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光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の作品が出ます。

没後70年 森村酉三とその時代

期 日 : 2019年9月21日(土)~11月10日(日)
会 場 : 群馬県立近代美術館 群馬県高崎市綿貫町992-1 群馬の森公園内
時 間 : 午前9:30~午後5:00
料 金 : 一般:820(650)円、大高生:410(320)円 
       (  )内は20名以上の団体割引料金
       中学生以下、障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料
       県民の日(10/28)に観覧される方は無料
休館日 : 月曜日(9月23日、10月14日、28日、11月4日は開館)、
      9月24日、10月15日、11月5日

 群馬県出身の鋳金工芸家、森村酉三(1897-1949)は、東京美術学校で学んだ技術を生かし、植物文や花で飾られた花瓶を制作、鳥や動物をモチーフとしたモダンな作品で帝展や文展に入選を重ねる傍ら、人物の胸像では、穏やかな写実表現により、モデルの在りし日の姿が偲ばれる作品を多く制作しました。また、高崎の白衣大観音像の原型を手がけたことでも知られています。戦時中の供出により失われた大型作品や、終戦後まもなく病に倒れて亡くなってから時が経過し、所在がわからなくなった作品も多くあります。本展では、森村の作品をできる限り集め、東京美術学校の師・津田信夫や先輩・高村豊周など同時代に工芸の革新を目指した鋳金家たちの活動とともに紹介することで、美術史の中にその足跡を位置付けることを試みます。

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関連事業

シンポジウム「高崎白衣大観音の謎に迫る」 開催日時:9月29日(日)  
 登壇者:手島仁(森村酉三、寿々研究者・前橋学センター長)
     塚越透(井上保三郎、房一郎研究者・元井上工業社員)
     田口正美(群馬歴史散歩の会編集委員・元小学校長)
     神尾玲子(当館学芸員)
 
講演会「鋳物師か?鋳金家か?-彫像作品制作をめぐって」 開催日時:10月6日(日)
 講師:本橋浩介(佐倉市立美術館副主幹・学芸員)
 
講演会「森村酉三の生きた時代-津田信夫と依嘱制作」 開催日時:10月14日(月・祝)
 講師:中松れい(千葉県立美術館学芸課長)  

※各日とも14:00~15:30 当館2階講堂 申込不要・聴講無料(先着200名)

学芸員による作品解説会 開催日時:10月23日(水)、11月2日(土)14:00~15:00 
 会 場:展示室1  申込不要、要観覧料


森村酉三は明治30年(1897)生まれ。東京美術学校鋳金科に学びました。鋳金だけでなく彫刻も手がけ、高崎白衣大観音像の原型制作者としても知られています。

豊周は森村の7歳年上。美校鋳金科の先輩にあたります。ただ、豊周は森村の作品をあまり高く買っていなかったようで、『髙村豊周文集』(文治堂書店)には、けっこう手厳しい評が載っています。

豊周の作品については、こちら

豊周以外に、豊周の師でもある津田信夫、豊周の助手を務めたこともある丸山不忘、豊周と共に光太郎の盟友・碌山荻原守衛の絶作「女」の鋳造に携わった山本安曇など、関連作家の作品も並びます。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

ああ此の我家 根の高い四角な重たい我家 小さい出窓のまつ赤にひかる我家 夏の朝の力にひそむ我家 貧しい我家のたまらなく貴い朝だ

詩「我家」初出形より 大正5年(1916) 光太郎34歳

初出は雑誌『感情』でしたが、昭和6年(1931)春陽堂刊行の『明治大正文学全集第三十六巻 詩篇』に収められた際、大幅に改訂され、上記部分を含む第二連がばっさりカットされました。

智恵子との結婚披露から約2年、貧しくも充実した日々を送っていた頃の「我家」。のち、『詩篇』が刊行された昭和6年(1931)には智恵子の心の病が顕在化し、上記部分などは自身で読むに堪えないという感覚だったのでしょうか。

本日発売です。

リーチ先生

2019年6月21日 原田マハ著 集英社(集英社文庫) 定価880円+税

日本の美を愛した英国人陶芸家の生涯。アート小説の旗手が贈る感動の物語! 

明治42年、来日したバーナード・リーチ。柳宗悦、濱田庄司ら日本人芸術家との邂逅と友情が彼の人生を突き動かしていく。

第36回新田次郎文学賞受賞作。


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『リーチ先生』、平成25年(2013)から、『信濃毎日新聞』さん等に連載され、上製の単行本としては平成28年(2016)にやはり集英社さんから刊行されました。単行本刊行時に出た書評がこちら。そろそろ文庫化されるだろうと待ちかまえておりました(笑)。

架空の(モチーフは存在しますが)陶芸家・沖亀乃介を語り手とし、「先生」である英国人陶芸家バーナード・リーチの美を追い求める姿が生き生きと描かれています。

リーチは光太郎より4つ年少の明治20年(1887)、香港の生まれです。幼少期に京都で暮らしていたこともあり、長じて日本文化に興味を持ち、明治41年(1908)、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、来日の意志を固めました。そして日本で出会った陶芸を生涯の道と定め、白樺派の面々らの協力の下、日本と母国を行き来しながら、英国伝統の陶器・スリップウェアの伝承などに力を注ぎました。

そこで小説には光太郎、父・光雲、実弟・豊周も登場します。おおむね史実に沿った内容です。

作者の原田さん、この『リーチ先生』で、平成29年(2017)には第36回新田次郎文学賞を受賞されています。また、『リーチ先生』ではありませんが、近作『美しき愚かものたちのタブロー』で、次回直木賞候補にエントリーされています。

ちなみに『リーチ先生』、平成30年度の埼玉県公立高等学校入試の問題文にも採用されました。ちょうど光太郎も登場するシーンでした。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

是は白耳義詩人ヹルハアランの愛詩である。あの男性的な詩人にとつて恋愛は宗教であつた。崇高な心の飛揚であつた。不可知への没入であつた。心の深さがあらゆる美しい詩句の背後に響いてゐる。

雑纂「訳書広告 ヹルハアラン詩集「明るい時」」より
 大正10年(1921) 光太郎39歳

010ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンは、画家であった妻マルト・マッサンとの愛の日々を、詩集『明るい時』(明治29年=1896)、『午後の時』(明治38年=1905)、『夕べの時』(明治44年=1911)の三部作にまとめ、刊行しました。光太郎はこのうち『明るい時』と『午後の時』を翻訳、前者は単行書として刊行、後者は昭和16年(1941)の『仏蘭西詩集』、同18年(1943)の『続仏蘭西詩集』に、他の訳者の作品とともに寄稿しています。

いわば『智恵子抄』ベルギー版。こちらの方が先ですが。おそらく折に触れて智恵子に関する詩篇を書き続けた光太郎、ヴェルハーレンの「時」三部作を念頭に置いていたと考えられます。上記ヴェルハーレン評も、そのまま光太郎自身のことのように感じます。

アートオークション大手の毎日オークションさん。時折、光太郎や光太郎の父・光雲関連が出品されます。

6月8日(土)開催の「第608回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」では、光雲の作が出ます。 

第608回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日  程 : 2019年6月8日(土) 10:30~
下 見 会  : 2019年6月6日(木)・6月7日(金) ともに10:00~18:00


光雲の作、まずは木彫の「恵比寿・大黒天」。

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弟子の手が入った工房作ではないようですし、2体一組ということもあり、予想落札価格がかなりの額になっています。


同じく木彫で、「大聖像」。

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同一図題の作品が昨年も出品されましたが、別物のようです。「大聖」は孔子のことで、光雲が好んで彫ったモチーフでもあり、各地の美術館さんにも類似作が収められています。


続いて、木彫原型から抜いたブロンズ。まずは「慈母観音」。

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光雲と縁の深かった、東京駒込の金龍山大圓寺さんに、よく似た木彫の慈母観音像が寄進されています。類似作から型を取って鋳造したもののようです。光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周による鋳造とのこと。

先月、智恵子の故郷、福島二本松に行った折、この手の作品をお持ちだという方に写真を見せていただきました。そちらは「養蚕天女」でした。木彫のものは大小2種、宮内庁三の丸尚蔵館さんに納められていますが、ブロンズのものが流通していたりするのですね。


さらに、やはりブロンズの「恵比寿大黒天」。

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こちらは誰の鋳造ともわからず、欠損部分もあるようなので、あまり高い値段は付かなそうです。


いつも書いていますが、然るべき所に収まって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

モデルを眼の前に見ながら、それがどうしても分らない。いはば徹底的にモデルの中に飛びこめない。一体になれない。自分の彫刻とモデルとの間の関係がどうしても冷たい。ロダンの彫刻にあるような、あの熱烈な一体性が得られない。動物園の虎の顔をいくら凝視しても虎の気持ちが分らないやうに、モデルの内面が分らない。

散文「モデルいろいろ2 ――アトリエにて7――」より
 昭和30年(1955) 光太郎73歳

遠く明治末、パリでの体験の回想です。

留学前、日本では彫刻のモデルは職業として確立して居らず、周旋屋のような老婆が手当たり次第に金銭的に困っている人などをスカウトして美術学校へ派遣していました。したがって、体格も貧弱だったり、途中で勝手に来なくなってしまったりと、さんざんだったようです。

その点、留学先、特にパリでは、さまざまな美しい職業モデルと接することができました。しかし、畢竟するに、生きて来た文化的背景の違いから、西洋人の内面を真に理解することは不可能という思いにとらわれます。モデルの指の動き一つとっても、どういう意味があるかさっぱり分からないとか……。光太郎のフランス語会話力には問題ありませんでしたし、コミュ障的な部分があったわけでもありませんでしたが……。ただ、逆に言うと、表面的なつきあいのみで、西洋人を真に理解したつもりでいた輩よりは真摯な悩みだったといえるでしょう。光太郎、結局、10年の留学予定を3年半ほどに縮め、帰国の途につきます。

ディスるわけではありませんが、光雲ら、光太郎より前の世代の彫刻家たちには、光太郎のこうした悩みそのものが理解不可能だったことでしょう。

5月15日(水)、第62回高村祭に出席のため、光太郎第二の故郷ともいうべき花巻郊外旧太田村に行って参りまして、ついでというと何ですが、高村光太郎記念館さんの別館的な森のギャラリーで開催中の「美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―」を拝見して参りました。

まずは5月14日(火)、記念館さんの職員の方にご案内いただき拝見、さらに翌日、高村祭に出演なさったシャンソン系歌手・モンデンモモさんと舞踊家の増田真也さんをご案内。

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森のギャラリーは、昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館です。現・高村光太郎記念館さんの方で展示しきれない収蔵品や、地元の方々の作品等の展示、時にはワークショップ的な活動、市民講座等でも活用されています。

で、現在は地元ご在住、多田民雄氏のポスター作品、安部勝衛氏の陶芸・書作品の展示がメインです。看板的な書も安部氏が揮毫。

「美しきものみつ」というのは、光太郎が好んで揮毫した短句。「この世界には美しいものが満ちている」的なニュアンスです。「み」を変体仮名的にカタカナの「ミ」とした揮毫もあり、それを漢字の「三」と誤読、「美しきもの三つ」と勘違いし、「三つのうちの一つは○○、次は××……」と、むちゃくちゃな解釈がされる場合があり困っているのですが……。

多田氏のポスター作品。最近の作品なのですがレトロ感が溢れています。

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展示作品を元にしたポストカードも作成されていました。記念館さんで販売中です。

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モチーフは、戦後の7年間を光太郎が過ごした山小屋(高村山荘)です。正確に言うと、その套屋(カバーの建物)で、農家の納屋風のこの建物の中に、光太郎の山小屋が保存されています。イメージとしては中尊寺金色堂のような保存法です。

安部氏の書。光太郎の詩句等から言葉を選んで書いて下さっています。下の方には陶芸作品も。

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過日、その存在が報道された、光太郎遺品のホームスパン毛布。世界的に有名なイギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)の作と確認された逸品。ただし現物ではなく、画像をロール紙にプリントアウトしたものです。目に入った瞬間は本物かと見まがいましたが。

以前にも書きましたが、大正末か昭和初め、メレの作品展が日本で開催された際、智恵子にせがまれで購入したと、この地でホームスパン制作に従事していた女性が光太郎から聴いたとのことです。

昭和20年(1945)、東京(4月13日)と花巻(8月10日)で2回の空襲に遭った光太郎ですが、この毛布、奇跡的にその難を回避しました。

ちなみに下の方は、記念館スタッフの方のご自宅にあったという糸車と糸。直接光太郎に関わるものではありませんが、このあたりでこうしたものが使われていたということでの展示です。

来年度あたり、記念館さんの方で、こちらにまつわる企画展示を行うという計画が進行しているようです。ぜひ実現してほしいものです。

記念館さんの企画展といえば、昨年開催された「光太郎と花巻電鉄」の際に、品川在住のジオラマ作家・石井彰英氏に制作していただいた、昭和20年代花巻町とその周辺のジオラマ。現在も記念館さんで展示中です。

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モンデンモモさんと増田真也さんをご案内して登った智恵子展望台。山荘裏手です。ここから光太郎が夜な夜な「チエコー」と叫んでいたという伝説が残っています。

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いちめんの新緑と、赤いのはツツジ。「山青くして花然(も)えんと欲す」ですね。この日はあいにくの雨模様でしたが、晴れた日には抜群の展望でしょう。


森のギャラリーでの「美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―」は、5月26日(日)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

あれは智恵子といふ純真な女性に接したいろいろな時期にまつたく唯夢中で書いたもので、それを愛の精神とおよみ下すつた事をありがたく思ひます。ほんとに高い愛といふものこそ此の厳しい人生に真に人間を人間たらしめるものでございませう。

ラジオ放送「たのしい手紙」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

文京区在住だった松林忠という人物(詳細が不明です)からの書簡に対しての返信が、おそらくそのままラジオで放送されまして、その一節です。

「あれ」は『智恵子抄』。光太郎自身、智恵子に対する愛情がそうだったとは書いていませんし、光太郎が実践できていたかもあやしいのですが、「ほんとに高い愛」……言い換えれば「無私の愛」とでもいうことになるのでしょうか。

世間的には明日から10連休だそうで。ゴールデンウィーク中に始まるイベントを一つ。 

美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―

期 日 : 2019年5月3日(金・祝)~5月26日(日) 期間中無休
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 森のギャラリー  岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 10:00~15:00 
料 金 : 大人200円(150円)学生・生徒・児童150円(100円)
         高村光太郎記念館は別途料金

光太郎はこの地を文化の発信地にしようとしていました。自分を取り巻く自然すべてのものが美に満ちていると語っています。
新緑の季節、光太郎さんぽ道で草花を愛でながら、光太郎と智恵子の息吹を感じてみませんか?
≪展示内容≫ 多田民雄 ポスター作品、安部勝衛 陶芸・書作品

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光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)の傍らに建つ花巻郊外旧太田村の「森のギャラリー」は、昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館の建物です。こちらは平成25年(2013)に、近くの歴史民俗資料館だった建物が新たな高村光太郎記念館として仮オープングランドオープンは平成27年=2015)するまで、展示に使用されていました。

その後しばらく倉庫として使われていましたが、一昨年から記念館の別館のような扱いで、記念館に展示しきれないものの展示や、地元の皆さんの作品展、市民講座やワークショップなど、幅広く活用されています。

今回は、地元の画家・多田民雄氏と、陶芸家の安部勝衛氏の作品が展示されます。

多田氏は昨年、旧太田村にほど近い花巻市円万寺地区のギャラリーBunさんでポスター展を開かれています。その際は高村光太郎記念館をモチーフにした作品も出品されたとのこと。今回も、高村山荘が描かれている作品などが出るようです。

また近くなりましたら改めてご紹介しますが、5月15日(水)には、高村山荘敷地内で、毎年恒例の「高村祭」が開催されます。当方、その際にお邪魔するつもりで居ります。

皆様も、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

子供の頃たべつけた物はいつまでもなつかしく、今日でも飲屋などで畳み鰯を焼いてくれると心がしんみりする。

散文「子供の頃の食事など」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この項、しばらく前から花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれた戦後の作品を紹介してきましたが、今日のみ戦前の作品に戻ります。

この項、筑摩書房版『高村光太郎全集』を底本に、その掲載順に言葉を拾っています。同全集は、詩、評論、随筆、日記、書簡、翻訳などにわけ、ほぼ年代順に並べるスタイルですが、昭和30年代の初版刊行時に執筆時期が不明だった作品もあり、あるべき場所でないところに置かれている作品もあり、これもその一つです。

先月、盛岡市で岩手県立大学さんの短期大学部・菊池直子教授による公開講座「高村光太郎のホームスパン」拝聴して参りましたが、その発表の元となった内容が、同大の『研究論集第21号』に掲載され、菊池氏がその抜き刷りを送って下さいました。

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先月のご発表にても紹介されたとおり、光太郎とホームスパン(羊毛による手織りの織物)との関わり、主に2点についての調査結果がまとめられています。

まず1点。花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されている、光太郎の遺品である大判の毛布が、世界的に有名な染織家であるエセル・メレ(あるいはその工房)の作だとほぼ断定できるということ。光太郎の日記に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、また、実際にそれを見せられた岩手のホームスパン作家・福田ハレの回想にもその旨の記述があります。福田は及川全三という名人の弟子でした。

先月の発表ではその画像がなかったように記憶しておりますが、日本国内に残る他のメレ作品との比較が為されており、なるほど、よく似ています。左が光太郎遺品、右がアサヒビール大山崎山荘美術館さんに収められているものです。

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単にデザイン的な部分だけでなく、折り方の特徴などからも、メレ(あるいはその工房)の作とみて間違いないそうです。

過日も書きましたが、大正末から昭和初めに日本で開催されたメレの作品展の際、智恵子にせがまれて光太郎が購入したと語っていたと、福田の回想にあります。昭和20年(1945)の空襲の際には、事前に防空壕に入れておいて無事だったようです。

ちなみに光太郎がこの毛布(と思われるもの)を掛けている写真を見つけました。

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おそらく昭和28年(1953)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、借りていた中野のアトリエで撮られた1枚。昭和31年(1956)に筑摩書房さんから刊行された『日本文学アルバム 高村光太郎』に掲載されています。モノクロなので色がわかりませんが、柄からみて間違いないでしょう。


もう1点。昭和25年(1950)にオーダーメイドされた、光太郎愛用の猟服(光太郎の記述では「猟人服」)について。こちらは花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。やはりホ-ムスパン地で、織りは福田、仕立ては光太郎と交流の深かった画家の深沢紅子の父・四戸慈文。四戸は盛岡で仕立屋を営んでいました。

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光太郎がこれを着て写っている写真はけっこうあります。

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左は宮沢賢治の親友だった藤原嘉藤治(中央)も写っています。右は昭和27年(1952)に再上京した上野駅で。当方、国民服的なものだと思いこんでいましたが。

この服についても詳細な考察が為されています。以前にも書きましたが、背中一面に巨大なポケットが付いていて、スケッチブックも入れられるという優れものです。

それから、現存が確認できていないのですが、光太郎は外套も注文しています。下の画像は昭和26年(1951)、当会の祖・草野心平と撮った写真。時期的に見て、これがそうなのかな、という気がします。

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岩手では現在も、及川や福田の系譜に連なる方々がホームスパン制作に取り組んでいます。いずれ花巻高村光太郎記念館さんあたりで、光太郎とホームスパンに関わる企画展示など、開催してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。
散文「智恵子の半生」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

この年の『婦人公論』に発表(原題「彼女の半生――亡き妻の思ひ出――」)され、翌年の詩集『智恵子抄』にも収められました。そもそも詩集『智恵子抄』の成立は、この文章を読んで心を打たれた出版社龍星閣主・沢田伊四郎が、智恵子に関する詩文を集めて一冊の本にしたい、と提案したことに始まります。

まだ太平洋戦争開戦前ですが、それにしても、「大君の愛」と「一人の女性の底ぬけの純愛」を同列に扱うとは、大胆です。不敬罪でしょっぴかれたり、発禁になったりしても不思議ではありません。そうならなかった裏には、光太郎と交流があり、敬愛していた詩人の佐伯郁郎が内務省警保局の検閲官だったことがあるような気がしています。


明日、4月2日は、光太郎63回目の命日・連翹忌です。光太郎第二の故郷・花巻では午前中に光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で詩碑前祭、午後から市街の松庵寺さんで連翹忌法要。そして東京日比谷公園松本朗様では、午後5:30から当会主催の連翹忌の集いが開催されます。光太郎智恵子、そして二人に関わった全ての人々に思いをはせる日としたいものです。

先ほど、盛岡から帰って参りました。

岩手県立大学さんの公開講座「高村光太郎のホームスパン」を拝聴しましたので、レポートいたします。

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会場は盛岡駅前の複合施設・いわて県民情報交流センター アイーナ内の同大アイーナキャンパス。

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いい天気でしたが、盛岡市民の皆さんのソウルマウンテン・岩手山は少し雲がかかっていました。

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講師は同大教授の菊池直子先生。何と、日本女子大学家政学部のご出身だそうで、もろに智恵子の後輩に当たられます。

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同大の研究紀要に論文としてご発表なさる(近日中に刊行)そうですが、昨日はその骨子となる2点について、ご発表されました。

ホームスパンとは、現在も岩手で継承されている羊毛を使った織物で、光太郎とホームスパンの関わりが2点あり、服飾の専門家としてのお立場から、それぞれを丁寧にご説明下さいました。

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まず1点。「ホームスパンの毛布」。

戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までの丸7年間、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に逼塞していた光太郎、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京しました。翌28年(1953)、像の完成序幕後、一時的に村に帰ったものの、宿痾の肺結核でもはや身体はボロボロ、東京で療養せざるを得なくなり、結局、同31年(1956)に中野の貸しアトリエで亡くなりました。

光太郎歿後、中野にあった遺品の大半が花巻高村光太郎記念会さんに寄贈され、その中に、ホームスパンらしき毛布というか、膝掛けというか、大きな布が1枚、含まれていました。永らく箱に入ったまま収蔵庫にしまわれていて、その存在に気づいたのが平成28年(2016)。これはホームスパンではないか、ということで、当時の光太郎日記などを当たってみると、「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回ありました。

「メーレー夫人」というのは、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)。ファーストネームの「エセル」は統一されていますが、ファミリーネームの方は文献によって「メレー」「メーレ」「メイレ」「メーレー」「メレ」「メアリー」など、さまざまです。外国語を無理矢理カタカナにする際、よくある話です。

メレは世界的に有名な染織家だったそうで、伝統的な手工芸が滅びつつあることに危機感を抱き、いわゆるアーツ・アンド・クラフツ運動にも関わったとのこと。そして、陶芸の分野でアーツ・アンド・クラフツを進めていたバーナード・リーチ、さらにリーチ経由で日本の民芸運動の濱田庄司とも交流があったそうです。リーチといえば、明治40年(1907)に、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、それがきっかけで来日した人物です。濱田も光太郎とつながっています。

そしてメレは、リーチとのつながりから、来日はしなかったものの、大正15年(1926)と昭和3年(1928)の2回、日本で作品展を開きました(1回目はリーチとの2人展)。そのいずれかの折に、会場の鳩居堂画廊を訪れた光太郎が、メレの作品を購入したと、岩手でホームスパン制作に携わっていた福田ハレという女性が光太郎本人から聞いたと回想文に書いています。しかも、それは一緒に見に行った智恵子が欲しがったため、とのこと。

こちらがその毛布(というか膝掛けというか)。

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当方も以前に実物を見せていただいたのですが、モダンなデザインの中にも温かみが感じられ、しっかりした作りでしかも大きく、いろいろ使いでがありそうだと思いました。

菊池先生、そしてメレに関するご著書もある染色工芸家の寺村祐子氏が鑑定した結果、メレ作品の特徴が随所に表れており、メレ本人、或いは弟子がたくさんいたとのことで、メレ工房の作と断定していいだろう、ということだそうです。

昭和20年(1945)、空襲で亡き智恵子と過ごした光太郎アトリエ兼住居は灰燼に帰しましたが、その前に布団類などは防空壕に入れていたと、光太郎の随筆に記述があり、おそらくこれもその中に入っていたのだろうと思われます。ものがいいものであるということと、智恵子が欲しがって買ったという話が事実なら、智恵子との思い出の品、という部分もあるわけですね。

現在、日本国内には確認できているメレの作品というのは数点しかないそうで、そういう意味でも実に貴重なものです。


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もう1点は、現在も花巻高村光太郎記念館さんに常設展示されている光太郎愛用の服。こちらは来歴もはっきりしており、やはり花巻郊外旧東和町でホームスパン制作に携わっていた、及川全三の弟子だった福田ハレが織ったホームスパンで、仕立ては盛岡の名テーラー・四戸慈文です。ちなみに四戸は、光太郎と交流の深かった画家・深沢紅子の父だそうです。光太郎が「猟人服」を作ってくれ、と頼んだそうで、その際、とにかくポケットをたくさんつけてくれという注文だったとのこと。それは昭和37年(1962)に筑摩書房から刊行された佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』という、花巻周辺の人物の証言集的な書籍に記述があります。

光太郎曰く「この服を着ればカバンも要らず風呂敷も要らず、大きなスケッチブックも入れば文具箱も入り、手さげ鞄に入れる位はみなおさまる服にしてもらいたい」。さすがにスケッチブックは無理だろう、と思っていたのですが、菊池先生がこの服を調べてみると、何とまあ、後ろ身頃が巨大なポケットになっていて、本当にスケッチブックが入るというのです。これには驚きました。

光太郎は山小屋のあった太田村の村おこし的なことも常々考えており、その一環として、ホームスパン制作を村に根付かせようと、あれこれ画策したそうです。その甲斐あって、一時はホームスパン制作が行われましたが、残念ながら技術を学んだ娘さんが北海道に転居してしまったりで、太田地区のホームスパンは途絶えてしまいました。

しかし、及川の系譜の人々が盛岡や旧東和町などに健在で、岩手県としては今でもホームスパン制作が続いています。

話は戻りますが、そういう土地で、世界的に有名なメレ夫人の作が新たに発見されたということの意義も大きいですね。

いずれ、花巻高村光太郎記念館さんの方で現物の公開が期待されるところです。

そういうわけで、実に興味深い講座でした。

今日も今日とて公開講座に行って参ります(笑)。いわき市立草野心平記念文学館さんの「冬の企画展 草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」の関連行事で、「居酒屋「火の車」一日開店」。料理研究家の中野由貴さんが講師です。「衣・食・住」のうち、昨日は「衣」、今日は「食」です(笑)。


【折々のことば・光太郎】

千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない。

散文「智恵子の切抜絵」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

心を病んだ智恵子が、入院先のゼームス坂病院で作った紙絵(「紙絵」と光太郎が命名するのは戦後)は、メレ夫人の毛布のように防空壕に入れて置いたのではなく、茨城、山形、そして花巻の3ヶ所に疎開させ、それで無事に残りました。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

岩手盛岡から、市民講座の情報です。
会 場 : 岩手県立大学アイーナキャンパス学習室4
      いわて県民情報交流センター(アイーナ)7階 
盛岡市盛岡駅西通1丁目7-1
時 間 : 11:00~15:30
料 金 : 無料

内 容 : 
①11:00~12:00 文化の講座民藝運動と昭和恐慌期の東北農村社会:ある知的交差の素描
  講師 :三須田 善暢(国際文化学科)
②13:00~14:00 生活の講座Ⅰ「高村光太郎のホームスパン」
  講師 :菊池 直子(生活科学科 生活デザイン専攻)
③14:30~15:30 生活の講座Ⅱ「嚥下が困難な人の食事 とろみ材とゼリー材の利用も含めて」
  講師 :加藤 哲子(生活科学科 食物栄養学専攻)

定  員 : 各30名 事前申し込みが必要です。
        申込期間は平成31年2月8日(金)~3月8日(金)(定員に達し次第終了)

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「ホームスパン」とは、明治時代に日本に入ってきた羊毛を使った織物。イギリスが発祥の地です。コートやジャケットなどの生地として、主に東北や北海道などの寒冷地で作られるようになりました。柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤、濱田庄司などの白樺派の面々がこよなく愛したそうです。

岩手では、花巻郊外旧東和町(現・花巻市東和町)に居を構えた及川全三という人物が、ホームスパンの普及に努め、現在も盛岡などで及川の流れをくむ人々がその灯を守っています。及川は上京していた昭和の初めに、やはり光太郎と交流のあった柳宗悦の影響で、民芸運動、そしてホームスパンの魅力にとりつかれ、教職を辞してこの道へ進んだそうです。

光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村にも、及川の指導でホームスパンを作っていた村民がいて、村の振興にも関心を寄せていた光太郎が興味を示し、その技術を広める手助けをしようとしたり、実際に服を作ってもらったり、及川の工房を訪ねたりしました。

下の画像は、花巻高村光太郎記念館で展示されている、ホームスパンによる光太郎の服。オーダーメイドです。
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このあたりのお話は出るでしょう。

それから、光太郎とホームスパンのつながりは、もう1点。その件についてもいろいろ情報を得ているのですが、今回の講座でどの程度その話が出るかというところでして、あまり詳しく書くとフライングだと怒られそうですので、また講座終了後にレポートします。

というわけで、他の用件もあり、久々に(といっても半年ぶりくらいですが)盛岡、そして花巻に行って参ります。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

丁度イタチを彫刻に木彫にしようかと思つて居たので、よく注意して観察したが、彫刻にはテンの方がいいと思つた。イタチではまだ丸すぎる。カハウソのやうな短い圓い口もとは愛嬌があるが、どうも少し中途はんぱで、ずばぬけた霊気に乏しい。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

駒込林町のアトリエ件住居の庭に現れたつがいのイタチを見ての感想です。光太郎によれば、桃は彫刻になるがリンゴはだめで、蝉も彫刻になるけれどカマキリはならない、とのことです。同様に、テンはよくてもイタチは不可。どういう基準なのか、実際に実作に当たっている造形作家の方の意見を訊いてみたいものです。

ちなみに当方自宅兼事務所の近所でも時々イタチを見かけます。たいがい愛犬との散歩中で、U字溝のコンクリート製のふたとふたの間、台形の隙間から現れて、当方と犬に気づくとまた戻っていきます。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

一昨年、日本橋の三井記念美術館さんで始まり、岐阜県現代陶芸美術館さん、山口県立美術館さん、富山県水墨美術館さんを巡回した展覧会の最後の開催地、大阪での開催です。うっかりご紹介するのを失念しており、始まってしまっています。

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これまでの巡回各館同様、光太郎の父・高村光雲の木彫「布袋像」が出品されています。他の出展作はこちら。七宝の並河靖之・濤川惣助のダブルナミカワ、牙彫には安藤緑山、陶芸に宮川香山、木彫では光雲の朋友・石川光明など、人気作家がズラリ。さらに現代作家による超絶技巧の作も多数。  

驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ

期 日 : 2019年1月26日(土)~4月14日(日) 
会 場 : あべのハルカス美術館  大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-43 あべのハルカス16階
時 間 : 火~金 10:00~20:00   月土日祝 10:00~18:00
料 金 : 一般 1,300(1,100)円  大学・高校生 900(700)円
      中学・小学生 500(300)円 ( )内団体料金
休 館 : 2月18日(月)、3月4日(月)、18日(月)

本物と見まがう野菜や果物、自在に動く動物や昆虫、精緻な装飾や細かなパーツで表現された器やオブジェ…。近年注目の高まる明治工芸と、そのDNAを受け継ぐ現代の作家たちによる超絶技巧の競演をご覧いただきます。人間の手が生み出す奇跡のような技術に加え、洗練された造形センスと機知に富んだ、驚異の美の世界をお楽しみください。

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関連行事

超絶!フォトジェニック・ナイト 2月16日(土)・3月16日(土) 各日 18:00~20:00

閉館後の展示室内で自由に写真撮影ができます。気に入った作品とコラボした超絶フォトで、狙おう、インスタ映え!  ※本展観覧券が必要です。ストロボ、三脚や自撮り棒などのご使用はご遠慮ください。
  

ハルカス大学連携講座「金属に託す瞬間の美 超絶技巧への挑戦」 2月17日(日)14:00~15:00

本展出品作家で、蒲公英(たんぽぽ)や桜などの繊細で儚い自然を金工で表現する、若き超絶技巧の担い手、鈴木祥太さん。制作にかける想いと、技の秘密を語っていただきます。 
 講 師  鈴木 祥太氏(本展出品作家、金工)
 会 場 あべのハルカス23階 セミナールーム
 定 員  40名(事前申込制、先着順)
 聴講は無料ですが、本展観覧券(半券可)が必要です。
お申し込みは、ハルカス大学webサイト(
http://harudai.jp/)、お電話(06-6622-4815)、もしくはハルカス大学受付(あべのハルカス23階キャンパスフロア)にて承ります。定員になり次第締め切ります。
 

スペシャル・トーク「日本美術応援団 驚異の超絶技巧を応援する! in 大阪」 2月17日(日)14:00~15:30

本展監修者で「日本美術応援団」団長の山下雄二氏と、団員の山口晃氏(美術家、本展チラシ挿画担当)が、熱き超絶技巧愛を語る!展覧会が100倍面白くなる対談です。
 出 演 山下裕二氏(本展監修者、明治大学教授)  山口晃氏(美術家)
 会 場 あべのハルカス25階 会議室   定 員 270名
 聴講料 1,500円(一般観覧券とオリジナルポストカード付き・税込)
※トークチケットは、11月16日(金)~1月25日(金)まで、下記にて販売します。定員に達し次第終了。ポストカードは当日会場にてお渡しします。【チケット販売所】ローソンチケット(Lコード:53513)

 
この他に、2月6日(水)には出展作の多くを所蔵されている清水三年坂美術館さんの村田理如氏の講演もありました。


「超絶技巧」系、数年前から人気のジャンルで、またいずれ同様の企画が組まれるような気がしますが、今回のものはこの大阪展が最後となります。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私は緑色を好む。それで紺青の空と海とに挟まれた陸上の濃緑色の展望を見て喜ぶ。
散文「三陸廻り 十 宮古行」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

十回にわたって『時事新報』に連載された「三陸廻り」の最終回から。釜石の先にあるオイデ崎付近の海上を行く船から、リアス海岸の岸壁に密生する広葉樹の原生林を見ての感懐です。

若き日の智恵子がエメラルドグリーンを好んだのは比較的有名な話ですが、光太郎も緑色が好みだったのは意外といえば意外でした。もっとも、ここで言う緑色は、色としての緑というより、大自然の象徴としての樹木という意味なのかもしれません。

たまたまネットで見つけまして、早速購入しました。来年のカレンダーです。

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手すき和紙 MINOGAMI きよこハウス」さんという工房の製品で、「前向きことばーやる気が出る名言ー」というタイトルです。

手漉きの美濃紙製で、縦ほぼ47㌢、横おおむね15㌢。手漉きということで、1枚の大きさが微妙に異なっていまして、味わいを感じます。留め具は木製で、そこがまた温かみを醸し出しています。

1ヶ月1枚プラス表紙の13枚。毎月、「やる気が出る名言」が一篇。

いきなり1月が、光太郎の「道程」(大正3年=1914)から、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」です。

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絵の部分、それから文字も原画が切り絵だそうで、これもまたほっこり系ですね。

2月以降は以下の通り。ちなみにそれぞれ英訳がついています。

 2月  夢見ることをやめたときその人の青春は終わるのである  倉田百三
 3月  なんでもやってみなはれ やらなわからしまへんで
鳥井信治郎(サントリー創業者)
 4月  いいことがある ますますよくなる きっとよくなる かならずよくなる
中村天風(実業家)
 5月  無理をするな 素直であれ  種田山頭火
 6月  雨ダレ石ヲウガツ  ことわざ
 7月  あの黒雲の後ろには太陽が輝いている  新渡戸稲造
 8月  夢中で日をすごしておればいつかはわかる時が来る  坂本龍馬
 9月  かれはかれ われはわれ でいこうよ  大久保利通
 10月  捨てる神あれば 拾う神あり  ことわざ
 11月  笑われて 笑われて つよくなる  太宰治
 12月  ふまれても ふまれても 青空を見て微笑むなり 我はおきあがるなり
 星は我に光をあたえ給うなり  武者小路実篤


1部3,456円(税込)、送料290円です。きよこハウスさんサイトに注文方法が記されています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

同君の郷土に対する熱情はなみなみでなく、深く郷土の地霊を思ひ、郷土の天然、郷土の人事、郷土の祭祀、郷土の暦日、ことごとく同君の最も大切な心の奥のいつきの宮となつてゐる。

散文「真壁仁詩集「青猪の歌」序」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

真壁仁は山形出身の詩人。早くから光太郎と交流がありましたが、さらにこの詩集『青猪』序文を光太郎が書いたことが契機となり、亡き智恵子の紙絵の約3分の1を山形の真壁の元に疎開させることとなりました。ちなみに「青猪」はカモシカの異名です。

光太郎自身、およそ一年後に東京を焼け出され、花巻郊外太田村で農耕自炊生活に入り、北の大地を郷土とするような詩を書き始めるとは、思ってもいなかったことでしょう。

昨日に引き続き、企画展情報です。 

驚異の超絶技巧!明治工芸から現代アートへ

期 日 : 2018年9月7日(金)~2018年10月21日(日) 
会 場 : 山口県立美術館  山口市亀山町3-1
時 間 : 午前9 時~午後5時
料 金 : 一般 1,300(1,100)円 / 学生 1,100(900)円 / シニア 1,100(900)円
         ※( )内は20名以上の団体 高校生以下無料
休 館 : 9月10日(月) 10月15日(月)

近年、明治工芸に対する注目度が飛躍的に高まっています。かつて、輸出品として海を渡った作品が、次々に里帰りを果たし、多くの人々がその魅力を再発見することとなったのです。
本展は、そのきっかけとなった「超絶技巧! 明治工芸の粋」展の続編。3年前に当館でも開催され、その「超絶」ぶりが大いに話題となった展覧会の第2弾です。前回と同様、今回も、七宝、金工、牙彫、木彫、漆工、刺繍絵画など幅広いジャンルから厳選された明治工芸の逸品をご紹介するのにくわえて、明治の「超絶技巧」を受け継ぎつつ新たな世界を築いている15人の現代作家による驚愕の現代アートも多数ご紹介いたします。
明治の工人たちの超人的センスと「わざ」の数々をお楽しみいただくとともに、失われて久しいと思われていたその「超絶技巧」が、時空を越えて現代に脈々と引き継がれている姿を、明治工芸と現代アートのコラボレーションでご堪能ください。

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関連イベント

「日本美術応援団 驚異の超絶技巧を応援する! in山口」
[出演]山下裕二(本展監修者、明治学院大学教授)
[日時]10月13日(土) 14:00〜15:30
[会場]山口県立山口図書館レクチャールーム    [定員]200名(先着順、要申込)
[聴講料]無料※「驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ」展のチケットが必要です。
【申込方法】
超絶技巧展トークイベント参加希望」 とご記入の上、 ①参加希望者全員の氏名、②年齢、③住所、④電話番号を明記し、美術館ウェブサイトの申込フォーム、または往復はがきでお申し込みください。当館より、折り返しご連絡いたします。

「参加アーティストによるトークイベント」
アルミニウムという、明治工芸とは全く異なる素材を用いて新たな表現に挑戦する気鋭のアーティスト、高橋賢悟(1982〜)。超絶技巧のDNAを受け継ぐ現代作家を代表して、自作について、熱く語っていただきます。
[講師]高橋賢悟(金工)   [日時]9月30日(日) 14:00〜15:00
[会場]山口県立美術館講座室 [定員]80名(聴講無料、先着順)

学芸員によるギャラリートーク
[日時]9月15日、10月6日、13日 (いずれも土曜日) 10:00〜(30分程度、申込不要)




昨秋、日本橋の三井記念美術館さんで開催され、今年に入って岐阜県現代陶芸美術館さんを巡回し、三館めの開催となります。ちなみに11月から富山県水墨美術館さん、来春、大阪あべのハルカス美術館さんも巡回予定です。

問い合わせたところ、三井さん同様、光太郎の父・光雲作の「布袋像」が出るそうです。

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その他、七宝、金工、牙彫、漆工、刺繍絵画など、様々なジャンルの「超絶技巧」作品が並びます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

詩は意味ばかりのものではなく、その全体に漲る一つの名状しがたい気魄のやうなものこそ其の核心を成すのである。一語づつの意味を拾つて唯思念しただけでは詩は多く解しにくい。言葉の森林のやうな厚みの奥から湧き出して来るものをまづ感ぜねばならぬ。一つの詩篇を包むコロナのやうなもの、又それから発する電磁気のやうなもの、又は工作機械の抵抗から起る低いうなりのやうなものの中に詩は息づいてゐる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

何気に、しかし、秀逸な比喩ですね。

岐阜県から企画展情報です。

驚異の超絶技巧!明治工芸から現代アートへ

期 日 : 2018年6月30日(土)~2018年8月26日(日) 
会 場 : 岐阜県現代陶芸美術館 岐阜県多治見市東町4丁目2-5
時 間 : 午前10時~午後6時
料 金 : 一般 900(800)円 / 大学生 700(600)円 / 高校生以下無料
      ※( )内は20名以上の団体
休館日 : 月曜日 7月17日(火) (ただし、7月16日(月)は開館

 近年、明治工芸に対する注目度が飛躍的に高まってきました。陶磁、七宝、金工、牙彫、木彫、漆工、刺繍絵画など、おもに輸出用としてつくられた工芸作品が海外から里帰りし、多くの人が瞠目するようになったのです。2014年から翌年にかけて、当館など全国6会場を巡回した「超絶技巧!明治工芸の粋」展は、そんな明治工芸再評価の機運を盛り上げるための画期的な展覧会でした。

 大好評を博したその企画の第2弾として、明治工芸と現代アートの超絶技巧が対決する展覧会を開催します。明治工芸を産み出した工人たちのDNAを受け継ぎ、超絶技巧プラスαの機知に富んだ現代作家の作品も多数展示します。

参加現代アーティスト(五十音順)
青山悟(刺繍)、稲崎栄利子(陶磁)、臼井良平(ガラス)、大竹亮峯(木彫)、加藤巍山(木彫)、佐野藍(石彫)、更谷富造(漆工)、鈴木祥太(金工)、高橋賢悟(金工)、橋本雅也(牙彫)、春田幸彦(七宝)、本郷真也(金工)、前原冬樹(木彫)、満田晴穂(自在)、山口英紀(水墨)

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案内にあるとおり、平成26年(2014)から翌年にかけ、日本橋の三井記念美術館さんから始まり、静岡佐野美術館さん、山口県立美術館さん、郡山市立美術館さん、富山県水墨美術館さん、そして今回と同じく岐阜県現代陶芸美術館さんを巡回した展覧会「超絶技巧! 明治工芸の粋」の第二弾です。

今回も皮切りは三井記念美術館さんで、当方、昨秋に拝見して参りました。光太郎の父・高村光雲の木彫「布袋」像が展示されていました。

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おそらく今回も展示されるはずです。ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに同展はこの後、9月7日~10月21日で山口県立美術館さん、11月16日~12月24日に富山県水墨美術館さん、さらに年が明けて平成31年(2019)1月26日~4月14日には大阪のあべのハルカス美術館さんを巡回予定です。それぞれ、また近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

日本へ帰つて来てしまつてからは、滅多に会う機会もないけれど、今でもその面影は頭にあるし、好意をもつてその絵なども見ている。思い出すといい気持ちの人で、ああした人が頭の中に生きているということは愉快なものである。
談話筆記「パリの梅原龍三郎君」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

梅原龍三郎は、光太郎より5歳年少でした。光太郎が明治42年(1909)に留学を終えて帰国する際、貸借契約がまだ残っていたカンパーニュ・プルミエル街のアトリエを引き継いでくれました。当時から光太郎はパリに来ている他の日本人画家達より、頭一つ抜け出していると感じていたそうです。

思い出すといい気持ちの人で、ああした人が頭の中に生きているということは愉快なものである」と言われるような人物でありたいものですね。

大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った千葉銚子でのイベント情報です。 

仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展

期   日 : 2018年4月27日(金)~30日(月)
会   場 : 飯沼山圓福寺(飯沼観音)本堂 千葉県銚子市馬場町1-1
時   間 : 10:00~16:00 (最終日15:00まで)
料   金 : 無料

仏と鬼と銚子の風景を版画で表現した旭市出身の版画家・土屋金司さんの作品展。

≪特別上演≫ 語り【犬吠の太郎】
 銚子浪漫ぷろじぇくとによる「犬吠の太郎」語り公演。土屋金司氏の版画と共にお楽しみください。当日は、境内にて和スイーツの販売(雨天中止)も実施いたします。
(開 催 日) 4月29日(日・祝)
(開催時間) 1回目12:00~ 2回目14:00~
(開催場所) 飯沼観音 本堂
(料金) 無料

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土屋氏は銚子に隣接する旭市のご出身だそうで、光太郎智恵子が宿泊した暁鶏館(現・ぎょうけい館)の館内にも作品が展示されています。記憶が定かではないのですが、そのうちの一枚が、光太郎詩「犬吠の太郎」(大正元年=1912)を刻んだ版画だったはずで、「≪特別上演≫ 語り【犬吠の太郎】」につながるのだと思われます。

太郎は暁鶏館で働いていた、当時で言うと下男。知的障害があったようで、現代では差別的表現になりますが「馬鹿の太郎」と呼ばれていました。しかし、皆から愛されるキャラクターだったようです。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演)では、故・石立鉄男さんが演じていました。

光太郎、太郎の(ややこしいですね(笑))印象が後々まで残っていたようで、昭和3年(1928)に書かれた詩「何をまだ指してゐるのだ」にも太郎が登場します。


    何をまだ指してゐるのだ001

 逆まく波のしぶきにうつそり濡れながら、
 あの岩の出鼻に裸で立つて、
 空の果まで何にも見えない沖の深みを見透すやうに、
 馬鹿の太郎は何をまだ指してゐるのだ。

 炎天溫気(うんき)の砂ほこりのまんなか、
 ゴオストツプの忙しい生産社会の人ごみにまぎれこみながら、
 建てかけた鉄骨の外には昼の月すら見えない空に手をあげて、
 馬鹿の太郎は何をまだ指してゐるのだ。 
 

会場の飯沼観音は、銚子の中心街です。昭和4年(1929)、光太郎を敬愛していた日中ハーフの詩人・黄瀛がここを訪れ、境内の火の見櫓から見た風景を「銚子ニテ」という詩に謳っています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一番危険なのは、アンデパンダン展がアンパンデタラメ展となることである。
散文「アンデパンダンについて」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

光太郎には珍しく、オヤジギャグが炸裂しています(笑)。

「アンデパンダン」は仏語の「Indépendants」。本来、「独立した人々」の意ですが、サロン等の公設展覧会に対する無審査、無賞の展覧会を指すようになりました。この年4月、盛岡市の松屋画廊で「第一回岩手アンデパンダン展」が開催され、深沢省三・紅子夫妻、舟越保武らも出品しました。

無審査であるのをいいことに、デタラメな作品がまかり通るようでは本末転倒、という警句です。

千葉から企画展情報です。光太郎の実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を嗣ぎ、鋳金分野の人間国宝に指定された、高村豊周の作品が出ています。

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左から、光雲、豊周、光太郎。

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北詰コレクション メタルアートの世界Ⅱ-メタルアートの匠と技-

期 日 : 2018年1月20日(土) ~ 4月15日(日)
会 場 : 千葉県立美術館 千葉市中央区中央港1丁目10番1号
時 間 : 午前9時~午後4時30分
休館日 : 月曜日(ただし、月曜日が祝日・振り替え休日に当たるときは開館、翌日休館。
料 金 : 一般300円(240円)  高大生150円(120円)
      ( )内は20名以上の団体料金

千葉県印西市の「メタルアートミュージアム光の谷」閉館に伴い、館長の北詰栄男氏より寄贈された365点の近代金工史を代表するメタルアートのうち、昨年度の黎明期の作家を中心とする展覧会に続き、第二弾として大正から昭和にかけての作品を中心にご覧いただけます。

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豊周の作品は、3点出ていました。「青銅環文壺」(昭和35年=1960)、「青銅花盛」(制作年不詳)。こちらの2点は画像がゲットできました。

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それから「朱銅花入」(昭和41年=1966)。001これそのものの画像は見つかりませんでしたが、似たような作品として、こちら。

いずれも見事な作品です。「メタル」というと、冷たい響きに感じられますが、さにあらず。特に「朱銅花入」などは、それが金属であることを忘れさせるような、温かみさえ感じさせられます。それは光太郎のブロンズ彫刻にしてもそうですが。

他に、関係する作家の作品もいろいろ。

豊周の師にあたる、津田信夫、大島如雲。豊周の父・光雲は、明治13年(1880)から翌年にかけ、大島とその父・高次郎の工房で、鋳金の仕事を手伝っていました。ちょうど、廃仏毀釈のあおりで木彫の仕事が激減していた時期です。

それから、やはり豊周の師・香取秀真(ほつま)の長男、香取正彦。光雲が主任となって制作された皇居前広場の「楠木正成像」の鋳造を担当した岡崎雪声。さらに、豊周の弟子にあたる丸山不忘。丸山は、豊周の助手として、光太郎作の日本女子大学校創設者・成瀬仁蔵胸像の鋳造にあたっています。

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当方、昨日、拝見して参りました。昨年の「北詰コレクション メタルアートの世界―黎明期の作家を中心に―」以来でした。

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館の正面玄関。後ろ姿は画家の浅井忠の銅像です。

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「メタルアートの世界Ⅱ」以外にも、アート・コレクション「コレクション名品展」、「浅井 忠6-その師と弟子たち-」 という展示も為されており、光太郎と関わりの深かった梅原龍三郎、安井曾太郎らの絵画が出品されていました。

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ぜひ足をお運びください。002


【折々のことば・光太郎】

工芸家は、作曲家が五線紙に曲を書き込んでゆく時既に演奏の結果を耳で聴く思をすると同様な感覚を持つてゐて、原型を作る時既にその壺なり花瓶なりのブロンズ作品に出来上がつた時の特有の美を感ずるのである。

散文「彫刻家の場合」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳

右は、方眼紙に豊周の描いた、上記とはまた別の「朱銅花入」の下図です。

こうした感覚が無い彫刻家が作った銅像などが鋳造されると、まるでブロンズという素材を生かしていないものになり、太平洋戦争前夜、既に金属の不足が顕著になりつつあったこの時期、実に無駄、という論です。

早いもので、12月も後半に入り、今年も残すところあと2週間となりました。そろそろ年賀状にかからねばなりません。

来年の干支は戌(いぬ)。というわけで、犬をモチーフとした縁起物の置物をご紹介します。 

純金製置物 「陽光」 <高村光雲原型作>

発売元 GINZA TANAKA(田中貴金属)

慶びと飛躍をテーマに、陽の光を浴びて遊ぶ犬の姿を活き活きと表現。日本の近代彫刻の礎を築いた高村光雲の逸品。

材質 ゴールド         素材 K24          サイズ 約150g、本体高さ約10.5×幅約12×奥行約6cm
※ガラスケース(高さ約20×幅約23×奥行約15cm)・桐箱付

現在の価格 2,031,960円(税込)  販売レート G410
※「Gマーク」の商品は貴金属相場により価格が毎日変動します。
  相場が大きく変動する場合もございますので、予めご了承ください。
※販売レート商品の相場変動による注文のし直し、返品等はお受けしておりません。

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光太郎の父、光雲が、もともと木彫で作った狆(ちん)を原型としているようです。下記は別の作例ですが。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。
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発売元のGINZA TANAKA(田中貴金属)さんでは、昨年の干支、やはり光雲原型の純金製申の置物も販売なさっていました。今年の酉年の縁起もの的な光雲原型作品はラインナップになかったようです。復活してよかったと思いました。

お金に余裕のある方、ぜひお買い求め下さい(笑)。


【折々のことば・光太郎】

真の要求の無い処には何者も育ちません。此の意味で私は日本将来の芸術の為め皆さんの芸術的慾望の強い上にも強く、高い上にも高く、自由な上にも自由である事を望んでゐます。

散文「展覧会の作品批評を求められて」より
 
大正8年(1919) 光太郎37歳

光太郎のこうしたスタンスは、終生変わることはありませんでした。

一昨日、花巻高村光太郎記念館さんでの「高村光太郎 書の世界」展を拝見した後、大沢温泉菊水館さんにて一泊いたしました。今年3度目でした。

翌朝は小雪が舞っていました。

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軒先にはつらら。

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光太郎も浸かった露天風呂。

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NHKさんの朝のローカルニュースで、花巻市内の文化施設5館の共同開催「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」をバスで廻るツアーのニュースをやっていました。

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6時台の放映は、予期しないまま始まってしまい、改めて7時台の放映をもう一度視聴。

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朝食後、チェックアウト。レンタカーで花巻市博物館さんを目指しました。

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こちらでは、やはり「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環として、「及川全三と岩手のホームスパン」展が開催中です。

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花巻の旧東和町出身で、この地に天然染色の羊毛織り、ホームスパンを根付かせた及川全三。光太郎とも交流がありました。その及川の歩みを作品や書簡、遺品などから追っていました。

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及川は上京していた昭和の初めに、やはり光太郎と交流のあった柳宗悦の影響で、民芸運動、そしてホームスパンの魅力にとりつかれ、教職を辞してこの道へ進んだとのこと。本場イギリスでも途絶えていた技術を復活させるため、かなりの苦労があったようです。

図録は発行されていませんでしたが、『花巻市博物館だより』には、展示パネルの一部が転載されているようで、そちらをいただいて帰りました。

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及川の作品、民芸運動の流れを汲むということで、素朴な中にも暖かみと気品があり、いいものでした。また、解説がなければ見落としてしまいそうなさまざまな工夫なども、解説パネルでよく理解できました。

しかし、残念ながら、光太郎との交流についてはほとんど触れられていませんでした。

そもそも及川がホームスパン制作を志したのは、柳に見せられたイギリスの染織家、エセル・メレのホームスパン作品がきっかけだそうで、そのメレの作品を光太郎が持っており、及川は旧太田村の山小屋でそれをたびたび見せてもらいました。その作品も高村光太郎記念館さんで所蔵しており、この機会に展示すればよかったのに、と感じました。また、盛岡てがみ館さんなどあちこちに及川の弟子にあたる福田ハレや戸来幸子に宛てた光太郎書簡も残っています(及川やホームスパンにふれています)し、過日もご紹介した光太郎愛用のホームスパンの服も、高村光太郎記念館さんで展示されています。

「及川全三と岩手のホームスパン」と銘打つなら、光太郎との関わりも外せない要素だと思うのですが、館同士の連携、情報共有などがうまくいっていないのか、また、改めて光太郎と及川全三に絞った展示を考えているからなのか、何ともいえません。同じようなことは、今夏同館で開催された企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」の際にも感じたのですが……。

ただ、今月9日に行われた関連行事、菊池直子氏(岩手県立大学盛岡短期大学部教授)による記念講演「ホームスパン作家・及川全三の足跡をたどって」では、光太郎についても触れられたそうで、それが救いですが……。

ところで、冒頭でご紹介した、参加5館を廻るバスツアー、来月も実施されます。また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

たとひ自分の崇拝する人から其が傑作であると保證されてゐるとしても自分自身で其感動を得ない時に、其作品を無理に善いと見ようとするのはいけません。
散文「展覧会を見る人に」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

そのとおりですね。世間には、「世間で人気の行列ができる展覧会だから見に行こう」という人もいるようですが。

一昨日、都内に出ておりましたレポートの2回目です。

メインの目的は、日比谷で開催された「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」拝聴でしたが、その前に日本橋に行っておりました。三井記念美術館さんで9月から開催中の特別展「驚異の超絶技巧! —明治工芸から現代アートへ—」拝見のためです。光太郎の父・高村光雲の木彫も出ているということで、観に行って参りました。

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同館では、平成26年(2014)に「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」という企画展を開催、その後、同展は日本中を巡回し、これが最近はやりの「超絶技巧」という語のはしりとなり、かつてはゲテモノ扱いだった明治期の種々の工芸に光が当てられるようになりました。それ以前から明治工芸の収集に力を入れていた、京都の清水三年坂美術館さんの協力が大きかったと思われます。

その後、同様の企画展が各地で開催されています。広い意味では、一昨日まで東京藝術大学さんで開催されていた「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」なども、共通するコンセプトも持っていたといえましょう。

今回も超絶技巧系の作品を集めた企画展ですが、それだけでは前回の二番煎じということで、その系譜を受け継ぐ現代作家の作品も併せて展示されています。今後はこういった工夫も必要になるでしょう。

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光雲をはじめとする、木彫の潮流も広い意味では超絶技巧の明治工芸ということで、今回も光雲作品が展示されています。制作時期が不明なのですが、「布袋」像。

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こちらは個人蔵ということで、展覧会への出品はおそらく初か、あったとしても少なかったものだと思われます。当方は初めて拝見しました。写真でも見た記憶がありません。椅子に座っているという、いっぷう変わったポージングです。

図録の解説文がこちら。

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『光雲懐古談』を引用していますが、やはり「青空文庫」さんで当該の章が読めるようになっていますので、リンクを張っておきます。輸出用の牙彫(象牙彫刻)が大流行した明治10年代半ば頃(光太郎が生まれた頃)の話です。逆に木彫は衰退の一途でした。沢田という商人は、その後、象牙の方が高く売れると云うことで、光雲に牙彫への転身をしきりに勧めましたが、光雲は頑として受け入れませんでした。光雲はその後、明治20年(1887)、皇居造営に伴う彫刻の仕事を命ぜられ、それがきっかけで飛躍していき、一方の牙彫は衰微していきます。

その沢田に注文されて布袋像を作ったことが紹介されていますが、やはり解説文の通り、これがそれとは限りません。

その他、木彫では東京美術学校で光雲と同僚だった石川光明、光雲が激賞したという根付師・森田藻己(小さな根付ではなく、大きな丸彫り)、現代では光雲の系譜に連なる加藤巍山氏の作品なども展示されていて、興味深く拝見しました。

木彫以外でも、牙彫、七宝、金工、漆芸、刺繍絵画、陶磁器などの逸品がずらり。安藤緑山の牙彫、並河靖之で七宝、正阿弥勝義による金工など、平成26年(2016)の同館、さらに清水三年坂美術館さんでも拝見した作品を再び目にでき、旧知の友人に再会したような感覚になりました。また、NHKさんの「日曜美術館」、テレビ東京さんの「美の巨人たち」などで取り上げられた作も多く、それらを思い出しながら拝見しました。

現代作家さんたちの作品にも感心しました。技法の継承という点で重要ですし、単なる守旧に留まらず、さらに先に進もうとする意慾が感じられました。しかし残念なのは、明治期の一部の技法はもはや現代では再現不能といわれていること。今後、それらが再現される技術の確立を求めてやみません。

同展、12月3日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

一体、作品の鑑賞の興味、といつて悪ければ愉快さは、作品そのものを通して作者と膝を割つて話の出来る処にあるのである。作者の見た自然の核心なり人事の情調なりの一寸二寸と解つて来る行程が堪らなく愉快なのである。どうしても作品の背後に作家の顔を見る所まで行かなければ、真の懐しみ、真の親しみは出て来ないのである。

散文「美術展覧会見物に就ての注意」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

これは極論ですが、やはりその作家の歩んできた道程を知っていると知らないとでは、作品の見え方は異なります。知っていることが必須ではありませんが、なるべく知ることを心がけたいと思います。

光太郎の父・高村光雲の作品が展示される企画展です。

驚異の超絶技巧! —明治工芸から現代アートへ—

期 日 : 2017年9月16日(土)~12月3日(日) 
会 場 : 三井記念美術館 東京都中央区日本橋室町2-1-1 三井本館7F
時 間 : 10時から17時まで 毎週金曜日及び9/30は19時まで
料 金 : 一般 1,300円(1,100円) 高校生及び学生 800円(700円) 中学生以下無料
       ( )内団体料金
休館日 : 月曜日(9/18,10/9は開館) 10/10(火)

2014年に開催し大好評を博した「超絶技巧!明治工芸の粋」展の第2弾。今回は七宝、金工、牙彫、木彫、陶磁などの明治工芸と、現代アートの超絶技巧がコラボレーション。明治工芸を産み出した工人たちのDNAを受け継ぎつつ、プラスαの機知を加えた現代作家の作品を紹介します。
明治工芸の工人たちの超人的な技とセンスは、失われて久しいロストテクノロジーだと誰もが思っていました。しかし近年、明治工芸に肉迫する作品を手がける現代作家たちが登場してきています。
本展では、超絶技巧による明治工芸と、それに匹敵する現代アートが対決します。明治工芸に劣らぬ、現代アートのクオリティに驚くこと間違いなしです!

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紹介文にあるとおり、平成26年(2014)に開催された「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」展の第二弾的な展覧会です。

前回も光雲の木彫が展示されましたが、今回も出ます。問い合わせたところ、一点、個人蔵の「布袋像」だそうです。

こちらは平成14年(2002)に、茨城県立近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」図録に掲載された「布袋像」。

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これとは別物だと思われますが、同一の図題で複数の作例があるのは珍しいことではありませんので、ほぼこういうものではないかと考えていいでしょう。あるいは異なるポージングかもしれませんが。

今回は、<受け継がれる超絶技巧のDNA ─ 明治工芸から現代アートへ> ということで、現代アート作家の皆さんの作品も多数展示され、美術工芸史的な部分での俯瞰を試みるようです。関連行事も充実していますね。

ぜひ足をお運びください。

さらに、今のところの予定では、来年以降再来年にかけて、岐阜県現代陶芸美術館さん、山口県立美術館さん、富山県水墨美術館さん、あべのハルカス美術館さんに巡回するとのことです。そちらもまた近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一旦まはりはじめると 歯車全部はいやでも動く。

連作詩「暗愚小伝」中の「協力会議」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

戦争責任を中心に、それまでの65年の人生を総括する目的で書かれた連作詩「暗愚小伝」。戦後になって戦時中の大政翼賛を反省し、活字にした文学者がほとんどいなかった中、光太郎の真摯な態度は評価されています。しかし、ある種「言い訳じみている」という評もあります。今回取り上げた詩句などもそうかもしれません。

タイトルの「協力会議」とは昭和15年(1940)に近衛文麿らが中心となり結成された大政翼賛会の中に置かれた下情上通を目的とした機関です。大政翼賛会内に地方組織として道府県・六大都市・郡・市区町村に各支部が置かれ、各段階の支部にそれぞれ協力会議が付置されて、さらに地方代表、各界代表による「中央協力会議」が持たれました。
 
 光太郎は劇作家・岸田国士のすすめで中央協力会議議員となり、昭和15年(1940)の臨時協力会議に出席。この時は一度限りと考えていたようですが、翌16年(1941)の第一回、第二回の会議にも出席しています(同17年=1942の第三回以降は委員を辞退)。第二回の会議はちょうど真珠湾攻撃の日と重なり、会議は途中で切り上げられ、参会者全員で皇居まで行進、「万歳」を叫んだそうです。

自分では歯車を動かす方、という意識はなく、動かされる方、と捉えていた光太郎ですが、その点では他の多くの文学者同様、「あの時点ではそうなるよりほかなかった」的な意識が垣間見えます。ただ、他の文学者たちと決定的に違うのは、花巻郊外太田村の山小屋で、自虐に等しい蟄居生活7年も続け、反省を態度で表したこと。ここにこそ、光太郎の真骨頂があるような気がします。

花巻郊外旧太田村、昭和20年(1945)秋から戦後の7年間を光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内に、光太郎の遺品などを展示するために「高村記念館」が竣工したのが、昭和41年(1966)のことでした。

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看板の揮毫は、草野心平。

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こちらは平成25年(2013)に、近くの歴史民俗資料館だった建物が新たな高村光太郎記念館として仮オープングランドオープンは平成27年=2015)するまで、使用されていました。

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古い建物なため、空調も無く、夏場は開け放った入り口からオニヤンマが舞い込み、光太郎彫刻に止まったりしていました。それはそれで趣があってよかったと思います。

その後、倉庫として使っていましたが、このほど、内部をきれいに一新し、「森のギャラリー」としての活用が開始されました。

先月末、市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」で、お邪魔した際に、内部を見せていただきました。

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新しい記念館に並べきれない収蔵品の一部――高田博厚作の光太郎胸像、智恵子紙絵の複製など――が展示されているほか、長テーブルなども配され、ちょっとしたイベントに使えるようにしてあります。

オープンを報じた8月25日の『岩手日日』さん。

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早速、紙絵制作の体験講座が開かれたそうです。

同じ『岩手日日』さんの8月27日付。

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こんなチラシを作り、呼び掛けたそうです。

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講座の様子の画像も送っていただきました。

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記事に有るとおり、光太郎が望んでいたという、この地の芸術・文化活動の拠点という意味合いでのリニューアルです。狭い建物ですのでキャパは限られますが、こうした講座や、ギャラリーとしての作品展示、それからコンサート等にも使えそうですし、いろいろ活用の方法がありそうです。

光太郎ゆかりの地で、ちょっとしたイベントを行いたい、という方、窓口は一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんです。もちろん何でもありというわけではないでしょうが、問い合わせてみて下さい。


【折々のことば・光太郎】

願くは精神の鼓舞これを凌いで われら面目一新の大道に立ち、 武装せざる平和の妙致を随処に捉へ 精神の美と深とに匹儔を絶たん。

詩「武装せざる平和」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

我が国は敗戦により、否応なしに武装解除させられたわけですが、それを逆に好機として、「武装せざる平和」の実現に向くべきだとの論。戦時中の翼賛詩からの変わり身の早さは置くとして、のちの憲法第9条の精神を先取りしている点は、やはりさすが光太郎です。

「核戦力を中心とする自衛的国防力を100倍、1000倍に強化していかなければならない」とするどこかの国の指導者に贈りたい言葉です。

先週の『神戸新聞』さんから。

原田マハさんに新田次郎賞 「美術史小説」へ意欲 

 第36回新田次郎文000学賞(新田次郎記念会主催)の授賞式が31日、東京都内であり、小説「リーチ先生」(集英社)で受賞した原田マハさんに記念品などが贈られた。原田さんは「これからも思い切ってフィクションを書いていきなさいと言われたようで大変うれしい」と喜びを語った。
 受賞作は、実在の英国人陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979年)や民芸運動を担った芸術家たちをめぐる、史実と虚構を融合させた物語。2014年7月から15年11月まで本紙に連載し、その後出版された。選考委員を務めた作家、阿刀田高さんは「小説の中で、芸術家たちの思いが生き生きと書かれている」と評価した。
 原田さんは学芸員経験があり、美術、芸術史を題材にした作品を多く手掛けている。この日のあいさつで「読者がアートに興味を持ち、調べてもらえたらと思いながら書いている」と明かした。また、「事実と虚構の境界線をあいまいにすることが作風になってきた。これからも『美術史小説』を書き続けたい」と意欲を示した。(大盛周平)


というわけで、原田マハさんが小説『リーチ先生』により、第36回新田次郎文学賞を獲得されました。おめでとうございます。

賞の決定自体は4月で、その頃の報道はすべてベタ記事でしかなく、授賞式の記事を待っていたところ、なぜか『神戸新聞』さんのみで大きく報道されました。他紙の記事は見あたりません。ネット上にアップされていないというだけで、記事にはなったのでしょうか。

『リーチ先生』。以前のこのブログでご紹介しましたが、バーナード・リーチの弟子となった架空の陶工を主人公とする小説です。初出は『信濃毎日新聞』さん他での新聞小説でした。

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リーチは香港の生まれ、光太郎の4歳年下です。幼少期に京都にいたこともあり、日本文化に憧れながら成長し、22歳の時にロンドン留学中の光太郎と知り合ったことで、再来日しました。その後、日英を行き来しながら、日本で身につけた陶芸と、英国の伝統陶芸を結びつける役割を果たしています。

そういうわけで、『リーチ先生』には、光太郎、そして光太郎の父・光雲、実弟・豊周も登場します。

非常に読み応えのある小説です。まだお読みになっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩人とは特権ではない、不可避である。

詩「非ユークリツド的」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

光太郎詩にはめずらしく、このフレーズは他の文筆作品からの転用です。初出は前年の草野心平詩集『第百階級』の序文です。

心平のように、生まれながらにして詩人となるべき者が不可避的に詩人となるに過ぎず、詩人となった者は特権階級でも何でもない、というわけでしょう。そしてそれは自らにも当てはまると考えているはずです。

光太郎、「不可避」の語を非常に好み、「不可避」一語、または「不可避の道」などの文言を、晩年まで揮毫によく用いました。

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一昨日の『朝日新聞』さんの読書面で、みすず書房さん刊行、土田昇氏著『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』が紹介されました。

(書評)『職人の近代 道具鍛冶千代鶴是秀の変容』 土田昇〈著〉

 やわらかにして鋭い。独特の文体は、刃物店の3代目店主として父から聞き知った逸話の下地に、あるスタイルを追求する意志が加わったものだろう。刀工の家に生まれた大工道具鍛冶(かじ)の名工・是秀(これひで)の、デザイン性の高い切出(きりだし)小刀のように。
 大工の繊細な感覚への挑戦、木彫家に彫刻刀を見せ丸一日の対座、と丁々発止の真剣勝負が面白い。名人は名工を理解する。手練(てだ)れあっての道具だ。しかし近代化は職人に、よい仕事ではなく利益追求を求める。弟子たちに起きた悲劇は、職人の倫理と近代化の矛盾の深さを物語っている。
 是秀は近代化を拒否してはいない。師の遺言もあり、日本古来の玉鋼に拘泥せず、素材として優れた洋鋼を用いた。しかし後にデザイン切出をつくったのは、博物館で見たアイヌの「木製のペーパーナイフのような」もの(儀礼具の捧酒箸〈イクパスイ〉か)に触発されて、と語る。実用具と芸術が乖離(かいり)する時代に、彼はあえてオブジェ的な小刀を作製した。
 中村和恵(明治大学教授)

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主要紙の中では、朝日さんがはじめて取り上げたのではないかと思われます。さすがですね。

光太郎と交流があり、その日記にも名が出てくる千代鶴是秀ですが、高村光雲門下で光太郎と親しかった平櫛田中とも接点がありました。朝日さんの書評に「木彫家に彫刻刀を見せ丸一日の対座、と丁々発止の真剣勝負」とあるのがそれです。

同書によれば、おそらく明治末頃、田中が雑誌に「日本の彫刻刃物は切れ味のよいものがなく、自分は西洋の手術用メスを研ぎ直して仕上げに使っている」的な発言を載せたそうです。それを読んだ是秀が激怒、何本かの彫刻刀を作り、田中の元を訪れます。田中は自分の発言による訪問とすぐに察し、無言のまま是秀の目の前で、持ち込まれた彫刻刀を使って木を削っては研ぎ、削っては研ぎ、丸一日、その対峙が続きました。結局、田中はその出来に脱帽、自分の彫刻刀すべてを是秀に作ってほしいと頼みますが、是秀は拒否します。是秀曰く「日本の鍛冶屋が作ったものでも、きちんとしたものがあるということを知ってもらいたかっただけ」。粋といえば粋ですね。


ところで、田中といえば、今週末、テレビ東京系の「美の巨人たち」で、田中の代表作「鏡獅子」が取り上げられます。

美の巨人たち 平櫛田中『鏡獅子』彫刻家の信念と覚悟▽5代目尾上菊之助の思い

テレビ東京 2017年3月25日(土)  22時00分~22時30分
BSジャパン 2017年4月19日(水)  23時00分~23時30分

6代目尾上菊五郎演じる新歌舞伎十八番を捉えた『鏡獅子』。明治・大正・昭和を生き抜いた彫刻界の巨人・平櫛田中が着想から完成までなんと22年をかけたこの作品に迫ります。

6代目尾上菊五郎演じる新歌舞伎十八番[春輿鏡獅子]。今回の作品は、その一場面を捉えた高さ2mの木造彫刻『鏡獅子』。国立劇場のロビーに展示されています。作者は彫刻家・平櫛田中(ひらくしでんちゅう)。今にも動き出さんばかりの躍動感!しかも裸の姿まで彫り上げています。これこそが田中の頂点を極めた作品だといいます。

田中が作品に挑んだのは65歳。完成は22年後。そこまで歳月をかけたのには、彫刻家と歌舞伎俳優の深い絆と信頼が。知られざる『鏡獅子』誕生物語に迫ります。さらに『鏡獅子』を何度も演じている、5代目尾上菊之助が作品と対面。“6代目”を前に感じたその思いを語ります。

ナレーター 小林薫  蒼井優

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右下の画像は、今月12日まで開催されていた小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」会場です。ちなみにこの「鏡獅子」、田中の故郷、岡山県井原市のゆるキャラ「でんちゅうくん」のモチーフにもなっています。

光雲や光太郎、是秀に触れられるといいのですが……。

是非ご覧ください。


【折々のことば・光太郎】

ちきしやう、 造形なんて影がうすいぞ。 友がくれた一束の葱に 俺が感謝するのはその抽象無視だ。
詩「葱」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

木彫で自然物を作ってみても、やはり一束の葱の持つ自然の精巧な造型力にはかなわない、という感懐が吐露されています。光太郎の木彫に関してはそうでもないような気がするのですが……。

昨日は、千葉市の千葉県立美術館さんに行っておりました。

光太郎の実弟にして、鋳金分野で人間国宝に認定された高村豊周の作品が展示されているという情報を得ていたためです。もう少し早く行きたかったのですが、昨日になってしまいました。

通常、自宅からは車で1時間ほどですが、3連休中日、さらに春のぽかぽか陽気ということもあったのでしょう、京葉道などで交通集中による渋滞が発生しており、若干時間がかかりました。

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所蔵品展的な展示で、「北詰コレクション メタルアートの世界―黎明期の作家を中心に―」。こちらで豊周の作品が展示されているとのことでした。「北詰コレクション」は、千葉県印西市にあった「メタル・アート・ミュージアム 光の谷」が平成26年(2014)に閉館し、そちらの所蔵品がこちらに移ったものです。

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そちらの会場の手前では、やはり所蔵品展的な「コレクション名品展」が開催されていました。

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すると、光太郎のブロンズも3点出品されていました。「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」昭和28年=1953)、「十和田湖畔の裸婦群像のための手習作」(同27年=1952)、「猪」(明治38年=1905)です。同館では光太郎ブロンズの比較的新しい鋳造のものを6点収蔵していて、そのうちの半分ということになります。

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これら3点、一昨年、勝浦市で開催された「第39回千葉県移動美術館 高村光太郎と房総の海」で拝見して以来のご対面でした。

他にもルノワールや梅原龍三郎の洋画、船越保武や高田博厚の彫刻、東山魁夷の日本画などが並んでいます。

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そして、「北詰コレクション メタルアートの世界―黎明期の作家を中心に―」。

豊周の作品は3点並んでいました。大正9年(1920)の「朱銅素文花瓶」と「流れ筋文花瓶」、昭和31年(1956)の「朱銅面取四耳花入」。いずれも見事でした。特にチラシにも画像が使われている「流れ筋文花瓶」は、単純化された全体のフォルムの中に、三筋入れられた「流れ筋文」がアクセントとなり、見ていて飽きない感じです。

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「朱銅面取四耳花入」は、直線的な装飾を施したモダンアート風の作品。もう少し口が広ければ、連翹忌会場で光太郎遺影の前にレンギョウを挿すのに使いたいと思いました。もっともここまでの大きさの豊周作品を購入するほどの財力はありませんが(笑)。

他にも、光雲・豊周・光太郎と関わる作家の作品がたくさん並んでいました。岡崎雪声は、光雲が主任となって制作に当たった「楠木正成銅像」などの鋳造にあたった人物、大島如雲は東京美術学校での光雲の同僚で、光雲とのコラボ作品もあります。津田信夫は豊周の師、丸山不忘は豊周と同級で、豊周の工房にいて、光太郎作品の鋳造にもあたりました。

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4月16日(日)まで開催されています。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を いつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう、

詩「狂奔する牛」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

大正2年(1913)の、ひと月を智恵子と過ごした信州上高地での思い出を謳った詩です。当時、上高地では牛の放牧が行われており、発情期の牡牛の荒ぶる姿を通し、自然を賛美しています。


新品のパソコンが届き、ようやく通常の投稿ができるようになりました。そこで、このコーナーも復活させます。

昨日ご紹介した、土田昇氏著・みすず書房刊『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』を読み、改めて光太郎が木彫に際して使用した刃物類について、調べてみました。

光太郎自身が書き残した文章には、実は自分の使っている道具類についての記述はあまり多くありません。その中で、最も詳しく書かれているのが、昭和12年(1937)に書かれた「小刀の味」、及び同25年(1950)執筆の「信親と鳴滝」です。

まず、刃物類全般について。

 飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するやうに、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するやうになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀(こがたな)を大切にし、まるで生き物のやうに此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。幾十本の小刀を所持してゐても、その一本一本の癖や調子や能力を事こまかに心得て居り、それが今現にどうなつてゐるかをいつでも心に思ひ浮べる事が出来、為事する時に当つては、殆ど本能的に必要に応じてその中の一本を選びとる。前に並べた小刀の中から或る一本を選ぶにしても、大抵は眼で見るよりも先に指さきがその小刀の柄に触れてそれを探りあてる。小刀の長さ、太さ、円さ、重さ、つまり手触りで自然とわかる。ピヤニストの指がまるでひとりでのやうに鍵をたたくのに似てゐる。桐の道具箱の引出の中に並んだ小刀を一本ずつ叮嚀に、洗ひぬいた軟い白木綿で拭きながら、かすかに錆どめの沈丁油の匂をかぐ時は甚だ快い。(「小刀の味」)

 あたりまへの事だが、美術家にとつて一番大切なのは道具である。画家の筆墨、彫刻家の鑿や小刀、これは命から二番目といひたい。
(略)
 私にとつて彫刻の道具はこの世で最も神聖なものであり、又最愛の伴侶である。他の一切のものから聖別された此のものは、どんなことがあつても身を以て護り通さねばならない。形勢がいつ爆撃をうけるか分からなくなつた時、私は亡父の形見の道具箱に(これには小刀類が充満してゐたが)細引をかけて、どう持つても抽出のすべり出さないやうにした。いちばん手馴れて別れ難いノミや小刀の最小限度十五六本は別に毛布にくるみ、これも亡父譲りの砥石二丁と一緒に大きな敷布に厚く包んで、これを丈夫な真田紐で堅固にゆはへ、重さ二貫目弱であつたが、空襲警報の鳴るたびに肩にかけ、腰に飯盒をぶらさげて、防火用のバケツと鳶口とを手に持つて往来に飛び出したのであつた。昭和二十年四月十三日の大空襲で遂に駒込林町のアトリエが焼けた時、私はとりあへず近所の空地にかねて掘つてあつた待避壕の中へ避難したが、そこへ持ちこんだのは夜具蒲団の大きな包二つと、外には例の道具箱と、肩からかけた敷布にくるんだ小刀と砥石とだけであつた。眼の前でアトリエは焼けおち、中にあつた蔵書と作品とはみるみる火に包まれてしまつたが、何だか惜しい気も起らず、むしろさつぱりした感じで、ただひたすら此の道具がありさへすればといふ考のみが頭をつよく占めてゐた。古いがらくたや、古い製作など、どしどし燃してしまへと、これらの道具がいつてゐるやうにさへ思へた。
 その後、道具類と夜具蒲団とは、一旦利根河畔の取手町にある宮崎稔氏の宅に運び、更に取手駅から岩手県花巻町の故宮澤賢治の実家に送られ、その実家が戦火に焼かれた後、転々して、今はこの太田村山口の山小屋に落ちついたといふ次第である。私は今でもその道具箱と砥石をいつでも持ち出せる待機の状態に置いてゐる。山に頻々と起る山火事をおそれての事だ。(「信親と鳴滝」)

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この刃物類のうち、光太郎が特にお気に入りだったのは、幕末から明治にかけての鍛冶職人・栗原信親(のぶちか)の作品でした。

信親は嘉永2年(1849)、現在の千葉県白井市近辺の生まれ。ちなみに光太郎の父・光雲は嘉永5年(1852)の生まれです。刀工として名高かった栗原信秀の弟子となり、明治に入ってから師匠の娘と結婚して婿養子となりました。明治12年(1879)には、後の大正天皇である嘉仁親王の生誕を祝し、自ら打った刀を献上するなどしています。しかし、同9年(1876)に出された廃刀令の影響はいかんともしがたく、やがて彫刻刀の制作に転身しました。
この点、昨日ご紹介した千代鶴是秀と似ています。同じく刀工の家系だった是秀は鑿や鉋などの大工道具を主に扱うようになりました。

光太郎の信親評は以下の通り。

 わたくしの子供の頃には小刀打の名工が二人ばかり居て彫刻家仲間に珍重されてゐた。切出(きりだし)の信親(のぶちか)。丸刀(ぐわんたう)の丸山(まるやま)。切出といふのは鉛筆削りなどに使ふ、斜に刃のついてゐる形の小刀であり、丸刀といふのは円い溝の形をした突いて彫る小刀である。当時普通に用ゐられてゐた小刀は大抵宗重(むねしげ)といふ銘がうつてあつて、此は大量生産されたものであるが、信親、丸山などになると数が少いので高い価を払つて争つてやつと買ひ求めたものである。此は例へば東郷ハガネのやうな既成の鋼鉄を用ゐず、極めて原始的な玉鋼(たまはがね)と称する荒がねを小さな鞴で焼いては鍛へ、焼いては鍛へ、幾十遍も折り重ねて鍛へ上げた鋼を刃に用ゐたもので、研ぎ上げて見ると、普通のもののやうに、ぴかぴかとか、きらきらとかいふやうな光り方はせず、むしろ少し白つぽく、ほのかに霞んだやうな、含んだやうな、静かな朝の海の上でも見るやうな、底に沈んだ光り方をする。光を葆(つつ)んでゐる。さうしてまつ平らに研ぎすまされた面の中には見えるやうな見えないやうなキメがあつて、やはらかであたたかく、まるで息でもしてゐるかと思はれるけはひがする。同じそさういふ妙味のあるうちにも信親のは刃金が薄くて地金があつい。地金の軟かさと刃金の硬さとが不可言の調和を持つてゐて、いかにもあく抜けのした、品位のある様子をしてゐる。当時いやに刃金のあつい、普通のぴかぴか光る切出を持たされると、子供ながらに変に重くるしく、かちかちしてゐてうんざりした事をおぼえてゐる。丸山のは刃金があついのであるが、此は丸刀である性質上、そのあついのが又甚だ好適なのであった。
 為事場の板の間に座蒲団を敷き、前に研ぎ板を、向うに研水桶(とみづをけ)(小判桶)を置き、さて静かに胡坐をかいて膝に膝当てをはめ、膝の下にかつた押え棒で、ほん山の合せ研を押へて、一心にかういふ名工の打つた小刀を研ぎ終り、その切味の微妙さを檜の板で試みる時はまつたくたのしい
。(「小刀の味」)

 ノミや小刀は亡父遺愛のものはもとより、私自身で求めたものでも、もう今日では入手不可能のやうな、すばらしい利刀ばかりである。日清役から日露役へかけての時代までは生きてゐた昔の伝統に従つて、当時の鍛工が玉鋼で鍛へたノミや小刀類の切味はちよつと言葉ではいひ表はせない。中でも信親(のぶちか)といふ鍛工のうつた切出(きりだし)(鰹節を削る小刀のやうな形をしたもの)の如きは実に物凄いといひたくなる。第一その形がいい。小刀の表といふのは黒い背の方だが、その地金の黒い、ねばり強いやうな肌といひ、両側を斜めに削つてあるその削り度合の釣合といひ、見るからに名刀の品格を備へてゐる。元来小刀やノミは地金で大体の形をつくり上げ、その裏に鋼の板を焼きつけて、これが刀となるのであるが、この地金と鋼との厚さの釣り合、硬さの釣合、さういふものが切味に大影響を持つてゐる。鍛工によつてそれがそれぞれ違ふので、おのおの独特の持味が出てくるわけである。信親といふ鍛工のは地金も割に軟く、鋼も薄く出来てゐる。砥石でとぐと、地金がやはらかくおりて、黒雲のやうな研水が出る。地金のおりる勢で、鋼の刃先がぴたりと研げる。みると地金の刃面(はづら)の先に真一文字にうすく鋼の刃が白く光つて、いかにも落ちついてゐる。裏をかへして刃裏をみれば、もちろん全面が鋼で、ただまつ平に鏡のやうに光つてゐる。その光りかたが煙つてゐる。少し白ばんで、むらむらと霧がかかつてゐるやうで、ただやたらにぴかぴかとは光つてゐない。鍛へる時に打ちかへした鋼の層によつて出来る木目(もくめ)が見えるやうな見えないやうな工合にかすかにある。もう随分昔から研いでは使つたので、中には始め五六寸の長さであつた小刀が次第に短くなつて、一番もとの地金ばかりの裏に刻印してある信親といふ銘が小刀の柄から出てきてしまつたのもある。かうなると尚更大切なやうな気がする。(「信親と鳴滝」)

実に手放しの褒めようです。そして、このような名工の作った名品を、このように表現できる光太郎の力量にも注目せざるを得ないでしょう。まさに「鬼に金棒」。決して「猫に小判」ではないわけです。

その他、「信親と鳴滝」では、京都鳴滝産の砥石についても紹介されていますが、割愛します。

信親以外に光太郎が使用していた名工の作というと、「卍正次」と称された宮内省御用刀工にして、光雲と同じく帝室技芸員だった桜井正次(まさつぐ)の鑿があり、大正15年(1926)の短歌に謳われています。

 正次がうちし平鑿くろがねのうら砥ふまへて幾夜わが砥ぐ

残念ながら、是秀作の鑿ないしは彫刻刀を実用していたという記述は、『高村光太郎全集』には見あたりません。しかし、書簡のやりとりや、信親の娘婿が石膏取り師の牛越誠夫で、光太郎と交流があったこと(最後の大作・「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏取りは牛越が担当しました)、光太郎と親しかった光雲高弟の平櫛田中が是秀の作を使っていたことなどから、その可能性は高いと思われます。

しかし、『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』中の、是秀の注文受け帖に関する項には、光太郎の名が出て来ません。まぁ、光太郎が直接是秀に注文しなくとも、販売店を通して購入することが可能だったので、そのあたりなのでは、と推測しています。

下記はほとんど唯一、光太郎が木彫制作中の写真。もしかすると、手に持っている刃物が是秀作かも知れません。

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信親、正次、是秀など、光太郎と道具について、今後の究明課題として気に留めておこうと思いました。

追記 やはりありました!


【折々のことば・光太郎】

この一人の彫刻の徒弟は、 あの金髪の美少年と笑みかはす、 生きて動く兎のやうな十七の娘のからだを 嫉妬に似た讃嘆に心をふるはせながら、 今粘土を手に取つて、 喰べるやうに見るのである、 見るのである。

詩「五月のアトリエ」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

木彫ではなく、塑像制作中の一コマです。「金髪の美少年」は五月の陽光の比喩、「十七の娘」は彫刻のモデルです。

五官全てを触覚に還元する光太郎、若さにあふれたモデル娘が放つ生命力の躍動を、まさしく喰べるように見ています。

新刊情報です。久々にものすごく読みごたえのある書籍でした。

職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容

2017年2月10日 土田昇著 みすず書房 定価3,700円+税

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刀工名家に生まれ、廃刀令後の明治に大工道具鍛冶として修行し、道具を実際に使う大工たちの絶賛によってゆるぎない地位を得た千代鶴是秀(1874-1957)。
修業時代に師から使用者重視という製作思想の根幹を心に刻みつけられた是秀の、機能美の極致のような作品の中で、唯一ほかと異なるたたずまいをもつのが一群のデザイン切出小刀である。自由で流麗な意匠をまとったこれら切出群は、実用面からいえば使いにくく、道具が道具でなくなるギリギリの地点に位置する。抜群の切味を隠し持ちながら、使用されることを想定しない非実用の美。道具鍛冶として名声を得ながら、是秀はなぜ実用を犠牲にした美しいデザイン切出を作ったのか。
著者は祖父、父と三代にわたる大工道具店を営む中で、長年、千代鶴是秀の作品に向き合ってきた。是秀からじかに教えをうけた父、土田一郎から伝えられた貴重な話や資料を手がかりに、朝倉文夫らとの交わりをはじめ、是秀の周囲の芸術家や文化人、職人たちの跡をたんねんにたどり、その作風変化の謎を時代という大きな背景の中でひとつひとつときほぐしてゆく。鑿や鉋、切出と深く対話するように。鍛冶文化の豊かさを伝えながら。


明治から昭和にかけて活躍し、名人と謳われた大工道具鍛冶の千代鶴是秀(ちよづる・これひで)の評伝です。

色々な意味で、すさまじい職人と言わざるを得ません。師匠の石堂寿永ともども、砂鉄から作る日本古来の玉鋼(たまはがね)に見切りを付け、輸入物の洋鋼(ようはがね)での制作を選択します。明治も後期となると入手できる玉鋼の品質にばらつきが生じたためです。使う人の立場に立ってその品質を追求するなら、あっさりと伝統を打ち破るという革新性には感服しました。

一方で、機能性を犠牲にし、デザイン性を重視した非実用的な切り出し小刀なども制作しています。それでいてその製法は古来の方式ににのっとった、手間暇のかかる方法であるという矛盾。通常の刃物は、使うたびに研がれ、摩滅していく、いわば消耗品です。しかし、非実用的な刃物であれば、使われることがないので研ぐ必要もなく、そのフォルムを保ち続けます。著者の土田氏曰く「道具というものの消えてなくなる哀れな運命をもしかすると身にまとわずにすむかもしれないものとして提示した可能性はとても高い」。哲学的とさえ思われます。

その他、古来の名工の技術を徹底的に調べ上げて取り入れたり改良したり、制作に際しては動力を伴う機械類を一切使用しなかったり、戦時中には粗製濫造で済まされる軍刀の制作に手を染めなかったり、本当に色々な意味で、すさまじい職人と言わざるを得ません。


詳細が不明なのですが、光太郎は是秀の作った鑿(のみ)ないしは彫刻刀を使っていたと思われます。

『高村光太郎全集』には、是秀の名が四ヶ所に現れます。

うち三ヶ所は、光太郎から是秀に宛てた書簡です。いずれも昭和20年(1945)、東京を焼け出され、岩手花巻の宮沢賢治実家、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅に身を寄せている際にしたためられました。

五月十五日附の貴翰岩手県花巻にて拝受しました、小生五月十五日東京発当地にまゐり居ります。当分此地に落ちつく気で居りますが其後肺炎にかかり昨今漸く恢復に向ひました次第、いづれ全快の上いろいろ申上げたく存じます。東京の空襲ますます烈しき由、目黒方面は如何でせうか、切に御安泰をいのります、おてがミ拝受のしるしまで、(6月9日)

この文面から、二人は旧知の仲だったことがうかがえます。ちなみに是秀は光太郎より9歳年長です。

拝復 毎々御見舞のおてがミ拝受忝く存じます、東北地方も今日では烈しい戦場となりましたが花巻町はいまのところ無事で居ります。小生目下彫刻用の雑道具をあつめたり、砥石を探したりして居ります。刃物類など中々入手に困難の状態です。 東京に居られて御無事なのは此上もない幸運と存じ上げます、ますます御健勝のほど祈上げます、(8月3日)

やはり刃物関係の話題が出ています。かつて是秀作の刃物を使っていたことが推測されます。そして、この一週間後に宮沢家は空襲で全焼、佐藤昌宅に一時的に移り、以下の書簡をしたためます。

八月十八日付の貴翰拝受 小生八月十日花巻町空襲の際又々戦火に見舞はれて罹災、目下さし当つての避難中にて、近く太田村といふ山間の地に丸太小屋を建てる予定でありますが、火事のため、折角少々集めた刃物其他を又焼失いたしました。 お言葉により鉋、鑿、手斧、まさかりなど、あらためてそのうちお願申上げたく存じ居りますが、とりあへず御返事まで 艸々(8月28日)

是秀から光太郎に、刃物類提供の申し出があったことがわかります。

ところが、結局それは実現しなかったと思われます。この翌月からの、光太郎が郵便物の授受を記録したノートに是秀の名が見えず、日記にも是秀から大工道具類を受け取ったという記述がありません。

これで是秀とのつながりは切れたのかと思いきや、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、故・中西利雄のアトリエを借りて住んでいた昭和28年(1953)の日記に、突如、是秀の名が出て来ます。

七月八日 水 くもり、雨、 鶴千代是秀翁くる、 

光太郎、「千代鶴」を「鶴千代」と誤記していますが、これは間違いなく是秀でしょう。是秀がなぜ訪ねてきたのか、どんな話をしたのかなどは、一切記述がありません。ただ、是秀の娘婿の牛越誠夫が、粘土で作った塑像をブロンズに移す際の石膏型を作る石膏取り職人で、「乙女の像」の石膏取りを担当しており、その関係があったとは推定できます。

『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』には、牛越の娘(=是秀の孫)と光太郎が一緒に写った写真が牛越家に伝わっていたという記述がありました。ちなみに同書を読むまで、是秀と牛越が義理の親子だったとは存じませんでした。

さて、光太郎は是秀の作った鑿(のみ)ないしは彫刻刀を使っていたと思われる、と書きましたが、長くなりましたので、そのあたりの考察は明日書きたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

おう冬よ、 このやはらぎに満ちた おん身の退陣の荘重さよ。 おん身がかつて あんなに美美しく雪で飾つた桜の木の枝越しに、 あの神神しいうすみどりの天門を、 私は今飽きること無く見送るのである。

詩「冬の送別」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

「春が来た」と言わずに「冬が往ってしまった」とするあたり、冬をこよなく愛した光太郎の本領発揮です。寒さに弱い当方には到底考えつきません(笑)。

「美美しく」は古語「美美(びび)し」=「美しい、はなやかである」の連用形。誤植ではありません(笑)。

日曜日の朝、当地はうっすらと雪が積もりました。「美美し」とは思いましたが、「冬はもういいよ」という感覚です。愛犬は大喜びで雪の上を転げ回っていました。気が知れません(笑)。

それぞれ先週、『毎日新聞』さんの地方版に載った、美術館の企画展報道です。

まず和歌山版。

「ペール北山の夢」展 画家と両輪、時代動かす 大正期の美術界支援

 詩人で彫刻家の高村光太郎はかつて記した。「この人ぐらい熱心に当時の美術界に尽力した人はないであろう」と。「この人」の名は北山清太郎(1888~1945年)。大正初期に雑誌の出版や展覧会開催を通して、岸田劉生や木村荘八ら若い画家たちを支援した。19世紀のパリで無名だったゴッホらを支え「ペール・タンギー」と慕われた画材商の男性にちなみ、「ペール北山」と呼ばれた。

 彼の故郷、和歌山市の和歌山県立近代美術館で開かれている展覧会「動き出す!絵画 ペール北山の夢」はあまり知られていない北山の仕事を軸に、大正期の美術動向を探ろうとする意欲的な企画だ。

 明治末以降、国内では文芸雑誌「白樺(しらかば)」がセザンヌやロダンを紹介するなど西洋美術への熱が高まっていた。北山は1908年に水彩画同好者の団体を結成後、東京で画材商を営みながら12年4月に美術誌「現代の洋画」を創刊。当時としては珍しいカラー図版や海外論文の翻訳を掲載するなど情報発信に努めた。本展では同誌で紹介されたゴッホやセザンヌらの作品とあわせて、彼らにあこがれた国内の画家たちの油彩画など計約170点が並ぶ。
 例えば萬(よろず)鉄五郎の「女の顔(ボアの女)」(12年)。椅子に腰掛ける和装の女性が荒々しい筆致で描かれている。その構図はゴッホの「ペール・タンギーの肖像」を思わせ、毛皮の襟巻きに異国趣味が漂う。08年にフランスから帰国した斎藤与里(より)の「木蔭(こかげ)」(12年)はセザンヌの水浴図の影響がうかがえる。一方で「律義にたたんだタオルを持つ姿は銭湯帰りのよう。日本の風習が感じられて面白い」と同館の青木加苗(かなえ)学芸員は指摘する。
 両作品とも、斎藤と高村が中心となって12年秋に結成した若手絵画グループ「ヒユウザン(後にフュウザン)会」の展覧会に出品された。北山はその運営や機関誌の発行を手伝った。また同会解散後の15年、メンバーだった岸田や木村らが発足させた「草土社」の初期運営にも関わり、出品目録などを手がけた。劉生の「代々木附近(ふきん)」(15年)は目の前の赤土と切り通しの風景を写実的に描き、新時代の到来を感じさせる。
 雑誌「現代の洋画」は「現代の美術」と改題し、15年までの発刊が確認されている。北山はそのころ出会ったアニメーションの制作に没頭するようになり、美術界からは遠のいた。近年は国産アニメの先駆者として注目されつつある。
 2006年から調査を続けてきた同館の宮本久宣学芸員は「北山は事業家として時代の最先端に反応しながら、芸術文化を支えることにやりがいを感じていたのでは」と話す。北山と美術の直接的な関わりは10年にも満たないが、それは日本の洋画界の転換期でもあった。最新の西洋美術を受容しながら自らの表現を追い求めた画家たちと、それを支えた名プロデューサーは両輪となって熱い時代を動かしたのである。
 来年1月15日まで。12月29日~1月3日、月曜休館(9日は開館、翌日休館)。和歌山県立近代美術館(073・436・8690)。【清水有香】


先月から、和歌山県立近代美術館さんで開催されている企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」についてです。光太郎油彩画「上高地風景」「佐藤春夫像」が出品されています。

開幕した頃に、地元紙や全国紙の和歌山版などで結構報じられましたが、始まって1ヶ月ほど経ってからの報道。これはこれでありがたいそうです。

というのは、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフ氏から聞いた話ですが、企画展に関しては、開幕後、しばらく経つと落ちた客足が、この手の報道が入ることでまた持ち直すからなのでそうです。「なるほど」と思いました。

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同様に、同じ『毎日新聞』さんの千葉版では、千葉県立美術館さんでの企画展「メタルアートの巨人 津田信夫」を報じて下さっています。こちらは光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった、高村豊周の作品も展示されています。

企画展 千葉「メタルアートの巨人 津田信夫」

 (毎日新聞千葉支局など後援) 来年1月15日まで、千葉市中央区中央港1の10の1、県立美術館。
 佐倉市出身の工芸家、津田信夫(1875~1946年)の代表的な作品を中心に、津田と関わりのあった工芸家や教え子の作品も展示し、津田の生涯を振り返る。

 津田は溶かした金属を型に流し込んで作る鋳金(ちゅうきん)の分野で活躍。鳥や動物などをモチーフに、装飾的表現を抑え形態そのものが持つ美を追求した。津田の初期から晩年までの金工作品、陶器を加えた約90点を紹介している。
 また、母校の東京美術学校(現東京芸術大学)で約40年間教壇に立ち、工芸家の高村豊周ら逸材を輩出した。明治期から同校は各種各地の委嘱制作の注文を受けた。津田は近代工芸史上最大規模の作品ともいえる国会議事堂の正面扉群のほか、日比谷公園の鶴の噴水、日本橋橋上装飾の麒麟(きりん)など、経費や工期に至るまで総括した工房の親方として業績を残している。
 美術館普及課の担当者は「津田は工芸家、教育者、工房の親方として、多方面に優れた業績を残したメタルアートの巨人です。近代日本を代表する工芸作品をじっくり見てください」と来場を呼びかけている。
 美術館(電話043・242・8311)は9時~16時半(入館は16時まで)。月曜休館(祝日の場合は翌日)、年末年始(28日~来年1月4日)。入場料は一般500円、高・大生250円、中学生以下無料。【渡辺洋子】


それぞれ、来年1月15日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

一入に美術の海は波高しこゝ楫取りの腕をこそ見れ
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

ペール北山、津田信夫、豊周、そして光太郎……。それぞれに波高き美術の海を渡っていったわけですね。

「一入」は「ひとしお」、「楫」は「かじ」と読みます。「こそ見れ」は係り結びですね。

京都から、光太郎の父・高村光雲がらみの企画展情報です。

うた詠むこころ The Composing Mind

期  日 : 2016年11月19日(土)~2017年2月12日(日)
場  所 : 清水三年坂美術 京都市東山区清水寺門前産寧坂北入清水三丁目337-1
時  間 : 午前10:00~午後5:00(入館は午後4:30まで)
休  館 : 月・火曜日(祝日は開館)  年末年始(12月26日(月)−1月3日(火))
料  金 : 大人 800円 大・高・中学生 500円 小学生 300円 団体 (20名以上)20%引

古来「ことだまの幸はふ国」といわれる日本では、歌は祈りを込めた詞であり、また森羅万象や心の機微を言葉でもって巧みに写し取り、よむ人を鼓舞し、慰め、感動を伝えてきた。その心は、日本の文化形成に大きな影響を与え、言葉のみならず、絵画や身の回りに備える調度品、刀装具などにも多く題材とされ、優れた作品を生み出してきた。蒔絵や金工などの技法でもって描かれる情景は、時に幻想的であり、歌の世界を超えた作り手たちの心象風景とも言えよう。
本展では、当館所蔵の美術工芸品の中から、歌にまつわる名品の数々をご高覧いただきたい。

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光雲の木彫、「西行法師」が出品されています。005

正確な制作年が不明なのですが、像高56㌢、桜財を使った緻密な作品です。

同館で昨年開催された企画展「明治の彫刻」にも出品され、当方、同じく京都の知恩院さんに立つ聖観音像とともに拝見して参りました。

この他にも同館では常設展もあり、そちらにも光雲作の木彫が出ていると思われます。

冬の京都もなかなか乙なものと存じます。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

この雪に宿かしたまへ法の師よこよひの鐘はわれつとめむに
明治33年(1900) 光太郎18歳

まるで遊行中の西行法師を謳ったような感じですね。または西行作として『新古今和歌集』あたりに載っていてもおかしくないような気もします。

日曜日の『日本経済新聞』さんに載った書評です。10月に刊行された原田マハさんの『リーチ先生』についてです。

リーチ先生 原田マハ著 独自性求めて奮闘する青春

 著者はルソーやピカソらの人生とその時代を、美004術館で働いた経験と知識を生かして小説に仕立ててきた。新作では日英の文化交流に尽力したバーナード・リーチを描いている。リーチと仲間たちの青春ドラマのような物語だ。
 香港で生まれ、3歳まで日本で育ったリーチは、ロンドンの美術学校時代に留学中の高村光太郎と出会う。日本への憧れを募らせて来日を決意。柳宗悦ら「白樺派」のメンバーと交流を深めながら陶芸にのめり込み、最後は英国で窯を開く。
 物語はリーチの助手、亀乃介の視点で語られていく。絵を描くのが大好きで、食堂で外国人と話すうちに自然と身につけた英語力を見込まれた。初めて絵付けをしたときの感動、苦労して作った窯が火事を起こして窯はおろか資料も燃えてしまったときの落胆――。リーチとともに一喜一憂する亀乃介もまた、陶芸の魅力に取りつかれていく。
 物語を貫くのは、芸術には「独自性(ユニークネス)」こそが大切だというリーチの信条だ。この言葉のとおり、自分だけの表現を求めて奮闘するリーチや亀乃介のひたむきな思いに心が揺さぶられる。
 何かに夢中になり、挑戦すること。国境や国籍を越え、友情を育む慶び。若者たちのあふれる情熱が、さわやかな読後感をもたらす。(集英社・1800円)


この他にも、先月には『毎日新聞』さんに短評が出ましたが、残念ながら光太郎の名は書かれていませんでした。

今後、各メディアで取り上げられそうな予感がしていますが、その際には光太郎や光雲も登場することに触れていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

仇討かいさかひ事か生き死にの際(とき)か人みな血眼なるは
明治42年(1909) 光太郎27歳

75年前の今日、まさに日本全体がこういう感じだったのでしょう、光太郎も含めて。短歌自体は明治末の作ですが、その32年後を予言しているような内容です。

毎年この時期になると、にわか光太郎ファンが現れます。「記憶せよ、十二月八日。 この日世界の歴史 あらたまる。 アングロ サクソンの主権、 この日東亜の陸と海とに否定さる。」と、ブログなどに引用してありがたがる愚か者がいて辟易します。

昨日もちらっとご紹介しましたが、新刊です。

リーチ先生

2016/10/30 原田マハ著 集英社 定価1,800円+税

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版元サイトより
西洋と東洋の芸術を融合し、新しい陶芸の世界を切り拓いたイギリス人陶芸家バーナード・リーチ。日本を愛し日本に愛されたその半生を二代にわたり弟子となった名も無き父子の視点から描く感動長編。      

帯文より
明治42年、22歳で芸術の道を志して来日。柳宗悦、濱田庄司ら若き日本人芸術家との邂逅と友情が彼の人生を大きく突き動かしていく。
明治、大正、昭和にわたり東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度の“アートフィクション”

広告より
東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度のアート小説 !!
明治42年、高村光太郎の勧めで日本を訪れた22歳のリーチ。柳宗悦、濱田庄司ら若き芸術家と出会い、陶芸家の才能を開花させていく。その生涯を陶工父子の視点で描く渾身作。


バーナード・リーチは明治20年(1887)生まれの英国人陶芸家。父の仕事の関係で香港に生まれ、幼少期には京都で暮らしました。

一度は銀行員となるものの、少年期に志した芸術制作への思い棄てがたく、明治41年(1908)、退職してロンドン美術学校に入学、エッチングを学びます。同校で留学中の光太郎と知り合い、さらに小泉八雲の著作などから日本への憧れが昂じ、翌年、来日。光太郎は父・光雲への紹介状を書いてやっています。

はじめ、エッチングを教えることで生計を立てていましたが、陶芸に出会い、これこそ自分の進む道と思い定めます。遅れて帰国した光太郎や白樺派の面々、そして陶芸家の富本憲吉、濱田庄司らと交流、1年半の中国滞在期間を除き、大正9年(1920)まで日本に住みました。大正元年(1912)のヒユウザン会展にも参加しています。

滞日中に結婚した妻(リーチの従姉)への配慮もあり、帰国。その際に濱田庄司が同行、イギリス西部のセント・アイヴスに工房を構え、イギリス伝統の陶芸に日本で身に着けた技術を融合させた新しい陶芸を創出しました。

その後、昭和54年(1979)に亡くなるまで、何度も日本を訪れ、長期の滞在を繰り返し、日本全国の窯元を廻ったり、光太郎らと旧交を温めたりもしています。

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画像は大正4年(1915)のもの。前列左から画家・長原孝太郎、有島生馬、リーチ夫人、梅原龍三郎、美術史家・田中喜作、後列左から美術評論家・坂井犀水、石井柏亭、美術史家・森田亀之助、リーチ、光太郎、柳宗悦、画家・山下新太郎、同じく斎藤豊作、作家の三浦直介です。


さて、『リーチ先生』。平成25年(2013)秋から、『信濃毎日新聞』さんで連載がスタート。少し経ってからそれを知り、信毎さんでの連載が終わったら単行本化されるんだろうな、と思っていましたが、その後、遅れて全国の地方紙6紙でも連載され、最後は昨年秋まで連載されていました。その分、単行本化を今か今かと待っていたものです。

その期待に違わないものでした。

物語は、大正9年(1920)までの滞日中、そして帰国後の3年間、リーチの助手を務めたという設定の、架空の陶芸家・沖亀乃介(上記写真にも写っている森田亀之助がモデルになっている部分もありますが、あくまで原田さんの創作した人物)を主人公とし、彼の存在以外はおおむね史実に添った内容となっています。

明治末、横浜で食堂の給仕をしていた亀乃介少年は、留学のため横浜港を発つ直前の光太郎と食堂で知り合い、光太郎の紹介で駒込林町の光雲の家で住み込みの書生となります。外国人客との対応で自然と英会話を身につけ、彼らからもらう外国雑誌の挿絵などから「芸術」への憧れをいだいていた、という設定です。

そこにやはり光太郎の紹介でリーチが来日、亀乃介は英語力を買われて助手となり、ともに陶芸の道に進んで行くことになります。

ネタバレになりますので、これ以上は購入してお読み下さい(笑)。ここまででも十分ネタバレでしたが(笑)。さらにネタバレ覚悟の方はこちらをご覧下さい。作者・原田マハさんのインタビューです。

とにかく「前向き」な小説です。登場人物全ての、さまざまな困難に直面しながらも決してくじけず、美の発見や創出に魂を傾けるさまが、生き生きと描かれています。光太郎、光雲、光太郎実弟の豊周も登場します。

特にリーチや亀乃介などの、東洋と西洋の架け橋たらんとする生き様は、感涙無しには読めません。そのあたりには、作家になる前、森美術館さんやニューヨーク近代美術館さんに勤務していたという、作者・原田さんの経験も反映されているように推測しました。

また、もともと新聞連載小説だというところで、こうした「前向き」な部分が前面に押し出されているのかな、とも思いました。ある意味、NHKさんの朝ドラにも通じるような。朝から陰々滅々の物語では参ってしまいます(笑)。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

子供らがかきし自由画の我家はいたく曲りて美しきかも
大正15年(1926) 光太郎44歳

昨日に引き続き、近所の千駄木小学校の児童と思わ000れる子どもたちが描いた光太郎アトリエの絵についてです。

子どもの描く絵は、多視点の絵と言われます。一枚の絵の中に、正面から見た構図と、上からの俯瞰、横からの視点などが平気で混在するというのです。それを意識的に行ったのがピカソやブラックなどのキュビズムですね。

子どもも知恵がついてきたり、大人から教えられたりすると、一点透視や二点透視などの固定された視点からの絵を描くようになります。それはそれでリアルに見えるのですが、子ども本来の自由闊達さは失われます。

そうなっていない、ある意味プリミティブな子どもの絵を見た光太郎、その感動を歌にしています。

プリミティブといえば、上記のバーナード・リーチの作陶なども、良い意味でプリミティブな面を残しています。

千葉県立美術館さんの主催行事を二つ。

まずは企画展です。光太郎の実弟にして、鋳金の人間国宝、高村豊周にかかわります。  

メタルアートの巨人 津田信夫

会  期 : 2016年10月25日(火)~2017年1月15日(日)
会  場 : 千葉県立美術館 千葉市中央区中央港1-10-1
時  間 : 午前9時~午後4時30分 10月25日のみ午前10時30分開場
休  館 : 月曜日 12/28~1/4
料  金 : 一般500円(団体400円)、高校・大学生250円(団体200円)
       中学生以下、65歳以上は無料

千葉県佐倉市に生まれた津田信夫【明治8年(1875)~昭和21年(1946)】は、工芸家、教育者、工房の親方として多方面に優れた業績を残した、メタルアートの巨人です。

メタルアートの巨人、津田信夫の初期から晩年までの金工作品に、陶器などを加えた84点を、活動を共にした工芸家の関連作品とともに展示します。また、国会議事堂の扉製作をはじめとした依嘱製作事業に関するコーナーを設け、津田信夫の業績の全貌に迫ります。


■主な展示作品
津田信夫《憂鬱(ゆううつ)の婦人像》/《壺形アラビヤ文青銅花瓶》/《兎》/《英雄闘志》/《鳳翔薫炉(ほうしょうくんろ)》/《白鳥》ほか
(関係作家)
大島如雲(じょうん)《小槌鼠香炉(こづちねずみこうろ)》/岡崎雪聲(せっせい)《二宮尊徳置物》/沼田一雅(かずまさ)《猪》/杉田禾堂(かどう)《真珠飾黄銅花瓶》/高村豊周(とよちか)《青銅花入》/フランソワ・ポンポン《シロクマ》ほか

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関連行事

《美術講演会1》 平成28年11月19日(土曜日)13時30分~15時
「最後のマイスター 津田信夫の依嘱製作」 千葉県立美術館主任上席研究員 中松れい
 聴講無料、先着順(当日12時30分から受付)、200名

《美術講演会2》 平成28年12月17日(土曜日)13時30分~15時
「津田信夫とフランソワ・ポンポン-アール・デコのパリをめぐって」
 群馬県立館林美術館学芸係長 神尾玲子氏
 聴講無料、先着順(当日12時30分から受付)、200名

《ギャラリー・トーク》 会期中毎週日曜日と、11月3日(土曜日) 13時30分~14時
参加無料(入場料は必要)、事前申し込み不要


津田は豊周の師。そこで、弟子である豊周の作品も展示されるというわけです。

展示される「青銅花入」は、同館の所蔵。昨年、耐震工事終了に伴う同館リニューアルオープンの際に開催された「千葉県立美術館名品展」にも出品されていたものと思われます。


もう一件、同館主催行事です。隣町でやっていながら、うっかり見落としていました。すでに始まっています。 

第40回千葉県移動美術館(成田会場)「千葉県立美術館コレクション展~港のまちから空のまちへ~」

会  期 : 2016年9月23日(金)~10月16日(日)
会  場 : 成田市文化芸術センター スカイタウンギャラリー
        千葉県成田市花崎町828-11スカイタウン成田
時  間 : 午前10時~午後6時 (金曜日は午後8時まで開館)
休  館 : 10月11日(火曜日)
料  金 : 無料

千葉県立美術館の収蔵作品をより多くの県民の皆様に鑑賞していただくため、千葉県移動美術館を開催します。第40回を迎える今回は、成田市文化芸術センターと大網白里市保健文化センターの2会場で実施します。
第1会場となる成田市芸術文化センターでは、「千葉県立美術館コレクション展」と題し、県立美術館収蔵作品の名品から厳選した43点を展示します。ぜひご覧ください!

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光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年頃=1918頃)が展示されています。こちらも同館の所蔵です。

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それぞれぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

柘榴の実はなやかにしてややにがしたぐひなきまでくらしあかるし

大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日このコーナーでご紹介した短歌の異稿です。翌年の雑誌『明星』(第二期)に発表されました。

こちらは近所のお宅になっているザクロです。

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光太郎の実弟にして、鋳金の道に進み、人間国宝に認定された高村豊周の作品が展示されています。 
期  日 : 2016年7月16日(土)~9月8日(木) 月曜休館 
会  場 : 東京国立近代美術館工芸館 千代田区北の丸公園1-1
時  間 : 10:00~17:00
料  金 : 一般210円(100円) 大学生70円(40円)
        ( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込。
        高校生以下および18歳未満、65歳以上
は無料。
無料観覧日 : 8月7日(日)、9月4日(日)

こどもたちと一緒に工芸を見たことはありますか?
工芸鑑賞はちょっとむずかしそう…と心配されることがあるけれど、作品を見たこどもたちは、おとなの予想を軽く乗り越えて、生き生きと反応してくれます。きらきら輝く目のなかは「!」や「?」でいっぱい――好奇心が踊るようにあふれでて、そのわくわく感に周囲で見守るおとなたちも嬉しくなるほどです。
こどもの興味を惹きつけるのは、なんといっても、それが何でできているのか?ということ。
「工芸」とひとくくりに呼んでいますが、種類はさまざまで、それを分ける決め手となるのが素材です。でもちょっと見にはそれが判断つかないものが少なくないのも工芸の特徴。土、石、草や木、虫など、素材に選ばれたものの元の姿を知っていると、ますます「!」や「?」が飛びだします。
工芸がこれだけ多彩に発展してきたのは、私たち人間が「こうしたい」と思ったことがらを形にしたものだから。それもよりよく、より美しくと、尽きない願いに応えて、あらゆる素材を吟味しては多方面に可能性を試し、磨き上げてきた結果が作品の魅力を築き、見る人、そして作る人自身をも惹きつけてきたのです。
そんな風に考えてみると、「ナニデデキテルノ?」というシンプルな発言には、作品へのお近づきの挨拶とともに感動のほとばしりが潜んでいそうです。知識豊富な大人の皆さんも、あらためて、こどもと一緒にこのひと言をつぶやいてみませんか?まだ気づいていなかった、知恵と情熱満載の工芸の秘密を探る鍵がみつかるかもしれません。

人間国宝から人気の現代作家まで当館所蔵作品、約120点を展示
繊維、土、石、ガラス、金属、木、貝殻など、展示室ごとにさまざまな素材の魅力を紹介します。


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豊周の作品は、「朱銅まゆ花瓶」(昭和39年=1964)、「青銅花瓶」(大正15年=1926)の2点。

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その他、有名どころでは、染色の志村ふくみさん、芹沢銈介らの作品、さらに竹久夢二作のオブジェ、六代清水六兵衛、ルーシー・リーの磁器なども展示されています。出品目録はこちら

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

しきりに桜の幹をいそぎのぼる蝉は止まりてなきはじめたり
大正13年(1924) 光太郎42歳

青森の地方紙『デーリー東北』さんの昨日の記事です。 

十和田湖畔休屋に人形館オープン 奈里多さんの代表作展示

 全国で根強い人気を誇り七戸町にアトリエを構える創作人形作家、奈里多究星(なりた・きゅうせい)さんのギャラリー「十和田湖究星人形館」が25日、十和田湖畔休屋にオープンした。奈里多さんの代表作である美しい人形約50体が並び、見る人を引き付けている。
 十和田湖レークサイドホテルの中村十二(じゅうじ)社長が、2013年と14年に休屋の休業中の旅館で開催された、奈里多さんの人形展を見て「期間限定ではもったいない」と思い、奈里多さんに呼び掛け、同ホテルが所有する、喫茶「赤とんぼ」の2階にギャラリーを設けた。
 ギャラリーには、十和田湖の乙女の像を題材にした作品や、人形劇に使われる大きな作品などが並ぶ。さらに、窓辺の喫茶・休憩スペースからは湖も眺めることができる。今後は小さい人形や、ポストカードの販売も予定している。
 中村社長は「十和田湖の一つの魅力となり、観光客の滞在時間が増えるきっかけになってほしい」と意気込む。奈里多さんは「湖には女性のイメージがあるので人形にぴったり。県外の人にも見てもらいたい」と話した。
 ギャラリーは11月上旬まで無休で開館。時間は午前9時~午後6時。入場料は一般500円、中学生以下は無料。問い合わせは十和田湖レークサイドホテル=電話0176(75)2336=へ。

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奈里多究星氏、調べてみたところ、七戸町のご出身で、同町の廃校になった小学校を使って「NonoUe人形の館」というアトリエ兼ギャラリーを開かれています(上記の準備のため7/20頃まで休館)。「Nonoue」は廃校となった小学校の名前、「野々上小学校」に由来しています。

記事にある「2013年と14年に休屋の休業中の旅館で開催された、奈里多さんの人形展」というのも、ネット上に情報が残っていました。当方が十和田で定宿としている十和田湖山荘さんの近くで、看板は今も残っており、これは何だろうと常々思っていましたが、ようやく納得いきました。

十和田湖の乙女の像を題材にした作品」というのが、非常に気になるところです。また十和田湖を訪れる際には立ち寄ってみようと思っております。

十和田湖周辺では、来月には「十和田八幡平国立公園 十和田八甲田地域指定80周年記念式典」、「第51回十和田湖湖水まつり」などのイベントが企画されています。併せて足をお運び下さい。十和田湖レークサイドホテルさんのサイトはこちら


【折々の歌と句・光太郎】

雨蛙今日はとるとてとりもせず萬年橋に白き瀬を見る(青梅在)

大正13年(1924) 光太郎42歳

「萬年橋」というと、隅田川にかかる深川萬年橋を思い浮かべますが、同じ東京でも奥多摩の入り口、青梅にある萬年橋が作歌の舞台です。蛙を木彫のモデルにしようとしたのではないかと思われます。

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