カテゴリ:文学 > 評論等

今日、12月9日は、文豪夏目漱石が亡くなってちょうど100年だそうです。

16歳違いの漱石と光太郎、ともに芸術の道を志したり、海外留学でこっぴどく人種的劣等感を植え付けられたり、漱石は言文一致の小説、光太郎は口語自由詩と、新しいスタイルの文学を確立したり、といった共通点があります。また、共通点といえば、同じ千駄木界隈に暮らしていたことも挙げられます。

さらに、漱石の『坊っちゃん』に表れているような、権威的なものを嫌う傾向も、二人の共通点といえるかもしれません。漱石が文学博士号を拒否した話は有名ですが、光太郎も芸術院会員を辞退しています。

それから、文学と美術の問題。光太郎は自身では美術(彫刻)が本業と位置づけていました(しかし、現実には詩人としての方が有名ですが)。一方の漱石は小説家を自認していたと思われますが、美術にも造詣が深く(描画にも取り組んでいました)、自作の中にさまざまな美術関連のエピソード的なものを効果的に盛り込んでいます。そのため、漱石と美術に的を絞った研究、展示なども為されています。

ただ、絵画の実作者としての漱石は、光太郎の留学生仲間だった画家の津田青楓にけちょんけちょんに言われていますが(笑)。

それはともかく、いろいろと共通点が感じられるので、当方、漱石作品は非常に好きです。

ところが、漱石と光太郎、お互いにどうだったかというと、水と油、犬猿の仲、とまでは行きませんでしたが、光太郎が漱石に噛みついたことがあり、以後、互いに敬遠していたようです。

その裏には、似たもの同士がお互いの中に自分の嫌なところを見いだし、結局は好きになれない的な関係があったのではないかと、勝手に想像しています。


さて、新刊をご紹介します。

いま、漱石以外も面白い 文学作品にみる近代百年の人語り物語り

2016/12/05 倉橋健一 述 / 今西富幸 筆録 株式会社澪標 無題定価2,500円+税

活字文化の花形であった近代の文学作品は、物語と同時に書かれた時代そのものの吐息も鮮明に伝えてくれる。哀しみ、苦しみ、はかなさ、喜び、夢、希望、すべての作中人物の息遣いをとおしてリアルタイムに直接わたしたちに呼びかけてくれる。だからこそ漱石以外も魔的に面白い。七年にもおよんだ産経新聞連載「倉橋健一の文学教室」。新たに数本の加筆と対談を得て、古今東西の名作がよみがえる。いま、格好の文学案内。

目次
(近代編)尾崎翠/小林多喜二/室生犀星/石川淳/有島武郎/夏目漱石/谷崎潤一郎/島崎藤村/井伏鱒二/堀辰夫/織田作之助/太宰治/山川菊栄/内田百閒/徳田秋声/折口信夫/菊池寛/知里幸恵/柳田国男/川端康成
 (戦後編)金子光晴/島尾敏雄/高橋和巳/椎名麟三/宇野浩二/高見順/伊藤整/里美弴/林芙美子/広津和郎/深沢七郎/檀一雄 (現代編)辻井喬/吉村昭/堀田善衛/石牟礼道子/野坂昭如/井上ひさし (近世編)仮名手本忠臣蔵/三遊亭円朝/井原西鶴 (海外編)メリメ/ラファイエット夫人/トルストイ/チェーホフ/サルトル/ボードウィン/ウルフ/レマルク/ドストエフスキー/ブロンテ/ミシュレ/ホーソン/カフカ/カミュ/コクトー/フォークナー/ポオ/ヒューズ
(詩歌編)北原白秋/高村光太郎/山村暮鳥/小野十三郎/三好達治/丸山薫/黒田三郎/吉野弘/吉原幸子/荒川洋治/金時鐘/石原吉郎/平田俊子/寺山修司/山頭火/ヌワース/ランボー ほか 
(対談)文学が担うものをめぐって

もともと、『産経新聞』さんに連載されたコラムの単行本化だそうです。光太郎の項は平成22年(2010)に載ったとのこと。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

わたくし道徳しないあるなど言ふ人と犢の肉を喰ひて別れぬ
大正末~昭和初期(1920年代半ば) 光太郎45歳頃

一昨日に続き、「カキ」ネタです。

昔、華僑の人々が、手っ取り早く日本語を話す手段として、断定・完了などの意の文末を「~ある」としていたそうです。芸人のゼンジー北京さんや、石ノ森章太郎さんの「サイボーグ009」の006(張々湖)が使っていたため、ステレオタイプの表現に過ぎないと思われがちですが、実際に光太郎短歌にも使われています。

この歌に関しては、与謝野晶子に師事した歌人の中原綾子の回想があります。

 大正末期か昭和の極く始め、荻窪の与謝野邸で久々で古い同人達の歌会が催されたが、これは席上結び字で高村先生がお詠みになつたお歌である。いまでは私の記憶に在るだけかも知れないと思はれるので書き留めておくが、途方もない此のお歌と、それを読み上げられた寛先生の御迷惑顔とが同時に思ひ出されて、いまでも可笑しい。余談だが、その事を当日欠席された堀口大学氏へ知らせてさし上げたところ「――高村君は一種の巨人です。ときどき見ておくよろしいある」と御返事が来た。
(『高村光太郎全集』第六巻月報「第二期明星の頃」)

こういう部分にも、光太郎の権威的なものへの反抗心が色濃く表れています。

週末の『日本経済新聞』さんに、立て続けに光太郎の名が出ました。

そのうち、先週土曜の夕刊に載った記事です。同紙編集委員の宮川匡司氏のご執筆。 

遠みち近みち中村稔89歳 燃える執筆意欲

 「四十五十は洟(はな)垂れ小僧」という言い回しに、20代のころは反発を覚えていたものだ。しかし、いざその年代も過ぎようとしている昨今、「なるほどうまいこと言うものだ」と苦笑いを交えて、肯(うべな)うことが多くなった。
 例えば、来年1月に90歳を迎える詩人で弁護士の中村稔氏の驚くべき仕事ぶりに接した時には、怠惰な自分を省みて悄然(しょうぜん)とならざるをえない。中村氏は、89歳になった今年に限ってみても、2月に550㌻に及ぶ大部の「萩原朔太郎論」、4月に井原西鶴の主要な作品の魅力を読み解く「西鶴を読む」、7月にエッセー集「読書の愉(たの)しみ」という3冊の単行本を、いずれも青土社から刊行した上に、この秋には、初の書き下ろし詩集である「言葉について」(青土社)を出版したばかり。
 ほぼ2、3ヶ月おきに単行本を出し、しかも西鶴文学という新しいジャンル、書き下ろし詩集という新たな形態への挑戦が続くという、とても卒寿とは思えない精力的な執筆活動を続けている。
 「言葉について」は、詩人として七十余年、積み重ねてきた言葉に対する思索を凝縮したような詩集で、14行のソネット形式で20編を収める。
 「言葉は時間の流れの中で黄ばみ、/ぶざまに歪み、無数に裂け、/つくろいようもなく傷ついた/私たちの意思伝達の道具であり、また、私たち自身だ。」
 こうした今の言葉に対する厳しい認識は、次のような行に、さらに鮮明に表れている。
 「着せかえ人形ほどに軽い、なにがし大臣の椅子、/紙幣をじゃぶじゃぶ金融市場に溢れさせている、/権力者のそらぞらしい言葉の軽さ。」
 その後の「言葉の軽さは傲慢な思いつきの軽さだ」の行に、今を見据える目が光る。
 90歳になる来年は、「高村光太郎と石川啄木についてそれぞれ本を書くつもりです」。言葉の本質を見つめる仕事は、なおも途上といっていい。
(2016/12/03 夕刊)


詩人で弁護士、評論家、さらに駒場の日本近代文学館名誉館長であられる中村稔氏に関する記事です。

弁護士としての氏は、知的財産権関連を手がけることが多く、いわゆる「智恵子抄裁判」で、原告・高村家側の弁護人を務められました。20年以上にわたる裁判の末、原告側の勝訴に終わり、この件は著作権に関する判例の一つの指針として、現代でも重要な扱いを受けています。

詳細は氏のエッセイ集『スギの下かげ』(平成12年=2000 青土社)に「回想の『智恵子抄』裁判」としてまとめられています。

イメージ 1 イメージ 2

また、その裁判の関連もあり、平成11年(1999)には、角川文庫から『校本 智恵子抄』を編刊されてもいます。

氏とは今年、お会いしました。

夏に信州安曇野碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として、記念講演をさせていただいたのですが、その日に中村氏が同館にいらっしゃいまして、お話をさせていただきました。

その際に、記事に有るとおり、光太郎についての論考をまとめられているというお話を伺い、そのバイタリティーに感銘しました。

それにしても記事の冒頭、「四十五十は洟(はな)垂れ小僧」とありますが、当会顧問の北川太一先生にしても、中村氏よりさらに2歳年長(夏には中村氏に北川先生の近況を尋ねられ、「中村先生ご同様にお元気です」とお答えしました)で、来春には満92歳になられます。かないませんね(笑)。

しかし、光雲の弟子筋に当たる彫刻家・平櫛田中は満107歳で天寿を全うし、「六十、七十、洟垂れ小僧 男盛りは百から百から」と言っていたといいます。そうなると当方、洟垂れ小僧にもたどりついていません(笑)。

さて、中村氏御著書、来年には刊行されるようですので、楽しみに待ちたいと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

牡蠣を賞す美人の頬の入れぼくろ    明治42年(1909) 光太郎27歳

鍋の美味しい季節となりました。当方、鍋にはカキが入っていてほしいのですが、娘がカキをあまり好まず、我が家の鍋にはめったにカキが入りません。

時折、当方が夕食の支度をしますので、その際、隙を狙ってカキを入れてしまおうと企てております(笑)。

各地の皆さんからいろいろな出版物のご寄贈を頂いています。  

日本文學誌要 第94号

2016年7月23日 法政大学国文学会 非売

イメージ 2

法政大学さんの文学部日本文学科、大学院日本文学専攻の学生、教員、OB的な方々による法政大学国文学会の紀要です。

同大教授・中丸宣明氏のご講演「忘れられた!?文学者たち 野沢一・清水泰夫・羽田中誠など ―法政ゆかりの作家たち序―」の筆録が掲載されており、光太郎とゆかりのあった詩人・野沢一に触れられています。

野沢一についてはこちら。


野沢一のご子息で、連翹忌ご常連の俊之氏からいただきました。


続いて、季刊雑誌『コールサック』。版元のコールサック社さんから届きました。 

季刊 コールサック 第87号

2016年9月1日 コールサック社 定価1,000円+税

イメージ 3

やはり光太郎とゆかりのあった詩人・黄瀛(こうえい)がらみで、同社刊行の『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』(佐藤竜一著)の書評が掲載されています。評者は評論家の新藤謙氏、法政大学国際文化学部教授・岡村 民夫氏。

黄瀛に関してはこちら。


さらに、同社刊行の『少年少女に希望を届ける詩集』の広告も。

イメージ 4


さらに文芸同人誌『北方人』。発行元の北方文学研究会主宰、盛厚三氏から届きました。

北方人 第25号

2016年9月 北方文学研究会 非売品

イメージ 5

かわじもとたか氏ご執筆の「書誌/装幀挿話(1)」で、光太郎の装幀について触れて下さっています。


最後に、埼玉県東松山市の広報紙   

広報ひがしまつやま10月号 

2016年10月1日 東松山市 非売品

イメージ 6

過日、同市立図書館で行われた「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」、及び田口弘氏講演会の関係で、市役所の方から頂きました。

同市の東武東上線高坂駅前から延びる高坂彫刻プロムナード~高田博厚彫刻群~が特集されています。

イメージ 7

イメージ 8
イメージ 9

光太郎胸像はやや別格扱いで、大きく画像が。ありがたや。

イメージ 10

ご寄贈下さった皆様、ありがとうございました。


【折々の歌と句・光太郎】

ざくろの実ふたつならべば木に彫りしざくろ取らんかふたつながら取らん
大正13年(1924) 光太郎42歳

木彫「柘榴」シリーズ最終作です。写真は故・髙村規氏です。

イメージ 1


新刊、というか旧刊の復刻です。
2016年8月10日  講談社(講談社文芸文庫)  室生犀星著 定価1,400円+税

「各詩人の人がらから潜って往って、詩を解くより外に私に方針はなかった。私はそのようにして書き、これに間違いないことを知った」。藤村、光太郎、暮鳥、白秋、朔太郎から釈迢空、千家元麿、百田宗治、堀辰雄、津村信夫、立原道造まで。親交のあった十一名の詩人の生身の姿と、その言葉に託した詩魂を優しく照射し、いまなお深く胸を打つ、毎日出版文化賞受賞の名作。

イメージ 1


元々は、光太郎と交流のあった室生犀星が、昭和33年(1958)、雑誌『婦人公論』に連載したものを、同誌版元の中央公論社で単行本化しました。その後、文庫本として復刻されましたが、そちらも版を絶っていたので、今回の復刻は非常に意義のあるものです。

伝記、というより随想に近いもので、ある意味、犀星の重要な仕事の一つとして、近年も市民講座朗読会などで取り上げられています。

光太郎の回は、光太郎を尊敬しつつも、シニカルな見方をし、しかしやっぱり敬愛せざるをえない、といった複雑な心境が見て取れ、興味深い内容です。

ところで、18日の日曜日、『毎日新聞』さんに、詩人の荒川洋治さんによる書評が載りました。

今週の本棚 荒川洋治・評『我が愛する詩人の伝記』=室生犀星・著

遠近の人々をめぐる心の回想
 野趣にあふれ、鋭い省察が随所にみられる。時代が変わっても読む人の胸に強くひびく名著だ。
 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」の詩句で知られる室生犀星(一八八九−一九六二)は日本の近代詩を切りひらいた。小説でも幾多の名作を書いた。犀星には、六九歳のときの回想『我が愛する詩人の伝記』(中央公論社・一九五八)がある。新装普及版(同・一九六〇)、新潮文庫(一九六六)、中公文庫(一九七四)につづき、このほど講談社文芸文庫に。解説は、鹿島茂。
 対象は、親交のあった明治・大正・昭和期の詩人。生年順では島崎藤村、高村光太郎、山村暮鳥、北原白秋、萩原朔太郎、釈〓空(折口信夫)、千家元麿(以上、犀星より年上)、百田宗治、堀辰雄、津村信夫、立原道造(以上、年下)の一一人の故人。人名が、そのまま表題となる。
 「北原白秋」。若き犀星は、白秋の詩誌を注文し田舎の郵便局から為替で送金。「たったこれだけのことでも、月給八円もらっている男にとっては大したふんぱつであり、そのために詩というものに莫大(ばくだい)なつながりが感じられた」。白秋の雑誌に投稿。「ふるさとは遠きにありて」の詩稿も含まれていた。それらは「一章の削減もなく全稿が掲載され、私はめまいと躍動」を感じた。後年白秋は語った。犀星の字は拙い。なぜ載せたか。「字は字になっていないが詩は詩になっていた」と。犀星は書く。「彼は妙な愛情で私の字の拙いことを心から罵(ののし)ってくれた」。
 「高村光太郎」。さほど年長でもないのに、いちはやく登場した光太郎の存在に、犀星はざわつく。「誰でも文学をまなぶほどの人間は、何時も先(さ)きに出た奴(やつ)の印刷に脅かされる。いちど詩とか小説で名前が印刷されるということは傍若無人な暴力となって、まだ印刷されたことのない不倖(ふこう)な人間を怯(おび)えさせ、おこりを病むようにがたがた震えを起させるものである」。当時、詩が活字になって印刷されるのは、無名詩人には夢のようなこと。印刷ということばは、まばゆさの象徴である。
 高村光太郎の妻、智恵子の印象はよくなかった。訪ねると、光太郎は留守だった。智恵子はのぞき窓のカーテン越しに、冷たくあしらう。愛する夫には忠実な智恵子。でも「私それ自身は彼女に一疋(いっぴき)の昆虫にも値しなかった。吹けば飛ぶような青書生の訪問者なぞもんだいではないのだ」。このあと、こう書く。「それでいいのだ、女の人が生き抜くときには選ばれた一人の男が名の神であって、あとは塵(ちり)あくたの類であっていいのである」。
 先に世に出たものの「印刷」におびえると書く。「塵あくたの類」であって当然と書く。よく見ると、いずれも凡庸な見解だが、正直にまっすぐに書くので、強く迫る。心の回想はつづく。
 次は「堀辰雄」と「立原道造」。
 堀辰雄のお母さんは、「堀がいまに本を書く人になることを考えて、或(あ)る製本屋に近づきがあったので態々(わざわざ)菓子折を提げ、うちの子の本が出るようになったら、どうかよい本に製(つく)ってやって下さいと、挨拶(あいさつ)にゆかれたそうである」。その母親は、堀辰雄が世に出る前に亡くなる。息子の本を一冊も見ることなく亡くなる。印刷、製本。それが文学なのだ。印刷、製本の夢をみる。それは犀星の夢でもあった。夢がかなえられても、まだ夢であった。それが詩人の生涯なのだろう。
 立原道造は、軽井沢の犀星の家にやってくると、木の椅子に腰を下ろして、いつも眠っている。「僕の詩でも、ラジオで放送してくれることがあるでしょうかしら、してくれると嬉(うれ)しいんだがナ」という青年だ。「誰でも持つ初期の心配をたくさんに持っていた」。犀星は、二四歳で亡くなった立原道造の詩が、そのあと多くの人に愛され、何度も全集が出た点を記す。印刷、製本の次は、ラジオ。読んでいくと、文学そのものの自伝を開く心地になる。
 最後の章は「島崎藤村」。気むずかしい大家藤村に、犀星は近づけない。会っても話ができない、遠い人だ。それで人から聞いた話にする。
 藤村が軽井沢の旅館に泊まったとき、世話をしてきた婦人から、色紙をたのまれる。「藤村は機嫌好(よ)く一字ずつ、念を入れて書いていた」と犀星は記す。「信州の片田舎の旅館の朝の間にも、対手に島崎藤村という者をしたたか認めさせたかったのだ」「わが島崎藤村は生きた一人の女性から充分にみとめられ、あがめられて余韻なきものであった」。この場面。詩人というものを伝える視点としては通俗的かもしれない。だが誰にも見えないものをとらえて書き切る。みごとなものだ。
 はっきりとはわからないけれど、何もかもが凄(すご)い、ということがわかった。ガラス一枚向こうには俗臭が漂う。だがそんなところでも詩人たちはすなおに懸命に過ごした。生きるしるしを残したのだと思う。本書に現れるのは詩を書く人たちだけではない。苦しむことを知りながら、すなおに生きようとする人たちの姿である。
 

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり

昭和22年(1947) 光太郎65歳

「松庵寺」は花巻市街にある古刹です。昭和20年(1945)から足かけ8年の花巻町、及び郊外太田村在住時代、光太郎はこの寺で、毎年のように父・光雲、妻・智恵子の法要を行ってもらっていました。昭和22年(1947)には、母・わかの二十三回忌法要も兼ねました。その際の作です。

イメージ 2

昭和48年(1973)には、この歌の光太郎自筆揮毫を刻んだ碑が、松庵寺に建てられています。

イメージ 3

イメージ 4

今日、9/21は花巻の産んだ天才詩人・宮沢賢治の命日「賢治忌」です。午後4時半から、花巻市桜町の、光太郎が揮毫した賢治詩碑前広場にて、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」が開催されます。プログラム中に当方の講話も盛り込まれており、これから花巻に向かいます。

新刊、といっても4月の刊行なので3ヶ月ほど経ってしまっていますが、最近まで気付きませんでした。 
2016/04/15  藤田尚志・宮野真生子 編 ナカニシヤ出版 定価2,200円+税

イメージ 1

イメージ 2

「愛」の一語が秘めた深遠な思想史の扉を開く。よりアクチュアルに,より哲学的に,何より身近なテーマを問うシリーズ、第1巻。

目次
Ⅰ 西洋から考える「愛」
  第1章 古代ギリシア・ローマの哲学における愛と結婚 (近藤智彦)
     ――プラトンからムソニウス・ルフスへ――
 第2章 聖書と中世ヨーロッパにおける愛 (小笠原史樹)
 第3章 近代プロテスタンティズムの「正しい結婚」論? (佐藤啓介)
     ――聖と俗、愛と情欲のあいだで――
 第4章 恋愛の常識と非常識 (福島知己)
     ――シャルル・フーリエの場合――
Ⅱ 日本から考える「愛」
  第5章 古代日本における愛と結婚 (藤村安芸子)
      ――異類婚姻譚を手がかりとして――
 コラム 近世日本における恋愛と結婚 (栗原剛)
      ――『曾根崎心中』を手がかりに――
 第6章 近代日本における「愛」の受容 (宮野真生子)


編者のお二方は、それぞれフランス近現代思想、日本哲学史を専攻され、九州の大学で教鞭を執られている研究者です。

最初にこの書籍の情報を目にしたとき、「哲学」の文字から、小難しい理屈の羅列かと思いましたが、さにあらず。前半は西洋、後半は日本に於いて、「愛」がどのように捉えられてきたのか、その思想史的な考察……というと堅苦しいのですが、様々な実例を引きながら(近年の映画『エターナル・サンシャイン』や『崖の上のポニョ』まで含め)、いわば帰納的に「愛」の在り方が、かなりわかりやすく説かれています。

特に日本編は興味深く拝読しました。『古事記』や『源氏物語』、『曽根崎心中』、夏目漱石の『行人』、そして『智恵子抄』。

キリスト教の「love」の概念や、中国に於けるどちらかというと道徳的な「愛」の影響を受けつつ、対象と一つになることを理想とする恋愛の形の出現、そして一つにならねばならない、というある種の強迫観念がもたらした光太郎智恵子の悲劇、といった流れで、「なるほど」と首肯させられました。

本書でも、光太郎智恵子の悲劇の考察だけを取り出すのであれば、ほぼこれまでにも様々な論者が述べてきたことの焼き直しのような感がありますが、いわば「近代恋愛史」的なマクロ視点の中にそれを置くことで、また違った見方で見えてきます。ある意味、光太郎智恵子の悲劇は、「近代恋愛史」という壮大なパズルの無くてはならないピースのように、起こるべくして起こった、というような……。

版元のナカニシヤ出版さん。京都の書肆です。こうした真面目な、しかしはっきりいうと商業的にはどうなのかな、という出版に真摯に取り組まれる姿勢には敬意を表します。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

鳴きをはるとすぐに飛び立ちみんみんは夕日のたまにぶつかりにけり

大正13年(1924) 光太郎42歳

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌『トンボ』の第2号が届きました。


002

PR誌、というよりは、同社と関連の深い皆さんによる同人誌的な感じなのかも知れません。

003

M06uGl0g目次の最後、「詩歌三評 野沢一詩集 木葉童子詩経」で、光太郎に触れられています。
野沢一(はじめ)は、1904(明治37)年、山梨県出身の詩人。昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。光太郎からの返信はほとんどなく、ほぼ一方通行の書信です。ちなみに光太郎からの返信2通は、一昨日訪れた山梨県立文学館さんに所蔵されています。

昭和9年(1934)、野沢は丸太小屋生活の中での詩篇をまとめ、『木葉童子詩経』として自費出版、昭和51年(1976)と、平成17年(2005)に、文治堂書店さんから再刊されました。

今回、『トンボ』に載ったのは、この再刊本を元にした三氏の野沢評。目次には詳細が記されていませんが、酒井力氏の「『木葉童子詩経』をよむ」、曽我貢誠氏で「森と水と未来を見つめた詩人」、古屋久昭氏による「自然と対話し愛した詩人」。それぞれ、光太郎との沢の交流について触れて下さっています。

そのうちの曽我氏から、『トンボ』が送られてきました。多謝。
曽我氏と古屋氏、それから野沢の子息の野沢俊之氏は、連翹忌にご参加いただいております。

さらに、平成25年(2013)、坂脇秀司氏解説で刊行された『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』に関する記述も。坂脇氏も連翹忌にご参加いただいたことがありました。


こうした光太郎と縁のあった文学者と光太郎のつながりに関しても、まだまだいろいろ知られていない事実等がたくさんあることと思われます。それぞれの研究者の方々との連携を図りたいものです。

そうした光太郎と縁のあった文学者の一人、詩人の黄瀛をメインにした、宮沢賢治イーハトーブ館さんの「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を、今日、拝見します。

 今日から2泊3日で、花巻経由の盛岡行きです。今日は花巻に寄って黄瀛展を拝見し、盛岡に。明日は盛岡少年刑務所さんで行われる第39回高村光太郎祭に出席し、講演をして参ります。一般には非公開のイベントですので、ブログではご紹介しませんでしたが、帰ってきましたらレポートいたします。明後日はまた花巻で途中下車、花巻高村光太郎記念館さんに立ち寄ろうと考えております。


【折々の歌と句・光太郎】

きらきらと焼野に長き線路かな    明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学の末期、スイス経由イタリア旅行中の作です。季節的には3月中頃と考えられ、「焼野」は冬枯れた野原という意味なのでしょうが、ゆらゆらと陽炎の立つ焼け付くような野原、と捉えてもいいように思われます。

盛岡、花巻となると、自家用車での移動ではきついので、長い線路の旅になります。この句をしのびつつ、行って参ります。

注文しておいた新刊書籍が昨日届きました。昨日のうちに一気に読みました。 

映画「高村光太郎」を提案します 映像化のための謎解き評伝

2016/04/30 福井次郎著 言視舎 定価1,800円+税
 
イメージ 1

★今年は没後60年。人間・高村光太郎の数々のドラマを追うには、映画化が一番! 大正・昭和期の映画を徹底して研究してきた著者が、映像化のための企画書を内包した異色の評伝に挑む。
★なぜ智恵子は自殺しようとしたのか? なぜ「戦争協力詩」を書いたのか? 花巻への隠棲とは? 十和田湖「乙女の像」のモデルは? ……数多の謎を解き、光太郎研究に新視点をもたらす。
★『智恵子抄』の新しい読み方も提案。

★目次
 第一章 高村光太郎という迷宮
 第二章 ミステリー『智恵子抄」
 第三章 不可思議なる転向
 第四章 「乙女の像」の謎 ほか


著者の福井氏は、「映画評論家」という肩書きをお持ちの方です。そこで、光太郎の生涯を映画化できないか? という提言のために書かれた光太郎評伝です。このブログでも何度かご紹介した昨年公開の小栗康平監督映画「FOUJITA」にからめ、光太郎の生涯を追えば、もっと面白い作品が作れる、という提言。その通りだと思います。

著者のスタンスは、冒頭の「はじめに」に記されています。赤字の部分は、同書で太ゴシックで組まれている部分です。

本書は詩論や文芸評論の類いの本ではないことを断っておく。また光太郎の彫刻や油絵、書について論じた本でもない。本書の関心はあくまで人間「高村光太郎」にある。人間「高村光太郎」の映画化を提案することによって、彼の実像を明らかにすることを目的としている。

また、「光太郎が取った実際の行動から彼の人間像にアプローチするという方法を取っている」「光太郎が書いたものより周囲の証言に重点を置いている」とのことでした。

本文は4章に分かれ、光太郎の生涯を俯瞰。各章はいくつかの項から成り、それぞれの終末に「映画化のポイント」という稿が付されています。そちらは映画の企画書のような体裁。中々面白い手法だなと思いました。

全体に、光太郎に対する健全なリスペクトの念が感じられます。また、映画化という前提のもとにわかりやすく光太郎の生涯を俯瞰しようとする手法には、感心させられました。時に大きな矛盾を抱え、智恵子を犠牲にしたり、大政翼賛に与したりしながらも、「求道」の生涯を送った光太郎の姿が、鮮やかに描かれています。

エラいセンセイたちが研究機関の紀要等にノルマや〆切に追われて無理矢理書く「詩論」や「文芸評論」(とにかく対象を批判しなければ気が済まない)、在野の「自称研究者」が自己顕示のために書くわけのわからない独断のような「イタさ」は感じません。

資料も豊富に読み込まれています。驚いたのは、前半部分を当方が執筆した『十和田湖乙女の像のものがたり』をだいぶ参考になさって下さっていること。感謝です。

ただ、固有名詞の誤りが少なからずあったり、年号や事実関係にも勘違いが見受けられたりするのが残念ですが、それを差し引いても優れた書籍です。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

まよひゆく花野のおくぞきはみなきいづこを果と此身は捨てむ
明治35年(1902) 光太郎20歳

光太郎の生涯、ということに思いを馳せると、この短歌が思い浮かびます。

当会顧問・北川太一先生の盟友だった、故・吉本隆明関連です。

まずは新刊情報から。
2016年3月19日 晶文社 定価6600円+税000

人と社会の核心にある問題へ向けて、深く垂鉛をおろして考えつづけた思想家の全貌と軌跡。

第12巻には、中世初期の特異な武家社会の頭領でありながら、和歌の作者でもあった源実朝の実像に迫る『源実朝』と、同時期の評論・エッセイ、および詩を収録。単行本未収録3篇を含む。第9回配本。

月報は、中村稔氏・ハルノ宵子氏が執筆!


一昨年から刊行が始まった晶文社版『吉本隆明全集』の第7回配本です。既刊の第5巻第7巻、第4巻第10巻、第9巻でも光太郎に触れられていましたが、今回の巻でも目次に「究極の願望[高村光太郎]」という項目がありますし、他にも光太郎に触れる文章が含まれているかも知れません。


吉本がらみでもう1件。

生前の吉本と親交があったコピーライターの糸井重里さんによる、「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイトがあります。その中に「吉本隆明プロジェクト」というコーナーがあり、吉本が生前に行った講演の音声データが昨年から順次公開されはじめ、全183講演が出揃いました。

光太郎に関する講演も含まれています。

A006詩人としての高村光太郎と夏目漱石 (昭和42年=1967 東京大学三鷹寮)
A013高村光太郎について――鷗外をめぐる人々 (昭和43年=1968 文京区立鷗外記念本郷図書館)

タイトルで「光太郎」の文字が入っているのは上記2件ですが、他にもあるかも知れません。

2件とも、昭和48年(1973)、勁草書房刊行の『吉本隆明全著作集8 作家論Ⅱ』に文字化されて収録されていますが、文字で読むのと音声で聴くのとでは、また違った感じですね。

ぜひお聴き下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

朝曇り窓より見れば梨の花       明治42年(1909) 光太郎27歳

自宅兼事務所の周囲も、ソメイヨシノがちらほら咲き始めました。近くにはありませんが、梨の花もそろそろ咲き始めているような気がします。

一昨日、アメリカ文学者・文芸評論家の佐伯彰一氏のご逝去が報じられました。新聞各紙には昨日掲載されています。 

文芸評論家の佐伯彰一さん死去 「三島由紀夫全集」編集

 米文学者で、比較文学や伝記研究の手法を用いた評論で知られる000文芸評論家の佐伯彰一(さえき・しょういち)さんが1日、肺炎のため亡くなった。93歳だった。葬儀は近親者で営まれた。
 富山県出身。東京大や中央大で教壇に立ち、アーネスト・ヘミングウェーやフラナリー・オコナーの翻訳を手がけた。80年に日本翻訳文化賞を受賞。同年「物語芸術論」で読売文学賞、86年、「自伝の世紀」で芸術選奨文部大臣賞を受けた。「三島由紀夫全集」の編集を担当し、三島由紀夫文学館や世田谷文学館の館長も務めた。
(『朝日新聞』 2016/01/05)
  

<訃報>佐伯彰一さん93歳=米文学者、文芸評論家

 国際的な視野をもつ批評で活躍した文芸評論家で米文学者、東京大名誉教授の佐伯彰一(さえき・しょういち)さんが1日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。93歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男で東京工業大教授(米文学・米文化史)の泰樹(やすき)さん。
  1922年生まれ、富山県育ち。43年東京大英文科卒。米ミシガン大などで日本文学を講じた。ヘミングウェーやフォークナーらの研究・翻訳のほか、戦前、戦中に知識人の転向や挫折を見せつけられたのを原点に50年代から文芸評論に取り組んだ。68年から東京大、83年から中央大の教授を歴任した。
  三島由紀夫研究の第一人者としても知られ、新潮社刊行の全集(35巻・補巻1、76年完結)の編集を担当。95年に東京・世田谷文学館、99年には山梨県・三島由紀夫文学館のいずれも初代館長を務めた。谷崎潤一郎らが自己の資質を見いだす過程を追った「物語芸術論」で80年読売文学賞。他の著書に「日本人の自伝」(74年)、「評伝三島由紀夫」(78年)、「自伝の世紀」(85年)など多数。保守系の論客としても知られた。
  評論家の業績で82年日本芸術院賞。88年日本芸術院会員。99年に正論大賞(特別賞)。
(『毎日新聞』2016/01/05)


当方、佐伯氏のご著書を一冊持っております。

イメージ 1

昭和59年(1984)、文藝春秋社さんから刊行された『日米関係の中の文学』。当時の日米貿易摩擦を背景にしています。初出は同社刊行の雑誌『文學界』への連載でした。

全13章のうちの第8章にあたる「ジャップの「憤り」」で、光太郎のアメリカ留学をメインに扱っています。改めて読み返してみました。

光太郎は明治39年(1906)、数え24歳で欧米留学に出ます。2月末、最初の目的地であるニューヨークに到着。翌年6月にホワイトスターラインの豪華客船・オーシャニックでロンドンに向けて船出するまでをアメリカで過ごしました。私費留学のため、自分で金を稼がねばならず、彫刻家ガットソン・ボーグラムの通勤助手として働いたりもしました。後にボーグラムは現代でもアメリカの観光案内などによく写真が使われる、マウント・ラッシュモアの巨大彫刻を手がける彫刻家です。しかし、ボーグラムの元で働いたのは4ヶ月ほど。あとはどのようにして収入を得ていたのか、よくわかりません。日本から持っていった2,000円を小出しにして使っていたのでしょうか。倹約のため、窓のない屋根裏部屋に下宿をしたりもしました。

10月から翌年5月までは、ボーグラムが講師を務めていたアート・スチューデント・リーグの夜学に通い、特待生の資格を得、その賞金をボーグラムの好意によって現金で受けとり、イギリスへと旅立ちます。ほぼ時を同じくして、父・光雲の奔走で農商務省の海外実業練習生に任ぜられ、月々の手当が支給されるようにもなりました。

さて、佐伯氏の論考。滞米中の体験を基にした詩「象の銀行」(大正15年=1926)、「白熊」(同14年=1925)を中心に、光太郎の内面を分析しようとする試みです。どちらの詩も、滞米時から20年ほど経ってからの作品であること、これらを含む連作詩「猛獣篇」の問題、この後展開されて行く翼賛詩の濫発、そして戦後の花巻郊外太田村での隠遁生活などに触れられます。さらには比較文学論的に、やはり滞米経験のある永井荷風や有島武郎、岡倉天心などとのからみ、当時のアメリカの世相などにも論が及びます。それぞれ周辺人物の遺した手記などにも材を取り、非常に示唆に富んだ論考でした。もちろん、滞米時の光太郎のエピソードもふんだんに紹介されています。柔道技で米国人学生をたたきのめしたことなど。


ちなみに氏は、戦時中に光太郎の講演を生で聴かれたこともあるそうです。

経歴でわかるとおり、氏は右寄りの立ち位置にい000らした方です。しかし、氏は光太郎の翼賛詩を良しとしません。そのあたりは現今のレイシストどもとの大きな相違ですね。

また、氏は90年代に日本図書センターさんから刊行されていた「作家の自伝」シリーズ第一期の監修にも携わっていらっしゃいました。この中には『高村光太郎 暗愚小伝/青春の日/山の人々』もラインナップに入っています。年譜及び解説は、当会顧問・北川太一先生でした。

謹んでご冥福をお祈りいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

摘みてこし川上とほくみかへりてふたり指さす春の山うすき
                                        明治34年(1901) 光太郎19歳

河原か堤防か、川上から川下へ、おそらく七草摘みでしょう。ふと振り返ると、その先に見える山は、まだ春は名のみのたたずまい……。いいですね。

当方、野草にはあまり詳しくありませんが、こちらは春の七草の一つ、ゴギョウだと思います。自宅兼事務所の庭のプランターに勝手に生えています。

イメージ 3

また、犬の散歩コースでは、三が日には記録的な暖かさで、これも七草の一つ、ホトケノザが既に花をつけていました。

イメージ 4

雪国の皆様には申し訳ないような気持ちです。

新刊紹介です。 

戯れ言の自由

2015年10月31日 思潮社刊 平田俊子著 毛利一枝装幀  定価 2,300円+税

帯文から

お湯はいつでも沸かしておこうよ、誰も帰ってこない日も――。不確かな日々が求める、こころを少し明るくするもの。日本語という小さな舟がひとの思いを運んでいく。鋭くもしなやかに、全身でともすことばの灯り、詩28篇。

イメージ 5

故・長田弘氏の後を承け、今年から『読売新聞』さんの「こどもの詩」を担当されている平田俊子氏の詩集です。書き下ろしを含め、平成16年(2004)から今年までの詩作品28編から成ります。

光太郎に触れて下さった詩篇が二つ。

「アストラル」。商品名なのか、メーカーの名前なのか、昭和29年(1954)、草野心平が光太郎のために骨折って入手した電気冷蔵庫です。

その電気冷蔵庫をめぐり、深い絆で結ばれた光太郎、心平、宮沢賢治、そして心平の弟で、早世した草野天平(歿後、『定本草野天平詩集』により、昭和34年(1959)の第2回高村光太郎賞を受賞)をからめ、詩人達の織りなす人間模様を謳った詩です。初出は平成24年(2012)の『現代詩手帖』さん。

昭和27年(1952)、天平危篤の報に、心平はアイスクリームを魔法瓶に詰め、天平の元に向かいました。

遡って大正11年(1922)、結核に冒された賢治の妹・トシは、兄に「あめゆじとてきてけんじや(雨雪=みぞれを取ってきてください)」と言いながら、歿しました。

さらに昭和13年(1938)、智恵子は光太郎の持参したサンキストのレモンをがりりと噛んで、それなりその機関を止めました。

そして昭和29年(1954)、心平は光太郎のためにアストラルの冷蔵庫を手に入れました。

詩「アストラル」はこう結ばれます。

光太郎はまもなく亡くなり000
アストラルは心平が譲り受けた

アストラルのその後は知らない
光太郎の死後 五十余年
心平の死後 二十余年
今もどこかで冷たいものを
いっそう冷たくしているだろうか
扉を開けると
アイスクリームとレモンと
あめゆじゆが
もの言いたげに並んでいるだろうか

右上は光太郎終焉の地・中野の中西家アトリエです。おそらく右端に写っている白い箱が問題の冷蔵庫でしょう。


『戯れ言の自由』には、もう一篇、「まだか」という詩で、光太郎に触れられています。

戦後の昭和22年(1947)、花巻郊外太田村の山小屋で書かれた連作詩『暗愚小伝』の構想段階で入っていた「わが詩をよみて人死に就けり」がモチーフに使われています。清家雪子さんの漫画『月に吠えらんねえ』第二巻でも、この断片がモチーフに用いられていました。

その他の詩篇も、ユーモアとヒューマニティーにあふれ、特に言葉に対するユニークな見方や表現は、やはり『読売新聞』さんの「子供の詩」担当だった故・川崎洋の詩を彷彿とさせられました。


もう一冊。先日、第60回高村光太郎研究会に参加した折、発表者の佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏からいただきました。 

佛教大学大学院紀要文学研究科篇 第43号 抜刷 高村光太郎の短歌と美術評論――留学直後の作品を中心に――

2,015年3月1日 佛教大学大学院文学研究科篇 田所弘基著 

イメージ 2

イメージ 3

当方も、思うところあって、現在確認されている光太郎の短歌すべて(約800首)を細かく読み返しているところでして、この論文も興味深く拝読しました。

大学のエラいセンセイの論文には、枝葉末節にこだわるあまり「木を見て森を見ず」の状態に陥っているものや、いかにも紀要等にノルマとして書かなければならないから書いただけと思われる内容の薄っぺらなものや、動かしようのない史実を含めた根本的な所で大きな誤解をしているもの、牽強付会にすぎるもの、引用のみでありながらさも自分の考えのように装っているものなど、実りのあるものがあまり見受けられません。特に、文学系は、自分もそういう指導を受けてきましたが、「批判的に読む」という流れがあり、対象の人物を上から目線で捉え、けちょんけちょん(死語?)……「では、あなたの人間性はどうなの?」というものにも出くわします。

この論文はそういう所もなく、素直に書かれたいい論文です(という評をする当方も上から目線のようですが)。

入手には、こちらまでご連絡いただければ仲介いたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月23日

昭和16年(1941)の今日、『朝日新聞』に「新穀感謝の芸能祭」という記事が載りました。

曰く、

新嘗祭をまへに日本文化中央聯盟では二十二日午後一時から九段の軍人会館で新穀感謝祭奉献芸能の会を開いた
新穀感謝の厳かな祭式ののち小山松吉理事長の挨拶があり、儀式唱歌『新嘗祭』や『新穀感謝のうた』がバリトン伍長伊藤武雄氏、二葉あき子さんはじめコロムビア女声合唱団によつて唱はれたがさらに舞踊、箏曲、講演などで豊穣の譜を讃へ最後に農村女子青少年団用につくられた素人劇『いろはにほへと』映画『土に生きる』が上映され同四時半終つた

『新穀感謝のうた』は光太郎作詩、信時潔作曲の歌曲です。この年に製作されました。

あらたふと
あきのみのりの初穂をば003
すめらみことのみそなはし
とほつみおやに神神に
たてまつる日よいまは来ぬ

あらたふと
あきのみのりの田面(たのも)には
穂波たわわにしづもりて
神のたまひし稲種(たなしね)は
いま民の手に糧となる

あらたふと
あきのとりいれ倉にみち
君にささぐる國民(くにたみ)の
いきのいのちのはつらつと
いやきほひ立つ時は来ぬ

その後、題名が二転三転し、最終的には「新穀感謝の歌」で落ちつきました。

今日は勤労感謝の日ですが、この日はもともと、宮中で行われていた、五穀の収穫を神に感謝する新嘗祭(にいなめさい)を起源としています。

昨日は文京区大塚にて、「第60回高村光太郎研究会」に参加して参りました。

そちらが午後2時からということで、その前に国立国会図書館に寄りました。来月、智恵子の故郷・二本松で開催される「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の「智恵子講座’15」第3回で講師を仰せつかっており、その調査のためでした。

イメージ 3


国会議事堂周辺、色づいた公孫樹がいい感じでした。

智恵子の母校・日本女子大学校(現・日本女子大学)、その同窓会である桜楓会、同校卒の平塚らいてうらによる『青鞜』などにつき、目星をつけていた資料を漁って参りました。

そのうちの一つ、『青鞜』の明治45年(1912)2月発行、第2巻第2号。智恵子が表紙絵を描いています。

イメージ 4

こちらには、前月に大森の富士川という料亭で開催された青鞜社の新年会の様子がレポートされています。智恵子もこの会には参加しています。

イメージ 5


中央が智恵子、右から二人目が平塚らいてうです。

その記事自体は、昭和52年(1977)に文治堂書店さんから刊行された『高村光太郎資料』第六集に転載されており、以前に読んだことがありました。さらに、新年会当日の寄せ書きも掲載されていることを知り、こちらは不鮮明な画像でしか見たことがなかったので、改めて見てみました。

イメージ 8

この中に、智恵子の筆跡も含まれていると思われ、見つけようと思いました。『青鞜』の記事と照らし合わせると、中央に「強きものよ汝の名は女なり」と書いているのが武市綾。しかし、それ以外がわかりません。やはり記事と照らし合わせると、らいてうが「酒めし」と書いているはずなのですが、それもどこに書いてあるか不明ですし、それ以外の部分、やはりよくわかりませんでした。今後の課題とします。

それから、先だっていただいた智恵子の里レモン会さんの会報に、中村屋サロンを形作った若き芸術家の一人で、彫刻家の鶴田吾郎が語った同じく彫刻家の中原悌二郎に関する談話の中に、智恵子が登場するという記事が載っていました。出典が碌山美術館さん刊行の『中原悌二郎集』(昭和63年=1988)だそうで、その記事も調べて参りました。

中原は、明治三十九年の正月に友人と二人で北海道から上京して四谷の寺に住い金に困るものだから墓場の卒塔婆を抜いて来ては燃して自炊生活をしていました。(略)そして、中原と中村(彝)と私が太平洋(画会)へ移ったのですが、(略)当時居たのは、渡辺与平、それから水母(くらげ)と仇名された長沼智恵子、埴原桑代、坂本繁二郎などが居ました。

若き日の智恵子のあだ名が「クラゲ」。平塚らいてうは、智恵子を「骨なしの人形のようなおとなしい、しずかなひと」と評していたので、そのあたりからの連想なのかな、と思っていたのですが、先の『青鞜』の新年会の記事を改めて読み直してみると、そこにも「くらげ」が記されていました。

荒木氏のコートを襠のやうに引つかけた海月のやうな長沼氏の姿が目に浮んだ。

「海月」が「くらげ」、荒木氏は『青鞜』メンバー荒木郁、「襠」は「まち」と読みます。小柄な智恵子がコートを羽織る姿がクラゲのようだという連想ですね。

そういえば、太平洋画会研究所に通っていた頃も、

コバルト色の長いマントの衿を立てたなり羽被つて、白い顔をのぞかせ、顔の上には英国風に結つた前こごみの束髪が額七部をかくし、やつと目を見せていた。
(小島善太郎「智恵子二十七、八歳の像」昭和33年=1958 『高村光太郎全集月報11』)

という姿が記憶されています。おそらく、こうしたコートやマントといった套衣を羽織った姿が、「クラゲ」につながったのではないのでしょうか。


国会図書館ではその他、日本女子大学校関連についていろいろと調べました。

その後、護国寺駅近くのアカデミー音羽へ。第60回高村光太郎研究会に参加いたしました。

発表は佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏の「高村光太郎の戦争詩――『詩歌翼賛』を中心に――」 、『雨男高村光太郎』というご著書のある西浦基氏で「「画家アンリ・マティス」高村光太郎訳」

イメージ 6

お二人の熱のこもったご発表と、当会顧問・北川太一先生の的確なコメントとで、有意義なものとなりました。北川先生は、高村光太郎研究会の顧問もなさっています。

イメージ 7

北川先生には、先ほどの寄せ書きのコピーをお渡しし、解読を依頼して参りました。詳しく解りましたら、またレポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月22日

平成5年(1993)の今日、文学座の舞台「愛しすぎる人たちよ 智恵子と光太郎と」の名古屋公演が開催されました。

イメージ 1

作・鈴木正光氏、演出・加藤信吉氏、光太郎役が石田圭祐さん、智恵子役は平淑恵さんでした。

イメージ 2

渡辺えりさん率いる劇団3○○(さんじゅうまる)の舞台「月にぬれた手」で、光太郎役をなさった金内喜久夫さん、光太郎の母・わかなどの役だった神保共子さんもご出演なさっていました。

この月11日から20日までが東京公演、さらにこの後、尼崎、貝塚、赤穂、門真、豊中と巡回公演されました。

文京区大塚にて、「第60回高村光太郎研究会」が開催されます。 

第60回高村光太郎研究会

日 時  2015年11月21日(土)
時 間  午後2時~5時 
場 所  アカデミー音羽 文京区大塚5-40-15 東京メトロ有楽町線護国寺駅から徒歩2分

イメージ 3


参加費  500円
 
<研究発表>
「高村光太郎の戦争詩――『詩歌翼賛』を中心に――」
  佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏
「「画家アンリ・マティス」高村光太郎訳」     西浦基氏

研究発表会後、懇親会あり

この会は昭和38年(1963)に、光太郎と親交のあった詩人の故・風間光作氏が始めた「高村光太郎詩の会」を前身とします。その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏。当方も会員に名を連ねさせていだたいています。
 
ほぼ毎年、この世界の第一人者、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生もご参加下さっていて、貴重なお話を聞ける良い機会です。しかし、そのわりに、参加者が少なく、淋しい限りです。

特に事前の参加申し込み等は必要ありません。直接会場にいらしていただければ結構です。ぜひ足をお運び下さい。
 
研究会に入会せず、発表のみ聴くことも可能です。会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
ご質問等あれば、はこちらまで。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月8日

昭和27年(1952)の今日、実弟で藤岡家に養子に行った孟彦の要請により、茨城県友部町の鯉淵学園で講演を行いました。

この時の筆録は翌年の『農業茨城』という雑誌に掲載されました。

イメージ 2   イメージ 1

当会顧問・北川太一先生の新著が完成しました

いのちふしぎ ひと・ほん・ほか

2015/10/17 北川太一著 文治堂書店刊 定価1500円+税

光太郎への思慕と敬愛により知った伊藤信吉・草野心平。出版により知己を得た品川力・渡辺文治。仏教文化に志を共有した三宅太玄・加茂行昭。昭和十九年、出征前の師や学友への追悼文他、著者が選んだ五十編、初の随想集。


Ⅰ ひと000
 追悼 上州烈風の詩人 信吉さんのお手紙
 高村さんと草野さん
 光太郎と心平の往復書簡
 詩人の死 草野さんと秋山さん
 「注文の多い料理店」に寄せて
 『春と修羅』と『道程』に思う
 白秋と光太郎 その交遊の軌跡
 新井奥邃 未来を指針する世界性
 品川力さんのこと
 文治さんと清二さん
 『白雲』高橋一夫先生追悼
 覚え書 染谷誠一句集に寄せて
 照源寺の龍
 問疾 太玄和尚に寄せる
 三宅太玄老師に

Ⅱ ほん
 ウイリヤム・チンデル伝 伝記文学・私の一冊
 私の「ひろいよみ」
  ⑴ 世界図絵(J・A・コメニウス)
  ⑵ ラ・ロシュコー箴言集001
  ⑶ 運慶とバロックの巨匠たち(田中英道)
 ある本の歴史 ロダンから守衛へ
 おめでとう『彷書月刊』一〇〇号
 やさしい心 菅宮慶江『童心とともに』
 本の音 夜の露店の古本屋
 本のいのち
 さらば東京古書会館
 『古書通信』の六十年
 無知の罪を知った『展望』
 文学館に望むこと
 DVD版『美術新報』に驚く

Ⅲ ほか
 幻の書の風景
 高村光太郎の書
 旅へのおすすめ
 パリの連翹忌
 パリの十日間
 オペラ「源氏物語」によせて
 自戒として 高村さんのことば
 光太郎と山川丙三郎訳『神曲』
 うつくしきものみつ 加茂行昭さんに
 駿河町富士 わが風景と思い出
 回想の向丘高校
 長いバカンスが取れたら
 小川義夫『絆 きずな』跋
 勝畑耕一詩集『熱ある孤島』帯文
 喜びと願いと 女川・光太郎文学碑公園の完成に寄せて
 いのちを描く 長谷川建作品展にあたって
 智恵子の場合
 大空(そら)からの伝言(メッセージ) To memory of Noriko
 美はみつけた人のもの 北川太一さんからひとみちゃんへ

初出誌メモ
あとがき


B6版170ページの薄い小さなかわいらしい本ですが、その内容の濃いことといったらありません。当方、本文の校正をさせていただいたので、既に3回ほど読みましたが、思わず読みふけりながら赤ペンを握っていました。あとがき以外に書き下ろしのものはなく、大半は掲載誌に載ったものを既に読んでいたのですが、それでも読みふけってしまいました。

さて、昨日は東大正門前のフォーレスト本郷さんにて、北川先生のご結婚60周年のダイヤモンド婚及び本書の出版記念の祝賀会でした。

イメージ 3

イメージ 10   イメージ 11

企画なさったのは、北川先生が高校の教諭をなさっていた頃の教え子の皆さん。当方もお招きにあずかりました。

イメージ 4

イメージ 5

宮城女川から、女川光太郎の会の佐々木英子さん、笠松弘二さんも駆け付けました。

イメージ 6

花束及び記念品の贈呈。

イメージ 7

イメージ 8


当方、奥様のお隣に座らせていただき、60年前(昭和30年=1955)の思い出を伺いました。光太郎は最晩年で、光太郎の日記には、お二人が中野のアトリエへご結婚の報告にいらしたことも記されています。新婚旅行は二本松方面。かつて光太郎も泊まった穴原温泉などにも行かれたそうです。当時の新婚旅行といえば、箱根や熱海が一般的だったそうで、行く先々で「何でこんなところに?」と訊かれたそうです。

イメージ 9

こちらは智恵子の生家。北川夫妻と智恵子の恩師・服部マスの縁者の方。昭和30年代の智恵子生家の様子としても貴重な写真です。

いつまでも仲良くお元気でいらしていただきたいものです。

さて、『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』、版元の文治堂書店さんにご注文下さい。

TEL,FAX: 03-3399-6419 MAIL: bunchi@pop06.odn.ne.jp 〒167-0021 東京都杉並区井草2-24-15


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月18日

昭和27年(1952)の今日、星ヶ丘茶寮において、三好達治、草野心平との座談会を行いました。

この座談は12月の雑誌『新潮』に「詩の生命」の題で掲載されました。

新刊情報です。 
2015/10/1  成田健著  無明舎出版  定価 1200円+税

イメージ 1

版元サイトより

智恵子の生涯を丹念に自らの足で訪ね、光太郎の『智恵子抄』の作品世界に奥深く分け入りながら、一人の女性の軌跡をたどる文学紀行。

家系  戸籍名はチヱ/今も残る生家
小学生 成績が優秀/思いやりの深い人/女学校への進学
師の勧め 万能の成績/孤独な性格/総代として答辞
交友 師の勧めで進学/平塚らいてう回想/絵画への志向
表紙絵  絵画研究所へ/「青鞜」の表紙描く/新しい女性の一人
出会い  荒れる光太郎/智恵子に会う/光太郎の目覚め
あふれる思い 犬吠岬に遊ぶ/山上で婚約/結婚へ
冬日のあたたかさ 至福の時/初冬の景を鮮明に/智恵子の杜公園
簡素な美 清貧の日日/衣裳が簡素に/衣裳の美を語る
故郷の空 たびたびの帰郷/あどけない話/やはり明るい詩/夫婦石に二つの詩
さだめ 智恵子発病/東北の温泉巡り/川上温泉へ
千鳥が友 転地療養へ/募る病勢/九十九里浜の詩碑
昇天 入院、紙絵制作/智恵子逝去/ゼームス坂詩碑
みちのく 光太郎、花巻へ/智恵子を案内
ひとすじの人 父と智恵子の法要/智恵子を偲ぶ/「松庵寺」詩碑
若き日 失意の光太郎/智恵子の信愛/あの頃/回想
観音像 智恵子を像に/記念像制作へ/記念像完成
あとがき


本書は昨年から今年にかけ、地000方紙『北鹿新聞』さんに連載されたものだそうです。

お書きになった成田氏は秋田大曲にお住まいで、同じ無明舎出版さんから『文人たちの十和田湖』(平成13年=2001)なども上梓されています。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に触れて下さっていて、当方、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん刊行の『十和田湖乙女の像のものがたり』執筆に際し、参考にさせていただきました。

無明舎さんも秋田。秋田をはじめ東北に関わるまじめな出版物が多く、こういう出版社さんにはエールを送りたくなります。


『「智恵子抄」をたどる』は、もとが新聞連載ということもあり、わかりやすく端的に、ケレン味なくまとめられています。「智恵子抄」関連の紀行の入門編としては格好の一冊です。

先日の第21回レモン忌の前々日くらいに手元に届き、二本松に持参して宣伝してきました。智恵子生家近くの戸田屋商店さんがレモン忌主催の智恵子の里レモン会さんのメンバーでして、ぜひ置いてあげて下さい、とお願いしたところ、一昨日、戸田屋さんにお伺いしたら、「取り寄せておくよ」とのことでした。

版元のサイトから注文可能ですので、ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月14日

昭和13年(1938)の今日、智恵子の母校・日本女子大学校桜楓会の機関誌『家庭週報』に、智恵子の訃報が掲載されました。

イメージ 3

雑誌としては当方が唯一定期購読している月刊『日本古書通信』の今月号が届きました。

イメージ 4

先月号まで、廣畑研二氏による光太郎に関わる連載記事「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」が掲載されていましたが、今月号には過日このブログでご紹介した『多田不二来簡集』に関する記事が載っています。著者は同誌編集長の樽見博氏です。

イメージ 3

光太郎宛書簡に関する記述もありました。曰く、

 光太郎の大正六年四月十四日夕の葉書は、不二が川俣馨一主宰の俳句雑誌「常盤木」に書いた「詩壇偶評」と光太郎宛の「懇ろな御手紙」への礼状で光太郎全集に収録されているが、その「懇ろな御手紙」の下書きが多田家に残されており、今回その全文と写真が参考として収録されている。犀星への強い信頼感など「感情」同人への思いが語られた興味深い長文の手紙だ。「常盤木」への「詩壇偶評」は著作集には収められていないようだが、大正詩史にとって時期的にも重要な文献ではないだろうか。

手紙は往復が基本ですから、片方からのものばかり読んでも解らない部分があります。そういう意味では「往」と「復」の両方が読めるというのはありがたいですね。

それにしても、『多田不二来簡集』、樽見氏は次のように評されています。

「ここに集められた書簡の多くは未発表のものであり文学史的にも大きな意味を持つが、商業的には極めて出版の困難なものであるだけに、多田曄代さん(編者・多田不二息女)の功績は大きい。」「本書に収められた書簡から示唆される問題は多い筈である。」「意義深い刊行であると思う。」

商業的には極めて出版の困難」だけれど、「意義深い刊行」である書籍に対し、その意気や良しと、エールが送られています。そのとおりですね。

そしてそういう刊行物に対して紙面を割いてエールを送る『日本古書通信』さんの意気もまた良し、と思います。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月19日

昭和29年(1954)の今日、終焉の地・中野のアトリエを、作家の武田麟太郎未亡人と子息らが訪問しました。

当日の日記の一節です。

午后「好きな場所」の武田未亡人、子息さん、そこの女給さんと三人くる。梨をもらふ、ビールを出す、

「好きな場所」は昭和14年(1939)に書かれた武田の短編小説の題名です。同16年(1941)刊行の短編集「雪の話」に収められました。

イメージ 2

この中で武田は、「彫刻家としても知られてるある高名な詩人」として、光太郎に関する噂話を書いています。

場所は東京三河島のとんかつ屋「東方亭」。戦前から戦時中にかけ、さらには十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)制作のため再上京してからも、光太郎がひいきにしていた店です。店の長女、明子さんはのちに戦後の混乱期に苦学の末、医師となり、のちに光太郎は、彼女をモチーフにした詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を作ったりしています。

どこまで真実かわかりませんが、ここで光太郎は正体を隠し、火葬場の職員と名乗っていたとのこと。さらに東方亭の近くにある別の飲み屋での話として、武田はこう書いています。

ここでも、隠亡爺さんの噂を聞いてゐる。そんな仇名で呼ばれてゐる客が、しよつちゆう来ると云ふので、人相を照し合してみると、まさしく我が老詩人なんだ。へえ、こんな汚いうちへも来るのかいと、大袈裟に首を振る私に、毎晩、おそくなつてから幽霊みたいに入つて来るわと返事するのは、横を向いて煙草をふかす色の黒い女だ。ねえ、あの人はねえ、自分の死んだお神さんも自分で焼いたんだつて、でも、自分を焼く時は、自分で取扱へないのが残念だつて云つてるわ、さう滑稽さうに笑つて、別の小さな出つ歯の女がつけ加へる。ふいに、私は涙を流してゐるんだ。詩人が若い頃、その詩に情熱を持つて幾度も読みあげた夫人が、永い病気の果てに、先日死んで行かれた。それを知つてた私は、突然のやうに、氏の気持の中へ飛び込めたと妄想したのにちがひない。

智恵子が亡くなったのは「好きな場所」の書かれた前年、昭和13年(1938)のことでした。

ところで武田は、「彫刻家としても知られてるある高名な詩人」「老詩人」とぼかして書いていますが、同書の挿絵はもろに光太郎の顔です(笑)。

イメージ 1

武田未亡人のとめは、光太郎再上京後、たびたび中野のアトリエを訪れています。光太郎日記には「「好きな場所」マダム」とも記されており、どうも「好きな場所」という名の酒場を経営していたのではないかと思われます。武田本人は戦後すぐ、粗悪な密造酒を飲んだため亡くなっています。

新刊情報です。
晶文社 2015年9月下旬発売予定 定価6300円+税001

人と社会の核心にある問題へ向けて、深く垂鉛をおろして考えつづけた思想家の全貌と軌跡。
第10巻には、『言語にとって美とはなにか』から分岐派生した二つの原理的な考察『心的現象論序説』『共同幻想論』と、春秋社版『高村光太郎選集』の解題として書き継がれた光太郎論を収録する。第7回配本。
月報は、芹沢俊介氏・ハルノ宵子氏が執筆!

【目次】

心的現象論序説
  はしがき
  Ⅰ心的世界の叙述  Ⅱ心的世界をどうとらえるか
  Ⅲ心的世界の動態化  Ⅳ心的現象としての感情
  Ⅴ 心的現象としての発語および失語
  Ⅵ心的現象としての夢  Ⅶ心像論
  あとがき  全著作集のためのあとがき  角川文庫版のためのあとがき  索引
共同幻想論
  角川文庫版のための序  全著作集のための序  序
  禁制論 憑人論 巫覡論 巫女論 他界論 祭儀論 母制論 対幻想論 罪責論 規範論 起源論 後記
春秋社版『高村光太郎選集』解題
  一 端緒の問題
  二 〈自然〉の位置
  三 成熟について
  四 崩壊の様式について
  五 二代の回顧について
  六 高村光太郎と水野葉舟――その相互代位の関係
   七 彫刻のわからなさ
解題〈間宮幹彦〉

昨年から刊行が始まった晶文社版『吉本隆明全集』の第7回配本です。既刊の第5巻第7巻、第4巻でも光太郎に触れられていましたが、今回は昭和56年(1981)から翌年にかけて春秋社さんから刊行された『高村光太郎選集』の月報に載った文章が掲載されています。

また、分量は少ないのですが、6月に刊行された第9巻にも、「高村光太郎私誌」という文章が掲載されています。

 
書肆心水 2015年8月刊 定価2,700円+税001

近代主義/反近代主義の二者択一的思考停止をこえる創造的近代
右翼/左翼、保守/進歩の図式ではつかめない日本近代化問題の核心。模倣的近代でも反動的保守でもない創造的近代の思想が現在の闇を照らす。
西田幾多郎/三木清/岸田劉生/高村光太郎/野上豊一郎/山田孝雄/九鬼周造/田辺元
●書肆心水創業十年記念出版

西田幾多郎……新しいロジックを求めて/ヒューマニズムの行き詰まりから新しい人間へ/歴史的生命の世界
三木清……東亜協同体と近代的世界主義/東洋文化と西洋文化
岸田劉生……近代の誘惑を卒業した誇りと孤独/今日の悪趣味的時代に処する道/東洋の「卑近美」
高村光太郎……美と生命/日本美の源泉
野上豊一郎……能の物狂い/能の写実主義と様式化
山田孝雄……「は」と係助詞/西洋化日本における文法学の困難/日本の文字の歴史学/日本の敬語と文法
九鬼周造……偶然と運命/偶然と運命
田辺元……常識・科学・哲学――東洋思想と西洋思想との実践的媒介


こちらは光太郎自身の文筆作品を含むものです。

光太郎には「美と生命」という題名の作品は無いはずなのですが、同じ書肆心水さんが、平成22年(2010)に光太郎の評論を2冊にまとめ、『高村光太郎秀作批評文集 美と生命』として刊行していますので、そちらからさらにピックアップしての掲載ではないかと思われます。

イメージ 6

「日本美の源泉」は、昭和17年(1942)、『婦人公論』に6回にわたって連載されたもの。当時の同誌編集者・栗本和夫が和綴じに仕立てて保管していたその草稿が、昭和47年(1972)、中央公論社からそのまま覆刻、刊行されています。

イメージ 7イメージ 8

光太郎の前後に配されている岸田劉生、野上豊一郎は、ともに光太郎と交流の深かった人物。併せて読むのもいいでしょう。 

思潮社 2015年8月 定価1,300円+税003

私と史のはるかなる旅路

蒼空の一点を
凝っとみつめていると
蒼空は黒みを帯びてくる。
(「蒼空」)


「わたしはかつて北村透谷や近代文学のすぐれた研究者だ、と思っていた平岡さんの魅力の源泉が、ふるさと瀬戸内海の〈塩飽島〉から湧き出る、天然の詩にあることを発見したときの興奮を忘れない」(北川透)。文学史家でもある詩人の、歴史の無惨と交差する生の歩み。代表作『浜辺のうた』『蒼空』全篇、高村光太郎論など円熟の評論も収録。戦後70年、長き沈潜をへて湧き出た詩の水鏡。解説=佐藤泰正、山本哲也、井川博年、陶原葵

「光太郎論」とあって、具体的なところが不明なのですが、かつて至文堂さんから刊行されていた雑誌『国文学解釈と鑑賞』の第41巻第6号(昭和51年=1976)「―特集 高村光太郎その精神と核―」には「国家と天皇と父と」、第63巻第8号(平成10年=1998)「特集 高村光太郎の世界」には「作品の世界『智恵子抄』」という平岡氏の論考が掲載されており、その辺りなのではないかと考えられます。ちがっていたらすみません。

イメージ 4  イメージ 5

少しずつであっても、光太郎に触れる刊行物がどんどん出るのは好ましいことです。明日もこの続きで行きます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月12日

昭和28年(1953)の今日、テレビ出演を断りました。

当日の日記の一節です。

ひる青江舜二郎氏くる、門口で、テレビに出てくれとのこと、断り、(略)後刻上山裕次といふテレビの人くる、十五日に松尾邦之助氏と対談してくれとの事、断る、

日本で地上波のテレビ放送が開始されたのが、この年2月です。早速の出演依頼が同じ日に2件あったようですが(もしかすると同一の依頼が人を換えて行われたのかも知れませんが)、いずれも断っています。もし断らずに出演し、さらにその映像が残っていたら、それはそれで貴重な資料となったと思うと、少し残念です。ちなみに光太郎、ラジオには録音で何度か出演していますし、その録音もある程度現存しています。

青江舜二郎は劇作家。松尾邦之助はフランス文学者で、光太郎詩の仏訳なども手がけています。上山裕次という人物については特定できませんでした。

台風から変わった低気圧の影響による豪雨のため、主に関東から東北にかけ、甚大な被害が出ています。鬼怒川堤防の決壊による濁流からは、あの東日本大震災による津波を想起された方も多いのではないでしょうか。被害が少しでも少なく済むことを願います。

当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市は、大きな被害のあった地域とそう遠くないので、ありがたいことに心配して電話等下さった方もいらっしゃいましたが、特に被害はありませんでした。

さて、堤防が決壊した鬼怒川沿いで、決壊現場の常総市より上流に位置し、やはり避難指示等が出された茨城県結城市からの光太郎がらみのニュースです。ソースは地元紙『茨城新聞』さんです。

結城市出身の詩人・多田不二 著名人と交流の書簡集

 結城市出身で詩人・文芸評論家の多田不二(189無題3-1968年)に宛て、詩人の室生犀星や萩原朔太郎など各界の著名人たちが送った書簡を収録した「多田不二来簡集」(紅書房社)が刊行された。収録書簡の多くが未発表。大正から昭和にかけての著名人たちの感情や熱意、不二との交流が記されており、関係者は「不二の研究が進む貴重な資料。著名人たちの新たな事実発見につながる可能性もある」と話している。
 不二は、朔太郎や犀星らとともに詩集「感情」の同人として詩や訳詩を発表。新神秘主義を提唱した詩誌「帆船」を主宰し、独自の詩の世界を構築した。NHKに入局後、玉音放送の録音に関わるなどして、生涯にわたり多くの文化人と交流を深めた。
 書簡は、不二のきょうだいの孫にあたる多田和代さん夫婦らが保管していた。
 来簡集では、このうち194人の593点を(1)学生(2)NHK勤務(3)社会文化活動-の三つの時代に分けて収録した。
 (1)の書簡からは、朔太郎や犀星、山村暮鳥、高村光太郎ら大正時代の詩壇を飾る詩人たちの息吹と人間性、生の交流の様子がうかがえる。(2)の書簡からはさまざまな分野の著名人の放送を依頼する心情などが、(3)からは戦後の文化人の熱気などがそれぞれ伝わってくる。
 各時代を通じて送られた犀星からの書簡は、収録49点のうち20点が初公開された。朔太郎の死を告げる1942年5月11日の犀星の電報「ハギ ワラケサシス」は、不二が後日、随筆で回顧した内容を裏付けるもの。今回の編集作業で現存が確認され、貴重な資料という。
 犀星からの17年1月9日消印のはがきには「山村(暮鳥)君が泊つてゐる。こまつた-」と書かれている。不二研究家で元城西国際大教授、星野晃一氏(79)は「暮鳥が編集したドストエフスキー書簡集を東京の出版社に売り込むための宿泊に、犀星が困惑していることがうかがえる」と指摘する。
 来簡集は不二の次女、曄代(てるよ)さんが「父への最後の親孝行がしたい」と星野氏に要請したことがきっかけで、編集作業がスタート。結城市の市民団体「結城古文書好楽会」のメンバーなどが協力して、約2年半をかけてまとめた。
 和代さんの夫で割烹(かっぽう)旅館社長、多田和夫(まさお)さん(84)は「結城にとってかつてない資料」と強調。「文化のまちの結城市民にとって、地元の歴史を知るきっかけになれば」と大きな期待を寄せた。
 多田不二来簡集はA5版、584ページ。4500円(税別)。(溝口正則)


結城市出身の詩人・文芸評論家、多田不二宛の書簡をまとめた書籍が刊行されたというわけです。

以下、版元の紅書房社さんのサイトから。

多田不二来簡集

編者名/星野晃一、多田曄代000
出版年/2015年8月
定価/4,860円(税込)
版型/A5
頁数/584
ISBN/978-4-89381-302-2

編者略歴
星野晃一(ほしの・こういち)
1936年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。城西国際大学教授を経て、現在、武蔵野大学客員教授。
 著書に『室生犀星-幽遠・哀惜の世界』『室生犀星-創作メモに見るその晩年』『犀星 句中游泳』 『室生犀星 何を盗み何をあがなはむ』、編著に『新生の詩』『室生犀星文学年譜』『室生犀星書目集成』『多田不二著作集』全二巻『室生犀星句集』など。
多田曄代(ただ・てるよ)
1932年、多田不二の次女として生まれる。長らくNHK松山放送局に勤務、現在松山市在住。

特徴と内容
長らく多田家に保管されていた書簡を一挙初公開!
大正期の詩界に異色の光芒を放つ詩人・多田不二のもとに寄せられた各界著名人194名からの書簡593通を一挙に公開。封書・はがき・郵便書簡・電報など、一部を除きほとんどが未公開。長らく多田家に保管されていたものが、このたび明らかに。


光太郎から多田宛の書簡も含まれているということですが、おそらくそれらは「一部を除きほとんどが未公開」と謳われているうちの一部の方、すなわち公開されているものと思われます。筑摩書房の高村光太郎全集第21巻に、多田宛の書簡が5通(すべて大正6年)掲載されており、それでしょう。

というのも、当方、『茨城新聞』さんの記事にも出て来る縁者で書簡を保管なさっていた多田和夫氏に、書簡を見せていただいたことがあるからです。十数年前になるかと思いますが、場所は記事にもある多田氏が経営されている「割烹のやど結城ガーデン」。こちらには「小さな文学館」というコーナーがあり、書簡以外にも多田の著書や関わった雑誌などが展示されています。下記はサイトから画像をお借りしました。光太郎からの書簡です。

イメージ 4


そちらを拝見し、さらに多田氏に光太郎からの来簡について伺ったところ、上記の画像のものを含む筑摩の全集のために提供したものですべてというお話でした。ただ、それが十数年前でしたので、もしかすると、その後、紛れ込んでいた未発表のものが見つかったかもしれません。

余談になりますが、免疫学者・文筆家で、養老孟司氏とも親しかったという東京大学名誉教授だった故・多田富雄氏(その頃はご存命)も縁者だと、その際にご教示いただいたことを覚えています。

何はともあれ、記事にあるとおり、室生犀星からの未発表書簡が大量に含まれているということで、そういった部分で詩史全体の研究に大きく貢献するものと思われます。

それにしても、結城ガーデンさんも今回氾濫した鬼怒川に近く、支流の田川という川がすぐ裏を流れている場所です。大きな被害を受けていないことを祈ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月11日

平成23年(2011)の今日、二本松市民交流センターで開催されていた「詩集『智恵子抄』発刊70周年記念~光太郎との相聞歌~智恵子紙絵展」が閉幕しました。

イメージ 1


智恵子紙絵の実物も19点、展示されました。

平成23年(2011)といえば、あの東日本大震災のあった年で、福島は原発事故による風評被害がひどかった時期でした。あれから4年。だいぶ復興も進みました。今回の豪雨被害の被災地も、1日も早く復興することを祈ります。

4月2日の連翹忌にご参加いただいている詩人の宮尾壽里子様から、文芸同人誌第四次『青い花』の最新号をいただきました。ありがたや。

イメージ 1

宮尾様のエッセイ「「第59回 連翹忌」に参加して」が掲載されています。タイトルの通り、今年4月2日、東京日比谷公園の松本楼で開催しました第59回連翹忌のレポートです。

最晩年の光太郎が、終焉の地となった中野のアトリエで、所有者の中西利雄夫人・富江にアトリエの庭に咲く連翹の名を問うて、非常に気に入ったというエピソード、それを知った草野心平が、昭和32年(1957)の第一回連翹忌案内状に「この日を連翹忌となづけ、今後ひきつづいて高村さんの思ひ出を語りあひたいと存じます。」と記したことなど、丁寧にご紹介下さっています。

イメージ 2

ちなみにこちらが第一回連翹忌の芳名帳です。

その他、今年の連翹忌の様子ということで、スピーチを賜った皆さんについて、スピーチやお席でのお話などをご紹介下さっています。

当会顧問・北川太一先生、光太郎の親友・水野葉舟子息の清氏、中野アトリエの中西利一郎氏、お父様の日本画家・大山忠作氏が智恵子と同郷で智恵子をモチーフにした作品も多い女優の一色采子さん、やはりお父様が光太郎本人と交流がありご自身も光太郎が主人公の戯曲をお書きになった女優の渡辺えりさん、連作歌曲「智恵子抄」を作られた作曲家の野村朗氏など。

また、イベントや出版関係で、花巻高村光太郎記念館のリニューアル、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんによる『十和田湖乙女の像のものがたり』、さらには当ブログについてもご紹介いただき、恐縮しております。

これをお読みになった方が、連翹忌に興味を示して下さって、ご参加いただけるようになればと願っております。折にふれ、このブログで書いていますが、連翹忌への参加資格はただ一点、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです(左上「プロフィール」欄に連絡先など書いてあります)。次回は8ヶ月後、第60回の節目に当たります。よろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月13日

大正5年(1916)の今日、雑誌『美術新報』第15巻第10号に、散文「寸言――シヤヷンヌについて――」を発表しました。

「シヤヷンヌ」は、ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ。19世紀末に活躍したフランスの画家です。サロンに代表されるアカデミズムはもちろん、当時隆盛を極めた印象派とも一線を画した独自の画風で知られました。光太郎はその路線に共感を示しています。

新刊です。
2015/07/13 半藤一利著 ポプラ社 定価1,600円+税

イメージ 1

著者の半藤氏は、保守派の論客として知られていますが、靖国神社へのA級戦犯合祀には極めて批判的であったり、昭和天皇の戦争責任についても否定しなかったりなど、幼稚な右翼とは一線を画しています。今年は戦後70年ということで、書店の店頭に関連の特設コーナーなどが設けられていることが多いのですが、『日本のいちばん長い夏』など、氏の著書や編著なども平積みで並んでいます。

さらに氏の奥様は夏目漱石の孫にあたり、『漱石先生ぞな、もし』などの漱石関連の著書も多数あります。本書も七話に分かれているうちの「第三話 漱石『草枕』ことば散歩」がまるまる漱石がらみですし、他の章でも折に触れ、漱石の話が出てきます。

先週の『産経新聞』さんに書評が載りました。

【編集者のおすすめ】85歳の啖呵にしびれる 『老骨の悠々閑々』半藤一利著

 85歳にして、いまなお旺盛な執筆活動を続ける半藤一利氏。その創作の傍らには版画がありました。資料を読んだり原稿を書くことに疲れたりすると、版木に向かい、気持ちをリセットしていたそうです。打ち合わせでご自宅にお伺いしたときに、アトリエから持ってきてくださった秘蔵の版画の数々が実に素晴らしく、多くの方に見ていただきたいと思ったのでした。
 本書は「昭和」を描く作家として知られる氏が、博識と教養を駆使して近代文学、文化についてユーモラスに論じた書き下ろし原稿と単行本未収録の随筆、それに数々の版画が彩りを添えた永久保存版の一冊となりました。
 なんと言っても秀逸なのが、言葉遊び。夏目漱石や芥川龍之介、樋口一葉のあざやかな啖呵(たんか)をひきあいに出し、「語彙を豊かに、バシバシ重ねてやらないと」と喝采を浴びせ、昨今の紋切り型表現の多用や言葉狩りの風潮を風刺します。
 一方で、高村光太郎の詩「根付(ねつけ)の国」をひきつつ、今の日本人を“茶碗のかけら”のようだと評します。「何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本にある。歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけない」といいます。戦後70年、何かときな臭い情勢に、自らを老骨とうそぶく著者の軽やかな言葉が、時に重く響きます。(ポプラ社・1600円+税)
 ポプラ社一般書編集局 木村やえ


というわけで、先週も別件でご紹介した光太郎詩「根付の国」が取り上げられています。

  根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人


これとよく似ているのが、漱石や一葉、芥川が作品中に書いた啖呵や罵詈雑言だというのです。現代の社会通念上、不適切な表現も含みますが、原文を尊重し、そのままとします。

「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被(ねこつかぶ)りの、香具師(やし)の、モモンガーの、岡つ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云ふがいい」(『坊っちゃん』)

「仕かへしには何時でも来い、薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰抜けの活地(いくじ)なしめ、」(『たけくらべ』)

「意地わるの、根性まがりの、ひねツこびれの、吃(どんも)りの、歯つかけの、嫌な奴め」(同)

「この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥雑な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだろう。」(『河童』)

たしかに似ています。そして、こうした罵倒の仕方は、古典落語から学んだのではないかとのこと。

「揉みくちゃばばあ、ちり紙ばばあ、反故紙(ほごがみ)ばばあ、浅草紙ばばあ、落とし紙ばばあ、小半紙ばばあの端切らずばばあ、ってえんだ」(「山崎屋」)

光太郎も落語はよく聞いていたと推測できますし、『坊っちゃん』や『たけくらべ』も読んでいたと思われます。特に『坊っちゃん』の一節は、「ももんがあ」がかぶっています。ただ、明治期には「ももんがあ」を悪口に使う例はかなり一般的だったようではあります。

さて、半藤氏の筆は、「根付の国」から次のように展開します。

 この辛辣な批評、そのまま今の日本人に当てはまる。
 今年は戦後七十年、高村光太郎の詩に乗っかって、というわけではないが、猿の様な、狐の様な、自分の国の歴史を知らない日本人がまことに多くなった。大事なことは「過去」というものはそれで終わったものではなく、その過去は実は私たちが向き合っている現在、そして明日の問題であるということなのである。それなのに、何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本人にある。歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけないのである。

その通りですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月26日

昭和24年(1949)の今日、詩人・文芸評論家の野田宇太郎から野田の著書『パンの会』を贈られました。

郵便物の授受等を記録した「通信事項」というノートの記述です。

〔受〕市川二巳氏よりハカキ 菊池暁輝氏よりテカミ(写真同封朗読会) 麻野和子さんといふ人よりハカキ及遺稿集「柊」 野田宇太郎氏より「パンの会」小包

『パンの会』はこの年7月10日、六興出版社から刊行され、光太郎も参加した明治末年の芸術運動、「パンの会」についての詳細を記しています。光太郎はこの労作を高く評価し、対談などでこれに触れています。

2年後に増補版として『日本耽美派の誕生』と改題、刊行されています。

8月5日には野田への礼状を書きました。

新刊です。 
2015/07/30発行  森まゆみ著 晶文社発行 定価1,800円+税 

版元サイトより

地図を使って読み解く「谷根千」
本郷台地の加賀、水戸屋敷は東大へ。坂を下れば、根津の遊廓に。広大な上野・寛永寺は、明治になると上野公園へ。今も辿れる諏方明神の道、岩槻街道、中山道。かつて不忍通りには都電が走り、谷中銀座、安八百屋通りは人で賑わった。
 約25年間地域雑誌「谷根千」をつくってきた著者が、江戸から現代まで、谷根千が描かれた地図を追いながら、この地域の変遷を辿る。
また、上野の博覧会の思い出を語る人、関東大震災、戦災を語る人、たくさんの人が町に暮らしていた。その古老たちが描いた地図、聞き取り地図も多数収録。

【目次】002
1 地図でみる谷根千
   正保年間江戸絵図
    寛文五枚図
    江戸方角安見図鑑
    享保元年分道江戸大絵図  …etc.
2 谷根千手づくり地図
    森鴎外「雁」を歩く
    一葉の住んだ町完全踏査
    芸人と芸術家のまち
    駒込千駄木林町の地図   …etc.
3 家族の地図、なりわいの地図
    商店街の町並み
    大正時代の学校界隈
    母の出会った浅草の空襲   …etc.

地域雑誌『谷中根津千駄木』(以下、『谷根千』)を刊行されていた森まゆみさんの新著です。森さんのご著書は、以前、智恵子がらみで『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』を紹介させていただきました。

今回のものは、『谷根千』編集の際に利用されたさまざまな地図――古地図や絵図、地元の方に描いてもらったものなど――を読み解くことで、この地の成り立ちや、ここで生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトです。

最近、テレビでも「散歩」系の番組などが静かなブームです。その手の番組の元祖ともいえるテレビ東京さんの「出没!アド街ック天国」は根強い人気を誇っていますし、NHKさんの「ブラタモリ」は地誌学的に見ても優れた番組です。

そうした動きを背景にしての刊行でしょうが、これまた労作です。谷根千地域と縁の深い森鷗外、樋口一葉にはそれぞれ一章を割いていますし、千駄木林町にアトリエを構えた光太郎智恵子についても、「芸人と芸術家のまち」「駒込千駄木林町の地図」の章で言及されています。もちろん地図入りで。

そのあたりを読むと、意外な人物がすぐ近くに住んでいたことがわかったり、光太郎の作品に出て来る場所の位置がわかったり、近くに住んでいたことは知っていたものの正確な位置がわからなかった人物の家がわかったりと、実に有益でした。次に千駄木方面に行く際には、この書を片手に歩こうと思いました。


ところでこの書籍、特殊な造本になっています。

普通はカバーを外すと、背表紙がありますが、この書籍にはそれがないのです。

イメージ 2    イメージ 3

そのため、広げた時に全体がフラットになります。

イメージ 4

イメージ 5

通常の書籍だと、開いた際に「のど」の部分がくぼんでしまいます。その状態でコピー機やスキャナにかけると、中央は影ができたりピンぼけになったりします。

イメージ 6

しかし、この書籍はどのページを開いてもそうならないような造本になっているのです。これはすばらしい! と思いました。

公共図書館の場合、以前はカバー類を全て取り払って納架するところが多くありました。今でも地方の図書館では時々見かけます。その方法を採ると、この書籍は背表紙がないので困ります。老婆心ながら、そういうところはどうするのだろうと思いました。また、最近は、透明フィルムでカバーごと固定するケースも多くあります。これまた老婆心ながら、下手な固定の仕方をして、せっかくの造本法を台無しにしてほしくないものです。


さて、内容的にも、造本法も素晴らしい書籍です。ぜひ、お買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月21日

昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、北向きの壁を抜いて窓を作りました。

当日の日記です。

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切り抜き、小まいは残す。風のぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風もはいるやうになる。冬には外より丈夫に戸をたてるつもり。此窓なくては小屋の空気こもりて夏は不衛生と思ふ。
(略)
程なく床をとりてねる。十時頃。 北側の窓の為かすずしき風来るやうに感ぜらる。

こちらは『高村光太郎全集』第12巻掲載の、山小屋の図面です。これでいうと、「25」の窓がそれにあたります。

イメージ 1


追記 いったんこの記事を書いてアップロードした後、いろいろネットで検索していたところ、今夜のNHK総合さんの「歌謡コンサート」で光太郎智恵子に触れるという情報を得ましたので紹介します。 

NHK歌謡コンサート「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」

NHK総合 2015/07/21 20時00分~20時43分

テーマ「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」出演:五輪真弓、大竹しのぶ、クリス・ハート、柴田淳、新沼謙治、氷川きよし、増位山太志郎、森進一、八代亜紀.

番組内容
今回は、女優・大竹しのぶの手紙の朗読とともに名曲の数々を紹介。取り上げる手紙は川端康成、寺山修司、マリリン・モンローといった著名人から、戦争で亡くなった夫にあてたラブレターを毎日つづっている94歳の女性まで多岐にわたる。八代亜紀「愛の終着駅」、五輪真弓「恋人よ」、新沼謙治「嫁に来ないか」、氷川きよし「別れのブルース」、柴田淳「あなた」、クリス・ハート「やさしさに包まれたなら」ほか。

出演者 五輪真弓,大竹しのぶ,クリス・ハート,柴田淳,新沼謙治,氷川きよし,増位山太志郎,森進一,八代亜紀,
司会 高山哲哉,
演奏 三原綱木とザ・ニューブリード,東京放送管弦楽団


スタッフさんのブログに以下の記述がありました。

7月21日 手紙で綴る 愛の名曲集
いつもNHK歌謡コンサートをご覧頂き誠にありがとうございます。制作統括の茂山です。7月は文月、23日は ふみの日なので7月23日は「文月ふみの日」という記念日です。今週の歌謡コンサートはそれにちなんで、2月に放送し好評を得た「手紙で綴る愛の名曲集」の第2弾をお届けします。古今東西の有名・無名の恋文をご紹介しながら、愛の歌をお聴きいただきます。朗読は前回と同様、女優の大竹しのぶさんが担当、情感たっぷりに手紙を朗読してくれます。今回ご紹介する恋文は
川端康成から婚約者への手紙
寺山修司から恋人への手紙
マリリン・モンローからジョン・F・ケネディへの手紙
NHKのニュース番組でも取り上げられたことのある亡き夫に送った「70年目の手紙」
南極観測隊員の妻より夫へ送った電文
高村光太郎・智恵子夫妻の作品「恋文」より一部をご紹介
愛を込めた手紙から、愛の歌につながるのか、ご期待下さい。

昨日の『朝日新聞』さんの土曜版に光太郎の名が出ました。

歴史学者・酒井紀美氏の連載「酒井紀美の夢想の歴史学」で、昨日の回のサブタイトルは「漱石の夢十夜 近代日本の迷いを映す」。

イメージ 1

「夢十夜」は明治41年(1908)の作。漱石が、自分の見た十種類の夢の内容を綴るという形で進むオムニバス形式の小説です。特に有名なのが「第六夜」。鎌倉時代の仏師・運慶が、現代(明治)の東京で、仁王像を彫っている場面を見たという夢です。

当方、『朝日新聞』さんは購読しておりますが、紙面を見る前にネットのデジタル版で「高村光太郎」のキーワード検索を掛け、この記事に光太郎の名が出て来ることを知りました。

読み進めると、夢の中の運慶が仁王像を彫る場面が引用されていました。

運慶はまったく何もちゅうちょすることなく悠々と鑿(のみ)と槌(つち)をふるって、仁王の顔のあたりを彫り抜いていく。「能(よ)くああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻が出来るものだな」と感心して独りごとを言うと、隣にいた若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と評した。

ここまで読み、光太郎の木彫に話をつなげるのかな、と思いました。光太郎も昭和2年(1927)、雑誌『大調和』に発表した「偶作十五篇」という連作の中で、次のように謳っています。

木を彫ると心があたたかくなる。
自分が何かの形になるのを、
木は喜んでゐるやうだ。

ところが、さにあらずでした。酒井氏の稿は、阿部昭による岩波文庫版『夢十夜』の解説に言及され、そこに光太郎が出て来ます。

岩波文庫『夢十夜』の「解説」で阿部昭は、「旧時代の重荷を背負いつつも、新しい教養の先頭にいた知識人の一人として、西洋という異質の文化の吸収に追われざるを得なかった」漱石を、「内と外とから追われる人間」「ロンドンの街角で、ふと鏡に映った一寸法師、醜い黄色人種」ととらえた。そして、高村光太郎の詩の「魂をぬかれた様にぽかんとして 自分を知らない、こせこせした 命のやすい 見栄坊な 小さく固まつて、納まり返つた 猿の様な、狐(きつね)の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な」という、たたみかけるような表現を引用しながら、明治という時代の不安定な日本人の姿を浮かび上がらせた。

引用されているのは、明治44年(1911)に雑誌『スバル』に発表された「根付の国」です。

   根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

制作は明治43年12月です。前年には米英仏への3年余の留学から帰朝した光太郎。彼地では日本との文化的落差に打ちのめされ、帰ったら帰ったで、我が国の旧態依然の有様に絶望し、さらに手を携えて共に新しい彫刻を日本に根付かせようと考えていた、盟友・荻原守衛を失った時期でした。

漱石にしろ、光太郎にしろ、欧米留学を経験し、帰国後の日本に危機感を覚え、いわば目覚めてしまった者の悲劇を体現したといえるのではないでしょうか。その点は森鷗外にも通じるような気がします。

この点、光太郎と同時期か、やや遅れての留学生の、光太郎からパリのアトリエを引き継ぎ、ルノアールに師事し、ピカソやマチスと親交を深めた梅原龍三郎、「レオナール・フジタ」と称され、活動の場自体を西洋に置いてしまった藤田嗣治(美術学校西洋画科での光太郎の同級生)などとの相違は興味深いところです。ただし、梅原にしても藤田にしても、後にまた違った形での日本回帰がみられるのですが。

酒井氏の稿は、以下のように結ばれます。

夢は自分の外から神仏のメッセージとして届けられるのだとする古い見方や考え方を捨て去って、自分の心の奥深いところで過去の記憶が複雑にからまりあいながら夢が生まれてくるのだと確信できるようになるまで、近代日本の人々は、夜ごとに訪れる夢に対して、不安と混迷をかかえこみながら歩まねばならなかった。

現代のこの国に生きる我々も、近代の人々とは違った不安と混迷を抱えて生きています。また大きな曲がり角にさしかかった気配の昨今、未来に「夢」を持てる国であってほしいものですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月19日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の昌歓寺に「放光塔」の文字を書く約束をしました。

当日の日記です。

夕方神武男氏他一名来訪、白い酒一升もらひ、その場でのむ。浅沼宮蔵とかいふ人の葬式だつた由。昌歓寺に立つ放光塔といふ字をかく約束す、

昌歓寺は時折光太郎も足を運んでいた寺院で、前年には、毎年、花巻町の松庵寺で行っていた光雲・智恵子の法要を、その年だけ昌歓寺に頼んでいます。昨年、光太郎に関する文書が出て来て驚きました。神武男は当時の住職です。

この「放光塔」の文字がこの後どうなったか不明です。次に花巻に行く際には、そのあたりも調べてみようと思っております。

詩人の豊岡史朗氏から文芸同人誌『虹』が届きました。毎号送って下さっていて、さらに創刊号~第3号第4号第5号と、毎号、氏による光太郎がらみの文章が掲載されており、ありがたく存じます。

イメージ 2

イメージ 3

今号では「<高村光太郎論> 晩年」。昭和20年(1945)から7年間の、岩手花巻郊外太田村の山小屋での生活、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために再上京して以後、歿するまでの中野のアトリエでの生活に関してです。

「晩年の光太郎の精神生活は、自身と一体化した智恵子夫人との対話の日々だった」「いのちと世界を賛美し、清と濁をあわせもつ矛盾にみちた人間存在を、最終的に肯定」等々、首肯させられるものでした。

この手の文芸同人誌、よくいただきます。

毎号のように光太郎がらみの文章などが載っているのは、福島の渡辺元蔵氏からは、『現代詩研究』。詩人の間島康子様からの『群系』。同じく宮尾壽里子様からで『青い花』。

送っていただければ、光太郎にからむものはこのブログにてご紹介しますし、毎年の連翹忌には「1年間でこんなものが刊行されました」ということで展示いたします。当方連絡先はこのブログ左上のプロフィール欄をご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月4日

昭和24年(1949)の今日、詩「山の少女」を執筆しました。

原題は「鎌を持つ少女」。雑誌『少女の友』に発表され、のち、詩文集『智恵子抄その後』にも収められました。

  山の少女

山の少女はりすのやうに
夜明けといつしよにとび出して000
籠にいつばい栗をとる。
どこか知らない林の奥で
あけびをもぎつて甘露をすする。
やまなしの実をがりがりかじる。
山の少女は霧にかくれて
金茸銀茸むらさきしめぢ、
どうかすると馬喰茸(ばくらうだけ)まで見つけてくる。
さういふ少女も秋十月は野良に出て
紺のサルペに白手拭、
手に研ぎたての鎌を持つて
母(がが)ちやや兄(あんこ)にどなられながら
稗を刈つたり粟を刈る。
山の少女は山を恋ふ。
きらりと光る鎌を引いて
遠くにあをい早池峯山(はやちねさん)が
ときどきそつと見たくなる。

モデルは先頃このブログでご紹介した高橋愛子さんだという説があります。

地元の少年少女にとって、光太郎は、大人達が「とても偉い人だ」と言っているからそうなんだ、と思うだけで、単なる優しい物知りなお爺さんだったとのことです。

光太郎も地元の少年少女を愛してやみませんでした。

新刊です。 
2015/4/30  わたなべじゅんこ著 邑書林発行 定価2,000円+税  わたなべじゅんこ著

版元サイトより
 「出会うために歩くのか 歩くから出会うのか」  竹久夢二から寺山修司まで、みんなみんな俳人だった!
主に、俳句以外で名を成した方々の俳人としての姿を追いかける事で、 俳句って何なんだろう? という根本の問に迫ります。

 登場の人々は 竹久夢二  中村吉右衛門  永田青嵐  富田木歩  寺田寅彦  久米正雄
 内田百閒 野田別天楼  室生犀星  高村光太郎  津田青楓  矢野勘治  三木露風  
 瀧井孝作  寺山修司

 特に青嵐、木歩、寅彦あたりでは、関東大震災と俳句について語られていて、胸に迫るものがあります。 多くの方の手に届けたい一冊、宜しくお願いします。 装は、石原ユキオさんの描き下ろしです。

イメージ 1

イメージ 2

著者のわたなべさんは俳人。関西の大学で非常勤講師をされるかたわら、『神戸新聞』さんの読者文芸欄で俳句の選者を務められているそうです。

余談になりますが、『神戸新聞』さんは一面コラム「正平調」でよく光太郎に言及して下さっています。

閑話休題。

本書で取り上げられている人々は、版元サイトにあるとおり、専門の俳人ではありません。しかし、それぞれに独自の境地を開いた人々。まずはそういった面々の俳句を論じて一冊にまとめていることに敬意を表します。

この手の伝統文化系は、それ専門の人物でないとなかなか取り上げない傾向を感じています。いい例が光太郎の短歌や俳句で、それなりに数も遺され、いい作品も多いと思うのですが、短歌雑誌、俳句雑誌での光太郎特集というのは見たことがありません。せいぜい短い論評がなされる程度です。以前にも書きましたが、いったいに短歌雑誌、俳句雑誌の類は派閥の匂いがぷんぷん漂っており、いけません。

そうした意味で、俳句専門の方が専業俳人以外の人々をまとめて論じていらっしゃる姿勢に好感を覚えました。

さて、光太郎の章。主に『高村光太郎全集』第19巻(補遺1)に掲載されている句を中心に、23ページにわたって展開されています。寺田寅彦とならび、もっとも多いページ数を費やして下さっていて、ありがたいかぎりです。他の人物で、9ページしかない章もあります。長さが第一ではありませんが。

長さだけでなく、その内容も秀逸。やはり専門の俳人の方が読むと違った視点になるのだな、と思いました。具体的には、光太郎の句の時期による変遷。

そもそも光太郎の文筆作品の中で、手製の回覧雑誌や、東京美術学校の校友会誌を除き、初めて公のメディアに掲載されたのが、俳句です。明治33年(1900)の『読売新聞』、角田竹冷選「俳句はがき便」に、以下の二句が載りました。

武者一騎大童なり野路の梅
自転車を下りて尿すや朧月

同じ年には『ホトトギス』にも句が掲載されています。ただ、その後、光太郎は与謝野夫妻の新詩社に身を投じ、俳句より短歌に傾倒するようになります。しかし、公にされない句作も続けていました。

わたなべさん、この時期の句は生硬なものとして、あまり評価していません。わたなべさんが転機とするのは、明治39年(1906)からの欧米留学。その終盤の同42年(1909)、旅行先のイタリアから画家の津田青楓にあてて書かれた書簡に、多数の俳句がしたためられています。

例えば、

寺に入れば石の寒さや春の雨
春雨やダンテが曾て住みし家
ドナテロの騎馬像青し春の風

こうした一連の句を、わたなべさんは高く評価しています。

曰く、

……どうしたことか。日本での初期作品よりずっとずっと俳句らしいではないか。頭の中でこねくり回していたのがウソのように、すっきりとした句風である。

それにしても、この句風の変化はいったいどうなのだろう。外国にいるから、一人旅であるから、だから自分の思いに素直になるのか。奇を衒うのをやめるのか。いや、初めて見るものが多くて、あっさりとした作風で仕上がってしまうのか。日本で作られたものと比べてこのイタリアでの句群はわかりやすい。情景も描ける。これは何だと考える必要を感じない。もともと美術家である光太郎の眼は見る力には恵まれていただろう。だから見たものを言語化するときに、どういうバイアスを掛けるのか、そこが言語作家としての腕ということになる。日本的なものに囲まれていたとき(つまり日本にいた頃)には悶々としていた言葉が、こうもオープンに、明るく、そして優しく(易しく)出てきたのは、日本文化という重しがとれたせいなのか。

慧眼ですね。やはり俳句専門の方が読むと、的確に表して下さいます。

ただ、一つ残念なのが、どうも勘違いをされたようで、『高村光太郎全集』第11巻を参照されていないこと。わたなべさんが参照された第19巻は補遺巻です。それでも現在確認できている光太郎の俳句の約半数は掲載されていますが、残り半数は第11巻におさめられています。

そこで、老婆心ながら、出版社気付で第11巻の当該部分、さらに第19巻刊行(平成8年=1996)以降に見つかった句が載ったものなどをコピーして送付しました。改めて光太郎の句について論じてくださる場合があるとしたら、参照していただきたいものです。

ともあれ、良い本です。ぜひお買い求めを。


竹久夢二へのオマージュとなっている装幀もなかなか素晴らしいと思います。手がけられた石橋ユキオ商店さんのブログがこちら


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月17日

昭和12年(1937)の今日、九十九里浜に暮らす智恵子の母・センに宛てて現金書留を送りました。

同封書簡の一節です。

昨今はうつとうしいお天気ですがお変りありませんか、小生はまだ何となく疲れがあつてとうとう今月は病院へ行かずにお会計を為替で送りました。チヱ子も時候のため興奮状態の様子で心配してゐます

翌年に歿する統合失調症の智恵子は南品川のゼームス坂病院に入院中。この年はじめには姪の春子が付き添い看護にあたるようになり、だいぶ落ち着いたそうです。ところが夏になると狂躁状態になるのが常で、この年のこの時期は前年から始めていた紙絵制作も途絶えていたそうです。

光太郎やセンが見舞いに行くと、さらに興奮状態が昂進、光太郎の足が遠のきました。世のジェンダー論者はこうした点から光太郎鬼畜説を唱えていますが、余人にはうかがい知れぬ深い苦悩があったのは間違いないと思います……。

新刊情報です。  
2015年3月20日 公益財団法人日本近代文学館発行 江種満子編 定価1,020円

エッセイ
   三浦雅士 世界遺産と文学館
  松浦寿輝   音楽を聴く作家たち
  荻野アンナ ケチの話
  藤沢周     基次郎という兄貴
  間宮幹彦   吉本さんが「あなた」と言うとき
  西川祐子   日本近代文学館で出会う偶然と必然
     
論考
 小林幸夫  <軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎
 有元伸子  岡田(永代)美知代研究の現況と可能性 ―〈家事労働〉表象を例に―
 山口徹     作家太宰治の揺籃期  ―中学・高校時代のノートに見る映画との関わり
 吉川豊子  文学館所蔵 佐佐木信綱宛大塚楠緒子書簡(補遺)―洋楽鑑賞と新体詩集『青葉集』をめぐって―
 江種満子 高群逸枝・村上信彦の戦後16年間の往復書簡をめぐって

資料紹介  
 加藤桂子・田村瑞穂・土井雅也・宮西郁実     村上信彦・高群逸枝往復書簡


上智大学教授の小林幸夫氏の論考「<軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎 」が17ページにわたって掲載されています。

イメージ 1

先月、発行元の日本近代文学館さんのサイトに情報が出、入手しなければ、と思っているうちに、小林氏からコピーが届きました。有り難いやら申し訳ないやらです。

氏の論考は、一昨年、同館で開催された講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」中の「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」を元にしたもので、鷗外と光太郎、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子をたどるものです。詳細は上記リンクをご参照下さい。

終末部分を引用させていただきます。

 川路柳虹との対談のなかで(光太郎は)次のように言っている。

 どうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありましたなあ。けれども先生の「即興詩人」など暗記したくらゐですし、先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました。何としても忘れることの出来ない大先輩ですよ。

 談話や書き物によっては同一の事柄に対しても、鷗外をいいと言ったり悪いと言ったり偏差はあるが、総体としての鷗外に対する光太郎の思いは、この言説が代表しているものに思われる。鷗外と光太郎との関係は、「「先生」といふ変な結ばり」を意識してしまふ光太郎に、まさにその「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避に胚胎した、というべきである。


「即興詩人」は、童話で有名なアンデルセンの小説で、鷗外の邦訳が明治35年(1902)に刊行されています。この中で、イタリアカプリ島の観光名所「青の洞窟」を「琅玕洞」と訳していますが、光太郎は欧米留学から帰朝後の明治43年(1910)、神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」の店名を、ここから採りました。こうした点からも「先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました」という光太郎の言が裏付けられます。

しかし、軍医総監、東京美術学校講師といった鷗外のオーソリティーへの反発も確かにあり、「「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避」というお説はその通りだと思います。

お申し込みは日本近代文学館さんへ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月20日

昭和17年(1942)の今日、詩集『大いなる日に』を刊行しました。

イメージ 2

オリジナルの詩集としては、前年刊行の『智恵子抄』に続く第3詩集ですが、内容は一転、ほぼ全篇が戦争協力詩です。収録詩篇は以下の通り。

秋風辞 夢に神農となる 老耼、道を行く 天日の下に黄をさらさう 若葉 地理の書 その時朝は来る 群長訓練 正直一途なお正月 初夏到来 事変二周年 君等に与ふ 銅像ミキイヰツツに寄す 紀元二千六百年にあたりて へんな貧 源始にあり ほくち文化 最低にして最高の道 無血開城 式典の日に 太子筆を執りたまふ われら持てり 強力の磊塊たれ 事変はもう四年を越す 百合がにほふ 新穀感謝の歌 必死の時 危急の日に 十二月八日 鮮明な冬 彼等を撃つ 新しき日に 沈思せよ蒋先生 ことほぎの詞 シンガポール陥落 夜を寝ざりし暁に書く 昭南島に題す

今月2日、第59回連翹忌の日に刊行された雑誌です。 

高村光太郎研究(36)

2015/04/02 高村光太郎研究会 税込1,000円

イメージ 1


当方も所属する「高村光太郎研究会」の機関誌的に年刊発行されています。

目次は以下の通り。

高村光太郎・最後の年 1月(2)   北川 太一
高村光太郎と雑誌『創作』 ―自選短歌作品を中心に 山田吉郎
詩人野澤一という人 ―そして高村光太郎との関係性― 坂本富江
光太郎遺珠⑩ 平成二十七年   小山 弘明
高村光太郎没後年譜 平成二十六年(二〇一四年)一月~十二月/未来事項  小山 弘明
高村光太郎文献目録         野末  明
研究会記録・寄贈資料紹介     野末  明

北川太一先生の「高村光太郎・最後の年 1月(2)」は、光太郎日記以外に、これまで公表されていない、主として金銭出納を記録した「おぼえ帖」、書簡等の授受を記した「通信事項」も使いながら、昭和31年(1956)の光太郎を追う連載です。ご自身の光太郎訪問記も記され、貴重な記録です。

山田氏の論考は、昨秋の第59回高村光太郎研究会でのご発表を元にしたものです。

坂本富江さんは、光太郎と交流のあった詩人・野澤一、そして野澤、坂本さんの故郷・山梨県と光太郎の関連について述べられています。坂本さんは太平洋美術会会員でもあり、自筆のスケッチも掲載されています。

イメージ 2

拙稿「光太郎遺珠⑩」、「高村光太郎歿後年譜」についてはこちら

頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでこちらまでご連絡ください。

ところで「連翹忌の日に刊行」といえば、連翹忌での配付資料等。当方刊行の冊子『光太郎資料』、各種チラシ・パンフレット類など、以前はクロネコヤマトの「メール便」で、ご欠席の方などにすぐ発送していました。ところが「メール便」が3月いっぱいで終了、新たに「DM便」に移行しました。その結果、利用者登録が必要となり、申請中です。いましばらくお待ち下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月9日

昭和21年(1946)の今日、詩人の寺田弘に葉書を書きました。

拝啓 御無沙汰しましたが、「虎座」や詩壇消息の雑誌など拝受して、貴下の撓まぬ御努力をありがたい事と存じました。
四月十三日がまた廻りくるにつれ、昨年のあの時の貴下の御厚情と一方ならぬ御助力とを思ひ出し、真に忝い事だと思つてゐます。其後お訪ね下さつた宮澤家も全焼し、今年は此の山の中の一軒家で記念の日を迎へます。幸に小生健康、貴下の御健勝、お仕事の進展を念じ上げます。

四月十三日」云々は、前年に駒込林町のアトリエが空襲で全焼し、すぐ近くに住んでいた寺田が駆けつけてくれたことを指します。

この折の寺田の回想が、平成24年(2012)に刊002行された『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載されています。元々は平成21年(2009)に同題のラジオ番組でオンエアされたものです。

 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って、これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやってたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうにそこに立ち止まったのが、印象的でしたね。

芥川龍之介の「地獄変」を思わせるエピソードですね。

少し前にご紹介しました書籍が刊行され、届きましたのでレポートします。 

少女は本を読んで大人になる

2015/3/12 クラブヒルサイド+スティルウォーター編 現代企画室発行 定価1500円+税

イメージ 2

序文から
 人は本を読んで未知の世界を知る。
 新しい経験への扉を開く、かつて読んだ本、
 読みそこなってしまった本、いつかは読みたい本。
 少女が大人になる過程で読んでほしい十冊の古典的名作を、
 さまざまに人生を切りひらいてきた
 十人の女性たちと共に読んだ読書会の記録。

目次
 アンネ・フランク著 『アンネの日記』を読む 小林エリカ(マンガ家・作家)
 L・M・モンゴメリ著 『赤毛のアン』を読む 森本千絵(コミュニケーションディレクター)
 フランソワーズ・サガン著 『悲しみよ こんにちは』を読む 阿川佐和子(作家、エッセイスト)
 エミリー・ブロンテ著 『嵐が丘』を読む 鴻巣友季子(翻訳家)
 尾崎翠著 『第七官界彷徨』を読む 角田光代(小説家)
 林芙美子著 『放浪記』を読む 湯山玲子(著述家・ディレクター)
 高村光太郎著 『智恵子抄』を読む 末盛千枝子(編集者)
 エーヴ・キュリー著 『キュリー夫人伝』を読む 中村桂子(生命誌研究者)
 石牟礼道子著 『苦海浄土』を読む 竹下景子(俳優)
 伊丹十三著 『女たちよ』を読む 平松洋子(エッセイスト)
 読書会とサンドウィッチ


東京・代官山クラブヒルサイドにて、一昨年の5月からおよそ1年、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたものです。

編集者で絵本作家の末盛千枝子さんによる「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」は、2013年12月に開催され、当方も拝聴しました。

彫刻家の舟越保武の長女として生まれ、光太郎に「千枝子」という名を付けて貰い、それに対する複雑な思い、それをようやく素直に受け入れられるようになったこと、光太郎智恵子の愛の形などなどで、26ページです。光太郎詩「レモン哀歌」からインスピレーションを得て作られたレモンの皮入りサンドウィッチのレシピ付きです。

amazonなどで購入可能です。ぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月24日000

昭和22年(1947)の今日、総合花巻病院長佐藤隆房に宛てた葉書に、俳句をしたためました。

坐りだこ囲炉裏に痛し稗の飯

硬い床であぐらをかき続けると、くるぶしなどに出来るのが「すわりだこ」です。

詩や短歌に比べると、あまり数は多くありませんが、光太郎は折にふれ、俳句も詠みました。確認できているものは、生涯でおよそ150句ほどです。

新刊です。以前にもご紹介しましたが、入手しましたので改めて。 

近代文学草稿・原稿研究事典

日本近代文学館編/編集委員:安藤宏・栗原敦・紅野謙介・十重田裕一・中島国彦・宗像和重
八木書店発行  定価12,000円+税   A5判・上製本・カバー装 383+20頁

イメージ 1

第一部が「総論」ということで、「初学者が原稿を前にしてどのように研究を始めるのか、またどのような点に注意して研究を進めるか、対象となる原稿はどこに行けば見ることができるのか、などについての解説編」(序文より)、第二部が「近代文学史上の主だった作家の原稿を使った研究の具体例」(同)となっています。

第二部で、光太郎も4ページにわたって紹介されています。執筆は群馬県立女子大学教授、杉本優氏。

イメージ 2

基本的に光太郎は、自分の手元に自作の詩を書いた原稿用紙を一括して保存していました。散文や短歌などについてはそういうことはして居らず、詩だけです。さらに、最初に雑誌等に発表した後、単行詩集などに再録する際に詩句の訂正を行うことがしばしばあり、その変遷がきちんと記録されています(全てではありませんが)。この一事をとっても、詩というものが、光太郎の内部で並々ならぬ位置を占めていたことが窺えます。ただし、発表された全ての詩の草稿が残っているかというと、そうでもありませんが。

まず大正5年(1916)作の「わが家」から昭和20年(1945)4月作の「琉球決戦」まで。「琉球決戦」を書き終えた後、駒込林町のアトリエが空襲で全焼しますが、その際には詩稿をまとめて防空壕に投げ入れ、焼失を免れました。アトリエ隣家の植木屋さんが見つけて戦後もそれを保管してくれており、昭和29年(1954)になって、再び光太郎の手元に戻りました。

続いて昭和20年(1945)5月の花巻疎開から歿するまでのもの。これはずっと光太郎の手元にありました。

この2種は、昭和42年(1967)に二玄社から『高村光太郎全詩稿』として一篇ごとに写真版と北川太一先生の詳細な解説を付け、上下二分冊で刊行されています。

それ以外に、出版社に送られた浄書稿も残っています。特に近年発見された詩集『道程』(大正3年=1914)所収の10篇38枚は、『道程』版元の編集者・内藤鋠策旧蔵とされています。

イメージ 3

また、昭和22年(1947)、雑誌『展望』に発表された20篇から成る連作詩「暗愚小伝」も、出版社に送った浄書稿が残っており、それについては平成18年(2006)、やはり二玄社から『詩稿「暗愚小伝」』ということで、全ページの写真版、北川太一先生の詳細な解説付きで刊行されています。

イメージ 4

『近代文学草稿・原稿研究事典』では、このあたりについての解説、原稿用紙の種類、初出形から最終形への変化などについて述べられています。

ただ、あくまで「事典」で、光太郎の項も4ページしかありませんので、概略に留まっています。杉本氏にはこれをさらに長く、一冊の研究書にでもしていただきたいものです。

それにしても、改めて光太郎の草稿が載った上記の書籍類を見てみますと、その時々の光太郎の息づかいまで聞こえてきそうな気がし、これは活字では感じられないものです。こういういわば原典にあたるのも、大切なことですね。

さて、『近代文学草稿・原稿研究事典』。定価12,000円+税と、少し高めですが、版元の八木書店さんに直接出向いて購入すると、1割引です。店舗は神田神保町古書街、三省堂ビルさんの近くです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月18日

昭和7年(1932)の今日、文京区向丘の曹洞宗金龍山大圓寺で、光雲を囲む座談会が行われました。

大圓寺は光雲に依頼してたくさんの仏像を作ってもらった寺院です。いずれ行ってみようと思っています。

出席者は光雲の他、光雲高弟の山本瑞雲、大圓寺の住職・服部太元、講釈師・大島伯鶴、天台宗の僧侶で書家の豊道慶中、陸軍中将・堀内文次郎、海軍中将・小笠原長生。

これを機に、小笠原と光雲は意気投合し、同じ海軍の東郷平八郎元帥を光雲に引き合わせたりします。

イメージ 5

こちらは同じ年の9月、東郷邸にて。左から服部太元、光雲、東郷平八郎、小笠原長生です。

新刊、というより復刊書籍の情報です。 

人権からみた文学の世界【大正篇】

2015/2/6 ゴマブックス   川端俊英著   定価1,200円+税

森鴎外「雁」、夏目漱石「こゝろ」、宮本百合子「貧しき人々の群」……。
大正期につむぎだされた名作のなかから人権に関わる問題に着目し、その時代の断面を検証。
現代を生きる私たちの自己点検にもつながる問いを投げかける良書。著者の慧眼が光る解説も味わい深い。無題

目次
まえがき――大正期と高村光太郎
第一章 森鴎外「雁」の世界
第二章 夏目漱石「こゝろ」の世界
第三章 宮本百合子「貧しき人々の群」の世界
第四章 吉田絃二郎「清作の妻」の世界
第五章 岩野泡鳴「部落の娘」の世界
第六章 永井荷風「花火」の世界
第七章 芥川龍之介「侏儒の言葉」の世界
第八章 秋田雨雀「骸骨の舞跳」の世界
あとがき
大正期略年表

というわけで、光太郎を含め、9人の文学者の作品から、大正時代の人権意識にスポットを当てた論考です。光太郎は「まえがき」で扱われていますが、他の作家と違い、ある特定の作品を取り上げての論ではなく、「道程」や「牛」、「ぼろぼろな駝鳥」といった複数の詩からのアプローチなので、そうなっているという感じです。そして光太郎論を枕に、「大正」という時代の光芒を追う展開です。

白樺派の人道主義、プロレタリヤ文学対ファシズム、ドメスティックな問題、同和問題などからの観点で、非常に読みごたえがあります。

もともとは平成10年(1998)に、部落問題研究所から刊行されたもので、版元をゴマブックスさんに移し、さらにオンデマンド(注文を受けてから印刷、製本するシステム)での復刊です。といっても、注文して翌日には届きます。ただ、造本としてはどうしてもペーパーバックになるようです。変にかさばらない、価格が安いという点では、ハードカバーより良いと思います。

ゴマブックスさん、前身のごま書房時代には新書版の「ごまブックス」が売りだったと記憶していますが、最近は電子書籍系に力を入れているようで、その延長でオンデマンドも手がけているように感じます。

今後、こういう形がどんどん広がっていきそうな気がします。特にこういう埋もれた名著的なものは、大手の出版社がどんどん版権を手に入れ、復刊させていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月12日008

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、編集者・野末亀治に宛てて葉書を書きました。

 小包を又々頂戴、オレンヂをたくさんありがたく存じました。その中にヅボンを発見、これ又大いに役立ちますので大喜びです。今冬は厳寒が続きましたので先年いただいた台湾のキヨウとかいふ獣の毛皮をチヤンチヤンコの下に着るやうにしましたら大変凌ぎ易く感じました。
 小生今冬は栄養状態去年よりもよろしく、雪を冒して温泉にも二三度まゐりました。
 御礼まで。

「台湾のキヨウとかいふ獣」は、おそらく鹿の一種の「キョン」です。光太郎は他にも村人に貰ったカモシカの毛皮などを愛用していました。

猟銃でも持たせれば、マタギのようですね(笑)。とても日本を代表する彫刻家・詩人には見えません(笑)。

近刊情報です。

東京代官山のクラブヒルサイドさんからメールでお知らせ戴きました。

一昨年にクラブヒルサイドさんで行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」を書籍化されるそうです。

イメージ 1

イメージ 2
以下、添付のPDFファイルから。 

読書会から生まれた本『少女は本を読んで大人になる』が発売されます。

~魅力的な10人の女性たちと共に読む、少女が大人になる過程で読んでほしい10冊の古典的名作~
東京・代官山クラブヒルサイドにて、2013年の5月からおよそ1年続いた読書会「少女は本を読んで大人になる」は少女が大人になる過程で読んでほしい世界・日本の古典的名作を、多彩なゲストと共に読んでいくというもの。この読書会を1冊の本にまとめました。

ご自身の人生とも重ね合わせながら読み進めていく名作は、作品の魅力にぐっと迫りながら、ゲストの人柄も楽しめる内容になっています。また、読書会に合わせてオリジナルで作った作品にちなんだサンドウィッチレシピも収録。豪華な一冊になりました。

 
本編は、各ゲストが1冊の本を読み解いていくという形で構成されています。

 少女の頃繰り返し読んでいた作品。思い出の作品。人生に影響を与えてくれた大切な作品など。どんな風にその物語を解釈して、読み進めていったのか、ゲストによってその捉え方はさまざまに異なることがわかってきます。発見がちりばめられている本編をお楽しみください。

ゲストと共に読んだ名作10点004
平松洋子・『女たちよ!』(伊丹十三)
阿川佐和子・『悲しみよこんにちは』(フランソワーズ・サガン)
角田光代・『第七官界彷徨』(尾崎翠)
鴻巣友季子・『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ)
末盛千枝子・『智恵子抄』(高村光太郎)
中村桂子・『キュリー夫人伝』(エーヴ・キュリー)
小林エリカ・『アンネの日記』(アンネ・フランク)
竹下景子・『苦海浄土』(石牟礼道子)
湯山玲子・森本千絵・『赤毛のアン』(L.M.モンゴメリ)『放浪記』(林芙美子)

サンドウィッチレシピを紹介
読書会では、毎回作品とゲストにちなんだオリジナルサンドウィッチを作りました。作品とゲストの印象から、発想したサンドウィッチです。
すべてのサンドウィッチのレシピが、収録されています。サンドウィッチを片手に読書なんて、いかがでしょう。

読書会が本になりました
全10回開催された読書会は毎回2時間、参加者のみなさんもゲストが選ぶ本を片手に、共に読み進めていきました。
会の流れはゲストによってさまざまで、朗読するときもあれば、グループディスカッションをして話し合うときもあり。その空気感が丸ごと収録され、書き起こされた一冊です。

森本千絵さんによる表紙絵
ゲストの一人である、コミュニケーションディレクターの森本千絵さんによる作品を、表紙の絵に使わせていただきました。この作品は「赤毛のアン」をイメージして描かれたもので、一人の少女が明日に向かって歩みはじめるような印象が、本書のテーマに重なります。


書名:少女は本を読んで大人になる価格:1,500円(税別)
編集者:クラブヒルサイド・スティルウォーター
ブックデザイン:大西隆介(direcIonQ)
サンドウィッチイラスト:山口潤(direcIonQ)
発行日:2015年3月12日(木)
販売場所:全国書店にて
出版元:現代企画室

クラブヒルサイド 
〒150-0033 東京都渋谷区猿楽町30--‐2 ヒルサイドテラスアネックスB棟2F クラブヒルサイドサロン内
担当:菊池・西村  
info@clubhillside.jp phone:03-5489-1267


光太郎と交流のあった彫刻家の故・舟越保武氏のお嬢さんで、「千枝子」さんというお名前は、光太郎が名付け親だという編集者・絵本作家の末盛千枝子さんによる「智恵子抄」がラインナップに入っています。

末盛さん、その後、新潮社さんで発行している『波』というPR誌に、光太郎も絡むエッセイ「父と母の娘」を連載中ですし、昨年は5月15日の花巻高村祭でご講演くださいました(ちなみに今年は当方が講演をいたします)。

購入ご希望の方は、上記までお問い合わせ下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月16日

昭和22年(1947)の今日、花巻町の、宮澤賢治の姻戚・関登久也邸で開かれた歌会に出席しました。

関は尾山篤二郎に師事した歌人。この時期の光太郎には、花巻郊外太田村での生活に題を採った短歌の秀作がけっこうあり、こうした機会に詠まれたものと推定されます。

ちなみにこの歌会は午前中。午後には賢治の弟・宮澤清六とともに映画を観に行きました。その件は昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎 補遺】に書きました。

一昨日の『産経新聞』さんに、以下の記事が載りました。 

【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】吉本隆明 政治に流されない感受性

■東日本国際大教授・先崎彰容

 昭和43年のことである。

 一冊の書物が世間を震撼(しんかん)させた。

 吉本隆明『共同幻想論』である。国家の成りたちの起源を『古事記』と『遠野物語』を徹底的に読むことで明らかにしたこの書は、熱狂的な歓迎を受けた。たしかに難解である、でも読まざるをえない、理解できなくても読んだと言わざるをえない、そんな雰囲気が学生を中心に漂っていたのだった。

 だが忘れてはいけない、吉本隆明はそれ以前、まずは「詩人」として文壇に現れたことを。高村光太郎について、言語にとって美とは何かについて考えると同時に、共同体とは何か、私たちにとって国家とは何かが問われた。こうして『共同幻想論』は世にでたのである。

 これらの問題意識は、一点から始まっている。それは戦争の「あの瞬間」からである。戦争体験、これが吉本を詩人にし、かつまた国家を問い続けることを強いたのである。

 たとえば戦争中、少年吉本は、自分の全てを動員して今回の戦争とは何かを考えつづけていた。結論は出た、今回の戦争は正しいものであり、自分はそのために死ぬべきであると思った。

 だが敗戦のあの日以来、世間はガラリと変わってしまう。戦争は誤りであり悪であり間違っていたというのだ。だとすれば、あの時自分の全てを賭けて出した結論は不正解だったことになる。どれだけ真剣に真面目に出した結論であっても、人間は間違う可能性があるのだ。

 8月15日を境に、世間の価値観は百八十度転換した。にもかかわらず、人びとは何事もなかったかのように生きているではないか。戦後に配給された価値観になんら疑いをもたず飛びつき生きている。この事実を吉本は理解できなかった。昨日まで骨の髄まで正しいと思っていたことが崩壊する。なのに、人はなぜ傷つかないのか、つまずかないのか。

 激しい人間不信が、吉本を襲ってきた。社会全体は嘘で塗り固められている。しかも自分もまた、いくら真剣に考えてもその嘘にだまされてしまう。私たちはなんとつまらない存在なのだ-だから吉本は、人間を生への根源的違和感を抱えたもの、こう定義した。もっと分かりやすく言おう、つまずいて生きている不器用な人間にとって、人生は、吐き気を感じるような面倒くさい営みなのだ。

 だから吉本は詩を書いた。言葉を紡ぐことで、どうにかして世間に流されないようにしたかった。戦後民主主義はもちろん、政治的な自由を絶叫するスターリン的マルクス主義も、私は絶対に信じない。なぜなら彼らは、繊細な個人の心を全て政治運動にささげよ、こう言ってくるからだ。

 なぜ彼らはそんなに政治が好きなのか。スローガンに流されるのか。言葉が政治に敗れていることに気づかないのか。

 ある日、吹く風に顔を上げ春の到来を知り、生きようと思う。そんな感受性を棄(す)ててまで、政治活動にささげる自由を私は信じない-「元個人(げんこじん)とは私なりの言い方なんですが、個人の生き方の本質、本性という意味。社会的にどうかとか政治的な立場など一切関係ない。生まれや育ちの全部から得た自分の総合的な考え方を、自分にとって本当だとする以外にない」(『「反原発」異論』)。

 この感受性に注目すべきだ。

 小林秀雄と江藤淳さらには福田恆存(つねあり)、そう、わが国で批評家になるための必要条件は、この繊細で弾力ある感性の系譜にあった。政治的な左右は、批評家にとって重要ではない。批評家になったつもりで一家をなせば、そこにまた他者との比較、批判、排除がおきている。党派をなして、人を罵(ののし)る。これはもう立派な政治ではないか。

 感性とは不断の自己点検、自分が政治的になることへの警戒である。晩年まで主張した吉本の反原発批判も、こうした感性から読まれるべきなのである。


 次回「高坂正堯(まさたか)」は3月5日に掲載します。


 ■知るための3冊

 ▼『共同幻想論』(角川ソフィア文庫) 刊行当時、熱狂的な支持をもって迎えられたこの書は、一方で難解であることでも知られる。吉本が「詩人」として出発したことを念頭に序文を精読すれば、この書の問題意識が見えてくるはずだ。
 ▼『吉本隆明初期詩集』(講談社文芸文庫) 吉本が詩人として出発したことは、くれぐれも忘れてはならない。「エリアンの手記と詩」「固有時との対話」「転位のための十篇」など初期吉本を語るうえで欠かせない詩を全て収める。
 ▼『「反原発」異論』(論創社) 東日本大震災以前から、吉本は一貫して反核運動に批判的な立場をとり物議をかもした。本書は震災直後からのインタビュー記事などを含む、最晩年の遺著的著作。


【プロフィル】吉本隆明
 よしもと・たかあき 大正13(1924)年、東京生まれ。東京工業大卒業。工場勤務のかたわら私家版の詩集などを発表し、昭和30年代に本格的に評論活動を開始。既成左翼を批判しつつ、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』など独自の思索を発表、全共闘世代から熱烈な支持を得る。バブル期には大衆消費社会を肯定して注目された。平成24年、死去。


【プロフィル】先崎彰容
 せんざき・あきなか 昭和50年、東京都生まれ。東大文学部卒業、東北大大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。専門は近代日本思想史。著書に『ナショナリズムの復権』など。


イメージ 1


吉本氏が亡くなってもうすぐ3年。新たに全集の刊行も始まり、このところ、「結局、吉本とは何だったのか」という検証が活発になってきました。NHKさんの教養番組「日本人は何をめざしてきたのか。 知の巨人たち」で取り上げられたりもしています。

その思想的源流の一つとなった、戦時中の光太郎についての検証。吉本を考える際に併せて考えていただきたい問題だと思いますし、吉本が出し切れなかった答えは、後の我々に託されたのだと考えたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月7日004

大正15年(1926)の今日、詩「象の銀行」を執筆しました。

   象の銀行

セントラル・パアクの動物園のとぼけた象は、
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツバンク)にちやりんと入れる。

時時赤い眼を動かしては鼻をつき出し、
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。
象がさういふ、
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。

印度産のとぼけた象、
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。

夕日を浴びてセントラル・パアクを歩いて来ると、
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。


明治39年(1906)から翌年にかけての、ニューヨーク留学中の記憶を元にした詩です。のちのロンドンやパリではそういうこともなかったようですが、最初に滞在したニューヨークでは、かなりあからさまな人種差別にあった光太郎、同じアジア産の動物園の象に、自らの姿を仮託しています。

以前にも書きましたが、この「象の銀行」、光太郎の詩の中では比較的有名な一篇であるにもかかわらず、初出誌が不明です。昭和4年(1929)に改造社から刊行された、いわゆる「円本」の「現代日本文学全集」第37篇『現代日本詩集/現代日本漢詩集』に収められていますが、それ以前にどこかの雑誌などに発表されているはずです。しかし、どこに発表されたのかが判っていません。

情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

新刊、といっても昨年12月の刊行です。
株式会社金曜日刊 発売日 2014/12/11 著者:  辺見庸・佐高信  定価:  1500円+税

イメージ 1

版元サイトより

「人間はここまでおとしめられ、見棄てられ、軽蔑すべき存在でなければならないのか」――辺見庸

侵略という歴史の無化。軍事国家の爆走と迫りくる戦争。人間が侮辱される社会・・・。二人の思索者が日本ファシズムの精神を遡り、未来の破局を透視。誰かが今、しきりに世界を根こそぎ壊している。日本では平和憲法を破棄しようとする者が大手を振っている。
喉元に匕首を突きつけて私たちは互いに問うた。なぜなのだ?あなたならどうする?呻きにも似た、さしあたりの答えが本書である。

目次
第1章 戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ
コンピュータ化と人間身体/資本と安倍ファシズム/もはや「どつきあい」は避けられない/スムーズに消してゆく装置/サブスタンスはあったのか/死ぬ気でやるのか

第2章 「心」と言い出す知識人とファシズムの到来
ジャーナリストのパッション/ジャーナリストとは、ゆすり、たかり、強盗/「心」と「美しい国」と同じ/どちらにも展望はない/ファシズムの情動的基盤

第3章 「根生い」のファシストに、個として闘えるか?
知性の劣化/訴えられる覚悟/共産党も巻き込んだ「祖国防衛論争」/なかったふりをするな/「禁中」と天皇利用主義者/決断を迫られる時がくる

 
第4章 日本浪曼派の復活とファシズムの源流
老いと夜/日本浪漫派の血脈/慰安婦問題を身体的なこととしてとらえる/日本思想史の中の免罪の歴史/実時間の表現

第5章 ジャーナリズムと恥
クーデター、三島由紀夫と安倍晋三/偽なるものの力能/書くことと自己嫌悪/特定秘密保護法とジャーナリズムの恥

第6章 とるに足らない者の反逆
魯迅のアナキズム/中国という圧倒的事実/とるに足らないものからの発想/絶望の深みから

第7章 歴史の転覆を前にして徹底的な抵抗ができるか?
これから何が起きないかはわかる/歴史の転覆/否定的思惟がなくなった/徹底的な抵抗の弾け方/権力こそが非合法

第8章 絶望という抵抗
真実の不確定性、記憶のうごめき/自己申告する歴史と、見られた歴史/年寄りが鉄パイプを持って突撃する/身体を担保した抵抗

ジャーナリスト・辺見庸氏と、評論家・佐高信氏の対談集です。元々は雑誌『週刊金曜日』の連載でしたが、さらにそれをふくらませたものです。ともに左派の論客として知られるお二人だけに、今をときめく人々をバッサバッサと斬りまくっています。

斬られている主な人々は以下の通り。敬称は略します。

まず、安倍晋三、麻生太郎、百田尚樹、籾井勝人、曾野綾子、田母神俊雄、長谷川三千子、小松一郎といった右寄り(極右?)の人々。それでいて、元産経新聞社長の住田良能などには高い評価。そうかと思えば、御厨貴、池上彰、姜尚中、古舘伊知郎、五木寛之、吉本隆明、大江健三郎といった人々もバッサバッサ。そういう意味ではバランスは取れています。

その対象は歴史的な人々にも及び、保田與重郎、石原莞爾、三島由紀夫、渡辺一夫、唐牛健太郎、斎藤茂吉らもメッタ斬りです。

光太郎も俎上に登っていますが、好意的に扱われています。

佐高 藤沢周平を思い出しました。一見すると穏やかな人ですが、珍しく講演で、同郷の歌人である斎藤茂吉を痛罵しているんです。その際、斎藤茂吉に高村光太郎を対置している。高村光太郎は戦中に戦争協力詩を書いたことを自己否定し、戦後しばらく花巻に隠棲する。それにくらべて斎藤茂吉は何の反省もしていない、と。(略)自己批判というものがなかった戦後日本の風景の中では、高村光太郎の自己否定には胸を打つものがありますよね。
辺見 そうですね。吉本(隆明)さんも高村光太郎の自己否定から出発しているところがあると思います。光太郎の反省の深さはおっしゃるとおり、「個」として過ちを引きうけている点でこの国では例外的ではないでしょうか。

ただし、おさえるところはきちんとおさえています。

辺見 でもぼくは、高村が自己否定に至るまでに相当の戦争協力詩を書いていることを決して見逃したくないんです。高村にかぎらず、たいていの詩人や作家がそうなんですが、戦争詩となると呆れるほど下手になるのですよ。なぜか。一つは、結局プロパガンダにすぎないからです。もう一つは、個人として十五年戦争の根っこと未来を見通す知性がなかったからです。それは日本の誰一人としてなかったと思う。これは無惨なことですよ。

逆に光太郎の戦争詩だけをことさらに取り上げて、「これぞ大和魂」などともちあげる愚昧なヘイトスピーカー、ヘイト出版社がありますが、そういう輩にこそ、この書を読んでほしいですね。

しかし、惜しむらくは出版のスピードが、世の中のスピードに追いつかないという点。昨年暮れの大義なき抜き打ち解散総選挙や、昨今のイスラム国の問題などはこの出版に間に合っていません。そういう意味でも続編を期待します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月6日

大正5年(1916)の今日、雑誌『美術週報』に、智恵子のエッセイ「女流作家の美術観」が掲載されました。

 批評は要らない、是非の批評はすべての004専門家にある、たゞ私には、なくて叶はぬものとしてある、この芸術を、考へるさへ、身にあまる幸福を感じられる。
 さまざまな時代に、まことの芸術家達が、それぞれ自身の生命を掘り下げて行つた。その作品は、いきていまも、私達の前に息づく、それ等のものは、魂をめざめさせる、恰も自然が私達をめぐむ恵のやうに、清らかに力強く、押迫つて透徹する、私はそれ等の彫刻を愛し、それ等の絵画を思慕してやまない。心の底からその作者を尊敬し、又は崇拝してゐる。
 ロダンはあらゆる時代の魂の積畳であつて、又海山の自然の反映であるとおもはれる。暁のやうなその作品は、暗い魂に、鋭い光りと優しい温味とを、ほのぼのと投げかける。ロダンをおもふことは私の、栄光である。セザンヌもまた、親しく自分のいまの生活に、糧となつて輝いてゐる、たくさんの星のなかで、この二人をかぞへて、今は、うらみとはしまい、その一つも、どれ程大きなことであらう。古くから、又それぞれの世に、光りは輝くのだ。私は愛念をもつて、それ等を仰ぎみて、よろこびにあふれる。
 そして近くこの日本の芸術にも、私はそれ等の美しい魂を見ることの出来る幸をものべておかう。

明らかに光太郎の影響が見とれる文章です。

↑このページのトップヘ