カテゴリ:文学 > 評論等

近刊です。 

近代文学草稿・原稿研究事典

日本近代文学館編/編集委員:安藤宏・栗原敦・紅野謙介・十重田裕一・中島国彦・宗像和重
八木書店発行
予価(本体予価12,000円+税)
A5判・上製本・カバー装 420頁
 
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完成された作品では分からない、近代文学研究に不可欠な作品の生成過程を明らかに
 
<内容説明>
 第一部から第三部では、作家の原稿に接する楽しさ、原稿用紙・筆記用具の変遷、原稿から印刷出版に於ける様々な過程、代作・検閲などの実態、古書店による発掘・流通などについての論考を収める。
 第四部では、65人の作家の事例を具体的に取り上げた。原稿の残存状況、所蔵機関、使用原稿用紙の変遷などを記し、多数の原稿図版を掲出した。原稿用紙に加除訂正をはじめとする様々な情報から、活字化された本文では見えてこない創作時に於ける作家の状況を解読し、新たな作品研究の可能性を示した。
 また、文芸編集者や古典研究者など自筆物と関連の深い分野からのコラムを掲げるほか、原稿草稿の所蔵機関とその閲覧の手引きとなる資料を付録として付す。 
 
<目次>
第一部 草稿研究入門
原稿・草稿を読む楽しみ(中島国彦)、原稿用紙とはなにか(宗像和重)、筆記用具の痕跡(安藤宏)
 
第二部 草稿から出版へ
草稿から出版へ(十重田裕一)、組版印刷から見えるもの(栗原敦)、検閲と伏字(浅岡邦雄)
 
第三部 草稿をどう生かすか
自筆原稿からの本文作成の問題点(秋山豊)、代作・代筆問題(小林修)、草稿・原稿が持つ可能性(十川信介)、草稿・原稿は流通する(紅野謙介)
 
第四部 作家的事例
芥川龍之介(庄司達也)・有島武郎(内田真木)・石川啄木(太田登)・泉鏡花(吉田昌志)・伊藤整(飯島洋)・井上ひさし(今村忠純)・井伏鱒二(東郷克美)・宇野浩二(宗像和重)・宇野千代(尾形明子)・江戸川乱歩(浜田雄介)・遠藤周作(藤田尚子)・大岡昇平(花﨑育代)・岡本かの子(宮内淳子)・小川未明(小埜裕二)・尾崎紅葉(須田千里)・織田作之助(日高昭二)・梶井基次郎(河野龍也)・川端康成(片山倫太郎)・菊池寛(片山宏行)・北原白秋(中島国彦)・北村透谷(尾西康充)・久保田万太郎(石川巧)・久米正雄(山岸郁子)・幸田露伴(出口智之)・小林多喜二(島村輝)・小林秀雄(権田和士)・斎藤茂吉(品田悦一)・坂口安吾(大原祐治)・佐多稲子(長谷川啓)・里見弴(武藤康史)・島崎藤村(高橋昌子)・高見順(竹内栄美子)・高村光太郎(杉本優)・武田泰淳(井上隆史)・太宰治(安藤宏)・谷崎潤一郎(千葉俊二)・田村俊子(小平麻衣子)・田山花袋(小林修)・坪内逍遙(梅沢宣夫)・徳田秋聲(大木志門)・富永太郎(杉浦静)・永井荷風(真銅正宏)・中上健次(辻本雄一)・中里介山(紅野謙介)・中島敦(山下真史)・中野重治(林淑美)・中原中也(中原豊)・中村真一郎(池内輝雄)・夏目漱石(十川信介)・萩原朔太郎(阿毛久芳)・林芙美子(今川英子)・樋口一葉(戸松泉)・二葉亭四迷(高橋修)・堀辰雄(渡部麻実)・牧野信一(柳沢孝子)・正岡子規(金井景子)・正宗白鳥(中丸宣明)・三島由紀夫(佐藤秀明)・宮沢賢治(栗原敦)・向田邦子(嶋田直哉)・武者小路実篤(寺澤浩樹)・室生犀星(大橋毅彦)・森?外(須田喜代次)・山田美妙(山田俊二)・横光利一(十重田裕一)
 
コラム:文芸編集者の立場から(藤田三男)・記憶に残る原稿(東原武文)・近世文学研究と自筆資料(木越治)・外国文学の研究との違いについて(松澤和宏)・文学館活動における原稿に関する法律問題について(中村稔)
付  録: 主要原稿所蔵館一覧・ 複製原稿刊行リスト・ 全国文学館一覧・他
 
 
昨秋、版元の八木書店さんから内容見本が送られてきました。そちらには「2014年12月20日刊行予定」とありましたが、予定は未定にして決定にあらず、2月までずれこむようです。やはりこれだけの労作、かなり大変なのでしょう。
 
第四部の光太郎の項は、群馬県立女子大学教授、杉本優氏のご執筆です。氏は高村光太郎研究会員、連翹忌にも時折ご参加いただいております。
 
光太郎以外にも、光太郎智恵子と関わりの深い作家がラインナップに入っています。奮発して購入しようと思っております。
 
皆様もぜひどうぞ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月6日

平成7年(1995)の今日、銀座和光六階ホールに於いて、高村規写真展「木彫・高村光雲―没後六十年記念―」が開幕しました。
 
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昨年亡くなった、光太郎の令甥、高村規氏の写真展です。全国に散在する光雲作品の写真撮影に3年余を費やされ、さらにこの後、平成11年(1999)に刊行された『木彫 高村光雲―高村規全撮影』(中教出版)に繋がるお仕事でした。
 
同展図録から、規氏のお言葉。
 
光雲の作品は動感のなかに艶を感じさせます。作品に対峙したとき自然に伝はる熱い思いが作品の息吹、詩魂と共に表現され、真髄に迫ることが出来たかどうか皆様の御批評を賜れば望外の喜びです。

『吉本隆明全集5[1957‐1959]』。注文しておいたのが、届きました。
 
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昭和32年(1957)、吉本最初の単行本、『高村光太郎』ほか、光太郎や同時代の詩人たちを論じた評論が多数収められています。
 
『高村光太郎』は、3回ほど読みましたが、また改めて読み返してみたいと思います。他の短めの評論の中には未読のものが多く、こうしてまとめていただけると、非常に有り難く感じます。
 
 
そして月報。高村光太郎記念会事務局長にて、吉本の同窓、北川太一先生の玉稿『吉本と光太郎』が掲載されています。まずこの月報から読みましたが、感動しました。人と人との出会い、絆、そういったものの不思議さ、素晴らしさを存分に感じさせる名文です。
 
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戦前の初めての出会い、戦後すぐの再会、その時点でお二人とも、光太郎を読み解くことなくして、あの時代を生きる方向性がつかめない、と考えられていたそうです。やがて光太郎没後、北川先生の編集で、昭和32年(1957)から刊行が始まった『高村光太郎全集』の月報に載った、吉本の「『出さずにしまつた手紙の一束』のこと」のお話、お二人で編んだ昭和56年(1981)の春秋社版『高村光太郎選集』増訂版のお話などなど……。
 
『吉本隆明全集5[1957‐1959]』。定価6400円+税と、値段は張りますが、それだけの価値は十分にあります。当方、自分へのクリスマスプレゼントとします(笑)。
 
 
さて、過日もちらっとご紹介しましたが、NHK Eテレさんの教養番組「日本人は何をめざしてきたのか。 知の巨人たち」の詳細情報が公表されました。「第5回 吉本隆明」ということで、後半4回のトップが吉本です。

日本人は何をめざしてきたのか。 知の巨人たち 第5回 吉本隆明

 来年の戦後70 年を前に、3年がかりで取り組む「戦後史証言プロジェクト」の第5~8回を、1月10日から放送する。
 敗戦から占領下の民主化、高度経済成長...時代の分岐点で、著名な知識人は何を考え、どのような未来を思い描いたのか。関係者を幅広くインタビューし、今につながる戦後日本の課題を考えていく。
 
第5回 吉本隆明 1月10日(土) 午後11:00~午前0:30 放送
 戦後の言論界を走り続け てきた思想家・吉本隆明。膨大な仕事は、文学から政治、宗教、社会思想、そしてサブカルチャーに至るまで 幅広い。六〇年安保では学生達の先頭となり国会に突入、六八年の 大学紛争時には、 代表作『共同幻想論』を発表、個としての思考の自立を説き、大学生たちの圧倒的な支持を得た 。高度消費社会を前向きにとらえ、大衆の行動に意味を見出した。同時に、常に常識を疑い、権威と闘い、時には物議を醸す発言もした。社会学者・西部邁さん、上野千鶴子 さん、橋爪大. 三郎さん、作家・高橋源一郎さん、ミュージシャン遠藤ミチロウさん、 幅広い層からの証言で紡いでいく。
 
北川先生のところにも取材が入ったそうですので、上記の「」に、北川先生も含まれるのではないかと思われます。当方、ちょうどこの日に、北川先生を囲む新年会に参加予定でして、なにか不思議な感覚です。
 
ちなみに同番組、第6回以降は、石牟礼道子、三島由紀夫、手塚治虫というラインナップになっています。
 
ぜひご覧下さい。
 
 
吉本といえば、昨日の『朝日新聞』さんの読書欄に、筑摩書房の『吉本隆明〈未収録〉講演集』刊行開始の記事が載りました。

『吉本隆明〈未収録〉講演集』

 『吉本隆明〈未収録〉講演集』(筑摩書房、宮下和夫編)の刊行が始まった。1957年の「明治大正の詩」から2009年の「孤立の技法」までの124講演をテーマ別に、第1巻『日本的なものとはなにか』(2052円)から『芸術言語論』までの全12巻。単著に収められていなかったもののほか、新たに音源が発見された8講演を含む。第1巻には付録として「全講演リスト」がつく。今後あらたに音源が見つかった場合は、第13巻を刊行したいという。
 
全12巻(もしくは13巻)中には、光太郎がらみの講演も含まれるかも知れません。詳細が分かり次第、お知らせします。
 
 
昨日の『朝日新聞』さんの読書欄といえば、このブログでご紹介した、智恵子に触れた池川玲子著『ヌードと愛国』の書評も載りました。 『日本経済新聞』さんには早々に書評が載りましたし、先週は『読売新聞』さんにも載りました。かなり注目を浴びているようですね。 

聖火リレー池川玲子著『ヌードと愛国』

 絵画や映画、写真などで表現されてきたあまたのヌードを近現代日本文化史という視点で眺めてみると、そこには、「『日本』をまとったヌード」という系譜が現れてくるという。明治期に長沼智恵子が描いたリアルすぎるヌードから、70年代のパルコの「手ブラ」ポスターまで、7体のヌードの謎を解き、日本近現代を「はだか」にする試み。(講談社現代新書・864円)
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月22日

昭和4年(1929)の今日、雑誌『いとし児』にアンケート「児童と映画」が掲載されました。
 
質問は三項目。以下の通りでした。000
 
一、お子様に映画をお見せになりますや、否や、その理由。
二、月に何回ぐらゐ。
三、種類の御選択は。
 
それに対する光太郎の回答は、ずばり一言のみ。
 
私には子供がありません。
 
このアンケート、光太郎を含む77名の回答が載っていますが、出版社も子供がいるかいないかくらい調べてから依頼しろと言いたくなりますね。さらにこの光太郎の回答をボツにせず、そのまま載せるというのも何だかなあ、という感じです。
 
ちなみに昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】に載せましたが、今日は光太郎智恵子、大正3年(1914)、上野精養軒での結婚披露100周年です。金金婚式ですね(笑)。
 
しかし、入籍は実に昭和8年(1933)。智恵子の統合失調症が進み、光太郎も健康に不安を抱え、自分に万一の事があった場合の遺産相続等を考えての光太郎の決断でした。
 
二人にはとうとう子供はできませんでした。その理由について、いろいろな憶測がなされていますが、結局は謎です。

昨日、晶文社さんから刊行中の『吉本隆明全集』全38巻+別巻1のうち、評論「高村光太郎」が掲載予定の第5巻をご紹介しました。
 
その記事を書くために調べていたところ、既刊の第7巻(第2回配本)と第4巻(第3回配本)にも光太郎がらみの文章が載っていることに気づきましたので、ご紹介します。 
2014年6月24日 晶文社 定価6300円+税無題
 
【目次】
Ⅰ丸山真男論
1 序論/2 「日本政治思想史研究」/3 総論

社会主義リアリズム/戦後文学の転換/日本のナショナリズムについて/近代精神の詩的展開/戦後文学の現実性/情況に対する問い/情況における詩/“終焉”以後/詩的乾こう(ママ)/“対偶”的原理について/反安保闘争の悪煽動について/戦後文学論の思想/「政治と文学」なんてものはない/非行としての戦争/模写と鏡/「政治文学」への挽歌/いま文学に何が必要かⅠ/戦後思想の価値転換とは何か/性についての断章/いま文学に何が必要かⅡ/「近代文学」派の問題/いま文学に何が必要かⅢ

日本のナショナリズム/過去についての自註

死者の埋められた砦/佃渡しで/沈黙のための言葉/信頼/われわれはいま――

詩のなかの女/江藤淳『小林秀雄』/斎藤茂吉/本多秋五/埴谷雄高の軌跡と夢想/埴谷雄高氏への公開状/埴谷雄高『垂鉛と弾機』/渋澤龍彦『神聖受胎』/清岡卓行論/啄木詩について/折口学と柳田学/「東方の門」私感/ルソオ『懺悔録』/高村光太郎鑑賞/中野重治/壺井繁治/金子光晴/倉橋顕吉論/無方法の方法/本多秋五『戦時戦後の先行者たち』/『花田清輝著作集Ⅱ』

「思想の科学」のプラスとマイナス/『ナショナリズム』編集・解説関連/宍戸恭一『現代史の視点』/中村卓美『最初の機械屋』/「言語にとって美とはなにか」連載第三回註記/『擬制の終焉』あとがき/『吉本隆明詩集(思潮社版)』註記/「丸山真男論」連載最終回附記/『丸山真男論(増補改稿版)』後註/『模写と鏡』あとがき/「試行」第3~12号後記/三たび直接購読者を求める/「報告」
解題〈間宮幹彦〉 
2014年10月9日 晶文社 定価6400円+税000
 
【目次】

固有時との対話/転位のための十篇

蹉跌の季節/昏い冬/ぼくが罪を忘れないうちに/涙が涸れる/控訴/破滅的な時代へ与へる歌/少年期/きみの影を救うために/異数の世界へおりてゆく/挽歌――服部達を惜しむ――/少女/悲歌/反祈禱歌/戦いの手記/明日になつたら/日没/崩壊と再生/贋アヴアンギヤルド/恋唄/恋唄/二月革命/首都へ/恋唄

アラゴンへの一視点/現代への発言 詩/労働組合運動の初歩的な段階から/日本の現代詩史論をどうかくか/マチウ書試論――反逆の倫理――
/蕪村詩のイデオロギイ/前世代の詩人たち――壺井・岡本の評価について――/一九五五年詩壇 小雑言集/「民主主義文学」批判――二段階転向論――/不毛な論争/戦後詩人論/挫折することなく成長を/文学者の戦争責任/民主主義文学者の謬見/現代詩の問題/現代詩批評の問/現代詩の発展のために/鮎川信夫論/「出さずにしまつた手紙一束」のこと/昭和17年から19年のこと/日本の詩と外国の詩/前衛的な問題/定型と非定型――岡井隆に応える――/番犬の尻尾――再び岡井隆に応える――/戦後文学は何処へ行ったか/芸術運動とはなにか/西行小論/短歌命数論/日本近代詩の源流

ルカーチ『実存主義かマルクス主義か』/善意と現実/新風への道/関根弘『狼がきた』/『浜田知章詩集』/三谷晃一詩集『蝶の記憶』/奥野健男『太宰治論』/谷川雁詩集『天山』/服部達『われらにとって美は存在するか』/島尾敏雄『夢の中での日常』 井上光晴『書かれざる一章』/平野謙『政治と文学の間』/野間宏『地の翼』上巻/山田清三郎『転向記』/埴谷雄高『鞭と独楽』『濠渠と風車』/堀田善衛『記念碑』『奇妙な青春』批判/中村光夫『自分で考える』/『大菩薩峠』/『純愛物語』

戦後のアヴァンギャルド芸術をどう考えるか/〈現代詩の情況〉[断片]/北村透谷小論[断片Ⅰ]/北村透谷小論[断片Ⅱ]/一酸化鉛結晶の生成過程における色の問題
解題〈間宮幹彦〉
 
 
今回の晶文社さんの全集は、編年体による編集であるため、複数巻にまたがって光太郎論が掲載されることとなります。上記目次のうち、色つきにしたものが、光太郎に詳しく言及している評論です。他にも短く光太郎を扱っている評論も含まれているかも知れませんが、わかりかねます。申し訳ありません。
 
さて、話は変わりますが、NHK Eテレ(旧教育テレビ)さんの教養番組「日本人は何をめざしてきたのか」で、来月、吉本が取り上げられます。今年度は「知の巨人たち」というサブタイトルで、前半4本が7月に放映され、後半4本を来月放送予定だそうです。まだ詳細な情報が出ていないのですが、後半4本の中に吉本が入ります。
 
ちなみに7月に放映された前半4本では湯川秀樹とその共同研究者・武谷三男、鶴見俊輔、丸山眞男、司馬遼太郎が取り上げられました。そして吉本他3名(誰になるか、まだ情報を得ていません)が後半のラインナップです。先月には吉本の盟友で、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生のところに取材が入ったそうです。詳細が判明しましたら、またご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月9日
 
明治39年(1906)の今日、東京市本所区須崎町(現・墨田区向島5丁目)に、光雲が原型制作主任を務めた西村勝三銅像が除幕されました。
 
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西村は明治期の実業家。像は西郷隆盛像や楠正成像同様、東京美術学校としての制作でした。残念ながら戦時中の金属供出により、現存しません。

近刊です。  
2014年12月16日刊行予定 晶文社 定価6400円+税
 
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長く深い時間の射程で考えつづけた思想家の全貌と軌跡がここにある。
第5巻には、最初の単行本である代表的作家論『高村光太郎』と、初期の重要な評論「芸術的抵抗と挫折」「転向論」、および花田・吉本論争の諸篇を収録する。そのほか、新たに1篇の単行本未収録原稿を収める。
月報は、北川太一氏・・ハルノ宵子氏が執筆!
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【目次】

高村光太郎/『道程』前期/『道程』論/『智恵子抄』論/詩の註解/戦争期/敗戦期/戦後期/年譜/参考文献目録

「戦旗」派の理論的動向/文学の上部構造性/宗祇論/抵抗詩/くだらぬ提言はくだらぬ意見を誘発する――加藤周一に――/三種の詩器/「四季」派の本質――三好達治を中心に――/芸術的抵抗と挫折/街のなかの近代/情勢論/今月の作品から/芥川龍之介の死/転向論/中野重治「歌のわかれ」

死の国の世代へ――闘争開始宣言――

不許芸人入山門――花田清輝老への買いコトバ――/「乞食論語」執筆をお奨めする/アクシスの問題/芸術大衆化論の否定/近代批評の展開/天皇制をどうみるか/橋川文三への返信/高村光太郎の世界/戦争中の現代詩――ある典型たち――/詩人の戦争責任論――文献的な類型化――/異端と正系/十四年目の八月十五日/現代詩のむつかしさ/海老すきと小魚すき/転向ファシストの詭弁

内的な屈折のはらむ意味――『井之川巨・浅田石二・城戸昇 詩集』――/堀田善衞『乱世の文学者』/阿部知二他編『講座現代芸術Ⅲ芸術を担う人々』/草野心平編『宮沢賢治研究』/戦後学生像の根――戦中・戦後の手記を読んで――/江藤淳『作家は行動する』/武田泰淳『貴族の階段』/久野収・鶴見俊輔・藤田省三『戦後日本の思想』/阿部知二『日月の窓』

『風前の灯』
『夜の牙』
『大菩薩峠』(完結篇)

飯塚書店版『高村光太郎』あとがき/『芸術的抵抗と挫折』あとがき/『抒情の論理』あとがき
解題〈間宮幹彦〉
 
 
一昨年亡くなった思想家・吉本隆明の全集です。晶文社さんが、今年3月から刊行を始め、全38巻・別巻1の予定で刊行中のものの、第4回配本です。
 
上記目次の通り、評論「高村光太郎」が収録されます。こちらは我々光太郎研究者にとってのバイブルに等しいものの一つです。吉本氏の盟友・北川太一先生の書かれた「死なない吉本」(『春秋』539号 平成24年=2012 5月)から、この評論についての部分を抜粋させていただきます。
 
工大の特別研究生として再び一緒になったのは昭和二十四年になってからだった。彼の研究室は同じ階にあった。二年間のその第一期を終わって吉本は東洋インキ製造に入社、二十七年には詩集『固有時との対話』が出来て、それを届けてくれた時、日本の明治以後の詩史を広く見通すための資料が見たいという希望が添えられていた。お花茶屋や駒込坂下町の吉本の家を訪ねたり、時に日本橋の我が家に来てくれたりが続いたけれど、昭和三十年に吉本が『現代詩』に『高村光太郎』を発表し始めたことは、僕を興奮させた。年譜を補充するために光太郎の聞き書きを取り始めていた僕は、すぐその雑誌を死の前年の光太郎に見せて、わが友吉本隆明について語ったのを覚えている。
 
それをふまえ、単行書『高村光太郎』。
 
吉本によって高村光太郎についてのこの国で最初の単行書が鶴岡政男の装丁で飯塚書店から刊行されたのは、昭和三十二年七月のことであった。自らの青春と重ねて、戦争期の光太郎の二重性の意味をつきとめようとするところから始めたこの仕事は、五月書房(昭和三十三年 改稿版)、春秋社(昭和四十一年 決定版)と増補されつつ進化し続けた。
 
評論「高村光太郎」は、その他、勁草書房の『吉本隆明全著作集8』(昭和48年=1973 絶版)、講談社文芸文庫『高村光太郎』(平成3年=1991)にも収められました。特に勁草書房版は、光太郎に関する他の小論、講演も収めており、便利です。ただし絶版です。
 
それが今回、また収録されるということですし、目次を見ると他にも光太郎がらみの評論が収められているようです。また、月報には北川先生の玉稿が載ります。ぜひお買い求めを。
 
明日も吉本関連で。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月8日
 
昭和20年(1945)の今日、日本共産党が神田共立講堂で「戦争犯罪人追及人民大会」を開催しました。
 
以下の決議文をGHQに提出しています。
 
日本の人民大衆をして彼の恐るべき強盗侵略戦争に駆り立てゝ惨虐極まる犠牲の血を流さしめたる犯罪人に対する厳重処罰は日本勤労民衆の総意が切に希望する所であり且又、吾が日本共産党がポツダム宣言の精神に立脚し不断に強調しつゝある所である。天皇制支配機構に於ける一切の指導的分子即ち天皇を始め重臣、軍閥、行政司法の官僚、財閥戦争協力地主、貴族院衆議院議員、反動団体のゴロツキ等が犯罪的侵略戦争の指導者、組織者であることは全く疑いなき事実である。今回梨本宮、平沼を始め五十九名に対する連合軍最高司令部の逮捕命令は戦争犯罪人の牙城に対する鉄鎚として全日本の人民大衆に深い感銘を与える所である。吾が党第四回全国大会は連合軍の今回の措置を全面的に支持すると共に今日尚日本の政治経済機構に深く巣喰つている多数の戦争犯罪人に対する厳正処断が日本の民主化のための根本前提として急速になされることを茲に熱望して止まないものである。
右決議す
 
同時に昭和天皇をはじめとする1,000名の「戦争犯罪人名簿」を発表、その中には光太郎の名も記されていました。
 
この時党員として糾弾する側に廻っていた詩人の壺井繁治などは、自身も戦時中にはこんな詩を書いていました。
 
   鉄瓶に寄せる歌
 
 お前を古道具屋の片隅で始めて見つけた時、錆だらけだつた。
 俺は暇ある毎に、お前を磨いた。
 磨くにつれて、俺の愛情はお前の肌に浸み通つて行つた。
 お前はどんなに親しい友達よりも、俺の親しい友達となつた。

 お前は至つて頑固で、無口であるが、
 真赤な炭火で尻を温められると、唄を歌ひ出す。
 ああ、その唄を聞きながら、厳しい冬の夜を過したこと、幾歳だらう。
 だが、時代は更に厳しさを加へ来た。俺の茶の間にも戦争の騒音が聞えて来た。

 お前もいつまでも俺の茶の間で唄を歌つてはゐられないし、
 俺もいつまでもお前の唄を楽しんではゐられない。
 さあ、わが愛する南部鉄瓶よ。さやうなら。行け! 
 あの真赤に燃ゆる熔鉱炉の中へ! 

 そして新しく熔かされ、叩き直されて、
 われらの軍艦のため、不壊の鋼鉄鈑となれ!
 お前の肌に落下する無数の敵弾を悉くはじき返せ!
 
先述の吉本隆明も、こうした壺井の変節には怒り心頭です。
 
もしこういう詩人が、民主主義的であるなら、第一に感ずるのは、真暗な日本人民の運命である。
(『抒情の論理』 未来社 昭和34年=1959)

だからと言って、全詩作の約4分の1、実に200篇近くに及ぶ光太郎の戦争詩が許されるか、というとそうではありませんが……。

石川は金沢の室生犀星記念館でのイベント(講座)の情報です。

『我が愛する詩人の伝記』を読む 第2回『高村光太郎』

期 日 : 2014年11月29日(土)  
時 間 : 午前10時~11時
会 場 : 室生犀星記念館 石川県金沢市千日町3-22
講 師 : 上田正行氏(同館館長)
 
※お電話でお申し込みください(室生犀星記念館:076-245-1108) 入館料が必要です。
 
 
『我が愛する詩人の伝記』は、昭和33年(1958)に雑誌無題『婦人公論』に連載され、同年単行本化された室生犀星の著書です。詩人としての犀星が間近に見た詩人達の、「伝記」というより「印象記」「回想」に近いものです。
 
取り上げられたのは12人。『婦人公論』掲載順に、北原白秋、光太郎、萩原朔太郎、釈迢空(折口信夫)、佐藤惣之助、島崎藤村、堀辰雄、立原道造、津村信夫、山村暮鳥、百田宗治、千家元麿です。
 
貴重な回想を含み、さらに犀星自身、そう書いているように「詩人の伝記を書いてゐるが、どうもすぐ自分のことを書いてしまふ」というわけで、犀星本人の人間像も浮き彫りになっている一冊です。
 
したがって、この書自体が研究の対象となることも多く、今回の講座でもそういうわけで取り上げるのだと思われます。ちなみに全6回の予定だそうで、白秋を扱った初回の講座は先月終了。今後、光太郎、朔太郎、釈迢空、立原道造と佐藤惣之助、藤村と千家元麿というラインナップになっています。
 
ちなみに今回の講座とは関係ないとは思うのですが、『我000が愛する詩人の伝記にみる室生犀星』(葉山修平著 龍書房 平成12年=2000)という書籍も刊行されています。
 
さて、『我が愛する詩人の伝記』の中で、光太郎がどう描かれているか、少し紹介しておきます。中心になっているのは、青年期の回想です。
 
犀星は光太郎より6つ年下の明治22年(1889)の生まれ。中央の詩壇にデビューするのも大正に入ってからと、光太郎のそれより後のことです。そこで、すでに名声を得ている先輩に対するやっかみのような、シニカルな見方が垣間見えます。
 
千駄木の桜の並木のある広いこの通りに光太郎のアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れ、白いカーテンの時は西洋葵の鉢が置かれて、花は往来のはうに向いてゐた。あきらかにその窓のかざりは往来の人の眼を計算にいれたある矜(ほこり)と美しさを暗示したものである。千九百十年前後の私はその窓を見上げて、ふざけてゐやがるといふ高飛車(たかびしや)な冷たい言葉さへ、持ち合すことのできないほど貧窮であつた。かういふアトリエに住んでみたい希(のぞ)みを持つたくらゐだ。四畳半の下宿住ひと、このアトリエの大きい図体の中にをさまり返つて、沢庵と米一升を買ふことを詩にうたひ込む大胆不敵さが、小面憎かつた。
 
また、そのアトリエをおとなったものの、実に三回にわたり、智恵子に追い返されたエピソードも語られています。
その時の智恵子を「夫には忠実でほかの者にはくそくらへといふ目附」と評しています。ちなみにまだこの時点では犀星と光太郎はお互い相知らぬ時期だったそうです。
 
しかし、何も光太郎智恵子をけちょんけちょんにけなしている訳ではありません。
 
光太郎の死は巨星墜つといふことばどほりのものを、私に感じさせた。巨星墜つといふばかばかしいことばが、やはりかれの場合ふさはしく、それだけ私は依然距たりをおぼえてゐたのだ。
 
ここだけ取り上げても伝わりにくいのですが、「距たり」といっても、「敬遠」とか「拒絶」ではなく、「脱帽」に近い感覚です。
 
このほかの部分にも、光太郎に対する敬愛の情がしっかり伝わってきます。また、遺された光太郎から犀星宛の書簡を見ると、光太郎の母が亡くなった際には犀星から心のこもった手紙が来たことや、逆に犀星の母(義母)の逝去に際しても、光太郎は衷心から哀悼の意を表しています。
 
先に挙げたシニカルな見方も、犀星が自らを偽悪家として韜晦する一面を見せているように思われます。そうした部分が、この書物自体、研究の対象として重要視されている一因でしょう。
 
『我が愛する詩人の伝記』、光太郎の回の最後はこんなふうに終わっています。
 
智恵子さん曰く、四十何年か前に見た人がまたいやなことを書いてゐるわね、なんてしつこい厭な奴!
 
 
さて、犀星記念館の講座。お近くの方、ぜひどうぞ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月22日
 
昭和2年(1927)の今日、詩人の尾崎喜八に絵葉書を送りました。
 
この時期の光太郎は、自作の彫刻を写真に撮り、絵葉001書にして使っています。この葉書もそうで、この時開催されていた大調和展覧会に出品していた塑像「某夫人の像」をプリントしています。
 
「某夫人」=智恵子です。文面は以下の通り。
 
 この間の夜は急用があつたので失敬しました。二三日前 大調和展へも来られたといふ事を千家君にききましたが その日も遅く行つたので会へないで残念でした。
 此の彫刻は誰も本当には認めませんが自分では信用してゐます。多くの芽を持つてゐると思ひます。
 
光太郎はこの他にも智恵子像を作っていますが、それらすべて、現存が確認できていません。ほとんど昭和20年(1945)の空襲で燃えてしまったと推定されています。
 
どこかからひょっこり出てこないかと期待しているのですが……。
 

芸術の秋、文化の秋、ということで、このところ光太郎に関連するイベントが盛りだくさんです。このブログ、それらの紹介と、足を運んでのレポートで、かなりネタを稼がせていただきました。今月に限っても、まだ三つ四つ、把握しているイベントがあるのですが、一旦そちらから離れます。
 
予定では今日から4回、新刊書籍をご紹介します。イベントの記事と比べると、速報性の意味であまり重要でないかなと思い、後回しにしていましたが、いつまでも紹介しないと「新刊」と言えなくなりますし、「こういう本が出ているのに気づいていないのか」と思われるのも癪ですので。

山に遊ぶ 山を思う

正津勉著  2014/9/30 茗渓堂  定価 1,800円+税
 
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著者の正津氏は詩人。山岳愛好家でもあります。その正津氏がこの十年ほどの間に歩いた全国の山々の紀行です。基本、白山書房刊行の雑誌『山の本』に「山の声」の題で連載されていたものに加筆訂正を加えたものだそうです。
 
単なる山岳紀行ではなく、それぞれの山と縁の深い文学者のエピソード、作品を紹介しながらというスタイルです。
 
さて、光太郎。
 
第12章の「詩人逍遥 赤城山――萩原朔太郎・高村光太郎」で扱われています。
 
光太郎は赤城山を非常に愛し、生涯に何度も訪れています。明治37年(1904)には、5月から6月にかけてと、7月から8月にかけての2回、計40日ほどを赤城に過ごしており、あとから合流した与謝野鉄幹ら新詩社同人のガイド役も買って出ています。また、昭和4年(1929)にも、草野心平らを引き連れて登っています。この時同行した詩人の岡本潤の回想に拠れば、光太郎は下駄履きで登っていったとのこと。ちなみに前橋駅で落ち合った朔太郎は登らなかったそうです。
 
こうしたエピソードや、赤城山に関わる光太郎の短歌などが紹介されています。
 
他にも宮澤賢治、更科源蔵、川路柳虹、竹内てるよ、大町桂月、尾崎喜八、風間光作、真壁仁といった、光太郎と縁の深い文学者のエピソードが盛りだくさんです。
 
先頃、『日刊ゲンダイ』さんに書評が載りました。
 
 北は北海道の離島に位置する利尻山から、南は薩摩半島の南端の開聞岳まで、日本全国30カ所の山々を歩いた詩人による山岳紀行。スポーツとしての登山ではなく、都会の喧騒から離れることで俗世間の煩わしさを忘れ、自然の中で心を豊かに遊ばせる山行きの楽しさを感じさせてくれる。
  特筆すべきなのは、それぞれの山にちなんだ詩歌や言葉など、先人の文学をあらかじめ下調べした上で山に向かっている点。たとえば、津軽富士と呼ばれる岩木山の章では、太宰治の「津軽」や河東碧梧桐の「三千里」、今官一の「岩木山」などの一節が紹介されているほか、地元詩人の方言詩などにも触れていく。
  群馬県の赤城山の章では、萩原朔太郎の「月に吠える」「蝶を夢む」「青猫」や、高村光太郎の「明星」、さらに草野心平や金子光晴の名も登場。自らの山行きを悠久の時を超えた先人の言葉と重ね合わせながら、より深く楽しんでいる姿が何とも味わい深い。

 
「高村光太郎の「明星」」には「おいおい!」と思いましたが、よく書けています。
 
ちなみに著者の正津氏には、他にも光太郎にふれたご著書がありますので、紹介しておきます。

人はなぜ山を詠うのか001

平成16年 アーツアンドクラフツ 定価2,000円+税  版元サイトはこちら
 
こちらも山と文学者の関わりについて述べたもの。第一章が「私は山だ……高村光太郎」。こちらでは上高地、安達太良山、磐梯山、そして花巻郊外太田村の山口山といった、光太郎が足を運んだり、作品でふれたりした山を追っています。

小説尾形亀之助 窮死詩人伝

平成19年(2007) 河出書房新社 定価2,200円+税   000版元サイトはこちら
 
光太郎と交流のあったマイナー詩人・尾形亀之助の評伝です。光太郎も登場します。帯には光太郎の亀之助評も。

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合わせてお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月16日
 
昭和20年(1945)の今日、光太郎の住む花巻郊外太田村の山小屋を、編集者の鎌田敬止が訪れました。
 
鎌田は岩波書店を振り出しに、北原白秋の弟・鉄雄が経営していたアルス、平凡社など、光太郎とも縁のある出版社を渡り歩き、昭和14年(1939)には八雲書林を創立しました。八雲書林は、戦時中に他の出版社と統合して青磁社となり、この時は青磁社の所属でした。さらに同24年(1949)頃に白玉書房を設立。休業中の龍星閣に代わって、『智恵子抄』を復刊しました。

新刊です。 
2014/10/1 東京大学國語國文学会編 明治書院発行 定価1,143円+税
 
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國語と國文學』。古典から近現代まで幅広く扱う雑誌です。巻末に「投稿規定」が載っていて、それによれば「本誌は広く国語国文学研究者の発表機関としてこれを開放し、大方のご投稿を歓迎します。」とあり、原稿依頼ではなく投稿で成り立っているようです。そういう意味では書けば載る大学の研究紀要などとは違い、載せてもらうためのハードルが高そうです。ただ、今号の目次、巻頭の「前号要目」「次号予告」等を見ると、大半が国文学の論文で、国語学に関するものはほとんど無いようです。
 
さて、今号には駿河台大学准教授、長尾健氏の論考「高村光太郎『道程』前期論――巻頭三作品の解釈を中心に――」が掲載されています。
 
今年、刊行100年を迎える詩集『道程』。明治43年(1910)から大正3年(1914)までの詩、76篇が載っています。内容的に、明治44年(1911)の「泥七宝」あたりを境に、前半と後半に分けて読み取るのが一般的です。前半は欧米留学から帰朝し、北原白秋、吉井勇らと「パンの会」の狂躁に身を投じたり、吉原の娼妓・若太夫や浅草のカフェの女給・お梅に入れ込んだりしていたデカダン生活の時期のもの。後半は智恵子との邂逅を経て、頽廃生活からの脱却、『白樺』的な人道主義の影響も見て取れる、表題作「道程」を含む作品群、といった区分けです。
 
長尾氏の論考は、前半、特に冒頭の三作品「失はれたるモナ・リザ」「生けるもの」「根付の国」を中心に展開されています。キーワードは「普遍的な美」「西洋でも日本でもないある絶対的な場所」「ナショナル・アイデンティティ」などなど。
 
雑誌専門の通販サイトfujisan.co.jpから購入できます。ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月19日
 
昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、栗ご飯を炊いて食べました。
 
「秋の味覚」、ですね。この日の日記に以下の記述があります。
 
四時過ぎ小屋にかへる、 栗をひろふ。 夜食、炊飯(栗めし)初めてなり。
 
この前後、光太郎が7年間暮らした太田村の山小屋周辺には栗の木がたくさん自生しており、時には音を立てて屋根に栗の実が落ち、拾い放題でした。村人もよく小屋の近くに拾いに来ていたそうです。
 
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日記はさらにこう続きます。
 
南瓜一個とり。煮る、美味とはいへず。
 
自分で栽培していたカボチャは今ひとつだったようです(笑)。

詩人の間島康子様から、このほど刊行された文芸同人誌『群系』の第33号「<特集>昭和戦前・戦中の文学」をいただきました。
 
間島様の論考「高村光太郎 ―のっぽの奴は黙っている」が、10ページにわたり掲載されています。
 
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以前にいただいた第32号掲載の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」もそうでしたが、卓見です。
 
「のっぽの奴は黙つてゐる」は、昭和5年(1930)、雑誌『詩・現実』に発表された光太郎の詩。その2年前に東京会舘で開催された光雲喜寿の祝賀会での一コマをうたったものです。
 
ただ、間島様の論は、この詩の解釈が中心ではなく、様々な場面で「黙つてゐる」光太郎についてといった趣です。巨匠として世俗的名声を得た父に対しての思い、戦時には意に添わぬ戦争協力詩を書かされている思い、戦後にはそれらを書かされていたことに対する思いなどなど。
 
自己に厳しい光太郎は、そうした思いのうち、自分の暗愚に対しては発言するものの、他に責任を転嫁しません。その結果が、花巻郊外太田村での「自己流謫(るたく)」。「流謫」は「流刑」の意味です。
 
そうした光太郎の「自虐」「孤独」に注目した間島様の論考、卓見です。『群系』さんのサイトから入手可能です。
 
ところで間島様、今年の連翹忌にご参加下さいました。その折の話や、その折に配布した資料などからも引用なさっています。運営している甲斐がある、と思いました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月31日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、実弟の豊周・君江夫妻、姪の珊子が訪ねてきました。
 
兄弟6年半ぶりの対面です。十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)制作のため、秋には上京することが決まっており、そのための打ち合わせ的な来訪でした。
 
豊周一家は昭和20年(1945)3月に、信州小諸に疎開。光太郎は「東京に天子様がいらっしゃる間は動かない」と、残ります。結果、4月には空襲でアトリエが全焼、やむなく5月には宮澤賢治の父・政次郎らの招きで花巻に移ります。
 
豊周の『定本光太郎回想』(昭和47年=1972 有信堂)の、この来訪時の記述が、笑えます。
 
 僕と家内と娘とが太田村の山小屋をたずねたのは、兄がいよいよ帰京するすこし前のことで、はじめ兄は、
「手紙で用が足りるから、わざわざ来なくてもいい。殊に君江さんの足では無理だ。」
と言って来ていたが、それでもこの頃開通したという自動車の地図など書いてある。口ではなんとか言っていても、内心は、一度連絡に来てもらいたかったのだ。
 
微笑ましいですね。

連翹忌ご常連で、詩人の豊岡史朗氏から、氏の主宰する詩誌『虹』の第5号を戴きました。
 
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豊岡氏による評論「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」が掲載されています。
 
題名にある北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』とは、平成21年(2009)に、北川太一先生の教え子の皆さん・北斗会の方々が出版にこぎつけたもので、平成19年(2007)11月、当時の文京区立本郷図書館鷗外記念室で開催された北川先生の講演に加筆修正されたものです。
 
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「観潮楼」というのは鷗外が団子坂上の自宅につけた雅号。ここが文京区立本郷図書館鷗外記念室だったところで、現在は文京区立森鷗外記念館となっています。駒込林町の光太郎アトリエとは指呼の距離です。
 
「一夜」というのは大正6年(1917)10月9日の夜。昨年、このブログの【今日は何の日・光太郎】の10月9日の項に書きましたが、この直前に、光太郎が鷗外の悪口を言いふらしている、という話を聞きつけた鷗外が、光太郎を呼び出したのです。会見の様子については、昨年10月9日の項をご覧下さい。
 
『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』は、この夜の出来事を中心に、光太郎と鷗外の交流を詳細に追っています。詩誌『虹』の「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」は、『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』の紹介、感想を軸に、さらに二人の留学体験、新たに開館した鷗外記念館などにも触れています。
 
ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月22日
 
平成3年(1991)の今日、徳島県立近代美術館で、企画展「日本近代彫刻の一世紀―写実表現から立体造形へ―」が開幕しました。
 
茨城県近代美術館と2館巡回での企画展。光雲の「観音像頭部」(明治28年=1895)、光太郎の「裸婦坐像」(大正5年=1916)、「手」(大正7年=1918頃)をはじめ、二人と関係する彫刻家の作品から現代彫刻までがずらっと並びました。

このブログでご紹介した阿部公彦氏著 『詩的思考のめざめ』厚香苗氏著『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』が新聞各紙の書評欄でも取り上げられていますので、ご紹介します。  

『詩的思考のめざめ』 阿部公彦著  

 かつて詩人は、黒いハンドバッグから現れた。
 
 地下鉄のベンチ、眠たい膝枕にことばが降る。やがてレールの削れる音がして、悲しい海底は消える。すぐそばで、見ているみたいだったね。人間の声にもどった母は、詩集を閉じ、子どもの手をひき、まぶしい電車に乗りこんだ。
 
 十年がひとむかしだったころは、そんなふうだった。ひとむかしがふた月ほどのいま、ハンドバッグには電話機がある。肉声は遠くなり、降水確率や星占いの画面を頼りにしている。
 
 阿部公彦さんは、詩の読解入門ではなく、むしろ門の外に誘うために、この本を書かれた。
 
 遠いありがたい「詩」の世界に一生懸命入っていかなくても、ふだんの日常の中に詩のタネは隠されている。
 
 だれかと抱きあうより、じぶんでじぶんを撫なでさすって、はやく安心したい。感じるより知りたい。美しいより正しいがえらい。読書に正解を求めるほど、詩とひとの通いあいは消える。
 
 けれども墓に追いやるには、詩はあまりに人間そのもの。詩というかこいの外にさえ、あたりまえにいる。阿部さんは、いまと昔のどちらにも中立に、ことばの外苑を案内していく。
 
 詩のことばは名を持たず、恥じらい、はずみ、反復し、連呼し、ときに隠れて黙りこむ。
 
 金子光晴、高村光太郎、宮沢賢治、萩原朔太郎、石垣りん、伊藤比呂美、田原でんげん、谷川俊太郎。
 
 詩人が刻む光陰に、どんなふうに腕をのばし、触れれば、めざめの扉を見つけられるでしょう。
 
 詩人と読者、ふたりきり。道行きを案内する阿部さんは、古い時計をなおすように、一語一句を分解し、作品のメカニズムをもみほぐす。
 
 礎だった詩はふたたび動き、新しい詩は朗らかな通訳者を得た。そして、この本を読むひとは、内容を解読しようとするこころの回路を切り、あどけない詩的身体を取りもどす。
 
 うごめくことばに触れてみる。張りつく熱と重い骨、耳もとの詩人の息を抱きしめる。
 
 ◇あべ・まさひこ=1966年、横浜市生まれ。東大准教授(現代英米詩)。著書に『文学を〈凝視する〉』。
 東京大学出版会 2500円
『読売新聞』
 
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『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』厚香苗〈著〉

◇洗練された相互扶助のシステム

 神社の縁日などで露店を連ね、綿あめやタコ焼きを売る「テキヤさん」。わくわくするようなムードを運んできてくれる、お祭りには欠かせない存在である。
 
 かれらはいったい、どこからお祭りにやってくるのか。映画『男はつらいよ』の主人公・寅さんもテキヤさんで、全国を旅している。そのイメージもあり、お祭りを追って旅から旅の毎日を送っているのかなと思っていたのだが、実はかれらは、基本的には近所(十二、三キロ圏内)から来ていたのだ!
 
 著者は実際にテキヤに同行し、関係者に取材をして、テキヤの縄張りやしきたりを調査する。また、近世・近代の文献や絵画を調べ、テキヤのあいだにどういう信仰や言い伝えがあるのかひもといていく。外部からはなかなか見えにくく、明文化されにくい、テキヤの日常や風習に見事に迫った一冊だ。
 
 縁日で、神社の境内のどこにどんな露店を配置するかを、だれが指示しているのか。縄張り以外の場所へ行って商売するときは、地元のテキヤにどう挨拶し、どこに泊まればいいのか。非常に洗練された、テキヤ間の相互扶助的なシステムが構築されていることがわかる。西国、東国、沖縄とで、それぞれ微妙にテキヤの慣習がちがうらしいというのも、興味深い。いろんな地域の縁日に行って、ちがいを見わけられるか試みたくなってくる(素人にはむずかしそうだが)。
 
 露店は家族経営で、女性も一緒になって働く。テキヤ界で、女性がどういう立ち位置にあるのかに光を当てたのも、本書の非常に重要な部分だろう。著者は取材対象者との距離感が適切で、それゆえに相手から信頼され、公正で充実した研究として結実したのだと思う。
 
 テキヤさんの生活や伝統を知ることができ、その存在にますます魅力を感じた。今年の夏祭りが楽しみだ。

 評・三浦しをん(作家)
     
 光文社新書・821円/あつ・かなえ 75年生まれ。文学博士。慶応大学、立教大学非常勤講師など。
 『朝日新聞』
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書評にはその文字が入っていませんが、光雲(というかその父=光太郎祖父でテキヤだった中島兼吉)についての記述があります。
 
ぜひお読み下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月19日
 
平成17年(2005)の今日、前橋市民文化会館小ホールで箏曲奏者・下野戸亜弓のリサイタルが開催されました。
 
光太郎詩に小山清茂が曲を附けた「樹下の二人」が演奏されました。同年、ライブ録音がCD化され、発売されました。
 
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新潟から企画展情報です。

ドナルド・キーンの直筆原稿が語る『日本文学を読む』

会 場 : ドナルド・キーンセンター柏崎 新潟県柏崎市諏訪町10-17
会 期 : 前期 2014年3月10日(月)~7月21日(月)
    : 後期  同 7月25日(金)~12月25日(水) 
 間 : 10時~17時 月曜休館
料 金 : 大人500円 中高生200円 小学生100円
 
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ドナルド・キーンの直筆原稿『日本文学を読む』と直筆の手紙を、連載された雑誌「波」(新潮社)とともに一堂に展示。ドナルド・キーンが伝えたいと願う日本文学の素晴らしさ、面白さを評論で実感していただきたいと思います。
厖大な原稿が埋める展示空間やドナルド・キーンの直筆日本語に圧倒されることでしょう。
そして、直筆原稿が語りかけてくる言葉に眼を向け、耳を澄ませて近現代の日本文学の世界に浸っていただき、さらに、明治、大正、昭和に生きた各作家たちの素顔に触れ、日本文学の素晴らしさ、面白さに思いを巡らせてほしいと思います。
 
雑誌『波』に連載され、昭和52年(1977)に新潮社から単行書として刊行された『日本文学を読む』の草稿を展示するというものです。一回につき6~7枚だったそうです。
  
前後期に分かれ、前期では「高村光太郎」が含まれています。他の作家に関しては上記チラシをご覧下さい。
 
 
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キーン氏といえば、元はアメリカ人(平成24年=2012に帰化)ですが、元々の日本人以上に日本文学に精通されています。おん年91歳(今月で92歳)、まだまだお元気のようで何よりです。
 
今回の展示に関わる『日本文学を読む』は、当方、読んでいませんが、平成9年(1997)に中央公論社から刊行された『日本文学の歴史 17 近代・現代篇8』を持っています。四六判は品切れの可能性がありますが、現在は中公文庫版も発売されています。
 
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画像の帯文でもお分かりになるかと思いますが、近現代詩を扱った巻です。「高村光太郎」の項が約40ページ。図版も豊富で理解の助けになります。ぜひお買い求めを。
 
ところで、この企画展、先頃訪れた成田山書道美術館さんでたまたまチラシを発見し、知りました。ネットでは光太郎をキーワードに検索してもひっかかりません。こういうケースがあるので、怖いですね。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月7日006
 
平成20年(2008)の今日、大阪のいずみホールで開催された関西合唱団創立60周年記念・第73回定期演奏会で、西村朗作曲「混声合唱とピアノのための組曲 レモン哀歌」が委嘱初演されました。
 
全3曲で、第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」、第2曲「山麓の二人」、第3曲「レモン哀歌」です。
 
指揮は守谷博之氏、ピアノ伴奏は門万沙子氏でした。
 
楽譜は全音楽譜出版社から刊行されています(右記画像)。販売用CD等にはなっていないようで、CD化が待たれます。
 

先月の第58回連翹忌にご参加下さった、詩人の宮尾壽里子様から、詩誌『青い花』第75号~77号の3冊を戴きました。
 
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当方、寡聞にしてその存在を存じませんで000したが、埼玉で刊行されている同人誌、年三回の発行のようです。同人には見知ったお名前があり、「ほう」と思いました。
 
昭和48年(1973)、東宣出版から『智恵子と光太郎 高村光太郎試論』を上梓された平田好輝氏、それから以前にこのブログでご紹介した、東日本大震災復興支援の合唱曲「ほんとの空」(高山佳子氏作曲)の作詞をされた後藤基宗子氏。後藤氏のショートエッセイでは合唱曲「ほんとの空」に触れられていました。
 
宮尾氏は昨年7月に刊行された第75号から、「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」というエッセイを連載なさっています。
 
先月、最新刊の第77号(2014/3)のみ送っていただいたのですが、そちらが連載の3回目だったので、第75号、76号も欲しいとお伝えしたところ、送って下さいました。ありがたいかぎりです。
 
題名の通り、昭和16年(1941)の初版『智恵子抄』刊行の経緯から、その後の諸々の版、智恵子の人となり、さらには紙絵や十和田湖畔の裸婦像にも触れられ、非常に読み応えがありました。
 
第77号にも「完」の文字が入っていないので、まだ連載が続くだろうと期待しています。
 
よく調べているな、と失礼ながら感心しましたが、それもそのはず、最近、大学院で修士論文を書かれている由。これまた失礼ながら、還暦を過ぎてからの取り組みだそうで、頭が下がります。ご健筆を祈念いたします。
 
やはり今年の連翹忌にご参加いただいた間島康子様から、評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」の載った文学同人誌「群系」を戴きましたが、こうした刊行物にはなかなか目が行き届きません。こういうものもあるよ、という情報があればお寄せいただけると幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月7日004
 
昭和15年(1940)の今日、詩人・宮崎丈二を通じて中国の篆刻家・斉白石に「光」一字の石印の製作を依頼しました。
 
出来上がった印がこちら。光太郎は晩年まで自著奥付の検印などに愛用し続けました。

ニセモノ専門の悪質業者などは、この印まで偽造しようとしているようですが、なかなかうまくいかないようで(笑)。

新刊です。といっても、2ヶ月程経っていますが……。 

詩的思考のめざめ

2014年2月20日 阿部公彦著 東京大学出版会刊行 定価2,500円+税
 
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内容紹介
名前をつける,数え上げる,恥じる,などの切り口から日常に詩のタネを探してみよう.萩原朔太郎,伊藤比呂美,谷川俊太郎といった教科書の詩人のここを読んでみよう.詩的な声に耳を澄ませば,私たちと世界の関係がちがったふうに見えてくる.言葉の感性を磨くレッスン.

主要目次
はじめに――詩の「香り」にだまされないために
I 日常に詩は“起きている”――生活篇
第1章 名前をつける――阿久悠「ペッパー警部」,金子光晴「おっとせい」,川崎洋「海」,梶井基次郎「檸檬」ほか
第2章 声が聞こえてくる――宮沢賢治「なめとこ山の熊」,大江健三郎『洪水はわが魂に及び』,宗左近「来歴」
第3章 言葉をならべる――新川和江「土へのオード」,西脇順三郎『失われた時』,石垣りん「くらし」
第4章 黙る――高村光太郎「牛」
第5章 恥じる――荒川洋治『詩とことば』,山之口貘「牛とまじない」,高橋睦郎「この家は」
II 書かれた詩はどのようにふるまうか――実践編
第6章 品詞が動く――萩原朔太郎「地面の底の病気の顔」
第7章 身だしなみが変わる――伊藤比呂美「きっと便器なんだろう」
第8章 私がいない――西脇順三郎「眼」
第9章 型から始まる――田原「夢の中の木」ほか
第10章 世界に尋ねる――谷川俊太郎「おならうた」「心のスケッチA」「夕焼け」ほか
読書案内
おわりに――詩の出口を見つける
 
著者の阿部氏は東大文学部准教授。「東大」というブランドをありがたがるわけではありませんが、なかなかおもしろい論考集です。
 
上記目次で目立つようにしましたが、光太郎詩「牛」が扱われています。章の題が「黙る」。これはどういうことでしょうか。実際に引用してみます。
 
人は大きい声を出すことで、強く言おうとする。しかし、より強い言葉を追求していくと、むしろ大きい声を出さない、いや、そもそも声を出しすらしない方がいい場合もある。「牛」という作品はその境地を目指したものと思えます。牛が体現しているような黙ることの強さを、詩の中に何とか表そうとしている。
 
「牛」という詩は、大正2年(1913)の作。光太郎の詩の中では有名な部類に入りますので、、ご存知の方も多いのではないでしょうか。全部で115行もある長大な詩です。で、115行、「牛はのろのろと歩く」に始まり、最終行の「牛は平凡な大地を歩く」まで、とにかく農耕用の牛の描写に徹しています。
 
   

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まつすぐに行く000
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せている自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はつて行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是(ぜ)でも非(ひ)でも
出さないではゐられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後(あと)へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ為(し)たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない005
けれども牛は正直だ
牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く

何処までも歩く
自然を信じ切つて

自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
遅れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない
牛は自分の孤独をちやんと知つてゐる
牛は食べたものを又食べながら
ぢつと寂しさをふんごたへ003
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛はそれにあやされる
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立つてもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きよろきよろときよろつかない
眼に角(かど)も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての当然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしてゐる
生命(いのち)をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際(てぎは)だが
牛の力はねばりつこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の卑劣な刃(やいば)にかかる時でも

十本二十本の鎗を総身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける

牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥(こや)す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
 
※2ヶ所でてくる啼き声の「もう」は傍点がついていますが、うまく書き表せません。
 
いわば、声高な作者の主義主張は語られていません。しかし、それがかえって効果をもたらしています。愚鈍にゆっくりと歩み続ける牛の姿に、光太郎の姿がオーバーラップします。当方、阿部氏はそうした点を「より強い言葉を追求していくと、むしろ大きい声を出さない、いや、そもそも声を出しすらしない方がいい場合もある」と解釈しているのだと読み取りました。
 
是非お買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月26日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋周辺で、野草をスケッチしました。
 
太田村時代、スケッチはこの日に限らずよくやっていたのですが、とりあえず「今日」のできごとということで……。
 
こうしたスケッチは後に昭和41年(1966)、中央公論美術出版から『山のスケッチ』として刊行されました。
 
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都立高校教諭の野末明氏が主宰する「高村光太000郎研究会」という会があります。機関誌的に雑誌『高村光太郎研究』を発行しています。
 
過日、その35集が刊行されました。
 
目次は以下の通り。
 
高村光太郎・最後の年 1月(1) 北川 太一
高村光太郎考――直哉と光太郎 大島 龍彦
光太郎遺珠⑨ 平成二十六年  小山 弘明
高村光太郎没後年譜・未来事項 大島 裕子
高村光太郎文献目録      野末  明
研究会記録・寄贈資料紹介   野末  明
 
論考二本、読み応えがあります。
 
それから当方の連載「光太郎遺珠」。新しく見つけた『高村光太郎全集』未収録の文筆作品等を紹介しています。内容細目は、脱稿した際のブログに書きました。
 
頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月10日
 
昭和20年(1945)の今日、駒込林町のアトリエを、渡辺正治氏が訪れました。
 
氏は女優・渡辺えりさんのお父さまで、今もご健在です。
 
戦時中に15歳で山形から上京、現・武蔵野市にあった中島飛行機の工場で働いていたそうです。
 
工場の先輩に、光太郎と手紙のやりとりをしていたという人がいて、都心方面の空襲のひどさから光太郎の身を案じ、光太郎の元に渡辺氏を遣わしたとのこと。
 
この際には光太郎もアトリエも無事で、氏は光太郎から署名入りの『道程 再訂版』をもらったそうです。
 
ところがその3日後の空襲でアトリエは炎上してしまいました。
 
戦後になっても氏と光太郎の交流は続き、そうした縁で渡辺えりさんも光太郎ファンに。画像は渡辺さん作の、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」のパンフレットです。

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4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂きました。
 
その中のお一人、詩人の間島康子さんから、文芸誌『群系』の昨年12月に刊行された第32号をいただきました。
 
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間島様の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」11ページが掲載されています。
 
「好い時代」とは、佐藤春夫が『わが龍之介像』で使った言葉。大正時代(広い意味で明治末を含む)を指します。文芸界全体でも、光太郎自身も、たしかに大正時代は充実していた時期です。
 
その「好い時代」の光太郎を追った論考で、失礼ながら、非常に感心いたしました。
 
『群系』さんホームページはこちら間島様の論考もウェブ上で閲覧できます。ぜひお読み下さい。
 
それから、連翹忌にはご欠席でしたが、イラストレーターの河合美穂さんから、事前にご丁寧にご欠席のご連絡をいただきました。河合さんは今年1月に、個展「線とわたし」を開催され、光太郎の「梅酒」をモチーフにした作品も展示されました。
 
その「梅酒」をポストカードにしたものをいただいてしまいました。ありがたいかぎりです。
 
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あたたかい絵ですね。しかし、もったいなくて使えません(笑)。
  
連翹忌、そして光太郎智恵子を通じて人の輪が広がっています。素晴らしいことだと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月6日

昭和56年(1981)の今日、銀座和光ホールで開催されていた高村規写真展「高村光太郎彫刻の世界」が閉幕しました。

新刊です。

覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻

 2014年1月30日 ブックワークス響発行   中島悠子編   定価 1,400円+税

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詩人・八木重吉の妻であり、のちに歌人・吉野秀雄と再婚した、「登美子」という一人の女性の人生を辿る本。高村光太郎に才能を見いだされながらも、数え年30という若さで世を去った八木重吉。會津八一の門人として生涯を歌に捧げた吉野秀雄。この二人の芸術家に愛された女はどのような人であっただろう、と興味を抱いた装幀家・編集者の中島悠子さんが、彼らの遺した作品や書簡を手がかりに研究を重ねてまとめられました。そこで明らかになったのは、あらゆる人生の不幸にもかかわらず、よく歌いよく働いた、たくましい女性の姿でした。余分な虚飾を排し、現存するテキストにのみ忠実でありながら、苦しい時代を生き抜いた登美子の実像をありありと浮かび上がらせる構成は、見事というほかありません。彼女への敬愛の念にあふれた美しい一冊、ぜひお手に取って清らかな生のあり方に触れてください。(恵文社一乗寺店さんサイトより)
 
吉野登美子。上記解説文にある通り、初め、詩人・八木重吉と結婚しました。しかし八木は昭和2年(1927)、数え29歳の若さで病没。のち、戦後になってから同様に妻を亡くした歌人・吉野秀雄と再婚します。
 
登美子の偉いところは、戦時中も亡夫・八木の遺稿をバスケットに詰めて持ち歩き、守り通したこと。さらに、ただ守っただけでなく、詩集として刊行したこと。頓挫した計画を含め、光太郎も尽力しています。
 
八木の没後間もない昭和3年(1928)には、雑誌『野菊』に「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」を発表して絶賛し、同11年(1936)には、雑誌『詩人時代』に「八木重吉の詩について」を発表しました。これは同17年(1942)に山雅房から刊行された『八木重吉詩集』の序文にも転用されていますし、この刊行自体、光太郎の口利きが大きかったようです。翌年には新たな八木の詩集のために改めて序文と題字を執筆しました。ただし、こちらは戦争の激化などのため、お蔵入りとなってしまいました。
 
戦争が終わり、吉野と再婚してからも、登美子は八木の詩集刊行に力を注ぎます。そして吉野もそれに協力。これはなかなかできることではないと思います。
 
さて、横浜にある神奈川近代文学館に、吉野夫妻の遺品数千点が寄贈されています。その中に光太郎からの書簡が16通、昭和18年(1943)刊行予定が幻に終わった八木の詩集のために光太郎が書いた題字が2種類(「麗日」「花がふつてくると思ふ」)含まれています。この題字については従来知られていなかったものでしたし、書簡の中にも『高村光太郎全集』に漏れていたものがあり、10年近く前に調査に行きました。
 
そんなわけで、『覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻』刊行の情報を得て、すぐに購入いたしました。先程届いたばかりで、まだ斜め読みしただけですが、しっかり光太郎にも言及されており、熟読するのが楽しみです。
 
皆様もぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月1日

昭和60年(1985)の今日、芸術新聞社発行の書道雑誌『墨』第53号が発行されました。
 
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「高村光太郎 書とその造型」という70ページ超の特集が組まれました。豪華な執筆陣で、内容的に非常に充実していますし、写真図版も非常に多く、お薦めの一冊です。時折古書市場で見かけます。

2週間ほど前に、このブログで、彩流社刊・近藤祐氏著『脳病院をめぐる人びと  帝都・東京の精神病理を探索する』をご紹介しました。
 
12月22日付の『朝日新聞』に、作家の荒俣宏氏による書評が出ました。
 
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◇別角度の文学史が見えてくる

 日本近代の精神科病院は、公立施設に限定するならば、都市の美観と治安を守るために路上生活者を一掃する政策から誕生した。明治5年にロシア皇太子が訪日するのに合わせ、困窮者や病者を収容すべく設置された「養育院」内の「狂人室」が起源である。
 
 病者には背に「狂」の字を染めた衣服が着せられ、手枷足枷(てかせあしかせ)を付けられた。明治12年にはこれが独立して東京府癲狂(てんきょう)院となるのだが、やがて有名な相馬事件が発生、発狂と称して癲狂院に押し込められた旧相馬藩主を忠臣が救いだすという大騒動となった。
 
 監獄まがいの悪いイメージを嫌った病院側も、癲狂という語句を抹消するが、「内分泌の多い患者の睾丸(こうがん)を別の患者の腕に移植する」怪実験が行われた戸山脳病院が業務停止になるなど、おぞましい話に付き纏(まと)われた。
 
 本書は知られざる脳病院の歴史を東京エリアに絞って詳述した後、後半で精神科病院が林立する大正期前後に精神を病んだ著名文学者の運命を検証する。
 
 芥川龍之介や宇野浩二の眼(め)に「死ぬまで出られぬ監獄」と映った脳病院の情況を筆頭に、高村光太郎が妻の智恵子を入院させることを最後まで躊躇(ちゅうちょ)し、結局は入院後すぐに彼女を亡くした事情、その脳病院で治療する側にいた歌人斎藤茂吉の心情などを読み進むうちに、精神科病院を介して意外なほど多数の文学者が深く関係を結んでいたことに驚かされる。この文脈で別角度の文学史が語れる。
 
 ただ、本書では作家たちの病歴や妄想幻覚の深い分析が慎重に控えられている。精神科病院に入院させられた中原中也が自宅の屋根に座って弟を見送る場面で、芥川龍之介最後の映像がやはり高い木に登っているシーンだったとする指摘などが興味深いだけに、もう少し突っ込んでもよかった。蛇足だが、中村古峡や石井柏亭の人名が誤植のままなのは、稀(まれ)な書だけに残念。
 
なかなか的確な評です。
 
実は当方、まだ読んでいる途中です。荒俣氏も指摘していますが、時代遅れで、牽強付会に過ぎる精神分析学的手法を取っていないため、読んでいて納得いかない部分はありません。また、芥川や辻潤、宇野浩二らがどんな病状だったのかというあたりを、当時の社会状況や思想史的な潮流に当てはめた論旨が非常に興味深いのですが、やはり何というか、読んでいて非常に痛々しいものがあります。そう感じさせる著者の筆致に感心させられる部分が大きいともいえます。
 
この後、太宰治、中原中也と続いていきます。近いうちに読み終えようと思っています。
 
ところで版元の彩流社さん。今度は光太郎と特異な交流を持っていた詩人、野澤一(のざわ・はじめ)関連の書籍を刊行しました。題して『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』。さっそく注文しましたので、届き次第詳しくご紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月25日006

昭和21年(1946)の今日、宮澤清六と共に編者を務めた日本読書組合版『宮澤賢治全集』全6巻の刊行が始まりました。
 
第一回配本の「第二冊」は、『春と修羅』などの詩を収めています。
 
装幀、題字も光太郎。実にいい文字だと思いませんか?
 
黒いもやもやはシミではなくそういうデザインです。

新刊です。 

脳病院をめぐる人びと  帝都・東京の精神病理を探索する

近藤祐著 彩流社刊 定価2500円+税
 
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戦前の東京地図に散見し、しかし現在はその場所から消失した「脳病院」とは何か!?
 
芥川龍之介が神経衰弱の末に自殺した昭和二年以降、文学史にさまざまな狂気が連鎖する。辻潤は天狗となって二階窓からの飛翔を試み、太宰治はパビナール中毒で強制入院させられる。愛児を失った中原中也は忘我状態となり、高村智恵子は精神分裂病で生涯を終えた。わずか十年余りに連鎖するこれらの狂気には、何か共通因子があるのか。また彼らはどのような治療を施されたのか。明治・大正・昭和と帝都東京における脳病院の成立と変転を辿り、都市と人間、社会と個人の軋轢の精神史を探索する。
(帯より)
 
目次は以下の通りです。
 
プロローグ
第一部 
 第一章 初期癲狂院
 第二章 正系としての帝国大学医科大学・呉秀三・府立巣鴨病院
 第三章 脳病院の登場
 第四章 郊外へ
第二部
 第一章 芥川龍之介の小さな世界
 第二章 辻潤または飛翔するニヒリスト
 第三章 家族はどうしたのか ―高村光太郎と長沼智恵子―
 第四章 ここほ、かの、どんぞこの ―太宰治の分岐点―
 第五章 中原中也 暴走する精密装置
エピローグ
主要参考文献
年表
あとがき
 
昨日手元に届き、まだ光太郎智恵子に関する章しか読んでいませんが、それだけでもなかなかのものです。
 
著者の近藤氏はその道の専門家ではない、とのことですが、かえってそれだけに同じく専門家でない我々にわかりやすい書き方になっています。といって、門外漢が浅薄な知識で論じているものではなく、精神医学史についての調査は綿密に行き届いています。智恵子発病時に光太郎が短期間治療を依頼した諸岡存についての記述など、当方も知らなかったことがたくさんありました。
 
また、光太郎がなぜ智恵子の入院先として南品川のゼームス坂病院を選んだか、といった点の考察も、なるほど、と思わせるものでした。
 
惜しむらくは年代の記述で若干の事実誤認があるのですが……。
 
版元・彩流社さんのサイトへから注文可能です。

 
【今日は何の日・光太郎】 12月13日

平成4年(1992)の今日、日本テレビ系の教養番組「知ってるつもり?!」で、光太郎がメインで取り上げられました。
 
関口宏さんの司会で、比較的長寿の番組でしたので、ご記憶の方も多いでしょう。かつてはこういう番組がけっこうありましたが、最近、特に民放ではこの手の番組は減ってしまいましたね……。

当方も会員に名を連ねております「高村光太郎研究会」という団体があります。
 
「研究」と名が付いておりますので、とりあえず光太郎やその周辺についての研究を志す人々の集まりです。といって、堅苦しいものではなく、参加資格も特にありません。特に職業として研究職についていないメンバーも多数在籍しています。高村光太郎記念会の北川太一先生に顧問をお願いしており、じかに北川先生の薫陶を受けることができるのが大きな魅力です。
 
年に1回、研究発表会を行っております。昨年は当方が発表を行いました。
 
今年の案内が参りましたので、ご紹介します。

第58回高村光太郎研究会 

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日 時 : 2013年11月23日(土) 14時
会 場 : アカデミー音羽 文京区大塚5-40-5
参加費 : 500円
発 表 : 
  「高村光太郎小考-直哉と光太郎-」 大島龍彦氏
  「光太郎と野澤一との関係性について/智恵子抄を訪ねる旅から学んだこと」坂本富江氏
 
会に入らず、当日の発表を聞くだけの参加も可能です。特に申し込みも必要ありません。
 
会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
興味のある方はぜひ11/23の研究発表会にお越し下さい。おそらく北川太一先生もお見えになると思われます。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月24日

大正2年(1913)の今日、『時事新報』に評論「文展の彫刻」の連載を始めました。
 
「文展」は「文部省美術展覧会」。彫刻部門は光雲を頂点とする当時の正統派の彫刻家達によるアカデミックな展覧会でした。
 
明治末に3年あまりの海外留学を経験し、本物の芸術に触れて帰ってきた光太郎にとって、そこに並ぶ彫刻はどれもこれも満足の行くものではなく、出品作一つ一つについてこれでもかこれでもかと容赦なく厳しい評を与えています。
 
盟友・荻原守衛の存命中は、彼の彫刻のみ絶賛していましたが、明治43年(1910)に守衛が歿した後は、褒めるべき彫刻が見つからないという状態だったようです。あくまで光太郎の感覚で、ということですが。
 
光太郎自身は決して文展に出品しませんでした。自信がなかったわけではなく、自身の進むべき道とは全く違う世界と捉えていたようです。

新刊です。少し前に『朝日新聞』さんに載った書評を読んで購入しようと思い、取り寄せました。 
佐滝剛弘著 平成25年6月20日 勁草書房刊 定価2400円+税
 
明治41年。日本で最初に発刊された日本史の辞典には、実に1万を超える人々の予約が入っていた。文人、政治家、実業家、教育者、市井の人々……。彼らはなぜ初任給よりも高価な本を購入しようとしたのか? それらは今どこに、どのように眠っているのか? 老舗旅館の蔵で見つかった「予約者芳名録」が紡ぐ、知られざる本の熱い物語。(勁草書房さんサイトより)

 
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『国史大辞典』とは、明治41年(1909)に刊行された2冊組の辞書で、その名の通り歴史上の人物や項目が五十音順に配された、当時としては斬新かつ豪華なものでした。版元は現在も続く歴史関係出版社の吉川弘文館。戦後にはさらに全17巻で刊行されました。
 
発行前には各種新聞等に広告が大きく出、「予約購入」という手法がとられたとのこと。
 
著者の佐滝氏、群馬県のとある旅館に泊まった際に、この『国史大辞典』の「予約者芳名録」という冊子をみせてもらったそうです。後に分かるのですが、この「予約者芳名録」自体が非常に珍しいもので、ほとんど現存が確認できないとのことです。
 
「予約者芳名録」。刊行は本冊刊行の前年、明治40年(1908)です。そこには道府県別に10,000人ほどの名がずらりと並んでおり、さながら当時の文化人一覧のように、よく知られた名が綺羅星のごとく並んでいるそうです。
 
その中で、著者が最初に見つけた「有名人」は与謝野晶子。続いて2番目が光雲だったそうです。
 
この頃、光太郎は外遊中。光雲は東京美術学校に奉職していました。したがって、光太郎の需めではなく、光雲自身が購入したくて予約したのでしょう。しかし、光雲はもともと江戸の仏師出身で、活字には縁遠い生活を送っていたはずです。それがどうしてこんな大冊を購入したのか、ということになります。おそらく、全2冊のうちの別冊「挿絵及年表」の方が、有職故実的なものから地図、建築の図面など豊富に図版を収めているため、彫刻制作の参考にしようとしたのではないかと考えられます。
 
以下、『国史大辞典を予約した人々』は、「こんな人もいる」「こんな名前もあった」と、次々紹介していきます。個人だけでなく様々な団体、有名人ではなくその血縁者も含まれます。そして名前の羅列に終わらず、それぞれ簡単にですが紹介がなされ、当時の日本の文化的曼荼羅といった感があります。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月4日

大正3年(1914)の今日、銀座のカフェ・ライオンで第一回我等談話会が開催され、出席しました。
 
『我等』はこの年刊行された雑誌で、光太郎は詩「冬が来た」や「牛」など代表作のいくつかをここに発表しています。

新刊です。
 
智恵子が創刊号の表紙絵を描いた雑誌『青鞜』の、その誕生(明治44年=1911)から終焉(大正5年=1916)までを追った労作です。もちろん智恵子にも随所で触れています。 

『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること

森まゆみ著 平成25年6月27日 平凡社   定価1900円+税
 
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女性による女性のための雑誌『青鞜』の歩みを、平塚らいてうや伊藤野枝らの生き方とともに、また100年後に著者自身が営んだ地域雑誌『谷根千』を引合いにしながら丹念に追った意欲作。
(平凡社さんサイトから)
 
雑誌の立ち上げに高揚したのも束の間、集まらない原稿、五色の酒や吉原登楼の波紋、マスコミのバッシング……明治・大正を駆け抜けた平塚らいてう等同人たちの群像を、同じ千駄木で地域雑誌『谷根千』を運営した著者が描く。
(帯から)
 
類書は他にも刊行されていますが、それらと違うところは、上記紹介文にあるとおり、「編集者」としての視点で描かれていることです。
 
 
著者の森まゆみさんは、かつて地域雑誌『谷中根津千駄木』を刊行されていました。今日、一般的になった「谷根千」という呼称はここから生まれたものです。その際のご経験が、本書の記述に生かされているようです(実はまだ熟読していません。すみません)。
 
ちなみに『谷中根津千駄木』では、谷中に生まれ、千駄木で暮らした光太郎もたびたび取り上げて下さいました。
 

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 そういえば、雑誌『青鞜』が産声をあげたのも、千駄木です。社員の一人、物集和子の自宅が最初の事務所。ここは不忍通りから団子坂を上がりきった右側、森鷗外の観潮楼のはす向かいです。

ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】002 8月1日

昭和54年(1979)の今日、六耀社から『高村光太郎彫刻全作品』が刊行されました。
 
B4判350ページ、定価五万円の大著です。現存するものはもちろん、焼失したものや、着手したただけ、あるいは構想のみで未完に終わったものも含め、この時点で把握されていた光太郎の彫刻作品全てのデータベースです。
 
千葉市立美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の図録作成の際にも、大いに利用させていただきました。
 
現在でも時折古書店のサイト等で売りに出ています。

光太郎関連でいろいろといただきものがありまして、ありがたい限りです。ご紹介させていただきます 。

文芸誌『虹』 第4号

連翹忌にもご参加下さっている詩人無題の豊岡史朗氏主宰の文芸雑誌です。
 
光太郎関連として豊岡氏の「高村光太郎論 詩集『典型』」、同じく「<ある日 ある時> 荻原守衛と安曇野」が掲載されています。
 
「高村光太郎論 詩集『典型』」は、主に連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)にスポットを当て、敗戦にともなう光太郎の自己省察-戦争責任に関し-を剔抉しています。
 
曰く「「戦争詩」を書いたことにうしろめたさを感じた詩人たちも数多くいたはずですが、過ちを軍部や時代状況のせいにせず、自らを反省し、誤謬の真の原因を究明しようと孤独な思索の日々を送る光太郎のすがたは、際立って鮮烈な印象をあたえます。」
 
そのとおりですね。
 
「<ある日 ある時> 荻原守衛と安曇野」は安曇野碌山美術館訪問記。光太郎にも触れています。
 
ご入用の方はコメント欄等からご連絡下さい。仲介いたします。

 
もう1件。

002 000
 
国際交流基金さん刊行の雑誌です。
 
日本の書籍等を海外に紹介するもので、英文で書かれています。ロシア語版もあるようですが、当方、入手したのは英語版です。
 
2ページにわたり「Takamura Kōtarō and Iwate」という記事が載っています。執筆はエッセイスト・独文学者の池内紀(おさむ)氏。
 
詩「報告」などをひきつつ、光太郎の花巻郊外での山小屋暮らしを紹介しています。外国の皆さんの眼には、光太郎の生き様はどのように映るのか、興味深いところです。
 
 
【今日は何の日・光太郎】 7月2日003

明治35年(1902)の今日、東京美術学校彫刻科を卒業しました。
 
卒業制作は若き日の日蓮をモチーフにした塑像「獅子吼」。首席にはならず、第二席だったとのこと。
 
卒業はしたものの、9月からは研究科に残り(徴兵猶予の意味合いもあったようです)、さらに明治38年(1905)には西洋画科に再入学しています。

画像は光太郎令甥にして写真家・髙村規氏の撮影になるものです。

もう1日、智恵子の誕生日ネタで引っ張ります。
 
一昨日が智恵子の誕生日でした。この時期の生まれ、ということは西洋占星術でいうと牡牛座です。
 
当方、あまり、というかほとんど信じていませんが、この手の星座占いはもはや普通に日本人の生活に溶け込んでいますね。
 
15年前に出た本ですが、こんなものを持っています。
 
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『星の運命(さだめ)を生きた女たち』 山崎洋子著 講談社文庫
 
山羊座から始まって射手座まで、近現代の女性を取り上げ、それぞれの生き様と十二星座との関連を記しています。各星座ごとに二人ずつ紹介されており、一人は外国の女性、一人は日本女性です。各女性についてルネ・ヴァン・ダール・ワタナベさんという占星術師が読み解いたご託宣からはじまり、それを受けての山崎洋子さんによる簡潔な評伝、という構成です。
 
牡牛座の項は、写真家のリー・ミラー、そして智恵子。他に伊藤野枝(水瓶座)、相馬黒光(乙女座)など光太郎・智恵子と関わる女性も取り上げられています。
 
さて、智恵子の項では以下の記述があります。
 
「牡牛座は十二星座の中でもとりわけ感受性が無題2強いといわれる」
「高村智恵子もまた純粋な感性ゆえに魂を迷宮にさまよわせた牡牛座の女である」
「1886年5月20日生まれの彼女の太陽は牡牛座にあり、月は奔放な射手座にある。この二つの要素から、感受性の豊かな彼女が大人になってもなお、子供のような純真な心を持ち続けていたことが理解できる」
「さらに、牡牛座にある愛の星、金星は、愚直なまでに優しく人を愛する性格を彼女に与えた」
「やがて海王星、冥王星のもたらす困惑の影響が表れ、狂気の影が忍び寄った」
 
話のネタとしては面白いと思いますが……。
 
信じるか信じないかは、あなた次第です(笑)。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月22日

大正5年(1916)の今日、智恵子と神奈川の江ノ島に出かけました。

昨日は智恵子の誕生日でした。
 
「智恵子の顔を持つ」とも言われる十和田湖畔の裸婦像をかかえる青森県の地方紙『陸奥新報』さんに、智恵子誕生日がらみのコラムが載りました。『朝日新聞』で言えば「天声人語」にあたる欄でしょう。

冬夏言2013/5/20 月曜日 

ある人物に思いを巡らすと、別の人物についても連想することがある。きょう20日は、彫刻家・高村光太郎の妻智恵子が生まれた日。冬夏言子の場合、この高村夫妻から想起するのが、本県出身で多彩な才能を発揮した寺山修司だ▼光太郎といえば、智恵子が死去した後に出版した詩集「智恵子抄」が有名だ。芸術家夫婦の苦悩と純愛がつづられ、多くの愛読者がいる作品である▼寺山修司は著書「さかさま文学史黒髪編」の中で、高村夫妻を取り上げた。智恵子が精神を病むまで追い詰めたのは光太郎とし、それを自覚しなかった光太郎を「人間音痴」と厳しく評した▼夫妻の真実は、他人に分かりようもない部分がある。それでも「純愛カップル」という通説をひっくり返そうとするかのような視点に、大きな衝撃を受けた▼世間の常識をそのままよしとせず、新たな視点で常識に風穴を開ける―。冬夏言子が作品を通して寺山修司に感じた姿勢である▼今年は寺山修司没後30年。47歳という短い生涯だったが、今なお影響力を発し続けている。本県が生んだ偉大なる反骨精神に敬意を表したい。
 
取り上げられている寺山修司の「さかさま文学史黒髪編」は角川文庫で昭和53年(1978)に刊行されています。
 
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林静一氏のカバーイラストが実にいいですね。智恵子もイメージされているのではないでしょうか。
 
問題の章は、「妻・智恵子 彫刻詩人・高村光太郎の孤独な愛、詩集『智恵子抄』の明暗」という題です。
 
その後、平成3年(1991)に刊行された雑誌『鳩よ!』95号「特集 光太郎・智恵子」にも再録されています。どちらも古書市場では比較的容易に入手できます。
 
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【今日は何の日・光太郎】5月21日

昭和17年(1942)の今日、詩集『道程』により第一回帝国芸術院賞に選ばれ、文部大臣官邸で行われた授賞式に出席しました。
 
『道程』。初版は大正3年(1914)ですが、昭和15年(1940)には改訂版、さらに翌年には改訂普及版が刊行されており、それらを受けての受賞でしょう。また、この当時の光太郎は日本文学報国会詩部会長だったり、大政翼賛会文化部の仕事をしていたりで、詩壇の大御所的存在。大量の戦意高揚の詩を書き殴っていました。そうした光太郎への箔づけ的な側面もあったと思います。

先月末、全国の小中学校で「平成25年度全国学力・学習状況調査」が行われました。小学校6年生と中学校3年生が対象です。
 
いろいろ問題はあると思いますが、それはさておき、中学校3年生の国語A(「知識」を問う問題)で、光太郎の散文「山の春」が問題文に使われました。この「山の春」、昭和26年(1951)、雑誌『婦人之友』に掲載されたエッセイです。
 
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光太郎の文筆作品というと、どうしても詩が有名ですが、発表されたものとしては、評論やエッセイ、翻訳などの散文の方が圧倒的に多数です。
 
翻訳は光太郎オリジナルではありませんが、それでも訳し方、どういった文章にするかといった部分では、訳者の役割には大きなものがあります。
 
身びいきではなく、光太郎の散文は非常に読みやすいと思います。着眼点もすばらしいし、論の展開の仕方、適切な例の上げ方、言葉の選択、段落の設定の仕方、句読点の使い方など、実に参考になります。
 
『全集』補遺作品集「光太郎遺珠」や、冊子『光太郎資料』などの編集で、光太郎の文章を書き写す機会が多いのですが、光太郎の文章は書き写していてまったく苦になりません。ただ、光太郎のクレジットでも、他の人が筆録した談話筆記などになると、いつもの「光太郎ルール」ではないな、と思うことがありますが。
 
逆に談話筆記には、通常の散文にはない光太郎のしゃべり方のルールが見て取れ、それに感心させられる事も多くあります。
 
そういう意味では、テストの問題文などには光太郎の散文はうってつけだと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】5月7日

昭和9年(1934)の今日、療養のため、智恵子が千葉県九十九里浜の妹の婚家に移りました。
 
光太郎は、この九十九里浜での智恵子の様子を、後に詩「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」などに謳っています。
 
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智恵子が療養していた家(現在は取り壊されてしまってみることができません) 
 

2/6に放映されたNHK総合のテレビ番組「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で扱われた、大正2年(1913)の1月28日に智恵子に宛てて書かれた手紙。
 
これを大きく取り上げている書籍とCDがありますので、今日はそれを紹介します

キッス キッス キッス

 渡辺淳一著  平成14年10月10日 小学館発行 定価1500円+税
 
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「失楽園」などで有名な作家、渡辺淳一氏の著書です。もともとは雑誌連載だったものに加筆修正を加えて単行本化されました。366頁ある大著です。表題は島村抱月から松井須磨子への手紙の一節です。
 
光太郎から智恵子への例の手紙の他、主に近代の文学者の「恋文」19通を取り上げています。改めて目次を見てみましたら、光太郎を含め、柳原白蓮、芥川龍之介、谷崎潤一郎と、「探検バクモン」で取り上げられる「恋文」と4通がかぶっています。「探検バクモン」のスタッフさんは、もしかしたらこの本から想を得たのかも知れません。
 
他に光太郎、智恵子と縁の深かった平塚らいてう、与謝野晶子、佐藤春夫、変わったところでは山本五十六、お滝(シーボルトの妻)、そして渡辺淳一さん自らの手紙も紹介されています

【芸術…夢紀行】シリーズ① 高村光太郎 智恵子抄アルバム

 北川太一先生監修  平成7年3月16日 芳賀書店発行 定価3,260円
 
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問題の手紙が画像入りで紹介されています。この書籍、画像の豊富さでは他の追随を許しません。ビジュアル的に光太郎・智恵子の生涯をたどりたい方にはお薦めです

作家が綴る心の手紙 愛を想う 死を想う

 平成21年10月15日 アスク発行 定価28,980円(税込)
 
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朗読CD12枚組と解説書から成るセットです。近現代の文学者66名、210通余の手紙が収められています。光太郎に関しては第7巻「詩人たちの筆に込めた想い」で、例の手紙をはじめ、九十九里で療養中の智恵子に送った手紙、智恵子死後に難波田龍起、水野葉舟、更科源蔵に宛てた智恵子に関する手紙が収められています。第7巻の朗読者は元男闘呼組の高橋和也さん。他の巻では杉本哲太さん、平岳大さん、余貴美子さんが朗読を務めていらっしゃいます。
 
他の収録作家のうち、森鷗外、与謝野夫妻、北原白秋、宮澤賢治、八木重吉、田村俊子、村山槐多、中原中也といったところが光太郎智恵子と縁の深かった人々です。
 
【今日は何の日・光太郎】2月8日

昭和23年(1948)の今日、太田村山口の山小屋で、配給の砂糖を受け取り、久しぶりに砂糖入りの紅茶を飲みました。

昨日紹介した『大正の女性群像』、大判の本で、写真等も豊富に使われ、大正の女性文化を目で見て理解するには格好の資料です。
 
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智恵子はどんな服装、髪型をしていたのだろうかなどと思いを馳せると、楽しいものがあります。
 
それにしても、「大正」というと、昨日も書いた通り、「明治」の閉塞性に風穴があいた時代ということはいえると思います。そのためこうした庶民文化的な部分も一気に花開いたように感じます。
 
それはそれでその通りなのでしょうが、それだけではなかったのが「大正」です。『大正の女性群像』、こうした華やかな部分だけでなく、「負」の部分も忘れていません。すなわち、「女工哀史」に代表される低賃金労働や搾取、「からゆきさん」と言われた海外での売春婦、そして関東大震災……。
 
昨日も書きましたが、今は「平成」。百年後の人々は、「平成」という時代をどう位置付けるのでしょうか。原発事故やら政治的空白やら、「負」の部分が強調される時代であってはならないと思います。

昨日のブログで、吉本隆明氏の著書『超恋愛論』を紹介しました。
 
その中の「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」という定義。やはり光太郎智恵子を想起せずにはいられません。
 
そこで思い出したのが、先月、生活圏の古書店で購入した以下の書籍です。
 
『大正の女性群像』昭和57年(1982)12月1日 坪田五雄編 暁教育図書
 
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内容的には主に二本立てです。「人物探訪」の項で、大正期に名を馳せた各界の女性を扱い、「女性史発掘」の項で女性一般についての説明。どちらも豊富な図版、写真が添えられ、ビジュアル的にも豪華な本です。
 
「人物探訪」の項で扱われているのは、もちろん智恵子、そして平塚らいてう、伊藤野枝、松井須磨子、柳原白蓮、田村俊子、相馬黒光、九条武子、岡本かの子などなど。
 
それぞれに名を成した女性たちですが、程度の差こそあれ、それぞれの人生が激しい恋愛に彩られています。
 
ここにはやはり「大正」という時代の雰囲気がからんでいるのでしょう。ある意味閉塞的だった「明治」が終わって迎えた「大正」。「昭和」に入って泥沼の戦争の時代になるまで、束の間、新しい風が吹いた時代だと思います。
 
その「大正」に、光彩を放った女性たち。強引な考えかも知れませんが、彼女たちも一人では埋もれてしまっていたのではないでしょうか。吉本氏曰くの「男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」である激しい恋愛を経て、それぞれの輝きにたどり着いているような気がします。
 
その結果が決して幸福とはいえない人生につながってしまった女性もいるかも知れませんが……。
 
さて、今は「平成」。百年後の人々は、「平成」という時代をどう位置付けるのでしょうか……。

新刊を紹介します。 

吉本隆明著 2012/10/15 大和書房(だいわ文庫) 定価600円+税
 
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今年亡くなった評論家・吉本隆明氏の著書。2004年に同社からハードカバーで刊行されたものの文庫化です。
 
「男女が共に自己実現しようとして女性の側が狂気に陥った光太郎・智恵子の結婚生活」という項があり、光太郎・智恵子にふれています。
 
他にも夏目漱石、森鷗外、島尾敏雄、中原中也、小林秀雄らに言及し、「恋愛論」が展開されます。
 
いつも思うのですが、氏の論は決して突飛な論旨ではなく、ごく当たり前といえば当たり前のことを述べています。しかし、誰しもがそういうことを感じていながらうまく言葉で言い表せないでいたことを明快に言ってのけるところに氏のすごみを感じます。
 
例えば、恋愛に関しても「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」と定義しています。
 
そして一つ何かを論じると、その裏の裏まで掘り下げ、読む者を納得させずにおかないという特徴もあります。論とか文章といったもの、こうあるべきだといういいお手本になります。是非お買い求めを。

先日、地域の新刊書店によった際、偶然見かけてこんな本を買いました。ムック(雑誌と書籍の中間という位置づけ)です。 

2012/10/23  Town Mook        定価: 750円(税込)

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上の表紙画像にもある東京駅の赤煉瓦駅舎、先頃改修が終わり、ほぼ100周年(開業記念式典は大正3年=1914の12月18日。その4日後に上野精養軒で光太郎智恵子の結婚披露宴が行われています)ということで、テレビなどでよく紹介されています。さらに今年は元号に換算してみると、1912年が大正元年ですから、大正101年にあたります。そんなわけで、大正時代、ちょっとしたブームですね。
 
光太郎、智恵子も生きた大正時代。やはり時代の流れの中での位置づけというのも重要なことだと思います。そう思い、価格も手ごろだったので購入しました。実は通販サイトで似たような本を少し前に見つけていたのですが、価格が高めで二の足を踏みました。こちらは750円でお買い得だったな、という感じです。
 
光太郎に関しては、白樺派を扱った項に名前が出てきますし、集合写真に写っています。智恵子に関しては表紙のデザインをした『青鞜』が紹介されています。ただし智恵子の名が出てこないのが残念ですが。
 
その他、やはり同時代ということで、二人と関わった人々がたくさん紹介されています。また、当時の町並みの写真や絵図、現在も残る当時の建築物の写真など、興味深い内容でした。
 
「ほう」と思ったのは、大正12年(1923)の関東大震災の「東京市火災延焼状況」という古地図。隅田川両岸は壊滅的な状況で、西岸は下谷あたりまで燃えていますが、光太郎のアトリエのあった駒込林町は無事だったというのが視覚的によくわかりました。ちなみに震災当日、智恵子は二本松に帰省中。光太郎は被災者のためにアトリエを解放したという話も伝わっています。
 
さて、これから百年ほど経って、平成はどのように評価、紹介されるのでしょうか。

インターネット通販サイトの「amazon」さん。光太郎関連で新刊書籍がないかどうか、ときおりチェックしています。
 
昨日見て驚いたのは、電子書籍として光太郎作品がずらっと並んでいることです。
 
ラインナップは以下の通り。
 
ヒウザン会とパンの会/詩について語らず —編集子への手紙—/珈琲店より/自分と詩との関係/能の彫刻美/九代目団十郎の首/(私はさきごろ)/智恵子の半生/人の首/回想録/顔/ミケランジェロの彫刻写真に題す/智恵子の紙絵/緑色の太陽/啄木と賢治/小刀の味/木彫ウソを作った時/蝉の美と造型/山の雪/装幀について/美の日本的源泉 /山の秋/黄山谷について/自作肖像漫談 /山の春/開墾/書について/美術学校時代/智恵子抄/気仙沼/触覚の世界
 
これは来月からamazonさんで販売される電子書籍端末「Kindle Paperwhite」のためのものです。
 
ちなみに楽天さんで販売されている電子000書籍端末「コボタッチ」でも同じラインナップが出てきます。
 
また、どちらにも光雲の懐古談が入っています。どうも大本(おおもと)は以前からある電子図書館、青空文庫さんのようです。
 
結局、そういうラインナップしか用意できないのであれば、わざわざ端末を買う理由はあまりないように思われますが、今後、どうなっていくのか注目してみたいものです。
 
今朝の朝日新聞さんにも記事が載っていましたが、こうした電子書籍、いろいろと話題になっています。アメリカでは「kindle」が2007年に発売され、電子書籍普及の起爆剤となったといわれていて、それが日本にも上陸、大手通販サイトの「amazon」さんの顧客が取り込めそうだとか……。
 
日本ではまだまだ電子書籍は普及していないようです。朝日の記事にのった調査では「既に電子書籍を読んでいる」が5%、「近い将来読んでみたい」が30%、しかし、「読んでみたくない」が56%いるとのことです。
 
この「読んでみたくない」が、「電子」という言葉に拒絶反応を起こす人たちなのか、それとも電子媒体だろうが昔ながらの紙の印刷だろうが、読書ということをしない人たちなのか、よくわかりません。
 
まあ、どれだけ電子媒体が進んでも紙の本が無くなることはないでしょうし、その普及が読書離れに多少なりとも歯止めをかける結果になるのであれば、いいことだと思います。ただし、何でもかんでも電子でなければ時代遅れだ、という風潮にはなってほしくないものですね。逆に利便性を全く考慮せず、単に情趣の面から「本は紙でなきゃならん。電子ナントカなんて邪道じゃ!」という頭の固さでも困ると思います。

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