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新刊情報です。 

文豪たちのラブレター

2018/09/21 別冊宝島編集部編 宝島社 定価1,380円+税

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芥川龍之介が後の妻・文に送ったラブレターの一節は、思わず赤面してしまうくらい恥ずかしく、それでいて恋する心情が伝わってくる「生っぽい」文章です。かの文豪たちも、ラブレターともなると、その人自身のパーソナリティが色濃く反映されてしまうもの。本書は、中島敦、太宰治、谷崎潤一郎、夏目漱石、森鴎外など、あの文豪たちが実際に書いたラブレターを、当時の状況の解説とともに掲載した一冊です。

目次

 はじめに

 第一集 君のことを愛しています。——愛する手紙
  芥川龍之介からのちの妻、塚本 文へ
  樋口一葉から師、半井桃水へ
  国木田独歩からのちの妻、佐々城信子へ
  坂口安吾から恋人、矢田津世子へ
  高村光太郎からのちの妻、長沼智恵子へ

 第二集 君のためなら何でもする。——赤裸々な手紙
  佐藤春夫からのちの妻、谷崎千代(潤一郎妻)へ
  谷崎潤一郎からのちの二番目の妻、古川丁未子、のちの三番目の妻、根津松子へ
  若山牧水から片想いの石井貞子、のちの妻、太田喜志子へ
  倉田百三から恋人、山本久子(仮名)へ
  島村抱月から愛人、松井須磨子へ

 第三集 あなたを、好きになれてよかった。——切ない手紙
  太宰 治から愛人、太田静子へ
  小林多喜二から恋人、田口タキへ
  有島武郎から「お仲よし」唐澤秀子、愛人、波多野秋子へ
  石川啄木から恋人、菅原芳子へ
  北原白秋からのちの妻、福島俊子へ

 第四集 お前は、私の妻であればよい。——想う手紙
  夏目漱石から妻、夏目鏡子へ
  森 鷗外から妻、森志げへ
  堀 辰雄からのちの妻、加藤多恵子へ
  中島 敦からのちの妻、橋本たかへ

手紙の出典・参考文献一覧


というわけで、結婚前に光太郎から智恵子に宛てた、大正2年(1913)の1月28日の書簡が紹介されています。

この年9月、信州上高地で婚約する二人ですが、この時智恵子は、新潟にあった日本女子大学校時代の友人・旗野スミ(澄子)の実家に滞在し、スキーに興じたりしていました。その智恵子に送った「ラブレター」です。

手紙画像はこちら。現物は当会顧問・北川太一先生がお持ちです。

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全文翻刻はこちら。

光太郎から智恵子に宛てた手紙は、現在、4通しか現存が確認できていません。そのうち、ラブレター的なものはこの1通のみ。そういうわけで、時折、取り上げられます。平成14年(2002)には、故・渡辺淳一氏著『キッス キッス キッス』で、同25年には、NHKさんの「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で。


他に、光太郎と交流のあった石川啄木、北原白秋、佐藤春夫、森鷗外らの「ラブレター」も紹介されており、興味深く拝読(かえって、内容を知らなかったそちらの方が……)。

何はともあれ、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然が或る人間を特に人生の為に役立てようと思ふ時、其の使ひ方の決定的な巧妙さは驚くばかりだ。丁度或る時に丁度或る場所に丁度或る環境を与へて丁度或る強さの人間を生まれさせる。どうする事も出来ない。無自覚的にも自覚的にも、其の人間全体が一つの使命となる。その力は恐ろしい。

散文「ホヰツトマンのこと」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

歴史上、そういう人物はいろいろいると思います。日本でいえば、源義経、織田信長、西郷隆盛などに其れを感じますし、世界的にはチンギス・ハーンやロダンなどがそうでしょうか。光太郎はこの文章で、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンがそうであると言っています。

口語自由詩の確立や、近代彫刻の輸入といった部分では、光太郎もそうでしょう。

まずいただきもの。

詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子様から、文芸同人誌『青い花』の第90号をいただきました。これまでも宮尾様や他の同人の方が、光太郎に関わる寄稿をなさっていて、その場合にはこちらのブログでご紹介させていただいております。


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今回も宮尾様の玉稿で、書評です(全6ページ)。取り上げられているのは2冊。まず、西浦基氏の『高村光太郎小考集』、それから中村稔氏の『高村光太郎論』。いずれも好意的にご紹介なさっています。

また、合間に歌人の松平盟子氏と当方のコラボで行った公開講座「愛の詩集<智恵子抄>を読む」の評も入れて下さっています。ありがたや。

ご入用の方、仲介いたしますので、こちらまでご連絡ください。 


もう1冊、定期購読しております日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。

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花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

今号は、昭和35年(1960)、智恵子の故郷・福島二本松の二本松城跡に建てられた光太郎詩碑の拓本から。詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の有名なフレーズ「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」です。

碑は当会の祖・草野心平らが中心となって建てられました。光太郎の筆跡を、光太郎や智恵子とも面識のあった二本松の彫刻家・斎藤芳也が木彫に写し、それを原型にしてブロンズに鋳造したパネルがはめ込まれています。この碑も建立から60年近く経つかと思うと、感慨深いものがあります。

『月刊絵手紙』、版元のサイトから購入可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

すべて透徹したものには一つの美が生ずる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

「透徹」。いい言葉ですね。

雑誌系新刊2冊、ご紹介します。 

虹 第9号

2018年7月7日  虹の会発行 非売


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詩人で同誌主宰の豊岡史朗氏による論考「高村光太郎 詩集『道程』」31ページが掲載されています。なかなか読み応えのあるものです。

ご入用の方、仲介いたしますので、こちらまでご連絡ください。 

月刊絵手紙 2018年8月号

2018年8月1日  日本絵手紙協会  定価762円+税

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花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

今号は、花巻郊外太田村在住時の昭和27年(1952)に書かれた詩「山のともだち」。登場する「ともだち」は、カッコー、ホトトギス、ツツドリ、セミ、トンボ、ウグイス、キツツキ、トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス、兎、狐、マムシ、熊、カモシカ。いかに豊かな自然に囲まれての生活だったかがわかります。ただ、裏を返せば過酷な生活だったことにもつながりますが……。

昭和22年(1947)、雑誌『至上律』に口絵として載った太田村の水彩スケッチ(現物が花巻高村光太郎記念館さんに所蔵されています)画像も掲載されています。

こちらから購入可です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

僕は詩人ぢや無い。只自分の思つて居る事を詩や画に現はすに過ぎないんだ。
談話筆記「詩壇の進歩」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

……だ、そうです。

まずは一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊から。昨年亡くなった詩人・評論家の大岡信さんを偲ぶ連載の8回目です。

大岡信をたどって 6762回の「折々のうた」003

 詩人・批評家の大岡信は1979年1月25日、詩歌コラム「折々のうた」の連載を朝日新聞で始めた。
 依頼は前年秋。その段階から引用を含め200字程度という字数制限があったようだ。難色を示す大岡との「交渉」には、編集局次長で後に社長となる旧制一高の元同級生・中江利忠(88)も加わった。一高では農耕サークル・耕す会で、便所から肥だめにふんにょうを運び込む苦労を分かち合った仲という。
 妻かね子(87)は「当初は新聞小説の後ろの空白を埋めるためと言われた。でも字数制限でかえってやる気が出たみたい」と振り返る。第1回の東京の紙面を調べると、曽野綾子の小説「神の汚れた手」の後ろにくっつくように、24面に掲載されていた。
 〈海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと〉。彫刻家で詩人の高村光太郎が1906年、彫刻修業のために渡米した際に船中で作った短歌。大岡は、「高村青年は緊張もしていただろう。不安と希望に胸を騒がせてもいただろう。けれど歌は悠揚のおもむきをたたえ、愛誦(あいしょう)に堪える」と評した。
 連載は評判を呼び、編集局長となった中江の決断もあり79年5月には1面に移った。中断もあったが2007年まで6762回を数え、「万葉集」を超える詩歌選集となった。中江は米紙ニューヨーク・タイムズ幹部に「恋の歌が1面に載っているのは世界でも朝日新聞だけだ」と言われたとうれしそうに振り返る。
 約1年分を掲載した岩波新書は19冊を数える。同書に載せた引用詩歌の作者略歴の作成で協力した詩人の高橋順子(73)が今も覚えているのは〈看護婦の妻とボイラー技士のわれ定休日重なり海を見ている〉という歌。「有名な人の作品でなくても、生活感があって心に訴える作品を大岡さんは選んだ」
 「折々のうた」は海も越えた。日本文学研究の第一人者ドナルド・キーンの弟子で、大東文化大名誉教授のジャニーン・バイチマン(75)が英訳を手がけた。約10年間、朝日新聞の英字新聞の日曜版に載り、本にもなった。引用する詩歌の解釈などをめぐってバイチマンは大岡とファクシミリで対話を重ねた。
 〈白壁を隔てて病めるをとめらの或(あ)る時は脈をとりあふ声す〉。肺結核で30歳で夭折(ようせつ)した歌人・相良宏(さがらひろし)の歌を翻訳した際は、約24時間でやりとりが5回ほどに及んだ。
 バイチマンが一つの言葉を選ぶに至った理由を書くと、「いい解決を見つけましたね!」。一方、大岡は訳文の語順の変更を提案。理由を尋ねるバイチマンに、この歌の魅力は療養所の隣の部屋の女性たちを思う、歌人の孤独だが大変優しい心情だと書いた。
 「大岡さんは心を砕いて詩歌を選び、深く読み込んでいた。詩人たちに尊敬を抱いていた」とバイチマンはいう。そして「折々のうた」を「古今東西の詩人が集う巨大な円卓」にたとえる。「歌人や俳人、詩人たちが無名有名の区別なく座っていて、円卓を作った大岡さんも笑顔で座っているんです」=文中敬称略(赤田康和)


昭和54年(1979)に始まった、朝日さんの伝説的ともいえるコラム「折々のうた」。その記念すべき第1回に、光太郎の短歌を取り上げて下さったことが記されています。

後半に紹介されている、ジャニーン・バイチマン氏。。昨秋、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さんで開催された、明星研究会さん主催の「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」にご参加なさっていて、終了後の懇親会でお話しさせていただきました。お写真を見て、「あれま」と思った次第です。寡聞にして大岡氏との交流について、存じませんでした(汗)。


続いて、少し前ですが、先月末の『東奥日報』さん。先月、青土社さんから刊行された中村稔氏著『高村光太郎論』の書評が出ています。 

高村光太郎論 中村稔著 巨人の近代を照らす

 「高村光太郎はまことに夢想家であった」。91歳の詩人中村稔は幾たびもこのように語る。同時に「高村光太郎は、たんに彫刻家、詩人というより、ひろく文明一般に関心のある人物」であり、それが彼の「創作活動の特徴」であるとする。
 中村はこの近代の巨人を深く愛しており、500ページ超の大著の全篇で、光太郎の前のめりの近代性を厳父のごとく叱る。同時にその仕事の核を浮かび上がらせてゆく。
 留学を終え帰国した光太郎は日本の前近代性に激しい焦燥を抱く。日本の彫刻界の匠(たくみ)であった父、高村光雲が望んだのは、「新鮮な彫刻技術」であったろうが光太郎が学んだのは「技術でなく、芸術」であった。
 例えばロダンから学んだのは、「愛は自然と同義であり、自然の摂理にしたがい、愛をもって社会と立ち向かっていく」ことであった。
 この時「自然」は人工と対立する哲学であるが、後年それは光太郎のなかで「おのずから」の意味に変容し、陰の部分を形づくる。
 一つは妻、智恵子との関係である。その身体に抱え込んだ凶暴なエネルギーをひとりよがりに放出したことが、妻を狂気に追いやったのではないかという。しかし智恵子を巡る作品は「愛というものの一方通行的性質」を捉えており、尋常とはいえないほどの愛を背景としていたともみる。
 もう一つは第2次大戦への動きを「とどめ得ない大地の運行」「歴史的必然」とする誤謬(ごびゅう)である。戦中に書かれたおびただしい戦意昂揚の詩が「将兵を励まし、死に赴かせた」ことを光太郎は戦後も反省した形跡は認められないと指摘。それゆえ、花巻の7年間も「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとする。
 中村のまなざしは終始、現実主義の側から巨人の近代が何であったか断罪しつつ照らし出す。それは次第に日本近代の自画像にも見えてくる。この厳しい自画像を描くことが、詩人中村稔を完成することであるかのように。(川野里子・歌人)

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この記事の載った『東奥日報』さん。GWに秋田小坂青森十和田湖を回った際に東京駅から乗った東北新幹線はやぶさ号で、当方が座った座席前のネットに、車内誌『トランヴェール』などとともに入っていました。青森方面から載った前のお客さんが置いていったのでしょう。通常、係員の方が清掃点検の際に片付けるので、始発駅の東京駅から乗って、こういうことはまずないのですが、そのおかげでこの記事の掲載を知ることができました。不思議な縁を感じました。



東北新幹線といえば、明後日からまた同線に乗り、今度は岩手花巻に行って参ります。花巻郊外旧太田村、中村氏が「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとする(当方は断じてそうは思いませんが)、7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)での第61回高村祭のためです。また同じようなことがあるかな、と期待しましたが、こういうことが重なると、逆にかえって怖いですね(笑)。


【折々のことば・光太郎】

材料がまはつて来ないといふやうな愚痴ばかり並べて、紆余曲折の工夫を為ない頭脳は頼りにならない。さういふ頭脳は一旦材料が潤沢にまはつて来るやうな日が来ても又何とか不足を見つけてよく運転しないであらう。

散文「戦時の文化」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

同じような言を、最近、何かのテレビ番組で聴いて、「なるほど」と思いました。「「時間がないからできない」という人は、時間があってもやらない」、「「資金が足りないからできない」という人は、資金ができてもやらない」といった感じだったように記憶しています。一面で、真理を突いていますね。

昨日、そして今日と、またぞろふらふら歩き回っております。生活圏の千葉銚子を皮切りに、夕方に千葉を発って岩手盛岡まで駒を進めて宿泊。今朝、盛岡からレンタカーを駆って秋田小坂町、青森十和田湖を回りました。現在、帰りの新幹線🚄車中です。
昨日、今日のレポートは明日以降書くこととし、今日は新刊書籍のご紹介を。

江戸のいちばん長い日 彰義隊始末記

2018年4月20日 安藤優一郎著 文藝春秋(文春新書) 定価860円+税

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わずか半日の戦争が、日本の近代史を変えた!

今年は明治維新から150年。ということは江戸城の無血開城から150年。
すなわち、1868年の旧暦5月15日、江戸で行われた最初で最後の戦争、彰義隊の戦い(上野戦争)から150年ということなのです。

「勝海舟と西郷隆盛の頂上会談により江戸城総攻撃が回避された」
明治維新といえば巷間、そう伝えられています。しかし実際は江戸城が炎上しても不思議ではありませんでした。
くすぶる幕臣の不満、深まる新政府と幕府側の対立、勝海舟と息づまる西郷の駆け引き……。

幕臣の不満分子が、それぞれの思惑を抱きつつ彰義隊を結成。
江戸っ子も彼らを支持しました。
そして東京・上野の寛永寺で、彰義隊と新政府が激突。戦場はじつに悲惨なものでした。

わずか半日で勝負はつきましたが、ここで新政府が武力を見せつけたことで、徳川家の静岡移封が実現するなど、その影響は多大なものでした。

慶喜が大阪から逃げ返ったときから始まり、敗れた隊士の後半生までを、資料や同時代を生きた渋沢栄一や高村光雲などの目を通して、生き生きと描きます。


というわけで、慶応四年(1868)の彰義隊と薩長軍との上野戦争について、そこに至る経緯からその終末までを語る労作です。

紹介文にある通り、光太郎の父・光雲の回想が引かれています。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』からの引用です。上野戦争当時、光雲はまだ独立する前で、師匠の高村東雲の下で徒弟修行中でした。

光雲の証言部分以外も、西郷隆盛や勝海舟らの思惑などの考察等、非常に読みごたえのあるものでした。

是非お買い求めを。

新刊です。

作家のまんぷく帖

2018年4月13日  大本泉著  平凡社(平凡社新書)  定価 840円+税

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食を語ることが、人生を語ることにつながっていく! 
極度の潔癖症で食べるのがこわかった泉鏡花、マクロビの先駆者だった平塚らいてう。赤貝がのどに貼りついて絶命した久保田万太郎、揚げ物の火加減に厳格なこだわりを見せた獅子文六、胃痛を抱えながら、酒と薬が手放せなかった坂口安吾など、食べることから垣間見える、作家という生き物の素顔に迫る。
樋口一葉、内田百閒、武田百合子、藤沢周平など総勢22人を紹介!

目次
 はじめに
 ◎樋口一葉 ── お汁粉の記憶 
   樋口家の事情/半井桃水との邂逅/ごちそうするのが好きだった一葉/お汁粉の記憶
 ◎泉鏡花 ── 食べるのがこわい
   生い立ち/潔癖症だった鏡花/酒も煮沸消毒/ハイカラだった鏡花
 ◎斎藤茂吉 ── 「俺はえやすでなっす」
   二足の草鞋/病気と食事/鰻と茂吉
 ◎高村光太郎 ── 食から生まれる芸術 
   「食」の「青銅期」/智恵子との「愛」そして「食」/
   「第一等と最下等」の料理を知る/「食」から芸術へ

 ◎北大路魯山人 ── 美食の先駆者 
   美の原初体験/「欧米に美味いものなし」/当時の星岡茶寮/山椒魚の食べ方/
   魯山人の死の謎
 ◎平塚らいてう ── 玄米食の実践者
   女性解放運動の先導者/平塚明の生涯/奥村博史との食生活/玄米食の実践/
   ゴマじるこの作り方/おふくろの味
 ◎石川啄木 ── いちごのジャムへの思い
   夭折の詩人・歌人/社会生活無能者?/啄木の好物/いちごのジャムへの思い
 ◎内田百閒 ── 片道切符の「阿房列車」
   スキダカラスキダ、イヤダカライヤダ/酒肴のこだわり/苦くすっぱいスイーツ?/
   三鞭酒で乾杯
 ◎久保田万太郎 ── 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 
   下町に生きる/苦手なものと好きなもの/下町にある通った店/
   絶命のきっかけとなった赤貝
 ☆コラム◉作家の通った店 江戸料理の「はち巻岡田」
 ◎佐藤春夫 ── 佐藤家の御馳走
   早熟な文壇デビュー/学生時代/奥さんあげます、もらいます/「秋刀魚の歌」/
   アンチ美食家きどり/  
   佐藤家の御馳走
 ☆コラム◉作家の通った店 銀座のカフェ「カフェーパウリスタ」
 ◎獅子文六 ── 「わが酒史」の人生 
   大食漢の作家「獅子文六」の誕生/家での獅子文六/グルメのいろいろ/
   「わが酒史」こそ人生
 ◎江戸川乱歩 ── うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと 
   作家江戸川乱歩の誕生/転居、転職の達人/描かれた〈食〉/ソトとウチとの〈食〉
 ☆コラム◉作家の通った店 「てんぷら はちまき」
 ◎宇野千代 ── 手作りがごちそう 
   恋に「生きて行く私」/凝った食生活/手作りに凝る/長生きの秘訣
 ◎稲垣足穂 ── 「残り物」が一番 
   足穂ワールド/明石の食べもの/「残り物」が一番/「おかず」より酒・煙草/
   観音菩薩
 ◎小林秀雄 ── 最高最上のものを探し求めて
   評論家小林秀雄の誕生/「思想」と「実生活」/
   妹から見た小林秀雄/酒と煙草のエピソード/
   江戸っ子の舌/最高最上のものを探し求めて
 ◎森茉莉 ── おひとりさまの贅沢貧乏暮らし
   聖俗兼ね備えた少女のようなおばあさん/古い記憶にある味/
   おひとりさまの贅沢貧乏暮らし
 ☆コラム◉作家の通った店 「邪宗門」
 ◎幸田文 ── 台所の音をつくる 
   「もの書きの誕生」/幸田文の好物/食べるタイミングの大切さ/
   台所道具へのこだわり/心をつぐ酒/
台所の音をつくる
 ◎坂口安吾 ── 酒と薬の日々
   作家坂口安吾の誕生/好物と苦手なもの/酒と薬の日々/安吾と浅草/桐生時代
 ◎中原中也 ── 「聖なる無頼」派詩人
   詩人中原中也の誕生/子供そのものだった中也/葱とみつば/銀杏の味/最期の煙草
 ◎武田百合子 ── 「食」の記憶 
   作家武田百合子の「生」/『富士日記』より/〈食〉の記憶
 ◎山口瞳 ── 〈食〉へのこだわり
   サラリーマンから専門作家へ/アンチグルメの〈食〉へのこだわり/
   山口瞳が通った店/家庭での食生活
 ◎藤沢周平 ── 〈カタムチョ〉の舌
   作家藤沢周平の誕生/〈海坂藩〉そして庄内地方の〈食〉/父としての藤沢周平
 おわりに
 主な参考文献


著者の大本泉氏は、仙台白百合女子大の教授だそうです。

光太郎に関しては、散文、詩、日記を引き、その幼少期から最晩年までの食生活等を追っています。引用されている詩文は以下の通り。

 散文「わたしの青銅時代」  『改造』 第35巻第5号 昭29(1954)/5/1
 対談「芸術よもやま話」    昭30(1955)/9/25談 10/25放送
 散文「ビールの味」     『ホーム・ライフ』 第2巻第8号 昭11(1936)/7/1
 詩「夏の夜の食慾」       『抒情詩』 第1巻第1号 大元(1912)/10/1
 散文「三陸廻り」      『時事新報』 昭6(1931)/10/13
 詩「晩餐」         『我等』 第1年第5号 大3(1914)/5/1
 詩「へんな貧」         『文芸』 第8巻第1号 昭15(1940)/1/1
 日記              昭31(1956)/3
 詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」『婦人公論』 第38巻第1号 昭29(1954)/1/1

一読して、多くの資料を読み込んでいらっしゃるな、と感じました。ひところ、その時々にもてはやされていた「文芸評論家」のエラいセンセイ方が、その人の著作なら売れるとふんだ出版社からの要請で書いたであろうもので、たしかにもてはやされるだけあって鋭い見方が随所に表れているものの、明らかに読んだ資料の数が少ないな、と思えるものが目立ちましたが(現在も散見されます)、大本氏、かなりマイナーな散文にまで目を通されているようで、感心しました。

光太郎以外にも、光太郎智恵子と交流のあった平塚らいてう、佐藤春夫、中原中也などが取り上げられており、興味深く拝読。しかし、定番の夏目漱石や与謝野晶子、宮沢賢治などがいないと思ったら、平成26年(2014)、同じ平凡社新書で出ていた『作家のごちそう帖』ですでに取り上げられていました。

賢治といえば、光太郎、その精神や芸術的軌跡には共鳴しつつも、「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」の部分は承伏できない、としています。特に戦後は、酪農や肉食を勧め、体格から欧米人に負けないように、的な発言も見られました。

光太郎と「食」に関しては、花巻高村光太郎記念館さんで、そのテーマによる企画展等も計画中だそうで、楽しみにしております。

さて、『作家のまんぷく帖』、ぜひお買い求め下さい。


花巻といえば、別件ですが、昨日ご紹介した4月2日の花巻での光太郎を偲ぶ詩碑前祭、昨日発行の『広報はなまき』にも記事が出ましたので、ご紹介します。

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【折々のことば・光太郎】

恐らく日本画は、いはゆる西洋画家によつて救はれるであらう。恐らく木彫は、いはゆる木彫家なる専門家によつてではなく、却つてその専門家の軽蔑する、思ひもかけぬ真の彫刻家の手によつて救はれるであらう。文章を救ふものは文章家ではなく、詩を救ふものはいはゆる詩人ではないであらう。これは逆説ともなりかねる程明白な目前の事実である。

散文「遠藤順治氏のつづれ織」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

その道の専門家は、専門性ゆえに固定観念に囚われ、新機軸を打ち出せないことが多いということに対しての警句でしょう。逆にしがらみを感じることのない門外漢が、新風を吹き込むことも確かにありますね。

遠藤順治は虚籟と号した綴織作家ですが、元々は智恵子と同じ太平洋画会に学んだ画家でした。光太郎はその織物作品に対し、まだ不十分なところがあるとしながらも高い期待を寄せ、遠藤のパトロンであった小沢佐助に木彫「鯰」を贈るなどして援助しています。

旧刊の復刊です。

人と作品 高村光太郎

2018年4月11日  堀江信男著 清水書院 
定価1,296円(税込み)

詩人としても彫刻家としても一流だった高村光太郎。西洋の生活を経験し独自の近代的自我を確立するが、封建的な制度や道徳を残す日本では彼は異端な存在であった。自我を生きようとする彼の妥協することなき偉大な生涯を描く。

目次002
 第一編 高村光太郎の生涯
  宿命
  ヨーロッパ留学
  美に生きる
  智恵子の死
  モニュマン
 第二編 作品と解説
  詩人光太郎の誕生
  道程
  雨にうたるるカテドラル
  猛獣篇
  智恵子抄
  典型
 年譜
 参考文献
 さくいん
 


元版は、同じ清水書院さんから昭和41年(1966)に刊行されています。目次を見る限り、同一の内容のようです。

著者の堀江信男氏は、現在、茨城キリスト教大学名誉教授。003

前半は簡潔な光太郎評伝。後半は詩集や、詩集のない時代には代表的な詩を中心とした作品鑑賞、という構成になっています。入門編としては好著です。

人と作品」というシリーズものの一冊で、シリーズ全体は、文芸評論家の故・福田清人氏の責任編集です。

光太郎以外の既刊は、有島武郎、菊池寛、国木田独歩、林芙美子、徳富蘆花、高浜虚子、坪内逍遙、二葉亭四迷、武者小路実篤、正岡子規、夏目漱石、北原白秋、斎藤茂吉、横光利一、田山花袋、永井荷風、堀辰雄、島崎藤村、泉鏡花、与謝野晶子、宮沢賢治、森鷗外、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、川端康成、志賀直哉、石川啄木、谷崎潤一郎。

当方の持っている昭和60年代の判に載っている巻末の広告では、佐藤春夫、萩原朔太郎、岡本かの子らもラインナップに入っていましたし、中原中也、三島由紀夫、井上靖などが刊行予定となっていました。今後も続刊されるのではないかと思われます。

それぞれ復刊であれば、最新の研究成果が反映されているわけではないと思いますが、入門編としてはよいのではないでしょうか。ただ、怖いのは、既に否定されている過去の定説がそのまま載ること。その点は注意が必要ですね。


【折々のことば・光太郎】

絵具や筆などといふ材料(メヂアム)を駆使するに二様ある。一つは多年の工夫と錬磨とで、材料の極微な性質までも承知してしまつて、按摩が浮世話をしながら肩を揉む程な熟練の域に到るのと、一つは、生(なま)な材料、初対面の材料にでも自分の熱い息を吹きかけて、たちどころに其を自分の勢力の下に屈服させて駆使するのとである。

散文「津田清楓君へ――琅玕洞展覧会所見――」より
 
明治44年(1911) 光太郎29歳

津田清楓は、光太郎の留学仲間でもあった画家です。その頃の津田を回想し、賞賛したあと、現在の津田にはあの頃の燃えるような情熱が感じられないとしています。そして展開される絵画論が上記の一節です。津田はそのどちらにもたどり着いていない、というのでしょう。

琅玕洞は、前年に光太郎が神田淡路町に拓いた画廊ですが、ちょうど一年で手放し、画家の大槻弍雄に譲られていました。

今月2日、第62回連翹忌の日に刊行された雑誌です。

高村光太郎研究(39)

2018年4月2日 高村光太郎研究会 税込1,000円

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当方も所属する「高村光太郎研究会」の機関誌的に年刊発行されています。

目次は以下の通り。

 いまもう一度云っておきたいことがある―平成十九年八月九日、女川光太郎祭談話要旨―
   北川 太一
 「吉本隆明「高村光太郎」再訪」  赤﨑学
 『をぢさんの詩』について(五) ―詩作品に見る『をぢさんの詩』の位置―  岡田年正
 光太郎遺珠⑬ 平成三十年   小山弘明
 高村光太郎没後年譜 平成29年1月~12月  小山弘明
 高村光太郎文献目録         野末  明
 研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき     野末  明


当会顧問にして、生前の光太郎をご存じの北川太一先生は、このところ、「高村光太郎・最後の年」と題する連載を寄せられていましたが、今年は白内障の手術灯をなさり、書き下ろしができないとのことで、平成19年(2007)、宮城県女川町での女川光太郎祭におけるご講演をまとめられたものを寄稿なさいました。

それから、昨秋、アカデミー向丘で開催された第62回高村光太郎研究会で発表されたお二方が、それぞれの発表に関連する論考を寄せられています。

当方は2本、連載をさせていただいています。筑摩書房『高村光太郎全集』完結後に見つかり続ける光太郎文筆作品の紹介「光太郎遺珠」、それから昨年1年間の光太郎をめぐるさまざまな動きを記録した「高村光太郎歿後年譜」です。

「光太郎遺珠」は、短歌が一首(明治末と推定)、談話筆記で昭和26年(1951)、当時光太郎が暮らしていた花巻郊外太田村の山口小学校長・浅沼政規が筆録したもの、長短併せて7篇、書簡が23通。

比較的長命だったうえ、筆まめだった光太郎ゆえ、書簡はあ
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とからあとからたくさん出てきます。現在、秋田県小坂町の町立総合博物館郷土館で開催されている、「平成29年度新収蔵資料展」に出品されている、『智恵子抄』版元の龍星閣主・澤田伊四郎宛の書簡のうち、『全集』未収録のもの、2月に現地に行って筆写して参りましたが、今回の〆切には間に合わず、次号に廻します。

それでも23通。うち、何通かは実際に入手しました。

そのうちの1通。昭和5年12月17日付で、市川忠男というマイナーな詩人に送った絵葉書で、なぜか鵜飼いの鵜の写真です。この頃、光太郎が岐阜方面に行ったという記録はありません。

文面は以下の通り。

拝啓 貴著詩集“静なる草舎”をいただき、感謝します、
心静かな日にしづかによみたいと思つて居ります、
御礼まで一筆、
十二月十七日
 高村光太郎
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『静なる草舎』という詩集については確認できませんでした。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

いつも同じようなことを書いていますが、光太郎の筆跡、味のあるいい字ですね。当方、光太郎独特の崩し方にもだいぶ慣れてきました。

「高村光太郎歿後年譜」は、このブログの昨年末に書いた「回顧2017年」全4回を基にしています。


頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでこちらまでご連絡ください。


【折々のことば・光太郎】

人体を一つの物質と見て、何等の余分な甘味をも加へず、モデルを唯モデルとして彫刻しても其処に立派な芸術が成立つ筈である。ノイエ ザツハリヒカイトの彫刻の如しだ。その為には強盛な造形的意欲がいる。強盛な造形的意欲無しには物質自然の機微に迫る事覚束ない。

散文「」彫刻新人展評 文部省美術展覧会」より
 昭和11年(1936) 光太郎54歳

「ノイエ ザツハリヒカイト」は、独語で「Neue Sachlichkeit」。「新即物主義」と訳され、第一次大戦後に興った芸術運動です。モデルのポーズや表情などにより何かを物語らせる「表現主義」の対極に位置し、徹底したリアリズムに立脚しています。どうも光太郎、自身の肖像制作などで、この方面に興味を抱いていたように思われます。

新刊情報です。

2018年4月1日 中村稔著 青土社 定価2,800円+税

日本近代芸術の扉を開いた巨人の生涯に迫る

西欧留学体験、『智恵子抄』には描かれなかった智恵子との壮絶な愛、太平洋戦争とその後の独居生活…。その魂の軌跡をとおして生涯と作品に迫る、画期的にして、決定的な高村光太郎論。

目次

第一章 西欧体験
第二章 疾風怒濤期――「寂寥」まで
第三章 『智恵子抄』の時代(その前期)
第四章 「猛獣篇」(第一期)の時代
第五章 『智恵子抄』(その後期)と「猛獣篇」(第二期)
第六章 アジア太平洋戦争の時代
第七章 「自己流謫」七年
あとがき


詩人として、昭和42年(1967)、詩集『鵜原抄』で高村光太郎賞を受賞され、弁護士としては、不幸にして起こった光太郎作品をめぐる著作権裁判で原告側代理人を務められた中村稔氏の書き下ろし最新刊です。
明治末、光太郎20代の海外留学期から、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活までを追った評伝で、全534ページの大作です。根底には光太郎への限りないリスペクトを持ちつつも、批判すべき点は批判し、その上一貫してブレない光太郎観が展開されていて、534ページですが、当方、ほぼ一気に読み通しました。そのすべてに首肯できるわけではありません(戦後、花巻郊外太田村の粗末な山小屋で送った7年間の蟄居生活を「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとしている点など)が、「なるほど」と思わせる部分が多い好著です。

特徴として、氏自身も本書中で言及されていますが、光太郎詩文の引用部分が多いことが挙げられます。引用の切り貼りだけではどうにもなりませんが、どういった作品を引用するかの適切な判断と、引用部分に対する的確な評において、本書は成功しています。

評伝というもの、やはり、本人の言にあたるのが一番です。しかし、それをそのまま文字通りに鵜呑みにするのでなく、行間を読み、裏側を読むことも必要です。また、本人の言だけでなく、周辺人物のそれにも目を向ける必要もあります。中村氏は、光太郎実弟・豊周や、太田村に光太郎を呼び寄せた佐藤勝治らの回想も効果的に引きつつ、論を展開されています。

驚くべきは、中村氏、失礼ながら昭和2年(1927)のお生まれで、御年91歳。それでいて、同じ青土社さんから、一昨年には『萩原朔太郎論』(548ページ)、『西鶴を読む』(313ページ)、昨年には『石川啄木論』(528ページ)、『故旧哀傷: 私が出会った人々』(286ページ)と、次々に新刊を刊行されています。おそらくこれらも書き下ろしでしょう。

一昨年、信州安曇野の碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として、記念講演をさせていただいたのですが、その日に中村氏が同館にいらっしゃいまして、お話をさせていただきました。

その際にも今回の光太郎論を含む新著をご執筆中で、一気に刊行なさるというお話でした。失礼ながら、「無理でしょう」と心の中で呟いていたのですが、本当に実現されてしまいました。脱帽です。

さらに驚くべきは、「あとがき」によれば、第7章の部分はもっと長かったのを、他の章との均衡を図るため圧縮、さらに本書に収録されなかった、光太郎最晩年の再上京後についても既に書き上げられていて、本書とは別に刊行するおつもりだということ。

そちらにも期待したいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

書は一種の抽象芸術でありながら、その背後にある肉体性がつよく、文字の持つ意味と、純粋造型の芸術性とが、複雑にからみ合つて、不可分のやうにも見え、又全然相関関係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。
散文「書の深淵」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

昭和20年(1945)から7年間の、花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、光太郎は彫刻らしい彫刻は作りませんでした。その代わりに(ただし、「代償行動」という意味に非ず)書を多く書きました。もともと能筆だった光太郎の書が、太田村での7年間でさらに進化を遂げ、書家の石川九楊氏に「「精神」や「意思」だけが直裁に化成しているような姿は、他に類例なく孤絶している。」「高村光太郎の書は、単なる文士が毛筆で書いた水準をはるかに超えた、もはや見事な彫刻である。」と言わしめました。

思うに光太郎にとっての書とは、詩歌によって追い求めてきた言語の美としての部分と、彫刻によって成し遂げんとした造形美の部分とを併せ持つ、究極の芸術だったのかもしれません。

大阪在住、高村光太郎研究会員の西浦基氏から新著が届きました。 

高村光太郎小考集

2018年1月28日  西浦基著  発行 牧歌舎  発売 星雲社  定価1,800円+税

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帯文より
高村光太郎の作品と人生に独自の視点から迫る労作

彫刻家であり、詩人である高村光太郎。かの『智恵子抄』の作者でもある光太郎の一連の作品の紹介に加え、寡黙であるが故に強そうに見えて優柔不断なところもあるその人生を余すところなく探求する。
後半部ではロダンやミケランジェロの見聞など、著者のヨーロッパ旅行記も掲載。

目次
第Ⅰ部 高村光太郎小考集
はじめに  自伝・略歴
第一章  高村光太郎の詩:「レモン哀歌」、他
根付の国 レモン哀歌 『暗愚小伝』二十篇の中の「二律背反」から:協力会議
第二章  高村光太郎の選択 流された選択・迷った選択・断固たる選択
第三章  彫刻に燃える ロダンとロダンに師事した荻原守衛とロダンに私淑した高村光太郎と
1 美しい二つのロダン美術館  2 ロダンの紹介  3 ロダンの出世作と女と艶裸体 
4 バルザック 
 5 ロダンの対人関係  6 ロダンの欲と創意工夫
7 ロダンに魅了された人々
  8 ロダンが下彫り職人、鋳造職人に厳しく指示した訳
追悼文その1 追悼文その2
第四章  高村光太郎の「伊太利亜遍歴」を見る
1 清浄なるスイスから  2 「ヹネチアの旅人」と随筆「伊太利遍歴」と絵ハガキと
3 著者個人の旅行の模様  4 琅玕洞(グロック・アズーラ)  5 ポンペイ
第五章  一枚の写真
碌山の恋
第六章  あぁ! わが青春の『智恵子抄』
1 詩集『智恵子抄』から見る描写の変遷  2 詩集『智恵子抄』誕生の経緯
3 詩集『智恵子抄』と随筆「智恵子の半生」の矛盾
第七章  高村光太郎の「AB HOC ET AB HAC」から 明治43年『スバル』に発表
第八章  『画論(アンリイ・マテイス)』高村光太郎訳(一九〇八年(明治四十一年)十二月)
1 マチスとの関わり  2 上から目線の光太郎  3 『画論(アンリイ・マテイス)』
4 荻原守衛との交誼とマチスから受けた影響を考える  
5 高村光太郎の模刻する技術力の高さを見る
6 高村光太郎の「彫塑総論」と「彫刻十個條」(全集四巻)
7 高村光太郎の贅肉についての文章を見る  8 『十和田湖畔の裸婦群像』を見て
9 智恵子をイメージできたかどうかについての、光太郎の芸術家としての脳内を考える
10 『十和田湖畔の裸婦群像』制作の頃
11 完成頃の関係者との会食時の挨拶メモ  12 制作
13 像建設の経緯について  14 ロダンと荻原守衛と高村光太郎の違いを見る
15 ロダンと荻原守衛と高村光太郎の作品に就いて  16 ある共同討議での事
17 『十和田湖畔の裸婦群像』の中型試作通称「みちのく」の顔は誰に似ているのだろうか?
18 『画論(アンリイ・マテイス)』と『十和田湖畔の裸婦群像』  19 総括として
第Ⅱ部 楽の断片
第一章 旅愁のパリ(フランス:二〇〇九年七月)
詩と恋愛 パリの夕暮れ 考える人を見る ロダンの恋 ジベルニー近郊のセーヌ川の朝
エトルタの海岸
  絶景エトルタの機転(クールベとモネ) サラサラ サラ 
初夏の青空(オンフルール) 旅愁(オンフルール)
年表
第二章 怒濤の嵐、船内のジャズ(イギリス:二〇一〇)年秋
『ロダンの言葉』ポール・グゼル筆録・高村光太郎訳 カレーの市民 ドーバー海峡
二〇一一年(卯年)春
 (献句) 犬句 犬柳 犬歌 沈まぬ夕陽
第三章 哀の六根 楽の六根 官能のシックスセンス
(晩八句) 高村光太郎に思いを馳せる・楽のひと時 (晩歌)平成二十四年七月三十一日
晩歌(母の死を悼む)  生を一考 お葬式 旅愁(マッターホルン) 哀の六根 楽の六官
官能のシックスセンス
第四章 歴史のひとこま―ガリレオ
概要 科学と宗教 異端審問所はガリレオを拷問にかけたか
第五章 美しき国ドイツ:二〇一一年秋
ケルン 妖精の生まれる国(デュッセルドルフ) ベルリン(ウンター・デン・リンデン)
マイセン
  ドレスデンの朝 アルテ・マイスター プラハ
第六章 清浄なるスイスとリヨン:二〇一二年十月
参考文献


一昨日届いたばかりで、まだ読んでおりませんが、とり急ぎ、ご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

美とは決してただ奇麗な、飾られたものに在るのではない。事物ありのままの中に美は存するのである。美は向うにあるのではなく、こちらにあるのである。

散文「美」より  昭和14年(1939) 光太郎57歳

この頃から光太郎は、頼まれて筆を執る色紙などの揮毫に「美しきもの満つ」「美ならざるなし」といった言葉を好んで書くようになります。

昨日に引き続き、最近の頂き物から。昨日ご紹介した『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』を書かれた逸見久美先生の弟子筋に当たられる、小清水裕子氏(今年の連翹忌にご参加下さいました)の御著書です。 

歌人 古宇田清平の研究――与謝野寛・晶子との関わり――

2014年6月30日 小清水裕子著 鼎書房 定価6,500円+税

新資料となる、清平宛与謝野寛・晶子の書簡を翻刻。書簡から第二次「明星」「冬柏」の発刊意義を考察する。

目次
 序 古宇田清平の研究にあたって
 第一章 古宇田清平その人物像と与謝野寛・ 晶子との関係
  作歌活動一覧 清平略年譜 清平宛 寛・晶子書簡一覧
  清平農業関係論文・著書一覧
 第二章 清平の投稿時代(大正三年~大正十年十月)
  第一節 投稿時代とその作品
  第二節 第二次『明 星』復活に向けて
 第三章 清平の第二次『明星』時代(大正十年十一月~昭和
四年)
  第一節 第二次『明星』発刊意義
  第二節 第二次『明星』での清平
  第三節 第二次『明星』時代とその作品
   一、清平歌集出版に向けて
   二、盛岡時代
   三、野の人の生活・山形県戸沢村時代
    ①寛・晶子の十和田吟行
    ②第二次『明星』終刊から『冬柏』へ
 第四章 清平の『冬柏』時代(昭和五年~昭和十年)
  第一節 『冬柏』発刊意義
  第二節 『冬柏』時代とその作品
   一、山形県豊里村時代
   二、青森へ
 結 本研究の意義と今後の課題
 参考文献 
 資 料
  清平詠歌集
   一、『摘英三千首 與謝野晶子撰』(大正六年十月二十日)
   二、第二次『明星』(大正十年十一月~昭和二年四月)
   三、『冬柏』(昭和五年四月~昭和十年一月)
  清平宛 寛・晶子書簡集
 引用・参考文献
 あとがき
010

古宇田清平(明治26年=1893 ~ 平成2年=1990)は、第二次『明星』、『冬柏』に依った歌人ですが、いわゆる専門の歌人ではなく、九州や東北で農業技師として働きながら作歌に励みました。ある意味、宮沢賢治を彷彿とさせられましたが、古宇田は盛岡高等農林学校の出身で、賢治の先輩に当たります。その実生活に根ざした歌の数々が鉄幹・晶子の目に止まり、新詩社の主要な同人として迎えられています。ただ、地方歌人という先入観もあったのでしょう、かつては注目されることのほとんどなかった人物です。当方も存じませんでした。

その古宇田の評伝をメインとしつつ、こうした地方歌人が重用された第二次『明星』、『冬柏』の位置づけに言及する労作です。

第二次『明星』の創刊(復刊)は、大正10年(1921)。光太郎外遊中の明治41年(1908)に第一次『明星』が廃刊してから13年の時を経てのことでした。古宇田に宛てた復刊当時の鉄幹・晶子の書簡などによれば、同人に自由に作品を発表してもらう、総合文芸誌的な方向性でした。第一次の頃から新詩社の秘蔵っ子だった光太郎も、その復刊第一号に寄せた有名な詩「雨にうたるるカテドラル」をはじめ、実にさまざまなジャンルの作品を発表しています。短歌、詩、エッセイ、評論、翻訳(戯曲、詩、散文)、果ては絵画まで。

ただ、同誌は店頭販売ではなく申し込みによる直接購読を主としたことや、鉄幹・晶子が『日本古典全集』など他の仕事にも多忙を極めたことなどから、昭和2年(1927)に休刊(事実上の廃刊)となりました。しかし、『明星』復活への希望は抑えがたく、それまでのつなぎとして、総合文化誌の体裁ではなく詩歌方面に内容を限定した『冬柏』が創刊されたとのこと。当方、その辺りの事情には暗かったので、なるほど『明星』時代にはさまざまなジャンルの作品を寄せていた光太郎も、『冬柏』になるとそれがぐっと減ったのはそういうわけか、と膝を打ちました。

そしてメインの古宇田の歌。第二次『明星』、『冬柏』時代のものはほぼすべて網羅され、しかも一首ごとに細かく評釈がなされていて、理解の手助けとなりました。中には戦後の花巻時代の光太郎がたびたび逗留し、当方も定宿としている大沢温泉さんでの作などもありました。他にも技師として赴任した盛岡や山形での作には、やはり彼の地の厳しい冬を読んだものが多く、光太郎の詩との類似点を感じました。

もっと注目されていい歌人だというのはその通りだと思いました。


もう1点、同じ小清水氏から、日本文学風土学会さんの紀要『日本文学風土学会紀事』第41号の抜き刷りもいただきました。題して「与謝野寛・晶子の渡欧」。

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奥付等が無いのですが、今年3月発行の『碌山美術館館報』第37号を参照されたとのことですので、つい最近のものでしょう。

参照された点は、外交資料館さんに残されている「外国旅券下附表」の記載。パスポートの申請に際し、「旅行目的」という項目も報告することになっており、荻原守衛は「修学」、光太郎は「美術研究」、では、明治44年(1911)に渡欧した鉄幹、翌年にそれを追った晶子は、ということで、調べられたとのこと。それによれば鉄幹は「芸術研究ノ為」、晶子は「漫遊ノ為」だそうです。

第一次『明星』廃刊後、スランプに陥っていた鉄幹に、見聞を広め、新たな創作の動機づけとしてほしいとの思いから、晶子が「百首屏風」などを作って金策にかけずり回り、鉄幹を欧州へと送り出しました。渡航後の鉄幹は、ぜひ晶子にも彼の地の風物を見て欲しいと、晶子を呼び寄せます。鉄幹は船旅でしたが、晶子はシベリア鉄道を使っての欧州行となり、鉄幹は晶子宛の書簡で、できれば欧州の事情に通じている光太郎を連れてくるよう指示しました。結局、光太郎の同行はかないませんでしたが、それなら経由地から送る電報の文面は光太郎に書いてもらっておけという指示も、鉄幹が出しています。いかに夫妻が「秘蔵っ子」光太郎を頼りにしていたかがわかるエピソードです。

このあたり、当方、逸見先生編の『与謝野寛・晶子書簡集成』(八木書店)で読んでいるはずなのですが、もう一度当たってみようと思いました。

与謝野夫妻、パリでは光太郎からアトリエを引き継いだ梅原龍三郎の世話になったり、ロダンを訪ねていたりもしています。この辺も興味深いところです。


こうした、寄稿した雑誌や周辺人物との絡みなどから見えてくる光太郎の姿、また違った一面が見えてくるものだな、と実感させられました。

また近々、他の方から頂き物が届く手はずになっており、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

活人剣即殺人剣だ。
散文「味ふ人」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

雑誌『現代之美術』第4巻第3号「女性と芸術」号に寄せた文章です。まだ送りがなのルールが確定していない時代ですので「味ふ」で「あじわう」と読みます。

埃及以来数千年間に女流の美術家が出なかつたからといつて、今後数千年間にやはりでないだらうとは云へない。しかし今日迄然うであつた「事実」の底には何か執拗な自然の理法があるやうに思ふ。」と始まるこの文章、決して女性は駄目だ、と言っているわけではなく、女性が芸術家として大成するためには、男性以上にさまざまなことを犠牲にせねばならないという点に主眼があります。そこで、「活人剣即殺人剣だ」というわけです。

光太郎が想起していたのは、男女の分担が可能な家事労働という部分ではなく(光太郎はかなり家事も行っていました)、決して男性には担えない出産、育児という部分でしょう。育児は違うだろう、と突っ込まれるかもしれませんが、「イクメン」であっても、母乳は出せません。

そこで、同じ文章には「其を思ふと、女性で美術家にならうとする人を痛ましくさへ感ずる。悲壮な感じを受ける。むろん普通の女性としての一生を犠牲にしてかからねばならない事で中々なまやさしい甘つたるい事ではあるまいと思ふ。」とも書かれています。「出産を放棄する」=「普通の女性としての一生を犠牲にする」、つまり、「産まない」という選択は普通ではない、という考え方ですね。たしかにすべての女性が「産まない」という選択をしてしまったら、人類は滅びてしまうわけですが……。

このあたりで止めておけばよいものを、こんなことも書いています。

女性は偉大な男性の文芸家を生み、育て、教訓し、又激励した事の方で、今日まで人類に貢献してゐた。」「私が一番女性に望むのは、美術をほんとに深く「味ふ」人になつてもらいたい事だ。受け入れて「味ふ」能力は或は一般の男性よりも多いかと思ふ。元来「受け入れる本能」と「創造する本能」とは根本から違つてゐて、女性は前者の本能に富んでゐるやうに作られたかと思はれる位だ。

画家としてその力を発揮できぬまま心を病んだ智恵子も、この文章を読んだ可能性が高いと思います。結局、光太郎は自分の画を認めてくれないと悟った智恵子の衝撃はいかほどのものだったのでしょうか。

余談になりますが、「智恵子は光太郎に潰された」的な要旨のいわゆるジェンダー論者の論考を時折眼にします。そうした論者がこの文章を読んだら、「それ見たことか」と、鬼の首でも取ったように扱いそうな内容なのですが、従来、ほとんどといっていいほどこの文章は注目されていません。不思議なものです。

少し前に刊行されたものですが、最近戴いた書籍をご紹介します。 

夢二と久允 二人の渡米とその明暗

2016年4月30日 逸見久美著 風間書房 定価2000円+税

著者の父・作家翁久允は竹久夢二の再起をかけて同伴渡米を決行する。久允の奔走、邦字新聞「日米」争議、夢二との訣別―。日記や自伝をふまえ、二人の運命の軌跡を辿る。

目次
 一 ふとした機縁から001
 二 落ちぶれた夢二の再起をはかる久允
 三 翁久允とは
 四 夢二との初対面の印象
 五 夢二画への憧れ
 六 榛名山の夢二の小屋からアメリカ行き
 七 夢二と久允の世界漫遊の旅と夢二フアン
 八 久允の『移植樹』と『宇宙人は語る』
           ・『道なき道』の出版
 九 久允の朝日時代
一〇 いよいよアメリカへ向かう前後の二人
一一 「世界漫遊」に於ける報道のさまざま
一二 夢二にとって初の世界漫遊の船旅
一三 ハワイへ向かう船中の二人とハワイの人々
一四 ホノルルに於ける夢二と久允の記事の数々
一五 いよいよアメリカ本土へ
一六 「沿岸太平記」―「世界漫遊」の顛末
一七 年譜にみる夢二の一生
一八 渡米を巡っての夢二日記
 あとがき

著者の逸見久美先生は、与謝野鉄幹晶子研究の泰斗。連翹忌にもご参加いただいております。光太郎が『明星』出身ということもありますが、お父様の翁久允(おきなきゅういん)と光太郎に交流があったあったためでもあります。

翁は明治40年(1907)から大正13年(1924)まで、シアトルとその周辺に移民として滞在、現地の邦字紙などの編集や小説などの創作にあたっていました。帰国後、東京朝日新聞に入社、『アサヒグラフ』や『週刊朝日』の編集者として活躍します。そして、『週刊朝日』に掲載するため、それまでの文部省美術展覧会(文展)から改称された帝国美術院展覧会(002帝展)の評を光太郎に依頼しています。『夢二と久允』巻末に、光太郎からの返答が紹介されています。

御てがみ拝見、
ホヰツトマンの引合はせと思ふと、
大ていの事は御承諾したいのですが、昔から毎年荷厄介にしてゐる帝展の批評感想だけは、おまけに十六日開会で十七日に書いてお届けするといふやうな早業ときたら、とても私には出来ない仕事ですよ。
私ののろくさと来たらあなたがびツくりしますよ。
此だけは誰かに振りかへて下さい、
   翁久允様 六日夜 高村光太郎

封筒が欠落しており、便箋のみ翁遺品のスクラップ帳に貼り付けてあったとのことで、消印が確認できないため、年が特定できません。

3年ほど前、逸見先生から「うちにこんなものが有りますよ」と、情報をご提供いただいた際、「帝展」「十六日開会」というキーワードで調べれば、何年のものか特定できるだろう、とたかをくくっていましたが、いざ調べてみると、翁が『週刊朝日』編集長を務めていた時期の帝展は、昭和2年(1927)の第8回展から同6年(1931)の12回展までがすべて10月16日開会で、この間としか特定できませんでした。

同書には他に三木露風、今井邦子、宇野千代、堀口大学、吉屋信子、吉井勇、横光利一、鈴木三重吉、中原綾子、吉川英治らからの書簡の画像も掲載されています。翁の顔の広さが偲ばれますが、本文を読むと、さらに田村松魚・俊子夫妻、田山花袋、菊池寛、北原白秋、西條八十、堺利彦、直木三十五、相馬御風、岸田劉生、川端康成、有島生馬ら、綺羅星の如き名が並んでいます。

そして竹久夢二とは、大正15年(1936)が初対面でした。当方、夢二には(特にその晩年)、あまり詳しくないので意外といえば意外でしたが、この頃になると夢二式美人画のブームが過ぎ、落魄の身だったそうです。翁はそんな夢二をもう一度世に押し出そうと、世話を焼いたそうです。

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こちらは同書に掲載されている、たびたび翁家を訪れていた夢二がが描いたスケッチ。描かれているのは逸見先生とお姉様です。逸見先生、「少しこわい小父さん」というイメージで夢二を記憶されているとのこと。しかし、生前の夢二をご存じというと、「歴史の生き証人」的な感覚になってしまいますが、失礼でしょうか(笑)。

お父様はかなり豪快な方だったようで、もう一度夢二を陽の当たる場所に、という思いから、朝日新聞社を退職、その退職金をつぎ込んで、夢二を世界漫遊の旅に連れ出しました。昭和6年(1931)のことです。行く先々で夢二が絵を描き、展覧会を開いてそれを売り歩くという、興行的な目論見もあったとのこと。

しかし、ある意味性格破綻者であった夢二との同行二人はうまくいくはずもなく、旅の途中で二人は決裂してしまいました。夢二は昭和8年(1933)に帰国しましたが、翌年、結核のため淋しく歿しています。


ちなみに、遠く明治末の頃、ごく短期間、太平洋画会に出入りしたという夢二は、そこで智恵子と面識があったようです。明治43年(1910)の夢二の日記に智恵子の名(旧姓の長沼で)が現れます。8月21日の日付です。

家庭の巻頭画の長沼さんの画いたスケツチが出てゐる、実に乱暴な筆で影の日向をつけてある、まるで油のした絵のよふなものだ、女の人がこうした荒い描き方をする気がしれない、ラツフ、印象的な、この頃 外国で試みられてゐるあの筆法に自信をはげまされたのであろうけれど、外国の人々のやる荒い乱暴に見える描き方と この女作家のとは出発点と態度が違ふよふにおもはれる、やはり謙遜な純な心で自然を見てその時のデリケートな或はサブライムな感じをそのまゝ出せばあゝした印象風なフレツシユなものが出来るのだとおもふ、はじめつから、一つ描いてやろうといふ考へでやつたつてもだめではないかしら。

「家庭」は智恵子の母校、日本女子大学校の同窓会である桜楓会の機関誌。署名等がないので巻号が特定できませんが、智恵子がたびたび挿画やカットを寄せました。

さらに前月14日には、神田淡路町に光太郎が開き、この頃には大槻弍雄に譲られていた画廊・琅玕洞の名も。

隈川氏来る。共に琅玕洞へゆく。柳氏の作品を見る。下らないものばかり。更に感心せず。

「柳氏」は光太郎の親友・柳敬助。妻の八重は智恵子の女子大学校での先輩で、光太郎と智恵子を結びつけました。

智恵子や柳の作風と、夢二のそれとでは相容れないものがあるのはわかりますが、けちょんけちょんですね(笑)。こうした部分にも夢二という人物が表れているような気がするのは、智恵子・柳に対する身びいきでしょうか。


閑話休題。『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』。実に読み応えがあります。また、その名が忘れ去られかけている翁久允の伝記としても、興味深いものです。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

彫刻を見て、主題の状態を第一に考へる人は極めて幼稚な鑑賞者です。又さういふ処をねらつて製作する彫刻家は幼稚な作家です。

散文「彫刻鑑賞の第一歩」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

彫刻作品を見る際、「主題の状態」つまり「5W1H」に気を取られてはならない、ということです。同じ文章の中で、ミケランジェロのダビデ像を例に、「ダビデがゴライヤスを撃たんとして石を手にしてねらつてゐる所」というのは、「此の彫刻の一時的価値の中には這入りません」としています。また、両腕の欠損してしまっているミロのヴィーナスのように「何をしている所といふ事が殆ど問題にならない程人の心を動かすものが善いのです」とも。

光太郎自身、留学前は「5W1H」に囚われた愚劣な彫刻を作っていた、と反省しています。「滑稽な主題と構想」「俄芝居じみた姿態」というふうに。

当方も加入しております団体、高村光太郎研究会の年に一度の研究発表会です。

第62回高村光太郎研究会

期   日 : 2017年11月18日(土)
時   間 : 午後2時から5時
会   場 : アカデミー向丘 東京都文京区向丘1-20-8
参 加 費 : 500円
問い合わせ : 03-5966-8383 (野末)

研究発表 :
 「吉本隆明「高村光太郎」再訪」      赤崎  学氏
 「詩作品に見る『をぢさんの詩』の位置」  岡田 年正氏

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当会顧問にして、晩年の光太郎に親炙した北川太一先生が、例年、ご意見番としてご参加下さっていますが、今年は夏頃からお加減がよろしくないとのことで、どうなりますことやら、です。

組織としての研究会には入会せず、発表のみ聴くことも可能です。入会すると年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付され、そちらへの寄稿が可能です。

研究発表会への事前の参加申し込み等は必要ありません。直接、会場にいらしていただければ結構です。ぜひ足をお運び下さい。終了後には懇親会も予定されています(別途料金)。
 

【折々のことば・光太郎】

大地無境界と書ける日は 烏有先生の世であるか、 筆を投げてわたくしは考へる。

詩「大地うるはし」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた、花巻郊外太田村役場の新築落成記念に贈った「大地麗」の書に寄せた詩です。

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「烏有先生」は、漢の司馬相如「子虚賦」に登場する架空の人物。「烏有」は訓読すれば「烏 ( いづ ) くんぞ有らむや」、反語で「どうして有るだろうか、有るはずがない」の意。

つまり、大地に国境などの境界がなくなることは、現実にはあり得ないのだろうか、ということになります。この詩が書かれた昭和25年(1950)と言えば、朝鮮戦争。国内でもそのあおりで、自衛隊の前身である警察予備隊が創設されるなどしています。

全国に47の教室を展開するNHK文化センターさんの講座で、光太郎が取り上げられます。ともに東北で、仙台といわきです

「多様性を発展東北ゆかりの作家たち

会 場 : NHK文化センター仙台教室006
       仙台市青葉区立町27-21
        仙台橋本ビルヂング2F
期 日 : 2017/10/3~12/19の第1・3火曜 (全6回)
時 間 : 15:30~17:00
講 師 : 宮城教育大学名誉教授 渡辺善雄
料 金 : 受講料(税込み)16,848円
       資料がある場合は別途コピー代

太宰治、石川啄木、斎藤茂吉らは東北出身です。島崎藤村は教師として仙台に赴任し、高村光太郎は花巻に疎開しました。東北の風土を背景に、どのような文学が形成されたのか考えます。

宮澤賢治の世界 交友編

会   場 : NHK文化センターいわき教室012
        いわき市平字小太郎町3-4
         NHKいわき放送会館
期   日 : 2017/10/16(月)・11/13(月)・12/11(月)
         (全3回)
時   間 : 13:00~14:30
講   師 : いわき賢治の会会長/賢治学会会員 小野浩
料   金 : 会員 6,091円  一般(入会不要) 6,739円
         資料代別途

賢治の生涯は37年間でしたが、生前、詩人・童話作家として評価されず、中央で活躍する場はありませんでした。当時、賢治の才能を絶賛していたのが草野心平でした。
さらに心平の詩友・黄瀛(こう・えい)、そして高村光太郎。賢治と3人の交友を学びます。


小野氏は連翹忌ご常連。いわき市立草野心平記念文学館にお勤めで、昨日ご紹介した二本松市の「智恵子講座」でも講師を務められたことがあります。その他、あちこちのイベントでご一緒させていただいております。



それぞれ残席がまだあるとのこと、お近くの方、ぜひどうぞ。


ちなみに、賢治といえば、明日のテレビ放映で賢治や光太郎が愛した花巻の大沢温泉さんが取り上げられます。

朝だ! 生です旅サラダ013


地上波テレビ朝日 2017年9月30日(土)
                                   8時00分~9時30分

◇内容I ゲストの旅
 和歌山出身の田中理恵さんが念願の白浜へ!海と温泉のリゾート地・白浜で、初めての白良浜&(秘)グルメ&パワースポットを楽しんだ後、海と一体に見えるお風呂の絶景に感激!さらに、レジャーランドで人気のパンダ&イルカを満喫…そして感涙!?
◇内容Ⅱ 海外の旅
 様々なルーツを持つ人々が暮らす多民族国家・シンガポールで、世界の文化を楽しみます!カラフルで可愛い“プラナカン"文化やアラブ街、インド街を巡ります。また、夜だけ営業するナイトサファリを体験!ヒョウ、ライオンなど、夜行性の動物たちが活発に動く姿に感激!
◇内容Ⅲ 俺のひとっ風呂
 「宮沢賢治の愛した湯治宿」を目指します!カッパ伝説の町・遠野からスタートし、カッパ釣りに挑戦!?ミネラル分の豊富な水を与えられて育つブランドポークを味わい、目的の湯治宿へ!川のせせらぎを聞きながら、宮沢賢治も浸かったという露天風呂を楽しみます。
◇内容Ⅳ ヒロドが行く!日本縦断コレうまの旅
 “くいだおれの街"大阪の最終回!今回は、夜の街でコレうま探し!美食家が集まる大人の隠れ家に、ヒロド驚愕!繁華街・北新地なども巡り、プレゼントに選んだのは!?
◇内容Ⅴ 生中継のコーナー
 ラッシャー板前が、福井県・越前町からリポート!「太アナゴ&越前さかなまつり」をご紹介!

出演者 神田正輝 向井亜紀 勝俣州和 三船美佳 ラッシャー板前 森川侑美(旅サラダガールズ)
      ヒロド歩美(ABCアナウンサー) 田中理恵(体操・元日本代表)

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

東洋の美はやがて人類の上に雨と注ぎ、 東洋の詩は世界の人の精神の眼にきらめくだらう。 夏の雲のやうに冬の星のやうに、 朝の食卓の白パンのやうに、 夜の饗宴のナイフのやうにフオクのやうに。

詩「東洋的新次元」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

戦時中、翼賛詩として「西洋」に対峙する「東洋」を礼賛していた光太郎ですが、自らの戦争責任にいたいする深い反省を経たあとは、よりグローバルな視点から「東洋」の発展を願う方向に転じています。

新刊です。勇ましい題名ですが、いわゆる「愛国者」が期待するような内容ではありません。しかし、本当はそういう人々にこそ読んで欲しいものですが、まあ、無理でしょう。

飛行機の戦争1914-1945 総力体制への道

2017年7月20日  一ノ瀬俊也著 講談社(講談社現代新書) 定価920円+税

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なぜ国民は飛行機に夢を託し、人、金、物を提供したのか――。

貧しい人びとの出世の手段としての航空兵。
国民一人一人がお金を出しあって飛行機をつくる軍用機献納運動。
博覧会や女性誌・少年誌で描かれる「空」への憧れ。
防空演習ですり込まれる空襲の恐怖と、空中国防の必要性。
松根油の採取、工場への学徒動員。
学校、親への「説得」を通して行われる未成年の航空兵「志願」……

巨大戦艦による戦争が古い〈軍の戦争〉であるとすれば、飛行機は新しい〈国民の戦争〉だった! 日本軍=大艦巨砲主義という通説をくつがえし、総力戦の象徴としての飛行機に焦点をあて、膨大な軍事啓蒙書などを手がかりに、戦前、戦中の現実を描き出す一冊。

 第一章 飛行機の衝撃――大正~昭和初期の陸海軍航空
   1 飛行機の優劣が勝敗を分ける――航空軍備の建設
   2 飛行機と戦艦
   3 墜落と殉職――人びとの飛行機観
 第二章 満洲事変後の航空軍備思想
   1 軍用機献納運動
   2 海軍と民間の対国民宣伝――「平和維持」と「経済」
   3 空襲への恐怖と立身出世
 第三章 日中戦争下の航空宣伝戦
   1 「南京大空襲」――高揚する国民
   2 飛行機に魅せられて――葬儀・教育・観覧飛行
 第四章 太平洋戦争下の航空戦と国民
   1 太平洋戦争の勃発――対米強硬論と大艦巨砲主義批判
   2 航空総力戦と銃後

日中戦争・太平洋戦争における旧日本軍の敗因の一つとして、いわゆる「大艦巨砲主義」に拘泥するあまり、機動性に優れた航空機による戦闘へのシフトがうまくいかなかったといわれています。当方も漠然とそう思っていましたし、本書では戦後の検証論文等でのそうした記述の実例が複数挙げられています。たしかに「大和」「武蔵」に代表される巨大戦艦を擁しながら、それらがほとんど戦果を挙げられなかったという一面は否定できません。

しかし、陸海軍ともに、かなり早い時期から航空戦の重要性を認識し、実際の戦闘ではそれが中心だったこと、そのために国民への啓蒙、そして協力の強制がなされていたことが、図版等も使いながら豊富な実例をもとに検証されています。

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そうした中で、民間から拠金を募っての「軍用機献納運動」が広く行われたことも、紹介されています。「戦艦献納運動」も同時に行われていましたが、艦艇は一隻あたりの建造費が巨額となり、その点、航空機であれば割り当てが少額で済みます。そこで、道府県や市町村単位で募金が集められ、献納された機体には「愛国○○号(○○は地名など)」が付けられて、各地で献納式などが行われました。また、人的な面でも、少年航空兵の募集などが必要でした。

こうした運動を推し進めるため、既に太平洋戦争開戦前から、これからの戦争は航空機が中心という考え方が広く国民に知らされており、決して「大艦巨砲主義」に拘っていたわけではないはずだ、というのです。

たしかに膨大な量が書かれた光太郎の翼賛詩の中にも、こうした動きを助けるためのものとおぼしき作品も散見されます。題名のみでそれと分かるものが「少年飛行兵」「ぼくも飛ぶ」「おほぞらのうた」「第五次ブーゲンビル島沖航空戦」「少年飛行兵の夢」など。散文でも「飛行機の美」「神風」など。

本書では、光太郎の「黒潮は何が好き」(昭和19年=1944)という詩を引用しています。初出は同年の『写真週報』です。

    黒潮は何が好き

 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。
 空母、戦艦、巡洋艦、003
 駆艦、潜艇、輸送船、
 「世界最大最強」を
 頂戴したいと待つてゐる。
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 来い、空母、
 来れ、戦艦、
 「世界最大最強」の
 メリケン製の全艦隊。
 色は紺染め、
 白波たてて、
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。


著者の一ノ瀬氏によれば、「異様な戦意高揚の詩」「戦時下対国民宣伝のもっとも陳腐な事例」「単に願望をつぶやいただけの空疎な詩」と、さんざんな評ですが、まったくもって、そう言われても仕方のない作品です。

ただ、実際に猛威を振るった「空母」が、無用の長物に近かった「戦艦」より前に位置づけられていることが、当時の戦闘の実態をちゃんと反映しているとも評されています。そこで一ノ瀬氏曰く「海軍は詩人に「空母を戦艦の前に置いて作詩してくれ」とわざわざ頼んだのであろうか」。そういうこともありえますね。それだけ航空機の重要性を国民に訴えたいということです。

しかし、彼我の生産力は如何ともしがたく、「皇軍」は壊滅するわけですが、戦後になって、先述の通り、その敗因は「大艦巨砲主義」にあったという論がまかり通ることになります。

一ノ瀬氏、明言は避けていますが、どうやら国民に多大な犠牲を強いた航空機献納運動、少年飛行兵の募集などを無かったことにするため、と考えられます。

現代においても、特にごく一部の「愛国者」と称する輩が、過去の我が国の過ちの数々を無かったことにしようとする動きが顕著ですね。そうしたことを論じるだけで、「反日」「偏向」「工作員」「パヨク」「左巻き」(笑)。

あったことは無かったことにできません。光太郎が戦後になって悔いた、プロパガンダ詩からもう一篇紹介しましょう。上記に題名を挙げた「少年飛行兵」(昭和18年=1943)。初出は同年の少年向け雑誌『週刊小国民』です。右の画像は、やはり光太郎詩「神州護持」(昭和19年=1944)が載った雑誌『主婦之友』に掲載された、航空機献納への募金呼び掛け広告です。

   少年飛行兵004

 「少年飛行兵は強い」と或人がいふ。
 わたくしもさう思ふ。
 少年の純真さは大人の比でない。
 少年はおのづからわき目もふらない。
 大人が修養で得るところを
 少年は天然に持つてゐる。
 それほど少年は未生前に近い。
 思ひつめたが最後
 きつとやりとげるといふ気迫を
 少年はみな持つてゐる。
 これを規律ある訓練で仕上げれば
 なるほどすぐれた飛行兵になるわけだ。
 その上神経反応の速度は
 十四歳でいちばん敏感になるのだ相(さう)だ。
 反応時のはやさは勝敗の鍵となる。
 航空戦に大人をしのぐ
 少年飛行兵のあることは当然だ。
 純なるものはここでも無敵だ。


航空戦に大人をしのぐ/少年飛行兵のあることは当然」という世の中に、再びしてはならないと、断じて思います。


【折々のことば・光太郎】

無謀の軍をおこして 清水の舞台より飛び下りしは誰ぞ。 国民軍を信じて軍に殺さる。 われらの不明われらに返るを奈何にせん。

詩「国民まさに餓ゑんとす」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

こういう反省も必要ない世の中であり続けてほしいものです。

花巻での刊行物2点、ご紹介します。

まず、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』第3号。創刊号第2号同様、裏表紙に花巻高村光太郎記念館さんの協力により「光太郎のレシピ」が連載されています。

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今回はカレーを中心に、付け合わせの漬物系。昭和21年(1946)の光太郎に日記には、カボチャの花や間引きした白菜(茎でしょうか)などを酢であえてみた的な記述があり、それを再現したようです。なかなか面白いアイディアですね。

オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊、年6回配本。送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


続いて、盛岡ご在住、光太郎の従妹・加藤照さんの子息・加藤千晴氏による冊子『光太郎と女神たち』。

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加藤氏、昨年5月の花巻高村祭でご講演をされ、その後、当方、ご自宅にお伺いし、照さんにもお目にかかりました。その際に、加藤家に伝わる光太郎書簡や古写真、光太郎の姉・さくが描いたという扇子(表紙に使われています)などを拝見しました。

それらの資料の紹介と共に、加藤家と光雲、光太郎らのつながりについてまとめられたものです。

こちらは非売品の扱いですが、お問い合わせは花巻高村光太郎記念館さんまで。


【折々のことば・光太郎】

少女立つて天を仰ぐは まことに聖なるものの凜たる像だ。

詩「少女立像」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

雑誌『少女の友』に掲載されました。もともと光太郎には婦人誌や少女誌からの原稿依頼が多く、他にも老境に入り、次代を担う若者達へのメッセージが目立つようになります。

詩人の豊岡史朗氏から文芸同人誌『虹』が届きました。毎号送って下さっていて、さらに創刊号~第3号第4号第5号第6号と、ほぼ毎号、氏による光太郎がらみの文章が掲載されており、ありがたく存じます。

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今号では「<高村光太郎論> 光太郎とパリ」。光太郎が明治41年(1908)から翌年にかけ、3年余に及ぶ欧米留学の最後に滞在したパリとの関わりを述べられています。

パリ時代を回想して作られた詩文がかなり網羅されており、短い稿の中ですっきりまとまっています。連作詩「暗愚小伝」中の「パリ」(昭和22年=1947)、随筆「遍歴の日」(同26年=1951)、長詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)、談話筆記「パリの祭」(明治42年=1909)、翌年のやはり談話筆記で「フランスから帰つて」、随筆「出さずにしまつた手紙の一束」(同43年=1910)、同じく「よろこびの歌」(昭和14年=1939)、さらには光太郎の実弟・豊周の回想も引かれています。

また、巻末の「パリの思い出」でも光太郎に触れられている箇所がありました。

当方は未だパリには行けずにおります。いずれ光太郎の辿った道のり、ニューヨーク、ロンドン、パリ、そしてスイスとイタリアの諸都市を廻ろうとは考えておりますが、いつになることやら(笑)。

パリといえば、親しくさせていただいているテルミン奏者の大西ようこさんが、先週、フランスのエクス=アン=プロヴァンスでコンサートをなされ、パリにも廻るとのことで、ぜひ光太郎が住んでいたカンパーニュ・プルミエル通り17番地界隈に行ってみて下さいと、資料をお渡し、画像を撮ってきて下さいとお願いもしました。そろそろ帰国されると思いますので、期待しております。

過日は、今年の連翹忌に初めてご参加下さった方から、ロンドンの光太郎ゆかりの場所を廻って来られたということで、多くの画像がメールで届きました。そちらも併せてご紹介しようと思っております。

ご期待下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間商売さらりとやめて もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の うしろ姿がぽつんと見える。

詩「千鳥と遊ぶ智恵子」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

舞台は3年前、智恵子の母・センと、妹・セツの一家が移り住んでおり、それを頼って心を病んだ智恵子が半年ほど預けられた、千葉の九十九里浜です。「智恵子抄」中の絶唱の一つとして、広く人口に膾炙している詩ですね。

ところが、「智恵子抄」に収められてしまうとそれが見えないのですが、この年の雑誌『改造』に初出発表された段階では、「詩五篇」の総題で連作詩のような形を取っていました。他の四篇は、やはり「智恵子抄」に収められた「値(あ)ひがたき智恵子」(明日、ご紹介します)、一昨日と昨日ご紹介した「よしきり鮫」、「マント狒狒」、そして割愛しますが「象」。後三篇は連作詩「猛獣篇」に含まれるものです。

「人間商売さらりとやめ」た智恵子は、もはや「猛獣」に近いものと認識されていたのかもしれません。ただし、光太郎曰くの「猛獣」は、獰猛な獣ということではなく、妖怪やら鯰やら駝鳥やらを含み、人間界に箴言、警句を発する者として捉えられています。

とすると、智恵子の発する箴言や警句は、そこまで智恵子を追い込んだ光太郎に対して向けられていると言えるのではないでしょうか。それを受けて光太郎は、それまでの世間との交わりを極力経っての芸術三昧的な生き方から、積極的に世の人々と交わる方向に舵を切ります。その世の中がどんどん泥沼の戦時体制に入っていったのが、光太郎にとっての悲劇でした。

先日、主に北海道の文学に注目する北方文学研究会さん発行の同人誌『北方人』の第27号を頂きましたが、その中で、釧路で発行されている文芸同人誌『河太郎』第43号が紹介されていました。光太郎に触れる論考が掲載されているとのことで、関係先(web上にアップロード作業をされている同誌サポーターの奈良久氏)に連絡をとったところ、無料で頂いてしまいました。恐縮です。

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光太郎に触れる論考は、『釧路新聞』記者の横澤一夫氏による「原始の詩人たちの時代 『 至上律 』 『 北緯五十度 』 『 大熊座 』」。

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昭和初期に北海道で発行されていた詩誌 『至上律』、『北緯五十度』、『大熊座』に関するもので、それぞれ弟子屈で開拓に当たりながら詩作を続けた更科源蔵を中核とした雑誌です。

このうち、『至上律』は光太郎の命名。他に発表したものからの転載が多いのですが、ヴェルハーレンの訳詩などを多数寄稿しています。この雑誌は戦後まで続き、隠遁生活を送っていた花巻郊外太田村のスケッチなども寄せました。

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『大熊座』は、昭和13年の刊行。一号で終わってしまいましたが、詩「夢に神農となる」、「高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布」の広告を寄せています。

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『北緯五十度』には光太郎の寄稿は確認できていません。

これら三誌をめぐり、更科と光太郎以外にも、さまざまな人物が関わっています。伊藤整、尾崎喜八、猪狩満直、草野心平、真壁仁、森川勇作……いずれも光太郎と因縁浅からぬ面々です。それらの織りなす人間模様について詳しく述べられ、興味深く拝読致しました。

さらに昨日ご紹介しましたが、今年の明治古典会七夕古書大入札会に、光太郎のものを含む、更科の詩集『種薯』(昭和5年=1930)を特集した雑誌『犀』(同6年=1931)のための草稿類が出品されており、奇縁を感じました。

先述の通り、web上にアップロードされています。是非お読み下さい。


【折々のことば・光太郎】

――原始、 ――還元、 ――岩石への郷愁、 ――燃える火の素朴性。

詩「荻原守衛」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

亡き友を偲ぶ詩です。守衛が(そして自らも)目指した彫刻のあるべき姿が端的に表されています。

この年刊行された相馬黒光による守衛回想、『黙移』に触発されての作と思われます。現在、夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」が開催中の信州安曇野碌山美術館さんに、この詩を刻んだ詩碑が建てられています。

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主に北海道の文学に注目する北方文学研究会さん発行の同人誌『北方人』の第27号を頂きました。いつも送って下さっていて、恐縮です。

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さらに恐縮なことに、当会発行の『光太郎資料47』をご紹介下さっています。

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また、当方も寄稿している文治堂書店さん発行の同人誌、「トンボ」第3号の紹介も。ありがたいことです。

それから、釧路で発行されている同人誌『河太郎(かたろう)』の紹介の中に、光太郎の名が。

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光太郎と交流のあった更科源蔵、猪狩満直といった詩人が北海道出身だったり移住したりしていた関係、北海道で発行されていた雑誌に光太郎の寄稿がたびたびあったためですね。とりあえずネットで発行元らしきところを見つけ、送って下さるよう頼んでみました。届きましたらまたご紹介します。


その『トンボ』の第4号も届きました。

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3名の方々による、先頃亡くなった同社創業者の渡辺文治氏の追悼文が掲載されており、当会顧問・北川太一先生の玉稿も含まれています。

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その他、半ば強引に2ページ分の連載を持たされてしまい(笑)、今年で61回目を迎えた連翹忌の歴史と現況について書け、という指示でしたので書きました。

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掲載誌をごそっと送られていますので、ご入用の方はこちらまで。


【折々のことば・光太郎】

足もとから鳥がたつ 自分の妻が狂気する 自分の着物がぼろになる

詩「人生遠視」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

光太郎にとっては不意打ちのようだった智恵子の心の病の顕在化、それにより智恵子が夢幻界へと飛び立ってしまったこと、それに伴う喪失感などが、見事に表現されています。

しかし、病が顕在化したとされる昭和6年(1931)夏から3年半経って、その間に智恵子の自殺未遂、青根温泉などへの湯治旅行、九十九里浜での転地療養などを経、南品川ゼームス坂病院へ入院させる頃に書いた詩です。

0044月に亡くなった詩人の大岡信氏。『朝日新聞』に連載されていたコラム「折々のうた」などで、光太郎に触れて下さっていました。


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静岡三島の大岡信ことば館さん、大岡さんが永らく勤務されていた明治大学さん、そして大岡信研究会さんの主催で、追悼の集いが開催されます。

ご家族での密葬は既に終えられ、一般弔問者対象だということです。

大岡信さんを送る会

期 日 : 2017年6月28日(水)
時 間 : 18:00-20:00 (献花17:00~)
会 場 : 明治大学アカデミーホール(アカデミーコモン内3階)
       千代田区神田駿河台1-1

プログラム
 司会 桜井洋子(アナウンサー)
 1.開会の辞:西川敏晴(各主催者を代表して大岡信研究会会長による挨拶)
 2.弔辞
   弔辞① 粟津則雄(文芸評論家、フランス文学者、いわき市立草野心平記念文学館長)
   弔辞② 菅野昭正(世田谷文学館館長、フランス文学者)
   弔辞③ 谷川俊太郎(詩人)
 3.在りし日の大岡信さん(映像)
 4.ピアノ演奏:一柳慧(作曲家 ピアニスト)
 5.大岡信の詩の朗読:白石加代子(女優)
 6.ジュリエット・グレコの歌(映像)
 7.「大岡信さんと明治大学」:土屋恵一郎(明治大学学長)
  8.お礼のことば:大岡かね子

一般のお客様もご参加いただけます。
参加ご希望の方は、平服でお越しください。会費はいただきません。
また供花、供物、御香典はすべてご辞退させていただきます。


谷川俊太郎さんをはじめ、錚々たるメンバーですね。大岡氏の功徳のほどが偲ばれます。かくありたいものです。


【折々のことば・光太郎】

腹をきめて時代の曝しものになつたのつぽの奴は黙つてゐる。 往来に立つて夜更けの大熊星をみてゐる。 別の事を考へてゐる。

詩「のつぽの奴は黙つてゐる」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

「のつぽの奴」は、身長180㌢超の光太郎です。詩の冒頭近くにも使われています。

親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか、何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。(略)いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。

舞台は昭和3年(1928)4月16日、東京会館で行われた光太郎の父・高村光雲の喜寿祝賀会です。口さがない参会者のひそひそ話(だいぶ「盛っている」ような気がしますが)を引用しているという設定です。

光太郎にしてみれば、世間並みの栄達など、縁もなければ興味もありません。しかし、世間的にはそれでは通用しないわけで、確かにある種の「曝しもの」ですね。しかし、祝賀会からの帰り道、天極に輝く大熊座(北斗七星)を見上げ、その立ち位置を甘んじて受けようと覚悟を語っています。

大岡信さん曰く、

昭和の四、五年頃に「詩・現実」という雑誌に高村が詩を発表しているんです。あれは一種同伴者的な雑誌ですけど、あの中でこの種の高村の詩を見ると、むしろ一番急進的で左翼的なんです。迫力があります。断言のいさぎよさみたいなので、他の人のはインテリ的な口振りがつきまとうから、マルクス主義について言っても、アナーキズムについて言っても、どことなく間接的なんですけど、高村の詩が出てくると非常に強烈ですね。
(「討議 超越性に向かう詩人の方法 その生涯をつらぬいたもの」 『現代詩読本 高村光太郎』 昭和53年=1978 思潮社)

なるほど。

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新刊情報です。

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近代日本人は聖書のメッセージをどう受け止めたのか? 日本キリスト教史の泰斗が深い共感を持って描く!

時代を超えて日本社会に大きな影響を与えるベストセラー、聖書。近現代に活躍した30人が汲み上げたメッセージとは?

【内容紹介】
日本聖書協会季刊誌SOWERの人気連載「人物と聖書」待望の単行本化。近代日本の各方面で活躍した日本人が、キリスト信徒であるなしに関わらず、聖書とどう向き合い、生き方にどのような影響を受けたのか。日本キリスト教史の第一人者鈴木範久氏が探る、近代日本キリスト教史人物伝。『学燈』(1999年)に掲載された「鈴木大拙の聖書」も収録。

 <収録人物>
夏目漱石、鈴木大拙、田中正造、萩野吟子、内村鑑三、石井亮一、太宰治、井口喜源治、高村光太郎、市川栄之助、川端康成、山室軍平、倉田百三、新島襄、石坂洋次郎、新渡戸稲造、芥川龍之介、西田幾多郎、長谷川保、吉野作造、中勘助、野村胡堂、坂田祐、賀川豊彦、音吉、堀辰雄、山本五十六、萩原朔太郎、斎藤勇、八木重吉

 【著者紹介】
1935年生まれ、専攻は宗教学宗教史学、現在立教大学名誉教授。
 著書に「明治宗教思想の研究」(東京大学出版会)、「内村鑑三日録」全12巻(教文館)、聖書の日本語(岩波書店)など多数。



購入、拝読するまで気づかなかったのです000が、同じ日本聖書協会さんが刊行している雑誌『SOWER』に連載されていたものの単行本化でした。光太郎の項「高村光太郎と聖書」は、平成16年(2004)の第23号に掲載されており、既読でした。

サブタイトルは「美のうしろにあるものを表現しようとした詩人・彫刻家」。

まず、詩「クリスマスの夜」(大正10年=1921)からイエス・キリストについての部分が紹介されています。この詩は親友の作家・水野葉舟の家で行われたクリスマスの集いからの帰途を謳ったものです。葉舟は、日本のキリスト教教会の形成に大きな役割を果たした植村正久から洗礼を受けていました。

東京美術学校彫刻科を卒業し、研究生として残っていた明治38年(1905)、光太郎は葉舟に連れられて植村の下を訪ねますが、入信には至りませんでした。そのあたりにも言及されています。

また、特異なキリスト者・新井奥邃との関わりや、昭和24年(1949)の雑誌『表現』に載ったアンケート「私の愛読書」で、「各年代を通じての座右の書は」という設問に「聖書、仏典、ロダン等。」と答えていることなどが紹介されています。

さらに、今年2月に亡くなっ001た、元埼玉県東松山市教育長で、光太郎と交流のあった田口弘氏についても触れられています。光太郎が敬虔なキリスト教徒だった田口氏に贈った数々の書の中には、聖書の文言を揮毫したものも含まれ、その関係です。

しかし、結局光太郎は入信せずじまいでした。そのあたりの心境は、『聖書を読んだ30人』には取り上げられていないアンケート「名士の信仰」(大正8年=1919、『東京日日新聞』)にも語られています。

私はいろいろの境地をだんだんに通つて来て、今では、吾々人間以上の或る大きな精神が此世に厳存する事を、理屈無しに信じ切るやうになりました。それがキリスト教の神とはまだぴつたり合ひません。私は此から進む処に居るのですから、自分の信仰がどういふ具体的の形になつて来るかは自分でもわかりません。此以上確な事を言ふと嘘になります。

また、光太郎と仏教の関係にも似た点があります。

『聖書を読んだ30人』によれば、光太郎のように、受洗はせずとも
聖書やキリスト教の教えに影響を受けた文化人は多かったようです。上記目次にある人々の多くがそうでした。中には山本五十六など、こんな人まで、と思うような人物も含まれ、興味深く拝読しました。

ぜひお読み下さい。


【折々のことば・光太郎】

おれはまだうごかぬ うごくときはしぬとき

詩「或る筆記通話」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

詩「或る筆記通話」前文は以下の通り。

おほかみのお――レントゲンのれ――はやぶさのは――まむしのま――駝鳥のだ――うしうまのう――ゴリラのご――河童のか――ヌルミのぬ――うしうまのう――ゴリラのご――くじらのく――とかげのと――きりんのき――はやぶさのは――獅子のし――ヌルミのぬ――とかげのと――きりんのき――をはり

「――」の直前の一字をつなげれば、「おれはまだうごかぬ うごくときはしぬとき」となる仕組みです。ある意味、ふざけた詩ですね(笑)。「詩」というものの概念を破壊しようともしていたふしの見える、年少の友人・草野心平あたりの影響もあるかもしれません。

狼やら隼やら、光太郎が好んだ「猛獣」的なものが羅列されています。実際、駝鳥、ゴリラ、鯨、獅子と、連作詩「猛獣篇」のモチーフになった鳥獣も含まれています。

しかし、異質なものが二つ。「レントゲン」と「ヌルミ」。「レントゲン」はX線照射の機械というより、X線の発見者であるドイツの物理学者、ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンでしょう。「ヌルミ」はフィンランドの陸上選手、パーヴォ・ヌルミです。

なぜ鳥獣に混じって人名が、という気がしますが、以外と単純な理由なのではないでしょうか。すなわち「れ」と「ぬ」で始まる鳥獣が思いつかなかったということでしょう。「羚羊(れいよう)」や「ヌー」は、まだ日本では知られていなかったように思われます。

しかし「鵼(ぬえ)」を光太郎が知らなかった、あるいは思いつかなかったとは思えません。「鵼」は猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇という(諸説あり)妖怪です。「鵼のぬ」でもいいような気がしますが、「鵼」は採用しませんでした。おそらく、「鵼」は政財界の黒幕的な、よくわからない怪しいもの、それも腹黒、邪悪、下劣というイメージ(現在の政権やら官僚中枢やらナントカ学園やらナントカ会議にうようよしているようですが)をともなうためではないでしょうか。

「河童」はよくても「鵼」はだめ。勝手な想像ですが(笑)光太郎の美意識が見えます。同時に、これはやはり敬虔なキリスト者の発想ではないでしょう。

余談ですが、「ヌルミのぬ」の部分は、しばらくの間、「ヌカルミのぬ」と誤植され続けていました。陸上のヌルミは五輪金メダル9つの英雄だったのですが、泥濘……(笑)。

昨日の『朝日新聞』さんで、先月亡くなった詩人の大岡信氏について、まるまる1ページ、大きく取り上げられました。「大岡信さん、織りあげた宇宙 心に残る、折々のうた」の総題で、氏が昭和54年(1979)から平成19年(2007)にかけ、同紙に連載されていたコラム「折々のうた」がメインでした。

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国立文学研究資料館館長のロバート・キャンベルさんの談話が掲載されていますが、そちらは割愛します。下記は「折々のうた」の紹介的な内容。

29年、6762回 「世界文学としての詩歌選集」

 「折々のうた」は、朝日新聞創刊100周年記念日の1979年1月25日に始まった。引用作品は2行程度で、大岡さんが約200字の鑑賞文を添えた。掲載は休載期間を含めて2007年3月31日まで29年間、万葉集の収録和歌数約4500を超える6762回に上った。
 初回は高村光太郎、最終回は江戸期の俳人田上菊舎(たがみきくしゃ)。大岡さんは「精力の9割」を作品の選定と配列に割いていると述べ、「2年くらいたつとストックは全くなくなって、勉強しなくてはいけなくなった」とも語っていたが、紹介した詩歌は実に多彩だ。
 阿倍仲麻呂、紀貫之から、アングラ演劇で活躍した寺山修司、詩人・谷川俊太郎まで時代は様々。内容的にも、正岡子規の絶筆「糸瓜(へちま)咲(さい)て痰(たん)のつまりし仏かな」から、金子光晴の孫娘への愛情を歌った「来年になったら海へゆこう。そしてじいちゃんもいっしょに貝になろう。」まで重いものも明るいものもある。
 俳人の長谷川櫂(かい)さんは「この詩歌の国で世界文学として初めて誕生した詩歌選集」。歌人の俵万智さんは自作が紹介された時、駅で新聞を何部も買い、「会う人ごとに話しかけたいような気分」で「心から励まされた」。いずれも童話屋が刊行した「折々のうた」のあとがきで書いている。


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というわけで、記念すべき第一回が、光太郎の短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)。そちらが当時の紙面から引用されています。

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本職の歌人ではない光太郎の作を、記念すべき連載第一回に、よくぞ取り上げて下さったという感がします。


その他、「折々のうた」の書籍、三島市の大岡信ことば館さんも紹介されています。

本になった「折々のうた」手元に

 岩波新書の「折々のうた」(002全10冊)と「新折々のうた」(全9冊)は、1980年から続々と刊行されてきたシリーズだ。ただほとんどが品切れ重版未定で、古書でなければ入手は難しい。1冊目の1980年刊の「折々のうた」は42万部のロングセラーで入手可能。岩波書店刊「折々のうた 三六五日」は大岡さんが365日それぞれにふさわしい詩歌を選んで編んだ愛蔵版だ。
 季節ごとの詩歌をまとめた4分冊「折々のうた 春夏秋冬」(童話屋)は昨年、刊行された。谷川俊太郎さんが代表を務める「折々のうたを読み伝える会」が編集。引用された作品の作者の略歴や用語説明も付け加えている。


最後に書かれている童話屋さん版の、「冬」編に、上記「海にして……」の短歌、大正3年(1914)の詩「僕等」の一節が掲載されています。

作品や横顔、深く知るには…

 大岡さんが生まれた静岡県三島市には、作品や横顔を紹介する「大岡信ことば館」(JR三島駅徒歩1分)がある。造形家の岩本圭司さんが館長を務め、常設展のほか、追悼特別展を9月から開く予定。
 「大岡信研究会」(西川敏晴会長)では評論家三浦雅士さんら有識者が大岡作品を読み解き、論じてきた。今月28日午後2時、明治大学リバティタワー研究棟で、大岡さんの教え子の松下浩幸・明治大教授が「大岡信と夏目漱石」と題して講演(参加費は会員外1千円)。研究会は一般の人も入会可。問い合わせは事務局(花神社内、03・3291・6569)へ。


そして、来月行われる「送る会」についても。

送る会 来月28日、明治大学で

 大岡さんを送る会が6月28日午後6時から、東京都千代田区の明治大学アカデミーホールで開かれる。開場は午後5時。詩人谷川俊太郎さんが詩を朗読。作曲家一柳慧さんがピアノ演奏、俳優白石加代子さんが大岡さんの詩を朗読する予定。一般の人も参加可で「平服でお越し下さい」と主催の大岡信研究会(事務局は花神社、03・3291・6569)。


あらためて、ご冥福を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

その詩は高度の原(げん)の無限の変化だ。 その詩は雑然と並んでもゐる。 その詩は矛盾撞着支離滅裂でもある。

詩「その詩」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

昨日もご紹介した詩「その詩」から。

やはり光太郎詩の「原理」が、色濃く、端的に表されています。

勝手な想像ですが、大岡さんなども、詩のあり方として「そうそう」とうなずいて下さるような気がします。

新刊情報です。

宮沢賢治と森荘已池の絆

2017年4月23日 森三紗著 コールサック社 定価1800円+税

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父は賢治との十年にわたる交友の証である書簡二十一通はことにも大切にしていた。幸いなことに、戦火に会うことも免れて貴重な文化的遺産として、父が生命の次に大切だという賢治からの書簡を目にする機会にも恵まれたのだ。(あとがきより)

目次

春谷暁臥        宮沢 賢治 
Ⅰ 宮沢賢治と森荘已池の絆
 1 タミと佐一と賢治 ―梶原多見枝詩集『草いちご』復刻版解説文  
 2 森荘已池展・賢治研究の先駆者たち②・企画展資料集より 
  《森荘已池(佐一)の幼年時代》 
  《文学の夢ふくらむ》― 佐一の盛岡中学時代― 
  《あなたが北小路幻なら尊敬します》― 佐一『春と修羅』に感動 ― 
  《佐一と賢治の交流》― 店頭での出会い ― 
  《『貌』をめぐって》― 佐一と賢治の交友開始 ―  
  《「春谷暁臥」の書かれた日》― 佐一と賢治交友深まる ― 
  《宮沢賢治から森佐一(惣一)に宛てた書簡》 
  《石川善助をめぐって》― 佐一と賢治 ― 
  《賢治の推薦で「銅鑼」同人となる》 
  《賢治没後の評価》― 岩手日報「宮沢賢治」追悼号 ― 
  ― 岩手日報の佐一と賢治の関連記事 ―  
  《十字屋版『宮澤賢治全集』の編集》 
  《宮沢家での聞書き》― 「宮沢賢治氏聴書きノート」― 
  《宮沢賢治の伝記について》 
  《宮沢賢治の短歌について》― 『宮澤賢治歌集』刊行 ― 
  《芥川賞候補、直木賞受賞について》 
  《森荘已池(惣一)の宮沢賢治研究の足跡(1)》 
  《森荘已池の宮沢賢治研究の足跡(2)》 
  《森荘已池の文芸活動(著作)》 
  《賢治から荘已池(佐一)への遺品》 
  《森荘已池と随筆》― 宮澤賢治をめぐる「ふれあいの人々」―
  《光をあてた人々》 
 3 森佐一が森荘已池になるまで ―森荘已池詩集『山村食料記録』解説・解題 
 4 宮沢賢治の短歌が世に出るまで ―『宮澤賢治歌集 森荘已池校註』新版解説文
 5 森荘已池と「風大哥」考 
 6 石川啄木と宮沢賢治と森荘已池 ―『一握の砂』発刊百年に思う
 7 『ふれあいの人々 宮澤賢治』新装再刊 ―「森荘已池ノート」解説文

Ⅱ 賢治文学の深層
 1 宮澤賢治の宗教と民間伝承の融合 ―世界観の再検討 童話〔祭の晩〕考 
 2 文語詩「選挙」考 ―『宮沢賢治 文語詩の森 第三集より』 
 3 宮澤賢治がロシア文学から影響された共存共栄の概念 ―作品の見直し 
 4 高村光太郎と宮沢賢治と森荘已池 ―二〇〇八年七月十九日 宮沢賢治の会講演改稿
 5 宮沢賢治と同人雑誌(第一回)―「アザリア」「反情」「女性岩手」 
 6 宮沢賢治と同人雑誌(第二回)「貌」① ― 森佐一(荘已池)と生出桃星と宮沢賢治
 7 クーボー博士とブドリ 「凶作に関する研究」と実践(一)  

Ⅲ 賢治研究の歴史とその後の詩人たち
 1 昭和二十年までの賢治評価―「岩手日報」を中心として
 2 宮沢賢治の会(盛岡)七十年の歩み ―機関誌「イーハトーヴォ」を中心として 
 3 第三回宮沢賢治国際研究大会成功裡に終る―「賢治さんの想像力ときたら、大したもんだ!」
 4 イーハトーブの詩の系譜

初出一覧 
宮沢賢治と森荘已池(佐一)交流略年譜
あとがき 
著者略歴 


森荘已池(そういち)は、明治40年(1907)、盛岡出身の直木賞作家です。詩も書いており、在学期間はかぶりませんが、旧制盛岡中学校の先輩であった宮沢賢治と深い交流を持っていました。光太郎とも賢治つながりで縁があり、戦後の光太郎の日記や書簡にその名が頻出します。著者、三紗氏は荘已池の息女です。

『高村光太郎全集』には、光太郎から森宛の書簡が2通掲載されていますが、いずれも佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』からの転載でした。すると、平成21年(2009)、森の遺品の中からその2通を含む8通の光太郎書簡が発見され、岩手ではニュースになりました。その後、三紗氏ともお会いする機会があり、その話もしたのですが、これまでその内容が不分明でした。

今回出版された『宮沢賢治と森荘已池の絆』中に、「高村光太郎と宮沢賢治と森荘已池 ―二〇〇八年七月十九日 宮沢賢治の会講演改稿」という項があり、そこに当該書簡も全文が掲載されていました。同項は平成21年(2009)の雑誌『コールサック』が初出だったとのことでしたが、それは存じませんでした。全集既掲載のもの以外は、昭和26年(1951)から翌27年(1952)にかけ、花巻郊外太田村の山小屋から送られたものが5通、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後のものが1通。

とりわけ最後のものは、面白い内容でした。森から届いたリンゴ一箱の礼状で、「東京へ来てみると岩手のリンゴのうまさがよく分かります。東京の果物屋の店頭にさらされてゐるリンゴはまつたくダメです。近所の人にもわけて喜ばれました。」とあります。また、現在、花巻高村光太郎記念館の企画展「光太郎と花巻の湯」で展示中の、光太郎が使っていた浴槽にも触れています「てつぽう風呂の事は笑止でした。」ただ、どうして笑止なのかなど、詳しいことはわかりません。

その他、当方、森の詳しい人となり等、存じませんでしたので、興味深く拝読しました。光太郎もからむ各種『宮沢賢治全集』出版に森も大きく関わっており、読んでいてパズルのピースが埋まってゆくような感覚でした。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

――私は口をむすんで粘土をいぢる。 ――智恵子はトンカラ機(はた)を織る。
詩「同棲同類」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

今日は智恵子131回目の誕生日です。

20代の頃、雑誌『青鞜』の表紙絵などでならした智恵子ですが、昭和に入って40代ともなるとると、もはや油絵制作には行き詰まり、光太郎の手ほどきで彫刻をはじめたり、草木染めに挑戦したり、そしてこの詩にあるように機織りにも取り組んだりしました。機織り機は郷里から取り寄せたとのこと。光太郎が亡くなるまで愛用していたちゃんちゃんこは智恵子の織った布で作られたものです。

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しかし、この年には実家は破産寸前、智恵子の心にぽっかり空いた空洞は、彫刻でも草木染めでも、機織りでも埋められることはありませんでした。

明日まで展示「検閲官 ―戦前の出版検閲を担った人々の横顔」が開催されている、千代田区立千代田図書館さんでの次の展示です。 

展示 10分で出会う吉本隆明展 ~晶文社『吉本隆明全集』によせて~

期 日 : 2017年4月25日(火)~7月22日(土)
場 所 : 千代田区立千代田図書館9階 展示ウォール 
       千代田区九段南1-2-1千代田区役所9階・10階
時 間 : 月~金 午前10時~午後10時 土 午前10時~午後7時  日・祝 午前10時~午後5時
休館日 : 第4日曜日
料 金 : 無料
主 催 : 千代田区立千代田図書館 晶文社

吉本隆明さんを知っていますか?
吉本さんは、思想家であり、文学者でもあります。若い方々には、「吉本ばななのお父さん」としてより広く知られているかもしれません。化学の専門教育を受けるいっぽう、詩人として世に出た彼は、会社勤めをしながら詩作や評論活動をつづけ、詩情と合理性をあわせもった思想家として、時代時代の世論や知識人に影響をあたえました。
吉本さんが「戦後最大の思想家」と呼ばれるほどのゆるぎない思想を、戦後の混沌とした価値観の中で打ち立てることができたのは、なぜなのでしょうか。さまざまな価値観がリアルタイムで共有される、「正解」のない現代、吉本さんの、何者にもよりかからない「自立」の力が、より魅力的に感じられます。
今年は平成24年の死去から5年、本展では吉本さんの人生と膨大な業績を、パネル・著書や関連書籍(一部を除き貸出可)・愛用品・書斎の写真などで紹介します。

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戦後、この国で初めて光太郎を真っ正面から取り上げた故・吉本隆明。当会顧問・北川太一先生とは、東京工業大学等でご同窓、光太郎がらみで終生、交流を続けられました。

その没後、晶文社さんから『吉本隆明全集』(全38巻・別巻1)の刊行が始まり、これまでに刊行された第5巻(月報に北川先生玉稿掲載)、第4巻、第7巻第10巻第12巻などで、光太郎に言及した文筆作品が所収されています。

その『吉本隆明全集』が第Ⅱ期刊行に入るということで、いろいろ行われている記念イベントの一環としての展示です。

先週には同じく記念イベントの一環、「糸井重里さん×ハルノ宵子さんトークイベント「はじめての吉本隆明」が開催されました。当方、申し込んだのですが、すでに先着順で定員に達しており、聴けませんでした。残念。

今回は関連行事として講演会が予定されています。 

講演会「ビジネスに活かす「吉本隆明」」

期 日 : 2017年5月24日(水曜日)
場 所 : 千代田区立千代田図書館9階=特設イベントスペース 
時 間 :  午後7時~8時30分
料 金 : 無料 定員50名 申し込み不要 先着順
講 師 : 山本哲士さん(文化科学高等研究院ジェネラル・ディレクター)

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

こほろぎの声をきくと、 物の哀れどころか、あべこべに、 十悪業が目をさます。 こんな男にかかつては、 詩も歌もおしまひです。

詩「殺風景」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳  

「十悪業」は「じゅうあくごう」と読み、仏教用語です。「十悪業道」とも。

 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』によれば、(1) 殺生,(2) 盗み,(3) 邪淫,(4) いつわり (妄語) ,(5) 中傷 (両舌) ,(6) ののしり (悪口) ,(7) ざれ口 (綺語) ,(8) 貪り,(9) 怒り,(10) 誤った考え (邪見) の 10種。 (1) ~ (3) が身体動作に関するもの,(4) ~ (7) が言語表現に関するもの,(8) ~ (10) が心理作用に関するもの。

「殺生」や「盗み」はともかく、社会矛盾に対し痛烈な「怒り」を覚えていた光太郎、詩歌の中で「両舌」やら「悪口」やら「綺語」やらは、確かに開陳していました。光太郎にとっての詩歌は「花鳥諷詠」たり得ない、ということなのでしょう。

2日に執り行いました第61回連翹忌の席上で、参会の皆様からいろいろいただきましたのでご紹介します。

日本文学誌要 第95号

2017年3月24日 法政大学国文学会編・発行007

光太郎と交流のあった山梨県出身の詩人、野澤一(はじめ)のご子息・俊之氏からいただきました。今号から始まった、同大教授の中丸宣明氏の連載、「法政ゆかりの作家たち 野沢一(1)」が掲載されています。光太郎にも触れる箇所があります。

昨夏発行だった同誌の前号には同じ中丸氏のご講演「忘れられた!?文学者たち 野沢一・清水泰夫・羽田中誠など ―法政ゆかりの作家たち序―」の筆録が掲載されており、それを踏まえての連載だそうで、野沢の簡略な評伝となっています。

野沢一は、法政大学中退。昭和初期、卒業間際になって、思うところあって山梨県の四尾連湖畔で5年にわたる独居自炊の生活を始め、それが後の光太郎の花巻郊外太田村での山小屋生活にも影響を与えたと考えられます(他にも同様の行為をしていた光太郎の友人知己は少なからずいますが)。

東北文学の世界 第25号

2017年3月14日 盛岡大学文学部日本文学科編・発行008

当方も加入しています高村光太郎研究会主宰で、都立高校教諭の野末明氏の論考「高村光太郎詩集『典型』成立考」が掲載されており、野末氏からいただきました。

光太郎の詩集『典型』は、花巻郊外太田村に隠棲中の昭和25年(1950)に刊行されたものです。選詩集的なものを除けば、光太郎生前最後の単行詩集となりました。

その詩集『典型』の成立過程、出版後の評価、「編者」となっている詩人・宮崎稔などについて書かれた労作です。ただ、固有名詞に数ヶ所誤りがあり、その点が残念でした。

興味深いのは、國學院大学図書館に所蔵されている、光太郎自筆の『典型』装幀原案が画像入りで紹介されていること。2種類あり、時期的に古い方は10年ほど前にひょっこり古書市場に出たものですが、いわば第二稿の方は当方も存じませんでした。

「典型」の題字は、光太郎の手になる自刻木版です。その他様々な指示が書き込んであります。

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いずれつてを頼って現物を拝見したいと思っております。

高村光太郎研究(38)

2017年4月2日 高村光太郎研究会編・発行009

上記の野末氏が主宰されている高村光太郎研究会の会誌的なものです。

当会および高村光太郎研究会の顧問、北川太一先生の玉稿「高村光太郎・最後の年 (4)」が巻頭に掲げられています。光太郎の亡くなった昭和31年(1956)の日記を軸に、記されている人物や事項に適宜解説を加えたものです。

その後、当方の稿が3本。元々、連載として、一年間に見つけた新発見の光太郎文筆作品等を紹介する「光太郎遺珠」、さらに一年分の「高村光太郎没後年譜」を書かせていただいていますが、それプラス、昨秋の第61回高村光太郎研究会で発表させていただいた、当会の祖・草野心平と光太郎の交流についての稿も載せて下さいました。

さらに野末氏による「高村光太郎文献目録(平成二十八年一月~十二月)」、「研究会記録、寄贈資料紹介、あとがき」が掲載されています。


冊子ではありませんが、花巻高村光太郎記念館さんの下記チラシも頂きました。

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来週14日から、企画展「光太郎と花巻の湯」(当方手持ちの資料も展示されます)が始まり、さらに記念館と隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の「智恵子展望台」が整備され直したとのことで、新しいチラシが作られました。

智恵子展望台に関しては、地元の方々に完成記念のお披露目的な催しを明日の午後に行うということで、行って参ります。元々は、明後日、盛岡で開かれる「盛岡地区更生保護女性の会」さんの総会の中で講演を頼まれており、そのついでに花巻に立ち寄って、企画展の展示作業を見せていただくだけのつもりでしたが、なにやら大げさなことになってしまって、恐縮しております。

そのあたりは帰ってきましたらレポートいたします。

上記いただきもの類ご入用の方、こちらまでご連絡いただければ、仲介できるものは仲介いたします。当ブログプロフィール欄に当方連絡先は書いてあります。


【折々のことば・光太郎】

怒とは何。 怒とは存在の調革(しらべかは)。

詩「怒」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「調革」は「調べ帯」ともいい、二つの車輪にかけ渡して 一方の回転を他方に伝えるための帯状のもの。エンジンのファンベルト、或いは昔のミシンを想像していただければわかりやすいでしょうか。

「怒」によって、自分の人生は回っているのだ、と光太郎は言います。この後、一時的にプロレタリア詩人達に近い立ち位置に入っていく光太郎、様々な社会矛盾に黙っていられないといった感じでした。

戦後、この国で初めて光太郎を真っ正面から取り上げた故・吉本隆明。当会顧問・北川太一先生とは、東京工業大学等でご同窓、光太郎がらみで終生、交流を続けられました。

その没後、晶文社さんから『吉本隆明全集』(全38巻・別巻1)の刊行が始まり、これまでに刊行された第5巻(月報に北川先生玉稿掲載)、第4巻、第7巻第10巻第12巻などで、光太郎に言及した文筆作品が所収されています。

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その『吉本隆明全集』が第Ⅱ期刊行に入るということで、記念イベントが実施されます。
会 場 : 寛永寺輪王殿第一会場 東京都台東区上野公園14-5
時 間 : 14:00~16:00(開場13:30~)
料 金 : 学生:無料(学生証提示) 一般:1000円
定 員 : 約200名(要予約・申込先着順)  専用フォームより申し込み
      往復ハガキ 〒101-0051 千代田区神田神保町1-11 晶文社 吉本全集イベント係
出 演 : 糸井重里、ハルノ宵子
 ◇糸井重里(いとい・しげさと)
1948年、群馬県生まれ。Webサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」主宰。同サイトでは、’60年代から’08年の吉本隆明さんの講演をできるかぎり集め、デジタルアーカイブ化して、無料で公開している。著書多数。吉本さんとの共著に『悪人正機』(新潮社)があるほか、ほぼ日ブックスより、『吉本隆明の声と言葉。』 『吉本隆明が語る親鸞』を刊行している。
 ◇ハルノ宵子(はるの・よいこ)
1957年、東京都生まれ。漫画家・エッセイスト。長年の介護の末、’12年に父と母を相次いで亡くす。妹は小説家の吉本ばなな。現在は定住猫数匹+外猫たちと暮らす。マンガ以外の著書に『それでも猫はでかけていく』(幻冬舎)、『開店休業』(プレジデント社・吉本隆明と共著)など。

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光太郎に関わる内容が出るか、微妙なところではありますが、ご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

さあもう一度水を浴びよう。 さうしてすつかり拭いた自分の体から 円(まろ)い二の腕や乳の辺りからかすかに立つ  あの何とも言へない香ばしい、甘(うま)さうな、  生きものらしい自分自身の肌の匂をもう一度かがう。
詩「秋を待つ」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

さまざまな獣や妖怪に仮託して自らの内面を謳う連作詩「猛獣篇」時代ですが、仮託しない自分自身、充実した「生」を送っている一個の「生きもの」であるという実感のようなものが感じられます。

駒場の日本近代文学館さんからご案内をいただきました。

講座「資料は語る」2017 作家からの手紙

開催日時 : 2017年4月15日  5月20日  6月10日  9月16日  10月21日  11月18日
          (全て土曜、それぞれ午後2時から3時30分)
会  場 : 日本近代文学館ホール 東京都目黒区駒場4-3-55
受講料金 : 全回10,300円(9,300円) 前または後期5,200円(4,700円) 1回のみ2,100円
          ( )内は維持会・友の会会員料金
定  員 : 40名(先着順) 定員に達しない場合は当日可能
申し込み : 館受付にて手続き/必要事項明記の上現金書留/郵便振替 00140-0-47730
内  容 :
前期
 4月15日 谷崎潤一郎の恋文 
       千葉俊二 (早稲田大学・教育総合科学学術院教授)
 5月20日 アメリカ留学とヨーロッパ旅行ー有島武郎から家族へ、マチルダ・ヘックへ
       江種満子 (文教大学名誉教授)
 6月10日 戦地からの絵だよりー高見順から妻・秋子へ 
       竹内栄美子 (明治大学教授)
 後期
 9月16日 愉快と不愉快と淋しさとー漱石の若き友人たちに宛てた手紙
       長島裕子 (早稲田大学文学学術院講師)
 10月21日 フイチンさんの引き揚げ体験スケッチー上田としこから佐多稲子へ
       久米依子 (日本大学教授)
 11月18日 作家の年賀状ー日本近代文学館コレクションから
       宗像和重 (早稲田大学文学学術院教授)

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直接、光太郎に関わる内容ではありませんが、有島武郎、高見順、夏目漱石らは光太郎とつながりがありましたし、漱石の回では、やはり光太郎と親しかった津田青楓が取り上げられるそうです。

また、個人的なことになりますが、有島の回で講師を務められる江種満子先生は当方の恩師です。不肖の弟子は行かずばなりませぬ(笑)。

皆様も是非どうぞ。

新刊、というか、ハードカバーの文庫化です。

『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ

2017年3月17日 集英社(集英社文庫) 森まゆみ著 定価740円プラス税

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版元サイトより
女性解放運動の象徴と言われた雑誌『青鞜』の創刊から終刊までを追った評論。
雑誌編集という観点からの分析により、平塚らいてうら“新しい女性”たちの等身大の姿を浮き彫りにする。

ハードカバーは同社から平成25年(2013)に刊行されました。のちに第24回紫式部文学賞を受賞した労作です。

智恵子に関しても随所で触れられ、非常に示唆に富むものでした。

是非、お買い求めを。

昨日は、東京多摩地区を歩いておりました。まずは町田、そして小平。町田と小平では、あまり近くはないのですが、千葉の自宅兼事務所から見れば方角的には同じということで。

町田での目的地は、町田駅近くの町田市民文学館ことばらんどさん。こちらで開催中の展示「野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-」を拝見して参りました。

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野田宇太郎は福岡県小郡市出身。主に戦前は詩人として、戦後は編集者、文芸評論家として活躍しました。戦後の活動は大まかにいうと二本柱でした。

一つは「文学散歩」の提唱。今ではあたりまえのようになった「文学散歩」という語や概念は、野田の提唱によるものが大きいようです。背景には、太平洋戦争で焦土と化した東京を見て、失われゆく「トポス」の記憶の記録、という意味合いがあったようです。昭和26年(1951)から、『日本読書新聞』に「新東京文学散歩」の連載が始まり、GHQによる規制で自由に写真撮影が出来なかった頃には、石版画家の織田一麿に挿絵を依頼、のちには野田自身の写真により、その対象は全国に及びました。

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左が単行本化された『新東京文学散歩』、右は野田愛用の「文学散歩」用品です。

そうした活動は文学碑建立などにも向けられ、師と仰いだ木下杢太郎の碑を静岡伊東に建てる際に奔走しています。野田はこの杢太郎碑や、博物館明治村の開設などで、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む公園一帯の設計を手がけた建築家・谷口吉郎とも深く関わりました。

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以前にも書きましたが、野田が主宰した雑誌『文学散歩』の昭和36年(1961)10月号で、「特集 十和田湖」を組み、草野心平や谷口吉郎らの寄稿を仰いで光太郎最後の大作「乙女の像」を紹介しています。

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余談になりますが、この中で、谷口は「乙女の像」の台座に使われた石材を「福島産の黒ミカゲ」と記しています。谷口は他に昭和34年(1959)・筑摩書房発行、草野心平編集の『高村光太郎と智恵子』に収められた「十和田記念像由来」では、「石材は福島県産の折壁石で、表面はつやつやと鏡のように磨いてある。」との記述も。しかし、「折壁石」は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来するブランドで、どうもどこかで勘違いがあったようです。

閑話休題。野田と谷口の深い縁というのは、当方、存じませんで、「そうだったのか」という感じです。実際にこういう展示を見ると、いろいろ発見があるものです。


野田の活動のもう一つの柱は、「パンの会」の研究。「パンの会」は明治末、野田が師と仰いだ木下杢太郎や光太郎などが中心になって持たれた芸術運動です。光太郎の滞欧中から開かれ、帰国後の光太郎はすぐその波に飲み込まれ、後には発起人にも名を連ねました。文芸誌『スバル』、美術誌『方寸』に寄った若い芸術家の集まりを中心としましたが、演劇界からの参加も目立ちました。

野田はまず、昭和24年(1949)に六興出版社から『パンの会』を上梓、さらに同26年(1951)には増補版として『日本耽美派の誕生』を河出書房から出版しています。そこにも「文学散歩」同様、失われゆく記憶の記録という側面がありました。

そこで今回の展示では、「パンの会」関連も充実していました。光太郎から野田に宛てた、『パンの会』受贈の礼状も展示されていました。

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こちらは野田の故郷・福岡小郡の野田宇太郎文学資料館さんの所蔵。その存在を数年前に突き止め、文面などは同館にご教示いただいたのですが、現物を見るのは初めてでした。昨日は、もしかするとこれも並んでいるのではないか、と思って見に行ったというのが大きいのですが、ビンゴでした。

その他、ヒユウザン会(のちフユウザン会)で光太郎と親しく交わった木村荘八が描いた油絵「パンの会」。

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こちらは以前に東京ステーションギャラリーさんで開催された「生誕120年 木村荘八展」でも拝見しましたが、今回はこの絵に関する木村のメモ(複製)も展示されており、光太郎を含め、描かれた人物一人一人が特定でき、興味深く拝見しました。

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会場出口近くでは、昭和40年頃に撮影されたと思われる野田と女優の故・小林千登勢さんとのトークが上映されていました。題して「千登勢の文学散歩 奥の細道」。テレビ番組だったのか、モノクロの映像で、スタジオでのトークと、深川、白河、平泉などの映像にのせての野田の解説が収められていました。

ちなみに帰ってから調べましたところ、光太郎智恵子にも触れた「犬吠岬」篇も制作されており、新潟県立生涯学習推進センターさんに収蔵されているようです。そちらも見たかったと思いました。

帰りがけ、図録を購入。

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A4判並製で30ページ。分厚いものではありませんが、よくまとまっています。これで300円は超お買い得でした(笑)。

不謹慎だなとは思いながら、笑ってしまったのが、昭和59年(1984)に亡くなった野田の年譜の最後。戒名が「文学院散歩居士」だそうで。いかにも、ですね。

同展、20日(月・祝)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


その後、次なる目的地、小平に向かいました。明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

この猛獣を馴らして もとの楽園にかへすのが、 そら恐ろしい おれの大願。
詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

このあとに続く、社会矛盾への怒りを露わにする「猛獣篇」時代のプレリュード、約30篇の短章から成る「とげとげなエピグラム」の最後です。

東京都町田市の町田市民文学館ことばらんどさんで開催中の企画展示です。

野田宇太郎、散歩の愉しみ-「パンの会」から文学散歩まで-

会 期 : 2017年1月21日(土曜日)から3月20日(月曜日)
場 所 : 町田市民文学館ことばらんど 東京都町田市原町田4丁目16番17号
時 間 : 10時から17時
休館日 : 毎週月曜日(ただし、3月20日は開館)、毎月第2木曜日
料 金 : 無料

野田宇太郎は、若き日には九州・久留米を舞台に詩人として活躍し、上京後は文芸書の出版で定評のあった小山書店をはじめ、第一書房、河出書房で文芸誌の編集に携わりました。この間、編集者として多くの作家や芸術家と親しく交わります。昭和20年10月、終戦から僅か2カ月後、敬愛した木下杢太郎の死に接した野田は、近代日本文学を専門とする研究者人生をスタートさせます。戦争によって、がらりと表情を変えた東京の町を歩きながら、彼が街並みのそこかしこに見出していたのは、かつての古き佳き東京の面影と失われつつある文学の痕跡でした。やがて、野田は「文学散歩」を通じて発見した文学の痕跡から、時代を遡行することで明治末期の文芸運動<パンの会>を見出します。それは、隅田川にフランスのセーヌ川を重ねたかつての<パンの会>の青年詩人や画家たちと同様に、旺盛な創造力を駆使した野田の新たな文芸復興運動ともいえるでしょう。
本展は、文学に「散策する愉しみ」を拓いた野田宇太郎の仕事を、彼が散策の途上で「見つめていたもの」を通じて再考する試みです。

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関連イベント
 2月11日(土曜日) 川本三郎講演会「近代文学の復興者・野田宇太郎のまなざし」
 2月25日(土曜日) 文学散歩「掃苔しましょう!文士たちの眠る場所」
 3月4日(土曜日)  文学散歩「馬込文士村を歩く」
 3月5日(日曜日)   文学散歩「江戸・東京、水辺の文化圏-日本橋界隈を歩く」
 3月11日(土曜日) 
山田俊幸講演会「散歩の達人・野田宇太郎-<雑誌>が繋ぐ文芸ネットワーク-」
 3月18日(土曜日) 
文学散歩「知っているようで知らない町田探検ツアー、春を探して-町田駅前文学散歩」
 1月24日、2月7日、2月26日、3月20日、ギャラリートーク(展示解説)


サブタイトルにある「パンの会」は、明治41年(1908)から45年(1912)にかけ、浅草周辺で開催された新興芸術運動。光太郎も欧米留学からの帰国(明治42年=1909)と同時にその狂躁に巻き込まれ、後には発起人にも名を連ね、数々のエピソードを残しています。
 
福岡小郡出身の詩人・野田宇太郎は、文学史研究の分野でも大きな足跡を残し、雑誌『文学散歩』を主宰したり、「パンの会」当時の研究をしたりもしています。昭和24年(1949)には『パンの会』という書籍を刊行、同26年(1951)には改訂増補版として『日本耽美派の誕生』を上梓しました。

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雑誌『文学散歩』では、昭和36年(1961)10月号で、「特集 十和田湖」を組み、草野心平や谷口吉郎らの寄稿を仰いで光太郎最後の大作「乙女の像」を紹介しています。表紙はその歿後に光太郎がアトリエを借りて「乙女の像」を製作した、水彩画家・中西利雄が描いた十和田湖周辺の絵です。

『パンの会』は光太郎にも贈られ、光太郎からの礼状も残っています。

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光太郎と関わる展示もありそうです。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

土壌は汚れたものを恐れず 土壌はあらゆるものを浄め 土壌は刹那の力をつくして進展する
詩「五月の土壌」より 大正3年(1914) 光太郎32歳


立春も過ぎ、南関東では土の匂いにも春が感じられるようになってきました。今日は珍しく雪が舞っていますが。

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この雪も土壌に吸いこまれ、草木の糧となってゆくのでしょう。

新刊情報です。
目次
◎米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯
 第一章 米国大統領への二つの手紙
 第二章 予科練の父
 第三章 軍人歌人
 第四章 硫黄島
 第五章 名誉の再会
 付録一 毛厠救命 豊子愷
 付録二 硫黄島から 市丸利之助の歌、折口春洋の歌 佐伯裕子
◎高村光太郎と西洋
 第一章「大和魂」という言葉―北京で『銀の匙』を読む―
 第二章 高村光太郎と西洋
 あとがき
新潮社版へのあとがき
出門堂版へのあとがき
「昭和」を大観した評論―二転三転の精神史 実像をあぶり出す― 中田浩二
鎮魂の紙碑に寄せて 土居健郎
解説 牧野陽子
著作集第7巻に寄せて―市丸家のご遺族―  平川祐弘


平川祐弘氏は、東大名誉教授で比較文学研究者。右派の論客として知られ、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」メンバーです。版元の勉誠出版さんから、「平川祐弘決定版著作集」全34巻が刊行中で、その第3回配本です。

表題は、太平洋戦争中、硫黄島で戦死した市丸利之助中将が残したルーズベルト宛の手紙から採られています。

もともとは平成8年(1996)に新潮社さんから刊行された『米国大統領への手紙』。絶版です。そちらは「第一部 米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯―」、「第二部 「大和魂」という言葉―北京で『銀の匙』を読む―」、第三部「高村光太郎と西洋」の三部構成ですが、今回のものでは第二部が何故か第二部に組み込まれているようです。

「あとがき」によれば、「言語や文化を異にする国家と国家の間の軋轢(あつれき)の中で生き、反応し、歌い、そしてその志を文字で述べた人間を扱った」とのこと。

さらに遡れば、第三部「高村光太郎と西洋」は、平成元年(1989)の雑誌『新潮』が初出です。章立ては以下の通り。光太郎に光雲もからめ、西洋受容史の一典型を論じています。

  誠実な人、insincereな人007
  ジャップの憤り
  ロダンの国にて
  彫刻家ガットソン・ボーグラム氏
  高村光太郎と父
  近代日本における父と子
  反動形成としての『智恵子抄』
  訳詩と劇作詩
  童話と実話
  戦前・戦中・戦後
  自己同化性の人
  人生を刻んだ人
  上野の西郷さんと十和田湖畔の裸女
  父としての役割
  楠公銅像


平川氏には『和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本』という著作もあり、こちらは主に森鷗外を論じつつ、光太郎にも触れられています。

元版は河出書房新社さんから、昭和51年(1976)に刊行。気付きませんでしたが、昨年、同社から「完本」の二字が加えられて再刊されていました。いずれ全著作集に組み入れられるのではないでしょうか。

完本 和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本

平川祐弘著 2016年6月28日 河出書房新社 定価3,800円+税

日本人は西洋という異質の文明と対峙したとき、その衝撃に対してどのように応答したか。明治という過渡期を縦横に考察し、「日本とは何か」を解き明かしてゆく画期的名著。著者代表作。

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併せてご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

大きなる自然こそは我が全身の所有なれ しづかに運る天行のごとく われも歩む可し
詩「冬の朝のめざめ」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

「運る」は「めぐる」。「自然」崇拝、讃美の光太郎、本領発揮という感があります。

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