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平成31年(2019)に刊行されたソフトカバー単行本の文庫化です。

すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―

2022年5月1日 中川越著 新潮社(新潮文庫) 定価693円

原稿が書けない。生活費が底をついた。追い詰められた文豪たちが記す、弁明の書簡集。

言い訳――窮地を脱するための説明で、自分をよく見せようとする心理が働くので、大方軽蔑の対象になる。しかし文豪たちにかかれば浅ましい言い訳も味わい深いものとなる。二股疑惑をかけられ必死に否定した芥川龍之介。手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した太宰治。納税額を誤魔化そうとした夏目漱石。浮気をなかった事にする林芙美子等、苦しく図々しい、その言い訳の奥義を学ぶ。
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目次

 はじめに
 第一章 男と女の恋の言い訳
  フィアンセに二股疑惑をかけられ命がけで否定した 芥川龍之介
  禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した 北原白秋
  下心アリアリのデートの誘いをスマートに断った言い訳の巨匠 樋口一葉
  悲惨な環境にあえぐ恋人を励ますしかなかった無力な 小林多喜二
  自虐的な結婚通知で祝福を勝ち取った 織田作之助
  本妻への送金が滞り愛人との絶縁を誓った罰当たり 直木三十五
  恋人を親友に奪われ精一杯やせ我慢した 寺山修司
  歌の指導にかこつけて若い女性の再訪を願った 萩原朔太郎
  奇妙な謝罪プレーに勤しんだマニア 谷崎潤一郎
  へんな理由を根拠に恋人の写真を欲しがった 八木重吉
  二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター 林芙美子

 第二章 お金にまつわる苦しい言い訳
  借金を申し込むときもわがままだった 武者小路実篤
  ギャラの交渉に苦心惨憺した生真面目な 佐藤春夫
  脅迫しながら学費の援助を求めたしたたかな 若山牧水
  ビッグマウスで留学の援助を申し出た愉快な 菊池寛
  作り話で親友に借金を申し込んだ嘘つき 石川啄木
  相手の不安を小さくするキーワードを使って前借りを頼んだ 太宰治
  父親に遊学の費用をおねだりした甘えん坊 宮沢賢治

 第三章 手紙の無作法を詫びる言い訳
  それほど失礼ではない手紙をていねいに詫びた律儀な 吉川英治
  親友に返信できなかった訳をツールのせいにした 中原中也
  手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した 太宰治
  譲れないこだわりを反省の言葉にこめた 室生犀星
  先輩作家への擦り寄り疑惑を執拗に否定した 横光利一
  親バカな招待状を親バカを自覚して書いた 福沢諭吉
  手紙の無作法を先回りして詫びた用心深い 芥川龍之介

 第四章 依頼を断るときの上手い言い訳
  裁判所からの出頭要請を痛快に断った無頼派 坂口安吾
  序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎
  弟からの結婚相談に困り果てた気の毒な兄 谷崎潤一郎
  もてはやされることを遠慮した慎重居士 藤沢周平
  独自の偲び方を盾に追悼文の依頼を断った 島崎藤村
  意外に書が弱点で揮毫を断った文武の傑物 森鴎外

 第五章 やらかした失礼・失態を乗り切る言い訳
  共犯者をかばうつもりが逆効果になった粗忽者 山田風太郎
  息子の粗相を半分近所の子供のせいにした親バカ 阿川弘之
  先輩の逆鱗に触れ反省に反論を潜ませた 新美南吉
  深酒で失言して言い訳の横綱を利用した 北原白秋
  友人の絵を無断で美術展に応募して巧みに詫びた 有島武郎
  酒で親友に迷惑をかけてトリッキーに詫びた 中原中也
  無沙汰の理由を開き直って説明した憎めない怠け者 若山牧水
  物心の支援者への無沙汰を斬新に詫びた 石川啄木
  礼状が催促のサインと思われないか心配した 尾崎紅葉
  怒れる友人に自分の非を認め詫びた素直な 太宰治
  批判はブーメランと気づいて釈明を準備した 寺田寅彦

 第六章 「文豪あるある」の言い訳
  原稿を催促され詩的に恐縮し怠惰を詫びた 川端康成
  原稿を催促され美文で説き伏せた 泉鏡花
  カンペキな理由で原稿が書けないと言い逃れた大御所 志賀直哉
  川端康成に序文をもらいお礼する際に失礼を犯した 三島由紀夫
  遠慮深く挑発し論争を仕掛けた万年書生 江戸川乱歩
  深刻な状況なのに滑稽な前置きで同情を買うことに成功した 正岡子規
  信と疑の間で悩み原稿の送付をためらった 太宰治
  不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない 徳冨蘆花
  友人に原稿の持ち込みを頼まれ注意深く引き受けた 北杜夫
  紹介した知人の人品を見誤っていたと猛省した 志賀直哉
  先輩に面会を願うために自殺まで仄めかした物騒な 小林秀雄
  謝りたいけど謝る理由を忘れたと書いたシュールな 中勘助

 第七章 エクスキューズの達人・夏目漱石の言い訳
  納税を誤魔化そうと企んで叱られシュンとした 夏目漱石
  返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者 夏目漱石
  妻に文句を言うときいつになく優しかった病床の 夏目漱石
  未知の人の面会依頼をへっぴり腰で受け入れた 夏目漱石
  失礼な詫び方で信愛を表現したテクニシャン 夏目漱石
  宛名の誤記の失礼を別の失礼でうまく隠したズルい 夏目漱石
  預かった手紙を盗まれ反省の範囲を面白く限定した 夏目漱石
  句会から投稿を催促され神様を持ち出したズルい 夏目漱石
  不当な苦情に対して巧みに猛烈な反駁を盛り込んだ 夏目漱石

 おわりに
 参考・引用文献一覧

 解説 郷原宏

平成31年(2019)に刊行されたソフトカバー単行本は、『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』。サブタイトルが変更されていますが、内容的には同一のようです。文庫化に当たり、郷原宏氏の解説が新たに添えられましたが。

われらが光太郎については、「序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎」という項を設けて下さいました。読んでその通りの内容で、菊池正という詩人からの序文を書いてくれ、という依頼に対して送られた断りの書簡を根幹としています。

光太郎曰く「ところで序文といふ事をもう一度考へませう。一体序文などいるでせうか。何だか蛇足のやうに思へます。」「他の人の序をつけるのは東洋の風習でせうが、再考してもよくはないでせうか。序文とは結局何でせう。

著者・中川氏によれば、

 これは一つのいい方法です。頼み事を断りたいときには、光太郎のように、頼み事自体が不要なのではと、疑問を投げかけます。もし相手がなるほど不要かもと納得すれば儲けものです。依頼事は消滅し、罪悪感を覚える必要も消えます。自己責任を回避するための完璧な言い訳の完成です。結構いろいろと使えそうです。

なるほど。

ただ、以前にも書きましたが、光太郎はこれより前に菊池の詩集に序文を書いてやっていますし、当会の祖・草野心平はじめ、確認できている限り60篇ほどの序跋文を様々な人物の著書に寄せています。その意味ではちょっと説得力に欠ける「言い訳」かもしれません(笑)。

ところで光太郎の「序文」。注意が必要です。光太郎歿後に刊行された、ある詩人の詩集(それも二種類、まったく別の人物のもの)に付されている光太郎署名の「序文」で、どうも怪しいものがあります。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には収録されていません。『全集』編纂にあたられた当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、その二人の詩人に「草稿を見せて欲しい」と言ったところ、「ない」との返答。さらに、「どういうやりとりがあって書いてもらったのか」との問いにも、まともに答えられず。光太郎が確かにその「序文」を書いたという裏付けになる書簡等も存在せず。文体も光太郎の文体っぽくない部分が目につきます。こういう例は、他の作家にもあるのでしょうか?

閑話休題。『すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―』、他の作家達の「言い訳」も、それぞれに笑えたり、参考になったりと、有益な書物です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

電話871番は既に誰かが横取りせし事わかる、24年の由、


昭和27年(1952)11月22日の日記より 光太郎70歳

871番」は、戦前から戦時中にかけ、焼失した駒込林町のアトリエ兼住居にひかれていた電話の番号です。戦時中の葉書などには、この番号が入ったゴム印が使われていました。
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固定電話の加入権というのは、一つの財産といった意味合いがあり、それを担保にしての借金というのも、比較的近年まで行われていたようです。

ところが戦後のドサクサで、光太郎が持っていた権利が横取りされてしまっていたらしいそうで(笑)。これより前、花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送っていた頃も、この加入権について実弟の豊周に問い合わせたりしていましたが、不明だったようです。

土地などに関しても、そういうことがけっこうあったようですね。焦土と化した場所に杭を打ち、「ここは自分の土地だった」と言ってしまった者勝ち、のような。

新刊です。

吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために

2022年4月30日 河出書房新社編集部編 河出書房新社 定価1,800円+税

没後10年、揺れ動く時代に対峙し続けた吉本隆明の著作を、今どう読むか。吉本が見ていたものを私たちは見落としていないだろうか。これからも読み続けるための入門書。
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目次・収録作品
【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる
【入門】 安藤礼二 時代との対峙、その「敗北」から今を考える
【特別寄稿】 ハルノ宵子 いつも途上
【論考】
 小田原のどか 吉本隆明と〈彫刻の問題〉
 綿野恵太 宮沢賢治と高村光太郎の自然史 
 平山周吉 吉本隆明は「試行」のままに
 瀬尾育生 「異神」について
 友常勉 ゾンビとセトラー国家、そして日本資本主義論争――『共同幻想論』の読み方
【吉本隆明アンソロジー】
 〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年
 〈小説〉坂の上、坂の下/ヘンミ・スーパーの挿話/順をぢの第三台場/手の挿話
  解題:樋口良澄 物語を書く吉本隆明 
【吉本論コレクション】
 埴谷雄高/谷川雁/村上一郎/竹内好/鮎川信夫/鶴見俊輔
【吉本隆明ブックガイド】安藤礼二
吉本隆明略年譜

わが国で初めてのまとまった光太郎論『高村光太郎』(昭和32年=1957)を書いた吉本隆明。当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは、戦前の東京府立化学工業学校、戦後の東京工業大学で共に学び、光太郎や宮沢賢治について語りあい、その後、数十年にわたって光太郎顕彰・研究を共にした仲でした。
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画像は昭和60年(1985)の書道雑誌『墨』から。左から故・疋田寛吉氏、吉本、石川九楊氏、北川先生。座談会「光太郎書をめぐって」の際のショットです。

北川先生の書かれた回想(すべて『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』文治堂書店 平成31年=2019所収)から。

 隆明さんは書いている。「北川太一とわたしは、いわば高村光太郎の資料の探索については、草分けの存在であった」と。僕たちの卒業した深川の都立化学工業というのは不思議な学校だった。近くにはまだ広い草原や水溜まりや溝川があって、腹の紅いイモリやダボハゼや大きな鮒さえが泳いでいた。僕は落ち零れの第二本科、四組の昆虫少年で、本科の隆明さんと話す機会は殆どなかったが、しかし僕のクラスにもニイチェを説く安田三郎とか、オウム事件の頃の日弁連会長土屋公献とか、「ファウスト」を無理やり読ませた加藤進康とか変わった連中が沢山いた。加藤は後に工大で隆明さんが演出した太宰治の「春の枯葉」を演じたりした。しかし多くは町工場や手わざで生きる職人の子弟で、卒業したのは太平洋戦争が始まった昭和十六年十二月、それぞれの道にバラバラになったけれど、その頃僕らが同じように引かれたのは、高村光太郎や宮沢賢治だった。隆明さんの家は月島の舟大工、僕は日本橋の屋根屋の次男坊。ことに高村さんに引かれたのは、そんな下町の職人の血だったかも知れない。
(「隆明さんへの感謝」平成19年=2007)
 
 光太郎の詩集「道程改訂版」が世におくられたのも昭和一五年、たぐい稀な愛の詩集として『智恵子抄』が出たのはその翌年。戦争詩とともに、どれも僕等を夢中にさせた。太平洋戦争が始まり、繰上げ卒業で、進学組の吉本は米沢高等工業に、就職組の僕は学費を稼ぎながら東京物理学校の夜学生になって、それぞれの時間を紡いだ。進行する民族戦争に、どちらも死を覚悟した愛国青年だった。戦い終わり、海軍技術科士官として飛行予科練習生たちといのちをかけた南四国から帰ったあと、工業大学進学を選んだ時、すでに吉本は大学にいた。そして二人ともアトリエを焼かれて花巻郊外に孤座しているという高村光太郎が、いま何を考えているか、そればかりが気になった。光太郎がここに至った道を明らかにしない限り、これから何ができようかと思いつめた。そしていつのまにか、僕は重い荷物を負った定時制高校の生徒の中に埋没し、吉本は渦巻く自分の想念の生み出し手になっていた。
(「吉本と光太郎」平成26年=2014)

 志願した海軍生活は一年足らずで終わり、改めて入学した工業大学で吉本や加藤に再会したのは昭和二十一年のことだった。大学の池のほとりで、今は岩手の山奥に独り棲む光太郎について暗くなるまで語り合った記憶がある。(略)工大の特別研究生として再び一緒になったのは昭和二十四年になってからだった。彼の研究室は同じ階にあった。二年間のその第一期を終わって吉本は東洋インキ製造に入社、二十七年には詩集『固有時との対話』が出来て、それを届けてくれた時、日本の明治以後の詩史を広く見通すための資料が見たいという希望が添えられていた。お花茶屋や駒込坂下町の吉本の家を訪ねたり、時に日本橋の我が家に来てくれたりが続いたけれど、昭和三十年に吉本が『現代詩』に「高村光太郎ノート」を発表し始めたことは、僕を興奮させた。年譜を補充するために光太郎の聞き書を取り始めていた僕は、すぐその雑誌を死の前年の光太郎に見せて、わが友吉本隆明について語ったのを覚えている。
(「死なない吉本」平成24年=2012)


引用が長くなりましたが、吉本思索史原点の一つが、光太郎、そして戦争だったということがよく分かります。

さて、『吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために』。

安藤礼二氏による「【吉本隆明ブックガイド】」では、昭和32年(1957)の『高村光太郎』が紹介され、綿野恵太氏の「宮沢賢治と高村光太郎の自然史」は題名の通り、吉本が光太郎をどうとらえていたか、その一端が語られています。また、「【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる」、「〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年」でも、「高村光太郎」がキーワードの一つに。さらに彫刻家・小田原のどか氏は「吉本隆明と〈彫刻の問題〉」で、『高村光太郎』、それから春秋社版『高村光太郎選集』別巻として刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973)のために書かれた「彫刻のわからなさ」を軸に、彫刻実作者の観点から、吉本を論じています。

版元案内文には「入門書」とありますが、どうしてどうして、実に読みごたえのある書籍です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜あたたかくねる、 アトリエで初めてめざめる。


昭和27年10月14日の日記から 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエで迎えた初めての朝でした。10月半ばといえば、それまで7年を過ごしてきた花巻郊外旧太田村の山小屋ではもう寒い時期ですが、東京では「あたたかくねる」だったのですね。

青土社さんから発行されている月刊文芸誌『ユリイカ』、4月号の巻頭に文芸評論家・中村稔氏による、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の回想文が、18ページにわたり掲載されています。
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題して「故旧哀傷・北川太一 」。中村氏による「忘れられぬ人々」という連載の第6回です。

中村氏は弁護士でもあらせられ、はじめに、弁護士として手がけられた「智恵子抄裁判」の件が語られています。

「智恵子抄裁判」、ご存じない方のために概略を記しますと、昭和16年(1941)に龍星閣から刊行された『智恵子抄』の著作者は誰か、ということが争われた裁判です。「そんなん、光太郎に決まってるじゃないか」とお思いの方が多いことと存じますが、ことはそう簡単ではありません。

そもそもは、光太郎歿後の昭和40年(1965)、龍星閣主の故・澤田伊四郎氏が、『智恵子抄』は自分が編集したものだとして、当時の文部省に著作権登録をしたことに端を発します。それを不服とした光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝となった髙村豊周が、その登録抹消を求めて、翌年、訴訟を起こしたのです。

澤田氏が著作権登録をした一番の目的は、当時、龍星閣に何の断りもなく、他社が(それも数多くの)「××版『智恵子抄』」的な書籍を続々と刊行したことに対する抗議でした。『智恵子抄』は龍星閣のものだ、というその主張、これはこれで正当なものなのでは、と、当方は思います。確かに、『智恵子抄』の最初の構想はは光太郎自身ではなく、澤田氏が持ち込んだ企画でした。そのあたり、少し前に書きましたので、こちらをご参照下さい。ただ、その後のプロセスとして、自分の名での著作権登録、というのは無理があったといわざるを得ません。

最初に澤田氏が光太郎に渡した『智恵子抄』の「内容順序表」が、実際に刊行された『智恵子抄』と比べると、かなり抜けが多いこと、刊行後の詩句の改訂等も光太郎自身の裁量がなければ不可能なことなどから、結局は澤田氏の著作権登録は取り消されるという判決になりました。

下記が最高裁による判決文です。
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この裁判、原告の豊周はほどなく亡くなり、豊周遺族が原告の地位を継承しましたが、たとえ豊周が存命だったとしても、こうした係争に関わる専門知識があった訳でもなく、また、日本文芸家協会の後押し(中村氏の弁護人選任もそうでした)もありましたが、それでもこうした裁判の前例はほとんどなく、髙村家の弁護にあたった中村氏、かなり苦労されたそうです。むべなるかな、ですね。

そこで、中村氏が意見を求めたのが、北川先生でした。北川先生、『智恵子抄』の成立、収録作品の選択からその後の改版の際の改訂等に付き、中村氏に事細かにレクチャーされ、その結果、『智恵子抄』の著作者は光太郎、という判決を勝ち得たとのことでした。

中村氏、そうした中での北川先生との関わり、さらに後半では、軍隊時代や戦後の定時制高校教師時代の北川先生、ガリ版刷りの『光太郎資料』(当方が引き継がせていただいております)などに触れられ、溢れ出る愛惜の思いを語られています。

ただ、残念ながら、「智恵子抄裁判」の部分で、古い話になってきましたので仕方がないのかも知れませんが、『智恵子抄』詩句の改訂等につき、事実誤認及び少なからずの誤植がありまして、これをそのまま論文等の典拠とされると非常に危険ですので、一応、指摘しておきます。

まず、詩「人類の泉」(大正2年=1913)について。

誤 「ピオニエ」というルビ  → 正 「ピオニエエ」というルビ

続いて詩「或る夜のこころ」(大正元年=1912)。

誤 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプリの林に熱を病めり
正 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプラアの林に熱を病めり

誤 同じ作品の第二一行の「こころよ、こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、読点を付したままになっている。
正 同じ作品の第二一行の「こころよ こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、一字空けたままになっている。

さらに、詩「冬の朝のめざめ」(執筆・大正元年=1912 発表・大正2年=1913)について。

誤 第二八行に 愛の頌歌(ほめうた)をうたふたり を 愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり と改めていることである。

初版でも「愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり」となっていますので、この前後は丸々削除する必要があります。

そうした点は差っ引いても、一読に値する文章ですので、ぜひお買い求め下さい。

また、中村氏、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第20巻(平成8年=1996)の月報にも「回想の『智恵子抄』裁判」という一文を寄せられています。こちらもぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡から学生2名来る、写真撮影、


昭和27年10月7日の日記より 光太郎70歳

学生2名」のうちのお一人が、のち、宮城県母子愛護病院(現・宮城県済生会こどもクリニック)の院長になられた熊谷一郎氏だったそうで、熊谷氏、平成4年(1992)の『河北新報』さんに、その際の回想文を寄せられています。
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同じような例として、のちに国語学者となられた宮地裕氏が、やはり学生時代の昭和22年(1947)に光太郎の山小屋を訪ね、熊谷氏同様、平成に入ってから回想文を書かれました。そちらは光村図書さんの中学校用国語科教科書に、かつて掲載されていました。

先月刊行された児童向け書籍です。

日本の文学者36人の肖像(上)

2021年12月20日 宮川健郎編 あすなろ書房 定価3,500円+税

明治・大正・昭和・平成の150年間に活躍した、日本の文豪の生涯とその代表作をぎゅっと凝縮した近代文学入門書です。教科書に登場する作家を中心に大きな肖像写真で紹介します。
印象的な写真から、その人の人生も文学も、生きた時代の空気まで感じられることでしょう。

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 はじめに
 森鷗外   医学でも文学でも大きな仕事を残す
 二葉亭四迷 言文一致体で近代文学を創り出す
 樋口一葉  近代女性作家の誕生
 島崎藤村  近代詩のはじまりの詩人
 上田敏   翻訳で近代詩の世界をひらいた
 正岡子規  俳句と短歌の改革者
 夏目漱石  江戸の文化が育んだ明治の文豪
 与謝野晶子 情熱の歌人
 北原白秋  永遠の童心をうたった
 石川啄木  早熟・夭折の天才
 志賀直哉  「小説の神様」と呼ばれた作家
 有島武郎  「近代」と向き合い続けた作家
 芥川龍之介 エゴイズムの追求
 高浜虚子  俳句の伝統を守り、後進を育てた

 高村光太郎 近代詩の父
 萩原朔太郎 革新者であり続けた詩人
 小川未明  日本児童文学の父
 浜田広介  善意の文学


各人、4ページずつ。最初のページは略年譜、見開きで2ページ目が、紹介文にもある「大きな肖像写真」、めくって3ページ目に代表作の抜粋(光太郎は「レモン哀歌」)、最終ページで「作品解説」およびちょっとしたエピソードを紹介するコラム(光太郎の項では「光太郎と宮沢賢治」)。
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版元の想定では「対象:小学校高学年」ということですが、中学生くらいでも十分使えそうです。

ちなみに上下巻で、下巻で扱われているのは以下の通りです。当方、購入していませんが。

宮沢賢治/江戸川乱歩/草野心平/金子みすゞ/井伏鱒二/梶井基次郎/川端康成/中原中也/新美南吉/椋鳩十/中島敦/太宰治/三島由紀夫/寺山修司/まど・みちお/茨木のり子/吉野弘/井上ひさし

教育関係の方、お子様をお持ちの皆さん、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

毛皮に腰のひもをつける、 下水吸込を拡大の為穴掘、北の窓をふさぐ。


昭和26年(1951)11月19日の日記より 光太郎69歳

「〽ふーゆーがー、来っるっ前っにー」ですね(笑)。

2件ご紹介します。

まず、一昨日の『茨城新聞』さんの一面コラム。

いばらき春秋

連日氷点下の厳しい朝が続く県内。6日に降り積もった雪がなかなか解け切らず、いまだに日陰で残っている所も多いだろう▼下館駅前のビルにある筑西支社からは関東平野の眺めが素晴らしい。快晴の日には冠雪した富士山や日光連山、時には浅間山もよく見え、真冬ならではの景色が楽しめる▼この時季にふさわしいのは高村光太郎の「冬が来た」という詩である。「きつぱりと冬が来た」という勇ましい書き出しで始まり「きりきりともみ込むような冬が来た/人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た」と厳しさを描く▼草木に背かれ、と詩人は表現しているが、この寒さが春の桜の開花には大事な条件だという。冬に入る前に休眠状態に入った花芽は一定期間低温にさらされることで目を覚まし、開花の準備を始める。それを「休眠打破」と呼ぶのだそうだ▼作品の主人公は前向きだ。「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」と力強い。真正面から受け止め、立ち向かう覚悟を示す▼寒さがなければ春は来ない。それは分かっているけれど寝床からなかなか抜け出せない。そんなとき、休眠を打破するために詩の一節をつぶやいてみよう。春はもうすぐだ。(飯)

温暖な千葉県に住んでいますと、冬の寒さには弱くなります。1月も半ばとなると、もう冬はいいから、早く春になってくれ、という感じです(笑)。「冬よ/僕に来い、僕に来い」という光太郎の気が知れません(笑)。

しかし、「休眠打破」だそうで、この寒さが植物の生育には欠かせないとのこと。まぁ、それも頭では分かっているのですが……(笑)。

ちなみに「6日に降り積もった雪」とありますが、千葉でも積雪となりました。降り始めた6日の昼頃。
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翌朝、裏山の中腹から。ここまで積もったのは数年ぶりでした。
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昨年4月に17歳で逝ってしまった愛犬と毎日行っていた公園。
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愛犬が生きて元気だったら、転げ回って喜んでいたでしょう。
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もう1件、『産経新聞』さんの読書面、1月8日(土)の掲載でした。

本ナビ+1 詩人・和合亮一 『写文集 我が愛する詩人の伝記』 心突き動かす詩人の「生気」

009 新しい年に、ふと…。そもそも詩人とは、どんな人間なのだろうと考え込んでしまった(私も一応、詩人ではあるのだが)。それはあらためて、自分自身を知りたいという気持ちと似ている。だからなのかもしれない。この本を手に取ったとき、一瞬にしてこみあがるものを感じた。簡単には言明できない何かを。
 本書は北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎、立原道造…。12の詩人をめぐる室生犀星による伝記である。例えば朔太郎は前橋、立原は軽井沢…、故郷や生活した土地とそれぞれの人物のエピソードと、地の風土を鮮明にとらえた濱谷浩の写真が並ぶ。深い親交のあった犀星にしか語れない挿話の数々は、人物をあらゆる角度から、新しく、時には丸裸にしていて面白い。
 生々しい逸話に垣間見える横顔にくすりと、そしてほろりとさせられる。伝説の詩人たちもただの人間だったんだなあと呟(つぶや)きたくなる。あとがきに「若(も)し少しでも生気が溜(た)まっていたら嬉(うれ)しい、その生気のみがこの書物のたすけになるからである」と。なるほど。詩人のもたらす「生気」に初めから私は突き動かされたのかもしれない。本の中の息づかいに耳を澄ますようにして読み進めると近代詩と詩人の全景が立体的に見えた気がした。
 そして生ばかりではなく死の場面にも触れている。どの詩友よりも生きのびてこれを書いていると語る犀星の切ない姿が随所に見受けられる。
 「詩というものは先(ま)ずまねをしなければ伸びない、まねをしていても、まねの屑(くず)を棄(す)てなければならない」という一節に詩作の秘訣(ひけつ)を教えられた思いがした。日本の詩の礎を築いたいわば開拓者たちの言葉と人生をあらためて堂々と真似(まね)てみたいと思った。

詩人の和合亮一氏が、先月刊行された『我が愛する詩人の伝記』(室生犀星 文/濱谷浩 写真 中央公論新社)の書評を寄せられています。さすがに和合氏、的確な評ですね。

これ以外にも、まだ各紙で光太郎の名を出して下さっています。明日のこのブログも、その辺で。

【折々のことば・光太郎】

笹間の猟師が青猪の毛皮を持つてくる、スルガさんに見てもらふやうにいふ。スルガさん毛皮持参、6000円の分を求める事にする。中々よろし。スルガさんに托して背中に着られるやうにしてもらふことをたのむ。


昭和26年(1951)11月10日の日記より 光太郎69歳

笹間」は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の隣村。「青猪」は「あおしし」と読み、カモシカのことです。光太郎の山小屋付近にも時々現れました。

スルガさん」は、光太郎に山小屋の土地を提供してくれた駿河重次郎、あるいはその子息。猟師から直接買うのではなく、いったん、詳しい地元民に相場等を聞いて購入したのでしょう。
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上記画像がおそらくこの時の毛皮です。翌年の詩「山のともだち」に、「角の小さいカモシカは/かわいそうにも毛皮となつて/わたしの背中に冬はのる。」という一節があります。

当会顧問であらせられ、昨年、逝去された北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数刊行して下さっている文治堂書店さん。そのPR誌的な『トンボ』の第13号が届きました。
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今号は光太郎がらみ、北川先生関連の文章が多く掲載されています。

まず巻頭に、光太郎終焉の地・中野のアトリエの持ち主でいらっしゃる中西利一郎氏の玉稿。光太郎がここで暮らした最晩年の回想や、北川先生がここを訪れ、光太郎に親炙するに至った経緯などが書かれています。

文治堂書店主・勝畑耕一氏は、「小川義夫さんを悼む」という一文。ご生前の北川先生を支え、各種出版のサポート等をなさっていた、北斗会(北川先生が高校教諭だった頃の教え子さん達の会)会長であらせられた、故・小川義夫氏の追悼文です。

巻末近くに、北川先生のご遺著『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」』書評が4本。どれも的確な評でした。

『とんぼ』には掲載されていませんが、新聞各紙に載った同書の書評のコピーも同封されていました。全国紙と一部の地方紙に載った書評は当方も把握しておりましたが、地方紙のそれの中には未見のものもあり、有り難く存じました。

最も驚いたのが、『北海道新聞』さん。当会会友にして、同書に北川先生追悼文も寄せられた、渡辺えりさんが執筆された、長いものでした。
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それから、『山梨日日新聞』さんと『信濃毎日新聞』さんも。
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『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」』、お読みになっていない方、文治堂書店さんのサイトからご注文下さい。

話を『とんぼ』に戻します。あとは、光太郎関連では、拙稿「連翹忌通信」の連載が載っております。こちらもご入用の方、文治堂さんのサイトからお願いいたします。頒価500円です。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃東京より帝大文科の生徒山口三夫といふ人来訪、宮沢さんに寄つた由、二時過ぎ辞去、

昭和26年(1951)7月15日の日記より 光太郎69歳

山口三夫」は、のち、フランス文学者(特に光太郎も敬愛していたロマン・ロラン研究)となる人物です。調べてみましたところ、山口には『遍歴』という雑誌に載った「高村光太郎の悲劇」という文章があり、調べてみようと思いました。

以前にも書きましたが、のち、様々な分野で活躍する人々が、無名時代に光太郎の元を訪れ、薫陶を受けたという例が結構あったようです。

本日も新刊紹介です。

孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり

2021年9月30日 谷川渥著 月曜社 定価2,600円+税

覗き見る想像力ーー西洋美術の視覚的イメージに触発された日本近代文学の巨匠たちの作品から、〈見ること〉の諸相を、分析する。夏目漱石、高村光太郎、村山槐多、森鷗外、芥川龍之介、谷崎潤一郎、佐藤春夫、萩原朔太郎、江戸川乱歩、夢野久作、川端康成、横光利一などの作品から、文学を美学から照射する試み。

目次
まえがき
【Ⅰ】レオナルド・ダ・ヴィンチと日本近代文学(1:夏目漱石、2:高村光太郎、3:村山槐多)/森鴎外の『花子』
【Ⅱ】日本近代文学とデカダンス/「表現」をめぐる断章
【Ⅲ】孤独な窃視者の夢想――江戸川乱歩と萩原朔太郎/夢野久作のエロ・グロ・ナンセンス/谷崎潤一郎――女の図像学/映画『狂った一頁』と新感覚派――覚書
あとがき
001
「【Ⅰ】レオナルド・ダ・ヴィンチと日本近代文学」の中で、光太郎の項が設けられています。この章全体は「レオナルド・ダ・ヴィンチという存在が日本近代文学にどのような影を落としているかという一点に焦点を絞って外観を試み」るもので、他に夏目漱石村山槐多が取り上げられています。

光太郎の項では、大正3年(1914)刊行の第一詩集『道程』冒頭に置かれた詩「失はれたるモナ・リザ」(明治44年=1911)に着目されています。

  失はれたるモナ・リザ002

モナ・リザは歩み去れり
かの不思議なる微笑に銀の如き顫音(せんおん)を加へて
「よき人になれかし」と
とほく、はかなく、かなしげに
また、凱旋の将軍の夫人が偸見(ぬすみみ)の如き
冷かにしてあたたかなる
銀の如き顫音を加へて
しづやかに、つつましやかに
モナ・リザは歩み去れり

モナ・リザは歩み去れり
深く被はれたる煤色(すすいろ)の仮漆(エルニ)こそ
はれやかに解かれたれ
ながく画堂の壁に閉ぢられたる
額ぶちこそは除かれたれ
敬虔の涙をたたへて
画布(トワアル)にむかひたる
迷ひふかき裏切者の画家こそはかなしけれ
ああ、画家こそははかなけれ
モナ・リザは歩み去れり006

モナ・リザは歩み去れり
心弱く、痛ましけれど
手に権謀の力つよき
昼みれば淡緑に
夜みれば真紅(しんく)なる
かのアレキサンドルの青玉(せいぎよく)の如き
モナ・リザは歩み去れり

モリ・リザは歩み去れり003
我が魂を脅し
我が生の燃焼に油をそそぎし
モナ・リザの唇はなほ微笑せり
ねたましきかな
モナ・リザは涙をながさず
ただ東洋の真珠の如き
うるみある淡碧(うすあを)の歯をみせて微笑せり
額ぶちを離れたる
モナ・リザは歩み去れり

モナ・リザは歩み去れり
かつてその不可思議に心をののき
逃亡を企てし我なれど
ああ、あやしきかな
歩み去るその後(うしろ)かげの慕はしさよ
幻の如く、又阿片を燔(や)く烟の如く
消えなば、いかに悲しからむ
ああ、記念すべき霜月しもつきの末の日よ
モナ・リザは歩み去れり

「モナ・リザ」は、欧米留学からの帰朝後、まだ智恵子と出会う前に、光太郎が通っていた吉原の遊郭・河内楼の娼妓、若太夫です。

『孤独な窃視者の夢想』では、「この「モナ・リザ」は、吉原河内楼の娼妓「若太夫」のことだと一般に指摘されている。」とあります。「一般に指摘」ではなく、光太郎自身がそう書いているのですが……。

 「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷まげに結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、ということになった。
 いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(略)
 若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。
(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)

上の方に『新よし原細見』(明治42年=1909)の画像を載せておきましたが、若太夫は本名・真野しま、名古屋の出身でした。「細見」でサバ読みがなされていなければ、光太郎と出会った明治43年(1910)当時、23歳だったことになります。

木村荘太の名が出て来ますが、木村荘太(艸太)は武者小路実篤の「新しき村」などに参加した作家。光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄です。昭和25年(1950)には、自伝的小説『魔の宴』を刊行し、光太郎、若太夫との三角関係にも触れています。

結局、若太夫は光太郎より木村を選びますが、木村とてはなから本気の付き合いではありませんでした。若太夫は吉原大火(明治44年=1911、映画「吉原炎上」で描かれました)の後、年季が明けて郷里に帰り、以後、消息不明。当方、写真がないかと探してはいるのですが、なかなか見つかりません。情報をお持ちの方は御教示いただけると幸いです。

『孤独な窃視者の夢想』では触れられていませんが、光太郎にはもう一遍、モナ・リザ=若太夫をモチーフにした詩があります。やはり明治44年(1911)に書かれた「地上のモナ・リザ」。

  地上のモナ・リザ008

モナ・リザよ、モナ・リザよ
モナ・リザはとこしへに地を歩む事なかれ
石高く泥濘(ぬかるみ)ふかき道を行く
世の人々のみにくさよ
モナ・リザは山青く水白き
かの夢のごときロムバルヂアの背景に
やはらかく腕を組み、ほのぼのと眼をあげて
ただ半身をのみあらはせかし
思慮ふかき古への画聖もかくは描きたりき
現実に執したる全身を、ああ、モナ・リザよ、示すなかれ

われはモナ・リザを恐る
地上に放たれ
ちまたに語り
汽車に乗りて走るモナ・リザを恐る
モナ・リザの不可思議は007
仮象に入りて美しく輝き
咫尺に現じて痛ましく貴し
選択の運命はすでにすでに世を棄てたり
余は今もただ頭をたれて
モナ・リザの美しき力を夢む
モナ・リザよ、モナ・リザよ
モナ・リザは永しへに地を歩むことなかれ

のちに智恵子と出会った後、縁談が持ち上がっていると語った(らしい)智恵子に向けて「チシアンの画いた絵が/鶴巻町へ買物に出るのです」(「人に」)と書いたのを彷彿させられます。ちなみにこの一節、大正元年(1912)雑誌初出時(題名も「N――女史に」でした)では「チシアンの画いた画が/鶴巻町へ買喰ひに出るのです」でした。

ところで、若太夫。光太郎は「モナ・リザ」以外にも、古典の名作になぞらえていました。昭和25年(1950)に書かれたアンケート回答「私の好きな顔 古今東西の美術品の中より」

ゴヤのマハ
この顔は若太夫にも似て居り、又この眼をもすこしまろくすれば、智恵子にも似て居る。


ゴヤの「マハ」にはいろいろなバージョンがあり、具体的にどれを指しているのか不明ですが……。「モナ・リザ」にも「マハ」にも似ていたという若太夫。先ほども書きましたが、ぜひ写真を見てみたいものです。情報をお持ちの方は御教示いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

水沢より女性二人来る、成人の日の礼といふ、樋口氏より抹茶十匁、羊かん一折、成人の有志より日本酒一升(天瓢)もらふ、写真などとり、辞去。


昭和26年(1951)4月1日の日記より 光太郎69歳

「成人の日」については、この10月6日(水)10月9日(土)のこのコーナーをご参照下さい。

天瓢」は、岩手銘醸さんで現在も造り続けられている地酒です。光太郎、市販の日本酒を貰うと、ほぼほぼ必ずといっていいくらい、その銘柄を記録しています。なぜなのでしょうか?

定期購読しております『日本古書通信』さんの9月号。当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』の紹介が載りました。北川先生、同誌の主要寄稿者のお一人でもあらせられたので、さもありなん、ですね。
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古書関係でもう1点。同じ日に届いた、都下小金井市の美術系専門古書店、えびな書店さんの新蒐品目録。光太郎の色紙が2点、写真入りで紹介されています。

1点は、以前から市場に出ていたもので、フランスの諺(ことわざ)を揮毫したもの。
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高村光太郎小色紙 「杯と口とは遠し フランスの古諺より 光」
曰く「盃と口とは遠し」。元ネタはギリシャ神話です。アンカイオスという人物が、盃に入ったワインを今まさに口に付けようとした時に、猪に襲われて絶命したという故事で、おそらく、「油断大敵」とか、「画竜点睛を欠く」ではいかんとか、または「勝って兜の緒を締めよ」など、そういう教訓なのでは、と思われます。或いは、そういうこともあるから、人生は儚いもんだ、「邯鄲の夢」だ、という諦念を表すのに使うのかもしれません。

この「盃と口とは遠し」以外に、11篇のフランスの諺、さらに『ロダンの言葉』からの抜粋4篇を書いた短冊が、昭和2年(1927)、大阪の柳屋画廊の短冊販売目録に掲載されました。上記は色紙ですが、おそらくそう離れていない時期のものと推察できます。

もう1点、こちらは初めて見ました。
源にかへるもの
源にかへるもの力あり」。元ネタは昭和17年(1942)作の翼賛詩「みなもとに帰るもの」の一節ですので、やはりその頃のものでしょう。同じ色紙でも「盃と……」と較べると紙質が良くないというのは、画像でも見て取れます。戦時中ですからね。もっとも、戦後の混乱期にはボール紙を色紙代わりにして揮毫した例もありますが。

詩「みなもとに帰るもの」の当該部分は、「みなもとに帰するものは力あるかな」なので、少し異なるバージョンです。また、平成29年(2017)、豊島区役所さんで開催された「2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展」では、同じ「みなもとに帰るもの」中の「みなもとをしるもの力あり」という別の一節を揮毫した色紙が展示されたりもしていました。

ちなみに「盃と……」は28万円、「みなもとに……」は60万円です。お財布に余裕のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夜「岩手の人」といふ短詩をかく、


昭和23年(1948)12月27日の日記より 光太郎66歳

詩「岩手の人」は、翌年元日の『新岩手日報』に掲載されました。

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、002
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

地元岩手では、有り難がられ、現代でも折に触れて引用される詩です。

昨日、新刊の『吉本隆明 全質疑応答Ⅰ 1963~1971』(論創社)、『吉本隆明全集26[1991-1995]』(晶文社)を御紹介しましたが、晶文社さんのサイトを細かく調べましたところ、少し前の刊行でしたが、まだありました。

吉本隆明全集18[1980-1982] 

0032019年1月 吉本隆明著 晶文社 定価7,480円(本体6,800円)

社会の転換期に生み出される「現在」の文学を論じた初めての本格的文芸時評『空虚としての主題』と、名作古典文学の深層と構造を鮮やかに描き切った『源氏物語論』、長く継続的にその主題を追って書き継がれた「アジア的ということ」などを収録する。単行本未収録3篇。第19回配本。月報は、安藤礼二氏 山本かずこ氏 ハルノ宵子氏が執筆。

【目次】

Ⅰ 空虚としての主題
 書きだしの現象論/抽象的と具象的/イメージの行方/背景のしくみ/感性による否認/固執された〈意味〉/持続された思惟/さまざまな自然/「私」および「彼」の位置/「私」小説に出あう/物語を超えて/嫌悪としての描写/現在という条件/あとがき/文庫版のためのあとがき

Ⅱ 源氏物語論
第Ⅰ部 母型論/第Ⅱ部 異和論/第Ⅲ部 厭離論/第Ⅳ部 環界論/あとがき/わが『源氏』/文庫のための註/『源氏』附記

Ⅲ 
鳥の話/天の河原ゆき[『野性時代』連作詩篇30]/旅の終り[『野性時代』連作詩篇31]/水の死/
夢は枯野[『野性時代』連作詩篇32]/魚の木/水の絵本[『野性時代』連作詩篇33]/融けた鏡[『野性時代』連作詩篇34]/掌の旅[『野性時代』連作詩篇35]/木の説話[『野性時代』連作詩篇36]/本草譚/坂の曲がり[『野性時代』連作詩篇37]/追憶[『野性時代』連作詩篇38]/葉の魚[『野性時代』連作詩篇39]/葉の声――入江比呂さんに――/

アジア的ということⅠ/アジア的ということⅡ/アジア的ということⅢ/アジア的ということⅣ/アジア的ということⅤ/アジア的ということⅥ/アジア的ということⅦ/「アジア的」なもの

村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』/「文学者」という画像/川端要壽のこと/『赤光』論/村上一郎論/『初期心的現象の世界』について/ドストエフスキーのアジア/源氏物語と現代――作者の無意識――

『野性時代』アンケート/「百人一答ジャパネスク」アンケート/諏訪優/横光利一/際限のない詩魂[高村光太郎]/わが子は何をする人ぞ/果樹園からリンゴを盗む/『言葉という思想』あとがき/『試行』第五六〜五七号後記

解題(間宮幹彦)

吉本隆明全集20[1983-1986] 

0022019年9月 吉本隆明著 晶文社 定価7,480円(本体6,800円)

埴谷雄高との論争「重層的な非決定へ」と『死の位相学』の序に代えて書き下ろされた「触れられた死」などの評論・エッセイと連作詩の最後の時期を収める。第21回配本。月報は、中島岳志氏 岩阪恵子氏 ハルノ宵子氏が執筆。

【目次】

祖母の影絵/メッセージ[『野性時代』連作詩篇63]]/風文字[『野性時代』連作詩篇64]/字の告白/「さよなら」の椅子[『野性時代』連作詩篇65]/余談/声の葉/深さとして 風のいろとして/活字のある光景/活字都市

大衆文化現考 ロック・グループの世界/ビートたけし芸の変貌/「戦場のメリークリスマス」/地崩れして動く劇画/現在の名画の条件/「YOU」の中の糸井重里/リンチ機械としてのテレビ/小劇団の場所/三浦和義現象の性格/オモチャ・ショー/「オールナイトフジ」論/ロス五輪私感/夏を越した映画/エレクトロニクスショー/光る芸術のこと/ハイ・コミュニケーションに触れる/ファッション・ショー論/クイズ番組論/テレビCMの変貌
季評・大衆文化 科学万博印象記/映画の話/ふたつの出来事/退場にあたっての弁
n個の性をもった女性へ/告別のことば――橋川文三――/未踏の作業――渡辺寛『流され王の居場所』/映像から意味が解体するとき/情況への発言――中休みのうちに[一九八四年五月]/ミシェル・フーコーの死/スケベの発生源/『ゴルゴダのことば狩り』について/山本育夫小論/ファッション/情況への発言――中休みをのばせ[一九八四年一一月]/江藤淳についてのメモ/私の町――谷中・団子坂・駒込吉祥寺/政治なんてものはない――埴谷雄高への返信/元祖モラトリアム人間/思い出の劇場――海辺の劇場/北川太一の印象/重層的な非決定へ――埴谷雄高の「苦言」への批判/情況への発言――中休みの自己増殖[一九八五年七月]/マラソンについて/触れられた死/異論を介しての『火まつり』/現代電波絡繰試論/ニューヨーク・ニューヨーク/一枚の絵――カンジンスキイ「バラ色の諧調」/佃ことばの喧嘩は職業になりうるか/文化の現在 現在を読む120冊の本――現在・準現在・準古典・古典/中沢新一を真っ芯で。/恐怖・不安・孤独――近未来と恐怖映画/遇わなくなってからの清岡卓行の詩/松岡祥男について/阿蘇行/「黒澤充夫・辞典のための挿絵展」のために/
本について/たった一つの黄金風景/詩について/10年先の、僕の恋人たちの風景/『それから』という映画/文学者と戦争責任について/情況への発言――雑多な音響批判[一九八六年二月]/食うべき演劇/イエスの方舟・千石剛賢/高橋留美子「めぞん一刻」/「主題」という幻化または「幻化」という主題[山崎哲]/少年の日の界隈/高村光太郎の書/編集者としての安原顯/こだわり住んだ町/『アンチ・オイディプス』論――ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ批判/傾面の映画――『山の焚火』/『日本の原像』註記/ふた色の映画/表現機械としてのワープロ/国語の教科書/わたしの現況/蠢めく家族――安田有『スーパーヒーローの墓場』/鮎川信夫――別れの挨拶/島尾敏雄氏を悼む/権力について――ある孤独な反綱領/情況への発言――海路の日和[一九八六年一一月]/歯について/ 

『野性時代』アンケート/電話アンケート スターリンがメジャーになるには?/『夕刊イトイ』復刊お祝いコメント/坂本龍一コンサート「MEDIA BAHN」/執筆者コメント/ウイークリー・データ一九八四・九・一〇―一六/ボクの二十代/「書店」を語る/原子力エネルギー利用は不可避/田原克拓『続・性格と心の世界』/山崎龍明『仏教の再生』/親鸞理解に不可欠の存在――石田瑞麿/
野戦攻城の思想[橋川文三]/田原克拓『初期・性格と心の世界』/E・M・シオラン『歴史とユートピア』/文芸史の新しい波――『日本文芸史』/「問いと答え」――『室生犀星未刊行作品集』/
『対幻想』まえがき/『死の位相学』あとがき/『重層的な非決定へ』あとがき/『難かしい話題』あとがき/『恋愛幻論』あとがき/『さまざまな刺戟』あとがき/著者のことば ――『吉本隆明全集撰』/結合について――『白熱化した言葉』序/イメージとしての文学――『白熱化した言葉』あとがき/対談を終えて――『知のパトグラフィー』あとがき/『都市とエロス』あとがき/
『漱石的主題』まえがき/『試行』第六二~六六号後記

解題(間宮幹彦)

同全集、基本的に編年体の編集ですので、複数の巻にぽつりぽつりと、光太郎。そのため、気がつきませんでした。また、第20巻には、当会顧問であらせられ、吉本の盟友でもあった故・北川太一先生を論じる「北川太一の印象」。これも存じませんでした。急ぎ図書館等で調べようと思いました。

昭和40年代から50年代にかけ、編年体ではない『吉本隆明全著作集』が勁草書房さんから刊行され、そのうち第8巻が「作家論Ⅱ 高村光太郎」。昭和32年(1957) 飯塚書店刊行の評論集『高村光太郎』全文を含め、その後に出された光太郎関連の文章、講演筆録などが網羅されていますが、いかんせん昭和48年(1973)の刊行なので、その後のものは載っていません。

そういう意味では、『決定版 吉本隆明、光太郎を語る』的な書籍が刊行され、網羅されると有り難いのですが……。

同じことは光太郎の著作にも言えるような気がします。『高村光太郎、宮沢賢治を語る』みたいな書籍を出せば、そこそこ売れるように思います。

さて、晶文社さんの『吉本隆明全集』、全38巻+別巻1の予定で、今後も刊行が続きます。注意して見ていこうと思っております。
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【折々のことば・光太郎】

ひる頃学校。学校忘年会、校長さん、上田、高橋、平賀先生、保健婦さん、開拓事務所の八重樫さん、藤原さん等にて教室にて会食。余は酒一升(弘さんよりのもの)、林檎十個持参。四時小屋にかへる。


昭和23年(1948)12月26日の日記より 光太郎66歳

子供たちは冬休み中だったのでしょうが、先生達は昼間から学校で忘年会(笑)。のどかな時代だったということですね。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の盟友だった、故・吉本隆明氏関連です。この国で初めて、まるまる一冊、光太郎を論じた評論集『高村光太郎』(昭和32年=1957 飯塚書店)を刊行した吉本、その後も折に触れ、光太郎を論じ続けました。そうした『高村光太郎』の補遺的な短文等が掲載された新刊を御紹介します。

吉本隆明 全質疑応答Ⅰ 1963~1971 

2021年8月3日 吉本隆明著 論創社 定価2,200円+税

テーマ別で編集された『吉本隆明質疑応答集』シリーズを刷新し、時系列で並べ直した『吉本隆明 全質疑応答』始動! 全5巻を予定し、新たに発見された前シリーズ未収録の「質疑応答」も収録。巻末に菅原則生による解説を付す。
000
目次
【九州大学新聞主催】 1963年11月23日
  情況が強いる切実な課題とは何か
【国際基督教大学ICU祭実行委員会主催】 1964年1月18日
  芸術と疎外 
【『コスモス』主催。日比谷図書館において】 1966年4月2日
  高村光太郎について―鷗外をめぐる人々 
【東京都立大学附属高等学校第18回記念祭において】 1966年10月22日
  日本文学の現状 
【関西大学学生有志主催】 1966年10月29日
  知識人―その思想的課題
【大阪市立大学社会思想研究会・大阪市立大学新聞会共催】 1966年10月31 日
  国家・家・大衆・知識人
【国学院大学学生(学部等不明)主催】 1966年11月21日
  現代文学に何が必要か 
【中央大学学生会館常任委員会主催】 1967年10月12 日
  現代とマルクス 
【早大独立左翼集団主催】 1967年10 月21日
  ナショナリズム―国家論 
【東京大学三鷹寮委員会主催】 1967年10月24日
  詩人としての高村光太郎と夏目漱石
【明治大学駿台祭二部実行委員会主催】 1967年11月1日
  調和への告発 
【東京医科歯科大学新聞会主催】 1967年11月2日
  個体・家族・共同性としての人間 
【京都大学文学部学友会主催】 1967年11月12日
  再度情況とはなにか 
【国学院大学文芸部・国学院大学文化団体連合会共催】 1967年11月21日
  人間にとって思想とは何か
    ―『言語にとって美とはなにか』および『共同幻想論』にふれて
【関西大学学生図書委員会主催】 1967年11月26日
  幻想としての国家
【大学セミナーハウス(東京都八王子市)主催】 1971年5月30日
  自己とは何か―ゼーレン・キルケゴールの思想を手がかりとして 
【青山学院大学現代文化研究会主催】 1971年6月5日
  思想的課題としての情況 
【名古屋ウニタ書店主催】 1971年12月19日
  国家・共同体の原理的位相

それから、晶文社さんから刊行中の『吉本隆明全集』。平成26年(2014)発行の第5巻に、『高村光太郎』全文が収録されており、他に、第7巻、第4巻第10巻、第9巻第12巻でも光太郎に触れられていましたが、このほど刊行された第26巻でも光太郎関連が。

吉本隆明全集26[1991-1995] 

0012021年8月 吉本隆明著 晶文社 定価7,150円(本体6,500円)

『ハイ・イメージ論』の続編「IV」ともいうべき『母型論』と中東湾岸戦争についての発言などを収める。単行本未収録6篇(「些事を読みとる」「鶴見さんのこと」「太宰治を思う」ほか)。第27回配本。

月報は山崎哲さん(劇作家)、菅原則生さん(『続・最後の場所』)、ハルノ宵子さん(作家・漫画家)が執筆。

【目次】

Ⅰ 
母型論
序/母型論/連環論/大洋論/異常論/病気論Ⅰ/病気論Ⅱ/語母論/贈与論/定義論Ⅰ/定義論Ⅱ/起源論/脱音現象論/原了解論/あとがき/新版あとがき/

中東の切迫/中東湾岸戦争私論――理念の戦場はどこにあるのか――/中東戦争と太平洋戦争/「芸」としてみた中東戦争/良寛書字――無意識のアンフォルメル――/濃密な圧力感を生命力とする映画――ベルイマン『牢獄』――/はじめの高村光太郎/気球の夢/「二十世紀末の日本文化を考える」/
些事を読みとる/思想を初源と根底から否定する――ニーチェ『偶像の黄昏/アンチクリスト』――/泥酔の思い出/健康への関心/海老原博幸の死/エロスに融ける良寛――瀬戸内寂聴『手毬』――/情況への発言――〈切実なもの〉とは何か――[一九九一年五月]/鶴見さんのこと/上野公園の冬/「父の像」/芸能人の話/土井社会党の失点/小川徹の死/衝撃の映像/こんどソ連で起こったこと/『海からの光』と出遇ったこと/老齢ということ/辰吉の試合と『愛される理由』/中島みゆきという意味/修羅場を知った編集者――安原顯著『「編集者」の仕事』を読んで――/ラフカディオ・ハーンとマルチニーク島/軍国青年の五十年/ちいさな熊本論/ビートたけしの映像/

かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』論。/黒澤明『夢』『八月の狂詩曲』など。/大川隆法『太陽の法』論。/Mr.ホーキング、出番です。/つげ義春『無能の人』その他。/『日本語の真相』って何?/
『生死を超える』は面白い/『男流文学論』は女流ワイ談でしょう/上田紀行『スリランカの悪魔払い』『トランスフォーメーション・ワークブック』/テレビ的事件(1)――『原理講論』の世界――/『国境の南、太陽の西』の眺め/テレビ的事件(2)――象徴になった婚約――/『磯野家の謎』東京サザエさん学会編/大友克洋『AKIRA』1~6/『マディソン郡の橋』はどうか/岩井克人『貨幣論』/

太宰治を思う/対談を終わって/『試行』第七〇号後記

解題(間宮幹彦)

90年代の吉本、マスコミの需要もあったのでしょうが、芸能関係やサブカルチャー方面など、その論じる対象は本当に幅広くなっていたというのがよくわかります。そうした傾向を批判する向きがないでもありませんが、いわゆる「専門バカ」より良いと思いますし、吉本の場合、どんなに手を広げても、それぞれに深い洞察に基づいて論じられていて、単なる雑学好きが蘊蓄を傾けているといった趣にはなっていません。それだけに、語り継がれる存在なのでしょうが。

さて、それぞれ、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜青年会の旗の図案をかく。


昭和23年(1948)12月24日の日記より 光太郎66歳

「青年会」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区の、山関青年会。この旗は現存します。
002

002保守系のオピニオン誌『月刊日本』さん2021年9月号。「さよならだけが人生だ」という、いわゆる偉人的な人々の簡略な評伝である連載があり、今号は光太郎が取り上げられています。

当初、WEBの検索に引っかかった際、「さよならだけが人生だ 高村光太郎」とのみあって、「はてな?」と思いました。「さよならだけが人生だ」は、井伏鱒二が漢詩の翻訳に当て、その後、広く一般に使われるようになったフレーズだからです。実際に購入してみて、疑問は氷解。連載の題名でした。

2ページの短い評伝ですが、押さえるべきところはきちんと押さえられています。文末に(南丘)とクレジットがあり、同誌の奥付に「発行人」としてお名前が掲載されている、南丘喜八郎という方によるご執筆のようです。

001
保守系の雑誌らしく、「大東亜戦争」の語が使われています。しかし、全体としては、光太郎が翼賛活動に走ったことを、肯定もせず非難もせず、紹介しています。ただ、どちらかというと、「やらかした」的な紹介の仕方になっています。

『智恵子抄』で「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」と詠んだ詩人が、大東亜戦争開戦と同時に、強烈な「愛国者」に変身した。何故か?

その命題に対しては、

光太郎は心の空白を埋めるかのように戦争賛美の詩を書き始めたのだ。

としています。

ことはそう単純ではなく、様々な要因が絡み合って、光太郎の「転身」があったのですが、2ページの短い評伝では、当時の複雑な光太郎の精神史を詳述する紙幅がなかったと解釈したいところです。

そして、戦後の花巻郊外旧太田村での生活を「隠遁生活」とし、光太郎の次の言葉を引用されています。

私は戦時中戦争に協力しました。戦争に協力した人は追放になっています。私には追放の指令が来ませんが、自分自ら追放、その考えでこう引込んでいるのです

そして、光太郎を「真摯な『求道者』」として下さっています。

太田村での7年間を、「反省などしていなかった」ととらえる人がいるようです。ところが、光太郎は自らの来し方を「暗愚」と位置づけ、繰り返し自らの過ちを詩文に書き記し、肉声でも語っています。その真摯な吐露を信用できないとするのでしょうか。

確かに、徹底的な反省をしたのであれば、『麦と兵隊』などで戦時中にもてはやされた火野葦平のように、自裁するのが本当かも知れません(まぁ、火野が自ら命を絶ったのも、そう単純な話ではないのでしょうが)。「暗愚」という自己評価も、「甘い」「言い訳がましい」とする向きもあるようです。

しかし、光太郎が自らの戦争責任に、真摯に向き合おうとした、その姿勢そのものは、決して否定されるべきものではないと思います。

ちなみに、この件に関して議論するつもりはありませんので、頓珍漢なコメント等はお断りいたします。

ところで『月刊日本』さん。保守系の雑誌でありながら、現政権批判的な論調の記事が多いのが意外でした。「東京五輪が深めた「国民の分断」」、「権力者による、権力者のための東京五輪」、「安倍前首相「不起訴不当」議決の意味」、「菅なきあとの日本」、「「まさか」の菅退陣政局」など(逆に、これぞネトウヨ、というような、まるでカルト宗教の如き論、尻に火が付いているのに余裕こいている某老害者の寄稿なども載っていますが(笑))。まぁ、「保守」=「自民党支持」というわけではないと、そういうことなのでしょう。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

宮沢さんから送られた風呂桶の組み立てぬもの既に学校に届き居る事を知る。校長先生がその係りにて余に風呂場をつくつてくれるといふ村人の好意をきく。

昭和23年(1948)9月2日の日記より 光太郎66歳

この風呂桶は現存し、平成29年(2017)、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻の湯」で展示されました。
000
ただ、薪を大量に燃やさなければならず、結局、あまり使われることはなったそうです。

今年刊行され、このブログでご紹介した書籍の書評で、新聞各紙に載ったもののうち、光太郎、光雲の名を出して下さったものをご紹介します。

まず、手前味噌で恐縮ですが、『読売新聞』さんから。

[記者が選ぶ]7月25日 遺稿「デクノバウ」と「暗愚」・追悼/回想文集 北川太一著、小山弘明・監修、曽我貢誠・構成

001 昨年1月に死去した、高村光太郎研究の第一人者である著者の遺稿が中心の本。著者は、光太郎が宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」に遭遇してから、一連の詩「暗愚小伝」を生み出すに至るまでのエピソードを紹介した上で、前者について、「反語詩」として読むべきではないかという大胆な解釈を述べる。また、前者後者ともに対象は自身ではなく、人間そのものだったという見解も示す。
 70年にわたり、光太郎と賢治を詳細に調べてきた著者の思いが伝わる。著者ゆかりの人々の追悼、回想文も収められている。(文治堂書店、1650円)

当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』

『毎日新聞』さん及び系列の地方紙さんで、いち早く
書評を出して頂きましたが、『読売』さんでもご紹介下さいました。

続いて、『産経新聞』さん。筑摩書房さん刊行の『日本回帰と文化人─昭和戦前期の理想と悲劇』について。

『日本回帰と文化人 昭和戦前期の理想と悲劇』長山靖生著 「危険思想」に至る必然性

002 自国に愛着をもつのは当たり前のことではない。改正教育基本法に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とわざわざ書き込まれたのも、放っておいても涵養(かんよう)されるものではないからだ。この自国への愛着のもち方について、若い世代や学校教育に物足りなさを感じる読者も少なくないだろう。
 けれども、愛着のような穏やかで自足的な肯定感情は、豊かで平和な時代にのみ訪れる僥倖(ぎょうこう)なのかもしれない。本書を読むと、国がまだ貧しく欧米列強の脅威と人種差別に対峙(たいじ)していた明治から昭和戦前期にかけて、自国への想(おも)いはもっと複雑に屈折した「痛み」に近い感情に支えられていたことが分かる。
 封建遺制を切り捨てて西洋文化を貪欲に摂取することで近代化を実現した日本にとって、アイデンティティー不安は宿痾(しゅくあ)だった。その症状は、高等教育まで受けて輸入文物で教養を身に付けた文化人に深刻かつ多種多様な形であらわれる。日本回帰とは症候群の名称である。
 日本回帰は明治からさまざまに反復されてきたが、昭和期の戦時体制に棹(さお)さす役割を果たしたことから、思想的に危険な落とし穴とみなされるようになった。しかしそれを一方的に断罪するだけでは、近代日本の宿痾は放置されたままだ。著者は文化人の日本回帰を「私たちの問題」として引き受ける。
 日本浪曼(ろうまん)派の保田与重郎が体現した根源的な敗北の美学にも、新感覚派の横光利一や中河与一が時代との思想的格闘の末にたどり着いた日本主義にも、それぞれに「痛み」をともなう必然性があった。さらに北原白秋や萩原朔太郎、三好達治、高村光太郎らが戦争賛美の詩を量産したのも、共感力が異常に高い詩人が国民とともにあろうとした必然的な帰結なのだ。
 筆者は文学表現としての日本回帰を受け入れたうえで「政治的社会的判断を曇らせない賢明さ」を持つべきだという。この賢明さは政治指導者には不可欠だろう。昭和の戦争が経済的・軍事的な合理性を逸脱した文学的な戦争だったとしても、その責任は文学にはない。現代の政治も合理性のなさを文学表現で糊塗(こと)してはいないか。これもまた「私たちの問題」だ。(筑摩選書・1870円)

同紙に掲載されたにしては、それほど偏っていない論調です。光太郎の時代の「日本回帰」が「必然的な帰結」とするのを肯んずるには吝かではありませんが、「なのだ」ではなく「なのだった」であるべきですね。現代に於いての、歪んだ「日本回帰」を許してはいけないと思います。

さらに『東京新聞』さん。祥伝社さん刊行の小説『博覧男爵』が扱われていました。

博覧男爵 志川節子著 ◆世界目指した「博物館の父」 [評]和田博文(東京女子大副学長)

000 ペリーの黒船が浦賀に来航したのは一八五三年。上野の動物園の開園は八二年。幕末から明治初期の三十年間は、激動の時代だった。修好通商条約、尊王攘夷(じょうい)、明治維新、戊辰戦争、西南戦争などの政治史や外交史は、本書では後景に退けられる。その代わりに前景化されるのは、「博物館の父」と呼ばれた田中芳男の歩みである。
 飯田城下近くの村の、ゆかりある屋敷の天井に掲げられていた五大州・五大洋の世界地図は、田中が目指すべき場所という、象徴的な意味を担っていた。名古屋に赴いて伊藤圭介門下となり蘭学や本草学と向き合う。江戸では蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に出仕するが、時代は蘭語から英語に移ろうとしていた。身体の移動は、田中をより広い世界へ誘っていく。
 六七年のパリ万博で出品するため、田中は伊豆などで虫捕りをした。それは単なる昆虫採集ではない。洋書から知識を得るだけの一方通行が、異文化間の交流へと変化する。大河ドラマの主人公、渋沢栄一が加わった使節団の一員として渡仏。航路の寄港地では、植民地の現実を目の当たりにした。都市改造中のパリで、田中は驚愕(きょうがく)する。展観本館は鉄骨とガラスを使用し、エレベーターまで備えていた。
 田中が最も関心を抱いたのは、ジャルダン・デ・プラント(パリ植物園)である。国立自然史博物館や動物園や植物園が、広い敷地内に併設されていた。博物という言葉は、広く物を知るという意味を含んでいる。大政奉還の翌日に帰国した田中は、博物学を基礎とする総合施設を作りたいと願う。大英博物館やサウスケンジントン博物館を目標にする、町田久成や佐野常民の考え方と、その思いは少しずつ共振していく。
 田中の伝記はすでに刊行されている。美術博物館が田中芳男展を催したこともある。しかし時代の激動を背景に、人を配置し動かすことで成立する臨場感は、小説でなければ味わえないだろう。満六歳でアメリカに留学した津田梅子や、若き日の高村光雲(光太郎の父)も、さりげなく登場する。近代誕生のドラマを実感させてくれる一冊である。
(祥伝社・1980円)

以前にも書きましたが、やはり「若き日の」渋沢栄一も、さりげなく登場しています。NHKさんの大河ドラマ「青天を衝け」を併せてご覧下さい。

最後に『中日新聞』さん。こちらは左右社さんから出た『1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄』について。

大波小波 明るさは滅びの姿

 百年前の一九二〇年代に何があったのか。和暦では大正九年から昭和四年。一八年に第一次世界大戦が終わり一転恐慌を迎えた。二三年関東大震災、二八年には関東軍による張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件、左翼への弾圧も強まる。民本主義や抒情的な大正ロマンも、昭和の幕開けと同時に暗い時代へと転換する。表面的には震災復興と近代的都市として変貌する東京、都市生活を背景とした前衛的な文化やエログロナンセンスが跋扈(ばっこ)し、文学では既成を排した前衛的なモダニズムが登場。だがその後の軍靴が確実に聞こえる時勢でもあった。
 岡本勝人(かつひと)『1920年代の東京』(左右社)が先般出た。高村光太郎、横光利一、堀辰雄らの二〇年代を照射した労作だ。コミットメントとは翼賛や異論を唱えるだけではない。意識的な無頓着という関わり方もあることを同書は示唆する。
 明から暗への転換は現代に酷似する。五輪開催強行で陽気な時代を装ってはいるが、長引くコロナの陰で庶民は泣く。三〇年代を経て戦禍の最中の四三年に出た太宰治『右大臣実朝』には、「明るさは滅びの姿であろうか」と有名な言葉が書かれる。コミットの形式を問わず、いま時代を感受する文学はどこにあるのか。二〇二一年八月に思う。

それぞれの書籍、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方七時頃になつてから福島油井村の伊藤昭氏来訪。


昭和23年(1948)8月4日の日記より 光太郎66歳

故・伊藤昭氏は昭和3年(1928)、智恵子生家にほど近い、福島県安達郡油井村(現・二本松市)の生まれ。のちに智恵子の顕彰団体「智恵子の里レモン会」を立ち上げ、初代会長を務められました。

この頃は油井村青年会の文化部長で、光太郎にぜひ油井村で講演をお願いしたい、ということで花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れました。

氏の回想から。

 高村山荘に着いたのは午後七時ころ、「君もこんな所まで、無茶な」と先生からあきれられたような言葉をいただきました。
 先生は前日の無理な作業がたたりコップに半分ほどの喀血があり、其の上面疔ができて体調をくずされており「今夜は長話ができないので明日改めて来てほしい。その後の油井村の話をぜひ聞きたい」といわれた。その夜は分教場の高橋先生のお世話になり泊めて頂き、翌日うかがうと「今日はだいぶ気分がよい」と話を切り出された。講師依頼の件は「喀血後でもあるし、ヤミ屋が乗る列車には乗りたくない」ということで達せられなかったが、長沼家没落にまつわる話、鞍石山の「樹下の二人」のエピソード、はては私達青年会への指針なども話して頂いた。
 「芸術や音楽は特定の人のものでない大衆のものである」当時始まったラジオでの教養番組のことや売り出し中だった、岡本太郎さんのことまで熱心に話されたのを今でも覚えている。


岡本太郎の父・一平は、明治38年(1905)、光太郎が再入学した東京美術学校の西洋画科で、藤田嗣治、望月桂らとともに、同級生でした。

新刊、といっても3ヶ月経ってしまいましたが……。

日本回帰と文化人─昭和戦前期の理想と悲劇

2021年4月15日 長山靖生著 筑摩書房(ちくま選書) 定価1,700円+税

西洋文化を旺盛に摂取しつつ繁栄を遂げてきた近代日本は、昭和期に入ると急速に「日本回帰」へと旋回する。そのうねりのなかで文学者や思想家たちもまた、ときにそうした運動の主導者となっていった。和辻による日本古典美の称揚、保田らの「日本浪曼派」、北原白秋や斎藤茂吉の戦争詩歌、そして三木の東亜協同体論や京都学派の「世界史の哲学」―。戦後タブー視されがちであったこれらの作品を、当時の時代状況や彼らの内的論理に注目しつつ読み解き、「日本的なもの」の核心に迫る意欲作。
001
目次
 はじめに――危機の時代における心理と思考002
 第一章 西洋憧憬と日本への思慕
  欧化への抵抗――佐田介石の内外対比論
  政教社の国粋主義
  陸羯南──日本主義と国民の自由
  岡倉天心──「アジアは一つ」の真意
  新渡戸稲造──『武士道』の日本人
  国家社会主義という第三の道
  水戸学、ファシズム、皇国史観──錯綜する国家観
 第二章 文学者たちの「日本回帰」
  プロレタリア文学から文芸復興へ
  保田与重郎と「日本浪曼派」──敗北の美学
  永井荷風──無関心という抵抗
  谷崎潤一郎──政府に睨まれた日本礼賛
  堀辰雄──柔和で毅然とした抵抗精神
  横光利一──反転する西洋憧憬
  太宰治──アイロニーが世界を包むとき
  坂口安吾──日本文化称揚の欺瞞性
 第三章 戦意高揚する詩人たち
  近代詩歌と軍歌──日本軍歌の哀調
  日清戦争──与謝野鉄幹、正岡子規
  日露戦争の記憶──夏目漱石、森鷗外、与謝野夫妻
  北原白秋──南蛮趣味から戦争礼賛へ003
  萩原朔太郎──故郷との和解を夢見て
  三好達治──死にゆく同胞への供物
  高村光太郎──軍神を讃えねばならぬ
  折口信夫、斎藤茂吉──国亡ぶを歌う
 第四章 日本文化観の模索
  国策としての「国民精神文化」
  和辻哲郎──世界文化史への架橋
  大川周明──アジア主義のジレンマ
  中河与一──モダニズムから第三世界共闘ロマンへ
  九鬼周造──「いき」という諦念
  阿部次郎──人格主義から見た日本文化
 第五章 日本精神と変質する科学主義
  イデオロギーとしての日本精神
  進化論と優生思想──加藤弘之、丘浅次郎、永井潜
  愛国化する「科学」──中山忠直の日本学
  生気説への接近──小酒井光次と哲学者たち
  有機体としての国家──西田幾多郎の「安心」
 第六章 大東亜戦争は王道楽土の夢を見るか
  西田幾多郎──修正案としての「世界新秩序の原理」
  田辺元──飛躍的想像力と国家構想
  三木清──回避努力と妥協的協力
  京都学派──「近代の超克」と「世界史的立場」
 終章 それぞれの戦後
  死んだ者、生き残った者
  三木清の戦後獄中死
  占領期検閲と横光利一
  東京裁判を免訴された大川周明
  「日本の悲劇」を課題化した和辻哲郎
  亀井勝一郎が戦後改稿に込めた思い
  保田与重郎の孤独、中河与一の硬直
  「近代の超克」の清算としての『本居宣長』
 あとがき
 主要参考文献
 人名索引

著者の長山氏、「なぜ日本は、幕末維新の危機を乗り越えて曲がりなりにも近代化を成功させたにもかかわらず、昭和十六(一九四一)年に無謀な戦争へと突入していったのか」という命題を解決するべく、当時の文化人達の様相を列伝体的に展開していきます。

従って、光太郎に直接触れている部分はあまり多くない(上記目次の色を変えた部分)のですが、幕末から明治、大正を経て、十五年戦争という「流れ」の中で捉えることによって、その立ち位置がより明瞭にされている部分があるかな、という感じでした。

そして「以前から日本国内に積みあがっていた近代的発展の矛盾の飽和の現れ」として、太平洋戦争を定義し、「閉塞状況に置かれた人間は変化を希求」、「国家に奉仕する勤労の連帯や融和や等質性が「日本的」なものとして称揚される」というわけで、文学者達は「それぞれに自分が得意とする手法で、時代の要請に合った物語を、自己のアイデンティティを投影しながら描いてみせた」としています。

光太郎に関しては、まず、「第三章 戦意高揚する詩人たち」で、戦時中の翼賛詩を引きつつ、次のように評しています。

痛ましいばかりの体制協力ぶりだが、それでも高村光太郎は品性を重んじ、詩文の美を湛えている。彼の目には死地に赴く人々の決意、虜囚の辱めを受けずに自決して果てる人々の姿勢は、とても高潔なものと映っていたのだろう。おそらくそれは正直な感慨だったのだと思う。戦地に赴いて死んでいった人々を、どうして無駄死になどと言えるだろうか。讃えねばならぬ。彼等の尊厳を守るために、彼らを讃えねばならぬ……。

当方の手元に、光太郎のそれを含む、多数の詩人達による翼賛詩を集めたアンソロジーが30冊ばかりあります。それらを繙くと、確かに相対的評価として、光太郎詩は他の詩人の作と較べて「詩文の美を湛えている」部分が多く見受けられます。しかし、やはり相対的に、光太郎自身が他の時期に書いた詩と比較した場合、一度は捨てた文語に戻り(それも虚仮威し的な漢文訓読調)、結局は異口同音の繰り返しに堕しているなど、高い評価は与えられません。この時期の詩こそ光太郎詩の真髄だと、涙を流してありがたがる愚物が居て閉口しているのですが……。

戦地に赴いて死んでいった人々を、どうして無駄死になどと言えるだろうか。讃えねばならぬ。彼等の尊厳を守るために、彼らを讃えねばならぬ……。」という考え、それはそれで正しいのかも知れません。ですが、前途有為な多くの若者を死地に送り出す状況を作りだした軍部や政府、そしてそれを肯んじる国全体の風潮への批判が無くなれば、危険な思想と言わざるを得ないと思います。

000さらに、「終章 それぞれの戦後」中の「死んだ者、生き残った者」という項で、昭和22年(1947)の連作詩「暗愚小伝」構想中に生まれ、結局、自らボツにした「わが詩をよみて人死に就けり」が紹介されています。

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

長山氏、「そうした後悔慚愧の想いもまた、詩になってしまうのが詩人の業というものだった」と評しています。言い得て妙、ですね。

それにしても、この章では、他の文学者達の「戦後」についていろいろ紹介されていますが、とんでもない輩がずいぶんいたのがよく分かります。終戦と共に突然「民主主義者」に180度ころっと変わった者、変わる事を良しとせず、しかし頑なに翼賛思想に拘り続けた者、そして何も出来ずにポンコツになった者……。そう考えると、岩手の山村に7年間もの蟄居生活を自らに強いた光太郎、やはり偉かったと言わざるを得ないような気がするのですが、身贔屓が過ぎるでしょうか。

ところで、残念ながら、事実誤認もありました。谷崎潤一郎や堀辰雄を「戦時下でも翼賛活動をしなかった」としている点です。

谷崎は、昭和17年(1942)に開催された「大東亜文学者大会」で、がっつり「閉会の辞」を述べていますし、堀も同年に展開された「愛国百人一首」運動で、揮毫の筆をふるっています。まぁ、確かに両者とも、光太郎ほどには積極的な翼賛協力はしなかったのでしょうが……。

明日は広島原爆投下の日、9日は同じく長崎、そして15日は終戦記念日。戦後76年ですね。「国家に奉仕する勤労の連帯や融和や等質性が「日本的」なものとして称揚される」ことのないよう、歴史に学びたいと存じます。

【折々のことば・光太郎】001

朝九時過池田克己氏、八森虎太郎氏同道、再び来訪。一昨夜大沢温泉に一泊、昨夜は花巻に宿泊の由。昨日宮沢家にゆかれし由。 中食を此処でくふ。余も飯盒飯ののこり。 午后ライカによる撮影いろいろ。室内やら畑でやら。

昭和23年(1948)6月30日の日記より
 光太郎66歳

池田克己は、この年、高見順、菊岡久利らと詩誌『日本未来派』を創刊しました。早くから光太郎を敬愛し、昭和19年(1944)に刊行された池田の詩集『上海雑草原』では光太郎に序文を依頼しています。

「ライカ」云々は、翌年の『小説新潮』グラビアに載った、池田撮影の光太郎ポートレートに関わると思われます。

その後、池田は昭和28年(1953)、数え42歳で急逝。光太郎は弔電に「ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト」(我が山に ライカを持ちて いち早く 訪ね来し彼と 語ることごと)の短歌をしたためました。

当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』の書評が、『毎日新聞』さん及び系列の地方紙に掲載されました。

『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」』=北川太一・著、小山弘明ほか監修 (文治堂書店・1650円)

000 北川太一は1925年生まれ。長く高校の定時制教員を務める傍ら、高村光太郎(1883~1956年)の全集編纂(へんさん)、研究、顕彰に努めた。旧制東京府立化学工業学校で同学年だった吉本隆明が評論『高村光太郎』(決定版、66年)で北川への信頼、畏敬(いけい)を記すなど、知る人ぞ知る存在である。2020年1月に94歳で没した。死の前年に書かれた遺稿に親交のあった人々の文章を加え、「追悼/回想文集」を兼ねる。
 遺稿の表題は、宮沢賢治(1896~1933年)の「雨ニモマケズ」中にある「デクノボー(木偶の坊)」と、光太郎が戦後に書いた詩「暗愚小伝」の「暗愚」を指す。どちらも複雑な自己規定を語る言葉だが、北川はこれらをキーワードとして両者の関わりを掘り下げている。
 光太郎が早くから賢治を高く評価したことは知られているが、著者は、ほぼすれ違いに終わった二人の交渉、戦後の光太郎が賢治とのゆかりで岩手県花巻近郊に送った流謫(るたく)の過程を丹念にたどる。その上で「雨ニモマケズ」の「反語」性という大胆な仮説を提示しつつ、デクノボーから暗愚への一筋の連なりを見いだす。生の意味を問う魂の軌跡。


「監修」を頼まれ、まぁ、結局、集まった原稿(原稿の選定は版元の文治堂書店さん)に、おかしなところはないかのチェックをし、手直し。さらに30ページほどで解説のような文章「「没我利他」の系譜 賢治・光太郎、そして北川太一」を書かせていただきました。

最も悩んだのは、タイトルの「デクノバウ」。

元々、賢治が昭和6年(1931)、手帳に記した段階では「デクノボー」となっていました。
001
ではなぜ、北川先生が「デクノバウ」としたのかというと、光太郎が、賢治没後の昭和13年(1938)に、雑誌『婦人之友』に発表した散文「宮沢賢治の詩」で、「デクノバウ」と表記しているためです。

光太郎は、

此の詩人の死後、小さな古い手帖の中に書き残された言葉があつた。その人となりを知るに最も好適なので此処に採録して置く。

とし、この後、「雨ニモマケズ」全文を記しています。その中で、該当箇所が「デクノバウ」となっているのです。光太郎、この時、手帳そのものを見ながら筆写したわけではなく、既に活字になっていたものから引き写したと思われます。ちなみに歴史的仮名遣いでは「木偶の坊」は確かに「デクノバウ」となります。おそらく賢治は「木偶の坊」という漢字表記を思い浮かべることなく、発音通りに「デクノボー」と書いたのではないでしょうか。

そして北川先生も、光太郎の「宮沢賢治の詩」を最初に引いていらして、そのため、「デクノバウ」とされているのです。

そこで、賢治が書いた通りに「デクノボー」と直すか、正しい表記の「デクノバウ」で行くか悩んだのですが、結局は「デクノバウ」のままとしました。

まだそう言う声は聞こえてこないのですが、もし、「賢治は「デクノボー」と書いてるぞ、「デクノバウ」とはなんだ、けしからぁん」的なご意見がありましたら、そういう経緯で「デクノバウ」としていますので、よろしくお願いします。はっきり言うと、コアな賢治ファンの中には、狂信的ともいえる人が少なくなく、すみませんが、辟易することがあります。

さて、『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』、ぜひお買い求め下さい。また、他の書評欄等でもぜひ紹介していただきたいものだと存じます。

【折々のことば・光太郎】

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳新らし。 入浴、抹茶、夕飯後又抹茶、甚だ快適なり。入浴客も少し。


昭和23年(1948)5月11日の日記より 光太郎66歳

この時期、たてつづけに三回、花巻南温泉峡・鉛温泉さんに宿泊しています。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、4㌔㍍ほど歩いて、当時走っていた花巻電鉄の二ツ堰駅まで行けば、意外と楽に行けたことも大きかったでしょう。

三十一号室」は現存し、当方も一度、泊めていただきました。

7月17日(土)の『朝日新聞』さんの読書面。劇作家・平田オリザ氏による連載「古典百名山+plus 平田オリザが読む」で、光太郎の『智恵子抄』を取り上げて下さいました。

古典百名山+plus 平田オリザが読む:105 高村光太郎『智恵子抄』 妻亡き後の絶望と諦念

006 晩年の代表作『典型』の名の通り、高村光太郎は、まさに近代日本のある種の典型のような人物だった。
 上野の西郷像を作った高村光雲を父にもち、若くから将来を嘱望され一九○六年、二三歳で渡米、三年間を米国、欧州で過ごす。帰国後は日本社会や日本の美術界の閉鎖性に反感を持ち、放蕩(ほうとう)の生活を送る。しかし三一歳で長沼智恵子と結婚、これを機に生活も健全なものとなり、同年、詩集『道程』を発表して一躍文壇に名前をはせた。その後の二十数年は、本業の彫塑(ちょうそ)を中心に活動する。
 智恵子の死の三年後の一九四一年『智恵子抄』を刊行、ベストセラーとなる。一方、心の空白を埋めるかのように国粋主義、戦争賛美の詩を書き始めた。さらに戦後は、敬愛した宮沢賢治の故郷花巻に蟄居(ちっきょ)し、悔恨と反省の詩を書き続ける。
007 二一世紀を生きる私たちが、高村の変遷を「西洋かぶれが急にネトウヨになった」と笑うことはたやすい。しかし彼の生涯はまさに、十九世紀末に産声を上げた近代日本が歩んできた道程そのままではないか。あるいは、近代日本文学の変遷そのままと言っても過言ではない。
 若くして海外を見た高村にとって、西洋は巨大な壁であった。パリのノートルダム大聖堂の荘厳さと、自分の小ささを描いた長編詩「雨にうたるるカテドラル」を発表したのは、帰国から十年以上経った一九二一年。第一次世界大戦が終わり、日本全体が大国の仲間入りをしたと浮かれていた時代である。
 「智恵子は見えないものを見、聞(きこ)えないものを聞く」(「値〈あ〉ひがたき智恵子」より)
 高村は、あくまで理性の人であった。彼は自分が宮沢賢治にはなれないことを自覚していたし、まして精神を病んだ智恵子のようになれないことも分かっていた。『智恵子抄』が美しいのは、その絶望が全編を貫いているからだ。しかしその絶望と諦念(ていねん)は半面、彼を戦争詩へと向かわせた。人間はかくも弱い。

平田氏、光太郎を主人公とした演劇「暗愚小伝」(昭和59年=1984)を書かれ、最近ですと平成26年(2014)から翌年にかけ、再演されました。また、平成30年(2018)に上演された「日本文学盛衰史」にも光太郎を登場させています。

氏の御祖父は、詩人の平田内蔵吉(明治34年=1901~昭和20年=1945)。光太郎とも面識はあったのではないかと思われます。『高村光太郎全集』に、内蔵吉の名は一度だけ出て来ます。昭和20年(1945)7月16日、疎開先の花巻宮沢邸から、やはり詩人の小森盛に送った葉書に、「倉橋さんの轢死とか、照井さんの爆死とか、平田内蔵吉さんの玉砕とか、さういふ事が平時の事となつて来ました」とあります。

倉橋さん」は詩人の倉橋弥一。昭和20年(1945)6月、酒に酔って電車に轢かれて亡くなりました。「照井さん」は照井瓔三(栄三)。声楽家・朗読家で、ラジオで光太郎詩の朗読にもあたりました。やはり昭和20年(1945)、5月の空襲により、東京で亡くなっています。そして「平田内蔵吉さんの玉砕」。内蔵吉は沖縄戦線に投入されていました。

光太郎も4月に駒込林町のアトリエ兼住居を焼かれ、命の危険にさらされました。友人知己が次々と不慮の死を遂げる中で、花巻とても安全ではなく、実際、翌月には花巻空襲で宮沢家も全焼。光太郎、再び命からがらの目に遭います。

そうした光太郎の、『智恵子抄』をめぐる精神史。「まさに近代日本のある種の典型のような人物」、「彼の生涯はまさに、十九世紀末に産声を上げた近代日本が歩んできた道程そのまま」というオリザ氏の評。うなずけますね。明治末には、西洋近代思潮の洗礼を受け、大正末から昭和初期にはプロレタリア文学やアナーキズムに近い位置に身を置き、しかし、戦時には一転して日本回帰。戦後はそれに対する悔恨と反省……。多くの日本人の辿った途を、極端に体現したのが光太郎、というわけです。

その背景に、愛妻・智恵子。智恵子と共に手を携え、芸術三昧の道を歩こうとしたものの、その智恵子は志半ばで心を病み、逝ってしまいました。その空虚感にするりと入り込んだ翼賛思想。あるいは、自らの芸術精進の姿勢が、智恵子を追い詰めたという認識から、積極的に真逆の道を歩ませたのかもしれません。

人間はかくも弱い」。刺さる一言ですね。

【折々のことば・光太郎】

午后三時頃開墾の方より前の畑を斜に横切りて、狐らしきもの黒き餌を口にくはへて山の方へ走りゆくを見る。金茶色、尾長くひく。セッター位の大きさにて甚だ派手なり。


昭和23年(1948)5月7日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、現代でも、キツネが闊歩しているそうです。

頼んでおいた新刊が届きました。

1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄

2021年6月30日 岡本勝人著 左右社 定価2,400円+税

関東大震災に揺られる日本の〈世紀末〉を文学者たちはどう生きたのか?

やがて来る時局に絡められつつある高村光太郎、モダニズムの隘路に囚われゆく横光利一、原日本を求め危うい道を行く堀辰雄――。

モダニズムからダダイズム、シュルレアリスムまでヨーロッパ文化が怒涛のようにもたらされ、渦巻いた1920年代。
高村光太郎・横光利一・堀辰雄・中原中也・小林秀雄・西脇順三郎・瀧口修造・中川一政・古賀春江・芥川龍之介・谷崎潤一郎・萩原朔太郎・宮沢賢治ら、あまたの作家たち、詩人たちがそれぞれの青春を生きていた帝都東京を、1923年9月1日、関東大震災が襲う──。転換する時代と文学者の運命を描く力作。
001
目次
はじめに
Ⅰ 一九二〇年代とはいかなる時代か
 1大正の大震災 2モダニズムのあけぼの 3四季』と新しい文学運動 
 4中原中也と小林秀雄
Ⅱ 大震災と改元
 1関東大震災 2中川一政と古賀春江 3大正文学考 4震災からの復興
 5「昭和」への改元 6大正から昭和へ続くもの 7堀辰雄と軽井沢
 8一九二〇年代東京 
Ⅲ 芥川龍之介と谷崎潤一郎の震災余燼

 1「パンの会」と一九二〇年代 2谷崎潤一郎の文体
 3「パンの会」と谷崎、そして佐藤春夫
 4佐藤春夫の『我が一九二二年 詩文集』、「秋刀魚(さんま)の歌」
 5近代詩の成熟 6一九二〇年代の地方出身者と東京 7草野心平と高橋信吉 
Ⅳ 高村光太郎の造形芸術
 1新帰朝者としての光太郎 2
一九二〇年代の光太郎 3光太郎と智恵子
 4光太郎の戦後へ
 5高村光太郎の芸術の総体 6戦後の「典型」
Ⅴ 横光利一のモダニズム
 1横光利一とその出発 2上海 3横光利一の詩と散文 4横光利一と北川冬彦、宮沢賢治 
 5横光利一の悲劇とその解読
Ⅵ 堀辰雄の文学空間
 1一九二〇年代の堀辰雄 2
軽井沢「美しい村・風立ちぬ」と堀辰雄 
 3堀辰雄の『幼年時代』と下町 4カロッサとリルケ 5再び堀辰雄の下町
 6堀辰雄をめぐる文学風景 7堀辰雄の
フローラ 8日本的深化と大和路の旅
 9堀辰雄の表現主義
Ⅶ 萩原朔太郎と宮沢賢治の東京志向
 1一九二〇年代と現在 2萩原朔太郎の彼方へ 3朔太郎の移動
 4宮沢賢治の移動の時代とオノマトペ 5自然災害と仏教思想
 6朔太郎と賢治、ふたりの「世紀末」 7「有」の詩人と「
」の詩人 
 8「垂直性」と「水平性」
Ⅷ 一九二〇年代という世紀末
 1混沌とする文化状況のなかで 2歴史と文学 3パウンドとフェノロサ
 4一九二〇年代という世紀末
おわりに

著者の岡本勝人氏は、『週刊読書人』さんで40年間書評を担当なさっていたそうで、そうしたご経験に基づく幅広い視点から論が展開されているように思われました。

「世紀末」とありますが、19世紀、20世紀といった括りでの「世紀末」では当然なく、明治から十五年戦争へと移りゆく過渡期としての「世紀末」という設定です。

一九二〇年代に端を発するヨーロッパ・モダニズムや社会主義思想の受け入れには、同時代的な受容もあれば、時間的な遅延を伴う受容もあり、日本的偏差を踏まえた選択的受容もあったであろう。加えて日本では、関東大震災という文明史的な歴史の断層があった。(略)一九三〇年代から四〇年代については、日本ファシズムに収斂していく政治と文学の暗い狭間の光景として、比較的多くの人によって語られてきた。あまり語られることのなかった一九二〇年代は、明治憲法下という限界を蔵しながらも、大正期に発生した自由な文化の萌芽の一面を見事なまでに垣間見せてくれる。百年後の今日からみたとき、この時代がどのような絵像を結ぶか、本書で検証してみたい。(はじめに)

一九三〇年代という時代は、かつて十五年戦争といわれた戦時期に直接的につながり、全体として、反省的に論ぜられることが多かった。しかし一九二〇年代は、未熟ではあるが、大正と昭和期にまたがる生成の途上の時代として、現代がもう一度その歴史から学びなおすことのできる問題点と経験知を内蔵する時代である。(萩原朔太郎と宮沢賢治の東京志向)

取り上げられている各文学者の「一九二〇年代」を中心に、それまでの過程、そこかで培われたものがその後にどういう影響を及ぼしたかなどが、幅広く論じられています。

光太郎についても、同様です。光太郎にとっての「一九二〇年代」は、智恵子との同棲生活が比較的安定し、関東大震災を契機に再び始めた木彫が世に受け入れられ、詩の分野でも、「雨にうたるるカテドラル」などの力強い作品を発表していた時期でした。そこに到るまでの明治末の欧米留学や、帰朝後のパンの会、フユウザン会などでの活動や智恵子との邂逅、一九三〇年代以降の翼賛活動や、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活等までを俯瞰しています。太田村で書かれた、自らの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の詩篇が効果的に引用され、章全体で、簡略な光太郎評伝とも成っています。

また、目次からも類推できると存じますが、他の作家の項にも、たびたび光太郎が登場しますし、光太郎と交流の深かった面々についても興味深く拝読しました。

ただ、蛇足ながら、光太郎の書き下ろし評伝『ロダン』(昭和2年=1927)を「翻訳」とするなどの事実誤認や、誤字(上記帯文の「絡め」も「搦め」ですね)等が多いのが残念です。また「参考文献」の項が一切無いのですが、どうも『高村光太郎全集』も、全21巻+別巻1の増補改訂版でなく、全18巻の旧版を使われているようで……。

そうした点は目をつぶるとして、労作、好著です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

朝はれる。 十時頃までねてゐる。 セキまだ出る。 冬三ヶ月間の温泉泊りをしきりに考へる。

昭和23年(1948)3月17日の日記より 光太郎66歳

セキ」は宿痾の肺結核によるもので、前後には血痰に関する記述もあります。「冬三ヶ月間の温泉泊り」は、これも前後の記述から、大沢温泉さんの湯治部や、花巻温泉さんに当時あった、コテージ的な貸別荘などを想定していたことがわかります。確かに農閑期でもある厳冬には、電線も引かれていない山小屋にこだわる必要性もあまりなかったわけで、弱気になることもありました。しかし、結局は、この山小屋で丸7年を過ごすことになります。

過日ご紹介した日本初の女性だけによる雑誌『青鞜』を創刊し、その創刊号の表紙絵日本女子大学校でのテニス仲間だった智恵子に依頼した平塚らいてうの日記について、共同通信さんの配信記事。3日ほど前、複数の地方紙等に掲載されたようです。光太郎智恵子にも軽く触れて下さいました。

元祖「#わきまえない女」、その意外な素顔とは 平塚らいてう没後半世紀、遺族が日記公開

003 女性だけの手による日本初の文芸誌の創刊、大正時代に事実婚、与謝野晶子と母子の権利について論争を繰り広げ、戦後は米国政府幹部に直談判…。すべて、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)が実際に行ったことだ。中でも女性蔑視とは生涯闘い続けた元祖「#わきまえない女」は、5月で没後半世紀を迎えた。偏見やバッシングをものともせず、信念を貫く姿は、現代の私たちにとっても示唆に富む。最近公開された未公開日記とともに、歩みをたどった。遺族が語る彼女の素顔は、一般に思い描くイメージとは異なっていた。

▽授業ボイコット
 1886年、教育熱心な両親の元、東京で生まれた。東京女子高等師範学校付属高等女学校時代は、良妻賢母主義の教育に不満を持ち、級友と「海賊組」を結成。修身(道徳)の授業をボイコットしたこともあった。その後、17歳で日本女子大学校に進学。同窓生には、後に夫、高村光太郎の詩集「智恵子抄」で知られる長沼(高村)智恵子らがいた。
 英語や漢文、文学に関心を持つ勉強熱心な若者だったが、22歳の時に心中未遂騒動「塩原事件」を起こし、一躍有名になる。参加していた文学研究会の講師で、夏目漱石の弟子だった森田草平と家出し、栃木・那須の雪山にいたところを警察に保護されたのだ。スキャンダルとして大きく報じられ、バッシングにさらされた。
 1911年、女性だけの手による月刊の文芸誌「青鞜」を創刊し、家父長制など女性を抑圧する制度に抵抗した。創刊の辞「元始、女性は太陽であった」には同世代の多くの女性から共感の声が寄せられた。ペンネーム「らいてう」を初めて使ったのもこの時。塩原事件の後、一時、傷心の時を過ごした長野県で親しみ、心引かれた鳥の「雷鳥」から名付けた。
 パートナーは5歳年下の画家、奥村博史で、14年に「共同生活」を公表した。古い封建的な結婚制度への反発から、入籍はせず、二児をもうけた。奥村は病弱で絵はあまり売れず、家計は、らいてうの原稿収入頼み。経済的な苦労は多かった。この頃、出産、育児への国の支援の在り方について、与謝野晶子らと激しい「母性保護論争」を繰り広げた。
 「経済力を得るまでは妊娠、出産を避けるべきで、母子への特別な支援は不要」とする与謝野に対し、らいてうは「安心して産み育てるため、国に支援を求めるのは当然」と反論した。論争は「どちらの意見も大切で、対立する必要は無い」と一段落したが、らいてうにとっては、女性をめぐる社会問題に改めて向き合うきっかけになった。
 20年には市川房枝らと女性の地位向上を目指す「新婦人協会」を設立し、婦人参政権運動を展開する。戦後は平和運動にも力を注いだ。国際民主婦人連盟の副会長も引き受け、国内外に原水爆禁止や軍縮を訴えた。71年5月24日、85歳で死去した。

004▽孫が見たらいてう
 一方、肉親から見たその姿は、世間一般の「らいてう」像とはだいぶ異なる。孫の奥村直史さん(76)=東京都=は13歳まで同居し、らいてうが亡くなるまで交流があった。「身長は約145センチで同世代と比べても小柄。声は小さく内向的で言葉少ない人だった」と振り返る。奥村さんは、孫の視点から長年らいてうを研究し、5月には「平塚らいてう その思想と孫から見た素顔」(平凡社)を出版した。
 忘れられないのは、戦後、奥村さんが小学生だったころの出来事だ。板と輪ゴムで手作りしたゴム鉄砲を家の応接間に置きっ放しにしていたところ、「こんなもの置いちゃだめ。私が嫌いなものなんだから」とひどいけんまくで怒られた。「感情を強く表に出す人ではなかったから、すごく驚いた。当時は武器や軍備について、相当、過敏になっていた。孫がそうしたものに興味を持つことが納得いかなかったのではないか」
 「『女性も主体的な存在』と主張し続け、押しつけられるのを何より嫌がった。もし、らいてうが今の時代に生きていたら、東京五輪・パラリンピック組織委員会会長だった森喜朗氏の発言についても、『明治、大正の時代から何も変わってない。困ったわね』とあきれ返ったと思う」

005▽目線は世界に
 戦後、平和問題に尽力したらいてう。先日、その思いがにじむ自筆の日記が初公開された。プライベートな記載も含まれている、との理由で長年、遺族が保管したままになっていたが、孫の奥村さんの代になり、「らいてうの生涯をたどる上で貴重な資料」との思いから、公開を決めた。
 日記は48~50年の日付で小ぶりのノートに手書きで書かれていた。日々の行動記録や暮らしの様子を淡々と記す中、50年4月13日には「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思ひ悩む」との記載があった。
 当時、日本は連合国軍占領下。講和条約締結に向けて再軍備も議論されていたため、戦争反対の声を上げる必要性を感じていたとみられる。
 居ても立ってもいられなくなったらいてうは、知人の女性らに呼びかけ、同年6月26日、来日中の米国国務省顧問ダレスに「夫や息子を戦場に送り出すことを拒否する」などとする声明「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」を連名で提出。当時、公職追放中だった市川房枝も全面的に協力した。
006 日記を解読した女性史研究者でNPO法人「平塚らいてうの会」会長の米田佐代子さんは、「らいてうの平和活動については『既存の政治勢力に同調した』との見方もあるが、政治的な対立に巻き込まれることなく、自ら考え、中立な立場で訴えようとしたことが日記から裏付けられた」と意義を強調する。
 声明公表日には「日本女性の意思表示を何としてもすべきだと思ひ、政治色なき何名かの婦人の賛助を得て」との記載もあった。
 日記の一部の複製は、長野県上田市にある資料館「らいてうの家」で今年10月下旬まで公開中だ。孫の奥村さんは「家に閉じこもりながらも、目線は世界に開いていた。日記を通じて、らいてうの生き方や平和への思いに関心を寄せてもらえたら」と願っている。

007当方もそう感じてこのブログに書きましたが、やはり「元祖「#わきまえない女」」ということで。そもそも、『青鞜』という雑誌名自体が、18世紀、イギリスのエリザベス・モンタギューのサロンに集まり、芸術や科学を自由に論じた女性たちが、一般的な黒いストッキングではなく、青いストッキングを穿いて「ブルー・ストッキング・ソサエティ」として世間を挑発したことに由来します(そちらが「元祖#わきまえない女」のような気もしますが)。そのエピソードが日本に紹介された当初は「紺足袋党」などと訳されていました。『青鞜』の「鞜」の字義は、厳密には「ストッキング」ではなく「くつ」なのですが、何しろ明治末、うまい漢字の当て方がなかったのでしょう。雑誌名が『青鞜』ではなく『紺足袋』にならなくて良かったと思います(笑)。

ちなみに現在のNPB北海道日本ハムファイターズさん。球団史をさかのぼると、戦後すぐ創設された球団「セネタース」に行きつきます。このセネタース、ユニフォームが青色だ008ったため、正式名称ではありませんが「青鞜セネタース」「青鞜軍」と表記される場合があったとのこと。ジャイアンツのみ現在でも「東京読売巨人軍」ですが、タイガースが「猛虎軍」、他にも「西鉄軍」、「金鯱軍」などの球団名があったそうです。「猛虎」対「青鞜」、どう考えても「猛虎」が勝つような気がします(笑)。しかし「セネタース」、かの青バットの大下弘選手が所属しており、決して弱小球団ではなかったようです。

閑話休題。らいてう没後50年のこの2021年、「#元祖わきまえない女」としての業績の数々、さらに注目されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

終日くもり、時々小雪。昨夜の積雪のとけざる上にふる。恐らく根雪とならん。

昭和22年(1947)12月3日の日記より 光太郎65歳

「根雪」。温暖な房総に暮らしている身には、無縁の単語です(笑)。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さん。そのPR誌的な『トンボ』の第12号が届きました。
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当方の連載「連翹忌通信」が掲載されています。

そうそうネタがあるわけでもなく、これまでの光太郎智恵子らに関する新しい発見等で、このブログでご紹介してきたことを再編して書かせていただいております。ブログとPR誌と、どうも読者層も異なる部分があるようですので、それもありかな、と、勝手に決めております(笑)。

拙稿は、前号から継続で、光太郎塑像彫刻の代表作「手」(大正7年=1918)に関して。前号では、昨年発見しました、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に掲載された、光太郎の「手紙」という文章について。彫刻「手」制作時、リアルタイムで自作について述べた文章でした。

今号では、さらに同じく昨年、やはり「手」について書かれた、昭和2年3月1日発行の雑誌『随筆』第2巻第3号掲載の「手」という文章について書こうかとも思ったのですが、そちらは次号に回し、『白樺』での仲間だった有島武郎と「手」について書きました。有島は「手」を入手、自殺(大正12年=1923)直前にはそれをことのほか愛でていました。この「手」は、有島没後は親しかった秋田雨雀の手に渡り、さらに現在は竹橋の東京国立近代美術館さんに収められ、時折、常設展示で出ています(今日現在も)。有島と「手」について、くわしくはこちら

他に、光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息で、『とんぼ』に寄稿されたこともある、野澤俊之氏の追悼文が掲載されています。ご執筆は、野澤氏と親しかった、野澤一研究家の坂脇秀治氏です。

ご入用の方、文治堂さんのサイトまで。頒価500円だそうです。

【折々のことば・光太郎】

昨夜も雪、朝小雪時々日影さし、又吹雪のやうになる。 穴掘りむつかしく思はれるにつき阿部弘さんにハガキを書き、林檎苗移植は来年にのばしてくれるやうたのむ。

昭和22年(1947)11月27日の日記より 光太郎65歳

「阿部弘」は「阿部博」の誤りです。阿部は宮沢賢治の教え子で、花巻での林檎栽培普及に大きく貢献た人物です。光太郎の山小屋前に、林檎の苗を植えたらどうか、と、提言していました。

当会顧問であらせられ、昨年1月に亡くなった、故・北川太一先生最後の御著書『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』を前面に押し出すチラシが完成したそうで、版元の文治堂書店さんからメールでPDFファイルが添付されてきました。
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もう1冊、一昨年刊行の『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』も紹介されています。

裏面下部が注文用紙となっており、「郵送かFAX又は電子メールでお送り下さい。◆本ご注文用紙でご注文の場合に限り、送料弊社負担とさせていただきます。」だそうです。上記画像、プリントアウトしてお使い下さい。電子メールの場合はスキャンするなりしてくれということでしょうか。

ついでに云うなら、「◉上記①②以外の書籍をご希望の場合は下記に書籍タイトル及び注文冊数をご記入の上、お送り下さい。」とのことです。それぞれ平成27年(2015)刊行の『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』も、北川先生のご著書。この機会にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

途中紅葉の山々美し。山口山の雑木の紅葉殊にめざまし。早池峰も遠くかすんでゐる。

昭和22年(1947)11月4日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、片道4㌔㍍ほどの隣村の郵便局に歩いて行った際の記述です。「山口山」は、山小屋裏手の低山群の総称です。
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没後50年を迎えた平塚らいてう(智恵子の先輩)について、昨日のこのブログで、最近の報道、新聞複数紙の一面コラム等をご紹介しましたが、昨日、『山陽新聞』さんでも一面コラムでらいてうを取り上げました。

滴一滴

「わきまえない女」の先駆者だろう。平塚らいてうが、女性だけで作る日本初の文芸雑誌「青鞜(せいとう)」を立ち上げたのは25歳のとき。有名な創刊の辞は一晩で書き上げたものという▼〈元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依(よ)って生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼(あお)白い顔の月である〉▼110年前の明治期の終わり。控えめで自我を持たないことが女性の美徳とされた時代である。高らかに自立を呼び掛けて女性たちの共感を得たものの、猛烈な批判も浴びた。「社会の風紀を乱す」と雑誌が発禁処分になったこともある▼らいてうといえば、女性解放運動家で強い人というイメージだが、孫の奥村直史さんの著書を読むと印象が変わった。身長約145センチと小柄。物静かで、大きな声を出すのが苦手だったという▼そんな実像とは違い、残された文章はいま読んでも力強い。世の中を変えるためには沈黙していてはいけないと、声を上げる勇気を持ち続けた人なのだろう。女性参政権運動や平和運動に力を注ぎ、1971年5月24日、85歳で亡くなった。没後50年になる▼社会はどこまで変わったろうかと考えさせられる。コロナ禍で浮き彫りになったのは非正規雇用が多い女性の苦境である。沈黙していてはいけない問題が社会にはまだまだある。

当方、昨日のブログには「元祖「#わきまえない女」とでもいいましょうか」と書きましたが、やはりみなさん、同じように感じるのですね。

一面コラムといえば、遡って今月9日(「母の日」)の『毎日新聞』さん。らいてうがメインではありませんが。

余録

親しみやすいメロディーの「おたまじゃくしはカエルの子」。原曲は南北戦争の北軍愛唱歌「リパブリック賛歌」だ。「グローリー・グローリー・ハレルヤ」の歌詞に聞き覚えがある人も多いだろう。作詞した女性詩人、ジュリア・ウォード・ハウは米国で「母の日」を提唱した先駆者だ。戦争後、夫や子を二度と戦場に送らないと「母の日宣言」を発表した▲同時代に「母の日ワーククラブ」と名付けたボランティア組織で、乳児の死亡率低減や戦傷者救済に取り組んだ女性社会活動家がアン・ジャービスだ。その娘のアンナが「母の日」の創設者とされる。母の遺志を継いで政府を動かした。1914年にアンの命日(5月9日)に近い5月第2日曜が「母の日」と定められた▲イラク戦争で息子を亡くして米軍撤退を求め「反戦の母」と呼ばれたシンディ・シーハンさんは、平和を希求したハウ以来の女性の活動を「母の日の永続的な遺産」とたたえた▲日本の女性運動の草分けで、戦後は平和運動に取り組んだ平塚らいてうも「母こそ平和の力です」と訴えた。子を思う母の気持ちは世界共通だ▲だが、紛争地では今も受難が続く。軍事クーデターが起きたミャンマーでは多くの子どもが国軍の弾圧の犠牲になった。対テロ戦争の舞台となったアフガニスタンでは乳児が20人に1人の割合で命を落としている。実に日本の25倍だ▲日本は戦後、平和を享受してきた。コロナ禍の「母の日」。改めて平和の意義を考える機会にしてはどうだろう。

なるほど、という感じです。

らいてう没後50年と云えば、都内北区の田端文士村記念館さんで、以下のミニ展示が為される予定です。

平塚らいてう没後50年特別展~らいてうの軌跡~

期 日 : 2021年6月1日(火)~9月19日(日)
会 場 : 田端文士村記念館 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日と水曜日が休館)
      祝日の翌日(祝日の翌日が土・日曜日の場合は翌週火曜日が休館)
料 金 : 無料

「原始女性は実に太陽であった」という、今も語り継がれる名文を残した平塚らいてうは、本年、没後50年の節目を迎えます。本展では、らいてうが田端で過ごした時代を中心に、その社会的な活動から家庭的な一面までをご紹介します。
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同館、5月16日(日)には市民講座「平塚らいてう没後50年~青鞜から新婦人協会までの軌跡~」を予定していましたが、コロナ禍のため中止。さらに現在、緊急事態宣言発令中ということで、休館しています。一応、6月1日(火)から再開となっていますが、宣言延長の場合にどうなるかはよくわかりません。

こちらはミニ展示。メインの展示は「心豊かな田端の芸術家たち」。光太郎、光雲らと関わった面々が多く取り上げられます。こちらの紹介は明日。

【折々のことば・光太郎】

朝霜白し。今日も上天気、一片の雲をも見ず、風なく小春日和。 フトン干。オサツ干。

昭和22年(1947)11月1日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、11月ともなると霜が降りるのですね。日中はおだやかだったようですが。

「オサツ」は「お札」ではありません(笑)。サツマイモです。乾燥イモを作るため、干していたのです。サツマイモは幼少時からの大好物でした。

日本初の女性だけによる雑誌『青鞜』を創刊し、その創刊号の表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてう。智恵子と同じ日本女子大学校家政学部で一学年上、テニス仲間でもありました。

そのらいてう、昨日が忌日、しかも没後50年ということで、いろいろなところで取り上げられています。

まず『朝日新聞』さん。5月21日(金)の掲載でした。

没後50年の平塚らいてう、日記ににじむ平和への信念

 女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971)の未公開の日記が見つかり、一部を長野県上田市の資料館「らいてうの家」で公開している。女性が平和問題に積極的に声を上げるべきだ、との信念がうかがえる。24日で、らいてう没後50年となる。
 日記は48~50年の日付でノートに書かれ、らいてうの孫にあたる東京の男性が自宅で保管していた。主に文筆活動や生活についてつづられ、その一部のコピー数点を展示している。
 戦後の連合国軍占領下の50年4月13日には、「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思い悩む」と吐露。こうした意思は同年6月、女性の立場からいかなる戦争にも加担しないことを宣言した「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」の公表につながった。
 女性史研究で知られ、NPO法人「平塚らいてうの会」(東京)の米田佐代子会長(らいてうの家館長)によると、50年当時は講和条約の締結に向けて政治的な発言をする女性はほとんどいなかったという。「再軍備か非武装かの議論の分かれ道で、戦争でつらい体験をした女性こそが、戦争反対の声をあげる重要性を発信したかったのだろう。記述からは、1人でもんもんと考えていた様子が見て取れる」と読み解く。
 こうした大まかな経緯については、らいてうに関する書物で明らかになっているが、米田会長は「らいてうの直筆資料で裏付けられた意義は大きい」と指摘。7月11日に、米田会長がらいてうの家で資料の解説を予定している。
 らいてうの家は冬季閉鎖し、今年は4月24日にオープンした。毎週土、日、月曜の午前10時半~午後4時(夏季は午後5時まで)に開館。入館に500円程度の運営協力金を求めている。
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同じ件、共同通信さんは、既に先月、報じていました。

長野・上田市の記念館 らいてうの未公開日記を公開

 女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)の足跡をたどる記念館「らいてうの家」(長野県上田市)が冬季休館を終え、24日開館した。例年期間限定でオープンしている。らいてうの死去から5月で半世紀となる今年は、平和問題に対する考えをつづった未公開の日記の複製が初めて公開されており、注目を集めそうだ。 
 日記の50年4月13日の欄には「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない〇〇(判読不能)だとこの数日しきりに思ひ悩む」と、平和問題に対して女性が声を上げる必要性を記していた。
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見出しだけ読んだ時点で、「『青鞜』創刊の頃の日記で、智恵子や光太郎に言及されているといいな」と思ったのですが、残念ながら戦後のものでした。それでも一級の資料ですが。

同じ共同通信さんで「平塚らいてう、没後50年 別姓先駆者、抑圧と闘う」という記事も出ているのですが、ネット上では閲覧できませんでした。

らいてうの女性問題に関する活動等についても、いろいろと。

『高知新聞』さん一面コラム。昨日の掲載です。

小社会 110年前の主張

 平塚らいてうは明治から昭和にかけ、女性解放運動で活躍した。特に「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」の評論はよく知られる。
 明治末期の1911年、女性のための文芸誌「青鞜(せいとう)」の創刊号に発刊の辞として掲載された。「今、女性は月である。他に依(よ)って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼(あお)白い顔の月である」と続く。
 女性が男性に依存せざるを得ない、病んだ世と訴えたかったのだろう。ちょうど110年になる。成熟した国なら歴史的な主張になっていなければならないが、現実は衝撃的だ。いまの日本社会にもそのまま通用してしまう。
 世界経済フォーラムが公表する経済や教育などによる国際的な男女格差比較。日本は今春も先進国最低の120位だった。しかも、事態はより深刻になっているのではないか。コロナ禍で失業を余儀なくされた女性は男性よりもはるかに多いからだ。
 ドメスティックバイオレンス(DV)相談件数も昨年度急増し、過去最多になった。内閣府の有識者研究会は、コロナ禍で増える女性のDV被害や自殺への対策を早急に強化するよう政府に提言している。
 らいてうは主張の最後をこう締めくくった。「烈(はげ)しく欲求することは事実を産む最も確実な真原因である」。1世紀以上欲求しても遅々として改善しない格差。いま変える気がなければ、未来も変わらない教訓である。きょうはらいてうの没後50年。

『日本農業新聞』さん、同じく昨日の一面コラム。

四季 「元始、女性は太陽であった」

「元始、女性は太陽であった」と、平塚らいてうが人間としての女性の解放を唱えてから今年で110年、亡くなってからきょうで50年になる▽出産・育児を体験し「次世代を産み育てる労働には経済的裏付けがもてないという社会の現状に疑問」を抱いたと、孫の奥村直史さんが『平塚らいてう その思想と孫から見た素顔』につづる▽ これが、家庭労働に経済的価値を認め育児に国が報酬を、との主張につながった。新憲法下「育児の社会化」は進んだが、コロナ禍は子育て中の女性の雇用と収入の不安定さをあぶり出した▽農村はどうか。『農家女性の戦後史 日本農業新聞「 女の階段」の五十年』は、財布を握るしゅうとからミルク代をもらえず子どもの命を守るために「ミルク泥棒」をしたことや、臨月でも休めず稲刈りをしたその晩に出産したことなど「農家女性が抱える不条理さ」を記録。著者の姉歯曉駒沢大学教授は「 程度の差こそあれ、今もなお、女性たちを苦しめ続ける日本社会の宿痾(しゅくあ)そのもの」と記す▽らいてうは亡くなる年の正月、色紙にこう書いた。「命とくらしをまもる みんなのたたかいの中から 平和な未来が生まれる 新しい太陽がのぼる」。「みんな」に男は入っているか。自問する。

元祖「#わきまえない女」とでもいいましょうか、らいてうの提唱した様々な課題や提言は、現代まで連綿と受け継がれているような気がします。しかし、それが実現されているかというと、否、ですね。

五輪に関しても、元トップが女性蔑視発言で辞任し、鳴り物入りであとを継いだ女性新会長もすっかり影が薄く、さらに新会長の元のポストの後任も女性ですが、こちらは頓珍漢(「漢」は「おとこ」ですが(笑))。しかし、「だから女性は……」ではなく、個人の資質や体制の問題のように思われます。

らいてう没後50年を機に、こうした議論が高まることも期待したいものです。

【折々のことば・光太郎】

古代錦のやうな秋晴のケンランな完全な一日。風なく、空気うつとりとしづまる。山の紅葉さびて青天に映え、日光あたたかに草を色に染めてゐる。

昭和22年(1947)10月31日の日記より 光太郎65歳

何気ない自然の描写も実に詩的ですね。

新刊ムックです。

& Premium特別編集 あの人の読書案内。

2021年6月1日 株式会社マガジンハウス 定価1,500円+税

菊池亜希子、皆川 明、河瀬直美、高山なおみ、綿矢りさ……あの人がもう一度読みたい本。絵本が教えてくれたこと、ときめくマンガ。全439冊、総勢144人が薦める読書ガイド。


本誌の創刊号からこれまでの「読書」にまつわるコンテンツから、本好き144人のおすすめを1冊にまとめました。もう一度読みたい小説やエッセイ、ときめきたいときに読み返すマンガ、思い出の絵本など、素敵な人生の道しるべとなる本が詰まった1冊です。

本誌は『&Premium』2019年10月号「あの人が、もう一度読みたい本」を中心に、2015年2月号「センスのいい人は、何が違う?」、2017年1月号「贈り物と、絵本」、2018年10月号「素敵な人になるために、どう生きるか」、2018年12月号「エレガンス、ということ」、2020年2月号「心と体が、あったまること」に掲載した読書企画を再編集・増補改訂したものです。
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目次

HER/HIS FAVORITE BOOKS あの人の愛読書。
 フグ田サザエ、ガブリエル・シャネル、マリリン・モンロー、 デヴィッド・ボウイ、
 ウォルト・ディズニー、樹木希林

LIBRARY of SENSE センスを磨く読書案内。
 細川亜衣、土岐麻子、渡辺有子、熊谷隆志、松浦美穂、寺尾紗穂、原川慎一郎、
 石塚元太良ほか

TO BE ELEGANT 私に、エレガンスを教えてくれた本。
 江南亜美子、西田尚美、木村綾子、石村由紀子ほか

Long-Sellers 世代を超えて読み継がれる、20世紀の良書。
 『夜と霧』『悲しき熱帯』『センス・オブ・ワンダー』ほか

Books That Inspired Me 私が、もう一度読みたい本。
 高山なおみ、綿矢りさ、皆川明、菊池亜希子、河瀨直美ほか

Reviews 名著を読み解く、読書感想文。
 塩川いづみ、中村佳穂、大森克己、轟木節子、外山惠理、ユザーン

BOOKS for a BETTER LIFE 7歳から45歳、そして人生最期。そのときに読みたい本。
 中野京子、鴻巣友季子、甲斐みのり、いか文庫、森岡督行、最果タヒ、河野通和、
 江南亜美子

Talking About “The" Books 「大人になった今だからわかる本」座談会
 宇多丸、しまおまほ、古川耕

Treasured Magazines 捨てられない雑誌。
 青柳文子、山崎まどか、平野紗季子、森本千絵ほか

Illustrated Cookbooks キッチンで読み返したい、料理の図鑑。
 戸木田直美、鈴木めぐみ

My Inspiring MANGA ときめきたいときに、このマンガを読み返します。
 栗山千明、松田青子、岩井俊二、星谷菜々、光浦靖子、山本浩未、渡辺ペコ、福田里香、
 宇垣美里、片桐仁、武田砂鉄、角田光代、植本一子ほか

MY FAVORITES 29人の、私の思い出の絵本。
 山戸結希、井出恭子、岡尾美代子、川内倫子、柚木麻子、さかざきちはる、安藤美冬、
 石川直樹ほか

Picture Books ぬくもりを感じる、いい絵本。
 末盛千枝子

絵本が教えてくれる大切なこと。
 穂村弘、星野概念、ひうらさとる、美村里江ほか

同じマガジンハウスさん刊行の雑誌『&Premium』に掲載された記事等を再編したものだそうで、雑誌本体が「衣、食、住、カルチャー、それぞれに自分なりの選び方がある大人の女性たちの為の雑誌。クオリティライフ誌・素敵に暮らしている人・上質なものを足していく・大人の女性のため。」というコンセプトなので、執筆者も大半は女性、薦められている「全439冊」も女性向けのものが多い感があります。もっとも、昨今はジェンダー的な部分で「女性向け」「男性用」といった区分には神経質に成らざるを得ませんが(笑)。

デザイナーの皆川明氏が、光太郎の『智恵子抄』(龍星閣新版・昭和26年=1951)、光太郎実弟・豊周の編集による智恵子の紙絵作品集『智恵子の紙絵』(社会思想社・昭和41年=1966)を取り上げて下さっています。
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皆川氏、平成25年(2013)に都内乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)さん他で開催された、建築家の中村好文氏による、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を含むさまざまな「小屋」を取り上げた「中村好文展 小屋においでよ!」展に関わっていらっしゃいました。

関連行事として中村氏と皆川氏の対談「小屋から学ぶこと」が、巡回展の金沢21世紀美術館さんで行われましたし、展覧会とリンクして出版された『小屋から家へ』(TOTO出版)の中にもお二人の対談が収録され、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋も紹介されています。

中村 岩手県の花巻に、高村光太郎がひとり暮らしをしていた小屋が残っていて、それこそ粗末な小屋なんですけど、「人の暮らしの気配のようなもの」がひしひしと感じられます。必要最低限のものしかない暮らしぶりがとてもいさぎよく感じられ、「これでいいじゃないか、これで十分じゃないか」と納得してしまうのです。小屋の定義のひとつに、「すまいの原型が見えること」という項目を加えてもいいかもしれません。
皆川 その感じ、よくわかります。小屋の空間の中には最低限の必要なものだけが納まっているということで、余計にそういう気分になれそうな気がしますね。

『智恵子の紙絵』は、この手の書籍としては昭和32年(1957)に筑摩書房さんから出た『智恵子紙絵』(こちらも豊周の編集)に次ぐ初期のものです。

豊周による解説文から。

 智恵子という人が、このような工芸的なものについてどのくらい才能を持っているか、僕は全然知らなかった。兄にとっては、自分の最愛の人であり奥さんでもある人のものだから、惚れ込むのはあたりまえだが、僕には、はたして兄が評価するほど高く評価できるかどうか、絶対的な評価として、いったい兄がいうほど正当なものかどうかということに、一抹の不安があったのだ。(略)ところが、実物を見てこの不安は全く消え去った。日本にいままで例のないユニークさに、まず心を打たれた。(略)そこにあるものは非常にすぐれた工芸家の作品といっても、ちっともさしつかえないものだった。(略)実を言うと初めは、兄が少し手を入れているのではないかとさえ思った。(略)高村光太郎の最愛の妻であったというひとつの仮定を除いて、裸で放り出して見ても、絶対的価値は決して下がらないと思う。

ちなみに今日、5月20日は智恵子の誕生日です。

『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』に戻りますが、末盛千枝子さん、森本千絵さん、栗山千明さんなど、このブログで取り上げさせていただいてきた方々もご執筆。

さらに、宮沢賢治や武者小路実篤など、光太郎と関わった人々の作品も。
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また、絵本や漫画の項も充実しています。美術書、写真集の類も。

ただ、近代のものよりは、現代の書籍の紹介がメインです。そうした意味で、光太郎智恵子らに関わらない書籍はあまり読まない当方としては、インチキですけれど、それぞれの書評を読んで、それらを読んだ気にさせてくれるのでありがたく存じました(笑)。

それにしても、紙の書籍の衰退が叫ばれて久しく、電子書籍的なものの台頭にもめざましいものがありますが、まだまだ紙の書籍も健在、それが無くなることはないのだろうな、と思わせられました。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

晴、フトン干、 文部省へ芸術院会員断りのハカキを書く。


昭和22年(1947)10月20日の日記より 光太郎65歳

この後、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後の昭和28年(1953)にも、芸術院会員への推薦を断っています。











昨年1月に亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生のご遺稿を含む書籍が刊行されました。

遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集

2021年4月30日 北川太一著 小山弘明/北川光彦監修 文治堂書店 定価1,500円+税

高村光太郎研究の第一人者、北川太一の遺稿。賢治「デクノバウ」と光太郎「暗愚」の思想的背景、両者の心の葛藤を独自の視点で書き留め、この文が絶筆となった。
太一ゆかりの人々による追悼・回想文も収める。
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目次
Ⅰ 遺稿をめぐって
 「デクノバウ」と「暗愚」(遺稿)  北川太一
  はじめに/光太郎と賢治「玄米四合の問題」/賢治――コスモスの所持者――
  光太郎、三陸の旅/「記録」の思想/心平と光太郎と賢治と智恵子
  「注文の多い料理店」/光太郎の「人の首」/「第二次大戦下の光太郎」
  花巻、そして太田村山口へ/「暗愚小伝」/「雨ニモマケズ」の反語性
  光太郎 その後 死

 「没我利他」の系譜 賢治・光太郎、そして北川太一  
                小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 「雨ニモマケズ」の評価と受容について  
佐藤映二 (元宮沢賢治研究会会長)

Ⅱ 追悼 北川太一
 北川太一先生を偲んで         大島俊克(花卷高村光太郎記念会会長)
 あの日の言葉――北川太一先生への感謝の手紙――       服部剛(詩人)
 北川太一先生と父と光太郎             渡辺えり(劇作家・女優)
 「道しるべの恩」~北川太一先生を偲んで~   佐藤雅彦(文京区浄心寺住職)
 北川太一先生ご逝去の報に涙して         野澤俊之(詩人野澤一子息)
 月の人                          市川恵子(詩人)
 私の北川太一印象記                   前木久里子(詩人)
 うしよあゆめいのちもやし                 曽我貢誠(詩人)

Ⅲ 回想 北川太一
 先生に牽かれて――想い残るいくつか――   高原二郎(元都立向丘高校教諭)
 出逢いと別れ                     竹鼻倭久子(北斗会)
 北川太一先生の思い出             大島裕子(高村光太郎研究会)
 やがて光と――北川太一氏の思い出――     佐藤浩美
(高村光太郎研究会)
 北川太一先生から学んだこと           野末明
(高村光太郎研究会)
 出会いの頃             高松源一郎(美術企画「晴耕雨読」主宰)
 悲しみは光と化す―北川太一は生きている―わが北川太一先生のご逝去に際して
                           佐々木憲三(美術史家)
 北川先生を悼む                   本宮寛子(藤原歌劇団)
 北川様と私                  福田悠子(香川県丸亀市在住)

あとがき ――父、太一が伝えたかったこと――  北川光彦
 

北川先生、ご生前最後の著作集となった『光太郎ルーツ そして吉本隆明ほか』(平成31年=2019 文治堂書店)の「あとがきのごときもの」で、以下のように記されていました。

 それでも、まだ書き残したいくつものことが心に残る。その一番大きな残念は、宮沢賢治の「デクノボー」(「雨ニモマケズ」)と光太郎の「暗愚」(「暗愚小伝」)のかかわり方だ。賢治が「デクノボートヨバレ」たいと書いたのは昭和十二年、中国との戦争が始まったそんな時代だ。
 『雨ニモマケズ』を流布することによって、ここに表むきかたち作られたのは、そんな政治体制のなかで、とりあえず利用できる最も都合のいい人間像としての解釈だ。しかし賢治は、大正十二年の最初の童話集『注文の多い料理店』にそえた解説のパンフレットで、これらがその頃の政治体制にもっとも叛逆するはげしい社会思想に貫かれていることを自ら書き記している。そんな賢治が、死さえ予感しながら、このときにあえて「デクノボートヨバレ」たいと書いた意味は、なんだったのだろうか。
 光太郎が戦後、自らの生涯を、あえて「暗愚」と要約したのは昭和二十二年のことだった。しかしそこで光太郎は賢治没後の宮沢家を訪ね、はじめて「雨ニモマケズ」の草稿を見、筆写し、賢治の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」て生きる生活を痛切に批判して語った。その両者の関わりについても、どうしても書いておかなければならない、と思いながら、その時間がまだあるかどうか。九十四年近く使い古した肉体が、いま、このこのあとがきに近いものを、わずかに書かせる。


先生が亡くなった時、この一節を思い出し、「ああ、結局、これは果たされないまま終わってしまったんだなぁ」と思いました。

しかし、あにはからんや、その後、文治堂書店さんから、「賢治と光太郎に関する北川先生の遺稿を預かっている。そのまま一冊にして刊行するには短いので、解説のようなものを書き足してくれないか」との連絡。仰天しました。

ほどなく送られてきたのが、本書冒頭三分の一ほどの「「デクノバウ」と「暗愚」(遺稿)」。最後に附されたメモによると、「令和元年五月一日二十四時 初稿 擱筆 九十五枚 太一、数え年九十五歳也 前著『光太郎ルーツ そして吉本隆明』(平成三十年三月刊)「あとがき」に記した公約として。」。「先生、書いてらしたんだ……」と、万感の思いがこみ上げました。ちなみに「令和元年五月一日」、ちょうど2年前ですね。奇縁を感じます。

そこで依頼された「解説のようなもの」を書いて送りましたが、「まだ一冊にするには足りないから、ゆかりの人たちに自由に書いて貰う。それから、PR誌の『トンボ』に載せた各界からの追悼文も載せる。ついては史実などの明らかな誤り等を正して欲しい」とのこと。そんなこんなで当方、「監修」としてクレジットされています。表紙にある当方の名は帯に隠れて見えませんが(笑)。

「史実などの明らかな誤りの訂正」、意外と大変でした。何だかんだで一年近く関わったように記憶しています。実は、北川先生のご遺稿の中にもそれがあり、「先生、ここ、一年ずれてますよ(笑)」と、心の中で呟きながら朱筆を入れたり……。しかし、北川先生最後のご著書に、こんな形でがっつり関わらせていただけたのは、望外の喜びです。

ところで、「Ⅱ 追悼 北川太一」中の「北川太一先生ご逝去の報に涙して」を書かれた野澤俊之氏。光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息で、連翹忌にはほぼ毎回ご参加いただいていましたが、今年2月に亡くなったと、奥様よりご連絡を頂きました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』、文治堂書店さんのサイトから注文できると思われます。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小屋前の胡瓜一本生にてくふ。

昭和22年(1947)8月21日の日記より 光太郎65歳

念のため書いておきますが、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の自分の山小屋で栽培していた胡瓜です。泥棒ではありません(笑)。

当方、基本的に生野菜がダメで、特に胡瓜はその匂いからしてまったく苦手です。昨日の昼食、途方はカルボナーラ、妻は冷やし中華。その胡瓜の匂いが気になり、別々の部屋で食べました(笑)。

本来、昨春に開催予定だった企画展ですが、コロナ禍のため1年延期となって、明日開幕です。

春の特別展「『白樺』創刊110年 文学の道」13年5ヶ月の軌跡

期 日 : 2021年4月24日(土)~6月13日(日)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1-8-30
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 (5月3日開館 5月6日(木)振替休館)
料 金 : 大人200円 小中学生100円

1910年(明治43年)、実篤や志賀直哉ら学習院の同窓生を中心に同人雑誌『白樺』が創刊され、1923年(大正12年)の関東大震災までの13年5ヶ月の間、刊行が続けられました。「他のものにあきたりないので、自分で、自分の要求する文学をうみ出さう」という若い情熱が集った『白樺』は、実篤、志賀に加え、有島武郎や里見弴、木下利玄、長與善郎など日本近代文学史に名を残す文豪たちの出発点でもあります。
本展覧会では『白樺』の足跡を辿りながら、この雑誌が当時の日本文壇に与えた衝撃と影響をご紹介するとともに、その個性豊かな同人たちの作品をご覧いただきます。
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関連事業 文学講座「『白樺』派評価の大きな転換点-本多秋五の批評を中心に-」
 講師 瀧田浩氏(二松学舎大学教授) 日時 5月30日(日) 13:00~15:00
 会場 調布市東部公民館 調布市若葉町1丁目29-21 参加費 220円

 申し込み 往復葉書で実篤記念館まで

光太郎も寄稿し、いわゆるその「人道主義」や、西洋美術の紹介などで注目を集めた『白樺』。昨年が創刊110年ということで、それを記念する企画展示です。

美術方面については、昨秋「秋の特別展 『白樺』創刊一一〇年 美術への情熱-一六〇冊に込めた思い-」が開催されました。で、今回は文学方面にスポットを当てています。

早速、同館から図録を頂いてしまいました。多謝。章立ては以下の通り。それがおそらく展示の構成にもなっているのでしょう。全23ページです。光太郎の名も散見されます。

・『白樺』創刊への道―学習院という空間―001
・『白樺』創刊への道―回覧雑誌の時代―
・『白樺』創刊
・『白樺』創刊―草創期―
・文壇変遷期―自然主義と新たな波―
・『白樺』同人達のあり方―“国民的”と“世界的”―
・『白樺』同人と演劇・脚本―旧劇と新劇―
・同人の変遷―人道主義―
・『白樺』同人―文壇での評価―
・『白樺』十周年
・大正12年『白樺』終刊―有島武郎の死―
・大正12年『白樺』終刊―関東大震災―
・同人の代表作
・『白樺』の文学―作家への影響―


ついでにというと何ですが、昨秋の「秋の特別展 『白樺』創刊一一〇年 美術への情熱-一六〇冊に込めた思い-」の図録も同封されていました。ありがたし。こちらは全34ページ。
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・挿絵と美術紹介
・『白樺』同人が見た美術
・白樺主催泰西版画展覧会
・ロダンからの贈りもの
・白樺主催第四回美術展覧会
・公共白樺美術館の設立に向けて
・第八回白樺美術展覧会
・為白樺美術館設立ヸリアム・ブレーク複製版画展覧会
・白樺美術館第一回展覧会
・若手芸術家の発表の場
・『白樺』の文学と美術
・作品にみる友情
・創刊一一〇年『白樺』表紙しおり


コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

夜蚊帳を初めてつる。安眠。


昭和22年(1947)7月20日の日記より 光太郎65歳

蚊帳は、開拓で近所に入ってきた青年が配給で受け取ったもの。そちらには元々あったらしく、光太郎が譲り受けました。

当方も加入している高村光太郎研究会発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』の第42号が届きました。

今号は、昨年1月に逝去された、当会、そして高村光太郎研究会の顧問であらせられた故・北川太一先生の追悼号。
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研究会主宰の野末明氏をはじめ、7名の研究会員による追悼文等が掲載されています。当方も拙稿を寄せました。
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その他、盛岡大学教授・矢野千載氏による「高村光太郎と中村不折の書道観―明治・大正の六朝書道を中心として―」など、5本の「論文」。

盛りだくさんとなったため、当方が連載として持たせていただいている「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』に未収録作品の紹介)、「光太郎歿後年譜」はカット。原稿を送ってから、「今回は紙幅の都合で載せません」と返答があり、カチンときたのですが、まぁ、いたしかたないでしょう。

それから、追悼といえば、やはり研究会員であらせられた、群馬県立女子大学教授・杉本優氏。昨年9月に亡くなられたということで、その件にも触れられています。

当方、そうとは知らずに今年の年賀状を差し上げたところ、追って、奥様から亡くなったという報を頂き、驚いた次第でした。まだお若かったはずでしたので。
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杉本氏、平成27年(2015)刊行の『近代文学草稿・原稿研究事典』で、光太郎の項、4ページをご執筆なさったほか、共著の研究書、各種雑誌の光太郎智恵子特集にもいろいろ寄稿なさいました。
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平成9年(1997)刊行の『詩う作家たち 詩と小説のあいだ』(野山嘉正編)。
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平成10年(1998)発行の『国文学 解釈と鑑賞』「特集 高村光太郎の世界」。
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昭和63年(1988)発行の『彷書月刊』「特集 高村智恵子」。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『高村光太郎研究』。ご入用の方は、最上部に奥付画像を載せておきましたので、そちらまで。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」への追加詩二篇清書。「報告」「松庵寺」。


昭和22年(1947)6月5日の日記より 光太郎65歳

ここで言う「智恵子抄」は、戦後の一時期刊行されていた白玉書房版です。

新刊情報です

わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」

2021年1月31日 宮沢和樹著 ソレイユ出版 定価1,400円+税

賢治のことを誰よりもよく知り、誰よりも理解し深く愛した弟・清六。その清六は生涯をかけて、兄・賢治の作品を世に出すために尽力した。その孫である筆者は、イギリス留学から帰国後、「林風舎」を立ち上げ、祖父の後継者として活動を始める。賢治はどのような思いを作品や言葉に込めたのか、筆者が祖父から語り聞かされた事実の数々は必読の価値あり!

出版社から
賢治の弟の清六さんは、賢治の作品が世に出る大きなきっかけを作った方です。筆者・宮沢和樹さんは、その清六さんのお孫さん、子どもの頃より清六さんから、賢治のことについてたくさんの話を語り聞かされながら育ったそうです。祖父の影響を強く受ける中でイギリス留学から戻り、和樹さんはあたかも清六さんの後継者のように「林風舎」という会社を立ち上げ、賢治の作品の保存や管理の事業につかれます。
筆者が賢治を「賢治さん」と呼ぶ理由はなぜか。また、「雨ニモマケズ」の詩の真の読み方と、頻繁に出てくる「行ッテ」の真意、そして賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸せはあり得ない」(農民芸術概論綱要)が、「世界ぜんたいが」でなく「世界がぜんたい」である賢治の本意など、清六さんが孫の筆者に熱く語ったことは私たちも絶対に聞き逃してはならない内容に思えます。大伯父・賢治と祖父・清六さんへの深い敬愛と、敬虔な語り部としての気持ちが伝わってきて胸が熱くなる一冊です。
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目次
はじめに
 伝え、残したいこと
 含羞の人々
第一章 「宮沢賢治」mの実弟の孫010
 大伯父は「賢治さん」
 イギリスとの深い縁
 イギリスびいき
 一族の一員という立場
 縄文人の末
第二章 賢治作品の守り人たち
 曽祖父・政次郎
 最大の理解者、祖父・清六
 炎天下の「イギリス海岸」で
 祖父と山に登る
 高村光太郎さんと祖父
 志を受け継ぐ人々
第三章 「雨ニモマケズ」の読み方、読まれ方
 願望としての「雨ニモマケズ」
 「ヒドリ」論争
 「賢治ブーム」のなかで
 「行ッテ」のもつ深い意味
 「行」の人
第四章 ありのままの「賢治さん」像を伝えていく
 大伯父がつなぐ縁
 親子を超えた曽祖父の慈愛
 詩と音楽の協演
 私が好きな作品
 ファンタジーではなくSF
 「ほんとうの幸せ」とは
 ライフワークとしての講演会
宮沢賢治略年譜
「わたしの宮沢賢治」シリーズ刊行に寄せて


昨日届きまして、まだ光太郎に関わる部分をはじめ、半分程しか読んでいないのですが、随所で賢治顕彰に先鞭を付けた光太郎を讃えて下さっており、ありがたく存じます。

上記説明欄にあるとおり、著者の宮沢和樹氏は、賢治の実弟・清六の令孫。当方、平成26年(2014)に千葉県八千代市の秀明大学さんで和樹氏のご講演を拝聴しました。その際の演題は「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」。非常に興味深いお話でした。そうした講演を各地でなさっている和樹氏、講演で話すような内容を一冊にまとめて欲しいとの要望に応えての出版ということだそうです。

016中心に語られているのは賢治より、その実弟・清六。清六は賢治から遺稿を託され、その出版に尽力しました。

清六は父の政次郎ともども、賢治の作品世界を広く世に紹介した光太郎に恩義を感じており、光太郎の花巻疎開に尽力してくれましたし、亡き兄・賢治に代わって光太郎を兄のように慕っていたともいえるような気がします(21歳の年齢差がありましたが)。光太郎もよく清六と連れだって映画を観に行ったりしました。また、昭和21年(1946)から同24年(1949)にかけ、日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』を二人で編集しました。光太郎は各冊の装幀、装画、題字揮毫を行い、「おぼえ書」を寄稿しています。

さて、和樹氏のご著書、随所に光太郎の名が出て来ますが、早速、「はじめに」の中に。

 以来、二〇年にわたって皆さんの前で語りつづけてきたのは、祖父・清六が言っていたこと、やってきたこと。
 子どものころから兄、賢治さんを身近に見てきて、
「この人はほかの人とは違う、何か特別なものをもっている」
「それだけに危ういところもあるから、とてもほうってはおけない」
と、曽祖父母・政次郎、イチなどとともに、懸命に支えてきた祖父の姿なのです。
 その力が、高村光太郎さんや草野心平さんなど、名だたる人たちを動かし、世に「宮沢賢治」を知らしめた。

高村光太郎さんと祖父」という項も設けて下さっています。主に述べられているのは、賢治歿後の昭和9年(1934)、光太郎や当会の祖・草野心平も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」された件。

やはりその場にいた詩人の永瀬清子の回想、以前にも書きましたが、コピペします。

 そのトランクからは数々の原稿がとりだされた。すべてきれいに清書され、その量の多いことと、内容の豊富なこと、幻想のきらびやかさと現実との交響、充分には読み切れないまま、すでにそれらは座にいる人々を圧倒しおどろかせた。
 原稿がとりだされたのはまだみんなが正式にテーブルの席につくより前だったような感じ。みな自由に立ったりかがみこんだりしてそのトランクをかこんでいた。
 そしてやがてふと誰かによってトランクのポケットから小さい黒い手帳がとりだされ、やはり立ったり座ったりして手から手へまわしてその手帳をみたのだった。
 高村さんは「ホホウ」と云っておどろかれた。その云い方で高村さんとしてはこの時が手帳との最初の対面だったことはたしかと思う。心平さんの表情も、私には最初のおどろきと云った風にとれ、非常に興奮してながめていらしたように私にはみえた。
 「雨ニモマケズ風ニモマケズ――」とやや太めな鉛筆で何頁かにわたって書き流してある。

和樹氏、この展開を、清六が「演出」したのではないかと推測されています。

 もともと商人だったので、祖父は毎日帳簿をつけていたほど几帳面(きちょうめん)でした。まして、賢治さんというのはどういう人物なのかを知ってもらうために披露する原稿や書き物のたぐいです。いろいろな方の前でトランクを開く前に、祖父がポケットのなかの手帳を認識していなかったはずはないと私は思います。
 これはあくまでも私の想像ですが、いま考えてみると、祖父は「この手帳にはこうした詩もあります」と自分からは言わないで、そこにいるほかの誰かに見つけてほしかったのではないかと思うのです。そうした「反応」が欲しかったのだろうと。
 つまり、自分があらかじめ「こんなものがあります」と見せるよりも、光太郎さんなどに手帳を見つけてもらって、「何だろう、この詩は」と言ってもらいたかったのでしょう。そのほうが、立ち会って下さった方々の印象に強く残り、より効果的だと考えたのかも知れません。
 そうすることによって、この「雨ニモマケズ」の一文も、いずれ賢治さんの本を作る際には「入れなくてはだめだ」と思ってもらうようにしたかったのではないかと考えるのです。


一昨年の春、林風舎さんを訪ね、和樹氏とお話しする機会がありましたが、その際にも氏は同様のことをおっしゃっていました。なるほど、あり得ない話ではありません。

この「雨ニモマケズ」の「発見」の件は、また近いうちに触れるつもりですのでよろしく。

それから、光太郎が昭和20年(1945)に宮沢家に疎開していた頃のエピソード、終戦後、旧太田村に移住してからの話、遡って昭和11年(1936)、光太郎が「雨ニモマケズ」詩碑の揮毫をしたことなども紹介されています。それらを通底するのは、やはり光太郎への感謝。恐縮です。

また、特に興味深く拝読したのは「「ヒドリ」論争」という項。

現在、多くの活字本で「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」となっている部分、元々の手帳では、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と書かれていました。この「ヒデリ」「ヒドリ」については、百家争鳴、喧々囂々、侃々諤々の感があります。さる高名な宗教学者の方は、この改変を光太郎の仕業だと断定し、繰り返し色々なところで書いたりしゃべったりしています。その根拠は光太郎が昭和11年(1936)に光太郎がこの一節を含む「雨ニモマケズ」後半部分を揮毫し、詩碑が建てられたこと。しかし光太郎は花巻から送られてきた原稿通りに書いただけですし、詩碑の建立以前から「ヒデリノトキハ」の形で活字になっていたことが確認されており、まったくの妄言としか言いようがありません。

ちなみに「ヒドリ」は「日取り」、花巻で、日給をもらって働く人のことをそう呼んだ言葉があるから原文通り「ヒドリ」でいいのだ、と、賢治の教え子の故・照井謹二郎氏が提唱したのが始まりらしいそうです。

和樹氏、この改変は、清六によるものだろうと推測されています。根拠としては、賢治が時折、「デ」と「ド」を間違えることがあったこと、この部分の文脈が天候のことを言っているので「日照り」の誤りであろうと考えたことなどをあげられています。

そして……

 みんなが熱くなり、教科書やパンフレットなどを「ヒドリ」に直さなければ、いやいや「ヒデリ」のまちがいなのだから、そのままでよい……などと、議論は一段と白熱していました。
 このように二派に分かれて論争していくと、自分の意見を言うだけではなく、「ぜったいに自分が正しい」と主張する人も出てきます。
 そんなとき、当の祖父は、案外ゆったりかまえていました。
「それは、どっちでもいいよ。最後は読む人が決めればいい。
 いちばんよくないのは、『どちらかでなければいけない』とがんばる人だな。
 自分は『ヒドリ』だと確信しているからといって、人にみずからの意見を押しつけるのがいちばんダメだ」
ということでした。


和樹氏ご自身も、

 私自身は、祖父が言ったようにどちらでもよいと思います。いちばんよくないのは、どちらかを「絶対」として論争し、自分の意見が正しいのだと押しつけることだとの祖父の言葉に、いまでも共感しています。
 だから、私自身は、そのような論争に加わることはよくないと考え、静観することにしています。


だそうで。

当方も、この改変、光太郎が行ったという濡れ衣さえなければ、どちらでもいいと思います。

その他、和樹氏は「雨ニモマケズ」は、あくまで賢治が「サウイフモノニワタシハナリタイ」と、自らのために書いたものであって、それをみんなで実践しよう、的な風潮には警句を発していらっしゃいます。特に東日本大震災の後、「雨ニモマケズ」が再び注目されて起こった、「人間、こうでなくてはいけない」、「みんなで賢治イズムを」的な論調に対して、です。

たしかにそうですね。この点は光太郎の「道程」(大正3年=1914)などにも言えることでしょう。みんながみんな、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と頑張る必要はないわけで……。

ところで、老婆心ながら、事実関係の誤りを指摘します。まず、光太郎と賢治は一度も会っていない、という記述がありますが、二人は一度だけ、大正15年(1926)の12月に会っています。また、細かい話ですが、本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が焼失したのが昭和20年(1945)3月としていますが、正しくは4月です。

こうした点は差っ引いても、賢治、清六、そして光太郎の関わりを知るには好著です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

食後二階の畳敷の部屋にて坐って座談会じみて話す。先生方男性も女性も来り二三十人。

昭和21年(1946)4月10日の日記より 光太郎64歳

場所は、近くにあった山口分教場の本校である太田小学校です。この後、分教場などで光太郎が講演とまでいかない講話、もしくは座談会などを行うことがたびたびありましたが、その最初のもの。かつて若い頃は「芸術家あるある」で、「俗世間の馬鹿どもとは関わりたくない」的な部分もあった光太郎にとっては、革命的な転身だったようにも思えます。

少し前の記事ですが、『毎日新聞』さんで先月24日の掲載。詩人の和合亮一さんの連載(月イチ)です

詩の橋を渡って 寒さに研ぎ澄まされる心=和合亮一(詩人)

12月000
わたしはといえばあの頃
心の闇にちいさな灯をともすために
詩を書きはじめたけれど

 師走の候。激しい寒波が押し寄せた。氷点下の雪道を進む大変さを感じつつも、白く化粧が施されたかのような、見慣れた野山の景色に見とれる。「冬よ/僕に来い、僕に来い」と呼びかけている詩句が浮かぶ。寒気を疎むのではなくむしろ好ましく思って描き続けた「冬の詩人」と称される高村光太郎の詩のいくつかを思い浮かべた。凍(しば)れる風の中で研ぎ澄まされていくような心の先を光太郎は詩にとらえていったのだろう。

 鈴木ユリイカ「群青くんと自転車に乗った白い花」(書肆侃侃房)。「オラ家捨てたっぺ。そいからよ。青空とお天道さまがオラのともだちよ。」。ある浮浪者の女性の声がある。「犬はきれえだな。オラ見ると吠(ほ)えあがる。こどしの冬はきつかったな。」。厳しい寒さで仲間が何人も亡くなってしまったことも続けて語る。春にほっとする人々の姿がここでは描かれている。「ゆらゆら揺れる歯の中で歯のないその花は笑う」。しかしまた冬が来た。
 他にも行き場のない街の若者や、病に苦しむ家族、認知症の友人、津波でさらわれてしまった子どもなど、誰かに寄り添うようにして記されてある。 エピソードだけに終わらない何かが一つひとつに宿る。過ぎゆく歳月の実感とまなざしの強さが芯のようになって残る。二十九年ぶりの新詩集だが、長い時の間にもこつこつと詩を作って心をいつも磨き続けるようにして、かき消えてしまいそうな命の生々しさと向き合ってきたのではあるまいか。
 「長いこと海の様子を眺めてから/おにぎりを一個ぽーんと投げてよこした/ぼくは海のなかで母さんにおはようと言う」。来年で震災から十年を迎えるのであるが、こんなふうに書きついでいくべきことが、年月が過ぎたからこそたくさんあるのだということを教えられた気がする。 私たちが受けたあの日からの心の傷と記憶とをたどり直して、丹念に育てていくようにして綴(つづ)っている筆先に、祈りが込められている。
 詩と共に生きてきた人生を振り返っているフレーズが随所にある。「わたしはといえばあの頃/心の闇にちいさな灯をともすために/詩を書きはじめたけれど」。昨今の詩人たちはインターネットなど活動の幅を広げ、層も増えているように感ずる。こんなふうに創作にまつわる話を、あらためて熱心にするべきなのではあるまいか。「いまでは詩の光が照らすことのできるものと/てらすことのできないものについて悩んではいるけれど」. 「蝶(ちょう)をおぼえている雪 が/ふる」。

 柏木麻里「蝶」(思潮社)は空間に書き手の心がそのままあるようにして簡潔な言葉が頁(ページ)に置かれている。余白の白さが目に飛び込んでくる。凜( りん)とした空気に包まれながら何かが舞い降りる瞬間を味わう。詩集であり美術作品でもある一冊。「雪のうえに蝶のおもいで」。しずかな純白に包まれていく感触。コロナ禍による苦境の一年だった。新しい雪に祈りを。「 まだいない春を/蝶たちは/抱きしめている」


紹介されている『詩集 群青くんと自転車に乗った白い花』の詳細情報はこちら。『蝶』に関してはこちら
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和合氏、この連載では枕の部分などでよく光太郎を取り上げて下さっており、ありがたく存じます。昨年の5月分7月分でもそうでした。ご自身も詩集『QQQ』で、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)からインスパイアされた作品なども発表なさっていますし、感謝です。

【折々のことば・光太郎】

午前ひげそり、洗顔、湯を沸す事が一度に多く出来ぬため、幾度にもやるので面倒なり。ずゐぶん頭や顔が汚れてゐる。


昭和21年(1946)3月20日の日記より 光太郎64歳

確かに山小屋の囲炉裏では、大量の湯を沸かすのは大変ですね。そんなわけで、この頃の光太郎写真は無精ヒゲが目立ちます。

無精ヒゲと言えば、当方、幼稚園児の頃、「無精ヒゲ」を「武将ヒゲ」と思いこみ、戦国武将のような立派なヒゲと勘違いしていました。しかし、「無精ヒゲ」はマイナスイメージに使われる語で、おかしいな、と思っていました(笑)。
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ついでに言うなら、「東名高速道路」は「透明高速道路」だと思いこみ、そのころ東京多摩地区に住んでいたのですが、都心では手塚治虫の漫画にでてくる未来都市のように、ガラスのチューブみたいな道路が走っているのだ、人類の叡智は素晴らしい!と信じていました(笑)。
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昨日、それから今日と、2021年度大学入学共通テストが行われています。昨日行われた社会科の「倫理」の問題で、光太郎が取り上げられました。

第2問 Ⅲ 下の会話は、近現代を担当した3班の高校生Eと先生が、大正期に描かれた次のポスターについて交わしたものである。

021先生:このポスターのテーマは「今日もまた流會(りゅうかい 流会)か」です。決められた時間に人が集まらず、会議が開けない当時の状況を風刺したものです。
 E:風刺したということは、時計の時間を守って行動することが近代になって奨励されたのに、そうしない人たちもいたってことですね。
先生:現代では、時計によって計測される時間は、誰にとっても同じ速さで直線的に進んでいくもの、と考えられています。ただ、こうした時間意識とは異なる時間の考え方は、今回1班がまとめた、中世の道元の場合のように、他の時代にも存在します。
 E:時計の時間を生活の基準にしようとする近代以降の社会のあり方が、当たり前ではないということですね。
先生:当時の生活文化が垣間(かいま)見えるこのポスターからも、近代以降の時間意識を考えることがかのなのです。皆さんが当たり前だと思っている
時間理解を改めて考え直すことで、現代に生きる私たちの生活のあり方をといなおすこともできるのではないでしょうか。

問8 下線部ⓓに関連して、次の文章は、詩人の高村光太郎が芸術作品の永遠性について論じたものである。その内容の説明として最も適当なものを下の①~④のうちから一つ選べ。

 芸術城でわれわれが常に思考する永遠という観念は何であろう。……或(あ)る一つの芸術作品が永遠性を持つというのは、既に作られたものが、或る個人的観念を離れてしまって、まるで無始の太元(たいげん)*から存在していて今後無限に存在するとしか思えないような特質を持っている事を意味する。夢殿**の観世音菩薩像は誰かが作ったという感じを失ってしまって、まるで天地と共に既に在ったような感じがする……真に独自の大きさを持つ芸術作品は……いつの間にか人心の内部にしみ渡る。真に大なるものは一個人的の領域から脱出して殆(ほとん)ど無所属的公共物となる。有りがたさが有りがたくなくなるほど万人のものとなる。
 * 無始の太元:いくら遡(さかのぼ)ってもその始点を知り得ない根源
** 夢殿:法隆寺東院の本堂のこと

① 芸術作品の永遠性は、作品を無始の太元からあったものであるかのように感じさせる一方で、その作者の存在を強く意識させる。
② 芸術作品の永遠性は、作品を無始の太元からあったものであるかのように感じさせる一方で、その作品もいずれは消滅するものであることを予感させる。
③ 永遠性を有する芸術作品は、誰かの創作物であるという性質を失うとともに、人々の心の中に浸透していくこともない。
④ 永遠性を有する芸術作品は、誰かの創作物であるという性質を失うとともに、限りない過去から悠久の未来にわたって存在すると感じさせる。
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正解は④ですね。
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①だと、「その作者の存在を強く意識させる。」が誤り。②は、「その作品もいずれは消滅するものであることを予感させる。」という記述がありません。③では「人々の心の中に浸透していくこともない。」が誤りですね。

正解の④「永遠性を有する芸術作品は、誰かの創作物であるという性質を失うとともに、限りない過去から悠久の未来にわたって存在すると感じさせる。」から、当方は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を連想します。下の画像は昔のテレホンカードです。
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この像は、まだ光太郎作という意識が根強く残っていますが、問題文に使われた光太郎の「永遠の感覚」(昭和16年=1941)にある「既に作られたものが、或る個人的観念を離れてしまって、まるで無始の太元(たいげん)から存在していて今後無限に存在するとしか思えないような特質」を持ち、「一個人的の領域から脱出して殆(ほとん)ど無所属的公共物とな」って、「有りがたさが有りがたくなくなるほど万人のもの」となったといっていい例ではないかと思われます。

そういう意味では、光太郎の父・光雲が主任となって制作された「楠木正成像」や「西郷隆盛像」なども。ただ、これらより、「まるで天地と共に既に在ったような感じがする」自然との一体感という意味では「乙女の像」の方が、より強く「永遠性」を具現しているように思われます。
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おそらく光太郎自身、「乙女の像」制作に当たっては、「或る個人的観念を離れてしまって、まるで無始の太元(たいげん)から存在していて今後無限に存在するとしか思えないような特質」を持つ「まるで天地と共に既に在ったような感じがする」ものを作ろう、と意識したのではないかと思われます。そしてそれはかなりの程度、成功したのではないでしょうか。どうも光太郎びいきの当方には、そうとしか思えません(笑)。

さて、大学入学共通テスト。コロナ禍の中での実施ということで、受験生の皆さんにとっては二重に大変だったと思います。また、コロナ禍のため、追試験に廻らざるを得ないという受験生もいるのでしょう。皆さんに、望ましい春が来ることを祈ります。

【折々のことば・光太郎】016

午前十一時頃か、日本読書組合常務理事野口正章氏といふ人来訪。一時過ぎまで談話、昨日宮沢氏実家を訪問せられし由にて清六氏の手紙持参。全集について十字屋の全集出版を十分尊敬して組合にては唯それをうけつぐ程度にする事に賛成、十分信用を重んじて行動するやうに告げる、無断にて新聞広告を出しぬけに出すやうな事の非を告げる。


昭和21年3月4日の日記より 光太郎64歳

賢治の実弟・清六と光太郎が編集し、装幀・題字も光太郎が手がけた日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治全集』に関してです。

作家の半藤一利氏が亡くなりました。共同通信さんの配信記事から。

作家の半藤一利さんが死去 昭和史研究で著書多数、90歳

017 「日本のいちばん長い日」などの著作で知られる作家の半藤一利(はんどう・かずとし)さんが12日午後、東京都世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、死亡が確認された。関係者への取材で分かった。90歳。東京都出身。
 東京大を卒業して文芸春秋に入社。「週刊文春」「文芸春秋」編集長を歴任、1994年から著述に専念した。
 編集者として坂口安吾らを担当し、歴史研究に開眼。終戦時の軍部関係者らを集めた座談会「日本のいちばん長い日」は、雑誌「文芸春秋」の記事となった後に単行本化され、映画化された。
 憲法9条と平和の大切さを次世代に説き続け、2015年に菊池寛賞を受けた。

御著書の中で、光太郎智恵子に関わる項も設けて下さっていました。

平成18年(2006)刊行の文春新書『恋の手紙 愛の手紙』(文藝春秋)。
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日本史上の有名人30名ほどの「手紙」から見える様々なドラマを紹介するものです。「第三章 家族を想う」中の「「智恵さん、智恵さん」の高村光太郎」という項で、光太郎から智恵子への手紙が二通、取り上げられています。

一通は結婚前の大正2年(1913)1月、新潟出身の友人・旗野スミ(「すみ」「澄」あるいは「澄子」とも表記)の実家に滞在していた智恵子に宛てた、長文の手紙。全文はこちら。画像はこちら。結婚前に智恵子に宛てた手紙で、唯一現存が確認出来ているものであるため、この手の書籍でたびたび取り上げられています。もう一通は、心を病んだ智恵子が療養していた千葉九十九里浜の妹の家に送った葉書。全文、画像はこちら。章題の「智恵さん、智恵さん」は、この葉書の一節です。

無題 (復元済み)手紙の紹介だけでなく、光太郎智恵子の人となり、『智恵子抄』についても簡略にまとめられています。

もう一冊。平成27年(2015)、ポプラ社さん刊行のエッセイ集『老骨の悠々閑々』。「茶碗のかけらの様な日本人」という項で、光太郎詩「根付の国」(明治44年=1911)を取り上げ、そこから夏目漱石、樋口一葉、芥川龍之介らにからめた日本人論を展開されていました。

探せばもっと光太郎智恵子に言及された御著書が出版されているかも知れませんが、当方手持ちの氏の御著書は以上2冊でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

雪かきのつづきをやり、又山の南面傾斜の松の根方の雪なきところに休みて日光をあび、烟草一本。日光浴数分。日ざしはあたたかなり。

昭和21年(1946)3月1日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村でも、さすがに3月となると、春の息吹が感じられたのですね。

新刊です

歌人番外列伝|異色歌人逍遥

2020年11月16日 塩川治子著 短歌研究社 定価2,500円+税

「この一集は塩川さんのウィットに富む眼差しにより、信濃はもとより日本の歴史、文化をより豊かに語り伝える才筆の一集である」(春日真木子・序)

他分野で名を成すとともに、独自の歌境を切り拓いた二十世紀の「番外歌人」たち。
歴史上の人物が残した歌を辿る「異色歌人逍遥」。
多くの文化人が集った軽井沢に居を構えて四十余年、数々の交流の思い出も交えつつ、歌集を繙いてゆく────
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目次003

序 春日真木子
【歌人番外列伝】
 一 回生の人──鶴見和子
 二 越しびと──片山廣子
 三 孤涯の人──小林昇
 四 琉球の女──久志富佐子
 五 不知火の人──石牟礼道子
 六 博士の面影──河上肇
 七 歌あらば──二人の死刑囚
 八 剣に代ふる──尾崎咢堂
 九 歌の孤立者──大熊信行
 十 白斧の人──高村光太郎
 十一 涙の歌人──堀口大学
 十二 夢のうたびと──福永武彦
 十三 政塵の人──井出一太郎004
 十四 科学者の憂い──湯川秀樹
 十五 土佐の女──大原富枝
 十六 理論と詩──石原純
 十七 ラケットをもった貴婦人──朝吹磯子
 十八 知の巨人の愛──加藤周一
 十九 ざんげ歌の哀しみ──小原保
 二十 実りのひとつ──宮沢賢治
 二十一 農民とともに──若月俊一
 二十二 太陽でありたかった女──平塚らいてう
 二十三 この世の外──大伴道子
 二十四 火の国の女──高群逸枝
 二十五 忍ぶ女ひと ──津田治子
 二十六 ロマンの人──中河与一
 二十七 叫ばむとして──宇佐見英治
 二十八 残夢──徳富蘇峰
 二十九 斜陽の女──太田静子005
 三十 草雲雀の人──立原道造
【異色歌人逍遥】
 一 紫式部
 二 源実朝
 三 樋口一葉
 四 只野真葛
 五 本居宣長
 六 高井鴻山
 七 賀茂真淵
 八 上田秋成
 九 道元
 十 良寛
あとがき

光太郎を始め、いわゆる専門の「歌人」ではない人々の短歌を紹介し、論評を加えています。元々雑誌『雅歌』に連載されていたもののようですが、存じませんでした。

光太郎の項は「白斧の人──高村光太郎」という小題。「白斧」は、昭和23年(1943)に刊行された光太郎歌集の題名です。上記目次脇にスペースが出来てしまったので画像を載せておきました。上は通常版、下は特製限定本(850部)です。特製限定本には光太郎の揮毫を写真製版したページが4ページ。一番下の画像がそのうちの1ページで、明治39年(1906)、留学のため渡米する船中で詠んだ「地を去りて七日十二支六宮のあひだにものの威を思ひ居り」が書かれています。

『白斧』という題名は、明治37年(1904)の『明星』にに載った短歌35首の総題から採られました。総題を付けたのはおそらく鉄幹与謝野寛ですが、元としたのは「刻むべき利器か死ぬべき凶器(まがもの)か斧の白刃(しら)に涙ながれぬ」。

さて、「白斧の人──高村光太郎」。この「刻むべき……」に始まり、明治末から晩年までの20首ほどを取り上げつつ、光太郎の歩みを簡略に紹介しています。短歌はその名の通り短いので、それらを引きつつ生涯を俯瞰するというのは、紙幅もそれほど取らずにすむので、なるほどと思いました。これが詩ですとそうはいかないでしょう。

特に目新しいことは書かれていなかったのですが、ただ、引用されている短歌に、『高村光太郎全集』等にみあたらないものが1首。

いたづらに世にながらへて何かせむこの詩ひとつに如かずわが歌

というものですが、当方、存じませんでした。出典や初出掲載紙といった情報が書かれておらず、何かご存じの方はご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

午前六時24分花巻駅発盛岡行。細雨。


昭和20年(1945)8月25日の日記より 光太郎63歳

終戦からまだ10日ですが、早くも講演を頼まれ、初めて盛岡に行きました。この際に見た岩手山の印象が、詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)に反映されているのではないかと思われます。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さんのPR誌、第11号が届きました。
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これまでカタカナで「トンボ」だった題名が、ひらがなで「とんぼ」に変更。題字揮毫は堀津節子さん。月刊書道誌『不二』、『ペンの力』で手本を書かれているそうです。ご主人の故・堀津省二氏は、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の教え子で、東大図書館さんにお勤めでした。当方が刊行を引き継がせていただいた『光太郎資料』の初期の頃、掲載記事の一部をご執筆なさったり、ガリ版印刷のガリ切りをなさったりした方です。

題字下の装画は、北川太一先生がご趣味として取り組まれていた版画。かつて先生は版画の個展も開かれていました。

内容的には、「特集 賢治童話と詩について」だそうで、宮沢賢治が大きく取り上げられています。
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賢治は光太郎とも交流があり、光太郎は戦時には宮沢家を頼って花巻に疎開した経緯もあり、北川先生のご子息・光彦氏は「宮沢賢治『雨ニモマケズ』と高村光太郎」という一文を寄せられています。
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さらに前号が北川先生追悼特集だったため、その感想等。
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当方も拙文「連翹忌通信」を連載させていただいております。ただ、当方は気まま勝手な内容で(笑)。今号は4月のこのブログでご紹介した、ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見について。美術史上、大変な発見ですので、少しでも機会があれば広めねば、と思ってこの件を書きました。
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ご入用の方は、文治堂書店さんまでご連絡下さい。一応、頒価500円+税ということになっています。

【折々のことば・光太郎】

日本の衣食住の今日の吾人の生活状態及心理状態に対して如何にも不合理なのを強く感じた。社会一般が皆不安定に見えるのも、日々此矛盾を各個人が忍んでゐるからだ。知らずに忍んでゐるのだ。人が物事を「間に合せて我慢」してゐる間は日本の真の文明は期し難い。


明治43年(1910)9月14日の日記より 光太郎28歳

いわゆる大逆事件での幸徳秋水や管野スガらの不当検挙、韓国併合などを念頭に置いての発言と思われますが、何だかコロナ禍の現代のことを言っているようにも読めます。

この年4月には、共に手を携えて日本に新しい彫刻を根付かせようと約していた、碌山荻原守衛が急逝したりもしています。

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