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昨日は埼玉県加須市に行って参りました。

サトヱ記念21世紀美術館さんで開催中の「生誕130年記念 斎藤与里展 ~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~」の関連行事、第2回ミュージアムトーク拝聴のためです。

同展には昨秋に行って参りまして、2度目の訪問となりました。


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講師は美術文献研究家の佐々木憲三氏。斎藤与里、そして光太郎らを中心に、明治末に結成されたヒユウザン会(のちフユウザン会)の機関誌『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)の復刻などに関わられた方です。連翹忌の御常連でもあります。

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演題は「斎藤与里・画家としての軌跡」。約2時間、与里の人となり、業績、さらに光太郎を含む周辺人物との関わりなどのお話でした。

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同展は来月13日までの会期です。

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ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

今おもふ人のことこそをかしけれけものとなりて湯にひたる時
大正13年(1924) 光太郎42歳

温泉につかりながら思う人は、やはり智恵子なのでしょうか。

福島から展覧会情報です。 
会  期 : 2016年2月27日(土)~2016年3月21日(月・祝)
会  場 : ビッグパレットふくしま 福島県郡山市南2丁目52 
時  間 : 平日 11:00~17:00(入館は16:30まで)
          土日・祝 9:00~17:00(入館は16:30まで)
料  金 : 一般800円・高校生以下400円・未就学児無料
主  催 : 公益社団法人郡山青年会議所
協  力 : 福島県 スタジオジブリ 第二楽章を語り継ぐ会 ビクターエンタテインメント
       徳間書店 (公社)日本青年会議所東北地区福島ブロック協議会 
後  援 : 郡山市  富岡町  郡山市教育委員会 郡山市文化協会 郡山市PTA連合会、
       郡山商工会議所 福島県中小企業家同友会郡山地区 福島民報社 福島民友新聞社
       福島テレビ(株)(株)福島中央テレビ(株)福島放送(株)テレビユー福島
       (株)ラジオ福島 ふくしまFM 郡山コミュニティ放送ココラジ
       街こおりやま社 
週刊ザ・ウィークリー(株)ガイドポスト
       福島リビング新聞社 .ru.ku出版 
情報誌だいすき 月刊こおりやま情報

2016年、私たちは東日本大震災から5年目の節目を迎えます。
復興への歩みを進めるなかで多くの人々の記憶から震災の記憶は失われつつあります。女優.・吉永小百合は「平和の貴さ」を次世代に伝えるため、1986年から原爆詩の朗読を続けてきました。東日本大震災発生後は福島に思いを寄せ、震災の記憶を次世代に伝える活動を行っています。2015年3月11日には東日本大震災で被災された方の詩を朗読した詩画集「第二楽章・福島への思い」を発表しました。そして、その挿絵を担当したのが「となりのトトロ」などスタジオジブリの美術監督も努めた男鹿和雄です。男鹿の作品は、生命感にあふれ、どこかノスタルジックで暖かい雰囲気が漂います。多くの人々が男鹿の作品に心魅かれるのは、綿密な取材に裏付けられた巧みな構図や光、描写技術はもちろん、男鹿のおだやかな人柄が、その筆跡からにじみ出ているからとも言えるでしょう。そして、吉永もそんな男鹿の作品に魅了された一人です。
本展では、震災後5年を迎えるにあたり、吉永のライフワークと男鹿の絵筆によって生まれた『第二楽章』の挿絵原画やスケッチなど約100点を通じて、平和へのメッセージと男鹿の描く故郷の風景を通して3.11を風化させないためのメッセージを次世代へ伝えます。

男鹿和雄(おが かずお)
1952年、秋田県生まれ。1972年、アニメーション背景美術の会社・小林プロダクションに入社。「樫の木モック」で初めて背景を手がけ、その後、「はだしのゲン」などマッドハウスが制作する劇場映画の美術監督を手がける。1987年、宮崎駿監督作品「となりのトトロ」に参加。以後、スタジオジブリ作品「おもひでぽろぽろ」「平成狸合戦ぽんぽこ」「かぐや姫の物語」で美術監督を務める。現在まで数多くのアニメーション作品の背景美術に携わる。


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このブログで以前にご紹介した吉永小百合さんの朗読によるCD「第二楽章 福島への思い」のジャケットを手がけられた男鹿和雄さんの展覧会です。

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昨年、広島で開催されましたが、その際は光太郎智恵子と関係がなかったのでご紹介しませんでした。

2016/2/29追記 長崎でも開催されていました。存じませんでした。

今回は、関連企画として光太郎智恵子に関わるものが計画されています。 

「未来のわたしたちへ~ほんとの空~」絵画展覧会

福島県内の小中学生を対象に“心に残った風景”“自分のすむまちの風景”をテーマとした絵画を募集し、展示するとともに、代表作品に顕彰します。応募作品が多数の場合は1週間ずつローテーションで展示します。
応募して頂いた方は、無料で「男鹿和雄展」をご覧になれます。

応募受付期間 2016年1月下旬~2016年3月12日(土)

作品
1.テーマは”心に残った野山の風景””自分のすむまちの風景”とします。
2.作品の素材は水彩画・クレヨン画とします。
3.応募作品のサイズは、団体応募でB全判画用紙(765mm×1085mm)・個人応募で四つ切判画用紙(382mm×542mm)とし、額装は不要です。
4.応募作品は、未発表の作品に限り、1人1点とします。また1団体50点以内でお願いいたします。
 
応募部門
1.小学生の部(作品搬入時を基準)
2.中学生の部(作品搬入時を基準)
 
応募方法
応募申込書に必要事項を記載の上、下記の公益社団法人郡山青年会議所事務局へ郵送いただくか、2月27日以降はビッグパレットふくしま3階へ直接お持ちください。

応募先
公益社団法人郡山青年会議所 青少年育成委員会 宛
 〒963-8877 福島県郡山市堂前町5-19 日専連郡山ビル3階 TEL 024-932-2289

展示期間
2016年2月27日(土)~2016年3月21日(月・祝)



小中学生の皆さん、及び小中学生のお子さんをお持ちの皆さん、小中学校の先生方、ご参考までに。


東日本大震災後、特に福島では、光太郎詩「あどけない話」に使われた「ほんとの空」の語が復興への合い言葉としてよく使われ、定着した感があります。

来月には震災から満5年。「ほんとの空」が本当の意味で広がる福島となることを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

むら竹の夕のさやぎ胸にしめて空をながめてふと思ふこと

明治33年(1900) 光太郎18歳

この時、数え18歳の光太郎は「空をながめて」何を思っていたのでしょうか……。

当会の祖にして、光太郎と縁の深かった草野心平がらみの企画展です。 

冬の企画展 所蔵品展「草野心平のスケッチ」

会 期 : 2016 年1月9 日(土) ~3月27 日(日)
時 間 : 9:00 ~ 17:00
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下夕道1番地の39
休館日 : 月曜日(祝日を除く)、祝日の翌日
料 金 : 一般 430円(340円)/高・高専・大生 320円(250円)
      小・中生 160円(120円)( )内は20名以上団体割引料金

 詩人・草野心平(1903〜1988)は、1,400篇余の詩や随筆などの文筆にとどまらず、書画をはじめ多彩な創作活動を展開しました。
 心平の創作との出会いは詩よりも絵画の方が早く、1916年、福島県立磐城中学校(現在の福島県立磐城高等学校)に入学すると、美術部「X会」に入部し、水彩画を描きました。生家のある石城郡上小川村(現在の小川町)内をスケッチしたこともあったといいます。彼の作品が校内の回覧雑誌「文林」の表紙を飾ったこともあり、同級生は「心平の絵は抜群で、私達は、心平は将来画家になるものと思って疑わなかった。四月の創刊号に描いた小川の山は現在でも私の眼底に残っている」と回想しています。
 その後、詩人として活躍の場を広げていた1956年、アマチュアのデッサングループ「竹林会」結成に参加したことがきっかけで油彩画を手がけ、頻繁にスケッチも描くようになりました。
 本展では、当館の所蔵品から心平のスケッチを取り上げ、詩人独特の感性によって描かれた線と色彩の魅力を紹介します。


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関連行事等
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ギャラリートーク  学芸員による展示内容の解説です。
日時 2016年2月6日(土)14時〜14時30分
会場 文学館企画展示室
聴講 観覧券が必要です。申し込みは不要ですので、会場にお越しください。

朗読サロン  朗読を楽しく学びます。お気軽にご参加ください(文学館ボランティアの会事業)。
日時 2016年2月6日(土)11時〜12時
      3月5日(土)11時〜12時
会場 文学館会議室
参加 無料です。申し込みも不要ですので、会場にお越しください。


身近に光太郎という大美術家がいた心平。他にも画家の村山槐多、版画家の棟方志功などとも交流がありました。

もともと絵画にも興味を抱いていましたし、周囲の美術家の影響もあるのでしょうか、心平自身も玄人はだしの絵画をものにしています。ちなみに昨日のこのブログでご紹介した姫路市立美術館さんで始まる企画展「画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」にも、心平の作品が展示されます。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

ここの国ここなる里のここの戸に一たび湧きし想(おもひ)の子なり

明治35年(1902) 光太郎20歳

何だか、心平を詠んだ一首のようにも読めますね。

兵庫県姫路市立美術館さんでの企画展情報です。

画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく

会 期 : 2016 年2月13 日(土) ~3月27 日(日)
時 間 : 10:00 ~ 17:00
会 場 : 姫路市立美術館 姫路市本町68-25 
休館日
 : 月曜日(祝日を除く)、祝日の翌日
料 金 : 一般900円、大高生600円、小中生200円

「絵は黙せる詩、詩は語る絵」といわれてきました。ときに絵は詩のように語りかけ、詩は絵のような豊かな色と形をありありと提示します。日本の近代洋画は、文学からの自立を目指した西洋近代美術の影響のもとで始まっています。特に印象派以後、新しい造形表現を積極的に取り入れた結果、実に多様な作品がうまれました。青木繁、村山槐多、長谷川利行など詩歌と画技において秀でた作家や、宮沢賢治、富永太郎、立原道造など絵を描いた詩人も少なくありません。本展は、明治から現代までの画家と詩人の詩と絵を一堂に集め紹介します。


昨年、神奈川平塚市美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さんと巡回した企画展が、今度は姫路で開かれます。図録を兼ねた書籍『画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』は広く販売中です。

光太郎の油絵も3点展示されます。大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」、同年に描かれた洋酒の瓶と果実を描いた「静物」、そして新潟・佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女を描いた「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)です。当方、平塚展を観て参りました。こちらでは「日光晩秋」は展示されなかったのですが、今回は並ぶそうです。

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姫路市立美術館さん、調べてみましたところ、世界遺産姫路城のすぐ近くです。併せて足をお運び下さい。

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ただ、講演会、ギャラリートーク等の関連行事について、まだ不明です。判明次第ご紹介いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

佐渡が島荒き波路にまもられて我が魂は常久に生く
大正7年(1918) 光太郎36歳

上記「渡辺湖畔の娘道子像」を描く関係もあり、この年10月に光太郎は佐渡島の渡辺湖畔邸を訪れています。この歌は帰京後、湖畔に送った書簡にしたためられました。

新刊情報です。 
2015/12/11 牧歌舎 坂本富江著 定価2,200円+税

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著者の坂本富江さん、このブログでもたびたびご紹介していますが、智恵子がかつて在籍していた太平洋画会の前身、太平洋美術会の会員であらせられます。

その坂本さんが、光太郎智恵子ゆかりの地を歩かれ、書きためられたスケッチとエッセイで構成されています。3年前に初版が刊行され、今回は増補改訂版ということで、約20頁増えています。当方、校正をさせていただいており、既に3回ほど目を通しましたが、色鮮やかなスケッチと、軽妙な文章のコラボレーションが見事です。

帯に印刷された推薦文は、初版に続き女優の渡辺えりさん。お父様が光太郎と知己でした。

目次
はしがき
① 故郷
 智恵子の故郷 福島県
  旅情さそうレトロな安達駅/誕生/生家/よみがえった長沼家は不滅/
  ローゼットと掘りごたつ/花園/美しいトイレ/米蔵/智恵子記念館/
  智恵子の杜(愛の小径)/鞍石山/『万葉集』から『智恵子抄』へ/樹下の二人/
  長沼家の菩提寺満福寺/コスモスゆれる安達ヶ原/智恵子物産の戸田屋商店/
  小高い丘の油井小学校/初挑戦の紙芝居/
智恵子マーチングパレードと紙絵/
  空を染める提灯祭り/智恵子の答辞文
② 学び舎の頃
 都会の生活① 東京
  夢いだき日本女子大学校/設立者 成瀬仁蔵/最初の運動会/音楽教育/
  倫理学からの抜粋/
成瀬講堂/成瀬校長の告辞/学友が語る智恵子のエピソード/
  青春輝く学び舎/智恵子のことば/
現存する成瀬仁蔵旧宅/
  芸術家サロンの街雑司ヶ谷/愛の告白/鬼子母神
③ 画家への道
 都会の生活② 東京
  太平洋画会研究所/智恵子の幻のデッサン見つかる/画学生智恵子/智恵子の美意識/
  最も新しい女流画家/中村不折と正岡子規/太平洋美術会と著者の出会い/
  光太郎の母校・荒川区立第一日暮里小学校/新宿「中村屋サロン」に花開いた芸術家/
  中村彝アトリエ再現
④ 光太郎との恋
 都会の生活③ 東京
  「青鞜」と智恵子/運命の花「グロキシニア」/青鞜を去る/日比谷公園松本楼と氷菓/
  首かけイチョウ/銀ブラの二人
 犬吠埼 千葉
  早春の犬吠埼/銚子電鉄/灯台
 上高地 長野
  山上の恋・上高地
 裏磐梯・五色沼 福島
  エメラルドグリーンの五色沼
 上野公園 東京
  精養軒で披露宴/料理メニューはハイカラ/木更津まで響いた「時の鐘」
⑤ 愛の暮らし
 都会の生活④ 東京
  夢抱きしアトリエ 千駄木林町二十五番地/アトリエでの苦悩/お化けやしき/
  巴そば店/順天堂病院
⑥ 病と転地療養
 九段坂病院 東京
  白亜の九段坂病院/智恵子の入院した頃の旧館
 不動湯温泉 福島
  山峡の宿・不動湯温泉/私道・専用道路の開削/不動湯温泉/旧館十六号室/
  夕食の献立/
心の御馳走/宿帳のこと/幽谷のホタル鑑賞/入籍のこと
 九十九里浜 千葉
  灼熱の九十九里浜と田村別荘/九十九里浜/田村別荘のこと/田村別荘内部/
  糸日谷さんのこと/
智恵子の印象/光太郎のこと
⑦ ゼームス坂病院と紙絵
 晩年の生活 東京
  芸術家智恵子蘇生/病室は智恵子にとってのアトリエ/智恵子抄文学碑/
  紙絵に残した「楠公像」/守られた紙絵/桜舞ふ東京都立染井霊園
⑧ 晩年の光太郎
 高村山荘 岩手
  みちのくの高村山荘へ/高村山荘/甥が語る光太郎の素顔/智恵子とともに/
  未見の詩人・野澤一との交流/三畝の畑/智恵子の丘/高村光太郎記念館
 十和田湖 青森
  十和田湖畔と奥入瀬渓谷/黄金に染まる乙女の像/秘められた『乙女の像』/
  東京中野の中西アトリエ/『智恵子抄』が世に出るまで~光太郎の苦悩
⑨ 智恵子の油絵が展示されている山梨の美術館
 清春白樺美術館 山梨
  清春芸術村・山梨県清春白樺美術館/梅原龍三郎と光太郎/小林秀雄氏の枝垂桜/
  ラ・リューシュ/運命の出会い/大村智氏ノーベル医学・生理学賞
⑩ 絵が誘う点と線
 「樟」の誕生 静岡県
  智恵子と沼津/絶景の千本浜と千本松原/沼津垣の垣根/蛇松線跡は花の散策路/
  日本最古の沼津市立第一小学校/「道喜塚」今昔/大久保忠佐と「道喜塚」/
  「樟」は残った/
「樟」との宿命的出会い
⑪ 新作能「智恵子抄」
 赤坂日枝神社 東京
  山王、日枝神社で薪能「智恵子抄」を鑑賞
 新作能 智恵子抄詞章
  僕等/樹下の二人/あどけない話/人生遠視/風に乗る智恵子/千鳥と遊ぶ智恵子/
  山麓の二人/
レモン哀歌/荒涼たる帰宅
⑫ 智恵子さんへの手紙
 拝啓高村智恵子さまへ
年譜 あとがき 参考文献


このうち、沼津の部分や中野アトリエの部分などは、初版にはなかった増補の部分です。その他の部分でも、使われているスケッチが替わったりといった改訂があります。

ぜひお買い求めを。

ところで、坂本さんといえば、明日、二本松市の福島県男女共生センターで行われる「智恵子講座’15」 講師を、当方と共になさいます。当初予定では当方が午前中、坂本さんが午後、というはずでしたが、なんと昨日、坂本さんのお母様がお亡くなりだそうで、その関係で午前と午後が入れ替わります。坂本さんが午前中で「松井昇と太平洋画会研究所」、当方が午後で「成瀬仁蔵と日本女子大学校」です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月19日

昭和30年(1955)の今日、生涯最後の詩作品「お正月の不思議」「生命の大河」を書きました。

それぞれ翌昭和31年(1956)―この年4月2日に光太郎は歿します―の元日、「お正月の不思議」はNHKラジオで放送され、「生命の大河」は『読売新聞』に掲載されました。この時代には既に新聞は新仮名遣いに変わっています。

   生命の大河

生命の大河ながれてやまず、002
一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
ごうごうと遠い時間の果つるところへいそぐ。
時間の果つるところ即ちねはん。
ねはんは無窮の奥にあり、
またここに在り、
生命の大河この世に二なく美しく、
一切の「物」ことごとく光る。
 
人類の文化いまだ幼く
源始の事態をいくらも出ない。
人は人に勝とうとし、
すぐれようとし、
すぐれるために自己否定も辞せず、
自己保存の本能のつつましさは
この亡霊に魅入られてすさまじく
億千万の知能とたたかい、
原子にいどんで
人類破滅の寸前にまで到着した。
 
科学は後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変え
想像しがたい生活図の世紀が来る。
 
そういう世紀のさきぶれが
この正月にちらりと見える。
それを見ながらとそをのむのは
落語のようにおもしろい。
芸術倫理の如きは
うずまく生命の大河に一度は没して
そういう世紀の要素となるのが
解脱ねはんの大本道だ。

テレビ放映を拝見しました。

まずは昨日、テレビ東京系で放映された「美の巨人たち 藤田嗣治 寝台の裸婦キキ」。先月、小栗康平監督の映画「FOUJITA」が封切られるなど、再び脚光を浴びている藤田嗣治が取り上げられました。

以前にも書きましたが、藤田は東京美術学校西洋画科で、光太郎と同級生でした。映画「FOUJITA」にも、光太郎の詩「雨にうたるるカテドラル」が使われています。

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映画で藤田を演じたオダギリジョーさんがビデオ出演。

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上の画像は、パリのカフェで青木崇高さん扮する日本からやってきた画学生が、光太郎の「雨にうたるるカテドラル」を朗読し、それを聴くシーン。

この詩にもそうした要素があるのですが、当時の美術家たちは、どのように日本(東洋)と西洋を融合して行くのかが問われていました。

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光太郎は塑像彫刻に木彫の技法を、木彫に塑像彫刻のエスキスを取り入れました。藤田の出した答えは、浮世絵の技法を油彩画に取り込むこと。番組では、藤田の最大の特徴、「乳白色」を例に、そのあたりを解説していました。

BSジャパンさんで2016年1月13日(水)、23時00分~23時30分に再放送があります。地上波テレビ東京系が受信できない地域の方々、こちらでご覧下さい。


もう一つ、3日の木曜日に放映された「にほんごであそぼ」。

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光太郎詩「冬が来た」」(大正2年=1913)が取り上げられました。

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子供たちによる朗読。

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うなりやベベン(浪曲師・国本武春)さんによる歌「冬が来た」は、以前に放映されたものの使い回しでした。

こちらも再放送があります。12月17日(木)  6時45分~6時55分  17時10分~17時20分、ともにNHKEテレさんです。

あわせてご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月6日

昭和27年(1952)の今日、銀座の新富寿しで夕食を摂りました。

十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため再上京して二ヶ月弱。花巻郊外太田村の山小屋で生活していた7年間では、寿司など思いもよらなかったことでしょう。ちなみに『週刊朝日』のおごりだったとのこと。

新富寿しさんは、大正期創業。池波正太郎も愛した店だそうです。

昨日に続き、今月14日に封切られ、光太郎にも触れられる小栗康平監督作品「FOUJITA」の新聞各紙に載ったレビューです。 

FOUJITA:オダギリジョーが抑えめ演技とオカッパ頭でなりきり 不世出の画家・藤田嗣治を描く

『毎日新聞』2015年11月13日004
 俳優のオダギリジョーさんが主演した映画「FOUJITA」(小栗康平監督)が14日に公開される。1990年の「死の棘」で第43回カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリと国際批評家連盟賞をダブル受賞するなど海外でも評価の高い小栗監督が、芸術の都パリからも愛された不世出の日本人画家・藤田嗣治(つぐはる)の半生を描いた。オダギリさんは猛特訓したというフランス語も披露している。
 「FOUJITA」は日仏合作。1913年に27歳の若さで単身フランスに渡り、1920年代に発表した「ジュイ布のある裸婦」などで描いた裸婦が“乳白色の肌”と称され絶賛を浴び、一気に名声を高めた藤田の半生と藤田が生きた、“二つの時代“を描いている。“フーフー”というお調子者を意味する愛称で呼ばれ、毎夜カフェへと繰り出し、享楽的な生活を送りながら、3人の女性と結婚。さらに大作「五人の裸婦」完成により、その名声を確固たるものとした藤田の“パリ時代”と、第二次世界大戦が始まり、1940年代に入り帰国した藤田は陸軍美術協会のもとで国民の戦意高揚のため、戦争協力画を描く仕事をし、その後、疎開先の田畑が広がる山の麓の村で、日本の原風景を発見していくという時代を描いた。
 半生を描いたとはいえ、伝記映画としての色合い、005見る者を引き込むような物語性は希薄で、大戦を分岐点にした二つのパラレルワールドを遠くから眺めているような感覚にも陥る不思議な作品だ。ワンシーン、ワンシーンが絵画的で、劇中で主人公のせりふに「絵はしょせん絵空事、物語があったほうがいい」とあるが、今作もいい意味で“絵空事(フィクション)”になっている。主演を務めたオダギリさんは、映画「S?最後の警官?奪還 RECOVERY OF OUR FUTURE」での狂気をはらんだテロ
リストや放送中の深夜ドラマ「おかしの家」でのモラトリアム青年とも大きく異なり、抑え気味の演技から藤田の画家としての傲慢さや尊大さ、プライドを匂い立たせるという見事なカメレオン俳優ぶりを発揮。一部で“藤田の生き写し”といわれる前髪パッツンのオカッパ頭にメガネ、チョビヒゲ姿というオダギリさんのなりきりぶりにも注目したい。
 藤田の“5番目の妻”君代を女優の中谷美紀さんが演じ、岸部一徳さん、加瀬亮さん、青木崇高さんらも出演。14日から新宿武蔵野館(東京都新宿区)ほか全国で公開。(山岸睦郎)

FOUJITA 「一対の絵画」際立つ映像美

『日本経済新聞』2015/11/6006
「埋もれ木」に続く10年ぶりとなる小栗康平監督の新作である。1920年代のパリで活躍した日本人画家、藤田嗣治の生涯を、エコール・ド・パリの寵児(ちょうじ)としての時代と、帰国後に戦争画を描いた時代という2つの時期に分けて描きながら、時代に翻弄された天才画家の相反する姿を問いかけている。
 1920年代のパリ。乳白色の裸婦像で有名になったフジタ(オダギリジョー)は、お調子者という意味の「フーフー」の愛称で人気者となり、毎晩のようにカフェ・ロトンドに繰り出して画家仲間とバカ騒ぎをしている。そんな中、大作「五人の裸婦」も完成。新しい恋人と仮装舞踏会を開いてお祭り騒ぎに興じる。
 1940年代の日本。国民総力決戦美術展に展示された「アッツ島玉砕」の絵の前で人々に敬礼するフジタ。やがて戦局が悪化して5番目の妻の君代(中谷美紀)と田舎の村に疎開したフジタは、古くからの日本の自然や暮らしを発見していく。フジタがサイパン島のバンザイクリフの絵を描く中、母屋の小学校教師に赤紙が届くのを知る。007 (2)
 物語の前半と後半は等しい描写時間を占めるが、両者の転換に一切説明はなく唐突に歳月を超えてつながっている。前半はパリでのエピソードが重ねられていく印象だが、後半はCGによるキツネの登場など、小栗監督にしばしば見られる幻想的な世界が見られて心を揺さぶられる。
 映像は際立って美しい。パリのアトリエなど暗
い室内シーンが見られるが、当時の光を尊重しているようなリアル感があり、好感が持てる。映画は前半と後半で一対の絵画を見るような印象が強く、両者を貫くフジタの生きざまを見るものが想像するのをうながしているようで面白い。
 ラストに映し出されるフジタが手がけたランスの教会の映像も見逃せない。2時間6分。
★★★★ (映画評論家 村山 匡一郎)


関連するテレビ番組の放映もありますので、ご紹介しておきます。 

SWITCHインタビュー 達人達(たち)「オダギリジョー×舘鼻則孝」

NHKEテレ 2015年11月28日(土)  22時00分~23時00分

達人達が見ている景色、お見せします。
 異なる分野で活躍する2人の“達人”が出会い、語り合う。ただし、単なる対談番組ではありません。
 番組の前半と後半でゲストとインタビュアーを「スイッチ」しながら、それぞれの「仕事の極意」について語り合い、発見し合う、いわばクロス×インタビューです。

オダギリジョーが指名したのは、レディー・ガガの靴のデザインで知られる舘鼻則孝。アート通ファッション通でもある俳優と世界が注目するアーティストが、静かに響き合う!

おいらんの高げたからインスピレーションを得たヒールレスシューズなど、伝統工芸と日本の現代的美意識を融合させたアバンギャルドな作品で注目される舘鼻。30歳の若きアーティストの発想の秘密にオダギリが迫る。さらに2人は美術館でオダギリが演じた画家・藤田嗣治の作品を鑑賞。オダギリの独特の存在感の秘密、役への入り方を探るうち、技術と感性のバランスの取り方など、「表現」にともなうそれぞれの葛藤が浮き彫りになる。

出演 俳優…オダギリジョー,アーティスト…舘鼻則孝,演出家…テリー伊藤
語り 吉田羊,六角精児

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本放送 テレビ東京  2015年12月5日(土)  22時00分~22時30分
再放送 BSジャパン  2016年1月13日(水) 23時00分~23時30分

ナレーション 小林薫,蒼井優


映画と併せてご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月25日

昭和28年(1953)の今日、約1年ぶりに、花巻に戻りました。

昭和20年(1945)、東京のアトリエを空襲で焼け出された光太郎は、宮澤家の招きで花巻に疎開、その年の秋には郊外太田村の山小屋(高村山荘)に入り、独居自炊の生活を7年間送りました。

同27年(1952)、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再び上京。中野の故・中西利雄のアトリエを借りました。

翌28年(1953)10月には十和田湖で像が除幕。その約1ヶ月後の今日、特急「みちのく号」を使って花巻に。12月5日まで滞在しました。ただし、山小屋には行ったものの、そこで寝泊まりせず、大沢温泉、志戸平温泉、花巻温泉松雲閣などに宿泊しました。滞在中には、ブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」のロケも行われました。

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その後も住民票は太田村に残したまま、東京と太田村を行ったり来たりしながらの生活を考えていましたが、健康状態がそれを許さず、結局、この時を最後に、二度と花巻、太田村に足を向けることはありませんでした。

今月14日に封切られ、光太郎にも触れられる小栗康平監督作品「FOUJITA」。新聞各紙のレビューをご紹介します。

映画「FOUJITA」 描き続けた「物語を超える絵」

005『産経新聞』2015年11月20日
 仏で活躍後、第二次大戦中に戦争協力画を描いたとして非難され、日本を捨てた画家、藤田嗣治(つぐはる)。公開中の「FOUJITA」は、「泥の河」(昭和56年)などで知られる小栗康平監督(70)が、その複雑な人物像に迫った作品だ。浮かび上がってきたのは、時代を超え、絵だけに生きようとした男の姿だった。(岡本耕治)
                   ◇
 「高村光太郎は戦後、戦争協力の詩を書いたことを反省して田舎に引っ込んだが、それが普通の日本人のメンタリティー。しかし、藤田は批判にびくともせず、反省もしなかった。その強さに興味を持った」と小栗監督は話す。
 「FOUJITA」の前半では、1920年代のパリを舞台に、乳白色の裸婦像で注目を浴び、時代の寵児(ちょうじ)となった藤田(オダギリジョー)が仲間とバカ騒ぎに興じる姿が描かれる。後半は、40年代の日本が舞台。藤田は戦意高揚のための展覧会で、展示された自作「アッツ島玉砕」の前に賽銭(さいせん)箱を置き、人々が金を投げ入れるたびに頭を下げることまでしてみせる。
 「人としてどうなのか、という批判はあるだろう。でも、仏で第一次大戦後の狂乱の時代を体験した藤田は軍部に協力しながら、実は何も信じていなかったのではないか。是非は別にして、彼は絵を描くこと、絵の世界で1番になることしか考えていなかったし、そうやって仏でも日本でも成功を収めたんでしょう」
 展覧会で、戦争未亡人らしき女性が作品の前で泣き崩れるのを見た藤田が、「絵が人の心を動かすものだ、ということを私は初めて目の当たりにしました。今日は忘れがたい日になりました」と語るシーンがある。オダギリは抑えた演技で、戦争画というジャンルに強い確信を抱いた藤田を表現。小栗監督は「(オダギリは)不思議な俳優。意見もあまり言わず、こっちの話を聞いているのか、いないのか分からない感じなのに、芝居をやらせるとすごく良い」と笑い、その演技力を絶賛する。
 「絵は絵空事なのだから、物語があった方が良い」「良い絵はいつしか物語を超えて生き延びます」という藤田のせりふに、その思いが浮かび上がる。しかし、絵のみを見続けた藤田に対し、戦後の日本006は激しい非難を浴びせ、藤田は日本を去ってしまう。
映画であれ、絵画であれ、純粋に作品だけを見ることはとても難しい。
 「『アッツ島玉砕』は、当時と今、さらに2030年に見るのでは意味合いが違ってみえる。作品は“その時々の物語”を持っていて、その物語に私たちはいつもだまされてしまう」と小栗監督。「私も、物語を超える映画を作っていきたいですね」と語った。

「FOUJITA」 小栗康平監督

007『読売新聞』2015年11月14日
 画家、藤田嗣治を主人公にした「FOUJITA」(フジタ)が14日から公開される。「泥の河」「死の棘とげ」などで知られる小栗康平監督による10年ぶりの新作だ。
 小栗監督の映画としては2005年の「埋もれ木」以来となる本作は、日仏合作。フランス側のプロデューサーを務めたのは、「アメリ」などで著名なクローディー・オサールだ。
 小栗監督は「資金的なことも当然あるが、フジタについては、内容的にも一緒に作らないと成り立たないものでした」と語る。
 1886年、明治の日本に生まれた藤田は1913年に渡仏し、20年代のパリを代表する画家の一人として活躍。40年に帰国してからは、数多くの戦争画を手がけ、そのことで戦後、批判を受けた。その後、日本を離れ、フランス国籍を取得。カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなる。68年に死去し、自らフレスコ画などを手がけた、ランスの礼拝堂に眠る。
 映画「FOUJITA」が描くのは、二つの時代、二つの文化の中の藤田。映画の前半は20年代のパリ、後半は40年代の日本での姿を見せる。
 「伝記ではなく、20年代のパリと、40年代の戦時の日本を並置して、映画という同一の時空間にとどめることで、何をそこから感じ取るか。それをどう自分のものにするか、という作品だと思うんです」
 そして、それは、「近代とは何か」という問いかけにもつながっていく。
 「いろいろな問いかけが、フジタからひもとくことができるはずです」
009 国民国家の成り立ちも、個人のあり方も、まったく違う、二つの社会を生きた藤田。パリでは日本的な線描の裸婦像で成功し、日本ではヨーロッパの歴史画を思わせる戦争画を描いた。小栗監督は、そんな藤田を「文化の衝突」の中で生きた人間と見る。
 「時代の中で闘っていますよね。そして、その闘いは今の僕らとも無縁ではない。闘っている人間だからこそ持つ悲しみのようなものがあるはずです。深く一つのことをなして生きたフジタという男だからこそ、初めて表れる悲しみや感情の起伏が映ればいい、と思っていました」
 藤田はどんな場所に、どんなたたずまいで存在していたのか。この映画はロングショットでじっくりと映し出す。
 「映画は言葉を撮るわけじゃない。事物の存在の『相』というようなものを撮るわけで、ローカリティー(場所や土地)と結びつかない限り深まっていかない。それは、ものがどこにあるのかとか、場をとらえることとも関連してくると思います」
 「近代の華」として世界に広がった映画のあり方に対する問いかけも、この作品は内包している。(恩田泰子)

静けさから迫る実像 藤田嗣治描く「FOUJITA」14日公開

010『東京新聞』2015年11月12日 朝刊
 「泥の河」などで知られる小栗康平監督(70)の最新作「FOUJIT(フジタ)A」が14日公開される。第2次大戦前のフランスと戦中の日本と二つの国で生きた画家藤田嗣治(ふじたつぐはる)(1886~1968年)を、静かで穏やかな映像美で描いた。 (砂上麻子)
 FOUJITAはフランス語でフジタと読む。「埋もれ木」(二〇〇五年)以来、小栗監督が十年ぶりに選んだ映画の主人公は藤田。「特別に好きな画家ではなかった。裸婦像、戦争画、戦争協力という一般的なフジタ像しかなかった」と振り返る。
 「藤田はパリの人気者、戦争協力者などあふれるほどのエピソードがあるが、エピソードを積み上げても類型的な人物像を描くだけ」と語る小栗監督がひかれたのは藤田の絵画。「絵の中の静けさから藤田を描くことができると思った」
 映画は一九二〇年代のパリと四〇年代の戦時中の日本をそれぞれ一時間ずつ前半と後半の二部構成のようにつなげた。パリ時代の「乳白色の肌」で知られる裸婦像と、「アッツ島玉砕」(四三年)など暗く重厚な戦争画とその作風からも分かるように、藤田の暮らしぶりも、ばか騒ぎを繰り広げるパリと田舎へ疎開した日本とでは対照的。「変節の人だと言われるが、異文化の中で一人の人間がねじれながらも生き抜く姿を自分なりに描いた」
 過激な表現があふれる昨今の映画を「動」とするならFOUJITAは「静」。絵画のように観客は見て感じるしかない。「絵画も映画も画像の中で事物がどう置かれるかという点で出発は同じ。映画はトーキーになり言葉が形作る物語を追い掛けるようになり最初にあった感動を失ってきた。映画の原点に戻った。絵画へのオマージュだ」と話す。
011 主人公藤田にオダギリジョーを選んだのは小栗監督。「猫のようになよっとした身体感覚が藤田と似ている」。劇中のオダギリジョーはおかっぱ頭に丸めがね、耳にはピアスと外見は往年のフジタにそっくり。「外見だけでなく存在そのもので藤田を演じていた」と評価する。
 終戦の年に生まれ七十歳になった小栗監督。三十五歳の時に「泥の河」でデビューした。その後も戦争の影響を感じさせる作品を撮り続けてきた。「戦後七十年の今年、藤田に出会えたのは運命だった。藤田を通じて自分も原点に戻ったようだ」と振り返った。


長くなってしまいましたので、続きは明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月24日

昭和60年(1985)の今日、埼玉県東松山市中央公民館・同市立図書館で開催されていた「高村光太郎 「智恵子抄」詩句書展」が閉幕しました。

生前の光太郎と交友のあった当時の市教育長・田口弘氏所蔵の光太郎書、資料を中心にした展覧会でした。

昨日は、千葉市の京成ローザさんに行き、昨日封切りの映画「FOUJITA」を観て参りました。

ストーリー等の説明のために、一昨日の『朝日新聞』さんに載った小栗康平監督のインタビュー記事を引用させていただきます。

分裂とゆがみ、他人事でない 藤田嗣治描いた「FOUJITA」 小栗康平監督

 「泥の河」「死の棘」の小栗康平監督10年ぶりの新作「FOUJITA」が、14日から公開される。主人公は画家藤田嗣治(1886~1968)。1920年代の狂乱のパリと第2次大戦下の日本、二つの時代を生きたフジタの「分裂とゆがみ」を、透徹したまなざしでとらえる。
 乳白色の裸婦像でパリ画壇の寵児(ちょうじ)となったフジタ(オダギリジョー)は、カフェでのバカ騒ぎやけばけばしい仮面舞踏会に興じる。時代は飛び1940年代の日本、凄絶(せいぜつ)な「アッツ島玉砕」などの戦争画で美術界の重鎮となったフジタは、迫り来る敗戦の予感の中、疎開先の農村の暗い風景を見つめる。
 「パリでは日本画の手法を油絵のど真ん中に押し込み、日本ではドラクロワのような西洋画の伝統技法で戦争を描く。そのねじれに興味を抱いた」と小栗。
 戦争協力者との批判を浴び、日本を捨てフランスに戻った戦後は、映画では描かなかった。
 「伝記映画の構造は持っていないし、人物像を提示することに興味はなかった。高村光太郎のように戦争協力を反省し蟄居(ちっきょ)する、という方が日本人的でヒューマニスティックでしょう。でもフジタは明らかに近代主義者だった。パリでエトランゼ(異邦人)の中に飛び込み、闘ってつかみ取った自我があったんだと思う」
 仮面舞踏会の悪ふざけの後、ベッドで女に「バカをすればするほど自分に近づく。絵がきれいになる」。「アッツ島玉砕」に手を合わせる人々に敬礼し、「絵が人の心を動かすものだということを初めて目の当たりにした」。取り澄ました物言いは、真意なのか、とぼけているのか。フジタは、芸術至上主義者ともくくれず、自己顕示欲の塊とも言い切れない。
 「彼の分裂とゆがみは、100年経った今の私たちにとってもひとごとではない。深く引き裂かれた人物として、ある悲しみをもってフジタを見つめることで、日本がどう近代を受容したのか、そしていまフジタと比べ成熟したのか、それを問いたかった」
 銀色に輝く水田など幽玄的な風景をとらえた映像は、デジタル撮影の威力が発揮されている。
 「前作『埋もれ木』からデジタルにしたが、10年経って別物に進化していた。見たこともない絵をつくるだけでなく、最もとらえにくい自然に対しても、とても有効だ」(小原篤)


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監督自身が「伝記映画の構造は持っていない」というように、非常に感覚的な映画でした。いわゆる「説明調」のセリフはほとんどなく、藤田の行動を淡々と追うというスタイルです。それでいて、その一つ一つが人間・藤田を存分に描ききっていました。オダギリジョーさんの演技もはまっていました。

前半は1920年代のパリ。「五人の裸婦」に代表される独自のスタイルの絵を追求し、同時にセルフプロモーションにも入念な藤田が描かれます。

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カフェのテラスで、青木崇高さん演じる日本からやってきた画学生が、藤田を前に光太郎の「雨にうたるるカテドラル」を朗読するシーンがあります。

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一瞬映し出される藤田の心象風景。ここに佇む男は光太郎なのでしょうか、それとも藤田自身なのでしょうか。

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しかし藤田は、画学生の朗読も半ばを過ぎたあたりで、少し離れた席にいたパリジェンヌ2人にちょっかいを出します。

このシーンで小栗監督は、藤田が単なる西洋への憧れで滞仏しているのではないことを描こうとしたようです。対極的に、光太郎は西洋への憧れを強く表出した人物の象徴として捉えられています。光太郎の西洋観、それほど単純ではないのですが……。

ただ、確かに光太郎には、藤田のように「何故に我々の先輩がパリに渡り、本舞台で飽くまで西洋人と闘ってこなかったのであろうか」「すべてを棄てて自分だけは少なくとも本場所の土俵の上で大相撲をとろうという覚悟であった」という気持ちはありませんでした。

また、光太郎との比較は、戦後の行動にも表れていると、小栗監督は述べられています。

「高村光太郎のように戦争協力を反省し蟄居(ちっきょ)する、という方が日本人的でヒューマニスティックでしょう。でもフジタは明らかに近代主義者だった。パリでエトランゼ(異邦人)の中に飛び込み、闘ってつかみ取った自我があったんだと思う」

先日、NHK Eテレさんで放映された「ETV特集「FOUJITAと日本」」の中でも、同様の発言がありました。しかし、光太郎のように戦時協力を反省し、蟄居したのは少数派です。まあ、藤田のように日本を見限って再び海外に渡ったのは、さらに少数派ですが……。悲しいかな、大部分の芸術家は翼賛活動を「軍部の命令で仕方なくやったことだ」と開き直り、何くわぬ顔をして「民主主義」に転向していきました。

藤田と光太郎、一見、形は違いますが、その根底に流れているものは同一のような気がします。

映画の後半は、1940年代の日本。藤田の戦争協力の様子が、これも淡々と描かれています。そして戦後の藤田については語られていませんが、エンドロールの直前に、再び渡仏した藤田が、昭和41年(1966)に自身の設計でランス市に建てたノートル・ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂と、その内部のフレスコ画―磔刑に処されるイエスを見つめる群衆の中に描かれた藤田最後の自画像―を提示し、戦後の藤田を暗示していました。

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「彼の分裂とゆがみは、100年経った今の私たちにとってもひとごとではない。深く引き裂かれた人物として、ある悲しみをもってフジタを見つめることで、日本がどう近代を受容したのか、そしていまフジタと比べ成熟したのか、それを問いたかった」という、小栗監督の言葉が重くのしかかるエンディングでした。

余談になりますが、映画を観ていて驚いたことが一つ。何と、当方の住む千葉県香取市佐原地区ででロケが行われていました。それ自体は珍しいことではなく、重要伝統的建造物群保存地区に指定されているので、様々な映画やドラマなどの撮影がしょっちゅう行われているのですが(嵐の二宮和也さん主演、フジテレビさんの2016年新春スペシャルドラマ・夏目漱石原作「坊ちゃん」のロケも、つい数日前に行われていました)、この映画のロケが行われていたのはまったく知らなかったので、スクリーンに地元の町の風景が映った時には驚きました。

しかし、最近のデジタル技術の進歩は凄いものですね。香取市の風景の中でも、存在しない海が遠景に写っていたり、古い街並みのカットでは、逆にあるはずの新しい建物が写っていなかったりしていました。撮影後に修正しているのでしょうが、全く違和感がありませんでした。

デジタル技術の進歩という意味では、特に映画後半の幻想的な日本の風景を描いた部分が、非常に印象的でした。

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ぜひ、ご覧下さい。


ところで、パリといえば、昨朝から悲しいニュースが飛び込んできています。『日刊スポーツ』さんに載った、昨日の小栗監督らの舞台挨拶を報じる記事から。

「FOUJITA」初日にパリでテロ 小栗監督沈痛

 オダギリジョー(39)主演映画「FOUJITA-フジタ-」(小栗康平監督)初日舞台あいさつが14日、都内の角川シネマ有楽町で行われた。
 「FOUJITA-フジタ-」は1920年代のフランス・パリと1940年代の日本を生きたフジタを通し、時代と文化の差異を描いた。昨年9月15日に都内で撮影し、1カ月のフランスロケを経て、同12月15日にクランクアップした。初日を迎えたこの日、フランス・パリで同時多発テロが発生し、120人を超える人が亡くなった。小栗監督は舞台あいさつの冒頭に、沈痛な表情で事件について語った。
  「パリで、とても不幸なことが起きました。この映画のキャッチコピーは『パリが愛した日本人、あなたはフジタを知っていますか?』となっています。1920年代と40年代の日本とパリを、フジタを通して描いた作品です。20年代から数えますと、ほぼ100年近く時代がたっていますけれど、欧州はどういう社会なのか、あるいはアジアは欧州と違ってどうなのか…この封切りの初日に、パリのテロを受けて、あらためて私は考えました。もしかしたら、この『FOUJITA-フジタ-』で描いている世界も、14年から振り返って遠い昔のことではないんだと。今に結び付く問題が、この映画の中にもあるんだろうな、ということをあらためて今朝、しみじみと考えました」

犠牲になられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月15日

昭和12年(1937)の今日、銀座の服部時計店で、光太郎の実弟にして、後に鋳金の人間国宝となる豊周らが中心となった、実在工芸美術会同人作品展が開幕しました。

愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さんから、企画展の情報です。平塚市美術館さんから始まった同じ企画展の巡回です。 
会 期 : 2015 年11月17 日(火) ~12月20 日(日)
時 間 : 10:00 ~ 18:00(入場は17:30 まで)
会 場 : 碧南市藤井達吉現代美術館 愛知県碧南市音羽町一丁目1番地
休館日  月曜日( ただし11月23日(月・祝)は開館し、11月24日(火)は休館)
料 金 : 一般800(640) 円、高大生500(400) 円、小中学生300(240)円
       ※()は20名以上の団体

主 催 : 碧南市藤井達吉現代美術館、碧南市、碧南市教育委員会、読売新聞社、
      美術館連絡協議会

 古来、西洋では「絵は黙せる詩、詩は語る絵」といわれてきました。日本でも画賛(がさん)、詞書(ことばがき)が絵画の重要な役割を果たし、「詩書画」の一致を成してきました。一方、日本の近代洋画は、文学からの自立を目指した西洋近代美術の影響のもとで始まっています。特に印象派以後、新しい造形表現を積極的に取り入れた結果、実に多様な作品がうまれました。しかし、現実の生きた情感から浮き上がった作品が多く生まれたことも事実です。こうした中で、村山槐多、長谷川利行、古賀春江、三岸好太郎、山口薫などは、西洋近代美術に学びながらも、文学性、詩情を拠りどころとして優れた作品を残しています。さらにまた、詩の世界では宮沢賢治、立原道造、草野心平らが独自性のある絵を描いています。ある意味では、モダニズムが斥けてきた詩情、文学性を活かすことで、日本独自の絵画が成立したといえます。
  近年では、一部の画家たちが積極的に詩の世界に接近し、新しい表現を生み出そうとしています。本展は、明治から現代までの画家と詩人の絵画と詩を一堂にあつめ、絵画と詩の密接なつながりを検証するものです。
 
画家
 小杉未醒、青木繁、竹久夢二、萬鐡五郎、藤森静雄、恩地孝四郎、田中恭吉、中川一政、長谷川利行、古賀春江、川上澄生、村山槐多、谷中安規、三岸好太郎、棟方志功、長谷川リン二郎、難波田龍起、山口薫、香月泰男、南桂子、松本竣介、浅野弥衛、飯田善國、草間彌生、田島征三、芥川麟太郎、藤山ハン、難波田史男、イケムラレイコ、瓜南直子、O JUN、小林孝亘、鴻池朋子、村瀬恭子、伊庭靖子
 
詩人
 正岡子規、高村光太郎、北原白秋、木下杢太郎、萩原朔太郎、佐藤春夫、西脇順三郎、宮沢賢治、佐藤一英、尾形亀之助、稲垣足穂、岡崎清一郎、富永太郎、小熊秀雄、北園克衛、瀧口修造、草野心平、中原中也、長谷川四郎、まど・みちお、立原道造、三好豊一郎、新国誠一、木島始、春日井建、吉増剛造、田畑あきら子、山本陽子

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関連行事

■記念講演会 
<第1回>
 日 時 2015年11月21日(土) 午後2時~3時30分
 講 師 酒井忠康 氏 (世田谷美術館 館長)
 内 容  「画家の詩、詩人の絵」
 場 所 大浜まちかどサロン2階(美術館向かい)
 定 員 先着60名 (定員になり次第締切)
<第2回>
 日 時 2015年11月28日(土) 午後2時~3時30分
 講 師 馬場駿吉 氏 (名古屋ボストン美術館 館長)
 内 容 「詩と絵画」
 場 所 大浜まちかどサロン2階(美術館向かい)
 定 員 先着60名 (定員になり次第締切)
【申込方法】  聴講無料。2015年10月20日(火)より受付します。お電話にて、住所、氏名、電話番号、参加人数をお知らせください。

■ミュージアムコンサート ~セントラル愛知交響楽団メンバーによる室内楽コンサート~
 FM愛知”おはクラサタデー”などでもお馴染みの山本雅士ナビゲーターによるミュージアムコンサート。展示されている絵にちなんだ曲目を中心におもしろいエピソードを交えてお楽しみいただきます。
 日 時 2015年12月5日(土) 午後7時~午後8時
 出 演 セントラル愛知交響楽団 弦楽四重奏
 内 容 モーツァルト:ディベルティメントK.136より 宮澤賢治:星めぐりの歌ほか
 定 員 100名 
 参加費 無料(展覧会の観覧には観覧料が必要です)
 場 所 美術館1階 エントランスホール
【申込方法】  2015年10月20日(火)午前10時より受付を始めます。お電話にて、住所、氏名、年齢(学年)、電話番号、参加人数をお知らせください(先着順)。参加費は当日徴収いたします。

■ワークショップ
 日 時 2015年12月6日(日) 午後1時~午後4時
 内 容 「木版で造るオリジナル便箋」
       自分だけの文様を彫った木版で、便箋やハガキを作ろう!
 対 象 中学生以上
 定 員 15名 (定員になり次第締切) ※汚れてもいい服装でお越しください
 参加費 500円
 場 所 美術館地下1階 創作室
【申込方法】  2015年10月20日(火)午前10時より受付を始めます。お電話にて、住所、氏名、年齢(学年)、電話番号、参加人数をお知らせください(先着順)。参加費は当日徴収いたします。

★参加型プログラム
 日 時 2015年11月17日(火)~12月20日(日) 会期中随時
 内 容 「あなたも挑戦! ―語りかける絵、彩られた詩―」
      絵や詩から連想したことを自由に書いてみよう!
 参加費 無料
 場 所 展示室周辺
 対 象 ご観覧の方どなたでも 
※お申し込みは不要です。ご来館の際は是非お気軽にご参加ください。

■ギャラリー・トーク
当館学芸員が展示作品の解説を行います(約30分)。
 日 時 12月: 12日(土)、19日(土) 午後2時より
 備 考 予約不要・観覧券をお持ちの上、美術館2階ロビーにお集まりください。


光太郎の作品は3点展示されます。

大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」。それから同年に描かれた洋酒の瓶と果実を描いた「静物」、そして新潟・佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女を描いた「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)です。このうち「日光晩秋」は、図録に掲載があるものの、平塚市美術館さんでは展示されませんでした。今回は並ぶそうです。

同館は一昨年にやはり全国巡回の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」展を開催して下さりました。館周辺の街並みも趣深く、いいところです。ぜひ足をお運びください。

この「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」展、平塚市美術館さんを皮切りに、以下の日程で全国巡回が予定されています。

2015年11月17日(火)~12月20日(日)  愛知県碧南市藤井達吉現代美術館
2016年2月13日(土)~3月27日(日)  姫路市立美術館
2016年4月9日(土)~6月12日(日)   栃木足利市立美術館
2016年6月18日(土)~8月7日(日)   北海道立函館美術館


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月7日

昭和63年(1988)の今日、大和書房から精神科医・斎藤茂太の『ベスト・カップル ワースト・カップル―しあわせを呼ぶ相性判断』が刊行されました。

当時はまだ時代遅れとされていなかったクレッチマ000ーの性格類型論を元に、女性向けに書かれた恋愛論です。読み物としては面白いと思いました。

「あなたが百恵さんのような落ちついたタイプだったら」「あなたがおしんのようなしっかりタイプだったら」「キミが我の強いタイプ、たとえばスカーレットのような女性だったら」といった、時代を感じさせる項目(「スカーレット」はスカーレット・オハラ。『風と共に去りぬ』のヒロイン――昭和の頃は註も必要なかったのでしょう)に混ざって、「あなたが智恵子のような濃やかな人だったら」という章があります。ちなみにもう一つは「あなたがサザエさんタイプの明朗女性だったら」。

女性の皆さん、あなたは何タイプですか(笑)?

藤田嗣治(明治19年=1886~昭和43年=1928)。独自の乳白色を用いた裸婦画などで、エコール・ド・パリを代表する画家の一人となりました。東京美術学校彫刻科を卒業した光太郎は、同科研究生を経て、明治38年(1905)に同校西洋画科に再入学しましたが、その際の同級生に藤田が居ました。藤田は光太郎の3歳下(すなわち智恵子と同じ)になります。ちなみに岡本太郎の父・一平や、社会主義運動にも関わった望月桂も同級生でしたし、教授陣は黒田清輝、藤島武二らと、多士済々、きら星の如しですね。

光太郎と藤田の直接の交流はこの時期だけでした。藤田は同校卒業後、光太郎とほぼ入れ違いに渡仏、活動拠点をそのままパリに置きます。昭和に入ってから帰国、光太郎同様、泥沼の戦争に巻き込まれ(あるいは積極的に関わり)、戦後には戦争協力を批判され、また渡仏。結局、フランス国籍を取得、日本に帰ることなく昭和43年(1968)にスイスで歿しました。

そんな藤田を主人公にした日仏合作の映画が製作され、今月14日に封切られます。 

FOUJITA ―フジタ―

公  開 日 : 2015年11月14日(土) 全国ロードショー
場    所 : 角川シネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか
出    演 : オダギリジョー 中谷美紀 アナ・ジラルド、
         アンジェル・ユモー マリー・クレメール 加瀬亮 
りりィ 岸部一徳 他
製    作 : 井上和子、小栗康平、クローディー・オサール
監督・脚本  : 小栗康平
音    楽 : 佐藤聰明
配    給 : KADOKAWA

 2015年/日本・フランス/日本語・フランス語/カラー/126分
© 2015「FOUJITA」製作委員会/ユーロワイド

『死の棘』で第43回カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ&国際批評家連盟賞をダブル受賞、『泥の河』『伽倻子のために』『眠る男』など海外でも高く評価される小栗康平監督の、十年ぶりとなる最新作だ。パリで絶賛を浴びた裸婦は日本画的でもあり、大東亜の理想のもとに描かれた“戦争協力画”は西洋の歴史画に近い。小栗監督は「これをねじれととるか、したたかさととるか。フジタは一筋縄で捉えられる画家ではない」と語る。戦後、「戦争責任」を問われたフジタはパリに戻り、フランス国籍を取得。以来、二度と日本の土を踏むことはなかった。フジタは二つの文化と時代を、どう超えようとしたのか。
フジタを演じるのは、韓国の鬼才キム・ギドク監督作品に出演するなど海外での活躍も目覚ましいオダギリジョー。フランスとの合作は本作が初めてである。映画の半分を占めるフランス語の猛特訓を受けて、見事にフジタを演じた。フジタの5番目の妻・君代役には、『電車男』『嫌われ松子の一生』『縫い裁つ人』などで名実ともに日本を代表する女優 中谷美紀。さらに、加瀬亮、りりィ、岸部一徳ら味わい深い個性派が集まった。フランス側のプロデューサーは、世界的大ヒットとなった『アメリ』のほか、アート系の作品も数多く手掛けるクローディー・オサール。静謐な映像美で描く、フジタの知られざる世界が現出した。


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単に光太郎の同級生を主人公としているだけでなく、劇中に光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」が使われているというのです。この詩は大正10年(1921)に復刊成った第二次『明星』創刊号を飾った詩で、パリ留学中に訪れたノートルダム・ド・パリをモチーフに、圧倒的な西洋美術の重厚感を謳った100行を超える大作です。藤田にしても光太郎にしても、当時の美術家達が「西洋」をどう受容していったのか、という経緯を考える上で、この作品は格好の題材となるでしょう。

さて、一昨日になりますが、NHKEテレさんの「ETV特集 FOUJITAと日本」で、小栗康平監督がご出演、映画「FOUJITA」について語られていました。事前に把握していなかったので紹介できませんでした。申し訳ありません。ただ、再放送がありますので、ご紹介します。

ETV特集「FOUJITAと日本」

NHKEテレ 2015年11月6日(金)24:00~25:00=11月7日(土)午前00:00分~1:00

戦後70年の今年、画家・藤田嗣治を再発見しようとする試みが進む。フランスで初公開の作品、初めて一同に公開される戦争画。小栗康平監督による映画化などから実像に迫る。

藤田嗣治。パリで最も有名な日本人画家でありながら、戦争画を描いたことをきっかけに日本を離れ、フランスに帰化、日本ではその実像が厚いベールに覆われてきた。戦後70年の今年、再評価が進む。小栗康平監督による初の映画化、その生涯を日本の近代化の中で見つめるという。フランスでは遺族が寄贈した数々の遺品が初公開され、東京国立近代美術館では初めて戦争画が一同に公開される。戦争画の真実とは?画家の実像に迫る。

演 小栗康平  語り 中條誠子

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映画、テレビとも、ぜひご覧下さい。



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こちらもぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月2日

平成12年(2000)の今日、新橋演舞場で、松竹製作、津村節子さん原作の舞台「智恵子飛ぶ」が開幕しました。

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智恵子役は片岡京子さん、光太郎役は平幹二朗さんでした。

昨日は愛車を駆って埼玉、栃木方面に行っておりました。000

まずは埼玉県加須市のサトヱ記念21世紀美術館さん。スポーツで有名な埼玉栄高校さんなどを含む佐藤栄(サトエ)グループさんによる私設美術館で、同じ傘下の平成国際大学さんが隣接していました。関東平野のど真ん中といった場所なので、広大な土地が利用可能だったようです。

こちらでは、先週から「生誕130年記念 斎藤与里展 ~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~」という、光太郎の盟友・斎藤与里(明18=1885~昭34=1859)にスポットを当てた企画展を開催中です。加須が与里の故郷であり、晩年の20年間を過ごした地でもあることによります。

「日本庭園と彫刻と絵画の美術館」というキャッチフレーズのとおり、門をくぐると、広大な庭園と、ブロンズ彫刻の数々。中にはロダン、佐藤忠良、舟越保武、橋本堅太郎など、光太郎ゆかりの作家の作品もありました。

庭園も立派で、もう少し経つと紅葉も見られるのかな、と思いました。池の鯉は非常に元気でした(笑)。

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館内に入り、まず常設展を拝観しましたが、こちらにもロダン作品が多数、さらに荻原守衛の「女」まであり、驚きました。

さて、企画展。80点ほどの与里の絵画作品が中心で、中村屋サロン美術館さんの特別展示でも感じましたが、どれも温かみのあるいい絵でした。下記はチラシですが、クリックで拡大します。

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解説パネルにも書いてありましたが、与里はその生涯に於いて、一定の画風というのは持たず、常に進化を続けようと模索を続けていました。もちろん、そ001の根底には一本の芯が通っているのですが、青年期と晩年では、大きく画風が異なっていました。また、一見似たように見える同時期の作品群でも、筆致が少しずつ変化していくさまも見えました。

絵画以外の資料も充実していました。光太郎との接点であるヒユウザン会(のちフユウザン会)がらみの展示を特に興味深く拝見しました。

一番驚いたのは、大正元年(1912)11月23日、与里が青森の安田秀二郎に宛てた巻紙墨書の書簡。第1回ヒユウザン会展の直後で、安田はこの時、光太郎の油絵「自画像」を購入しています。右の画像のものですが、作品自体はのちに焼失してしまいました。

書簡には、この自画像が売れた後の光太郎をおちょくる戯画が描かれています。題して「顔の売れた侠客」。

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この書簡の存在は知っておりましたが、現物は初めて見ました。

このあたりの資料は、連翹忌ご常連の佐々木憲三氏のご提供でした。佐々木氏はこの企画展の関連事業として、来年に講演をなさいます。受付でそのチラシを戴きましたので、貼り付けておきます。

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さて、サトヱ記念21世紀美術館さんをあとに、次なる目的地、栃木県佐野市の佐野東石美術館さんを目指しました。こちらでは、「木彫の美-高村光雲と近現代の彫刻-」が開催中です。もう少し早く行くつもりだったのですが、何やかやで昨日になってしまいました。

佐野市は近年、「佐野ラーメン」で有名になりましたが、旧街道沿いにレトロな建築が立ち並ぶ、郷愁溢れる町でした。

同館はコンクリートの原料や線路の敷石などに使われる砕石を扱う東京石灰工業株式会社の社長だった・故菊池登氏が、文化教養の高揚に寄与する目的で設立されたとのこと。本社ビルの一角が美術館となっていました。

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「高村光雲と近現代の彫刻」と銘打たれていましたが、光雲作品は2点のみでした。大正9年(1920)の「牧童」、昭和7年(1932)の「狛犬」です。

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 また、光雲の盟友で東京美術学校での同僚でもあった石川光明、光雲の弟子の山崎朝雲、平櫛田中、さらにそれらの弟子―つまりは光雲の孫弟子―に当たる作家の作品が多く、「光雲の系譜」的な感じでした。

ただ、そうした系譜の作家の中には、独自色を出そうとするあまり、かえってそれが「臭み」となって、「これはどうなのかなあ」と思わせるような作もありました。師の引き写し、守旧一辺倒ではむろん駄目なのでしょうが、独自色も出し過ぎでは自らの首を絞める結果になり、難しいところですね。

光雲の弟子、といえば、陶芸家の板谷波山も東京美術学校彫刻科の卒業生です。しかし、彫刻ではなく、陶芸の道に進み、そちらで名を為しました。波山の作品も展示されていました。

帰りがけ、受付で光雲の「牧童」のポストカードが目にとまり、購入してきました。これはここでしか手に入らないと思います。

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サトヱ記念21世紀美術館さんの「生誕130年記念 斎藤与里展 ~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~」は来年3月13日まで、佐野東石美術館さんの「木彫の美-高村光雲と近現代の彫刻-」は12月20日までです。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月31日

大正8年(1919)の今日、智恵子の母校・日本女子大学校の同窓会誌『家庭週報』第539号に、評論「展覧会の作品批評を求められて」が掲載されました。

NHKさんの朝ドラ「あさが来た」。日本女子大学校創立のために尽力する広岡浅子の生涯を追っているものですが、はまっています。

12月に智恵子の故郷二本松で市民講座「智恵子講座’15」の講師を仰せつかっておりまして、テーマが「成瀬仁蔵と日本女子大学校」。そこで改めていろいろ調べ始めましたが、広岡浅子と智恵子が一緒に写った写真や、同じ会合に出席していた記録なども見つかりました。くわしくはのちほど。

埼玉県から企画展情報です。今夏、新宿の中村屋サロン美術館さんの特別展示で扱われた、光太郎の盟友・斎藤与里の生誕130年記念展が与里の故郷で開催されます。 

生誕130年記念 斎藤与里展 ~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~

場 所 : サトヱ記念21世紀美術館  埼玉県加須市水深大立野2067 
期 日 : 2015年10月24日(土)~2016年3月13日(日)
時 間 : 10:00~17:00
休館日
 : 月曜日(11/23、1/11は開館し、11/24、1/12は休館)
      年末年始休館(12/24~1/12は休館)
料 金 : 一般 900円、大学生・高校生 700円、小中学生 600円、障害のある方 500円
主 催 : 加須市、加須市教育委員会、サトエ記念21世紀美術館

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加須市サイトより
~郷土の偉人・斎藤与里の作品や功績を紹介~
加須の偉人・斎藤与里の生誕130年を記念し、加須市、市民および「サトエ記念21世紀美術館」(加須市水深)等が収蔵する作品を中心に、約80点を一堂に集め展示します。
 皆さん、ぜひご観覧ください。
■斎藤与里とは…■
斎藤与里(さいとうより・1885~1959) … 岸田劉生、高村光太郎らとフュウザン会を結成、ゴッホやセザンヌを日本へ初めて紹介するなど日本近代美術史上において重要な役割を果たした芸術家。
日本人独自の油彩画を目指し辿り着いた絵画世界は、牧歌的な風景の画題の裏に、日本の伝統的な絵画が源氏物語絵巻や浮世絵など線と色面から構成される平面性を重視したものである。
加須市では、加須市名誉市民第1号(加須第1号)として顕彰しているほか、「加須の偉人」の一人として位置づけている。

美術館サイトより
 開館より15年目の秋を迎えるサトエ記念21世紀美術館では、加須市ならびに加須市教育委員会との共催により、生誕130年記 念斎藤与里展~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~』を開催いたします。
 斎藤与里(さいとう より・1885~1959)は埼玉県加須市に生まれ、青年期に20世紀初頭のフランスに留学して以降、技法の習得や鍛錬を学ぶことが主流であった当時の美術界においては先駆的に、オリジナリティを重視する日本人独自の油彩画の創出を志した日本近代美術史を代表する芸術家です。全国各地にて創作活動だけでなく著述や後進たちへの指導を行うなど精力的な活動を行いますが、晩年の約20年は、故郷・加須に『草香居』と名付けたアトリエを構え、毎年のように画風を変遷させながら独自の芸術
世界を確立します。自らの理想郷と呼ぶべき愛する郷里において、牧歌的で詩情豊かな風景や人物を描くことに到達した与里の作品は、現在も多くの人々の心を動かし続ける不思議な魅力に満ちています。
 本展では留学時代から晩年までの生涯を回顧し、フュウザン会、日展、東光展などに出品された代表作を中心に約80点余を一堂に集め展覧いたします。芸術家・斎藤与里の画業をご堪能いただける機会となれば幸いです。

関連行事
○第1回ミュージアムトーク
 「斎藤与里・日本最初の反アカデミスムの画家」
 講師:関根秀一氏(流通経済大学教授・美術史)
 日時:2015年11月29日(日) 14:00~

○第2回ミュージアムトーク
 「斎藤与里・画家としての軌跡」
 講師:佐々木憲三 氏(美術文献研究家)
 日時:2016年2月14日(日) 14:00~

 会  場: サトエ記念21世紀美術館エントランスホール
 時  間: 各回、約1時間30分程度
 定  員: 座席数(約100席)に限りがあり、着席は先着順とさせていただきます。
 その他: 聴講・鑑賞には展覧会入館券が必要となります。


第2回講師の佐々木憲三氏は、連翹忌ご常連のお一人。これは行かざあなるまい、というところです。皆様もぜひどうぞ。


ところで、同じ埼玉つながりで、昨日、さいたま市の大宮ソニックシティ大ホール行われた第68回全日本合唱コンクール全国大会高校の部について。

光太郎の詩に曲をつけたもの――を自由曲を選んだ学校が2校あり、そのうち、高校Bグループ(33人以上)で、三好真亜沙さん作曲の「女声合唱とピアノのための「冬が来た」」中の「冬の奴」を演奏した東京の豊島岡女子学園高等学校コーラス部さんが、みごと銀賞。高校Aグループ(8~32人)で、智恵子の後輩にあたる日本女子大学附属高等学校コーラスクラブの皆さんが、鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための組曲 智恵子抄」」中の「裸形」を演奏し、こちらは残念ながら参加賞に当たる銅賞でしたが、出場できるだけでもすごいことですので、胸を張ってほしいものです。


主催に名を連ねる『朝日新聞』さんのサイトに載った東京版の記事から。

東京)豊島岡女子が銀、国学院久我山が銅 合唱コン高校

 さいたま市の大宮ソニックシティで24日に開かれた第68回全日本合唱コンクール(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の高校部門で、都代表の豊島岡女子学園は銀賞、国学院久我山は銅賞を受けた。
 高校B(33人以上)の豊島岡女子学園は、最高賞の文部科学大臣賞を受けた2010年以来2度目の全国大会。厳しい冬に負けそうになる自分に打ち勝つ高村光太郎作詞の「冬の奴」を歌った。寺西美月部長(2年)は「今までの気持ちを全部ぶつける思いで歌いました。すごく楽しかった」と語った。銀賞を受け、「ほかの学校の演奏を聴いて、まだまだ課題が残っていると耳で実感しました。妥当な結果だったと思う」と話した。
 高校A(8~32人)の国学院久我山は幻想的な「ねぼすけぼうず」などを歌った。中高一貫の同校はこれまで中学生だけの女声の音楽部で全国大会に3度出場の実績があるが、「歌い続けたい」という生徒の希望で昨春に高校生を含めた部となった。今回は中学生も含め部員全員17人で高校部門に初出場を果たした。
 大矢早彩(さあき)部長(2年)は中1のときに全国で金賞を受け、「先輩たちに恩返ししたいと取り組んできた」という。人数は出場校で最少。「少人数ならではの強みをいかし、繊細に丁寧に歌えました。後輩には『やりたい音楽をやれば結果はついてくる』と伝えたい」と話した。(青木美希)

豊島岡女子さんの動画がこちら

神奈川版から。 

神奈川)清泉女学院が金賞 全日本合唱コンクール

 さいたま市の大宮ソニックシティで24日に開かれた第68回全日本合唱コンクール(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)高校部門で、関東支部代表としてAグループ(8~32人)に出場した清泉女学院が金賞に輝いた。日本女子大付属は銅賞を受けた。
 清泉女学院は、自由曲で新川和江作詩、鈴木輝昭作曲の「終(つい)の日のわたしを焼く…」を披露。後半部のユニゾンでは、「死」と向き合う中で自己犠牲の言葉をたたみかけるように発する場面を、万感の思いを込めて歌い上げた。
 部長の伊藤瑠那さん(2年)は「今までやってきたことと仲間を信じ、心を一つに最高の演奏ができた。訴えたいことはすべて客席に届けられました」。指揮をした佐藤美紀子顧問は「心を合わせて強さが出せた。私にも幸せなひとときだった」と部員をたたえた。
 7回目の出場を果たした日本女子大付属の自由曲は高村光太郎作詩、鈴木輝昭作曲の「裸形」。妻智恵子への深い愛をつづった詩を、力強く、また女声合唱ならではの伸びやかで透き通った歌声で表現した。
 部長の豊田彩織さん(3年)は「男性の愛を女性で高校生の私たちが表現する難しさはありましたが、自分たちのできる最高の演奏ができました」と語った。指揮をした丸山恵子講師も「みんな集中してがんばりました」とねぎらった。


こうした活動を通し、若い世代にも光太郎智恵子の世界が受け継がれていってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月25日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、近くの山口小学校の校訓として「正直親切」の書を揮毫しました。

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この文字を刻んだ碑は、山口小学校跡、光太郎も通った東京の第一日暮里小学校さん、埼玉東松山の新宿小学校さんにそれぞれ建てられています。

昨日、神奈川県平塚市で、企画展「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」を見て参りましたのでレポートいたします。

会場の平塚市美術館さんは、JR東海道線平塚駅から徒歩20分ほど。なかなか立派な外観でした。入り口には大きなポスターも。

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受付でチケットを購入、企画展会場の2階に上がりました。

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展示会場は2室に分かれており、第1会場が「画家の詩」でした。「画家の詩」といっても、メインは絵画で、それぞれの画家が作った詩がパネルに活字で印刷され、絵画と並べられていたり、画家によっては詩稿などが展示されていたり、といった構成でした。

光太郎と交流の深かった画家も多く取り上げられていました。フユウザン会を一緒に立ち上げた萬鉄五郎、その特異な才能を認め、詩「村山槐多」に詠んだ村山槐多、駒込林町ですぐ近所に住んでいた難波田龍起、主宰した雑誌『雑記帳』に詩を寄稿した松本竣介、智恵子とも顔見知りだった竹久夢二、翻訳『回想のゴツホ』(大正10年=1921)出版に際し、写真を貸してくれた中川一政などなど。

展示室2は、「詩人の絵」でした。入ってすぐに光太郎の油彩画2点が展示されていました。

まず「静物(瓶と果物)」。大正3年(1914)の作です。この年、光太郎が始めた「高村光太郎画会」による作品と推定されています。油絵を購入してもらうための会で、雑誌『我等』(下記画像)、『現代の洋画』に広告を出しています。

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もう一点は、「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)。与謝野夫妻を通じて交流のあった新潟佐渡の歌人、渡辺湖畔の娘で、この年に3歳で夭折した道子の肖像です。この絵に関しては、渡辺湖畔あての書簡でその成立過程がわかります。

又御手帋にて御話の御愛嬢の事につきては 御悲嘆のほど察上候 御写真にて拝見してもいかにも無邪気に見うけられ候 元来写真によりて作る事はまことに苦しきものに候へ共 御言葉により ともかくも油画にて試み可申候 しかし此はとても小生自身満足し得るもの出来難からんと思はれ候 此事は前以てお含み置き被下樣願上候 (大正7年=1918 7月8日)

 あの愛らしいみち子さんの方は 初め木炭でいろいろ素描を試み今早朝の時間を以て八号のカムバスへ油画に致して居ります あの無邪気な晴朗とした面影を捉へたいと念じて居ります
 多分今月末にはとにかく一応お目にかけ得る程になるかと思ひます 其時は画を一旦御送附いたします故 み親としての御考をよく御きかせ下さるよう御願いたします 何しろ一度もお目にかかつた事が無いので甚だ心細く思つて居りますから 御考をきいた上で最後の筆を加へたいと思つて居ります (同 8月23日)

10月には光太郎は佐渡の渡辺家を訪れています。道子の肖像以外にも、渡辺の父・金六の肖像彫刻の依頼も受けていたためです。ただし、この彫刻は完成しませんでした。次は東京に帰ってからの書簡です。

製作上の参考となる事多く満足此上も無く候 此印象の薄れぬうち早速みちこ様の油画をかき上ぐる心筭に有之候 (同 10月12日)

そして12月には絵が完成しました。

 みち子嬢の油画はやつと出来ました 明日荷造りをしてお送りします 丈夫に荷造りいたしませう 此は元来私に到底出来ない仕事でありましたが 御心を汲むととてもお断り出来なかつたので兎に角かき上げましたが 作としては自信はとてもありません 私は写真から製作する事はどうしてもうまくゆかないのです しかし自分に出来るだけの事は尽しました 御覧になつた上お気付きの事がありましたら言つて下さい そしてお送り下されば又筆を入れませう それから此画には私の名を入れません 其は私の良心がゆるしませんから 此事は御承知下さるやう御ねがひします 名は入れませんが無責任にかいたのではありません 此事は御領会下さる事と信じます (同 12月25日)

 昨夜手がみで申上げた油画の荷造を終り今夕関根運送店に托して御送りいたしました故御受取り下さい。荷は「此処カラ開ケル事」と書いてある板をはづして下されば中から画を引き出せる事になつてゐますから箱を壊さずとも出ます。画面に若し木屑等の細末が附着してゐましたら奇麗な筆のやうなもので静かに払つて取つて下さい。まだ十分に乾いていませぬから事によると着いているかも知れません。御取扱に御注意下さるやう願ひます。荷が無事に着くやうにと祈つてゐます。御意見を聞いた上で写真は後にお返し致します。 (同 12月26日)

光太郎の細やかな心遣いが溢れていると思います。

光太郎の作品はこの2点でした。帰りがけに購入した青幻舎さん刊行の図録を兼ねた書籍『画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』では、もう一点、大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」も掲載されていましたし、今月初めに平塚市美術館さんに問い合わせた際にはそちらも並ぶ的なお話だったのですが、不出品でした。この企画展自体は来年8月まで全国を巡回しますので、いずれかの会場には並ぶと思います。

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光太郎の他に絵画が展示されていた詩人は以下の通りです。一番右の「展示」という項目で、展示替えや不出品の情報がありますので、ご注意下さい。

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光太郎と交流の深かった詩人では、北原白秋、木下杢太郎、萩原朔太郎、佐藤春夫、宮澤賢治草野心平、中原中也などが挙げられます。

ちなみに上記画像は展示室2の出品目録です。展示室1の目録も兼ねているのだろうと思っていたら、展示室2のみのもので、展示室1のものは入手しませんでした。失敗しました。

同展、平塚市美術館さんでは11月8日(日)まで、その後、下記の予定で全国巡回です。それぞれ近くなりましたらまたご紹介します。

2015年11月17日(火)~12月20日(日)  愛知県碧南市藤井達吉現代美術館
2016年2月13日(土)~3月27日(日)   姫路市立美術館
2016年4月9日(土)~6月12日(日)   栃木足利市立美術館
2016年6月18日(土)~8月7日(日)   北海道立函館美術館


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月24日

平成10年(1998)の今日、筑摩書房から「ちくま文庫」の一冊として、橋本千代吉著『火の車板前帖』が刊行されました。

橋本は、草野心平と同郷。戦後、心平が開いた居酒屋「火の車」で板前を務めていました。同書は心平を巡るとんでもない酔っぱらいたちの記録ですが、「夜の高村光太郎」ということで、光太郎にも言及しています。

元版は文化出版局から昭和51年(1976)にハードカバーで刊行されました。

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神奈川県平塚市から企画展情報です。

画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく

会 期 : 2015 年9月19 日(土) ~11月8 日(日)
時 間 : 9:30 ~ 17:00(入場は16:30 まで)
会 場 : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
休館日 :  月曜日( ただし9/21、10/12は開館)、10/13
料 金 : 一般800(640) 円、高大生500(400) 円、小中学生無料
主 催 : 平塚市美術館、読売新聞社、美術館連絡協議会

 古来、西洋では「絵は黙せる詩、詩は語る絵」といわれてきました。日本でも画賛(がさん)、詞書(ことばがき)が絵画の重要な役割を果たし、「詩書画」の一致を成してきました。一方、日本の近代洋画は、文学からの自立を目指した西洋近代美術の影響のもとで始まっています。特に印象派以後、新しい造形表現を積極的に取り入れた結果、実に多様な作品がうまれました。しかし、現実の生きた情感から浮き上がった作品が多く生まれたことも事実です。こうした中で、村山槐多、長谷川利行、古賀春江、三岸好太郎、山口薫などは、西洋近代美術に学びながらも、文学性、詩情を拠りどころとして優れた作品を残しています。さらにまた、詩の世界では宮沢賢治、立原道造、草野心平らが独自性のある絵を描いています。ある意味では、モダニズムが斥けてきた詩情、文学性を活かすことで、日本独自の絵画が成立したといえます。
  近年では、一部の画家たちが積極的に詩の世界に接近し、新しい表現を生み出そうとしています。本展は、明治から現代までの画家と詩人の絵画と詩を一堂にあつめ、絵画と詩の密接なつながりを検証するものです。
 
画家
 小杉未醒、青木繁、竹久夢二、萬鐡五郎、藤森静雄、恩地孝四郎、田中恭吉、中川一政、長谷川利行、古賀春江、川上澄生、村山槐多、谷中安規、三岸好太郎、棟方志功、長谷川リン二郎、難波田龍起、山口薫、香月泰男、南桂子、松本竣介、浅野弥衛、飯田善國、草間彌生、田島征三、芥川麟太郎、藤山ハン、難波田史男、イケムラレイコ、瓜南直子、O JUN、小林孝亘、鴻池朋子、村瀬恭子、伊庭靖子
 
詩人
 正岡子規、高村光太郎、北原白秋、木下杢太郎、萩原朔太郎、佐藤春夫、西脇順三郎、宮沢賢治、佐藤一英、尾形亀之助、稲垣足穂、岡崎清一郎、富永太郎、小熊秀雄、北園克衛、瀧口修造、草野心平、中原中也、長谷川四郎、まど・みちお、立原道造、三好豊一郎、新国誠一、木島始、春日井建、吉増剛造、田畑あきら子、山本陽子

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関連行事

■ O JUN × 小林孝亘 対談「読む形・見える言葉」
日時 2015年10月4日(日) 14:00-15:30  場所 ミュージアムホール  ※申込不要、先着150名

■ 講演会 窪島誠一郎「絵を語る、詩を語る」
日時 2015年10月12日(月、祝) 14:00‐15:30  場所 ミュージアムホール  ※申込不要、先着150名

■ 学芸員によるギャラリートーク
日時 2015年10月17日(土)、10月31日(土) 各回14:00-14:40  場所 展示室Ⅱ  ※申込不要、要観覧券


というわけで、光太郎の絵画も展示されます。

光太郎の画業は、詩人でありながら絵画も手がけていた、というニュアンスではありません。特に明治42年(1909)、欧米留学から帰ってからしばらくは、むしろ画家として活動していたといっていい時期です。

欧米でロダンをはじめとする西洋近代彫刻の何たるかを学んだ光太郎は、帰国後、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界に絶望し、極力関係を絶とうとしました。文展などの展覧会等に出品すれば、「洋行帰り」「光雲の息子」という肩書きが優先され、彫刻としての価値を理解されないまま入賞することは目に見えていました。同じく洋行帰りの荻原守衛の作品もそうでした。光太郎曰く、


この珍奇のちん入者を文展の方では持てあましたらしかつたが、ともかくも技術があるので無下に排斥もならず、時には三等賞ぐらゐつけて、度量のあるところを見せたものである。彫刻の質に於いて、彼等と彼とは全くちがつてゐるのだといふことにはまるで気がつかない時代であつた。
(「荻原守衛」 昭和29年=1954)

という状況でした。

ちなみにパリで守衛が作り、光太郎が000ぜひ石膏に取って持ち帰るようにと勧めた「坑夫」は、ロダン風の荒々しいタッチが「未完成」と判断され、明治42年(1909)の第2回文展では落選の憂き目に遭っています。審査には光雲も当たっていました。

そこで光太郎は、この時期、彫刻より絵画制作に力を注ぐようになります。大正元年(1912)には、岸田劉生、斎藤与里らとヒユウザン会(のちフユウザン会)を結成、その分裂後も岸田が立ち上げた「生活社」に合流し、智恵子と過ごした上高地での油絵などを出品しています。

また、光太郎はその前後もかなり多くの絵画を描いています。東京美術学校在学中は日本画の臨書の授業があり、ここで絵画の基礎をしっかり学んでいます。フユウザン会や生活社の後も、自身の油絵の頒布会を行ったり、旅先でスケッチをしたり、書籍の挿画などでも筆を振るったりしました。戦後の花巻郊外太田村での暮らしの中でも、時折絵筆を握っています。

さて、今回の企画展に出る光太郎絵画はいずれも油絵で、3点。

大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」。平成12年(2000)、永らく行方不明だったこの絵が発見され、大きく報道されました。

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※ 9/22 追記 平塚市美術館さんでは「日光晩秋」は展示されないそうです。


それから同年に描かれた洋酒の瓶と果実を描いた「静物」、そして新潟・佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女を描いた「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)です。


この「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」展、平塚市美術館さんを皮切りに、以下の日程で全国巡回が予定されています。

2015年11月17日(火)~12月20日(日)  愛知県碧南市藤井達吉現代美術館
2016年2月13日(土)~3月27日(日)   姫路市立美術館
2016年4月9日(土)~6月12日(日)   栃木足利市立美術館
2016年6月18日(土)~8月7日(日)   北海道立函館美術館

ただ、平塚市美術館さんがそうですが、展示替えがあるそうで、常に上記3点の光太郎絵画が見られるかどうかは不明です。それぞれ近くなりましたらまたご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月6日

昭和20年(1945)の今日、花巻町で9月分の配給を受け取りました。

当日の日記の一節です。

午前米配給所にゆきて九月分(一ヶ月)をもらふ。米5キロ大豆3キロ也。かついでかへる。

数え63歳の高齢者にとって、この量がどうなのか、何とも言えません。

先週土曜日、九段下の玉川堂さんで光太郎短歌の短冊、智恵子の実妹・セキ宛の書簡を拝見した後、九段下から都営新宿線に乗り、次なる目的地、新宿に向かいました。

中村屋サロン美術館さんで開催中の「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」を拝観するのが次の目的でした。

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昨秋、開館の際の記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」、今春の「テーマ展示 柳敬助」に続き、3度目の来訪です。

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斎藤と光太郎の主な接点は以下の通り。明治43年(1910)、光太郎が神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」で個展開催、さらに、大正元年(1912)には、光太郎、斎藤、岸田劉生等が中心となって、アンデパンダンの美術団体「ヒユウザン会」(のちに「フユウザン会」)を結成、といったところです。

それ以前に、斎藤も光太郎もパリ留学経験がありますが、明治41年(1908)、光太郎がロンドンからパリに移るのと同時期に斎藤は帰国。パリでは2人のつながりはなかったようです。その後、光太郎も帰国した明治42年(1909)には、ヒユウザン会展の元になるような会の結成を図る仲間として知り合っています。共通の友人だった碌山荻原守衛が橋渡しをしたと考えられます。斎藤はこの頃、中村屋サロンに出入りしており、もしかするとそこで初めて光太郎と出会ったのかも知れません。

さて、出品目録によれば、40点の斎藤作品が展示されています。

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初期のフォービズムの影響を受けたものから、のちの童画風のものまで、なかなかバリエーション豊富。しかし、一本の筋が通っていると感じました。

大正元年の第一回ヒユウザン会展出品作の「木陰」も展示されており、つい1時間前に玉川堂さんで拝見した書簡がヒユウザン会展がらみのものだったので、不思議な縁を感じました。また、やはり1時間前に拝見した短冊が、斎藤の個展が開催された琅玕洞で販売されていたらしいというところにも。

「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」、来月27日までの開催です。ぜひ足をお運びください。

同展拝観後、同じ中村屋ビルの8階にあるレストラン「Granna」さんで早めの昼食。春に「テーマ展示 柳敬助」を見に行った際には満席&順番待ち行列で断念しましたので、リベンジです。今回は早めに行ったので大丈夫でした。中村屋純印度式カリーのコース3,000円+税のちょっと豪華なランチに舌鼓。その後、次なる目的地、文京区千駄木へ。以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月25日 

昭和25年(1950)の今日、雑誌『スバル』にアンケート回答「与謝野寛・晶子作中の愛誦歌」を発表しました。

「与謝野寛・与謝野晶子作の短歌中、特に愛誦さるるもの、若しくは御記憶に残れるもの。」という質問に対し、以下のように回答しています。

  大空のちりとはいかがおもふべきあつき涙のながるるものを

先生のこのうたが今頭に出て来ました。
晶子女史のにはむろんたくさんあるのですが今うたの言葉を思ひ出しません。

それぞれ先日ご紹介した、中村屋サロン美術館企画展示「生誕130年年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」東京都美術館「伝説の洋画家たち 二科100年展」につき、先月の『産経新聞』さんが、光太郎に触れつつ紹介しています

斎藤与里 詩情あふれる晩年作、作風の変遷たどる

 大正、昭和にかけて活躍した洋画家、斎藤与里(より)(1885~1959年)の生誕130年を記念する展覧会「斎藤与里のまなざし」が、東京・新宿の中村屋サロン美術館で開かれている。
 斎藤の代表的作品といえば「古都の春」が挙げられるだろう。旅先で訪れた家族を描写した作品。人物や事物が平面的に描出され、どことなくユーモラスで、まるで子供の絵のようだ。背後で咲き誇る桜の花のピンクが、暖かく春らしい。明朗快活な絵だ。
 斎藤は明治39年、20歳でパリに留学。後期印象派のセザンヌや象徴主義のシャヴァンヌ、さらにフォービスムの影響を受けた。明治41年に帰国してからは多くの芸術家が集っていた東京・新宿の中村屋に通い高村光太郎や荻原守衛らと交流。「木陰」などヨーロッパ美術から刺激を受けた作品を制作した。
 西洋美術から脱却したのは戦後になってから。昭和20年、戦禍を逃れ東京から生まれ故郷の埼玉県加須市に疎開。のどかな田園暮らしや農村の人たちとのつきあいで、作品は力が抜けて素朴に。さらに、60代になるとハス池で遊ぶ子供を描いた「少年の頃」など、童画的で詩情あふれる作品に変化していった。
 斎藤は「日本の絵は日本の手で作る以外にないと思います」と文章を残しているが、晩年になって自己の絵画世界を確立した。
 本展は20代から60代まで約30点を展示し、作風の変遷をたどっている。
 9月27日まで、火曜休、一般300円。(電)03・5362・7508。

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【伝説の洋画家たち 二科100年展】(中)萬鉄五郎 斬新…でも親しみ感じる油絵

 「裸体美人」などで知られる萬(よろず)鉄五郎(1885~1927年)は大正から昭和初期に活躍した画家だ。
 萬は大正6年の第4回二科展に2点の油彩画を出品した。注目を集めたのは「もたれて立つ人」。人体は幾何学的な面に解体され、機械のパーツのように組み立てられている。あたかもロボットのように。これが日本のキュービスム絵画の記念碑的作品となった。
 もう1点の「筆立のある静物」は、物の簡略化や複数の視点の描写が試みられキュービスム的傾向が見られるものの、まだ試行錯誤の段階だ。
 萬は当時の美術の本場だったパリに留学し、芸術家たちと交流したわけではない。画集などから刺激を受け、咀嚼(そしゃく)して表現した。
 この2点は二科展で岸田劉生の静物画などとともに展示された。現代から見ればとりたてて新しくはないが、1世紀も前にこんな絵画を制作したことは驚きだ。官展でない在野の二科展はこうした実験的な表現の発表の場でもあった。
 萬は岩手県東和賀郡十二ケ村(現在の花巻市)に生まれた。明治39年、20歳のとき渡米。美術学校で学ぼうとしたが、わずか半年で帰国。40年、東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学し、洋画壇の重鎮だった黒田清輝が主導した白馬会展に出品して活躍。美術学校の卒業制作が、ゴッホやマチスに影響を受けた「裸体美人」だった。半裸で草原に寝そべる女性を太い筆致で荒々しく描出し、日本のフォービスムの先駆的作品となった。
 45年には、岸田劉生や高村光太郎らが結成したフュウザン会に参加して頭角を現した。大正3年に一時岩手に帰郷し、茶褐色を主とした風景作品を制作。自己の目指す絵画を模索し、5年に上京。「もたれて立つ人」と「筆立のある静物」を第4回二科展に出品し、時代の最先端を疾走した。
 萬の描く裸婦は日本髪を結っていて、足は短め。決してプロポーションが良いわけではない。西洋人を好んでモデルにした黒田清輝の作品のように、アカデミックでもなければ洗練されてもいない。茶褐色を主体にした色彩は、土俗的で故郷の土の匂いが漂っているかのようだ。表現は斬新でありながら日本的な油彩だった。そんなところに親近感を感じる人は少なくないだろう。(渋沢和彦)

 「伝説の洋画家たち 二科100年展」は9月6日まで、東京・上野公園の東京都美術館。一般1500円ほか。問い合わせはハローダイヤル(電)03・5777・8600。

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ともに「フユウザン会」の仲間だった斎藤与里、萬鉄五郎。それぞれを紹介する中で光太郎の名が挙げられています。斎藤の記事には記述がありませんが、斎藤も「フユウザン会」のメンバーで、光太郎が「フユウザン会」を代表する作家の一人と認められているためです。こうした評価が今後揺らぐことはないとは思いますが、「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまうと、こうした際に光太郎の名は挙がらなくなるでしょう。そうならないよう、正しく光太郎の業績を次代へと引き継いでいこうと、決意を新たにいたしました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月7日

平成19年(2007)の今日、宮城県美術館で「日本彫刻の近代」展が開幕しました。

明治期から1960年代までの日本近代彫刻の歩みを概観するもので、宮城県美術館、三重県立美術館、東京国立近代美術館の3館を巡回した大規模な展覧会でした。

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とにかく出品点数が多く、さらに普段目にする機会のない珍しい作品も出品されました。

図録を兼ねた書籍『日本彫刻の近代』が淡交社さんから刊行されています。図版が掲載されているのが、光雲作品で、「矮鶏置物」、「老猿」、「鞠に遊ぶ狆」、「魚籃観音立像」、「聖徳太子坐像」、「楠木正成銅像頭部(木型)」、「楠木正成像」、「西郷隆盛像」。光太郎作品で「兎」、「裸婦坐像」、「腕」、「手」、「蓮根」、「桃」、「柘榴」、「鯰」、「うそ鳥」、「白文鳥」。当方、東京展を観に行きましたが、確か、掲載作品のほとんどが出品されていたと思います。

下記は「楠木正成銅像頭部(木型)」。珍しい写真です。

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昨日ご紹介した、東京都美術館さんでの「「伝説の洋画家たち 二科100年展」について、いろいろと報道されていますので、ご紹介します。

まず『日本経済新聞』さん。22日の水曜日、文化面にてカラーで紹介されています。光太郎の名も。

 明治末に高村光太郎が評論「緑色の太陽」で芸術家の表現の自由を高らかに宣言してから4年。二科会では留学帰りの画家らが中心となり、海外で吸収した新しい美術を世に問うた。

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光太郎自身は二科会には所属しませんでしたが、昨日ご紹介したとおり、縁の深い画家・彫刻家が名を連ねています。彼等が光太郎の「緑色の太陽」に触発されたであろうことは想像がつきます。その二科展に対して、光太郎は好意的な展覧会評も書きました。

ちなみに「緑色の太陽」は、明治43年(1910)、『スバル』に発表された日本初の印象派宣言ともいわれるもので、以下のような部分があります。
 
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。
 
 人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽として其作の格調を味ひたい。


続いて『産経新聞』さん。21日(火)の記事です 

小倉智昭さん、「二科100年展」を絶賛

 人気キャスター、小倉智昭さん(68)が21日、東京都台東区の東京都美術館で開催中の展覧会「伝説の洋画家たち 二科100年展」を訪れた。東郷青児や岡本太郎ら多くの芸術家が発表の舞台としてきた二科展の作品約120点を鑑賞し、「100年通してみられる機会はそうない。面白い」と絶賛した。
 小倉さんは鑑賞後、岡本太郎の作品「裂けた顔」(昭和35年、川崎市岡本太郎美術館蔵)を前に、「大阪万博の『太陽の塔』は有名だが、その10年前に二科展に出されていたとは。岡本作品はあまり外に出てこないので貴重」と感慨深げだった。
 日本三大公募展の1つ「二科展」は今年9月で100回を迎える。

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産経さんは同展の主催団体に名を連ねており、紙面での紹介にも力を入れているようです。先週には開催告知の大きな記事が出ましたし、一昨日には同展出品作の紹介「【伝説の洋画家たち 二科100年展】(上)岸田劉生 徹底した写実が生む神秘性」という記事も載りました。「(上)」ですので、さらに続きが出るのでしょう。


さて、「伝説の洋画家たち 二科100年展」ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月25日

明治45年(1912)の今日、詩「N――女史に」を執筆しました。

この年(ただし7月30日に大正改元)9月1日発行の雑誌『劇と詩』に発表されました。

   N――女史に000

いやなんです
あなたの往つてしまふのが――

 
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな

種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 
私の芸術を見て下すつた方
芸術の悩みを味つた方
それ故、芸術の価値を知りぬいて居る方
それ故、人間の奥底の見える方
そのあなたが、そのあなたが
――ああ、土用にも雪が降りますね――
お嫁にもうぢき行く相な
 
型のやうな旦那さまと
まるい字を書くそのあなたと
かう考へてさへ
なぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で001
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて
 
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
なぜさう容易(たやす)く
さあ何と言ひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
さうです、さうです
あなたは其の身を売るんです
一人の世界から

万人の世界へ
そして、男に負けて子を孕んで
あの醜(みにく)い猿の児を生んで
乳をのませて
おしめを干して
ああ、何という醜悪事でせう
あなたがお嫁にゆくなんて
まるで さう
チシアンの画いた画が
鶴巻町へ買喰ひに出るのです
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
私は淋しい、かなしい003
何といふ気はないけれど
恰度あなたの下すつた
あのグロキシニアの
大きな花の腐つてゆくのを見るやうな
私を棄てて腐つて行くのを見るやうな
空を旅してゆく鳥の
ゆくゑをじつと見てゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない、淋しい、焼けつく様な
それでも恋とはちがひます
――そんな怖(こは)いものぢやない――
サンタマリア!
あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい
ちがひます、ちがひます
何がどうとは素より知らねど
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
おまけに
お嫁にゆくなんて
人の男の心のままになるなんて
 
外にはしんしんと雨がふる
男には女の肌を欲しがらせ
女には男こひしくならせるやうな
あの雨が――あをく、くらく、
私を困らせる雨が――

のち、この詩は大正3年(1914)刊行の詩集『道程』に収められた際に「――に」と改題、細部もいろいろと手が入ります。さらに昭和16年(1941)には詩集『智恵子抄』の巻頭を飾ることとなります。その際の題名は「人に」と帰られました。


   人に005

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

花よりさきに実のなるやうな
種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟に合はない不自然を

どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

なぜさうたやすく
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
私は淋しい かなしい
何といふ気はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグロキシニヤの
大きな花の腐つてゆくのを見る様な006
私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて


詩としての完成度はこちらの方が高いといえます。しかし、原型の「N――女史に」の方が、ある意味、直裁に感情をぶつけている生々しさが感じられます。

改稿の際に削除された「あの醜(みにく)い猿の児を生んで/乳をのませて/おしめを干して」といった部分や、改稿後は単に「サンタマリア」という聖母マリアへの呼びかけだけになっている部分が、「サンタマリア!/あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい」と、恋の妄念、我執に囚われる自らの救済を乞い願う内容だったりと。「あの恐ろしい悪魔」は、智恵子ではありません。念のため(笑)。

東京都美術館さんで開催中の展覧会。主に絵画の分野で光太郎と縁の深かった諸作家の作品が多数展示されています。 題して「二科100年展」。大正3年(1914)に創立され、今年、100回展を迎える在野の美術団体・二科会の回顧展です。

二科会には第6回展から彫刻部が置かれ、光太郎は好意的に紹介していました。

二科の彫刻は数量的に小さい割にしつかりしてゐる。藤川勇造氏、ザツキン氏、渡邊義知氏等は十分研究に値する。二科の絵画部には新感覚の最先端から超現実派の新鋭まで存在するが、彫刻の方ではザツキン氏を除いては、概してハイカラではあるが素朴質実な道を歩いて居る。(「上野の彫刻鑑賞」 昭和4年=1929)

二科の彫刻部は一見渾沌としてゐるやうであるが、そのハイカラ性は現社会の所謂インテリゲンチヤ層の嗅覚に属する基調を持つてゐる。何処かブツキツシユであり、何処か中間的であり、何処か示唆的であり、何処か国際貿易的であり、何処か知的感傷性を持つて居り、また何処かに現社会の謂ふ所のエログロ的感電の萌芽が見える。まだ概して此の部の人達は消極的にしか、或は内部的にしか仕事してゐないからすべて之等の特性も表面に露骨には出てゐない。けれども嗅ぎわければさういふ匂がするのである。此の部がもつと隆盛になり、もつと多種の要素が加はつてその特色の発揮せられるのも遠くないだらうと思はれる処に興味がある。(「上野の彫刻諸相」 昭和5年=1930)


期 日 : 2015年7月18日(土) ~ 9月6日(日)  (すでに始まっています)
場 所 : 東京都美術館 企画棟 企画展示室 東京都台東区上野公園8-36
休館日 : 月曜日
時 間 : 9:30~17:30 (入室は閉室の30分前まで)  金曜日は9:30~21:00
観覧料 : 前売券  一般 1,300円 / 学生 1,000円 / 高校生 600円 / 65歳以上 800円
         当日券  一般 1,500円 / 学生 1,200円 / 高校生 800円 / 65歳以上 1,000円

当館創設の機をもたらした美術団体展の中でも在野の雄であった二科会。岸田劉生、佐伯祐三、小出楢重、関根正二、古賀春江、藤田嗣治、松本竣介、岡本太郎、東郷青児など、実に様々な作家たちが発表し、海外からはマティスらも参加した二科会の100年の歴史から、20世紀の日本美術史を展観します。

関連行事 : イブニングレクチャー 19:00~19:30  聴講無料
      ただし本展観覧券(半券可)が必要
 7月24日(金)「100回展、そして…」 生方純一(公益社団法人二科会 常務理事)
 7月31日(金)「二科草創期の個性派たち」 川内悟(公益社団法人二科会 常務理事)
 8月7日(金)  「戦後からの二科会」 松室重親(公益社団法人二科会 常務理事)
 8月14日(金) 「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ
平方正昭(東京都美術館学芸員)
 8月21日(金) 「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ
平方正昭(東京都美術館学芸員)
 8月28日(金) 「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ
平方正昭(東京都美術館学芸員)

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「光太郎と縁の深かった諸作家」と書きましたが、出品リストで見ると、以下の名前が挙げられます。

有島生馬、石井柏亭、岸田劉生、熊谷守一、坂本繁次郎、津田青楓、中川一政、藤川勇造、藤田嗣治、松本竣介、村山槐多、安井曾太郎、山下新太郎、萬鉄五郎、アンリ・マティス、などなど。


9月~11月には大阪市立美術館、11、12月で福岡の石橋美術館への巡回もあります。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月24日

昭和2年(1927)の今日、長野県小諸の懐古園に島崎藤村の「千曲川旅情の歌」詩碑が除幕されました。

碑面は藤村の自筆原稿から作ったブロンズのパネル。鋳造は光太郎の実弟にして、のちに鋳金分野で人間国宝となる高村豊周です。今でこそブロンズパネルの文学碑は珍しくなくなりましたが、この藤村碑をもってこの技法が確立されました。

当方の30年以上前のアルバムに、懐古園の入場券が貼り付けてありました(笑)。下の写真が藤村碑です。

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各地の美術館等での展覧会情報を調べているうちに、気になる企画展を見つけました。

光雲・光太郎親子が愛した明治の噺家・三遊亭圓朝に関わるものです。 

うらめしや~ 冥途のみやげ展―全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に―

会 期 : 2015年7月22日(水)~9月13日(日) ※会期中展示替えあり
  前期 :2015年7月22日(水)~8月16日(日)
  後期 :2015年8月18日(火)~9月13日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 地下2階展示室
時 間 : 10:00~17:00(8月11日、21日は19:00まで開館、入館は閉館の30分前まで)
休 館 : 月曜
料 金 : 一般1,100円 高校・大学生700円
      中学生以下
障害者手帳をお持ちの方と介助者1名は無料
主 催 : 東京藝術大学、東京新聞、TBS
後 援 : 台東区
協 力 : 全生庵、下谷観光連盟、圓朝まつり実行委員会、TBSラジオ
問い合わせ:ハローダイヤル 03-5777-8600

公式サイトより
東京・谷中の全生庵には怪談を得意とした明治の噺家三遊亭圓朝(天保10<1839>-明治33<1900>年)ゆかりの幽霊画50幅が所蔵されています。本展は、この圓朝コレクションを中心として、日本美術史における「うらみ」の表現をたどります。

幽霊には、妖怪と違って、もともと人間でありながら成仏できずに現世に現れるという特徴があります。この展覧会では幽霊画に見られる「怨念」や「心残り」といった人間の底知れぬ感情に注目し、さらに錦絵や近代日本画、能面などに「うらみ」の表現を探っていきます。

円山応挙、長沢蘆雪、曾我蕭白、浮世絵の歌川国芳、葛飾北斎、近代の河鍋暁斎、月岡芳年、上村松園など、美術史に名をはせた画家たちによる「うらみ」の競演、まさにそれは「冥途の土産」となるでしょう。

なお、本展は、当初平成23(2011)年夏に開催を予定しておりましたが、同年3月に発生した東日本大震災の諸影響を鑑み、開催直前にして延期を決定したものです。今回、4年の歳月を経て、思いを新たにしての開催となります。

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三遊亭圓朝(天保10年=1839 ~ 明治33年=1900)は、明治落語界を代表する名人。あまりの話芸の巧みさに、師匠からも疎まれ、彼が演じようとしていた演目を先回りして演じられるなどの嫌がらせも受けたといいます。その結果、自作の演目を次々演じるようになり、そうした中で、新作の人情噺や怪談噺も数多く生み出されました。怪談の代表作が「怪談牡丹灯籠」や「真景累ケ淵」です。

光太郎の父・光雲は圓朝のファンでした。光太郎が書き残したエッセイ「父との関係」(昭和29年=1954)には以下の部分があります。

 父はよい職人の持つてゐる潔癖性と、律儀さと、物堅さと、仕事への熱情とを持つてゐたが、又一方では職人にあり勝ちな、太つ腹な親分肌もあり、多くの弟子に取りまかれてゐるのが好きであり、おだてに乗つて無理をしたり、いはば派手で陽気で、その思考の深度は世間表面の皮膜より奥には届かなかつた。そして考へるといふやうなことが嫌ひであつた。この世は人生であるよりも娑婆であつた。学問とか芸術とかいふものよりも、芸人の芸や役者の芸の方が身近だつた。梅若の舞台からきこえてくる鼓の音にききほれ、団菊左に傾倒し、圓朝に感服し、後年には中村吉右衛門をひいきにし、加藤清正のひげのモデルになつて喜んだり、奈良の彫刻では興福寺の定慶作といふ仁王をひどく買つてゐて、推古仏は理解しなかつた。

光太郎自身も圓朝の芸を誉めています。美術史家・奥平英雄との対談「芸術と生活」(昭和28年=1953)から。

九代目団十郎とか講談の圓朝とか、みんな若い時はしようのない、脂つこくて見ていられないほどいやらしいやつだつたらしい。圓朝なんかうしろへそのころないような舞台装置をして講談なんかやつたらしい。それでいやなやつだつて言われていたのが、忽然悟つて、ああいう枯れたものになつて、扇一本で人情ばなしをやるつていうふうになつてね。せんのあくのあつたのがみんな役に立つて、それが一変すると無かつた奴にはできない厚味や深さが出てきてね。


さて、その圓朝が残した幽霊画のコレクションを軸にした企画展です。「第一章 圓朝と怪談」「第二章 圓朝コレクション」「第三章 錦絵による「うらみ」の系譜」「第四章 「うらみ」が美に変わるとき」の四部構成になっています。出品作の中には、光雲と交流のあった日本画家・柴田是真の作や、光太郎もその造型性に深く興味を引かれていた能面なども含まれています。

夏のひととき、「納涼」の意味も含めて、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月8日

昭和15年(1940)の今日、作家・稲垣足穂に葉書を書きました。

拝啓
昨日御著“山風蠱”拝受、繙読をたのしみに存じます、
小生例年の通り夏まけでさんたんたる有様ですが山下風ある卦を得て大に涼爽の気にひたりたいものです、「王侯に事へず其事を高尚にす」とは面白い象です、 とりあゑず御礼まで 艸々
七月八日

稲垣足穂は幻想文学的な方面で有名になった作家。『山風蠱(さんぷうこ)』は前月、昭森社から刊行されました。

題名の「山風蠱」は、易占における卦の一つ。山のふもとに風が吹き荒れ、草木が損なわれている状態を表し、葉書にある「山下風ある卦」がこれにあたります。「王侯に事(つか)へず其事を高尚にす」は、『易経』に記された文言で、「王侯に仕官せず、世を避けるように隠居しながらも、 志を高く清く保って節操を曲げない」といった意味です。

当方、この葉書の実物を所蔵しています。75年前の今日、この葉書が書かれ、投函されたと思いつつ手に取ると、感慨深いものがあります。

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新宿の中村屋サロン美術館さんから、先週末に始まった特別展示の招待状を戴きました。  

生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし

 期 : 2015年7月4日(土)~9月27日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 展示室1・2
 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 : 毎週火曜日(火曜が祝祭日の場合は開館、翌日休館)
料 金
 : 300円 高校生以下無料 障害者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料

関連イベント
 学芸員によるギャラリートーク 8/8(土) 9/12(土) 14:00~ 約50分
 メールまたは電話で申し込み 2名まで 先着15名 
         
 パリ留学でシャヴァンヌ、ゴッホ、ゴーガンなど、当時最先端の美術を目の当たりにした画家 斎藤与里。帰国後は、彼の地で親友となった彫刻家 荻原守衛(碌山)らと「中村屋サロン」を形成するとともに、大正期には、岸田劉生、高村光太郎らと反アカデミズムのフュウザン会を結成し、日本洋画界に衝撃を与えました。
 本展では与里の生誕130年を記念し、故郷の加須市教育委員会の所蔵作品を中心に、初期から晩年までの作品をご紹介いたします。
 パリで培われた美しい色彩と、時代によって変化する詩情豊かな画風をお楽しみください。

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新宿中村屋の創業者・相馬愛藏、黒光夫妻の元に集まった芸術家が形成した「中村屋サロン」。荻原守衛、光太郎、柳敬助らとともにその主要メンバーの一人だった、画家の斎藤与里にスポットを当てた企画展です。

斎藤は、岸田劉生、木村荘八、そして光太郎らとともに、文部省美術展覧会(文展)など、アカデミックな権威に対する反抗を旗印とした新進気鋭の美術家達の集まり、「フユウザン会」を結成した一人です。

しかし、なかなかまとめて作品を見られる機会は多くなく、貴重な機会です。

常設展示では、光太郎の油絵「自画像」も並んでいるはず。併せてご覧下さい。

7/15追記 光太郎の油絵「自画像」は並んでいないそうです。すみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月6日

平成17年(2005)の今日、キングレコードから朗読CD「心の本棚~美しい日本語 日本の詩歌 高村光太郎」がリリースされました。

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中井貴一さんによる25篇の詩の朗読が収められています。

昨日のこのブログで、岡山の地方紙『山陽新聞』さんの一面コラムをご紹介しましたが、同じ『山陽新聞』さんの一昨日の紙面には、こんな記事が載りました。岡山出身の日本画家・小野竹喬(ちっきょう)の子息に関してです。 

小野竹喬長男の戦時中日記を発見

 笠岡市出身の日本画家小野竹喬(1889~1979年)が後継者として期待した長男・春男は43年、太平洋戦争で戦死した。26歳だった。この春男が召集までの1年半、つづった日記が、9日までに京都市の実家で見つかり研究者らを驚かせている。芸術論から婚約者への恋心まで記され、これまで知られていなかった青年画家の実像が読み取れるからだ。
 調査した笠岡市立竹喬美術館(同市六番町)によると、春男直筆の文字資料が確認されるのは初めてという。
 戦後70年を機に春男作品の展示準備を進める同美術館に、遺族から日記発見の一報が入ったのは今年5月のこと。
 日記からは芸術論について、特に強い思いがあったことが分かる。
 「セザンヌをおし進めるとしても、そこに融合せしめなければならぬものがある。それは我々が東洋画に…鉄斎、大雅、法隆寺に感得するものを」。42年5月28日付には、フランスの画家セザンヌや文人画家富岡鉄斎らの名を挙げ、東西芸術の融合に並々ならぬ意欲を示した。
 春男は京都市出身。40年に同市立絵画専門学校(現同市立芸術大)を卒業後、41年5月の第6回京都市美術展で入選。美術雑誌にも名前が挙がる新鋭日本画家だったが、43年12月に戦死する。人物像はこれまで、わずかな作品のほか、近くに住んでいた作家水上勉や絵専の同級生の思い出などから想像するほかなかった。
 日記は1冊で、41年1月から42年7月の陸軍入隊直前まで約120ページ。41年1月3日に「我が形式を見出さねばならない」と、偉大な父を超えようと独自の芸術を目指す決意を記す一方、「今日で三日目。描かれた葉一枚がまだ満足なものではないのだ」(41年9月13日)、「この絵にかゝってから三ケ月目。再び自然を見た時。何んと俺の絵は概念的なのだらう。自然はもっともっと微妙に美くしい」(同年11月16日)など、日々の制作の苦悩を書き残している。
 最後の日付は42年7月3日。婚約者の名を記し「お前との交渉の半年が、君に対する俺の恋情を確固たるものにした。…たしかに愛するといふことは豊かにしてくれる」。まるで予感していたかのように、わずか6日後、召集令状が届き、帰らぬ人となった。
 同時に見つかった「書技帳 昭和十四年」と書かれたノートには、ニーチェ、ルソーら思想家やルノワール、セザンヌ、高村光太郎ら芸術家の言葉、またベートーベン、ワーグナーらの曲名も挙げられ、読書や音楽鑑賞など教養の広さもうかがえる。
 調査にあたった徳山亜希子学芸員は「理想と現実のギャップに悩みながら新しい日本画を求めて模索する青年の素顔が浮かび上がってきた。令状1枚で本人はもちろん家族の希望も断ち切る戦争のむごさも伝わる」と話している。
■春男の死、竹喬芸術にも影響 笠岡市立竹喬美術館の上薗四郎館長の話
 春男の死は父である竹喬にも大きな影響を与えた。戦死の報を受けた竹喬は、『これから二人分の仕事をする』と誓っている。戦後、よく描いた夕焼けや空に春男の魂を感じているような文章があり、息子の死が竹喬芸術をより深めたともいえる。
 ◇
 日記、ノートは作品とともに7月18日から9月6日まで、竹喬美術館の特別陳列「画学生小野春男と父竹喬」で公開される。初日と8月8日はギャラリーコンサートもある。問い合わせは同美術館(0865-63-3967)。


心いたむ記事です。当方の父親の実家近くに、戦没画学生の作品を集めた「無言館」さんという美術館があります。そちらを想起しました。小野春男はもはや学生ではなかったようですが、前途有為な若者であったという点では同じですね。

今年は戦後70年にあたります。『毎日新聞』さんの連載「数字は証言する データで見る太平洋戦争」によれば、あの戦争での日本人戦死者は約230万人(異論もあり)とのこと。

一人一人の死の裏側に、こうしたドラマがあったわけですが、「永遠のナントカ」などと、それを美談に仕立て、何らの反省も行わないようでは、亡くなっていった人々も浮かばれないのでは、と思います。

小野春男がノートに書き記していた光太郎の言葉というのがどんなものなのか、記事では不明です。芸術論的なものからの抜粋で、小野が画家としてそれを心の支えにしていたというのなら、まだ救われますが、戦時中に大量に書き殴った空虚な戦争詩や散文だったとしたら、やりきれません。

昨日のブログで書いた、「もう一つの大地が私の内側に自転する 」「狂瀾怒濤の世界の叫も/ この一瞬を犯しがたい。」という状態が長く続かなかった、というのは、ここにつながります。昭和16年(1941)に『智恵子抄』を上梓した後、詩の世界で智恵子が謳われることはもはやなくなり(戦後まで)、光太郎は全身全霊を空虚な戦争賛美の作品に傾けていきます。

小野がそれをどんな想いで書き記していたのかにいたっては、もはや確かめるすべはありません。そう考えると、このノート、見てみたいような、見るのが恐ろしいような、そんな気分です。

笠岡市竹喬美術館の企画展は以下の通りです。 

平成27年度展覧会 画学生 小野春男と父 竹喬

期 日 : 平成27年7月18日(土曜日)~9月6日(日曜日)
会 場 : 笠岡市竹喬美術館 県笠岡市6番町1-17
時 間 : 9時30分~17時
休館日 : 毎週月曜日(ただし祝日にあたる7月20日は開館し、翌21日は休館します)
入館料 : 一般500円 高校生300円 市外小中学生150円

関連行事:
ギャラリーコンサート
いずれの回も、入場整理券(一般500円、竹喬美術館友の会会員は無料)を竹喬美術館にて6月より配布しますので、事前にお買い求めの上ご来場下さい。入場整理券で当日18時からに限り展覧会もご覧いただけます。
 ◇ソプラノ村上彩子「平和祈念 父・竹喬 息子・春男の目指した道」 平成27年7月18日(土曜日)18時30分開演
 ◇ソプラノ村上彩子「小野春男・葛原守 戦没学生蘇る70年の時」 平成27年8月8日(土曜日)18時30分開演
ギャラリートーク
 7月25日(土曜日)・8月23日(日曜日) 13時30分~14時30分 聴講無料(入館料が必要)、予約不要


こういう若者がまた現れるであろう方向に、この国は再び向かいつつあります。それでいいのでしょうか?


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月12日007

平成23年(2011)の今日、大阪府池田市の逸翁美術館で開催されていた企画展「与謝野晶子と小林一三」が閉幕しました。

小林一三は実業家。阪急電鉄や宝塚劇場などの創業者です。

与謝野鉄幹・晶子夫妻の援助者としても知られ、小林の元には夫妻の書などが大量に遺されました。

その中に、光太郎が絵を描き、晶子が短歌をしたためた屏風絵が2点あって、この企画展に出品されました。光太郎の絵画としては新発見の物で、非常に驚きました。

晶子の書簡の中に「小林市三氏の画まことによく出来申候(高村氏の筆)」という一節があり、これを指していると考えられます。

ただし、2点とも屏風には仕立てられて居らず、マクリの状態で保存されています。明治44年(1911)の作品です。

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昨日は急遽、東京上野に行って参りました。東京都美術館さんで開催中の、「第103回 日本水彩展」観覧のためです。

光雲の令孫、光太郎の令甥にあたる藤岡光彦氏からご案内をいただきました。氏は光太郎の実弟にして藤岡家に養子に行った故・藤岡孟彦氏の子息。ほぼ毎年、連翹忌にご参加下さっています。

氏は趣味として水彩画に取り組まれていて、このたび、「第103回日本水彩展」入選を果たされ、東京都美術館さんにて展示ということで、招待券を戴いてしまいました。調べてみると、同展は日本水彩画会さんの主催。この会は大正2年(1913)、光太郎と親交のあった石井柏亭や南薫造らの創設した団体でした。「これは行かなきゃなるまい」と思い、行ってきた次第です。今月9日までの会期です。

東京はまだ梅雨入り前、さわやかな天気でした。それに誘われてか、上野の山は多くの人出でした。

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会場は地下でした。案内の矢印を頼りに進むと「日本水彩展」のポスターが。「おお、あそこか」と思って近づくと、隣のポスターは「大調和展」。驚きました。同展は光太郎と親交の深かった武者小路実篤の肝いりで始まったもので、昭和2年(1927)の第一回展、翌年の第二回展に光太郎が彫刻を出品しています。実は現代まで続いているというのを存じませんでした。汗顔の至りです。

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さて、「日本水彩展」。入り口近くに出品者名簿(一人一人の展示場所が書かれています)が貼ってあり、有り難い配慮でした。申し訳ありませんが、この手の公募展は出品点数が多く、全部をじっくり見る余裕がありません。

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藤岡氏のお名前を見つけ、一目散に第16室に向かいます。

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こちらが第16室。氏の作品は、事前に薔薇の絵だと聞いておりましたので、すぐに解りました。

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素晴らしい!

こういう言い方は失礼かも知れませんが、氏は御年90に近いはずなのですが、それを感じさせない若々しい感性に脱帽です。やはり芸術一家高村家のDNAがなせる業でしょうか。

ちなみに氏のお父様、故・藤岡孟彦氏はこちら。

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比較的面長の風貌は、実兄・光太郎とよく似ています。

旧制一高から東大農学部に学び、植物学を修められました。そのころ、明治の文豪・大町桂月の子息で、昆虫学者となった大町文衛とも机を並べています。大町桂月と言えば、光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、本来、桂月ら、十和田湖を広く世に紹介したりした三人の顕彰モニュメント。不思議な縁を感じます。

三重高等農林学校講師、兵庫県農業試験場などを経て、戦後には茨城県の鯉淵学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。鯉淵学園では、十和田湖畔の裸婦群像制作のため帰京した光太郎が、昭和27年(1952)に講演を行っています。この時の筆録は翌年の『農業茨城』という雑誌に掲載されました。

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孟彦は帰京直前の光太郎を花巻郊外太田村に訪ねています。その際に、東京に戻るなら、自分の学校で講演をしてくれるよう依頼したようです。

さて、子息光彦氏の作品を拝観後、東京都美術館さんをあとにしました。企画展「大英博物館展―100のモノが語る世界の歴史」が開催中ですが、混んでいそうなのでやめました。「大調和展」も、パーテーションの隙間からちらっと拝見したのみでした。

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そして、近くの東京国立博物館さんへ。

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先週放映された「日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」」を観て、また藤岡氏のお爺さま、光雲の「老猿」を観たくなったので、上野に来たついでもあり、観て参りました。

約一年ぶりに拝見しましたが、何度観てもいいものです。

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やはり「日曜美術館」の影響でしょうか。「老猿」の周りには黒山の人だかりでした。同じ展示室内の光太郎作の「老人の首」はあまり足を止める人もなく……(涙)。

ところで、「日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」」。今夜8時から、NHKEテレさんで再放送です。ご覧になっていない方、いや、先週ご覧になった方も、もう一度ぜひどうぞ。

こちらでは特別展「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」が開催中ですが、何と3時間待ちだそうで、やはり断念。その代わりと言っては何ですが、「上野に来たついでだ」と思い、やはり光雲の手になる「西郷隆盛像」も観て参りました。

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考えてみると、西郷さんをちゃんと観るのも久しぶりでした。

というわけで、有意義な上野散策でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月7日

昭和28年(1953)の今日、中野のアトリエで花巻郊外太田村山口の駿河重次郎に葉書を書きました。

椎茸たくさん送つて下さつてありがたく存じます、東京は毎日雨がふつて居ます、 山の小屋も雨がさかんにもつて居るだらうと思つて居ます、 彫刻の仕事も今型どりを終りかけてゐます、とりあへず御礼まで、

駿河は光太郎が暮らした山小屋周辺の土地を提供してくれた人物で、農作業についても光太郎に懇切丁寧に教えてくれました。光太郎と年も近く、山口地区では最も光太郎が親しく交わった一人でした。めったに他人を呼び捨てにしない光太郎が、親しみを込めて「重次郎」と呼び捨てにしていたそうです。

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こちらは翌年秋、十和田湖畔の裸婦群像完成後、一時的に太田村に帰った時の駿河家でのショットです。

ところで、先日、上記葉書が書かれた光太郎の終焉の地・中野のアトリエを訪問して参りました。明日はそちらをレポートします。

昨日に続き、都内レポートです。007

芝増上寺を後に、次は新宿中村屋サロン美術館さんに行きました。

現在開催中の「テーマ展示 柳敬助」を観るためです。昨秋の開館の時に続き、2度目の訪問となりました。今月2日の第59回連翹忌に、事務の方と学芸員の方、お二人がご参加くださり、招待券も戴いてしまいました。
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柳敬助は光太郎より2歳年長の画家。東京美術学校に学び、明治末、光太郎や荻原守衛と同時期に滞米しており、彼の地で二人と知り合っています(光太郎とは渡米前の東京美術学校で面識程度はあったかも知れませんが)。帰国後は中村屋の裏に守衛の設計監督で建てられたアトリエで1年ほど創作を続け、中村屋サロンの一員となりました。

妻の八重は日本女子大学校卒。同じく小橋三四子とともに、光太郎に智恵子を紹介する労を執りました。そんな縁で、光太郎とは夫婦ぐるみの付き合いが続きます。

しかし、大正12年(1923)、42歳の若さで早世。同年、日本橋三越で開かれた遺作回顧展の初日に関東大震災が起こり、展示された作品は焼失してしまいました。したがって、現存する作品は多くありません。

信州安曇野の碌山美術館さんには柳の作品がある程度まとまって収蔵されており、今回の展示はそちらから10点あまりと、その他、「個人蔵」となっているものでした。

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碌山美術館さん収蔵のものは、同館に毎年行っていますので、何度も観たものですが、その他の「個人蔵」というものは初めて観るものばかりで、興味深く拝見しました。特に、ハガキ大の小さな板に油彩で書かれた「板絵」には「ほう」と思いました。小さな画面に魂が凝縮されている感じでした。


さらに奥のスペースでは、常設展的に「中村屋サロン 通常展」。

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光太郎作品は油彩の「自画像」と、碌山さんから借りているブロンズの「裸婦坐像」。ともに何度見ても素晴らしい作品です。もちろん他の作家のものも。

来月9日、14:00からギャラリートークがあります。ぜひ足をお運び下さい。

最後に受付前のショップを覗くと、当方の知らなかった新刊書籍が置いてあり、早速購入しました。

新宿ベル・エポック

2015/4/20  石川拓治 小学館 定価1,800円+税

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帯文から

芸術と食を生んだ中村屋サロン

インドカリーで有名な中村屋に芸術家たちが集った理由とは? 愛と情熱に溢れた知られざる新宿の良き時代

明治末期から大正、昭和前期にかけて、活況を呈した中村屋サロン。彫刻家・荻原守衛(碌山)、高村光太郎、画家・中村彝…。激動の時代、彼らを支え、世のために尽くした相馬愛蔵・黒光夫妻の物語。


ちょうど受付に、連翹忌においで下さった学芸員の方がいらっしゃいまして、「こんな本が出てるんですね。存じませんでした」と申し上げると、「昨日届いたんです」とのこと。ラッキーでした。

帰りの電車の中で早速読み始めましたが(まだ読了はしていません)、非常にわかりやすくまとまっていて良いと思いました。著者の石川拓治氏はノンフィクション作家。前述の学芸員さんに教えていただいたのですが、「奇跡のリンゴ「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録」という書籍も書かれています。たまたまその題材になったリンゴの無農薬栽培の話は知っていたので、意外といえば意外でしたが、「食」という点で中村屋さんと共通するのかも、と思います。

来週には碌山美術館さんの碌山忌に行って参りますので、それまでに読んで置こうと思っています。

皆様もぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月18日

昭和18年(1943)の今日、連合艦隊司令長官・山本五十六が戦死しました。

それを受けて光太郎は「提督戦死」「山本元帥国葬」という詩を作り、さらに「厳然たる海軍記念日」「われらの死生」という詩でも山本の戦死に触れています(すべて昭和18年=1943)。

今日、平成27年(2015)4月2日は、光太郎の59回目の命日です。午後5時30分から、日比谷公園内の松本楼様において、第59回連翹忌の集いを開催いたします。

参加申し込みは昨年を下回りましたが、生前の光太郎を知る方々が6名、さらに、初めて参加されたり、久しぶりに参加されたりする方々の中に、ビッグな方のお名前もあり、「濃い」連翹忌になりそうです。

レポートは明日以降、執筆いたします。

さて、生前の光太郎を知る方のお一人で、当会顧問にして、第50回までの連翹忌を運営されていた北川太一先生。先月でおん年90歳になられましたが、まだまだお元気で、今日もご参加下さいます。

そんな北川先生の新著が完成しましたのでお知らせします。

ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―

2015年4月2日 文治堂書店刊 定価1,800円+税

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帯文より

明治が大正に変わる1912年、光太郎は斎藤与里の熱意を受け岸田劉生、木村荘八等とともにヒュウザン会を興す。北山清太郎の支援・協力により催された展覧会は「公」に対するアンデパンダンであった。

目次
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Ⅰ プロローグ
Ⅱ さまざまな前景 装飾美術展その他
Ⅲ 展覧会前夜 明治から大正へ
Ⅳ ヒュウザン会始まる 新聞のキャンペーンが成果
Ⅴ さまざまな反響(一) 寅彦と「ツツジ」と漱石
Ⅵ さまざまな反響(二) 光太郎の詩「さびしきみち」
Ⅶ 第二回展に向かって 北山清太郎の功績
Ⅷ 第二回展覧会開催 関如来の展覧会評
Ⅸ ヒュウザン会崩壊 人見東明(清浦青鳥)のエール
Ⅹ ヒユウザン会から生活社へ 尾崎喜八ら、若き詩人との交遊
主要人物生没年
あとがき


元々は、平成14年(2002)~同23年(2011)、高村光太郎研究会発行の雑誌『高村光太郎研究』に連載されたものです。目次を見ればおおよそ見当がつくかと思いますが、明治末から大正初めにかけての、光太郎もその中心にいた画壇、特に公設の文部省美術展覧会(文展)に「対抗」して結成されたヒュウザン会をめぐる光太郎評伝です。「どうやってここまで細かく調べているんだ?」と思うほど、当時の事象が精細に網羅されています。

当方、中身の校閲をさせていただきました。元々の『高村光太郎研究』に載った段階で、きちんと校閲が為されていなかった部分があり、意外と苦労しました。そうしましたところ、「編集協力」ということで名前を載せてくださいましたし、北川先生の「あとがき」でも当方にふれて下さっています。恐縮至極です。

ご注文は、版元の文治堂書店さんまで。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月2日001

平成10年(1998)の今日、筑摩書房刊行の増補版『高村光太郎全集』が完結しました。

最初の『高村光太郎全集』は、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)から刊行が開始され、同33年(1958)に全18巻が完結しました。

平成6年(1994)、増補版全21巻+別巻1の刊行が始まり、同10年(1998)の今日、別巻が刊行され、完結しました。

上記の『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』や、当方が刊行している冊子『光太郎資料』もそうですが、光太郎がらみの出版物はやはり連翹忌当日の4月2日を発行日にすることが多くあります。

別巻は、全巻の索引や詳細な年譜が載っているため、当方、毎日のように手に取っています。したがって、もはや表紙はボロボロです。

東京新宿に昨秋開館した中村屋サロン美術館さんで、今週から下記のテーマ展示が始まっています。 

テーマ展示 柳敬助

会 期 : 2015年3月11日(水)~5月31日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 展示室1・2
 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 : 毎週火曜日(火曜が祝祭日の場合は開館、翌日休館)
入館料 : 200円  ※通常展示と合わせた入館料です。

明治末から大正、昭和初期にかけて、新宿中村屋には多くの芸術家・文化人たちが集いました。
「中村屋サロン」と呼ばれるその集まりには、彫刻家の荻原守衛(碌山)や高村光太郎、画家の中村彝などがいましたが、その中でキラリと光るデッサン力を持っていた画家が柳敬助でした。
本展示ではこの柳敬助に焦点を当て、初期から晩年にかけての油彩画やデッサン約20点をご紹介いたします。写実でありながら創造性に溢れた、柳の作品の魅力をぜひお楽しみください。

【同時開催】 通常展示 中村屋サロン

ギャラリートーク
当館学芸員による、テーマ展示「柳 敬助」のギャラリートークを下記の通り開催いたします。
なお、館内が大変狭いため、事前申込み制とさせていただきます(定員15名。先着順)。ご応募お待ちしております。
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基本情報
日 時 2015年4月11日(土)14:00~ 約50分    5月  9日(土)14:00~ 約50分
場 所 中村屋サロン美術館費用無料(要入館)

参加ご希望の方は、メールまたはお電話にてご応募ください。
メールでご応募の方は、メールの件名を「ギャラリートーク」とし、
①氏名②電話番号③参加人数(2名まで)④参加希望日をご入力のうえ、ご送信ください。
当館職員よりメールまたはお電話にて受付と詳細のご連絡をいたします。
※お申込は先着順とさせていただきます

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柳は東京美術学校西洋画科に学んだ画家です。ニューヨークに留学の経験があり、彼の地で荻原守衛、光太郎と相知ることになり、帰国後も彼等との交流が続きました。

妻の八重は日本女子大学校卒。同じく小橋三四子とともに、光太郎に智恵子を紹介する労を執りました。そんな縁で、光太郎とは夫婦ぐるみの付き合いが続きます。

しかし、大正12年(1923)、42歳の若さで早世。同じ年に日本橋三越で開かれた遺作回顧展は、初日に関東大震災が起こり、展示された作品は焼失してしまいました。したがって、現存する作品は多くありません。

そんな中でも、信州安曇野の碌山美術館さんでは、柳の作品がまとまった数、収蔵、展示されています。今回の中村屋さんでは、碌山さんの収蔵作品の他、約20点が並んでいます。

また、通常展示も開催中で、そちらには光太郎の油絵「自画像」が展示されているはずです。

ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月14日

大正11年(1922)の今日、詩人・歌人の正富汪洋に、自身の略年譜を書き送りました。

○生年月 明治十六年三月 ○東京美術学校彫刻科卒業、明治三十六年 ○明治三十九年二月アメリカに行き、四十年英国に渡り四十一年巴里に移り、四十二年夏帰国 ○詩集「道程」は大正三年出版

おそらく正富が主宰していた雑誌『新進詩人』のためのものと推定されますが、掲載誌が確認できていません。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

去る1日の日曜日、光太郎の名がちらりと出た新聞記事が2本ありましたのでご紹介します。

まずは『朝日新聞』さんの神奈川版。

神奈川)97歳の女性画家、9年ぶり油絵展 30点展示

97歳の現役画家・井上寛子さん=6c2092aa横浜市神奈川区=の9年ぶりの油絵展「色彩を求めて97年」が同市中区の洋館、山手234番館で開催中だ。一昨年の横浜美術協会展で朝日新聞社賞を受けるなど90歳を超えても精力的に制作する井上さん。ここ10年ほどの作品約30点を展示している。

 井上さんは東京生まれ。23歳で文部省美術展(現・日展)に入選する。絵画の師の紹介で詩人高村光太郎を訪ねたり、同じ学校に娘が通う彫刻家北村西望宅に遊びに行ったり、芸術と触れあう青春を送った。

 1943年に結婚した夫の故・信道さんは横浜駅西口地下街入り口の女性像など各地に作品が残る彫刻家。出産直前に横浜大空襲にあい、戦後は一時病床にふせるなど多難な時期もあったが、夫や長女の大野静子さんともども精力的に展覧会を開いてきた。

 「印象派の絵を見て日本とは違うと思った。光は物理的、生理的、心理的と三つに分けて考えられる。その研究に時間をかけて絵をやり抜いた」と振り返る。

 「絵を続けられるか、続けられないか、ひとつの岐路。たやすいことはいえない」と心境を語りながらも「気に入った構図に色彩がうまくはまった時はうれしい」と笑った。

 3日まで。井上さん夫妻の作品はインターネット(http://www.kanagawarc.org/inoue/)で見られる。(2015年3月1日 山本真男)

井上寛子さんという方、『高村光太郎全集』にはお名前が見えませんが、井上さんの年譜によれば、昭和16年(1941)に、「高村光太郎氏より詩と絵画の精神を学ぶ」とあります。

97歳にして個展の開催、頭が下がります。ただ、既に閉幕しており、残念です。


次いで『読売新聞』さんの読書面。書評です。 

記者が選ぶ 時代(とき)を刻んだ貌(かお) 田沼武能著

 勤労動員で生き抜く術(すべ)を学んだ中学時代。東京大空襲では下町を逃げまどう。生活の場で戦争の悲惨さを知った田沼武能(86)は、人間の生き様を表現する世界に導かれた。1949年、名取洋之助や木村伊兵衛ら錚々(そうそう)たる写真家たちが所蔵する写真通信社に入社。木村に師事し人脈も得る。文化、芸術誌とも嘱託契約を結び、撮影依頼を次々と受けた。59年からはフリーの写真家に。師匠木村は田沼に「おれのマネをしていてもダメだ」と忠告した。
 孫のような若手写真家に見せる、昭和を創りあげた大家240人の諭すような表情が見事だ。高村光太郎、永井荷風ら教科書でおなじみの顔もいることに驚く。当時貴重だった電話で仕事を取り付け、個人著作権のネガを蓄積してきたフリーランスの秘蔵写真集。(クレヴィス、3000円)


田沼氏は評にある通り、木村伊兵衛門下の写真家。したがって、昨夏逝去された光太郎の令甥、故・高村規氏の兄弟子にあたります。そういうわけで、髙村規氏のご葬儀では、弔辞を述べられました。

一昨年、銀座のノエビア銀座本社ビルギャラリーで開催された個展「アトリエの16人」では、やはり光太郎のスナップも出展されていました。

さて、『時代を刻んだ貌』という書籍、版元サイトにリンクを張っておきますのでご覧下さい。表紙は佐藤春夫ですね。サムネイルが数葉出ますが、黒柳徹子さんや梅原龍三郎などで、残念ながら光太郎は出ません。


井上寛子さんにしても、田沼武能氏にしても、生前の光太郎を知る皆さん、まだまだ頑張っていただきたいものです。詳細は未定ですが、今月下旬にやはりそうした生前の光太郎を知る方にお会いし、お話を聴く予定です。レポートをお待ち下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】  3月4日

昭和29年(1954)の今日、20数年ぶりに自作の木彫「魴鮄(ほうぼう)」を手に取りました。

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当日の日記から。

午后宮崎丈二氏くる、「魴鮄」の木彫持参、現存のこと分る、友人の道具屋所有の由、

この「魴鮄」は大正13年(1924)の作。昭和2年(1927)の大調和美術展などに出品されたりもしました。

その後、買い手がついたようで光太郎の手許を離れましたが、昭和20年(1945)の「回想録」に以下の記述があります。

私の乏しい作品も方々に散つて、今は所在の解らないものが多い。『魴鮄』など相当に彫つてあるので、時々見たいと思ふけれども行方不明である。何か寄附する会があつて、そこに寄附して、その会に関係のある人が買つたといふ話だつたが、その後平尾賛平さんが買つたといふ事も聞いたが、どうなつたか分からない。

平尾賛平はレート化粧品を商標とした平尾賛平商店の主。おそらく二代目で、東京美術学校に奉職する前の光雲に援助などもしていました。

その「魴鮄」と奇跡的に再会を果たしたのが61年前の今日でした。

持ち込んだ宮崎丈二は光太郎と交流のあった詩人。昭和37年(1962)に、この「魴鮄」を謳った詩を発表しています。

    蘭と魴鮄
000
花を開き初めた春蘭が
葉を垂れてゐる鉢の傍へ
高村光太郎作魴鮄を置いて眺める
これはいゝ
思はず自分はさう云ひながらも
この心に叶つた快さを
どう説明していゝかは知らない

魴鮄はその面魂(つらだましい)を
それに打ち込んだ作者をさながらに現して
むき出しにしてゐる
ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
きつぱりとそのかたちに切られて
そして今こゝに
蘭の薫を身に染ませて

22日、日曜日の『読売新聞』さん翌23日月曜日の『日本経済新聞』さんに、光太郎の名が出ました。といっても、それぞれちらりとで、光太郎がメインではありませんが。

まず『読売新聞』さんでは、日曜版の「名言巡礼」という連載で、光太郎と深い縁のあった詩人、尾崎喜八がメインに取り上げられた中で、喜八の紹介文の中に光太郎の名が。

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曰く、

尾崎喜八 1892~1974年。東京生まれ、京華商業学校卒。会社員、銀行員を経て、高村光太郎の影響のもと、20代から主に雑誌「白樺」で文学活動を開始した。1922年、初の詩集「空と樹木」を発表。ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケなど欧州の作家の詩文の翻訳も手がけた。46年、長野県富士見村(現富士見町)に移住し、52年、東京に戻った。58年以降、それまでの作品を集大成した「尾崎喜八詩文集」(全10巻)を刊行した。富士見時代の作品を収めた詩集「花咲ける孤独」(55年)は、代表作とされる。

タイトルにある「名言」は以下の通り。

静かに賢く老いるということは満ちてくつろいだ願わしい境地だ(『春愁』より)

元になったのは、昭和30年代前半に書かれた「春愁(ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)」という詩の冒頭部分です。

   春愁 
    (ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)000
 静かに賢く老いるということは
 満ちてくつろいだ願わしい境地だ、
 今日しも春がはじまったという
 木々の芽立ちと若草の岡のなぞえに
 赤々と光りたゆたう夕日のように。
 だが自分にもあった青春の
 燃える愛や衝動や仕事への奮闘、
 その得意と蹉跌の年々に
 この賢さ、この澄み晴れた成熟の
 ついに間に合わなかったことが悔やまれる。
 ふたたび春のはじまる時、
 もう梅の田舎の夕日の色や
 暫しを照らす谷間の宵の明星に
 遠く来た人生とおのが青春を惜しむということ、
 これをしもまた一つの春愁というべきであろうか。


記事は喜八が戦後の7年間を過ごした(光太郎同様、戦争協力への反省です)長野県の富士見町を中心に書かれています。画像は八木です。

お嬢さんの榮子さん、お孫さんの石黒敦彦さんの談話なども。榮子さんは幼い頃、駒込林町の光太郎アトリエで智恵子にだっこして貰った記憶があるという方です。

当方、昨秋、鎌倉の光太郎縁戚の方が経営されている笛ギャラリーさんで、お二人にお会いしましたので、「ほう」と思いました。

ちなみにこの連載「名言巡礼」では、昨秋、光太郎をメインに扱って下さいました。

続いて、月曜日の『日本経済新聞』さん。

こちらはやはり光太郎と縁のあった画家、村山槐多を取り上げた記事です。

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光太郎の詩「村山槐多」(昭和10年=1935)からの引用があります。

   村山槐多

槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。001
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。


画家だった村山ですが、詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。それが「くしやくしやの紙」で、歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版されています。光太郎は推薦文も寄せています。

記事にメインで紹介されている絵は、「尿(いばり)する裸僧」と題されたもので、村山の代表作の一つ。長野県上田市の信濃デッサン館に収蔵されています。


また、3年前には和歌山県田辺市立美術館で開催された「詩人たちの絵画」展に出品され、その時にも観て参りました。


先日も書きましたが、こうした新聞記事、公共図書館等で閲覧が可能です。ご利用下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月25日

昭和23年(1948)の今日、十字屋書店から歌集『白斧』が刊行されました。

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左は特製限定本(850部)、右は通常版です。明治期から戦後の光太郎短歌268首を収めています。編者は光太郎と交流があり、この時点では縁戚だった宮崎稔です。光太郎が取り持って、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚していました。

奥付では前年11月刊行となっていますが、光太郎はこの歌集の刊行に同意せず、刊行がずれこみました。明治期の作品は鉄幹の添削ががっつり入っているので、自作と言い難いという光太郎の認識がそこにあります。

そこで、編者宮崎による「覚え書」を新たに印刷して巻末に貼り付け、漸く刊行にこぎ着けました。

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一昨日、東京本郷のフォーレスト本郷さんにて、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきましたが、少し早めに自宅兼事務所を出て、界隈を歩きました。
 
昨年からそうしていますが、この界隈には光太郎智恵子光雲の故地、ゆかりの人物に関する記念館等が多く、毎年のこの機会には、そうした場所を少しずつ見て歩こうと思っています。昨年は、明治期に太平洋画会で智恵子の師であった中村不折がらみで、台東区立書道博物館を訪れました。
 
今年は、東京国立博物館黒田記念館の耐震改修工事が終わり、リニューアルオープンしましたので、まずそちらに行きました。
 
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東京美術学校西洋画科で、光太郎の師で006あった黒田が、大正13年(1924)に亡くなる際、遺産の一部を美術奨励事業に活用するようにとの遺言を残し、それを受けて昭和3年(1928)に建てられました。設計は美術学校で教鞭を執っていた建築家・岡田信一郎です。
 
永らく美術研究所(現・東京文化財研究所)の庁舎として使用されていましたが、新庁舎が近くに建てられ、この建物は東京国立博物館に移管、黒田の作品を中心に展示されてきました。
 
その後、東日本大震災を受けて、平成24年(2012)から改修が始まり、このたびリニューアルオープンの運びとなりました。
 
新たに「特別室」が設けられ、黒田の代表作品の数々が一気に観られる、ということで、かなりにぎわっていました。入場は無料です。ありがたいのですが、もったいない気がします。
 
館内に入り、これまた重厚な感じの階段を上がって二階に。左手が特別室、右手が黒田記念室です。黒田記念室入り口には光太郎作の黒田清輝胸像が展示されており、それを観るのが最大の目的でしたが、黒田に敬意を表し、まずは特別室に。
 
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「湖畔」 (重要文化財) 明治30年(1897)
 
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三部作「智・感・情」 明治32年(1899)
 
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「舞妓」 明治26年(1893)      「読書」 明治24年(1891)
 
すべて撮影可でした。これらを一度に観られるというのは、贅沢ですね。ただし、特別室は年3回の公開だそうで、今回の公開は今日まで。次回は3月23日(月)~4月5日(日)だそうです。
 
続いて黒田記念室へ。
 
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上の画像は入り口上部、欄間のような部分です。わかりにくいのですが、中村不折の揮毫で「黒田子爵記念室」と書かれています。
 
そして入り口左には、光太郎作の「黒田清輝胸像」。まるで黒田本人が「ようこそ」と言いながら迎えてくれているような感じです。

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一昨年の「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展以来、久しぶりに拝見しました。
 
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記念室内部は、完成作だけでなく、スケッチ、デッサン、下絵、さらには黒田の遺品なども展示されています。また、室内は創建当初の内装。天窓からの採光が温かく、いい感じです。
 
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特別室は年3回のみの公開ですが、記念室は常時公開です(月曜休館)。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月12日011
 
平成4年(1992)の今日、双葉社から関川夏央・谷口ジロー『『坊ちゃん』の時代 第三部 啄木日録 かの蒼空に』が刊行されました。
 
漱石と、同時代の文学者達を描いた五部作の三作目です。この巻は明治42年(1909)4月から6月の東京を舞台とし、主人公は石川啄木です。
 
光太郎はこの年7月に欧米留学から帰朝するため、登場はしませんが、「パンの会」のシーンで、「近々帰ってくるそうだ」と噂されています。
 
光太郎は登場しませんが、智恵子が登場します。
 
市電の中で、啄木が平塚らいてうと智恵子に偶然出くわし、らいてうに向かって無遠慮に、前年、漱石門下の森田草平と起こした心中未遂について尋ねるというくだりです。
 
智恵子はらいてうをかばいます。 
 
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しかし、なおも食い下がる啄木、すると、堪忍袋の緒を切らせた智恵子のビンタ炸裂(笑)。
 
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関川氏の創作ですが、こういうエピソードがあったとしても、不思議ではないでしょう。

来年1月―といっても、もう来週から1月ですが―の光太郎関連イベント等も、少しずつご紹介していきます。
 
タイトルの通り、上野の東京国立博物館内―正確には道をはさんで西隣―にある黒田記念館さんが、1月2日(金)、リニューアルオープンします。しばらくの間、耐震工事ということで休館中でした。
 
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「黒田」は黒田清輝。国の重要文化財の「湖畔」(光雲の「老猿」と同時に指定されました)などで有名で、「近代洋画の父」といわれる洋画家です。東京美術学校西洋画科で教鞭を執り、明治38年(1905)から翌年にかけ、欧米留学前の光太郎が同科に再入学していた際に、指導にあたりました。光太郎は同校彫刻家を明治35年(1902)に卒業、研究科に残っていたのですが、西洋美術を根底から勉強し直そうと、西洋画科に再入学したのです。
 
この時、黒田の同僚には藤島武二、光太郎の同級生には藤田嗣治、岡本一平(岡本太郎の父)、望月桂らがいました。教える方も教わる方も、錚々たるメンバーですね。
 
そんな縁もあり、光太郎は昭和7年(1932)、黒田の胸像を制作しました。同館にはその像が現存しています。この像は、ここと、東京芸術大学大学美術館さんと、二点だけしか鋳造されていないのではないかと思います。昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展では、芸大さんのものをお借りしました。
 
さて、リニューアルオープンですが、以下の日程になっています。
 
2015年1月2日(金) ~ 2015年2月1日(日) 開館時間:9:30~17:00 
休館日:月曜日(祝日・休日の場合は開館、翌火曜日休館)
 
 
館内には「湖畔」が展示されている「特別室」があり、こちらは常時公開ではなく、以下の日程でオープンです。
 
第1回:2015年1月2日(金)~1月12日(月・祝)
第2回:2015年3月23日(月)~4月5日(日)
第3回:2015年10月27日(火)~11月8日(日)
 
 
また、先述の光太郎作「黒田清輝胸像」は「黒田記念室」の入り口に常時展示されます。室内は黒田作品で、6週間ごとに展示替えだそうです。
 
観覧料は無料です。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月27日
 
昭和28年(1953)の今日、ラジオ放送のため、美術史家・奥平英雄との対談「芸術と生活」(原題「彫刻と人生」)が録音されました。
 
オンエアは翌年1月7日。文化放送でした。
 
以前にも書きましたが、かつてはカセットテープで市販されていました。「矍鑠(かくしゃく)」という表現が適当かどうかわかりませんが、数え71歳の光太郎、十和田湖畔の裸婦群像(通称乙女の像)の除幕を終え、今後の展望を比較的元気に語っています。

講談社さんから10月に刊行された、池川玲子さん著『ヌードと愛国』。明治期に智恵子の描いたヌードデッサンなどについて触れています。
 
早々に『日本経済新聞』さんに書評が載りましたし、その後、『読売新聞』さん、『朝日新聞』さんでも紹介されました。
 
さらに『産経新聞』さんにも載りましたので、ご紹介します。 

フォト・ライター野寺夕子が読む『ヌードと愛国』池川玲子著

■まとわない体がまとう歴史000
 
 著者池川は研究者だ。近現代女性史を専門とする。時々刑事コロンボに変身する。読者に惜しげもなく資料のヌードを見せてくれる。そして鮮やかに謎解きをしてみせる。しつこい。コロンボだから。ねばり強いのに、文は潔い。
 
 「一九〇〇年代から一九七〇年代に創られた『日本』をまとった七体のヌードの謎を解く」という(七体それぞれに手掛かりの写真や絵が加わるから、本の中にはヌードがいっぱいだ)。別々に創られたヌードだが、時系列に並べてみると近現代史の見慣れた語句とつながり、生き物みたいに動き出す。帝国主義とか移民政策とか民族主義とか資本主義とか。大陸の花嫁、婦人解放と婦人警官、安保、ウーマン・リブ、大量消費…。ヌードは裸体だが「はだか」ではない。まとっていないようで、まとっている。見えない衣を見ようとしてきた先達がいて池川が自論を重ねていく。著者自身が、謎解きをする自分に刺激されてきたろう。
 
 智恵子抄の智恵子が描いた百年前のリアルすぎる男性デッサンから第一章が始まる。輸出用映画しかも官製(しかも真珠湾攻撃の年)の宣伝映画に映るヌード。女性初の映画監督がいて、異端児・武智鉄二監督がいる。第七章で凝視するのは「裸を見るな。裸になれ。」-70年代のパルコのポスターだ。アートディレクター石岡瑛子のヌードへの執着を池川は丹念に追う。70年代の女性像。70年代の東洋と西洋の色。石岡の見せた誇り(プライド)と隠した怒りを、書く。その肯定的な書き方が、新鮮だった。
 
 この章に続くあとがきに、写真集『臨月』が出てくる。百人の臨月の女性を白黒で、自然光だけで撮ったドキュメントヌード。私の本だ。1996年度の太陽賞(平凡社主催)の審査では、荒木経惟らとともに石岡瑛子も選考委員を務めた。池川の描く石岡像を読んで、20年近くも経(た)ってこの人にやっと出会った、という気がしている。
 
 あとがきで「今の女子学生が気にするヌード」を挙げたことで、池川は、さあて、またここから、と動き出すだろう。現代史家はタフだね。(講談社現代新書・800円+税)
 
 
だいぶ注目されているようですし、実際、かなりの力作です。ぜひお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月26日

昭和25年(1950)の今日、詩「遠い地平」を執筆しました。
 
  遠い地平
 001
なかなか危ない新年が
平気な顔してやつてくる。
不発か時限か、
ぶきみなものが
そこらあたりにころがつて
太平楽をゆるさない。
人の命のやりとりが
今も近くでたけなはだ。
日本の脊骨岩手の肩に
どんな重いものがのるかのらぬか。
都会は無力な飯くらひ、
それを養ふ田舎の中の田舎の岩手。
新年は花やかに訪れても
岩手はじつくりうけとめて、
その眼が見るのは遠い地平だ。 
 
翌年元日の『新岩手日報』のために書いた詩です。
 
人の命のやりとりが/今も近くでたけなはだ。」は、朝鮮戦争、第一次インドシナ戦争あたりを指していると考えられます。東京には見切りを付け、花巻郊外太田村という辺境にいながら、光太郎は世界を見つめています。
 
ところで、先の総選挙では自公が圧勝。第三次安倍政権の陣容が発表されました。改憲に意欲を示す安倍総理ですが、くれぐれも「人の命のやりとり」を「たけなは」にできる国にしてほしくないものです。しかし、どうなることやら、ですね。そういう意味でも、もうすぐやってくる平成27年(2015)も、「ぶきみなものが/そこらあたりにころがつて/太平楽をゆるさない」「平気な顔してやつてくる」、「なかなか危ない新年」だと思います。

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