カテゴリ:文学 > 評論等

半年経っていますので、「新刊」と言っていいものかどうか……。過日、都内に出た際に新刊書店で入手しました。 

2019年11月30日 週刊朝日編集部編 朝日新聞出版 定価1,500円+税

週刊朝日の人気連載(2017年11月〜2019年5月まで)だった「文豪の湯宿」を再編集して収録。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、森鴎外ら文豪が宿泊した温泉宿を、当時のエピソードとともに見開きで紹介する。温泉ガイドとしての情報も満載なのでこれからの温泉シーズンにぴったり。

004

目次
 小林一茶 湯田中湯本(長野県・湯田中温泉)門弟が営む宿で酒をおねだり
 森鷗外 緑霞山宿 藤井荘(長野県・山田温泉)購入を持ちかけて断られた宿
 正岡子規 鷹泉閣 岩松旅館(宮城県・作並温泉)疲れ切ってたどり着いたら長階段の湯
 国木田独歩 上会津屋(栃木県・塩原温泉)若き独歩が恋人と逃避行した宿
 高浜虚子 ふなや(愛媛県・道後温泉)供されたステーキに馴染めなかった虚子
 泉鏡花 まつさき(石川県・辰口温泉)愛する叔母に会うための宿
 幸田露伴 満寿家(栃木県・塩原温泉)暑い夏を避け、生涯何度も訪れた定宿
 夏目漱石 湯回廊 菊屋(静岡県・修善寺温泉)「修善寺の大患」大吐血の舞台
 志賀直哉 三木屋(兵庫県・城崎温泉)列車事故の傷を癒やした城崎の宿
 久米正雄 旅館 花屋(長野県・別所温泉)支払いを忘れて、仲間とともに放蕩
 宇野浩二  聴泉閣 かめや(長野県・下諏訪温泉)思い焦がれた芸者に会うために通った宿
 室生犀星 香嶽楼(新潟県・赤倉温泉)友・朔太郎と小競り合いした思い出
 若山牧水 ゆじゅく金田屋(群馬県・湯宿温泉)鮎料理を“お代わり”して大いに飲食
 田山花袋 依山楼 岩崎(鳥取県・三朝温泉)小声で歌って湯でリラックス
 有島武郎 ゆとうや旅館(兵庫県・城崎温泉)心中の1カ月前に訪れた温泉場
 吉川英治 越後屋旅館(長野県・角間温泉)全財産を投じて籠もった修業の地
 葛西善蔵 湯元板屋(栃木県・奥日光湯元温泉)悲惨な生活から遁走した宿
 川端康成 湯本館(静岡県・湯ヶ島温泉)10年間、ツケ払いで暮らした伊豆の宿
 芥川龍之介 新井旅館(静岡県・修善寺温泉)風呂嫌いで有名な文人も喜んだ湯
 武者小路実篤 いづみ荘(静岡県・伊豆長岡温泉)初めて絵を描いた記念の宿
 谷崎潤一郎 陶泉 御所坊(兵庫県・有馬温泉)原稿料の前払いを求めた書簡の残る贅の宿
 林芙美子 塵表閣本店(長野・上林温泉)子供を預けて執筆した疎開の宿
 井伏鱒二 古湯坊源泉舘(山梨県・下部温泉)神経痛を養生した釣りの基点
 直木三十五 岸権旅館(群馬県・伊香保温泉)謎の戯れ歌を残した雨の伊香保旅
 小林多喜二 福元館(神奈川県・七沢温泉)特高から身を隠した宿
 コラム 文豪たちが残した書画
 与謝野晶子 大丸旅館(大分県・長湯温泉)「旅かせぎ」で訪れた人気の炭酸泉
 高村光太郎 柏屋旅館(栃木県・塩原温泉 塩の湯)智恵子と最後の2人旅をした宿
 斎藤茂吉 わかまつや(山形県・蔵王温泉)書の“三無い”をすべて破った宿
 坂口安吾 あさま苑(長野県・奈良原温泉)肺病の親友とともに長期滞在した秘湯
 横光利一 瀧の屋(山形県・あつみ温泉)夫婦水入らずの“あて”が外れた宿
 尾崎一雄 上高地温泉ホテル(長野県・上高地温泉)オフシーズンに格安で連泊
 山岡荘八 和泉屋旅館(栃木県・塩原温泉郷福渡温泉)宿主と義兄弟の契りを交わした宿
 石坂洋次郎 今井荘(静岡県・今井浜温泉)健康づくりの拠点にした宿
 太宰治 旅館 明治(山梨県・湯村温泉)毎日必ず袴を着け執筆した宿
 獅子文六 松坂屋本店(神奈川県・箱根芦之湯温泉)名作の“ネタ元”となった宿
 佐藤春夫 佐久ホテル(長野県・旭湯温泉)帰京を勧められても断った疎開中の縁
 火野葦平 葉隠館(熊本県・杖立温泉)“戦犯作家”の汚名を返上した復活の原点
 高見順 仙郷楼(神奈川県・箱根仙石原温泉)画を描いて心身を癒やした箱根の宿
 吉村昭 北温泉旅館(栃木県・北温泉)大病から生き延びた自分を見つめた宿
 田宮虎彦 藤三旅館(岩手県・花巻温泉郷鉛温泉)スランプ脱出のきっかけをつくった宿
 井上靖 白壁荘(静岡県・伊豆天城湯ヶ島温泉)命名の約束を果たせなかった故郷の宿
 丹羽文雄 積善館(群馬県・四万温泉)同人仲間と楽しく騒いだ四万の夜
 石川達三 強羅環翠楼(神奈川県・強羅温泉)親睦会で無邪気に遊んだ社会派作家
 内田百閒 皆美館(島根県・松江しんじ湖温泉)“乗り鉄”がたどりついた宍道湖の名宿
 山本周五郎 湯元不忘閣(宮城県・青根温泉)名作のヒントをつかんだ一本の木
 新田次郎 旅館二階堂(福島県・微温湯温泉)名物の“ぬる湯”を沸かして入った
 松本清張 ゑびす屋(京都府・木津温泉)『Dの複合』執筆のため2ヵ月過ごした宿
 開高健 環湖荘(群馬県・丸沼温泉)掃除の従業員も断り籠もった宿
 草野心平 神泉亭(福島県・高野鉱泉)いつまでも庭を眺めた「僕の部屋」
 小林秀雄 みなとや旅館(長野県・下諏訪温泉)“先生”が何度も満室で断られた名宿
 あとがき

版元の紹介文にあるとおり、『週刊朝日』さんで為されていた連載「文豪の湯宿」を再編集したものです。

光太郎の項は、同誌平成31年(2019)2月22日号に「高村光太郎・智恵子×栃木県・塩原温泉塩の湯 柏屋旅館」として載りました。塩原は顕在化した心の病がどんどん進行し、自殺未遂まで起こした智恵子を連れ、恢復への一縷の望みを託して東北から北関東で湯治旅行をした最後の投宿地です。

005

その他、光太郎以外の人物の項で、光太郎も泊まった宿が何ヶ所か。花巻の鉛温泉藤三旅館さん、四万温泉積善館さん、蔵王青根温泉・湯元不忘閣さんなど。

それから、光太郎と交流の深かった人物の項も充実。当会の祖・草野心平、光太郎の姉貴分・与謝野晶子、東京美術学校での「恩師」・森鷗外、『白樺』での盟友・有島武郎や武者小路実篤など。

このブログで『週刊朝日』さんの連載を紹介した際、「ぜひ単行本化していただきたいものですね。」と書いたのですが、単行本化されていました。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

次には大正二年信州上高地にて相愛の女性と共に山岳写生に送りし一夏。

アンケート「山と海」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

設問は「山の思ひ出・水の思ひ出」。

智恵子との最後の旅が塩原を含む湯治行脚でしたが、最初の旅は、ここに言う大正2年(1913)の上高地でした。その前年、光太郎が滞在していた千葉銚子犬吠埼に、智恵子があとを追って押しかけたことがありますが、これはしめしあわせてのことではなかったので除外します。

新刊書籍です。 

2020年6月20日 渡邊毅著 ナカニシヤ出版 定価3,000円+税

道徳教育の教材として偉人伝を用いることの効果は大で、その証を渉猟するなかで、道徳教育思想史を併進して眺めることとなる。
本書人名索引に登場する数、研究者を除いて850余名。各々とその関係者である。道徳教材として偉人から学ぶ教育的効用を述べることが本義であることは勿論、その歴史資料渉猟の結果を眺めるだけで道徳教育思想史が学べる。

001


目次
 はじめに
 凡例
 第一章 道徳教育における人物伝教材の有効性
  はしがき
  第一節 先行研究の検討
  第二節 人物伝教材による教育的効果
  第三節 活用の歴史から検証する人物伝教材の有効性
  第四節 江戸時代の人物伝教材とその教育
  第五節 戦前期の人物伝教材とその教育
  むすび
 第二章 国定修身教科書における人物伝教材
  はしがき
  第一節 〝共通の価値〟を示す郷土の偉業 宮古島の人々 「博愛」(第四、第五期)
  第二節 工藤少年の〝手本〟 工藤俊作と上村彦之丞 「博愛」(第二~第四期)
  第三節 一夜の感動が大著を生む 本居宣長 「松阪の一夜」(第五期)
  第四節 徳望と度量を備えた英雄 西郷隆盛 「度量」(第三、第四期)
  第五節 「忠誠心」は普遍的道徳的価値 楠木正成 「忠孝」(第二、第三期)
  第六節 慈愛と権威とを有する天使 昭憲皇太后 「皇后陛下」(第二期)
  第七節 師への敬愛を教える 上杉鷹山と細井平洲 「先生をうやまへ」(第四期)
  第八節 摂生を心がけ学問に励む 伴信友 「身體」(第二~第四期)
  第九節 下言容れ採用 松平定信 「きそくをまもれ」(第四期)
  第十節 近世万葉学の金字塔 鹿持雅澄 「雅澄の研究」(第五期)
  第十一節 国家維新作用をなした作品 北畠親房 「日本は神の国」(第五期)
  第十二節 世界で注目を集める報徳思想 二宮尊徳 「学問」「勤勉」「孝行」他
       (第一~第五期)
  むすび
 第三章 偉人に学び生きた偉人たちの群像
  はしがき
  第一節 天下万民のために忠節を尽くす ―諸葛孔明と管仲・楽毅
  第二節 義のため直言をはばからず ―韓退之と孔子
  第三節 正気によって苦境を乗り越える ―藤田東湖と文天祥
  第四節 偉人の志をわが志としてなされた世界的発明 ―御木本幸吉と二宮尊徳
  第五節 永遠に後世に伝えられる二人の偉人物語  ―ヘレン・ケラーと塙保己一
  第六節 古人の求めたる所を求めよ ―松尾芭蕉と西行
  第七節 僕の後ろに道は出来る ―高村光太郎とオーギュスト・ロダン
  第八節 風に立つライオンたち ―柴田絋一郎とアルベルト・シュバイツァー
  むすび
 第四章 人物伝教育を推進する学校
  はしがき
  第一節 毎朝校舎に響く賀茂真淵の教え 静岡県浜松市立県居小学校
  第二節 橋本左内の生き方に倣い〝立志〟を教える 福井県福井市明道中学校
  第三節 師弟とともに吉田松陰に学び合う学校 山口県萩市立明倫小学校
  第四節 三百数十年のときをへて「藤樹学」を教える 滋賀県高島市立青柳小学校
  第五節 「先人教育」を推進する町、そしてその学校  岐阜県恵那市立岩邑小学校
  第六節 「われらのてほん 尊徳先生」と教える学校 神奈川県小田原市立桜井小学校
  第七節 地域の偉人たちに興味を持つ園児たち 水天宮保育園(福岡県久留米市)
  むすび
 あとがき
 初出一覧
 註
 索引

著者の渡邊毅氏は、元中学校教諭にして現皇學館大学教育学部教育学科准教授。「現場」でのご経験から、「徳育の王道は、人物伝による教育である」(「はじめに」)という結論を得たそうで(異論もありましょうが)、そのため、人物伝教育の歴史や、光太郎やロダンを含む取りあげるべき偉人の例などをまとめた書籍です。

ちなみに義務教育に於ける「道徳」は、「特別の教科」として、小学校では平成30年度から,中学校では平成31年度から位置づけられるようになりました。それ以前は、「各教科、道徳、特別活動」という枠組みで、「道徳」は「教科」には入っていませんでした。それが「教科」に含まれることとなり、評価の対象にもなっています。ただ、「特別の」ですので、通常の教科のような3段階、5段階の評価ではないようですが。

それに伴って、以前は「副読本」という位置づけだったテキストが、「教科書」となり、そうなると、各学校や教員が独自の教材を使用することは難しくなっているのでは、という気もします(特に教育界が保守的な都道府県――昔は「西のA県、東のC県」と言われていましたが、今はどうなのでしょうか――では)。

ところで、光太郎、「副読本」の時代から取りあげられていましたし、現行の「教科書」でも題材になっているようです。


000


001


002

『道徳教育における……』でもそうですが、明治末から大正初め、ロダンの薫陶を受け、この国に近代彫刻を根付かせるため、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と意気込んで奮闘した頃の光太郎が取りあげられます。

たしかにこの時期の光太郎の姿は、若い世代に共感を持って受け入れられる部分はあるでしょう。しかし、光太郎の真価は果たしてそこなのでしょうか? 仮に当方が中学校で光太郎を扱う道徳の授業をやれ、といわれたら、そこではなく、戦時中、ズブズブの翼賛活動に身を投じて多くの前途有為な若者を死に追いやり、しかし、戦後になってそれをきちんと懺悔した、という部分を扱いたいと思います。

ま、この国の公教育では、こうした部分はある種のタブーとなっているようですので、ほぼほぼ無理でしょうが……。

閑話休題、『道徳教育における……』、ネット通販で入手可です。是非お買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

新しい人が現はれるたびに詩は必ず一つの冒険を行ふ。

散文「島田正詩集『結婚』序」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

島田は北海道出身と思われる詩人ですが、詳細がよく分かりません。光太郎歿後に光太郎の序文なるものを載せた詩集も刊行していますが、そちらはどうも眉唾ものの序文のようでして……。

詳しい経歴等、ご存じの方はご教示いただけると幸いです。

雑誌の新刊です。 

2020年6月5日 鹿砦社 税込定価600円

004

 新型コロナ禍のなかで爆発した検察庁法改正案。時の内閣が検察の人事をコントロールするものだとして批判が集まり、コメント数一千万、数百万人ともいわれる人々が参加したツイッターデモの影響もあって法案は見送りとなりましたが、この騒動はあらためて総括する必要がありそうです。まず確認しておきたいのは、2014年に創設された「内閣人事局」にみられるような、内閣が行政トップの人事権を握るやり方が、すでに安倍政権の常套手段となっていること。本誌2月号の「天木直人×木村三浩対談」でも指摘されていますので、ぜひお読みください。
 
 そして、公訴権を一手に握る検察という組織そのものについても、彼らがただ政権に翻弄される存在ではないことを、強調しておきたいと思います。黒川弘務元東京高検検事長の賭け麻雀問題は、検察の現実の一端を見る良い機会だったとすら言えます。実際、検察はこれまでたびたび暴走してきました。最も有名なのが2009年の郵便不正事件。主任検事らの証拠捏造により村木厚子・元厚生労働省局長が冤罪逮捕されましたが、これを主導し、逮捕された大坪弘道氏は、本誌発行元の出版社・鹿砦社への、いわゆる出版弾圧事件の中心になった検事でした。大手パチンコ企業等を批判する書籍が名誉棄損にあたるとして、鹿砦社代表が逮捕。すでに出版されている本の内容が問題、つまり証拠隠滅や逃亡のしようがないにもかかわらず逮捕という、検察の弾圧目的が垣間見える事件でした。その詳細は、5月号(本誌15周年記念号)の特集にまとめています。起訴する権利を一手に握るということは、冤罪が起きれば責任が問われるべきですが、検察組織をチェックするようなシステムはありません。また、いま政治の不正として検察の動向が伺われるのが、自民党の河合案里参院議員の選挙違反事件ですが、仮に逮捕までいったとしても、今回の騒動が片付いたように見せるためのスケープゴートにすぎないのかもしれません。
 
 前号に引き続き、「新型コロナと安倍失政」特集第3弾としました。特に「専門家会議」に焦点を当てています。5月末には「メンバーの了解」のもと、議事録が作成されていなかったことが明らかになりましたが、検証を阻害する点で政府を批判すべきである以上に、再現性を無視する態度はとても専門家のものとは思えません。本誌では、彼ら「感染症専門家」(と政府・マスコミ)のそもそもの誤りを指摘しています。さらに、尾身茂副座長の要請により加えられた「経済専門家」メンバーについても、5月号に続き再登場いただいた藤井聡・京都大学大学院教授(元内閣官房参与)が分析しています。
 
 さらに、コロナ禍を7月の選挙に向けてのアピールとした小池百合子東京都知事、なぜか人気の吉村洋文大阪府知事についても論考を掲載しました。とくに大阪の「医療崩壊」に維新政治があることは、決してスルーしてはならない事実です。詳細にわたりレポートしています。ぜひご一読をお願いいたします。  

「紙の爆弾」編集長 中川志大

目次
 検察庁法改正案「見送り」の舞台裏 黒川“賭けマージャン”直撃 自民党ガタガタ内情
 特集第3弾 「新型コロナ危機」と安倍失政
 政府・専門家会議・マスコミ 素人たちが専門家を僭称して
 経済専門家会議にみる政府の中小企業切り捨て
 コロナ禍利用し“事前運動”小池百合子と東京都知事選
 吉村洋文知事に騙されるな 維新が招いた大阪・医療崩壊
 「感染対策に“緊急事態条項”必要」という改憲勢力の嘘
 「自粛」から「強制」へ 進行する監視社会
 誰がPCR検査を妨害したのか 隠された数万人「肺炎死」
 日本を包み込む「東京五輪バイアス」
 東京五輪「延期」でさらに泥沼 「東京ビッグサイト」使用停止が生む巨額損失
「ロックダウン」と「解除後」 マレーシアから見た日本の“異常” 
 日米安保60年と安倍無責任政権 検察庁法改正案の語られざる「本質」 
 前立腺がん患者をモルモットに 滋賀医大病院事件「疑惑の判決」
 ビートたけし・岡村隆史・手越祐也 本当に自粛すべきはこの芸能人たち
 永田町アンタッチャブル アベ・カポネを嗤う
〈連載〉
 あの人の家   NEWS レスQ   
コイツらのゼニ儲け 西田健  
 「格差」を読む 中川淳一郎
 ニュースノワール 岡本萬尋   シアワセのイイ気持ち道講座 東陽片岡
 村田らむ キラメキ★東京漂流記   マッド・アマノの裏から世界を見てみよう
 権力者たちのバトルロイヤル 西本頑司   広島拘置所より… 上田美由紀
 元公安・現イスラム教徒西道弘はこう考える   まけへんで!! 今月の西宮冷蔵


精神科医・評論家の野田正彰氏による「政府・専門家会議・マスコミ 素人たちが専門家を僭称して」という稿の終末部分、光太郎の名が。

006

新型コロナウイルス感染症が発生して以来、国の取ってきた対応のまずさを、これでもかと列挙しています。特に、現場の医療機関には必要な情報がおりて来ず、それぞれが手探りで対処するしかなかったという現状。なるほど、そうだったのか、と、いろいろ腑に落ちました。

そして、青少年にとって、この現状が社会を認識するための格好の教材になりうる、という提言。戦時下の大本営発表を鵜呑みにしていた光太郎らの愚を繰り返すまじ、ということでしょうか。

その他の記事を読んでも、なかなか気骨のある雑誌です。「タブーなきラディカルスキャンダルマガジン」と謳っているのもうなずけます。

オンラインで入手可。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

列車の上の大立廻りなどは痛快で面白いけれども、その根柢に何物もないので、私は常に遺憾に思つて居る。

散文「外国映画と思想の輸入」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

この部分、アメリカ映画に対しての批判です。100年前からそうだったのですね(笑)。

005

講談社さんから発行されている総合文芸誌『群像』の今月号を入手しました。  2020年7月1日(6月7日発売) 講談社 税込定価1,300円

001


 〈創作〉
  とんこつQ&A  今村夏子
  膨張  井戸川射子  
 〈第63回群像新人文学賞発表〉
  〈優秀作〉四月の岸辺  湯浅真尋
   受賞の言葉 選評 柴崎友香、高橋源一郎、多和田葉子、野崎歓、松浦理英子
 〈批評総特集〉「論」の遠近法
  考えることを守る  東浩紀
  井筒俊彦――ディオニュソス的人間の肖像  安藤礼二  
  ふたたび世界へと戻ってくるために――崔実『pray human』論  江南亜美子
  非人間  大澤信亮
  彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎から回路をひらく  小田原のどか
  自分が死ぬとはどういうことか?――の変遷  樫村晴香
  コロナウイルスと古井由吉  柄谷行人 
  戦争の「現在形」――七〇年代生まれの作家たちの戦争小説  高原到
  ポシブル、パサブル――ある空間とその言葉  福尾匠
  ばば抜きのゴッサム・シティ  古川日出男
  パラサイト――やがて来る食客論のために  星野太
  ぶかぶかの風景――乗代雄介「最高の任務」  町屋良平
  ピンカーさん、ところで、幸せってなんですか?  綿野恵太
 〈連載評論〉ショットとは何か〈2〉  蓮實重彦
 〈ノンフィクション〉 2011―2021 視えない線の上で   石戸諭
 〈短期集中ルポ〉ガザ・西岸地区・アンマン⑤
   「国境なき医師団」を見に行くいとうせいこう
  〈追悼 井波律子〉 破壊と創造の女神  三浦雅士
 〈連載〉
  ゴッホの犬と耳とひまわり〔7〕  長野まゆみ
  鉄の胡蝶は夢に記憶に歳月に彫るか〔23〕  保坂和志
  二月のつぎに七月が〔28〕  堀江敏幸
  ブロークン・ブリテンに聞け Listen to Broken Britain〔29〕  ブレイディみかこ
  ハロー、ユーラシア〔2〕  福嶋亮大
  薄れゆく境界線 現代アメリカ小説探訪〔2〕  諏訪部浩一
  「近過去」としての平成〔4〕  武田砂鉄
  「ヤッター」の雰囲気〔4〕  星野概念
  星占い的思考〔4〕  石井ゆかり
  所有について〔5〕  鷲田清一
  辺境図書館〔5〕  皆川博子
  LA・フード・ダイアリー〔10〕  三浦哲哉
  現代短歌ノート〔122〕  穂村 弘
  私の文芸文庫〔7〕  綿矢りさ
  極私的雑誌デザイン考〔6〕  川名潤
 〈随筆〉
  変なTシャツを着ている  imdkm
  腰田低男氏の人生 上野誠
  さよりとこより 長田杏奈
  彼女の本も旅にでる 清水チナツ
  確率を上げる(鷺ノ山)  長谷川新
  かさぶたは、時おり剥がれる  堀江栞
 〈書評〉
  このパパを見よ!(『パパいや、めろん』海猫沢めろん 6月22日頃刊行)  野崎歓
  異人に向かう優しい眼差し(『よそ者たちの愛』テレツィア・モーラ)  池田信雄
  知と戯れる「物理の聖典」(『帝国』花村萬月)  豊﨑由美 


彫刻家・小田原のどか氏の評論「彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎から回路を開く―」が14ページにわたって掲載されています。

003  002

加藤典洋氏は、昨年亡くなった文芸評論家。『敗戦後論』(平成9年=1997)が特に有名ですね。思想的な系譜としては、当会顧問であらせられた故北川太一先生の盟友・吉本隆明のそれを受け継いでいるとってもいいでしょう。

そして吉本が初めて著した作家論が『高村光太郎』(昭和32年=1957)。吉本は戦時中、光太郎の翼賛詩文に多大な影響を受け、戦後になってからは、光太郎を通じて「あの戦争は何だったのか」という思索の道に入っていきました。

そして戦時中、大政翼賛会中央協力会議議員や、日本文学報国会詩部会長などを務めた光太郎。他の彫刻家とは異なり、「爆弾三勇士」的な愚劣な彫刻は作りませんでしたが、詩文では最も翼賛活動に資する役割を果たしました。

小田原氏、一昨年に編刊された『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』でも、戦争と彫刻の関わり、特に彫刻の持つモニュメンタルな部分について、様々な論者の方々と論じられていましたが、今回のものもその一連の流れに沿うものです。

特に興味深かったのは、光太郎最後の大作(ちなみに小田原氏は「絶作」としていましたが、それは誤りです)「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を、戦後の平和主義の敷衍に伴う、さまざまな場所に建てられた裸婦像の流れの中で捉えていること。

ただ、そうした有象無象の裸婦像は人々の記憶から薄れ、極論すれば光太郎の「乙女の像」のみが「生き残って」いるように感じるのですが。

さて、『群像』。大きめの書店さんでしたら店頭に並んでいるでしょうし、オンラインでも入手可です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

今日の所ではこつちにゐたくないな、どうも。彫刻のためにこつちへ来たんだから……。あつちでは畑をやるが、畑をやるといふことは、僕の彫刻だ。

座談会筆録「湖畔の彫像」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「彫刻」は「乙女の像」、「こつち」は東京、「あつち」が花巻郊外旧太田村です。

以前にも書きましたが、この年、「乙女の像」制作のため帰京したものの、完成後にはまた太田村に帰るつもりでいた光太郎、住民票はそのままでした。実際、像の除幕式(昭和28年=1953)の後、一時的に太田村に帰りましたが、もはや健康状態が過酷な寒村での生活に耐えられず、三度(たび)、東京の人となり、そのまま亡くなりました。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さん。そのPR誌的な『トンボ』の第10号が届きました。


001

表紙に大きく書かれているとおり、今号は北川先生の追悼特集です。


002

様々な皆さんが、北川先生への追悼詩文を書かれています。

「追悼 北川太一」と括られた部分で、花巻高村光太郎記念会長・大島俊克氏、劇作家・女優の渡辺えりさん、北川先生の菩提寺・浄心寺さんのご住職の佐藤雅彦和尚、光太郎と交流のあった詩人・野澤一ご子息・野澤俊之氏、詩人の服部剛氏、同じく曽我貢誠氏と市川恵子氏、アーティストの前木久里子氏。

それ以外の部分でも、文治堂社主の勝畑耕一氏、服部氏はさらに追悼詩、北川先生ご子息の北川光彦氏、それから当方も書かせていただいております。

若き日の先生のお写真も。

003

皆さんの北川先生に対する思いの丈に接し、心打たれるとともに、先生の業績の偉大さ、そして人間的な懐の深さなどを改めて痛感いたしました。同時に、その先生を喪った深い悲しみがまたぞろ思い起こされ、複雑な心境です。

当会にて10月発行予定の『光太郎資料』(北川先生より名跡をお譲りいただいたものですが)をお申し込みいただいている方には、併せてお送りしますが、それ以外の方、それからすぐに読みたいという方は、文治堂書店さんまでお申し込み下さい。一応、定価500円+税ということになっています。


【折々のことば・光太郎】

とにかく、十和田湖というふうな大自然の中へ、大胆に放り出されちやうのだから、そして十和田湖自身が、日本だけのものではなくてスイツツルやイタリアの、僕たちの頭にある湖の風景とくらべて遜色ない、いまに世界的の観光地になるにきまつているから、いい加減なくだらないものは置かれない。相当の覚悟がいるのです。僕は死んだつて構わないという覚悟でやる気なんです。

座談会筆録「美と生活」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見に訪れた十和田湖の、宿泊した東湖館で為された座談会から。その同じ夜、座談会終了後に、ぼそっと「智恵子を作ろう」と呟いたそうです。

昨日はいわき市の草野心平記念文学館さん他に行っておりましたが、そちらのレポートに行く前に、自宅兼事務所に戻りましたところ葉書で訃報が届いておりましたので、そちらを。

001 003
國學院大學名誉教授の傳馬義澄氏。近代文学ご専攻で、『思索と抒情――近代詩文論――』(審美社 平成12年=2000)などのご著書があるほか、お住まいだった埼玉で、「埼玉文芸賞」、それから今年の「第24回全国高校生創作コンテスト」などの審査員も務められていました。

平成24年(2012)には、第57回高村光太郎研究会で「高村光太郎『智恵子抄』再読」と題されてご発表、その後、連翹忌にもおいで下さいました。昨秋も第64回高村光太郎研究会にお越し下さり、当方、それが氏とお会いした最後となりました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あなたの著書「雪明りの路」をいただいてからもう二三度読み返しました。その度に或る名状し難い深いパテチツクな感情に満たされました。チエホフの感がありますね。この詩集そのものもどこかチエホフの響がありますね。

雑纂「「雪明りの路」の著者へ――伊藤整詩集――」全文
昭和2年(1927) 光太郎45歳

伊藤整は明治38年(1905)の生まれ。光太郎の一世代後の詩人です。

「パテチツク」は仏語で「pathétique」。「感傷的な」「哀れな」「悲愴な」といった意味です。

昨秋、八重洲ブックセンターさんで手に入れた書籍です。最新刊、というわけではないのでご紹介していませんでした。 

平成28年(2016)4月1日 荒井とみよ著 編集工房ノア刊 定価2,200円+税

敗戦の中でことばはどのように立ち上がったか。与謝野晶子、高村光太郎、三好達治、横光利一、臼井吉見、高見順、宮本百合子の戦争敗戦の文学について考察する。同人誌『水路』掲載を書籍化。

目次
 「歌は歌に候」――与謝野晶子
 後日ノート――晶子の手紙
 「わが詩をよみて人死に就けり」――高村光太郎
 後日ノート――『智恵子抄』をめぐる物語
 「なつかしい日本」――三好達治
 「夜汽車が木枯の中を」――横光利一『夜の靴』
 「常念岳を見よ」――臼井吉見『安曇野』
 「私の日記は腐ってもいい」――高見順『敗戦日記』
 「歴史はその巨大なページを音なくめくった」――宮本百合子『播州平野』
 後日ノート――百合子の手紙
 あとがき


004

4年前の刊行で、光太郎について2章も割いている書籍に気づかなかったというのも情けない話ですが、言い訳させていただけるなら、版元の編集工房ノアさん、大阪で「社主の涸沢純平さんが奥様とお二人でやっているミニ出版社。関西で活動を行っている作家、詩人にとって方舟のような存在。活動を開始して35年を超えるが、いまだに家内制出版を守る。」(はてなキーワードより)だそうで、自前のHPもなく、大がかりな宣伝もしていないようでして……。

閑話休題。著者の荒井とみよさんという方、昭和14年(1939)のお生まれで、元大谷大学さんの教授だそうです。そういうわけで、本書は分類すれば評論なのでしょうが、一般的な評論というより、エッセイの要素も強い感じがしました。タイトルが示す通り、文学者たち(「詩人」というのは広義の意味ですね)が、どのように戦争に向き合ってきたかというところに主眼が置かれなかなか鋭い着眼も随所に見られます。

光太郎に関しては、『智恵子抄』所収の詩篇と、大量に書き殴られた愚にもつかない翼賛詩が平行して書かれていた矛盾、そして戦後になってそれをどう総括したのか、的な進め方です。戦時中に関しては、柿本人麻呂になぞらえていらっしゃり、「なるほど」と思わせられました。戦後に関しては、書簡や日記、さらに花巻病院長・佐藤隆房による『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962)に紹介されたエピソードなどをひきつつ、考察されています。

章題に使われている「わが詩をよみて人死に就けり」は、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の構想段階で書かれ、自らボツにした作品。光太郎の戦争観を考える上で、多くの論者が参考にしているものです。

   わが詩をよみて人死に就けり1009

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。


以前にも書きましたが、「必死の時」は、昭和15年(1940)の詩。


    必死の時

 必死にあり。
 その時人きよくしてつよく、002
 その時こころ洋洋としてゆたかなのは
 われら民族のならひである。
 
 人は死をいそがねど
 死は前方から迫る。
 死を滅すの道ただ必死あるのみ。
 必死は絶体絶命にして
 そこに生死を絶つ。
 必死は狡知の醜をふみにじつて
 素朴にして当然なる大道をひらく。
 天体は必死の理によって分秒をたがえず、
 窓前の茶の花は葉かげに白く、
 卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
 天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
 安きを偸むものにまどひあり、
 死を免れんとするものに虚勢あり。
 一切を必死に委(ゐ)するもの、
 一切を現有に於て見ざるもの、
 一歩は一歩をすてて003
 つひに無窮にいたるもの、
 かくの如きもの大なり。
 生れて必死の世にあふはよきかな、
 人その鍛錬によつて死に勝ち、
 人その極限の日常によつてまことに生く。
 未練を捨てよ、
 おもはくを恥ぢよ、
 皮肉と駄々をやめよ。
 そはすべて閑日月なり。
 われら現実の歴史に呼吸するもの、
 今必死のときにあひて、
 生死の区区たる我慾に生きんや。
 心空しきもの満ち、
 思い専らなるもの精緻なり。
 必死の境に美はあまねく、
 烈々として芳しきもの、
 しずもりて光をたたふるもの
 その境にただよふ。
 
 ああ必死にあり。
 その時人きよくしてつよく、
 その時こころ洋々としてゆたかなのは
 われら民族のならひである。



昭和15年(1940)といえば、太平洋戦争はまだ始まっていません。そこで、「わが詩をよみて人死に就けり」で、爆弾が落ちる中、この「必死の時」を書いたというのはおかしいじゃないかと、エラいセンセイが指摘しています。「光太郎はこの詩を自分でいつ作ったのか忘れている、けしからん」と。こういうのを浅い読み方、といいます。光太郎は「「必死の時」を必死になつて私は書いた。」と書いていますが「「必死の時」を必死になつて私は作つた。」とは書いていません。

詩の右に載せた画像は、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、政治学者・富田容甫に宛てた昭和18年(1943)の書簡ですが、「必死の時」の一節が書かれています。「「必死の時」を必死になつて私は書いた。」は、こういうことを指しているのだと考えれば、何らの不思議もありません。

残念ながら、荒井とみよさんも「自分史として正確でない」としているのは、この点だと思われます。また、他にも事実に反する記述(残っている光太郎日記は昭和21年(1946)以降、としていますが、昭和20年(1945)のもの、さらに言うなら断片的には明治期のものも残っています)があったり、ある市民講座での参加者の頓珍漢な発言(智恵子が入院していたゼームス坂病院で格子が嵌められた部屋に閉じこめた的な)を訂正せず(ゼームス坂病院は当時としては画期的な開放病棟が採用されていました)に引用したりと、いろいろ問題があるのですが、そういう点を差し引いても、なかなかの好著だとは思いました。

光太郎以外の章、与謝野晶子はじめ、取り上げられている人物すべて、光太郎と交流のあった面々ですので、興味深く拝読しました。臼井吉見(光太郎の『暗愚小伝』掲載時の筑摩書房『展望』編集者)の章では、光太郎に触れられています。

Amazonさん等で、入手可能。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

不可避の道  短句揮毫 戦後期  光太郎70歳頃

いろいろ見方はあるかと存じますが、光太郎にとって、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活は、「不可避の道」だったように思われます。

002

仕方がないことではありますが、これだけイベント等の自粛やら延期やら中止やらが続くと、このブログで取りあげるネタに困ります。

まず、紹介するべきイベントが行われないのでその紹介が書けませんし、それからイベントに行けばレポートが書け、新聞・テレビなどが取り上げて下さればそれも使えるのですが、それもできません。

そこで苦肉の策としまして、「古いもの」を紹介します。

このブログでは、光太郎智恵子、光雲らに関する「新着情報」を中心に紹介しています。例えば新刊書籍、雑誌類は紹介して、版元等のリンクを貼っておけば、ブログを読んで下さった皆さんもお買い求め頂けるわけで。

ところが「古いもの」ですと、入手困難。そういうものを紹介するのも何だかなぁ、と思い、ほとんど取り上げてきませんでした。

しかし、冒頭に書いた通りのネタ不足。背に腹は代えられません(笑)。そこで、しつこいようですが「苦肉の策」。ネタのない時には最近入手した「古いもの」をご紹介します。

ただ、今回は「古くて新しいもの」というべきでしょうか。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』、さらにその補遺として当方がまとめ続けている「光太郎遺珠」に漏れていた、言わば新発見です。しかも、なかなかに驚くべき内容で。

光太郎ブロンズ彫刻の代表作の一つ、「手」(左下の画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです)に関してです。

000 001

右上は、つい先頃入手した大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』(東京市本郷区根津宮永町十八番地 芸術公論社 編輯兼発行人石川勝治)第3巻第1号です。

ここに、「手紙」と題する光太郎の文章が載っていました。以下に全文を転記します。

手紙
 口村君。
 僕の近作の写真を送れといふ君の依頼によつて、素人が撮影したので甚だ不鮮明なものだが、「手」の習作を一枚送ります。此は今年の夏作つたものです。大きさは自然大の一倍半位。鋳金で黒い色に仕上つてゐます。甚だ貧しいものではあるけれども、しかしいい加減な作でないだけの自信はあります。此は自分の左の手ですが、手を作りながらいろんな事を感じました。
 自分の手をじつと見てゐると自分の手が実におそろしい程不思議に思はれました。何だか自分の手でないやうな気がしました。何か大きなものの見えない手が不意に形を現はしたかのやうに感じました。さうして自分の手の美しいのにひどく打たれました。私は自分の手を仮に仏像にある「施無畏」の印相に似た形にしてみました。私は又自分の手の威厳に打たれました。ふだん自分の手にこんな霊光のある事を感じてゐなかつた事に気付きました。私は此をどうかして自分に出来るだけの力で自分の能力一ぱいに再現したいといふ気に駆られたいのです。
 人間の手といふ者は何といふ無駄の無い、必然な者でせう。手のつけ根から五本の指の先に至るまで全く連鎖して寸分の隙もありません。五本の指を見ても人さし指のまつすぐに余り凸凹無しに直立してゐる力や、中指の根強く岩畳なのや、薬指の思慮深く沈黙したやうなのや、小指の愛らしく又敏捷な趣や、それから其四本に対して唯一本で向つてゐる親指の厚ぼつたい、重みのある気魄は全く考へさせられます。手の甲や掌の肉の起伏、骨の隠顕の微妙さも驚くばかりです。そして其の全体を支配する生きものの熱は殆ど神秘を感じさせます。
 こんな事を考へてゐると、自分の習作の「手」が自然の前にあつて如何にも貧しいのを恥かしく思はれてなりません。しかし私の身上は身上です。今日此だけしか出来ないのを無暗と悲しみはしません。今日此だけなら明日は此以上に出来ます。どこまでも出ぬけます。そして出来る限り此の無尽蔵の自然の美を汲みませう。此の手を作りながら私は奈良にある仏達の手の二三を考へ出した事がありますが、日本にもあれ程の真と美とを把握した作家があつたのだといふ事を非常に力強く思ひました。そして静かに、世間の根帯無き動揺の外に立つて、たとひ貧乏に追はれても、一足づゝ確かに歩むより外自分の行く道は無いのを感じました。私の行く道は寂しいけれども、清らかで、恍惚と栄光とに満ちてゐます。濁流の渦巻くやうな文展芸術の波は、私の足の先をも洗ひません。汚せません。此点君は私を喜んで下さる事と信じます。いづれ又後便で。

「口」は「くち」です。四角やカタカナの「ロ」ではありません。したがって、「口村君」は「くちむらくん」でしょう。珍しい苗字のように思われますが、地方によってほそうでもないのでしょうか? 同誌に翻訳「ダビデ王の一世」、随筆「予が創造芸術」の二本の記事を執筆している「口村龍皚」と思われますが、詳しい経歴等不明です。『高村光太郎全集』第21巻所収の山川丙三郎宛書簡二三九〇に、翻訳家・口村佶郎の名が記されていて、あるいは同一人物かと思われますが、不明です。情報をお持ちの方、このブログサイトコメント欄等よりご教示いただければ幸いです。

さて、どうもその口村龍皚に送った手紙そのまま、または多少の換骨奪胎があるかも知れませんが、それにしても大幅に書き換えられていることはないと思われます。

実は彫刻「手」については、光太郎本人が書き残したものは多くありません。そのため、これまで、正確な制作年代すら不明でした。さまざまな状況証拠から、大正7年(1918)だろうと推測は出来ていましたが、確証がありませんでした。そこで、当方も関わった、千葉市美術館さん他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」(平成25年=2013)の図録やキャプションでは、「1918 大正7年頃」となっていました。

それが、この文章により「今年の夏」とあるので、掲載誌の発行された大正8年(1919)1月から逆算し、やはり大正7年(1918)だったことがほぼ断定できることになりました。さすがに一年以上前の手紙を一年以上経ってから掲載するということもあまり考えにくいと思います。そうした例がないわけではありませんが、光太郎の「近作」を紹介するという趣旨での掲載のようですので、おそらく間違いないでしょう。

既知の光太郎の文章等で、「手」に触れていたのは以下くらいのものでした。

今わたくしの部屋に観世音の手が置いてある。施無畏の印相といへばどんなむづかしい、いかめしい印相かと思ふと、それはただ平らかに静かに前の方へ開いた手に過ぎない。平らに開いた手が施無畏である為にはどんな体内の生きた尺度が必要なのか。
(昭和9年=1934 散文「黄瀛詩集「瑞枝」序」より)

あの手は二つ作つたが僕のはロダンの習作と違つて制作なんだ。施無畏印相の手の形を逆にした構想で、東洋的な技法で近代的な感覚を表わした。あの人さし指は真すぐ天をつらぬいているんだ。
(昭和26年=1951 談話筆記「高村光太郎の生活」より)

雅郎 先生の「手」の彫刻はいつ頃ですか。
先生 よほど前です。
太田 先生御自身の手ですか。
先生 そうです。
(昭和27年=1952 座談会筆録「高村先生を囲んで」より)

いずれも制作からかなり年月が経ってのものでした。また、戦後の日記や書簡で、新たに「手」を鋳造することになって、その関係で事務的に触れていますが、それは割愛します。

で、今回見つけた「手紙」は、もろにリアルタイム。制作当時、光太郎がどのように考えていたのか、かなりはっきりしました。今後、「手」について論考等を書かれる方は、これを参考にしていただきたく存じます。というか、これを参考にしなければ「手」を語れませんね。

ただ、気になる点もいくつか。まず「習作」と書いていること。昭和26年(1951)には「ロダンの習作と違つて制作なんだ」と語っているのに、制作当時は「習作」と位置づけていたのか、と。しかし、ブロンズに鋳造しているということは、全くの「習作」というわけでもなさそうですし、「これから先、こういったものをどんどん作るぞ」という意味での「習作」なのかもしれません。実際、おそらくこの後、「腕」、「ピアノを弾く手」、「足」(現存確認できず)など人体パーツをモチーフとした塑造彫刻を制作しています。

ちなみに繰り返し出て来る「施無畏」は、観音像などの右手によく使われる形で、「何も畏(おそ)れることは無い」と諭す印形だそうです。観音像ではありませんが、奈良の大仏様の右手もこの形です。通常、右手で作る印形を左手として作ったので、上記「高村光太郎の生活」では「逆にした構想」と語っているのだと思われます。

ところで、『芸術公論』に載った「手」の写真がこちら。裏焼きなどのミスがないとすれば、小指側から撮った写真のようです。

002

元々が光太郎の書いた通り「甚だ不鮮明」だった上に、当時の印刷技術ではこの程度が限界だったのでしょう。もう少し鮮明であれば良かったのですが、しかし、これまた現存が確認できている「手」の最古の写真、ということになるわけで、貴重なものではあります。

この写真についても気になる点が。台座の木彫部分は取り付けられているのかいないのか、何とも不明です。手首のあたりに微妙に写っているようにも見えますが。そのためなのでしょうか、通常、最初の髙村規氏撮影の画像のように立っているべき手が横になっています。このあたり、おそらくこの記事自体に光太郎の検閲は入っていないために起こったことなのかもしれません。

いずれにせよ、なかなかすごい文章が見つかったものだと思います。こういう宝探し的要素があるので、中々やめられません(笑)。

追記 下記もご高覧下さい。

ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-①。

ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-②。

【折々のことば・光太郎】

鎖国政策を望むやうな日本論には私は賛成出来ませんが(私は国民性をもつと強いものに思つてゐます)日本人としての本気な生活を建設することについては同志の一人です。最も熱心な。

雑纂「「胞珠帯」より」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「日本人としての本気な生活を建設すること」。新型コロナ禍の中、こうした点が、今、われわれに問われているような気がします。

新刊情報です。 2020年4月10日 日本近代文学館編 勉誠出版 定価2,800円+税

003


文豪たちが愛した東京!

夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、泉鏡花…。
日本を代表する文豪たちは、東京のどこに住み、どんな生活を送っていたのか。
彼ら・彼女らの生活の場、創作の源泉としての東京を浮かびあがらせる。東京を舞台とした作品の紹介のほか、古写真やイラスト、新聞・雑誌の記事や地図など当時の貴重な資料と、原稿や挿絵、文豪たちの愛用品まで100枚を超える写真も掲載。現在につながる、文豪たちの生きた東京を探す。
都内にある8箇所の文学館ガイドも掲載! アクセス方法、代表的な収蔵品など、写真付きで紹介。


目次

 刊行にあたって 坂上弘
 はじめに―東京文学を歩く  池内輝雄

 生活を支えた本郷菊坂の質店―樋口一葉と伊勢屋  山崎一穎
 千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎  小林幸夫
 漱石作品における「東京」の位置―「山の手」と「下町」の視点から  中島国彦
 女性たちの東京―泉鏡花と永井荷風  持田叙子
 近代医学へのまなざし―斎藤茂吉と青山脳病院  小泉博明
 作家たちの避暑地―芥川龍之介の軽井沢体験など  池内輝雄
 伏字の話から始まって―弴・万太郎・瀧太郎  武藤康史
 林芙美子の東京―雌伏期の雑司ヶ谷、道玄坂、白山上南天堂喫茶部  江種満子
 遊び、働き、住むところ―川端康成・佐多稲子たち、それぞれの浅草  宮内淳子


[文学館記念館紹介]
 一葉記念館/武者小路実篤記念館/田端文士村記念館/世田谷文学館/太宰治文学サロン/
 森鷗外記念館/漱石山房記念館/日本近代文学館



平成25年(2013)と同28年(2016)、駒場の日本近代文学館さんを会場に、同館主宰で開催された文学講座「資料は語る―資料で読む東京文学誌」を元にしているようです。

光太郎に関しては、上智大学教授・小林幸夫氏による「千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎」。平成25年(2013)に開催された講座の第1回、「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」の内容をさらにふくらませているものでした。

中心になるのは、小林氏が『日本近代文学館年誌―資料探索 第10号』(平成27年=2015)にも書かれていた、「軍服着せれば鷗外だ」事件。事件そのものは大正6年(1917)ですが、のちに昭和に入ってから、光太郎が川路柳虹との対談で、詳細を語っています。

川路 いつか高村さんが先生のことを皮肉つて「立ちん坊にサーベルをさせばみんな森鷗外になる」といつたといふので、とてもおこつて居られたことがありましたなあ。(笑声)
高村 いやあれは僕がしやべつたのでも書いたのでもないんですよ。
川路 僕も先生に、まさか高村さんが……と言ふと、先生は「いや、わしは雑誌に書いてあるのをたしかに見た」とそれは大変な権幕でしたよ。(笑声)
高村 あとで僕もその記事を見ましてね、あれは「新潮」か何かのゴシツプ欄でしたよ。或は僕のことだから酔つぱらつた序に、先生の事をカルカチユアルにしやべつたかも知れない。それを聞いてゐる連中が(多分中村武羅夫さんぢやないかと思ふんだが)あんなゴシツプにしちやつたんでせう。それで先生には手紙であやまつたり、御宅へあがつて弁解したりしたのですが、何しろ先生のあの調子で「いや君はかねてわしに対して文句があるのぢやらう」といふわけでしかりつけられました。(笑)
(「鷗外先生の思出」昭和13年=1938)

「立ちん坊」は、急な坂の下で重そうな荷車を待ちかまえ、押してやってお金をもらう商売です。「軍服」云々は鷗外の言から引きましょう。

高村光太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と書いたことがあるやうだ。
(「観潮楼閑話」 大正6年=1917)

それで怒った鷗外が、光太郎を呼びつけたというわけです。さすがにボコボコにはしませんでしたが(笑)。数ある光太郎の笑えるエピソードの中でも、これはかなりランキング上位です(笑)。

これを紹介する小林氏の本論考書き出しの部分もまた、笑えます。

高村光太郎は走った、と思われる。自宅からの道を団子坂に向って。何故か。その坂の上にひとりの高名な文学者が住んでいて、怒っていたからである。その文学者とは森鷗外。

どうも権威的なものには反抗しないと気が済まない我らが光太郎(笑)、東京美術学校在学中の明治31年(1898)、美学の講師として美校の教壇に立った軍医総監の鷗外にも、だいぶ反発を感じていたようで、それがすべての大元になったようです。

しかし、反発するだけでなく、鷗外が顧問格だった『スバル』では中心メンバーの一人となりましたし、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた画廊の店名は、鷗外の訳書から採った「琅玕洞」。鷗外は鷗外で、裏で手を回して光太郎の徴兵を免除してやったりもしています。

何とも不思議な、二人の関係です。

『ビジュアル資料でたどる 文豪たちの東京』、他に帝塚山学院大学教授・宮内淳子氏による「遊び、働き、住むところ―川端康成・佐多稲子たち、それぞれの浅草」でも、光太郎に触れられています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

一、国史眼、史記、八犬伝等。
二、物語もの、万葉集、八代集等。
三、ロダン、ホヰツトマン、ヹルハアラン等。
四、ベルグソン、ロマン・ロラン、ヷレリイ等。
五、座右に書籍乏しく、手当たり次第。
六、聖書、仏典、ロダン等。

アンケート「私の愛読書」全文 昭和24年(1949) 光太郎67歳

設問は以下の通り。

一、二十歳以前(少年時代)には
二、二十代(青年時代)には
三、三十代には
四、四十代には
五、現在は
六、各年代を通じての座右の書は


こうして見ると、光太郎という人物を構成した要素がかなりの部分、表されているような気がします。





新刊、というか、旧刊のバージョンアップです。

孤独なる彫刻 造形への道標(みちしるべ)

2020年4月1日 柳原義達著 アルテヴァン発行 定価1,300円+税

舟越保武、佐藤忠良とともに戦後の日本具象彫刻を代表する彫刻家・柳原義達。2020年4月18日から平塚市美術館、同年6月14日から足利市立美術館にて柳原の業績を顕彰する「柳原義達展」が開催されるのにあわせ、生前、優れた美術批評家として知られた柳原のロダンやブールデル、ヘンリー・ムーア、ジャコメッティ、高村光太郎論に加え、自身の制作への思いなどを綴ったエッセイ集。一歩すすんだ彫刻鑑賞の楽しみ方に触れることのできる1冊。ジャコメッティのモデルをつとめた矢内原伊作との対談も特別収載。

目次005

 オーギュスト・ロダン
 アントワーヌ・ブールデル
 ヘンリー・ムーア
 アルベルト・ジャコメッティ
 マリーニ、ファッチーニ、グレコ
 エミリオ・グレコ
 ジャコモ・マンズー
 マリノ・マリーニ
 高村光太郎
 土方定一
 パリ=ローマ24時間
 鳩によせて
 カラス
 孤独なる彫刻
 戦後の私の彫刻観
 私と彫刻

 無題(『読売・現代彫刻10人展』図録より)
 生命の動勢《ブーシェ》
 孤独な芸術家・舟越
 孤独に生きる
 心の安らぎ大和

 対談 柳原義達 vs. 矢内原伊作
   「宇宙の中のバランス 存在するものの位置」
柳原義達年譜/出典一覧/刊行にあたって

著者の柳原義達は、明治43年(1910)生まれの彫刻家。東京美術学校彫刻科に学び、昭和33年(1958)、栄えある第一回高村光太郎賞(造型部門)を受賞しました。平成16年(2004)に歿しています。

元版は昭和60年(1985)に筑摩書房さんから刊行された『孤独なる彫刻 柳原義達美術論集』。上記目次の「Ⅰ」の部分がそれにあたり、「Ⅱ」以降が増補されているようです。

美校在学中から影響を受けていたという光太郎について、「Ⅰ」に「高村光太郎」の項を設定して論じている他、ロダンの項、「私と彫刻」の項などで光太郎に触れています。

意外だったのは、「私と彫刻」中の、光太郎との交流について書かれた箇所。『高村光太郎全集』には、柳原の名が出てこないため、当方、これまで光太郎と柳原は直接の交流が無かったものと思い込んでいました。しかし、さにあらず。昭和13年(1938)頃、柳原が自作の彫刻「仔山羊」を光太郎に見せたところ、これで頒布会をやったらいい、とアドヴァイスを受けたというのです。さらにそのための推薦文も書いてもらったとのこと。当然、この推薦文は『高村光太郎全集』に載っていません。

本書巻末の年譜は略年譜で、そのあたりの記述がありません。そこで、気になって調べたところ、三重県立美術館さんのサイトに柳原の詳細な年譜が載っており、昭和14年(1939)の出来事として、「4月 第14回国画会展に《山羊》を出品し、国画会賞を受賞する。高村光太郎の勧めでこの作品の頒布会をおこなう。」とありました。ということは、光太郎の「推薦文」も活字になったのではないかと思われます。

光太郎のこういうケースは意外と多く、同じ昭和14年(1939)には、南洋パラオに暮らした彫刻家・杉浦佐助の個展に推薦文を書いていますし、前後して水野葉舟(書)や高田博厚、難波田龍起の作品頒布会や個展にも推薦文を寄せています。その他、宅野田夫、松原友規、片岡環といった、現代ではほとんど忘れられかけている(失礼かもしれませんが)といった造形作家たちの頒布会等の推薦文も手がけています。

というわけで、柳原の頒布会のパンフレット的なもの、ぜひとも見つけようと思いました。で、いきなり人に頼るのも何ですが(笑)、情報をお持ちの方、ブログコメント欄、フェイスブックtwitter(始めました)等からお知らせいただければ幸いです。

ちなみに柳原は「高村先生の詩的推薦文は出来上がり、美しい字は、私の心をとらえた」と記しています。「「詩的推薦文」、どんなものだろう?」と気になって仕方ありません(笑)。


【折々のことば・光太郎】

午後、夜、暇あれば散歩す。散歩といふよりも疾歩に近し。心神整調によしと思ふ。

アンケート「散歩と寸言」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

当方も毎日、愛犬と共に朝夕1時間弱くらいずつ散歩しています。田舎ですから人混みもなく、相棒はもう16歳の老犬ですのでゆっくりとです。歩きながらいろいろ考えると、意外と良さげなアイディアが浮かんだりで、原稿を頼まれたりした場合、歩きながら頭の中で半分は出来上がる、といった感じです。

KIMG3074

昨日、高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究(41)』についてご紹介しました。

今日は同誌の連載として持たせていただいている「光太郎遺珠」について。こちらは当方のライフワークでして、平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に漏れている光太郎文筆作品等の紹介です。

面白いものが多数見つかりました。

まず、評論「教育圏外から観た現時の小学校」。大正5年(1916)、『初等教育雑誌 小学校』に掲載された長いもので、手本を丸写しにさせる図画教育のありかたを徹底批判したり、子供特有の物体の捉え方(キュビスム的な)を尊重すべしといった論が展開されたりしています。面白いのは、駒込林町の光太郎住居兼アトリエの石段をめぐるエピソード。近所の子供達の格好の遊び場となっていたそうで、さすがに泥がおちて困るので「遊んだら掃除してくれ」的な張り紙と箒を用意したところ、こまっしゃくれたガキが「これは、ここで遊ぶなという意味なんだ」と、曲解したそうです。このようなひねくれた裏読みをする子供を育てる学校教育はけしからん、だそうで(笑)。

こちらは国会図書館さんのデジタルデータに新たにアップされたもので、同データの日進月歩ぶりもありがたいかぎりです。

それから、昭和20年(1945)の終戦直後、盛岡で開催された「物を聴く会」の談話筆記。これまで、そういう会があったことは知られていましたが、どんな話をしたのかは不明でした。それが地方紙『新岩手日報』に掲載されていたのを見つけました。終戦直後、花巻郊外太田村の山小屋に移る直前の光太郎の心境がよくわかります。


談話筆記としては、他に昭和28年(1953)、芸術院会員に推されたのを辞退した際のもの、同年、東京中野から一時的に花巻郊外旧太田村に帰ったときのものなど、それぞれ短いものですが、節目節目の重要な時期のものです。


また散文に戻りますが、戦時中のものも2篇。こちらはやはり「痛い」内容で……。

昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争開戦の日に予定されていた、大政翼賛会第二回中央協力会議での提案の骨子、「工場に“美”を吹込め」。こちらはまだ前向きな提言ではありますが、敗色濃厚となった昭和19年(1944)の「母」になると、いけません。「まことに母の尊さはかぎり知れない。母の愛こそ一切の子たるものの故巣(ふるす)である。」、と、まあ、このあたりは首肯できますが、「されば皇国の人の子は皇国の母のまことの愛によつて皇国の民たる道を無言の中にしつけられる。」となると、「何だかなぁ」という感じですね……。もっとも、翌年に書かれた「皇国日本の母」という既知の散文では「死ねと教へる皇国日本の母の愛の深淵は世界に無比な美の極である」とまで書いていて、それに較べれば、まだしもですが……。

002

書簡類も多数。昨年から今年の初めにかけ、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎からの手紙」に出品された、当時中学生だった女性からの「ファンレター」への返信(昭和25年=1950)、亡くなる6日前の、現在確認できている光太郎最後の書簡(ただし代筆ですが)など。

さらに短句揮毫。昨年このブログでご紹介した、智恵子とも旧知の画家・漫画家、池田永治に贈った「美もつともつよし」。昭和20年(1945)5月14日、疎開のため花巻に発つ前日、おそらく池田の着ていたチョッキの背に書いたものです。また、昭和27年(1952)、盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)の卒業式に際して揮毫した色紙。「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」。このあたりは、書作品としても貴重なものです。

001  000

他にもいろいろありますが、割愛します。

こちらの載った『高村光太郎研究(41)』、頒価1,000円です。ご入用の方、仲介は致しますので、ブログコメント欄からご連絡下さい。非表示設定も可能です。

002


【折々のことば・光太郎】

思ひ出せばいろいろの場合にさう感じたことが沢山ありますが、初めてアメリカに渡つて苦学してゐる頃、時たま母から届いたカナクギ流の手紙ほど私の心を慰め、勇気を出させてくれたものはありません。

アンケート「カナクギ流の母の手紙――私がほんたうに有り難く思つたこと――」より  昭和6年(1931) 光太郎49歳


光太郎の母・わかは、大正14年(1925)、数え69歳で歿しました。わかは、決して光太郎に「死ねと教へる」ような「皇国の母」ではなかったはずだと思います。

当方も加入しております高村光太郎研究会発行の、機関誌的な年刊誌『高村光太郎研究』の41号が届きました。

001

内容的には上記画像の通りですが、一応、文字に起こします。

高村光太郎が彫刻や詩の中に見つけた「生命(いのち)」とは―画竜点睛、造型に命が宿るとき― 北川光彦
高村光太郎の書について「普遍と寛容」 菊地雪渓
光太郎遺珠⑮ 令和元年 小山弘明
高村光太郎没後年譜 平成31年1月~令和元年12月  〃
高村光太郎文献目録 平成31年1月~令和元年12月 野末明
研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき  〃

北川氏、菊地氏の稿は、昨秋開催された第64回高村光太郎研究会でのご発表を元にされたもの。

北川氏は、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご子息で、ご本業は理系の技術者です。そうした観点から、光太郎の「生命」に対する捉え方が、芸術的な要素のみにとどまらず、科学、哲学、宗教的見地といった様々な背景を包摂するものであるといった内容となっています。いわば彫刻、詩、書など、総合的芸術家であった光太郎のバックボーン、「思想家」としての光太郎に光を当てるといった意味合いもあるように感じました。

菊地氏は、昨年の「東京書作展」で大賞にあたる内閣総理大臣賞を受賞なさったりしていらっしゃる書家。光太郎詩文も多く書かれている方です。図版を多用し、光太郎書の特徴を的確に論じられています。光太郎の書はこれまでも高い評価を得ていますが、ただ「味がある」とかではなく、どこがどういいのか、それが技法的な面からも詳細に語られ、眼を開かれる思いでした。当方、富山県水墨美術館さんで開催予定の企画展「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に関わらせていただいているため、特に興味深く拝読しました。

拙稿2本のうち、「光太郎遺珠」は当方のライフワーク。平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に漏れている光太郎文筆作品等の紹介です。詳細は長くなりますので、明日、紹介します。「没後年譜」は、このブログで昨年末に「回顧2019年」として4回にわたってまとめたのを骨子としています。

研究会主宰の野末氏による、「文献目録」はこの1年間に刊行された書籍、雑誌等の紹介、「研究会記録」は昨秋の第64回高村光太郎研究会に関わります。

頒価1,000円です。ご入用の方、仲介は致しますので、ブログコメント欄からご連絡下さい。非表示設定も可能です。


【折々のことば・光太郎】

小生は歌を日本ソネツトと目してゐます。従つてその形式を尊重します。

アンケート「新年に当り歌壇に与ふる言葉」より
 昭和6年(1931) 光太郎49歳

「歌」は短歌です。「ソネツト」は「ソネット」、14行で書かれる欧州の伝統的定型詩です。短歌でも独特の秀作をかなり残した光太郎。古臭いものとして排除しなかった裏には、こうした考えがありました。

一昨日、昨日に続き新刊紹介です。 

谷根千のイロハ

2020年2月19日 森まゆみ著 亜紀書房 定価1,300円+税

なつかしい街並みが残る谷根千を、古代から現代まで通して語る地域の歴史

現在も路地や商店街が続き、外国からの観光客にも人気が高い谷中・根津・千駄木。
弥生式土器が発掘された弥生町、江戸将軍家の菩提寺・寛永寺と上野、加賀の屋敷跡が東京大学になった千駄木、遊郭があった根津と権現様……。

幸田露伴、森鴎外、夏目漱石、岡倉天心、高村光太郎、三遊亭圓朝といったゆかりある著名人も取り上げながら、谷根千を歩いて語る。

本を片手に谷根千を歩いてみたくなる一冊!

001

目次
 序文 次の世代に伝える
 (1) 古代から江戸時代までの谷根千
 (2) 明治時代の谷根千
 (3) 大正時代の谷根千
 (4) 昭和の谷根千
 あとがきにかえて

かつて地域雑誌『谷中根津千駄木』を刊行されていた森まゆみさんの新著です。一昨年、千駄木のKLASSさんで開催された森さんの連続講義を元にされているようです。

「(3) 大正時代の谷根千」の章に「高村光太郎」という項がある他、「(2) 明治時代の谷根千」の章には「高村光雲と平櫛田中」という項があります。また、「団子坂不同舎と太平洋美術会」では智恵子に触れられ、さらに「「パンの会」「方寸」の人々」、「千駄木で『青鞜』創刊」、「林町の住人たち」といった項もあります。

同じ森さん著の『「谷根千」地図で時間旅行』、『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』などと併せて読まれることをお勧めします。

「あとがきにかえて」に拠れば、「町について学び、町の声に耳をすませてきた地域の暮らしの歴史を、次の世代に伝えることができたら、これに過ぎる喜びはありません」とのことで、なるほど、その通りですね。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

何といつても世の中でいちばんうまい飲み物は、山へ行つて崖から湧き出る石清水をのむ時のうれしさだ。ビールなど足もとへもおよばない。実際水ほどうまい物はまたとなからう。

散文「ビールの味」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

好物の一つだったビールについて、自己の留学時の体験などを延々と書いてきて、最後にどんでん返し(笑)。身も蓋もありません(笑)。しかし、ほぼほぼアルコールを飲まなくなった当方としては、実に納得の行く言葉です。

新刊です

レジェンド文豪のありえない話

2020年1月1日 株式会社ダイアプレス 定価891円+税

総勢六十余名の神をも恐れぬご乱痴気!
酒癖、絡み症、女癖、我執…。文壇の先生方は一癖二癖、三癖が普通。そのくせ弱くて「死にたい…」とぽつり。そんな先生方の哀しくも過激でおもしろすぎるアンビリーバブルな言行録!!

〇明治の困った文豪たち
・坪内逍遥 ・夏目漱石 ・正岡子規 ・森鴎外 ・幸田露伴 ・広津柳浪 ・尾崎紅葉
・国木田独歩 ・樋口一葉 ・島村藤村 ・田山花袋 ・徳田秋声 ・泉鏡花 ・与謝野晶子

〇大正の小粋な文豪たち
・有島武郎 ・永井荷風 ・石川啄木 ・萩原朔太郎 ・芥川龍之介 ・谷崎潤一郎
・直木三十五 ・菊池寛 ・武者小路実篤 ・志賀直哉 ・内田百閒 ・室生犀星
・岡本かの子 ・佐藤春夫

〇昭和の微妙な文豪たち
・宮沢賢治 ・井伏鱒二 ・横山利一 ・江戸川乱歩 ・夢野久作 ・川端康成 
・梶井基次郎 ・小林多喜二 ・林芙美子 ・堀辰雄 ・中原中也 ・中島敦 ・ 坂口安吾
・檀一雄 ・太宰治 ・幸田文 ・大岡昇平 ・織田作之助 ・埴谷雄高 ・安部公房
・三島由紀夫


〇コラム
・明治文豪相関図 ・大正文豪相関図 ・昭和文豪相関図 ・文豪たちがしたためた恋文
・文豪たちのエロ妄想 ・文学と性表現 ・文豪たちのこだわり ・戦後小説と文壇の流れ

001

「文豪」たちの、どちらかというと人間くさいエピソードの数々を、一般向けに堅苦しくなく紹介するものです。光太郎は目次の大項目に入っていませんが、コラム「文豪たちがしたためた恋文」で、大正2年(1913)、結婚前の智恵子に宛てた光太郎からの書簡が紹介されています。また、佐藤春夫ら、交流のあった「文豪」の項で名前が挙げられていたり、「相関図」に組み込まれていたりします。

肩のこらない書きっぷりですが、どうしてどうして意外と鋭い指摘(光太郎に関しては「狂気を孕んだ愛」の一言)や、ある種のタブーへの挑戦的な部分(狂信的ファンの間では神格化されている宮沢賢治が、実は春画コレクターだったことの紹介など)もあり、一種の「文春砲」のような(笑)。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

恋愛だけには人工的な理性が加はらない。昔からたつた一つ、人間の姿が生き生きして出て来るものは恋愛である。恋愛と云ふものは罪悪だとか、人間の精力をつぶして了ふとか、危険なものだとか、盲目なものだとか云ふ風に解釈するのは皆功利的な解釈の仕方である。

談話筆記「恋愛――結婚の話――」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

こう語った頃、光太郎は智恵子との恋愛の真っ最中で、密かに上高地への婚前旅行を共謀していた時期でした。

雑誌の新刊です。といっても、1ヶ月経ってしまいましたが

花美術館 Vol.68

2019年12月20日 蒼海出版 定価1,200円+税

特集 オーギュスト・ロダン 人体こそ魂の鏡  

監修・髙橋幸次(国際ファッション専門職大学教授)
 ロダンの生涯―いのちを注ぎ込んだ綜合  髙橋幸次
 ロダン作品の特徴―自然と生命を拠り所に  髙橋幸次
 日本とロダン  髙橋幸次
 「ロダンの言葉」について―彫刻理解の基礎、大前提  髙橋幸次
 日本のロダニズム―荻原守衛を中心に  武井敏(碌山美術館学芸員)
 カミーユ・クローデルとロダン  南美幸(静岡県立美術館上席学芸員)
 他


001

002

花美術館』さん。隔月刊の美術雑誌で、A4版200ページ近くでオールカラーの豪華なものです。平成23年(2011)のVol18では、光太郎智恵子の特集「詩魂が宿る芸術 光太郎、智恵子」を組んで下さいました(監修は故・北川太一先生でした)し、その後もぽつりぽつりと光太郎に関わる内容がありました。

で、今号はロダン。監修、さらにご執筆もなさっている髙橋幸次氏、以前は日本大学さん芸術学部教授であらせられましたが、昨年開校した国際ファッション専門職大学に移られたそうです。当方、いろいろお世話になっております。氏が三元社さんから昨年上梓された『「ロダンの言葉」とは何か』をベースにされた部分もあり、ロダンを崇敬した光太郎についての記述がふんだんに為されています。

図版が多く、理解の手助けとなります。晩年のカミーユ・クローデルの写真の存在など、当方、寡聞にして初めて知りました。

氏からの年賀状で今号の内容を知り、早速、Amazonさんで注文したのですが、さんざん待たされたあげく、結局品切れとメールが来、改めて他店で注文し直し、漸く入手した次第です。

また、こちらもお世話になっている、碌山美術館さんの学芸員であらせられる武井敏氏による「日本のロダニズム―荻原守衛を中心に」でも、光太郎に触れて下さっています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

山を画きたい欲望は随分前からあつたので、今度山の中にはいつたら堪らないと思ふ。私は今大変な時に居る。二三日したら山へ行く。山を画く。

散文「〔消息〕――『生活』に――2」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

「山」は信州上高地です。ここでは秘匿していますが、すでに話ができあがっていたようで、智恵子も光太郎の後を追って上高地入りし、二人は婚約を果たします。光雲の息のかかった旧態依然の日本彫刻界とは訣別し、ヒユウザン会(のちフユウザン会)、生活社など、新進気鋭の若手の集まりに軸足を置くようになって、さらに智恵子との婚約。確かに「今大変な時に居」ました。その高揚感が文章からも伝わってきます。

詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子様005から、文芸同人誌『青い花』の最新号が届きました。

これまでも光太郎智恵子に関するエッセイや論考等を同誌にたびたび寄稿なさっていて、その都度お送りいただいております。恐縮です。

『青い花』-「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」。
『青い花』第78号。
文芸同人誌『青い花』第79号。
文芸同人誌『青い花』第81号。
文芸同人誌『青い花』第90号/『月刊絵手紙』2018年9月号。

宮尾様、一昨年に智恵子の故郷・二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝くなど、朗読系の活動も広く為されています。昨年は連翹忌にても朗読をご披露いただきました。

「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」レポート。 
第5回 春うららの朗読会。 
朗読会「響きあう詩と朗読」。 
高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会レポート。 
第63回連翹忌レポート。 

さて、今回の『青い花』、宮尾様によるエッセイ「巴里 パリ PARIS(一)」が掲載されています。

007

006昨年の6月、フランスにお一人で行かれたそうで、そのレポートです。パリ以外にもモンサンミッシェルについても記述があります。

宮尾様がドゴール空港に降り立たれたのが、6月11日。明治41年(1908)、光太郎が留学の最終目的地と定めたパリに着いた同じ日です。

ちなみに、数年前に発見した『高村光太郎全集』未収録の随筆「海の思出」により、パリ以前に滞在していたイギリスからは、ニューへブン(英)――ディエップ(仏)間の航路を使って海峡を渡ったことが初めて確認できました。

宮尾様、パリでは光太郎が暮らしたモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエ跡を訪れられたそうで、うらやましい限りです。当方もいずれは、と思っておりますが。

それから、パリに行かれるというので、事前に、これも数年前に発見した『高村光太郎全集』未収録の「曽遊紀念帖」という光太郎のパリレポートのコピーをお送りしましたところ、そちらに掲載されているメディシス(メヂチ)の噴水(Fontaine de Medicis)などにも足を運ばれm感慨にひたられたとのこと。テルミン奏者の大西ようこさんが渡仏された際もそうでしたが、お役に立てて幸いでした。

『青い花』、ご入用の方は下記まで。

008


【折々のことば・光太郎】

僕の画室へは月が大窓から室一ぱいにさし込んで来る。遠くの方を馬車の馬の蹄の音がきこえる許りで今夜は至つて静かだ。かういふ晩には僕はいつも地球の廻転する音が聞える様に感じてならない。

散文「仏蘭西だより――水野葉舟への手紙――」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

パリのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエでの感懐を、親友・水野葉舟に書き送った文章の一節です。

新刊紹介です。 

恥ずかしながら、詩歌が好きです 近現代詩を味わい、学ぶ

2019年11月30日 長山靖生著 光文社(光文社新書) 定価940円+税

001

今どき「詩歌が好きです」と告白するのはかなり恥ずかしい。勇気がいります。殊におじさんにとってはカミングアウトに近い。しかし、詩を口ずさみたくなるのは若者だけではないのです。歳を重ねているからこそ、若々しい詩も、達観した歌も、共にわがこととして胸に沁みるのではないか――。
評論家として数々の受賞歴もある著者が、ついに詩歌好きをカミングアウト。近現代詩歌を時代順に引きながら、喜びや悲しみを、詩人たちの実人生と共にしみじみと味わいます。現代日本語や時代を作ってきた詩人たちの心のやりとり、生き様に注目!


長山靖生(ながやまやすお)
1962年茨城県生まれ。評論家。歯学博士。鶴見大学歯学部卒業。歯科医のかたわら、執筆活動を行なう。主に明治から戦前までの文芸作品や科学者などの著作を、新たな視点で読み直す論評を一貫して行なっている。1996年、『偽史冒険世界』(筑摩書房)で第10回大衆文学研究賞受賞。2010年、『日本SF精神史』(河出ブックス)で第41回星雲賞、第31回日本SF大賞を受賞。2019年、『日本SF精神史【完全版】』(河出書房新社)で第72回日本推理作家協会賞(評論・研究部門)受賞。主な著書に『「人間嫌い」の言い分』『不勉強が身にしみる』(以上、光文社新書)、『人はなぜ歴史を偽造するのか』(光文社知恵の森文庫)、『鷗外のオカルト、漱石の科学』(新潮社)、『「吾輩は猫である」の謎』(文春新書)、『若者はなぜ「決められない」か』(ちくま新書)、『千里眼事件』(平凡社新書)など多数。


目次


 はじめに
 第一章 大食いは師友の絆
   ――正岡子規、伊藤左千夫、長塚節――
 第二章 日清・日露の戦争詩
   ――与謝野鉄幹、夏目漱石、森鷗外、大塚楠緒子、与謝野晶子、乃木希典――
 第三章 江戸趣味と西洋憧憬
   ――上田敏、北原白秋、木下杢太郎、佐藤春夫、萩原朔太郎――
 第四章 酒のつまみは何ですか
   ――吉井勇、若山牧水、中村憲吉、萩原朔太郎、中原中也――
 第五章 詩歌と革命
   ――石川啄木、百田宗治、萩原恭次郎、小熊秀雄――
 第六章 恋する詩人たち
   ――与謝野鉄幹、与謝野晶子、北原白秋、片山廣子、芥川龍之介――
 第七章 犯罪幻想(ミステリ)と宇宙記号(SF)の世界
   ――萩原朔太郎、高村光太郎、山村暮鳥、千家元麿、三好達治、佐藤惣之助――

 第八章 抒情派の季節、あるいはロマネスクすぎる詩人たち
   ――中原中也、立原道造、堀辰雄――
 第九章 直情の戦争詩歌、哀切の追悼詩歌
   ――北原白秋、三好達治、高村光太郎、折口信夫――

 第十章 戦中戦後食糧事情 
   ――斎藤茂吉、山之口貘、片山廣子――
 あとがき


一般向けの近代詩歌史概論です。平易な語り口で書かれ、読みやすいのが特徴ですが、押さえるべきポイントはしっかり押さえられ、また、「流れ」として明治―大正―昭和戦後を捉えるかたわら、時に時系列を超えて謳われている対象によっての概括を図ったりもし、工夫に富んでいます。取り上げられている詩歌人が、一般には有名どころばかりでないのも好感が持てるところです。また、上記目次には名がありませんが、宮澤賢治、安斎冬衛、日夏耿之介、田山花袋らにも触れられています。さらに、目次に光太郎の名がない章にも、光太郎が登場します。

光太郎が大きく取り上げられているのは、まず「第七章 犯罪幻想(ミステリ)と宇宙記号(SF)の世界」。生涯最後の詩の一つ「生命の大河」(昭和30年=1955)が引用されています。翌年元日の『読売新聞』に発表された長詩ですが、原子力の平和利用的な部分もある詩で、長山氏、その部分に注目されています。

007 (2) 科学ほ後退をゆるさない。
 科学は危険に突入する。
 科学は危険をのりこえる。
 放射能の故にうしろを向かない。
 放射能の克服と
 放射能の善用とに
 科学は万全をかける。
 原子力の解放は
 やがて人類の一切を変え
 想像しがたい生活図の世紀が来る。


この一節に関しての長山氏の評が以下のとおり。

 原発問題で「けっきょく金だろ」みたいな下品な本音を露呈するエライ人は心を入れ替え、せめてこれくらいの品位ある言葉を使って、正々堂々と「科学が拓く未来」を語って欲しいものです。
 原発は反対派・推進派の双方がこれらの詩句に学んで、礼節と品格と機知のある言葉で応酬してくれれば、少なくとも耳の生活環境は向上します。だからといって両者が理解し合えることは、ないのかもしれませんが(光太郎の詩はアイロニーです。念のため)。

「生命の大河」が「アイロニー」とする部分には疑念を感じます。同時期の他の詩を併せて読むと、ある意味、光太郎、原子力による明るい未来、的な部分を信じていたふしがあります(無邪気に、というわけでもなかったようですが)。これは当時の世相がそうだったわけで(だから「鉄腕アトム」ですし、アトムの妹は「ウラン」ちゃんです)、一人光太郎をのみ批判するには当たらないとは思いますが、それにしても光太郎の社会認識の不得手さ(戦時にしてもそうでしたが、安易に流される部分)が見て取れます。

しかし、「品位ある言葉」云々は、その通りですね。ところが、今年発覚したF県T町と電力会社のズブズブの癒着問題などにふれると、やはり「原子力ムラ」の連中には「正々堂々と「科学が拓く未来」を語」ることはできないのでは、と思わされます。長山氏もそうした思いから「両者が理解し合えることは、ないのかもしれませんが」としているような気がします(違っていたらごめんなさい)。

逆に当方が心配するのは、「原子力村」の連中が「生命の大河」の上記の一節を持ち出し、「かの高村光太郎もこう語っているから、原発を推進しよう」と、プロパガンダに悪用しないかということです。まるで戦時中の翼賛詩のように、です。もっとも、品格に欠ける輩は、詩歌など読みませんか(笑)。

「翼賛詩」といえば、本書の「第九章 直情の戦争詩歌、哀切の追悼詩歌」で、やはり光太郎詩が取り上げられています。

取り上げられている翼賛詩は、昭和16年(1941)の「十二月八日」、「新しき日に」、翌年の「沈思せよ蒋先生」、「」シンガポール陥落」、「夜を寝ざりし暁に書く」、「特別攻撃隊の方々に」、同18年(1943)の「ぼくも飛ぶ」。

長山氏、公平公正な観点から当時の光太郎を評して下さっています。曰く、

 高村光太郎は、この戦争は東アジア太平洋地域を欧米の植民地支配から解放する聖戦だというスローガンを単純に信じたのでした。
 いや、単純ではなかったのかも知れませんが、自身、留学中の差別体験があり、疑いながらも、「信じる」ことが心情にもかなっていたのでしょう。現に戦いが始まってしまっている以上、それ以外の選択肢はありませんし。
(略)
 それでも高村光太郎は、品性を重んじ、美を讃え続けました。彼の目には死地に赴(おもむ)く人々の決意、虜囚(りょしゅう)の辱めを受けずに自決して果てる人々の姿勢が、とても高潔なものと映っていたのでした。おそらくこれは本当だと思います。戦地に行き死んでいった人々を、どうして無駄死になどと言えるでしょう。讃えねばならぬ、彼らの尊厳を守るために、彼らを讃えねばならぬ……。


さらに戦後の光太郎に触れられます。連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の構想段階で書かれ、しかし結局ボツにした「わが詩をよみて人死に就けり」を引いて、「戦後になると、自身の「戦争協力」を深く悔いることになります。そしてその想いもまた、詩になる。それが詩人の業というものです。」と結ばれます。

本書を購入する前、光太郎の翼賛詩が取り上げられている情報を得ていまして、それを「これぞ大和魂の顕現」と涙を流してありがたがる内容の書籍だったら困るな、と思っていたのですが、杞憂でした。

ぜひ、お買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

恐らく尾崎君は寸時も孤独に堪へられない本性を持つてゐて、其が尾崎君に人間への強い愛慕の心を与へ、従つて否応なしに、「人間を信じ」させるのであらう。

散文「「渝らぬ友」――尾崎喜八――」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

「渝らぬ」は「かわらぬ」と読みます。

尾崎喜八は光太郎と家族ぐるみで交流のあった詩人です。光太郎より12歳年少でした。

光太郎自身は「孤独が何で珍しい」(昭和4年=1929)などという詩も書き、その後半生、智恵子亡き後は独居自炊のある意味孤独な生活を続けましたが、しかし、深層心理では「寸時も孤独に堪へられない本性」をやはり持っていたのではないと思われます。それが誤った方向に作用し、世の中と積極的に関わろうとして、大量の翼賛詩を書き殴ることにもつながったような……。それとて「人間への強い愛慕」が背景にあったのでしょうが……。

1泊2日の行程を終え、東北から帰って参りましたが、そちらのレポート(最低3日はかかりそうなので)の前に、新刊情報を。

『詩と思想』2019年11月号 特集 詩人・作家の死生観

2019年11月1日 土曜美術出版社 定価1,300円+税


かつて文芸同人誌『虹』を主宰され、連翹忌にもたびたびご参加下さっている豊岡史朗氏からいただきました。

『虹』については以下。残念ながら、現在は休刊中だそうですが。
詩誌『虹』。   いただきもの。   詩誌『虹』―鷗外と光太郎。  文芸同人誌『虹』第6号。
文芸同人誌『虹』第8号。    文芸同人誌『虹』第9号/『月刊絵手紙』2018年8月号。

で、『詩と思想』。「詩人・画家の死生観」という特集を組んでいまして、豊岡氏の「高村光太郎の自然観と死生観」という玉稿も6ページにわたり掲載されています。

『虹』掲載のものもそうでしたが、氏の論考は安心して読めます。奇を衒わないリスペクトに基づく明快な論旨、完結で歯切れのいい文体等々、かくあるべしというお手本のようです。

他に、宮澤賢治、八木重吉、ミケランジェロなど、光太郎と関連する人々についての論考も掲載されています。


もう1件。 注文してはありますが、まだ届いていません。ネット上にも画像が掲載されていませんで、画像はなしです。

ビジュアル資料でたどる 文豪たちの東京

2019年11月 日本近代文学館編 勉誠出版刊 定価2,800円+税

夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、泉鏡花…。
日本を代表する文豪たちは、東京のどこに住み、どんな生活を送っていたのか。
彼ら・彼女らの生活の場、創作の源泉としての東京を浮かびあがらせる。東京を舞台とした作品の紹介のほか、古写真やイラスト、新聞・雑誌の記事や地図など当時の貴重な資料と、原稿や挿絵、文豪たちの愛用品まで100枚を超える写真も掲載。現在につながる、文豪たちの生きた東京を探す。
都内にある8箇所の文学館ガイドも掲載! アクセス方法、代表的な収蔵品など、写真付きで紹介。

目次
 刊行にあたって 坂上弘
 はじめに―東京文学を歩く 池内輝雄

 生活を支えた本郷菊坂の質店―樋口一葉と伊勢屋 山崎一穎
 千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎 小林幸夫
 漱石作品における「東京」の位置―「山の手」と「下町」の視点から 中島国彦
 女性たちの東京―泉鏡花と永井荷風 持田叙子
 近代医学へのまなざし―斎藤茂吉と青山脳病院 小泉博明
 作家たちの避暑地―芥川龍之介の軽井沢体験など 池内輝雄
 伏字の話から始まって―弴・万太郎・瀧太郎 武藤康史
 林芙美子の東京―雌伏期の雑司ヶ谷、道玄坂、白山上南天堂喫茶部 江種満子
 遊び、働き、住むところ―川端康成・佐多稲子たち、それぞれの浅草 宮内淳子


 [文学館記念館紹介]
 一葉記念館/武者小路実篤記念館/田端文士村記念館/世田谷文学館/太宰治文学サロン/
 森鷗外記念館/漱石山房記念館/日本近代文学館


上智大学教授で鷗外研究者の小林幸夫氏による「千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎」という項が含まれています。

小林氏、日本近代文学館さんで平成25年(2013)に開催された講座「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」で「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」をご担当、当方、拝聴させていただき、そのご縁で連翹忌にもご参加下さいました。その際の内容は『日本近代文学館年誌―資料探索』第10号に掲載されています。今回は、そこに木下杢太郎が関わっています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

出来た結果は思の半分にも及ばないが、毎日懐に入れて持つて歩いた。飯屋でも其を出して見ながら飯をくつた。まだ健康だつた頃の智恵子が私にも持たせてくれとせがんだ。

散文「木彫ウソを作つた時」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

自作の木彫「うそ」(大正14年=1925)は下の画像。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

000

雑誌系、2件ご紹介します。

花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)  vol.16

2019年10月20日 Office風屋 定価500円(税込)
008 009
一昨年の創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「光太郎レシピ」という連載が続いています。今号は、「宮沢家の精進料理」。

花巻町(当時)や郊外太田村の山小屋で暮らしていた昭和20年(1945)から昭和27年(1952)にかけ、光太郎は賢治忌の9月や、町なかの松庵寺さん(上記右画像、「光太郎レシピ」撮影場所も松庵寺さんです)で両親・智恵子の法要を営んでもらった10月には、ほぼ欠かさず宮沢家を訪れ、いろいろとご馳走になっていました。そのあたりの再現メニューです。したがって、今号は光太郎が作った料理ではありません。

メインは「よせ豆腐と椎茸の吸い物と舞茸と芋の子の胡桃ソースかけ」だそうで、いかにも秋ですね。

ネット上で注文可能です(「よせ豆腐と椎茸の吸い物と舞茸と芋の子の胡桃ソースかけ」が、ではなく、『Machicoco(マチココ)』 さんが、です。念のため(笑))


もう1件。

季論21 2019秋 第46号

2019年10月20日 本の泉社 定価909円+税
001 002
歌人・内野光子氏の「「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか――中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして」が17ページにわたり掲載されています。

サブタイトルの通り、中村稔氏の近著『高村光太郎の戦後』からのインスパイアだそうで、特に昭和22年(1947)の雑誌『展望』に掲載された連作詩「暗愚小伝」、さらにそれを含む詩集『典型』(昭和25年=1950)等での、光太郎の戦後の「自省」が甘いのではないか、という論旨のようです(どうも当方の暗愚な脳味噌ではよくわからないのですが)。

傍証としてあげられているのは、詩集『典型』や、戦後に刊行された各種の選詩集などに、戦時中の翼賛詩が納められていないこと。しかし、その実体はまだ不明瞭ではありますが、昭和27年(1952)までGHQによる検閲があったわけで、その時代に戦時中の翼賛詩を再び活字にすることなど出来ようはずもないのですが……。

まあ、それをいいことに、戦時中に翼賛詩歌を書いたことを無かったことにしてしまおうという文学者も確かに存在したようです。そのあたりは内野氏も参考にされている櫻本富雄氏の『日本文学報国会 大東戦争下の文学者たち』(平成7年=1995 青木書店)などに詳しく書かれています。

しかし、光太郎は「無かったことにしてしまおう」と考えていたわけではなく、「後世に残すべき作品ではない」と考えていたのだと思うのですが、どうでしょうか。「無かったことにしてしまおう」と考えた文学者は、自分が翼賛詩歌を書いていたことに、戦後は言及しませんでした。言及したとしても、「あれは軍や大政翼賛会の命令で仕方なく書いたもので、本意ではなかった」的な。まあ、光太郎も「軍や大政翼賛会の言うことを信じ切っていた自分は暗愚だった」と、似たような発言をしていますが。それにしても、「無かったことにしてしまおう」とか「本意ではなかった」というスタンスではありませんでした。ちなみに光太郎、連作詩「暗愚小伝」中の「ロマン ロラン」という詩では、翼賛詩を「私はむきに書いた」と表現しています。

それを、戦後の選詩集等に翼賛詩を収めなかったからといって、隠蔽しようとしていたと談ずるのはどうでしょうか。繰り返しますが、GHQによる検閲があった時期には絶対に不可能でしたし、講和条約締結後の検閲がなくなってからも、戦後復興の時期にあえてまた翼賛詩を活字にする必要はなかったはずです。というか、その時期に翼賛詩をまた引っ張り出していたとしたら、「暗愚」どころの騒ぎではなく、「愚の骨頂」です(ところが、現代に於いては光太郎の翼賛詩を「これこそ光太郎詩の真骨頂」と涙を流さんばかりに有り難がる愚か者がいて困るのですが)。

これも繰り返しますが、翼賛詩を「無かったことにしてしまおう」と考えていたのか、「後世に残すべき作品ではない」と考えていたのか。光太郎は後者だと思います。

それにしても、内野氏の論を読んでいて感じたのですが、確かに戦時中の光太郎の活動については、一般にはあまり知られていないようです。我々としましては、それを隠蔽しようという意図はなく、さりとてその時期の光太郎の活動が真骨頂ではあり得ないので、ことさらにその時期を大きく取り上げることはしません。

しかしやはり「無かったこと」にはできませんから、光太郎の歩んだ道程、生の軌跡の一部として、光太郎が何を思い、何を目指していたのか、そういったことに思いを馳せる必要がありますね。というのは、当会顧問・北川太一先生の受け売りですが(笑)。

ともあれ、考えさせられる一論でした。版元サイト、それからAmazonさんでも購入可能です。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

見たところ東京でやつている人の方が地元作家のものより見ばえがするがむしろこの逆になるよう勉強してもらいたいものだ。

散文「山形県総合美術展彫刻評」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

戦後の花巻郊外旧太田村での暮らしの中で、「東京一極集中」への疑念、「地方創成」への意識などが光太郎の内部に根づいたことも、大きな意味があるように思われます。

台風19号、列島各地に大きな爪痕を残しました。亡くなられた方には深く哀悼の意を表させていただきます。

千葉県北東部に位置する自宅兼事務所周辺、先月の台風15号の際と比べ、風雨は強くありませんでしたし、停電にもなりませんでした(先月の停電は54時間続きました)ので、胸をなで下ろしましたが、市内を流れる利根川が氾濫危険水域を超えたということで、予断を許しません。ただ、自宅兼事務所は利根川から数キロ離れている高台ですので、とりあえず大丈夫だろうとは思っています。

KIMG3309

KIMG3308

光太郎・智恵子・光雲ゆかりの全国各地を廻っている身としては、被害報道に接し、「ああ、あの場所ら辺、こないだ通ったよな」「えっ、あそこの近くのあんなところもか」「うわー、××川もか」という感じです。

しかし、我々は繰り返される災害を乗り越えてきた国民です。昨夜、我々を勇気づけてくれる素晴らしい闘いを見せてくれ、W杯決勝トーナメント進出を決めたラグビー日本代表のように、がんばりましょう。


さて、新刊書籍をご紹介します。

危険な「美学」

2019年10月12日 津上英輔著 集英社(インターナショナル新書) 定価820円+税

001


「美」を感じる感性そのものに潜む危険

芸術が政治に利用されるという話は数多くありますが、本書は人間にとっての三大価値である真・善・美の「美」そのものに実は危険が潜むことについて著者独自の理論で指摘した、画期的な一冊です。
 高村光太郎の戦意高揚の詩やジブリアニメの「風立ちぬ」で描かれた「美しい飛行機作り」という行為に潜む危険。トーマス・マンの『魔の山』における結核患者の描写や、特攻隊の「散華」を例に、イメージを負から正へ転換させてしまう感性の驚くべき反転作用について解説します。
 「美」を感じるとはどういうことなのか? 誰もが有する「感性」がもたらす危険を解き明かします。


目次

 まえがき
  序章 美と感性についての基礎理論
   第一節 真善美の思想
   第二節 「十大」ならざる「三大」
   第三節 「一大」ならざる「三大」
   第四節 真・善・美と知性・理性・感性
   第五節 美と芸術の自律性
   第六節 美とは何か
   第七節 美の恵みと危険
 第一部 美は眩惑する
  
第一章 「美に生きる」(高村光太郎)ことの危険
   第一節 戦争賛美の詩「必死の時」
   第二節 詩の分析
   第三節 光太郎の戦後
   第四節 「美に生きる」こと
   第五節 「悪かつたら直せばいい」
   第六節 光太郎を越えて
   第七節 眩惑作用がもたらす美への閉じこもり
   第八節 高村山荘
   第九節 光太郎の戦争賛美と智恵子

  第二章 アニメ『風立ちぬ』の「美しい飛行機」
   第一節 『風立ちぬ』における「美しい」の用法
   第二節 美の働き
   第三節 戦闘機と美
   第四節 夢
   第五節 「美しい夢」の危険
   第六節 美の眩惑作用
 第二部 感性は悪を美にする
  第三章 結核の美的表象
   第一節 健康と美
   第二節 非健康の感性化
   第三節 小説『魔の山』
   第四節 文豪が描いた結核患者像
   第五節 隠喩理論
   第六節 美的カテゴリー論
   第七節 感性の統合反転作用理論
   第八節 感性の特異な働き
   第九節 感性の危険
  第四章 「散華」の比喩と軍歌〈同期の桜〉
   第一節 「散華」の比喩
   第二節 美化と美的変貌
   第三節 特攻と「散華」
   第四節 軍歌〈同期の桜〉
   第五節 自ら歌うということ
   第六節 音楽は他人ごとを我がこととする
   第七節 「散華」と感性の統合反転作用
   第八節 メコネサンス理論
   第九節 美と感性の危険性
 あとがき
 参考文献


著者の津上氏は、成城大学さんで教授をお務めの美学者。目次を概観すればある程度の方向性が見えると思いますが、特に戦時に於ける「美」が、利用されるだけでなく、自ら暴走を始める危ういものであることを、光太郎を含め、さまざま例を挙げながら実証しようとする試みです。

まだ「まえがき」と、光太郎の章しか読んでいないのですが、他の章との関連性も踏まえないといけない感じですので、なるべく早く読了しようと思っております。

その光太郎の章、メインで取り上げられているのは詩「必死の時」(昭和16年=1941)。津上氏、「文学には疎い」と謙遜されつつも、その他の詩や講演等を含め、丁寧にかつ説得力溢れるおおむね妥当な分析が為されています。どうでもいい枝葉末節に拘泥しない姿勢、それから光太郎に対するリスペクトがきちんと表明されており、好感が持てます。何より美学者として、「美」とは何かという命題への挑戦が根底にあり、そういった部分ではなるほど、と唸らせられました。

後半、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)及び隣接する高村光太郎記念館さんを訪れられてのレポート的な内容にもなっています。津上氏、何度も訪問されたそうで、ありがとうございます。光太郎を語る上で、あの地を実際に見ていないというのは、その資格を放棄しているようなものだと思うのですが、そう考えないエラいセンセイもいるようで(というか、いるんです(笑))、堂々と「私はまだ彼の地を訪れていないが」と臆面もなく断った上で机上の空論を展開している人もいます。

津上氏、山荘の保存のために建設された套屋について、この地の先人の思いなど、正しく考察されています。ただ、ちょっと勘違いがありましたので、指摘させていただきます。套屋内部の説明パネルについてです。「光太郎がこの地にたどり着いた経緯が説明されていない」と、まぁ、その通りなのですが、あのパネルは元々同じ花巻市内の宮澤賢治記念館さんで、10年ほど前でしたでしょうか、光太郎展的なものを開催した際の説明パネルを終了後に貰ってきたものでして、山荘そのものの説明パネルとして作ったものではないのです。その光太郎展で山荘に入った経緯があまり語られなかったという瑕疵はありますが。ちなみにそちらの展示には当方、関わっておりません。

そう思っておりましたところ、さらに読み進めると、バリバリ当方が書いた高村光太郎記念館さんの展示説明パネルにも言及(笑)。「戦時の光太郎についての追求が甘い」とのことで。この点は「その通りです」としか言いようがありません。まぁ、はっきり言うと、当方、「忖度」しました。右翼の街宣車に押しかけられても困りますし、先般の「表現の不自由展」のような事態は避けたかったので。それを甘いと云われればその通りです。

それにしても、一般の方のブログ等では拝見したことがありましたが、きちんとした書籍であの説明パネルについて言及されたのはおそらく初めてで、驚きました。

さて、『危険な「美学」』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

芸術心と云ふものは物を味はふ所からはじまるので、物を味はひ生活を味はひ――と云ふことは何かと云ふとどんな物の中からでも良さを見付け出してどんな詰まらない所からでも意味を見付け出し、美しさを見付け出す、そこが芸術と云ふものが人の考へて居る程唯付け足りの装飾や見て呉ればかりでない根本の力となる性質だらうと思ふのであります。

談話筆記「現下芸術政策の根本目標並当面の緊急事項等に就いて」より
                   昭和15年(1940) 光太郎58歳


この年開催された、大政翼賛会臨時中央協力会議第四委員会での発言速記から。

正論ではありますが、実にきな臭い。こういう所にも、津上氏の指摘する「危険」さが表れています。

昨日に引き続き、新刊情報です。

詩と出会う 詩と生きる

2019年7月25日 若松英輔著 NHK出版 定価1,700円+税

言葉とこころを結びなおす
言葉と人は、どのような関係にあるのか。詩に込められた想いを知ることで、何を得ることができるのか。困ったとき、苦しいとき、悲しいとき──私たちを守ってくれる言葉を携えておくために。文学・哲学・宗教・芸術──あらゆる分野の言葉を「詩」と捉え、身近に感じ、それと共に生きる意味を探す。

イメージ 1

目次
 はじめに 言葉は心の糧
 第1章 「詩」とは何か 岡倉天心と内なる詩人
 第2章 かなしみの詩 中原中也が詠う「おもい」
 第3章 和歌という「詩」 亡き人へ送る手紙
 第4章 俳句という「詩」 正岡子規が求めた言葉
 第5章 つながりの詩 吉野秀雄を支えた存在
 第6章 さびしみの詩 宮澤賢治が信じた世界
 第7章 心を見つめる詩 八木重吉が刻んだ無音の響き
 第8章 いのちの詩 岩崎航がつかんだ人生の光
 第9章 生きがいの詩 神谷美恵子が問うた生きる意味
 第10章 語りえない詩 須賀敦子が描いた言葉の厚み
 第11章 今を生きる詩 高村光太郎が捉えた「気」
 第12章 言葉を贈る詩 リルケが見た「見えない世界」
 第13章 自分だけの詩 大手拓次が開いた詩の扉
 第14章 「詩」という民藝 柳宗悦がふれたコトバの深み
 第15章 全力でつむぐ詩 永瀬清子が伝える言葉への態度
 おわりに 「異邦人」たちの詩歌
 詩と出会うためのブックガイド

010昨年、NHKラジオ第2放送さんで放送のあった「NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる」のために書き下ろされたテキストを大幅に加筆、さらに新章を加えての出版です。

テキストでは柳宗悦と光太郎で一つの章でしたが、光太郎と柳、それぞれで独立した章に分割、分量はそれぞれ2倍ほどに膨らんでいます。内容構成の骨組み的にはほぼ同じようですが。

新章としては、光太郎と深かった永瀬清子などが新たに加わりました。その他、テキストの頃から取り上げられていた、岡倉天心中原中也吉野秀雄宮沢賢治八木重吉などが光太郎と関わった人物です。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

最近村の人達が木を切つて電柱をつくり、会社にたのんで、小生の小屋に電燈をひいてくれました。谷川を越えてはるばる電線をひいて来ました。反つてゐる電柱が立つてゐます。おかげで夜が明るくなり、仕事に甚だ好都合です。
雑纂「消息」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

昭和20年(1945)の秋に、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に入った光太郎でしたが、昭和24年(1949)まで3年以上、電気のないランプ生活を送っていたわけです。

イメージ 3

昨年の花巻高村祭で、電線を引く工事を手伝ったという、藤原秀盛さんのお話を聞くことができました。

 新刊です。

まなの本棚

2019年7月23日 芦田愛菜著 小学館 定価1,400円+税

運命の1冊に出逢うためのヒントに! 「本の出逢いは人との出逢いと同じ」 年間100冊以上も読み、本について語り出したら止まらない芦田愛菜が本当は教えたくない“秘密の約100冊"をご紹介。世代を超えて全ての人が手に取ってみたくなる考える力をつけたい親御さんと子供たちにも必読の書です。

 Q 本の魅力にとりつかれた初めての1冊は?
 Q 一体、いつ読んでいるの?
 Q どんなジャンルの本を読むの?
 Q 本を好きになるにはどうしたらいい?
 Q 好きな登場人物は?

スペシャル対談 ・山中伸弥さん(京都大学iPS細胞研究所所長 教授) ・辻村深月さん(作家)も収録!

イメージ 1


目次
 プロローグ 宝探しみたいに本の世界へ入っていきます
 第1章 語り出したら止まらない! 芦田愛菜の読書愛
  いちばん最初の読書の記憶
  村上春樹さんに私、ハマってしまったみたい!
  読書はお風呂や歯磨きと同じ生活の一部
  3~4冊を同時並行で読むことも
  背表紙がキラリと光って見えるんです
  本の感想に“正解”はなくていいのかも
  紙の本の手触りが好き
  4コマまんが ちょっとの間にも読んでいます・読むのをがまんしてる時は
 第2章 本好きへの扉を開いた6冊
  『おしいれのぼうけん』
  『不思議の国のアリス』
  『都会のトム&ソーヤ』
  『ツナグ』
  『言えないコトバ』
  『高瀬舟』
 第3章
  まなの本棚から84冊リスト
  ここからスタート!の絵本 『もこ もこもこ』 『ぐりとぐら』
  小学生で夢中になった児童書 『天と地の方程式』 『若おかみは小学生!』
   『魔女の宅急便』『怪盗クイー
ン』 『怪人二十面相』
  次々と読破したシリーズもの 『落語絵本』シリーズ
   『ストーリーで楽しむ日本の古典』シリーズ 『小学館版
学習まんが人物館』シリーズ
  世界を広げた海外児童文学 『赤毛のアン』 『あしながおじさん』
   『ハリー・ポッター』シリーズ
  興味がつきない体の不思議 『学習まんが ドラえもん からだシリーズ』
  気になったらすぐに開く図鑑 『花火の図鑑』 小学館の図鑑NEO『星と星座』
   『宇宙』『岩石・鉱物・化石』
  ゾワッとするSF小説 『ボッコちゃん』 『声の網』
   対談 山中伸弥先生×芦田愛菜 科学はどこまで進歩していいのでしょうか
  歴史がもっと知りたくなる 『平安女子の楽しい!生活』 『空色勾玉』 『白狐魔記』
  熱い友情や“スポ根”大好き 『夜のピクニック』 『バッテリー』 『よろこびの歌』
  『風が強く吹いている』 『リズ
ム』
  限界へ!自分との闘い 『DIVE!!』
  嫉妬やコンプレックス 『反撃』 『ふたり』
  きょうだいや家族への思い 『一人っ子同盟』 『西の魔女が死んだ』 『本を読む女』
  日本語って奥深い! 『舟を編む』 『ふしぎ日本語ゼミナール』
  言葉や伝えるということ 『きよしこ』 『ぼくのメジャースプーン』
  辻村ワールドにハマるきっかけに 『かがみの孤独』
   対談 辻村美月さん×芦田愛菜
      「小説は一人では成り立たない」ってそういうことなんですね!
  止まらなくなる!海外ミステリー 『シャーロック・ホームス』シリーズ
   『モルグ街の殺人』 『Xの悲劇』 『そし
誰もいなくなった』
  日本文学〈~平安時代〉神話や貴族の生活 『古事記』 『日本書紀』 『風土記』
   『源氏物語』
  日本文学〈江戸時代〉エンタメ充実!  『曽根崎心中』 『雨月物語』
   『南総里見八犬伝』『東海道中膝栗毛』
  日本文学〈明治時代~〉人生や恋に悩んだり  『福翁自伝』 『舞姫』
   『吾輩は猫である』『坊っちゃん』 『ここ
ろ』 『小僧の神様』 『たけくらべ』
   『友情』 『伊豆の踊子』『雪国』 『細雪』『智恵子抄』 『一握の砂』
   『雨ニ
マケズ』 『高野聖』 『破戒』 『夜明け前』
  太宰治より私は芥川龍之介派! 『蜘蛛の糸』
  戦争について考えるきっかけに 『ガラスのうさぎ』 『永遠の0』
  海外文学 答えは一つじゃないはず 『賢者の贈り物』 『変身』 『レ・ミゼラブル』
  そしてこれからも 『海辺
カフカ』
 コラム 好きな登場人物
  男性編 湯川学『探偵ガリレオ』 内藤内人『都会のトム&ソーヤ』
   片山義太郎『三毛猫ホームズの推理』 
玄之介『あかんべえ』 堂上篤『図書館戦争』
   松本朔太郎『世界の中心で、愛をさけぶ』
  女性編 有科香屋子『ハケンアニメ!』 スカーレット・オハラ『風と共に去りぬ』
   ジョー・マーチ『若草物語』 
赤羽環『スロウハイツの神様』 林香具矢『舟を編む』
 エピローグ 本がつないでくれるコミュニケーションや出逢い




現在、中学3年生、15歳の芦田愛菜さん。読書好きというのは以前から公言なさっていたようで、今回の出版につながったようです。これまでに読んだ本の中から約100冊を紹介するというコンセプトで、この年で約100冊が紹介できるというのも驚きです。しかもラインナップを見ると、古今東西、かなり幅広く網羅されており、感心します。

013光太郎の『智恵子抄』を取り上げて下さいました。ただ、紹介はほんのちょっとですが(笑)。それから、シリーズとして、『小学館版学習まんが人物館』シリーズ。村野守美さんという方の作画、当会顧問・北川太一先生の監修で、「高村光太郎・智恵子 変わらぬ愛をつらぬいた二つの魂」がラインナップに入っています。

芦田さん、光太郎が尋常小学校の課程を卒業した、荒川区立第一日暮里小学校さんのご出身です。

同校では、「先輩光太郎に学ぶ」ということで、様々な取り組みをして下さっています。特に6年生は、総合的な学習の時間等で、光太郎に関する調べ学習などを1年間にわたり行っています。当方、芦田さんの次の学年の児童さん達が6年生だった年度に、授業を拝見したり、ゲストティーチャーに招かれたりしました。

そこで芦田さん、6年生の時に(或いはもっと以前に?)これらを読まれたのでしょう。

また、同校では図書館教育にも力を入れ、それが評価されて、平成27年(2015)には、当時のケネディ駐日大使が学校訪問に来られたことも。学校としての図書館教育の充実も、芦田さんの本好き、そして、本書に書かれた芦田さんの「読書観」(なかなか核心を突いた鋭いものの見方です)にも関わっているのかも知れません。

さて、夏休みとなり、定番の読書感想文の宿題に悩まれている小中高生の皆さん、親御さんも多いかと存じます。『まなの本棚』、そういう方々向けのブックガイドとしても好著です。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

翻訳は共同の性質を持つ。気のついた人が訂正するやうな慣はしにしたい。

雑纂「誤訳です」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

大正5年(1916)に刊行した訳書『ロダンの言葉』につき、中野重治が訳文に疑念を呈し、それを読んだ光太郎が調べ直してみるとその通りだったとのこと。すぐさまその誤りを雑誌『新潮』に発表したわけです。

後の翼賛詩→連作詩「暗愚小伝」の問題についてもそうですが、光太郎の偉いところの一つは、自らの誤りを謙虚に認め、訂正できることだと思います。

新刊……といっても2ヶ月近く経ってしまっていますが……昨日、たまたま行った新刊書店で見つけました。

泥酔文学読本

2019年5月30日 七北数人著 春陽堂 定価2,400円+税

イメージ 1


酒と文学はよく似ているーー 陶酔を誘う文学と酒は、ともに摂取した者を別世界へ連れて行ってくれる。 酒も文学も、その世界の心地よさにハマってしまうと、抜け出せなくなる。 だから、読み続けるしかない、飲みつづけるしかない…… 古今東西の文学作品に描かれてきた、様々なる酒と多様なる酔い方を紹介。 すべての文学と酒愛好家に送る珠玉のエッセイ!!

【登場する作家たち】※五十音順
赤江瀑、赤塚不二夫、亜樹直、芥川龍之介、阿刀田高、アポリネール、アンダソン(シャーウッド)、アンデルセン、アンブローズ・ビアス、飯田蛇笏句、池澤夏樹、石川桂郎、石田波郷、色川武大、ヴァーリイ(ジョン)、ヴァレリー、宇能鴻一郎、大藪春彦、岡本かの子、小川未明、開高健、甲斐一敏、梶井基次郎、片岡義男、香山滋、北方謙三、北原白秋、グリーン(グレアム)、ゲーテ、源氏鶏太、古今亭志ん生、小酒井不木、コッパード、小松左京、コルタサル(フリオ)、坂口安吾、坂口綱男、佐藤垢石、沢木耕太郎、サン=テグジュペリ、司馬遼太郎、澁澤龍彥、杉浦日向子、スティーブンソン(R・L)、ダール(ロアルド) 、高村光太郎、太宰治、田中康夫、谷崎潤一郎、種田山頭火、チュツオーラ(エイモス)、筒井康隆、デフォー(ダニエル)、中井英夫、中里介山、中島らも、中原中也、中村彰彦、ニエミ(ミカエル)、萩原朔太郎、原田禹雄、火野葦平、フィニイ(ジャック)、藤枝静男、藤本義一、ブラウン(フレドリック)、ブラッドベリ(レイ)、プルースト、古谷三敏、ヘンリー(O)、星新一、牧野信一、三浦哲郎、水谷準、宮沢賢治、宮本百合子、村上春樹、莫言、森鴎外、山川健一、山川方夫、山本昌代、夢枕獏、吉田秋生 吉田健一、吉行淳之介、四方屋本太郎、ロート(ヨーゼフ)、若山牧水

目次
はじめに 陶酔の月ジュース
I 泥酔する作家たち
 坂口安吾の酒 べらんめえ文学論 青春のように悲しいビール 電気ブラン今昔
 酒中花と水中花 ダダイスト辻潤の放蕩 スペインの酒袋 宿酔日和 酒の音色
 末期の水 風狂の吹き溜まり 生きいそぎの記 妄想の酒場 バーボンにはピスタチオを
II 物語のなかのアルコール
 村上春樹の酒 サバイバルはラム酒で ヤシ酒が飲みたい! 夕焼け色のワイン
 シャンパン・バブル オハイオ州ワイン町 マッコリこわい 不老不死の酒
 シャンパンと三鞭酒 雪見酒 鶴血酒 珠玉探求 ウイスキーボンボン XYZは最期の酒
III 泥酔の文学誌
 聖なる酔っぱらいの伝説 楽園へのいざない バーは異界への入口 魔人のいる店
 カフェ・カクテール 悪魔の酒 少年と酒とロック おそるべき中国文学
 壺の中のユートピア 猩々ども! 酔わせて倒せ! 酔って候 骨酒ヒレ酒スルメ酒
 シネフィルの呪文 別れに乾杯! テイスティングは超能力か 白酒と青酎
 ウイスキー坊主 硬派なナンパ本
IV 酩酊のその先へ……
 付喪神の戯れ 酒器愛玩 酒虫の秘技 菊の精の契り 鏡のある酒場 人魚は酒が好き
 髑髏盃 海も川も酔っぱらう 人を呑んだ話 恐怖の宴会芸 河童の酒宴 赤い酒の霊力
 終わりの日々を…… α次元にいる智恵子
あとがき
作家・作品名一覧

010酒文化研究所さんという団体が発行の『月刊酒文化』という会員誌に連載中のものの既発表分だそうです。古今東西の文学作品等から、「酒」にまつわる一節を書き出し、そこから広がる酒談義・作家論・人生論といった趣です。

光太郎が名誉ある大トリです(笑)。「α次元にいる智恵子」という項で、メインは詩「梅酒」(昭和15年=1940)の一節。それプラス『智恵子抄』や『智恵子抄その後』から、「亡き人に」(昭和14年=1939)、「元素智恵子」(昭和25年=1950)、「案内」(同)、「智恵子と遊ぶ」(昭和27年=1952)から詩句が引用され、戦後の花巻郊外旧太田村での山小屋生活、それを切り上げて取り組んだ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作などに触れられています。

また、この項以外でも「サバイバルはラム酒で」という項で、やはり旧太田村での蟄居生活に筆が及んでいます。この項、メインはR・L・スティーブンソンの『宝島』なのですが。

その他、光太郎智恵子と交流のあった面々――岡本かの子、北原白秋、中原中也、萩原朔太郎、宮沢賢治、森鷗外など――も登場します。

「パンの会」の盟友だった白秋はともかく、ストイシズムのかたまりのような(笑)賢治は、酒と関係ないのでは……と思ったら、童話「やまなし」の最後で、川に落ちた梨が発酵して酒が出来るという話(「海も川も酔っぱらう」)や、同じく童話「雪渡り」の、狐の幻灯会で「お酒をのむべからず」という話が出て来た件(「雪見酒」)でした。

ぜひお買い求めください。


【折々のことば・光太郎】

明治十六年三月生 東京美術学校出身 彫刻自営

雑纂「略歴」全文 昭和16年(1941) 光太郎60歳

詩集『智恵子抄』に載せた略歴です。

昨日ご紹介した「高村光太郎自伝」も短いものでしたが、こちらはさらに上を行く短さ(笑)。いったいに光太郎、ある時期まで自らの来し方には興味があまりない、というスタンスだったように思われます。

昨日の『朝日新聞』さんの読書面に、先月刊行された中村稔氏著 『高村光太郎の戦後』の書評が大きく出ました。

『高村光太郎の戦後』 中村稔〈著〉  ■自らの「愚」究明する表現人の責任

 19世紀ドイツの法学者ギールケは、普仏戦争開戦直前の首都ベルリンで、「共同体の精神が、原始の力で、ほとんど官能的な形象を伴ってわれわれの前に発現し、……我々の個としての存在を感じさせなくなる」経験をしたという。同種の体験が日本では、共同体精神の特権的な表現人であった天皇を、表象として用いて語られる。
 たとえば、真珠湾攻撃の一報をきいた体験を、詩人・高村光太郎は次のように回想している。「この容易ならぬ瞬間に/……昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となつた。/天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/……私の耳は祖先の声でみたされ、/陛下が、陛下がと/あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。」(「暗愚小伝」から)
 以降の高村は、共同体精神の卓越した表現人として、戦争を鼓舞する詩を書いた。少なからぬ若者がそれに励まされて死地に赴いた。そうした「世代」の文芸的精神の中に、いいだもも、村松剛の如(ごと)き左右両極の批評家、最高裁判事を務めた大野正男、そして本書の著者・中村稔もいたのである。
 戦後派としての彼らがそれぞれに格闘した「日本」という問題は、しかし、時局への加担者として「二律背反」に苦しんだ高村によっても、真摯(しんし)な反省の対象となっていた。自らを「愚劣の

典型
」とみて、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたか」を究明した、高村の「致命点摘発」の作業は、「暗愚小伝」を含む詩集『典型』に結実した。
 中村稔は、詩人としても法律家としても、そうした高村に一貫して拘(こだわ)ってきた。その文学人生の最終盤に、高村の「戦後」といま一度腰を据えて取り組んだのが本書である。この重みを踏まえなければ、岩手・花巻郊外の言葉も通じない山中で、高村が独居生活した戦後の7年間を、何故「冗漫に耐えて」執拗(しつよう)に追体験しようとしているのかは、理解できない。
 しかも感動的なのは、そうした地道な作業の結果、齢(よわい)92歳の著者が、近著『高村光太郎論』でも披瀝(ひれき)された若き日からの持論を「あさはかな批評」と断じて、自ら改めるに至ったという事実である。
 かねて評価した歌人
斎藤茂吉の中に、中村は、「社会的存在としての人間の生」の視点の欠落を発見し、そうした他者を想定せずには成立しない「責任」の観念の蒸発が、戦争を賛美した過去に向き合う「知識人の責務」の欠如をもたらしていることに失望する。そして、これとの対比から、表現人としての戦争責任から逃げず、「民衆」に分け入ることで「自主自立」の精神を再建した実例を、かつて弁明のみ目についた『典型』に、慥(たし)かに見出(みいだ)すに至ったのである。
 評・石川健治(東京大学教授・憲法学)

イメージ 1  イメージ 3

評を書かれた東大の石川健治教授の光太郎観がかなり反映された評にも読めますが、「自らの「愚」究明する表現人の責任」というタイトルが、我が意を得たりという感じです。途中にいろいろ名が挙げられている人々の中に、吉本隆明が入っていれば、さらによかったのですが。

多くの前途有為な若者を死地に追い立てた戦時中の詩文に対し、光太郎は「乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり、」(連作詩「暗愚小伝」中の「おそろしい空虚」より)としましたが、「誤解を与えたとすれば撤回します」的な発言はしていません。そしてしっかりその責任を取るため、自らを流刑に処する「自己流謫(るたく)」の7年間を、花巻郊外旧太田村のあばら屋に送りました(この「自己流謫」に就いての中村氏の解釈はかなり手厳しいのですが)。

『高村光太郎の戦後』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

明治十六年三月、東京下谷に生る。東京美術学校彫刻科卒業。与謝野寛先生の新詩社に入りて短歌を学ぶ。一九〇六年より一九〇九年夏まで、紐育、倫敦、巴里等に滞在す。真に詩を書く心を得しは一九一〇年(明治四十三年)以後の事なり。一九一四年詩集「道程」出版。以後詩集無し。以上。

雑纂「高村光太郎自伝」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳

この年新潮社から刊行された『現代詩人全集第九巻 高村光太郎 室生犀星 萩原朔太郎集』に寄せたものです。『智恵子抄』刊行前ですので、『道程』以後、詩集無しということになっています。

イメージ 2

簡にして要、というか、ある意味そっけないというか……。同じ巻に収められた犀星、朔太郎のそれの約半分です。

イメージ 4  イメージ 5

新刊書籍です。

高村光太郎の戦後

2019年6月3日 中村稔著 青土社 定価2,800円+税

戦争を賛美した二人の巨人、詩人・彫刻家高村光太郎と歌人斎藤茂吉。
戦後、光太郎が岩手県花巻郊外に独居して書いた『典型』と茂吉が山形県大石田に寓居して書いた『白き山』の定説を覆し、緻密な論証により正当な評価を与え、光太郎の十和田裸婦像の凡庸な所以を新たな観点から解明した卓抜で野心的評論

イメージ 1

【目次】
第一章 高村光太郎独居七年
 (一)  空襲によるアトリエ焼失、花巻疎開、花巻空襲、太田村山口へ
 (二)  山小屋生活の始まり
 (三)  山小屋の生活における高村光太郎の思想と現実
 (四)  高村光太郎の生活を援助した人々
 (五)  一九四五年の生活と「雪白く積めり」
 (六)  一九四六年の生活と「余の詩を読みて人死に就けり」
 (七)  一九四七年の生活
 (八)  「暗愚小伝」その他の詩について
 (九)  一九四八年の生活
 (一〇) 一九四九年の生活
 (一一) 一九五〇年の生活
 (一二) 一九五一年の生活
 (一三) 一九五二年の生活
第二章 高村光太郎『典型』と斎藤茂吉『白き山』
 (一)  はしがき
 (二)  戦争末期の斎藤茂吉(その一)
 (三)  戦争末期の高村光太郎
 (四)  戦争末期の斎藤茂吉(その二)
 (五)  余談・高村光太郎と三輪吉次郎
 (六)  戦争末期から終戦直後の斎藤茂吉
 (七)  『小園』を読む(その一)
 (八)  高村光太郎「おそろしい空虚」と「暗愚」
 (九)  『小園』を読む(その二)
 (一〇) 敗戦直後の斎藤茂吉
 (一一) 大石田移居、『白き山』(その一)
 (一二) 肋膜炎病臥前後
 (一三) 『白き山』(その二)
 (一四) 『白き山』(その三)
 (一五) 『白き山』(その四)
 (一六) 『白き山』と『典型』

第三章 上京後の高村光太郎 十和田裸婦像を中心に

 (一)  帰京
 (二)  十和田裸婦像第一次試作
 (三)  十和田裸婦像第二次試作
 (四)  十和田裸婦像の制作
 (五)  十和田裸婦像の評価とその所以
 (六)  十和田裸婦像以後
あとがき


昨年、同じく青土社さんから刊行された『高村光太郎論』に続く労作です。前著が明治末、光太郎の西欧留学期から晩年までを概観する内容だったのに対し、本著はタイトル通り、戦後の光太郎に焦点を当てる試みです。ただ、第二章はどちらかというと斎藤茂吉論が中心で、当方、そちらはまだ読破しておりません。

第一章、第三章について書きますと、『高村光太郎全集』中の光太郎日記や書簡からの引用が実に多いのが特徴です。やはり当人の証言をしっかり読み込んだ上で論ずるのはいいことですので、この点には感心しました。おそらくそうした作業を行っていないと思われるエラいセンセイ方の論文もどきもよく眼にしますが。

そして概ね戦後の光太郎に対して好意的な筆です。世上から過小評価され、注目されることも少ない戦後の詩に対し、高評価を与えてくださっています。

この詩は決して貧しい作品ではない。詩人の晩年の代表作にふさわしい感動的な詩であるというのが今の私の評価である。弁解が多いとしても、これほど真摯に半生を回顧して、しみじみ私は愚昧の典型だと自省した文学者は他に私は知らない。

この一節は戦後唯一の詩集の表題作ともなった詩「典型」(昭和25年=1950)に対してのものです。

   典型
000
 今日も愚直な雪がふり
 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
 小屋にゐるのは一つの典型、
 一つの愚劣の典型だ。
 三代を貫く特殊国の
 特殊の倫理に鍛へられて、
 内に反逆の鷲の翼を抱きながら
 いたましい強引の爪をといで
 みづから風切の自力をへし折り、
 六十年の鉄の網に蓋はれて、
 端坐粛服、
 まことをつくして唯一つの倫理に生きた
 降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
 今放たれて翼を伸ばし、
 かなしいおのれの真実を見て、
 三列の羽さへ失ひ、
 眼に暗緑の盲点をちらつかせ、
 四方の壁の崩れた廃嘘に
 それでも静かに息をして
 ただ前方の広漠に向ふといふ
 さういふ一つの愚劣の典型。
 典型を容れる山の小屋、
 小屋を埋める愚直な雪、
 雪は降らねばならぬやうに降り、
 一切をかぶせて降りにふる。


それから感心させられたのは、「わからないことはわからないとする」こと。詩句の意味や、光太郎のとった不可解とも思える行動の理由など、苦しい解釈やこじつけで切り抜けず、正直にわからないとしている点に好意がもてます。

ただ、「それはこういうことですよ」と教えてあげたくなった点があるのも事実でした。残念ながら、参考資料の数が多くないのがありありとわかります。本書には「参考文献」の項がありませんが、第一章、第三章に於いては、十指に満たないのではないかと思われました。光太郎本人の日記や書簡をかなり読み込まれているのはいいのですが、周辺人物の証言や回想などで、かなりの部分氷解するはずの疑問が疑問のままに残されたりもしています。

また、光太郎の戦後七年間の花巻郊外旧太田村に於ける山居生活の意味づけ。光太郎本人は「自己流謫」という言葉で表現しました。「流謫」は「流罪」の意です。戦時中、大言壮語的な勇ましい翼賛詩文を大量に書き殴り、それを読んだ前途有為な多くの若者を死地に追いやったという反省、その点を中村氏、前著からのつながりで、認めていません。結局、若い頃から夢想していた自然に包まれての生活を無邪気に実現したに過ぎなかったとしています。

中村氏、前著にも本著にもその記述がないので、おそらく厳冬期の旧太田村、光太郎が暮らした山小屋に足を運ばれたことがないように思われます。メートル単位で雪が積もり、マイナス20℃にもなろうかという中、外界と内部を隔てるのは土壁と障子紙と杉皮葺きの屋根のみ、囲炉裏一つの厳冬期のあの山小屋の過酷すぎる環境は、無邪気な夢想の一言で片付けられるものではありません。

また、山居生活中に彫刻らしい彫刻を一点も残さなかった件についても、誤解があるように思われます。それを小屋の環境の問題や、作っても売れる当てがないといった問題に還元するのはあまりに皮相的な見方でしょう。「私は何を措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。」(「自分と詩との関係」昭和15年=1940)とまで自負していた光太郎が、「自己流謫」の中で、自らに与えた最大の罰として、彫刻を封印したと見るべきなのではないでしょうか。

ちなみに光太郎、きちんとした「作品」ではありませんが、山居中に手すさびや腕をなまらせないための修練的に、小品は制作しています。その点も中村氏はご存じないようでした。

さらに、第三章で中心に述べられている「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。こちらも「凡庸」「貧しい作」としています。確かに傑作とは言い難く、光太郎自身も「十和田の裸像、あれも名前(注・サイン)が入っていません。はじめ入れたんだけど、よくないんで消してしまった。」(「高村光太郎聞き書」昭和30年=1955)としています。しかし、近年、『全集』未収録の光太郎の談話や、像に関わったさざざまな人々の証言が明らかになるに従い、あの像に込められた光太郎の思いが見えてきました。そういったところに目配りが為されて居らず、「凡庸」の一言で片付けられているのが残念です。

ただ、前述の通り、根柢に光太郎に対するリスペクトが通奏低音のように常に流れ、日記や書簡が読み込まれ、無理な解釈やこじつけが見られないといった意味で、好著といえるでしょう。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

芸術界のことにしても既成の一切が気にくはなかつた。芸術界に瀰漫する卑屈な事大主義や、けち臭い派閥主義にうんざりした。芸術界の関心事はただ栄誉と金権のことばかりで、芸術そのものを馬鹿正直に考えてゐる者はむしろ下積みの者の中にたまに居るに過ぎないやうに見えた。

散文「父との関係3 ――アトリエにて4――」より
昭和29年(1954) 光太郎72歳

ここで述べられているのは明治末のことですが、その最晩年まで、こうした見方は続いたようです。

中村稔氏もこうした光太郎の反骨精神は高く評価されています。

『朝日新聞』さんの記事等から。

まず、今月9日の一面コラム「天声人語」。当会の祖・草野心平を取り上げて下さいました。

天声人語 危機の100万種

草野心平は「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれた。その小さな生き物になりきるようにして、いくつもの詩をつくった。たとえば「秋の夜の会話」。〈痩せたね/君もずゐぶん痩せたね/どこがこんなに切ないんだらうね……〉▼切ないのは空腹のためだろうか。2匹の会話は続く。〈腹だらうかね/腹とつたら死ぬだらうね/死にたくはないね/さむいね/ああ虫がないてるね〉。やせこけた蛙たちの姿が浮かんでくる▼冬眠の前を描いた詩ではあるが、いまや別の読み方もできるかもしれない。国際的な科学者組織が先日、地球上に800万種いるとされる動植物のうち、100万種が絶滅の危機にあるとの報告書を公表した。なかでも両生類は40%以上が危機に直面している▼主犯は人間である。報告書によると湿地の85%はすでに消滅させられ、陸地も海も大きく影響を受けた。海洋哺乳類の33%以上、昆虫の10%も絶滅の可能性があるという▼農業や工業を通じ、地球をつくり変えながら生きてきたのが人間だが、その地球に頼るのもまた人間である。ハチがいるから農作物が育ち、森林があるから洪水が抑えられる。当たり前のことが改めて浮き彫りになっている。報告書は「今ならまだ間に合う」と各国政府に対策を求める▼草野心平にとっての蛙は、生きとし生けるものの象徴にも見える。〈みんなぼくたち。いっしょだもん。ぼくたち。まるまるそだってゆく〉。おたまじゃくしの詩である。全ての命のことだと読み替えてみたい。

「秋の夜の会話」、さらに言うなら、核戦争後の人類が滅亡した地球を描いているようにも読めます。この詩は昭和3年(1928)の詩集『第百階級』に収められたもので、いまだ核兵器は開発される前のことですが……。

心平といえば、現在、心平の故郷・福島いわき市の市立草野心平記念文学館さんで、企画展「草野心平 蛙の詩」が開催中です。ぜひ足をお運びください。


ついでというとなんですが、同じ『朝日新聞』さんから、光太郎にも言及されている中川越氏著『すごい言い訳!  二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石』の書評。5月11日(土)の掲載でした。

文豪たちの機知に味わい 中川越さん「すごい言い訳!」

 言い訳には「姑息(こそく)」「卑怯(ひきょう)」というイメージがある。だが、この本で取り上げられた文豪たちの言い訳は機知に富んでいて、一味違う。
 例えば中原中也。酒に酔って友人に迷惑をかけた際、詫(わ)び状の文末に署名代わりに「一人でカーニバルをやってた男」と記した。中川さんは「カーニバルの中にいる人は、無礼講に決まっています。その人にとやかく言うのは無粋です。こんなふうにトリッキーに書かれてしまっては、もう許すしかありません」と解説している。
 ほかにも「禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した北原白秋」「二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター林芙美子」「不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない徳冨蘆花」など、思わず読みたくなる項目が並ぶ。森鴎外、芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫、太宰治らも次々と登場する。
 文豪たちの言い訳の魅力は何か。
 「辛気くさいものではなく、おしゃれに整えられていて、ユーモアのおまけまで付いている。一方で、いたわりの気持ちが深い味わいになっている」と話す。
 最高峰は夏目漱石だとみている。「返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者」を読むと、いかにも漱石という感じでニヤリとさせられる。「文章の神髄は『そこに詩があるか』だと思うが、漱石がまさにそう。ある言葉が大きな意味合いを放って、心に触れてくる。漱石のすごみです」
 10年前から漱石の手紙2500通を分析し始め、4年前から漱石以外の文豪たちの書簡や資料にも手を広げた。「砂金探しみたいで楽しかった」と振り返る。
 土壇場に追い詰められたとき、気の利いた言い訳をしてみたい人にとって、最適の指南書だ。(文・西秀治、写真・篠塚ようこ)=朝日新聞2019年5月11日掲載

イメージ 1 イメージ 2

評には名前が出ていませんが、光太郎も「序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎」という項で取り上げられています。

こちら、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

本号にその文章が掲載されるといふ草野天平さんは若いのに昨年叡山で病死された優秀な詩人である。草野心平さんの実弟だが、詩風も行蔵もまるで違つてゐて、その美は世阿弥あたりの理念から出てゐるやうで、極度の圧搾が目立つ。きちんと坐つたまま一日でもじつとしてゐるやうな人で、此人のものをよむとシテ柱の前に立つたシテの風姿が連想される。

散文「余録」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

心平ならぬ実弟の天平を評した文章の一節です。兄の心平は1分たりとも「じつとしてゐ」られない人でしたので(笑)、たしかに「まるで違つてゐ」たのでしょう。

ちなみに天平、過日亡くなった彫刻家の豊福知徳氏と共に、昭和34年(1959)、第2回高村光太郎賞を受賞しています。故人への授賞だったわけです。

今日、4月2日は光太郎忌日・連翹忌です。午後5時30分からは、光太郎ゆかりの日比谷松本楼さんで、第63回連翹忌の集いを開催いたします。

63年前の今日、昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分。中野桃園町の貸しアトリエで、巨星・高村光太郎は息を引き取りました。生涯、「冬」を愛した光太郎の最期を飾るかのように、前日から東京は季節外れの大雪だったそうです。その際に、アトリエの庭に咲いていた連翹、生前の光太郎がアトリエの持ち主の中西夫人に「何という花ですか」と尋ねたとのこと。そして「あれは「連翹」という花ですよ」との答えに「かわいらしい花ですね」。

4月4日、青山斎場で武者小路実篤を葬儀委員長として開かれた葬儀では、光太郎の棺の上に、その連翹の一枝が、愛用のコップに生けられて、置かれました。

イメージ 1

当会の祖・草野心平をはじめ、遺された人々の胸にはその連翹の印象が強く残り、光太郎忌日は「連翹忌」と名付けられました。直接の発案は若い頃から光太郎に親炙していた佐藤春夫だったようです。

心平を助け、途中から連翹忌の運営を引き継いだのが、現・当会顧問の北川太一先生です。北川先生は晩年の光太郎に薫陶を受け、その歿後は『高村光太郎全集』をはじめ、光太郎の業績を後世に伝えるためのさまざまな書籍等を編著なさいました。今日の第63回連翹忌にもご参会下さる予定です。

その北川先生の最新刊、昨日、届きました。

光太郎ルーツそして吉本隆明ほか

2019年3月28日 北川太一著 文治堂書店 定価1,300円

イメージ 2


目次
 光雲抄 ――木彫孤塁000
 光太郎詩の源泉
 鷗外と光太郎 ―巨匠と生の狩人―
 八一と光太郎 ―ひびきあう詩の心―
 心平・規と光太郎
 吉本隆明の『高村光太郎』 ―光太郎凝視―
 究極の願望 吉本隆明(『高村光太郎選集』内容見本より)
 造形世界への探針 北川太一 ( 〃 )
 春秋社版・光太郎選集全六巻別巻一・概要
 対談 高村光太郎と現代『選集』全六巻の刊行にあたって 
         吉本隆明 北川太一
 隆明さんへの感謝
 死なない吉本
 しかも科学はいまだに暗く ――賢治・隆明・光太郎――
 三つの「あとがき」抄
 あとがきのごときもの
 初出誌メモ


帯には北川先生と旧知の中村稔氏の推薦文。

高村光太郎の資料、情報の探索、蒐集、考証に心血を注いできた北川太一さんの文章はつねに含蓄と矜持に富んでいる。思想的立場は違っても、旧く親しい友人吉本隆明を語った文章も感興ふかい。推奨に値する書と言うべきであろう。


各種雑誌や、展覧会図録などに載った文章の再編ですが、初出誌が今では入手困難なものが多く、一冊にまとまっていることにありがたさが感じられます。当方、一部はパソコンで打ち込みをし、また、校閲をやらせていただいたので、今年初めには読みました。「そして吉本隆明」とあるとおり、戦前・戦時中の東京府立化学工業学校、戦後の新制東京工業大学で同窓だった故・吉本隆明氏について書かれた文章も含まれますが、吉本は吉本で日本で初めて光太郎論を一冊の本として上梓した人物。おのずとその筆は光太郎に無関係ではいられません。

いずれamazonさん等にアップされると存じます。また、今日の連翹忌会場で販売しますので、参会の方(おかげさまで75名のみなさんのお申し込みを賜りました)は、ぜひサインを書いていただき、家宝にしてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

私はこの世で智恵子にめぐりあつたため、彼女の純愛によつて清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事が出来た経歴を持つて居り、私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつたので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さへ其の目標を失つたやうな空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。

散文「智恵子の半生」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

昨日も同じ「智恵子の半生」から引用しましたが、数ある光太郎エッセイの中でも、圧巻の一つゆえ、あしからずご了承ください。

男女の相違はあれど、光太郎を敬愛していた人々――上記にも名前を出した草野心平、佐藤春夫、そして北川先生などなど、みなさん、63年前の今日には、光太郎に対して同じような感懐を抱いたのではないかと存じます。

新刊書籍です。

イメージ 1

浮気を疑われている、生活費が底をついた、原稿が書けない、酒で失敗をやらかした……。窮地を脱するため、追い詰められた文豪たちがしたためた弁明の書簡集。芥川龍之介から太宰治、林芙美子、中原中也、夏目漱石まで、時に苦しく、時に図々しい言い訳の奥義を学ぶ。

目次

 はじめに
 第一章 男と女の恋の言い訳
  フィアンセに二股疑惑をかけられ命がけで否定した 芥川龍之介
  禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した 北原白秋
  下心アリアリのデートの誘いをスマートに断った言い訳の巨匠 樋口一葉
  悲惨な環境にあえぐ恋人を励ますしかなかった無力な 小林多喜二
  自虐的な結婚通知で祝福を勝ち取った 織田作之助
  本妻への送金が滞り愛人との絶縁を誓った罰当たり 直木三十五
  恋人を親友に奪われ精一杯やせ我慢した 寺山修司
  歌の指導にかこつけて若い女性の再訪を願った 萩原朔太郎
  奇妙な謝罪プレーに勤しんだマニア 谷崎潤一郎
  へんな理由を根拠に恋人の写真を欲しがった 八木重吉
  二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター 林芙美子

 第二章 お金にまつわる苦しい言い訳
  借金を申し込むときもわがままだった 武者小路実篤
  ギャラの交渉に苦心惨憺した生真面目な 佐藤春夫
  脅迫しながら学費の援助を求めたしたたかな 若山牧水
  ビッグマウスで留学の援助を申し出た愉快な 菊池寛
  作り話で親友に借金を申し込んだ嘘つき 石川啄木
  相手の不安を小さくするキーワードを使って前借りを頼んだ 太宰治
  父親に遊学の費用をおねだりした甘えん坊 宮沢賢治

 第三章 手紙の無作法を詫びる言い訳
  それほど失礼ではない手紙をていねいに詫びた律儀な 吉川英治
  親友に返信できなかった訳をツールのせいにした 中原中也
  手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した 太宰治
  譲れないこだわりを反省の言葉にこめた 室生犀星
  先輩作家への擦り寄り疑惑を執拗に否定した 横光利一
  親バカな招待状を親バカを自覚して書いた 福沢諭吉
  手紙の無作法を先回りして詫びた用心深い 芥川龍之介

 第四章 依頼を断るときの上手い言い訳
  裁判所からの出頭要請を痛快に断った無頼派 坂口安吾
  序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎
  弟からの結婚相談に困り果てた気の毒な兄 谷崎潤一郎
  もてはやされることを遠慮した慎重居士 藤沢周平
  独自の偲び方を盾に追悼文の依頼を断った 島崎藤村
  意外に書が弱点で揮毫を断った文武の傑物 森鴎外

 第五章 やらかした失礼・失態を乗り切る言い訳
  共犯者をかばうつもりが逆効果になった粗忽者 山田風太郎
  息子の粗相を半分近所の子供のせいにした親バカ 阿川弘之
  先輩の逆鱗に触れ反省に反論を潜ませた 新美南吉
  深酒で失言して言い訳の横綱を利用した 北原白秋
  友人の絵を無断で美術展に応募して巧みに詫びた 有島武郎
  酒で親友に迷惑をかけてトリッキーに詫びた 中原中也
  無沙汰の理由を開き直って説明した憎めない怠け者 若山牧水
  物心の支援者への無沙汰を斬新に詫びた 石川啄木
  礼状が催促のサインと思われないか心配した 尾崎紅葉
  怒れる友人に自分の非を認め詫びた素直な 太宰治
  批判はブーメランと気づいて釈明を準備した 寺田寅彦

 第六章 「文豪あるある」の言い訳
  原稿を催促され詩的に恐縮し怠惰を詫びた 川端康成
  原稿を催促され美文で説き伏せた 泉鏡花
  カンペキな理由で原稿が書けないと言い逃れた大御所 志賀直哉
  川端康成に序文をもらいお礼する際に失礼を犯した 三島由紀夫
  遠慮深く挑発し論争を仕掛けた万年書生 江戸川乱歩
  深刻な状況なのに滑稽な前置きで同情を買うことに成功した 正岡子規
  信と疑の間で悩み原稿の送付をためらった 太宰治
  不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない 徳冨蘆花
  友人に原稿の持ち込みを頼まれ注意深く引き受けた 北杜夫
  紹介した知人の人品を見誤っていたと猛省した 志賀直哉
  先輩に面会を願うために自殺まで仄めかした物騒な 小林秀雄
  謝りたいけど謝る理由を忘れたと書いたシュールな 中勘助

 第七章 エクスキューズの達人・夏目漱石の言い訳
  納税を誤魔化そうと企んで叱られシュンとした 夏目漱石
  返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者 夏目漱石
  妻に文句を言うときいつになく優しかった病床の 夏目漱石
  未知の人の面会依頼をへっぴり腰で受け入れた 夏目漱石
  失礼な詫び方で信愛を表現したテクニシャン 夏目漱石
  宛名の誤記の失礼を別の失礼でうまく隠したズルい 夏目漱石
  預かった手紙を盗まれ反省の範囲を面白く限定した 夏目漱石
  句会から投稿を催促され神様を持ち出したズルい 夏目漱石
  不当な苦情に対して巧みに猛烈な反駁を盛り込んだ 夏目漱石

 参考・引用文献一覧
 おわりに


さまざまな文豪たちの書簡にしたためられた「言い訳」の数々が紹介され、どういったシチュエーションでそれが用いられたのかの解説、そして分析。各段4ページ前後ですので、全体的には250ページほど。読了するにそれほどかかりません。

まず、紹介されている文豪たちの信条というか、人間性というか、そういったものがその背後に見え、興味深く感じました。「いかにも誰々らしい」と感じる部分と、「誰々はこういう一面もあったのか」という部分もありました。

非常に面白いと共に、実用的でもあります。「こういう場合にはこんな言い訳をすればよいのか」、「なるほど、これも一つの手だな」といった感じで。また、「言い訳」というより、相手をかわす方法や、時には逆襲するパターンも語られています。そして、これが大事だと思ったのは、肝心の一文に到るまでのプロセス。いきなり謝罪や言い訳、駄目出しや拒絶に行かず、ひとまず相手を持ち上げて置いたり、自分でへりくだったりして見せ、それから本題に入ったり、あるいは「猫だまし」的に意表を突く内容から始めたり……。ところが、それが全てうまく行っているかというと、そうでもないというあたりが、ユーモラスだったりもしました。

光太郎に関しては、かわす方法。菊池正という詩人が書いた詩集の序文執筆を頼まれ、それに対しての断りです。まずは詩集自体を褒め、しかし、ある意味論点をずらし、そもそも一般論として自著に他者の序文が必要なのか、と問いかけます。『道程』をはじめ、自分は他者に序文を書いてもらったことはない、と、光太郎自身を引き合いに出し、相手にぐうの音も言わせない高度なテクニックです。

とは言え、著者の中川氏も指摘されていますが、光太郎はこれ以前に菊池の別の詩集には序文を書いてやっていますし、他の詩人の詩集にも少なからず序跋文を寄せています。数えてみましたところ、散文集、翻訳書などを含めれば、確認できている限りその数は60篇ほどにもなります。ただ、あまり交流の深くなかった人物の著書に対しては一度限りという感じで、どうも二匹目のドジョウを狙う依頼に対しては、上記のような手を使ってかわすこともあったのでしょう。単に面倒くさかっただけかもしれません。

他の文豪たちの「言い訳」も、さすがに言葉のプロフェッショナルたちだけあって、海千山千(死語ですね(笑))、酸いも甘いもかみ分けた(これも死語ですね(笑))、その手練手管(この際、もはや死語にこだわります(笑))には感心させられました。

しかし、最も感心させられるのは、やはり誠意を持ってわびるパターン。意外や意外、そういった方向性とは最も無縁なような太宰治がそうやっています。曰く「私も、思いちがいをしていたところあったように思われます」。太宰を少し見直しましたし、我が身を振り返り、かくあるべきだなと反省しました。「誤解を与えたとすれば、撤回します」というパターンを流行らせている永田町界隈の魑魅魍魎どもにも見習ってほしいものです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

素人は仕事の恐ろしさを知らず、従つて全身的の責任を感じない。思ひつきと頓智とは素人に豊富だが、それを全体との正しい関係に於いて生かすといふ遠近の展望を持たない。素人の仕事は多く一個人的であつて普遍の道理を内蔵しない。それゆゑ伝統の力と修行の重要性とを軽んずる傾があり、ただむやみに己の好むところに凝る、時として外見上甚だ熱があるやうに見える事もあるが、それは多く透徹した叡智を欠いた偏執であるに過ぎない。

散文「素人玄人」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

彫刻と詩で二股をかけ、それぞれに多作とは言えなかった(詩の方はこの後、翼賛詩を乱発するようになりますが)光太郎に対し、「素人彫刻家」、「素人詩人」という評が出され、それに対する反駁として書かれた文章の一節です。主に彫刻の分野を念頭に置いての話だと思いますが、自分はこういう「素人」ではないと宣言しています。確かに光太郎、父・光雲に叩き込まれた江戸以来の仏師の技をバックボーンに持ち、「伝統の力と修行の重要性」を身を以て理解していました。

昨日の午後にはインターネットの検索サイトトップページに報じられまして、「ありゃりゃりゃりゃ」という感じでした。

今朝の『朝日新聞』さんから。 

日本文学研究者のドナルド・キーンさん死去 96歳

 日本の古003典から現代文学まで通じ、世界に日本の文化と文学を広めた、日本文学研究者で文化勲章受章者のドナルド・キーンさんが24日、心不全で死去した。96歳だった。葬儀は親族のみで営む。喪主は養子で浄瑠璃三味線奏者のキーン誠己(せいき)さん。
 1922年、米ニューヨーク生まれ。コロンビア大在学中に「源氏物語」と出会う。日米開戦に伴い42年、米海軍日本語学校に入学。語学将校としてハワイや沖縄で従軍、日本兵の日記の翻訳や捕虜の通訳をした。沖縄の前線ではスピーカーで日本兵に投降を呼びかけた。戦後、ハーバード大、ケンブリッジ大で日本文学の研究を続け、53年から京都大に留学。英訳「日本文学選集」を編集し、米国の出版社から刊行、日本文学の海外紹介のきっかけを作った。
 谷崎潤一郎や川端康成、安部公房、三島由紀夫、司馬遼太郎ら日本を代表する作家との交遊が文学研究を豊かにした。「徒然草」「おくのほそ道」などの古典や安部、三島ら現代作家の作品を英訳。「明治天皇」「正岡子規」「石川啄木」など評伝にも力をそそぎ、作家の生涯を通して日本人の精神を浮かび上がらせてきた。
 62年、菊池寛賞を受賞。82~92年に朝日新聞の客員編集委員を務め、平安から江戸期の日記文学を論じた「百代(はくたい)の過客(かかく)」(84年、読売文学賞)などを連載した。83年に山片蟠桃賞。86年には、コロンビア大に「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立。92年コロンビア大名誉教授。97年に「日本文学の歴史」(全18巻)を完結し、同年度の朝日賞を受賞した。2008年に文化勲章。
 日米を行き来していたが、11年の東日本大震災後、日本への永住を決めて日本国籍を取得。講演などで被災地を励ました。13年には、キーンさんが復活を支援した古浄瑠璃の縁から新潟県柏崎市に「ドナルド・キーン・センター柏崎」が開館、蔵書や資料を寄贈していた。半世紀を超える研究や作品を収めた「ドナルド・キーン著作集」(全15巻)は今春、別巻を出して完結する予定だった。


NHKさんのニュースから。 

ドナルド・キーンさん死去 96歳

イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4

文化勲章を受章した日本文学の研究者で、東日本大震災をきっかけに日本国籍を取得したことでも知られるドナルド・キーンさんが、24日朝、心不全のため、東京都内の病院で亡くなりました。96歳でした。
ドナルド・キーンさんは、1922年にニューヨークで生まれ、アメリカ海軍の学校で日本語を学びました。
戦後、京都大学に留学したあとアメリカ・コロンビア大学の教授を務めるなどして、半世紀以上にわたって日本文学の研究を続けてきました。
平安時代から現代までの日本人が書いた日記について解説した「百代の過客」や「日本文学史」など、数々の著作を通じて独自の日本文学論を展開したほか、能や歌舞伎といった日本の古典芸能の評論にも活動の幅を広げ、日本文化について鋭い批評を加えました。
また、近松門左衛門や太宰治、三島由紀夫など、古典から現代の作家まで数々の作品を英語に翻訳し、日本文学を広く世界に紹介しました。
谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫といった日本の文壇の重鎮とも親しく、ノーベル文学賞の選考を行うスウェーデン・アカデミーに対して日本文学についての助言を行ったことでも知られています。
こうした功績で日本の文学評論に関する多くの賞を受賞し、平成20年には文化勲章を受章しています。


イメージ 5 イメージ 6

キーンさんは、ニューヨークのコロンビア大学で日本文学の指導にあたりながら、日本とアメリカを行き来していましたが、平成23年の東日本大震災のあと「私の日本に対する信念を見せたい」などとして長年愛着のある日本に移住することを決め、翌年の3月に日本国籍を取得しました。
90歳をすぎても活動を続け、平成28年に歌人、石川啄木の研究書を出版したほか、雑誌のインタビューや対談などにも応じていました。
キーンさんの代理人によりますと、体調が悪化したため去年秋から入退院を繰り返し、24日午前6時すぎ、心不全のために東京都内の病院で亡くなりました。

養子の誠己さん「幸せな一生だった」
ドナルド・キーンさんの養子のキーン誠己さんは「父は苦しむこともなく、穏やかに永遠の眠りにつきました。みずから選んだ母国で日本人として、日本人の家族を持ち、日本に感謝の気持ちをささげつつ、幸せに最後の時を迎えました。日本文学に生涯をささげ、日本人として日本の土となることが父の
長年の夢でしたから、この上なく幸せな一生だったと確信しています」とコメントしています。

イメージ 7 イメージ 8
瀬戸内寂聴さん「ぼう然」
ドナルド・キーンさんが亡くなったことについて、同じ大正11年、1922年生まれで数々の対談を重ねてきた作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは「キーンさんとは心が通い合い、親類づきあいのような親しさが生まれていた。会えば何時間も話し込んでしまう仲になっていた。私もキーンさんも、年をとっても仕事をやめず、人にあきれられていたが、キーンさんはいくつになってもアメリカへ行き来するし、海外旅行も平気でされる。こんなことになってぼう然としている」というコメントを発表しました。

後日 お別れの会を予定
代理人によりますと、ドナルド・キーンさんの葬儀と告別式は親族のみで行い、後日、お別れの会が開かれるということです。


日本文学の流れを網羅的、体系的に研究されていたキーンさん。光太郎についても言及されていました。『朝日新聞』さんの記事にもある『日本文学の歴史』(中央公論社)の第17巻近代・現代篇8。明治・大正・昭和の詩についての巻です。光太郎の項は約40ページ。簡にして要、の感があります。

イメージ 9 イメージ 10

曰く、

いわゆる現代的で複雑な詩に困惑した読者は、心から発せられた感動的な作品として光太郎の詩を好んだ。高村光太郎はこれからも、このような詩の作者として人々の記憶に残るに違いない。


また、昨年、求龍堂さんから刊行された大野芳(かおる)氏著 『ロダンを魅了した幻の大女優マダム・ハナコ』に、キーンさんが登場なさいます。唯一、ロダンの彫刻モデルを務め、光太郎とも交流があった日本人女優・花子に関する考察です。明治43年(1910)に森鷗外が花子をモチーフにして書いた短編小説「花子」を英訳したキーンさんが、昭和34年(1959)、岐阜に住む花子の遺族の元を訪れたエピソードが紹介されています。この際、キーンさんは、光太郎から花子に宛てた書簡を見せてもらったとのこと。
イメージ 11

ラフな服装で訪問し、気さくな、しかし、日本文学への熱意を存分に感じさせるキーンさんの真摯な人柄に、花子の遺族が感激されたそうです。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

此の彫りかけの鯉が自分で納得できるやうに仕上がる時が来たら、私の彫刻も相当に進んだ事になるであらう。いつの事やら。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

新潟の実業家・松木喜之七が、光太郎に鯉の木彫を依頼、大枚
500円をおいていきました。光太郎は早速制作にとりかかりますが、何度作っても自分で納得が行きません。鱗の処理が出来ない、というのです。鱗をリアルに彫ってしまうと俗な置物のようになるし、彫らずば鯉にならないし……というわけで、結局、完成しませんでした。光太郎、代わりにと「鯰」を進呈しています。現在、愛知小牧のメナード美術館さんに収蔵されている作品です。

確認されている、光太郎が木彫に取り組んでいるところを撮った唯一のスナップ、土門拳による昭和15年(1940)の写真に、「鯉」が写っています。

イメージ 12

その後、松木は召集されて、軍服姿で光太郎の元を訪れ出征の挨拶。しかし、南方戦線で還らぬ人となってしまいました。

ところで、ドナルド・キーンさん、そもそも本格的に日本文学に興味を持った一つのきっかけは、語学将校としてハワイや沖縄で従軍し、日本兵の日記の翻訳や捕虜の通訳をしたことだそうで、不思議な縁を感じます。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

先週、H氏賞詩人で宮沢賢治の研究家としても知られる入沢康夫さんの訃報が出ています。 

入沢康夫さん死去 詩人・宮沢賢治研究

 実験的001な作風で1960年代以降の現代詩をリードした詩人で、宮沢賢治研究の第一人者としても知られた入沢康夫(いりさわ・やすお)さんが10月15日に亡くなった。86歳だった。
 松江市出身。仏文学者で明治大教授を務めた。55年に詩集「倖せそれとも不倖せ」を発表。68年の詩集「わが出雲・わが鎮魂」では、古事記などを踏まえた神話的世界を先鋭的な表現で作り出し、60年代以降の現代詩を代表する存在の一人となった。同作で読売文学賞を受賞。82年の詩集「死者たちの群がる風景」で高見順賞、94年の「漂ふ舟」で現代詩花椿賞など受賞多数。98年に紫綬褒章、2008年に日本芸術院会員。
 宮沢賢治の研究では「新校本宮澤賢治全集」の編集委員を務めた。宮沢賢治学会イーハトーブセンターの代表理事を務め、宮沢賢治賞も受けた。
(『朝日新聞』2018/11/30)


光太郎と交流のあった賢治の研究家ということで、平成11年(1999)の『賢治研究』に掲載された「賢治の光太郎訪問」など、二人の交流についても論考を残されています。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

此の多くの無惨の死者が、若し平和への人類の進みに高く燈をかかげるものとならなかつたら、どう為よう。

散文「小倉豊文著「絶後の記録」序」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

小倉豊文は明治32年(1899)生まれの元広島大学名誉教授。千葉県生まれですが(千葉には小倉姓、意外と多くあります)、旧制広島文理科大学卒業後、同校助教授だった昭和20年(1945)8月6日に、原爆投下に遭いました。奥様はその後、原爆症で亡くなり、その経緯を綴ったのが『絶後の記録』です。

小倉は『宮沢賢治の手帳研究』(昭和27年=1952)を著すなど賢治研究でも知られ、入沢氏と同じく宮沢賢治賞を受賞しました。おそらく二人は面識があったと思われます。

新刊書籍です。 

一九四〇年代の〈東北〉表象 文学・文化運動・地方雑誌

2018/10/10 高橋秀太郎 森岡卓司編 東北大学出版会 定価5,000円+税

イメージ 1

一九四〇年代、東北に疎開した文学者、新聞・雑誌などのローカルメディア、そして各地に展開された文化運動が、それぞれに照射した「地方」の姿を追う。
 
《目 次》
序  地方文学研究と近代日本における〈東北〉表象 森岡卓司
1章 島木健作の「地方」表象 山﨑義光
2章 戦時下のモダニズムと〈郷土〉ー雑誌『意匠』・沢渡恒における「東北」 仁平政人 
3章 『文学報国』『月刊東北』における地方/東北表象の消長 高橋秀太郎
  [コラム1] 金木文化会と太宰治 仁平政人
4章 提喩としての東北ー吉本隆明の宮沢賢治体験 森岡卓司
5章 〈脱卻〉の帰趨ー高村光太郎に於ける引き延ばされた疎開 佐藤伸宏
6章 更科源蔵と『至上律』における地方文化 野口哲也
  [コラム2] 石井桃子と「やま」の生活ー宮城県鶯沢での開墾の日々 河内聡子
7章 皇族の東北訪問とその表象ー宮城県公文書館所蔵史料にみるイメージの生成 茂木謙之介
8章 「北日本」という文化圏ー雑誌『北日本文化』をめぐって 大原祐治
あとがき 高橋秀太郎


主に東北地方の大学で教鞭を執られている研究者の方々による共著です。

光太郎に関しては、東北大学文学研究科教授の佐藤伸宏氏による「5章 〈脱卻〉の帰趨ー高村光太郎に於ける引き延ばされた疎開」で、戦後の花巻郊外旧太田村に逼塞した時期が論じられています。意外とこの時期の詩作品に関する論考等は少なく、しかし、人間光太郎の完成型を見るためには外せない時期と思われ、貴重な論考です。

5章でのさらに詳細な目次は以下の通り。

一 高村光太郎の疎開/二 詩「「ブランデンブルグ」」の成立/三 戦争詩と大地性/
四 光太郎に於ける詩の「転轍」――「脱卻」の帰趨

さらに「6章 更科源蔵と『至上律』における地方文化」(都留文科大学文学部教授・野口哲也氏)でも、更科と交流の深かった光太郎についてかなり詳しく言及されています。

是非お買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

もつと野暮な、もつと骨のあるもの、文学はほんとはその骨髄にそれがなけりやならぬ。さういふことをこれからも誰かやらなきやならないけれど、もう果してさういふ人が出てくるかどうか……。

談話筆記「「夜明け前」雑感」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

谷崎潤一郎の「細雪」と対比し、藤村の「夜明け前」には、そうしたエッセンスがあった、と光太郎は言っています。

↑このページのトップヘ