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新刊小説です。 

蝶のゆくへ

2018年8月3日  葉室麟著  集英社  定価1,700円+税

星りょう、クララ・ホイットニー、若松賤子、樋口一葉、瀬沼夏葉……。明治という新しい時代に、新しい生き方を希求した女性たち。その希望と挫折、喜びと葛藤が胸に迫る、感動の歴史長編。

「蝶として飛び立つあなた方を見守るのがわたしの役目」と語る校長巌本善治のもと、北村透谷や島崎藤村、勝海舟の義理の娘クララ・ホイットニーらが教師を務め、女子教育の向上を掲げた明治女学校。念願叶って学び舎の一員となった星りょう(後の相馬黒光)は、校長の妻で翻訳家・作家として活躍する若松賎子、従妹の佐々城信子、作家の樋口一葉、翻訳家の瀬沼夏葉をはじめ、自分らしく生きたいと願い、葛藤する新時代の女性たちと心を通わせていく―。

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一昨年から昨年にかけ、集英社さんの雑誌『小説すばる』に連載されていたものの単行本化です。作者の直木賞作家・葉室麟氏は、昨年暮れに逝去され、これが絶作なのかもしれません。ちなみに来月公開される岡田准一さん主演の時代劇映画「散り椿」は葉室氏の原作です。

物語は、新宿中村屋創業者・相馬愛藏の妻となる星りょうを主人公とし、りょうの学んだ明治女学校を主な舞台とします。全七章のうち、第六章「恋に朽ちなむ」、最終章「愛のごとく」で、りょうと荻原守衛の悲恋が描かれ、守衛の親友であった光太郎も登場します。

ちなみに守衛の絶作にして、光太郎がそれを残すことを進言した「女」は、りょうをモデルとしています。

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ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

私はいはゆる「詩」を追はない。日本に於けるいはゆる「詩的」といふ、あの一種の通念をふみにじる。さういふものを洗ひ去る。私は自己の必然にのみ頼る。私にとつて此世は造型である。私の詩も亦造型の対位として存する。私の詩の理法は造型理法にその根を持つてゐる。

散文「私の詩の理法」全文 昭和24年(1949) 光太郎67歳

題名の通り、光太郎詩の理法が端的に表されています。

7月14日(土)、企画展「光太郎と花巻電鉄」開幕を迎えた花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんを後に、レンタカーを北に向けました。当初予定では、東の花巻市街に向けて、光太郎が戦中戦後に歩いた界隈を歩く予定でした。そこで、昨年発刊された隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』の第6号「特集 賢治の足跡 光太郎の足跡」を持っていったのですが、予定を変更しました。高村光太郎記念館さんで、下記の企画展情報を得たためです。 

ハナをめぐる人の環 ~野村ハナ生誕130年・没後50年記念企画展~

期 日 : 2018年6月10日(日)~10月21日(日)
会 場 : 野村胡堂・あらえびす記念館  岩手県紫波郡紫波町彦部字暮坪193-1
時 間 : 9時~16時30分
料 金 : 一般/300円 (250円) 小中高校生/150円 (100円) 
      ( )内は20名以上団体割引料金
休館日 : 月曜日 ただし7/16、9/17、10/8は開館、翌日が休館

野村胡堂の妻ハナが通った日本女子大学。上代タノ、長沼智恵子、井上秀、平塚らいてうなどそこで出会った人々とは、生涯を通して親交を深める。母校へ、友人へ、そして家族に向けたあたたかな眼差しと想いにふれる。

 今年は、『銭形平次捕物控』の執筆者である野村胡堂の妻ハナの生誕130年・没後50年です。ハナは紫波町彦部村の出身で、大恋愛の末に胡堂の妻となり、80歳で生涯の幕を閉じました。その長い人生には、苦しい時代や度重なる不幸がありましたが、それでもキリスト教の信仰を生きる支えとし、家族や友人など多くの人々に愛情を注ぎます。
  明治38年、岩手県立高等女学校から東京の日本女子大学附属高等女学校へと転校したハナは、その後、日本女子大学で学び、母校の同附属高等女学校で教師として勤めました。その間に多くの人々との交流が生まれ、時には支え協力し合いながら人生を歩みました。日本女子大学成瀬記念館の所蔵資料をもとに、ハナの豊かな人の環と遺徳を紹介します。

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調べてみると、先月の『岩手日報』さんに記事が出ていました。智恵子の名が無かったので、気づきませんでした。 

胡堂の妻ハナ、深い愛情 紫波、記念館で企画展

 紫波町出身で「銭形平次捕物控」著者の野村胡堂(1882~1963年)の妻ハナ(1888~1968年)の生誕130年、没後50年を記念する企画展「ハナをめぐる人の環(わ)」は、同町彦部の野村胡堂・あらえびす記念館(杉本勉館長)で開かれている。初公開の3点を含め、友人や家族との手紙や写真から、愛情にあふれるハナの人物像が感じ取れる。
 展示しているのは同館や、ハナが通った日本女子大が所蔵する書簡など36点。ソニーの創業者井深大(1908~97年)、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)らとの交流を紹介する写真や手紙もある。
 このうち初公開は▽日本女子大の卒業証書▽同大第6代学長の上代(じょうだい)タノ(1886~1982年)へ宛てた書簡▽同大図書館設立のためにハナが胡堂の代筆で書いた寄付の覚書。
 10月21日まで。午前9時~午後4時半。毎週月曜日休館。入館料は一般300円、小中学生150円。24日、7月29日、8月26日、9月23日の午後1時半から学芸員が解説する。9月30日午後1時半からは盛岡二高箏曲部によるコンサートもある。問い合わせは同館(019・676・6896)へ。
2018.06.18


こちらのチラシが高村光太郎記念館さんに置いてあり、これは行かねば、と思った次第です。花巻街歩きはまたの機会にすることにしました。

紫波町は花巻市のすぐ北で、意外と早く着きました。平成26年(2014)に行った際には、山形市、仙台、盛岡と廻る途中で立ち寄ったため、在来線東北本線の日詰駅から歩き、結構難儀しましたが、レンタカーですと楽でした。

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申し訳ないのですが、常設展示は後に回し、まず企画展会場へ。

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智恵子より2歳年下の野村ハナ(旧姓・橋本)は、智恵子と同じ日本女子大学校の出身。智恵子のすぐ下の妹・セキと同じ教育学部の2回生で、智恵子とも親しくなり、テニス仲間の一人だったそうですし、帰省する際には福島の智恵子の実家に立ち寄ったこともあるそうです。明治43年(1910)には、野村胡堂と結婚。いろいろと事情があって、蕎麦屋の二階座敷でのささやかなものだったそうですが、その際には金田一京助が胡堂の、智恵子がハナの介添えとして出席したとのこと。ハナとセキに関してはこちら

今回の展示では、直接智恵子に関わる展示物はありませんでしたが、同級だったセキと一緒に写っている写真が数種類ありました。セキの写真はあまり見たことがなく、興味深く拝見しました。

その他、智恵子を『青鞜』に引きこんだ平塚らいてう、光太郎による日本女子大学校創設者・成瀬仁蔵胸像制作に関わったり、智恵子葬儀に女子大学校代表として参列したり、戦後は光太郎に講演を依頼したりした同校第四代校長・井上秀(朝ドラ「あさが来た」では吉岡里帆さんが「田村宜」名で演じていました)らからの書簡など。

そんな中で、展示の終わり近くでパネルに大きく印刷されていた、胡堂の「良い籤を引いた」という一文が目を引きました。昭和27年(1952)の雑誌『キング』に載ったものだとのこと。

結婚してから四十三年になるが、夫婦喧嘩というものをやった経験は無い。ご質問に応じかねて、誠に相すまぬようであるが、こればかりは致しかたもない。四十三年もの長い間を掴み合いも口喧嘩もしなかったのは、多分私は人間が甘く出来ており、老妻がズルく立ち廻った為だろうと思う。尤も、仕事のことで、時には気むずかしいこともあり、年のせいで、些か小言幸兵衛になりかけているが、老妻は巧みにあしらって、決してこれを喧嘩にはさせない。
(略)
四十三年前、もり蕎麦で結婚した私達は、もう、日本流に算えて七十一才に六十五才だ、喧嘩をせずに来たのは、運がよかったのかも知れない。これから先も無事に平凡に余生を送るだろう。つまりは良い籤を引いたのだ。

幸せな結婚生活を続けることが出来た感懐がほほえましく記されています。

この中で、こんな一節もありました。

自分の芸術のために幾人もの女に関係する男や、夫の芸術のために自分を犠牲にする女を私はお気の毒だと思っている。そんな芸術はこの世の中に無い方が宜しい。

幾人もの女に」云々はともかく、「夫の芸術のために自分を犠牲にする女」は、もしかすると、光太郎智恵子を念頭に置いているのでは、などと思いました。証拠はありませんが、昭和27年(1952)といえば、『智恵子抄』が龍星閣から復刊され、ベストセラーとなっていた時期ですので。

直接、智恵子に関する展示がなかったので少し残念に思っておりましたが、帰りがけ、ミュージアムショップ的なコーナーで、胡堂の弟子筋に当たる藤倉四郎氏の著書『バッハから銭形平次』(青蛙房・平成17年=2005)に目がとまりました。同じ藤倉氏が同じ青蛙房から出された『カタクリの群れ咲く頃の』(平成11年=1999)は所蔵しておりますが、こちらは存じませんでした。パラパラめくると、智恵子に関する記述がありました。明治44年(1911)、当時、雑司ヶ谷にセキと共に住んでいた智恵子の元を、ハナが生まれたばかりの長男を連れて訪れたことがハナの日記に記されているというのです。これは存じませんでした。購入してこようかとも思いましたが、他の部分には智恵子に関する記述がなさそうなので、図書館等で探してコピーしようと思い、やめました。セコいようですが、少しこういうところで節約しないと、なかなか厳しいものがありますので……。

さて、野村胡堂・あらえびす記念館さん、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一体、人間が斯うやッて此世に生れて来たに就いては何か目的が無ければならない。何か神様から言ひつかッて来た事が無ければならない。唯併し乍ら、我々は其を草が草であり、木が木であるが如くには容易に知る事が出来ない。
戯曲「青年画家」より 明治38年(1905) 光太郎23歳

「青年画家」は、翻訳を除き、確認できている光太郎唯一の戯曲です。他に「佐佐野旅夫」クレジットの戯曲「地獄へ落つる人々」(明治45年=1912、『スバル』)も、実は光太郎作品ではないかと推定されますが、確証はありません。

「青年画家」は、現在では否定されているハンセン病に関する偏見があったり、筋立てにも無理があったりしますが、若き日の光太郎の、自らや芸術に対する真摯な思いが見て取れる作品です。この年、「第一回新詩社演劇会」で上演され、石井柏亭、生田葵山、伊上凡骨らが出演しました。引用部分は、与謝野寛演じる「上野」(主人公・「佐山」の親友)のセリフです。

『朝日新聞』さんの別刷土曜版be。「みちのものがたり」という見開き2ページの連載が為されており、毎回、日本全国の様々な「道」と、それにまつわるドラマが紹介されています。今年の1月には、「高村光太郎「道程」 岩手 教科書で覚えた2大詩人」ということで、花巻郊外の光太郎が7年間を暮らした山小屋、高村山荘が紹介されました。

昨日は、福島県二本松市。霞ヶ城(二本松城)の東側にある切り通しの坂、竹田坂と亀谷(かめがい)坂が大きく取り上げられました。

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物語の主役は、幸田露伴。明治20年(1887)、電信技師として働いていた露伴は、文学への志を棄てがたく、赴任していた北海道余市から、職を放棄して帰京します。汽車賃もままならぬ青息吐息の強行軍で、行き倒れになりかけることもしばしば。その途次で思い浮かんだ句「里遠し いざ露と寝ん 草枕」から、「露」を「伴」とする、ということで「露伴」と号するようになったとのことです。

で、二本松。この道中を記録した『突貫紀行』に、次の一節があります。

二本松に至れば、はや夜半ちかくして、市は祭礼のよしにて賑やかなれど、我が心の淋しさ云ふばかりなし。市を出はずるる頃より月明らかに前途ゆくてを照しくるれど、同伴者(つれ)も無くてただ一人、町にて買ひたる餅を食ひながら行く心の中いと悲しく、銭あらば銭あらばと思ひつつやうやう進むに、足の疲れはいよいよ甚しく、時には犬に取り巻かれ人に誰何せられて、辛くも払暁(あけがた)郡山に達しけるが、二本松郡山の間にては幾度か憩けるに、初めは路の傍の草あるところに腰を休めなどせしも、次には路央(みちなか)に蝙蝠傘を投じてその上に腰を休むるやうになり、つひには大の字をなして天を仰ぎつつ地上に身を横たへ、額を照らす月光に浴して、他年のたれ死をする時あらば大抵かかる光景ならんと、悲しき想像なんどを起すやうなりぬ。

この時食べた餅が、竹田坂と亀谷坂の峠にあった茶店、「阿部川屋」の「阿部川餅」。その後、茶店は東北本線の郡山―塩竃間の開通後、坂を通る人の減少に伴い、閉店。10年ほど前に、二本松の街作り団体が「露伴亭」として復活させました。近く(歩くには少し遠いのですが)には智恵子の生家・智恵子記念館もあります。

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と、まあ、『朝日新聞』さんでは、こんな感じの紹介でした。周辺ガイド的に智恵子生家・智恵子記念館も紹介して下さいました。


このブログではもう少し、突っ込みます。

露伴が「阿部川餅」を購入した茶店「阿部川屋」。何と当時の主人が、智恵子の実の祖父なのです。その名を安斎彦兵衛。文化12年(1815)、二本松で生まれました。歿したのは明治37年(1904)、数え90歳の長寿でした。

安斎氏は元は安西氏と号し(幕末に改姓)、室町時代の正平元年(1347)、足利尊氏に従ってこの地にやってきた安西太郎左衛門真行を祖とします。真行は上川崎地区に館を築き、子孫は紆余曲折を経て、寛永年間には完全に町人となりました。元禄10年頃に生まれた16代安西元喜は、京都に歌や神道を学びに行き、その帰途、東海道の安倍川宿で食べた「安倍川餅」に感激、職人を一人譲り受けて帰郷、字を変えて「阿部川餅」の製造販売を始めました。

下って安斎彦兵衛は28代目。正妻との間に子がありませんでしたが、茶店で働いていた武田ノシとの間に、戊辰戦役のさなかの明治元年(1968)、女の子が生まれました。その子がセン、智恵子の実母です。やがてノシは、新潟の田上から流れてきた杜氏の長沼次助と所帯を持ち、センも連れ子として後に長沼姓となります。次助は新潟に妻子を残したまま二本松に居着き、長沼酒造を興して大繁盛。それが智恵子の生家です。

茶店は彦兵衛の養子の子、29代賢太郎の代に石屋に転業、現在も安斎石材店として、茶店のあった場所に続いています。また、竹田坂の麓には、安斎(安西)氏の菩提寺、真行寺があり、一族の墓碑等が残っているようです。このあたりもきちんと訪れようと思いつつ、まだ果たせていません。

明治20年(1887)、智恵子の祖父が幸田露伴に餅を饗し(ちなみに智恵子はその前年、長沼酒造で生を受けています)、下ってその露伴の弟子だった田村俊子は智恵子の親友となり、同じく露伴の弟子で俊子の夫だった田村松魚は光太郎と親しくつきあい、光雲の懐古談を筆録……。

つくづく縁とは不思議なものだと思います。

『朝日新聞』さんの「みちのものがたり」、全文はご紹介できませんが、購読されていない方、朝日さんのサイトで読める他、公立図書館さん等にも置かれているでしょう。ぜひお読み下さい。


【折々のことば・光太郎】

世界の幾多の批評家がロダンを寸断する。私は彼等の殆どすべてに不満である。私は日本人であるが、それ故、フランス人よりもロダンが分からないとは思はない。

書き下ろし書籍『ロダンより 昭和2年(1927) 光太郎45歳

光太郎著の『ロダン』。この年、北原白秋の弟・鉄雄が経営する出版社・アルスから刊行されました。翌年にはペーパーバックの普及版も。

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現在でも格好のロダン評伝です。対象に対する深いリスペクトのなせる業でしょう。

ミステリー作家の内田康夫さんの訃報が出ました。

内田康夫さん死去、83歳=推理作家、浅見光彦シリーズ

 名探偵「浅見光彦」シリーズで知られる作家の内田康夫(うちだ・やすお)さんが13日、敗血症のため東京都内で死去した。
  83歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。お別れの会は行わず、3月23日~4月23日、長野県軽井沢町の浅見光彦記念館に献花台を設ける。喪主は妻で作家の早坂真紀(はやさか・まき、本名内田由美=うちだ・ゆみ)さん。
  コピーライター、CM制作会社経営を経て1980年、「死者の木霊」で作家デビュー。82年の3作目「後鳥羽伝説殺人事件」で初登場した浅見光彦は、警察庁刑事局長を兄に持つ33歳のルポライターというキャラクターが広く愛され、全国各地を舞台にシリーズ化。99年「ユタが愛した探偵」の沖縄県で47都道府県を網羅した。
  作品は相次いでドラマ化され、2008年には日本ミステリー文学大賞を受賞。15年夏に脳梗塞で倒れ、療養を続けていた。
  遺作となった未完の小説「孤道(こどう)」を含め計160冊余りを刊行。これまでの累計発行部数は約1億1500万部という。
(時事通信 2018年3月18日) 

作家・内田康夫さん死去 83歳 「浅見光彦シリーズ」

 名探偵・浅見光彦シリーズを生んだ作家の内田康夫(うちだ・やすお)さんが13日、敗血症のため東京都内で死去した。83歳だった。葬儀は002近親者で営んだ。喪主は妻の作家早坂真紀(はやさか・まき、本名内田由美〈うちだ・ゆみ〉)さん。23日~4月23日、長野県軽井沢町の浅見光彦記念館(火、水休館)に献花台が設けられる。
  34年東京生まれ。東洋大中退。コピーライターなどを経て、80年に3千部を自費出版した「死者の木霊」が、翌年の朝日新聞の書評で取り上げられたことが機となり、作家になった。
  名探偵・浅見は82年の「後鳥羽伝説殺人事件」に初めて登場。警察庁刑事局長の兄を持つ、ハンサムなルポライターが事件を解決するシリーズとして人気を集め、辰巳琢郎、中村俊介らが演じて映像化されてきた。
  事前に構想を固めずに書き進める作法をとり、旅情ミステリー作家として各地の風景や人々の心情を描いてきた。内田康夫財団によると、残された著作は163、累計発行部数は1億1500万部という。
  08年に日本ミステリー文学大賞を受賞。14年には永遠の33歳だった浅見が34歳になり、転機を迎える物語「遺譜 浅見光彦最後の事件」を刊行した。しかし15年、毎日新聞で浅見シリーズ「孤道」を連載中に脳梗塞(こうそく)で倒れ、執筆を中断。17年3月には休筆宣言をし、同作は未完のまま刊行され、今年4月にかけて続編を公募して完結させることになっている。
(朝日新聞 2018/03/19)


未完の「孤道」を含め、116作ある「浅見光彦シリーズ」の中の10作目、『「首の女(ひと)」殺人事件』(昭和61年=1986)が、光太郎の贋作彫刻をめぐる事件を描いたものでした。

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同年、当時、銀座にあった東京セントラル美術館で開催された「the光太郎・智恵子展 高村光太郎没後30年 智恵子生誕100年」が事件の発端という設定でした。

内田氏は他にも、『「萩原朔太郎」の亡霊』(昭和57年=1982 萩原朔太郎)、『津軽殺人事件』(昭和63年=1988 太宰治)、『横浜殺人事件』(平成元年=1989 野口雨情)、『イーハトーブの幽霊』(平成7年=1995 宮沢賢治)、『遺骨』(平成9年=1997 金子みすゞ)、『砂冥宮』(平成21年=2009 泉鏡花)、『汚れちまった道』(平成24年=2012 中原中也)など、文学者をモチーフにした推理小説をたくさん執筆されましたが、モチーフと作品全体の関連度でいえば、話の枕にそれらの文学者が扱われる程度の作と異なり、『「首の女(ひと)」殺人事件』は、ほぼ全篇、光太郎智恵子にまつわる内容でした。智恵子の故郷・二本松の安達太良山が事件現場になったり、事件の重要人物が宿帳に光太郎の住所である「駒込林町二十五番地」と書いたりと。

余談というと失礼ですが、準レギュラー的に後の作品にもたびたび登場する野沢光子(浅見の幼なじみ)がヒロインとして初登場したり、それまで「スポーツタイプ」としか記述がなかった浅見の愛車がトヨタソアラリミテッドであることが初めて明かされたりした作品でもあります。


映像化も2回されています。

平成18年(2006)にはフジテレビさんで、中村俊介さん主演、ヒロインは紫吹淳さんでした。

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原作に即した作りで、二本松ロケも行われ、東京セントラル美術館の代わりに、岩手花巻の高村記念館(リニューアル前の)が使われました。残念ながら、販売用DVD等は発行されていませんが、年に数回、BS放送で再放送が繰り返されています。

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TBSさんでも、平成21年(2009)に、沢村一樹さん主演で「浅見光彦~最終章~ 最終話 草津・軽井沢編」として映像化。ただし、物語の舞台が大きく変わったりしています。

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こちらはDVDボックスが発売されています。

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それにしても内田氏、ミステリー作家として、ある意味、見事な最期でした。『遺譜 浅見光彦最後の事件』(平成26年=2014)で、余韻を持たせながらも、浅見光彦シリーズの終末を描ききり、その直前の事件という設定で『毎日新聞』さんに連載を始めた『孤道』が体調不良のため未完にならざるを得なくなると、続きは公募するという、前代未聞の措置をとられています。来月〆切だそうで、おそらく、熱烈な浅見ファンの方々が、それぞれの物語を執筆なさっているのではないでしょうか。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

小生にとりては此所に挙げたる好きなものに属する作品の外はすべて土塊敗紙に等しく何らの Raison d'être を有せざる作品とより以外に如何にしても感ぜられず、其の中にて嫌ひなものと申すは、特別に小生の神経を害し、見るたびに不愉快に感ぜられたるものを申すのに候。

散文「文部省美術展覧会評」より 明治42年(1909) 光太郎27歳

このコーナー、筑摩書房さんから刊行された『高村光太郎全集』の第一巻からはじめ、光太郎の言葉を拾っています。今日から第六巻に入りまして、当分の間は展覧会評です。

この年、3年半にわたる欧米留学から帰朝した光太郎、世界の最先端の芸術を観てきた眼に、日本の美術家の作品は、一部の例外を除き、西洋美術の猿真のような根柢のないものにしか見えませんでした。

今月一日に行われた、平成30年度埼玉県公立高等学校入学者選抜の国語の問題文に、光雲・光太郎父子が登場しました。ちなみに昨年は群馬県の社会の問題に光雲が出題されています。

いきなりの大問1、文学的文章の長文読001解問題で、出典は一昨年、集英社さんから刊行された原田マハさん著『リーチ先生』です。明治41年(1908)、イギリス留学中の光太郎と知り合い、その影響もあって日本への憧れが昂じ、来日した英国人陶芸家のバーナード・リーチを主人公とする小説です。

物語は、大正9年(1920)までの滞日中、そして帰国後の3年間、リーチの助手を務めたという設定の、架空の陶芸家・沖亀乃介を主人公とし、彼の存在以外はおおむね史実に添った内容となっています。光太郎、光雲、そして光太郎実弟の豊周も登場します。

作者の原田さん、この『リーチ先生』で、昨年、第36回新田次郎文学賞を受賞なさいました。

さて、埼玉の高校入試問題。web上に問題模範解答が公開されていますが、『リーチ先生』の本文自体は「掲載許諾申請中」だそうです。しかし、問題文から、どの箇所が抜粋されたか推定できました。まず、リーチが来日直後、まだ欧州にいる光太郎からの紹介状を手に、駒込林町の光太郎実家に光雲を訪ねるというくだりです。

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問1は、光雲のセリフから。「困ったやつ」は光太郎です(笑)。「誰や彼や」の中には、この小説の主人公、亀之介も含まれます。亀之介もひょんなことから知り合った光太郎の紹介で、光雲の元で書生をしているという設定で、このシーンがリーチと亀之介の初対面です。

ちなみに正解は「エ」。「ア」~「ウ」の気持ちも、全くなかったとは言い切れませんが(笑)。

続いて問2は、ある意味、無謀にも来日したリーチの心情に関して。



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問3は、主人公亀之介の何げない行動か002ら、その心情を問う問題。

リーチが光雲邸を訪れた翌日、光雲に東京美術学校へ連れられていった帰路、通訳として同行した亀之介との会話のシーンからです。

亀之介はかつて横浜の食堂で働いており(そこで光太郎と知り合いました)、船員たちとの会話から自然と英語を身につけていました。そして美術家を目指し、光雲の元に書生として厄介になりますが、専門の美術教育を受けたわけではなく、ある意味、恵まれた環境で学ぶことが出来ている美校生たちへのコンプレックスが、ぬぐいがたく存在しました。

そんな亀之介の鬱屈や屈託を察したリーチは、亀之介を励まします。


それを受けて、問4。


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正解は「イ」。

この後、亀之介はリーチの通訳兼助手として、ともに陶芸の道に進み、リーチの母国・イギリスのセント・アイヴスまでリーチについていくことになります。そして、陶芸家としての才を花開かせて行く、というわけです。


大問1、最後に表現上の003特色を問う問5。「適切でないもの」「二つ」というところがミソですね。解答用紙に枠が印刷されているはずですので、一つしか選ばないうっかり者はそういないと思いますが、「適切でないもの」を見落とし、あてはまるものを選んでしまうのは、中学生レベルではありがちです。

もし「しまった、自分がそうだった、どうしよう」という中学生さんがいましたら、大丈夫です。他にもけっこういますから(笑)。

ちなみに正解は「ウ」と「オ」です。「オ」は引っかけですね。全体のテーマは「芸術に対する熱い思い」ですが、この場面ではそれはそれほど語られていません。よく読めば、具体性に欠ける無理矢理設定した選択肢だというのは読み取れます。


それにしても、一昨年に刊行されたばかりの『リーチ先生』が問題文に使われるというのは、少し驚きました。

中学生諸君、入試も終わって時間が出来たところで、もう少し落ち着いたら、ぜひ全文を読んでほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

その気魄は内潜的である。その風趣は清潔である。煩瑣感が些かも無く、洗練された単純感が全体を貫く。

散文「東大寺戒壇院四天王像」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

昨日ご紹介した「戒壇院の増長天」を含む、奈良東大寺の戒壇院の四天王像に関するものです。古代の作品の評ながら、光太郎が目指した彫刻、それに限らずすべての芸術のありようを示しているように思われます。

まず、『東京新聞』さんの記事から。見出しの「きょう」というのは先週土曜です。

鴎外と芸術家の親交たどる 文京の記念館、きょうから展覧会

 文京区立森鴎外記念館(千駄木1)で13日から、コレクション展「鴎外・ミーツ・アーティスト-観潮楼(かんちょうろう)を訪れた美術家たち」が始まる。文豪の鴎外(1862~1922年)と交流のあった芸術家ゆかりの作品などを展示、鴎外のあまり知られていない交友関係を明らかにする。4月1日まで。 (井上幸一)
 鴎外はドイツ留学中、洋画家の原田直次郎(一八六三~九九年)と出会い、美術批評も始める。以降、公私にわたって多くの芸術家と交流。画家をモデルに、「ながし」「天寵(てんちょう)」などの小説を生み出している。
 二階の書斎から東京湾が見えたという観潮楼は、鴎外が「青年」「雁(がん)」「高瀬舟」などの作品を著した住居跡。文京区が跡地に建てたのが森鴎外記念館だ。
 展覧会では、楼を訪れた芸術家に焦点を当て、鴎外に宛てた書簡、鴎外が所持していた絵画、鴎外作品を彩った装丁本、「ながし」の生原稿など、記念館のコレクション約八十点を展示。大下藤次郎、岡田三郎助、高村光太郎、長原孝太郎、藤島武二、宮芳平ら、画家や彫刻家たちに鴎外が向けたまなざしや、それぞれの芸術家が鴎外作品に何を見いだしたのかを浮き彫りにする。
 記念館の広報担当者は、「親交が深かった原田直次郎との関係を展示したことはあるが、他のアーティストとの関わりを広く紹介するのは初めて。美術界に鴎外が深く関係していた事実を知ってもらえれば」とPRしている。
 期間中の二月二十四日午後二時から、実践女子大の児島薫教授による講演会「鴎外が嘱望した洋画家藤島武二」を開催(定員五十人、事前申込制)。一月二十四日、二月七日、二十八日、三月十四日の午後二時からギャラリートーク、三月二十一日午前十一時から、鴎外作品のブックデザインを楽しむスペシャルギャラリートークがあり、いずれも学芸員が展示品などを解説する。観覧料三百円、中学生以下無料。二月二十六日、二十七日、三月二十七日は休館。問い合わせ、講演会の申し込みは、森鴎外記念館=電03(3824)5511=へ。

他紙でも紹介されていますが、若干、とんちんかんな記述があったりしますので割愛します。

というわけで、詳細は以下の通りです。 
会 場  : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間  : 10:00~18:00
料 金  : 一般300円(20名以上の団体:240円)
休館日  : 226日(月)、27日(火)、327日(火)

小説家、翻訳家、陸軍軍医など八面六臂の活躍で知られる鴎外ですが、実は美術とも深いつながりを持っており、沢山の美術家の知己を得ています。鴎外は美術家たちの良き理解者でありながら、時には厳しい批評者でもあり、また美術庇護者としても彼らを支えます。鴎外にとっても、彼らは仕事仲間であり、一方で創作の源泉となる存在でもありました。

鴎外が出会った美術家たちの中から、鴎外の居宅・観潮楼(現・文京区立森鴎外記念館)を訪れた美術家に、100年以上の歳月を経て、再び集まってもらいましょう。鴎外に作品を評価された洋画家・藤島武二、鴎外作品のモデルにもなった水彩画家・大下藤次郎、東京美術学校で鴎外の講義を受けた彫刻家・高村光太郎、鴎外の著書の装丁を多数手がけた洋画家・長原孝太郎…。美術界における旧派と新派、あるいは明治美術界から白馬会、太平洋画会との価値観がせめぎ合う中で、鴎外は彼らにどのような眼差しを向けてきたのでしょうか。そして美術家たちの眼は鴎外自身と鴎外作品に何を見出したのでしょうか。観潮楼に届いた美術家たちの書簡、鴎外の美術批評、鴎外作品を彩った装丁本など当館のコレクションを通して、「鴎外が見つめた美術家」と「美術家が見つめた鴎外」に迫ります。

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光太郎の母校・東京美術学校の教壇に立ち「美学」の講義をしたり、文展(文部省美術展覧会)の審査員をしたりした鷗外、美術については一家言ある人でした。そこで、光太郎を含む美術家たちとの交流をテーマにした企画展です。

展示目録によれば、光太郎関連では、光太郎から鷗外に宛てた葉書(明治43年=1910)、これは鷗外が自宅で催していた観潮楼歌会への誘いを断るものです。理由として、やはり今回の展示で取り上げられている藤島武二がフランスから帰った歓迎会とブッキングのためと書かれています。

それから明治42年(1909)の雑誌001『スバル』(覆刻)。裏表紙に光太郎筆の、鷗外をモデルにしたカリカチュア(戯画)が掲載されています。題して「観潮楼安置大威徳明王」。この絵に関し、今回の展示を報じる某紙では「高村が見た鴎外の超人的に多才な姿が映される」としていますが、そういうわけはありません。鷗外を尊敬しつつも、敬して遠ざけていた光太郎(観潮楼歌会も何だかんだ理由を付けて逃げ回っていました)、うっかり「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、鷗外に自宅に呼びつけられて説教された光太郎ですので。もっとも、「この絵はどういう意味だ」と詰問された際には「先生の超人的なお姿です」と切り抜けるつもりだったのかもしれません(笑)。

ちなみに同じシリーズでは馬場孤蝶、永井荷風、三木露風、北原白秋、与謝野晶子、小山内薫らのカリカチュアも描いていますし、実現はしませんでしたが、光太郎が経営していた画廊・琅玕洞で、同じ趣向の切抜人形展も企画していました。

ただし、茶化すだけでなく、それぞれ親しみを込めて描かれているものであることは確かです。

さらに光太郎著書『造型美論』(昭和17年=1942)、『某月某日』(同18年=1953)。それから与謝野寛が光太郎について触れた鷗外宛の書簡(明治42年=1909)も、光太郎のコーナーに出ています。

光太郎以外では、先述の藤島武二(光太郎が留学直前に再入学した東京美術学校西洋画科教授でした)、光太郎に猫をくれた岡田三郎助、光太郎と書簡のやりとりもあった宮芳平などにスポットが当てられています。


ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

日本人は概して習字を大切にしない。随分下手な書でも其れを書いた者の人物が直接に出てゐる事を喜ぶ。書法の衣裳を纏はないものに卻つて心ををひかれる。あまりうまい書を内心低く考へる者さへ居るのである。

散文「七つの芸術」中の「六 書について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

ここで言う「習字」とは、「書道」という意味ではなく、日々の鍛錬として毛筆で字を書くという意味です。書の発祥の地、中国では、「習字」を重視し、大抵の人の書くものはともかくも書として成立しているが、日本ではそうではなくなったという論旨です。

まずは今朝の『朝日新聞』さんから。 

芥川賞に若竹千佐子さん・石井遊佳さん 直木賞に門井慶喜さん

 第158回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が16日、東京・築地の「新喜楽」で開かれ、芥川賞に若竹千佐子さん(63)の「おらおらでひとりいぐも」(文芸冬号)と石井遊佳(ゆうか)さん(54)の「百年泥」(新潮11月号)の2作、直木賞には門井慶喜(かどいよしのぶ)さん(46)の「銀河鉄道の父」(講談社)が選ばれた。副賞は各100万円。贈呈式は2月下旬、東京都内で開かれる。

(略)

 直木賞の門井さんは1971年、群馬県桐生市生まれ。同志社大卒。大阪府寝屋川市在住。大学職員として働いた後、2006年に「天才たちの値段」でデビュー。評論「マジカル・ヒストリー・ツアー ミステリと美術で読む近代」で日本推理作家協会賞、「東京帝大叡古(えーこ)教授」「家康、江戸を建てる」で直木賞候補に。受賞作は、宮沢賢治の生涯を父政次郎の視点から書いた。
 会見での第一声は「風がきた。飛ぶだけだ。そういう気持ちです」。歴史小説家という仕事について「歴史好きの父から慶喜という名を与えられたことで、決まっていたのかもしれない。21世紀の読者にとって価値のあるものを歴史の中に見つけていく、21世紀の文章で届けていく」と話した。
 選考委員の作家、伊集院静さんは「圧勝でした。門井さんは歴史的事実だけでなく、父と子というテーマに対峙(たいじ)した。どうしようもなさや柔らかさなど、賢治の幅を広げたのも門井さんの功績」とたたえた。


というわけで、直木賞は門井慶喜氏の『銀河鉄道の父』。宮沢賢治の父・政次郎を主人公とした小説です。政次郎は、昭和20年(1945)、空襲で東京駒込林町のアトリエを失った光太郎を、花巻の自宅に疎開させてくれた人物ということで、昨年のこのブログで同書をご紹介させていただきました。ただし、光太郎は直接は登場せず、2回ほど、名前が出ているのみでしたが。

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最近、同書が新刊書店で平積みになっているのを眼にし、失礼ながら、この手の書籍が刊行後しばらく経ったこの時期で平積みになっているのは珍しいな、と思っていました。すると、コンビニのレジでは「直木賞候補作一覧」的な広告が印刷されたマットが敷かれていて、なるほど、と思った次第です。

非常に読み応えがありまして、光太郎がらみの人物がたくさん登場することもあり、ぜひ受賞して欲しいものだと思っていたところ、見事に受賞。嬉しいニュースです。

こちらは昨秋、『朝日新聞』さんに載った、作家の逢坂剛氏による書評。スクラップしておいたものです。

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以前にもこの画像を使いましたが、こちらが政次郎(中央)です。右が光太郎、左は政次郎の妻・イチ。花巻郊外旧太田村の、光太郎が蟄居していた山小屋(高村山荘)前でのワンショットです。

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当会の祖・草野心平(後列左)も写っているものもあります。

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前列左から政次郎、イチ。前列右端は、政次郎ともども、光太郎を花巻に招いた、賢治の主治医でもあった佐藤隆房、その後ろは賢治実弟の清六です。佐藤の左の女性は、すみません、当方、よくわかりません。賢治の妹のシゲあたりでしょうか。

『宮沢賢治全集』の編集などにより、生前は無名だった賢治を世に送り出してくれたということで、政次郎は光太郎や心平に深く恩義を感じていました。その結果、光太郎の花巻疎開が実現したわけです。

後に光太郎は、こんな短歌も遺しています。

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みちのくの 花巻町に 人ありて 賢治をうみき われをまねきき

政次郎や佐藤を指しての一首です。


ところで、直木賞とセットの芥川賞に選ばれた若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」。こっちも賢治がらみか、と思いました。「おらおらでひとりいぐも」というのは、妹・トシの臨終を謳った賢治の詩「永訣の朝」の一節だからです。ところが、こちらは直接に賢治が登場するわけではなく、現代を舞台にしているとのこと。ただ、若竹さん、やはり岩手のご出身だそうです。

さて、『銀河鉄道の父』。以前にご紹介した時にも書きましたが、物語は賢治歿後の昭和10年(1935)までで終わっているので、その後の政次郎(昭和32年=1957まで存命)を描く続編を期待したいところです。そうすると、光太郎との関わりがさまざまな点で出てきますので。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

テレヴヰジヨンの完全な発達によつてその混淆した使命の両分されるに至るまで、この罐詰芸術は果してどんな独自の役割を果すだらう。

散文「七つの芸術」中の「五 映画について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「七つの芸術」の中に映画も入れているというのが意外な気もしますが、光太郎、確かに映画も好んでよく観ていましたし、映画評論的なものも書いています。花巻郊外旧太田村に蟄居中も、時折、花巻町に出て来ては、賢治実弟の清六らと共に、フランス映画などを観ていました。

それにしても、昭和初期の時点で、後にテレビが世の中を席捲するであろうことを予言しているようにも読め、その先見性には驚かされます。

昨日に引き続き、少し前に刊行された書籍のご紹介をいたします。

本日は、宮沢賢治と光太郎の関わり、的な。 

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多くの人びととの出会いを糧に、賢治は自らの世界観を築き上げていったにちがいありません。そのことが死後実を結び、世界的な規模で読まれるいしずえとなったのではないか。そう感じている私は、本書で賢治が影響を受けたと思われる16人を登場させました。本書を読み、「宮沢賢治」がどのようにして形成されたのか。感じ取っていただけたなら、とてもうれしいです。(「はじめに」より)

目次
 はじめに 
 Ⅰ 石川啄木 文学への助走 ヘンリー・タッピング 英語への窓 葛飾北斎 浮世絵趣味
    鈴木東民 作家願望 藤原嘉藤治 ピアノを弾く詩人
   鳥羽源蔵 トバスキー、ゲンゾスキー
 Ⅱ 草野心平 才能の発見者 高村光太郎 コスモスの所持者
   森荘已池 「店頭」での出会い 
     黄瀛 コスモポリタン 鈴木東蔵 「石っこ」同志 
 Ⅲ 新渡戸稲造 東京志向 田鎖綱紀 日本語速記術の創始者 
    グスタフ・ラムステット フィンランド初代駐日公使
   佐々木喜善 民俗学とエスペラント レフ・トルストイ ベジタリアン 
 宮沢賢治略年譜 主要参考文献 
 おわりに 著者略歴


宮沢賢治学会理事であられる佐藤竜一氏の新著です。氏の御著書のうち、『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』は以前にもご紹介させていただきました。

まさしく題名の通り、賢治とさまざまな面から交流があったり、会ったことはないものの影響を受けたりした16人の人物を取り上げています。

光太郎の項、特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、光太郎とも交流のあった人物――啄木、藤原嘉藤治、心平森荘已池黄瀛、佐々木喜善――も取り上げられており、それらの人物の項にも光太郎の名が現れています。


もう一冊。こちらは小説です。

銀河鉄道の父

2017年9月12日 門井慶喜著 講談社 定価1,600円+税

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明治29年(1896年)、岩手県花巻に生まれた宮沢賢治は、昭和8年(1933年)に亡くなるまで、主に東京と花巻を行き来しながら多数の詩や童話を創作した。
賢治の生家は祖父の代から富裕な質屋であり、長男である彼は本来なら家を継ぐ立場だが、賢治は学問の道を進み、後には教師や技師として地元に貢献しながら、創作に情熱を注ぎ続けた。
地元の名士であり、熱心な浄土真宗信者でもあった賢治の父・政次郎は、このユニークな息子をいかに育て上げたのか。
父の信念とは異なる信仰への目覚めや最愛の妹トシとの死別など、決して長くはないが紆余曲折に満ちた宮沢賢治の生涯を、父・政次郎の視点から描く、気鋭作家の意欲作。

目次
1 父でありすぎる 2 石っこ賢さん 3 チッケさん 4 店番 5 文章論 6 人造宝石 7 あめゆじゅ 8 春と修羅 9 オキシフル 10 銀河鉄道の父

元は『小説現代』誌上に、昨年から今年にかけて連載されたものの加筆訂正版です。

主人公は宮沢政次郎。賢治の父にして、昭和20年(1945)、空襲で東京を焼け出された光太郎を花巻の自宅に疎開させてくれた人物です。ただ、全編賢治に対する政次郎の行動が描かれ、賢治と関係ない部分での政次郎はほとんど割愛されています。といって、政次郎視点で賢治の生涯を浮き彫りにする、というのが主眼でもなく、あくまで描かれているのは、父としての政次郎の内面です。

時間軸としては、賢治出生の明治29年(1896)から、賢治歿後2年が経った昭和10年(1935)まで。光太郎は直接は登場せず、賢治が生前唯一の詩集『春と修羅』を光太郎にも贈った件、光太郎や心平、横光利一らが『宮沢賢治全集』に関わったという話が紹介されているのみです。

それでも、後に光太郎を花巻に呼び寄せる政次郎の心意気、的な部分は、こういう人物ならさもありなん、と思わせる流れで描写されていますし、やはり光太郎と関わった賢治の弟妹も登場します。

ただ、残念なのは、当方、それほど賢治や政次郎に詳しくないので、劇中のどこまでが事実なのかよく分からない点。晩年に賢治が勤務した東北採石工場のことなどは一切出てこず、どうなっているのかと疑問に思いました。このあたり、コアな賢治ファンの方にお伺いしたいものです。

できれば続編を期待したいところです。光太郎が碑文を揮毫した昭和11年(1936)の「雨ニモマケズ」詩碑建立、昭和20年(1945)の光太郎花巻疎開、同じ年、終戦間際の花巻空襲で自宅が焼けたこと、その後の郊外太田村に移った光太郎との関わり、そして光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に数え83歳で亡くなるまで……「光太郎サポーター」としての政次郎。同じく光太郎を色々と助けた総合花巻病院長・佐藤鷹房、草野心平との関わり等々。無理でしょうかね……。


というわけで、2冊とも好著です。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

美ならざるなき国情なくして この国は成立しない。 科学と美との生活なくして この国は滅びる。

詩「明瞭に見よ」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

明治大正昭和、激動の時代に翻弄され、時に道を誤りつつも反省と軌道修正を繰り返し、まがりなりにも人々の尊敬を集める晩年を迎えた光太郎の言ならではの重みがありますね。空虚な「美しい国」ナントカとはちがって、です(笑)。

青少年向け、いわゆるライトノベル系の新刊です。

詩葉さんは別(ワカレ)ノ詩を詠みはじめる

2017年8月30日 樫田レオ著 角川書店(ファミ通文庫) 定価648円

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もう一度、大切な人に想いを伝えられたら――

大切な想いや言葉が形となった《迷い言》が視える藍川啓人は、数年前の事故で亡くした幼馴染、高森閑香の《迷い言》に出会う。事故の時、助けられず後悔していた啓人は、彼女の本当の想いを知るため《迷い言》の声を聞くことができる《伝え人》、梅ヶ枝詩葉の元へ連れて行くことに。そして詩葉の力を借りて、閑香が伝えられなかった最期の言葉を聞こうとするのだが――。大切な人への想いを巡る、切なくて暖かく、そして少しほろ苦い感動の青春ストーリー。


「詩葉」は「うたは」。登場人物の名前です。

「言霊」の考え方を根底に置いて、ストーリーが展開されます。世の中には、無念の死を遂げた人々が大切な人へ最期に伝えようとした「言葉」が霊魂のように漂っており、それを実体視できる能力を持った「伝え人」が、伝えたかった相手に仲介する、というのです。その伝えたかった最期の言葉を引き出すために、古今の文学作品の一節に宿る「言霊」の力が使われます。僧正遍昭や菅原道真の古歌、近代では石川啄木や若山牧水の短歌、短歌に限らず江戸川乱歩の残した格言「現世(うつしよ)は夢 夜の夢こそまこと」など。

003そしてメインで使われるのが、光太郎の「郊外の人に」(大正元年=1912)の一節。

 わがこころはいま大風(おほかぜ)の如く君にむかへり
 愛人よ
 いまは青き魚(さかな)の肌にしみたる寒き夜もふけ渡りたり
 されば安らかに郊外の家に眠れかし

さまざまな逡巡の末、智恵子と共に生きていこうという決意を固めたことを高らかに謳うもので、昭和16年(1941)の詩集『智恵子抄』に収められました。のちの昭和31年(1956)の新潮文庫版にも踏襲されています。

物語では、この新潮文庫版がモチーフとして使われ、智恵子の紙絵をあしらったカバーも重要なファクターとなっています。

久々にこの手のジャンルのものを読みましたが、それだけに新鮮な感動を味わえました。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩をすてて詩を書かう。 記録を書かう。 同胞の荒廃を出来れば防がう。 私はその夜木星の大きく光る駒込台で ただしんけんにさう思ひつめた。

連作詩「暗愚小伝」中の「真珠湾の日」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

その言葉通り、太平洋戦争開戦後は、「詩」とは言いがたい空虚な言葉の羅列に過ぎぬ作品が量産されました。そしてそのものずばりの『記録』という詩集(昭和19年=1944)も刊行されました。

ただ、その目的は、鬼畜米英の誅戮ということではなく、「同胞の荒廃を出来れば防」ぐということ。確かに光太郎の遺した大量の翼賛詩は、前線での戦闘や軍隊生活を謳ったものはあまりなく、どちらかというと銃後の国民の心構えを説くものが主流でした。それにしても、その罪深さは言うまでもありませんが……。

先週の『神戸新聞』さんから。

原田マハさんに新田次郎賞 「美術史小説」へ意欲 

 第36回新田次郎文000学賞(新田次郎記念会主催)の授賞式が31日、東京都内であり、小説「リーチ先生」(集英社)で受賞した原田マハさんに記念品などが贈られた。原田さんは「これからも思い切ってフィクションを書いていきなさいと言われたようで大変うれしい」と喜びを語った。
 受賞作は、実在の英国人陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979年)や民芸運動を担った芸術家たちをめぐる、史実と虚構を融合させた物語。2014年7月から15年11月まで本紙に連載し、その後出版された。選考委員を務めた作家、阿刀田高さんは「小説の中で、芸術家たちの思いが生き生きと書かれている」と評価した。
 原田さんは学芸員経験があり、美術、芸術史を題材にした作品を多く手掛けている。この日のあいさつで「読者がアートに興味を持ち、調べてもらえたらと思いながら書いている」と明かした。また、「事実と虚構の境界線をあいまいにすることが作風になってきた。これからも『美術史小説』を書き続けたい」と意欲を示した。(大盛周平)


というわけで、原田マハさんが小説『リーチ先生』により、第36回新田次郎文学賞を獲得されました。おめでとうございます。

賞の決定自体は4月で、その頃の報道はすべてベタ記事でしかなく、授賞式の記事を待っていたところ、なぜか『神戸新聞』さんのみで大きく報道されました。他紙の記事は見あたりません。ネット上にアップされていないというだけで、記事にはなったのでしょうか。

『リーチ先生』。以前のこのブログでご紹介しましたが、バーナード・リーチの弟子となった架空の陶工を主人公とする小説です。初出は『信濃毎日新聞』さん他での新聞小説でした。

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リーチは香港の生まれ、光太郎の4歳年下です。幼少期に京都にいたこともあり、日本文化に憧れながら成長し、22歳の時にロンドン留学中の光太郎と知り合ったことで、再来日しました。その後、日英を行き来しながら、日本で身につけた陶芸と、英国の伝統陶芸を結びつける役割を果たしています。

そういうわけで、『リーチ先生』には、光太郎、そして光太郎の父・光雲、実弟・豊周も登場します。

非常に読み応えのある小説です。まだお読みになっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩人とは特権ではない、不可避である。

詩「非ユークリツド的」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎詩にはめずらしく、このフレーズは他の文筆作品からの転用です。初出は前年の草野心平詩集『第百階級』の序文です。

心平のように、生まれながらにして詩人となるべき者が不可避的に詩人となるに過ぎず、詩人となった者は特権階級でも何でもない、というわけでしょう。そしてそれは自らにも当てはまると考えているはずです。

光太郎、「不可避」の語を非常に好み、「不可避」一語、または「不可避の道」などの文言を、晩年まで揮毫によく用いました。

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先日、下記書籍を購入、拝読いたしました。

八重子のハミング

2005/7/1 陽信孝著 小学館(小学館文庫) 定価476円+税

自らはがんを発病、4度の手術から生還し、アルツハイマーの妻を11年間介護した夫。思いもよらなかった夫婦同時発病、これは4000日余りにも及んだ老老介護の軌跡である。迫り来る死の影に怯むことなく闘病、介護を続けながらも夫婦愛を浮き彫りにしている。彼が詠んだ約80首の短歌と共に綴り、現代の「智恵子抄」とも評された話題の単行本、待望の文庫化。単行本発売数か月後に他界した、愛妻の想い出を偲んで文庫用に加筆。

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元版は、同じ小学館さんから平成14年(2002)にハードカバーで刊行されています。平成17年(2005)に文庫化、当方が過日購入したのは昨年暮れの第8刷でした。以前から「現代の智恵子抄」というコピーが用いられていたので、その存在は存じていましたが、これまで読んだことがありませんでした。

後述しますが、昨秋映画化されてまた脚光を浴び、最近は上記画像の帯がつけられて、一般書店で平積みになっています。そこで購入した次第です。

著者の陽(みなみ)氏は、公立の小中学校の校長先生や、山口県萩市の教育長を務められた方で、神社の神主さんも兼ねられています。52歳だった平成3年(1991)に胃ガンの宣告を受け、胃の摘出手術。陽氏はその際の精神的ショックが引き金だったろうと推定されていますが、2歳年上の奥様、八重子さんが、その頃から若年性アルツハイマー病を発症しました。以後、ご自身の闘病と並行しながら奥様の介護を続けられた、11年間の記録です。

題名の「ハミング」は、ほとんどの記憶を失ってしまった奥様が、なぜかさまざまな音楽の旋律だけは忘れずにいて、よくハミングで歌われていたところからつけられています。奥様は元々音楽教師だったということもあるのでしょうが、音楽というもののもつ不思議な力も考えさせられました。

徐々に進行してゆく奥様の病状、試行錯誤しながらそれに対処してゆく様子が克明に記録され、興味深く拝読しました。残された断片的な記録と照合すると、智恵子の病状とも一致する部分がかなりあり、そのあたりが「現代の智恵子抄」と評されるゆえんでしょう。陽氏も光太郎の詩「値ひがたき智恵子」や「千鳥と遊ぶ智恵子」を引いて、自らの境遇に重ねている部分がありました。また、各章のはじめに、陽氏が読まれた短歌が配されており、「三十一文字のラブレター」というコピーも使われています。この点も「現代の智恵子抄」とされるゆえんでしょう。

ただ、アルツハイマーの場合、進行すると身体各部を自分の意志で自由に動かすことも出来なくなっていくそうで、その点は、発症後しばらくたってから「紙絵」制作を始めた智恵子とは異なっています。やはりあくまで智恵子は若年性アルツハイマーではなく、統合失調症だったのでしょう。珍しい症例だそうですが。

それにしても、驚異だったのは、陽氏が約11年もの長きにわたり、奥様を自宅介護で看取られたことです。時代が違うと言えばそれまでかも知れませんが、この点は光太郎と大きく異なります。

智恵子の統合失調症が顕在化したのは昭和6年(1931)夏と言われています(それ以前のかなり早い段階から、異様な行動やつじつまの合わない発言が見られていたことが、深尾須磨子の回想に記されていますが)。翌年には睡眠薬を大量に摂取しての自殺未遂。さらにその翌年(同8年=1933)には、光太郎が各地の温泉巡りに連れ歩きますが、帰ってきたときにはさらに病状が進行していました。同9年(1934)には、九十九里浜に転居していた智恵子の母・センと、妹・セツ家族の元に智恵子を預けます。その年の暮れには再び駒込林町のアトリエに連れ帰り(セツの幼い子供への配慮だそうです)、翌10年(1935)の2月には、南品川ゼームス坂病院に入院させています。病院には、看護師資格を持っていた智恵子の姪の長沼春子が付き添いで入りました。

以後、智恵子は病院を出ることなく、病院で制作した千数百枚の「紙絵」を遺し、昭和13年(1938)10月、直接の死因は肺結核で亡くなりました。

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結局、光太郎が自宅で介護に当たっていたのは3年あまり(これとて決して短い期間ではありませんが……)。また、智恵子が亡くなった当日まで、なんと5ヶ月間も見舞いに行かなかったという事実があり、アンチ光太郎の人々からやり玉に挙げられています(以下参照、「五ヶ月の空白①。」「五ヶ月の空白②。」)。

その点、陽氏は約11年間、自宅介護を続けられました。これには娘さんたち、そのパートナー、お孫さんたち、そして93歳で亡くなった陽氏のご母堂、さらには陽氏の親友の医師など、たくさんの方々の支援がありました。光太郎智恵子には、そうした存在が少なかったのかもしれません。また、やはり時代の違い――心の病に対する偏見は現代の比ではなかったようです……。それにしても、陽氏の介護のさまには驚かされました。


『八重子のハミング』、先述の通り、昨秋、映画化されました。


主演は升毅さん、高橋洋子さん。

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実際に物語の舞台だった山口県でロケが行われ、同地では昨秋、先行上映がありました。全国でも順次公開が始まっています。


原作、映画、それぞれご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

一人のかたくなな彫刻家は 万象をおのれ自身の指で触つてみる。 水を裂いて中をのぞき、 天を割つて入りこまうとする。

詩「触知」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

――と言っていた光太郎も、本当の意味では、智恵子の心の中にまでは、入り込めなかったようです……。

東京調布市の武者小路実篤記念館さんからご案内をいただきました。

春の特別展 「武者小路実篤の出版事情 『白樺』『大調和』を中心に」

期 日 : 2017年4月29日(土)~6月11日(日)
場 所 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1-8-30
時 間 : 午前10時から午後4時
休館日 : 月曜日
料 金 : 大人 200円   小・中学生 100円

いつも「言いたいこと」に満ちあふれ、何かを書かずにはいられなかった実篤は、明治43(1910)年に同人雑誌『白樺』を創刊して以来、ほぼ切れ目なく主宰雑誌を持ち、出版依頼が途切れれば自ら主体となって出版社を興してでも執筆を続けました。
『白樺』は全160号、順調に発行し続けられたかのようにみえますが、内実はどうだったのでしょうか。今回の展覧会では、発行所や印刷所・製版所など、あまり注目されることの少ない「出版の裏方・裏事情」にもスポットを当てます。
また、2017年は、実篤が昭和2(1927)年に雑誌『大調和』を創刊して90周年目に当たります。雑誌をよりどころにユニークな公募展を生み出した『大調和』。生涯を通じて幅広い交友を持った実篤の、人脈の源泉の一つはここに見いだせると言えるでしょう。
そのほか、実篤の発案で作られた日本で最初の文庫本「村の本」や、自作を振り返る機会ともなった全集の刊行などを取り上げ、絶え間なく続いた実篤の出版活動をたどります。

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『白樺』、『大調和』ともに武者小路の主宰した雑誌で、光太郎が主要執筆者の一人でした。そんなわけで、チラシ表面の集合写真には光太郎も写っています。

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後列左端にいる武者から一人おいて光太郎。智恵子と運命的な邂逅を果たした直後の撮影です。

光太郎、『白樺』には、明治43年(1910)11月の第1巻第8号から、大正12年(1923)年5月の第14巻第5号まで、多くの作品を寄せています。詩、評論、随筆、そして翻訳が多く、大正6年(1917)から翌年にかけては、連載も持っていました。アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンの「自選日記」、そして「ロダンの言葉」(これらは後に単行本化されました)です。『大調和』には、昭和2年(1927)から翌年にかけて、やはり詩や評論、随筆、翻訳などを寄せています。

その他、やはり武者が主宰した『生長する星の群』、『心』などの雑誌でも、光太郎は主要執筆者の一人でした。そんなわけで、昭和31年(1956)4月4日の光太郎葬儀では、武者が葬儀委員長を務めています。

おそらく今回の展示でも、光太郎にからむ内容となるでしょう。


関連行事として講演会が予定されています。

講演会 「『白樺』を支えた洛陽堂主人 河本亀之助」

期  日 : 2017年5月28日(日)
場  所 : 調布市東部公民館 東京都調布市若葉町1丁目29番地21
時  間 : 午後1時30分から3時
講  師 : 田中英夫氏 
      『洛陽堂 河本亀之助小伝 損をしてでも良書を出す・ある出版人の生涯』
          〈平成27
年 燃焼社〉著者
料  金 : 無料
定  員 : 50名
申し込み : 往復葉書で記念館へ

『白樺』の版元が洛陽堂に決まったいきさつには、河本、武者小路公共【きんとも】・実篤兄弟を引き合わせた、楽之会【らくしかい】(高島平三郎主催)の存在がありました。
また、13年5ヵ月続いた『白樺』の発行は160号を数え、1回を除き欠号もなく順調に継続していたかのように見えますが、内実はどうだったのでしょうか。
河本をとりまく人間模様や、発行者側の事情を中心に語っていただきます。


ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

彫刻はおそろしい。 圓いものを圓く作る。 圓いものが果して圓いか。 僭越は罰せられる。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

本当にたまたまですが、この詩も雑誌『大調和』に発表されました。

丸い物の丸い形を再現するのが具象彫刻ですが、彫刻家が設定するその丸さは、ある意味彫刻家の捉えた丸さです。3Dプリンタならいざ知らず、まったく正確な再現ではありません。まぁ、3Dプリンタとて、ナノレベルで見れば正確な再現はできていないでしょう。ましてや人間の手で、造物主たる神のような作業を行おうという、そこが「僭越」、と、当方は解釈します。

駒場の日本近代文学館さんからご案内をいただきました。

講座「資料は語る」2017 作家からの手紙

開催日時 : 2017年4月15日  5月20日  6月10日  9月16日  10月21日  11月18日
          (全て土曜、それぞれ午後2時から3時30分)
会  場 : 日本近代文学館ホール 東京都目黒区駒場4-3-55
受講料金 : 全回10,300円(9,300円) 前または後期5,200円(4,700円) 1回のみ2,100円
          ( )内は維持会・友の会会員料金
定  員 : 40名(先着順) 定員に達しない場合は当日可能
申し込み : 館受付にて手続き/必要事項明記の上現金書留/郵便振替 00140-0-47730
内  容 :
前期
 4月15日 谷崎潤一郎の恋文 
       千葉俊二 (早稲田大学・教育総合科学学術院教授)
 5月20日 アメリカ留学とヨーロッパ旅行ー有島武郎から家族へ、マチルダ・ヘックへ
       江種満子 (文教大学名誉教授)
 6月10日 戦地からの絵だよりー高見順から妻・秋子へ 
       竹内栄美子 (明治大学教授)
 後期
 9月16日 愉快と不愉快と淋しさとー漱石の若き友人たちに宛てた手紙
       長島裕子 (早稲田大学文学学術院講師)
 10月21日 フイチンさんの引き揚げ体験スケッチー上田としこから佐多稲子へ
       久米依子 (日本大学教授)
 11月18日 作家の年賀状ー日本近代文学館コレクションから
       宗像和重 (早稲田大学文学学術院教授)

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直接、光太郎に関わる内容ではありませんが、有島武郎、高見順、夏目漱石らは光太郎とつながりがありましたし、漱石の回では、やはり光太郎と親しかった津田青楓が取り上げられるそうです。

また、個人的なことになりますが、有島の回で講師を務められる江種満子先生は当方の恩師です。不肖の弟子は行かずばなりませぬ(笑)。

皆様も是非どうぞ。

このブログ、このところ、東日本大震災ネタで来ましたが、3.11当日、当方、都内に出ておりました。

文京区立森鷗外記念館コレクション展「死してなお―鴎外終焉と全集誕生」の展示関連講演会 「与謝野夫妻の崇敬の師 森鷗外」を拝聴のためです。

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昼過ぎに千駄木に到着、鷗外記念館さんのすぐ近くにある、巴屋さんというお蕎麦屋さんで昼食を摂りました。こちらはかつて、光太郎の実家によく出前を届けていたというお店です。

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天麩羅蕎麦1,100円也をいただきました。

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いざ、森鷗外記念館へ。かつての鷗外邸、観潮楼の跡地で、近所に住んでいた光太郎も、歌会に参加したり、鷗外に呼びつけられたりで何度か訪れています。

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講演会は2階講座室での開催。定員50名の募集でしたが、ほぼ満席でした。

講師は与謝野夫妻のご研究の第一人者、逸見久美先生。演題は「与謝野夫妻の崇敬の師 森鷗外」ということでした。

文久2年(1962)生まれの鷗外と、明治6年(1873)生まれの与謝野鉄幹、そして同11年(1878)生まれの晶子。まずは鉄幹が、鷗外共々尊敬していた落合直文の紹介で、鷗外の知遇を得ます。鷗外も鉄幹の才を認め、その著書の序文を執筆してやったり、新詩社に関わったり、大正期の『明星』復刊の際にも力を貸したりしました。また、光太郎も参加した観潮楼歌会は、相反する歌人達の融和を図るというのも目的だったそうです。

009鉄幹は、鷗外を敬愛し続け、その逝去に際しては葬儀委員長を務め、歿後には『鷗外全集』の刊行に尽力しました。

そのあたり、非常にわかりやすいお話で、光太郎も登場し、興味深く拝聴しました。乱暴なたとえをすれば、後の光太郎と草野心平の関係のようなつながりが、鷗外と鉄幹にあったといえるのでは、と思いました。

その他、逸見先生のお父様で、『週刊朝日』の編集長だった翁久允の話題も出ました。ちなみに、久允あての光太郎書簡も遺っており、以前に情報をご提供いただいています。で、久允は晩年の竹久夢二を援助をし、幼い逸見先生を描いた夢二の絵も残っているとのこと(プロジェクタで拝見しました)。昨年には風間書房さんから『夢二と久允』というご著書が刊行されていました。こちらは存じませんでした。早速購入いたします。皆さんもぜひどうぞ。

下は講演会終了後、逸見先生を囲んで。当方は写っていません。
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以前にもご参加いただきましたが、4月2日の連翹忌にご参加下さるとのことで、ありがたいかぎりです。逸見先生のお話をお聴きしたい、という方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

おとなしさうで、いたづらさうで、 役に立ちさうで、遊びたさうで、 あらゆる可能性がしまつてある君のからだは 海にこぎ出すボオトのやうだ。

詩「少年を見る」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

子供に恵まれなかった光太郎智恵子夫妻でしたが、光太郎はこのように、少年や少女に対する温かい眼差しをモチーフとした詩も、けっこう書いています。

昨日に引き続き、光太郎周辺人物に関する展示情報です。

コレクション展「死してなお―鴎外終焉と全集誕生」

会 期 : 2017年2月2(木) ~ 2017年 4月2日(日)
場 所 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10時~18時(最終入館は17時30分)
休館日 : 2月27・28日(月・火)、3月28日(火)
料 金 : 一般300円(20名以上の団体:240円)
         ※中学生以下無料、障がい者手帳ご提示の方と同伴者1名まで無料

  文豪・森鴎外は、大正十一年七月九日午前七時、自宅観潮楼でその生涯を終えました。
 死の間際まで職務に励み、また著作のための調査に努め、自らの不調を自覚しながらも診療を拒み続けました。鴎外は死に直面しながら、どのような心持ちで最期の日々を過ごし、どのような言葉を遺したのでしょうか。当館には、鴎外の終焉に関する資料が多数遺されています。これらの資料を一挙展示し、鴎外逝去までの日々に迫ります。
 鴎外逝去から十余日後、鴎外の葬儀委員長を務めた与謝野寛のもとに、『鴎外全集』刊行の企画が舞い込みました。寛は、鴎外と親交の深かった平野万里や永井荷風らを中心とした編集会を結成し、『鴎外全集』刊行に着手します。鴎外顕彰の第一歩とも言える『鴎外全集』刊行の経緯を、与謝野寛の書簡を中心に辿ります。
 鴎外が、死してもなお人々の記憶に残り、現代まで顕彰され続けるのは、鴎外を親しみ敬ってきた先人たちの尽力にほかなりません。鴎外終焉の地であり、鴎外の業績を顕彰する文京区立森鴎外記念館で、生から死へ、死から再生へと向かう鴎外の姿を追います。

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関連行事

ギャラリートーク  展示室2にて当館学芸員が展示解説を行います。
平成29年2月15日、3月8日、22日 いずれも水曜日14時~(30分程度) 申込不要(展示観覧券が必要です)

展示関連講演会  「与謝野夫妻の崇敬の師 森鴎外」 講師:逸見久美氏(元聖徳大学教授)
 日時:平成29年3月11日(土)14時~15時30分
 会場:文京区立森鴎外記念館2階講座室
 定員:50名(事前申込制)
 料金:無料
 申込締切:平成29年2月24日(金)必着


展示も興味深いのですが、当方、関連行事の講演の方に興味をひかれております。

講師の逸見久美先生は、与謝野夫妻のご研究の第一人者。当方、二度、ご講演を拝聴いたしました。
どちらも素晴らしいご講演でした。

また、個性派女優の渡辺えりさんご同様、お父様が光太郎と交流がおありで、そのため連翹忌にもご参加下さっています。

さらに、一昨年には、NHK Eテレさんで放映された生涯教育の番組「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の「第2回 愛と情熱の歌人 夫のための百首 与謝野晶子」にご出演。

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同じ番組の第5回が「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」でした。そこで少しだけ番組製作のお手伝いをさせていただきましたが、NHKさんに仲介して下さったのが逸見先生でした。

そうした恩義もありますし、それぞれ光太郎の師である与謝野夫妻と鷗外に関わるご講演ということで、参上いたすべく考えております。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

いのる言葉を知らず ただわれは空を仰いでいのる 空は水色 秋は喨喨と空に鳴る
詩「秋の祈」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

季節外れですみません(笑)。このコーナー、『高村光太郎全集』を第1巻からほぼ掲載順に、「これは」と思うフレーズを書き出していますので、こういう現象が起こります。しかし、「早春」もまた喨々と空に鳴っているような気もします。

詩「秋の祈」は、光太郎第一詩集『道程』のために書き下ろされたと推定されます。この後、光太郎はしばらく詩作の筆を置きます。評論や随筆などの散文は書き続けますが、一番金になったということで、ロダン関係などの翻訳が目立ちます。しかし、ただ金のためではなく、翻訳を通し、自らの芸術論を固めていったと思われます。

日曜日の『日本経済新聞』さんに載った書評です。10月に刊行された原田マハさんの『リーチ先生』についてです。

リーチ先生 原田マハ著 独自性求めて奮闘する青春

 著者はルソーやピカソらの人生とその時代を、美004術館で働いた経験と知識を生かして小説に仕立ててきた。新作では日英の文化交流に尽力したバーナード・リーチを描いている。リーチと仲間たちの青春ドラマのような物語だ。
 香港で生まれ、3歳まで日本で育ったリーチは、ロンドンの美術学校時代に留学中の高村光太郎と出会う。日本への憧れを募らせて来日を決意。柳宗悦ら「白樺派」のメンバーと交流を深めながら陶芸にのめり込み、最後は英国で窯を開く。
 物語はリーチの助手、亀乃介の視点で語られていく。絵を描くのが大好きで、食堂で外国人と話すうちに自然と身につけた英語力を見込まれた。初めて絵付けをしたときの感動、苦労して作った窯が火事を起こして窯はおろか資料も燃えてしまったときの落胆――。リーチとともに一喜一憂する亀乃介もまた、陶芸の魅力に取りつかれていく。
 物語を貫くのは、芸術には「独自性(ユニークネス)」こそが大切だというリーチの信条だ。この言葉のとおり、自分だけの表現を求めて奮闘するリーチや亀乃介のひたむきな思いに心が揺さぶられる。
 何かに夢中になり、挑戦すること。国境や国籍を越え、友情を育む慶び。若者たちのあふれる情熱が、さわやかな読後感をもたらす。(集英社・1800円)


この他にも、先月には『毎日新聞』さんに短評が出ましたが、残念ながら光太郎の名は書かれていませんでした。

今後、各メディアで取り上げられそうな予感がしていますが、その際には光太郎や光雲も登場することに触れていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

仇討かいさかひ事か生き死にの際(とき)か人みな血眼なるは
明治42年(1909) 光太郎27歳

75年前の今日、まさに日本全体がこういう感じだったのでしょう、光太郎も含めて。短歌自体は明治末の作ですが、その32年後を予言しているような内容です。

毎年この時期になると、にわか光太郎ファンが現れます。「記憶せよ、十二月八日。 この日世界の歴史 あらたまる。 アングロ サクソンの主権、 この日東亜の陸と海とに否定さる。」と、ブログなどに引用してありがたがる愚か者がいて辟易します。

今年度の文化勲章、文化功労者の発表があり、小説家の津村節子さんが文化功労者に選ばれました。ちなみに昨年は、光太郎ファンだという染織家の志村ふくみさんが文化勲章を受章されました。

津村さんは平成9年(1997)に、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を刊行、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受賞されています。平成12年(2000)には、先頃亡くなった平幹二朗さんが光太郎役で、舞台化もされました。

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そうしたご縁で、津村さんには平成10年(1998)の第42回連翹忌にご参加いただいています。平成17年(2005)には、花巻高村祭でもご講演なさいました。

かなり以前から、津村さんは智恵子に言及されていました。

昭和50年(1975)の雑誌『太陽』(平凡社)の光太郎特集号。津村さんの「無垢の美の世界 智恵子の紙絵」が10ページで組まれています。

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昭和54年(1979)には、講談社文庫から『智恵子から光太郎へ』を上梓。前半50ページほどが智恵子紙絵のカラー写真(光太郎令甥の故・高村規氏撮影)と光太郎詩、後半40ページ強が津村さんによる光太郎智恵子評伝です。

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平成7年(1995)には、故・高村規氏、光太郎と親交の深かった詩人の故・藤島宇内氏、当会顧問・北川太一先生との共著で、『光太郎と智恵子』。新潮社さんの「とんぼの本」のラインナップです。津村さんは「光太郎に捧げられた紙絵」というエッセイを寄せられています。

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平成15年(2003)のエッセイ集『似ない者夫婦』(河出書房新社)では、『智恵子飛ぶ』の制作秘話的な「筆を執るまで」、舞台「智恵子飛ぶ」の初演パンフレットに載った「二人が描いた夢」、公演後に書かれた「二人の智恵子」が掲載されています。

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この頃はご主人でやはり作家の吉村昭氏もご存命で、光太郎智恵子と同じ、夫婦同業という葛藤についても述べられています。

舞台「智恵子飛ぶ」は、平成13年(2001)に京都南座で再演。この際の光太郎役は近藤正臣さんでした。こちらのパンフレットには「いま再び」というエッセイが載っています。

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昨年放映されたNHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」。当方、制作のお手伝いをさせていただきましたが、プロデューサー氏から、光太郎智恵子に詳しい女性のコメンテーターが欲しい、と言われ、迷わず津村さんを推薦しました。

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津村さん、ご出演をご快諾下さり、的確なコメントをなさいました。当時の一般の方々によるSNS等の反応では、津村さんの当を得たコメントを讃える声が目につき、ご紹介して本当によかったと思いました。

ご主人の吉村昭氏を亡くされてからは、加賀乙彦さんとの対談『愛する伴侶を失って』を上梓。逆「智恵子抄」のようでした。また、吉村氏が自作の舞台にされた岩手県田野畑村で、東日本大震災からの復興支援にも取り組まれるなど、エネルギッシュに活躍されています。そのあたりは『三陸の海』というエッセイ集に詳述されています。こちらに両書の紹介を書きました。

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今月に入ってからも、当会刊行の『光太郎資料』第46集をお送りしたところ、ご丁寧なお礼状を賜り、お元気な様子に接し、失礼ながらお歳がお歳だけに案じていたところを安心させられたばかりでした。

これからもお元気で、ますますのご活躍をお祈りいたします。


ついでのような形になって失礼とは存じますが、同時に文化功労者に選ばれました歌人の岡井隆氏。当方、面識はありませんが、ご著書は一冊、拝読いたしました。

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岩波書店さんから平成11年(1999)に刊行された『詩歌の近代』。題名の通り、近代詩歌の概説で、光太郎、特に戦争詩について取り上げて下さっています。

併せて受賞をお慶び申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

町ふるきパドアに入れば林檎市     明治42年(1909) 光太郎27歳

秋も深まり、梨の旬はそろそろ終わって、林檎が美味しい季節になりました。

当方、父親が信州の出で、幼い頃から信州の親戚が作った林檎を食べて育ち、現在も一年365日のうち360日くらいは林檎を口にしています。旅先でも可能な限り買い求め、林檎そのものが手に入らないときも、コンビニで林檎入りヨーグルト、それもダメなら100%林檎ジュースを購入します。

今も信州の親戚、さらに時折、東北の知己の方々から林檎が送られてくることがあり、有り難い限りです。別に送れ、と催促しているわけではありませんが(笑)。

「パドア」はイタリア北部の街。現在は「パドヴァ」と表記するのが一般的なようです。この年、留学先のパリからスイス経由でイタリア旅行に行った際の作です。

昨日もちらっとご紹介しましたが、新刊です。

リーチ先生

2016/10/30 原田マハ著 集英社 定価1,800円+税

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版元サイトより
西洋と東洋の芸術を融合し、新しい陶芸の世界を切り拓いたイギリス人陶芸家バーナード・リーチ。日本を愛し日本に愛されたその半生を二代にわたり弟子となった名も無き父子の視点から描く感動長編。      

帯文より
明治42年、22歳で芸術の道を志して来日。柳宗悦、濱田庄司ら若き日本人芸術家との邂逅と友情が彼の人生を大きく突き動かしていく。
明治、大正、昭和にわたり東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度の“アートフィクション”

広告より
東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度のアート小説 !!
明治42年、高村光太郎の勧めで日本を訪れた22歳のリーチ。柳宗悦、濱田庄司ら若き芸術家と出会い、陶芸家の才能を開花させていく。その生涯を陶工父子の視点で描く渾身作。


バーナード・リーチは明治20年(1887)生まれの英国人陶芸家。父の仕事の関係で香港に生まれ、幼少期には京都で暮らしました。

一度は銀行員となるものの、少年期に志した芸術制作への思い棄てがたく、明治41年(1908)、退職してロンドン美術学校に入学、エッチングを学びます。同校で留学中の光太郎と知り合い、さらに小泉八雲の著作などから日本への憧れが昂じ、翌年、来日。光太郎は父・光雲への紹介状を書いてやっています。

はじめ、エッチングを教えることで生計を立てていましたが、陶芸に出会い、これこそ自分の進む道と思い定めます。遅れて帰国した光太郎や白樺派の面々、そして陶芸家の富本憲吉、濱田庄司らと交流、1年半の中国滞在期間を除き、大正9年(1920)まで日本に住みました。大正元年(1912)のヒユウザン会展にも参加しています。

滞日中に結婚した妻(リーチの従姉)への配慮もあり、帰国。その際に濱田庄司が同行、イギリス西部のセント・アイヴスに工房を構え、イギリス伝統の陶芸に日本で身に着けた技術を融合させた新しい陶芸を創出しました。

その後、昭和54年(1979)に亡くなるまで、何度も日本を訪れ、長期の滞在を繰り返し、日本全国の窯元を廻ったり、光太郎らと旧交を温めたりもしています。

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画像は大正4年(1915)のもの。前列左から画家・長原孝太郎、有島生馬、リーチ夫人、梅原龍三郎、美術史家・田中喜作、後列左から美術評論家・坂井犀水、石井柏亭、美術史家・森田亀之助、リーチ、光太郎、柳宗悦、画家・山下新太郎、同じく斎藤豊作、作家の三浦直介です。


さて、『リーチ先生』。平成25年(2013)秋から、『信濃毎日新聞』さんで連載がスタート。少し経ってからそれを知り、信毎さんでの連載が終わったら単行本化されるんだろうな、と思っていましたが、その後、遅れて全国の地方紙6紙でも連載され、最後は昨年秋まで連載されていました。その分、単行本化を今か今かと待っていたものです。

その期待に違わないものでした。

物語は、大正9年(1920)までの滞日中、そして帰国後の3年間、リーチの助手を務めたという設定の、架空の陶芸家・沖亀乃介(上記写真にも写っている森田亀之助がモデルになっている部分もありますが、あくまで原田さんの創作した人物)を主人公とし、彼の存在以外はおおむね史実に添った内容となっています。

明治末、横浜で食堂の給仕をしていた亀乃介少年は、留学のため横浜港を発つ直前の光太郎と食堂で知り合い、光太郎の紹介で駒込林町の光雲の家で住み込みの書生となります。外国人客との対応で自然と英会話を身につけ、彼らからもらう外国雑誌の挿絵などから「芸術」への憧れをいだいていた、という設定です。

そこにやはり光太郎の紹介でリーチが来日、亀乃介は英語力を買われて助手となり、ともに陶芸の道に進んで行くことになります。

ネタバレになりますので、これ以上は購入してお読み下さい(笑)。ここまででも十分ネタバレでしたが(笑)。さらにネタバレ覚悟の方はこちらをご覧下さい。作者・原田マハさんのインタビューです。

とにかく「前向き」な小説です。登場人物全ての、さまざまな困難に直面しながらも決してくじけず、美の発見や創出に魂を傾けるさまが、生き生きと描かれています。光太郎、光雲、光太郎実弟の豊周も登場します。

特にリーチや亀乃介などの、東洋と西洋の架け橋たらんとする生き様は、感涙無しには読めません。そのあたりには、作家になる前、森美術館さんやニューヨーク近代美術館さんに勤務していたという、作者・原田さんの経験も反映されているように推測しました。

また、もともと新聞連載小説だというところで、こうした「前向き」な部分が前面に押し出されているのかな、とも思いました。ある意味、NHKさんの朝ドラにも通じるような。朝から陰々滅々の物語では参ってしまいます(笑)。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

子供らがかきし自由画の我家はいたく曲りて美しきかも
大正15年(1926) 光太郎44歳

昨日に引き続き、近所の千駄木小学校の児童と思わ000れる子どもたちが描いた光太郎アトリエの絵についてです。

子どもの描く絵は、多視点の絵と言われます。一枚の絵の中に、正面から見た構図と、上からの俯瞰、横からの視点などが平気で混在するというのです。それを意識的に行ったのがピカソやブラックなどのキュビズムですね。

子どもも知恵がついてきたり、大人から教えられたりすると、一点透視や二点透視などの固定された視点からの絵を描くようになります。それはそれでリアルに見えるのですが、子ども本来の自由闊達さは失われます。

そうなっていない、ある意味プリミティブな子どもの絵を見た光太郎、その感動を歌にしています。

プリミティブといえば、上記のバーナード・リーチの作陶なども、良い意味でプリミティブな面を残しています。

オリジナルのステーショナリーグッズなどを製造・販売している「花籠や」さんという企業?があります。

そちらの商品の画像をインスタグラムで見つけ、「おお、これは!」と思い、サイトにたどり着き、商品をいろいろと取り寄せました。

すべて「文豪」というシリーズの商品です。サイトには「おやまあ、教科書で、便覧でみたことあるような顔、顔、顔…!お気に入りはだれですか?」という説明がありますが、個々の名は出ていません。ナントカ権の問題でしょうか。したがって、このブログでも伏せ字を使わせていただきます。


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縦11㌢、横9㌢の台紙。木版画風の絵で、左上が、太○治、2段目、左から、中○○也、○目○石、武者○路○篤、3~4段目に2段抜きで宮○賢○、3段目中央が与謝○○子、右には○川啄○、4段目中央に芥○龍之○、そして右下隅は我らが○村光○郎。


続いて「文豪バッヂ」。

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「新文豪しゐる」にあった宮○賢○の代わりに、正○○規が入っています(右下隅)。当方、苦労して伏せ字「○」を使いましたが、委託販売店?の中には全員の実名を晒している(笑)ところもあったりします(笑)。

こちらはバラ売りで、当方、我らが○村光○郎のみ購入しました。

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さらに「文豪ポストカード」。

これも我らが○村光○郎のみ購入しましたが、「新文豪しゐる」、「文豪バッヂ」の10名全員のバージョンがあります。

我らが○村光○郎バージョン、顔以外に光○郎の木彫、白○鳥もあしらわれています。5枚購入し、1枚は保存用。1枚は既に荒野愛子さんへの連絡に使いました。残り3枚もそのうちに、お仲間のどなたかの所に行くでしょう。届いた方、棄てずにとっておいて下さい(笑)。

「文豪」シリーズ、他にも一筆箋や便箋、ラッピング用の紙などのラインナップがありますが、そちらはどうも光○郎がカットされているようなので、購入しませんでした。

ところが、改めて今日また花籠やさんのサイトを見ると、光○郎もいるマスキングテープもあることに気付きました。これも買わねばなりません(笑)。

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「花籠や」さん、「文豪」シリーズ以外にも、いろいろとおしゃれで面白い商品を取りそろえていらっしゃいます。ネットでも購入可能ですし、店頭販売の取扱店も増加中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

疲れきつて二階の汝の部屋にゆけば童子のごとくものの食べたし

大正13年(1924) 光太郎42歳

「汝」は、おそらく昨日130回目の誕生日を迎えた智恵子でしょう。

今日は智恵子の故郷・二本松にぶらりと行って参ります。

先週の土曜日、横浜神奈川近代文学館に行って参りました。

閲覧室での調べ物が主目的でしたが、開催中の特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、招待券を戴いていたので拝見してきました。 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」

「吾輩は猫である」「坊っちやん」「三四郎」「それから」「心」そして「明暗」…人間の心の孤独とあやうさを描いた夏目漱石の作品は、私たちの生き方へ多くの問題を投げかけ、その一方で、夢や謎、笑いに彩られたイメージの宝庫としても読者を魅了して来ました。
作家としての一歩を踏み出した1906年(明治39)、漱石は「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり」と述べています。そしてこの言葉の通り、漱石が世を去ってから100年という長い歳月の中で、多くの人びとが作品を繰り返し読み、その魅力は、今日に至ってもなお語り尽くされることはありません。漱石文学は読者にとってまさに「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」(奥泉光)なのです。
没後100年を記念して開催する本展は、こうした作品世界と、英文学者から作家に転身しわずか10数年の創作活動のなかで、数々の名作を書き上げた苦闘の生涯を紹介します。漱石と深いゆかりを持つ岩波書店、東北大学附属図書館の所蔵資料、そして、夏目家寄贈資料を中心とした当館所蔵の漱石コレクションをはじめ、数々の貴重資料により展覧。作品・人間へのアプローチを通し、漱石と現代の読者の新たな出会いの場の実現を目指します。
会 期  2016年(平成28年)3月26日(土)~5月22日(日)
休館日
  月曜日(5月2日は開館)
 間  午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
会 場  神奈川近代文学館第1・2・3展示室
観覧料  一般700円(500円) 65歳以上/20歳未満,学生300円(200円) 
     
( )内は20名以上の団体  高校生100円 中学生以下無料     
     東日本大震災の罹災証明書、被災証明書等の提示で無料
 催  県立神奈川近代文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、朝日新聞社
特別協力 岩波書店
協力   東北大学附属図書館
後援   NHK横浜放送局、FMヨコハマ、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)
協賛   集英社 京浜急行電鉄 相模鉄道 東京急行電鉄
     神奈川近代文学館を支援(サポート)する会
広報協力 KAAT 神奈川芸術劇場
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漱石と光太郎には美術を通して接点がありました。大正元年(1912)、漱石の書いた美術評論を光太郎が批判したというものです。当時光太郎は数え30歳。留学から帰って、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と縁を切り、ヒユウザン会に加盟、油絵の制作に力点を置いていた時期でした。

漱石はそうした美術界の新機軸に一定の理解を示していました。一つには漱石山房に出入りしていた画家の津田青楓の影響があったと思われます。津田は後に漱石の著書の装幀を多く手がけます。

光太郎の方は、漱石や森鷗外といった権威的な存在には噛みつかずにはいられない、という感じでした。津田とは欧米留学中に親しくつきあっていましたが、お互いの帰朝後は、漱石にかわいがられた津田と、権威的なものに反抗する光太郎とで、自然と疎遠になったようです。

ちなみに光太郎がまだ東京美術学校に在学中で、本郷Ⅸ駒込林町155番地の実家に住んでいた頃、漱石は明治36年(1903)から約3年間、本郷Ⅸ千駄木町57番地(いわゆる「猫の家」)に住んでおり、近所といえば近所でした。

さて、「100年目に出会う 夏目漱石」。当然ですが文学関連が中心の展示で、漱石の自筆資料等もふんだんに出品されており、息遣いが聞こえてくるようでした。

美術関連では、ヒユウザン会がらみの展示はありませんでしたが、漱石自身の絵画がまとめて展示されていました。ただ、津田青楓などは自身で絵の手ほどきをしながら、その方面での漱石の才能がないことを、敬愛を込めながらも揶揄しています。

 津田が自分の仕事の段落のついた或000る日行つてみると、先生は独りでかかれた二、三枚の油絵を出し、抛げるやうな口吻で「駄目だよ、油絵なんて七面倒臭いもの、俺は日本画の方が面白いよ。」さう云つて、半紙ぐらいの厚ぼつたい紙に塗りたくつた妙な画を出して見せられた。
 南画とも水彩画ともつかない画だ。柳の並木の下に白い鬚を生やした爺さんが、柳の幹にもたれて休息してゐる。そのまへに一匹の馬がある。先づ馬と仮説するだけなんだが、四ツ足動物で豚でもなければ山羊でもなく、先づ馬に近い――その馬が前脚を一つ折つて、これから草の上で休まうとするやうにも、又これから立ち上がらうとするやうにも見える。馬といひ、人といひ、まるで小学校の生徒の画のやうだ。柳は無風状態で重々しくたれ下つてゐる。全体が濁つた緑でぬりつぶされてゐる。柳の下にはフンドシを干したやうに、一条の川が流れてゐる。その川と柳の幹だけが白くひかつて、あとは濁つた緑。下手な子供くさい画と云つても片付けられる。又鈍重な中に、不可思議な空気が発散する詩人の夢の表現と、云つてもみられる。先生はリヤルよりもアイデアルを表現したのだ。「盾のまぼろし」「夢十夜」あんな作を絵筆で出さうとしてゐられる。
 漱石先生が「どうだ、見てくれ」と云つて出された二、三の日本画は、まことにへんちくりんなもので、津田は挨拶の代りに大きな口をあいて、
「ワハヽヽヽヽヽ」
 先づ笑つた。
(『漱石と十弟子』)


漱石といえば、文豪中の文豪ですが、こういう人間くさいエピソードには、親しみを感じます。並んでいた絵を見て、クスリとしてしまいました。

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、今月22日までです。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

人あり薫風に似て来り坐す      昭和20年(1945) 光太郎63歳

「薫風のよう」といわれる人間になりたいものです(笑)。

新刊情報です。 

妖怪と小説家

2015年12月15日 野梨原花南著 KADOKAWA(富士見L文庫) 定価560円+税

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帯文より
 ここは東京・吉祥寺。小説家の太宰先生と、その担当編集である水羊の行く手には、なぜか怪異がつきまとう。
 原稿から逃げたり、中原先生や谷崎先生と揉めたり、自分の命を削って原稿を書いたり。
 そんな日々の中で、当たり前のように怪異が起きて、当たり前のように太宰先生と水羊は巻き込まれるけれど―やっぱり良い小説を書くために、懸命で。
「僕、太宰先生といるときだけですしこういうの!」
 東京の町で繰り広げられる、文豪たちの不思議な日々の物語。


昨今、実在の文学者を主人公にしたり、モデルにしたりという小説、漫画が静かなブームです。このブログでも、光太郎智恵子が登場する清家雪子さんの漫画『月に吠えらんねえ』を何度かご紹介しました。

こちらの『妖怪と小説家』、いわゆるライトノベルです。

舞台は現代の東京。小説家の「太宰先生」と担当編集者の「水羊」が、時に異界から現れた物の怪(もののけ)と遭遇したり、異界や幻想の世界に迷い込んだりしながら、不思議な体験をする、といったストーリーです。

けんかっ早いイラストレーターの「中原先生」、食道楽の「谷崎先生」、皆から尊敬を集める「宮澤先生」などにまじって、カフェギャラリーの女主人にして、自らも絵を描く「長沼さん」が主要登場人物となっています。「長沼さん」は、天才だけれど経済観念のない彫刻家の「高村さん」と離婚して店を開いた、という設定です。

「高村さん」は本編には登場せず、「太宰先生」と「水羊」の迷い込んだ幻想の世界に登場、また、「長沼さん」と「宮澤先生」の会話に語られるのみです。

「長沼さん」に向けて「宮澤先生」曰く、

「反省頻(しき)りの様子ですが、絆(ほだ)されてはいけませんよ。彼はわたしたちにとってはいい男ですが、あなたにとってはいけないひとだ。」

笑えます。

ところで、この小説では、智恵子を含め、太宰、中也、賢治など、比較的早逝した人々を登場人物のモデルとしながら、誰一人死にません。そのあたりに作者・野梨原氏の強い意図が感じられます。

「長沼さん」と「宮澤先生」の間に、こんな会話もありました。

「先生、それでトシ子さんはお元気です?」
「はい。すっかりよくなりまして」
「それはようございました。ほっとしましたわ。」
「……そのことについて、名前は伏せますが酷いことを言われて傷つきました」
(略)
「あの、何を言われたのですか……。おいやなら答えなくても」
「トシが死ねばさぞ美しい詩ができたでしょうね、と」

念のため解説しますが、現実の賢治には、詩「無声慟哭」に謳われた、妹のトシ(大正11年=1922、数え25歳で病没)がいました。

続く「宮澤先生」と「中原先生」の会話。

「作家をなんだと思っているのでしょう。人間だと、全く思っていないのか、それともその人にとっては他の人間はそのようなものなのでしょうか。愛するものが死ねば傑作がかけるのならば、世の中にはもっと傑作が満ちあふれているでしょう」
(略)
「作家が死ねば話題になって本が売れるから死ねばいいと、世の中に思われているのは知っています」
「それについてはどう思われますか」
「お前が死ねと思って聞いてます」
「おや、過激だ」

結局最後はハッピーエンド。この小説自体、早世していった智恵子達に対するオマージュなのだと言って良いでしょう。


こうした入り口からでも、光太郎智恵子の世界に興味を持って下さる若い世代が増えれば、と思いました。


【折々の歌と句・光太郎】

冬の夜はきりこがらすにきらきらと白きしじまのひかるなりけり
大正15年(1926) 光太郎44歳

このブログを書いている今、南関東には珍しく粉雪が舞っています。夜ではありませんが。

東京調布市の武者小路実篤記念館さんから、図録を戴いてしまいました。現在開催中の特別展「我が家の実篤作品展」のものです。 

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調布市制施行60周年・武者小路実篤記念館開館30周年・武者小路実篤生誕130周年記念特別展 「我が家の実篤作品展」第2部

会 期 : 2015年12月12日 ~ 2016年1月24日 
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1-8-30
時 間 : 午前9時から午後5時 
休館日 : 月曜日(祝日のときはその翌日) 年末年始(12月29日から1月3日)
料 金 : 大人 200円   小・中学生 100円

武者小路実篤の絵や書は、独特の暖かい作風と味わい深い言葉で、広く親しまれています。
実は、武者小路実篤の作品は、その多くが美術館などではなく、個人のお手元で大切にされてきました。
実篤は昭和4 年以来毎年のように個展を開き、また、自らが主宰創刊した雑誌『心』では、実篤を含む同人の書画の即売会で発行資金を捻出していたため、こうした機会に作品を求めた方も多くいらっしゃいます。
転居の多かった実篤は、絵に本格的に取り組んだ昭和初期以降でも、小岩・落合・成城・吉祥寺・三鷹牟礼と、あちこち移り住みましたが、その時々に近隣で親しくなった方や世話になったお店に作品を差し上げています。また学校などにたのまれると気軽に筆を執りました。
講演などで各地へ旅することも多く、旅先で請われて原稿や書画をかくことも珍しくありませんでした。また、実篤は筆まめで、手紙も多く書いています。
調布市仙川に移り住んでからは、地元の自治会やお店に作品を差し上げたほか、調布市の福祉祭の景品として毎年色紙を提供していたといい、調布市民にはくじ引きであたってお持ちの方がいらっしゃるとお聞きしています。
こうして個人のお手元に届いた作品には、所蔵者の想い出があり、またそれぞれの家族と共に歴史を刻み、様々な逸話を持っています。
本年、武者小路実篤生誕130 年、調布市武者小路実篤記念館開館30 周年を迎えるのを機会に、これまでわからなかった個人でご所蔵の作品について、情報を収集することといたしました。
武者小路実篤の自筆作品・資料をお持ちの方は、ぜひ情報をお寄せください。
また、この調査の結果を踏まえ、地元調布市近隣でご所蔵の作品を中心に、許可をいただいた作品について、12 月12 日から開催予定の特別展「我が家の実篤作品展」第二部で展示することを企画しています。
普段ご家庭で秘蔵され、所蔵者以外は見ることの出来ない作品を、作品に秘められたエピソードとともに、ご覧いただきたいと存じます。


同じ白樺派ということで、武者と親交のあった光太郎も、武者の作品を手元に置いていました。

今回、そのものは展示されませんが、写真での展示があるようです。いただいた図録に掲載されています。

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また、図録には光太郎も写った集合写真が2葉。

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このあたりは「芸術家たちが愛した実篤作品」というコーナーで、各地の文学館や美術館、著作権継承者の皆さんなどの協力により集められた中のものです。ちなみに「芸術家たち」、例えば志賀直哉、柳宗悦、岸田劉生、芥川龍之介、林芙美子、六代目市川歌右衛門、棟方志功などなど。

もちろん写真より実篤作品が中心です。上記図録表紙は新宿区立林芙美子記念館内部に復元された林芙美子邸の客間だそうです。かけられている武者の絵はレプリカで、本物が今回借りられて展示されているようです。

その他、一般の方から提供を受けた実篤の書画もずらり。


こうした企画の開催、なかなか大変だとは思いますが、美術館、文学館の企画展の新しい形として、一石を投じたような気がします。

光太郎の書なども、各地の文学館、美術館に納まっているはずですし、そしてやはり個人のお宅にはまだまだ未知のものも眠っていそうです。「我が家の光太郎作品展」もありかな、と夢想します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月20日

昭和11年(1936)の今日、初めて結核による喀血の症状を起こしました。

2年後に亡くなる智恵子と、おそらく同根の結核。この後、約20年間の付き合いとなります。

昨日、作家の高田宏氏のご逝去が報じられました。 

作家の高田宏さん死去 「言葉の海へ」で大佛次郎賞

 言語学者として国語の統一に尽力000した大槻文彦の伝記「言葉の海へ」で、78年に大佛次郎賞、亀井勝一郎賞を受賞した作家の高田宏(たかだ・ひろし)さんが、11月24日に肺がんで亡くなっていたことがわかった。83歳だった。葬儀は近親者で営まれた。喪主は妻喜江子(きえこ)さん。

 エッセー「木に会う」で90年、読売文学賞を受賞。石川県九谷焼美術館の館長や平安女学院大学の学長、将棋ペンクラブの会長なども務めた。
(『朝日新聞』 12月2日)


当方、高田氏のご著書を一冊持っています。

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平成元年(1989)、文化出版局さんから刊行された『もう一度読む』。元々、同社で発行の雑誌『季刊 銀花』に連載されたものの単行本化で、古今東西の名著を「もう一度読む」ことにより、以前には見えてこなかったものが見えてくるという読書体験を綴ったエッセイ集です。

「『智恵子抄』偏読」という章があり、およそ15頁。氏の訃報を受けて、当方も「もう一度読」み返してみました。「偏読」といいつつ、それは韜晦というか、謙遜というか、リスペクトの念に溢れたいい文章でした。

花巻郊外旧太田村の、光太郎が戦後7年間を過ごした山小屋(高村山荘)の話から始まり、戦後の詩篇や日記が引用され、さらに話は戦時中の翼賛詩に及びます。

 昭和十五年に中央協力会議議員になり、昭和十七年には文学報国会詩部会会長に就任した高村光太郎は、第二次大戦のあと、多くの人から非難を受けた。今も光太郎を難ずる人はいる。だが、それらの人々のうち一人でも、あの小屋の老年の日々を送れるものだろうか。

 この詩(注・「琉球決戦」)を書いた詩人は、少なくとも卑劣漢ではない。一途であった。部下の若者に特攻出撃を命じて自分はひそかに安全地帯へ脱出した将軍とはちがう。権力欲や名誉欲や物欲のために戦争にかかわった者ともちがう。ただ一途であった。

さらに『智恵子抄』。氏は「あどけない話」「樹下の二人」などの詩篇もよしとしながら、特に散文「智恵子の半生」に注目しています。

 こういう散文は、高村光太郎ほどの人にしても、めったに書けるものではない。ほとんど偶然の産物と呼びたいようなものである。無技巧と言ってもいい。堂々と言ってもいい。臆面もなく、といっても言い。現実の智恵子がどうであったかは知らないが、光太郎の智恵子像がここに刻み出されている。純度の高い一人の女性が、おそろしいばかりに輝いている。

そして結末。

これだけみごとに「一人の女性の底ぬけの純愛」に執した男が、ただ時流に乗って戦争協力をしたなどとは私には信じられない。

 高村光太郎のあの山小屋の七年間という時間を、私は思わないわけにはいかない。その自己処罰を、また、それをも越える老年の生を、思わないわけにはいかない。


短く、それから残念なことに書き出しの部分で事実関係の勘違い(高村山荘の套屋に関し)があるのですが、それを差し引いても慧眼と言わざるを得ません。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月3日

平成9年(1997)の今日、ビクター伝統文化事業財団から、人間国宝の横笛奏者・寶山左衛門のCD「笛のこころ」がリリースされました。

「智恵子と空」という曲を含みます。しみじみといい曲です。

先週土曜日、九段下の玉川堂さん、新宿の中村屋サロン美術館さんと制覇し、最終目的地、文京区千駄木の区立森鷗外記念館さんに向かいました。

先月からコレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」が始まっており、さらにこの日は、関連行事として東京大学大学院教授の今橋映子氏による講演「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」があったためです。

ただ、最寄りの千駄木駅には早めに着いてしまいました。そこで、団子坂を上り、いったん鷗外記念館前を通り過ぎて、近くのコンビニに。ここは店頭に灰皿が置いてあり、煙草吸いには有り難い配慮です。ちなみに当方、都内のよく歩く範囲では、どこに喫煙所があるか、かなり頭に入っています。シルクロードを旅するキャラバンがオアシスの位置を頭に入れているのと同じです(笑)。

さらに少し行くと、道の右側に瀟洒なマンションが建っています。少し前まではNTTさんのビルだったところですが、こんな案内板が設置されています。

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「「青鞜社」発祥の地」。明治44年(1911)、平塚らいてうを中心に創刊された我が国初の女性だけによる雑誌『青鞜』創刊号―その表紙絵は智恵子の作品―が、ここで編集されました。元々は国文学者・物集高見の屋敷があったところで、物集の娘・和子が青鞜社員だったため、自宅の一室を編集室にしたというわけです。

案内板には光太郎智恵子の名も記され、それを読みつつ、思いを馳せました。

ちなみに光太郎智恵子が暮らしたアトリエ跡や、現在も高村家の方がが住む光雲の旧宅もほど近いのですが、そこまで足をのばす時間もなく、鷗外記念館に戻りました。こちらは元の鷗外邸「観潮楼」のあった場所に建てられています。

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講演会の前に、地下の展示室に。常設の鷗外の展示と、コレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」をじっくり拝見しました。

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鷗外はもちろん、杢太郎も光太郎と縁の深い人物でした。光太郎の方が杢太郎より2歳年長です。

杢太郎は本名・太田正雄。静岡・伊藤の出身です。医学を志し、旧制一高から東京帝国大学に進みましたが、その間、文学に対する熱情も強く、明治40年(1907)頃から鷗外が観潮楼で開いた歌会に参加、明治42年(1909)からは雑誌『スバル』の編集にあたります。この年、欧米留学から帰国した光太郎も『スバル』の主要執筆者の一人となり、二人の交流が始まります。さらに、芸術運動「パンの会」。鎧橋のメイゾン鴻乃巣などで、文学、美術、演劇などに携わる若き芸術家達が酒を飲みながら怪気炎を上げたものですが、光太郎、杢太郎、ともに発起人に名を連ねています。

展示は『スバル』や杢太郎の著書、自筆資料などなど。下に出品目録を載せますが、途中で展示替えがあり、今週から一部変わっているはずです。

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その後、2階の講座室へ。こちらが講演会場です。

講師の今橋映子氏は、比較文化学がご専門。特に明治大正期の日仏両国の文化的なつながりを研究されています。『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房・平成5年=1993)というご著書があり、「第2部 憧憬のゆくえ―近代日本人作家のパリ体験」という項の第1章が「乖離の様相―高村光太郎」。また、昨秋には明星研究会さん主催のシンポジウム「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎」のパネリストもなさっていました。

現在、美術史家の岩村透についてのご研究を進められているそうで、数年後には新たなご著書として世に問われるそうです。岩村は、光太郎が在学中、東京美術学校で教鞭を執っており、光太郎に西洋留学を強く勧めた人物です。前任者が鷗外、さらに杢太郎ともつながりがあり、講演では鷗外と杢太郎の関連以外にも、岩村や光太郎にも触れられていて、興味深く拝聴しました。

それにしても、昨日書いた斎藤与里にしてもそうですが、杢太郎も、一般には忘れ去られかけつつある芸術家です。もっともっと光が当てられていいのでは、と思います。

同時に光太郎が「忘れ去られつつある芸術家」とならないよう、もっともっと頑張らねば、と感じました。

以上、3回にわたる都内レポートを終わります。今日は当方の住む千葉県内の、その南端に近い勝浦に行って参ります。勝浦市芸術文化交流センター・キュステさんで開催中の「第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」を観て参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月26日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、どら焼きを食べました。

当日の日記の一節です。

曇、少々むしあつし。 朝、抹茶、濱田先生に昨日もら(っ)たドラ焼を甘味とす。

別に、どら焼きを食べるのは不思議でも何でもないのですが、問題はその量です。前日の日記の一節にはこうあります。

学校にて郵便物授受。 濱田先生と談話。同氏は哲学専攻の由。長坂町に滞在との事。(略)濱田氏よりドラ焼20数個もらふ。

まさか20数個全部を光太郎一人で食べたとも考えにくいのですが、「おすそ分けをした」的な記述が日記には見あたりません(笑)。

昨日の『朝日新聞』さんの土曜版に光太郎の名が出ました。

歴史学者・酒井紀美氏の連載「酒井紀美の夢想の歴史学」で、昨日の回のサブタイトルは「漱石の夢十夜 近代日本の迷いを映す」。

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「夢十夜」は明治41年(1908)の作。漱石が、自分の見た十種類の夢の内容を綴るという形で進むオムニバス形式の小説です。特に有名なのが「第六夜」。鎌倉時代の仏師・運慶が、現代(明治)の東京で、仁王像を彫っている場面を見たという夢です。

当方、『朝日新聞』さんは購読しておりますが、紙面を見る前にネットのデジタル版で「高村光太郎」のキーワード検索を掛け、この記事に光太郎の名が出て来ることを知りました。

読み進めると、夢の中の運慶が仁王像を彫る場面が引用されていました。

運慶はまったく何もちゅうちょすることなく悠々と鑿(のみ)と槌(つち)をふるって、仁王の顔のあたりを彫り抜いていく。「能(よ)くああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻が出来るものだな」と感心して独りごとを言うと、隣にいた若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と評した。

ここまで読み、光太郎の木彫に話をつなげるのかな、と思いました。光太郎も昭和2年(1927)、雑誌『大調和』に発表した「偶作十五篇」という連作の中で、次のように謳っています。

木を彫ると心があたたかくなる。
自分が何かの形になるのを、
木は喜んでゐるやうだ。

ところが、さにあらずでした。酒井氏の稿は、阿部昭による岩波文庫版『夢十夜』の解説に言及され、そこに光太郎が出て来ます。

岩波文庫『夢十夜』の「解説」で阿部昭は、「旧時代の重荷を背負いつつも、新しい教養の先頭にいた知識人の一人として、西洋という異質の文化の吸収に追われざるを得なかった」漱石を、「内と外とから追われる人間」「ロンドンの街角で、ふと鏡に映った一寸法師、醜い黄色人種」ととらえた。そして、高村光太郎の詩の「魂をぬかれた様にぽかんとして 自分を知らない、こせこせした 命のやすい 見栄坊な 小さく固まつて、納まり返つた 猿の様な、狐(きつね)の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な」という、たたみかけるような表現を引用しながら、明治という時代の不安定な日本人の姿を浮かび上がらせた。

引用されているのは、明治44年(1911)に雑誌『スバル』に発表された「根付の国」です。

   根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

制作は明治43年12月です。前年には米英仏への3年余の留学から帰朝した光太郎。彼地では日本との文化的落差に打ちのめされ、帰ったら帰ったで、我が国の旧態依然の有様に絶望し、さらに手を携えて共に新しい彫刻を日本に根付かせようと考えていた、盟友・荻原守衛を失った時期でした。

漱石にしろ、光太郎にしろ、欧米留学を経験し、帰国後の日本に危機感を覚え、いわば目覚めてしまった者の悲劇を体現したといえるのではないでしょうか。その点は森鷗外にも通じるような気がします。

この点、光太郎と同時期か、やや遅れての留学生の、光太郎からパリのアトリエを引き継ぎ、ルノアールに師事し、ピカソやマチスと親交を深めた梅原龍三郎、「レオナール・フジタ」と称され、活動の場自体を西洋に置いてしまった藤田嗣治(美術学校西洋画科での光太郎の同級生)などとの相違は興味深いところです。ただし、梅原にしても藤田にしても、後にまた違った形での日本回帰がみられるのですが。

酒井氏の稿は、以下のように結ばれます。

夢は自分の外から神仏のメッセージとして届けられるのだとする古い見方や考え方を捨て去って、自分の心の奥深いところで過去の記憶が複雑にからまりあいながら夢が生まれてくるのだと確信できるようになるまで、近代日本の人々は、夜ごとに訪れる夢に対して、不安と混迷をかかえこみながら歩まねばならなかった。

現代のこの国に生きる我々も、近代の人々とは違った不安と混迷を抱えて生きています。また大きな曲がり角にさしかかった気配の昨今、未来に「夢」を持てる国であってほしいものですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月19日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の昌歓寺に「放光塔」の文字を書く約束をしました。

当日の日記です。

夕方神武男氏他一名来訪、白い酒一升もらひ、その場でのむ。浅沼宮蔵とかいふ人の葬式だつた由。昌歓寺に立つ放光塔といふ字をかく約束す、

昌歓寺は時折光太郎も足を運んでいた寺院で、前年には、毎年、花巻町の松庵寺で行っていた光雲・智恵子の法要を、その年だけ昌歓寺に頼んでいます。昨年、光太郎に関する文書が出て来て驚きました。神武男は当時の住職です。

この「放光塔」の文字がこの後どうなったか不明です。次に花巻に行く際には、そのあたりも調べてみようと思っております。

新刊情報です。  
2015年3月20日 公益財団法人日本近代文学館発行 江種満子編 定価1,020円

エッセイ
   三浦雅士 世界遺産と文学館
  松浦寿輝   音楽を聴く作家たち
  荻野アンナ ケチの話
  藤沢周     基次郎という兄貴
  間宮幹彦   吉本さんが「あなた」と言うとき
  西川祐子   日本近代文学館で出会う偶然と必然
     
論考
 小林幸夫  <軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎
 有元伸子  岡田(永代)美知代研究の現況と可能性 ―〈家事労働〉表象を例に―
 山口徹     作家太宰治の揺籃期  ―中学・高校時代のノートに見る映画との関わり
 吉川豊子  文学館所蔵 佐佐木信綱宛大塚楠緒子書簡(補遺)―洋楽鑑賞と新体詩集『青葉集』をめぐって―
 江種満子 高群逸枝・村上信彦の戦後16年間の往復書簡をめぐって

資料紹介  
 加藤桂子・田村瑞穂・土井雅也・宮西郁実     村上信彦・高群逸枝往復書簡


上智大学教授の小林幸夫氏の論考「<軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎 」が17ページにわたって掲載されています。

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先月、発行元の日本近代文学館さんのサイトに情報が出、入手しなければ、と思っているうちに、小林氏からコピーが届きました。有り難いやら申し訳ないやらです。

氏の論考は、一昨年、同館で開催された講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」中の「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」を元にしたもので、鷗外と光太郎、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子をたどるものです。詳細は上記リンクをご参照下さい。

終末部分を引用させていただきます。

 川路柳虹との対談のなかで(光太郎は)次のように言っている。

 どうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありましたなあ。けれども先生の「即興詩人」など暗記したくらゐですし、先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました。何としても忘れることの出来ない大先輩ですよ。

 談話や書き物によっては同一の事柄に対しても、鷗外をいいと言ったり悪いと言ったり偏差はあるが、総体としての鷗外に対する光太郎の思いは、この言説が代表しているものに思われる。鷗外と光太郎との関係は、「「先生」といふ変な結ばり」を意識してしまふ光太郎に、まさにその「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避に胚胎した、というべきである。


「即興詩人」は、童話で有名なアンデルセンの小説で、鷗外の邦訳が明治35年(1902)に刊行されています。この中で、イタリアカプリ島の観光名所「青の洞窟」を「琅玕洞」と訳していますが、光太郎は欧米留学から帰朝後の明治43年(1910)、神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」の店名を、ここから採りました。こうした点からも「先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました」という光太郎の言が裏付けられます。

しかし、軍医総監、東京美術学校講師といった鷗外のオーソリティーへの反発も確かにあり、「「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避」というお説はその通りだと思います。

お申し込みは日本近代文学館さんへ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月20日

昭和17年(1942)の今日、詩集『大いなる日に』を刊行しました。

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オリジナルの詩集としては、前年刊行の『智恵子抄』に続く第3詩集ですが、内容は一転、ほぼ全篇が戦争協力詩です。収録詩篇は以下の通り。

秋風辞 夢に神農となる 老耼、道を行く 天日の下に黄をさらさう 若葉 地理の書 その時朝は来る 群長訓練 正直一途なお正月 初夏到来 事変二周年 君等に与ふ 銅像ミキイヰツツに寄す 紀元二千六百年にあたりて へんな貧 源始にあり ほくち文化 最低にして最高の道 無血開城 式典の日に 太子筆を執りたまふ われら持てり 強力の磊塊たれ 事変はもう四年を越す 百合がにほふ 新穀感謝の歌 必死の時 危急の日に 十二月八日 鮮明な冬 彼等を撃つ 新しき日に 沈思せよ蒋先生 ことほぎの詞 シンガポール陥落 夜を寝ざりし暁に書く 昭南島に題す

まずは新刊紹介です。

YAMAKEI CREATIVE SELECTION Frontier Books 山小町 -恋-

やぎた 晴著   山と渓谷社刊   発売日:2014年12月19日   定価 1,900円+税

版元サイトより

雄大な山に抱かれて成長するひとりの女性の姿を描く山岳小説。

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京都在住の保母にして山ガール・佳子と、安曇野出身で現在は東京でサラリーマン生活を始めた春生。ともに思い立って単独行に入った北アルプスで出会い、恋に落ちるというストーリーです。

台風の接近に伴う暴風雨に見舞われ、ハラハラドキドキの展開になります。このあたり、「タイタニック」を髣髴とさせますが、貴族の娘とプータロー、大惨事といったケレン味はなく、あくまで現実にありそうな話です。

また、明記されてはいませんが、昭和40年代が舞台のようで、レトロ感もあふれています。「歌声喫茶」「ラッパズボン」「おさげ髪」etc。

上高地も舞台の一つとなります。そこで、大正2年(1913)、光太郎智恵子が婚前旅行で上高地に1ヶ月程をともにしたことに、少しだけ触れられています。

ところで驚いたのは、オンデマンド出版であること。デジタル版と紙媒体があり、紙媒体の方は注文を受けてから製本、発送するというシステムになっています。楽譜などは以前からそういう形態で販売されていますが、通常の書籍もこうなってきたか、という感じです。

ところで「上高地」ということでもう1件。005

『山小町―恋―』版元の山と渓谷社刊行の雑誌『山と渓谷』と並ぶ有名な山岳雑誌に『岳人』があります。来月発行の3月号で、「言葉の山旅 山を詠う―上高地・北アルプス編―」という特集が組まれます。

今月号に載った次号予告には、「山を想えば人恋し、人を想えば山を恋し」。山々は時代を問わず人の心をひきつけてやまない。山を詠い、人を詠い、自らの心を詠う。詩人たちが綴る言葉の世界に導かれ、山へ思いを馳せてみませんか。」とあります。

この中で、光太郎智恵子も扱われます。実は、岩手花巻の㈶ 高村光太郎記念会さんを通じ、当方に執筆依頼がありました。光太郎詩文と拙稿とで8ページ程になります。

光太郎智恵子以外には、若山牧水を取り上げるそうです。

発売は2月14日。大きな書店なら店頭に並びますし、アウトドア用品メーカーのモンベルのショップにも並びます。また、ネット通販でも入手可能。ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月29日

大正5年(1916)の今日、美術評論家の坂井犀水の慰労会に出席、彫刻「ラスキン胸像」を贈りました。

下記は当時の『読売新聞』です。

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「ラスキン胸像」は、ニューヨークで光太郎が師事したガットソン・ボーグラムの模刻です。

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新刊です。  

空の走者たち

増山実著 2014/12/08 角川春樹事務所  定価 1600円+税
 
2020年4月18日――。通信社の若手記者・田嶋庸介は興奮していた。陸運から発表された東京オリンピック女子マラソン日本代表3名の中に、円谷ひとみの名があったからだ。田嶋が7年前にこの少女と出会ったのは、福島県須賀川市。そこは、1964年の東京オリンピックマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉と、ウルトラマンの生みの親・円谷英二の故郷であった。当時の円谷ひとみは、陸上をやめ、自分のやりたいことが見えずに暗中模索中の高校2年生。なぜ彼女は、日本を代表するランナーへと成長できたのか。その陰には、東京オリンピックと「あどけない青空」によって結ばれた、不思議な出会いがあった……。須賀川、宝塚、東京、ハンガリー。どんなに雨が降り続こうとも、いつか必ず見えるはずの青空を思い、それぞれの空の下を懸命に駆け抜けた走者たちの物語。
 
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主な舞台は福島県須賀川市。光太郎の「智恵子抄」に収められた「あどけない話」が重要なモチーフになっています。
 
昭和39年(1964)の東京五輪・男子マラソン銅メダリスト円谷幸吉、「特撮の神様」・円谷英二。ともに須賀川の出身で、親戚だそうです。さらに『おくのほそ道』の旅で須賀川を訪れた松尾芭蕉や、東日本大震災で被災した架空の少女たちが織りなす物語。クライマックスは平成32年(2020)の2度目の東京五輪。平成25年(2013)、昭和40年(1965)、そして元禄2年(1689)。それぞれの須賀川をつなぐキーワードが「空」。さらにはマルセル・プルースト『失われた時を求めて』、坂本九、ゴジラ、ザ・ビートルズ、銭湯、大阪万博……。
 
スポ根的要素、SF的要素、昭和懐古的要素、震災復興支援的要素と、てんこ盛りの一冊です。
 
ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月8日

昭和28年(1953)の今日、終の棲家となった中野のアトリエで、煙突掃除をしました。
 
十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を制作していた時期で、この日は午前中に手の試作を仕上げています。夕方から、詩人の藤島宇内に手伝ってもらって、煙突掃除。これはストーブからつながっていたものでした。
 
最近は、レンガ造りのイミテーションを除き、一般家庭で「煙突」という物体を見ることがほぼなくなりましたね。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月18日
 
大正15年(1926)の今日、駒込林町のアトリエを、宮澤賢治が訪れました。
 
20日という説もあるそうですが、賢治と光太郎、二人の天才の、最初で最後の出会いでした。
 
光太郎の談話筆記「宮澤さんの印象」(昭和21年=1946 『ポラーノの広場』)、全文です。
 
 宮澤さんは、写真で見る通りのあの外套を着てゐられたから、冬だつたでせう。
 夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。
 僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけてゐたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰つて行かれました。
 あとで聞いたら、尾崎喜八氏の所にも寄られたさうで、何でも音楽のことで上京されたらしく、新響の誰とかにチエロを習ふ目的だつたやうです。十日間で完成するつもりだと言つてをられたさうです。
 あの時、玄関口で一寸お会ひしただけで、あと会へないでしまひました。また来られるといふので、心待ちに待つてゐたのですが……。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしてゐて、とても元気でした。
 
 
二人を結びつけたのは草野心平でした。
 
心平と光太郎の出会いは、大正14年(1925)。心平は、中国の嶺南大学留学中に知り合った詩人・黄瀛(こうえい)に連れられて、駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、以後、足繁く通うようになります。
 
心平が前年に刊行された賢治の詩集『春と修羅』を光太郎に紹介、光太郎はその詩的世界を激賞しました。また、光太郎は黄瀛からやはり同じ年に刊行された童話集『注文の多い料理店』を借り、その素晴らしさを広めるため、さらに水野葉舟に又貸しするなどしています。
 
光太郎の賢治評です。
 
内にコスモスを持つものは世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。彼の謂ふところのイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであつた。
(「コスモスの所持者宮澤賢治」 昭和8年=1933 『宮澤賢治追悼』)
 
 宮澤賢治の全貌がだんだんはつきり分つて来てみると、日本の文学家の中で、彼ほど独逸語で謂ふ所の「詩人(デヒテル)」といふ風格を多分に持つた者は少いやうに思はれる。往年草野心平君の注意によつて彼の詩集「春と修羅」一巻を読み、その詩魂の厖大で親密で源泉的で、まつたく、わきめもふらぬ一宇宙的存在である事を知つて驚いたのであるが、彼の死後、いろいろの詩稿を目にし、又その日常の行蔵を耳にすると、その詩篇の由来する所が遙かに遠く深い事を痛感する。
(略)
彼こそ、僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない。そして斯かる人種をこそ、われわれは長い間日本から生れる事を望んでゐたのである。
(「宮澤賢治に就いて」 昭和9年=1934 『宮澤賢治全集内容見本』)
 
他にも繰り返し、光太郎は賢治を激賞しています。
 
さらに三回にわたる『宮澤賢治全集』の発刊に関わり、花巻に建てられた「雨ニモマケズ」碑の揮毫をしたりもした光太郎を、宮澤家でも恩人として遇し、昭和20年(1945)、空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎を花巻に呼び寄せたことはあまりにも有名です。その結果、賢治の父・政次郎や賢治の弟・清六は、光太郎と年齢差を越えた深い交流が生まれました。
 
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こちらは先程も名前の出て来た尾崎喜八撮影の写真。左から光太郎、心平、清六、そして賢治の甥の幸三郎です。昭和9年(1934)、駒込林町のアトリエ前です。ここで賢治と光太郎も出会いました。
 
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こちらは花巻郊外太田村山口の山小屋。政次郎・イチ夫妻と光太郎です。
  
光太郎と賢治、実は、二人が出会うチャンスはもう一度ありました。それは昭和6年(1931)夏、賢治は東北砕石工場技師を務めるかたわら、童話「風の又三郎」を書いていた時期です。光太郎は『時事新報』の依頼で紀行文を書くため、女川を含む宮城、岩手の三陸海岸を旅しています。その際に賢治は光太郎が花巻に寄ってくれることを望んでいたそうですが、実現しませんでした。
 
細かな事情は不明なのですが、光太郎が旅している間に、東京では智恵子の統合失調症の症状が顕著となったということで、もしかするとその知らせを受けた光太郎、急ぎ帰宅したのかも知れません。

追記 どうも船の関係のような気もしてきました。光太郎、東京―三陸間も船で移動した可能性があり、そうすると、船の便が月2本しかなかったのです。

それにしても、賢治と光太郎、たとえ一度でも実際に出会っていることの意味は大きいでしょう。光太郎にしても、賢治と出会わずじまいであれば、どんなに書かれたものを読んで感心したとしても、あれほど激賞することはなかったのではないかと思います。 
 
この二人の最初で最後の出会いが、88年前の今日。感慨深いものがあります。
 
実は当方、賢治が書いたり発言したりした光太郎評については不分明です。詳しい方、はこちらまでご教示いただければ幸いです。

一昨日、六本木東京ミッドタウン内のFUJIFILM SQUAREさんにある写真歴史博物館さんにて、企画写真展 「土門拳 二つの視点」第二部「風貌」を観たあと、目黒区駒場東大前の日本近代文学館さんに行きました。
 
閲覧室での調べ物が主でしたが、調べ物終了後、複写をお願いしている間に、2階の展示ホールで行われている以下の展示も観て参りました。 

近代文学の名作・大正

期 日 : 2014年11月29日(土)~2015年3月28日(土)
時 間 : 午前9:30~午後4:30(入館は4:00まで)
料 金 : 一般 100円 団体割引はありません
休館日  
: 日・月曜 年末年始(12/26~1/5) 第4木曜(1/22、2/26、3/26)
       特別整理期間(2/17~21)

 
日本近代文学館では春・秋2回の特別展の他に、主に複製資料から構成し、日本近代文学の代表的な作家や作品を通史的に紹介する通常展を年2回開催しています。
わが国の近代史上、元号「大正」はわずか15年の短い期間でしたが、明治維新以降に始まった急速な西欧化が実を結び、一挙に花開いた時代でした。
大正期の文学は、夏目漱石や森鷗外ら明治作家の作風の完成期であるとともに、雑誌「白樺」を中心に個人主義・人格主義を基にした文学が展開された時期でもありました。さらに、大正デモクラシーや労働運動が起こり、その中でプロレタリア派・新感覚派など新しい文学が芽生えました。
通常展示「近代文学の名作・大正」は、この日本近代文学の発展期である大正時代の文学の諸相や代表的な作家たちの功績を、当館所蔵の複製原稿・書簡、書籍・雑誌等で紹介するものです。
主な出品資料
<原稿・草稿(すべて複製)>
夏目漱石「こゝろ」 森鷗外「北条霞亭」 谷崎潤一郎「痴人の愛」   
有島武郎「生れ出る悩み」 室生犀星「小景異情」 葛西善蔵「暗い部屋にて」   
広津和郎「志賀さんと私」 宇野浩二「苦の世界」 菊池寛「受難華」   
芥川龍之介 「蜘蛛の糸」「侏儒の言葉」「歯車」
宮沢賢治「雨ニモマケズ」「セロ弾きのゴーシュ」
 
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残念なことに、光太郎個人の草稿や著書は展示されていませんでしたが、光太郎が寄稿していた『白樺』や、森鷗外、宮澤賢治、佐藤春夫など、光太郎関連の深い作家にまつわる品々が並んでいました。
 
ところで、日本近代文学館さんと同じ駒場公園内に、旧前田侯爵邸があります。一昨日は天気もよく、紅葉が実に見事でした。もう師走なのですが、まだまだ都内は紅葉が見られます。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月5日
 
昭和17年(1942)の今日、NHKラジオで光太郎の詩「軍神につゞけ」「山道のをばさん」が朗読されました。
 
「軍神につゞけ」は午前7:00~の「愛国詩」という番組で、朗読は俳優の故・岩田直二。JOBK(大阪放送局)の制作でした。なお、この詩はのちに「みなもとに帰るもの」と改題され、詩集『をぢさんの詩』(昭和18年=1943)に収録されました。
 
「山道のをばさん」は午後9:00~の「詩の朗読」という番組で、JOAK(東京放送局)から和田放送員の朗読でオンエアされました。この詩は前月に日本文学報国会の事業で「日本の母」として顕彰された山梨県穂積村の井上くまを謳った詩です。
 
この時期、太平洋戦争開戦一周年が近づき、大本営や大政翼賛会は、光太郎らの戦争詩をプロパガンダとして国民の戦意昂揚に活用していました。

お父さまが光太郎と面識がおありだったこともあり、連翹忌にもよくご参加下さっている渡辺えりさん率いる劇団「おふぃす3○○(さんじゅうまる)」さんの公演です。
 
2012年、下北沢の座・高円寺での初演以来の再演、今回は全国11ヶ所を巡回します。 
【盛岡】10月19日(日)         盛岡劇場メインホール  14時
【東京】10月23日(木)~28日(火)シアター・トラム
【石巻】11月1日(土)         石巻特設会場  時間未定
【兵庫】11月3日(月・祝)       兵庫県立芸術文化センター・阪急中ホール  17時
【石川】11月5日(水)         北國新聞赤羽ホール   19時
【山口】11月8日(土)・9(日)      山口情報芸術センター 8日(土)14時 / 9日(日)14時
【宮崎】11月11日(火)          三股町立文化会館ホール  19時
【愛知】11月24日(月・休)        長久手市文化の家・森のホール  18時
【福島】11月27日(木)          南相馬市民文化会館  19時
【宮城】11月28日(金)          日立システムズホール仙台・シアターホール 19時
【山形】11月30日(日)          シベールアリーナ 13時/17時
 
作・演出 渡辺えり
 
キャスト 大沢 健 大和田美帆 土屋良太 谷川昭一朗 宇梶剛士 大塚加奈子 有賀太朗 藤本沙紀
      川口龍 十倉彩子 渡辺えり 他
 
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教師時代の宮澤賢治を主人公に、理想と現実のはざまで苦悩・葛藤する姿が描かれています。そんな賢治を温かく見守る弟の清六や妹のトシ、逆に非難・嘲笑する人々、そして賢治を取り巻く「イーハトーヴ」の大自然とのからみなどが、猫の大群を擁した幻想的な賢治童話に乗せて展開されます。渡辺さんは賢治童話「貝の火」に出てくる子ウサギ、宇梶剛士さんはなんと岩手山の役もなさいます(笑)。
 
こちらは一昨年の公演のパンフレットです。
 
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光太郎は登場しませんが、ストーリーの中で何度も「高村光太郎先生」として語られます。
 
山形出身の渡辺さんは、東北への強い思い入れをお持ちのようで、この「天使猫」、そして光太郎を主人公とした「月にぬれた手」を、東北で上演したいと、常々おっしゃっていました。そこで、今回、初日は盛岡ですし、千秋楽は山形。宮城や福島での公演もあります。
 
各会場、盛況となることを祈念いたします。
 
また、「月にぬれた手」の東北公演も実現してほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月3日
 
昭和10年(1935)の今日、中原綾子の詩集『悪魔の貞操』が刊行されました。
 
光太郎が題字と序詩「「悪魔の貞操」に題す」を書きました。002
 
   「悪魔の貞操」に題す
 
 心法の高圧を放電するもの、
 思ひもかけぬ交互無縁の片言隻語、
 言語道断の真空界にひらめくものは、
 千古測りがたい人間真理。
 すさまじいかな此書。
 
原題は「「悪魔の貞操」に寄す」でしたが、のち、雑誌に再録された際に改題されました。
 
はじめ、光太郎は序詩として、『智恵子抄』にも収められた「人生遠視」を中原に送りましたが、中原側からのクレームで変更になりました。
 
   人生遠視
 
 足もとから鳥がたつ
 自分の妻が狂気する
 自分の着物がぼろになる
 照尺距離三千メートル
 ああこの鉄砲は長すぎる
 
たしかにこんな詩を送られても困りますね。
 
この年二月の中原宛の書簡にはこのように記されています。
 
先日お送りした短詩について発表の御心配をうけ、小生まるで気がつかなかつた事なので成程と思ひました、
(略)
智恵子が全快でもしたあとでそれを見たら変なものだらうとも考へました、何となしに懸念のあるものを折角のあなたの詩集のあたまに印刷するのもいかがと思ひますから、此は撤回いたします、 そのうち何かお送りいたします、
 
この時期は、ちょうど智恵子を南品川のゼームス坂病院に入院させた時期で、光太郎は確かに大変な時期でした。智恵子の狂躁状態、それに伴う自分の苦労などを、中原に宛てた複数の書簡に書いています。それにしても、他人の詩集の序詩に「自分の妻が狂気する」はいくらなんでも……と思います。そうした当たり前のことに考えが至らないほど、光太郎も追い詰められていたのかも知れません。

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