カテゴリ:彫刻/絵画/アート等 > 工芸

千葉県は我孫子市にある我孫子市白樺文学館。先週、行って参りました。4年ぶり、4回目ぐらいの訪問でした。
 
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現在、下記の企画展が開催中です。 

柳宗悦展-出会いと絆の地、我孫子-

7月3日(木曜日)から9月28日(日曜日)まで
午前9時30分から午後4時30分 休館日は月曜日。月曜日が祝祭日の場合は開館し、次の平日が休館日。
一般 300円、高校生・大学生 200円
〒270-1153 千葉県我孫子市緑2-11-8
 
 宗教哲学者、思想家、美学者、そして民藝運動の父、柳宗悦。宗悦は、1914(大正)3年9月初旬25歳の時に我孫子へ移住し、1921(大正10)年3月までを過ごしました。我孫子での活動は、宗悦にとってかけがえのないものであったといえます。
 『白樺』同人として西洋美術の積極的な紹介に努め、特にロダンとの交流により手に入れた彫刻は、朝鮮半島で教員をしていた浅川伯教を我孫子に導き、民藝運動の基礎となる朝鮮陶磁器「秋草文面取壺」との出会いをもたらします。
 陶芸家バーナード・リーチとの絆を深め、浜田庄司との出会いもここ我孫子の地でした。そして『白樺』同人である志賀直哉、武者小路実篤を我孫子に導き、生涯にわたる絆をここで結んだといっても過言ではありません。また我孫子の地は、宗悦にとって妻兼子との新婚時代を過ごした地であるとともに、初めて自らの家庭を築いた地、つまり家族の絆を築いた場所です。
  柳宗悦にとって我孫子は「出会い」と「絆」の地であったといえます。
 本企画展では、我孫子来訪100年を記念し、「出会い」と「絆」をコンセプトに、日本民藝館所蔵品を中心に宗悦の我孫子時代の活動を紹介します。
 
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光太郎は『白樺』の準同人のような立ち位置でした。大000正期にロダンを紹介する上で、光太郎と白樺派との接点が大きかったので、白樺派の面々と親しく交わっていました。右はロダンの「鼻のつぶれた男」。今回の企画展でも展示されています。
 
特にバーナード・リーチはロンドンでの光太郎との出会いが大きな機縁となって来日、以後も交流を続けましたし、武者小路実篤などとも晩年までつきあいが続きました。他にも有島兄弟、長与善郎、木下利玄、岸田劉生、そして柳宗悦。今回の展示では、これらの人々の集合写真で、光太郎が写っているものも並んでいました。
 
ただし、白樺派の面々が移り住んだ、この我孫子には光太郎の足跡は残っていないようです。
 
文学館のすぐはす向かいが、志賀直哉の旧宅跡。書斎として使用していた棟のみ残り、市の文化財に指定されています。母屋があった場所には、基礎部分をかたどった敷石が敷き詰められています。
 
 
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また、やはりすぐ近くの手賀沼には、昭和49年(1974)に建立されたリーチの碑も。
 
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リーチの描いた巡礼者の絵と、英文の詩が刻まれています。傍らには解説の碑。
 
我孫子には他にもジャーナリスト・杉村楚人冠記念館、柳の旧宅跡、柳の叔父の嘉納治五郎別荘跡など、文学散歩にはもってこいです。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月12日
 
昭和20年(1945)の今日、親友の作家・水野葉舟にあてて、花巻郊外太田村の山小屋の図面入りの長い手紙を書きました。
 
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現在、「高村山荘」として保存されているものですが、もともと鉱山の飯場小屋だったものを買い取り、村人の協力で解体移築、翌月から7年間、この小屋み住むことになります。
 
上記画像に見える当初の構想では、「月見台」などと洒落たものを作る予定でしたが、これは実現されませんでした。また、「総板敷(彫刻製作のため)」とあります。やはり当初はここで彫刻にいそしむ予定だったのですが、戦争協力に対する深い反省から、彫刻は封印されます。簡単なものは作ったようですが、彫刻らしい彫刻は一点も作りませんでした。
 
その封印を解いたのは、7年後。青森県から委嘱された十和田湖畔の裸婦像、通称乙女の像の制作でした。

愛知は碧南市から企画展情報です。
 
昨年、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の巡回があった、碧南市藤井達吉現代美術館さんで、以下の企画展が始まります。 
 
光太郎の代表作の一つ、ブロンズの「手」も並びます。
 
9/13追記 残念ながら光太郎の代表作の一つ、ブロンズの「手」は、高岡展では展示されましたが、碧南には出ないそうです。すみません。

メタルズ!-変容する金属の美-

会  期 平成26(2014)年9月11日(木)から10月19日(日)まで
観覧時間  10:00-18:00
休 館 日 月曜日(ただし、9月15日(月・祝)及び10月13日(月・祝)は開館、翌日は休館)
観 覧 料 一般800(640)円 高校・大学生500(400)円 小学・中学生300(240)円
 
    ※()は20名以上の団体
 
関連イベント
■記念講演会 
日  時 2014年9月27日(土) 午後2時~3時30分 
講  師 村上隆氏(高岡市美術館館長/京都美術工芸大学教授)
内  容 「変容する金属の美」
場  所 大浜まちかどサロン2階(美術館向かい)
定  員 先着60名 (定員になり次第締切)
 
■ 美術講座
日  時 2014年10月4日(土) 午後2時~3時30分 
講  師 土生和彦(碧南市藤井達吉現代美術館学芸員)
内  容 「ブロンズによる人の姿」
場  所 大浜まちかどサロン2階(美術館向かい)
定  員 先着60名 (定員になり次第締切)
 
■ 工場見学と企画展観覧
ステンレスの製造工場を見学した後、担当学芸員とともに市内の野外彫刻、企画展を観覧します。
日  時 2014年9月28日(日) 午後2時~3時30分
対  象 中学生以上
昼 食 代 500円(企画展観覧には別途観覧料金が必要です。団体割引料金を適用します。)
定  員 先着20名 (定員になり次第締切)
 
■ ワークショップ 
銅板に好きな図案を鉄筆で描き、レリーフを作ります。
日  時 2014年10月5日(日) 
 1 小学生対象(12名まで):午前10時から正午まで
 2 一般(中学生以上12名まで):午後1時30分から4時30分まで
テ ー マ 銅のいぶしレリーフ
講  師 小島雅生氏(造形作家/東海学園大学准教授)
参 加 費 小学生:500円 一 般:2500円(展示用額付)
場  所 美術館地下1階創作室
 
■野外彫刻散歩
美術館周辺の野外彫刻を担当学芸員とともに歩いて巡ります。
日  時 2014年10月11日(土) 午前11時から12時30分まで
行  程 美術館出発→臨海公園野球場前→臨海体育館・水族館解散
参 加 費 不要
 
■ギャラリー・トーク
当館学芸員が展示作品の解説を行います。
日  時 9月:13日(土)、20日(土) 10月:11日(土)、18日(土)
 午後2時より(約30分)

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ぜひ足をお運びください。
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月25日
 
昭和18年(1943)の今日、詩人、佐藤惣之助の追悼文集『佐藤惣之助おぼえ帖』が櫻井書店から刊行されました。001
 
佐藤惣之助(明23~昭17)は、句誌『とくさ』、文芸誌『テラコツタ』などに依った詩人です。
 
作詞家としても活躍、「赤城の子守歌」(作曲・竹岡信幸/歌・東海林太郎)、「大阪タイガースの歌」(現・「阪神タイガースの歌」、通称「六甲おろし」 作曲・古関裕而)などをてがけました。
 
光太郎の「詩魔佐藤惣之助氏」が掲載されています。抜粋します。
 
個人的に往来する間柄でなかつた私にも、佐藤氏の寛𤄃な気性と、清濁併せ呑む気宇と、内に包蔵する取つて動かぬ 耿介の精神とにはいつも心を惹かれてゐた。山ほどあつたであらう其の為残した仕事を抱いたまゝ急逝された事は惜しい上にも惜しい。

最近、このブログでご紹介した企画展につき、報道がなされていますので、2件、ご紹介します。いずれも光太郎の名前が入っているものです。
 
まずは、金沢で開催中の「中村好文 小屋においでよ!」 について。 

暮らし、12平方メートルに凝縮 金沢で中村好文の「小屋」展

『朝日新聞』 2014年7月9日 無題
 
 人が暮らせる最小限の空間を追求した建築展「小屋においでよ!」が、金沢市の金沢21世紀美術館で開かれている。建築家の中村好文が寝食、調理、風呂、トイレの機能を12平方メートルに凝縮した。
 
 中村が作った「小屋」は、幅3メートル、奥行き4メートル。だが天井が3メートルと高いせいか、内部は広く感じる。間取りはワンルーム。居間の窓際にソファベッドが造り付けられ、寝室を兼ねている。右手奥に台所があり、勝手口に通じる。左手奥にはシャワーとトイレ。小さなクローゼットもある。
 
 中村は武蔵野美術大在学中から、住宅の設計に興味を持った。悪条件であるほど建築家の能力が問われると考え、いわゆる狭小住宅を好んで設計してきた。今回の作品は「建築というより営巣」。「小屋をテーマに住宅の本質をあぶり出したい」と話す。
 
 設計には、名作といわれる小屋を見てきた経験が生きている。建築家ル・コルビュジエの「休暇小屋」、詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年に住んだ岩手県花巻の「山荘」。アメリカの文筆家ソローが「森の生活」で描いた小屋も参考にした。
 
 裏テーマは「エネルギー」だという。屋根に太陽光発電パネルをつけ、一つしかない電灯の電源を賄う仕組み。屋根の上の樽(たる)に雨水をため、シャワーは太陽熱で温めたタンクの水で、炊事は七輪の炭火で。「この家を見て、暮らしを考え直してもらうのが目的。質素で簡素な暮らしを『いいな』と思ってもらえれば」
 
 設計段階のスケッチや図面、ル・コルビュジエ、高村光太郎らの「名作小屋」の模型なども展示している。(安部美香子)
 
 
続いて、高岡市美術館の「メタルズ!-変容する金属の美-」展について。

金属の機能切り口に メタルズ!展-村上隆高岡市美術館長に聞く(下)

北日本新聞』 2014年7月8日003
 
■既成概念取り払う
 高岡市美術館で開かれている「メタルズ!-変容する金属の美」展は、全国の美術館や博物館が所蔵する古代から現代までの約100点の金属造形作品がそろう。企画・監修した村上隆高岡市美術館長がこだわったのは、その「見せ方」だ。時間軸にとらわれず、金属の機能性にスポットを当てた展示とし、これまでにない展覧会を実現させた。

 二条城に飾られていた国宝の釘隠(くぎかくし)、法隆寺伝来の重要文化財「金銅小幡(こんどうしょうばん)」、国内で唯一出土した金製の勾玉(まがたま)…。会場には、歴史的に価値が高い古代や中近世の名品が並ぶ。京都国立博物館学芸部長を務めていた村上館長のネットワークで、高岡に初めてこうした逸品が集うことになった。

 近現代の作品も、美術の教科書でおなじみの高村光太郎「手」や、芥川龍之介が「この首は生きている」と語った逸話が残る中原悌二郎「若きカフカス人」など、多様な作品がそろった。

 村上館長は「美術館、博物館という枠組みを取り払いたかった」と意図を説明する。一般的に、美術館は明治時代以降、博物館は明治以前の作品を展示するケースが多いが、そうした枠組みにとらわれると、金属の多様な美は紹介できない。目指したのは、既成概念に縛られない自由な展覧会だ。

 「お勉強の場にはしたくない」と、時代や年代別に並べることはせず「金属が持つ機能性を大事にして展示の構成を考えた」。金属は硬く強いだけでなく、独特の光沢があり、振動や熱を伝えるなどの特性を持つ。企画展会場の三つの展示室のうち、古代から近代までの金属造形を集めた第2室は「飾り」「響き」「器」など機能別に並べた。

 近現代の作品は機能ではくくりにくいため、第1室に工芸作品と具象彫刻、第3室は抽象的な造形作品を集めた。「時代とともに、金属は道具だけでなく自己表現の素材として用いられるようになる。機能で分けられなくなるのは当然」とし、それぞれの展示室の中で見せ方を工夫した。

 日本の金属造形史を美術館的な手法で俯瞰(ふかん)する「メタルズ!」展は、金工のまち・高岡を出発点に全国4市を巡回する。村上館長は「日本人の生活の中で、金属造形がどういう意味合いを持ってきたかを見てもらう場。新たな発想を生むためにも、いろんな見方をしてほしい」と語った。■第1室「二度楽しめる空間」
 村上隆館長が「メタルズ!」展の展示で最も苦労したのは、近現代の工芸作品と具象彫刻を集めた第1室だ。

 工芸は、伝統的な金工技術を踏襲しつつ新しい方向性を追求した作品群。芸術表現の素材として金属を用いた彫刻とは、性質が全く異なる。村上館長は「両者のせめぎ合いを目の当たりにし、本当に悩んだ」と振り返る。

 そこで考えたのが、二つの世界の良さを生かす展示。壁面のガラスケース内には工芸作品を並べ、中央の開けたスペースに彫刻を展示した。

 彫刻は、村上炳人(へいじん)「つめこまれたちえぶくろ」を中心に、12点を円形に配置した。時計や十二支を意識したという。にらみ合うネコ(朝倉文夫「眈々(たんたん)」)とカラス(柳原義達「道標 鴉(からす)」)など、それぞれの作品の目線の先も意識して鑑賞すると面白い。中央の「つめこまれたちえぶくろ」は正面がない全方位的な作品で、磨き上げられた金属部分が周囲の作品を映し出す効果もある。

 村上館長は「一つの空間で2度楽しめる展示になったと思う。ぜひ足を運んで展示の秘密を読み解いてほしい」と話した。(高岡支社編集部・荒木佑子)

 「メタルズ!」展は8月31日まで。高岡市美術館開館20周年・北日本新聞創刊130周年記念。高岡の後、碧南市藤井達吉現代美術館(愛知)、北九州市立自然史・歴史博物館(福岡)、新潟市新津美術館(新潟)を巡回する。
 
ところで、また見落とすところでしたが、「メタルズ」展、昨年、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展を開催した、愛知碧南藤井達吉現代美術館にも巡回されるのですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月11日
 
明治28年(1895)の今日、光雲が、京都で行われた第四回内国勧業博覧会に木彫「氷室翁」を出品し、妙技二等賞、「天鹿馴兎」「睡猫置物」で妙技三等賞を受賞しました。

富山県高岡市から企画展の情報です。

高岡市美術館開館20周年記念 メタルズ!-変容する金属の美-

期 日 : 2014年6月28日(土)~8月31日(日)
会 場 : 高岡市美術館 富山県高岡市中川1丁目1番30号
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
料 金 : 
一般1,000円(前売・団体・65歳以上800円)、
      高校・大学生700円(団体560円)
 小中学生300円(団体240円)

休 館 : 月曜日(月曜日が祝・休日の場合は開館し、翌平日に休館)
 
 金属器生産の長い歴史を持つ高岡から発信する展覧会。古代から現代に至るさまざまな金属造形・金属工芸作品を展示します。展示構成は、時間軸にとらわれずに、輝き、彩り、音など、金属の持つ特性や機能性に着目するなど、これまでにない切り口とします。
 
 本展は、400年にわたる金属器生産の歴史を持つ高岡からの発信として、高岡市美術館が企画し、金属産業とゆかりの深い地域の博物館・美術館と連携して開催します。各地の博物館・美術館のご協力のもと、古代から現代に至るさまざまな金属造形作品、金属工芸作品をご覧いただきます。
 その構成は、時間軸にとらわれずに、例えば、輝き、彩り、音など、金属の持つ特性や、道具、装飾などの機能性に着目するなど、これまでにない切り口とします。博物館・美術館がそれぞれの枠組みを超えて連携するのは画期的であり、美術界、さらには産業界に対しても「明日への提言」となる展覧会です。
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関連行事
 
○展覧会鑑賞と鋳造メーカー・作家アトリエ見学ツアー
第1回 7月11日(金)午後1時~5時
内容:展覧会鑑賞(学芸員による解説)/大澤美術鋳造所/般若鋳造所/畠春斎家
第2回 7月18日(金)午後1時~5時
内容:展覧会鑑賞(学芸員による解説)/株式会社老子製作所/平和合金株式会社/中村美術工芸
集合・解散 いずれも高岡市美術館  参加料 観覧券が必要
申込み 7月1日(火)午前9時30分から受け付け 
     電話(0766-20-1177)先着12名まで受付け 1回のみの参加も可能
 
○連続講演会
(1)「近代作家の工芸表現について」 7月19日(土)午後2時~3時30分
  講師 諸山 正則氏(東京国立近代美術館工芸館 工芸室長)
(2)「変容する金属の美」 7月26日(土)午後2時~3時30分
  講師 村上 隆(高岡市美術館長)
いずれも 高岡市美術館BF ビトークホール (聴講無料・申込不要)
 
○シンポジウム ・トークショー 「メタルズ!展を語ろう」
井浦 新氏(俳優、NHK日曜美術館キャスター)×村上 隆
パネルディスカッション「金属の美について語ろう」
 コーディネーター:村上 隆(高岡市美術館長)
パネリスト:大澤 光民氏(人間国宝 金工作家)  能作 克治氏(株式会社能作 社長)
      原田 一敏氏(東京藝術大学大学美術館 教授)
      平戸 香菜氏(金屋町金属工芸工房かんか 金工作家)
とき 8月10日(日)午後1時30分~4時10分(開場 午後1時)
ところ 高岡市生涯学習センターホール(高岡市末広町1番7号ウイング・ウイング高岡4F)
参加料 無料


富山県高岡市は、鋳造による「高岡銅器」の街として有名です。そちらで館長の村上隆氏自らが企画・監修されたという企画展です。約100点の、古代から現代に至るまでの金属造形作品が展示されているそうです。ネット上で出品目録が見つかりませんが、光太郎作のブロンズ彫刻「手」も出品されているとのこと。
 
また、関連行事ではNHK「日曜美術館」でおなじみの俳優・井浦新さんもご登場。
 
お近くの方、ぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月8日
 
昭和27年(1952)の今日、盛岡の岩手県公会堂で、ジャーナリスト・下村海南の講演会を聴きました。

昨日、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館000」を拝見しました。
 
日本橋の三井記念美術館さんにて開催中の「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」展にリンクして制作されており、非常に見応えがありました。
 
同展出品作の中から、主に3つが大きく取り上げられました。
 
まず、安藤緑山作の牙彫「筍」。明珍一派の手になる自在置物、西村総右衛門による刺繍絵画「孔雀図屏風」。
 
それぞれ、現在も類似の作品を作っている工芸家の方にインタビューしたり、技法を再現してもらったりしながら紹介されており、興味深い内容でした。
 
それらの方々や、コメンテーターとしてご出演なさった同展監修者の山下祐二明治学院大学教授の語録です。
 
「人の手で出来る限界を追求している」
「人間3Dプリンター」
「誰が見たってびっくりする凄いもの」
「スポーツ選手が技の極限に挑戦するアスリート的な意識に似ている」
 
言い得て妙、です。
 
また、MCの井浦新さんが、自在置物の数々を実際に手にとられていました。画像の「蛇」など、すべての接合部が可動する仕組みになっており、どれだけ手間がかかっているんだと、舌を巻く思いでした。それは「筍」や「孔雀図屏風」にもいえることです。「孔雀図屏風」は、人間国宝の福田喜重氏によれば、「制作に3年かかるだろう」とのこと。
 
ちなみに自在置物の作者、「明珍」は、甲冑師の家系です。江戸時代になって、甲冑の需要が激減したことにより、その技術を応用してこうした自在置物に転じたとのことです。
 
ただ、明珍一派の全てが自在置物に転じたかというとそうではありません。東京美術学校で光太郎の一学年下だった明珍恒夫は、光雲の元で仏像彫刻の技術に磨きをかけ、卒業後は奈良美術院で古仏修復の仕事にあたりました。
 
こうした「工芸」の数々。評価が難しいところだと思います。技術的には本当に素晴らしいもので、まさに「超絶技巧」です。日本の職人の「ものづくり」に対する精神の極致といえるでしょう。
 
しかし、「芸術」という観点からみたらどうなのでしょうか。
 
光太郎晩年の談話筆記「炉辺雑感」(昭和28年=1953)の中に、おそらく自在置物を指すと思われる次のような一節があります。
 
 世間にはよく実物そつくり創ろうとする人がいる。ことに金でつくつたのなんかには、実に巧みに本物と似せてつくられているものがある。例えば、エビやカニの場合だつたらその足が動くようにできている。しかし、そういうものはいかに本物そつくりにできていても本物をへだゝること遙かに遠い。本物を創る為には本物にとらわれてはいけない。本物にとらわれて、本物に似せようとすると、本当の造型にはならないで、おもちやになつてしまう。
 
その前後にはこういう言も。
 
 蟬のあの脚を木でこしらえるのは、実に大変な仕事だ。芸術は一つの創造だから、事実ありのまゝの模写じやいけない。細いものを細く創つたんじや駄目。蟬の羽根は非常に薄いが、あれをそのまゝ薄く創つたんじや変なものになつてしまう。決して薄くなんて見えない。厚く見える。思いきつて厚く創ると却つて薄く見える。これが芸術というものである。
 
 彫刻は、蟬なら蟬を創るにしても一遍蟬から離れて、別の立場に立つて創らなければならない。そうすることによつて、はじめて蟬が模写にもおもちやにもならず、本当の蟬となることができる。人間の顔でも、その人を生写しにするというのでは彫刻にならない。たゞその人らしいものはできる。その人らしいもの、その人の影法師みたいなものはできるが、その人はできない。本物の影のようなもの、泡みたいなものを掴んでこれが彫刻だと喜んでいる人も少くないが、僕らはそんなものは彫刻と思えない。彫刻は、本当に出来れば、その人以上にその人となる。蟬以上に蟬、石以上に石となる。実物そつくりというわけじやないが、実物以上に実物となる。――これが造形芸術の奥の手である。
 
一言で言えば、方向性の違いだと思います。
 
光太郎は具象彫刻の作家だと言われますが、「人間3Dプリンター」のような方向性ではなく、具象の中にも抽象的な表現を取り入れています。それこそ蟬の羽根の厚さに対する処理などです。
 
それに対して安藤緑山の牙彫や明珍一派の自在置物などは、具象の極致。そこには「芸術」という意識はないのかも知れません。すると、どちらが上、どちらが優れている、そういう議論は不毛のような気がします。目指すものが違うのですから。
 
ともあれ、三井記念美術館さんで開催中、さらには来年まで全国巡回されるこの展覧会、ぜひご覧頂きたいと思います。
 
また、「日曜美術館」、今回の内容が来週日曜日、午後8時00分から再放送されます。ご覧になっていない方はこちらもお見逃しなく。同展に出品されている光雲作の木彫について言及されていなかったのが残念ですが……。
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月12日

平成10年(1998)の今日、広島県立美術館において「南薫造展―イギリス留学時代を中心に」が開幕しました。
 
南薫造は広島出身の画家。東京美術学校卒、光太郎と同年です。明治末にイギリス、フランスに留学。ロンドンでは光太郎と留学の時期が重なり、同じく画家の白瀧幾之助を交え、よく行き来していました。
 
同展では、明治40年(1907)と推定される光太郎から南に宛てた絵手紙も出展されました。
 
昨夕引越し申候。
ポリテクニツクの直ぐ側に候へば学校の御帰りがけにても御寄り披下度候。午後二時頃には小生大抵帰宅致し居候。夜は大方在宅の筈に候。
高村光太郎
 
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テレビ放映情報です。 

日曜美術館 「明治の工芸 知られざる超絶技巧」

NHKEテレ 2014年5月11日(日)  9時00分~9時45分 再放送 5月18日(日)  20時00分~20時45分
 
万国博覧会などを舞台に西欧に輸出され、爆発的な人気を誇った「明治の工芸」。時代が変貌する中、危機に見舞われた職人たちが、技の限りを尽くして生み出した驚異の世界。
 
象牙で作られた本物そっくりのタケノコ。体が自由自在に動く金属のヘビ。刺しゅうで描かれた巨大なクジャク。激動の時代、日本人の技と誇りをかけて生まれた驚異の世界がある。「明治の工芸」。万国博覧会などを通して西欧に輸出されたため、作品の多くが海外のコレクターの手に渡った。日本では長く忘れ去られた存在だったが「現代では再現不可能」とまで言われる超絶技巧にいま注目が集まっている。技の再現に挑み、秘密に迫る。
 
出演 明治学院大学教授…山下裕二, 司会 井浦新,伊東敏恵
 
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日本橋の三井記念美術館さんにて開催中の「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」に関連しての番組です。出展中の光雲作木彫「西王母」「法師狸」も紹介されるといいのですが……。
 
ところで、番組公式ページに依れば、同展の巡回情報が更新されています。期日未定だった山口県立美術館さんが2015年2月21日~4月12日、さらに巡回先が一つ増えています。富山県水墨美術館さんで2015年6月中旬~8月上旬だそうです。
 
展覧会、番組ともにご高覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月5日

大正5年(1916)の今日、雑誌『婦人週報』に、智恵子のアンケート回答「女なる事を感謝する点」が載りました。
 
曰く、
 
 私に恋愛生活(現在の)が始まつてから、始めてさういふ感じを意識しました。これは一つの覚醒です。其の他にはまだ私には経験がありません。「女である故に」といふことは、私の魂には係りがありません。女なることを思ふよりは、生活の原動はもつと根源にあつて、女といふことを私は常に忘れてゐます。
 
いかにも智恵子らしい発言ですね。

一昨日、東京国立博物館で光雲作「老猿」、光太郎作「老人の首」を観た後、日本橋の三井記念美術館さんに行きました。こちらでは「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」が開催中です。
 
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上記はチラシですが、ここにあるとおり、「七宝」「金工」「漆工」「薩摩」「刀装具」「自在」「牙彫・木彫」「印籠」「刺繍絵画」の各テーマ別に、百数十点の作品が並んでいます。
 
どれもこれも舌を巻くような技巧がこらされ、しかも趣味がいい作品ばかりです。副題にある「村田コレクション」とは、京都・清水三年坂美術館館長の村田理如氏の収集による同館収蔵品ということです。
 
明治期のこうした工芸については、近年まで正当な評価がされてきませんでした。一つには、主に輸出用に作られたため、国内に現物があまり残っていないという理由があります。村田氏は海外から買い戻したりして収集にあたられたとのこと。頭が下がります。
 
また、一部には度を超して技巧を凝らしすぎた作品があったのも事実です。そのため、永らくゲテモノ扱いされていたという部分があります。
 
そうした経緯は同展図録に掲載の村田氏「明治の工芸に魅せられて」、それから同展監修者の明治学院大学教授・山下裕二氏「超絶技巧の逆襲――明治工芸の再評価に向けて」に詳述されています。
 
1970年代刊行の日本美術史の書籍では、明治期の工芸はほとんど黙殺。「明治以降を専門領域とすることなど、アカデミックな研究者としてはいかがなものか、というような空気がたしかにあった」というのです。
 
上記画像のタケノコの作者、牙彫の安藤緑山などは、未だに生没年すら不詳ですし、弟子もとらなかったとのことで、その着色の方法もよくわかっていないそうです。昨年、テレビ東京系「美の巨人たち」で取り上げられ、興味深く拝見しました。
 
明治の工芸に光があたるようになって20年くらいでしょうか。当方、平成7年(1995)3月刊行の『芸術新潮』を持っていますが、「日本人が見捨てた明治の美「置物」彫刻の逆襲」という特集記事が載っています。
 
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第一部が「明治の木彫王高村光雲ものがたり」32ページ、第二部が「異人さんに買われていった明治輸出工芸の底力」27ページ。
 
この頃から、ようやく明治期の工芸が無視できない風潮になってきましたが、この時点では、まだゲテモノ扱いです(光雲作品は違いますが)。曰く、
 
悪趣味なまでに大胆、過剰なこのデザイン! これでもか、これでもかと持てる技巧を尽くしたこの出来ばえ……明治の職人たちが生き残りを賭けて生んだ異形の工芸品は、それが輸出用であったがために日本では忘れ去られて、欧米で静かに眠り続けてきた。
 
その後、平成5年(1993)に開館された宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品に注目が集まるようになり、昨年には京都国立近代美術館で「皇室の名品-近代日本美術の粋-」展が開催され、それをもとにNHKさんで「皇室の宝「第1夜 日本の危機を救った男た救った男たち」「第2夜 世界が認めたジャパン・パワー」」が放映され、ここにきてとみに明治工芸に注目が集まっています。
 
確かに悪趣味なまでに装飾過剰のものも存在したのですが、000そうではない佳品もたくさん存在するのです。今回の三井記念美術館さんの展覧会を観ればよくわかると思います。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今回、光雲の木彫が2点並んでいます。「西王母」(昭和6年=1931)、 「法師狸」(制作年不詳)です。大作の「老猿」とはまた違った、小品ならではの魅力に富んでいます。
 
以前にも書きましたが、下記日程で巡回されます。

佐野美術館(静岡県三島市) 
 2014年10月4日(土)~12月23日(火・祝)
山口県立美術館(山口市)
 2015年2月末~4月下旬
 
さらに、NHKさんの「日曜美術館」、5月11日の放送が「知られざる明治工芸の超絶技巧」という副題ですので、この展覧会を扱うものと思われます。同番組MCの井浦新さんは、この展覧会の関連行事のトークイベント「日本美術応援団 明治工芸を応援する!」で、山下氏とともにご出演されるそうです。
 
「日曜美術館」については、新たな情報が入りましたらまたお伝えします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月2日

明治37年(1904)の今日、神田の高折周一音楽講習所でヴァイオリンのレッスンを受けました。
 
日記によれば、四月からレッスンに通い始めたとのこと。束脩(入門料)は1円、月謝は1円50銭。自転車の荷台にバイオリンをくくりつけて通ったそうです。
 
高折周一は東京音楽学校出身のヴァイオリニスト。のちに渡米し、明治45年(1912)、有名なポトマックの桜の植樹式で、高折の曲が演奏されたという記録があります。
 
ポトマックの桜をアメリカまで運んだのは、日本郵船の阿波丸(Ⅰ世)という船。この船は、かつて明治42年(1909)、欧米留学から帰る光太郎が乗った船です。不思議な縁を感じます。

東京日本橋の三井記念美術館さんで、光雲の木彫作品が展示される企画展が、今日から始まります。 

超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―

会期 : 2014年4月19日(土)~7月13日(日)
主催 : 三井記念美術館 朝日新聞社
協力 : 清水三年坂美術館
時間 : 10:00~17:00 金曜日は19:00まで
 : 一般1,300円 大学、高校生800円 中学生以下無料
 
近年、美術雑誌・テレビ番組などで頻繁に取り上げられるようになった明治の工芸。 中でも、超絶技巧による、精緻極まりない作品が注目を集めています。しかしながら、 それらの多くが海外輸出用の商品であったため、これまで日本国内でその全貌を目ににする機会は、ほとんどありませんでした。
本展では、村田理如(まさゆき)氏の収集による京都・清水三年坂美術館の所蔵品のうち、並河靖之(なみかわやすゆき)らの七宝、正阿弥勝義(しょうあみかつよし)らの金工、柴田是真(しばたぜしん)・白山松哉(しらやましょうさい)らの漆工、旭玉山(あさひぎょくざん)・安藤緑山(あんどうろくざん)らの牙彫をはじめ、驚くべき技巧がこらされた薩摩や印籠、近年海外から買い戻された刺繍絵画など、選りすぐりの約160点を初めて一堂に展観いたします。
 
質・量ともに世界一の呼び声が高い、村田コレクション秘蔵の名品が三井記念美術館に勢ぞろいします。
 
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出品目録によれば、光雲の木彫作品が2点並びます。「法師狸」(制作年不詳)と「西王母」(昭和6年=1931)。 
 
他にも七宝や金工、牙彫、自在置物などで、明治期を代表する名工の作品がずらっと並ぶようです。東京美術学校の関係で光雲や光太郎と縁のあった作家の作も含まれます。石川光明、海野勝珉など。
 
これはぜひ観なければ、と思います。
 
また、以下の通り関連イベントも開かれます。 
 
 
トークイベント「日本美術応援団 明治工芸を応援する!」
出演: 井浦 新氏(俳優、クリエーター)、山下裕二氏(本展監修者、明治学院大学教授)
日時: 5月10日(土) 14:30~16:00
 
対談 「村田コレクションの来し方、行く末」
出演: 村田理如氏(清水三年坂美術館館長)、山下裕二氏(本展監修者、明治学院大学教授)
日時: 6月7日(土) 14:00~15:30
 
NHKさんの「日曜美術館」でおなじみ、井浦新さんもご登場です。
 
さらにこの企画展、以下の日程で全国巡回です。
 
佐野美術館(静岡県三島市) 2014年10月4日(土)~12月23日(火・祝)
山口県立美術館(山口市)  2015年2月末~4月下旬
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月19日

昭和56年(1981)の今日、山梨県北巨摩郡長坂町(現・北杜市)に、清春芸術村が開村しました。
 
「清春白樺美術館」を中核とする施設で、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が大正年間に建設しようとして、その夢を果たせなかった幻の「白樺美術館」を実現させようと作られたものです。
 
基本設計は建築家の谷口吉郎。「十和田湖畔の裸婦群像」台座や周辺の設計にも関わった人物です。
 
清春白樺美術館では、現在3点しか現存が確認されていない智恵子の油絵のうちの1点「樟」を所蔵しています。

こんなものを手に入れました。
 
『日曜美術館新聞』新春特別号。A2判二つ折り、全4頁です。
 
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NHKEテレさんで、日曜日の朝(本放送)と夜(再放送)に放映されている「日曜美術館」のPR誌のようです。
 
同番組では昨秋、「智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」と題し、光太郎をメインで取り上げて下さいまして、当方もアドバイザーとして参加させていただきました。
 
最近も、1/19の放映で東京美術学校で光太郎と同級生だった藤田嗣治を取り上げて下さっています。
 
で、『日曜美術館新聞』。この中で、現在東京国立博物館で開催中の「人間国宝展-生み出された美、伝えゆくわざ-」が大きく取り上げられています。
 
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曰く、
 
工芸は時代に合わせて、伝統的な技の上に創作性や個性的なデザインが加わり、変化し広く受け入れられてきた。作家の創意工夫によって多様化した日本の工芸。“クラフト”でなく、世界に誇る日本の“コーゲイ”の奥行き有る美しさを再発見し、伝統の枠組みを超え未来へ託される可能性を展望する機会となるにちがいない。
 
まさしくその通りですね。
 
以前にも書きましたが、同展では光太郎の弟で鋳金家の高村豊周、その弟子で光太郎ブロンズ彫刻の鋳造を手がけた斎藤明の作品も展示されています。
 
会期は来月23日(日)まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月29日

明治44年(1911)の今日、智恵子の祖父・長沼次助が歿しました。
 
次助は新潟県南蒲原郡田上町の出身。郷里に妻子を残し、杜氏として二本松に来ていた際に、智恵子祖母の安斉ノシと所帯を持ち、長沼酒造を興しました。智恵子の母・センはノシの連れ子。したがって智恵子と次助に血のつながりはありません。それでも次助は智恵子をかわいがってくれたそうです。
 
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前列左端が次助、その後ろが智恵子。明治41年頃、長沼家の庭で撮られた一枚です。

昨日は都内に出かけました。
 
まずは、上野の東京国立博物館平成館で15日に始まった「日本美術の祭典 人間国宝展―生み出された美、伝えゆくわざ―」を観て参りました。
 
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同館の資料館には調べ物で時々行くのですが、展示を見に行ったのは久しぶりでした。
 
ちなみに平成館のある一角は、大正6年(1917)から同11年(1922)まで、帝室博物館総長だった森鷗外の執務室があった区画だと言うことで、説明板があります。
 
さて、展示ですが、いわゆる「人間国宝」、正しくは重要無形文化財保持者のうち、工芸技術分野の歴代150余人の作品がずらっと並びました。どの作品をとっても、舌を巻くような技術、そして技術のみならず、この日本という国にはぐくまれた芸術性を感じさせるものばかりで、非常に見応えがありました。
 
光太郎の弟で、鋳金家だった豊周も人間国宝の一人、「鼎」が展示されていました。そしてその豊周の工房で主任を務めていた斎藤明氏の「蠟型吹分広口花器「北辛」」も。斎藤氏は連翹忌ご常連でしたが、昨秋に亡くなられました

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昨年の連翹忌にて、氏より「こんなものがあるんですが……」と、渡されたのが、平成9年(1997)に花巻で行われた第40回高村祭の記念講演「高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり」の講演筆録。各地に残る光太郎ブロンズ作品を実際に鋳造された経験が記されていました。一読して、美術史上、大変に貴重なものであると確信し、昨年10月に刊行した『光太郎資料40』に掲載させていただきました。
 
その直後に氏の訃報に接し、残念な思いでいっぱいでした。今回の展示も、存命作家の作品を集めたコーナーに並び、氏が昨秋亡くなった由、キャプションが追加されていました。
 
ちなみに氏の作品は、銅と真鍮、異なる金属を使っての鋳金です。その境界(といっても、継いであるわけではないのですが)の部分の微妙な味わいは、不可言の美を生み出しています。
 
画像は図録から採らせていただきました。この図録、2,300円もしましたが、300頁余で、近現代の日本工芸の粋がぎっしり詰まっており、観ていて飽きません。
 
実際の展示を観ながらもそう思ったのですが、光太郎と関連のあった人物で言えば、陶芸の濱田庄司、富本憲吉など、「この人も人間国宝だったんだ」という発見(当方の寡聞ぶりの表出ですが)もいろいろありました。
 
ところで人間国宝の制度ができて60年だそうで、もっと早くこの制度があったら、光雲やその門下の何人かは間違いなく選ばれていたでしょう。
 
光雲といえば、東京国立博物館には光雲の代表作の一つ、「老猿」も収蔵されています。ただ、展示替えがあるので常設展示ではなく、昨日は並んでいるかなと思い、本館にも寄りましたが、残念ながら並んでいませんでした。
 
そういうわけで国立博物館を後にし、その後、池袋に向かいました。過日のブログでご紹介したイラストレーターの河合美穂さんの個展「線とわたし」を観るためです。

こちらの会場は要町のマルプギャラリー。普通の民家と見まごう建物で、すぐに見つかりませんでした。
 
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中に入ると、やはり普通の民家を改装007してギャラリーにしてある風で、玄関で靴を脱いであがる様式でした。展示スペースは5坪ほどでしょうか、ペンと水彩を中心にしたかわいらしい作品が20点ほど掛かっていました。
 
宮澤賢治や中原中也へのオマージュ的なイラストに混じって、光太郎の「梅酒」をモチーフにした作品が一点。琥珀色の梅酒で満たされたガラス瓶の周りに微妙な色のグラデーションで描かれた梅の実が三つ。詩の中の「早春の夜ふけの寒いとき」のイメージでしょうか、背景の一部に使われた群青色もいい感じでした。
 
受付に賢治の「銀河鉄道の夜」による作品のポストカード的なものがあり、一枚、頂戴して参りました。これもあたたかみのあるいい絵ですね。「梅酒」のイラストもポストカード的なものにしてくださってあればなおよかったのですが……。
 
さて、賢治、光太郎と来れば花巻。今日から1泊2日で花巻方面に行って参ります。途中で福島市に寄り、調べ物。午后には花巻に入り、花巻市立博物館の企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」を観て参ります。
 
それからもちろん、この冬から通年開館となった郊外旧太田村の新装高村光太郎記念館にも行きます。この季節に訪れるのは初めてで、どれほど厳しい環境なのか、確かめて参ります。
 
定宿の大沢温泉さんがとれず、今回はさらに奥地で、やはり光太郎が何度か訪れた鉛温泉さんに宿を取りました。詳しくは帰ってからレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補008遺】 1月18日

平成16年(2004)の今日、角川春樹事務所刊行の「ハルキ文庫」の一冊として「高村光太郎詩集」が上梓されました。
 
解説は詩人の瀬尾育生さん。歌人の道浦母都子さんのエッセイ「七.五坪の光と影」も収録されています。「七.五坪」とは、旧太田村の光太郎が七年暮らした山小屋ですね。
 
最近は売れっ子作家の小説などが文庫書き下ろしで続々刊行されていますが、こうした古典的な作品も、文庫のラインナップとして残していって欲しいものです。
 
帯には「道程」の一節が印刷されていますね。しつこいようですが、今年は「道程」執筆100周年、詩集『道程』刊行100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年です。

展覧会情報です。 
 
上野の東京国立博物館と東京都美術館のコラボレーションにより、両館で開催される三つの展覧会を結ぶプロジェクト「日本美術の祭典」が開催されますが、その中の一つがこれです。
 
人間国宝に認定された全物故作家の作品約100件、さらに存命中の作家の作品も並ぶとのことで、光太郎の弟で、鋳金家の高村豊周、そしてその弟子で光太郎ブロンズ作品の鋳造を多数手がけられた斎藤明氏(本年ご逝去)の作品も展示されます。

日本伝統工芸展60回記念 人間国宝展 ―生み出された美、伝えゆくわざ―

会期  2014年1月15日(水)~2月23日(日) 午前9時30分~午後5時 月曜休館
会場  東京国立博物館 平成館 
 
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(12/4 朝日新聞)
 
以下、公式サイトより。
 
日本では、伝統の「わざ」を受け継ぐ優れた工芸家を重要無形文化財の保持者(人間国宝)に認定しています。工芸大国日本ならではの制度といえるでしょう。陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、諸工芸の各分野で多くの人間国宝を育ててきた「日本伝統工芸展」の6 0回記念として、「人間国宝展」を開催いたします。
全物故作家の作品約100件、さらに古代から、中世、近世へと連綿と伝えられてきた国宝や重要文化財を含む工芸品約30件を向き合わせて展示し、卓越したわざの美をご覧いただきます。伝統と現代とのつながりを見る、これまでにない画期的な展覧会です。

 
同じ東京国立博物館での「クリーブランド美術館―名画でたどる日本の美」、東京都美術館で開かれる「日本美術院再興100年 特別展『世紀の日本画』」を併せた「日本美術の祭典」としては以下のように紹介されています。
 
 2014年、上野の新春は「日本美術の祭典」で幕を開けます。
 東京国立博物館と東京都美術館のコラボレーションにより、両館で開催される3つの展覧会を結ぶ特別なプロジェクトが実現しました。
 時代を超えて輝きを放つ絵画や工芸の名品に触れることで、さまざまな日本の美を再発見していただこうという新しい試みです。
 東京国立博物館では2つの特別展を同時開催します。「クリーブランド美術館―名画でたどる日本の美」は、全米屈指といわれる同館の日本美術コレクションから、仏画や肖像画、花鳥画、山水画などを選りすぐって公開するものです。日本伝統工芸展60回記念「人間国宝展―生み出された美、伝えゆくわざ―」では、歴代の人間国宝や先人が残した古典の名作を展観し、日本が誇る工芸の精華を紹介します。
 一方、東京都美術館で開かれる「日本美術院再興100年 特別展『世紀の日本画』」には、近代日本画の巨匠たちの代表作が勢揃いします。
 日本美術の粋が集結するまたとないこの機会、素晴らしき三重奏をお楽しみください。


ぜひ足をお運び下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 12月19日

平成16年(2004)の今日、下北沢のザ・スズナリで上演されていた、光太郎智恵子演劇「れもん」が千秋楽を迎えました。
 
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光太郎役が柄本明さん、智恵子役が石田えりさん。キャストはそれだけの二人芝居でした。

鋳金家で人間国宝の齋藤明氏の訃報が出ました。 

鋳金作家の人間国宝、齋藤明さん死去

 齋藤明さん(さいとう・あきら=鋳金作家、人間国宝)が16日、老衰で死去、93歳。通夜は20日午後6時、葬儀は21日午前10時30分から東京都練馬区春日町4の17の1の愛染院会館で。喪主は長女愛子(あいこ)さん。
 父の指導を受けて伝統的な金属の鋳造技術を習得。伝統を踏まえながら近代感覚にあふれる造形を追求し、1993年に重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。
(朝日新聞)
 
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文中にある「父」は齋藤鏡明(きようめい)(明23=1890~昭13=1938)。東京・巣鴨で鋳物工房を営む鋳金家でしたが、明氏18歳で他界。以後、明氏は父の弟子や友人等の指導を得て研鑽を積んだそうです。
 
昭和24年(1949)に、光太郎の弟で無題やはり鋳金家の高村豊周の工房に入り、主任として実績を積み上げ、平成5年(1993)には重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定されました。
 
その間、光太郎の塑像の鋳金をたくさん手がけ、長野・碌山美術館や花巻の高村光太郎記念館に収められている光太郎作品は、ほとんど氏の鋳造になるものです。したがって、現在愛知碧南の藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に並んでいる作品にも、氏が鋳造なさったものが含まれています。また、十和田湖畔の裸婦像の修復等にもあたられました。
 
昨年の連翹忌ではスピーチをしていただき、今年の連翹にも元気にご参加くださいました。また、その席上で「以前、こんな講演をしました」ということで、平成9年(1997)5月15日、花巻の高村山荘で行われた第40回高村祭記念講演の筆録を渡されました。題して「高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり」。
 
一読して、美術史上、非常に貴重な記録であると確信し、当方の刊行している冊子『光太郎資料』の今年10月発行分(第40集)に収録させていただきました。ご希望の方には送料のみでお分けしています。下記コメント欄等からご連絡下さい。
 
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
実は、気がつくのが遅れて紹介しなかったのですが、今年3月には日本詩人クラブ会長を務められた詩人の寺田弘氏、6月にはやはり鋳金家の西大由氏と、相次いで生前の光太郎を知る方が亡くなっています。
 
寺田氏は光太郎が序文を書いた「傷痍軍人詩集」(昭和18年=1943)の編集にあたったり、光太郎とともに座談会に参加したりしています。
 
昭和20年(1945)4月、空襲で駒込林町の光太郎アトリエが炎上した時に真っ先に駆けつけたのが寺田氏だそうで、その時の回想が昨年刊行された『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載されています。
 
西氏は高村豊周の弟子にあたる鋳金家。かつて行われていた造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」を昭和38年(1963)に受賞されました。
 
花巻の光太郎山荘近くに立つ「雪白く積めり」、成田三里塚に立つ「春駒」、群馬草津に立つ「草津」などの光太郎詩碑パネルの鋳造を手がけたのも西氏です。

 
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併せてご冥福をお祈り申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月20日

明治43年(1910)の今日、日本橋大伝馬町の三州屋で開かれたパンの大会に世話人として参加しました。
 
この時には有名なエピソードが二つありました。
 
まず一つ、光太郎が長田秀雄、柳敬助の入営祝の幟(のぼり)に黒枠を書きました。この出来事は『萬朝報』に「非国民」と叩かれ、「黒枠事件」と称されました。光太郎自身は深い意図はなかったとうそぶきましたが、本当はどうだったのでしょうか。
 
もう一つ、この頃光太郎が「モナ・リザ」と呼んで入れあげていた吉原河内楼の娼妓・若太夫に、作家の木村荘太がそれと知ってちょっかいを出し、さらに光太郎を挑発、決闘になりかけました。谷崎潤一郎は木村に味方し、介添えに付いてやると息巻いたそうですが、その場になってみると何も起こりませんでした。光太郎はそういうこともあるだろうと若太夫をあきらめ、木村は自分の子供っぽい行為を反省。しかし若太夫は木村を選びました。

昨日から愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館において、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展が開幕しました。
 
ところで館の名前に冠されている「藤井達吉」とは? 今日はそのあたりを書いてみます。
 
一言で言うなら、明治・大正・昭和三代に活躍した工芸家、ということになるでしょうか。
 
生まれは明治14年(1881)、現在の碧南市です。光太郎より2歳年上になります。
 
専門の美術教育は受けておらず、17歳で七宝工芸の店に入ります。折からの博覧会ブームで、明治36年(1903)には内国勧業博覧会、翌年にはセントルイス万国博覧会に出品。そうした中で新しい美術工芸への目を開かれ、店を辞め、作家として立つ道を選びました。
 
明治44年(1911)には、光太郎が経営していた日本初の画廊・琅玕洞に藤井の作品が並んでいます。琅玕洞の名目上の経営者は、光太郎の次弟・道利で、主にその道利の手になる琅玕洞の出納帳的なものが残っています(『高村光太郎全集』別巻に掲載)。そこには藤井作の「土瓶」「茶碗」「湯呑」「茶道具」などが記録されています。
 
さらに藤井は大正元年(1912)に結成されたヒユウザン会(のちフユウザン会)に加わっています。光太郎は同会の中心メンバーの一人でした。
 
実は、光太郎本人と藤井とのつながりはこの辺りまでしかたどれません。『高村光太郎全集』で藤井の名が出てくるのは先の琅玕洞文書だけなのです。光太郎から藤井宛の書簡なども確認できていません。ただ、今後、出てくる可能性がありますので、期待したいところです。
 
ただし、藤井はその後、光太郎の三弟で、鋳金家の豊周と密な関係になります。藤井も豊周も、工芸界の革新運動に取り組み、装飾美術家協会、无型(むけい)などの団体で歩を同じくしています。
 
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写真は昭和2年(1927)の无型第一回展同人。後列中央が藤井、前列左端が豊周です。
 
昭和43年(1968)に刊行された豊周の『自画像』、平成4年(1992)から刊行が始まった『高村豊周文集』(全五巻)には、藤井の名があちこちに出てきます。以下、『自画像』から。
 
富本憲吉のほかに、新興工芸の啓蒙期に忘れられない恩人は藤井達吉と津田青楓である。
(略)
藤井達吉も、伝統やしきたりに拘泥しないで、自由に材料を使って自分の作りたいものを作った。確か三笠という美術店で藤井達吉の個展を見たが、壁掛けに大変打たれた。それまで壁掛けというと、みんなエレガントな貴族趣味のものばかりだったが、藤井達吉の壁掛けは全く庶民的で、生地には普通の木綿やビロードやコールテンなどの端切れを、はぎ合わせたものが無造作に使われている。壁掛けのアップリケに竹の皮が使われているのを見て、私はあっと思った。模様も実に自由で、蝶々とか、とんぼとか、いろいろな野の草を表現し、今まで人が振り返りもしなかった題材や材料を使って、非常に新鮮な面白い効果をあげている。
(略)
藤井達吉のものは、ヨーロッパの影響はまず考えられない。彼は非常に多才な人で、染織も、刺繍も、木彫も、七宝もやった。木彫も全然今までの木彫のやり方に拘泥しないで、まったく自分の感じ方だけでやっている。新しい生命を吹き込むというか、作られたものは何も彼も生き生きとしていた。この人たちは、ようやく胎動期に入った新興工芸の先駆者とも恩人ともいうべきで、私たちばかりでなく、当時新しい工芸の行き方に煩悶していた若い工芸家に大きな影響を与えたといえよう。
 
今年の6月、京都国立近代美術館で開催された企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観て参りました。光太郎の水彩画が並んでいるというので行ったのですが、思いがけず藤井の作品もずらっと出ていました。当方、藤井の作品をちゃんと見るのはこの時が初めてでしたが、そのバリエーションの豊かさに驚きました。同展図録から画像を拝借します。
 
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いかがでしょうか。
 
さて、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展、碧南市藤井達吉現代美術館で開催中ですが、四室中の一室のみ、常設展ということで藤井の作品も見られます(なんだか庇を借りて母屋を乗っ取っているようで心苦しいのですが)。併せてご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月2日

昭和45年(1970)の今日、TBS系テレビで「花王愛の劇場 智恵子抄」の放映が始まりました。
 
光太郎役は故・木村功さん、智恵子役は佐藤オリエさんでした。佐藤さんは光太郎を敬愛していた彫刻家・佐藤忠良のお嬢さんです。
 
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放映は月から金の13:00~13:30。この年大晦日が最終回だったそうです。
 
主題歌は西尾和子さんで「智恵子抄」。昭和39年(1964)の二代目コロムビア・ローズさんのカバーです。
 
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「流行歌」とか「テレビ映画」という語に昭和の薫りが色濃く漂っています(笑)。

8/25のブログで紹介した高島屋横浜店さんにおいて開催中の「東と西の出会い 生誕125年 バーナード・リーチ展」に行って参りました。
 
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当方、リーチの作品をまとめて観たのは初めてで、感動しました。素朴な作品が多いのですが、それが稚拙とか凡庸というわけではなく、温かみやしっかりと個性を感じさせるものでした。
 
ゴテゴテした装飾過剰に陥らず、外連味(けれんみ)や奇をてらうといったこともなく、「用の美」の精神が具現されていると感じました。光太郎も「用の美」の重要性をよく説いていました。ただし、光太郎の場合、戦時中の戦闘機などの機能美にそれを見ていたこともあるのですが……。
 
逆に、奇抜といえば奇抜なアイディア-たとえばアルファベットや数字を絵付けする-も秀逸だと思いました。それが違和感なく調和しており、しかし日本の陶芸家がこれをやると外連味と感じられるのかも知れません。
 
平日にもかかわらず会場はにぎわっていました。NHKさんの「日曜美術館」で取り上げられた影響もあるかも知れません。「これ、テレビでやってた作品だね」などと話しながら見ている老夫婦もいらっしゃいました。当方もテレビで得た知識が理解や鑑賞の手助けになりました。
 
にぎわっていたのはテレビの影響だけではないでしょう。もちろん、横浜という大都市だということもあります。しかし、美しいものを見たい、という欲求があるからこそ人が集まるのでしょう。そういう欲求が持てるのも人間の特権の一つだと思います。
 
忙しさに追われて日々を送っている皆さん、たまには美術館に足を運びませんか? 
 
リーチ展、以下の日程になっています。
 横浜・高島屋横浜店:9月19日~10月1日
 大阪・高島屋大阪店:10月10日~10月22日
 京都・高島屋京都店:10月31日~11月11日

昨日のブログで、バーナード・リーチの写真を載せるため、彼の『東と西を超えて 自伝的回想』(福田陸太郎訳 日本経済新聞社 昭和57年)を引っ張り出しました。

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ついでに光太郎に関する記述がある部分を読み返してみましたところ、ちょっと面白いエピソードがあったので紹介します。

 私の最初の日本人の友、高村光太郎が今私の心に甦って来る。私はいまでも、初めの頃の彼の手紙をいくらか持っている。
 (中略)
 最近一九七三年にもなって、彼についてある事柄が起こった。それは私が、秩父宮妃殿下の催された小さな親しい茶席に招待された時のことである。妃殿下自身も陶器をお造りになり、芸術の後継者であられた。わずか八人が出席しており、ある一刻、私にだけお話しをされた。たまたま、私の古い友人の高村の詩がお好きであると言われた。私は驚いて、妃殿下の方を向いて言った。「高村はわれわれが二人とも学生であった頃のロンドンでの私の初めての友人です。私はご存知のように日本語は読めませんが、数行が心に浮かんで来ます。
 
  秩父おろしの寒い風
  こんころりんと吹いて来い
 
妃殿下は驚いて私の方を向かれた。こんなに驚いた人を私は知らない。一度だけ私の記憶が正確だったのだ。そして、何と奇妙なことに高村は、妃殿下の土地-秩父-の名を使ったのである。

 まず「秩父宮」は昭和天皇の弟君、秩父宮雍仁親王。社会活動としてスポーツの振興に尽くし「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれ、秩父宮ラグビー場にその宮号を遺しています。国民の人気も高かったのですが、昭和28年、50歳の若さで急逝。その際、光太郎は「悲しみは光と化す」(『高村光太郎全集』第6巻)という散文を書いて哀悼の意を表しています。 
 
 勢津子妃殿下は平成7年、85歳までご存命でした(会津藩主松平容保の孫だったそうで、これは当方、存じませんでした)。
 
「秩父おろしの寒い風/こんころりんと吹いて来い」は、リーチ来日中の大正元年、『白樺』に発表された詩「狂者の詩」の一節。正確には「秩父おろしの寒い風/山からこんころりんと吹いて来い」で、この詩の中でリフレインされています。
 
 話の流れからすると、妃殿下はリーチと光太郎の関係をご存じなかったのではないかと思います。光太郎歿して17年。二人の間に秩父おろしの風のようにさっと吹いた光太郎の思い出。いい話だな、と思いました。
 
 これも妃殿下がご存知だったかどうか不明ですが、秩父宮家と光太郎の関連はもう一つ。昭和3年のご成婚を祝し、「或る日」という詩を発表しています(『全集』第2巻、初出不詳)。これに関しても面白いエピソードがあるので、明日、紹介します。 

昨日、高島屋でのバーナード・リーチ展についてお知らせしましたので、光太郎の書いた文章の中から、リーチに関する記述を紹介します。
 
まず、昭和8年に『工芸』という雑誌に発表された「二十六年前」という散文から。
 
ロンドンの名物のひどい濃霧になやませれてゐる時だつたから、むろん冬の事である。多分一九〇七年の十一月頃だつたらう。「ロンドン スクウル オブ アアト」のスワン教授の教室で素描に熱中してゐた私は、性来の無口と孤独癖とから、あまり他の生徒等との交渉を好まなかつたにも拘らず、その学校に於けるたつた一人の日本人の学生であつたところの私に何らかの興味を持つてゐるらしい幾人かの同級生のある事に気がついてゐた。休み時間に私がトルストイの「芸術とは何ぞや」を読んでゐると、後ろからそれをのぞきこんで、「君は彼をどう思ふ」など質問する者もゐた。(中略)或日その背の高い痩せた生徒がたうとう思ひ切つたやうに私に向つて口を切つた。「君はなぜ日本風な素描を描かないのか。」私は即座に返事した。「ヨオロツパの美術家が感ずるものを理解したいと思つて私はヨオロツパに来た。私は今此所で日本画を描かうと思つてゐない。それはずつとあとの事だ。」「なるほど、さうか。私は日本人が此所でどんな素描を描くかと思つて大きな興味を持つてゐたが、実は君の描くものが更に日本風でないので理解に苦しんだ。」私は此の背の高い、鼻の高い、眼のやさしい善良な生徒と、此日以来友達になつた。此がバアナアド リイチだつた。
 
いわゆるジャポニスムの流行はピークを過ぎた時期ですが、リーチは個人的に日本に惹かれていました。昭和26年に『中央公論』に発表された「青春の日」から。
 
リーチが僕のところにやつて来た時、たまたま僕がマンドリンをその頃習つていたので、それをいじつていた。何の気もなく、日本の民謡の「一つとや」をやつたら、リーチはそのメロデイをおれは知つていると言う。いや、これは日本の唄で、君が知るわけはないと言うと、リーチは香港で生れ、小さい時分に京都にも来たことがあるそうで、そのころに聞いたことが分つた。そんなことで、だんだん日本に熱を上げて、どうしても日本へ一度行くと言う。事実、リーチは間もなくそれを実行した
 
そしてリーチは日本で陶芸と出逢い、独自の境地を作り出します。やはり光太郎の「リーチ的詩魂」(昭和28年・『毎日新聞』)から。
 
リーチは焼物を日本で勉強したので、東洋の美はリーチの細胞にまでなつているが、その細胞にはまたリーチの血脈である西洋の美がみなぎつていて、東洋人ではちよつと出せない質がそこにある。器の把手などの面白い扱いはなどはリーチ自身も無意識だろうが、これは確に西洋の美だ。東洋と西洋とはリーチの中にひとりでにとけている。それがまことに愉快である。
 
これこそが国際交流、という気がします。

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バーナード・リーチ 『東と西を超えて 自伝的回想』
バーナード・リーチ著 福田陸太郎訳 日本経済新聞社 昭和57年 より
 
このところ、中韓との領土問題や、シリアでの日本人ジャーナリストの殉職など、国際的な事件が頻発しています。こういう時こそ、国境を超えて東と西の融合を図った先人の業績に思いを馳せるべきではないかと思います。そういうことが「歴史に学ぶ」ということなのではないのでしょうか。

今朝の『朝日新聞』さんを広げて知りました。 

東と西の出会い 生誕125年バーナード・リーチ展

会期情報000
東京・日本橋高島屋:2012年8月29日~9月10日
横浜・高島屋横浜店:9月19日~10月1日
大阪・高島屋大阪店:10月10日~10月22日
京都・高島屋京都店:10月31日~11月11日

バーナード・リーチは、イギリスの陶芸家です。元々、香港の生まれで、幼い頃には京都に暮らしていたこともありました。明治41年、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、日本熱が高まって来日します。その後、たびたび来日、長期の滞在もあり、白樺派の面々、富本憲吉、浜田庄司らと親しく交わり、陶磁器の作成に独自の境地を展開しました。光太郎との交流も後々まで続いています。
 
さて、今回の展覧会では光太郎と直接関わる出品物があるかどうかわかりませんが、関東で開催中に1度行ってみようと思っています。

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