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「東京都同情塔」で第170回芥川賞に選ばれた九段理江氏の小説です。「東京都同情塔」より前に書かれたものですが、ある意味芥川賞受賞の尻馬に乗った感と言うと失礼かも知れませんが、単行本化されました。

しをかくうま

2024年3月10日 九段理江著 文藝春秋 定価1,500円+税

第45回野間文芸新人賞受賞作。
疾走する想像力で注目を集める新芥川賞作家が描く、馬と人類の壮大な歴史をめぐる物語。
太古の時代。「乗れ!」という声に導かれて人が初めて馬に乗った日から、驚異の物語は始まる。この出逢いによって人は限りなく遠くまで移動できるようになった――人間を“今のような人間”にしたのは馬なのだ。
そこから人馬一体の歴史は現代まで脈々と続き、しかしいつしか人は己だけが賢い動物であるとの妄想に囚われてしまった。
現代で競馬実況を生業とする、馬を愛する「わたし」は、人類と馬との関係を取り戻すため、そして愛する牝馬<しをかくうま>号に近づくため、両者に起こったあらゆる歴史を学ぼうと「これまで存在したすべての牡馬」たる男を訪ねるのだった――。

担当編集者より
2021年に小説家デビューするや、発表するすべての小説で文学賞を受賞してきた新芥川賞作家の、真骨頂とも呼べる、圧倒的想像力の爆発した一作です。
野間文芸新人賞選考会では、小説の放つあまりの疾走感から、この作品自体が“暴れ馬”に見立てられ、“暴れ馬”から“振り落とされた”と述懐する選考委員もいらしたほどです。
詩情豊かにギャロップする物語は、批評的射程も広く備えていて、優生思想や純血主義、アニマルライツ、果ては人類の知そのものに対する問いまでをも孕んでいます。
いま最注目の才能が送る、試みと企みに満ちた必読の書。
また、小説内には、実在の名馬名や名実況セリフもちりばめられており、競馬ファンにもおすすめいたします。
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それほど厚い本ではないので、ほぼほぼ一気読みしました。2時間弱でしょうか。

主人公の一人は、現代のテレビ局勤務のアナウンサー「わたし」。主人公といえば、数万年前に出会ったネアンデルタール人とホモ・サピエンスの二人組、さらに終末部分では「ニューブレイン」を埋め込まれた近未来の人類も登場し、彼らも主人公の一人と言えるでしょう。

タイトルの通り、「馬」が重要なモチーフ。「わたし」は情報番組のキャスター、そして競馬の実況中継を担当しています。太古の二人組は、おそらく人類史上初めて馬に乗った(高速の移動手段を手にした)という設定。近未来の部分には馬は描登場しませんが、「ニューブレイン」をoffにした状態での「オールドブレイン」による幻想の中には馬が現れます。

また、もう一つのモチーフは「詩」。ただ、ここでいう「詩」は、通常の意味の「詩」より広範な意味で使われていますが。

そこで、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が引用されています。しかも最終形の9行バージョンではなく、詩集『道程』上梓前に雑誌『美の廃墟』に載った102行の初出発表形。ただし、あまりに長いので冒頭部分だけですが。それ以外にも「道程」という単語は複数回使われ、その背後には光太郎の「道程」がちらつきます。

九段氏と言えば、作品執筆にに生成AIを活用したという点がクローズアップされていますね。本作でもおそらくそうなんじゃないかと思われる箇所が散見されます。例えば、およそ2ページにわたり、カタカナ10文字の人名が99名分羅列されている箇所があります。こうした作業は生成AIお手のものでしょう。ちなみに99名のほとんどは古今東西のうちの「西」。日本人は含まれません(後の部分で「タニカワシュンタロウ」が出てきますが)。「ウォルトホイットマン」や「アルチュールランボー」「レオナルドダヴィンチ」など、光太郎に影響を与えた人物も少なからず。そうかと思うと「フレディマーキュリー」や「マークザッカーバーグ」まで。個人的には「アーネストフェノロサ」「フランシスプーランク」や「ミッシェルポルナレフ」が欲しいところでしたが(笑)。「タカムラコウタロウ」は惜しくも9文字ですね(笑)。

それにしても本作、一昔前なら荒唐無稽な「SF」の範疇に入れられていたかも知れません。それほど情報技術等の進化(進化と言えるかどうかは別として)は、急ピッチです。常々思っているのですが、まるでy=ax²のグラフのx≧0の部分のように。x軸が時間、y軸が情報技術等の進化です。
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閑話休題、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

彫刻の構図もいろいろ作ります。智恵子観音の原型雛形もそのうち試みるつもりです。

昭和22年(1947)1月6日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として「智恵子観音」の構想が結実するのは、さらに約6年後です。

映画の公開情報です。

風よ あらしよ 劇場版

公 開 : 2024年2月9日(金)~ 全国順次公開
上 映 : 新宿ピカデリーほか
出 演 : 吉高由里子(伊藤野枝) 永山瑛太(大杉栄) 松下奈緒(平塚らいてう)
      美波(神近市子) 玉置玲央(村木源次郎) 山田真歩(堀保子)
      朝加真由美(辻美津) 山下容莉枝(渡辺八代) 栗田桃子(保持研
      高畑こと美(尾竹紅吉) 福田ユミ(中野初) 成田瑛基(奥村博史)
      金井勇太(和田久太郎) 芹澤興人(久板卯之助) 永瀬ゆずな(大杉魔子)
      音尾琢真(甘粕正彦) 石橋蓮司(渡辺政太郎) 稲垣吾郎(辻潤)ほか
演 出 : 柳川強
脚 本 : 矢島弘一
音 楽 : 梶浦由記

 関東大震災後の混乱のさなか、ひとりの女性が憲兵に虐殺された。女性解放運動家の伊藤野枝。貧しい家で育った野枝は、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」という言葉に感銘を受け、結婚をせず上京。自由を渇望し、バイタリティ溢れる情熱で「青鞜社」に参加すると、結婚制度や社会道徳に異議を申し立てていく。伊藤野枝を演じたのは吉高由里子。平塚らいてうに松下奈緒。また野枝の第一の夫、ダダイスト・辻潤を稲垣吾郎が、また後のパートナーとなる無政府主義者・大杉栄を永山瑛太が演じる。吉川英治文学賞を受賞した村山由佳の評伝小説『風よ あらしよ』を原作に、向田邦子賞受賞の矢島弘一が脚本を担当する。本作の演出を務めた柳川強は「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子の波乱万丈の人生を描いたNHK連続テレビ小説「花子とアン」のディレクターも務めており、本ドラマでも主演を演じきった吉高由里子とは9年ぶりのタッグを組んだ。ひとりの女性の短くも激しい生涯から100年経ったいま――なにがかわり、なにが残されているのか。

 「女は、家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫が死んだあとは子に従う」事が正しく美しいとされた大正時代。男尊女卑の風潮が色濃い世の中に反旗を翻し、喝采した女性たちは社会に異を唱え始めた。
 物語の主人公は、福岡の片田舎で育った伊藤野枝。貧しい家を支えるための結婚を蹴り上京する。平塚らいてうの言葉に感銘を受け手紙を送ったところ、青鞜社に入ることに。青鞜社は当初、詩歌が中心の女流文学集団であったが、やがて伊藤野枝が中心になり婦人解放運動に発展していく。野枝の文才を見出した第一の夫、辻潤との別れ、生涯のパートナーとなる無政府主義の大杉栄との出会い、波乱万丈の人生をさらに開花させようとした矢先に関東大震災が起こる。そして混乱のさなか、理不尽な暴力が彼女を襲うこととなる……。
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令和2年(2020)に刊行された村山由佳氏の長編小説『風よ あらしよ』を原作に、一昨年、NHK BSプレミアムさん(当時)で放映された全3回のドラマを再編、「劇場版」として公開するものです。

村山氏の原作には登場する光太郎と智恵子、残念ながら登場しませんが、智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)が重要なモチーフとして繰り返し使われています。
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松下奈緒さん扮する平塚らいてうや、永山瑛太さんの大杉栄はじめ、登場人物の中には光太郎智恵子と交流のあった人々も多数。
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主役の伊藤野枝を演じられたのは、今年の大河ドラマ「光る君へ」で「まひろ」こと紫式部を熱演されている吉高由里子さん。吉高さんといえば、当方、光太郎とも面識のあったと思われる村岡花子を演じられた「花子とアン」の印象が非常に強いのですが、紫式部、伊藤野枝、村岡花子と、時代背景は違えど、共通する情熱やしたたかさを持ったある種たくましくもたおやかな部分もあり、なおかつ悪く云えば生意気な女性のイメージですね。吉高さんはこうした女性を演じられたら一級品ということでしょう。

ちなみに「光る君へ」で、大河史上、一、二を争うゲス野郎ともいえる藤原道兼を演じられている玉置玲央さん、「風よ あらしよ」では逆に大杉率いるアナーキスト一派の「良心」ともいうべき村木源次郎役です。当初は「源兄(げんにい)」と呼ばれ、子供たちにも慕われていた村木ですが、大杉・野枝夫妻の没後には大杉の「ああいう奴がほんもののテロリストになる」という予言の通りになっていきます。時間軸としてそのあたりまでは描かれないのですが。

というわけで、「風よ あらしよ 劇場版」、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

本当に辻潤と四人で一度でものまなかつたのが心残りです。辻潤の江戸ツ子気質の性根から来てゐる行動の末々を本当に分つてゐる人は少ないでせう。


昭和21年(1946)8月1日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

光太郎は野枝の最初の夫、辻潤とも交流がありました。

大正13年(1924)刊行の陶山篤太郎詩集『銅牌』の序文を光太郎が書き、英訳を辻が手がけています。また、昭和14年(1939)に刊行された西山勇太郎詩集『低人雜記』では、光太郎が題字を、辻が序文を担当しました。後の西山宛の光太郎書簡には辻の名が頻出します。また、昭和29年(1954)に刊行された『辻潤集』全二巻の編集委員には、光太郎も名を連ねました。

西山は辻と交流の深かった詩人です。光太郎はこの頃、西山の主宰していた雑誌に、戦時中に餓死した辻の追悼文を依頼され、乗り気だったのですが、結局実現しなかったようです。それが書かれていればもう少し詳しく辻と光太郎の関係性が分かったところですが。

「四人」は光太郎、辻、西山、もう一人はおそらく西山や光太郎と親しかった風間光作と思われます。

ちなみに辻潤、「風よ あらしよ」では稲垣吾郎さん。登場当初はりりしく颯爽としていましたが、次第にダメ男ぶりを遺憾なく発揮していきます。
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購入しようかするまいか迷ったのですが、結局、買ってしまいました。帯に光太郎の名を印刷されてしまいましたので(笑)。

大作家でも口はすべる 文豪の本音・失言・暴言集

2024年1月22日 彩図社文芸部編 彩図社 定価1,300円+税

 本書は、作家たちの本音や失言、暴言を集めたアンソロジーです。名作を生み出し、歴史に名を残した作家といえども、言葉選びを誤ることもしばしば。むしろ、必要以上に周囲を巻き込み、世間を騒がす問題に発展することもありました。
 師匠である佐藤春夫や井伏鱒二を作品内で皮肉って、大叱責を受けた太宰治。こき下ろした作家の弟子から決闘を申し込まれた、坂口安吾。雑誌の後記で、原稿料や各号の売れ行き、もうけの有無まで公開し続けた菊池寛。新聞社入社にあたり、教師時代の不満を新聞紙面にぶちまけた夏目漱石。「好きな人の夫になれないなら豚になる」と友人に漏らした、若き日の谷崎潤一郎……。
 収録したのは、明治から昭和にかけて活躍した、誰もが知る大作家の逸話。問題発言を含む随筆や手紙、日記、知人らの回想文などから、作家たちの言動を探りました。大作家による、人間味あふれるぶっ飛び発言の数々。楽しんで読んでいただけると、うれしく思います。
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[目次]
 はじめに
 第一章 口がすべって大目玉をくらう
  一、佐藤春夫を皮肉って大目玉をくらう太宰治
  二、井伏鱒二を怒らせて平身低頭の太宰治
  三、兄を呆れさせて恐縮する太宰治
 第二章 酒が入ってうっかり失言
  一、酔ってついつい暴言が出る中原中也
  二、坂口安吾の破天荒な飲みっぷり
  三、酒癖が悪すぎて顰蹙を買いまくる漱石の弟子
  四、高村光太郎、酔ったせいか森鷗外を怒らせる
 第三章 原稿をめぐるいざこざ
  一、編集者と作家の攻防
  二、文芸の商業化に苦言を呈する佐藤春夫
  三、作家兼編集者たちの驚きの言動
 第四章 愚痴や文句が喧嘩に発展
  一、漱石の愚痴と癇癪
  二、夏目漱石対自然主義作家たち
  三、同業者をこき下ろす作家たち
  四、菊池寛に企画をパクられたと怒る北原白秋
 第五章 性愛がらみの問題発言
  一、谷崎潤一郎の自由過ぎる性愛
  二、軽はずみな発言を連発する芥川龍之介
  三、遊びのつもりが痛い目に合う石川啄木
 引用出典・参考文献

解説が長々書いてあるわけではなく、作家本人の作を抜粋で並べたいわゆるアンソロジーです。

光太郎に関しては、大正6年(1917)の「軍服着せれば鷗外だ事件」。明治30年代(1900年前後)、光太郎が東京美術学校在学中に美学の講師として同校の教壇に立ち、その頃から権威的な態度に反発心を抱いていた鷗外のことを、鷗外の居ない酒の席で茶化したというものです。いつの時代にもそういうことをチクる奴はいるもので、それが鷗外の耳に入り、鷗外激怒(笑)、光太郎を呼びつけて説教という流れです。

引用されているのはこの件に触れた、鷗外の「観潮楼閑話」二篇と、昭和13年(1938)に光太郎が川路柳虹と行った対談「鷗外先生の思出」の一節です。

一昨年、文京区立森鷗外記念館さんで開催された特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」の際には、鷗外に呼びつけられる前に光太郎が鷗外に宛てた新発見の書簡が展示されました。これも収録されていれば完璧でしたが、さすがにそこまでは手が廻らなかったようです。

他の「文豪」たちのクズっぷりもなかなか笑えます。そうかと思うと「いやいや、この発言はもっともだ」というものもあったりです。人間味溢れるこうしたエピソードに触れることで、彼らがより身近に感じられるのではないでしょうか。

ご興味おありの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

草野心平君が歴程社といふ書房を始め、小生の「猛獣篇」を一冊として出したいといつて来ました。これは草野君のこと故承諾する気です。


昭和21年(1946)7月6日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

中国から無事帰還した当会の祖・草野心平。早速、出版に情熱を燃やしていました。連作詩「猛獣篇」を一冊にまとめるという構想は戦前からありましたし、この書簡にあるように戦後にも持ち上がったのですが、結局実現したのは光太郎存命中ではなく、没後の昭和37年(1962)でした。

光太郎の名が出た新聞記事を2件。

まずは昨日の『千葉日報』さん。銚子市ジオパーク・芸術センターさんで開催中の「ぎょうけい館資料展」の紹介です。

伊藤博文ら著名人も訪れる 閉館の老舗宿、歩みに光 銚子「ぎょうけい館」30点展示で回顧

 明治期に創業し、1月末に閉館した銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」の歩みを紹介する企画展が、市ジオパーク・芸術センターで17日まで開かれている。昔の写真や館内に飾られていた美術品など約30点を展示している。
 展示などによると、海に臨む旅館からの絶景は多くの人々を魅了。伊藤博文や島崎藤村、国木田独歩、高村光太郎ら著名人も訪れたという。企画展は、閉館後に同旅館から市に寄贈された資料を活用した。
 大正から昭和に全国各地の鳥瞰(ちょうかん)図を手がけた吉田初三郎の作品「銚子遊覧交通名勝鳥瞰図」は、かつて館内の食堂や受付に飾られた。同旅館と犬吠埼灯台を含む名所や街並みが描かれている。
 旅館の外観写真展示では、明治後期の趣ある日本家屋風から平成以降の白い建物に至る変遷をたどれる。パンフレットや、ゆかりの文人の作品も紹介している。
 我孫子市から夫と来場した田口美由紀さん(65)は同旅館を繰り返し訪れていたといい「海の景色がきれいで料理もおいしいし、温かいスタッフばかりだった。飾ってあったものも見られて懐かしい」と話した。
 観覧無料、午前9時~午後5時。問い合わせは銚子資産活用協議会事務局(市教委文化財・ジオパーク室)(電話)0479(21)6662。
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同展、会期が明日まででして、もう少し早く紹介してくれれば良かったのに、という感じではありますが……。

続いて『朝日新聞』さん、12月13日(水)夕刊。

目立つ「本格」、刑事と挑む謎解き ミステリー小説ランキング、紹介

 年末の風物詩、ミステリー小説のランキングが出そろった。主なランキング(「週刊文春ミステリーベスト10」「このミステリーがすごい!」「本格ミステリ・ベスト10」「ミステリが読みたい!」)の上位作品には、謎解きプロセスの純度が高い「本格」作品が目立つ。
 文春、このミス、ミス読み1位、本ミス2位と圧倒的な支持を集めたのが米澤穂信「可燃物」(文藝春秋)。群馬県警捜査第一課の葛(かつら)警部を探偵役にした五つの事件が並ぶ。意外な凶器を扱った「崖の下」に始まり、動機探しや犯人当てなど、一編ごとに異なる趣向を施した謎解きのショーケース。著者初の警察ミステリーとのふれこみだが、組織内部のさや当てを描くような警察小説ではない。現実の捜査機関を使い、わかりやすく手がかりを提示することで、読み手に純粋な知恵比べを挑む。超常現象や未来技術を使った特殊設定ミステリーへの一つの回答とも言えよう。
 文春2位の東野圭吾「あなたが誰かを殺した」(講談社)も刑事が探偵役。ガリレオと並ぶ人気シリーズ探偵、加賀恭一郎ものの新作は別荘地で起きた一夜の連続殺人に始まる。犯人はすぐに逮捕されるが詳細を黙秘。被害者遺族が真相解明のために開いた会合に立会人として参加した加賀は、生存者の証言を一つひとつ検証していく。遺族それぞれが抱える秘密を小さな矛盾からあらわにし、事件の全容に迫っていくプロセスが鮮やかだ。
 一方、このミス2位、百鬼夜行シリーズ17年ぶりの長編となる京極夏彦「鵼(ぬえ)の碑(いしぶみ)」(講談社)は日光を主舞台に、「姑獲鳥の夏」からの面々が関わる五つの物語が並走する。とらえどころのない鵼そのままにもつれあう展開は、まさに本格ものの土台を揺さぶるアンチ・ミステリー。読み手を謎迷宮に誘う。
 ベテラン勢が上位を占めるなか、ロジックの大伽藍(がらん)を築いて本ミス1位となったのが鬼才、白井智之の「エレファントヘッド」(KADOKAWA)。精神科医が謎の薬を手にしたことで幸福な家族に悲劇が起きるのだが、猟奇的な不可能犯罪の連打、薬に端を発するぶっとんだ特殊設定、そこから生み出される多重推理を経ての合理的解決まで、冒頭から1行たりとも読み飛ばせない。持ち味のグロさ満載なのに、なんと美しい本格ミステリーなのかとため息をつく。
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 気鋭でいえば、文春、このミス2位の井上真偽「アリアドネの声」(幻冬舎)も収穫。大地震により地下5階に取り残された「見えない、聞こえない、話せない」女性を地上へと救出するタイムリミット・サスペンス。手に汗握る展開と、ラストの衝撃が心に残る。
 このミス、本ミス10位の荒木あかね「ちぎれた鎖と光の切れ端」(講談社)は昨年の江戸川乱歩賞受賞者の新作。クリスティの二つの有名作品へのオマージュを二部構成で展開する。前半は孤島ものの本格ミステリー、後半は連続殺人をめぐるサスペンスでありながら、共通する謎に別解を提示する意欲的な作りになっている。
 本格好きの記者のベストは白井作品だが、偏愛の一冊が柳川一「三人書房」(東京創元社)。江戸川乱歩になる前の平井太郎が、周りで起きた不思議な事件の数々を解き明かす。同時代を生きた宮沢賢治、宮武外骨、高村光太郎ら著名人の登場も楽しい。「二銭銅貨」発表から百年の節目にふさわしい、乱歩ファン必読の連作短編集だ。

残念ながら各種ランキング上位には漏れたようですが、柳川一氏『三人書房』を番外編として紹介して下さいました。
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記事には「乱歩ファン必読」とありますが、光太郎ファンも必読ですのでよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

山小屋周囲積雪すでに三尺平均に及び、郵便屋さんも時々休みます。いよいよ冬籠りです。燈火なきため夜間執筆は不能です。蠟燭入手さへ困難な状態ですから。 夜は柴を焚いて暖と光とをとります。


昭和20年(1945)12月28日 竹之内静雄宛書簡より 光太郎63歳

激動の昭和20年(1945)も、こうして暮れて行きました。

新聞記事から2件ご紹介します。

まず、光太郎も登場する小説、柳川一氏の『三人書房』書評。今月初めの『読売新聞』さんから。

『三人書房』柳川一著  乱歩謎解き 賢治・大観ら鍵 評・金子拓(歴史学者・東京大教授)

 今年は江戸川乱歩が大正12年に「二銭銅貨」でデビューして100年という節目の年である。乱歩こと平井太郎は、デビュー前の大正8年2月から翌年10月にかけ、二人の弟と「三人書房」なる古本屋を営んでいた。自製のスクラップブック『 貼雑はりまぜ 年譜』によれば、店は本郷区駒込林町の団子坂上にあった。
 本書の書名にもなっている表題作「三人書房」は、そこに持ちこまれたある謎を解く物語であり、語り手はこの店に身を寄せていた乱歩の友人井上勝喜である。 本篇ほんぺん により作者はミステリーズ!新人賞を受賞した。本書にはその続篇4篇が併録され、いわゆる連作短篇集の体裁になっている。続篇のうち3篇が書き下ろしであり、すべて語り手が異なるという工夫がなされている。
 二作目の「北の詩人からの手紙」には宮沢賢治が謎解きの重要人物として登場する。『新校本 宮澤賢治全集』第十六巻下によると、賢治は大正7年から翌年3月まで妹トシの看病のため在京しているから、三人書房開業とかろうじて重なる。乱歩と賢治に接点があったかも、という設定にワクワクする。
 それだけでない。有名どころでいえば、宮武外骨や横山大観、高村光太郎も登場する。大観が語り手の一人となる一篇「秘仏堂幻影」は、デビュー直後の大正12年が舞台である。153 頁ページ からページをめくった瞬間、そうか、と驚かされた。この年は乱歩にとってだけでなく、大観にとっても重要な年であったわけか。
 あの謎や、登場人物のあの行動が、乱歩ののちの作品にこうつながってくるという仕掛けも巧妙で、語り口も乱歩のそれを強く意識しているとおぼしく、大正の雰囲気がただよう。本書は物騒な謎というより日常の謎に近い謎解きの物語であるが、そんな謎に 嬉々きき としてたわむれる乱歩の姿が 頬笑ほほえ ましい。その兄の姿を羨望のまなざしで見つめる二人の弟。次弟通は平井蒼太の筆名で小説を書いたことでも知られる。二人のことをもう少し知りたい人には、鮎川哲也の名著『幻の探偵作家を求めて』を薦めたい。(東京創元社、1870円)

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もう1件、過日、ちらっとご紹介しましたが、『福島民報』さんから。

創作に励み切磋琢磨 福島県いわき市の東日大昌平高文芸部 県文学賞入賞、活躍続く

 いわき市の東日大昌平高文芸部が近年、県文学賞で入賞を果たすなど目覚ましい活躍を遂げている。現在部員5人が在籍し、今年で顧問17年目を迎える斎藤久子教諭と切磋琢磨(せっさたくま)しながら短歌や俳句の創作に打ち込む。
 2000(平成12)年の開校とともに創部した。部員に短歌や俳句、小説などの指導をしながら斎藤教諭も創作をする。
 県文学賞では、2020(令和2)の第73回で当時の3年生が短歌部門で青少年奨励賞、2021年の第74回で斎藤教諭が短歌部門で準賞、昨年の第75回で仁田かのんさん(2年、当時1年)が短歌部門で青少年奨励賞をそれぞれ受賞。今年の第76回では猪狩冴空さん(2年)が詩部門、根本悠平さん(3年)が俳句部門でそれぞれ青少年奨励賞に輝き、同部としては4年連続入賞を果たした。
 県高校文芸コンクールでの活躍も顕著で、猪狩さんは今年の散文、短歌の両部門で優秀賞を受け、短歌部門で来年の全国高校総合文化祭への出場が内定している。
 創作に向かう感性を磨こうと、部員は市内外の美術館や偉人の生家での研修にも励む。二本松市出身の洋画家・高村智恵子の生家では「智恵子抄」を朗読したり、「レモン哀歌」にちなんで実際にレモンをかじったりして作品の世界に触れた。斎藤教諭は「現場に行かなければ分からないことがある。実体験を大事にしている」と話す。
 現在、部員は来年3月に発行する部誌「閃光」の編集作業を進めている。今後の活動について仁田さんは「さまざまなジャンルに挑戦し、うまく言語化できるようにしたい」、渡辺紗月さん(1年)は「多くの人に読んでもらえるような作品を作りたい」と目標を語った。
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高校の文芸部というと、過日、このブログで岩手県立花巻南高等学校文芸部さんについてご紹介しましたが、こちらは智恵子の故郷・福島県。ただし、同県の地区区分は沿岸部が「浜通り」、山間部が「会津」、その中間が智恵子の生まれた二本松を含む「中通り」で、記事にある東日本国際大学附属昌平高さんは「浜通り」のいわき市にあります。いわきと云えば、当会の祖・草野心平の出身地。そこで、記事にある「部員は市内外の美術館や偉人の生家での研修にも励む」とある中には心平生家も含まれているのかな、と思います。

それが浜通りの智恵子生家まで足を運んで下さり、「「智恵子抄」を朗読したり、「レモン哀歌」にちなんで実際にレモンをかじったりして作品の世界に触れ」て下さったそうで、すばらしいですね。顧問の先生の「現場に行かなければ分からないことがある。実体験を大事にしている」というお言葉に全てが集約されているような気もします。

今後ともさらなるご活躍を、と祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

子供等を何とかして純粋に聡明に育てなければ日本の今後があやぶまれます。又昔の状態に逆戻りするのでは情けない事ですから是非とも心ある者の努力が必要です。

昭和20年(1945)9月12日 水野葉舟宛書簡より 光太郎63歳

終戦から約1ヶ月、少しずつ「戦争」への省察が始まっています。やがてその矛先が自らの戦争責任へと向かっていき、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)などに繋がります。

で、「子供等を何とかして純粋に聡明に育てなければ日本の今後があやぶまれます」。戦前からそういう考えはありましたが、特に戦後は具体的な行動でそれを実現しようともしていきます。この後移住する旧太田村の山小屋では、近くの山口分教場(のちに山口小学校)や太田中学校、盛岡だと県立美術工芸学校や生活学校(現・盛岡スコーレ高校さん)などにたびたび通い、若い世代へのエールを送り続けました。

作家の伊集院静氏が亡くなりました。

共同通信さん配信記事。

伊集院静さんが死去 作家、エッセー「大人の流儀」

002 「機関車先生」などの小説やエッセー「大人の流儀」シリーズで人気の作家の伊集院静(いじゅういん・しずか、本名西山忠来=にしやま・ただき)さんが24日死去した。73歳。山口県出身。告別式は近親者で行う。肝内胆管がんのため治療中だった。
 プロ野球選手を目指したが、肘を痛めて立教大の野球部を退部。卒業後は広告代理店勤務を経てフリーの演出家に。多くのテレビCMに関わり松任谷由実さん、松田聖子さんのコンサートを演出。「伊達歩」名義で近藤真彦さんの「ギンギラギンにさりげなく」「愚か者」など歌謡曲の作詞も手がけた。
 1981年に短編小説「皐月」で作家デビュー、92年に「受け月」で直木賞を受けた。「機関車先生」で柴田錬三郎賞、直木賞の選考委員も務めた。エッセーも人気で、2011年の「大人の流儀」に始まるシリーズは、ベストセラーとなった。16年紫綬褒章。
 芸能界やスポーツ界、経済界の著名人らと交友した。1984年に結婚した俳優の夏目雅子さんが翌年急死。92年に俳優の篠ひろ子さんと結婚した。

同じく時事通信さん。

伊集院静さん死去 「大人の流儀」直木賞作家、73歳

003 エッセー「大人の流儀」シリーズなどで知られる直木賞作家の伊集院静(いじゅういん・しずか、本名西山忠来=にしやま・ただき)さんが24日、死去した。
 73歳だった。葬儀は近親者で行う。10月に肝内胆管がんを公表し、治療のため執筆活動を休止していた。
 山口県防府市出身。立教大文学部を卒業後、広告代理店を経てCMディレクターとして活動した。1981年、小説「皐月(さつき)」で作家デビュー。91年に「乳房」で吉川英治文学新人賞、92年に「受け月」で直木賞、94年に「機関車先生」で柴田錬三郎賞を受賞した。「乳房」や「機関車先生」などは映画化もされた。
 自由な生きざまや文学観から「無頼派作家」とも呼ばれた。豊かな人生経験を基にした「大人の流儀」シリーズは2011年以降、コンスタントに刊行され、累計200万部を超えるベストセラーとなった。
 作詞家としても活躍し、歌手の近藤真彦さんが歌った「ギンギラギンにさりげなく」などがヒット。近藤さんの「愚か者」は87年に日本レコード大賞を受賞した。16年に紫綬褒章受章。
 私生活では、84年に俳優の夏目雅子さんと結婚したが、夏目さんは白血病で翌年死去。92年に俳優の篠ひろ子さんと再婚した。

伊集院氏、平成26年(2014)には書道に関する『文藝春秋』さんの連載、「文字に美はありや」で光太郎の書について取り上げて下さいました。

木彫「白文鳥」(昭和6年=1931)を収めるための袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌、詩「道程」(大正3年=1914)の鉛筆書きと見られる草稿が取り上げられています。また、光太郎の書論「書について」(昭和14年=1939)も紹介されています。
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その後、連載まとめてを単行本化したものが平成30年(2018)に文藝春秋さんから刊行。令和2年(2020)には文庫化も為されました。
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通常、雑誌連載の単行本化の際には加筆がなされるものですが、光太郎の章では逆に連載時の最後の一文がカットされています。曰く「智恵子への恋慕と彼の書についてはいずれ詳しく紹介したい。」それが果たされなかったようで、何とも残念です。

また、小説『イザベルに薔薇を』(ハードカバー・平成30年=2018、文庫・令和2年=2020、いずれも双葉社さん刊)では、詩「道程」(大正3年=1914)を引用して下さっています。
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ご自身の体験等踏まえられたと思われる、ギャンブラー的な破天荒な若者を主人公とした小説です。

詳しく調べれば他にもあるかもしれません。

謹んでご冥福をお祈りします。

【折々のことば・光太郎】

よほど縁があると見えて又花巻で焼かれました。八月十日ひる。花巻町に空襲あり、火災発生。町の重要部分被爆。宮沢氏邸も全焼。従つて小生も罹災。荷物半分ほど焼失を免る。目下元中学校長先生佐藤昌氏邸に避難。絶景一望の一室に起居す。


昭和20年(1945)8月19日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

その直前には広島、長崎への原爆投下もありましたし、光太郎が疎開していた岩手花巻では、終戦5日前に空襲。光太郎がかつて紀行文「三陸廻り」執筆のため訪れた女川気仙沼、宮古でも同じ日に空襲がありましたし、前日にはやはり「三陸廻り」に描かれた釜石は空襲プラス艦砲射撃で壊滅状態でした。

10日の花巻空襲の際には、光太郎と縁の深かった花巻病院長佐藤隆房らが負傷者の救護に奔走。光太郎はその敢闘をたたえ、詩「非常の時」を贈りました。

新刊です。

三人書房

2023年7月28日 柳川一著 東京創元社 定価1,700円+税

 大正八年東京・本郷区駒込団子坂、平井太郎は弟二人とともに《三人書房》という古書店を開く。二年に満たない、わずかな期間で閉業を余儀なくされたが、店には松井須磨子の遺書らしい手紙をはじめ、奇妙な謎が次々と持ち込まれた──。同時代を生きた、宮沢賢治や宮武外骨、横山大観、高村光太郎たちとの交流と不可解な事件の数々を、若き日の平井太郎=江戸川乱歩の姿を通じて描く。第十八回ミステリーズ!新人賞受賞作「三人書房」を含む連作集。
 乱歩デビュー作「二銭銅貨」発表から百年の年に贈る、滋味深いミステリ。

目次
 「三人書房」
 「北の詩人からの手紙」
 「謎の娘師(むすめし)」
 「秘仏堂幻影」
 「光太郎の〈首〉」
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というわけで、若き日の江戸川乱歩の元に持ち込まれた謎の数々を、快刀乱麻を断つ如く(死語ですね(笑))、博覧強記頭脳明晰で行動力にも富む乱歩が次々と解決していく、という連作推理小説です。

全五話から成り、それぞれに語り手が交代。乱歩の友人だったり、弟たちだったり……。ちなみにタイトルの「三人書房」は、乱歩が二人の弟と共に一時期経営していた古書店の屋号です。

そして最終話「光太郎の〈首〉」では、光太郎が語り手。戦後の七年間、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で、光太郎がやはり乱歩によって真相の解明された昭和初期の奇妙な事件を回想するという形です。

奇妙な事件というのは、光太郎が作ったブロンズの胸像が依頼主の元から盗難に遭い、さらに無残に破壊されて見つかるということがたてつづけに起こり……というもの(架空の話ですが)。イタズラや怨恨や金目当てなどではなく、犯人には、光太郎彫刻を破壊しなければならない切羽詰まった事情があって……という設定ですが、詳しくはお買い求めの上、お楽しみ下さい。

ちなみに乱歩の代表作の一つ「D坂の殺人事件」の「D坂」は、かつて「三人書房」があり、さらに光太郎アトリエ兼住居にも近い団子坂です。『高村光太郎全集』には乱歩の名はありませんが、近くに住んでいた同士、顔を合わせたことくらいはあったでしょう。

その他、内容説明欄にある通り、宮澤賢治(第二話の章題にある「北の詩人」)、宮武外骨、横山大観らが登場。さらに物故者として松井須磨子や葛飾北斎、その娘お栄(応為)、岡倉天心、そして智恵子らにも触れられます。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

おてがみありがたく存じました、又先日は届書の事にていろいろ御世話さまになりましたが、昨日区役所へ無事に届済みとなりました。今晩小生等は二本松へ出発いたします、お墓まゐりを致した上どこかの温泉にてしばらく静養いたしてまゐります、

昭和8年(1933)8月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

」は婚姻届。永らく事実婚だった光太郎智恵子でしたが、ついに届けを出しました。智恵子の心の病が昂進し、光太郎は結核。万が一、先に自分が死ぬことがあったら、法律上、妻ではない智恵子に相続の権利がないことを考慮し、正式な夫婦となりました。

光太郎自身には財産と呼べるものはほとんどなかったのですが、この頃まだ健在だった父・光雲が没すれば、相当額の遺産が入ることが予想され(実際、翌年に光雲が亡くなり、相続した遺産が後の智恵子のゼームス坂病院入院費用に宛てられます)、それをふいにしたくないという……。

ただし、夢幻界の住人となってしまっていた智恵子に、その意味が理解できたかどうか……。

どこかの温泉」は、巡った順に、裏磐梯川上温泉、蔵王青根温泉不動湯温泉塩原温泉でした。

岩手日報社さん発行の文芸誌『北の文学』。最新号が先月末に出まして、「出たら一冊送って下さい」と、花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんの方にお願いしておきましたところ、届きました。多謝。

北の文学 第86号

2023年5月27日 岩手日報社 定価1,100円+税

 『北の文学』は岩手日報社が発行する新人発掘・育成のための文芸誌です。第86号は応募作品から選ばれた小説部門の優秀作と入選それぞれ2編を収録。巻頭コラムはデビュー作「家庭用安心坑夫」が第168回芥川賞候補になり、一躍注目を集めた小砂川チトさん(盛岡市出身)が登場しています。
 日上秀之さん(宮古市出身)の特別寄稿小説「溺生(できせい)」や早坂大輔さん(盛岡市・書店BOOKNERD)と、くどうれいんさん(盛岡市出身)の対談も掲載。これまで以上に充実した内容となっています。
 小説部門の優秀作に選ばれたのは瀬緒瀧世(せお・たきよ)さん=宮城県在住、花巻市ゆかり=の「fantome(ファントーメ)」と、谷村行海(ゆきみ)さんの「どこよりも深い黒」。瀬緒さんは初応募での受賞です。谷村さんは過去7回入選を重ね、11度目の応募で優秀作をつかみました。

■主な内容
・巻頭コラム 小砂川チト「罪やかなしみでさへ、そこでは」
・特別寄稿小説 日上秀之「溺生」
・特集・対談 早坂大輔×くどうれいん 「行くべき街」盛岡
・第86号小説部門優秀作
 瀬緒瀧世「fantome(ファントーメ)」 / 谷村行海「どこよりも深い黒」
・小説部門入選作
 森葉竜太「トマト祭り」 / 咲井田容子「卯年炭」
・第86号選考経過・選評
・寄稿・文芸評論 春日川諭子「においの描写から考える『悲の器』の女性像」
・俳句 兼平玲子「世界で二番目の街」/  川柳 澤瀬海山「天動説」/  エッセー 4編
・85号合評会から
・投稿 あの日あの時7編
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同誌、年2回の発行で、毎号、作品の公募を行っているそうです。
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「小説・戯曲・文芸評論」の3部門だそうですが、小説の応募が大多数。今号では応募総数27篇で、内訳は小説21篇、戯曲と文芸評論が3篇ずつ。各部門で優秀作を選ぶわけではなく、3部門を通観して優秀作を選ぶ形で、今回の受賞(優秀作2篇、入選2篇)はすべて小説でした。どうもこのところ小説のみ選ばれているようです。

受賞作決定の際の『岩手日報』さん記事はこちら

で、優秀作の一つ、瀬緒瀧世氏の「fantome(ファントーメ)」。昭和20年代前半の花巻と郊外旧太田村を舞台とし、光太郎も登場します。タイトルの「fantome」はエスペラント語だそうで、英語の「fantome(ファントム)」からの派生でしょうが、名詞ではなく形容詞のようです(あえて細かな訳は載せません)。

主人公である10歳の少女・シズ江は、他の人間には見えぬそこにいるはずのない人が見え、さらに会話もできるという特殊能力の持ち主。そこで、「fantome」です。ちなみにその力のない普通人も、シズ江と手をつなげば同じことができるという設定です。

シズ江はその力で、光太郎の山小屋で「蒼白い顔をした女」と、花巻まつりの夜に花巻上町通りで「季節外れの黒いコートを着た男」を見、会話をします。そしてシズ江と手を繋いだ光太郎も……。光太郎ファンの皆様には、それぞれ誰なのか、言わずもがなでしょうね。

選評に次のようにありました。

高村光太郎との交流を、村に住む少女の視点から描いた幻想的な物語。史実に基づくエピソードを織り交ぜ、詩情豊かに表現した。

たしかに「幻想的」。一歩間違えば「荒唐無稽」に陥るところですが、その一歩を間違っていません。ただし、一点、史実と異なるところがあり(一昨年刊行されたある書籍に同じ誤りがあり、どうもその書籍を参考にされてしまったようで)ますが、いたしかたありますまい。

当方、いただいてしまいましたが、オンラインでの購入も可能です(最上部リンク参照)。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜銀座の辻村農園にてダリアの球根を選び荷造を叮嚀にして直接農園より御送附いたすやう依頼致し候 球には皆それぞれ名称を附するやうたのみ置き候

大正9年(1920)4月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎38歳

明治期創業の「辻村農園」は神奈川県小田原市にあり、この頃、東京にも売店を設けていました。そこで買い求めたダリアの球根を、福島の智恵子の実家に送りました。福島では珍しい花で、近隣の人々が長沼家の庭にずいぶんと見に来たそうです。

まずは昨日の『福井新聞』さん。

【論説】津村さん原稿、県に寄贈 代表作が持つ圧倒的な力

 福井市出身の芥川賞作家で文化功労者の津村節子さん(94)の製本手書き原稿6点が福井県ふるさと文学館に寄贈された。自伝的小説、伝記小説、歴史小説と多岐にわたり、いずれも代表作。文学賞受賞作も含まれる。万年筆の手書きには力があり、推敲(すいこう)の様子が手に取るように分かる。加筆修正が重ねられた原稿は、作家が世に問おうとした思いの結実であり気迫が伝わってくる。
 6点は、高村智恵子の伝記小説で芸術選奨文部大臣賞を受賞した「智恵子飛ぶ」、戊辰戦争を会津藩士の娘の視点から描いた歴史小説で女流文学賞受賞の「流星雨」、自伝的小説3部作の「茜色の戦記」「星祭りの町」「瑠璃色の石」と、八丈島に流刑された遊女を描いた歴史小説「黒い潮」。県ふるさと文学館で開催中の「新収蔵 津村節子展~津村節子という生き方~」(~6月4日)で公開。2015年の同館開館記念特別展に寄せた自筆原稿はじめ約120点の資料が並ぶ。
 「智恵子飛ぶ」は、画家として活躍した智恵子が彫刻家・高村光太郎と出会い、結婚後は夫の圧倒的な才能に押しつぶされていく芸術家夫婦の葛藤を描いた。吉村昭さん(1927~2006年)と夫婦作家であった津村さんは、光太郎という天才と暮らす智恵子の心情を推し量ることができたのだろう。夫というライバルに対して智恵子が抱えた羨望(せんぼう)や屈辱といった感情のせめぎ合いが圧倒的な熱量をもって表現される。自筆原稿はほぼ全編を通して加筆修正され、智恵子が死に向かう終盤はより修正が多くなる。物語をどう結ぶか、津村さんが考え抜いた様子がうかがえる。
 津村さんにはふるさと5部作といわれる福井の女性を主人公にした作品「炎の舞い」「遅咲きの梅」「白百合の崖」「花がたみ」「絹扇」がある。「遅咲きの梅」と「花がたみ」(越前市所蔵)以外は、県が自筆原稿を所蔵。ふるさとを丹念に取材した5部作を津村文学として親しんでいる県民は多いだろう。代表作の自筆原稿が県に寄贈されたのを機に、改めて6作品に向き合いたい。
 半世紀以上、第一線で執筆を続ける津村さんは非常に限られた作家だ。20代のころから作家を「いのちをかける仕事」と語ってきた。6作品はどれも、懸命に生きる女性の姿に光を当てている。心の内を丁寧にすくい上げた物語は強い力を持って読み手を引きつける。津村さんが命をかけて世に出した作品世界をいま一度味わいたい。

福井県ふるさと文学館さんに、『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)のそれを含む津村氏自筆原稿等が寄贈され、展示されているとのこと。まったく存じませんで、調べてみましたところ、先月から始まっていました。

コレクション展 新収蔵 津村節子展 津村節子という生き方

期 日 : 2023年3月1日(水)~6月4日(日)
会 場 : 福井県ふるさと文学館 福井県福井市下馬町51-11
時 間 : 平日 9:00~19:00 土・日・祝 9:00~18:00
休 館 : 月曜日 4月11日(火)~4月14日(金) 5月25日(木)
料 金 : 無料

 津村節子は、1928年福井市に生まれました。1965年に小説「玩具」で芥川賞受賞を機に福井を訪れた津村は、『花がたみ』『絹扇』などで故郷・福井の女性を描きました。その後も、夫の死と向き合った『紅梅』で2011年に菊池寛賞を受賞。2016年には文化功労者に顕彰されています。
 このたび、当館は、津村節子氏の代表作である『流星雨』(女流文学賞受賞作)や『智恵子飛ぶ』(芸術選奨文部大臣賞受賞作)など自筆原稿6点をご寄贈いただきました。本展では、新収蔵資料を中心に、半世紀以上にわたり、書くことに向き合い続ける作家・津村節子の軌跡と作品世界に迫ります。
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『智恵子飛ぶ』の原稿、複製は荒川区の吉村昭記念文学館さんでの「津村節子展 生きること、書くこと」、三鷹図書館さんでの「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展でそれぞれ拝見しましたが、複製でない現物が寄贈され、展示されているのですね。

その他、『智恵子飛ぶ』で第48回芸術選奨文部大臣賞に輝いた際の賞状、二本松市教育委員会さんご提供の智恵子関連のパネル、津村氏旧蔵の光太郎複製原稿なども展示されています。

以前にも書きましたが、故・吉村昭氏との夫婦ご同業ということで、光太郎智恵子夫婦にも通じる余人には伺い知れぬご苦労がいろいろおありで、そのあたりが『智恵子飛ぶ』にも反映されています。

お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

建築は来月の初旬には出来相だ。君の旅行以前に今度の家で一緒に「めし」でも喰ひたいと思つてゐる。今度の家は僕の生活上に一線を画す筈だと思ふ。愈々一人の生活が始められると思つてゐる。


明治45年(1912)5月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

昨日のこの項でも触れましたが、「建築」は駒込林町25番地の住居兼アトリエ。光太郎自身の設計です。ここに移るまでは、指呼の距離にある実家の庭にあった祖父の隠居所を改装してアトリエとしていました。前年12月に智恵子と初めて会ったのもこちらです。

愈々一人の生活が始められる」とありますが、明治43年(1910)末から翌年にかけ、2ヶ月ほど日本橋浜町の松葉館という下宿屋に居たので、その際は独り暮らしだったはずです。ただ、当時の下宿屋では食事は自室で摂るのではなく、下宿人が座敷で一堂に会して饗されるというスタイルのところが多かったため、その意味では純粋な独り暮らしとは言えなかったということでしょうか。

昨年暮れに出た、小説の新刊です。

名探偵の生まれる夜 大正謎百景

2022年12月19日 青柳碧人著 角川書店 定価1,600円+税

歴史的偉業の裏に「事件」あり。文豪たちによる大正浪漫ミステリ。

大正七年の秋、与謝野晶子は大阪で宙に浮かんでいた。夫である鉄幹と共に通天閣の足元に広がる遊園地「ルナパーク」を訪れたものの、夫の言葉に血がのぼり彼を置き去りにひとりでロープウェーに乗ったのだ。電飾まぶしい遊園地を見下ろし、夫婦というものの不確かさを嘆く晶子。そのとき突然ロープウェーが止まり、空中で動かなくなって……。(「夫婦たちの新世界」)

遠野には河童や山男など不思議なものがたくさん潜んでいるという。隣村を目指して朝もやの中を歩いていた花子は、「くらすとでるま…」という不思議な声を聞く。辺りを見回すと、そこには真っ赤な顔の老人がいた。かつて聞いたむかしばなしに出て来る天狗そっくりの老人から逃げ出そうとする花子だったが、今度は黒い頭巾に黒い蓑をまとった怪しい男から「面白い話を聞かせてくれないか」と尋ねられ……。(「遠野はまだ朝もやの中」)
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ほか全8篇。

目次
 カリーの香る探偵譚
 野口英世の娘
 名作の生まれる夜
 都の西北、別れの歌
 夫婦たちの新世界
 渋谷駅の共犯者
 遠野はまだ朝もやの中
 姉さま人形八景

『むかしむかしあるところに、やっぱり死体がありました。』、『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』などがベストセラーとなった、青柳碧人氏の小説です。

8篇のオムニバスで、基本、大正時代が舞台。一部、登場人物がかぶりますが、8篇とも中心になる人物は異なります。

最終章「姉さま人形八景」で、我らが光太郎智恵子が登場します。この章のみ、昭和も舞台としており、光太郎が亡くなった昭和31年(1956)からスタート。ところが言わば倒叙法で、どんどん時代が遡っていきます。そこで、章内のチャプターの番号も「八」から始まり、「七」「六」「五」……と逆転しています。

章題にもなっている一体の古びた「姉さま人形」が、それぞれの想いを乗せて8人(組)の人々の手から手へと受け継がれて来たというストーリーで、最終(物語冒頭)の昭和31年(1956)には放浪の画家・山下清。清は新宿中村屋の相馬黒光から、以下、時計の針がどんどん戻りながら、「姉さま人形」を受け継いだ人々の物語が紡がれます。伊藤野枝有島武郎に波多野秋子、松井須磨子、光太郎智恵子、平塚らいてう尾竹紅吉。らいてうは冒頭に山下清と共に登場しており、最後に伏線回収というわけです。

その他の章でも、光太郎智恵子ゆかりの人物などがずらり。第一章「カリーの香る探偵譚」は、新宿中村屋が舞台の一つで、光太郎の親友だった碌山荻原守衛は既に亡くなっているという設定ですが、守衛を援助していた相馬愛蔵・黒光夫妻が主要登場人物です。第五章「夫婦たちの新世界」には光太郎の師・与謝野夫妻、第七章「遠野はまだ朝もやの中」で宮沢賢治

さらに、中村彝、ラース・ビハーリー・ボース、江戸川乱歩、岩井三郎(明智小五郎のモデル)、野口英世、星一(星新一の父)、芥川龍之介、鈴木三重吉、島村抱月、吉岡信敬、中山晋平、坪内逍遙、松下幸之助、上野英三郎、ハチ公、仕立屋銀次、南方熊楠、柳田国男……なんとも豪華なキャストです。

「大正謎百景」の副題通り、それぞれの章に「謎」や事件が描かれますが、血腥い事件ではないので、よい子の皆様にもお勧めです(笑)。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

奥平さん夕方来る、セキの発作のためねてゐて話せず、ぢきかへる、 夕食ハマグリ等、パン、

昭和31年(1956)3月3日の日記より 光太郎74歳

いよいよ余命1ヶ月となりました。未だ食慾はあるものの、時折、会話が困難となる日もありました。「奥平さん」は親しかった美術史家の奥平英雄です。

平成30年(2018)に初演され、昨年、北海道と岩手で公演があった演劇の都内と兵庫での巡回です。登場人物には光太郎も名を連ねます。

青年団第96回公演『日本文学盛衰史』吉祥寺・伊丹公演

文学とは何か、人はなぜ文学を欲するのか、人には内面というものがあるらしい。そして、それは言葉によって表現ができるものらしい。しかし、私たちは、まだ、その言葉を持っていない。この舞台は、そのことに気がついてしまった明治の若者たちの蒼い恍惚と苦悩を描く青春群像劇である。

高橋源一郎氏の小説『日本文学盛衰史』を下敷きに、日本近代文学の黎明期を、抱腹絶倒のコメディタッチでわかりやすく綴った青春群像劇。初演時に大きな反響を呼び、第22回鶴屋南北戯曲賞を受賞した作品の待望の再演となる。笑いの中に「文学とは何か」「近代とは何か」「文学は青春をかけるに値するものか」といった根本的な命題が浮かび上がる、どの年代でも楽しめるエンタテイメント作品。
[上演時間:約2時間40分(予定)・途中休憩なし]

吉祥寺公演
 期 日 : 2023年1月13日(金)~ 1月30日(月)
 会 場 : 吉祥寺シアター 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-33-22
 時 間 : 1月13日(金) 19:00  1月14日(土) 14:00 1月15日(日) 12:30 18:00
       1月16日(月) 18:30  1月17日(火) 14:00 1月19日(木) 19:00
       1月20日(金) 19:00  1月21日(土) 12:30 18:00  1月22日(日) 14:00
       1月23日(月) 19:00  1月25日(水) 13:30 1月26日(木) 19:00
       1月27日(金) 19:00  1月28日(土) 14:00 1月29日(日) 12:30
       1月30日(月) 13:00
 料 金 : 早割(1/13〜1/15)
        前売・予約 一般:3,500円 26歳以下:2,500円 18歳以下:1,500円
        当日    一般:4,000円 26歳以下:3,000円 18歳以下:2,000円
       通常料金(1/16〜1/30)
        前売・予約 一般:4,000円 26歳以下:3,000円 18歳以下:2,000円
        当日    一般:4,500円 26歳以下:3,500円 18歳以下:2,500円
伊丹公演
 期 日 : 2023年2月2日(木)~2月6日(月)
 会 場 : 伊丹市立演劇ホール  兵庫県伊丹市伊丹2-4-1
 時 間 : 2月2日(木) 18:30  2月3日(金) 18:30  2月4日(土) 12:30 18:00
       2月5日(日) 12:30 18:00  2月6日(月) 14:00
 料 金 : 前売・予約 一般:3,000円 26歳以下:2,000円 18歳以下:1,000円
       当日    一般:3,500円 26歳以下:2,500円 18歳以下:1,500円

原作:高橋源一郎 作・演出:平田オリザ
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脚本の平田オリザ氏へのインタビューから。

 取りあげられている時代は、明治の近代文学の黎明期ですし、そこでは言文一致がキーワードのひとつになっています。そのうえ、新たに生まれた自由民権の思想などが複雑に絡みあって日本の近代文学を展開させていく。その生みの苦しみが描かれていきます。
(略)
 1場が「北村透谷(1868〜1894年)の死」、2場が「正岡子規(1867〜1902年)の死」で葬式を描いているんですけど、ここまでは文学とか日本語の話。井上さんの言葉を借りれば「ひとつの言葉で政治の話もでき、裁判もでき、ラブレターも書け、喧嘩もできるような日本語を作ることが、近代国家にとっては必須のこと」であり、だから、北村透谷も、正岡子規もそうなんですけれど、二葉亭四迷(1864〜1909年)でさえも、反権力ではないんです。みんな日本のためを思ってやっている。要するに、この時期は、近代国家の成立という国家の夢と個人の夢が重なった、古き佳き時代なんです。
 それが徐々に変質していって、最終的に大逆事件があって……だから、幸徳秋水が大事なんですけど……そこに石川啄木が関わって、「夏目漱石(1867〜1916年)の死」で明治という古き佳き時代が終わる。そこまでを直球勝負で書きたいと思って構想しました。
(略)
 最後の4場「夏目漱石の死」(1916年)になると、そのころには本が売れるようになりますから、日本が金持ちになって、大衆が文学を手に取る。円本(1冊1円の全集シリーズ)みたいなものが出てくる。そして文壇が形成されていくわけですね。しかし、それらは最終的には、約20年後、戦争協力というかたちでほとんど破滅するわけですけれども、そこを予感させて終わるという構成になっています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

晴、温、平熱 中西さん宅にて雑煮、桑原さんは見えず、 日向ぼっこ、 后高村武次さん美津枝さんくる、 夕方横臥、 夕食カニ玉、


昭和31年(1956)1月1日の日記から 光太郎74歳

光太郎が4月2日に歿する昭和31年(1956)の年明けです。「中西さん宅」は起居していた貸しアトリエ敷地内の大家さん。「桑原さん」は中西家と親しかった美術史家・桑原住雄、「美津枝さん」は光太郎実弟にして鋳金の人間国宝となる豊周の息女、「高村武次さん」はその夫。のちの岩波映画製作所社長です。たまたま同じ高村姓でした。

この年7月には、政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言しました。朝鮮戦争による特需景気、その後の神武景気を経て、前年のGDPが戦前の水準を上回ったためです。国際的にも日ソ共同宣言が出され、シベリア抑留最後の引き揚げ船が到着、また、日本の国連加盟もありました。こうした年に光太郎が亡くなったというのも、何やら象徴的ですね。

ちなみにこの年の芥川賞は、石原慎太郎の「太陽の季節」。実弟の裕次郎主演で即刻映画化もされました。海外ではエルヴィス・プレスリーが人気を博していました。

共に小説家の故・吉村昭氏と奥様の津村節子氏の偉業を讃え、津村氏の故郷・福井県の福井県ふるさと文学館さんと、吉村氏を顕彰する荒川区吉村昭記念文学館さんが、「おしどり文学館協定」を結んだのが平成29年(2017)。1周年を迎えた平成30年(2018)には、合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されました。その際には津村さん代表作の一つである小説『智恵子飛ぶ』に関する展示も行われました。

今年は5周年ということで、記念イベント等が両館で行われていますが、その一環として福井会場の方で『智恵子飛ぶ』関連の展示が始まります。

特集展示 津村節子「智恵子飛ぶ」~芸術家夫婦を描いて~

期 日 : 2022年12月23日(金)~2023年3月15日(水)
会 場 : 福井県ふるさと文学館タイムリースポット 福井県福井市下馬町51-11
時 間 : 平日 9:00~19:00 土・日・祝 9:00~18:00
休 館 : 月曜日(祝日の場合は翌日) 12月29日(木)~1月3日(火)
料 金 : 無料

平成29年11月5日に、吉村昭記念文学館と福井県ふるさと文学館は、おしどり文学館協定を締結しました。この協定に基づき、展示等を開催します。荒川区とゆかりの深い芸術家夫婦の高村光太郎と高村智恵子の葛藤を描いた津村節子『智恵子飛ぶ』を紹介します。
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小説『智恵子飛ぶ』は平成9年(1997)、講談社さんの刊行。平成12年(2000)には文庫化も為されています。津村氏は同作で芸術選奨文部大臣賞を受賞されました。

智恵子の生涯を描いた長編小説ですが、光太郎智恵子と同じく夫婦同業の芸術家夫妻であった津村氏ならではの視点で、智恵子の苦悩や、苦悩だけでない喜び、しかし刀折れ矢尽きて毀れてしまった智恵子の姿がかくあったろうと思わせられる描写がされています。

やはり平成12年(2000)には、智恵子役・片岡京子さん、光太郎役が故・平幹二郎さんで舞台化(新橋演舞場さん)。翌年の京都公演では、光太郎役は近藤正臣さんでした。

004ついでというと何ですが、つい最近、新橋演舞場さんでの初演の際の台本を入手しました。この手のものは公刊されるわけではなく、スタッフやキャストの皆さんに配られるもの。そこでそれらの方などが売りに出さない限り市場に出回ることはありません。案の定、ちょい役で出演されていた女優さんの名が表紙にうっすらと鉛筆で書き込まれていました。

驚いたのは書き込みの多さ。その女優さん、ご自分の登場シーンのみならず、おそらく同じ事務所の先輩女優さんと思われる方のシーンでもマーカーを引いたり、鉛筆で書き込みをしたりなさっていました。また、稽古の途中でセリフや動きが追加・変更されたり、場面の順番が入れ替わったりということが随分とあったようで、それらの訂正や、追加で配られたと思われるコピーの貼り付けなどもかなりの箇所で為されており、一つの舞台を作り上げるにも並々ならぬ苦労があったんだな、というのが偲ばれました。

ちなみにこの手の台本類、やはり舞台のもの、映画のもの、テレビドラマのもの等々各種取り添えております。展示等で必要な場合にはお声がけ下さい。

閑話休題、福井県ふるさと文学館さんの展示、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

賢治全集推せん文2枚清書、


昭和30年(1955)8月20日の日記より 光太郎73歳

「賢治全集」は筑摩書房版。翌年から刊行が始まりました。光太郎は装幀、題字揮毫も手がけています。

「芸術の秋」が過ぎ、きっぱりと冬が来ました。

思えばこの秋は、光太郎智恵子、光太郎の父・光雲がらみのイベントやコンサート、美術館さん等での展示などがたくさん行われ(展示等でまだ続いているものもありますが)、それらの紹介やレポートなどで毎日てんやわんや(死語ですね(笑))でした。イベント系は期日があるので、ブログで紹介するにもタイミングがありまして……。今月もさまざまなイベント等があり、追々紹介していきますが、ようやく一段落という感じです。

そこで、期日がないため後回しにしてきてしまっていた新刊紹介を、今日から3日間続けます(飛び込みで何もなければ、ですが)。

刊行順に、まず、光雲が登場する小説です。だらだら後回しにしていたら、刊行から3ヶ月経ってしまいました。

猫絵の姫君 戊辰太平記

2022年8月26日 智本光隆著 郁朋社 定価1,500円+税

フランス革命の女戦士マリアンヌのように幕末維新を駆け抜けた新田義貞の末裔・武子姫。やがて鹿鳴館の華になる――。

目次
 序章  黒船の海
 第一章 風吹く大地の姫君
 第二章 密勅
 第三章 新田官軍
 第四章 戊辰無情
 第五章 明治の風景
 第六章 維新の十字架
 第七章 箱館戦争
 終章  鹿鳴館の華

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主人公はのちの井上馨夫人・武子。元勲であった夫とともに、いわゆる鹿鳴館外交を担った女性です。ちなみに鹿鳴館の開館は明治16年(1883)、光太郎が生まれた年です。その鹿鳴館外交については終章で扱われる程度で、メインは武子の少女時代からそこまでの歩み、特に戊辰戦争時です。

武子は上野国の小領主・岩松俊純の娘として生まれました。それが嘉永3年(1850)ですので、同5年(1852)生まれの光雲より2歳年長です。岩松家は鎌倉時代末期の新田義貞の子孫にあたるという触れ込みで、幕末には新田姓に戻し、戊辰戦争時にはいわゆる官軍側にたって「新田官軍」を編成、幼い頃からお転婆(これも死語ですね(笑))だった武子も銃をとって参戦しました。「八重の桜」の山本八重、後の新島八重のようですね。立場は逆ですが。

ところでタイトルの「猫絵」は、まだ平和だった頃、俊純が歳末になると猫の絵を描いて世話になった人々に贈る習慣があり、それを方々に届けるのが武子の役目だったというところから来ています。ちなみに小説の中では、「武」にはほど遠く温厚な人物であった俊純を、武子が「猫絵を描くしか能がない」と蔑む描写が見られます。しかしその猫絵がのちに一家やさらに戊辰戦争の行方をも変えるきっかけになる……という展開です。

当方、「敗者の美学」とでも言いましょうか、旧幕側の人物たち――旧会津藩、新選組、彰義隊、遊撃隊など――にシンパシーを感じており、いわゆる官軍側の人物を主人公としたものはまず読みません。そこで、この小説に描かれている事柄がどの程度史実に即しているのかよくわからないのですが……。

さて、「第五章 明治の風景」及び「終章 鹿鳴館の華」に、若き日の光雲が登場します。

006昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に、光雲は大隈綾子(大隈重信夫人)と旧知の間柄だったことが記されており、綾子と武子もつながりが深かったため、作者の智本氏、光雲と武子もどこかで出会っているはず、と、登場させたのでしょう。武子、綾子、光雲の三人が会しているというシーンがあります。光雲はまだ「光雲」と号して独立する前、高村東雲の元での修業時代です。そこで「第五章 明治の風景」では、幼名の「光蔵」。「終章 鹿鳴館の華」で、実は「光蔵」は高村光雲だった、というわけです。

小説中の光蔵少年、かなりのおっちょこちょい(これも死語ですね(笑))で、いきなり往来に飛び出し、薩摩の兵にぶつかってあやうく斬られそうになったりしています。実際、『光雲懐古談』などで、光雲は自らをおっちょこちょいと評しており、そういうエピソードがあっても不思議ではないでしょう(笑)。

ただ、苦言を呈させていただければ、「光蔵」のルビが「こうぞう」になっていること。正しくは「みつぞう」です。右は『光雲懐古談』から。

余談になりますが、光太郎も本名は「みつたろう」。「みつぞう」の「みつ」を採ったわけです。のちに自ら「こうたろう」と名乗るようになりましたが。

そういう部分は差っ引いても、実に面白い小説です。官軍側が主人公ですが、旧幕側の土方歳三、小栗忠順らも気骨或る人物として描かれていますし。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

幸子さんくる、東芝のミキサー持参、13,000円のもの、10,000円に割引の由、

昭和30年(1955)4月10日の日記より 光太郎73歳

幸子さん」は、光太郎が戦前から行きつけにしていた三河島のトンカツ屋の娘。アルバイト的に光太郎が起居していた貸しアトリエの片付け等に訪れていました。

東芝のミキサー」は下のようなものだったと思われます。

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2件、ご紹介します。

<BSフジサスペンス劇場>浅見光彦シリーズ22 「首の女」殺人事件

BSフジ 2022年12月2日(金) 12:00~14:00

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。
 光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!

<出演者>
 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作
 榎木孝明 野際陽子 ほか 
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006初回放映は平成18年(2006)。年に1、2回繰り返し再放送されています。

故・内田康夫氏による原作小説は昭和61年(1986)の刊行。智恵子の故郷・福島二本松も事件の舞台の一つということで、岳温泉、智恵子生家/智恵子記念館などでもロケが行われました。また、ドラマの中での設定は花巻ではありませんでしたが、花巻の旧高村光太郎記念館でも。

平成30年(2018)には、あさみさとる氏の作画で漫画化もされました。今夏にはカップリングの作品を変えて再刊されています。版元のぶんか社さんのサイトで紹介されたらこのブログで取り上げようと手ぐすねひいていたのですが(笑)、結局、同社のサイトには情報がアップされませんでした。新作ではないからかもしれません。

もう1件。ただし光太郎智恵子には直接関わらないと思われますが……。

中山秀征の楽しく1万歩!小京都日和「島根・津和野で風景画の絶景小道を行く」

BSイレブン 2022年12月6日(火) 20:00~20:58

★歩けば、そこかしこで懐かしい風景や人々の暮らしに出会える町、小京都。悠々たる歴史と文化に裏付けされた、私たち日本人のこころのふるさと。そんな素敵な町を、中山秀征さんが1万歩目指して歩きます! 小京都で身も心も健康に! さあ、出発です!

 第9回【“山陰の小京都”島根・津和野町】今回、中山さんが訪れた小京都は島根・津和野。山あいを流れる川に沿って細長く広がる町で、津和野藩の城下町として栄えました。武家屋敷が立ち並んでいた江戸時代の面影が残る風情ある街並みで、山陰の小京都といわれています。通り沿いの水路には色鮮やかな錦鯉が優雅に泳ぎ、穏やかな街の雰囲気を感じさせます。
 今回は、江戸時代の津和野の風景や文化が描かれた「津和野百景図」を手に街歩き。昔と今の風景を見比べながら、当時の名残を見つけていきます。
昔懐かしい蒸気機関車が展示してある津和野駅を出発した中山さん、早速、気になる看板の店を発見。「鯉の米屋」という名の通り、庭の池にはたくさんの鯉が。その数に圧倒されます。
 そして、古い武家屋敷や白壁の塀が美しい殿町に入ると、大きな門があった場所や橋のたもとにある松の木など、江戸時代の風景画との共通点を見つけて大興奮!また、無数に連なる鳥居の石段を登った坂上にある太皷谷稲成神社では、町を一望。さらに、文豪・森鴎外の旧家や、フランス人店主のお茶屋さんなど、町中をくまなく回ります。津和野名物の黒いいなり寿司も堪能!
 地元の方々と触れ合いながら、歴史が息づく津和野の町を歩きました。お楽しみに!

出演者 中山秀征  ナレーター 小島奈津子
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現在、文京区立森鷗外記念館さんで開催中の特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」で、新たに発見された光太郎から鷗外宛の長い書簡が展示されていますが、それを含む約400通もの各界から鷗外宛書簡が寄託された森鷗外旧宅/森鷗外記念館さんが取り上げられます。タイムリーですね。そういう話題になるかどうか微妙ですが。

同館、一度行ってみたいと思いながらまだ果たせていませんで、映像でどんなところなのか見てみようと存じます。皆様も是非ご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

電報局までゆきて盛岡美校の堀江赳氏に卒業式(明日)の祝辞を送る、「ビノチカシゲンイワテニミツ」といふもの、


昭和30年(1955)3月10日(木)の日記より 光太郎73歳

盛岡美校」は、花巻郊外旧太田村蟄居中に何度も訪れた岩手県立美術工芸学校。再上京後も毎年祝電を送っていましたが、この年が最後となりました。

電報局」はおそらく現在のNTT東日本中野ビル。起居していた貸しアトリエから直線距離で500㍍ほど。どうしても祝電を送らねばと、つらい身体をおしての約10日ぶりの外出でした。

このところ、紹介すべき事項等が多く、2週間ほど前の報道ですが……。

長野県の地方紙、『信濃毎日新聞』さん。

小説「安曇野」を大河ドラマに 実現の道探る 安曇野市長が懇談

 安曇野市の太田寛市長は17日、同市出身の作家臼井吉見(1905~87年)の小説「安曇野」のNHK大河ドラマ化を目指し、小説にゆかりのある関係者らと市内で懇談した。小説に登場する彫刻家、荻原碌山(ろくざん)(守衛(もりえ))の作品を展示する碌山美術館の関係者や臼井の親族ら8人が出席。姉妹都市や県外のゆかりの地と連携したPR活動、教育現場への話題提供などの提案があった。
 小説は明治から昭和にかけて活躍した荻原や、新宿中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻らの群像を描く。懇談会で、市の担当者が黒光を主人公とする案などを説明。出席者からは「戦争を含め、先達がどうやって時代をつくってきたのか伝えることは大切だ」といった意見が出た。
 市は今後、登場人物ゆかりの場所を紹介するパンフレットを作る方針。太田市長は「(関連施設の)来館者を増やす方策も進めたい」とした。
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同じ件で、松本平地区をカバーする『市民タイムス』さん。

『安曇野』大河ドラマに 安曇野市長と懇談の中村屋社長「市に協力」

 安曇野市堀金出身の臼井吉見(1905~1987)の小説『安曇野』を原作とした大河ドラマ実現を目指す太田寛市長は30日、最初の取り組みとして中村屋(東京都新宿区)の島田裕之社長らと都内で懇談した。中村屋を創業した相馬愛蔵(1870~1954)と黒光(1876~1955)の夫婦は『安曇野』の主要な登場人物で、島田社長は市に協力する考えを示した。
 新宿中村屋ビルでの懇談で、太田市長は「1、2年でできることではない。地道な活動を続けていきたい」と出席者に呼び掛けた。島田社長は「壮大なロマンのある話。可能な限りお手伝いさせていただければ」と応じた。
 中村屋側からは、愛蔵と黒光が夫婦で役割分担をしながら経営したことを踏まえて「女性の社会参画や経営参画といったアプローチができるのでは」といった提案があった。
 懇談には、愛蔵と黒光の長女をモデルに作品制作をした洋画家の中村彝(1887~1924)の記念館や新宿中村屋のロゴを手掛けた書家で洋画家の中村不折(1866~1943)に関係する博物館の担当者も出席して意見を交わした。
 『安曇野』は臼井が約10年かけて完結した原稿用紙約5600枚に及ぶ大作だ。市は安曇野のPRに加え、郷土愛を育むためにも大河ドラマ化を目指している。市は趣旨を書いたパンフレット作成などを検討している。太田市長は「実現には10年はかかる」と話した上で、「安曇野という言葉を広めたのは臼井吉見の『安曇野』だと思っている。皆さん協力していただけるということで力を得た」と先を見据えていた。
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小説『安曇野』は、現在の安曇野市出身の臼井吉見が、昭和40年(1965)から同49年(1974)にかけて刊行した全5巻の小説です。同郷で、新宿中村屋さんの創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻を軸に、明治30年代から戦後までを描く大河小説です。臼井は、光太郎が昭和21年(1946)から翌年にかけて執筆した連作詩「暗愚小伝」を、雑誌『展望』に掲載した編集者でもありました。

第二部では、相馬夫妻の援助を受けていた碌山荻原守衛も主要登場人物として描かれ、それに伴って守衛の親友だった光太郎も登場します。その他、太平洋画会での智恵子の師・中村不折や中村彝など、中村屋サロンに集まった芸術家たち、それから相馬夫妻は社会運動にも関わっていましたから、幸徳秋水、大杉栄・伊藤野枝夫妻ら、さらに戦時中の部分には臼井自身も登場します。

大河ドラマ化が実現すれば、必然的に光太郎も登場することとなるでしょうから、ありがたいかぎりです。ただし、ハードルは高いものと思われます。全国で似たような運動は少なからず起こっているでしょうから。

当方自宅兼事務所のある千葉県香取市でも、地元の偉人・伊能忠敬を主人公にした大河ドラマを、という気運が盛り上がったことがあります。結局、尻すぼみになってしまいましたが、逆にそれを題材にした映画「大河への道」が中井貴一さん主演で制作され、今年、公開されて話題になりました。

その反面、追い風も吹いているかなという気もします。かつての大河ドラマでは、近現代物はほとんど作られませんでしたが、近年は「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」「青天を衝け」など、近現代を扱った作品も数年おきに作られるようになってきましたので。

テレビついでにもう1件、放映情報です。

土曜スペシャル 千原ジュニアのタクシー乗り継ぎ旅12 秋田〜青森・世界遺産

地上波テレビ東京 2022年11月5日(土) 18:30~20:54

番組史上最長270km旅!秋田&青森縦断!田沢湖・十和田湖を巡りめざすは世界遺産!千原ジュニアと俳優・勝村政信が立ちはだかる奥羽山脈と八甲田山に挑む!ゴールなるか?

「すみません、タクシーを呼んでもらえませんか?」
千原ジュニアがゲストの俳優勝村政信さんとタクシーを乗り継いで秋田県の大仙市から青森県の三内丸山遺跡を目指す!今回のチェックポイントは…▼秋田県「田沢湖畔の御座石神社」▼青森県「十和田湖畔の十和田神社」を巡りゴールを目指します! 道中には魅力あふれる立ち寄りスポットも!

秋田名物・稲庭うどんに比内地鶏の焼き鳥、十和田名物ヒメマス料理など紅葉の季節に巡りたいグルメも!旅気分を満喫も、やはり予測不能な「タクシー乗り継ぎ旅」は今回も「お名前ボーナス」「お言葉チャレンジ」に翻弄され一喜一憂! 秋田・青森の温かい人たちに助けられ、果たして秋の東北を巡りながら制限時間までにゴールすることができるのか!?

出演者 千原ジュニア 勝村政信
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光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、青森十和田湖、しかも「乙女の像」すぐ近くの十和田神社さんがチェックポイントの一つ。

一昨年の同じ番組で、ジュニアさんとゲストの古舘伊知郎さんが青森県深浦町から八戸市の葦毛崎までを旅されました。その際には秋田の小坂町から十和田湖畔を通って太平洋側に抜けて行かれたのですが、十和田湖はほぼスルー(笑)。今回はどうなりますことやら。

ぜひご覧下さい……とも言えないところですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

又ヒドラジツドをのみ始める、


昭和29年(1954)9月11日の日記より 光太郎72歳

ヒドラジツド」は、イソニコチン酸ヒドラジッド。抗結核薬の一つで、この2年ほど前から一般に処方されるようになりました。翌年くらいには、ヒドラジッド、ストレプトマイシン、パスの3剤を併用することで結核の死亡率を劇的に下げる手法が用いられるようになりましたが、光太郎に対しては既に時遅しだったようです。

ちなみに当方も、肺を冒されるには至りませんでしたが、幼少時、結核の強陽性で、ヒドラジッドを服用し続けていた時期がありました。

昨日は都内に出、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」に行っておりました。8月にご紹介した、新発見の鷗外直筆稿、鷗外に宛てた光太郎を含む諸家の書簡の一部が展示されているということで、拝見に伺った次第です。

東京メトロ千代田線の千駄木駅で下車、団子坂を上がりきると同館ですが、一旦通り過ぎ、そのまま歩きました。本郷通りにぶつかって左折すると、当会顧問であらせられ、晩年の光太郎に親炙された故・北川太一先生の菩提寺である浄心寺さんがあります。
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浄心寺さんには4月の連翹忌の日にも伺いましたが、その後、8月に奥様の節子様(やはり生前の光太郎をご存じでした)がお亡くなりになったので、墓参させていただきました。墓石側面には、北川先生と奥様の名が並んで刻まれ、それを見て改めてもうお二人ともこの世にいらっしゃらないのだなぁと、しみじみさせられました。

さて、改めて鷗外記念館さんで展示を拝見しました。
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光太郎から鷗外宛の書簡、一昨日に図録の一部をtwitterでご紹介されていた方がいらっしゃり、そういう関係というのは存じていましたが、実際に全文を読んで驚きました。「軍服着せれば鷗外だ事件」に関する長いものだったからです。

大正6年(1917)、光太郎数えで35歳、鷗外は同じく56歳。光太郎がかつて美校生時代の恩師であり文壇の重鎮だった鷗外をこき下ろしたというのです。後に昭和になってから光太郎が川路柳虹との対談で、詳細を語っています。

川路 いつか高村さんが先生のことを皮肉つて「立ちん坊にサーベルをさせばみんな森鷗外になる」といつたといふので、とてもおこつて居られたことがありましたなあ。(笑声)
高村 いやあれは僕がしやべつたのでも書いたのでもないんですよ。
川路 僕も先生に、まさか高村さんが……と言ふと、先生は「いや、わしは雑誌に書いてあるのをたしかに見た」とそれは大変な権幕でしたよ。(笑声)
高村 あとで僕もその記事を見ましてね、あれは「新潮」か何かのゴシツプ欄でしたよ。或は僕のことだから酔つぱらつた序に、先生の事をカルカチユアルにしやべつたかも知れない。それを聞いてゐる連中が(多分中村武羅夫さんぢやないかと思ふんだが)あんなゴシツプにしちやつたんでせう。それで先生には手紙であやまつたり、御宅へあがつて弁解したりしたのですが、何しろ先生のあの調子で「いや君はかねてわしに対して文句があるのぢやらう」といふわけでしかりつけられました。(笑)

立ちん坊」は、急な坂の下で重そうな荷車を待ちかまえ、押してやってお金をもらう商売。まぁ、まっとうな職業ではないという例です。他にも最晩年の高見順との対談でも、同様の発言をしています。

この中の「手紙であやまったり」の「手紙」が、新たに発見され、展示されているのです。

同展図録に画像と全文が引用されています。ぜひ足をお運びの上、実物をご覧になったうえでこちらもお買い求め下さい。
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書簡は便箋に2枚、びっちりと、これこれこういうことを自分が言っていると噂が立っているようだが、それはまったくのデタラメだし、自分は鷗外先生を心から敬愛しているので、そんなことを考えたこともありません、といった、まさに平身低頭(笑)。これが大正6年(1917)の10月7日付けでした。

噂が立っている、というのは、10月1日発行と奥付にある雑誌『帝国文学』に載った鷗外の「観潮楼閑話」というエッセイ中の次の一節によります。

高村光太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と書いたことがあるやうだ。簡単で明白で痛快を極めてゐる。

今回の光太郎書簡の中に、「今度出た『帝国文学』にこんなことが書かれているぞ」と、劇作家の小山内薫が教えてくれ、早速取り寄せて読んだとありました。「げっ!」と思った光太郎、急ぎ鷗外に弁明の手紙を送ったのでしょう。

これに対し、翌日の10月8日付で鷗外は以下の返信を送りました。

御書状拝見仕候 帝国文学談話中ノ貴君ノ言ハイツドコデ見タカ知ラズ候ヘ共アマリ奇抜ニ面白ク覚エシユヱ記憶シ居リフト口上ニ上シモノニ有之候 ソレ以上御書中御示被下候貴君ノ心事ニ付テハ長クノミナリテ詳悉シ難ク面談ナラバ小生ノ意中モ申上グルヿ(こと)出来可申カト存候 シカシ貴君ニ於テハ御聞ナサレ候モ無益ト御考へナサレ候哉モ不知候 果シテ然ラバソレマデノ事ニ可有之候 万一御聞被下候トナラバイツデモ可申上候 丁巳十月八日 森林太郎 高村光太郎様

漢文調で若干わかりにくいかと存じますが、先述の北川太一先生、『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』(平成21年=2009 北斗会出版部)中で、一言で要約されています。「いつでも会って話は聞くよ、君が聞いても仕方がないというのならそれはそれまでだけど」。ナイスな翻訳です(笑)。

この手紙を受け取った光太郎、自宅兼アトリエから彼我の距離にあった鷗外邸(観潮楼、現在、記念館の建つ場所)に走りました(たぶん(笑))。
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そして手紙にしたためたのと同様の弁明をしたようです。その件は翌年1月の「観潮楼閑話」に載りました。

 閑話は今一つ奇なる事件を生じた。それは高村光太郎さんが閑話中に引かれたことを人に聞いてわたくしに書をよせた事である。閑話に引いた高村光太郎氏の語は自ら記したものではなく、多分新聞記者の聞書などであつただらうと云ふことである。高村さんは又書中自分とわたくしとの間に多少の誤解があるらしく思ふと云ふ事をわたくしに告げたのである。わたくしは高村氏に答へて、何時にても面会して、こちらの思ふところを告げようと云つた。とうとうわたくしは一夜高村氏を引見して語つた。高村氏は初対面の人ではない。只今久しく打絶えてゐただけの事である。
 高村氏はかう云ふ。自分は君を先輩として尊敬してゐる。唯君と自分とは芸術上行道を異にしてゐるだけだと云ふ。わたくしは答へた。果して芸術上行道を異にしてゐるなら、よしや先輩と云ふとも、それがよそよそしい関係になるであらう。わたくしの思ふには、君とわたくしとは行道を異にしてはをらぬやうである。
(略)
 高村氏は私の言を聞いてこれに反対すべきものをも見出さなかつた。そして高村氏とわたくしとの間には、将来に於て接近し得べき端緒が開かれた。是は帝国文学が閑話を采録してくれた賜である。

どうやらこれで一件落着(笑)。

それにしても、今回の光太郎書簡には笑いました。これまで確認出来ていた光太郎から鷗外宛書簡5通は、どれも葉書一枚の簡略なもの、中には偉そうに「森林太郎殿」と表書きにしたためたものさえあったのに、一転してへいこらしている内容だったためです。

一つ残念だったのは、亡くなった北川太一先生に、この書状をご覧になっていただきたかったということ。先述の『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』中に次の一節があります。

釈明の手紙がただちに認(したた)められ、その手紙は現存しませんが、鷗外はこれもまたすぐ光太郎に、私なんかが見ると実に愛情深い返事を出していて、光太郎はその返事をもらった翌日に、すぐここ観潮楼を訪ねるのです。

その手紙が現存したわけですから。

ところで、『観潮楼の一夜-鷗外と光太郎-』刊行の際に、北川先生から、全ての原因となった「「新潮」か何かのゴシツプ欄」の記事を探せ、という宿題を出されましたが、果たせませんでしたし、その後も見つかっていません。今度はそれを見つけて先生の墓前に報告させていただきたいものです。

さて、特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」。他にも夏目漱石、夏目鏡子(漱石の妻)、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、坪内逍遙、高浜虚子、中村不折、藤島武二、永井荷風ら、錚々たるメンバーから鷗外宛の新発見書簡等が出ています。また、これも新発見の鷗外直筆原稿の数々も。ぜひ足をお運び下さい。

展示を拝見後、関連行事的に行われました「朗読会 北原久仁香さんが「高瀬舟」をよむ」を拝聴しました。
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北原さんは、昨年、同館と光太郎旧居址の中間にある旧安田楠雄邸で開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、朗読をないました(講話は当方が担当させていただきました)。

驚いたことに、「朗読」といいつつ、それなりに長い「高瀬舟」を、暗誦なさったこと。素晴らしい!

同展、来年1月29日(土)と長い会期ですし、今後も関連行事が続きます。また、近くの旧安田楠雄邸では、過日もご紹介しましたが、「となりの髙村さん展 第3弾「髙村光雲の仕事場」」も予定されています(11月2日(水)~11月6日(日))。あわせてぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后日活の人くる、智恵子抄映画化のこと、断る、音楽映画の人四人くる、八田氏、早川氏其他、映画化のこと、断る、


昭和29年(1954)8月5日の日記より 光太郎72歳

『智恵子抄』の映画化。実現したのは光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)、熊谷久虎監督、原節子さん、山村聰さん主演による東宝映画でしたが、光太郎生前から映画化の話はたびたびありました。

この日の「日活」と「音楽映画」はそれぞれ別口で依頼に訪れています。「音楽映画」は新東宝で、前月末にも光太郎の許を訪れていました。いずれも実現しませんでしたが。

光太郎旧居址にほど近い、文京区千駄木は団子坂上の区立森鷗外記念館さんでの企画展示です。8月にご紹介した、新発見の鷗外直筆稿、鷗外に宛てた光太郎を含む諸家の書簡の一部が展示されます。

特別展 鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡

期 日 : 2022年10月22日(土)~2023年1月29日(土)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 10月25日(火) 11月22日(火) 12月27日(火)~1月4日(水)
      1月23日(月) 24日(火)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円) 中学生以下無料

  文学、美術、演劇…森鴎外(1862~1922)は、陸軍軍医をつとめながら学芸においてジャンルを超えて活躍した知の巨人です。
 文京区立森鴎外記念館(2012~)では、前身の鴎外記念本郷図書館、本郷図書館鴎外記念室と受け継いできた、原稿や書簡、愛用品、初版本など文学的にも歴史的にも貴重な“鴎外遺産”を収集・保存してきました。
 開館10周年を迎えた本年、鴎外文学最高峰とも称される『渋江抽斎(その四十九、その五十)』の直筆原稿が“鴎外遺産”に加わりました。本展では、この『渋江抽斎』をはじめとする貴重な鴎外直筆原稿を紹介するとともに、近年発見され、森鴎外記念館(津和野)に寄託された鴎外宛書簡の一部を初公開いたします。
 直筆原稿には推敲の跡も残り、出版された作品からは知り得ない創作過程を見ることができ、執筆時の鴎外を目撃しているような感動につつまれます。鴎外宛書簡では、夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、高村光太郎など文学や美術などの分野で活躍した著名人の書簡を紹介します。各人の筆跡や文面からは、その人となりや鴎外との関係性が読み取れ、思いがけず親近感が湧いてきます。
 書き癖や文字の勢いなど手書きだからこそ視覚に訴える心情や、活字では見ることができない躍動――直筆資料が伝える心の軌跡をぜひご体感ください。
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関連行事等

「森鴎外~ゆかりの地文学フォーラム」
 基調講演:須田喜代次氏(大妻女子大学名誉教授、森鴎外記念会副会長)
 鼎談:須田喜代次氏、今川英子氏(北九州市立文学館館長)、
    山崎一穎氏(森鴎外記念館(津和野)館長、跡見学園女子大学名誉教授)
 日時:11月26日(土)14時~16時
 会場:文京シビックセンター26階 スカイホール
 定員:90名(事前申込制、応募者多数の場合は抽選)
 料金:無料(参加票が必要)

「渋江抽斎の魅力~直筆原稿と作品と」
 講師:山崎一穎氏(森鴎外記念館(津和野)館長、跡見学園女子大学名誉教授)
 日時:12月18日(日)14時~15時30分
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室
 定員:30名(事前申込制、応募者多数の場合は抽選)
 料金:(参加票と本展の観覧券(半券可)が必要)003

朗読会 北原久仁香さんが「高瀬舟」をよむ
 朗読:北原久仁香氏
 日時:10月23日(日) 14:00~15:30
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室
 定員:30名(定員を超えた場合は抽選)
 参加費用:1000円

最後の朗読会のみ申込期限を過ぎており、満席だそうです。当方も申し込みまして、当選しましました。すみません(笑)。昨年、同館と光太郎旧居址の中間にある旧安田楠雄邸で開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、朗読をなさった北原久仁香さんがご出演なさいます。余談ですが、「語りと講話……」の講話は当方が担当させていただきました。

ちなみに旧安田楠雄邸では、来月初めから写真展「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」が開催されます。もう少し近くなりましたら詳細をご紹介します。

展示の話に戻りますが、光太郎からの書簡、非常に気になっております。これまでに鷗外に宛てた光太郎書簡は5通しか確認出来ておらず、どれも簡略なものでした。『高村光太郎全集』に収録されているものは4通、明治42年(1909)とその翌年のものです。すべて鷗外が自宅(現在、記念館のある場所)で主宰していた観潮楼歌会への欠席連絡。どうも意図的に逃げ回っていたようです(笑)。光太郎、東京美術学校時代に同校非常勤講師だった鷗外の講義を受けましたが、その権威的な授業態度に親しめず、その後も敬して遠ざける感じでした。また、鷗外の陰口をたたき、それを知った鷗外に呼び出されてネチネチと叱責されたことも(笑)。

もう1通は島根の森鷗外記念館さん所蔵のもので、明治44年(1911)の年賀状。「賀正」一言と「光」のサインのみです。同一の意匠の年賀状は、この年、方々に出されたようで、その後、続々見つかりました。左上が鷗外宛、右上は木下杢太郎宛、左下で佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の元ネタを提供した人物)。
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右下は、川崎安宛。『高村光太郎全集』では大正4年(1915)となっていますが、全く同じデザインなので、これもおそらく明治44年(1911)でしょう。全集編集に当たられた当会顧問であらせられた故・北川太一先生、多分、消印から年代を判断されたのでしょうが、その消印が不鮮明だったのだと思われます。

最初は木版かと思ったのですが、そうではなく「籠書き」という白黒反転の特殊な筆法で書いたものですね。光太郎、この技を得意とし、与謝野夫妻の新詩社歌会で短冊に短歌をしたためる際や、自著の題字などにも使いました。

ところで、この年賀状、表の宛名は「森林太郎殿」。普通、目下から上の者に「殿」は使いませんね。また、歌会への欠席連絡の葉書に書かれた宛名にも「森林太郎様侍史」となっているものがあり、何だかなぁという感じです。「侍史」は秘書やお付きの人のことで、「身分の高い人に直接手紙を出すのは失礼なので、秘書やお付きの方にお渡しする」という意味になります。「直接出してるだろ」と突っ込みたくなります(笑)。また、「森林太郎先生」となっているものも、文字通りの「先生」ではなく、軽薄に「センセ」のように感じるのは考えすぎでしょうか。

こんな感じですので、今回見つかった書簡、どういう内容、表書きなのか、非常に興味深いところです。

閑話休題。鷗外記念館さん特別展、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜七時過ブリツヂストンより映画班くる、映画映写、


昭和29年(1954)7月3日の日記より 光太郎72歳

映画」はブリヂストン美術館制作の「美術映画 高村光太郎」。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作風景や、前年に花巻郊外旧太田村へ一時的に帰った光太郎を撮ったものです。他に彫刻作品の映像をまじえ、光太郎の生涯を紹介しています。
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結核が進行し、外出もままならなくなりつつあった光太郎のため、終の棲家となった貸しアトリエで、光太郎一人のために上映会が行われたというわけです。

NHK BSプレミアム/BS4Kさんで9月4日(日)から始まった「ドラマ 風よあらしよ」。第1回を拝見しました。
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村山由佳さんの原作小説には登場した智恵子は、残念ながら登場しませんでしたが、智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号は重要なモチーフとして随所で使われました。ところで余談ですが、NHKさんの番組公式サイトで、『青鞜』が『青踏』になっているのは残念です。
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智恵子に表紙絵を依頼した日本女子大学校での智恵子の先輩・平塚らいてう(松下奈緒さん)、光太郎と交流があった辻潤(稲垣吾郎さん)など、周辺人物が登場、興味深く拝見しました。
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ただ、全3話ということで、展開がだいぶ早い印象でした。主人公・伊藤野枝の才能を見出して世に送り出す手助けをし、野枝と結婚する辻潤。前半は理解ある男として颯爽としていたのに、早くも後半には非社会性充溢のダメダメ男として描かれるようになります。華々しく創刊された『青鞜』も、番組後半では既に行き詰まり始めています。

再放送があります。

再 風よあらしよ(1) 

NHKBSプレミアム 2022年9月7日(水) 23:00~23:50

今から100年前。女性の地位は低く、良妻賢母が求められた時代。福岡の片田舎で育った伊藤野枝(吉高由里子)は、東京の女学校へ入学し、教師の辻(稲垣吾郎)から「青鞜」の存在を教わり心を掴まれる。貧しい家を支える為の結婚を蹴り、自由を求め再び上京した野枝に才能を感じ取った辻は、彼女に知識を与え、導く。溢れんばかりの情熱を持った野枝はらいてう(松下奈緒)の青鞜社の門をたたき、時代の若きアイコンとなる。

【出演】吉高由里子,永山瑛太,松下奈緒,美波,山田真歩,朝加真由美,山下容莉枝,
    栗田桃子,石橋蓮司,稲垣吾郎 他
【原作】村山由佳,【脚本】矢島弘一
【音楽】梶浦由記

さらに第2話。

風よあらしよ(2)

NHK BSプレミアム/BS4K 2022年9月11日(日) 22:00~22:50

「青鞜」を通して次々と世の中の不平等を訴えていく野枝。しかし、世間の風当たりは厳しく、ついにはらいてう自身が隠居をしてしまう。らいてうから青踏を引き継いだ野枝であったが、辻との関係も次第に亀裂が生じ、青鞜も廃刊となる。野枝に逆風が吹く中、時代の風雲児でアナキストの大杉栄(永山瑛太)に出会う。野枝は辻との別れを選び、大杉のもとへと駆け寄るが、待ち受けていたのは自由恋愛という名の四角関係であった。

【出演】吉高由里子,永山瑛太,松下奈緒,美波,玉置玲央,山田真歩,栗田桃子,
    朝加真由美,山下容莉枝,石橋蓮司,稲垣吾郎 他
【原作】村山由佳,【脚本】矢島弘一
【音楽】梶浦由記
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次回も波乱の連続となりそうで、目が離せません。

ついでというと何ですが、テレビ放映で、過去の番組の再放送を2件ご紹介しておきます。

ミステリー・セレクション・湯けむりバスツアー桜庭さやかの事件簿1 露天風呂に浮かぶ遺体の謎…22年ぶりの兄妹対面で起こった兄殺し欲望渦巻く故郷で迎えた驚愕の結末とは!!

BS-TBS 2022年9月8日(木) 09:59〜12:00

高校生の娘と中学生の息子を持つシングルマザー・桜庭さやかは、ベテランバスガイド。しっかり者の子供たちに今日も起こされ、元気いっぱい仕事へと飛び出していく。今回のツアーは、猪苗代湖〜安達太良山〜会津若松を巡り、山形へと向かう旅。大盛り上がりのサンライズ商店街御一行様を前にさやかの名調子が冴える。ツアー客の中にはフラワーショップを営む佐野雄二と香織の兄妹も参加していた。2人はツアーの途中で22年ぶりに兄・修一に再会できることを楽しみにしていた。しかし、その兄が安達太良山で死体となって発見される。

出演者 萬田久子、葛山信吾、酒井美紀、石橋保、大浦龍宇一、未來貴子、伊藤洋三郎、
    斉藤暁、徳井優、竜雷太 他

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初回放映は平成21年(2009)。最初の事件現場が安達太良山、という設定で、「智恵子抄」が枕に使われます。ロープウェイ山頂駅近くの薬師岳パノラマパーク、「ほんとの空」の標柱附近などでロケが行われました。
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事件の鍵を握るフラワーショップ経営者役の酒井美紀さん、昨年、BS朝日さんで放映された「ゆるっと山歩(さんぽ)に行こう ▽登山を始めたい方必見!絶景やグルメも堪能!」にもご出演、この際、初めて山頂まで登られたということでした。

もう1件。

ブラタモリ セレクション▽十和田湖・奥入瀬〜十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?〜

NHK総合 2022年9月9日(金) 00:25〜01:10

これまでのブラタモリからえりすぐりの回を放送!今回は「#81十和田湖・奥入瀬」(初回放送2017年9月2日)をお送りします。

ブラタモリ#81で訪れたのは十和田湖・奥入瀬。実は十和田湖は、火山の噴火で出来たカルデラ湖。しかも出来たてホヤホヤの世にも珍しい「二重カルデラ湖」だった!ボートで湖へ出たタモリさん、目の前にそそりたつ急な崖に大興奮!この崖こそ火山の中身が見えるというダイナミックな神秘だった!さらに美しい滝と渓谷で知られる奥入瀬渓流へ。多くの滝に隠された、1万5千年前の奇跡とは?奥入瀬の美を作ったのはコケ?

【出演】タモリ,近江友里恵,【語り】草彅剛
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初回放映は平成29年(2017)。地質学系に重きを置く番組なので、十和田湖の二重カルデラや、奥入瀬渓流の成因などがメインですが、番組冒頭、タイトルバックで光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が約2秒間(笑)登場します。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

山口部落よりリンゴ3箱くる、 郵便物整理その他


昭和28年(1953)12月9日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに花巻に帰ったのが11月25日。12月5日には再び上京。そしてこの日、花巻郊外旧太田村山口部落からリンゴが届きました。「郵便物整理」は、花巻帰郷中に届いていた郵便物、さらには太田村の山小屋から持ち帰った古手紙の類かと思われます。

戦前には雑誌『白樺』、戦後には同じく『心』等を通じての、光太郎の盟友であった武者小路実篤を顕彰する調布市武者小路実篤記念館さんでの企画展示です。

秋季展「作家の筆跡(ひっせき)」所蔵原稿名品展

期 日 : 2022年9月3日(土)~10月10日(月・祝)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日(月曜が祝日の場合は直後の平日)
料 金 : 大人 200円 小中学生 100円

当館が所蔵する500点近い原稿資料。本や雑誌に載せられた作品とは違い、残された作家の筆跡、推敲の跡からは、執筆時の悩みがありありと伝わってきます。本展覧会では実篤の代表作と言われる作品の原稿をはじめ、当館が所蔵する実篤以外の作家や画家の原稿も展示します。使われた用紙や、作家本人・編集者からの書込み、作家ごとの字の違いなど、原稿ならではの魅力をお楽しみください。


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実篤以外の作家たちの作品も出展されており、われらが光太郎の書も1点出ています。

短冊で「鐘の鳴るのをきゝに ロオマに行きたい」。光太郎が訳した『ロダンの言葉』の一節です。大正期書かれたもの。関西の方で行われた書の頒布会的な催しのために書かれたと推定されます。

昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示させていただきました。美しく軸装されています。
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さらに光太郎の書ではありませんが、実篤の書いた光太郎追悼文(昭和31年=1956)の原稿も出ているとのこと。実篤は光太郎の逝去に際し、複数の追悼文を頼まれて各紙誌に発表しており、そのうち河出書房刊行の『文藝 臨時増刊 高村光太郎読本』に寄せたものです。掲載紙でのタイトルは「白樺と高村君」と成っていますが、草稿では「高村光太郎君」だそうで。

他にもいろいろ逸品が並んでいることと存じます。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

朝雪ふる、 車で送られ花巻駅、温泉の重役等、花巻、山口の人等他数見送り、十時半の「みちのく」にて帰京、 夜八時半上野着、直ちにタキシにてアトリエに帰り、後近所にて夜食をとる、


昭和28年(1953)12月5日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻でしたが、11日間の滞在でした。

他数」は「多数」の誤りですね。
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「来春六月にはまた帰るよ」と言い残して岩手を後にした光太郎。リップサービスではなく、実際に寒い時期には東京中野の貸しアトリエで、季候が良くなったら花巻郊外旧太田村の山小屋で、と、二重生活を目論んでいました。しかし、健康状態がそれを許さず、結局、この後東京を離れることはありませんでした。

「九州に建てる胸像」は、未完のまま絶作となった「倉田雲平像」です。

明日から始まる新番組です。

ドラマ 風よあらしよ

NHK BSプレミアム/BS4K 2022年9月4日(日) 22:00〜22:50

伊藤野枝。大正時代の女性解放運動家。100年前、筆一本の力で、結婚制度や社会道徳に真正面から異議を申し立てた。あふれんばかりの情熱をただ一つのよりどころに。
「原始、女性は太陽であった」と書いた平塚らいてうへの憧れ、第一の夫、ダダイスト・辻潤との暮らし、生涯のベターハーフとなる無政府主義者・大杉栄との出会い…。
自由を求めて奔放に生き、文筆家としてさらに開花しようとしたやさき理不尽な暴力がわずか28歳の彼女の命を奪うが、貧困・ジェンダー格差など、現代に通じる社会矛盾に果敢に立ち向かったその生涯は、閉塞感に満ちた現在を、今改めて、強烈に揺さぶっている。
吉川英治文学賞を受賞した村山由佳の評伝小説を原作に、向田邦子賞受賞の矢島弘一が脚本を担当、吉高由里子が主人公・伊藤野枝を演じ、自由を守ろうと懸命に生きた一人の女性の“炎”を描く。

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今から100年前。女性の地位は低く、良妻賢母が求められた時代。福岡の片田舎で育った伊藤野枝(吉高由里子)は、東京の女学校へ入学し、教師の辻(稲垣吾郎)から「青鞜」の存在を教わり心を掴まれる。貧しい家を支える為の結婚を蹴り、自由を求め再び上京した野枝に才能を感じ取った辻は、彼女に知識を与え、導く。溢れんばかりの情熱を持った野枝はらいてう(松下奈緒)の青鞜社の門をたたき、時代の若きアイコンとなる。
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【出演】吉高由里子,永山瑛太,松下奈緒,美波,山田真歩,朝加真由美,山下容莉枝,
    栗田桃子,石橋蓮司,稲垣吾郎 他
【原作】村山由佳,【脚本】矢島弘一
【音楽】梶浦由記

一昨年刊行された村山由佳さんの小説『風よ あらしよ』の映像化です。全3回。既にNHKさんのBS8Kで今年3月に放映されていましたが、今回、通常のBS放送(2K)及びBS4Kでの放映が始まります。

8月31日(水)でしたか、10分間の番宣番組がありまして、拝見しました。
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主人公・伊藤野枝を演じるは、吉高由里子さん。
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この言葉を野枝に教えたのは……
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稲垣吾郎さん扮する辻潤。のちに二人は結ばれます。
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そして辻を通し……
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智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号。巻頭言を書いた主宰の平塚らいてう(松下奈緒さん)の元を訪れる野枝。
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らいてうの自宅居室はこのような円窓でしたが、それを再現。「さすがNHKさん、やるな」と思いました(笑)。

しかし、そのらいてうとの出会いは……
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青鞜社に加わり精力的に活動する野枝に、さらなる運命的な出会い。
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すると、忍び寄る不吉な影(憲兵大尉・甘粕正彦=音尾琢真さん)。
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野枝らの運命はいかに。
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原作は650ページ超の長編でしたので、『青鞜』表紙絵にまつわるシーンで智恵子、さらに大杉等の活動を支援するシンパとして光太郎も登場しますが、ドラマではどうでしょうか。全3回、50分ずつの尺では原作でのチョイ役まで描ききれないような気もしますが……。

ところで番宣番組には、平塚らいてうの会代表理事の三留弥生氏がご出演され、『青鞜』について熱く語られていました。
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左下の号も智恵子が描いた表紙絵で飾られています。明治45年(1912)の第2巻第1号から第3号まで、この絵が使われました。かつてはスズランと言われていましたが、アマドコロのようです。

さて、ドラマ「風よあらしよ」。ぜひご覧下さい。
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【折々のことば・光太郎】

電車で花巻行、院長さんの車迎にくる、宮沢家行、老人はじめ一同にあふ、後わんこそばにゆきいろいろの人にあふ、


昭和28年(1953)12月3日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻。

院長さん」は佐藤隆房。「老人」は賢治の父・政次郎です。「電車」は花巻電鉄。かつて生活の足としていた同線、これが生涯最後の乗車となりました。

まず、8月15日(月)の『日本経済新聞』さん。

森鷗外の新資料相次ぎ発見 自筆の「渋江抽斎」や広告文

 没後100年を迎えた文豪・森鷗外(1862~1922年)の新資料発見が相次いでいる。鷗外が晩年に著した史伝小説第1作で、江戸末期の医師を主人公とする「渋江抽斎」の自筆原稿の一部が見つかった。加筆修正の跡から入念な推敲(すいこう)の様子が読み取れる。同作を含む史伝三部作についての自筆広告文や、鷗外宛ての書簡約400通も確認された。一連の新発見からは文章の細部にまで目を配り、仕上がりにも自信を持っていた作家の姿が浮かび上がる。
 鑑定に携わった鷗外研究の第一人者、山崎一穎・跡見学園女子大学名誉教授によると「自筆原稿が発見されるのは極めて珍しい」。事例は「舞姫」などわずかで、「渋江抽斎」は初めて。東京の文京区立森鷗外記念館が購入した同作の原稿は、東京日日新聞と大阪毎日新聞に全119回連載されたうちの第49回と50回にあたる。新聞社が活字を組む目的のためか裁断されており、49回は13枚、50回は11枚に分かれている。
 現在読める「鷗外全集」(岩波書店)所収の「渋江抽斎」は、新聞連載された原稿を基に鷗外が修正したもの。今回の発見で、連載中も鷗外が直前まで手を加えていたことが分かった。「鷗外作品誕生の瞬間に立ち会ったようである」(山崎氏)
  広告文は春陽堂書店(東京・中央)の倉庫で見つかった。史伝「渋江抽斎」「伊澤蘭軒」「北条霞亭」を宣伝するために鷗外自らが書いた。文章自体は文芸誌「新小説」の鷗外追悼号や「鷗外全集」に掲載されているが、自筆原稿の確認は初めて。作品の出来に関して「著者自らが保証する」と書くなど、強い自信がうかがえる。
 約400通に上る鷗外宛て書簡は島根県津和野町の森鷗外記念館が寄託を受けた。夏目漱石や与謝野晶子といった文学者のほか、高村光太郎や西園寺公望ら美術界、政界の大物からのものもある。鷗外宛て書簡は既に800通ほど見つかっているが、今回ほどの量がまとまって見つかるのは珍しいという。
 「渋江抽斎」の自筆原稿と書簡の一部は、文京区立森鷗外記念館の特別展「鷗外遺産」(10月22日~23年1月29日)で一般公開される。
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『日経』さんの記事は後追いでして、「渋江抽斎」原稿の件は7月に、書簡400通の件は今月初めに、それぞれすでに報じられていました。ただ、他紙の既報では光太郎の名が出ていませんでした。

『朝日新聞』さん。8月5日(金)掲載分です。

鷗外へ、各界書簡400点 漱石・啄木・与謝野晶子・岡倉天心・西園寺公望…広い交友示す発見

005 今年で没後100年になる文豪、森鷗外(1862~1922)あての書簡約400点が、まとまった形で見つかった。出身地の島根県津和野町にある町立森鷗外記念館が4日発表した。差出人は夏目漱石や与謝野晶子、石川啄木、岡倉天心ら、明治・大正期に活躍したそうそうたる面々。鷗外の交友関係の幅広さを物語る貴重な発見という。
 鷗外の娘婿で仏文学者だった山田珠樹(たまき)さんらが保存していたのを遺族が見つけた。差出人には文学・演劇・美術界で名をはせていた人たちだけでなく、山県有朋や西園寺公望ら政治家の名前もあった。少なくとも60人以上から送られた書簡という。1896~1922年の日付が確認できたが、日付のないものも多い。現在、漱石や啄木からの書簡は専門家が調査中だが、内容がはっきりしたものの中から4点を報道陣に公開した。
 夏目漱石の妻・鏡子からの書簡は、漱石が伊豆・修善寺で大量に吐血した「修善寺の大患」(1910年)の際、軍医でもあった鷗外が部下を遣わして見舞ったことへの礼状。漱石の日記にのみ記されている内容だった。
 与謝野晶子からの書簡は、晶子が夫の鉄幹を追って1912年にパリに渡ったときのもの。旅費の工面を鷗外が手助けしたことが裏付けられるという。
 鷗外の研究者で、町立森鷗外記念館の館長を務める山崎一穎(かずひで)・跡見学園理事長は「これだけの量の書簡がまとまって出てきたことがまず驚きだ。鷗外の面倒見の良さや気配りがうかがえる手紙で、著名な差出人の方の研究も一層進むことになるだろう」と話す。
 同記念館は年度内に翻刻(活字化)の作業を終え、内容や背景を分析、精査したうえで、成果を書簡集として出版する予定という。
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さらに同日の地元紙『山陰中央新報』さん。

鴎外の書簡400点見つかる 差出人は夏目漱石や与謝野晶子など著名人ぞろい

 島根県津和野町出身の文豪・森鴎外(1862~1922年)の幅広い交遊関係を物語る鴎外宛ての書簡約400点が見つかった。差出人には夏目漱石や与謝野晶子、島村抱月など、明治-大正期を彩った文学界、演劇界の著名人や政治家らがずらりと並ぶ。森鴎外記念館(津和野町町田)が4日発表した。
 400点は1896(明治29)年から、鴎外が亡くなる1922(大正11)年にかけて送られ、夏目漱石らのほか、正岡子規、石川啄木、山県有朋、北原白秋、黒田清輝、岡倉天心など約60人の差出人が確認できる。この日は与謝野晶子、西園寺公望、夏目漱石夫人の夏目鏡子(きょうこ)、樋口一葉の妹くにが送った計4点を公開した。
 与謝野晶子の書簡は12年3月2日付で、夫の与謝野鉄幹が11年にパリに向かったのちの12年5月、晶子が後を追った際、洋行費用を鴎外が贈ったことがうかがえる内容。晶子は「夢のやうに(ように)存じました。(中略)誠にお禮(れい)の申し上げやう(よう)も御座(ござ)いません」と感謝の言葉をつづっている。
 山崎一穎(かずひで)館長(83)は会見で「洋行費用の捻出については鴎外自身の日記からも確認できるが、晶子側からの資料はこれまでなかったので貴重だ」と説明。400点の書簡について「差出人は作家や歌人、詩人、俳人、政治家と多岐にわたり、鴎外の多彩な交遊関係が分かる。それぞれの差出人の研究者にとっても第一級の資料となる」と価値を強調した。
 書簡は鴎外の長女・森茉莉の夫で、フランス文学者の山田珠樹(1893~1943年)の遺族や、東京帝国大学(現東京大学)図書館で山田の同僚だった国文学者の土井重義(1904~67年)の遺族から、2020年3月~21年12月にかけて同館に寄託された。大学教授や古文書愛好家ら町内外の13人でつくる「山田珠樹氏所蔵鴎外宛書簡解読プロジェクト」が翻刻、研究に当たっており、開館30周年を迎える25年3月に書簡集として刊行する。
006
これらには光太郎の名が無かったのですが、「60人以上から送られた書簡」とあるので、光太郎からのものも含まれているんじゃないかな、と思っていましたが、『日経』さんの記事でビンゴだったことがわかりました。

光太郎から鷗外宛の書簡は、これまで5通しか確認できていません。鷗外は東京美術学校で光太郎在学中に「美学」の講義を受け持って教壇に立ち、光太郎は美校卒業後、鷗外が顧問格だった雑誌『スバル』で中心メンバーの一人となりました。また、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた画廊「琅玕洞」の店名は、鷗外の訳書から採ったものです。この時期、軍医総監だった鷗外は、裏で手を回して光太郎の徴兵を免除してやったりもしています。

そうかと思うと、「軍服着せれば鷗外だ」事件。どうも当方と同じで権威的なものには反発しないでは気が済まない光太郎、うっかり漏らした鷗外を茶化す発言が鷗外の耳に入り、鷗外は光太郎を自宅に呼びつけて「何か文句あんのか? 」的なオラオラ状態(笑)。さすがにボコッたり、文壇から抹殺したりといった大人げない対応はしませんでしたが(笑)。

追記 まさにこの事件に関わる書簡でした。驚きました。

どうも光太郎は鷗外を敬して遠ざけ(鷗外主催の観潮楼歌会も何のかんのと理由を付けて逃げました)、一方の鷗外は光太郎を「しょうもないやつだ」と苦笑しながらもその才を認めてかわいがっていた、という感じのようです。

今回見つかった書簡群でまた、知られざる二人の関係がわかるかもしれません。来春出版される予定とのことで、今から楽しみです。

【折々のことば・光太郎】

神経痛まだ痛む、 夜新宿にて夕食、丸井にて本棚をかふ、


昭和28年(1953)10月26日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式のため訪れた青森から帰り、しばらくは大人しくしていました。

「丸井」は現在の「新宿マルイ」さんでしょう。戦前の創業で、戦争を挟んで昭和23年(1948)には新宿駅前店、昭和25年(1950)には新宿三光町店が開業しています。

類書は世に多く、しかし出版社やご著者の方のスタンスによっては、読むに堪えないものも少なからず存在するのが現状ですが、これは違いました。

この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか

2022年6月30日 奥泉光/加藤陽子 河出書房新社(河出新書) 定価968円(税込み)

今こそ、「日本人の戦争」を問い直す。日本はなぜ、あの戦争を始めたのか? なぜ止められなかったのか? 戦争を知り尽くした小説家と歴史家が、日本近代の画期をなした言葉や史料を読み解き、それぞれが必読と推す文芸作品や手記などにも触れつつ、徹底考察。「わかりやすい物語」に抗して交わされ続ける対話。「ポツダム宣言」「終戦の詔書」を読む解説コラムも収録。

著者
奥泉 光 (オクイズミ ヒカル)
1956年山形県生まれ。1986年に『地の鳥 天の魚群』でデビュー。1993年『ノヴァーリスの引用』で野間文芸新人賞、1994年『石の来歴』で芥川賞、2009年『神器』で野間文芸賞を受賞。

加藤 陽子 (カトウヨウコ)
1960年、埼玉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。専攻は日本近現代史。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』『戦争まで』『戦争の日本近現代史』など著書多数。
001
目次
 はじめに(奥泉光)
 Ⅰ 太平洋戦争とは何かを考えるために
  戦争と物語
  国民統合の方法としての軍隊
  お天道様と公道
  民衆にとって天皇とは?
  自制を失う「帝国」
  主権線・利益線論と物語としての日露戦争
  不戦条約と軍隊像の転換
  リットン報告書を拒絶、そして満州事変へ ……
 Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか
  なぜ満州か
  国際連盟脱退と各国の思惑
  感情に訴える国民向けの宣伝
  陸海軍共通の仮想敵・アメリカ
  南進論と三国同盟の要点
  変わりゆく「中立」
  「もやもや」が消えてゆく
  対米開戦の裏側
  日本の勝算?
  日本的「空気」という謎 ……
 【解説コラム】「ポツダム宣言」を読む/「終戦の詔書」を読む
 Ⅲ 太平洋戦争を「読む」 
  戦争を支える気分――清沢洌『暗黒日記』
  物語を批判する小説――田中小実昌『ポロポロ』
  個人と国家の媒体なき対峙――山田風太郎『戦中派不戦日記』
  現代日本のこと?――山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』 ……
 おわりに(加藤陽子)

光太郎生誕前年(明治15年=1882)に出された「軍人勅諭」に始まり、日清・日露戦争、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争と、最新の歴史学的知見、当事者たちの書き残したものへの考察を盛り込みつつ、「この国の戦争」を語る対談です。

「なるほど、そう解釈すれば腑に落ちる」「これとこれをこう関連づけるか」という感じで、目から鱗
の連続でした。同時に愚かな為政者に対し「「困ったちゃんあるある」だなぁ」と思わせられる指摘も。

そして、戦争の遂行に果たす「文学」「言葉」「物語」の役割。

「これは!」と思った箇所をいくつか。

「戦前」体制というと、どうしても不吉な響きがしてしまうのは、二〇世紀前半の昭和「戦前」体制が、自国民だけで三百万人を超える、侵略したアジア地域や交戦国を含め二千万人もの死者を出す未曾有の厄災に繋がった記憶があるからだ。しかもいまもなお昭和「戦前」に懐旧の情を抱き、それをほとんどパロディーのごとくに再構しようと欲する政治勢力が存在するから厄介だ。だが、いま求められるべきは、昭和とは違う「戦前」、戦争をしないための「戦前」体制の構築である。
(「はじめに」)

アジア・太平洋戦争の歴史を問うことは、戦争で亡くなった方々の霊を慰める営みでもあるだろう。彼らの死を犠牲の死として捉えること。それには死者を神話的な「物語」に閉じこめてはならない。彼らを歴史のなかに、人々が対話的に交わる「場」として歴史のなかに、絶えず解放し続けなければならない。神話ではなく、対話を!
(同)

戦争一般が非合理なものをはらむのは間違いないにしても、それを超えた、戦死者の半ば以上が餓死や病死であるような作戦が立案され実行されてしまう、あるいは戦艦大和の出撃にしても、確実に沖縄までは到達できないとわかっていながら、あえて出撃して三〇〇〇人の人間が死んでしまう。そうした度を超えた非合理制にはやはり関心を向けないわけにはいかない。
(「Ⅰ 太平洋戦争とは何かを考えるために」)

政治や宗教や法律だって言葉が人を動かすのだけれども、言葉の外に力の根拠、裏付けがある。最終的には言葉ではないものが、たとえば暴力が言葉の力を支える。対して、文学は言葉それ自体が人を動かす力を持つ点が特徴です。だから政治に利用される。ずっと利用されてきたし、いまも利用され続けているわけで、だから歴史を捉えるには、それを的確に批評する作業が必要になる。
(同)

戦後まもない頃はGHQの誘導もあって、狂信的な軍部が日本を引っ張ってこういうことになっちゃったんだという説明がなされた。実際はそれですむことではないわけですが、しかしどうしてもわれわれはわかりやすい物語の中で物事を理解したいという欲望があるんですね。それが陰謀論の土壌にもなる。誰か悪い奴が厄災を引き起こしたんだということにしたくなる。単純な物語の枠にはめこんで歴史を描きたくなる。
(「Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか」)

国民の戦争へ向かうエネルギーは大変に大きかったわけで、米英との開戦からの三年八ヵ月あまりの時間は、それが敗勢のなか減衰していく時間だったと見ることもできるだろう。しかし、そのためにどれほどの犠牲を払わねばならなかったことか。
(同)

「情ニ於イテ忍ビザルモ、国家ノ為ニハ已ムヲ得ザルベシ」のように、昭和天皇自身、国家を前景化させつつ、天皇と軍人の特別な紐帯を否定しにかかったのが終戦の詔書といえるでしょう。
(同)

当時の国家の民衆に対する方針は、ようはものを考えることをさせないようにする、そういう方向です。国民の個性なんてものは一切認めない、思考することを認めない、ひたすら一元化していく。
(「Ⅲ 太平洋戦争を「読む」」)

やっぱり人々はわかりやすい物語を求めてしまうんですよ。単一の物語が欲しいんです。わかりやすい物語のなかで世界を捉えたい。それは日本だけの問題じゃないわけで、人間はそこからはなかなか逃れ難い。その欲求に応える物語がたくさん提供されてきたし、これからも提供されていくわけですが、文学はそれに抵抗しなければならない。
(同)

天皇の言葉としての勅諭や勅語が作成された時代の意義や読み方と、軍が政治化した後世の時代の読み方は異なってくる。(略)軍人勅諭の読み替えは、一九三二年の五・一五事件を契機になされ、教育勅語の読み替えは、一九四〇年の近衛新体制を契機に進んでいった。軍人勅諭、教育勅語、この二つの天皇の言葉が、時代とともに暴走していったのだ。
(おわりに)


さて、光太郎に関しては、「Ⅱ なぜ始めたのか、なぜ止められなかったのか」中で、ほんの少し。

加藤 日中戦争までは、国民の中に「もやもや」がまだあります。
奥泉 それが一気に日米戦で消えてなくなる。多くの人が一九四一(昭和一六)年一二月八日の朝の爽快感を書いていますよね。
加藤 竹内好は「歴史は作られた 世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。(中略)われらは、わが日本国と同体である」と書いています。
奥泉 高村光太郎の有名な「世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである」とかね。多くの人が似たような感想を記している。歴史の先端に立っているという感覚ですね。いま想像してみるに、ほんとうにそうだったんだろうなとつくづく思うんですよね。言葉を持つ階層の人たち、たとえば日中戦争の意味を考え悩んでいたような人たちは、とりわけ爽快に感じたんでしょう。


引用されているのは、昭和17年(1942)元日の『中央公論』に載った散文「十二月八日の記」の一節です。また、ほぼ同時に書いた詩「鮮明な冬」(同日の『改造』に掲載)には、「この世は一新せられた」、「だが昨日は遠い昔であり」の一節があります。光太郎ほどの人物でも、コピペまがいのことをやってしまっているわけで、まぁ、それを言ったら、この後発表される翼賛詩文のほとんどは、コピペとまで行かなくとも、同工異曲(この四字熟語、プラスの意味とマイナスの意味がありますが、当然ながらマイナスのベクトルです)、読むに堪えないものばかりですが……。

しかし、それが国民にうけました。こうした例が、本書両ご著者の指摘する「わかりやすい物語」の一つというわけですね。

ロシアによるウクライナ侵攻から5ヶ月。この「わかりやすい物語」の論法で行けば、「プーチン一人の狂気」のようなとらえ方が為されがちです。しかし、その背後にはさまざまな要因がからみあっているわけですし、「プーチン=悪」「ゼレンスキー=善」という単純な「わかりやすい物語」に落とし込むのは危険ですね。といって、ロシアの行為が正当化されるべきものでないことはあきらかですが。

同時に気になるのが、現状、ロシア国民がこれをどう考えているのか、です。プーチンらの提示した「わかりやすい物語」にとらわれてしまっているのでしょうか。さながら80年前の多くの日本人のように……。さらに「世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである」みたいなことを嬉々として書いている文学者が、現にいるのでしょうか。

さて、『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

夜「雁」映画を見に浅草にゆく、満員にてみられず、

昭和28年(1953)9月19日の日記より 光太郎71歳

明治後期、東京美術学校で光太郎の師であった森鷗外原作の小説「雁」。この年、豊田四郎監督、故・高峰秀子さん、故・東野英治郎さんらのご出演で映画化されました。

いわゆるライトノベルです。

小説家・芥木優之介には恋と飯が足りていない

2022年7月6日 硯昨真著 宝島社(宝島社文庫) 定価750円(税込み)

太宰治の“桜桃”、森鴎外の“饅頭茶漬け”――。謎の美女が繋ぐ“文豪グルメ”と“人の絆”。天才偏屈作家のほっこり恋物語!

芥木優之介は、大学時代に処女作で新人賞を総嘗めにし、文壇にデビューした小説家である。それから六年。全く文章を書けなくなった芥木は、古アパートで貧乏生活を送っていた。それは自身に課した「文筆業以外で稼いだ金で飯は食わない」ポリシーのため。そんな時、大家の姪という儚げな美女・こずえが現れる。栄養失調で意識が朦朧とする芥木に、“芋粥”を食べさせるこずえ。彼女にときめく芥木だが、「これからはお家賃の方をきちんとお願いします」と言われ、絶体絶命に! 偏屈で人間嫌いだった芥木だが、縁を切っていた人々と向き合うことになり……? 謎の美女が繋ぐ、“文豪グルメ”と“人との絆”。天才偏屈作家のほっこり恋物語!

001
目次
 芥川龍之介の芋粥  谷崎潤一郎の小鰺の二杯酢漬け  太宰治の桜桃 前編 
 太宰治の桜桃 後編  宮沢賢治の天ぷらそばとサイダー  高村光太郎の牛鍋
 森鷗外の饅頭茶漬け  夏目漱石の落花糖


主人公・芥木優之介。その名の通り、芥川龍之介を彷彿とさせられる小説家です。しかし、芥川と違って(ある意味共通して)、いろいろ考えすぎるあまり、なかなか作品が書けない、という設定です。まぁ、一言で言うと「面倒くさい」(笑)。そうなってしまったのには、そうなってしまうだけの理由―この業界特有の―があるのですが、それは読み進めていくうちにおいおい明かされていきます。

他の登場人物は、芥木に負けず劣らず面倒くさく、彼を一方的にライバル視する作家・津島修也(いわずもがなですが、「津島」は太宰治の本名由来です)、芥木ファンが嵩じて作家デビューを果たした書店員・三鳥(「島」ではなく「鳥」です)、善人だけれどズレまくっている編集者・滝谷(しかし、欲得ずくでない仕事態度が芥木を動かし、再びペンを執らせます)、そして借家の大家にしてヒロイン的なこずえら、個性豊かな面々。

そこに目次にあるような、文豪たちが書き残したさまざまな料理や食材がからみます。そういった意味でも近代文学オマージュ的要素もふんだんに盛り込まれています。

われらが光太郎に関しては、詩「米久の晩餐」(大正10年=1921)がモチーフの「高村光太郎の牛鍋」。この章には『智恵子抄』巻頭を飾った詩「人に」(「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」)も使われ、こずえに対して揺れ動く芥木の心情が象徴されます。特に「――それでも恋とはちがひます」というフレーズ。

作者の硯昨真氏、存じ上げない方でしたが、どうもご自身のご経験をかなり落とし込んで書かれているのでは、と思われます。作家としてデビューし、編集者との丁々発止のバトルなどの苦労等。妙にリアリティーがあります。違っていたらごめんなさい、ですが。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

中野の祭礼、みこし出てゐる、 夜在宅、 タウリンエキスをのむ、

昭和28年(1953)9月15日の日記より 光太郎71歳

中野の祭礼」は、9月半ばということで、おそらく中野氷川神社さんの祭礼と思われます。「タウリン」、この頃にはもう広まっていたのですね。1000㍉㌘かどうかはわかりませんが(笑)。

新聞二紙から。

まずは『朝日新聞』さんの読書欄。当ブログサイトで今月初めにご紹介した、宮内悠介氏著『かくして彼女は宴で語る』の書評が出ました。

かくして彼女は宴で語る 明治耽美派推理帖 宮内悠介氏〈著〉 「牧神(パン)の会」舞台にアシモフ倣う

001 アメリカの作家、アイザック・アシモフに『黒後家蜘蛛(くろごけぐも)の会』というミステリがある。名士たちが食事会の傍ら未解決事件を推理する連作だ。最後に謎を解くのは名士たちではなく後ろで話を聞いていた給仕、というのがお決まりの形式。
 その『黒後家蜘蛛の会』を宮内悠介が明治末期の東京に甦(よみがえ)らせた。舞台となるのは実在した団体〈牧神(パン)の会〉。木下杢太郎や北原白秋、石井柏亭ら若き芸術家たちが結成したサロンだ。
 彼らは定期的に西洋料理屋に集い、自らが体験した謎や事件を語る。誰も真相を突き止められない中、最後に店の女中が「わたしからも一言よろしゅうございますか」と真相を言い当てる――と、本家に倣った短編が6話収録されている。
 個々の謎解きに膝(ひざ)を打つのはもちろんだが、本書は他にもさまざまな楽しみに満ちているのが特徴だ。
 まず事件の舞台が、団子坂や浅草十二階、上野で開催された勧業博覧会、ニコライ堂など、時代を色濃く映した名所であること。
 次いで綺羅星(きらほし)の如(ごと)き登場人物たち。前述の面々に加え、石川啄木が参加する回もあれば森鷗外が登場することもある。彼らが生き生きと闊歩(かっぽ)する様が浮かぶ。
 そしてこの時代ならではの事件の真相。それは時として彼らが挑む〈美〉の意味を問い、時として社会のありようを映し出し、さらには現代をも照射する。特に最終話がもたらす衝撃には思わず声が出た。
 場所、人、時代が三位一体となり、読者を物語に誘(いざな)う。明治の東京の温度や匂いまでもが立ちのぼるようだ。アシモフに倣って各編につけられた著者の覚え書きを読めば、著者が膨大な史料を下敷きにし、史実を絶妙に物語に生かしたことがわかる。軽やかな謎解き合戦を下から支えるのは、歴史と先人たちへの、著者の敬意に他ならない。
 SF作家と称されることの多い著者の、真正面からの本格ミステリである。歴史好きにもお薦めの一冊。
    ◇
みやうち・ゆうすけ 1979年生まれ、作家。2017年に『彼女がエスパーだったころ』で吉川英治文学新人賞。

同書の新聞広告には「まさに和製“黒後家蜘蛛の会” !! 本家と違う、耽美で複雑な雰囲気が日本!という感じがして面白い」とあり、元になった小説があったのだろうとは思っていましたが、上記の評を読んで納得しました。アメリカのアイザック・アシモフの推理小説だったのですね。当方、海外の本格ミステリー的なものはあまり読んだことがなく、存じませんでした。また、アシモフの名はSF作家として記憶していまして、推理小説も書いていたのか、という感じでした。それを言うなら著者の宮内氏も「SF作家と称されることの多い著者」だそうで、そういった部分も含めてのオマージュなのかと思いました。
004
以前も書きましたが、「パンの会」は、光太郎も参加した芸術運動。しかし、本書は光太郎が欧米留学から帰する3ヵ月前の明治42年(1909)4月10日で終わっています。ぜひとも続編を執筆していただき、光太郎を登場させていただきたいものです。

ところが、各話の謎解きをする「彼女」の正体が、光太郎智恵子(特に智恵子)と関係の深かった、あの才媛だったということが最終話で明らかになり、続編が作りにくい構成。そこでいっそのこと、「彼女」を、初代「彼女」の後輩で、福島弁でボソボソと語尾の消えてしまうようなしゃべり方をし、着物の裾を長く引きずるようにして歩く丸顔の女性に交替させてしまってもいいのかな、などと思いました(笑)。ついでに言うなら、狂言廻しの役も、木下杢太郎だったのを光太郎に代えて(笑)。

もう1件。『読売新聞』さんの「読売俳壇」から。
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投稿句自体ではなく、正木ゆう子氏の選評に光太郎の名。「足跡が付いて初めてそこが道だとわかる雪野。高村光太郎の詩「道程」の一節「僕の後ろに道は出来る」を思わせる」。

この冬は珍しく、温暖な千葉県でも3回ほど雪になりました。下の画像は1月7日(金)の明け方。自宅兼事務所近くの公園です。こうなったのは数年ぶりでした。
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この頃、ツィッターなどで、おそらく関東南部のあまり雪が降らない地方の皆さんが、やはり「道程」の一節を引用しつつ、雪景色を投稿されていました。雪国の方々には珍しくもない風景なのでしょうが。

ところで、今日は雨が降っています。また雪になるかな、と思ったのですが、今のところその気配はありません。2月も下旬となり、このまま春になってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

午前十時仙北町生活学校卒業式にゆく。談話一席、午食、


昭和27年(1952)3月30日の日記より 光太郎70歳

仙北町」は盛岡市仙北町。「生活学校」は現・盛岡スコーレ高校さんです。光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が出版していた雑誌『婦人之友』に感銘を受けた吉田幾世らが、良き家庭を築く生活の知恵を学ぶ場としてスタートしたといいます。同校では光太郎の薦めでホームスパン製作や果実ジュース作りをカリキュラムに取り入れ、それが受け継がれているそうです。

佐藤隆房編『高村光太郎山居七年』から。

 その頃の卒業式に招かれて来た高村先生は、職員室で
「この学校はアメリカのフロンティヤの開拓当時の学校によく似ています。今そのことを思い出しました。この開拓精神で農村に入っていくんですね。生徒は讃美歌を歌っているが、宗教学校ではないけれども身が引きしまる。フロンティヤの人達が開発に大いに努力して文化を築き上げたのだが……頼もしい感じがします。」
 吉田幾世さんはこのことばに深く感激しました。
(略)
 式に臨んで先生は
「岩手の女性は逞しいです。岩手山のように。日本人のバックボーンです。人間は誰でも詩人であり、又画家にもなれます。そのためには物を正しくみることです。正しく深く究めることによって誰でもかけるものです。」


下記は、この日、同校に贈られた色紙です。現在も同校に大切に保管されています。
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曰く「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」。大正3年(1914)に書かれた詩「晩餐」には、よく似た「われらのすべてに溢(あふ)れこぼるるものあれ われらつねにみちよ」 という一節があります。

2月5日(土)に亡くなった芥川賞作家・西村賢太氏と、氏が「没後弟子」を自称し、光太郎がその代表作『根津権現裏』の題字揮毫を担当した大正期の作家・藤澤清造関連。

『山形新聞』さんが一面コラムで取り上げました。

談話室

▼▽アパートの家賃を4年余りも払わなかった。酒に酔って暴行を働き、警察の厄介になったこともある。すると周りの人も離れていく。そんな時に支えになったのは、大正末-昭和初めに活動した藤沢清造の小説だった。
▼▽西村賢太さんが作家になる前の逸話である。清造作品の登場人物は社会の底辺で鬱屈(うっくつ)した心を抱える。作者自身、42歳だった昭和7年1月、奇行の末に公園で凍死した。恵まれない少年時代も似ており、「涙がでてくる程身につまされ」た。随筆「清造忌」でそう振り返る。
▼▽清造の「没後弟子」と称し、傾倒した。彼を巡る物語を多くつづってきただけではない。月命日のたび、石川県七尾市の菩提(ぼだい)寺にある清造の墓に詣でた。29歳から始めて25年。芥川賞を得て人気作家になってからも、毎月の七尾行を続けた。清造の脇に自らの墓標も立てた。
▼▽先月中旬、書評紙に載った対談では執筆の原動力を聞かれ「清造がいるからこそ、いまも小説を書く意地を持続できています」。変わらぬ思いを語った。それから1カ月足らず、まだ54歳の西村さんが急死したのは清造没後90年の命日直後である。奇(くす)しき縁(えにし)と言うほかない。

「清造没後90年の命日」に関して、先月の『中日新聞』さんが報じていました。

清造先生 見守ってて 芥川賞・西村賢太さん 合掌

 七尾市出身の作家、藤沢清造(せいぞう)(一八八九〜一九三二年)の没後九十年の命日の二十九日、「清造忌」が同市小島町の菩提(ぼだい)寺・浄土宗西光寺で営まれ、藤沢に心酔する芥川賞作家、西村賢太さん(54)が墓前に手を合わせた。
 藤沢は同市馬出町に生まれ、高等小学校を卒業して上京。一九二二年に貧困と病苦の中に生きる主人公を描いた長編私小説「根津権現裏」を発表した。島崎藤村らに評価されたが、その後は作品に恵まれない生活を送り、困窮の果てに東京・芝公園で凍死した。
七尾に26年墓参「おかげで食えてる」
 西光寺には五三年に藤沢の墓碑が建立され、当時の住民有志が一度だけ追悼会を開いた。西村さんらはその意思を継ぎ、途絶えていた追悼会を二〇〇一年に「清造忌」として復活させた。命日に毎年一、二人が参列している。西村さん自身は、月命日と命日に欠かさず墓参りを始めて二十六年目。〇二年には藤沢の墓の隣に自らの生前墓を建てた。
 午後四時半すぎ、墓を訪れた西村さんは缶ビールや酒などを供え、手を合わせた。墓参りを終え「最初に来た時は二十五年前で、俺も年をとったが、清造先生も遠くに行きましたね」としのび、「作家になる前から毎月(墓参りを)やっていたから小説で食っていけているんじゃないかと思う。清造先生のおかげ」と話した。
 西村さんは今夏にも藤沢清造の随筆集を出版する予定という。
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そして同じく『中日新聞』さん、西村氏の訃報を受けて。

「賢太さん 若かったのに」 訃報受け 生前墓に七尾市民 西光寺の高僧住職「真面目で紳士 残念で仕方ない」

 五日に五十四歳で亡くなった芥川賞作家の西村賢太さんの訃報から一夜明けた六日、西村さんが生前建てた墓がある七尾市小島町の西光寺(さいこうじ)には、墓参りに訪れる市民の姿があった。「若かったのに」「信じられない」。早すぎる別れを惜しむ声が聞かれた。
 「先週来たばかりだったんでしょ。本当に信じられない」。午前十時すぎ、同市栄町の永田房雄さん(73)は墓に積もった雪を手ではらうと、近くの和菓子店で購入した草餅を供え、静かに手を合わせた。
 西村さんは七尾出身の作家藤沢清造(一八八九〜一九三二年)に心酔。二〇〇二年に藤沢の墓の隣に自身の生前墓を建てた。藤沢の命日の一月二十九日を「清造忌」とし、月命日の墓参を欠かさなかった。先月も缶ビールや酒などを墓前に供えたばかりだった。
 永田さんは「お酒は隣にあるから、甘いものを味わってもらえたらと思って」としみじみ。西村さんに会ったことはないが、一一年に芥川賞を受けた「苦役列車」は手に取ったことがある。「難しくて理解できなかった気がする。改めてじっくり読み返そうと思う」
 住職の高僧英淳(こうそうえいじゅん)さん(69)は「西村さんは七尾の人よりもしょっちゅう寺に来てくれた。二月も二十八日に来ると話したばかり。いつもと同じ様子だったからびっくり。根は真面目で紳士。若すぎる。残念で仕方ない」と肩を落とした。寺に連絡があれば、遺骨を受け取りに行くという。
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西村氏の生前墓については、亡くなってから知りました。そして毎月墓参に訪れていたということも。その心酔ぶりは半端ではありませんね。

これを期に、また藤澤に脚光が当たることを期待するとともに、改めて西村氏のご冥福を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

午前十一時頃村会議員等10人余恭三さんの案内で来訪、小屋を見てゆく。一緒に小学校にゆく。一時間はかり座談。村長も来てゐる。後酒食。午後四時頃辞去、小屋にかへる。

昭和27年(1952)1月29日の日記より 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活も6年以上が過ぎ、今さら感がありますが、もしかすると新しく議員になった人々が挨拶に、という趣旨だったのかも知れません。

芥川賞作家の西村賢太氏の訃報が出ました。

時事通信さん。

西村賢太さん死去、54歳 私小説作家、芥川賞「苦役列車」

002 「破滅型」といわれる作風の私小説で知られ、「苦役列車」で芥川賞を受賞した作家の西村賢太(にしむら・けんた)さんが5日午前、東京都内の病院で死去した。
 54歳だった。関係者によると、4日夜にタクシー内で意識を失い、病院に運ばれたという。
 1967年、東京都生まれ。中学時代に不登校となり、高校進学はせず、港湾荷役や警備員などの仕事をしながら古書店に通った。私小説にのめりこみ、大正期の作家で同じく破滅型といわれた藤澤清造に心酔した。
 2003年、同人雑誌「煉瓦(れんが)」で小説を書き始め、翌年発表の「けがれなき酒のへど」が文芸誌「文学界」に転載。その後、相次いで作品を発表し、07年には「暗渠(あんきょ)の宿」で野間文芸新人賞を受賞した。
 11年、日雇い労働で糊口(ここう)をしのぐ若者の屈折を描いた「苦役列車」で芥川賞を受賞。翌年に映画化もされた。
 藤澤の菩提(ぼだい)寺の浄土宗西光寺(石川県七尾市)への墓参を続けた。後年まで「藤澤らの私小説に救われてきた」との思いを強く抱き、代表作「根津権現裏」を復刊させたほか、短編集の編集も担当した。

西村氏、記事にある通り、大正期のマイナー作家・藤澤清造に光を当てたことで、当方は記憶していました。

藤澤の代表作とされる『根津権現裏』(大正11年=1922)は、題字の揮毫が光太郎です。
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装幀は工芸家の広川松五郎で、木版画は広川の手になるもの。函の「根津権現裏」という題字と、作者名「藤澤清造」が光太郎の筆です。
根津権現裏扉
こちらは同書の扉ですが、函の光太郎揮毫を広川が木版に写し取ったと推定されます。

光太郎と藤澤、直接の交流のあったことは確認できていません。ただ、光太郎と広川はいろいろな場面で繋がっており、どうも広川経由で光太郎への題字揮毫依頼が実現したものと思われます。

西村氏、この『根津権現裏』復刊を新潮社さんに働きかけ、平成23年(2011)に、氏の解説で文庫化されました。当方、その際にちょっとしたニュースになったのを記憶していました。

翌年にはやはり氏の解説、編集で、『藤澤清造短編集』も新潮文庫の一冊として刊行されています。また、『藤澤清造全集』の刊行も予告されましたが、そちらは頓挫。今後に期待したいところです。それから、こちらは存じませんでしたが、西村氏、令和元年(2019)には講談社さんから『藤澤清造追影』という書籍も刊行されています。

氏の藤澤評。

この人の、泥みたような生き恥にまみれながらも、地べたを這いずって前進し、誰が何と言おうと自分の、自分だけのダンディズムを自分だけの為に貫こうとする姿、そして、結果的には負け犬になってしまった人生は、私にこれ以上とない、ただ一人の味方を得たとの強い希望を持たせてくれたのである。

結果的には負け犬になってしまった人生」は、心を病んだ末、昭和7年(1932)、芝公園で凍死し、身元不明行旅死亡人として荼毘に付され、死後、遺品から藤澤だったと判明したことなどを指しています。

生き恥にまみれながらも、地べたを這いずって前進し、誰が何と言おうと自分の、自分だけのダンディズムを自分だけの為に貫こうとする姿」あたり、もしかすると光太郎もシンパシーを感じたかもしれません。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨日あたりよりタバコをやめる事にしたり。実際うまくなし。


昭和27年1月12日の日記より 光太郎70歳

1012光太郎、喫煙を始めたのは意外と遅かったようです。大正14年(1925)、数え43歳の時に回答したアンケート「紫煙問答」では、以下のように書いています。

小生、大ていのものはいけますが、タバコだけは生来甚だ不調法で、たまに試るときつと目をまはすか、胸をわるくするといふ次第故残念ながら何も申上げる資格がございません。

で、ここにきての禁煙宣言。しかしそれも守られなかったようで、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後の、中野の貸しアトリエで撮られた写真には、パイプをくわえたショットなども現存します。肺病病みのくせに、自殺行為ですね(笑)。





小説の新刊です。

かくして彼女は宴で語る 明治耽美派推理帖

2022年1月25日 宮内悠介著 幻冬舎 定価1700円+税

明治末期に実在した若き芸術家たちのサロン、その名も「パンの会」。隅田川沿いの料理店「第一やまと」に集った木下杢太郎、北原白秋、石井柏亭、石川啄木等が推理合戦を繰り広げる。そこに謎めいた女中・あやのも加わって――。鬼才・宮内悠介の新境地!

目次
 第一回 菊人形遺聞 団子坂
 第二回 浅草十二回の眺め 浅草
 第三回 さる華族の屋敷にて 高輪
 第四回 観覧車とイルミネーション 上野
 第五回 ニコライ堂の鐘 お茶の水
 第六回 未来からの鳥 市ヶ谷台
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先週土曜の『朝日新聞』さん読書面に、半ページ費やしての大きな広告が出ていました。
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001「ありゃま」という感じでした。「杢太郎、白秋、柏亭、啄木、パンの会」と来れば、光太郎も登場するか、と、一瞬期待しましたが、それなら光太郎の名も出すはず。すると、光太郎が欧米留学から帰国する明治42年(1909)7月以前の話か、と思いました。

購入し、読了。果たして明治42年(1909)3月で話が終わっていました。そこは予想していましたが、それでも登場人物たちの会話の中に光太郎の名が出て来ないかな、と期待していました。関川夏央氏原作、故・谷口ジロー氏作画の『かの蒼空に』(「坊ちゃんの時代」第三部)でそうなっていましたので。

ところが残念ながら、そういう場面はありませんでした。続編に期待したいところです。すると、続編が出るためには本編の売れ行きが良くなければならないでしょう。そこで皆様、こちらをぜひともご購入下さい(笑)。

ところで本作、幻冬舎さん刊行の雑誌『小説幻冬』に連載されていたそうですが、存じませんでした。今後、同誌を気にかけてみようと思います。「続・かくして彼女は……」を期待しつつ(笑)。

さて、物語は宣伝文にある通り、明治末の芸術至上主義運動「パンの会」が舞台でした。目次で「第○話」とか「第○章」ではなく、「第○回」となっているのは、同会の開催回を表しています。

同会は案内状を発送し、各界から大人数の参加を募って実施した「パン大会」と、少人数で集まって開かれた例会的なものがありました。最初の「大会」は、これも光太郎帰国前の明治42年(1909)4月10日。その後、春秋二回の「大会」を開催しようと企図されました。

それに対し、少人数での例会的なものは、明治41年(1908)12月12日に始まっています。会場は隅田川沿いの料理屋「第一やまと」。物語はこの日から始まり、翌年3月の第6回までとなっています。

それぞれの回の参加者は、おそらく史実通り。そして第六回までの「皆勤」だった(笑)木下杢太郎と石井柏亭のうち、杢太郎を主人公としています。毎回、参加者の誰かが近頃起こったという設定の未解決事件等の噂話や調査依頼を持ち込み、各回の参加者が頭をひねって謎解きに挑む、という趣向になっています。目次にある「団子坂」等の地名は、その事件現場です。その事件関係者ということで、森鷗外や与謝野晶子も話の中に登場します。さらには時空を飛び越えて、三島由紀夫まで。

ちなみに六回までのパンの会参加者は以下の通り。

木下杢太郎、石井柏亭、北原白秋、吉井勇、山本鼎、森田恒友、磯部忠一、平野万里、長田幹彦、栗山茂、フリッツ・ルンプ、石川啄木、倉田白羊、田中松太郎、荻原守衛、島村盛助

光太郎の親友・荻原守衛を含む最後の三人は、第六回だけ、しかも遅刻してきたため「推理」には参加していません。もっとも、杢太郎らがああでもない、こうでもない、と「推理」しつつもおよそ役に立たず、結局ほぼ毎回、最後に快刀乱麻を断つごとく鮮やかに謎解きをするのは、「第一やまと」の女中「あやの」。そこで、題名が「かくして彼女は宴で語る」となっているわけです。

そして第六回では、「あやの」の素姓が明らかに。何と、女中というのは世を忍ぶ仮の姿で、その正体は、光太郎智恵子(特に智恵子)と関係の深かった、あの才媛! これには「やられた」と思いました(笑)。

というわけで、ぜひご購入ください。光太郎が登場するであろう続編のためにも(笑)。

【折々のことば・光太郎】

肋間神経痛は去年の今頃より始まりたり。今まだ異常感覚のこり居れど苦しきほどではなし。力仕事のあとの息切れの方が目立つ。


昭和27年(1952)1月5日の日記より 光太郎70歳

光太郎の胸の疼痛は結核性のでしたが、不思議なことに、この年は前年よりその痛みが治まっていました。それが、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を決意することに繋がります。

現在発売中の『週刊新潮』さん1月20日号。巻末近くのグラビア的な記事のページに光太郎の名と写真――という情報を、お世話になっている坂本富江様から御教示いただき、早速買って参りました。
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「没後100年「森鷗外」 文豪の”顔は履歴書”」という3ページの記事で、文京区立森鴎外記念館さんで開催中の特別展「写真の中の鴎外 人生を刻む顔」とリンクしたものです。
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光太郎と鷗外の出会いは、光太郎が東京美術学校在籍中だった明治31年(1898)と推定されます。この年、鷗外が美学の講師として美校の教壇に立ち、光太郎もその講義を受けました。もっとも、鷗外邸と光太郎の実家は指呼の距離でしたので、それ以前に道端ですれ違ったりしていた可能性もありますが……。

光太郎には、軍医総監だった鷗外の講義ぶりなどが権威的に感じられ、あまり親しめなかったようです。後に鷗外が自宅で開いた観潮楼歌会、呼ばれても1度かそこらしか顔を出しませんでした。そして「軍服着せれば鷗外だ」事件

一方の鷗外。明治末、留学から帰った光太郎が徴兵免除になったのは、光雲に頼まれた鷗外が裏で手を回したからという説があります。
 
光太郎は鷗外を尊敬しながらも反発し、しかし頭が上がらず、鷗外は光太郎を「しょうもない奴だ」と苦笑しながらもかわいがる、といった関係でした。

で、『週刊新潮』さんに載った、光太郎も写っている写真。
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場所は上野の精養軒さん、時は明治44年(1911)、光太郎の師・鉄幹与謝野寛の渡欧送別会の席上です。昭和59年(1984)刊行の『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』等にも掲載されており、初見ではありませんが、ドンと大きく載っていたので「おお」という感じでした。

前列中央で膝掛けをしているのが鷗外、一人置いて右から二人目が主賓の鉄幹です。光太郎は後列左から4人目(『週刊新潮』さんでは「後の口髭は高村光太郎」と書かれています(笑))。左隣は佐藤春夫、右隣に江南文三、万造寺斉、北原白秋、木下杢太郎と続き、中々錚々たるメンバーです。ちなみにオリジナルはもっと横長の写真で、右端に『野菊の墓』の伊藤左千夫も写っていますが、『週刊新潮』さんではカットされています。

鴎外記念館さんで開催中の特別展「写真の中の鴎外 人生を刻む顔」では、この写真も出品されているのでしょう。

興味のある方、足をお運びいただき、さらに『週刊新潮』さんもお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

院長さんの息進さんと熊谷さん父子来訪、山鳥一羽、カリフラワ、セロリ、砂糖等もらふ、新小屋で談話、夕方学校まで送る、ダツトサンで帰らる、


昭和26年(1951)11月21日の日記より 光太郎69歳

「院長さん」は、花巻病院長・佐藤隆房。光太郎歿後は花巻高村記念会を立ち上げ、永らく会長を務められました。「息進さん」は、隆房の子息にて、花巻病院長、花巻高村記念会長を嗣いだ佐藤進氏です。

今朝の『朝日新聞』さんには、大きく広告が出ていました。
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残照の頂 続・山女日記 

2021年11月10日 湊かなえ著 幻冬舎 定価1,500円+税

「通過したつらい日々は、つらかったと認めればいい。たいへんだったと口に出せばいい。そこを乗り越えた自分を素直にねぎらえばいい。そこから、次の目的地を探せばいい。」(武奈ヶ岳・安達太良山 より)

日々の思いを噛み締めながら、一歩一歩、山を登る女たち。山頂から見える景色は、これから行くべき道を教えてくれる。

後立山連峰 亡き夫に対して後悔を抱く女性と、人生の選択に迷いが生じる会社員。
北アルプス表銀座 失踪した仲間と、ともに登る仲間への、特別な思いを胸に秘める音大生。
立山・剱岳 娘の夢を応援できない母親と、母を説得したい山岳部の女子大生。
武奈ヶ岳・安達太良山 コロナ禍、三〇年ぶりの登山をかつての山仲間と報告し合う女性たち。
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NHK BSプレミアムさんで放映中の「プレミアムドラマ山女日記3」の原作、ということですが、読んで驚きました。ドラマは工藤夕貴さん演じる山岳ガイド・立花柚月を主人公としていますが、こちらには柚月は登場しません。

4篇のオムニバスがそれぞれ独立しており、登場人物の一部とそれぞれの設定や、描かれるエピソードの一部がドラマでもアレンジされて使われている、という形です。

「続」ではない方の『山女日記』を読んでいないのですが、そちらには「立花柚月」が登場します。ただ、やはりドラマとは設定が異なっているようです。結局、ドラマは柚月を主人公、というより狂言回しにできるよう、脱サラした山岳ガイドと変更し、小説各話のエピソードも、設定を変えながらちりばめているようです。

で、「武奈ヶ岳・安達太良山」。ドラマでは小林綾子さん演じる英子は柚月のOL時代の同僚で、夫の実家である和菓子店を立て直すために、二本松に移り住んだという設定になっていますが、小説の英子は、京都の和菓子店の娘。急逝した兄に替わって、店を継いだということになっています。そして英子が登るのは安達太良山ではなく、滋賀県の武奈ヶ岳。山頂で自分の店の菓子を、そうとは知らない見知らぬ登山者から、これが山頂でのとっておきのルーティーン、的におすそわけとして差し出され、涙ぐむなどのエピソードは、ドラマと同一でした。

では、安達太良山は、というと、英子の旧友の久美が登ります。その中では、「智恵子抄」がらみの話になっていました。ちなみに久美は、福島浜通りに夫と開いたペンションが、東日本大震災の津波で全壊、という設定でした。英子と久美は、それぞれに手紙でそれぞれの登山を報告し会う、往復書簡の形になっています。

帯文にあるとおり、「ここは、再生の場所――。」小説もドラマも、各話の登場人物が、日々の暮らしの中で抱え込んだ重い荷物を、山に捨ててくる(以前も書きましたが、比喩です)という構図は変わりません。そういう意味では、非常にポジティブです。

また、オムニバスですので、どこから読み始めてもOK。当方もまず「武奈ヶ岳・安達太良山」を読み、巻頭に返って「後立山連峰」を読了、現在「北アルプス表銀座」を読んでいるところです。

皆様もぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃起きた時花巻より花巻新報の平野氏来訪、まりつきうたを舞踊にするとの事、

昭和26年(1951)5月20日の日記より 光太郎69歳

016まりつきうた」は、「初夢まりつきうた」。確認できている限り、光太郎がはじめから歌曲等の歌詞として作詞したと思われる最後の作品で、この年1月7日の『花巻新報』に発表されました。

邦楽奏者の杵屋正邦により作曲され、レコード化もされましたが、さらに振りを付けて舞踊にする、ということで、平野なる人物が報告に来たという訳です。

5月28日付の『花巻新報』から。

本社では彫刻家、詩人高村光太郎翁が、本誌新年号のために寄稿された花巻商人“初夢まりつき唄”の舞踊化を図り計画中のところ、水木歌盛さんの協力を得て日本舞踊の泰斗栗島すみ子(水木歌紅)振付、杵屋正邦作曲が完成したので 来たる六月十六日(土曜日)昼及び夜の二回に亘り発表会を開催する予定である、尚当日は高村翁を招待して講演会を開く予定(入場無料)

栗島すみ子、ビッグネームが出てきましたね。

作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。

「時事通信」さん配信記事から。

瀬戸内寂聴さん死去、99歳 純文学から伝記、大衆小説まで 

無題 私小説から伝記、歴史物まで幅広く手掛け、文化勲章を受章した作家で僧侶の瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)さんが9日午前6時3分、心不全のため京都市の病院で死去した。99歳だった。葬儀は近親者で行う。後日、東京都内でお別れの会を開く予定。
 1922年、徳島市生まれ。東京女子大在学中に結婚。北京に滞在したが、46年に引き揚げ後、夫の教え子と恋愛関係になり協議離婚した。前後して小説を書き始め、丹羽文雄主宰「文学者」の同人に。57年に新潮社同人雑誌賞を受賞し、初の短編集「白い手袋の記憶」を刊行した。
 続けて発表した短編「花芯」で人妻の不倫を描き、「子宮作家」と呼ばれるなど物議を醸した結果、文芸誌からの執筆依頼が数年途絶えた。その間も雑誌に発表した作品が人気を集め、流行作家に。純文学と大衆小説のジャンルをまたいで活躍し、61年に伝記小説「田村俊子」で田村俊子賞、63年には「夏の終り」で女流文学賞を受賞した。
 明治・大正期の女性解放運動に共感し、伊藤野枝らを題材に「美は乱調にあり」などの伝記小説を次々と発表した。古典文学にも造詣が深く、70歳になる92年から「源氏物語」の現代語訳に取り組み、98年に全10巻を完成。京都府宇治市の源氏物語ミュージアムの名誉館長も務めた。
 多忙を極める中で出家への思いを募らせ、岩手県平泉町の中尊寺で73年に得度(出家)した。旧名「晴美」から法名「寂聴」に改名し、執筆を続けながら、京都市の「寂庵」を拠点に法話活動を展開。岩手県二戸市の天台寺住職も兼ね、孤独や病、家族などに悩む人々に寄り添った。
 政治・社会運動にも関わり、91年の湾岸戦争や2001年の米同時多発テロの際は断食により反戦を訴えた。東日本大震災後も現地の慰問や脱原発運動などに奔走した。
 著書は、谷崎潤一郎賞の「花に問え」、芸術選奨文部大臣賞の「白道」、野間文芸賞の「場所」、泉鏡花文学賞の「風景」のほか、エッセーや対談集など多数。06年に文化勲章を受章した。
 14年に背骨の圧迫骨折、胆のうがん摘出を経験したが、その後回復し、17年に作家としての来歴や闘病を題材にした長編小説「いのち」を刊行するなど、晩年まで精力的に文学活動を続けた。

当方、伝記小説のジャンルで、いろいろ参考にさせていただきました。光太郎智恵子を中心に据えた作品は書かれませんでしたが、その周辺人物たちを描いたもの。
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最近に読んだのは、一番右の『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』(昭和59年=1984)。白秋を主人公とした映画「この道」公開記念に出た文庫の新装版で読みました。中央が『田村俊子』(昭和36年=1961)。上記画像はやはり文庫版ですが、寂聴さんと交流の深かった横尾忠則さんの表紙が鮮烈です。智恵子と最も親しかった作家の田村俊子が主人公です。右は『青鞜』(昭和59年=1984)。平塚らいてうを中心に、尾竹紅吉、伊藤野枝ら『青鞜』メンバーの群像。智恵子も登場します。上記文庫版の表紙でもモチーフになっている、『青鞜』創刊号の表紙のくだり。
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ちなみに当方手持ちの『青鞜』。これも文庫版ですが、寂聴さんサイン入りです。当方が書いてもらったわけではなく、古書店で購入したもので、真筆かどうかよくわかりませんが。
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002これら三冊、いずれも厚冊で、改めて読み返してはいませんが、平成24年(2012)に発行された雑誌『いろは』に載った、瀬戸内さんと森まゆみさんの対談を読み返してみました。題して「青鞜の女たち」。

田村俊子やらいてう、そしてやはり寂聴さんが伝記小説で描かれた岡本かの子(『かの子撩乱』昭和40年=1965)、伊藤野枝(『美は乱調にあり』同)などにも触れられています。野枝あたりと較べれば、らいてうはまだまだ優等生、的なご発言もあったりで、寂聴さんの一種の豪快さも改めて感じました。

『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』でメインだった江口章子なども含め、三浦環や管野須賀子、金子文子など、強烈な女性たちを多く描いてこられた瀬戸内さん。御自身も彼女たちに負けず劣らず、ですね。ぜひ森さんあたりに伝記小説『瀬戸内寂聴』を書いていただきたいものです。

改めて、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

午后佐藤隆房氏、宮澤政次郎氏、〃老母同道来訪。熊谷さん運転と見ゆ、もらひものいろいろ。

昭和26年(1951)5月6日の日記より 光太郎69歳

宮澤政次郎氏」は賢治の父、「老母」はその妻・イチです。光太郎は花巻郊外旧太田村の山小屋に移った後も、花巻町中心街に出ると、ほぼ必ず宮沢家に顔を出していましたが、政次郎夫妻が太田村の山小屋を訪れたのは、この時が初めてでした。

自動車が通れる道が光太郎の山小屋から1㌔弱の山口小学校までしか通じておらず、明治7年(1874)生まれの政次郎は足を悪くしていたため、無理だったわけです。

この時期、山小屋の増築工事もあり、道も整備され、この日は佐藤隆房家のダットサンで、政次郎夫妻が念願の光太郎山小屋訪問を果たしました。下記がこの日撮られた写真で、左からイチ、政次郎、光太郎です。

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まず、新刊の小説です。

非愛の海

2021年10月6日 野樹優著 つむぎ書房 定価1,600円+税

反体制という青春があった。 此の国で人を愛するのは偽善で堕落だ。いや腐敗だ。俺たちはインテリではなかったのかと見せかけの自由に苛立つ戦後生まれのかれらが為そうとした希望のテロルとは何か。そして令和のこの時、孫世代が運命のように過酷な現実と出会う。これほど知性の愛を問いかけた文学はあったろうか。反抗は学問なのだ、と孤絶の闇を噛む愛の幻想(かげろう)。
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作者の野樹優氏、「小野寺聰」名義で演劇公演の脚本、演出などもなさっています。小野寺氏というのがご本名なのだと思われます。

一昨年、渋谷で公演のあった「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」の脚本、演出をされていて、終演後には当方自宅兼事務所までお電話を下さいました。そして今回、御著をお送り下さったという訳で、恐縮しております。

物語は、戦後の混乱期、昭和40年代(と思われる時期)、現代を舞台としています。このうち、昭和40年代(と思われる時期)に、ノンセクト(死語ですね(笑))の左翼学生たちが、旧華族の令嬢を誘拐し、身代金ではなく、天皇が自らの戦争責任を表明することを要求する、というくだりがあります。それが上記の「見せかけの自由に苛立つ戦後生まれのかれらが為そうとした希望のテロル」です。誘拐、といっても、誘拐された後の令嬢が、彼らの計画に共鳴し、「共犯者」となることを提案したりと、一筋縄ではいかないのですが……。

その左翼学生たちと令嬢の会話の中に、ちらっと光太郎智恵子。
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あり余る過剰な才能を、光太郎との生活の中で発揮しきれず、心を病んでしまった智恵子。同様に、あり余る過剰な才能を、閉塞する時代の中で発揮しきれなかった学生たち(主人公的な学生は、詩や映画などの方面でその一部を発揮してはいましたが)。結局は挫折してゆくことになっていきます。

新刊紹介ついでにもう一冊。

4月にフランスで刊行された仏訳『智恵子抄』、『Poèmes à Chieko』。その後、紀伊國屋さんで注文可となり、取り寄せてもらいました。
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当方、仏語はほぼほぼお手上げですが、何と、見開きで光太郎の原詩が日本語で載っており、こりゃいいや、という感じでした。
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詩の選択は、新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)が底本となっており、戦後の詩篇も含まれています。散文「智恵子の半生」も。しかし、「智恵子の半生」と、それから冒頭20頁ほど、光太郎智恵子の簡略な評伝となっているようですが、そちらは仏語のみでした。散文「九十九里浜の初夏」、同じく「智恵子の切抜絵」は割愛されていました。

それぞれぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

藤間さんの為短文をかく。

昭和26年(1951)4月19日の日記より 光太郎69歳

「藤間さん」は舞踊家の藤間節子(のち、黛節子)。

「智恵子抄」の二次創作として光太郎が唯一許し、光太郎生前に実際に上演されたたのが、藤間による舞踊化のみでした。昭和24年(1949)と翌年のことでした。
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その後の「智恵子抄」がらみでない公演のパンフレットにも、光太郎は短文を寄せ、日記にあるのもそのうちの一篇「山より」です。

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