、栗ご飯を炊いて食べました。
 
「秋の味覚」、ですね。この日の日記に以下の記述があります。
 
四時過ぎ小屋にかへる、 栗をひろふ。 夜食、炊飯(栗めし)初めてなり。
 
この前後、光太郎が7年間暮らした太田村の山小屋周辺には栗の木がたくさん自生しており、時には音を立てて屋根に栗の実が落ち、拾い放題でした。村人もよく小屋の近くに拾いに来ていたそうです。
 
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日記はさらにこう続きます。
 
南瓜一個とり。煮る、美味とはいへず。
 
自分で栽培していたカボチャは今ひとつだったようです(笑)。

詩人の間島康子様から、このほど刊行された文芸同人誌『群系』の第33号「<特集>昭和戦前・戦中の文学」をいただきました。
 
間島様の論考「高村光太郎 ―のっぽの奴は黙っている」が、10ページにわたり掲載されています。
 
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以前にいただいた第32号掲載の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」もそうでしたが、卓見です。
 
「のっぽの奴は黙つてゐる」は、昭和5年(1930)、雑誌『詩・現実』に発表された光太郎の詩。その2年前に東京会舘で開催された光雲喜寿の祝賀会での一コマをうたったものです。
 
ただ、間島様の論は、この詩の解釈が中心ではなく、様々な場面で「黙つてゐる」光太郎についてといった趣です。巨匠として世俗的名声を得た父に対しての思い、戦時には意に添わぬ戦争協力詩を書かされている思い、戦後にはそれらを書かされていたことに対する思いなどなど。
 
自己に厳しい光太郎は、そうした思いのうち、自分の暗愚に対しては発言するものの、他に責任を転嫁しません。その結果が、花巻郊外太田村での「自己流謫(るたく)」。「流謫」は「流刑」の意味です。
 
そうした光太郎の「自虐」「孤独」に注目した間島様の論考、卓見です。『群系』さんのサイトから入手可能です。
 
ところで間島様、今年の連翹忌にご参加下さいました。その折の話や、その折に配布した資料などからも引用なさっています。運営している甲斐がある、と思いました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月31日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、実弟の豊周・君江夫妻、姪の珊子が訪ねてきました。
 
兄弟6年半ぶりの対面です。十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)制作のため、秋には上京することが決まっており、そのための打ち合わせ的な来訪でした。
 
豊周一家は昭和20年(1945)3月に、信州小諸に疎開。光太郎は「東京に天子様がいらっしゃる間は動かない」と、残ります。結果、4月には空襲でアトリエが全焼、やむなく5月には宮澤賢治の父・政次郎らの招きで花巻に移ります。
 
豊周の『定本光太郎回想』(昭和47年=1972 有信堂)の、この来訪時の記述が、笑えます。
 
 僕と家内と娘とが太田村の山小屋をたずねたのは、兄がいよいよ帰京するすこし前のことで、はじめ兄は、
「手紙で用が足りるから、わざわざ来なくてもいい。殊に君江さんの足では無理だ。」
と言って来ていたが、それでもこの頃開通したという自動車の地図など書いてある。口ではなんとか言っていても、内心は、一度連絡に来てもらいたかったのだ。
 
微笑ましいですね。

連翹忌ご常連で、詩人の豊岡史朗氏から、氏の主宰する詩誌『虹』の第5号を戴きました。
 
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豊岡氏による評論「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」が掲載されています。
 
題名にある北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』とは、平成21年(2009)に、北川太一先生の教え子の皆さん・北斗会の方々が出版にこぎつけたもので、平成19年(2007)11月、当時の文京区立本郷図書館鷗外記念室で開催された北川先生の講演に加筆修正されたものです。
 
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「観潮楼」というのは鷗外が団子坂上の自宅につけた雅号。ここが文京区立本郷図書館鷗外記念室だったところで、現在は文京区立森鷗外記念館となっています。駒込林町の光太郎アトリエとは指呼の距離です。
 
「一夜」というのは大正6年(1917)10月9日の夜。昨年、このブログの【今日は何の日・光太郎】の10月9日の項に書きましたが、この直前に、光太郎が鷗外の悪口を言いふらしている、という話を聞きつけた鷗外が、光太郎を呼び出したのです。会見の様子については、昨年10月9日の項をご覧下さい。
 
『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』は、この夜の出来事を中心に、光太郎と鷗外の交流を詳細に追っています。詩誌『虹』の「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」は、『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』の紹介、感想を軸に、さらに二人の留学体験、新たに開館した鷗外記念館などにも触れています。
 
ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月22日
 
平成3年(1991)の今日、徳島県立近代美術館で、企画展「日本近代彫刻の一世紀―写実表現から立体造形へ―」が開幕しました。
 
茨城県近代美術館と2館巡回での企画展。光雲の「観音像頭部」(明治28年=1895)、光太郎の「裸婦坐像」(大正5年=1916)、「手」(大正7年=1918頃)をはじめ、二人と関係する彫刻家の作品から現代彫刻までがずらっと並びました。

このブログでご紹介した阿部公彦氏著 『詩的思考のめざめ』厚香苗氏著『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』が新聞各紙の書評欄でも取り上げられていますので、ご紹介します。  

『詩的思考のめざめ』 阿部公彦著  

 かつて詩人は、黒いハンドバッグから現れた。
 
 地下鉄のベンチ、眠たい膝枕にことばが降る。やがてレールの削れる音がして、悲しい海底は消える。すぐそばで、見ているみたいだったね。人間の声にもどった母は、詩集を閉じ、子どもの手をひき、まぶしい電車に乗りこんだ。
 
 十年がひとむかしだったころは、そんなふうだった。ひとむかしがふた月ほどのいま、ハンドバッグには電話機がある。肉声は遠くなり、降水確率や星占いの画面を頼りにしている。
 
 阿部公彦さんは、詩の読解入門ではなく、むしろ門の外に誘うために、この本を書かれた。
 
 遠いありがたい「詩」の世界に一生懸命入っていかなくても、ふだんの日常の中に詩のタネは隠されている。
 
 だれかと抱きあうより、じぶんでじぶんを撫なでさすって、はやく安心したい。感じるより知りたい。美しいより正しいがえらい。読書に正解を求めるほど、詩とひとの通いあいは消える。
 
 けれども墓に追いやるには、詩はあまりに人間そのもの。詩というかこいの外にさえ、あたりまえにいる。阿部さんは、いまと昔のどちらにも中立に、ことばの外苑を案内していく。
 
 詩のことばは名を持たず、恥じらい、はずみ、反復し、連呼し、ときに隠れて黙りこむ。
 
 金子光晴、高村光太郎、宮沢賢治、萩原朔太郎、石垣りん、伊藤比呂美、田原でんげん、谷川俊太郎。
 
 詩人が刻む光陰に、どんなふうに腕をのばし、触れれば、めざめの扉を見つけられるでしょう。
 
 詩人と読者、ふたりきり。道行きを案内する阿部さんは、古い時計をなおすように、一語一句を分解し、作品のメカニズムをもみほぐす。
 
 礎だった詩はふたたび動き、新しい詩は朗らかな通訳者を得た。そして、この本を読むひとは、内容を解読しようとするこころの回路を切り、あどけない詩的身体を取りもどす。
 
 うごめくことばに触れてみる。張りつく熱と重い骨、耳もとの詩人の息を抱きしめる。
 
 ◇あべ・まさひこ=1966年、横浜市生まれ。東大准教授(現代英米詩)。著書に『文学を〈凝視する〉』。
 東京大学出版会 2500円
『読売新聞』
 
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『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』厚香苗〈著〉

◇洗練された相互扶助のシステム

 神社の縁日などで露店を連ね、綿あめやタコ焼きを売る「テキヤさん」。わくわくするようなムードを運んできてくれる、お祭りには欠かせない存在である。
 
 かれらはいったい、どこからお祭りにやってくるのか。映画『男はつらいよ』の主人公・寅さんもテキヤさんで、全国を旅している。そのイメージもあり、お祭りを追って旅から旅の毎日を送っているのかなと思っていたのだが、実はかれらは、基本的には近所(十二、三キロ圏内)から来ていたのだ!
 
 著者は実際にテキヤに同行し、関係者に取材をして、テキヤの縄張りやしきたりを調査する。また、近世・近代の文献や絵画を調べ、テキヤのあいだにどういう信仰や言い伝えがあるのかひもといていく。外部からはなかなか見えにくく、明文化されにくい、テキヤの日常や風習に見事に迫った一冊だ。
 
 縁日で、神社の境内のどこにどんな露店を配置するかを、だれが指示しているのか。縄張り以外の場所へ行って商売するときは、地元のテキヤにどう挨拶し、どこに泊まればいいのか。非常に洗練された、テキヤ間の相互扶助的なシステムが構築されていることがわかる。西国、東国、沖縄とで、それぞれ微妙にテキヤの慣習がちがうらしいというのも、興味深い。いろんな地域の縁日に行って、ちがいを見わけられるか試みたくなってくる(素人にはむずかしそうだが)。
 
 露店は家族経営で、女性も一緒になって働く。テキヤ界で、女性がどういう立ち位置にあるのかに光を当てたのも、本書の非常に重要な部分だろう。著者は取材対象者との距離感が適切で、それゆえに相手から信頼され、公正で充実した研究として結実したのだと思う。
 
 テキヤさんの生活や伝統を知ることができ、その存在にますます魅力を感じた。今年の夏祭りが楽しみだ。

 評・三浦しをん(作家)
     
 光文社新書・821円/あつ・かなえ 75年生まれ。文学博士。慶応大学、立教大学非常勤講師など。
 『朝日新聞』
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書評にはその文字が入っていませんが、光雲(というかその父=光太郎祖父でテキヤだった中島兼吉)についての記述があります。
 
ぜひお読み下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月19日
 
平成17年(2005)の今日、前橋市民文化会館小ホールで箏曲奏者・下野戸亜弓のリサイタルが開催されました。
 
光太郎詩に小山清茂が曲を附けた「樹下の二人」が演奏されました。同年、ライブ録音がCD化され、発売されました。
 
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新潟から企画展情報です。

ドナルド・キーンの直筆原稿が語る『日本文学を読む』

会 場 : ドナルド・キーンセンター柏崎 新潟県柏崎市諏訪町10-17
会 期 : 前期 2014年3月10日(月)~7月21日(月)
    : 後期  同 7月25日(金)~12月25日(水) 
 間 : 10時~17時 月曜休館
料 金 : 大人500円 中高生200円 小学生100円
 
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ドナルド・キーンの直筆原稿『日本文学を読む』と直筆の手紙を、連載された雑誌「波」(新潮社)とともに一堂に展示。ドナルド・キーンが伝えたいと願う日本文学の素晴らしさ、面白さを評論で実感していただきたいと思います。
厖大な原稿が埋める展示空間やドナルド・キーンの直筆日本語に圧倒されることでしょう。
そして、直筆原稿が語りかけてくる言葉に眼を向け、耳を澄ませて近現代の日本文学の世界に浸っていただき、さらに、明治、大正、昭和に生きた各作家たちの素顔に触れ、日本文学の素晴らしさ、面白さに思いを巡らせてほしいと思います。
 
雑誌『波』に連載され、昭和52年(1977)に新潮社から単行書として刊行された『日本文学を読む』の草稿を展示するというものです。一回につき6~7枚だったそうです。
  
前後期に分かれ、前期では「高村光太郎」が含まれています。他の作家に関しては上記チラシをご覧下さい。
 
 
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キーン氏といえば、元はアメリカ人(平成24年=2012に帰化)ですが、元々の日本人以上に日本文学に精通されています。おん年91歳(今月で92歳)、まだまだお元気のようで何よりです。
 
今回の展示に関わる『日本文学を読む』は、当方、読んでいませんが、平成9年(1997)に中央公論社から刊行された『日本文学の歴史 17 近代・現代篇8』を持っています。四六判は品切れの可能性がありますが、現在は中公文庫版も発売されています。
 
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画像の帯文でもお分かりになるかと思いますが、近現代詩を扱った巻です。「高村光太郎」の項が約40ページ。図版も豊富で理解の助けになります。ぜひお買い求めを。
 
ところで、この企画展、先頃訪れた成田山書道美術館さんでたまたまチラシを発見し、知りました。ネットでは光太郎をキーワードに検索してもひっかかりません。こういうケースがあるので、怖いですね。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月7日006
 
平成20年(2008)の今日、大阪のいずみホールで開催された関西合唱団創立60周年記念・第73回定期演奏会で、西村朗作曲「混声合唱とピアノのための組曲 レモン哀歌」が委嘱初演されました。
 
全3曲で、第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」、第2曲「山麓の二人」、第3曲「レモン哀歌」です。
 
指揮は守谷博之氏、ピアノ伴奏は門万沙子氏でした。
 
楽譜は全音楽譜出版社から刊行されています(右記画像)。販売用CD等にはなっていないようで、CD化が待たれます。
 

先月の第58回連翹忌にご参加下さった、詩人の宮尾壽里子様から、詩誌『青い花』第75号~77号の3冊を戴きました。
 
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当方、寡聞にしてその存在を存じませんで000したが、埼玉で刊行されている同人誌、年三回の発行のようです。同人には見知ったお名前があり、「ほう」と思いました。
 
昭和48年(1973)、東宣出版から『智恵子と光太郎 高村光太郎試論』を上梓された平田好輝氏、それから以前にこのブログでご紹介した、東日本大震災復興支援の合唱曲「ほんとの空」(高山佳子氏作曲)の作詞をされた後藤基宗子氏。後藤氏のショートエッセイでは合唱曲「ほんとの空」に触れられていました。
 
宮尾氏は昨年7月に刊行された第75号から、「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」というエッセイを連載なさっています。
 
先月、最新刊の第77号(2014/3)のみ送っていただいたのですが、そちらが連載の3回目だったので、第75号、76号も欲しいとお伝えしたところ、送って下さいました。ありがたいかぎりです。
 
題名の通り、昭和16年(1941)の初版『智恵子抄』刊行の経緯から、その後の諸々の版、智恵子の人となり、さらには紙絵や十和田湖畔の裸婦像にも触れられ、非常に読み応えがありました。
 
第77号にも「完」の文字が入っていないので、まだ連載が続くだろうと期待しています。
 
よく調べているな、と失礼ながら感心しましたが、それもそのはず、最近、大学院で修士論文を書かれている由。これまた失礼ながら、還暦を過ぎてからの取り組みだそうで、頭が下がります。ご健筆を祈念いたします。
 
やはり今年の連翹忌にご参加いただいた間島康子様から、評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」の載った文学同人誌「群系」を戴きましたが、こうした刊行物にはなかなか目が行き届きません。こういうものもあるよ、という情報があればお寄せいただけると幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月7日004
 
昭和15年(1940)の今日、詩人・宮崎丈二を通じて中国の篆刻家・斉白石に「光」一字の石印の製作を依頼しました。
 
出来上がった印がこちら。光太郎は晩年まで自著奥付の検印などに愛用し続けました。

ニセモノ専門の悪質業者などは、この印まで偽造しようとしているようですが、なかなかうまくいかないようで(笑)。

新刊です。といっても、2ヶ月程経っていますが……。 

詩的思考のめざめ

2014年2月20日 阿部公彦著 東京大学出版会刊行 定価2,500円+税
 
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内容紹介
名前をつける,数え上げる,恥じる,などの切り口から日常に詩のタネを探してみよう.萩原朔太郎,伊藤比呂美,谷川俊太郎といった教科書の詩人のここを読んでみよう.詩的な声に耳を澄ませば,私たちと世界の関係がちがったふうに見えてくる.言葉の感性を磨くレッスン.

主要目次
はじめに――詩の「香り」にだまされないために
I 日常に詩は“起きている”――生活篇
第1章 名前をつける――阿久悠「ペッパー警部」,金子光晴「おっとせい」,川崎洋「海」,梶井基次郎「檸檬」ほか
第2章 声が聞こえてくる――宮沢賢治「なめとこ山の熊」,大江健三郎『洪水はわが魂に及び』,宗左近「来歴」
第3章 言葉をならべる――新川和江「土へのオード」,西脇順三郎『失われた時』,石垣りん「くらし」
第4章 黙る――高村光太郎「牛」
第5章 恥じる――荒川洋治『詩とことば』,山之口貘「牛とまじない」,高橋睦郎「この家は」
II 書かれた詩はどのようにふるまうか――実践編
第6章 品詞が動く――萩原朔太郎「地面の底の病気の顔」
第7章 身だしなみが変わる――伊藤比呂美「きっと便器なんだろう」
第8章 私がいない――西脇順三郎「眼」
第9章 型から始まる――田原「夢の中の木」ほか
第10章 世界に尋ねる――谷川俊太郎「おならうた」「心のスケッチA」「夕焼け」ほか
読書案内
おわりに――詩の出口を見つける
 
著者の阿部氏は東大文学部准教授。「東大」というブランドをありがたがるわけではありませんが、なかなかおもしろい論考集です。
 
上記目次で目立つようにしましたが、光太郎詩「牛」が扱われています。章の題が「黙る」。これはどういうことでしょうか。実際に引用してみます。
 
人は大きい声を出すことで、強く言おうとする。しかし、より強い言葉を追求していくと、むしろ大きい声を出さない、いや、そもそも声を出しすらしない方がいい場合もある。「牛」という作品はその境地を目指したものと思えます。牛が体現しているような黙ることの強さを、詩の中に何とか表そうとしている。
 
「牛」という詩は、大正2年(1913)の作。光太郎の詩の中では有名な部類に入りますので、、ご存知の方も多いのではないでしょうか。全部で115行もある長大な詩です。で、115行、「牛はのろのろと歩く」に始まり、最終行の「牛は平凡な大地を歩く」まで、とにかく農耕用の牛の描写に徹しています。
 
   

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まつすぐに行く000
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せている自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はつて行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是(ぜ)でも非(ひ)でも
出さないではゐられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後(あと)へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ為(し)たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない005
けれども牛は正直だ
牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く

何処までも歩く
自然を信じ切つて

自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
遅れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない
牛は自分の孤独をちやんと知つてゐる
牛は食べたものを又食べながら
ぢつと寂しさをふんごたへ003
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛はそれにあやされる
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立つてもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きよろきよろときよろつかない
眼に角(かど)も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての当然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしてゐる
生命(いのち)をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際(てぎは)だが
牛の力はねばりつこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の卑劣な刃(やいば)にかかる時でも

十本二十本の鎗を総身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける

牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥(こや)す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
 
※2ヶ所でてくる啼き声の「もう」は傍点がついていますが、うまく書き表せません。
 
いわば、声高な作者の主義主張は語られていません。しかし、それがかえって効果をもたらしています。愚鈍にゆっくりと歩み続ける牛の姿に、光太郎の姿がオーバーラップします。当方、阿部氏はそうした点を「より強い言葉を追求していくと、むしろ大きい声を出さない、いや、そもそも声を出しすらしない方がいい場合もある」と解釈しているのだと読み取りました。
 
是非お買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月26日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋周辺で、野草をスケッチしました。
 
太田村時代、スケッチはこの日に限らずよくやっていたのですが、とりあえず「今日」のできごとということで……。
 
こうしたスケッチは後に昭和41年(1966)、中央公論美術出版から『山のスケッチ』として刊行されました。
 
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都立高校教諭の野末明氏が主宰する「高村光太000郎研究会」という会があります。機関誌的に雑誌『高村光太郎研究』を発行しています。
 
過日、その35集が刊行されました。
 
目次は以下の通り。
 
高村光太郎・最後の年 1月(1) 北川 太一
高村光太郎考――直哉と光太郎 大島 龍彦
光太郎遺珠⑨ 平成二十六年  小山 弘明
高村光太郎没後年譜・未来事項 大島 裕子
高村光太郎文献目録      野末  明
研究会記録・寄贈資料紹介   野末  明
 
論考二本、読み応えがあります。
 
それから当方の連載「光太郎遺珠」。新しく見つけた『高村光太郎全集』未収録の文筆作品等を紹介しています。内容細目は、脱稿した際のブログに書きました。
 
頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月10日
 
昭和20年(1945)の今日、駒込林町のアトリエを、渡辺正治氏が訪れました。
 
氏は女優・渡辺えりさんのお父さまで、今もご健在です。
 
戦時中に15歳で山形から上京、現・武蔵野市にあった中島飛行機の工場で働いていたそうです。
 
工場の先輩に、光太郎と手紙のやりとりをしていたという人がいて、都心方面の空襲のひどさから光太郎の身を案じ、光太郎の元に渡辺氏を遣わしたとのこと。
 
この際には光太郎もアトリエも無事で、氏は光太郎から署名入りの『道程 再訂版』をもらったそうです。
 
ところがその3日後の空襲でアトリエは炎上してしまいました。
 
戦後になっても氏と光太郎の交流は続き、そうした縁で渡辺えりさんも光太郎ファンに。画像は渡辺さん作の、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」のパンフレットです。

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4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂きました。
 
その中のお一人、詩人の間島康子さんから、文芸誌『群系』の昨年12月に刊行された第32号をいただきました。
 
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間島様の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」11ページが掲載されています。
 
「好い時代」とは、佐藤春夫が『わが龍之介像』で使った言葉。大正時代(広い意味で明治末を含む)を指します。文芸界全体でも、光太郎自身も、たしかに大正時代は充実していた時期です。
 
その「好い時代」の光太郎を追った論考で、失礼ながら、非常に感心いたしました。
 
『群系』さんホームページはこちら間島様の論考もウェブ上で閲覧できます。ぜひお読み下さい。
 
それから、連翹忌にはご欠席でしたが、イラストレーターの河合美穂さんから、事前にご丁寧にご欠席のご連絡をいただきました。河合さんは今年1月に、個展「線とわたし」を開催され、光太郎の「梅酒」をモチーフにした作品も展示されました。
 
その「梅酒」をポストカードにしたものをいただいてしまいました。ありがたいかぎりです。
 
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あたたかい絵ですね。しかし、もったいなくて使えません(笑)。
  
連翹忌、そして光太郎智恵子を通じて人の輪が広がっています。素晴らしいことだと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月6日

昭和56年(1981)の今日、銀座和光ホールで開催されていた高村規写真展「高村光太郎彫刻の世界」が閉幕しました。

新刊です。

覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻

 2014年1月30日 ブックワークス響発行   中島悠子編   定価 1,400円+税

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詩人・八木重吉の妻であり、のちに歌人・吉野秀雄と再婚した、「登美子」という一人の女性の人生を辿る本。高村光太郎に才能を見いだされながらも、数え年30という若さで世を去った八木重吉。會津八一の門人として生涯を歌に捧げた吉野秀雄。この二人の芸術家に愛された女はどのような人であっただろう、と興味を抱いた装幀家・編集者の中島悠子さんが、彼らの遺した作品や書簡を手がかりに研究を重ねてまとめられました。そこで明らかになったのは、あらゆる人生の不幸にもかかわらず、よく歌いよく働いた、たくましい女性の姿でした。余分な虚飾を排し、現存するテキストにのみ忠実でありながら、苦しい時代を生き抜いた登美子の実像をありありと浮かび上がらせる構成は、見事というほかありません。彼女への敬愛の念にあふれた美しい一冊、ぜひお手に取って清らかな生のあり方に触れてください。(恵文社一乗寺店さんサイトより)
 
吉野登美子。上記解説文にある通り、初め、詩人・八木重吉と結婚しました。しかし八木は昭和2年(1927)、数え29歳の若さで病没。のち、戦後になってから同様に妻を亡くした歌人・吉野秀雄と再婚します。
 
登美子の偉いところは、戦時中も亡夫・八木の遺稿をバスケットに詰めて持ち歩き、守り通したこと。さらに、ただ守っただけでなく、詩集として刊行したこと。頓挫した計画を含め、光太郎も尽力しています。
 
八木の没後間もない昭和3年(1928)には、雑誌『野菊』に「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」を発表して絶賛し、同11年(1936)には、雑誌『詩人時代』に「八木重吉の詩について」を発表しました。これは同17年(1942)に山雅房から刊行された『八木重吉詩集』の序文にも転用されていますし、この刊行自体、光太郎の口利きが大きかったようです。翌年には新たな八木の詩集のために改めて序文と題字を執筆しました。ただし、こちらは戦争の激化などのため、お蔵入りとなってしまいました。
 
戦争が終わり、吉野と再婚してからも、登美子は八木の詩集刊行に力を注ぎます。そして吉野もそれに協力。これはなかなかできることではないと思います。
 
さて、横浜にある神奈川近代文学館に、吉野夫妻の遺品数千点が寄贈されています。その中に光太郎からの書簡が16通、昭和18年(1943)刊行予定が幻に終わった八木の詩集のために光太郎が書いた題字が2種類(「麗日」「花がふつてくると思ふ」)含まれています。この題字については従来知られていなかったものでしたし、書簡の中にも『高村光太郎全集』に漏れていたものがあり、10年近く前に調査に行きました。
 
そんなわけで、『覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻』刊行の情報を得て、すぐに購入いたしました。先程届いたばかりで、まだ斜め読みしただけですが、しっかり光太郎にも言及されており、熟読するのが楽しみです。
 
皆様もぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月1日

昭和60年(1985)の今日、芸術新聞社発行の書道雑誌『墨』第53号が発行されました。
 
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「高村光太郎 書とその造型」という70ページ超の特集が組まれました。豪華な執筆陣で、内容的に非常に充実していますし、写真図版も非常に多く、お薦めの一冊です。時折古書市場で見かけます。

当方も会員に名を連ねております「高村光太郎研究会」という団体があります。
 
「研究」と名が付いておりますので、とりあえず光太郎やその周辺についての研究を志す人々の集まりです。といって、堅苦しいものではなく、参加資格も特にありません。特に職業として研究職についていないメンバーも多数在籍しています。高村光太郎記念会の北川太一先生に顧問をお願いしており、じかに北川先生の薫陶を受けることができるのが大きな魅力です。
 
年に1回、研究発表会を行っております。昨年は当方が発表を行いました。
 
今年の案内が参りましたので、ご紹介します。

第58回高村光太郎研究会 

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日 時 : 2013年11月23日(土) 14時
会 場 : アカデミー音羽 文京区大塚5-40-5
参加費 : 500円
発 表 : 
  「高村光太郎小考-直哉と光太郎-」 大島龍彦氏
  「光太郎と野澤一との関係性について/智恵子抄を訪ねる旅から学んだこと」坂本富江氏
 
会に入らず、当日の発表を聞くだけの参加も可能です。特に申し込みも必要ありません。
 
会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
興味のある方はぜひ11/23の研究発表会にお越し下さい。おそらく北川太一先生もお見えになると思われます。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月24日

大正2年(1913)の今日、『時事新報』に評論「文展の彫刻」の連載を始めました。
 
「文展」は「文部省美術展覧会」。彫刻部門は光雲を頂点とする当時の正統派の彫刻家達によるアカデミックな展覧会でした。
 
明治末に3年あまりの海外留学を経験し、本物の芸術に触れて帰ってきた光太郎にとって、そこに並ぶ彫刻はどれもこれも満足の行くものではなく、出品作一つ一つについてこれでもかこれでもかと容赦なく厳しい評を与えています。
 
盟友・荻原守衛の存命中は、彼の彫刻のみ絶賛していましたが、明治43年(1910)に守衛が歿した後は、褒めるべき彫刻が見つからないという状態だったようです。あくまで光太郎の感覚で、ということですが。
 
光太郎自身は決して文展に出品しませんでした。自信がなかったわけではなく、自身の進むべき道とは全く違う世界と捉えていたようです。

新刊です。少し前に『朝日新聞』さんに載った書評を読んで購入しようと思い、取り寄せました。 
佐滝剛弘著 平成25年6月20日 勁草書房刊 定価2400円+税
 
明治41年。日本で最初に発刊された日本史の辞典には、実に1万を超える人々の予約が入っていた。文人、政治家、実業家、教育者、市井の人々……。彼らはなぜ初任給よりも高価な本を購入しようとしたのか? それらは今どこに、どのように眠っているのか? 老舗旅館の蔵で見つかった「予約者芳名録」が紡ぐ、知られざる本の熱い物語。(勁草書房さんサイトより)

 
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『国史大辞典』とは、明治41年(1909)に刊行された2冊組の辞書で、その名の通り歴史上の人物や項目が五十音順に配された、当時としては斬新かつ豪華なものでした。版元は現在も続く歴史関係出版社の吉川弘文館。戦後にはさらに全17巻で刊行されました。
 
発行前には各種新聞等に広告が大きく出、「予約購入」という手法がとられたとのこと。
 
著者の佐滝氏、群馬県のとある旅館に泊まった際に、この『国史大辞典』の「予約者芳名録」という冊子をみせてもらったそうです。後に分かるのですが、この「予約者芳名録」自体が非常に珍しいもので、ほとんど現存が確認できないとのことです。
 
「予約者芳名録」。刊行は本冊刊行の前年、明治40年(1908)です。そこには道府県別に10,000人ほどの名がずらりと並んでおり、さながら当時の文化人一覧のように、よく知られた名が綺羅星のごとく並んでいるそうです。
 
その中で、著者が最初に見つけた「有名人」は与謝野晶子。続いて2番目が光雲だったそうです。
 
この頃、光太郎は外遊中。光雲は東京美術学校に奉職していました。したがって、光太郎の需めではなく、光雲自身が購入したくて予約したのでしょう。しかし、光雲はもともと江戸の仏師出身で、活字には縁遠い生活を送っていたはずです。それがどうしてこんな大冊を購入したのか、ということになります。おそらく、全2冊のうちの別冊「挿絵及年表」の方が、有職故実的なものから地図、建築の図面など豊富に図版を収めているため、彫刻制作の参考にしようとしたのではないかと考えられます。
 
以下、『国史大辞典を予約した人々』は、「こんな人もいる」「こんな名前もあった」と、次々紹介していきます。個人だけでなく様々な団体、有名人ではなくその血縁者も含まれます。そして名前の羅列に終わらず、それぞれ簡単にですが紹介がなされ、当時の日本の文化的曼荼羅といった感があります。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月4日

大正3年(1914)の今日、銀座のカフェ・ライオンで第一回我等談話会が開催され、出席しました。
 
『我等』はこの年刊行された雑誌で、光太郎は詩「冬が来た」や「牛」など代表作のいくつかをここに発表しています。

新刊です。
 
智恵子が創刊号の表紙絵を描いた雑誌『青鞜』の、その誕生(明治44年=1911)から終焉(大正5年=1916)までを追った労作です。もちろん智恵子にも随所で触れています。 

『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること

森まゆみ著 平成25年6月27日 平凡社   定価1900円+税
 
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女性による女性のための雑誌『青鞜』の歩みを、平塚らいてうや伊藤野枝らの生き方とともに、また100年後に著者自身が営んだ地域雑誌『谷根千』を引合いにしながら丹念に追った意欲作。
(平凡社さんサイトから)
 
雑誌の立ち上げに高揚したのも束の間、集まらない原稿、五色の酒や吉原登楼の波紋、マスコミのバッシング……明治・大正を駆け抜けた平塚らいてう等同人たちの群像を、同じ千駄木で地域雑誌『谷根千』を運営した著者が描く。
(帯から)
 
類書は他にも刊行されていますが、それらと違うところは、上記紹介文にあるとおり、「編集者」としての視点で描かれていることです。
 
 
著者の森まゆみさんは、かつて地域雑誌『谷中根津千駄木』を刊行されていました。今日、一般的になった「谷根千」という呼称はここから生まれたものです。その際のご経験が、本書の記述に生かされているようです(実はまだ熟読していません。すみません)。
 
ちなみに『谷中根津千駄木』では、谷中に生まれ、千駄木で暮らした光太郎もたびたび取り上げて下さいました。
 

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 そういえば、雑誌『青鞜』が産声をあげたのも、千駄木です。社員の一人、物集和子の自宅が最初の事務所。ここは不忍通りから団子坂を上がりきった右側、森鷗外の観潮楼のはす向かいです。

ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】002 8月1日

昭和54年(1979)の今日、六耀社から『高村光太郎彫刻全作品』が刊行されました。
 
B4判350ページ、定価五万円の大著です。現存するものはもちろん、焼失したものや、着手したただけ、あるいは構想のみで未完に終わったものも含め、この時点で把握されていた光太郎の彫刻作品全てのデータベースです。
 
千葉市立美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の図録作成の際にも、大いに利用させていただきました。
 
現在でも時折古書店のサイト等で売りに出ています。

光太郎関連でいろいろといただきものがありまして、ありがたい限りです。ご紹介させていただきます 。

文芸誌『虹』 第4号

連翹忌にもご参加下さっている詩人無題の豊岡史朗氏主宰の文芸雑誌です。
 
光太郎関連として豊岡氏の「高村光太郎論 詩集『典型』」、同じく「<ある日 ある時> 荻原守衛と安曇野」が掲載されています。
 
「高村光太郎論 詩集『典型』」は、主に連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)にスポットを当て、敗戦にともなう光太郎の自己省察-戦争責任に関し-を剔抉しています。
 
曰く「「戦争詩」を書いたことにうしろめたさを感じた詩人たちも数多くいたはずですが、過ちを軍部や時代状況のせいにせず、自らを反省し、誤謬の真の原因を究明しようと孤独な思索の日々を送る光太郎のすがたは、際立って鮮烈な印象をあたえます。」
 
そのとおりですね。
 
「<ある日 ある時> 荻原守衛と安曇野」は安曇野碌山美術館訪問記。光太郎にも触れています。
 
ご入用の方はコメント欄等からご連絡下さい。仲介いたします。

 
もう1件。

002 000
 
国際交流基金さん刊行の雑誌です。
 
日本の書籍等を海外に紹介するもので、英文で書かれています。ロシア語版もあるようですが、当方、入手したのは英語版です。
 
2ページにわたり「Takamura Kōtarō and Iwate」という記事が載っています。執筆はエッセイスト・独文学者の池内紀(おさむ)氏。
 
詩「報告」などをひきつつ、光太郎の花巻郊外での山小屋暮らしを紹介しています。外国の皆さんの眼には、光太郎の生き様はどのように映るのか、興味深いところです。
 
 
【今日は何の日・光太郎】 7月2日003

明治35年(1902)の今日、東京美術学校彫刻科を卒業しました。
 
卒業制作は若き日の日蓮をモチーフにした塑像「獅子吼」。首席にはならず、第二席だったとのこと。
 
卒業はしたものの、9月からは研究科に残り(徴兵猶予の意味合いもあったようです)、さらに明治38年(1905)には西洋画科に再入学しています。

画像は光太郎令甥にして写真家・髙村規氏の撮影になるものです。

もう1日、智恵子の誕生日ネタで引っ張ります。
 
一昨日が智恵子の誕生日でした。この時期の生まれ、ということは西洋占星術でいうと牡牛座です。
 
当方、あまり、というかほとんど信じていませんが、この手の星座占いはもはや普通に日本人の生活に溶け込んでいますね。
 
15年前に出た本ですが、こんなものを持っています。
 
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『星の運命(さだめ)を生きた女たち』 山崎洋子著 講談社文庫
 
山羊座から始まって射手座まで、近現代の女性を取り上げ、それぞれの生き様と十二星座との関連を記しています。各星座ごとに二人ずつ紹介されており、一人は外国の女性、一人は日本女性です。各女性についてルネ・ヴァン・ダール・ワタナベさんという占星術師が読み解いたご託宣からはじまり、それを受けての山崎洋子さんによる簡潔な評伝、という構成です。
 
牡牛座の項は、写真家のリー・ミラー、そして智恵子。他に伊藤野枝(水瓶座)、相馬黒光(乙女座)など光太郎・智恵子と関わる女性も取り上げられています。
 
さて、智恵子の項では以下の記述があります。
 
「牡牛座は十二星座の中でもとりわけ感受性が無題2強いといわれる」
「高村智恵子もまた純粋な感性ゆえに魂を迷宮にさまよわせた牡牛座の女である」
「1886年5月20日生まれの彼女の太陽は牡牛座にあり、月は奔放な射手座にある。この二つの要素から、感受性の豊かな彼女が大人になってもなお、子供のような純真な心を持ち続けていたことが理解できる」
「さらに、牡牛座にある愛の星、金星は、愚直なまでに優しく人を愛する性格を彼女に与えた」
「やがて海王星、冥王星のもたらす困惑の影響が表れ、狂気の影が忍び寄った」
 
話のネタとしては面白いと思いますが……。
 
信じるか信じないかは、あなた次第です(笑)。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月22日

大正5年(1916)の今日、智恵子と神奈川の江ノ島に出かけました。

昨日は智恵子の誕生日でした。
 
「智恵子の顔を持つ」とも言われる十和田湖畔の裸婦像をかかえる青森県の地方紙『陸奥新報』さんに、智恵子誕生日がらみのコラムが載りました。『朝日新聞』で言えば「天声人語」にあたる欄でしょう。

冬夏言2013/5/20 月曜日 

ある人物に思いを巡らすと、別の人物についても連想することがある。きょう20日は、彫刻家・高村光太郎の妻智恵子が生まれた日。冬夏言子の場合、この高村夫妻から想起するのが、本県出身で多彩な才能を発揮した寺山修司だ▼光太郎といえば、智恵子が死去した後に出版した詩集「智恵子抄」が有名だ。芸術家夫婦の苦悩と純愛がつづられ、多くの愛読者がいる作品である▼寺山修司は著書「さかさま文学史黒髪編」の中で、高村夫妻を取り上げた。智恵子が精神を病むまで追い詰めたのは光太郎とし、それを自覚しなかった光太郎を「人間音痴」と厳しく評した▼夫妻の真実は、他人に分かりようもない部分がある。それでも「純愛カップル」という通説をひっくり返そうとするかのような視点に、大きな衝撃を受けた▼世間の常識をそのままよしとせず、新たな視点で常識に風穴を開ける―。冬夏言子が作品を通して寺山修司に感じた姿勢である▼今年は寺山修司没後30年。47歳という短い生涯だったが、今なお影響力を発し続けている。本県が生んだ偉大なる反骨精神に敬意を表したい。
 
取り上げられている寺山修司の「さかさま文学史黒髪編」は角川文庫で昭和53年(1978)に刊行されています。
 
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林静一氏のカバーイラストが実にいいですね。智恵子もイメージされているのではないでしょうか。
 
問題の章は、「妻・智恵子 彫刻詩人・高村光太郎の孤独な愛、詩集『智恵子抄』の明暗」という題です。
 
その後、平成3年(1991)に刊行された雑誌『鳩よ!』95号「特集 光太郎・智恵子」にも再録されています。どちらも古書市場では比較的容易に入手できます。
 
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【今日は何の日・光太郎】5月21日

昭和17年(1942)の今日、詩集『道程』により第一回帝国芸術院賞に選ばれ、文部大臣官邸で行われた授賞式に出席しました。
 
『道程』。初版は大正3年(1914)ですが、昭和15年(1940)には改訂版、さらに翌年には改訂普及版が刊行されており、それらを受けての受賞でしょう。また、この当時の光太郎は日本文学報国会詩部会長だったり、大政翼賛会文化部の仕事をしていたりで、詩壇の大御所的存在。大量の戦意高揚の詩を書き殴っていました。そうした光太郎への箔づけ的な側面もあったと思います。

先月末、全国の小中学校で「平成25年度全国学力・学習状況調査」が行われました。小学校6年生と中学校3年生が対象です。
 
いろいろ問題はあると思いますが、それはさておき、中学校3年生の国語A(「知識」を問う問題)で、光太郎の散文「山の春」が問題文に使われました。この「山の春」、昭和26年(1951)、雑誌『婦人之友』に掲載されたエッセイです。
 
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光太郎の文筆作品というと、どうしても詩が有名ですが、発表されたものとしては、評論やエッセイ、翻訳などの散文の方が圧倒的に多数です。
 
翻訳は光太郎オリジナルではありませんが、それでも訳し方、どういった文章にするかといった部分では、訳者の役割には大きなものがあります。
 
身びいきではなく、光太郎の散文は非常に読みやすいと思います。着眼点もすばらしいし、論の展開の仕方、適切な例の上げ方、言葉の選択、段落の設定の仕方、句読点の使い方など、実に参考になります。
 
『全集』補遺作品集「光太郎遺珠」や、冊子『光太郎資料』などの編集で、光太郎の文章を書き写す機会が多いのですが、光太郎の文章は書き写していてまったく苦になりません。ただ、光太郎のクレジットでも、他の人が筆録した談話筆記などになると、いつもの「光太郎ルール」ではないな、と思うことがありますが。
 
逆に談話筆記には、通常の散文にはない光太郎のしゃべり方のルールが見て取れ、それに感心させられる事も多くあります。
 
そういう意味では、テストの問題文などには光太郎の散文はうってつけだと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】5月7日

昭和9年(1934)の今日、療養のため、智恵子が千葉県九十九里浜の妹の婚家に移りました。
 
光太郎は、この九十九里浜での智恵子の様子を、後に詩「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」などに謳っています。
 
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智恵子が療養していた家(現在は取り壊されてしまってみることができません) 
 

2/6に放映されたNHK総合のテレビ番組「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で扱われた、大正2年(1913)の1月28日に智恵子に宛てて書かれた手紙。
 
これを大きく取り上げている書籍とCDがありますので、今日はそれを紹介します

キッス キッス キッス

 渡辺淳一著  平成14年10月10日 小学館発行 定価1500円+税
 
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「失楽園」などで有名な作家、渡辺淳一氏の著書です。もともとは雑誌連載だったものに加筆修正を加えて単行本化されました。366頁ある大著です。表題は島村抱月から松井須磨子への手紙の一節です。
 
光太郎から智恵子への例の手紙の他、主に近代の文学者の「恋文」19通を取り上げています。改めて目次を見てみましたら、光太郎を含め、柳原白蓮、芥川龍之介、谷崎潤一郎と、「探検バクモン」で取り上げられる「恋文」と4通がかぶっています。「探検バクモン」のスタッフさんは、もしかしたらこの本から想を得たのかも知れません。
 
他に光太郎、智恵子と縁の深かった平塚らいてう、与謝野晶子、佐藤春夫、変わったところでは山本五十六、お滝(シーボルトの妻)、そして渡辺淳一さん自らの手紙も紹介されています

【芸術…夢紀行】シリーズ① 高村光太郎 智恵子抄アルバム

 北川太一先生監修  平成7年3月16日 芳賀書店発行 定価3,260円
 
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問題の手紙が画像入りで紹介されています。この書籍、画像の豊富さでは他の追随を許しません。ビジュアル的に光太郎・智恵子の生涯をたどりたい方にはお薦めです

作家が綴る心の手紙 愛を想う 死を想う

 平成21年10月15日 アスク発行 定価28,980円(税込)
 
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朗読CD12枚組と解説書から成るセットです。近現代の文学者66名、210通余の手紙が収められています。光太郎に関しては第7巻「詩人たちの筆に込めた想い」で、例の手紙をはじめ、九十九里で療養中の智恵子に送った手紙、智恵子死後に難波田龍起、水野葉舟、更科源蔵に宛てた智恵子に関する手紙が収められています。第7巻の朗読者は元男闘呼組の高橋和也さん。他の巻では杉本哲太さん、平岳大さん、余貴美子さんが朗読を務めていらっしゃいます。
 
他の収録作家のうち、森鷗外、与謝野夫妻、北原白秋、宮澤賢治、八木重吉、田村俊子、村山槐多、中原中也といったところが光太郎智恵子と縁の深かった人々です。
 
【今日は何の日・光太郎】2月8日

昭和23年(1948)の今日、太田村山口の山小屋で、配給の砂糖を受け取り、久しぶりに砂糖入りの紅茶を飲みました。

昨日紹介した『大正の女性群像』、大判の本で、写真等も豊富に使われ、大正の女性文化を目で見て理解するには格好の資料です。
 
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智恵子はどんな服装、髪型をしていたのだろうかなどと思いを馳せると、楽しいものがあります。
 
それにしても、「大正」というと、昨日も書いた通り、「明治」の閉塞性に風穴があいた時代ということはいえると思います。そのためこうした庶民文化的な部分も一気に花開いたように感じます。
 
それはそれでその通りなのでしょうが、それだけではなかったのが「大正」です。『大正の女性群像』、こうした華やかな部分だけでなく、「負」の部分も忘れていません。すなわち、「女工哀史」に代表される低賃金労働や搾取、「からゆきさん」と言われた海外での売春婦、そして関東大震災……。
 
昨日も書きましたが、今は「平成」。百年後の人々は、「平成」という時代をどう位置付けるのでしょうか。原発事故やら政治的空白やら、「負」の部分が強調される時代であってはならないと思います。

昨日のブログで、吉本隆明氏の著書『超恋愛論』を紹介しました。
 
その中の「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」という定義。やはり光太郎智恵子を想起せずにはいられません。
 
そこで思い出したのが、先月、生活圏の古書店で購入した以下の書籍です。
 
『大正の女性群像』昭和57年(1982)12月1日 坪田五雄編 暁教育図書
 
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内容的には主に二本立てです。「人物探訪」の項で、大正期に名を馳せた各界の女性を扱い、「女性史発掘」の項で女性一般についての説明。どちらも豊富な図版、写真が添えられ、ビジュアル的にも豪華な本です。
 
「人物探訪」の項で扱われているのは、もちろん智恵子、そして平塚らいてう、伊藤野枝、松井須磨子、柳原白蓮、田村俊子、相馬黒光、九条武子、岡本かの子などなど。
 
それぞれに名を成した女性たちですが、程度の差こそあれ、それぞれの人生が激しい恋愛に彩られています。
 
ここにはやはり「大正」という時代の雰囲気がからんでいるのでしょう。ある意味閉塞的だった「明治」が終わって迎えた「大正」。「昭和」に入って泥沼の戦争の時代になるまで、束の間、新しい風が吹いた時代だと思います。
 
その「大正」に、光彩を放った女性たち。強引な考えかも知れませんが、彼女たちも一人では埋もれてしまっていたのではないでしょうか。吉本氏曰くの「男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」である激しい恋愛を経て、それぞれの輝きにたどり着いているような気がします。
 
その結果が決して幸福とはいえない人生につながってしまった女性もいるかも知れませんが……。
 
さて、今は「平成」。百年後の人々は、「平成」という時代をどう位置付けるのでしょうか……。

新刊を紹介します。 

吉本隆明著 2012/10/15 大和書房(だいわ文庫) 定価600円+税
 
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今年亡くなった評論家・吉本隆明氏の著書。2004年に同社からハードカバーで刊行されたものの文庫化です。
 
「男女が共に自己実現しようとして女性の側が狂気に陥った光太郎・智恵子の結婚生活」という項があり、光太郎・智恵子にふれています。
 
他にも夏目漱石、森鷗外、島尾敏雄、中原中也、小林秀雄らに言及し、「恋愛論」が展開されます。
 
いつも思うのですが、氏の論は決して突飛な論旨ではなく、ごく当たり前といえば当たり前のことを述べています。しかし、誰しもがそういうことを感じていながらうまく言葉で言い表せないでいたことを明快に言ってのけるところに氏のすごみを感じます。
 
例えば、恋愛に関しても「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」と定義しています。
 
そして一つ何かを論じると、その裏の裏まで掘り下げ、読む者を納得させずにおかないという特徴もあります。論とか文章といったもの、こうあるべきだといういいお手本になります。是非お買い求めを。

先日、地域の新刊書店によった際、偶然見かけてこんな本を買いました。ムック(雑誌と書籍の中間という位置づけ)です。 

2012/10/23  Town Mook        定価: 750円(税込)

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上の表紙画像にもある東京駅の赤煉瓦駅舎、先頃改修が終わり、ほぼ100周年(開業記念式典は大正3年=1914の12月18日。その4日後に上野精養軒で光太郎智恵子の結婚披露宴が行われています)ということで、テレビなどでよく紹介されています。さらに今年は元号に換算してみると、1912年が大正元年ですから、大正101年にあたります。そんなわけで、大正時代、ちょっとしたブームですね。
 
光太郎、智恵子も生きた大正時代。やはり時代の流れの中での位置づけというのも重要なことだと思います。そう思い、価格も手ごろだったので購入しました。実は通販サイトで似たような本を少し前に見つけていたのですが、価格が高めで二の足を踏みました。こちらは750円でお買い得だったな、という感じです。
 
光太郎に関しては、白樺派を扱った項に名前が出てきますし、集合写真に写っています。智恵子に関しては表紙のデザインをした『青鞜』が紹介されています。ただし智恵子の名が出てこないのが残念ですが。
 
その他、やはり同時代ということで、二人と関わった人々がたくさん紹介されています。また、当時の町並みの写真や絵図、現在も残る当時の建築物の写真など、興味深い内容でした。
 
「ほう」と思ったのは、大正12年(1923)の関東大震災の「東京市火災延焼状況」という古地図。隅田川両岸は壊滅的な状況で、西岸は下谷あたりまで燃えていますが、光太郎のアトリエのあった駒込林町は無事だったというのが視覚的によくわかりました。ちなみに震災当日、智恵子は二本松に帰省中。光太郎は被災者のためにアトリエを解放したという話も伝わっています。
 
さて、これから百年ほど経って、平成はどのように評価、紹介されるのでしょうか。

インターネット通販サイトの「amazon」さん。光太郎関連で新刊書籍がないかどうか、ときおりチェックしています。
 
昨日見て驚いたのは、電子書籍として光太郎作品がずらっと並んでいることです。
 
ラインナップは以下の通り。
 
ヒウザン会とパンの会/詩について語らず —編集子への手紙—/珈琲店より/自分と詩との関係/能の彫刻美/九代目団十郎の首/(私はさきごろ)/智恵子の半生/人の首/回想録/顔/ミケランジェロの彫刻写真に題す/智恵子の紙絵/緑色の太陽/啄木と賢治/小刀の味/木彫ウソを作った時/蝉の美と造型/山の雪/装幀について/美の日本的源泉 /山の秋/黄山谷について/自作肖像漫談 /山の春/開墾/書について/美術学校時代/智恵子抄/気仙沼/触覚の世界
 
これは来月からamazonさんで販売される電子書籍端末「Kindle Paperwhite」のためのものです。
 
ちなみに楽天さんで販売されている電子000書籍端末「コボタッチ」でも同じラインナップが出てきます。
 
また、どちらにも光雲の懐古談が入っています。どうも大本(おおもと)は以前からある電子図書館、青空文庫さんのようです。
 
結局、そういうラインナップしか用意できないのであれば、わざわざ端末を買う理由はあまりないように思われますが、今後、どうなっていくのか注目してみたいものです。
 
今朝の朝日新聞さんにも記事が載っていましたが、こうした電子書籍、いろいろと話題になっています。アメリカでは「kindle」が2007年に発売され、電子書籍普及の起爆剤となったといわれていて、それが日本にも上陸、大手通販サイトの「amazon」さんの顧客が取り込めそうだとか……。
 
日本ではまだまだ電子書籍は普及していないようです。朝日の記事にのった調査では「既に電子書籍を読んでいる」が5%、「近い将来読んでみたい」が30%、しかし、「読んでみたくない」が56%いるとのことです。
 
この「読んでみたくない」が、「電子」という言葉に拒絶反応を起こす人たちなのか、それとも電子媒体だろうが昔ながらの紙の印刷だろうが、読書ということをしない人たちなのか、よくわかりません。
 
まあ、どれだけ電子媒体が進んでも紙の本が無くなることはないでしょうし、その普及が読書離れに多少なりとも歯止めをかける結果になるのであれば、いいことだと思います。ただし、何でもかんでも電子でなければ時代遅れだ、という風潮にはなってほしくないものですね。逆に利便性を全く考慮せず、単に情趣の面から「本は紙でなきゃならん。電子ナントカなんて邪道じゃ!」という頭の固さでも困ると思います。

昨日と本日、生活圏内の公共図書館に行ってきました。
 
当方、国会図書館さんや日本近代文学館さんなどにもよく足を運びますが、手に入れたい資料・情報によって、生活圏内の公共図書館も利用します。
 
明治大正、昭和前半といった古い資料、新しいものでも一般には流通しないようなものであれば、国会図書館等に行き、比較的新しく、そう珍しいものでなければ生活圏内で済ますといったところです。
 
昨日今日は、部分的に光太郎智恵子にふれられている書籍を閲覧、コピーしてきました。事前にそういう書籍があるという情報を得ていたものとして、以下の通りです。
 
・『畸人巡礼怪人礼讃:忘れられた日本人2』ad9f933e-s
  佐野眞一著 毎日新聞社 平成22年……「甘粕夫人と高村智恵子」

・『漱石全集』第16巻 岩波書店 平成7年……「太平洋画会」

・『コミュニティ成田』第74号 成田市市長公室広報課 平成15年
  ……「ふるさと発掘 葉舟の残像」

・『美は脊椎にあり 画家・白石隆一の生涯』小池平和著 本の森
  平成9年……「戦後の模索と高村山荘訪問」

・『富士正晴作品集』第2巻 岩波書店
  昭和63年……「高村光太郎の思い出」

・『夢追い俳句紀行』 大高翔著 日本放送出版協会 平成16年
  ……「雲の峰智恵子の山河ありにけり 高村智恵子 福島・二本松」
 
これらは部分的に光太郎智恵子にふれられているということを知りつつ、購入していませんでした。ほんとは購入すればよいのでしょうが、無限に資産があるわけでもないもので……。そういった場合に、図書館の存在はありがたいわけです。必要部分だけコピーが可能ですので。しかし、それ以外の部分を無視してしまうというのも、著者の方々には申し訳ない気もしますが……。
 
また、一般の図書館の強みとしては、開架であること。国会図書館等はほとんどの蔵書が書庫にしまわれており、申請して出して貰う方式です。これだと目的の書籍がはっきりしている場合にはかまいませんが、そうでない場合に、なかなか掘り出し物に出会えません。
 
今回、開架の棚をながめながら、掘り出し物も見つけました。
 
・『森鷗外の手紙』 山崎国紀著 大修館書店 平成11年……「大正時代の手紙 27高村光太郎あて」
・『豪華客船の文化史』 野間恒著 NTT出版 平成5年……こちらは光太郎に関する記述はありませんが、光太郎が乗った船について詳しく記されています。
 
開架式だと、書籍を手に取ってぱらぱらめくり、中身が見られるというのが良い点です。
 
それにしても、昨日今日で別々の図書館に行きましたが、どちらも平日にもかかわらず結構にぎわっているのが嬉しいかぎりです。少し前、某出版社の新聞広告で「ヒトは、本を読まねばサルである。」というコピーを目にしました。障害を持つ方々に対する配慮が欠けているんじゃないかな、とも思いましたが、そうでない人々にとってはまったくその通りだと思います。「文化国家日本」であるべきですね。
 
さて、秋の夜長、取ってきたコピーで「読書」にいそしもうと思います。

連翹忌に御参加頂いている練馬在住の豊岡史朗氏から詩誌『虹』三冊頂きました。ありがたいことです。
 
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平成22年(2010)11月刊行の第1号、同23年(2011)8月刊行の第2号、そして今年8月刊行の第3号です。各号に〈高村光太郎論〉の総題のもとに氏の論考が掲載されています。「光太郎とヒューマニズム」(第1号)、「詩集『智恵子抄』」(第2号)、「戦争期-満州事変から敗戦まで」(第3号)。それぞれ25ページ前後の比較的長いもので、素晴らしいお仕事です。木戸多美子さんの時にも触れましたが、やはり詩を書かれる方の読み取りというのは、我々凡愚の見落としてしまうようなところまで感覚が行き届いています。お馴染みの光太郎作品でも、「このように読めるのか」と感心させられました。
 
「自分もこんなものを書いているぞ」という方、情報をお寄せ下さい。このサイト、光太郎智恵子を敬愛する全ての人々のネットワークターミナルとしたいと思っておりますので。
 

別件ですが、もう1件、テレビ放映の情報、やはり千駄木がらみです。 

日本ほのぼの散歩「東京・谷根千」

 BS11 2012年10月24日(水) 20時00分~20時54分
 
東京の中心地に近く“山の手"の一角でありながら、今なお下町としての風情を残す“谷根千"の愛称で親しまれている谷中・根津・千駄木。藤吉久美子がほのぼの散歩します。

『街並み』『風景』『食』を楽しみながら近所をちょっと散歩をしているような気分を味わいませんか? この番組では場所(四季)ごとに歴史に沿った史跡・名所巡や名宿や温泉などをご紹介します。

出演者  藤吉久美子

ぜひ御覧下さい。

昨日のブログで、かわじもとたか氏編「序文検001索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)を紹介しました。今日はその姉妹編、「装丁家で探す本―古書目録にみた装丁家たち 」を調べに行ってまいりました。残念ながらこちらは光太郎の件数が少なく、すべて既に把握しているものでした。
 
さて、並行して「序文検索―古書目録にみた序文家たち」に載っていた、こちらで把握していない光太郎序文の調査も始めました。そのうちの一冊が、国会図書館などの主要な図書館に蔵書がなく、そこで古書店のサイトで探してみたら、出品されていました。
 
以前でしたら喜び勇んですぐに購入しましたが、最近はそんな愚は犯しません。「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と条件をつけました。すると、返ってきた答が「序文は高村光太郎ではなく高浜虚子です」。「高」しか合っていませんが……(笑)。これも以前でしたらがっかりしていましたが、最近はもう慣れてきました。こういうケース、時々あるので、予想していました。予想していたので昨日のブログにも「(いろいろ落とし穴があるので空振りに終わることも少なくありません)」と書きました。
 
古書目録、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
もう10年以上前でしょうか、こんなことがありました。自宅に送られてきた古書目録に、ある詩華集(多くの詩人の合同詩集)が掲載されており、「高村光太郎」の名も。把握していないもので、価格も手ごろだったのでさっそく注文しました。数日後、届いた詞華集、いくらページをめくっても高村光太郎の作品は載っていません。代わりに載っていたのが同じく詩人の神保光太郎の作品。「光太郎」ちがいです。目録に「光太郎」しか書いてなければ100%こちらの早とちりですが、「高村光太郎」と書いてあっては古書店のミスですね。買わずに返品しました。
 
こんなこともありました。やはり目録に「詩集智恵子抄 高村光太郎 昭和19年 第15刷」とあったのです。龍星閣から刊行されたオリジナルの『智恵子抄』は第13刷までのはず。15刷があったとすれば、それはそれで大きな発見です。このときは「ほんとに15刷ですか?」と問い合わせてみたら、「すみません、13刷でした」とのこと。
 
こういう例はインターネットサイトにもいろいろあります。ある方のブログで、「××という本の序文を高村光太郎が書いている」という記述を見つけ、これも把握していないものだったので、当該書籍を古書サイトで出品している古書店さんに「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と送ったところ(今回と全く同じケースです)、「高村光太郎ではなく推理作家の木々高太郎です」……。「高浜虚子」よりは近いとは思いますが(笑)。
 
くりかえしますが、古書目録等、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
このブログではそういうことのないように、細心の注意を払っていきたいと思っております。
 
かわじもとたか氏編「序文検索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)。まだ有望と思われる未確認情報が数件有りますので、そちらに期待します。

先週、成田市立図書館さんに行き、昔の銅像写真集『偉人の俤』を調べたことを書きました。
 
その際、ついでに開架の棚を見たところ、書誌情報関連の書籍や古い雑誌の復刻版などがそれなりに充実しているのがわかりました。しかし、その時には光太郎書誌に関するリストを持って行かなかったので、昨日、また行ってきました。
 
書誌情報関連の書籍というのは、簡単にいえば「何々という書籍/雑誌に誰々の書いた文章が掲載されている」という類のものです。
 
以前にも書きましたが、当方、まだ世に知られていない光太郎文筆作品の集成をライフワークとしています。そうして見つけたものは、「光太郎遺珠」の題名のもと、年一回公表しています。現在は高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究』の中の連載とさせていただいております。
 
さて、昨日の調査、やはりそう簡単には未知のものは見つ000かりません。「ああ、これはリストに載っている」「この復刻版は時期がずれてて光太郎作品は載ってないな」という連続です。しかし、あきらめかけた頃、書架の片隅である書籍を見つけました。かわじもとたか氏編「序文検索―古書目録にみた序文家たち杉並けやき出版発行。題名を見ただけで「これは使える!」、ピンときました。
 
古書目録というのは、古書店が発行している在庫目録です。デパートなどで行われる古書市の出品目録として、何軒かの古書店が合同で発行する場合もあります。この手のもの、当方の自宅には月に10冊位が送られてきます。詳しい記述があるものは、書籍の題名や著者、刊行年、価格などの基本情報以外に、「誰が序文を書いている」とか「誰が装幀した」といったことまで書かれており、貴重なデータベースです。
 
たとえば最近届いた府中の古書かつらぎさんの目録。有島生馬の小説集ですが、島崎藤村が序文を書いているという情報が載せられています。

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この手の情報は非常にありがたいものです。実際、こういう記述が決めてで購入し、新たに発見した光太郎の文章なども少なくありません。
 
余談になりますが、売り上げが伸びなくて困っている、という古書店様。基本的なことしか書いていない目録では限界がありますよ。面倒でもこういう工夫が必要だと思います。
 
さて、「序文検索―古書目録にみた序文家たち」。こうした古書目録に載った「誰が何という本に序文を書いている」という情報の集成です。500ページ近い大著で、約1,600人・約12,000冊の書籍がリストアップされています。素晴らしい! 編集には気の遠くなるような労力が必要だったことでしょう。
 
光太郎に関しても、70冊以上の書籍が紹介されていました。大半はすでに知られているものでしたが、数冊、未知のものが含まれていました。今後、各地の図書館や古書店のサイトにあたり、どんなものか突き止めたいと思っています。確実に未知のものであれば「光太郎遺珠」に登録していきます(いろいろ落とし穴があるので空振りに終わることも少なくありません)。
 
ちなみに帰宅してから調べたところ、同じシリーズで「装丁家で探す本―古書目録にみた装丁家たち 」という書籍もあり、やはり成田市立図書館さんに所蔵されているとのこと。こちらも期待できます。
 
光太郎ほどの人物が書き残したものは、断簡零墨に至るまで、できうる限り収集し、次の世代へと引き継いでいきたいとというのが当方の基本スタンスです。今後も草の根を分けてでも探し出すつもりでおります。

面白いサイトを見つけたのでご紹介します。 

本が好き!は、書評でつながる読書コミュニティです。書評を通じて、趣味嗜好の合う人 や思いもよらない素敵な本と出会えます。書評を書くとポイントが貯まり、出版社や著者 から今話題の本がもらえる「献本」に応募できます。(サイト紹介文より)
 
「amazon」などでも「ブックレビュー」のコーナーがありますが、あまり充実していません。その点、このサイトでは書評が満載。もちろん未読の書籍についての参考になるでしょうし、既読にものに関しては「他の人はこの本をこういう風に読んでいるんだ」ということがわかります。ご覧あれ。
 
このブログで紹介した近刊では、北川太一先生の「光太郎智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで」などが取り上げられています。

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「読書離れ」が叫ばれて久しいのですが、それではいけないと思います。人間と他の動物との違いの一つに知的好奇心、知的向上心の有無があると思います。「読書」はそれを充たしてくれる一つの手段ですね。「学而時習之、不亦説乎。」です。
 
当方、光太郎関連以外に、歴史書小説や推理小説をよく読みます。あちこち出かけることが多いので、その移動の車中で読むことが多いのです(1泊2日の行程なら文庫本を3冊くらい持って行きます)。これから読書の秋。「灯火親しむの候」という美しい言葉があります。ぜひ皆さんも読書に親しみましょう! できればこのブログで紹介している書籍を読んでいただければ幸いです。

神田の古書店、八木書店様より少し前に送られてきた講演会の案内です。光太郎がメインではありませんが、ご紹介します。 

晶子没後70年記念出版『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念公演 与謝野夫妻の評伝を書き終えて -収集した二五〇〇通の書簡と全集・全釈編纂から-

講師 逸見久美氏
日時 平成24年9月29日(土) 15:00~
会場 東京堂書店神田神保町店6階 東京堂ホール
入場無料

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光太郎と親交のあった与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻研究の第一人者であらせられる逸見氏のご講演です。氏の編まれた『与謝野寛晶子書簡集成』には光太郎の名が散見され、「光太郎遺珠」編集に際して大いに参考にさせていただきました。
 
今月末に八木書店様の出版部から『新版 与謝野寛晶子評伝昭和篇』という氏の新著が刊行されるので、その関連と思われます。
 
講演会自体はまだ先なのですが、「先着80名」だそうですので、早めにご紹介いたします。
 
ここ数年、与謝野夫妻と光太郎がらみでの新資料をいくつか見つけていますので、当方も聴きに行ってみようと思っております。

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