カテゴリ:文学 > 評論等

『朝日新聞』さんで、弁護士にして詩人、文芸評論家でもあらせられる中村稔氏が大きく取り上げられました。

寂しさと、生へのいとおしさと 中村稔さん最新詩集、「月の雫」 97歳 人生の喜び 貴い未来に 詩人で弁護士 言葉は明瞭で不可解

002 詩人・中村稔さんの最新詩集「月の雫」(青土社)に収録される1編1編の詩は短い。けれど、人生の喜びや人情の機微が詰まっている。中村さんにとって、初めての試みだった。
 「僕がいつも書く詩は寂しいんですよ。どうしたって寂しい。でも一生に一度くらい、誰にでもわかりやすく、おもしろく、楽しく読めるものを書いてみたいと思ったんです」。ドウダンツツジの枯れ枝の間に落ちる、月の光に慰められる老人。お年玉をもらった翌日、駄菓子屋で全て使い切ってしまった少年。互いに思い合いながらもプロポーズできずにいる男女。ミサイルにおびえ、差し込む月の光に気づかないロシアとウクライナの兵士。収録される20編の詩それぞれで登場人物が、生きることの尊さ、恋愛のはかなさと喜び、戦争の不条理さと向き合う。
 「これは本当に詩なのか? と自分でも疑問に思っています。小説の筋書きと言われても仕方ない」。これまで詩を書くときには避けてきた言葉もあえて使った。誰しもに分け隔てなく注ぐ月の雫(しずく)を描いた詩は、こう締めくくられる。
 〈寝つけない老人に月の雫は、生きよ、と囁くだろう。まだ到来しない/貴い未来に生きよ、と囁くのを、老人は確かに聞くだろう。〉
 「『貴い未来に』という説明的、教訓的な表現は、いつもは使いません。でも、この詩に共感してくださる方が多かったですね。自分に向けて書いているところも、もちろんあります」
 1月に97歳を迎えた。「僕のいつもの詩が寂しいのは、死が間近いことを自覚しているから。国際情勢を見ていても、あんまり楽しいことはないでしょう」。一方で、「だからこそ貴重な時間、生きている時間をいとおしむ気持ちもある。二つがない交ぜになって生きているんですね。だからこういう楽しい詩もあっていいんじゃないかと思った。今まで書いてきたなかでも愛着のある作品です」。
 詩集に加え、宮沢賢治、中原中也、高村光太郎らの評論や、自身の半生を振り返りながら昭和史を見
つめた「私の昭和史」といった大部の著作も手がけてきた。だが、本業は弁護士だ。東京・丸の内で弁護士として働きながら「余技に詩や評論を書いてきたんです。詩人であることが本業にプラスになるこ001とはありません。中原中也みたいにだらしないと思われたら困るでしょう」。 一見、正反対にあるように思える詩人と弁護士だが、言葉への尽きない関心が生まれる源泉でもあった。「僕は弁護士だから、言葉が定義されている世界を見てきた。言葉に対する明晰(めいせき)さを求めながら、一方で言葉は実に不可解なものだと感じて詩を書いてきた。言葉があわせもつ両面を見てきたから、言葉への関心はずっとあります」

記事では触れられていませんが、中村氏、本業の弁護士として最高裁まで争われた「智恵子抄裁判」に取り組まれました。著作権に関わるものの中で、エポックな凡例として語り継がれています。

その関係もあり、当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは刎頸の交わりでした。連翹忌の集いにご参加下さいましたし、北川先生のご著書の帯に推薦文を寄せられたこともおありでした。
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そして光太郎をメインに論じたご著書。ともに青土社さんから平成30年(2018)に『高村光太郎論』、翌年には『高村光太郎の戦後』。どちらも500ページ前後の大著、労作です。その他、エッセイ集や雑誌等での光太郎に関する文章も多数。

もう97歳になられたか、というのがまず驚きでした。そして失礼ながらそのお年で新刊詩集を上梓なさるとは、という驚きも。

ちなみに『日本経済新聞』さんには、かつて「中村稔89歳 燃える執筆意欲」(平成28年=2016)、「中村稔 曇りなく歴史を見つめる」(令和元年=2019)という記事が載りました。それぞれその時点で「そのお年で……」という驚きが込められていましたが、今回、改めて「そのお年で……」ですね。

今回の記事にある詩集『月の雫』はこちら。やはり青土社さんから刊行されています。

【折々のことば・光太郎】

「ロヂン」は明治の頃、先輩が皆ロダンの事をロヂンと発音してゐたので、さう書きました。Rodinの英語読みです。ロヂンといふので時代色が出るわけです。


昭和22年(1947)9月8日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

この年、雑誌『展望』に寄稿した自らの生涯を振り返る連作詩「暗愚小伝」の註解です。仏語で「in」が「アン」となることを知らなかった明治期の学生が「Rodin」を英語風に「ロヂン」だと思っていたというくだり。「彫刻一途」という一篇の一節です。

 いつのことだか忘れたが、
 私と話すつもりで来た啄木も、
 彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに
 すつかりあきらめて帰つていつた。
 日露戦争の勝敗よりも
 ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた

バカだな、と思うかも知れませんが、同じ理屈で『青い鳥』の「Maeterlinck」は「メテルランク」と読まれるべきなのに、未だに日本では「メーテルリンク」で通ってしまっていますね。さすがに「Lupin」は「ルパン」と正しく読まれていますが(笑)。

本日も新刊紹介です。

じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代

2024年4月25日 森まゆみ著 婦人之友社 定価3,000円+税

 2021~2024年まで雑誌『婦人之友』に好評連載の「羽仁もと子とその時代」が、ついに1冊に。近代女性史に大きな足跡を残したもと子の姿が、明治・大正・昭和の時代の中で、鮮やかに浮かび上がります。
 「じょっぱり」はもと子の故郷・青森では、信じたことをやり通す強さをいう言葉。よいことは必ずできると信じて、多くの人を巻き込みながら突き進んだ、もと子そのものです。
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目次
 まえがき
 第1部 青森の少女、新聞記者になる
  1 八戸に生まれて
  2 上京を追って
  3 自由民権とキリスト教002
  4 明治女学校へ
  5 最初の恋愛、結婚、離婚
  6 女性記者となる
  7 岡山孤児院と西有穆山、そして再婚
  8 『家庭之友』創刊
  9 中産階級の視点
  10 日露戦争と家計簿
  11 次女凉子の死
  12 『婦人之友』への統合
  13 『婦人之友』の船出
  14 明治が終わる
  15 大正デモクラシーと第一次世界大戦
  16 『子供之友』と『新少女』
 第2部 火の玉のように、教育者、事業家へ
  17 自由学園創立
  18 洋服の時代
  19 関東大震災
  20 震災後の救援
  21 読者組合の組織化、著作集発行
  22 消費組合の結成
  23 「友の会」の誕生
  24 ただ一度の外遊
  25 羽仁五郎の受難
  26 木を植える男−羽仁吉一と男子部設立
  27 東北の大凶作とセツルメント
  28 戦争への道
  29 北京生活学校
  30 幼児生活団と生活合理化と
  31 那須農場開拓と戦争の犠牲
  32 敗戦から立ち上がる
  33 引揚援護活動
  34 二人手を携えて
 あとがき

夫・吉一と共に、現代でも続く雑誌『婦人之友』を創刊し、都内に自由学園を創立した羽仁もと子の評伝です。同誌には光太郎・智恵子もたびたび寄稿しましたし、同校を光太郎が訪れたこともありました。
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昨年、花巻高村光太郎記念館さんで企画展「光太郎と吉田幾世」が開催され、いろいろと協力させていただきましたが、盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校さん)を創設した吉田幾世は、自由学園の卒業生で、羽仁夫妻の薫陶を受けた人物でした。

その吉田や光太郎にも言及されています。ただ、二人に関する部分がもうちょっとあってもよかったなという感じではありました。まだ全て読み終わっていませんが、智恵子に関しては記述がないようです。それから、相馬黒光、巌本善治、平塚らいてう、竹久夢二、与謝野晶子ら、光太郎智恵子らと交流のあった人物も数多く登場します。

それにしても、羽仁もと子という人物のバイタリティーはすごいものだな、と、読み進めながら思っております。上記の目次を概観するだけでもそれが窺えるのではないでしょうか。森氏も「あとがき」で、「今まで私ほどよく働く女はいないのではないかと思っていた。しかし本書に取りかかって、羽仁もと子には負けた。」と語られています。

ところで当方、昨年、企画展「光太郎と吉田幾世」の関係で国会図書館さんに出向き、昭和30年代までの『婦人之友』で光太郎智恵子に触れられている記事を全てプリントアウトして参りました。

もと子自身の書いた記事の中に、光太郎の名が書かれているものもありました。第18巻第5号(大正13年=1924 5月)の「身辺雑記」というエッセイです。その年の自由学園の入学式などについて書かれています。抜粋します。

 あくる日のお昼前、また桜の樹の下に見なれない人が来る。素朴に見ゆる和服を着た大きな人――私はそれは高村光太郎さんだと思つた。ほんとにさうだつた。私たちは高村さんの書いて下さるものを心から愛読してゐる。編輯局の人たちから、またいつでも高村さんのことを聞いて、どうか一度学校を見て頂きたいと、早くから希つてゐたから嬉しかつた。
 
また、こんな記事も。昭和20年(1945)4月の第39巻第4号、「編輯室日記」。

四月十七日(火)去る十三日の空襲は石渡荘太郎氏、湯澤三千男氏、佐野、真島、大槻博士、高村光太郎氏など、日頃婦人之友や自由学園に御縁故の深い方々のお家をも焼いてしまつた。せめて季節の青いものでもお目にかけてお慰めしたいと、南沢の野菜を自転車に積んで、それぞれ手分けして焼け跡をお訪ねする。三月号の表紙に、詩やカツトを描いて下さつた高村光太郎氏には、丁度印刷出来たばかりの婦人之友をもお届けしたが、大変喜ばれてブロツクの一片に次のやうな御言葉をかいて下さつた。
 「わざわざお使でお見舞下され忝く存じます、今焼跡でお話しいたして居るところです、御丹精の青いもの筍など何よりありがたく、又雑誌も拝受、お礼までいただき恐縮しました。乱筆のまゝ 四月十七日 高村光太郎」

 
光太郎、アトリエ兼住居が全焼ということで、手元に紙もなく、何とまあ焼け跡に落ちていたコンクリートブロックの破片に上記の文面を書いて(筆記用具は持っていたのか、借りたかしたのでしょう)、使者に託しました。この現物が現残していたら不謹慎かも知れませんが実に面白いと思います。

光太郎の同誌への確認できている寄稿等は、以下の通り。
無題
これだけ多くの寄稿をした雑誌は他にあまりありません。また、明治末から最晩年までの長期にわたってというのも異例です。

智恵子の寄稿は3件確認出来ています。
智恵子
これ以外にも、光太郎智恵子、それぞれに取材した記事や、吉田幾世による盛岡生活学校のレポートに光太郎が登場する記事などもあります。

光太郎の最後の寄稿は、昭和30年(1955)、羽仁吉一の逝去に伴う詩「追悼」。こちらは婦人之友社さんで制作したCDに女優・柳川慶子さんの朗読が収められています。
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森まゆみ氏曰く、「この簡潔な詩句になにも継ぎ足す言葉はない。

それにしても、森氏、戦時中のもと子についても剔抉されています。光太郎にしてもそうでしたが、もと子もかなりの翼賛活動を行いました。森氏曰く「私は伝記作者として、対象人物の過去の間違いを看過、もしくは隠蔽することはできない」。正論ですね。

そうでない伝記作者の何と多いことか。あまっさえ、翼賛活動を擁護するどころか「これぞ皇国臣民の鑑」とばかりに大絶賛している歴史修正主義者、レイシストの輩が存在するのが現状です。なげかわしい。

何はともあれ『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間「婦人之友」の盛岡生活学校の生徒さんや先生方が四十人ばかり来ましたので、分教場で話をしました。画家の深沢紅子さんも先生の一人として来ました。バタとパンをもらつたのでよろこびました。


昭和22年(1947)8月14日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

引率していた一人が吉田幾世です。吉田はこの日の模様のレポートを『婦人之友』に寄稿しました。

盛岡の吉田幾世さんから友の会生活学校の一行四十名が稗貫郡太田村に高村光太郎氏をお訪ねした時の様子を知らせてきた。「高村先生は若い人に会うのは愉快だと、茅ぶきの分教場に心から嬉しそうに迎えて下さり、詩のことから建築、服飾とお話は深く広くひろがり、いつしか一同の心は果しない美の世界へ引込まれてゆきました。食後若い人達の未熟なコーラスを音楽飢餓がいやされると喜んできいて下さいました。疎開先の花卷で戦災にあわれた先生を、山から一本づつ木を伐り出して来て、山の根に小さな家を建てて村へ迎え入れた部落民の素朴な真心ととけ合つたこの頃の先生の御生活、電灯もなくラジオもなく、新聞も一日おくれしか手に入らないとのことです。その中で『婦人之友はいつも端から端まで大へん面白く読んでいます。料理や園芸の記事も全く参考になりますよ』といつておられたのもうれしいことでした。」(第41巻第10号 昭和22年=1947 10月)

関西でこぢんまりと刊行されている雑誌です。

『B面の歌を聞け』4号

2024年4月20日 夜学舎 定価990円(税込み)

特集「ことばへの扉を開いてくれたもの」

夜学舎の最新刊です。「自分のことば」を獲得するとはどういうことか、について考えます。
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目次
 はじめに 太田明日香
 インタビュー
  創作と言葉 趣味でも仕事でもなく小説を書いて雑誌を作ること
 るるるるんメンバー(かとうひろみ、UNI、3月クララ)
  アートとことば アートを通じて社会をほぐす 
谷澤紗和子さんのアートと「ことば」 谷澤紗和子
 特集「ことばへの扉を開いてくれたもの」
  権力とことば 自分の言葉を獲得する 舟之川聖子
  子どもとことば 「あらない」の神秘 鼈宮谷千尋
  文化とことば 幼い密輸 むらたえりか
  ことばのDIY B面の言語学習 石井晋平(イム書房)
  声、体ということば 俺は言葉に毒されていたか 服部健太郎(ほんの入り口)
 シリーズ 地方で本を作るとは?
  持続可能な個人出版のあり方を模索して (大阪府・犬と街灯店主 谷脇栗太)
 編集後記・次号予告


智恵子紙絵作品へのオマージュともなっている切り絵を継続的に制作されている現代アート作家・谷澤紗和子氏へのインタビューが7ページにわたって掲載されています。
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単純に「智恵子の紙絵っていいな」からのインスパイアではなく、ジェンダー論にからめての制作を続けられている谷澤氏のひと言ひと言、重みがあります。

また、谷澤氏は文字を切り絵にするという手法も採られているため、「言葉」と「アート」との往復、相互作用といった部分にも話が及びます。というか、そのあたりがメインなのでしょう。おそらくインタビュアーは同誌を編集・発行なさっている太田明日香氏と思われますが、単なる情報伝達の手段や、物書きが生きるたつきとして扱う道具にとどまらない、「言葉」の可能性といった部分を考えられてのもののようです。他の記事でもそういう側面が見て取れました。

光太郎も造型作家でありながら「言葉」の問題については、人一倍敏感でした。「言葉」を論じた評論やエッセイも数多く書き残し、それらはいちいち頷けるものです。詩にしても、鋭敏すぎる感性を詩として発露せざるを得ないという感じで書かれ続けたのでしょう。元々の詩作の出発点が、「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって、彫刻が「多分に文学的になり、何かを物語」ることを避けるため、もしくは「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」だったわけで(「 」内は評論『自分と詩との関係』昭和15年=1940)。

似たようなことは繰り返し述べました。

青年期になるに及んでやみ難い抒情感の強い衝動に駆られて、自分の作る彫刻が皆文学的になる傾向があつた。ひどく浪曼派風の作ばかりで一時はむしろ其を自分で喜んでゐたが、後彫刻の真義に気づいて来ると、今度は逆に我ながら自分の文学過剰の彫刻に嫌悪を感じ、どうかして其から逃れようと思ひ悩んだ。それで自分の文学的要求の方は直接に言葉によつて表現し、彫刻の方面では造形的純粋性を保つやうに為ようと努めた。いはば歌は彫刻を護る一種の安全弁の役目を果した。(「詩の勉強」昭和14年=1939)

自分の中には彫刻的分子と同時に文学的分子も相当にあつて、これが内面をこんぐらからせるので、彫刻的分子の純粋性をまもる必要から、すでに学生時代から、文学的分子のはけ口を文学方面にみつけて、文学で彫刻を毒さないようにつとめてきた。『明星』時代に短歌を書いたり、その後詩を書きつづけてきたのもそういういわれがあつたのである。(「自伝」昭和30年=1955)

しかし、特に晩年になって「書」への傾倒を深めた光太郎、自らは意識していなかったのかも知れませんが、詩によって言葉のあやなす美と、彫刻によって純粋造型とを究めようとしてきた道程を、「書」によって融合させようとしていたとも考えられます。

書は一種の抽象芸術でありながら、その背後にある肉体性がつよく、文字の持つ意味と、純粋造型の芸術性とが、複雑にからみ合つて、不可分のやうにも見え、又全然相関関係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。(「書の深淵」昭和28年=1953)

そう考えると、谷澤氏の一連の作品にも、そういう要素があるのかもしれません。

何はともあれ、『B面の歌を聞け』4号、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】d8ac5c36

今年は母の廿三回忌の由、花巻でも法要を営みたいので戒名をおしらせ願ひたし。忘れました。

昭和22年(1947)9月8日
高村豊周宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の母・わかは大正14年(1925)、大腸カタルのため亡くなりました。行年68歳でした。

髙村家では、これを機に代々の墓所を浅草の寺院から染井霊園に移し、墓石を新しく建立しました。これが現在も残っているものです。

いわき市立草野心平記念文学館名誉館長の粟津則雄氏が亡くなりました。

『いわき民報』さん。

粟津則雄さん死去 ランボー研究の第一人者 草野心平記念文学館の初代館長も

000 フランスの詩人ランボーの研究などで知られる文芸評論家・仏文学者で、市立草野心平記念文学館の初代館長を務め、その後も名誉館長として事業運営の相談を受けるなど、小川出身の詩人草野心平を通じ、いわき市の文化発展に多大な功績を残してきた、粟津則雄(あわづ・のりお)さんが、心筋梗塞のため東京都練馬区の施設で19日に死去した。
 96歳。葬儀は近親者などで行い、喪主は弟庸雄(つねお)さんが務めた。粟津さんの著作集を刊行している、思潮社(本社・東京都)が後日、しのぶ会を催す予定。
 1927(昭和2)年8月15日、現在の愛知県西尾市生まれ。東京大文学部フランス文学科を卒業後、学習院大で講師を務める傍ら、57年6月の総合芸術誌「ユリイカ」に評論「ボードレールの近代性」を寄稿して注目を集めた。
 1960年刊行のフランス文学全集第12巻(東西五月社版)では、ランボーの「地獄の一季節」そのほかを初めて訳した。ランボーの翻訳と研究の第一人者として名をはせ、長篇評論の第1巻「少年ランボオ」(思潮社)、「ランボオ全詩」(同)など多くの著書を残した。
 また1970年に第8回藤村記念歴程賞、82年に「正岡子規」(朝日新聞社)で第14回亀井勝一郎賞を受賞。1993(平成5)年には紫綬褒章を受章し、2010年、83歳で刊行した「粟津則雄著作集」(第1次全7巻)は第1回鮎川信夫賞特別賞を受賞した。
 市立草野心平記念文学館が開館した1998年7月から館長を務め、2019年4月に名誉館長に就任。同館によると、同館に最後に来館したのは、同年11月3日の記念講演会「草野心平と粟津則雄」だった。

草野心平記念文学館さんの初代館長を務められていた平成15年(2003)、同館で「高村光太郎・智恵子展」を開催して下さいました。
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その際の図録には館長としてのご挨拶の他、「光太郎と心平」と題する論考をご発表。

他にも光太郎がらみの玉稿が複数おありでした。

現在も版を重ねている集英社文庫『レモン哀歌 高村光太郎詩集』(平成3年=1991)巻末の「解説――剛直な明治人」。
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他に、雑誌の光太郎特集号等で。

『国文學 解釈と教材の研究』第18巻第14号(學燈社 昭和48年=1973)で「特集 詩的近代の成立 萩原朔太郎と高村光太郎」を組んだ際に、「近代芸術家意識-高村光太郎と萩原朔太郎」をご寄稿。

『みづゑ』第856号(美術出版社 昭和51年=1976)の「没後20年記念 高村光太郎 その芸術+智恵子の紙絵」という特集では「高村光太郎の矛盾と超克:ある近代日本精神の道程」。
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『歴程』第282号(歴程社 昭和57年=1982)の「特集 高村光太郎生誕百年」には「「道程」寸感」。

いずれも光太郎へのリスペクト溢れるものでした。

それから間接的な関わりですが、詩人の宮静枝が昭和27年(1952)に花巻郊外旧太田村の光太郎を訪問した際の体験をまとめた『詩集 山荘 光太郎残影』(平成4年=1992)が、その年の第33回晩翠賞に選ばれた際、選考委員のお一人が粟津氏でした。
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翌年刊行された『詩集 山荘 117人の感想録』には、宗左近、吉野弘と選考委員三人の連名で出された「選評」が掲載されています。

他にも、氏のご著作の中で光太郎に言及されているものもいくつか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「光太郎詩集」は鎌倉書房から五冊届きました。一冊署名して別封小包でお送りしました。誤植は十三個所ありました。印税を果してよこすかどうかと思つてゐます。知らない本屋はあてになりません。

昭和22年(1947)7月12日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

鎌倉書房版『高村光太郎詩集』は、戦前戦後通じて初の光太郎選詩集として、草野心平の編集で刊行されました。

豪放な一面のあった心平は、細かいことにはあまりこだわらない部分があり、心平編集の光太郎関連には誤植が目立ちました。光太郎没後の昭和37年(1962)に刊行された光太郎詩集『猛獣篇』は、心平が鉄筆を執り、ガリ版で刷られたものですが、こちらでも誤字が散見されます。心平のことなので「印税を果してよこすかどうか」と光太郎も半ばあきらめていました。

亡くなった粟津氏、心平とは深いご交流がおありで、そのため心平記念文学館初代館長に就任されたわけですが、令和元年(2019)から翌年にかけ、同館ではお二人の交流に的を絞った「草野心平と粟津則雄」という企画展まで開催されました。
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当方、粟津氏から直接伺った話で最も印象に残っているのは、こちらの図録でも触れられていますが、心平からの電話のエピソード。ある日の真夜中に突然心平から粟津氏に電話があり、寝ぼけまなこの粟津氏が電話口に出ると「粟津君、ゴーギャンの赤って、あれ、哀しみの色だね」。氏が「そうですね」と答えると、心平は満足そうに笑って、それでガチャン(笑)。こんな心平とのつきあい、さぞ大変だったのではないかと推察いたしました。

しかし、それを補って余りある「優しさ」的なものを心平から受けられました。氏が飼われていたコリーの「権太」が死ぬと、心平はすぐさま詩「権太」を書いたというエピソードも印象的です。

一昨日の第68回連翹忌席上にて、参会の方々が「お土産です」的に書籍等を下さいました。

まず一般社団法人日本詩人クラブの宮尾壽里子氏から同会刊行の『評論・エッセイ 詩界論叢2023』通巻第1集創刊号。500ページ近い厚冊です。
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公式サイトには目次の詳細が出ておらず、こちらの検索網に引っかかりませんでしたが、宮尾氏が「愛と芸術に生きようとした女性~智恵子の場合~『智恵子抄』「智恵子の半生」より」と題する論考を寄せていらっしゃいます。

目次画像は以下の通り。
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ご入用の方、上記リンクをご参照下さい。Amazonさん等でも取り扱いがあります。

続いて当方も加入している高村光太郎研究会ご所属の佐藤浩美氏から文芸同人誌『四人』第107号。
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佐藤氏、光太郎の親友だった作家・水野葉舟の小品「かたくり」」をご紹介なさっています。
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奥付画像を載せておきます。
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高村光太郎研究会からは『高村光太郎研究(45)』。
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昨秋行われた研究発表会、第66回「高村光太郎研究会」での発表を元に、当会顧問であらせられた北川太一先生のご子息・北川光彦氏が「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」を、武蔵野美術大学さんの教授・前田恭二氏で「新出「手」書簡の後景――米原雲海と口村佶郎」。それから当方も「智恵子、新たな横顔」を寄稿しました。

さらに当方は、この1年間で新たに見つけた『高村光太郎全集』未収の光太郎文筆作品の集成「光太郎遺珠⑱」、昨年1年間の光太郎智恵子、光雲に関わる「高村光太郎没後年譜」も。そして主宰の野末明氏による「高村光太郎文献目録」、「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」。

こちらも奥付画像を載せておきます。
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もう1冊、光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存運動にからんで、文治堂書店主・勝畑耕一氏が『中野・中西家と光太郎』という書籍を上梓なさいました。当方、「監修」ということになっております。
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こちらについてはまた改めて詳細をご紹介いたします。

以上、いただきもの等。

001逆に当会から参会の皆様にお配りしましたのが、『光太郎資料61』。北川太一先生が発行されていたものの名跡をお譲りいただき、当会にて年2回発行しております。印刷のみ印刷屋さんに頼み、丁合、綴じ込みは手作業の手作りの冊子です。

目次
 「光太郎遺珠」から 第二十五回 書(二)
 光太郎回想・訪問記  高村光太郎と出会った頃 田口弘
 光雲談話筆記集成 牙彫の趣味/「さび」と渋みと
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  犬吠埼(千葉県)その一
 音楽・レコードに見る光太郎
  箏曲「千鳥と遊ぶ智恵子」/「地上のモナリザ」
 高村光太郎初出索引
 編集後記

ご入用の方はコメント欄等から当方まで。

書籍類等はこんなところです。

他に、やはり第68回連翹忌ご参会の方々のうち、わざわざ「お土産です」と食品類をお持ち下さったり、「4月2日はお世話になります」と直前に宅配便でお送り下さったりという方が多数いらっしゃいました。多謝。

和洋のスイーツやら中華まんやら漬物やら珈琲/紅茶やら(笑)。2枚目画像は宅配便で宮城県の「女川光太郎の会」さんから届いた笹蒲鉾です。
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妻曰く「実にありがたいんだけど、あんた、いったい何者だと思われてるの?」(笑)。

何者だと思われているんでしょうかね?(笑)。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」は今でもかなり読みたがつてゐる人があるやうで、時々人から質問される事がありますから、今日出版するのも無意味ではないやうに思はれます。


昭和22年(1947)4月11日 鎌田敬止宛書簡より

a詩集『智恵子抄』は太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に龍星閣から刊行され、戦時にもかかわらず昭和19年(1944)の13刷まで増刷されました。その後、戦争の影響で龍星閣は休業。戦後になると店頭からは『智恵子抄』が消えてしまいました。

そこで休業中の龍星閣に代わって、白玉書房の鎌田が『智恵子抄』復刊を企図し、龍星閣の澤田伊四郎から許諾を得たのでお願いします、的な申し入れを光太郎に。その返答の一部です。

そして白玉書房版『智恵子抄』が、この年11月に刊行されました。ところが刊行されてから、澤田の方では「許諾した覚えはない」。この時期、この手のトラブルがいろいろありました。

光太郎智恵子、光雲に掠(かす)った小説を2冊、ご紹介します。

火口に立つ。

2024年2月3日 松本薫 著 小説「生田長江」を出版する会 刊 定価1,800円+税

たぎる時代を果敢に生きた生田長江と一人の女性の物語。

主人公・律の目を通して描かれる、日野町出身の文学者・生田長江と彼を取り巻く人々。『青鞜』の創刊、大正デモクラシー、関東大震災――沸騰し、揺れる時代の中、誰もが火口に立っていた。

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目次
 一章 坂の上の家    明治四十四年(一九一一)春――
 二章 『青鞜』の女たち 明治四十四年(一九一一)春――大正元年(一九一二)冬
 三章 デモクラシーの旗 大正二年(一九一三)春――大正四年(一九一五)春
 四章 自立という名の嵐 大正四年(一九一五)夏――大正六年(一九一七)夏
 五章 デモクラシーの波 大正七年(一九一八)夏――大正八年(一九一九)夏
 六章 資本と労働    大正八年(一九一九)夏――大正九年(一九一〇)夏
 七章 揺らぐ大地    大正十二年(一九二三)夏――大正十四年(一九二五)冬
 八章 ここを超えて   昭和三年(一九二八)春――昭和十二年(一九三七)夏
 終章          昭和三十三年(一九五八)秋

評論家・翻訳家の生田長江の家に女中(コンプライアンス的に問題のある表現ですが当時の用語をそのまま使わせていただきます)として勤めていた南原律という架空の人物を主人公にした小説です。

高等教育も受けていなかった律が、長江やその周辺の人物らの感化・薫陶を受けて社会運動に強い関心を持ち、大それたことはできないものの、自分なりに社会変革に取り組んでいくというストーリー。

生田長江は光太郎より一つ年上で明治15年(1882)、鳥取県の生まれ。智恵子がその創刊号の表紙を描いた『青鞜』の名付け親です。青鞜社主催の講演会で共に壇上に立ったり、与謝野家での歌会に同席したりと、光太郎とも面識がありました。小説ではそのあたりのシーンが描かれておらず、残念ながら光太郎の名は全編通して出て来ませんでした。智恵子は表紙絵の関係で3回ほど触れられましたが登場はしませんでした。

ただ、『青鞜』主宰の平塚らいてうをはじめ、光太郎智恵子と交流のあった人々がたくさん登場します。与謝野夫妻、佐藤春夫、生田春月、馬場孤蝶、森鷗外、尾竹紅吉、有島武郎、中村武羅夫、足助素一、そして映画「風よ あらしよ」などで再び脚光を浴びている大杉栄と伊藤野枝などなど。

目次を見ると、長江がどの時期にどういった活動に取り組んでいたかが概観できますね。長江は大杉らほどの過激な主張はしませんでしたが、社会変革に対する意識は高く持ち続けました。また、ハンセン病に罹患していたこともあり、その方面での差別等との闘いも、本書の大きな流れを形作っています。

作者の松本薫氏は鳥取ご出身で、地域密着の小説等を書かれている方。版元は「小説「生田長江」を出版する会」さん。長江の地元・鳥取県日野郡日野町で長江の顕彰に当たられている団体のようです。素晴らしい取り組みだと思いました。

もう一冊。

時ひらく

2024年2月10日 辻村深月/伊坂幸太郎/阿川佐和子/恩田陸/柚木麻子/東野圭吾 著
文藝春秋(文春文庫) 定価700円+税

創業350年の老舗デパート『三越』をめぐる物語

楽しいときも、悲しいときも いつでも、むかえてくれる場所
物語の名手たちが奏でる6つのデパートアンソロジー 文庫オリジナル!

制服の採寸に訪れて感じたある予感。ライオンに跨る必勝祈願の言い伝えを試して見えたもの。老いた継母の買い物に付き合ってはぐれてしまった娘。命を宿した物たちが始めた会話。友達とプレゼントを買いに訪れて繋がった時間。亡くなった男が最後に買った土産。歴史あるデパートを舞台に、人気作家6人が紡ぐ心揺さぶる物語。
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目次
 「思い出エレベーター」 辻村深月
   階下を見下ろしている泣きそうな顔の子どもがもし、いたら。
 「Have a nice day!」 伊坂幸太郎
   三越のライオン、知ってる? あれに跨ると夢が叶うんだって。
 「雨あがりに」 阿川佐和子
   三越でしか買い物をしないなんて、どこかのお嬢様のすることだ。
 「アニバーサリー」 恩田陸
   ざわざわするというか、ウキウキするというか。
 「七階から愛をこめて」 柚木麻子
   私の本当の願いはね。これから先の未来を見ることなの。
 「重命(かさな)る」 東野圭吾
   草薙は思わず声をあげて笑った。「いいねえ、湯川教授の人生相談か」

昨年から今年にかけての、雑誌『オール読物』さんでのリレー連載でした。

キーワードはずばり「三越」。前身の越後屋呉服店創業から数えて350年ということでの記念企画の一環です。そこで表紙も三越さんの包装紙がモチーフ。素晴らしいと思いました。「この手があったか」とも。書店で平積みになっていると、ひときわ目立ちます。
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ちなみにこの包装紙、デザインは新制作派の画家で光太郎とも交流のあった猪熊弦一郎。ちゃんと「華ひらく」というタイトルがついた作品です。モチーフは大正元年(1912)、光太郎智恵子が訪れ、愛を確かめ合った千葉銚子犬吠埼海岸付近の石だそうです。
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そして「mitsukoshi」のロゴは故・やなせたかし氏の筆跡。氏はメジャーになる以前、三越さんに勤務されていました。

さて、『時ひらく』。心温まる小説あり、ハラハラドキドキのスペクタクルあり、ファンタジーあり、推理小説(東野圭吾氏の「ガリレオ」シリーズ最新作)あり、ウクライナ問題への言及ありの6篇です。

6篇すべてに三越さんが登場。4篇は日本橋本店さん、1篇は仙台店さんが物語の主要な舞台です。1篇だけは日本橋本店さんのデパ地下がちらっと舞台に。日本橋本店さんでは、もはや「アイコン」ともいうべき店内のさまざまな名物が描かれます。光太郎の父・光雲の孫弟子にあたる佐藤玄玄(朝山)作の巨大彫刻「天女( まごころ)像」、その足下にいくつも見られる大理石中のアンモナイト化石、同じく中央ホールのパイプオルガン、さらに三越劇場、そして三越さんのシンボル・ライオン像……。なんと1篇はそれらのアイコンたちが主人公(笑)。それぞれが見つめてきた歴史などが語られます。

日本橋本店さんのアイコンといえば、屋上・三囲神社さんに鎮座まします光雲作の「活動大黒天」も外せないような気がします。そこで、それも登場するかと期待しつつ頁を繰りましたが、残念ながら出て来ませんでした。まぁ、通常非公開の像なので、仕方がありませんか……。

以前も書きましたが、当方、学生時代、毎年お歳暮の時期に三越さんの配送で長期のアルバイトをしておりました。店舗の方ではなく江東区木場の再送品センターが主な勤務地でしたが。バブル前夜でかなりの日給でした。そこで三越さんには特別な思い入れがあり、ついつい熱く語ってしまいました(笑)。

さて、『火口に立つ。』/『時ひらく』、それぞれぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

スケツチは何かお送り出来るかと思ひます。色彩が印刷でよく出るかどうか疑はれますから、極く淡くか又は黒と白とだけで描くべきでせう。


昭和22年(1947)3月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳

この年、更科によって北海道で発刊された雑誌『至上律』への執筆等依頼への返信の一節です。「スケツチ」は11月の第2輯にカラー印刷で掲載されました。奇跡的に現物が残っており、花巻郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されています。
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1年以上前の刊行ですが、つい最近入手しました。

世界で最初に飢えるのは日本 食の安全保障をどう守るか

2022年11月16日 鈴木宣弘著 講談社(講談社+α新書) 定価900円+税

いまそこに迫る世界食糧危機、そして最初に飢えるのは日本、国民の6割が餓死するという衝撃の予測……アメリカも中国も助けてくれない。国産農業を再興し、安全な国民生活を維持するための具体的施策とは?
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目次002
 まえがき
 序章 「クワトロ・ショック」が日本を襲う
  「飢餓」が現実になる日
  「大惨事が迫っている」国際機関の警告
  コロナで止まった「種・エサ・ヒナ」
  ウクライナ戦争で破壊された「シードバンク」
  世界で起こっている「食料・肥料争奪戦」
  「バイオ燃料」が引き起こした食糧危機
  一日三食「イモ」の時代がやってくる
  日本には「食料安全保障」が存在しない
  「市場戦争」と「自己責任」が食糧危機を招いた
  なぜ「食料増産」をしないのか
 第一章 世界を襲う「食の10大リスク」
  穀倉地帯を直撃した「ウクライナ戦争」
  国力低下の日本を直撃「中国の爆買い」
  人手不足を悪化させた「コロナショック」
  もはや当たり前になった「異常気象」
  「原油価格高騰」で農家がつぶれる
  世界の食を牛耳る「多国籍企業」
  食を軽視する「経産省・財務省」 
  「今だけ、カネだけ、自分だけ」の「新自由主義者」が農業を破壊する
  「農業生産の限界」が近付いている
 第二章 最初に飢えるのは日本
  日本の食料自給率はなぜ下がったのか
  コメ中心の食を壊滅させた「洋食推進運動」
  食料は武器であり、標的は日本
  コメ中心の食生活がもたらす「10のメリット」
  有事にはだれも助けてくれない
  「食料はお金で買える」時代は終わった
  「食料の収益性」を挙げても危機は回避できない
  「食料自給率を上げたい人人はバカ」の問題点
 第三章 日本人が知らない「危険な輸入食品」
  台湾で「アメリカ産豚肉の輸入反対デモ」が起きたワケ
  「成長ホルモン牛肉」の処分地にされる日本
  「輸入小麦は危険」の理由
  「日米レモン戦争」とポストハーベスト農業の真実
  ポテトチップスに使われる「遺伝子組み換えジャガイモ」
  輸入食品の危険性は報じられない
  世界を震撼させた「モンサントペーパー」
  「遺伝子組み換え表示」が実際に無理になったワケ
  表示の無効化に負けなかったアメリカの消費者
 第四章 食料危機は「人災」で起こる
  世界中で「土」が失われている
  化学肥料農業を脅かす「リン枯渇問題」と「窒素問題」
  農薬が効かない「耐性雑草」の恐ろしさ
  世界に広がる「デッドゾーン」
  多国籍企業が推進する「第二の緑の革命」
  「アメリカだけが利益を得られる仕組み」が食料危機をもたらす
  「牛乳余り問題」という人災
  「買いたくても買えない」人には人道的支援を
  あってはならない「酪農家の連鎖倒産」
 第五章 農業再興戦略
  「日本の農業は過保護」というウソ
  日本農業の「三つの虚構」
  農業の大規模化はムリ
  有機農業で中国にも遅れをとる
  「農業への補助金」実は大したコストではない
  「みどりの食料システム改革」
  「GAFAの農業参入」という悪夢
  「三方よし」こそ真の農業
  給食で有機作物を
  「ローカルフード法」は日本を変えるか
  日本のお金が「中抜き」される理由
  「ミュニシパリズム」とは何か
  「新しい食料システム」の取り組み
  「有機農業&自然農法」は普及できるか
 あとがき

著者の鈴木宣弘氏は東京大学大学院農学生命科学研究科教授。食糧問題に関する提言をされる中で、光太郎の言葉を引用されています。当方が最初に気づいたのは一昨年3月の地方紙『長周新聞』さんに載った「【緊急寄稿】日本は独立国たりえているか―ウクライナ危機が突きつける食料問題」という記事で、光太郎最晩年の詩「開拓十周年」(昭和30年=1955)の一節、「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」が引用されていました。その後(その前からも)、鈴木氏、ことあるごとにこの一節を紹介されています。そして今回ご紹介する『世界で最初に飢えるのは日本 食の安全保障をどう守るか』でも。

それにしても目次を見ただけでもショッキングな言葉が並んでいますね。しかし、陰謀論者の強引な牽強付会とは一線を画し、きちんとしたエビデンスに基づいて理路整然と論が展開しています。

こういう問題についつい目を背けがちなのは、国民はバカでいてほしいと願う、壺の大好きな為政者たちの思う壺なのかも知れません。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

貴下に頂いた南瓜も成り、真壁さんにいただいた帯紫茄子も種子から育てて大成績をあげ、既に毎朝新鮮なのを賞味して居ります。


昭和21年(1946)9月5日 更科源蔵宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村でまがりなりにも三畝の畑を開墾し、野菜類はほぼ自給していた光太郎、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。
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3月に刊行された書籍ですが、光太郎に関する記述が含まれていることを最近知り、慌てて購入しました。

反戦川柳人 鶴彬の獄死

2023年3月22日 佐高真著 集英社刊(集英社新書) 定価980円+税

 サラリーマン川柳のように、現代では風刺や批判をユーモラスに表現するものとして親しまれている川柳。しかし、「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」といった川柳を通じて、昭和初期、軍国主義に走る政府を真正面から批判し反戦を訴え続けた作家がいた。
 鶴彬、享年二十九。官憲に捕らえられ、獄中でなお抵抗を続けて憤死した”川柳界の小林多喜二”と称される鶴彬とはどのような人物だったのか。戦後約八十年、再び戦争の空気が漂い始めた今の日本に、反骨の評論家・佐高信が、鶴の生きた時代とその短い生涯、精神を突き付ける!
003
目次
 はじめに――同じ年の明暗
 一 鶴彬を後世に遺そうとした三人004
  1 一叩人こと命尾小太郎の執念
  2 澤地久枝の彫心鏤骨
  3 伝達者、坂本幸四郎
 二 師父、井上剣花坊
  井上剣花坊、政治から文学へ
  「社会党ラッパ節」の添田唖蟬坊
  『日本』新聞で川柳に出会う
  伝統川柳と革新川柳
  井上信子と鶴彬
  田辺聖子は鶴彬をどう見たか
 三 兄事した田中五呂八との別れ
  鶴の兄弟子・田中五呂八
  現実主義と神秘主義に分裂する柳壇
  田中五呂八の死と鶴の追悼文
  木村半文銭への罵倒
 四 鶴彬の二十九年
  大逆事件と鶴の生きた時代
  剣花坊の娘・鶴子
  軍隊内での鶴彬
  鶴の最期
 五 石川啄木と鶴彬
  石川啄木をどう見ていたか
  「性急な思想」の波
  徳富蘆花の「謀反論」
 補章 短歌と俳句の戦争責任
  藤沢周平の斎藤茂吉批判
  高浜虚子の戦争責任
 おわりに
 参考文献


明治42年(1909)生まれの川柳作家・鶴彬(つるあきら)の評伝兼研究史です。

鶴は本書の帯にも印刷されている「万歳とあげて行つた手を大陸においてきた」などの強烈な反戦川柳を数多く詠み、そのため特高によって逮捕、最期は29歳の若さで獄死しました。

004平成11年(1999)、皓星社さんから刊行された井之川巨氏著『君は反戦詩を知ってるか 反戦詩・反戦川柳ノート』という書籍に「鶴彬-反戦川柳のはげしさとやさしさ」という20ページ程の項があり(ちなみに同書には「高村光太郎 戦争詩と自己批判」という項もあります)、鶴のアウトラインは存じていましたが、今回、『反戦川柳人 鶴彬の獄死』を読んでその生涯等をさらに詳しく知り、唸らされました。

川柳というと、ほのぼの、ユーモアといったイメージもありますが、鶴の作品はそういったものとは無縁です。まぁ、ユーモアと言えばブラックユーモアですが。

 屍のいないニュース映画で勇ましい
 出征の門標があってがらんどうの小店
 タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう
 手と足をもいだ丸太にしてかへし
 華やかに名を売り故郷へ骨が着き


太平洋戦争開戦前でしたが、既に日中戦争が始まっていた昭和12年(1937)、こういった作品が元で鶴は検挙され、翌年に獄死します。直接の死因は赤痢でしたが、それも赤痢菌を注射されての人体実験だったのではないかという説もあるそうです。

本書では更に、鶴の師匠や兄弟子らにも言及され、当時の川柳界の史的位置づけが為されていますし、戦後になってから鶴を顕彰し、その作品の埋没を防いだ人々(ノンフィクション作家・澤地久枝氏もその一翼を担っていたとは存じませんでした)の努力にも筆が及んでいます。

そして川柳同様、定形文学たる歌壇と俳壇の戦時中の動向。その中で翼賛歌を作り続けた斎藤茂吉に関する項で、光太郎との比較といった話になっています。歴史作家の藤沢周平が平成元年(1989)に行った講演からの引用がメインですが。

この講演の中で藤沢は同郷の茂吉が戦後になっても皇国史観から抜け出せず、戦時中の馬鹿げた翼賛歌への反省もしなかったことを手厳しく批判しています。それに対し、光太郎はきちんと自らを検証し、花巻郊外旧太田村の山小屋で自らを罰した、その違いは何なんだ……というわけです。

ちなみに藤沢の講演、平成23年(2011)に大月書店さんから刊行された澤田勝雄氏編『藤沢周平とっておき十話』に収録されていますし、佐高氏、平成26年(2014)に株式会社金曜日さんから刊行された辺見庸氏との対談集『絶望という抵抗』でも藤沢が茂吉と光太郎を論じたことに触れられています。
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さて、『反戦川柳人 鶴彬の獄死』をはじめ、本日ご紹介した書籍いろいろ、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

この辺は旧暦なのでまだ正月にはなりませんが、小生は二日吉例の書初をいたしました。天下和順日月清明と無料寿経の中の文句を書きました。

昭和21年(1946)1月18日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

終戦から4ヶ月あまり、藤沢周平が実地に見てそのみすぼらしさにショックを受けたという山小屋で「天下和順」と書き初めを書いた光太郎、その心境はいかばかりだったのでしょうか。

文藝春秋さん発行の月刊文芸誌「文學界」。同社の公式サイトにはまだ情報が出ていませんが、最新の2023年11月号、評論家・近現代史研究者の辻田真佐憲氏による連載「煽情の考古学」が「花巻に高村光太郎の戦争詩碑を訪ねる」となっています。
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同連載、日本各地、さらには海外まで含め、戦争遺跡などを実地に歩かれてのレポート。今号で第22回だそうです。

「高村光太郎の戦争詩碑」は、花巻市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社さんにある「一億の号泣」詩碑です。

以前にも書きましたが、詩「一億の号泣」は、終戦二日後の昭和20年(1945)8月17日、『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されたもので、8月15日の玉音放送を鳥谷崎神社社務所で聴いた時の感懐を謳ったものです。
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  一億の号泣

 綸言一たび出でて一億号泣す
 昭和二十年八月十五日正午
 われ岩手花巻町の鎮守
 鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
 天上はるかに流れ来(きた)る
 玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
 五体わななきてとどめあへず
 玉音ひびき終りて又音なし
 この時無声の号泣国土に起り
 普天の一億ひとしく
 宸極に向つてひれ伏せるを知る
 微臣恐惶ほとんど失語す
 ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
 荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
 鋼鉄の武器を失へる時
 精神の武器おのずから強からんとす
 真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
 必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん

戦時中の翼賛詩の流れを汲み、文語体。敗けた悔しさが滲み出ています。

この詩を刻んだ石碑、光太郎没後の昭和35年(1960)、当時の花巻観光協会が光太郎自筆揮毫を石に刻み、鳥谷崎神社に建立しました。ところがその建立を巡っては、すったもんだがいろいろありました。光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝・豊周は、一度はこの碑の建立を許可したのですが、当会の祖・草野心平が「この詩はマズい」。すると豊周も「なるほど、その通りだ」。ところが観光協会では既に碑を作ってしまった後でした。結局、碑は正式に除幕されることなく、昭和39年(1964)には一旦撤去され、神社の床下に格納されました。ゴタゴタがあった中で、碑文を削り、碑ではなくすという案もあったようですが、そうはなりませんでした。

ところがどうしたわけか、昭和57年(1982)頃に床下から出され、再び建立されました。豊周が没したのは昭和47年(1972)、心平は同63年(1988)。無関係ではないような気もします。

「煽情の考古学」では、この碑を巡る経緯、さらには福島二本松の智恵子記念館レポートも。そうした中で、「光太郎の屈折」として、翼賛詩を巡る問題を提起しています。

ちなみに大沢温泉山水閣さんには、宮沢賢治や光太郎などに関わる展示コーナーがあり、この碑の拓本も展示されています。
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ところで、豊周はこの詩を巡り、興味深い回想を残しています。長野県に疎開していた終戦前日のことです。

 八月十四日のこと、座敷で寝ころんでいると、朝日新聞の長野支局から記者が訪ねて来た。私に何の用があって来たのかさっぱりわからないので「何の用か」と聞くと、「実はまだ絶対秘密なのだが戦争が終る」と言うのだ。
 「明日の昼、天皇陛下がラジオの放送でそのことを国民にお告げになることになった。」
 私は本当にびっくりして飛び起きた。
 「それで先生に明後日の新聞に詩を書いてもらいたいのです。」
 おかしいなと私は思ったが先方は、
 「一億号泣という詩を作ってもらいたい、明後日の新聞に出すから、すぐ作って渡してもらえないでしょうか。」
 兄と私を間違えたらしい。
 「俺は高村光太郎じゃないよ。光太郎の弟だよ。」
 「えっ、光太郎先生じゃないんですか。これは困ったな。光太郎先生は何処に居るんです。すぐ行って来ます。」
 「いや、ここにはいないんだ。すぐ行くと言ってもちょっくら行かれはしないよ。」
 「何処なんです。」
 「岩手県の花巻の在にいるよ。」
 記者は慌てて帰って行ったが、さすがは新聞社で、その日のうちに兄に通じて、どうやら用は間に合ったらしい。兄としても考える時間もないし、非常に迷惑千万なことだったろうと思う。しかし戦争の詩といえば高村光太郎と決っていたから、最後のお務めと思って、曲がりなりにも詩を作って間に合わせたものだろう。だが、光太郎の詩としては決していいものでなく、私は好きでない。のみならずその詩が後で攻撃の材料になり、兄も自分で不覚を感じていた。

(『自画像』昭和43年=1968 中央公論美術出版)

おおむねこの通りだったのでしょう。新聞社の方で既に「一億号泣」というタイトルまで指定していたとは驚きでしたが。

光太郎自身は、のちに昭和23年(1948)、戦後の一時期住まわせてもらった佐藤隆房に宛てた書簡にこう記しています。

あの時は一途の心から一億の号泣と書きましたが、其後の国民の行動を見てゐますと、あの時涙をしんに流したものが果して一億の幾パーセントあつたのか、甚だこれは小生の思ひ過ごしであつたやうに感ぜられます。

鳥谷崎神社に行かれる方、あくまで「負の遺産」として、この碑を見ていただきたいと存じます。

というわけで、『文學界』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

十二月八日以来たてつづけにいろいろの当面の用事に従つて居りますにつけ、ますますわれわれが美の内面世界を深く探り進まねばならぬ事を痛感します、われわれ東方の美をどういふ風に世界像として造型すべきか、猛然とした気持になります、


昭和16年(1941)12月22日 水沢澄夫宛書簡より 光太郎59歳

ひるがえって開戦直後には、このような感懐を抱いていました。

新刊です。

父、高祖保の声を探して

2023年8月15日 宮部修著 思潮社 定価1,800円+税

昭和前期の抒情詩 いま ここに
 蛾は/あのやうに狂ほしく/とびこんでゆくではないか/みづからを灼く 火むらのただなかに/わたしは/みづからを灼く たたかひの/火むらのただなかへ とびこんでゆく/あゝ 一匹の蛾だ(「征旅」)
 「わたしは「征旅」の中に父の唯一の声を聞き出すことが出来た。これが本書の執筆動機なのだ。わたしはあえて「征旅」を父の辞世の詩と判定した。」(「おわりに」)

 堀口大學に『雪』の詩人と評され、ビルマに戦没した高祖保。その抒情詩の世界を元新聞記者の85歳の息子が精緻に辿る。出征直前の詩「征旅」に響く声とは――肉親ならではの渾身の評伝。
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目次
 はじめに
 第一章 詩人、高祖保の肖像
  幼年時代の苦悩
  ゆるぎない人間関係
  編集者魂
  詩の限界はどこまで広がるか
  エピグラフの効果
  詩と長歌の間に
  横書きの効果
 第二章 父の声
  第一詩集『希臘十字』 モダニズムにとりつかれて
  第二詩集『禽のゐる五分間写生』 詩に俳味をとりこむ
  第三詩集『雪』 「礼儀正しさ」
  第四詩集『夜のひきあけ』 戦火のもと誕生した生命
  追悼全詩集『高祖保詩集』収録の未刊詩集『独楽』 父の詩の新展開
  『独楽』の巻頭に突如、現れた詩「征旅」について
  辞世の詩 達観の八行、強烈なリズム
 おわりに
 年譜


高祖保(明治43年=1910~昭和20年=1945)は、岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)に生まれ、父の死後、9歳で母と共に母の実家のあった滋賀県彦根に移り住みました。旧制中学時代から詩作に親しみます。國學院大學師範部を卒業し、横浜で叔父の経営する貿易会社に入社、のち、社長となったものの、昭和19年(1944)に出征し、翌年にはビルマ(ミャンマー)で戦病死しています。

昭和初め、高祖の個人雑誌に近かったという『門』に、確光太郎は2回寄稿しています。

最初が創刊号(昭和3年=1928)に載った詩「その詩」。
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   その詩

その詩をよむと詩が書きたくなる。
その詩をよむとダイナモが唸り出す。
その詩は結局その詩の通りだ。
その詩は高度の原(げん)の無限の変化だ。
その詩は雑然と並んでもゐる。
その詩は矛盾撞着支離滅裂でもある。
その詩はただ奥の動きに貫かれてゐる。
その詩は精算以前の展開である。
その詩は気まぐれ無しの必至である。
その詩は生理的の機構を持つ。
その詩は滃然と空間を押し流れる。002
その詩は転落し天上し壊滅し又蘇る。
その詩は姿を破り姿を孕む。
その詩は電子の反撥親和だ。
その詩は眼前咫尺に生きる。
その詩は手きびしいが妙に親しい。
その詩は不思議に手にとれさうだ。
その詩は気がつくと歩道の石甃(いしただみ)にも書いてある。

昭和2、3年(1927、1928)頃が、光太郎の文筆が最も旺盛だった時期で、まさにその時期の作。光太郎の詩論的なものもよく表されています。高祖はこの詩を受けとって感激し、座右に近い形にしていたとのこと。

さらに、同誌終刊号(昭和5年=1930)には「詩そのもの」という散文も寄せています。こちらも散文詩のような趣で、いい文章です。

 ヸタミンは抽出出来る。生命そのものは抽出出来ない。生命はいつでも物質にインカルネイトする。詩そのものの抽出も亦不可能である。詩はいつでも素材にインカルネイトする。真の詩人は、いかなる素材、いかなる思想をも懼れない。詩が生命そのものの如き不可見であり又遍在である事を知るからである。第二流の筆技詩人のみ、詩の為に素材を懼れ、詩に求む可きは詩の抽出なりと思惟する。是れ生命とヸタミンとを倒錯する者に類する。

また、昭和18年(1943)には、光太郎の年少者向け翼賛詩集『をぢさんの詩』の編集に高祖があたりました。光太郎本人による同書の序文には「なほこの詩集の出版にあたつて一方ならず詩人高祖保さんのお世話になつた事を感謝してゐる。」と記されています。平成25年(2013)の明治古典会七夕古書入札市で、光太郎から高祖に贈られた識語署名入りの『をぢさんの詩』他が出品されています。
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さて、前置きが長くなりましたが、本書は高祖の子息・宮部修氏(おん年85だそうで)のご執筆。昨年、土曜美術社出版さん発行の雑誌『詩と思想』が高祖の特集を組み、そちらに寄稿されていた、高祖の顕彰に当たられている清須浩光氏にいろいろご質問等させていただいたところ、清須氏から宮部氏に当方が紹介されたようで、宮部氏から直々に届きました。感謝に堪えません。

当方、高祖の詩は、手元にあるいくつかの詞華集や古雑誌(光太郎作品が掲載されているもの)にたまたま載っていた何篇かを読んだだけで、その全貌的なものは存じませんでした(光太郎オマージュの詩もあって微笑ましい感じでした)。で、本書にかなりの作品を掲載、また、宮部氏による的確な解説や考察が為され、その変遷の様も知ることができ、なるほど、こういう詩人だったか、と思った次第です。光太郎には書き得ない、透徹した美しい言葉を紡ぎ(ある種、難解な部分はあって、それは宮部氏もご指摘なさっていますが)、もっと広く世に知られるべき詩人だな、と存じました。

高祖は昭和20年(1945)、出征したビルマで戦病死。光太郎がいつその死を知ったか不明ですが、翌昭和21年(1946)には追悼文を書き、その死を惜しんでいます。その頃の光太郎は花巻郊外旧太田村の山小屋で独居中。当初は友人知己を呼んで岩手の山村に文化部落を作る、昭和の鷹峯だ、というような無邪気な夢想もあったのですが、徐々に自らの戦争責任への内省が進み、「わが詩をよみて人死に就けり」という心境に達します。その裏には、高祖ら、交流のあった人々の戦死を知ったことも大きく影響していたのではないかと思われます。

さらに本書では、光太郎以外に堀口大学、岩佐東一郎、田中冬二、井上多喜三郎、百田宗治らとの交流についても。光太郎も草野心平・尾崎喜八等の系統とは別に、これらの人々ともつながりがあって、そうした部分でも興味深く感じました。

といううわけで、ぜひ、ご購読下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさんの健康は目に見えてよくなつたやうに見うけ、喜びました。身体がよくなれば自然と頭の方もよくなる事かと考へます。御看護の御苦労をお察し申上げます。皆様のお心づくしを忝い事に存じます。


昭和9年(1934)6月29日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心の病の療養のため智恵子を預けた九十九里の智恵子実母宛。「健康は目に見えてよくなつた」は結核性の疾患の方。残念ながら「身体がよくなれば自然と頭の方もよくなる事」は叶いませんでした。

新刊です。

自称詞〈僕〉の歴史

2023年6月30日 友田健太郎著 河出書房新社(河出新書) 定価980円+税

なぜ〈僕〉という一人称は明治以降、急速に広がり、ほぼ男性だけに定着したのか。古代から現代までの〈僕〉の変遷を詳細に追い、現代の日本社会が抱える問題まで浮き彫りにする画期的な書。

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目次
はじめに
第1章 〈僕〉という問題
 WBCを席捲した〈僕〉
 野球スター今昔――〈ワイ〉から〈僕〉へ
 スポーツ界で一般化する〈僕〉
 EXILEには〈僕〉を使うルールがある?
 女性にも広がる〈僕〉
 〈僕〉が登場する記事が三〇倍に
 「主体」を出す表現が増えてきている?
 〈僕〉が選ばれる割合が増加
 〈僕〉は戦後世代の自称詞に
 〈僕〉が増えた理由は?
 主な自称詞の由来や性質
 男性が最も一般的に使うのは〈俺〉
 自称詞とは?
 すり減っていく「敬意」
  自称詞が徐々に「偉そう」に
 〈僕〉が平等を促進?
第2章 〈僕〉の来歴――古代から江戸時代後期まで
 日本最古の〈僕〉
 「古事記」の世界観を表現
 「日本書紀」の〈僕〉
 中国から来た〈僕〉
 〈僕〉の二つの意味合い
 中世の欠落
 〈僕〉が使われ始めた元禄時代
 初期の用例
 唐代の「師道論」
 元禄時代の〈僕〉は師道論へのオマージュ
 身分制度の性格を離れた友情を表す〈僕〉
 広がる〈僕〉使用
 渡辺崋山の〈僕〉
第3章 〈僕〉、連帯を呼びかける――吉田松陰の自称詞と志士活動
 吉田松陰という人
 長州の学問の伝統
 松陰の人間関係
 松陰の書簡の分類
 〈僕〉の使用が少ない家族宛書簡
 「友人宛」で〈僕〉を多く使用
 弟子宛書簡にも多い〈僕〉
 親友でもあった兄・梅太郎
 秀才の初めての挫折
 秀才の初めての非行
 黒船が来て政治に目覚める
 黒船に乗り込み、完全にコースを外れる
 兄との激論
 熊皮の敷物に込めた思い
 松陰の出獄と松下村塾の始まり
 政治活動の激化
 感情の揺れと〈僕〉
 同志に贈る書簡の〈僕〉
 領分関係者への〈僕〉
 〈僕〉に込めた「対等性」
第4章 〈僕〉たちの明治維新――松陰の弟子たちの友情と死
 弟子たちの重要性
 貴公子・高杉晋作
 藩医の家の孤児・久坂玄瑞
 武家社会の末端・入江杉蔵
 松陰との出会い
 松陰と杉蔵兄弟の入獄
 杉蔵に死を迫った松陰
 杉蔵の反発と松陰の謝罪
 家庭事情を打ち明ける晋作
 玄瑞に友情を求める晋作
 晋作と松陰
 松陰の死
 玄瑞と杉蔵の友情
 杉蔵の志士活動の挫折
 過激化する晋作と玄瑞
 杉蔵の志士活動の本格化
 杉蔵と玄瑞の最期
 その後の晋作
 身分社会の崩壊と〈僕〉
第5章 〈僕〉の変貌――「エリートの自称詞」から「自由な個人」へ
 下級武士が中心となった革命
 明治時代の教育の普及
 『安愚楽鍋』の〈僕〉
 河竹黙阿弥の歌舞伎台本
 黙阿弥作品の〈僕〉――教育との関わり
 黙阿弥作品の〈僕〉――金と権力
 明治の「立身出世」と〈僕〉
 江戸文人の〈僕〉
 黙阿弥の引退作に使われた〈僕〉
 泥棒から権力者へ
 黙阿弥自身の遺した〈僕〉
 教育の普及
 近代日本文学は「〈僕〉たちの文学」
 文豪・漱石の〈僕〉〈君〉
 明治時代の庶民と〈僕〉
 大杉栄の〈僕〉
 高村光太郎の〈僕〉
 戦没学生の〈僕〉の分析
 女性への呼びかけとしての〈僕〉
 軍隊と〈僕〉
 『戦没農民兵士の手紙』との比較
 戦後の大学進学率の上昇と〈僕〉の普及
 連続殺人鬼・大久保清の〈ぼく〉
 「男はつらいよ」諏訪家三代の〈僕〉
 三田誠広の『僕って何』
 村上春樹の〈僕〉
 社会へのコミットメントを深める村上春樹
 〈僕〉の可能性は
終章 女性と〈僕〉――自由を求めて
 これまでのまとめ
 ストーリーの欠落としての女性
 江戸時代、女性は〈僕〉を使わなかった?
 「男性化」への拒否感
 『女性は女性らしく』
 河竹黙阿弥が描いた女書生の〈僕〉
 繁=お繁の自称詞使い分け
 『当世書生気質』の中の女性の〈僕〉
 『浮雲』の中の女性の〈僕〉
 〈僕〉が映す学生文化への憧れ
 田辺聖子『藪の鶯』
 天才少女の小説『婦女の鑑』
 翻訳小説に登場した〈僕〉
 樋口一葉の登場
 一葉の使った〈僕〉
 男女の人生の違いを浮き彫りに
 与謝野晶子の苦痛
 「男装の麗人」水の江滝子の〈僕〉
 宝塚の〈僕〉
 綿々と続く男装文化
 奇人・本荘幽蘭の〈僕〉
  川島芳子の〈僕〉
 男装の影の「素顔」
 川島芳子は生きていた?
 戦中の「礼法要項」に定められた男女の別
 戦後の〈僕〉の光景――林芙美子の『浮雲』
 戦後の教室での自称詞
 『リボンの騎士』と『ベルサイユのばら』
 その後の少女マンガの〈僕〉
 性的マイノリティにとっても〈僕〉
 〈僕ら〉と〈わたしたち〉
 詩人・最果タヒの〈ぼく〉
 人々の思いを映し、日本語の「現在」を示す〈僕〉
おわりに

「自称詞」というあまり聞き慣れない語がタイトルに使われています。英語圏などの「代名詞」との性格の違いを考慮してのことだそうです。

他言語との比較で云えば、確かに日本語の一人称は「私(わたし)」「私(わたくし)」「俺」「某(それがし)」「小生」「余」「朕」「儂(わし)」、そして「僕」など(実際に使うか使わないかは別として)、さらに方言まで含めればいったいどれだけあるんだ、ですね。そしてそれぞれに微妙なニュアンスの違いがあるわけで。

よく使われる例えですが「吾輩は猫である」。英訳してみれば「I am a cat」。「吾輩」という偉そうな響きはまったく影を潜めてしまいますし、「である」という断定口調(「です」ともまた異なる)も表せません。だから日本語の方が優れている、と云うつもりは全くありませんが。

そして本書で取り上げられている「僕」。たしかに不思議な言葉ですね。一般に、女性は使いません。また、男性であってもオールマイティーにどんな場面でも、というわけではありません。実際に当方、学校を出てからこのかた「僕」を使った覚えはありません。というか、既に学生時代にはオフィシャルな場面では「自分」と云っていた記憶がありますし、現在でも「自分」です。

当方の中では「僕」は割と年配の男性が使うというイメージがありました。当会顧問であらせられた故・北川太一先生は常に「僕」でしたし、亡くなった父親も対外的にはよく「僕」と云っていました。

ところが、最近、「僕」が世の中を席捲している、という例から本書は始まります。確かに大谷翔平選手らスポーツ界、それから著者の友田氏は芸能界でEXILEさんを例に挙げていますが、インタビュー等で彼らは「僕」を多用し、それが爽やかさや謙虚さ、親しみやすさの表明にも繋がっている、と、いうわけです。

そして古今の「僕」の使われ方を帰納的に分析。すると、元禄の頃から使用例が増え、幕末には吉田松陰らをはじめ、当時の知識階級などが連帯感を示すものとして広く用いるようになり、さらに維新後の教育のあり方などとも結びついて、一般化していったという論。うなずけました。

そんな中で、「高村光太郎の〈僕〉」という項も設けられ、詩「道程」(大正3年=1914)などでの「僕」が論じられています。ちなみに光太郎は詩の中では「僕」以外にも「俺」「おれ」「私」「わたし」「わたくし」「われら」(戦時中)などを使い分けていました(友田氏、ちゃんとそこもカバーしています)し、日記では「我」(明治期)「余」(戦後)なども使っていました。おそらく学部生の卒論などでもこういう内容はあったことでしょう。

本書の場合、特定の人物に偏らず、かなり広範囲にその使用例を求め、それぞれの人物がどういう背景の下に「僕」を使っていたのかを、世相や社会状況、おのおのが置かれていた立場などとからめて論じている点が優れているところです。さらに昨今のジェンダーフリー的な部分への言及も為されています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

詩を書かないでいると死にたくなる人だけ詩を書くといいと思ひます。


昭和2年(1927)2月24日 正富汪洋宛書簡より 光太郎45歳

正富が編集に当たっていた雑誌『新進詩人』のアンケート「詩界に就て」の回答として送られた返信用往復葉書から。そこで『高村光太郎全集』には、書簡の巻とアンケート回答の載った巻と、2箇所に掲載されています。

どきりとさせられますが、詩に限らず、芸術等の全ての分野に云えることではないでしょうか。

嬉しい悲鳴ですが、またぞろ取り上げるべき事項が目白押しとなってきましたので、新刊の雑誌系、3冊まとめてご紹介します。

まず、新刊書店さんで平積みになっています、月刊の『文藝春秋』さん7月号。
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「総力特集 一〇〇年の恋の物語 一つの恋が時代を変えることもある」。
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まず新聞広告で知りました。かつてはこの手の特集を組んだ雑誌や、こうした内容をメインにした書籍等で光太郎智恵子が取り上げられることが多かったので、今回も光太郎智恵子の項はあるかな、と思ったのですが、項目としてはありませんでした。

しかしまだ諦めきれず(笑)、書店で立ち読みもしたのですが、光太郎智恵子の名は見つからず。

ところが、今年の第67回連翹忌にご参加下さった詩人の方からメールが来て、「光太郎智恵子が取り上げられてますよ」。

何とまぁ、冒頭の総論的な田原総一郎氏と下重暁子氏の対談「恋のない人生なんて!」の中で、ちらりとですが確かに触れられていました。一部分、載せます。
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立ち読みした際にここはスルーしていました。考えてみれば、下重氏、今年3月の『週刊朝日』さんでもちらりと光太郎を引き合いに出して下さっていましたので、「怪しい」と思うべきでした。

続いて同人誌。

やはり第67回連翹忌にご参加下さった詩人の谷口ちかえ氏がご送付下さいました、詩誌『ここから』16号。
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「テーマエッセイ 記憶に残る詩の一行」という項で、存じ上げない方ですが、斉藤なつみ氏という方が光太郎詩「冬の言葉」(昭和2年=1927)の最終行「一生を棒にふつて人生に関与せよと」を紹介して下さいました。多謝。

「冬の言葉」全文はこちら。

    冬の言葉
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 冬が又来て天と地とを清楚にする。
 冬が洗ひ出すのは万物の木地。

 天はやつぱり高く遠く
 樹木は思ひきつて潔らかだ。

 虫は生殖を終へて平気で死に、
 霜がおりれば草が枯れる。

 この世の少しばかりの擬勢とおめかしとを
 冬はいきなり蹂躪する。

 冬は凩の喇叭を吹いて宣言する、
 人間手製の価値をすてよと。

 金銭はむかし貴族を滅却した。002
 君達は更に金銭を泥土に委せよと。

 君等のいぢらしい誇りをすてよ、
 君等が唯君等たる仕事に猛進せよと。

 冬が又来て天と地とを清楚にする。
 冬が求めるのは万物の木地。

 冬は鉄碪(かなしき)を打つて又叫ぶ、
 一生を棒にふつて人生に関与せよと。

ちなみにこの詩の直前に書かれた「或る墓碑銘」という詩も、最終行が「一生を棒に振りし男此処に眠る」となっており、呼応している感があります。

奥付的な部分の画像を載せておきますので、ご入用の方、そちらまで。
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最後に一般には流通していない雑誌ですが……。

地銀の千葉銀行さんが展開するシニア世代向け会員制サービス「ひまわり倶楽部」の会報的な『ひまわり倶楽部』2023年6月号。年2回の発行だそうで。
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表紙が当会会友・渡辺えりさん。特集記事がえりさんによる「さんぶの里紀行」。千葉県の九十九里浜を含む一帯が「山武」といわれる地域で、そちらのレポートです。ちなみに九十九里町も属する「山武郡」は「さんぶぐん」なのですが、旧山武郡山武町、同蓮沼村などが合併してできた「山武市」は「さんむし」と、「武」の字の読み方が異なります。元々「さんむ」だったものが、いつの間にか「さんぶ」と読まれるようになり、合併の際には本来の読み方である「さんむ」に戻そう、ということで「さんむし」となりましたが、合併に入らなかった九十九里町などは「さんぶぐん」で通しています。複雑ですね。

で、えりさんの旅レポ(ご執筆はライターの方)は13ページにもわたり、全体の半分以上です。元々の企画では、山武地域中の山武市と東金市とを廻るというもので、そのように予告もされていたようですが、そこはえりさん、強引に「九十九里町も入れてちょうだい」(笑)。九十九里町は昭和9年(1934)に半年あまり、心を病んだ智恵子が療養し、光太郎がほぼ毎週見舞いに訪れた地です。詳しくはこちら。山形ご在住だったえりさんの亡きお父さまが生前の光太郎と交流があり、いつか九十九里町を訪ねたいとおっしゃっていたのが果たせず、えりさんご自身も行かれたことがなかったそうで。

3月半ばのことでした。自宅兼事務所でPCのキーボードを打っていると、突然、スマホにえりさんから電話。

「九十九里浜の智恵子が療養していたあたりに行きたいんだけど。光太郎の石碑とかあるのよね」
「そうっすね。そんならうちから1時間ちょっとのとこなんで、ご案内しますよ。で、いつごろですか?」
「いやいや、もう近くまで来てるのよ、千葉の銀行の雑誌の取材で」
「えっ?」
「でも智恵子が居たところの詳しい場所が分からないから」
「って、今、どちらにいらっしゃるんすか? 市町村の区分で云うと」
「えーと、山武市」
「ああ、だったらそこよりちょい南下したあたりです。九十九里町ってとこに「サンライズ九十九里」つう保養施設があるので、そこのフロントで訊いて下さい。石碑とか智恵子が居た家の跡とかはそこのすぐ近くです」
「「サンライズ九十九里」ね。わかった」
「そこの2階のエレベータホールに光太郎智恵子の銅像のミニチュアがありますから、そちらもご覧下さい」
「了解、ありがと」

とまぁ、こんなようなやりとりがありました。

その後、えりさんのフェイスブックに上がった画像。
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その後、こちらで拾ったハマグリの貝殻を、お父さまのご仏前に供えられたそうで。

そして『ひまわり倶楽部』さんの該当箇所。
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また数日前にえりさんからメールで「銀行の雑誌、出たよ」。で、当方、裏ルートで入手した次第です(笑)。

この手の情報ご提供、ありがたいかぎりです。お待ちしております。

【折々のことば・光太郎】

ロダン翁の事についてはおたづねいたし度き事まだまだ沢山有之 又折を見て推参拝聴いたし度事に存居候へば何卒よろしく願上候 余寒きびしき折柄御自愛専一に可被遊 尚ほ御家中皆々様にもよろしく被下処願上候 あなた様の居らるゝ為め岐阜といふ町までなつかしき心地いたされ 又参上いたす時をたのしみに致し居候


昭和2年(1927)2月10日 太田花子宛書簡より 光太郎45歳

太田花子は女優。確認できている限り、ロダンのモデルを務めた唯一の日本人です。光太郎はこの年刊行される予定の評伝『ロダン』執筆のため、引退して岐阜に隠棲していた花子を訪ね、ロダンとの思い出をインタビューしました。その礼状です。
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もう一度岐阜に行って話を聞きたい、とのことでしたが、それは果たせませんでした。

三重県の紀北民俗研究会さん発行の雑誌『奥熊野の民俗』第16号。

『毎日新聞』さんの三重版で紹介されており、その中で光太郎の名が出ていました。ネットで記事全文が読めない状況でして、「紀北町の元学校職員で、趣味でカメラや俳句に親しんだ故東正佳さんが72年ごろ発行した句集に、詩人で彫刻家の高村光太郎と47年に交わした往復書簡が ...」とのこと。

『高村光太郎全集』には「東正佳」の名は出て来ません。ただ、三重県在住で「東正巳」という人物は、日記の巻に名がある他、書簡を収めた第21巻に「東正巳」宛て書簡が29通(昭和18年=1943~昭和26年=1951のもの)収録されています。三重で同人誌的な雑誌と思われる『海原』を発行し、自身でも詩歌の創作をしていた人物のようでした。そこで「東正佳」じゃなくて「東正巳」の間違いなんじゃないの? またはよく似た名前の別人? などと思いつつ、取り寄せました。

『毎日新聞』さんの記事は読めませんでしたが、『紀北町ニュース』の記事が読めまして、そちらに入用の際の連絡先が載っていました。こちらには光太郎の名は出て来ませんでしたが。

「奥熊野の民俗16号」発刊

 東紀州地域の元教員らでつくる紀北民俗研究会(田中稔昭会長)は、12年ぶりに機関誌「奥熊野(おくまの)の民俗16号」をこのほど発刊した。B5判98㌻。
 今回は17人が地域の歴史や文化、随想、民話などを寄稿。150部を作製し、会員や執筆者、県内外の図書館などに配分し、残り約70部を希望者に実費(700円+送料250円)で販売している。
 同研究会は、元紀北町教育長の故小倉肇氏が創設し、年1回発刊していたが、2010年から12月の15号から中断していた。
 購入申し込みは同研究会事務局の海山郷土資料館(紀北町中里 ☎0597-36-1948)で受け付けている。

で、届いたのがこちら。フライヤー的なものも同封されていました。
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頁を繰ってみると、「詩人 東正佳さんを知る」という記事がありました。太田豊治氏という元中学校の校長先生のご執筆です。

早速、拝読。1ページめで疑問が氷解しました。「東正佳」はペンネーム、本名が「東正巳」だというのです。さらに本業は公立学校の事務職員だったそうで、それも存じませんでした。

その他、東の人となり、業績等がいろいろ紹介されていました。中央の雑誌や新聞に句歌を投稿し、たびたび入選していたこと、単独で自身の句歌集も出版したこと、カメラも趣味で『アサヒグラフ』に写真が掲載されたことなど。

そして、光太郎との交流についても。

これまでに見つかっている光太郎から東宛の書簡では、東へ花巻郊外旧太田村の山小屋にクマゼミを送ってくれるよう依頼していたり、それ以外にも東から生活物資、書籍などが送られていたりといったことは分かっていました。特に興味深かったのは、「ヤギ」という珊瑚の一種を東から贈られ、それを使って蟬を彫ろうとしていたという書簡。ただし、その蟬の現物は確認できていません。

太田氏の玉稿を拝読し、驚いたのは、東の句歌集『海虹集』に光太郎からの書簡が三通転載されていたというくだり。調べてみましたところ、すべて既知のものでしたが。

光太郎から東宛の書簡は、散逸してしまっています。『高村光太郎全集』掲載のもののうち、東が発行していた『海原』に載ったものからの転載が9通、それを含め、平成21年(2009)には21通がまとめて市場に出ました。
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令和3年(2021)には、おそらくそのまま明治古典会七夕古書大入札会2021に出品。
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その際にはどうやら業者さんが買い取ったようで、その業者さんはネットオークションで1通ずつ小出しにして分売。

まぁ、内容さえ分かっていれば、売れてしまうのは仕方がないと思っております。怖いのは、未知のものがわけのわからない人などに買われて結局死蔵になってしまうことですが。

太田氏の玉稿に依れば、東は生涯独身。現在、住んでいた家は草深い空き家となり、表札の字はかすかに読み取れる、という状況だそうです。

東の句歌集『海虹集』。国会図書館さんのデジタルデータで調べたところ、昭和47年(1972)の刊行でした。そのものは見つかりませんでしたが、『紀伊長島町史』という書籍に書影が掲載されていました。

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こちらに載ったという書簡はすべて既知のものでしたが、こういう形で光太郎の未知の書簡が見つかることも結構あり、今後もそれらの発見に努めます。

【折々のことば・光太郎】

だしぬけにあなたから「秋の瞳」といふ詩集をもらつたのはうれしかつた。丁度房州へゆく時なので、ふところへ入れて、方々歩きながら、海だの、林だの、旅舎の二階だのでよみました。あなたの心を細かに感じられたやうでうれしかつた。純粋な感情の吐息はどこにでも生きてゐて、詩と自分の感じとがぴつたりあふ時はうれしかつた。御礼まで。

大正14年(1925)8月28日 八木重吉宛書簡より 光太郎43歳

確認できている限り唯一の八木宛書簡です。

先程の新発見の東宛書簡からも感じられますが、光太郎、どうも活字中毒に近かったのではないかと思われます。当方もそうなので、わかるなぁ、という感じなのですが。

詩人の若松英輔氏。これまでのご著書オンラインラジオでの講座などで、たびたび光太郎を取り上げて下さっています。

最近また2件ほど。

6月10日(土)の『日本経済新聞』さん。

言葉のちから 書くとは〜高村光太郎と内村鑑三 若松英輔

 本を世に送ると「作者」という呼び名が与えられ、本に記されていることを何でも知っているように遇される。だが、実感は違う。作品名や本の題名は覚えていたとしても何を書いたのか、その本質はよく分かっていない。人は意識だけでなく、いわゆる無意識を活発に働かせながら書くからである。さらにいえば、意識が無意識とつながったとき、真の意味で「書く」ことが始まるとすらいえるように思う。
 部屋は本で埋まっているが、自分の本はない。
 最初の本を手にしたとき、奇妙というより、いわく言い難いという意味で妙な気分に包まれた。自分の名前が記されているのだが、自分のものではない心地が強くしたのだった。本はたしかに手のなかにある。しかし、本の本質というべきものは、すでに翼を得て、未知なる読者にむかって飛び立っていったように感じた。気が付かないうちに大人になった子どもが、自分の道を見つけて親に後ろ姿を見せながら前に進んでいくような光景が胸に広がったのである。
 書くことは手放すことである。書くことは言葉を育むことでもあるのだろうが、それは手放すことで完成する。彫刻家で詩人でもあった高村光太郎に「首の座」という詩がある。この詩を読んだとき、自らの実感を裏打ちされたように感じ、創作の真義をかいまみたようにも思った。
 「麻の実をつつく山雀(やまがら)を見ながら、/私は今山雀を彫つてゐる。/これが出来上ると木で彫つた山雀が/あの晴れた冬空に飛んでゆくのだ。/その不思議をこの世に生むのが/私の首をかけての地上の仕事だ。」(『高村光太郎詩集』)
 光太郎の彫刻に魅了されるのは、彫刻の形や姿が美しいからだけでなく、そこに生じた不可視ないのちの実在にふれるからなのではないか。彫刻家はいのちを生む。しかし、それを自分の手のなかに留めておくことはできない。手放すことで彼の仕事は完遂する。
 こうしたことは、本や彫刻にだけ起こるのではない。自分以外の人に対して行ったよいことや、成し遂げたと思えるようなものすべてにおいて留意すべきことなのだろう。意味あるもの、真の意味で善き出来事にするためには「手放す」さらには「忘れる」という営みの門をくぐらなければならない。
 経歴や過去の実績の話を得意げにされると興ざめになる。そこに立ち顕われるのは、影のようなもので、今、生きているその人ではない。過去を誇る人は、もっとも魅力があるのはかつて行ったことではなく、それらを昇華させ今、ここに存在しているその人自身であるのを忘れている。
 過去に失敗を経験した人は、簡単に過去を語らない。それを昇華させ、行動しようとする。そうした人が語り、あるいは語らずとも体現する何かに異様なまでのちからがあるのは、今を生きることの重みを無意識に実感しているからだろう。
 何かに執着し、誇ろうとするとき、人はそれを強く意識している。そのようなとき無意識はあまり活発に働いていない。人生もまた、一つの創作である。むしろ、今を生きるということ以上に、創造性を求められることはないのである。
 どう生きるかばかりに気をとられている人の言動が表現しているのは、ほとんどの場合、方法である。しかし、生きるとは何か、その本質を問う人は、生の本質を無言のうちに体現する。人は求めているものを全身で物語っている。
 人生の隠された意味、人生の秘義を体現する人は、必ずしも世にいう成功者ではない。ひたむきに生きる市井の人たちのなかにも賢者は存在する。
 無教会のキリスト教を説いた内村鑑三に『代表的日本人』という著作がある。原文は英語で内村はこの本を世界に向けて書いた。その試みは成就し、ケネディ大統領が愛読したという話もある。日本に陽明学をもたらした中江藤樹の章で内村は「真の感化とはなんであるか、この人物に学ぶがよろしいでしょう」と書いたあとこう続けた。
 「バラの花が、自分の香を知らぬと同じく、藤樹も自分の影響を知りませんでした」(鈴木範久訳)。美しい香りを身にまとい生きている人でも自らが放つ香りに気が付かず、うつむき加減でいることもある。その人自身が見過ごしているよきもの、そうした何かを見いだすのは他者の役割である。見過ごされがちな善きことに何を学ぶか。ここに人生の行き先を決定する重大な鍵があるように思われる。

引用されている光太郎詩は「首の座」(昭和4年=1929)。
無題
    首の座

 麻の実をつつく山雀(やまがら)を見ながら
 私は今山雀を彫つてゐる。
 これが出来上ると木で彫つた山雀が
 あの晴れた冬空に飛んでゆくのだ。
 その不思議をこの世に生むのが
 私の首をかけての地上の仕事だ。
 そんな不思議が何になると、
 幾世紀の血を浴びた、君、忍辱(にんじよく)の友よ、
 君の巨大な不可抗の手をさしのべるか。
 おお否み難い親愛の友よ、
 君はむしろ私を二つに引裂け。
 このささやかな創造の技は
 今私の全存在を要求する。
 この山雀が翼をひろげて空を飛ぶまで
 首の座に私は坐つて天日に答へるのだ。


「山雀」は「やまがら」。日本全域に広く分布している野鳥です。ただし、光太郎が彫ったという山雀の木彫は写真すら確認できていません。どこかにひっそりと残っていないものでしょうか。同じ野鳥の木彫でも「うそ」(大正14年=1925)は現存しています。

「首の座」は罪人が斬首される際に座らせられる場所、またはそのような絶体絶命の状況。「土壇場」ともいいます。そういうところにいるつもりで造型芸術に取り組んでいるのだよ、ということでしょう。

若松氏、この詩の引用後、「彫刻家はいのちを生む。しかし、それを自分の手のなかに留めておくことはできない。手放すことで彼の仕事は完遂する。」と述べられていますが、これは「智恵子抄」所収の「美の監禁に手渡す者」(昭和6年=1931)を下敷きになさっているのだと思われます。


    美の監禁に手渡す者無題2

 納税告知書の赤い手触りが袂にある、
 やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。

 売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、
 所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。

 両立しない造形の秘技と貨幣の強引、
 両立しない創造の喜と不耕貪食の苦(にが)さ。

 がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片(こつぱ)、
 ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。

この時期、プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い立ち位置だった光太郎ですが、その生活は、彫刻を買ってくれたり、肖像制作を注文したりしてくれる者――多くは資本家など、光太郎の大嫌いな俗世間での成功者――に支えられていました。そのあたりの苦悩が謳われています。

若松氏、もう1件、『中央公論』さんの今月号では光太郎の父・光雲に触れて下さっています。
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AI時代のことば力」の総題で数名の方が寄稿されている内の一篇、「沈黙のすすめ 好奇心を疑い、問う力を養う」と云う記事です。

曰く、

 詩人・高村光太郎の父である彫刻家・高村光雲の自伝『幕末維新懐古談』に「ノミが仕事させてくれない」というような言葉が出てきます。「ノミはただの道具ではない」「ノミが俺を連れて行く」と言いたくなることがあるのだと。
 私がものを書くときも、自分で書こうとしているときは上手くいかず、言葉が自分を連れて行ってくれたと感じるときほどよい仕事ができているように感じています。人との対話も同じで、人と人との間に関係ができれば、言葉が私を導いてくれる。


およそ文学でも造形芸術でも、それから音楽や舞台芸術等も含め、クリエイティブな仕事をする人間には、「ノミが俺を連れて行く」という感覚は「あるある」ではないでしょうか。もっとも、そうなるまでの修業というか、その境地に至るまでの努力というか、それが無ければ無理なのでしょうが。

そういった観点も含め「AI時代のことば力」、様々な分野の方がいろいろ論じられています。ぜひお買い求めを。

ところでAIと云えば、時事通信さんの配信記事でこんなのが出ました。

高村光太郎やミケランジェロをAI学習、像展示 スウェーデン

【AFP=時事】スウェーデンの首都ストックホルム国立科学技術博物館で現在、ミケランジェロ(Michelangelo)や高村光太郎(Kotaro Takamura)ら、彫刻界の巨匠5人の作品を人工知能(AI)に学習させてつくり上げられた彫刻「不可能な像」が展示されている。
 創造性とアートについての従来の概念に揺さぶりをかけるステンレス鋼製の像は、高さ1.5メートル、重さ500キロ。下半身を金属に覆われた中性的な人物が、片手でブロンズ製の地球をつかんでいる。
 コンセプトは、それぞれの時代に足跡を残した5人の著名な彫刻家の作風をミックスさせた作品をつくり出すことにあった。
 選ばれたのは、イタリアのミケランジェロ(1475-1564)、フランスのオーギュスト・ロダン(Auguste Rodin、1840-1917)、ドイツのケーテ・コルビッツ(Kathe Kollwitz、1867-1945)、日本の高村光太郎(1883-1956)、米国のオーガスタ・サベージ(Augusta Savage、1892-1962)。AIに5人の彫刻作品の画像を大量に学習させたという。
 三つのAIソフトを駆使して作品をつくり上げたスウェーデンの機械工学グループ「サンドビク(Sandvik)」の広報は、「現実には共同作業があり得なかった5人の巨匠による像」だと説明している。
 だが果たしてこれは芸術なのか、それとも技術の成果なのだろうか。
 同館で企画を担当しているジュリア・オルデリウス氏はAFPに、「これは人間がつくったものとは思えない」と指摘した上で、「芸術とは何かを定義することはできない。これは芸術だ、これは違うと考えるのは、人によって異なる。判断するのは作品を鑑賞する人それぞれだ」と語った。
 アート界におけるAIの役割について議論が行われる中、AIをめぐる未来については悲観していないと話す。
 「AIが創造性やコンセプト、アートやデザインについて行うことを不安に思う必要はない」「テクノロジーがコンセプトやアートを生み出す方法の一部になる新しい未来に適応していく必要があると思う」と話した。
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「何だかなぁ」という感じでしたので、今日まで取り上げずに来ました。

結局、AIには「首の座」に坐って物事を成し遂げる、という覚悟など持ちようがないわけで、そうなると光太郎が不可欠とした「生(ラ・ヴィ)」など、そこには存在し得ないわけです。

といって、人間が造ればこれ以上のものが必ず出来るかというと、そうでもありませんね。結局、「ノミが俺を連れて行く」という境地に達していない者の作で、「AI以下」と云われても仕方のないようなものもまかり通っているような気がしますし……。

「クリエイト」、実に難しいものです。

【折々のことば・光太郎】

今日「天上の炎」の印税貳百円たしかにおうけとりしました。こんなにもらつてはすまないやうな気もしますが又思ひがけない時にもらつて大変たすかります、

大正14年(1925)3月23日 木村荘五宛書簡より 光太郎43歳

「天上の炎」はベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの訳詩集。新しき村出版部から刊行されました。
無題3
彫刻が寡作だった光太郎、こうした翻訳での収入がかなり大きかったようです。

『毎日新聞』さんで月イチの連載だった、詩人の和合亮一氏による「詩の橋を渡って」が、3月23日(木)掲載分で最終回となりました。

これまでも光太郎の名を何度も出して下さいましたが、最終回でも。

詩の橋を渡って 命の芯を豊かに深く

3月000
 水をもとめるものは
 また喉がかわくだろう
 でも きみが与える水は
 ぼくのなかで泉になって
 えんえんと湧きつづける。

 高村光太郎が「この世に詩人が居なければ詩は無い。詩人が居る以上、この世に詩でないものは有り得ない」と述べたが、今を生きる詩の書き手たちにはっきりと詩が守られていると、数多くの書物に触れていつも感じてきた。それとは何かを語る前に、さあ、これら詩人たちの姿と仕事を見よ……という心持ちで、紹介してきた。詩を読むことのかけがえのなさを、きちんと語りたい。しかしこれは、あらためて難しいことでもあると感じた。

 東日本大震災からの月日、その後も続いた各地での地震や豪雨災害、コロナ禍における暮らし、ロシアによるウクライナ侵攻など、めまぐるしい世界と社会の動きがあったことを心に刻みたい。その都度に迫ってくる鋭い言葉を求め続けてきた。三角みづ紀の新詩集『週末のアルペジオ』(春陽堂書店)を開きながら、あらためて思いをめぐらせてみる。「窓から/降ったり止んだりする/きょうの/はじまりが/しずかにおとずれた」
 こんなふうに一日も、言葉も突然にやって来るのだろう。「生きるための/朝食のスープ/すこし萎(しな)びた野菜/感情もなく/切りおとし/ひとは どうして/こんなにも残酷になれるのか。」。日常のなかに潜む詩の素材を調理しようとする詩人の筆づかいは、あたかも料理という日々の手仕事に似ているのかもしれない。それを深く見つめようとする視点は、息を凝らして何をそぎ落とそうかといつも探しつづけているのかもしれない。
 詩人の新川和江が私に語ってくれたことがある。「足元の水を掘りなさい」と。題材は遠くに見える何かなのではなく、実は本当に近くにあって気づかないものなのだ、と。詩は新緑の頃から始まり季節の移ろいを味わうようにして毎月書かれた作品を中心に編まれている。そこに詩人が撮影した写真が添えられているが、切り取られた視界と四季を追うフレーズそのものが、足の下にある命の芯のようなものを豊かに深く語ろうとしている。
 「水をもとめるものは/また喉がかわくだろう/でも きみが与える水は/ぼくのなかで泉になって/えんえんと湧きつづける。」。静かに、丹念に書き表された詩行に見えてくるものとは何か。書き手の独特の深い呼吸と思考のありかがある。湧き続ける言葉を心と暮らしを通して、詩人が足し引きなくこちらへとそのまるごとを届けようとする。今を生きるということの本当の精神の乾きと潤いとを私たちは知るのではないだろうか。
 先日に読売文学賞を受賞したばかりの藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』(思潮社)を再読。読むほどに彼の文体からは解き放たれていく自由が私には感じられる。古今東西の文学と、詩人そして研究者、教育者として長年に向き合ってきて、言わば真の詩魂と詩作のしなやかさを得てきたのだろう。「懐風藻」の藤井流に書き直した一節を紹介し、長年の時評の任を終えたい。「天の紙に、風の筆で、雲間の鶴をえがくこと!」=今回で終わります

これまでの連載で、光太郎に触れられた回はこちら。

令和2年(2020)5月 令和2年(2020)7月 令和2年(2020)12月 令和4年(2022)10月

後とも氏のご健筆を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

福島の町に一泊。今夕青森に向ふ筈


明治44年(1911)5月7日 高村光雲宛書簡より 光太郎29歳

北の大地に酪農で生計を立てながら芸術を生み出すという生活を夢み、ついに東京を発ちました。

新刊です。

名著入門 日本近代文学50選

2022年12月30日 平田オリザ著 朝日新聞出版(朝日新書) 定価850円+税

何を読むか、どう読むか――。日本近代文学の名作にこそ現代人の原型あり。50人の名著を魅力的に読み解く第一級の指南書!
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日本近代文学は、まだ百数十年の歴史しかない。本書を通じて、そこに関わった者たちの懊悩、青臭い苦悩を感じ取っていただければ幸いだ。(「はじめに」より)
001
目次
 はじめに
 【第一章】 日本近代文学の黎明  
  『たけくらべ』樋口一葉002
  『舞姫』森鷗外
  『金色夜叉』尾崎紅葉
  『内部性名論』北村透谷
  『浮雲』二葉亭四迷
  『小説神髄』坪内逍遥
 【第二章】 「文学」の誕生  
  『武蔵野』国木田独歩
  『病牀六尺』正岡子規
  『三酔人経綸問答』中江兆民
  『破戒』島崎藤村
  『坊っちゃん』夏目漱石
  『みだれ髪』与謝野晶子
 【第三章】 先駆者たち、それぞれの苦悩  
  『一握の砂』石川啄木
  『蒲団』田山花袋
  『若山牧水歌集』若山牧水
  『兆民先生』『兆民先生行状記』幸徳秋水
  『高野聖』泉鏡花
  『邪宗門』北原白秋
 【第四章】 大正文学の爛熟  
  『河童』芥川龍之介
  『城の崎にて』志賀直哉
  『雪国』川端康成
  『細雪』谷崎潤一郎
  『小さき者へ』有島武郎
  『月に吠える』萩原朔太郎
  『紙風船』岸田國士  
 【第五章】 戦争と向き合う文学者たち  
  『蟹工船』小林多喜二
  『銀河鉄道の夜』宮沢賢治
  『風立ちぬ』堀辰雄
  『智恵子抄』高村光太郎
  『怪人二十面相』江戸川乱歩
  『山椒魚』井伏鱒二003
  『浮雲』林芙美子
  『麦と兵隊』火野葦平
  『濹東綺譚』永井荷風
  『山月記』中島敦
  『落下傘』金子光晴 
 【第六章】 花開く戦後文学  
  『津軽』太宰治
  『堕落論』坂口安吾
  『夫婦善哉』織田作之助
  『俘虜記』大岡昇平
  『火宅の人』檀一雄
  『悲の器』高橋和巳
  『砂の女』安部公房
  『金閣寺』三島由紀夫  
 【第七章】 文学は続く  
  『裸の王様』開高健
  『楡家の人びと』北杜夫
  『坂の上の雲』司馬遼太郎
  『父と暮らせば』井上ひさし
  『苦海浄土』石牟礼道子
  『ジョバンニの父への旅』別役実
 おわりに
 作家索引/略歴

光太郎も登場人物の一人として名を連ねる演劇、「日本文学盛衰史」の脚本を書かれた平田オリザ氏の新著です。

元々は『朝日新聞』さんの読書面に「古典百名山」の題で連載されていたものに加筆なさったそうで。なるほど、「『智恵子抄』高村光太郎」の章、一昨年の『朝日新聞』さん掲載時より、引用部分等長くなっています。

『朝日新聞』さんに、紹介の記事も出ました。

選び抜いた古典、いまを照らす 平田オリザさん「名著入門 日本近代文学50選」

000 劇作家の平田オリザさんが、本紙読書面のコラム「古典百名山」を元にした『名著入門 日本近代文学50選』(朝日新書)を出版した。明治の樋口一葉や夏目漱石から戦後の別役実まで、小説に留(とど)まらず詩歌や戯曲まで。50人を一人1作ずつ平易な語り口で紹介すると同時に、通読すると近代文学史の流れもつかめる指南書に仕立てた。
 文学に造詣が深く、「日本文学盛衰史」(高橋源一郎さん原作)などの演出もある平田さんは、2019~22年にかけて「古典百名山」を連載。本書では大幅に加筆し、取り上げる作家も増やした。
(略)
 平田さんは「制度は変わって国家は新しくなったけれど、社会は旧態依然として差別や貧困が渦巻いていて自由も制約されている。こうした中で生まれた近代文学は、現代でも共通する様々な悩みがちりばめられた私たちの原典ともいえる」と話す。
 豊富な引用と、「非専門家の特権として」(平田さん)の、思い切った表現も魅力的。たとえば「漱石たちが発明した文体で私たち日本人は、一つの言葉で政治を語り、裁判を行い大学の授業を受け、喧嘩をしラブレターを書くことができるようになった」といった具合だ。
 平田さんは、情報化が進んだいまこそ、古典を読むことが重要だと考えている。
 「検索すれば多くが分かる社会にあって、事柄同士をつないでストーリーを作る『コネクティング・ザ・ドッツ』の能力が、入試やビジネスでも重要になっている。その能力は、野球の素振りと同じで、古典などの名作にどのくらい触れたかにかかってくると思う」
 劇団、教育機関、行政と様々な役職に就いてきた経験に裏打ちされた言葉だ。


タイトル通り、「入門」としては的確な書と思われます。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

中西夫人余を見て顔のむくみに気づく、


昭和31年2月14日(火)の日記より 光太郎74歳

「中西夫人」は起居していた貸しアトリエの大家さん。光太郎の生命の炎、燃えつきるまであとひと月半。そろそろ死相が現れ始めたのかも知れません……。

新刊です。

「人間ではないもの」とは誰か-戦争とモダニズムの詩学-

2023年1月7日 鳥居万由実著 青土社刊 定価3,600円+税

動物になる、人間になる、機械になる——
大正末から昭和初期、社会構造の変動と戦争の到来によって危機を迎えつつあった人間という「主体」は、モダニズムの時代と表現を作り出した。やがて詩人たちが謳いあげる人間の像も変貌していくこととなる。ときに昆虫として、工場の機械として、戦地を飛ぶ鳥として、動物園の猛獣として、おっとせいとして、「人間ではないもの」が跋扈しはじめていた。左川ちか、上田敏雄、萩原恭次郎、高村光太郎、大江満雄、金子光晴……。時代に浚われていった詩人たちの作品を渉猟し、プレヒューマンとポストヒューマンを架橋していく新たな批評がここに芽生える。卓越した詩人でもある著者による画期となる決定的著作。
001
[目次]
凡例
序章
 1 人間の「主体」とイデオロギーの関係
 2 本書の構成
 3 モダニズムとは何か
 第一部 モダニズム詩における「人間ではないもの」の表象
  第一章 ジェンダー規範と昆虫――左川ちか
   はじめに
   1 「何者でもないわたし」
   2 永遠なる他者「詩のミューズ」
   3 「詩のミューズ」の殺害
   4 人間ではないものに内面を託すこと
  第二章 人間主体を抹消する機械――上田敏雄
   はじめに
   1 人間を詩から抹消する
   2 分裂する自我
   3 大衆消費社会と自己意識
    3―1 広告の影響
    3―2 劇場としての都市空間
    3―3 劇場空間への風刺
   4 『仮説の運動』
   5 「燃焼する水族館」
  第三章 主体の解体と創造――萩原恭次郎
   はじめに
   1 農村に安らう身体
   2 都市環境における身体の変化
    2―1 人工空間
    2―2 交換価値のない魂
    2―3 無用の機械としての肉体
    2―4 枯れていく自然
   3 規律を離れた無用の身体
   4 新しい主体への創造と破壊
    4―1 首のない身体――全体に従わない部分
    4―2 機械による感覚の解体
    4―3 メディアによる存在感覚の変容
   5 結び直される主体
 第二部 戦争詩における「人間ではないもの」の表象
  第一章 戦時下の理想的な人間主体
   はじめに
   1 空間軸に位置付けられる主体
   2 時間軸に位置付けられる主体
   3 個人の集合体への溶融
   4 そして沈黙が支配する
  第二章 自己と他者が出会う場所――高村光太郎
   はじめに
   1 清らか・純潔であろうとする傾向
   2 「純粋な」動物に託される自己
   3 動物園における「見る/見られる」
   4 戦争詩における動物性の反転
  第三章 戦争の中の機械と神――大江満雄
   はじめに
   1 プロレタリア詩人時代
    1―1 機械の肉体
    1―2 機械の精神
   2 転向後の変化
    2―1 故郷という原点への回帰
    2―2 「鷲」の登場
    2―3 みずから狂気を選ぶこと
    2―4 国の滅びと個人の発見
    2―5 肉体の抽象化
    2―6 機械と神が残したもの
  第四章 「人間ではないもの」として生きる――金子光晴
   はじめに
   1 抵抗詩以前の動物
   2 戦時下における権力構造と動物
    2―1 流民/苦力
    2―2 犬/天使
    2―3 おっとせい
    2―4 鮫
   3 自画像としての「人間ではないもの」
    3―1 アブジェクトとしての自画像
    3―2 へべれけの神
    3―3 「大腐爛頌」
  終章
   1 動物と機械表象が登場する詩
   2 現代とこれからの展望
参考文献一覧
初出一覧
あとがき
索引

[著者]鳥居万由実(とりい・まゆみ)
1980年東京都生まれ。文学研究者、詩人、英日翻訳家。東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程修了。博士(学術)。論文に、「金子光晴の詩集『鮫』におけるヒエロニムス・ボッシュの影響」(『言語態』2018年3月)などがある。2008年、第一詩集『遠さについて』(ふらんす堂)により中原中也賞最終候補。他に、実験的散文集『07.03.15.00』(ふらんす堂、2015年)がある。

奥付は1月7日発行となっていますが、旧臘中には届きました。

詩のモチーフとしての「人間ではないもの」(動物やら機械やら)と、詩を書く主体である「人間」とが、どう交叉し、何が仮託され、また一人の詩人の中でそれらがなぜ、どのように変容していったのか,そして「戦争」とのからみなど、鋭い視点で読み解く評論集です。

000光太郎に関しては、「第二章 自己と他者が出会う場所――高村光太郎」で詳述されている他、随所にその名が見えます。

「光太郎」「動物」とくれば、連作詩「猛獣篇」。光太郎生前に「猛獣篇」として出版されることはありませんでしたが、雑誌発表時など題名に「猛獣篇より」といった付記が添えられた詩群です。それらの中から詩篇を選択し、光太郎歿後の昭和37年(1962)になって、当会の祖・草野心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで刊行されました。印刷、製本等には当会顧問であらせられた故・北川太一先生もご協力なさいました。

著者の鳥居氏、「猛獣篇」構成詩を中心に、「智恵子抄」収録詩を含むそれ以外の詩篇や散文等も引きつつ、光太郎の内面を剔抉しようとなさっています。

氏が取り上げられた「猛獣篇」構成詩は引用順に「清廉」(大正14年=1925)、「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)、「森のゴリラ」(昭和13年=1938)、「傷をなめる獅子」(大正14年=1925)、「白熊」(〃)、「象の銀行」(大正15年=1926)、「苛察」(〃)、「マント狒々」(昭和12年=1937)、「象」(〃)。

これらの詩篇だけでも光太郎と「猛獣」の関係性がいろいろ変化していますし、「猛獣」に仮託される内容も激変しています。さらに「猛獣篇」と並行し、或いは前後して作られた詩でも、「猛獣篇」と同趣旨のものが見られ、そのあたりに関しても考察が試みられています。戦時中の翼賛詩にも「猛獣篇」の残滓が見られるという指摘にはなるほど、と思わされました。

ところで「猛獣篇」、謎の多い詩群です。

比較的有名な作で鳥居氏も引用されていた「象の銀行」は、未だに初出掲載紙が不明のままですし(情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いですが)、「猛獣篇」の指定があるものとそうでないものとの線引きが曖昧だったりもします。

そして「猛獣篇」最後の詩。現在確認出来ている光太郎自身の指定では、昭和14年(1934)、河出書房から刊行された『現代詩集 第一巻 高村光太郎 草野心平 中原中也 蔵原伸二郎 神保光太郎』で、「猛獣篇より」という項が設けられ、その最後の詩は「北冥の魚」。同年、雑誌『鵲』に発表されたもので、モチーフは何と動物ではなく潜水艦です。発表誌や遺された草稿には「猛獣篇」の指定はありませんが、なぜこれがここに置かれたのか、何とも不明です。今後の諸氏の考察を待ちたいところです。

さて、『「人間ではないもの」とは誰か-戦争とモダニズムの詩学-』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

装幀全部終る、 午后横臥、


昭和30年(1955)11月4日の日記より 光太郎73歳

装幀」は、翌年筑摩書房で刊行が始まった『宮沢賢治全集』の装幀です。中原中也『山羊の歌』など文学史に残る数々の書籍・雑誌等の装幀を手がけた光太郎でしたが、その最後の仕事がこれでした。

先週書きかけて途絶してしまった新刊紹介の続きです。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書を多数刊行されている文治堂書店さんから発行されている文芸同人誌的な『とんぼ』。第15号が届きました。
001
版元店主・勝畑耕一氏による「追慕録」に、今年8月に亡くなった北川節子様の追悼文が掲載されています。節子様、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の奥様で、北川先生同様、生前の光太郎をご存じの方でした。

それから、手前味噌で恐縮ですが、当方の連載「連翹忌通信」。前号から最近の「もの」の発見ということで、今号は花巻市に寄贈された光太郎の父・光雲作の木彫天鈿女命像と、鋳銅製准胝(じゅんてい)観音像について。

ご入用の方、文治堂書店さんまでご注文なさってください。頒価500円+税とのことです。

新刊、といえば、最近、光太郎の名を冠した自費出版の書籍が出ました。早速購入してみましたが、読み始めて驚きました。「こんなものを出版するとは何事だ」という感じで。

極端な話、1ページに1箇所は事実誤認。それから同じく1ページに1箇所は根拠不明の独断(そういう事実は確認出来ていないという事柄を根拠にしての論の展開)。さらにいうなら、1ページに1箇所は「てにをは」の崩壊や誤字脱字。人様に読んでいただくという姿勢が欠落しています。話の進め方もあっちへ行ったりこっちへ行ったりで、明治期の話かと思うと突然脈絡もなく戦中や戦後の話に飛び、予備知識がない読者には、いつの話をしているのかさっぱり分からないと思います。途中、いろいろ出典が書かれてはいるのですが、どうも『高村光太郎全集』に眼を通していないようですし。いくら自費出版だといっても、ありえませんね。

3分の1くらいまでは我慢しながら読んだのですが、途中でやめました。時間の無駄ですし、精神衛生上もよくありません。

「××」という本が出ているのに、なぜこのブログで紹介しないんだ? と思われた方、そういうわけですのでよろしく。

【折々のことば・光太郎】

二時回診、ラジオで角力、


昭和30年(1955)5月19日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核悪化による、赤坂山王病院入院中の一コマです。

この日、光太郎が聴いていた大相撲中継は、夏場所。かの栃錦が横綱として優勝し、のちの大横綱となる初代若ノ花が関脇でした。平幕には元寺尾関・元逆鉾関の父・鶴ヶ峯など。大鵬はまだデビューしていませんでした。

昨日の続きで、高橋源一郎氏著『ぼくらの戦争なんだぜ』(2022年8月30日 朝日新聞出版(朝日新書) 定価1,200円+税)についてです。
001
ちなみに同書、二重カバーとなっており、昨日は外側カバーの画像をあげましたが、こちらは内側のカバーです。

光太郎が序文を書き、詩「軍人精神」を寄せたアンソロジー『詩集 大東亜』。殆どの収録作品が高橋氏曰くの「大きなことば」(人びとを「大きな目標」に駆り立てるために、使われる)で書かれています。

それに対し「小さなことば」(個人が個人的なことを書いて伝える)で書かれたアンソロジーも取り上げられています。山本和夫編『野戦詩集』(昭和16年=1941)。『詩集 大東亜』と異なり、実際に応召して日中戦争の戦闘に参加した詩人-それもマイナーな-6人による作品集です。6人は加藤愛夫、西村皎三、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫。このうち西村は昭和19年(1944)に戦死しました。また、光太郎と交流のあった長島は、迫撃砲弾を受け、左目を失明しました。

6人の詩はいずれも戦闘の様子をを勇ましく謳ったものではなく、野戦病院での一コマや、炎熱下の行軍の苦しさなどを題材にしています。中には厭戦的ともとれるものも。「翼賛」思想の殆ど見られないこれらの「小さなことば」にこそ、芸術としての真価があると、高橋氏。なるほど、と思わされました。

ところで、『野戦詩集』、その帯には光太郎の推薦文が印刷されていたそうです。当方も現物は確認出来ていませんが。同一の(と思われる)文は昭和16年(1941)2月26日の『読売新聞』に掲載されました。

 支那事変に出征してつぶさに実戦の労苦に身を委ねた詩人の数も多いので、その詩人達の声をききたいとは誰しも思ふところであるが、丁度その希望に応へるやうにこの詩集が刊行せられた。集められたのは加藤愛夫、西村皎三、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫の六氏の戦場詩である。大方は或は無事に、或は負傷して今は故国に帰還せられたのであるが、西村、風木の両氏はいまだに任務につかれて戦場にゐる。いづれの詩も皆戦闘の合間に野戦手帳や紙きれに書き付けられたものであつて、雨にぬれ汗によごれたものの中から抜書きされたものも多いやうである。さすがに詩人の個性は歴然として明かで同じやうな苦痛と死との中からも六氏それぞれの詩の世界は同様でなく、同じ緊張の中にもその人間観世界観の向き方によつてそれぞれの表現内容と発想形式とに特殊性を持つてゐて、決して一様の類型を示してゐない。かかる極限の場合に詩人の本質がまじりけ無く迸り出てその詩を生かしてゐる事を痛感する。どの詩人も言葉と実感との間に或る焦燥を持つてゐる。有り余る実感が言葉の間で渦を巻いてゐる。言葉は僅かにその万分の一を象徴してゐる。殆ど吃つてゐるやうな言葉遣さへあるがそれが又逆にその奥の実感を伝へてゐる。これを見ても人間の言葉はやはり信頼し得べきものだと思はずにゐられなかつた。こんな苦しい中で詩を書きおほせたこれらの詩人の精神に打たれた。

「大きなことば」で翼賛詩を書かざるを得ない立場にあった光太郎も、「小さなことば」で書かれたこのアンソロジーの本質を鋭く見抜いていることが分かります。

残念ながら『ぼくらの戦争なんだぜ』では、この光太郎の評について言及されていません。高橋氏が入手されたという『野戦詩集』、帯が無くなっていたのでしょう。高橋氏によるこの評の「評」を読みたいものだと思いましたが。

その後、高橋氏の筆は、大岡昇平、林芙美子ら、そして太宰治へと続いていきます。特に太宰の項には力が入っており、さらに今後も書き継がれるおつもりだとのこと。

ところで、『東京新聞』さんに同書の書評的な記事が出ていました。

<土曜訪問>知る努力を絶えず 「戦争」を考える新著を刊行 高橋源一郎さん(作家)

takahasi 終戦から七十七年の今年、戦争は決して過去のものではないのだとあらためて突き付けられたのが、ロシアによるウクライナ侵攻だった。いま、戦争について何を知り、どう考えればいいのか。作家の高橋源一郎さん(71)は、先月刊行した新著『ぼくらの戦争なんだぜ』(朝日新書)を、こうした問いへの「一つの回答」と位置付ける。
 「中途半端な知識ではなく、戦争についてちゃんと語れるようにするために必要な知識は何だろう、と。無垢(むく)な疑問を発するのが一番大切なことじゃないか、という考え方です」と高橋さんは説く。
 四百七十ページ超の本書は、書かれた言葉を通して昭和の戦争を考えていく。戦時下の日本の教科書、戦後のドイツやフランス、韓国の歴史教科書。戦中の詩、戦争を扱った小説などを取り上げ、丁寧に読み進めながら、思索を重ねる。
 例えば、戦中の対照的な詩集を示して考えるのは、「大きなことば」と「小さなことば」。<人びとを「大きな目標」に駆り立てるために、使われるのが「大きなことば」>だとして例に挙げるのは、太平洋戦争末期の一九四四年に刊行され、高村光太郎ら有名詩人の作品を収めた『詩集 大東亜』(日本文学報国会編)。戦争協力詩が並ぶ。
 <彼らと同じことが起こりうる、とぼくは思う。というか、起こっているのかも、とぼくは思う>と高橋さんは書く。社会の中で「大きなことば」が人々をとらえて破壊していく、いわば「見えない戦争」はずっと続いているのではないか−というかねての問題意識からだ。
 「大きなことばって、思考停止を誘う、議論が起きない言葉でしょ。言葉ですらない、空気、雰囲気かもしれない。そういうものはずっとこの国にある、ということですよね」
 対して、<個人が個人的なことを書いて伝えるのが「小さなことば」>であるとして、中国に出征した兵士六人の詩を集めた『野戦詩集』(山本和夫編、四一年)を見る。取り上げた約二十編は、進軍にうつむく現地の人の姿を見逃さなかったり、戦場のあちこちに倒れた馬にまなざしを向けたり、<戦争は/何でこんなにものを忘れさせるんだらう>とつぶやいたり。作者の実感を伴う言葉が胸に迫る。偶然手に入れたという同詩集の書き手に、有名な詩人はいない。しかし、「奇跡のような優れた詩集」と高橋さんは絶賛する。
 同様に着目した一人が、太宰治(一九〇九〜四八年)だ。ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、創作期間がほぼ戦時下と重なる太宰の作品をあらためて読んだ。「戦時下で作家はどう書くべきか、考えて書いていたと思うんですよね」。太平洋戦争開戦の日を主婦の日記という形でつづった短編「十二月八日」などを挙げて、太宰の意図を読み解く。
 「あの時代、大きいものに巻き込まれないことは難しい。でも、それぞれのやり方を模索していた人たちがいたことは、勇気づけられました」と高橋さんは言う。では、いかなる時も、言葉に支配されないための手だてとは何か。「自分で自分の疑問を解決していくということと、何かを知る努力を絶えず続けるということですよね」
 十四年間、教壇に立った明治学院大を二〇一九年三月に退官。「僕が勉強になりましたよね。人に教えるっていうのは、作家と読者の関係みたいだなあとか思って」と振り返る。二〇年からは、毎週金曜にNHKラジオ第一の番組「高橋源一郎の飛ぶ教室」を持ち、自身で選んだ一冊やゲストとの対話を通して社会を考える。
 近ごろ、気になっているのは社会的な検閲。以前より書きにくさを実感しているという。「絶えず考えてなきゃいけない、ということですよね。思考停止することなく」。言って、ふとにっこり笑って「でも、考えたらさ」と続ける。
 「小説って、細かい、ほんのちょっとした人の気持ちのずれみたいなものを描いているんだよね。世界の本当にささやかな違いみたいなものを、絶えず念頭に置くのが作家の仕事だから」 

さて、同書、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

平凡社の中島洋典といふ人くる、書道全集推せん文のこと、


昭和29年(1954)2月16日の日記より 光太郎72歳

推せん文」は、「書を見るたのしさ」の題で、平凡社の「書道全集」の内容見本に掲載されました。同全集には、のちに第7巻「中国 隋、唐Ⅰ」の月報にも「黄山谷について」の一文を寄せています。

戦時中の翼賛詩文を恥じ、花巻郊外旧太田村の山小屋で7年間の蟄居生活を送っていた頃、自らへの罰として封印していた彫刻の代わりに、数多くの優れた書を光太郎が残したことは広く知られていたようで、こうした依頼があったのでしょう。

新刊、といっても1ヶ月近く経ってしまいましたが……。

ぼくらの戦争なんだぜ

2022年8月30日 高橋源一郎著 朝日新聞出版(朝日新書) 定価1,200円+税

◯戦場なんか知らなくても、ぼくたちはほんとうの「戦争」にふれられる。そう思って、この本を書いた。
◯教科書を読む。「戦争小説」を読む。戦争詩を読む。すると、考えたこともなかった景色が見えてくる。人びとを戦争に駆り立てることばの正体が見えてくる。
◯古いニッポンの教科書、世界の教科書を読み、戦争文学の極北『野火』、林芙美子の従軍記を読む。 太宰治が作品に埋めこんだ、秘密のサインを読む。戦意高揚のための国策詩集と、市井の兵士の手づくりの詩集、その超えられない断絶に橋をかける。「彼らの戦争」ではなく「ぼくらの戦争」にふれるために。
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目次
まえがき
第1章 戦争の教科書
 1・ニッポンの教科書
  あたらしいこくご 教科書なんかつまらないとずっと思っていた
   教科書の中にある、もうひとつのことば、戦争のことば
   ぼくたちの父や祖父は、子どもの頃、こんな教科書を読んでいた
 2・ドイツの教科書、フランスの教科書
  人の心を萎えさせるような、断固とした「声」 歴史をためらいがちに語る「声」
 3・その壁を越える日
   植民地からの「声」 ぼくたちがたどり着く場所
第2章 「大きなことば」と「小さなことば」  
  戦争と記憶、庶民の戦争 『この世界の片隅に』の語り方 戦争なんか知らない
  「大きなことば」と「小さなことば」 「大東亜」なことば 「ひとすぢのもの」
  「小松菜つむ指の露深き黒土に濡れ」 「こつこつと歩いて行く」
  ぼくたちは戦場へ行った 幻の詩集 加藤さんのことば 西村さんのことば
  長島さんのことば  佐川さんのことば 風木さんのことば
  最後に、山本さんのことば
第3章 ほんとうの戦争の話をしよう  
 1・正しい戦争の描き方
   ほんとうの戦争の話をしよう 死の国にて
 2・彼らの戦争なんだぜ
   「遠い」ということ  統合失調症とされた作家たちのことば すべてが「遠い」小説
  『野火』がたどり着いた場所
第4章 ぼくらの戦争なんだぜ  
 その1・ごはんなんか食べてる場合じゃない
 その2・女たちも戦争に行った
   「平時」の思想 彼女は戦争に行った
 その3・ぼくたちが仮に「戦場」に行ったとして、最後まで「正常」でいるためには
   「私」は撃たない
 その4・戦場から遠く離れて
   ふたつの「国」と「ことば」の間に生まれて 夢の世界をさまよって
第5章 「戦争小説家」太宰治
  加害の国の作家 ずっと戦争だった 小さな二つの小説 「真の闇」の中を歩く
  文学のために死んでください 純情多感の一清国留学生「周さん」のこと
あとがき

光太郎をはじめ、あまたの文学者たちが、十五年戦争下でどのような作品を書き、その裏側にはどんな思いがあったのかを考えることで、この時代を生きる一助とすべし、というコンセプト。

 「悪」が、過去の一点に留まっている限りは、「声」は冷厳であることができる。それに近づくよう、学生たちに示唆することができる。その「悪」というものを注視するように、と。けれども、「悪」が、いまも生まれつつあるとしたら? それが、克服すべき「過去」であるというより、たえず、自分たちの身体からにじみ出す膿のようなものだとしたら、どうすればいい? 「たえず攻め寄せる影の力」と戦うためには、彼らは、いや、ぼくたちはどうすればいいのだろうか。
(第1章 戦争の教科書)

そのためには「ことば」に注意することが必要だと、高橋氏。

 「大きなことば」は、「民主主義」とか「天皇」とか「神」といったことばだ。そのことばだけで、数百万、数千万の人たちを一瞬のうちにあやつることができるようなことばだ。そういったことばは「強い」。そして「強い」ことばは、人を支配することができる。
 それに対して「小さなことば」あある。それは、個人的な経験を、「大きなことば」を使わずに書き記したときに現れる。だから、多くの人たちに興味を持たれないことも多い。気づかれないことだってある。たいしたものだとも思われない。
 ヒットラーのような独裁者は「大きなことば」を使うのが好きだ。その「大きなことば」の中には、民俗や歴史に関する「大きな記憶」も出てくる。「戦争」を産み出し、継続させ、そこに人々を動員してゆくのは、こういった「大きなことば」だ。
(略)
 個人が個人的なことを書いて伝えるのが「小さなことば」だ。それに対して、人びとを「大きな目標」に駆り立てるために、使われるのが「大きなことば」だ。
(第2章 「大きなことば」と「小さなことば」)


「ウクライナをネオナチから解放する」などは、「大きなことば」の典型例ですね。少し前にほざかれていた「美しい国、日本」「一億総活躍社会」なども。

高橋氏、この「大きなことば」と「小さなことば」の例として、光太郎作品を挙げています。智恵子の臨終を謳った絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)は「小さなことば」、逆にステレオタイプの「大きなことば」として、光太郎が序文を書いたアンソロジー『詩集 大東亜』(昭和19年=1944)の、その光太郎による序文。

 ただ是れ利のゆゑに吾が神国を窘(たしな)めんとする米英等醜(しこ)のともがらを悉く打ち祓ひ、吾が神ながらの道と力と徳とによつて世界をすすぎ清めんとする此の聖戦のみ旨を、われら臣民一人として知らざるはない。(略)願はくはわれら皇国の詩人が心をこめた此の一巻のささげものに、われらが神と人との善きいつくしびあらんことを。

馬鹿馬鹿しくて全文を引用する気になれませんが、この三倍ほどの分量です。それこそAIでも書けるような(笑)。

なぜ『智恵子抄』の詩人が、こんな「大きなことば」を振りかざす軍部のメガフォンと化してしまったのか……。余談になりますが、当方、今年の12月、日本詩人クラブさんの12月例会で、このあたりを根幹とする講演をさせていただくことになっております。
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閑話休題。高橋氏、『詩集 大東亜』に収められた諸詩人の作を引きつつ、一刀両断。その中には光太郎詩「軍人精神」も含まれます。

 高村さんの詩には、高村さんがいない感じがする。そういうと、変に聞こえるかもしれない。これは、確かに、高村さんが書いた詩じゃないか、って。
 いや、ぼくがいいたいのは、そういうことじゃない。
 高村さんという個人、きちんと、なんでも自分の責任で考えることができる、主体をもっていることを、個人というのなら、高村さんという詩人は、ここにはいない。
 詩を書くのが上手で、有名な詩人で、日本の詩人オールスターズの代表格で、『智恵子抄』の作者で、そういう高村さんはいて、その高村さんは、詩を書いた。
 その高村さんが書いた詩は、空っぽな感じがする。空っぽ、というのはm心ここにあらず、という状態で書いている感じがする、ということだ。
 きちんと考えたら、あんな詩、書かないでしょう。


このあたり、今年8月15日(月)にオンエアされたNHKラジオ第1さんの「高橋源一郎と読む「戦争の向こう側」2022」でも、同様の試みをなさっていました。

『詩集 大東亜』、当方も持っていますが、あまりに馬鹿馬鹿しくて全篇は読んでいません。今回、『ぼくらの戦争なんだぜ』を読んで、「こんな詩も載っていたのか」と思った詩も載っていた次第です。特にひどいと思ったのは、光太郎とも親しかった堀口大学の「あとひと息だ」という詩。

国運賭けたみいくさに/しこのみ楯と戦つて/命ささげた増荒男の/不滅のてがら忘れまい//東亜を興す大使命/いまの痛みは生みの苦だ/鬼畜米英ないあとは/民十億の楽園だ//敵もさるものさればとて/邪は正に勝ちがたい/勝つときまつたみいくさだ/あとひと息だ頑張らう

高橋氏曰く、

 それにしても、この詩を、堀口さんは、「本気」で書いたのだろうか。現実の戦争で連戦連敗、国内では、連日の空襲に、食べるものにも事欠く日々。それなのに、「敵もさるものさればとて 邪は正に勝ちがたい 勝つときまつたみいくさだ あとひと息だ頑張らう」って、めちゃくちゃじゃないだろうか。こんな詩を読んだら、まともな人は、「もうダメだ、やっぱり負けるんだな」と思うはずなんだけど。けれども、堀口さんは、平気でこんな詩を書き、みんなは、平気で読んだのだ。大丈夫か、昭和十九年のニッポンの詩人たち、読者たち。

激しく同意します。もっとも、堀口には堀口の事情があったのかもしれませんが……。

『詩集 大東亜』に作品を寄せた多くの有名詩人たちは、ほぼみんなこんな感じでした。他にも同様のアンソロジーは数多く存在し(手許に40冊ばかりあります)、また、アンソロジー以外でも新聞雑誌はこぞってこうした愚にもつかない翼賛詩を掲載し続けました。

『詩集 大東亜』収録作ではありませんが、こんな詩もありました。

  ビルマ独立をうたふ002

アジヤは一つの家族。
いたいけな妹ビルマは
永らく別れて他人の家で
つらい 悲しい日を送つた。
待ち焦れた晴れの日、
独立の日がビルマにも来た。
燦たる孔雀の旗が
瑠璃の空を飛翔する日が。
ビルマの娘たちは、茴香(ういきやう)や
睡蓮の花をつんで捧げる。
みほとけの前に、又、たよる肉親
ををしい日本の兄の胸に。


「ビルマ」は現・ミャンマー。イギリス統治下にあったため、日本軍が進攻、昭和18年(1943)に名ばかりの「独立」を宣言しました(実体は日本軍の傀儡政権)。その「独立」を言祝ぐ詩ですが、作者は金子光晴です。この年10月の雑誌『日本少女』第23巻第7号に掲載されました。

一般に、金子光晴というと、翼賛詩を書かなかった抵抗の詩人と言われています。『ぼくらの戦争なんだぜ』でも、高橋氏、「ニッポン中の詩人たちが「戦争」に向かって雪崩(なだ)れ落ちていった中で、たとえば、たくさんの詩人が『詩集 大東亜』に参加していった中で、金子は、戦争詩を書かず、息子を戦地に送らぬためにあらゆる智恵をふりしぼった」としています。ちなみに「あらゆる智恵」は、息子を部屋に閉じこめて松葉を燃やして燻し、肺炎にかからせて徴兵を免れさせたことなどを指します。それはともかく、残念でした。書いてますから。

金子の翼賛詩は他にも。「抒情小曲 湾」(『文芸』昭和12年=1937)から。

戦はねばならない 必然のために、 勝たねばならない 信念のために、 一そよぎの草も 動員されねばならないのだ。 ここにある時間も 刻々の対峙なのだ。 なんといふそれは すさまじい壮観!

散文でも。昭和17年(1942)11月の『日本学芸新聞』、「大東亜文学者大会号」から。

  大東亜文学者大会に就て

 大東亜の文学者を一堂に聚(あつ)めるといふ日本文学報国会の企ては、政治的意義をのぞいても、糧を与へるといふ本質的な意義がのこることになるとおもふ。少なくともこの挙を機会に、大東亜の国々の文学者は、日本に糧をえやうとして大きな期待を持つだらう。
(略)
 今日、我々は糧を与へねばならない幼弱な国々を周囲に持つことになつた。
(略)
 殆ど最初の経験としての日本の文学者は、与へるべき糧について慎重に考へて欲しい。与へる方法にも相当技術を必要とするやうに思ふ。衝にあたる日本の文学者は、先づ共栄圏内の他民族を出来うる限り知つてほしい。あくまでもその客観性に基づいて、ほんたうの糧となるものを考へてほしい。
(略)


何という「上から目線」でしょうか。金子をディスるのが目的ではありませんので、この辺りで止めますが。まさに高橋氏曰くの「大きなことば」ですね。

この後、高橋氏の筆は、「小さなことば」で書かれた兵士の詩作品などに及んでいきます。が、長くなりましたので、続きは明日。

【折々のことば・光太郎】

雪ふる、一寸余つもる、 終日人来ず、 揮毫(奥平さんの帖)、銀粉で地に雨をかき、リンゴの詩を書く、


昭和29年(1954)2月14日の日記より 光太郎72歳

東京には珍しい雪。おかげで来訪者もなく、集中して揮毫に取り組めました。「奥平さんの帖」は「有機無機帖」。交流のあった美術史家・奥平英雄のために書いた書画帖です。
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本日も新刊紹介です。

物語のカギ 「読む」が10倍楽しくなる38のヒント

2022年8月5日 渡辺祐真/スケザネ著 笠間書院 定価1,800円+税

本の魅力をわかりやすく伝える書評動画で人気のYouTubeチャンネル「スケザネ図書館」。その配信者である著者が、文学だけでなくマンガや映画まで幅広い「物語」へのあふれる愛を語りながら、より深く味わうための目のつけどころ=「カギ」をわかりやすく解説します。

小説・詩歌・マンガ・映画など幅広いジャンルを対象に、『走れメロス』、『アンナ・カレーニナ』といった名作文学から『呪術廻戦』(マンガ)、『ドライブ・マイ・カー』(映画)など近年の人気作まで、多種多様な作品をピックアップ。それら具体例を紹介しながら紹介する「カギ」は、「語り手を信頼するな!(『日の名残り』)」、「比較・変遷をたどれ!(歌人・俵万智の作風の変化)」、「元ネタを探ろう(『ピーターパン』と『約束のネバーランド』)」など。著者自身が物語の面白さに目覚めた経験談を交えながら、様々な角度から「物語」の楽しみ方を案内します。

ふだんあまり本を読まない人や、まだ読書に慣れていない中高生にこそ読んでもらいたい1冊です。
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目次
 はじめに
 序章 なんで物語を読むのか? 物語を味わうってどんなこと?
 第一章 物語の基本的な仕組み
  多義性を知ろう!
  多義性から「物語文 」を作れ!
  内容と語りに分けよう-物語内容と物語言説
  時間の進行を計れ!-時間はジャンルを変える
  人称ってなに?-語り手は作者ではない
  焦点化ってなに?-なぜ右京さんはミステリアスなのか?
  語り手の種類を知ろう!-語り手で物語はこんなに変わる
  語り手を信頼するな!-信頼できない語り手
  ジャンルを意識してみよう-芥川賞と直木賞ってどう違うの?
  作者の死-勝手に作品を解釈してもいいの?
 第二章 虫の視線で読んでみる
  メタファーを使いこなせ!-『呪術廻戦』で呪術師たちは何を祓うのか?
  書き出しを楽しもう-書き出しには三種類あります!
  小道具に着目してみよう!-なぜメルヴィルは鯨まみれの小説を書いたのか
  自然描写の想起するイメージを掴め!-ただの状況説明と無視するなかれ
  五感をフルに稼働させよう!-「マドレーヌ効果」ってなに?
  書かれたことをそのまま受け取るべからず!-押すなよと言われたら押せ
  結末を味わい尽くせ-結末の種類と特徴を知ろう!
  言葉を味わおう!-○○詞に注目!
 第三章 鳥の視点で読んでみる
  自分の人生を賭して読んでみよう!-なぜファウストは昇天できたのか
  キーワードを設定してみよう!-「星の王子さま」という訳が隠してしまったメッセージ
  二項対立を設定してみよう!-対立するキーワードたち
  二項対立を打ち破れ!-『白い巨塔』の財前と里見は対照ではない
  隠されたものを復元せよ!-対位法的読解
  他ジャンルを使ってみよう!-なぜ宇宙をバックに「ツァラストラ」が流れるのか?
  作家の伝記を調べてみよう!-「ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう」は明るい?
  比較・変遷をたどれ!-一人の作家を通時的に読んでみる
  元ネタを探ろう-『約ネバ』と『ピーター・パン』は対称の関係!?
 第四章 理論を駆使してみる
  理論の使い方や歴史を知ろう-批評理論ってなに?
  ケアに気を配ろう-弱いからこそ見えるもの
  自然の視点に立ってみよう-エコクリティシズム
  ジェンダーについて考えよう-フェミニズム
  時代背景を考えよう-『グレートギャッツビー』が取り戻そうとしたものは何か?
  舞台を意識しよう-『ブルーピリオド』の合格は場の力にあり
 第五章 能動的な読みの工夫
  暗記してみよう-素読せよ
  書き込みをしてみよう-マルジナリアを作り出せ
  注釈を活用してみよう-ダンテ『神曲』を読む楽しみ
  再読をしてみよう-二度以上読む意味
  翻訳を読み比べてみよう!-「世界文学」とは何か
 おわりに

様々な文学作品等から例文を引きつつ、「こういうところはここに注目して読む」「こんな感じで作者の意図が見え隠れする」「こうした落とし穴に注意」など、時に(というかかなりの部分(笑))ユーモラスに、しかし深い考察も伴って、「読む」という行為のあり方を分析しています。

われらが光太郎に関しては「第二章 虫の視線で読んでみる」中の「メタファーを使いこなせ!-『呪術廻戦』で呪術師たちは何を祓うのか?」で、詩「道程」(大正3年=1914)を引いて下さいました。吹きました(笑)。

曰く

 この詩を読んで、道路工事の詩かな?と思う人はいないはずです。
 ここでの「道」は「人生」を指しており、他者とは異なる、しかし引き返すことのできない過酷な人生の選択をしようとしている、そんな気迫が作品には漲っています。つまり、「道」は「人生」のメタファーとして機能している、というわけです。


ただ、「道路工事の詩かな?と思う人」もいるかも知れません。大まじめ(なのでしょう)に「「ほんとの空」って何ですか?」と問うてくる頓珍漢もいますから(笑)。

このメタファーの項だけでも、チャップリンの「モダン・タイムス」、三島由紀夫の『金閣寺』、吉本隆明の評論、そして『呪術廻戦』まで、さまざまな例が挙げられています。「道程」は、この項最初の枕でした。

版元による紹介文に「ふだんあまり本を読まない人や、まだ読書に慣れていない中高生にこそ読んでもらいたい1冊です。」とありますが、本をよく読む人も改めて「読む」ということについて考え直すきっかけとなりそうですし、中高生、特に大学の文学部をめざそうという若者、また、現に文学部で学んでいる学生さんなどにもお薦めです。さらにはご自分で小説なりを書こうとしている方、実際に書いている方にも。読むためのノウハウは書くためにも転用できますから。

というわけで、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

車で休屋まで、酸湯で中食、休屋一泊、 夜皆とビール、 夕方現場にて谷口氏藤島氏伊藤氏にあふ、 〈(七尺像立つてゐる、)〉


昭和28年(1953)10月20日の日記より 光太郎71歳

七尺像」は、翌日に除幕される生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。会心の出来、というわけではなかったにせよ、一年間、精魂傾けて制作に打ち込み、そして自分自身「生涯最後の大作」になるだろうと予感していた像が十和田湖畔に「立つてゐる」姿は、やはり感無量だったのではないでしょうか。

本日も新刊紹介です。

言葉に出会う現在

2022年7月17日 宮野真生子著 奥田太郎編 ナカニシヤ出版 定価3,000円+税

九鬼周造を出発点にオリジナルに深化した、恋愛論、押韻論、共食論等、切れ味鋭い11の論考に加え、書評・エッセイも多数収録。
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目次
 【エッセイ】恋とはどういうものかしら?
 第一章 道具・身体・自然――宗悦と宗理――
  1 近代化と生活する身体
  2 柳宗悦における風土的身体――フィクションとしての自然――
  3 柳宗理における風土的身体――別な自然への視線――
 【書評】伊藤徹編『作ることの日本近代―一九一〇― 四〇年代の精神史』
     世界思想社、二〇一〇年
 第二章 押韻という夢――ロゴスからメロスへ――
  序
  1 『日本詩の押韻』という試み
  2 呼びかけとしての押韻
  結
 【書評】佐藤康邦・清水正之・田中久文編『甦る和辻哲郎――人文科学の再生に向けて』
     ナカニシヤ出版、一九九九年
 第三章 恋愛・いき・ニヒリズム
  序
  1 「いき」をめぐる諸言説
  2 「恋愛」を求めて――透谷・泡鳴・有島の試行錯誤――
  3 「恋愛」と「他者」をめぐる問題
  結 
 【エッセイ】ここにいることの不思議
 第四章 死と実存協同――無常を超えて偶然を生きる――
  はじめに
  1 「無常」を語る危険性
  2 「メメントモリ」
  3 「愛」としての「死者からのはたらきかけ」
  4 偶然性における実存協同
  おわりに
 【書評】佐藤啓介『死者と苦しみの宗教哲学――宗教哲学の現代的可能性』
     晃洋書房、二〇一七年
 第五章 恋愛という「宿痾」を生きる
  1 問題の所在
  2 北村透谷の「恋愛」 
  3 「コケットリー」とは何か
  4 「賭け」の先にあるもの
  5 「いき」とは何か
  6 「コケットリー」と「いき」
  7 「いき」の魅力
  8 さいごに
 【エッセイ】愛
 第六章 近代日本における「愛」の受容
  1 「愛」をめぐる問題状況
  2 「愛」という言葉は何を意味しているのか
  3 「色」から「ラブ」へ
  4 恋愛としての「ラブ」に託されたもの
  5 恋愛としてのラブの危険性
  6 「愛」があれば、どうなるのか
  7 「一つになる」愛の果てに
  8 さいごに
 【エッセイ】性
 第七章 母性と幸福――自己として、女性として生きる――
  はじめに
  1 母と子の関係をめぐる変化
  2 子どもへの違和感
  3 「自己」として生きること
  4 平塚らいてうの「自己」と「自然」
  5 「母性」への転回
  6 母性という桎梏、その別の可能性
  さいごに
 【エッセイ】家族
 第八章 「いき」な印象とは何か――「いき」をめぐる知と型の問題――
  はじめに  
  1 印象とは何か  
  2 「いき」という美意識  
  3 「いき」の「意味体験」とは  
  4 印象を成立させる動性  
  5 「二次元動的可能性」としての自己と他者  
  おわりに  
 【書評】谷口功一・スナック研究会編『日本の夜の公共圏――スナック研究序説』
     白水社、二〇一七年
 第九章 カウンターというつながり――『深夜食堂』から考える――
  はじめに  
  1 『深夜食堂』以前
  2 『深夜食堂』の紹介
  3 居酒屋とサードプレイス
  4 カウンターという空間
  5 『深夜食堂』における食の機能
  6 「サードプレイス」の「やわらかな公共性」
  さいごに――ふたたび『深夜食堂』――
 【エッセイ】カウンターには何があるのか?
 第十章 食の空間とつながりの変容
  はじめに  
  1 どのように共食するか  
  2 共食に何が託されてきたか  
  3 どこで食事をするのか  
  4 「家事」という大問題  
  5 戦後の「共食」のあり方と現代の「食」  
 【書評】伊藤邦武『九鬼周造と輪廻のメタフィジックス』ぷねうま舎、二〇一四年
 第十一章 言葉に出会う現在――永遠の本質を解放する――
  はじめに  
  1 偶然性における「永遠の現在の鼓動」  
  2 回帰的時間における「永遠の今」  
  3 詩の時間性  
  4 押韻と偶然性  
  おわりに  
 編集後記(奥田太郎)
 初出一覧  

著者紹介
宮野真生子(みやの・まきこ)
1977年大阪府に生まれ、その後和歌山県で育つ。京都大学大学院文学研究科博士課程(後期)単位取得退学ののち、福岡大学人文学部准教授。2019年、大阪大学より博士(人間科学)。著書に、『なぜ、私たちは恋をして生きるのか――「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版,2014 年)、『出逢いのあわい――九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』(堀之内出版,2019年)、『急に具合が悪くなる』〔共著〕(晶文社,2019年)など。2019年逝去。

福岡大学さんの准教授であらせられた宮野真生子氏という方の、遺稿集的な評論集です。宮野氏、令和元年(2019)、42歳の若さで乳ガンにより亡くなっています。亡くなったというのは存じませんでした。遅ればせながら謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

「第六章 近代日本における「愛」の受容」中の「7 「一つになる」愛の果てに」9ページで光太郎智恵子を扱っています。上記目次には載せませんでしたが、さらに細かい章立てが「⑴ 高村光太郎・智恵子夫妻の悲劇」「⑵ 二人が目指した理想の結婚」「⑶ 「一つになること」の真相」「⑷ 不可能な理想と化した「愛」」「さいごに」

実はこの章、同じナカニシヤ出版さんから平成28年(2016)に出た、宮野氏と藤田尚志氏の共編になる『愛・性・家族の哲学① 愛 結婚は愛のあかし?』に、まるまる掲載されていました。光太郎智恵子に関しては特に新しい事実の紹介や解釈があるわけではありませんが、中国語の「愛」、キリスト教の「love」、それらと近代日本に於ける「恋愛」という概念との比較、文学作品では『智恵子抄』以外に漱石の『行人』、坪内逍遙の『当世書生気質』などにも触れられ、「なるほど」と思わせられる論が展開されています。

その他の章も、非常に読み応えのあるものでした。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

晴、 朝八時前出かける、九時過の汽車特2にて浅蟲まで、東奥館に夜十一時頃つく、

昭和28年(1953)10月19日の日記より 光太郎71歳

2日後に開催される、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式のため青森入りしました。当時は15時間もかかったのですね。

前年6月の下見の際にも泊まった浅虫温泉東奥館に宿泊。残念ながら東奥館の建物は現存しません。下記は当方手持ちの古絵葉書です。
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類書は世に多く、しかし出版社やご著者の方のスタンスによっては、読むに堪えないものも少なからず存在するのが現状ですが、これは違いました。

この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか

2022年6月30日 奥泉光/加藤陽子 河出書房新社(河出新書) 定価968円(税込み)

今こそ、「日本人の戦争」を問い直す。日本はなぜ、あの戦争を始めたのか? なぜ止められなかったのか? 戦争を知り尽くした小説家と歴史家が、日本近代の画期をなした言葉や史料を読み解き、それぞれが必読と推す文芸作品や手記などにも触れつつ、徹底考察。「わかりやすい物語」に抗して交わされ続ける対話。「ポツダム宣言」「終戦の詔書」を読む解説コラムも収録。

著者
奥泉 光 (オクイズミ ヒカル)
1956年山形県生まれ。1986年に『地の鳥 天の魚群』でデビュー。1993年『ノヴァーリスの引用』で野間文芸新人賞、1994年『石の来歴』で芥川賞、2009年『神器』で野間文芸賞を受賞。

加藤 陽子 (カトウヨウコ)
1960年、埼玉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。専攻は日本近現代史。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』『戦争まで』『戦争の日本近現代史』など著書多数。
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目次
 はじめに(奥泉光)
 Ⅰ 太平洋戦争とは何かを考えるために
  戦争と物語
  国民統合の方法としての軍隊
  お天道様と公道
  民衆にとって天皇とは?
  自制を失う「帝国」
  主権線・利益線論と物語としての日露戦争
  不戦条約と軍隊像の転換
  リットン報告書を拒絶、そして満州事変へ ……
 Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか
  なぜ満州か
  国際連盟脱退と各国の思惑
  感情に訴える国民向けの宣伝
  陸海軍共通の仮想敵・アメリカ
  南進論と三国同盟の要点
  変わりゆく「中立」
  「もやもや」が消えてゆく
  対米開戦の裏側
  日本の勝算?
  日本的「空気」という謎 ……
 【解説コラム】「ポツダム宣言」を読む/「終戦の詔書」を読む
 Ⅲ 太平洋戦争を「読む」 
  戦争を支える気分――清沢洌『暗黒日記』
  物語を批判する小説――田中小実昌『ポロポロ』
  個人と国家の媒体なき対峙――山田風太郎『戦中派不戦日記』
  現代日本のこと?――山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』 ……
 おわりに(加藤陽子)

光太郎生誕前年(明治15年=1882)に出された「軍人勅諭」に始まり、日清・日露戦争、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争と、最新の歴史学的知見、当事者たちの書き残したものへの考察を盛り込みつつ、「この国の戦争」を語る対談です。

「なるほど、そう解釈すれば腑に落ちる」「これとこれをこう関連づけるか」という感じで、目から鱗
の連続でした。同時に愚かな為政者に対し「「困ったちゃんあるある」だなぁ」と思わせられる指摘も。

そして、戦争の遂行に果たす「文学」「言葉」「物語」の役割。

「これは!」と思った箇所をいくつか。

「戦前」体制というと、どうしても不吉な響きがしてしまうのは、二〇世紀前半の昭和「戦前」体制が、自国民だけで三百万人を超える、侵略したアジア地域や交戦国を含め二千万人もの死者を出す未曾有の厄災に繋がった記憶があるからだ。しかもいまもなお昭和「戦前」に懐旧の情を抱き、それをほとんどパロディーのごとくに再構しようと欲する政治勢力が存在するから厄介だ。だが、いま求められるべきは、昭和とは違う「戦前」、戦争をしないための「戦前」体制の構築である。
(「はじめに」)

アジア・太平洋戦争の歴史を問うことは、戦争で亡くなった方々の霊を慰める営みでもあるだろう。彼らの死を犠牲の死として捉えること。それには死者を神話的な「物語」に閉じこめてはならない。彼らを歴史のなかに、人々が対話的に交わる「場」として歴史のなかに、絶えず解放し続けなければならない。神話ではなく、対話を!
(同)

戦争一般が非合理なものをはらむのは間違いないにしても、それを超えた、戦死者の半ば以上が餓死や病死であるような作戦が立案され実行されてしまう、あるいは戦艦大和の出撃にしても、確実に沖縄までは到達できないとわかっていながら、あえて出撃して三〇〇〇人の人間が死んでしまう。そうした度を超えた非合理制にはやはり関心を向けないわけにはいかない。
(「Ⅰ 太平洋戦争とは何かを考えるために」)

政治や宗教や法律だって言葉が人を動かすのだけれども、言葉の外に力の根拠、裏付けがある。最終的には言葉ではないものが、たとえば暴力が言葉の力を支える。対して、文学は言葉それ自体が人を動かす力を持つ点が特徴です。だから政治に利用される。ずっと利用されてきたし、いまも利用され続けているわけで、だから歴史を捉えるには、それを的確に批評する作業が必要になる。
(同)

戦後まもない頃はGHQの誘導もあって、狂信的な軍部が日本を引っ張ってこういうことになっちゃったんだという説明がなされた。実際はそれですむことではないわけですが、しかしどうしてもわれわれはわかりやすい物語の中で物事を理解したいという欲望があるんですね。それが陰謀論の土壌にもなる。誰か悪い奴が厄災を引き起こしたんだということにしたくなる。単純な物語の枠にはめこんで歴史を描きたくなる。
(「Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか」)

国民の戦争へ向かうエネルギーは大変に大きかったわけで、米英との開戦からの三年八ヵ月あまりの時間は、それが敗勢のなか減衰していく時間だったと見ることもできるだろう。しかし、そのためにどれほどの犠牲を払わねばならなかったことか。
(同)

「情ニ於イテ忍ビザルモ、国家ノ為ニハ已ムヲ得ザルベシ」のように、昭和天皇自身、国家を前景化させつつ、天皇と軍人の特別な紐帯を否定しにかかったのが終戦の詔書といえるでしょう。
(同)

当時の国家の民衆に対する方針は、ようはものを考えることをさせないようにする、そういう方向です。国民の個性なんてものは一切認めない、思考することを認めない、ひたすら一元化していく。
(「Ⅲ 太平洋戦争を「読む」」)

やっぱり人々はわかりやすい物語を求めてしまうんですよ。単一の物語が欲しいんです。わかりやすい物語のなかで世界を捉えたい。それは日本だけの問題じゃないわけで、人間はそこからはなかなか逃れ難い。その欲求に応える物語がたくさん提供されてきたし、これからも提供されていくわけですが、文学はそれに抵抗しなければならない。
(同)

天皇の言葉としての勅諭や勅語が作成された時代の意義や読み方と、軍が政治化した後世の時代の読み方は異なってくる。(略)軍人勅諭の読み替えは、一九三二年の五・一五事件を契機になされ、教育勅語の読み替えは、一九四〇年の近衛新体制を契機に進んでいった。軍人勅諭、教育勅語、この二つの天皇の言葉が、時代とともに暴走していったのだ。
(おわりに)


さて、光太郎に関しては、「Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか」中で、ほんの少し。

加藤 日中戦争までは、国民の中に「もやもや」がまだあります。
奥泉 それが一気に日米戦で消えてなくなる。多くの人が一九四一(昭和一六)年一二月八日の朝の爽快感を書いていますよね。
加藤 竹内好は「歴史は作られた 世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。(中略)われらは、わが日本国と同体である」と書いています。
奥泉 高村光太郎の有名な「世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである」とかね。多くの人が似たような感想を記している。歴史の先端に立っているという感覚ですね。いま想像してみるに、ほんとうにそうだったんだろうなとつくづく思うんですよね。言葉を持つ階層の人たち、たとえば日中戦争の意味を考え悩んでいたような人たちは、とりわけ爽快に感じたんでしょう。


引用されているのは、昭和17年(1942)元日の『中央公論』に載った散文「十二月八日の記」の一節です。また、ほぼ同時に書いた詩「鮮明な冬」(同日の『改造』に掲載)には、「この世は一新せられた」、「だが昨日は遠い昔であり」の一節があります。光太郎ほどの人物でも、コピペまがいのことをやってしまっているわけで、まぁ、それを言ったら、この後発表される翼賛詩文のほとんどは、コピペとまで行かなくとも、同工異曲(この四字熟語、プラスの意味とマイナスの意味がありますが、当然ながらマイナスのベクトルです)、読むに堪えないものばかりですが……。

しかし、それが国民にうけました。こうした例が、本書両ご著者の指摘する「わかりやすい物語」の一つというわけですね。

ロシアによるウクライナ侵攻から5ヶ月。この「わかりやすい物語」の論法で行けば、「プーチン一人の狂気」のようなとらえ方が為されがちです。しかし、その背後にはさまざまな要因がからみあっているわけですし、「プーチン=悪」「ゼレンスキー=善」という単純な「わかりやすい物語」に落とし込むのは危険ですね。といって、ロシアの行為が正当化されるべきものでないことはあきらかですが。

同時に気になるのが、現状、ロシア国民がこれをどう考えているのか、です。プーチンらの提示した「わかりやすい物語」にとらわれてしまっているのでしょうか。さながら80年前の多くの日本人のように……。さらに「世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである」みたいなことを嬉々として書いている文学者が、現にいるのでしょうか。

さて、『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

夜「雁」映画を見に浅草にゆく、満員にてみられず、

昭和28年(1953)9月19日の日記より 光太郎71歳

明治後期、東京美術学校で光太郎の師であった森鷗外原作の小説「雁」。この年、豊田四郎監督、故・高峰秀子さん、故・東野英治郎さんらのご出演で映画化されました。

文芸評論家の近藤信行氏が亡くなりました。『東京新聞』さんから。

近藤信行さん死去 文芸評論家

007 近藤信行さん(こんどう・のぶゆき=文芸評論家)17日、老衰のため死去、91歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。
 中央公論社で「中央公論」「婦人公論」などの編集に携わり、文芸誌「海」の編集長を務めた。「小島烏水 山の風流使者伝」で大仏次郎賞を受賞。山梨県立文学館の館長も務めた。
 登山関連の書籍を多数編さん。他の著書に「安曇野のナチュラリスト 田淵行男」など。

近藤氏、記事にあるとおり山梨県立文学館さんの館長を務められていまして、その関係もあって連翹忌にご参加下さったこともおありでした。

館長在任中の平成19年(2007)には、同館で企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催して下さいました。

その際には、関連行事として、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏、世田谷美術館館長・酒井忠康氏との鼎談「高村光太郎の人生 パリ・東京・太田村」をなさったり、同展図録には館長としての巻頭挨拶文「開催にあたって」、論考「高村光太郎の“戦後”」をご執筆されたりしました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

大町桂月のメダルをはじめる、


昭和28年(1953)8月4日の日記より 光太郎71歳

大町桂月のメダル」は、この年10月に開催された、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際、関係者に配られたものです。元々「乙女の像」が、十和田湖の景勝美を世に広めた大町桂月らを顕彰するモニュメントだったことに関わります。

小品ながら、完成した彫刻としては、光太郎最後の作品です。
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土曜美術社出版さん発行の雑誌『詩と思想』。今月号は光太郎と交流のあった詩人・高祖保の特集で、光太郎にも触れられています。
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特集部分の目次はこちら。

 ◆ 高祖保アルバム
 ◆ メール対談 外村彰×青木由弥子 高祖保について――外村彰さんに聞く
 ◆ 評論
  外村彰 高祖保 生涯と詩想
  萩原健次郎 不滅の審美――高祖詩の現在
  國中治 高祖保式詩作装置
  江田浩司 高祖保の詩、歌、句の関係性
  澤村潤一郎 湖べりの去年の雪――高祖保と彦根の詩景
  大塚常樹 高祖保を育てた「椎の木」
  宮崎真素美 高祖保の「詩」――戦時下の振幅から
  島田龍 高祖保と左川ちか――「椎の木」の頃から「念ふ島」へ
  扉野良人 『をぢさんの詩』のこと
 ◆ エッセイ
  漆原正雄 ひきあげてゆくものは、詩の精神による補ひでなければならない。
  木下裕也 詩集『獨樂』を読む
  高嶋樹壱 全身のごとく、全行で受ける力
  田中さとみ 「Kool Snow in the dome」
  重光はるみ 高祖保の家族愛
 ◆ 資料篇
  友森陽香 特別展「生誕一一〇年 雪の詩人 高祖保展」を開催して
  清須浩光 郷土出身の詩人・高祖保顕彰活動
  高祖保略年譜/附・ブックガイド
  青木由弥子 書評・『牛窓 詩人高祖保生家 念ふ鳥 補記』


高祖保(明治43年=1910~昭和20年=1945)は、岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)の生まれ。父の死後、9歳で母と共に母の実家のあった滋賀県彦根に移り住みました。旧制中学時代から詩作に親しみます。國學院大學師範部を卒業し、横浜で叔父の経営する貿易会社に入社、のち、社長となったものの、昭和19年(1944)に出征し、翌年にはビルマ(ミャンマー)で戦病死しています。

昭和初め、光太郎も稿を寄せていた雑誌『椎の木』に寄稿したあたりから、光太郎との交流が生まれたようで、その後、高祖の個人雑誌に近かったという『門』に、確認出来ている限り光太郎は2回寄稿しています。また、昭和18年(1943)には、光太郎の年少者向け翼賛詩集『をぢさんの詩』の編集に高祖があたりました。光太郎本人による同書の序文には「なほこの詩集の出版にあたつて一方ならず詩人高祖保さんのお世話になつた事を感謝してゐる。」と記されています。

平成25年(2013)の明治古典会七夕古書入札市で、光太郎から高祖に贈られた識語署名入りの『をぢさんの詩』他が出品され、驚きました。
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献呈署名に曰く、

此の詩集の成る、 まつたくあなたのおかげでありました 印刷の字配り、行わけ、の比例から校正装幀などの御面倒まで見てくださつた事世にも難有、茲に甚深の謝意を表します
  昭和十八年十一月   一十六歳 高村小父  高祖保雅友硯北

難有」は「ありがたく」、「茲に」は「ここに」と読みます。「雅友」は「風流な友達」、「硯北(けんぽく)」は手紙の脇付決まり文句で、「机下」「座下」などと同義です。「一十六歳 高村小父」は、この詩集が年少者向けのものだったことに関わる、数え61歳の光太郎の洒落ですね。

高祖に宛てた葉書も同時に出品されました。昭和18年(1943)7月27日付けでした。

おたより拝見、又々御入院のことを知り、驚きました。今度は十分御療養なされて無理をされぬやう申しすすめます。
此前はまだ出あるきに無理だつたのだと推察されます。御送付の校正刷は別封で御返送いたします。一箇所かなをなほしました。
尚つひでに「某月某日」を同封いたしました、おんつれづれの時にでも御披見下さい。すべてゆつくりやつて下さい。

校正刷」は『をぢさんの詩』のためのものですね。

『詩と詩人』に載った年譜に拠れば、高祖はこの年5月中旬から肺炎のため入退院をくり返し、約三ヶ月の闘病生活を送ったそうです。また、翌年4月頃には、肺炎と腸チフスを併発しています。にもかかわらず、7月には召集を受け、南方戦線へ。そして昭和20年(1945)1月、ビルマでマラリア罹患に急性腸炎を併発し、戦病死しています。

光太郎はその後、戦後になって高祖の死を知り、追悼文を書きました。

 召集せられて出てゆかれたときいた時、ちよつと不安を感じた。あのデリカな健康で、おまけにかなりな病気をしたあとで、たとへどのやうな任務にしろ、軍隊生活をするのは無理だと思つた。あの細い指に軍刀をつかませるのは無残な気がした。ビルマのような暑い土地に送つて此の有為な若い詩人を死なしめた乱暴な、無神経な組織体そのものをつくづくなさけないものに思ふ。その粗剛な組織体がともかくも日本から消え失せるやうな事になつた今日、高祖保さんのやうな詩人こそ今居てもらひたいといふ循環心理がぐるぐるおこる。つい二年程まへに私の詩集「をぢさんの詩」を編纂してくれた彼がもう居ない事を此の奥州の山の中で考へるのはつらい。人里離れた此の小屋の炉辺に孤坐して彼を思ふと、その風姿が彷彿として咫尺の間に迫る気がする。彼のしんから善良な生れつきと、高雅清純な育ちと、繊細微妙な神経の洗練と、博くして又珍らしく確かな教養とをつぶさに観たのは、此の「をぢさんの詩」編纂に関してたびたび私の書斎に彼が来てくれた時の事であつた。実に労を惜しまぬ、心を傾けての彼の尽力にはただ感謝の外なかつた。そして一切を委せて安心出来た。わたくし自身のやり得る以上の事をやつてくれた。組方から、校正から、かな使ひから、装幀から、その隅々にまで彼の神経が行きわたつた。昔郷里の江州に居た頃高祖保さんが出してゐた詩誌にわたくしが「その詩」と題する詩一篇かを寄稿した事を徳として、その事を忘れず、死の運命のひそかに近づいてゐたあの頃、わたくしへの報恩の意をそれとなく尽してくれたもののやうな気がする。まだ夜陰の風は肩にさむい。炉の火に柴を加へて彼の冥福をいのるばかりだ。
 彼の詩そのものについては、それを語るわかい友人が多いことと思ふ。今わたくしは別に述べない。


昭和21年(1946)5月、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれたこの読む者の胸を打つ文章は、終戦直後の出版事情の混乱により、光太郎生前は活字になることがありませんでした。

さて、『詩と思想』の特集、かなりの分量でして、まだ読破しきっていません。したがって、上記追悼文に触れられているかどうかは不分明です。『をぢさんの詩』についての文章はありましたが。本日、公共交通機関を使っての移動がありますので、その間に読了したいと存じます。

ロシアによるウクライナ侵攻というこのご時世こそ、無謀な戦争で死んでいった詩人の生の軌跡に学ぶところが多いのではないでしょうか。オンラインで注文可です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前午后仕事、顔其他、一応出来上る、


昭和28年(1953)5月31日の日記より 光太郎71歳

仕事」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作です。この後も若干の手直しが入りますが、一応の完成を見ました。遺された完成記念報告会のためのメモでも、この日を完成としています。

明後日、5月29日(日)は、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の忌日「白桜忌」です。晶子は昭和17年(1942)に亡くなりましたので、今年は没後80周年ということになり、例年よりも注目が集まっているように感じます。

角川文化振興財団さん発行の雑誌『短歌』。東京大学教授の坂井修一氏による評論「かなしみの歌びとたち」という連載が一昨年から為されていますが、今年4月号5月号の記事をご紹介します。
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まず4月号。副題は「『白櫻集』の残したもの」。晶子の遺作歌集にして、晶子没年の昭和17年(1942)9月刊行の『白櫻集』を中心に据えられています。

『白櫻集』、序文を光太郎と有島生馬が書いています。
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晶子には弟子もたくさんいたはずですが、それらを差し置いて遺稿集の序文を光太郎、有島生馬が書いているというのが意外といえば意外です。確かに光太郎はこの時点では晶子と直接交流があった人物の中では「重鎮」の部類だったかも知れませんが……。ただ、仮にそこで弟子筋から文句が出たとしても、それを黙らせるに足る、本質を突いたいい文章ですね。

坂井氏、この光太郎の序文を引きつつ、やはり光太郎同様、晶子がたどり着いた晩年の歌境を高く評価されています。

ちなみに題名の『白櫻集』は、晶子の戒名「白桜院鳳翔晶燿大姉」にちなむとのこと。当方、勘違いしておりました。芥川龍之介の「河童忌」や太宰治の「桜桃忌」同様、先に『白櫻集』ありきで、そこから忌日の「白櫻忌」が命名された、と。

続いて5月号。「近代ならざる近代短歌の意義について」。こちらでは晶子をはじめ、近代歌人の作に「我」や「世俗」はあっても、「市民」という意識が不在だ、という論が展開されています。晶子にしても石川啄木にしても、「市民」意識は短歌より詩や評論などでそれが表されている、と。なるほど、と思いました。

そうした論の中で、晶子が「山の動く日」を寄せた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)の智恵子による表紙絵画像が載っています。ただし、今号には智恵子・光太郎の名は出て来ませんが。

そして『短歌』、既に6月号も出ています。未読ですが、坂井氏、5月号を受け、「市民」を前面に押し出したプロレタリア短歌に言及されているのではないかと思われます。5月号にそういう予告的な一節がありましたので。

「かなしみの歌びとたち」、いずれ単行本化されることを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

藤島氏と二人ニユートーキヨー、東生園、ブロードヱー、日劇、ストリツプ見物、電車でかへる、

昭和27年(1952)12月25日の日記より 光太郎70歳

藤島氏」は、光太郎の身の回りの世話等をしてくれていた詩人の藤島宇内、「ニユートーキヨー」はビアホール、「東生園」は銀座に今も健在の中華料理店です。「ブロードヱー」は浅草の「六区ブロードウェイ」、「日劇」は有楽町にあった劇場です。

ストリツプ」は浅草で見たと思われます。数え70歳(もうすぐ71歳)の光太郎、性的関心というより、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、モデル以外の女体も見ておきたかったということなのでしょう。あるいはそれを言い訳にしてのただのエロジジイだったのかもしれませんが(笑)。

平成31年(2019)に刊行されたソフトカバー単行本の文庫化です。

すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―

2022年5月1日 中川越著 新潮社(新潮文庫) 定価693円

原稿が書けない。生活費が底をついた。追い詰められた文豪たちが記す、弁明の書簡集。

言い訳――窮地を脱するための説明で、自分をよく見せようとする心理が働くので、大方軽蔑の対象になる。しかし文豪たちにかかれば浅ましい言い訳も味わい深いものとなる。二股疑惑をかけられ必死に否定した芥川龍之介。手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した太宰治。納税額を誤魔化そうとした夏目漱石。浮気をなかった事にする林芙美子等、苦しく図々しい、その言い訳の奥義を学ぶ。
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目次

 はじめに
 第一章 男と女の恋の言い訳
  フィアンセに二股疑惑をかけられ命がけで否定した 芥川龍之介
  禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した 北原白秋
  下心アリアリのデートの誘いをスマートに断った言い訳の巨匠 樋口一葉
  悲惨な環境にあえぐ恋人を励ますしかなかった無力な 小林多喜二
  自虐的な結婚通知で祝福を勝ち取った 織田作之助
  本妻への送金が滞り愛人との絶縁を誓った罰当たり 直木三十五
  恋人を親友に奪われ精一杯やせ我慢した 寺山修司
  歌の指導にかこつけて若い女性の再訪を願った 萩原朔太郎
  奇妙な謝罪プレーに勤しんだマニア 谷崎潤一郎
  へんな理由を根拠に恋人の写真を欲しがった 八木重吉
  二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター 林芙美子

 第二章 お金にまつわる苦しい言い訳
  借金を申し込むときもわがままだった 武者小路実篤
  ギャラの交渉に苦心惨憺した生真面目な 佐藤春夫
  脅迫しながら学費の援助を求めたしたたかな 若山牧水
  ビッグマウスで留学の援助を申し出た愉快な 菊池寛
  作り話で親友に借金を申し込んだ嘘つき 石川啄木
  相手の不安を小さくするキーワードを使って前借りを頼んだ 太宰治
  父親に遊学の費用をおねだりした甘えん坊 宮沢賢治

 第三章 手紙の無作法を詫びる言い訳
  それほど失礼ではない手紙をていねいに詫びた律儀な 吉川英治
  親友に返信できなかった訳をツールのせいにした 中原中也
  手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した 太宰治
  譲れないこだわりを反省の言葉にこめた 室生犀星
  先輩作家への擦り寄り疑惑を執拗に否定した 横光利一
  親バカな招待状を親バカを自覚して書いた 福沢諭吉
  手紙の無作法を先回りして詫びた用心深い 芥川龍之介

 第四章 依頼を断るときの上手い言い訳
  裁判所からの出頭要請を痛快に断った無頼派 坂口安吾
  序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎
  弟からの結婚相談に困り果てた気の毒な兄 谷崎潤一郎
  もてはやされることを遠慮した慎重居士 藤沢周平
  独自の偲び方を盾に追悼文の依頼を断った 島崎藤村
  意外に書が弱点で揮毫を断った文武の傑物 森鴎外

 第五章 やらかした失礼・失態を乗り切る言い訳
  共犯者をかばうつもりが逆効果になった粗忽者 山田風太郎
  息子の粗相を半分近所の子供のせいにした親バカ 阿川弘之
  先輩の逆鱗に触れ反省に反論を潜ませた 新美南吉
  深酒で失言して言い訳の横綱を利用した 北原白秋
  友人の絵を無断で美術展に応募して巧みに詫びた 有島武郎
  酒で親友に迷惑をかけてトリッキーに詫びた 中原中也
  無沙汰の理由を開き直って説明した憎めない怠け者 若山牧水
  物心の支援者への無沙汰を斬新に詫びた 石川啄木
  礼状が催促のサインと思われないか心配した 尾崎紅葉
  怒れる友人に自分の非を認め詫びた素直な 太宰治
  批判はブーメランと気づいて釈明を準備した 寺田寅彦

 第六章 「文豪あるある」の言い訳
  原稿を催促され詩的に恐縮し怠惰を詫びた 川端康成
  原稿を催促され美文で説き伏せた 泉鏡花
  カンペキな理由で原稿が書けないと言い逃れた大御所 志賀直哉
  川端康成に序文をもらいお礼する際に失礼を犯した 三島由紀夫
  遠慮深く挑発し論争を仕掛けた万年書生 江戸川乱歩
  深刻な状況なのに滑稽な前置きで同情を買うことに成功した 正岡子規
  信と疑の間で悩み原稿の送付をためらった 太宰治
  不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない 徳冨蘆花
  友人に原稿の持ち込みを頼まれ注意深く引き受けた 北杜夫
  紹介した知人の人品を見誤っていたと猛省した 志賀直哉
  先輩に面会を願うために自殺まで仄めかした物騒な 小林秀雄
  謝りたいけど謝る理由を忘れたと書いたシュールな 中勘助

 第七章 エクスキューズの達人・夏目漱石の言い訳
  納税を誤魔化そうと企んで叱られシュンとした 夏目漱石
  返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者 夏目漱石
  妻に文句を言うときいつになく優しかった病床の 夏目漱石
  未知の人の面会依頼をへっぴり腰で受け入れた 夏目漱石
  失礼な詫び方で信愛を表現したテクニシャン 夏目漱石
  宛名の誤記の失礼を別の失礼でうまく隠したズルい 夏目漱石
  預かった手紙を盗まれ反省の範囲を面白く限定した 夏目漱石
  句会から投稿を催促され神様を持ち出したズルい 夏目漱石
  不当な苦情に対して巧みに猛烈な反駁を盛り込んだ 夏目漱石

 おわりに
 参考・引用文献一覧

 解説 郷原宏

平成31年(2019)に刊行されたソフトカバー単行本は、『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』。サブタイトルが変更されていますが、内容的には同一のようです。文庫化に当たり、郷原宏氏の解説が新たに添えられましたが。

われらが光太郎については、「序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎」という項を設けて下さいました。読んでその通りの内容で、菊池正という詩人からの序文を書いてくれ、という依頼に対して送られた断りの書簡を根幹としています。

光太郎曰く「ところで序文といふ事をもう一度考へませう。一体序文などいるでせうか。何だか蛇足のやうに思へます。」「他の人の序をつけるのは東洋の風習でせうが、再考してもよくはないでせうか。序文とは結局何でせう。

著者・中川氏によれば、

 これは一つのいい方法です。頼み事を断りたいときには、光太郎のように、頼み事自体が不要なのではと、疑問を投げかけます。もし相手がなるほど不要かもと納得すれば儲けものです。依頼事は消滅し、罪悪感を覚える必要も消えます。自己責任を回避するための完璧な言い訳の完成です。結構いろいろと使えそうです。

なるほど。

ただ、以前にも書きましたが、光太郎はこれより前に菊池の詩集に序文を書いてやっていますし、当会の祖・草野心平はじめ、確認できている限り60篇ほどの序跋文を様々な人物の著書に寄せています。その意味ではちょっと説得力に欠ける「言い訳」かもしれません(笑)。

ところで光太郎の「序文」。注意が必要です。光太郎歿後に刊行された、ある詩人の詩集(それも二種類、まったく別の人物のもの)に付されている光太郎署名の「序文」で、どうも怪しいものがあります。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には収録されていません。『全集』編纂にあたられた当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、その二人の詩人に「草稿を見せて欲しい」と言ったところ、「ない」との返答。さらに、「どういうやりとりがあって書いてもらったのか」との問いにも、まともに答えられず。光太郎が確かにその「序文」を書いたという裏付けになる書簡等も存在せず。文体も光太郎の文体っぽくない部分が目につきます。こういう例は、他の作家にもあるのでしょうか?

閑話休題。『すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―』、他の作家達の「言い訳」も、それぞれに笑えたり、参考になったりと、有益な書物です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

電話871番は既に誰かが横取りせし事わかる、24年の由、


昭和27年(1952)11月22日の日記より 光太郎70歳

871番」は、戦前から戦時中にかけ、焼失した駒込林町のアトリエ兼住居にひかれていた電話の番号です。戦時中の葉書などには、この番号が入ったゴム印が使われていました。
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固定電話の加入権というのは、一つの財産といった意味合いがあり、それを担保にしての借金というのも、比較的近年まで行われていたようです。

ところが戦後のドサクサで、光太郎が持っていた権利が横取りされてしまっていたらしいそうで(笑)。これより前、花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送っていた頃も、この加入権について実弟の豊周に問い合わせたりしていましたが、不明だったようです。

土地などに関しても、そういうことがけっこうあったようですね。焦土と化した場所に杭を打ち、「ここは自分の土地だった」と言ってしまった者勝ち、のような。

新刊です。

吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために

2022年4月30日 河出書房新社編集部編 河出書房新社 定価1,800円+税

没後10年、揺れ動く時代に対峙し続けた吉本隆明の著作を、今どう読むか。吉本が見ていたものを私たちは見落としていないだろうか。これからも読み続けるための入門書。
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目次・収録作品
【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる
【入門】 安藤礼二 時代との対峙、その「敗北」から今を考える
【特別寄稿】 ハルノ宵子 いつも途上
【論考】
 小田原のどか 吉本隆明と〈彫刻の問題〉
 綿野恵太 宮沢賢治と高村光太郎の自然史 
 平山周吉 吉本隆明は「試行」のままに
 瀬尾育生 「異神」について
 友常勉 ゾンビとセトラー国家、そして日本資本主義論争――『共同幻想論』の読み方
【吉本隆明アンソロジー】
 〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年
 〈小説〉坂の上、坂の下/ヘンミ・スーパーの挿話/順をぢの第三台場/手の挿話
  解題:樋口良澄 物語を書く吉本隆明 
【吉本論コレクション】
 埴谷雄高/谷川雁/村上一郎/竹内好/鮎川信夫/鶴見俊輔
【吉本隆明ブックガイド】安藤礼二
吉本隆明略年譜

わが国で初めてのまとまった光太郎論『高村光太郎』(昭和32年=1957)を書いた吉本隆明。当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは、戦前の東京府立化学工業学校、戦後の東京工業大学で共に学び、光太郎や宮沢賢治について語りあい、その後、数十年にわたって光太郎顕彰・研究を共にした仲でした。
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画像は昭和60年(1985)の書道雑誌『墨』から。左から故・疋田寛吉氏、吉本、石川九楊氏、北川先生。座談会「光太郎書をめぐって」の際のショットです。

北川先生の書かれた回想(すべて『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』文治堂書店 平成31年=2019所収)から。

 隆明さんは書いている。「北川太一とわたしは、いわば高村光太郎の資料の探索については、草分けの存在であった」と。僕たちの卒業した深川の都立化学工業というのは不思議な学校だった。近くにはまだ広い草原や水溜まりや溝川があって、腹の紅いイモリやダボハゼや大きな鮒さえが泳いでいた。僕は落ち零れの第二本科、四組の昆虫少年で、本科の隆明さんと話す機会は殆どなかったが、しかし僕のクラスにもニイチェを説く安田三郎とか、オウム事件の頃の日弁連会長土屋公献とか、「ファウスト」を無理やり読ませた加藤進康とか変わった連中が沢山いた。加藤は後に工大で隆明さんが演出した太宰治の「春の枯葉」を演じたりした。しかし多くは町工場や手わざで生きる職人の子弟で、卒業したのは太平洋戦争が始まった昭和十六年十二月、それぞれの道にバラバラになったけれど、その頃僕らが同じように引かれたのは、高村光太郎や宮沢賢治だった。隆明さんの家は月島の舟大工、僕は日本橋の屋根屋の次男坊。ことに高村さんに引かれたのは、そんな下町の職人の血だったかも知れない。
(「隆明さんへの感謝」平成19年=2007)
 
 光太郎の詩集「道程改訂版」が世におくられたのも昭和一五年、たぐい稀な愛の詩集として『智恵子抄』が出たのはその翌年。戦争詩とともに、どれも僕等を夢中にさせた。太平洋戦争が始まり、繰上げ卒業で、進学組の吉本は米沢高等工業に、就職組の僕は学費を稼ぎながら東京物理学校の夜学生になって、それぞれの時間を紡いだ。進行する民族戦争に、どちらも死を覚悟した愛国青年だった。戦い終わり、海軍技術科士官として飛行予科練習生たちといのちをかけた南四国から帰ったあと、工業大学進学を選んだ時、すでに吉本は大学にいた。そして二人ともアトリエを焼かれて花巻郊外に孤座しているという高村光太郎が、いま何を考えているか、そればかりが気になった。光太郎がここに至った道を明らかにしない限り、これから何ができようかと思いつめた。そしていつのまにか、僕は重い荷物を負った定時制高校の生徒の中に埋没し、吉本は渦巻く自分の想念の生み出し手になっていた。
(「吉本と光太郎」平成26年=2014)

 志願した海軍生活は一年足らずで終わり、改めて入学した工業大学で吉本や加藤に再会したのは昭和二十一年のことだった。大学の池のほとりで、今は岩手の山奥に独り棲む光太郎について暗くなるまで語り合った記憶がある。(略)工大の特別研究生として再び一緒になったのは昭和二十四年になってからだった。彼の研究室は同じ階にあった。二年間のその第一期を終わって吉本は東洋インキ製造に入社、二十七年には詩集『固有時との対話』が出来て、それを届けてくれた時、日本の明治以後の詩史を広く見通すための資料が見たいという希望が添えられていた。お花茶屋や駒込坂下町の吉本の家を訪ねたり、時に日本橋の我が家に来てくれたりが続いたけれど、昭和三十年に吉本が『現代詩』に「高村光太郎ノート」を発表し始めたことは、僕を興奮させた。年譜を補充するために光太郎の聞き書を取り始めていた僕は、すぐその雑誌を死の前年の光太郎に見せて、わが友吉本隆明について語ったのを覚えている。
(「死なない吉本」平成24年=2012)


引用が長くなりましたが、吉本思索史原点の一つが、光太郎、そして戦争だったということがよく分かります。

さて、『吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために』。

安藤礼二氏による「【吉本隆明ブックガイド】」では、昭和32年(1957)の『高村光太郎』が紹介され、綿野恵太氏の「宮沢賢治と高村光太郎の自然史」は題名の通り、吉本が光太郎をどうとらえていたか、その一端が語られています。また、「【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる」、「〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年」でも、「高村光太郎」がキーワードの一つに。さらに彫刻家・小田原のどか氏は「吉本隆明と〈彫刻の問題〉」で、『高村光太郎』、それから春秋社版『高村光太郎選集』別巻として刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973)のために書かれた「彫刻のわからなさ」を軸に、彫刻実作者の観点から、吉本を論じています。

版元案内文には「入門書」とありますが、どうしてどうして、実に読みごたえのある書籍です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜あたたかくねる、 アトリエで初めてめざめる。


昭和27年10月14日の日記から 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエで迎えた初めての朝でした。10月半ばといえば、それまで7年を過ごしてきた花巻郊外旧太田村の山小屋ではもう寒い時期ですが、東京では「あたたかくねる」だったのですね。

青土社さんから発行されている月刊文芸誌『ユリイカ』、4月号の巻頭に文芸評論家・中村稔氏による、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の回想文が、18ページにわたり掲載されています。
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題して「故旧哀傷・北川太一 」。中村氏による「忘れられぬ人々」という連載の第6回です。

中村氏は弁護士でもあらせられ、はじめに、弁護士として手がけられた「智恵子抄裁判」の件が語られています。

「智恵子抄裁判」、ご存じない方のために概略を記しますと、昭和16年(1941)に龍星閣から刊行された『智恵子抄』の著作者は誰か、ということが争われた裁判です。「そんなん、光太郎に決まってるじゃないか」とお思いの方が多いことと存じますが、ことはそう簡単ではありません。

そもそもは、光太郎歿後の昭和40年(1965)、龍星閣主の故・澤田伊四郎氏が、『智恵子抄』は自分が編集したものだとして、当時の文部省に著作権登録をしたことに端を発します。それを不服とした光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝となった髙村豊周が、その登録抹消を求めて、翌年、訴訟を起こしたのです。

澤田氏が著作権登録をした一番の目的は、当時、龍星閣に何の断りもなく、他社が(それも数多くの)「××版『智恵子抄』」的な書籍を続々と刊行したことに対する抗議でした。『智恵子抄』は龍星閣のものだ、というその主張、これはこれで正当なものなのでは、と、当方は思います。確かに、『智恵子抄』の最初の構想はは光太郎自身ではなく、澤田氏が持ち込んだ企画でした。そのあたり、少し前に書きましたので、こちらをご参照下さい。ただ、その後のプロセスとして、自分の名での著作権登録、というのは無理があったといわざるを得ません。

最初に澤田氏が光太郎に渡した『智恵子抄』の「内容順序表」が、実際に刊行された『智恵子抄』と比べると、かなり抜けが多いこと、刊行後の詩句の改訂等も光太郎自身の裁量がなければ不可能なことなどから、結局は澤田氏の著作権登録は取り消されるという判決になりました。

下記が最高裁による判決文です。
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この裁判、原告の豊周はほどなく亡くなり、豊周遺族が原告の地位を継承しましたが、たとえ豊周が存命だったとしても、こうした係争に関わる専門知識があった訳でもなく、また、日本文芸家協会の後押し(中村氏の弁護人選任もそうでした)もありましたが、それでもこうした裁判の前例はほとんどなく、髙村家の弁護にあたった中村氏、かなり苦労されたそうです。むべなるかな、ですね。

そこで、中村氏が意見を求めたのが、北川先生でした。北川先生、『智恵子抄』の成立、収録作品の選択からその後の改版の際の改訂等に付き、中村氏に事細かにレクチャーされ、その結果、『智恵子抄』の著作者は光太郎、という判決を勝ち得たとのことでした。

中村氏、そうした中での北川先生との関わり、さらに後半では、軍隊時代や戦後の定時制高校教師時代の北川先生、ガリ版刷りの『光太郎資料』(当方が引き継がせていただいております)などに触れられ、溢れ出る愛惜の思いを語られています。

ただ、残念ながら、「智恵子抄裁判」の部分で、古い話になってきましたので仕方がないのかも知れませんが、『智恵子抄』詩句の改訂等につき、事実誤認及び少なからずの誤植がありまして、これをそのまま論文等の典拠とされると非常に危険ですので、一応、指摘しておきます。

まず、詩「人類の泉」(大正2年=1913)について。

誤 「ピオニエ」というルビ  → 正 「ピオニエエ」というルビ

続いて詩「或る夜のこころ」(大正元年=1912)。

誤 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプリの林に熱を病めり
正 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプラアの林に熱を病めり

誤 同じ作品の第二一行の「こころよ、こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、読点を付したままになっている。
正 同じ作品の第二一行の「こころよ こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、一字空けたままになっている。

さらに、詩「冬の朝のめざめ」(執筆・大正元年=1912 発表・大正2年=1913)について。

誤 第二八行に 愛の頌歌(ほめうた)をうたふたり を 愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり と改めていることである。

初版でも「愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり」となっていますので、この前後は丸々削除する必要があります。

そうした点は差っ引いても、一読に値する文章ですので、ぜひお買い求め下さい。

また、中村氏、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第20巻(平成8年=1996)の月報にも「回想の『智恵子抄』裁判」という一文を寄せられています。こちらもぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡から学生2名来る、写真撮影、


昭和27年10月7日の日記より 光太郎70歳

学生2名」のうちのお一人が、のち、宮城県母子愛護病院(現・宮城県済生会こどもクリニック)の院長になられた熊谷一郎氏だったそうで、熊谷氏、平成4年(1992)の『河北新報』さんに、その際の回想文を寄せられています。
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同じような例として、のちに国語学者となられた宮地裕氏が、やはり学生時代の昭和22年(1947)に光太郎の山小屋を訪ね、熊谷氏同様、平成に入ってから回想文を書かれました。そちらは光村図書さんの中学校用国語科教科書に、かつて掲載されていました。

先月刊行された児童向け書籍です。

日本の文学者36人の肖像(上)

2021年12月20日 宮川健郎編 あすなろ書房 定価3,500円+税

明治・大正・昭和・平成の150年間に活躍した、日本の文豪の生涯とその代表作をぎゅっと凝縮した近代文学入門書です。教科書に登場する作家を中心に大きな肖像写真で紹介します。
印象的な写真から、その人の人生も文学も、生きた時代の空気まで感じられることでしょう。

目次000
 はじめに
 森鷗外   医学でも文学でも大きな仕事を残す
 二葉亭四迷 言文一致体で近代文学を創り出す
 樋口一葉  近代女性作家の誕生
 島崎藤村  近代詩のはじまりの詩人
 上田敏   翻訳で近代詩の世界をひらいた
 正岡子規  俳句と短歌の改革者
 夏目漱石  江戸の文化が育んだ明治の文豪
 与謝野晶子 情熱の歌人
 北原白秋  永遠の童心をうたった
 石川啄木  早熟・夭折の天才
 志賀直哉  「小説の神様」と呼ばれた作家
 有島武郎  「近代」と向き合い続けた作家
 芥川龍之介 エゴイズムの追求
 高浜虚子  俳句の伝統を守り、後進を育てた

 高村光太郎 近代詩の父
 萩原朔太郎 革新者であり続けた詩人
 小川未明  日本児童文学の父
 浜田広介  善意の文学


各人、4ページずつ。最初のページは略年譜、見開きで2ページ目が、紹介文にもある「大きな肖像写真」、めくって3ページ目に代表作の抜粋(光太郎は「レモン哀歌」)、最終ページで「作品解説」およびちょっとしたエピソードを紹介するコラム(光太郎の項では「光太郎と宮沢賢治」)。
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版元の想定では「対象:小学校高学年」ということですが、中学生くらいでも十分使えそうです。

ちなみに上下巻で、下巻で扱われているのは以下の通りです。当方、購入していませんが。

宮沢賢治/江戸川乱歩/草野心平/金子みすゞ/井伏鱒二/梶井基次郎/川端康成/中原中也/新美南吉/椋鳩十/中島敦/太宰治/三島由紀夫/寺山修司/まど・みちお/茨木のり子/吉野弘/井上ひさし

教育関係の方、お子様をお持ちの皆さん、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

毛皮に腰のひもをつける、 下水吸込を拡大の為穴掘、北の窓をふさぐ。


昭和26年(1951)11月19日の日記より 光太郎69歳

「〽ふーゆーがー、来っるっ前っにー」ですね(笑)。

2件ご紹介します。

まず、一昨日の『茨城新聞』さんの一面コラム。

いばらき春秋

連日氷点下の厳しい朝が続く県内。6日に降り積もった雪がなかなか解け切らず、いまだに日陰で残っている所も多いだろう▼下館駅前のビルにある筑西支社からは関東平野の眺めが素晴らしい。快晴の日には冠雪した富士山や日光連山、時には浅間山もよく見え、真冬ならではの景色が楽しめる▼この時季にふさわしいのは高村光太郎の「冬が来た」という詩である。「きつぱりと冬が来た」という勇ましい書き出しで始まり「きりきりともみ込むような冬が来た/人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た」と厳しさを描く▼草木に背かれ、と詩人は表現しているが、この寒さが春の桜の開花には大事な条件だという。冬に入る前に休眠状態に入った花芽は一定期間低温にさらされることで目を覚まし、開花の準備を始める。それを「休眠打破」と呼ぶのだそうだ▼作品の主人公は前向きだ。「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」と力強い。真正面から受け止め、立ち向かう覚悟を示す▼寒さがなければ春は来ない。それは分かっているけれど寝床からなかなか抜け出せない。そんなとき、休眠を打破するために詩の一節をつぶやいてみよう。春はもうすぐだ。(飯)

温暖な千葉県に住んでいますと、冬の寒さには弱くなります。1月も半ばとなると、もう冬はいいから、早く春になってくれ、という感じです(笑)。「冬よ/僕に来い、僕に来い」という光太郎の気が知れません(笑)。

しかし、「休眠打破」だそうで、この寒さが植物の生育には欠かせないとのこと。まぁ、それも頭では分かっているのですが……(笑)。

ちなみに「6日に降り積もった雪」とありますが、千葉でも積雪となりました。降り始めた6日の昼頃。
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翌朝、裏山の中腹から。ここまで積もったのは数年ぶりでした。
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昨年4月に17歳で逝ってしまった愛犬と毎日行っていた公園。
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愛犬が生きて元気だったら、転げ回って喜んでいたでしょう。
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もう1件、『産経新聞』さんの読書面、1月8日(土)の掲載でした。

本ナビ+1 詩人・和合亮一 『写文集 我が愛する詩人の伝記』 心突き動かす詩人の「生気」

009 新しい年に、ふと…。そもそも詩人とは、どんな人間なのだろうと考え込んでしまった(私も一応、詩人ではあるのだが)。それはあらためて、自分自身を知りたいという気持ちと似ている。だからなのかもしれない。この本を手に取ったとき、一瞬にしてこみあがるものを感じた。簡単には言明できない何かを。
 本書は北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎、立原道造…。12の詩人をめぐる室生犀星による伝記である。例えば朔太郎は前橋、立原は軽井沢…、故郷や生活した土地とそれぞれの人物のエピソードと、地の風土を鮮明にとらえた濱谷浩の写真が並ぶ。深い親交のあった犀星にしか語れない挿話の数々は、人物をあらゆる角度から、新しく、時には丸裸にしていて面白い。
 生々しい逸話に垣間見える横顔にくすりと、そしてほろりとさせられる。伝説の詩人たちもただの人間だったんだなあと呟(つぶや)きたくなる。あとがきに「若(も)し少しでも生気が溜(た)まっていたら嬉(うれ)しい、その生気のみがこの書物のたすけになるからである」と。なるほど。詩人のもたらす「生気」に初めから私は突き動かされたのかもしれない。本の中の息づかいに耳を澄ますようにして読み進めると近代詩と詩人の全景が立体的に見えた気がした。
 そして生ばかりではなく死の場面にも触れている。どの詩友よりも生きのびてこれを書いていると語る犀星の切ない姿が随所に見受けられる。
 「詩というものは先(ま)ずまねをしなければ伸びない、まねをしていても、まねの屑(くず)を棄(す)てなければならない」という一節に詩作の秘訣(ひけつ)を教えられた思いがした。日本の詩の礎を築いたいわば開拓者たちの言葉と人生をあらためて堂々と真似(まね)てみたいと思った。

詩人の和合亮一氏が、先月刊行された『我が愛する詩人の伝記』(室生犀星 文/濱谷浩 写真 中央公論新社)の書評を寄せられています。さすがに和合氏、的確な評ですね。

これ以外にも、まだ各紙で光太郎の名を出して下さっています。明日のこのブログも、その辺で。

【折々のことば・光太郎】

笹間の猟師が青猪の毛皮を持つてくる、スルガさんに見てもらふやうにいふ。スルガさん毛皮持参、6000円の分を求める事にする。中々よろし。スルガさんに托して背中に着られるやうにしてもらふことをたのむ。


昭和26年(1951)11月10日の日記より 光太郎69歳

笹間」は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の隣村。「青猪」は「あおしし」と読み、カモシカのことです。光太郎の山小屋付近にも時々現れました。

スルガさん」は、光太郎に山小屋の土地を提供してくれた駿河重次郎、あるいはその子息。猟師から直接買うのではなく、いったん、詳しい地元民に相場等を聞いて購入したのでしょう。
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上記画像がおそらくこの時の毛皮です。翌年の詩「山のともだち」に、「角の小さいカモシカは/かわいそうにも毛皮となつて/わたしの背中に冬はのる。」という一節があります。

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