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一昨日、東京本郷のフォーレスト本郷さんにて、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきましたが、少し早めに自宅兼事務所を出て、界隈を歩きました。
 
昨年からそうしていますが、この界隈には光太郎智恵子光雲の故地、ゆかりの人物に関する記念館等が多く、毎年のこの機会には、そうした場所を少しずつ見て歩こうと思っています。昨年は、明治期に太平洋画会で智恵子の師であった中村不折がらみで、台東区立書道博物館を訪れました。
 
今年は、東京国立博物館黒田記念館の耐震改修工事が終わり、リニューアルオープンしましたので、まずそちらに行きました。
 
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東京美術学校西洋画科で、光太郎の師で006あった黒田が、大正13年(1924)に亡くなる際、遺産の一部を美術奨励事業に活用するようにとの遺言を残し、それを受けて昭和3年(1928)に建てられました。設計は美術学校で教鞭を執っていた建築家・岡田信一郎です。
 
永らく美術研究所(現・東京文化財研究所)の庁舎として使用されていましたが、新庁舎が近くに建てられ、この建物は東京国立博物館に移管、黒田の作品を中心に展示されてきました。
 
その後、東日本大震災を受けて、平成24年(2012)から改修が始まり、このたびリニューアルオープンの運びとなりました。
 
新たに「特別室」が設けられ、黒田の代表作品の数々が一気に観られる、ということで、かなりにぎわっていました。入場は無料です。ありがたいのですが、もったいない気がします。
 
館内に入り、これまた重厚な感じの階段を上がって二階に。左手が特別室、右手が黒田記念室です。黒田記念室入り口には光太郎作の黒田清輝胸像が展示されており、それを観るのが最大の目的でしたが、黒田に敬意を表し、まずは特別室に。
 
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「湖畔」 (重要文化財) 明治30年(1897)
 
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三部作「智・感・情」 明治32年(1899)
 
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「舞妓」 明治26年(1893)      「読書」 明治24年(1891)
 
すべて撮影可でした。これらを一度に観られるというのは、贅沢ですね。ただし、特別室は年3回の公開だそうで、今回の公開は今日まで。次回は3月23日(月)~4月5日(日)だそうです。
 
続いて黒田記念室へ。
 
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上の画像は入り口上部、欄間のような部分です。わかりにくいのですが、中村不折の揮毫で「黒田子爵記念室」と書かれています。
 
そして入り口左には、光太郎作の「黒田清輝胸像」。まるで黒田本人が「ようこそ」と言いながら迎えてくれているような感じです。

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一昨年の「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展以来、久しぶりに拝見しました。
 
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記念室内部は、完成作だけでなく、スケッチ、デッサン、下絵、さらには黒田の遺品なども展示されています。また、室内は創建当初の内装。天窓からの採光が温かく、いい感じです。
 
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特別室は年3回のみの公開ですが、記念室は常時公開です(月曜休館)。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月12日011
 
平成4年(1992)の今日、双葉社から関川夏央・谷口ジロー『『坊ちゃん』の時代 第三部 啄木日録 かの蒼空に』が刊行されました。
 
漱石と、同時代の文学者達を描いた五部作の三作目です。この巻は明治42年(1909)4月から6月の東京を舞台とし、主人公は石川啄木です。
 
光太郎はこの年7月に欧米留学から帰朝するため、登場はしませんが、「パンの会」のシーンで、「近々帰ってくるそうだ」と噂されています。
 
光太郎は登場しませんが、智恵子が登場します。
 
市電の中で、啄木が平塚らいてうと智恵子に偶然出くわし、らいてうに向かって無遠慮に、前年、漱石門下の森田草平と起こした心中未遂について尋ねるというくだりです。
 
智恵子はらいてうをかばいます。 
 
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しかし、なおも食い下がる啄木、すると、堪忍袋の緒を切らせた智恵子のビンタ炸裂(笑)。
 
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関川氏の創作ですが、こういうエピソードがあったとしても、不思議ではないでしょう。

来年1月―といっても、もう来週から1月ですが―の光太郎関連イベント等も、少しずつご紹介していきます。
 
タイトルの通り、上野の東京国立博物館内―正確には道をはさんで西隣―にある黒田記念館さんが、1月2日(金)、リニューアルオープンします。しばらくの間、耐震工事ということで休館中でした。
 
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「黒田」は黒田清輝。国の重要文化財の「湖畔」(光雲の「老猿」と同時に指定されました)などで有名で、「近代洋画の父」といわれる洋画家です。東京美術学校西洋画科で教鞭を執り、明治38年(1905)から翌年にかけ、欧米留学前の光太郎が同科に再入学していた際に、指導にあたりました。光太郎は同校彫刻家を明治35年(1902)に卒業、研究科に残っていたのですが、西洋美術を根底から勉強し直そうと、西洋画科に再入学したのです。
 
この時、黒田の同僚には藤島武二、光太郎の同級生には藤田嗣治、岡本一平(岡本太郎の父)、望月桂らがいました。教える方も教わる方も、錚々たるメンバーですね。
 
そんな縁もあり、光太郎は昭和7年(1932)、黒田の胸像を制作しました。同館にはその像が現存しています。この像は、ここと、東京芸術大学大学美術館さんと、二点だけしか鋳造されていないのではないかと思います。昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展では、芸大さんのものをお借りしました。
 
さて、リニューアルオープンですが、以下の日程になっています。
 
2015年1月2日(金) ~ 2015年2月1日(日) 開館時間:9:30~17:00 
休館日:月曜日(祝日・休日の場合は開館、翌火曜日休館)
 
 
館内には「湖畔」が展示されている「特別室」があり、こちらは常時公開ではなく、以下の日程でオープンです。
 
第1回:2015年1月2日(金)~1月12日(月・祝)
第2回:2015年3月23日(月)~4月5日(日)
第3回:2015年10月27日(火)~11月8日(日)
 
 
また、先述の光太郎作「黒田清輝胸像」は「黒田記念室」の入り口に常時展示されます。室内は黒田作品で、6週間ごとに展示替えだそうです。
 
観覧料は無料です。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月27日
 
昭和28年(1953)の今日、ラジオ放送のため、美術史家・奥平英雄との対談「芸術と生活」(原題「彫刻と人生」)が録音されました。
 
オンエアは翌年1月7日。文化放送でした。
 
以前にも書きましたが、かつてはカセットテープで市販されていました。「矍鑠(かくしゃく)」という表現が適当かどうかわかりませんが、数え71歳の光太郎、十和田湖畔の裸婦群像(通称乙女の像)の除幕を終え、今後の展望を比較的元気に語っています。

講談社さんから10月に刊行された、池川玲子さん著『ヌードと愛国』。明治期に智恵子の描いたヌードデッサンなどについて触れています。
 
早々に『日本経済新聞』さんに書評が載りましたし、その後、『読売新聞』さん、『朝日新聞』さんでも紹介されました。
 
さらに『産経新聞』さんにも載りましたので、ご紹介します。 

フォト・ライター野寺夕子が読む『ヌードと愛国』池川玲子著

■まとわない体がまとう歴史000
 
 著者池川は研究者だ。近現代女性史を専門とする。時々刑事コロンボに変身する。読者に惜しげもなく資料のヌードを見せてくれる。そして鮮やかに謎解きをしてみせる。しつこい。コロンボだから。ねばり強いのに、文は潔い。
 
 「一九〇〇年代から一九七〇年代に創られた『日本』をまとった七体のヌードの謎を解く」という(七体それぞれに手掛かりの写真や絵が加わるから、本の中にはヌードがいっぱいだ)。別々に創られたヌードだが、時系列に並べてみると近現代史の見慣れた語句とつながり、生き物みたいに動き出す。帝国主義とか移民政策とか民族主義とか資本主義とか。大陸の花嫁、婦人解放と婦人警官、安保、ウーマン・リブ、大量消費…。ヌードは裸体だが「はだか」ではない。まとっていないようで、まとっている。見えない衣を見ようとしてきた先達がいて池川が自論を重ねていく。著者自身が、謎解きをする自分に刺激されてきたろう。
 
 智恵子抄の智恵子が描いた百年前のリアルすぎる男性デッサンから第一章が始まる。輸出用映画しかも官製(しかも真珠湾攻撃の年)の宣伝映画に映るヌード。女性初の映画監督がいて、異端児・武智鉄二監督がいる。第七章で凝視するのは「裸を見るな。裸になれ。」-70年代のパルコのポスターだ。アートディレクター石岡瑛子のヌードへの執着を池川は丹念に追う。70年代の女性像。70年代の東洋と西洋の色。石岡の見せた誇り(プライド)と隠した怒りを、書く。その肯定的な書き方が、新鮮だった。
 
 この章に続くあとがきに、写真集『臨月』が出てくる。百人の臨月の女性を白黒で、自然光だけで撮ったドキュメントヌード。私の本だ。1996年度の太陽賞(平凡社主催)の審査では、荒木経惟らとともに石岡瑛子も選考委員を務めた。池川の描く石岡像を読んで、20年近くも経(た)ってこの人にやっと出会った、という気がしている。
 
 あとがきで「今の女子学生が気にするヌード」を挙げたことで、池川は、さあて、またここから、と動き出すだろう。現代史家はタフだね。(講談社現代新書・800円+税)
 
 
だいぶ注目されているようですし、実際、かなりの力作です。ぜひお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月26日

昭和25年(1950)の今日、詩「遠い地平」を執筆しました。
 
  遠い地平
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なかなか危ない新年が
平気な顔してやつてくる。
不発か時限か、
ぶきみなものが
そこらあたりにころがつて
太平楽をゆるさない。
人の命のやりとりが
今も近くでたけなはだ。
日本の脊骨岩手の肩に
どんな重いものがのるかのらぬか。
都会は無力な飯くらひ、
それを養ふ田舎の中の田舎の岩手。
新年は花やかに訪れても
岩手はじつくりうけとめて、
その眼が見るのは遠い地平だ。 
 
翌年元日の『新岩手日報』のために書いた詩です。
 
人の命のやりとりが/今も近くでたけなはだ。」は、朝鮮戦争、第一次インドシナ戦争あたりを指していると考えられます。東京には見切りを付け、花巻郊外太田村という辺境にいながら、光太郎は世界を見つめています。
 
ところで、先の総選挙では自公が圧勝。第三次安倍政権の陣容が発表されました。改憲に意欲を示す安倍総理ですが、くれぐれも「人の命のやりとり」を「たけなは」にできる国にしてほしくないものです。しかし、どうなることやら、ですね。そういう意味でも、もうすぐやってくる平成27年(2015)も、「ぶきみなものが/そこらあたりにころがつて/太平楽をゆるさない」「平気な顔してやつてくる」、「なかなか危ない新年」だと思います。

昨日のこのブログにて、近々放映されるテレビ番組の情報を載せました。記事を書いたのが午前中。午後になって、ふとテレビをつけると、地上波TBSさんで、内田康夫さん原作の浅見光彦~最終章~ 最終話 草津・軽井沢編というドラマの再放送が放映中でした。平成21年(2009)に連ドラとして放映されたもので、光太郎彫刻の贋作を巡る事件という設定の「「首の女」殺人事件」を原作としているものです。
 
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この「蝉」は美術さんの作品と思われますが、なかなか良くできていますね。
 
浅見光彦役は沢村一樹さん。お母さんの雪江役は佐久間良子さん。
 
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ちなみに佐久間さんは平成3年(1991)11月9日にNHK総合で放映された単発のドラマ「極北の愛 智恵子と光太郎」(脚本・寺内小春)で智恵子役を演じられました。光太郎役は小林薫さんでした。
 
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昨日の「浅見光彦~最終章~」、ネットのテレビ情報欄で「光太郎」のキーワード検索にヒットしなかったため、この放送が昨日あったことを事前に気づかず、紹介しませんでした。「やっちまった」感でいっぱいです。
 
まあ、何度か再放送されていますので、また放映があるでしょうし、DVDも発売されています。
 
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ちなみにDVDには、よくある「特典映像」としてメイキング風景が収められており、第1話「恐山・十和田・弘前編」の関係で、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)が紹介されています(ただし第1話本編にはこの像は出てこなかったと記憶しています)。
 
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ぜひお買い求め下さい。
 
 
閑話休題。
 
日曜日の『読売新聞』さんに、智恵子について触れた池川玲子さん著『ヌードと愛国』の書評が載りましたのでご紹介します。

『ヌードと愛国』 池川玲子著 投影される深い意味

「ヌードは意味を着ている」000
 たしかにそうだ。ヌードは服を着ていないが故にヌードであるが、だからと言って服を着ることによってまとうような意味が欠落しているわけではない。
 時に、服を着ていないが故に深い意味が投影される。高尚な芸術作品にも下劣なわいせつ物にも。近代の先端にも前近代の残余にも。たくましく魅力的にも弱々しく貧相にも。
 本書は1900年代から70年代まで、その時々の社会で注目された七つのヌード作品をとりあげながら、そこにいかなる意味があるのか分析していく。ヌードとの関係で論じられる対象は竹久夢二、外国人観光客誘致映画、満州移民プロパガンダ映画など、一見脈絡がなく多様に見える。ただ、一本の筋も通っている。そこでは近代化の中で現れる日本と西洋、女性と男性の間にある緊張の変化が追われているのだ。
 例えば、高村光太郎『智恵子抄』で有名な高村智恵子が描いたヌードについて論じた章がある。智恵子は男性ヌードのデッサンの際に「おかしいほどリアル」に股間を描くと、同じ時に美術を学ぶ男子学生の回想に書かれていた。しかし、調べてみれば、実際に智恵子が描いたとされるデッサンはそのようなものではない。では、なぜ……。
 結論を言えば、このエピソードの背景には、当時の西洋の先端的な美術のあり方を知る智恵子の姿、あるいは、社会における女性への「良妻賢母」的な役割の変化などが存在する。ただ、この結論自体はそれほど重要ではない。本書の面白みは、この結論を論証するプロセスにほかならない。謎解き形式で進む文体はとても読みやすく、他の様々な事例も含めて読み通すことで、幅広い社会史・美術史の知見を得ることができるだろう。
 ページをめくるごとに明かされる、何気ない作品の細部に隠された重要な意味。それを何重にもみせる著者の力量に驚かされ続けた。
 
 
なかなか的確な書評です。実際、非常に読みごたえのある書籍でした。こちらもぜひお買い求めを。
 
 
ところで、ヌードといえば、またつい最近、芸術か猥褻物か、ということで、ある作家さんの作品が問題になっていますね。
 
上記に画像を載せた十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)もヌードですが、まったく猥褻感がありません。現在、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで発刊予定の『乙女の像のものがたり』に寄せた拙稿を校正中です。その中の年少者向けに書いた稿で、「裸婦像」の語注として「人間の肉体の美しさを表現するため、はだかの女の人を作った彫刻」と書きました。「乙女の像」、ひいては芸術表現としての「ヌード」は、そういうものだと思います。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月17日
 
昭和24年(1949)の今日、詩人の中原綾子、歌人の館山一子に、それぞれが主宰する雑誌の題字を揮毫したものを送りました。
 
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中原には「すばる」、館山には「郷土」。それぞれ、翌年からの号で、光太郎の揮毫が表紙を飾りました。

一昨日、新宿文化センターにて、中村屋サロン美術館開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」を拝聴して参りましたが、その後、同じ新宿区の神楽坂に寄ってから帰りました。
 
神楽坂というと、「一見さんお断り」の高級料亭、というイメージですが(笑)、そういう分野ではなく、ギャラリーです。以下の展覧会が催されています。

えがく展 7人の絵描きと10冊の本

会 期 : 2014年11月29日(土)~12月14日(日)
会 場 : ギャラリー「ondo kagurazaka」
       新宿区矢来町123 第一矢来ビル1階かもめブックス
時 間 : 月~土 10:00~22:00  日 11:00~20:00
 
11月29日(土)に開店をむかえる「かもめブックス」の中に開かれるギャラリー「ondo kagurazaka」。
そのこけら落とし展として開催される本展示は、大阪・東京から7名の作家が参加し、本の中に眠る美しい文章からインスピレーションを受け、絵で表現します。
テーマとなった文章は「石川啄木・宮城道雄・夏目漱石・高村光太郎・島崎藤村・夢野久作・上村松園・種田山頭火・田山花袋・太宰治」の本から選びました。
 
参加作家
 東京より……松園量介・竹谷満・日笠隼人
 大阪より……wassa・三尾あすか あづち・山内庸資
 
12月6日(土)、7日(日)の2日間、参加作家によるライブペイントや似顔絵など、かもめブックス店内でアートイベントを開催します。
 
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というわけで、行って参りました。
 
東京メトロ東西線神楽坂駅2番出口(矢来口)を出て、左折。かもめブックスさんという書店兼カフェがあり、その奥がギャラリー「ondo kagurazaka」さんです。「一見さんお断り」の高級料亭ではありませんが、実におしゃれです。さすが神楽坂。
 
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先週、麻布十番で観てきた「装幀画展Ⅱ~文学とアートの出逢い~」は、「装幀」として描かれ、本の選択も各作家さんにまかされていましたが、こちらはブックデザインというわけではなく、それぞれの本からのインスパイアというか、オマージュというか、そういったイラストでした。本の選択はギャラリーさんの指定だそうで、10冊の本に対し、7人のイラストレーターの皆さん(20~30代の若手)が1枚ずつ出品しています。即売も行っています。
 
光太郎に関しては、『智恵子抄』。さらにその中に収められている詩「あなたはだんだんきれいになる」がお題でした。
 
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会場内にはお題に出された書籍も並んでいました。
 
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『智恵子抄』を選んでいただいて、ありがたい限りです。
 
日曜を除き、夜10時までオープンしています。一つのフロアに書店とカフェとギャラリーが同居していて、珈琲でも飲もうかと思ったのですが、帰りの高速バスの時間の関係で、ゆっくりできなかったのが残念でした。ぜひ足をお運びいただき、当方の代わりにゆっくり珈琲でもご堪能下さい(笑)。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月3日001
 
昭和12年(1937)の今日、山形の銀行家・長谷川吉三郎にはがきを書きました。
 
文面は以下の通りです。
 
拝復 昨日見事な林檎たくさんいただきありがたく存じ上げました。今日おてがミ及書留小包にて軸其他たしかに落手、先日の色紙が立派に表装せられたのに驚きました、 おてがミの趣は承知いたしました、不日お手許に御返送申上る心組で居ります、 とりあへず御返事まで 艸々
 
「色紙」は、この少し前に丑年生まれの長谷川の依頼でかいた右の画像のものです。それを長谷川が表具屋さんに軸装してもらい、さらに光太郎に箱書きを依頼した、その返答が上記の葉書です。
 
ちなみに長谷川は牛の彫刻も光太郎に依頼しましたが、光太郎、そちらは断っています。翌年に歿する智恵子がゼームス坂病院に入院中で、創作意欲を欠いている部分があったようです。
 
牛の色紙軸装は「長谷川コレクション」の代表作の一つとして、山形美術館に現存し、時折、他館の企画展に貸し出しています。

全国の皆様から、いろいろと光太郎智恵子がらみの品々をいただいております。三回に分けてご紹介します。
 
まずは、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』という書籍をお書きになった、板橋区職員の坂本富江さんから、少し前に『都政新報』の10月17日号をいただきました。
 
以前にも玉稿の載った『都政新報』をいただきました。東京の自治体専門紙だそうです。
 
さて、今回のものは以下の通り。やはり坂本さんの玉稿が紙面を飾っていました。
 
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名文ですので引用させていただきます。決して手抜きではありません(笑)。  

人生はいつも始発駅 福島で自作の紙芝居を実演 いたばし観光センター 坂本富江

紙芝居を作るきっかけ
 
 人生には思いもかけない転機が訪れるものである。 
 自作の紙芝居を福島で演じることになった。多少の絵心は持ち合わせているが、まさか偉大な人の一生を紙芝居にするとは……。初めての挑戦である。
 事のきっかけは、昨年の10月に講演をさせていただいた福島県二本松市での高村智恵子をしのぶ第19回「レモン忌」であった。そこに列席されていた智恵子の母校、二本松市立油井小学校の伊藤雅裕校長先生の一言だ。
 「あの本の中の絵の感じで、小学校4年生が先輩・高村智恵子さんの生涯を理解できるような紙芝居か絵本があるといいんですが……」
 あの本とは、2年前に出版した自著『スケッチで訪ねる智恵子抄の旅』である。
 私の人生、こういう時、不思議と高村光太郎の詩『道程』が頭を出すのである。
 僕の前に道はない
 僕の後に道はできる
 
 そして一世を風靡した「今でしょ!」が不安を払拭させ、紙芝居作成という未知への挑戦が始まったのである。
 私は長いこと保育園に勤務していたので、紙芝居は教材として活用させていただいた。けれど、作るという知識・知恵とも全く乏しかったので、まずは本物の紙芝居を研究しながら、絵と文章を同時進行させることにした。
 未来を築く小学生へのメッセージとして、何が良いだろうか。一般的に語られている智恵子論ではなく、自著でもこだわったように、時々を精いっぱい生き抜いた輝きの姿や志を貫いた強固な精神、人間性あふれるエピソード等、人が人として生きていく根源の有り様を智恵子の生涯を通して書いた。
 明治―大正―昭和の時代背景や風俗などぶつかる壁も多く、その都度、図書館に駆け込む日々でもあった。私の故郷、山梨が舞台であったNHKの朝ドラ『花子とアン』は時代背景が重なり、とても参考になった。
 4月から作業を始め、9月中旬で一応のめどが附き、友人たちの助けを借りて、原画と文章のコピーを台紙に貼る作業が終了した。34枚の大作を前に、皆で「万歳!」と爆笑の渦であった。
 昨年の秋、登山経験のない私が、もがきながら登った安達太良山の山頂に立った時の心地と同じ爽やかさであった。
 
次はどんな挑戦が待っているか
 
 待ちに待った福島入りは快晴の9月。新幹線が郡山を過ぎ、本宮に差し掛かる頃には安達太良山の上に青く澄んだ「ほんとの空」がまるで両手を広げて迎えてくれているようだった。隣席のおばあちゃんが「土地が喜んでいるんだよ」。この言葉に勇気をもらった。
 初日は地元二本松市の「智恵子のまち夢くらぶ」主催の智恵子純愛通り記念碑第6回建立祭で紙芝居を実演した。周囲は収穫期を迎える黄金の田んぼが広がり、コスモスが風に揺れる大自然の中であった。
 2日目、いよいよ油井小学校の4年生の総合学習授業に参加した。創立141年の歴史を誇るかのように、「始学の松」、しだれ桜、プラタナスの巨樹が空に高くそびえながら迎えてくれた。
 さて、私は二つの宝物を持参した。一つははるか昔、小学4年の時、私が書いた書道。二つ目は、小学3年の5月にやはり自分で作った新聞。何と「青空新聞」と命名されている。
 この宝物が生徒さん達との距離をぐーんと縮めてくれ、元4年生は年を忘れて紙芝居を読むことが出来たのである。大切に保管してくれた両親(健在)に感謝。また、後日、長時間じっと見てくれた生徒さんたち一人ひとりからのお手紙が届き、感動である。
 このような貴重な体験へ導いて下さった伊藤校長先生、智恵子のまち夢くらぶ代表の熊谷健一氏、紙芝居制作に快く協力してくれた友人達や職場の仲間にも感謝いっぱいである。
 紙芝居は小学校に寄贈した。「本校の宝物にします」と伊藤校長先生がおっしゃってくれた。
 今年は『道程』の詩が世に出て100年。光太郎、智恵子が結婚して100年。来月11月26日にはNHKの特別企画で、この2人が放映されるとのこと、大いに楽しみである。
 私にとって人生はいつも始発駅。さて、今度はどんな挑戦が待っているか今からワクワクである。
 
 
素晴らしい文章ですね。
 
ちなみに坂本さん、「多少の絵心は持ち合わせているが」とありますが、多少どころではなく、智恵子と同じ太平洋画会(現・太平洋美術会)に所属され、100号の油絵を描かれています。
 
こうした活動を通し、若い世代が光太郎智恵子の世界にどんどん興味を持って欲しいものです。坂本さんもそういうことを考えられての「挑戦」でしょう。ありがたいことです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月29日
 
昭和27年(1952)の今日、夕食に浅草米久の牛鍋を食べました。
 
米久さんは、浅草で今も続く牛鍋屋の老舗。大正11年(1922)に光太郎は「米久の晩餐」という詩を書いて、絶賛しました。嵐山光三郎氏の『文士の料理店(レストラン)』 (新潮文庫)などに詳細が書かれています。
 
十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、岩手太田村から上京したのがこの年の10月。その米久さんを久しぶりに訪れました。
 
しかし、前日には同じ米久さんの新宿支店で牛鍋を食べています。数え70歳にしてのこの健啖ぶり、ある意味尊敬に値します(笑)。

本日も新刊紹介です。 
池川玲子著 2014/10/20 講談社(講談社現代新書) 定価800円+税
 
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版元サイトから
 
一九〇〇年代から一九七〇年代に創られた、「日本」をまとった七体のヌードの謎を解く。推理のポイントは時代と作り手の動機。時系列に並べたヌードから浮かび上がってくる歴史とは? ヌードで読み解く近現代史。
 
 歴史とはそもそもミステリーと相性の良いものだと思います(もしくは、ミステリーそのものと言えるかもしれません)が、本書は、「日本」をまとった七体のヌードの謎を解くことで、知られざる近現代史が浮かび上がってくる、いっそう贅沢なミステリー仕立ての歴史読みものとなっています。
 著者の池川玲子さんの専門は、日本近現代女性史。ヌードをめぐる芸術作品、美術史と女性学が交錯することで、いままで気にも留めなかった歴史の一部分がこんなにも面白くクローズアップされるのか、と原稿をいただくたびに実感し、それは嬉しい驚きの連続でした。
 本書は、一九〇〇~一九七〇年代の七体のヌードの謎をめぐる全七章の構成になっていますが、たとえば第二章では、竹久夢二が描いた「夢二式美人」がなぜ脱ぐことになったのか、というミステリーの背景として、第一次世界大戦が挙げられています(それがなぜかはぜひ本書をお読みください)。
 とりわけ、私が思わず、池川さんに、「先生! これ、スクープ・ヌードなんじゃないですか!?」と詰め寄り、鼻息を荒くしてしまったのは、第三章の「そして海女もいなくなった」です(実際に、かつて、池川さんのもとには、某通信社の記者さんから取材の申し込みがあったとか)。本章では、現存する日本映画最古のヌードが発掘されているだけでなく、なんと、それは、真珠湾攻撃のほんの数年前、日本の国際観光局が「日本宣伝映画」をつくるにあたり、よりによってハリウッドからもたらされたシナリオに端を発する、いわくつきのヌードだったという事情も詳しく述べられています(「海女もいなくなった」の意味など、ぜひ本書で)。
 第七章の「七〇年代パルコの『手ブラ』ポスター」では、あまりにも意外な事物のポスターまでもがパルコの「手ブラ」に追従した事実が、図版とともに紹介されており、驚きのあまり苦笑いしてしまうことになるでしょう(それが何のポスターかは、本書でお確かめください)。
 ……と、やはり全七章すべてが極上ミステリーのため、ネタバレを避けて紹介文も思わせぶりな内容とならざるをえません。刊行前に読んだ社内の人間からも大好評の本書、ここはぜひ、ご自分のお手に取ってお楽しみくださいませ。(編集担当:IM)
 
第一章 デッサン館の秘密 智恵子の「リアルすぎるヌード」伝説
第二章 Yの悲劇 「夢二式美人」はなぜ脱いだのか?
第三章 そして海女もいなくなった 日本宣伝映画に仕組まれたヌード
第四章 男には向かない?職業 満洲移民プロパガンダ映画と「乳房」
第五章 ミニスカどころじゃないポリス 占領と婦人警察官のヌード
第六章 智恵子少々 冷戦下の反米民族主義ヌード
第七章 資本の国のアリス 七〇年代パルコの「手ブラ」ポスター
 
こちらでは、著者の池川さんによるこの書籍に関してのエッセイも読めます。
 
タイトルに「愛国」という語が入っていますが、ヘイトスピーチ大好きの幼稚な右翼の常套句、「大東亜戦争は侵略戦争ではなかったのだ」的な馬鹿げた内容ではありません(そういう内容を期待して買わないで下さい)。逆に芸術表現としてのヌードが、しばしば反体制の表象として使われることに注目し、逆説的に「愛国」の語が使われています。
 
 
第一章では、光太郎と邂逅する前の智恵子の、太平洋画会研究所で描いたデッサンをメインに取り上げています。
 
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これはおそらく明治40年(1907)、智恵子22歳頃に描かれたものです。智恵子と同じ太平洋画会の事務監督兼助教授だった福岡県大牟田市の佐々貴義雄の遺品から、もう1枚の石膏デッサンとともに、平成11年(1999)に見つかりました。
 
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『ヌードと愛国』の第一章では、やはり太平洋画会に通っていた水木伸一の回想にからめ、智恵子を論じています。
 
さらに、当時の黒田清輝の白馬会と、明治美術会の流れをくむ中村不折の太平洋画会との対比……「白馬会-官-新派-外光派-ラファエル・コランの流れ」、「太平洋画会-民-旧派-写実重視-ジャン・ポール・ローランスの流れ」といったところまで考察が進みます。
 
そこに「歴史画」の問題、モデルの問題、そして警察による「風俗取り締まり」による裸体画の「特別室」行きなどといった問題までも盛り込まれ、非常に読みごたえのある章でした。
 
 
さらに第六章「智恵子少々」(もちろん「智恵子抄」のパロディーです)。
 
こちらのメインは昭和40年(1965)の武智鉄次監督の日活映画「黒い雪」。同年、わいせつ図画の公然陳列の容疑で起訴された(判決は無罪)作品です。背景には日米安保体制下のベトナム戦争拡大への危機感、基地問題があります。
 
武智は、昭和32年に観世寿夫と組んで新作能「智恵子抄」を作りました。その際の智恵子のイメージが、この「黒い雪」に投影されていることが、シナリオのト書きから読み取れる、というのです。ただし、それと判らない程度のインスパイアであり、そこで章の題名「智恵子少々」というわけです。
 
この章での論は、その他、光太郎と智恵子の結婚生活や、十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)、「智恵子抄」受容の歴史などにも及んでいます。
 
感心したのは、昭和32年(1957)の『婦人公論』に載った「座談会三人の智恵子」というかなりマニアックな記事まで参照していること。こちらは武智が司会を務め、それぞれ舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた水谷八重子、原節子、新珠三千代が参加した座談会の記録です。
 
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過日、『日本経済新聞』さんに書評が載りました。
 
長沼智恵子が描いたリアルなデッサン、服を脱いだ竹久夢二の美人画、わいせつ罪に問われた武智鉄二の映画、大胆に露出したパルコのポスター。女性史を専門とする著者が1900年代~70年代に世に現れたヌードを時代状況と照らしながら時系列で読み解く。どんな「裸」も重い日本を背負っているとわかる異色の近現代史論考だ。
 
ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月17日
 
昭和27年(1952)の今日、新しくオープンした中央公論社画廊で「高村光太郎小品展」が開幕しました。
 
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光太郎生前最初の、そして最後の彫刻個展です。
 
大正年代にはアメリカでの個展を構想し、その費用の捻出のため、彫刻頒布会を作った光太郎ですが、その計画はあえなく頓挫。以後、彫刻の個展の構想はありませんでした。
 
この展覧会にしても、光太郎自身はあまり乗り気ではなく、『高村光太郎選集』全六巻を刊行してくれた中央公論社への義理立てのような意味合いが強かったといいます。
 
しかし、さらにこの後の最晩年には、彫刻でなく書の個展を開くことを考えていました。
 
光太郎、つくづく大いなる矛盾を抱えた人物です。

昨日、NHK Eテレさんの「日曜美術館 野の花のように描き続ける ~画家・宮芳平」を見ました。光太郎とも交流のあった無名の画家、宮芳平についてでした。宮に関しては、ほとんど知識がなかったこともあり、非常に興味深いものでした。
 
残念ながら、光太郎の名は出ませんでしたが、森鷗外との関わりが比較的大きく取り上げられていました。以前にも書きましたが、鷗外の短編小説「天寵」の主人公が宮をモデルとしています。
 
宮は、鷗外が審査委員長をしていた文展(文部省美術展覧会)に応募、しかし、渾身の作だったにもかかわらず落選。そこで、宮はなんと、鷗外の自宅に乗り込んで、なぜ落選なのかと問い詰めたそうです。さすがに鷗外は大人です。宮の絵はいい絵だと褒めました。大衆や審査員におもねるような絵ではない、と。結局、そういう絵ではないから入選しない、ということなのでしょうか。
 
当方、同じように、文展に渾身の作で応募しながら落選した智恵子を重ねて見ました。ほんの一握りを除いて、多くの画家(画家志望者)が、同じような道をたどったのではないかという気がします。審査委員長の自宅に押しかけたのは、他にいなかったと思いますが……。
 
その後、鷗外は宮を気に入り、作品を購入してやったり、「見聞を広めるように」と、知り合いの文化人の名刺を渡したりしたそうで、おそらく、そこで光太郎も紹介されたのではないかと推測しました。
 
その後、生活上の理由もあり、宮は信州に美術教師として赴任していき、そこで生徒に絵を教える中で、自身の作風も変化していきました。番組サブタイトルの「野の花のように描き続ける」は、このあたりからの作風を表しています。
 
さて、「日曜美術館 野の花のように描き続ける ~画家・宮芳平」。8月10日(日)  20時00分~20時45分に再放送があります。見逃した方はご覧下さい。
 
関連する展覧会がこちら。
期 日 : 平成26年 7月19日(土)~9月7日(日)
会 場 : 豊科近代美術館
休館日 
 7月22日 28日 8月4日 11日 18日 25日 9月1日
   9:00~17:00 (入館受付は16:30まで)
   一般600円(500円) 高校大学生400円(300円) 中学生以下無料
    
  ※( )内は20名以上の団体
主催  安曇野市豊科近代美術館 (公財)安曇野文化財団 読売新聞社 美術館連絡協議会
共催 TSBテレビ信州
 
当館の主要収蔵作家のひとり、画家・宮芳平(1893-1971)の生誕120年を記念した展覧会を開催します。これは茅野市美術館、練馬区立美術館、島根県立石見美術館、新潟県立近代美術館、そして当館へと巡回する宮にとって生前・没後をあわせて最大級の展覧会です。
1893年、新潟県で生まれた宮芳平は旧制柏崎中学を卒業後、父の許しを得て、1913年、東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)に入学します。1914年、あらん限りの力をふりしぼって描いた《椿》が文展に落選し、落選の理由を聞きに文展の審査委員であった森鷗外を訪ねた縁で知遇を得ます。その後、森鷗外は宮を主人公のモデルとした短編小説『天寵』を執筆しています。同じころ、実業家であった父の死や、学生結婚、出産などで生活は困窮し、東京美術学校を退学します。貧困の生活の中、東京から柏崎、平塚へと住処を移しますが、師事をしていた洋画家・中村彝の紹介で、1923年、長野県諏訪で美術教師の職に就きます。そして、諏訪で35年間の教師生活を送ります。裕福とは言えない生活の中で、宮の家族や諏訪の自然、学校生活や個人通信誌『AYUMI』による教え子など関係した人々との心の対話が宮の画家としての歩みを支え続けました。退職後は教え子や知人からアトリエ兼住居を贈られ、終の住処を得ます。本展では、初期のロマンティシズムにあふれる作品から、諏訪の生活の中で生まれた風景や人物等の作品、さらに、晩年のローマ、エルサレム等をまわる聖地巡礼の旅により生まれた「聖地巡礼シリーズ」や「太陽シリーズ」までを展示します。油彩画に加え、素描、銅版画、ペン画を通して、純粋、誠実に芸術を求め、一心に生きた画家・宮芳平の歩みをみつめます。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月4日
 
昭和28年(1953)の今日、彫刻「大町桂月記念メダル」の制作を始めました。
 
十和田湖畔の裸婦群像除幕式(同年10月21日)の際、記念として、関係者一同に配布された、光太郎制作になるブロンズのメダルです。このメダルには十和田の三恩人―大町桂月、武田千代三郎、小笠原耕一―の名が刻まれ、さらに桂月の肖像をレリーフにしてあります。百五十個が鋳造されました。

この年の光太郎日記には、八月に制作を始め、翌月には完成したこと、アトリエを訪れた桂月の子息が「亡父によく似ている」と語ったことなどが記されています。この後に取りかかった「倉田雲平胸像」は未完のまま絶作となったため、完成した彫刻としては、このメダルが光太郎最後の作品です。

現在、石膏原型は高村家に残り、各種企画展にはこちらが出品されています。鋳造されたメダルは、十和田市の奥入瀬渓流館、青森市の青森近代文学館で見ることができます。

追記 奥入瀬渓流館のものは、その後、十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」に移されました。

テレビ放映情報です。

日曜美術館 「野の花のように描き続ける ~画家・宮芳平~」

NHK Eテレ 2014年8月3日(日) 9時00分~9時45分 
        再放送 8月10日(日)20時00分~20時45分
 
去年、生誕120年を記念した展覧会が開かれたのを機に注目された画家、宮芳平。知られざる魅力に迫る。
 
司 会  井浦新,伊東敏恵
ゲスト   ドリアン助川
 
 いま、一人の無名の画家の絵が、人々の共感を集めている。長野の高校で美術を教えながら、生涯で数千枚に及ぶ油絵を残した宮芳平(みや・よしへい 1893~1971)。
生誕120年を記念して去年から始まった初めての大規模な回顧展が全国を巡回。すると「澄んだ魂から生まれたような絵」「自然、植物への愛情の深さを感じた」「これまででいちばん心にしみる絵画」といった感動の声が無数に寄せられ、都内で開かれた展覧会をアートシーンで紹介すると、「作品をじっくり見たい」「画家のことが知りたい」といった声が番組宛にも届いた。
宮が描いたのは、鮮やかな色と抽象的な形がおりなす長野の自然風景。優しさに満ちた母子の肖像。そして深い精神性を感じさせる、聖書を題材にした聖地巡礼のシリーズ。こうした絵の背景には、若き宮を愛した文豪・森鴎外との交流。教師と画家の狭間で揺れながら、独自の表現へと至る苦悩の日々が秘められていた。家族や教え子の証言、画家自身の言葉から知られざる実像に迫る。
 
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宮芳平は新潟生まれ、東京美術学校卒の画家。歌人の001宮柊二の叔父にあたるそうです。森鷗外の短編小説「天寵」の主人公としても知られています。
 
光太郎とも縁がありました。
 
宮芳平自伝』に、まだ学生の宮が、大正8年(1919)、腸チフスで駒込病院に入院していた光太郎を見舞ったという記述があります。また、宮の遺品の中から、この頃と推定される、光太郎からの葉書も見つかっています。
 
此間はだしぬけにお目にかかつたので却つて大変よろこびを感じました。
お葉書で今のあなたの生活をうらやましいほどにおもひます。 秋頃になつたら一度行つて遊びたくおもつてゐます。 砂の上をころがり廻らない事もう二年余になります。皆さんによろしく
 
そして昭和9年(1934)、信州諏訪で開かれた宮の個展の発起人に、光太郎も名を連ねました。
 
さらに、のちに宮の妻となる駒谷エンが、光太郎彫刻のモデルを務めたこともあるということです。
 
はっきりいって、マイナーな画家でしたが、昨年が生誕120年にあたり、各地で企画展「生誕120年 宮芳平展-野の花として生くる。」が巡回中で、ここにきてスポットがあたっています。同展は長野茅野市美術館、練馬区立美術館、島根県立石見美術館、新潟県立近代美術館と廻り、現在は安曇野市豊科近代美術館さんで開催中です(また稿を改めて書きたいと思っています)。
 
さて、「日曜美術館」。宮と光太郎とのかかわりが、少しでも紹介されればいいのですが……。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月29日
 
昭和6年(1931)の今日、智恵子が母・センに宛てて長い手紙を書きました。
 
智恵子の実家、長沼酒造は昭和4年(1929)に破産、一家は離散しています。僅かに残った山林の所有権をめぐり、セン、智恵子、弟の啓助の間に内容証明郵便が行き交い、骨肉の争いとなっていました。
 
この頃、センは、中野にあった智恵子の妹セツの嫁ぎ先、齋藤新吉の住まいに、のちに智恵子を看取る智恵子の姪・春子とともに身を寄せていました。しかし、智恵子はこのことを光太郎には秘密にしていたそうです。
 
直後に光太郎は『時事新報』の依頼で、紀行文執筆のため約1ヶ月の三陸旅行に出ます。その間に駒込林町のアトリエを訪ねてきたセンとセツが、智恵子の「異状」に気づきます。
 
この手紙も、文脈はおかしくないものの、非常に追い詰められている様子がうかがえます。
 
母上様
 きのふは二人とも悲くわんしましたね。しかし決して決して世の中の運命にまけてはなりません。われわれは死んではならない。いきなければ、どこ迄もどこ迄も生きる努力をしませう。皆で力をあはせて皆が死力をつくしてやりませう。心配しないでぶつ倒れるまで働きませう。生きてゆく仕事にそれぞれとつかゝりませう。私もこの夏やります。やります。そしていつでも満足して死ねる程毎日仕事をやりぬいて、それで金も取れる道をひらきます。かあさん決して決して悲しく考へてはなりません。私は勇気が百倍しましたよ。やつてやつて、汗みどろになつて一夏仕事をまとめて世の中へ出します。悲しい処ではない。そしてそれが自分の為であり、かあさん達の為にもなるのです。
(中略) 
 力を出しませう。私、不幸な母さんの為に働きますよ 死力をつくしてやります。金をとります。いま少しまつてゐて下さい。決して不自由かけません。もしまとめて金がとれるやうになつたら、みんなかあさんの貯金にしてあげますよ。決して悲観して(は)なりません。けふは百倍の力が出てきました。それではまた。

 
のちにセンともども、齋藤一家は九十九里に転居。昭和9年(1934)には、智恵子がここに転地療養することになります。

4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂きました。
 
その中のお一人、詩人の間島康子さんから、文芸誌『群系』の昨年12月に刊行された第32号をいただきました。
 
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間島様の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」11ページが掲載されています。
 
「好い時代」とは、佐藤春夫が『わが龍之介像』で使った言葉。大正時代(広い意味で明治末を含む)を指します。文芸界全体でも、光太郎自身も、たしかに大正時代は充実していた時期です。
 
その「好い時代」の光太郎を追った論考で、失礼ながら、非常に感心いたしました。
 
『群系』さんホームページはこちら間島様の論考もウェブ上で閲覧できます。ぜひお読み下さい。
 
それから、連翹忌にはご欠席でしたが、イラストレーターの河合美穂さんから、事前にご丁寧にご欠席のご連絡をいただきました。河合さんは今年1月に、個展「線とわたし」を開催され、光太郎の「梅酒」をモチーフにした作品も展示されました。
 
その「梅酒」をポストカードにしたものをいただいてしまいました。ありがたいかぎりです。
 
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あたたかい絵ですね。しかし、もったいなくて使えません(笑)。
  
連翹忌、そして光太郎智恵子を通じて人の輪が広がっています。素晴らしいことだと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月6日

昭和56年(1981)の今日、銀座和光ホールで開催されていた高村規写真展「高村光太郎彫刻の世界」が閉幕しました。

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東北レポートの最終回です。

3/9(日)、盛岡てがみ館さんでの企画展「高村光太郎と岩手の人」を見終わり、最後の目的地に向かいました。
 
てがみ館のほど近く、同じ中津川沿いにある「深沢紅子野の花美術館」です。

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深沢紅子(明治36=1903~平成5=1993)は、盛岡出身の画家。夫の省三ともども、盛岡での美術教育にも力を注ぎ、後進の育成に功績があり、やはり省三ともども、光太郎と交流がありました。
 
野の花美術館、こちらは直接光太郎と関わる展示はないのですが、数年前に立ち寄った際に、非常にいい感じだったので、リピーターとして行ってきました。
 
紅子は生涯野の花を描き続け、そちらの展示がメインです。下の画像は買ってきたポストカード。当方、柄にもなく花々が大好きです。
 
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さらに企画展として「深沢省三 童画原画展」が開催されていました。
 
本当に小さな美術館ですが、味わい深い作品の数々に出会えます。ぜひ足をお運びください。
 
その後、盛岡駅まで歩きました。歩いてみると、いろいろ思いがけない発見があるものです。
 
こちらは岩手県公会堂。昭和27年(1952)に光太郎がここで講演をしています。おそらく当時のままの建物でしょう。
 
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 盛岡市街、この手の古い建物が結構残っています。左下は「もりおか啄木・賢治青春館」。もと第九十銀行だった建物を転用しています。こちらは今回、前を通っただけで中はパスしたのですが、いずれよく観てみようと思っています。
 
街角には啄木もいました(笑)。
 
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 その後、盛岡駅から東北新幹線で帰りました。今回も充実した東北紀行でした。
 
これを読んで行ってみようという気になられる方がいらっしゃったり、あちらの方面に行かれる方のご参考になったりすれば幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月17日

大正4年(1915)の今日、上野精養軒で開かれた作家・歌人の平出修の追悼会に出席しました。
 
平出は与謝野鉄幹の新詩社同人。弁護士資格も持ち、幸徳秋水や管野スガなどのいわゆる「大逆事件」の弁護も務めました。前年のこの日に若くして亡くなっています。
 
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前列左から二人目が平出、後列左から二人目が光太郎、前列右端が鉄幹。明治37年(1904)の撮影です。

昨日は3.11。東日本大震災からまる3年が経ちました。
 
少し前から、各地で行われたイベントや、その報道などで光太郎智恵子に関わるものがあります。
 
当方は、銀座永井画廊さんで開催中の「高村智恵子紙絵展」に行って参りました。
 
永井画廊さんでは2012年以後、毎年3月に「被災地への祈りのメッセージ展」を開催していて、その一環です。更に昨日は関連行事として、光太郎の弟で鋳金の人間国宝・高村豊周の孫・朋美女史と、高村光太郎研究会員で、かつて群馬県立土屋文明記念文学館の学芸員だった佐藤浩美さんによるトークショーが行われました。

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トークショーの後、午後2時46分には、参会者による黙祷が捧げられました。
 
さて、一昨日のものですが、各地の地方紙の報道をご紹介します。 

東北と岐阜つながれ 岐阜市でイベント、黙とうも

 2014年03月10日 岐阜新聞
 東日本大震災をきっかけに、人とのつながり、支え合いを大切にしようと企画されたイベント「みんな友達!tunagari fes.2014」が9日、岐阜市金町の金公園で開かれ、大勢の人たちが触れ合いを楽しんだ。
 実行委員会(はやしちさこ代表)が開催し、5回目。手作りのお菓子や手芸品などの約120ブースが並び、家族連れらが出店者との会話を楽しみながら買い求めた。
 ステージイベントもあり、8グループが出演。関市のユニット「梅弦」は、震災で津波に流された松で作ったギターの演奏に合わせ、詩集「智恵子抄」を朗読した。
 地震発生時刻の2時46分には、来場者が黙とうをささげた。
 
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もう故郷に戻らない 「なみえ焼そば」店主決意

2014年3月10日 東京新聞
 東京電力福島第一原発事故のため全町避難を強いられている福島県浪江町。ご当地グルメ「なみえ焼そば」が全国的に脚光を浴びる中、町を離れて同県二本松市で営業を再開した「杉乃家」店主、芹川輝男さん(64)は、もう浪江町には戻らないと心に決めた。震災から三年。古里に帰らない選択をする被災者が、増えている。 (谷悠己)
 うどんのような極太麺にたっぷりのもやし、豚バラが中華鍋で「ジュジュッ」と音を立て、甘口の濃厚ソースと絡み合う。
 「浪江の人は年取ってても結構、大盛りを注文するんだ」。鍋を自在に操る芹川さんが話す。浪江町の仮役場がある二本松市は二千五百人の町民が暮らし、店は社交場となっている。
 芹川さんは原発事故後、家族で福島県内の避難所などを転々。釣り仲間だった二本松市の男性が空き店舗を探し、震災の四カ月後に店を再開できた。なみえ焼そばを作る店は町内に約二十店舗あったが、再開したのは杉乃家のみだ。
 以前の店では、東電社員や原発作業員も多かった。「町はずいぶん東電の世話になっていた。事故の賠償はしっかりしてほしいが、東電だけ責める気には今もなれない」。むしろ事故直後、関東の市民が「福島から電気が送られていたと初めて知った」と話していたことが悲しかった。
 浪江町の自宅兼店舗には盆や正月に一時帰宅する。室内のネズミが芹川さんと目線を合わせた後、一斉に姿を消す。部屋中が荒らされ、臭いがひどい。「あれを見たら、もう帰る気なくなるよ。悔しいけど、諦めがついた」。ずっと「浪江に帰りたい」と言っていた義父も二〇一二年六月に肺炎で亡くなった。
 昨年末に愛知県豊川市で開かれたB級グルメの祭典「B-1グランプリ」で、浪江の町おこし団体が作った焼きそばが優勝。それ以降、市外からも大勢の客が訪れる。「全てを失った後の再出発だから、今の方が楽しいかも。まだ仕事が見つからない避難者の人には言いづらいんだけど」
 店内には「がんばろう!浪江 ありがとう二本松」と書いた青地の横断幕を掲げる。青色は、美しかった浪江の海の色。そして、詩人・高村光太郎の妻智恵子が、二本松の生家から眺めて愛した安達太良(あだたら)山の空の色を重ね合わせた「故郷を離れた俺にとって、この街で長く店を続けることが生きる希望だからね」
 
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ちなみにこの店は、大山忠作美術館さんが入っている二本松駅前の市民交流センター1階にあり、当方もよく行く店です。
 
避難生活を続けられている方々はまだ26万人。事故を起こした福島第1原発はとても「コントロールされている」状態ではありません。大震災の記憶、まだまだ風化させるわけにはいきません。「被災」はいまだに続いています。
 
明日からまた東北レポートに戻ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月12日

文久3年(1863)の今日(旧暦ですが)、光太郎の曾祖父・中島富五郎が歿しました。
 
富五郎の父、長兵衛までは鳥取藩士だったとされています。富五郎の代から町人となり、浅草で魚屋などをやっており、富本節の素人名人だったとのこと。ところがその技倆を妬まれ、毒を盛られて半身不随に。それからは子供向けの玩具などを木工で作って生活していたそうです。光雲や光太郎に伝わる手先の器用さがここに見て取れます。

東京銀座からイベント情報です。

高村智恵子紙絵展

会 期 : 2014年3月3日(月)~20日(木) 日曜休廊
会 場 : 永井画廊 東京都中央区銀座4-10-6

出品作品
高村智恵子紙絵15点
「シンメトリー」「花」「はな」「魚」「魚」「洋梨」「柿とみかん」「鍋と小鉢」「のり筒」「くだものかご」「さつまいも」「ロールケーキ」「クリームケーキ」「スプーン」「教会(思い出のアトリエ)」
※いずれも昭和12年(1937)~同13年(1938) 「生誕130年彫刻家高村光太郎展」出品作
 
他に紙絵複製画40点
 
関連イベント
日 時 : 2014年3月11日(火)
 13:30~14:30 トークショー「智恵子を語る」
  高村朋美(高村規氏長女) 佐藤浩美(高村光太郎研究会)
 14:46~ 来場者とともに被災者へ黙祷
 15:00~ フォルクローレ演奏 ソンコ・マージュ
       高村智恵子へのオマージュ 祈りのメッセージ 等
 
 
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昨年、全国3館巡回で行われた「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に並んだ智恵子の紙絵のうち、15点が再び展示されます。永井画廊さんは、2012年以後、毎年3月に被災地への祈りのメッセージ展を開催していて、その一環です。そこで、3・11に関連イベント、というわけですね。
 
ちなみに永井画廊代表取締役の永井龍之介氏は、テレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」に、洋画系の鑑定士としてご出演なさっています。

 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月27日

昭和12年(1937)の今日、麹町のレストラン・ツクバで開催された親友・水野葉舟の小品集「村の無名氏」出版記念会発起人に名を連ねました。

昨日は、茨城は笠間に行って参りました。笠間といえば茨城県の中央部、笠間稲荷神社と陶芸の笠間焼で有名な街です。
 
一番の目的は映画鑑賞でした。他にも日動美術館というところに行って参りましたが、そちらは明日書きます。
 
当方が観てきた映画は、昨年、岡倉天心を主人公として製作され、全国各地で順次公開されている「天心」という映画です。ただ、大手配給会社によるものではないので、どこでも観られるわけではなく、当方生活圏内では公開されていません。昨年のうちに都内か横浜あたりで観ようと思っていたのですが、なかなか日程が合わず、昨日になってしまいました。
 
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岡倉天心といえば、明治新政府の文明開化政策の一環としての廃仏毀釈、西洋化による日本伝統文化の衰退を憂い、アーネスト・フェノロサともども仏教美術の保存に尽力した人物です。また、東京美術学校開設に奔走し、光雲を美校に招聘したほか、光太郎在学中には校長も務めていました。
 
昨年、福島二本松「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の「智恵子講座’13」で講師を務めさせていただき、その辺りに関して講義をいたしましたので、ぜひ観たいと思っておりました。
 
天心は美校辞職(罷免)後、日本美術院を創立、日本伝統美術の保護とさらなる進化に取り組みます。しかし、天心とその薫陶を受けた画家たち―横山大観ら―の新しい試みは「朦朧体」と揶揄されなかなか受け入れられず、現在の北茨城市五浦(いづら)に「都落ち」し、苦闘の日々を送りました。
 
その天心を主人公とした映画、というわけです。公式サイトはこちら
 
キャストは天心役が竹中直人さん、横山大観に中村獅童さん、菱田春草の平山浩行さん、下村観山で木下ほうかさん、木村武山を橋本一郎さん、狩野芳崖には温水洋一さんなど。
 
美術学校時代のシーンで、光太郎や光雲が登場するかと期待していたのですが、残念ながらそれはありませんでした。美校時代のエピソードは少なく、五浦に移ってからの苦闘の日々がメインだったので、いたしかたありません。
 
ところでこの映画、「復興支援映画」と謳っています。東日本大震災では、天心が建てた五浦の六角堂が津波に呑まれてしまうなど、茨城県にもかなりの被害がありました。同作品公式サイト内には以下の記述があります。
 
本作品は、明治にあって日本の美を「再発見」し、新しい美を生み出そうと苦闘する天心と 若き画家たち - 横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山 - らとの葛藤と師弟愛をテーマとして描くべく、今から3年ほど前に企画がスタートいたしました。
 
そして忘れもしない 2011年3月11日14時46分18秒「東日本大震災」が発生。千年に一度とされる大地震と津波は、多くの方々の「家」や「命」を奪い去りました。
 
茨城県でも沿岸部を中心に甚大な被害を受け、天心が思索に耽った北茨城市・五浦海岸の景勝地にある貴重な文化遺産の「六角堂」も流出、海中に消失しました。
 
主なロケ地である茨城県の被災に、本作品も一時は映画化を危ぶまれましたが、一日も早い 復興を願う県内の行政・大学・企業・美術界・市民団体などで構成される「天心」映画実行委員会 が発足し、本作品映画化のプロジェクトが再始動いたしました。
 
2013年には生誕150年・没後100年を迎える岡倉天心が終生愛した茨城の美しい自然を織り込んだ 映画「天心」は、茨城を日本をそして世界を「元気」にすることをめざします。
 
そんなわけで、渡辺裕之さん(九鬼隆一)、本田博太郎さん(船頭)、キタキマユさん(菱田春草の妻)など、茨城出身の俳優さんが多く出演なさっています。他には神楽坂恵さん、石黒賢さんなどなど。

当方が観に行ったのは、笠間市のショッピングセンター内の「ポレポレホール」。笠間は木村武山の故郷です。現在、関東で公開されているのはここだけのようで、ロビーには映画で実際に使われた小道具類が並んでいました。
 
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忘れ去られつつある伝統を継承しつつ、さらに新しい美を生み出そうと苦闘する登場人物たちの描写には感銘を受けました。特に肺を病んでの病床で「仁王捉鬼図」「悲母観音」を描き続けた狩野芳崖、失明の不安を抱え、さらに生活の困窮にさらされながら「賢首菩薩」の制作に取り組んだ菱田春草のエピソード。それぞれを演じた温水洋一さん、平山浩行さんの鬼気迫る演技は白眉でした。
 
そういう意味では光雲や光太郎も苦闘の時代が長く、相通じるものがあるように思いました。
 
少し不満だったのは、春草の「黒き猫」や「落葉」といった当方の大好きな作品が扱われなかったこと、それからなぜか天心の盟友として日本美術院創設に関わり、春草や大観の直接の師だった橋本雅邦がまったく登場しなかったこと。まぁ、いろいろ権利の問題等も絡むのかも知れませんが。
 
映画「天心」、大規模ではありませんが、全国で公開が続きます。ぜひご覧下さい。
 
明日は同じ笠間の日動美術館をレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月27日

昭和27年(1952)の今日、『毎日新聞』で評論「日本詩歌の特質」の連載が始まりました。

昨日は都内に出かけました。
 
まずは、上野の東京国立博物館平成館で15日に始まった「日本美術の祭典 人間国宝展―生み出された美、伝えゆくわざ―」を観て参りました。
 
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同館の資料館には調べ物で時々行くのですが、展示を見に行ったのは久しぶりでした。
 
ちなみに平成館のある一角は、大正6年(1917)から同11年(1922)まで、帝室博物館総長だった森鷗外の執務室があった区画だと言うことで、説明板があります。
 
さて、展示ですが、いわゆる「人間国宝」、正しくは重要無形文化財保持者のうち、工芸技術分野の歴代150余人の作品がずらっと並びました。どの作品をとっても、舌を巻くような技術、そして技術のみならず、この日本という国にはぐくまれた芸術性を感じさせるものばかりで、非常に見応えがありました。
 
光太郎の弟で、鋳金家だった豊周も人間国宝の一人、「鼎」が展示されていました。そしてその豊周の工房で主任を務めていた斎藤明氏の「蠟型吹分広口花器「北辛」」も。斎藤氏は連翹忌ご常連でしたが、昨秋に亡くなられました

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昨年の連翹忌にて、氏より「こんなものがあるんですが……」と、渡されたのが、平成9年(1997)に花巻で行われた第40回高村祭の記念講演「高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり」の講演筆録。各地に残る光太郎ブロンズ作品を実際に鋳造された経験が記されていました。一読して、美術史上、大変に貴重なものであると確信し、昨年10月に刊行した『光太郎資料40』に掲載させていただきました。
 
その直後に氏の訃報に接し、残念な思いでいっぱいでした。今回の展示も、存命作家の作品を集めたコーナーに並び、氏が昨秋亡くなった由、キャプションが追加されていました。
 
ちなみに氏の作品は、銅と真鍮、異なる金属を使っての鋳金です。その境界(といっても、継いであるわけではないのですが)の部分の微妙な味わいは、不可言の美を生み出しています。
 
画像は図録から採らせていただきました。この図録、2,300円もしましたが、300頁余で、近現代の日本工芸の粋がぎっしり詰まっており、観ていて飽きません。
 
実際の展示を観ながらもそう思ったのですが、光太郎と関連のあった人物で言えば、陶芸の濱田庄司、富本憲吉など、「この人も人間国宝だったんだ」という発見(当方の寡聞ぶりの表出ですが)もいろいろありました。
 
ところで人間国宝の制度ができて60年だそうで、もっと早くこの制度があったら、光雲やその門下の何人かは間違いなく選ばれていたでしょう。
 
光雲といえば、東京国立博物館には光雲の代表作の一つ、「老猿」も収蔵されています。ただ、展示替えがあるので常設展示ではなく、昨日は並んでいるかなと思い、本館にも寄りましたが、残念ながら並んでいませんでした。
 
そういうわけで国立博物館を後にし、その後、池袋に向かいました。過日のブログでご紹介したイラストレーターの河合美穂さんの個展「線とわたし」を観るためです。

こちらの会場は要町のマルプギャラリー。普通の民家と見まごう建物で、すぐに見つかりませんでした。
 
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中に入ると、やはり普通の民家を改装007してギャラリーにしてある風で、玄関で靴を脱いであがる様式でした。展示スペースは5坪ほどでしょうか、ペンと水彩を中心にしたかわいらしい作品が20点ほど掛かっていました。
 
宮澤賢治や中原中也へのオマージュ的なイラストに混じって、光太郎の「梅酒」をモチーフにした作品が一点。琥珀色の梅酒で満たされたガラス瓶の周りに微妙な色のグラデーションで描かれた梅の実が三つ。詩の中の「早春の夜ふけの寒いとき」のイメージでしょうか、背景の一部に使われた群青色もいい感じでした。
 
受付に賢治の「銀河鉄道の夜」による作品のポストカード的なものがあり、一枚、頂戴して参りました。これもあたたかみのあるいい絵ですね。「梅酒」のイラストもポストカード的なものにしてくださってあればなおよかったのですが……。
 
さて、賢治、光太郎と来れば花巻。今日から1泊2日で花巻方面に行って参ります。途中で福島市に寄り、調べ物。午后には花巻に入り、花巻市立博物館の企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」を観て参ります。
 
それからもちろん、この冬から通年開館となった郊外旧太田村の新装高村光太郎記念館にも行きます。この季節に訪れるのは初めてで、どれほど厳しい環境なのか、確かめて参ります。
 
定宿の大沢温泉さんがとれず、今回はさらに奥地で、やはり光太郎が何度か訪れた鉛温泉さんに宿を取りました。詳しくは帰ってからレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補008遺】 1月18日

平成16年(2004)の今日、角川春樹事務所刊行の「ハルキ文庫」の一冊として「高村光太郎詩集」が上梓されました。
 
解説は詩人の瀬尾育生さん。歌人の道浦母都子さんのエッセイ「七.五坪の光と影」も収録されています。「七.五坪」とは、旧太田村の光太郎が七年暮らした山小屋ですね。
 
最近は売れっ子作家の小説などが文庫書き下ろしで続々刊行されていますが、こうした古典的な作品も、文庫のラインナップとして残していって欲しいものです。
 
帯には「道程」の一節が印刷されていますね。しつこいようですが、今年は「道程」執筆100周年、詩集『道程』刊行100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年です。

たまたまネット検索で見つけました。 イラストレーターの方の個展です。

「線とわたし」 河合美穂展007

場所:マルプギャラリー 東京都豊島区池袋3-18-5

2014年1月6日(月)〜31日(金) 10:00~19:00
※初日、14:00より。※最終日は、17:00まで。
休廊日:土、日、祝日
 
特別開廊日
11日(土) 13:00~17:00(お茶会)
19日(日) 13:00~17:00 25日(土)  同
 
作者のメッセージ
 
憧れのマルプギャラリーで、イラストレーターになってから初めての個展をさせて頂きます。
お茶会はささやかな飲み物などをご用意させて頂く予定ですので、どなた様もお気軽にいらして下さい。どうぞよろしくお願い致します。
 
今回の展示では、智恵子抄の一節を絵にしたものがあります。実は私、大の光太郎と智恵子ファン。
智恵子抄は、初版本と智恵子の記念館近くで買った絶版と3冊も持っている位で、智恵子の紙絵も大好きで4~5冊はあるでしょうか。私の中の究極の愛の形です。
 
また、今回宮沢賢治を題材としたものが多くありますが、高村光太郎と宮沢賢治は深い関係があったようで、私も嬉しくなりました。
ギャラリーでかけて頂く音楽は、銀河鉄道の夜のアニメで使われた細野晴臣さんの素晴らしいサントラです。
 寒い季節ですが、皆様どうぞお出かけ下さいませ。

 
このブログで同じことをよく書いていますが、いろいろな方が様々な分野で光太郎智恵子の世界を取り上げて下さっています。こうした絵画などの造型作品、演劇、音楽、朗読、文筆作品、書、などなど。非常にありがたいかぎりです。
 
時間を見つけて行ってみたいと思っております。みなさんもどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月10日

昭和51年(1976)の今日、高村光太郎研究会が発足しました。
 
前身は光太郎と交流のあった詩人、故・風間光作氏が立ち上げた「高村光太郎詩の会」。
 
その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、斯界の権威、北川太一先生を顧問に頂き、年に一度、研究発表会を行っている他、雑誌『高村光太郎研究』を年刊で出しています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏です。当方も加入しております。
 
光太郎・智恵子について研究したい、という方は是非ご参加ください。ご連絡いただければ仲介いたします。

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というわけで、平成26年(2014)となりました。
 
上記画像にもあるとおり、今年は大正3年(1914)の詩集『道程』刊行、そして光太郎智恵子の結婚披露から数えて100周年です。それらを軸に顕彰活動を展開して参りますので、よろしくお願いいたします。
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月1日

昭和25年(1950)の今日、『読売新聞』に詩「この年」が掲載されました。
 
  この年005
 
日の丸の旗を立てようと思ふ。
わたくしの日の丸は原稿紙。
原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
あかいまんまるを描くだけだ。
それをのりで棒のさきにはり、
入口のつもつた雪にさすだけだ。
だがたつた一枚の日の丸で、
パリにもロンドンにもワシントンにも
モスクワにも北京にも来る新年と
はつきり同じ新年がここに来る。
人類がかかげる一つの意慾。
何と烈しい人類の已みがたい意慾が
ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。
 
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雪に覆われた光太郎居住の山小屋(高村山荘)
 
その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。
 
老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」とたたえねばならなかった日本。
 
そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。
 
さて、昨年のこのブログで、365日、【今日は何の日・光太郎】を書き続けました。年月日の特定できる主な事象はあらかた書き尽くしました。
 
とはいうものの、時には大きな出来事が見あたらず、日常の些細な出来事を記したり、光太郎生誕以前や歿後のことを書いたりした日も多くありました。しかし、逆にたまたま年が違う同じ日に重要な事象が重なっている日もあり、その一方は泣く泣く割愛しました。
 
そこで、【今日は何の日・光太郎 補遺】。もう一年、続けてみようと思っています。お楽しみに。

昨日の続きで、福島二本松の大山忠作美術館での「五星山」展、関連行事としての有馬稲子さん・一色采子さんのトークショーについてです。
 
今日の『福島民報』さんに記事が載りました。

女優有馬さん招きトークショー 二本松

 福島県二本松市の大山忠作美術館で開催している「五星山展」を記念した女優有馬稲子さんのトークショーは4日、同美術館がある市民交流センターで開かれた。

 同展PR委員会の主催。同市出身の日本画家、大山忠作氏の長女で女優の采子さん(同展実行委員長)との対談形式で進められた。有馬さんは、同展に出品されている大山氏の「智恵子に扮する有馬稲子像」の制作秘話を語った。

 モデルになるよう大山氏から熱心に働き掛けられた。舞台公演が重なり多忙な中、30分だけ時間が取れた。貞淑でおとなしい智恵子をイメージして大山氏と向き合った。

 「こんな素晴らしい絵に仕上げてもらい、感謝している。私が死んでも作品はずっと残る。これからもこの絵を愛してほしい」と詰め掛けた観客約180人に語り掛けた。「本当にいい絵ばかり。日本中で開いた方がいい」と展覧会の印象を話した。

 五星山展は17日まで。大山氏をはじめ東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造各氏ら文化勲章受章者5人の作品35点を展示している。
 
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時に昭和51年9月。有馬さんは新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の最中。昼の部は榎本滋民脚本「富貴楼お倉」、夜の部が北條秀司脚本「智恵子抄」でした。
 
昼の部と夜の部の間に衣装を替えたり、食事を取ったりというわけですが、その時間は余り長くなかったそうです。その短い時間でいいから、ということで大山忠作画伯に請われ、劇場舞台裏の廊下で椅子に座り、ポーズをなさったとのこと。大山画伯はものの30分でスケッチをなさり、写真も撮られたそうですが、それがこの「大作になったとのこと。
 
背景は安達太良山、そしてその下に広がるススキ野原ですが、これは舞台の背景というわけではなく、故郷・二本松を思い描いての画伯の心象風景だということです。
 
造型作家の制作過程、ということで、ひとつ興味深いエピソードでした。
 
ちなみに上の画像は「五星山」展図録。トークショー終了後に有馬さんに連翹忌の営業を敢行、どさくさに紛れてサインをいただきました。
 
大山画伯のご長女・一色采子さんにも。
 
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こちらの絵は題して「童女」。モデルは一色さんです。対象を捉える暖かい眼差しが感じられますね。
 
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こちらが図録の表紙です。以前も書きましたが題字は片岡鶴太郎さんの揮毫。「文化勲章受章画伯による心の復興支援」。いいキャッチフレーズですね。
 
「五星山」展は17日(日)まで開催されています。
 
話は変わりますが、東北楽天ゴールデンイーグルスが日本シリーズを制し、みごと日本一に輝きました。闘将・星野監督、試合後のインタビューで「まだまだ被災者の皆さんは苦労し ているので、すずめの涙でも癒やしてあげられたらと思っていた。」とおっしゃっていました。これも立派な「心の復興支援」だったと思います。
 
がんばれ、東北。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月5日

昭和17年(1942)の今日、日比谷公会堂で舞踊家・石井漠の舞踊生活30周年記念公演として、光太郎の詩「地理の書」による新作舞踊が発表されました。
 
作曲・石井五郎、朗読・南部邦彦、合唱・玉川学園合唱隊、石垣蓉子、李彩娥ら10人の踊り手によって演じられたそうです。
 
この時のチラシ、プログラム類を探していますが見つかりません。情報を求めます。

今日は福島二本松の大山忠作美術館に行って参りました。
 
10月12日より、同館にて「五星山展」が開催されています。過日もこのブログでご紹介しましたが、大山忠作氏は二本松出身の日本画家。その歿(平成21年=2009)後にご遺族から多くの作品が二本松市に寄贈され、市では二本松駅前の市民交流センター3階に大山忠作美術館をオープンさせました。
 
「五星山」展は、「文化勲章受章画伯による心の復興支援」というサブタイトルで、東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造、そして大山忠作と、「山」のつく五人の日本画家の作品が集められた企画展です。
 
その関連行事として、今日は女優の有馬稲子さんと一色采子さんのトークショーが行われました。
 
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有馬さんは大山忠作の代表作の一つ、「智恵子に扮する有馬稲子像」のモデルを昭和51年(1976)に務められたということでのご登場。一色さんは大山忠作のお嬢さんです。
 
開場30分前に市民交流センターに着いたら、やはり大女優のお出ましということで、既に長蛇の列でした。笑ったのは、「智恵子に扮する有馬稲子像」を使った顔ハメが設置されていたこと。「ここまでやるか」と思いました。
 
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午後二時、トークショーが始まりました。まずは有馬さんによる智恵子の姪・宮崎春子の回想「紙絵のおもいで」、光太郎詩「あどけない話」「樹下の二人」の朗読から。その後は一色さんが聞き手となり、「智恵子に扮する有馬稲子像」のモデルを務められた時の思い出や、舞台「智恵子抄」で智恵子を演じられた時の思い出などを有馬さんが話されました。
 
その他にも健康法や震災後の復興支援にも話が及び、あっという間の約1時間でした。
 
有馬さんは「五星山」展をぜひ全国巡回で、とおっしゃっていました。確かに二本松だけではもったいない展覧会です。実現してほしいものですね。
 
一色さんのお話では、既に「五星山」展での入館者が1万人を超えたとのこと。同展のキャッチコピーのひとつに「展覧会へ行くという復興支援がある」というものもあります。まさしくその通り。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月4日

昭和17年(1942)の今日、大東亜文学者会議に出席しました。

山梨レポートの2回目です。
 
山梨県立文学館さんの「与謝野晶子展」に行く前に、寄り道をしました。目的地は笛吹市立青楓美術館さん。中央高速を勝沼インターで下り、10分程のところにあります。
 
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津田青楓(せいふう)は光太郎より3歳年上の画家。光太郎同様、パリに留学し、そこで光太郎と知り合って、一時は光太郎と親密な付き合いがありました。筑摩書房の『高村光太郎全集』第11巻と第19巻には光太郎の俳句が多数収録されていますが、その中のかなりの部分が津田に宛てて書かれた書簡から採録されたものです。
 
話は変わりますが、JR東日本さんで運営している「大人の休日倶楽部」という会員組織があります。吉永小百合さんご出演のTVコマーシャルをご記憶の方も多いのではないでしょうか。入会すると期間限定の会員限定割引きっぷなどの特典があります。
 
その「大人の休日倶楽部」の会員向けの雑誌に「大人の休日倶楽部ミドル」「大人の休日倶楽部ジパング」という2種類があるそうです。その2誌共通の連載で「一枚の手紙から」というコラムがあり、毎回、近代の文学者が書いた手紙を一通ずつ紹介しています。ちなみに9月号は樋口一葉から半井桃水宛、10月号は堀辰雄から婚約者の多恵子宛、11月号は有島武郎から木田金次郎宛のものです。
 
そして12月号では、光太郎から津田青楓宛の葉書が扱われることになっています。実物は花巻の高村記念会さんで所蔵しているものです。先日、実際に執筆されるライターさんに、当方自宅兼事務所に来ていただき、その葉書の書かれた背景について取材を受けました。くわしくは12月号が世に出てからまた書きます。
 
青楓宛の書簡類は『高村光太郎全集』に9通掲載されていますが、それ以外にもまだまだありそうです。実際、今度の葉書も『全集』未収録。花巻の記念会では東京の古書店から入手したとのことです。また、数年前には、現在北海道にある葉書の情報を得、当方執筆の「光太郎遺珠」に掲載させていただきました。
 
そこで、山梨の青楓美術館にも、もしかしたらあるかも知れないと思い、立ち寄った次第です。
 
結果として、そういったものは所蔵されていませんでしたが、青楓の画業の一端に触れることができ、有意義でした。青楓は与謝野晶子とも交流があり、青楓が絵を描き、晶子が短歌を書いた作品や、青楓が装幀を手がけた晶子歌集の装幀原画なども並んでおり、これから与謝野晶子展を観に行く上で予習にもなりました。他にも夏目漱石や本郷新、伊上凡骨など、光太郎と縁のある人物に関わる展示もあり、興味深く拝見しました。
 
今年は、東京芸術大学美術館で開催された「夏目漱石の美術世界展」に所蔵作品を3点ほど貸し出したとのこと。それらの作品にはそういうキャプションが附けられており、さながら凱旋帰国したかのようでした。
 
山梨と言えば富士山。2階の展示室には、世界文化遺産登録を記念して、青楓が富士山を描いた作品を集めていました。
 
ところで、青楓美術館。もともとは青楓と親交のあった当地出身の個人が開設した美術館だそうです。その後、旧一宮町に経営が引き継がれ、市町村合併で笛吹市が誕生し、現在に至っています。その間、閉館の危機にも見舞われたそうですが、入館者数の増加に向けた取り組みが効果を上げ、存続しています。
 
同館パンフレットの表紙には「ぶどう畑の中にある小さな小さな宝箱!!」のキャッチコピー。ある意味、開き直っていますが(笑)、実際その通りで、大きな街道沿いではなく、小さな路地を入っていったぶどう畑の中に建っています。
 
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しかし「山椒は小粒でぴりりと辛い」。いい所です。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月26日

明治39年(1906)の今日、日本女子大学校で、多くの皇族方を迎え、「秋期文芸会」が催されました。演劇も上演され、舞台の背景(大道具)は智恵子が描いたということです。

このブログに何度もご登場いただいている、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行された 坂本富江さんからご案内を戴きました。
 
今度は坂本さんの故郷、山梨県韮崎市の市立図書館で『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の原画展と講演会だそうです。 

追体験! スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 講演会&原画展

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プレ原画展 2013年11月9日(土)~11月9日(土)
原画展・講演会 2013年11月16日(土) 15:15~16:45
場所:韮崎市立図書館
入場無料
定員30名(申し込み先着順) tel 0551-22-4946(韮崎市立図書館)
 
山梨では先に紹介した甲府の山梨県立文学館で「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催しています。
 
また、下記【今日は何の日・光太郎】でふれている「うつくしきものみつ」の碑が甲府の南、富士川町にあります。
 
秋の行楽シーズン、ぜひ山梨にもお出かけ下さい。
 

【今日は何の日・光太郎】 10月14日010

昭和17年(1942)の今日、山梨県南巨摩郡穂積村字上高下(かみたかおり)-現・富士川町の井上くまを訪問しました。
 
この年発足し、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会の事業で、黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「日本の母」を顕彰する運動の一環です。
 
軍人援護会の協力の下、各道府県・植民地の樺太から一人ずつ(東京府のみ2人)「日本の母」が選考され、光太郎をはじめ、当代一流の文学者がそれぞれを訪問、そのレポートが『読売報知新聞』に連載されました。さらに翌年には『日本の母』として一冊にまとめられ、刊行されています。
 
井上くまは、女手一つで2人の息子を育て、うち1人は光太郎が訪ねた時点で既に戦病死、しかしそれを誇りとする、この当時の典型的な『日本の母』でした。
 
光太郎はまた、『読売報知新聞』のレポート以外にも、くまをモデルに詩「山道のをばさん」という詩も書いています。
 
昭和62年(1987)には、光太郎が上高下を訪れたことを記念して、光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句を刻んだ碑が建てられました。
 
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最近、ある高名な芸術家のブログで、この碑の文言を「うつくしきもの三つ」と書いていますが誤りです。光太郎は仮名書きで文字を書く際、変体仮名的に「み」を「ミ」と書くことが多く(「おてがミ」など)、これもその例です。「みつ」は「満つ」。「満ちる」の古語ですね。
 
山梨と言えば富士山。この碑のある場所から見える富士山は本当に見事です。特に冬至の前後には「ダイヤモンド富士」といって富士山の山頂部と日の出の太陽が重なる現象が見られるそうです。

日本経済新聞社さんの関連会社・日経BPさん刊行の月刊誌『日経おとなのOFF』。今月発売の11月号に、光太郎智恵子関連の記事がありますのでご紹介します。
 
まず書家・木下真理子さんによる連載「木下真理子の大人の書道塾」。
 
光太郎が戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋に暮らしていた頃の書「吾山のうた」を紹介して下さっています。
 
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書かれている文言は短歌です。
 
吾山になかれ無題1
てやまぬ山ミ
つのやミかた
くして道は
ゆくなり
 
わかりやすく表記すると、
 
吾山に 流れてやまぬ 山水の
やみがたくして 道はゆくなり
 
となります。
 
中国の古碑の拓本を愛した光太郎の書は、木下さん曰く「単に文人の書といって片づけられるものではありません。」「彫るような感覚で書作していた」「光と影によって浮き彫りになった「文字という彫刻」を見ていたはずです。」。
 
いちいちごもっともです。
 
戦後の光太郎は十和田湖畔の裸婦像を手がける昭和27年(1952)まで彫刻を封印、その代わり、というわけではありませんが、多くの書作品を残しました。
 
それら戦後の書作品、今回紹介された短歌の揮毫もそうですが、今年5月にリニューアルされた花巻の高村光太郎記念館にたくさん収められています。昨年いただいたリストに依れば毛筆の書作品が40点ほど、ペン書きの草稿等も同じくらい、その他書簡類もあります。一部は記念館で展示されていますが、数が多いため、全ては並んでいません。
 
美術館・文学館等での企画展、今回のようなメディアでの利用など、出来る限り協力して下さるとのこと。「死蔵」にしないためにも、皆さんにどんどん活用していただきたいものです。
 
さて、『日経おとなのOFF』。明日開幕する福島二本松の大山忠作美術館での「五星山展」の紹介記事も載っていました。
 
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ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月11日

明治23年(1890)の今日、光雲が帝室技芸員に任命されました。
 
元々町の仏師だった光雲は、明治維新からしばらくの間は、廃仏毀釈のあおりで注文が激減、その日暮らしを続けていました。光太郎が生まれた明治16年(1883)ころは、最も苦しい時期。それが明治20年(1887)の皇居造営で装飾彫刻を担当した頃から境遇が激変、同22年(1889)には東京美術学校に奉職、そして123年前の今日、帝室技芸員に任ぜられ、「巨匠」への道を歩んでいくこととなります。

福島は二本松から、近々行われるイベント情報の情報を2件紹介します。

五星山展記念しトークショー

10月12日から二本松市の大山忠作美術館で011開かれる5人の文化勲章受章画伯による心の復興支援「五星山展」を記念し、タレントの片岡鶴太郎さんと女優有馬稲子さんのトークショーが開催される。

 片岡さんは10月19日に登場する。画家としても知られる片岡さんは「五星山展」の題字を書いた。公開される5人の巨匠とその作品への思い、自身の創作などについて語る。

 有馬さんは11月4日に出演する。大山氏の代表作「智恵子に扮する有馬稲子像」のモデルとしての制作秘話や高村智恵子を演じた思い出を、大山氏の長女の女優一色采子さんとの対談形式で語る。
 会場は美術館が併設されている市民交流センター1階多目的室。時間はいずれも午後2時から。チケットは2000円(展覧会入館料込み)で各150席限定。主催する「五星山展」PR委員会はチケットを今月24日午前9時半から市民交流センターと事務局の岳温泉観光協会で直接販売する(電話予約は不可)。問い合わせは同協会 電話0243(24)2310へ。

 「五星山展」は日本画壇を代表する大山氏をはじめ東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造各氏(いずれも故人)の作品を一堂に展示する。11月17日まで。入館料は一般400円、高校生以下200円。
(福島民報社)
 
二本松駅前の市民交流センター内にある大山忠作美術館で行われる企画展「五星山展」の関連行事です。
 
昭和51年(1976)、新橋演舞場での公演「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」で、北條秀司作「智恵子抄」の際に智恵子役を演じた有馬稲子さん。二本松出身の大山忠作画伯が、その有馬さんをモデルに「智恵子に扮する有馬稲子像」を描きました。そのあたりのお話が聞けそうです。
 
もう一件。6月に当方が講師を務めさせていただいた「智恵子講座’13」の第4回があります。

智恵子講座’13 「ロダンと荻原碌山」 

日 時  10月14日(月・祝) 10:00~
会 場  二本松市市民交流センター
講 師  久慈伸一さん(福島県立美術館学芸員)
参加費 1,000円
申し込み 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷さん TEL/FAX 0243-23-6743

 
二本松。町おこし、震災からの復興といった意味合いでもこうしたイベントで盛り上がってほしいものですね。関係者各位のご努力に頭が下がります。
 
 
【今日は何の日・光太郎】 9月25日003

昭和30年(1955)の今日、NHKラジオ放送のため、草野心平との対談「芸術よもやま話」が録音されました。
 
オンエアは10月18日と25日。
 
この時の音源を用いて、平成2年に『NHKカセットブック 肉声できく昭和の証言 作家編6』が発行されました。カセットテープです。
 
光太郎の肉声が聴けるとあって、貴重なものです。光太郎、なかなかいい声です(笑)。
 
こうした録音資料、昭和から平成の初めころには何種類か発行されています。明日はそのあたりを紹介してみようかと思っています。

昨日の続きです。
 
南品川ゼームス坂病院で智恵子が息を引き取ったのは、昭和13年(1938)10月5日。その当日まで、光太郎は5ヶ月間、智恵子を見舞いませんでした。
 
この五ヶ月の空白を巡り、昨日紹介したような手厳しい意見があるのはある意味仕方がないでしょう。
 
しかし、光太郎を擁護するわけではありませんが、光太郎自身は次のように述べていますので、ご紹介します。
 
チヱ子をも両三度訪ねましたが、あまり家人に会うのはいけないとお医者さんがいうので面会はなるたけ遠慮しています。
昭和10年(1935)3月12日 中原綾子宛書簡
 
これを裏付けるように、智恵子の付き添い看護にあたった姪の宮崎春子の回想にも次の一節があります。
 
はじめは、身内の看護はかえつていけないからというわけで、試験的につけるということであつたが、たいへん結果が良かつたので、院長先生はじめ伯父も喜んでくれ、「春子さんについてもらつて安心した」と言つてくれた。
(「紙絵のおもいで」宮崎春子 『高村光太郎と智恵子』草野心平編所収 昭和34年(1959) 筑摩書房)
 
要するに病院の方針、というわけです。
 
しかし、五ヶ月はあまりに長い……。
 
結局、答えは見つかりません。
 
この点について先哲諸氏はどう捉えているのか、いくつかご紹介します。
 
五ヶ月もの長い間、光太郎が智恵子を見舞いに訪れなかったのは、理解に苦しむところです。智恵子を興奮させないようにとの配慮からであったのか、それとも心の交流が不可能なほどに智恵子の人格荒廃が進行していたのか、今となっては確かめるすべもありません。
(『智恵子抄の光と影』 上杉省和 平成11年(1999) 大修館書店)
 
この五ヶ月の空白を、人は光太郎の愛の在り方を含めて、様々に詮索します。病状は刻々春子から報じられたに違いありません。五月の母の訪問が、智恵子にどんな結果をもたらしたか。光太郎が案じていた智恵子の興奮がどんな風に起こり、どんなふうに続き、それが結核の昂進もふくめて、どんな重篤な症状を引き起こしかねなかったのか。この時期にも医師は近親者の来院を押さえたのか。危篤は突然に起こったのか。実際の病状の変遷が記録されていない以上、恣意な想像は無意味でしかありません。
『智恵子相聞-生涯と紙絵-』 北川太一 平成16年(2004) 蒼史社)
 
結局、無理に答えを見つける必要もないのかもしれません。
 
繰り返しますが、南品川ゼームス坂病院で智恵子が息を引き取ったのは、昭和13年(1938)10月5日。その日の様子を光太郎は次のように記します。
 
百を以て数へる枚数の彼女の作つた切紙絵は、まつたく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛隣の情の訴でもある。(略)最後の日其をひとまとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑ふ表情をした。すつかり安心した表情であつた。私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。
(「智恵子の半生」 昭和15年(1940))
 
「其をひとまとめに自分で整理して置いたもの」の中に、例の「くだものかご」の紙絵も入っていたわけです。あらためてそれを見た光太郎の胸中はいかばかりか……。
 
そう考えると、「これは何の果物だろう」などと、脳天気に見ることはできない作品なのです。
 
さて、その後、太平洋戦争000が勃発。昭和20年(1945)4月には、駒込林町の光太郎アトリエは空襲で焼け落ち、多くの彫刻作品は灰燼に帰しました。
 
しかし、智恵子の残した紙絵は、そうなることを予想していた光太郎の機転で、花巻、茨城取手、山形の三カ所に分けて疎開させており、無事でした。自身の彫刻は焼けるに任せた光太郎も、智恵子の紙絵は事前に保護策を講じていたのです。そのおかげで、現代の我々も、智恵子遺作の紙絵を実際に見ることができるわけです。
 
こうした点も踏まえ、「五ヶ月の空白」の意味を捉えることも重要なのではないかと思われます。
 
そして、こうした点を踏まえ、皆さんには智恵子の紙絵の本物を見ていただきたいと思います。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、千葉市美術館さんでは8/18(日)まで。8/30(金)から、岡山県井原市田中美術館さん。その後、11月には愛知県碧南市藤井達吉美術館さんへと巡回されます。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月31日

昭和29年(1954)の今日、映画会社・新東宝が『智恵子抄』映画化を光太郎に申し入れましたが、断っています。

昨日、千葉市美術館に行って参りました。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、三度目の観覧です。6/29(土)、オープン初日、関係者によるオープニングレセプションがあり、一度。7/7(日)、当方も喋った関連行事の講演会があり、一度。そして昨日は講演会の日等にいらっしゃれなかった元群馬県立文学館の学芸員の方がいらっしゃるということで、ご案内いたしました。何度見てもいいものです。
 
昨日は特に智恵子の紙絵をしっかり観ました。先日のこのブログでご紹介しましたが、『日本経済新聞』さんのサイトで今回展示されている紙絵に触れており、自分の中で答えの出ていない問題がクローズアップされてきたためです。
 
『日経』さんで取り上げているのは「くだものかご」と題された紙絵です。
 
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高村智恵子「くだものかご」 二玄社『智恵子紙絵の美術館』より
 
籠の上にあるのは何の果物だろう。スイカ、桃、マクワウリ、メロン…。柔らかで微妙な色合いが想像を膨らませる。1枚の紙からつくられた果物は、丸いフォルムと切り口のシャープさが目を引く。醸し出すのは鮮烈な存在感。一つ一つの果物に注がれた、優しくも鋭い智恵子のまなざしのまなざしまで目に浮かんでくるようだ。さて、あなたはどう見ますか。

 
しかし、ある意味、この紙絵は「何の果物かな」と脳天気に見られるものではないのです。
 
ご存じない方のために概略を書きますと、昭和6年(1931)、光太郎が三陸旅行中に智恵子が統合失調症を発症し(もっと早くに発症していたという説もありますが)、翌年には自殺未遂、同9年(1934)には九十九里にいた妹夫婦(智恵子の母・センも身を寄せていました)のもとに転地療養、しかし病状は悪化、同10年(1935)に南品川のゼームス坂病院に入院します。一連の紙絵は入院中、おそらく同12年(1937)から13年(1938)にかけて制作されたようです。そして智恵子の死は13年10月。直接の死因は肺結核でした。
 
さて、果物かごといえば、かつては病気見舞いの定番でした。では、この果物かごは光太郎が持参したものなのでしょうか。しかし、残念ながらどうもそうではないようなのです。
 
毎週一回か二回、かならず伯父さまのいいつけで銀座の千疋屋から季節の果物、それに鉢植えの花を届けられた。化粧籠に盛られたすばらしいゴールデン・デリシヤス、水々しいアレキサンドリア、さまざまな名も知らぬみごとな蘭花、シクラメン、ゼラニユームのいくつもの鉢、ざくろの木、等々。神田の万惣からも西瓜やりんごなど届いた。それを室内に運び入れた時の伯母の嬉しそうな優しい表情がわすれられない。一番の楽しみはこの伯父さまよりの贈物であつた。
(「紙絵のおもいで」宮崎春子 『高村光太郎と智恵子』草野心平編所収 昭和34年(1959) 筑摩書房)
 
宮崎春子は智恵子の姪。看護婦資格を持ち、ゼームス坂病院入院後に智恵子の付き添いとなりました。
 
「一番の楽しみはこの伯父さまよりの贈物であつた。」とありますが、一番の楽しみは光太郎本人の見舞いではなく、こうして「届けられた見舞品」だったというのです。
 
光太郎、実はあまりゼームス坂病院に足を向けませんでした。智恵子が亡くなった日には枕元にいましたが、なんとそれが五ヶ月ぶりの来院でした。
 
今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどい様です、 もし万一の場合は電報為替で汽車賃等をお送りしますゆゑ、其節は御上京なし下さい、 うまく又恢復してくれればいいと念じてゐます、 
(智恵子の母・セン宛光太郎書簡)
 
智恵子が九十九里で療養していた頃は、毎週のように見舞いに訪れていた光太郎が、なぜ同じ東京で五ヶ月も智恵子を見舞わなかったのでしょうか。しかも結核は重篤で、五ヶ月ぶりに見舞ったその日に智恵子は亡くなったのです。
 
この点を手厳しく批判する向きもあります。
 
すでに「人間界の切符を持たない」古女房をそう足しげく見舞えという方が無理かもしれない。だが、『智恵子抄』を純愛詩集として読む人は、それが五ヶ月も妻を病院に放ったらかしにしていた男の手になるものだということを忘れないほうがいい。
(『詩人の妻 高村智恵子ノート』 郷原宏 昭和58年(1983) 未来社)
 
智恵子「東京市民よ、集まれ! 今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどいさまです……五ヶ月ぶりで智恵子にあひました、五ヶ月ぶりで智恵子にあひました、五ヶ月ぶりで智恵子にあひました。遠隔の九十九里浜まで、かつては毎週一回出かけていた光太郎が、同じ東京の南品川の病院にいる智恵子を五ヶ月間も見舞っていなかったのであります。智恵子抄という類い希なる純愛詩集が、最後、五ヶ月も妻を病院にほったらかしにしたオトコの手になるものだということをわすれないでいただきたい。東京市民よ!  これは智恵子抄への売り言葉なのであります。その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! (略) そして五ヶ月ぶりにやってきた光太郎の目の前で智恵子は、すなわち私は死んでいくのであります。けれども、詩人によればこんな私でさえもこんなにも、綺麗に死なせてくれたのであります。
智恵子抄 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白く明るい死の床で (略) 」
(「売り言葉」 『二十一世紀最初の戯曲集』野田秀樹 平成15年(2003) 新潮社)
 
長くなりましたので、続きは明日。すみません。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月30日

昭和26年(1951)の今日、雑誌『日曜日』掲載のため、文学を愛好した精神科医・式場隆三郎と対談しました。

千葉市美術館で開催中の企画展「生誕130年 彫刻科高村光太郎展」。おかげさまで好評をいただいているようです。
 
新聞各紙などでもご紹介くださっています。
 
『朝日新聞』さんのサイト【朝日新聞デジタル】で、「彫刻家・高村光太郎展」という記事が載っています。ただし、全文を見るには会員登録が必要です。
 
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また、『日本経済新聞』さんのサイトでは、「アートレビュー」というコーナーで「高村智恵子「くだものかご」」という記事が閲覧できます。
 
企画展「生誕130年 彫刻科高村光太郎展」では、智恵子の紙絵の本物が展示されており、それを受けての掲載ですね。
 
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高村智恵子「くだものかご」 二玄社『智恵子紙絵の美術館』より
 
籠の上にあるのは何の果物だろう。スイカ、桃、マクワウリ、メロン…。柔らかで微妙な色合いが想像を膨らませる。1枚の紙からつくられた果物は、丸いフォルムと切り口のシャープさが目を引く。醸し出すのは鮮烈な存在感。一つ一つの果物に注がれた、優しくも鋭い智恵子のまなざしのまなざしまで目に浮かんでくるようだ。さて、あなたはどう見ますか。
 
「あなたはどう見ますか。」と問いかけていますが、『日経』さんではその答えを募集しています。
 
日本経済新聞朝刊「NIKKEI ART REVIEW」に読者の感想や専門家のひのひと言を掲載します。作品の感想は、〒100-8779 日本郵便銀局留め日本経済新聞社 生活情報部「アートレビュー」係、またはart-review@nex.nikkei.co.jpまで、名前、住所、職業、生年月日を記載の上、お寄せください。掲載者には図書カード2000円分を郵送します。応募締め切りは2013年7月22日到着分まで。
 
2000円めあてに当方も応募してみようと思っています(笑)。みなさんもいかがですか?
 
【今日は何の日・光太郎】 7月12日

明治22年(1889)の今日、光雲が東京美術学校教諭に昇進しました。
 
それまで「雇(やとい)」だったのが「教諭」に。さらに翌年には「教授」となり、同時に帝室技芸員にも任ぜられます。

昨夜、居住地域から夜行バスに乗って、京都に行って参りました。
 
京都国立近代美術館で開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観るためです。帰りは新幹線を使い、先ほど帰って参りました。
 
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今月初めのこのブログでご紹介しましたが、光太郎の水彩画とされる作品が一点、出品されています。光太郎顕彰の世界ではその存在が知られていなかったものです。
 
芝川照吉(明治4=1871~大正12=1923)は、企画展の副題にもあるとおり、青木繁や岸田劉生を援助した実業家で、そのコレクション総数は1,000点以上だったそうです。しかし、関東大震災や、没後の売り立て(競売)で散逸、最後に残った180点ほどが京都国立近代美術館に寄贈されました。今回の展覧会はそれを中心に、関連作品をまじえて構成されています。
 
絵画以外にも工芸作品が多く、同館自体が京都という土地柄上、工芸の収集、展示に力を入れているということもあり、館としてはうってつけだったようです。
 
さて、光太郎の水彩画。「劇場(歌舞伎座)」と題された八つ切りのあまり大きくないものです。制作年不明とキャプションに書かれています。「印象派風」というと聞こえはいいのですが、はっきりいうと何が何だかさっぱりわからない絵です。かろうじて歌舞伎の定式幕が描かれているのが判然とするので、「歌舞伎座」という副題が納得出来るという程度です。
 
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千葉市美術館の学芸員さんから情報を得、画像も送っていただいたのですが、本当に光太郎の作品なのか半信半疑でした。今日、実際に作品を見てもまだ半信半疑でした。

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数年前に大阪の阪急文化財団逸翁美術館でもそれまで知られていなかった光太郎の絵画が出ましたが、こちらは日本画で、与謝野晶子が自作の短歌を書き、絵を光太郎が担当したもの。来歴もはっきりしていましたし、絵も類例があるものなので、即座に間違いないと思いました。
 
しかし、今回の水彩画は、芝川照吉のコレクションという点で来歴は大丈夫だろうと思いつつ、類例がないことが気にかかっていました。
 
そう思いつつ、企画展会場の最後にさしかかると、芝川没後の大正14年(1925)に開かれた売り立て(競売)の目録がパネルに拡大コピーされて展示してありました。「おっ」と思い、詳しく観ると、最後の辺りに今回の水彩画と思われるものもちゃんと載っていました。
 
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上記はその売り立て会を報じた新聞記事です。

これで少なくとも大正末の時点ではこの作品が光太郎作と認定されていたことは間違いないのでしょう。また、売り立ての「後援」に、光太郎と親しかった画家・石井柏亭が名を連ねています。これはこの作品が間違いない一つの証左になりそうです。さらに、他の出品物はやはり岸田劉生やら青木繁やらのもの。いけないものはまざっていないようです。
 
というわけで、今回の水彩画も間違いないものだろうと思いますが、まだ確定はできにくいところがあります。もう少し調べてみるつもりではありますが。
 
明日も京都レポートを。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月23日

大正4年(1915)の今日、浅草山谷八百善で開かれた、北京移住のため離日する陶芸家・バーナード・リーチの送別会に出席しました。
 
今日観てきた芝川コレクションにもリーチの作品が多数含まれていました。

新刊を取り寄せました。3ヶ月ほど前の刊行でしたが。

アートセラピー再考――芸術学と臨床の現場から

甲南大学人間科学研究所叢書 心の危機と臨床の知14 川田都樹子・西欣也編
2013/3/15 平凡社発行
定価 2800円+税
 
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治療法の一分野として幅広く実施されているアートセラピーの、臨床研究の成果のみならず、その歴史学的側面を考察し、高村智恵子やジャクソン・ポロックの事例を含めて、多角的に紹介する。


神戸の甲南大学さんに設置された人間科学研究所スタッフによる編著です。テーマは「アートセラピー」。芸術を媒体に使用する精神療法です。
 
第1部「近代日本のアートとセラピー」中の、「高村智恵子の表現-芸術の境界線(木股知史)」、「「治す」という概念の考古学-近代日本の精神医学(三脇康生)」、「アウトサイダー・アート前史における創作と治癒(服部正)」で、智恵子の紙絵や智恵子の主治医だった斎藤玉男について述べられています。
 
精神を病んだ智恵子は昭和10年(1935)から亡くなる同13年(1938)まで、南品川のゼームス坂病院に入院していましたが、そこの院長だったのが斎藤玉男です。この時代はまだ芸術療法という概念も曖昧で、作業療法に近い位置づけでした。それでもゼームス坂病院の実践は当時としては、ある意味画期的だったとのこと。
 
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とかく智恵子の紙絵やその終焉の様子などは、文学的、ドラマチックに捉えられがちですが、こうした科学の目を通してのアプローチも重要なのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月8日

明治45年(1912)の今日、埼玉県百間村(現・宮代町)の英文学者・作家の島村盛助に宛てて、駒込林町25番地に完成したアトリエへの転居通知を送りました。
 
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本文は自刻木版です。同一の版を使った転居通知は同月6日付で作家の生田葵山にも送られています。
 
日付を特定できませんが、この頃、アトリエが竣工したと言えます。同じく日付を特定できませんが、アトリエの新築祝いに、智恵子がグロキシニアの鉢植えを持って訪れたのもこの頃です。
 
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こんな企画展が開催中です。 

夏目漱石の美術世界展

2013年5月14日(火)~7月7日  東京芸術大学 大学美術館
 
近代日本を代表する文豪、また国民作家として知られる夏目漱石(1867~1916)。この度の展覧会は、その漱石の美術世界に焦点をあてるものです。 漱石が日本美術やイギリス美術に造詣が深く、作品のなかにもしばしば言及されていることは多くの研究者が指摘するところですが、実際に関連する美術作品を展示して漱石がもっていたイメージを視覚的に読み解いていく機会はほとんどありませんでした。 この展覧会では、漱石の文学作品や美術批評に登場する画家、作品を可能なかぎり集めてみることを試みます。 私たちは、伊藤若冲、渡辺崋山、ターナー、ミレイ、青木繁、黒田清輝、横山大観といった古今東西の画家たちの作品を、漱石の眼を通して見直してみることになるでしょう。
 
また、漱石の美術世界は自身が好んで描いた南画山水にも表れています。 漢詩の優れた素養を背景に描かれた文字通りの文人画に、彼の理想の境地を探ります。 本展ではさらに、漱石の美術世界をその周辺へと広げ、親交のあった浅井忠、橋口五葉らの作品を紹介するとともに、彼らがかかわった漱石作品の装幀や挿絵なども紹介します。 当時流行したアール・ヌーヴォーが取り入れられたブックデザインは、デザイン史のうえでも見過ごせません。
 
漱石ファン待望の夢の展覧会が、今、現実のものとなります。
(チラシより)

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過日このブログでご紹介した雑誌『芸術新潮』の今月号が、この企画展とリンクしています。
 
「序章 「吾輩」が見た漱石と美術」「第1 章 漱石文学と西洋美術」「第2 章 漱石文学と古美術」「第3 章 文学作品と美術 『草枕』『三四郎』『それから』『門』」「第4章 漱石と同時代美術」「第5 章 親交「」の画家たち」「第6 章 漱石自筆の作品」「第7 章 装幀と挿画」という筋立てで、古今東西のさまざまな作品が並んでいます。
 
光太郎とも縁の深かった作家の作品も数多く出品されています。荻原守衛、岡本一平、南薫造、岸田劉生、斎藤与里、石井柏亭などなど。光太郎の作品が出ていないのは残念です。
 
漱石は自作の中にさまざまな美術作品をモチーフとして効果的に使っていること、また、津田青楓ら同時代の画家と親交があったこと、そして橋口五葉による自作の装丁が非常にすばらしいこと、さらに「文展と芸術」という有名な美術批評を書いていることなど、美術にも造詣が深いというのが定評です。
 
絵画などの漱石自身の作品も残っています。しかしこちらは漱石の孫である夏目房之介氏によれば「相当にレベルが低いといわざるをえない」。『芸術新潮』ではむちゃくちゃな遠近法や、むやみに色を塗って破綻している点などを酷評しています。しかし、そこには孫としての暖かな眼差しもまぶしてありますが。
 
一昨日、NHKEテレで放映された「日曜美術館」も、「絵で読み解く夏目漱石」と題してこの企画展にリンクした内容でした。ちなみに同番組とセットで放映される「アートシーン」では、先月のこのブログでご紹介しました中村好文氏の「小屋においでよ!」展が紹介されました。こちら、明日、行ってくるつもりです。
 
ところで評論「文展と芸術」について、光太郎が承服できかねる旨を発言し、漱石に噛みつきました。今回の企画展でも、『芸術新潮』でも、「日曜美術館」でもその点に触れられていないのが残念でした。明日はその辺りを書いてみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月4日

昭和26年(1951)の今日、銀座資生堂ギャラリーで「高村智恵子紙絵展覧会」が開幕しました。

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東京での初の紙絵展で、この時から「切絵」「切紙絵」などと言われていた智恵子の作品が、光太郎の発案により「紙絵」の呼称で統一されることになりました。

先頃、京都と大阪の堺に行って参りました。京都では大覚寺さんで新たに見つかった光雲の木彫などを観、堺では与謝野晶子の命日・白桜忌のつどいに参加して参りました。
 
ところが、その京都と堺から、また新たな情報が舞い込んできました。
 
まずは京都。
 
京都国立近代美術館さんで開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」に、光太郎の水彩画が出品されているとのこと。

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以下、文化庁さんのサイトから抜粋させていただきます。
 
 芝川照吉という名のコレクターをご存じでしょうか。その人物が,わが国近代美術を代表する青木繁や岸田劉生を世に送り出した張本人だということを知れば,いやが上にも興味がそそがれるにちがいありません。
 そしてこの「芝川コレクション」には,当初1000点を超える作品が集結していましたが,このたび遺族の手元に残された現存する178点が,京都国立近代美術館に一括収蔵の運びとなりました。
 それら貴重な作品群を,関西でははじめて公開する記念の展覧会を開催いたします。
 青木繁が没した翌年(1912年),坂本繁二郎,正宗徳三郎らが中心となって青木繁の遺作展の開催と『青木繁画集』の刊行が計画されました。この時それらの実現に向けて,全面的に資金援助したのが芝川だったのです。そしてこれらの事業を主宰した人たちから,お礼として青木の作品を譲り受け,とりわけ代表作《女の顔》は,芝川家ご遺族の手によって今日まで残された貴重な作品といって過言ではありません。
 さらに本コレクションの核を成す岸田劉生を中心とする草土社の画家たちの作品も見逃せません。岸田劉生が芝川照吉を描いた《S氏の像》(1914年)頃から,ふたりの親密な関係がはじまり,東京国立近代美術館が所蔵する重要文化財の《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年)もコレクションに含まれていたのです。
 
というわけで、そのコレクションの中に、光太郎の水彩画が含まれていたわけです。題名は「劇場(歌舞伎座)」。制作年は不明、23.5×35.4センチの小さな絵です。
 
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当方、つてを頼って画像データを入手しました(さすがにこのブログでは転載できませんが)。不思議な絵です。これだけがポッと出てきて「光太郎作の水彩画だ」と言われても、信用できません。しかし、芝川コレクション自体の来歴がしっかりしているので、信用できると思います。
 
この芝川コレクション、国立国会図書館のデジタルデータに当時の図録が納められており、光太郎の名も目次に載っています。ところが光太郎の作品が載っているページが欠損しており、どんなものか以前から気になっていました。
 
ただ、芝川コレクション全体は膨大なものだったようなので、今回の水彩画以外にも光太郎作品が入っていた可能性もあります。しかし、大正12年(1923)の関東大震災などで失われてしまったものも多いとのこと。残念です。
 
さて、今回の「芝川照吉コレクション展」。光太郎の水彩画以外にも、光太郎の近くにいた作家の作品が数多く含まれています(出品リスト)。岸田劉生、柳敬助(光太郎の親友・妻、八重を介して智恵子が光太郎に紹介されました)、石井鶴三、高村豊周(下記参照)、富本憲吉、石井柏亭、奥村博(平塚らいてうの「若いツバメ」)、清宮彬、バーナード・リーチなどなど。会期は6月30日まで。
 
これはまた京都に行かなければならないなと思っています。
 
さらに大阪・堺からも新着情報が。明日、紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月2日

昭和47年(1972)の今日、光太郎の弟で、鋳金の道に進み、人間国宝に認定された高村豊周(とよちか)が歿しました。
 
ほとんどの光太郎塑像の鋳造を担当し、光太郎没後は連翹忌などその顕彰活動に奔走しました。また、光太郎に関するたくさんの回想録は、すぐ身近にいた立場からのもので、非常に貴重なものです。光太郎同様、文才にも恵まれ、歌会始の召人に任ぜられた他、四冊の歌集を遺しました。

新刊雑誌です。昨日、買ってきました。

『芸術新潮』2013年6月号「特集夏目漱石の眼」

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〈年譜〉芸術と歩んだ49年
 
〈一〉名作をいろどる絵画たち
絵で読み解く漱石の理想の女性像と芸術 【文】古田亮
〈再録〉 文展と芸術(抄) 
“門外漢”の美術時評 大正元年(1912)第六回文展評「文展と芸術」より
〈コラム〉イメージの連鎖 漱石から宮崎駿へ 【文】古田亮
 
〈二〉漱石とゆく、ぶらり明治の東京散歩
路線図でたどる文豪の足跡
漱石の目に映る、変りゆく都市東京 【文】黒川創
 
〈三〉
技あり「漱石本」総覧
漱石本を解剖する 【文】岩切信一郎
 
〈四〉
お手並拝見 先生の書画
趣味の効用 【文】夏目房之介
 
「漱石」といえば「文豪」の代名詞ですが、美術批評でも活躍していました。特に目次にもある大正元年(1912)の文展(文部省美術展覧会)の評は有名です。これに光太郎がかみついて、不興を買ったことも知られています(この件に関しては項を改めて書きます)。
 
また、そういうわけで美術にも造詣が深く、書画も制作していますし、自作の小説の中に古今東西のさまざまな名画が登場します。
 
そのあたりにスポットをあてた特集です。かなり読み応えがありそうで(他用が多くまだよく読んでいません)、熟読するのが楽しみです。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月26日

昭和17年(1942)の今日、丸の内産業組合会館で行われた日本文学報国会の創立総会に出席、詩部会会長に就任しました。
 
「報告」でなく「報国」。戦時の国家総動員に関わる文学者の統制団体です。

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